はやし浩司(ひろし)

2006・5
はやし浩司
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2006年 5月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 31日(No.733)
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★HTML版★★★

HTML版は、お休みします。

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ふつうの価値】

++++++++++++++++++++

 「ふつうこそ最善」という言葉がある。どこかの哲学者が言った言葉である。

 今朝は、改めて、それについて考える。

 たとえば健康。

 この健康の価値は、ふつうでなくなったときに、わかる。が、それまでは、わからない。
それを当たり前のこととして、その価値を見失ってしまうからである。

 最近見た、テレビの報道番組の中に、こんな1シーンがあった。ある難病にかかった男
性のことだが、その男性は、テレビのレポーターに向かって、泣きながら、こう叫んでい
た。

 「もう一度、生きたい。もう一度生きて、自分の人生を、一(いち)からやりなおして
みたい」と。60歳くらいの男性ではなかったか。

 「ありがとう」「ありがとう」と言いながら死んでいく人がいる。しかしその一方で、「悔
しい」「悔しい」と言いながら死んでいく人もいる。

 そうしたちがいは、どこから生まれるのだろう。

 私はその男性の言葉を聞きながら、ふと、こう思った。「この人は、若いころから、どう
いう人生を歩んできたのだろう?」と。私がその男性に感じた不完全燃焼感には、ものす
ごいものがあった。

 つまりは、そのときどきで、そのときどきを、完全に燃焼させて生きるか、そうでない
かのちがいということか。しかし自分を完全燃焼させるというのは、たとえ一時でも、容
易なことではない。

+++++++++++++++++++++

ふつうの価値について、以前、書いた
原稿の中から、いくつかを集めてみます。

++++++++++++++++++

【親が子どもを許して忘れるとき】

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子
どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。ま
ちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真
の親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてく
るような親は、確かに若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失
礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。

しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭を
さげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなく
してから気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。と
くに二男は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、し
かもほとんど人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞
くと、国体の元水泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で
遊んでいるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんが
いない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私
は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、
それもできなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水
泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思い
なおすことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰
り返したときも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きてい
るだけでいい」と思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というの
は、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということ
だが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下か
ら見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決す
るから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んで
いると、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英
語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与える
ため」とも訳せる。

同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与える
ために許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと
考えていたように思う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切
った。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子ども
ではないか。許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛
を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許
し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。

もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということでは
ない。子どもの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子ど
もを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。

子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、そ
の問題を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生き
ている」という原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い
出してみてほしい。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。
(031020)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 許して
忘れる
 許して、忘れる ふつうの価値 ふつうこそ最善)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●壮絶な受験戦争(子どもは不登校児に)

 U君は小学校の低学年児のころは、学級委員をこなすなど、ごくふつうの子どもだった。
まじめで、成績もそこそこによかった。が、このことがかえって、母親の判断を狂わせた。
母親は「うちの子は、やればできるはず」「こんなはずは、ない」「まだ、何とかなる」を
繰り返し、A君に無理な学習を強いた。

 子ども(中学生)は1日約10時間の学校生活をする。たいへんな重労働である。しか
も今、約40%の子どもが塾通いをしている(中一生・静岡県「私塾界」誌)。その上さら
に、家庭学習である。

U君の母親も、コピー機まで用意して、毎日U君の勉強に備えた。U君が夜遅く塾から
帰ってくると、母親は一定のワークをさせ、そしてそれを採点していた。が、やがてU
君は、オーバーヒート。しかしU君の母親は、それを許さなかった。

 そしていよいよ受験。進学指導の先生は、B高校を勧めたが、U君の母親は、最上位校
のA高を希望して譲らなかった。「私はどこの高校でもいいと思っているのですが、何とか
息子の夢をかなえさせてあげてください」と、先生に泣きついた。が、結果は不合格。U
君はすべり止めに受けた、C私立高校へ通うようになった。

 しかしこういうケースでは、深刻な後遺症は、そのあとに起きる。互いに緊張している
間は、その「芽」に気づかない。また私のような立場の者がアドバイスしても無駄。結局、
行きつくところまで、行くしかない。

U君は、一年間は何とか通ったものの、やがて高校へ行かなくなってしまった。母親は
「特別進学クラスから普通クラスに移されたことが原因」「先生が息子の気持ちを聞いて
くれないからだ」と、涙ながらに訴えたが、それはあくまでも表向きの言い逃れ。それ
以前から、U君は、まったくやる気をなくしていた。

 賢明な人は、ふつうの価値に、それをなくす前に気づく。愚かな人は、その価値をなく
してから気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさもまた、しかり。

が、さらに愚かな人は、また同じ失敗を繰り返す。U君の母親は、U君が高校を中退す
る、しないの話になっても、まだ特別進学クラスにこだわっていた。しかもU君だけで
はない。まったく同じコースをたどって、U君の弟のK君までもが、高校受験に失敗。
そして同じように断続的だったものの、学校へ行かなくなってしまった。が、それで悲
劇は終わったわけではない。U君もK君も家には寄りつかなくなり、今は、母親の実家
で寝泊りしている。

 こういうケースは、あなたの周囲にも、1つや2つはある。ひょっとしたら、あなた自
身の家庭がそうであるかもしれない。学歴信仰の人は、いくらでもいるし、U君の母親の
ように、うつ病気質、あるいは神経症の人も何割かいる。さらにそこそこにはできるが、
しかしそれほどでもない子どもをかかえている親は、半数はいる。これら3つのファクタ
ー、つまり(信仰、気質、子どもの能力)をかけ合わせると、何割かの親子が、このU君
親子のようになる危険性がある。

 教育というのは、失敗してからでは遅い。しかし失敗しなければ気づかない。果たして
あなたは大丈夫か?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子育て論 受験の失敗 受験戦争 受験勉強)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【子育て段階論】

●『まいた種のものしか、実はならない』

 『まいた種のものしか、実はならない』は、イギリスの格言。日本でも同じように、『蛙
(かわず)の子は、蛙』とか、『ウリのツルに、ナスビはならぬ』とかいう。

 こう書くと、『トビがタカを生む』とか、『青は藍(あい)より出でて、藍より青し』と
も言うではないかと言う人もいる。まあ、そういうことも、たまにはあるが、しかしふつ
うは、『まいた種のものしか、実はならない』。

 子育ては、つぎの四つの時期に分けて考えるとよい。

●子育て段階論

(第一期)(夢と希望の時期)……乳幼児期から小学校入学前までの時期をいう。この時期
は、親は、子どもにかぎりない夢や希望を託す。それが悪いというのではない。この夢や
希望があるから、子育てもまた楽しい。少しボールを蹴っただけで、「将来は、サッカー選
手に」、少しおもちゃのピアノの鍵盤をたたいただけ、「将来は、ショパンコンクールに」
と親は考える。

 しかしこの時期、それが過剰期待になってはいけない。親の夢や期待が過剰になればな
るほど、子どもにとっては、重荷になる。その重荷が、子どもの伸びる芽すら、押しつぶ
してしまう。

 またこの時期、子どもの得意分野と不得意分野が、少しずつ分かれ始める。そのときコ
ツは、不得意分野をどうこうしようと考えるのではなく、得意分野をより伸ばすようにす
ること。それを「一芸」というが、子どもの一芸は大切にする。

中には、「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつま
ずくと、坂をころげ落ちるかのように成績がさがる。だから子どもの一芸は大切にする。
子どもを側面からささえるのみならず、生来の仕事につながることも多い。さらに時期、
才能の芽が見えてくるが、その才能は、つくるものではなく、見つけるもの。無理につ
くろうとしても、たいてい失敗する。

 ときに戦場のようにもなり、イライラすることも多い。あたふたとするうちに、その日
が終わったというようにして、日々はすぎていく。

(第二期)(落胆と抵抗の時期)……子どもが小学校へ入ってから、受験勉強に入るまでの
時期をいう。この時期、親は、そのつど落胆を味わいながらも、それに抵抗する。子ども
のできが悪かったりすると、「そんなハズはない」「うちの子はやればできるハズ」と、考
える。たまによい成績をとってきたりすると、「やっぱりそうだった」と、自分を納得させ
る。

 この時期は、親の方にも、心の余裕ができる時期でもある。乳幼児期の雑務から解放さ
れ、子育ても一段落する。親が再び活動的になり、外に目を向けるようになる。またこの
時期は、子どもがちょうど親離れする時期に重なる。が、それに合わせて親も子離れをす
ればよいが、それがむずかしい。親は自分から離れていく子どもを、一方で喜びながら、
一方でさみしく思ったりする。親自身の心も、この時期、揺れ動く。

 日々はそのつど平凡に流れる。朝、起きると子どもがそこにいる。私もそこにいる。子
どもは子どもで、勝手なことをし、親は親で勝手なことをする。そんな感じで流れる。し
かしこの時期、子どもは、それまで親がもっていた夢や希望を、ちょうどキャベツの葉の
ように、一枚ずつはぎ取りながら成長していく。

(第三期)(地獄と絶望の時期)……子どもが受験期を迎え、受験の結果が、出されるまで
の時期をいう。この時期、親は無意識のうちにも、自分の受験時代を再現する。選別され
るという恐怖、将来への不安。もっとも親がそれを感ずるのは、親の勝手。しかしそれを
子どもにぶつけてはいけない。

が、たいていの親は、その恐怖や不安を、子どもにぶつけてしまう。「もっと勉強しなさ
い!」「こんな成績では、いい中学に入れないでしょ!」と。

 この時期以前は、日本のばあい、親子関係が外国のそれとくらべても、とくに悪いとい
うことはない。しかしこの時期を境に、日本では、親子関係は急速に悪化する。最初は小
さなキレツだが、それがやがて断絶へと進む。

今、中学生でも高校生でも、たがいに信頼しあい、慰めあい、助けあっている親子など、
さがさなければならないほど、少ない。その原因がすべてこの受験勉強にあるとは言え
ないが、受験勉強が原因でないとは、もっと言えない。

 が、それだけではすまない。この「受験」には、恐ろしいほどの魔力が潜んでいる。そ
れまでは美しく、どこか華やいでいた母親も、この時期に入ると、血相が変わってくる。
子どものテスト週間になっただけで、「お粥しかのどを通りません」と言った母親がいた。
「進学塾の明かりを見ただけで、カーッと頭に血がのぼりました」と言った母親もいた。

 そして受験が近づくと、親は、いよいよ狂乱の時期へと突入する。たかが子どもの受験
と笑ってはいけない。子どもが入試に失敗したあと、自殺を図った母親だっている。夫婦
関係がおかしくなり、離婚騒動になるケースとなると、いくらでもある。子どもの受験と
いう、あの独得の緊張感が、それまで家族の中でくすぶりつづけていた火種に火をつける
からである。

 そしていよいよ子どもの受験……。親は狂乱し、子どもはその中で、悶絶する。程度の
差もあるが、この時期の親は、合理的な判断力すら失う(失礼!)。私は以前、『受験家族
は、病人家族』という格言を考えた。

受験生がいる家族は、大きな病気をかかえた病人のいる家族と思えばよい。みながみな、
どこかピリピリしている。安易ななぐさめや、はげまし、さらには興味本位の詮索(せ
んさく)はタブー。言い方をまちがえると、かえってその家族を苦しめることになる。
その家族の気持ちになって、そっとしておいてあげることこそ、大切である。

 日々は、まさに緊張と一触即発の状態ですぎていく。暗くて重苦し毎日がつづく。

(第四期)(あきらめと悟りの時期)……まさに地獄のような受験期を抜け、一段落したあ
と、子どもが巣立っていくまでの時期をいう。やがて親は、少しずつだが冷静さを取り戻
す。そしてこう思うようになる。

 「いろいろやってはみたけれど、やっぱり、あんたはふつうの子だったのね。考えてみ
れば、何のことはない。私だって、ふつうの人間ではないか」と。

 親はあきらめの境地に達するわけだが、あきらめることは悪いことではない。あきらめ
ることにより、親は子どもの本当の姿を見ることができる。「まだ何とかなる」と思ってい
る間は、それが見えない。子どもも心を開かない。「やっぱりあんたはふつうの子だったの
ね」と、親がそう思うことで、子どもは、その重荷から解放される。そしてそのときを出
発点として、親子という上下意識のある関係から、「友」という対等の関係へと、その関係
が、質的に変化していく。

●親子関係を大切に

 要するに、親はいつ、どこで、『まいた種のものしか、実はならない』という事実を悟る
かということ。しかしあえていうなら、その時期は早ければ早いほどよい。親子といえど
も、その基本は一対一の人間関係。子育てには、山もあれば谷もある。とくに子どもが受
験期を迎えるころには、その山や谷は大きく深くなる。が、これだけは、ここに書ける。

この日本では、子どもの受験は避けては通れないものかもしれないが、しかしそれには
親子の人間関係まで破壊する価値はない。またたかが受験(失礼!)のことで、親子関
係を破壊してはいけない。それはちょうど、ドロの玉を包むのに、絹のハンカチを使う
ようなものだ。いや、子どもの受験に狂奔する親にしても、結局は、大きな流れの中で、
踊らされているに過ぎない。「私は私」と思っているかもしれないが、「私」そのものが、
流されているから、自分ではそれがわからない。

●終わりに……

 「ふつうの家族」「ふつうの子育て」「ふつうの子ども」には、すばらしい価値がある。
賢明な親は、ふつうの価値をなくす前に気づく。そうでない親は、なくしてから気づく。
仮に気づくとしても、ほとんどの親は、その前に大きな回り道をする。が、ふつうの価値
に気がついてしまえば、何でもない。すべての問題は解決する。そして日々はまた平穏、
無事に流れ始める。それはおおらかでゆったりとした世界。まさに悟りの境地。だから、
私はこの時期を、あえて、「悟りの時期」とした。

 ここでいう「子育て段階論」は、あくまでも一般論。しかし大多数の親が、多かれ少な
かれ通る道でもある。ひょっとしたら、あなたとて例外ではない。そんなことも考えなが
ら、子育て段階論を頭の中に入れておくと、道に迷ったときの地図のように、あなたの子
育てで役にたつ。
(02−10−28)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ふつうこそ、最善

 ふつうに生きて、ふつうに生活する。子どももふつうなら、その子育ても、またふつう。
賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。

 そう、それは健康論に似ている。健康も、それをなくしてはじめて、その価値に気づく。
それまではわからない。私も少し前、バイクに乗っていて、転倒し、足の腱を切ったこと
がある。そのため、歩くことそのものができなくなった。その私から見ると、スイスイと
歩いている人が信じられなかった。「歩く」という何でもない行為が、そのときほど、それ
までとは違って見えたことはない。

 子育ても、また同じ。その子育てには、苦労はつきもの。だれだって苦労はいやだ。で
きるなら楽をしたい。しかしその苦労とて、それができなくなってはじめて、その価値が
わかる。平凡は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。あとで振りかえって、人生の
中で光り輝くのは、平凡であったことではなく、苦労を乗り越えたという実感である。

 今は冬で、風も冷たい。夜などは、肌を切るような冷たさを感ずる。自転車通勤には、
つらい。苦労といえば苦労だが、一方で、その結果として健康というものがあるなら、そ
れは喜びに変わる。楽しみに変わる。要は、その価値に、いつ気がつくかということ。

こんなことを書くと、その苦労の渦中にいる親たちに、叱られるかもしれない。「人の苦
労も知らないくせに。言うだけなら、だれにだって言える」と。しかしこれだけは頭に
入れておくとよい。

子育てに夢中になっているときは、時の流れを忘れることができる。あるいは子どもの
成長を望みながら、時が流れていくのを納得することができる。「早くおとなになれ」と
望みながら、同時に自分が歳をとっていくのを、あきらめることができる。しかしその
子育てが終わると、とたんに、そこに老後が待っている。そうなると今度は、時の流れ
が、容赦なく、あなたを責め始める。「何をしているんだ!」「時間がないぞ!」と。そ
れは恐ろしいほどの重圧感と言ってもよい。

 私は、今、三人の息子たちに、ときどきこう言う。「お前たちのおかげで、人生を楽しく
過ごすことができた。いろいろ教えられた。もしお前たちがいなかったら、私の人生は、
何と味気なく、つまらないものであったことか。ありがとう」と。私はそれを、子育てが
ほぼ終わりかけたときに気づいた。

子育てには、子育ての価値がある。そしてそれから生まれる苦労には、苦労の価値があ
る。そのときはわからない。私も、そのときはそれに気づかなかった。つまりかく言う
私も、偉そうなことは言えない。私とて、子育てが終わってからそれに気づいた、まさ
に愚かな人ということになる。


●子育ては目標さがし

「目標」といっても、中身はさまざま。しかし目標のない子育てほど、こわいものはな
い。そのときどきの流れの中で、流されるまま、右往左往してしまう。が、そんな状態
で、どうして子育てができるだろうか。たとえば、隣の子が水泳教室へ入った。それを
聞いて、言いようのない不安にかられた。そこで自分の子どもも、水泳教室に入れた、
と。

 目標をもつためには、まず視点を高くもつ。高ければ高いほど、よい。私はこれを『心
の地図』と呼んでいる。視点が高ければ高いほど、視野が広がる。そしてその視野が広け
れば広いほど、地図も広くなり、道に迷うことがない。

 問題は、どうすれば、その心の地図をもつことができるか、だ。それにはいつも情報に
対して、心の窓を開いておくこと。風とおしをよくしておくこと。まずいのは、自分が受
けた子育てが最善と信ずるあまり、ほかの情報を遮断(しゃだん)してしまうこと。そし
て自分だけの子ども観、教育観だけをもって、子育てをしてしまうこと。

そういう点では、「私の子どものことは私が一番よく知っている」「私の子育て法は絶対、
正しい」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやすい。この世界には、そういうジンクス
(=悪い縁起)がある。つまり心の地図を広くするためには、謙虚であればあるほど、
よい。

 そこで子育ての目標は、どこに置くか。心の地図の目的地といってもよい。ひとつのヒ
ントとして、私は、『自立したよき家庭人』をあげる。子どもを、よき家庭人として自立さ
せることこそ、まさに子育ての目標である、と。

 これについては、もうあちこちに書いてきたので、ここでは省略する。が、『自立したよ
き家庭人』という考え方は、もう世界の常識とみてよい。アメリカでも、オーストラリア
でも、カナダでも、ドイツでも、そしてフランスでも、そうだ。これらの国々については、
私が直接、確認した。フランス人の女性はこう言った。私が「具体的には、どう指導する
のですか?」と聞いたときのこと。「そんなのは、常識です」と。

 日本では、いまだに、出世主義がはびこっている。よい例がNHKのあの大河ドラマ。
歴史は歴史だから、それなりに冷静に判断しなければならない。しかしああまで封建時代
の圧制暴君たちを美化してよいものか。ああした暴君の陰で、いかに多くの民衆が苦しみ、
殺されたことか! 江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、恐怖
政治の時代だった。それを忘れてはならない。

 話はそれたが、今、日本は大きく変わりつつある。また変わらねばならない。学歴社会
から、能力社会へ。権威主義社会から、個人主義社会へ。上下社会から、平等社会へ。そ
して出世主義社会から、家族主義社会へ。

 地図を広くもつということは、そうした主義の世界にまで足を踏み入れることをいう。
そしてその地図ができれば、目的地もわかる。それがここでいう「子育ての目標」という
ことになる。


●限界を知る

 子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分の
ことならともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、
親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。

そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここま
で」と思いなおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなもの」とあきらめ
る。その思いっきりのよさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、その
時点から、子どもは前向きに伸び始める。

 もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」
などと言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときか
ら、親の言い方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんば
っている、よくがんばったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。
子ども自身が、その限界のカベを破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のこ
とで考えてみればよい。

 あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただっ
てやる気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「も
っと働きなさい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。

 もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の
無理や強制は必要。それは認める。しかし限界を認めているか認めていないかで、親の態
度は大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB中学
に……」と思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とか
A中学に……」となる。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理するこ
とないよ」となる。

 ……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いとい
うこと(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりに
も多いということ(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こ
なごなに破壊してしまう親があまりにも多いということ(失礼)。

さらに、行きつくところまで行って、はじめて気がつく親があまりにも多いということ
(失礼!)。またそこまで行かないと、気がつかない親が、あまりにも多いということ(失
礼)。それを避けるためにも、親は、できるだけ早く子どもの限界を知る。限界を認める。
親としては、つらい作業だが、その度量の深さが、親の愛の深さということになる。

(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子
どもも少なくない。

ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期待させながら、自
分のわがままをとおしていた。その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績をし
た。先生にほめられたことだけを話し、叱られたことは話さなかった。


 私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君
がいちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言っ
た。その男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。

しかしその男の子は、それを父親には言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がな
くなることを、その男の子はよく知っていた。

 しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮
面がはがれたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子
どものほうが自ら親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、疎遠になる。

●仮面に注意

 もしあなたが「うちの子は、できのいい子だ」と思っているなら、気をつけたほうがよ
い。それは、まず、仮面と思ってよい。だいたい幼児や小学生で、「できのいい子」など、
いない。「できがいい、悪い」は、ずっとおとなになってから、それも無数の苦労を経た結
果として決まることで、幼児や小学生の段階で決まるはずもない。

 ある女の子は、小学二年生のときから、学級委員長をつとめた。勉強もよくできた。先
生の指示にもよく従った。そういう女の子を見て、母親は、「うちの子は優秀」と思いこん
だ。たしかに優秀(?)だったが、私には、気になる点がいくつかあった。

小学五年生のときのこと。これから夏休みというとき、その女の子は、夏休み明けのテ
ストのことを心配していた。私が「そんな先のことは心配してはいけない」と何度も言
ったのだが、その女の子にしてみれば、それが彼女のリズムだった。母親にも私はそう
言ったが、母親はむしろそれを喜んでいるふうだった。「あの子は、大学の医学部へ行く
と言っています。あの子の望みをかなえさせてあげたいです」と。

 しかしその女の子は、中学へ入ると同時に、プッツンしてしまった。不登校、節食障害
(過食、拒食)、回避性障害(人に会うのを避ける)を繰りかえすうちに、自分の部屋に引
きこもるようになってしまった。

 こうした例は、多い。本当に多い。しかしこういうケースとて、その途中にいる親は、
それに気づかない。親は、自分の子どもはすばらしいと思いこむ。そして子どもは子ども
で、親がそう思うの分だけ、仮面をかぶる。この仮面が、やがて子どもの心をゆがめる。
 もしつぎの項目のうち、あなたの子どもに思い当たることが三つ以上あれば、あなたの
子どもは、あなたの前で仮面をかぶっていると思ってよい。

(1)あなたは自分の子どもを、できのいい子だと思っている。勉強もスポーツもよくで
きる。マナーもわきまえている。人前では礼儀正しい。

(2)幼稚園や学校では、「いい子ですね」と、先生にほめられることが多い。親や先生の
指示に従順で、指示されたことを、うまくやりこなす。

(3)わがままを言ったり、大声で自己主張することもなく、一方、あなたに甘えたり、
ぐずったりすることも少なく、独立心が旺盛にみえる。

(4)ときどき何を考えているかわからないところがある。感情をストレートに表現する
ことが少ない。万事にがまん強い。

(5)ときどき子育てがこんなに楽でいいものかと思うときがある。うちの子は、このま
ま優秀なまま、おとなになっていくと思うことが多い。

 子どもが仮面をかぶっているのがわかったら、家庭のあり方をかなり反省しなければな
らない。子どもの仮面は、子どもの責任ではない。仮面をかぶらせる、親の責任である。
もちろん子ども自身の問題もある。

仮面をかぶるタイプの子どもは、親にすら心を開くことができない子どもとみる。しか
しそれとて、新生児から乳幼児期にかけて、親子の相互愛着行動のどこかに問題があっ
たとみる。子どもの側からみて、満たされない愛、あるいは大きなわだかまりや、欲求
不満が、その背景にあったとみる。

 しかし過去は過去。もしあなたの子どもが、今、仮面をかぶっているようなら、まず子
どもの心を溶かすことだけを考える。言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせる。
その時期は早ければ早いほどよい。子どもが小学生になってからだと、むずかしい。……
というより、なおすのは不可能。それがそのまま子どもの性格として、定着してしまうか
らである。そういう覚悟で、時間をかけて対処する。

 しかし本当の被害者は、仮面をかぶる子ども自身である。ある母親(三五歳)は、こう
言った。「今でも実家の父と母を前にすると、心が緊張します。ですから、実家には、二晩
連続でとまることはできません。何だかんだと理由をつけて、できるだけ日帰りで帰って
きます」と。

 この母親も、親には、ずっとできのいい娘と思われていた。今もそう思われているとい
う。そのため、「父親や母親のそばにいるだけで、心底疲れます」と。今、こういう例は、
本当に多い。

 そんなわけで、今、あなたが自分の子どもを、できの悪い、どこかチャランポランな、
いいかげんな子どもと思っているなら、むしろそれを喜んだらよい。ワーワーとうるさい
ほど自己主張し、親を親とも思わないようなことを言い、態度も大きく、ふてぶてしいな
ら、むしろそれを喜んだらいい。これは皮肉でも何でもない。本来、子どもというのは、
そういうもの。そうであるべき。またそういう前提で、子どもをみなおしてみる。
(03−1−20)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ブルーな気持

 私は、過去において、何度か、失業の危機に直面したことがある。仕事先を、クビにな
ったこともある。飛行機事故に遭遇し、以後、飛行機に乗れなくなってしまったこともあ
る。

当時、通訳や、貿易の代行もしていた。そういう私にとって、飛行機に乗れないという
ことは、致命的だった。その事故のすぐあと、イタリアへ行くという仕事があった。し
かし、その数日前に、その仕事をキャンセルしてしまった。それが最後だった。

 今は、幼児教室で生計をたてている。が、この不況下。それに少子化。私の仕事も、大
きな影響を受けている。このままいけば、赤字になるのは、時間の問題?

 が、それ以上にこわいのは、体力が、年々、弱くなってきていること。今では、土日は、
たっぷりと休息しなければ、翌週の仕事に、さしさわりが出るようになってしまった。そ
のため土日は、人にもできるだけ会わないようにしている。

 しかし、仕事がなくなるというのは、まさに恐怖。恐ろしいほどの恐怖。生活ができる、
できないということではなく、自分の価値や存在すら否定されてしまうかのような、恐怖
である。

 リストラされ、それが理由で自殺する人がいる。中高年の自殺者数が、大幅にふえてい
る。私には、そういう人たちの気持ちが、よくわかる。本当によくわかる。自分を否定さ
れることぐらい、恐ろしいことはない。その恐怖を味わうくらいなら、死んだほうがまし?

 しかしこのところ、一方で、何のために仕事をしているか、わからなくなるときがある。
生きるためとはいうが、明日が、今日の繰りかえしという人生に、どれだけの意味がある
というのか。「今日できることは、今日しよう」と、自分を励ましている。が、どこまでが
んばれることやら?

 通りを歩きながら、同年代らしい男の人とすれ違うと、ときどき、こんなことを考える。
「この人たちは、どんな夢や希望をもっているのだろうか」と。おかしなことだが、ビル
の軒下にうずくまっているホームレスの人たちをみると、妙な親近感を覚える。私と彼ら
の違いはと言われれば、私は、かろうじて、ふんばっているだけ。土俵の端に追いつめら
れながら、ふんばっているだけ。

 しかし今は、何とか、仕事だけはある。家族もいるし、それに健康だ。ほかに何を望む
ことができるか。もし今、仕事がなくなったり、大きな病気になったりしたら、私は、ど
うなる? 私には、それに耐える力はないだろう。勇気も、度胸もないだろう。

賢明な人は、ふつうの価値を、なくす前に気づくという。しかしどうすれば、私はその
賢明な人に、なれるのか。あるいは私は、ふつうの価値を、なくしてから気づくかもし
れない。私は、やはり、愚かな人間かもしれない。

 とりとめもないことを書いてしまったが、今夜の私は、少し落ちこんでいる。ブルーな
気持。いろいろと、いやなことがあった。それに疲れている。睡眠不足もある。しっかり
と今夜は眠って、明日は、心機一転、がんばろう。とにかく、今は、今を大切にして、少
しでも、前に進むしかない。
(030821)

●The reward of suffering is experience. - Aeschylus
 苦しみの代償は、経験である。(アスキュロス)

●When suffering knocks at your door and you say there is no seat for him, he tells 
you not to worry because he has brought his own stool. - Chinua Achebe
苦しみがドアをノックしたら、彼が座るところはないとあなたは言う。しかし彼はこう言
う。心配ない。私は自分のイスをもってきたから、と。(C・アキベ)

●I have never been able to carry out any work coolly. On the contrary it is done, 
so to speak, with my own blood. - Jim Dine
私はどんな仕事も、うまくできたことがない。それとは対照的に、いわば、私の血でもっ
て、それはなされただけ。(J・ダイン)

Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●いろいろな問題

【K市在住の、TUさんよりの相談】

突然のメールでご迷惑をおかけします。

1年前ほど、息子の通う学校で、先生の講演を聴く機会がありました。相談に乗って頂け
ないかと思い、思い切ってメールしました。

息子は今小学2年生です。その息子の勉強の勧め方と、日々の関わり方で、少し困ってい
ます。

最近になり、宿題が増えてきました。内容も量も、1年生のときより増えてきました。ど
うも、宿題をごまかして適当にやろうとしているようです。

そのことで、先日ひどく叱ってしまいました。叱り方が感情的になってしまい、息子もか
なりショックだったようで、勉強のことになると辛くなるようです。「そんな、言いかたを
しないで!」と言います。

息子も人の話を聞けない子で、授業中でも、勝手に騒いでしまうことがあるようです。そ
のこともあり、ついきつく注意することが多いです。

このままいくと、勉強についていけなくなるのではと不安です。勉強も私が見るより、塾
へ行かせたほうがいいのではと思ってしまいます。

このままでは親子関係にも亀裂が入ってしまうのではないかと不安です。あと、人の話が
聞けない子への効果的な関わり方でアドバイスがあったら頂けないでしょうか?

+++++++++++++++++++++++

 多くの母親たちが、同じような問題をかかえ、悩んでいる。そういう意味では、典型的
な悩みの一つ(失礼!)ということになる。

 順に整理してみよう。

(1)家では、あまり勉強しない。
(2)適当にごまかすようになった。
(3)叱り方が過激になってきた。
(4)授業中の態度が、よくない。
(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。
(6)塾へ入れるのは、どうか?
(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 
●家では、あまり勉強しない。

 子どもが受験期になると、親は、言いようのない不安にかられる。

 もともと子育てというのは、そういうもの。親は、無意識なまま、自分が受けた子育て
を、そのまま繰りかえす。

 将来への不安、選別されるという恐怖。自分自身が子どものころ感じた(心)を、自分
の子どもを通して、再現する。TUさんも、子どものころ、そういう不安や恐怖を感じた。
……というよりも、そういう不安や恐怖を、TUさんの親たちから、植えつけられた。

 それが今、TUさんの心の中で、再現されつつある。そしてそれが「うちの子は、あま
り勉強しない。どうしたいいのか」という心配になって、現れてくる。

 そこでTUさんも、「なぜ、自分が、そういう不安にかられるのか?」と、自分自身に、
問いかけてみるとよい。

 理由はいくつかある。

 その第一は、日本全体がもつ、学歴社会。さらには、江戸時代からつづく、身分意識。
さらには日本人独特の、集団意識。それらが混然一体となって、「コースからはずれると、
こわい」という恐怖感をつくりあげる。

TUさんが今、感じている不安感の原点は、そこにある。

 もっともそれに自分で気づくのは、簡単なことではない。TUさんにかぎらず、こうい
った意識というのは、心の奥深いところに巣をつくっている。そのため、なかなか、姿を
現さない。姿をつかめない。

 さらに、「学校での勉強は絶対」という、学校神話もある。

 しかしならば、自分にもう一度、問いかけてみることだ。

 「どうして中学1年で、一次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」「どうして中学
2年で、二次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」と。

 あなたはこうした素朴な質問に、答えることができるだろうか。あるいはあなたの子ど
もが、あなたにそう聞いたとしたら、あなたは、何と答えるだろうか。

 アメリカでは、公立の小学校でも、学校の先生と親たちが、相談して、勝手にカリキュ
ラムまで決めている、そういう(自由)を見せつけられると、「では、日本の教育は何か?」
となる。「私たちは、どうしてこうまで学校の勉強にこだわらなければならないのか?」と
なる。

(入学する学年まで、アメリカでは、学校ごとに、自由に決めているぞ! 「うちの小
学校では、満4歳から入学させる」と、PTAが決めれば、それでもOK! アーカン
ソー州ほか。)

 TUさんは、その前提として、「学校での勉強はできなければならないもの」と思いこん
でいる。私は、それを「学校神話」と呼んでいる。

 TUさんは、(家で勉強しない)→(遅れてしまう)→(受験競争に負けてしまう)と、
心配している。TUさんの気持ちを、こう決めてかかるのは、失礼なことかもしれないが、
おおかた、まちがっていないと思う。

 そこで登場するのが、学歴社会。

 この日本では、学歴のある人は、その恩恵を、たっぷりと受けることができる。とくに、
公的な資格に保護された特権階級、官僚、公務員の世界に、それをみることができる。こ
こ10年で、エリート意識が急速に崩壊しつつあるとはいえ、なくなったわけではない。
残っている。

 そういった不公平を、親たちは、日常的に、いやというほど、見せつけられている。

 本来なら、そういった不公平があれば、それと戦わねばならないのだが、そこは、日本
人。私たちには、独特の、隷属意識がある。「おかしいから、なおそう」と思う前に、「あ
わよくば、自分も……」「せめて自分の子どもも……」と考える。

 だから日本の社会は、少しもよくならない。いつまでも繰りかえし、繰りかえし、つづ
く。

 そこで、TUさんは、「あまり勉強しない」と悩んでいる。

 しかし、本当にそうだろうか? もし仮にTUさんの息子が、学校から帰ってきて、毎
日、1時間、勉強したら、TUさんは、それで満足するだろうか。今度は、TUさんは、「せ
めて2時間……」と思うようになるかもしれない。親の欲望には、際限がない。こんな例
もある。

 先日も、「やっとうちの子が学校へ行くようになりました。しかし午前中で帰ってきてし
まいます。何とか、給食までみなと、いっしょに食べさせたいのですが、どうしたらいい
か」と相談してきた、親がいた。

 私は、それについて、こう返事を書いた。

 「午前中、2時間だけで帰ってきなさい。『3時間目。4時間目はしなくても、いいのよ』
と言ってあげなさい。そのとき、ついでに、『よくがんばったわね』と言ってあげなさい。

もしあなたの子どもが給食まで食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずで
す。『何とか、午後の勉強も受けさせたい。どうしたらいいか』と。しかしそれこそ、親
の身勝手というものです。いつまでたっても、あなたの子どもの心は休まることはない
でしょう」と。

 学校という強制キャンプで、5〜6時間もしぼられてきた子どもが、その上で、さらに
家での宿題である。それがいかに重労働であるか、それがあなたにわからないはずがない。
一度、そういう視点で、TUさん自身のこことして考えてみるとよい。つまり「私なら、
それができるか?」と。さらには、「私は、子どものころ、どうだったか?」と。

 もしそうなら、つまりTUさんが、子どものころ、勉強好きで、学校の宿題をきちんと
し、親の言いつけをハイハイと守っていたとしたら、TUさんは、今ごろは、すばらしい
学歴をもち、特権的な階級で、気楽な生活をしているはず(失礼!)。それならば、何も、
問題は、ないはず。あなたの子どもも、そうなる。

 かなり、きついことを書いたようだが、この問題はいつも、「自分ならできるか?」「自
分が子どものときは、どうだったか?」という視点で、考えてみるとよい。


●適当にごまかすようになった。

 小学校の低学年の子どもで、一日、30分前後、家で、勉強すれば、すばらしいこと。
15分でもよい。大学受験生がするような、受験勉強的な勉強を、小学2年生の子どもに
期待しても、無理。ヤボ。不可能。

 さらに子どもは、9〜10歳前後から、親離れを始める。この時期、幼児がえりを起こ
したり、反対に、おとなのまねをして見せたりしながら、子どもは、おとなになる準備を
始める。子どもあつかいをすると怒るくせに、ときどき母親のおっぱいに触れたがったり
する。これを私は、「揺りもどし現象」と、勝手に呼んでいる。

 女の子では、父親との入浴をいやがったり、裸を見られたりするのを、いやがるように
なる。男の子も、性意識に、このころ急速に芽生えようになる。

 同時に、子どもどうしの世界が、大きくふくらんでくる。それまでは、家庭を中心とし
た世界が、子どもの世界だったのが、学校を中心とした第二世界。さらに、友だちを中心
とした、第三世界へと進む。(ゲームの世界もあり、私はこれを「第四世界」と呼んでいる。)

 当然、親子の関係も、その分だけ希薄になる。

 が、親が、子離れをするようになるのは、子どもが、中学生から、高校生にかけてのこ
と。この時期、親は、「どうしたら子離れできるのか」と悩む一方で、子離れできない自分
にいらだつことも多い。TUさんの悩みも、そのあたりにある。

 子どもが適当にごまかしたら、親も、適当にだまされたフリをして、自分の心をごまか
す。

 いいかげんであることが悪いというのではない。子どもは、(おとなもそうだが)、この
いいかげな部分で、羽をのばす。羽を休める。

 まずいのは、ギスギス。『親の神経質、百害のもと』と覚えておくとよい。過関心、過干
渉も、それに含まれる。


●叱り方が過激になってきた。

 それだけ親のほうの心が、緊張状態に、置かれているということ。

 よく誤解されるが、情緒不安定な状態を、情緒不安定というのではない。心が緊張状態
にある。あるいは心から緊張状態がとれないことを、情緒不安という。

 この緊張状態の中に、不安や、心配ごとが入ると、それを解消しようと、心は一挙に不
安定になる。感情が不安定になるのは、あくまでも、その結果でしかない。

 だから第一に考えるべきことは、どうすれば、その緊張状態から、自分を解放するかと
言うこと。

 いろいろ方法はある。(1)逃避型(その問題から逃げる)、(2)受容型(あきらめる)、
(3)戦闘型(その問題と戦う)、(4)防衛型(それに対抗するための思想を高める)、な
ど。

 それぞれの方法を、バランスよく、自分の心の中で調合しながら、心の緊張感を取りの
ぞく。

 逃避するのが、悪いわけではない。たまには、子育てを忘れる。忘れて、好き勝手なこ
とをする。子どもというのは不思議なもので、親がカリカリしたからといって、伸びるも
のではない。反対に、何もしなくても、伸びる。

 つぎに「うちの子は、こんなものだ」とあきらめる。あなたがごくふつうの女性である
ように(失礼!)、あなたの子どもも、またふつうの子ども(失礼!)。

 ふつうであることが悪いわけではない。この(ふつうの価値)は、それをなくしたとき、
はじめてわかる。賢明な親は、それをなくす前に気づく。愚かな親は、それをなくしてか
ら気づく。

 つぎに大切なことは、自分の心や思想を、理論武装すること。視野を高め、教養を広く
する。夜のバラエティ番組を、夫といっしょにゲラゲラと笑って見ているような家庭では、
困る(失礼!)。

 当然のことながら、自分の心の奥で巣をつくっている、旧来型の学歴信仰、学校神話な
どとも、戦う。しかしこのばあいは、それに対抗しうるだけの、理論武装をしなければな
らない。

 コマーシャルになって恐縮だが、そのためにも、どうか、どうか、はやし浩司のマガジ
ンを購読してほしい。


●授業中の態度が、よくない。

 いろいろなケースが疑われる。心配なケースとしては、ADHD(集中力欠如型多動性)
の問題もある。

 しかし今、(イメージが乱舞する子ども)が、ふえているのも事実。乳幼児期に、テレビ
を見すぎた子どもほど、そうなるという研究結果もある。10年ほど前から、右脳教育と
いう言葉が、さかんに使われるようになったが、乳幼児への不自然な右脳教育は、できる
だけ慎重であったほうがよい。テレビは、その右脳ばかりを刺激する。

 ほかに、環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障害説、食生活のア
ンバランスによる脳間伝達物質の過剰分泌説なども、とりあげられている(シシリー宣言
※)。

 といっても、小学校に入学してから、それに気づいても遅い。

 この時期に大切なことは、(今の症状をよりこじらせない)ことだけを考えて対処する。
そしてその一方で、子ども自身がもつ、自己意識を、うまく育て、それを利用する。わか
りやすく言うと、自分で考えて、行動させるようにする。

 たとえばADHDにしても、小学3、4年を境にして、見た目には、急速にその症状が
落ちついてくる。子ども自身が、自分をコントロールするようになるからである。

 もし学校での騒々しさが目立ったら、こんこんと、繰りかえし、言って聞かせるのがよ
い。あとは、しばらく時間を待つ。

●勉強についていけなくなるのではと、心配。

 この不安は、だれにでもある。が、これは日本人独特の意識といってもよい。つまり、
その「根」は、深い。

 日本人は、集団からはずれるということを、極端にこわがる。恐れる。それはたとえて
言うなら、動物社会における、(群れ意識)に似ている。「みんなと同じことをしていれば
安心」というのが、それ。

 が、この(群れ意識)には、二面性がある。

 一つは、(群れからはずれたら、不安)という意識。もうひとつは、(群れからはずれる
ものを、許さない)という意識。この二つが、相互から相、重なって、日本人独特の群れ
意識をつくる。

 言いかえると、自分自身の中の群れ意識と戦うためには、(自分の確立)と同時に、(他
人の確立を許す)という意識を、自分の中に育てなければならない。

 恐らく、こうした群れ意識というのは、その中に、どっぷりとつかっている人には、わ
からない。こうした群れ意識というのは、一度、自分自身が、その群れから離れてみてわ
かる。あるいは、群れの中にいる人たちに、排斥されてみてわかる。

 少し話がおおげさになってきたが、日本人独特の、(遅れる意識)というのは、そういう
群れ意識の中から生まれている。

 そういう群れ意識を理解して上で、もう一度、あなた自身に問いかけてみてほしい。

 「学校に遅れる」「勉強に遅れる」というのは、どういう意味なのか、と。昔は、「後(お
く)れる」と書いた。いやな言葉だ。

 どうして日本人は、遅れることを、こうまでこわがるのか? どうして、遅れたら、そ
れがいけないのか? どうして、遅れてもよいと、居なおることができないのか?

 あわてて大学を出て、あわてて会社に入社して、その結果、あわてて人生を送って、そ
れでよいのだろうか?

 今までの日本人は、国策として、そういう日本人に育てられてきた。戦前の「国のため」
意識が、「社会のため」意識にすりかえられた。「社会で役だつ人」「立派な社会人」意識に
なった。その結果、いわゆる会社人間、企業人間が生まれた。私の同世代の中には、会社
の発展のために、命をかけて仕事をしてきた人は、いくらでもいる。

 それが悪いというのではない。今の日本の繁栄は、こうした人たちの努力と犠牲(失礼!)
の上に成りたっている。

 しかし、今、同時に、それではいけないという考え方も、浮かびあがってきている。T
Uさんは、恐らく、そのハザマで、もがき苦しんでいる。


●塾へ入れるのは、どうか?

 私も基本的には、その塾を経営している。塾というよりは、小さな教室である。

 で、こういう質問をもらうと、私は、どこまで自分を殺さなければならないかという問
題にぶつかる。迷う。それにつらい。そういう意味では、TUさんの質問は、少なくとも、
私には、「?」である。私は何と答えたらよいのか。

 まさか「うちの教室へおいでなさい」とも書けないし、「塾へは行かないほうがいい」と
も、書けない。

同じように、以前、電話で、こう言ってきた母親がいた。「うちの子を、K式算数教室か、
あなたの教室に入れようかと迷っていますが、どちらがいいですか」と。

 で、私はこう言ってやった。「うちは、10問出しますが、K式のほうは、9問(ク・モ
ン)しか出しませんから……」と。いつか仲間のI先生が、教えてくれた言い方である。

 それに日本人は、学校だけが、勉強の場だと思っている。しかしこれほど、島国的な発
想もない。

ドイツでも、イタリアでも、そしてカナダでも、課外授業のほうが主流になってきてい
る。アメリカでは、日本の塾のように、学校設立そのものが自由化されている。もちろ
んアメリカにも塾はある。「ラーニング・センター」と、ふつう、そう呼ばれている。さ
らにEU諸国(ヨーロッパ)では、大学の単位は、全土で、ほぼ、共通化された。

 どこの国のどこの大学で勉強しても、同じという状態になった。

 こういう事実を、いったい、どれだけの日本人が知っているのか? 文部科学省が発表
する、大本営発表だけを鵜呑みにしてはいけない。官僚たちは、権限と管轄にしがみつき、
自分たちに都合の悪い情報を、決して公開しない。

 が、ひょっとしたら、TUさんは、私を、それ以上の人間とみて、こういう質問をして
きたのかもしれない。一人の塾教師としてではなく、それを超えた人間として……?

 そうだとよいが、そういうことは、あまり期待していない。

 だから、この質問には、あえて答えない。いつか、別のところで、一つのテーマとして、
考えてみたい。


●親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 親子関係でも、こわれるときには、こわれる。しかもそれをこわすのは、子ども。しか
もその子どもは、親の生きザマを見て、こわす。

 だから親は親で、き然として生きる。それしかない。「あんたなんかに嫌われても、かま
わない」「あんたは、あんたで、勝手に生きなさい」と。

 親の側が、「こわれるのでは?」と心配すればするほど、立場が逆転する。親のほうが、
子どもの機嫌をとったり、子どもにコビを売ったりするようになる。

 しかしそれこそ、本末転倒。それについては、参考になる原稿を、このあとに添付して
おく。

 要するに、親は親。子どもは子ども。どこか溺愛タイプの母親ほど、子どもに嫌われる
のを、こわがる。しかし親に嫌われて困るのは、子ども。それを忘れてはいけない。

 つまりこの問題も、日本人独特の子育て観と深くからんでいる。

 日本人は、自分の子どもを、一人の人間としてではなく、いわばペットとして育てる(失
礼!)。そしてベタベタの依存関係をつくりながら、それを親子の太い絆(パイプ)と誤解
する。たがいに犠牲になることを、美徳と考える。

 しかし親子というのは、皮肉なもの。親というのは、子どもに嫌われないようにすれば
するほど、嫌われる。嫌われても構わないという生き方をすればするほど、かえって尊敬
される。子どもは、長い時間をかけて、親の心の裏側まで、見抜いていまう。

 それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたが尊敬できる親というのは、あなたの歓心を買い、ベタベタと機嫌をとってくる
親だろうか。それとも、「私は私」と、き然とした生き方をしている親だろうか。

 つまり親も、いつか、対等の人間として、その生きザマを、子どもに問われるときがや
ってくる。必ず、やってくる。そのとき、それに耐えられるような親になっているか、ど
うか。そういう立場になったときの視点で、ものを考えてみればよい。

 親子の関係など、気にしないこと。あるいは「こわれるもの」「こわれて当然」と考える
こと。10年後、20年後のことはわからないが、そのとき、親子の関係がこわれていな
かったら、もうけもの。そう考えて、居なおる。

 もう、子どもは小学2年生なのだから、あなたはあなたの人生を、前向きに生きればよ
い。母ではなく、妻ではなく、女ではなく、一人の人間として……。母親は、子どもを妊
娠し、出産する。そういう意味では、母親は、子どもに対しては、犠牲的な存在かもしれ
ない。しかし、母親も、一人の人間として、自分の人生まで、犠牲にしてはいけない。


●ではどうするか?

 否定的なことばかり書いていてもしかたないので、「では、どうしたらいいか」というこ
とについて考えてみる。

(1)家では、あまり勉強しない。

 この時期は、まだ「勉強は楽しい」という意識を育てる。無理、強制、条件(〜〜した
ら、小遣いをあげる)、比較(A君は、何点だったのと聞く)は、禁物。

 これから先、子どもは、過酷なまでの受験競争を経験する。そういうとき最後のキメテ
となるのが、忍耐力。

 まだこの時期は、その忍耐力を養うことを考える。まにあう。

 なお子どもの忍耐力は、(いやなことをする力)をいう。テレビゲームやサッカーを、一
日中しているからといって、忍耐力のある子どもにはならない。子どもを忍耐力のある子
どもにするには、子どもを家事の中に巻きこみながら、使う。『子どもは使えば、使うほど、
いい子』と覚えておくとよい。

 そういう力、つまり(いやなことをする力)があってはじめて、将来、あの苦しい受験
勉強を通り抜けることができるようになる。

(2)適当にごまかすようになった。

 親は、子どもを最後の最後まで、信ずる。それが親。だまされたとわかっていても、と
ぼける。そしてあとは許して、忘れる。

 仮にあなたの子どもが、あなたのサイフからお金を盗んで使っていたとしても、一応は
叱りながらも、子どもを信ずる。「だれだって、それくらいのことはする」「うちの子だっ
て、そういう経験をしながら、おとになる」と。

 そして仮にそのお金で、あなたの誕生日プレゼントを買ってきたとしても、一応、あな
たは喜んだフリをする。

 もしお金を盗まれるのがいやだったら、管理をしっかりとすればよい。そういう方法で、
対処する。

 それともTUさん、あなた自身は、どうか? あなたは何もごまかしていないか? 交
通ルールだって、しっかりと守っているか。交差点で、黄信号になったら、しっかりと車
を止めているか。ショッピングセンターでは、いつも、駐車場に車を止めているか。

 さらに友だちとの約束は、しっかりと守っているか。人に誠実か。借りたお金を、いつ
もきちんと返しているか。

 もしそうなら、それでよし。あなたの子どもの心がゆがむことは、絶対にない。が、そ
うでないなら、つまりあなた自身が、どこか小ズルイ人であるなら、それはあなたの子ど
もの問題ではない。あなた自身の問題である。

 あなたはひょっとしたら、自分のいやな面を見せつけられるようで、子どもが、ズルイ
ことをするのが許せないのとちがうだろうか(失礼!)。人間というのは、自分がもついや
な面をだれかに見せつけられると、カッとなりやすい。もしそうなら、やはり、これはあ
なた自身の問題ということになる。

(3)叱り方が過激になってきた。

 育児ノイローゼの初期症状も疑ってみる。心の緊張感をとるように、努力する。

 こうした緊張感は、あなた自身にとっても、また子どもにとっても、よくない。しかし
こうした問題は、何とかしようともがけばもがくほど、アリがアリ地獄に落ちるように、
かえって深みにはまってしまう。

 では、どうするか。

 あなたも、一人の人間として、自分の進むべき道を模索する。そうでなくても、これか
ら先、子どもの問題は、つぎからつぎへと起きてくる。だから子育てとは別に、つまり子
育てを離れた世界で、自分の生きザマを確立する。

 そのときコツがある。できるだけ、自分の中の「利他」の割合を大きくする。そしてそ
の一方で、「利己」の割合を、小さくする。「利己」が大きければ大きいほど、かえって袋
小路に入ってしまう。つまり何かの方法で、他人のために働くようにする。具体的には、
ボランティア活動がある。

 ボランティア活動をすすんでする人たちの、あの内からわきでるような神々しさ、あな
たも感じてみるとよい。それがその人の、人間的な大きさということになる。

 また、子どもの耳は、長い。(英語で『子どもの耳は長い』というときは、別の意味で使
うが……。)叱っても、その音が脳に届くまでには、時間がかかる。言うべきことは言いな
がらも、あとは、子どもの判断に任せる。

(4)授業中の態度が、よくない。

 子ども自身は、「よくない」とか、「悪い」とか、思っていない。もう少し年齢が大きく
なるのを待つ。もう少しすると、先に書いた自己意識が育ってくるので、それをうまく利
用する。

 あとは、学校の先生には、低姿勢でのぞむこと。「うちの子が、みなさんに迷惑をかけし
ているようで、すみません」と。

(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。

 現実問題として、中学一年生で、掛け算の九九が、満足にできない子どもは、全体の1
〜20%はいるとみる。

 国立の大学に通う大学院生(文科系)でも、小学校で習う、分数の足し算、引き算がで
きない学生は、30〜40%(※2)もいる。

 悲しいかな、これが日本の教育の現実である。いいかえると、今は、そういう時代だと
いうこと。オールマイティな頭でっかちの子どもより、一芸に秀でた子どものほうが、生
きやすいということ、。またこれから先、そういう時代になるということ。

 定年退職したあとも、大卒の学歴をぶらさげて生きている人は多い。しかしこれからは、
もうそういう時代ではない。

 たまたまTUさんの子どもは、小学2年生ということだから、この年齢あたりが、その
分かれ道ということになる。

 アカデミックな学習態度を身につけて、いわゆる日本の学歴社会に順応していくか、あ
るいはそれに背を向けて、サブカルチャの道を進むか。

 もし勉強に遅れが目立ってきたら(こういう言い方は、本当に不愉快だが……)、「勉強
をさせる」のではなく、あなた自身が、自分で勉強するつもりで、子どもをその雰囲気の
中に巻きこんでいく。そういう姿勢が、子どもを勉強好きにする。

(6)塾へ入れるのは、どうか?

