はやし浩司(ひろし)

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件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■今を生きる

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04−2−9号(359)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi 
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto829

●ピーターパン・シンドローム

ピーターパン症候群という言葉がある。日本では、「ピーターパン・シンドローム」ともいう。いわゆる(おとなになりきれない、おとな子ども)のことをいう。

この言葉は、シカゴの心理学・精神科学者であるダン・カイリーが書いた「ピーターパン・シンドローム」から生まれた。もともとこの本は、おとなになりきれない恋人や息子、それに夫のことで悩む女性たちのための、指導書として書かれた。

 症状としては、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着などがあげられる。体はおとなになっているが、社会的責任感が欠落し、自分勝手で、わがまま。就職して働いていても、給料のほとんどは、自分のために使ってしまう。

 これに似た症状をもつ若者に、「モラトリアム人間」と呼ばれるタイプの若者がいる。さらに親への依存性がとくに強い若者を、「パラサイト人間」と呼ぶこともある。「パラサイト」というのは、「寄生」という意味。

 さらに最近の傾向としては、おもしろいことに、どのタイプであれ、居なおり型人間がふえているということ。ピーターパンてきであろうが、モラトリアム型であろうが、はたまたパラサイト型であろうが、「それでいい」と、居なおって生きる若者たちである。

 つまりそれだけこのタイプの若者がふえたということ。そしてむしろ、そういう若者が、(ふつうのおとな?)になりつつあることが、その背景にある。

 概して言えば、日本の社会そのものが、ピーターパン・シンドロームの中にあるのかもしれない。

 国際的に見れば、日本(=日本人)は、世界に対して、無責任、自信喪失、意見を言わない(=感情を外に出さない)、無関心、自己中心的、無頓着。

 それはともかく、ピーターパン人間は、親のスネをかじって生きる。親に対して、無意識であるにせよ、おおきなわだかまり(固着)をもっていることが多い。このわだかまりが、親への経済的復讐となって表現される。

 親の財産を食いつぶす。親の家計を圧迫する。親の生活をかき乱す。そしてそれが結果として、たとえば(給料をもらっても、一円も、家計には入れない)という症状になって現れる。

 このタイプの子どもは、乳幼児期における基本的信頼関係の構築に失敗した子どもとみる。親子、とくに母子の関係において、たがいに(さらけ出し)と(受け入れ)が、うまくできなかったことが原因で、そうなったと考えてよい。そのため子どもは、親の前では、いつも仮面をかぶるようになる。ある父親は、こう言った。「あいつは、子どものときから、何を考えているか、よくわかりませんでした」と。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉、過関心になりやすい。こうした一方的な育児姿勢が、子どもの症状をさらに悪化させる。

 子どもの側にすれば、「オレを、こんな人間にしたのは、テメエだろう!」ということになる。もっとも、それを声に出して言うようであれば、まだ症状も軽い。このタイプの子どもは、そうした感情表現が、うまくできない。そのため内へ内へと、こもってしまう。親から見れば、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)といった、感じになる。ダン・カイリーも、「感情を外に表に出さない」ことを、大きな特徴の一つとして、あげている。

 こうした傾向は、中学生、高校生くらいのときから、少しずつ現れてくる。生活態度がだらしなくなったり、未来への展望をもたなくなったりする。一見、親に対して従順なのだが、その多くは仮面。自分勝手で、わがまま。それに自己中心的。友人との関係も希薄で、友情も長つづきしない。

 しかしこの段階では、すでに手遅れとなっているケースが、多い。親自身にその自覚がないばかりか、かりにあっても、それほど深刻に考えない。が、それ以上に、この問題は、家庭という子どもを包む環境に起因している。親子関係もそれに含まれるが、その家庭のあり方を変えるのは、さらにむずかしい。

 現在、このタイプの若者が、本当に多い。全体としてみても、うち何割かがそうではないかと思えるほど、多い。そしてこのタイプの若者が、それなりにおとなになり、そして結婚し、親になっている。

 問題は、そういう若者(圧倒的に男性が多い)と結婚した、女性たちである。ダン・カイリーも、そういう女性たちのために、その本を書いた。

 そこでクエスチョン。

 もしあなたの息子や、恋人や、あるいは夫が、そのピーターパン型人間だったら、どうするか?

