はやし浩司(ひろし)

2006・1
はやし浩司
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2006年 1月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 1月 30日(No.681)
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【1】特集・『子育て一口メモ』

【子育て一口メモ】

++++++++++++++++++

今度、有料版ですが、「子育て一口メモ」
を、冊子にすることにしました。

まぐまぐ社のPODサービスを利用し
ます。定価は、850円!

購入方法などは、HPのほうで、紹介
しますので、もし購入してくださる方
がいらっしゃれば、どうか、よろしく
お願いします。

……ということですが、今日は、特別サ
―ビス!

マガジンのほうで、その「一口メモ」を、
無料で読んでいただけるよう、ここに、
掲載することにしました。

ここに掲載するのは、その一部です。
全体をご希望の方は、HPか、もしく
は、POD版をご購入ください。

++++++++++++++++++

【子育て一口メモ】

● 父親(母親)の悪口は、言わない

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判し
たりすると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父
親の間に、三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができ
ると、子どもは、親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


● 逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その
逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋
ということになる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定にな
る。だから子どもが逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。


●心は、ぬいぐるみで……

年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子ども
が、約80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、
中には、キックしてくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをも
っている子どもは、約80%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかど
うかは、ぬいぐるみを抱かせてみるとわかる。


●国語教育は、言葉から
子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたと
き、「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親が
していて、どうして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどう
でも、「バスがきます。あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子
をかぶっていますか」と話す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。


●計算力は、早数えで……

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イ
チ、ニ、サン……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。
さらに手をパンパンとたたいてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を
信号化する。たとえば「2足す3」も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の
信号化という。この力が、計算力の基礎となる。


●やさしさは苦労から

ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほ
しい。そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そう
でなく、テレビやゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよ
い。今は、(かわいい子)かもしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、
自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから
生まれる。


●釣りザオを買ってやるより……

イギリスの教育格言に、『釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け』というの
がある。子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっ
しょに釣りに行け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜
んでいるはず。感謝しているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。し
かしこれは幻想。誤解。むしろ逆効果。


●100倍論

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍してえる。たとえば100円のもので
も、100倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはいけ
ない。一度、お金で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、10
倍、100倍とエスカレートしていく。高校生や大学生になるころには、1000円や1
万円では、満足しなくなる。子どもが幼児のときから、慎重に!
●子どもは、信じて伸ばす

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、『相手は、
あなたが相手を思うように、あなたのことを思う』というのがある。あなたがその人を、
いい人だと思っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでな
ければそうでない。子どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを
伸ばしたいと思うなら、まず自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、
大鉄則である。


●強化の原理

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくな
る」「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来
に不安をいだかせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバー
して、「ほら、やっぱり、できるじゃない!」と、ほめて仕あげる。


●叱るときの原則

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高
さをあわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっ
かりと見つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせ
ても意味はない。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというよ
うな様子を見せる子どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。


●仮面に注意

絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前
で、そうであればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしてい
るようであれば、親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見
て、「何を考えているかわからない」というのであれば、さらに要注意。


●根性・がんこ・わがまま

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりと
げるというのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。
理由もなく、自分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。
その根性は、励まして伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではな
いので、その理由と原因をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。


●アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るため
に、アルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。そ
れもそのはず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアル
バムには、楽しい思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするため
にも、アルバムを、部屋の中央に置いてみるとよい。


●名前を大切に

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」と、ことある
ごとに言う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そして
その自尊心が、何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。た
とえば子どもの名前が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いとこ
ろに張ったりする。そういう親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。


●子どもの体で考える

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、
5本、飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小
食なのかしら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。


●CA、MGの多い食生活を!

イギリスでは、『カルシウムは、紳士をつくる』と言う。静かで落ちついた子どもにしたか
ったら、CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心と
した献立にする。こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。
いわゆるレトルト食品、インスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合
して、リン酸カルシウムとして、CAは、体外へ排出されてしまう。


●親の仕事はすばらしいと言う

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それ
だけではない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいる
はず。そういうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。
あるいは「私の仕事はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。ま
ちがっても、暗い印象をもたせてはいけない。


●はだし教育を大切に

将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、
足の裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性
は、あらゆる運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうして
それで敏捷性のある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできな
い子どもがふえている。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも
多い。どうか、ご注意!


●自己中心性は、精神的未熟さの証拠

相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」
(サロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そう
でない人を、低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそうい
う人ほど、人格の完成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自
己中心性と戦い、子どもに、その見本を見せるようにする。


●役割形成を大切に

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず「すてきね」と言ってあげる。「い
っしょに、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょうね」
と言ってあげる。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつくっ
ていく。これを「個性化」という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、希
望、そして生きる目的へとつながっていく。


●父親の二大役割

母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、ま
た子どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさび
を打ち込み、是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教える
のも、重要な役割。昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、
父親の役割ということになる。


●欠点は、ほめる

子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなか
ったとしても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるよう
になったわね」と言うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声
で言えるようになったわね」と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ば
すときに、よく使う手である。


●負けるが、勝ち

ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。
これは父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだ
ろう。言いたいこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なこ
とは、子どもが、楽しく、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そ
のときから人間関係は、スムーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこ
じれる。


●ベッドタイム・ゲームを大切に

子どもは(おとなも)、寝る前には、決まった行動を繰りかえすことが知られている。これ
をベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗すると、
子どもは眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定になっ
たりする。いきなりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なことをして
はいけない。子どもの側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。


●エビでタイを釣る

「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、
10人のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対
して恐怖心をもっているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、
一度、文字嫌いにしてしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いて
も、それをほめる。読んであげる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エ
ビでタイを釣る』の要領である。


●子どもは、人の父

空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。
(ワーズワース・イギリスの詩人)


●冷蔵庫をカラにする

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。
そのとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と
思ったら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセを
なおす。子どもの小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。
そういう買い物グセが、習慣になっている。それを改める。


●正しい発音で……

世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなも
のではないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるの
は、甘い。子どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に
先立って、音の分離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。その
とき、手をパンパンと叩きながら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。


●よい先生は、1、2歳、年上の子ども

子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。
そういう子どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるよ
うにするとよい。「無理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意
味。あなたの子どもは、その子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。


●ぬり絵のすすめ

手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、き
れいな丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなた
の子どもが、多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。
小さなマスなどを、縦線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。


●ガムをかませる

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭が
よくなる」という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話す
と、「では」と言って、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5
年後。その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガム
の効用を確認している。この方法は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに
効果的である。


●マンネリは大敵

変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばあ
る母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、
教育評論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤
族の子どもは、頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激に
なっているからと考えられる。


●本は抱きながら読む

子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであ
げるとよい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。
こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆ
る学習の基本となる。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、
学校教育の基本にすえている。


●何でも握らせる

子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。
その感触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない
子どもがふえている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよ
い子どもほど、ものを手にとって調べる傾向が強い。


●才能は見つけるもの

子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのとき
には、風呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚の
ように泳ぎ出した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長し
た。また別の男の子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコン
を買ってあげると、小学3年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるよ
うにまでなった。子どもの才能を見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。


●「してくれ」言葉に注意
日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほ
かに、「たいくつウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」
など。老人でも、若い人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」
というような言い方をする。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こ
んなところにもある。


●人格の完成度は、共鳴性でみる

他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこ
とを、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その
反対側にいる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人
格の完成度は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみ
てほしい。そのときあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフ
リをしているようなら、人格の完成度は、低いとみる。


●平等は、不平等

下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみ
れば、「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の
子は、欲求不満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこ
ともある。それまでしなかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子
に対して攻撃的になることもある。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までの
ことをする。平等は、不平等と覚えておくとよい。


●イライラゲームは、禁物

ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。
動きが速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間
は、禁物。以前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。
そうなれば、すでに(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。
「ゲーム機器は、パパのもの。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのも
よい。遊ばせるにしても、時間と場所を、きちんと決める。


●おもちゃは、一つ

あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておく
とよい。「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切
にする。子どもは、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようにな
る。


●何でも半分

子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、
もう片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。
これは子どもを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうず
にできるようになったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものため
にならない。


●核(コア)攻撃はしない

子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダ
メ人間よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうし
た(核)攻撃が日常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現れてくる。子
どもを責めるとしても、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身の
力では、どうにもならないことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃とい
うことになる。


●引き金を引かない

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親とい
うことになる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子ど
もを指導する。たとえば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、
だれでも、そうなる。たった一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二
役の、ひとり言をいうようになってしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほ
ど、穏やかで、心静かな環境を大切にする。


●二番底、三番底に注意

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうと
する。しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たと
えば門限を破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二
番底)、さらには家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起
きたら、それ以上、状況を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。


●あきらめは、悟りの境地

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもと
いうのは、不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こ
んなはずはない」とがんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。
そこは、おおらかで、実にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。
そういうときは、思い切って、あきらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあ
ける。


●自らに由らせる

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由(よ)らせる」。だから自由というのは、自
分で考えさせる。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き
勝手なことを、子どもにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうば
う。親の過保護は、子どもから、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任
感をうばう。子育ての目標は、子どもを自立させること。それを忘れてはいけない。


●旅は、歩く

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に
足がつかない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように
心がけるとよい。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きなが
ら、見る景色のほうが、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則
でもある。いかにして、そのときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうこと
も考えながら、旅に出たら、ゆっくりと歩いてみるとよい。


●指示は、具体的に

「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言って
も、ほとんど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にも
っていってあげてね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話を
したか、あとでママに話してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせると
よい。


●休息を求めて、疲れる
イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもな
っている格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学
するため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き
方になる。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねな
い。


●子どもの横を歩く

親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どもの
うしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと
保護者は得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子ど
もの手を引きながら、「早く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わ
せて、ゆっくりと歩いてみるとよい。それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、
見えてくるはず。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づち
を打ったり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、す
ばらしい人よ」と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその
先生に従わなくなる。これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題が
あるなら、子どもとは関係のない世界で処理する。


●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。
その楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの
機嫌をとったり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。
私も幼児にものを教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、
ありもしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼
閣に住まわせてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、
こうした妄想をもちやすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますま
すウソがうまくなる。子どもがウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、てい
ねいに、それをつぶす。そして言うべきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵
でも、音楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニ
メの主人公のキャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。
食べ物にしても、母親が作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいし
いと言う。こういう環境で育つと、人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外か
らの見栄えばかり気にする子どもがふえているので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、
子どもがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、
そればかりをほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。
「頭がいい」とほめすぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよ
く考えて、慎重に!


●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どもも
また、前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きていると
いう状態では、子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をも
たない子どもは、悪の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見
本を、親が見せることをいう。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみ
る。そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤
解する。子どもがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはず
と考えたりする。が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間とし
て、き然と生きる。子どもは、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、
それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親
は見せたくなくても、見せてしまう。しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはい
けない。つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を
大きくするために、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、
破壊する。


●親孝行を美徳にしない

日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。
私たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度
は、子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。
もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。
しかし親孝行は美徳でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけな
い。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人
を、「偉い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リス
ペクティド・マン」という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンと
いうときは、地位や、名誉には関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あな
たの子どもには、「偉い人になれ」と言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求
めて、虹の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。最
後にドロシーは、真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大
切」と考える人が、80〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後
でしかなかったから、これはまさにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信を
もって、子どもには、こう言おう。「この世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、
自ら立ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わ
せて行動し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、運勢に合わせ
ただけなのだが……。)子どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウ
ソ」と言ってやろう。迷信は、まさに合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子
どもは、ものごとを合理的に考える力を失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」
を学び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行
為。決して遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのもの
を、粗末にするようになるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と
位置づけているかと言えば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にする
ためである。生き物の死は、厳粛に。どこまでも厳粛に。


●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉
親意識である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親
の責任をはたそう」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに
対して怒鳴り散らすのが、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は
絶対と考えるのを、「親・絶対教」という。


●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(で
きる・できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子ど
もを見る。たとえまちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってし
たようなら、「よくやったわね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子ども
をつぶす。


●子どもは下から見る

子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。
今、ここに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の
人は、こう言った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ている
と、人間の欲望には、際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。
しかし生きているという原点から見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育て
も、また同じ。


●失敗にめげず、前に進む

「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉
を残している。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前
に進むことである』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、
そっとそう言ってみてほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、
前に進むことですよ」と。


●すばらしいと言え、親の仕事

親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下
はない。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、い
まだに、職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけで
はない。生き生きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安
心感が、子どもの心を豊かに育てる。

●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身
の安全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、
親は、そこを神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たい
ていは子ども部屋ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、
今度は、「家出」ということにもなりかねない。


●代償的過保護に注意

過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、そ
れがない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保
護という。いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子ど
もの受験競争に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子ども
のことなど、まったく考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすような
もの。私は「ストーカー的愛」と呼んでいる。


●同居は出産前に

夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、
出産前からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくな
ってからの同居は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖
父母が、子どもの教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、
控えめに。それが同居を成功させる、秘訣のようである。


●無能な親ほど、規則を好む

イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。
『無能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限
に。また規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。
たとえば門限にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規
則を破ったから、お前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。


●プレゼントは、買ったものはダメ

できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族
どうしのプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。
戦後の高度成長期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレ
ゼントということになっている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキ
ズナを深めたかったら、心のこもったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったもの
は、ダメ」と。


●子育ては、質素に

子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、
そういうぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまう
と、子どもは、あともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになって
からも維持できればよし。そうでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということに
なる。


●ズル休みも、ゆとりのうち

子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのため
というわけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。
その一つの方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に
行く。平日に行けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放
感を味わうはず。「そんなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。


●ふつうこそ、最善

ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。
「もっと……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでし
まう。よい例が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負
担もある。賢い親は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、
それをなくしてから気づく。


●限界を知る

子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもとい
うのは不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、
やればできるはず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こん
なもの」「よくがんばっている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、
親がそばにいるだけで、萎縮してしまう子どもも、少なくない。


●子どもの世界は、社会の縮図

子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子
どもの世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子ども
の世界にも、4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同
時に、社会にも目を向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」
であったり、「セックス」であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、
そこから始まる。


●よき家庭人

日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米で
は、伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。
そのため学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリ
カ)などを教える。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされてい
る。どこか戦後直後の日本を思い出させる言葉である。


●読書は、教育の要(かなめ)

アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもあ
る。つまり、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができ
るが、ライブラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師
は、毎週、その子どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見
なおされてきている。読書は、教育の要である。


●教師言葉に注意

教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられ
たら、額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師
言葉を使う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが
……」「私の指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、ま
だその力を出し切っていませんね」というような言い方をする。


●先取り教育は、幼児教育ではない

幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入
学準備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教
えたりするのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児
期には幼児期で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決
まる。その方向性を決めるのが、幼児教育である。


●でき愛は、愛にあらず

でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマ
をうめるための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる
「愛?」とよく似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。
「子どものことを心配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するため
に、子どもを利用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子
どもの自立をじゃましてしまう。


●悪玉家族意識

家族のもつ重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の
束縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家
族が、自立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責
の念から、自己否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論
理で、子どもをしばってはいけない。


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安心して、HP、HTML版マガジン、
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【みなさんへ】

私のパソコンは、以下のような方法で、パソコンの安全
と健康を、いつも監視しています。

ですから、どうか、安心して、私のHP、HTML版
マガジン、および動画(TUBE社)を、お楽しみく
ださい。

●プロバイダーのほうで、ウィルスチェエクを自動的に
しています。

●加えて有料版の、ウィルスチェックサービスを、常時
行っています(プロバイダー、WBS.NE.JP)。

●さらにパソコンごとに、ウィルスソフトを、インスト
ールし、(これも今では常識ですが)、そのつど、ウィ
ルスチェックを行っています。

●さらに最近ふえている、スパイウエア対策として、
「スパイボット(SPYBOT)」をインストールし、
常時監視しています。

●さらに、HP制作用のパソコンと、通常作業用のパ
ソコンを分けて使っています。

中には「HTML版はこわい?」と心配している方
もいらっしゃるかもしれませんが、どうか、安心して
お楽しみください。

以上、これからもパソコンの安全と健康には、じゅう
ぶん留意して、HP、マガジンの制作をしていきます。

よろしくお願いします。

はやし浩司

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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●やはり孫は、かわいい?

+++++++++++++++++

1年ほど前、ある読者の女性から、
こんなメールをもらった。

「娘夫婦は、いつも私に孫を預けて、
遊びほけている。祖母だから、孫が
かわいいはず」と、決めてかかっている。

それでとうとう私がキレてしまった。

『祖母だからといって、孫がかわいいはず
と決めてかかってもらっては困る!』と。

私だって自由な時間がほしい。
子育てから解放されて、やっと一息ついて
いるのに、今度は、孫のめんどう?!

『もういいかげんにしてくれ!』と
叫びたいです」と。

この女性のメールは、当時、マガジンのほうで、
取りあげさせてもらった。

で、私も、今、その孫のめんどうをみるハメに……。
立場的には、その女性のメールにやっと返事を
書けるようになった。

++++++++++++++++++

 孫は、かわいいのか。それとも、かわいくないのか。私も、孫の誠司を見ながら、ふと、
そんなことを考える。

 一般的には、ジイ様、バア様だから、孫はかわいいはず、とだれしも考えるにちがいな
い。とくに自分の子どもをもった若い父親や、母親は、そうであろう。

 しかし孫に対する感覚は、自分の実の子に対する感覚とは、明らかにちがう。自分の実
の子のばあいは、無我夢中というか、すべてを投げ出して、育てる。しかし孫となると、
そうはいかない。そこに息子が介在する。

 (孫の誠司ではなく)、その息子のほうを見ていると、ふと心のどこかで、「子育ては、
もうたくさん」「こりごり」と思う。そういう思いが、心をふさぐ。子育ては、つまりは重
労働。その子育てからやっと解放されたと思ったとたん、また同じ思いをもてと言われて
も、困る。そうは簡単に、心は動かない。

 さらに私のばあい、何十人も、幼児を教えている。毎週、毎月、そういった子どもたち
と会っている。そういう子どもたちと、どう区別したらよいのか。孫と、どう区別したら
よいのか。実際には、できない。

 みんなで買い物に出かけても、息子夫婦は、孫には、ハレ物かガラス箱に触れるかのよ
うに、注意を払う。自分のワイフには、荷物を、いっさい、もたせない。(妊娠中というこ
ともあるが……。)しかし重い荷物をもたされるのは、たいてい、私たち、夫婦。決して見
返りを求めて自分の子育てをしたわけではないが、そういう立場に立たされてみると、「子
育てって、いったい、何だったのか?」と考えさせられてしまう。

 息子は、こう言う。「電池式のおもちゃは、創造性がない。だからぼくは、そういうおも
ちゃでは、遊ばせない」とか、何とか。

 まあ、言いたいことを言えばよいが、何千例も幼児教育をみてきた私に向って、そう言
う。何百回も、あちこちで講演を重ねてきた私に、そう言う。「そうだね」と一応返事をし
つつ、「そういう単純なものでもないのだがなあ」とも思う。言いたいことは山ほどあるが、
ここは、バカなジイ様のフリをしているのが、一番。

 そこで恐る恐る、ワイフに、昨夜、そのことを告白した。

私「息子のヤツね、どこか緒しつけがましいだろ。『孫はかわいいだろ』とね。で、お前さ、
孫を、かわいいと思うか?」
ワ「フ〜ム。毎月とか、毎週とか、会っていれば、また別の感覚をもつかもしれないけど、
私たちには、まだ、そういう感覚は、もてないわね」
私「そこなんだよな。昨日も、息子は、こう言った。『アンシュタインなんて、くだらない
男さ。あんな男には、学ぶべきものは、何もない』とね。ぼくは、それを聞いていて、『あ
んたのようなおやじには、学ぶべきものは、何もない』と言われたように感じたよ」

ワ「それは考えすぎよ」
私「でも、田丸先生も、ぼくも、アインシュタインを尊敬している。ああまで頭から否定
されてしまうと、自分が否定されてしまうかのように感ずる」
ワ「息子といっても、もう別の人格をもった、別の人間よ。あなたには、まだ親意識が残
っているのよ。子離れが、まだできていないのよ。息子といっても、思い出のつながった、
友人と思えばいいのよ」

 いろいろな統計を見ても、「老後は、息子や娘と離れて暮らしたい」と望んでいる人がふ
えているという。欧米化というか、オーストラリア化、アメリカ化というか、そういう傾
向が、この日本でも、急速に進んでいる。

 で、その私は23歳のときには、すでに収入の半分を、実家へ仕送りし始めていた。ワ
イフと結婚したときも、すでにそれが条件になっていた。だから、ワイフは、何も言わず
に、それに従ってくれた。が、それから、35年。いまだに年間、100〜200万円単
位の生活費や介護費用が、のしかかってくる。

 そういう「私」とくらべると、今の私の息子たちは、いったい、何かと思う。そして同
時に、「そんな息子や娘となら、同居はごめん」ということになる。老後のめんどうをみて
もらうなどというのは、夢のまた夢。反対に、息子たちのめんどうをみるのは、親の私た
ちということになる。知人の中には、息子夫婦の新居の費用から、孫のおけいこ教室の費
用まで、負担している人がいる。

 だから、その知人は、「同居は、ごめん」と。わかる、その気持ち!

 そこで若い夫婦のみなさんには、こんなアドバイスができる。

(1)ジイ様、バア様には、孫がかわいいはずと思いこむのは、やめたほうがよい。また
そういう前提で、押しつけがましく、ジイ様、バア様に孫を押しつけるのはよくない。と
くにマザコンタイプの男性は、自分の母親を偶像化しやすい。そのため、自分の孫にも、
マドンナ的な深い愛情を期待しがちだが、愛情というのは、血のつながりだけでは、生ま
れない。

(2)孫のかわいさは、それまでの親子関係、それと息子の妻や、娘の夫との関係によっ
て決まる。良好な親子関係であれば、ふつう程度に孫をかわいく思うようになる。そうで
なければ、そうでない。

これは別の知人(男性)から聞いた話だが、こんなケースもある。その知人の息子が、
ある女性と結婚した。5歳年上の女性だった。子ども(孫)を妊娠したことをよいこと
に、その女性は、強引に、息子との結婚を迫った。

 知人は、結婚そのものに反対した。その女性の両親に何度か中絶を申しいれた。が、話
にならなかった。さらに相手の両親に大金を積んで、婚約解消を申しいれたが、それでも、
だめだったという。が、そのうち、子どもは生まれてしまった。その知人にしてみれば、
孫ということになるが、彼はこう言った。「一応、遊びにくれば、それなりの接し方はしま
すが、正直言って、(孫の)顔など見たくもないです」「見たとたん、頭痛が始まります」
と。

 もちろん中には、孫を目の中に入れても痛くないと思うジイ様、バア様もいる。つまり
それくらい孫をかわいいと思っている人もいる。しかしそうでない人のほうが、実際には、
多い。たいはんのジイ様、バア様は、よきジイ様、よきバア様でいようと、仮面をかぶろ
うとする。「息子夫婦に嫌われるのもいやだから」と。いろいろな人の話を聞いてみると、
どうやらそのあたりに、本音があるのではないか。

 そこで息子に聞いてみると、息子は、あっさりとこう言った。「パパ、アメリカの両親な
ど、あっさりとしたものだよ。レストランなどでいっしょに食事をしても、みんな割り勘
だよ」と。

 ナルホド!

 さて、私のばあいだが、今日(1月3日)は、市内のレストランで、昼食。それから新
幹線で、隣町まで行こうとしたが、駅は、Uターンラッシュで、たいへんな混雑。しかた
ないので、駅前のアクトタワーの展望台へ。

 孫の誠司を抱きながら、自分の心がどう変化していくのかを、静かに観察してみた。淡々
とした気持ちは、それほど、変わらなかった。が、ちょうど帰りの道についたときのこと。
孫の誠司が、こう言った。

 「You've got water? (水をもっている?)」と。どこか遠慮がちな、やさしい言い方
だった。

 それで「You want water? (お前は、水を飲みたいのか?)」と聞くと、「Yes!」と。そ
のとき瞬間だが、誠司の中に、言いようのない愛くるしさを感じた。心を全幅に開いて、
私に話しかけてくる孫。私の顔を見たとたん、ニコニコと笑って、「ジイジ!」と声をかけ
てくれる孫。

 とたん、それまでたがいをへだてていたカベが、パラパラと崩れたのを感じた。そして
それまでになかった、心の交流が、流れ出すのを感じだ。そういうものが積み重なって、
はじめてそこに、別の新しい人間関係が生まれるのかもしれない。そしてそれが、たがい
の絆(きずな)に変わる。孫といっても、その新密度は、基本的には、人間関係で決まる。
「祖父だから……」とか、「孫だから……」という『ダカラ論』だけで、ものを考えてはい
けない。

 同居して、1週間目。やっと私にも、孫のかわいさが、わかるようになってきた! や
はり、孫っていうのは、かわいいですねエ〜。
(原S)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●うれしいメール

年末(05年12月)、BW教室のYさんから、こんなうれしいメールが届いています。
Yさんに承諾(xxxx)

今年の正月は、風邪、風邪……で、さえない毎日でしたが、そのこともあって、本当にう
れしかったです。

+++++++++++++++++++++

こんにちは。いつもS太とA子がお世話になっています。今年は、私の仕事の関係とかで、
教室の時間を変更していただいたり、幼稚園児のA子まで、小学生のクラスに入れていた
だいたりと、ご迷惑をおかけしてばかりで、本当に申し訳ありませんでした。

先生に、子供たちがいろいろご馳走になったそうで、二人とも大喜びで「BW教室に行っ
てて、良かったー!」などと言っています。どうもご馳走様でした。ありがとうございま
した。

S太は、今年は算数だけでなく、苦手だった国語や体育の成績も上がり、勉強態度も、自
分から進んで部屋に行き勉強するようになりました。なんとなく頼りになる息子に成長し
てきたような気がします。自信がついて来たみたいで、表情が明るくなりました。

妹のA子も、兄に習って勉強の癖がついてきました。

「一月から二年生の勉強をするんだよ! 勉強って楽しいよ! どうして幼稚園のみんな
は勉強しないんだろう? 林先生にね、すばらしいって言ってもらうと、みんなが拍手し
てくれてすごくうれしい気持ちになるよ。」と、すごくお喋りになりました。

二人とも、いい影響を受けて成長をしているんだなと実感しています。

今年一年、本当にお世話になりました。
来年もこどもたち二人をよろしくお願いします。
ありがとうがざいました。

                          S太、A子の母より


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【シャドウ】

●親の心を代弁する娘 

 20年ほど前のことだが、こんな事件があった。

 あるときある母親が、教室へやってきて、こう言った。「先生、うちの娘(6歳)は、私
の心を、そっくりそのまま口にしてします。

 たとえば私が祖母(義理の母親)のことを、内心で、『汚い』と思っていたりすると、娘
が、私の横で、祖母に向って、『あんたは、汚い!』と言うのです。

 あるいは、私が内心で、『祖母なんか、いないほうがいい』と思ったとします。するとす
かさず娘が、祖母に向って、「あんたなんか、あっちへ行っていてよ」と言うのですね。

 そういう娘を見ていると、ときどき、自分がこわくなります」と。

●親がつくる、シャドウ

 いくら善人の仮面をかぶっても、邪悪な心までは、隠せない。他人ならまだしも、自分
の子どもの前では隠せない。親子というのは、そういうもの。子どもは、親が、心の裏で
つくるシャドウを、そっくりそのまま読んでしまう。

 たとえば(あなた)で、考えてみよう。

 あなたには、善良な部分もあれば、邪悪な部分もある。が、接する相手によって、あな
たは仮面をかぶる。

 仮面をかぶることが悪いというのではない。だれしも、そのときどきにおいて、ある程
度の仮面をかぶる。よい例が営業上の仮面。ショッピングセンターなどへ行くと、若い女
性が、豊かな笑みを浮かべて、「いらっしゃいませ」と、あいさつする。

 しかしそれは営業上の仮面。そういう笑みを見て、「この子は、私に気があるのかも」「人
間的にできた女性だ」と思っていはいけない。仮面は、仮面。

 しかし中には、その仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。脱ぎ忘れてし
まう人もいる。

●偽善者

 仮面をかぶればかぶるほど、邪悪な心を、心の奥底に封じこめようとする。自分の心の
中に、いわばゴミ箱のようなものをつくる。そこへ邪悪な心を押しこむことによって、さ
らに、自分が仮面をかぶっていることを忘れてしまう。

 よい例が、牧師や教師が、性的な話や、セックスの話を、ことさら嫌ってみせるという
のがある。中には、そういう話題になると、顔を不愉快に曇らせる人もいる。

 そういう人というのは、牧師の仮面、教師の仮面をかぶっていることになる。そして自
分の中にある邪悪な心、(だれにでもあるものだが……)、それをゴミ箱の中に押しこんで
しまう。

 しかしそれで邪悪な心が消えるわけではない。ゴミ箱に入った邪悪な心は、その人のシ
ャドウとなって、その人を、今度は、裏から操るようになる。その一例が、「偽善者」と呼
ばれる人たちである。

 自分の名声を利用して、苦しんでいる人や、貧しい人たちのための救済運動をしてみせ
たりする。そうしてさらに、自分の名声にハクをつけ、何らかの利己的利益へと結びつけ
ていく。

●シャドウを受けつぐ子ども

 このシャドウをウラからしっかりと見ている人たちがいる。こんな例がある。

 ある夜夫が、自宅へ帰ってきた。そしてワイフにこう言った。「今夜、○○の十字路にさ
しかかったとき、突然、横から、自転車が飛び出してきて、ぼくは、ハンドルを右へ切っ
た。そのとき、あやうく対向車と衝突しそうになったよ」と。

 それを聞いたワイフは、すかさず、こう言った。「あんたが、悪いからよ!」と。

 夫の話を半分も聞かないうちに、妻が、「あんたが、悪いからよ!」と。

 その女性、つまり夫のワイフは、人前では、献身的で従順な妻を演じていた。自分でも、
「よくできた家庭的な妻だ」と思っていた。しかしそれはいわば仮面にすぎなかった。内
心では、不本意な夫と結婚したことを、いつも不満に思っていた。

 そういう不満が、姿を変えてシャドウとなり、とっさのときに、思わず、口をついて出
てきた。「あんたが、悪いからよ!」と。そう言わさせたのは、まさに、そのシャドウとい
うことになる。

●邪悪な心は、伝播(でんぱ)する

 昔から、『親も親なら、子も子だ』という言い方をする。そういう言い方をするときは、
決してその親子をほめているからではない。「親も悪いやつだが、子も悪いヤツだ」という
ニュアンスをこめて、そう言う。

 実際、そういう例は、多い。たいていのばあい、親が小ズルいと、子も小ズルくなる。
そうでないケースのばあいは、ふつう、子どものほうが、たいへん苦しむ。さらにこんな
例もある。

 日本中を驚かせるようたような事件を起こしたような子どもの両親をみると、ときとし
て、「どうして?」とわからなくなってしまうことが多い。ふつう以上に、ふつうの家庭。
両親は、教育熱心な教師であったりする。地域でも、評判はよい。ある凶悪事件を起こし
た少年の父親は、その地域のミニコミ紙を発行していた。

 そういう親をもちながら、子どもは、想像もつかないような凶悪な犯罪を犯す! こう
した例でよく持ちだされるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演
技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の複線がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と
不倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
た原動力になった。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

●教師とて、例外ではない

 親子の関係ほどではないが、教師と生徒との関係においても、同じようなことが起きる
ときがある。生徒が、教師のシャドウをウラから読んでしまう。あるいは、受けついでし
まう。

 「この先生は、給料のためだけに仕事をしている」「うわべでは、かっこうのいいことば
かり言っているが、実は、オレたちを利用しているだけだ」と。

 こうなると、生徒は、その教師の指導に従わなくなる。

 私にも経験がある。昔、もう25年ほど前のことだが、月謝袋をポンと爪先ではじいて、
私にこう言った生徒(高2・男子)がいた。

 「おい、あんた、あんたのほしいのは、これだろ!」と。

 私は激怒して、即刻、その生徒を退塾処分にしたが、そのときのその生徒は、私のシャ
ドウを見抜いていたのかもしれない。あのころの私は、(今でもそうかもしれないが……)、
お金のために、進学指導をしていた。

●シャドウを消すために

 シャドウを消すことは、決して簡単なことではない。それこそ10年単位の年月が必要
となる。何はともあれ、まず、それに自分で気がつかねばならない。

 仮面をかぶっているなら、かぶる必要がないときには、その仮面をはずす。はずして本
来の、ありのままの自分にもどる。

 つぎに、どんなささいなことからでもよいから、正直に、かつ誠実に生きる。とくに子
どもに対しては、そうだ。ウソをつかない。約束は、かならず守る、など。インチキはし
ない。ルールは守る。

 そしてそのワクを、自分から、家庭へと広げていく。そういう操作を、繰りかえす。一
年や2年では足りない。ここに「10年単位」と書いたが、私の経験では、それでも少な
いのではないかと思っている。

 こうした積み重ねが、やがてシャドウを自分から消していく。そして(あなた)が、「私
は私だ」「これが私だ」と、ありのままの自分で生きることができるようになったとき、同
時に、シャドウは、あなたから消える。

 シャドウは、あなたの子どもの心をゆがめる大敵と考えて、対処する。
(はやし浩司 シャドウ シャドー論 子どもの心 子供の心)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【ファミリス(静岡県教育委員会発行雑誌)・掲載原稿より】

++++++++++++++++++

05年11月号
05年12月号
雑誌「ファミリス」掲載原稿から、
原稿を転載して、

お届けします。

『疑わしきは、罰する』です。

++++++++++++++++++

●ゲーム脳

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、
罰する」。疑わしいものは、まず遠ざける。子どもに渡すものは、しっかりと安全が確認さ
れてからでよい。そういう姿勢が、子どもの世界を守る。

●ゲーム脳

このところ、「ゲーム脳」という言葉が、よく話題になる。ゲームづけになった脳ミソを「ゲ
ーム脳」という。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲ
ーム脳」とは、何か。

『脳の中に、前頭前野という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。記憶、感
情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも
司る部分である。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると
働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になる』(日大大学院・森教授)と。

 つまりゲームばかりしていると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけ
である。このゲーム脳については、賛否両論があり、「ゲームをやっても脳が壊れてしまう
ことはない」と主張する学者(東北大学・川島教授)もいる。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

●なぜ、抗議の嵐が?

 この日本では、ゲームを批判したり、批評したりすると、ものすごい抗議が殺到する。
実は、私自身も経験している。6年前に、『ポケモンカルト』という本を出版したときであ
る。上記の森教授らのもとにも、「多くのいやがらせが、殺到している」(報道)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。ゲームにもいろいろあるが、どうし
てそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか? 

 森教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与える危険性がありますよ」と、
むしろ親切心から、そう警告している。それに対して、いやがらせとは!

●動き出した文科省

そこで文部科学省は、ゲームやテレビなどを含む生活環境要因が子どもの脳にどう影響を
与えるかを研究するために、2005年度から1万人の乳幼児について、10年間長期追
跡調査することを決めた。この中で、ゲームの影響も調べられるという(「脳科学と教育」
研究に関する検討会の答申)。

 近く中間報告が、公表されるだろう。が、しかしここで誤解してはいけないのは、「ゲー
ムは危険でないから、子どもにやらせろ」ということではない。「ゲームは、危険かもしれ
ないから、やらせないほうがよい」と、考えるのが正しい。とくに動きのはげしい、反射
運動型のゲームは、避けたほうがよい。
(はやし浩司 ゲーム脳)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●右脳教育

●右脳教育ブームの中で

左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(スペリー)。その右脳をきたえる
と、たとえば次のようなことができるようになるという(七田氏)。

ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの
映像を心に描くことができる(直観像化)、見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶するこ
とができる(フォトコピー化)、計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動
処理)など。

 しかしこういう説に対して、疑問を投げかける学者も少なくない。目白大学の渋谷氏も
その1人で、著書「心理学」の中で、こう書いている。

 『なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、
すぐれているといわんばかりです。一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、
「右脳ブーム」は、こういった理論から生まれたのではないでしょうか。これらの説の中
には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあるものとは
言えません』と。

●だから、どうなの?

 ときどき、右脳教育の成果(?)として、神業的な能力を示す子どもが紹介される。ま
さに神業。しかし「だからどうなの?」という部分がないまま、子どもにそういう訓練を
ほどこしてよいものか。はたしてそれが能力と言えるのか?

 昔、「一晩で百人一首を覚えたら、5000円あげる」と母親に言われ、本当に、一晩で
暗記してしまった子どもがいた。その子どもというのは、あの忌まわしい殺人事件を起こ
した、「少年A」である。彼は専門家の鑑定により、「直観像素質者」という診断名がくだ
された。

 イメージの世界ばかりが、極端にふくらんでしまい、空想と現実の世界の区別がつかな
くなってしまった子どもと考えるとわかりやすい。

●大切なのは、静かに考える子ども

右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想
像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(=論理)、他人の心
を静かに思いやること(=分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということに
なる。その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

 で、今、その静かに考えることができる子どもが、むしろ減っているのではないか。私
は、個人的には、これだけ映像文化が発達しているのだから、あえて右脳を刺激しなくて
も、よいのではと考えている。

 要はバランスの問題。右脳教育にせよ、左脳教育にせよ、いつもバランスを考えながら
する。
(はやし浩司 右脳教育)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●12月27日、火曜日

 この数日、掃除また掃除。そんな日々がつづいた。で、やっと今日、一段落。ほっとし
た。

 その掃除をしながら、いろいろなことを発見した。その1。ものがない美しさ。その美
しさを、改めて確認した。このことについては、前にも書いた。多少の不便はあるかもし
れないが、ものがない部屋は、美しい。すっきりとしている。気持ちよい。もちろん掃除
もしやすい。

 実は、心の中も同じ。たとえば1つのウソをつくと、つぎからつぎへと、ウソをつかね
ばならない。相手が複数の人だと、そのウソを記憶しているだけでもたいへん。そういう
意味では、ウソは、心のゴミということになる。

 韓国のあの科学者も、そうだ。11個のES細(胞胚性幹細胞)のうち、9個までが捏
造(ねつぞう)とわかった。残りの2個も、どうやらニセモノと断定されたようだ。それ
に対して、当の科学者は、「仲間のだれかが、本物とニセモノをすりかえた」と言い出した。
きっとあの科学者の心の中には、足の踏み場もないほど、ゴミがたまっているのだろう。
かわいそうな人だ。

 その2。掃除は、絵画に似ている。もの書きは、文章を書く。絵描きは、絵を描く。そ
のもの書きと、絵描きとは、どこがどうちがうか? ふつう文章を書いていると、頭の中
がクシャクシャしてくる。しかし絵を描いていると、無我というか、無心の状態になる。
何もかも忘れて、絵を描くことに没頭する。

 掃除は、その、絵を描くことに似ている。掃除をしている間というのは、何も考えない。
ただひたすら、あちこちをきれいにする。それを繰りかえしていると、やがて心の中が、
すっきりとしてくる。

 その3。掃除というのは、最初は人のためにする。心のどこかで、喜んでくれる人を、
思い浮かべる。そういうところから始まる。しかししばらくつづけていると、やがてそれ
が自分のためということがわかってくる。似たような心の変化は、ボランティア活動をし
ているときにも、経験する。もっとも何かのボランティア活動をしているときは、心のど
こかで(他人のため)から、(自分のため)にスイッチングをしないと、心がもたない。

 ボランティア活動をしていると、報われることよりも、裏切られることのほうが、多い。
はるかに多い。いちいち裏切られることを気にしていたら、ボランティア活動など、でき
ない。掃除もそうだ。

 掃除をしても、すぐだれかによごされる。一番、露骨にそれをするのは、イヌのハナだ。
昨日も、窓ガラスをすべてふいた。その前に、洗剤をつけて、窓ガラスを洗った。が、夜
になって、ハナが、その窓ガラスを、足でこすって、ドロをつけてしまった。

 あああ……!

 とにかく、こうして我が家の大掃除は、終わった。一応、終わった。明日、28日、二
男夫婦が、孫と、嫁の妹を連れて我が家にやってくる。そのあとのことは、知らない。知
ったことではない。さあて、どうなることやら? まあ、あまり考えないでおこう。無我、
無心。それが何よりも重要。今は、そんなふうに、考えている。


●熱帯魚

 熱帯魚を飼うようになって、もう18年になる。どうして覚えているかって? 理由が
ある。

 私たち夫婦も、何度か、離婚の危機を経験した。その中でも、一度だけ、今のワイフが
本気で家を飛び出してしまったことがある。

 そのとき、私は近所の熱帯魚屋から、水槽と何匹かの熱帯魚を買ってきた。それが平成
元年になる少し前のこと。それで「18年」ということになる。来年は、2006年、平
成18年!

 きっとさみしかったのだろう。それで熱帯魚を飼うようになった。熱帯魚を見ながら、
私は、心を、まぎらわした。以来、18年。ずっと、熱帯魚を飼っている。

 その水槽を、昨日、ピカピカにみがいた。下に敷いてあるジャリも洗った。当然、水も
かえた。あとは、カルキ抜きの中和剤を入れ、病気予防のための、いくつかの薬をまぜた。
おかげで、今は、その水槽が、夢の中の世界のように、美しい世界になった。すべてが、
澄んだクリスタル色に輝いている。

 それをぼんやりと見つめていると、「大昔、人間も、魚だったんだなあ」と思う。本気で、
そう思う。深い森の中にいるときよりも、さらに大きな安堵感を覚える。本能的な安堵感
というのである。

私「人間のことだから、きっと、太古の昔には、熱帯地方の海に住んでいたと思うよ」
ワ「そうね」と。

 仮に私が今、魚になったとしても、冷たい海の中には、住みたくない。風呂のような温
水がよい。そういうことから、太古の昔、人間の祖先たちは、暖かい海の中に住んでいた
と思う。勝手な想像だが、私は、そう思う。

 ところでその熱帯魚だが、人間の私たちが考えているより、はるかに頭がよい。どう頭
がよいかについては、もう何度も書いてきたので、ここには、書かない。しかし頭がよい。
魚だから……と、決してバカにしてはいけない。


●電子出版に挑戦!

『まぐまぐ! POD』というサービスが始まった。「POD」といのは、は読者からの
注文を受けて、1冊、1冊、本を印刷・製本するというサービスをいう。「POD」とい
うのは、「Publish on demand」の略語だと思う。

 「へえ〜」と驚くやら、感心するやら……。

 自費出版というのは、生涯においてしたことがない。どこかプライドが許さなかった。
しかし今度は、私自身が、出版社の立場になる。映画でいえば、監督と主演の、両方を、
自分でするようなもの。あのクリント・イーストウッドだって、何度か、そうしている。

 とりあえず、「子育て一口メモ」を、本にしてみようと思う。売れるかどうかわからない
が、何ごとも、新しいことに挑戦してみるというのは、楽しい。この方式が軌道にのれば、
ここにも書いたように、私自身が、出版社を経営することができるようになる。

 これからは、そういう時代かもしれない。おもしろいことだ。


●1月3日

 原稿書き、再開!

 この1週間、インフルエンザから、そのあと、扁桃腺炎、気管支炎などを併発し、病気
の連続。悪寒、発熱の繰りかえし。熱も38度を超えたと思ったら、翌日には、37度。
しかしそのまた翌日には、また38度!

 やがて今度は、薬中毒。頭痛薬をのんでも、かえって、頭痛がひどくなるだけ。いやな
気分だった。ときどき郷里の姉から電話があるが、そのたびに、「この前も風邪をひいてい
ると言ったじゃない!」「まだ、風邪をひいているの?」と、なじられるしまつ。

 1月1日から、そんなわけで、病院通い。おかげでそのあとは、急速に症状は、よくな
った。で、今日は、1月3日の朝。こうして原稿を書けるようになった。

 しかしこの1週間、あれこれ考えた。「こんな原稿など、書いて、何の役にたつのだろう
か?」と。ホント! 絵にたとえるなら、トイレの落書きのようなもの。それとはちがう
とは思いたいが、しかしどこがどうちがうというのか。自分のしていることが、何か、ま
ちがっているような気がしてしてならない。

 頭の中では、「多くの人が読んでくれているのだ」と思うようにしているが、それについ
ても、最近は、「?」と思うことが多い。私のワイフでさえ、このところ、忙しいこともあ
るが、私の原稿を、ほとんど、読んでいない。

 どこがまちがっているのだろうか?

 だいたいにおいて、私の、ものを書く姿勢がまちがっている。ものの書き方が、どうも
権威主義的。上から下へと、「控えおろう!」というような感じで書いている。それに読者
の意向など、まったく無視。ひとりよがりも、よいところ。自己満足のために書いた文章
など、だれが読みたがるだろうか。

 いつだったか、そう批評してきた女性が1人、いた。辛らつな批評だった。「ママ診断を
読んだが、あんな長い診断なんか、だれも受けない。自己満足のためだけに、ああいうも
のを書くな」と。

 つぎにこういう(見返りのない原稿)を書いていると、どうしてもグチが多くなる。実
際、05年度は、賛助会への協力者はゼロ。絵も売ろうとしたが、買ってくれた人は、ゼ
ロ。つまりHPとマガジン関係での、収入は、ゼロ。

 そのグチが、私が書く原稿を、暗く、重いものにする。だから読者もふえない。そのた
め、書く意欲もわいてこない。水にたとえるなら、流れが止まった、水たまりのようなも
の。(この原稿そのものが、水たまりのようなもの?)

 さあて、心機一転! 今年も、再開。とにかく、前に進むしかない。グチグチ言ってい
ても、しかたない。2006年はやってきた。「今年こそは……」と信じて、前に進む。「今
年こそは、何か、いいことがあるだろう」と。

 この文章を読んでくださった、読者の方へ、

 今年も、よろしくお願いします。


●実名を出して恐縮だが……

 H市内に、「大内歯科医院」というのがある。それを見て、2人のアメリカの女性(二男
の嫁と妹)たちが、ゲラゲラと笑いだした。

 英語では、「OUCHI Dental Clinic」という。日本語の看板の下に、
そう書いてあった。

 また別のところで、これまた、大笑い。その店は、何かのどんぶりものを食べさせる店
だった。

 いわく「牛丼……Meat Bowel Food」

 その中でも、もっとも大声で、ゲラゲラ笑いだしたのは、「Haxd−Off」(1文字、
伏字)という店を見つけたとき。とにかく、笑いが止まらないといったふうだった。

 どうしてアメリカ人たちが笑ったか?

 英語では、「痛い!」というとき、「Ouch!」という。
 「Bowel」というのは、「ウンチ」の下品語。
 さらに、男性のペニスが勃起したあと、なえた状態を、英語では、「haxd−off」
という。ここまで書けば、なぜアメリカ人たちが笑ったか、その理由がわかってもらえる
はず。

 書店に入ったときも、そうだ。「Woody Life」という雑誌をみつけて、「これ、
何?」と言いあっている。「木の温もりのある生活」という意味で、その雑誌社は、そうい
うネーミングを考えたのだろうが、私が、「どうして?」と聞くと、「まったく、意味をな
さない」と、ポツリ。装丁が豪華で、日本でもよく知られた雑誌だったので、意外だった。


●子育てを忘れて……

 正月休みになって、1週間がすぎた。この間、接した子どもは、孫の誠司だけ。おかげ
で、私の育児論は、完全に、サビついてしまった。こうして何かを書こうとするのだが、
頭の中に、何も、浮かんでこない。

 育児論は、子どもを前にして、はじめて、書ける。かなり以前から、そう感じていたが、
私の育児論は、とくにそう。あちこちの参考書や資料をカンニングしながら書くというの
は、私のやり方ではない。

 目の前で、現実の子どもたちを見ながら、原稿を書く。私のばあい、それがとても大切
なことのように思う。が、「何も書けない」とがんばっていてもしかたない。そこであれこ
れ思いついたままを書いてみる。

(1)『ダカラ論』

 またまた出てきた、『ダカラ論』。今、私の友人(男性)が、実家の近くに住む姉から、
実家の改築費を出すように迫られているという。「あんたは、男だから……」「あんたは、
家を出たのだから……」「あんたは長男なのだから……」と。

 その友人はこう言う。「姉は、じぶんにとって都合のよいダカラ論を並べているだけなん
ですね。遺産相続の場では、きっと、こう言いますよ。『私は、娘だから……』『私も子ど
もだから……』とね」と。

 つまり人に金を出させるときは、「あんたは長男だから……」と言い、金を取るときは、
「私は娘だから……」と言う、と。

 実際、『ダカラ論』をふりかざす人は、それだけ思考力のない人とみてよい。自分で考え
る力がないから、『ダカラ論』をふりかざす。つまり『ダカラ論』は、思考力のない人の、
便利な論法の1つということになる。

 「あなたは夫ダカラ……」
 「お前は妻ダカラ……」
 「あんたは、私の子ダカラ……」
 「オレはお前の親ダカラ……」と。

 一見、論理的なようで、どこにも論理性がない。それが『ダカラ論』ということになる。

(2)インフルエンザを軽くみない

 正月の1日に、病院へ行く。そこでドクターが、こう話してくれた。「インフルエンザは、
最初の48時間が勝負です。それまでに適切な処置をしないといけません。それ以後は、
薬も、ほとんどきかなくなります」と。

 「ウィルスが全身に回ってから、処置をほどこしても、意味がない」ということか。私
は、勝手にそう解釈した。漢方でも、インフルエンザだけは、特別扱いをしている。後漢
のころ活躍した張仲景という学者は、よく知られた『傷寒論』という独立した一冊の本を
書いている。

 まだ(熱邪)が、体の表面にただよっている間に治すのが、コツ。体の奥深くに入って
しまってからでは、もう遅い、と。

 つまりインフルエンザは、決して、軽くみてはいけない。一度、こじらせると、命まで
あぶなくなる。熱も40度を超え、身のおき場がないほど、体をだるく感ずるようになる。
そしてそういう症状が、4〜7日もつづく。へたをすれば、肺炎! そして死!