 一度、子ども自身の心を確認してみること。すべては、ここから始まる。

(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安

 そういう不安があるなら、もうすでにこわれ始めている。人間関係というのは、そうい
うもの。

 よく若い男が、女に、「お前を信じているからな」と言うことがある。しかしそう言うと
いうことは、すでに相手を疑っているということになる。

 本当に相手を信じていたら、そういう言葉は出てこない。同じように、「親子関係が、こ
われるかもしれない?」と不安になっているようなら、すでにこわれ始めているとみる。

 「母親の役目はここまで。あとは父親の役目」と、割り切ることはできないのか。いつ
までも母性世界だけで、子どもを育ててはいけない。とくに、相手は、男児。それともあ
なたは、自分の子どもを、マザコンタイプの冬彦さんにしたいのか?

 今、若い男性でも、そして結婚してからの夫でも、このタイプの男が多い。多すぎる。

 結婚してからも、何か自分のことでニュースがあったりすると、妻に話す前に、実家の
母親に電話したりする。当の本人は、そうすることが、親孝行の息子と誤解している。そ
してお決まりの、美化論。親を美化することによって、自分のマザコンぶりを、正当化し
ようとする。

 「私の母は、立派な人だ。だから私が、こうして尽くすのは、当たり前。子どもの義務」
と。

 なぜこれほどまでに、この日本で、マザコンタイプの男がふえてしまったか? その原
因の一つに、TUさんが今、感じているような不安がある。そしてその不安の根源は、日
本の文化そのものに深く根ざしている。

【TUさんへ】

 かなりきびしいことを書きました。自分でも、わかっています。

 しかしこの問題は、TUさんだけの問題ではありません。広く、ほとんどの母親たちが、
共通して悩んでいる問題です。

 私の返事は、本文の中に書いておきました。しかしこれだけは忘れないでください。

 今、あなたの子どもは、あなたに考えるテーマを投げかけているのです。子育ての問題。
教育の問題。日本の社会や文化の問題など。

そこで大切なことは、こうしたテーマについて、あなた自身が考え、自らの結論を出す
ということです。

 本文の中で、「あなた自身はどうだったか」と書きましたが、それはまさしく(あなた)
自身を知るきっかけとなるはずです。

 そういう視点、つまりあなたが子どもを育てるのではない。あなたの子どもが、あなた
という人を育てるために、そこにいる。そういう視点で、子どもをみます。

 あなたが「私は親だ」と思っている間は、決してあなたの子どもは、あなたに対して心
を開くことはないでしょう。あなたに何も教えないでしょう。しかしあなたがほんの少し
だけ、子どもと対等の立場にたち、謙虚になれば、あなたの子どもは、あなたに心を開く
ことになります。

 メールを読むかぎり、あなたは、どこか権威主義的な、親意識の強い方だと思います。
もしそうならなおさら、つまらない親意識など捨てて、子どもに、こう話してみてはどう
でしょうか。

 「ママも、子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった。おもしろくないもんね」「学校の
宿題なんてね、適当にやればいいのよ。あなたは学校でがんばって、疲れているんだから、
家の中では、休めばいいのよ。ごくろうさま」と。

 あなたの子どもは、目を白黒させて驚くかもしれません。しかしそのあと、あなたの子
どもは、心を開いて、いろいろ言うでしょう。

 いいですか、親子の絆(きずな)というのは、そういうものです。心を開きあわないで、
どうして絆を太くすることができるでしょうか。

 この絆の問題については、また追々、私のマガジンのほうで書いていきます。まだマガ
ジンを購読なさってくださっておられないようなので、ぜひ、ご購読ください。いつまで、
このエネルギーがつづくかわかりませんので、早い者勝ちです。今なら、無料。お得です。
ホント!

 では、今日は、これで失礼します。メールの引用、転載など、ご了解いただければうれ
しく思います。

 なおこの原稿は、マガジンの6月30日号のほうで、掲載するつもりです。そのときま
でにまた推敲に推敲を重ねておきますので、またそちらのほうを、お読みいただければう
れしく思います。ご都合の悪い部分などあれば、至急、お知らせください。よろしくお願
いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの勉強 子供の勉強 子どもの学習 子供の学習 勉強をしない子
ども 勉強をしない子供 家庭での勉強)

++++++++++++++++++++++++++

●「シシリー宣言」

一九九五年一一月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣
言を行った。これがシシリー宣言である。

その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであった。いわく、

「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではなく、
行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適
応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。

「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自
殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動症を引き起こす。IQが低下する。人
類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶ
しかない」と。

ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内
暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)
のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、
環境ホルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、
胎児の脳に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの
発達を損傷する」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

※2学力

 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであった
という。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学など
を研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。

結果、二五点満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、
ある国立大学の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より
好成績をとったという。

++++++++++++++++++++

●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、
問題は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせるこ
と」「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。
またそれが親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にと
いうか、無意識のまま、してしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを
知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知
れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを
知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、
お金ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するよう
になる。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんと
う)する。たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れ
ていくこともあるだろう。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは
忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎ
てしまう。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言っ
た。

「ヒロシ、日本の子どもたちは、100%、スポイルされているね」と。「スポイル」と
いうのは、「ドラ息子化している」という意味。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、
生活力も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解で
きるようになる。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあ
なたの子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。

しかしそれを見て見ぬフリしたり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あ
なたは家庭教育のあり方を、かなり反省したほうがよい。子どもをかわいがるというこ
とは、どういうことなのか。子どもを育てるということがどういうことなのか。それを
もう一度、原点に返って考えなおしてみたほうがよい。
(040530)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日・あれこれ】

●朝

 昨夜は、11時ごろ、風呂に入った。床についた時刻は、覚えていない。多分、12時
ごろではなかったか。

 しかしこのところ、朝が、早い。5時半には、目がさめてしまう。今朝もそうだった。
そのせいか、このところ、毎日のように、軽い昼寝をしている。あるいは、こうしてコタ
ツの中に入り、パソコンに向かっていると、ときどき、猛烈な睡魔に襲われる。今が、そ
うだ。

 大きなあくびが、数回、たてつづけに出た。気持ちのよい朝だ。空気がかわいている。
すがすがしい。一年中、こうだといいのだが……。


●今、ほしいもの

 昨夜、近くのショッピングセンターへ、買い物に行ってきた。今日、大切な客が来るの
で、その料理のためである。

 で、いつものように、その帰りに、パソコンショップへ。今、ねらっているのが、P社
のデジカメ。超高感度のカメラである。夜景も、フラッシュなしで撮れるという。もちろ
んブレ防止機能つき。

 「株があがったら……」と思っているが、その株は、さがる一方。まあ、ここはがまん
のとき。


●すべてをもつ人

 この世の中には、幸運にも、すべてをもつ人がいる。

 名誉、地位、財産、家族。それに、周囲の人たちの暖かい愛。ほかの人の、何千倍も、
濃密な人生を歩んでいる。少なくとも、傍(はた)から見ると、そう見える。

 しかし当の本人が、それを自覚しているかというと、それは疑わしい。人は、幸福であ
るにせよ、そうでないにせよ、その生活を長くつづけていると、やがて自分がわからなく
なる。

 それはちょうど、サングラスに似ている。あのサングラスをしばらくかけつづけている
と、青は青に、赤は赤に、それなりに、色のちがいが、はっきりと区別できるようになる。

 幸福な人は、幸福色のサングラスをかけて、世界を見る。そうでない人は、これまた別
の色のサングラスをかけて、世界を見る。

 で、このことは、2つの教訓を、私たちに教えている。

 ひとつは、幸運にも、すべてをもつ人でも、それなりに、ときに、不幸を感じ、それな
りにさまざまな問題をかかえているということ。

 一方、そうでない人、つまり私も含めてだが、そういう人でも、冷静に自分を見れば、
結構、幸福な部分も、ないわけではないということ。不幸に見えるのは、あくまでも、サ
ングラスのせい。

 まわりくどい言い方をしたが、人は、(ふつうの価値)を、自分の中に発見したとき、幸
福になれるということ。賢明な人は、その(ふつうの価値)を、それをなくす前に気づく。
そうでない人は、それをなくしてから気づく。

 幸運にも、すべてをもつ人が、必ずしも、幸福とはかぎらない。しかしそうでないと思
っている人でも、いくらでも、幸福になれる。

 ……とま、そう考えて、自分をなぐさめる。


●5月31日号

 この原稿は、マガジンの5月31日号用。だから何か、5月のしめくくりのような原稿
を書かねばならない。

 しかし実際には、今日は、5月3日。5月3日に、5月のしめくくりの原稿?

 おかしな気分だ。タイムマシンに乗って、一度、5月末に飛び、そこから今という過去
を見ているような気分。

 多分、無事、今月も終わることだろう。そう願っている。あるいはひょっとしたら、交
通事故か何かで、そのときには、死んでいるかもしれない。が、マガジンだけは、5月3
1日に配信される。

 だからというわけでもないのだろうが、このところ、「月」に対する感覚が、少し狂って
きたように感ずる。4月なのに、5月だと思ってみたり、5月なのに、4月だと思ってみ
たりする。カレンダーを読みまちがえることも、たびたびある。

 しかし、何はともあれ、こうしてパソコンの前に座っている私にとっては、今日(5月
3日)が、5月31日なのだ。


++++++++++++++++++はやし浩司

●T選手

 昨夜、今度のワールドカップの出場選手のメンバー表が、発表された。その中に、Tさ
んの名前が、筆頭にあった。うれしかった。

 で、先日、何かのことで会って別れるとき、私が、「すばらしい人生を歩んでおられます
よ」と言うと、謙遜して、「スポーツしかできませんから……」と。

 昨年のアジアカップ杯では、全戦に出場し、優勝まで、なし遂げた人である。Tさんは、
私たちの知らないすばらしい世界、想像もつかないほど濃い世界を知っている。それがう
らやましい。

Tさんの前では、一度とて、サッカーの話をしたことはない。ないが、私は、心底、T
さんを尊敬している。

(Tさんへ、もしこの原稿が目にとまったら、この林も、あなたの隠れファンだというこ
とを、どうか忘れないでくださいよ!)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 29日(No.732)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【世界の教育格言】

●種を蒔いたように……

As you sow, so we shall you reap. 「あなたが種を蒔いたように、あなたはそれを刈らねば
ならない」。イギリスの教育格言。つまり因果応報ということか。子育てについて言えば、
ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、「子どもをなおそう」とする。しかしなお
すべきは、子どものほうではなく、親のほうである。そういう視点から、子どもの問題を
見つめなおしてみる。


●引いて、発(はな)たず

孟子(紀元前3世紀ごろの、中国の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典のひとつとされ
る)が残した言葉である。子どもに矢の射り方を教えるときは、矢の引き方までは教える。
しかし、その矢を放つところまでは見せてはいけないという意味。教育といっても、やり
すぎはよくない。たとえば手取り、足取り教える教育法がある。一見、親切な指導法に見
えるかもしれないが、かえって子どものためにならない。


●子どもは人の父

The Child is Father of the Man. 「子どもは人の父」、イギリスのワーズワースの詩の一節
である。子どもが成長し、やがておとなになっていくのを見ていると、この感を強くする。
つまり、子どもは、人の父、と。子育てというのは、子どもを育てることではない。子ど
もに、子育ての仕方を見せておく。見本を見せておく。「あなたが親になったら、こういう
ふうに、子どもを育てるのですよ」と。それが子育て。


●食欲がないときに……

『食欲がないときに食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶
をそこない、また記憶されない』。Studying without an inquiring desire will be not 
retained in ones' memory. レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の言葉である。
子どもの学習指導の常識と言ってもよい。日本では教育というと、「教え育てる」が基本に
なっているが、それは昔の話。子どもから意欲を引き出し、それをじょうずに育てる。あ
とは子ども自身がもつ「力」に任せればよい。


●忠告は密かに……

Give advice secretly, and praise children openly. 「忠告は密かに、賞賛はおおやけに」。
古代ローマの劇作家、シルスの言葉である。子どもを叱ったり、子どもの名誉をキズつけ
るような行為は、だれもいないところでせよ。しかし子どもをほめるときは、みなの前で
せよ、という意味である。子育ての行動規範のひとつとして覚えておくとよい。


●教育の秘法

あのエマーソン(アメリカの詩人、思想家、1803〜1882)は、こう書いている。『教
育に秘法があるとするなら、それは生活を尊重することである』と。欧米では、「自立した
よき家庭人」を育てるのが、教育の柱になっている。とくにアメリカでは、デューイの時
代から、より実用的なことを教えるのが、教育の柱になっている。生活に根ざさない教育
は、そも役に立たない。生活を尊重してこそ、そこに真の教育があるというわけである。


●かわいくば……

『かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ』(二宮尊徳、江戸時代後期
の農政家、1787〜1856)と。「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼
吸おいて、まずよいところを三つみつけて、それをほめる。そしてそのあと、二つくらい
の割合で、叱れ」という意味。子どもをほめる、子どもを叱る……。それは家庭教育の要
(かなめ)と言ってもよい。


●最初に受けた印象が……

First impressions are most lasting. イギリスの教育格言。つまりものごとは、第一印象が
大切ということ。とくに子どもの教育では、そうである。その第一印象で、すべてが決ま
るといっても、過言ではない。だから子育てをしていて、「はじめの一歩」を感じたときは、
とくに慎重に! コツは、叱らない、おどさない。「小学校はきびしいのよ」「先生はこわ
いわよ」と教えたため、学校へ行きたがらなくなる子どもは少なくない。


●玉、磨かざれば……

『玉、磨かざれば、器(うつわ)ならず。人、学ばざれば、道知らず』(礼記、中国五経の
一つ)。脳の健康は、肉体の健康と似ている。究極の健康法などというものはない。同じよ
うに、究極の思想などというものはない。運動を怠ったら、その日から、健康はくだり坂
に向かう。同じように考えることを怠ったら、その日から、脳は老化する。人は、日々に
研鑽(けんさん)してこそ、人でありえる。学ばない人、考えない人は、それだけで、大
切な人生を無駄にしていると言える。


●馬を水場に……

A man may lead a horse to the water, but he cannot make it drink. 「馬を水場に連れて
行くことはできても、その馬に水を飲ませることはできない」。イギリスの教育格言である。
子どもを伸ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。楽しむことによって、自発的行動(オ
ペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを伸ばす(スキナー)。しかし無
理は禁物。無理をしても、意味がない。それがこの格言の意味ということになる。


●ビロードのクッションより……

It is better to sit on a pumpkin in the field rather than to sit on the soft velvet cushion of 
the palace. 『ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうがよい』(ソロ
ー、アメリカの随筆家、1812〜1862)。子どもにとって家庭とは、すべからく、カ
ボチャのようでなくてはならない。子どももある程度の年齢になったら、家庭は、しつけ
の場から、心を癒す、憩いの場となる。またそうでなくては、いけない。


●教育は、母のひざに始まり……

I・バロー(17世紀のイギリスの数学者)は、こう言っている。「Education starts in 
mother's lap and what children hear in those days will form their character.(教育は母
のひざに始まり、幼年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する)」と。この時期、
母親の子どもへの影響は、絶対的なものであり、絶大である。母親が、子どもの方向性の
すべてを決定づけると言っても過言ではない。子どもの教育は、子どもをひざに抱いたと
きから始まると、バローは言っている。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【親の影、子どもの心】

+++++++++++++++++++

親がもつ影、それがそのまま子どもの心と
なる。

いくら親が仮面をかぶっても、子どもは、
それを見抜く。見抜いて、自分の心と
してしまう。

子育てのこわさは、実は、ここにある。

+++++++++++++++++++

 掲示板に、こんな書きこみがあった。それをそのまま、ここに転載する。

++++++「はやし浩司のHP」掲示板より++++++

信頼関係・・・その信頼関係についてですが、娘の出産後、異常なまでの神経質な状態が
続いていたことは確かです。子どもが2か月くらいまでは、まだ覚えていますが、その後1
才くらいまでの間、正直、記憶がありません。

少し思い出しましたが、出産した病院が異常に母乳にこだわる病院でした。たくさんの勉
強を入院前、入院中も押しつけられました。出産前は、子どもなんてほっておけば自然に
育つわ!、なんていいかがんな考え方をしていましたが、そこで、完全に否定されました。

完全母乳と、「断乳」ではなく「卒乳」というプレッシャーの中で、子どもが自分からいら
ないよ、と言うまで与え続けなさいというものでした。

が、2才を過ぎてもやめられない子どもにイライラし、でも我慢、我慢・・・・と。しか
し、体がついていきません。そろそろ・・と考え、無理やり引き離しました。当然、子ど
もは異常なまでに、泣き続けました。

そんな娘でしたが、「保育園で頑張っているのだから」と、一貫性のない気持ちが顔を出し、
泣く姿に負け、またおっぱいを吸わせてしまいました。常に、自分が働いているのが悪い
のだから・・・という負い目がありましたが、でも、自分の夢もありました。当時の育児
休暇は一年間だけ。それ以上ということになると、退社するしかありませんでした。

そして、常に(今も)、私の心にあるものは、「悪い母親像」です。他の、近所の母親など
のひどい所、悪いところばかり、見ていました。それに自分の母親も。そういう見方が、
いつもあって、私は心でこう言っています。「なんてひどい母親たち、絶対にあんな風には
ならない」って。「なんて低レベルな親たち。。。。」とも。

「こうなりたい」ではなく、「こうなりたくない」ばかり。とくに自分の母親のようには、
なりたくないと思っていました。

私の母親は、私を産んだあと、2か月で復帰し、基本的に父親の母(つまり私の祖母)に
よって、私は育てられました。やがて2才年下の弟が生まれ、2か月の産休中、保健婦さ
んが、弟の健診に来たとき、私について、「心配だ、欲求不満状態ですよ」と言ったそうで
す。

幼稚園児のときから、私は鍵っ子。家に帰っても、家には、誰もいません。夏休みになる
と、私は、母の実家、父の実家と転々。「明日は○○が見てくれるって、助かるわー」など
と、何度もため息を漏らされたこともあります。

愚痴を言われるたび、いい子でいなきゃって思いました。毎晩のように、行った先々がお
化け屋敷になる夢を見ていました。楽しい思い出もたくさんあるはずなのに、なぜこんな
事しか覚えていないのでしょうね。おかしいですね。

今、長女も同じ気持ちだとすると・・・心が痛いです。まともな育児を受けてなかったか
ら、今、うまく、子どもを育てられないのでしょうか。・・・これも母親のせいにしてしま
いますね。つくづくイヤになってしまいます。子どもの事が心配だ、と言いながら、一番
心配しているのは自分のことで、また、自分という母親なのですね。

未熟な親と指摘され、それについては、思い当たるところがあります。

まだ、小学生か、中学生のままのような感じです。親に、もっと抱きしめて欲しかったの
に、とか、よく思います。

よく買い物の立ち話で、こんなことを言う親がいますね。「まだ夏休み! うちの子、はや
く学校いってくれないかしら」と。そんなことを聞くと、「私がいつもお母さんのそばにい
ることを、お母さんは嬉しいと思っていたのに・・・お母さんは、嬉しくなかったのかし
ら?」と。そういう思いが、まだ自分の中で、消化できていません。

こんなこと、思っていたらいけないと考えています。

もう、やめます。「あのようになりたくない」じゃなく、「こんな人になりたい」に切り替
えて。自分が変われば自然とついてくるような気がします。

++++++++++++++++++++

【書きこみをしてくださった、Pさんへ、はやし浩司より】

 Pさんのことというより、あなたの書きこみを読んで、自分のことをあれこれ考えまし
た。私も、ごく最近、気がついたのですが、私という息子は、私の母には、重荷でしかな
かったように思います。

 私が幼児のころは、たしかに私の母は、私を、でき愛しました。ベタベタでした。しか
しそれは本当に私を、受けいれてくれていたからではありません。私を利用して、自分の
心のスキマを埋めていただけなのですね。

 私が反抗期を迎え、母に反抗するようになると、その母は、どんどんと変化していきま
した。が、そうした変化にしても、そのときはわかりませんでした。今、こうして自分の
過去を冷静にみていくとわかる……という変化です。いつしか私は母に嫌われるようにな
っていました。が、そのときは、母を、みじんも疑いませんでした。いつでも母は母であ
り、私のことを、心底、気にかけてくれているのだと、そのときは、そう思っていました。

 そこでどうでしょう、「母」という言葉がもつ幻想を、捨てるのです。「母」というと、
神様か、仏様のように思う人も多いですが、それはまさに幻想です。幻想そのものです。
極端な例ですが、子どもを虐待する、(虐待ママ)と呼ばれる母親たちがいます。そういう
母親を見ていると、その思いを強くします。

 だからといって、そういう母親を責めているのではありません。そういう母親はそうい
う母親で、苦しんでいます。自分の中に潜んで、裏から自分を操る、自分でない自分に、
苦しんでいます。

 で、その幻想さえ捨ててしまえば、……といっても、それは簡単なことではありません
が、それができれば、母親といえども、1人の人間として、見ることができるようになり
ます。しかしそれは同時に、つまりそうすることは、自分という(私)のためでもありま
す。

 私たちもその(親)ですが、親であるという立場に、決して甘えてはいけません。とも
すれば、(親である)という立場に甘え、子どもの心を見失ってしまいます。しかしいつか
必ず、自分も、1人の人間として評価されるときがやってくる。そういう前提で、自分の、
親としてのあり方を考えます。

 私たちの世界では、あなたのような母親を、「気負いママ」と呼んでいます。「いい親で
いよう」という気負いが強い親をいいます。「いい家庭を作ろう」「すばらしい子育てをし
よう」と。が、気負いばかりが強くて、結局は、親子の関係をぎくしゃくしたものにして
しまいます。

 なぜ、そうなるかと言えば、あなた自身に、しっかりとした(親像)が、脳の中にイン
プットされていないからとみます。率直に言えば、不幸にして不幸な家庭で、育てられた。
繰りかえしますが、子育ては本能ではなく、学習によってできるようになります。

 自分が親に育てられたという経験、つまり学習があってはじめて、今度は自分が親にな
ったとき、自然な形で、自分の子育てができるようになります。が、それがないと、どこ
か、かたよった子育てをするようになります。

 極端に甘い親とか、極端にきびしい親というのは、たいていこのタイプの親と考えて、
まちがいはないようです。

 が、こういうばあいでも、決して、自分を責めてはいけません。自分の親を責めても、
いけません。みな、そうなのですから……。

 幸福な家庭で、何ひとつ、不自由なく、親の豊かな愛情に恵まれて育てられた人の方が、
はるかに少ないのですよ。みんな、それぞれ、何らかの問題をかかえている。問題のない
人など、いません。

 ただここで重要なことは、仮にあなたの過去がそうであるからといって、それをそのま
ま子どもに伝えてはいけないということです。それを私たちの世界では、「世代連鎖」とか、
「世代伝播」とか呼んでいます。子育てというのは、世代から世代へと、連鎖しやすいと
いう意味です。つまりそれに気がついたら、あなたという親の代で、それを断ち切ります。

 その点では、すでにあなたは、それに気づいている。自分をや自分の過去を冷静に見つ
める目を、すでにあなたは、もっている。だからあなたは、すでにすばらしい親になった
のです! わかりますか。あなたはすばらしい親になったのですよ!

 それに気づけば、あとは時間が解決してくれます。今すぐというわけではありませんが、
「時」には、そういう力があります。ちょうど畑にまいた種のようなものです。今すぐと
いうわけにはいきませんが、やがて芽を出し、実を結びます。

 決して、あせらないこと。時の流れの中に、静かに、身を任せることです。

 ねっ、よい親になるって、意外と簡単なことだと、思いませんか? あとは、子どもを
育てようなどという意識は捨てて、子どもに、子育てのし方を見せるつもりで、子育てを
つづければよいのです。

「あなたが親になったら、こういふうに子育てをするのですよ」「家庭とは、こういうも
のですよ」「夫婦というのは、こういうものですよ」と。そしてこう思います。「私が、
その見本を見せてあげるから、しっかりと、よく見ておくのですよ」と。

 そうそう、私もあるとき、自分の母親を見て、こう思いました。「何だ、ただの女ではな
いか」と。しかしそう思ったとたん、気が楽になりました。それまでは、「母」という幻想
にとりつかれ、母が、その幻想に反したことをするたびに、腹を立てていました。「そんな
はずはない」と、です。

 以上ですが、何かの参考になれば、うれしいです。では、おやすみなさい。
(06年5月1日)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●伝統とは?

++++++++++++++++++++

今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。

その教育基本法改正案の前文には、
「……伝統を継承し……」とある。

しかし、伝統とは何か?
そも、伝統とは、継承すべきものなのか?

++++++++++++++++++++

 日本では常識でも、外国へ行くと、そうでないというような事例は、よくある。たとえ
ば日本では、「自然を愛します」と言うと、その言葉自体が、美しい響き放つ。

 しかしアラブ諸国など、砂漠の国へ行くと、そうではない。そういう国々で、「自然を愛
します」などと言おうものなら、「お前はバカか」と言われる。彼らにとって自然とは、砂
漠をさす。

 同じようなことを、私は、ブラジルでも経験した。

 日本では「緑を大切にしましょう」と子どもたちに教える。しかしブラジルの人たちに
とっては、緑、つまりジャングルは、まさに恐怖に満ちた暗黒の世界。大切にすべきもの
ではなく、戦うべき相手ということになる。少なくとも、30年前には、そうだった。

 私はそう言ったことはないので、実際にはどうかは、わからない。しかしブラジルで、「緑
を大切にしましょう」などと言おうものなら、同じように、「お前はバカか」と言われたか
もしれない。

 そうそう今、思い出したが、昔、こんな記事を何かの本で読んだことがある。黒澤明の
『影武者』という映画を、アラブのどこかの国で上映したときのこと。英語では、「影武者」
を、「シャドウ・ウオリアー(陰の武士)」とでも訳すのか。アラビア語でも、同じように
訳したのだろう。そのため最後の最後まで、アラブの人たちは、その映画が理解できなか
ったという。

 それもそのはず、「影」は、「日陰」を表す。彼らにしてみれば、「影」はまさしく、「オ
アシス」を意味する。日本語的に考えれば、「影武者」は、「オアシス戦士」とでもなる。「ど
うしてそのオアシス戦士が、悪いのか」と。

 そこで本題。

 今度、教育キホン法改正案なるものが、閣議了承された(06年4月)。その前文に、「…
…伝統を継承し……」うんぬんとある。

 しかし伝統とは、何か? ここでは視点を変えて、英語で考えてみる。伝統は、英語で
は、「tradition」と訳す。反対にtraditionは、「伝統」と訳される。

 しかし今、アメリカ人や、オーストラリア人に、「traditionを代々継承するこ
とは大切なこと」と言うと、やはり、「お前はバカか」と言われるにちがいない。英語の「t
raditon」という単語には、日本語でいう「伝統」という意味も含まれるが、その
ほかにも、慣習、しきたり、伝説、言い伝えという意味も含まれる(研究社、アプローチ
英和辞典)。

 つまりそれらをひっくるめて、「tradition」という。

 そこでもし教育キホン法改正案に、こう書いてあったとしたら、あなたはどのように感
ずるだろうか。

 「……慣習、しきたり、伝説を継承し……」と。

 あなたは多分、「?」と思うにちがいない。「バカか」と思うかもしれない。つまり日本
では常識でも、外国ではそうではないということはよくあるが、これもその一例というこ
とになる。そこでもう少し具体的に、たとえば、前文に、「先人たちの知恵を生かし」とか、
「歴史的遺産を大切にして」とか書いてあれば、話もわかるのだが……。

 それにしても、「伝統を継承し」とは、何をさすのか? すこしうがった見方をすれば、
「天皇制の維持」を意味するとも、考えられなくはない。こうしたあいまいな言い方とい
うのは、官僚たちが得意とする、お家芸でもある。

 あいまいな文章のまま、一度、何かのお墨つきをもらい、あとは自分たちの解釈で、自
由勝手に料理する。この教育キホン法改正案もそうである。閣議了承、さらには国会通過
というお墨つきさえもらえれば、あとは自分たちで、自由勝手に解釈できる。拡大解釈で
も何でも、よい。そのつど、「教育キホン法の精神にのっとり……」とか、何とでも言える。

 で、改めて考えてみる。
 
 伝統とは、継承しなければならないものなのか、と。そも、伝統とは、何か。いろいろ
な解釈をする人は多いが、私には、よくわからない。たとえば伝統的文化という言葉があ
る。

 日本で、伝統的文化と言えば、歌舞伎や相撲などをさす。別に破壊しろとまでは言わな
いが、それを守るか守らないかは、つまり維持するかどうかは、一般庶民である。一般庶
民が、その(流れ)の中で決めることであって、政府ではない。もちろんお役人でもない。

 もしそれが天皇制の維持を意味するものであり、そのための布石として、前文で、「伝統
を継承し」と言うのであれば、私は「?」マークをいくつか、つけたい。いや、何も、私
は、天皇制に反対しているのではない。もし国民の大多数が、それを望むなら、それはそ
れで構わない。私も、それに従う。それが民主主義である。しかしもしそうだとするなら、
こんなあいまいな書き方をするのではなく、すなおに、「天皇制を継承し」と書けばよい。

 どうして、そうしないのだろう? 何か、まずいことでも、あるのだろうか?

 ……などなど、いろいろと考えてしまう。

 話をもとにもどすが、伝統とは、何か? 私には、よくわからない。さて、みなさんは、
どうか?


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●二男の日課

++++++++++++++++

アメリカに住み、アメリカで
生活する二男のBLOGに
こんな記事が載っていた。

題して、「ぼくの日課」。

++++++++++++++++

このごろの、大抵の日課(平日)

7:30 起床(誠司が僕らを起こしに来る・・。)朝食(シリアル、ホットケーキなど。)
8:15 出勤(車)
8:30 会社着
11:30 家へ帰って家族と昼食
1:30 会社へ帰る
5:00 退社
5:15 帰宅、誠司と遊ぶ
7:00 夕食
8:00 好きなことする
10:00 誠司を寝かせる(歯磨き、本)
10:30 ディニースとテレビを見たり好きなことをする
12:00 就寝

まあ、こんな感じなんです。

+++++++++++++++++++++

 二男は、ごく平均的なサラリーマンで、ごく平均的な生活をしている。その二男は、結
婚当初から、昼食は、自宅に帰ってしているという。日本では、まず考えられない生活で
ある。(かく言う、私は、サラリーマンではないので、三食すべて、ワイフといっしょに食
べているが……。)

 この日課を見て、いくつか気がついた点がある。

(1)昼の休み時間が長いこと。2時間もある。
(2)残業がないこと。5時には、しっかりと終わる。

 オーストラリアの友人たちも、ほぼ同じような生活をしている。

 で、この日課表を見ていると、いろいろ考えさせられる。

 どうしてこんな働き方しかしていないアメリカ人が、今のような高い水準の生活を維持
できるのだろうか、と。それが第一。

 つぎにアメリカには、家族主義が、伝統的に、いまだに色濃く残っているなということ。
それが第二。それが生活の中に定着している。

 彼らは、基本的には、家族と生活するための収入を得るために、働く。そういう意識を
もっている。だから日本人のように、仕事のために、家族が犠牲になるなどということは、
本来、ありえない。そういう発想そのものが、ない。

 一方、その日本人は、戦後、何かを犠牲にしながら、ただがむしゃらに働いてきた。「企
業戦士」「一社懸命」などという言葉も、そういうところから生まれた。それはそれでやむ
をえなかった部分もないわけではないが、では、いったい、私たちは何だったのかという
こと。

 わかりやすく言えば、強いドル、つまり国際基軸通貨となったドルの強みを背景に、貿
易赤字をものともせず、世界から富を買いあさっている。それがアメリカの現状というこ
とになる。

 日本などは、そのドルをためこむだけ。売ることもできない。売ったとたん、ドルは、
大暴落。それがこわい。だから、ためこむだけ。それをよいことに、アメリカは、せっこ
らせっこらと、ドルを印刷する。

 二男の生活も、そういう(現状)の上に、成りたっている。わかっているか、S!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●T先生
 
++++++++++++++++++

昨夜、T先生と、1時間ほど、電話で
話す。

声の調子からして、あまり元気がない。
そのあと届いたメールによれば、
不眠症に悩んでいるとのこと。

++++++++++++++++++

 恐ろしいほど、頭のキレる先生。それが私のT先生への、第一印象だった。1970年
のことである。その場の雰囲気と、私の一言だけで、私の脳みその中身すべてを、見抜い
てしまった。そういう先生だった。

 以来、T先生とは、師弟の関係でもなく、さりとて、友人というほど、近い関係でもな
く、わけのわからない関係のまま、それがつづいている。

 2人の双子の娘さんがいるが、1人は、今度、R大学(私立)の教授になったとのこと。
もう1人の娘さんについては、その娘さんの旦那(T先生の言葉)が書いた、「国家のH格」
という本が、ベストセラーになっていることなどを、話してくれた。

 しかし今は、元気がない。年齢も年齢だが、やはり不眠症がたたっているのか。先日は、
鎌倉駅の構内でころび、以前、手術した左足の関節を、また痛めてしまったとのこと。

 T先生の父親は、日本でも有名な化学者だった。日本化学会の会長を務めたこともある。
T先生自身も、日本化学会の会長を務めたことがある。親子2代で、会長を務めたという
ことになる。まさに、学者一家。このところ毎週のように、いろいろな大学の入試問題に
ついての意見を求められるが、私には、さっぱり意味がわからない。率直に言えば、1問
も解けない。意見を求められても、返事の書きようがない。

 しかし、元気がない。ときどき会話をしている脳みそとは別の脳みそが、先生に向かっ
て、こう叫ぶ。「先生、元気出せ!」「それでは、ぼくは、困る!」と。

 今では、T先生の多くの弟子たちが、T大やY大で、教授職についている。ときどき、
その自慢話をしてくれる。その先生が、最近、急速に、弱気になってきている。数日前も、
こんなメールが届いた。私が、東大闘争(1970)で、T先生の研究室も被害を受けた
と書いたことについての返事である。

+++++++++++++++

林様:

  メール有難うございました。 80を過ぎると、めきめきと
衰えが感じられます。 できるだけ体操でもしなければと思う
のですが、それも億劫になって、とかくよろめくというか、平
衡感覚も衰えて来ますし、身体がぎこちなくなってきます。 
非可逆過程です。

  しかしそれだけ、若い時には考えもしなかった「生きる」
ということが実感を伴いながら、考えるようになります。「人
は80を超えてようやく熟す」とはこんなことなのかな、など思
いながら。

 貴方にはまだまだ分からないでしょうが。 最近
長年親しかった仲間が亡くなりましたが、悲しく寂しいという
感覚と一緒に、「遠からずあの世で会える」という感じもします。

  幸いに一応健康に一人生活が出来ているだけでも、毎日
有難いことと感謝しながら、ホームページをいじくったりして
います。

   昨日ある会で、私が言い出した「考える教育を育てる」
運動をしてくれる人に会いました。 彼や仲間で「考える教育」
のホームページを作ってくれているのですが、なかなか進んでい
なかったものでしたが、近日中に私のホームページも含めてもっ
と大幅に宣伝をしますということでしたが。

(中略)

 それを聞くと、それだけ責任を感じて、これま
で勝手に、無責任に作っていただけに、少し見直しをしなければ、
と感じています。 お忙しいでしょうが、貴方の辛口のコメント
が欲しいです。

  貴方のお書きなったものは大変に哲学的で、難しいのです
が、つまらない訂正点を一つ書きます。

   大学紛争ですが、本当
に何故あんなことが起こったのか、全く今でも分かりません。 
起こした連中でさえ、そう言っています。

   今の学生を見ていて到底
考えられないことでした。 革命などあんなふうにして起こるの
かな、とさえ思いました。

   一つの訂正というのは、大学の方々
が学生のために封鎖され、使えなくなりましたが、面白いことに
「化学」に関連した学科は何処も封鎖されませんでした。 私のと
ころも入り口の大きなガラスのドアは壊されましたが、中は無事
でした。

   「化学」は臭いし、危ないし、ということで、「化学教育」
のレベルが低いことを示すもの、と笑われたものでした。どうでも
いいことですが。

  くれぐれもお元気で。 ご活躍を期待しています。

  TK(06年4月29日)

(先生へ)

 無断で、先生からのメールを、日記に転載して、ごめん! おかしなことに、私は、そ
の日の日記を、朝、こうして書くことにしています。

+++++++++++++++

 年齢の話はあまりしたくないが、しかしその年齢のもつ恐ろしさは、年を取ればとるほ
ど、わかる。生きとし生きるもの、すべての命そのものまで、吸いこんでしまう。そして
その命を、そのまま闇の世界へと、葬り去ってしまう。

 肉体の死だけが、死ではない。死は、年齢とともに、少しずつ、やってくる。T先生流
の言い方で言えば、「心も酸化し、サビつき、やがてボロボロになっていく」。しかしそれ
は何も、先生だけのことではない。

 私自身の近未来の姿でもある。いくらがんばっても、年齢には勝てない。その非情さが、
私の心を、沈ませる。

 私は、どこまで、がんばれるのか? 先生、どうか、どうか、いつまでも、がんばって
ください。いっしょに、死ぬまで、生きましょう!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【今日、このごろ】

●気温が32度!

 昨日(5・1)、静岡市で、気温32度を記録した。山梨県の甲府で、33度。この浜松
市北部でも、29・5度! 真夏日である。

 先日、岐阜へ行った折、金華山(岐阜城があることでよく知られている山)のふもとを、
車で走って、驚いた。山の木々が、無数にというより、不気味に見えるほど、立ち枯れを
していた。

 地球環境は、ジワジワと、しかし、確実に悪化しているようだ。


●シャドウ

 心の影、それを「シャドウ」という。仮面(ペルソナ)をかぶった生活をつづけている
と、その裏に、シャドウができる(ユング)。私は「心の影」と訳している。この影がこわ
い。ふつうシャドウというのは、その人の邪悪な部分をいう。一番身近にいるもの、つま
りあなたの子どもが、えてして、その影を引き継いでしまう。

 大切なことは、ありのままの自分をさらけ出して生きること。無理に善人ぶらない。聖
人ぶらない。大物ぶらない。


●国家のH格

 今、話題のベストセラーに、S社から出版された「国家のH格」がある。その本は別と
して、その本を書いた、F氏の奥さんが、恩師T先生のお嬢さんだったということは知ら
なかった。一度、T先生の自宅に遊びに行ったとき、ちょうど、車で帰るところとか、そ
のとき、会ったことがある。

 数学者らしい、理知的な人だった。「あの人だったのかあ……」と思ってみたりする。

 ワイフに、「世の中って、狭いもんだね」と、話した。ワイフも、「ヘエー」と言った。


●金のネックレス

 若いころ、金のネックレスを買った。1グラム、3000円弱のころのことである。が、
その後、金の価格はさがる一方。それを知って、そのネックレスは、そのまま、お蔵入り。

 が、このところの中東情勢を反映してか、金の価格が、毎日、最高値を更新している。
で、再び、そのネックレスを、「お蔵」から取り出してみる。「今のうちに、売ろうか」と、
ワイフに話しかけている。

 さあ、どうしようか? 今朝(5・2)の金価格は、T社で、グラム、2544円。


●ガーデン・パーク

 昨日(5月1日)、近くのガーデン・パークへ行って、弁当を食べてきた。平日だからす
いているだろうと思って行ったが、それがどっこい! どこかの小学校の遠足の集団が、
あちこちに!

 私たちはその集団を避けて、静かなところで、弁当を食べた。

 「レストランで食べるより、おいしいね」と言うと、ワイフも、すなおに、同意してく
れた。

 少し前まで、日曜日でもガラガラだった。しかしこのところ、人気が、急上昇。駐車場
は広いし、それに入場料が無料。休憩場所は、ふんだんに、いたるところにある。犬連れ
も、OK。

 「今に、有料になるよ。お役人たちが、だまって見ているはずがない」と。


●ジーパンに赤シャツ

 生まれてはじめて、ジーパンを買ってきた。はいてみた。ヨレヨレの、すり切れたよう
なジーパンだ。が、そういうジーパンほど、値段が高い。その高いのを買った。

 「おかしな世界だね。これじゃあ、まるで古着だア」と。

 ついでに赤シャツも買ってきた。赤い色のシャツは何枚ももっているが、ド派手な赤シ
ャツ。

 ジジイだから、ジジイらしい服装……という時代ではない。まあ、私が着たら、どんな
服でも、ジジ臭く見えるが……。


●連休

 今は、大型連休の最中(さなか)だそうだ。しかしその実感は、ない。昨日も、今日も、
平日どおりの仕事。私のばあい、明日、5月3日から、休みになる。

 いろいろしたいことがある。予定もある。しかしここには書けない。

 今では、HP上やBLOG上などで、旅行などの予定を書くのは、タブー。それを読ん
で、空き巣や泥棒が、やってくるそうだ。時代も変わった。

 私も講演予定日などのスケジュールは、書かないことにしている。「○月○日、2時から
△中学校で、講演」と書くことは、泥棒に、「その日に、おいでください」と書くようなも
△の。

 みなさんも、どうか、ご注意!


●株価

 数か月前、2社の株を、xx株ずつ、買った。しかしそののち、私の買った株は、さが
る一方。M社の株価は、約半額になってしまった!

 だから今は、株価を見るのも、いや。おっくう。今朝も、少しのぞいてみたが、まだ、
さがりつづけている! 

 今売れば、xxx万円の損。こういうのを、「含み損」という。

 しかし株価がさがることは、悪いことばかりではない。生活が、質素になる。何かにつ
けて、倹約するようになる。つまり無駄づかいが、減る。

 今が、そのとき。ここは笑ってすます。ハハハ。


●マガジンの発行

 このところマガジンの原稿書きが、遅れ気味。忙しいというより、ほかにやることがた
くさんあって、どうしても、あと回しになる。

 読者も、ふえない。

 サッカーにたとえるなら、観客のいないフィールドで、ひとりで練習をしているような
もの。

 「1000号だ」「1000号までだ」と、自分に言って聞かせる。まだまだ苦しい戦い
が、つづきそう。

……ということで、やっと、原稿が、20枚になったので、今日は、ここまで。これか
らマガジン(5月29日号)の配信予約を入れるつもり。

 こんな文ですが、最後まで、読んでくださり、ありがとうございました。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 26日(No.731)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの心がつかめない(?)

+++++++++++++++++

心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。

この問題について、考えてみたいと
思います。

+++++++++++++++++

どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。

事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。

「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているよ
うだ。下校中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気に
なりました。

さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。

先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、
なかなか返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りてい
ない」と言ったとのこと。

「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、
借りてるよ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。

ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も
手伝って、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、
そのペン私のじゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中
に入り、娘に聞くと、「違う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというの
です。

先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」
と答えたというのです。

それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありま
した。先生は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP
子さんが、A子さんにひどく当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話し
あってみてください」と言いました。

 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。

まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言ってい
るのかわからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相
手が傷ついているとしたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、
話しました。次にペンの事を聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまい
ました。

 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換を
しているようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私
がP子に聞くと、屈託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言い
ます。

私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」
とのこと。

これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しない
でほしい。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終
わりました。

 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどう
したものなの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持
ってきてしまった、(2)拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞
くと、やっとの事で、「交換したもの」と言いました。

「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣い
て、やっと聞けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな
事を言い出したのか分らなくって」と。

私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。

 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にか
えりました。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し
合っていたのも、最近ではしていない事にも気付かされました。

で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関
係についての問題です。

私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保
育園でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんな
わけで、先生も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、
「お宅の子は人を見る」とこんこんと言われました。

人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、
下を見る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんび
りゆったり、栄養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中
をなでながら過ごしていました。

小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしま
したが、当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々
変わることもなく、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。

が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、
家で練習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。

一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、
なんとかやっていけていましたので・・・・。

現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがな
くなり、なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけている
ように見えるのか、あまりよい印象は与えていないようです。

 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。

私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわ
いそうとの思いで話しました。

先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎてい
る)、今さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことに
ついては、「やはりあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換し
た気は全く無いですよ」とのこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお
願いします」と言えただけです。

先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を
少しでも見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いの
では、と思いながら話を聞くようにしているのですが。。。

長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。
本当に信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配
しないで。でも、努力しようね」と、言いました。

A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B
子さんは、大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダ
ー的存在。親友の子と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。

私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合って
いますが、行き詰まってしまっています。

本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。ア
ドバイスをお願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)

【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】

 メール、ありがとうございました。

 まず、最初に、一言。

 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。

 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えた
だけのことです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)とい
う意識がないまま、結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけ
のことですが、これも(いじめ)の問題では、よくあることです。

 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。
何でもない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、
おおげさに考える必要は、まったくありません。

 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるよ
うになります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活
動が活発になり、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。

 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当
然、高まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子
どもは、親から自立しようとします。

 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなた
のように、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺ
き主義(?)のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。

それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとで
も言うのでしょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の
届かないところで、男の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうな
ら、あなたは修道女? (失礼!)

 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼
関係が結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基
本的信頼関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。

 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展し
ていきます。

 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われ
ます。が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。

 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」
「外では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割
り切ることです。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。

 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P
子さんを理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけませ
ん。(どの道、今さら、手遅れですから……。)

 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の
問題で悩むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。
あるいはマガジンの購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつ
どテーマとして、マガジンでもよく取りあげていますので、参考になると思います。

 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。し
かも、P子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいている
といった感じです。

 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 
多分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たか
がペンぐらいの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投
げつけるだろうと思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、
100円ショップで、3〜5本も買える時代です。

 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題
は、そういう問題ではないのです。

 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きまし
たが、こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っ
ているとか、娘が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれない
とか、そういうふうに考えてはいけません。

 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使っては
いけません。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の
問題です。わかりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入
れた。それだけのことです。

 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(も
ちろん病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)

 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子
さんの口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親とい
うことになります。

 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そう
いうP子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが
今すべきことは、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見なが
ら、前に進む。今は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということで
す。言葉の問題ではありません。

 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状
態を最悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、そ
の二番底、三番底へと落ちていきますよ! これは警告です。

 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。
P子さんが、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになっ
たら、どうしますか。

 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。

 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、
その中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味が
あるのです。子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。

 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親
のあなたが、割って入るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、も
うそろそろ、あなた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けるこ
とこそ、大切です。

 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、ど
こか未熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、か
わいそうです。

 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづ
ったビデオです。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきま
すが、今のあなたに求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの
母親のような母親像ではないでしょうか。

 最後に、もう一言。

 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さん
に申し訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、
A子さんも、B子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。

 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開
いて! 体は、あとからついてきますよ!

