はやし浩司(ひろし)

2006・2
はやし浩司
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2006年 2月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 27日(No.693)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page027.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【2月号の終わりに……】

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今日で、2月号は、おしまい。
……といっても、この原稿は、
1月24日に書いています。

マガジンの原稿は、ほぼ1か
月前に、書き終え、配信予約
を入れるようにしています。

こうすることで、みなさんの
ところに、安定的に、マガジ
ンをお届けすることができま
す。

で、今年の正月も、あっとい
う間に終わりました。本当に
あわただしい正月でした。

そんな思いをこめながら、頭
の中にモヤモヤしている雑感
を書いてみたいと思います。

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●依存性の強い子ども

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 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、
相談があった。「何かにつけて、リズムが、ワ
ンテンポ遅く、心配である」と。転載の許可が
もらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親の
EAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相談
者の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の
母)の7人。

+++++++++++++++++++++++

学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までし
ている。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければ
ならないということがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)
人より遅くても、気にしない。いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣
のことおしゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作
品は完成していた。といった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

++++++++++++++++++++++++ 

 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母
との同居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性
について考えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念
のため。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとん
どのばあい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうもので
あるかさえ、わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子とし
てしまう。だから「あなたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意
する。洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを
脱がせ、服を着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさし
だしたりする。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようと
する。子どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子ど
もも、考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、
無意識のうちに、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親と
いうのは、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子ども
の依存性にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがお
ばあちゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖して
いる。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本
の子育ては、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなってい
る。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を
迎えることすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変
わってきたが……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子ども
の自立ということになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になること
はあっても、益になることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、こ
れもむずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、
その関係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらな
い。兄弟、夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当
然と考えるようになる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そし
てたがいがが、その前提で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて
書いた原稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道
具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせ
に、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意
味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、た
だひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き
出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子
どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は
泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣
かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話
をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッと
ふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、
意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えて
いる。あるいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、
親の生きがいになっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生
に「指導のポイント」を書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、
こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうし
てですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではな
いかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴
だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。
そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。
こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をし
たときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン
感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あ
わてて逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワン
パク少年だった。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりも
いやだった。今でも、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わな
い。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導
しないほうが、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで
考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」
形成そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができ
る。教える側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、
その「核」の形成が遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかし
このタイプの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の
悪循環の中で、ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」という
が、まさに温室の中だけで育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ
風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動がで
きない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価な
ものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、
誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べて
しまう)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。
そしてその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケー
ス、運動面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所
のA君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、
公園へ行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしてお
となの世界だけで、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれなが
ら、成長し、たくましくなる。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害
される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護に
しているかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振
り回されることになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじ
ょうずにだが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は
自分でさせるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあ
げるにしても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同
じく靴下でたとえて言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに
満四・五歳から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。
この時期、子どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲
も急速に広がり、社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大
きくなる。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これが
いけない。それはちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、
返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何
かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものた
めにならない。これは子どもを育てるときの常識である。

++++++++++++++++

 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれること
がある。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特
定の人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるという
ことではない。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞
う子どももいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。ある
いは年齢とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親の
ありがたみを、ことさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えて
よい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受
けて育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。
しかしこれは子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。
それだけに、扱い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、
別居というところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きると
しても、マイナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、
親は親として、好き勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その
内容は、つぎのように分けて考える。

(1)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(2)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(3)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(4)無責任(責任ある行動ができない。)
(5)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(6)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(7)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(8)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(9)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自
己管理能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、
スムーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ム
ラ(邑)」社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の
技法も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それ
でもいい」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いた
ように、相互に依存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心
地のよい世界である。今でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることが
ある。「これこそ、まさに日本人が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉し
あうというのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できない
ほど、濃密な人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもな
いわけではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっき
りしない。日本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な
合理主義にも、抵抗を感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がか
かえる、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」ある
いは、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観
を根底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のよ
うな若い女性には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、
よいのではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもに
なっています」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、
解決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されて
いく。そういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を
考えていく。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そ
のあとということになる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、
子どもどうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞い
てみるのも、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別
の子どもであることが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしま
いました。あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、う
れしいです。(あるいは、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構で
す。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、
(満腹症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じ
の子どもをいいます。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼
児期から、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもあ
りません。ひょっとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもし
れません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えて
みられては、いかがでしょうか。

(1)いつも満足げで、おっとりとしている。
(2)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(3)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(4)ほかの子どもに、追従的。
(5)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなこ
とはしない。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほう
がよいかもしれません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなり
できあがってしまっていると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が
出てくることが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。
柔和だが、ハキがない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この
時期の鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育って
きます。そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の
状態を維持しながら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父
母は、旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。
「うちの子は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、
しかしメリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押し
つけないことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、
何かと思うようにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や
期待を一枚ずつ、はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこ
れしようと考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなり
かねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、
三番底があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできる
ようになったわね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだ
かまりや、不信感があれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、
いつまでたっても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛
的に、自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分が
あるのかもしれません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)
というようであれば、この気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接している
ようであれば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもって
いる人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちで
す。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみ
しさに耐えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、
自立できない、ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置
いて、これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。
(はやし浩司 子供の依存性 依存性の強い子供 甘えん坊 子どもの依存 親に依存す
る子供 子供の自立 はやし浩司 子どもの自立 自立心 子供を自立させる)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【希望論】

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希望があれば、生きていくことができる。
たとえ貧しくても、たとえ今は不幸でも……。

しかしその希望をなくしたら……。

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●近くのホームで……

 近くのグループ・ホームでヘルパーをしている女性から、こんな話を聞いた。「グループ・
ホーム」というのは、ひとりでは生活できない老齢者たちが、グループになって共同生活
をするという施設をいう。個室をあてがわれ、三食つき。有料。

 1人の老人がいる。老人といっても、まだ70歳前。幼いころから、母親に虐待され、
精神をゆがめている。その老人が、毎日、決まった時刻になると、帰りじたくを始めると
いう。小さなカバンに、衣服や電気カミソリなどをつめ、服装を整えて、玄関に近い居間
の椅子(いす)に座る。そして毎日、同じセリフを言う。

 「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 じいちゃんというのは、その男性の祖父のことをいう。もう30年以上も前に他界し、
この世にはいない。そこでヘルパーが、「来るといいですね」「でも、今日も来ないかもね」
と答えることにしているという。
 
 不幸な男性である。母親に虐待され、精神は萎縮し、内閉した。そのままの状態で、つ
まり半ば母親に監禁されたような状態で、70年近く、その母親と生活をともにした。

 2人、妹がいるが、1人は、東京に住んでいる。もう1人は、近くに住んでいるが、そ
の母親のめんどうをみている。「2人もめんどうをみれない」ということで、その男性をグ
ループ・ホームに入居させた。

 で、その男性は、日が暮れて、あたりが真っ暗になるまで、そのままの状態で、そこに
座っているという。毎日のことなので、ヘルパーたちは、そのままにさせておくという。
つまり、それがその男性の希望ということになる。「いつか、じいちゃんが、迎えにくる」
と。

 人は、希望があれば、たとえ衣食住に不足があっても、生きていくことができる。しか
しその希望がなければ、生きていくことはできない。あのルーマニアの作家のゲオルギウ
は、こう書いている。

「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)す
るとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 ゲルニオウという人は、生涯のほとんどを、収容所や監獄で過ごした人である。

 もしその男性が、「じいちゃんが、もう来ない」ということを、本当に知ったとしたら、
そのとき、その男性は、最後に残された自分の希望を失うことになる。だからときどき、
不用意な人が、「あなたのじいちゃんは、死んでしまって、もうこの世にはいませんよ」と
言っても、その男性はそれを信じない。

「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 その男性にやさしかったのは、祖父だけだったようだ。父親は、若くして、交通事故で
なくなっている。祖母もいたが、祖母は、家庭的な人とは、とても言えないような人だっ
たようだ。毎日、化粧ばかりしていたという。エプロンの上に、それが汚れるといけない
からという理由で、もう一枚、エプロンをかけるような人だったという。

で、その男性は、折につけ、「じいちゃんが、風呂で、体を洗ってくれた」「じいちゃん
が、祭につれていってくれた」「じいちゃんが、ぜんざいを食べさせてくれた」と、そん
なことを繰りかえし、繰りかえし、口にした。

 かわいそうな男性だが、しかしその男性を不幸な男性と決めてかかってはいけない。そ
の男性は、まだ恵まれているほう。グループ・ホームといっても、毎月、11〜12万円
前後の費用がかかる。ほかに雑費や病気の治療代として、2〜5万円がかかる。そうした
費用は、東京に住んでいる妹夫婦が、負担している。

 その男性は、快適な老後生活を送っている。自由はないが、それは認知症という病気の
せいであって、だれのせいでもない。

 で、私はこの話を聞いて、こう思った。人は、どんなに年をとっても、またどんな境遇
に置かれても、希望を自らつくりながら生きていく。それがたとえかなわぬ希望であって
も、その希望を捨てることはできない。たとえ他人が、バカだアホだといっても、その希
望を捨てることはできない。

 希望を捨てるということは、どんな人にとっても、死を意味する。たとえ体は生きてい
ても、心は死んでいることになる。その男性は、ひょっとしたら、祖父が死んで、もうこ
の世にいないことを、知っているのかもしれない。しかしそれを認めることはできない。
認めたとき、その男性の心は死ぬ。

 たぶん今日も、その男性は、その時刻になると、その場所で、来るはずもない(じいち
ゃん)を待っているのだろう。そのさみしそうな姿が、私には、目に見える。
(はやし浩司 希望論 希望)


+++++++++++++++++++++++

ゲオルギウについて書いた原稿を、
いくつか、集めてみます。

+++++++++++++++++++++++

●春

 私のばあい、春は花粉症で始まり、花粉症で終わる。……以前は、そうだった。しかし
この八年間、症状は、ほとんど消えた。最初の一週間だけ、つらい日がつづくが、それを
過ぎると、花粉症による症状が、消える。……消えるようになった。

 一時は、杉の木のない沖縄に移住を考えたほど。花粉症のつらさは、花粉症になったこ
とのない人には、わからない。そう、何がつらいかといって、夜、安眠できないことほど、
つらいことはない。短い期間ならともかくも、それが年によっては、二月のはじめから、
五月になるまでつづく。そのうち、体のほうが参ってしまう。

 そういうわけで、以前は、春が嫌いだった。二月になると、気分まで憂うつになった。
しかし今は、違う。思う存分、春を楽しめるようになった。風のにおいや、土や木のにお
い。それもわかるようになった。ときどき以前の私を思い出しながら、わざと鼻の穴を大
きくして、息を思いっきり吸い込むことがある。どこか不安だが、くしゃみをすることも
ない。それを自分でたしかめながら、ほっとする。

 よく人生を季節にたとえる人がいる。青年時代が春なら、晩年時代は、冬というわけだ。
このたとえには、たしかに説得力がある。しかしふと立ち止まって考えてみると、どうも
そうではないような気がする。

 どうして冬が晩年なのか。晩年が冬なのか。みながそう言うから、私もいつしかそう思
うようになったが、考えてみれば、これほど、おかしなたとえはない。人の一生は、八〇
年。その八〇年を、一年のサイクルにたとえるほうが、おかしい。もしこんなたとえが許
されるなら、青年時代は、沖縄、晩年時代は、北海道でもよい。あるいは青年時代は、富
士山の三合目、晩年時代は、九合目でもよい。

 さらに、だ。昔、オーストラリアの友人たちは、冬の寒い日にキャンプにでかけたりし
ていた。今でこそ、冬でもキャンプをする人はふえたが、当時はそうではない。冬に冷房
をかけるようなもの。私は、そんな違和感を覚えた。

 また同じ「冬」でも、オーストラリアでは、冬の間に牧草を育成する。乾燥した夏に備
えるためだ。まだある。砂漠の国や、赤道の国では、彼らが言うところの「涼しい夏」(日
本でいう冬)のほうが、すばらしい季節ということになっている。そういうところに住む
友人たちに、「ぼくの人生は、冬だ」などと言おうものなら、反対に「すばらしいことだ」
と言われてしまうかもしれない。

 が、日本では、春は若葉がふき出すから、青年時代ということになるのだが、何も、冬
の間、その木が死んでいるというわけではない。寒いから、休んでいるだけだ。……とま
あ、そういう言い方にこだわるのは、私が、晩年になりつつあるのを、認めたくないから
だ。自分の人生が、冬に象徴されるような、寒い人生になっているのを認めたくないから
だ。

 しかし実際には、このところ、その晩年を認めることが、自分でも多くなった。若いと
きのように、がむしゃらに働くということができなくなった。当然、収入は減り、その分、
派手な生活が消えた。世間にも相手にされなくなったし、活動範囲も狭くなった。それ以
上に、「だからどうなの?」という、迷いまかりが先に立つようになった。

 あとはこのまま、今までの人生を繰りかえしながら、やがて死を迎える……。「どう生き
るか」よりも、「どう死ぬか」を、考える。こう書くと、また「ジジ臭い」と言われそうだ
が、いまさら、「どう生きるか」を考えるのも、正直言って、疲れた。さんざん考えてきた
し、その結果、どうにもならなかった。「がんばれ」と自分にムチを打つこともあるが、こ
の先、何をどうがんばったらよいのか!

 本当なら、もう、すべてを投げ出し、どこか遠くへ行きたい。それが死ぬということな
ら、死んでもかまわない。そういう自分が、かろうじて自分でいられるのは、やはり家族
がいるからだ。今夜も、仕事の帰り道に、ワイフとこんな会話をした。

「もしこうして、ぼくを支えてくれるお前がいなかったら、ぼくは仕事などできないだ
ろうね」
 「どうして?」
 「だって、仕事をしても、意味がないだろ……」
 「そんなこと、ないでしょ。みんなが、あなたを支えてくれるわ」
 「しかし、ぼくは疲れた。こんなこと、いつまでもしていても、同じことのような気が
する」
 「同じって……?」
 「死ぬまで、同じことを繰りかえすなんて、ぼくにはできない」
 「同じじゃ、ないわ」
 「どうして?」
 「だって、五月には、二男が、セイジ(孫)をつれて、アメリカから帰ってくるのよ」
 「……」
 「新しい家族がふえるのよ。みんなで楽しく、旅行もできるじゃ、ない。今度は、その
セイジがおとなになって、結婚するのよ。私は、ぜったい、その日まで生きているわ」

 セイジ……。と、考えたとたん、心の中が、ポーッと温かくなった。それは寒々とした
冬景色の中に、春の陽光がさしたような気分だった。

 「セイジを、日本の温泉に連れていってやろうか」
 「温泉なんて、喜ばないわ」
 「じゃあ、ディズニーランドに連れていってやろう」
 「まだ一歳になっていないのよ」
 「そうだな」と。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きて
いれば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いてい
る。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)す
るとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 私という人間には、単純なところがある。冬だと思えば、冬だと思ってしまう。しかし
リンゴの木を植えようと思えば、植える。そのつど、コロコロと考えが変わる。どこか一
本、スジが通っていない。あああ。

 どうであるにせよ、今は、春なのだ。それに乗じて、はしゃぐのも悪くない。おかげで、
花粉症も、ほとんど気にならなくなるほど、楽になった。今まで、春に憂うつになった分
だけ、これからは楽しむ。そう言えば、私の高校時代は、憂うつだった。今、その憂うつ
で失った部分を、取りかえしてやろう。こんなところでグズグズしていても、始まらない。

 ようし、前に向かって、私は進むぞ! 今日から、また前に向かって、進むぞ! 負け
るものか! 今は、春だ。人生の春だ! 
(03年03月07日)

【追記】「青春」という言葉に代表されるように、年齢と季節を重ねあわせるような言い方
は、もうしないぞ。そういう言葉が一方にあると、その言葉に生きザマそのものが、影響
を受けてしまう。人生に、春も、冬もない。元気よく生きている毎日が、春であり、夏な
のだ!

++++++++++++++++++++

先の原稿を書いたら、読者の方から
メールをもらいました。SZさんという
方です。

それに対する返事が、つぎの原稿です。

++++++++++++++++++++

●SZさんへ、

今日、リンゴの木を植えることだ!

 このところ、反対に読者の方に励まされることが、多くなった。一生懸命、励ましてい
るつもりが、逆に私が励まされている? 今朝(三月一六日)も、SZさんから、そうい
うメールをもらった。「先生は、リンゴの木を植えていますよ」と。三月一五日号のマガジ
ンで、つぎのように書いたことについて、だ。

「ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生き
ていれば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書い
ている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)す
るとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。」

 「二十五時」は、角川書店や筑摩書房から、文庫本で、翻訳出版されている。内容は、
ヨハン・モリッツという男の、収容所人生を書いたもの。あるときはユダヤ人として、強
制収容所に。またあるときは、ハンガリア人として、ルーマニア人キャンプに。また今度
は、ドイツ人として、ハンガリア人キャンプに送られる。そして最後は、ドイツの戦犯と
して、アメリカのキャンプに送られる……。

 人間の尊厳というものが、たった一枚の紙切れで翻弄(ほんろう)される恐ろしさが、
この本のテーマになっている。それはまさに絶望の日々であった。が、その中で、モリッ
ツは、「今日、リンゴの木を植えることだ」と悟る。

 ゲオルギウは、こうも語っている。「いかなる不幸の中にも、幸福が潜んでいる。どこに
よいことがあり、どこに悪いことがあるか、私たちはそれを知らないだけだ」(「第二のチ
ャンス」)と。たいへん参考になる。

 もっとも私が感じているような絶望感にせよ、閉塞(へいそく)感にせよ、ゲオルギウ
が感じたであろう、絶望感や閉塞感とは、比較にならない。明日も、今日と同じようにや
ってくるだろう。来年も、今年と同じようにやってくるだろう。そういう「私」と、明日
さえわからなかったゲオルギウとでは、不幸の内容そのものが、違う。程度が、違う。が、
そのゲオルギウが、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。

 私も、実はSZさんに励まされてはじめて、この言葉のもつ意味の重さが理解できた。「重
さ」というよりも、私自身の問題として、この言葉をとらえることができた。もちろんS
Zさんにそう励まされたからといって、私には、リンゴの木を植えているという実感はな
い。ないが、「これからも、最後の最後まで、前向きに生きよう」という意欲は生まれた。

SZさん、ありがとう! 近くそのハンガリーへ転勤でいかれるとか、どうかお体を大
切に。ゲオルギウ(Constantin Virgil Gheorgiu) は、ヨーロッパでは著名な作家です
から、また耳にされることもあると思います。「よろしく!」……と言うのもへんですが、
私はそんなうような気持ちでいます。(ただし左翼作家ですから、少し、ご注意ください
ね。)
(030316)


+++++++++++++++++++++

もう1作、「希望論」について書いた原稿を
ここに添付します。

みなさん、元気で、がんばりましょう!

+++++++++++++++++++++

【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが
あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

+++++++++++++++++++++++

ついでにもう1作……

+++++++++++++++++++++++

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪として
もつ、三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪とい
うことになる。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。
そういう旅には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬ
ところで、見知らぬ人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とと
もに、パンをかじりながら、何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうこ
とがある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソ
ー州の州都)という町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語とい
っても、南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳
優)の英語を思い浮かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」
と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用す
る資格など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。
市民権をとるといっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分
のコラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短
いほうかもしれない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするよう
な孤独感である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらに
その孤独感は大きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわか
った。で、それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされ
ないのか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みな
がいっしょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、
終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)
という名言を残している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。
(はやし浩司 希望 希望論 孤独 孤独論 希望とは 生きる希望とは 絶望 絶望論 
ゲオルギウ はやし浩司 林檎の木 りんごの木 リンゴの木)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(048)

+++++++++++++++++

「今」を懸命に生きる。
そのときがきても
ジタバタしないように、
その覚悟をもって……。

日々是充足。
日々是覚悟。

+++++++++++++++++

●不幸

 病気、事故、災害は、突然、やってくる。突然やってきて、その人の人生を狂わす。そ
れまでは、だれしも、「私には関係ない」と思っている。いや、心のどこかで、かすかな不
安を覚えることはある。が、それを自ら、打ち消してしまう。

 そして一度、人は不幸の坂を、ころげ落ち始めると、そのまま、あれよ、あれよと思う
間もなく、不幸のどん底へと落ちてしまう。それは、本当に、あっという間である。

 仮に今、あなたが、がんを宣告されたら……。仮に今、あなたが交通事故で、重症を負
ったら……。仮に今、あなたの家を、大地震が襲ったら……。そのときから、あなたの生
活は、一変する。

 実は、私の周辺でも、スレスレのことが、いくつか起きている。1、2か月前には、車
にはねられそうになった、などなど。詳しくはともかくも、そのたびに、私はヒヤリ、ヒ
ヤリとしている。私ひとりの生活なら、何も変わらないだろうが、大学生の息子やワイフ
のことを考えると、そうはいかない。

 経済的な問題もあるが、心の問題がある。たとえば私のワイフが先に死んでしまったと
したら、はたして私は、その悲しみを乗り越えることができるだろうか。息子が交通事故
か何かで死んでしまったら、はたして私は、その悲しみを乗り越えることができるだろう
か。

 それを考えると、気が重くなる。私はそのまま、不幸の坂を、まっさかさまに、ころげ
落ちていくかもしれない。

 が、表面的には、毎日を、何ごともないかのように、過ごしている。忘れたフリをして、
過ごしている。言いかえると、私たちは、毎日、薄い氷の上を、恐る恐る歩いているよう
なもの。不幸は、私たちの足元で、「おいで、おいで」と、手招きしながら、私たちを待っ
ている。

 そこで私たちは、2つの道を考える。毎日ビクビクしながら生きるのにも、限界がある。

 1つは、であるなら今、そこにある幸福を、最大限充実させながら、生きるということ。
毎日を、精一杯、最大限生きる。中国語風に言えば、「日々是充足」ということになるのか。

 もう1つは、常に、不幸を覚悟しながら、生きるということ。そのときがきても、ジタ
バタしないように、心を構えておく。中国語風に言えば、「日々是覚悟」ということになる
のか。

 かく言う私も、どこまでできるかわからない。しかし今を生きるための、これが2本の
柱ということになる。今を懸命に生きれば生きるほど、覚悟もまた、しっかりとしてくる。
そして覚悟がしっかりとすればするほど、今を懸命に生きるようになる。2本の柱は、相
互に補完しあいながら、私の行きザマを決める。

 あえて言うなら、「不幸なんかに負けてたまるか!」ということか。私たちは生きている
間は、ただひたすら、歯をくいしばって生きていく。それしかない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日・あれこれ】

 この原稿で、(最前線の子育て論byはやし浩司)シリーズの原稿が、1050作になっ
た。もっともこの数字には、意味はない。仮のナンバーのようなもの。

 そしてこの原稿が、06年2月最後のマガジンに載る。つまり2月号、最後の原稿とい
うこと。

 今日は、1月25日だから、ちょうど1か月と少し先ということになる。その1か月と
少し先を思いやりながら、2月の終わりには、どうなっているだろうと、ふと考える。何
が、ということはない。

 昨日も寒かったが、少しは暖かくなっているだろうか。
 元気で、仕事をしているだろうか。
 家族は、みな、元気だろうか、と。

 1か月先の原稿を書いていると、何かしら、得をしたような気分になる。1か月だけ、
余分に長生きしたような気分だ。

 たとえば今日、私が交通事故か何かで死んだとする。しかしマガジンだけは、2月末ま
で、自動的に発信されつづける。つまり私は、2月末までは、生きることができるという
ことになる。

 ……とまあ、ものごとを何でも暗いほうに考えてはいけない。

 マガジンを発行していて、一番楽しいのは、自分が、どこかの雑誌社の編集長にでもな
ったような気分になること。反対に、昔、出会った、出版社の編集長たちの気持ちが、今
になって、よく理解できるようになった。

 「ああ、こういうふうに考えて、マガジンを発行していたんだな」と。

 で、私は、ささやかながら、その夢を果たしつつある。小さな出版社の編集長という夢
である。その編集長が、私という(もの書き)に、こう命令する。

 「原稿が遅れているぞ!」
 「今度の原稿は、おもしろくないぞ!」
 「明るいテーマで、ものを書け!」
 「具体例が少なく、読みづらい!」と。

 私はそれに答えて、「ハイ、わかりました、編集長!」と声をあげる。

 それが楽しい。

 では、みなさん、3月号も、よろしくお願いします。

 マガジンの購読、ありがとうございます。
 それからBW教室の生徒さんを募集しています。近所で、お知りあいの人がいらっしゃ
たら、ご連絡下さい。案内書を送ります。(電話 053−452−8039、常時留守番
電話です。)
(06−1−25)


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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 24日(No.692)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page026.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室から】

●要支援(3)

 このところ「要支援」と、「幼稚園」が、よく話題になる。昨日も話題になった。

 年長児のクラスで、「ぼくは、ヨーカイゴ(要介護)だよ」と話したら、子どもたちが、
「ヨーカイ(妖怪)」「ヨーカイ(妖怪)!」と言って、騒ぎだした。

私「ちがうよ、要介護だよ。ヨーシエン(要支援)のつぎが、要介護だよ」
子「先生は、ヨーカイ(妖怪)だ」「ヨーカイ(妖怪)だ」
私「……そう、実は、先生は、妖怪なんだ。コワーイ、妖怪だよ」
子「怪談だ」「怪談だ」「怪談の妖怪だ」

私「実はね、このBW教室にも、恐ろしい、怪談があるんだよ」
子「どんな話?」「聞かせて!」
私「でも、君たちに話すと、君たち、夜、眠れなくなるよ」
子「だいじょうぶ」「だいじょうぶ」

私「本当にこわがらないか?」
子「こわがらない」
私「……ウーン、じゃあ、話してもいいけど、その前に、BWの怪談を見たいか?」
子「見たい」「見たい」

 そこで私は、子どもたちを廊下の外に誘導。子どもたちは、どこかおっかなそうな様子
で、ゾロゾロと私についてきた。

 で、私は、BW教室の廊下につながった、階段(かいだん)を見せながら、こう言った。
「これがBWのカイダン(階段=怪談)だよ」と。

 子どもたちがゲラゲラと笑った。参観していた母親たちは、かなり前に私の策略を察知
したらしく、その前からクスクスと笑っていた。

子「何〜だア、怪談って、階段のこと?」
私「そうだよ、ハハハ」と。

 1月23日の一こまでした。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【子育てのイロハ】

●子どもの記憶力

++++++++++++++++++

うちの子は、どうももの覚えがよくないと
悩んでいるお母さんは、多いですね。

そういう子どもは、どう指導したらよいのか。
それについて考えてみます。

++++++++++++++++++

 記憶といっても、(記銘)→(保持)→(想起)という3つのプロセスを経て、全体とし
て、記憶を構成する。(記銘)というのは、脳の中に、記憶として信号を刻みこむこと。(保
持)というのは、それを脳の中にとどめること。そして(想起)というのは、それを記憶
として、脳の中から引き出すことをいう。

 で、老人になると、物忘れがひどくなるとよく言われるが、私は、そうではないと思う。
物忘れがひどくなるのではなく、そもそも、それを記憶として、それを脳の中に記銘する
力が弱くなるためではないかと思っている。

 たとえば食事をしているとき、横でワイフがあれこれと話しかけてきたとする。しかし
肝心の私は、横目で、雑誌を読んでいたりする。そのためワイフの話は、脳の中をかけ抜
けていくだけで、記憶として残らない。つまり老人の脳も、同じように考えることはでき
ないか。

 (忘れる)前に、記憶として脳に記銘する力が弱くなる。

 このことは子どもたちを見ていると、よくわかる。

 子どもの中にも、もの覚えのよい子どもと、そうでない子どもがいることがわかる。も
の覚えのよい子どもは、心理学でいう「リハーサル」がうまい。つまりものを覚えるとき、
無意識のうちにも、その言葉を、頭の中で繰りかえしている。

 そうでない子どもは、そうでない。学習しているときも、ソワソワとして、注意をこち
らに向けない。別のことを考えている。

 そこで幼児にものを教えるとき、とくに、何かの言葉を覚えさせるときには、このリハ
ーサルを大切にする。それによって記銘力をますことができる。

私「何だって? 5……?」
子どもたち「5本だよ」
私、わざと聞こえないフリをしながら、「5……?」
子どもたち「5本だってばあ、5本!」
私「5……本?」
子どもたち、「そうだよ、5本!」と。

 こうして木や鉛筆を数えるときには、「本」という言葉を使うことを教える。これがリハ
ーサルである。

 が、さらに高学年になって、たとえば小学5、6年生になってくると、この記憶すると
いう方法が、技巧的になってくる。たとえば歴史の年表を覚えるときでも、「大化の改新、
虫5匹(=645年)」などとか言って覚える。

 これは、記憶を、あとで、より想起しやすくするために、ゴロ合わせをすることをいう。

 ところで、記憶力のテストには、「再生テスト」と、「再認テスト」がある。

 「再生テスト」というのは、たとえば10個の言葉を言い、あとで、どんな言葉があっ
たかを言い当てさせるようなテストをいう。認知症のテストでも、よく用いられる方法で
ある。

 「再認テスト」というのは、たとえば何枚かの絵を見せ、あとで、「前に見た絵が、この
中にありますか」と、何十枚もの絵の中から、選ばせるようなテストをいう。よくテレビ
番組などで、犯人を目撃した人に、「この中に、あなたが見た人がいますか」というシーン
があるが、あれが「再認」という手法である。

 「再生テスト」と「再認テスト」のちがいはといえば、要するに想起するための(手が
かり)があるかないかということになる。手がかりがないのが、再生。手がかりがあるの
が、再起。

 「再生テスト」については、子どもでも、年上であればあるほど、成績がよいことが知
られている。一方、「再認テスト」については、年齢差はほとんどないことが報告されてい
る。つまり「再生」には、年齢とともに発達する、記憶するための技術が必要ということ
になる。先に書いた、ゴロ合わせも、その1つということになる。

 さらにものごとを記憶するとき、聴覚(音声)だけではなく、視覚(絵や写真)を併用
すると、効果が倍増することもわかっている。たとえば、「ネコは、CAT」と教えるより
も、ネコの絵を見せながら、「ネコは、CAT」と教えるほうが、はるかに効果的である。

 そこで「うちの子は、もの覚えが悪い」と感じたら、つぎのような方法をとるとよい。

(1)いつもその場で、言葉を反復させる。(記銘力をます)
(2)聴覚だけではなく、視覚をうまく利用する。(記銘力をます)
(3)ときどき思い出したようなときに、その話題について話す。(保持力をます)
(4)「ネコのこと、英語で、C……何と言ったかな」と、思い出させる。(想起力をます)

 年齢が大きくなれば、子どもは自分で記憶法を学んでいく。たとえば私は中学生のとき、
こんな記憶法を考えたことがある。「A直、V平」と。これはアンペア計(電流計)は、直
列につなぎ、ボルト計(電圧計)は、平行につなぐことを意味する。こうした技術的な記
憶調整法を、「メタ記憶」というが、それについては、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 記憶 記憶力 再生 再認 子供の記憶力 メタ記憶)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【受験期の親の不安】

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子どもが受験期を迎えると、親は、みな、
不安になる。

その不安の構造について……。

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●外的不安と内的不安

 子どもが受験期を迎えると、親たちは、言いようのない不安感に襲われる。まさに得体
の知れない不安感。「足元から体がすくわれるような不安感」「つかみどころのない不安感」
「頭から暗闇に包まれたかのような不安感」などなど。

 その不安感は、外的不安感と内的不安感に分けることができる。

 受験によって、子どもが選別されるという不安感、子どもの将来が見えないという不安
感。受験という制度から直接生まれる不安感を外的不安感とするなら、自分の中から、わ
き出てくる不安感を、内的不安感という。

 その内的不安感。少しわかりにくい話なので、もう少し具体的に説明してみよう。

 親は、子育てをしながら、子どものそれぞれの年齢に応じて、自分の過去を再現する。
それはたとえて言うなら、木の年輪のようなもの。親には親の年輪がしっかりと刻まれて
いる。その年輪を、一枚ずつはがすようにして、親は、自分の過去を再現する。

 たとえば子どもが5歳になると、親は自分が5歳のとき受けた子育てを、そのまま再現
する。子どもが10歳になると、親は自分が10歳のときに受けた子育てを、そのまま再
現する。

 『子育ては本能ではなく、学習である』という意味は、そこにある。

 で、子どもが受験期を迎えると、親は、自分の受験期を、自分の中に再現する。それは
意識的な行為というよりは、無意識下の行為というほうが正しい。潜在意識の奥深くに刻
まれた意識を、そのまま再現する。

 そのとき、自分の内側からわき起こって不安感を、内的不安感という。つまりは自分が
受験期に感じた不安感を、親は、そのまま子どもを育てながら、再現してしまう。「選別さ
れるという不安」「自分の将来はどうなるのだろうという不安」「自分が、本来の目的地で
ないところへ、勝手に連れていかれてしまうのではないか」という不安。

 そうした不安感が、自分の子どもが受験期を迎えると、どっとやってくる。しかも皮肉
なことに、はげしい受験競争をし、その競争の中で、いやな思いをした親ほど、その不安
感が強い。ある父親は、こう話してくれた。

 「私は、進学校で、いやな思いをしました。だから自分の息子にだけは、そういう思い
をさせたくないと思いました。しかしそんな私でも、夜、仕事から帰ってくるとき、近く
の進学塾の電気が、こうこうとついているのを見るだけで、頭にカッと血がのぼるのを覚
えました」と。

 こうして親たちは、不安のウズの中に巻きこまれていく。考えることは、子どもの受験
のことばかり。明けても暮れても、子どもの受験のことばかり。中にはそのままノイロー
ゼ状態から、うつ病になっていく人もいる。子どもの受験の話になると、とたんに興奮状
態になる。多弁になる。そして一方的に、受験の話をペラペラと、いつまでも話しつづけ
る。そういう人もいる。が、弊害は、つづく。

 その人の価値観や人生観が、それでゆがむこともある。子どもの価値を、受験だけで判
断する親も出てくる。

 「あの人は、子どもの教育に熱心だったのですがねエ。それがみなさい。その子どもと
いえば、あのD中学ですってねエ」と。

 さも同情しているようなフリをしているだけで、その実、何も同情していない。が、そ
の反対のこともある。自分の子どもが受験に失敗した夜、知人に、こう電話をかけた母親
もいた。

 「幼児のときから、英語教室や算数教室へ通わせましたが、すべてムダでした」と。

 つまり受験に失敗したことで、それまでの努力が、すべてムダだった、と。

 こうしたものの見方、考え方は、どこかおかしい。しかし、そのおかしさがわからない
ほどまでに、その人の価値観や人生観がゆがむ。が、それだけでは、すまない。こういう
状態になると、たいてい、親子の間に大きなキレツ(亀裂)が入るようになる。そのまま
親子断絶と進むケースも少なくない。さらに、受験どころか、子どもが燃え尽きてしまっ
たり、反対に非行に走るケースもある。

 親は、そのときの状態を、最悪と思うかもしれないが、その最悪の下には、さらに最悪
がある。これを私は「2番底」と呼んでいるが、親には、それがわからない。

 そこでもし、あなたが自分の子どもの教育のことで、不安感を覚えたら、それを黄信号
と考えて、(1)思いきって子育てから手を引く、(2)あきらめるという方法で、子育て
から遠ざかるのがよい。それは子どものためでもあるが、あなたという親自身のためでも
ある。

 ……実は、こういう話を、ある懇談会で話したら、そのあと、ある父親から猛烈な抗議
の電話がかかってきたことがある。「あんたは、他人の子どものことだから、好き勝手なこ
とが言えるかもしれないが、あきらめろとは、何だ。失敬ではないか!」と。

 だから結局は、親たちは、自分で行きつくところまで行かないと、気がつかない。それ
は子育てのもつ宿命のようなもので、自分の体に刻まれた年輪を変えることは、それほど
までにむずかしい。よほどのことがないかぎり、不可能と言ってもよい。

 さて、今、あなたが感じている不安感は、外的不安感だろうか。それとも内的不安感だ
ろうか。ちょっと立ち止まって、一度、ここで考えてみたらどうだろうか。それがわかる
だけでも、あなたの感じている不安は、半減するはずである。
(はやし浩司 子どもの受験 親の不安 子供の受験 不安心理 親の不安心理 内的不
安 外的不安 はやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●ビデオ『コーラス』

 久々に、すばらしいビデオを見た。フランス映画の、『コーラス』である。星は、★★★
★★の5つ星。ロビン・ウィリアムズ主演の『今を生きる』に、まさるとも劣らない映画
だった。途中で、どういうわけか、つまり泣くようなシーンでもないのに、涙がポロポロ
とこぼれてきてしまった。

 合唱大好き人間。おまけに私は、同年齢の子どもたちと毎日のように接している。そう
いう自分の(現実)が、映画にそのままダブってしまった。
 

●BW教室

 ある母親が、私にこう言った。「BW(=私の教室)をやめた生徒さんは、二度と、BW
へもどれないというのは、本当ですか?」と。

 「もどれない」ということを公言したことは一度もない。ないが、私としては、一応、
断ることにしている。理由がある。

 子ども(生徒)が去っていくというのは、いつもつらい。そのつらさを乗りこえるには、
それなりに苦しい。で、去っていく子どもについては、「元気でがんばれよ」と声をかけな
がらも、その場で、その子どものことは忘れるようにしている。心の中で、ふんぎりをつ
ける。

 が、その子どもが、またもどってきたいと言ったりすると、そんなわけで、私はたいへ
ん複雑な心境になる。まさか「お帰り」とも言えない。ザワザワとした、(わだかまり)が、
残っていることもある。その(わだかまり)が、わずらわしい。

 教えるということは、ふつうのビジネスとはちがう。1、2年も教えていると、たがい
の間に情が通い始める。親身になって教えれば教えるほどそうで、そういう子どもが去っ
ていくときというのは、本当につらい。そのまま落ちこんでしまうことも多い。ここで「去
る」という言葉を使ったが、本当は、「別れる」という言葉のほうが、適切かもしれない。

 だから子どもが去ったときには、私は過去をみない。前だけを見て、前に進む。そのた
めにも、その子どものことは、その場で忘れるようにしている。考えないようにしている。

 で、私は、また新しい子どもを迎えて、一から教え始める。私にとっては、そのほうが、
ずっと楽しい。気も楽。だから一度BWをやめた子どもについては、一応、断ることにし
ている。


●一家心中

 山口県で、両親が子ども2人(9歳と6歳の女児)を殺すという事件があった。(1月2
2日)。

一家心中しようとして、失敗。親たちは、先に子ども2人を殺したものの、自分たちは
死に切れなかったのだろう。新聞報道などを読むと、どうやらそういうことらしい。

 で、この事件を知ってまず考えたことは、これから先、この親たちは、どうやって生き
ていくのだろうかということ。十字架といっても、その十字架は、あまりにも重すぎる。「バ
カなことをした」では、とうていすまされない。

 もう1つ考えたのは、こうした心中事件というのは、きわめて日本的。死にたければ、
親たちは、自分たちだけが死ねばよい。何も、子どもを巻き添えにすることはない。今で
はそういう子どもを預かる施設も、充実している。

 子どもはモノではない。財産でも、ペットでもない。独立した人格をもった、1人の人
間である。が、日本人は、そうは考えない。子どもに対する人権意識も、弱い。「親がいな
ければ、かわいそうだろう」という、実に身勝手な論理だけで、子どもを先に殺してしま
う。

 つまりこの親たちは、子どもを愛していると錯覚しているだけで、その実、子どものこ
となど、何も考えていない。何も愛していない。自分たちが感じている絶望感を、子ども
にぶつけているだけ。

 ……とは言いつつも、その親たちも、追いつめられていたのだろう。深い事情があった
のだろう。他人の死を安易に論ずることはできない。それはわかるが、子どもたちこそ、
えらい迷惑。もしその親たちに、ひとかけらでも、ここでいう人権意識、つまり自分の子
どもといえども、独立しった1人の人間であるという意識があれば、子どもたちを殺すこ
とはなかっただろうと思う。

 実に日本的。つまりこんなところにも、「日本人は、子どもの人格を認めない」という、
悪しき例を、かいま見ることができる。

 心中するにも、決して、子どもたちを巻き添えにしてはいけない! (だからといって、
心中を肯定しているのではない。誤解のないように!)
(はやし浩司 心中 一家心中 心中事件)


●吐き出す

 今朝、起きたとき、頭の中がモヤモヤとしていた。雑念、雑感が、取りとめもなく脳ミ
ソの奥底から、わいてきた。

 そういうときというのは、あまり気分がよくない。

 で、私はパソコンに向って座り、そういう雑念、雑感を、つぎつぎとキーボードを通し
て叩きだす。それが快感。気持ちよい。

 そして今は、午後8時少しを回ったところ。やっと、頭の中がスッキリしてきた。あと
いくつか書きたいこともあるが、今日は、ここまで。

 いや1つだけ、書きたいことがある。

 先日、ある会場で講演をしたら、そのあと、こんな質問があった。「うちの子は、依存心
が強くて困ります。何でも親の私に頼ってきます。どうしたらいいでしょうか」と。

 あれこれ総論と各論を織り交ぜながら質問に答えたが、1つだけ、言い忘れたことがあ
る。

 依存性の強い子どもというのは、たしかにいる。親は、そういう子どもをもつと、「どう
したらいいのか」と、相談してくる。が、しかし実は、親自身も、その依存性が強いとい
うケースも多い。多いというより、ほとんど。

 親自身が依存性が強いため、子どもの依存性に甘い。あるいは子どもの依存性に気がつ
かない。気がつかないまま、子育てをつづけてしまう。そして結果として、子どもに依存
心をもたせてしまう。

 つまり依存性というのは、相互的なもの。「うちの子は依存性が強い」と感じたら、では
自分自身はどうかと反省してみるとよい。

 それにもう1つ。

 こうした親というのは、(その質問をした母親のことではない)、子どもに依存されなが
らも、それなりに、子育てを楽しんでいるもの。つまり一方で子どもに依存心をもたせな
がら、その依存心を楽しんでいる。「うちの子は、何でも私に頼って困ります」「何かにつ
けて、ベタベタと甘えてきます」と口では言いながら、無意識のうちにも、子どもがそう
するように、親がしむけている。心理学でいう、「共依存」という関係に似ている。

 仮にもし、その子どもが親から離れていくようなことがあると、今度は逆に、「どうすれ
ば、またいい親子関係を取りもどすことができるのか?」と、相談してくる。

 子どもの依存性には、そういう問題も隠されている。

 ……ああ、これで頭の中がスッキリした。

 では、今日は、ここまで。おやすみなさい!
(はやし浩司 子供の依存性 依存心の強い子供 親に頼る子供 幼児心理 幼児心理学 
はやし浩司)
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●ボケとウツ

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いろいろな分野に興味をもつことは、
とても大切なこと。

ボケ防止には、たいへんよい。

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 うつ症状になると、ボケ症状(認知症)に似た症状が現れる。それはよく知られている
が、反対に、ボケてくると、うつ症状に似た症状は出てくるのか?

 ともかくも、うつ症状と、ボケ症状は、ときに区別しがたい。私の母(90歳)や、兄
(67歳)を見ていると、そう感ずる。

 で、いくつか気がついたことがある。その1つが、うつ症状が強くなると、脳ミソ全体
が、単細胞化するということ。(これはあくまでも私が、印象としてそう思うというだけと
いうことで、学問的には、一片の価値もない。)

 たとえば(こだわり)がひどくなり、そのことだけを、繰りかえし考えるようになる。
思考が、ループ状態になる。途中でほかの話に切りかえてやろうと、別の話題をもちかけ
るのだが、「そんな話は知らない」「私には関係ない」と、はねのけてしまう。

 そしてあとは一方的に、自分の話をするのみ。

 そこで私は1つの教訓を得た。ボケを防ぐためには、いつもいろいろな分野に、興味を
もつこと、と。野球なら野球だけとか、庭の手入れなら庭の手入れだけというのは、よく
ない。脳ミソ全体が、ますます単細胞化する。

 たとえばだれかと会話をするときでも、相手が何を話したがっているかがわかったら、
こちらのほうが、その会話の内容に合わせて会話をする。そうすれば、話題が、ぐんと広
がる。

 そこで昨日、実験的だが、私は、近くの書店に行き、いろいろな書籍コーナーを回って
みた。いつもなら、私が足を止める場所は決まっている。まずパソコン関連の書籍コーナ
ーへ行き、そこでいくつかの雑誌に目を通す。つぎに週刊誌コーナー、模型雑誌コーナー、
最後に経済誌、子ども向け雑誌コーナー。

が、昨日は、女性雑誌コーナーや、スポーツ雑誌コーナーのほうまで回ってみた。新書
版コーナーや、写真集コーナーのほうも回ってみた。

 そしてその場所で、それぞれの本に目を通す。とたん、バツバチと脳ミソが火花を飛ば
すのがわかった。そうそう、とくにバチバチと火花が飛んだのは、あのH木何とかという
女性が書いた、「占い」の本に目を通したときのこと。

 論理性、ゼロ!
 科学性、ゼロ!
 おまけに根拠、ゼロ!