 親のスネをかじるだけ。かじっても、かじっているという意識さえない。それを当然のように考えている。そしてここにも書いたように、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着。

 答は一つ。あきらめるしかない。

 この問題は、本当に「根」が深い。あなたが少しくらいがんばったところで、どうにもならない。そこであなたがとるべき方法は、一つ。

 相手に合わせて、つまり、そういう(性質)とあきらめて、対処するしかない。その上で、あなたなりの生活を、つくりあげるしかない。しかしかろうじてだが、一つだけ、方法がないわけではない。

 その若者自身が、自分が、そういう人間であることに気づくことである。しかしこのばあいでも、たいていの若者は、それを指摘しても、「自分はちがう」と否定してしまう。脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、それに気づかせるのは、容易ではない。

 が、もしそれに気づけば、あとは時間が解決してくれる。静かに時間を待てばよい。
(040201)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●プラス型とマイナス型

 情緒が不安定な子どもというのは、心がいつも緊張状態にあるのが知られている。その緊張状態のところに、不安が入り込むと、その不安を解消しようと一挙に緊張状態が高まり、情緒が不安定になる。

で、そのとき、激怒したり、暴れたりするタイプの子どもと、内閉したりぐずったりするタイプの子どもがいることがわかる。一見、正反対な症状に見えるが、ともに「不安を解消しようとする動き」ということで共通点がみられる。それはともかく、私は前者をプラス型、後者をマイナス型として考えるようにしている。

 ……というわけで、「プラス型」「マイナス型」という言葉は、私が考えた。

この言葉を最初に使うようになったのは、分離不安の子どもを見ていたときのことである。

子どもの世界には、「分離不安」というよく知られた現象がある。親の姿が見えなくなると興奮状態(あるいは反対に混乱状態)になったりする。年長児についていうなら、一五〜二〇人に一人くらいの割で経験する。

その子どもを調べていたときのことだが、症状が、@興奮状態になり、ワーワー叫ぶタイプと、Aオドオドし混乱状態になるタイプの子どもがいることがわかった。そのときワーワーと外に向かって叫ぶ子どもを、私は「プラス型」、内にこもって、混乱状態になる子どもを、「マイナス型」とした。

 この分類方法は、使ってみるとたいへん便利なことがわかった。たとえば過干渉児と呼ばれるタイプの子どもがいる。親の日常的な過干渉がつづくと、子どもは独特の症状を示すようになるが、このタイプの子どもも、粗放化するプラス型と、内閉するマイナス型に分けて考えることができる。子ども自身の生命力の違いによるものだが、もちろん共通点もある。ともに常識ハズレになりやすいなど。
 
ほかにたとえば赤ちゃんがえりをする子どもも、下の子に暴力行為を繰りかえすタイプをプラス型、ネチネチといわゆる赤ちゃんぽくなるタイプをマイナス型と分けることができる。

いじめについても、攻撃的にいじめるタイプをプラス型、もの隠しをするなど陰湿化するタイプをマイナス型に分けるなど。また原因はともあれ、家庭内暴力を起こす子どもをプラス型、引きこもってしまう子どもをマイナス型と考えることもできる。表面的な症状はともかくも、その症状を別とすると、共通点が多い。またそういう視点で指導を始めると、たいへん指導しやすい。

 こうした考え方は、もちろん確立された考え方ではないが、子どもをみるときには、たいへん役に立つ。あなたも一度、そういう目であなたの子どもを観察してみてはどうだろうか。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。

なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

    ミ ( ⌒⌒ ) 彡
      ∞((((( )∞
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      (" 。 "人
     ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。

【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●今を生きる

 今を生きることの大切さは、言うまでもない。こんな議論がある。

 ある仏教系の宗教団体の信者が、こう言った。「キリストは、最期は、はりつけになった。無残な最期である。つまりそれこそが、キリスト教がまちがっているという証拠だ」と。

 その教団では、「結果」を重要視する。「結果を出せ」が、信仰の柱になっている。しかし、本当に、そうか?