 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの虚言 子供の虚言 盗み)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子育てで不安になっている、あなたへ……】
 
●信頼関係

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、答えてあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人
間関係を結ぶことができる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用して
いくことができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、
第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後
の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあ
い、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意す
るのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなこと
に注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
信頼関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに
発達する、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということにな
る。これらの感情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展してい
く。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳〜一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後〜二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的
な感情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後〜五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情な
どの、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。
しかしその日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が
仕事を休んで、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼ
したのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさで
ある。そこで授業が終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。する
と、Uさんは、こう言った。「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と
涙が出てきちゃった」と。Uさんは、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成
するということ。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反
対の立場で考えてみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感
情は、いつごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。
では、小学生だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、
すでに今の感情をもっていたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前
後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見
るたびに、すぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、
まるで子どもあつかいしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るの
もつらいような踊りをさせてみたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜
ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうまん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカ
にするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。また
そういう前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき
年長児たちにこう言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。す
ると子どもたちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉
を嫌っている。もうそろそろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのでは
ないだろうか。「幼稚園」ではなく、「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」で
もよい。あるいは英語式に、「プレスクール」でもよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
基本感情 人間的感情形成 感情形成期)

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメール
をもらった。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き
離したいと思い、サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっ
しょについてきそうな雰囲気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなり
ません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まず
いない。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れて
しまう。不安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げる
ものではなく、乗り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえし
ているうちに、心に免疫性ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自
動車。私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、
心配でならなかった。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、
「事故を起こさなければいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、と
きどき仕事先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワ
イフは、「まだよ」と言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたと
たん、ザワザワとした胸騒ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四
時間か五時間。途中で食事をしても、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし
高速道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だ
けが、ジリジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、
今、着いたよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ご
ろ浜松に着いたけど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもであ
る。そこで「あぶなくなかったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周し
てきたから」と。北海度! 一周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなっ
た。「勝手にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、
横浜と浜松の間を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復
するのは、私たちがそこらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何
時に出る」とか、「何時に着く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのこ
とで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。
この埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

●親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
●何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
●しかしその友だちとは、仲がよい。
●そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
●が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
●そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダ
メ」と言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫る
ようなもの。子どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを
入れることになる。そんなわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入る
ようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、
過干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になり
やすい。子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、
この母親のばあいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもに
どうあってほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いてい
る。「いつも私の子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うち
の子は、ダメになってしまうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけない
ことは、今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従
的になるのは、そもそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。
決してその友だちによって、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、
親から見れば、もの足りないことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地
のよい世界なのである。つまり子ども自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式
の指示を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親
の姿勢に反発するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかた
ないとしても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親
にも、できることと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがあ
る。そのあたりを、じょうずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができな
い親は、そうでないということになる。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いつ
いたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私
は私で勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう
何でもない、ごくふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから
気づく。健康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。
だれに感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とく
に「人間」はそうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこ
ちら側の問題ということになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言
にも、『相手はあなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、
これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見
えるのは、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるというこ
と。価値観の限定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他
人もそうでなければならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引き
こもりが、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっ
ていることすら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれな
い。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るように
なった。が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワ
ルガキ仲間」だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな
遊びを教えたらしい。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものこ
ろは、あんな子と遊んでほしくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていま
した」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子ど
もに見えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起
き、その問題が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。と
たん、問題が解決するのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があると
みてよい。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなこ
とでも、だ。たとえば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子
ども自身は、指しゃぶりをしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものが
ないのと同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令し
たり、禁止したりしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、
そういう友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、
あくまでも親の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そ
ういう友だちを、子ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそ
うであるように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのよう
なもので、たとえ親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなけ
れば、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」
と、いちいち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子ども
のころ、あなたはそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威
主義の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育
てが、どこか押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかり
が強く、このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩
を着せやすい。何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三
〇歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。
親なんてさみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいるこ
とを、「嫁に取られた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、
子どもを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題とい
うことになる。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、
モノでもない。「親子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから
親子でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそ
れまでは母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母
に話したとき、母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩
れてしまった。私が二三歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大
学を出て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶
望の底にたたき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会
でも、自分の職業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子ども
は生きている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは
事実である。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、
さらにはよい仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似
ている。「うちの子は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲー
ムをしながら、「エメラルドタウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものよう
なもの。あるいは、どこがどう違うのというのか。(だからといって、それがムダといって
いるのではない。そういうドラマに人生のおもしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよ
い。またそこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、こ
の世界から消えてなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人
間どうしが、今、いっしょに、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あな
たは子育てにまつわる、あらゆる問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだ
けではすまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。
しかしその子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなた
はダメな子だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子ど
もは自己不信から、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなって
しまう。へたをすれば、一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの
内容は別として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不
安の根底にある、「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか
心配先行型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は
何かといえば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わ
だかまり」があったことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼
児期、少女期にあるのではないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。
あなた自身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていな
かった可能性があります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関
係を結ぶことができなかったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップ
を経て、形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許され
る」という絶対的な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあ
と、園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなりま
す。どこかいい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出す
ことができないからです。

さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。
自分の子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学
では、あらゆる信頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)
具体的には、夫や子どもに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基
底不安を感じたりしやすくなります。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」とい
う意味で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的
にどうこうというのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、
親に対して、全幅に心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそう
なら、「恵まれた環境」ということになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こ
うした問題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国という
か、こと子育てについては黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始
めます。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じ
ような手法を用います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言え
ば、自分の中の過去を知るということです。まずいのは、そういう過去があるということ
ではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることです。そして
結果として、自分でもどうしてそういうことをするのかわからないまま、同じ失敗を繰り
かえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりま
すが、やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになりま
す。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるい
はさらに、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青
年期にかけて、不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成り
たっているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとし
たら、あなたが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、
本当にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子ども
を嫌っているのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の
子どもを判断しているのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つ
です。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭け
ればせまいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これ
は私の経験ですが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければ
なりません。(当然ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言
っていたのでは、仕事そのものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面
のときから、その子どもを好きになります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかし
これだけは言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。
とくに幼児については、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。
ですからASさんも、一度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさ
わしくない子どもかどうか、一度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前
にもう一つ大切なことは、あなたの子ども自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるよ
うにしかならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作
るようなものです。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の
関係が、今の関係というわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとし
ても、それはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある
程度は干渉できても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰
りかえし起きてきます。たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなと
き、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるか
どうかということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに
反対する権利はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どん
な友だちを選んだとしても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題と
いうことです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、
判断して、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずる
のです。「うちの子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずは
ない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っ
ていると、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子
どもだと思っていると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そ
してあなたの前で、自分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、た
いがいの人間関係は、ますます悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バ
トルを繰りかえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。
こうした例をみてみてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということ
です。とくに、姑が嫁にもつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思う
と、何かにつけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えよう
と、ますますよい嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。
こうした相乗効果が、たがいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていま
せんか。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題という
ことになります。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあな
たは悪くない面まで、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子
どもは、あえて自分の悪い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不
思議なもので、自分をよい子だと信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せよう
とします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも
言えます。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験し
ておくことは、それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間にな
ることが知られています。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要と
いえば必要なのです。むしろまずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子ど
ものときは、優等生で終わるかもしれませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、
さまざまな問題を引き起こすようになります。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですから
これからのことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなこと
は、何度も起きてきます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが
子ども。そして子育て。そういう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設
計図に子どもをあてはめようとすればするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設
計図から離れていきます。そして「まだ前の友だちのほうがよかった……」というような
ことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だちとつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三
番底」とか呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1)相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろ
い子ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげ
てね。きっと喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロ
ールします。

(2)あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっている
わ」「あなたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。こ
れから先、子どもはあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子
どもは、あなたの信頼をどこかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるよ
うになります。「親の信頼を裏切りたくない」という思いが、行動を自制するということで
す。

(3)「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきら
めは、悟りの境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。
子どもというのは不思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。
伸びも、そこで止まります。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始め
ます。「まだ何とかなる」「こんなはずではない」と、もしあなたが思っているなら、「この
あたりが限界」「まあ、うちの子はうちの子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いな
おすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったとこ
ろもあるかもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことに
ついて、また何か、わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼
します。
(030516)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
さらけ出し 子育て不安 育児ノイローゼ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●RAY

++++++++++++++++++++++++

ビデオ「RAY」を見る。

ジャズファンには、たまらないビデオだろう。
前半は、どこかかったるいテンポ。ときどき眠くなる。
が、後半になると、なじみの曲がつぎつぎと流れだす。
とたん、感激、また感激。

最後のしめくくりもよかった。

ただ私自身は、ジャズは、あまり好きではない。
子どものころは、「ガチャガチャ音楽」と呼んで
いた。

すばらしい映画ではあったが、そんなわけで、
私にとっては、星は、2つから3つ。ゴメン!

+++++++++++++++++++++++++

 「RAY(レイ)」、つまりレイ・チャールズの生涯を描いた映画である。T・ビデオシ
ョップ社の紹介には、つぎのようにある。

「第77回アカデミー賞作品賞はじめ、6部門ノミネート、そして主演のジェイミー・
フォックスが見事主演男優賞を獲得した、感動のヒューマンドラマ!」と。

映画を見ながら、「よくもまあ、ここまで自分をさらけ出したものだ」と、感心した。

 不倫はし放題。隠し子もつくる。おまけに麻薬中毒。音楽家としては成功したが、レイ・
チャールズの人生は、ビューティフルなものであったとは、とても言いがたい。しかしそ
れだけに、映画を見ながら、いろいろと考えさせられた。

 その1。ここにも書いたように、映画「RAY」は、レイ・チャールズという人間を、
徹底的に丸裸にしている。レイ・チャールズ自らが、主演のジェイミー・フォックスを選
考したということだから、この映画は、レイ・チャールズ自身の監督のもとに製作された
映画とみてよい。が、こうしたさらけ出しは、自分の生き様に自信をもっているものだけ
ができる特権と言ってもよい。「私は私」と断言できるものだけが、自分をさらけ出すこと
ができる。しかしそこまで自分を高めるというのは、凡人には、とてもできない。

いくつか印象に残ったセリフがある。その中でも、つぎのセリフには、心を打たれた。

 レイの母親が、レイにこう言う。「目は盲目でも、心まで、盲目にしてはいけない」と。
映画の中では、たしか、「あなたは盲目だけど、心も盲目よ」と言ったように覚えている。

 目の盲目と、心の盲目。「なるほどな」と思ってみたり、「そういうものだろうな」と思
ってみたりする。

 ただレイ・チャールズ自身は、この映画の完成をみることなく、2004年に他界して
いるという(T・ビデオショップ社、解説)。盲目だったから、映画を見るということはで
きなかったかもしれないが、その映画を見る観客の雰囲気はわかったはず。さぞかし、心
残りなことだっただろうと思う。

 で、再び、「心の盲目」。

 相手の心の中を見ることができない人のことを、心の盲目というのか。あるいは心で、
ものを見ることができないことを、心の盲目というのか。解釈はいろいろできる。が、自
分勝手で、自己中心的な人は、他人の心がわからない。そういう人の心は、盲目というこ
とになる。

 ただ私自身は、子どものころから、ジャズがあまり好きではない。……というより、嫌
いだった。「ガチャガチャ音楽」と呼んでいた。すばらしい映画だということについては異
論はないが、「二度目を見たいか?」と聞かれたら、答は、「NO!」。(ジャズファンの人
たちへ、ゴメン!)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●4月29日

 今日は、近くのガーデンパークへ行くつもりだった。新緑が美しい。しかしあいにくの、
今にも泣き出しそうな、曇り空。それに小寒い。

 どうしようか?

 このところ何かいやなことがあると、孫の誠司のことを頭に思い浮かべる。毎週のよう
に、何か、おもちゃを送り届けている。ジジバカの典型か?

 こういうことをするのは、あまりよくないとはわかっている。が、しかし今の私には、
それしか楽しみがない。いや、心を癒(いや)してくれる楽しみがない。

 毎晩、床について眠る前になると、誠司の喜んでいる顔を想像する。すると、いつの間
にか、眠ってしまう。

 そうそうデニーズには、ビーズだとか、その道具などを、送り届けている。先日、ひと
つ、私が作ったネックレスを送ってやったら、喜んでくれた。こういうとき、アメリカ人
というのは、わかりやすい。ウソをつかない。いつも本音だけを話す。お世辞を言わない。
飾らない。

 デニーズが「うれしい」と言ったときは、本当にうれしいのだ。だから私も、うれしい。

 また何か、作って送ってやろう。そうそうデニーズは、「ビーズ」とは言わない。「宝石」
と言っている。最近のビーズや飾りなどは、超硬質ガラスを使っている。人造宝石と言っ
てもよい。輝きが美しい。たしかに宝石だ。

 で、今週からBW教室でも、遊びに、ビーズ遊びを取り入れた。そのビーズ遊び。子ど
もたちに、「ビーズ遊びは好きか?」と聞いたら、女児については、100%。全員が、「好
き!」と答えた。

 ビーズというより、キラキラと輝く美しいものには、そういう魅力があるようだ。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【善と悪】
 
●昆虫のような脳みそ

+++++++++++++++++

「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。

「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

+++++++++++++++++

 「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあっ
た。「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

 たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教
授が、いつも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使う
ようになってしまった。しかし、私にも、言い分がある。

 いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、
悪は神の右手』と説く。しかし平等ではない。

 善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさ
え守れば、どんな人でも、やがて善人になれる。

 しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳
幼児期までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、
その人の心の奥底に潜む。

 それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。

 仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だっ
たとする。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1
人の悪人に、翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、
たった1人の悪人の支配下に置かれるようになるかもしれない。

 悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集ま
って考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されると
いうことも、珍しくない。

 この点でも、善と悪は、平等ではない。

 恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念
もある。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せ
っかく知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを
容赦なくこわしてしまう」と。

 T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その
東大紛争の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の
研究室は、爆弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ご
ろは穏やかな恩師だが、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」と
いう言葉は、そういうところから生まれた(?)。

 「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪い
ことをしないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでも
ない。悪と戦ってはじめて、人は、善人になれる。

 その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのよう
な脳みそ」という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイ
をもったサル」というタイトルのもあった。

 あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということにな
る。しかし誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)
という。知的な能力をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と
言うときは、「せっかくすばらしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってし
まう人」を意味する。

 だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそ
をもった人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠
慮したとたん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。

 このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメント
そのものは、即、削除してしまったが……。)

 で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。ラ・マ
ンチャの男。ハハハ。

++++++++++++++++++

4年前に書いた原稿を、ここに添付します。

++++++++++++++++++


善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえない
ということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそう
の努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリ
をするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザという
ことになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考
える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と
思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そ
ういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐
車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、
信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかも
しれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなけれ
ばならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時
間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無
限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理と
いうことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間に
なる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。
どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」と
いう問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考
えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。
(02−10−25)※

++++++++++++++++++++

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個
人的な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わ
ず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のこと
も、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこう
いう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家
は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうな
のか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上
の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力
があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人
をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界
で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。
しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはな
らない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

 いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
ここに転載する。

++++++++++++++++++++

【四割の善と、四割の悪】

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさな
いで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカ
ナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマ
りやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもそ
の生徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできび
しいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強
している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約
聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になった
が、それが問題ではない。

問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないという
のなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あ
なたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際
をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」
と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。
それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●究極の手ぶれ防止カメラ

 今、デジカメというと、手ぶれ防止付きが常識。カメラそのものが、高感度になってき
ている。そのため、構造が、ますます複雑になってきている。

 そこで一案。

 シャッター部分だけ、着脱式のデジカメというのは、どうか?

 そうすれば、手ぶれは起きない。シャッター部分だけ、必要に応じて取り外し、リモコ
ンとしてそれを使う。

 リモコン式のシャッターであれば、タイマーも不要。そのつど、離れたところから、パ
チパチと写真が撮れる。

 車では、リモコン式のドア開閉装置は常識。あんなカギですら、そんなことができる。
カメラのシャッターで、それができないはずがない。

 これはまさにコロンブスの卵。シャッターがカメラから離れれば、手ぶれは起きない。
まさに究極の手ぶれ防止ということになる。

 カメラメーカーのみなさん、どうか、そういうカメラを考えてほしい。そしてもしこの
原稿がもとで、そういったカメラが実用化されたら、1台だけ、私に、それをプレゼント
してほしい。アイデアの提供料として!!!

 2006年4月29日午前8時。
(はやし浩司 究極の手ぶれ防止付カメラ 手ぶれ防止 デジカメ シャッター着脱方式
リモコンカメラ シャッター リモコン デジタル カメラ シャッター着脱 実用新
案)


●苦しかった、1700人台

 前回(4月26日)、Eマガの読者が、やっと1800人台にのった。(メルマガ、まぐ
まぐなどを含めると、合計で、2100人になる。)苦しい戦いだった。1700人になっ
てから、1800人になるまで、長い時間がかかった。ときに2、3週もの間、読者の増
加がゼロという日々がつづいた。

 しかしやっと1804人に! 1801人目の方は、E県に住んでいるOさんという人
だった。メッセージが届いたので、お礼の返事を書いた。うれしかった。

 これからも長い戦いがつづきそうである。「こんなことをしていて何になるのだろう?」
という思いと、「本当にみんなが、読んでいてくれるのだろうか?」という思い。その2つ
が、迷いとなって、交互に私を襲う。

 1000号まで、あと少し。そのあとのことは、考えない。今は、ともかく、1000
号までつづけるしかない!


●3兆円!!

 アメリカ軍の移転費用に、日本は、3兆円も負担することになった。国民を1億人とす
ると、1人当たり、3万円ということになる。3人家族なら、9万円! 5人家族なら、
15万円!

 とんでもない額である。N防衛庁長官は、「上限だ」と説明しているが、あの防衛庁長官
の顔を見ていると、どうも不安になる。どうして不安になるか、ここには詳しく書けない
が、ともかくも、不安になる。

 私はああいう大臣を、直接、何人か見てきた。背の高い白人を前にすると、ヘラヘラす
るだけで、何も言わない。(N防衛庁長官がそうというのではない。誤解のないように!)
英語で直接議論するなどということは、夢のまた夢。

 それにしても、3兆円! 日本のどこに、そんなお金があるのか! それにしても、高
い。高すぎる。

 今、あなたの家に、防衛庁の職員がやってきて、アメリカ軍の立ち退き料を求めてきた
ら、あなたは払うだろうか。

 「あなたの家は、5人家族ですから、15万円です」と。

 ものごとは、そういう次元で考える。そうすれば、3兆円という額がどういう額か、実
感として、それがわかるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司


●教育キホン法改正案要旨

+++++++++++++++

今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。

それについて一言。

+++++++++++++++

 国があっての国民と考えるか、国民あっての国と考えるか……。それによって、教育キ
ホン法の内容は、大きく変わってくる。

 この日本では、奈良時代の昔から、「国あっての国民」と考える。国民、つまり「民」な
どというものは、言うなれば、国の財産。モノ。それとも奴隷(?)。

 本当に日本は、民主主義国家か? 民主主義国家と言えるのか? それを示す試金石が、
教育キホン法ということになる。

 が、今度閣議了承された、教育キホン法(教育キホン法改正案要旨)なるものは、相も
変わらず、美辞麗句。抽象的文句の羅列(られつ)。官僚の作文。どこかの教授が、「ヘタ
クソな作文」(中日新聞)と評していたが、まったくの同感。あのリンカーンは、ゲティス
バーグ(Gettysburg)という南北戦争の激戦地に立って、こう言った。

AND THAT GOVERNMENT OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE AND FOR THE 
PEOPLE SHALL NOT PERISH FROM THE EARTH.(人民の、人民による、人民のた
めの政府は、この地上から消え去ることはない)と。

「SHALL NOT PERISH」というのは、もう少し正確には、「私は、消さな
い」という意味になるが、ともかくも、そう言った。

 これをこの日本でもじると、こうなる。

「官僚の、官僚による、官僚のための政府は、この日本から消え去ることはない」と。

 どうして国民の側に立った教育キホン法が、この日本では、生まれないのか。できない
のか。国民に向かって、「ああしろ」「こうしろ」と言うくらいなら、まず自分たちのほう
が、「ああします」「こうします」と言えばよい。

 たとえば前文には、「我々日本国民は……貢献することを願う」とあるが、いつどこで、
その我々が、そういうことを願ったのか。勝手に、そういうことを決めつけてもらっては
困る。

もし書くとしたら、「子どもの教育では、自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育
者が一丸となって、子どもたちの未来のために、それを希求します」とか何とか。自分
の立場で、そう書けばよい。

 あるいは「教育の多様性を認め、不公平社会を是正するため、個人のそれぞれの才能に
応じた教育をめざします」でもよい。

 さらに「愛国心は、世界の常識」などと、いまだに言っている政治家がいるのには、驚
く。(教育キホン法改正案要旨では、「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国
と郷土を愛するとともに……」となっている。念のため。)

 日本では「愛国心」と訳すが、あの英語の「Patoriotism(ペイトリアチズ
ム)」という単語にしても、もともとは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大
地を愛する」という意味の単語に由来する。)「郷土や家族のためなら、命がけで戦う」と
いうのが、欧米人の共通の理念にもなっている。国ではない。郷土だ、家族だ!

 が、この日本では、そこに「国」という言葉を入れる。なぜか? その理由など、今さ
ら、説明するまでもない。

 そんなわけで、私は、今回の教育キホン法なるものは、チラッとしか読んでいない。

 今回の要旨では、国旗、国歌については触れていないが、それについても、あえて言う
なら、こうなる。

 愛国心に関してだが、国旗はともかくも、国歌を歌ったから愛国心があるとも、歌わな
かったら、愛国心がないということにもならない。日本のK首相は、『君が代』の「君」は、
国民のことだと説明したが、『君が代』の「君」は、だれが考えても、「天皇」をさす。官
僚主義国家、つまり王政国家のもとでは、天皇という「王」は、絶対的な存在かもしれな
いが、それをよしとしない人がいたとしても、何も、おかしくない。

 (注)外国では、あの明治維新を、「Meiji Restoration」(王政復古)」
と翻訳しているぞ。

 それは愛国心の問題ではない。主義の問題である。その主義ということになれば、たと
え国でも、個人の主義にまで干渉することは許されない。

 が、もしそれほどまでに、愛国心を、形として表したいというのなら、K国のように、
バッジ制にすればよい。胸に、バッジをつけて、それを表す。そのほうが、ずっとわかり
やすい。

 しかしこのばあいも、バッジをつけたから愛国心があるとも、バッジをつけなかったか
ら、愛国心がないということにもならない。

 そんなこと、いちいち役人ごときに指示されなくても、もし目の前で、他国の連中に、
郷土が荒らされ、家族が殺されれば、だれだって武器をもって立ちあがる。愛国心などと
いうものは、「形」の問題ではない。言葉の問題でもない。国旗や国歌の問題でもない。も
ちろんバッジの問題でもない。心の問題だ。

 「国を愛しましょう」と言うくらいなら、その第一歩として、「汝の隣人を愛しましょう」
と言ってみたらどうか。私など、その隣人すら、愛することはできない。そんな私が、ど
うして国という、実体のない存在(?)を、愛することができるのか。

 バカも休み休み、言え!

 だいたい、「愛」という言葉の意味すら、わかっていないのでは?

 ……ということで、教育キホン法に対する、批評は、おしまい。ここ数日、10人近い
教師や親たちと、いろいろ話したが、教育キホン法など、話題にもならなかった! ホン
ト!

+++++++++++++++++

愛国心について、以前書いた原稿を
ここに添付します。
(中日新聞にて発表済み。)

+++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言う
と、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子ども
の学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多
い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそ
うはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。

先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘
(小2)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、
オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリ
カでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリア
でもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにさ
れてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも
「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、9割
近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が
担当しているケースは、わずか1%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、6割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、3%
(たったの3%!)前後にとどまった。その一方で7割以上の人が、「男性の家庭、地域
参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。

「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、40代、50代には、リン
ゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。
男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日
新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、
それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐
れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、こ
の日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい
の日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』とい
うのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向
こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを
知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本にな
っている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あ
の映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオッ
ト」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パト
リオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米というより、世界の共通の理念に
もなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそ
れが回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきている
のではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観
すべきことばかりではない。99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべき
もの」として、40%の日本人が、「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足ら
ずの間に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも
言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよ
う」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言
が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国6か所程度で、都道府県県教育
委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定
だという(2001年11月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」
※という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つま
※り日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異
※質なものであることに注目してほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
愛国心 教育基本法 国旗 国歌)

●批判ばかりしていてはいけないので……

 私なら、つぎのような教育キホン法改正案を考える。

++++++++++++++++

(前文)

自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一丸となって、子どもたちの未来の
ために、それを希求します。

子ども個人の才能を引き出し、認め、個人のそれぞれの才能に応じた教育ができるよう
に、教育の多様化を認める教育環境をめざします。

不公平社会や社会的格差を是正するため、社会的不正義、不平等、不公正を容認しない
教育環境をめざします。
 
親たちが安心して子どもを教育機関に任せられるよう、教育内容の充実と、教員の資質
向上を図り、父母への教育費の負担を軽減するために、常に努力いたします。

 また政府ならびに教育機関に関与する者たちは、子どもたちの見本、手本となるように、
豊かな人間性と創造性のある文化人となるよう、まい進努力いたします。

+++++++++++++++++

 ついでながら、今回閣議決定された「教育キホン法改正案」の前文は、つぎのようにな
っている。(2006年4月27日、公表。原文のまま。)

+++++++++++++++++

 我々国民は、民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福
祉の向上に貢献することを願う。

 公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統
を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図る
ため、この法律を制定する。

+++++++++++++++++

 以上!


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●このままでは、戦争!

+++++++++++++++++

ますます雲行きがあやしくなってきた、
日韓関係!

日本のK首相が、Y神社を参拝するたびに、
戦争への足音が高まる。

+++++++++++++++++

 日本の首相が、日本国内で何をしようが、日本の勝手……という論理は、韓国や中国で
は、通用しない。日本の首相がY神社を参拝するというのは、ドイツの首相が、ヒトラー
の墓参りをするようなもの。少なくとも、韓国や中国の人たちは、そうみている。

 で、今度の竹島問題。

 日本の政治家たちは、あまりにも無知。無学。無神経。かろうじて今回は、ことなきを
えたが、それについて、日本の政治家たちは、「N大統領の談話は、国内向けのもの」「反
日運動は、選挙のため」と。それに対して、韓国のN大統領は、またまた大激怒。「話にな
らない」と、反駁(はんばく)。

 このまま行けば、日本と韓国は、まちがいなく一戦を交えることになる。「こちらが何も
しなければ、相手も何もしないだろう」と考えるのは、あまりにも、甘い。

 もちろんその背景には、戦後、ずっとくすぶりつづけている、歴史認識問題がある。加
害者である日本は、それが加害者の常として、害を与えたということを忘れやすい。一方、
被害者である韓国や中国は、それが被害者の常として、害を与えられたということを、い
つまでも覚えている。

 が、それだけではない。

 「独立を自分たちでなしえなかった」「日本ごときに、自分たちの国が蹂躙(じゅうりん)
された」という、彼らが怨念としてもつ屈辱感には、ものすごいものがある。それがわか
らなければ、一度でよいから、韓国や中国に住んで、向こうの国からこの日本をながめて
みることだ。

 韓国のN大統領は、その独立戦争を、自分たちの手で成し遂げたいと考えている。また
そういう方向性でもって、国を動かしている。

 ただ単なる島の領有権問題だと考えていると、日本は、とんでもない大やけどをするこ
とになる。

 何が、平和だ! 

 こうした危機に際して、日本の政治家たちのノー天気ぶりには、ただただ、あきれるば
かり。

 もしここで日本が韓国と一戦を交えれば、その戦争は、日韓戦争だけでは終わらない。
当然のことながら、そこにK国が加わる。つまりその時点から、日本対、韓国とK国の連
合国という戦争になる。

 さらにもしそうなれば、日本に勝ち目はない。絶対にない。「日本には自衛隊がある」と
説く人もいるが、自衛隊には、韓国とK国の連合軍を防ぐ力はない。加えて韓国との戦争
ということになれば、アメリカは、手も足も出せない。

 韓国とK国を合わせれば、200万人の大軍になる。しかもかれらは、完全徴兵制によ
って、国民すべてが、軍人として一から鍛えられている。一方、日本の自衛隊は、完全に
サラリーマン化してしまっている。そういう事実を、あのN大統領は、すでに見抜いてい
る。

 この場に及んでも、まだ日本のK首相は、Y神社参拝をするかもしれないという。「反戦
の誓い」とやらを、そこでするかもしれないという。

 何が、反戦の誓いだ!

 日韓関係、日中関係を破壊してしまったのは、日本のK首相と断言してもよい。

 この6月に、再度、韓国は、竹島の呼称問題を、国際機関に提起するという。危機が去
ったわけではない。6月には、さらにそれが大きな危機となって、もどってくる。

 そのとき、日本は、どうするつもりなのか? どう行動をとるつもりなのか? あるい
は日本のK首相は、引退を間近にひかえ、最後にもう一度、Y神社を参拝するつもりなの
か。

 もちろん韓国のN大統領にも、中国のK首相にも、問題はある。しかし彼らには彼らの
言い分もある。論理がある。その言い分や論理に、どうして日本のK首相は、謙虚に耳を
傾けないのか。相手の立場で、ものを考える。それが国際政治の場でも、常識ではないの
か。

 韓国のN大統領のテレビ談話を、「国内向けのもの」と笑った政治家たちよ。つぎに本当
に笑われるのは、あなたたちの脳みそではないのか。
(この原稿は、4月27日に書いたものです。発表のときには、国際情勢が大きく動いて
いるかもしれません。)

(付記)

 私は何も、彼らの反日運動を支持しているわけではない。私も韓国のN大統領の、あの
(こだわり)には、ふつうでないものを感ずる。いつだったか、私はそれを、老人性の回
顧主義的妄想と批判した。しかしいつの世も、戦争は、こうして起こる。

 つまりもし双方が(まとも)だったら、そも、戦争など起きない。どちらかがまともで
ないから、戦争は起きる。

 忘れてならないのは、どこかの賢人が、言った言葉だ。

 『平和などというのは、戦争と戦争の間の、つかの間の休息に過ぎない』と。あるいは
『平和は、つぎの戦争のための準備期間でしかない』と言った賢人もいた。

 今まで、「平和」を唱えてきた人たちに、あえて私は言いたい。平和運動をしてきた人た
ちに、あえて私は言いたい。

 今こそ、その正念場がやってきた、と。

 竹島をあきらめて、平和の道を選ぶか。

 それとも、竹島の領有権を争って、韓国と一戦を交えるか。

 口で「平和」を叫ぶことぐらい、簡単なことはない。どこかの小学生を使って、平和宣
言とやらをさせることぐらい、これまた簡単なことはない。

 しかしそれでは、平和は守れない。さあ、どうする、日本! どうなる、日本!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものウソ

++++++++++++++++

子どもはウソをつかないというのは、
幻想でしかない。

子どもは、ウソをつく。

しかしウソをつくからといって、
子どもを、頭から叱ってはいけない。

子どもは、ウソをつきながら、
親からの自立を学ぶ。

++++++++++++++++

 子どものウソにもいろいろある。そのウソだが、病的なものは別として、それを悪いこ
と決めつけて、頭から否定してはいけない。

 子どもは、ウソをつくことで、自立を学び、ついで、自我の確立を学ぶ。それがわから
なければ、あなた自身の子ども時代のことを思い出してみればよい。

 あなただって、ウソをついたことがあるはず。親をだましたときの、あの快感を覚えて
いるはず。

 あえていうなら、ウソは、自我と超自我の間にある、緩衝材としての役割を果たす。超
自我、つまり頭がコチコチの、石部金吉のような人物でも困る。「石部金吉」というのは、
三省堂の大辞林によれば、「たださえ物がたいい石部金吉が、さらに金兜(かぶと)をかぶ
っているの意。極端な堅物(かたぶつ)のたとえ」とある。

 冗談も言う。ユーモアもわかる。適当にふざけて、いいかげんにすますところは、いい
かげんにすます。そのためには、ときにウソもつく。……というのが、子どものウソであ
る。

 反対に、「ウソは絶対ダメ!」と子どもを強く指導しすぎると、子どもは、融通のきかな
い子どもになってしまう。他人と、良好な人間関係が築けなくなってしまう。さらに言う
なら、子どものウソは、(何も、子どもにかぎらないが……)、車のハンドルがもつ、「遊び」
のようなもの。この遊びがあるから、車も運転できる。

 だから子どもがウソをついても、それなりにたしなめながらも、それ以上に、子どもを
叱ったり、責めたりしてはいけない。一説によると、子どもは、満2歳前後から、ウソを
つき始めるという。ウソ寝、ウソ泣きなどが、その始まりとされる。

 こうした親側の心の度量の広さが、子どもを伸びやかにする。

 ついでながら、子どもの(いたずら)も、同じように考えてよい。

 BW教室(私の実験教室)の子どもたちは、本当にいたずらが好きである。少しでも油
断すると、つぎからつぎへといたずらを、する。

 私がトイレに行っている間に、ドアのカギをかけてしまう、時計の針を進める、イスの
ボルトを抜く、などということは、茶飯事。書きだしたらキリがないが、ときに、あれっ
と驚くほど、知能的ないたずらをする子どももいる。

 一応は叱りながらも、笑いとばす。そして私も、それ以上に、知能的ないたずらを、す
る。たとえばデジタルカメラで顔をとり、それを加工して、子どもたちの顔を、ジーさん、
バーさんにしてしまうなど。それをテレビ画面に、大きく写し出して見せたりする。

 こうしたやりあいが、子どもの心を開く。

 そうそうこの4月から入会した、Aさんの母親が、Aさんに、「BWは楽しい?」と聞い
たところ、Aさんは、こう答えたという。「BWは楽しいところではないよ。おもしろいと
ころだよ」と。

 Aさんの母親が、そんなメモを書いて、私に渡してくれた。うれしかった。ホント!

 Aさん、ありがとう!!!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の嘘 うそ ウソ 子供の心理 幼児の心理)

【ある母親からの相談より】

++++++++++++++++

ある母親から、BWのトイレは
危険(?)という相談があった。

それについて……。

++++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

おかげさまで子どもたちは昨日も
楽しく過ごしてきたようです。

今朝、子どもたちの登校後にいきなり母が
やってきて、何を言い出すかと思えば、
「はやし先生のところを止めなさい!」と。

理由を問うと、トイレがお教室の外にあり、
娘が一人でトイレに行くのは危ないからだと言います。
子どもが出入りすることを知っている変質者が、
待ち構えて連れ去るかもしれないと。

そんなことまで考えたら、生きてはいけないよと言ったら
「じゃあどうなってもいいのね」と不機嫌になりました。
大手の塾なら建物の廊下にトイレはありますが、
うちの近くの病院でも、不審者が侵入して器物損壊したケースも
ありますし、空港の国際線ターミナルじゃないんだから、
そこまでのセキュリティはどこにもありません。
子どもの通っている学校だって、そこまでする気に
なった犯罪者には対応不能です。

母もご存知のようにもともとああいう人なので、
言い出すと聞きません。しかもこのところ、
老化により、ますます妄想的になっています。

一応私が先生に伝えることで、納得させましたので、
なるべく授業中トイレに出た時、奥様に少し気を
配っていただくようにお願いします。
あんまり長いようなら見に行っていただくとか....。
あつかましい、ご無理なお願いで申し訳ありません。

もちろん、授業中のトイレはなるべく行かせないため、
出発前に必ず行きたくなくても行かせるように
私のほうでも対応いたします。

【はやし浩司より、Yさんへ】

おはようございます。

トイレのご心配、ですか???

BWは、3階にあり、トイレも3階にあり、
変質者が入ってくるスキはありません。

それにたいがい、内外に父母が立っていますので、
よけいに変質者が入ってくるスキはありません。

少し前、レストランの上の教室は火事のとき
心配だと、訴えてきた母親がいました。

しかしこれも、心配ご無用!

今度おいでになるとき、廊下(2階)から階段の
カベをたたいてみてください。

廊下と2階の部分だけは、鉄骨ではなく、鉄筋になって
います。

またドアも、鉄製の防火ドアになっています。

さらに昨年、それを心配して、大家さんが、
70万円をかけて、火災報知器をつけてくれました。

階下で火事があれば、教室の中でベルが鳴るように
なっています。

なお、お母さんは、誤解なさっているのではないかと
思います。

子どもが、「BWのトイレは外」と言ったのを、
「建物の外」と、です。

BW教室のトイレは、BW教室のある部屋からドアを
出て右側のところ、つまり3階の廊下にあります。

そう言えば、昨日、レッスンの途中で、トイレに行くと
言った子どもがいましたので、

「横断歩道を渡るんだよ。交通事故に気をつけるのだよ」と
からかってやったのを覚えています。もちろん冗談で
そう言ったのですが……。

それをお母さんは、真に受けたのではないかと
思います。

また何か、ご心配なことがあれば、連絡してください。
では、

はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【子どもの人格論】

●まず、はじめに……

+++++++++++++++++

人には、(本当にすばらしい人)と、
(見かけ上、すばらしい人)がいる。

そうした(ちがい)は、どこから、
どう生まれるのか?

また、どうすれば、その(すばらしい
人)になれるのか?

+++++++++++++++++

●Bという女性教師

 ありのままを書く。

 私が昔勤めていた幼稚園に、Bという女性教師がいた。当時年齢は50歳くらいではな
かったか。

 そのBという女性教師が、ある午後、職員室へ飛びこんできて、こう言った。はき捨て
るような言い方だった。

 「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつ
よこさないんだから、いやになっちゃう!」と。

 Bという女性教師は、そういう教師だった。言いたいことを、スケズケと言った。私も、
2度ほど、何かのことで意見を言うと、「生意気、言うんじゃないよ!」と、平手で、頬を
殴られたことがある。

 で、そういう教師の話をすると、おおかたの人は、「何という教師だ!」と、思うにちが
いない。「教師として、あるまじき人間」と。

 私もそう思っていた。ごく最近まで、そう思っていた。しかしBという教師は、いつも
本音で生きていた。知的レベルは、それほど高くなかったが、その教師の教育論には、一
種独特のものがあり、何かと参考になった。

●自我構造理論

 一方、その私はどうかというと、心の奥深くでは、同じように思うこともある。しかし
そう思ったとたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心のどこかにしまいこんでしま
う。

 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うま
く説明できる。

 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネ
ルギーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、
理性もない。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。

 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」とい
う理性である。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑
制する。

 そこでこの自我構造理論を、Bという女性教師に当てはめて考えてみると、こうなる。

 イドの世界では、その女性教師は、いつも何かの見かえりをもとめて、その母親の子ど
もと接していたことになる。多くの人は、「教師」というと、聖職を意識し、「聖職である
なら、そういうことは考えないはず」と思うかもしれない。

 しかし教師といっても、ふつうの人間。ばあいによっては、ただの人間。あなたやあな
たの夫(妻)と、どこもちがわない。またそうであるからといって、まちがっているとい
うことにもならない。

 Bという女性教師は、それを自然な形で(?)、ありのままの自分を表現したにすぎない。

 「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつ
よこさないんだから、いやになっちゃう!」と。

●イドと自我の戦い
 
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の
働きが強ければ、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと
思われる。

 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)
でも、説明できる。

 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程
度、(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴール
マンは、(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)
他人への思いやり、(5)人間関係の5つをあげた。)

 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということにな
る。

 (言うべきか)(言うべきでないか)ということになると、Bという女性教師は、そうい
うことを、職員室という場では、言うべきではなかった。たとえそう思ったとしても、だ。
つまりその分だけ、Bという女性教師は、人格の完成度が、低かったということになる。

 が、その一方で、こういう問題も、ある。

●教師という仮面

 教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。
おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、
ものを考える。接する。

 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接す
る。しかしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性
がある。こんなことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、
まったく分離してしまうということは、危険なことでもある。

 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。

 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演
じていると、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、
弱い。長く、つづけることはできない。

 そこでふと我にかえって、自分に気づく。そしてはき捨てる。

 「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつ
よこさないんだから、いやになっちゃう!」と。

●自己管理能力

もしそのとき、Bという女性教師が、自我の力で、イドを抑えこんでしまっていたとし
たら……。外見上は、すばらしい教師のままでいられたかもしれない。私たちに対する
印象も、それほど悪くしないで、すんだかもしれない。

 で、この(ちがい)こそが、つまりは、(真の人間性)ということになる。

 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)
はどこにあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと
言えば、自我のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうで
ない人を、(見かけ上、すばらしい人)という。

 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうた
めに、こんな話を書きたい。

●思春期に肥大化するイド

 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。

 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていっ
た。黒い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。

 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車
がいないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。

 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼
児ほど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、
子どもは、とたんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。

 なぜか?

 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはド
ロドロとした欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我の
もつ管理能力が低下する。

 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当に
すばらしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い
(?)。

●では……

 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。

 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らな
ければならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみど
ころがない。ドロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イド
は、私の生きる原動力となっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこか
ら生まれる。

 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を
抱きたい」「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。

 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンの
ようなもの。

 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドル
をとりつける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコント
ロールする部分が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、
しかしそう考えると、(私)というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、
そうしてできあがった、(車)のようなもの、ということになる。

 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)と
いうことになるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボ
ロで、故障ばかり繰りかえす……。

 冒頭の話にもどす。

 Bという女性教師だが、今は、他界して久しい。が、私には、強烈な印象を残して、こ
の世を去っていった。

 その教師を思い出しながら、今でも、ときどき、ふとこう思う。

 「あの先生のように、本音をむきだしにして生きることができたら、私ももっと気楽に
生きることができるのになあ」と。

 ……どうやら私はまだ、どこかで仮面をかぶったまま生きているらしい。心のどこかで
はその教師を否定しながら、その一方で、あこがれに似た気持ちをいだく。

今の私には、(本当にすばらしい人)になるのは、とても無理だと思う。ホント!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自我構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)


++++++++++++++++++++

以前書いた原稿を
再掲載します。

++++++++++++++++++++

【子どもの人格論】

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言
っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方
を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考
える前に、それについて、書いたのが、つぎの原稿である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの人格 子供の人格論)


+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚
園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。し
かし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもな
がらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、
幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さん
が、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。
そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザ
を食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなっ
た。心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SEL
Fとかいう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使う
が、どこか暴力的で、私は好きではないが……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリと
している。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がき
かなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、
がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方
法で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)
を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことに
こだわり、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常
なこだわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先
生に、一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、な
ど。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(が
んこさ)を示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わが
まま」と決めてかかって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめ
る。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、
臨機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔
軟な子どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」という
が……。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここ
でいう人格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた
子どもとみる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)


++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは
……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子
どもは……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子ど
もは……。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言
っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方
を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくな
になる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何ら
かの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをし
なかった子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚
園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまって
しまう子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」
と、最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができ
る。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピ
ーター・サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士
によって理論化された概念で、日本では「情動の知能指数」「心の知能指数」と訳されてい
る(Emotional Education、by JESDA Websiteより
転写。)

++++++++++++++++++++

【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emo
tional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指
数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管
理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果
たせない。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを
行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階にな
っても、その時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊し
た例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その
人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、
自殺行為も、それに含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよ
う。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほ
うがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行
くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをす
すめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に
染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)
という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとでき
るかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自
我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐
怖症、飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断
できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態
に似ている。(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子ども
だったかもしれない。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与
える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身を
コントロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そ
ういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、
そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをお
りたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされ
る。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私
の人格の完成度は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い
人ということになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がない
ことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、
ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。
その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、ど
うしても足が遠のいてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のド
ラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するか
である。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワ
イフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになる
が、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出し
て、相手を罵倒したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまっ
て……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、
結局は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そ
のつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くという
のは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、
その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別
の機会に考えてみたい。
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 19日(No.728)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BWより】

 今年度も、新しい生徒を迎えることができました。
 で、毎年、同じ話をしています。

 それを改めて、お伝えしたいです。

【1】ねらい

 BW教室は、何かを教える教室ではありません。学ぶことを好きにさせる教室です。そ
のあとのことは、そのあとのこと。子どもたちに任せます。

 たとえば(ひらがな)。BWでは、ひらがなの書き方とか、そういうことは、教えません。
ひらがなを使った遊びを、教えます。つまり子どもたちに、「ひらがなは楽しい」「文字を
書くのは楽しい」と、そう思ってもらえるように指導します。

 そのあと子どもたちが家に帰って、「ママ、ひらがなを教えて!」とでも言ってくれれば、
しめたもの。それがまた、BWのねらいでもあります。

【2】こまかいことですが……

 BWでは、消しゴム、エンピツのキャップについては、使わないように指導しています。

 消しゴムですが、この時期、一度、消しゴムを使うクセが身についてしまうと、書いて
は消しの、無駄な作業ばかりを繰りかえすようになります。

 私は「消し消し中毒」と呼んでいます。つまり(考えてから書く)のではなく、(一度、
適当に書いてみてから、考える)というようになってしまいます。

 ひどい子どもになると、1分間、ものを書いただけで、その1分間に、数回以上、消し
ゴムを使います。

 こうなると、もう消しゴムを取り上げることもできません。無理に取り上げると、中毒
患者が見せる禁断症状のような症状を見せます。イライラするばかりで、何も書こうとし
なくなります。

 もちろん時間に制約があるテストなどでは、決定的に不利になります。

 仮に1分間に4回、3秒ずつ消しゴムを使ったとすると、1時間では、12分間も、時
間を無駄にすることになります。

 また最近の大学の入試では、答よりも、その答にいたったプロセスを重要視するように
なってきています。(答よりも、どう考えたか)を重要視するということです。そのため、
理科系のほとんどの大学では、消しゴムの持参を禁止しています。

 以上のような理由から、幼児期から小学校の低学年期には、できるだけ消しゴムを使わ
せないように指導するのが、賢明かと思います。

 つぎにキャップですが、子どもは、鉛筆(鉛筆自体、危険な道具であることを忘れては
いけません)を使うとき、そのキャップを、鉛筆の反対側にはめます。

 事故は、そのあとに起こります。

 鉛筆をしまうとき、そのキャップをはずそうと、子どもは、両手で、鉛筆とキャップを
握ります。そして左右に手を広げるようにして、キャップをはずします。

 そのとき、(子どもの体がやわらかいこともありますが)、鉛筆のとがった芯のほうが、
となりの子どものほうに向かって、ヒュイと飛んでいきます。

 私の教室でも、以前、そうした事故が数回、起きています。幸いにも、鉛筆の芯が刺さ
った先が、頬とか、首だったのでよかったのですが、もしそれが目だったとしたら……。
以来、キャップの使用を禁止するようにしています。

【3】参観について

 BWでは、おうちの方の参観は、自由にしていただいています。しかしつぎのルールは、
お守りください。

(1)私語、雑談は、絶対禁止!
(2)他人のお子さんのワークや作品をのぞいたりするのは、絶対禁止!
(3)お子さんに向かって、おうちの方が、目やジェスチャでサインを送るのは、絶対禁
止!
(4)レッスンのあと、レッスンのことで、お子さんを叱ったり、注意したりするのは、
絶対禁止!
(5)待ち合い的に、参観していただいても意味のない方の参観は、絶対、お断り! た
とえばお子さんの兄や姉などの同席参観は、お断り!

 以上、きびしいことを書きましたが、私にとっては、BWはまさに、真剣勝負の場です。
私の教育理論の実践の場です。一見、ふざけあいながら、レッスンを進めているように見
えるかもしれませんが、それもよく考えた上で、そうしています。どうか誤解なさらない
でください。

 以上、こまごまとしたことを書きましたが、みなさんのお子さんを、すばらしいお子さ
んにします! 約束します!! そんなわけで、どうか私のキャリアと実績を信じて、お
子さんを、安心して、お任せください。
(はやし浩司 BW BWの指導 方針)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【どこへ行く、韓国?】

+++++++++++++++

ますます左傾化する、N政権。
「北の脅威は、過去のもの」と
言いつつ、その一方で、繰り広げる、
猛烈な反日キャンペーン。

韓国はいったい、どこへ行こうと
しているのか?

+++++++++++++++

●物理的制裁?

 韓国のN大統領が、日本に対して、「断固たる措置を取る」「物理的制裁も辞さず」など
と述べた(4月25日)。竹島の領有権争いに関して、である。

 国際政治の世界で「物理的制裁」というのは、軍事行動、もしくは軍事的制裁を意味す
る。わかりやすく言えば、戦争ということ。

 同盟国とまではいかないにしても、同じ自由主義貿易体制の中で、共栄共存を図る韓国
が、ここまで言うとは! 日本政府は、「(こうした発言は)、韓国国内向けの発言」(4月
26日)と、表面的には、冷静に受け止めているようとしているようである。が、当然の
ことながら、対抗措置も検討しているはず。

 経済制裁という、対抗措置である。韓国政府がここまで言い切った以上、つまり敵意を
むき出しにした以上、日本はもう、何も遠慮する必要はない。打倒、韓国! 打倒、N政
権!、である。

 その前に、韓国の経済状況はどうなっているのか。最近のデータをもとに、分析してみ
たい。

●韓国経済

 韓国の国内総生産(GDP)は、今年(06年)第一・4半期で、前期よりも1・3%
の伸びを示し、前年比6.2%となり、市場予想を上まって、伸びている(韓国銀行、4
月25日発表)。

 つまり韓国は、この数年、5〜6%の伸び率で、経済発展を遂げていることになる(注
1)。

 が、だからといって、喜ぶのは早い。GDPは、たしかに5〜6%の伸び率を示してい
るが、経済成長率となると、第一・4半期では、1・6%にすぎない。つぎの第二・4半
期では、1・0〜1・2%へと減速すると予想されているので(注2)、1年を通してみれ
ば、4〜5%の成長率ということになる。

 中国の経済成長率とは比べようもないが、韓国経済の規模から考えると、もう少し勢い
がないと、中国経済にのみこまれてしまう可能性が高い。たとえば一番目新しいニュース
としては、こんなニュースもある。

 現在、多国籍製薬企業が、相ついで、韓国から撤退をしつつあるという。たとえばソウ
ルに工場を構えていたファイザーも、4月18日、韓国での生産を中止すると発表した(注
3)。

 薬品については、韓国はすでに、薬品輸入国に転落している。が、さらに悪夢はつづく。

 韓国経済は、日本と同じ、貿易、とくに物品の輸出によって成りたっている国である。
そのため、少しでもウォン高になると、その影響はモロに現れる。

 そのウォン高が、このところ、さらに進行している。韓国企業にとって、為替相場上の
損益分岐点は、およそ1ドル、961ウォンと言われている(注4)。しかし4月19日の
ソウル外国為替市場で、ウォンは、前日比8ウォン値上がりして、1ドル=945.6ウ
ォンで取引を終えている(注5)。

韓国の各企業が年初の事業計画の際に予想していたウォン相場は、1ドルが1002ウ
ォンであり、最近のウォン高で、採算性が悪化したのを受け、一割の企業が輸出を縮小
したり、断念すると回答している。

 仮に1ドルが950ウォン水準がつづくばあい、各企業が予想する輸出減少率は、平均
12%になるという(同、注5)。

 その1例として、韓国を代表する、LG電子をみてみよう。

 LG電子ですら、今年(06年)の第一・4半期の営業利益は、2000億ウォン以下
にとどまったという。そのため、前期にくらべ、売り上げは、6・2%の減少、営業利益
は9・7%の減少。さらに当期純益は、48・6%もさがっている(注6)。

 得意の携帯電話機分野での不振がつづいている。

 こうした国内事情を反映して、このところ、倒産件数もふえている。

 ロイターが伝えるところによると、韓国銀行(中央銀行)が18日発表した3月の同国
の企業倒産件数は、161件で、過去15年で最少だった2月の119件から、大幅に増
加したという。ちなみに1月は142件だった(注7)。

 伸びつづけるGDPと、経済成長率。しかしその裏で、倒産件数が増え、大企業は、軒
並み純利益を減らしている。では、実際のところ、韓国経済は、どのレベルにあるとみる
べきなのか。

●今まではよかったが……

 これについては、韓国の東亜日報が、つぎのような記事を載せている。それをそのまま
紹介する。

……16日、韓国開発研究院(KDI)が発表した「経済展望報告書」に対して、大半
はこのような反応を見せはしないだろうか。2006年の半期別経済成長率が、第1四
半期(1〜3月)6.2%に(前年同期比)成長した後、第2四半期(4〜6月)5.
8%、第3四半期(7〜9月)5.1%、第4四半期(10〜12月)4.4%と引き
つづき低下する展望となっているからだ。景気が好転するのかと思われていたところへ、
今年も下り坂ということだ。 

原油価格の高騰と消費の伸び悩みで、現在の景気回復の基調が長引くかどうか不透明と
いうことだ。下半期に景気が天井をついた後、萎縮する可能性も排除できないという診
断だ。 

KDIは今年の国内総生産(GDP)成長率を当初5.0%から5.3%に上方修正し
た。第1四半期の6.2%という高成長率で力を得た。 

しかし、今年の経常収支黒字は41億ドルにとどまると予想した。昨年の黒字規模に比べ
125億ドル、当初の展望値に比べ83億ドルが及ばない規模だ。ウォン高と原油価格上
昇など、貿易条件が悪化したためだ。 

消費拡大とともに現在の景気上昇をけん引している輸出も、引き続き良好かどうかは未
知数だ。米国と中国の経済成長基調が鈍化する可能性もあり、現在のように輸出も好調
ぶりが続くかは不透明だと、KDIは指摘した。 

このような景気鈍化の可能性に対して、財政経済部(財経部)は「ダブルディップの可
能性は少ない」と予想した(東亜日報 4月17日)……と。 

少し読みづらい文章だが、「今まではよかったが、この先のことはわからない」と。か
なり弱気になっているのが、わかる。こうした中、日本の巻き返しにも、はげしいもの
がある。何といっても、日本と韓国では、経済規模がちがう。「世界第11位の、先進
国になった」と韓国ははしゃいでいるが、その実、GDPで見るかぎり、韓国の経済規
模は、日本の経済規模の、約7分の1。

 03年度の、日本のGDPは、約4兆3000億ドル。かたや韓国のGDPは、約60
00億ドルに過ぎない(注8)。

 韓国にとっての最大のライバルは日本ということになるが、まともに立ち向かっては、
韓国には勝ち目はない。韓国は、日本の動向に神経をとがらせている。つぎの記事は、朝
鮮日報の社説として載せられたものだが、これを読んだだけでも、その危機感が伝わって
くる。

●ライバルは、日本!