 しかし脳みそを刺激するには、よい。たいへん、よい。頭の中で、大花火が、ドカン、
ドカンとはじけるのがわかった。

 それはともかくも、いろいろな分野に興味をもつということは、それだけでよい刺激に
なる。と、同時に、ボケ防止にもなる。ただ、それがうつ病の予防につながるかどうかは、
私にはわからない。

 そこで私も、書いてみる。

(今日のあなたの運勢)

 今日は、月が、第7宮に入り、木星が火星と一列に並ぶ。このとき地球は、安堵の気に
包まれる。おとめ座、サソリ座の人には、大幸運。何をしても、うまくいく。商売は、大
攻勢をかけるとよい。恋愛も、今日、大願成就する。

 ……それにしても、よくもまあ、こういうバカバカしいことを書けるものだ。時間と労
力、それに(紙)資源のムダ。ついでに読む人にとっては、思考力と知力のムダ。ご苦労
様!

 ……ということで、今日もいそがしい1日になりそう。まぐまぐ社のPODサービスを
使って、1冊、本をまとめたい。銀行と証券会社にも行かねばならない。仕事もある。が
んばろう。がんばります。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●Y発動機の無人ヘリ

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地元の会社のY発動機が、家宅捜査された。
容疑は、「無人ヘリ対中不正輸出」。

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 ラジコンヘリを、最初に見たのは、もう30年も前のこと。当時のラジコンヘリは、姿
だけはリアルだったが、構造は、実に簡単なもの。そのため、操縦は、不可能と言ってよ
いほど、むずかしかった。

 私も、当時、30万円近く大金を払って、一機買ったことがある。しかし一度も飛ばせ
ないまま、部屋の飾りとなってしまった。

 が、それから30年。ラジコンヘリの世界は、飛躍的に進歩した。そんな中、地元のY
発動機が、ラジコンヘリの実用化に向けて、開発研究をしているのを知った。ある時期、
その開発ぶりが、毎月のように、ラジコン専門雑誌に紹介されていた。

 当時の私は「ラジコンを実用化するなんてできるのだろうか」と、そんなふうに考えて
いた。が、さすがY発動機! 

 5、6年前のことだったか、そのラジコンヘリが、近くの畑で、農薬を散布しているの
を見た。驚いた。

 ラジコン特有の不安定さが、まったくなかった。本物のヘリ……とまではいかないが、
しっかりと高度と方向を保ちながら、正確に左右前後、まっすぐに飛んで、農薬を散布し
ていた。

 エンジンは、大型のものになっていた。排気量も200CCとか、250CCはあった
と思う。私は道路の端に自転車を寄せて、かなりの時間、そのラジコンヘリに見とれてい
た。

 で、今回、そのラジコンヘリを、中国へ不正輸出したとかで、Y発動機が、家宅捜査を
受けた。取締役のO氏は、「違法性の認識はなかった」(中日新聞)と釈明会見を行ったが、
私は、「そうだろう」と思う。開発当時の苦労話を先の雑誌などで読んで知っていたので、
よけいにそう思う。

 もしそれが軍事目的に開発されたラジコンヘリなら、つまりそういう認識が会社側にあ
ったとするなら、ラジコン雑誌などで、開発の苦労話など、披露するバカはいない。それ
にその開発にたずさわったのは、当時の私の友人の1人だった。

 その友人は、私が製作したラジコンの飛行機のテスト飛行を、いつも、喜んで引き受け
てくれていた。

 が、あまりにも性能がよくなりすぎた。で、それに中国の人民解放軍(軍部)が、目を
つけたらしい。そして今回の不正輸出(?)となったらしい。

 ただ価格がすごい。新聞報道などによれば、1機、1575万円! 「Y発動機による
と、同社は平成13年以降、BVE社に(RMAX TypeIIG)型を改良した、(R
MAX L181)型(全長約3・6メートル、1575円)を9機輸出し、昨年12月
に10機目の輸出申請をしていた」という。

 1575万円といえば、趣味で買える金額ではない。一応農薬散布用ということで輸出
したというが、中国で、その目的のために買う人もいないだろう。Y発動機では、そのあ
たりのことをどう考えていたのだろう。つまりこのあたりが、今後の捜査の焦点というこ
とになる。

 しかし私も、その性能を目の当たりに確認しているので、「軍事分野の転用が可能」とす
る、静岡、愛知、福岡県警の見解は、まちがっていないと思う。あれで毒ガスでもまかれ
たら、その下の人間は、ひとたまりもないだろう。

やはり、ああいうものは、中国やロシアには、売ってほしくない。


●株価の暴落

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株価が暴落しつづけている。
だいじょうぶか、日本経済!

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 ギョッ! 株価が暴落しつづけている! 暴落に近い。今週に入ってからも、ライブD
アショックが、まだつづいている。おかげで、私も、かなりの損をしそう。そんな気配が
濃厚になってきた(1月23日)。

 まあ、こういうときは、静観。株は、塩漬け。しかしそれにしても、暴落ぶりがはげし
い。どうしたことか?

 目下、日本の株価は、(1)量的緩和の解除時期、(2)原油価格、(3)アメリカの経済
動向の3つのモーメントによって、決まる。政府は、さかんに「景気回復は軌道にのった」
と言っているが、それは、ウソ。日銀を通して、ジャブジャブと、市中にお金をバラまい
ているだけ。

 「3月末までは、株価はあがりつづける」と大方の経済評論家は、口をそろえてそう言
っていたが、株価というのは、先へ、先へと進んでしまう。「4月から株価は暴落する」と
いう予想が出たとたん、それを先取りした形で、株価が暴落してしまう。

 今がそのとき? 

 しかし先日、個人投資家の人で、今回のライブDア社事件のあおりを受けて、たった数
日間で、約2000万円も損をした人の話を聞いた。年齢は、25、6歳。女性。仕事は
していないという。「毎日、パソコンとにらめっこしているだけ」と。

 「そういう人もいるのだなあ……」「日本にも、そういう人が現れるようになったのだな
……」と、そのときは、そう思ったが、それにしても、2000万円とは! 恐らくその
女性にとっては、全財産ではなかったのか。

 ところで若いころ、ある会社の社長が私にこう教えてくれたことがある。「林君、ビジネ
スの世界で成功するためには、まず、基本的な収入を確保すること。それがあれば、何と
か生活だけはできるという収入だ。それができたら、別の世界で、暴れる。したいことを
する」と。

 その社長は、その後、H市内だけでも数百室ものアパート、マンションを経営するまで
になったが、あのバブル経済崩壊とともに、一転、全財産を失ってしまったという。今は、
その所在すら、だれも知らない。

 が、あの社長の言ったことは正しいと思う。ただ私はビジネスの世界には入らなかった
ので、その教えを生かすことはできなかったが、あえて言うなら、その女性には、こう言
いたい。

 「まず、働きなさい。それであまったお金ができたら、それを株投資に回しなさい」と。
いらぬお節介かもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【1月24日の朝に……】

 今朝は、午前4時すぎに目がさめた。ワイフが風邪気味だったので、昨夜は、午後9時
ごろ就寝。それで午前4時ということになった。

 枕もとの電灯をつける。明るさは調整できる。薄暗くして、時計を見る。水を飲む。時
計のカチカチという音。どこか遠慮がちな、ワイフのいびき。ぼんやりと浮かんだカーテ
ンを見ながら、いろいろ考える。

●電子マガジン

 現在、電子マガジンを、2つのスタンドから発行している。Eマガと、メルマガである。
が、数日前、メルマガのほうの読者が、163人から、137人へと、突然、26人も減
った。

 理由はわからないが、多分、メルマガ社のほうで、幽霊会員を整理したためではないか。
より安価で、よりサービスのよいプロバイダー(サーバー)を求めて、アドレスを変える
読者は多い。

 そのこともあって、メルマガについては、毎週月曜日だけの発行にすることに決めた。
このところ、何かと忙しい。で、昨日(1月23日)発行のメルマガに、その旨の断りを
入れた。

++++++++++++++++++

【おわび】

BIGLOBE版メルマガは、今週から、週1回の
月曜日発行の、簡略版のみとなります。

月曜日版のみは、これからも、できるだけ発行する
つもりでいますが、(水曜日版)(金曜日版)の
購読も希望なさる方は、どうか、Eマガ(無料版)
もしくはまぐまぐプレミア(有料版)を、ご購読
ください。

申し込みは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
のトップページよりしていただけます。

これからも、よろしくお願いします。

++++++++++++++++++

 それでも現在、数字の上では、137人の読者の方が、私のマガジンを読んでいるとい
うことになる。私はその137人の読者の方に申し訳ないと思いつつも、こうした(おわ
び)を書いた。

 で、中には、今までのように、毎週、月、水、金の、週3回、購読を希望してくれる人
もいると思った。つまり、中には、そのままEマガのほうへ移動してくれる人もいると思
った。

 しかしEマガについては、大きな変化は、まったくなかった。有料版のまぐまぐプレミ
アについては、+1人の読者が増加だけ。

 つまりすでに、メルマガは、幽霊マガジン化していた? 私はそれも知らず、毎週、毎
週、メルマガを発行していた? これは、正直言って、私には、ショックだった。同じよ
うに考えれば、Eマガのほうにしても、現在、数字の上では、1713人の読者の方がい
ることになっている。

 しかしメルマガと同じ割合で計算すれば、内、すでに300人近い読者の方が、幽霊会
員になっていることになる。さらに私のマガジンを読んでくれている人となると、100
人もいないのでは(?)、ということになる。

 しかしこれが現実かもしれない。あえて言うなら、電子マガジンの限界かもしれない。
若いころ、ある作家の先生が、私にこう話してくれたことがある。

 「林君、自分の書いた本をね、決して、ただで人にくれてはいけないよ。ただでもらっ
た人はね、あなたの本を読まないよ。いいかね。あなたの本を読んでもらいたかったら、
たとえ100円でも、相手から、お金を取ることだ。お金を出した人は、あなたの本を読
むからね。わかったね」と。

 お金がほしいわけではないが、それ以後、私は、相手がたとえ友人でも、私の本を渡す
ときには、その作家先生の言葉を復唱しながら、いくらかのお金をもらうようにしている。

 「申し訳ないけど、あなたにこの本を読んでもらいたいがため、100円でもいいから、
この本のために、お金を払ってほしい」と。

 しかしメルマガにせよ、Eマガにせよ、無料。私が勝手に無料で発行しているわけだか
ら、読んでくれる読者に、もちろん責任はない。読者の方が、どんな読み方をしたところ
で、私は、それについて文句を言うことはできない。購読(?)してくれるということだ
けでも、感謝しなければならない。

 しかしその(思い)も、限界に近づきつつある。中には、毎週、私のマガジンを楽しみ
にしてくれている人もいる。ときどき、そういうメールをもらう。一応、私のワイフも、
熱心な読者ということになっている。最近になって、二男や三男に含めて、長男まで、マ
ガジンを読み始めてくれた。

 が、本当に読んでくれている読者となると、まぐまぐプレミア(有料版)を購読してく
れている読者ではないか。有料版といっても、月額200円である。200円という金額
にしたのは、先の作家先生の言葉が、耳に残っていたからである。しかしたとえ200円
でも払ってくれる読者は、ありがたい。

 ただ、Eマガを廃刊、あるいは、簡略版にできない重要な事情が、1つ、ある。

 Eマガのほうは、私の過去に発行したマガジンを、すべて、しかも全文、保存していて
くれている。Eマガの過去版コーナーを開けば、発刊当時からのマガジンがすべて、記録
として残っている。ぼう大な量の原稿になっている。ここでEマガを廃刊にすれば、(3か
月間発行しなければ、自動的に廃刊になるが……)、過去の記録がすべてそのまま消えてし
まうことになる。

 それに私のマガジンだけ、特別に、配信容量をふやしてもらっている。本当は、A4サ
イズの原稿用紙(1600字)で、10枚前後が限度らしい。しかし私のマガジンだけ、
30枚前後まで、一度に配信できるようにしてもらっている。そうした心づかいが、うれ
しい。Eマガ社や、Eマガ社のみなさんの厚意を裏切ることはできない。

 だから結論は、もう出ている。

 読者の方の数は気にしないで、Eマガとまぐまぐプレミアだけは、今までどおり、発行
していく。とにかく、1000号まで。1000号が目標!

 で、お願いがあるとすれば、もし、読者の方の中で、「まぐまぐプレミア」(有料版)の
ほうを購読してもよいと思ってくれる人がいるなら、どうか、どうか、そちらを購読して
ほしいということ。たとえ200円でも、払ってほしいということ。

 そのまぐまぐプレミアのほうの、現在読者数は、21人。これらの読者の方は、100
0号を超えても、これからも大切にしていきます。約束します。よろしくお願いします。


●ライブDアのH社長

 このところ、連日、マスコミは、ライブDア関連のニュース一色といった感じ。昨年は、
あれほど、ワッショ、ワッショとH社長をもちあげておきながら、今度は、一点、極悪人
扱い(?)。株主の中には、H社長に対して、損害賠償訴訟を起こす動きまで、出てきた。

 しかしH社長は、それほどまでに、極悪人なのか? 私は、こうまでH社長を叩く理由
の背景には、もう一つ、別の群集心理が隠されているように思う。それは一口で言えば、(ひ
がみ)(?)。つまりH社長のような若い男性が、数千億円ものお金を自由に動かし、巨大
テレビ局を相手に、買収劇を演じたことに対する、(ひがみ)(?)。

 10年ほど前のことだが、私に直接こう話してくれた女性(40歳くらい)がいた。東
京で、新聞記者をしている女性だった。それを思い出しながら、彼女が話してくれたこと
を、そのままここに書く。

 「あのね、林さん。私たちの世界では、あなたのような人が成功するのを、おもしろく
ないと思っている人は多いのよ。たったひとりで、どこの組織にも属さず、生活できると
いうことだけでも、許せないのよ。わかる? もしあなたのような人を認めるとね、私た
ちはみな、自己否定の世界に陥ってしまうのよ。『私たちの仕事は何か』ってね。

 サラリーマンの人なら、みな、そう考えると思うわよ。だからあなたのような人が失敗
するのを、みな、待っているというわけ。で、あなたのような人が失敗すると、『ザマーミ
ロ!』とか、『ソレミロ!』とか言って、笑うわけ。そうすることによって、『やっぱり、
オレたちの生き方が正しかった』と確認するわけ」と。

 H社長について言えば、証券取引法違反とか何とか、マスコミは大騒ぎしているが、悪
意とか犯意ということになると、それほど、おおげさなことではない。私の仕事にたとえ
て言うなら、こういうこと。

 本業の、著述業は、赤字。講演業は、そこそこ。何とか黒字を保っているのは、教室業。
しかし看板は、著述業だから、教室経営でもうけたお金を、あれこれ口実をつくって、著
述業に回す。

 口実はいくらでもできる。自分の書いた本の中で、教室の宣伝をしたから、その宣伝費
として、教室業で得たお金を、著述業のほうへ払ったことにする。講演で使うパンフを、
著述業の印刷機で印刷したから、印刷代を、著述業のほうへ払ったことにする、などなど。

 こうして利益を著述業のほうに移しかえて、私は、何とか著述業者としての体裁を保つ。
そんなわけで、H社長が、「私は人をだましたつもりはない」と言っている理由が、私には、
わかるような気がする。

 もっとも、これから先、どんなほこりが出てくるか、だれにもわからない。ビジネスの
世界というのは、そういうもの。叩けば、ほこりなど、いくらでも出てくる。だからここ
でH社長を擁護するのも、慎重にしなければならない。しかし私には、あの男性が、どう
しても憎めない。若干33歳で、ここまで日本の経済を激震させたという事実。その事実
こそが、H社長の実力と、私はみたい。

 がんばれ、若者たち、青年よ! これからは、あなたたちのような若い人たちが、旧態
依然とした権威の世界で、居座っている老人たちを、どんどんと、崩壊させていく。自己
否定させていく。つまりは、それが日本を変える、大きな力となる。ひるむな。負けるな。
前に進め!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 22日(No.691)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

子どもを賢い子にする法(知識と思考を区別せよ!)

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをな
す』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に
出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B
「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパ
ゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として
外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人
の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は
頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には
考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話
をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言
ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まち
がいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『わ
れ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まち
がっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。
ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中か
ら生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子
どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう
「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだ
とは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。
かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもという
のは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のな
い子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガ
ンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカ
というのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんで
くる。私はそれを心配する。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●2005年度「ワースト」映画

 このほど、週刊文春が、「2005年度ワースト映画・文春きいちご賞」を発表した。そ
れによれば、ワースト10は、つぎのようになっている(「週刊文春・06・1・26日号」。

 1  SHINOBU
 2  TAKESHIS'
 3  宇宙戦争
 4  戦国自衛隊1549
 5  オペレッタ狸御殿
 6  春の雪
 6  アレキサンダー
 6  北の零年
 9  鳶がクルリと
 9  東京タワー

 この中で、私は、3位の「宇宙戦争」と、6位の「アレキサンダー」については、以前、
エッセーを書いたことがある。おおむね正当な評価だと思う。

6位の「アレキサンダー」については、日本を代表する評論家のTB氏が、月刊誌(B
S)の中で、大絶賛していたので、それにダマされて、劇場で見てしまった。私の評価
は、がっかり。退屈。★なし。見終わったあと、「どうしてこんな駄作を、TB氏が大絶
賛したのか?」と、悔しくてならなかった。

 3位の「宇宙戦争」についても同じ。内容は矛盾だらけ。それについては、劇場で映画
を見たあと、エッセーを書いたので、このあとに添付しておく。

 で、一番問題としたいのが、北野T監督の「TAKESHIS'」。週刊文春は、つぎの
ように酷評を重ねている。

●彼の才能の枯渇と、引き出しの少なさばかりが伝わり、見ていていたたまれなくなった。

●たけしの好きなものだけをぶちこんだ、ツギハギだらけ。バラエティー番組『たけしの
だれでもピカソ』のような構成」

●前衛的手法を使った映像作品のつもりらしいですが、これではまるで、もってまわった
高校映研の実験ビデオです。

●昨年のベネチア映画祭では、「絶賛」と一部のマスコミはもちあげたが、大多数の記者の
本音は、「耐え難いほど、退屈で眠かった」。

 私は、残念ながら、北野T氏監督、あるいは出演の映画を、一本も見ていない。……見
たくもない。彼に対する人物評価は、バラエティー番組でかいま見るあの姿だけで、じゅ
うぶん。同年齢ということもあるが、北野T氏といえば、私にとっては、もっとも影響を
受けたくない人物の1人でもある。

 が、マスコミは、ああいう人物ほど、ワーワーともちあげてしまう。そしてその結果で
きたのが、悪作中の悪作、『バトル・R』という映画。それについても、以前書いた原稿が
あるので、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++++

北野T氏主演の「バトル・ロワイヤル」。

映画は見ていないが、それを見てきた
中学生が、こう言った。

「おもしろかった」と。

それを聞いて、私は、ゾッとした
戦慄(せんりつ)を覚えた。

++++++++++++++++++++ 

暴力番組を考えるとき  

●まき散らされたゴミ
 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり
一面にゴミをまき散らした……。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこ
かの島で、生徒どうしが殺しあうという映画である。

これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、15歳未満の子どもの入場を規制した。
が、主演のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。
監督のF氏も、「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しか
し本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間
団体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】一三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   一七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】一七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が1968年から始まっている。が、この日本では野放し。
先日もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。

子(小3くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」
母「お母さんは見ないからね」
子「ううん、ぼく一人でみるから……」、母「……」と。

見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁
止のソフトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、
見境なく撃ち殺すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。
が、そのため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人
の理性と良識ということになる。が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主
規制はことごとく空洞化している。言いかえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化
が、まだ育っていない。先のB氏のような人が、フランス政府や東京都から、日本や東京
都を代表する「文化人」として、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。
そういうものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)
●テレビづけの子どもたち

「ファミリス」の調査によれば、小学3、4年生で45・7%の子どもが、また小学5、
6年生で59・3%の子どもが、それぞれ毎日2時間以上もテレビをみているという。

さらに小学3、4年生で71%の子どもが、また小学5、6年生で83・3%の子ども
が、それぞれ毎日1時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内一〇〇名の児
童について調査・二〇〇一年)。

さらに2時間以上テレビゲームをしている子どもも、3、4年生で19・3%、5、6
年生で41・7%! これらのデータから、約6〜7割前後の子どもが、毎日3時間程
度、テレビを見たり、テレビゲームをしていることがわかる。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●スピルバーグの『宇宙戦争』を見る

 昨夜、仕事が終わってから、町の中の映画館で、スピルバーグの『宇宙戦争』を見る。
ある日突然、宇宙人たちが、人間に向って、攻撃をしかけてくるという、あの映画である。

 全体としてみれば、ただそれだけの映画。

 三本足の攻撃戦車(トライポッド型戦車)が、レーザー光線銃で、つぎからつぎへと、
人間を殺していく。逃げ惑う人間。攻撃をしかける人間。

 私は、その映画を見ながら、いろいろ考える。

(1)高度な知的能力をもっている宇宙人が、そんな稚拙(ちせつ)な、攻撃のしかたを、
するだろうか。

 人間だけを抹殺するなら、たとえば化学兵器や、生物兵器がある。遺伝子兵器だって考
えられる。人間の脳ミソを、100年単位で、空洞化するという兵器である。映画の中で、
宇宙人たちがしていることは、まるで、ゴキブリを、火炎放射器か何かのような武器を使
って、殺しているようなもの。

(2)宇宙人が、わざわざ地上におりてきて、人間を攻撃するだろうか。

 この疑問は、映画『インディペンデンス・デイ』を見たときも感じた。人間を攻撃する
なら、人間のもつ兵器が届かない、高々度から、人間を攻撃する。たとえば高度、数万メ
ートルの上空からでもよい。

(3)意味のない地上戦をしかけて、どうするのか。

 三本足の攻撃戦車は、地上を、ノシノシと動き回りながら、人間を殺していく。いくら
破壊力があるといっても、一つの攻撃戦車で攻撃できる範囲には、かぎりがある。映画の
中では、トム・クルーズ親子が隠れた民家にまで、それはやってきて、地下室のすみずみ
まで捜索する。

 観客を、ハラハラ・ドキドキさせようとしたのだろうが、その意図が丸見え。かえって
興ざめしてしまった。

 実にめんどうな作業である。もし同じことを地球上、すべての家庭でしようとしたら、
50億人の人間を殺すのに、仮に1つの攻撃戦車が、1万人を殺すとしても、50万台の
攻撃戦車が必要である。

 しかしそんな非能率、非効率な攻撃方法はない。

 で、映画は、ある日突然、攻撃戦車を操縦する宇宙人たちが、地球上の細菌(微生物)
によって汚染され、死滅するシーンで終わる。つまり宇宙人たちは、自滅する。

 が、何よりも、最大の疑問は、人間を攻撃する、その理由が、わからない。なぜ、宇宙
人たちは、人間を殺さねばならないのか。殺して、どうするのか。一つのシーンの中では、
人間の「血」を、パイプのようなもので、吸いあげるところがあった。宇宙人の目的の一
つは、人間の血を採取することのようだった。

 しかもその三本足の攻撃戦車は、宇宙からやってきたのではない。地球上のあらゆる場
所に、100万年以上も埋められたままになっていたという。それに空からやってきた宇
宙人たちが乗りこんで、人間を攻撃し始める。

 私は、映画を見ながら、あちこちに、「無理」を感じた。「100万年ねエ〜?」と。

 見終わったあと、ワイフも、私も、期待が大きかっただけに、がっかり。★は、2つ。「や
っぱり、スターウォーズにすればよかった」と私が言うと、「あっちのほうには、ストーリ
ーがあるからね」とワイフ。その『スターウォーズ』は、もうすぐ劇場公開される。

【補足】

 仮にこれほどまでに好戦性の強い宇宙人だったら、宇宙では、(もちろん地球上でも)、
生存していくことはできない。破壊兵器が巨大化すればするほど、その宇宙人は、自滅す
る危険性が高くなる。あるいは、他の宇宙人たちと、最終戦争を繰りかえすことになる。

 たとえばある宇宙人が、太陽系全体を、一瞬にしてこなごなにする兵器を手にしたとし
よう。そういう兵器を手にもちながら、たとえば1万年もの間、平和を保つことは、むず
かしい。かりに10万年に1回、戦争しただけでも、1億年の間に、100回も、彼らは
惑星ごと、こなごなにしてしまうことになる。

 核兵器に例を見るまでもなく、兵器が巨大化すればするほど、人間(=知的生物)は、
平和主義者でなければならない。言いかえると、この宇宙に、知的宇宙人がいるとするな
ら、彼らは、それこそ「神」のような平和主義者であるはずである。

 だからこそ、宇宙人は、宇宙人でいられる。

 人間のように、ちょっとしたことで、戦争を起こしてばかりいたとしたら、この宇宙は、
あっという間に、メチャメチャになってしまう。そういう意味では、人間は、攻撃的すぎ
る。どん欲で、ごう慢。

 本来なら兵器の巨大化に合わせて、人間の知的レベルも、同時進行の形で、進化しなけ
ればならない。そうでなければ、それこそ、サルに核兵器をもたせるようなことになって
しまう。

 サルには、サルにふさわしい武器がある。人間には人間にふさわしい武器がある。限度
と言ってもよい。そういう視点で考えても、人間には、核兵器は、必要ない。それをもつ
資格もない。これから先、K国のような、わけのわからない独裁国家でさえ、つぎつぎと
核兵器をもち始めたら、世界は、いったい、どうなるのか?

 映画『世界戦争』の中では、宇宙人たちは、まるでゲームでもするかのように、つぎつ
ぎと人間を殺していく。そこには、一片の知性も、理性も、思いやりもない。

 そんな宇宙人だったら、とっくの昔に、自滅していたはずである。そうした考証も、映
画の中で、まったくなされていなかった。娯楽映画といえば、娯楽映画ということになる
のだろうが、今は、もうオーソンウェールズの生きていた時代とは、ちがう。

 最後のナレーションで、「地球人たちを守ったのは、武器ではなかった。人間と共存して
きた、目に見えない微生物たちであった」と、もっともらしいコメントが、述べられてい
る。しかし、である。

 あれこどまでの攻撃兵器をもつ知的生物にとっては、そんなことは、常識中の常識。私
も若いころ、それぞれの国へ行くときは、それぞれの国の風土病についてのガイダンスを
受けてから、その国へ行った。何らかの予防接種を受けたこともある。

 ほかに、「その国の水は飲まないように」「歯をみがくときも、コーラを使うように」な
どという指示を受けたこともある。地球へ、人間を抹殺にやってくる宇宙人たちが、そう
いうことさえ、知らなかったとは? 

 いろいろ考えさせられた。

【補足2】

●知的レベルと平和主義

 その生物の知的レベルが高くなればなるほど、当然のことながら、その兵器水準も高く
なる。

 原始民族の時代には、こん棒や、弓、ヤリが武器だった。刀が武器だった。しかし今は、
核兵器の時代である。

 そこで改めて私たちは、考えなおさねばならない。

 こん棒とくらべると、核兵器の破壊力は、格段どころか、数百万倍以上。しかしそれを
コントロールする人間の知力は、それに応じて、同じように、進化したのだろうか。

 もし相応に進化していないとなると、武器だけが特異に進歩して、私がここに書いたよ
うに、それこそ、サルに核兵器をもたせるようなことに、なってしまう。

 で、ここで兵器の進歩が止まれば、まだ問題は、ない。

 これから先、人間は、確実に宇宙へ飛びだしていく。そういうとき、さらに強力な兵器
を手にすることも考えられる。もしそうなった、人間というよりは、この地球は、どうな
るのか?

 すでに、(あくまでも、今は、SFの段階だが)、反重力爆弾というのも、考えられてい
るそうだ。それを使えば、あの太陽ですら、一瞬にして、こなごなにしてしまうこともで
きるそうだ。

 ……と考えていくと、人間が宇宙へ飛びだしていくのは、必然の結果であるとしても、
はたしてそれが正しいことなのかどうかとなると、私にはわからない。

 もしこの太陽系に、「地球を監視している宇宙人」(「世界戦争」)がいるとするなら、今
ごろは、こんな会話をしているにちがいない。

 「人間どもを、私たちの宇宙へ迎え入れることは、まずいのではないですかねえ」
 「そうだなあ。あいつら好戦的だからなあ」
 「宇宙へ出てきてからも、また戦争をするのではないでしょうか」
 「ありえるね。それは、ありえる」
「やはり、地球人どもは、地球にとじこめておくのが、一番、いいのではないでしょう
か」と。


●なぜ宇宙人は、人間を滅ぼすのか?

 逆説的な言い方で、人間は、どうあるべきかを考えてみたい。つまり「なぜ宇宙人は、
人間を滅ぼさなければならなかったのか」。それを考えていくと、反対に、人間はどうある
べきかが、わかってくる。

 S・スピルバーグの『宇宙戦争』を見た感想と言ってもよい。あの映画の中では、宇宙
人たちは、情け容赦なく、人間を、殺す。こなごなにして、殺す。なぜ、か? 

 映画の中での、宇宙人たちの、あの殺し方を見ていると、何か、人間に、ものすごいう
らみでもあるかのように思えてくる。憎しみ、憎悪、嫌悪……。まるで家庭の主婦が、台
所でゴキブリを見つけたような感じ。ギャーッと興奮して、殺虫剤をかけまくるような雰
囲気で、人間を殺す。

 人間を殺す前に、宇宙人と人間の間で、何か、話しあいのようなものは、できなかった
のだろうか。そういう話しあいが決裂した結果として、戦争が始まったのなら、まだわか
る。しかし映画の中では、そういった話しあいらしきものをした形跡は、まったくない。
ある日突然、トライポッド(三脚型)の戦車に乗った宇宙人たちが、稲妻とともに現れ、
地球上の人間たちを、殺し始める。

 言うなれば、意味のない恐怖映画。殺戮(さつりく)映画。

 が、批判ばかりしていてはいけない。入場料まで出して、映画館で見たのだから、それ
なりに何か得るものは、得たい。

 そこで最初の話。

 なぜ、宇宙人は、人間を殺さねばならなかったのか?

 理由は、いくつか考えられる。

(1)人間を邪悪な生物と判断した。(しかし宇宙人のしたことも、邪悪だぞ! 罪もない
人たちを、片っ端から殺した。)

(2)人間を危険な生物と判断した。(しかし宇宙人たちも、危険だぞ。ものすごい武器を
もっている。青いレザー光線を浴びただけで、ビルは、まるごと、すべてふっとんでしま
う。)


(3)人間だけが支配する、この地球のあり方に、がまんできなくなった。(地球上のほか
の動物や、生物たちを守るために、人間を殺した。そういう話なら、私にも理解できる。)

(4)人間を殺して、自分たちがかわりに地球に住む。(だったら、建物や、橋などは、こ
わさない方がよいのでは……。途中、数匹の宇宙人たちが出てくるが、歩き方などは、そ
れほど、人間とちがわない。)


(5)宇宙人には、そうした感情そのものがない。知能だけが発達した、虫のような生物。
(つまりゲーム感覚で、人間を殺した。しかしたしか映画の中では、宇宙人たちは、人間
が残した写真を興味深そうに見ていたぞ。感情がまったくないわけでも、なさそう。)

(6)地球環境をこれ以上、人間に破壊させないために、人間を殺した。(このままでは、
地球は、火星のようになってしまう。それに宇宙人たちは、危機感をもった。それで人間
を絶滅させようとした。しかしそれなら、レザー光線で焼き払うというのは、矛盾してい
ると思うのだが……。かえって環境を破壊してしまう。)


(7)人間が宇宙へ進出してくるのを、まえもって、つまり予防的に、阻止しようとした。
人間がどこかで、彼らの怒りをかってしまったのかもしれない。(しかしもしそうなら、宇
宙で決着をつければよい。宇宙を自由に飛び回る宇宙人にしてみれば、人間など、敵では
ないはず。)

 こうして考えてみると、一番、妥当性があるのが、(3)と(6)ということになる。地
球や、地球の人間以外の生物を守るために、宇宙人がやってきて、地球人を滅ぼそうとし
た。ほかにあれこれ理由を考えてみたが、どうも、このあたりが、一番、妥当な解釈のよ
うである。

 しかしよくよく考えてみると、それについても、矛盾だらけ。映画『インディペンデン
ス・デイ』のときも、そう感じたが、彼らは、いったい、人間のどこが気に入らないのだ
ろう。

 どん欲で、ごう慢なところか? 野蛮で、邪悪なところか?

 そこでもしあなたが、宇宙を支配する宇宙人だったら、人間をどうするか、考えてみよ
う。あなたは、きわめて平和的な人だ。右の頬を打たれたら、「左の頬もどうぞ」と、さし
だすような人だ。

 もちろんきわめて高い、知性や理性もある。そういうあなたから見ると、私たち地球人
は、いったい、どのように見えるだろうか。

 心理学の世界には、「自己概念」という言葉と、「現実自己」という言葉がある。「私はこ
ういう人間であると、自分で描く概念」を、自己概念という。それに対して、「現実の自己」
がいる。現実の自己というのは、多分に、他人から評価された自分とということになる。

 同じように、人間自身の「自己概念」がある。「人間というのは、こういう生物だ」とい
う、人間自身が思い描く概念である。しかしその自己概念は、はたして正しいものだろう
か。現実の人間は、もう少し、醜く、邪悪なものではないだろうか。

 『世界戦争』は、あまりおもしろくない映画だったが(失礼!)、人間全体について考え
るには、よい機会になった。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●「アレキサンダーの悲劇」

++++++++++++++++++

評論家のTB氏は、映画「アレキサンダー
の悲劇」を、月刊誌の中で絶賛している。

その記事について、自分の意見を書いた。

ただしこの意見を書いたときには、まだ
私は、その映画は見ていなかった。

++++++++++++++++++

 評論家TB氏の「アレキサンダーの悲劇」の記事も、おもしろかった(?)。副題は、「ア
メリカの悲劇」。

 TB氏の評論の特徴は、最初に、徹底した資料集めから始めるところにある。こうして
TB氏は、「オレほど、精密な資料をもっている者はいない」と誇示して、おおかたの評論
家を、まず、カヤの外に置く。「黙れ!」と。「控えおろう!」でもよい。

 しかし、史実に沿ったこまかい内容(時代、舞台、人名など)は、TB氏にしても、そ
の原稿を書いているときだけは、記憶にあるのだろうが、実際には、書き終わったあと、
すぐ忘れてしまっているにちがいない。

 読者の私たちなら、なおさらである。つぎからつぎへと、聞きなれないカタカナ名が出
てくるが、読んだつぎの瞬間には、もう忘れてしまった。

途中、「オりジナルのスクリプト(台本)では……」とか、「(ギリシア神話の)予備知識
を得ていたほうがいい」などという、いつものTB氏らしい、どこか高慢な(失礼!)
な、評論姿勢も、目立つ。

 ……とまあ、かなり過激なことを書いたが、副題の「アメリカの悲劇」に関する部分は、
全編で14P中、2Pのみ。

 私は、TB氏の評論を読みながら、「アメリカの悲劇」というよりは、独裁者への反発心
のほうを、強く感じた。映画の評論という性格上、そこまでは気が回らなかったのかもし
れないが、TB氏が見ている視点は、まさに王者のそれ。

 同性愛についても、「純粋に精神的な関係は、男と女の間には成立せず、むしろ男と男の
間に成立する」という論法で、書きこんでいる。たしかにそういう面もあるかもしれない
が、しかし同性愛者たちがみな、そこまで深く考えて、同性愛をしているとは、私には考
えにくい。

 この映画は、アメリカでは、評判が悪かったという。その理由が、その同性愛を肯定し
た部分が目立ったからだという。しかしTB氏は、「こういうバカげた反応が出てくるとこ
ろが、いかにも今のアメリカらしい」と、逆に、酷評している。

 現実の同性愛は、エイズ問題に象徴されるように、それほど美しいものではない。それ
とも、アレキサンダーのような歴史上の大物になると、おなじ同性愛でも、すばらしい哲
学をもつようになるとでもいうのだろうか。

 私には、残念ながら、同性愛者の気持ちが、まったく理解できない。だから何とも評論
のしようがない。が、さすがTB氏、同性愛者に対する理解も、たいへん深い(?)。

 (若いころ、ときどき、同性愛者にアプローチされ、たいへん不愉快な思いをした経験
が、何度かある。それは、今でいうセクハラ。それから受ける不快感は、実際、そういう
ことをされたものでないとわからないだろう。

 だから今でも、同性愛者どうしが、体をからませているシーンを見たりすると、それを
美しいと思う前に、先に、はげしい嫌悪感を覚えてしまう。※)

 しかしTB氏は、「(この映画のアメリカでの評判が悪いのは、そうした同性愛など)、ア
レキサンダーの性的側面の描き方に対する不満である。はっきりいうと、映画の中で、ア
レキサンダーは、同性愛傾向を持った人物として描かれているが、それが不満なのだ」と
決めつけている。

 そうかな?

 本当に、TB氏は、アメリカ人に、それを確かめたのかな?

 同性愛を擁護したいという気持ちが先にあって、TB氏が、勝手にそう思いこんでいる
だけではないのかな? 今のアメリカは、TB氏が思いこんでいるほど、同性愛に対して、
それほどセンシティブではないような気がする。

 全体として、TB氏は、映画「アレキサンダーの悲劇」は、史実にきわめて忠実に作ら
れた、すばらしい映画だと、絶賛している。3回も、見たそうだ。そして「(そのすばらし
さは)、3回見て、はじめて発見できることである」と。

 ここを読んで、私は、この映画は、映画館では、見ないことに決めた。ビデオでじゅう
ぶん。「そこまでアレキサンダーについて、詳しく知りたい」とは、思わない。(それに3
回も見たくない!)何というか、テーブルの上に、どっさりとごちそうを出されたような
気分。TB氏の評論を読んだだけで、満腹になってしまった。

 (あるいは、先に出版社のほうから、映画評論を頼まれたから、3回も見たのではない
かな? ……これは私の勝手な憶測。)

(補足※)

 一度は、同性愛者とは知らず、その家に泊めてもらったことがある。夜中にハッと気が
つくと、その男は、私の横に寝ていて、私の背中を、さすっていた。ゾーッ!

 もう一度は、それまでに、10年ほどつきあった男だが、ある日、喫茶店で、いきなり
手を握られた。そして「林君は、同性愛をどう思いますか?」と、質問された。そのとき
も、心底、ゾーッとした。

 あるいはこんな例も。

 結婚式を終えて、花嫁が夫の部屋に入ってみると、その夫が、男の友人と抱きあって、
キスしていたという。その光景を見て、花嫁は狂乱状態になり、花嫁の友人の家に逃げこ
んできた。

 たまたま私がその場に居あわせた。花嫁は、友人にあれこれとなだめられていたが、花
嫁の狂乱状態は、そのままだった。

 同性愛者が同性愛を肯定するのは、同性愛者の勝手だが、しかし世の中には、それをす
なおに受けいれられない人たちがいることも、忘れてはいけない。

 が、だからといって、私は何も、同性愛を否定しているのではない。また映画の中に、
そういうシーンがあったからといって、映画全体の評価を変えることはない。ただ「バカ
げた反応」と決めつけるTB氏の評論には、抵抗を感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【宇宙大戦争】

++++++++++++++++++

私はSF映画が、好き。学生時代は、
SF小説ばかりを読んでいた。

「宇宙戦争」という映画を見る前に
こんなエッセーを書いてみた。

そのときは、その映画を見るのを
何よりも、楽しみにしていた。

++++++++++++++++++

 今度、S・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の、「宇宙大戦争」という映画が、封
切られる。今日は、6月14日。まだ私は、その映画を見ていない。あらすじも知らない。
こういうとき、そのあらすじを、勝手に想像して書くのは、楽しい。

 かいま見た予告映画では、高架式の高速道路が、バリバリに壊れていくシーンがあった。
それが民家に倒れ、その民家も、つぎつぎと壊されていく……。

 今度の「宇宙大戦争」という映画は、そういう映画らしい。

 しかし宇宙人という、きわめて高度な知能をもった生物が、地球を攻撃するとき、そう
いう攻撃方法を使うだろうか? つまり破壊的な武器を使うだろうか?

 私が宇宙人なら、生物兵器かと化学兵器とかを使う。時間は、たっぷり、ある。仮に宇
宙人の寿命が800歳ということなら、10年かかって、ゆっくりと、地球人を滅ぼせば
よい。10年と言っても、彼らの時間にすれば、瞬時だ。

 核兵器のような武器を使って、地球を攻撃するほうがおかしい。……と思って、「宇宙大
戦争」のあらすじを、勝手に想像してみる。

 なお。これはあくまでも、私の勝手な想像によるもの。ストーリーが、万が一、偶然一
致していても、それはあくまでも、偶然。どうか、そういうことを承知おきの上、楽しん
でいただきたい。

+++++++++++++++++++++

【宇宙大戦争】byはやし浩司(勝手な空想小説)

 宇宙人どうしがつくる、宇宙会議で、評決が下された。場所は、木星の衛星、イオの地
下基地。「地球人を抹殺すべし」と。強硬にそれを主張したのは、X星のX星人たちだった。
中には、反対する宇宙人たちもいたが、会議では少数派だった。

 「地球人は、邪悪で、このまま宇宙へ飛び出してくるようなことがあると、自分たちの
生存が危険にさらされる。だから抹殺すべし」と。これが、その会議の結論であった。

 そのころの地球では、退廃的な文化が、はびこっていた。暴力、麻薬、売春、殺人、戦
争、殺しあい、奪いあい、テロなど。

 そこでその役割を、X星に住む、X星人が担(にな)うことになった。X星と、地球は、
環境がよく似ていた。

 X星人たちは、まず月に前進基地をもうけ、そこから、地球を攻撃することにした。主
要な空港や施設を破壊する。それがすんだら、地上を、攻撃機でしかけ、そのあと、生物
兵器で、人間を、全滅させる。

が、その情報を、たまたま月を周回していた、アメリカの宇宙ステーション、ハイスタ
ー号が、キャッチする。それはまさに、偶然によるものだった。

そのハイスター号には、何組かの技術者家族が常駐していた。その中に、トム・クルー
ズが演ずる、デニスという名前の技術者と、その妻と娘のサリーがいた。そのサリーの
もっていた、人形が、未知の信号をキャッチして、共鳴振動を起こし始めたのだ。

 サリーは言った。「お父さん、私の人形が、おかしな声を出すの……」と。人形は、精巧
にできた、ロボット人形だった。

最初は、人形の故障と考えていたが、その規則性から、父親のデニスは、信号と判断す
る。そしてその信号を解析すると同時に、その発信元を、特定する。

が、信号の解析は、容易なことではなかった。そこでためにし、月の数か所で、人工地
震を発生させてみる。と、同時に、信号量がふえ、その解析から、それが宇宙人どうし
の交信であることを、デニスは、つきとめる。

デ「今度は、月の223−43に向けて、レザーX光線を発射してみる」
管制官「ラジャー。それで彼らの数字を解読できる」
デ「……5,4,3,2,1、照射!」と。

 こうしてナゾの信号の解析が繰りかえされた。

その報告は、すぐ、地球のIASA(国際宇宙連盟)に送られ、そこで超高速コンピュ
ータを使って、信号の本格的な解析が始められる。が、結果は、恐るべきものだった。
地球時間になおして、2週間後に、宇宙人たちが、地球に向けて、攻撃を開始するとい
うものだった。

 時間的な余裕はない。世界から集まった政治家たちの緊急会議では、つぎのことが決ま
る。

信号の発信先に向けて、使者を送る。同時に、地球防衛のための攻撃態勢を整える。そ
また核兵器とそれを運搬するロケット技術をもつ国々は、万が一のために、月の前進基
地を攻撃するための準備を整える。

 地球の大気圏外に、核兵器を積んだ小型の宇宙ステーションが並べられた。同時に、月
に向かって、間断なく、和平希求の信号が送られた。が、応答はない。そこで別の宙ステ
ーションにいた2人の宇宙飛行士が、使者として、月に向かうことになった。デニスの友
人と、もう1人、中国人飛行士の、2人が選ばれた。

 が、その使者が月に着く前に、その連絡船は、こつ然と姿を消す。強力な熱線銃によっ
て、蒸発してしまったものと思われた。それをX星人からの攻撃と早合点した中国は、核
兵器をX星人の基地にめがけて、発射してしまう。もちろん、その核兵器も、蒸発してし
まう。

 X星人たちは、態度を硬化させた。それが、デニスにも、よくわかった。

危険を察知したデニスは、妻と娘のサリーを、地球へもどすことを決める。が、サリー
は、スキをみて、発射直前に、連絡船から逃げ、父親のデニスのところに残る。しかし
その連絡線は、宇宙ステーションから切り離されたとたん、蒸発してしまう。宇宙ステ
ーション、ハイスター号に残された連絡船は、残り1隻となった。

月の基地にレザー砲を設置したX星人たちは、着々と、地球攻撃の準備を進めていた。
デニスは、攻撃開始まであと1週間であることを知る。そこでデニスは、自らハイスタ
ー号を爆発させ、その混乱にまぎれて連絡線で、地球へもどる計画を立てる。

 連絡線1隻で、離脱すれば、目だってしまう。

X星人たちのレザー砲は、強力なものだった。数百分の1秒の放射で、巨大なビルをこ
なごなに破壊できる能力をもっていた。そのレザー砲を、まるで嵐の雨のように、地球
に向けて、発射する。数時間で、南北アメリカの主要建物、道路、空港、電力施設は、
灰になってしまう。デニスは、ハイスター号からの脱出の機会をうかがう。

 連絡船だけで飛び出せば、その瞬間、連絡船は、X星人の攻撃によって蒸発してしまう。
デニスは、それをよく知っていた。ハイスター号そのものの運命も、時間の問題だった。

そこでハイスター号を自ら爆破する時刻は、刻一刻と、迫りつつあった。

 X星人の攻撃、5日前のこと。連絡船が宇宙ステーション、ハイスター号から飛び出す
と同時に、宇宙ステーション、ハイスター号を爆破……しかし、失敗。その爆風による破
片で、連絡船は、反対に、月の方向に向ってしまう。

 デニスとサリーは、死を覚悟する。が、あと10数秒で、月に激突というところで、Y
星人の宇宙船に救われる。Y星人は、地球攻撃にもともと反対の立場をとっていた宇宙人
である。

 デニスとサリーは、Y星人の月基地へ、強制着陸させられる。そして彼らは、DNAレ
ベルから、徹底的に、調べあげられる。が、その過程で、サリーが、Y星人の子どもと知
りあいになる。

 その女の子は、まれにみる美しい心の持ち主であった。その女の子と、Y星人の子ども
は、親しくなる。子どもといっても、地球人の年齢になおすと、68歳ということになる。

 が、ちょうどそのころ、X星人による、地球攻撃が始まる。地球連合は、多少の反撃ら
しきことはできたものの、まるで歯がたたない。ことごとく失敗する。X星人には、さし
たる損害を与えない。力の差は、歴然としていた。

 X星人たちは、ひと通りの攻撃がすむと、第二段階として、小型の飛行隊を組んで、地
球攻撃をしかけ始める。逃げまどう人々を、容赦なく、攻撃。熱戦を当てられた人々は、
そのまま空気のように、蒸発していく……。

 一方、女の子と親しくなった、Y星人の子どもは、地球攻撃がまちがっていることを、
宇宙会議に知らせようとする。「人間は、決して邪悪な生物ではない」と。

 こうしてY星人の子どもと、女の子が、宇宙会議のある、木星のイオに向かう。が、そ
れを知ったX星人たちが、追いかける。サリーとY星人の子どもは、懸命に逃げる。

 それを追う、X星人の追撃隊。そしてそれを阻止しようとするY星人の父親たち。この
三つどもえの追撃と防衛戦。

 Y星人の子どもと、女の子の乗った宇宙船は、命科ながら、火星に不時着。が、そのこ
ろ地球では、大きな変化が起きつつあった。攻撃を逃れた人々が、山奥に入り、そこでた
がいに励ましあい、助けあいながら、生活を始めていた。それはX星人たちが、予想もし
なかった光景であった。

 子どもをかばって、レザー光線の前にたちはだかる親。恋人を守るため、決死の覚悟で、
X星人に戦いを挑む、勇敢な若者。中には、X星人に向かって、ベートーベンの第九交響
曲を演奏するグループまで現れた。X星人たちは、やがて地球人を殺すのをためらい始め
る。

 X星人といっても、本来は、平和的で、おだやかな知的生物(ET)であった。
 
 同じころ、火星でも、Y星人の子どもが、女の子をかばうため、女の子を殺そうとする
追撃隊の前にたちはだかる。こうしてX星人たちは、地球人が、以前知られていたほど、
邪悪な生き物でないことを知る。

 そこへY星人の親たちも追いつく。そしてY星人の助言を受けて、宇宙会議が、再び、
召集される。

 X星人の司令官は、地球攻撃を一時、中止する。地球では、喜びの声が、こだまする。

 が、完全な平和がもたらされたわけではない。地球人たちは、それまでの自分たちの行
いを改め、より完成された生物になることを誓う。そしてそれが、宇宙会議の宇宙人たち
が、地球人に出した条件でもあった。

 地球人を代表して、その会議で、スピーチをしたのは、その女の子であった。

 「1年間の時間をください。その間に、私たち、地球人は、変わります」と。それは宇
宙人たちの心を大きく動かした。

 こうして地球人に、1年間のモラトリアム(猶予期間)が与えられる。「1年間で、平和
な地球をつくりあげろ」と。

 地球人、つまり人々は、それまでの邪悪な心を改め、善にみちあふれた世界をめざして、
前に進み始める。破壊されつくした地球の瓦礫(がれき)の中から……。

++++++++++++++++++

 以上が、映画を見る前に、私が勝手に想像した、この映画のストーリーである。はたし
て、どこまで合っていることやら。しかしこういう想像をするのは、本当に楽しい。あと
は、その映画を見てからの、お楽しみ!