 昨日(1・5)の新聞によれば、そのインフルエンザが、とうとう流行期に入ったとい
う。人ごみの中に入るのは、避けたほうがよい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 1月 25日(No.679)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

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安心して、HP、HTML版マガジン、
動画を楽しんでいただくために……

【みなさんへ】

私のパソコンは、以下のような方法で、パソコンの安全
と健康を、いつも監視しています。

ですから、どうか、安心して、私のHP、HTML版
マガジン、および動画(TUBE社)を、お楽しみく
ださい。

●プロバイダーのほうで、ウィルスチェエクを自動的に
しています。

●加えて有料版の、ウィルスチェックサービスを、常時
行っています(プロバイダー、WBS.NE.JP)。

●さらにパソコンごとに、ウィルスソフトを、インスト
ールし、(これも今では常識ですが)、そのつど、ウィ
ルスチェックを行っています。

●さらに最近ふえている、スパイウエア対策として、
「スパイボット(SPYBOT)」をインストールし、
常時監視しています。

●さらに、HP制作用のパソコンと、通常作業用のパ
ソコンを分けて使っています。

中には「HTML版はこわい?」と心配している方
もいらっしゃるかもしれませんが、どうか、安心して
お楽しみください。

以上、これからもパソコンの安全と健康には、じゅう
ぶん留意して、HP、マガジンの制作をしていきます。

よろしくお願いします。

はやし浩司

**************************

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●要支援と幼稚園

 少し前まで、幼稚園児とこんな会話ができた。

 「君たちは、年中(児)。ぼくは、中年(児)!」と。

 すると子どもたちは、「チューネンではなく、ネンチューだよ」と。

 しかしその私も、さらに年をとった。中年の時代も、終わった。そこで今は、こんな会
話をしている。相手は、年長児たち。

 「君たちは、ヨーチエン(幼稚園)だってねエ。ぼくは、ヨーシエン(要支援)だよ」
と。

 すると子どもたちは、「先生、ヨーシエンではなく、ヨーチエンだよ」と。

私「あのね、自分でウンチをして、それをきちんと自分でふけなくなったら、要支援って、
言うんだよ」
子「ぼくは、ちゃんとふけるよ」
私「だったら、君は、要支援ではない」
子「要支援ではなく、幼稚園だってばア」

私「でも、ぼくも、もうそろそろ、要支援だよ」
子「幼稚園は、子どもが行くところだよ」
私「それがひどくなって、自分のウンチを食べるようになったら、要介護かな」
子「ゲーッ! ウンチを食べるの?」
私「要介護というのは、そういう人のことをいうよ」
子「ヨーカイゴではなくて、ヨーチエンって、言うんだよ」

私「要支援が終わったら、要介護。要介護1年生だよ」
子「幼稚園が終わったら、小学校だよ」
私「ぼくは、要介護になるの」
子「ぼくは、小学校だよ」
私「要介護は、5年生まで、あるの。知ってる?」
子「フ〜ン。お兄ちゃんは、小学5年生だよ」

私「5年生かあ?」
子「6年生まであるよ」
私「要介護には、6年生はないの」
子「5年生のつぎは、何?」
私「あの世へ行くの」と。

 こうしたジョークは、子ども向けというよりは、参観している、親向け。親たちが笑っ
てくれると、教室がなごむ。そのなごんだ雰囲気が、子どもたちの表情を、明るくする。
しかし子どもたちは、真剣。

 子どもたち「先生、ヨーシエンではなく、ヨウーチエンだってばア!」と。


●ダジャレ

コウモリが、子守り歌を歌った。
それをネコが、寝転んで聞いていた。
ウマが、「うまい」と、コウモリをほめた。
しかしサルは、その場を、去った。

カバが、カバンを買った。
シカは、帽子しか、買わなかった。
そこへネズミ色の服を着たネズミがやってきて、こう言った。
「パンダさんの食べたいのは、パンだ」と。

トラがトラックに乗って、旅に出た。
ラクダも乗せてもらって、「楽だ、楽だ」と言った。
そこへワシがやってきて、「わしは、ワシだ」と言った。
それを聞いたゾウが、「わしは、ゾウだぞう」と言った。

……意味のないダジャレで、ごめん! 幼稚園児たちと話していて、こんなダジャレを思
いついた。何かの歌の歌詞になるそう(?)。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●依存と愛着

++++++++++++++++++

3年前に書いた原稿を改めて
読みなおしてみる。

自分のボケ度を知るには、
たいへんよい。

つまり3年前の自分と、
今の自分を、それで比較する
ことができる。原稿は、
ランダムに選んでみた。

テーマは、『依存と愛着』。

さあ、どうかな?

+++++++++++++++++++

 子どもの依存と、愛着は分けて考える。中には、この2つを混同している人がいる。つ
まりベタベタと親に甘えることを、依存。全幅に親を信頼し、心を開くのを、愛着という。
子どもが依存をもつのは問題だが、愛着をもつのは、大切なこと。

 今、親にさえ心を開かない、あるいは開けない子どもがふえている。簡単な診断方法と
しては、抱いてみればよい。心を開いている子どもは、親に抱かれたとき、完全に力を抜
いて、体そのものをべったりと、すりよせてくる。心を開いていない子どもや、開けない
子どもは、親に抱かれたとき、体をこわばらせてしまう。抱く側の印象としては、何かし
ら丸太を抱いているような感じになる。

 その抱かれない子どもが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査に
よると、4分の1もいるという。原因はいろいろ考えられるが、報告によれば、「抱っこバ
ンドだ」という。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった
『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の1に及ぶことが、『臨床育児・
保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」
が33%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応
が2割前後見られ、調査した六項目の平均で25%に達したという。また保育士らの実
感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で20%の赤
ちゃんから報告されたという。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き
取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか
不安」などの意識が強いことがわかったという。また抱かれない子どもを調べたところ、
その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を使っているケースが、東京都
内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)
2〜3割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシ
ップ不足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話
している。

 子どもは、生後7、8か月ころから、人見知りする時期に入る。一種の恐怖反応といわ
れているが、この時期を通して、親への愛着を深める。が、この時期、親から子への愛着
が不足すると、以後、子どもの情緒はきわめて不安定になる。ホスピタリズムという現象
を指摘する学者もいる。いわゆる親の愛情が不足していることが原因で、独得の症状を示
すことをいう。だれにも愛想がよくなる、表情が乏しくなる、知恵の発達が遅れ気味にな
る、など。貧乏ゆすりなどの、独得の症状を示すこともあるという。

 一方、冒頭にも書いたように、依存は、この愛着とは区別して考える。依存性があるか
ら、愛着性があるということにはならない。愛着性があるから、依存性があるということ
にはならない。が、この二つは、よく混同される。そして混同したまま、「子どもが親に依
存するのは、大切なことだ」と言う人がいる。

 しかし子どもが親に依存性をもつことは、好ましいことではない。依存性が強ければ強
いほど、自我の発達が遅れる。人格の「核」形成も遅れる。幼児性(年齢に比して、幼い
感じがする)、退行性(目標や規則、約束が守れない)などの症状が出てくる。もともと日
本人は、親子でも、たがいの依存性がきわめて強い民族である。依存しあうことが、理想
の親子と考えている人もいる。たとえば昔から、日本では、親にベタベタ甘える子どもイ
コール、かわいい子イコール、よい子と考える。そして独立心が旺盛で、何でも自立して
行動する子どもを、かわいげのない「鬼ッ子」として嫌う。

 こうしたどこかゆがんだ子育て観が、日本独特の子育ての柱になっている。言いかえる
と、よく「日本人は依存型民族だ」と言われるが、そういう民族性の原因は、こうした独
特の子育て観にあるとみてよい。もちろんそれがすべて悪いと言うのではない。依存型社
会は、ある意味で温もりのある社会である。「もちつもたれつの社会」であり、「互いにな
れあいの社会」でもある。しかしそれは同時に、世界の常識ではないことも事実で、この
日本を一歩外へ出ると。こうした依存性は、まったく通用しない。それこそ生き馬の目を
抜くような世界が待っている。そういうことも心のどこかで考えながら、日本人も自分た
ちの子育てを組み立てる必要があるのではないか。あくまでも一つの意見にすぎないが…
…。
(はやし浩司 愛着 依存 抱かれない子供 抱かれない子ども ホスピタリズム 抱っ
こバンド 子どもの依存性 子供の依存性 はやし浩司

++++++++++++++++

 こうして読みかえしてみると、文章は少しあらいものの、今より鋭かったのかなと思う。
というのは、今の私は、かくして、確実にボケ始めている(?)。

 気をつけよう!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの緊張感】

+++++++++++++++++

子どもに緊張感をもたせる。その緊張感
が、たとえば受験勉強などにおいて、よ
い方向に作用するという。

しかし本当にそうか? そう言いきって
よいのか?

今、あちこちで、その受験戦争が、火花
を飛ばしている。

その「緊張感」について、ここで、はっ
きりと、結論を出しておきたい。

+++++++++++++++++

●幼児に受験の自覚?

 私のところへきて、1人の母親が、こう言った。「A進学教室(浜松市内)の幼児科では、
『子どもに受験するという緊張感をもたせるために、毎日、合格しますと子どもに言わせ
ているそうです』と。

 5歳、6歳の子どもに、受験の自覚をもたせる? こういう例は、ほかにもある。浜松
市内のX幼稚園では、S小学校を受験する子どもたちだけを集めて、特訓教室を開いてい
る。そしてそこでもやはり、「私は、合格します」と、子どもたちに、何度も復唱させてい
るという。

 模擬テストもしているというが、その緊張感のあまり、途中で、泣き出してしまう子ど
ももいるという。

 ……これはとんでもない暴論と言ってよい。メチャメチャな指導と言ってもよい。

 この時期、愚かな親たちは、はっきりそう断言してよいが……)、自分の子どもが合格す
ることしか考えていない。またそのための努力しか、してしない。しかし万が一にも、子
どもが受験に失敗したときは、どうするのか。子どもは、どうなるのか?

 子どもによっては、それを大きな心のキズ(=トラウマ)としてしまう。子ども自身が
キズとするのではなく、親たちが、そういう状態に子どもを追いこんでしまう。子どもが
受験に失敗したとき、狂乱状態になる親も少なくない。そういう親の姿を見て、子どもは、
それを(心のキズ)としてしまう。

●内的緊張感と外的緊張感

 緊張感にも、2種類ある。その子ども(人)自身の中から、わきでてくる緊張感を、内
的緊張感という。たとえばその子ども自身がもつ、向上心、向学心、競争心、自尊心、好
奇心が、その子どもを緊張させる。わかりやすく言えば、これは「善玉緊張感」というこ
とになる。

 一方、外的緊張感というのもある、外部から、子どもを脅したり、子ども自身を絶壁の
フチに負いこんだりして与える、緊張感である。「こんな成績では、A中学に入れないわよ」
「A中学へ入れなかったら、あなたはダメになるのよ」と。わかりやすく言えば、これは
「悪玉緊張感」ということになる。

 幼児にも、内的緊張感をもたせる方法はないわけではないが、しかし少なくとも幼児に
は、外的緊張感を、自分の中で、自己処理する能力は、まだない。

 理由は明白。自分の立場を、客観的に判断する能力が、まだ育っていないからである。
そういう幼児に向って、受験の目的、受験の内容、ついでに受験がもつ制度としての社会
的意義を説明しても、意味はない。

 子ども自身が、内的緊張感を理解し、その緊張感で、自発的に自分をコントロールする
ようになるのは、早くても小学校の高学年。ふつうは、中学生くらいになってからである。
この時期、内的緊張感をうまく引き出せば、子どもは、自ら伸びる力で、自分自身を前向
きに引っぱっていく。

●心のキズ(トラウマ)

 印象に残っている女の子に、Sさん(当時、中学生)がいた。

 彼女はいつも、ここ一番というときになると、何ごとにつけ、自らしりごみしてしまっ
た。私が、「ここでふんばれ!」「へこたれるな!」と励ましても、彼女の心には届かなか
った。理由を聞くと……というより、いつも、Sさんは、こう言っていた。

 「どうせ、私は、S小学校の入試に落ちたもんね」と。

 つまりSさんは、もうとっくの昔に忘れていてもおかしくないようなことを、心のキズ
としていた。「だから、私は、ダメな人間だ」と。

 親たちは、先にも書いたように、合格することしか考えていない。しかし受験に失敗し
た子どもたちが、いかにそのはざまで、もがき、苦しんでいることか。そういうことにつ
いては、親たちは、ほとんど知らない。Sさんのように、それを心のキズとしてしまう子
どもも、決して、少なくない。

 ひょっとしたら、あなた自身もそうではないのか。

●落ちることを考えて準備する

 子どもの受験勉強を考えたら、受験に落ちることを考えて準備する。子どもに準備させ
よ、というのではない。親自身が、準備する。

 万が一にも、不合格の通知が届いたら、あなたは、どうするか。どう対処するか。さら
には、どう子どもには、接するか。それを考えながら、準備する。

 しかしここにも書いたように、5歳、6歳の幼児には、まだ(受験)を自己処理する能
力はない。仮にあったとしても、この時期、合格して、おかしなエリート意識をもたせる
ことは、長い目で見て、その子どもにとっては、不幸なことである。

 だから、子どもの受験勉強を考えたら、受験に落ちることを考えて準備する。

 たとえば不合格の通知が届いても、親は、動揺しない。無視する。態度に表さない。平
然として、日常生活をつづける。そういう姿勢が、子どもの心を守る。

●情緒不安の原因にも……

 よく誤解されることがある。

 子どもの情緒が不安定になると、親たちは、それを問題として、それをなおそうとする。
ぐずる、いじける、引きこもる子どもをを、内閉型(マイナス型)とするなら、暴れる、
怒りっぽくなる、ピリピリする子どもは、外方型(プラス型)ということになる。

 しかしそれはあくまでも症状。病気にたとえるなら、発熱や悪寒ということになる。

 子どもにとって、(もちろんおとなにとってもそうだが)、情緒不安というのは、心の緊
張感が取れないことをいう。その緊張感の中に、不安や心配が入りこむと、心は、その不
安や心配を解消しようとして、一気に不安定になる。その状態を、情緒不安という。

 こんなことは、心理学の世界でも、常識ではないか。

 そこでこの時期、子どもに外的緊張感を与えれば、子どもの心は、そのまま緊張し、多
少の個人差はあるだろが、子どもの情緒は、不安定化する。何度も書くが、この時期、幼
児には、そうした緊張感を、自己処理する能力は、まだない。

 が、それだけではない。

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

 抑圧された心理状態が、恒常的に長くつづくと、子どもの心が悪魔的になることをいう。
「死」「殺す」「地獄」などという言葉に敏感に反応するようになる。それについては、こ
のあとに原稿(中日新聞掲載済み)を1つ、添付しておく。

 はっきり言えば、子どもの心はゆがむ。さらにそれが原因で、親子関係が、破壊される
こともある。親がそうではなくても、子どものほうが、親から離れていく。

 たとえば小学校の高学年児でも、進学塾へ入ったとたん、人間性そのものが変化すると
いうことは、よくある。決して珍しくない。親は、「おかげで、緊張感が生まれました」と
喜んでいるが、とんでもない誤解。そうした緊張感の裏で、人間的な暖かい心が、いかに
破壊されていることか!

 毎日、毎晩、成績という点数だけで人間を評価しないような世界が、本当に正常な世界
と言えるのか。そしてその点数だけで、子どもを絶壁のフチに立たせることが、本当に正
常な世界と言えるのか。

 どうして世の親たちよ、そんなことがわからないのか!

●無責任な受験塾 

 受験塾にもいろいろある……と書きたいが、ほんの少しだけ、冷静な目で、受験塾をな
がめてみたらよい。

 どんな講師が、どういう教育的な理念をもって、子どもを指導しているか。それをほん
の少しでも、考えてみたらよい。

 中には、熱血指導を売りものにしている進学塾もある。子どもたちの話を聞くと、「いつ
も先生たちは、竹刀(しない)をもち歩いている」という。当然、親たちの了解を得て、
そうしているのだろうが、あまりにもバカげている。コメントする気にもならない。

 が、親たちは、そういう進学塾ほど、よい塾だと考える。この愚かしさ。このバカ臭さ。

 彼らこそ、子どもたちが合格することしか、考えていない。不合格になったとき、子ど
もの心のケアを考えている進学塾など、話に聞いたこともない。反対に、合格者は、翌年
の生徒募集に利用されるだけ。

 その陰で、いかに多くの子どもたちが、キズつき、自らダメ人間のレッテルを張ってい
ることか!

●ゆがむ人生観

 受験期をスイスイと渡り歩いたような人にも、問題がないわけではない。そういう例は、
皮肉なことに、60代、70代の、元エリートと呼ばれる人たちを見ればわかる。

 彼らがもつ、一種独特の、あの鼻もちならないあのエリート意識は、いったい、どこか
ら生まれるのか。以前、私にこう言った男(当時50歳くらい)がいた。私が、「幼稚園で
講師をしています」と言ったときのことである。

 「君は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にはつけなかったんだろ」と。

 仕事に、ロクな仕事もなければ、ロクでない仕事もない。

 彼は当時、国の出先機関の公社の副長をしていたが、そういう意識をもつようになる。
そしてそうしたゆがんだエリート意識が、その人の人生を、味気なく、つまらないものに
する。わかりやすく言えば、人間の価値そのものを、学歴や経歴でしか見なくなる。

●緊張感

 適度な緊張感が、子どもを伸ばすということは、私も否定しない。ストレス学説の中で
も、それは肯定されている。

 しかしここでいう緊張感というのは、冒頭に書いた、内的緊張感(善玉緊張感)をいう。
向上心、向学心、競争心、自尊心、好奇心が、その子どもを伸ばす。

 ある男児(当時、小6)は、夏期の合同合宿訓練の長に選ばれた。そのため、訓練の冒
頭で、あいさつをすることになった。

 その男児は、そのため、その1週間ほど前から、毎晩、眠られない夜を経験した。そし
て当日は、フラフラの状態で、あいさつに臨んだ。しかし結果的に、それがうまくできた。
以後、その子どもは、「長」という「長」を総なめにして、学業を終えた。

 あるいは、その地域での演奏会に先立って、猛練習をした女児(当時、小5)がいた。
そのため「演奏会の朝から、胃が痛いと苦しんでいました」(母親談)とのこと。しかし演
奏会は、無事、終わった。その子どもは、そのあと、見ちがえるほど、おとなっぽくなっ
た。

 こうした内的緊張感は、たしかに子どもを伸ばす。子どもを伸ばす原動力として作用す
る。

 しかし外的緊張感は、どうか?

 「この仕事をしないと殺すぞ」と、ナイフをのどにつきつけられたら、どうか。あなた
は、それでもその仕事をするだろうか。楽しくできるだろうか。自分の力を、じゅうぶん、
発揮できるだろうか。

●結論

 幼児に、緊張感をもたせる? そのために、受験を自覚させる?
 
 あまりにもバカバカしい。反論したり、こうして説明するのも、実のところ、バカバカ
しい。はっきり言えば、そこらのド素人の、とんでもない意見。幼児に関する心理学の本
を、一冊でも読んだことのある人なら、私のこの気持ちが理解できるはず。

 しかしそういうことを平気で口にして、幼児の受験指導とやらをしている進学塾もある。
これが現実かもしれない。

 だからこそ、私は親たちに向かって、この原稿を書く。そしてもっともっと、親たちに、
賢くなってほしい。

+++++++++++++++

子どもの心が破壊されるとき 

●バッタをトカゲのエサに

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカ
ゲをつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタを
つかまえてきて、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にも
こんな経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポ
ケットを見ると、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、
その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。よく見ると、それは虫の頭だった。

その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませる。かんだとこ
ろで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。また別
の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さ
なトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その
子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

●心が壊れる子どもたち

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情
不足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの
側からみて息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環
境や、権威主義的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)
な子育てが、原因となることもある。

もちろんその中には、受験競争も含まれる。

要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあると
みる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破
壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、
ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバラ
ンス感覚をなくすのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪い
ことを、静かに判断する能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化した
り、かたよったりするようになる。

昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分
に減らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え
方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっと
するような温もりのある子どもになる。心もやさしくなる。

●無関心、無感動は要注意

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたの
でもない。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう
言った。「そういう残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、
無感動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく
誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」が
あるからではない。非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そ
のままスーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキ
をかけることができない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

●心の修復は、4、5歳までに

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみ
てほしい。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷
なゲームや、銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家
庭教育のあり方をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と
言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それ
でよし。しかし心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復
するとしても、4、5歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(はやし浩司 受験 子供の受験 緊張 内的緊張感 外的緊張感 受験の心構え 子ど
ものバランス感覚 バランス感覚 はやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ、世間では……】

●やっぱり、ねつ造!

 韓国の大学教授が、世界ではじめて人のクローン胚から、胚性幹細胞(ES細胞という)
を作ったと発表した論文について、ソウル大学の調査委員会が、このたび、「ねつ造」と断
定した(12月23日)。

 大学教授の名前は、F・ウソク。名前からして、「?」を連想させる。そのウソク教授は、
05年5月、アメリカの科学雑誌、「サイエンス」に、ES細胞を11個作ったと発表した
が、調査の結果、「故意にデータを偽造したもの」(ソウル大学)と判断されたという。同、
調査委員会は、「科学の信頼を傷つける重大な行為」と批判している。

 当然である。

 このウソク大学の研究論文については、かなり以前から、疑問を投げかける人が多かっ
た。つまり人のES細胞を作るのは、それくらい、むずかしい。が、それに対して、韓国
政府や韓国人たちは、猛反発。その猛反発が、かえってヤブヘビになってしまった。

 ふつう、科学の発展には、周囲科学の発展が不可欠。つまり1つの科学的成果を出そう
とするなら、その周囲の科学が、整っていなければならない。たとえばロケットを飛ばす
にしても、ロケット工学はもちろん、燃料工学、電子工学などなど、それを支える周囲科
学がじゅうぶん整っていなければならない。

 そういう周囲科学がないところに、突然、降ってわいたように、1つの科学が特異に発
展するということは、ありえない。

 今回の人のES細胞を作ったというニュースには、そうした疑問が、最初からついて回
っていた。「どうして韓国人が?」と。が、結果は、やはり、クロ。韓国のソウル大学の調
査委員会の調査結果だから、ほぼ、そう断定してまちがいないだろう。

 しかしこういう事例は、決して少なくない。日本でも、あの藤木S一による、石器ねつ
造事件がある。つまり私たち日本人も、あまり偉そうなことは言えない。この世界では、
功名をあせるあまり、デタラメな論文を発表する人は、いくらでもいる。私が昔知りえた
事件にも、「電磁場麻酔」事件なるものもあった。「静電界麻酔」事件というのもあった。
大げさな事件にはならなかったが、そのどこかSF的な、どこかインチキ臭い研究のため
に、ときの厚生省が、その研究者らに助成金を支払ったという事実がある。


●米韓関係の崩壊

アメリカのゼーリック国務副長官が、訪米した韓国の鄭東泳統一相と、12月20日に
会談した。そのときゼーリック氏は、韓国政府による北朝鮮への経済支援が核問題解決
に役立っていないとして、不満を表明。支援を縮小するよう要求したという。

 こういう報道が、私の耳にも入ってくるようなら、すでに米韓関係は、終焉(しゅうえ
ん)のときを迎えたとみてよい。同盟国なら、たとえそういう話しあいがなされたとして
も、内部で、留保される。決して、表には出てこない。そういう話しあいがあったという
話が出てきたということは、「もう韓国など、どうでもよい」という認識を、アメリカ側が
もったことを意味する。

 当然である。

 韓国は、K国寄りというよりは、すでに中国側についてしまっている。K国との関係に
おいても、少なくともN政権イコール、K国と考えたほうがよい。どうしてそんな韓国を、
同盟国として、アメリカは守らなければならないのか。

 韓国のN大統領よ、もう少し、現実を見たらよい。もし韓国からアメリカが抜けるよう
なことがあれば、外資は、みな、韓国から逃げ出すだろう。そうなれば、韓国自体が崩壊
する。どうしてこんな簡単なことが、N大統領、あなたには、わからないのか。

 それに「南北統一」を口にするのはよいが、中国は、そんな甘い国ではない。K国がへ
たをすれば、中国に吸収合併されてしまう。チベットをみれば、それくらいのことは、だ
れにでもわかるはず。そうなれば、南北統一など、夢のかなたへ吹っ飛んでしまう。


●K国の制裁問題

 拉致被害者の気持ちもよくわかるが、何度も書いてきたように、あんなK国など、本気
で相手にしてはいけない。制裁などしてはいけない。安倍官房長官は12月22日、都内
のホテルで拉致被害者の家族会と面会、その席で、「北朝鮮の時間稼ぎを許すつもりはない」
と述べ、拉致問題の解決を北朝鮮に強く求めていく考えを強調したという(産経新聞)。が、
制裁については、安倍官房長官も、何も言わなかった。制裁については、どうやら慎重に
なってきたように感ずる。

 当然である。

 今、日本がK国を制裁しても、ほとんど、効果はない。ないばかりか、かえって中国、
韓国、K国を、結束させてしまうことになりかねない。へたをすれば、K国は、この日本
に核攻撃をしかけてくることも考えられる。

 日本は、あくまでも国際世論に働きかけ、ジワジワとK国をしめあげるのがよい。たと
えば現在、日本政府は、整理回収機構(RCC)を利用して、朝鮮S連を提訴したり、人
権担当大使の新設などの作業を推し進めている。

 私は、それが正攻法だと思う。制裁したところで、拉致問題は、解決しない。もともと
K国は、そうした制裁に耳を貸すような国ではない。まともな国ではない。

 どうしても……、というのなら、朝鮮S連へ抗議デモをしかけるという方法などもある。
韓国に対して、K国への援助をやめるように、圧力を加えるという方法もある。ともかく
も、K国は、国際社会につっぱることによって、自分の「顔」をもとうとしている。経済
規模は、日本の数千分の1もない。アジアの中でも、最貧国。もうこれ以上、なくすもの
は何もないというほどの、最貧国。

 そんなK国を制裁して、どうする? どうなる?
 

Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●家族へのクリスマス・プレゼント

 今度、10年ぶりに、正月に、家族全員が集まる。3人の息子たちが、まだ幼いころか
ら、「正月には、どんなことがあっても、みんな集まろう」と呼びかけてきた。が、それは
私の一方的な(呼びかけ)でしかなかった。

 そのうち息子たちが外国へ行くようになったりすると、この(呼びかけ)は、霧散した。
それに息子たちは、(家族)よりも、(ガールフレンドとのデート)を優先するようになっ
た。私もワイフも、若いときはそうだったので、息子たちを責めることはできない。

 が、そのため、ますます正月は、さみしいものになっていった。とくにここ数年は、ク
リスマスも正月も、私とワイフの2人だけ。正月のおせち料理も、形だけ。鏡餅について
は、一番小さいのを買ってきて、テレビの上にのせるだけ。あとはビデオを見ての、寝正
月。

 が、今年は、どういうわけか、みなが、集まる。そのため、何かと気ぜわしい。大掃除
に、寝室の用意。昨日は、息子たちや息子のワイフのために、クリスマス・プレゼントを
買ってきた。

 何を買ったかって? ……それはここにはまだ書けないが、それが結構、楽しかった。
もっともそれを渡すのは、12月28日以後。クリスマスが終わってからの、クリスマス・
プレゼント。みんなが喜んでくれれば、それでよい。ハハハ。

 今日は、土曜日。午後から休みになる。今日も、忙しくなりそう!

 では、みなさん、これからその仕事にでかけます。Merry Christmas!

 12月24日、午前8時記。


●鳥インフルエンザ

 昨日、女医(内科医)をしているTさんと、教室の中で、立ち話をする。その場で、ア
メリカから帰ってくる息子夫婦のために、インフルエンザのワクチン注射を、お願いする。
「いつでも、どうぞ」と、Tさんは、言ってくれた。

 で、Tさんは、私にこう言った。「先生、本当にこわいのは、インフルエンザではなく、
鳥インフルエンザ(高病原性鳥インフルエンザウィルス、H5N1型)ですよ」と。


 正直なところ、(鳥インフルエンザ)と言われても、ピンとこない。しかし専門家はみな、
口をそろえて、「鳥インフルエンザはこわい」と言う。「もし流行したら、ふつうのインフ
ルエンザどころではない」と。

 すでに中国では、6人が感染。うち2人が死んでいる(12月22日)。さらにベトナム
では、抗ウィルス薬タミフルへの耐性をもつウィルスまで検出されたという(同22日)。
中日新聞によれば、「耐性ウィルスが見つかったのは、13歳と18歳の少女。いずれ
も1月に入院。タミフルによる治療を受けたが、それぞれ発症後、8日目と20日目に
死亡した」という。

 タフミルでもきかないウィルスが出現したということらしい。ゾーッ!

 もしこの日本で、こうした鳥インフルエンザが流行し、さらにタフミルに対して耐性
をもってウィルスが発見されたら、それこそたいへんなことになる。Tさんは、それを
言った。「最前線のドクターたちが、最初の犠牲者になります」と、Tさんは笑ってい
たが、決して笑いごとではすまされない。ドクターたちがしりごみをしてしまったら、
患者の私たちはどうすればよいのか。

 話を聞いているうちに、私も、だんだんとこわくなってきた。

 マスクは、今ではもう、情備品。私も、カバンの中には、いつも、数枚、用意している。
人ごみの中に入るときには、必ず、かけるようにしている。みなさんも、くれぐれも、お
体を大切に!


●K国のにせ札

 K国は、にせ札を作って儲けようとした。しかしこうした行為は、かえって自分で自分
のクビをしめることになる。新聞報道などによると、K国の貿易関係者は、相手に現金を
支払うとき、真札とにせ札を混ぜるのを、常套(じょうとう)手段にしているらしい。

 しかしこんなことを繰りかえせば、だれも、K国と取り引きしなくなる。つまり真札ま
で、にせ札と疑うようになる。さらに仮に今ここでにせ札作りをやめたとしても、失った
信用を取りもどすまでには、何年も、何年もかかる。

 バカなことをする人をバカという。バカなことをする国をバカという。K国は、そのバ
カなことばかりしている(?)。


●寒い冬

 今年の冬は、寒い。おととい、家の中ですら、朝起きてみたら、気温は、6度。このと
ころ、庭の水がめが凍るという日がつづく。

 私は、もともと、寒さに弱い。苦手。寒いと、体の活動そのものが、にぶる。何をする
にも、おっくうになる。当然、頭の回転も鈍くなる。ものを考えても、それが(思想)に
まで、かたまらない。

 が、だからといって、暖かくすればよいかというと、そうでもない。暖かくすれば、今
度は、眠くなる。こたつの中に入ったら最後、そのまま横にゴロリとなって、グーグー、
スースー。

 しかし今年の冬は、それにしても寒い。つぎからつぎへと、寒波が押し寄せている。日
本海側の各都市では、記録的な大雪が降っている。浜松生まれで、浜松育ちの人たちは、
雪を知らない。だから雪に対して、ノスタルジック(郷愁的)な、あこがれをもっている。
しかし私は、雪が好きではない。学生時代、金沢で、その雪を、うんざりするほど、経験
している。

 雪そのものは、よいとしても、その前後が寒い。みぞれに始まって、道路がぬかるむ。
雪が美しいのは、一時だけ。やがてすすけた茶色に変化する。そのまま、いたるところで、
ゴミの山をつくる。

 その浜松でも、先日、雪が降った。朝起きてみると、庭がうっすらと雪化粧。ワイフは、
「雪よ!」「雪よ!」と喜んでいたが、私は、ア〜ア〜で、おしまい。雪が降らない浜松を、
私は、ことあるごとに、自慢していたのに……。

 豪雪地方のみなさん、豪雪、お見舞い申しあげます!
(05年12月26日記)


●オートレース

 浜松には、公営のオートレース場がある。そのオートレース場が、存続か廃止かで、も
めている。民営化するという案も浮上している。もちろん、赤字。2年連続で、毎年2億
円近い赤字を出している。

 もっとも赤字といっても、「基金を取り崩しての赤字であって、税金をいっさい使ってい
ない」(O支部長談)とのこと。だから「オートは開設以来、800億円を一般会計に繰り
入れてきたのに、(たった)2億円の赤字でオートレース事業検討委は廃止の方向に向いて
いるというのは、おかしい」と。

 そこで全日本オートレース協議会は、全国で、6万8500人分の署名を集めて、市に
提出した。そこで、一度は廃止に傾きかけた市側が、またまた存続側に。これに対して、
反対派が、反発……。とくに市から委託された行財政改革推進審議会(行革審)は、猛反
発。「(廃止するという提言を)重く受け止めると言っておきながら、軽く無視するのか!」
と。

 ……というようなドタバタがつづいている。

 私も若いころ、まだ子どもが生まれる前のことだったが、ときどき、ワイフと、そのオ
ートレースを楽しんだことがある。ときどきといっても、年に1度か2度。しかしいつも、
損ばかりしていた。オートレースというのは、そもそも、素人が儲かるしくみにはなって
いない。

 もっともそのころは、レース場につづく道路は、大混雑。そのころとくらべると、今は、
その面影は、どこにもない。閑散としている。つまりレースを楽しむのは、その道のプロ
だけ。どことなく、そういう雰囲気をもった、男たちだけ。もちろん子どもづれの夫婦に
は、無縁の世界。

 しかしここは合理的に考えるのが、一番。未来に向かって残さねばならないものかどう
か。これから先、市の財政を圧迫してまで、残さねばならないものかどうか。存続させた
ばあいの、メリットは何か。廃止したばあいの、デメリットは何か。そういう視点から、
合理的に考えればよい。

 そういう点では、今回の行革審の出した結論は、正論ではないのか。が、それに対して、
行政側は無視。

 もともと(審議会)というのは、そういうもの。ふつうは、行政側が、何らかのお墨つ
きをもらうため、あるいは権威づけのために、するもの。審議会のメンバーにしても、ど
ういう基準で選ばれたのかさえ、ふつうは、わからない。もっとはっきり言えば、イエス・
マンだけを集めて、行政側にとって、都合のよい結論を出させる。

 それが審議会。が、今回は、そうではなかった。メンバーの1人は、「はじめから結論あ
りきの審議に、どんな意味があるのか」と疑問を呈し、「出来レースではないのか」「ばか
にされた印象」「聞く耳をもたないなら、何のための審議か」(中日新聞)と反発。

 がんばれ、行革審! 負けるな行革審! ついでに一言。だからといって、こうした行
革審を、廃止するな! おそらく行政側内部では、今ごろ、こんな議論がかわされている
にちがいない。「ああいう、うるさい行革審は、もう終了しましょう」「そうですねエ〜」
と。

 ついでに以前書いた原稿の一部を、掲載する。

++++++++++++++

●諮問機関という、ごまかし

 官僚が世間を動かすとき、きまって使われる手法が、「諮問(しもん)委員会」の設立で
ある。懇談会、研究会、検討会、審議会などという名称を使うこともある。(名称は決まっ
ていない。教育の世界には、中央教育審議会などがある。)

 まずもっておかしいのは、委員を選ぶときの、その人選のし方。不明確、不明瞭。どう
いう基準で、だれが選んでいるかが、まったくわからない。委員ですら、どうして自分が
選ばれたのか、わからないときがある。関係機関に問い合わせても、「お答えできません」
と言われるのみ。もちろん委員に選ばれるのは、「イエス・マン」だけ。この世界には、こ
うした諮問機関をつぎからつぎへと渡り歩いている「有識者?」がいくらでもいる。

 そうして委員会は始まるが、(そうした会議はテレビでもよく紹介されるから、みなさん
もご覧になったことがあると思う)、会議での討論内容のほとんどは、あらかじめ官僚によ
って作成される。そして座長と呼ばれる人が、それを順に読みあげ、「いかがですか?」「ご
意見は?」という調子で、会議が進んでいく。時間は委員一人あたり、約5〜10分程度。
一方的に意見を述べるだけ。討論に発展することは、まずない。大きな諮問委員会でも、
回数は5〜6回程度。最後に座長が、官僚の意向にそった結論をまとめて、文書にして、
答申する。それでおしまい。

 あとはいわゆる「お墨つき」を得た官僚は、その答申をもとに、したい放題。大きな国
家プロジェクトの大半は、こうして決まる。空港も、高速道路も、港も、はたまた博覧会
も。日本が官僚主義国家だと言われるゆえんは、こんなところにある。

 さて今夜も、あちこちの諮問委員会の模様が、テレビで報道されることだろう。一度、
ここに書いたような知識を頭に置きながら、ああいった委員会をながめてみたらよい。あ
なたも諮問委員会のもつおかしさに、気づくはずである。
(021017)

+++++++++++++++

 日本の政治は、まあ、こんなもの。こういう流れの中で、決まっていく。悲しいかな日
本は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。中央集権国家。その亡霊が、いまだに、日本全
国、津々浦々に残っている。その1つが、今回のオートレース場の存続問題である。


●夫婦

 自分で自分の顔を見ることはできない。顔に、食べ物の残りカスがついていることだっ
て、ある。ときには、鼻くそがついていることだってある。さらに口臭となると、自分で
はわからない。

 しかしそれを教えてくれるのが、夫であり、妻ということになる。

 が、それだけではない。同じように、自分で自分の心を見ることはできない。ときにそ
の心は、とんでもない方向へ、暴走してしまうことがある。心の病気となると、自分では
わからない。

 しかしそれを教えてくれるのが、夫であり、妻ということになる。

 その夫婦。このところ、私はワイフの顔をみながら、よくこう思う。「こいつも、ますま
すバーさんらしくなったなあ」と。恐らくワイフはワイフで、そう思っているにちがいな
い。「この人も、ますますジーさんらしくなったわね」と。

 そしてこう思う。「もし、ワイフが死んだら、ぼくは、自分の顔を見ることができなくな
る。自分の心を見ることができなくなる」と。

 そう考えていくと、心細くなる。いや、実のところ、私には、ひとりで生きていく自信
は、ない。もしワイフが死んだら、私も、おしまい。たとえばこうして書いている文にし
ても、そのつどワイフがあれこれと批評してくれるから、その範囲にとどまっていること
ができる。しかしそれがなくなったら、私のことだから、とんでもない方向に暴走してし
まうにちがいない。

 だから文を書くことも、できなくなる。もちろん、心の問題となると、なおさらである。

 ところで今朝、朝食のとき、ワイフがこう言った。「私、最近、人の名前をよく忘れるわ」
と。

私「ぼくなんか、しょっちゅうだ、よ」
ワ「私も……。どうしてもその人の名前を思い出せないことがあるわ」
私「ところで、ぼくの名前、覚えている?」
ワ「ヒロ……何だってけ?」

私「ヒロトシだよ。な、トシコ」
ワ「私、トシコじゃ、ないわよ。ユキコよ」
私「そうだったけ。ユキコか。先日まで、アキコかと思っていた」
ワ「わかっているくせに……」と。

 私の名前は、浩司(ひろし)。ワイフの名前は晃子(あきこ)。どうか、おまちがえなく。


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【みなさんへ】

私のパソコンは、以下のような方法で、パソコンの安全
と健康を、いつも監視しています。

ですから、どうか、安心して、私のHP、HTML版
マガジン、および動画(TUBE社)を、お楽しみく
ださい。

●プロバイダーのほうで、ウィルスチェエクを自動的に
しています。

●加えて有料版の、ウィルスチェックサービスを、常時
行っています(プロバイダー、WBS.NE.JP)。

●さらにパソコンごとに、ウィルスソフトを、インスト
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ルスチェックを行っています。

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「スパイボット(SPYBOT)」をインストールし、
常時監視しています。

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ソコンを分けて使っています。

中には「HTML版はこわい?」と心配している方
もいらっしゃるかもしれませんが、どうか、安心して
お楽しみください。

以上、これからもパソコンの安全と健康には、じゅう
ぶん留意して、HP、マガジンの制作をしていきます。

よろしくお願いします。

はやし浩司

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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(育児ノイローゼ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●育児ノイローゼ、Mさんのケース

++++++++++++++++++

以前、Mさん(当時40歳くらい)から、
毎晩のように、子育てについての相談を
受けたことがある。

Mさんは、何かにつけて、子ども(当時
14歳)の問題点を見つけては、それを
大げさに問題にしていた。

明らかに育児ノイローゼであった。

そのMさんについて書く前に、以前書い
た原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに
掲載する。

+++++++++++++++++++

【母親が育児ノイローゼになるとき】

●頭の中で数字が乱舞した   
 
 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子
ども(4歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたと
きのことだった。気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも
熱湯。すんでのところで、下の子ども(2歳児)が、大やけどを負うところだった。次に
店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなか
った。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしま
った。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、36歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、
うつ病と診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育
園へ預けたあと、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになっ
た。食事の用意は何とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そうい
うAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔から
の米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会
ったのに、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、
「ハア……、別に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめ
と泣き始めた。そしてこう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありま
せん。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれ
たことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞

(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする(記
憶力の低下)

(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味
の喪失、日常活動への興味の喪失)

(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。

さらにその状態が進むと、Aさんのように、

(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、ムダ買い
や目的のない外出を繰り返す(行為障害)

(6)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)

(7)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど、感情のコント
ロールができなくなる(感情障害)

(8)他人との接触を嫌う(回避性障害)

(9)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる

(10)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)

(11)異常な多弁性をともなうことがあり、一方的にしゃべるだけで、相手の話を
聞かない(多弁性)

(12)ふとしたきっかけで、「死んでしまいたい」と考えることがある(自殺願望)

(13)動悸、息切れ、不眠、早朝覚醒などの身体的症状を伴うことが多い。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件に
つながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になる
ことも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんど
ない。脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつ
う」と思い込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状
が重くなってしまったり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってし
まうこともある。Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すこ
とができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。A
さんも、子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関
心であった。それではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くこと
にした。この原稿は、そのときの手紙をまとめたものである。

+++++++++++++++++

【Mさんのケース】

 Mさんの子ども(名前をA君とする)は、「生まれながらにして、発育不良だった」(M
さんの言葉)とのこと。そのためMさんは、A君を溺愛する一方、過保護にして育てた。
ふつうの過保護ではない。過保護の上に「超」がつく、超過保護である。つまり、Mさん
は、いわゆる(心配先行型)の子育てを繰りかえした。

 ただ、過保護の基盤に愛情があったかというと、それは疑わしい。Mさんは、子どもを
自分の支配下に置いて、自分の思いどおりにしたかっただけではなかったか。

 たとえばA君が自分で、シャツや服を着るような年齢になったときでも、「心配だ」「心
配だ」と言って、Mさんが手を貸していたという。「どうして手を貸したのですか?」と聞
くと、「自分で着させると、前とうしろを反対に着た」「汚れたシャツをそのまま着た」「2
枚もセーターを着たこともある」と。

 一事が万事。A君が風呂に入っても、「きちんと洗わない」「髪の毛を洗わない」「石鹸で
遊んでしまう」などといっては、Mさんは、いつもA君といっしょに、風呂に入っていた。
A君の体を洗ってやっていた。そしてそういう状態が、A君が、小学5、6年生になるま
でつづいた。

 その間にもいろいろあった。A君は、学校で、いじめを受けていたこともある(Mさん
の言葉)。そのためMさんは、毎日学校まで、A君を迎えに行ったこともある。そしてこん
なこともあった。

 A君の修学旅行に行ったときのことだったという。Mさんは、恥ずかしげもなく、私に
こう言った。「Aのことが心配で、2晩、泣いて明かしました」と。が、そういうMさんだ
が、その一方で、A君を虐待していた。虐待といっても、言葉の虐待である。Mさんは、
ことあるごとに、A君にこう言っていたという。

 「あんたのような子は、将来は、こじきをするしかないわね」
 「あんたのような子は、生まれてくるべき子ではなかったのよ」
 「しっかりと勉強しないと、あなたもホームレスの人たちのようになるのよ」
 「あんたさえいなければ、お母さんは、もっと楽しく過ごせるのにね」と。

 Mさんは、A君に自覚をもってもらいたいと願って、そう言ったという。もちろんMさ
ん自身には、虐待しているという意識は、まったくなかった。しかしこうした母親の日常
的な言葉で、A君は、ますます萎縮していった。

 そのA君に、大きな変化が見られたのは、A君が中学生になってからである。ものごと
に異常にこだわるようになった。A君は、カード集めをしていたが、そのカードを、何よ
りも大切にしていた。そしてそのカードを、数千枚近く(母親の言葉)も、もっていた。

 「部屋中、カードだらけだったので、Aが学校へ行っている間に、ダンボール箱に入れ
て、納屋へしまってやりました」(Mさん)と。

 そのとたん、A君は、ふつうではなくなってしまった。何かの拍子に、二階へつづく階
段から、とびおりたりするようになった。腕の骨を折ったこともある。が、何よりも気に
なったのは、オドオドと、何かにおびえるような様子を見せるようになったことである。
ふだんでも、ときおり、下をみつめたまま、ニヤニヤ(ニタニタ)と笑いつづけることも
あった。

 当時は、今のように、児童相談所も整備されていなく、また虐待に対する認識もそれほ
ど深くなかった。

 そのころMさんが私に電話で、相談してくるようになった。ときには、毎晩つづけて、
1〜2時間も、電話がかかってくることもあった。内容もさることながら、Mさんは、一
方的に、しゃべるだけ。こちらの私が、何かをアドバイスしようとすると、即座に反論し
たりして、会話にならなかったのをよく覚えている。

 「このままでは、うちの子は、だめになってしまう」
 「こんな状態で、私は、Aのめんどうを、一生みなければならない」と。

 私が「そういうふうに決めてかかってはいけない」と言いかけると、「叔父がそうだった」
「近所の子どももそうだった」と、つぎからつぎへと、そういう話ばかりした。

 Mさんが、ふと、こう漏らしたこともある。「このままでは、Aは、うちの財産を食いつ
ぶしてしまう」と。Mさんは、そんなことまで心配していた。

 そこで私は、Mさんに、一度、A君を、心療内科医院でみてもらったらよいとアドバイ
スしたことがある。で、Mさんは、それをしたが、「近所の医院では恥ずかしいから」とい
う理由で、電車で40分もかかる、隣町にある、医院へ通うようになった。

 が、やがてそれについても、「時間がかかる」「このまま一生、医療費がかかる」などと
言い出した。1つの問題が解決すると、それが解決したことを喜ぶよりも先に、つぎのま
た別の問題をもちだして、それを心配した。そんなとき、また電話がかかってきた。

 「先生、今日、Aを病院へ、車で連れていきました。その途中のことですが、私は思わ
ず、反対車線に入りそうになってしまいました。このまま死ぬことができたら、どんなに
気が楽だろうと思いました」と。

 明らかにMさんは、育児ノイローゼになっていた。しかしMさんには、その自覚はなか
った。病因で診察を受けたら、「うつ病」と診断されたかもしれない。Mさんは、こう言っ
た。

 「朝は、2時ごろ目がさめてしまいます。はげしい動悸がして、体中が、ほてってしま
います」
 「Aのことを考えると、心配で心配で、夜も眠られません」と。

私「何が、心配なのですか?」
M「夜も、電気ストーブをつけっぱなしです」
私「どうしてそれが心配なのですか」
M「倒れたら、火事になります」
私「なりません。倒れれば、自動的に電気が切れるしくみになっています」
M「カーテンのそばに、電気ストーブがあります。火事になります」と。

 こういう意味のない、押し問答が、いつまでもつづく。

 Mさんの特徴は、ほかにもある。当時書いた原稿をまとめてみると、こうなる。

(1)きわめてささいな、しかも表面的な問題について、心配していた。
(2)私の説明が、理解できない。何かを説明しても、それがどこかへ消えてしまう。
(3)私が言った、何かの言葉じりをつかまえて、私に食ってかかってくることもあった。
(4)一方的にペラペラと話すだけで、私の話を聞かない。ほとんどがグチ。
(5)何冊か本を読むように勧めたこともあるが、「本は読みたくない」と言った。

 Mさんの夫については、私は知らない。会ったことも、電話で話したこともない。ただ
Mさんの話では、無口で、仕事だけをしているような人らしかった。もちろん家事、育児
については、ほとんど関心がないといったふうだった。夫婦の会話も、なかった。そのた
め、よけいにMさんは、追いつめられていった。

 Mさんからの電話相談は、かれこれ3年近くもつづいた。で、2年前、私はそのMさん
だけのことが理由ではないが、こうした電話相談については、すべて断るようにした。電
話相談だけで、午前中の時間が、すべてつぶれてしまうことも珍しくなかった。

 以上、Mさんという母親について書いたが、Mさんと特定できないよう、細部について
は、私の方で、ほかのいくつかの事例を混ぜて書いた。そのため、話の流れとして不自然
な部分もあるかもしれない。それは許してほしい。

 で、今から思うと、Mさんには、育児そのものが負担ではなかったかということ。さら
に言えば、良好な親子関係、夫婦関係があれば、同じ重荷でも、感じ方がちがったはず。
しかしMさんには、その両方が欠けていた。さらにMさんは、自分では、「私の両親には問
題はなかった」と何度も言ったが、客観的に判断すると、Mさんはかなり不幸な家庭に生
まれ育っていた。

 そういう深い因縁が、回りまわって、そのときのMさんの育児ノイローゼにつながって
いったのではないかと思う。

 それからx年。M君は、無事高校を卒業し、今は、農協関係の仕事をしているという。
Mさんの話は、以来、耳にしていない。

+++++++++++++++++

●どうしたらよいか?

 育児ノイローゼになる人には、ある一定のパターンがある。ここでは思いつくまま、書
いてみる。

(1)気を抜くための、趣味などがない。

 相談を受けながらいつも思うことは、「この人は、別のところで、つまり子育てを忘れら
れるようなところで、自分の世界をもてばいいのに……」ということ。しかしそういう人
にかぎって、子育てがすべて、といった感じがする。この閉塞感が、症状を重くする。

 子育ては子育て。しかしその一方で、親は親としてというより、1人の人間として、自
分の世界をもつこと。育児をしながらも、同時進行の形でもつのがよい。

(2)視野が狭い。

 大局的な見方ができない。身近な、ささいな問題をとらえては、それを針小棒大に心配
する。たとえば「学校でしてきたプリントを見たら、計算の答が、すべて一行ずつ、ズレ
ていた。きっと隣の席の子どもの答を、丸写しにしたにちがいない。こんなことでは、う
ちの子は、将来、ズルい人間になってしまう」とか。

 あるいは「体操教室で、跳び箱の練習を見ていたら、うちの子は、順番をうまくすり抜
けて、それをしないですませていた。こんなことでは、うちの子は、ダメになってしまう」
と心配していた母親もいた。

 さらにこんな相談もあった。「今、英会話教室に通っているが、先生が、アイルランド人
だ。へんなナマリがつくのではないかと、心配だ」と。

 こうして自分自身を、小さな世界に押しこめてしまう。その閉塞感が、育児ノイローゼ
へとつながっていく。

 そのため、親は、いつも視野を大きくもつ。大きければ大きいほど、よい。興味の対象
を、大きくする。政治の世界や、絵画、音楽などの芸術の世界に興味をもつのもよい。交
際範囲を広くする。ほかにもいろいろあるが、小さい世界に閉じこもってしまってはいけ
ない。

(3)愛情の欠落

 このタイプの親でも、「私は子どもを愛しているから、心配してやっている」というよう
なことを言う。しかし話をよく聞くと、親の心配や不安を子どもにぶつけているだけ、と
いった感じがする。

 「愛」といっても、愛もどきの愛。いわゆる代償的愛というのである。自分の心のすき
間(=精神的な欠陥や、情緒的な未熟性)を埋めるために、子どもを利用する。子どもの
ことを考えているようで、子どもの立場になって、ものを考えていない。よい例が、子ど
もの受験勉強に狂奔する親である。親の価値観を一方的に、子どもに押しつけているだけ。

 が、この問題は、それに気づくだけでも、その大半が解決したとみる。愛情がなければ
ないで、居なおればよい。子どもを愛せないことで、自分を責めてはいけない。子どもが
好きでなかったら、「私は子どもが好きではない」と、正直に告白すればよい。それがふさ
いだ心に、風穴をあける。

(4)哲学、宗教観の欠落

 若い母親に、哲学や、宗教観をもてといっても、むずかしい。しかしそういったものが
あれば、子育ての指針にはなる。が、方法がないわけではない。

 「子どもを育てよう」「子どもを育てている」という意識を捨て、「子どもからものを学
ぶ」という意識に置きかえる。わかりやすく言えば、「私は親だ」という親意識を捨て、子
どもの横に、友として立つ。さらにもっと言えば、子どもに何かを教わるつもりで、子ど
もの言うことに耳を傾ける。

 育児ノイローゼになる親というのは、そういう意味では、親意識が強い。「私は親だから、
何とかしなければ」と思いながら、自分をどんどんと追いこんでしまう。生真面目な人ほ
ど、育児ノイローゼになりやすいと、よく言われるのは、そのため。

 肩の力を抜くためにも、親意識を捨て、子どもに対しては、友だち意識をもつ。子ども
は、放っておいても、いつかはおとなになる。そういう子ども自身がもつ力を信じて、無
責任になるところは、なって、あとは、子どもに任す。

 親は子どもをもつことで親になるが、それから先、真の親になるためには、幾多の山や
谷を越えなければならない。そしてそういう山や谷を越えるうちに、いつしか自分なりの
哲学をもつことができるようになる。

 「親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる」。それに気がついたとき、あな
たは、今の育児ノイローゼから、解放される。
(はやし浩司 育児ノイローゼ)


【2】(特集)【暴れる子ども】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●暴れまわる子ども(キレる子ども)

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アメリカのBLOGサイトに、こんな
相談があった。

預かっている子どもについての相談だが、
暴れまわって、困るという内容のもの。

Bulletin Board for EDSPC 753より転載。

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We have had custody of my 6 year old stepson for 9 months now, and I am truly worn out 
and need help ASAP. I went to the school today to pick him up for a doctor appointment 
(for his behavior & yes he is on medications for this)and upon seeing me in the hallway 
he became hysterical and ran in the oposite direction screaming. The principal and I 
caught up with him and he began punching, kicking, slapping, biting, and pulling 
several handfulls of my hair out of my head before the principal could restrain him. 
When he seemed calmed a bit i tried to calmly let him know that I was just picking him 
up for his doctor's appointment, at that point he kicked me in the face and continued to 
scream as loud as he could, disrupting several classrooms. The principal tried to carry 
him out to my vehicle, but once in he began kicking the daylights out of my car, he then 
got out and threw himself on the ground screaming. Please tell me what in the world to 
do and how should this be handled if it should occur at school again. The only facts we 
know about his life with his real mother is that she admitted in court to having heavily 
used methamphetamines daily throughout the pregnancy. I am not a teacher, but I fell 
terrible that the staff at his school had to go through this. He had an episode eight 
weeks ago where he did the same thing to his teacher that he did to me, I am in fear 
that his abuse will only escalate. He is scheduled for a psych evaluation in Tacoma in 2 
weeks, please give me advice for the mean time, we have 5 other well behaved children 
in our home, how do I keep them safe?