……日本の東芝がデジタル器機の保存装置として使われる、NAND型フラッシュメモ
リーの生産量を増やすため、5000億円(およそ4兆2000億ウォン)相当の設備
投資に乗り出すという。300ミリウェハーを基準にして、現在1か月間8万枚に達す
る生産量を、2008年以降は1か月間25万枚に拡大するという計画だ。 

 日本経済新聞の報道によると、東芝が「首位の韓国サムスン電子を追う」という。昨年
のNAND型フラッシュメモリーの世界シェアは、サムスン電子が54・1%、東芝が2
23・4%、ハイニックスが10・7%を占めていた。 

 今のところはサムスン電子が圧倒的なシェアでトップを守っているが、現在の地位を守
るための道のりは険しいものになりそうな状況だ。 

 ディスプレー産業では、すでに韓国の優位が崩れつつある。プラズマ・ディスプレー・
パネル(PDP)モジュール(半製品状態の画面部品)市場では、昨年第4四半期に日
本の松下電器産業が、28%のシェアを獲得し、サムスンSDI(26・7%)を追い
抜いて、トップに踊り出た。 

 松下は引き続き生産ラインを拡充している反面、サムスンSDIは依然として投資計画
さえ立っておらず、その格差はさらに広がるものと見られる。韓国が日本を追い抜いて
PDP部門のトップになってから、わずか2年で逆転されたのだ。 

 LCD部門では、台湾が韓国を追い抜いた。昨年第4四半期に10インチ以上の大型L
CD(液晶ディスプレー)パネルの生産量で、韓国は台湾にトップを座を奪われた。今
年は年間生産量でも台湾に追い抜かれる可能性がある。しかも、日本のシャープなどが、
LCD部門への投資拡大によって市場への攻勢を本格化している。 

 メモリー半導体や、PDP、LCDは、現在の韓国を下支えしている基幹輸出品目だ。
日本企業が投資に躊躇(ちゅうちょ)しているうちに、韓国企業が大胆な投資を行って
世界市場を掌握した製品だ。しかし、日本企業の反撃と台湾企業の追い上げによって、
予断を許さない状況になってしまった。 

 独自の中核技術を持たず、主に量産技術に依存してきた韓国電子産業が、限界を露呈し
てしまったのだ。設備投資を拡大することも重要だが、何よりも技術面で突破口を切り
開く必要がある……。(朝鮮日報 社説)

 ほかに今のところ、韓国は船の建造量では3年連続、1位。インターネット利用者数は
2位。自動車の生産量では6位となっている。

造船やインターネットは別として、最後の砦が、自動車産業ということになる。その自
動車産業は、どうか? が、このところ、韓国の自動車産業界は、何かと騒がしい。秘
密資金問題が明るみに出て、韓国最大手の自動車メーカー、「現代」グループの会長が、
この24日にも、検察当局に召還されるかもしれないという(注9)。

●岐路に立つ韓国経済

 以上、こうしてながめてみると、韓国経済は、今、大きな岐路に立たされていることが
わかる。もともと、その産業基盤は、弱い。朝鮮日報の社説が述べているように、「独自の
中核技術を持たず、主に量産技術に依存してきた韓国電子産業が、限界を露呈してしまっ
た」というのが、現実である。

 もしこのまま原油高がつづき、ウォン高がつづけば、韓国経済は、今年中にも崩壊する
かもしれない。相つぐ多国籍企業の、韓国からの撤退は、火事場から逃げるネズミのよう
なもの。「あぶない!」と感じたからこそ、みなが、撤退を始めた。

●反日キャンペーンの、ブーメラン効果

 N政権が反日キャンペーンを繰り広げるのは、勝手だが、その日本が、このまま静かに
しているとは、とうてい思われない。また、静かにしていてはいけない。

 日本がもつ最大の武器は、経済力である。その経済力をフルに使って、韓国経済と戦う。
はげしい言い方に聞こえるかもしれないが、N政権は、日本に対して、それ以上の敵意を
むきだしにしている。

 わかりやすく言えば、韓国経済を破滅に導くことはないにしても、これ以上、韓国に遠
慮することはない。韓国から、日本企業の撤退、ジャパン・マネーの引きあげを臭わすく
らいのことをしても、悪くない。

 さらに韓国が得意とする、半導体、ディスプレイ、さらには最近を力を伸ばしつつある
自動車産業の分野をターゲットとして、日本における国内産業の助成、台湾、東南アジア、
インドなどでの現地生産によるコストダウンを図る。

 すでに携帯電話での分野では、韓国は守勢に回り始めている。

 韓国の経済界がもっとも恐れているのは、「ブーメラン効果」である。つまりN政権が、
反日キャンペーンを繰り広げれば広げるほど、その反動として、韓国経済が打撃を受ける、
と。それを心配している。であるならば、そのブーメラン効果とやらを、よりはっきりと
わかる形で、韓国に示してやる。

 私も、UNESCOの交換学生として韓国に渡って以来、韓国を自分の第二の母国のよ
うに、ずっとながめてきた。が、今のN政権ほど、わけのわからない政権をみたことがな
い。ものの考え方が、完全にうしろ向き。まるで、K国の金xx政権の手下のようでさえ
もある。

 しかしわざわざ反日のための大統領談話なるものを用意するとは! 余計なことかもし
れないが、この尊大ぶった政治姿勢こそが、まさに儒教文明のなせるわざと考えてよい。

●恩を忘れたか、N大統領!

ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろ
うとしていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ド
ルを援助した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。
総計で、550億ドル!

 その結果、それまで33行あった韓国の主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年
には、失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落
した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の
日本円になおせば、わずか5〜6兆円。それで、救済できたこと。(日本のばあい、あのN
銀行救済のためだけに、4兆円ものお金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1
兆円!)

 しかし韓国が国家破綻を起こしたとき、それを助けたのが、ほかならぬ、この日本。世
界銀行にしても、アジア開発銀行にしても、日本が最大の出資国になっている。

 どうしてN大統領は、こうした日本の努力を、前向きに評価しないのか。ゆいいつ救い
なのは、N大統領の支持率が、20%前後。与党ウリ党の支持率が、10%前後で推移し
ていること。さらに選挙をするたびに、野党ハンナラ党に、ベタ負けしているということ。
N大統領イコール、韓国ではないということ。

 ……などなど言いたいことは山のようにある。本当なら、もっと仲よくしたいのだが、
こうまでことあるごとに、反日キャンペーンを繰り広げられると、そういう気持ちも、ど
こかへ吹っ飛んでしまう。

++++++++++++++++++++

以上の原稿は、4月26日に書いたものです。
この原稿がマガジンに載るころには、
国際情勢は大きく変化しているかもしれません。

++++++++++++++++++++

【注1】……韓国銀行(中央銀行)が25日発表した第1・四半期の国内総生産(GDP)
伸び率は、季節調整済みで前期比1.3%、前年比6.2%となり、市場予想を上回った。

 ロイター調査による予想中央値は前期比1.1%、前年比6.0%となっていた。

 昨年第4・四半期は前期比1.6%、前年比5.3%、同第3・四半期は前期比1.6%、
前年比4.5%だった。(ヤフー、経済総合ニュース、4月25日)


【注2】……韓国銀行(中央銀行)の李成太・総裁は21日、第2・四半期の同国経済成
長率が、第1・四半期の前期比約1.6%から同1.0〜1.2%に減速し、年内は同様
の成長ペースが続く可能性があるとの見通しを示した。ただ、景気の大幅鈍化は見込んで
いないとしている。国会の委員会で語った。(ロイター 4月20日)

【注3】……多国籍製薬会社が相次いで韓国から工場を撤退させている中、ファイザーが
ソウル工場での生産を中断することを決めた。これにより、医薬品の貿易赤字の規模が拡
大するのではないかとの懸念の声が高まっている。 

 ファイザーは18日、「本社の生産最適化戦略に基づき、ソウル工場の生産を中断するこ
とにした」と発表した。同社のソウル工場では昨年、韓国ファイザーの売上総額の3分の
1(1050億ウォン)を占めた高血圧治療剤のノバスクなどを生産してきた。 

 同社関係者は「2度にわたる合併を経た後、世界各地の製造施設で重複生産されている
製品の生産を本社レベルで再調整してきた。生産の中断後も臨床研究をはじめとする研究
開発などに引き続き投資を拡大させていきたい」と明らかにした。 

 しかし、多国籍製薬会社の相次ぐ工場撤退により、国内で生産・販売していた製品が海
外からの輸入品に切り替われば、医薬品分野における貿易赤字の幅はさらに大きくなると
の懸念の声も強い。 

 昨年3月には韓国リリーと韓国ワイスが工場を売却、閉鎖しており、グラクソ・スミス・
クライン(GSK)も昨年6月に抗生剤工場を売却した。韓国ロシュも来年の上半期まで
に安城工場を閉鎖するという。 

 韓国医薬品輸出入協会によると、昨年の医薬品輸入額は28億6900万ドルと、前年
に比べ220・4%増加した。一方、輸出は8億6400万ドルと、前年比11・1%増に
とどまり、昨年の貿易赤字は20億500万ドルと、前年度より25・0%も増加した。 

 製薬業界関係者は「今後、米韓自由貿易協定(FTA)の締結が実現すれば、医薬品の
貿易赤字はさらに増えるだろう。多国籍製薬会社の臨床試験を積極的に誘致し、赤字を相
殺していく必要がある」と語った。 (朝鮮日報4月20日)


【注4】……韓国の中小輸出企業にとって、為替相場上の損益分岐点は、およそ1ドル9
61ウォンであることが分かった。 

 19日、韓国輸出保険公社が今月3日から10日まで、中小輸出企業287か所を対象
にアンケート調査した結果によると、損益分岐点になるドルに対するウォン相場は、繊維
が967ウォン、半導体955ウォン、鉄鋼953ウォンなど、平均961ウォンと集計
された。 

 一方、各企業が年初の事業計画の際に予想していたウォン相場は1ドル・1002ウォ
ンとなり、最近のウォン高で採算性が悪化したのを受け、一割の企業が輸出を縮小したり、
断念すると回答した。 

 1ドル・950ウォン水準が続く場合、各企業が予想する輸出減少率は平均12%とな
った。(朝鮮日報 4月20日)


【注5】……韓国ウォンが米ドルに対して4日連続で値上がりし、1ドル=950ウォン
台を割った。 米国の利上げ打ち止め観測による影響が大きい。 

  19日のソウル外国為替市場で、ウォンは前日比8ウォン値上がりした1ドル=945.
6ウォンで取引を終えた。 為替レートが終値基準で950ウォンを割ったのは97年10
月27日(939.9ウォン)以来8年6カ月ぶり。 

  ウォンはこの4日間、対米ドルで15.9ウォン値上がりし、この日は海外でドルが売
られてウォン高を後押しした。 前日の国際外国為替市場でドル安に傾き、こうした雰囲気
が国内外国為替市場でのドル売りにつながった。(中央日報 4月19日)


【注6】……LG電子の今年第1四半期の営業利益が2000億ウォン以下にとどまった
ことがわかった。 

 LG電子は19日、「今年の第1四半期は、売上げ5兆7998億ウォン、営業利益19
06億ウォン、当期純利益1604億ウォンをそれぞれ記録した」と明らかにした。前期
に比べ、売上げは6・2%、営業利益は9・7%、当期純益は48・6%下がった。特に、
LG電子の四半期当たりの営業利益が2000億ウォン以下にまで下がったのは、昨年の
第2四半期(1436億ウォン)以来となる。 

 実績の発表結果、携帯電話部門の不振が目立った。携帯電話部門の第1四半期の売上げ
は前期より25%減となる2兆329億ウォンにとどまった。営業利益は2174億ウォ
ンの黒字から89億ウォンの赤字に転落した。売上総額は昨年の同期に比べ40%増えた
ものの、高価格帯製品の売り上げが減少したうえ、マーケティング費用が増加したことで、
実績が悪化したとLG電子は説明した。 

 一方で、生活家電部門では高級冷蔵庫と商業エアコン販売の好調に支えられ、売り上げ
(1兆5735億ウォン)と営業利益(1595億ウォン)が前四半期に比べて大きく増えた。
デジタルTV中心のデジタルディスプレイ部門は、PDP・LCDTVの需要拡大に支えら
れ、前期の807億ウォンの赤字から295億ウォンの黒字転換に成功した。PCが主力
のデジタルメディア部門では、売り上げ7643億ウォン、営業利益229億ウォンを記
録した。 

 ウリ投資証券のイ・スンヒョク研究委員は「特に携帯電話部門が期待はずれの結果とな
った。第2四半期には全体の営業利益が第1四半期より増えるなど、状況はやや好転する
のではないか」と話した。 (朝鮮日報 4月20日)


【注7】……[ソウル 18日 ロイター] 韓国銀行(中央銀行)が18日発表した3
月の同国の企業倒産件数は161件で、過去15年で最少だった2月の119件から大幅
に増加した。1月は142件だった。

 中銀が同時に発表した3月の債務不履行率は0.02%と、4カ月連続で横ばいだった。


【注8】

2003年世界の、GDPトップ10 

1 アメリカ    10兆8572億ドル 
2 日本       4兆2907億ドル 
3 ドイツ      2兆3862億ドル 
4 イギリス     1兆7750億ドル 
5 フランス     1兆7316億ドル 
6 イタリア     1兆4554億ドル 
7 中国       1兆3720億ドル 
8 カナダ       8505億ドル 
9 スペイン      8271億ドル 
10 メキシコ      6116億ドル
11 韓国      6052億ドル


【注9】……秘密資金造成などの疑いで検察捜査を受けてきた、鄭夢九(チョン・モング)
現代起亜(ヒョンデ・キア)自動車グループ会長の召還調査が、24日に迫った中、内外
から懸念の声が広まっている。 

現代車グループの協力会社は検察に善処を訴える嘆願書を提出しており、海外のディー
ラーらも、今回の捜査がもたらすイメージ墜落などの否定的な影響に神経を尖らせている。 

23日、財界と検察によると、現代車グループ部品供給協力会社の集まりである現代起
亜車協力会は、22日、同グループに対する善処を訴える嘆願書を検察に提出した。嘆
願書には協力会社約1800社の役職員5万人の署名が添付されている。 

李栄燮(イ・ヨンソプ)現代起亜車協力会会長らは嘆願書で、「現代起亜車の経営障害
が本格化し、対外信任度が下落したことで、否定的な波及効果が日増しに現実化してお
り、心配だ。現代起亜自動車と運命を共にする協力会社としては、さらに大きな負担だ」
と主張した。 

協力会社はまた、「捜査の結果、経営空白という最悪の状況を迎えることになったら、
現代起亜車のグローバル経営は根本から揺るがされることになり、協力会社にはその影
響が数倍も増幅されて響くだろう」とし、間接的に鄭会長と息子の鄭義宣(チョン・ウ
ィソン)社長に対する善処を要請した。 

しかし、一部のネチズンたちは、「国民の血税で巨額の負債を帳消ししてもらい、検察
の捜査を受けている状況で、反省どころか、下請け会社の職員を利用して救命嘆願をす
るなんて呆気に取られる」という内容を、最高検察庁のホームページに書き込んだりし
ている。 

スコット・ピンク米国現代車ディーラー協会会長は、先週、米ロサンゼルスで開かれた
北米地域ディーラー代表会で、「米国の顧客がビジネス外の要素で、現代車の購買を留
保するというのは想像することさえ嫌なことだ」とし、「今回の事態が販売減少につな
がるのではないかと心配している」と述べた。 

スコット会長は直ちに協会の名義で、今回の事態に対して懸念する文書を現代車本社に
送る計画だ。米カリフォルニア州担当ディーラーの「オブライアンオートモチーブ」社
は、現代社本社に送った文書で、「今回の事態は、現代社が海外で蓄積してきたブラン
ドイメージに打撃を与えかねない」と憂慮した。(東亜日報 4月24日)
(はやし浩司 韓国 経済 経済指標 韓国経済)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●仕事と休息

++++++++++++++++++

「忙しいですか?」と、よく聞かれる。
で、いつも、私の答は、同じ。

「忙しくはないですが、時間が足りなくて、
困っています」と。

++++++++++++++++++

 朝、起きる。まっすぐ書斎へ飛びこむ。パソコンに電源を入れる。Eメールに目を通し
たあと、ニュースを読む。

 私の1日は、こうして始まる。時刻は、まちまち。今朝は、午前6時に起床。今は、午
前6時40分。もう40分も、ムダにしてしまった。

 私は、仕事が多すぎるときの重圧感も、よく知っている。しかしそれ以上に、仕事がな
いときの空漠感(くばくかん)も、よく知っている。どちらかを選べと言われたら、私は、
迷わず、(仕事が多すぎるときの重圧感)を選ぶ。

 成功者には、定説はない。が、失敗者には、定説がある。その第一。怠け者。怠け者が、
成功したという話は、古今東西、聞いたことがない。「やるぞ!」「やるぞ!」の掛け声ば
かりで、結局は、何もしない。何もしないから、成功するわけがない。

 となると、成功者とは何かということになる。

 要するに、怠惰(たいだ)な生活からは、何も生まれないということ。ドラマそのもの
が、生まれない。一方、成功者には、そのドラマがある。そのドラマが、その人の人生を、
潤(うるお)い豊かなものにする。そのドラマに、生きる価値がある。

 つまり成功者というのは、人生を、より有意義に、かつ濃密に生きる人のことをいう。
金持ちになったとか、名誉や地位を得たから、成功者というわけではない。その人を、ま
わりの人や、後世の人が、どう評価するから、あくまでも、そのまわりの人や、後世の人
の問題。その人の問題ではない。

 ところで三男が、先日、北海道にある「幸福駅」という名前の駅まで、行ってきた。今
は汽車が走ることもない、さびれた無人駅だそうだが、その駅を見ながら、三男こんなよ
うな日記を書いている。

 「生きることの目的は、幸福になることではない。幸福に向かって、努力することだ」
と。

 私は、その言葉に、はっとするほど、驚いた。そしてこうつぶやいた。「そうだよ、そう
なんだよ」と。

 反対に、毎日をブラブラと過ごしながら、「やることがない」とこぼしている人を見ると、
私は、こう思う。「どうして、たった一度しかない人生を、そんなふうにして、過ごすのか」
と。「もったいない」と思うのは、私の勝手かもしれない。その人のしてみれば、いらぬお
節介かもしれない。しかし、私は、あえて、こう思う。「もったいない!」と。

 私の仕事は、忙しくはない。その気にさえなれば、休息時間は、たっぷりとある。しか
し時間が、ない。どういうわけか、時間がない。だから私は、「忙しいですか?」と聞かれ
るたびに、こう答えるようにしている。

 「忙しくはないですが、時間が足りなくて、困っています」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●ワイフの血圧

+++++++++++++

女性にとっては、
更年期という時期には、
特別の意味がある。

心の曲がり角?
体の曲がり角?

更年期になると、何かにつけて、
女性は、大きく変化する。

+++++++++++++

 更年期を迎えて、ワイフの血圧が、上昇した。健康診断の結果でも、「要指導」の注意。
それまでは、平均値より、やや高いかな?、という状態だった。しかし気がついてみると、
1xxmmHg!

 「このところ、朝起きると、顔色が何となく赤いな」とは、思ってはいたが、そんなに
あるとは知らなかった。すぐ、かかりつけの病院へ。

 更年期を迎えると、卵巣機能の低下によって、女性ホルモンの分泌が、急速に低下する
という。そのため自律神経にも大きく影響し、心と体のバランスが、崩れやすくなるとい
う。

 自律神経というのは、呼吸や血液の流れ、消化、体温調節などの生命活動を行う神経を
いう。そのため自律神経が乱れると、心臓の動悸が速くなったり、血行が悪くなるなどの
体の変調が起きるという。また、自律神経は環境の変化やストレスに対して心のバランス
を保つ働きもあるため、神経が過敏になりイライラするなどの、心の変調も生じやすくな
るという(以上、参考:ユベラネット)。

 その結果、知らないうちに、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)や動脈硬化になる人が多
いという。高血圧症も、そのひとつ。

 そこでまず運動療法。日曜日には、近くのショッピングセンターまで、歩いてみた。昨
日は、近くにある佐鳴湖まで、歩いてみた。歩いた距離は、3〜4キロというところか。

 つぎに食事療法。私の家は、もともと(塩味家庭)。自分ではそう思っていないが、うち
へくるアメリカ人や、オーストラリア人たちは、みな、こうこぼす。「ヒロシの家の料理は、
みな、塩からい」と。

 みなが、そう言うのだから、そうだろう。そこで、数日前から、塩からい料理は、一掃
した。

 最後に薬。医院では、降血圧薬と、降コレステロール薬を処方してくれた。ともに、「ご
く効果の弱い、症状の軽い人がのむもの」だ、そうだ。しかし私は、医師の処方を、あま
り信用していない。とくに、こうした生活習慣病の治療薬については、そうである。

 一度、薬に頼るようになったら、最後。死ぬまで、頼らなければならない。が、それ以
上にこわいのは、薬を中断したときに起きる、反作用。

 最初は、それらの薬を、さらに半分に割ってのんで、しばらく様子をみることにした。
できれば、こうした薬には頼らないで、血圧を調整したい。

 その結果、その日の夕方には、正常値よりやや高いかなというレベルまで、さがった。
しかし薬の効き方が、急過ぎる。翌日は、さらに錠剤を、こまかく割って、やや少なめに
してみた。

 ……こうして、今日で、治療4日目になる。今朝も、「どうだった?」と聞くと、「上が
1xxmmHgで……」と。

 どうやらこの3日間、数値は安定しているようだ。「1か月単位で、低くすればいいよ」
と言うと、「私も、そう思う」と。

 私の知人の中には、毎日、降血圧薬をのんでいる人がいる。それはそれでしかたないの
だろうが、しかしそれをのむのをやめたとたん、死んでしまった人もいる。ワイフのいと
この、Hさんもその1人。

 朝、寝室から出てこないので家人が見に行ったら、化粧台の前で、うずくまるようにし
て倒れていたという。くも膜下出血だったという。

 そういうこわい話を、たくさん聞いているので、ここは正攻法で戦うのがよい。運動療
法と食事療法。それに、ストレスのない生活。

 今日は、仕事の関係で、午前中の散歩はできない。仕事が終わったあと、夜、ワイフを
散歩に連れだすつもり。昨日、「明日の夜は、○○レストランまで歩いてみよう」と声をか
けると、しかたなさそうな声で、ワイフは、「うん」と言った。

 もともと、歩くのが、あまり好きな女性ではない。しかしこの際、心を鬼にして、連れ
だすしかない。そして今、私は、改めて、こう思う。

 「健康は守るものではない。作るもの」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●心理テスト

++++++++++++++++++

正直に生きよう。
それが何にもまして、最善!

++++++++++++++++++

 今朝、配信されてきたB社のメールマガジンを読むと、こんなコラムが載っていた。題
して、「あなたを知る、心理テスト」。

 問の部分だけ、そのまま、転載する。

+++++++++++++
【問】
 
休日、朝早くから友達と待ち合わせをしたあなた。目覚まし時計は
セットしたはずなのに、うっかり寝過ごして遅刻をしてしまいました。
待たされた友だちは、見るからに機嫌が悪そう…。あなたが思わず口にした
言い訳は、次のうちどれですか?

     A:着る服が決まらなかった。
     B:体調が悪かった。
     C:電車が遅れた。
     D:朝寝坊をした。

 気になる診断結果は、後のコーナーで発表します。

+++++++++++++

 要するに大切な待ち合わせに遅刻してしまった。そのとき、あなたは、どんな言い訳を
するか。その言い訳のし方で、あなたの心理をさぐろうというのが、このテストである。

 しかしテストそのものが、バカげている。おかしい(失礼!)。

 何も、言い訳などする必要はない。正直に、「目覚まし時計をセットしたはずなのに、う
っかり寝過ごしてしまった」と言えばよい。

 こうした言い訳、つまりウソは、一度口にすると、習慣になりやすい。ばあいによって
は、ウソの上に、ウソを塗り重ねる……ということにもなりかねない。さらにウソがバレ
れば、友情にヒビが入るかもしれない。

 で、その記事は、つぎのようにつづく。

+++++++++++++

(簡単な解説をしたあと)、

Aを選んだ人は……熱血タイプ
Bを選んだ人は……気配りタイプ
Cを選んだ人は……ポーカーフェイスタイプ
Dを選んだ人は……正直者タイプ、と。
(それぞれに、100字前後の解説がついている。)

+++++++++++++

 私なら、「A、B、C、Dのどれも、それを選んだ人は、ウソつき」と書く。となると、
ここで大きな命題にぶつかる。

 人間の心理と人間性は、分けて考えるべきかどうかという命題である。もう少しわかり
やすい例で考えてみよう。

 たとえばある患者が、「頭が痛い」「熱がある」「めまいもする」と訴えたとする。そこで
ある医師が、頭痛薬と解熱剤、それに何かめまいを抑える薬を処方したとする。しかしそ
れで、その患者は、その病気から、本当に解放されるのだろうか。

 漢方では、「本病」と「表(票)病」という言葉を使って、それを説明する。つまり、外
に現れた病状は、あくまでも「表(票)病」。もとにある、「本病」を治さないかぎり、病
気はなおらないと説く。

 その患者のばあいも、表面的な症状だけをみて治療をしても、意味がないということに
なる。……ということで、話をもどす。

 たしかに人間の心理というのは、そのつど状況に応じて、ざまざまに変化する。しかし
そのつど、そうした表面的な心理に翻弄(ほんろう)されていたら、その人は、いったい、
どうなるだろうか? 大切なことは、基盤、つまり「基(もと)」を作ること。基があれば、
そのつど、その人は、基に応じて、ものを考え、行動することができる。

 言い訳など、する必要はない。もし言い訳をしなければならないような状況に置かれた
ら、口を閉ざして、黙っていればよい。このばあいだったら、「ヘマをして……ごめん」と、
あやまるだけでもよい。

 そもそも(言い訳)という(ウソ)で、人の心理をさぐろうという発想そのものが、お
かしい。まちがっている。つまりこんな心理テストで、人の心理など、さぐれない。あえ
て言うなら、「熱があるから、白血病タイプ」「頭痛があるから、脳腫瘍タイプ」「めまいが
あるから、インフルエンザタイプ」と言うのと同じくらい、どこか、おかしい。

 言うまでもなく、表面的な部分だけをみて、自分や他人を判断していると、やがて自分
さえも、何がなんだか、訳がわからなくなる。そのよい例が、「占い」ということになる。
それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略するが、今、この種の心理テ
ストが氾濫(はんらん)しているので、あえて、こんなエッセーを書いてみた。

 ついでながら、批判ばかりしていてはいけない。私なら、この心理テストを、つぎのよ
うに作り変える。

++++++++++++++++++

【問】
 
休日、朝早くから友達と待ち合わせをしたあなた。目覚まし時計は
セットしたはずなのに、うっかり寝過ごして遅刻をしてしまいました。
待たされた友だちは、見るからに機嫌が悪そう…。あなたなら、
どのようにして、友だちの機嫌をなおそうとしますか。

     A:楽しい話題をもちかけて、友だちを笑わす。
     B:食事をおごるなど、何かの埋めあわせを考える。
     C:機嫌をうかがいながら、静かに、友だちが機嫌をなおすのを待つ。
     D:友達のことは無視して、自分がよいように行動する。

 気になる診断結果は、後のコーナーで発表します。

++++++++++++++++++

Aを選んだ人……楽天的で、ものの考え方が、前向きな人。
Bを選んだ人……サービス精神が旺盛で、責任感の強い人。
Cを選んだ人……控えめで、忍耐強い人。裏方でがんばる人。
Dを選んだ人……自分勝手で、自己中心的。わがままな人。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●速読

++++++++++++++++

速読法という読書法がある。
本や新聞などをななめに読んで、
おおまかな意味を、それで理解してしまう
という方法である。

私も若いころは、得意だった。が、
このところ、かなり力が落ちてきた。

そこでこの速読法を逆手にとって、
速読しやすい文章というものは、
考えられないものだろうか。

++++++++++++++++

 速読法という読書法がある。これは、文章を、ななめに読んで、いわば感覚的にその内
容を理解するという方法である。

 文章というのは、少し訓練すれば、だれでも、かなり速く読めるようになる。私も、若
いころは、得意だった。とくに週刊誌の記事ような、内容の浅い文章は、すべてを読む必
要はない。小見出しでまず読みたいところをねらう。そしてそのあたりを、サーッと、目
でなでるように、3〜4行ずつ、まとめて読む。

 どうせたいしたことは書いてない(失礼!)。で、その中でも気になる言葉が目についた
ところだけ、その前後を、じっくりと読む。

 そこでこんなことは考えられないだろうか。つまり速読用の文章を、あえて書き手が、
それを意識して書くという方法である。

 おそらく、この方法を考えついたのは、世界でも、私が最初だと思う。まずは、実験を
してみよう。

 ここまで書いた文章を、速読用に、書き改めてみる。読者のみなさんは、内容を理解し
ようと、あえて構える必要はない。サーッと、目を通すだけでよい。

********世界初、速読用文章*********

 速読法という読書法。ななめに読む。感覚的に理解。

 少し、訓練、だれでも、できる。私、若いころ、得意。
 とくに週刊誌。全部、読む、必要ない。
 小見出し、選ぶ。気になる言葉、ていねいに、読む。

 速読用の文章、私、考える。世界初。
 実験的。私、速読用の文章、書いてみる。

**************************

 どうだろろうか? 忙しい人は、こうして文章を読めばよい。読み手は、キーワードだ
けを選択しながら、読めばよい。であるなら、あえてそういう文章を、書き手の方が用意
してもよいのではないか。どこか味気ないが、しかし書き手の言わんとしていることが、
それで伝われば、文章としては、役を果たしたことになる。

 この方式で、一文、書いてみる。

**************************

 今日、予定。小雨、肌寒い。ワイフ、「春雨(はるさめ)」と。
 朝、いくつか、仕事、すます。午後、山荘へ。先日、マムシ退治用の、八手(やつで)、
買った。これから夏にかけて、マムシ、出る。

 マムシも、毒をもつから、嫌われる。殺される。毒がなければ、平和、共存。国も、ま
た、同じ。

 イランの核兵器開発。重大問題。アメリカ、核攻撃を計画中、と。おかげで、原油、値
上がり。昨日、75ドル超。夏にかけて、物価、上昇する。

 ハチ、毒ヘビ、注意。山を歩くとき、長靴、必須。素足、厳禁。みなさん、ご注意!

**************************

 未来的には、日本語は、こうなるのではないか。すでにその兆候は見え始めている。文
章も、論文のような文章は別として、頭で考えて読むのではなく、感覚で読む時代に入り
つつある。よい例が、若い人たちが携帯電話で交換する、あのメール。文章と言えるよう
な文章ではないが、しかし、たがいの感覚は、それで伝わる。

 ぼんやりとパソコンの画面をながめていたら、そんなことを考えた。今日は、4月23
日、日曜日。どんよりとした曇天。天気がよければ、近くのガーデンパークへ行くつもり
だった。
(はやし浩司 速読 速読用文章 未来の日本語)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●人間的完成度

++++++++++++++++++

損をすることは、悪いことばかりではない。
「損」が、その人の心を広くする。

反対に、損をしない人とがんばっている人は、
心が狭い(?)。

++++++++++++++++++

 私たちの世代をさして、「両取られの人生」と評する。上からは、親に金を取られ、下か
らは、子どもたちに、金を取られる。

私たちの前の世代の人たちは、息子や娘から、お金を取りながら、生計を立てていた。
一方、私たちのつぎの世代の人たちは、20歳になっても、30歳になっても、親のス
ネをかじって、生計を立てている。

 だから、両取られ!

 で、そういう私の個人的な人生を振りかえりながら、私は、ふと、こう思う。「損をする
ことは悪いことばかりではない。その『損』が、その人の心を広くする」と。

 話は少しそれるが、たとえば何かのことで、人にだまされたとき、だまされたほうの人
間は、おおまかに言えば、つぎの2つのうちの、1つの道を選ぶ。

(1)だまされたことを、受け入れる。
(2)だまされた分だけ、復讐する。

 「受け入れる」というのは、「自分はバカだった」とあきらめることをいう。「復讐する」
というのは、今度は、自分がだます側に立ち、だれかをだますことを考えることをいう。

 この2つは、いわば極端なケースで、もちろんその間のケースもある。また同じ人でも、
ケース・バイ・ケースということも、ある。

そのだまされるということには、いつも、「損」がともなう。その損については、金銭的
な損のほか、時間的な損、精神的な損、知的、能力的な損などがある。

 私も、過去、多くの人にだまされた。(だましたことはないと思うが、それはわからない。)
で、私のばあいは、だました相手には、声をあげて、抗議し、そのあと、その人と絶縁す
るという形で、それを乗り越えてきた。「自分がバカだった」と自覚することは、その分だ
け、自分が賢くなったことを意味する。

 ところで、その「損」についてだが、最初から損を覚悟で行動する人たちもいる。ボラ
ンティア活動をする人たちである。心理学の世界では、こうした行為を総称して、「援助行
動」と呼んでいる。

 この援助行動は、高度に知的な動物だけがなしうる、特別な行動だという。人間のほか、
サル、ゾウなども、援助行動的な行動を見せることがあるという。言いかえると、援助行
動の有無が、その人の、人間的完成度の程度を示すと言っても過言ではない。

 反対に、援助行動は何もせず、自分だけの世界に閉じこもり、小さく生きている人は、
それだけ、人間的完成度の低い人とみてよい。

 そこで最初の話にもどるが、私はいつしか、損をすることが、その人の人間的完成度を
高めるひとつの方法だと考えるようになった。損を恐れてはいけない。損をしたからとい
って、他人を責めたり、自分を責めてはいけない。大切なことは、損をしたあと、自分の
心の中に充満するモヤモヤを、どう処理していくか、だ。

 そこで考えてみれば、子育てというのは、それ自体が、その「損」のかたまりのような
もの。もちろん(だまされた)という意識はない。(損をした)という意識もない。つまり
最初から、無私。最初から、損得を考えて子育てをする人は、いない。(損得を考えてする
人もいるが、それは邪道!)

 こうした子育てでの意識を、何かのことで損をしたとき、応用することはできないもの
だろうか。あるいは、何かのボランティア活動をするときのように、あらかじめ、損をす
ることに対して、ある程度の心の準備をしておくことはできないものだろうか。そうすれ
ば人は、損をしながらも、その損を、そのつど、自分の血や肉としていくことができる。

 その援助行動だが、一度、どこかで援助行動を経験した子どもは、そのつぎには、より
自然な形で、援助行動ができるようになるという。また援助行動の多い人ほど、他人との
共感性が強くなり、責任感も強くなることがわかっている。さらに男性より、女性のほう
が、援助行動が多いということもわかっている。これは多分に、女性が、妊娠、出産、育
児という苦しみを経験しているためではないか。

 まあ、むずかしい話はさておき、人生には、損はつきもの。得をすることもあれば、損
をすることもある。大きく生きようと思えば思うほど、その損も大きくなるということ。
そして損を重ね、その損をじょうずに乗り切った人ほど、より人間的な完成度の高い人に
なれるということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
援助行動 ボランティア ボランティア活動 損)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●イドの世界

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楽天BLOGに、私は毎日、日記を
書いている。そのBLOGに、毎日、
5〜10件の書きこみ(トラックバック)
が、ある。

今のところ、100%、スケベ・サイト
からのものである。

++++++++++++++++++

 楽天BLOGに、私は毎日、日記を書いている。日記といっても、エッセーのようなも
のだが、そのBLOGに、毎日、5〜10件もの、書きこみがある。「書きこみ」というよ
りは、リンク先が張りつけられる。すべて、スケベ・サイトへのリンクである。

 本来、トラックバックというのは、だれかが書いた記事に対して、「こういう関連サイト
がありますよ」「こちらのサイトも参考にしてくださいよ」と、そのリンク先を、張りつけ
ることをいう。

 たとえば私が自閉症について、何かのエッセーを書いたとする。するとそれを読んだ人
の中で、同じように自閉症について考えている人が、リンク先を張りつけてくる。こうし
て日記と日記がリンクされ、それぞれの日記が、全体として、ちょうどネックレスのよう
につながり、人の輪ができる。

 が、ここにも書いたように、トラックバックといっても、私のエッセーとは、まったく
関係のないものばかり。こうなると、いったい、トラックバックとは何かということにな
ってしまう。新手のスパム・メール、そのもの(?)。

 あのフロイトは、人間の心は、(イド)(自我)(超自我)の3つの相互作用によって機能
すると説いた。

 イドというのは、無意識かつ衝動的な世界のことをいう。いわば心のエネルギーの倉庫
のようなもの。そこには人間の欲望が、ドロドロと渦を巻いている。

 自我というのは、そうしたイドをコントロールし、より現実に即した思考や行動をする
ための意識をいう。イドのなせるままにしておいたら、人間社会はメチャメチャになって
しまう。

 超自我というのは、その自我のさらに上部に君臨し、高い道徳観や倫理観で、自我をコ
ントトロールする意識をいう。私たちが「良心」とか「良識」、「知性」とか「理性」とか
呼んでいるのは、この超自我のことをいう。

 自我は、イドと超自我の間にあって、いわばその両者を調整する機能をもつ。イドが強
いときには、それを戒(いまし)める。かといって、超自我が強すぎると、円滑な人間関
係が結べなくなってしまう。ときには、自我は、超自我をコントロールする。

 こうしたフロイトの理論に当てはめて考えてみると、こうしたトラックバックをリンク
してくる連中というのは、まS欲望の命ずるまま、衝動的に行動しているのがわかる。イ
ンターネットという文明の利器を利用しながら、脳みそは、昆虫レベル。一片の道徳観も
なければ、倫理観もない。

 「あなたの童貞を買います」
 「外交官の妻が、さみしがっています」
 「完全無料の、出会い紹介」
「セレブな女性の、性を満足させるのは、あなた」などなど。

 そのつど文面を変えているが、同一人物からのトラックバックと考えて、ほぼまちがい
ない。誤字、脱字だらけ。文章は、稚拙(ちせつ)。

 本来ならこうした(イド)を、(自我)がコントロールしなければならない。しかしその
自我が軟弱。自我そのものが、確立していない。わかりやすく言えば、人間性がいいかげ
ん。チャランポラン。あわれな連中である。原因は、乳幼児期から少年期にかけて、不幸
にして不幸な育児環境で育てられたためと考えてよい。

 もちろん超自我であるのがよいというわけでもない。超自我が強すぎると、先にも書い
たように、他人と円滑な人間関係が、結べなくなる。ときにはハメをはずし、その範囲で、
バカ話もするする。そうした行為は、人間には重要なことなのである。

 それにしても、こうしたトラックバックには、うんざり! 毎日、そのトラックバック
を削除するのも、このところ、めんどうになってきた。文句も言いたいが、こういう連中
は、相手にしないほうがよい。(もうすでに、こうして相手にしているが……。)もともと
まともな連中ではない。どんなワナをその先にしかけて待っているか、わかったものでは
ない。

 まあ、あえて言うなら、フロイトが説いた、「イド」、あるいは「エス」というのが、ど
ういうものであるかを知るためには、よいサンプルである。こういうことを平気でできる
連中というのは、それをコントロールする自我の発達が、未熟と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自我 超自我 イド)

【補記】

 子どもの教育を考えたら、同時に、その子どもの(自我)が、どのように育っているか
を判断するのがよい。

 「私は私」と考えて、自分の欲望をコントロールする力を、自我という。

 自我が強固な子どもは、自分のしたいことがはっきりとしている。善悪の判断が正確で、
YES、NOを、しっかりと表現できる。

 反対に自我の軟弱な子どもは、優柔不断。何を考えているかわからない。そのときどき
の雰囲気に流され、自分でも何をしたいのか、よくわかっていない。

 こうした方向性は、すでに4、5歳前後には完成している。この時期、自我が強固な子
どもは、そのままの状態で、少年少女期を迎える。そうでない子どもは、そうでない。

 たとえば私は教室で、わざとまちがえてみせたり、ズルイことをしてみせたりする。自
我が強固な子どもは、そうした私のまちがいや、ズルに、強烈に反応する。中には、怒っ
て、顔を真っ赤にする子どももいる。子どもは、そういう子どもにする。

++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を、いくつか、
添付します。

++++++++++++++++++

●子どものバイタリティ

 おかしな時代だと思う。今の世の中、どこかナヨナヨした子どもほど、できのよい子ど
もということになっている。一方、バイタリティがあり、どこか腕白(わんぱく)な子ど
もほど、できの悪い子どもということになっている。

私自身が腕白だったこともある。今の世相を見ていると、どこか自分が否定されてしま
うこのようにすら感ずる。反対に、数は少ないが、私の子ども時代を思い起こさせる子
どもに出会ったりすると、どこか心がほっとする。心がなごむ。

 子どもが本来的にもつバイタリティは、大切にする。たとえば最近、多動性児(ADH
D児)があちこちで問題になっている。が、問題になるのは、「教える側の立場」で問題に
なるだけで、子ども自身がもつバイタリティということを考えるなら、むしろあとあとそ
の子どもにとっては、よい方向に作用することが多い。

(ADHD児のばあい、自意識が芽生える小学三〜四年生を境として、その症状は急速
に収まってくる。自意識の中で、自分をコントロールするようになるからである。そし
てそれとちょうど反比例する形で、今度は持ち前のバイタリティが、その子どもを前向
きにひっぱっていく。どこか周囲に鈍感なところもあるが、現代社会というワクの中で
は、むしろその鈍感さが、よいほうに作用するということもある。むしろこうした世の
中では、繊細な子どもほど、生きにくいのでは?)

 このバイタリティを悪と決めつけてはいけない。たとえば子どもに作文を書かせたとす
る。そのとき、多少字がめちゃめちゃでも、また乱暴でも、さらに文法や書式がおかしく
ても、子どもが自分の気持ちをそのまま表現するようであれば、よしとする。そういうお
おらかさが、子どもの表現力を高める。運動面や生活面については、さらに言うまでもな
い。

 このバイタリティは、自我の発達と深くからんでいる。教育の世界で自我というときは、
「つかみどころ」のことをいう。自我の発達した子どもは、外から見ても、「この子はこう
いう子だ」というつかみどころがはっきりしている。わかりやすい。

たとえば「こうすればこの子は怒るだろうな」とか、「こうすればこの子は喜ぶだろうな」
ということが、わかりやすく、その分、教える側も教えやすい。反対に自我の発達の遅
れている子どもは、どこかグズグズしていて、どういう子なのか、それがわかりにくい。
柔和な表情を浮かべて従順な様子を見せるから、「いいのかな……?」と思いつつも、少
し無理をしたりすると、それがあとで大問題になったりする。

 その自我は、本来、あらゆる動物も、そし人間も、生まれながらにして平等にもってい
るものと考える。そのため「育てる・育てない」という視点からではなく、「引き出す・つ
ぶす」という視点で考える。

子どもはあるがままに、あるべき環境で育てれば、その自我の強い子どもになる。そう
でなければ、そうでない。が、つぶす方法(?)はいくらでもある。強圧的な過干渉、
異常な過関心、溺愛、過保護など。何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いもの
はない。子どもの側からみて、つかみどころのない親の心は、子どもをかぎりなく不安
にさせる。まS『親の情緒不安、百害のもと』ということになる。

 ここにも書いたように、バイタリティの旺盛な子どもは、今の世界では、周囲から白い
目で見られることが多い。しかしそういうときでも、子どものバイタリティを信じ、表面
的には、「すみません」と謝りつつも、決してそれを悪いことと決めてかかって、つぶして
はいけない。このタイプの子どもは、いつか必ず、何らかの形で、自分の道を極める。そ
れを信じて、前向きに子育てをしていく。
(02−1−13)※
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
軟弱な子ども 子供の意思 子供の自我)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●依存と愛着

 子どもの依存と、愛着は分けて考える。中には、この二つを混同している人がいる。つ
まりベタベタと親に甘えるのを、依存。全幅に親を信頼し、心を開くのを愛着という。子
どもが依存をもつのは問題だが、愛着をもつのは、大切なこと。

 今、親にさえ心を開かない、あるいは開けない子どもがふえている。簡単な診断方法と
しては、抱いてみればよい。心を開いている子どもは、親に抱かれたとき、完全に力を抜
いて、体そのものをべったりと、すりよせてくる。心を開いていない子どもや、開けない
子どもは、親に抱かれたとき、体をこわばらせてしまう。抱く側の印象としては、何かし
ら丸太を抱いているような感じになる。

 その抱かれない子どもが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査に
よると、四分の一もいるという。原因はいろいろ考えられるが、報告によれば、「抱っこバ
ンドだ」と言う。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった
『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・
保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」
が33%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応
が2割前後見られ、調査した6項目の平均で25%に達したという。また保育士らの実
感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で20%の赤
ちゃんから報告されたという。

さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児か
ら解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことが
わかったという。また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行
している「抱っこバンド」を使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)
2〜3割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシ
ップ不足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話
している。

 子どもは、生後7、8か月ころから、人見知りする時期に入る。一種の恐怖反応といわ
れているが、この時期を通して、親への愛着を深める。が、この時期、親から子への愛着
が不足すると、以後、子どもの情緒はきわめて不安定になる。

ホスピタリズムという現象を指摘する学者もいる。いわゆる親の愛情が不足しているこ
とが原因で、独得の症状を示すことをいう。だれにも愛想がよくなる、表情が乏しくな
る、知恵の発達が遅れ気味になる、など。貧乏ゆすりなどの、独得の症状を示すことも
あるという。

 一方、冒頭にも書いたように、依存は、この愛着とは区別して考える。依存性があるか
ら、愛着性があるということにはならない。愛着性があるから、依存性があるということ
にはならない。が、この二つは、よく混同される。そして混同したまま、「子どもが親に依
存するのは、大切なことだ」と言う人がいる。

 しかし子どもが親に依存性をもつことは、好ましいことではない。依存性が強ければ強
いほど、自我の発達が遅れる。人格の「核」形成も遅れる。幼児性(年齢に比して、幼い
感じがする)、退行性(目標や規則、約束が守れない)などの症状が出てくる。

もともと日本人は、親子でも、たがいの依存性がきわめて強い民族である。依存しあう
ことが、理想の親子と考えている人もいる。たとえば昔から、日本では、親にベタベタ
甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子と考える。そして独立心が旺盛で、
何でも自立して行動する子どもを、かわいげのない「鬼ッ子」として嫌う。

 こうしたどこかゆがんだ子育て観が、日本独特の子育ての柱になっている。言いかえる
と、よく「日本人は依存型民族だ」と言われるが、そういう民族性の原因は、こうした独
特の子育て観にあるとみてよい。もちろんそれがすべて悪いと言うのではない。

依存型社会は、ある意味で温もりのある社会である。「もちつもたれつの社会」であり、
「互いになれあいの社会」でもある。しかしそれは同時に、世界の常識ではないことも
事実で、この日本を一歩外へ出ると。こうした依存性は、まったく通用しない。それこ
そ生き馬の目を抜くような世界が待っている。そういうことも心のどこかで考えながら、
日本人も自分たちの子育てを組み立てる必要があるのではないか。あくまでも一つの意
見にすぎないが……。
(02−10−18)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
依存 愛着 愛着行動 アタッチメント 子どもの依存性 依存的な子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【ある相談より】

Q:3歳の息子ですが、このところ反抗がひどくて困ります。どう対処したらよいでしょ
うか。(静岡県G市・MK)

第一反抗期

 あなたの子どもに、第一反抗期は、あったか? 

外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という※。二〜四
歳の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 子どもは、この反抗期をとおして、親に対して、絶対的安心感をもつことができるよう
になる。どんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだという安心感であ
る。この安心感が、親と子どもの間の信頼関係の基本になる。ここでいう「絶対的」とい
うのは、疑いをいだかないという意味。

 よく誤解されるが、子どもが親に反抗することは、悪いことではない。悪いのは、子ど
もがその反抗心を自分の心の中に、おし隠してしまうことである。俗にいう、「いい子ぶる
子ども」というのは、それだけ自我の発達※が遅れるのみならず、親も含めて、人と信頼
関係が結べない子どもとみる。

 このタイプの子どもは、自分の心を守るために、さまざまな特殊な行為(問題行動)を
繰りかえすことが知られている。

●異常な依存心……だれかにベタベタに甘える。だれかれなく、愛想がよくなり、こびを
売るようになる。しかし心を開けないため、孤独。不安。他人に対して愛想がよくするこ
とにより、身のまわりに、「自分は愛されている」という環境をつくろうとする。

●引きこもり……人との接触を断ち、自分の世界に閉じこもる。人と接すると、必要以上
に気をつかい、神経疲労を起こしやすい。不登校の原因となることもある。つまり人との
関係を断ちきることによって、身の保全をはかろうとする。

●異常な敵対心……行動が攻撃的になり、自分以外のすべてのものは、「敵」と位置づけ
て、排斥したり、否定したりする。非行、集団非行に走るケースも多い。攻撃的に相手を
否定することで、自分の優位性を保とうする。

●異常な隷属心……たいていは親に対してだが、その人に異常なまでに隷属する。隷属す
ることによって、身の保全をはかる。このタイプの子どもは、必要以上に相手にへつらっ
たり、ペコペコする。

これらの行為は、子どもによって、さまざまに変化する。しかし共通しているのは、信
頼関係が結べないことによる、不安と孤独、焦燥と心配を解消するため、自分の心を守
ろうとしている点である。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。

 そこであなたの子どもチェック。

 あなたの子どもは、2〜4歳の第1反抗期のとき、あなたという親に対して、好き勝手
なことをし、また言っていたか。あなたは親として、それを許していたか。もしそうなら、
それでよし。しかしもしあなたの子どもが、あなたの前でいい子ぶったり、反抗らしい反
抗もしないまま、今に至っているなら、かなり注意したほうがよい。これから先、ここで
いうような問題行動を起こす可能性は、たいへん高い。あるいはすでにそれは始まってい
るかもしれない。

 子どもというのは、それぞれの時期に、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長す
る。反抗期はまSそのカラを脱ぐ時期と考えてよい。それぞれの時期にうまくカラを脱げ
なかった子どもは、あるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。たいていは激しい摩擦と、
軋轢(あつれき)を引き起こす。たとえば家庭内暴力を起こす子どもも、こうしたメカニ
ズムで説明できることが多い。

 だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親と
してそれをたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退
いた視点で子どもを見るようにする。
(03―03―03)

※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を
許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。そ
の緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、
情緒が不安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校
を起こしたり(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりす
る(プラス型)。

表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもい
る。このタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノの
レッスンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長
女児)がいた。また集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴
えることもある。

※……「自我」というのは、要するに、その子どもの「わかりやすさ」をいう。教える側
※からみると、「つかみどころ」ということになる。自我の発達している子どもは、何を
※考え、何をしたいかが、外から見ても、たいへんわかりやすい。したいことをし、言い
※たいことを言う。YES、NOをはっきりと言う。一方、自我の軟弱な子どもは、それ
※がわからない。何を考えているかすら、わからないときがある。どこか仮面をかぶった
※ような感じになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
反抗 子供の反抗 反抗的な子供 反抗的な子ども 反抗期 反抗期の考え方)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司 

【子どもの反抗について、Sさんからの相談より】

はやし先生

(前略)

さて、今日のメルマガに、

(以下引用)だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。
一応、親としてそれをたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、
一歩、退いた視点で子どもを見るようにする。

※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を
許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。そ
の緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、
情緒が不安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校
を起こしたり(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりす
る(プラス型)。(ここまで引用)

 うちの場合は反抗期も十分あったのに(今でも喧嘩になると『このくそ婆!』とかいうの
ですよ!)。

結局小さい頃のその時期に私がその反抗を押さえつけていた(許してやらなかった)こ
とに発端があるわけで、反抗しそこなったことが今マイナス型として現れているなら、
この今のマイナス型の時期も自我を形成していると考えていいんでしょうか?