 もし万が一、ストーリーが一致していても、それは私の責任ではない。念のため!
(05年6月15日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●新春のロマン

●ESAの火星着陸機が行方不明に 

++++++++++++++++

ついでにもう1作、先の「宇宙戦争」について
書いたときに書いた原稿を、ここに添付します。

これはロマンです。

++++++++++++++++

 ESA(欧州宇宙機関)の火星着陸機が火星の大気圏に突入後、行方不明になっている
という。

 ESAの火星探査機「マーズエクスプレス」は、12月25日午前4時前(日本時間の
正午前)、火星の周期軌道に入った。しかし、ほぼ同時に大気圏に突入した着陸機「ビー
グル2」は着陸成功を知らせる信号が届かず、行方不明になっているといる。
 
 「ビーグル2」は、赤道近くの平原に着陸、来年3月まで岩石や土を分析し生命活動を
示す炭疽やメタンを探す予定だったという(TBS・i・NEWSより)

●どうして?

日本の火星観測衛星(宇宙航空研究開発機構の「のぞみ」)もそうだが、このところ、火
星探査機が、つぎつぎと、失敗している。どうして? ……なんて、ヤボなことは書か
ない。ワイフは、火星には、宇宙人が住んでいて、それをじゃましているのではないか
と言う。実は、私も、そう思う。

 それについては、何度も書いてきたので、ここでは、その先というか、なぜ、こうした
探査を、宇宙人たちが嫌うかということについて考えてみたい。

 同じくワイフに言わせると、「何か、つごうが悪いことがあるのよ」「知られたくないこ
とがあるのよ」ということになる。常識で考えれば、そうなる。しかし、私は、そうでは
ないような気がする。

●地球人を恐れている?

 宇宙人が、宇宙人として、宇宙で平和に暮らすためには、それこそ、「右の頬を殴られた
ら、左の頬を差し出す」くらいの非暴力主義が必要。

 宇宙に住むほどだから、当然のことながら、きわめて高度な科学技術をもっている。そ
のため、宇宙人にすれば、核兵器はもちろん、一発で、惑星をこなごなにする爆弾を作る
ことなど、朝飯前。

 もし宇宙人の中に、あのK国の金XXのような独裁者が現れたら、太陽系そのものも、
危機に立たされる。

 言いかえると、今、宇宙が、見たところ、平和に保たれているということは、こうした
非暴力主義が、宇宙人の間で、貫かれているということになる。

 が、問題は、この地球に住む、人間である。自分の乗っている車が、足で蹴飛ばされた
くらいで、相手を殺してしまうような生物である。「右の頬を殴られたら、左の頬を差し出
す」ような非暴力主義は、夢のまた、夢。

 もし人間が宇宙へ飛び出したら、「水星はオレのもの」「火星もオレのもの」と、やり出
すにちがいない。そしてあっという間に、宇宙戦争!

 宇宙人は、それを恐れている……と、私は、思う。

●人間には、宇宙へ飛び出す資格はあるか 

 あなたの国の近くに、もし、きわめて野蛮な国があったとする。

 その野蛮な国では、毎日のように、たがいに殺しあっている。ちょっとしたことで、す
ぐカッとなる。喧嘩する。年がら年中、領土を取りあって、戦争をしている。

 文化がちがうというより、DNAの構造そのものがちがう。そういう野蛮な国の人が、
あなたの国へやってきたとする。見た目には、穏やかそうな顔をしている。一応、その国
の代表者たちだからである。

 しかしあなたは、その野蛮な国の人たちの素性を、見抜いている。だからあなたは、内
心では、その野蛮な国の人たちとは、つきあいたくないと思っている。あるいは、とても、
つきあえるような相手ではないと思っている。

 一方、野蛮な国の人たちは、何とかして、あなたの国の科学技術を自分のものとしたい
と思っている。高度な航行技術、科学技術などなど。

 しかしそんな技術を、野蛮な国の人たちに渡したら、どうなる? あっという間に、あ
なたの国は、その野蛮な国の人たちに、侵略されてしまうかもしれない。あなたは、それ
をよく知っている。

●もし、私が宇宙人なら……

 もし私が宇宙人なら、この地球人が、宇宙へ進出してくることを、何としても、阻止す
る。地球人に、宇宙へ出る資格があるとかないとか、そういうレベルの問題ではない。地
球人は、あまりにも、野蛮すぎる。

 だいたいにおいて、地球人は、ほどよく満足するということを知らない。富をもてばも
つほど、さらに多くの富をもちたがる。こうした貪欲さが、摩擦を生み、闘争を生む。

 暴力的な気質も、大きな問題である。人間の歴史の中で、戦争のなかった時代は、ない。
たまたま人間がこうして今、存在しているのは、平和だったからではない。人類全体をほ
ろぼす大量破壊兵器が、まだ一定の管理下にあるからにほかならない。

 もしこの管理がくずれ、ワクがはずれたら、それこそそこらのゲリラですら、核兵器を
使うようになる。もしそうなれば、人間のみならず、地球人はあっという間に、絶滅する。

 もっとも、これが地球だけのことなら、まだよい。月でも、火星でも、金星でも、それ
をやられたら、たまらない。……とまあ、宇宙人なら、そう考える。

●さて、どうする?

 もしあなたが宇宙人で、宇宙に住んでいたら、人間をどうする? その前に、人間の存
在を許すかどうかという問題もある。

 人間が、地球環境というオリの中にいるのならまだよい。しかしそのオリを出て、あな
たの住む宇宙へやってくるようになったら、どうする? あなたはそれを受け入れるか?

 しかし私なら、受け入れない。人間をとりあえずは、地球環境というオリの中に、閉じ
こめておく。あるいは……。ひょっとしたら、人間を、抹殺することも考えるかもしれな
い。

 しかしあなたは、きわめて平和的な生物だ。「殺す」という概念そのものに、なじまない。
あなたの苦悩も、それゆえに、大きくなる。

 では、どうするか? 

 やはりここは、地球人を、地球環境というオリの中に、閉じこめておくのがよい。私な
ら、そう考える。そのために、その前段階としての、人間の活動に、制約を加える。それ
がひょっとしたら、冒頭に書いた、探査機の妨害かもしれない。

 ……もちろんこれは、私のSF(空想科学)。荒唐無稽(むけい)な空想。つまり、ロマ
ン。ときには、こういうふうに、宇宙人の視点から、ものを考えるのも、楽しい。
(031226)

【注】

 私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃している。ハバが、一〜二キロもあるよう
な、ブーメラン型のUFOである。宇宙人がいるかいないかということになれば、いるに
決まっている。そういう前提で、このエッセーを書いた。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●牛の肉

牛の肉といっても、人間も哺乳動物。牛も哺乳動物。基本的には、人間の肉と牛の肉は、
構造は、ちがわない。色も形も、ちがわない。

その解体された牛の映像が、テレビに出てくる。インターネットに出てくる。新聞に出
てくる。TBSのi−newsによれば、「農水省、問題の牛肉写真を公開」とある。 

いわく、「政府がアメリカ産牛肉の輸入を再び停止した問題で、農水省は停止の原因とな
った背骨付きの牛肉の写真を公開しました」と。

しかし牛の肉の現物なら、そこらのショッピングセンターに行けば、いくらでも見るこ
とができる。

 で、私は、ああいうのを見ると、ときどき、人間の肉も、同じなのだろうなと思う。

 が、今回は、BSE問題とからんで、切断された背骨まで紹介されている。それがゾー
ッとするほど、不気味。気持ちが悪い。

 つまり私は、さらに考えてしまう。もし、あれが牛の背骨ではなく、人間の背骨だった
ら、どうなのか、と。

 もしそれが人間の背骨だったら、ゾーッとするのを通り越して、私は、気絶してしまう
かもしれない。考えてみれば、これほど残酷なことはない。もしあなたの体が、骨ごと輪
切りにされて、そこらにつりさげられているとしたら……!

 しかも、だ。人間はそういう牛の肉を、あろうことか、台所のまな板の上で、ほかの食
材といっしょに、調理する。ときには、まな板に、牛の血が流れることもある。しかし人
間は、平然として、調理をつづける。

 恐ろしいことだ。本当に恐ろしいことだ。もしそれが人間の肉だとしたら……!

 人間の肉は人間の肉。牛の肉は、牛の肉。人間の肉と牛の肉はちがうと思っている人も
多いかもしれない。しかし先にも書いたように、人間の肉も、牛の肉も、基本的には、同
じ。皮をはげば、同じ。区別など、できない。区別するほうが、おかしい。

 で、そういう牛の肉を、私たちは食べる。ゾーッ!

 そう言えば、市内の大病院で、外科部長をしているN氏がこう話してくれたことがある。
「私はぜったい、焼き肉だけは食べません」と。実際には、「食べられない」と。

 毎日、手術室で、人間の肉を切り刻んでいるため、牛の肉を見ると、それを連想してし
まうため、ということだった。

 しかし考えてみれば、そのN氏の感覚のほうが、正常ということになる。牛の肉を、平
気で調理できる私たちのほうが、おかしい。

 それにしても不気味な写真ではないか。牛の肉が、背骨を切断された状態で、靴下のよ
うにチェーンにつりさげられている。

 あなたも、一度、「もしそれが人間の肉だったら……」と想像してみたらよい。多分あな
たも、私と同じように、ゾーッとするはず。ハハハ。ホント!


●保護司、無給の国家公務員

++++++++++++++++++

無給の国家公務員?

そんな国家公務員がいることなど、
私は、今まで知らなかった!

私は、今まで、国家公務員の給料というのは、
(総人件費)÷(国家公務員数)で計算する
ものばかりと思っていた。

しかし無給の国家公務員がいるとなれば、
この算出方法は、役に立たなくなる!

++++++++++++++++++

 保護司という役職(?)は、「無給の国家公務員」だそうだ。「法務大臣から委嘱(いし
ょく)されたボランティアで、保護監察官と協力して、環境調整と、保護観察の仕事に当
たっています」(保護観察所配布パンフ)とある。

 そしてここが重要だが、別のパンフには、こうある。「保護司は、非常勤で一般職の国家
公務員とされています。給料は、至急されません」と。

 全国のみなさん、わかりますか? この不透明感。

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを
正確に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しかし計
算方法がないわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員
数)で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給
料を算出している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費
の総額は、4兆6571億円でだそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円
(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)
そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギ
ョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料を手にしていることになる。

 しかし保護司のような、無給の国家公務員までいるとは知らなかった。ということは、(総
人件費)÷(国家公務員数)で、国家公務員の給料を算出しても、意味がないということ
になる。

 その保護司だけでも、全国に、5万2500人(保護司法、第2条第2項、定数)もい
る。この無給の国家公務員、5万2500人を国家公務員に加えて、総人件費を割れば、
当然のことながら、みかけ上、国家公務員の給料は、低く算出される。

 言いかえると、その分だけ、さらに国家公務員は、手厚く保護されることになる。つま
りもし保護司のような無給の国家公務員を、国家公務員としてその数に算入すれば、国家
公務員の給料は、さらにあがることになる! わかりやすく言えば、1403万円という
数字そのものが、あやしくなる! 保護司のほか、無給の国家公務員は、いったい、何人
いるのか? 無給ではなくても、非常勤で、安い給料に甘んじながら、身分だけは国家公
務員という人は、何人いるのか?

 知らなかった!

 しかしまあ、いろいろなところに、カラクリがあるものだ。日本は官僚主義国家という
ことになっているが、ここまでやっているとは、夢にも思わなかった。全国には、まじめ
な気持ちで保護司というボランティア活動をしている人も多いはず。

 が、その仕事そのものが、別のところで、官僚たちの利益に利用されていると知ったら、
保護司の人たちは、どう思うだろうか。考えれば考えるほど、頭にくる話ではないか!

+++++++++++++++++

昨年(05)書いた原稿を、ここに
そのまま添付します。

+++++++++++++++++

●国家公務員の給料

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6
571億円でだそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表さ
れているが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも
紛れ込んでいる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間
1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・
2万人で計算。)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っている
ことになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言って
よい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、
たとえば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方
の出先機関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受
給できる」(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカ
ラクリがわかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、
官僚主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%
を使っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知ら
ない。おまけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全
国津々浦々、どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤
字国債(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約4
0倍! それでも足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護
保険制度に例をみるまでもなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をも
とに、計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということ
になる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆28
29億円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出に
なることが6月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件
費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)にな
って予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだ
が、省庁側の抵抗は激しさを増しそうだ(産経新聞)。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 20日(No.690)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの   
 
 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その
夫と妻が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少
ない。どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子
はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろ
うとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではない
のか。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちの
ままでいることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞
くと、「考えたことないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫
婦もいる。先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バ
ンザーイ、やったわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。
ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。

また別の女性(三三歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に
一度あるかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それで
いいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。要は夫婦に標準はないということ。同
じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人それぞれだし、それぞれの人生を
築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必要はないし、また言っ
てはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは気にしては
いけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがく
こともある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それ
に縛られれば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とか
いう気負いをもつ。この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸に
して不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」
というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ
自体が「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、
もうけもの。一部でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だか
ら……」と考えると、あなたも疲れるが、家族も疲れる。簡単に言えば、今あるものを、
あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結婚もおしまい」とか、「親
子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおげさに考える必要は
ない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところ
で、あきらめる。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫
婦や家族、親子関係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レ
ット・イット・ビー(あるがままに……)」と。それはまさに、「智恵の言葉」だ。
 

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【反面教師論】

+++++++++++++++++++

反面教師という言葉がある。
しかし反面教師は、本当に教師なのか。
教師たりえるのか。

それについて考えてみたい。

このテーマについて書くきっかけとなったのは、
ある母親が話してくれた、彼女の息子の話だった。

+++++++++++++++++++

●犬の叱り方

 ある母親が、仕事の休憩時間にこんな話をしてくれた。「息子に、犬を買い与えたのだが、
その叱り方を見ていて、驚きました」と。

 息子、つまり小学5年生のY君のことだが、そのY君は、犬を飼っている。飼い始めて、
3年になる。「毎日、学校から帰ってくると、1時間は、その犬の世話をしているんですよ」
とのこと。

 それについて、母親は、こう言った。「Yは、ときどき、はげしく犬を叱るのですが、そ
の叱り方を見て、驚きました。その口調、言い方、怒り方が、私、そっくりなのです。私
は、私のいやな面を見せつけられたようで、ショックを受けました」と。

 似たような経験は、私にも、ある。

 私は、高校生のとき、英語の教師のMが、大嫌いだった。Mのする授業は、何の楽しみ
もない、一方的な(詰めこみ方式)だった。その教師の授業になるたびに、私は重苦しい
憂うつ感に襲われた。

 その私が、結果的にみると、英語が得意になったのは、英語という科目が好きだったか
らというよりは、内心では、「あんなMなんかに、負けてたまるか」と思ったからである。
Mにバカにされるのが、何よりもいやだった。が、Mには、それがわからない。ときどき
私の名前をみなの前で出して、「お前たちも、林のように、勉強しろ!」「こんな成績では、
どうする!」とハッパをかけたりしていた。

 私はいつもこう考えていた。「私は教師になっても、あんな教師にだけはならない」「私
が教師になったら、あんなふうには教えない」と。

 が、である。

 その私が、このH市にやってきて、ある進学塾でアルバイト講師をするようになったと
きのこと。ある日、気がついてみると、私の教え方が、あの英語の教師、Mそっくりにな
のを知って、驚いた。口調、言い方、怒り方など、すべてが、である。

 それだけではない、私も、生徒を、成績でしか、みていないことに気づいた。「お前もX
君のように、勉強しろ!」「こんな成績では、どうする!」とか、何とか。

●反面教師という「教師」

 教師といっても、2種類、ある。手本としたい教師と、手本としたくない教師。手本と
したい教師のばあい、その教師のすばらしい面を見ながら、自分の人格や人間性を、その
教師に、より近づけようとする。

もう1つは、手本としたくない教師。その教師を批評、批判しながら、「私は、ああいう
人間だけにはならない」「ああはなりたくない」と、自分の中で、その教師を否定してい
く。

 後者のような教師を、反面教師という。念のため、「日本語大辞典」(講談社版)をひく
と、こうある。

「反面教師……否定的なことを示すことによって、肯定的なものをいっそう明らかにす
るのに役立つこと」と。英語の格言も、併記してあった。

 One from bad example another can learn.(悪い例から、ものを学ぶこと)と。

 しかし反面教師が、本当に「教師」になりえるかというと、それは疑わしい。教師は教
師。私の例を見るまでもなく、長くつきあっていると、その(手本としたくない部分)ま
で、受けついでしまう。影響を受けてしまう。

 その典型的な例が、「虐待」である。

●世代連鎖

 虐待は、世代連鎖しやすい。親が子どもを虐待すると、その子どももまた、親になった
とき、その子どもを虐待しやすい。それはよく知られた事実だが、その(子ども)に視点
を置いて考えてみると、興味深いことに気がつく。

 その子どもは、親から虐待を受けながら、心の中では、きっとこう思っているにちがい
ない。「私は、こういう親だけにはならないぞ」と。意識しないまでも、内心では、親に、
大きく反発しているにちがいない。

 つまりその子どもは、(虐待)されることについて、うらみ、のろっているはず。何より
も、そうした(虐待)を、恐れ、嫌っているはず。……こう簡単に決めつけてはいけない
かもしれないが、虐待されて、それを喜ぶ子どもはいない。

 が、その子どもが、親になったとたん、自分を超えた大きな力によって、今度は、自分
で、自分の子どもに、虐待を加えてしまう。

 その(虐待)に、ここでいう反面教師論をあてはめてみると、ピッタリとまではいかな
いが、反面教師というのがどういうものかが、よく理解できる。

 虐待を受ける子どもにしてみれば、自分を虐待する親は、まさに反面教師ということに
なる。が、その自分が、今度は、親になったとき、自分の親と同じことを繰りかえしてし
まう。自分の子どもに、虐待を加えてしまう。

●つっかい棒

 少し前に、私は、「つっかい棒」論を書いた。つっかい棒というのは、わかりやすく言え
ば、(自分を支える気力)ということになる。

 たとえば目の前に、その反面教師がいたとする。その教師を見ながら、「私は、ああいう
人間だけにはなりたくない」と思ったとする。そして自分がその教師のようになることを、
心の中で抵抗する。

 その抵抗する力が、ここでいう(つっかい棒)ということになる。

 で、その(つっかい棒)がある間は、その人は、その人であることができる。しかしそ
のつっかい棒は、それほど強靭(きょうじん)なものではない。とくに、その反面教師と
なっていた人が、自分の前から消えたときには、そうである。同時に、そのつっかい棒も
消える。

 自分を支える必要がないからである。が、ここで思わぬ弊害が現れる。

 そのつっかい棒がはずれたとたん、その反面教師としてきた人から受けた影響が、表に
出てきてしまう。たいていは、自分ではそれに気がつかない。気がつかないまま、「ああい
う人間にはなりたくない」と思った部分を、自分で再現してしまう。

 それが冒頭にあげた、Y君と犬の例であり、私と英語教師の例ということになる。虐待
については、もう少し別の角度から考えなければならない面もあるが、おおまかに言えば、
同じように考えてよい。

●反面教師の限界

 つまり、これが反面教師の限界である。

 私たちは日々の生活をしながら、手本としたい人たちから、何かを学び、一方、手本と
したくない人たちからも、何かを学ぶ。

 そのとき重要なことは、手本としたくない人たちを見たら、ただ批評や批判をするだけ
では、足りないということ。長くつきあえばつきあうほど、へたをすれば、その人の人格
や人間性に、染まってしまうということもある。「いやな人」「おかしな人」と思っていて
も、気がついてみると、自分も、その人そっくりになっていた……というような経験は、
ひょっとしたら、あなた自身にも、1つや2つは、あるかもしれない。

 そこで反面教師と感ずる人と接するときには、いくつかの鉄則がある。

(1)批評、批判するだけでは、足りない

 その相手を、批評、批判することだけなら、だれにでもできる。しかしそれよりも重要
なことは、自分の中に、それ以上の人格にせよ、人間性を、同時につくりあげていくこと。

 すこし話はそれるが、もう少し深刻な例では、こんなこともある。

 ある夫の妻が、あるカルト教団に入信してしまった。「修行」と称して、パートの仕事も
やめ、ほとんど毎日、その教団内部で過ごすようになった。それについて、夫は、あれこ
れ資料を集め、妻にこう迫ったという。

 「お前が信仰している教団は、インチキ教団だ。わからないのか!」と。

 夫は、その教団を批判することによって、妻の信仰をやめさせようとした。が、妻は、
それに応じなかった。応じなかったばかりか、かえって夫婦の亀裂(きれつ)を大きくし
てしまった。

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、こうした信者が生まれるのではない。カル
ト教団を求める信者がいるから、カルト教団が生まれる。力をのばす。

 夫のした行為は、屋根にあがった妻に対して、ハシゴをはずすようなもの。そういうこ
とをすれば、かえって妻は、不安になるだけ。ますます信仰に埋没するようになる。

 そこで重要なことは、夫自身が、そのカルト教団にかわる、(心のより所)を用意するこ
と、ということになる。あるいはそのヒントを与える。「お前はまちがっている」と言うな
ら、それにかわる、何か別のものを用意しなければならない。

 そこでその夫は、それまでの自分のあり方を反省し……ということになったが、このつ
づきは、また別のところで書くとして、同じように、反面教師を前にしたときには、「あな
たはおかしい」「あなたはまちがっている」と批判するだけでは、足りない。それにかわる、
もっと大きな(自分)を用意しなければならない。でないと、結局は、その反面教師そっ
くりの人間に、自分も、なってしまう。

(2)人を選ぶ

 いろいろな人と幅広く交際する……ということは、重要なこと、ということになってい
る。しかしそれにも、1つの原則がある。

 30代や40代の人には、まだひょっとしたらわからないかもしれない。しかし50代
にもなると、自分にとって大切な人と、そうでない人の色分けが、ますますはっきりとし
てくる。

 利益があるとか、ないとか、そういうことではない。学ぶべきものがある人かどうか、
ということである。中には、50代を過ぎて、ますます邪悪になっていく人もいる。そう
いう人と時間を共にするというのは、まさに時間の無駄ということになる(?)。

 実は、この問題は、私にとっては、大きな問題だった。が、その結論を出してくれたの
は、あるアメリカ人の青年が書いた、手記だった。その青年は、そのときHIVに感染し、
エイズを発症していた。余命は、1年と宣告されていた。

 その青年は、こう書いている。4年前に書いた原稿だが、それをそのまま、ここに転載
する。

++++++++++++++++++

●人間関係

 エイズと戦っている1人の患者の手記を読んだ。10ページ足らずの英文の手記だった。
アメリカに住む若い人が書いた手記なので、それほど内容的には深い文章ではなかった。
が、その中に、いくつか、はっと思うようなことが書いてあった。

たとえばエイズになって、だれが真の友で、だれがそうでないかがわかったとか、家族
の大切さが改めてわかったとか、など。が、その中でも、つぎのことを読んだときには、
とくに強烈な印象を受けた。こうあった。

「エイズが発病してからというもの、時間がたいへん貴重になった。意味のない人と、
意味のない会話をすることが苦痛になった。そういう人とはすぐ別れる」と。

 私も50歳を過ぎてから、ときどき、同じように思うようになった。が、最初は、それ
は悪いことだと思った。だれとでもつきあい、だれとでも会話をする。それが大切で、人
を、意味のある人と、そうでない人に、区別をしてはいけない、と。

しかし本当の私は、別のほうに進み始めた。いつも心のどこかで、意味のある人と、そ
うでない人を区別するようになってしまった。利益があるとか、ないとか、そういうこ
とではない。が、そのことを思い知らされたのは、A氏(54歳)に出会ったときのこ
とだ。

 ほぼ25年ぶりにA氏に会った。偶然、通りを歩いていて会った。で、会話がはずみ、
一緒に昼食でも食べようということになった。が、そのうち、会話がまったくかみあって
いないことに、私は気がついた。たがいに、どこか薄っぺらい会話で、つかみどころがな
い。

一通り家族や、仕事の話をしたのだが、それ以上に話が進まない。そこで聞くと、A氏
はこう話してくれた。

 「家での楽しみは、野球中継を見ること。休みは釣り。雨の日はパチンコ」と。「本や新
聞は読んでいるのか。インターネットはしているのか」と聞くと、「読んでいるのは、スポ
ーツ新聞だけ。インターネットはしていない」と。

A氏はA氏なりに自分の世界で、自分の仕事をしてきた。しかしその25年間で、そし
てその仕事を通して、A氏は何をつかんだというのか。

 だからといって、私が「何かをつかんだ人間」と言うつもりはない。おそらくA氏から
見れば、私はつまらない人間かもしれない。酒は飲まない。パチンコもしない。女遊びも
しない。野球の話すら、できない。そういう意味では人の心というのは、カガミのような
もの。私がA氏をつまらない人間と思っているなら、(決して「つまらない人」と思ってい
るのではない。仮に、そう思ったとするならという話)、同じようにA氏も私をつまらない
人間と思っているはず。

 が、私は正直に告白する。私はそのA氏と早く別れたかった。何かしら時間をムダにし
ているように感じだった。が、一方で、別の私がそれに抵抗した。「25年ぶりではないか」
「友は大切にしなければならない」と。が、それでも「ムダ」という思いが、心をふさい
だ。私は懸命に、自分にこう言って聞かせた。「お前は冷たい人間だ。ムダと思うのは、お
前の冷酷さによるものだ」と。

 しかし本当に私は冷たい人間なのか。「時間をムダにしている」と感ずることは、私が冷
たいからなのか。今でもそれはわからないが、私はあるがままに生きてみようと思う。ム
ダと思ったら、ムダなのだ。そしてムダと思ったら、はやく別れればよい。……と考えて
いたところで、冒頭の手記を読んだ。だから強烈な印象を受けた。

 その患者は、手記のあとがきによると、それから2年間の闘病生活のあと、なくなった
という。つまりその手記を書いたとき、自分の命がそれほど長くないことを知っていたは
ず。

私も50歳をすぎて、人生の終わりをそこに感ずるようになった。が、深刻さの度合い
は、その患者とくらべたら、はるかに低い。そういう患者が、「時間がたいへん貴重にな
った。意味のない人と、意味のない会話をすることが苦痛になった。そういう人とはす
ぐ別れる」と書いている。その手記を読んだおかげで、私は私の生き方に自信をもった
というか、「ああ、今のままでいいのだ」と、思いなおすことができた。

 さて、私はこれから先、人間関係を整理する。たとえば今でも、表では、私の知人や友
人のフリをしながら、うらで、敵対行為をしている人が、何人かいる。こうして書いたエ
ッセーについても、いちいちアラを見つけては、「これはあの人のことだ」「ここに書いて
あるのは、あんたのことだ」と、告げ口をしている人がいる。私はそういう人でも、知人
や友人ということで、今まではつきあってきた。しかしもうやめる。

そういう人は、知人でも友人でもない。私はかつて一度だって、個人攻撃をするために、
文を利用したことなど、ない。それをしたら、私はおしまいとさえ思っている。いろい
ろな人のことは書くが、それは別の目的で書いている。そんなことは、私のエッセーの
全体を読んでもらえば、すぐわかることではないか。

……と、少し話が脱線したが、このところ、「生きるとはどういうことか」と、またまた
よく考えるようになった。ムダが悪いわけではないが、私には今、ムダにできる時間な
ど、どこにもない。それだけは確かのように思う。
(02・9・14)

++++++++++++++++++

 要するに反面教師と思うような人とは、つきあわないということ。「反面教師」と、「教
師」という言葉を使うが、反面教師は決して、「教師」ではない。が、しかしそうはいかな
いばあいもある。

 職場での人間関係、さらには、親戚、さらには親子や兄弟関係など。こちらがつきあい
たくなくても、無数のしがらみに縛られて、それがままならないことがある。

 そういうときは、どうすればよいのか?

 実のところ、私にもよくわからないが、私のばあいは、「相手にしない」という方法で、
対処している。表面的な交際はしても、そこまで。それ以上、深入りはしないようにして
いる。

 さらに問題がこじれてきたようなときは、こうして文を書きながら、徹底的に、その人
を自分の中から消すようにしている。そういう形で、自分の心を守らないと、あっという
間に、その人の心が、私のほうに移動してきてしまう。今のところ、この方法は、私にと
とっては、うまく機能しているように思う。

 少し疲れてきたので、この話のつづきは、また別の機会に考えてみたい。なお内容的に
ボロボロの原稿だが、後日、もう一度書き改めることを前提に、今は、このままにしてお
く。
(はやし浩司 反面教師論 反面教師 育児論 子育て論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【4年前に書いた原稿から……】

+++++++++++++++++

少し前、気分転換に……と思って、
4年前に書いた原稿を読みなおしてみた。

「なるほど」と思ってみたり、
「あのときは、そう考えたのだな」と
思ってみたり……。

現在の自分と比較してみるというのは、
それなりに楽しいことでもある。

+++++++++++++++++

●正直に生きることの勇気

 この日本、正直に生きるということだけでも、勇気がいる。いや、勇気にも、2種類あ
る。他人に向かう勇気と、自分に向かう勇気だ。こんなことがあった。

 魚屋でいくつかの食品と、煮干の入ったパックを3つ買った。一パック、800円。3
パックで、2400円。しかしレジの女性は、一パック500円で計算し、3パックで1
500円とした。

私はおもむろに、「これは1パック、800円ですよ」と告げた。その女性はうれしそう
に笑って礼を述べたが、私はその女性のためにそうしたのではない。自分自身のために
そうした。礼など言われる筋あいではない。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年となり、やがてその人の人格をつくる。
で、その日々の積み重ねとは何かと言えば、その瞬間瞬間の行いをいう。もし私がそうし
た場面で、小ズルイことをしていれば、私はやがてそのタイプの人間になってしまう。た
とえその場で、1000円近く「得をした」(?)としても、これは私にとっては大きな損
失だ。が、私はここで考えた。

 この日本では、資本主義が原則になっている。金儲けだ。で、その金儲けは何かという
ことになれば、それは「だましあい」。

私は自転車屋という商人の家に生まれ育ったので、そのあたりのだましあいが、どうい
うものであるかを、よく知っている。たとえば1000円で仕入れたものを、客の顔色
を見ながら、2000円で売りつける。相手が、「高いね」と不満を口にすれば、その場
で適当にウソを並べて、「まあ、いいでしょう。あなたですから、1500円にしておき
ます」と言う。こういう芸当が即座にできなければ、商人など務まらない。

 ……となると、レジの女性が値段を打ちまちがえたということは、それはレジの女性の
ミスということになる。商人の世界では、ミスは、ミスしたものの責任ということになる。
そのためこういうケースでは、客はふつう黙っている。

こう書くと叱られるかもしれないが、少なくとも私が知っている世界では、黙っている。
もともと商売というのは、そういうもの。だまされたとしても、だまされたほうが悪い。
ミスをすれば、ミスをしたほうが悪い。つまりこの日本では、正直に生きようと思えば
思うほど、損をする。そういうしくみができあがってしまっている。つまり正直に生き
るということは、同時に損をするということ。自ら自分を損の世界に、押し込むことに
なる。だから勇気がいる。

 この点、私のワイフは、純朴な女性だから、ものごとを深く考えない。あとになって、「お
かしいと思ったけど、安くしてくれたのかしらと思ったわ」と、平然と言ってのける。人
を疑うことすら知らないから、値段もそのまま信じてしまう。だから問題意識ももたない。
が、私はそうではない。

レジの女性がカチカチと打ったその瞬間、別の脳が同時進行の形で、合計金額を計算す
る。これは私のクセのようなものだ。だからレジの女性が値段を打ちまちがえると、即
座に「ちがいますよ」と言う。そしてそういう能力が、かえってわざわいする。あれこ
れ悩む原因となる。

 が、やはり正直に生きる。とくに私は、幼児期が貧しかったから、ふと油断すると、醜
い自分に押し戻されてしまう。私はもともとは小ズルイ人間だし、小ズルイことをするの
に、それほど抵抗がない。だから余計に、自分の老後が心配になる。今は何とか気力で、
そういう醜い自分を押し隠している。が、その気力が弱くなったとき、それがモロに表面
に出てくる。その可能性は、じゅうぶん、ある。それがこわい。こわいから、今から、少
しずつ、自分を変えなければならない。時間がない。いや、もう間に合わないかもしれな
い。

だから、私は正直に、そのレジの女性に、まちがいを告げた。しかしそれはあくまでも、
私のためだ。レジの女性のためではない。だから礼を言われる筋あいではない。

(追記)

 岐阜は関西商人の経済圏に入っているから、ものの値段など、あってないようなもの。
買い物にしても、定価(正札)で買う人などいない。即座にその場で、値段の交渉を始め
る。が、この浜松というところは、東京の経済圏に入っている。だから値段の交渉をする
人はいない。私はこの浜松に移り住むようになって、35年になるが、そのため、いまだ
に戸惑いを覚えることがある。

 そういう意味では、浜松の人は、正直だ。少なくとも岐阜の人たちよりは、あるがまま
に生きている。自分を飾らないし、偽らない。もともと街道筋の宿場町で発達した町とい
うこともある。古い伝統や文化が根づかなかったという欠点はあるが、一方、何からなに
まで、どこかさっぱりしている。

ものの考え方が合理的、先進的、開放的。世界をリードする、ホンダ、スズキ、ヤマハ、
カワイ、ローランドなどの各会社が、この浜松から生まれた背景には、そういう理由が
ある。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●セックス&セックスレス

 ワイフが、こんな話をした。「テレビの人生相談を見ていたけど、8年間で、1度しかセ
ックスをしない夫婦がいるんだって」と。聞くと、まだお互いに30代前半の夫婦だとい
う。私はその話を聞いたとたん、「もったいない」「信じられない」「夫婦って何だ」「おか
しい」「かわいそうに」といろいろ考えた。

 「もったいない」というのは、これは男の本能のようなもの。30歳くらいの若い女性
を見ると、心のどこかで「裸になって肌をこすり合わせたら、さぞかし気持ちいいだろう
な」と考える。そういう自分の中に潜む本能が、「もったいない」と思わせる。

 「信じられない」「夫婦って何だ」「おかしい」というのは、夫婦はセックスをして、夫
婦なのだ。何を隠そう、私など、今のワイフとつきあい始めたときからほぼ10年間、x
xxxxxxxxxxxは、ワイフとセックスをしていた。……というのは、? 毎日自
転車通勤で下半身を鍛えていたから、そういうことができたのかもしれない。ときどきワ
イフが、「私は、身がもたない。浮気でもしてきて!」と、こぼすほどだった。

 ……ここで残念ながら、ワイフ・ストップがかかった。これ以上、私たちのセックスに
ついて書くことはできない。ワイフの名誉の問題もある。またいつか、別の機会に書くこ
とにして、話を進める。

 セックスレスが悪いというのではない。人それぞれだし、それでうまくいっている夫婦
はいくらでもいる。ただ若いときは、セックスをすることで、たがいの心を開き、わかり
あえるということはある。セックスをするということは、まさに自分をさらけ出すこと。
あるいはセックス以外に、自分をさらけ出すという方法はあるのか。

いや、セックスをしたからといって、自分をすべてさらけ出すことができるかといえば、
そうではない。やり方をまちがえると、ただの排泄行為に終わってしまう。セックスが
もつ力にも限界がある。

 まあ、私もワイフと結婚生活を35年近くもしてきたから、いろいろなことはあった。
まだ20代のころだが、スワッピング(夫婦交換)をしないかともちかけられたこともあ
る。もちかけてきたのは、仕事先の女性だった。しかしワイフがああいうカタブツ人間だ
から、実現しなかった。

 若い主婦たちだけでつくる、秘密クラブのようなものもあった。それにも誘われたこと
がある。「美人妻クラブへ来ませんか」と。私は最初は冗談だと思ったが、本当にそういう
クラブがあった。私が断ると、「あなたの知っている人で、口のかたい人はいませんか。お
金持ちなら大歓迎!」と。

 この世界には、いろいろなことがある。が、何が驚いたかと言って、母親が自分の娘(高
3)について、「セックスの指導をしてやってほしい」ともちかけられたときほど、驚いた
ことはない。このときは、私はあれこれ口実をつくって、その場から逃げたので、ことな
きをえたが……。しかしそれにしても……! (この話は、本当だぞ!)

私はもともと岐阜の山奥育ちだから、セックスというと、どこかに、うしろめたい「暗
さ」を感ずる。その暗さが、いろいろな場面で、ブレーキとなって働いた。が、そうい
う暗さをまったく感じない人も多い。……らしい。実に、あっけらかんとしている。い
ろいろいきさつはあったが、私に面と向かって、「私のアレは、10万人に1人の名器だ
って、夫がいつも、そう言っていますわ。あなた、ためしてみます?」と言われたこと
もある。……などなど。

こういう話はここまでにしておくが、もともとセックスというのは、そういうものかも
しれない。意味があるようで、それほどない。ひょっとしたら、小便や大便と同じ、た
だの排泄行為かもしれない。今の今も、目の前の栗の木の間で、野性のハトたちが、こ
と忙しそうに交尾を繰り返している。

そういうのを見ていると、「人間も同じだなあ」とか、「人間がそういうハトとちがうと
考えるほうがおかしい」と思う。たがいの合意があれば、もっとセックスを楽しんでも
よいのではないか、とも。とくに8年間もセックスレスというのは、夫はかまわないが、
妻がかわいそうだ。セックスで得る快感というのは、ほかでは経験できない。あの快感
は、まさに人間が生物としてもつ特権のようなもの。その特権を、自ら封印してしまう
とは!

 ……この話は、教育論とは関係ないので、ここまでにしておく。ただいろいろなことが
あって、私はこの道に入ってからというもの、この問題に関しては、「我、関せず」を貫い
ている。若い人たちのセックスについても、だ。「どうぞ、ご勝手に」と言いつつ、「病気
にだけは気をつけろよ」と言うようにしている。

そういう相談はいままで一度もなかったから、これはあくまでも仮定の話だが、もし女
子中学生や高校生からセックスの相談を受けても、私はそう言うだろうと思う。「どうぞ、
ご勝手に。病気にだけは気をつけろよな」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【自分のこと】

●ある読者からのメール

 一人のマガジン読者から、こんなメールが届いた。「乳がんです。進行しています。診断
されたあと、地獄のような数日を過ごしました」と。

 ショックだった。会ったことも、声を聞いたこともない人だったが、ショックだった。
その日はたまたま休みだったが、そのため、遊びに行こうという気持ちが消えた。消えて、
私は1日書斎に座って、猛烈に原稿を書いた。

●55歳という節目

 私はもうすぐ55歳になる。昔で言えば、定年退職の年齢である。実際、近隣に住む人
たちのほとんどは、その55歳で退職している。私はそういう人たちを若いときから見て
いるので、55歳という年齢を、ひとつの節目のように考えてきた。だから……というわ
けではないが、何となく、私の人生がもうすぐ終わるような気がしてならない。この1年
間、「あと1年」「あと半年」「あと数か月……」と思いながら、生きてきた。が、本当に来
月、10月に、いよいよ私は、その55歳になる。もちろん私には定年退職はない。引退
もない。死ぬまで働くしかない。しかしその誕生日が、私にとっては大きな節目になるよ
うな気がする。

●私は愚かな人間だった

 私は愚かだった。愚かな人間だった。若いころ、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。
時間というのが、かくも貴重なものだとは思ってもみなかった。その日、その日を、ただ
楽しく過ごせればよいと考えたこともある。今でこそ、偉そうに、多くの人の前に立ち、
講演したりしているが、もともと私はそんな器(うつわ)ではない。もしみなさんが、若
いころの私を知ったら、おそらくあきれて、私から去っていくだろう。そんな私が、大き
く変わったのは、こんな事件があったからだ。

●母の一言で、どん底に!