6歳の子どもを預かるようになって、9か月になる。私は本当に疲れた。今日も、ドクタ
ーの診察を受けるため、学校へ子どもを迎えに行った。玄関で私を見るやいなや、子ども
はヒステリックになり、反対方向へ走って逃げていった。校長と2人で、追いついたもの
の、殴ったり、蹴ったり、ひっぱたいたり、髪の毛を引っぱったりした。少し落ち着いた
ところで、今日は、病院へ行くだけだと話して聞かせた。そのときも、私の顔を蹴り、大
声で泣き叫び、いくつかの教室の授業を混乱させてしまった。どうしたらよいのか、どう
か、教えてほしい。また学校で同じようなことが起きたら、どうすればよいのか。8週間
ほど前も同じようなことをしたとき、このままエスカレートしたら、どうしようかと悩ん
だ。彼は、タコマで、心理教育を受けることになっている。この間、どうすればよいのか、
教えてほしい。私のところには、ほかにも5人の子どもを預かっているが、みな、行儀が
よい。

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ある教育者からの返事

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It sounds like you are dealing with an extremely difficult situation. So far the other 
suggestions posted by Dina and Bear should be helpful. I have two more techniques that 
may be helpful for your stepson. One technique that you might want to try is creating a 
behavior contract with your stepson. First, you can figure out what behaviors you would 
like to see him exhibit in school and at home. Some suggestions would be he needs to 
draw when he is feeling angry or he needs to follow directions the first time that they 
are given. Set a time frame for each time you or the teacher will be evaluating his 
behavior. Start small to encourage his success with the technique. You might want to 
say, if you can do this for 30 minutes you will receive a reward. And, keep track of 
whether or not he is exhibiting this behavior every 30 minutes. You will talk to him 
about what kinds of rewards he is willing to work for. If he loves to play with his toy 
trucks maybe you can use extra play time as a reward or getting to watch a favorite 
movie. It is important to figure out what rewards matter to him. You can find more 
information on using behavior contracting on this website. Go to the main 
behavioradvisor.com screen and you will find the link for contracts. 

たいへん困難な状況にあると思う。先にコメントを書いた、DさんやBさんの意見も、役
に立つでしょう。で、私は、役にたつであろう2つの技術をもっている。
1つは、まず試してみるべきことは、その子どもとの、(行動契約)を結ぶこと。まず、学
校や家で、彼がどうあるべきかを、あなたがそれを具体的に頭の中で描いてみる。彼が怒
っているときや、最初に指示に従う必要にあるとき、どうするかを決めるのもよい。それ
ぞれのときに、時間のワクをつくれば、先生が、子どもの行動を(客観的に)評価するだ
ろう。もし30分以内にできれば、ほうびを与えるなどとする。30分ごとに、その契約
が守れるかどうかを、観察する。またその子どもがどのようなほうびを求めているかを、
子どもと話しあう。たとえばおもちゃのトラックと遊びたいとか、好きな映画を見たいと
いうのであれば、それらをほうびとする。その子どもが何をしたがっているかを知ること
が、重要。このサイトで、(行動契約)についてのさらなる情報を、手に入れることができ
る。そちらを訪問してみたらよい。

The second technique that you might want to try is having your stepson self monitor his 
own behavior. You will start out when he is calm to identify a behavior that you would 
like to encourage. Be confident in his ability to master this technique. It may sound 
unlike you, but give him excessive amounts of your confidence that he can master this 
behavior. Many children take their cues from the adults in their lives. Once you have 
figured out what behavior you will be working on, create a sheet with smily faces and 
frowning faces. At designated times, ask him to circle the smiling face if he is exhibiting 
this behavior or the frowning face if he is not. This will build his own motivation to 
exhibit appropriate behaviors. And, celebrate when he is improving!!! I know this can be 
difficult to do, as some of the improvements will seem small in relation to the problems; 
however, it is good for you and him to recognize when changes are occuring. 
It seems like you are really commited to helping this child and he is lucky to have such a 
stable adult in his life. Good luck with this situation. 

Keely

2番目の技術は、子ども自身の行動について、自己監視させること。子どもがあなたから
見て、落ち着いていて、好ましい状態にあるときから、始める。この技術をマスターする
ための能力が子どもにあると、自信をもつこと。子どもが自分で自分を管理できると、あ
なたが、(今のあなたには、そうではなくても)、自身をもっていることを、子どもに強く
印象づける。多くの子どもたちは、彼らの生活において、おとなたちから、その手がかり
を得る。どんな様子が望ましいかがわかったら、(ニコニコマーク)と(しかめっつらマー
ク)を描いたシートを用意する。このことで、子どもに自覚を促す。そしてうまくいった
ときは、その子どもをほめたたえる。このことはむずかしいことは、わかっている。この
問題に関しては、進歩は、少ないだろう。しかしあなたとその子どもにとって、変化が起
きつつあることを気がつくためには、よい。その子どもにとって、あなたのような安定し
たおとなをもっているということは、すばらしいことだ。

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●子どもの過剰行動性について

 子どもの突発的な過剰行動性、いわゆるキレる子どもについては、いろいろな分野から
考察が繰りかえされている。

 大脳の微細障害説、環境ホルモン説、食生活説など。それらについて、数年前に書いた
原稿を、ここに添付する。

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【子どもがキレるとき】

●ふえるキレる子ども

 2000年、全国の教育委員会から報告された校内での暴力行為は、前年度より11.4%
ふえて、34595件に達したことがわかった(文部科学省)。「対外的に問題の見られなかっ

子どもが、突発的に暴力をふるうケースが目立つ」と指摘。同省・児童生徒課は、キレる子ども
への対応の必要性を強調した(中日新聞)。

 暴力行為が報告された学校の割合は、小学校が全体の2・2%だったが、中学校が35・
8%、高校が47・3%にのぼった。また学校外の暴力行為は、小中高校で、計5779件だっ
た。私が住む静岡県でも、前年度より210件ふえて、1132件だった。マスコミで騒がれる
こと
は少なくなったが、この問題は、まだ未解決のままと考えてよい。

 こうしたキレる子どもの原因について、各方面からさまざまな角度から議論されている。教育
的な分野からの考察については言うまでもないが、それ以外の分野として、たとえば(1)精神
医学、(2)栄養学の分野がある。さらに最近では(3)環境ホルモンの分野からも問題が提起
されている。これは、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)が、子どもの脳に影響を与え、そ
れが子どもがキレる原因の一つになっているという説である。以下、これらの問題点につい
て、
考えてみる。

(1)精神医学の分野からの考察

●躁状態における錯乱状態 

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」と位置づけられてい
る。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・1856〜1926)だが、一般
的には
躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによって
は、重複して起こることが多いからである。それはそれとして、このキレた状態になると、子ど

は突発的に攻撃的になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若い人の間では、ただ
単に、激怒した状態、あるいは怒りをコントロールできなくなった状態を、「キレる」と言うこ
とが
多い。ここでは区別して考える。)私にもこんな経験がある。

●恐ろしく冷たい目

 子どもたち(小3児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、ま

たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあっ

机とイスを足げりにしてひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、その目は恐ろしいほど冷た
く、すごんでいた……。

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定な状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状に過ぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の
緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に不安が入りこむと、その不安を解消しようと、一
挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のばあいも、「問題が解けなかった」とい
う思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではない
か」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。言いかえると、このタイプの子ど
もは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さない。周囲に気をつかうなど。表情
にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、その裏で心をゆがめる子どもは
少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」という。「遊離現象」というときもある。心(情
意)と表情がミスマッチを起こした状態をいう。一度こういう状態になると、教える側からする
と、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。

 その引き金となる原因はいくつかあるが、その第一に考えるのが、欲求不満である。欲求不
満が日常的に続くと、それがストレッサー(ストレスの原因)となり、心をふさぐ。その閉塞感
が、子どもの心を緊張させる。子どもの心について、こんな調査結果がある(98年・文部省調
査)。

 「いらいら、むしゃくしゃすることがあるか」という質問に対して、小学6年生の18.6%
が、
「日常的によくある」と答え、59.8%が、「ときどきある」と答えている。その理由として
は、

(1)友だちとの人間関係がうまくいかないとき……51.8%
(2)人に叱られたとき……45.7%
(3)家族関係がうまくいかないとき……35.5%
(4)授業がわからないとき……34.1%
(5)意味もなくむしゃくしゃするときがある……18.5%

また「不安を感ずることがあるか」という質問に対しては、やはり小学六年生の7.8%が、「日
常的によくある」と答え、47.7%が、「ときどきある」と答えている。その理由としては、

(1)友だちとの関係がうまくいかないとき……51.0%
(2)授業がわからないとき……47.7%
(3)時間的なゆとりがないとき……29.3%
(4)落ち着ける居場所がないとき……22.4%
(5)進路、進学について……20.4%
 
 この調査結果から、現代の子どもたちは、およそ20人に一人が日常的に、いらいらしたり、
むしゃくしゃし、10人に一人が日常的にある種の不安を感じていることがわかる。

●子どもの欲求不満

 子どもの欲求不満については、その原因となるストレスの大小はもちろんのこと、それを受け
取る子ども側の、リセプターとしての問題もある。同じストレスを与えても、それをストレスと
感じ
ない子どももいれば、それに敏感に反応する子どももいる。そんなわけで、子どものストレスを
考えるときは、対個人ではどうなのかというレベルで考える必要がある。それはさておき、子ど
もは自分の欲求が満たされないと、欲求不満になる。この欲求不満に対する反応は、ふつう、
次の三つに分けて考える。

(1)攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態あ
り、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。母親が、「ピアノのレッスンをしよ
うね」と
話しかけただけで、包丁を投げつけた女の子(年長児)がいた。私が「今日は元気?」と声をか
けて、肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。
こう
した攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタ

プ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考えることができる。

(2)退行・依存タイプ

 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったりする(退行性)。あるいは誰かに依存しようとする(依存
性)。このタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば

るほど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

(3)固着・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったりする(固着性)。あるいはささいなことを気にして、悶々と
悩ん
だりする(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。
最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
りを起こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、ま
だ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子ど
もはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんで
チョ」
と。

 ものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすための代償行為と考えるとわかり
やすい。よく知られているのに、指しゃぶりや、爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで指
の快感を覚えることで、自分の欲求不満を解消しようとする。
 キレる子どもは、このうち、(1)攻撃・暴力タイプということになるが、しかし同時に退行
性や依存性、さらには固着性や執着性をみせることが多い。 

●すなおな子ども論

 補足だが、従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれ
は誤解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、す
なおな子どもという。うれしいときにはうれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表

をする。しかし心と表情が遊離すると、ここに書いたようにそれがチグハグになる。ブランコを
横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりする

ど。中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、
よく
できた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大

なストレスを心の中でため、そのためた分だけ、別のところで「心のひずみ」となって現われる。
よく知られた例として、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界で
は借りてきたネコのようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追いこまないように、穏やかな生活を何よ
りも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚
なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ち着かせる。カルシウム、マグ
ネシウム分の多い食生活にこころがけ、リン酸食品をひかえる。リン酸は、せっかく摂取したカ
ルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレ
ッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

●子どもの感情障害

 ほかに自閉症やかん黙児、さらには小児うつ病など、脳に機能的な障害をもつ子ども、さら
に近年問題になっている集中力欠如型多動性児(ADHD)は、感情のコントロールができない
ことがよく知られている。これらのタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、突発的に(1)
激怒する、(2)興奮、混乱状態になる、(3)暴言を吐いたり、暴力行為に及ぶ。攻撃的に外
に向って暴力行為を及ぶタイプを、プラス型、内にこもり混乱状態になるのをマイナス型と私は
分けている。どちらにせよその行動は予想がつきにくく、たいていは子どもの「ギャーッ」とい
う動物的な叫び声でそれに気づくことが多い。こちらが「どうしたの?」と声をかけるときには、
すでに手がつけられない状態になっている。

(2)栄養学の分野からの考察

●過剰行動性のある子ども

 もう20年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児
栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイ

の子どもである。日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によ
るナイフの殺傷事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取り
あげられたことがある(98年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節
夫教授らが、この分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私
にこう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」
と。話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱して
いて、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意す
ると、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多
動性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、
興奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくな
った。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設
が確立しているケース(たとえば自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することは
あっても、その段階で止める。この過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っ
ても、親に向かって、「あなたの子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえな
い。教師としてすべきことは、知っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を
開始することである。
 
●原因は食生活?

 ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、
(2)無気力、(3)疲れやすい、(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状
が出てくるという(朝日新聞98年2・12)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断
ちをしている子どもにも共通してみられる症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患
者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。この二つの命令がバランス
よく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低血糖になると、このうちの
抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。先のH
君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝手に小刻みに動いてしま
い、
それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコントロールもできなくなり、一度
激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それがキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。体内のカ
ルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の発育が
不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた回復
が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく言
えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こしや

いというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経
中枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリ
ング」81年7号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる
問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている

砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入っ
たジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや
紅茶など、あらゆるものにつけて食べています」と。私はH君の食生活が、かなりゆがんだもの
と知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。が、異変はその直後から起きた。幼稚園
から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビスケットがほしい、ビスケットがほしい」
と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状のようで、恐ろしかった」と話してくれ
た。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態になってしまったという。私がH君に
会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまるで別人のようになっていた。ボーッ
として、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で見ながら、「もう一度、ジャムを
食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリ
スでは、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じ
たら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にここ

がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒス
テリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけでなおる」(「マザーリング」81
年7号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても、缶ジュース一本を子ども
に買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュ
ースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュ
ースを4本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製
されていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
 
●多動児(ADHD児)との違い

 この過剰行動性のある子どもと症状が似ている子どもに。多動児と呼ばれる子どもがいる。
前もって注意しなければならないのは、多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)の診断基
準は、二〇〇一年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏ら委託し
て、そのひな型が作成されたばかりで、いまだこの日本では、多動児の診断基準はないという
のが正しい。つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しないということにな
る。一般に多動児というときは、落ち着きなく動き回るという多動性のある子どもをいうことに
なる。そういう意味では、活発型の自閉症児なども多動児ということになるが、ここでは区別し
て考える。

 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリスト」)
は、次のようになっている。

(チェック項目)
1行動が幼い
2注意が続かない
3落ち着きがない
4混乱する
5考えにふける
6衝動的
7神経質
8体がひきつる
9成績が悪い
10不器用
11一点をみつめる

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる……1点、
当てはまらない……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」

この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動児が
多動児なのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。教師による抑えがきけば、
多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動児は行動が突発的に過剰になるとい
うだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別される。また活発型の自閉症
児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状であって、主症状ではないという点で、こ
の多動児とは区別される。またチェック項目の中の(1)行動が幼い(退行性)は、過保護児、
溺愛児にも共通して見られる症状であり、(7)神経質は、敏感児、過敏児にも共通して見られ
る症状である。さらに(9)成績が悪い、および(10)不器用については、多動児の症状とい
うよりは、それから派生する随伴症状であって、多動児の症状とするには、常識的に考えても

かしい。

ついでに私は私の経験から、次のような診断基準をつくってみた。

(チェック項目)
1抑えがきかない
2言動に秩序感がない
3他人に無遠慮、無頓着
4雑然とした騒々しさがある
5注意力が散漫
6行動が突発的で衝動的
7視線が定まらない
8情報の吸収性がない
9鋭いひらめきと愚鈍性の同居
10論理的な思考ができない 
11思考力が弱い

 このADHD児については、脳の機能障害説が有力で、そのために指導にも限界がある……
という前提で、それぞれの市町村レベルの教育委員会が対処している。たとえば静岡県のK
市では、指導補助員を配置して、ADHD児の指導に当っている。ただしこの場合でも、あくま

も「現場教師を補助する」(K市)という名目で配置されている。

(3)環境ホルモンの分野からの考察

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言を
行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPA
N)なものであった。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではな
く、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応
性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の発達を阻害す
る。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。
多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類
の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というの
は、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・
グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

(4)教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しか
しながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子ど
もの議論だけが先行している。ただその原因としては、(1)親の過剰期待、そしてそれに呼応
する子どもの過負担。(2)学歴社会、そしてそれに呼応する受験競争から生まれる子ども側
の過負担などが、考えられる。こうした過負担がストレッサーとなって、子どもの心を圧迫す
る。ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。最近の子どもは、飽食とぜいた
くの中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずかな負担だけで、それを過負担と
感じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させてしまう。親の期待にせよ、学歴
社会にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度は容認されるべきものであり、
こうした環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできない。これらを整理すると、次の
ようになる。

(1)環境の問題
(2)子どもの耐性の問題。

 この二つについて、次に考える。

●環境の問題
●子どもの耐性の問題

終わりに……

以上のように、「キレる子ども」と言っても、その内容や原因はさまざまであり、その分野に応じ
て考える必要がある。またこうした考察をしてのみ、キレる子どもの問題を正面からとらえるこ
とができる。一番危険なのは、キレる子どもを、ただばくぜんと、もっと言えば感傷的にとらえ、
それを論ずることである。こうした問題のとらえ方は、問題の本質を見誤るばかりか、かえって
教育現場を混乱させることになりかねない。
(はやし浩司 キレる子ども 過剰行動性 突発的に暴れる子供 暴れる子ども)



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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●勉強する習慣

+++++++++++++++++

勉強の中身など、それほど、
重要ではない。

重要なのは、勉強のし方、
さらには、勉強しつづける
という習慣。

それを教えるのが学校である。

+++++++++++++++++

 少し前だが、こんなことがあった。自治会の寄り合いの席で、2人の女性(ともに60
歳くらい)が、こんな話を始めた。2人を仮に、Aさん、Bさんとしておく。

A「うちの母(義母)は、私が留守の間に、ガスコンロを使うのね。先日も、火がつけっ
ぱなしになっていて、煮物が、すべてこげていたわ」
B「うちなんか、洗面所の湯が出しっぱなしになっていた。いくら言っても、老人って、
わからないのね」
A「だから、うちなんか、心配で、外出もできないのよ」
B「ガスストーブも、そう。買い物から帰ってきたら、むっとするような暑さでしょ。見
ると、ガスストーブがつけっぱなし。灯油ストーブって、こわいからね」と。

 その話を横で聞きながら、私は、こう思った。「今では、カラ炊き防止用の装置がついた
コンロがあるのに……」「加熱防止つきのコンロだってある」「それに石油ストーブがあぶ
なければ、電気ストーブにすればいい」と。

 そう、この分野では、この10年、かなりの進歩が見られる。Bさんは、Aさんに「電
気ストーブもあるけど、安定性が悪そうだし……」と。

 電気ストーブのばあい、転倒すれば、自動的に電源が切れるしくみになっている。「そん
なことも知らないのかなあ」と、私は、思った。

 それでも心配なら、火災警報装置をつければよい。さらにガス会社へ連絡すれば、一定
時間以上ガスが使いっぱなしになると、電話で警告してくれるシステムも無料でつけてく
れる。月々の費用は、500円程度かかる(私の家のばあい)。

 湯についても、一定時間たつと、給水が自動的に止まる蛇口だってある。温泉地などへ
行くと、よくホテルの浴室についている、あれである。

 私はそういう話を聞きながら、「どうしてこの人たちは、自分の頭の中だけで考えるのだ
ろう」と思った。心配だったら、ガス会社か、電気会社へ相談すればよい。つまり、子ど
もの世界でいう、「勉強」というものを、ほとんど、していない。

 そこで私は、考えた。

 「勉強」というのは、一生、ついて回るものだ、と。この年代の人は、「勉強というのは、
学校でするもの」「学校を出たものは、勉強などしなくてもいい」と考える傾向が強い。

 そこでさらに私は、考えた。

 学校では、勉強をすることになっているが、何を学んだかということはあまり重要なこ
とではない。もっと重要なのは、(勉強の中身)ではなく、(勉強にし方)。もっと言えば、
(勉強しつづけるという習慣)である。教える側で言うなら、「勉強のし方を教えるのが、
学校」「勉強の習慣を身につけさせるところが、学校」ということになる。もしそのときの
Aさんにせよ、Bさんにせよ、(勉強のし方)を知っていたら、そういう会話をしなかった
はず。

 何かの問題にぶつかれば、そのつど、勉強をすればよい。そして何かの方法を考えれば
よい。

 別れぎわ、私は、口をはさんでやった。

 「今ね、から炊き防止用の装置のついたコンロや、加熱防止つきのコンロが売っていま
すよ」「電気ストーブは、見た感じでは安定性が悪く見えますが、倒れても安心な設計にな
っています。それによほどのことがないかぎり、やけどもしませんよ。一度、○○ガスセ
ンターに問いあわせてみたらどうでしょうか」と。

 Aさんも、Bさんも、私の意見を聞いて、「そうですかア?」と言って、驚いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●無気力症状

 この数日間、ほとんどといってよいほど、原稿を書いていない。書く意欲そのものが、
わいてこない。頭の中も、どこか、ぼんやりとしている。何を考えても、投げやり的。無
気力感ばかりが、先に立つ。「どうにでもなれ」「どうでもいいや」と。

 書斎にすわることはあっても、ニュースを見たり、ゲームをしたりするだけ。あとは本
を読んだり、雑誌をながめたり……。その間に、ときどき、メールを開いてみたりする。

 私は、今、いわゆる、無気力状態に陥(おちい)っている。「なぜだろう?」……と考え
る前に、私の症状を、正確に記録しておきたい。子どもでも、ときとして、今の私に似た
ような症状を示すことがある。そういうときの子どもの心理を理解するのに、あとで、少
しは役に立つかもしれない。

(1)思考の拡散 

 集中力が消えたというわけではない。一つのことを考えていると、別の新しい考えが、
頭の中に浮かんで消える。いつものようなピリピリとした緊張感がない。思想のかたまり
のようなものが、頭の中に浮かんでこない。書きたいテーマが、モヤモヤとしているのは
わかるが、つかみどころがない。それはたとえて言うなら、目的もなく、街の中をフラフ
ラ歩いているようなカンジ(?)。

(2)現実感の喪失

 考えていることに、実感がともなわない。現実感そのものが、薄い。教育問題にしろ、
政治問題にしろ、はたまた人生問題にせよ、「こんなことを書いて、何の役に立つのだろう
か?」「こんな問題は、今の私とどういう関係にあるのだろうか?」と、ふと考えて、立ち
止まってしまう。現実はそこにあるのに、自分の書いていることが、その現実から遊離し
てしまう。

(3)疲労感の増大

 もともと考えることには、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越えるのが、おっ
くうになる。これもたとえて言うなら、ジョギングにでかけようと玄関から外に出たとた
ん、冷たい風にあおられたときの気分に似ている。その冷気を乗りきるパワーそのものが
わいてこない。「今日はやめておこう」と、そのまま家の中にもどってしまう。体力と気力
は、関連している。東洋医学では、そう教える。体力そのものが、弱っている(?)。

(4)ニヒリズムの増大

 「どうでもなれ」という思いが、(1)〜(3)と並行して、増大する。K国の核兵器開
発がどうなろうとも、それがいつか、日本の大都市でどう使われようとも、私の知ったこ
とではない。どうせ私は、だれにも相手にされていない。その私が、どうして世界や、社
会のことを心配しなければならないのか。みんな、自分のことしか考えていないではない
か。そんな思いが、強くなる。

(5)被害妄想の増大

 何を考えても、「あれが悪い」「これが悪い」という発想になる。そして1つの問題が解
決すると、また別の問題が、ちょうどモグラたたきのモグラのように、現れては消える。「自
分がこういう状態になったのは、あのせいだ」とか、「あのことが原因だ」とか、そういう
ふうに考える。

(6)敗北感と虚脱感

 「もう私は負けたのだ」という思い。それに何をしても、口から出てくる言葉は、一つ。
「疲れた……」。ただ救われるのは、それが「私」という個人の世界の範囲でとどまってい
ること。ワイフや息子を前にすると、いつものような声で、いつものように会話をする。
ワイフや息子は、私が、今のような状態になっているとは、夢にも思わないだろう。もっ
とも、もしそれがだれの目にもわかるようになれば、私は、うつ病(depression)というこ
とになる。

 こうした症状が出たら、どうするか。

 解決方法は自分でもわかっている。1に休養、2に休養。あとは好きなことをして、そ
の日を過ごす。やがて何かのきっかけがあれば、もとの状態にもどる。

 で、私のばあい、いろいろな方法がある。一番効果的なのは、買い物。とくにパソコン
グッズを買うのがよい。つぎに掃除。草刈り。人に会うのは、あまり好きではない。仕事
では、毎日、多くの親や子どもたちと会う。だから、子どもが好きなはずなのに、こうい
うときというのは、子どもの声を耳にするだけでも、わずらわしく感ずる。

 そういう状態が、数日つづくと、少しずつだが、また(やる気)が起きてくる。今が、
ちょうど、そのとき(?)。この文章を書いているのが、何よりの証拠ということになる。

 機械でいえば、ならし運転という状態。思いついたまま書いていると、やがて指の動き
もなめらかになってくる。速くなってくる。頭の回転も調子よくなってくる。それを繰り
かえしていると、いつもの自分に、またもどる。

 そうそうもう一つ、気がついたことがある。こういう状態のときというのは、パソコン
を相手にして、将棋をさしても、すぐ負けてしまう。注意力が散漫になっている。深く考
えることができない。集中力も弱くなる。そのためいわゆるうっかりミスが多くなる。そ
れで負けてしまう。
(はやし浩司 無気力 無気力な状態 虚脱感 無気力症候群)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●突然、変わった娘

++++++++++++++++++

小3、4年生ごろまでは優等生。しかし
その女の子が、突然、変わる……という
ことは、珍しくない。

そんな事例が、アメリカのフリーBLOG、
「ERes」に載っていた。

++++++++++++++++++

Sudden loss of control
by Txxx Nxxxx, posted on 11/21/2005 at 11:30.

I have a female student in my 2nd hour, sixth grade, class that has always been very 
well behaved, always has done assignments, never talks back and has been a modle 
student. She recently has become loud, silly, and basically out of control. I will go to ask 
her a question and she is on the floor sitting. Sometimes I will look up and her legs are 
sticking up in the air. She runs in and out of the class, and has become very active. Of 
course I have discussed the behaviors with her and tried to get some type of logical 
reason why the change in behavior. She cries when I discuss her behaviors and sayes 
she will do better. I have spoken to her mother, she sayes she has noticed the same 
behaviors at home and is at a loss of what to do with her. Is this some type of hormone 
change? Or is their more going on?

●突然、変わった女子生徒

 (私が教えている)6年生の女子のことです。それまではとても行儀のよいこどもでし
た。宿題もきちんとしてきて、私に対して、口答えもしませんでした。が、最近になって、
大声を出したり、愚かなことをしたり、自制心をなくしてしまいました。何か質問しよう
としても、床の上に座ったり、足を空にあげたりします。クラスの中や外を走りまわった
り、とても活動的になりました。もちろん彼女とは、彼女の行動について、なぜ彼女がそ
んなことをするのか、よく話しあいました。すると彼女は、泣き出したり、つぎからはい
いこでいると言ったりします。母親とも話しあいましたが、母親は家でも同じようだと気
づいていました。そして娘をどうしたらいいのか、わからないでいると言いました。これ
はホルモンのせいでしょうか。あるいは何かもっとほかのことが起きているのでしょうか。

+++++++++++++++

 こういう例は、多い。概して言えば、教育熱心で、ふつう以上に裕福な家庭に生まれ育
った女子に、よく見られる。それまでは、学習態度も悪くない。勉強も、よくできる。し
かし小学5、6年ごろ、急変する。

 友だちの間でも評判になるほど、男遊びを始めたり、外泊、非行、家出を繰りかえすよ
うになる。もちろん学校での態度も、粗放化する。先生が何かを話しかけても、「ウッセー!」
と言いかえしたり、ときには、「コノヤロー!」と、足蹴りを入れてきたりする。

 服装も乱れ、学校の規則を破って、マニキュアをしたり、髪の毛を染めたりする。

 しかしこう書くと、「突然」という印象をもつかもしれないが、こうした傾向は、小学2、
3年ごろから現れる。気がつかないのは親だけ、ということになる。私のほうも、わかっ
ていても、「もしまちがっていたら……」という思いもあって、それを口にすることができ
ない。(親のほうから、相談があれば、話は別だが……。)

 どこかおとなを、なめたような態度を見せる。ルールを無視する、自分勝手になるなど。
あとはお決まりの非行(反社会的逸脱行為)コース。

 BLOGへの書きこみを読んでみよう。

++++++++++++++++++++++

Re: Sudden loss of control
by Bear50, posted on 11/21/2005 at 13:46.

It seems as if it is time to introduce her to the school counselor to do some more in-depth 
talking. There could be many reasons for such behavior, but I would suggest the 
counselor consider approaching the topic of inappropriate sexual contact with adult or 
adolescent relative/friend of family.

もっと内面的な問題をさぐるために、スクールカウンンセラーに紹介すべきときのように
思います。何かもっと重大な問題があるように思います。おとなとの不適切な性行為、あ
るいは、思春期の問題など、そういった問題にカウンセラーは、踏みこんでくれるだろう
と思います。

++++++++++++++

Re: Sudden loss of control
by jdtm, posted on 11/22/2005 at 0:47.

Could drugs be involved? The behaviours you described sound similar to a 
drug/medication change. I know she is young, but today drugs are in most (if not all) of 
our schools.

ドラッグが関係しているのでは? あなたが書いておられる症状は、ドラッグ・薬物によ
る症状に似ていると思います。彼女は若いですが、しかし今では、ほとんどの学校に、ド
ラッグはあります。

+++++++++++++++

Re: Sudden loss of control
by Dxxx Mxxxx, posted on 11/23/2005 at 19:16.

Dear, Txxx Nxxx、 

I can understand your frustration with your student, as it appears she has made a 
complete behavioral change. It seems like she has some emotional problems that she is 
hiding and the only way she can work through them is misbehaving in class. Have you 
consult with the counselor at school? I do see that you have spoken to the mother, but 
she does not know what is wrong her daughter either. I have a few suggestions that 
might help you. 

あなたが困っている様子が、理解できます。彼女は、まったく態度が変わってしまったの
ですから。彼女は、何か隠している情緒的な問題があるように思います。そしてそれが教
室の中で現れているのです。学校のカウンセラーに相談しましたか。母親に話したという
ことですが、母親も、娘のどこが悪いのか、知らないのですね。いくつかの提案をしてみ
たいと思います。

I suggest that you have a meeting with the mother and counselor and come up with a 
plan. I recommend that you and the mother take data on her behavior, which are called 
anecdotal. An Anecdotal is a daily record on the child behavior, whether it is good or 
bad. Make sure to note the time and the date of each behavior occurrence. Once you 
begin this process, you will be able to recognize whether or not there is a pattern to her 
behavior. Have the counselor come to your class and observe her behavior. I would then 
suggest having a follow up meeting with the mother and counselor in order to go over 
the findings of the anecdotal and the counselor observation. If the data was consistent, 
then I would suggest that the child would receive one on one counseling sessions in 
order to get to the root of the problem. I would also suggest that the mother and the 
daughter would have a counseling session together. 

一度、母親とカウンセラーと3人で、ミーティングをしてみたら、どうでしょうか。そし
て彼女の行動の記録を、「逸話的」に話しあいます。(具体的に、どこでどんなことがあっ
たかを話しあうこと。)これをしてみると、彼女に何かのパターンがみつかると思います。
カウンセラーは、あなたの教室にやってきて、彼女を観察したことがありますか。そして
その上で、また母親とカウンセラーと3人で、話しあいます。データが集まったところで、
問題の根をさぐるために、カウンセリング期間をもつことを提案します。母親も同時に、
カウンセリングを受けるとよいでしょう。

I hope that my suggestions are of use to you in dealing with your students・that 
previously had no behavioral problems, but now has suddenly developed emotional 
outburst. Here are a few web sites that might help. Emotional Behavior Resources 
www.psychology.org/links/Environment_ Behavior_Relationships/Emotion. Emotional 
Behavior Disorders www.geocities.com/Athens/Oracle/1580/pacerebd.html. 

この提案が役に立つことを望みます。ここに役立ちそうなサイトのいくつかを紹介してお
きます。

Good Luck 
Happy Thanksgiving

+++++++++++++

Re: Sudden loss of control
by Lxxx, posted on 11/24/2005 at 0:24.

Wow! I'm no expert, but it sounds like something major is going on. Was she on 
medication and has suddenly stopped? I know this happens sometimes when we never 
even knew the student was on medication. If this isn't the case, I think something must 
be going on or something has happened. I wouldn't think that hormones alone could 
cause such a drastic change (even as powerful as they can be)! Consider having the 
counselor talk to her. Sometimes they can get things out of them that we can't. Beyond 
that, you may want to have a conference with her parents and bring her in to the 
meeting at some point. Maybe if she sees that everyone is there and working together to 
help her, she will feel more able to cope with whatever is going on. Good luck! 

Lxxxx

私は専門家ではありません。しかし何かもっと深刻な問題があるように思います。彼女は
何か、薬物療法を受けていましたか。それを突然、やめたとか。そうでなければ、何かが
起きたと思います。ホルモンだけでは、こんな突然の変化は起きないと思います。カウン
セラーに相談すべきです。カウンセラーは、私たちが知ることができないことを、引き出
すことができます。みながそこにいて、彼女のために心配していることがわかれば、彼女
も、その問題について、より対処できるようになると思います。

++++++++++++++++++

 日本では、この時期、子どもの心は、受験期と思春期がからんで、極度の緊張状態に置
かれるようになる。ときとして、進学校の女子が、(もちろん男子もだが……)、大きく変
化するのは、そのためと考えられる。

 多くの親たちは、(今の状態)を基盤として、「さらによくなること」だけを考えて、子
どもを、追いたてる。しかしその時点で、子どもにとって、選択すべき道は、2つある。(1)
親の望みどおりになるか、(2)それとも、親の望みに反発するようになるか、である。

 可能性は、フィフティ・フィフティ。が、多くの親たちは、「うちの子にかぎって」とか、
「まさか……」とか考えて、後者の子どもになることを、ほとんど計算に入れていない。
進学塾が発表する、華々しい合格発表の裏で、どれだけ多くの子どもたちが、キズつき、
進学競争から脱落していくか、世の親たちは、そういうことを考えたことがあるのだろう
か。

 こうした変化は、ある日、突然、起こる。1か月とか2か月という期間ではなく、1週
間とか、2週間とかいう期間のうちに起こる。はげしい夫婦げんかなど、何かのショック
がきっかけとなることもある。

それまでは、従順でものわかりのよかった子どもが、突然、反抗的になる。ツッパル。
キレやすくなる。もちろんその時点から、親子の会話は消滅し、親は、悶々とした閉塞
状況に置かれる。が、そのままの状態がつづくわけではない。限界状況に達すると、は
げしい衝突が繰りかえされるようになる。

 「バカヤロー! 親に向かって何てことを言う!」「ウッセー、黙れ、このクソ親父!」
と。

 概して言えば、男子より、女子のほうが、扱い方がむずかしい。一度お決まりの非行コ
ースに入ると、そのまま、あっという間に、ドン底のドン底まで落ちていく。それだけ女
子を取り巻く世界は、邪悪であるということを意味する。

 なお平成14年度に、刑法犯として、検挙された少年、少女は、約14万人。その刑法
犯の最近の特徴としては、(1)低年齢化、(2)集団化、粗暴化、(3)一般化、(4)女
子の増加、(5)学校内非行の顕在化だそうだ(深堀著「心理学のすべて」)。

 この中には、いわゆる援助交際から始まった、闇の世界に閉ざされた、性的非行につい
ては含まれていない。が、今では、それを問題にするのもわずらわしいほど、性的非行は、
一般化している。このH市だけでみても、中3レベルで、公然と性的非行を自認している
女子は、100人のうち、1〜2人前後は、いる。(実際には、もっと多い。)

 そして女子のばあい、一度、こうした性的非行に走るようになると、学業がおろそかに
なるどころか、怠学を繰りかえすようになり、教師に対しても、きわめて反抗的な態度を
とるようになる。まさに「手がつけられない」といった状態になる。

 大切なことは、子どもがそうならないように、その初期の段階で、芽をつむことである。
しかしそこまで勉強している親となると、そうはいない。

 (しかしこの原稿を読んだあなたは、すばらしい。その糸口だけでも、自分でつかんだ
ことになる。ホント! たいていの親は、こうした原稿すら読まない。)

 少し話が脱線したが、アメリカの「教育BLOG」を読んでいて、少し気になったので、
この問題を取りあげてみた。
(はやし浩司 突然変わった子供 思春期の女子 非行 反社会的逸脱行為)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●掃除また掃除

 この数日間、掃除ばかりしていた。まず、居間。それから客間、日本間。まだ正月まで
には、日があるというのに、我が家は、すでに大掃除モード。

 しかしその掃除。私は嫌いではない。それに始めたら最後、止まらない。とことんしな
ければ、気がすまない。「手を抜かない」が、私のモットー。

 多分、正月までには、また掃除をしなければならないだろう。少し時期が、早すぎたか
な?


●原稿書き

 そんなわけで、ここ数日、ほとんど、原稿を書いていない。今ごろは、1月20日号の
配信予約を入れなければならないころ。が、まだ1月18日号すら、書き終えていない。
このままだと、マガジンは、どうなるのだろう?

 ぼんやりとした無気力状態が、ダラダラとつづいているカンジ。何を考えても、「もうど
うでもいいや」という、投げやり的な気分ばかりが、先に立つ。

 が、今朝(12・21)、Eマガの読者数を見ると、3人ふえていた。久々の増加。で、
少しだけ、やる気がわいてきた。しかし何を書こう……ということで、この(近ごろ・あ
れこれ)を書き始めた。


●「♪丘の上の小さなベンチ」

 長男と三男が、2人で、新曲を作った。タイトルは、「♪丘の上の小さなベンチ」。作詞
は長男の周市、作曲は三男の英市。さっそく、TUBE(無料ストリーミング配信会社の
サービス)を使って、ビデオ風にしあげる。

 興味のある方は、はやし浩司のHPのトップページより、「声と朗読・ごあいさつ」へ進
んでみてほしい。

 何度聞いてもあきない、ほっと心の休まる曲だと、自分では、そう思っている。(親バカ
かな?)


●忘年会

 このところ、ワイフは、忘年会つづき。何かにかこつけて、忘年会ばかりしている。し
かし女性って、どうしてこうも忘年会がすきなのだろう。(もちろん男性にだって、忘年会
の好きな人はいるが……。)

 私自身は、酒が飲めないこともあって、(プラス)、仕事の時間帯が、ふつうの人たちと
はズレていることもあって、忘年会とは、ここ10年ほど、とんと縁がない。そのかわり、
子どもたちと、年末は毎日のように、ラーメンを食べに行ったり、ハンバーガーを食べに
行ったりしている。

 子どもたちは、勝手に、「忘年会だ!」「忘年会だ!」と、騒いでいるが……。


●アメリカから客が……

 二男の妻のデニーズが、妹のドーンを、日本へ連れてくるという。急に、決まった。「前
から、一度、日本を訪問してみたい」と言っていたとか。「できるときが、最善のとき」(It 
is the best time when you can do it.)。つまりものごとには、「機」というものがある。
その「機」がないときに、あれこれしようとしても、ものごとは動かない。しかし「機」
がくれば、ものごとは、自然に動きだす。今が、そのとき。

 さっそく招待状を、メールで書く。

 そのアメリカ人たちだが、ものの考え方が、本当にストレート。二男に、「航空運賃は、
ぼくのほうで、出してあげるよ」とメールで連絡してやったら、すかさず、デニーズから、
「Thank you.」という返事!

 日本人なら、こういうとき、「悪いですね……」「申し訳ありません……」「お言葉に甘え
まして……」とか書くのだろうが、そういう奥ゆかしさは、まったくない。

 しかしそういうアメリカ人のわかりやすさが、私は、好き。日本人のように、表だとか
裏がない。見たままが、ありのまま。それがアメリカ人。


●もののない美しさ

 50歳をすぎるころから、(もののない美しさ)というのが、よくわかるようになった。
よい例が、道路の上にクモの巣のように張りめぐされた電線。あの電線のある風景と、伝
染のない風景は、まるでちがう。たまに電線のない風景を見たりすると、フーッと、自然
と息がもれるような解放感を覚える。

 家の中も、また同じ。

 先ほど掃除のことを書いたが、掃除をするときのコツは、不用品は、容赦なく、どんど
んと捨てること。「少しもったいないかな?」と思っても、捨てる。これを繰りかえしてい
ると、やがて、部屋の中がすっきりとしてくる。

 ものがゴチャゴチャとつまっている部屋は、それだけで、息苦しい。息苦しいだけでは
ない。(汚い)。(汚い)というよりは、解放感がない。

 数年前だが、ある知人の家に行ったら、廊下から階段まで、ものが、ぎっしり! 人が
やっと歩けるほどしか、間があいていなかった。しかしそういう人を、(ものを大切にして
いる人)とは、言わない。

 (ものを大切にする)ということは、多少の不便は感じながらも、限られたものを、う
まくやりくりしながら、使うこと。生活をしているという実感も、そこから生まれる。

 ものがぎっしりとつまっている家……生活感をほとんど感じないのは、そのためではな
いか。

 ……そう言えば、人間の心も、同じ。

 雑念だらけの人もいる。そういう人の心というのは、言うなれば、ものが散乱した部屋
のようなもの。その人の心が、どこにあるかさえも、わからない。心の中をすっきりさせ
るためには、そうした雑念を、どんどんと捨てていく。自分の心を、わかりやすくしてい
く。
 
 要するに、心の裏で、あれこれと、ものを考えないこと。計算しないこと。ありのまま
の自分をさらけ出しながら、さわやかに生きること。美しい心というのは、その結果とし
て、あとからついてくる。


●孫の誠司

 孫の誠司が、もうすぐ日本へやってくる。で、昨夜、ワイフと、孫の誠司といっしょに
何をするか、行動計画をリストアップしてみた。

(1)近くの遊園地へ行く。
(2)浜名湖で船に乗る。
(3)町へつれていき、ショッピングする。
(4)一度だけ、BW教室で勉強させる。
(5)ディズニーランドへ、つれていく。
(6)どこかの温泉地に泊まる。
(7)写真を、毎日、500枚くらい撮影する。
(8)毎晩、コタツの中で、ひざに抱いて、本を読む。
(9)毎日、ちがった日本料理を食べさせる。
(10)毎日、いろいろな模型を作ってみせる。
(11)毎日、近所を、いっしょに散歩する。

 ほかにもあるが、これらを、すべて実行する。どういうわけか、自分の孫というのは、
かわいく見える。他人が見れば、そうではないのかもしれないが、私には、かわいく見え
る。(私も、ジジバカかな?)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●家族

++++++++++++++++

もうすぐ、二男がアメリカから
帰ってくる。

三男も、北海道から帰ってくる。

++++++++++++++++

 二男が、もうすぐアメリカから、帰ってくる。妻のデニーズと、誠司を連れて帰ってく
る。そしてちょうど同じころ、三男が、北海道から、帰ってくる。ガールフレンドを連れ
て帰ってくる。

 こうして家族全員が、大晦日に顔を合わせるのは、何年ぶりのことか。8年ぶり? 1
0年ぶり? それを思うと、熱いものが、胸の中にこみあげてくる。私は、ずっと、家族
に飢えていた。だから家族を何よりも、大切にしてきた。しかしそういう時期は、あっと
いう間に終わってしまった。一人、巣立ち、また一人、巣立ち、また……。

 こうして気がついてみると、残されたのは私とワイフだけ。毎年さみしくなるクリスマ
ス。さらにさみしくなる正月。ここ3、4年は、いつもワイフと2人だけのクリスマス。
ワイフと2人だけの正月。

 訪れてくる人もいない。たずねて行く人もいない。クリスマスには、簡単なケーキとジ
ュースで乾杯。正月も似たようなもの。息子たちが小さいころは、臼(うす)も買った。
毎年、日を決めて、モチもついた。正月には、門松も立てた。しかし今はちがう。おせち
料理といっても、形だけ。

 そんな私の心に、明かりがともった。ポッと暖かい明りがともった。今年は、家族全員
が、正月に集まる。だから今年は、15年ぶりに、モチをつくことにした。臼を確かめる
と、まだ、いけそうだ。それと、今日は、居間の掃除をした。隅から隅まで、ピカピカに
みがいた。

 そして8人が、みな、すわれるように、特大の、こたつを用意した。カーテンを新調し
た。テーブルクロスもかえた。忙しい一日だった。まだ年末まで、2週間もあるというの
に……。

 昔、オーストラリアの友人の父親が、私にこう言った。「ヒロシ、子どもたちが巣立って
いくことを悲しんではいけない。子どもたちは、自分たちの子どもを連れて、また君のと
ころに戻ってくるよ」と。

 そう、そのときがやってきた。いつか夢見た、そのときがやってきた。

 私は誠司を連れて、日本中を回ってやろう。温泉も、ディズニーランドも連れていって
やろう。毎日、日本料理を、みなにごちそうしてやろう。そう、今年は、おせち料理を山
のように買いこんでやろう。この5、6年分のおせち料理だ。いや10年分のおせち料理
かもしれない。

 一日が終わり、その特大のこたつに座って、この日記を書く。先ほどから、細くて長い
涙が、頬を伝って下へ落ちている。その熱さが、肌をとおして、心にしみる。

 みんな、ありがとう! みんな、楽しい思い出をありがとう! つぎに家族が全員、顔
を合わせるのは、10年後か、20年後か、それはわからない。しかし私は、今度の1回
だけでじゅうぶん。2回目は、いらない。その一瞬を、永遠の時として、胸の中に、しま
うだろう。

 私は、生まれてはじめて、家族というものがどういうものか、それを味わうことができ
る。

 MERRY CHRISTMAS!
 
(付記)

 そこに父親がいて、母親がいる。子どもがいる。父親は仕事をして、母親も、毎日、忙
しそう。家庭全体が、心地よい緊張感に包まれている。

 何でもないようなことかもしれないが、それを今、心のどこかで感ずることができる人
は、幸福な人だ。

 仲のよい夫婦。夫は妻をいたわり、妻は夫を理解し、たがいに励ましあい、助けあい、
なぐさめあい、教えあい、守りあう。

 何でもないことのようかもしれないが、それを今、心のどこかで感ずることができる人
は、幸福な人だ。

 家庭は、やすらぎの場所。外から帰ってきて、ふと、どこかに腰をおろす。何とも言え
ない、安堵感、安心感、そして心を温めるやすらぎ。

 何でもないことのようかもしれないが、それを今、心のどこかで感ずることができる人
は、幸福な人だ。

 すべてを戦後の混乱期のせいにするのは、正しくないと思う。しかし私の生まれ育った
家庭には、これらのうち、どれも、なかった。だれが悪いわけでも、だれに責任があるわ
けでもない。しかし私の生まれ育った家庭には、何か、大切なものが欠けていた。

 中学生や高校生のころ、実際には、小学生のころから、家に帰っても、私は、私の居場
所すらなかった。いつもひとりぼっちだった。両親にしても、同居していた祖父母にして
も、そして私の兄弟にしても、たがいにつなぐ、家族の糸のようなものは、どこにもなか
った。

 原因の第一は、私の母にあったと思うが、まだ母は生きている。だからそれについて詳
しくは、ここには書けない。しかし私の生まれ育った家庭というのは、そういうものだっ
た。

 だから、私は、ワイフと結婚してからというもの、「いい家庭を作らねば」という気負い
ばかりが強くて、いつも心の中は、ギクシャクとしていた。そのため、いつも、ワイフや、
3人の息子たちが、どこにいるのかさえわからなかった。その心さえ、つかむことができ
なかった。

 やがてお決まりのキレツ、断絶。離婚の危機に立たされたことも、何度か、ある。加え
て、私には、大きなトラウマ(心のキズ)があった。今もある。私の父は、私が4、5歳
のころから、数日おきに、酒を飲んで暴れた。今から思うと、父自身も、戦争の犠牲者だ
った。戦地の台湾では、貫通銃創を、2発も受けている。生きて帰ってきたのが、不思議
なくらいの人だった。

 が、本当は、それだけではなかった。それについて、まだここには、書けない。

 ゆいいつ救いだったのは、祖父が、父親がわりになってくれたこと。今にして思えば、
それについても、深刻な裏があったわけだが、ここには、まだ書けない。おかしなことだ
が、本当に、おかしなことだが、私は、生涯において、父と同居しながら、ただの一度も、
父に抱かれたことがない。手をつないでもらったこともない。

 父が、結核をわずらっていたこともある。母が抱かせなかったというより、父のほうが、
私を抱かなかった。今にして思うと、そう思う。

 幸福な家庭は、みな似ている。しかし不幸な家庭には、定型がない。みな、ちがう。そ
れぞれが複雑な家庭の事情をかかえ、その中で、もがき、苦しんでいる。

 だから私は、あえて言う。

 もし、今、みなさんに、「家庭」というものがあるなら、それを大切にしなさい、と。家
族は、薄いガラスでできたコップのようなもの。デリケートで、ほんの少しでも、扱い方
をまちがえると、すぐ割れてしまう。

 方法は簡単。本当に大切なものだけを、大切に守り育てていけばよい。それらはあなた
のすぐそばにあって、今の今も、息をひそめて、あなたに見つけてもらうのを、じっと、
待っている。

 あなたは、それを見つければよい。それが、「家庭」ということになる。
(はやし浩司 家庭論 家族論 原S)


●札幌、福岡で講演?