 遠い昔、戦前のことだが、北海道で、こんな事件があった。

 あるとき、あるところで、ブレーキが故障して、列車が坂を暴走し始めた。そのまま放っておけば、大事故につながる。そこで車掌は、とっさの判断で、自分の体を、線路と車輪の間に投げ出し、自分の体を犠牲にして、その列車を止めたという。

 もしその宗教団体の教えが正しいとするなら、その車掌は、まちがっていたことになる。その車掌は、無残な死に方をした。しかし私が仏なら、(神でもよいが)、そういう車掌を、イの一番に、天国に迎え入れる。

 生きることに、「結果」はない。もしあるとするなら、日々の生活の、一瞬、一瞬が、その結果である。

 もし(財産ができた)、(地位を得た)、(大学に合格した)ということが、「結果」というのなら、その結果のあとに、何がくるというのか。まさか、それで終わりというわけでも、ないだろう。

 その教団では、「その人の結果は、臨終の姿(死に際の様子)を見ればわかる」とも教える。そして葬式が終わると、「いい死に顔だった」「すばらしい死に顔だった」と、たがいに言いあう。

 しかし長い間、たとえばがんなどで苦しんだ人の死に顔は、決して美しいものではない。はげしい痛みと、苦痛が、その人の死に顔を、そういう様相にする。

しかしがんで死ぬかどうかは、確率の問題。その信仰をしたから、がんにならないとか、しなかったから、がんになるとか、そういうことは、ありえない。あるいは、その教団の信者には、がんになった人はいないとでもいうのだろうか。

 私たちが将来、どんな死に方をしたとしても、それまでの人生が、それで総括されるわけではない。大切なのは、「今」だ。今というときを、どう生きるか、だ。それでその人の人生は決まる。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞掲載済み)。

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●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。

あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力すると言っても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。

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 ある母親は、息子(中三)が高校受験に失敗した日のこと、私にこう言った。

 「先生、すべてがムダでした。あの子を小さいときから、英語教室や、算数教室に通わせましたが、結局はムダでした……」と。

 結果だけをみて、人生を判断する人は、そういう考え方をする。日本の仏教そのものが、結果を重視する。だから、日本人は、多かれ少なかれ、何かにつけて結果をみて、ものごとを判断する。そういう傾向が強い。

 しかし結果などというものは、放っておいても、あとから必ずついてくる。その結果がどうであれ、大切なことは、今を懸命に生きること。あとのことは、あとに任せばよい。あのアインスタインも、こう言っている。

「私は未来のことについては、決して何も考えない。未来はやがてきっとやってくるから」(「語録」)と。

旧約聖書の中にも、こうある。『汝、明日のことを語るなかれ。それは一日の生ずるところの如何なるを、知らざればなり』(箴言27−1)と。

 最初の話に、もどる。

 私やあなただって、明日、交通事故か何かで、無残な死に方をするかもしれない。しかしだからといって、今、懸命に生きている私やあなたが、否定されるわけではない。

 もっと身近な例では、事業に失敗したとか、あるいは会社をクビになったからといって、その人の人生すべてが、否定されるわけではない。その人が、懸命に生きてきたという事実までは、だれにも消すことはできない。

 大切なのは、「今」なのだ。どこまでいっても、「今」なのだ。繰りかえすが、今、どう生きているか、なのだ。結果は、放っておいても、必ず、あとからついてくる。
(030131)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●カルトに気をつけよう