 私はそのとき、幼稚園の講師をしていた。要するにモグリの講師だった。給料は2万円。
大卒の初任給が6〜7万円の時代だった。そこで私は園長に相談して、午後は自由にして
もらった。自由にしてもらって、好き勝手なことをした。家庭教師、塾の講師、翻訳、通
訳、貿易の代行などなど。全体で、15〜20万円くらいは稼いでいただろうか。しかし
そうして稼ぐ一方、郷里から母がときどきやってきて、私から毎回、20万円単位で、お
金をもって帰った。私は子どもとして、それは当然のことと考えていた。が、そんなある
夜。私はその母に電話をした。

 私は母にはずっと、幼稚園の講師をしている話は隠していた。今と違って、当時は、幼
稚園の教師でも、その社会的地位は、恐ろしく低かった。おかしな序列があって、大学の
教授を頂点に、その下に高校の教師、中学校の教師、そして小学校の教師と並んでいた。
幼稚園の教師など、番外だった。私はそのまた番外の講師だった。幼稚園の職員会議にも
出させてもらえないような身分だった。

 「すばらしい」と思って入った幼児教育の世界だったが、しばらく働いてみると、そう
でないことがわかった。苦しかった。つらかった。そこで私は母だけは私をなぐさめてく
れるだろうと思って、母に電話をした。が、母の答は意外なものだった。私が「幼稚園で
働いている」と告げると、母は、おおげさな泣き声をあげ、「浩ちゃん、あんたは道を誤っ
たア、誤ったア!」と、何度も繰り返し言った。とたん、私は、どん底にたたきつけられ
た。最後の最後のところで私を支えていた、そのつっかい棒が、ガラガラと粉々になって
飛び散っていくのを感じた。

●目が涙でうるんで……

 その夜、どうやって自分の部屋に帰ったか覚えていない。寒い冬の夜だったと思うが、
カンカンとカベにぶつかってこだまする自分の足音を聞きながら、「浩司、死んではだめだ。
死んではだめだ」と、自分に言ってきかせて歩いた。

 部屋へ帰ると、つくりかけのプラモデルが、床に散乱していた。私はそのプラモデルを
つくって、気を紛らわそうとしたが、目が涙でうるんで、それができなかった。私は床に
正座したまま、何時間もそのまま時が流れるのを待った。いや、そのあとのことはよく覚
えていない。一晩中起きていたような気もするし、そのまま眠ってしまったような気もす
る。ただどういうわけか、あのプラモデルだけは、はっきりと脳裏に焼きついている。

●その夜を契機(けいき)に……

 振り返ってみると、その夜から、私は大きく変わったと思う。その夜をさかいに、タバ
コをやめた。酒もやめた。そして女遊びもやめた。もともとタバコや酒は好きではなかっ
たから、「やめた」というほどのことではないかもしれない。しかしガールフレンドは、何
人かいた。学生時代に、大きな失恋を経験していたから、女性に対しては、どこかヤケッ
パチなところはあった。とっかえ、ひっかえというほどではなかったかもしれないが、し
かしそれに近い状態だった。1,2度だけセックスをして別れた女性は、何人かいる。そ
れにその夜以前の私は、小ずるい男だった。もともと気が小さい人間なので、大きな悪(わ
る)はできなかったが、多少のごまかしをすることは、何でもなかった。平気だった。

 が、その夜を境に、私は自分でもおかしいと思うほど、クソまじめになった。どうして
自分がそうなったかということはよくわからないが、事実、そうなった。私は、それ以後
の自分について、いくつか断言できることがある。

たとえば、人からお金やモノを借りたことはない。一度だけ10円を借りたことがある
が、それは緊急の電話代がなかったからだ。もちろん借金など、したことがない。どん
な支払いでも、1週間以上、のばしたことはない。たとえ相手が月末でもよいと言って
も、私は、その支払いを1週間以内にすました。ゴミをそうでないところに、捨てたこ
とはない。ツバを道路にはいたこともない。あるいはどこかで結果として、ひょっとし
たらどこかで人をだましているかもしれないが、少なくとも、意識にあるかぎり、人を
だましたことはない。聞かれても黙っていることはあるが、ウソをついたことはない。
ただひたすら、まじめに、どこまでもまじめに生きるようになった。

●もっと早く自分を知るべきだった

 が、にもかかわらず、この後悔の念は、どこから生まれるのか。私はその夜を境に、自
分が大きく変わった。それはわかる。しかしその夜に、自分の中の自分がすべて清算され
たわけではない。邪悪な醜い自分は、そのまま残った。今も残っている。かろうじてそう
いう自分が顔を出さないのは、別の私が懸命にそれを抑えているからにほかならない。

しかしふと油断すると、それがすぐ顔を出す。そこで自分の過去を振り返ってみると、
自分の中のいやな自分というのは、子どものころから、その夜までにできたということ
がわかる。私はそれほど恵まれた環境で育っていない。戦後の混乱期ということもあっ
た。その時代というのは、まじめな人間が、どこかバカに見えるような時代だった。だ
から後悔する。私はもっと、はやい時期に、自分の邪悪な醜い自分に気づくべきだった。

●猛烈に原稿を書いた

 私は頭の中で、懸命にその乳がんの女性のことを考えた。何という無力感。何という虚
脱感。それまでにもらったメールによると、上の子どもはまだ小学1年生だという。下の
子どもは、幼稚園児だという。子育てには心労はつきものだが、乳がんというのは、その
心労の範囲を超えている。「地獄のような……」という彼女の言い方に、すべてが集約され
ている。55歳になった私が、その人生の結末として、地獄を味わったとしても、それは
それとして納得できる。仮に地獄だとしても、その地獄をつくったのは、私自身にほかな
らない。しかしそんな若い母親が……!

 もっとも今は、医療も発達しているから、乳がんといっても、少しがんこな「できもの」
程度のものかもしれない。深刻は深刻な病気だが、しかしそれほど深刻にならなくてもよ
いのかもしれない。私はそう思ったが、しかしその読者には、そういう安易なはげましを
することができなかった。

今、私がなすべきことは、少しでもその深刻さを共有し、自分の苦しみとして分けもつ
ことだ。だから私は遊びに行くのをやめた。やめて、一日中、書斎にこもって、猛烈に
原稿を書いた。そうすることが、私にとって、その読者の気持ちを共有する、唯一の方
法と思ったからだ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司


●すなおな常識

+++++++++++++++++++

ある評論家の文章を読む。日本では、たいへん
よく知られた人物の文章である(週刊B・1月
26日号)。

その人物が、皇位継承権の問題について、こう
書いている。

「現代人は、なんでも、言葉にできると信じてい
ます。昨今の『女帝』に関する議論も、要するに
『議論』で、それは言葉です。しかし、天皇とは
日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言葉
にしがたいものでもあります」と。

つまり「皇位継承権の問題は、言葉の問題ではなく、
伝統の問題である。伝統は、言葉によって、
解決できる問題ではない」と。(要約)

しかし……。

+++++++++++++++++++

 皇位継承問題について、日本でもよく知られた評論家が、週刊誌の中で、こう述べてい
る。YR氏という、学者である。

「現代人は、なんでも、言葉にできると信じています。昨今の『女帝』に関する議論も、
要するに『議論』で、それは言葉です。しかし、天皇とは日本の伝統そのものであり、
伝統とは安易に言葉にしがたいものでもあります」(抜粋)と。

 ここで皇位継承問題を論ずるつもりはない。それは別の問題として、ここでは、YR氏が
書いた言葉そのものを、考えてみる。つまり要するにその評論家は、「日本の天皇制度とい
うのは、伝統であって、言葉であれこれ論ずる問題ではない」と言いたいらしい。

 しかし私は、この文章を読んで、ハタと考えこんでしまった。「天皇とは日本の伝統その
ものであり、伝統とは安易に言葉にしがたいものでもあります」という意味が、理解でき
なかったからである。何というか、その評論家は、「言葉の問題ではない」と言いつつ、そ
の言葉で、私たちを煙に巻いている。

 それとも私がバカなのか?

 実は、こうした現象というか、わけのわからない文章というのは、その世界では、よく
見かける。たとえばその世界では、私なら、「わからない」と書くようなときでも、こう書
く。

 「それは、私の理性的理解力の範囲を、逸脱している」と。

 わざとまわりくどい言い方をする。そしてそれが、評論の世界では、あるべきものの書
き方であるかのような書き方をする。たとえば同じような文章を書く人物に、OE氏がい
る。TB氏がいる。そしてこのコメントを書いたYT氏も、その1人。3人とも、日本を
代表する評論家(?)ということになっている。

 が、その中でも、とくにOE氏の文章は難解である。世界でも最高と呼ばれる文学賞を
受賞した人物だから、そのつど、それなりに敬意を払い、それなりに懸命に読んではみる
のだが、私のようなバカには、まさに「理性的理解力の範囲を、逸脱している」。理解でき
ない。

 そこで私は、この文章を読んでいるみなさんに、こう問うてみたい。「みなさんは、本当
に、ああいう人たちの書く文章が、すばらしいと思っているのか?」と。「あるいは、そう
思いこまされているだけではないのか?」と。

 マスコミの力によってつくられた虚像といってもよい。子どもの世界にも、ポケモンと
いうのがある。今でも、あのピカチューを見ただけで、「かわいい」「かわいい」と騒ぐ子
どもは、いくらでもいる。

 そこで私はある日、子どもたち(小学生)に、こう聞いてみた。「君たちは、本当に、あ
のピカチューがかわいいと思うのか?」と。とたん、教室中が、ハチの巣をつついたよう
な騒ぎになってしまった。私は、あわや、子どもたちに袋叩きにされるところだった。

 こういう例は、多い。若者たちの世界にも、そしておとなの世界にも……。評論の世界
も、その一部かもしれない。

 そこで私は、(すなおな常識)という言葉を考えた。「常識」といっても、もともと常識
というものは、存在しない。千差万別。1000人の人がいれば、1000種類の常識が
ある。しかしその常識でも、子どもたちの世界を鏡(かがみ)として映(うつ)しだして
みると、(すなおな常識)と、(そうでない常識)というものがあるのがわかる。

 そういう意味では、子どもの心は、純粋である。水にたとえるなら、山奥深く、岩盤の
間からしみ出た清水のようなもの。しかしその水も、やがて下流に向かって流れるうちに、
さまざまな形に加工される。ジュースになるものもあれば、酒になるものもある。しかし
おとなたちには、それがわからない。

 「これは本物のみかんを使った、本物のみかんジュースだ」「これは、純米100%の、
本物の酒だ」とか、言い出したりする。

 しかしそこで一度でもよいから、岩盤からしみ出る清水のことを考えてみてほしい。そ
ういう視点で、ものを考えてみてほしい。それが私がここでいう、(すなおな常識)という
ことになる。

 ……という点では、私は、本当にラッキーだと思う。その子どもの世界に、毎日触れて
いる。子どもといっても、さらに純粋な、幼児である。その幼児に接していると、ときに、
自分の心がサラサラと洗い清められていくのを感ずることもある。子どもの世界では、ウ
ソやインチキ、ゴマカシは、絶対に通用しない。ゆがんだ考え方をしようものなら、その
場で、瞬時に、はじき飛ばされてしまう。

 そういう世界で積み重ねられた常識が、ここでいう(すなおな常識)ということになる。

 で、その(すなおな常識)に従って、皇室問題を考えてみると、こういうことになる。
つまりそもそも人間に種類があることのほうが、おかしい、と。もっと言えば、上下関係
があることのほうが、おかしい、と。どうして明治時代には、華族だの士族だのが、いた
のか? もし伝統とやらが、それほどまでに重要なものであるとするなら、どうして今、
華族や士族がいないのかということにもなる。

 が、私たちは、何も困らない。困っていない。華族や士族などいなくても、何も困らな
い。困っていない。YR氏は、こういう事実を、言葉で、どう説明するのだろうか。

 実は、そういう(おかしさ)をごまかすのが、「伝統」という言葉である。伝統という言
葉をもちだせば、おかしなことでも、おかしくなくなってしまう。いや、それ以前に、天
皇自身の意思は、どうなのかという問題もある。

 ほとんどの人は、生まれながらにして、最高の住宅地で、最高の家に住み、最高の生活
ができるのだから、不満はないはずと考える。そういう前提で、ものを考える。だから天
皇に不満は、ないはず、と。しかし本当にそうだろうか。そう決めてっかかってよいのだ
ろうか。少なくとも一度は、天皇に、「これからも天皇をしてくれますか」「それでよろし
いですか」と聞いてみるべきではないのか。

 天皇だって、天皇である前に、1人の人間である。私やあなたと同じ、1人の人間であ
る。もし皇位継承者のだれかが、「私だって人間だア!」「自由にものを言いたい!」と叫
んだら、私たち国民は、それに何と答えればよいのか。

 で、最初の問題にもどる。「天皇とは日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言葉に
しがたいものでもあります」と。

 YR氏という人物は、どうやら今、書斎という本の世界で、言葉の渦に巻き込まれてし
まっているにちがいない。何かか欠けている。私は先の一文を読んで、ふとそれを感じた
が、それがここでいう(すなおな常識)である。つまり、ものを考え、ものを書くという
のは、もっと単純なこと。台所につづく居間でもよい。公園のベンチの上でもよい。今は、
ワープロの時代だから、それこそ縁側に寝そべってでも、よい。

 そういう世界を通して、世の中を見る。考える。そしてものを書く。が、残念ながら、
YR氏の書斎には、そういう(すなおな常識)を感じない。まるで文をもて遊んでいる感
じ。一応YR氏は、「何も言いたくない」という立場で意見を書いていたが、そのため、読
めば読むほど、「?」。

 あえて言うなら、伝統が言葉の問題ではないとしても、その言葉なくして、どうやって
伝統を論ずるのか……ということになる。さらに言えば、今、そうした伝統論をふりかざ
して、王室や皇室を維持している国というのは、そうはない。このアジアの中では、日本
のほかに、タイとか、ネパールとか、インドネシアとか、そのあたりの国だけである。

 もしYR氏の言うことが正しいとするなら、こうした伝統のない国、たとえば中国や韓
国、台湾、フィリッピンなどは、言葉の上では、国ではないということになるのでは……
(?)。(少し言いすぎかな?)

 そこでみなさんに提案する。私たちは、もっとすなおな常識で、ものを考えようではな
いか、と。おかしいものは、おかしい、と。勇気を出して、そう思えばよい。考えればよ
い。それがわからなければ、子どもたちに聞いてみればよい。「日本には天皇制という制度
があって、男子しか天皇になれないということになっている。君は、そういう制度を、ど
う思う?」と。

 そのとき返ってきた言葉が、つまりは、ここでいう(すなおな常識)ということになる。


●どちらが虚業?

++++++++++++++

私たちの人生は、いったい、何だったのか?

今回の一連のライブDア社事件をながめていると、
はからずも、そんなことを考えさせられる。

++++++++++++++

 一連のライブDア社事件をながめていて、驚くのは、そこに出てくる金額の大きさもさ
ることながら、登場人物たちの、年齢的な若さである。

 たとえば主役の、堀江T文社長は、33歳。
 宮内R治取締役は、38歳。
 ほかにライブDア社の子会社である、「バリュークリックJ」の株式分割事件で登場する、
熊谷F人取締役は、28歳! (28歳だぞ!)

 こういった数字、つまり、33歳、38歳、28歳という数字をながめていると、ライ
ブDア社の虚業性もさることながら、事件全体が、まるで夢か、おとぎ話の世界、もしく
はアニメの世界で起きたような印象すらもつ。

 少なくともこれは、私たち団塊の世代の常識ではない。私たち団塊の世代の常識によれ
ば、社長というのは、50代から60代。取締役などという重役は、何年も何年も地道に
働いた結果、やっとたどり着けるところ……ということになっている。

 事実、大学の同窓生にしても、大学を卒業後、民間会社に就職した仲間は、みな、そう
いう道を歩んでいる。が、それで最終的に役職につくことができたかといえば、そうでも
ない。50歳を超えるころから、リストラにつづくリストラ。私が54歳のときに出た同
窓会でも、就職時のまま民間会社に残っていた仲間は、ゼロだった。

 みな、リストラされ、子会社など、別の会社に移籍していた。

 ……となると、私たち団塊の世代にとって、会社とは、いったい、何だったのか?、…
…ということになる。ライブDア社が、小さな個人会社だったというのなら、まだ話がわ
かる。しかし今回の事件をみてもわかるように、ライブDア社は、日本の株式市場に激震
とも言えるような、大きな影響を与えた。そういう力をもっていた。

 しかもそういう会社を、20代、30代の若者たちが経営していた!

 私も含めて、こうした事実に、ショックを受けた日本人も、少なくないはず。「どうして
そんな若者たちに、そんなことができたのか?」と。「どうして私たちには、それができな
かったのか?」と。

 28歳といえば、私のばあい、毎週のように世界を飛び回っていた。幼稚園で講師とし
て働くかたわら、貿易の手伝いをしていたころ。

 33歳といえば、今の家に移り住み、ささやかながらも、マイホーム生活を楽しみ始め
ていたころ。

 そして38歳といえば、過労から、左の耳の聴力を完全になくし、仕事の限界を感じ始
めていたころ。

 そういう自分の年齢と照らしあわせてみると、ライブDア社の若者たちは、ものすごい
ことをした、という印象をもってしまう。日本中の投資家に迷惑をかけたのは、悪いこと
だが、言いかえると、そんな若者たちを信じて、投資した人たちも、それなりに、愚かだ
ったということにもなる。

 報道などによると、ライブDア社の堀江T文社長は、「働く」というよりは、仕事そのも
のを、マネーゲーム化していたという。新聞報道などでは、「虚業」という言葉さえ使われ
ている。

 個人的には、私は、堀江T文社長に同情するが、しかしそれにしても、巨額である。先
週の株価暴落では、数日にして、ライブDア社だけでも、6000億円前後※の資産が、
ツユと消えたという。その巨額さを思うと、あまりにも現実離れしていて、ピンとこない。
少なくとも、コツコツと汗水流しながら働いて手にする金額ではない。

 ここに、私は、今回の事件のアニメ性を感ずるが、しかし同時に、ではいったい、私た
ちの人生は何だったのかということにもなる。つまり、私を含めて、私たちのしてきた人
生が、バカバカしく思えてくる。

 したいこともせず、いつも何かをじっとがまんしながら、ただひたすらまじめに(?)
働いてきた。高望みもせず、野心も、野望ももたず、自ら社会の歯車を自認し、生きてき
た。いつも、どこか、不完全燃焼のまま。しかし働くということは、そういうものだと、
割り切っていた。そういう私たちは、いったい、何だったのか。

 時代が変わったといえばそれまでだが、しかし私たちには、もうつぎの時代は、ない。
過去をとりもどすこともできない。こういう事件を知ると、そんなわけで、悔恨の念が、
どっと襲ってくる。「私だって、やればできたはず」という思いが、やがて、「どうして私
は、こうまで社会に遠慮しながら生きてきたのだ」という思いに変わってくる。

 それ、悶々とした悔しさとなって、胸をふさぐ。

 それにしても、33歳ねえ……。38歳ねえ……。28歳ねえ……、と。

 一方、先のライブDア社が買収しようとした某テレビ局のほうはといえば、ズラリ、老
人たちばかり。権威と威厳をカサに着て、いばっているような人たちばかりだった。その
落差というか、ちがいが、私にはあまりにも強烈だった。

 どちらが本当に虚業だったのか。ライブDア社だったのか。それとも、団塊の世代が生
きてきた人生だったのか。そう考えていくと、頭の中が混乱してくる。わからなくなって
くる。

 ただここではっきり言えることが、一つ、ある。それは、今回、はからずもライブDア
社は、大きな蹉跌(さてつ)を踏んだことになるが、しかしこれからの日本を支えていく
のは、ライブDア社のような会社になるだろうということ。今までの、つまり私たち団塊
の世代がいだいていた(会社観)というのは、あまりにも、陳腐。古い。これからの日本
では、もう通用しない。

 若者たちよ、ライブDア社の失敗にめげず、前に進め! がんばれ! これからの日本
を支えていくのは、まさに20代、30代の、君たち若者なのだ!
※……金額は、今のところ、確定していない。06−1−21


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 17日(No.689)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●笑い話

 年長児のクラス。そのクラスでのこと。

私「ぼくは、もうすぐ、ヨーシエン(要支援)だよ」
子「ちがうよ、先生、ヨーチエン(幼稚園)だよ」
私「ううん、もうすぐ、要支援だよ」
子「幼稚園だってばア」

私「君たちも、要支援だろ?」
子「ちがうよ、幼稚園だよ」
私「だって、自分でご飯をつくれないだろ?」
子「つくれないよ」
私「だったら、要支援だ」

子「だから、要支援ではなくてエ、幼稚園!」
私「お風呂で、頭を自分で洗えるか?」
子「ぼくは洗えるけど、MK(妹)は洗えないよ……」
私「だったら、MKちゃんは、要支援だよ」

子「MKは、まだ幼稚園に行っていないよ」
私「だから、そういう人を、要支援って、言うの」
子「だから要支援ではなくて、幼稚園だってばア」
私「要支援が終わると、要介護1年生になるんだよ」

子「ちがうよ、小学1年生だよ」
私「ちがうよ、要介護1年生だよ」
子「1年生になって、それから6年生まで行くんだよ」
私「要介護は、5年生までしかないの」

子「5年生までしかないの?」
私「そう。5年生まで」
子「5年生が終わったら、どうなるの?」
私「あの世行き。死ぬんだよ」
子「死なないよ。5年生が終わったら、6年生だよ」
私「でも、本当に6年生は、ないよ」
子「ぼくは、HS小学校へ行くよ。ヨーカイゴ小学校なって、知らないよ」
私「それはよかったね」と。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【受験・不安の構造】

●不安を訴える、親たち

 寒さが緩んだ、ある日の午後。1人の母親が、私の教室へやってきた。M君、小学3年
生の母親である。「どうしましたか?」と聞くと、「ちょっとこちらの方へくる用事があり
ましたので……」と。

私「ハア、何か?」
母「実は、息子の進学の相談ですが、このままでいいのでしょうか?」
私「このままって……?」
母「一応、SS中学の受験を考えているんですが……」
私「はあ……。それで?」と。

 つまりM君の母親は、私の教室から、別の進学塾への移籍を考えていた。30年以上も、
若い母親たちに接していると、そうした心の変化は、雰囲気でわかる。

私「M君は、今、がんばっていますよ。成績も伸びてきたところですし、今は、自分で、
5年生レベルの学習をしています」
母「でも、国語が、苦手なんです」
私「国語、ですか?」
母「算数は、おかげで、クラスでもトップなのですが、国語の成績が、今イチなんです…
…」と。

 こうした押し問答がつづく。いつまでもつづく。

●よくなることしか考えない(?)

 こういうケースでは、親たちは、自分の子どもが、(今の状態)より、よくなることしか
考えていない。「やれば、もっとできるはず」と。

 しかし可能性としては、フィフティ・フィフティ。やり方をまちがえれば、成績は、さ
がる。が、それですめば、まだよいほう。親の希望には際限がない。「B中学へでも入れれ
ば……」と言っていた親でも、その子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は、「せ
めてA中学へ……」と言い出す。

 さらにそのA中学へ入れそうだとわかると、今度は、「もう少しがんばらせて、S中学へ
……」と言い出す。

 子どもがそうした親の期待に、従順に(?)、応じている間は、それなりに、親子関係も、
うまくいく。しかしそんなケースは、10に1つもない。理由は、簡単。

 こうした親の期待には、あるいは欲望と言ってもよいかもしれないが、それには、ここ
にも書いたように、際限がない。が、それ以上に、『だからどうなの……?』という部分が
ない。「いい中学へ入ったから、だからどうなの?」と。

それがないまま、子どもを追い立てても、子どもには、負担になるだけ。その(負担)
が、やがて親子関係を破壊する。

●過剰期待

 何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
それはたとえて言うなら、馬の前にぶらさげられたニンジンのようなもの。いくら走って
も、馬は、そのニンジンを、自分のものにすることはできない。

 が、人間は馬ではない。やがてすぐ子どもは、それに気づく。こんな例がある。

 あるとき電話で、こんな相談をしてきた母親がいた。私の知らない人だった。

 「うちの子は、プリント学習を、毎日3枚することになっています。しかし2枚しかし
ません。3枚目になると、とたんに、いやがります。どうすれば、3枚目を子どもにさせ
ることができますか?」と。

 プリント教材を売り物にしている教材会社があるようだ。

 で、私は、こう答えた。「では、2枚でやめることです」と。

 もしその子どもが、スイスイと3枚目をしたら、親は、きっと今度は、こう言い出すに
ちがいない。「明日からは、4枚しなさい」と。

 子どもも、それを知っている。だから、2枚目が終わったところで、しぶり始める……。

●自我の同一性

 わかりやすく言えば、(やりたいこと)と、(現実にしていること)が、一致している子
どもは、表情が明るい。伸びやか。それに安定感があって、情緒も落ちついている。

 しかしときとして、その(やりたいこと)と、(現実にしていること)が、遊離し始める
ことがある。そうなると、子どもは、とたんにある種の緊張感に包まれる。これを心理学
の世界でも、「同一性の危機」という。

 ある講演会場でその話をしたとき、1人の母親が、そのあと、こんな質問をした。「それ
はどういう心理状態ですか?」と。予定外の質問だったので、少し戸惑ったが、私はこう
答えた。

 「それはですねエ〜。たとえて言うなら、顔を見るのも、声を聞くのもいや。肌に触れ
られるのもいやという男性と結婚した、女性の心の心のようなものではないでしょうか」
と。

 あとで考えて、我ながら、名答だったと思った。

 もっとも、それほど深刻なケースではないにしても、同じ仕事でも、(自分で進んでする
仕事)と、(いやいやする仕事)では、能率はまったくちがう。とくに、自分が納得しない
仕事を押しつけられたときは、そうだ。

 子どもも、そういう状態になる。親は、「いい中学へ入れ」と、せき立てる。しかし子ど
もには、その意思がない。少しでも成績がさがったりすると、親は、「サッカーをやめなさ
い」「ゲームは、取りあげます」などと、子どもをおどす。とたん、それまでの親子関係は、
崩壊する。

●『だから、どうなの?』

 こんな例がある。もう15年近くも前のことだが、夏休みが終わったころ、2人の女子
高校生が、私のところにやってきた。そしてこう言った。2人とも、私の幼児教室のOB
である。

 「先生、私たち、横浜のF大学に入ることにしました」と。

 声は明るかった。それにF大学なら、私も知っている。それで「よかったね」と。で、
そのあとこんな会話をした。

私「ところで学部は……?」
子「……国際関係学部……です」
私「国際……カンケイ、学部……?」
子「そう……」
私「フ〜ン。ぼくは昔の人間だから、法学部とか経済部とかいうのはわかるが、その国際
関係学部っていうのは、何を勉強するところ?」
子「……私にも、わかりません」と。

 その2人の女子高校生たちは、「何を勉強するのか、わからない」と。当時は、「大学遊
園地論」が、あちこちで騒がれていた。だから私は、すぐこう思った。「この子たちも、大
学へ入ったら、遊ぶのだろうな」と。

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばす三種の神器といえば、(夢)、(希望)、(目的)である。この3つが、子ど
もを、前向きに引っぱっていく。

 しかし今、その(夢)、(希望)、(目的)をもっている子どもは、少ない。いろいろな調
査結果をみても、小学校の高学年で、30%もいない。勉強にしても、親に言われるから、
ただ勉強しているだけ……といった子どもが、ほとんど。

 で、よく誤解されるが、今どき、よい中学、よい高校、さらには、よい大学へ入るなど
ということは、夢でも、希望でも、目的でもない。親にとっては、そうかもしれないが、
少なくとも、子どもには、そうではない。

 この数年だけでも、自ら、進学先の学校のレベルをさげる子どもが、どんどんとふえて
いる。「A高校なんか入って、勉強でしごかれるくらいなら、B高校で、のんびりと高校生
活を楽しみたい」と。「約60%の子ども(中学生)がそうですよ」と、HK市にある中学
校の校長が、笑いながら話してくれた(05年)。

 昔なら、「名門」というブランドにあこがれて、そこへ入ることを目標にした子どももい
たかもしれない。しかし今は、いない。また、そういう時代ではない。

●勉強しかしない子どもたち

 せっかく(いい中学)(いい高校)へ入っても、中退して自分の道を選ぶ子どもも、ふえ
ている。ここに例を書くまでもなく、あなたの周囲にも、1人や2人は、必ず、いるはず。

 むしろ勉強だけして、スイスイと、(いい中学)(いい高校)そして(いい大学)へと進
学して子どもほど、どこか、ヘン(失礼!)。そういう子どもは、勉強しかしない。勉強し
かできない。たしかに成績はよいが、よい成績をとることが、その子どもにとっては、趣
味のようなものになっている。

 頭の中は、偏差値という数字でいっぱい。もちろん弊害もある。

 このタイプの子どもは、人間の価値そのものすら、その(数字)で判断する。そこでお
かしなことだが、本当に、おかしなことだが、今の日本の教育システムの中では、人間的
にも魅力があり、人格的にもすぐれた子どものほうが、むしろ、受験競争から、脱落して
いくという傾向がみられる。

 このことも、あなたの周囲を見渡してみれば、わかるはず。あなたの周囲にもいろいろ
な人がいる。が、受験とは無縁の世界を生きてきた人ほど、心暖かく、人間味が豊かであ
ることを、あなたも知っているはず。

 もちろんだからといって教育を、否定しているのではない。つまりこうした弊害を、教
育者自身が、気がつき始めている。そしてそれに合わせて、教育制度、さらには受験制度
そのものも、変わり始めている。

●点数から人間性へ

 この静岡県でも、いろいろな試行錯誤があったが、全体として見ると、より内申書重視
の入試方法に変わってきている。欧米の例を参考にするなら、これは当然のことである。

 たとえばアメリカでは、いくら成績がよくても、その成績だけでは、有名大学には入れ
ない。推薦権をもつ、教師や学校の推薦がなければ、入れない。そしてその推薦するかど
うかは、その子どもの人格や人間性を見て、判断される。

 日本でも、最近、学歴不問という会社が現われつつある。入社試験でも、面接官は、こ
う聞く。「君は、何ができるかね?」「君は、わが社に、何を貢献してくれるかね?」と。

 こうした話は、恩師のT教授(元東大・副総長)からも聞いたことがある。20年ほど
前の話で、今は、そういう学生も少なくなったと思うが、T教授は、こう言った。

 「林君、東大へ入ってくる学生の、3分の1は、頭がおかしいよ」と。そこで私が、ど
こがどうおかしいですかと聞くと、T教授は、こう言った。

 「実験中にね、かんしゃく発作か何かを起こして、ビーカーなどの実験道具を床にたた
きつけて、割ってしまうのがいる」「そこで親まで呼んで、自主退学を勧めるのだが、親の
ほうが、猛然と拒否する」と。

 そうした反省もあって、そのあと、入試方法も、大きく変わった。学力テスト1本とい
う入試方法から、面接重視の入試方法へ、と。とくにそのT教授は、退官後、東京R大(私
大)へ移り、東京R大の入試方法そのものを変えてしまった。

 「参考書、辞書、持参は自由」というのが、その入試方法である。この入試方法は、そ
のあと、いろいろな世界で、大きな話題になったので、ご存知の方も多いと思う。

●不安の構造

 何ゆえに、親たちは、不安になるのか? とくに自分の子どもが受験期を迎えると、言
いようのない不安感に襲われる。

 自分の子どもが選別されるという不安。子どもの将来への不安。が、それだけではない。
日本人には、体質として、明治以来の学歴信仰がしみついている。それに拍車をかけるよ
うに、この日本には、不公平が蔓延(まんえん)している。

 そうした不公平を、親たちは、日々の生活を通して、いつも肌で感じている。

 だから親たちは、子どもを受験競争に駆り立てる。今の今でも、「勉強しなさい!」「う
るさい!」の大乱闘を繰りかえしている親子は、多い。

 が、ここで注意しなければならないのは、不安に思っているのは、親だけということ。
子どもは、何も、不安に思っていない。もっと言えば、親が、自分の不安感を、子どもに
ぶつけているだけ。

 こうした親は、一見、子ども思いの、よい親に見える。しかしその実、身勝手な愛(?)
を、子どもに押しつけているだけ。こういうのを、私は、「代償的愛」と呼んでいる。つま
りは、愛もどきの愛。それはたとえて言うなら、ストーカーが口にする「愛」に似ている。

 子どものことを考えているようで、結局は、子どものことなど、何も考えていない。ど
こまでも、ジコチューな愛、ということになる。

●失敗してはじめて気づく親たち

 しかしどの親も、ほとんど例外なく、自分で失敗するまで、自分が失敗したと気づかな
い。だいたいどの親も、自分が失敗するなどとは、思っていない。

 だから親は、子どもを、「あなたはやればできるはず」「もっとできるはず」と、子ども
を、追い立てる。が、いつまでもこんな異常な状態がつづくはずはない。

 H市にS県でもナンバーワンと呼ばれる進学高校がある。その進学高校の教師が、私に
こう話してくれたことがある。

 「うちの高校でも、高校入学時にすでに、バーントアウト(燃え尽き症候群)している
子どもが、5%はいます。3年生で、20%はいます」と。

 有名大学となると、(こういう言葉は、本当に不愉快だが……)、もっと多い。「大学へは
入ってはみたけれど……」と。

 が、その程度ですめばまだよいほう。引きこもりや、家庭内暴力、さらには、心そのも
のまでゆがめてしまう子どもも少なくない。

 が、親というのは、不思議なものだ。親子関係は完全に崩壊している。子どもも、「大学
へは入ってはみたけれど……」という状態になっている。しかしそれでも、他人の前では、
「おかげで、いい大学へ入ることができました」と喜んでみせる。

 この段階で、失敗を認めるということは、親にしてみれば、自己否定につながる。世間
的には、それだけは何としても避けたい。そうそうこう言っていた母親もいた。

 「毎日、毎晩、小5の娘と大乱闘です。しかし娘も、目的の中学へ入ってくれれば、そ
のとき私の気持ちを理解し、私を許してくれるでしょう」と。

 が、残念ながら、それで親に感謝する子どもなど、ぜったいに、いない。

●変化する子どもたち

 進学塾へ入ったとたん、目つきの変わる子どもは、少なくない。何割か、あるいはそれ
以上の子どもがそうなる。

 親は、「自覚ができました」「緊張感ができました」と喜ぶ。が、それですむわけではな
い。受験競争が長くつづけばつづくほど、そしてそれがはげしければはげしいほど、おか
しな競争心、おかしなエリート意識、そういったものが、子どもの心を粉々に破壊する。

 概して言えば、温もりのある子どもらしさが消え、心がドライになる。冷たくなる。点
数だけで、人を判断するようになる。それを指導する講師が、そういう姿勢だから、子ど
もの心など、生贄(いけにえ)に差し出された子羊のようなもの。

 さらに言えば、指導する講師にしても、それだけ子どもの心を知った上で、指導してい
るかといえば、それは疑わしい。

 派手な宣伝、広告、チラシ……。そういったので発表される合格者数の裏で、いかに多
くの子どもたちが、もがき、苦しみ、自信をなくしていることか。ほとんどの親たちは、
勝つことだけを考えて、負けることは考えていない。

 「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、子どもを受験競争に追い立て
る。しかし成功するか失敗するかということになれば、失敗する確率のほうが、はるかに
高い。

 しかしそのときになって、子どもの心を再び、取りもどそうとしても、もう遅い。一度
こわれた心を、もとにもどすには、その何倍もの努力と時間が必要となる。

●日本の特殊性

 日本がもつ構造的な異常さというのは、日本だけに住んでいる人には、理解できない。
あるいは、逆に、「欧米も、日本と似たようなもの」と思っている人も多い。

 しかし、ちがう。まったくちがう。5、6年前に書いた原稿(本で発表済み)の中から、
一部を抜粋して、紹介する(全文は、この原稿のあとに添付)。

 『つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部
で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の
大学進学先が明記してあった。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合
格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき
捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、
こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒1人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。
木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」
と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出
すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの
勝ち』。

●子どもを信じて伸ばす

 では、どうすればよいのか。現実に、この日本には、不公平が蔓延している。学歴制度
もあり、受験競争もある。こうした現実に背を向ければ、そのまま外の世界へ、はじき飛
ばされてしまう。

 こんな笑い話(?)がある。東京に住んでいる、ある女性が話してくれた。

 「ある母親は、自分の子ども(小学生)を、近くの公園へ連れていった。そしてそこで
生活しているホームレスの人たちを見せながら、こう言ったという。『あんたも、しっかり
と勉強しなければ、ああいう人になるのよ』と」と。

 とんでもない指導だが、だれがこの話を聞いて、笑えるだろうか。その母親は、この日
本では、まさに現実主義者ということになる。笑いたくても、笑えない。

 その一方で、今、この日本でも、価値観が、多様化してきている。そして「幸福」に対
する考え方も、変わってきている。そこで重要なことは、子ども自身が、自らの力で、自
分の道を切り開いていく力をもつようにすること。学歴などというものは、あとからつい
てくるもの。かりにどこの大学を出ようとも、そこで(勉強)が終わるわけではない。

 むしろ本物の実力が試されるのは、社会へ出てからということになる。もちろん今でも、
過去の学歴にぶらさがり、のんべんだらりとした生活を送っている人は多い。悪しき学歴
社会の、亡霊のような人たちである。50代、60代以上の人に、とくに多い。

●夢から目標へ

 子どもには、子どもの夢がある。その夢をじょうずに育てながら、それを目標につなげ
ていく。

 子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と。子どもが
「バスの運転手さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と。

 「夢」を育てる姿勢が子どもの中にあれば、(夢の内容は、そのつど変化するものだが…
…)、子どもは自分で伸びていく。

 もし子どもを伸ばす方法があるとするなら、それしかない。またそれが王道である。親
にできることがあるとするなら、その目標に向って進む子どもを、側面から支えること。
イギリスの格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできな
い』というのが、ある。あとの判断は、子ども自身に任せるしかない。

 そのとき重要なことは、それがどんな道であろうが、子どもが選んだ道であれば、親は
一歩引き下がった状態で、子どもを支える。そしてそれが良好な親子関係を保つ、王道で
もある。

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の講師になるという道を選んだとき、それを母
に告げると、母は電話口の向こうで泣き崩れてしまった。

 決して母を責めているのではない。母は母で、当時の常識に従って、そうしたにすぎな
い。しかしあのとき、母だけでも、私を支えてくれていたら、その後の私の人生は、大き
く変わっただろうと思う。もっと自信をもって、私は、自分の道を進むことができただろ
うと思う。

 そういう私を支えてくれたのは、実は、オーストラリアの友人たちである。オーストラ
リアの友人たちは、みな、「すばらしい選択だ」と言って、私を支えてくれた。つまり、こ
ういうところにも、意識のちがいがある。

 今でも、「幼稚園の講師?」と言って、吐き捨てる日本人は、多い。しかしそういう日本
人を超えるようにならないと、この日本はいつまでたっても、教育後進国。校舎や教師が
いくら立派になっても、中身は旧態依然のまま(?)ということになる。

 つまりは、私たち1人ひとりが、そういう意識を変えていくしかない。

 冒頭にあげた母親とは、それで別れた。その母親との間には、越えがたいほど、遠い距
離を感じた。「どこからどう説明しようか」と考えているうちに、どうでもよくなってしま
った。

 M君が私のところを去るのは、時間の問題だろう。しかしそれも卒業。

母「これからも、よろしくお願いします」
私「わかりました。おいでになる間は、一生懸命、教えさせていただきます」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、
たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだ
ろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにす
ぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を
疑ってみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度があ
る。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希
望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解
している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子
どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200
万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な
教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で
研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世
界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、
クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ド
イツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めるこ
とができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習
クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後
(2001年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当た
り、230ドイツ・マルク(日本円で約14000円)の「子どもマネー」が支払われ
ている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長27歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学
校外教育に対する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任を
もたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話
番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするので
すか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)
はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく
待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私
立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見
て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別
紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき
捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、
こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒1人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。
木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」
と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出
すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの
勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもの
で、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校
神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはま
さに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮
想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午
後三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決
めることができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On 
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の
上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義
国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているでは
ないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れて
はならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という
意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の
犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考える
のは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察シ
ステムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと
別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中
学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、400
0人多い。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●保護司

+++++++++++++++++++

自治会長が、保護司の仕事をもってきた。

さあ、私は、どうすべきか?

+++++++++++++++++++

引きうけるべきか、引きうけざるべきか……それが問題。

 つい先日は、自治会の副会長職を断ったばかり。しかしいつもいつも、断ってばかりい
るわけにはいかない。自治会長には、世話になっている。

 保護司……一応、身分は、国家公務員。任期は2年。ただし、無給。おかしなことだが、
私は、「保護司」の「司」に、親しみを覚えた。「浩司」の「司」と同じ。結構、私にも、
単純なところがある。

 そこで床についてから、分厚いパンフレットを読む。ウム〜。読めば読むほど、ウム〜。

「保護司は、犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える、ボランティアです」(第2
章冒頭)とある。

つづいて「使命」として、「保護司は、社会福祉の精神をもって、犯罪をした者の、改善
厚生を助け、犯罪予防のため世論の啓発に努めています」とある。

ますます考えこんでしまう。

善人の仮面をかぶるのは、簡単なこと。が、その仮面をかぶってできるような仕事では
ない。相手は、それぞれ、大きな問題をかかえた人たちである。そういう人たちを相手
に、私のような人間は、どう対処すればよいのか。

 ワイフはのんきに、「あなたもそういう年齢になったのよ」と言う。つまり社会に、恩返
しをする年齢になった、と。

 しかし、これはむずかしい仕事である。それに責任は、重大! 子育て相談とは、わけ
がちがう。「忙しいから、今日は、失礼します」と、逃げるようなことは、許されない。

 が、何といっても、一番、警戒しなければならないのが、「仮面」。そういう例は多い。
たとえば、他人には、すばらしくよい人を演ずる人がいる。面倒見もよい。世話好き。し
かしそれは外面(そとづら)。本当に他人のために働いているかというと、そうではない。
自分をよい人間に見せたいために、そうする。そういうのを、心理学でも、「愛他的自己愛」
という。そういう人にとっては、「あの人はいい人」とうわさされるのが、何よりも快感な
のだ。

 しかし仮面は仮面。わかりやすく言えば、「化けの皮」。大切なことは、その人のために、
どこまで親身になって、つまり真剣に、考えてやることができるかということ。が、私に、
それができるか?

 私は、幸か不幸か、(幸に決まっているが……)、何かの犯罪を犯した人たちとは、無縁
の世界で生きてきた。知りあいの中にもいない。そういう私が、保護観察中の人たちと、
どうやって向きあえばよいのか。さも私は善人でございますというような顔をして接する
のは、私のやり方ではない。かといって、そういう相手を説教したりするような立場でも
ない。

 保護司の役割の第1は、「犯罪をした者の、改善厚生を助け、犯罪予防のため世論の啓発
する」とある。

仕事の内容としては、(1)保護観察を受けている少年やおとなの指導として、毎月面接
や、家庭訪問を行う。(2)刑務所や少年院に入っている人の帰住先の調整として、出所
後の生活設計などについて、引き受ける家族と話しあいなどをする。(3)犯罪や非行の
予防活動として、犯罪や非行をした人の立ち直りを見守るよう、広く社会に呼びかけを
行う、とある。

 保護司研修制度というのもある。保護司として活動する前に、地域別定例研修、特別研
修、自主研修、新任保護司研修、第一次研修、第二次研修……などなど。

 私には私の仕事がある。このところ、時間が合わないため、講演すら断ることが多くな
った。息子の1人は、まだ大学生である。ボランティア活動をするといっても、仕事を犠
牲にするわけにはいかない。こうした研修会が、私の仕事と重なったら、私は、どうすれ
ばよいのか。

 考えれば考えるほど、気が重くなる。

 やはりこの仕事を引き受けるかどうかは、もう少し様子を聞いてからにしよう。こちら
から「やります!」と手をあげてするような仕事ではない。時間的にも、今の私には、ま
ったく余裕がない。


●ライブD・ショック

++++++++++++++++++

株価が急降下している! 昨日1日だけで、
日経平均は、500円近くも、値をさげた。

今日も午前中だけで、444円も、値をさ
げた。

きっかけは、ライブD社の粉飾決算(?)

しかし……

2006年1月25日(水)

++++++++++++++++++

 現在、日銀は、ゼロ金利政策(量的緩和策)を実行中! わかりやすく言えば、日銀は、
市中銀行をとおして、日本中に、お金をバラまいている。今の日本は、「お金がジャブジャ
ブの状態」(某経済誌)だそうだ。

 おまけに、原油価格は高止まり。加えて、ドル安。「景気はよくなった」とはいうが、中
身は、あのバブル経済の時期そっくり。

 そこで株式市場は、いつ日銀が、量的緩和策を解除するか。その時期を見きわめようと、
戦々恐々としている。そんな状態。解除されたとたん、「日本経済には、急ブレーキがかか
ることになるかも」とのこと。

 今回のライブDショックは、その引き金を引いてしまった。「株価がさがるのは、年度末
決算がすんだあとの4月ごろ」と、大方の経済評論家は、読んでいた。しかし株価は、先
手、先手で動く。

 ところで昨夜、仕事の帰りに書店で読んだ週刊誌には、ある若い男性の手記として、こ
んな記事が載っていた。

 「今は、株で、もうけどき。100万円をサラ金で借りて、ネットで、信用取引。年末
から年始にかけて、25万円のもうけ」と。週刊誌の名前は忘れた。

 つまりサラ金で100万円借りてきて、そのお金で株を買う。株を売買するときには、
信用取引という方法がある。ある一定額の損(このばあいは100万円の損)をするまで、
株を売買することができる。この方法だと、100万円で、10万円の株を、たとえば5
0〜100株も買うことができる。現物売買では、100万円では、10万円の株なら、
10株しか買えないのだが……。

 信用取引では、株価があがれば、もうけも大きいが、株価がさがれば、100万円は、
そのまま、パー。

 今ごろその手記を書いた若い男性は、たぶん、大損をして、泣いていることだろう。つ
まり株式の売買のこわいところは、ここにある。わかりやすく言えば、バクチ。「もうけた、
もうけた」と喜んでいると、その人は、もっと、もうけたくなる。そしてもっと大きなお
金を、そのバクチにかけるようになる。

 そして最終的には、大損!

 だから私のような素人が株式売買をするときには、絶対に守らなければならない大原則
がある。それは(1)最高限度額を必ず、決めておくということ。100万円までとか、
200万円まで、とか。あくまでも小遣いの範囲でするのがよい。(2)信用取引はしない。
あくまでも現物売買。そして株価がさがったら、その株は塩漬けにして、3か月でも半年
でも、じっとがまんしてもつ。

 だいたい、働きもしないで、お金をもうけるという、その根性がまちがっている。……
というのは、この現代社会においては、通用しない考え方かもしれないが……。

(補記)

 何を隠そう、この私もこの2日で、x万円の損をしたのだ。ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●ものは、言いよう

+++++++++++++++

みなさん、往生際(ぎわ)が悪いですね。

弁護士法違反と、組織犯罪処罰法
違反の罪で逮捕、起訴された、
あの西村S悟議員が、今度は、拉致問題
にかこつけて、議員職にしがみついて
いる(?)