 12月も押し迫った昨日(12・20)、とんでもない講演依頼が、舞いこんできた。主
催者は、東京のH堂社。間に入っているのは、C社。今年も、こうした大きな講演会の依
頼は、ときどきあったが、しかしそのうちの5つのうち、4つは、主催者のほうが、断っ
てきた(05年度)。私の知名度では、人は集まらない。自分でも、それはよくわかってい
る。

 会場は、北は北海道の札幌市、仙台市、東京、名古屋、大阪、そして福岡。「やってくれ
ますか?」と言ったので、「どこへでも、行きます」とだけ答えた。しかしいつもだと、こ
のあとしばらくすると、主催者の方が、断ってくるはず。「はやし浩司なんて、知りません
よ」「どんな人ですか?」「ほかの人にしたいです」と。

 しかし私は、しばしの夢を見た。心のときめきを覚えた。一度は、東京で講演をしてみ
たいと思っている。東京で、テレビには、何度か出演したことはあるが、講演はない。家
に帰ってそのことをワイフに話すと、ワイフは、「そういうときが、近づいてきたのね」と
だけ言って、笑った。

 そう、近づいてきているのは、私にもわかる。しかしそれは、いつも、私の頭の上をか
すめて、そのままどこかへ飛んでいってしまう。

 その翌日の今日になると、私は、その夢から、すっかりさめた。心のときめきも、消え
ていた。現実は、そんな甘くない。それも、自分では、よくわかっている。

 H堂さん、C社さん、お声をかけてくださっただけで、感謝しています。ありがとうご
ざいました。


●ホームレスの家

 こんなことを書いてよいのかな? マネをする人がいると、困る。しかし私は、路上で
生活をしているホームレスの人たちを見るたびに、こう思う。「冷暖房完備、住み心地満点、
そんな住みかが、街中にあるではないか」と。

 しかし一応、犯罪の教唆(きょうさ)になるので、どこにあるとは、ここには、書けな
い。しかしちゃんと、ある。いたるところにある。しかも絶対、安心、安全。だれにもじ
ゃまされない。

 ワイフにその場所を説明すると、こう言った。

 「あなた、そんなこと、原稿に書いてはだめよ」と。

私「わかっている。しかしどうしてホームレスの人たちは、それに気づかないのだろう。
ぼくがホームレスになったら、そういうところに住むよ」
ワ「でも、どうやって、中に入るの?」
私「簡単だよ。xxには、どこにでも、xxxがある。そのxxxのxxから、中に入れ
ばいい」
ワ「そうね。そういうところから、中へ入ればいいわね」
私「xx員の服装をするのがコツ。で、中をあちこち歩き回ってみると、意外なところに
別の出入り口があるはず。そういうところから、出入りすればいい」
ワ「やっぱり、そんなこと原稿に書いてはだめよ。マネをする人が出てきたら、たいへん
なことになるわよ」
私「わかっている。電気だって使い放題だしね。水道も、使い放題。自分で工事すること
もできる」と。

 ホームレスのみなさん、どうせ路上に住むくらいなら、もっと知恵をしぼれ。知恵をし
ぼれば、もっと快適な生活ができるぞ!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 1月 18日(No.676)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●言葉を反復する子ども 

++++++++++++++

いちいちこちらの言った言葉を
反復する子どもがいる。

反復しないと、こちらの言った
ことが、理解できないといった
ふう。

原因は、脳の中で、情報の伝達が
適切になされないためではないか。

教えていると、そんな印象をもつ。

++++++++++++++

 そのつど、こちらの言った言葉を、いちいち言葉を反復する子どもがいる。年齢を問わ
ない。たとえば先生との間では、こんな会話をする。

私「うさぎさんが、6匹いました。そこで……」
子「うさぎさんが、6匹?」
私「そうだよ、6匹だよ」
子「6匹、ね」
私「そこで、みんなに、帽子を1個ずつあげることにしました」

子「みんなに……?」「帽子……?」
私「そうだよ。みんなに、帽子だよ」
子「何個ずつあげるの?」
私「1個ずつだよ」
子「1個ずつ?」と。

 もう少し年齢が大きくなると、言葉の混乱が起きることがある。

私「1リットルのガソリンで、10キロ走る車があります」
子「何んだったけ? 10リットルで、1キロ?」
私「そうじゃなくて、1リットルのガソリンで、10キロ走る車だよ」
子「1リットルの車で、10キロ走る、ガソリン?」
私「そうじゃなくて、1リットルで……」と。

 このタイプの子どもは、少なくない。私の経験では、10人中、1人前後、みられる。
特徴としては、つぎのような点が観察される。

(1)こちらの言ったことがすぐ言葉として、理解できない。
(2)そのためこちらの言ったことを、そのつど、オウム返しに反復する。
(3)こちらの言った言葉に、すぐ反応することができない。
(4)全体に、軽度もしくは、かなりの学習遅進性が見られることが多い、など。

 私の印象としては、音声として入った情報を、そのまま理解することができず、それを
理解するため、もう一度、自分の言葉として反復しているかのように見える。あるいは音
声として入った情報が、脳の中の適切な部分で、適切に処理できず、そのままどこかへ消
えてしまうかのように見えることもある。脳の中における情報の伝達に問題があるためと
考えられる。

 このタイプの子どもは、もちろん叱ったり、注意したりして指導しても、意味がない。
またその症状は、幼児期からみられ、中学生になっても残ることが多い。脳の機能的な問
題がからんでいると考えるのが正しい。

 ほかに、こんな会話をしたこともある。相手は、小2の子どもである。

私「帰るとき、スリッパを並べておいてね」
子「帰るとき?」
私「そうだよ。帰るときだよ」
子「スリッパをどうするの?」
私「スリッパを並べるんだよ」
子「スリッパを並べるの?」
私「そうだよ」
子「帰るとき、スリッパを並べるんだね、わかった」と。

 このタイプの子どもは、今のところ、そういうタイプの子どもであると認めた上で、根
気よく指導するしかほかに、方法がないように思われる。
(はやし浩司 言葉を反復する子ども 言葉を反復する子供 言葉がすぐ理解できない子
ども 言葉の反復、反復児 言葉を反復 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●反面教師は、教師にあらず

+++++++++++++++++

身近に、邪悪な人がいると、その人を
反面教師として、自分は、その反対の、
つまり邪悪でない人になろうと努力す
ることがある。

しかしそうしてできたあなたの姿は、
本当の姿ではない。

その邪悪な人が、目の前から消えると、
今度はその人が邪悪な人になることが
ある。そういうケースは、少なくない。

++++++++++++++++++

 「反面教師」という言葉がある。ひとつの例をあげて、考えてみよう。

 Aさん(現在、70歳くらい)の母親は、その地域でも、評判の小ズルイ女性だった。
口達者で、人をごまかす、だますは、朝飯前。昔からの商売人で、表面的な人当たりは、
悪くなかった。初対面の人にでも、「ああら、いらっしゃい。まあ、その洋服、よく似あい
ますわね。あなた、きっと、東京かどこか、そういうところからおいでになったのでしょ
う。センスがここらの人とは、一味、ちがいますわよ」と。

 そういう母親を、Aさんは、子どものころから、嫌っていた。「母は、ずるい」と。それ
がまた、Aさんの口ぐせにもなっていた。だからAさんは、務めて、母親とはちがった自
分、つまり母親を反面教師としながら、Aさんは、Aさんとしての自分を確立しようとし
た。

 Aさんは、そのため、母親とは正反対の、正直な女性になった。自分でもウソをつかな
かったが、何よりも、他人のウソを嫌った。

 ……というような話は、よく耳にする。Aさんは、母親を反面教師として、母親とは正
反対の人間になったことになる。が、しかしそれでAさんは、本当に正直な人になったか
というと、そうではない。この話には、つづきがある。

 やがてAさんの母親は、他界。Aさんが、60歳になる少し前のことだった。しかしそ
のとたん、……というより、しばらくして、みなが気がついたときには、Aさんは、Aさ
んの母親そっくりの人間になっていた。小ズルくて、口達者。やがて人をごまかすことが
平気になっていた。現在、70歳くらいだが、まわりの人たちは、みな、こう言う。

 「Aさんは、死んだ母親そっくり」と。

 つまりここに反面教師の限界がある。その反面教師がそこにいるときは、その反面教師
に反発することで、別の自分を、自分の中に作ることができる。その人に対する反発心や
緊張感が、いわば(つっかい棒)のようになって、その人の心を、裏から支える。

しかしそれは、いわば、仮の姿。その反面教師がいなくなれば、そのとたん、心の中の
(つっかい棒)がはずれる。とたん、その人は、その反面教師がもっていたシャドウを、
受けついでしまう。

 とくに親子の間では、それが極端な形で現れることが多い。関係が、それだけ濃密であ
るためと考えると理解しやすい。

 こういう例は、ほかにもある。あなたの周囲にもそういう例はあるはず。つまりAさん
が、かろうじて(?)、善人のフリをすることができたのは、母親のようになりたくないと
いう強力な(つっかい棒)があったからにほかならない。しかし母親が死ねば、その(つ
っかい棒)は、はずれる。とたん、Aさんの心の奥底に潜んでいた、邪悪な心が、表に出
てくる。母親からシャドウとして引きついだ、邪悪な心である。

 もう少しわかりやく説明しよう。

 あなたの脳みその中には、意識する「意識」と、意識しない「無意識」の2つがある。
しかし意識する「意識」というのは、意識しない「無意識」とくらべると、はるかに小さ
い。無意識の世界は、意識の世界の、何十万倍もあると説く学者もいる。

 そこでAさんは、意識の世界で、母親を嫌い、「母親のようには、なりたくない」と思っ
たとする。そして務めて、自ら正直な人間になろうとしたとする。しかしこれらはすべて、
意識の世界でのことである。

 一方、親子の間には、濃密な人間関係が形成される。その濃密な人間関係をとおして、
その数十万倍もの情報が、母から娘へと伝えられる。しかしそれはもともと、意識でコン
トロールできるような範囲のものではない。意識の世界を、水道から流れる水にたとえる
なら、母から娘へと流れる水の量は、大きな川を流れる水のようなもの。

 だから心の中の(つっかい棒)がはずされたとたん、Aさんは、その川の水に溺れるこ
とになる。もっとわかりやすく言えば、それまで心の中に潜んでいた(地)が、表に出て
くることになる。つまりこうしてAさんは、やがて母親そっくりの人間になっていく。

 こう考えていくと、悪人に触れて、その悪人を反面教師として善人になるというのは、
正道ではないということになる。仮に善人になったかのように見えたとしても、それは仮
面。心の中の(つっかい棒)がある間だけの、仮の善人にすぎない。

人は、善人に触れて、はじめて善人になることができる。(もちろん、その反対に、悪人
に触れて、悪人になっていく人も多いが……。)だから……というわけでもないが、この
ことには、2つの教訓を含む。

 ひとつは、悪人とはつきあわないこと。「ああは、なりたくない」と、強く思えば思うほ
ど、結局は、その人のシャドウを引きついでしまうことになる。その思いが強ければ強い
ほど、そうなる。こうした心理的な現象を、心理学ではどう説明するのかは知らないが、
似たような例としては、こんな話がある。

 あなたがそこにいるその相手の人を、背の低い人だと思っていたとする。だからあなた
は背の高さに関する話は、避けようと思っていたとする。しかしその思いが強ければ強い
ほど、ふとしたことで、話題を、「背の高さ」に向けてしまう。「近所に、背の低い男の人
がいましてね」とか、「背の低い人は、服も小さいのですむので、得ですね」とか。

 つぎにあなたが親なら、一度、あなたの子どもの目の中にいる自分はどうなのかを、冷
静に判断してみること。もしあなたの子どもが、あなたを反面教師に仕立てているなら、
あなた自身のもつシャドウを、さらに冷静に見なければならない。それをしないと、あな
たの子どもが、結局は、そのシャドウを、そっくりそのまま引きついでしまうことになる。

 つまりはあなた自身が、心底から善人にならなければ、あなたの子どももまた、善人に
なることはないということ。つまり親であるということは、それくらいにまで、きびしい
ことであるということ。……ということになる。

(付記)

 心の中の(つっかい棒)が、まったく別の心をつくるということは、よくある。私がは
じめてそれを意識したのは、高校生のときのことだった。

 私はテスト期間になると、いつも、無性に映画を見たくなった。おかしなクセだ。で、
いつもこう思った。「テストが終わったら、映画を見に行くぞ」と。しかし実際、テストが
終わってみると、何もする気が起きなくなってしまった。もちろん、映画を見たいという
気持も、消えてしまっていた。

 これは「テストがある」という緊張感が、「映画をみたい」という気持のつっかい棒にな
っていたことを示す。しかしテストが終わったとたん、そのつっかい棒が消える。と、同
時に、映画を見たいという気持ちも、消える。
(はやし浩司 つっかい棒 心のつっかい棒 反面教師 反面教師論)


【2】近ごろあれこれ□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□

●老いるとは……

++++++++++++++++++

周囲の人たちが、どんどんとバカに
なっていく。ものの道理が通じなく
なっていく。こまかい、繊細な話が
できなくなっていく。

老いるということは、そういうこと。
それが私を、さみしくさせる。

++++++++++++++++++

 老人イコール、人格の完成者というのは、ウソ。まったくのウソ。幻想。人は老いれば
老いるほど、愚かになる。どん欲になる。自分勝手になる。ごう慢になる。がんこになる。
わがままになる。そしてバカになる。

 自分がその(老い)の戸口に立ってみて、それがはじめてわかった。つまり今までは、「老
人というのはそういうもの」と、心のどこかで一線を引いて、老人を見ていた。老人を私
たちの世界の外に置いて、老人をながめていた。現在、若い、あなたも、多分、そうだろ
う。「私には、老いは、関係ない」と。

 しかしこのところ、老人を見ればみるほど、心がさみしくなる。それは自分が老いるか
らではなく、まわりの老人たちが、自分からどんどんと離れていくのを感ずるからである。
中には、何を話しても、ヘラヘラ、ニタニタと笑っているだけ。こちらの話が、まるで通
じない老人もいる。

 「私も、そういう世界へ、入っていくのか?」と思うだけで、ツンとしたさみしさが、
心をふさぐ。

 高い道徳や倫理など、もう望むべくもない。文化性そのものをなくす老人も、多い。そ
の姿は、欲におぼれた、餓鬼(がき)そのもの。一応、表面的には善人を装ってはいるが、
それは長年の知恵で身につけた、仮面のようなもの。身内や家族の者を前にすると、想像
もできないほど汚い言葉で、ののしったり、怒鳴ったりしている。

 どうして老人は、老人になるのか。単純に考えれば、身体面の衰えが、そのまま精神面
の衰えにつながるということになる。が、しかし本当にそれだけだろうか。

 私は、老人になればなるほど、その人が本来的にもつ(地)が、表に出てくるためでは
ないかと思う。若いうちは、そうした(地)を、気力でカバーすることができる。しかし
老いれば老いるほど、その気力が弱くなり、(地)をカバーすることができなくなる。

 こんな例がある。ある女性(現在、60歳と少し)は、50代のころから、近所のひと
り暮らしの老人の世話をしていた。献身的な世話だったという。そういう老人のために、
役所へ届ける書類を作成してやったり、ときには、買い物もしてやったりしていたという。

 しかし自分の母親が他界、残された父親が認知症になったとたん、様子が変わった。周
囲の人たちは、当然、その女性が、その父親のめんどうをみるものとばかり思っていた。
しかしその女性は、父親をすぐさま、精神病院へ入れた。もともと父親との折りあいが悪
かったこともある。母親が他界したあと、父親を虐待していたという、うわさもある。

 そして3か月が過ぎると、今度はそのまま別の老人専用施設に入居させてしまった。だ
からといって、その女性を責めているのではない。それぞれの家庭には、外からはうかが
い知ることのできない、複雑な事情がある。

 が、近所の人たちは、そのあまりの(落差)に、驚いた。老人思いのすばらしい女性か
ら、老人を毛嫌いするただの女性へ、と。

 よくよく考えてみると、もともとその女性は、その程度の女性ではなかったのかと思う。
心理学の世界にも、「愛他的自己愛」という言葉がある。自分をよく見せるために、他人を
愛しているフリをして見せることをいう。よくどこかのテレビタレントが、その団体に頼
まれて、慈善活動をして見せるのが、それ。

 その女性も、それまでは、近所のひとり暮らしの老人の世話をしていた。しかしそれは、
その老人のためというよりは、まわりの人たちに、すばらしい人と思われたいがため、そ
うしていた。が、身内にそういう老人ができると、一変した。道楽で、老人を介護するの
と、追いつめられて介護するのとでは、中身は、まるでちがう。

 そこで俗な言い方をすれば、「化けの皮がはがれた」ということになる。つまりここでい
う(地)が表に出てきた。

 そこで改めて、(老い)について考えてみる。

 私たちは、自分の気力を過信するあまり、その奥に潜む(地)にあまりにも、無関心で
いすぎるのではないだろうか。「私は善人だ」と思っている人でも、本当のところは、そう
いうフリをしているだけではないだろうか。わかりやすく言えば、自分をごまかしている
だけ。

 しかしその(地)を変えるのは、容易なことではない。毎日、心の中に、ある種の緊張
感を保ちながら、常に前向きに生きていかねばならない。自分をみがいていかねばならな
い。仏教の世界でも、それを「精進(しょうじん)」という。

 「私は完成された」と、うぬぼれたとたん、そこを頂点として、あっという間に、また
もとの俗世間へとたたき落とされてしまう。それは何度も繰りかえすが、健康法に似てい
る。

 究極の健康法などない。また究極の健康法を極めたからといって、その人がそのあと、
一生、健康ということもない。同じように、究極の精神鍛錬法というのもない。「私は悟っ
た」と、うぬぼれたとたん、そこを頂点として、またもとの俗世間にたたき落とされてし
まう。

 そういう意味では、年をとればとるほど、脳みその底に穴があく。そしてその穴は、年々、
大きくなることはあっても、小さくなることはない。知識や知恵、経験は、その穴から、
どんどんと下へこぼれ落ちてしまう。

 そしてやがて、その人の(地)が、表に出てくる。もともと邪悪だった人は、そのまま
邪悪になる。

 悲しいかな、すでに60歳前後の人でも、どこか鈍くなってしまった人となると、いく
らでもいる。会話そのものが、かみあわない。通俗的な世間話はできるが、それ以上の会
話ができない。会話そのものが、はずまない。思考力そのものが低下しているから、もの
の考え方が、短絡的。

 「林君、何だかんだと言ってもだよ、金だよ、金。金が、大事だよ」
 「K国なんか、あんた、戦闘機で、バンバン攻撃してやればいいんだよ」
 「あのね、女なんかに、力をもたせてはいけないよ。女は家庭に閉じこめておけばいい
の」
 「幼児教育なんてものはね、必要ないの。だれだってそんな教育、できるでしょう」と。

 では、どうするか。老いを迎える私たちは、どうしたらよいのか。

 やはり「精進」という言葉に、私は、行き着く。

 脳ミソの穴から、知識や知恵、経験がこぼれ落ちていくなら、その落ちていく分以上の
ものを、補給する。(地)があまりよくないというのなら、その(地)と戦う。戦って、戦
って、戦いぬく。

 健康法で言えば、毎日の運動は欠かさない。一日、一度は、汗をかく。暑くても、寒く
ても、それをつづける。「今夜は寒いから、やめた」というようであれば、健康を維持する
ことはできない。

 同じように、精神面では、考える。考えて、考えて、考えぬく。そのためには、私は、
ものを書くのがよいと思うが、ものを書くだけではない。本を読んだり、絵を描いたりす
ることでもよい。音楽を聞いたり、旅行をするのもよい。何らかの方法で、いつも、前向
きに生きていく。新しいことを見つければ、どんどんとそれに挑戦していく。

 こうして考えていくと、「老いる」ということは、自分の敗北を認めること、ということ
になる。つまり私たちが「老人」と呼んでいる人は、その敗北者ということになる。そこ
で言いかえると、70歳になっても、80歳になっても、元気で飛びまわっている人は、
老人ではないということになる。同じように、70歳になっても、80歳になっても、「精
進」を繰りかえしている人は、老人ではないということになる。

 老人は老人になってはじめて、老人になる。老人であっても、老人でなければ、いつま
でも、老人ではない。わかりやすく言えば、そういうことになる。
(はやし浩司 老人 老人論 老いとは 老いとは何か 老人とは何か)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●薄着で散歩 

 しばらく見かけなかった。が、久しぶりに通りで見ると、その老人は、薄いセーター1
枚で、外を歩いていた。セーターの下には、シャツ1枚。シャツを見たわけではないが、
そんな感じだった。その老人は、80歳と少し。

 ここ数日、日本列島を、猛烈な寒波が襲っている。全国的に雪模様。九州南部でも、み
ぞれが降ったという。寒いというよりは、身を切るような冷たさ。そんな中での、散歩で
ある。

 かたや私は、マフラーに皮ジャン。手には分厚い手袋。その元気そうな様子にすっかり
感心して、そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「あら、あなた知らないの? あのXさんね、認知症だそうよ」と。

私「認知症?」
ワ「そうよ。だからこんな寒い日に、そんなかっこうで歩くのよ」
私「認知症の老人が、服をたくさん着るという話は聞いたことがある。しかし薄着になる
という話は、聞いたことがない」
ワ「ううん、ときどき、いるそうよ」と。

 そこでネットを使って調べてみると、たしかにそういう症状をもつ老人がいるそうだ。

 認知症の特徴として、(1)記憶力の低下(もの忘れがひどくなる)、(2)自己認知力の
低下(自分がどこにいるかわからなくなる)、それに(3)判断力の低下(何をすべきかわ
からなくなる)があるそうだ。

 その判断力が低下してくると、夏でもセーターを着てみたり、反対に冬でも、薄着でい
たりすることもあるそうだ。ナルホド!

私「あれじゃあ、すぐ風邪をひいてしまうよ」
ワ「そうね。だから老人は、よく風邪から肺炎になって、死ぬのよ」
私「奥さんは、どうしているの?」
ワ「聞いた話では、あのXさんは、奥さんの言うことなど、もう何も聞かないそうよ」と。

 認知症といっても、定型があるわけではない。脳みそのどの部分の機能が低下するかに
よって、症状も、万別ということらしい。Xさんは、恐らく前頭葉のどこかが、ダメージ
を受けているらしい。それにしても、この寒い日に、薄いセーター1枚で外出とは!!


●単純なミスで400億円の損失

 詳しいいきさつはともかくも、東京証券取引所を介して、M証券グループが、400億
円の損失を出したという。

 400億円の損失!、……ということは、だれかがその400億円を、儲けたことにな
る。1等が3億円のジャンボ宝くじなど、どこかへ吹き飛んでしまう。しかしここにネッ
ト取引のこわさがある。数字だけが一瞬のうちに、ひとり歩きを始めてしまう。そしてそ
れにつづく、つぎの瞬間には、すべてが決まってしまう。

 私もネット取引を、小遣いの範囲で楽しんでいる。が、それはたとえて言うなら、数字
の遊びのようなもの。その数字が勝手にふえたり、へったりする。100万円というと、
たいへんな金額だが、それは実生活での話。ネット取引の世界で、400億円と聞いても、
ピンとこない。

 つまりお金というのは、実際、使ってみてはじめて、その価値が生まれる。たとえば私
は、パソコンの周辺機器の何かがほしくなると、ネットで株取引をして、その儲けで買う
ようにしている。

 そのとき、たとえば10万円、儲けたとする。しかしモニター画面上で、いくらその数
字をながめていても、実感がわかない。そこで証券会社へ出向き、カードを使って、その
10万円をおろす。おろして、デジタルカメラを買う。

 そのデジタルカメラを買ったときはじめて、10万円の価値がわかる。が、そのとき、
また別の不思議な感覚にとらわれる。今度は反対に、株取引で儲けたという実感がわかな
い。10万円といっても、札に名前がついているわけではない。仕事で儲けた10万円も
10万円なら、株取引で儲けた10万円も10万円。

 「もったいない」などと思う必要はないはずなのに、「2台ももって、もったいない」と
か、「この前、新しいのを買ったばかりではないか」と、自分で、自分を責める。

 で、その400億円だが、M証券グループにとっては、たいへんな額にちがいない。し
かしその実感がない。だから同情心も生まれない。むしろ反対に、その400億円を儲け
た人たちを、うらやましくさえ思う。私もそのとき、その株価を見ていたら、すかさず買
いを入れたと思う。そしてあとになって、「あの株価はまちがいでした。買いをキャンセル
してください」と、だれかに頼まれても、私は、多分、それに応じないだろう。

 それが「数字」の世界。その世界には、血も涙もない。考えてみれば、おかしな、おか
しな、たいへんおかしな世界である。


●浜名湖のうなぎ

 中学生たちが使う社会の教科書には、こうある。「浜名湖のうなぎ」と。

 つまりうなぎが、浜名湖の特産品ということになっている。しかしその様子は、ここ3
0年で大きく変った。うなぎの子ども、つまりシラスウナギは、ほとんど取れなくなった。
そのため養満鰻業者も、そのほとんどが姿を消した。もちろん浜名湖でとれる自然産のう
なぎなど、数が知れている。

 現在、ほとんどのうなぎは、中国や台湾からの輸入品である。それを浜名湖周辺の工場
で加工して、全国へ出荷している。しかし嘆くことはない。

 もともと、浜名湖のうなぎといっても、明治以後、新興産業の1つとして生まれたもの。
その産業をおこしたのは、服部倉次郎という人だそうだ(「地図帳」青春出版社)。

 服部倉次郎は、もともと東京の深川というところで、うなぎの養殖をしていた。その服
部倉次郎が、どこかへ出張の折、列車の窓から、浜名湖を見て、うなぎの養殖を思いつい
たという。

 その浜名湖には、うなぎの養殖に適していたという。上述「地図帳」によれば、シラス
ウナギ、水、それにエサが、浜名湖にはあった。その上、天竜川から運ばれてきた、砂地、
さらに年間をとおして、平均気温が、15度というのも、養殖に適していた。

 「地図帳」によれば、浜名湖は、東京と大阪のちょうど中間点にあることも幸いしたと
あるが、それは何も、うなぎの養殖だけにかぎった話ではない。つまり浜名湖のうなぎと
いっても、意外と歴史は浅い。だから時代の流れの中で、浜名湖からうなぎが消えたとこ
ろで、それもまた、しかたのないこと、ということになる。

 少し、残念な話だが……。


【3】ADHD児について□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●ADHD児

++++++++++++++++

ADHD児といっても、注意力散漫型
なのか、それとも、多動性型なのか、
2つに分けて考えるようになってきて
いる。

そして近年の傾向としては、多動性よ
りも、注意力散漫型、つまり注意力そ
のものに、障害があると考える学者が
ふえている。

++++++++++++++++

 最近の文献によれば、アメリカでは、ADHD児といっても、主に、つぎの3つのタイ
プに分けて考えていることがわかる(DSM−IV,APA 1994)。文献などを見て
いると、(ADHD、C)タイプとか、(ADHD、IA)タイプとかいうような表現方法
をとっている。

(1)ADHD, Combines Type (ADHD,C)


(2)ADHD,Predominantly Inattentive Type (A
DHD,IA)

(3)ADHD,Hyperactive Impulisive Type (ADH
D, HI)

 ADHD児といっても、(1)注意力が散漫型なのか、(2)多動性型なのかによって、
症状は、大きくちがう。

 (ADHD、C)というのは、(DSM-IV;APA 1994)の診断基準のうち、注意力散漫項目
の9項目うち、少なくとも6個該当、衝動的多動性項目の9項目のうち、少なくとも6個
該当する子どもをいう。

 (ADHD,IA)というのは、(DSM-IV;APA 1994)の診断基準のうち、注意力散漫項
目の9項目うち、少なくとも6個該当するものの、衝動的多動性項目の9項目のうち、6
個より少なく(5個以下)、該当する子どもをいう。

 (ADHD,HI)というのは、(DSM-IV;APA 1994)の診断基準のうち、衝動的多動性
項目の9項目うち、少なくとも6個該当するものの、注意力散漫項目の9項目のうち、6
個より少なく(5個以下)、該当する子どもをいう。

 つまりADHD児といっても、(1)注意力散漫型+衝動的多動性のある子ども(ADH
D、C)タイプ、(2)注意力のほうが散漫型で、衝動的多動性の少ない子ども(ADHD、
IA)タイプ、(3)衝動的多動性が強く、注意力散漫が、それほど顕著ではない子ども(A
DHD、HI)タイプの三つに分類されるということ。(「多動性をともなわない、注意力
欠陥障害のある、注意力散漫型タイプの子どもについて」 by J・M Wheele
r & C・L Carlson、テキサス大学))

 近年は、学校教育の場でも、ADHD児といっても、注意力欠陥型なのか、多動型なの
か、区別して考えるようになっている。そのため、表記方法も、従来の「ADHD」から
「AD・HD」というように、間に「・」を入れる学者も少なくない。


(参考文献)
Attention Deficit Disorder Without Hyperactivity:
ADHD, Predominantly Inattentive Type
By Jennifer Wheeler, M.A., and Caryn L. Carlson, Ph.D.
The University of Texas at Austin

+++++++++++++++++++++

In 1980, the third edition of the Diagnostic and Statistical Manual of Mental 
Disorders (DSM-III) [American Psychiatric Association (APA), 1980] introduced a 
major change in the conceptualization of the childhood disorder that had previously 
been called "hyperkinesis" or "hyperactivity". Because experts had begun to 
speculate that attention deficits, rather than high activity level, might play a 
greater role in the problems of these children, the term "attention deficit disorder" 
(ADD) replaced the earlier diagnostic terminology. Along with this shift in diagnostic 
emphasis came the recognition that attention deficits could exist even in the absence 
of high activity level, and thus two ADD subgroups were defined: ADD with 
hyperactivity (ADDM) and ADD without hyperactivity (ADD/WO). While the ADD/H 
category was fairly consistent with previous definitions, the latter subtype 
represented essentially a new category, for which there was no previous 
counterpart. Thus, almost everything we know about ADD/WO is based on research 
conducted since 1980.

1980年に、DSM−III(精神障害の診断および統計的マニュアル)は、それまで「過剰行動」
ある
いは「多動児」と呼ばれていた子どもについて、その概念を大きく改めた。

 というのも、専門家たちが、多動性よりも、注意力欠陥のほうに、注目し始めたからである。
そし
て「注意力欠陥障害(ADD)」が、これらの子どもたちにとっては、より大きな問題であるとわか

た。

 そして多動性はなくても、注意力そのものに欠陥のある子どもがいることが、強調されるよう
にな
り、新たに2つのADD児タイプが、つけ加えられるようになった。

 多動性をともなう、注意力欠陥型タイプ(ADDM)と、多動性をともなわない、注意力欠陥タイ

(ADD/WO)の2つである。後者は、それ以前にはわかっていなかったという点で、新しいカ
テゴ
リーを示す。
However, such a classification scheme led to problems in the field as it was 
inconsistent with previous research supporting a behavioral distinction between the 
ADD subtypes. In addition, it was problematic clinically, in that there was no 
particular symptom constellation required for a diagnosis of ADHD, thus allowing 
children who were previously diagnosed as having ADD/WO to be inappropriately 
included in the ADHD category1. In response to such difficulties, the most recent 
edition of the DSM (DSM-IV; APA 1994) returned to DSM-III-type terminology. 
Current criteria delineates two separate symptom lists, inattention and 
hyperactivity-impulsivity, and allows children to be classified into one of three 
categories based on the presence or absence of symptoms in each of these areas: 
ADHD, Combined Type (ADHD,C), which requires children to display at least six 
out of nine inattentive and six out of nine hyperactive-impulsive symptoms; ADHD, 
Predominantly Inattentive Type (ADHD,IA), which requires at least six out of nine 
inattentive symptoms and less than six hyperactive-impulsive symptoms; and ADHD, 
Hyperactive-Impulsive Type (ADHD,HI), which requires the presence of six out of 
nine hyperactive-impulsive symptoms and less than six inattentive symptoms. The 
ADHD,IA category is presumed to identify children diagnosed with DSM-III as 
ADD/WO, ADHD,C is thought to identify children given DSM-III ADDM or 
DSM-III-R ADHD diagnoses, and ADHD,HI is essentially a new category, 
presumed to identify extremely active children who do not display gross inattention. 
Although some of the research discussed below was conducted with children 
diagnosed as ADDM, ADD/WO, and ADHD, in this paper we will use the terms 
ADHD,C and ADHD,IA to refer to all attention-disordered children with and without 
hyperactivity, respectively.

●Activity Level(活動性のレベル)

ADHD−Cの子どもについては、しばしば、騒々しさ、興奮性、過剰行動性といった、
行動的な活発さをともなう。が、ADHD−IAの子どもについては。こうした行動的な活
発さは、ずっと少ない。
One area in which fairly consistent findings have emerged involves the "behavioral 
activity style" demonstrated by ADHD,IA children. While children with ADHD,C are 
often described as boisterous, impulsive, excitable, and overactive, children 
with ADHD,IA are much less likely to receive such labels. In fact, studies have 
found that children with ADHD,IA are often described as "hyperactive", i.e., they 
are likely to show "underactivity" and be described as sluggish, lethargic, and 
daydreamy. This unexpected finding has generated some interesting speculation about 
the ADHD,IA subgroup and further distinguished them from their ADHD,C peers. 
While children with ADHD,IA typically do not differ in activity level from 
nondisordered children, they are most notably not impulsive, a key characteristic 
of children with ADHD,C. The so called impulsivity of children with ADHD,IA is 
typically more related to disorganization than the physical impulsivity of children with 
ADHD,C. For example, raters are more likely to endorse items such as an inability 
to complete tasks and poor organizational skills when rating children with ADHD,IA, 
and items such as acts without thinking, shifts from one activity to another, and 
frequently interrupts others when rating children with ADHD,C. This distinction was 
clarified in DSM-IV when a factor analysis revealed that many of the DSM-III 
"impulsivity" items clustered with "hyperactivity", and others (e.g., "difficulty 
organizing tasks") clustered with inattention. This led to the current use of a 
single-symptom list for hyperactivity-impulsivity versus two separate listings 
(impulsivity and hyperactivity) used in DSM-III.

●Accompanying Disorders(付随する症状)

ADHD−Cタイプの子どもにも、ADHD−IAタイプの子どもにも、不随的な症状が見
られる。ADHD−IAタイプの子どもは、心配性や行為障害のような、いわゆる「内面
性の外見化」の問題は、あまり示さない。

一方、ADHD−Cタイプの子どもは、落胆感や心配性などの、いわゆる「心の内面的
な」問題を、より多く示す。
Research has shown that accompanying behavior disorders are likely to be found in 
both ADHD,C and ADHD,IA children. Thus, children with ADHD,IA are less likely 
to display "externalizing" problems, such as aggression and conduct disorders. 
Some research also finds that among clinic-referred children, ADHD,IA children are 
more likely than ADHD,C children to display "internalizing" problems, such as 
depression and anxiety. This theory is supported by research conducted by Barkley 
and his colleagues (1990) who, using a clinic-referred sample, found that the 
relatives of children with ADHD,C were more likely to suffer problems with substance 
abuse, aggression, and ADHD,C, than the relatives of children with ADHD,IA 
and nondisordered controls. In contrast, the relatives of children with ADHD,IA 
were more likely to have anxiety disorders than the relatives of children in the other 
groups. Still, findings on co-occurring internalizing problems between the ADHD 
subtypes are inconsistent. For example, a recent large-scale school-based study7 
found that teachers rated ADD,C children as showing more anxiety/depression than 
ADHD,IA children. This finding led the authors to speculate that it may be only among 
ADHD children who are referred to clinics that this pattern of greater internalizing 
problems among ADHD,IA children is displayed8. Thus, it may be that children with 
ADHD,IA who also display high levels of anxiety and/or depression are more likely to 
be referred to clinics than children with ADHD,IA alone. However, when identified in 
a general population, ADHD,IA children may not necessarily show greater levels of 
anxiety/depression than children with ADHD,C.

●Peer Relationships(仲間との関係)

全体的にみれば、ADHD児は、仲間の間で、人気がないという傾向があるが、ADH
D−Cタイプの子どもと、ADHD−IAタイプの子どもとでは、様子が異なる。

 ADHD−Cタイプの子どものほうが、深刻(severe)であり、ADHD−IAタイプの子
どもと比較して、行動面で嫌われる傾向が強い。一方、ADHD−IAタイプの子ども
は、社会的により引きこもる(withdraw)する傾向が強い。

Since the problematic peer relationships of children with ADHD,C has been 
consistently found, it has been of interest to researchers to examine what, if any, 
peer relationship problems might characterize children with ADHD,IA. Of the studies 
that have examined this issue, the overall conclusion appears to be that both ADHD 
subtypes are less popular with their peers; however, the nature of their unpopularity 
seems slightly different9. For example, there is some evidence that the peer 
relationship problems of children with ADHD,C are more severe than those of 
children with ADHD,IA10. When rated by their peers, some studies find that children 
with ADHD,C are more "actively disliked" than children with ADHD,IA and 
nondisordered controls, whereas children with ADHD,IA are more "socially 
withdrawn". Based on these findings, some researchers have suggested that the 
nature of the ADHD subtypes' social deficits may, in fact, be qualitatively different. 
Using Gresham's (1988) model of social skills, Wheeler and Carlson (1994) proposed 
that children with ADHD,C may suffer from social performance deficits (i.e., they 
know what to do but do not use this knowledge appropriately), whereas children with 
ADHD,IA may suffer from deficits in both social performance and knowledge (i.e., 
they don't know what to do in social situations, thus they cannot use this knowledge 
appropriately). The authors further speculate that these deficits may be mediated by 
so-called interfering responses, which correspond to symptoms typically associated 
with the disorder. Thus, impulsivity and hyperactivity may prevent a child with ADHD,
C from waiting his turn in line, even though he knows he is supposed to do so, and 
"sluggishness" and anxiety may prevent a child with ADHD,IA from participating in 
enough social interactions to learn the rules of the game. While this hypothesis has 
not been empirically tested, it clearly has important treatment applications. For 
example, if children with ADHD,C are found to possess adequate social knowledge, 
attention should be directed at decreasing what prevents them from interacting 
appropriately, rather than focusing exclusively on training in social skills. In 
contrast, 
if children with ADHD,IA are found not to know what to do in social situations, 
social skills training will be the most useful.

●School Performance(学業)

ADHD−IAタイプの子どもも、ADHD−Cタイプの子どものように、学校では、学業的
な問題をもつことが観察されている。

We have evidence that children with ADHD,IA, like those with ADHD,C, often 
experience school learning problems. Indeed, some research has indicated that 
children with ADHD,IA may show elevated rates of school failure and are rated by 
teachers as having greater problems in learning, relative to nondisordered controls. 
One relatively recent finding is the strong relationship between inattention and 
academic problems. Studies examining the behavioral correlates of the ADHD 
subtypes have consistently shown greater academic difficulties in children diagnosed 
with ADHD,C and ADHD,IA than children with excess motor activity/impulsivity 
(ADHD,HI) alone11. With respect to intellectual functioning, there is little evidence 
for significant IQ differences between the ADHD groups, however, there is some 
research in support of a higher rate of learning disabilities in children with ADHD,IA12. 
In addition, children with ADHD,IA are typically more similar behaviorally to children 
with learning disabilities than are children with ADHD,C13. However, the specific 
nature of the relationship between learning disabilities and ADHD has not been clearly 
established. More research needs to be conducted before any firm conclusions can be 
drawn.

●Etiology(病因)

ADHDの病因、つまり原因については、不明である。神経学的な理論が、いろいろ取
りざたされている。

The precise etiology, or cause, of ADHD is unknown. Numerous theories have been 
proposed, including those relating to abnormal brain development (e.g., an 
"immature brain"), neurochemical abnormalities, exposure to environmental toxins, 
and deficient childrearing practices. Although research has been conducted in all of 
these areas, no firm conclusions cam yet be drawn. Also, most studies have been 
done with children with ADHD,C, resulting in even less knowledge about the 
etiology of ADHD,IA. Some researchers have speculated ADHD,IA and ADHD,C are 
entirely different disorders, in which case they may stem from different causes. The 
most promising theories to date include exposure to various agents that can lead to 
brain injury (e.g., trauma, disease, fetal exposure to environmental toxins), 
diminished brain activity, and heredity14.
Research on children with ADHD,C has found that they seem to have underactive 
orbital-frontal regions, the part of the brain which is thought to be responsible for 
sustaining attention, inhibiting behavior, self-control, and planning15. This finding 
has been documented in several studies in which children with ADHD were shown to 
have diminished electrical activity and blood flow in this region, relative to 
nondisordered controls.
Again, less research exploring the possible cause of ADHD,IA has been conducted. 
Given the "sluggish" cognitive tempo and frequent achievement problems typically 
occurring in this subtype, some researchers have speculated that children with 
ADHD,IA may suffer from posterior, rather than frontal, right hemispheric 
dysfunction16. However, studies using neuropsychological measures that have 
examined this hypothesis have failed to find the predicted deficits17. Thus, research 
involving more sensitive measures of neurological processes are needed before any 
firm conclusions regarding etiology can be drawn.
It should also be noted that many previous theories of ADHD have not been 
supported. 
Thus, there is no conclusive evidence that ADHD can be caused by diet, hormones, 
lighting, motion sickness, or bad parenting18. Given the exciting new advances in 
our ability to examine the way the brain works, we can be hopeful that continuing 
research in these areas will soon expand our understanding of the causes of ADHD.

●Treatment Considerations(治療についての考察)

リタリン(Ritarin)の投与について

One of the most pressing issues in developing effective treatments for children with 
ADHD,IA has been whether or not these children will show similar responses to 
stimulant medication as do children with ADHD,C. The best evidence that we have 
concerning this issue comes from a study in which the responses of children with 
ADHD,C and children with ADHD,IA were evaluated to 5, 10, and 15 mg doses of 
methylphenidate (Ritalin)19. While the groups did not significantly differ on any of the 
outcome measures, children with ADHD,IA were more likely to be nonresponders 
(24%) or to respond best to the lowest dose (35%) as compared to children with ADHD,
C. In contrast, 95% of the ADHD,C children were judged to be positive responders, 
with the majority (71%) recommended to receive a moderate or high dose. Thus, it 
may be that at least a portion of children with ADHD,IA respond favorably to 
stimulant medication, although at a lower dosage than children with ADHD,C. One 
factor that may mediate this subgroup's responsiveness is the presence of 
co-occurring internalizing disorders (e.g., anxiety) when they exist. There is some 
evidence that children with ADHD who display accompanying internalizing symptoms 
are less likely to respond positively to stimulant medication than are children who 
suffer from ADHD alone20. In any case, stimulant responsiveness is clearly a matter 
in which more research needs to be done. For any given ADHD child, decisions about 
the usefulness of medication should be made based on am individual child's responsiveness.
It is likely that the development of other effective treatments for children with ADHD,
IA will depend upon the individual pattern of the accompanying problems they display. 
The information reviewed above suggests several areas of functioning that might be 
considered relevant for evaluation, including school functioning, the presence of 
other disorders (e.g., anxiety or depression), and peer relationship problems. Based 
on assessment in each of these areas, treatment programs can be individually 
tailored to meet each child's specific needs. As is becoming increasingly clear with 
children with ADHD,C, it is likely that children with ADHD,IA will be heterogeneous 
in many ways and that there will be wide individual variation in the types of 
accompanying problems they display. While we are still in the early stages of 
understanding the disorder, heightened interest in this area and the recent 
publication of DSM-IV should lead to increasing knowledge about its causes and 
responsiveness to treatments.

●Conclusions(結論)

The above review addresses research in many areas affecting children with ADHD. 
While few studies have been conducted using DSM-IV terminology, preliminary 
reports suggest that the findings are consistent. According to these studies, both 
ADHD subtypes are generally less popular than their peers, suffer difficulties 
academically, and frequently display accompanying problems. Given the relatively 
recent identification of ADHD,IA, it is mandatory that further research be conducted. 
Although these children generally show fewer overt behavior problems than their 
ADHD,C peers, they are just as in need of diagnosis and treatment.
(はやし浩司 ADHD−C ADHD、C ADHD,C AD・HD ADHD児)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 1月 16日(No.675)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)
(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●いじめ

+++++++++++++++++++++

佐賀県にお住まいのHTさん(母親)より
こんなメールが届いています。

子どものいじめについての問題です。

HTさん、掲載許可、ありがとうございま
した。

+++++++++++++++++++++
 
はやし先生

寒くなりました。

今日、楽天の方の「サトシ君」のエッセイを読ませていただき、
メールしたくなりました。

(注「サトシ君」についてのエッセーは、このあとに添付
しておきます。)

娘のことです。
同じクラスにMさんという女の子がいます。
この子とは、娘が幼稚園児のときから、
クラスがよくいっしょになります。

私は、娘が2年の時に学年PTA役員という仕事をしました。
保護者の方々と先生との連絡役のような仕事です。

ほとんど2年生も半ばを過ぎる頃から、娘の口からMさんへの
不満が聞かれるようになりました。

帰りに、上履き袋を投げつけられる。

鬼ごっこで鬼になった子に向かって、優しい声で
「目をつぶって、10かぞえるのよ」と言った次の瞬間
「お前はそうやって一生そこで、数えていろ!」と言って
みんなを引き連れて、逃げてしまう。

面白くないことがあれば靴を履いた足のかかとで、
思い切り足を踏まれる。

傘のとがった部分で足の甲をつかれる。

手提げで殴りかかってくる。

ある子に向かって無視をするよう、強要する。

「私の言うことが聞けないなら仲間はずれにするから」
と脅される。

まだまだ色んなことがありましたが、こんな不満を
毎日もらしていました。

そんな、緊張状態のある日娘が「ワー!」と声を上げて
泣いた日がありました。
「もう私こんな生活いやだ!」と…。

私は、びっくり! 娘の腕には、ひどい
内出血のあと(鉛筆でつつかれたり、傘でつかれたり)
もう我慢できない。
限界だったようです。

私もここまで娘が追いつめられているとは思っていませんで
同じクラスの仲の良いお母さんに学校の様子を聞いてみました。

状況は娘と全く同じでした。
特定の子をいじめると言うよりは、面白くなければ
だれかれかまわず、という状態だったようです。

先生に状況を話すと、とても驚いて「エーッ! Mさんがですか?」と。
先生の前ではおとなしいニコニコ笑みを絶やさない
どちらかというと気の弱い優しい女の子という、とらえ方だったようです。

実際、学校や家でわたしと顔を合わせたときも
満面の笑みで、「○○ちゃんのママ、んにちは〜。」と
言いましたので、私もこのギャップには信じられませんでした。

その後、先生がクラスの子ども達から話を聞いてみると
なんと18人もの子が、Mさんから上記のようなことをされている
ことがわかりました。

そのうち、一人は腕のけがで、通院までしたようです。

いろいろと親のあり方を考えさせられました。

そして、6年生になった、今年です。

母 「最近、Mさんどうなの?」
娘 「まあ、暴力はふるわないけど、相変わらずだよ」
母 「そうなんだ〜。」
娘 「Mさんね、テストの点が私より悪いと、私に向かって、いばってるだの
  かっこつけてるだの、うるさいよ。
  金持ちは話が合わないから、近寄るな。
  あんたその服、合わない。趣味悪〜!」
  こんなこと毎日言ってるよ。
母 「あなたそんなこと毎日言われて、嫌じゃないの?」
娘 「そりゃ、嫌だよ、頭にくるけど。でも何とも思わない。くだらないから。」
母 「すごい! あなためちゃめちゃ大人の対応できてるじゃん!」
娘 「そう?  ハッハッ、まあね。」

こんなような会話を頻繁にしていたある日のことです。

娘が家に帰って来るなり、大声で泣き叫び
かぶっていた帽子を投げつけ、玄関に入ってきました。

聞くと、Mさんのことでした。

内容はこうです。

放課後数人で遊んでいたところへ、Mさんが娘に向かって

Mさん 「肩車をしてくれない?」
娘   「昨日もしてあげたから、今日は肩と首が痛いからイヤだ。」
Mさん 「あんた、生意気、私の言うことが聞けないの?」
娘   「私は、しない。したくない。」
Mさん 「あんたなんか絶交! これから完全無視よ!
     いい? ここで遊んでいる人全員これからこの子のこと無視だからね!」
Gさん 「やめなよ。そんなこと何でするの? かわいそうだよ」
Mさん 「あんたも無視されたいの?」
Gさん 「…。」

そして、その後Mさんは娘を独りにさせ
「あの子と一緒に帰るんじゃないよ」と言って
みんなを引き連れていったそうです。

独りぽつんと残されて悔しかった。
私独りになっちゃうー。 と
つらくてつらくて、いられなかった。

と、言っていました。

本当に悔しかったと思います。
毎日Mさんの暴言にたえている上に、このような出来事があったので
もう極限だったようです。

娘の話だと、やはりそのときによってターゲットが変わるようで
Mさんの周りは毎日トラブルだらけ、いささか疲れた…。
でも、許せない…。と

母 「つらかったね。あなたよく頑張っているよ。でもね、Mさんのお陰で
  本当にいい勉強させてもらっているね。」
娘 「勉強?」
母 「そうだよ。あなたはつらい人の気持ちがよくわかる子になっているでしょ?
  つらい子にどうしてあげたらいいかわかるようになったでしょ?
  それに、絶対にMさん側(いじめる側)になりたいなんて思わないでしょ?」
娘 「そうだけど…。でも、むかつく。」
母 「ホント、それはそう。ママだってむかつくけど。
  でも、Mさんはかわいそうな人よ。」
娘 「かわいそう?かわいそうなのは私だよ」
母 「だって、もうあなたやあなたの周りの人はMさんを
  半分に扱ってるじゃない。」
娘 「どういうこと?」
母 「同等じゃないってこと。だって、あなた、Mさんの言うこと、くだらない
  から気にしてないとか、まだ、そんなこと言ってるの?とか、半分はあきれ
  てるじゃない。Mさんだからしょうがないって。ね」
娘 「そう言われてみればね。」
母 「あなたは、すごく成長したと思うよ」
  そして、 一年生の頃の話をしてあげました。

こんな話をして、その後私は、娘の仲の良いお友達に学校の様子を
聞き、確かにMさんの言動、行動がエスカレートしていると判断したので
先生にお話ししました。

先生には、今まであった事実をお話しした後
Mさんの親御さんに抗議したいわけではない。
Mさんに謝罪して欲しいわけではない。
先生に子ども達の人間関係の修正をお願いしたいわけではない。

これは、子ども達が成長していく上での勉強だから
先生が現状を把握していただくだけでいいです。

と言うことを伝えました。あとは、子ども達が自分で考えて対処していく
しかないと思いますから。と。

娘も同席しているところでの三者面談でしたので、娘もよく理解できたと思いま
す。
後で、娘に聞くと「ママ、すっきりだよ」と言っていました。

こんな出来事が最近あって、また、娘のお陰で私もちょっと母親になれたかな〜
と思っていたところでしたので、サトシ君のエッセイは心に響きました。

それから、おまけですが、この一件を横で聞いていた二女と、こんな会話をしました。

母  「あなたは、何か困っていることはないの?」
二女 「ないよ! 毎日楽しい。明日の朝が早く来ないかなッて、いつも思ってる」
母  「それは幸せね。何よりね。」
二女 「だけど、クラスの中では色々あるよ。」
母  「なあに?」
二女 「Wさんのことだよ。毎日みんな先生に苦情言ってるよ。
   Wさんてね、興奮したり気に入らないことがあったりすると
   大声出したり、ものを投げつけてくるんだよ。」
母  「ものを? いきなり?」
二女 「そうだよ。だからみんなイヤなんだよ、当たると痛いし、急にくるからね。」
母  「で…、あなたのところは飛んでこないの?」
二女 「飛んでくるよ、毎日ね。」
母  「イヤじゃないの?」
二女 「全然イヤじゃない。むしろカワイイ子だなって思っているよ。」
母  「え? 何で?」
二女 「わからない。でも、投げられた後、Wさんに今日のは痛かったよ!
   とか、今のは、ビシッときいたよ!、って言ってやると
   Wさんたら、すなおに戻って ごめん悪かったよ。って言ってくれるんだよ。
   大騒ぎしたり、怒ったりしてもおさまらないからね。余計に興奮するんだ
   よ。 それに、もしかしたら病気なのかもしれない。だって、ものを投げてく
   るときは、よだれ垂らしたり目がどこかに行っちゃってたりするから。」
母  「あなた、心の広いいい子に育ったね〜。ママうれしい! そのまんま大
   きくなりなさいね〜。」
 
本当にうれしい出来事でした。
そう言えば初めてWさんのお母さんにお会いしたときに、
すごく丁重にご挨拶をされたことを覚えています。

「うちのWが学校でお世話になっています。
あなたの娘さんが、友達の中で一番優しくしてくれると
Wがいつも言っています。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。」、と…。

あまりの丁寧さに違和感すら覚えたのを記憶しています。
今思えば、Wさんとお母さんはずっと友達関係で悩んでいたのでしょうね。


それにしても、知らない間に子ども達は成長しているものですね。

外に出ると何とか人間関係をうまくやろう。トラブルにならないようにしよう。
と、日々神経をすり減らす長女。

何かあっても、許してわすれる(はやし先生談)そして
好んでそれを包み込んでしまおうとする二女。

はやし先生がおっしゃるように家が体を休める場所でなければならないと
子ども達を見ていて実感します。


2学期も残りわずかとなりました。
元気にすごして欲しいと思っています。


長いメールになりました。

時節柄ご自愛ください。こちらは、九州地方も、急に冷えこんで
きました。

佐賀県S市、HTより

++++++++++++++++++

HTさんが、読んでくださった原稿を
ここに添付しておきます。

++++++++++++++++++

●サトシ君(いじめ問題の陰で)

 サトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのサトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆(静岡県)にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、サトシ君の祖

から聞いた話だ。

 祖父はサトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。サトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とサトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。帰る道す
がら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、サトシ君は、「高校に合格しますように
と祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように祈らなか
ったか」と。そこでサトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「サトシ君」で呼ぶようになった。とても
呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、サトシ君のような子どもも
いる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと
判断する。愚かな人ばかりではない。サトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内の
K高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。サトシ君は、見るからに人格が違ってい
た。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐えない
と、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、
こういう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超え
たいじめは別である。しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四が
なくて、五に相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの訴えることに、とことん耳を傾けてやる
ことでしかない。子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあげるこ
とでしかない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師にも、できるこ
とには限界がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、 親や教師の務めではないかと、
私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 人は、ドン底に落ちると、2つのタイプの人間に分かれる。そのときから、徹底した善人にな
るタイプと、
徹底した悪人になるタイプである。どちらの道を選ぶかは、紙一重。

 そこまで深刻な問題ではないにせよ、子どもの世界でも、同じようなことが起きる。いじめを
受け、そ
れをバネに、ここに書いたサトシ君のようになる子どもと、同じように、今度は反対に、いじめる
側に回
る子どもである。「いじめられる前に、いじめてやれ」という考え方である。

 そういう意味では、いじめる側の子どもが、すべて「悪」とは言い切れない。(もちろんいじめ
は、悪い
ことだが……。)抑圧されたうっぷんが、長く蓄積されて、それがいじめに転化するということ
も、子ども
の世界では、よくある。

 それにいじめる側は、それを(いじめ)と認識していないケースも、多い。軽い遊びか、ふざけ
のつもり
で、それをする。しかしいじめられる側にとっては、そうではない。ちょっとした相手の言動を、
おおげさ
にとらえてしまう。そういうケースも、多い。

 さらに「A君がいじめる」と言うから、学校の先生に相談して、A君を近くから排除してもらう。
すると今
度は、その子どもは、「B君がいじめる」と言い出す。そこでまた今度は、B君を近くから排除し
てもらう。
が、つぎに今度は、その子どもは、「学校の先生がいじめる」と言い出したりする。そういうケー
スも、少
なくない。

 これを「ターゲットの移動」という。つまりその子どもは、もっと大きな心の問題をかかえてい
て、それ
が原因で、学校へ行きたくないだけである。それがわからないから、親や先生は、子どもの言
うことに、
振りまわされてしまう。そういうケースも、多い。

 ここに(いじめの問題)のむずかしさがある。
(はやし浩司 いじめ いじめの問題)


【2】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●2人目の孫

+++++++++++++++++

家の広さ基準は、国によって、みな
ちがう。

しかしアメリカ人がもつ基準は、ケタ
はずれに、大きい。つまりアメリカ人
の家は、大きい。

+++++++++++++++++

 アメリカに住む二男が、こんな日記(BLOG)を書いた。今度、2人目の子どもが生
まれることになったが、それについて、だれかが、「こんな(狭い)家で、2人も育てるの?」
と言ったそうだ。

 それについて二男は、こう思ったそうだ。「日本の基準で考えたら、広すぎるほど、広い
のに」と。

 たしかにアメリカでは、広さの基準そのものが、ちがう。当然、家は、大きい。若いこ
ろ、こんな失敗をしたことがある。

 「ぼくの家は、2階建てだ。階段がある」と手紙を書いたら、そのアメリカ人は、かな
り大きな家を想像してしまったようだ。アメリカで「階段」というと、映画『風と共に去
りぬ』に出てくるような、幅の広い、あの大きな階段をいう。

 が、日本の家の階段は、階段ではない。あえて言えば、ハシゴ? 二男のワイフ(アメ
リカ人)が、私の家に来たときも、「日本の階段は急で、こわい」と言った。それではじめ
は2階に寝室を用意していたが、急きょ、1階にある部屋に、寝室を移してやった。

 基準がちがう。まったく、ちがう。そのアメリカ人は、つまりかなり大きな家を想像し
てしまったアメリカ人は、多分、ずっとあとになって私の家が、とんでもないほど小さい
のを知って、驚いたにちがいない。礼儀正しいアメリカ人だったから、それを口に出して
言うことはなかったが……。

 ともかくも、2人目の孫が、来年には生まれる。そこでふと考える。「アメリカでは、一
人前の生活をするのも、たいへんなことだな」と。が、ここで誤解してはいけないことは、
アメリカでは、家が、安い。プラス土地が安いから、その分だけ、大きな家を建てること
ができる。

 それに日本のように、広さに応じて税金が高くなるとか、こまかい建築基準法というの
がない。もちろん地震対策など、考えなくてもよい。いつだったか二男がこう言ったのを
覚えている。

 「アメリカでは、1200万円も出せば、豪邸を買うことができる」と。近所の小さな
空き地(30坪くらい)に、「売り地、1200万円」という立て札が立ったいるのを見た
ときのことである。

 もっとも広い、狭いということになれば、G県の郷里に帰るたびに、私は、こう思う。「よ
くもまあ、こんな狭い土地に、何百軒も家がひしめいているな」と。正確に調べたわけで
はないが、どの家も、20〜30坪程度の敷地に、ほとんどすき間なく軒をつらねている。
私が今住んでいる町内だけで、あの町全体が、すっぽりと入るのではないか?