 大不況、温暖化、国際情勢の不安定化、鳥インフルエンザ、SARSなどなど。私たちを取り巻く環境は、ますます悪化しています。

 当然のことながら、人々の心は、それに並行して、不安定になります。私もそうですが、あなたも、そうではないでしょうか。

 こういうとき、あやしげなカルト教団が、一挙に勢力を伸ばします。戦後直後の日本、旧東ドイツ崩壊後のドイツ、旧ソ連崩壊後のロシアに例を見るまでもありません。

 現に今、私のまわりにも、実にあやしげなカルト教団が、近づきつつあります。たいていは終末論や末法論を唱え、「この信仰をしたものだけが救われる」などと、説きます。

 みなさん、常識を信じましょう!

 私たちが数十万年という長い年月を経て、身につけた常識です。その常識に従って、判断し、行動しましょう。いえ、決して、むずかしいことではありません。おかしいものは、おかしいと思えばよいのです。たったそれだけのことです。

 もし私たちがすることがあるとすれば、その常識をみがくことです。本を読み、映画を見て、音楽を聞く。自然の中を歩き、人と会い、ごく日常的な生活をする。奇をてらった修行をしたから、その境地に達せれるとか、しなかったから、達せられないとか、そういうことではありません。

 野に遊ぶ動物や、同じく野に咲く花を見れば、それがわかるはずです。動物や、花が、そんなことを、しているでしょうか。私たち人間も、まさに自然の一部です。だったら、自然に生きていきましょう。自然とともに、生きていきましょう。

 たしかにいろいろな問題が、起きてきています。そしてそのつど、私たちは、不安になります。私たちだけのことならともかくも、子どもの未来を考えると、暗澹(あんたん)たる気持ちになります。

 しかしそのときでも、常識に従って生きていきましょう。人間として、人間の道を生きていけば、それでよいのです。

 その結果、人間は、どうなるか? それは私にもわかりませんが、同時に、私は、人間がもつ知恵や勇気、英知や努力を信じます。みんながそういう力を結集すれば、そういう問題を、ひとつひとつ克服できるはずです。逃げるのではなく、絶望するのではなく、最後の最後まで、戦うのです。

 みなさん、常識を信じましょう!

 つぎの詩は、五年ほど前に書いた詩です(中日ショッパー掲載済み)。今でも、私のこの心は、まったく変わっていません。

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●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 
そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
 
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 あの釈迦も、法句経の中で、こう言っています。『己(おのれ)こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』と。

 生きていくのは、私であり、あなたです。そういう人たちが、常識という輪の中で、力を合わせて生きていく。そこに人間の尊さがあるのではないでしょうか。

 その釈迦の言葉で思い出したのが、つぎの原稿です。少し趣旨が脱線しますが、ぜひ、読んでいただきたい原稿(中日新聞掲載済み)です。

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●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。

法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

 私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

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 私たちは、人間として、相手がたとえ神であろうが、仏であろうが、過干渉されてはいけないのです。過保護にされてもいけないし、溺愛されてもいけない。

 これから先、あなたのところにも、あやしげなカルトが忍び寄ってくるはずです。どうか、みなさんも、どうか、くれぐれも、ご注意ください。
(040201)

●われ思う、ゆえに、われあり。(デカルト「方法序説」)

【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

人間は、知的生物?