+++++++++++++++

 新聞報道によれば、逮捕、起訴されたにもかかわらず、あの西村S悟衆議院議員は、つ
ぎのように述べているという。

 「弁護士の名義を貸す見かえりに違法な報酬を受け取ったとして、弁護士法違反と組織
犯罪処罰法違反の罪で起訴された、衆議院議員、西村S悟被告(57・前民主党議員)が
(1月)17日、東京都内で記者会見し、『(K国による)拉致被害者救出のために議席を
維持しなければならない』として、議員辞職しない意向を明らかにしたという」(サンケイ
新聞)。

 ものは、言いようである。拉致問題を、自分の政治的利益に利用している議員は多い。
が、ことここにいたってまで、拉致問題にかこつけて、議員職にしがみつくとは!

 西村S悟被告は、昨年末(05年)11月18日の段階では、まだつぎのように述べて
いた。

「本日11月18日の朝刊各紙に、私の法律事務所の元職員が(非弁活動)(弁護士資格
が無いのに弁護士活動をすること)をしたとして検察が捜査に入る旨の記事が掲載され
ました。以下、この点について事情をご説明致します。

1、非弁活動の容疑については、元職員本人も認めており事実であろうかと思います。

2、では、私がその非弁活動を知っていたかどうかでありますが、本年はじめ頃に、大坂 
 府警から教えられるまで、全く知りませんでした。そして、私は、大阪府警の捜査員に
全ての事情を説明しました。

大阪府警の捜査は、4月末ころに終了したと思いますので、事件はそのころ検察庁に送
られ処理されたと、私は思っていました。

しかしながら、今朝の事態を迎え、驚いている次第であります。

3、この非弁活動を行なった者は、私の法律事務所にいた者であることは事実であります
  ので、今になっていくら悔いても致し方の無いことながら、このたびの事態を迎えて、
私の元職員に対する管理監督の不行き届きを深く反省し、皆様にご心配をおかけしている
ことを、深くお詫び申し上げます。

  以上が申し上げるべきことの骨子であります」(「西村S悟の時事通信」・Eマガより抜
粋)と。

 つまり西村S悟議員は、(1)知らなかった、(2)私は関係ない、(3)驚いている、と。
が、一転逮捕、起訴されると、今度は、「拉致問題解決のために、議席を確保しなければな
らない」と。

 どうやら西村S悟議員は、相手の立場でものを考えることができない人のようだ。そう
いう議員が、何かの会合に顔を出せば、拉致被害者およびその家族の人たちは、かえって
迷惑するのではないか。そんな簡単なことさえ、西村S悟議員には、まったく、わからな
いようだ。

 ……あるいは、それほどまでに、権力の座は、魅力的なのか? どの人も、一度手にし
たら、もう手放せない……といった心境になるらしい。私には無縁の世界の話だが、想像
はできる。あのインチキ論文を発表した韓国のU教授にしても、いまだに、「技術はたしか
にある」「(研究室の胚性幹(ES)細胞は、(同僚たちによって)すりかえられたものだ」
などと主張している。

 みんな、どこまでがんばるのだろう? また何のために? 私には、理解できない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●コメント・トラックバック・掲示板

+++++++++++++++++

以前は、HPの掲示板への不良書きこ
みに悩んだ。

相手は、名前がわからないことをよい
ことに、まさに言いたいことを書き放題。

今は、BLOGの時代。しかしそのBLOG
のトラックバックにさえ、このところ、
不良書きこみが、絶えない。

しかも悪質、執拗、うるさい。

+++++++++++++++++

 現在、私は、R天のフリーサービスを使って、毎日、日記+BLOGを書いている。そ
れはそれで、私の生きがいになっているが、少し前まで、掲示板への不良書きこみに悩ん
だ。中には、良心的な書きこみをしてくれる人もいたが、大半は、中傷、悪口、誹謗、そ
れにスケベ。

 セレブな人妻紹介。
 童貞、買います。
 今晩できます、などなど。

 そこで、私は掲示板を閉鎖した。コメントコーナーも閉鎖した。毎日、そうした不良書
きこみを削除する作業だけでも、たいへん。めんどう。

 ところが、である。R天のフリーサービスのばあい、トラックバックだけは、閉鎖する
ことができない。そのトラックバックをねらって、ほとんど毎日、同じような書きこみが
つづく。しかも、5〜10通、同じ文面のものばかり!

 そこでトラックバックの表示個数を、(1)に設定したが、それでも、それぞれの日記に、
トラックバックに書きこみがつづく。どうしたらよいものか。トラックバックがあるから
こそ、BLOG。もしトラックバックがなくなってしまったら、またもとの、(ただの日記)。
BLOGがBLOGでなくなってしまう。

 しかし、こうまで不良書きこみがつづくと、無視するわけにもゆかない。

 そこでR天サービスに直接相談しようとしたが、そういう方法は、どこにも書いてない。
つまり連絡先がわからない。で、今は、泣く泣く、そのままの状態。

だれか、トラックバックを閉鎖する方法を、知りませんか。もしご存知でしたら、お教
えください。お願いします。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 15日(No.688)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●不登校(学校恐怖症・学校拒否症)の問題

++++++++++++++++++++

栃木県に住んでいる、Yさんから、息子(小2)
の不登校についての相談があった。

この問題について、少し考えてみたい。

++++++++++++++++++++

【Yより、はやし浩司へ(1)】

小2の長男が二学期末に胃腸風邪になり、回復しても学校で嘔吐して早退ということを
二度繰り返しました。その時ピンと感じましたが、そのまま冬休みに入ったので、冬休
みは家族で、のんびり楽しく過ごしました。

始業式は普通に登校できました。が、昨日、通常の登校をするため玄関で靴を履きそう
になったとたん、『気持ち悪い。吐きそう』と訴えたので欠席させました。

その後は元気で弟とケンカしたり、一日遊んでいました。が、学校は行きたくない。三
日休みたいとのことなので、三日休ませることにしました。

先生の本に書いてある不登校の前兆だと思うので『誰だって休みたい時はあるよ』と言
いました。長男は二年前に神経症を発しています。

小1の4月からプレイセラピーに通っています。かなり安定して小1の冬にまた神経症
が悪化し、しばらくして回復。その後2年生になり驚くほど毎日元気に過ごしていまし
た。

セラピーも終了間近でした。ちょっと疲れが溜まっているのかもしれません。そして、
冬は彼が2歳の時に家庭不和があったのでトラウマになっているのではと思います。だ
から冬になるとこうした症状が出るのではとも思います。不登校というのはついに来た
かという感じです。

夫と私は今はとても良い関係で、関係修復後は長男の事をよく語り合い、反省し、考え
ていました。現在、神経症は出ていないものの、三日休んで、次に登校すると言った月
曜に登校できるかなというなという不安はあります。

約束だから登校だけはさせるべきか、休んで単身赴任の夫の元へ遊びに行ってしまうか、
家でのんびりするか、迷っています。

先生に学校は行くべきものという考えを捨てなさいとお叱りを受けそうですが、まだ小
2。弟とケンカばかりするし、一日家で見ているのはとてもしんどいです。勉強も根気
よく教える事ができません。

今まで二度メールさせていただいて、先生の的確なアドバイスにとても助けられました。
今回も、簡単で結構ですので、迷っている私にどうかアドバイスをお願いします。


【Yより、はやし浩司へ(2)】

はやし先生

子どもの不登校について相談しています、U市のYです。

相談している私がこう書くのも変ですが、先生とても大変だったのですね。お体はもう
大丈夫ですか?

今度は急に暖かくなり、なだれも心配ですね。

さて、私の息子(小2)についてですが、先生のアドバイスで学校恐怖症を疑ってみる
ようにとの事だったので、先生のHPから学校恐怖症の部分を読んでみました。

まさにそうです。今、前兆期です。ほんとうにピッタリとパターンに当てはまるので、
驚くほどです。

昨夜も登校すると言っていて、今朝も通常通り支度をし、ランドセルをしょって、部屋
を出ようとしたとたん血の気が引いたようになり、トイレへ駆け込みました。

しばらくすると落ち着いて、自分で欠席を決め、今は顔色も良く元気です。
先生のおっしゃる通りです。

そこで質問なのですが、無理をせず休ませて、その後はどのようにしていったら良いで
しょうか?

先生は本にもHPにも前兆期での対応が大切だと書かれています。いかにこの時期をと
らえるかと。

本には悪いパターンが書いてありますが、前兆期に無理をさせず対処した場合、今後ど
のように推移していくのでしょうか?

私達は夫婦で、子どもが真面目タイプでがんばりすぎていたこと、弟のようにもっと甘
えたかった、そして疲れ果ててしまったのだと考えています。

でも、ずっとこのままずるずると家にいるのではという不安でいっぱいです。
休んだ一週間が、一ヶ月のように長く感じます。

この先もこれが続くかという閉塞感、不安感でいっぱいです。

もともと神経症がある子なので、無理強いしても無駄、逆に悪化するというのはわかっ
ています。

どうにもならないと思っても、今の状況では落ち着けません。

先生、それでも、この手の話しはよく聞くことで、経験のある友人が何人かいます。
中には首に縄つけて引っ張っていき、それで乗り越えたという人が2、3人います。
その後、パニック期などに推移せず、それで解決したそうです。

やはり、子の性質や心にある原因によりけりなのでしょうか?
私はとても今の状況で子どもに無理に登校はさせられないけど、友人達には甘いと言われ
ています。そうでない人が一人いるのが救いです。

なんだか、書いていてまとまりがつかなくなりました。
はやし先生、前兆期でゆっくり休んだ子が推移するパターン、今、私がどうやっていた
らよいか、またアドバイスくださると嬉しいです。

お返事は急ぎません。先生のお時間があるときにで結構です。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

それでは失礼します。

+++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Yさんへ……】

 不登校といっても、心の問題がからむタイプもあれば、怠学といって、(なまけ心)がか
らむ問題もあります。「首に縄つけて引っ張っていき、それで乗り越えたという人が2、3
人います」というのは、学校恐怖症のほうではなく、怠学のほうではないでしょうか。

 あくまでも子どもの症状を見て判断しますが、学校恐怖症と怠学のちがいについては、
アメリカの内科医学会の判断基準を参考に、Yさんご自身が判断されたらよいかと思いま
す。(詳しくは、「はやし浩司のHP」→「タイプ別子どもの見方」→「学校恐怖症」を、
ご覧になってください。一部を、以下に抜粋しておきます。)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Yさんへ】

 前兆期は、すでにすぎています。そう考えてください。また「3日」とか何とか、時限
を決めて、子どもを追いつめるのは、かえって逆効果ですから、注意してください。これ
については、すでに前に書いたとおりです。
 
 で、学校恐怖症と怠学のもっとも簡単な見分け方としては、つぎのようなものがありま
す。

学校恐怖症の子どもは、学校へ行かない間、家の中に引きこもる傾向を示すのに対して、
怠学の子どもは、ほかに目的があって、学校をサボるということ。そのため、学校へ行
かない間は、平気で外出したりします。

 しかし「首に縄つけて……」というのは、恐ろしく乱暴な言い方ですね。怠学的な不登
校児であれば、それなりに効果的(?)かと思いますが、学校恐怖症であれば、その一撃
が、取り返しのつかないトラウマ(心の傷)となって、心をキズつけてしまうことになり
かねませんので、ご注意ください。

 症状からして、午前中はひどく、午後は快方に向うという、日内変動が見られますので、
やはり学校恐怖症を疑ってみたほうがよいかと思います。だから前回も書きましたように、
本人が気分がよくなるのを待って、2、3時間目から登校をうながしてみるとか、午後か
らの登校をうながしてみるのがよいかと思います。

 Yさんが不安なのは、よくわかりますが、その不安感を、シャドウとして、子どもも感
じ取ってしまいますので、ご注意ください。親のピリピリ、イライラは、百害のもとです。

 お子さんの様子を見ていませんので、これ以上のことはよくわかりません。表情だけ、
どこか柔和で、何を考えているかわからないといった様子であれば、(つまり情意と表情の
遊離現象が見られるようであれば)、不登校は、かなり長期にわたると覚悟することです。
「なおそう」と考えるのではなく、「あなたは、つらいけど、よくがんばっているのよ」と、
子どもを包むようにして対処します。

 こうした症状は、下の子どもが生まれたことによる、赤ちゃん返りがこじれて、起きる
ものと、私は考えています。何%かの子どもがそうなります。(世間の人たちは、赤ちゃん
返りを軽くみる傾向がありますが、決して、赤ちゃん返りを軽くみてはいけません。)かん
黙症や、自閉症の引き金を引いてしまうことも、珍しくありません。

 「お兄ちゃんだから……」という安易な『ダカラ論』をぶつけないこと。Yさんが住ん
でいる地域のことをよく知っていますが、その地域は、そうした封建主義的なものの考え
方が、いまだに根強く残っているところです。注意してください。(このことは以前にも、
書いたと思いますが……。外の世界からそれを見ると、よくわかります。)

 「うちの子は、どうなるのだろう?」と不安になられる気持ちはよくわかりますが、今
こそ、あなたの真の愛情が試されるべきと考えて、つまり十字架を1つ背負うつもりで、
この問題に対処してみてください。

 「まあ、いいわよ」とあなたが思えるようになったとき、(実際、今どき、不登校など、
何でもない問題ですが)、不安は、あなたのほうから去っていきます。『不幸は、それを笑
ったとき、向こうから去っていく。しかしそれを恐れたとき、不幸は、あなたを重荷とな
って苦しめる』というのは、私が作った格言です。

 この問題の解決には、数か月単位の忍耐と努力が必要です。ここで症状をこじらせると、
半年から1年単位での不登校につながる危険性があります。心の休養を大切に。「気分転換」
などと安易に考えて、子どもをあちこち引き回すのも避けてください。安静と安心感、そ
れに心の安定が、何よりも大切です。もし午後、1時間でも学校へ行くようなら、「よくが
んばったね」とほめてあげてください。「もうあと1時間行こうね」などと、子どもを責め
てはいけません。

 それ以上に症状がひどくなるようであれば、心療内科を訪れてみるという方法もありま
すが、私は薬物治療については、疑問に思っています。どうか、慎重に!
(はやし浩司 不登校 学校恐怖症 学校拒否症 怠学 アメリカ内科医学会 米内科医
学会 診断基準 はやし浩司)
2006/01/25

【補記】

 それにしても、「首に縄つけてでも……」という言い方には、驚きました。今でも、そう
いう言い方をする人がいるのですね。子どもの人格や人権を、いったい、どのように考え
ているのでしょうか。

 私はこの言葉の中に、恐ろしいほどの親意識、権威主義、それに上下意識を感じました。
と、同時に、それを口にする人たちは、学校神話、学歴信仰の盲信者という印象ももちま
した。「子どもなど、親の意思でどうにでもなる」とでも、そういう人たちは考えているの
でしょうか。

 あまりにも無知、無学、メチャメチャ! そしてあまりにも日本的! 逆の立場で、自
分がそうされたときのことを考えてみたらよいのです。ただ単なる(比喩(ひゆ))では、
すまされません。

 だからといって、子どもを甘やかせとか、学校へは行かなくていいと言っているのでは
ありません。日ごろから、もっと子どもの心に耳を傾ける姿勢が、親側に育っていれば、
こうした発想は、出てこないはずです。あるいはひょっとしたら、こうした問題は起きな
かったかもしれません。

 まさに原始的というか、後進国的というか。あまりにも心の問題を、安易に考えすぎて
いるのでは! 子どもに何かをさせるときには、ある程度の強制力は必要かもしれません。
が、それは子どもを見ながら判断します。相談してきたYさんのお子さんのケースでは、
幼いころ神経症を発症し、心は、疲れているはず。ボロボロかもしれません。

 私には、Yさんのお子さんの悲痛な叫び声が、聞こえてきます。表面的には元気でも、
それ自体が、仮面と考えてよいのではないでしょうか。

 こうしたケースでは、親が「学校へ行かせよう」とあせればあせるほど、その(あせり)
が、子どもの心の中に、緊張感を作ってしまいます。つまり子どもの不登校の問題は、子
どもの問題ではなく、親の問題だということです。それに気づけば、あとは、時間が解決
してくれます。

 夫が単身赴任で、同居していないとか……。この問題は、Yさんひとりで、解決できる
問題でもないように思います。子育ては、それだけ重労働だということ。加えて、Yさん
ひとりで対処していると、Yさん自身が、育児ノイローゼになってしまうかもしれません。
何とか、夫に、いっしょに住んでもらうわけにはいかないでしょうか。内政干渉ですみま
せん!

++++++++++++++++++++++

ついでながら、「学校恐怖症」について書いた
記事(中日新聞掲載済み・2001年10月1日)
を、ここに添付しておきます。

この原稿は、あちこちの団体や個人に、無断で
転載、転用されています。やめてほしいですね、
こういうことは!

++++++++++++++++++++++

【子どもが学校恐怖症になるとき】

●四つの段階論

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひど
い花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校
を「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三
つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、そ
れに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、
倦怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に
軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを
症状の日内変動という。学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと
言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりす
る。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。

(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりする
と、狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」
などと言うと、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる
車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように
驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。

(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言など
の攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残
り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒
したり、暴れたりすることはある(感情障害)。

この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。
おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子ど
もといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、
わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、
外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り
返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一
週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たい
ていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無
理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもある
わよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の
問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほ
ど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えら
れている。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活
動など不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生
活環境の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えら
れている(「日本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者
の目を通して、子どもを外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫
ぶ、睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状
が加わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人
恐怖症もこの時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一
九三二年に最初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」
と命名したことに始まる。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登
校時のパニック時期(3)自閉期の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこ
の段階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまう
ことである。あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある
子どもの心の問題を見落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、
第二期の対処のまずさによることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドア
をはずした。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ
連れていった。その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、
子どもをはげしく叱り続けた。が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きけれ
ば大きいほど、子どもの心に取り返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階
で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわね。今日は休んで好きな
ことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくてすむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、
「三か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさ
せなさい」と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間
もたたないうちに電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱり
ダメでした」と。親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こう
いうことを繰り返しているうちに、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜け
ること。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないこと
だけを考えて、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこ
と。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)
生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。
とくに子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、
子どもの部屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリ
ズムができ、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)
家族がいてもいなくいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。
こうした様子が見られたら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えるこ
と。そういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早
くする。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


TABLE 1 
Criteria for Differential Diagnosis of School Refusal and Truancy (学校拒否と、
怠学の基準)
 

School refusal (学校拒否)Truancy (怠学)
Severe emotional distress about attending school; may include anxiety, temper 
tantrums, depression, or somatic symptoms.
学校に通うことについて、心配、不安、腹立たしさ、うつ、体の変調などの、苦痛が見ら
れる。

Lack of excessive anxiety or fear about attending school. 
学校に通うことについて、大きな不安や恐れはない。

Parents are aware of absence; child often tries to persuade parents to allow him or 
her to stay home. 
両親がそれ気づいていて、子どもが、「行きたくない」と、親を説得する。

Child often attempts to conceal absence from parents. 
両親の知らないところで、勝手に学校へ行くのを、さぼったりする。

Absence of significant antisocial behaviors such as juvenile delinquency. 
少年非行などの、顕著な、反社会的行動をともなわない。

Frequent antisocial behavior, including delinquent and disruptive acts (e.g., lying, 
stealing), often in the company of antisocial peers. 
(ウソ、盗みなどの)反社会的行動をともなうことが多い。集団非行グループに属するこ
とが多い。

During school hours, child usually stays home because it is considered a safe and 
secure environment. 
学校へ行く時間に、家にいることが多い。そのほうが安全と考えるからである。

During school hours, child frequently does not stay home . 
学校へ行く時間でも、家にいないことが、多い。

Child expresses willingness to do schoolwork and complies with completing work at 
home. 
子ども自身は、家庭で宿題をしたり、宿題をすることに応ずる。

Lack of interest in schoolwork and unwillingness to conform to academic and behavior 
expectations. 
学校の勉強そのものに興味を示さず、勉強するのをいやがる。

●アメリカ内科医学会は、「学校拒否症」の要因となる、不安障害(Anxiety disorders)
として、つぎのものをあげている。 

Separation anxiety (分離不安)
Anxiety disorder(不安障害)
Generalized anxiety disorder (不安障害全般)
Social phobia (社会恐怖症)
Simple phobia (孤立恐怖症)
Panic disorder (パニック障害)
Panic disorder with agoraphobia (広場恐怖症をともなうパニック障害)
Post-traumatic stress disorder (PTSD)
Agoraphobia(広場恐怖症) 
Mood disorders(気分障害) 
Major depression (うつ病)
Dysthymia(抑うつ症)

●また同じく、「学校拒否症」の要因となる、破滅行動障害(Disruptive behavior disorders)
については、つぎのようなものをあげている(同)。 

Oppositional defiant disorder (反抗障害)
Conduct disorder (行為障害)
Attention-deficit/hyperactivity disorder (注意力散漫、過集中障害)
Disruptive behavior disorder,(破滅的行為障害) 
Other disorders(他の障害) 
Adjustment disorder (with depressed mood or anxiety) (うつをともなう、適応障害)
Learning disorder (学習障害)
Substance abuse 
Other

The evaluation should include interviews with the family and individual interviews 
with the child and parents. Assessment should include a complete medical history and 
physical examination, history of the onset and development of school refusal 
symptoms, 
associated stressors, school history, peer relationships, family functioning, 
psychiatric history, substance abuse history, and a mental status examination. 
Identification of specific factors responsible for school avoidance behaviors is 
important. Collaboration with school staff in regards to assessment and treatment 
is necessary for successful management (Table 5) . 

School personnel can provide additional information to aid in assessment, including 
review of attendance records, report cards, and psychoeducational evaluations. 
 
The School Refusal Assessment Scale includes a child, parent, and teacher form and 
is reported to have a high reliability and validity. 

学校拒否症の診断基準は、高い信頼性と、有効性が報告されています。
 
Several psychologic assessment tools (e.g., teacher and parent rating scales, 
self-report measures, clinician rating scales) have been developed to provide 
additional information about the child's general functioning at home and at school. 
These tools may be used by a physician, but because of time constraints, a school 
psychologist or mental health counselor should administer these scales whenever 
possible. Generalized scales (e.g., Child Behavior Checklist, 21 Teacher's Report 
Form 22 ) identify areas of difficulties. Specific rating scales assess for symptoms 
and severity of psychiatric problems, including anxiety and depression. 

Although these scales are used frequently in children with school refusal, their 
clinical usefulness in developing effective treatment strategies has not been 
demonstrated. 

More specific assessment scales to measure symptoms of school refusal have been 
developed recently. They provide functional and symptomatic assessment of refusal 
behaviors and therefore provide more valuable information. The School Refusal 
Assessment Scale (Table 6, online) 23 includes a child, parent, and teacher form and 
examines school refusal in correlation to negative and positive reinforcers. This 
scale has been reported to have high reliability and validity. 23,24 
 
TABLE 6 

Items from the School Refusal Assessment Scale-Revised 
学校拒否症の評価基準項目
 
Items from child version (子どもへの質問項目)

How often do you have bad feelings about going to school because you are afraid of 
something related to school (e.g., tests, school bus, teacher, fire alarm)? (1) 
何か学校に関係あることで、学校へ行くことで、気分が悪くなることが、どれだけしばし
ばありま
すか。(たとえばテスト、通学、先生、あるいは火災警報器など)

How often do you stay away from school because it is hard to speak with the other 
kids at school? (2) 
学校で、ほかの仲間と話すのがつらくて、学校を休むことが、どれくらいありますか。

How often do you feel you would rather be with your parents than go to school? (3)
学校へ行くより、家で両親といたいと思うことは、どれくらいありますか。 

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how often do you leave 
the house and do something fun? (4) 
(月曜日から金曜日までの)間で、あなたが学校へ行っていないとき、どれくらいしばし
ば、家を離れたり、何かほかの楽しみをしますか。

How often do you stay away from school because you feel sad or depressed if you go? 
(1) 
学校へ行くと、悲しくなったり、落ちこんだりするので、どれくらいしばしば学校を休み
ますか。

How often do you stay away from school because you feel embarrassed in front of 
other people at school? (2) 
ほかの仲間のいるところだと、落ちつかないという理由で、どれくらいしばしば、学校を
休みますか。

How often do you think about your parents or family when you are in school? (3) 
学校にいる間、どれくらいしばしば、両親や家族のことを考えますか。

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how often do you talk 
to or see other people (other than your family)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、学校を休んでいるとき、どれだけしばしば、(家族以
外の)ほかの人と会ったり、話したりしますか。

How often do you feel worse at school (e.g., scared, nervous, sad) compared with how 
you feel at home with friends? (1) 
家で友といるときとくらべて、学校にいるときのほうが、より悪く感じますか。(たとえ
ば恐れたり、神経質になったり、悲しくなったりするなど)

How often do you stay away from school because you do not have many friends there? 
(2) 
学校には友だちがいないという理由で、どれほどしばしば学校を休みますか。

How much would you rather be with your family than go to school? (3) 
学校へ行くより、あなたの家族といっしょに家にいたいと、どれだけ強く感じますか。

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how much do you 
enjoy doing different things (e.g., being with friends, going places)? (4) 

(月曜日から金曜日までの間で)、あなたが学校にいないとき、(たとえば友だちといる
ことや、どこかへ行くことなどで)、あなたはどれだけ、違ったことを楽しみますか。

How often do you have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) when 
you think about school on Saturday and Sunday? (1) 

土曜日や日曜日に、学校のことを思うと、どれだけしばしば、あなたは学校に対して、悪
い感情をもちますか。

How often do you stay away from places in school (e.g., hallways, places where 
certain groups of people are) where you would have to talk to someone? (2) 
学校にいるとき、(通路や友が集まるところなど)、あなたがいるべきところから、あな
たはどこか別の場所に、どれくらいしばしば離れて行きますか。

How much would you rather be taught by your parents at home than by your teacher 
at school? (3) 
学校の先生よりも、家で両親によって、むしろ教えられると、どれくらい強く感じますか。

How often do you refuse to go to school because you want to have fun outside of school? 
(4) 
学校の外で楽しみたいという理由で、どれくらいしばしば、学校へ行くのを拒絶しますか。

If you had fewer bad feelings (e.g., scared, nervous, sad) about school, would it 
be easier for you to go to school? (1) 
もし不愉快な感情(恐れ、神経質、悲しみなど)を学校に感じないなら、あなたにとって
学校へ行くことは、楽なことだと思いますか。

If it were easier for you to make new friends, would it be easier for you to go to 
school? (2) 
もしあなたが新しい友だちをつくることが、もっと簡単なら、学校へ行くのも楽になると、
あなたは思いますか。

Would it be easier for you to go to school if your parents went with you? (3) 
両親がいっしょに行ってくれるなら、学校へ行くことは、もっと楽になると思いますか。

Would it be easier for you to go to school if you could do more things you like to 
do after school hours (e.g., being with friends)? (4) 
放課後、もっといろいろなことができれば、あなたにとって学校へ行くのが、もっと楽に
なると、思いますか。(たとえば友だちといっしょにいるなど。)

How much more do you have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) 
compared with other kids your age? (1) 
同年齢の仲間とくらべて、あなたはどれだけより多くの不愉快な感情(恐れ、神経質、悲
しみ)などを、もっていると思いますか。

How often do you stay away from people in school compared with other kids your age? 
(2) 
他の仲間たちと比べて、あなたはどれくらいしばしば、学校の中で、他の中間たちと離れ
ていますか。

Would you like to be home with your parents more than other kids your age would? (3) 
同年齢の他の仲間がそうであるよりも、あなたは家で、両親といたいと、あなたは思いま
すか。

Would you rather be doing fun things outside of school more than most kids your age? 
(4) 
同年齢の他の仲間たちがそうであるよりも、あなたは学校の外で、楽しいことをもっとし
たいと思っていますか。

Items from parent version (両親への質問項目)

How often does your child have bad feelings about going to school because he/she is 
afraid of something related to school (e.g., tests, school bus, teacher, fire alarm)? 
(1) 
学校へ行くことに関して、(たとえばテスト、通学、先生、火災警報器などで)、それが
こわいなどの理由で、悪い感情を、どれくらいしばしば、あなたの子どもは、もちますか。

How often does your child stay away from school because it is hard for him/her to 
speak with the other kids at school? (2) 
学校で友だちと話すのがいやで、どれくらいしばしばあなたの子どもは、学校を休みます
か。

How often does your child feel he/she would rather be with you or your spouse than 
go to school? (3) 
学校へ行くより、あなたや、あなたの夫(妻)といっしょにいたいと、あなたの子どもは、
いかにしばしば、思いますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how often does 
he/she leave the house and do something fun? (4) 
(月曜日から金曜日までで)、あなたの子どもが学校にいないとき、いかにしばしば、あ
なたの子どもは家から出て、何か自分の好きなことをしますか。

How often does your child stay away from school because he/she will feel sad or 
depressed if he/she goes? (1) 
いかにしばしば、あなたの子どもは、学校へ行くとこわいとか、悲しいとかいう理由で、
学校を休みますか。

How often does your child stay away from school because he/she feels embarrassed 
in front of other people at school? (2) 
いかにしなしば、あなたの子どもは、学校で人の前で、どうしたらいいか、わからないと
いう理由で、学校を休みますか。

When your child is in school, how often does he/she think about you or your spouse 
or family? (3) 
あなたの子どもが学校にいるとき、いかにしばしばあなたの子どもは、あなたや、あなた
の夫(妻)もしくは家族のことを考えますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how often does 
he/she talk to or see other people (other than his/her family)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、あなたの子どもが学校を休んでいるとき、いかにしば
しば、(家族以外の)だれかと会ったり、話したりしますか。

How often does your child feel worse at school (e.g., scared, nervous, sad) compared 
with how he/she feels at home with friends? (1) 
家で友だちと会うときと比較して、あなたの子どもは、学校で友だちを会うことのほうを、
いかにしばしばいやがりますか。

How often does your child stay away from school because he/she does not have 
many friends there? (2) 
学校には、あまり友だちがいないという理由で、いかにしばしばあなたの子どもは、学校
を休みますか。

How much would your child rather be with his/her family than go to school? (3) 
あなたの子どもは、学校へ行くより、家にいたいと、どれだけ強く思っていますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how much does 
he/she enjoy doing different things (e.g., being with friends, going places)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、あなたの子どもが学校を休んでいるとき、あなたの子
どもは、どれくらい、(たとえばあなたの友だちといるか、どこかへでかけていくとかで)、
あなたの子どもは、ちがったことをしていますか。

How often does your child have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) 
when he/she thinks about school on Saturday and Sunday? (1) 
土曜日や日曜日など、学校のことを考えたりしたりして、あなたの子どもは、どれくらい
しばしば、学校について(たとえば恐れを感じたり、神経質になったり、悲しんだりする
など)、悪い感情をもちますか。

How often does your child stay away from places in school (e.g. hallways, places 
where certain groups of people are) where he/she would have to talk to someone? (2) 
いかにしばしばあなたの子どもは、学校の中で、ふつうならそういう場所に、いたいと思
うようなところ、(たとえば通路やあるグループなど)から、離れていますか。

How much would your child rather be taught by you or your spouse at home than by his/
her 
teacher at school? (3) 
あなたの子どもは、学校で先生に教えられるより、家で、あなたやあなたの夫(妻)から、
いかに多く、教えられていますか。

How often does your child refuse to go to school because he/she wants to have fun 
outside of school? (4) 
学校の外での楽しみたいというような理由で、いかにしばしばあなたの子どもは、学校へ
行くのを拒否しますか。

If your child had fewer bad feelings (e.g., scared, nervous, sad) about school, would 
it be easier for him/her to go to school? (1) 
もしあなたの子どもが、学校に対して、悪い感情(たとえば恐れ、神経質、悲しみなど)
がなければ、あなたの子どもが、学校へ行くことは、よりたやすくなると思いますか。

If it were easier for your child to make new friends, would it be easier for him/her 
to go to school? (2) 
もしあなたの子どもが、より簡単に友だちができるとしたら、あなたの子どもが学校へ行
くのは、もっと簡単になると思いますか。

Would it be easier for your child to go to school if you or your spouse went with 
him/her? 
(3) 
もしあなた、もしくは、あなたの夫(妻)が、子どもといっしょに行くなら、あなたの子
どもにとって、学校へ行くのが、もっと簡単になると思いますか。

Would it be easier for your child to go to school if he/she could do more things he/she 
likes to do after school hours (e.g., being with friends)? (4) 
もし放課後、あなたの子どもが、もっとほかのjことができたら、あなたの子どもにとっ
て、学校へ行くのが、もっと簡単になると、あなたは思いますか。

How much more does your child have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, 
sad) compared with other kids his/her age? (1) 
ほかの同年齢の子どもと比較して、あなたの子どもは、どれくらい強く、学校に対して、
(恐れ、神経質。悲しみなど)の悪い感情をもっていますか。

How often does your child stay away from people in school compared with other kids 
his/her age? (2) 
ほかの同年齢の子どもと比較して、あなたの子どもは、学校の中で、いかにしばしば、友
だちから遠ざかっていますか。

Would your child like to be home with you or your spouse more than other kids his/her 
age would? (3) 
ほかの同年齢の子どもより、あなたの子どもは、あなたや、あなたの夫(妻)といっしょ
に家にいたがりますか。

Would your child rather be doing fun things outside of school more than most kids 
his/her age? (4) 
ほかの同年齢の子どもより、あなたの子どもは、学校の外で、もっと楽しいことをしたい
と思っていますか。
 

I = avoidance of stimuli that provoke negative affectivity; 
否定的行動のを引き起こす、刺激の回避
2 = escape from aversive social or evaluative situations;
嫌悪的な社会的もしくは評価的な状況からの逃避
 3 = pursuit of attention;
興味の追求
 4 = pursuit of tangible reinforcement. 
現実強化の追求
Adapted with permission from Kearney CA. Identifying the function of school refusal 
behavior: a revision of the School Refusal Assessment Scale. J Psychopathol Behav 
Assess 
2002;24:235-45. 
 

Treatment (治療)
The primary treatment goal for children with school refusal is early return to school. 
Physicians should avoid writing excuses for children to stay out of school unless 
a medical condition makes it necessary for them to stay home. Treatment also should 
address comorbid psychiatric problems, family dysfunction, and other contributing 
problems. Because children who refuse to go to school often present with physical 
symptoms, the physician may need to explain that the problem is a manifestation of 
psychologic distress rather than a sign of illness. A multimodal, collaborative team 
approach should include the physician, child, parents, school staff, and mental 
health professional. 

Treatment options include education and consultation, behavior strategies, 
family interventions, and possibly pharmacotherapy. Factors that have been proved 
effective for treatment improvement are parental involvement and exposure to school. 
25,26 [Reference 25--Evidence level B, uncontrolled trial] However, few controlled 
studies have evaluated the efficacy of most treatments. Treatment strategies must 
take into account the severity of symptoms, comorbid diagnosis, family dysfunction, 
and parental psychopathology. 

A range of empirically supported exposure-based treatment options are available in 
the management of school refusal. When a child is younger and displays minimal 
symptoms of fear, anxiety, and depression, working directly with parents and school
 personnel without direct intervention with the child may be sufficient treatment. 
If the child's difficulties include prolonged school absence, comorbid psychiatric 
diagnosis, and deficits in social skills, child therapy with parental and school staff 
involvement is indicated. 

BEHAVIOR INTERVENTIONS (行動介入)
Behavior approaches for the treatment of school refusal are primarily 
exposure-based treatments. 27 [Evidence level B, lower quality randomized controlled 
trial (RCT)] Studies have shown that exposure to feared objects or situations reduces 
fear and increases exposure attempts in adults. 28 These techniques have been used 
to treat children with phobias and school refusal. Behavior techniques focus on a 
child's behaviors rather than intrapsychic conflict and emphasize treatment in the 
context of the family and school. 

Behavior treatments include systematic desensitization (i.e., graded exposure to the 
school environment), relaxation training, emotive imagery, contingency management, 
and social skills training. Cognitive behavior therapy is a highly structured 
approach that includes specific instructions for children to help gradually increase 
their exposure to the school environment. In cognitive behavior therapy, children 
are encouraged to confront their fears and are taught how to modify negative 
thoughts. 

EDUCATIONAL-SUPPORT THERAPY (教育的サポートセラピー)

Traditional educational and supportive therapy has been shown to be as effective 
as behavior therapy for the management of school refusal. 29 [Evidence level B, lower 
quality RCT] Educational-support therapy is a combination of informational 
presentations and supportive psychotherapy. Children are encouraged to talk about 
their fears and identify differences between fear, anxiety, and phobias. Children 
are given information to help them overcome their fears about attending school. They 
are given written assignments that are discussed at follow-up sessions. Children keep
 a daily diary to describe their fears, thoughts, coping strategies, and feelings
 associated with their fears. Unlike cognitive behavior therapy, children do not
receive specific instructions on how to confront their fears, nor do they receive 
positive reinforcement for school attendance. 
Child therapy involves individual sessions that incorporate relaxation training (to 
help the child when he or she approaches the school grounds or is questioned by peers), 
cognitive therapy (to reduce anxiety-provoking thoughts and provide coping 
statements), social skills 
training (to improve social competence and interactions with peers), 
anddesensitization (e.g., graded in vivo exposure, emotive imagery, systematic 
desensitization). 

PARENT-TEACHER INTERVENTIONS (親と教師の介在)

Parental involvement and caregiver training are critical factors in enhancing 
the effectiveness of behavior treatment. Behavior interventions appear to be equally 
effective with or without direct child involvement. 25 [Evidence level B, lower 
quality RCT] School attendance and child adjustment at post-treatment follow-up are 
the same for children who are treated with child therapy alone and for children whose 
parents and teachers are involved in treatment. 

Parent-teacher interventions include clinical sessions with parents and consultation 
with school personnel. Parents are given behavior-management strategies such as 
escorting the child to school, providing positive reinforcement for school 
attendance, 
and decreasing positive reinforcement for staying home (e.g., watching television 
while home from school). 

Parents also benefit from cognitive training to help reduce their own anxiety and 
understand their role in helping their children make effective changes. School 
consultation involves specific recommendations to school staff to prepare for the 
child's return, use of positive reinforcement, and academic, social, and emotional 
accommodations. 

PHARMACOLOGIC TREATMENT (薬物治療)

Pharmacologic treatment of school refusal should be used in conjunction with 
behavioral or psychotherapeutic interventions, not as the sole intervention. 
Interventions that help children develop skills to master their difficulties prevent 
a recurrence of symptoms after medication is discontinued. 

Very few double-blind, placebo-controlled studies have evaluated the use of 
psychopharmacologic agents in the treatment of school refusal, although several 
controlled studies are in progress. Problems with sample sizes, differences in 
comorbidity patterns, lack of control of adjunctive therapies, and differences in 
medication dosages have resulted in inconclusive data in trials of pharmacologic 
agents in the treatment of school refusal. 30,31 

Earlier studies of tricyclic antidepressants failed to show a replicable pattern of 
efficacy. Selective serotonin reuptake inhibitors (SSRIs) have replaced tricyclic 
antidepressants as the first-line pharmacologic treatment for anxiety disorders in 
children and adolescents. 

Although there are few controlled, double-blind studies of SSRI use in children, 
preliminary research suggests that SSRIs are effective and safe in the treatment of 
childhood anxiety disorders and depression. 32,33 [Reference 32--Evidence level B, 
nonrandomized study] 

Fluvoxamine (Luvox) and sertraline (Zoloft) have been approved for the treatment 
of obsessive compulsive disorder in children. SSRIs are being used clinically with 
more frequency to treat children with school refusal. Benzodiazepines have been used 
on a short-term basis for children with severe school refusal. A benzodiazepine 
initially may be prescribed with an SSRI to target acute symptoms of anxiety; once 
the SSRI has had time to produce beneficial effects, the benzodiazepine should be 
discontinued. Side effects of benzodiazepines include sedation, irritability, 
behavior disinhibition, and cognitive impairment. Because of the side effects 
and risk of dependence, benzodiazepines should be used for only a few weeks. 34 

The author thanks John Smucny, M.D., for assistance in preparing the manuscript. The 
author indicates that she does not have any conflicts of interest. Sources of 
funding: none reported. 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●重要文化財・中村家

 浜松市の西、車で、あと5分で浜名湖というところに、「中村家」という、江戸時代の旧
庄屋家が、復元されて、観光客を集めている。

 中村家といえば、江戸時代の大庄屋である。徳川家康とのゆかりも深く、徳川家康の側
室、お万の方が、家康の第二子である、於義丸(おぎまる)を、この中村家でもうけてい
る。天正2年(1574)、2月8日のことだそうだ。

 係の女性にあちこちを案内してもらったが、驚いたのは、「切腹の間」というのがあった
こと。四畳半の狭い部屋だったが、その部屋だけは、壁が朱色に塗られていた。案内の女
性は、こう言った。「当時は、少しでも何かあれば、すぐ切腹を命じられました。そのため
の部屋です」と。

 また玄関の右横には、使用人専用の部屋があった。全体でも八畳ほどの細長い部屋だっ
た。ただ寝るだけの部屋だったという。窓は、まったくなかった。

 「使用人は、代々、使用人で……」と。今のように、仕事ぶりに応じて、地位や役職が
あがるということはなかった。

私「一生、使用人のままですか?」
女「そうでしょうね。しかし当時は、中村家の使用人になるというだけでも、名誉なこと
だったそうですよ」
私「……」と。

 横で話を聞いていたワイフが、何度も、「そんな時代に生まれなくてよかった」とつぶや
いた。

 それにもう一つ驚いたことは、あちこちに、泥棒対策がほどこされていたということ。
部屋を仕切る敷居も、高さが20センチほどあった。「泥棒が、足をひっかけて、つまずく
ようにしたためです」と。案内の女性は、笑いながら、そう説明してくれた。バリヤーフ
リーではなく、まさに敷居がバリヤーになっていた。それに外と内を仕切る戸にしても、
どれも、外からはあけられないしくみになっていた。

私「泥棒が、多かったのですか?」
女「あちこちで一揆が起きるほどでしかたらね。庄屋はよく、ねらわれたのでしょうね」
私「なるほどねエ……」と。

 こういう旧家を見ると、私はすぐトイレの話をする。「トイレはありましたか?」と。

 案内の女性によれば、身分に応じて、7か所もトイレがあったそうだ。「フ〜ン」と驚い
たり、感心したり……。

 現代建築にも負けない、立派な庄屋である。デザインもすばらしい。カヤぶきの、丸み
を帯びた屋根。ほっとするようなぬくもりを感ずる家。その家を中心に、無数のドラマが
展開されたのだろう。柱に残された無数のキズを見ながら、心のどこかでふと、そんなこ
とを考える。

 ところで、その女性の案内を聞きながら、こんなことも思った。「ずいぶんと私もボケた
ものだ」と。

 徳川家の家系図を見ながら、その女性はなれた口調で、ペラペラと、歴代の人物の名前
を説明してくれた。が、どれも私の頭の中に残らない。「14代目はだれだれで、15代目
はだれだれで……。その15代目のときに、何々があって……」と。

 あとでそのことをワイフに話すと、「私もわからなかった……」と。

 「ぼくはね、パソコンの前に座って、キーボードをたたいるときだけ、ものを考えるこ
とができる。ああいうところで説明を受けても、何も理解できない。考えることもできな
い。これはおかしな現象だ」と。

 (考える)ことにも、作法というものがあるのか? あるいはそういう(作法)を、自
分で作ってしまったのか? よくわからないが、そういうときの私は、一方的に説明を聞
くだけ。「ヘエ〜」とか、「ホウ〜」とか。

 ただ一つだけ感じたことは、「やはり江戸時代という時代は、今とは比較にならないほど、
窮屈な時代だった」ということ。観光客の人たちは、そういう旧家を案内されると、自分
が庄屋の家主か何かになった立場でしか、もの考えない。しかし重要なことは、使用人、
あるいはそういう庄屋にせきたてられて、年貢を徴収される農民の立場で、ものを考える
こと。 

 生まれながらに使用人は、使用人。農民は農民。そしてつぎの代までバトンタッチする
まで、使用人は使用人。農民は農民。それが江戸時代という時代の(現実)である。

 なお於義丸(おぎまる)を産んだときの胞衣(えな)(=後産)が埋められたという場所
には、例の葵の紋章がかかげられていた。家康お手植えの梅の木も残っていた。興味のあ
る方は、ぜひ、訪れてみてほしい。

 案内をしてくれた女性は、さかんに、「桜の咲く、春ごろがすばらしい」と言っていた。
入場料は、おとな200円。帰るとき、ワイフは、「また春に来ようね」と言った。私は、
「うん」と言って、それに答えた。

 そのとき取った写真は、
 http://bwhayashi.fc2web.com/page091.html
で、どうぞ!