 母親ばかりのせいではない、と自分を慰める一方、どこの家庭もそうでしょうが、母親
が子供にかかわる時間は膨大に多い。そのこどもとの時間を楽しめるときと、楽しめない
ときがあり、それも仕方がないと思いながら、、、。

すみません。ここ2,3日ホルモンのバランスが悪いらしく非常に情緒が不安定で(私は
周期的にこういうことがあるのですが)誰とも話したくなく、また、周りのすべてに対
し攻撃的になっています。鬱症状というわけです。

友人に話しても、母親はみな多かれ少なかれそういうことがあるようです。
C新聞にも、卵巣機能の低下によるホルモンのバランスの崩れで、二〇代から四〇代の女
性が更年期障害の症状を訴えるケースが多いという記事が出ていました。専門医に相談す
るべしと。

でも実情は、お医者様は男性が多く、その症状を訴えても、『それくらいガマンできない
か?』とか『ジャー薬飲んでみる?』という程度のリアクションで、もう二度と相談する
か!という結果になるのが常なのです。(私も友人もそうでした)

私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨
んでしまいそうですので、今はやめました。

とりあえず自分が情緒不安を周期的に持っている、ということだけキモに銘じ、そうい
う時はなるべくヒトと接触を持たないように今は心がけています。

++++++++++++++++++

S様へ

 自分の過去をみることは、こわいですね。本当にこわい。自分という人間がわかればわ
かるほど、その周囲のことまで、わかってしまう。「親を恨んでしまいそう」というような
ことが書いてありましたが、そこまで進む人も少なくありません。

 若いころ、ブラジルのリオデジャネイロへ行ったことがあります。空港から海外沿いに
あるリオへ向かう途中、はげ山の中に、いわゆる貧民部落が見えるところがあります。ブ
ラジルは、貧しい国ですが、そのあたりの人たちは、本当に貧しい。しかし私が、直接、
そういう人たちを見たのは、観光で、どこかの丘に登ったときのことです。四、五人の子
どもたちが、どこからとなく現れました。気がついたら、そこにいたという感じです。(印
象に残っているのは、バスからおりたとき、土手の向こうから、カモシカのように軽い足
取りで、ヒョイヒョイと現れたことです。)

 その子どもたちの貧しさといったら、ありませんでした。どこがどうというより、私は
そういう子どもを見ながら、「親は、どうして子どもなんか、つくったのだろう」と思いま
した。「子どもを育てる力がないなら、子どもなど、つくるべきではない」と。

 しかしそれは、そのまま私の問題であることに気づきました。私も、戦後直後生まれの、
これまたひどいときに生まれました。しかし「ひどいときだった」とわかったのは、ずっ
とおとなになってからで、私自身は、まったくそうは思っていませんでした。(当然ですが
……。)「ひどい」とか、「ひどくないか」とかは、比較してみて、はじめてわかることなの
ですね。

 私もある時期、親をうらみました。とくに私の親は、ことあるごとに、「産んでやった」
「育ててやった」「大学を出してやった」と、私に言いました。たしかにそうかもしれませ
んが、そういう言葉の一つ、一つが、私には、たいへんな苦痛でした。で、ある日、とう
とう爆発。私が高校生のときだったと思います。「いつ、だれが産んでくれと、あんたに頼
んだ!」と、母に叫んでしまいました。

 で、今から考えてみると、子どもの心を貧しくさせるのは、金銭的な貧しさではなく、
心の貧しさなのですね。私たちの世代は、みんな貧乏でしたが、貧乏を貧乏と思ったこと
はありませんでした。靴といっても、ゴム靴。靴下など、はいたことがありません。です
から歩くたびに、キュッキュッと音がしました。蛍光灯など、まだない時代でした。です
から近所の家に、それがついたとき、みなで、見に行ったこともあります。私が小学三年
生のときです。

 貧しいというのは、子どものばあい、ここに書いたように、心の貧しさを言います。…
…と考えていくと、ブラジルで見た、あの子どもたちは、本当に貧しかったのかどうかと
いうことになると、本当のところは、わからないということになります。身なりこそ、貧
しそうでしたが、見た感じは、本当に楽しそうでした。

 一方、この日本は、どうかということになります。ものはあふれ、子どもたちは、恵ま
れた生活をしています。で、その分、心も豊かになったかどうかということになると、ど
うもそうではないような気がします。どこかやるべきことをやらないで、反対に、しなく
てもよいようなことばかり、一生懸命している? そんな感じがします。

 さて、疑問に思っておられることについて、順に考えていきたいと思います。

 乳児期に、全幅の安心感、全幅の信頼関係、全幅の愛情を受けられなかった子どもは、
いわゆる「さらけ出し」ができなくなります。「さらけ出し」というのは、あるがままの自
分を、あるがままにさらけ出すということです。そのさらけ出しをしても、親や家族は、
全幅に受け止めてくれる。そういう安心感を、「絶対的安心感」といいます。「絶対的」と
いうのは、「疑いをいだかない」という意味です。

 この時期に、親の冷淡、育児拒否、拒否的態度、きびしいしつけなどがあると、子ども
は、その「さらけ出し」ができなくなります。いわゆる一歩、退いた形になるわけです。
ばあいによっては、仮面をかぶったり、さらにひどくなると、心と表情を遊離させたりす
うようになります。おとなの世界では、こういうことはよくあります。あって当たり前で
すが、家族の世界では、本来、こういうことは、絶対に、あってはいけません。

 おならをする。ゲボをはく。ウンチをもらす。小便をたれる。オナラをする。ぞんざい
な態度をする。わがままを言う。悪態をつく。……いろいろありますが、要するに、そう
いうことが、「一定のおおらかな愛情」の中で、処理されなければなりません。

 これは教育の場でも、同じです。よく子どもたちは私に、「クソジジイ!」と言います。
悪い言葉を容認せよというわけではなりませんが、そういう言葉が使えないほどまでに、
子どもを、抑えつけてはいけないということです。言いたいことを言わせながら、したい
ことをさせながら、しかし軽いユーモアで、サラリとかわす。そういう技術も必要だとい
うことです。

 また夫婦も、そうです。私は結婚以来、ずっと、ダブルのふとんでいっしょに、寝てい
ます。で、ワイフも、私も、よく、フトンの中で、腸内ガスを発射します。若いころは、
そういうとき、よくワイフを、足で蹴っ飛ばして、外へ追い出したりしました。「お前だろ?」
と言うと、「あんたでしょ!」と、言いかえしたりしたからです。

 しかし齢をとると、そういうこともなくなりました。あきらめて、顔だけフトンの外に
出し、泳ぐときのように(私は、そう思っていますが……)、口をとがらせて、息をすった
り、吐いたりしています。かといって、腸内ガスを許しているわけではありませんが、し
かしそれも、ここでいう「さらけ出し」なのですね。

 そういうさらけ出しをおたがいにしながら、子どもは、絶対的な安心感を覚え、その安
心感をもとに、人間どうしの、信頼関係の結び方を学びます。

 幼児でも、信頼関係の結べる子どもと、そうでない子どもは、すぐわかります。私は、
ご存知のように、年中児(満四歳)から、教えさせていただいていますが、そのとき、子
どもをほめたり、楽しませてあげたりすると、その気持ちが、スーッと子どもの心の中に
しみこんでいくのがわかる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかります。

 しみこんでいく子どもを、「すなおな子ども」と言います。そういう子どもは、そのまま、
私との間に、信頼関係ができます。もう少し、別の言い方をすれば、「心が開いている」と
いうことかもしれません。心が開いているから、私が言ったことが、そのまま、心の中に
入っていく……。そんな感じになります。

 一方、心を開くことができない子どももいます。このタイプの子どもは、いわゆる「す
なおさ」がありません。何かをしてあげても、それを別の心でとらえようとします。ひね
くれる。いじける。つっぱる。ひがむ。ねたむなど。さらに症状が進むと、心そのものを
閉じてしまいます。極端な例では、自閉傾向(自閉症ではありません)があります。

 が、こうして心を開けない子どもは、孤独なんですね。さみしがり屋なんですね。そこ
で、ショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話が出てきます。寒い夜、二匹のヤマ
アラシが、体を暖めあおうとします。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、相手をキ
ズつけてしまう。しかし離れすぎると、寒い。二匹のヤマアラシは、ちょうどよいところ
で、暖めあう。自分の位置を決める……。

 このタイプの子どもは(おとなも)、孤独をまぎらわすため、外の世界へ出る。しかしそ
こでは、どうも、居心地が悪い。うまく人間関係が、結べない。疲れる。しかたないので、
また引っ込む。しかし引っ込むと、さみしい。これを繰りかえします。繰りかえしながら、
ちょうどよいところで、自分の位置を決める……。

 このとき、子どもは、自分の心を守るため、さまざまな症状を見せます。よく知られて
いるのが、欲求不満を解消するための、代償行為です。指しゃぶり、髪いじり、夜尿症な
どがあります。さらに症状が進むと、神経症を併発し、さらに進むと、情緒障害や精神障
害にまで発展します。

 が、子ども自身も、他人から、自分の心を守ろうとします。それを「防衛機制」といい
ます。相手に対して、カラにこもる、攻撃的になる、服従的になる、依存性をもつなど。
Sさんが、ご指摘なのは、このあたりのことなのですね。Sさんの問題を、もう少し整理
してみると、こうなります。

(反抗期はあった)(しかしそれを、押さえつけてしまった)と。

 たしかにそういう親は、多いし、Sさんだけが、そうだとはいうことにはなりません。
いまだに親の権威をふりかざし、「親に向かって何よ!」と、本気で子どもに怒鳴り散らす
人もいます。しかし問題は、抑えることではなく、ここにも書いたように、「一定のおおら
かな愛情」の中で、それができたかどうかということです。いくら抑えても、子ども自身
が気にしないケースもあれば、軽く抑えても、子どもが深刻に気にするケースもあります。

 そこで今度は、親自身の問題ということになります。

 不幸にして不幸に育った親は、いわゆる「自然な形での親像」が、体の中にしみこんで
いません。ふつう子育てというのは、自分が受けた子育てを、そのまま再現する形で、子
どもに対してします。それを私は、「親像」と呼んでいます。その親像がないため、子育て
が、どこかぎこちなくなります。極端に甘くなったり、きびしくなったりするなど。気負
い先行型、心配先行型、不安先行型の子育てをすることもあります。

 そこで掘りさげていくと、つまり、自分の子育ての失敗(こういう言葉は不適切かもし
れませんが……)の原因は、つまるところ、「自然な形での親像」のなS気づくわけです。
「私はどうして自然な形での、子育てができないのか?」と。そしてそれがわかってくる
と、今度は、原因をさがし、そして行き着くところ、自分の「親」に向かうわけです。「私
をこんな親にしたのは、私の両親が悪いからだ」と、です。

 「私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を
恨んでしまいそうですので……」と、Sさんは、書いておられます。実のところ、私も、
同じように、悩んだことがあります。

 が、私のばあいは、「戦後のあの時代だったから、しかたない」とか、「親は親で、食べ
ていくだけで、しかたなかった」というような考え方で、理解するようになりました。今
から思えば、貧乏は貧乏でしたが、しかし同じ貧乏の中でも、まだほかの家庭よりは、よ
かったという思いもあります。だからその「怒り」のようなものは、やがて社会へと向け
られていったと思います。

 今でも、あの戦争を美化する人もいますが、私はいつも、「バカな戦争」と位置づけてい
ます。「あんなバカな戦争をするから、いけないのだ」と、です。私が不幸だったのも、親
が不幸だったのも、結局は、戦争が悪いのです。あの戦争は、もともと正義もない、大義
名分もない、メチャメチャな戦争だったのです。

 ということで、自分なりに処理しました。そこでSさんの件ですが、「(親を恨んでしま
いそうなので)、やめます」とあります。ここなんですね。ここです。まだ、Sさんは、ど
こかよい子ぶろうとしている。恨みたかったら、恨めばよいのです。多分、そうお書きに
なったのは、かなり深い部分で、Sさんが、自分の心の問題に、気がつき始めておられる
からです。むしろ、これはすばらしいことなのです。

 実はこの種の問題のこわいところは、そういう自分自身に気づかないまま、同じ失敗を
繰りかえすところにあります。それだけではありません。今度は、同じ失敗を、つぎの世
代に伝えてしまうところにあります。もし仮にここでSさんが、自分の心を抑えてしまう
と、今度また、同じ失敗を、Sさんの、子どもが繰りかえすことになります。これを、教
育の世界では、「世代連鎖」とか、「世代連覇」とか言います。

 これは極端な例ですが、「虐待」「暴力」も、同じようなパターンで、代々と伝わってし
まいます。

 しかしひと通り、親を恨むと、今度は、「あきらめの境地」、さらには「許す境地」へと、
入ります。ですから、遠慮せず、恨みなさい。恨んで恨んで、恨みなさい。遠慮すること
はありません。そしてあなた自身の親というよりは、あなたの心の中に潜んでいる、(親か
ら受け継いだもの)、つまり(私であって、私でないもの)を、恨めばよいのです。

 私も、子どものときから、父が酒を飲んで暴れる姿を、毎週のように見てきました。そ
ういう意味では、暴力的な体質が、身についてしまいました。小学五、六年生ごろまでは、
何かにつけて、喧嘩(けんか)ばかりしていました。結婚してからも、ワイフに暴力を振
るったことも、しばしばあります。

 しかしそういう自分の気づき、その原因に気づき、そして親を恨み、やがて、そうであ
ってはいけないことに気づきました。

 さて本題ですね。長い前置きになりました。

 残念ながら、「マイナスの自我」というのは、ありません。私も聞いたことがありません。
「自我」というのは、英語では「セルフ」、心理学の世界では、「意識する体験」、哲学の世
界では、「意識する主体」、精神分析の世界では、「人格の中枢」をいいます。教育の世界で
は、「つかみどころ」ということになるでしょうか。「この子は、こういう子だ」という、
つかみどころをいいます。それは、(ある・なし)で決まるもので、(プラスの自我、マイ
ナスの自我)という考え方には、なじみません。

 で、仮に自我の発達が阻害され、情緒的な問題があったとしても、マイナスの自我とい
うことにはならないと思います。あえて言うなら、ここに書いたように、「自我の阻害(そ
がい)」ということになるかもしれません。しかしSさんのお子さんのばあい、むしろ、今、
不登校という形であるにせよ、お子さんが、そういう「わかりやすい形」であることから
して、強烈な自我があると考えてよいと思います。自我(フロイト学説)についての原稿
は、最後に張りつけておきますから、また参考にしてくいださい。

 以上、こうしてSさんの過去をほじくりかえしましたが、そこで今は、こう考えてみて
ください。

 過去は、過去。今は、今。明日は、今の結果として、明日になれば、必ず、やってくる、
と。

 つまりこうして過去がわかったとしても、その過去に引きずりまわされてはいけないと
いうこと、です。Sさんが、今、そこにいるように、子どもたちもまた、そこにいる。そ
の「事実」だけを見すえながら、あとはそこを原点として、前向きに生きていくというこ
とです。悩んだところで、過去は変えられないのです。あくまでも、今は、今です。大切
なことは、その「今」を、懸命に生きていく。結果は、必ず、あとからついてきます。

 お子さんたちについても、すばらしいお子さんたちではないですか。そこでね、Sさん
も、もう気負いを捨て、あるがままの自分をさらけ出せばよいのです。子どもたちに向か
って、さりげなく、とげとげしくなく、いやみなく、こう言えばよいのです。

 「私も、これからは好き勝手なことをするからね。あんたたちも、自分で考えて、好き
勝手なことをしなさい」と。

 「こういうことを言うと、キズつくのでは……」「また喧嘩になるのでは……」と思った
としたら、Sさん自身が、さらけ出しをしていないことになりますね。つまりそれでは、
親子の信頼関係は結べないということ。信頼関係を結ぶためには、まずSさんのほうが子
どもに向かって、さらけ出しをしなければなりません。

 で、話をもとに戻しますが、心の豊かさというのは、その信頼関係をいうのですね。い
くら金銭的に貧しくても、そんなのは、子どもの世界では、問題ではない。またそれで子
どもの心がゆがむことはない。ゆがむとすれば、心の貧しさです。しかしですね、もし、
もしですよ、Sさんの子どもたちが、そのことをSさんに教えようとして、今の問題(問
題という言い方も好きではありませんが……)をかかえているとしたら、見方も変わって
くるのではないでしょうか?

 Sさんのまわりには、いろいろ問題もあるし、Sさんとは、見方も違うかもしれません
が、人間が求める幸福などというものは、そんなに遠くにあるのではないような気がしま
す。ほんのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを待っているような気がします。それ
があのブラジルの子どもたちです。

 だってそうでしょう。人間は、過去、数十万年もの間、生きてきたのです。そういう中
で、いつも幸福を求めて生きてきた。それがここ一〇〇年ぐらいの間で、学校だの、勉強
だの、進学だのと言い出して、子どもの世界のみならず、親たちの世界までゆがめてしま
った。そして勝手に、新しい幸福をつくりだし、一方、勝手に新しい不幸をつくりだして
しまった。そして新しい問題まで、つくりだしてしまった。少なくとも、ブラジルの子ど
もたちが、今の日本の子どもたちより不幸だとは、とても思えないです。一方、今の日本
の子どもたちが、ブラジルの子どもたちより、幸福だとは、とても思えないのです。

 この問題については、また別のところで考えてみますが、ときには、そういう原点に立
ちかえって考えてみることも必要ではないかということです。まとまりのない話になって
しまいましたが、また投稿してください。喜んで返事を書きます。

+++++++++++++++

【子どもの自我がつぶれるとき】

●フロイトの自我論 

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にす
る)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に
向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の
判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という
言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、
まじないや占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な
行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、
など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、
つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びてい
く。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えて
いるかわからない子どもといった感じになる。

●自我は引き出す

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視
点から考える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもと
いうのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に
子どもを当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さら
には恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要
だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一
度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけて
の時期が重要である。

●要は子どもを信ずる

 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。
その過程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こ
うした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと
思うほうがおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出し
ていくかということ。子育ての原点はここにある。

(参考)
●フロイトの自我論

 フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)は、自我の強弱によって、
人の様子は大きく変わるという。それを子どもに当てはめて考えてみたのが、次の表であ
る。

自我……意識される客体としての自己に対して、自分を意識する主体(哲学)。個々の心理
現象を、一貫した全体的な「自分」として意識する体験(心理学)。人格の中枢機関(精神
分析)など。自我のとらえ方は、必ずしも一致していない。英語ではego、selfという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの自我 自我論 子供の心理 子供の自我)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●脳は、使えば、老化しない?

 加齢とともに、脳細胞の数は減少するそうだが、しかし使いつづけている脳細胞につい
ては、何でも複雑なメカニズムが働き、死滅せず、その活動が維持されるそうだ。それを
科学的に証明した学者がいた。数日前、どこかのネット・ニュースで、そんな記事を読ん
だ。

 反対に、脳細胞は、使わなければ、どんどん死滅していくということらしい。「死滅」と
いうよりは、正確には、その論文によれば、機能を停止するということか。

 ともかくも、脳みそは使わなければならない。しかし考えてみれば、それは当然のこと
ではないのか(?)。体の筋肉にしても、使わなければ、どんどんと衰えていく。たとえば
同じ50歳の人でも、足の太ももの筋肉が隆々としている人もいれば、鳥のガラのように
なった人もいる。

 そのちがいは、どこから生まれるかといえば、(使うか)、(使わないか)、である。ただ
脳みそは、外からはわからない。が、それでも、加齢とともに、表情や目つきでそれがわ
かるようになる。脳みそを使いつづけている人は、独特の、キリリとした表情や目つきを
している。そうでない人は、どこかトロンとした、しまりのない表情や目つきをしている。

 問題は、どう脳みそを使うか、だ。あるいは、今、どう使っているか、だ。


●隣人との境界争い

 土地がらみの問題で、隣人と、境界争いをすることぐらい、不愉快なものはない。でき
るなら隣人とは、そういう問題は、起こしたくない。

 実は、私が今住んでいる土地を買ったときも、そういう問題が、起きた。当時、この土
地は、ちょうど、100坪の土地だった(はず)。それで、それを2つに分けて、その1つ
を譲ってもらった。

 が、2、3年もしたころのこと。別のことで測量をしてもらったら、全体で、15〜2
0センチほど、隣の土地が私の土地のほうに、入りこんでいることがわかった。坪数にな
おすと、2〜3坪ということになる。坪、11万円で購入した土地だから、約30万円の
損をしたことになる。

 しかしそのころには、塀も立ててしまったし、隣人とも仲よく暮らすようになっていた。
私は、言うべきか、言わざるべきかで、かなり悩んだ。で、その結果、「言わないほうがい
いだろう」「言えば、相手も不愉快に思うだろう」ということで、現在に至るまで、そのま
まになっている。隣人は隣人で、55坪の土地ということで、業者から購入している。

 こうした土地がらみの問題で、隣人と、境界争いをしている人は多い。土地だけではな
い。マンションの通路、共有施設などなど。そうした問題で、毎日、不愉快な思いをして
いる人は多い。が、国どうしが争うと、へたをすれば、戦争ということになりかねない。
今の今も、日本と韓国は、竹島という小さな島の領有権を争って、険悪な関係になってい
る。不愉快さも、こうした問題になると、国際級(?)。

 日本は、かねてから、何度も「国際裁判所で話しあおう」と提案してきている。今回も、
最終的には、国際裁判所への提訴を考えている。が、韓国は、がんとしてそれに応じない。
スジ道としては、それが一番妥当だと思うのだが、韓国にも、いろいろ言い分はあるのだ
ろう。それとも韓国にとっては、何か、つごうの悪いことでもあるのだろうか。そうであ
るならなおさら、そういうところで、白黒をはっきりつけたほうが、私はよいと思うのだ
が……。


●マガジンの発行が、遅れ気味

 電子マガジンでは、だいたいいつも、約1か月先の原稿を書いている。5月17日号で
あれば、4月17日ごろには、発行予約をすますようにしている。

 しかし今日は、5月20日。昨日、やっと5月15日号の発行予約をすませたところ。
約1週間の遅れということになる。

 このところ、いろいろあって、原稿書きをサボっている。率直に言えば、原稿書きより、
本業の幼児教室のほうが、おもしろい。毎日、時間があれば、そのための教材ばかりを作
っている。それにこのところ、読者が、ぜんぜん、ふえな〜い。そんなとき、数日前だが、
E県のOさんという方から、励ましのメールをもらった。

 何でも私のマガジンをすべて、別のフォルダーを作って、すべてそこへ保存してくれて
いるとのこと。うれしかった。で、またまた書く気が、モリモリとわいてきた。

 E県のOさんへ、ありがとうございます!!!!


●金価格の上昇

 若いころ、純金のネックレスを買った。グラム、3000円くらいの時代ではなかった
か。当時の値段で、50数万円だったと思う。

 しかしそのネックレスを身につけたのは、数回のみ。あとは、そのまま財産として(?)、
金庫の中にしまってしまった。

 が、そのあと、金価格は、だらだらと下降の一途。一時は、グラム1000円ほどまで
になってしまった。ネックレスの価値が、3分の1になってしまったことになる。

 が、である。このところの原油価格の上昇と、円安の影響で、その金が、グラム240
0円ほどまでに上昇している。もとの値段にもどったわけではないが、先日、以来はじめ
て、そのネックレスを手にとって、見た。それまでは、見るのも、いやだった。

 しかし金価格が上昇したことを、喜んでよいのか。それとも悲しむべきなのか。つまり
金価格が上昇したということは、それだけ国際情勢が不安定になったことを意味する。


●パソコンの修理

 長男がイライラしていた。理由を聞くと、パソコンがこわれた、と。

 そこで昨日、3、4時間をかけて、そのパソコンの修理を手伝ってやった。一度、すべ
てのファイルを、別のハードディスクにコピーしたあと、本体を、再セットアップ。(パソ
コンのメーカーによっては、リカバリーともいう。)

 そのあと、OSのアップデート、ウィルスソフトのインストールとアップデート……と
つづいた。それで3、4時間もかかってしまった。

最初に、BIOSの設定で、手間取った。パソコンに再セットアップ用のCDを挿入し
ても、そのCDを読みこまない。ハードディスクのほうが、勝手にOSを起動してしま
う。

 メーカーは、アメリカのD社のもの。日本製のそれとくらべて、設定画面での操作が、
よくわからない。不親切。あちこちを、「ON」にしたり、「OFF」にしたりして、やっ
とのことで、それができた。

 こうして考えてみると、パソコンという電気製品は、素人が相手にするのは、まだまだ
無理。今、何とか動いているなら、その状態を保ちながら、だましだまし、使う。それが
一番。へたな冒険主義は、危険。ときには、命取りにさえなりかねない。

 以上、4月22日の朝。午前7時。今朝の雑感でした。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮面をはずし忘れた人

++++++++++++++

さも善人ですといった様子をしてみせる。
さも私はできた人間ですといった様子をしてみせる。

だれかが話しかけたりすると、
さも私は何でも知っていますといった様子をしてみせる。

苦労人であることを、ことさら強調することもある。

++++++++++++++

 心理学の世界には、仮面(ペルソナ)という言葉がある。仮面というのは、まさに仮面。
その仮面をかぶるようになる経緯については、人さまざまだが、だれしも、そのときどき
において、ある程度の仮面は、かぶる。商人は商人の仮面、教師は教師の仮面などなど。

 しかし中には、仮面をかぶりながら、その仮面をはずし忘れてしまう人がいる。善人の
フリをしつづけるうちに、仮面のほうを、本当の自分だと思いこんでしまう。実は、今日
も、そのタイプの人を見かけた。

 レストランで昼食をとっているときのこと。私のななめ前に、60歳くらいの女性が2
人、すわっていた。そのうちの1人がそうだった。

 その女性を(女性A)としておく。もう1人の女性を、(女性B)としておく。その女性
Aだが、始終、にこやかな笑みを絶やさず、「そうです」「そうです」といった感じで、女
性Bの言うことに、そのつど、うなずいていた。

 女性Aは、さも私は善人です、さも私はよくできた人間です、といった様子をしてみせ
ていた。しかしその笑みが不自然。不気味。どこかのカルト教団の信者がよくしてみせる
笑みに似ていた。

 が、その女性が、瞬間だが、鋭い目つきをしたときがあった。女性Bが先に席を立ち、
バッグからサイフを取り出そうとしたときのこと。女性Aは女性Bのサイフを見た。恐ろ
しいほど、冷たい視線だった。それまでの穏やかな視線とは、まったく異質の視線だった。
私は、ワイフに小声でこう言った。

 「いいか、お金を払うのは、あの背の高いほうの女性(=女性B)のほうだよ。よく見
ていてごらん」と。

 2人の女性は支払いをすますカウンターの前に立った。で、私が予想したとおり、女性
Bのほうが代金を支払った。で、女性Aのほうはというと、1、2歩退いたところに立ち、
やはり穏やかな表情のまま、黙って、それを見ていた。

 「どうしてあなたには、それがわかったの?」とワイフが聞いた。私は、理由を説明し
た。

 「人が、仮面をかぶるのには、それなりの理由があるからさ。あの2人のばあいは、背
の低いほうの女性(=女性A)が、自分の中の邪悪な依存性をごまかすために、仮面をか
ぶっていた。わかりやすく言えば、最初から、あの背の高いほうの女性(=女性B)に、
代金を払わせるつもりでいた。ぼくには、それがわかった」と。

 おそらく、……というより、まちがいなく、女性Bは、女性Aのことを、人間味のある、
よくできた、すばらしい人と思っているにちがいない。つまりそういうふうに思われるよ
うに、女性Aは、仮面をかぶっていた。演じるという意識もないまま、演じていた。

私「だいたいね、ああいう笑みには、気をつけたほうがいい。ニコニコというよりは、ニ
ンマリといった感じだね。どこか不自然。不気味」
ワ「本当に苦労した人の笑みとは、ちがうということ?」
私「そうだよ。ぼくは、あの背の低いほうの女性(=女性A)が見せた、鋭い視線を見落
とさなかったよ。あれが仮面の下にある、あの女性の本当の顔だろうね」と。

 仮面をかぶるのは、しかたのないこと。しかしその仮面をはずし忘れてはいけない。は
ずし忘れると、どの顔が、本当の自分の顔なのか、わからなくなってしまう。そういう人
は、いくらでもいる。とくに宗教を利用して、地位や名声を得ているような人に、このタ
イプの人が多い。さも、私は、仏様(あるいは神様)の化身でございますといったような
様子をして見せる。

 名前は出せないが、日本でも有名な女性にもいる。派手な慈善事業をしてみせたり、み
なの前で、説法をしてみせたりする。

 しかしほんの少しだけ、人を見る目を養えば、このタイプの人は、すぐ見抜ける。言う
までもなく、どこか不自然。心の底からにじみ出てくるような、深い人間味がない。その
不自然さを感じたら、それは仮面と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●子どものことは、子どもに聞く

++++++++++++++++

子どもの教育で、わからなかったことが
あったら、子どもに聞けばよい。

子どものことは、子どもに聞く。
それが子どもの教育の大鉄則でもある。

++++++++++++++++

 人間といえども、自然の一部でしかない。そんなことは、当然のことではないか。だか
ら自然学者が、何か、わからかないことがあったとき、自然にたいして、直接、問いかけ
るように、子どものことで、何か、わからないことがあったら、直接、子どもに問いかけ
ればよい。

 あのダーウィンも、ファーブルも、自然にたいして、直接、問いかけた。そして今に残
る業績をあげた。

 私が嫌いのは、子どもを直接、教えたこともないような学者たちが、研究室の奥で積み
重ねたような教育論である。そうした教育論は、読めば、すぐわかる。先日も、こんな教
育論を目にした。

 最近の子どもたちの「荒れ」についての意見だが、こうあった。「社会の変革期における
過渡期的な現象である。子どもたちは、学校に反抗することで、社会の変革を促している」
と。日本でも有名な評論家の意見である。

 しかし一読して、「?」。子どもたちが、そんな高邁(こうまい)な意識をもって、(ある
いは無意識でもよいが)、行動しているとは、とうてい考えられない。またそんな視点から
では、いくら考えても、問題は、解決しない。

 「荒れ」の問題は、……というのを書くのが、ここでの目的ではないので、省略するが、
こうした例は、多い。

 ほかにも、たとえば、不登校について、ある学者は、こう述べている。

 「不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えら
れている。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活
動など不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生
活環境の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えら
れている」(「日本K新聞」より、原文のまま)と。

 こうした分類をしたところで、どれほどの意味があるというのか。問題の解決に役立つ
のか。不登校児をもって苦しんでいる親の立場で、ものを考えてみればよい。もしその親
に向かって、だれかがこう言ったとする。

 「あなたの子どもの不登校は、学校生活起因型です。原因は部活動の不適応が原因です」
と。

 多分、その親は、こう叫ぶにちがいない。「そんなことは、わかりきったことではないか!」
「今さら、そんな説明などしてもらわなくて、結構!」と。

 だからといってもちろん、研究としての学問を否定しているのではない。しかしその一
方で、子どもを忘れた教育など、いくら考えても意味がない。もうひとつ、こんな例もあ
る。

 児童向けの英語教育が話題になり始めたころのこと。どこかの学者が、「シャワー方式」
なる名前の英語教育法を考えた。シャワー方式というのは、わかってもわからなくても、
子どもの耳に向かって、英語を録音したテープを聞かせつづけるというものである。

 つまりシャワーのように、子どもに英語を流しつづけるから、「シャワー方式」という。

 そこである雑誌社が、その方式を応用して、学習用テープを作った。が、これほど、子
どもたちに不人気の教材はなかった。つまり、まったく売れなかった。

 これも考えてみれば、当然。

 もしあなたにそれがわからなければ、BS放送か何かで、ドイツ語の番組を見てみれば
よい。ビデオでもよい。あなたは、10分もたたないうちに、イライラしてくるはず。そ
してすぐ、あなたはこう言うだろう。「もう、やめてくれ!」と。

 ついでに言うなら、言葉というのは、実際、使ってみてはじめて身につく。毎日、ドイ
ツ語の放送を聞いたからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。

 ……などなど。私も子どものことでわからないことがあったときは、まず、子どもの顔
を見る。そして子ども自身に問いかける。すべてはそこから始まり、そこで終わる。子ど
もを忘れた教育には、意味がない。そう断言するのは危険なことかもしれないが、それほ
どまちがってはいないと思う。で、もし教育論なるものがあるとするなら、その教育論な
るものは、そのあとについてやってくる。決して、子どもの先を行くものではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【時には母のない子のように】

++++++++++++++++++

寺山修司は、こう歌う。

♪時には母のない子のように
 だまって海を見つめていたい……
  
+++++++++++++++++++

寺山修司は、こう歌う。

  ♪時には母のない子のように
   だまって海を見つめていたい
   時には母のない子のように
   ひとりで旅に出たい
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
  
  ♪時には母のない子のように
   長い手紙を書いてみたい
   時には母のない子のように
   大きな声で叫んでみたい
   だけど心はすぐ変わる
   母のない子になったなら
   だれにも愛を話せない

   hu hu hu……

 その寺山修司だが、たいへんな母親をもっていたそうだ。その母を知る人は、みな、異
口同音に、こう言う。「寺山修司の葉親は、こわい人だった」と。俳優のM氏もその1人で、
あるNHKのテレビ番組の中で、そういう趣旨の発言をしている(06年4月19日)。そ
の番組の中には、「鬼ババ」という文字さえ、かいま見えたように記憶している。

 寺山修司は、母親の虜(とりこ)になりながら、その呪縛から逃れ出ることができず、
かなり苦しんだ人らしい(同番組、M氏談話)。そうした思いが、この「時には母のない子
のように」という歌詞の中に、表現されているという。

 改めて、その歌詞を検証してみる。この歌は、私が大学3年だったか、4年のときに、
大ヒットした歌である。どこかさみしげな、それでいて、どこか退廃的な感じのする歌だ
った。

 で、寺山修司は、「♪時には母のない子のように……」と歌い、そのあと2番で、こうつ
づける。「♪大きな声で叫んでみたい」と。

 しかし家族、なかんずく母子の間で形成される、「自我群」は、そんな甘いものではない。
本能に近い部分にまで、それは刷りこまれる。ふつうの人間関係ではない。だから寺山修
司は、こう歌う。

 「♪だけど心はすぐ変わる」と。

 つまり母からの呪縛から逃れたい。しかしそう思ったとたん、自分は、その母に引き戻
されてしまう、と。実際、寺山修司の母親は、「ものすごい女性」(同、テレビ番組)だっ
たようだ。

 嫁が気に食わないという理由で、寺山修司の結婚式には列席しなかったという。また寺
山修司の死後は、青森県に自宅に、寺山修司の記念館まで用意したという。生涯にわたっ
て、寺山修司の母親は、寺山修司の上に君臨していた(?)。

 で、問題は、この歌の歌詞の、最後の部分。「♪母のない子になったなら、だれにも愛を
話せない」という部分である。

 いろいろな解釈ができるのだろうが、私はこう解釈する。つまり、母にすら愛を拒否さ
れてしまったら、もう自分は、だれも信じられない人間になってしまう。もしそういう人
間になってしまったら、もうだれも、愛せなくなってしまう、と。

 そういう例は、実際に、多い。よく知られた例としては、虐待児がいる。実の母親に虐
待されつづけた子どもである。

 そういう子どもでも、児童相談所などに保護されると、「ママのところに帰りたい」と泣
き叫ぶという。保護されること自体を、「罰」と誤解する子どももいる。そこで相談所の相
談員が、「またひどいめにあうのだよ」と説得すると、ある子ども(小学生)は、こう言っ
たという。

 「今度は、ちゃんと、いい子になるから、家に帰して」と。

 悲しき子どもの心である。その子どもにしてみれば、どんなひどい母親でも、母親。た
った1人の母親。そんな母親を、自ら否定してしまえば、その子どもは、心のより所をな
くしてしまう。そういう例も、ないわけではない。

 実の母親に30年以上にわたって、裏切られ、だまされつづけた男性(50歳)がいる。
どう裏切られ、だまされつづけたかは別として、その男性は、こう言う。

 「母親すらも信じられないというのはですね、もう、だれも信じられないということに
なるのですね。とくに、女性は、ね。が、それではすみません。だれも信じられないとい
うことは、それ自体、たいへん孤独なことです」と。

 その男性は、結婚して、25年近くになるが、いまだに自分の妻すら、信じられないと
いう。その男性にとっても不幸なことだが、妻にとっても、不幸なことと考えてよい。

 だから寺山修司は、歌詞の1番と2番を、こう結ぶ。

 「♪母のない子になったなら、だれにも愛を話せない」と。

 その番組の最後の部分で、寺山修司の母親が、インタビューに答えて、こう言っていた。
レポーターが、「寺山修司がなくなって、どういうふうに思っておられますか」というよう
なことを聞いたときのこと。母親はこう言った。

 「なくなってはいません。ここに、いないだけです」と。

 その寺山修司は、昭和58(1983)年5月、47歳の若さで、肝硬変で死んでいる。
それを察した寺山修司は、生前、「墓は建ててほしくない。私の墓は、私の言葉であれば、
充分」と言い残している。

 しかしその墓を、寺山修司の母が、八王子市の高尾霊園に建てた。そしてそのあと死ん
だ母親も、その墓に入った。生涯にわたって母親の呪縛に苦しんだ寺山修司は、死んでか
らも、墓の中で、母親の呪縛に苦しんでいるのかもしれない。
(はやし浩司 寺山修司 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教
育 子育て はやし浩司 母子論 母と子)

++++++++++++++++++

母親は、母親であることをよいことに、
決してその立場に甘えてはいけない。

時として、母親は、生涯にわたって、
子どもを苦しめつづける存在ともなりえる。

さらに、母親といえども、いつか子どもに、
人間として評価されるときが、やってくる。

たとえ子どもにされなくても、後の世の
人々によって、評価されるときが、やってくる。

そうした視点で書いたのが、つぎの原稿です。
数年前に書いた原稿です。

++++++++++++++++++

【野口英世の母親】

●母シカの手紙

 2004年に新1000円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるとい
う。そういう人物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こん
な手紙を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつ
くるトおせてくたされ わてもねむられません」(1912年(明治45年)1月23日)
(福島県耶麻郡猪苗代町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を
思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開
発課パンフ)というのが、おおかたの見方である。母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、
こころぼそくありまする。どうかはやくかえってくだされ……かえってくだされ」と懇願
している。

 これに対して、野口英世は、1912年2月22日に返事を書いている。「シカの家の窮
状や帰国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本
やアメリカを代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決すること
などを切々と書いています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)ということだそう
だ。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、
手紙を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するも
のであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、
すぐには帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、
親が子どもに、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場
で考えてみればよい。あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それ
には切々と、家の窮状を訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もし
あなたがこんな手紙を手にしたら、あなたはきっと自分の研究も、落ちついてできなく
なってしまうかもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでや
った」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んで
もらった」「育ててもらった」と、恩を着せられる。

たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。そういう子育てを評して、
あるアメリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存心をもたせること
に無頓着な民族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えて
ください。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきて
ください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未
熟な親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か
何かで伏せっていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。
事実、野口英世記念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、い
っしょに写っている母シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ち
がにじみ出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや
私も昔、学生のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。しかし今、自
分が親になってみると、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書いてお
く。

●私のこと

 私は23、4歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今のワ
イフといっしょに生活するようになったころも、毎月3万円の仕送りを欠かしたことがな
い。大卒の初任給が6〜7万円という時代だった。が、それだけではない。

母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取っていった。長男が生ま
れたときも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で20万円近くをも
って帰った。母にしてみれば、それは子どもとしての当然の行為だった。(だからといっ
て、母を責めているのではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられ
て、だれに命令されるわけでもなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が27歳ごろのときから、
実家での法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。
土地柄、そういう行事だけは、派手にする。たいていは近所の料亭を借りきってする。
その額が、20〜30万円。そのたびに、私は貯金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これに
ついてはまた別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感という
よりは、社会的重圧感に、いやというほど、苦しめられた。「子どもは親のめんどうをみる
のは当たり前」「子どもは先祖を供養するのは当たり前」「親は絶対」「親に心配かける子ど
もは、親不孝者」などなど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はそ
の重圧感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方を
していた。

「あそこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡
さなかった」
「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。
それは、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が
感じた重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定す
るのか」とか言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。
しかしこれは誤解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に
書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手
紙を読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、
思えない。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。
そこでもう一度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころ
よりもはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカ
は、「子どもが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思
っていたに違いない。だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解
できなかったのだろう。

文字の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理
解できなかったかもしれない。一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子ど
もが親のめんどうをみるのは当たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカに
あてた手紙は、まさにそうした板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こう
した評論のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、
その母親を批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。

現に今、その母シカをたたえる団体が存在している。母シカを批判するということは、
そうした人たちの神経を逆なですることにもなる。だからここでは、私は結論として、
つぎのようにしか、書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、
帰ってくるな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝
行など考えなくてもいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。それが無理なら、「元
気か?」と様子を聞くだけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、どんな手紙を書く
だろうか。一度母シカの気持ちになって考えてみてほしい。
(02−8−2)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
野口英世 英世の母 シカ 野口英世の母親論)

【補記】

 寺山修司の母親が、なぜに、今に言われる母親として評価されるようになってしまった
か。

 実は、そのヒントは、寺山修司の母親の、遍歴の中に、あるのではないか。その遍歴を
箇条書きにしてみる(参考、ウィキペディア百科事典)。

(1)寺山修司の生年月日は、実際の生年月日と戸籍上の生年月日が、異なっている。
(2)父親は警察官だった。寺山修司は、母はつの長男として誕生。
(3)9歳のときに、空襲で焼け出され、それまで住んでいた青森市から、現在の三沢市
に移る。父親の兄の経営する食堂の2階に住む。
(4)父親が、セレベス島で戦病死する。
(5)終戦
(6)母親のはつは、米軍のベースキャンプで働く。
(7)寺沢修司、古問中学校に入学。青森市で映画館を経営する母の叔父に預けられ、青
森市内の中学校に転校。
(8)母親は、寺沢修司を青森に残したまま、九州の米軍キャンプに移る。

 私はこの遍歴の中に、なぜ寺山修司が寺山修司になったかという、その謎を解くヒント
が隠されているように思う。息子を青森に残したまま、自分は、青森の米軍基地から、九
州の米軍基地に移ったという。女性の、はつが、である。

 それがどういう意味をもつのかは、わかる人にはわかるはず。それについては、もう少
し寺山修司について資料をあつめてから、書いてみたい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●受験競争国家

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韓国の経済ニュースを見ていると、
順位を表す数字が、毎日、ズラリ
と並ぶ。

はげしい受験を通り抜けた人たち
の、ものの発想法が、こんなとこ
ろにも凝縮されている。

が、どうもそれだけではないようだ……

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たとえば今日(4月20日)も、こんな記事が出ている。
「現代車は『08年には北京現代車が中国の自動車業界第2位に跳躍するだろう』とし
た。 
現在、北京現代車は上海GM(ジェネラルモーターズ)、上海フォルクスワーゲンに続
き、中国内販売量第4位にランク付けられている」(東A日報)と。

韓国という国は、順位にこだわる。何かにつけて、順位、順位、また順位。以前、私は、
そうした風潮は、それまでのはげしい受験戦争によってもたらされるものと考えてよい
のでは、という内容のエッセーを書いた。が、その風潮は弱まるどころか、このところ、
経済面で自信をつけてきたのか、さらにはげしくなったように感ずる。

 日本のことがよほど気になるらしい。とくに日本を意識した順位には、強いこだわりを
見せる。ことあるごとに、「日本は、xx位、韓国は、yy位」と。「日本にできることは、
韓国にできないはずはない」「韓国が日本に負けるはずはない」と。強い自負心もある。し
かしどうもそれだけではないようだ。それ以上に強く影響しているのが、儒教文明(?)。

 簡単に言えば、体裁、メンツ、世間体を気にする。同族意識が強く、上下関係がきびし
い。

 一方、気にされる側の日本にしてみれば、それがうるさくてたまらない。あえて言うな
ら、ストーカーにつきまとわれているような気分(?)。ときどき、「またか!」と思って
しまう。あるいは「日本のことは、もう放っておいてくれ。自分の幸福を勝手に追求した
ら」と言いたくなってしまう。

 ……ということで、みなさんも、韓国のニュースを読むときは、一度、そんな目で見て
みたらどうだろうか。国中が、受験戦争をしている感じ。ホント!


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【コンパクトな生活?】

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人は老人になればなるほど、
コンパクトな生活をめざすべきと、
ある人が言った。

そのときは、「なるほど」と、
納得した。

しかし、……
コンパクトな生活だと!
何が、コンパクトな生活だ!
バカ言うな! 

++++++++++++++++

●コンパクトな生活

 10年ほど前、ある知人が、私にこう言った。「林君、人はね、老人になればなるほど、
コンパクトな生活をめざすべきだよ」と。

 彼が言う「コンパクトな」というのは、「こじんまりとした」という意味である。そのと
き彼は、あと数年で、60歳の定年退職を迎えようとしていた。

 そしてまた最近、別の知人がこう言った。何でも、その知人は、何かの講演会に行って、
同じような話を聞いてきたらしい。

 「ぼくは、その講演会を聞いて、感動したよ。すばらしい講演会だった。つまりね、人
はね、老齢に近づいたら、身辺を整理して、生活をコンパクトにしなければいけない。生
活空間を小さくして、支出を抑える。健康を大切にして、できるだけ長生きをすることを
考える」と。

 ……というわけで、最近、「コンパクト」という言葉を、よく耳にするようになった。

●それが理想の姿なのか?

 私の周辺には、そのコンパクトな生活を実践している老人が、何人かいる。「何人か」と
いうより、ほとんどが、そうである。

 毎日、近くの空き地へやってきて、何かをするでもなし、しないでもなしといったふう
に、一日を過ごしている老人。一日中、部屋にこもって、趣味三昧の老人。同じく一日中、
庭いじりをしている老人などなど。

 見るからに、質素な生活をしている。静かな生活をしている。が、あるとき、私は、疑
問に思った。「果たして、それでいいのか?」と。つまり、それが老人の生き方として、あ
るべき、理想の姿なのか、と。

 答は、やがて、「NO!」に傾いてきた。

●老人風生活

 実は、私も、そうした考え方に、少なからず、影響を受けた。体力や気力の衰えを感じ
始めていたこともある。それに合わせて、そのころ、収入も、減少し始めていた。

 で、コンパクトな生活とは、何か、それを模索するようになった。

 常識的な考え方としては、(1)生活範囲を狭くする、(2)交際範囲を限定する、(3)
支出を抑え、質素な生活を旨とする、(4)無理をしない、(5)野心を捨て、(6)健康を
大切にする、などがある。

 で、冒頭に書いた知人などは、定年退職する少し前、自宅と自宅周辺にもっていた土地
を売り払い、郊外に、小さな家を建て、そこへ移り住んでしまった。つぎの知人は、反対
に、市内に小さなマンションを買い、そこへ移り住んでしまった。「そのほうが、便利だか
ら」というのが、その理由である。

●まだまだ現役

 ところで、最近、私の心境は、大きく変化しつつある。コンパクトな生活を目ざしたく
ても、それができない状況に追いこまれてしまった。

 第一に、頭のボケた兄の介護費用の問題がある。現在、兄は、グループ・ホームに入居
して、それなりに優雅な生活を送っている。しかしグループ・ホームでは、それなりの費
用がかかる。「都会へ大学生を送ったのと同じくらいの費用がかかる」とよく言われるが、
それくらいは、かかる。

 つぎに長男が、「もう一度、専門学校へ入って、勉強したい」と言いだした。そうするよ
うに勧めたのは、私だが、今年から、ともかくも、その専門学校へ通うようになった。そ
の費用も、まさに「大学生」なみにかかる。

 実のところ、私も、それまでは、心のどこかで引退を考えていた。「できるだけ長く働こ
う」とは思ってはいたが、何をするにも、どこか遠慮がち。ものを買うときですら、「あと
何年もてばいい」というような考え方をするようになっていた。

 が、それが許されない状況になってきた。とたん、闘志が、モリモリとわきあがってき
た。

●生きることを消耗しているだけ

 年齢を意識して生活することぐらい、バカげたことはない。たとえばこの日本では、「長
生きをしたほうが勝ち」という、おかしな風潮すらある。そういう考え方をしている老人
は、多い。

 しかし長生きをしたからといって、それがどうだというのか。先にも書いたが、それが
あるべき老人の姿なのか。理想の姿なのか。「3年、よけいに長生きすれば、息子夫婦に、
家を建ててやれる」と言った老人もいた。3年分の年金で、新築の家が買えるというのだ。

 それはそれで結構なことだが、しかしその人自身は、それでよいのか。……と考えてい
くと、こうした生き方は、(果たして、それを「生き方」と言ってよいかどうか、わからな
いが……)、むしろ生きるということに対して、背を向けた生き方ということに気づく。

 つまり生きているのではなく、生きていることを、日々に、消耗しているだけ。

●今は、今しかない

 重要なことは、前向きに生きること。「前向きに生きる」というのは、攻撃的かつ積極的
に生きるということ。もう少しわかりやすく言うと、「今日できることは、今日する」「今
できることは、今する」ということになる。

 「明日はない」と思う。今、あるのは、「今」だけ。「今」は今しかない。そう考えて行
動する。つまりそういう生き方を目ざしていくと、やがて自分から、年齢的な思考性が消
えていくのがわかる。その「今」に、年齢など、関係ない。

 たとえば昨夜も、こんなことがあった。

 仕事を終えて家に帰ると、もう夜の8時半になっていた。それから夕食を食べ、一息つ
いたころ、ワイフが、ビーズの話をした。「真珠のビーズが足りない……」と。このところ、
私たちは、ビーズに凝(こ)っている。

 そこで私が、「じゃあ、これから、そのビーズを買いにいこう」と声をかけると、ワイフ
は、こう言った。「これからア?」と。「まだ、間にあう。買いに行こう」と。

 ……ということで、私たちは、そのビーズを、買いに行った。

●今を生きる喜び

 「明日があるから、明日に回す」というのは、うしろ向きな生き方ということになる。
つまりほとんどの老人たちは、ものごとを先送りすることによって、今を消耗する。無益
に消耗する。そしてそれを正当化するために、回りまわって、「コンパクト」という言葉を
使う。

 もしそのとき、「(ビーズを買いにいくのは)、またでいいや」とか、「今度、その近くへ
行ったときでいいや」と思ったとしたら、うしろ向きな生き方ということになる。そして
ほとんどの老人たちがするように、コタツに入って、そのまま寝そべってしまったとした
ら、それも、うしろ向きな生き方ということになる。

 が、「明日はない」と思って行動したら、どうなるだろうか。いや、明日など、意識する
ほうがおかしい。明日は明日で、必ず、やってくる。明日がやってきたら、そのときは、
そのときで、また別に考えればよい。別に行動すればよい。

 ビーズを買って家に向こうとき、私が、「何でも、今できることは、今しよう」とワイフ
に声をかけると、ワイフは、こう言った。「あなたといると、疲れるわ」と。それはそうか
もしれないが、その(疲れ)こそが、今を生きる人間に与えられる勲章のようなもの。そ
の(疲れ)が、(生きる喜び)となって、すぐかえってくる。

●コンパクトな生活?