●火星

 【ワシントン31日共同】米航空宇宙局(NASA)は、米東部時間1月31日朝(日本時間同日夜)、火星に着陸した無人探査車の2号機オポチュニティーを、着陸用の台から火星の表面に降ろす作業に成功した。

 何でも、オポチュニティーの近くには、(水があったことを示す)痕跡が確認されたという。これからその分析を始めるそうだが、もし水があったことが確認されたら、宇宙の歴史は、ひっくり返るかもしれない。

 その一。水があったということは、火星の気温は、0度から100度までの範囲であったということになる。もちろん大気もあったということになる。そうであれば、そこには、何らかの生物が住んでいた可能性が、きわめて高くなる。

 その二。水も大気もあった火星が、なぜ今のような火星になってしまったかということ。火星でも、たとえば今の地球が経験しているような温暖化現象が、あったとでもいうのだろうか。その可能性もきわめて、高くなる。

 もっとも私のような素人がこんなことを論じても、意味はない。しかし空想することは、私でも、できる。こうした空想は、何も、専門家の特権ではない。

 一説によれば、火星にも、昔、知的生物がいたという。そしてその生物が進化して、地球の人間のような知的生物になったという。その知的生物が、化石燃料(石油や石炭)などを燃やし、温暖化を引き起こした?

 こういう話は、おもしろいと同時に、ぞっとする。火星の過去と現在は、まさに地球の未来でもあるからである。あるいは本当に、いつか、地球も、今の火星のようになってしまうのだろうか。現に今、地球の温暖化は、不気味なほど、確実に、かつ急速に進行しつつある。日本は、海に囲まれた島国だから、それほど温暖化を感じないが、オーストラリアでは、そうではない。

 去年の夏も暑かったそうだが、今年も、あのメルボルン市でさえ、連日40度を超える猛暑がつづいたという。35年前には、世界でも、一年をとおして、気候がもっとも温暖なところとして知られていた都市である。

メルボルン市のことを、別名、「ガーデン・シティ(田園都市)」という。市の三分の一が、公園。町の中に公園があるというよりは、公園の中に町があるといった感じの都市である。そのメルボルン市ですら、ここ五、六年、たいへん住みにくくなってきているという。

ほかの国々における異常気象については、いまさら言うまでもない。

 どこかの科学者が、こう言っていた。「火星を知るということは、地球の未来を知ることだ」と。

なぜ火星が今のような火星になってしまったかがわかれば、そのこと自体が、人類に対する大きな警鐘になることだけは、まちがいないようだ。


●中途半端な知的生物
 
 「知的生物」について、一言。

 人間は、一応、知的生物ということになっている。しかし本当に知的生物かというと、それは疑わしい。火星に探査ロケットを打ち上げる能力をもっている一方で、サルでもしないような愚劣なこともしている。

 そういう意味では、人間は、中途半端な知的生物ということになる。

 しかし何ごとも、中途半端であることが、一番、悪い。危険。たとえばこんなことがある。

 山荘へ行く途中に、小さな山がつづくところがある。国道からそれて、山のわき道に入ったところだが、その山の一角からは、いつも、モクモクと黒煙があがっている。晴れの日も、雨の日も、一年中である。

周囲には、工事現場から出たと思われる廃材が、山のようになっている。

一度私たちは車を止めて中へ入ってみたが、人影はなかった。一角だけが、高い塀で囲まれ、その中で、廃材を燃やしていた。黒煙は、いつもそこから出ている。

 ここに人間の愚劣さが、ある。(サルでもしないような愚劣なこと)というのは、そういう行為をいう。恐らくというより、まちがいなく、その業者は、モグリである。モグリで廃材を処理している。いくら生きるためとはいえ、そんな形で、公害をまき散らしたら、この地球は、いったい、どうなる? 

 しかしそういう人たちを、責めても、意味はない。この私とて、そしてあなたとて、同じ立場に置かれたら、同じことをするかもしれない。あるいは日常的に、同じようなことをしているかもしれない。つまり私がいう、(中途半端)という意味は、そこにある。

 つまりこの中途半端さがなくならないかぎり、人間は、決して知的生物には、なりえない。言うなれば人間は、今、動物園に住む動物たちと、いわゆる知的生物の中間あたりを、フラフラしているような状態ではないか。冒頭に書いたように、火星に探査ロケットをあげながら、その一方で、サルでもしないようなことをしている。