●パソコンはなおして、使うもの

 丸5年使ったパソコン。そのパソコンのCD−RW、DVDユニットが、故障した。ガ
リガリと音をたてるだけで、用を足さない。

 そこでF社に電話で相談すると、「修理費は2万3000円です」と。ついでに、「修理
するくらいなら、外付けのCD−RW、DVD−RWを買ったほうがいいですよ」という
アドバイスを受けた。

 それで外付けのCD−RW、DVD−RWを買った。値段は、1万2000円ほど。

 が、先日、二男がアメリカから帰ってきたとき、そのパソコンを見て、こう言った。「パ
パ、その部分だけ、新品と交換すればよかったじゃん」と。

 ナルホド! それには、気づかなかった。F社のパソコンだから、F社の純正の製品で
なければ、交換できないと思いこんでいた。で、さっそく、近くのパソコンショップへ足
を運ぶ。

 店員は、こう説明してくれた。「交換できます。値段は、3000円です」と。

 3000円と聞いて驚いた。F社が言った額の8分の1程度。さっそく、それを購入。
家に帰って、長男に手伝ってもらって、CD−RW、DVDユニットを交換する。

 で、恐る恐る電源をつなぎ、スイッチ・オン! ……ということで、無事、修理は完了。
5年使ったとはいえ、当時、24万円で買ったパソコンである。簡単には手放せない。何
というか、私にとっては、愛人のようなもの。実際、それぞれにパソコンには、女性名を
つけている。F社のパソコンは、「富士子」。P社のパソコンには、「パナ子」と。

 しかしそのため、そのパソコンには、ますます愛着心がわいてきた。かわいいというか、
いとおしいというか。「富士子、愛しているよ」とか、何とか。ハハハ。こういうのを、こ
の世界では、ビョーキと言うらしい。まあ、いいか。ビョーキでも、何でも……。愛人は、
健康であるにかぎる。


●男と女

 いまだに私は、女性というものが、よくわからない。子どものころは、遊ぶといっても、
男ばかり。男とだけ遊んでいた。女と遊んだ経験がない。

 その上、幼稚園で働くようになってからは、私は、女性恐怖症になってしまった。母親
恐怖症というほうが、正確かもしれない。今でも、相手の女性を、「母親」と意識しただけ
で、ツンとした緊張感を覚える。「女」をまったく感じなくなる。

 「女」は、私にとっては、ずっと謎だったし、今も謎。これから先、死ぬまで、そうだ
ろう。

 が、こんな記事を読んだ。あちこちネットサーフィンをしていて、その瞬間、かいま見
た記事なので、出典は忘れた。しかしこう書いてあった。

 「本来、女のほうが、男より、スケベなのです」と。

 どういうわけか、この記事には、少なからず、ショックを受けた。ウソかホントかは、
別として、私は、そんなことを、考えたこともなかった。私はずっと、男性のほうがスケ
ベだと思っていた。そのため、女性に対して攻撃的になりやすいと思っていた。

 しかし「女のほうが、男より、スケベ」とは? いったいこれは、どういうことなのか。
男が女を求める以上に、女は、いつも男を求めている、と。

 が、考えてみれば、思い当たるフシは、たくさんある。今の若い人たちを見ていると、
女性のほうが積極的なような気がする。攻撃的であるかないかということになれば、女性
のほうが、はるかに攻撃的である。あのフロイトは、「すべての生きるエネルギーの源泉に、
性的エネルギー(リピドー)がある」と説いた。が、こと性的エネルギーに関しては、女
性のほうが強烈なように思う。

 とくに現代社会では、女性は「女」を意識してから、結婚するまでの期間が、短い。つ
まりその間に、理想の「男」を手に入れなければならない。猛烈な勢いで、男をあさる。
それはまさしく、命をかけた戦いと言っても過言ではない。

 一方、男性は、そこまで追いつめられた気持ちはない。仕事にしても、「一生」というス
パン(時的間隔)で考える。結婚イコール、すべてという考え方をしない。

 で、男と女は結婚する。(しない人もふえてはいるが……。)が、その状態が、そのまま
つづく。結婚したからといって、その性的エネルギーが消えるわけではない。むしろ、女
性のばあい、結婚したことによって、それまでの夢や目的、仕事を断ち切られてしまう。
その不満というか、うっぷんは、相当なもので、そのエネルギーが、今度は、育児や、ば
あいによっては、「セックス」に向う。

 だから「女のほうが、男よりスケベ」ということになるのか?

 女性のことがいまだによくわからない私が、こうした女性論を書くのは、危険なことで
もある。自分でも、それがよくわかっている。しかしあえて言うなら、所詮(しょせん)、
セックスなんて、無。スケベだからといって、どうということはないし、スケベでないか
らといって、これまたどうということはない。

 それはわかっているが、しかしその記事には、一瞬、ドキッとした。それを書いた人は、
どんな根拠があって、そう書いたのか。それを知りたくて、あちこちもう一度、ネットサ
ーフィンをしてみたが、その記事を探し出すことは、二度とできなかった。



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 13日(No.687)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小
限に。そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけ
ていく。親としてはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そ
のあとでよい。もちろん子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相
談にのってやる。ほどよい親であることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」
「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はや
ってこない。そこで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることが
できる。子どもの心にも風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親
は、袋小路に入る。子どもも苦しむ。


 ●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起
きたとする。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれる
とか。そういう何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを
「強化の原理」という。子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗し
たり、叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるよ
うになる。これを弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の
原理が働くようになると、学習効果は、著しく落ちるようになる。


●内面化

子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、
心の発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、
(2)自己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫
理観の発達、社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした
発達を総称して、「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲
的な母親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、
母親が意欲的過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われ
る。とくに子どもに対しては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに
任せ、一歩退きながら、暖かい無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失か
ら、やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート
現象(燃え尽き症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なこ
とは、達成感。ある程度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。
子どもには、ほどよい目標をもたせるようにする。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ボケと人格の後退】

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「あの人が……?」

++++++++++++++++++

50代、60代のころは、人一倍、
しっかり者に見えた女性。

そういう女性が70歳になるころから
急速にボケ始める。

そういう例は、多い。だからそういう
人の話をすると、たいていの人は

こう言って、驚く。
「エッ、あの人が……!」と。

+++++++++++++++++++

 私の義理の姉の母が、つい先日、亡くなった。数年前に聞いたときには、まだらボケと
いうことだった。しかし晩年は、かなりボケていた。とくにもの忘れがひどく、「サイフが
盗まれた」とか、「嫁が、財産を使い果たした」とか、そんなことを、よく口にしたという。

 その義理の姉の母は、私が知るかぎり、若いころは、しっかり者で、口達者。しゃきし
ゃきとした感じの人だった。もしそのころのその人のことを知ったら、みな、こう思うだ
ろう。「この人だけは、ボケないな」と。

 しかしそんな人でも、ボケた。ボケたまま、亡くなった。

 で、私が知るかぎり、このタイプの人には、女性が多いということ。少なくとも、私が
話に聞くのは、女性ばかり。男性は、いない。男性のばあいは、ボケ始めると、がんこに
なったり、無口になったり、引きこもったりする。

 そこでまず考えてみるのが、女性特有の多弁性。よくしゃべるから頭がよいとか、そう
でないから頭が悪いとか、そういうことは関係ない。そのことは、子どもの世界を見れば
よくわかる。よくしゃべる子どもイコール、頭のよい子ということにはならない。たとえ
ばAD・HD児でも、女児のばあいは、ふつうでない多弁性となって症状が現れることが
多い。

 しゃべるといっても、その内容、である。いくつかの特徴がある。

(1)ペラペラと一方的に、間断なく、よくしゃべる。
(2)考えてからしゃべるというよりは、脳に飛来する情報をそのまま音声にかえている
といったふう。
(3)言っていることの内容が浅い。こまごまとしたことを、つなげて話す。
(4)繰りかえしが多い。同じ内容のことを、繰りかえし、話す。
(5)相手の言うことを聞かない。聞いても上(うわ)の空。
(6)繊細で、微妙な会話ができない。
(7)視線が定まらない。ときに死んだ魚のような目つきになる。

 つまりその人の思考力と、多弁性は、関係ないということ。そのことは、その人の話し
ている内容を、よく吟味すれば、わかる。

(1)一貫性がない

 話している内容が、ポンポンと飛んでいくことがある。野菜の話をしていたかと思うと、
「ああ、そうだ」とか何とか言って、今度は、寺の話をし始めたりする。

(2)論理性がない

 「寒いから困った」「雪が降ったから困った」というようなことは言う。しかしなぜ今年
はそうなのかということまでは、考えない。原因として、このところの異常気象があり、
さらには、地球の温暖化の問題がある。そういう話題に切りかえようとすると、とたん、「私
には、そういう話は、むずかしいから、わからない」と逃げてしまう。

(3)情報、知識の欠落

 このタイプの人は、ほとんどといってよいほど、本を読まない。雑誌も読まない。テレ
ビを見ても、ただぼんやりと見ているだけ。そのことは、その人の周辺を観察すればわか
る。本や雑誌らしきものが、まったくない。新しい情報や知識を吸収しようという意欲そ
のものを、感じない。

(4)生活範囲の縮小

 自分の世界だけで、生きているといった感じになる。自己中心的で、ものの考え方が利
己的になる。そして年齢とともに、その世界を、どんどんと、小さくしていく。自分の損
得に関係することには、極端に敏感になったり、それ以外のことには、極端に鈍感になっ
たりする。

(5)一般的なボケ症状

 こうした症状と並行して、一般的なボケ症状が現れるようになる。物忘れがひどくなっ
たり、感情が鈍麻したりするなど。被害妄想がひどくなることもある。

 以上、気がついたままを書いてみた。が、ボケることによる最大の問題は、(1)人格の
後退と、(2)人格の崩壊である。

 その人の人格の完成度は、「情動(こころ)の知能指数」、つまりEQによって測定され
る。その「EQ」について、以前、書いた原稿を添付する。ボケるということは、人格の
完成に向った動きと、正反対の動きになると考えると、わかりやすい。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピ
ーター・サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士
によって理論化された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(E
motional Education、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

●【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emo
tional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指
数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管
理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果
たせない。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを
行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階にな
っても、その時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊し
た例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その
人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、
自殺行為も、それに含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよ
う。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほ
うがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行
くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをす
すめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に
染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)
という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとでき
るかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自
我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐
怖症、飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断
できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態
に似ている。(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子ども
だったかもしれない。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与
える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身を
コントロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そ
ういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、
そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをお
りたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされ
る。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私
の人格の完成度は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い
人ということになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がない
ことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、
ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。
その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、ど
うしても足が遠のいてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のド
ラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するか
である。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワ
イフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになる
が、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出し
て、相手を罵倒したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまっ
て……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、
結局は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そ
のつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くという
のは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、
その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別
の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 
人格の完成)

+++++++++++++++++++++

ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて
考えてみたい。

それを診断テストにしたのが、
つぎである。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは
……

○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子
どもは……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子ど
もは……。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてあります。集計結果など
は、HPのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。)

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言
っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方
を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくな
になる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何ら
かの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをし
なかった子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚
園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまって
しまう子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」
と、最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができ
る。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

++++++++++++++++++++

●では、どうすればよいか?

 脳ミソが機質的に変化してボケるというのは、これはどうしようもない。しかし機能的
に変化してボケるという部分については、私たちの努力で、何とかなるのではないか。

 脳ミソの健康論は、何度も書くが、そういう点では、肉体の健康論と、よく似ている。
日々の絶え間ない運動が、肉体の健康を維持するように、日々の絶え間ない思考が、脳ミ
ソの健康を維持する。つまり、考えるということ。日々に新しいものに興味をもち、それ
にチャレンジしていくということ。

 補う程度では足りない。私の実感としては、年を取ればとるほど、脳ミソの底に、大き
な穴があく。その穴から、容赦なく、知識や経験、技術や知恵、さらには人格までもが、
下に落ちていく。だから、下に落ちていく以上のものを、私たちは日々の生活の中で、補
給しなければならない。

 若いころは、さほど運動をしなくても、ある程度の健康を維持できる。しかし年を取れ
ばとるほど、そういうわけにはいかない。運動のもつ重要さが、ます。しかもその運動は、
きびしいものとなる。少しサボれば、その時点から、健康は、下り坂に向う。

 同じように、脳ミソの健康を維持するためには、若いとき以上に、脳ミソを鍛えなけれ
ばならない。方法は、簡単。

 考える。考えて、考えて、考え抜く。1つのヒントとして、フランスの哲学者のモンテ
ーニュ(1533〜92)は、こう書き残している。

「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」
(随想録)と書いている。これは私にとっては、座右の銘になっている。参考までに!
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●仕事ができる喜び

++++++++++++++

仕事ができる喜び。
私は人生58年目にして、
はじめてそれを知った。

++++++++++++++

 私は、満58歳になった。幼児を教えるようになって、36年目になった。その私が、
おかしなことだが、本当におかしなことだが、この年齢になってはじめて、いわゆる(仕
事ができる喜び)を感じ始めるようになった。

 とくに今年の正月は、最悪だった。軽いインフルエンザがきっかけで、いくつかの雑病
を併発。暮れの29日から、正月の5日ごろまで、連日、37〜38・5度の熱と悪寒に、
繰りかえし、襲われた。苦しんだ。

 ときどき「もう、だめだ」と思った。「こんな調子では、今年は、とても仕事は、つづけ
られない」と思った。

 しかし正月休みが終わり、いつものように自転車にまたがってみた。すると、驚くなか
れ。何と、足だけは、スイスイと動くではないか! 教室のある街までの途中には、ゆる
いが、長い、ダラダラ坂がある。「今年は、だめだろうな……」と思っていたが、その坂で
さえ、途中で休むこともなく、登ることができた! うれしかった!

 とたん、心をおおっていた、モヤモヤした黒い霧が、パッと晴れた。「まだまだ、できる!」
と、声には出さなかったが、心の中で、そう叫んだ。

 ……というような話を若い人に言っても、ピンとこないかもしれない。しかしこの年齢
になると、老いゆく自分の姿や形を見ながら、いつも「どこまでがんばれるのだろう」と
思うことが多くなる。将来への不安は、いつも、影のように、自分につきまとう。

 一方、まだ仕事をやめる年齢ではない。悠々(ゆうゆう)自適の隠居生活というが、そ
んな生活には、私は興味はない。またそんな生活に、どんな意味があるというのか。また
そんな生活をしたからといって、それがどうだというのか。5年を1日のように生きるだ
け。10年を1日のように生きるだけ。しかしそれこそ、時間というより、命の無駄。だ
から私は、働く。死ぬまで、働く。

 が、その気持ちも、大きな壁にぶつかる。ぶつかって、容赦なく、はねとばされる。そ
の気持ちはあっても、体力や気力がつづかない。とくに今度のように、病気になったとき
は、そうだ。

 が、私は、健康だった。体が動いた。気力が動いた、子どもたちの声を聞いたとたん、
心がパッと晴れた。

 その私は、健康のありがたさを、しみじみと感じている。おかしなことだが、本当にお
かしなことだが、私は、人生58年目にして、仕事ができる喜びを感じ始めている。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老人よ、働こうよ!

++++++++++++++++

くだらない隠居生活など、
考えてはいけない。

私たちは、働く。死ぬまで働く。
それこそ、健康なものだけがもつ、
特権なのだ。

働くことを、決して、損と考えては
いけない。

++++++++++++++++

 2007年問題というのがある。この年、団塊の世代が、いっせいに退職を開始する。
そのため、2007年以後、日本の労働力は急減。社会にも大きな影響をおよぼすという。
それが2007年問題。

 かなり深刻な問題らしい。

 しかし悲観的になることはない。その団塊の世代が、またまたがんばり始めている。書
店にも、その種の本が並ぶようになった。「団塊パワー」(仮称)とか、何とか。

 私も、昭和22年生まれの、その団塊の世代の1人。だが、60歳になったからといっ
て、引退したり、仕事をやめる気は、毛頭、ない。もっと言えば、年齢など、関係ない。
死ぬまで現役。仕事をやめるときイコール、年貢の納めどき。

 さあ、老人たちよ、働こうではないか。働けば働くほど、世のため、人のため。そして
自分のため。「道楽」と「仕事」のちがいなど、今さら、説明するまでもない。緊張感がま
るでちがう。その緊張感が、自分を若返らせる。健康にもよい。だから働く。責任をもっ
て、働く。

 もし働ける老人たちが、75歳まで働いたら、日本の少子化問題は、吹き飛んでしまう
という(某総合誌)。かなりおおまかな計算だが、そういうことらしい。もちろん病気にな
ったりする人もいるだろう。健康な老人は、そういう人たちの分まで働けばよい。

 しかしそれは決して、損なことではない。働くということを、損と考える人もいるかも
しれない。しかし毎日、毎日、庭木の手入れができたとしても、それが本当に「得をした」
ということになるのか。

働く、働けるということは、それ自体が、すばらしい財産なのだ。価値なのだ。健康な
人は、その特権にこそ、目を向けるべきである。そして喜ぶべきである。損得の勘定は、
そのあとに考えればよい。

【補記】

 仕事を、責務と考えている間は、働く喜びは、わいてこないのではないか。それに働く
喜びというのは、働けなくなった苦しみの反射的効果としてわいてくるものであって、一
度は、その苦しみの洗礼を受けなければならない。

 「生活のため」「お金のため」「家族のため」と考えながら働いていると、どうしても、
そこに責務感がともなう。その責務感が、時として、自分がしている仕事を、重く、苦し
いものにする。

 限りある人生の中で、その先に限界を感じながら、つまり今を生きる証(あかし)とし
て、働く。そういう追いつめられた気持が、働くことに、喜びをそえる。だれのためでも
ない。もちろん自分のためでもない。昔の狩人(かりうど)が、生きるために狩をしたよ
うに、生きるために働く。その実感が、ここでいう働く喜びということになる。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●繊細な感覚

+++++++++++++++++++

ボケの初期症状の一つに、周囲の人や
人の心の動きに、鈍感になることが
あげられる。

つまり、繊細な感覚がなくなり、
ものの言い方や態度が、どこかつっけんどんになる。

しかし自分で、それに気づく人は少ない。
他人に指摘されても、それを理解できる人はいない。

この問題には、脳みそのCPU(中央演算装置)が
からんでいるだけに、ことは、やっかいである。

++++++++++++++++++++

●自分を知る

 ボケ始めた人が、それを自分で知るためには、どうすればよいのか。もの忘れがひどく
なったとか、生活習慣がだらしなくなったとか、ある程度のことは、自分でそれを知るこ
とができる。

 しかしそれも、ある程度までの話。その程度を超えると、とたんに、それがわからなく
なる……らしい。「あなた、少しボケてきたんじゃないの?」と指摘しても、「私は、ふつ
う」「だいじょうぶ」と言って、がんばる。

 私の身近に、Aさんという女性(今年65歳くらい)がいる。昔から、1年に1度くら
いの頻度で、何らかの機会に会ったり、話をしたりしている。そのAさん、このところ、
少し様子がおかしい。急速に繊細さが消え始めた。

 私が微妙な話をしても、それが通じない。トンチンカンというか、ヌカにクギというか、
反応がまるでない。「だから、それがどうしたの?」というような返事をする。そこで私が、
「たいへん深刻な問題だと思いますが……」と、うながしても、「あら、そう?」で終わっ
てしまう。

 私は、Aさんが、認知症の一歩手前か、すでに認知症の段階に進んでいるのではないか
と思う。で、そのAさんを見ながら、先日は、こんなことを考えた。

 「どうすれば、Aさんは、自分でそれに気づくことができるか」と。

 で、あれこれ考えてみたが、結論は、「無理だろうな」ということ。先にも書いたように、
この問題には、脳みそのCPUがからんでいる。つまりCPUそのものが、変調するため、
自分を客観的に見たり、判断することができなくなる。自己認識したり、自己評価したり
することができなくなる。

 Aさんのばあいも、私が何かの意見を言ったりすると、その10倍くらいの反論が返っ
てくる。よくしゃべる。しかし一方的な反論で、ほとんど意味がない。薄っぺらい。中身
がない。脳みその表層部分に飛来する情報を、そのままペラペラと音声にかえているだけ
といった感じ。

 しかしまさか、「脳の検査を受けてみたら」と言うわけには、いかない。仮に何らかの処
置をしたところで、それで認知症がなおるわけではない。進行の速度を遅くすることはで
きるらしいが、そこまで。

 ……ということで、Aさんの話はここまでにして、では、私たちはどうしたらよいのか。
どうすれば、自分を知ることができるか。認知症なら認知症でもよい。どこまで自分の認
知症が進んでいるかを、どうすれば、知ることができるか。

 私のばあいは、こうしてほとんど毎日、何らかの文章を書いている。だから、その文章
を比較することで、ボケの進行度を、ある程度、知ることができる。5年前に書いた文章
や、10年前に書いた文章を読みなおしてみる。そして今、書いている文章と比較しなが
ら、その(深さ)や(鋭さ)を、知ることができる。

 (深さ)や(鋭さ)が鈍っていれば、それだけ、脳みその活動が鈍ってきたことを意味
する。ボケが始まっていることを意味する。

 そういう視点で見ると、たしかに、ここ1、2年、その(深さ)や(鋭さ)が鈍ってき
たように思う。文章も、くどくなってきた。視野も狭くなってきた。独断と偏見も多くな
ってきた。ときに自分で書いた文章が、高校生が書いた作文のように思えるときもある。

 たしかに私も、ボケ始めている?

 では、文章を書かない人たちは、どうすれば、自分の認知症の程度を知ることができる
か。

 やはり、それには、「テスト」ということになる。ちょうど受験生たちが、ときどき模擬
テストを受けるように、50歳を過ぎたら、定期的に、テストを受ける。科目は、算数、
国語の2科目でよい。

 そういうテストを定期的に受けて、自分の脳みその具合を知る。これはたいへん有意義
なことである。たとえば新聞社主催でよい。年に1回程度、そういうテストを新聞に載せ
てみる。そして年ごとの変化をグラフ化して、自分の脳みその状態を知る。「06年のテス
トでは、87点だった。しかし07年のテストでは、56点しか取れなかった。だから私
の脳みそは、かなり老化しているぞ」と。

 簡単にテストをしようと思えば、小学6年生程度(小3程度でもよい)の内容の算数と
国語の問題を出してみればよい。そういうものを利用すればよい。

 ナルホド! これはたいへんよい思いつきである。どこかのだれかがすれば、一つのビ
ッグ・ビジネスになるかもしれない。その気のある人がいれば、やってみたらどうだろう
か。ここで私は、「たとえば新聞社主催でよい……」と書いたが、新聞のような身近な媒体
を使って、全国的にするところに意味がある。またそのほうが、より客観的なデータを手
に入れることができる。

 一度、だれか、考えてみてくれないだろうか。
(はやし浩司 ボケテスト 認知症テスト 認知症診断テスト ボケ診断テスト)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 ●子育ては、考えてするものではない

だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言う。子育
てというのは、もともと、そういうもの。そこでいつも同じようなパターンで、同じよう
な失敗をするときは、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだか
まり)や(こだわり)があれば、まず、それに気づく。あとは時間が解決してくれる。


●子育ては、世代連鎖する

子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖する。
またそういう部分が、ほとんどだと考えてよい。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、
学習によるもの」と考える。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、
無意識のうちに繰りかえしているだけだということになる。そこで重要なことは、悪い子
育ては、つぎの世代に、残さないということ。これを昔の人、『因を断つ』と言った。


●子育ての見本を見せる

子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せ
るということ。見せるだけでは、足りない。子どもを包む。幸福な家庭というのは、こう
いうものだ。夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、と。
そういう(学習)があって、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然
な形でできるようになる。


●子どもには負ける

子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手に
してもしかたないし、本気で相手にしてはいけない。ときに親は、わざと負けて見せたり、
バカなフリをして、子どもに自信をもたせる。適当なところで、親のほうが、手を引く。「こ
んなバカな親など、アテにならないぞ」「頼りにならない」と子どもが思うようになったら、
しめたもの。


●子育ては重労働

子育ては、もともと重労働。そういう前提で、考える。自分だけが苦しんでいるとか、お
かしいとか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけない。しかしここが重要だがが、
そういう(苦しみ)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長する。そのことは、
子育てが終わってみると、よくわかる。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい
世界を親に見せてくれる。子育ての終わりには、それがやってくる。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立する。「あなたはあなたで、勝手
に生きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギ
クシャクとしがちな、親子関係に、風を通す。子どもだけを見て、子どもだけが視野にし
か入らないというのは、それだけその人の生きザマが、小さいということになる。あなた
はあなたで、したいことを、する。そういう姿が、子どもを伸ばす。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。
それは岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問
題のない子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろ
いろな問題に、そのつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てとい
うのは、もともとそういうもの。そういう前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子
育てで何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つく
っておく。兄弟や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに
属するのもよい。自分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、
自分の子どもより、2、3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでし
たよ」というアドバイスをもらって、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない

株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがい
は、プロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、
大損をする」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それ
だけ動揺しやすい。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺
し、あわてふためく。この親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は
親意識だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみ
る。そして自分の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題
が起きたら、「私ならどうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえ
ば子どもに向かって「ウソをついてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもな
ら、なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。
また言ったからといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべき
ことは、淡々と言いながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを
叱ったりするが、子どもはこわいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せ
る子どもがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。
こわいからそうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中
には、親に叱られながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた
繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる
(叱られじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そ
ういう形で、自分に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱るこ
ともあるだろうが、しかしどんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。
「あなたはダメな子」式の、人格の「核」攻撃は、してはいけない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわか
った。母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大
鉄則がある。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師
の悪口を言い出す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常
生活の中で見せておく。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しか
し赤信号でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子ども
も、あなたに劣らず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきな
がら、子どもに向かって、「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。
ルールには従う。そういう親の姿勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意
「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、
愛が何であるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、
深いもの。中には、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えて
いる親もいる。これを代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情が
ない。つまりは、愛もどきの愛を、愛と錯覚しているだけ。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●権威主義

+++++++++++++++++

はびこる権威主義。
その権威主義について原稿を書いたら、
先日、BLOGの書きこみに、こんなのがあった。

「日本には、権威主義は、もうないと思いますが。
はやし先生は、日本のどこをどのように見て、
権威主義的だと言うのでしょうか」と。

本当にそうだろうか?
そう考えてよいのだろうか?

++++++++++++++++++

 権威主義というものが、どういうものか? それを示す、こんな記事がある。まずその
記事をそのまま、紹介する。あなたはこの記事を読んで、どこにどのように、その権威主
義を感ずるであろうか。

 その前に、その予備知識として、隣の韓国でこんな事件があったことを思いだしてほし
い。何でも、ソウル大学に、とんでもない教授がいて、インチキ論文で、世界中をだまし
たという事件である。日本にも、藤木S一という、これまたどえらいインチキ考古学者が
いたが、その藤木S一の比ではない。

 だました相手は、世界。目標は、ノーベル賞。しかも、国家の英雄として!

 それについて、T報(韓国の新聞社)は、つぎのように報道する。

 「問題のU教授は、大学を罷免されることになるだろう。詐欺罪を適応されるかもしれ
ない。目下、政府内部でその処分を検討中。将来は、獣医くらいならできるだろうが、研
究者としての地位は、絶望的である」(06年1月)と。

 そのU教授は、韓国でも最高の科学者として認定され、毎年、3億円以上もの研究費が
国から支給されていたという。

 で、この記事のどこがどのように、権威主義的か、みなさんには、それがわかるだろう
か。もう一度、この記事をじっくりと読んでみてほしい。そこには、こう書いてある。

 「獣医くらいならできるかもしれないが……」と。

 この文章を読んだら、獣医をしている人は、どう感ずるだろうか。獣医といっても、相
手が動物というだけで、その責任の重大さという点では、人間を相手にする医師と、立場
は何もちがわない。

 しかしT報は、「獣医くらいなら」と言いきっている。実は、ここに、権威主義が隠され
ている。

 大学の研究者は、トップ。医師は、そのつぎ。その世界で、最下位に位置するのは、獣
医、と。しかも、だ。こういう記事を、そこらの一介の新聞記者程度の人間が書いている
ところが恐ろしい。

 何というごう慢さ! つまりそのごう慢さの背景にあるのが、私が言う「権威主義」で
ある。つまりその記者は、無意識のうちにも、人間の価値を、権威主義によって、格づけ
している。そしてその結果として、「獣医くらいならできるかもしれないが……」と。

 そう、この記事を読んだら、獣医をしている人は、怒るだろう。怒って、当然。獣医を
している人は、そのインチキ学者と同レベル。あるいはそれ以下(?)ということになる。
人間に上下はない。職業に上下はない。しかし韓国では、いまだにそういった上下意識が、
ハバをきかせている。

もう3年ほど前になるだろうか、 私も、ある研究者から、こんなことを言われたこと
がある。この話は、当時、私のマガジンでも取りあげた。覚えている人も多いと思う。
その研究者は、こう言ってきた。

 「田舎のおばちゃん相手に、講演をして、何になるのか。あなたの書いているようなこ
とは、おばちゃんたちを感動させることはできても、学問的には、一片の価値もない」と。

 ある都市の国立大学で、ある学部の学部長をしている人からの意見だった。何度もメー
ルで、議論を戦わせたあとでの意見だったので、私は、「世の中、そういうものだろうな」
と、そのときは、そう納得した。

 しかしこういう権威主義は、今でも、日本中にはびこっている。

 先日もあるオーディションを紹介する番組を見ていたら、こういうシーンが出てきた。
何でも俳優の世界にも、中央(東京や大阪)で活躍する、メジャー俳優と、地方から外に
出られないマイナー俳優というのがいるらしい。

 で、その俳優志望の若い女性は、俳優になるためのオーディションを受けた。結果は、
最終審査で不合格。1人の審査員(テレビによく顔を出す俳優)が、その若い女性にこう
言った。「中央で、(メジャー俳優として)活躍するのは、無理でしょうね」と。

 まるで「中央で活躍できないような俳優は、俳優ではない」というような言い方だった。
しかしそれにしても、いやな言い方だった。

 総じて言えば、「権威主義」は、「格づけ(=ランク分け)」によって、成りたっている。
もっと言えば、上下意識。そしてその「上下」は、権力や、財力、知名度、家柄、団体で
の地位などによって決まる。大切なのは、「能力」なのだろうが、その能力まで、格づけに
よって決められてしまう。

 数年前のことだが、ある野球チームの監督の妻と、ある演劇劇団の女座長をしている女
性とが、連日、マスコミの世界で、大激論を繰りかえしたことがある。発端は、監督の妻
の、学歴詐称事件だったように記憶している。

 そのときも、その監督の妻は、女座長をしている女性を批判して、こう言っていた。「私
はメジャーリーグの人間だが、あの人は、マイナーリーグの人間よ」と。このときも、ま
るで「マイナーリーグの人間には、価値はない」というような言い方だった。

 一般論として、権威主義者というのは、独特の雰囲気をもっている。まず相手を、肩書
きや地位で判断する。そうした判断を、瞬時のうちにやってのける。そして自分より(目
上の者?)には、必要以上にペコペコし、(目下の者?)には、尊大ぶった言い方や態度を
する。

 そして平気で、こう言い切る。「男が上で、女が下」「夫が上で、妻が下」「親が上で、子
が下」と。つまりこうした意識が集合されて、「獣医くらいならできるかもしれないが……」
という発想につながる。

 その象徴的人物が、あの水戸黄門である。それについて書いた記事(中日新聞掲載済み)
を、紹介する。

++++++++++++++++++

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいる
のではない。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやっ
てきた。総勢30人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ
箱大の国旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された
使節団だ」と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎
されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。まったく通用しない。よい
例があのテレビドラマの『水戸黄門』である。今でもあの番組は、平均して20〜23%
もの視聴率を稼いでいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使
節団のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」
と叫んだのと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理
解できない。ある日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことを
したら、どうするのか。それでも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで
別人のように電話のかけ方を変える人は多い。

私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。相手が大学の教授であったりする
と、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたします」と言ったあと、私のよ
うな地位も肩書きもないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言ってもネ〜」と。しか
もそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそ
うしているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのもの
ということになる。

 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。
説明しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権
威主義を振りまわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大
きなキレツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で
仮面をかぶる。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。ウソだ
と思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威
主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあ
るほど、その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられ
ても、ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいば
っていた。このことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから35年あまり。
日本も変わったが、基本的には、今もつづいている。

++++++++++++++++

内容はダブりますが、同じような
内容で書いた原稿をいくつか、
ここに掲載しておきます。

++++++++++++++++

●価値観の衝突を防ぐにはどうするか

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と
信じているから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しな
い。親子でもこのタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」
を考えてみる。

 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三
つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でも
あのドラマは視聴率を、20%以上も稼いでいるというから驚きである。つまり日本人に
は、あれほど痛快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私
にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも
頭をさげるのか」と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70
歳)は、息子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借
金の返済にあててしまった。

息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子のお金を
使って何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「た
とえ親でも悪いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんな
ことがあっても、子どもに頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というの
は、ほとんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし
互いの価値観が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこ
れだけは言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよ
い世界かもしれないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。

ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくか
もしれないが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そし
て仮面をかぶった分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階
で、互いの間にキレツが入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え
方ではない。ちなみに、小学生六年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんや
お母さんが、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべき
か。それとも、親なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大き
な声でこう答えた。「謝るべきだヨ〜」と。これがこの日本の流れであり、もうその流れを
変えることはできない。

+++++++++++++++++++

●権威主義は断絶のはじまり

 「私は親だ」というのが、親意識。この親意識が強いと、子どもはどうしても親の前で
いい子ぶるようになる。もう少しわかりやすく言うと、仮面をかぶるようになる。その仮
面をかぶった分だけ、子どもの心は親から離れる。

 親子の間に亀裂を入れるものに、三つある。リズムの乱れと相互不信、それに価値観の
ズレ。このうち価値観のズレの一つが、ここでいう親の権威主義である。もともと権威と
いうのは、問答無用式に相手を従わせるための道具と考えてよい。「男が上で女が下」「夫
が上で妻が下」「親が上で子が下」と。

もっとも子どもも同じように権威主義的なものの考え方をするようになれば、それはそ
れで親子関係はうまくいくかもしれない。が、これからは権威がものを言う世界ではな
い。またそういう時代であってはならない。

 そこであなた(あなたの夫)が権威主義者かどうか見分ける簡単な方法がある。それに
は電話のかけ方をみればよい。権威主義的なものの考え方を日常的にしている人は、無意
識のうちにも人間の上下関係を判断するため、相手によって電話のかけ方がまるで違う。
地位や肩書きのある人には必要以上にペコペコし、自分より「下」と思われる人には、別
人のように尊大ぶったりいばってみせたりする。

このタイプの人は、先輩、後輩意識が強く、またプライドも強い。そのためそれを無視
したり、それに反したことをする人を、無礼だとか、失敬だとか言って非難する。もし
あなたがそうなら、一度あなたの価値観を、それが本当に正しいものかどうかを疑って
みたらよい。それはあなたのためというより、あなたの子どものためと言ったほうがよ
いかもしれない。

 日本人は権威主義的なものの考え方を好む民族である。その典型的な例が、あの「水戸
黄門」である。側近のものが三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、周囲
のものが皆頭をさげる。ああいうシーン見ると、たいていの日本人は「痛快!」と思う。
しかしそれが痛快と思う人ほど、あぶない。このタイプの人は心のどこかでそういう権威
にあこがれを抱いている人とみてよい。ご注意!

++++++++++++++++++++

【権威主義緒は、親子断絶のはじまり】
(「ファミリス」投稿原稿)

●親意識の背景に権威主義

 「私は親だ」という意識を「親意識」という。
たとえば子どもに対して、「産んでやった」「育て
てやった」と考える人は多い。さらに子どもをモ
ノのように考えている人さえいる。

ある女性(60歳)は私に会うとこう言った。「親
なんてさみしいものですね。息子は横浜の嫁に
取られてしまいましたよ」と。息子が結婚して
横浜に住んでいることを、その女性は「取られ
た」というのだ。

日本人はこの親意識が、欧米の人とくらべても、
ダントツに強い。長く続いた封建制度が、こう
した日本人独特の親意識を育てたとも考えられ
る。

●上下意識と権威主義

その親意識の背景にあるのが、上下意識。「親が
上で、子が下」と。そしてその上下意識を支え
るのが権威主義。理由などない。「偉い人は偉い」
と言うときの「偉い」が、それ。日本人はいつ
しか、身分や肩書きで人の価値を判断するよう
になった。

ふつう権威主義的なものの考え方をする人は、
自分のまわりでいつも、人間の上下関係を意識
する。「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」と。
たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩と考え
る。そして自分より立場が上の人に向かっては、
必要以上にペコペコし、そうでない人にはいば
ってみせる。私のいとこ(男性)にもそういう
人がいる。相手によって接し方が、別人のよう
に変化するからおもしろい。

●親意識は親子を断絶させる

 この親意識が強ければ強いほど、子どもにとっ
ては居心地の悪い世界になる。が、それだけでは
すまない。子どもは親の前では仮面をかぶるよう
になり、そのかぶった分だけ、心を隠す。親は親
で子どもの心をつかめなくなる。そしてそれが互
いの間に大きなキレツを入れる……。

昔は「控えおろう!」と、三つ葉葵の紋章か何
かを見せれば、人はひれ伏したが、今はそうい
う時代ではない。親が親風を吹かせば吹かすほ
ど、子どもの心は親から離れる。ものの考え方
が県主義的な人は、あなたというより、あなた
が育った環境を思い浮かべてみてほしい。あな
た自身もその権威主義的な家庭環境で育ったは
ずである。

そして今、あなた自身があなたと親の関係がど
うなっているか、それを冷静に見つめてみてほ
しい。たいていはぎくしゃくしているはずであ
る。たとえうまくいっている(?)としても、
それはあなた自身も権威主義的なものの考え方にどっぷりとつかっているか、あるいは親に対

て服従的もしくは親離れできていないかのどち
らかである。

●変わりつつある日本人の意識

 こうした私のものの考え方に対して、とくに男
性の立場から、「父親の権威は必要だ」と反論する
人は多い。「父親は家の中でもデ〜ンとした存在感
さえあればいい」と。いや、父親どころか、「夫の
権威」にこだわる人さえいる。

今でも「女房や子ども食わせてやる」と暴言を
吐く夫はいくらでもいる。が、こうしたものの
考え方は、これからの日本ではもう通用しない。
そのひとつのあらわれというべきか、家事をま
ったく手伝わない夫がまだ50%以上もいる一
方(国立社会保障人口問題研究所調査・200
0年)、そうした夫に不満をもつ妻がふえている。

厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、
全国家庭動向調査」(98年)によると、「家事、
育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・
7%しかいない。この数値は、前回93年のと
きよりも、10ポイント近くも低くなっている
(93年度は、60・6%)。今、日本人は、大
きな転換期にきているとみてよい。

●親は友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。「親に
は三つの役目がある。親は、ガイドとして子ども
の前を歩く。保護者として子どものうしろを歩く。
そして友として子どもの横を歩く」と。日本人は、
子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、友とし
て横を歩くのがヘタ。ものの考え方が権威主義的
な人は、今日からでも遅くないから、子どもと一
緒に横を歩いてみてほしい。今まで聞こえなかっ
た子どもの声が聞こえてくるはずである。

++++++++++++++++

日本の常識、世界の非常識(中日新聞投稿済み)

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちが
っているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分
制度という(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、
その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋
章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではない
のか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19
歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そ
う言って居直った)と称して、手玉にして遊ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になってい
る。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関
係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事
の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、
夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕
事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と
泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしか
にすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、
こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に
美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだ
だよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春
だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はな
い。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あん
たに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもとき
どき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用い
られた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう
論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いという
こと。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではない
ようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++++++++++++++

 要するに、いまだに、日本人は、あの封建時代の亡霊を、ひきずっているということ。
身分制度という亡霊である。世の中には、その封建時代を美化し、たたえる人も少なくな
いが、本当にそんな世界が理想の世界なのか、またあるべき世界なのか、もう一度、冷静
に考えなおしてみてほしい。
(はやし浩司 権威主義 権威主義者 親子の亀裂 断絶)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

親意識が子育てをゆがめるとき

+++++++++++++++

いまだに、「私は親だ」とがんばって
いる人がいる。

そういうのを親意識という。
しかし親意識ほど、おかしな
意識はない。

+++++++++++++++

●「私は親だ」というのが親意識 

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲
れる。それだけではない。親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。

上下意識のある関係、つまり命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係
は生まれない。ある母親は、子ども(小一)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向
かって何てことを言うの!」と、本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、
親子は平等だと言うが、こういうときはどうしたらいいのか」と。

●互いに高い次元で認めあって平等

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。高い次元で認めあう
ことを平等という。たとえ相手が幼児でも、そうする。こんなシーンがあった。

あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこと。たまたまその女優が、
小さな女の子(五歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女の子がフラッシュ
に驚いて、母親のうしろに隠れた。そのときのことである。

母親は、女の子に懸命に笑顔で話しかけながら、そのままあとずさりして、家の中へ消
えてしまった。私はそのシーンを見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」
と考えた。あるいはあなたなら、どうするだろうか。

●子どもの気持ちを確かめる

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視
点に立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせ
るときでも、「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。やめ
るときもそうだ。あるいは子どもが学校で悪い成績をとってきて、落ち込んでいたとする。
そういうときでも、子どもの気持ちになって、子どもと同じ立場でそれを悩んであげる。
それを平等という。

それがわからなければ夫と妻の立場で考えてみればよい。もしあなたという妻が、夫か
ら、「お前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われたら、あなたはそれに従
うだろうか。そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき夫が、「夫に向か
って何だ、その態度は!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。相手の視点
に立って見るということは、そういうことをいう。

●親意識の強い親

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。
あるいは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子ども
の側からみてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そう
でない子どももいる。私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分では尊敬
に値する人間と思っているらしいが、誰もそんなふうには思っていない。人を尊敬すると
かしないとかいうことは、もっと別のところで決まる。要するに子どもに「バカ」と言わ
れても、気にしないこと。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにして
いる。「私はバカではない。大バカだ。まちがえるな」と。先日も私のことを「ジジイ」
と言う子どもがいた。そこで私はその子どもにこう言ってやった。

「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と。するとその子どもは、「教えて、教えて」と。
私はおもむろにその子どもに顔をむけると、こう言った。「いいか、これはとても悪い言
葉だ。お父さんや先生に言ってはダメだよ。わかったね。……では、教えてあげよう。
ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。それからというもの、その子どもは私を見るたびに、私
に向かって、「ビダンシ!」「ビダンシ!」と言うようになった。

●子どもを抑え込んではいけな

 子どもの口が悪いのは、当たり前。奨励せよというわけではないが、それが言えないほ
どまでに、子どもを押さえつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。このユーモ
アが、子どもの心を広くする。要するに、相手は子ども。本気で相手にしてはいけない。
よく「友だち親子」の是非が話題になる。「友だち親子はいいのか、悪いのか」と。

しかし子どもが友だちになりえるのは、子どもが中学生や高校生になってからだ。それ
までは友だちにすら、なりえない。もちろんそれまででも友だち的なつきあいができれ
ば、それはすばらしい。友だち親子、おおいに結構。どこが悪い? 親の権威だの威厳
だのと言っている間は、日本人は、封建時代の亡霊と決別することはできない。

 そうそうあのアメリカ人の女優のケースだが、日本人なら多分、こう言って子どもを前
に押し出すに違いない。「何をしているの。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとし
なさい!」と。こうした押しつけが、親子の間にミゾを作る。そしてそのミゾが、やがて
親子断絶へとつながる。

 親意識などなくても、子育てで困ることは何もない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●夫婦論

++++++++++++++++

夫婦って、何だろうと、
このところ、ときどき、考える。

++++++++++++++++

 かつては、母のような女性を、理想の女性と考えたこともある。姉のような女性を、理
想の女性と考えたこともある。あるいはそのときどきに、叔母や伯母、さらには、映画や
テレビに出てくる女性を、理想の女性と考えたこともある。

 しかし私は、どこまでいっても、私であるように、私のワイフは、どこまでいっても、
私のワイフ。当初は、恋愛で始まる結婚だが、長くいっしょに生活をしていると、私が私
のワイフになり、私のワイフが私になる。

 つまり結婚にまつわる苦労や思い出が、私をつくり、ワイフをつくる。そしてやがて、
こう思う。「これが私だ」「これが私のワイフだ」と。

 私のワイフに不満がないと言えば、ウソになる。しかしこのことは、私のワイフについ
ても、同じで、ワイフが、いつも何かしらの不満を私にいだいていることは、私も知って
いる。若いころは、いつもこう言っていた。「あなたの身長が、あと10センチ高ければよ
かったのに……」と。

 しかしやはり、私は私だった。私は決して理想の「男」ではない。自分でもそれがよく
わかっている。性格はチャランポランで、情緒はいつも不安定。無責任で、いいかげん。
ここに書いたように背も低いし、容姿は、最悪。そんな「男」が、理想の女性を求めても、
しかたがない。

 私が今以上に、よい「男」に変われないなら、ワイフに今以上の理想の「女」を求める
ことも、おかしい。たがいに、妥協しあいながら、つまり欠点を補いあいながら、生きて
いくしかない。

 が、悪いことばかりではない。ともにしてきた苦労や思い出が、年月を経てくると、ジ
ワジワと、いぶし銀のように光り始める。「光る」というほど、おおげさなものではないか
もしれないが、相対的に、若いころ「理想の女性」と思っていた人たちが、順に、記憶の
中から消えていく。そして気がついてみると、そこに残ったのが、ワイフだけということ
になる。

 今では、よく、「母のような女性と結婚しなくてよかった」とか、「姉のような女性と結
婚しなくてよかった」とか、思うこともある。叔母や伯母にいたっては、なおさらそうで、
「どうしてああいう女性を、一時的ではあるにせよ、理想の女性と思ってしまったのだろ
う?」と思うこともある。

 唯一の例外と言えば、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中に出てきた、ジュリ
ー・アンドリュースか? ジュリー・アンドリュースが演じた、マリア像は、今でも、心
の片隅に、「理想の女性」として、残っている。

 それはともかくも、「男」も一巡すると、「まあ、私もこんなものだ」という、あきらめ
の境地に達する。そして同時に、「まあ、私の結婚生活もこんなものだ」という、同じよう
なあきらめの境地に達する。

 その(思い)は、ワイフにしてみても、同じではないか。もう少し若いころには、私は、
よくワイフにこう言った。「お前も、ぼくのような男と結婚したために、苦労ばかりしてい
る。もっとほかにいい男がいただろうに、ごめんね」と。

 まあ、この先は、細々と燃える残り火だけを大切に、生きていくだけ。私が私でしかな
かったように、私たち夫婦も、私たち夫婦でしかなかった。洋服にたとえるなら、どうせ
私に合う洋服は、一着しかない。だったら、それを大切に着るしかない。それが夫婦とい
うものではないか……と、このところ、強く、思うようになった。
2006年1月25日(水)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●謎の中国訪問

++++++++++++++++++

K国の金xx(拉致事件に抗議の念をこめて、
あえて金xxとする)が、現在、中国を訪問
しているという(1月14日現在)。

しかしその足どりは、まったく不明。謎。

いったい、金xxは、どこにいるのか?