 つまりこうした感覚というのは、あくまでも相対的なもの。アメリカ人から見れば、私
の家は狭い。しかし私の家から見れば、郷里の家々は、狭い。が、『住めば都』とは、よく
言ったもの。私にとっては、今住んでいるここが、一番、気に入っている。

 だからアメリカ人の家がうらやましいとは思わないし、反対に郷里の人たちが、かわい
そうだとも思わない。そういう点では、人間は、フレキシブルにできている。それに悪い
ことばかりではない。人口密度が濃密である分だけ、人間関係も濃密。私の郷里では、隣
り近所が、みな、親戚といった感じがする。

 さてさて、2人目の孫は、どうするのだろう。より広い家を、二男夫婦も、当然、考え
ていることだろう。二男夫婦のためというよりは、その孫のために、何とかしてやりたい。
そんな気持ちは、強いが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(014)

●スパム・メール

++++++++++++++++++++++

スパム・メールが、じゃかすか、やってくる。
最近では、「連絡、ありがとうございました」
「お待たせしました」「先日は、ありがとうご
ざいました」という、どこか、思わせぶりな
ものが多い。

身に覚えがないから、「バカめ」と言って、そ
のまま削除することができるが、そうでない
人は、そうではないだろう。

+++++++++++++++++++++++

M社のウィルス・ソフト対策コーナーを読むと、こうしたスパム・メールへの対策法と
して、つぎのようにある。

(1)絶対に、相手にしてはいけない。相手にすれば、あなたのアドレスが生きているこ
とがわかり、さらに転売の対象になる。
(2)公開するメールアドレスは、フリーメールアドレスを使え、などなど。

 そこで私のアドレスを、Y社の検索にかけてみた。で、驚いたことに、私のアドレスを
公開しているサイトがいくつかあるのがわかった。

 さっそく、削除を申し込む。「どうしてこんなことが、私の了解もなくできるのだろう?」
と考えても、あまり意味はない。幸いにも、その中のいくつかは、私が削除を申し込むと、
すぐそれに応じてくれた。悪い人たちばかりではない。

 そこで(3)番目の対策として、どこかのだれかから、リンクの申し込みがあっても、
それに安易に応じてはいけないということ。一度、「OK」すると、あとはそのまま自由勝
手に使われてしまう。アドレスを使うとしても、M社の注意書きのように、フリーのメー
ルアドレスを使うのがよい。

 そうそう数週間前だが、こんなのもあった。

 「あなたのHPを、もっと多くの人に読んでもらいたいと思いませんか。ついては、当
サイトに、あなたのHPを登録してください。○×・HP登録センター」と。

 で、メールを開いてみると、HPのアドレスのほか、簡単な自己紹介文、住所、名前、
電話番号、それにパスワードまで、記入するようになっていた。パスワードは、紹介文を
修正、訂正するためのものだそうだ。

 「?」と感じたので、そのまま削除。思わず、ひかかってしまうとこころだった。HP
の紹介だけなら、住所や名前、電話番号など、いらないはず。そこでその「紹介サイト」
なるものを開いてみたが、「目下、制作中」とあるのみ。まだ、だれも登録していないこと
がわかった。(あるいは、最初から、制作などしていないのかもしれない。)

 この世界、本当に油断もスキもあったものではない。みなさんも、くれぐれも、ご注意
のほどを!

(付記)

 加えて、こうして名前とHPを公開しているため、心ない人からの、いやがらせも、多
い。今朝もあった。

 京都で起きた、塾講師(D大学学生)による、小学生の殺傷事件をにおわせながら、「林
さんのところでも、事件が起きることを楽しみにしています」と。

 掲示板からは、相手のプロバイダーの名前までしか追跡できないが、掲示板に書き込む
ためには、一度、私のHPを経由しなければならない。そのHPを経由したとき、私のほ
うで、プロバイダーと、個人を特定するIP番号などが、把握できる。ついでに過去に何
回、私のHPへアクセスしたかもわかる。

 本人は、匿名のつもりなのだろうが、その気になれば、さらに詳しく調べることもでき
る。しかし、そういう人は、相手にしない。削除して、忘れる。

 文句があるなら、堂々と名前を名のってから言え!、……と私は考えるが、みなさんは、
どう思うだろうか?

(付記2)

 私も最初のころは、こうした書き込みについて、かなり不愉快な思いをした。しかしそ
ういうものをいちいち気にしていたのでは、先に進めない。中には、(ほとんどの人がそう
ではないかと思うが)、こうした書き込みがあると、そのままHPや掲示板を閉じてしまう
人がいる。

 しかしここでくじけてはいけない。くじけたら、負け。これはインターネットのもつ、
欠陥(けっかん)のようなもの。あるいは、善の道を妨げる、イバラのようなもの。前に
進めば進むほど、この種の、心ない人からのいやがらせがふえる。

 が、それも2つ、3つ……と重なってくると、そのうち免疫性ができてくる。気になら
なくなる。100人の読者がいれば、そのうち、1%の1人には、頭の「?」な人がいる。
1000人の読者がいれば、そのうち、0・1%の1人には、さらに頭の「?」な人がい
る。

 そういう頭の「?」な人に、負けてはいけない。

 先日もここに書いたのと同じようなエッセーを書いた。それについて、「私も、私のHP
の掲示板に、悪意に満ちた書き込みをされて、いやな思いをしています」というメールを
もらった。M県に住む、Eさんという女性からのものだった。

 Eさん、負けてはだめですよ。無視して、削除。あとは忘れる。このタイプの「?」な
人には、無視するのが一番です。何を書いてきても、ただひたすら無視、です。

(付記3)

 こうした書き込みをする人は、インターネットのもつ匿名性を悪用しているわけだが、
その分だけ、心のゆがんだ人とみてよい。いじけやすく、ひがみやすく、おく病で、その
上、卑怯。自己優越性が強く、ものの考え方が、自己中心的。そのため、友人の数は、恐
ろしく、少ない。家族の中でも、孤立しているのでは?

 しかし自分では、そうは思っていない。それに気づくこともない。心の中は、いつも暗
く、ジメジメと湿っている。少し昔には、無言電話というのがあった。受話器を取ると、
すぐ電話を切ってしまうというのが、それ。こうした書き込みをしてくる人の心理は、そ
の無言電話をかけてくる人のそれに、共通している。

 (今は、ナンバーディスプレイ方式という便利な電話機が開発されて、この無言電話に
よるいやがらせは、ほとんどなくなった。)

 もともと相手にしなければならないような連中ではない。そう考えて、Eさん、負けて
はだめですよ! 今にインターネットの世界でも、電話機のナンバーディスプレイ方式の
ようなものが、開発されると思います。今は、その過渡期かな?


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●シャワートイレ

 私の隠れた趣味。それは、用をすますたびに、トイレをピカピカにみがくこと。その中
で、弁当を食べられるほどまでに、みがく。

 それについては、前にも書いた。

 で、そのトイレ。実は、シャワートイレ。今どき、珍しくもなんともないが、はじめて
それを見たのは、リオデジャネイロ(ブラジル)のホテル。何でもその1か月前に、あの
田中角栄氏(元総理大臣)が泊まったとかいう、リオデジャネイロでも、由緒あるホテル
だった。もう30年も前のことである。

 そのホテルのトイレに入ったときのこと。用をすまして横を見ると、大きなレバーが二
つもあるではないか。私はどれが何だか分からなかったので、1つのレバーを、思いっき
り、下へさげてみた。

 とたん、便器の下から、噴水のような水が噴きあげてきた。ものすごい勢いである。私
はそれにびっくりして、トイレから走りだしてしまった。

 以来、シャワートイレを使うたびに、あの日のことを思いだす。

 このシャワートイレ。いろいろな使い方がある。ちまたには、腸内洗浄とかいう健康法
があるそうだ。そのための器具もいろいろ市販されている。要するに、腸内に温水(薄い
塩水)を、流しこみ、腸内を洗浄するというもの。

 しかしシャワートイレがあるなら、わざわざそんなものを買わなくても、トイレの中で、
腸内洗浄ができる。どうやってするかについては、多分、すでにみなさん、経験済みだと
思うので、ここには書かない。(あまり、美しい話ではないので……。)

 そこである日、私は、一体、どれだけの水が腸内に入るか、たしかめてみたことがある。
方法は簡単。

 まず、前もって、体重を測定しておく。つぎに、シャワートイレを流しながら、腹が痛
くなるまでがまんする。最初はボコボコという音が、腸のあちこちから聞こえてくる。が、
それも一巡すると、キリキリと腹が痛みだす。腹の左下を押さえてみると、水(実際には
温水)が、パンパンにつまっているのがわかる。「もう、だめだ」という限界まで、がまん
する。

 その状態で、体重計の上に乗ってみる。ふえた分が、水の量ということになる。つまり
こうして腸内に入った水の量を知ることができる。

 で、私のそのときの実験では、約1・5キロ! 何と、1・5リットルもの水が入った
ことがわかった。たいへんな量である。もう少しで2リットル。

 さらに私は、こんな実験もしてみた。その状態、つまり、腸の中がパンパンになった状
態で、トイレの外で、逆立ちをしてみる。そうすれば理屈の上では、水は逆流して、大腸
全体に回るはずである。

 その状態で腸内の水を排出すれば、大腸全体が、美しくなる。が、これは失敗だった。
そのあとすぐ、船に酔ったみたいに、ムカムカと気持ち悪くなった。逆立ちしたのが原因
なのか、それとも、腸内に水を大量に入れたのが原因なのかはわからない。ともかくも、
気持ち悪くなった。

 で、この実験は、失敗。(こうした実験も、医学発展のため。)

 こうして私は、日々に、腸内を洗浄している。そこで私はある日、ワイフにこう言った。
「ぼくの腸ね、切ってホルモン焼きにしてもいいほど、きれいだよ。そのまま焼いて食べ
られるよ」と。

 そのせいかどうかわからないが、最近では、腸内のどこに、どの程度の、カスがあるか、
それがわかるようになった。腸の中の様子が、よくわかるようになった。つまりこれも私
の隠れた趣味ということになる。つまり腸内洗浄が、である。

 方法は……。やはりここには、書けない。みなさんも、どうか努力して、その方法をさ
がしてみてほしい……、と書いたところで、こんなこともあった。

 シャワートイレの話を、あるとき、私の生徒たち(当時、小2)に話すと、M君が、こ
う言った。「シャワートイレを使うと、お尻の穴の中に水が入るんだってエ。ママが、そう
言っていた」と。

 つまりすでに、みなさん、ご存知のとおりということになる。しかしトイレもピカピカ。
腸の中もピカピカ。とてもさわやかなよい気分。今は、そのよい気分。

 バカな話を書いて、ごめん!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●よくわからない話?

++++++++++++++++++++++++

朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)理事会は、
K国での軽水炉建設事業廃止を決定した。一時韓国は、
単独でも、K国での軽水炉建設を慣行する構えを見せた。

しかしこと軽水炉に関しては、アメリカの助けがないと
どうにもならないことがわかり、泣く泣く断念。
KEDOの決定に従った。

しかし、ここで問題が終わったというわけではない。
ここから先の話が、よくわからない。

++++++++++++++++++++++++

軽水炉建設の総事業費は46億ドル(約5400億円)。このうち事業主体の中
心である韓国は、11億3500万ドル、日本は2番目に多い4億1000万ド
ルを投じた。

KEDO事務局は北朝鮮に資金返還を求める意向だが、応じる可能性は低く、日
本の資金回収は困難な見とおしになった。つまり日本は、日本で、その4億10
00万ドルについては、あきらめるという方向で、意思をかためた。

 流れからすれば、それはしかたのないこと。もともとその4億1000万ドルと
いうお金は、捨て金。軽水炉が完成したところで、また完成しなかったところで、
日本に返ってくるお金ではない。

 ところが、である。こうした常識に、韓国が、「待った!」をかけた。「清算する
ならするで、その清算費を、アメリカや日本が、一定額を負担せよ」と。

 韓国側のいう清算費というのは、K国東部・琴湖(クムホ)地区の建設用地に残ってい
る軽水炉関連施設・機材の維持、解体、回収費用や、契約企業への違約金・補償金の支払
いなどをいう。その額、総額数10億〜200億円に達するとみられている。

 しかしどう考えても、韓国側の言い分は、おかしい。順に考えてみよう。

 まず軽水炉関連施設・機材の維持、解体費用だが、当初、韓国側は、11億3500万
ドル分を負担すると言ったのだから、その範囲で、払えばよいのではないのか。契約企業
への違約金や補償金についても、同じ。

 話がゴチャゴチャしてきたので、もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 あるところに、たいへん貧しい男がいた。そこでそれを見るにみかねた5人の男たちが、
みなで、お金を出しあって、その貧しい男のために、家を建ててやることになった。

 音頭を取ったのが、A氏。その家の建築を請け負うことになれば、ばく大な利益を得る
ことになる。A氏が、設計、建築を担当することになった。

 話しあいの結果、A氏が、1100万円、B氏が、400万円、ほかの3人が、残りの
2200万円を負担することになった。総額4600万円の豪邸である。そしてその豪邸
の建築が始まった。が、その建築が半分程度すんだところで、問題が起きた。

 その貧しい男は、約束を破ってばかりいる。そればかりか、にせ札を偽造したり、ピス
トルを密造したりしていることがわかった。そこでみなが、家の建築は、もうやめようと
いうことになった。

が、A氏だけは、その貧しい男と親戚関係にあったこともあり、最後までがんばった。
みなが引きあげたあとも、建築途中の家をそのままの状態で、維持した。機材や大工も、
現場に残した。こうして2年近い年月が流れた。

で、やはり、建築は、中止。みなが、そう決めた。A氏以外の人たちは、それまでに出
したお金は、戻ってこないと、あきらめた。が、A氏だけは、こう主張した。

 「今まで建築した分の解体費用や、下請け業者などに支払う違約金など、200万円に
ついて、みんなで分担して払ってほしい」と。

 韓国側の言い分を聞いていると、頭の中でバチバチと脳細胞が、ショートするのがわか
る。一見、正当性があるようで、まるでない。200億円などという金額は、自分が負担
するといった、1100億円の範囲内で、払えばよいことである。「違約金」「違約金」と
言うが、その契約は、韓国政府と業者の間で結んだ契約である。日本やアメリカにしてみ
れば、その契約の内容についてまで、どうしてその責任を負わねばならないのか。

 こうした韓国側の横ヤリのため、「K国での軽水炉建設事業廃止に伴う清算費の分担問題
をめぐり、意見がまとまらず、廃止の正式決定が大幅に遅れている」(Yahooニュース)
とのこと。

 K国もK国なら、韓国も韓国だと思う。ホント! あえて言うなら、軽水炉建設が中止
されたすべての責任は、K国にある。だったら、どうして韓国は、そのK国に、責任を追
及しないのか。違約金にせよ、補償金にせよ、K国に払ってもらえばすむのではないか。
(05年12月11日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●「パープル・バタフライ」を見る 

+++++++++++++++++++++

ビデオ「パープル・バタフライ」を見る。

おもしろかった。久々に、脳ミソが、
かき回されたというカンジ。

一応、SF映画ということになっているが、
しっかりと見ていないと、何がなんだか、
さっぱりわけがわからなくなる。

「パープル・バタフライ」は、まさに
そんなビデオ。

+++++++++++++++++++++

★「パープル・バタフライ」

 あらすじは、1人の青年が、そのつど自分の過去へ戻って、その過去をいじるというも
の。が、過去をいじったとたん、現在にもどってみると、すべてが、変わっている! …
…とまあ、どこかありふれた、いわゆるタイム・マシン的な映画だが、そういったマシン
(機械)は、登場しない。

 その青年には、子どものころから、ときどき記憶が抜けてしまうという、特異な現象が
起きていた。記憶が、ある時間だけ、まったく抜けてしまうのである。たいては何か、大
きな事件、つまり人生の節目に遭遇したときに、そうなる。

そこで、その青年は、毎日、克明に日記を書きつづける。もちろん記憶に残った部分に
ついては、日記として書くことができる。しかし記憶が残らない部分については、日記
を書くことができない。

その青年は、青年になる。やがて何かの偶然から、古い日記を読んでいると、その日記
の抜けた部分の過去にもどることができるのを知る。そしてその過去にもどって、自分
の過去をいじることができることを知る。

 ……とまあ、ここから先が、実にゴチャゴチャしてくる。過去に戻って過去をいじるの
が、1度や2度でないため、ここに書いたように、しっかりと見ていないと、やがて何が
なんだか、さっぱり、わけがわからなくなる。登場人物の様子が、みな、そのつど、まっ
たく別人のように変化する。「なぜ?」「どうして?」と考えているヒマもないほど、目ま
ぐるしく変化する。

 私の印象では、娯楽映画としては、少し、複雑すぎるかなといったカンジ。過去へもど
って、自分の過去をいじったとたん、現在の様子が、すべて変わる。同じようなテーマは、
映画『バック・ツー・ザ・ヒューチャ』で、すでにおなじみ。しかしどういうわけか、パ
ープル・バタフライは、新鮮。理由の一つとして、論理的に、細部まで、矛盾がないよう
に、きちんと構成されているという点がある。

 そういう意味ではおもしろい。が、「私は理屈ぽい映画は嫌い」という人は、見ても、あ
まり意味がわからないのではないかと心配する。見て楽しむ映画というよりは、見て考え
るという映画。私は★を、2個半つける。

 で、ここからが私の意見。

 ★もし、過去をいじることができたら……

 ビデオの中では、その青年は、何か都合の悪いことが起きるたびに、過去へもどって、
そこで自分の過去を修正しようとする。が、それでうまくいくわけではない。その結果、
思わぬ副作用が出てきて、また別の新しい問題を作り出してしまう。

 人生というのは、そういうものかもしれない。私もときどき、「もし、あのとき……」と
いうようなことを考える。「もし、あのとき、別の選択をしていたら、私のその後の人生は、
大きく変わっていただろうな」と。

 しかし結局は、私の人生は、私の人生であっただろうと思う。そのときどきにおいて、
そのつど、私は最善とまではいかなくても、その道しかなくて、その道を選んできたよう
に思う。そしてそのとき、別の選択をしていたら、今の私はいないだろうなと思う。

 少し前までは、こんなことを考えた。「もし、私があのまま、M物産という会社にいたら、
今ごろ、どうなっているだろうか」と。多分、今ごろは、くも膜下出血か何かで、死んで
いるかもしれない。あるいはそこそこの子会社で、社長くらいにはなっているだろうが、
毎日、マネー、マネーと、あくせくしているだろうな、とも。

 ところで最近、私は、「人生は1度でいい」とか、「1つだけでいい」とか、考えるよう
になった。「2度も生きたくないし、2度生きたからといって、それがどうなのか?」と。
「死ぬのはこわいが、死がそこまできたら、そのときは、そのとき」と。だから今朝も、
朝食を食べながら、こう思った。

 「どうやら、今日も健康で仕事ができそうだ。ありがたいことだ」と。

 やはり自分の過去であれ、過去など、いじってはいけない。その影響は、無数の人に及
ぶ。考えてみれば、これほど、恐ろしいことはない。だから映画の中でも、それを知った
父親は、息子のその青年の首をしめて、その青年(子ども)を殺そうとする。

 そのあたりにも、この映画のすばらしさがある。つまり論理性が一貫しているのみなら
ず、その論理性が、深い。今も、そのビデオのあちこちの場面を思い出しながら、「やはり
そうだろうな……」と考える。

 最後は、その青年自身が、犠牲になることで、みなを、ハッピーエンドに導く。そして
過去にもどるための道具となる日記を、すべて燃やしてしまう。

 が、ただ1つ、私には、どうしても理解できない部分がある。

 最初のシーンで、その青年は、紙切れに、メモを残す。「もしこのメモをだれかに読まれ
たら、私は死んでいると思ってほしい」というような内容である。そしてそのメモを書い
たあと、その青年は、別の方法で、子ども時代に、もどる。

 私は、そのメモの意味が、いまだによく理解できない。何度考えても、理解できない。
なぜ、その青年は、そんなメモを残したのか。残さねばならなかったのか。そのメモには、
どういう意味があるのか。つまりこのあたりが私の脳ミソの限界ということになる。

 
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●格言風・子育て論

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携帯電話用に書いた「子育て格言」です。

私が利用しているサービス会社には、3
か月以内に内容を更新しないと、サービ
スそのものが、停止されてしまうという、
恐ろしい掟(おきて)があります。

で、ときどき、こうして新しい格言を補
充していかねばなりません。

+++++++++++++++++++++++

☆上下意識は、親子にキレツを入れる

「親が上、子ガ下」という上下意識は、親子の間に、キレツを入れる。「上」の者にとって
は、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の者にとっては、そうでない。言いたいこと
も言えない、したいこともできないというのは、親子の間では、あってはならないこと。
親はいつも子どもの友として、横に立つ。そういう姿勢が、良好な親子関係を育てる。


☆「ダカラ論」は、論理にあらず

「親だから……」「子だから……」「長男だから……」「夫だから……」というのを、『ダカ
ラ論』という。このダカラ論は、論理ではない。えてして、問答無用式に相手をしばる道
具として、利用される。使い方をまちがえると、相手を苦しめる道具にもなりかねない。
先日もテレビを見ていたら、妻が、夫に、「あなたは一家の大黒柱なんだからね」と言って
いるのを見かけた。それを見ていて、そういうふうに言われる夫は、つらいだろうなと、
私は、ふと、そう思った。


☆親の恩着せ、子どもの足かせ

「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と親が、子どもに恩を着せれ
ば着せるほど、子どもの心は親から遠ざかる。そればかりか、子どもが伸びる芽を摘んで
しまうこともある。たとえ親がそう思ったとしても、それを口にしたら、おしまい。親に
恩を押しつけられ、苦しんでいる子どもは、いくらでもいる。


☆家族主義は、親の手本から

まず子どもを幸福な家庭で包んでやる。「幸福な家庭というのは、こういうものですよ」と。
それが家族主義の原点。見せるだけでは足りない。子どもの体の中にしみこませておく。
その(しみこみ)があってはじめて、子どもは、今度は、自分が親になったとき、自然な
形で、幸福な家庭を築くことができる。夫婦が助けあい、いたわりあい、励ましあう姿は、
遠慮なく、子どもに見せておく。


☆離婚は淡々と、さわやかに

親が離婚するとき、離婚そのものは、大きな問題ではない。離婚にいたる家庭内騒動が、
子どもの心に暗い影を落とす。ばあいによっては、それがトラウマになることもある。だ
から離婚するにしても、子どもの前では淡々と。子どものいない世界で、問題を解決する。
子どもを巻きこんでの離婚劇、それにいたる激しい夫婦げんかは、タブー中のタブー。夫
婦げんかは、子どもへの「間接虐待」と心得ること。


☆よい聞き役が、子どもの思考力を育てる

親は、子どもの前では、よき聞き役であること。ある人は、『沈黙の価値を知るものだけが、
しゃべれ』というが、この格言をもじると、『沈黙の価値を知る親だけが、しゃべれ』とな
る。子どもの意見だから、不完全で未熟であるのは、当たり前。決して頭ごなしに、「お前
の考え方はおかしい」とか、「まちがっている」とかは、言ってはいけない。「それはおも
しろい考え方だ」と言って、いつも前向きに、子どもの意見を引き出す。そういう姿勢が、
子どもの思考力を育てる。


☆子どもの前では、いつも天下国家を論じる

子どもに話すテーマは、いつも大きいほうがよい。できれば、天下国家を論ずる。宇宙の
話でも、歴史の話でもよい。親が小さくなればなるほど、子どもは小さくなる。隣や近所
の人たちの悪口や批判は、タブー。見栄、体裁、世間体は、気にしない。こうした生き様
は、子どものものの考え方を卑屈にする。「日本はねえ……」「世界はねえ……」という語
りかけが、子どもを大きくする。


☆仮面をはずし、子どもには本音で生きる

あなたが悪人なら、悪人でもかまわない。大切なことは、子どもの前では、仮面をはずし、
本音で生きること。あるがままのあなたを、正直にさらけ出しながら生きる。かっこつけ
たり、飾ったりする必要はない。そういうあなたの中に、子どもは、いつか(一人の人間)
を見る。ただし一言。子育てといっても、あなたはいつも一人の人間として、自分を伸ば
していかねばならない。それが結局は、真の子育て法ということになる。


☆優越感の押しつけは、子どもをつぶす

おとなや親の優越性を、子どもに押しつけてはいけない。賢い親は、(教師もそうだが……)、
バカなフリをしながら、子どもに自信をもたせ、そして子どもを伸ばす。相手は子ども。
本気で相手にしてはいけない。ゲームをしても、運動をしても、ときにはわざと子どもに
負けてみる。子どもが、「うちの父(母)は、アテにならない」と思うようなったら、しめ
たもの。勉強について言うなら、「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがマシ」
と思うようになったら、しめたもの。


☆親の動揺、子どもを不安にする

たとえば子どもが不登校的な拒否症状を示すと、たいていの親は、狂乱状態になる。そし
て親が感ずる不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。が、この一撃が、さらに
子どもの心に、大きなキズをつける。数か月ですんだはずの不登校が、1年、2年とのび
てしまう。子どもの心の問題を感じたら、一喜一憂は、厳禁。半年単位でものを考える。「半
年前はどうだったか?」「1年前はどうだったか?」と。


☆言うべきことは言っても、あとは時を待つ

親は言うべきことは言っても、そこで一歩引き下がる。すぐわからせようとか、実行させ
ようと考えてはいけない。子どもの耳は、そういう意味で長い。脳に届いてから、それを
理解するまでに、時間がかかる。実行するまでには、さらに時間がかかる。まずいのは、
その場で、とことん子どもを追いつめてしまうような行為。子どもはかえってそれに反発
し、その反対のことをするようになる。


☆質素が子どもの心を豊かにする

子どもには、質素な生活は、どんどん見せる。しかしぜいたくは、するとしても、子ども
のいないところで、また子どもの見えないところでする。子どもというのは、一度、ぜい
たくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜいたくを、経験させない。
なお質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。
質素というのは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使い
ながら、ムダをできるだけはぶく。要するに、こまやかな心が通いあう生活を、質素な生
活という。


☆うしろ姿を押し売りは、子どもを卑屈にする

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、
うしろ姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何
でもない。子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまう
かもしれないが、しかしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)とし
て生きる。そういう前向きの姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。


☆生きる力は、死を厳粛に扱うことから

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の
死の悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱にお
く。その反射的効果として、「生」を大切にするためである。子どもの教育においても、ま
たそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それがたとえペットの死であ
っても、死は厳粛にあつかう。


☆度量の大きさは、立方体で計算する

子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その
人の住む世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで
子どもを許し、忘れるかという、その深さのこと。もちろんだからといって、子どもに好
き勝手なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで
受け入れることができるかということ。


☆「今」を大切に、「今」を懸命に生きる

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」
という現実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にす
るのも、正しくない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできること
を、懸命にがんばる。明日は、その結果として、必ずやってくる。だからといって、過去
を否定するものではない。また何かの目標に向かって努力することを否定するものでもな
い。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝かせて生きていくこと。


☆『休息を求めて疲れる』は、愚かな生き方

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つま
り「いつか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何も
できなくなる」ということ。しかしほんの少し考え方を変えれば、あなたの生活はみちが
えるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも1呼吸だけ、今までのリズムを遅くすれば
よい。


☆行きづまったら、生きる源流に視点を

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、そのとたん、子育てにまつ
わるあらゆる問題は、解決する。「この子は生きているだけでいい」と思いなおすことで、
すべての問題は解決する。あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、こ
の源流から、子どもを見てみるとよい。それですべての問題は解決する。


☆モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行
け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。親は、よく、「高価なも
のを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほしいものを買い与え
たから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤解。ある
いは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。物
欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。


☆子育てじょうずは、よき先輩をもつことから

あなたの近くに、あなたの子どもより、1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、
無理をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、たいてい「うちも、こ
んなことがありましたよ」というような話で、あなたの悩みは、解消する。「無理をしてで
も」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリットは
ないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、
その人の子どもの影響を受けて、伸びる。


☆子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と
仲よくしたらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。
この世界には、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。子ども自身も、同じ仲
間という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、1、2
年、先を見ながら、勉強するということは、それなりに重要である。


●指示は具体的に

子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子ども
には、あまり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だち
と仲よくするのですよ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡して
ね。きっと、○○君は喜ぶわよ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先
生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、
あとでママに話してね」と言う。
(はやし浩司 子育て格言 子育てのコツ)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●天国論

+++++++++++++++++

宗教の話の中には、よく天国とか、極楽とか
いう言葉が出てくる。

その反対の世界になっているのが、地獄、と。

しかし私が考える天国には、天国しかなく、
あるのは、天国だけ。地獄など、ない。

その天国について、考えてみた。
もし、本当にあるとするなら、の話だが……。

++++++++++++++++++

 天国には、天国しかない。地獄など、どこにもない。だから死んだ人は、みな、天国へ
行く。善人も、悪人も、みんな、だ。

 が、それでは、不公平と思う人がいるかもしれない。それに善人と悪人は、どうやって
いっしょに暮らすのかという疑問をもつ人もいるだろう。しかし心配は、ご無用! ここ
で、私が考える、天国の構造について、説明してみる。

 天国には、天国しかない。あるのは、天国だけ。死んだ人は、一度、みな、天国へ入る。
が、ここで善人は、そのまま。そのままの状態で、天国で、心豊かな、楽しい生活ができ
る。しかし悪人は、そうではない。悪人だった人は、その悪の程度に応じて、乳幼児、幼
児、少年・少女へと、姿を変える。

 とんでもない極悪人だった人は、赤ん坊に、ということになる。つまりそのときから、
それぞれの人は、自分の人生を、適切な時期からやりなおす。

 仮にあなたが、そのとんでもない悪人、つまり凶悪な犯罪者だったとしよう。するとあ
なたは天国へ入ったとたん、赤ん坊になる。まだ目の視線も定まらない、赤ん坊である。

 その赤ん坊の状態から、その天国で、育てられる。天使のような慈愛に満ちた両親と、
家族に包まれて、育てられる。

 あるいはあなたが、小ずるい詐欺師であったとしよう。するとあなたは天国へ入ったと
たん、乳幼児になる。やっとヨチヨチ歩き始めた乳幼児である。で、そのときも、あなた
は、天使のような慈愛に満ちた両親と家族に包まれて、育てられる。

 わかりやすく言えば、現世で、どんな悪人であっても、もう一度、新しくあなたは、天
国で育てなおされるということ。つまり生まれながらの悪人はいない。生まれたあとの、
育てられた環境や教育によって、悪人は悪人になっていく。その人自身には、責任は、な
い。そのことは、生まれたばかりの赤ん坊を見れば、わかる。赤ん坊に、善人も悪人もい
ない。

 善人になるか、悪人になるかは、運と確率の問題。波にうまくのった人は、善人になり、
のれなかった人は、ズルズルと悪人になっていく。

 天国は、それまでに寛容にできている。またそうであるから、天国という。仮にもし天
国が、長生きをしたジジババ様だけの世界になってしまったら、何と、味気なく、つまら
ないものになってしまうことか。あるいは頭のボケた、ジジババ様ばかりになったら、も
っとつまらない。

 だから天国には、実際には、いろいろな年代の人たちがいる。赤ん坊もいれば、少年、
少女もいる。もちろん、おとなもいる。もう一つ、例をあげて考えてみよう。

 ある男性は、ふとしたきっかけで暴力団に入った。そこで貸し金の取り立てをするよう
になった。もしそんな男性でも、運とチャンスに恵まれていたら、そこまで心をゆがめる
ことはなかっただろう。子どものころ、その男性の両親は離婚。そのまま多額の借金を踏
み倒して、どこかへ蒸発してしまった。つまりそのとき、暴力団に入るかもしれないとい
う素地が、その男性にできてしまった。

 その男性は、最終的には銀行強盗をし、ピストルを撃ちまわしたところで、警官に射殺
されてしまった。そしてそのあと、天国へやってきた。

 しかしだれが、その男性を責めることができるだろうか。もしその男性が、望ましい環
境の中で、あるべき両親の慈愛を受け、幸福に育てられたとしたら、そういう事件は、起
こさなかったはず。もし神や仏が、その男性を地獄へ落すと言ったら、私は、こう言って
抗議してやる。「その男性には、罪はない」「その男性は、現世で、さんざんつらい思いや
さみしい思いをした」「もうじゅうぶんではないか」と。

 そこで、その男性は、天国では、赤ん坊の時代から、自分の人生をやりなおすことにな
る。もちろんそれまでの過去は、すべて記憶から消される。だからその男性は、なぜ自分
が赤ん坊であるかということすら知らないまま、自愛に満ちた両親と家族の中で、育てら
れる。

 こうして天国には、善人のみが、住むようになる。かつての悪人が、赤ん坊や、幼児の
姿に変えて天国へ入ってくれば、天国の住人たちは、その赤ん坊や幼児の親を、自ら、買
って出る。そしてその赤ん坊や、幼児を育てる。自分の子どものようにして育てる。

 そしてこうして育てられた子どもたちは、やがて天国という場で、おとなになる。慈愛
に満ちた、やさしくて親切な、おとなになる。高い道徳と理性、それに知性を兼ね備えた、
おとなになる。

 これが天国の、本当の姿である。だから俗世間でいうような、地獄など、ない。

 ……ということを、逆に考えることはできないだろうか。つまりこの私たちの住む世界
こそが、その天国である、と。そうすれば、ここでいう天国論が、ずっと現実味をおびて
くる。

 たとえば私は、今日も、年中児から中学3年生まで、教えた。教えながら、いろいろな
話をした。もちろん勉強をみるのが私の仕事だから、それはそれで、きちんとした。

 そういう子どもたちをながめていると、生まれながらの善人もいなければ、もちろん生
まれながらの悪人もいないことが、よくわかる。教育だけですべてをカバーすることはで
きないが、しかし教育によるところも大きい。子どもが、悪人の道に入りそうになったら、
その少し前から、その子どもの教育を、組たてなおす。つまり、こうしてこの世界を、善
人で満たしていく。

 そしてもしそれが、この世界でできるようになれば、この世界こそが、天国ということ
になる。私たちが最終的にめざす世界とは、そういう世界をいう。そしてそれこそが、ま
さにユートピアということになるのではないだろうか。

実のところ、死んでからあとの世界については、私たちは、何もわからないのだから…
…。

(付記)

 この天国論は、夢を見て、思いついた。数日前だが、私はこんな夢を見た。

 私がある断崖絶壁の淵(ふち)にやってきたとき、そこに黒い、大きなドアがあった。
みなにつられて中へ入ってみると、その中は、明るい広場になっていた。その広場のあち
こちに、円陣をえがいて、多くの人たちが集まっていた。

 みると、それぞれのグループが、ちょうどハイキングで食事でもしているかのように、
円陣をえがき、みなが、幼児や子どもたちを囲んで笑っていた。

 そこで私が、「ここはどこですか?」と聞くと、みなが、笑ってこう言った。「ここは天
国です」と。

 さらに私が、「あの子どもたちは、どういう子どもたちですか?」と聞くと、みなが、こ
う説明してくれた。「不幸な生活をした人たちを、もう一度、みんなで育てなおしてあげて
いるのです」と。つまり、その子どもたちは、かつては、悪人だったというわけである。

 おかしな夢だったが、その夢にヒントを得て、この天国論を書いてみた。つまり天国は、
天国。天国しかない。あるのは、天国だけ。地獄など、あるはずもない。 
(はやし浩司 天国論 天国と地獄)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【最近・あれこれ】

●子どもへの薬物療法

++++++++++++++++

子どもがかかえる心の問題について、
薬物療法を施したため、かえって症状が
重くなってしまったというケースが
多い。

副作用としてそうなるというよりは、
反作用として、そうなる(?)。

はたして薬物療法は、本当に安全なのか。

++++++++++++++++

 子どもの心と体は、年齢とともに、発達する。同じように、その機能も、発達する。仮
に不正常な部分があっても、成長とともに、機能は回復し、より正常になっていく。

 つまり子どもには、心の問題にせよ、体の問題にせよ、自分で自分を治癒(ちゆ)して
いく能力を、生まれながらにしてもっている。その能力についてだが、最近では、たとえ
ば何か心に問題があったりすると、薬物療法を試みるケースが、ふえている。ADHD児
や、自閉症児、かん黙児、ツーレット症候群の子ども、など。夜尿症を含む、心身症にま
で、薬物療法を施すケースも、ある。

 果たして、それは安全なのか。また安易に、子ども、とくに乳幼児にほどこしてよいも
のなのか。ある小児科の医師が、こう話してくれたことがある。

 「カウンセリングだけでは、医師は、お金を取れません。薬を出して、はじめてお金が
取れます。こんなところにも、医療制度の矛盾が隠されています」と。

 私は、こうした薬物療法について、たいへん疑問に思っている。というのも、私の周囲
にも、幼児期、もしくは小学校の低学年期に、薬物療法を試み、一時的には、著効を示し
たものの、そのあとしばらくして、かえって症状が重くなってしまうというケースが、た
くさん多いからである。ほとんどが、そうであると言ってもよい。

 全体として、長期にわたって薬物療法をすればするほど、その反作用というか、そうい
った作用によって、症状がかえってひどくなってしまうケースが多い。そういう印象をも
っている。

 で、それとなく親に相談すると、たいていの親は、こう言う。「病院の先生が言うには、
たいへん効果の薄い、安全な薬だから、問題はないそうです」と。

 しかし本当に、そうか。そう信じて、よいかのか。

 私はときどき、催眠剤(熟睡剤)というのを、のむ。しかし最大で2錠までのんでもよ
いというが、1錠ものんだら、たいへん! 翌日の昼まで寝てしまう。それに数時間もす
ると、幻覚症状が現れる。

 そこで寝つかれないときは、その1錠を、8分の1から、6分の1程度に割ってのむ。
それを舌の下でとかして、のむ。それでも、8〜10時間は、寝てしまう。その1錠とい
うのは、直径が、3ミリ程度の小さな薬である。

 脳みそというのは、そういうもの。それくらい繊細にできている。それに脳みそには、
フィードバック作用というのも、ある。たとえば何かの精神薬が脳みそに影響を与えるよ
うになると、その精神薬を無効にするような物質を、脳みそが自ら放出するようになる。
つまりこうして脳みそは、いつも自分自身を、(カラの状態)に保とうとする。

 このフィードバック作用のことを知ると、たとえば薬物療法を長くつづけていた子ども
ほど、そのあと、かえって症状が重くなってしまうというケースが、理解できる。

 ……というようなことを書くと、医療の現場にいる医師たちは、不愉快に思うかもしれ
ない。これは、私のような素人が、横ヤリを入れるような問題ではない。しかし私の今ま
での経験からしても、うまくいったケースは、10に1つもない。ここで「そのあとしば
らくして、かえって症状が重くなってしまうというケースが、たくさん多いからである。
ほとんどが、そうであると言ってもよい」と書いたが、決して誇張ではない。

 私はとくに、子どもの心の問題については、薬物療法は、もっと慎重であるべきだと思
っている。たとえばある種の脳間伝達物質が不足しているからといって、その伝達物質を
外部から補給するようなことをすれば、脳みそのほうが、それを受け入れてしまう。そし
てかえって、その子ども自身がもつ、自然治癒力というか、機能回復能力が、阻害されて
しまう。薬による補給をやめたとたん、今度はかえってその伝達物質が、極端に不足する
という状態になる。素人の私でさえ、それくらいのことはわかる。

 こんな例がある。

 もう5年ほど前になるが、かん黙症の子どもが私の教室へやってきた。そのとき、その
子どもは、年中児(4歳)だった。が、それから1年半の間、教室の中では、ほとんどし
ゃべらなかった。いつも柔和な笑みを浮かべていたが、外からは、何を考えているか、ま
ったく察することができなかった。

 心と表情が、遊離していた。

 が、あと半年で、小学校へ入学というころになって、やっと声を出し、手をあげるよう
になった。母親にそれを報告すると、母親は、まぶたに透明の涙をいっぱい浮かべて、そ
れを喜んだ。

 で、やがて小学校に入学した。と、同時に私の教室を去った。が、それから約半年後。
秋の気配を感ずるころだったが、その母親から、電話がかかってきた。「学校へ行かなくな
ってしまいました」と。

 その子どもについて、母親は、こう言った。

 「入学するとまもなく、担任の先生から、一度、心療内科へ行ってみたらというアドバ
イスを受けた。それで病院に通うようになった。そこで何種類かの薬を処方されたが、ど
の薬が効いたかわからない。が、息子が、別人のように活発になった。明るく元気になっ
た。

 それで喜んでいたが、夏休みが終わるころから、薬が効かなくなってきた。で、別の薬
を処方してもらったが、その薬の効果も一時的で終わってしまった。息子が、学校へ行く
のをぐずり始めたのは、そのころからです」と。

 その子どもは、それから3年以上も、不登校を繰りかえした。で、最近になって気にな
ったので、電話をしてみると、今でも、断続的に行ったり、行かなかったりを繰りかえし
ているという。行くといっても、午後からのことが多い、とも。

 この一例だけではないが、だいたいほかのケースも、似たりよったりといったところで
はないか。医師は医師なりに、治療方法を考えて薬を処方していると思うが、しかし本当
に安全性や、副作用、さらには、反作用なども考えて治療しているかというと、どうもそ
うではないような気がする。またその時間もないのでは(?)。診察室で、子どもを見る程
度で、それで何がわかるというのか。

 これ以上のことは、ここには書けないが、そういう問題もあるということだけは、わか
ってほしい。あえて言うなら、薬物療法は、できるだけ慎重にしたらよいということ。
(はやし浩司 子供の心の問題 心の問題 薬物療法)


Hiroshi Hayashi+++++++++++Dec. 05+++++++++++++はやし浩司

●天下の悪法

++++++++++++++++++

今度、韓国で、『親日反民族…法案』なる
ものが、可決された。

反日、嫌日がきわまって、もう「日」のつ
くものは、何もかも弾圧……? 
今の韓国を見ていると、そんな感じさえす
る。

現在のN政権を一言で言えば、妄想的回顧
主義政権(?)。

「そこまでする必要があるのか」というの
が私の偽らざる印象である。

+++++++++++++++++++

過去にさかのぼって、罪を追及されたら……。それだけで法秩序どころか、社会体制は、
崩壊する。これを、法の遡及性(そきゅうせい)という。

 たとえば、こんな法律ができたら、あなたは納得するだろうか。

 「今まで、交通違反を起こした人に対して、罰金が軽すぎた。だから交通違反を起こし
た人は、その分だけ、得をしたはず。したがって支払った罰金の3倍を、改めて支払いな
おしてもらうものとする」と。

だからこぞって、欧米法では、その法の遡及性をきびしく制限する。 

 ところが、である。今度、あの韓国で、そういう法律ができた。中日新聞(05・12)
は、つぎのように伝える。

 「韓国国会は、12月8日の本会議で、植民地時代に日本に協力した『親日派』の財産
を、国庫に帰属させる『親日反民族行為者財産帰属特別法案』を可決した」と。

 つまり植民地時代に、日本に協力して築いた財産をもっている者、およびその子孫につ
いて、その財産は、国庫として没収するというもの。一応、「大統領傘下の委員会が、国庫
に帰属させるかどうか、審議する」というが、今の段階では、どの程度の審議なのか、内
容が定かではない。

 ところで、話は変わるが、現在、韓国のソウルで、日米の人権大使も出席して、『人権国
際会議』が開かれている。これに対して、韓国大学総学生会連合(韓総連)と、一部市民
団体が、今大会を「反北朝鮮世論作りに向けた守旧勢力の陰謀」と定義づけ、妨害して
いるという(韓国・中央日報)。

 さらに産経新聞によれば、(今回の)「人権国際会議に反対する人権・社会団体(25組
織)が発表した声明は、『K国の政治犯収容所は存在が確認されていない』『食糧難は(K
国だけでなく)多くの国で発生している』『拉致韓国人問題は南北分断の悲劇』などとし、
K国には人権問題は存在しないとするK国の主張そのままに独裁体制擁護に懸命」になっ
ているという。

 そういうお国がらである。親日反民族行為者財産帰属特別法なるものが可決されたとし
ても、何ら、おかしくない。しかし「ここまでやる必要があるのか」というのが、私の印
象。N政権の考えていることは、すべてがうしろ向き。過去をほじくりかえしては、「韓国
がこうなったのは、日本のせいだ、アメリカのせいだ」と、そんなことばかりを言ってい
る。いつか体制がかわって、もし、「親北反人権行為者財産帰属特別法」なるものができた
としたら、今のN大統領ほか、その一派は、それに納得するとでもいうのだろうか。

 人は年齢とともに、過去をふりかえる傾向が強くなる。回顧性が強くなる。それはわか
る。しかし中には、そこに妄想を重ねる人もいる。「ああすればよかった、こうすればよか
った」という思いを、いつの間にか、「あの人がじゃましたから、自分はこうなってしまっ
た」「この人が、意地悪したから、自分はこうなってしまった」という思いに転じてしまう。

 もっとわかりやすい例では、こう言って毎日のように言い争いをしている老夫婦がいる。
「お前のおかげで、オレの人生はメチャメチャになってしまった」「私の人生を、返してよ」
と。残りの人生を、どう有意義に生きるかということを考えるのが先だと、だれしも思う
のだが、その老夫婦には、それがわからない。

 が、韓国の人たちがもっている、悶々とした閉塞感を理解できないわけではない。「日本
ごときの島国に、蹂躙(じゅうりん)されたという屈辱感」、それに「独立を自分たちで果
たせなかったという無念さ」、さらには、「東西の冷戦の犠牲となって、国が分断されてし
まったという被害意識」。こういったものが、混然いったいとなって、現在の反日感情に結
びついている。

 しかし、それにしても、行き過ぎではないか。ここまで反日感情をむき出しにされると、
日本にいる親韓派の人たちまで、敵に回してしまうことになりかねない。現に私は、この
数年、ますます韓国が嫌いになりつつある。

 もっとも、韓国の中にも、いわゆる良識派の人たちがいないわけではない。中央日報は、
つぎのような社説をかかげている。

 「結局、政府のこうした思考は、K国の機嫌を取るためのものにすぎないのだ。韓国
大学総学生会連合(韓総連)と一部市民団体が、今大会を『反K国世論作りに向けた守
旧勢力の陰謀』と定義づけ、妨害しているが、情けなく思える。常に『人権』と『民族
連携』を叫ぶそれらが、K国人民の惨状には知らんふりするばかりだから、とうてい理
解に苦しむ」と。

 私たち日本人は、こうした良識派の韓国の人たちもいることを信じて、ここは冷静に対
処するしかない。ここで日本までカリカリしてしまえば、それこそ、日韓関係は、奈落の
底へと落ちてしまう。それだけは、何としても、避けなければならない。

それにしても韓国は、いったい、どこへ向かおうとしているのか。12/10/2005


Hiroshi Hayashi+++++++++++Dec. 05+++++++++++++はやし浩司

●単身赴任(夫婦像は、学習によって身につく) 
 
 単身赴任ほど、非人間的な職場環境はないと思うだが、最近ではそれを歓迎する夫婦もふ
えている。ある妻は、夫の単身赴任が決まったとき、友人に、「ヤッター!」と喜んで見せたとい
う。現実にはそういう夫婦もいる。

 この夫婦像というのは、子ども時代に形成される。しかも本能ではなく、学習によって形成さ
れる。だからもしあなたが、将来、あなたの子どもに「あなたが望むような家庭」を築いてほしい
と願っているなら、今、その家庭がどういう家庭であるかを、しっかりと見せておかねばならな
い。いや、見せるだけでは足りない。しっかりと身にしみこませておく。そういう経験があっては
じめて、あなたの子どもは将来、「あなたが望むような家庭」を、自然と築くことができるように
なる。

 夫婦像も同じ。夫婦が子どもに見せるものがあるとするなら、それは互いに思いやり合い、
気づかい合い、そしていたわり合う姿だ。そういう姿を日常的に見ながら、子どもは自分の中
に夫婦像を作っていく。

 ところで以前、私はこんな本を目にした。ほかの教育者の書いた本を批判するのは、あまり
好きではないが、そこにはこうあった。いわく、「夫婦喧嘩は子どもに見せるとよい。意見の対
立があることを教えるのに、絶好の機会だ」と。日本でも著名な教育者で、これが彼の持論で
もあるから、こう書くと、名前がわかってしまうかもしれない。しかし、夫婦で哲学論争でもする
なら話しは別だが、子どもに夫婦喧嘩など見せるものではない。……と言っても、夫婦喧嘩は
時と場所を選ばず起きるものだから、見せたくなくても見せてしまうかもしれない。それはともか
くとして、やり方をまちがえると、この夫婦喧嘩は子どもを限りなく不安にする。そしてこの不安
が、子どもの心をゆがめる。私はこの教育者は、子ども知らずの教育者だと判断した。

 さて本論。欧米では、そもそも単身赴任など、考えられない。そんなものを命じられれば、ふ
つうの人ならその会社をやめてしまうだろう。あるいは反対に会社が訴えられるかもしれない。
が、日本人というのは、そういうことが平気で(?)できる。ではなぜそれができるかと言えば、
そういう夫婦像を、すでにどこかで見ているからである。ひょっとしたら、その人の父親がそうで
あったかもしれない。あるいは単身赴任ではなくても、その人の父親が仕事人間や会社人間で
あったりして、家庭を顧みない人であったかもしれない。ともかくも、夫の仕事のために家庭が
犠牲になることは、当然だという家庭で育ってきた。そういう背景があるから、冒頭で述べたよ
うな妻が生まれる……。

 私個人のことを言えば、私は田舎町の自転車屋で生まれ、そして育った。だから夫婦が別々
に住んで、別々に暮らすということが信じられないというより、そういう情報そのものが、頭の中
にない。だから私の意見は、ある意味で一方的なものかもしれない。あるいは現実離れしてい
るかもしれない。そういうことも考えながら、この文を読んでほしい。私が正しいという自信が、
実のところ、私にも、ない。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 単身赴任 離婚 離婚の影響)

(付記)

 4年前に書いたこのエッセーを読みながら、私は、心のどこかで、小さな違和感を覚える。た
とえ
ば夫婦であっても、「ダカラ論」にしばられるのは、正しくないのではないかというふうに、このと

ろ考えることが多くなった。離婚についても、それを悪いことと決めてかかる必要は、まったくな
い。

 ただ子どもに関していえば、離婚というより、離婚にまつわる家庭内騒動が、子どもの心に大

な影響を与える。離婚するにしても、子どもとは関係のない世界で、淡々とするのが、よい。

 単身赴任については、ここに書いたとおりだと、今でも、思っている。アメリカなどでは、入社
と同
時に、そういった問題も含めて、会社と契約書をかわすところが多い。その段階で、転勤を断
るこ
ともできる。日本でも、そういう会社がふえてきたと聞いている。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●先輩・後輩(根強く残る封建制度) 
 
 晴れわたった午後の一日。青い空に白いユニフォームが光る。今日もグランドで、中学校の
野球部の少年たちが、練習をしている。のどかな光景だ。時折、カーン、カーンというボールを
打つ音が聞こえてくる。

 が、それはあくまでも表面。この野球部に限らず、たいていの運動部は、徹底した「上下関
係」で成り立っている。たとえばテニス部。一年生は玉拾いだけ。二年生になってやっとラケット
をもたせてもらうことができ、試合に出られるようになるのは、三年生になってから。それまで
はいくら力があっても、試合には出られないという「オキテ」になっている。

 さらにすさましいのが、柔道部や剣道部。さらに野球部など。野球部に至っては、入部時に、
「先生に殴られても文句を言いません」という誓約書を書かせるところがある。私はこうした指
導について、とやかく言わない。今時の子どもを指導するには、それなりの「抑え」がないと、
指導できない。それに親も子どもも、そのやり方に納得しているのだから、私のような部外
者がとやかく言っても始まらない。

 問題はこうした封建意識が、学校の教育現場に微妙に「影」を落としているということだ。ある
いは先生たちのものの考え方に、影響を与えているということだ。幼稚園教育にしても、たいて
いどこの幼稚園も、徹底した年功序列制度を敷いている。古参の先生が、それぞれ派閥をつく
り、若い先生をその配下におさめているところもある。新米の先生が、古参の先生の指導を批
判するなどということは、この世界ではありえない。実はこの私も、幼稚園で働くようになってか
ら、何度、古参の先生に殴られたり、ひっぱたかれたりしたことか。(この話は、ホントだぞ!)