 言うまでもなく、人間が知的生物になるためには、考えること。ただひたすら考えること。考えて、考え抜くこと。まず考える。行動は、必ず、あとからついてくる。そしてもし、広く、人間教育というものがあるとするなら、それは考える習慣を、どうやって身につけるかということに行き着く。

 以前、子どもの教育に関して、こんな原稿を書いた(中日新聞掲載済み)。

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知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよい悪いも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。

さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。

ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

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 今、人間は、たいへんな危機的な状況にあると考えてよい。まさに地球そのものが、亡びるかもしれないという状況である。言うなれば、人間の知的能力が、まさにためされているときということになる。

 そこでどうだろう、こう考えてみたら。

 つまり人間は、知的生物ではないという前提で、人間を自らながめてみる、と。もっとはっきり言えば、私たち人間は、自分たちを知的生物と思いこんでいるだけ、と。そういう前提で、もう一度、私たち自身を、見なおしてみる。

 火星はともかくも、この宇宙には、無数の知的生物がいるとされる。この地球上で、人間だけが決してゆいいつの生物でないのと同じように、宇宙では、この人間だけが決して、ゆいいつの知的生物ではない。

 しかも人間というのは、ひょっとしたら、宇宙に住む知的生物たちから見たら、きわめて原始的な生物かもしれない。そういう視点をもって、もう一度、人間自身をみてみる。わかりやすく言えば、私たちのもつ知的レベルに対して、謙虚になるということ。すべては、そこから始まる。

 はからずも、私は昨日、市の動物園へ行ってみた。そしていつも、あのサルの集団を見ると、考えさせられる。実は、昨日も、そうだった。

 あのサルたちは、絶対に、自分たちは、バカだと思っていない。自分がバカだとわかるのは、自分自身がそのつど、はるかに高い視点をもったときである。しかしその高い視点をもつことができないサルには、それがわからない。

 同じように、ほとんどの人間は、自分がバカだとは思っていない。それがわかるだけの高い視点すらもっていない。

 では、どうするか? ……結局は、先のエッセーの中に書いたように、「考える」こと。すべては、ここへ行き着く。考えて、考え抜く。そうすることで、人間は、ほんの数センチかもしれない。数ミリかもしれない。しかしそれでも、ほんの少しだけ、高い視点から自分を見ることができる。それまでの自分が、バカだったと気づくことができる。

 何ともこみいったエッセーになってしまったが、要するに、私たち人間は、実に中途半端な知的生物であるということ。私は、それが言いたかった。
(040201)

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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●自己紹介

【はやし浩司のわけ】

 改めて、自己紹介します。

 本名は、「林 浩司」といいます。「はやし・ヒロシ」と読みます。

 大学時代、みなは、私のことを、「はやし・コージ」と、呼びました。いつの間にか、そうなりました。しかし正しくは、「はやし・ヒロシ」です。

 で、ペンネームは、「はやし浩司」です。

 「林」を、「はやし」にしたのには、二つの理由があります。

 幼稚園で働いているころ、いつも私は、自分の名前を、「はやし」とひらがなで書いていました。それで、「林」より、「はやし」のほうに、なじみができてしまったこと。

 もう一つは、同じ町内に、同姓同名、同じ読み方をする人が、住んでいたこと。この方は一〇年ほど前になくなりましたが、私の名前ほど、ありふれた名前もありません。

 現在でも浜松市内には、電話帳で調べただけでも、「林・ヒロシ」「林・コージ」という人は、七、八人もいます。約200倍すれば日本の人口になりますから、この日本には、「林・ヒロシ」「林・コージ」という人は、1500人くらいはいるという計算になります。

 それで「はやし浩司」にしました。

 私は、このペンネームが、とても気にいっています。「林」という文字は、どこかトゲトゲしいので、あまり好きではありません。

【住んでいるところ】

 住所は、浜松市のI町というところです。(インターネットでは、あまり個人情報を漏らさないというのが、原則になっていますから、この程度でごめんなさい。私自身は、住所を明かしても構わないと思っていますが、中には、悪い人もいますので……。)