 年を取ったからといって、何も、コンパクトな生き方をする必要などない。人は、死ぬ
まで、生きる。それが明日、死ぬことになろうとも、そのときまで生きる。

 その生きることに遠慮してはいけない。年齢など、毛頭、考える必要はない。

 もし私やあなたが健康で、したいことができるなら、今、それをすればよい。私の知人
の中には、60歳を過ぎて、新しい幼稚園を設立しようとがんばっている人がいる。すで
に関東から静岡県にかけて、5、6園の幼稚園をもっている。

 別の知人は、88歳を過ぎて、自宅の庭の端に、総杉の木づくりの離れの部屋を建てた。
さらにまた別の知人は、このあたりの自治会長を数期務めたあと、とうとう公民館の新築
をなしとげた。年齢は聞いていないが、もう70歳を過ぎているのではないか。

 そういうすばらしい老人たちがいる。あなたの周囲にも、そういう老人たちがいるはず。
つまり手本とすべき老人というのは、そういう人たちをいう。

 コンパクトな生活! そんな生活を目ざしてはいけない。反対に、そういう生活を目ざ
している老人たちを見てみることだ。小市民的で、つまらない。自分勝手で、自己中心的。
そういう生活をしている老人を、決して、手本としてはいけない。

 そこで、あえてもう一度、繰りかえす。コンパクトな生活? そんな生活など、クソ食
らえ!

●生きる原点に!

 若いころは、何かの歌の歌詞にもあったように、「♪何もこわくなかった」。しかし今は、
ちがう。ふと気がつくと、まわりは、こわいものだらけ。しかしそれは、おかしい。仮に
そうであるとしても、どうして、それをこわがらなければならないのか?

 メンツや世間体にこだわる必要はない。先週も、ある人たちと会食をしながら、こんな
話をした。

 私が浜松に来たころのこと。私には、収入がなかった。そこで私は小さな張り紙を作っ
て、それをワイフと2人で、電柱に張りつけて回った。「翻訳します」という張り紙である。

 そのおかげで、私は、いくつかの会社の翻訳の仕事を、専属的にできるようになった。

 で、その話をしながら、「今の若い人たちに、それができますかねえ?」と声をかけると、
ある小学校で教頭をしているその男性は、こう言った。「できないでしょうね」と。ついで、
「私もできません」と。

 しかし、なぜ、できないのか? つまりそこに(こわさ)があるからではないのか?

 が、生きることに、制約はない。メンツも世間体もない。若いころの「今」も今なら、
今の「今」も、今。その「今」をこわがる必要はない。むしろたとえば定年退職前の肩書
きや地位にこだわって、その「今」をこわがるほうが、おかしい。中には、定年退職して
から20年近くもなるというのに、退職前の肩書きにこだわって、いばり散らしている人
もいる。

 それが生きていくために必要なことなら、電柱に張り紙でも何でもして、仕事を取って
くればいい。電柱に張り紙をするにが違法なら、別の方法を考えればよい。それが生きる
ということであり、生きることの原点は、そういうところにある。

 昨夜、家に帰ってから、私は、ワイフにこう言った。「死ぬことなど、もう考えない。死
ぬまで、ぼくは、生きるよ」と。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
今を生きる 生きる原点)

++++++++++++++++

数年間に書いた原稿を、2作
ここに添付します。

中日新聞、金沢学生新聞に発表
した原稿です。

++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもな
っている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れて
しまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生
き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人が
いる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大
学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、
ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自
分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう
生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽にな
ったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、
一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の
位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。
しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現
実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だ
け。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではな
いのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健
康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きるこ
とこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」
ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといって
も、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たと
えば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。
それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真
っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親た
ちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では
「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいい
のよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本
的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味が
わからないのではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪その人は
どこにいる。私たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこにいる」
と。

それから30年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわ
けではないが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだし
た。生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一
方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的に
は幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。

「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第
五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画「フォレスト・ガンプ」の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ」と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。み
んな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げ
られ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだます
る。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋め
つくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言う
なら、懸命に生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。

言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も
希望もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生
きる意味などわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」
と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、
懸命に生きる、その生き様でしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をし
ていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そう
いうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生
からは、結局は、何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 12日(No.725)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもを伸ばす】

++++++++++++++++++

子どもを信ずる。
これは子育ての基本。
同時に、子育てのテーマ。

++++++++++++++++++

●役割の感知

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、その期待にこたえようと、無意識
のうちにも、自分の中のよい面を、表に出そうとする。よい面を見せようとする。子ども
を伸ばすときは、こうした子どもの心理を、うまく利用して伸ばす。

たとえば母親が、「うちの子はすばらしい」と、そう思ったとする。するとその子どもは、
母親の期待にこたえようと、無意識のうちにも、自分のすばらしい面を感知し、自らそ
れを伸ばそうとする。そういう意味では、子どもの心というのは、親の心を映す、カガ
ミのようなものと考えてよい。

 ところで心理学の世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、そうであるよう
にと、とくに教えなくても、やがて男の子らしくなっていく。同じように女の子は、女の
子らしくなっていく。

 無意識のうちにも、子どもは自分の役割を感知し、それに合わせて、自分を形成してい
く。そのために、子どもは、男の子らしくなり、女の子らしくなる。

 そこでここでは、もう一歩、この問題を、踏みこんで考えてみる。

●自己形成で作られる人格

 たとえば学校の校長を考えてみる。

 長い間、教職という立場にあり、そして校長にまでなった人を見てみる。そのとき、校
長と呼ばれる人には、ある共通点があるのがわかる。そのほとんどが、人格者で、かつ高
邁(こうまい)な思想や哲学をもっている。

 それは校長という要職にある間に、親や生徒の期待にこたえようと、その人自身が、自
ら努力した結果とみてよい。もちろん中には、演技で、人格者のフリをする人もいる。校
長にかぎらない。が、しかしそういう人は長つづきしない。やがて自己矛盾を起こし、そ
ういった要職に耐えられなくなる。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 たとえばサッカーの試合がある。その選手がいくらすばらしいプレーをしてみせようと
しても、観客がゼロでは、やる気そのものが、生まれてこないだろう。しかし観客席が満
員になり、熱い声援を受ければ、その選手は、その期待にこたえようと、自分の力を、無
意識のうちにも、十二分(ぶん)に発揮するようになるかもしれない。

 つまり子どもにかぎらず、私たちは、いつも、他人が自分をどう思っているかを、敏感
に感知し、自分がどうあるべきかを判断する。意識してそうするばあいもあるが、たいて
いは無意識のまま、それをする。そしてそれに応じて、自分のあり方を決めようとする。
わかりやすく言えば、他人が、自分に対してもっているイメージ、つまり(他者的自己概
念)を、自分のイメージとして、無意識のうちにも、自分の(自己概念)として受けいれ
ようとする。

●社会的自己

 たとえばあなた自身のことで、考えてみてほしい。

 あなたの周囲には、あなたのことを、すばらしい人と思っている人もいれば、そうでな
い人もいる。

 そういうときあなたは、自分のことをすばらしいと思っている人の前では、自然な形で、
あなたのすばらしい面が表に出てくるのを感ずるだろう。やさしくなったり、おおらかに
なったりする。

 反対に、そうでないときは、そうでない。自分のことをいやな人だと思っている人の前
では、(あなたはそれを無意識のうちにも、敏感に感知しているわけだが……)、ついつい
自分の中のいやな部分を表に出してしまう。冷淡になったり、無愛想になったりする。

 もちろんその相手といっても、個人のときもあるが、集団のときもある。

 あなたを暖かく迎えてくれる集団の中では、あなたは自分の中のよい面を、前面に出そ
うとする。しかしあなたを拒否する集団の中では、自分がそう望んでいるわけではないの
に、自分の中のいやな部分を表に出してしまうことがある。

 こうして子どもは、そして人は、自分の中に、「社会的自己」を形成していく。家族の中
における自己、園や学校という世界における自己、そして友人の世界における自己など。

 おとなであれば、職場における自己、趣味の会における自己などがある。

 こうした社会的自己というのは、決して、1つではない。わかりやすく言えば、みな、
ちがう。それぞれの場面において、みな、ちがう。あなたが10の集団と接しているなら、
10の社会的自己をもつことになるし、20の集団と接しているなら、20の社会的自己
をもつことになる。

 ただ、自分を拒否したり、否定したりする集団については、あなたは、それから、これ
また無意識のうちにも、遠ざかっていくかもしれない。こうした経験は、私もよくする。

●私のケース

 たとえば子どもを教えていて、その子どもの親が、子どもを通して、私に対して、どの
ようなイメージをもっているか、それがわかるときがある。

 そのイメージが、よいものであればよいが、そうでないときは、とたんに居心地が悪く
なる。ザワザワとした胸騒ぎが起こることもある。当然のことながら、教えようという熱
意そのものがわいてこない。しかしそうした状態は、長つづきしない。長くつきあってい
ると、(よい教師でいよう)という思いと、(それができない自分)との間で、自己矛盾を
起こしてしまう。それは、心理的には、ものすごいストレッサーとなって、私を襲う。つ
まりこうして私は、その親や子どもから離れようとする。

 が、個人にせよ、集団にせよ、その重要なカギを握るのは、だれかということになる。

 言うまでもなく、それは、その人が、もっとも大切に感じている個人であり、集団とい
うことになる。子どもについて言えば、「親」ということになる。

 つまりここで冒頭の話にもどる。ここでは子どもについて、考えてみる。夫と妻という
関係でもよい。

 子どもというのは、(あるいは妻というのは)、常に、親が、(あるいは夫が)、自分に対
してどのようなイメージ(他者的自己概念)をもっているかを、無意識のうちにも、感知
する。そしてそのイメージに合わせて、自己概念を作りあげようとする。

 親が、(あるいは夫が)、子どものことを、(あるいは妻であるあなたのことを)、よい子
(人)だと思っているなら、(よい妻であると思っているなら)、自然と、子どもは、(あな
たは)、そのよい妻に向けて努力するようになる。

 こうした現象は、心理学の世界では、「好意の返報性」という言葉を使って説明されてい
る。『相手は、あなたが相手のことを思うように、あなたのことを思う』という、イギリス
の格言もある。

 が、その反対のケースもある。子どもの世界について、考えてみる。

●親のイメージどおりになる子ども

 親が、自分の子どもに対して、悪いイメージをもっていたとする。「うちの子は、何をし
てもダメだ」「心配だ」と。

 こういうケースのばあい、いくら親が表面的にはそうでないと演じてみせても、子ども
はそれを敏感に察知してしまう。ユングという心理学者は、それを「シャドウ」という言
葉を使って説明したが、そのシャドウを、子どもは、無意識のまま、そしてそっくりその
まま、受けついでしまう。「受けつぐ」というよりは、そのまま、自分のイメージとして受
けいれてしまう。

 つまり子どもは、ますますその親にしてみれば、望ましくない子どもになってしまう。
そしてあとは、お決まりの悪循環。(親にしてみれば、ますます心配な子どもになる)→(子
どもは、ますますその心配な子どもになる)、と。

 では、どうするかだが、答はもう出ているようなもの。

●子どもを信ずる

 子育てをしていて、何がむずかしいかといって、実は、自分の子どもを信ずることぐら
い、むずかしいことはない。日々が、その戦いと言ってもよい。もっと言えば、子育てイ
コール、いかに子どもを信ずるか、その戦いということになる。

 ときには、希望をもち、ときには落胆し、その繰りかえしをしながら、親は、子どもを
育てる。しかしそのときでも重要なことは、どんなことがあっても、子どもを信ずるとい
うこと。これは子育ての最後の砦(とりで)のようなもの。それを崩したら、もうあとが
ない。

 さらに一言、つけ加えるなら、信ずるといっても、仮面ではいけない。仮面ではいけな
いことについては、すでにここに書いたが、他人ならともかくも、子どもや、夫婦は、そ
の仮面では、だませない。だから心の底から、濁(にご)りなく、子どもを信ずること。

 それにもうひとつ、条件がある。

 あなたが自分の子どもを信ずるとしても、それを子どもに押しつけてはいけない。過剰
期待や過負担ほど、子どもを苦しめるものはない。またそうした押しつけによって、反対
に、子どもが、その(いい子)を演ずるように、しむけてはいけない。

 無理や強制がつづくと、今度は、子どものほうが仮面(ペルソナ)をかぶるようになる。
が、これについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
社会的自己 自己概念 仮面 ペルソナ 子供の心理 幼児の心理)

+++++++++++++++

3年前に書いた原稿を
ここに添付します。

この原稿の中で、「二面性」という
言葉を使いましたが、
本当は、「多面性」という言葉の
ほうが、正しいかもしれません。

+++++++++++++++

●人間の二面性

 人間には、二面性がある。

 たとえば私は、こんな話を聞いたことがある。ベトナム戦争から帰ってきたオーストラ
リア人兵士から聞いた話である。クリスという男だったが、こう言った。

 「みんな戦場からサイゴンに帰ってくると、女を買いに行くんだ。買うといっても、セ
ックスが目的ではない。女を買って、一晩中、女のおっぱいを吸っているんだ」と。

 テレビなどで戦車の上に陣取っている兵隊を見ると、私たちは、「たくましい」とか、「か
っこいい」と思うかもしれない。しかしそれは外に向った、表の顔。そういった兵士にも、
もう一つの顔がある。赤ん坊のように、女性のおっぱいを吸いつづけたのが、その顔であ
る。

 実は、こうした二面性は、子どもにも広く、見られる。それが好ましいことなのかどう
かという議論はさておき、外の世界でがんばり、その分だけ、家の中では、ぐずったり、
乱暴したりする子どもは、いくらでもいる。ときには、まったく別人のように振る舞う子
どももいる。こうした違いは、園や学校での参観日などを通してみると、よくわかる。

 ある女の子(年長児)は、幼稚園では何をするにもリーダーで、先生も一目、置いてい
た。学習面でも、運動面でも、その女の子にかなう子どもは、いなかった。しかしその母
親は、私にこう言った。「家では、何もしてくれないんですよ。ぐずってばかりいます。そ
れにここだけの話ですが、いまだにおねしょをしているんですよ」と。

 もしあなたの子どもが、参観日などで、「がんばっている」「家の中での様子と違う」と
感じたら、家の中では、思いっきり、手綱(たづな)を緩(ゆる)める。このとき、家の
中でも引き締めるようなことがあると、子どもは行き場、つまり心の調整の場をなくして
しまう。家の中で、退行的な様子(全体に幼稚ぽくなり、生活習慣がだらしなくなる、約
束や規則が守れないなど)が見られても、大目に見る。

 また、こうした二面性を、悪いことと、決めてかかってはいけない。ここにも書いたよ
うに、こうした二面性があるからこそ、外の世界でがんばれる反面、自分の心を調整する
ことができる。心理学の世界には、「補完」という言葉があるが、たがいに補完しあうこと
もある。とくに責任ある地位や、立場にある人ほど、この二面性は、強く現れる。

 話は、ぐんと、生臭くなるが、学校の教師によるハレンチ事件は、あとを絶たない。こ
のH市でも、男子生徒にいたずらを繰りかえしていた教師、更衣室にカメラをしかけて盗
撮していた教師、女子生徒の下着を盗んだ教師などがいる。こういう事件が明るみに出る
たびに、学校も、また親も、そして生徒も、「まさか!」と驚く。「あの教育熱心な先生が、
どうして!」と。

 しかしここが問題なのである。こうした教師は、仮面の部分では、たしかに優秀な教師
かもしれない。そのように外の世界で、振る舞っている。しかしそれはあくまでも外の顔。
だからこそ、別のところで、心の調整が必要となる。(だからといって、ハレンチ事件を起
こしてよいと言っているのではない。誤解のないように!) いつも立派な教師のままで
は、気がヘンになってしまう。

 問題は、どうやって自分の心を調整するか、である。似たような話だが、いつも緊張に
さらされている医師や弁護士ほど、(リッチということもあるが)、秘密交際クラブで遊ん
でいるという。もう少し身近な例では、こんな話もある。

 T君(中学生)の父親は、H市でも、1、2を争う、有名ホテルのコック長をしている。
そこで私がある日、そのT君にこう聞いた。「君はラッキーだね。毎日、うちでもおいしい
ものばかり食べているの?」と。

 するとT君は、こう言った。「パパは、家では、まったく料理しないよ。それにパパは、
いつもお茶漬けばかり食べている」と。

 以前は、「教師、聖職論」というのがあった。そのためその反動形成(本来の自分とは反
対の、別の人格者を作ること)から、自己矛盾におちいり、自己嫌悪から、自己否定にま
で走ってしまう教師も少なくなかった。しかし今は、そういう時代ではない。今でもとき
どき、「聖職論」を論じる人がいる。が、そもそもそういったことを論じるほうがおかしい。
教師といえども、ふつうの人間(ふつうの人間であることが、悪いというのではない。ま
た教師をバカにしているのでもない。誤解のないように!) 肩の力を抜いて、気楽にや
ればよい。二面性があるにしても、その二面性は、できるだけ近いほうがよい。

 さてあなた自身はどうだろうか。あなたにとって、外の世界で見せる仮面の部分は、何
か。一方、あなたにとって、本質的の部分は、何か。大切なことは、どんな人間にも、こ
うした二面性があるということ。また、あって当然ということ。社会生活が複雑になれば
なるほど、人間は、そうなる。こうした現象を、大脳生理学の分野では、「脳の分化」とい
う言葉を使って、説明する。わかりやすく言えば、人間は、それぞれの場面に応じて、そ
れぞれの自分をもっているということ。

そうした理解も、実は、子育てでは必要なことかもしれない。
(030720)

【注】こうした二面性を、心理学の面で鋭くとらえたのが、ユングである。さらに詳しく
勉強してみたいと思う人は、ユングの「ペルソナ論」「アニマ論」を、ひも解いてみるとよ
い。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 聖職論 補完 人間の多面性)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【夫婦の信頼関係】

+++++++++++++++++

夫婦の信頼関係というものは、
作られるものではない。
熟成されるもの。

「疑わない」「不安に思わない」。

それが夫婦の信頼関係。

+++++++++++++++++

●「信ずる」という言葉

 「信ずる」という言葉ほど、自己矛盾に満ちた言葉はない。よい例が、若い人たちの会
話。

男「オレを信じろ」
女「あなたを信じているわ」と。

 こういう会話をすること自体、相手を疑っていることになる。疑ったり、不安に思って
いるからこそ、そういう会話をする。本当に信じあっていたら、そういう言葉そのものを
使わない。

 夫婦も、同じ。夫婦の間で、「オレを信じろ」「あなたを信じているわ」などという会話
をするようになったら、夫婦も、お・し・ま・い!

 しかしその信頼関係が、大きくゆらぐことがある。ウソ、インチキ、ごまかしに始まり、
その先に、浮気があり、不倫がある。どちらか一方が、他方に、それを感じたとき、信頼
関係は、そこで大きくゆらぐ。

 で、最近、私は、こんなことに気づいた。話はぐんと、ミクロ的になるが、こんなこと
だ。

●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のとこ
ろにやってきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつける
ようにして、そこに残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカー
トを置いたら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスが
あれば、浮気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。
AならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞う
ということはできない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことが
できる人というのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベル
に応じて、「自我の人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、
どこまでいっても超自我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の
人、(3)エスの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。
完全に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。
超自我の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの
人は、いくらがんばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エ
スの強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をも
らった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強
い人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、そ
の自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考え
てよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

●オーストラリアでの経験

 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことが
ある。南オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのこと
である。私たちは、州境にある境界までやってきた。

 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイ
ッチか何かを食べていた。

B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。

 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この
例で言えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったと
いうことになる。

 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信
頼のおける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方
を決めてきた。私は、もともと、小ズルイ人間だった。

●信頼関係は、ささいなことから

 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的な
ところから始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。

先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくて
も、信号が青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、
空くまで、じっと待つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空
き缶などは、決められた場所以外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身
を見ないで、交番や、関係者(駅員、店員)に届ける。そういうところから、始まる。

 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そして
それが熟成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようにな
る。

 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来て
いるが、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促す
と、B君は、いつも、こう言う。

 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。

 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。
「日本では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうし
て、そうまでロジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。

 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」とい
うことか(?)。

 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようにな
った。

●夫婦の信頼関係

 夫婦の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。
しかしその(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。

 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうし
た日々の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼
関係となって、熟成される。

 もちろんその道は、決して、一本道ではない。

 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけない
とか、不倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、
仮にそういう関係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。

 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友
人の中には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学
習を通して、より賢くなっていく。

●では、どうするか?

 そこでもし、あなたの夫(妻)が、その(信頼に足る人ではない)というばあいは、ど
うしたらいいかということになる。

 とくに、一度、裏切られた経験をもつ妻(夫)なら、そうであろう。が、このばあいで
も、あなたの夫(妻)をつくるのは、あなた自身だということ。それを忘れてはいけない。
仮にあなたの夫(妻)が、フロイトが言うところの「エスの強い人」であるなら、長い時
間をかけて、あなたの夫(妻)を、「超自我の強い人」に、改変していく。

 方法は簡単。あなたという妻(夫)が、その手本を見せればよい。たとえば2人で横断
報道にさしかかったとき、あなたの夫(妻)が、「だれもしないから、信号を無視して渡ろ
う」と言っても、あなたはがんとして、それを拒(こば)めばよい。

 駐車場に空きがないとき、あなたの夫(妻)が、「あそこに空き地があるから、あそこに
止めよう」と言っても、あなたはがんとして、「あそこは駐車場ではないから、だめ」と、
それを拒めばよい。

 そうした積み重ねが、あなたの人格をつくり、やがてその人格が、あなたの夫(妻)を
動かす。あなたを、あなたの夫(妻)が認めるようになったとき、あなたの夫(妻)も、
わなたという妻(夫)にふさわしい夫(妻)になる。もしあなたの夫(妻)があなたを裏
切るようなことがあれば、あなたの夫(妻)は、あなたというより、あなたの誠実さを裏
切った後悔の念で、苦しむはず。

 B君が、私を感化したのと同じような現象が起きるはず。

●北海道のKHさんへ

 夫婦の信頼関係について考えてみました。

 夫の不倫に悩んでおられる様子がよくわかります。しかしここで重要なことは、「だから
信頼関係が保てなくなった」と、自分の気持ちを投げ捨てることではなく、今の状態を、
乗り越えることによって、さらに前に進むことです。

 あの親鸞(しんらん)も、『回向(えこう)論』の中で、こう言っています。

『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』と。

 この言葉を、今の状況に当てはめて考えてみると、こうなります。

 つまりですね、たがいに誠実な夫婦が、よい信頼関係を築けるのは当然のことではない
か。しかしそうでない夫婦こそ、それに気がついたとき、さらによい信頼関係が築けるも
の、と。

 あなたの誠実さに触れたとき、あなたの夫は、自分のしてきた行為に、心底恥じること
になるでしょう。苦しむのです。そしてその苦しみが、さらにたがいに深い、夫婦の絆(B
OND)をつくる基礎になるのです。

 要は、あなたにそれを許す、度量があるかどうかという問題になります。そしてあなた
が言っているように、「別れることもできない」というのであれば、ここはサッパリとあき
らめて、つまりジクジクものを考えないで、ここに書いたようなことを実践してみては、
どうでしょうか。

 あなたの夫にではなく、あなた自身に、負けてはだめですよ!!!
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
夫婦の信頼 夫婦の信頼関係 夫婦の問題 不倫 浮気 はやし浩司 自我の人 超自我
の人 エスの人)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●日韓問題

 日韓問題が、こじれてきた。日本が竹島周辺を海洋調査すると言ったことに対して、韓
国側は、「もししたら、(調査船を)拿捕する」とか、「竹島を強制占拠する」とか、言い出
した。

 どうしてこうまで韓国政府は、エキセントリック(過激)なのだろう? 日本に対して
過去のうらみはあるにせよ、(それはわかるが)、わざわざそれを、自ら増幅させている。
ものの考え方が、被害妄想的というか、すべてうしろ向き。

 日本政府は、海洋調査を決行するつもりらしいが、ならばそれ相当の覚悟もしなければ
ならない。つまりその覚悟はできているのか? 小さな島を取りあって戦争というのもバ
カげているが、(日本人なら、そう考えるが……)、しかし韓国にとっては、そうではない。
韓国は、国の威信をかけて、戦争をしかけてくるだろう。

 支持率がますます低下する、韓国のN政権。反日運動は、まさにその支持率をあげるた
めの切り札となっている。韓国政府が、エキセントリックになる背景には、そんな裏事情
も隠されている。
(06年4月19日記)


●こわい架空請求

 昨夜、架空請求のテレビ報道番組を見た。久々に見た、よい番組だった。取材班が、数
か月にわたって、追跡調査したという。

 その番組を見て、改めて、架空請求の恐ろしさというか、巧妙さに驚く。と、同時に、「絶
対に、スパム・メールやスケベ・サイトを開かないぞ」という思いを強くする。

 で、このところ多いのが、楽●日記への、トラックバック。今のところ、100%、ス
ケベ・サイトからのもの。となると、トラックバックとは何か? BLOGとは何か?、
ということになってしまう。

 要するに、「身に覚えのない状態」にしておくということ。身に覚えがあるから、こうし
た架空請求にひかかってしまう。


●毒へび

 この1年で、3匹の毒ヘビを殺した。昨年は、大きなマムシ。今年に入って、ヤマカガ
シとマムシ。ヤマカガシは、おとなしいヘビと言われているが、それでも不用意に踏みつ
けたりすると、かまれることがある。立派な毒ヘビである※。

 昨日(4月16日)、山荘の横で、そのマムシを殺した。最初、ワイフが、竹の子をさが
しそうと、竹やぶの中をのぞいていた。そして「ヘビがいる!」と叫んだ。

 見ると、マムシ。それが、とぐろを巻いて、そこにいた。私は三角鋤(すき)を持ち出
すと、その中央部に、容赦なく一撃!

 毒ヘビを殺すときは、決して、力を抜いてはいけない。一撃必殺の思いで、殺す。へた
に逃がすと、今度は、向こうのほうから、人間を襲うようになる。……と、近くの農家の
人から聞いた。

 体は2つに切れた。が、頭部と、しっぽ部が、別々に動いて、逃げようとした。このあ
たりが、マムシのすごいところ。私はすかさず、2撃、3撃と、三角鋤で、マムシを叩い
た。

 最後に頭部を切り取り、死骸は、穴を掘って、土の中に埋めた。生める前に頭部よく見
ると、細い針のような毒針が、口から外に向かってのびているのがわかった。途中で、「く」
の字に曲がっていた。長さは、2センチくらいか。それを見ながら、「『マムシ、1か月』
と言うだろ。こんなのにかまれたら、1か月は入院だよ。あるいはそのまま死ぬかもしれ
ない」と。ワイフはそれを黙って、聞いていた。

 私の印象では、ここ数年、毒へびが急にふえたように思う。それ以前は、めったに見な
かった。しかしこの1年間で、私は、3匹も殺した。これも地球温暖化のせいか? 平均
気温があがると、毒ヘビがふえ、その生息境界線が、北上するということだそうだ。今は
沖縄地方にいるハブが、このあたりに上陸してくるのも、もう時間の問題か。

 みなさん、山の中を歩くときは、くれぐれも、気をつけましょう。ひざまで届く長靴を
はくのは、常識! ワイフも言っていましたが、マムシの体は、保護色になっているため、
まわりの枯れ葉と見分けるのが、たいへんむずかしいです。

+++++++++++++

(注※)ヤマカガシ……奥歯の根元に毒腺を持つため、深く噛まれると危険。(死亡例もあ
る)。毒は出血毒であるが、おもに血小板に作用してこれを破壊する性質であるため、クサ
リヘビ類の出血毒とは違い、激しい痛みや腫れは、あまり起こらない。しかし、噛まれて
から20−30分後ぐらいから、血液の中で化学反応が起こり、血小板が分解されていく。
そのため、全身の血液が凝固能力を失ってしまい、全身に及ぶ皮下出血、歯茎からの出血、
内臓出血、腎機能障害、血便、血尿などが起こり、最悪の場合は脳出血が起こる。一説に
は、その毒の強さはハブの10倍とも言われる(ウィキペディア百科事典より転載。) 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●空き地のおばちゃん

 近くの空き地に、1人の女性がいる。私たちは、尊敬の念をこめて、「空き地のおばちゃ
ん」と呼んでいる。

 今年、92歳になるのではないか? ここ数週間、姿を見ないので、同じ空き地にいる
人たちに、「どうかしましたか?」と聞くと、「体調を崩されたみたい……」と。

 空き地のおばちゃんは、いつもこのあたりを、清掃してくれている。雑草がのびると、
その雑草を刈り取ってくれている。近くにI中学校があるが、そのI中学校の、西側にある
坂周辺が、いつもきれいなのは、そのおばちゃんの、おかげである。

 おばちゃんは、草を刈るときも、ふつうの、つまり裁縫(さいほう)で使うようなハサ
ミを使っている。あのハサミで、1本ずつ、草を刈るのである。そのためエンジン付きの
草刈り機でするなら、ものの5〜10分ですむような草刈りも、おばちゃんがすると、1
日仕事になる。

 家族の人に会うこともあったので、「すばらしい人ですね」と声をかけると、家族の人た
ちは、みな、「家の中ではきつい人ですよ」と。「きつい」というのは、このあたりの方言
で、「がんこで、きびしい人」という意味である。

 一方、こんな老人もいる。

 その家の近くに、近所の家からゴミが風に乗って舞ってきたりすると、そのゴミを集め
て、その近所の家の玄関先に、わざとまき散らしてくるという老人がいるという。

 ワイフの友人が、ワイフに話してくれた老人のことである。年齢は、80歳くらいだと
いう。男性である。

 ひとり住まいのため、いろいろなボランティアたちが、その老人を助けている。週2回、
病院へ通うことになっているが、その病院へは、ボランティアの運転する車で、通ってい
る。ほかにも、週2回、同じようなボランティアが、掃除にきたりしている。

 私はその話を聞いて、「老人にも、いろいろいるなア」と思った。近所の人たちのために、
惜しみなく労力を捧げている老人もいれば、自分では何一つしないで、他人がしてくれる
のを要求する老人もいる。

 私が「あの老人のことか?」と聞くと、ワイフは、「そうよ、あの老人よ」と。

 私も、ときどき、道路で顔を合わせることがあるが、いつもこわばった顔をしている。
ボランティアによる支援を受けているというが、見た感じでは、元気そうである。

私「あの老人に、支援など、必要ないよ」
ワ「そうよねえ……」と。

 老人の人格は、その老人がいかに利他的であるかによって、判断する。自己中心的で、
自己管理能力がなく、世間の人たちと良好な人間関係を結べないというのであれば、その
老人の人格の完成度は低いということになる(EQ論)。

 どこでどう人間は、それぞれのタイプに分かれるのだろう。老人になればなるほど、そ
れが極端な形で現れる。

【付記】

 「自分は大切にされるべきだ」という、おかしなプライドにとりつかれた人ほど、当然
のことながら、利己的になる。長い時間をかけて、そうなる。

 問題は、その心のより所である。「なぜ、大切にされるべきか」と考えるのか?

 退職前の職歴や、学歴にこだわって、そうなる人もいる。家柄や、財産にこだわって、
そうなる人もいる。しかしすばらしい職歴や、家柄に生まれ育ちながらも、そうでない人
も多い。

 そのちがいは、結局は、その人が生まれ育った環境の中で作られるのではないか。しか
もその方向性というか、ちがいの基礎は、満5、6歳くらいまでにできる(?)。よくわか
らないが、すでにそのころには、ある程度の方向性ができあがることだけは、事実のよう
である。
(はやし浩司 老人の人格 利他 ボランティア ボランティア活動)


++++++++++++++++++++

この原稿を書いているとき、
以前、書いた原稿のことを
思いだしました。

「使えば使うほどいい子」
という内容の原稿です。

乳幼児期の育て方が、
老人になってからも、
その人に影響する。

そういうふうに、この
原稿を読んでくだされば、
うれしいです。

+++++++++++++++++++++

子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言って
くれ。私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの
本を、何冊も読む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うこと
です。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身に
つける。自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、
スポイルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。

そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼
は、こう教えてくれた。「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器
を洗わない。片づけない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、
ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の子どもは何もしない」と。

反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いてい
た。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはし
っかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は
自分を喜ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったり
する。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くもの
を許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、
目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放
棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだ
らしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費
的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割に
は、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に
従って行動することができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4〜5歳)前後で表れてくる。しか
し一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。

ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そ
のものに原因があるからである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭
のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内
政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまち
がえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親
の愛だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこ
からくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞
くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんが
いるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だ
ちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。話を聞くと、「ト
イレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもに
しないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝
負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉
強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは
言わない。好きなことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことを
する力」のことをいう。

たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。
風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐
力という。こんな子ども(年中女児)がいた。

その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみる
のが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「お
ばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。
こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをする
にしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛
を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)
→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食
材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチン
の周囲でうろうろされると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレ
ビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビ
キビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなた
の子どもが見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、そ
れでよし。しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあ
り方をかなり反省したほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいく
らでもある。食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこ
で洗わせる。フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話
に出る。庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そう
いう雰囲気で包むことをいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそう
いう子どもにすること。それが、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)
生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労
がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族
のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生
活を改める。(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを
守らせる。(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが
重要だが、(6)バランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した
生活をいう。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまう
ような甘い生活。あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの
接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言え
ない。チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかた
よったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。
(はやし浩司 育児 育児法 ドラ息子 子どもの忍耐力 忍耐力 がんばる子供 家庭
教育 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩
司)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 10日(No.724)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●スキンシップ

+++++++++++++++++

とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!

赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!

????

+++++++++++++++++

 母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。こ
のスキンシップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。

 が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」
な理由により、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。

 スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」
というのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味
である。そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。

 もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベ
イビー」という言葉を使った。

(1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子
どものことを、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」
の表現ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能
面のように無表情な子どもさえいる。

 軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。

 印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能
面のように無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。
そのままというより、こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私は
Sさんが、泣いていることがわかったこともある。

 Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。

 「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育
園へ預けました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。

 わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられた
ということになる。

 子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすら
しないとしたら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。
それだけではない。

 母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかっ
てきた。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ
球、大食細胞を活性化させるという。 

さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳
児が、母親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラ
クチンなど)が刺激され、より乳が出るようになるという。

 こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。

 まだ、ある。

 私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍
数が、自分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親の
ほうが、子どもに合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何
か別の作用が働いていると考えるのが、妥当である。

が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象
が、よく見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。た
とえば母親が体を丸めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、
右を向いて眠っていたりする。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説
明する学者もいる。

 こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべ
きように育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。
するとそのとき、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それ
がスキンシップである。

 もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めて
きたときが、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとす
るのはよくないが(※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じて
やる。間を置かない。そしてぐいと力を入れて抱く。

 しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小
魚を放す要領で、そっと体を離す。

 なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事
情がある母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊か
な心をはぐくむ。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供 
母子相互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキン
シップ)

【補記※】

 母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケース
もある。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキ
ンシップとは、分けて考える。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【金銭的価値観】

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべ
きことである。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよん
だら、さらに悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、
それぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという
番組である。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作
品から、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござ
れ! が、私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だっ
た。そのころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもない
が、おとなになると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるよう
になった。それはある意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、
カトラン、ピカソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。
このリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラ
フ)ほど、よい絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって
決まる。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、
ほとんど知られていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、
この日本でのみ通用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、
うまく宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」と
か、何とか宣伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、
ごく当たり前のようになされている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心
というのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、
値段を見て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段
が安かったりすると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお
金では、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということ
は、それ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。
もちろん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重
ねていくと、やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるよ
うになる。ときに、その人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかし
そのボランティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お
金……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってし
まっている。とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまっ
た。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、
ものにおよばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてそ
の幸福感も、相対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小
さな車に乗っているから、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするよ
うになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。
反対に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ
幸福感まで、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわ
けではない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組と
なる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組
によって、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうし
て日本人の心は、ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はど
うなるか? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレ
ビ番組が嫌いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言
われている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、その
ときでさえも、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして
何ら恥じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになっ
てしまった。意識というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒され
ると、自分がもっている意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そ
して本来、価値のないものを価値あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるもの
と思いこむ。そして結局は、自分の感性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にす
る。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこ
の世界では、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司


●インターネットは、有害?

インターネットは有害か? 先日も、ある母親と、その話をした。いわく、「インターネ
ットは有害だから、子どもたちには、させません」と。
 
 同じような意見は、あちこちで聞く。

 しかし、たしかにインターネットには、そういう部分もある。が、インターネットには、
同時に、これからの人間の未来を決定づける、重要な何かがある。コンピュータ、それに
つづくインターネットは、やがて歴史の中で、「第二の産業革命」、あるいはそれ以上のも
のとして位置づけられるようになるだろう。

 今のこの「時代」を境にして、人間の生活は、大きく、つまり革命的に変化する。劇的
に変化する。私たちは、そういう時代の中に生きている。

 もちろん抵抗もある。しかしそれは何も、インターネットにかぎったことではない。た
とえばイギリスで産業革命が起きたとき、それはまたたくまに世界に広がった。が、ドイ
ツだけは、その流れに背を向けた。機械破壊運動まで起きた。その結果が、第一次大戦の
敗北であり、つぎに技術革新の重要性に気づくまで、ドイツは、手痛い代償を支払わねば
ならなかった。

 インターネットはともかくも、コンピュータは、もう必需品である。これから先、コン
ピュータなしでの生活は考えられない。そのコンピュータを子どもたちの世界から遠ざけ
るような行為は、子どもたちに向かって、「未来に向かって生きるな」と言うに等しい。

 で、問題は、インターネットである。

 たしかにネット上では、有害な情報が、無数に飛びかっている。自殺系サイトもあれば、
援交サイト、出会い系サイト、それにスケベサイトなどなど。この私も、最初は、そうい
ったサイトを、有害サイトと見抜けず、数々の失敗を重ねた。が、そういう経験を重ねた
おかげで、心の中に抵抗力というか、免疫性ができた。

 そういったプロセスは、だれしも経験するものであり、避けては通れないものかもしれ
ない。よい例がビデオであり、携帯電話である。こうした文明の利器の世界では、常に、(ス
ケベ心)が、それを先導する。「スケベ心なくして、文明の利器の発達はない」とさえ断言
できる。

 そこで私は、結局は、使い方の問題ではないかと思う。「どうやって使わせないか」では
なく、「どうやって使うか」である。

 方法がないわけではない。今では、その対策を講じたソフトも、市販されている。プロ
バイダーによっては、スパムメールを遮断するサービスを始めているところもある。完ぺ
きではないが、しかし子どもたちの世界を、ある程度は守ることができる。

 もちろん与えっぱなしは、いけない。しかしそれは何もインターネットにかぎったこと
ではない。本屋でも、ビデオ屋でも、その種の情報は、氾濫している。危険か危険でない
かといえば、携帯電話のほうが、はるかに危険である。

 大切なことは、もしそういった意見があるなら、みなが、声をあげることである。そう
すれば、必ず、ソフト開発メーカーが動く。そしてさらに完ぺきに近い、ソフトが開発さ
れる。今は、その過渡期にあるとみてよい。

 ……ということで、インターネットは危険だから、子どもにはさせないという意見には、
私は、賛成しない。
(はやし浩司 インターネットの功罪 問題点)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●前向きに生きる

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よく「前向きに生きる」という
言葉が使われる。

しかし「前向きに生きる」とは、
どういうことなのか?

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 よく「前向きに生きる」という言葉が使われる。しかし「前向きに生きる」とは、どう
いうことなのか。どこか漠然(ばくぜん)としていて、意味がよくわからない。

 が、最近、私は、こんな経験をしつつある。

 正直に告白するが、私は、現在、58歳である。(子どもたちには、48歳と教えている。)
この「58歳」という年齢は、たいへん微妙な年齢である。私が若いころには、おとなた
ちは、みな、55歳で定年退職した。今は、60歳で、定年退職している。

 定年退職は、私には関係ない。しかしそれでも、その年齢が気になる。55歳とか、6
0歳とかいう年齢が気になる。私は、その2つの年齢の、その間にいる。あと2年で、6
0歳になるわけだが、自分の未来が、そこから先、しぼんでいくように感ずる。

 そこで無意識のうちにも、その60歳を念頭に置いた生活を考えるようになってしまっ
た。たとえばものを買うにしても、「あと○○年、もてばいい」とか、「ぜいたくなものは、
いらない」とかなど。つまり何かにつけて、ものの考え方が、消極的になってしまった。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。それについては、前にも書いたが、どうしてこ
の私が、年齢という数字に、左右されなければならないのか。そこで今年に入ってから、
自分の生き方を変えた。

 とくに3月に春休みに入ってから、大きく変えた。私は、「やるべきことは、すぐやる」
という生き方に変えた。たとえばそれ以前から、教室の修理を考えていた。机や椅子の傷
(いた)みが、目立つようになっていたこともある。

 そこで春休みの初日にそれをした。ショッピングセンターで、必要なものを買いそろえ
た。ペンキや、ビニールシートなど。ジュータンも。そしてその足で、教室の修理に向か
った。万事、先手、先手の生き方である。

 つぎに教材づくり。この7〜10年ほど、同じ教材を使っていた。それを一新すること
にした。言い忘れたが、私の教室では、教材は、すべて手作り。一度のレッスンに、80
〜120枚の、画用紙で作った教材などを使っている。

 その教材づくりがすむと、郷里の姉を訪問した。これを春休みに入って、2日目にした。
……というように、そのときできることは、そのときにした。決して、あと回しには、し
なかった。

 で、こうして、無事、春休みが終わったが、それは充実した春休みだった。ワイフとの
一泊旅行もした。恩師の先生の家にも行った。25年前に買った、山林の検地にも行って
きた。が、おかしなことに、春休みが終わったというのに、生活のリズムだけは、そのま
ま残った。

 今日で、仕事が始まって、4日目になるが、何かにつけて朝から忙しい。こうしてマガ
ジン用の原稿を書くのは、すでに日課になっているが、そのほかにも、やらなければなら
ない仕事や雑務が、そこに無数にある。やりたいことも、ある。

 たとえば最近、ワイフは、ビーズ遊びに夢中になっている。ビーズで、ネックレスを作
ったり、ブレスレットを作ったりしている。それを横で見ているうちに、私も作りたくな
った。

 「男の私が、ビーズでネックレス作り?」……というようなことは、考える必要はない。
作りたいものは、作りたい。そこで昨夜、仕事が終わってから、近くのショッピングセン
ターで、ビーズを買ってきた。夜11時の、閉店まぎわに、である。

 あああ、時間がない!!!

 ……というような状態に、今、なっている。

 そこで改めて、「前向きに生きる」ということは、どういうことなのかを、考える。実は
昨夜も、ワイフと、その話をした。

私「ぼくが倒れて死ぬときが、人生の終わり。しかしその直前まで、ぼくはやるべきこと
をやる。あと何年、とか、あと何年すればいいとか、そういうことは考えない」
ワ「そうよ、年齢なんて、関係ないわよ」
私「そこなんだよ。ぼくは、今まで、年齢を気にしすぎていた。しかしそれではいけない。
で、ぼくは気がついた。前向きに生きるということは、攻撃的に生きることだとね」と。

 私はここで「攻撃的」という言葉を使ったが、決して、守勢に回ってはいけない。それ
が「前向きに生きる」ことの前提ということになる。が、それだけでは足りない。「前向き
に生きる」ということは、死を想定しない生き方ということになる。

 わかりやすく言えば、「あと何年しか生きられないのだから、これこれこの程度で、満足
しろ」というような、限界を、自分に設定しないということ。今は今であり、その今は、
永遠につづく。大切なことは、今日という一日を、一年のようにして生きること。

 幸いなことに、私のばあい、それがすぐ、(子どもたちに教える)という場で実行できる。
その気にさえなれば、その日、その日に、自分を完全燃焼させることができる。そう、こ
こ3日間、私は、毎日、自分を完全燃焼させている! 子どもたちと騒ぎながら、ヘトヘ
トになるまで、完全燃焼させている!

 それが前向きに生きるということ。

私「それがわからなければ、うしろ向きに生きている人たちを見ればいい。そういうサン
プルは、いくらでもある。過去の名誉や地位にぶらさがって、ジクジクと世をうらみなが
ら生きている老人は、多い。そういう老人になってはいけない。そういう生き方をしては
いけない」
ワ「そのほうが、あなたらしいわよ」
私「そうなんだよ。若いころのぼくは、そうだった。10万円損をしたら、その翌日には、
その10万円を、どこかで取りかえそうとした。そういう生き方をしていた。が、今は、
ちがう。『そんなことをしたら、恥ずかしい』とか、『年齢相応の生活をしよう』とか、そ
んなふうに考えるようになってしまった。それはおかしい」
ワ「やりたいことを、するって、いうことね」
私「そうだよ。しかも絶対に、あと回しにしない……」と。

 そんなわけで、今日も、忙しい一日になりそう! おかげで、体調もよし。仕事も順調! 
何が、文句あるのか!
(はやし浩司 前向きな人生 前向きに生きる 攻撃的な人生観 死を意識しない人生)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●今を生きる

 今日できることは、今日する。今できることは、今する。……ということで、今日は、
朝から忙しかった。

 朝一番に、K幼稚園に、今度その幼稚園でする講演会の案内書を届けた。

 その帰り道に、ショッピングセンターで、肥料と除草剤を買った。

 畑を耕して、畝(うね)を1つ、ふやした。

 恩師のN先生たちと、会食をした。

 帰ってきてから、昼寝。

 起きてすぐ、別のショッピングセンターへ、ビーズを買いに行った。ついでにワイフと、
そのショッピングセンターの中で、軽食。最近、私は、ビーズの魅力にとりつかれている。

 帰ってきてから、ワイフと、そのビーズを使って、ネックレスを作った。

 そして今、こうしてエッセーを書いている。

 忙しい一日だったが、その間にも、人に頼まれた仕事を、2つこなした。

 ……ということで、今日は、「今日できることは、今日する。今できることは、今する」
を、実践してみた。充実した1日だった。よくがんばった。おかげで、今は、気分爽快。
時計は、午前1時5分を示している。昼寝をしたせいか、まだ眠くない。明日は日曜日だ
から、もう少し、あれこれ、書いてみよう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●しつこいトラックバック

++++++++++++++++++

毎日、しつこいトラックバックに
うんざりしている。

文面は変えているが、同一人物のものから
というのは、丸わかり!

文体、文調が同じ! いくら内容は変えても、
書き手のクセまでは、変えられない。

++++++++++++++++++

 私は毎日、楽天日記に、日記形式の随筆を書いている。その楽天日記に、トラックバッ
ク機能がついたのは、数年前のことではないか? よく覚えていないが……。

 しかしそのトラックバックに書きこまれるリンク先は、今のところ、100%、スケベ
サイトばかり。「童貞、オラ、ここで捨てました」「童貞、高く、買います」「あなたも、こ
こで童貞、捨てたら」と。

 最近では、「セレブな奥様が、あなたを待っています」「私の恥ずかしい写真を、1枚、
さしあげます」「お近くの女性を、無料で紹介」というのも、ある。

 稚拙な、内容。誤字だらけの、ヘタクソな文章。こういうのが、削除しても、削除して
も、届く。多いときは、一日で、10〜15件ほど、届く。

 もう、いいかげんにしてほしい。「童貞」なんて、もう、とっくの昔に、捨てた! バカ
ヤロー! それに女性など、ワイフ1人で、たくさん! うんざり!

 ……と言っても、意味がない。せっかく、すばらしい能力と健康をもっているのに、そ
うした「力」を、こういうことに使うことの空しさ。こういうことをしている連中は、ま
だ、それに気がついていないらしい。

 時間には限りがあるぞ。健康にも、限りがあるぞ。人生は、短いぞ。いらぬお節介かも
しれないが、それがわかったとき、そういう連中は、必ず、自分のしたことを、後悔する
はず。(あるいは、昆虫のような脳みそのまま、一生を終えるのか?)

 楽天日記の機能をあれこれ調べてみたが、トラックバックを阻止する方法は、ないらし
い。どうしたらよいものか?

【お願い】

 メールをくださる方へ、

 スパム・メールが多いのにも、困っています。しかもそのスパム・メールが、ますます
巧妙になってきています。知りあいの方からのものなのか、それとも、スパム・メールな
のか、区別するのさえ、むずかしいのもあります。たとえば……、

件名:お世話になりました、鈴木です。
件名:ご無沙汰しています。佐藤です。
件名:いろいろありがとうございました。一言、お礼を申しあげたくて……、などなど。

 思わずメールを開きそうになりますが、そういったメールは、心を鬼にして(?)、プレ
ビュー画面に開くことなく、そのまま削除しています。中には、本当に、知りあいの方か
らのもあるのかもしれませんが、そうであると確認できないものについては、容赦なく、
削除しています。

 この世界では、ほんの一瞬の油断が、命取りになることも、珍しくありません。私だけ
ならともかくも、私を経由して、ほかの多くの人に、迷惑をかけることにもなりかねませ
ん。

 だから、心を鬼にして、となります。どうかご理解ください。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●NMさんへ

++++++++++++++++++++

NMさんへ、

日記形式で、返事を書きます。お許しください。
楽天日記を読んでくださっているということで
すので、こちらに返事を書きます。

++++++++++++++++++++

 昨日(13日)、お金を受け取りました。何とも、割り切れない気分です。かえってご迷
惑をおかけしてしまったようで、ごめんなさい。

 いろいろありましたが、お会いして以来、……というか、現地へ行ってきて以来、心が
軽くなったような気持ちです。何というか、不愉快な思い出の上に、その昔の楽しい思い
出が上書きされたような気分です。

 子どもころは、本当に、楽しかったです。それにご主人の誠実さに接しているうちに、
自分の中のゆがんだ心が洗われていくように感じました。

 こちらは、小雨が降ったりやんだりしています。先日、畑に、ニンニクのほか、ネギ、
シシトウ、トマトなど、いろいろな野菜の苗を植えました。今年は、もう少し畑を広げて、
別の野菜を育ててみようと思っています。昨日、その場所のまわりに、柵をしたところで
す。(我が家には、犬がいますので……。)

 で、我が家も、目下、2人の大学生をかかえています。長男が、今年から、「もう一度、
専門学校で勉強してみたい」ということで、その専門学校に入りました。『子ども大学生、
親、貧乏盛り』という格言を考えましたが、本当に、お金がかかります。これも日本の教
育行政の貧困のなせるわざということになりますが、うらんでばかりいてもいけません。
楽しいことも、あります。

 いつか息子の操縦する飛行機で、日本のどこかを旅したいと思っています。あるいはい
つか息子といっしょに、仕事をしてみたいです。そんなことを考えていると、「もう少し、
がんばってみよう」という気持ちがわいてきます。

 親が子どもを育てるのではありませんね。子どもが、親を生かしてくれるのです。感謝
すべきは、親のほうかもしれませんね。もし子どもがいなければ、私も、こうまでがんば
ることはないと思います。仮に、もし息子たちがみな、本当に巣立ってしまったら、かえ
って私は、気が抜けてしまうかもしれません。

 おかげで仕事は、順調です。とくに今年は、多くの人の協力に支えられました。小さな
幼児教室を開いていますが、口コミと紹介だけで、どのクラスも、ほぼ満員になりました。
本当にありがたいことです。で、やる気満々! 毎日、自分を完全燃焼させるつもりで、
がんばっています。

 健康のほうも、今のところ、心配なさそうです。数日前まで、64・8キロもありまし
たが、この数日、ダイエットし、かつサイクリングをつづけたら、今朝は、63キロにも
どっていました。私の体は、単純なようです。64キロを超えると、とたんに体を重く感
じます。イスから立ちあがるときも、ヨイコラショという感じになります。私にとっての、
ベストコンディションは、62・5キロです。あと少しです。

 そうそう1か月ほど前、健康診断を受けたら、中性脂肪をのぞいて、オールAでした。
日ごろの努力のかいがあったと、うれしかったです。つまりまだまだ現役でがんばれそう
ということです。

 ……ということで、がんばります!