 そしてこうした古臭い体質は、子どもへと受け継がれていく。それはまさに「教えずして教え
る」という、教育のダークサイド。子どもたちもまた、いつしか先生と同じようなものの考え方を
するようになる。いわゆる封建意識の世代伝播がこうしてなされていく。

 私はN教組という組織について、ほとんど知識をもっていない。もっていないが、「左翼」とい
う言葉からは、民主、平等、博愛というイメージを連想する。上下意識のない、平和な世界だ。
日教組というのは、その左翼ではなかったのか。このことをインターネット仲間の一人に相談す
ると、こう教えてくれた。彼自身も、九州のある高校で教壇に立っている。いわく、「マルクス・レ
ーニン主義と言っても、組織の内部には徹底した上下関係がありますよ」と。この彼の一言だ
けをもって、すべてを判断することはできないが、そういう意見もある。つまり、左翼思想イコー
ル、必ずしも封建意識の打破ということには、ならないようだ。

 何でもかんでも外国がいいというわけではないが、欧米には「先輩、後輩」という言葉にあた
る単語そのものが、ない。そういうことも考えると、日本人の平等意識は、100年は遅れて
いるのではないか……と、私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 「上下意識など、クソ食らえ」。人間に上も下も、あるわけがない。そこを原点として、すべて
の人
間関係を改めて、考えなおしてみる。つまり私たちが求める民主主義は、そこから始まる。言
いか
えると、この上下意識が残っているかぎり、日本には、真の民主主義は、訪れない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●指で鼻をさす(教育のダークサイド)

 子どもたち(小学生)は、「自分」を表すとき、指で鼻先を押さえる。欧米では、親指で自分の
胸を押さえる。そこで私はいつごろから、子どもたちが自分の鼻を押さえるようになるかを調べ
てみた。「調べた」というのもおおげさだが、授業の途中で、子どもたちにどうするかを聞いてみ
た。

結果、年長児ではほぼ全員。年中児でも、ほぼ全員。年少児になると、何割かは鼻先を押
さえるが、ウロウロと迷う子どもが多いということがわかった。そんなことで、こういう習慣は、四
歳から五歳ぐらいにかけてできるということがわかった。つまりこの時期、子どもたちは誰に教
えてもらうわけでもなく、いつの間にか、そういう習慣に染まっていく。

 私は何も、ここでジェスチャについて書くつもりはない。私が言いたいのは、教育には、常に
「教えずして教える」という、ダークサイドの部分があるということだ。これはジェスチャという、ど
うでもいいようなことだが、ものの考え方や道筋、思考回路などといったものも、実はこのダー
クサイドの部分でできる。

しかもその影響は、当然のことながら、幼児期ほど、大きい。この時期に論理的なものの考え

を見つけた子どもは、ずっと論理的なものの考え方ができるいようになるし、そうでない子ども
は、そうでない。そればかりではない。この時期に、人生観や価値観の基本までできる。異性

や夫婦像といったものまで、この時期に完成される。少なくとも、それ以後、大きく変化するとい
うことはない。そのことはあなた自身を静かに観察してみれば、わかる。

 たとえば私は、今、いろいろなことを考え、こうして文を書いているが、基本的なものの考え方
が、幼児期以後、変わったという記憶がない。途中で大きく変化したということは、ないのだ。
今の私は、幼児期の私であり、その幼児期の私が、今の私になっている。それはちょうど金太
郎飴のようなもので、私の人生は、どこで切っても、「私」にほかならない。幼児期に桃太郎だ
った私が、途中で金太郎になるなどということは、ありえない。

 もうわかっていただけると思うが、幼児教育の重要性は、実はここにある。この時期に作られ
る「私」は、一生、「私」の基本になる。あるはその時期にできた方向性に従うだけである。中に
は幼児教育イコール、幼稚教育と考えている人がいるが、それはとんでもない誤解である。

 ……と書いたところで、今、ふと、別のことが頭の中を横切った。実は今、ある男の子(小二)
のことが気になっている。彼は男の子なのだが、言い方、ものごしが、女の子っぽいというよ
り、その女の子を通り越して、同性愛者ぽい。まちがいを指摘したりすると、「イヤーン」と甘
ったるい声を出したりする。いくら注意してもなおらない。で、私が悩んでいることは、このことで
はなく、それを親に言うべきかどうかということだ。もうこの傾向は、ここ1年以上続いている。
なおそうとしてもなおるものではないし、さりとて放置しておくわけにもいかない。放置しておけ
ば、彼はひょっとしたら、一生、そのままになるだろう。近く、結論を出すつもりでいる。(以上、
01
年記「子育て雑談」)

(付記)

 教えずして教えてしまうこと。実は、これがこわい。ユングも、「シャドウ」という言葉を使って、

れを説明した。

 たとえばあなたが、本当は邪悪な人間であったとする。その邪悪さをおおいかくして、善人ぶ
って
いたとする。そのときその邪悪さが、その人のシャドウとなる。子どもは、あなたの近くにいるた
め、そのシャドウをそのまま引き継いでしまう。

 要するに、ウソやインチキ、ごまかしや仮面で、いくら善人ぶっても、子どもはだませないとい
うこ
と。子どもは、あなたのすべてを見ている。

 そういう意味で、子育ては怖いぞ〜オ!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●書くという仕事(私の墓石)

 私も若いころ、自分をなかなか認めてくれない世間を逆恨みしたことがある。「世間には人を
見る目がない」「世間はバカだ」と。しかし今になってみれば、これほど甘ったれた考え方は、な
い。私が世間を認めていないのに、どうして世間が私を認めてくれるだろうか。あるいは自分
自身が、他人を受け入れるほどまでに「成熟した世間の一員」ではないのに、どうしてそれを世
間に求めることができるだろうか。

 今でも時々、暇になると、原稿を書いて、あちこちの出版社に送っている。どうせ出版されなく
ても、ダメもと。そんなゆとりがあるから、送り返されてきても、何とも思わない。つまりそうされ
ることに、免疫性ができた。しかし若いころはそうではなかった。送り返してきた出版社を、心
底恨んだ。のろった。はげしい失望感と絶望感に襲われたこともある。「貴殿の原稿は、当社
の企画には合致せず、今回は出版を見合させていただきます」などという、いんぎん無礼な手
紙をもらったりすると、それを震える手で握りつぶしたりした。

 もっともそういうときに感じた悔しさが、それ以後のバネになっているから、それはそれで無駄
ではなかった。「チクショウ」という思いが、次の仕事に結びついていった。が、その私も51歳。

書も、売れない本ばかりだが、20冊を超えた。ペンネームで書いた本も加えると、
30冊以上になる。子ども向けの百科事典や、雑誌の企画、編集もてがけてきた。今はまだ、
その途中だから、ここで結論を述べることもできないが、書くには書いたが、それだけのことだ
ということだ。地位や名声を手にしたわけではない。本を書くと、お金が儲かるだろうと思う人が
いるが、実際には、1冊書いて、30万から50万円。書くエネルギーや、出版までのエネル
ギーを考えると、これほど非効率な仕事はない。趣味か副業のように考えないと、とてもできな
い。

 さて最近、60歳になった人から、こんな相談をもらった。経歴だけは立派な人だ。いわく、
「本を書きたい」と。「ついては手伝ってほしい」と。一時は手伝う気にはなったが、しかし途中
で、できなくなってしまった。私が手伝えば、それは私の本になってしまう。どうしても随所に、私
の思想が入り込んでしまう。ちょうど盗作と逆の現象が、ここで起きてしまう。私は「漏作だ」と
笑ったが、それはそれで、私にとっては都合が悪い。私の書いた本など、トイレットペーパーに
もならないかもしれないが、しかしそれはまさに「私の人生」そのもの。いつかどこかで、私の本
が、逆に盗作したと思われるかもしれない。

 で、最近はこう考えるようになった。「本は私の墓石だ」と。私は無神論者だし、自分の著述
活動を通して、日本の仏教にも疑念を抱くようになってしまった。そうそう宗教論の本も5冊、
書いた。だから、自分が今、ここでこうして生きているという「あかし」を、何とか今、ここにとど
めておきたいと思う。一度、私のような人生観をもつと、あとは毎日が孤独との闘いのようなも
のだ。その孤独と闘うために書く。書くしかない。そういう意味で、今の私には、もうあの世間の
目は、ない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 先日、近くにある陶芸教室をのぞいてみた。骨つぼを作りたいからである。が、もちろん、そ
んな
ことは言わなかった。そこであれこれ説明をしてくれた先生は、さかんにお茶碗を自分で作ると

しいですよ」と言った。が、茶碗なら、ショッピングセンターで買ったほうが、ずっと安い。使い勝
手も
よい。

 私は、骨つぼが作りたいのだ! 自分の骨を入れる骨つぼ、である。

 もちろん1個だけでよい。最初で、最後の、1個だけでよい。だから陶芸教室に、何年も通う
必要
はない。

 「いえ、自分で作りたいものがありますので、それ1個だけを作ればいいのです」と言うと、そ

先生は、「ぞれじゃあ……」と言ったまま、黙ってしまった。「それじゃあ、入会できません」と言
いた
かったのだろうか。それとも、「それゃじゃあ、進歩しません」と言いたかったのだろうか。

 デザインは、決まっている。球形で、その球形の上に、無数の思い出をいろいろなモチーフ
(装
飾)を使って飾る。色は、白を基調にして、淡いパステルカラー風。

 「ロクロを使うのではなく、縄文時代の土器のように、粘土のヒモをクルクルとまきながら作り
たい
です」と説明すると、先生も、少しは納得してくれたよう。「そういう作り方でよければ、その指導

ます」と言ってくれた。

 来年の春になったら、入会しようと思っている。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 1月 11日(No.673)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・子育て談話】(特集)【第3回目】


●天下の大暴論(子ども知らずの教授たち)

 「子どもにはナイフを持たせろ。親が子どもを信頼している証(あかし)として」と書いた、評論
家がいた。あるいは「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子に
させろ」「子どもにやる気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみれば
いい」「夫婦喧嘩は子どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の
尊さを教えるために、お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた、大学の教授が
いる。ともに、日本を代表する(?)、著名な教育評論家であり、教授だ。

 こういう暴論を書くと、本は売れる。またそういう暴論を書かないと、本は売れない。しかし子
どもには、ナイフなど持たせるものではない。幼児教育の現場では、「マッチやカッターで、遊ん
ではいけません」と教える。またわざと子どもを迷子にすれば、それが子どもにわかったとき、
(わからなくても)、親子の信頼関係は、崩壊する。2、3日、家から追い出してみるとよいとい
う考えにしても、実際には実行不可能だ。もしあなたの子どもが、半日いなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。さらに夫婦喧嘩など、子ども
に見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするなら、話は別だが、そんな夫婦がどこにいる
だろうか。

 さて「命の尊さ」だが、命の尊さは、たとえば身の回りの生き物を通して教える。故人の遺骨
を見せるとは、何事か。私は死んでも、私の骨など、誰にも見せてほしくない。もし子どもに教
えるとするなら、それは教えるのではなく、たとえばペットの死などを、ていねいに弔うことで教
える。「死」があるから、「生」がある。「死の恐怖」があるから、「生きる喜び」がある。もしあな
たがペットの死骸を紙でまるめて、ゴミ箱にポイと捨てるようなことがあれば、子どもは、「死」と
いうものはそういうものだと思う。同時に「生」とはそういうものだと思う。が、もしあなたが死ん
だペットを、ていねいに弔い、その死を悲しめば、子どもは同時に、生きていることの尊さを学
ぶ。そしてそれが命の尊さを学ぶということにつながる。

 私はこういう評論家や教授は、実際には、子どもを教えていないのではないかと思う。もっと
はっきり言えば、どこかの研究室の奥で、子どもの世界を想像しながら原稿を書くから、こうい
う原稿になる。が、世間は、こういう評論家や教授の意見をありがたがる。そして心のどこかで
は「おかしい」と思いながらも、それに従ってしまう。

 暴論は確かにおもしろいが、こと子育てに関する限り、この種の暴論にはじゅうぶん注意した
ほうがよい。子育てに王道はないし、近道もない。流行もないし、時代性もない。あるわけがな
い。人間は、何10万年もの間、子育てを繰り返してきたし、その子育てが、ここ10年や1
00年ぐらいで、質的に変化したと考えるほうがおかしい。要するに子育ても、常識の範囲で
すればよいということになる。その常識があれば、子育てがゆがむということはない。(以上、
01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 暴論 教育の暴論)

(付記)

「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子にさせろ」「子どもにや

気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみればいい」「夫婦喧嘩は子ど
もに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の尊さを教えるために、お

参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた大学の教授がいたというのは、事実であ
る。

 最近でも、日本を代表する、教育(幼児教育)者として、別の新しい本を書いている。しかしそ

教授(現在は、元教授)の言っていることが、いかに暴論であるかは、ほんの少しだけ常識を
働か
せてみれば、わかるはず。

しかしその本を読んだのがきっかけで、私も育児論を書く気になった。体中に充満した怒りを、
抑えることができなくなった。恐らくその教授は、肩書きはともかくも、実際には、子どもを指導

た経験がないのではないか。経験がほんの少しでもあれば、とても、そんな本は、書けない。

また「子どもには、ナイフをもたせろ」(A新聞社刊行の小冊子)と書いた評論家は、そのあと、

手なパフォーマンスをいろいろしてみせた。が、その直後、中学校などで、ナイフ殺傷事件がつ
づくと、その評論家は、自説をいつの間にか、ひっこめてしまった。

ときとして、こうした暴論が、社会をにぎわす。そのほうが、(受け)がよいからである。それを読
む親たちは、じゅうぶん、注意したほうが、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学級崩壊の陰で(学校教育相対論)

 「わしら昔は、学校へ行くのが楽しみだった。学校へ行けば、家の仕事はしなくてすんだから」
と。引佐町(静岡県)で石材屋をしているK氏は、そう言う。私にも、それに似た覚えがある。
たとえば学校の運動会や遠足が、何よりも楽しみだった。運動会には、巻き寿司を食べること
ができた。また当時は、学校で遠足に行くこと以外、旅行で町を出るということはまずなかっ
た。学校で出される給食のほうが、家の食事より、ずっとおいしかった。

 しかし今は違う。子どもにとっては、毎日が盆と正月のようなものだ。食べ物も豊富だし、家
族旅行も、そのつど、している。学校の外には、おもしろいものが、山のようにある。つまり相
対的に、学校の地位がさがった。と、同時に相対的に、学校がおもしろくなくなった。

 幼稚園児とて例外ではない。少しでも作業っぽい学習をさせようものなら、すぐ「つまんナ〜
イ」とか、「もっと、おもしろいの、ナ〜イ?」とか、言い出す。それでも無理に刺せようとすると、
勝手に席を離れて、どこかへ行ってしまう。あるいはほかの子どもを巻き込んで、騒ぎ始める。
最近の子どもは忍耐力がないとよく言われるが、ないと言えば、まったく、ない。

 誤解がないように言っておくが、子どもの忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。たとえ
ば台所の生ゴミを手で始末できるとか、寒い夜に隣の家に回覧版を届けることができるとか。
そういうことを平気でできる子どもを、忍耐力のある子どもという。一日中、サッカーをしている
からといって、忍耐力のある子どもということにはならない。その子どもは好きなことをしている
だけである。

 こうした子どもたちを取り巻く環境の変化に対して、学校教育は、それに応えていない。旧態
依然のまま、30年前、あるいは40年前の教育を繰り返している。子どもたちに「おもしろく
ない」とソッポを向かれても、「子どもたちのほうが、おかしい」と言わんばかりに、文部省も、そ
して学校の教師たちも、努力を怠ってきた。結果、これはあくまでも相対的な変化だが、学校
教育がつまらないものになった。K氏の時代には、学校へ行くのが楽しかったが、今は反対
だ。「明日は学校は休みです」と先生が言おうものなら、子どもたちは、大声で「バンザーイ!」
と叫ぶ。学校が休みになることについて、それを悲しむ子どもなど、まず、いない。

 これだけではないが、つまりほかにも、いろいろな要素がある。が、しかし私は、これが学級
崩壊の大きな原因の一つだと思う。それは自由を知った小鳥を、再び籠の中に押しこめるよう
なものだ。押しこめれば押しこめたで、子どもたちにはストレスがたまる。そしてそのストレス
が、形を変えて校内暴力やいじめに発展する。唯一、子どもをしめつける手段があるといえ
ば、受験でおどすことだが、今はその神通力も消えつつある。

 このままでは学校教育は、完全に崩壊する。あるいはその前に、学校の教師たちが皆、神
経症か何かで倒れてしまう。現在、学校がかかえる問題は、それくらい根が深い。(以上、01
年記
「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いたあと、「ゆとり教育」が叫ばれるようになり、「総合的な学習」の時間がもう
けら
れるようになった。

 学校教育も、質的に大きく変動し始めた。今は、その過渡期にあると考えてよい。もちろん失
敗も
あるだろうが、試行錯誤の段階と考えるべきではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司


●恐るべき集団性(思考回路の形成)

 80〜90%の子ども(年長児から小2児)が、「ポケモン」にはまった(99年春)。その前
は、やはり同じくらいの子どもが、「たまごっち」にはまった。この原稿を書いているとき(99年
3月)には、「だんご3兄弟」という、たわいもない歌が、子どもたちの世界を支配し始めてい
る。

 私たちの時代にも、フラフープや、ダッコチャンが、流行したことがある。そういう時代を知っ
ているから、今の時代だけが特殊だとは思わない。しかしどこか違う。私たちは流行にハマり
ながらも、流行は流行として、現実の世界との間に、一線を引いていた。……引くことができ
た。しかし今は、違う。

子どもたちは流行にハマりながら、現実と空想の間の垣根をとっぱらってしまう。そして現実の
世界に、空想、あるいは空想の世界に、現実を持ち込んでしまう。あるいは空想の世界に、逃
げ込んでしまう。そういう子どもが少数派であれば、まだいい。互いにブレーキをかけることが

きる。しかしそれが全体となったとき、ブレーキをかける人間がいなくなってしまう。子どもたち

暴走するまま、仮想現実の世界に入り込んでしまう。

 「超能力がほしい。そういう力があれば、ビルを吹き飛ばすことができる」と言った子ども(中
1)が
いた。そこで私が、「吹き飛ばしたいと思うのは、君の勝手だが、それが君の家だった
ら、どうするのだ」と聞くと、「ぼくの家は、だいじょうぶ。超能力で守るから」と。ずいぶんと身勝
手な考え方だが、そう答える子どもは真剣だ。真剣にそういう「力」があることを、信じている。
信じた上で、自分の論理を組み立てる。が、問題はここから始まる。

 脳には思考回路というものがある。人間は自分の思考回路に従って、ものを考えるという傾
向がある。たとえばかつて和歌山市で、「ヒ素中毒事件」というのがあった。誰が犯人かは知ら
ないが、犯人は「ヒ素でものごとを解決する」という手法を見につけた人物であることには、まち
がいない。ヒ素と遠い距離にある人には、想像もつかない。が、その犯人は、ヒ素と、近い距離
にあった。……と思う。ほかにたとえば私は物を書くのが仕事だから、何か問題があれば、文
を書くことによって解決しようとする。つまりそれぞれ自分の思考回路に従っているにすぎな
い。

 一度、仮想現実の世界でものごとを考えるくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そ
の思考回路に沿ってものごとを考えようとする。あるいは問題を解決しようとする。これがこわ
い。たとえば幼児期に論理的なものの考え方を見つけた子どもは、ものの考え方が論理的に
なる。そうでない子どもは、そうでない。つまりこの時期に、仮想現実の世界でものごとを考え
るくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そういう世界でものごとを考えようとする。そし
てそれが、いつカルト(狂信)へと発展するかもしれない。

 私は子どもたちの流行を見ながら、それを心から心配している。(以上、01年記「子育て雑
談」) 

(付記)

 この日本では、テレビゲームを批評したり、批判したりすると、たいへんなことになる。猛烈な

議の嵐がわき起こる。珍現象といえば、珍現象。しかも抗議してくるのは、20代を中心とした
若者
たちである。

 ゲームの世界にハマっている若者たちにすれば、そのゲームが批評されたり、批判されたり
する
ということは、自分を否定されるのと同じということになる(?)。だから猛烈に反発する(?)。
私の
ほうは、親切心で、「ゲームには、あぶない部分もありますから、注意したほうがいいですよ」
「とく
に子どもに与えるゲームには、注意したほうがいいですよ」と言っているだけである。が、それ
に対
して、反発とは!

 私の息子の友人などは、ゲームにはまりすぎて(?)、現在、おかしくなってしまった青年すら

る。精神病院に入退院を繰りかえしながら、もう3か月になるという。そういう事実があること
も、忘
れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●国家論(よき家庭人)

 欧米の子育ての柱は、「自立したよき家庭人を作る」こと。このことについては、もう何度も書
いたが、「家庭人」と言うと、日本人は、すぐ「小市民的な生き方」を連想する。しかし家庭人イ
コール、小市民ではない。

 たとえば戦争が起きたとする。そして他国が日本を侵略してきたとする。そのとき日本人は、
「国のために戦う」と言うかもしれない。しかし欧米人は、「家族を守るために戦う」と言う。あの
ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」でも、最後のシーンの中で、主人公のアメリカ人は、
「(国のためではなく)、マリアのためになら死ねる」と叫んで、機関銃を撃ち続ける。

 「国」という言葉が出たので、もう少しつけ加えるなら、日本人は「国があっての国民」と考え
る。一方、欧米人は、「家族を守るために、その集合体としての国がある」と考える。もう少し具
体的には、戦前の日本では、「国」というのは、「天皇」をさしていた。(今も、そう考えている人
は多い。)つまり私たち国民は、あくまでも天皇の臣下に過ぎない、と。

しかし欧米人にとっては、国というのは、あくまでも一つの単位に過ぎない。オーストラリアの友
人とこんな会話をしたことがある。「君たちは北からインドネシア軍が攻めてきたら、どうする
か」
と聞いたときのことである。彼はこう言った。「故郷のスコットランドへ家族を連れて逃げる」と。

こで「国を守らないのか」と聞くと、「オーストラリア人が横一列になって手をつないでも、オース

ラリアの端から端まで、カバーできない。どうやって守ることができるのか」と。彼らが国を意識
するとすれば、それは思い出のしみこんだ国土をさす。日本人のように、抽象的な概念として

「国」を想定しない。

 こうした国民意識の違いは、そのまま教育の場にも反映される。日本は明治以来、「国(=天
皇)のための国民づくり」が、教育の柱になっている。今もそうだ。国が栄えれば、国民も自動
的に豊かになれる。あるいは企業が栄えれば、社員も自動的に豊かになれる。宗教団体の中
にも、そう考える教団は多い。教団が栄えれば、信者も自動的に幸福になれる、と。さらに県レ
ベル、市町村レベルでも、そう考える人も多い。つまり教育は、常にそういう視点、言いかえる
なら全体主義的な視点で、子どもをとらえてきたし、今もとらえている。しかし、こんな考え方
が、21世紀に通用するはずがない。

 「よき家庭人」というのは、まさに個人主義的な生き方そのものを象徴する。また子どもにそう
教えたからといって、それは決して、子どもに「小さくまとまれ」と教えるのでもない。「よき家庭
人」というのは、「まず自分を大切にせよ」と教えることをいう。そしてその視点で、社会を考え、
国を考え、また社会や国がどうあるべきか考えよと教えることをいう。繰り返すが、国や社会が
あるから、あなたがいるのではない。あなたがいるから、国や社会がある。そういう視点の基
本となるのが、ここでいう「自立したよき家庭人」という考え方なのである。(以上、01年記「子
育て
雑談」)

(付記)

 家族主義を主張する人たちが、ここ5、6年の間に、急速にふえてきた。99年前後には、ど
んな
調査をみても、30〜40%だったのが、最近では、80%以上の人が、家族主義を唱えるよう
にな
った。日本人の意識が、革命的に変化しつつあることを示す。

 考えてみれば、当然のこと。今までの出生主義、権威主義のほうが、まちがっている。幸福な

というものは、遠くにあるのではない。私たちの身のまわりに、じっと息をひそめて、そこにあ
る。そ
れに私たちは、気がつき始めた。

 そのため、これまた当然のように、「国」に対する考え方も、変わってくる。今までは、「国あっ

の民」と考えた。しかしこれからは、「民あっての国」と考える。つまり日本人も、やっと、民主主

の意味がわかるようになった。

 こうした(流れ)に対して、もちろん抵抗勢力もある。旧態依然の考え方に、固執している人も
いる。
決して、年配の人たちばかりではない。が、ここで重要なことは、こうした(流れ)を、私たちは、

ることはあっても、決して、後退させてはならないということ。

 国、民、そして国の基本法である憲法のあり方は、その結果として、自然に決まる。
(はやし浩司 国家論 民主主義 民主主義論 家族主義)

Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司


●一流大学は出たけれど……(ゆがんだエリート意識)

 こんなエピソードが、新聞に載っていた。ある東大の学生が、就職試験で落ちた。それについ
てその学生が、「どうして私をとらないのか」と聞いたら、その試験担当の社員はこう答えたとい
う。「君は、もっとも一緒に仕事をしたくないタイプの人間だから」と。

 学歴さえあれば何とかなる時代は、もう終わった。あるいは学歴をひけらかして生きる時代
は、もう終わった。この私にもこんな経験がある。もう20年以上も前のことだが、私は小さな
翻訳事務所を出していた。そこでのこと。時々、外部の人に仕事を頼んだことがあるが、4年
制の英文科を出た人は、まったく役にたたなかった。むしろ外国で数年、遊んできた人のほう
が、ずっと役にたった。実戦力もあった。通訳についても同じ。

 こう書くからといって、教育を否定しているのではない。私が否定しているのは、立身出世主
義のために利用される教育だ。学歴させ身につけておけば、社会的地位や名誉、さらには富
を手にすることができるという考えだ。こういう考えで、教育が利用されたら、たまらない。

 私の同年齢で、T大やK大を出た人が何人かいる。一緒に仕事をしてきた人も多い。たとえ
ばあの出版社のS社にしてもG社にしても、東大や筑波大の社員がゴロゴロしている。大半が
そうであると言っても過言ではない。ただ救いなのは、そういう人たちでも、ごくふつうの社員と
して、仕事をしているということだ。特別のエリート意識を感じさせる人はいない。世間を「下」に
見ているということもない。大企業か中小企業かの違いを除けば、私の町にある会社の社員
と、区別がつかない。

 高い学歴があるなら、あるでいい。しかし人間は、その中身。その中身で決まる。そういう意

で、大学を卒業したら、知識や学力(学ぶ力)だけを残して、一度、学歴を捨ててみることが大
切で
はないか。あるいは学歴そのものを忘れてしまう。そして一度、裸になったところからスタートす
る。

 日本のエリートは、エリートはエリートでも、何かが欠けている。冷たいというか、ドライという
か、どこか人間味が薄い。ものごとをソツなく、合理的にできるが、万事、事務的。その理由を
すべて受験勉強にもっていくことはできないが、私は、あの受験勉強が大きな影響を与えてい
ると思う。勝てば勝ったで、へんなエリート意識をもつし、敗れれば敗れたで、へんな挫折感と
劣等感を植えつけられる。どちらにころんでも、それは人間が本来もっているはずの、「やさし
さ」とは、相容れないものだ。
もちろん子どもたちには罪はないが、問題は子どもたちのCPU(中央演算装置)が狂っている
ため、子ども自身が自分の「狂い」に気がつかないことだ。それが本来の人間の姿であり、ま

それが当然だと思いこんでしまう。そしてそのままそれを、次の世代に伝えてしまう。そして冒

に述べたような大学生を作ってしまう。つまり「勉強ができれば、社会は自分を優遇すべきだ」

いう、実に鼻持ちならぬゆがんだ、エリート意識をもってしまう。  (以上、01年記「子育て雑
談」)  

(付記)

 中国には、「小皇帝」と呼ばれる子どもたちがいるそうだ。裕福な家庭に生まれ育ち、勉強し
か、
しない。勉強しか、できない。勉強だけがすべてで、家庭の中では、皇帝のように振る舞ってい

子どもたちである。

 先日もそういう子どもがテレビ(NHK)で紹介されていたが、まさに「皇帝」といった感じだっ
た。
自分は学校から帰ってくると、デンとソファに座っているだけ。そこへ母親や父親が、かしづくよ

にして、お菓子や果物をとどける。

 ……実にこっけいなシーンだったが、20年前、30年前には、この日本でも、同じようなシー
ンが、
あちこちの家庭でも見られた。中国は、そういう点では、日本の20年、30年前を再現している

かもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●幼稚園児のかけ算(見かけの力)

 幼稚園児でもかけ算の九九を、ペラペラとソラで言うことができる子どもがいる。同じように足
し算や引き算を、スラスラすることができる子どもがいる。あるいは本をスラスラと読むことがで
きる子どもや、漢字を読み書きできる子どもがいる。そういう子どもを見ると、「優秀な子ども」
と思いがちだが、本当にそうか。私にはこんな経験がある。

 ある日のこと。年長児になったばかりのTさんが、本をもってきて、それをスラスラと読んでみ
せた。そこで私は別の本を渡し、「これを読んでみてごらん」と言うと、Tさんは、その本もスラス
ラと読み始めた。私はTさんをほめたが、しかしすぐ、それがまちがいであることに気がつい
た。私が「どんな話だったの?」と聞くと、Tさんは、「わかんない」と。そこでさらに「クマさんはど
こへ行ったのかな?」と聞くと、それも「わかんない」と。Tさんは、文字を音に変えていただけだ
った。

 ついでに言うと、読みの深い子どもは、むしろ一文ずつ意味を考えながら読んだり、挿し絵を

て考えながら読む。子どもにとって大切な「力」というのは、そういう力のことをいう。が、親たち
はそれがわからない。わからないから、いわゆる見かけの力でも、それが力だと思いこんでし
まう。幼児ばかりではない。この傾向は大学へ入るまで続く。

子(小5)「分数の割り算ができるよ」
私「ほう、それはすごいね。それは小学6年生が、勉強するところだよ。どうやってやるの?」
子「分数をひっくり返して、かければいい」
私「なるほど。でもさ、どうしてそうすればいいの?」
子「わかんない」

 話を少し戻すが、計算力は訓練によって伸びる。できない子どもはできないが、しかしそうで
ないなら、訓練によって伸びる。少しずつでも毎日すれば、効果的だ。しかし計算力は計算力。
それだけのものであって、それ以上のものではない。が、問題はここから始まる。

多くの親は、そういう表面的な力(?)を見て、自分の子どもは算数が得意だと思う。そしてそ

を前提にして、子どもの勉強を組み立てる。そして少しでもその力に陰りが見えたりすると、無
理をする。あるいは新たな学習を強要する。そして一度こういう状態になると、親にも子どもに
も、
安らかな日々はもうない。山のようなワーク。転々と移り変わる教育方針。そしてお決まりの塾
めぐ
り。

 こういうケースでは、最終的に行きつくところまで行かないと、親は気づかない。子どもが多少
できるようになればなったで、親の意識はさらに先へ行く。一度できたものの考え方、つまり子
育ての筋道というのは、そんなに簡単に変えられるものではない。「小さいころは、もっとでき
た」「うちの子は、やればできるはず」「こんなはずは、ない。何かのまちがいだ」を繰り返しなが
ら、行きつくところまで、行きつく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 子どもに、見かけの力をつけることは、それほどむずかしいことではない。説明すると長くな
るが、
しかしそれをすると、今度は、子どもに、依存性ができてしまう。

 家庭教育の柱は、「よき家庭人として、子どもを自立させること」だが、同じように、教育の柱
は、
「子どもの心に灯をともし、その能力を引き出すこと」。

 そのためには、ある時期がきたら、子どもを自立させなければならない。「こんな先生に習うく

いなら、自分で勉強したほうが、まし」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。そういう方
向に、
子どもを、誘導していく。

 それに見かけの力は、いわばメッキのようなもの。やがてすぐはがれてしまう。子どもの本当

力は、子ども自身が、自ら自分の力を引き出そうとしたときに発揮される。時間はかかるが、
そう
いう力を、ていねいに育てていく。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ドラ息子(N君の場合)

 生意気で、教師を教師と思わないような生徒がいる。態度もおうへいで、ふてぶてしい。その
くせわがまま。おとなの世界そのものを、なめきっている。こちらからあいさつをしても、「フン」
と横を向いたりする。概してこのタイプの子どもは頭がいい。何かを教えようとしても、「そんな
の知ってっらア」と、吐き捨てたりする。

 その分、生活を楽しんでいるかと思いきや、不平、不満だらけ。何かにつけて、「たいくつだ」
「つまらない」「もっと、おもしろいことはないか」「何かほしい」「何かしてよ」を繰り返す。口をと
がらせて、露骨に不快感を表現することも多い。いわゆるドラ息子だが、N君(小三)も、そんな
タイプの子どもだった。

 両親は共働きだったが、同居している祖父母に、N君は溺愛された。恐らく幼児期において
は、蝶よ花よとかわいがられ、何一つ家事の手伝いはしなかったのだろう。使った道具を片づ
けさせようとしても、両手を下へくるりと巻いて、それを見おろすだけ。片づけようという意識そ
のものが、ない。ほかの子どもの使った道具について、「一緒に片づけてよ」と指示しようもの
なら、「何で、ぼくがしなきゃア、いかんよオ!」と、大声で抗議したりする。 

 こういう生徒と対峙すると、相当気の長い教師でも、頭にくる。大のおとなが、どうしてこんな
子どもを相手にしなければならないなかとさえ、考えたりする。いや、自分がなさけなくなる。
「教育なんて、やっておられるかア!」という気分にすら、なる(失礼!)。

 しかし問題はそのことではなく、親自身に、その自覚がまったくないことだ。親は自分の子ど
もしか見ていない。N君が一人息子だったこともある。教師というのは、それぞれの子どもを比
較しながら、その子どもの位置づけをすることができるが、親にはそれができない。そういう
「問題のある子」でありながらも、それに気づくことがない。せいぜい私が言えることは、「もっと
家事を手伝わせなければいけない」という程度のことでしか、ない。が、それとて、この年齢
になると、手遅れ。だから自然と口が、重くなる。

 そのN君は、小学4年生になるとき、私の手を離れたが、彼の将来を予測することは、そん
なに難しいことではない。このタイプの子どもはいくらでもいる。私も、何10例と経験してき
た。で、その予測。まずこのタイプの子どもは、やがてすぐに家の中でも、手がつけられなくな
る。親は、そういうわがままな態度に手を焼くが、体力的にも、もう追いつけない。「うるせエ!」
とすごまれただけで、震えあがってしまう。そして親の期待と夢はことごとくつぶされ、結果的に
は、「人様に迷惑さえかけなければ……」というレベルまで、落ちる。

勉強については、そこそこにはできるようになるが、あくまでも「そこそこ」。本人も、自尊心と現
実のギャップで悩むのだろうが、しかし自分自身に原因を求めない。おとなになってからも、社
会や世間、あるいは親を逆恨みしながら、不平、不満タラタラの人生を送る。要はそういう子ど
もにしないこと。そういうことを知ってもらいため、私はこの原稿を書いた。(以上、01年記「子

て雑談」)

(付記)

 教えていて一番、虚しさを感ずるのは、いわゆる、ドラ娘、ドラ息子に接したときである。この
タイ
プの子どもは、たとえば料理人が、丹精(たんせい)こめて作った料理を、食い散らすようなこと

平気でする。いくらお金のためとはいえ、がまんするにも限度がある。

 そこで私のばあいは、(つまりBW教室では)、小学生以上の子どもについては、紹介のある

以外は、入塾を認めていない。実際には、小学生になってから入ってくる子どもは、ほとんど、
いな
い。

 こうしたドラ息子、ドラ娘になるかどうかの分かれ道は、年中児から年長児にかけてある。つ
まり
この時期の指導が、きわめて重要。

 で、今、この原稿を読みなおしながら、なぜN君はN君のようになってしまったかについて考え

いる。が、そのN君は、たしか、小学2、3年のときに、私のところにやってきたのではなかった
か。
決して責任のがれをするわけではないが、私のところへきたときには、すでに、手のほどこしよ

がないほどのドラ息子になっていた。

 それにこのN君の話は、今からもう10年以上も前の話である。なぜ4年前に、そのN君のこ
とを
書いたのか、よくわからない。多分、何か、いやなことがあって、そのうさ晴らしのために、この

稿を書いたのだと思う。自分の生徒のことを、こうして悪く書くのは、私のやり方ではない。それ

今、読みかえしても、どうも、あと味が悪い。

 削除することも考えたが、これも、私の(一部)。このままこの原稿を、ここに残しておくことに

る。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●「女」になる子どもたち(これも時代の流れ?) 

 女子の性体験は、16歳がピークだという。それはそれとして、その子どもがセックスを経験
しているかどうかは、男の教師なら、すぐわかる。「男を見る目つき」そのものが、ほかの子ど
もと違う。ものの言い方や考え方が、「男」をなめた感じになる。「今度のテストは、がんばった
か?」「フフフ、いいじゃん、どうでも……フフフ」と。

 Tさん(中3)が、大きく変化したのは、中学2年の夏ごろだった。ある日爪を見ると、マニキ
ュアをしたあとがついていた。眉にソリを入れ、しかもかすかだが口紅をしていることもわかっ
た。Tさんは、明らかに「おとなの世界」で遊び始めていた。どういう形で遊んでいるかは、私に
はわからなかったが、携帯電話を始終大切そうに持ち歩いていたから、そういう方面で遊んで
いることは、察しがついた。

 こう書くとTさんのことを、不良(?)と思う人がいるかもしれないが、そういうことはまったく、な
い。頭もよかったし、勉強もまあまあできた。家庭もごくふつうだった。いや、両親が別々に外
車を乗り回していたから、平均的な家庭よりもずっと裕福だったかもしれない。いつかTさん
が、「おやじのマンション」と言ったのを覚えている。父親はマンション経営もしていた。そのTさ
ん、性格も明るく、何かにつけて、大声でよく笑った。

 が、この種の問題は、止めて止められるものではないし、親に言えば、かえってやっかいなこ
とになってしまう。男の「カン」だけで、子どもの指導はできない。そこで私は何度かTさんに、ア
ドバイスを試みた。「同年齢の男の子とつきあったら」と。しかしTさんは、同年齢の男子を、「ガ
キんちょ」と呼んだ上、「あんなガキんちょたち、つまんない」と。そしてこの傾向は、Tさんが中
学3年生になるころには、もっと激しくなった。まさに遊びまくっているといった感じになった。

もうそのころになると、筆箱の中の指輪類を隠そうともしなかった。私が「これは何だ?」と、
指輪の一つをつまんで声をかけると、「いいじゃん」と、あやしげな目つきで、それを私の手
からパッと取り返したりした。もしその場だけのやり取りを見た人がいたら、どこかのスナッ
クか、バーでの男と女の会話だと思ったかもしれない。私自身がドキッとするほど、Tさんの
目つきは「女」のそれになっていた。

 こういうケースを、あなたならどう考えるだろうか。またどうTさんを、どう指導したらいいと考え
るだろうか。あるいは、そもそも指導する必要があるのだろうか。ないのだろうか。男と女で
は、判断のしかたも違うだろう。ある人(女性)は、「親のほうから相談があるまで、放っておくし
かないわね」と言った。また別の人(女性)は、「それも時代の流れでしょうか」と笑った。私は男
だから、もう少しシビアな見方をするが、正直言って、まったくわからない。ただ言えることは、T
さんは今、高校2年生だが、今は何ごともなかったかのように、ごくふつうの学生として、学校
に通っている、ということだ。いやいや、男と女の関係などというのは、もともとそういうものかも
しれない。セックスを楽しむことを、悪と決めてかかるのも、正しくないのかもしれない。

それぞれの子どもは、それぞれの方法で、おとなになっていく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 少し前だが、道で、男子高校生の落としたサイフを拾ったことがある。中を見ると、その学生
証の
ほかに、コンドームが2つ、入っていた。

 それを見て、そのサイフを交番へ届けるのが、バカ臭くなった。それでそのサイフを、落ちて
いた
ところの近くにあった自動販売機の上に、のせた。

 今は、そういう時代である。で、この話を、私の生徒(当時、女子高校生)にしたら、その生徒
は、
こう言った。

 「先生、あのね、放課後の教室って、ラブホテルみたいよ」と。「学校の先生は、何も注意しな

のか?」と聞くと、「だって、先生はこないもん」と。

 こういう問題でカリカリする、私のほうが、おかしいということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●臭い街(相対性理論)
 
 アインシュタインは、相対性理論を唱えた。そんな高尚な理論ではないが、反対の立場で見
ると、ものの価値観が180度変わるということはよくある。

 引佐郡引佐町のT村に住んでいる婦人が、こう教えてくれた。「町の空気は臭いですね」「先
日もアクトタワー(駅前の高層ビル)へ行ったのですが、通路を歩いているだけで、吐き気を覚
えました。食堂からの臭いがあちこちからしてきて、気持ちが悪くなりました」と。

 こういう感覚は町の中に住んでいる人には、当然のことながら、わからない。それに慣れてし
まっているからだ。そういう意味で、「慣れ」というのは、こわい。自分たちのまわりの様子がわ
からなくなる。そしてそれを前提として、ものごとを考えるようになる。

 そのアクトタワーだが、建設費だけでも2000億円とも、3000億円とも言われている。
あの東京の国立劇場が400億円で建設されているから、いかに莫大な額かが、それでわか
る。で、このことを市の役人に話すと、その役人は笑ってこう話してくれた。「はやしさん、そんな
ものじゃ、ありませんよ」と。もっとお金がかかったというのだ。「土地代は別ですから」と。

 さらに、そのアクトタワー。人の通りもまばらで、楽器博物館にしても、閑古鳥が鳴いている。
「音楽の町にふさわしい建物を」と意気込んで建てられたものの、地下に大小、二つのホール
があるにすぎない。建設費を床面積で割ると、百万円の札束を敷きつめたほどのコストがかか
っているという。

 何となくグチになってしまったが、私が言いたいのは別のことだ。町の人間が「町」を考える
と、こういう町づくりになってしまう。そこで私はふと、こんなことを考えた。T村の住人が町づくり
を考えたら、どんな町を作るか、と。彼らがまず真っ先に考えるのは、「臭くない町」だろうと思
う。

具体的には、田舎の様子をそのまま町へ持ちこむ。土や緑をそのまま町へもちこむ。ちょう
ど町の建設業者が、村の土手や小川を、灰色のコンクリートで埋めつくすように、その反対の
立場で、町を土や緑で埋めつくす。互いにそのほうが、居心地がいいからだ。と、考えると、日
本の社会は、実に都会優先にできていると思う。町の価値観が田舎へ来ることはあっても、田
舎の価値観が、町へ入ることはまず、ない。都会らしい田舎づくりをすることはあっても、田舎
らしい都会づくりをすることは、まず、ない。

先の臭いにしても、都会の人が田舎へやってきて、「おいしい空気ですね」と言うことはあって
も、
田舎の人が町へやってきて、「臭いですね」とは、言えない。心の中でそう思っても、それを口

出して言えない。田舎の人がせいぜいできることと言えば、口をタオルでおさえ、顔をしかめな
がら、その場から急ぎ足で立ち去ることでしかない。

 町の人は、自分たちはいい生活をしていると思うのは勝手だが、一度、田舎の人の目で、自
分を見てみるとよい。ものの価値観がひっくりかえるということはよくあるし、新しいものの見方
ができるようになるかもしれない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 都会優先型の社会構造そのものに問題がある。行政にせよ、文化にせよ、すべてが都会側
から
一方的に、地方へ流れてくる。反対に、地方から、都会にそれらが向うことは、めったに、な
い。が、
こればかりは、いかんともしがたい。

 しかし何も問題意識をもたないのと、問題意識をもつのとでは、ものの考え方が変わってく
る。と
きには、田舎の中に自分の視点を置いて、ものを考えることも重要なことだと、私は思う。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●笑わない子どもたち(萎縮する心)

 子どもというのは皆、大声で笑うもの……と考えているなら、それはまちがいだ。今、大声で
笑えない子どもが、ふえている。10人に2、3人はいる。皆がドッと笑うようなときでも、顔を
そむけてクックッと笑ったりする。原因はいろいろあるが、それだけ心がゆがんでいるとみる。

 まず第一に、過干渉。威圧的な子育て、権威主義的な子育てが日常化すると、子どもの心は
内閉する。次に育児拒否。家庭崩壊や暴力的なしつけが原因で、内閉することもある。最近で
は、「機能不全型家庭」がふえている。家庭が本来果たすべき機能そのものが、欠落している
家庭だ。母親がパチンコに狂う、父親が仕事人間で、家庭を顧みないなど。生活が混乱してい
て、秩序そのものがない。朝食、夕食といっても、時間もめちゃくちゃで、しかも「食」としての形
がない。テーブルの上に、食べかけのパンがころがっているだけ、というように。子どもは満た
されない愛情への欲求不満から、自分の心を傷つける。情緒や精神状態そのものが不安定
になることも珍しくない。

 神経症や脳の機能的障害が原因となることもある。自閉傾向やかん黙傾向のある子ども
は、心のそのものにマクがかかったようになり、いわゆる「何を考えているかわからない子ど
も」になる。自閉傾向のある子どもは、自分の世界に陶酔してしまうので、意思の疎通そのも
のができなくなる。こちらからの働きかけに反応して笑うこともあるが、それが突然であったり、
あるいは場違いなほどおおげさであったりする。ギャーギャーと、勝手に騒ぐこともある。また
かん黙傾向のある子どもは、いつももう一つの心が、別のどこかにあるような感じになる。いつ
も柔和な笑みを浮かべたまま、それでいてまったく話さない。

 子どもは笑わせる。何でもないようなことだが、子どもは大声で笑うことによって、心を開放さ
せる。裏を返して言うと、大声で笑うだけでも、子どもの心がまっすぐ伸びているという証拠だ。
そこでいよいよ本論だが、あなたの子どもはどうだろうか。幼稚園や小学校での様子はどうだ
ろうか。先生の話を聞きながら、大声で笑っているだろうか。それとも笑っていないだろうか。
笑うことはないしにしても、大声で反論したり自分の意見を言っているだろうか。それとも静か
だろうか。

 もしあなたの子どもが静かで、大声で笑うこともないようであれば、あなたは家庭教育のあり
かたを、おおいに反省してみる必要がある。中には「子どもというのは、生まれながらにそうい
う性質は決まっている」と考える人がいるが、それはとんでもない誤解である。子どもは(おとな
も)、生まれながらにして、大声で笑ったり、話したりすることのほうが、自然な姿だ。

 繰り返すが、幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときは、従順でおとなしい子どもを
すなおな子どもとは、言わない。自分の思っていることを、ハキハキと言うことができる子どもを
すなおな子どもという。これも誤解がないように。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 『笑えば、伸びる』……それが私の指導法の柱にもなっている。笑うことには、不思議な力が
ある。
その(力)は、大脳生理学の分野でも、近年になってつぎつぎと証明されつつある。