 I町だけでも、一万世帯近くも住んでします。昔からの、大きな町です。私は、このI町に住んで、今年(04)でちょうど二七年目になります。浜松へ来てからは、三三年目になります。

 私の家は、浜松市の中心部と、浜名湖のちょうど中間あたりのところにあります。やや丘の上、新興住宅地の一角です。新幹線で、そのあたりを通ったら、北の方を見てください。線路からは、二キロくらい離れたところです。

 いつもさんさんと、太陽の陽光がさしているところが私の家……というのは、ウソですが、私の家は、日当たりのよいところにあります。

【私のこと】

 ときどき私は、どんな人間なのだろうと考えます。

 しかし本当のところ、自分のことは、よくわからないでいます。まじめな人間なのか、そうでないのかさえわかりません。だいたいにおいて、まじめな人間というのは、どういう人間をいうのか、その基準は何なのか、と。そんなことまで考えていくと、ますますわからなくなってしまいます。

 まあ、あえていうなら、ふつうの人間ではないのかなと思いますが、「ふつう」という意味も、これまたよくわかりません。

 それにいろいろな面が、あります。混在しているというか、めちゃめちゃ。気が小さいくせに、意外と、大きなこともしてしまう……。趣味にしても、そのつど、コロコロ変る。正義感は結構強いくせに、どこか小ずるいところがある、などなど。

 だから自分のことを、どう書いたらよいのでしょうか。別のところで、自己紹介の記事を書いておきましたので、興味のある方は、またそちらを読んでください。(私のHPのトップページから、左上、「思想」)

 外見は、数字で表すことができます。

 身長は166センチ。このところ体を丸めて歩くことが多くなったので、見た目には、それよりも低く見えるはずです。

 体重は、今は67キロ(04・2)。顔は、写真のとおりですが、みなは、「年齢にしては、若く見える」と言ってくれます。

 メガネをかけた、ダサイ感じの男です。自分でも、それがよくわかっています。ラブロマンスなど、私には無縁でした。一、二度、それらしきことは、あったかなあ、という感じです。三枚目で、ドジ。おっちょこちょい。笑わせ名人で、ひょうきんものです。

 今のところこれといった病気もなく、健康です。生涯において、病院のベッドの上で、寝たことは、一度もありません。

血圧は低く、上が100前後。下が60前後です。脈は遅いです。健康診断では、いつもひっかかります。

 私の健康法は、ただひたすら毎日、自転車で走ること。あとは食べ物には、何かと注意しています。

【生活信条】

 「生活信条」と、自分で書いて、ウーンと、今、うなってしまいました。

 「そんなもの、あるのかア?」と思っています。毎日、惰性で生きているだけという感じです。これといった主義や主張も、ほとんど、ありません。精神力はもともと軟弱だし、情緒も不安定。行動力もこのところ、どんどん鈍ってきています。

 まあ、あえていうなら、今は、もう自分を飾らないで生きていこうと思っていることかな。ありのままの自分を、そのままさらけ出していこうと、です。

 私は、ずっと、自分を偽って生きてきたように思います。「どうすれば優等生に見られるだろう」「どうすれば、相手にいい人だと思われるだろう」と、そんなことばかりを考えて、生きてきたように思います。

 だから、そういう自分と、はやく決別したいです。私は私のまま、自分の人生を、生きたいです。残りの人生も、短くなってきたことだし……。

 愛想よくしたり、相手の機嫌をとったり、へつらったり、そういうことだけは、しないようにと、心がけています。

 そんなわけで「信条」と言えるかどうかはわかりませんが、今は、「自分に正直に生きる」が、ひとつの目標になっています。
(新HP用)
(040201)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●展望性と回顧性(2)