 いつも暗い話ばかりしていますが、次回は、もうそういうことは忘れて、楽しい話をさ
せてください。そのためにも、一度、浜松へおいでになりませんか。これは私から、あな
たとご主人への正式な招待状と考えてくださって、結構です。

 5月3、4、5日は、当地最大の凧祭りがあります。もしよろしかったら、そのあたり
の日をねらって、おいでください。いかがでしょうか? お待ちしています。ご主人のH
氏に、くれぐれも、よろしくお伝えください。

 では、今日は、これで失礼します。

                           はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【ネックレスづくり】

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ビーズを使って、ネックレスづくり
に挑戦。

講師は、私のワイフ。2人で、コタツ
に入りながら、作った……。

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●セット

 ビーズショップへ行くと、レシピ(作り方)の入ったセットを売っている。初心者は、
そういうセットを買って、ネックレスを作るとよい。ショップの人にそう言われて、それ
を買った。

 私は、840円のを買った。猫の目のように、見る角度によって、模様が変わるビーズ
が、気に入った。色は、灰褐色と、淡い茶色、それに薄いピンク色。3〜4種類のビーズ
が組み合わさったもの。

 しかしセットには、ビーズ玉だけしか入っていない。テグス(ひも)とか、取りつけ金
具などは、別に買わなければならない。が、これが失敗の第一歩だった。

 セットを見ながら、テグスと金具、それに「つぶし玉」と呼ばれる留め玉を買った。ほ
かにアジャスターなど。アジャスターというのは、首の太さに応じて、ネックレスの長さ
を調整する、短いチェーンのことをいう。

 が、どれも、特大のものばかり買ってしまった。ショップで見ると、みな、小さく見え
た。で、それで特大のものばかり、買ってしまった。ただ、テグスだけは、2号と呼ばれ
る、ネックレスづくりには、細すぎるものにしてしまった。「そのほうが、楽だろう」とい
う、思いが、心のどこかを横切ったからである。

●意外と簡単だった……

 ビーズ玉通しは、思ったより、楽だった。テグスの一方を、レシピに従って、セロテー
プで留めたあと、一個ずつ、穴に通していった。一定のパターンがあるから、それを覚え
てしまえば、あとは楽。

私「ぼくの処女作だ。できたら、だれにあげようか?」
ワ「私に決まっているでしょ!」
私「どうして?」
ワ「だって、そのセット、私に似合うと言って買ったのでしょ」
私「それがね、そうではないんだよ」と。

 おかしなもので、一個ずつビーズを通していると。いろいろな女性の顔が、脳裏に浮か
んでくる。「あの人にあげようか?」「この人にあげようか?」と。

私「やはり、これはデニーズにあげようか?」
ワ「若い人が好む色ではないわよ」
私「そうだね……」と。

●テグスが切れた

 時間にすれば、30〜40分ほどで、ネックレスらしきものができた。一方に、金具を
取りつけ、つぶし玉を入れる。

 しかしそのつぶし玉が大きすぎた。テグスは細い。焼き鳥の串に、指輪を通したような
感じになった。しかし今さら、しかたない。平ペンチと呼ばれるペンチで、力を入れて、
つぶし玉をつぶす。

 そして接着剤をつけて、金具を閉じる。

 ここまでは、うまくできた。「意外と簡単だね」と。

 が、悲劇は、そのあと起きた。もう一方の端も、同じようにまとめようとして、ペンチ
にぐいと力を入れたとたん、ザリザリと、音を立てて、テグスが切れた。ザリザリという
のは、糸が切れた音ではない。ビーズが、四方八方に、散った音!

 ワイフが横で、「アー」と、何とも間の抜けた声を出した。私は、こういうとき、声を出
さない。

●再度、チャレンジ

 見ると、ネックレスの3分の1ほどが、どこかへ消えてしまっていた。「どうする?」「し
かたないわね」と。

 ビーズ玉といっても、直径が2〜3ミリのものから、4ミリ前後まで、何種類かある。
それらが、コタツの布団の中とか、その下のジュータンの間に、散らばってしまった。

 しばらく、天井を見あげて寝ころんでいた。すぐには、やる気は起きなかった。が、そ
こでやめたら、あとがない。私は、めがねをはずすと、はいつくばりながら、1個ずつビ
ーズを集め始めた。

 「こういう作業は苦手なんだよ」と。が、やがてコツがわかった。手のひらで布団やジ
ュータンの上をこすってみる。ビーズがあれば、それがわかる。こうして1個、また1個
……と。

私「お前に、こんな細いネックレスは、無理だよ。肌がたるんでしまっているし、それに
お前の首は、太い」
ワ「だから、アジャスターで調整するのよ」
私「なるほど……」と。

●テグスをつなげる

 つぶし玉をつぶすとき、テグスも切ってしまった。テグスの長さが、短くなってしまっ
た。ギリギリの長さになってしまった。

 再びビーズを通してみると、残りは、数ミリもない。つまり外に出たテグスの長さが、
数ミリもない。「これでは、金具をつけるのは無理だよ」とこぼすと、講師のワイフは、「そ
ういうときは、テグスをつなげればいいのよ」と。

 言われるまま、リールに巻いてあったテグスを少し切り取り、それをネックレスのテグ
スにしばろうとした。が、うまくしばれない。

私「どうするんだ?」
ワ「簡単にしばったあと、接着剤で、固定するのよ」
私「なるほど……」と。

 しかししばろうとしても、すぐスルリとほどけてしまう。しかたないので、少し接着剤
をつけてから、しばる。が、これはうまくいった。が、またまた問題が起きた。結び目の
ところが、玉になってしまったため、ビーズが通らない!

私「どうするんだ?」
ワ「そういうときは、大きいビーズが通るところで、結び目をつくるのよ」
私「なるほど」と。

 こうして作業はつづいたが、気がつくと、左肩が、痛み出した。肩こりである。

●完成

私「結構、疲れるなア」
ワ「私も、最初は、そうだった」
私「これは老人の趣味には、向かないよ」
ワ「そうね。若い人の趣味よね」と。

 何度か、寝転んだり、起きあがったり……。それを繰りかえしながら、やっと、ネック
レスが、できた。

私「このネックレスね、葬式で使う数珠(じゅず)みたいだね」
ワ「あなたが選んだ色よ」
私「それはわかるけど、数珠みたいだ」
ワ「そんな感じがするわね」
私「だったら、葬儀場まで、ネックレスで使って、葬儀が始まったら、はずして、数珠と
して使えばいい」
ワ「アジャスターがあるから、まずいわよ」
私「その部分は、ほら、こうして、手の中で隠せばいい」と。

 それにしても、肩がこった。疲れた。が、しかしこうして私の処女作が、できた。

 「お前にやるよ」と言ってワイフに渡すと、ワイフは、それを首につけた。やはり数珠
みたいだった。

 「今度は、もっと、明るい色にするよ」と言うと、ワイフは、「白いブラウスか何かの上
だったらいいわよ」と、私をなぐさめてくれた。ホッ!


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●年齢と過去

+++++++++++++++

年を取れば取るほど、
過去が近づいてくる。

そんな不思議な体験を、
私は今、しつつある。

+++++++++++++++

 10歳の子どもには、100年前という昔は、年齢の10倍も遠い過去に思えるかもし
れない。しかし20歳の若者には、100年前という昔は、年齢の5倍の過去でしかない。

 さらに……。50歳の人にとっては、100年前という昔は、年齢のたった2倍での過
去でしかない。で、現在、私は、58歳だから、100年前という昔は、正確には1・7
倍の過去でしかない。

 ……ということで、私が子どものころには、江戸時代という時代が、遠い過去に思えた。
しかし今は、ちがう。この年齢になってみると、江戸時代という時代が、すぐその昔の過
去に思える。明治時代となると、さらにすぐその昔の過去に思える。

 わかりやすく言うと、私たちの身のまわりで、江戸時代そのものが、いまだに力強く残
っているのが、わかる。この感覚は、私が子どものときや、青年時代には、なかった感覚
である。私は、若いころ、江戸時代などという時代は、とっくの昔に終わった、過去の時
代だとばかり思っていた。

 言いかえると、この100年でもよい。150年でもよい。本当に日本人は、あの江戸
時代という封建主義時代を、心の中や、意識の世界で、清算してきたかというと、それは
疑わしい。歴史的エネルギーということになると、あの江戸時代には、ものすごいパワー
がある。明治時代や大正時代になったからといって、そのパワーが衰えたという形跡は、
ない。今でも、マクロな見方をすれば、この日本は、そのパワーの流れの中にあると言っ
てもよい。

 家制度や、家父長意識、さらに先祖崇拝意識、職業による身分差別意識、男尊女卑意識、
男女の差別意識などなど。こうして考えだしたら、キリがない。キリがないほど、今でも、
そこ、かしこに、それを感ずる。少し前まで、世間を騒がしていた、天皇家の皇位継承問
題にしても、そうである。

 ほとんどの識者たちは、「伝統」という言葉を使って、この問題のもつ本質論から逃げて
しまった。が、男系男子天皇にこだわること自体、今に時代にとっては、おかしなこと。
時代錯誤と言うべきではないのか。

 そこで私たちにとって重要なことは、2つある。1つは、常に過去を冷静に見ながら、
反省すべきものは、反省し、清算すべきものは、清算するということ。そしてもう1つは、
時代を先取りする形で、未来に向かって、未来型思考に変えていくこと。この2つの努力
を怠れば、今までの日本のように、ズルズルと、過去を引きずっていくだけ。いつまでた
っても、(おかしな日本)は、(おかしな日本)のままで、終わってしまう。

 で、数日前、私は、日本人のもつ「実家意識」について、書いた。今でも、つまり江戸
時代が終わって、140年にもなろうというのに、その実家意識にこだわっている人は多
い。「家があっての、子孫」という考え方である。それについて、「おかしい」と書いた。

 その実家意識を中心として、長子相続制度、さらには、跡取り制度となると、法律上は
その規定はないものの、世俗的風習として、いまだに色濃く残っている。

 で、若いころ、こうした問題に接するたびに、「どうしてそうまで過去の遺物にこだわる
のだろう」と不思議でならなかった。が、この年齢になって、その謎が、解け始めた。

 江戸時代という時代は、遠い過去の時代ではない。私たちの時代そのものが、江戸時代
そのものの流れの中にある。パワーの中にある。過去の遺物どころか、私たちの意識が、
江戸時代の人たちの意識そのものである。140年前というが、私が80歳になれば、私
の年齢のたった2倍の昔にすぎない。(140+20=160年。58+20=78歳。1
60÷78=約2で計算。)

 たったの2倍! どうしてその2倍という短い時の流れの中で、日本人の意識が変わる
ということがあるだろうか!

 ……ということで、年を取れば取るほど、過去がより身近になってくる。そして同時に、
私たちが、過去の遺物をいまだに引きずっていることが、より鮮明にわかるようになって
くる。これは私が今、現在進行形で経験しつつある、不思議な体験である。

 さて、あなたは、どうだろうか? 


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●ビーズの魅力

 今日、ワイフとショッピングセンターへ、ビーズを買いに行った。その一角に、その店
がある。

 私は、そのビーズを買いながら、改めて、ビーズのもつ美しさを確認。と、同時に、ビ
ーズのもつ美しさには、人の心を癒(いや)す力があることを知った。ビーズといっても、
最近のは硬質ガラスでできている。反射率も高い。宝石以上に美しい輝きを放つビーズも
多い。

 あれこれビーズを選びながら、ぼんやりとそれをながめていると、心が安らいでくるの
がわかる。それは、澄んだ水槽の中で泳ぐ熱帯魚を見ているときの気分に似ている。森の
中で、新緑に包まれた木々を見ているときの気分に似ている。

 きっと脳内で、エンドロフィン系、エンケファリン系のホルモンが分泌されたのだろう。
30分ほど、その店で時間をつぶしたが、店から出てくるときは、うっとりとした気分に
なっていた。

 私の趣味は、ある周期で、定期的に変わる。が、今、しばらくは、私の趣味は、そのビ
ーズになりそう。


●文字化けメール

 ここ数日、多いのが、文字化けしたメール。件名のところが、そうなっている。

 件名:xヶ阿ッz

 スパム・メールである。

 本当によくもまあ、こうまで悪知恵が働くものだ。わざと文字化けした件名を書き、フ
ィルターをかいくぐろうとする。

 こういう小ズルイことをする人間は、どこまでも、小ズルイ。が、脳みそのレベルが低
いから、脳の分化※も遅れているはず。つまり一事が万事。こういう人間を信用すると、
たいへんなことになる。

 迷わず、削除、また削除。相手にしないのが、何よりも肝心。

(注※)おとなになると脳の分化が進み、それぞれが見かけ上、独立した働きをするよう
になる。仕事をしているときの脳、趣味を楽しむときの脳、友人や知人といっしょにいる
ときの脳など。これを脳の分化という。

 が、子どものばあい、その脳の分化が未発達なので、その使い分けができない。家で母
親と口論したりすると、そのままの状態を、学校の中までもちこんだりする。わかりやす
く言えば、自己管理能力が弱く、気分を切り替えることができない。自分をコントロール
することができない。

(補記)

 そろそろ眠くなってきました。では、みなさん、お休みなさい。明日も、忙しい一日に
なりそうです! Have a good night!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 8日(No.723)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもへのおどし】

FTさんへ

+++++++++++++++++++++

子どもをおどす……。おどす意識がないまま、
おどす。

決して、FTさんを責めているのではありません。
しかしそのつもりはなくても、いつの間にか、
子どもをおどしてしまっている。

そういうケースは、少なくありません。

しかしそういうおどしが日常化すると、
子どもの心は、FTさん、あなたから
確実に離れていきます。

あるいは、その瞬間、あなたの子どもは、
あなたに反発する。拒否反応を示す。
突発的に、キレた状態になる。

FTさんの掲示板への書きこみを、もう一度、
ここで再検証してみたいと思います。

まず、FTさんからの、書きこみを、
ここに転用させていただきます。

文体は、少し、私のようで、整えさせて
いただきました。

++++++++++++++++++++

【FTより、はやし浩司へ】

+++++++++++++++++++

14歳で、家出。A君という、15歳の男子
と同棲生活を始める。それについて……。

+++++++++++++++++++

あれから、林先生の意見を参考に、主人と話し合いました。しかし、主人は、何か言うと
すぐ切れてしまう長女の精神状態を優先的に考え、「本人が帰って来るまで待つ」という考
えを変えませんでした。

長女とも、今後のことで話し合いをしようと連絡をとったのですが、長女は、「わっかた。
明日、帰る」と言いつつ、結局は、帰ってはきませんでした。

4月6日 

私は、長女の通う中学校の担任の先生と会い、長女の今後について話し合いました。先生
は、つぎのように、言ってくれました。

 「彼女の将来を考えるとこのままでは、いけないと思います。私からA君宅に行って、
彼女とA君に話をしてもいいです。彼女からは、私のところに、時々メールがきます。そ
のメールのやりとりの中で、私が迎えに来てくれたら、学校へ行ってもいいよと言ってい
ますよ」と。そんなような内容です。

 先生は、「私が、彼女を迎えに行ってもいいです」とも、言ってくれました。

 その時、私はとそんなことをしたら長女が、「自分は特別だ」と思いこむと思ったので、
先生にそのことを言いました。

 「特別なことをしてるんですから、そう思ってもいいんです。根本的な解決にはなりま
せんが、きっかけを作ってあげたら彼女は、学校に来ると思います。」と。

 私は、すぐに返事はできなかったので、後で返事をするということにして、その日は、
帰ってきました。

 林先生、学校の先生、小児科の先生の意見を参考に考えた結果、私は、長女にメールで、
こう連絡しました。

 「話し合いをしたいけど、なかなか帰ってこないね。来年の春が来たら自分の道を選ぶ
時がくるね。そいのためには、準備が必要だね。いくら親がいやでも、あとたった1年し
かないんだよ。やり直してみてはどうか?」と・・。

 それに答えて、長女からの返事は、「わたしだって自分のことちゃんと考えてる。迎えに
くるようなことしたら死んでやる」でした。

 私「人間って本当にいつ死ぬかわからないよね。」

 それを言うと、また、長女は、きれてしまいました。

 長女と話し合えないので
次の日、A君の両親に連絡をとり話し合いをしました。
(その話し合いには、主人が行きました。)

 主人は「この3ヶ月、様子を見ていたけれど、長女が帰ってこないので、帰るように少
しずつでも促して、協力してほしい」と、お願いしてきたそうです。

 長女は学校の先生に連絡をとり、(いつかわかりませんが・・・)、今日4月10日から
学校へ行くことにしていました。

 朝、帰ってきて、茶髪を黒く染め、だらしのない制服姿をし、サンダルをはき、そのま
ま、学校へ行きました。

 それを見て、私にできることは、何か?、と考えてしまいました。

 長女の死んでやるという言葉に負けていました。長女の抵抗にひるむことなく時には、
強い態度も必要。時には、長女が学校へ行く気になったのであれば、それを全面的に協力
する姿勢も必要であると・・。

 主人とは、なかなか意見があいませんでした。

 このような状況の中、私に責められても、主人は声を荒げることもなく、ただ、私の話
を聞き、わが子の帰りを待っていました。

人間、窮地に立たされた時、本当の自分が姿が現れると・・・・まさに、私の姿は醜い姿
でした。

 誰になんと言われようとわが子を信じて待つという主人の姿は、私には、まねのできな
い姿でした。

これからも再び、主人に寄り添い生きていけそうです。
長女のことはまだまだかかりそうですが・・・
今日は、これにて・・・・

+++++++++++++++++++++++++

 まずFTさんの文面の中の、気になる2か所をあげてみたいと思います。FTさんは、
娘さん(長女)にこう言っています。

(1)「話し合いをしたいけど、なかなか帰ってこないね。来年の春が来たら自分の道を選
ぶ時がくるね。そいのためには、準備が必要だね。いくら親がいやでも、あとたった1年
しかないんだよ。やり直してみてはどうか?」と・・。

(2)私「人間って本当にいつ死ぬかわからないよね。」

 FTさんは、娘さんに向かって、「来年になったら……」と期限をつけて、娘さんの気持
ちを追いこんでいます。そしてさらに娘さんを追いつめるかのように、「いくら親のことが
いやでも……」「あとたった1年しかないんだよ」と。

 つまりそうしなければ、「やり直しがきかなくなるよ」と。

 また2つ目のところでは、「人間って、本当に、いつ死ぬかわからないよね」と。私はこ
の文章を読んだとき、昔、私の母がよく言っていた言葉を思い出しました。私の母は、い
つも、口ぐせのように、こう言っていました。

 『いつまでもあると思うな、親と金。ないと思うな、運と災難』と。

 あるときまでは、私は、「そうかなあ」と思っていましたが、やがて、私の母は、そう言
いながら、「親である、自分を大切にしろ」と言っているのに気がつきました。つまり「親
の私は、いつまでも生きているわけではないのだから、大切にしろ」と。

 FTさんは、「自分は、いつ死ぬかわからない」と言いつつ、その一方で、娘さんに、極
限的な恐怖を与えています。FTさんは、それに気づいているのでしょうか。

 こういうときは、では、どう言ったらよいか。それを順に考えてみます。

 まず、「1年」と期限を切ったことについてですが、こうした状況にある娘さんに対して
は、期限を切ることは、かえって逆効果であるということをまず、理解してください。こ
ういうときは、反対に、こう言います。

 「人生は、長いのだから、あせらなくてもいいのよ。若いころの1年や2年、何でもな
いのだからね。のんびりやったらどう。静かに考えて、自分なりの結論を出してね。お母
さんは、親として、あなたの結論に従うわ」と。

 また「自分は、いつ死ぬかわからない」ではなく、こう言います。

 「私は、あなたの分まで、がんばるわ。死ぬなんて、とんでもない! 私は、うんと長
生きして、あなたが幸福になるのを、ちゃんと見届けるわ。私のことは心配しなくていい
のよ。あなたはあなたで、自分の人生を、思う存分、楽しめばいいのよ。お母さんは、応
援するわよ」です。

 つまりFTさんは、娘さんを、言葉で極限まで追いつめながら、最後に、「自分は、いつ
死ぬかわからない」と、絶壁から、つき落すようなことを言っています。だから、娘さん
は、その言葉を聞いて、キレたと考えられます。この時期の子どもは、親が考えているよ
りは、ずっと感覚が繊細で、とぎすまされています。

 そしてここが重要ですが、こうしたFTさんの言葉に対して、だから娘さんは、「死んで
やる」と、これまた極限的なおどしで、返してきています。FTさんは、それを「娘側か
らのおどし」と理解していますが、おそらく、娘さんには、その意識はないでしょう。追
いつめられたから、しかたなしに、そう言っているのかもしれません。

 「あと1年しかない」「それまでに立ち直らなければ、あとはない」と、おどすFTさん。
それに答えて、「死んでやる」と、おどす娘さん。まさに言葉の応報といった感じです。し
かも母子が、同レベルになってしまっている!

 ……と、この問題の解決には、何ら役にたたないことを書いてしまったようですが、(お
どし)の意味がわかってもらえれば、幸いです。これは最近、ある予備校の前で見た、ポ
スターの話ですが、そこには、こうありました。

 「この1年で、君の一生は、決まる!」と。

 これは励ましなのでしょうか? それとも、子どもたちを予備校へ通わせるための、お
どしなのでしょうか。私は、(おどし)ととりましたが、この種の(おどし)は、親たちも、
日常的にしているのではないでしょうか。

 親としては、子どもにその自覚をもってもらい、追いつめられた緊張感の中でがんばっ
てほしいと思ってそう言うのでしょうが、しかし言い方をまちがえると、(あるいは、子ど
もに、それだけの重圧をはね返す力があればよいのですが、そうでなければ)、かえって子
どもを、窮地に追いこんでしまうことになりかねません。

【FTさんへ、はやし浩司より】

 私の印象では、「何とか、自分の娘を、自分のワクの中に取りこもうとする母親」と、「何
とかそのワクから逃げ出そうとする娘」の、はげしい葛藤劇を見ているような感じがしま
す。

 今のFTさんには、たいへんつらいことを言うようですが、いわゆる代償的過保護と言
われる過保護家庭で、その末期に、よく見られる葛藤劇です。(代償的過保護については、
一度、「はやし浩司 代償的過保護」で検索してみてください。)

 ですから、ここまできたら、FTさん自身が、決断をくだすしかないでしょう。

(1)助けを求めてくるまで、手を出さない。
(2)暖かい無視。
(3)何があっても、許して忘れる、と。

 そしてここが重要ですが、FTさんは、娘さんのことを心配しているようで、実は、自
分が感じている不安や心配を、娘さんにぶつけているだけです。はっきり言いましょう。

 学校へ行かないからといって、その人間がダメになるということは、ありません! ダ
メになると思いこんでいるのは、FTさん、あなただけですよ。そうしたあなたの気持ち
は、「いくら親がいやでも、あとたった1年しかないんだよ。やり直してみてはどうか?」
という言葉の中に集約されています。

 FTさんは、こう言っています。「いくら、あなたという娘が、私という親を嫌ったとし
ても、私は構わない。しかしあなたに残された時間は、あと1年しかない。やり直すなら
今しかない」と。(これは先にも書きましたが、立派な、おどしです!)

 こういう問題では、まず(水が、どう流れているか)を知ります。つぎに、(どう水が流
れていくだろうか)を知ります。そして最後に、それがわかったら、あとは、水が流れる
ように、その水の流れに従います。

 つまりものごとは、なるようにしかならないのです。その間に、FTさんが、いくらが
んばっても、どうにもなりません。今が、その状態だと思います。また無理をすればする
ほど、娘さんはともかくも、FTさん自身の健康にも、被害が出てくるようになります。

 中学3年生というと、FTさんから見れば、子どもかもしれませんが、(もちろん個人差
はありますが)、見方によっては、もうじゅうぶんすぎるほど、立派なおとなです。ですか
ら、信ずるところは信じて、またやるべきことはやりながらも、あとは、その(水の流れ)
に任せてみてはどうでしょうか?

 こうした問題は、やがて、水がその流れ先を求めて落ち着くように、落ち着きます。そ
のときあなたは、こう思うでしょう。「ナンダ、何でもなかったではないか!」と。

 で、今は、学校の先生に相談し、その先生の努力に期待するしかないと思います。(FT
さん)→(先生)→(娘さん)というパイプを通して、娘さんとのつながりをもちます。
FTさんにしてみれば、今が最悪の状況と思うかもしれませんが、この種の問題には、さ
らに、二番底、三番底があります。

 現在は、相手の男性の家にいますが、その家にもいられなくなったとしたら、あなたの
娘さんは、どうなるか。どうするか。それをほんの少し、考えてみてください。この種の
問題は、「まだ、以前のほうがよかった」ということを繰りかえしながら、二番底、三番底
へと、落ちていきます。

 たとえば今は、その男性の家にいますが、その家からも家出。そこで不特定多数の男性
の家を転々とするようになったら、あなたは、どうしますか? 私の知人の中には、外国
人男性と性交渉をもち、HIVに感染。エイズを発症した子ども(中2、当時)もいます
よ。

 コツは、「今の状況をなおそう」と考えないこと。「今の状況を、これ以上悪くしないこ
とだけを考えて、半年単位で様子をみる」です。これについては、前にも書きましたので、
ここでは省略しますが、決して、あせってはいけませんよ。

 たいへん苦しい気持ちは、よく理解できますが、今は、忍耐のときです。幸いなことに、
娘さんを、どっしりと見据えているご主人が、あなたのそばにいます。また親身になって、
娘さんのことを心配してくれる先生がいます。決して、あなたは1人ではありません。そ
ういう人たちに身を寄せれば、今は苦しいかもしれませんが、この問題は、乗り切れるは
ずです。

 ……あとは、10年後に視点を置いてみてください。こうした問題は、親子の絆(きず
な)だけ大切にしておけば、必ず、笑い話になります。「あなたは、たいへんだったのよ」
「お母さん、心配かけて、ごめんね」と。

 それをどうか信じて、あとは、あなたはあなたで、前に向かって進んでいけばよいので
す。娘さんのことは、少し忘れたほうがよいかもしれませんね。

 では、今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 家出 子どもの家出 子供の家出 娘の家出)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●貧困という魔物

+++++++++++++++

貧困は、人の心をゆがめる。
道徳や倫理を狂わせる。

さらに借金に追われるようになると、
心そのものが、魔物化する。

友人は言うにおよばず、親兄弟、
親類まで、だますようになる。

だますという意識がないまま、
だますようになる。

+++++++++++++++

 今でも、無限連鎖講、つまりネズミ講方式まがいのサギ商法が、堂々と、流通している。
多くは、健康食品や化粧品などを使ってそれをするが、家庭用品や金融商品などにも分野
を広げている。さらに最近では、それに加えて、インターネットを使ったネズミ講まで、
登場している。

 そのインターネットだと、海外を複雑に経由して日本へ入ってくるため、相手を特定す
ることがむずかしい。会社名や個人名などは、すべて偽名。しかも瞬時、瞬時にことが運
んでしまう。つまりその分だけ、被害者がふえ、被害額が、大きくなってしまう。

 実は、私の友人も、その被害にあった。高校時代からの友人だからと、気を許したのが、
いけなかった。気がついたときには、数百万円分の健康補助食品が、居間に山積みになっ
ていたという。

 「高校時代は親友だったから、まさか、私に対して、そんなことをするとは、思ってい
なかった」と、その友人は、言った。そしてこうも言った。「そういう私すらもだますのだ
から、よほど、お金に追いつめられていたのだろう」と。

 そう、貧困は、人の心を狂わす。さらに借金に追われるようになると、人は、友人はも
ちろん、親、兄弟、親類までだますようにようになる。だますという意識がないまま、だ
ますようになる。

 もちろん貧困であるからといって、すべての人がそうなるわけではない。貧しくても、
心豊かに生きている人は、いくらでもいる。で、そのちがいは、どこにあるかといえば、
その貧困を受け入れるかどうかのちがいと言ってもよい。

 が、貧困を受け入れるためには、ふつうの人以上の、高い道徳と哲学が必要である。そ
れまでに培(つちか)われた人間性というか、品性が必要である。それがないと、人は、
ズルズルと、そのまま、貧困という魔物の餌食(えじき)になってしまう。

 つまるところ、私たちが、日ごろ、どういう生活をしているかで決まる。今、あなたが
幸福で、生活も豊かで、リッチであるとしても、それに甘えてはいけない。そういう生活
をしながらも、その中で、もうひとりの自分をみがいていく。それを怠ると、あなたも、
貧困という魔物の餌食になる可能性は高い。

 というのも、貧困であるかないかは、結局は、相対的な問題でしかないからである。外
国の高級車から、国産車に車種を落としただけで、「貧しくなった」と感ずる人もいれば、
軽自動車に乗りながら、「豊かになった」と感ずる人もいる。

 だれにも、どんな生活をしている人にも、貧困という魔物は、常に、今、そこにいる!
 それを忘れてはいけない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●夫婦の信頼関係

++++++++++++++++++

自分の心のスキ間を埋めるための、
自分勝手な、つまりは自分本位な
愛のことを、代償的愛という。

ストーカーが見せる、ストーカー的な
愛を思い浮かべればよい。

しかしそんな愛では、夫婦の間に、
信頼関係など、できるはずはない。

++++++++++++++++++

 自分の心のスキ間を埋めるための、自分勝手な、つまりは自分本位な愛のことを、代償
的愛という。本来、「愛」というのは、いかに相手の人の立場になって、その心を共有でき
るかによって、その深さが決まる。が、代償的愛には、それがない。どこまでも自己中心
的な愛をいう。

 ストーカーが見せる、ストーカー的な愛を思い浮かべればよい。が、それは「愛」では
ない。支配欲、依存性、情緒の不安定性、精神的な未熟さを補うために、一方的に、相手
を、自分の支配下に置いて、自分の思いどおりにしようとする。

 が、当の本人には、それがわからない。

 代償的愛をもって、それを真の愛と錯覚してしまう。あるいは、誤解する。相手がいや
がって逃げ回っているにもかかわらず、それは自分が悪いのではなく、相手が自分を理解
していないせいだと、勝手に解釈する。

 ……というような話は、前にも、何度も書いた。

 そこで最近、こんな話を聞いた。その話について……。

 ある男性(今年80歳くらい)だが、片時も離れず、妻のそばにいるという。たとえば
妻がトイレに入ったりすると、そのトイレのドアのところに立って、妻がトイレから出て
くるのを待っているのだという。

 もちろん妻がひとりで、買い物に行くのさえ、許さない。許さないというより、ついて
いく。そのため妻は、ここ20年ほど、友人たちとの旅行すら、していないという。
 
異常なまでの依存性と言ってもよい。が、当の男性にも、言い分がある。その男性は、
こう言った。「自分は、心筋梗塞を起こしたことがある。バイパス手術を受けて、何とか
生活できる状態だが、そのため、妻がいないと不安でならない」と。

 一般論として、代償的愛は、加齢とともに、依存性、支配欲へと変化しやすい。つまり
年を取れば取るほど、より妻(夫)に依存するようになり、妻(夫)を、より自分の支配
下に置こうとするようになる。

 では、なぜ、そうなるかと言えば、答は簡単。

 そもそも、夫婦間に必要な、信頼関係そのものがない。先の男性にしてみれば、若いこ
ろは、不倫のし放題。妻は、家政婦か女中のような存在でしかなかった。その男性は、「誠
実」という言葉とは、無縁の世界に住んでいた。

 こうした現象は、子どもの世界でも見られる。よく知られた例としては、分離不安があ
る。母親の姿が見えなくなっただけで、狂乱状態になり、母親のあとを、泣き叫びながら
追いかけたりする。

 何かのきっかけで、母子間の信頼関係にヒビが入ったとき、そうなる。母親が、数日間、
病気で入院したとか、遊園地で迷子になったりしたとか、そういうことが原因で、分離不
安になることも珍しくない。

 必ずしも、母親の側に、愛がなかったから、そうなったということだけではない。

 が、子どもは、それを「捨てられた」と思いこんでしまう。妄想、あるいは誤解という
ことになるが、子どもには、まだ、そこまで理解できない。つまり子どもは、「また捨てら
れるかもしれない」と思うことで、極度の不安状態に置かれる。「捨てられるかも?」とい
うのは、子どもにとっては、恐怖以外の何ものでもない。その恐怖感が、子どもをして、
分離不安に駆りたてる。

 同じように考えていくと、こうした代償的愛の結果、極端な依存性、あるいは支配欲の
背景に、夫婦間の不信感があると考えられる。しかもその不信感は、妻が不倫をしたとか、
あるいは夫の信頼感を裏切るようなことをしたとか、そういうことが原因で起こるのでは
ない。夫自身の生活態度が原因で起こる。

 昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。同じように、自分が不誠実だと、相手も
不誠実だと思う。そしてより相手を疑うようになる。その誤解が、自ら、たがいの信頼関
係に、ヒビを入れていく。

 夫婦にかぎらず、相手がだれであるにせよ、信頼関係などというものは、一朝一夕にせ
きるものではない。長い時間をかけて、少しずつ熟成される。しかしその信頼関係は、い
わば、ガラスの箱のようなもの。ほんの少しの衝撃を加えただけで、すぐこわれてしまう。
また一度、こわれると、その修復は、たいへんむずかしい。

 たとえば不倫を例にあげて考えてみよう。

 若い人は多分、不倫というのは、内心の問題と安易に考えやすい。私もそう考えていた。
「バレなければ、それでいい」と。あるいは、ただ単なる排泄と考える人もいる。そして
それほど深い考えもなしに、一時の、甘い、肉体関係に、心をまどわす。

 しかしその代償は、大きい。当の本人は、「自分さえ、黙っていれば、妻(夫)には、バ
レない」と思うかもしれない。「妻(夫)さえ気がつかねば、生活は、変わらない」と考え
るかもしれない。

 が、その代償は、大きい。自分自身の中の(誠意)を、それによって、破壊してしまう。
つまり自分で、自分の中に、自己不信の芽を作ってしまう。今さら言うまでもないことだ
が、自分すら信じられない人間が、どうして他人を信ずることができるだろうか。

 だから不倫をしている夫(妻)ほど、自分の妻(夫)を疑う。ここでまさに『泥棒の家
は、戸締りが厳重』という現象が、起きる。自分がそうだから、妻もそうではないかと疑
ってしまう。

 もちろん信頼関係は、それだけで決まるものではない。乳幼児期の「基本的不信関係」
が、長く、尾を引くこともある。さらに先に書いた、乳幼児期に経験した分離不安が、成
人になってからも、再現されることもある。夫婦の信頼関係といっても、その中身と、そ
れができあがる過程は、千差万別。決して、単純なものではない。

 だから今、冒頭にあげた男性が、なぜそうなのかということについて、安易な解釈を加
えることはできない。ひょっとしたら、心筋梗塞という病気がもつ特有の不安感が原因で
そうなったのかもしれない。あるいはその男性には、若いころから、心気症だったのかも
しれない。

 しかしこれだけは言える。

 今、あなたは、自分の夫(妻)に対して、絶対的な信頼感を覚えているだろうか。「絶対
的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

 もしそうなら、あなたたち夫婦は、すばらしい夫婦と言える。また今まで、すばらしい
人生を送ってきた人と言える。率直に言えば、うらやましい!
(はやし浩司 夫婦の信頼関係 代償的愛 分離不安 夫婦 信頼)

【付記1】

 知人の中にも、妻に隠れて、不倫を重ねている男性がいる。今は、それなりに結構楽し
そうな雰囲気だが、しかしそのツケを払うときは、必ず、やってくる。「人間不信」という
ツケである。

 しかしこのツケほど、恐ろしいものはない。それはいつか、やがて、悔いても悔いきれ
ないほどの重圧感となって、その人を襲う。(あるいは、それを感ずることもないほど、軽
薄な人生のまま、生涯を終えるかもしれない。)

 その覚悟ができているなら、出会い系サイトでも何でもよいから、そういうところで知
り合った女や男と、不倫を重ねるがよい。愛人を作るのがよい。

【付記2】

 老齢に近づけば近づくほど、人は、前向きに生きなければならない。ある賢者は、こう
言った。

 「夫婦はたがいに手を取りあって、前だけを見て進む。決して、見つめあってはいけな
い」と。

 もし冒頭に書いた男性が、別に生きがいをもっていたら、こうまで妻のほうに視線を向
けることはないだろう。仕事でも何でもよい。それがないから、つまり妻のほうに、視線
を向けすぎている。その結果として、それが異常なまでの依存性となってしまった。

 「老後の生きがい」……これもまた、大きな、かつ重大な問題である。これについては、
また別の機会に考えてみたい。

【付記3】

 夫婦の信頼関係というものは、つねに自分と戦いながら、つくりあげるもの。あくまで
も(自分)だ。

 それは決して、楽なことではない。

 たとえばともに楽しい生活をしたからといって、できあがるものではない。ともに苦労
を分かちあうことによって、信頼関係が生まれるという人もいるが、どうも、それだけで
はないように思う。

 今は、この程度にしかわからないので、この問題についても、また別の機会に考えてみ
たい。

【教訓】

(1)不誠実な人間とは、つきあうな。そういう人間には、近寄るな。
(2)不誠実なことをしている人間とは、つきあうな。そういう人間には、近寄るな。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●2人目の孫

++++++++++++++++

2人目の孫が生まれる。

それについて、二男から、ワイフに
手伝いにきてほしい、と。

++++++++++++++++

 2人目の孫が生まれることになった。それについて、アメリカに住んでいる二男から、
ワイフに、「手伝いに来てほしい」と。

 ワイフは、迷っている。

 方法がないわけではない。私が、ヒューストン空港までいっしょについて行ってやり、
そこでワイフを、二男に手渡す。私は、そのまま日本へ帰ってくる、などなど。

 が、それ以上に、ワイフの健康上の問題もある。おそらく二男には、50代の人間の健
康が、どういうものであるか、わかっていないのかもしれない。

 私も、このところ、ふとしたことで、睡眠が乱れることがある。翌日、何もなければそ
れでよいが、講演が入っていたりすると、その時間調整(=健康管理)に、苦労する。そ
の苦労は、年々、二次曲線的に大きくなってきている。

 また私のように海外旅行になれているならよいが、ワイフは、そうではない。それにい
っしょに海外へ行くときは、いつも私のあとをついてくるだけ。言葉の問題もあるが、ワ
イフは、電話のかけ方すら知らない。おまけに、更年期をすぎて、血圧が急激にあがって
しまった。片道、24時間の旅は、ワイフには、無理である。

 ワイフは、「どうしたらいい?」と聞くが、私の立場では、反対はできない。もちろん賛
成もできない。ワイフが「行く」と言えば、協力するしかない。

 二男も、アメリカで、何かと心細いのだろう。その気持ちは、よくわかる。ワイフが言
うには、二男は、誠司(長男)の世話などをしてほしいとか言っているそうだ。

 どちらにせよ、二男がアメリカ人の女性と結婚するという話になったときから、こうい
うことになるということは、私には、わかっていた。どちらが病気になっても、すぐには、
行き来できない。「その覚悟はできているか?」と聞いたことがあるが、そのときは、二男
は、「できている」と言ったはずだが……。

 私も、アメリカの二男のところへ行くことは、今後は、もうないだろうと思う。前回行
ったときも、ボ時差ケだの、エコノミー症候群だのと、その後遺症に、苦しんだ。最近で
は、人ごみの中に入っただけで、頭痛が始まる。これはワイフも、同じ。

 あとは、ワイフの判断に任せるしかない。とにかくこういうことでは、口をはさまない
ほうがよい。二男にうらまれるのはいやだが、ワイフにうらまれるのは、もっといやだ。

【付記】

 私たちも3人の息子をもうけたが、だれの援助も、受けなかった。長男が生まれたとき、
母が、1晩だけ、アパートに泊まってくれた。それだけ!

 こうして考えてみると、私の息子たちは、粗製濫造(?)。何もかも、すべてが無我夢中
のまま、過ぎていった。今から思うと、もう少していねいに息子たちの世話をすべきだっ
たのかもしれない。二男の子育てを見ていると、そんな思いもわいてくる。いや、あのこ
ろの日本は、まだまだ貧しかった。ホント!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●特攻隊と自爆テロ

+++++++++++++++++

特攻隊と自爆テロ。
どこかがちがうようで、
しかし、どこか、よく似ている?

+++++++++++++++++
東京都のI知事が脚本・製作を務めた映画、『俺は、君のためにこそ死ににいく』の制作
発表が都内で行われたという。この作品は、実在した「特攻の母、STさんという女性
の視点から見た特攻隊員たちの、散りゆく青春を描いた作品だという」(ヤフー・ニュー
ス)。

 会場では、「坊主になれない俳優はいらん!」とのI知事の言葉どおり、坊主頭になり、
自衛隊の訓練にも参加したというKY氏は、「未来の礎(いしずえ)となってくれた英霊に、
感謝と尊敬をもって自分の役を演じたいと思う」と、復帰2作目となる本作への意欲をし
めしたという。

 このところ、戦時中の特攻隊をどこか美化する映画が、話題をさらっている。が、その
一方で、同じ日、こんなニュースが伝わってきている。

 イラクにあるシーア派モスクで、またまた自爆テロがあったという(読売新聞)。記事は、
つぎのように伝える。

 「バグダッド北部のイスラム教シーア派モスク(礼拝所)で、4月7日、自爆犯3人が
体に巻き付けた爆発物を、相ついで爆発させた。イラク国営テレビは当局者の情報として、
信徒ら少なくとも79人が死亡、164人が負傷したと伝えた」(同紙)と。

 「3人は女性の着る黒いガウンをまとい、金曜礼拝終了後に、信徒らがモスクを出よう
としたところを狙った。自爆犯の中に女がいたとの情報もあるが、確認されていない」と
も。

 もちろんイラクでは、「自爆テロ」とは言っていない。「聖戦」と言っている。同じよう
に、外国では、「特攻隊」とは言っていない。「自爆テロ」と言っている。

 特攻隊と自爆テロは、どこがどうちがうのか。

(1)対象がちがう。特攻隊は、アメリカ軍という軍が対象となっていた。イラクの自爆
テロは、民間人が対象となることが多い。そのため民間人が、犠牲になることが多
い。

(2)特攻隊は、日本の国が命令している。自爆テロは、反政府集団が、自発的に計画、
実行している。

(3)特攻隊は、兵隊と呼ばれる男たちがしている。自爆テロは、男も多いが、今回の自
爆テロのように、女がすることも多い。

 しかしこれら(1)〜(4)は、いわば表面的なちがいに過ぎない。特攻隊も、イラク
の自爆テロを起こす人たちも、その心情は、同じ。力の弱いほうに立たされた者たちが、
どこか追いつめられ、決死挽回を図って、それをする。もっとわかりやすく言えば、相手
に恐怖(テラー)を与えて、相手側の攻撃態勢を混乱させる。

 ……ということになると、特攻隊も、自爆テロも、それぞれ肯定されてしまう。が、そ
れは、おかしい。

 特攻隊となっていった人たちは、若者ばかりだった。国際政治をどれだけ理解していた
かとなると、それは疑わしい。軍部からの一方的な情報のみに操られて、そうしたと考え
ても、何ら、おかしくない。

 一方、イラクで自爆テロをする人たちは、信仰上の信念でもって、そうしている。そう
いう意味では、狂信的とさえ言える。が、では、特攻隊となっていった人たちは、狂信的
でなかったかというと、これもまた疑わしい。

 戦時中、私が住む浜松基地は、その特攻隊隊の中継基地になっていた。特攻隊員たちは、
一度、この浜松に集結し、時期をみながら、(たいていは1週間程度、寝泊りをしたあと)、
九州方面へ飛び立っていったという。私の知人の中には、その特攻隊の世話をした人たち
が何人かいた。私の義理の兄の父親も、そに1人である。

 いつだったか、その義理の父親が、私にこう話してくれたことがある。

 「特攻隊員たちは、みな、異常だった」と。精神状態が、今でいう、ハイの状態だった
という。

 話を聞くと、特攻隊員たちの気が変わらないように、特攻隊員たちは、一般の人たちか
らは完全に隔離された状態に置かれ、日常的に、覚せい剤のようなものを、飲まされたり、
注射で打たれたりしていたという。

 だからといって、私は何も、特攻隊員たちを責めているのではない。彼らは彼らなりに、
「国」を考えて、「散っていった」(同映画)のだろう。問題は、そうした特攻隊員たちに
あるのではなく、そういう若者たちを、洗脳し、自爆するようにしむけた、当時の軍部に
あり、政府にある。彼らは、あたかも、特攻隊員たちが、自らの意思でそうしたという形
をつくりながら、それを美化し、自分たちの責任を回避している。このことは、イラクの
自爆テロを見ていると、よくわかる。

 中には、まだ10代の子どもがいる。もちろん若い女性もいる。おそらく、こうした自
爆テロを起こした子どもたちや若い女性たちは、その内部では、美化され、英雄視されて
いるのだろう。しかしそれが本当に必要な戦闘(?)であり、正しいことなのかというと、
これもまた疑わしい。

 仮に正しいこととするなら、では、自衛隊のイラク派遣は何かということになってしま
う。サマアの自衛隊も、当然、その自爆テロの標的になっている。つまりここで矛盾が起
こる。脳みそが混乱する。

 特攻隊を正当化してしまうと、イラクの自爆テロが正当化されてしまう。自爆テロが正
当化されてしまうと、その犠牲者たちは、犠牲となって当然という立場に立たされる。言
うなれば、サマアの自衛隊員たちが犠牲になっても、何も、文句を言えないということに
なる。少なくとも、日本人に、イラクの自爆テロを非難する資格はないということになる。

 ……とまあ、考えていくと、頭の中が混乱する。わけがわからなくなる。

 結論を先に言えば、男であろうが女であろうが、まだ事情もよくわからない若い人たち
を使って、自爆攻撃をさせるのは、まちがっている。おかしい。もっと言えば、狂ってい
る。

 仮に百歩譲って、特攻隊員たちがしたことが正しかったとするなら、戦後のこの日本は、
何かということになってしまう。どうして今の今、アメリカ軍に対して、その自爆攻撃と
やらを、つづけないのかということになってしまう。つまりそうすることが、「桜となって
散っていった、英霊」に報いることではないのか?

 これからその映画が作られるということのなので、何とも言いがたいが、どうして今の
今、特攻隊員なのか? 私には、どうしても、それが理解できない。若い俳優の1人は、
こう述べている。「未来の礎となってくれた英霊に、感謝と尊敬をもって自分の役を演じた
いと思う」と。

 そういう考え方もあるのかなあ……?、と思ったところで、私の今朝(4・8)の雑感
は、ここまで。

それにしても、「未来の礎」とは? もうひとつおまけに、?。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●アメリカの入社試験

++++++++++++++++++

二男のBLOGにこんなおもしろい記事
が載っていた。

ここに無断転載させてもらう。

Sよ、許してくれ!

++++++++++++++++++

アメリカの会社に入社する時は、これといって「入社試験」みたいなのをするところはな
いのですが、よく面接の時に、いくつかそれっぽい質問をすることは多いようです。「文字
列Aの順序を逆にして、すべて大文字にするにはどうしますか?」とか・・

別に正解が出せるかどうかを調べるわけではなくて、そういう問題を一緒に解きながらチ
ームメイトとの相性を見るわけです。面接官と呼ばれるような人が、実際に雇用の判断を
することはまずなくて、実際に配属される部署のチームメイトがミーティングの形で面接
をすることが多いようです。

今日も僕のチームで2人ほどそんな面接があったのですが、マイクロソフト社が面接の時
に出しているのと同じ問題に挑戦してもらいました。


問題

4人の人たちがつり橋を渡ろうとしています。全員が橋の同じ側にいます。真夜中で、懐
中電灯が一つだけあります。橋は一度に2人までしか渡れません。橋を渡るときは懐中電
灯が必要で、1人で渡るときも、2人で渡るときもどちらかが懐中電灯をもって一緒に渡
らなければいけません。懐中電灯を持って往復しながら全員を渡すわけですが、投げたり
することはできません。4人はそれぞれ橋を渡るのにかかる時間が違っていて、二人で渡
るときはどちらか遅いほうの時間がかかります。

Aさん 1分
Bさん 2分
Cさん 5分
Dさん 10分

例えば、もしAさんとDさんが一緒に橋を渡るときは、遅い方のDさんの10分かかる
わけです。そしてもしAさんが一人で懐中電灯をもって帰ってくるとすると往復11分か
かる訳です。

さて、全員を17分以内に橋の反対側に移動させるには、どういう順番で橋を渡ればよい
でしょうか?

別にこれができないとマイクロソフトに入社できない訳ではないと思いますが、今日の面
接でもこういう問題を解いてもらいました。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 5日(No.722)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●うれしいメール

+++++++++++++++++

Pさん(母親)から、こんなうれしい
メールが、届いた。

何度も読みかえした。

「よかった」と思った。

+++++++++++++++++

【はやし浩司へ、Pより】

おはようございます。
昨日もお世話になりました。
ワークは毎月末に指導になっておりますが、S雄から、「丸付け自分でやってもいいんだっ
て。」
との答えが返ってきたので渡したところ、「やっぱりお母さんやってー」と。
どのように進めたらよいでしょうか?教えてください。

帰ってくるなり「お母さんすごくやりやすい」と・・・
いろいろBWでの出来事や友達のことを話してくれました。
S雄「クラスで飛び級してる子と話をしたら、『君も飛び級すれば。』って言われた。」と。 

うれしそうに仲良くなった友達のことを毎週話してくれます。
夕ご飯を食べ、「僕、勉強してくる。」・・・え!え!え!
今まで一度も言ったことがない子が、びっくりです。
こんなにも変わるとは思ってもいませんでした。

またまたすごいことに、入浴中(母と入浴)「お母さん問題、億の上は何かわかる?」と。
私は、「兆で京で・・・ここまでしか知らないなー」と。
S雄、「まだあるだに」とスラスラ答えてくれました。
その後、S雄「お父さんに聞いたら、兆兆兆だってー。」と大笑い。
楽しくて楽しくてしょうがないみたいでした。
入浴後、「あと5ページやろう。」と・・・え!?

私は今だけだろうなーと思いながら、「程ほどにね。」と声をかけたら、
S雄「全部やっちゃおう。」・・・え?え?え?・・・
結局、10時半までやってしまいました。

いつも家族そろって9時におふとんで本をよんだり、会話をしたりすごすのですが、
さすがに昨日はびっくりしました。1年生のとき三日坊主で通信教育やめた子が。
今この様子で、三ヶ月坊主にならないかしら・・・。

私自身家庭内の問題で、昨年末疲れてしまい、子供にまで影響が出始めていました。
これはまずいと思い、勉強ができるできないに関係なく、BWへの入会を考えました。
先生のホームページをはじめ、ストレスが子供をつぶす本を繰り返しよみ、
自分自身が素直になれるよう気持ちを落ち着かせることができるように。

『BWに入れないかもしれないけど、聞くだけきいてみよう』。
先生に任せっぱなしで申し訳ありません。
入会させていただき、本当にありがとうございます。

S雄にも話したことがあるんですが、高校時代、不良ぽかったけれど、生活指導の先生に
「今度体操部作るから入るかー」と声をかけられ入部。
それがきっかけで、大学も行くようになり、仕事もいろいろ勉強して楽しいんだよと。 

その先生は、まさか入部すると思ってもいなかったと卒業のときに教えてくれました。 

今年度、会社でチーフ・マネージャーに。とてもうれしかったです。
きっとあの一声がなかったら、退学していたと思います。
S雄にも、林先生に出会えてよかったと学生生活を卒業してくれたらなーと思っています。
これからもご指導お願いします。

私個人の意見ですが、仕事上毎日パソコンの生活です。
しかし家ではほとんど見ません。疲れます。やはり持ち運び便利な本が一番好きです。 

どうかまた本を出版してください。お願いします。

今日もこれからなにしようか・・・お花見ですよね。
では、先生も春休みゆっくりと休んでください。

PS・文章苦手なのですみません。

      S雄の母親の、P子より

【はやし浩司より、P子さんへ】

 これからもご期待にそえるよう、がんばります。メール、ありがとうございました。う
れしかったです。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司


●性格検査(Y・G性格検査)

++++++++++++++++++++

自分はどんな性格か? 