 また「学習」という分野においても、笑うことによって、子どもの中に、前向きな姿勢が生まれ
てく
る。私は、ときには、1時間中、幼児たちを笑わせつづけることがある。大声で、ゲラゲラ笑わ
せつ
づける。

 コツがある。

 子どもを笑わせようとしても、あまり意味がない。それでは、子どもは、笑わない。私自身が、
とこ
とん、楽しむ。楽しんで笑う。そのウズの中に、子どもを巻きこんでいく。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●養殖される子どもたち(牙を抜かれる子ども)

 岐阜県の長良川。その長良川の鮎に異変が起きて、久しい。その鮎を見続けてきた1人の
老人は、こう言った。「鮎が縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住む、N氏である。「最近
の鮎は水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。原因というより理由は、養殖。この
20年、長良川を泳ぐ鮎の大半は、稚魚の時代に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられた鮎だ。
体長が数センチになったところで、毎年3〜4月に、長良川に放流されている。人工飼育とい
う不自然な飼育環境が、こういう鮎を生んだ。しかしこれは鮎という魚の話。実はこれと同じ現
象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッチボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、焚
き火が予想以上に燃えあがったとき、「こわい!」と逃げてきた男子がいた。小さな虫が机の
上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では、大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組み合いの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。カプセル化というのは、家族の中だけでしか通
用しない価値観の中で生きることだ。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるい
は他人に心を許さない。カルト教団の信者のように、その内部ではわきあいあいと仲がよい。
「私たちは正しい」という信念のもと、返す刀で、他人には「あなたはまちがっている」と言い切
る。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
どうしの悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭から抑えつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。嘘だと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風景
を観察してみればいい。最近の子どもはみんな、仲がいい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それぞ
れが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そ
のボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほか
の子どもたちは、そのボスの命令に従って砂の山を作ったり、あるいは水を運んでダムを作っ
たりした。もしそういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、
そいつを追い出したりした。

 平和で、のどかに泳ぎ回る鮎。見方によっては、縄張りを争う鮎より、ずっといい。理想的な
社会だ。すばらしい。すべての鮎がそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間どもの傲
慢な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでいいのか。それが鮎の本来の姿
なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ときどき、わんぱくで、たくましい子どもをみかける。30年前には、まだそういう子どもが多か
った
が、今では、そういう子どもは、むしろ少数派。そのため、集団の中では、目立ち、そのため、
ほか
の父母からは、白い目で見られること多い。

 しかし子どもというのは、ADHD児が見せるような多動性は別として、わんぱくで、自己主張

強ければ強いほど、あとあと、伸びる。たくましく成長していく。このタイプの子どもは、集団から

み出るという理由だけで、決して抑えこんでしまってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●カプセル家族(心のさみしい人たち)

 自分の価値観だけで生きる家族、それがカプセル家族。言葉の上では、それで説明できる
が、その言葉の裏には、とてつもないほど巨大な問題が隠されている。しかしここでいうカプセ
ル家族は、どこかの国の、どこかの町の、ある特殊な家族をいうのではない。あなたの周囲に
もいくらでもあるし、あなた自身の家族がそうである可能性は高い。

 核家族は核家族だが、カプセル家族は、他人の価値観を認めない。心を開かない。ものの
考え方が独善的で、排他的。「私は正しい」という確信のもと、相手に向かっては「まちがってい
る」と断言する。いろいろなタイプがある。子どもを溺愛しながら、「これが親の深い愛だ」と、錯
覚している人。子どもの受験戦争に狂奔しながら、「これが教育だ」と、誤解している人。子ども
を自分の欲求不満のはけ口にしながら、「私は子どものよき理解者だ」と、うぬぼれている人。
いろいろあるが、もとはと言えば、現代社会が生み出した、さみしい犠牲者たちだ。

 考えてみれば、この世の中。生きているのは、自分一人だけ。明日、隣人がお金に困って
も、あなたはその人を助けない。そういう思いが、あなたを孤独にする。あなたとて明日、病気
で倒れれば、万事休す。そういう思いが、あなたの家族をカプセル化する。愛することができる
のは、自分の子どもだけ。学歴は人生のパスポート。学歴さえあれば、何だって手に入る。家
族だけが信じられる相手。他人は誰も信じられない。そうそう一つ、忘れた。お金だ。お金。お
金さえあれば何だってできる。地位や名誉があれば、もっといい。

 カプセル家族には、社会も国もいらない。選挙に行くことすら、バカバカしいと思っている。も
ちろん社会奉仕などというものは、時間の無駄。上辺ではいろいろなことを言いながら、自分
の損になることは何もしない。その上、幸福感も相対的なもので、他人が自分より幸福になる
のを許さない。あるいは反対に、他人が不幸になればなるほど、自分が幸福になったと感ず
る。自分こそが、絶対、正しい。

 今、日本では、家族のカプセル化が、急速に進んでいる。田舎よりも都会。しかも皮肉なこと
に、地位の高い人、収入の多い人、学歴の高い人ほど、それが進んでいる。こういう人たち
は、「自分こそが社会のリーダーだ」と思いこんでいる。あるいは「世間も自分たちに見習うべ
きだ」と考えている。結果、この日本がこれからどうなるか。

 私に見える日本の将来は、殺伐とした砂漠のような世界だ。空気はかわき、心を潤す緑はど
こにもない。人はますます功利的でドライになる。なりながら、それが当たり前だと思う。あとは
この悪循環。

 私はこのことを、田舎に住むようになってはじめて、わかった。田舎に住むようになって、人
間というのは、本来、もっともっと不完全で、もっともっと温かいものだということを知った。そし
てこれはたいへんショックなことだったが、自分自身が、そのカプセル家族になっていたことを
知った。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このエッセーについては、いろいろ書き改めたい点もあるが、このままで……。カプセル家族

から、選挙に行かないということはない。この点については、まちがっていると思う。ただ自分
の住
む世界がカプセル化すると、ものの考え方が、独善的になったり、ひとりよがりになったりす
る。そ
ういう意味で、つまりその返す刀で、相手を、全面的に否定したりしやすくなる。

 だから……、こう書くと、手前味噌のようでつらいが、もしあなたに子どもと接する機会があっ
たら、
どんどんと子どもと接したらよいと思う。子どもは、あなたの進むべき道を、正してくれる。子ど
もに
は、そういう力がある。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 1月 9日(No.672)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(新・子育て談話)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・子育て談話】(特集)【第2回目】

++++++++++++++++++++++++

4年前(01年)に書いた原稿を、改めて読みなおして
います。

そのままそれを紹介しながら、(補記)の部分で、あれこ
れ訂正、修正を加えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++++++

●崩壊家庭の中で(ゆがむ子どもの心)

 荒れた自分の家を、得意げになって見せていた子ども(小3男児)がいた。敷きっぱなしにな
った破れたふとん。その周囲に散乱するティシュペーパー。割れた窓ガラス。汚れた台所に、
ゴミの山。一定の限界を超えると、子どもの心から「家庭」とのつながりが消える。ふつうなら、
「家庭の恥ずかしい部分は隠そう」という意識が働くが、そういう意識がない。当然、心も荒れ
る。ものの考え方が粗野になり、他人の心の動きに鈍感になる。

 いわゆる「家庭崩壊児」はこうして生まれる。家庭が本来あるべき家庭として、機能していな
い。こうした拒否的な環境で育った子どもは、心に深刻なキズを負うことがわかっている。こん
な子ども(高1男子)がいた。いわく、「台風で壊れる家を見ていると、楽しい」と。そこで私が
「本当に楽しいのか」と聞くと、「おもしろい」と。さらに「それが君の家だったら、どうするのだ」と
聞くと、「もっと楽しい」と。

 このタイプの子どもは、「世間に迷惑をかける」ということに、たいへん鈍感になる。真夜中に
マフラーをはずしたバイクを、バリバリとふかしても、それが悪いことだという意識がない。ある
いは路上にビンを叩きつけて割っても、それが悪いことだという意識がない。むしろ人に迷惑を
かけることを楽しむようなところがある。善悪を判断する中枢部分が、変調をきたしているため
と考えるとわかりやすい。仮に立ち直っても、その影響は一生続く。俗に言う、ヒネクレ症状と
いうのが、それである。

夫「こんなところに、サイフを置いてはダメだ」
妻「あんただって、この前、ここに置いたじゃ、ない」
夫「だから、ここに置いてはダメだ」
妻「自分だって、ここに置いたクセに、何よ!」 

 このところの不況で、程度の差こそあるが、このタイプの子どもがふえている。平気で自分の
家族や家庭の恥を口にするから、わかる。

「うちの父ちゃんね、毎晩、エロビデオを見てる」
「ママね、パパの稼ぎが少ないから、苦労してるよ」
「パパが本を投げつけて、ママが頭にけがをした」など。

 家庭崩壊を子どもに経験させてはいけない。これは子どもを妊娠したときからの、親の義務
のようなものだ。が、それでも……というのであれば、これはもう個人の問題ではないように思
う。福祉とか、福祉社会というのなら、老人や障害のある人に、こういうタイプの子どもたちも含
めるべきだと、私は思う。客観的に見て、そういう心配のある子どもは、行政による手厚い保
護が必要だ。親の理解と協力が期待できない以上、そうするしかない。

 家庭崩壊を経験した人は不幸だ。結婚しても、「よい家庭を作ろう」という気負いばかりが先
行して、結局は失敗しやすい。あるいは結婚そのものができない。子どもをつくっても、うまく子
育てができない。頭の中に「家庭像」や「親像」がないからだ。

繰り返すが、家庭崩壊だけは子どもに経験させてはいけない、……と思う。(以上、01年記
「子
育て雑談」)

(付記)

 ……とは言っても、思うがままにならないのが、生活。だれが、自ら不幸になることを望むだ
ろう
か。そんな人はいない。

 ただいくら貧しくても、「心」だけは、見失ってはいけない。とくに、子どもの前での、夫婦げん
かは、
タブー中のタブー。はげしい夫婦げんかは、子どもに、極度の緊張感と恐怖感を与える。それ
が子
どもの心にキズをつける。ときに、トラウマとなり、その子どもを生涯にわたって、苦しめる。
が、そ
れだけではすまない。

 このトラウマには、副作用がある。

 やがて時間をかけて、親子関係を破壊する。世代連鎖する。そのトラウマが大きければ、そ
の子
どもが多重人格性をもつこともある。激怒したようなときに、まったくの別の人格になってしまっ
たり
する。

 幼児期においては、すねたり、ひがんだり、ぐずったりしやすくなる。人格の「核」形成が遅
れ、善
悪の判断にうとくなることもある。

 子どもは、心安らかな家庭環境の中で、親の愛情をたっぷりと受けながら育つのがよい。何
度も
書くが、絶対的な信頼関係、絶対的な安心感、この2つが子どもの心をはぐくむ二大要素と考
えて
よい。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。
(はやし浩司 夫婦喧嘩 夫婦げんか 家庭崩壊 崩壊児 子供の心理 絶対的な安心感)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●信頼関係を大切に(先生の悪口はタブー)

 子どもの前では、先生の批判、悪口はタブー。子どもが悪口を言ったとしても、「あんたが悪
いからよ」と言ってすます。もし問題があるなら、それは子どものいないところで、また子どもと
は関係のない世界ですます。あなたが先生を批判したり、悪口を言ったら、子どもは学校で、
その先生に従わなくなる。私にはこんな経験がある。

 幼稚園で教えていたころ、まったく私の指示に従わない子ども(年長女児)がいた。ある日そ
の子どもに、「どうして言うことを聞かないのか」と聞くと、その子どもはこう答えた。「だって、先
生は、本物の先生ではないでしょ」と。この話には余談がある。

 このことを当時の園長に告げると、私はそれほど気にしていなかったのだが、その園長は激
怒して、その母親に即刻、電話をした。そしてこう怒鳴った。「何てことを子どもに教えているの
ですか! あなたがそんなこと言ったら、指導できないでしょ!」と。当時はまだこういう気骨の
ある園長が、あちこちにいた。

 「子どもにこの話は、先生には内緒よ」と言うことは、「先生にこの話をせよ」と言うのと同じ。
子どもが言った先生の悪口に、相槌を打つということは、あなたが先生の悪口を言ったのと同
じ。子どもは先生に、こう言う。「ママもこう言っていた」と。仮に子どもが言わなくても、先生に
はそれがわかる。どういう形であるにせよ、あなたの「思い」は、必ず先生に伝わる。子どもと
いうのは、自分の心を隠すことができない。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。
裏を返して言うと、子どもの前では、先生をたてる。「あなたの先生は、すばらしい先生よ」「先
生のような立派な先生に、あなたが教えてもらえて、とてもうれしいわ」と。

 教育は信頼関係で成り立つ。中には「お金(税金)を出しているのだから」という思いからか、
教育を自動販売機のように考えている人がいる。あるいは今では、先生より、特に幼稚園の先
生より、高学歴の人が多い。そういう人は、どうしても先生を下に見る。こういうものの考え方
は、その信頼関係を破壊する。教師だって人間だ。自分を信頼してくれる人には、その期待に
応えようとするし、そうでない人には、熱意そのものが沸いてこない。いくら相手が子どもとわか
っていても、時と場合によっては、「このヤロー」と思うこともある。そうなったら教育そのものが
成りたたない。

 たいへんきわどい話をしてしまったが、そうでなくても難しいのが最近の教育。親と教師が信
頼しないで、どうして教育ができるというのだろう。問題のある教師がいるのも事実だが、もし
そうであるなら、冒頭にも書いたように、子どもとは関係のない世界ですます。

一番よいのは、直接、その先生と交渉することだ。今の制度の中では、教育委員会に相談す

と、どうしてもおおげさになってしまう。校長に訴えるとしても、校長は今、校長というよりは事務
長に近い。アメリカのように教師を選ぶ権利が親にあれば別だが、日本にはそれがない。ない
以上、やはり直接交渉がよい。勇気がいることだが、それが一番よい。……と私は思う。これ

あくまでも私個人の一意見だが。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 今でこそ、保育士というのは、一定の地位を確立しているが、35年前には、そうではなかっ
た。
私が「幼稚園で働いている」と言っただけで、ほとんどの人は、「あの林は、頭がおかしい」と言

た。

 そんなわけで、私は、幼稚園の内部では、自分の過去を隠し、幼稚園の外では、自分の職
業を
隠さねばならなかった。

 また保母というのは、「母」、つまり女性にかぎられていた。「保父」が生まれたのは、私が30

になったころ。現在の保育士という名称になったのは、さらにあとのことである。

 ここに書いた園長というのは、恩師の松下哲子先生をいう。すばらしい先生だった。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ズケズケ言う子どもたち(教師の威厳はどこに?)

 「先生、口、臭いから、あっち向いていてよ。ああ、臭い臭い」と言った子ども(小6女子)がい
た。もともと多動性のある子どもだった。頭の回転はキリキリと早いが、一貫性がなく、ものの
考え方が浅い。幼児のころは、無頓着、無遠慮、無関心などの特徴も見られた。小学校の高
学年になってからは、症状も落ち着いてきたが、ズケズケとものを言うクセは残っていた。

 それはそれとして、私はそう言われたとき、喜んでいいのか不愉快に思っていいのか、一
瞬、迷った。そしてその子どもは、いい子なのか悪い子なのか、迷った。さらに私とよい関係に
あるのかそうでないのか、迷った。あえて私の判断はここには書かないでおくので、皆さんで判
断してほしい。ただ言えることは、こういうふうにものをズケズケと言う子どもが、ふえていると
いうこと。そしてそれを民主的になったと喜んでいいのか悪いのか、このところわからなくなって
きたということだ。

 口が悪いのは、しかたない。今時の子どもは皆そうで、先生に向かって、「ジジイ」とか「クソジ
ジイ」と言う子どもは、いくらでもいる。冗談だとわかっているから、それほど気にならない。問
題は、相手が気にしていること、あるいは気にしそうなことを、ズケズケと言う場合だ。しかもス
レスレのことを言い、またそれを言い合うことを、親しみの表れと誤解しているような場合だ。ど
こかテレビの低俗番組のお笑いタレントのようだが、今は、そうでない子どもをさがすほうがむ
ずかしい。

 最近の子どもは、先生に対して、畏敬の念をなくしたとよく言われる。それはその通りだが、
こういうとき子どもの側ばかりが問題になる。しかし教師の側にも問題がないのか。学校レベ
ル、あるいは教育委員会レベルでもみ消される、教師によるハレンチ事件は、あとを断たな
い。授業にしても、参観用の授業と普通の授業が、天と地ほど違うことを、子どもたちなら皆、
知っている。また教育、教育と言いながら、自分たちが選別されていることを、子どもたちは感
じ取っている。しかもこの傾向は、高学年、さらに中学校になるほど、強くなる。ズケズケともの
を言う子どもは、こういうスキ間をねらって生まれる。

私「臭いか?」
子「臭い」
私「そうか。ありがとう。このところ、女房もそれを教えてくれなくてね。君のおかげで、恥をかか
なくてすむ」
子「もうかいているでしょ」
私「そうだな。申し訳ない。これからも臭かったら、臭いと言ってよ。なおすから」 
子「わかりゃ、イーの。わかりゃア」

 私が子どものころは、そういうことを言いたくても言えなかった。回ってきた先生が、鼻クソを
ポタリと机の上に落としたこともある。しかし私は黙って、それをがまんするしかなかった。そう
いう時代がよかったのか悪かったのか、それも私にはわからない。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 管理能力という言葉がある。この管理能力には、行動の管理能力、精神の管理能力、情緒
の管
理能力などがある。

 ここでいう「ズケズケ言う子ども」というのは、行動(言動)の管理能力に欠ける子どもというこ
とに
なる。言ってよいことと悪いことの判断にうとい子どもということになる。たとえば多動性のある
子ど
もには、同時に、多弁性がよく見られる。このタイプの子どもは、相手の気持ちもかまわず、言
いた
いことを、そのまま口にする。そのため、それによって相手がキズつくということが、よくある。

が、その一方で、こうした子どもには、ウラがない。つまりそれだけ、心の中が、わかりやすい。

 教師と生徒の間ではともかくも、親子や兄弟の間では、言いたいことを言うが、信頼関係の
原点
である。それがないと、信頼関係そのものを、築くことができない。

 そこで重要なことは、(言うべきことは)言う。しかし自分の心の中で処理できるような、(言わ
なく
てもよいこと)は言わない。そういう判断を的確にするということ。またそういう判断のできる子
ども
にするということ。

 ただし一言。「アッ、風が吹いた」「カーテンが揺れた」式の、底の浅い、軽薄な言動について
は、
そのつど、たしなめること。
(はやし浩司 子供の多弁性 多弁性 子どもの多弁性)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
 
●しつけの時期(だらしなくなる子ども) 
  
 4、5歳ごろに一度、決められたことに忠実になる時期がある。母親が花を切っていたりす
ると、「先生がねえ、お花、切っちゃダメって、言っていたよ」と。あるいは食事をしながらテレビ
を見ていたりすると、「パパは、この前、食べているときは、テレビを見てはダメと言ったじゃな
い」と。

この時期をうまく利用すると、しつけがしやすい。しかしそれが「頂点」。この時期の過ご
し方が悪いと、どういうわけだか、子どもはだらしなくなる。具体的には幼稚園児より、小学生。
小学生より中学生のほうが、概して、だらしない。学校の周囲を見ても、一番空き缶やゴミが多
いのが、中学校だ。

 先日も街中を歩いていたら、5、6人の男子高校生が飲んだ空き缶を、道路へポイと捨て
た。そこで私はこれ見よがしにその空き缶を拾って、近くのゴミ箱に入れてやった。すると高校
生たちはすっとんきょうな声を張りあげて、「イーヤーミィ」と声を合わせた。また別の日。どこか
の家のまん前で、犬に便をさせていた女子高校生がいたので、私が注意すると、こう言った。
「ここ、アンタの家?」と。

 理由は簡単だ。世間を知れば知るほど、まじめに生きるのがバカらしくなる。子どもたちは年
齢とともに、世間を広げ、それを知る。善か悪かといえば、この世の中、悪のほうがずっと多
い。そういう悪の中でうまく立ち回ることを、スレるというが、子どもたちは年齢とともに、ますま
すスレる。しかもこの傾向は都会ほど強い。そこで私は以前、こんな格言を考えたことがある。
「子どもは社会の縮図」と。

これは社会に4割の善があれば、子どもの中にも4割の善。社会に4割の悪があれば、子ども
の中にも4割の悪が育つという意味だ。社会を是正しないおいて、どうして子どもを是正できる
か。よい例が自然教育。おとなたちが一方でさんざん自然を破壊しておいて、子どもたちに向

って、「自然を大切にしましょう」は、ない。少し話はそれるが、私は禁煙運動を精力的にしてき
たが、息子の一人がどこかで喫煙を覚えたのを知って、その運動はやめた。自分の息子が吸

ているのに、他人に向かって、「タバコをやめましょう」は、ない。反論もあろうかと思うが、私は
そう考えた。

 一方、まじめな子どももいる。ある日一緒にバスを待っているとき、「ジュースを買って飲もう
か」と声をかけたら、「私はこれから夕食を食べるから、いい」と言って、断った女の子(小4)
がいた。そこで私は自分なりに、いつどのように子どもが分かれていくのか観察してみたことが
ある。子どもは、いつ頃からだらしなくなるか、と。その結果得た結論が、冒頭に書いた事実で
ある。4、5歳ごろ、である。

 この時期までにしつけをうまくして、それに合わせた思考回路をうまく作ってあげると、子ども
はまじめになる。一方、その時期をだらしなく過ぎると、子どもはだらしなくなる。ほかにもいろ
いろな要因があるが、そういうことだ。そして一度だらしなくなってしまうと、なおすのが大変難し
い。身についたシミのようなもので、なかなか落とせない。だからこそ、この時期のしつけが大
切なのだ。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ジュースを断った女の子については、よく覚えている。ただ、ここで(小4)と書いたが、(小3)
だっ
たかもしれない。名前を、Aさんと言った。

 で、そのAさんと、それから10年くらいしてから、それについて話しあったことがある。そのと
きA
さんは、オーストラリアの大学に留学していた。が、Aさんは、「覚えていません」と。「そんなこと

りましたア?」と。ケタケタと笑っていた。

 そのAさんが、私にこんなことを頼んだ。「いつか結婚するとき、結婚式に来てくれますか?」
と。
私は、一も二もなく、「いいよ」とだけ、返事をした。つまり私は、Aさんを、子どものときから、全

に信頼していた。その信頼感は、あの自動販売機の前でできたものだと思っている。

 ただ残念なことに、Aさんは、そのままオーストラリアに居ついてしまった。今は、オーストラリ

人の男性と結婚して、パースに住んでいるという。
(はやし浩司 子どものしつけ まじめな子供 まじめな子ども)


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●肩書き人間(悪しき学歴人間)

 私のいとこの義父に、国の出先機関の長をしていたのがいる。死ぬまで、長の名札をぶらさ
げて
生きていたような人で、本人が「自分は偉いのだ」と思うほど、世間は相手にしなかった。葬式

ら帰ってきた母は、こう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。

 老人が老人社会へ入るためには、過去の肩書きを捨てなければならない……らしい。過去
の肩書きにこだわっていると、周囲の者が近づかない。恐れ多いからではなく、そういう人とつ
きあっていると、疲れるから。が、こういう人たちにはそれがわからない。どこへ行っても、「私

尊敬されるべきだ」というような態度をとる。

 戦争をはさんで教育を受けた人たちというのは、とくにこの傾向が強い。「立派な社会人にな
る」ことイコール、善と、徹底的に叩きこまれている。ここで言う立派な社会人というのは、言う
までもなく「肩書きのある人間」をさす。あるいは「肩書きを見せただけで、相手がひれ伏す人
間」をさす。

 実際、この日本は肩書きのある人は、それだけで得をする。一方、肩書きのない人は、せっ
かくその力があっても、社会に埋もれてしまう。肩書きのある人は、それはそれでいいと思うか
もしれないが、一方でそうでない人を、いかに虐げているか、それを忘れてはならない。仮にあ
なたはいいとしても、あなたの子どもはどうだろうか。あるいはあなたの孫はどうだろうか。あな
たがもっているような肩書きを手にすることができるだろうか。

 人間の価値は、肩書きではなく、何をしたかによって決まる。こんなわかりきったことが、この
日本で住んで、生活しているとわからなくなる。先のいとこの義父も、同年齢の人と会うたび
に、「あなたは何をしていましたか」と聞いていた。よほどそのことが気になるらしく、自分より立
場が上だった人にはペコペコし、そうでない人に向かっては、胸を張った。年下の人に向かっ
ても、少しでもできが悪そうに見えたりすると、「君は、算数が何点ぐらいだったかね」と聞いて
いた。あるいは「こんなのは、簡単な計算で解けるよ。こんなのもわからないのかね」と言った
りした。

唯一の趣味といえば、新聞や雑誌への投書。毎日のようにせっこらせっこらと書いては、新聞
社や雑誌社へ送っていた。たいてい自画自賛で、読むに耐えない文章だったが、私の母は「偉
いもんだ」と言っては、その記事を人に見せていた。

 その人はその人で、懸命に生きてきたのだろう。彼とてその時代の価値観に染まっただけ
だ。かく言う私だって、私の生きた時代の流れに染まっている。彼がまちがっているということ
にもならないし、私が正しいということにもならない。あるいは次の世代の流れが正しいというこ
とにもならない。ただ私の立場で言えることは、こうした悪しき肩書き人間は、世界では通用し
ないということ。それだけではないが、それも含めて、こういう過去の流れをここで止めなけれ
ばならない。私のいとこの義父には悪いが、肩書きで自分の人生を見失ってはいけない。……
と私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 権威主義の人は、電話のかけ方をみればわかる。動物的なカンで(?)、相手が自分より
(上)か
(下)かを判断する。そしてそれに応じて、電話のかけ方が、まるでちがう。(上)の人には、ペコ

コし、(下)の人には、威張った言い方をする。

 こうした権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものを破壊する。親にとっては居心地のよ
い世
界かもしれないが、子どもにとっては、そうではない。その居心地の悪さが、親子の間に、キレ
ツを
入れる。

 これからは親の権威だけで、子どもをしばる時代ではない。またそれでは、子どもを指導する

とはできない。
(はやし浩司 権威主義 肩書き人間 肩書きで生きる人)


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●超辛口教育論(子どもには本物を)

 音程がズレたような、チャラチャラしたジャリ歌手の歌う歌を、「名曲だ」と思い込んで、
CDやMDを聞き入っている若い人たちを見ると、「かわいそうだ」と思う。「あんな音楽しか知ら
ないのか」と思ってしまう。が、我が身を降り返れば、そうばかりは言っておれない。私たちも中
学生や高校生のときは、そういう歌手の歌う歌を、毎日のように聞いていた。

 今朝もテレビのチャンネルを入れると、タレントカップルの破局を大げさに報道していた。見
るからに知性のひとかけらも感じないようなカップルだが、そんなカップルの破局が、日本中の
ニュースになること自体、不思議なことだ。男のほうが名古屋駅を歩く様子が報道されたが、
報道陣に混じって、若い女性たちがキャーキャーと、声を張りあげていたのが印象的だった。
が、私たちだって、同じようなことをしていた。

 子ども時代、なかんずく幼児期には、本物を見せておく。画家をしている知人にそのことを話
すと、こう教えてくれた。「絵といっても、子どもを圧倒せんばかりの大きな絵がいい」と。食べ物
も、飲み物もだ。最近の子どもたちは、おいしい食べ物はと聞くと、ファーストフードのハンバー
グ。おいしい飲み物はと聞くと、自動販売機のジュースをあげる。しかしこうした食感覚にして
も、いかに不自然なことか。ニセモノばかり見たり、聞いたり、食べたりしていると、子どもは、
皆、そうなる。

 となると、私たちの時代はどうだったのかということになる。私自身もニセモノばかり見て育っ
た。いや、ニセモノしか、周囲になかった。当時はそういう時代だったように思う。5円で買うラ
ムネにしても、10円で買う駄菓子にしても、味はついていたが、それだけのものでしかなかっ
た。今から思うと、「どうしてあんなものばかり欲しがったのか」とさえ思う。

 かく言う私も、高校時代に口ずさんだ歌謡曲を聞くと、たまらないほどの懐かしさを覚える。た
だ私の場合、学生時代はずっと合唱団にいたし、その後も、ごく最近までパソコンミュージック
が趣味で、自分で作曲したりして、より高度な(?)音楽を楽しむことができた。そういう視点で
考えると、どこか損をしたような気分にもなる。人生は長いようで短いし、短いなら短いで、もっ
と本物に触れておけばよかったという気持ちだ。つまりニセモノに染まっていた時代の自分が、
何となく一方で、時間を無駄にしていたようにしか、思えない。

 さて、子どもたちはどうか。今、本物を見ているだろうか。あるいは本物とニセモノを見分ける
力は育っているだろうか。私はこれについては疑問だ。「たまごっち」というゲームに夢中になっ
ていても、小さな虫を見ただけで、キャーキャーと逃げ回る子どもはいくらでもいた。あるいは
「たまごっち」をしている子どもの横で、「殺せ、殺せ!」とはやしたてている子どもはいくらでも
いた。さらに「たまごっち」が終わったあと、本物の動物を育て始めたという話しは聞かない。果
たしてこのままで、いいのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本物を、いつどうやって見せていくか……。しかし実際には、子どもたちは、親が見せるより
も先
に、テレビや雑誌などによって、ニセモノをニセモノと見抜けないまま、それを本物と思いこんで

まう。

 そこで大切なことは、「子どもに見せよう」「教えよう」と考えるのではなく、親自身が、自分で
本物
を見ることではないだろうか。日々の生活の中で、いつも本物だけを見て、それを評価する。ま

そういう目を養っておく。これは子どものためというより、あなた自身のためでもある。

が、だからといって、子どもも本物を見るようになるとはかぎらない。イギリスの格言に、『水場

馬を連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。最終的に、子ど

が自分の世界で、どういうものを見るかは、親の問題ではなく、子どもの問題ということになる。
(はやし浩司 本物 本物を見せる)


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●教育の裏の、人間ドラマ(女房が妊娠した!)

 ある日突然、一人の男が私の部屋に飛び込んできて、こう言った。「うちの女房が、妊娠し
た。どうしてくれる!」と。寝耳に水とは、まさにこのこと。私が驚いて戸惑っていると、その様子
から察知したのか、男は急に態度をやわらげ、「すまん、すまん。カマだ」と。話をよく聞くと、こ
うだった。

 私は「幼児教育は母親教育」という信念から、毎日のように母親教室を開いていた。しかしそ
れがよくなかった。その男の妻は、私の話を聞くたびに、家で「はやし先生が……」「はやし先
生が……」と言うようになってしまった。夫であるその男には、あまり愉快なことではなかったら
しい。で、そういう最中にその男と妻は、はげしい夫婦喧嘩をした。喧嘩をして、妻が家を飛び
出してしまった。その男は、妻が私のところに逃げたに違いないと思った。冒頭の話は、そのと
きの続きである。

 またこんなこともあった。ある日幼稚園の庭で園児を迎えていると、黒塗りの外車がスーッと
止まった。そして中から細身の紳士が飛び出し、ツカツカと私のところへやってきて、「貴様が、
はやしか!」と。ものすごい剣幕である。私が「そうです」と言うと、いきなり「このヤロウ!」と言
って、数発、殴りかかってきた。避ける間もなかった。気がつくと私は、地面にたたきつけられ
ていた。男はそのまま帰っていったが、私にはまったく身に覚えがなかった。かけつけたほか
の先生たちが、「どうしたの?」「どうしたの?」と。私は、ポカンとするしかなかった。

 すぐにその紳士が、A君という子ども(年長児)の父親であることがわかったが、そこで一人
の年配の先生が、「A君と何があったか話してごらん」と。私はA君のことを話した。

 「いやあ、A君がいつも忘れ物ばかりするから、昨日も電話して、もう少しけじめのある生活を
してくださいと言いました」と。するとその先生はパチンと手を叩いて、「それよ!」と言った。「け
じめ」という言葉が悪かったのだ、と。A君の母親は、その男の愛人だった。何気なく使った言
葉だが、その言葉が、A君の母親を大きくキズつけてしまっていた。

 ほかにB君という子ども(年長児)が、C君という子どもにいじめられていたから、C君の母親
に、それを注意したことがある。私は軽い気持ちで、「何か家庭で不満に思っていることがある
のではないですか」と言っただけなのだが、その父親が、名誉毀損だと騒ぎ始めた。そして何
回か抗議の電話がかかってきたあと、私を裁判所へ訴えるとまで言い出した。結局この事件
は、私が謝罪する形で決着したが、あと味の悪さだけは、いつまでも残った。

 こうした事件を通して、私は多少なりとも、利口になった。毎日開いていた母親教室は、週一
回にしたし、使う言葉も慎重になった。もう少し正直に言えば、子どもの教育のことで、出しゃば
るのをやめた。相手から聞かれるまで言わないという姿勢をもつようになった。教育、教育と言
いながら、その裏では、さまざまな人間のドラマが展開している。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 教育の世界には、『問われるまで、言うな』という大鉄則がある。わざわざ火中の栗を拾うよう

ことは、してはいけない、と。拾えば、大ヤケドをする。

 先日も、ある小学校で、校長と、こんな会話をした。その校長のほうから、こう言った。「あの
3年
B組、金P先生という番組ね。あれほど、教育現場を混乱させている番組は、ありませんよ」と。

 「つまり親たちは、ああいう番組を見て、金P先生のような先生こそが、理想の先生だと思い
こん
でしまう。そしてそれを現場の私たちに求めてきます。しかし実際には、教育は、そんな単純な

事ではありません」と。

 私も同感である。それはちょうど、ピストルをバンバンと撃ちあうようなシーンを見て、「刑事の

事というのは、そういうもの」と思いこむのに似ている。現実には、ありえない。もっと言えば、
教育
の世界は、無数の欲望が複雑にからみ、ドロドロしている。家庭の事情も、千差万別。さらに
子育
てには、その親の人生観や哲学観がすべてからんでくる。

 一介の教師の、人生観や哲学観だけで、解決できるほど、子どもの世界の問題は、単純で
はな
い。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●短気な子ども(引き金は引かない)

 短気な子ども、つまりすぐカッとなりやすい子どもというのは、確かにいる。しかしそういう表面
的な症状にだまされてはいけない。どんな人でも、短気なときは短気だし、そうでないときは、
そうでない。では、何がそうさせたり、そうさせなかったりするのか。

 子どもたちを観察してみると、こんなことがわかる。子どもたちはカッとなるときは、ほぼ条件
反射的にそうなるということ。何か気にさわることを言われたり、されたりすると、カッとなる。つ
まりある一定の分野で、いつも緊張感をもっている。そしてその緊張感を刺激されたとき、カッ
となる。たとえばある子どもが、「明日の宿題がやっていない」と、心のどこかで思い悩んでいた
とする。子どもはそのことを、心のわだかまりにしている。そういうとき、家族の誰かが「宿題は
やったの?」と声をかけると、それが引き金となって、子どもはカッとなる。「うるさい!」と。

 緊張感のない分野については、カッとなることはない。かなりはげしいことを言われても、子ど
もたちはそれを冗談ととらえる。心にまだ余裕があるからだ。わかりやすく言えば、短気な子ど
もはいつも短気というわけではないし、またそうでない子どもでも、痛いところに触れられるとカ
ッとなる。

 A子さん(年長児)は、母親が「ひらがなを書いてみようね」と言っただけで、別人のように急
変し、そして暴れた。ふつうの暴れ方ではない。母親に向かって手当たり次第にものを投げつ
けた。

 B君(小4)は、父親が何か疑いをかけるようなことを言うと、やはり急変した。「この貯金箱
のお金のことだが……」と。B君は、それだけで「自分が(盗んだと)疑われた」と思ってしまっ
た。父親はこう言った。「ふだんは静かで穏やかな様子なのですが、一度そういう状態になる
と、ピリピリとした雰囲気になります」と。 

 こうした緊張感は、親子の間、友だちどうしの間、さらには教師と子どもの関係にも生まれ
る。そしてそれが刺激されたとき、それぞれの立場で子どもは、カッとなる。ひどい場合には、
キレる。

 もっともこれだけで、子どもたちが「キレる」原因を、すべて説明することはできない。しかし大
半の子どもたちが、「勉強」という言葉に強い反応を示すのも事実で、親が「勉強しなさい」と言
っただけで、カッとなる子どもはいくらでもいる。つまりそれだけ「勉強」に対してわだかまりや、
あるいは緊張感をもっているということになる。あるいはそれ以前の段階として、抑うつ感をた
めこむ。

 子どもがカッとなったら、そんなわけで、子どもがどういう分野で、どういうように緊張感をもっ
ているかを判断する。もしそこに何らかのわだかまりを感ずることができたら、そのわだかまり
にはできるだけ、触れないようにする。要するに引き金を引かないようにする。(以上、01年記
「子
育て雑談」)

(付記)

 情緒が不安定な子どもというのは、それだけいつも、心が緊張状態にあるとみる。その緊張
状態
にあるところに、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一気に、情緒が不

定になる。カッとなったり、グズッたりする。

 だから「うちの子は、情緒が不安定だ」と感じたら、何が、その子どもの心を緊張させている

を、観察、判断する。
(はやし浩司 情緒 子どもの情緒 子供の情緒 情緒不安 情緒不安定)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ふえる睡眠障害(寝る前は興奮させない)

 年長児の子どもたち、10人に聞いてみた。「君たちは、恐い夢を見るか」と。すると、その
中で3人が、「見る!」と答えた。「死体の夢を見る」「ワニに食べられる夢を見る」「迷子になっ
た夢を見る」「ロボットに追いかけられる夢を見る」「誰かに食べられる夢を見る」など。

 この答には驚いた。私は幼児というのは、恐い夢を見ないものだとばかり思っていた。見るに
してもときどきで、しかも朝になれば忘れてしまうものだ、と。しかし子どもたちは、あたかもそ
の朝見た夢であるかのように、ワイワイと言って、それを説明してくれた。

 睡眠中というのは、本来、もっとも心身ともに、リラックスした状態になる。またそうでなければ
ならない。特に子どもの世界ではそうで、もしそうでないというのなら、どこかに問題がある。

 この話とは別に、睡眠障害になる子どもがふえている。「夜更かしする」「朝、起きられない」
「夜中に起きる」「なかなか寝つかない」など。夜驚症(夜中に狂人のようになって、大声をあげ
たり、暴れたりする)や、夢中遊行(ねぼけてフラフラとさまよい歩く)になる子どももいる。わか
りやすく言えば、静かに眠って、ぐっすり休んで、爽快な気分で朝を迎えることができない子ど
もがふえているということだ。私の実感では、約50%の子どもに、その傾向が見られる。恐
い夢を見る子どもを含めたら、もっと多いかもしれない。

 原因は、日中のストレスだとよく言われるが、私はもっと身近な問題にあると思う。これはあく
までも「思う」というレベルの話だが、その一つがテレビであり、テレビゲーム。

 子どもにとっては、睡眠前の数時間には、特別の意味がある。特に年少の子どもほどそう
で、この時間、子どもを興奮させたりすることは禁物。心を少しずつ落ち着かせ、やがて睡眠
へと導いていく。少なくともごく最近まで、人間は過去数10万年間、そうしてきた。が、それが
乱れた。子どもたちは寝る間際まで、テレビを見ている。テレビゲームをしている。

しかしこの時間帯に興奮させれば、その睡眠そのものが乱される。根拠はないが、こんなこと
は常
識だ。幼稚園児でも、平均して午後八時半前後には床につく。しかし平日でも、幼児向け番組
は、
午後5時〜7時台に集中している。午後七時〜九時台には、一応、おとな用とはなっている
が、
小学生でも見たがるような番組が、目白押しに並んでいる。こういうものを野放にしておいて、
「う
ちの子どもは、なかなか寝なくて困る」は、ない。

 子ども、特に幼児には、日没後は、静かな生活を大切にする。そして静かな眠りに入るため
の準備をさせる。そのために、一つの方法として、テレビのスイッチは切る。もちろんテレビゲ
ームなど、言語道断。眠る間際まで、「やっつけろ!」「殺せ!」「倒せ!」と叫んでいて、どうし
て静かな眠りに入ることができるのか。ある子ども(小5男児)は、真夜中にガバッと起きて、
テレビゲームをしていた(姉の話)。もちろんこういう症状が見られたら、即刻、子どもからゲー
ムを遠ざけるようにする。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 私も、最近は、午後8、9時以後は、ビデオ類などを見ないようにしている。この時間帯に一
度、
脳ミソを興奮させると、そのまま、寝つかれなくなってしまう。そしてさらに一度、眠りそこねてし
まう
と、今度は、午前0時過ぎまで、眠れなくなってしまう。(時には、午前2、3時まで寝つかれない

ともある。)

 子どものばあいも、同じと考えてよいのでは……。とくに子どものばあいは、就眠儀式(ベッ
ド・タ
イム・ゲーム)のあり方に注意する。子どもは、眠る前、毎晩、同じこと(儀式)を繰りかえす。そ

しつけに失敗すると、睡眠不足を引き起こし、さまざまな症状を見せるようになる。
(はやし浩司 子供の睡眠 睡眠不足 就眠儀式)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●塾ブルース(10%のニヒリズム)

 塾を開くのに、認可も許可もいらない。届出も必要ないし、資格もいらない。もしあなたさえそ
の気になれば、明日からだって塾は開ける。塾は通産省の職業区分では、サービス業になっ
ている。

 こう書くと、塾は簡単な商売だと思う人がいるかもしれない。事実その通りだが、それだけに
競争もはげしい。毎年雨後の竹の子のように塾は生まれ、そしてつぶれていく。10周年記念
ができる塾は、何割もない。さらに20周年、30周年記念ができる塾は、10パーセントも
ないのではないか。現在、ほとんどの個人塾はつぶれ、残っているのは、中、大手規模の進学
塾か、チエーン化された塾だ。

 塾は、通産省ではサービス業になっている。そのことは冒頭で述べたが、塾でしていること
は、教育ではない。指導である。中に「教育だ」とがんばっている塾教師がいるが、がんばらな
ければならないところに無理がある。少なくとも世間は、教育機関とは認めていない。

 その塾。毎年あちこちの私塾会に誘われて顔を出すが、酒が入り始めると、本音が出てく
る。おもしろいのは、むしろこちらのほうだ。昼間は「新学力観の問題点とは……」と論じていた
ような教師でも、「塾教師なんて……」と話し始める。そういうところで取材した話をここで書くの
も気が引けるが、たとえばこんなことを言う。「塾教師が教え子の結婚式に呼ばれることはまず
ないよ。いくら苦労した生徒でもね」とか、「中学が受かったとたん、ハイさよならね。あとは塾
へ来たことそのものを、隠す」とか。

 この世界には「10%のニヒリズム」という言葉がある。いくら「指導」に専念しても、全力投
球はしない。全力投球すれば、キズつくのは、結局は塾教師。どんなに専念しても、最後の
10%は自分のためにとっておく。生徒に裏切られても、キズつかないためだ。

 もっとも10%のニヒリズムを意識する教師は、まだ誠実なほうだ。たいていの塾教師はもっ
とドライ。「生計のため」と、はっきりと割りきっている。むしろこういう塾のほうがわかりやすい
し、今の世の中に受ける。手のこんだ料理よりも、ファーストフードのレストランの料理のほうが
おいしいと思う人は、いくらでもいる。

 おまけに塾教師には、当然と言えば当然だが、保障はまったくない。退職金もなければ、年
金もない。30年勤めても、ハクなどつかない。明日病気になって倒れれば、それで塾はおし
まい。収入もそれで途絶える。こういう世界から、学校の先生をながめると、本当に学校の先
生は恵まれていると思う。いろいろたいへんだろうとは思うが、それでも恵まれている。

そうそう学校の先生にそんなグチをぶつけた塾の教師がいる。そしたらその学校の先生は、こ

言ったという。「くやしかったら、学校の教師になればよかったではないか」と。「私たちは教育

生きる。あんたたちは教育で生きる」(塾教師1氏談)とも。

 一見気楽な商売(?)に見える塾の世界だが、もの悲しいブルースは、毎日のように聞こえて
くる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本当に自由な教育というのは、「塾」でこそ、可能である。しかしその自由な教育をすれば、そ

塾は、あっという間につぶれる。

 そこで本当に自由な教育をするためには、長い時間をかけて、塾教師は、コツコツと、信用と

績をつみあげるしかない。いきなり自由な教育、というのは、土台、ムリ。反対の立場で考えて

れば、それがわかる。

 ある日いきなり、あなたの近所に塾ができた。自由な教育をするという。そういう塾に、あな
たは、自分の子どもを預けるだろうか。預けることができるだろうか。子どもを預けるということ
は、
親にとっても、それほどまでに覚悟のいることなのである。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●代償的過保護(自分のために子どもを愛する)

 過保護は過保護だが、親の支配欲を満たすためだけの過保護を、代償的過保護という。い
わば過保護モドキの過保護のことになるが、外見上は、一般の過保護とは区別がつきにくい。

 ふつう過保護には、そうするだけの理由、つまり心配の「種」がある。病気ばかりしていたか
ら、子どもを運動面や食事面で過保護にするなど。しかし代償的過保護には、それがない。こ
のタイプの親は、「親に甘えてくれる子どもがいい子ども」と、とらえる傾向がある。つまり子ども
を管理する一方、子どもには依存心をもたせる。そして結果として、子どもを自分の支配化に
置く。Tさんも、そんなタイプの母親だった。Tさんは、こう言った。

 「息子(27歳)の結婚相手は、私が選んであげます。ヘンな女にくっつかれると、財産を食
いつぶされますから」と。そして息子が好きになった女性との結婚に猛反対して、それをつぶし
てしまった。今でも息子の帰宅がちょっとでも遅れたりすると、それをくどくどと叱っている。

 Tさんが恐れているのは、子どもの自立だった。自立して自分から去っていくことだった。こん
なこともあった。息子が高校三年生のときである。息子が県外の大学に進学したいと言ったの
に対して、Tさんは、反対。そして私のところへ来て、こう頼んだ。「先生のところへ来週にでも
息子をよこしますから、よく説得してやってください。先生の言うことなら聞きますから」と。そし
て帰り際に、「今日、私がここへ来たことは内緒にしておいてくださいよ」と。

 このタイプの親に共通しているのは、他人に心を許さないこと。自分の子どもすら信じていな
い。言いかえると、自己中心性が強く、わがまま。その上、気が小さく、おくびょう。「自分」という
ものがあるようで、どこにもない。Tさんも、いつも世間体を気にしていた。「もっと自分の世界を
広くしないと」と、私は言いかけたが、やめた。Tさんは、そのとき、私よりも一〇歳も年上だっ
た。

 かつてアメリカの教育者が、日本人の子育て法を観察して、こう批判した。「日本人は、自分
の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無関心過ぎる」と。つまり子どもに依存心をも
たせながら、平気でいる、と。その結果かもしれないが、同年齢の子どもを比較しても、アメリカ
人の子どもは日本人の子どもよりも、一回りおとなびて見える。反対に日本人の子どもは、幼
稚っぽい。概して甘えん坊が多い。あの成人式にしても、大半の女の子は、親のスネをかじっ
て、美しい着物を着ているという。成人したという自覚すらない。キャーキャーと式場で騒ぐだ
け。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に帰結する。いろいろな考え方があると思うが、
「子どもをよき家庭人として自立させる」ということであれば、こうした代償的過保護は、百害あ
って一利なし。子育ての大敵と考える。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 代償的過保護 代償的愛 真の愛)

(付記)

 同じような意味で、私は、よく「代償的愛」という言葉を使う。いわば愛もどきの愛。ニセの愛
をい
う。つまりは、親が自分の心のすき間(情緒不安、精神的欠陥)を埋めるために、子どもを自分

支配下において、溺愛することをいう。

 これは一見、愛に見えるが、決して愛ではない。たとえて言うなら、ストーカーが見せる、身勝

な愛に似ている。相手の迷惑もかえりみず、その相手にしつこく、つきまとう。ストーカー行為を

りかえす本人は、「愛しているから」と言うが、それは本来の愛とは、まったく異質のものであ
る。

 よくある例は、子どもの受験競争に狂奔する親。一見、子どものことを考えているようで、そ

実、子どものことは、何も、考えていない。だから代償的愛という。
(はやし浩司 代償的愛 自分勝手な愛 身勝手な愛 溺愛 でき愛)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●親孝行の限界(育ててやったではないか)

 親をだます子どもはいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。だまして、子どもから
お金を巻き上げる。そうでない人には信じられないような話だが、実際にはある。そういう親を
もっている人に向かって、親孝行論を説いても、かえってその人を苦しめるだけだ。Hさん(4
0歳)も、その一人。

 「就職して以来、給料の何割かを、実家の母に送ってきました。母はいつも、『あんたの代わ
りに貯金しておいてやるから』とか、『あんたのかわりに故郷を守ってやるから』と言っていま
した。『先祖を供養せよ』と言って、間接的に、お金を要求してくることもありました。しかしお金
はすべて、自分のために使っていました」と。

 さらに悲劇は続く。Hさんが父親から譲り受けた土地の権利書を、言葉巧みに取りあげ、そ
のまま他人に売却してしまった。「もともと死んだ父の土地でしたが、実家を新築するにあたっ
て、私は2000万円、負担しました。そのお金と交換ということで、土地の権利書を受け取っ
たのです。権利書というのは、それです」と。

 結果、親子の縁は切れた。ついで、親戚との縁も切れた。親戚の叔父や叔母は、表面的な
様子だけを見て、「親不孝者!」とHさんを責めている。無論、Hさんも苦しんでいる。「しかし母
親のことを悪く言うのは、もっとつらい」と。

 子どもは親から生まれる。それは事実だが、子どもの側から見ると、自分が生まれてはじめ
て、親がわかるにすぎない。つまり子どもは親を選べない。このHさんのケースでは、Hさんの
母親は自分の息子を、自分の所有物か何かのように考えているのがわかる。昔はこのタイプ
の親が多かった。しかし一方、子どもの側から見ると、「私は私」であって、決して親の所有物
ではない。親は「産んでやったことを感謝せよ」とか、「育ててやったことを感謝せよ」と言う。「こ
こまで大きくしてやったではないか」とも言う。しかし子どもの側から見ると、そういう親のものの
考え方は、重荷でしかない。

 自分の子どもにいい子になってほしかったら、まず自分がそのいい子になって、手本を子ど
もに見せる。これが親孝行の基本だが、こういうHさんのようなケースを見聞きすると、私には
もう言葉がない。もう少し古い世代の人は、「それでも親は親だから、親に頭をさげるべきだ」と
言う。しかしHさんという、一人の人間を中心に考えると、それもおかしい。Hさんもこう言う。
「私も二人の娘を育てていますが、育ててやっているという意識はどこかにあっても、娘たちに
はそれを言わないようにしています。それを言ったら、親として、おしまい。親として当然のこと
をし
ているだけです」と。

 いろいろ考えてはいるが、これ以上のことは、私にはわからない。ただ言えることは、このH
さんのケースを知って以来、私は安易に「親孝行」という言葉を使わなくなった。子育ても難し
が、親孝行も、それと同じくらい難しい。とくに子どもが成人するころになると、それがつくづく
とわかるようになる。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 少し前のこと。まだ電話による相談を受けつけていたときのこと。数日おきに、あれこれと電
話を
かけてくる母親がいた。

 「今日は、学校に呼び出された」「おかげで、パートの仕事ができなかった」
 「先日は、近所の看板を倒してしまった」「おかげで、その弁償をさせられた」
 「今日は、学校から電話がかかってきて、給食費を請求された」などなど。

 私はその電話を聞きながら、「その程度の問題なら、どこの家庭にもあるのになあ」と思って
いた。しかしそれを口にすることはできない。その母親は母親なりに、真剣に悩んでいた。