++++++++++++++++++

 詳しい行動内容は、報道機関の報道に任せるとして、おおまかに言えば、こういうこと
だ。

 当初、K国から、金xxを乗せたと思われる、特別列車が、K国から中国へ向った。し
かしその列車は、中国へは向わず、途中で、方向をロシアに変えた。

 その間に、金xxと思われる人物は、飛行機で北京に。そしてそこで中国の要人と会談
したあと(?)、広州へ。香港発の共同通信は、つぎのように伝える(13日)。

【香港13日共同】中国南部・広州の最高級ホテルに13日午前、リムジンを含む50台
前後の車列が到着した。国家元首級の代表団とみられ、中国を訪問しているK国の金xx
の代表団の可能性もあるが、金xxの姿は目撃されていない。

 周辺は早朝から厳重な警戒態勢が敷かれ、ホテルは入り口に金属探知機を設置、15日
まで一般客の予約受け付けを中断している。同ホテルの従業員の1人は「金xx一行をお
迎えしている」と述べた。車列は約1時間半後に再びホテルを出発、視察に向かったとみ
られる。

 外交筋は、金xxが今後の経済改革に中国の経験を反映させるため、中国の改革・開放
政策を象徴する広州や深センなどの経済開発特区を視察することも予想されるとしている。

 ここで注目すべき点は、「中国を訪問しているK国の金xx総書記の代表団の可能性もあ
るが、金総書記の姿は目撃されていない」というところ。

 一方、金xxの目撃も、各地で報告されているが、「その可能性がある」(時事通信)と
いう程度。本当に、金xxは、広州にいるのか。それともいないのか。ふつうの常識から
すれば、「視察」という以上、リムジンから外に出て、直接その場の雰囲気を肌で触れるた
め、そこに立たなければならない。当然、現地の人たちや、マスコミの目に触れることに
なるが、それはしかたのないこと。

 外からは中が見えないようなリムジンに乗って、金xxは、いったい、何を視察しよう
としているのか?

 ……と考える前に、今回の電撃的な中国訪問には、いくつかの謎がある。それが「電撃
的」であった点もさることながら、どうして今なのか? どうしてこうまで小細工に小細
工を重ねてまで、遠く、広州の経済開発特区を視察しなければならないのか。

 隠密行動といいながら、その一方で、わざと目立つように、リムジンほか、大型乗用車
を、50台もつらねている?

 私は、今回の中国訪問には、もっと大きな秘密が隠されていると思う。韓国の朝鮮N報
ですら、「非正常な訪問」と位置づけている。その謎を解くヒントとなっているのが、実は、
金xxが、北京到着と同時に、健康診断を受けているということ。韓国の中央N報は、つ
ぎのように伝えている。

 「 別の関係者は『金委員長は北京到着直後、彼を担当する医療陣から健康診断を受
けたということだ』とし、『深刻な状況ではないが、健康状態があまりよくないらしい』
と述べた。また北京の宿所は以前、訪中際に宿泊した外国貴賓用釣魚台ではなく、市郊
外の別荘であるということだ」(1月12日)と。

 こうまで秘密主義にかたまった隠密行動の中で、こうした(事実?)がもれてきたこ
と自体、不思議なことである。金xxは、健康診断を受けたというが、これこそ、K国
が、もっとも秘密にしなければならないことである。

 私の推測によれば、(憶測に近いが……)、事実はこうではないか。

 金xxは、北京に到着したあと、ずっと、北京に残って、何らかの医療的治療を受けて
いる。中国南部への視察は、金xxのそっくりさん、つまり替え玉を使った、いわばダミ
ー視察。つまりマスコミや世界の目を、北京からそらすための、カモフラージュ。

 金xxの健康状態がよくないことは、以前から、話題になっている。持病の糖尿病のほ
か、いろいろあるらしい。ときに浴びるように酒を飲んでいるといううわさもある。こう
した健康状態は、かいま見る写真などによっても、わかる。

 ブヨブヨに太った、しまりのない体。化粧をしても、その化粧では、ごまかせないほど、
顔色はよくない。そういう人を、健康な人とは、だれも思わない。

 私は、私の推理が正しいとするなら、今回の中国訪問は、それだけ緊急を要したから、
と考える。たとえば心筋梗塞や脳梗塞のような、血栓症による何らかの病変を起こした、
とか。だいたいにおいて、「深刻な状況ではないが、健康状態があまりよくないらしい」
というような金xxが、遠く広州まで、出かけていくだろうか。

 「国の将来を考えて、命がけで視察」と言えば、聞こえはよいが、金xxがそんな人
物でないことは、客観的なほかの事実でも、わかるはず。

 K国では、スーパーマン以上のスーパーマンとして、あがめ奉(たつま)られている
金xxだが、それは映画の世界での話。やがて事実は明らかにされるだろうが、私は、
今回の中国訪問の目的は、十中、八、九、金xxの病気治療のためとみている。

 さて、事実は、どこにあるのか? 興味津々(しんしん)。
2006/01/25


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 8日(No.685)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室から】

●ほめつぶし

 年長児のクラス。11人。私が、前列にいた、A君とB君に向って、「A君、B君、前に
出て、2人で歌を歌ってください」と声をかけた。そのときのこと。

 すかさず、A君が、「いや!」と。

 そこで私もすかさず、「すばらしい! みなさん、聞きましたか? A君は、2人で歌う
のはいやだと言っています。ひとりで歌いたいと言っています。みんなで、手をたたいて
ほめてあげましょう!」と。

 (子どもたち、参観の親たち、みな、パチパチ!)

私「A君、君は、歌が好きなんだってね。さあ、前に来てごらん」
A「うん……」

 そこでA君、どこかしぶしぶながら、ひとりで歌を歌いだした。私も、横で、いっしょ
に、歌った。そして歌が終わったとき、また、こう言った。

私「うまいじゃないか。君は、歌がうまい。さすがだね。ひとりで歌うというのは、勇気
のいることなんだよ。よく歌ったね。すばらしい!」と。

 (それを聞いて、子どもたち、参観の親たち、みな、パチパチ!)

 すっかり気分をよくしたA君、まわりをみながら、こう言った。

 「もう一度、歌ってもいい……」と。


●ゴミ捨て?

 小4のKさんと、Iさんと、3人で、近くの書店まで、ワークブックを買いに行く。そ
の帰り道のこと。突然、Kさんが、こう言った。

 「先生、今、ポケットからゴミを捨てたでしょう!」と。

 そこで私は、こう言った。「ぼくは、30年以上、ゴミを、道路に捨てたことはないよ。
つばも吐いたことはないよ」と。

 すると、Iさんまで、「私も見た」と。

 私はそのとき、私だけ自転車に乗っていた。

私「じゃあ、確かめにいこう。ぼくのゴミかどうか、わかるはずだから」と。

 そして帰り道を、また戻った。距離は、100メートルほどあった。

私「ぼくはね、ゴミを捨てたことはないよ」
K[でも、先生、ちゃんと、捨てたよ。ヒラヒラとゴミが落ちていくのを見たわ]
I「うん、私も、見た」
私「おかしいな?」と。

 そして私がゴミを捨てたという場所に来てみると、何と、1000円札が落ちているで
はないか! 私がポケットに入れていた、1000円札である!

私「アッ、ぼくの1000円だ!」
K「ホント!」
I「先生、よかったね」と。

 子どもたちと書店へ行くとき、1000円だけ、ポケットに入れた。子どもたちのお金
が足りないとき、私がそれで払うつもりでいた。その1000円だった。「ゴミを捨てたこ
とがない」という確信が、その1000円札を救った(?)。

 「君たちが気がついてくれたおかげで、ぼくは1000円をなくさないですんだよ。あ
りがとう」と。

 いつもだったら、その1000円で、何かを買って、お礼をするのだが、冷たい冬の風
を感じたので、そのまま教室にもどった。

 ところで、当然のことだが、子どもたちと書店へ行くときも、私は、絶対に、何人かの
子どもたちといっしょに行くことにしている。この世界には、「誤解」という言葉がある。
1対1で行けば、いつどこで、どんな誤解をされるか、わからない。それでそのときは、
Kさんに、同行してもらった。Iさんが、「Kさんに、いっしょに来てほしい」と言ったか
らである。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●自己意識を育てる
乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切な
ことは、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。
たとえばADHD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態にな
る。しかし子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするように
なる。そして見た目には、症状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そし
て一度、こじれると、その分だけ、立ちなおりが遅れる。


●まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点で
は、子どもは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎
縮してしまったようなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」
と言う。そして子どもに向かっては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」
と叱る。しかし原因は、親自身にある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


●「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさ
ず、「やってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期
待ほど、子どもを苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽を
つんでしまう。そこで子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TA
KE IT EASY!(気を楽にしてね)」と。


●「子はかすがい」論
たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずな
も、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係
がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさ
に「足かせ」でしかない。日本には『子は三界の足かせ』という格言もある。


●「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では『子は親のうしろ姿
を見て育つ』というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうし
ろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたく
なくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せよ
うとする。


●「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、
居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ、
上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、
百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。


●「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはい
ないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、
谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もち
ろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育
てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。


●「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子
どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子ども
の問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たが
いにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲
になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくま
でも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただき
ました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせて
しまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがまし
い子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型
子育てというのが、それ。


●「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといって、
身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷ
りとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからな
いほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏
せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いこ
とをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意!


●「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男
は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそ
まさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)
をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということ
は、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆ
がんだ男性観が、その基本にあるとみる。


●「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、
そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらし
すぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注
意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン
性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つき
になっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは
土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待って
るよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに
手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思
ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。


●「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、『内助の功』という言葉が好んで用いられた。しかしこの
言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。
しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女
性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべき
だ」という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●利己主義と孤独

+++++++++++++++++

孤独ほど、恐ろしいものはない。
孤独は最大の恐怖であり、ときに
その人の命すらも、うばう。

なぜ、人は、孤独になるのか。
どうすれば、人は、その孤独から、
自分を回避することができるのか。

+++++++++++++++++

 世に、孤独ほど、恐ろしいものはない。本当に、恐ろしい。仏教でも孤独を、無間地獄
の1つに数えている。

その孤独だが、だれでも経験しうるものだろうが、その恐ろしさは、経験したものでな
ければ、わからない。

 夜、ふとんの中で身を丸めて、ただひたすら震える。体を縮(ちぢ)めても、縮めても、
その恐怖から逃れることはできない。身の置き場がない。つらい。さみしい。自分の心が、
どこにあるさえあるかわからない。

 恐ろしいほどの虚無感。むなしさ。味気なさ。

 それは病気にたとえるなら、不治の病を宣告されたようなもの。断崖絶壁に立たされた
ような絶望感。ひしひしと迫りくる、絶望感。

 その孤独を、あのイエス・キリストも経験している。あのマザーテレサは、つぎのよう
に語っている。

 訳はかなりラフにつけたので、必要な方は、原文をもとに、自分で訳してほしい。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for 
bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced 
this loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt 
him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the 
same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being 
in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's 
real hunger. 

【キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物
としてのパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味
した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも
愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そ
してそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点で
は、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということに
なる。】

 孤独は、あらゆる人が共通してもつ、人生、最大の問題といってよい。だからもしあな
たが今、孤独だからといって、それを恥じることはない。隠すこともない。大切なことは、
その孤独から自分を回避させるために、自分はどうあるべきかを、いつも考えること。そ
れについて書く前に、世界の賢者たちは、どのように考えていたか、それを拾ってみる。

No one would choose a friendless existence on condition of having all the other things 
in the world. ―Aristotle
世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独(friendless condition)は
選ばないだろう。(アリストテレス)

No my friend, darkness is not everywhere, for here and there I find faces illuminated 
from within; paper lanterns among the dark trees. - Carole Borges
友がいれば、暗闇ばかりとはかぎらない。私は彼らの輝く顔を思い浮かべるが、それが暗
い木々にかかる、ちょうちんのようなものだ。(C・ボーグ)

To dare to live alone is the rarest courage; since there are many who had rather meet 
their bitterest enemy in the field, than their own hearts in their closet. - Charles 
Caleb Colton
あえてひとりで生きるというのも、勇気のいることだ。なぜならクロゼットに心をしまっ
ておくよりも、戦場で、最悪の敵に会うことを望む人は多い。(C・C・コルトン)

Pray that your loneliness may spur you into finding something to live for, great enough 
to die for. - Dag Hammarskjold
あなたが孤独であるなら、何かそのために生きることができる目標が見つかるように、で
きればそのために死ぬことができる目標が見つかるように、祈れ。(D・ハマーショルド)

There is no greater sorrow than to recall in misery the time when we were happy. - 
Dante
あなたが幸福だったときを、みじめな状態で思い起こすほど、悲しいものはない。(ダン
テ)

We're all lonely for something we don't know we're lonely for. How else to explain 
the curious feeling that goes around feeling like missing somebody we've never even 
met? - David Foster Wallace
私たちがなぜさみしいか、それがわからないのに、私たちは、みな、さみしい。会ったこ
ともないような人をしのぶような、実におかしな感情を、どうやって説明したらよいのか。
(D・F・ウォレス)

The most I ever did for you was to outlive you. But that is much. - Edna St. Vincent 
Millay
あなたのためにした最大のことといえば、あなたより長生きをしたことです。それだけで
す。(E・S・V・ミレー)

The end comes when we no longer talk with ourselves. It is the end of genuine thinking 
and the beginning of the final loneliness. The remarkable thing is that the cessation 
of the inner dialogue marks also the end of our concern with the world around us. 
It is as if we noted the world and think about it only when we have to report it to 
ourselves. - Eric Hoffer
自分と話をすることが、もうないとき、終わりはやってくる。それは純粋な思想の終わり
であり、かつ最終的な孤独のはじまりでもある。はっきりわかっていることは、心の対話
の終わりは、私たちのまわりの世界に関心をもつことの終わりであるということ。つまり
世界というのは、私たちがそれを、自分に問いかけるときのみ、そこにある。(E・ホッ
ファー)

With some people solitariness is an escape not from others but from themselves. For 
they see in the eyes of others only a reflection of themselves. ー Eric Hoffer
他人から逃れるから、孤独になるのではなく、自分から逃れるから孤独になる。なぜなら
彼らは、他人に目の中に、自分の姿を見るからである。(E・ホッファー)

It is loneliness that makes the loudest noise. This is true of men as of dogs. ー 
Eric Hoffer
もっとも騒々しいのは、さみしさである。犬も、人間も同じ。(E・ホッファー)

"Don't you want to join us?" I was recently asked by an acquaintance when he ran across 
me alone after midnight in a coffeehouse that was already almost deserted. "No, I 
don't," I said. ー Franz Kafka
「いっしょに、やらないか?」と、真夜中の、みすぼらしいコーヒーショップで、最近、
知りあいの男にたずねられた。私は、「いいや」と答えた。(F・カフカ)

I've never found a companion as companionable as solitude. ー Henry David Thoreau
孤独ほど仲がよくなりやすい友だちはいないことを、私は知った。(H・D・ソロー)

Ships that pass in the night, and speak each other in passing, Only a signal shown, 
and a distant voice in the darkness; So on the ocean of life, we pass and speak one 
another, Only a look and a voice, then darkness again and a silence. ー Henry Wadsworth 
Longfellow
夜、行きかいながら交信する船。
暗闇の中の、ただの信号と遠くの声。
人生の海においても、またそうで、
私たちは通りすぎ、会話を交わす。
ただ見て、たがいに声をかける。
それから再びやってくる、暗闇と静寂。(W・ロングフェロー)

Oh, sweet sorrow, the time you borrow, will you be here when I wake up tomorrow? 
ー Katherine Wolf
オー、甘い悲しみよ、生きながらえて、あなたは明日、私が目ざめるとき、ここにいるだ
ろうか。(K・ウルフ)

What should young people do with their lives today? Many things, obviously. But the 
most daring thing is to create stable communities in which the terrible disease of 
loneliness can be cured. ー Kurt Vonnegut
今日、若い人たちは、自分の人生をどうすべきか? 明らかに多くのことがある。しかし
もっとも大切なことは、孤独という恐ろしい病気が癒されるべき、確かな人間関係をつく
りあげることである。(K・ボネー)

In solitude, where we are least alone ー Lord Byron
孤独の中で、我、ひとりにあらず。(L・バイロン)

Life dies inside a person when there are no others willing to beーfriend him. He thus 
gets filled with emptiness and a nonーexistent sense of selfーworth. ー Mark R. J. 
Lavoie
喜んで彼の友になる人なければ、人生は、その人は死ぬ。彼はかくして、空しさに包まれ、
生きる価値を見失う。(M・R・J・ラボー)

Music was my refuge. I could crawl into the spaces between the notes and curl my back 
to loneliness. ー Maya Angelou
音楽は、私の逃げ場。私は音符の間の空間に身をすべらせ、孤独に身をかがめる。(Mアン
ジェロウ)

There is no pleasure to me without communication: there is not so much as a sprightly 
thought comes into my mind that it does not grieve me to have produced alone, and 
that I have no one to tell it to. Michel Eyquem De Montaigne
人との交わりのない喜びというのは、私には考えられない。たとえばこれはと思うひらめ
きがあったとき、私はそれを自分ひとりで考え出したとは思わないし、それをだれかに話
さずにはおられない。(M・E・D・モンテニュー)

Our language has widely sensed the two sides of being alone. It has created the word 
"loneliness" to express the pain of being alone. And it has created the word "solitude" 
to express the glory of being alone. ー Paul Tillich
私たちの言語は、ひとりでいることについて、二つの見方をする。一つは、「さみしさ」
という語で、これは、ひとりでいることの苦痛を意味する。そしてもう一つは、「孤独」
という語で、これはひとりでいることの栄光を意味する。(P・チリッヒ)

God made everything out of nothing, but the nothingness shows through. -Paul Valery
神は、無からすべて作り出した。しかし無は、透けて現れる。(P・バレリイ)

The person who tries to live alone will not succeed as a human being. His heart withers 
if it does not answer another heart. His mind shrinks away if he hears only the echoes 
of his own thoughts and finds no other inspiration. ー Pearl S. Buck
ひとりでいようと思う人は、人間としては、成功しない。もしだれの心にも答えることが
なければ、その人の心は、しぼみ、もし彼自身の心のエコーだけを聞いているならば、そ
の人の心は、縮む。そして新しい発見も、そこで終わる。(P・S・バック)

When you're lonley, go to the music store and visit with your friends. ー Penny 
Lane, "Almost Famous"
さみしかったら、あなたの友と、ミュージック・ショップへ行け。(P・レイン)

The body is a house of many windows: there we all sit, showing ourselves and crying 
on the passersーby to come and love us. ー Robert Louis Stevenson
体は、たくさんの窓がある家。その窓辺に座って、自分を見せ、その外を行き交う人に、
やってきて、自分を愛するようにと泣き叫ぶ。(R・L・スティーブンソン)

Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it 
away, and in the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, 
and sometimes we lose them there again. ー Stephen King, "The Green Mile"
時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを
奪い、運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。
そしてときに私たちは、その人すら再び見失う。(A・キング・「グリーンマイル」)

Better be alone than in bad company ー Thomas Fuller
悪い仲間といるくらいなら、ひとりのほうがよい。(T・フラー)

The whole conviction of my life now rests upon the belief that loneliness, far from 
being a rare and curious phenomenon, peculiar to myself and to a few other solitary 
men, is the central and inevitable fact of human existence. ー Thomas Wolfe
今や私は、人生の中で、孤独というのが、人間の存在には欠かせないものであることを、
信念として発見した。その孤独というのは、とくに私や、二、三の孤独な人にとっては、
まったく理解しがたい奇妙な現象ではあるが……。(T・ウルフェ)

And I look again towards the sky as the raindrops mix with the tears I cry. - Unknown
雨と涙が混ざるように、私は再び空を見あげる。(作者不詳)

One may have a blazing hearth in one's soul, and yet no one ever comes to sit by it. 
ー Vincent Van Gogh
人は、魂の中に、燃えさかる暖炉をもっているかもしれないが、だれもそのそばにきて、
座ることはない。(V・V・ゴッフォ)

Skillful listening is the best remedy for loneliness, loquaciousness, and laryngitis. 
ー William Arthur Ward
孤独な人、多弁な人、咽頭炎の人には、しっかりと耳を傾けてあげよう。それが最善の治
療法だから。(W・A・ウォード)

+++++++++++++++++++++++

(付記)

 ここでは「loneliness」(さみしさ)と「solitude」(孤独)を、ともに「孤独」と訳し
た。孤独は、たいていさみしさをともなう。中に、孤独を楽しむ人もいるというが、私に
はそういう人の気持ちが、理解できない。私にとって孤独は、人生、最大の敵。孤独と戦
うことが、生きることの目的にもなっている。

 私は冒頭で、「孤独との戦い」を口にした。いかなる方法をもってしても、孤独を取り除
くことができないなら、共存するしかない。それが今の、私の考え方である。それは人間
が、原罪としてもって生まれたものではないかと思う。つまり「知恵ある生物」が、その
知恵で、自分が孤独な存在であることに気づいてしまった。

 もし人間が、もう少しバカなら、バカなまま、何も考えることもなく、従って孤独にな
ることもなかった。へたに利口になってしまったから、孤独を感ずるようになってしまっ
た。「原罪的」というのは、そういう意味である。

 こうして世界の賢人の言葉を拾い集めてみると、幸福論と孤独論は、ちょうど紙の表と
裏の関係にあるのがわかる。そして多くの賢人が、幸福を追求するかたわら、孤独につい
て語っている。この中で、とくに私の関心をひいたのが、マザーテレサの言葉。「イエスも
孤独だった」という言葉である。私は、これを読んでほっとした。多分、あなたもそうで
あろう。

+++++++++++++++++++++++++

●利己主義との戦い

 人は、なぜ孤独になるのか。その最大のカギを握るのが、「利己」と「利他」ではないか。
つまり利己主義に陥れば陥るほど、人は孤独に襲われる。しかし利他主義になれば、孤独
を避けることはできないにしても、孤独の恐怖をやわらげることができる。

 その利他主義を、仏教の世界では、「慈悲」といい、キリスト教の世界では、「愛」とい
う。マザーテレサによれば、イエス・キリストは、「飢え」という「孤独」に苦しんだとい
う。そしてその苦しみの結果、「愛」を説くようになったという。

 つまり宗教がもつ究極の目標は、ここにある。いかにすれば私たちは、利己から脱し、
利他の世界へと、自らを導くことができるか。いくつかのヒントがある。

(1)まず、誠実であること。他人に対しては、もちろん、自分に対しても、だ。ウソや
インチキは、心のゴミとなって、やがてその人自身の人生観を、暗く、見苦しいものにす
る。それは、実は、ささいな日常的な行為から始まる。その日々の積み重ねが、月となり、
月々の積み重ねが、年となり、やがてその人の人格となって熟成される。

(2)いつも前向きに生きる。前向きに生きるということには、ある種の緊張感がただよ
う。その緊張感を、決して、失ってはいけない。それは健康論に似ている。立ち止まって、
休んだときから、その人の健康は、失われる。が、前向きに生きるだけでは足りない。日々
に補ったところで、脳ミソの底からは、容赦なく、知識や経験は、流れ出ていく。失う分
以上のものを、補って生きる。だから生きることには、ゴールはない。死ぬまで、前に進
む。精進(しょうじん)する。

(3)生きていることを喜び、そして感謝する。この広大な宇宙の一点で、生きているこ
と自体が、奇跡。アインシュタインも、そう言っている。金銭的な損得勘定から、自らを
解き放つ。いわんや人間関係を、その損得勘定で判断してはいけない。この世界では、マ
ネーは、必要だ。マネーがなければ、不幸になることはある。しかしマネーは、決して、
人を幸福にすることはない。

(4)幸福感や充足感は、薄いガラス箱のようなもの。幸福感や充足感を覚えたら、静か
に、そっとそのまま、守り育てていく。自分の中に、「利他」を感じたときも、そうだ。そ
れらはとても、こわれやすい。決して、うぬぼれたり、ごう慢になってはいけない。幸福
感や充足感は、一度こわれると、取りもどすのに、その何倍もの時間とエネルギーが必要
となる。

(5)他人の目の中に、自分を置く。その相手と対峙してすわったときでも、自分の視点
を一度、相手の視点の中に置いてみる。その相手から、自分を見る。それを繰りかえして
いると、やがて相手の心の状態や、何を考えているかまで、わかるようになる。言うなれ
ば、「利他」の深さというのは、どこまで相手の立場でものを考えられるかによって決まる。

 もっとも、孤独になることが悪いというのではない。死の恐怖があるからこそ、生きて
いることの喜びがわかるように、孤独になることがあるからこそ、利他のすばらしさがわ
かる。あなたならあなたが、利己主義でも、一向に構わない。しかしその結果として、孤
独を覚えたら、そのあと、その苦しみを、利他主義に転化すればよい。……と口でいうほ
ど、実は、簡単なことではないが……。がんばろう!
(はやし浩司 利己主義 利他主義 孤独論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●グループホーム

 兄の入った、グループホームを見舞う。
 兄は、カーテンを閉めた暗い部屋の中で、
 ひとり、こたつの中に入って、横になっていた。

 それを見て、あわてて、同行した姉が、カーテンをあける。
 「そのままでいいのに」と私は思ったが、
 気がついたときには、カーテンは、もう開いていた。

 横にベッド。こたつの上には、小さなラジカセが1つ。
 それを見て、思わず、息をのむ。
 財産らしきものと言えば、それだけ。それしかない。

 人生を、68年も生きて、財産といえば、
 たったそれだけ? 兄の人生は、いったい、
 何だったのか。

 場ちがいに明るいヘルパーの声、そして姉の声。
 私は、黙ったまま、清潔そうな、それでいて
 人間的な温もりの感じない部屋を、みやる。

 事情を知らない私の長男は、「いい部屋だね」
 「ぼくも、こんなところに住みたいな」などと、
 無責任なことを口にする。

 それを聞きながら、「明日は我が身か」と、ふと、
 心のどこかで思う。そしてそれがそのまま、
 私の心を重く、ふさぐ。

 かといって、どうすることもできない。
 虚脱感。そして無力感。むなしさ。さみしさ。
 何度も心の中で、「ごめんな」と、兄にあやまる。

 元気で生きている人は、みな、傲慢になりやすい。
 「自分だけは、だいじょうぶ」と思いやすい。
 そして自分の人生だけは、安全に、いつまでもつづくと思いやすい。

 そして年老いて、不健康になった人を、
 そのまま自分の世界から、遠ざけてしまう。
 「私とは関係ない」と切り捨ててしまう。

 しかし、例外はない。1人とて、例外は、ない。
 だれにでも、老いは平等にやってくる。
 そして自分が、反対に、その老いの立場に立たされるときが、やってくる。

 私を、うらめしそうに見つめる、兄の目。
 しかしその目は、10年後、20年後の、私の目。
 その兄が、別れ際、私にポツリと、こう言った。

 「うちへ帰りたい……」と。
 子どものような言い方だった。
 私は、だまったまま、何も答えることができなかった。
そしてそのまま、そのまま長い廊下を静かに歩いて、外に出た。

 外には、冬の明るい、澄んだ空が、まばゆいばかりに光っていた。
 それが私には、かえって、異様に見えた。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●まあ、ええじゃないか!

++++++++++++++++++

どうにもならないことに、ぶつかったら、
こうつぶやいてみよう。

「まあ、ええじゃないか」と。

たったそれだけのことだが、それで
あなたの心は、ずっと軽くなるはず。

++++++++++++++++++

 姉から、こんな話を聞いた。

 その家には、長男を頭に、2人の姉妹がいる。現在、90歳近くなった父親を、長男夫
婦が、世話をしている。

 それについて、長男夫婦は、2人の妹に、「介護費用を分担してほしい」という願いを、
たびたび言い伝えている。それに対して、2人の姉妹は、「女だから……」「夫のお金は私
のものではないから……」と。「女」であることを理由に、そのつど、費用を出し渋ってき
た。

 が、ごく最近、その父親の容態が、おかしくなってきた。脳梗塞を併発して、介護セン
ターから、一般病院へ移された。

 とたん、遺産相続問題が発生。2人の妹たちが、「私たちも子どもだから……(遺産相続
権はある)」と言い出した。

 ここまで聞くと、身勝手な姉たちの様子しか頭に浮かんでこない。しかしこの話には、
こんな伏線がある。ここから先も、姉から聞いた話である。

 実は、2人の妹たちは、今から5、6年前に、相談して介護費用を出している。額は、
1人、100万円。2人で、200万円。ともに夫はサラリーマン。決して楽な額ではな
かった。しかしその200万円は、父親の介護のために使われることはなかった。たまた
ま兄(長男)の息子が大学に進学するときに重なり、その学費にと、兄の妻が使ってしま
った。

 それについて2人の妹が抗議すると、「今まで自腹を切って、父親のめんどうをみてきた
のだから、当然。貸したお金を返してもらっただけ」というようなことを言ったという。

 ……とまあ、こういうゴタゴタ話は、介護には、つきもの。お金がからんだ騒動となる
と、いまどき、珍しくもなんともない。が、問題は、どうしてそうなるか、だ。長い間、
司法書士をしてきた友人のH氏は、こう言う。

 「若いときは、まだ先がある。だからそれほどお金に執着しない。しかし年をとればと
るほど、先が短くなる。つまり、ケチになる」と。つまりケチになるから、その分だけ、
財産分与の問題が大きくなる、と。

 一方、長男側はこう言っているという。「自分のつごうに合わせて、妹たちは、『私は女
だから』と言い、また別のときは、『私は子どもだから』と言う。しかし私は、こんなこと
で、兄弟げんかをしたくない。私は親の財産などに、執着心はない。それよりも、もうこ
ういうゴタゴタは、たくさん!」と。

 で、こういうとき、私たちは、どう構えたらよいのか。そのヒントの1つとして、こん
な話がある。

 ある著名な作家は、若いころから、無精子症だった。名前を出せば、その人のことを知
らない人は、この日本には、いない。文学界でも、賞という賞を総なめにしたあと、文学
界の「長」として長い間、活躍していた。

 が、その作家には、1人の娘がいた。そこで私が、その話を直接聞いたあと、つまり無
精子症であることを直接聞いたあと、その作家にこう言った。

 「だって、先生……。先生には、娘さんが……」と。

 するとその作家は、ゲラゲラと大声で笑いながら、私にこう言った。「まあ、ええじゃな
いか、ええじゃないか」と。

 ある意味で、すばらしい言葉である。「まあ、ええじゃないか」。

 思うようにならないのが、人生。思うようにならないからといって、のろったり、うら
んだりしても、始まらない。どうにかなることについては、それなりにがんばらなくては
いけない。努力もしなければならない。しかしどうにもならないことについては、あきら
める。受けいれる。そして笑い飛ばす。「まあ、ええじゃないか」と。

 その長男にしても、2人の妹たちにしても、「明日は、我が身」。長くて、あと10年も
すれば、みな、ボケ始め、20年もすれば、あの世行き。ゴタゴタに巻きこまれて苦しむ
くらいなら、「まあ、ええじゃないか」と笑ってすましたほうが、得。俗な言い方をすれば、
そのほうが利口。

 実はその長男が、今は、そう言っているという。「まあ、ええじゃないか」と。「財産と
いっても、たいしたものはない。ちゃんと平等に分けてやる」と。

 しかしそういう心境になるのも、たいへん。とくに戦後の日本を、がむしゃらに生きて
きた人たちは、お金への執着心が、人一倍、強い。本能的な部分にまで、その執着心が、
刷りこまれている。そういう執着心から、自分を解放するのは、容易なことではない。金
銭的にも、かなりの余裕がないと、むずかしい。

 しかし「まあ、ええじゃないか」と笑えば、たしかに気が楽になる。どうせ人生という
のは、そういうもの。生きることの、99・99%には、意味はない。残りの、0・01%
に、それらしき意味があれば、御(おん)の字。つまらないゴタゴタに巻きこまれれば、
その0・01%の人生すら、ムダにしてしまう。

 だったら、つまらないことであくせくするだけ、損。「まあ、ええじゃないか」とあきら
めたところで、失うものは、ほとんど、ない。

 まあ、ええじゃないか!

 私も、その作家に会ってからというもの、どうにもならないことが起きるたびに、「まあ、
ええじゃないか」と、自分で自分をなぐさめるようにしている。それで問題が解決するわ
けではないが、しかし死ねば、すべてを失う。そのことを知れば、そこらのわずかな財産
など、腸から出るガスのようなもの。「まあ、ええじゃないか」という言葉のウラには、そ
ういう意味も隠されている。

 そう言えば、その作家は、私にその言葉を教えてくれたあとまもなく、がんで死んでし
まった。うわさでは、まれに見る、大往生だったという。きっとその作家は、「まあ、ええ
じゃないか、ええじゃないか」とつぶやきながら、死んでいったにちがいない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●息子のSへ

息子のSへ

今度の正月に、日本へ来てくれて、ありがとう。10年ぶり、あるいはそれ以上ぶりに、
楽しい正月を迎えることができました。

お前がときどきアメリカから送ってきてくれる写真を見ながら、ウィルソン家の人たちを、
いつも、うらやましく思っていました。ぼくたちには、クリスマスや正月といっても、最
近は、晃子と2人だけ。やってくる客もいなくて、まあ、さみしいものでした。

でも、今度、お前たちが来てくれると知って、ぼくたちは、2週間前から、毎日、大掃除
をしました。それがとても楽しかった。居間のクーラー(暖房機)を入れたり、あれこれ
電気製品をそろえたり。ふとんも、運んだりしました。

コタツも、特製のものにしました。一日がかりで、やっとふとんを見つけ、それを居間の
ふとんにしました。庭掃除ももちろん、お前たちが来る日の朝には、ハナを風呂に入れた
り、あるいは餅つきの用意をしたりもしました。

それが実に楽しかった。本当に楽しかった。

が、おかげで、ばかげたことだが、疲れてしまった。きっと気を張りすぎたためだと思う。
そのため、お前たちが来たちょうどその夜から、ぼくは、風邪をひいてしまった。そうい
う自分が、なさけなかった。ふとんの中で、静かにしていると、涙ばかり出てきた。それ
については、本当に申し訳ないことをしたと思う。

まあ、人生、こういうことがあるから、楽しい。本当に楽しい。

これでまたしばらく、お別れだけど、いつでも、また遊びに来てください。誠司もすばら
しい。デニーズもすばらしい。ところで最近、C(長男)とは、よく会話をするようにな
った。先日は、ぼくの健康を気遣って、Cは、岐阜までいっしょについてきてくれた。ぼ
くも変わったけど、Cも変わった。残されたぼくの最後の仕事は、Cを一人前の人間にし
て、世に送り出すこと。今、その準備をしているところだよ。

今回、正月に、遊びにきてくれてありがとう。晃子は、「またこういう日が来るわよ」と言
ってくれるけど、ぼくは、今度だけで、じゅうぶん、楽しかった。満足した。2度目があ
ると思って、今という時代を生きるのは、ぼくの主義ではないしね。

では、S、さようなら。

元気で、やれよ。何もできない親父だけど、いつも、お前のことを心配しているよ。嫌わ
れているのはよく知っているけど、その責任はぼくにあるわけだから、決して、お前をう
らんだり、嫌ったりはしないよ。

別れるのはさみしいけれど、またいつか会いえるよな。

じゃあ、元気でな!

BYE!

2006年1月25日(水)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●ミニ・退職体験

++++++++++++++++

長い休暇は、休職のようなもの。
退職のようなもの。

働き蜂の私には、長い休暇は、
必要ない。かえって、心と体の
調子がおかしくなってしまう。

++++++++++++++++

 1年のうちで、私にとって、もっとも長い休暇。それが正月休暇である。合計で、13
日もある。前後に土日が重なると、もう少し長くなることもある。

 私は、しかし、その正月休暇のたびに、「ミニ・退職」なるものを、模擬体験する。倒産
の模擬体験、リストラの模擬体験、あるいは、病気や事故による休職の模擬体験と言って
もよい。

 総合的にみると、「いやな体験」である。ワイフは、「休暇なのだから、思いっきり、遊
べばいい」などと、のんきなことを言う。しかしどういうわけか、休暇になったとたん、
いつも体調を崩す。運動不足や、食生活の乱れがそれに拍車をかける。

 それ以上に、私は、子どもたちとワイワイと騒いでいてこそ、自分を支えることができ
る。私にとっては、職場そのものが、ストレス解消の場となっている。それができなくな
る。だから、とたん、気がふさぐ。重くなる。

 実は、これがこわい。

 私はもともと、「うつ気質」。川の流れにたとえるなら、サラサラと調子よく流れている
ときは、それなりに気分もよい。しかし一度、どこかで堰(せ)き止められると、そこで
水がよどみ、すぐに、腐り始める。若いときは、腐るまでに、かなりの時間があった。し
かし50歳を過ぎるころから、すぐに、腐るようになった。

 症状としては、まず頭重感。こうして毎日、原稿を書いているが、そういう状態になる
と、原稿を書くのもままならなくなる。頭の機能が悪くなる。

 それにいくら、「運動しよう」とがんばってみても、その気力がわいてこない。「今日、
1日くらいは、いいや」と思って、サボってしまう。それが2日、3日と重なってしまう。
だからよけいに、体の調子が悪くなる。

 するとお決まりの「うつ症状」。私のばいいは、心配性が増幅して、それが被害妄想に発
展することが多い。「このまま、ぼくは、ダメになってしまう」「ぼくが死んだら、家族は
どうなるのだ」と。そして考えることは、将来の心配ばかり。5年先、10年先を悩み始
める。

 朝、起きたとき、少し足がフラついただけで、「このまま歩けなくなって、車椅子に乗る
ようになったらどうしよう」とか、あるいは、食べ過ぎて、胃が重く感じたりすると、「が
んになったらどうしよう」とか、そんなふうに考える。

 もちろん収入や、家計の心配もする。ふだんは、そんなことは何も考えないで生活して
いる。実際、我が家では、家計簿なるものは、つけていない。いつも最低限の生活をする
ように心がけている。それでお金が足りなくなれば、土地や家、山荘を売ればよい。

 が、うつ状態になると、そうはいかない。合理的なものの考え方そのものができなくな
る。「この家を売るようになったらどうしよう」とか、「山荘を手放すのは、つらい」とか、
さらには、「犬のハナが死んだら、そのさみしさに耐えられるだろうか」とか、そんなこと
まで考える

 で、昨日(11日)から、仕事、開始。私は思う存分、子どもたちと、騒いできた。笑
いあってきた。楽しかった。自分の中で、脳細胞がパチパチと音をたててはじけるのが、
よくわかった。心も、ウソのように軽くなった。ついでに体も軽くなった。

 1時間もすると、それまでの「うつ状態」が、消えてしまった。「どうしてあんなことで
クヨクヨと悩んだのだろう」と、反対にそういう状態になってみると、そちらのほうが信
じられないほど。

 やはり私は、死ぬまで、仕事をするしかないようだ。そのことを昨夜、寝る前にワイフ
に話すと、ワイフも、「そうね……」と言って笑ってくれた。

 そうそう、1つ、こんなよいことがあった。

 3〜4か月の間、使いまくったデジタルカメラだが、最初から、USB接続がうまくで
きなかった。カメラからパソコンへの直接転送ができなかった。「1年近くになったら、修
理に出せばいい」と考えて、昨日まで、だましだまし、使っていた。保証期間は、その1
年間である。

 が、どうも、不便。いつもメモリーカードを、カメラから取りだして、一度、カードリ
ーダーへ挿入しなければならない。そこで修理に出すことにした。しかし一度、修理に出
すと、1、2週間は、カメラを使えなくなる。

 店員の前で、なんとなくためらっていると、店員が一とおりカメラをみたあと、こう言
った。「これは修理不可能ですから、新品と交換します」と。

 新品と交換! すでにキズまるけになったカメラを、新品と交換! 私は心の中で、バ
ンザーイと叫んだ。

 ……というわけで、今、私の胸のポケットの中には、その新品のカメラが、静かに、納
まっている。そういうこともあって、今日は、気分は晴れ晴れ。私は、結構、単純な人間
なのだア!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを
呼ぶ。たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で
呼びあう兄弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。


●差別しない

長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なので
ある。そういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、
不平等に対して、きわめて敏感に反応しやすい。


●嫉妬はタブー

兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、
確実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この
嫉妬がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがい
に嫉妬させないようにする。


●たがいを喜ばせる

兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物
に連れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」と
いうような買い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思い
やりの心を育てるためにも、重要である。


●決して批判しない

子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄
に何か問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した
段階で、あなたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あ
なたは聞くだけ。決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。


●得意面をさらに伸ばす

子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。
たとえば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるよう
に伸び始めるということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」
という発想は、そもそも、その発想からしてまちがっている。子どもは(いやがる)→(ま
すます不得意になる)の悪循環を繰りかえすようになる。


●悪循環を感じたら、手を引く

子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あ
きらめて、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズ
はない」と親ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それ
だけではない。一度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響を
およぼすようになる。自信喪失から、自己否定に走ることもある。


●子どもは、ほめて伸ばす

『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっき
り言えば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとして
も、「ほほう、字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。
この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」
「私はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす原動力になる。


●孤立感と劣等感に注意

家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼ
くはダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの
考え方は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」と
いうようになれば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあ
り方を、猛省する。


●すなおな子ども

従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼
児教育の世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している
子どもをいう。感情表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえ
るなど。反対にその子どもにやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの
心の中に、しみこんでいく感じがする。そういう子どもを、すなおな子どもという。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもとゲーム・連載】(第3回目)

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラ
スを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策を
とっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年につ
いて、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、
2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、
もう1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、
一部の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的
に導入している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で
実施している(01年度調べ)。

●失行

 近年、さらに、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツの
シュルツという医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から
出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、
パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当た
り次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられ
るという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命
令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令
だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎ
ると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

●抑制命令

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い
浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とす
るなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、
それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それ
は、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなっ
たとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと
言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし
精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子ども
は、菓子を食べてしまった。

●前頭連合野

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。
そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理
できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB・NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミ
ュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。
一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になって
いるそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。
その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、
修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習
能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけるこ
とができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、
異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門
外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

●子どもの人格の完成度

 「ゲーム脳」になると、子どもは管理能力を喪失するという。しかしこの現象を、安易
に考えてはいけない。管理能力は、その子ども(人)の人格をも決定する、重要な要素だ
からである。

 たとえば、子どもの人格の完成度は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。話
を先に進める前に、あなた自身の子どもの人格の完成度はどうか。参考までに、一度、立
ち止まって判断してみてほしい。テストの内容、項目は、子ども向けに私がアレンジして
みた。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。

(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは
……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)

(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子
どもは……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)

(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子ど
もは……。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。

***************************

●順に考えてみよう

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言
っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方
を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(3)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。

(4)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくな
になる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何ら
かの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをし
なかった子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚
園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまって
しまう子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」
と、最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができ
る。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

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 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピ
ーター・サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士
によって理論化された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(E
motional Education、by JESDA Websiteより転写。)

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●EQ論

 ついでながら、EQ論について以前、書いた原稿を添付しておく。

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emo
tional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指
数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管
理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果
たせない。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを
行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階にな
っても、その時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊し
た例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その
人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、
自殺行為も、それに含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよ
う。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほ
うがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行
くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをす
すめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に
染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)
という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとでき
るかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自
我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐
怖症、飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断
できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態
に似ている。(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子ども
だったかもしれない。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与
える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身を
コントロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そ
ういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、
そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをお
りたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされ
る。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私
の人格の完成度は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い
人ということになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がない
ことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、
ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。
その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、ど
うしても足が遠のいてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のド
ラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するか
である。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワ
イフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになる
が、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出し
て、相手を罵倒したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまっ
て……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、
結局は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そ
のつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くという
のは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、
その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別
の機会に考えてみたい。

●終わりに……

 子どもたちを取り巻く環境は、現在、急速に変化している。恐ろしいほどの勢いである。
しかも、こうした変化は、社会の水面下で起きている。毎日、多くの子どもたちと接して
いる私ですら、気がつかないことが多い。

 そうした変化の中でも、最大のものはといえば、言うまでもなく、ゲームであり、テレ
ビゲームである。こうした変化が、子どもたちの心にどのような変化をおよぼしつつある
か。

 そこで文部科学省は、ゲームやテレビなどを含む生活環境要因が子どもの脳にどう影響
を与えるかを研究するために、2005年度から1万人の乳幼児について、10年間長期
追跡調査することを決めた。この中で、ゲームの影響も調べられるという(「脳科学と教育」
研究に関する検討会の答申)。

 近く中間報告が、公表されるだろう。が、しかしここで誤解してはいけないのは、「ゲー
ムは危険でないから、子どもにやらせろ」ということではない。「ゲームは、危険かもしれ
ないから、やらせないほうがよい」と、考えるのが正しい。とくに動きのはげしい、反射
運動型のゲームは、避けたほうがよい。

 具体的には、私は、つぎのような方法を提唱する。

(1)ゲーム機器の所有権、占有権は、親に!