 自分の未来や将来は、どうなのか。どうあるべきなのか。それを頭の中で組み立てることを、展望性という。未来や将来に、夢や希望をはせらすことも、それに含まれる。

 一方、自分の過去は、どうであったのか。どこにどんな問題があったのかを反省することを、回顧性という。思い出にひたったり、過去をなるかしむのも、それに含まれる。

 賢人は、ハバ広い展望性と、回顧性を、いつも同時にもつ。しかし愚人は、そのどちらもハバが狭い。その場だけを、享楽的に過ごす。それでよしとする。

 概して言えば、若い人は、よりハバの広い展望性をもち、老人は、よりハバの広い回顧性をもつと言われている。そこであなた自身の展望性と、回顧性が、どの程度のハバをもっているかを知るとよい。それによって、あなたの精神年齢を、推定することができる。

 もしあなたが今でも、未来に向かって、目標や目的をもち、生き生きとしているなら、展望性のハバは広いということになり、あなたは精神的に若いということになる。しかしいつも過去をなつかしんだり、過去の栄華や、過去の思い出にひたってばかりいるというのであれば、あなたの精神年齢は、老人のそれということになる。

 その展望性と回顧性は、満60歳前後を境として、入れかわると言われている。つまり満60歳を過ぎると、展望性よりも回顧性のほうが、強くなるという(心理学者のB・ボナーら)。

 実は、私も何かにつけて、このところ回顧性が強くなったように思う。昨夜も、ある飲食店で、オーストラリアの旅行案内書を読んでいたときのこと。その一頁に、ジーロン(メルボルンの南にある町)から、ローン(避暑地)を経て、アデレード(南オーストラリア州の州都)にのびる街道のことが、書いてあった。

 「グレート・オーシャン・ロード」という名前の道路である。第一次大戦の退役軍人らが建設した道と聞いている。

 その街道の記事が、その本に載っていた。

 その記事を読んでいたときのこと、いつしか私の目は、涙で、うるんできてしまった。私には、思いで深い街道だった。今でも、私の机の上には、その街道の写真が飾ってある。

 「また行きたいな」という思いと、「もう死ぬまで行けないかもしれない」という思いが、その記事を読んでいるとき、複雑に交錯した。

 つまりそのとき、自分の心の中で、ここでいう展望性と回顧性が、同時に交錯したことになる。もちろん若いときは、そういう感情をもつことは、なかった。「もう死ぬまで……」などとは、考えもしなかった。未来は、永遠につづくように思っていた。

 だからといって、回顧性をもつことが悪いということではない。若いころの自分を回顧することで、私の中の心のハバを広くすることができる。ただ、それにひたりすぎるのは、よくない。あくまでも、過去は過去。未来を、よりよく生きるために、過去は、ある。

 あえて言うなら、こうして過去を回顧することによって、生きることにまつわる「いとおしさ」のようなものを知ることができる。生きることのすばらしさというか、美しさというか、そういうものである。おかしな感覚だが、懸命に生きてきた、自分が、どういうわけか、かわいい。いとおしい。そして当然のことながら、なつかしい。

 が、そのままここに、立ち止まるわけには、いかない。

 私は、今、こうしてここに生きている。そして、まだまだ生きなければならない。生きることをあきらめるわけには、いかない。そこで大切なのは、いかにして、展望性のハバを広くするかということ。

 一〇年後も、二〇年後も、今日と同じように、「今」はある。青い空がそこにあって、冬であれば、冷たい風が吹いている。そのとき、私は、いったいどうなっているだろうか。今のままなら、多分、一〇年後も、今と同じように元気で、生きていると思う。しかし二〇年後は、わからない。そのときも、私は今の私のように、まだ心の荒野の中を、前に向って進んでいるだろうか……。健康や生活は、どうだろうか……。

 展望性と回顧性。この二つには、より心豊かに生きるための、重要なカギが隠されているように思う。今は、その程度のことしか、わからないが、この先、機会があれば、またゆっくりと考えてみたい。
(040201)

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