 が、ある日、気がついた。その母親は、子どものことをあれこれ問題にしているが、そうでは
ない、
と。つまり、その母親にとっては、子育てそのものが、苦痛なのだ。子育てがいやだから、あれ
これ
問題を自分で作って、それで悩んでいるだけ。あるいは結婚そのものに、問題があったのかも
しれ
ない。

 つまり大もとに1つの問題があり、それがあれこれ姿を変えて、その母親を悩ませていた。…

というような例は多い。

 ここでいう「産んでやった」「育ててやった」と言う親も、そうである。どこかに犠牲的精神がとも

うということは、すなわち、子育てがそれだけ苦痛であることを意味する。本来なら、親は、子ど

にこう言わねばならないはず。

 「おまえのおかげで、人生を楽しくすごすことができた。ありがとう」と。

 それがあるべき、子育ての本来の姿ということになる。
(はやし浩司 子育て 親の恩 恩着せがましい子育て)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●サトシ君(いじめ問題の陰で)

 サトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのサトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆(静岡県)にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、サトシ君の祖

から聞いた話だ。

 祖父はサトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。サトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とサトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。帰る道す
がら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、サトシ君は、「高校に合格しますように
と祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように祈らなか
ったか」と。そこでサトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「サトシ君」で呼ぶようになった。とても
呼び
捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、サトシ君のような子どももい
る。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと
判断する。愚かな人ばかりではない。サトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内の
K高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。サトシ君は、見るからに人格が違ってい
た。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐えない
と、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に
相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの訴えることについて、とことん耳を傾けて

ることでしかない。子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあげるこ
とでしかない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師にも、できることに
は限界がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、 親や教師の務めではないかと、私は思
う。
(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 人は、ドン底に落ちると、2つのタイプの人間に分かれる。そのときから、徹底した善人にな
るタ
イプと、徹底した悪人になるタイプである。どちらの道を選ぶかは、紙一重。

 そこまで深刻な問題ではないにせよ、子どもの世界でも、同じようなことが起きる。いじめを
受け、
それをバネに、ここに書いたサトシ君のようになる子どもと、同じように、今度は反対に、いじめ

側に回る子どもである。「いじめられる前に、いじめてやれ」という考え方である。

 そういう意味では、いじめる側の子どもが、すべて「悪」とは言い切れない。(もちろんいじめ
は、
悪いことだが……。)抑圧されたうっぷんが、長く蓄積されて、それがいじめに転化するというこ

も、子どもの世界では、よくある。

 それにいじめる側は、それを(いじめ)と認識していないケースも、多い。軽い遊びか、ふざけ

つもりで、それをする。しかしいじめられる側にとっては、そうではない。ちょっとした相手の言

を、おおげさにとらえてしまう。そういうケースも、多い。

 さらに「A君がいじめる」と言うから、学校の先生に相談して、A君を近くから排除してもらう。
する
と今度は、その子どもは、「B君がいじめる」と言い出す。そこでまた今度は、B君を近くから排
除し
てもらう。が、つぎに今度は、その子どもは、「学校の先生がいじめる」と言い出したりする。そ
うい
うケースも、少なくない。

 これを「ターゲットの移動」という。つまりその子どもは、もっと大きな心の問題をかかえてい
て、
それが原因で、学校へ行きたくないだけである。それがわからないから、親や先生は、子ども
の言
うことに、振りまわされてしまう。そういうケースも、多い。

 ここに(いじめの問題)のむずかしさがある。
(はやし浩司 いじめ いじめの問題)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の「陰」の部分(作られる私たち)

 教育には教えて教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。前者を「陽」の部分とす
るなら、後者は「陰」の部分ということになる。たとえばこの日本で教育を受けていると、都会へ
出て、大企業に就職することが大切なことで、反対に、田舎に残り、農業をすることは、つまら
ないことだという意識を植えつけられてしまう。

さらに集団の中で、肩書きをもち、名誉や地位を得ることは大切なことであり、反対に集団から
離れて、一人で生きることは、変わり者のすることだという意識を植えつけられてしまう。これが
教育の「陰」の部分であり、そういう意識が大きな流れとなって、子どもたちの将来像を形づく
る。

 こうした教育の「陰」の部分は、外国の教育と比べてみると、それがよくわかる。たとえば軍事
政権が幅をきかせているような国では、当然のことながら、子どもたちは軍人になることイコー
ル、理想の未来像ととらえる。戦前の日本を例にとるまでもない。マルコス政権下のフィリッピ
ンもそうだったし、今のベトナムもそうだ。

一方、オーストラリアでは、自然保護団体の職員の地位が、日本のそれとは比較にならないほ
ど高いし、欧米では福祉団体の職員の地位が高い。この日本では、戦後、一貫して「金儲け」

コール、善という社会観が定着している。私たち団塊の世代は、就職先といえば、一にも、二

も、商社や銀行、あるいは大企業を考えた。

 教育されるのは、子どもたちばかりではない。親もまたそうで、たとえば子どもが不登校を起
こしたりすると、親ははげしい絶望感に襲われる。この日本では集団から離れることは、恐怖
以外、何物でもない。しかしそういう集団性とて、教育の「陰」の部分に過ぎない。幼児のときか
ら、幼稚園の先生は、こう言う。「(幼稚園を)休むと、遅れますから」と。かくして幼稚園や学校
は、行かねばならないところという無意識の意識を植えつけられる。そういう子どもが親にな
り、それを代々繰り返すうちに、今の日本ができた。

 問題は、いつどのような形で、その「陰」の部分に気づくか、だ。気づいた段階で、教育に対
する考え方が、一変する。「私は私だ」と思っているあなただって、「作られた私」を、あなたの
中に発見する。たとえば私の父は、「(天皇)陛下」という言葉を耳にしただけで、いつも体をブ
ルブルと震わせていた。その父とて、結局は戦前の教育で、そのように「作られた」だけなの
だ。

 さて、あなたはどうだろうか。あなた自身を冷静にながめてみてほしい。あなたの中に巣くう、
あなた自身の価値観を、ながめてみてほしい。あなたは今、子育てをしながら、どのような価値
観をもっているだろうか。そしてそれは、あなた自身が自分で考えて手にした価値観なのだろう
か。それとも、昔、いつかどこかで、植えつけられた価値観なのだろうか。ひょっとしたら、あな
たが「私の価値観だ」と思っている価値観は、その「陰」の部分によって作られた価値観かもし
れない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このところ、日本人の意識そのものが、大きく変わりつつある。旧来型の出世主義から、実
力主
義へ。それに権威主義も、音をたてて崩れ始めている。そういう意味では、ここに書いたこと
は、実
情には、合わなくなっているかもしれない。あくまでも、参考に。


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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(新・子育て談話)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・子育て談話】(特集)

++++++++++++++++++++++++

4年前(01年)に書いた原稿を、改めて読みなおして
います。

そのままそれを紹介しながら、(補記)の部分で、あれこ
れ訂正、修正を加えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++++++

●敬語と日本の文化論(フレキシブルな日本語?)
子どもに向かって、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言う人がいる。妻に向かっては、
「食わせてやる」とか「養ってやる」とか言う人がいる。Y氏(52歳)がそうだ。息子(27歳)と
娘(22歳)がいるが、子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言ってい
る。
さぞかし窮屈な家庭だろうと思いきや、Y氏の妻は妻で、「夫のおかげで生活できます」と言
っている。そのY氏の妻が私の家にやってきて、こう言った。「ウチのダンナなんか、冷蔵庫か
ら牛乳を出して飲んでも、それを冷蔵庫に戻すことすらしない。だから夏なんか、あっという間
に牛乳が腐ってしまう」と。
話を聞くと、Y氏は結婚して以来このかた、トイレ掃除はおろか、トイレットパーパーの差し替え
すらしたことがないという。家庭というのは、そういうものらしい。それでうまくいっているなら、
「あなたはまちがっている」などと言う必要はない。言ってはならない。

が、こういう人に限って、私に猛烈に反発してくる。「君は日本のよさまで否定するのか!」。Y
氏はこう言う。「日本では上の人を敬う。英語には敬語すらない。外国では、親でも先生でも、
『ヘイ、ユー』と言うではないか。そういう国が、本当に理想の国なのか」と。

 こういう人に出会うと、気が遠くなるほど、間に距離を感ずる。順に反論してみよう。人間の上
下意識を支えるのが、権威。「偉い人は偉い」という権威である。理由など、ない。日本人は、
平安の昔からこの権威を徹底的に叩き込まれている。「男は上、女は下」「親は上、子は下」と
いう、日本独特の男尊女卑思想や親意識もここから生まれた。こうした文化は、日本独特のも
のであることは認めるが、それが「日本のよさ」になるかどうかは別問題である。少なくとも、日
本を一歩外へ出た外国では、通用しない。

 次に敬語の問題。英語に敬語がないというのは、ウソ。「ユア・マジェスティ」とか「ハイ・エクセ
レンシー」とかいう言い方はある。「サー」という単語にしてもそうだ。日本語よりはるかに少な
いというだけだが、そのかわり、彼らはそれなりの人に対しては、ていねいな言い方をする。
仲間どうしだったら、「ハイ」かもしれないが、それなりの人には、たとえば「このようにお会い
できる特権を、私の喜びとします」などいうような言い方をする。むしろ日本語に敬語が多い
のは、平安の昔から、きびしい身分制度をとってきたことによる。敬語があることを、必ずしも
喜んでばかりはおられない。

また敬語というのは、人間関係を飾る道具として使われる。あくまでも飾り。だから敬語を使う
から相手を尊敬しているということにもならない。使わないから尊敬していないということにも
ならない。私などいつも生徒に、「ジジイ」とか、「バカはやし」とか呼ばれている。しかしその
ほうが互いに心を開いているから、ストレートな人間関係を築くことができる。気も疲れない。

 最後に何も、アメリカや欧米が理想の国だとは思っていない。日本は日本だ。しかしここで大
切なことは、世界に理解される日本であるか否かということ。もし日本が今までのように、東洋
の島国でよいというのなら、それはそれで構わない。しかしそれでよくないというのなら、日本の
常識を外国へ押しつけるか、あるいは日本は世界の常識を受け入れるしかない。あるいは英
語の敬語を発明して、それをアメリカ人に押しつけるというのもよい考えだ。しかしそれができ
ないというのなら、日本を少しでも外国の常識に近づけるしかない。

私はそう考えるが、あなたは私の意見をどう思うか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)
日本語は、よい意味では、よりフレキシブル(=柔軟性のある)な言語ということになる。いろい
ろな言い方ができる。その点、反対に中国語などは、ガチガチしている。そんな印象を受ける。
たとえば「私はあなたを愛する」は、中国語では、「ウォー・アイ・ニー」となる。が、それだけ。

 しかし日本語のほうでは、「私ね、愛しているわ」「私は、愛しているよ」「ぼく、愛しているか
も」
「ぼくさア、愛しているね」などと、いろいろな形で、微妙な表現ができる。

 敬語についても、そうで、これまたさまざまな言い方ができる。しかしそのさまざまな言い方が

きるという部分で、日本語は、より複雑になってしまった。そしてそれが、時をおいて、学者たち

間で、話題になったり、問題になったりするのでは?

 ところで、この文の中で、「君は日本のよさまで否定するのか!」と私は書いた。それを言っ
てき
たのは、実は、女性である。当時は、まだ生々しい話だったので、「男性」とかえた。その女性
の年
齢は、35歳くらいではなかったか。で、そのあと、その女性から、手紙まで届いた。しかし内容
は、
支離滅裂。まるで文章になっていなかった。だから「返事を書くまでもない」と思い、電話で返事

することにした。

 しかし電話口に出た男性(その女性の夫)は、電話口で、ただ「すみません」「すみません」と
言う
だけで、その女性には、電話をとりついでくれなかった。どういう事情になっていたのか、今でも

くわからないが、多分、その男性(夫)も、その女性(妻)に手を焼いていたのかもしれない。
(はやし浩司 敬語 日本語 日本語の問題 言葉)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●壮絶な家庭内暴力(余計なことは、言うな)

 T君は私の教え子だった。両親は共に中学校の教師をしていた。私は7、8年ぶりにそのT
君(中2)のうわさを耳にした。たまたまその隣家の人が、私の生徒の父母だったからだ。いわ
く、「家の中の戸や、ガラスはすべてはずしてあります」「お父さんもお母さんも、廊下を通るとき
は、はって通るのだそうです」「お母さんは、中学校の教師を退職しました」と。私は壮絶な家庭
内暴力を、頭の中に思い浮かべた。

 T君はものわかりのよい「いい子(?)」だった。砂場でスコップを横取りされても、そのまま渡
してしまうような子どもで、やさしく、いつも柔和な笑みを浮かべていた。しかし私はT君の心に、
いつもモヤのような膜がかかっているのが気になっていた。

 よく誤解されるが、幼児教育の世界で「すなおな子ども」というときは、「自分の思っていること
や考えていることを、ストレートに表現できる子ども」をいう。従順で、ものわかりのよい子ども
を、すなおな子どもとは決して言わない。むしろこのタイプの子どもは、心に受けるストレスを内
へ内へとためこんでしまうため、心をゆがめやすい。T君はまさにそんなタイプの子どもだっ
た。

 症状は正反対だが、しかしこの家庭内暴力と同列に置いて考えるのが、「引きこもり」であ
る。家の中に引きこもるという症状に合わせて、夜と昼の逆転現象、無感動、無表情などの症
状が現われてくる。しかし心はいつも緊張状態にあるため、ふとしたきっかけで爆発的に怒っ
たり、暴れたりする。少年期に発症すると、そのまま学校へ行かなくなってしまうことが多い。こ
のタイプの子どもも、やはり外の世界では、信じられないほど「いい子(?)」を演ずる。

 そのT君について、こんな思い出がある。私がT君の心のゆがみを、お母さんに告げようとし
たときのことである。いや、その前に一度、こんなことがあった。私が幼稚園の中にあった自分
の教室で授業をしていると、T君はいつもこっそりと自分の教室を抜け出し、私の教室へ来て、
学習していた。T君の担任が、よく連れ戻しに来た。そこである日、私はT君のお母さんに電話
をした。「私の教室へよこしませんか」と。それに答えてT君のお母さんは猛烈に激怒して、「勝
手に誘わないでほしい。うちにはうちの教育方針というものがあるから」と。しかしT君はそれか
らしばらくして、私の教室へ来るようになった。家でT君が、「行きたい」と、せがんだからだと思
う。私は以後、一年半の間、T君を教えた。

 しかしその「ゆがみ」を告げようとしたとき、お母さんはこう言った。「あんたは、黙ってうちの
息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。

 子どもの心のゆがみは、できるだけ早い時期に知り、そして対処するのがよい。しかし現実
にはそれは不可能に近い。指摘する私たちにしても、「もしまちがっていたら……」という戸惑
いがある。「このまま何とかやり過ごそう」という、事なかれ主義も働く。が、何と言っても、親自
身にその自覚がない。知識もない。どの人も、行きつくところまで行って、はじめて気づく。教育
にはどうしても、そんな面がつきまとう。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 このT君は、今でも強く印象に残っている。その後、どうなったかについては、知らない。私は

のT君をとおして、自分の「すなおな子ども論」を、頭の中で完成させた。

 従順で、先生の指示にそのまま従う子どもを、すなおな子どもというのではない。心の状態
と、表
情が一致している子どもを、すなおな子どもという、と。いやだったら、はっきりと、「いやだ」と
言う。
それを表情や言葉にして、ストレートに表現できる。そういう子どもを、すなおな子どもという。
(はやし浩司 家庭内暴力 すなおな子ども 素直な子供 すなおな子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●21世紀の子育て論(悪しき画一平等主義)

 頭のいい子どもは、本当に頭がいい。遺伝子が違うかと思うほど、頭がいい。数年前東京の
A中学へ入ったD君も、また昨年同じ中学へ入ったN君も、そうだった。彼らは小学5年のとき
には、すでに中学3年程度の英語と数学をマスターしてしまっていた。と言っても、特別のこと
を教えたわけではない。教科書とノートだけを与えておけば、自分で学習していまう。教える側
からすれば、これほど楽な生徒はいない。ポイントだけを、それこそ雑談混じりに教えれば、そ
れですんでしまう。

 一方、そうでない子どももいる。教えても教えても、ちょうどザルから水がこぼれるように、教
えたことが消えてしまう子どもだ。S君もそんなタイプの子ども(中2)だった。たとえば英語の
単語でも、一時間かけて数個覚えるのが、限度。しかも次の週にはそっくり忘れてしまってい
た。

 誤解がないように申し添えるが、私は午前中は幼稚園の教師を勤め、午後は中高校生の塾
を開いていた。幼稚園の給料だけでは生活できなかったので、当時の園長と話し合ってそうい
うふうにさせてもらった。だから一日の流れの中で、私は幼児から高校3年生まで、見ることが
できた。結果的にそれがよかった。私は幼児を教えながら、いつも「この子どもはこうなるだろ
う」という予測をしながら教えるようになったし、またそれができるようになった。反対に中高校
生を見ながら、「この子がこうなったのは、幼児期のどのあたりに問題があるのか」を考えなが
ら教えるようになったし、それがわかるようになった。

 結論から先に言えば、人間の能力は平等ではない。平等であるという前提で教えるから、話
がおかしくなる。これも誤解があるといけないので申し添えるが、ただし優劣があるというので
はない。先に書いたD君やA君は、たまたま勉強という分野にすぐれた能力を発揮したが、そ
れがすべてではないということだ。D君は運動がまったくダメだったし、N君も、絵がまったく描
けなかった。一方勉強ができなかったS君は、学校をサボって、近くの公園でゴルフばかりして
いた。もし運動や絵画が主要科目ということになれば、D君やN君は、確実に落ちこぼれという
ことになっていたであろう。そのS君にしても、高校を中退したあと、プロゴルファーの道を歩ん
だが、25歳そこそこの若さで、100万円以上の月収を手にしていた(85年当時)。

 こうした子どもたちを見ていると、問題はもっと別のところにあるように思う。D君にしても、N
君にしても、いつも「学校の勉強はつまらない」と言っていた。S君もそうだ。そしてD君もN君
も、そしてS君も、結局は学校とは離れた世界で、自分を伸ばすしかなかった。しかしこれはた
いへんなエネルギーを要することだ。「能力は平等だ」を歌い文句にしている現在の教育が、
一方でこういう子どもたちを生み出している!

 繰り返す。子どもの能力は平等ではない。だからそういう前提で、今の学校教育を再編する
必要があると思う。またしなければならない。もうあの画一平等主義は、21世紀の日本の実
情に合っていない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ここに書いたことは、すべて実話である。こうした子育てエッセーを書くとき、気をつけなけれ
ばな
らないのは、登場する親や、子どもたちが、だれであるか、それを絶対にわからなくすること。
その
周辺の人が読んでも、わからなくすること。

 が、ここに書いた、D君にしても、N君にしても、彼らの名前の頭文字を、そのままとった。S
君に
ついては、本名は、M君である。この「悪しき画一教育」については、そのあとも、何度もテーマ
とし
て、エッセーを書いた。

 で、それから4年。今、学校教育は、急速に変わりつつある。恐ろしいほどの変化と言っても
よい。
先生たちの意識も、それに合わせて変わりつつある。いわゆる学校教育そのものが、従来の
「画
一型」から、多様性をもった、「個性尊重型」に変わりつつある。

 と言っても、日本の教育が変わりつつあると考えるのは、正しくない。日本の教育は、戦後、
あま
りにも(世界の常識)に背を向けすぎていた。それがここにきて、急速に欧米化し始めたと考え

のが正しい。つまり、世界の標準に近づきつつあるということ。またそういう視点で日本の教育
をな
がめないと、日本の教育のこの変化を、正しく理解できない。
(はやし浩司 画一教育 教育の欧米化 個性尊重 子どもの能力 日本の教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育界を吹きすさぶ、むなしい風(目標をなくした教育)

 できない子どもがふつうになっても、親は「効果があった」とは言わない。ふつうになればなっ
たで、親は「もっと……」と言う。できないままであれば、親は、「効果がなかった」とか、「あの先
生はダメな先生」とか言ったりする。できる子どもについても同じ。少しでも成績がさがったりす
ると、親は大騒ぎする。考えてみれば、こんなむなしい仕事はない。こうした現象は、算数の世
界でよく見られる。

 計算力というのは、訓練で伸びる。幼稚園児でも掛け算の九九を暗記したり、あるいは小学
一年生でも、計算を即座にしたりする子どもがいる。そういう子どもの親は、「うちの子どもは、
算数の力(=考える力)がある」と思う。しかし計算力と、算数の力は別。基本的な力がないと、
やがてメッキがはがれるように、算数の力は低下する。こういうとき教師は一番、苦労する。親
のきびしい視線を、子どもを通して痛いほど、感ずるからだ。

 教育、教育と言いながら、親の意識の中にも、「育てる」という意識がない。教育とは、勉強を
教えること。子どもの側では勉強をすること。そしてその目的はと言えば、「よい学校に入り、よ
い大学を出て、よい会社に入社するため」と考える。だからどうしてもそこに成績至上主義がは
びこる。成績がよければ善。成績が悪ければ悪、と。こうしたものの見方は明治時代以来、日
本の伝統的な教育観として定着している。あの夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも、職員会議の
席で一人の教師が、「我が校の実績も着実にあがってきております」と発言するシーンがある。
この場合、「実績」とは、大学への進学率をいう。

 私は一度、ある塾連盟の機関紙にこんな記事を書いたことがある。「何だかんだと言ったとこ
ろで、日本の教育の柱は人間選別ではないか。もしこの教育界から受験をはずしたら、塾な
ど、あっと言う間につぶれてしまうでしょ。学校教育だってあぶない。もし塾が本当の教育とや
らをしたいのなら、受験科目とは関係ない科目で、生徒を集めてみればいい」と。ふつうならあ
ちこちから反論が殺到するが、このときばかりは何も反応がなかった。塾教育そのものを、ま
っこうから否定したからだ。

 話をもとに戻すが、今のような教育体制を続ける限り、この教育界から、この「むなしさ」は消
えない。そしてこのむなしさがある以上、教師にやる気など、出てこない。だからいくら外部の
人間が教育改革を叫んでも、絵に描いた餅で終わってしまう。考えてみれば昔はよかった。教
育がわかりやすかった。進学率を高めることが、教育の目標だった。しかし今は、その目標が
ない。現場の教師たちが、何に向かって努力したらよいのか、それがわからなくなってしまっ
た。

へたに創意工夫をすれば、隣のクラスの父母から文句を言われる。「どうしてうちのクラス
では、してもらえないのか」と。そうそう毎日のように子どもたちを近くの公園へ連れていき、そ
こで授業をしていた先生がいた。しかし親たちの反対で、あっという間にやめになってしまっ
た。「そんなことすれば勉強が遅れる」と。

 創造力豊かな子どもを育てるといったところで、教師自身にそれが許されていないのに、どう
してそれができるというのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ごく最近(05年夏)でも、こんなことがあった。

 ある小学校に、オーストラリア人の英語教師が派遣されてやってきた。で、そのオーストラリ
ア人
教師が、自分の生徒たちを、近くの公園へ連れて行こうとしたとき、教頭が、それにストップを
かけ
た。「授業は、教室でするように」と。

 そのオーストラリア人の教師は、私にこう言った。「野外授業は、オーストラリアでは、みなや
って
いる。当たり前の授業なのに、どうして日本では、だめなのか?」と。

 その学校には、その学校なりの、いろいろな事情や規則があったのだろう。「事故でもあった
らた
いへん」と、その教頭は考えたのかもしれない。オーストラリア人の教師は、こう言った。「オー
スト
ラリアの子どもたちの遊びを教えたかったのに……」と。

 だからといって、私は、全面的に、そのオーストラリア人の教師の言い分を認めたわけではな
い。

日本人には、「土俵」という考え方がある。「土俵では、相撲のルールに従え」と。そこで私はそ

オーストラリア人の教師に、こう言った。「本当に自由な教育をしてみたいと思ったら、英語教
室を
自分でつくり、生徒を自分で集めること。そこで好きなことをすればいい」と。

 この私の考え方は、少し、保守的かな?
(はやし浩司 教師の自由 教育の自由 教師のやる気 自由な教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の皮肉(教育の原点)

 家庭教育では、子どもは使えば使うほど、いい子になる。忍耐力も育つし、生活力もつく。そ
してその上、親の苦労のわかる子どもになる。

 子どもは突き放せば突き放すほど、自立する。「あなたの人生だから、あなたはあなたで、勝
手に生きなさい」という姿勢を、親がもてばもつほど、子どもはたくましくなる。

 子どもに期待をしなければしないほど、子どもは親の期待を超えた子どもになる。「私が老人
になっても、子どもたちにはめんどうをみてもらわない」と言う人がいるが、そういう人ほど、ま
た子どもたちの愛を一身に集めている。

 一方、家庭教育では、子どもは手をかければかけるほど、またお金をかければかけるほど、
ドラ息子化する。生活がルーズになり、自分勝手になる。

 子どもは溺愛すればするほど、わけのわからない子どもになってしまう。あるいは親に反発
する。そうでなければ超マザコンタイプの子どもになってしまう。

 子どもに期待をかければかけるほど、子どもはどんどんその期待からはずれ、親の望む方
向とは別の方向へ進んでしまう。あるいは親の過剰期待の中で、子どもは窒息してしまう。

 皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。親たちがよかれと思ってしていることが、かえって
裏目、裏目に出てしまう。なぜか。私はその理由の一つとして、人間には本来、いじってもよい
部分と、そうでない部分があるように思う。たとえば人間の自立に関する部分はいじってはいけ
ないし、いじればいじるほど、子どもの自立は遅れる。つまりそういう部分は、人間が「教育」を
意識する、ずっとはるか昔から人間に備わっていた「力」だと思う。庭にやってくるスズメにして
も、実にたくましい。犬の目を盗んでは、ドッグフードを盗んでいく。

 となると教育とは何か、ということになる。そこで一のヒントとして、スズメの話を続ける。この
スズメは、山バトがやってきても、まったく逃げない。しかしモズがやってくると一斉に逃げ出
す。モズは肉食だ。そこでスズメをよく観察してみると、「逃げる」という行動は、親から子へと
代々教え継がれていることがわかる。親鳥が逃げ出すと、間髪を入れず、子スズメたちが逃げ
出す。そしてやがて子スズメたちはモズがやってきたら、逃げるということを学習する。

 わかりやすく言えば、教育とは、先人の知識や経験を、子どもたちに生きる武器として与える
こと、ということになる。またその視点を忘れて、教育はありえないし、またその視点からはず
れた教育は教育ではありえない。たとえば歴史教育にしても、原爆の悲惨さを教えるのは教育
であっても、○○年△△条約成立などという年号を子どもに暗記させるのは、歴史教育ではな
い。教育がそういう視点に立ちかえったとき、教育が本来どうあるべきかがわかるのではない
だろうか。

 家庭教育は、あくまでもその一部に過ぎない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 今、このエッセーを読みかえしてみても、「まったく、そのとおり」と思う。そういえば、冬になっ
たと
いうのに、ここ1、2年、そのモズが私の庭に来なくなった。どうでもよいことだが、ふと、今、そ
う思
った。

 また20年来つづけてきた、スズメの餌づけだが、それについては、今年から、やめた。鳥イ
ンフ
ルエンザの問題もある。が、それ以上に、やってくるスズメの数が、あまりにも多くなりすぎた。

年当たりは、数十羽ずつに分かれた群れが、ひっきりなしに私の庭にやってきていた。 

 朝早く、1〜2キロの餌を庭にまいたり、餌台にのせるのだが、午前中には、それがきれいに
なく
なってしまった。しかしこういう餌づけは、結局は、野鳥のためにはならないのでは……。野鳥
が、
人間に依存するようになり、野鳥が野鳥でなくなってしまう。

 それがやっとわかった。それでやめた。私自身は鳥が大好きで、庭に鳥がいないと、さみし
いの
だが……。
(はやし浩司 忍耐力 自立 子どもの自立 教育の原点 教育の目的)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●新学力観という、観点(役に立つ教育)

 「地面に立てたポールを利用して、太陽の高度を調べるにはどうしたらよいか。図解して説明
せよ」という問題がある。文部省が実施した「新学力テスト問題」の一つだが、中1年生での正
解率は、たったの10・4%。しかしこんなことは、教育が始まる以前から、人間には常識だっ
た。昔の人間は、皆、太陽の位置や影の長さで時刻を知った。今の子どもたちは、そんなこと
も知らないのかということにもなるし、裏を返せば、今の教育は一体、何を教えているのかとい
うことにもなる。

 教育の基本は、「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えるこ
と」ではないのか。そういう視点がないと、受験教育に代表されるように、教育がただ単なる点
数稼ぎのための道具にされてしまう。もっと言えば、教育が人間選別の道具にされてしまう。

ちなみに中学生にこう聞いてみればよい。「君たちは、なぜ勉強するか」と。大半の子どもたち
は、こう答える。「高校へ入るため」「大学へ入るため」と。親にしてもしかり。勉強をしない子ど
もを叱るとき、「そんなことでは、いい大学へ入れないぞ」と叱ることはあっても、「将来、必要な
知識が身につかないぞ」とは言わない。こうした教育がさらにいびつになると、幼稚園で掛け算
の九九を暗記させたり、漢字の読み書きを教えたりするようになる。

 一方、これは当然のことだが、子どもたちはその必要性を感じたとき、実に生き生きと自ら学
習し始める。私はときどき、「お金儲けごっこ」をするが、そのときもそうだ。それはこうして遊
ぶ。

 まず子どもたち(年長児)に、紙で作ったお金を渡す。そしてそれで折り紙を買わせる。大小
さまざまな大きさの折り紙があって、それぞれ値段が違う。子どもたちはその買った折り紙で、
いろいろなものを作る。絵を描く子どももいる。で、それができたら、今度はこちら(教師)が、そ
のできたものを買いあげてあげる。じょうずにできたのは、高い値段で。そうでないのは、低い
値段で。あとはこれを繰り返す。

ときどき、ほかの子どもが作ったものを、別の子どもに売ってあげることもある。20円で買いあ
げたものを、40円で売りつけたりすると、子どもたちは「ずるい、ずるい」と言うが、「これが資

主義の原理だ」などと難しい言葉で言ってやると、たいてい静かになる。さらに慣れてくると、子
どもたちどうしで、ものの売買をし始めるようになる。

 こうした動機づけがあると、あとは放っておいても、子どもたちは自ら、足し算や引き算をする
ようになる。多い少ないの判断も、そして損得の判断もできるようになる。さらに「労働すること
の喜び」もわかるようになる。

 文部省の新学力観では、「知識の獲得量ではなく、自分で考え、表現する力を重視する」とい
うもの。私はこれには大賛成だが、ただし一言。こういう指導が全国一律になされるところに
も、問題がある。皆が同じように自分で考え、表現するようになったら、それこそ、この日本は
どうなる。そんなことも頭に入れておいてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 日本の教育は、全体としてみると、将来、その道の学者をめざす子どもたちにとっては、きわ

て効率よく、かつ体系的にできている。理由は、わかりきっている。教科書が、その道の学者
たち
によって、作られているからである。

 たとえば英語という科目にしても、将来、英語の文法学者になるには、たいへん効率よく、体

的にできている。(最近は、こうした考え方が、大きく変わりつつあるが……。)

 しかし今、将来、学者になる、あるいはなりたいと言っている子どもは、いったい、何%いるの
か? 

 また日本の教育には、「子どもたちに実用的なことを教えるのは、悪」と考えているフシすら、

受けられる。しかしどうして実用的であっては、いけないのか。アメリカでは、中学校の数学の
時間
に、小切手の使い方を教えている。

 ここで「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えること」と教え
てく
れたのは、オーストラリアのM大学で、教授をしている私の友人である。
(はやし浩司 日本の教育 実用的な教育 子どもの学力 子供の学力 新学力観)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●一つの暴論(教育革命論)

 これはあくまでも暴論だが、学校は午前中だけでやめたらいい。午後は、生徒の自由にす
る。そしてそれぞれの特性に合わせて、塾へ行けばいい。何も学習塾や受験塾だけが塾では
ない。ピアノ教室、料理教室、工作教室、釣り教室、水泳教室、フランス語教室、ダンス教室な
ど。学校の中に、塾を呼びこんでもいい。その分、月謝は割安にする。

 原則として文部省は、学校の運営管理だけに口を出す。教科書検定は廃止。一方、受験指
導は、それを「よし」とする、業者に任せればいい。生徒の答案用紙を採点するのは、しかたな
いとしても、順位をつけ、進学校へ割り振るなどという行為は、教育者を名乗る教師のする仕
事ではない。

 また学校の敷地の3分の1には、樹木を植えさせる。校庭には、緑の芝生をしきつめる。管
理は、授業の一つとして、子どもたちに任せる。また校舎は今後、完全なバリヤーフリー構造
にして、身体障害者や知的障害者を差別することなく入学させる。そして子どもたちどうしで、
互いにめんどうをみあう。

 教師のする仕事は、「教える」ことではなく、「引き出す」こと。子どもたちの特性を見極めな
がら、その特性に応じた指導をする。具体的には子どもの特性に応じたカリキュラムを組んで
あげる。読書が好きな子どもは、毎日でも読書ができるようにしてあげる。皆が皆、算数ができ
なくてもいい。算数ができない子どもは、算数ができる子どもを尊敬し、ピアノがひけない子ど
もは、ピアノがひける子どもを尊敬する。互いに皆が、それぞれの立場で相手を認め合う。

 そうそうA中学に優秀なスペイン語塾があれば、B中学やC中学からも、自由に越境受講で
きるようにすればいい。そうすればもっと多様性が広がる。また基礎学力(算数の基礎、読み
書きなどの基礎)については、単位制を導入して、義務教育機関中に終了すればよいとする。
クラス担任制度は廃止して、生徒の責任者制度を導入する。その責任者(教師)が、それぞれ
の子どもの指導について、責任をもって指導する。必要に応じて、一日中、行動をともにしても
よい。

 高校、大学も基本的には、子どもの多様性に合わせて、多様化する。高校や大学にスキー
学部があってもいいし、釣り学部があってもいい。文学部も、作家部、読書評論部などに分け
る。経済学部も、起業部、ベンチャービジネス部などに分ける。もちろん一方に、アカデミックな
学問を探求する学部があってもいい。哲学や数学の分野で、すぐれた才能を示す子どもにつ
いては、それはそれとして伸ばす。

 これは暴論だが、しかしもし実行したら、それはまさしく教育革命というにふさわしい。長い
間、鎖国と封建制度の中で苦しめられてきた子どもたちにとっては、まさに革命。自由を求め
た革命。が、あなたはそれでも今の教育制度がいいと思うか。もしそうならあなた自身の子ども
時代を思い浮かべてみてほしい。あなたは心の中で、どんな学校を求めていたかを、だ。力の
ない子どもの革命を助けるのは、あなたしかいない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 この原稿を書いてから、4年になる。が、実は、こうした(流れ)は、すでに世界の常識になり
つつ
ある。ドイツやイタリアでは、学校外教育が、ますますさかんになりつつある。カナダでも、そう
だ。
「教育は学校で」という発想そのものが、もう古い。

 ただしこの日本で、教育を自由化するには、1つの条件がある。まず、学歴社会を是正する
こと。
それをしないで、自由化すれば、進学塾だけが、学校外教育ということになってしまう。
(はやし浩司 教育の自由化 学歴社会 教師の責任)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論)

 大学の教授は、高校の先生より、エライ。高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の
先生は、小学校の先生より、エライ。小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくと
も、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを
学歴信仰という。

 家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、息子のために学費を送り続ける。が、
肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤ
の催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。そしてそれが「親の務めだ」と思
う。こういうのを学歴信仰という。

 浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親
は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏に入ってくると、今度は「A高校。それが無理
なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には際限がないが、そういう思いが、誰にで
もある。こういうのを学歴信仰という。

 新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意はわからないが、文部大臣が、母校のA
高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と述べたとか(99年2月)。つまり「日本には
学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に立ったような人が、しかもその信仰の総
本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、そういう発言をするところに、日本のこ
っけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や
予備校に通わせない。もし本当にないのなら、成績に関係なく、東大の学生を入学させたらい
い。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。

 学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、それを死ぬほどほしがる。お金
と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と言ったところで、その日のお金に困
っている庶民には、説得力はない。私もある時期、自分の学歴にしがみついて生きていた。特
にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、私の教育論になど、誰も耳を傾け
てくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、いかに辛酸をなめさせられたことか。

 話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、その年から手話を教えるようになったと
言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理
由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。こういう姿勢、つまりその
子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、私は学校の本来、あ
るべき姿を見た。

反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが入学してきたら、教師や父母
は、どのように反応するだろうか。さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、学

信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、文部大臣ももう少し庶民の側におりて、

のを考えてほしいと思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いた時点(01年)と今では、障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。1
5年
ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、1人の身体に障害のある子どもを入学させようと
した
ことがある。そのとき、「そういう子どもが入ってくると、子どもたちの勉強の進度にさしさわりが

る」と、反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、報道されたので、覚えている人も多

と思う。

 たった15年前には、日本はまだそういう国だった。が、今、そんな反対運動をすれば、反対
に、
その親たちが袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、親たちの意識が、たしかに今、変わ
りつ
つある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●不気味な思考回路(ポケモン現象)

 一時期よりは下火になったが、いまだにポケモンは根強い人気を保っている。年齢的には幼
稚園の年長児から小学2、3年生児が、そのピーク。私の調査でも、約80%の子どもたち
がハマっていたことがわかっている(98年はじめ)。

 一度こういう世界ができると、「ポケモンを知らない」とか、「ポケモンなんて、つまらない」など
と言おうものなら、それだけで仲間はずれにされてしまう。当時あの「♪ポケモン言えるかな」と
いう歌を、どこまで歌えるかが、その子どものステイタスを決めていた。たとえばその歌を途中
までしか歌えなかったりすると、その子どもは「バカ」というレッテルをはられてしまった。

 問題は、そのハマリ度だ。好きとかファンというレベルならまだしも、中には熱狂してしまう子
どもがいる。現実とゲームの世界が区別できなくなってしまう子どももいる。こうなるとゲームと
は、もう言えない。信仰だ。しかもカルトだ。ある子ども(小3男児)は、親に叱られると、いつも
「♪ポケモン言えるかな」を心の中で歌っていたという。また別の中学生は、毎夜、空に向かっ
て、超能力を授けてもらうよう、祈っていたという。そうでなくても、大半の子どもは、あの黄色い
ピカチューの絵を見ただけで、興奮状態になってしまった。

 今はまだよい。今は、まだゲームの世界に収まっているから、よい。しかしもしポケモンが思
想をもったらどうなる。たとえばサトシが、「子どもたちよ21世紀は暗い。一緒に海へ入って
死のう」などと訴えたら、どうなる。それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。ポケモ
ン、いや一連のポケモン現象には、そういう危険性が潜んでいる。

 それにもう一つ、心配なことがある。幼児期に一度、こうした思考回路ができると、以後、何
かにつけてその思考回路に沿って、ものを考えるようになるということだ。迷信を信じやすくなっ
たり、カルトにハマりやすくなったりする。低劣な運命論やバチ論を振りかざすようになるかもし
れない。ある妻は、狂信的なカルト教団に身を染め、夫に向かってこう言い出した。「あんたと
私は、前世の縁で結ばれていなかったのよ。それを正すためには、信仰の力が必要なのよ」
と。もしあなたの妻がある日突然、そんなことを言い出したら、あなたはそれに耐えることがで
きるだろうか。こんな例もある。

 ある教団では手術そのものを禁止している。私がそのことをその教団に確かめたら、「禁止
はしていないが、熱心な信者なら手術を拒否します」ということだったが、ともかくもそういうこと
だ。そしてその結果として、一人の子どもが交通事故で死んだ。子どもの母親が熱心な信者
で、手術をがんとして拒否したからだ。が、悲劇はそこで終わらなかった。この事件で孫を失っ
た老人はこう話してくれた。

「今は、息子夫婦とも断絶しています。それまでは愛だとか、平和だとか、信仰もそれほど悪い
ものだと思っていなかったのですが……」と。私にはこれ以上のことは何も言えないが、もしあ
なただったらそうするか。それを一度考えてみてほしい。ポケモン現象にはそんな一面も隠さ

ている。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 カルト教団と戦うのも、疲れる。本当に疲れる。彼らは、その信仰に、命をかけている。かた
や私
の方は、そこまではしない。命をかけてまで戦うということはしない。が、この(ちがい)が、結局
は、カルトをのさばらせてしまう結果となる。

 私は、当時、まだカルト教団と戦っていた。で、そうしたカルト教団のもつ、カルト性というか、

険な側面を、あのポケモン・ブームの中に見た。子どもたちは、狂信的なまでに、ポケモンに夢

になっていた。

 そこで私は「ポケモン・カルト」(三一書房)という本を書いた。

 が、反響というか、抗議の嵐は、すさまじかった! 今でも、その世界では、「トンデモ本」とし

酷評されている。どこか「?」な人たちに、「トンデモ本」と酷評されることは、たいへん名誉なこ
とで
はないか。

 このエッセーは、そういうときに書いた。いくら酷評されても、今でも私は、自説をひっこめる
つも
りは、まったく、ない。
(はやし浩司 カルト カルト教団 ポケモン・カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●わからぬフリをする(うちの子は、どうですか?)

 子どもの情緒障害、専門的には脳の機能的障害には、軽重の程度の差がある。重い場合
は別として、軽い場合には、ふつう児との境があいまいで、そのため指導が難しい。いろいろな
ケースがある。

たとえば自閉症にしても、それと明らかにわかる子どももいるが、「どこか心を開かない」「勝手
な行動をして、どうも心をつかめない」という程度の子どももいる。かん黙児にしても、外の世界
ではまったくしゃべらない子どももいれば、ふとしたきっかけで黙りこくってしまう子どももいる。
私にしても、それぞれ何10例もの子どもたちを直接指導してきたが、その私でもいまだに迷う

とが多い。いや、判断を誤ることはまずないが、親に言うべきかどうかで迷う。「もし万が一にも
まちがっていたら……」という思いと、「治療法も用意しないまま、診断だけをくだすことはでき

い」という、二つの思いの中で迷う。言えば言ったで、親に与える衝撃ははかり知れない。

 だから親は、子どもがどこか変わった症状を示したりすると、子どもを叱ったり説教したりす
る。「どうして静かに落ちつけないの」とか、「皆の前で、もっとハキハキ、しゃべりなさい」とか。
しかし脳の機能的障害というのは、そういうものではない。子ども自身がコントロールできな
い、脳の奥深い部分で起こる。そして次に親は、その矛先を、教師に向けてくる。「先生の指導
が悪いから、こうなったのだ」と。教師がやりきれない気持ちに襲われるのは、たいていこんな
ときだ。

 が、教師は知らぬふりをして教える。そういう知識はないという前提で、教える。少なくとも親
のほうから、「どうしてでしょうか?」という質問があるまで、そうする。……こう書くと、無責任な
教師のように思われるかもしれないが、教育には、はっきりとわからなくてもいいことは、山ほ
どある。あるいはわかっていても、わからないふりをして教えることは山ほどある。たとえば子
どもの知能や、家庭問題。性格や気質など。その子どもはそういう子どもなのだということを納
得した上で、教える。仮に情緒に問題があるとしても、ふつう児として自然に扱ったほうが、そ
の子どもにとってはよいということもある。意識すればするほど、逆効果になる。

 そうそう、教師が一番いやがる会話を教えよう。何がいやかって、親に、「うちの子、どうでし
ょうか」と聞かれることぐらい、いやなことはない。「うちの子、最近、いかがでしょうか」と聞く人
も多い。親というのは先生と顔を合わせると、たいていそう言うが、言われたほうは答えようが
ない。親は軽いあいさつのつもりでそう言うのだろうが、何をどの程度答えるべきか、その返答
に困ってしまう。私の場合、そういうふうに聞かれたら、たいてい、「おうちではいかがです
か?」と聞きなおすようにしている。そうすると、相手の聞きたいことがわかる。

私「おうちではいおかがですか」
親「最近、家の手伝いをしなくて困っています」
私「ああ、そのことですね」と。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 「問われるまで、答えない」……それが、教師の間の不文律にもなっている。いくら子どもに
問題
があっても、教師の側から、それを指摘してはいけない。中には、それを正しく受け取ってくれ
る親
もいるが、ほとんどの親は、その瞬間から、狂乱状態になってしまう。

 で、最近の教師の傾向としては、こういう言い方をするのが、通例になっている。「一度、専門

に相談してみられてはいかがですか?」と。あとの判断は、親がすればよいという指導のし方
であ
る。

 一見、無責任にみえる指導法だが、現状では、それもやむをえないのではないか。
(はやし浩司 子供の問題 育児の問題 子供の心の問題 教師の対処法)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●溺愛ママ・ブルース(溺愛は愛ではない)

 子どもを溺愛する親は、珍しくない。たいていは親側の情緒的欠陥が原因で、親は子どもを
溺愛するようになる。ある母親は、息子(小6)が、修学旅行に行った夜、一睡もせず泣き明か
した。また別の母親は、やはり息子(中3)が初恋をしたことについて、はげしい嫉妬心を燃や
した。

 こうしたケースで特徴的なことは、溺愛している母親は、それを「親の深い愛」と誤解している
点にある。ある母親は臆面もなく、こう言った。「息子(高1)の汚れた下着を見ていると、いと
おしくて、頬ずりしたくなります」と。つまりそうすることが、親の鏡というわけである。中に生きが
いのすべてを、子どもに注いでしまう人がいる。考えることといえば、明けても暮れても、子ども
のことばかり。毎月、子ども(幼稚園児)の成長記録を、小冊子にして発行している人もいる。
こういう人は、「子どもは私のすべて」と公言してはばからない。

 しかし溺愛は、「愛」ではない。代償的愛ともいう。つまり自己の支配欲を満たすために、子ど
もを愛する。あるいは自分の心のスキ間を埋めるために、子どもを愛する。つまりは親の身勝
手な愛に過ぎない。子どもを愛するということは、子どもが巣立っていくのを見守りながら、じっ
とそのさみしさに耐えることにほかならない。もっともこう書いたからといって、溺愛が悪いとい
うのではない。もちろん笑っているのでもない。

ただ私がここで言いたいことは、親が溺愛すればするほど、子どもの「核」形成が遅れるという

とだ。核というのは、子どものつかみどころをいう。その年齢になると、その年齢にふさわしい
「つかみどころ」ができてくる。しかし親が溺愛したりすると、そのつかみどころがわからなくな
る。
全体にその年齢に比して、幼い印象を与えるようになる。が、それだけではすまない。

 子どもはその年齢ごとに、ちょうど蝶がカラをぬぐようにしてカラをぬぎながら、成長を繰り返
す。しかしその段階で溺愛などが原因で、カラをぬがないと、そのツケはあとへあとへと回され
る。しかもあとになればなるほど、その衝撃は何10倍も大きくなる。はげしい家庭内暴力に
つながることもある。

「俺を、こんな俺にしたのは、オマエだ!」
「許して、お母さんが悪かったわ」と。

そうでなければ、そのまま子どもはマザコンタイプの子どもになっていく。30歳になっても、40
歳になっても、親離れできない。これは極端なケースだが、結婚してからも実家へ帰るたびに、
母親と風呂へ入ったり、一緒に寝ている男性がいた。そういうふうになる。

 自分自身の中に「溺愛」を感じたら、子育てから遠ざかる。しかしこれは簡単なことではない。
唯一方法があるとすれば、母親であることを忘れ、妻であることを忘れ、ついで女であることを
忘れ、一人の人間として、自分のしたいことをする。そしてその反射的効果として、子育てから
遠ざかる。もちろん自分自身に情緒的欠陥があれば、それと闘う。(以上、01年記「子育て雑
談」)
 
(補記)

 マザコンになるのは、何も男児だけとはかぎらない。女児も、マザコンになるケースは、多
い。し
かも女児(女性)のマザコンのほうが、男児(男性)よりも、強烈になりやすい。女性のばあい、

家に帰って、母親といっしょに風呂に入っても、だれも、おかしいと思わない。(男性だったら、
それ
だけで、大問題になるが……。)そういうスキをついて、女性は、男性よりも、より強烈なマザコ

になる。

 さらにファザコンというのも、ある。自分の父親を偶像化する。「オレのオヤジの悪口を言うヤ

は、許さない」と、公の場所で、叫んだ男性(50歳くらい)がいた。

 でき愛は、「愛」ではない。自分の心の欠陥を埋め合わせするために、親は、子どもをでき愛
する
ようになる。ご注意!
(はやし浩司 溺愛 でき愛 子どもの成長 子供の成長 子供の心の発達 心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●スポイルされる子どもたち(忍耐力のない子ども)

 アメリカ人の友人が、「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」という。わかり
やすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう
言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

 「ときどきホームスティをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対にアメリカへ、ホームスティしてきた高校生が、こう言って
驚いていた。「向こうでは、明らかに不良と思われるような高校生でも、家事だけは手伝ってい
た」と。

 日本人は、子どもを使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解している
ようなところがある。だから生活感がない。「水はどこからくるか」と、年長児たちに聞くと、「水
道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持っていってくれる」と。あるいは
「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「おとうさんが、やってくれるから
いい」と答えたりする。

 こんな話をある講演会で話したら、一人の母親がこう質問してきた。「何をやらせればいいの
ですか」と。話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの30分ですんでしまう。買物といっても、食材
は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。料理のときも、台所の周囲でうろうろされると、かえって
迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親がせんべいを口にして、
寝そべりながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと
動き回り、子どももそれに合わせて、キビキビとすべきことをすることをいう。たとえば次のよう
なとき、あなたの子どもはどういう反応を示すだろうか。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたが……。さっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかしそ知ら
ぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育をかなり反省したほうがよい。

 よく誤解されるが、子どもの忍耐力は、「いやなことをする力」をいう。台所の生ゴミを手で始
末できるとか、寒い夜に隣へ回覧版を届けることができるとか。一日中サッカーをしているか
ら、忍耐力があるということにはならない。その子どもは好きなことをしているだけである。その
忍耐力がないと、子どもは学習面でも伸び悩む。勉強するということには、どうしても苦痛がと
もなう。その苦痛が乗り越えられないからだ。またそれ以前の問題として、生活力が身につか
ない。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女子)がいた。話を聞くと、
「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないた
めにも、子どもは使って使って、使いまくる。子どもが2〜4歳のときが勝負で、それ以後にな
ると、このしつけはできなくなる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ここに書いたアメリカ人というのは、浜松市に住んでいた、R・ケリーという人だった。4、5年
前に
アメリカへ帰っていった。で、一度、彼の家を訪問したことがある。すばらしい御殿のような家だ

た。半地下室には、卓球ルームまで作ってあった。

 彼が日本へやってきたのは、52歳のとき。ある店で、ぼんやりと外をながめていたとき、私
の方
から声をかけた。以来、10年近く、つきあった。

 すばらしいアメリカ人だった。彼の送別会には、300〜400人近い人たちが、ホテルに集ま

た。
この原稿を読んでいるとき、それを思い出した。ここ1、2年、音信がないが、今ごろは、どうし
てい
るだろうか? 


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【1】謹賀新年□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


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2006年、明けまして、おめでとうございます!

1月4日(水曜日)号をお届けします。

……といっても、このあいさつを書いているのは、
今日、12月5日(月曜日)です。マガジンでは、
こうして約1か月先の原稿を書いています。

こうすることによって、たとえば、3〜4日のス
ランプ状態になったようなときでも、みなさんの
ところへ、途切れることなく、マガジンを配信す
ることができます。

で、実は、この3、4日ほど、ほとんど原稿を書
きませんでした。いろいろ、忙しいことが重なっ
たこともあります。1泊ですが、ワイフと旅行も
楽しみました。

が、今日は今朝から調子がよく、朝の7時半から
目標の、20枚分の原稿を書くことができました。

今、時刻は、午前10時45分です。少し荒っぽ
い原稿かもしれませんが、今年も、こうしてみな
さんのところに、マガジンをお届けできることを
喜んでいます。

みなさんのご健康とご多幸を、心より念願してい
ます。今年もよろしくお願いします。

          浜松市  はやし