 もともと高額なゲーム機器である。そうした機器を安易に子どもに与えること自体にも、
問題がある。されはさておき、ゲーム機器、およびそのソフロ類の所有権、占有権は、一
義的には、親にあるとする。またそういう前提で、考える。

 だから子どもがゲームをしたいときは、子どもは、親から貸してもらう。そういう立場
を、徹底する。子どもの立場からすれば、自由にゲームをできないということになるが、
そういう形で、親は、子どものゲームに干渉することができる。

 (ゲーム機器メーカーには、ゲーム機器に、カギのようなものでロックできないかと、
提案している。こうすれば、親の許可があったときだけ、子どもはゲームをすることがで
きる。)

(2)反射神経運動型のゲームは避ける

 テレビゲームといっても、いろいろある。将棋や囲碁のような、オーソドックスなもの
から、戦争ゲームのようなものまで。その中には、都市形成ゲームや、鉄道敷設ゲームの
ようなものもある。

 一方、アメリカでさえ発売禁止になったような、意味のない殺戮(さつりく)ゲームが、
この日本では、野放しになっているというケースもある。こうしたゲームが子どもの精神
の発育によくないことは、言うまでもない。

 で、あえて言えば、こうしたゲームのほか、動きがきわめて速い、反射神経運動型のゲ
ームは、子どもには、避けたほうがよい。私もときどき、ショッピングセンターなどで、
体験をさせてもらうが、あまりの速さに目が回る……というよりは、しばらくしていると、
気がヘンにすらなる。

 そういうゲームを、3〜6歳の子どもたちが、一心不乱に画面を見つめながらしている
……。この異常さに、まず、おとなの私たちが、気がつくべきである。

 忘れてならないのは、97年に起きた「ポケモンパニック事件」である。

●ポケモンパニック事件

 劇場で映画を見るとどうなるかを、子どもたち(小学4〜6年生)に聞いてみた。

    見ると、たいてい頭が痛くなる……1人
    見ると、ときどき痛くなる  ……2人
    ほぼ何ともない       ……2人(そのときの体の調子によるとのこと)
    何ともない         ……4人
    眠くなったりする      ……1人

 この質問をした背景に、私自身は、「いつも痛くなる」ということがある。先日もデパー
トで、子どもたちがテレビゲーム(「スーパーマリオ・サンシャイン」)をしているのを、
横で見ていたが、それだけで、私は頭が痛くなってしまった。どういうメカニズムによる
のかはわからないが、日常的でない刺激が、脳にダメージを与えるらしい。

年齢的な問題もある。最近では家庭でビデオを見ていても、頭痛が起きることがある。
いや、子どもだって無難ではない。この調査でもわかるように、10人中、3人までが、
「痛くなる」「ときどき痛くなる」と答えている。

 ここでいう「日常的でない刺激」というのは、はげしい光の点滅による刺激をいう。そ
の刺激が脳にある種の緊張感をつくり、その緊張感が頭痛を起こすということは、容易に
察しがつく。よい例が、97年に起きた「ポケモンパニック事件」である。

その年の12月16日、テレビ東京系列のポケモンを見ていた子どもが、光過敏性てん
かんという、わけのわからない症状を示して倒れた。はげしいけいれんと、嘔吐。その
日の午後11時までにNHKが確認したところ、埼玉県下だけでも、59人。全国で3
82人。さらに翌々日の18日までには、その数は全国で、0歳児から58歳の人まで、
750人にもなった。気分が悪くなったという被害者まで含めると、全国で1万人以上!
 大阪では発作を起こして、呼吸障害になった上、意識不明の重症におちいった5歳の
子ども(女児)もいた。「酸素不足により脳障害の後遺症が残るかもしれない」(大阪府
立病院)と。たかが映画ではないかと、軽く片づけることはできない。

 が、問題はここで終わらない。こうした刺激が、子どもから、「論理的にものを考える力」
をうばう危険性すらある。今、授業中、イメージが乱舞してしまい、静かな指導になじま
ない子どもが急増している。これはあくまでも私の推察だが、その理由の一つに、ここで
いう「日常的でない刺激」があるのでは……? 

法律の世界には、「疑わしきは罰せず」という不文律がある。しかし子どもの世界では、
「疑わしきは、先手先手で、どんどん罰する」。それが原則である。
(はやし浩司 テレビゲーム ゲーム ポケモンパニック事件)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親子の確執

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掲示板のほうに、親子の問題に悩む、1人の
女性から、相談の書きこみがあった。

いわく、「良好な人間関係がベースにあれば、
苦労も苦労ではなくなるのですが、それがないと、
親子でも、苦労は倍化します。

ときどき、『どうして私なんか、産んでくれたのよ』と
母に叫びたくなることもあります。

子どものころから、親のことでは、苦労のしっぱなし。
結婚してからも、一日とて、気が晴れる日は
ありませんでした」(静岡県S市・Yより)と。

このメールを読んで、数年前、私にこんなメールを
くれた人のことを思い出した。

それをここに再掲載します。

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【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するた
めに書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことを
めぐって私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなか
なか理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできま
せん。人生経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である
方のご意見を聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に
至らなくて、どうにもならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていた
だきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前
は、三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確
なのかもしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなお
すと言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県か
ら和歌山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。
それがだめでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。そ
れが突然、東京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くに
いてほしかった。あなたに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもし
れない」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではあり
ません。母も体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが
…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むの
が当然だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。
昔風の理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相
手を自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問
題が噴き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのが
イヤだなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚
当初は、親の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ
夫婦喧嘩に発展したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、
近くに住んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えら
れないハードルだったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにし
て電話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調
子。結局、流産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうか
もしれませんが、ひどいことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子ど
もだから、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていい
ね」などなど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ
夜中に叫んで目がさめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行く
たびに面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り
返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親
兄弟の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の
実家のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっ
と帰る…などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせず
に家にいるだけというふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で
暮らしていていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦
那が東京を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、
兄弟が住んでいる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との
結論にいたったのでした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談
なんてできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かっ
たとは思います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わ
ないで!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこ
なくていいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて、世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられ
るかと恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子ども
をつれて散歩にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種
の車とでくわしたりすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助
けをもとめて電話する…そんな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬に
なってしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘
状態となり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけ
た時期がありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こち
らの言い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身
で、何を生意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのです
から、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がと
れず、ちょっと苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで
結婚しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間た
ちと一緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとな
ってつきささり、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と
思ったことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義
父母に泣いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝
わらなかったのに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親
は責めてこきおろして…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はない
じゃないか。親が地獄のような日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思
うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、
これまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れない
ようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪い
わけではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡
りに迷いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理
学用語でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子
ども…などなど。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかし
らあてはまる話には、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それ
にあてはまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住め
なかった私は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあり
ます。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、
幸せだなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れ
た人生を選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだ
ろうか…などと。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にし
て、おまけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めな
いような、かたよった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしま
います。よってくる我が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあり
ます。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にま
で向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家
との一切の関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質
的な信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さ
を、彼はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、
成人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをため
る悪循環からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間
そう簡単には変わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響
が出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつか
ないどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできて
いません。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女
のための本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子ども
を預けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼
る人のいない三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互
いの気持ちの問題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中
に、ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるの
かもしれない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を
形に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親
棄て」の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み
出しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもに
しっかり愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限り
ない感謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と
思っています。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!
こうして打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、
言っている間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。
彼らの親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよっ
た親意識にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、
ふだんご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話し
たくなさそうに、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまった
そうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダ
イレクトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわ
からないように)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんで
しょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけ
であるような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のスト
ーカーの話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、ま
ったくわからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度
みてあきれた」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえ
では、実の親子なんですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければ
ならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろ
いろやるべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、
和歌山市に帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私
が仕事(検査助手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けて
きて途中で放棄されたままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去
りになっているアップライトのピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付な
ど着物の知識をしっかり勉強すること。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはず
かしくないくらいのいけばなができるようになること。梅干やおせち料理、郷土料理など
母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味をしっかり受け継ぐこと…などなどが考えら
れます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っていま
す(実際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても
一言子どもの立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはい
るのですが、ほんとうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕
もとに包丁をもって立っていた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のね
じまがった価値観を認めることになりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと
親の顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意
見がございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思
いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りし
てしまいまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうござい
ました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより

+++++++++++++++++++++

【静岡県S市・Yさんへ】

 『悪魔は、それを笑ったものからは退散し、それを恐れたものには、重い十字架となっ
て、容赦なく、襲いかかる』

 親子の問題を、「悪魔」にたとえましたが、親子であるがゆえに、その関係も一度こじれ
ると、「悪魔」にたとえてもおかしくないほど、問題は、深刻になりがちです。

 実は、私も同じような問題をかかえています。しかもそれが、断続的ではあるにせよ、
定期的にやってきては、私を苦しめます。

 しかしそんなとき私は、ふと、こう思います。「笑ってやろうではないか」と。

 笑えばよいのです。笑えば……。「バカめ!」と、です。すると、悪魔は向こうのほうか
ら、シッポを巻いて退散していきます。それが、ときとして、「実感」として体感できるか
ら、おもしろいです。とたん、心も軽くなります。

 親に対して、「親だから……」という幻想は、捨てること。ただのジジイ、もしくは、た
だのババアと思えばよいのです。私たちが幼少の子どもを本気で相手にしないように、老
人など、本気で相手にしてはいけません。そのためにも、ここに書いたように、「親である
という幻想」を捨てることです。

 親だから、人生の先輩のはず。
 親だから、すばらしいはず。
 親だから、子どものことを愛しているはず。
 親だから、子どものことを心配しているはず。……みんな、幻想です。

 もちろん中には、そういうすばらしい親もいますが、大半は、ただのジジイか、ババア
です。最近聞いた話には、子どもを虐待し、子どもを精神病に追いこんでしまった親の例
もあります。が、当の親には、その自覚がありません。「あの子は、生まれつき、ああだ」
などと、平然としているそうです。

 親もただの人間。私と同じ人間。そう気づいたとき、暗くて長いトンネルの向こうに、
あなたも、一筋の光を見ることができるはずです。

 で、あなたが感じているような苦しみを、心理学の世界でも、「幻惑」(=家族自我群と
いう束縛があるゆえの、苦しみ)と呼んでいます。こうした独立した言葉があることから
もわかるように、広く、たいへん多くの人たちが、あなたのかかえるような問題で苦しん
でいます。

 決して、あなた1人だけがそうであると思わないこと、ですね。がんばりましょう!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 2月 3日(No.683)
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安心して、HP、HTML版マガジン、
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【みなさんへ】

私のパソコンは、以下のような方法で、パソコンの安全
と健康を、いつも監視しています。

ですから、どうか、安心して、私のHP、HTML版
マガジン、および動画(TUBE社)を、お楽しみく
ださい。

●プロバイダーのほうで、ウィルスチェエクを自動的に
しています。

●加えて有料版の、ウィルスチェックサービスを、常時
行っています(プロバイダー、WBS.NE.JP)。

●さらにパソコンごとに、ウィルスソフトを、インスト
ールし、(これも今では常識ですが)、そのつど、ウィ
ルスチェックを行っています。

●さらに最近ふえている、スパイウエア対策として、
「スパイボット(SPYBOT)」をインストールし、
常時監視しています。

●さらに、HP制作用のパソコンと、通常作業用のパ
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中には「HTML版はこわい?」と心配している方
もいらっしゃるかもしれませんが、どうか、安心して
お楽しみください。

以上、これからもパソコンの安全と健康には、じゅう
ぶん留意して、HP、マガジンの制作をしていきます。

よろしくお願いします。

はやし浩司

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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほ
うだが……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。そ
の無理が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどう
か?」「去年とくらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変
化に、決して、一喜一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくな
る」「来年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気
を引き起こす。ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。そ
の秘訣は、母親にあった。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、
お兄ちゃんの服が着られるようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」とい
う思いが、子どもを前にひっぱっていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになること
に、ある種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感
を覚えることもある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切
そうにそれをもっているなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未
来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。

 
●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格に
なったときのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子ど
もは生涯にわたって、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗
というもの。だから受験は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。
できれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人と
する。「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、か
なり精神的にタフな人でも、自分で自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状
態に……ということにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口に
するのは、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立
ては、必要である。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょ
うね」とか。またそういう雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よ
い。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球
根の名前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし
大切なことは、物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。
わからなかったら、すなおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういう
すなおさを、試しているのである。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、
生活力があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。
ねたむ、いじける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子ども
を目指し、それでダメだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それ
くらいの気構えは、親には必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親し
くなっておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデ
マを増幅させる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こうい
うのを心理学の世界でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不
安状態であればあるほど、その錯誤が大きくなることが知られている。


●上下意識は、もたない

兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人か
らこの意識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれて
いる。今でも、長子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的な
ものの考え方をしているようなら、まず、それを改める。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもとゲーム・連載】(第2回目)

●才能とこだわり

 ところでここにも書いたように、たとえば自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」
を見せることは、よく知られている。たとえば、CDを何枚も集めたり、ゲームソフトを、
何千個も集めたりするなど。

 先にも書いたように、そういった「こだわり」が、神業的なものになることもある。

 が、こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論として
は、教育の世界では、繰りかえすが、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうし
た特異な「力」は、才能とは認めない。たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、
20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそ
っくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。まさに神業(わざ)的な「力」とい
うことになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみる。

 教育が教育となりうるためには、普遍性(だれにも応用しうるもの)や、再現性(同じ
ことをすれば、みながそうなる)、が必要である。そしてそういったものが、教育プロセス
として、確立されなければならない。もっと言えば「だからどうなの?」という部分がな
い「力」は、教育の世界では、「力」とは認めない。

 ここで取りあげた、「少年A」については、精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定
されている。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼き
つけてしまうことができる子どもをいう。もっとわかりやすく言えば、空想の世界が、か
ぎりなくふくらんでしまい、空想と現実の世界の区別がつかなくなってしまった子どもと
いうことになる。

「少年A」も、一晩で百人一首を暗記できるような力をもっていた。そういう特異な「力」
が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になったと、考えられなくもない。

●才能とは何か

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身
が、その「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ね
て、サッカーの技術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗
記できてしまうというのは、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。
まさにそれだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知
性、感性、理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だ
が、まだそうした背景のない子どもが、一回曲を聞いただけで、その曲が演奏できるとい
うのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並は
ずれた、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、し
ばしば経験している。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

●一小節を聞いただけで、曲名を当てた、S君

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言
い当てた子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。
ある程度の計算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、
まったく理解できなかった。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。100
0円程度のものを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのもの
がなかった。母親は、S君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとでき
るはず」とがんばったが、しかしそれはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければなら
ない。「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないというこ
と。「教育することによって、伸ばすことができること」を、才能という。それが先に書い
た、「教育プロセス」ということになる。

が、それだけでは足りない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなけ
ればならない。またそれができるから、教育という。つまりその子どもしかできないよ
うな、特異な「力」は、才能ではない。

 要するに、「だからどうなの?」という部分がないのは、才能とは言えない。「瞬間に見
ただけで、車の車種から型、メーカー名まで言える子どもがいたとする。しかしそれがで
きたからといって、だから、どうだというのか?

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているように
とらえられるかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごと
にこだわることで、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数
時間。土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、こ
こでいう「こだわり」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役に
たたない「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲
かせ、みごとな才能となって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひ
ょっとしたら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう
「こだわり」をもった子どもだったかもしれない。そういう意味では、「こだわり」を、
頭から否定することもできない。

 しかしその「こだわり」には、いつも、一定の限度がある。「こだわり」が限度を超えた
ときに、さまざまな問題が生ずる。

●カルト性をもつゲーム

ところで、最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯
楽の範囲だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったら
どうなるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、未来は暗い。一緒に死のう」と言えば、それ
に従ってしまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現の自
由だなどと、のんきなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、その延
長線上にいるにすぎない。

 思いだしてみればよい。旧ソ連崩壊のときロシアで、旧東ドイツ崩壊のときドイツで、
それぞれカルト教団が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のより
どころをなくしたとき、こうしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。終戦直後の日本がそ
うだったが、最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、急速に勢力を拡大
しているカルト教団がある。

あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。「金持ちになれる」とか「地球
が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もある。フランスやベルギ
ーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この日本ではまった
くの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本当に安全なのか。
あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者になってからでは
遅い。このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほ
しい。

●ゲーム脳

 さらに最近では、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになっ
た脳ミソを「ゲーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。
しかし、「ゲーム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道し
ている(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、
感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制
をも司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎる
と働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に
証明したのが、日大大学院の森教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、
省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりする
と、ものすごい抗議が殺到するということ。上記の森教授のもとにも、「多くのいやがらせ
が、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。
どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 M教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心
から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

●ポケモンカルト

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)
という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到し
た。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両
論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗
議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たち
であったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてく
るのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編
集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多か
った。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポ
ケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない
本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、
そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度に考えて、私はすませ
た。

 で、今回も、森教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

●カルト的連帯感をもつゲーマーたち

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりを
もちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、
ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらし
い(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判
されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発し
たりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一
言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言
で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声
をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たち
との間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか
狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の
生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるよ
うになるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死ん
でしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI
(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十
人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまった
く発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼ
す」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い
見識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到し
たという(NEWS WEB JAPANの記事より)。

●M君、小3のケース

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをし
ている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。
下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、
していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった
親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーテ
ィでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、
さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。
しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大
けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあっ
たのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、
言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲーム
を取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、
自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをし
たという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のとこ
ろに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにし
た。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるし
く変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャ
ーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計
算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと
片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたの
は、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能
面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のよ
うになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづ
けるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時
間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。話は少しそれ
るが、それをここに紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどこ
ろか、悪化している。

●収拾がつかなくなる子ども

 一方、学校という場でも、こんな珍現象が起きつつある。

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ…
…、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、
話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞
しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! 
そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激
しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭
のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。
30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。
小1児で、10人に2人はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑
えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 こうした現象だけが原因とは言えないが、そのため、「学級指導の困難に直面した経験が
あるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、66%もいる(9
8年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%
が、「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科
書を出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱い
ものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業
中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業その
ものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、
北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫
りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がってい
る」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない ……19人
 教師の指示を行動に移せない        ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子ど
もが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にと
まどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観
の差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指
導が難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)
と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「か
なり感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在
籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年2
10人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は3
55人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、9
6年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が417
1人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、
うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護
者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということであ
る。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビ
やゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔
のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味
もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、
乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこ
う言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけて
も返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けに
せよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。
ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられな
くなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、
静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚
が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおも
しろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。
分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことが
ない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。
その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●共依存

+++++++++++++++

たがいにベタベタの夫婦がいる。
一見、仲がよく見えるが、たがいに
愛しあっているから、そうしているのではない。

実は、たがいに、心のすき間を埋めあっているだけ。

そういうふうに、たがいに依存しあう関係を、
共依存関係という。

+++++++++++++++

 私の知人に、A氏とB氏がいる。A氏は、今年、74歳。B氏は、83歳。A氏は、長
い間、造園業を営んできたが、ちょうど4年前、心筋梗塞で倒れた。幸い症状は軽く、そ
のあと、バルーンを入れて血管を拡張。さらに心臓への血管バイパス手術が成功。今は、
農作業ができるほどまでに、健康を回復している。

 B氏は、ここ12〜3年の間、軽い脳梗塞を繰りかえしている。そのたびに症状は重く
なり、最近は、左半身の自由が、ほとんどきかなくなっている。しかし杖をつけば、何と
か、歩けるという。

 このA氏とB氏。実は、1つの共通点がある。その共通点が、たいへん興味深いので、
ここに記録しておく。あえて申し添えるなら、A氏とB氏は、私の知人だが、たがいに、
まったく無縁の人物である。

 その共通点というのは、ともに、妻のそばを、片時も離れないということ。A氏のばい
いは、妻がトイレに行こうとしても、それについていくという。B氏も、どこへ行くにも、
妻をつれて歩くという。私のワイフは、「病気になって、不安なんじゃない?」と言うが、
そんな単純な問題でもないようだ。

 たとえば心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。

+++++++++++++++++

その共依存について書いた原稿を
先に添付しておきます。

+++++++++++++++++

●共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依
存症など。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型
的な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻
に怒鳴り散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っ
ていて、その寸前でやめる。(それ以上のことすれば、本当に、妻は家を出ていってしま
う。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、
苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なの
だ。だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうを
みることで、依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子ども
はいない。その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事か
ら帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。


それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバ
イスした。しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこ
んでいるようなところがあった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、
依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせる
といったことが必要だった。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れ
ていってしまうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、
夫に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に
大きなキズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったとい
うことで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心
理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えま
す。このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられる
のではないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特
徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかり
のよさを見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『ア
ダルト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレ
ン依存症とも考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレン
になるわけではない。ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄など
によっても、ここでいうような症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか
……という疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠
牲心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしてい
る。世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫
に依存するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」
であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、
息子)。親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、
先週買ってきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依
存していたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せって
みせたりするなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとス
タスタと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかま
りながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日
には、友人たちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」
と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題
ではない。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンと
いる。決して珍しくない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、
子ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例で
ある。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを
想像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性の
マザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっ
しょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、そ
れほど、話題にはならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

++++++++++++++++++

言うなれば、共依存関係になる夫婦は、その両方、もしくは一方に、情緒的な欠陥、も
しくは精神的な未熟性があるとみてよい。その(心のすき間)を埋めるために、夫や妻
を利用する。

 ここにあげたA氏にしても、B氏にしても、(A氏は心筋梗塞だが、しかし同じ血栓性の
病気ということで、脳のほうにも、ダメージを受けている可能性は、高い)、脳梗塞による
影響とも考えられなくはない。

 そこでネットを使っていろいろ調べてみると、こんなことがわかった。つまり脳梗塞や
心筋梗塞を起こした人が、さまざまな精神障害的な症状を示すようになるのは、薬の副作
用によるものも少なくない、ということ。

 それぞれ専門のサイトには、投薬名と、その副作用が列挙してあるので、興味のある人
は、そちらをみたらよい。私は、ヤフーの検索エンジンを使って、「脳梗塞 随伴症状 孤
独」で調べてみた。

 ナルホド!

 簡単には結論づけられないが、A氏もB氏も、何らかの薬を服用している。その結果と
して、妄想観念や被害妄想をもちやすくなったと考えられなくはない。A氏の妻は、私の
ワイフにこう言った。

 「私がトイレに入っている間、夫は、そのトイレのドアの外で、立って待っているので
すよ」と。

 ふつうなら笑い話になるような話だが、「明日は我が身か」と思うと、笑うことはできな
い。

 Aさん、Bさん、病気なんかに負けないで、がんばって生きてくださいよ!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●伸びたバネは、ちぢむ

受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓
など。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)
は、一事的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。
『伸びたバネはちぢむ』と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連
れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意
味を、もう一度、考えてみてほしい。


●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「マ
マ、もってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲーム
などに夢中になっていれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子ども
の人格(おとなも!)、いかに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ
息子は、それだけ人格の完成度の低い子どもとみる。勉強のできる、できないは、関係な
い。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子
どもの姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「と
なりの人より、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしてい
るから、私は不幸」と、相対的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受
ける。子どもの学歴について、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほし
い。あなたは自分の人生を、自分のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが
親から学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかって
いるのですが、ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた
自身の中の「私」を知ること。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロン
もこう言っている。『汝自身を、知れ』と。哲学の究極の目標にも、なっている。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたの
では、子どもも楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、
その目安は、50%。その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そし
ていつも、何かのレッスンの終わりには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばら
しい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上
の効果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。
ばあいによっては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわ
けで、『伸びたバネは、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれ
ば、プラスマイナス・ゼロになるということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」という
のが条件。「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学
校で一番だったのよ」というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからや
る気を奪うだけではなく、子どもの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生
き方すらできなくなってしまう。子どもの問題というよりは、親自身の問題として、考え
たらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れ
ていき、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってく
る。それがその子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポ
ーツに強い関心をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、
子どもを指導し、伸ばす。


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるように
なる。「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知
られた例としては、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿な
どがある。日常的に、抑圧感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こ
うした症状が見られたら、(親は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢
と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、す
べて取り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極
端な変化は、かえって症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、
1、2か月をかけて減らすのがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そう
することによって、あとあと、子どもの立ちなおりが、用意になる。

●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や
大学に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボー
ッとしているだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、
10〜15%の子どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が
少なく、人に言われていやいや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●男女共同参画社会(男女の平等社会)

+++++++++++++

女は家庭を守るべし(?)

+++++++++++++

 いきなり「ぼくは、男女共同参画社会などには、反対だよ」と言った男性(60歳くら
い)がいた。公的な機関で、長い間、「長」の仕事を歴任してきた人物である。

 「いいかね、林君、女が男のようになって、どうする? どうなる? 女が家庭から抜
けたら、家庭はバラバラになってしまうよ。女は、家庭を守らなければならない。それが
女の役目だよ」と。話のきっかけは、NHKの今度の、大河ドラマだった。

 土佐藩の基礎を築いた戦国武将に、山内一豊がいた。その夫を支え、夫の出世をなしと
げたのが、妻の千代。その千代の物語が、今度の大河ドラマのテーマになっている。『内助
の功』という言葉も、そこから生まれた。その男性は、その千代を懸命にたたえながら、「女
はそうでなくてはいけないよ、林君」と。

 私は、「ハア〜」と思っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。その男性との間に、遠
い距離を感じた。どこからどう説明したらよいのかさえ、皆目、見当もつかなかった。

 つぎに、その男性は、それなりの人物である。私の思想が私の思想であるように、その
男性の思想もまた、その男性の思想である。その上、この話は、相手がもち出した話題で
ある。一応の敬意は、払わなければならない。いきなり反論するというのも、その男性に
対して、失敬なこと。

 そこで私は、こんなことをさぐってみた。

 その男性が、どうしてそういう思想をもったかという、その背景である。つまり思想に
は、必ず、それをもつに至った背景というものがある。生まれ育った環境や、教育など。
しかし何よりも重要なのは、その男性が、どの程度の問題意識をもっているかということ。
どんな本を読み、どの程度の文章を書き、自分の思想を思想として、まとめあげたかとい
うこと。

 方法は簡単。いくつかの専門用語を、ぶつけてみればよい。勉強している人は、それな
りに、即座に反応してくる。そうでない人は、そうでない。

私「ジェンダー(社会的性差別)の問題は、世界的な問題だよ」
男「それは知っているが、いくらがんばっても、女は男にはなれないよ、君!」
私「最近の研究によれば、男にも、女にも、両性性があることがわかってきた」
男「何だね、その両性性って、いうのは?」

私「男が男らしくなるのも、女が女らしくなるのも、3歳までの育て方の問題ということ。
もともと男と女を区別するほうが、おかしいということかな」
男「男は、子どもを産むことができない。大きなちがいだよ、これは!」と。

 そこでこんな例を出して、説明してやった。

 あるところに1人の女の子(?)がいた。5歳くらいまで、女の子として育てられた。
その女の子は、外性器も女の子のもので、見た感じも女の子だった。しかし6歳を過ぎる
ころから、卵巣がないことがわかってきた。

 そこで調べてみると、腹の中に、睾丸があることがわかった。その女の子(?)は、実
は男の子だった。この女の子(?)のケースは、さらに、染色体レベルまで調べられて、
最終的には、男の子と確定されたが、しかしそれで問題が解決したわけではなかった。

 ここにも書いたように、男の子が男の子らしくなる、女の子が女の子らしくなるという
のは、3歳ごろまでに決まる。これを心理学の世界でも、「役割形成」と呼ぶ。しかしその
女の子(?)のばあいは、6歳前後まで、女の子として育てられた。が、そこで、男の子
と判定された。

 その女の子にすれば、「私はどうすればいいのか?」ということになる。

 やはり心理学の世界では、こうした混乱を、「役割混乱」と呼んでいる。たとえて言うな
ら、トラックの運転手に、いきなり、リカちゃん人形のコスチュームを着せるようなもの。
ばあいによっては、自己嫌悪から自己否定につながるかもしれない。精神は、極度の緊張
状態に置かれる。

 「わかりました。では、私は、今日から、男の子になります」というわけには、いかな
い。

 つまり私たちがもっている「男意識」「女意識」といったものは、その延長線上にあるに
すぎない。もっと言えば、「ジェンダー」なるものは、生まれたあと、生まれ育った環境の
中で、作りあげられたものにすぎない。つまりそういったもので、そもそも、人間を、「男」
と「女」に区別するほうが、おかしい。まちがっている。

 ついでだが、私が子どものころには、こんな話も残っていた。

 江戸時代という封建時代が終わって150年もたっていたというのに、身分に応じて、
着る服の色が、ある程度決まっていたということ。商人は、茶系統、農家の人は、青系統
……というように(この部分は、不確か)。今でも、その傾向がないとは言わない。しかし
江戸時代には、着物の色はもちろん、模様のあるなしまで、さらに厳格に決められていた。

 だから子どもながらに、その人の物腰、話し方によって、私は、その人の職業が何であ
るか、だいたいのことはわかった。つまりこうした「その人の様子」にしても、その人が
生まれ育った環境の中で、つくりあげられたものということになる。

 さて、現在、男女の両性化は、ますます進んでいる。男が女性化し、女が男性化すると
いうよりは、ともに、その両性性に、気づき始めている。今では、使う言葉にしても、男
女の区別はない。意識や価値観にしても、男女の区別はない。「男だから……」「女だから
……」と言うほうが、おかしい。

 しかし現実には、冒頭にあげたような男性のような考え方をしている人は、決して、少
なくない。そういう環境で生まれ育っているから、そういった意識は、心の奥底に、しっ
かりと根づいている。加えて、そういう意識を、疑ってみたこともない。もちろん、それ
なりの勉強もしていない。言うなれば、思想が、サビついたまま硬直化してしまっている。

 だから、議論してもムダ!

私「まあ、そうは言っても、今は、そういう時代でもないように思いますがね」
男「だから、今の時代は、おかしいのだよ。教育がまちがっている」
私「しかしつぎの時代を決めるのは、私たちではありませんから。こういう問題は、若い
人たちに任すしかないでしょう」
男「いやな時代になったものだよ。若い人は、もっと、NHKの大河ドラマでも見て、勉
強したらいい」と。
(はやし浩司 ジェンダー 男女論 男女の両性化 両性性 意識 はやし浩司 山内一
豊 千代 内助の功 内助の功論)


+++++++++++++++++++

数年前書いた原稿を添付します。
(中日新聞、発表済み)

+++++++++++++++++++

子どもに性教育を語るとき

●性の解放とは偏見からの解放 

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残って
いるのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をして
いた。そのベッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性
にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからとい
う理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ30年。日本もやっとベ
ッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(48歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダン
ナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらし
ないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。

話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペー
パーすら取り替えたことがないという。私が、「ペーパーがないときはどうするのです
か?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

●家事をしない男たち

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ5
0%以上もいるという(2000年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、50
歳以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事
をしていないとみてよい。

この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。
男ばかりではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなと
ころへ来るもんじゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女
性自らが、こうした偏見に手を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性
が、23%もいるという(同調査)! 

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が99年に浜松市内でした調
査では、20代、30代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝
う」という夫が、65%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言っても
よい。

●男も昔はみんな、女だった?

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は
……」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、し
たことがない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなか
った。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の
子と遊んだ思い出がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちが
っていたことを思い知らされた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を
知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは
何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。
正確には、「妊娠後3か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎
児は、Y遺伝子の刺激を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。
分化しなければ、胎児はそのまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)とい
うことらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目
が、180度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も
消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがって
いる。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史
は、それを言った。

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったく
しない」と答えた夫は、いずれも50%以上であったという。

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……56・0%
 洗濯をまったくしない夫             ……61・2%
 炊事をまったくしない夫             ……53・5%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……30・2%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……39・3%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……34・0% 
(全国の配偶者のいる女性約1万4000人について調査・98年)

●平等には反対?

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、76・7%い
るが、その反面、「反対だ」と答えた女性も23・3%もいる。男性側の意識改革だけでは
なく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業
に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の52・3%もいる(同調査)。

 こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表し
た「第二回、全国家庭動向調査」(1998年)によると、「家事、育児で夫に満足してい
る」と答えた妻は、51・7%しかいない。この数値は、前回1993年のときよりも、
約10ポイントも低くなっている(93年度は、60・6%)。「(夫の家事や育児を)もと
もと期待していない」と答えた妻も、52・5%もいた。
(はやし浩司 男の家事 夫の家事 性教育 性の解放 男女意識 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【子どもとゲーム・連載】(第1回目)

子どもがゲームづけになるとき

●ゲームづけの子どもたち 

 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通
称、マジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっ
ている(2000年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。

ある日、一人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、
融合させる。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラ
ゴンをフィールドに出せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が9000になる」と。

子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。カードゲ
ームというのは、基本的にはカードどうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、
勝ったほうが相手のカードを取る「カケ勝負」と、取らない「カケなし勝負」とがある。
カードは、一パック5枚入りで、150円から330円程度。「アルティメット入りのパ
ックは、値段が高い」そうだ。

●ポケモンからマジギャザまで

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった
子どもたち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中2)いわく、
「今はマジギャザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。

カード(15枚で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)
は、1000枚近く集めたそうだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームの
ことだと思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、
正直言ってよくわからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王
からマジギャザへと、子どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせなが
ら遊ぶという点では、共通している。

●現実感を喪失する子どもたち

 話はそれるが、以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわ
からない生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだた
まごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。

中には北海道からやってきて、涙をこぼしながら供養している、20歳代の女性までい
た(NHK「電脳の果て」97年12月28日放送)。そういうゲームにハマっている子
どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気の信号だ」と話しても、彼らには
理解できない。

が、たかがゲームと笑ってはいけない。その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きてい
る」とがんばったカルト教団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は
継続中だが(2000年当時)、もともと生きていない「電子の生物」を死んだと思い込
む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込むその教団の信者は、どこがど
うちがうのか。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるいは同じ。ゲーム
には、そういう危険な面も隠されている。

●思考回路はそのまま

 で、さらに、浜松市内の中学1年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザ
と遊戯王に、多かれ少なかれハマっているのがわかった。1人が平均約1000枚のカー
ドを持っている。中には1万枚も持っている子どももいる。

マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フ
ランスバージョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フ
ランス語版は質がよくて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円
の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあると
いう。「大会で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、
たいてい20歳以上のおとなばかりだよ」とも。

 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなっ
たということ。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード
中毒。この中毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに4万
円も払ったりする!

●子どもをダシに金儲け

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間1
00億円から200億円の市場になっているという(経済誌・00年前後)。しかしこれは
あくまでも表の数字。闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。

たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを
手に入れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、
値段も高い。しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商
魂に操られるまま、そうしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよい
のか。野放しになってよいのか。

(注)この原稿を書いた2001年はじめには発売中止になっていたが、2001年の終
わりには再び発売されているとのこと。

●はびこるカルト信仰

 ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中
心に、3〜4名の若者が、そのあとを追い、自殺した。家族によって闇から闇へと隠され
た自殺者となると、もっと多いはず。自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理
由があってそうするのだろうから、私のような部外者がとやかく言っても始まらない。し
かしそれがもし、あなたの子どもであるとしたら……。こんなこともあった。

 1997年の3月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件が
アメリカで起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船
とランデブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、39人の若者が犠
牲になった。

この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイアナで起きた人民寺院信徒
による集団自殺事件がある。この事件では、何と914名もの信者が犠牲になっている。
なぜこんな忌まわしい事件が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起き
ない」と考えるのは早計である。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現
実と空想の混濁が、それである。

 そのよく知られた事件に、あの『淳君殺害事件』がある。それについて書く前に、「右脳
教育」について、少しだけ、考えてみたい。

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳
をきたえると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直
観像化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事
例は、現場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろ
ばんを使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。
読むというよりは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を
理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、教育の世界では、「神童」と
いうのは認めない。もう少しわかりやすい例で言えば、100種類近い自動車の、その
一部を見ただけでメーカーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こ
だわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうで
ないこだわりを見せることが、よく知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、
音楽の最初の一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまり
こうしたこだわりが強ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいると
みる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を取りあげ、そうし
た成果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一
方で、変人というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並は
ずれた人物にしたと考えられなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あ
るべき人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(=
論理)、他人の心を静かに思いやること(=分析)ができる子どものほうが、望ましい子ど
もということになる。その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。
しかしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でな
ければならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析
を学ぶ。右脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺
害事件』をあげる研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)
画数の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、
5000円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったことも
あります」(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の
区別がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像を
まるで目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、
(それがこの非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。
子どもに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

(つづく)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【賢者の言葉】(政治編)

●Nearly all men can withstand adversity; if you want to test a man's character, give 
him power. - Abraham Lincoln
ほとんどすべての人は、逆境にあえば、それと戦う。もしその人の性格を試してみたいと
思うなら、彼に力を与えてみろ。(A・リンカーン)
++++++++++++++++++
 平凡な生活を、可もなく、不可もなく過ごしている人は、それなりに人格者に見える。
いっぱしの人生論を口にしたり、ときには、他人に説教をしたりする。しかしその人が、
本当に人格者かどうかということになると、わからない。リンカーンは、逆境でこそ、そ
の人の真価が試されるという。ナルホド!

●They that can give up essential liberty to obtain a little temporary safety deserve 
neither liberty nor safety. - Ben Franklin, "Historical Review of Pennsylvania"
ささやかな一時的な安全を得るために、基本的な自由をあきらめるような人は、自由も安
全も、もつことはない。(B・フランクリン)
++++++++++++++++++
 基本的な自由とは、何か? ……このところ、それがよくわからなくなってきた。たと
えば私の体には、無数の、「運命」と呼ばれる糸がからみついている。私が望まなくても、
向こうからからみついてくる。それがうるさいほど、無数にからみついてくる。そんな私
に、「自由」など、望むべくもない。しかしもし、その私がその無数の糸から解放された
ら、私はどうなるか? それを考えるのも、こわい。フランクリンは、自由と安全をから
めて考えている。「?」と思って、ここまで。

●Government is the Entertainment Division of the military-industrial complex. - Frank 
Zappa
政府というのは、軍産共同体の、娯楽部門のようなもの。(F・ザッパ)
++++++++++++++++++
 2006年になって、世界は、より不安定になった。そんな感じがする。イランはます
ます過激になってきた。K国も、そうだ。中国国内では、各地で暴動が発生し、死者まで
出ている。この極東にしても、ガソリンがまかれたような状態と言ってもよい。だれかが
どこかで小さな火をつければ、それはたちまちのうちに、パッと燃え広がるにちがいない。
日本国内でも、過激な発言が目立つ。そしてそれを支持する人がふえているように思う。
2006年の日本は、どうなるのだろう?

●The body politic, as well as the human body, begins to die as soon as it is born, 
and carries in itself the causes of its destruction. - Jean Jacques Rousseau
政治体というのは、人間の体と同じように、生まれたときから、死に始める。つまりそれ
自体が、破滅の原因をもっている。(J・J・ルソー)
+++++++++++++++++++
 どんな政治体制も、誕生したときから、死に向って進み始めるという。発展的に、さら
に進化した政治体制になるということはない、ということか。問題は、しかし、どんな政
治体制も、静かには、破滅しないということ。破滅に至る過程で、悪あがきを繰りかえす。
これが世相を混乱させる。ときには、それが戦争につながることもある。それがこわい。

●The more that is given the less people will work for themselves, and the less they 
work the more their poverty will increase. - Leo Tolstoy
与えられれば与えられるほど、民衆は自分のために働かなくなる。そして働かなくなれば
なるほど、彼らの貧困は、増大する。(L・トルストイ)
+++++++++++++++++++
今の日本のことかもしれない。ろくに働かないで、そのくせ、貧しさを訴える人は、少
なくない。生活そのものが、ぜいたくになってしまったということもある。生活だけは、
一人前。昔は、「クーラー」というだけで、ぜいたく品だった。が、今では、当たり前。
そういう生活をしながら、一方で、「貧しい」「貧しい」と訴える。

●Politicians are the same all over. They promise to build a bridge even when there 
is no river. - Nikita Khrushchev
政治家なんてものは、みな、同じ。川がないのに、橋をかけてやると、約束する。(N・
フルシチョフ)
+++++++++++++++++++
 ホント! だからはじめっから、政治家などに、何も期待しないこと。そのかわり、政

治家への監視の目を強める。きびしくする。たとえ1円でも、ワイロを手にしたら、禁固
10年とか、そういうふうにする。

●You only have power over people as long as you don't take everything away from them. 
But when you've robbed a man of everything he's no longer in your power -- he's free 
again. - Nobel Prize-Winning Author Alexander Solzhenitsyn
あなたがすべてを奪い取らない限り、あなたはその人たちの上に、力を行使できる。しか
しすべてを奪えば、もうかれは、あなたの力の中にはいない。その人は、再び、自由にな
る。(ノーベル賞受賞者、A・ソルジェニツィン)
+++++++++++++++++
 私の翻訳が悪いのだろう。意味が、よくわからない。この文を読んで思いつくこともな
い。ソルジェニツィンという、極限状態を生きた人だけが言える言葉であり、また同じよ
うな極限状態を生きた人だけが理解できる言葉かもしれない。私のような凡人が、安易な
解釈を加えることは、危険ですらある。

●Politics is perhaps the only profession for which no preparation is thought 
necessary. - Robert Louis Stevenson
政治というのは、この世界で、唯一、準備のいらない職業である。(R・L・スティーブ
ンソン)
 まあ、あえて言うなら、必要なのは、「口」だけ。脳ミソは、必要ない。とくにこの日本
では、一度、政治家になってしまうと、自分で静かに考える時間はなくなってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●●アメリカ厚生省発表●●

【新型インフル対策で米政府】

 【ワシントン1月6日共同】

レビット・アメリカ厚生長官は6日、発生への危機感が高まっている、新型インフルエ
ンザの大流行に備え、食料や飲料水の買いだめなどを一般家庭に勧める手引を発表した。

 新型ウイルスの感染を防ぐワクチンはなく、大流行で食品流通など社会機能が、まひす
る恐れがあるため。ロイター通信は、「予防のためにできることがいかに少ないかを物語る
ものだ」と伝えた。

 手引は「調理せずに食べられる肉や野菜、スープの缶詰やクラッカー、ミネラルウオー
ター」など非常食のほか、解熱剤やビタミン剤などの備蓄も推奨。子供を持つ親には「せ
っけんで手を頻繁に洗い、せきやくしゃみは口を覆ってするよう教育を」と、感染の機会
を減らすよう求めた。

++++++++++++++++++

【BW教室のみなさん・おうちの方へ】

専門家たちは、みな、異口同音に、今後起こるかもしれない、「新型インフルエンザ」の
脅威を口にする。「新型インフルエンザにしてみれば、ふつうのインフルエンザなど、た
だの風邪のようなもの」と。

 で、その新型インフルエンザが、一度、流行し始めると、学校や幼稚園は、もちろん閉
鎖。職場すらも、閉鎖になる可能性がきわめて高い。そうなれば、「社会機能はまひする」
(ロイター通信)。

 そこで今度、アメリカの厚生省長官は、上記のように、国民に、手引きを発表した。そ
してつぎのようなものを、各家庭で備蓄するようにと勧告している。

(1)食糧や飲料水の買いだめ
(2)解熱剤やビタミン剤の買いだめ、など。

 すでに外国では、ちらほらと、新型インフルエンザの発生が認められつつある。死亡者
も、ふえている。死亡率は、約50%というところか? つまり新型インフルエンザに感
染したら、約50%の人が死ぬということらしい。

 とりあえず、私の家庭でも、つぎのように考えている。もしこの日本で、新型インフル
エンザの感染者が確認されたら、

(1)使い捨てマスクを、大量に購入する。
(2)調理せずに食べられる食品の備蓄を開始する。
(3)ビタミン類、とくにビタミンC(アスコルビン酸)などの購入。

 もちろん、BW教室は、学校閉鎖に合わせて、閉鎖。その間、月謝などの費用は、免除。
学校が再開されたら、BW教室も、再開。

 今後しばらくは、様子をみながら、咳、くしゃみをする児童については、マスクをかけ
ることを徹底する。(マスクは、教室で用意。)なお、今後は、消毒薬を教室の入り口に常
備し、感染の拡大を阻止する。

(おうちの方へ)

 たとえば6月の中ごろ(6月15日なら、6月15日とします)、新型インフルエンザが
発生し、学校が、学校単位で閉鎖されたようなときには、BW教室も、同時に閉鎖します。

 で、そのとき、すでにいただきました、6月分の残りの月謝は、お返しでできませんが、
つぎに新型インフルエンザの感染が止まり、学校閉鎖が解かれたようなとき、たとえば、
9月15日から学校が再開されたようなときは、BW教室も再開。その翌月分の10月分
から月謝をいただきます。6月分の残りの月謝を、9月分に充当させていただき、7月分、
8月分の月謝は、いただかないようにします。

 新型インフルエンザの流行期に重なった、7月、8月分の月謝は、免除します。BW教
室としては、無収入ということになりますが、何とか、がんばりますので、よろしくご理
解の上、ご協力ください。

BW・はやし浩司


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