それを知るために考案されたのが、
矢田部・ギルフォード性格検査法。

「Y.G性格検査法」ともいう。

一度、あなたはどんな正確か、
ここで自己診断してみるとよい。

++++++++++++++++++++

 人間の性格を、12の尺度に分けて、それぞれどんな性格であるかを知る。その検査法
が、谷田部・ギルフォード性格検査法(Y・G検査性格検査法)である。

 それぞれ12の尺度について、あなたは、どの位置にあるか、自己診断してみるとよい。
できれば、職場など、より多くの人に参加してもらい、相互に比較してみるとよい。

*********Y・G性格検査法(簡略版)***********

(1)抑うつ性なし +++++   抑うつ性大
(2)情緒安定   +++++   情緒不安定
(3)劣等感なし  +++++   劣等感強し
(4)神経質でない +++++   神経質
(5)客観的    +++++   主観的
(6)協調的    +++++   非協調的(不満・不信)
(7)愛想がいい  +++++   愛想悪し(攻撃的)
(8)非活動的   +++++   活動的
(9)のんきでない +++++   のんき
(0)思考的内向  +++++   思考的外向
(1)服従的    +++++   支配的
(2)社会的内向  +++++   社会的外向

 (注……それぞれについて、1〜5点の、5段階評価)

 (1)〜(5)は、情緒の安定性をみる。
 (5)〜(7)は、社交性をみる。
 (7)〜(9)は、衝動性をみる。
 (9)〜(0)は、内省的かどうかをみる。
 (0)〜(2)は、主導的かどうかを。それぞれ、みる。 

 ちなみに私自身(=はやし浩司)を、自己診断してみると、こうなる(?)。


(1)抑うつ性なし +++●+   抑うつ性大
(2)情緒安定   +++●+   情緒不安定
(3)劣等感なし  +●+++   劣等感強し
(4)神経質でない +++●+   神経質
(5)客観的    ++●++   主観的
(6)協調的    +++●+   非協調的(不満・不信)
(7)愛想がいい  ●++++   愛想悪し(攻撃的)
(8)非活動的   +++●+   活動的
(9)のんきでない +●+++   のんき
(0)思考的内向  ++++●   思考的外向
(1)服従的    +++●+   支配的
(2)社会的内向  ++●++   社会的外向

 これでみると、それぞれの合計点は、つぎのようになる。

(1)〜(5)は、情緒の安定性をみる。 ……13ポイント(平均 2・6)
 (5)〜(7)は、社交性をみる。    …… 8ポイント(平均 2・6)
 (7)〜(9)は、衝動性をみる。    …… 7ポイント(平均 2・3)
 (9)〜(0)は、内省的かどうかをみる。…… 7ポイント(平均 3・5)
 (0)〜(2)は、主導的かどうかをみる。……12ポイント(平均 4・0)

 このY・G性格検査法によれば、(平均値を3とすると)、私は、情緒の安定性、社交性、
衝動性は、平均的。内政的ではなく、支配性が強く、社会的外向性が強いということにな
る。(少し、甘いかな?)

 こんど教室の生徒たちの性格を、これで検査してみようと考えている。その結果は、ま
た後日、報告したい。
(はやし浩司 子供の性格 性格テスト 性格判断 子どもの性格 谷田部・ギルフォー
ド性格検査 はやし浩司 性格検査法 Y・G性格検査法 性格検査テスト法)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【板取川】

●板取川温泉

+++++++++++++++

25年ぶりに、昔、買った山林を、
確かめるために、岐阜県の板取村
というところへやってきた。

合併前は、武儀郡板取村といったが、
今は、関市板取という。

「関市ねえ〜?」というのが、
率直な感想。どうしてこんな
静かな山村を、関市というのか?

その関市というのは、刃物の産地と
して、よく知られた町である。

+++++++++++++++

●黄沙

 午後12時50分、新岐阜駅を出る、板取村行きのバスに乗る。乗ったとたん、春がす
みを思わせる、白いモヤ。一面にモヤ。驚く。空全体が、真っ白。「まさか?」と思ったが、
そのまさか、だった。黄沙(こうさ)である。中国大陸から風で飛ばされてきた、黄沙で
ある。

 そう言えば、数日前のニュースによれば、中国の北部地方は、今年は大干ばつだそうだ。
黄河流域の砂漠化も進んでいるという。そのせいだろう。私も、これほどまでにすごい黄
沙を見たことがない。

 小雨がパラついていたが、それが乾くと同時に、砂の跡が、くっきりと現れた。窓ガラ
スにはもちろん、カバンにまで!

●洞戸

 バスは、一度、洞戸という小さな村を経由する。「ほらど」と読む。「洞への入り口」と
いう意味だが、その名のとおり、このあたりには、いろいろな伝説が残っている。

 私が子どものころ聞いた話によれば、このあたりには、昔、頭がシシ(ライオン)、体が
トラ、そして尻尾がヘビという怪獣が住んでいたそうだ。名前も、そのままズバリ、「シシ
トラヘビ」と言った。

 その怪獣を昔、藤原の何とかという武士が、退治しにやってきたという。私は、「藤原の
鎌足(かまたに)」と聞いたが、確かではない。

 その武士が、今でも「大矢田(おやだ)」と言われているところで、大きな矢を作って、
そしてこの洞戸から、山に入ったという。それで、その矢を作ったところと、大矢田。そ
の入り口を、洞戸というようになった。……と、私は聞いている。

 つまり私は、このあたりの地名に詳しい。

●板取川温泉

 板取川温泉へは、午後3時ごろ着いた。つぎのバス停が、「杉原」という終点だそうだ。
だからその1つ手前の停留所ということになる。

 観光地として、きれいに整備されているので、老若男女を問わず、家族連れでも、じゅ
うぶん楽しめる。その下には、いわずと知れた、天下の名流、板取川が流れている。四国
の四万十川にまさるとも、決して劣らない。清流中の清流である。

 いつ来ても、板取川の水は、美しい。澄んだクリスタル色をしている。

 私たちは、その板取川温泉の川向こうにある、「ひおき」という民宿に泊まった。地元に
住むいとこが、1押しで、推薦してくれた。

 その推薦にまちがいはなかった。新しい建物で、部屋に入ると、ヒノキのにおいが、プ
ンと鼻をついた。部屋も広い。4月8日の土曜日だったが、まだシーズンではないらしい。
宿泊客は、どうやら私とワイフの2人だけのようだ。宿屋の主人には申しわけなく思った
が、かえってのんびりできそうで、うれしかった。

●板取

 このあたりには、思い出が多い。知人や親類も多い。子どものころは、このあたりまで、
よく遊びに来た。そうそう「ひおき」の下には、昔来たことのあるキャンプ場が、そのま
ま残っていた。

 川遊びに関しては、私は、プロだと思う。夏になると、この板取川へやってきて、一日
中、泳いだり、魚をとったりして、遊んでいた。

 橋を渡るとき、川底をながめながら、子どものころの自分を、思い出していた。いや、
ふつう思い出というのは、思い出そうとして、思い出すもの。しかしここでは、そうでは
ない。

 川の底から、怒涛のように、思い出が、脳裏の中に、つぎつぎと浮かんできた。

 言い忘れたが、板取村は、私の実母の在所のある村。私にとっては、この村のほうが、
ふるさとと言ってもよい。生まれ育ったのは、板取村から車で1時間ほどのところにある、
M市だが、そのM市を、自分のふるさとと思ったことは、一度もない。

 私にとっては、M町は、いやな町だった。今も、いやな町である。

●村長

 少し前まで、つまりこの板取村と関市が合併する前まで、この板取村の村長は、長屋K
氏という人物だった。母の実家の隣人である。

 だから子どものころから、そのK氏のことはよく知っている。いつも薄い下着だけで、
縁側に座って涼んでいた。おだやかな性格の、人徳のある人だった。確か私より10歳ほ
ど、年長ではなかったか。

 私は、そのK氏が、村長になったと聞いたとき、驚くと同時に、心底、うれしかった。
で、そのあとは、一度も、会っていない。私にとっては、そのまま畏(おそ)れおおい人
となってしまった。

 宿屋の主人に、K氏のことを話すと、「そうですね。合併する前まで、村長でした」と話
してくれた。

●山林

 今日、こうして板取村にやってきたのは、先に書いたように、自分の買った山林を確か
めるためである。

 この25年の間に、雪害などがあったりして、かなり痛んだという話も聞いている。そ
れにここ20年来の山林不況で、立ち木の価値はさがる一方。今では買ったときの値段の
5分の1でも、売るのがむずかしいという。木そのものは、45年木(ぼく)になってい
るというのに!

 あきらめてはいるが、しかしここまで価値がさがるとは! そのとき、だれがそう思っ
ただろうか。少なくとも、値段はさがらないと思っていた。木は、年々、成長する。

 地元の森林組合の人に相談すると、あっさりと、「それはだまされましたね」と言った。
買った当時ですら、相場の10倍以上の値段だったという。

 よく調べないまま、売り主の言いなりの値段で買った私が、愚かだった。

●後悔

 しかし不思議なものだ。こうして民宿の一室で、柱に背をもたれかけさせ、パソコンの
キーボードをたたいていると、その(うらみ)が、どんどんと消えていくのがわかる。

 森の香り、木々の放つ生気。ここはまさしく、深緑の木で包まれた水墨画の世界。そう
いう世界に包まれていると、私は、その山林で損をした以上のものを、この村からもらっ
たのがわかる。

 「損をした」「損をした」と思いながらすごすのも、これからの10年。しかしその10
年のうちに、私にとって最良であるべき、10年が流れてしまう。「損をした」とか、「得
をした」とか、そんなことを思っている間に、私の人生そのものが、終わってしまう。

 だったら、不愉快なことは、早く忘れること。

 内心では、「買ったときの値段で、だれかに売りたい」とは思っている。しかし今となれ
ば、10分の1でもよい。早くケリをつけて、気分を楽にしたい。

 いや、この民宿に来てからは、正直なところ、それさえもうどうでもよくなってしまっ
た。先ほど、ワイフに、「あんな山林、だれかにくれてやろうか」と話すと、ワイフも、少
しためらったあと、「そうねえ……」と。

 あのころは、家1件分の値段で、その山林を買った。しかし今では、山林を売ったとし
ても、そのお金では、駐車場を作るのも、むずかしい。

私「損をしたと思いながら、仕事でがんばったから、損はしていないかもしれないよ」
ワ「そうね」と。

●頭痛

 部屋へ入ってから、ワイフは、頭痛がすると言って、コタツの中で、横になっている。
先ほど、湿布薬を2枚、ひたいに張りつけてやった。薬も渡した。

 私のバッグの中には、そうした薬が、一式、すべて入っている。頭痛薬に胃薬、精神安
定剤に催眠薬、目薬に、各種ハーブ薬、花粉症の薬もある。いつごろからか、そういう習
慣になってしまった。で、そのせいか、どこへ行くにも、そのバッグがないと不安でなら
ない。

 昨夜はいろいろあって、床についたのは、午前1時ごろ。今日は私ひとりで板取村へ来
るつもりだったが、朝になって、ワイフが、「私もついて行く」と言い出した。「あなたひ
とりでは、心配だから」と。

 このところ、中高年者の自殺がふえているという。とくに50代があぶないという。そ
れをワイフを心配したわけではないが、しかし私の中で自殺願望が、このところ、年々、
大きくなっているのがわかる。「このまま死ねたらいいね」とか、そんなことを、平気で口
に出して言うことが多くなってしまった。

 そのワイフは、たった今、寝息をたて始めた。一見、元気そうな女性だが、先日の健康
診断の結果によれば、私より不健康。とくに血圧が高い。……ここ数年で、急に高くなっ
た。だからこうして睡眠不足のまま旅行をしたりすると、すぐ頭痛を起こす。

 つまるところ、私が悪い。このところワイフに何かにつけて、心配ばかりかけている。

●板取の見所

 民宿「ひおき」の玄関先には、何枚かのパンフレットが並べてある。ひおきの名刺カー
ドもある。それには、こうある。

 冬は雪の中、薪ストーブ、しし鍋、鴨鍋、岩魚骨酒
 あまご釣り解禁……3月1日〜
 虹ますのから揚げ
 美しい新緑の板取……4月末〜
 山の祭り……5月連休
 石楠花、見ごろ
 鮎釣り解禁……あじさい祭、6月中旬
 絶品の香り高い板取川の鮎
 主が調達(要予約)
 自慢の新米こしひかり……10月〜、と。

 板取川といえば、鮎釣りのメッカ。友釣りがよく知られている。その板取川だが、私は
子どものころから、板取川だけを見て育ったこともあり、「川というのは、そういうものだ」
と思っていた。

 しかしこれはたいへんなまちがいだった。以後、日本はもちろんのこと、世界であちこ
ちの川を見てきたが、長良川、とくにこの板取川ほど、美しい川を見たことがない。どこ
へ行っても、そうだった。

 そのためいつごろからかは忘れたが、私はそういう自分を誇らしく思うようになった。
「ラッキーだった」というような軽い気持ではない。それほどまでに美しい川が、いつも
私の心の中を流れている。それは言うなれば優越感を超えた、自尊心のようなものではな
いか。

 どこかでだれかが、美しい川を見せてくれても、私はいつも、心の中ではこう思う。「何
だ、こんな川! 板取川のほうが、ずっときれいだ。君は、板取川を知らないのか。ぼく
は、子どものころ、その板取川で育ったのだぞ!」と。

●みやげ屋

 板取川温泉のみやげ屋は、午後6時に閉まるという。朝は、10時から。いろいろ時間
をすり合わせてみたが、夕食前の時間帯にしか、みやげを買う時間がない。それで、私は、
民宿からみやげ屋まで、2往復するハメに。

 最初の1往復で、夕方6時までしか開いていないことを知った。つぎの1往復は、お金
をもって、でかけた。

 来週、友人たちと会食をすることになっている。そのとき、その友人たちに、この板取
のみやげを手渡したい。私は、ほうば味噌、佃煮類を、2〜3個ずつ、まとめて買った。
人にあげるものは、その前に、一応、私のほうで試食をしてからにしたい。それもしない
で、いきなり渡すのは、失礼かも(?)。

 「これは、こういう味です」と説明しながら、渡ししたい。
 
 で、こういうときのコツは、自分が食べたいものを選ぶこと。(当然のことだが……。)
最近の傾向としては、みやげというと、食べ物が多くなった。若いころは、置き物とか、
そういうものが多かったように思う。

 どうしてだろう?

 ひとつには、置き物のもつむなしさというか、そういうものがわかるようになった。悪
く言えば、どうせゴミになるだけ。とくに最近のみやげには、こう書いてある。「MADE
 IN CHINA」と。中には、100円ショップで100円のものに、300円とか、
400円の値段がついていることがある。

が、本当の理由は、もう新しい思い出をつくる気力がわいてこない。(ジジ臭い話で、ゴ
メン!)それとも、今、こうしてワイフと民宿に泊まったという思い出が、いつか輝く
ときが、くるのだろうか? 私は、もう、そういうことはないと思う。

 だからどうしても、食べ物が多くなる。そのときの(思い出)は、腹の中に入れて、そ
れでおしまい! あとは忘れて、バイバイ。人生も、こうして、より淡白になっていく。

●夕食

 夕食は、階下で、2人だけですました。ちょうどシーズンオフということで、おかげで
のんびりできた。

 料理は、★4つの、★★★★。心のこもった料理に、ワイフも大満足。1泊1人、95
00円ということなので、それほど料理には、期待していなかった。しかしおいしかった。
写真は何枚かとったので、マガジンのほうで、それを紹介するつもり。

(宿泊料金については、シーズンごとに異なるようなので、宿泊する人は、確かめてほ
しい。)

 宿の主人は、どこかほかの地方からの人だということらしい。女将は、地元の人だとい
う。食事中も、話がはずむ。

●入浴

 風呂は、男女別に分かれていたが、その必要はない。私をワイフは、2人で1つの湯船
につかった。ステンレス製の、大きな風呂だった。

 体をじゅうぶん、のばした。くつろいだ。旅館にもいろいろある。民宿にもいろいろあ
る。しかしもしみなさんが、何らかの機会で、この板取村へ来るような機会があれば、ひ
おきを推薦する。築後2年目(06年)という新しさもあるが、「本物」であることは、使
っている材木を見ただけでわかる。

 食堂の大黒柱だけでも、40センチ角のひのき材を使っている。都会では絶対に見られ
ない、大黒柱である。民宿だが、しかし旅館で、これほどの材木を使っている旅館は、あ
るだろうか?

●いとこに会う

 風呂から出ると、そこにいとこ夫婦が立っていた。3、4年ぶりの再開である。時間は
忘れたが、別れたとき時計を見ると、午後11時を過ぎていた。

 「明日は早いですから」と、いとこの妻は言った。

 外まで見送ると、いとこは白い車に乗って、そのまま去っていった。

 いとこ夫婦は、今年は、たいへんだ。長女と、長男の、専門学校と高校の、入学が重な
った。そのため3月中は、目の回るような忙しさだったという。子どものころの楽しかっ
た話というよりは、その苦労話が尽きない。

 そうしてあっという間に、数時間という時間が過ぎた。

●就寝

 私たちが泊まった部屋は、川に面した、一番北よりの部屋だった。まだ木の香りがプン
とする、真新しい部屋だった。

 部屋は10畳。電気を消すと、朝まで、ぐっすりと眠ることができた。ワイフが横でモ
ゾモゾと動いたので、「何時?」と聞くと、「8時よ」と言った。カーテンがわりになって
いる白い障子窓を通して、まばゆいばかりの朝の光が、部屋の中に届いていた。

 久しぶりに、よく眠った。こんな安らかな朝を迎えたのは、何年ぶりだろう。私にとっ
ては、そんな朝だった。

 ここへ来るまでは、私に山林を売りつけた男に、少なからず、うらみを覚えていた。顔
を見るのもいやだった。その前に、この板取村に来るのも、いやだった。思い出が多いと
はいえ、その思い出の上に、いやな思い出が、その山林のおかげで、上書きされてしまっ
た。

 が、そのうらみは消えた。

 目の前に流れる川では、よく遊んだ。手前の土手は、キャンプ場になっていて、一度、
イノシシがいたのを覚えている。

 この先、川を上流に向かっていくと、このあたりでは珍しい、大渓谷になっている。そ
の渓谷の上から下をのぞいたこともある。その途中で、魚をとって、その場で焼いて食べ
たこともある。

 そんな楽しかった思い出が、つぎつぎと、そのいやな思い出の上に、さらに上書きされ
ていく。

私「今朝の夢には、昔の教え子たちが出てきたよ」
ワ「珍しいわね」
私「それに、子どものころの二男も出てきた」
ワ「フ〜ン」
私「安らかな夢だった」
ワ「珍しいわね」と。

 障子戸を開けると、まっすぐ朝の陽光が、ガラス窓を通して、部屋に入ってきた。とた
ん、あのつんとした冷気が消え、春のような陽気が部屋に充満した。

 窓の外を見ると、深緑の杉の林を背にして、黒い大きな山がそこにあった。右のほうに
は、幾重にも重なった、尾根が、それぞれ色を変えて、そこに連なっていた。

 GOOD MORNING! 今日は、忙しい1日になりそうだ。

 これから山の中を歩く……体力は、OK! 体調も、OK! 気分は、そう快!


はやし浩司++++++++++++April.06+++++++++++Hiroshi Hayashi


【案内】

 山の宿……ひおき
 電話 0581−57−2756
 住所 〒501−2901 岐阜県関市板取3752−1


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●夫婦の問題(M氏への手紙)

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夫のA氏は、「ぼくたち夫婦は、形だけの夫婦です」
と言った。

妻のBさんは、「別れて、九州の実家に帰りたい」と
言っているという。

しかし2人の間には、2人の子どもがいる。上の子は
今年、小学5年生になる。下の子は、小学1年生にな
る。

その問題で、友人のM氏(今年82歳)が、悩んでい
る。孫へのいとおしさも、ある。「孫を引き取ってもよ
い」とは言いつつ、「年のことを考えると、それもでき
ない」と。

そのM氏への手紙。

++++++++++++++++++++++++

Mさんへ

拝啓

 春らしくなりました。今日は、山へ行き、タラの芽を採ってきました。さっそく、それ
が夕食の食卓に、フライとなって、料理を飾りました。おいしかったです。

 そうそうついでに、ショッピングセンターで、いくつか、野菜の苗を買ってきました。
先ほどまで、その作業で、畑にいました。結構、汗を流しました。

 お手紙、ありがとうございました。また先日は、突然、おうかがいし、いつものごとく、
不愉快な話をしてしまいました。私どもの、配慮のなさを、どうか、お許しください。奥
様のほうから、あのように話しかけられたものですから、つい、言わなくてもよいような
ことまで、言ってしまったようです。

 R氏と、奥さんが、うまくいっていないということは、もうずいぶん前から、私も、感
じていました。しかしこうした問題は、どの夫婦にもある問題であり、また昔から言うよ
うに、夫婦の仲というのは、夫婦だけにしかわかりません。世の中には、いろいろな夫婦
がいます。

 そういう点では、幸福な夫婦というのは、みな似ていますが、そうでない夫婦というの
は、まさに千差万別。定型がありません。(私たち夫婦も、その、そうでない夫婦です。)

 で、お手紙を何度も読ませていただきましたが、この問題だけは、私にも、どうアドバ
イスしたらよいかわかりません。またアドバイスしたところで、どうにもならないと思い
ます。

 最終的には、R氏と奥さんが、1対1で話し合って決めることだと思います。ただ私が
知るかぎりでは、これら一連の問題について、R氏には、ほとんど責任はないと思います。
問題の大半は、奥さんのほうにあります。ですから、R氏を責めてはいけません。むしろ
私は、常日ごろから、R氏に同情しています。

 まあ、奥さんのほうも、遠方からおいでになっているため、何かとさみしい思いをなさ
っていることは、理解できます。しかしそれ以上に、やはり性格の問題もあるのではない
でしょうか。あの奥さんのばあい、その性格に合わせられる男性というのは、そうはいな
いのではないでしょうか。周辺の人たちと、ことごとく、何らかのトラブルを引き起こし
ておられるというのも、その表れではないかと思っています。

 ……と書きつつ、やはり、この問題は、R氏と奥さんが、1対1で話し合って、結論を
出されることだと思います。私のような者が口をはさむような問題ではないと思いますし、
またはさんだところで、どうにかなるような問題でもないと思います。

 2人のお孫さんについても、やはり、当事者である、R氏と奥さんが、話し合うのが一
番ではないでしょうか。私にしても、R氏のためにできることがあるとするなら、その結
論を受け止めることでしかないと思います。幸いにも、2人のお孫さんたちは、心、健や
かに成長しておられます。すばらしいお子さんたちです。

 これも私の察するところ、奥さんの指導というよりは、R氏のほうの人徳によるもので
はないかと思っています。

 せっかく相談をいただきましたが、私としては、何ともしようがありません。たいへん
申し訳ありませんが、どうか、私の立場も、ご理解の上、この程度で、お許しください。

 ますます春めいてきました。私の春休みも、あと残すところ、3日となりました。明日
からは仕事の準備にかかります。今の仕事を、あと何年つづけられるかわかりませんが、
最後の最後まで、自分を完全燃焼させながら、がんばってみたいと思っています。

 どうか、お体を大切に。奥様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。今日は、こん
な手紙で、失礼します。



敬具

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●男の中の女、女の中の男

+++++++++++++++++

男と女のちがいとは何か?

若い人は、その(ちがい)を、
明確に感じ取ることができる。

しかしその(ちがい)も、年と
ともに、薄れ、やがてわからなく
なる。

+++++++++++++++++

 「(男は男に作られ)、女は女に作られる」と言ったのは、たしか、ボーボワールではな
かったか。心理学の世界にも、「役割形成」という言葉がある。生まれたときは同じでも、
その後、環境の中で、男は男に育てられ、女は女に育てられるというわけである。

 ただ大脳生理学の分野には、脳内ホルモンのちがいが、男と女を作り分けるという説も
ある。だから、男が男になり、女が女になるというのは、環境のせいだけとも言えないの
かもしれない。

 事実、男の中にも、女性的な部分はあるし、女の中にも、男性的な部分はある。それに
子どもの世界を観察していると、幼児〜小学3、4年生ごろまでは、男も女も、ない。容
姿や服装をのぞいたら、(ちがい)をさがすほうが、むずかしい。

 それが思春期を迎えるころから、急速に変化する。男は女を意識し、女は男を意識する。
その意識が、たがいに自らを、ちがった存在として、際(きわ)だたせる。とくに性的な
存在としての異性には、強烈なものがある。

 私も、高校生のときだが、図書館で女体の解剖図を見ただけで、体中が燃えるように熱
くなり、そのまま動けなくなってしまったのを覚えている。さらに自転車に乗っていたと
きのこと。前を歩く女性の足を見ただけで、ペニスが勃起してしまったのを覚えている。

 ほかにも無数にこうした経験をしたが、こうした経験は、私だけのものではない。男な
ら、みな、共通して経験することである。つまりこうして男は男になり、女は女になって
いく。

 が、それで男の中の女が消えるわけではない。女の中の男が消えるわけではない。あの
ユングも、「アニマ」「アニムス」という言葉を使って、それを説明している。

 アニマというのは、男の中にある女性的な部分が、イメージ化したもの。アニムスとい
うのは、女の中にある男性的な部分が、イメージ化したものをいう。

 たとえば男は、男でありながら、自分を全幅に包んでくれるマドンナ的な女性に、あこ
がれをいだく。一方、女は、女でありながら、自分を雄々しく保護してくれる、野性的で
力強い男性に、あこがれをいだく。つまりともに、そういうイメージを心の中で、描く。

 が、ときとして、そのイメージは、破壊される。あるいは満たされないときもある。そ
ういうときは、代償的に、男は自らマドンナ的になり、女は自ら野性的になったりする。

 私も子どものとき、小学3年生ごろのことだったと思うが、人に隠れて人形を抱いて寝
ていたことがある。女の子といっしょに遊ぶということさえ考えられない時代だった。私
は人形を抱いて寝ることで、私は、やさしい母親を演じていたことになる。

 反対に、女でありながら、女らしさをまったく感じさせない子どもも、少なくない。自
ら女であることを拒否しているかのような子どもである。女あつかいをしただけで、バシ
ッと足蹴りを入れてきたりする。

 が、これらはすべて、若いころの話。若い人の話。

 男にも更年期というのがあるという話は、よく聞く。その更年期の影響かどうかは知ら
ないが、私も、50歳を過ぎるころから、男と女の区別ができなくなって、困ったことが
ある。女性に、まったく色気を感じなくなってしまった。と同時に、自分が男であること
を、忘れてしまった。で、あるとき、こう思った。

 「今なら、混浴風呂に入っても、女性と、平気で話をすることができるだろうな」と。

 が、それは一時的なものだった。またこのところ、女性は女性として、意識できるよう
になってきた。それはそれでよかったと、内心では思っているが、もちろんその意識は、
以前よりは、弱い。週刊誌に出てくるような若い女性のヌードを見ても、何も感じない。
ときにただの肉のかたまりのようにさえ思うこともある。で、こうして考えてみると、男
とは何か、女とは何か、ますますわからなくなってくる。

 まあ、結論から先に言えば、性的な部分をのぞいて、男と女を区別することのほうが、
おかしいということ。まちがっている。男と女は、どこもちがわない。

そこで重要なことは、そういう前提で、ものを考えること。もし男であることや、女で
あることで、そこに社会的な差別があるなら、社会のしくみのほうを、変えていく。

 たとえば女性には、妊娠、出産、育児といった、女性特有の負担がある。それはしかた
ないとしても、そうした負担で、女性が社会的に不利にならないよう、社会のしくみのほ
うを、変えていく。

 フロイトの性俗説によれば、男と女のちがいが、人間のありとあらゆる生活に影響を及
ぼしているという。それもそうだろう。人間がなぜ生きるかといえば、その第一の目的は、
子孫存続のためである。そのことはほかの、動植物を見ればわかる。

 しかし性俗説だけがすべてではない。ユングもそう唱えて、フロイトから決別したが、
私も、そう思う。人間が人間であるためには、こうした性俗説から解放されなければなら
ない。人間は、ほかの動植物とはちがう。同じ部分があるとしても、それを超えなければ
ならない。

 ということは、私もようやく、その性俗説から解放されつつあるということか。相手が
男であるとか、女であるとかいうことは忘れて、一人の人間として、見ることができるよ
うになりつつある。

 それはそれで悪いことではないと思うのだが……。しかしそれもつまらないなという未
練もないわけではない。この先のことは、もう少し年を取ってから、書いてみたい。
(はやし浩司 性差 ジェンダー アニマ アニムス 男女の違い)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●適応能力vs対処能力

+++++++++++++++++

子どものほうが、適応能力は高い。
しかしその分だけ、環境や他人からの
影響を受けやすい。

成人になれば、適応能力は低くなるが、
それぞれの分野における対処能力は
高くなる。

適応能力と対処能力は、反比例の関係にある。

+++++++++++++++++

 新しい環境にその人を置いてみたとき、子どもであればあるほど、適応能力は高い。私
は『子どもは水』という格言を考えたことがあるが、それは、そういう意味で言った。

 が、子どもであるほど、その分だけ、環境や他人からの影響を受けやすい。当然といえ
ば、当然である。たとえば日本には、『今鳴いたカラスが、もう笑った』という言い方があ
る。子どもの心の変化のすばやさを言ったものだが、それは同時に、子どもの心というの
は、環境の影響を受けやすいことを意味する。

 雰囲気が変わっただけで、子どもは、その影響を受ける。

 が、加齢とともに、環境適応能力は、低下する。が、その分だけ、それぞれのばあいに
対処する能力、つまり対処能力は高くなる。夫婦げんかをしていても、電話がかかってく
れば、その場で気分を入れ替え、電話の相手と、にこやかに(?)対処するというような
芸当ができるようになる。

 反対に子どものばあいには、それができない。ひとつのできごとが、そのまま脳全体を
支配する。こうした現象を、レヴィンという学者は、「パーソナリティの分化度」という言
葉を使って、説明した。

 つまり「子どもの脳は、それだけ柔軟にできている分だけ、たがいに影響を受けやすい」
と。

 では、その分だけ、おとなの脳は、子どもの脳よりすぐれているかといえば、そうとは
言えない。対処能力がすぐれる分だけ、脳の柔軟性が失われる。そのため、つぎのような
症状が現れる。

(1)ものごとへの固執化
(2)行動、思考の単一化
(3)融通性の喪失
(4)適応能力の喪失など。

 ある老人(今年80歳くらい)は、定年退職してから約25年になるが、生活パターン
は、まったくと言ってよいほど、変わっていない。趣味も、盆栽だけ。とくにここ10年
は、家の中に引きこもってばかりいる。訪れてやってくる人も、ほとんどいない。

 こういう状態になると、脳の柔軟さが失われるだけでなく、対処能力そのものも衰えて
くる。わかりやく言えば、がんこで偏屈になる。

 もっともこういう例は、いわば例外。ふつうに考えれば、適応能力と対処能力は、反比
例の関係にある。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●ダビンチ・コード

+++++++++++++++++

本屋で少し立ち読みをしたあと、
そのままビデオショップへ。
そこで2本のビデオを借りる。

1本は、『ダビンチ・コードの謎』、
それにもう1本は、その補足版。

2本とも見たが、途中で、あくび。

どうしてこんな本が、世界で
1000万部以上も売れたのだろう……?、
と思ったのが、ビデオを見終わったときの、
私の率直な感想。

+++++++++++++++++

 今、世間で騒がれている本に、『ダビンチ・コードの謎』がある。レオナルド・ダ・ビン
チの描き残した絵画の中には、ダビンチが暗号として残した秘密が隠されているという。

 で、何人かの研究家が登場して、その謎を解説。メインとなった絵画は、言わずと知れ
た、『最後の晩餐』。ダビンチが描いた絵画の中でも、もっとも大作であると同時に、有名
な絵画である。原画は、イタリアのサンタ・マリア・デラ・グラツィエ教会に所蔵されて
いるという。

 その『最後の晩餐』の中央には、イエス・キリストが座っている。で、ビデオ『ダビン
チ・コードの謎』は、つぎのような謎が、この絵画の中に隠されていることを順に説明す
る。(ビデオの正式のタイトルは、『ダ・ヴィンチ・コードの謎』となっている。)

(1)キリストの右側、(向かって左側)、そこに座っているのは、マグダラのマリアだと
いう。マリアは、娼婦ということになっているが、実際には、聖なる愛人、つまりイエス・
キリストの妻的な存在だったという。

(2)ダビンチの自画像が、絵画の向かって右端のほうに描かれているが、そのダビンチ
は、イエス・キリストから顔をはずして、外側に向いている。解説者の説明によれば、こ
れはダビンチが、反キリスト教の立場であることを示したものだという。

(3)絵画全体の構図が、(M)の形をしているのは、絵画全体で、「マリア」を示したも
のだという(これは本の中でそう説明している)。つまりダビンチは、(M)という文字を構
図にすることによって、マリアがふつうの存在ではなかったことを言いたかったのだとい
う。

(4)イエス・キリストとマリアの服装が、ちょうど逆になっている。形と色が、正反対
になっている。それについて、ビデオの中では、たしかこう説明していた。「これはテーブ
ルの下で、腰と腰がつながっているためだ」と。(ギョッ! もしそうなら、最後の晩餐で、
イエス・キリストが、テーブルの下で、マリアとセックスをしていたことになる!)

(5)ナイフの謎や、それからマリアの首にかかる手の謎についても、解説していた。ナ
イフは、だれかの腹を刺そうとしているものだとか、マリアの首にかかった手は、マリア
の首を切ろうとしているものだ、とか。

(6)マリアとの間に生まれたイエス・キリストの子孫が、今でも生き残っているという。
そして独自の宗教活動をしているという。

 全体を見た印象としては、(こじつけ)。(こじつけ)の連続。「そうかなあ?」とか、「少
し考えすぎではないのかなあ?」と、そのつど、思った。

 たしかに当時は、つまりダビンチがこうした絵画を描いた時代には、反キリスト教的な
ことを口にしたり、絵に描いたりすることは、不可能に近かったかもしれない。国全体が、
狂信化していた時代である。

 それでダビンチは、自分の描いた絵画の中に、自分の思いを、さまざまな暗号として、
それを、描きこんだ。そういう理屈なら、私にもわかる。しかしだからといって、それが
どうだというのか?

 マグダラのマリアにしても、私たちがもっている常識によれば、マリアは、娼婦だった。
そのマリアをイエス・キリストは救った。以後、マリアは、つかず、離れずして、イエス・
キリストの世話をつづける。

 現代のように、社会制度が整った時代ではない。だからそういうマリアを、どういう存
在であったかを論ずるのは、あまり意味がないのではないか。ビデオの中では、「聖なる愛
人」というような言い方をしていたが、妻であっても、何ら、おかしくない。だいたい、「聖
なる愛人」とは何か? 愛人に「聖なる愛人」も、「そうでない愛人」もない。

 またこまかい話だが、(『ダビンチ・コードの謎』の中では謎としているので)、ナイフに
しても、テーブルに上にころがっている果物(?)の皮をむく道具であったと考えても、
何らおかしくない。「腕の位置がおかしい」と解説者は説明していたが、私は、おかしくな
いと思う。

 ほかに「あるべき肝心の聖杯がない」とか、「ブドウ酒とパンがない」とか、など。

 要するに、『ダビンチ・コードの謎』は、ダビンチ自身が、無神論者か、あるいは反キリ
スト教的な立場にあったことを、言いたいらしい。が、それについても、同じことが言え
る。だからといって、それがどうだというのか、と。

 つまりそれほど、大げさに考えなければならない問題ではない。仮にマリアが、「聖なる
愛人」であったとしても、あるいは「妻」であったとしても、それでキリスト教全体が、
ひっくりかえるということはありえない。

 さらに『ダビンチ・コードの謎』は、洗礼者ヨセフと、イエス・キリストの関係につい
ても、あれこれ、疑問を投げかけている。私たちが知っている常識によれば、ヨセフは、
イエス・キリストに洗礼をほどこした洗礼者である。つまりその時点で、ヨセフの使命は
終わったということになっている。

 どちらが上で、どちらが下というわけではないが、イエス・キリストを(神の子)とす
るなら、ヨセフは、ただの預言者。もしくは洗礼者にすぎない。が、『ダビンチ・コードの
謎』の中で、1人の研究者が、「そうではなかったのではないか」というようなことを述べ
ている。「ヨセフのほうがイエス・キリスよりも、立場が上だったかもしれない?」と。

 しかしこれについても、またまた、同じことが言える。だからといって、それがどうだ
というのか、と。

 宗教というのは、(教え)にそってするもの。すべては(教え)によって始まり、(教え)
によって終わる。ダビンチが、どのような異論をもち、どのような信念をもっていたかは
知らないが、だからといって、それによって、(教え)が影響を受けるということでもある
まい。そう考えるほうが、おかしい。要するに、どうでもよい。

 仮に、百歩譲って考えてみても、ダビンチの見解は、どこまでいっても、ダビンチとい
う1個人の見解にすぎない。ダビンチが、神の子というわけではない。イエス・キリスト
の弟子というわけでもない。ダビンチは、西暦1452年の生まれ。言うなれば、イエス・
キリストの死後、約1400年後に、ダビンチは、自分の解釈で、自分の思いを、自分の
絵の中に塗りこめたにすぎない。

 それをまるで、天と地がひっくりかえったかのような大事実として、問題視するほうが、
おかしいのではないのか。たとえて言うなら、日本の広重や北斎が、自分の版画の中に、
反幕府的な思想を描きこんだようなもの。後世の研究家たちが、その暗号を解いたからと
いって、それがどうしたというのか?

 で、私の印象は、冒頭にもどる。私は、こうした重箱の底をほじるような、こじつけ的
解釈(失礼!)には、どうしても、ついていけない。途中であくびが出たのは、そういう
理由による。

 最後に、イエス・キリストとマリアの間に、子どもができ、その子孫が、今でもこの世
界のどこかに生きているかもしれないという。

 しかしこれについても、そうであったとしても、またそうでなかったとしても、今、こ
こでそれを論じても意味はない。

 この2000年間で、約67世代が入れ替わったことになる。(1世代を30年として、
計算。)

 世代ごとに、2人の息子もしくは娘が生まれたとすると、67世代では、その数は、2
の67乗。つまり単純に計算しても、その数は、2、4、8、16、32、64人……と
ふえていって、67世代目には、現在の地球の人口よりも、はるかに多くなる。だれが子
孫で、だれが子孫でないかと区別するほうが、おかしい。

 「なるほど、そういう見方もあるのか」という意味では、おもしろいビデオだと思うが、
それ以上の意味はないのではないか。ただし私は、本のほうは、立ち読み程度にしか読ん
でいないので、ここではコメントできない。

 ビデオを見終わったあと、「本まで買って読んでみたい」という気持は、とても起こらな
かった。(ゴメン!)

【注】この評論は、今回封切られる、ロム・ハンクス主演の映画、『ダビンチ・コードの謎』
についてのものではありません。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 3日(No.721)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●拾ったお金は、交番に!

+++++++++++++++++

子どもたちに、「拾ったお金はどうしますか?」と
聞くと、みな、すかさず、「交番に届けます」と
答える。

が、昨日、私は、ふと、こう思った。

「日本では、そうかもしれないが、では、外国では
どうなのか?」と。

+++++++++++++++++

 子どもたちに、「拾ったお金はどうしますか?」と聞くと、小学生だと、みな、「交番へ
届ける」と答える。幼児だと、「パパやママに預ける」と答える。

 が、昨日、私は、ふと、こう思った。「日本では、そうかもしれないが、では、外国では、
どうなのか?」と。日本にあるような交番のある国は、少ない。そこでアメリカにいる息
子に電話をして、確かめてみた。

 私が、「アメリカでは、どうしているのか?」と聞くと、息子は、しばらく考えたあと、
こう言った。「めったにお金は落ちていないから……」と。

 そこで息子の嫁に聞いてもらった。嫁は、生粋(きっすい)のアメリカ人である。「日本
では、子どもたちに、拾ったお金は、交番(POLICE BOX)に届けるようにと教
えているが、アメリカではどうなのか?」と。

 するとしばらく考えた様子だったが、こう言った。「アメリカでは、みな、そのままもら
ってしまう」と。

 どうやら、「拾ったお金は、交番に」というような教育は、アメリカでは、していないよ
うだ。もっともアメリカは、万事、自己責任の国。お金について言えば、落とした人が悪
いということになる(?)。

 「そういうものだろうな」と考えてみたり、「そういうものかな」と考えてみたりする。

 で、その私だが、何度か、お金を落としたことがあるが、一度とて、戻ってきたためし
がない。近くの交番へ問いあわせたこともない。最初から、あきらめてしまう。「どうせ、
戻ってこないだろう」と。

 問題は、お金を拾ったときだ。サイフでもよい。

 これはあくまでも私のばあいだが、サイフだったら、一番近くにある店に届けるように
している。……というより、ここ数回、どういうわけかコンビニの前ばかりで拾っている。
それで、そのままコンビニへ届けるようにしている。

 その前は、一度、高校生のサイフを拾ったが、中を確かめると、学生証のほか、コンド
ームが2個入っていた。小銭もいくらかあったが、私はそれを、落ちていたところにあっ
た自動販売機の上にのせた。交番までは、歩いて5〜600メートルほどの距離があった。

 「どこのバカが、コンドームの入った高校生のサイフなど、わざわざ交番へ届けるか!」
と、そのときは、そう思った。

 「拾ったお金は、もらってしまえ」とは、立場上、私は、言えない。遺失物横領罪に該
当する。しかしそれが国際的な常識であるとするなら、無理に善人ぶるのも、どうかと思
う。そこで以前、子どもたちとこんな会話をしたことがある。

 「いくらなら、もらってしまうか? またいくらなら、交番へ届けるか?」と。

 つまり交番へ届けるにしても、金額の問題があるだろう。100円や200円なら、も
らってしまうだろう。しかし10万円や20万円ともなると、やはり良心がとがめる。で、
その結果だが、子どもたち(小学校の高学年児)たちは、こう言った。

 「1000円や2000円くらいなら、もらってしまう。それ以上のときは、パパかマ
マに渡す」と。

 まあ、このあたりが、常識的な見解ということになる。ただ私のばあい、こういうこと
がある。

 自転車で走っていると、ときどき、サイフらしきものが落ちているのを見かけるときが
ある。しかしそういうとき、最近の私は、わざと見て見ぬフリをして、その場を通り過ぎ
るようにしている。サイフを拾うのもよいが、そのあとのことを考えると、わずらわしい。

 そういう私でも、若いころは、こまめに落とし主をさがして、それを渡していた。マニ
ュアルどおり、交番へ届けたことも何度かある。が、そうした行為をすることに、どれほ
どの意味があるのか。たいていのばあい、「はい、ありがとう」ですんでしまった。が、か
といって、サイフを自分のものにするのも、いやなこと。自分の人間性が腐る。

 しかしアメリカでは、「もらってしまう」と。

 そういう生き方のほうが、わかりやすい。スッキリしている。あるいは思い切って、そ
ういうルールを作ればよい。「10万円までは、拾った人がもらってよい」「10万円以上
のときは、警察か交番に届ける」とか何とか。

 まあ、むずかしい話はさておき、サイフを拾ったときほど、その人がもつ善と悪の、心
の境目が試されるときはない。自分のもっている道徳心や倫理観が、どの程度のものか、
そのときわかる。

 さて、あなたなら、どうする? 道を歩いていたら、10万円が入った財布が落ちてい
た。近くには、だれもいない。さあ、どうする? 本音で、一度、この問題を考えてみて
ほしい。


【付記】

 私は、幼児や小学生を教える立場上、子どもたちには、「拾ったお金は、まず、パパかマ
マに渡しなさい。あとのことは、パパかママに任せなさい」と教えている。「もらってしま
いなさい」とは、決して、教えていない。念のため! (しかしこの教え方は、責任逃れ
のようで、少し、ズルイかな?)

【付記2】

 こわいのは、無理に善人ぶること。無理に善人ぶれば、その裏で、人は、もうひとつの
別人格をつくる。ユングが説いた「シャドウ」というのが、それである。

 よくある例は、牧師や僧侶、それに教師が、善人ぶること。セックスの話などを、こと
さら嫌って見せたりする。あるいは「自分は悪とは無縁の人間です」というような態度を
して見せたりする。

シャドウというのは、いわば邪悪な心のかたまりのようなもの。つまり仮面をかぶる人
は、自分の邪悪な部分をそのシャドウに押しこめることによって、善人であるというフ
リをすることができる。自分は善人であると信じこむことができる。あるいは自分をだ
ますことができる。

 しかしそういう仮面(ペルソナ)を一度かぶると、やがて、本当の自分がわからなくな
ってしまう。わからなくなってしまうだけではなく、そのシャドウを、一番身近にいる人
が、受け継いでしまう。

 牧師や僧侶、あるいは教師の子どもが、ときとして世間を揺るがすような大事件を起こ
すことがある。その一例として、佐木隆三の書いた、『復讐するは我にあり』をあげる学者
がいる。(これについては、以前にも書いたので、ここでは省略する。)こうした子どもは、
自分の親のシャドウを、そのまま引き継いでしまった子どもと考えられる。

 しかしシャドウはシャドウ。その人の影のようになって、いつもその人につきまとう。
つまりわかりやすく言えば、無理に善人ぶっても、意味がないということ。人間は、自然
体で生きるのがよい。あるがままの姿をさらけ出して生きるのがよい。

 「牧師だから……」「僧侶だから……」、そして「教師だから……」という理由だけで、
無理をしてはいけない。無理をして仮面(ペルソナ)をかぶってはいけない。

もし善人になる方法があるとするなら、あるいは善人になりたいと願うなら、それはま
さに日々の行いの中から生まれる。長い時間をかけて、熟成される。牧師や僧侶、それ
に教師になったとたん善人になるということは、絶対に、ありえない!

 が、もしあなたが何も考えず、ごく自然に、拾ったサイフやお金は、持ち主のものと考
え、さらに何も見返りを求めず、交番に届けるようであれば、あなたはすばらしい人と考
えてよい。しかしそんな人は、今の日本に、いったい、何%いるだろうか?

【付記3】

 今日も、H大医学部の教授のセクハラ問題が新聞に載っていた(4月4日)。報道によれ
ば、学内で処分される前に、自ら辞職してしまったということらしい(※)。

 その教授も、一応、表面的には、すぐれた人格者ということになっていたのだろう。ま
たそうでなければ、H大の教授は、勤まらない。

 しかしいかに能力的にすぐれた人物でも、そのままイコール、人格者というわけではな
い。むしろ現実は、その逆ではないのか? 「教授」「教授」と、あがめたてまつられてい
るうちに、このタイプの人は、自分を見失ってしまう。人格を磨く機会と場所を、見失っ
てしまう。

 ユングの理論を借りるなら、教授という仮面をかぶることで、邪悪な部分を、シャドウ
に閉じこめたまま、自らを人格的にもすぐれた人間であると、錯覚してしまう。しかし本
物の善人ではない。だからこうした事件を、起こす。

 セクハラの内容がどういうものであったかについては、何も報道されていないので、よ
くわからない。しかし自ら辞職したということなので、それ相当なことをしたのだろう。
この事件は、「脳科学者」という肩書きをもつ教授が起こしたということでも、たいへん興
味深い。その教授は、脳の構造については熟知していたのかもしれないが、脳の機能につ
いては、そうではなかったということになる。

このつづきは、もう少し情報を集めてから書いてみたい。

【付記4】

 よくふだんは善良ぽく見える人が、何かの事件を引き起こしたりすると、「魔がさした」
などという言葉を使って、それを説明する人がいる。

 「ふとした油断が原因で、そういう事件を起こした」という意味で、そう言う。しかし
そういう人は、もともと善人ではなかったという前提で考えると、この「魔がさした」と
いう言葉の意味がよくわかる。

 もっと言えば、自分が心のどこかに閉じこめておいた邪悪な部分が、ふとしたきっかけ
で、顔を出した。そしてその人を、ウラから操った。その結果、事件を引き起こした。つ
まりそう考えると、うまく説明ができる。

【注※】ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

 「脳科学者のS口俊之・H大大学院医学研究科教授(47)が、大学職員へのセクハラ
(性的嫌がらせ)を理由に、諭旨解雇処分を通知された問題で、H大は3日、S口教授が
1日付で自主退職したと発表した。

 独立行政法人化後の人事規定の盲点を突かれ、処分逃れを許す羽目になった。

 S口教授は、セクハラ審査の終盤の3月18日に退職願を提出。大学側は23日に処分
を伝えた。従来なら人事院規則により退職願の受理を保留できたが、法人化で、職員は非
公務員となり、『雇用解約を申し入れた日から2週間を経過すると雇用関係は終了する』と
の民法の適用対象となった。

 一方、教育公務員特例法は処分通知から2週間の異議申し立て期間を認めており、多く
の国立大は法人化後も人事規定に同じ定めを設けたという。このため、処分確定には2週
間が必要で、職員から通知前に退職願が出ると、退職が先に成立し、処分できなくなる」
と。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●受験競争

++++++++++++++++++

2人の母親が、こんな話をしていた。

「X進学塾は、毎週テストをしてくれるそうよ」
「Y進学塾は、レベルが高いそうよ」
「X進学塾では、成績がさがると、Bクラスに回されるそうよ」
「Y進学塾でも、そうらしいわ」
「どちらにしましょう?」
「どちらに入れようかしら?」と。

++++++++++++++++++

 たいていの親たちは、はげしい受験競争をしてくれる塾ほど、よい塾と考えている。ま
たそういうところへ入れれば、自分の子どもの成績が、さらに(?)、よくなると考えてい
る。

 たしかに受験勉強には、ある種の緊張感が必要である。その緊張感がないと、こと学力
という点では、伸び悩む。そこで多くの進学塾では、(成績)という脅しを使って、その緊
張感をつくる。

 しかしそこにあるのは、(成績)だけ。すべてが(成績)に始まって、(成績)で終わる。

 しかしこの方法には、両面がある。成績が伸びることで、さらにやる気を出す子どもも
いるかもしれないが、それ以上に多くの子どもは、やる気をなくし、成績をさげる。(成績)
というのは、あくまでも相対的なもの。A君が1位になれば、それまで1位だったB君が、
2位になるだけ。

 が、それにもまして考えなくてはいけないことは、『だから同なの?』という部分のない
教育ほど、恐ろしいものはないということ。「成績があがったら、どうなの?」「いい高校
や、いい大学へ入ったから、どうなの?」と。

 俗にいう(よい高校)や、(よい大学)へ入ってはみたものの、その時点で、燃え尽きて
しまったり、荷おろし症候群といって、そのまま宙ぶらりんになってしまう子どもは、多
い。本当に、多い! 全体の何割、あるいはそれ以上と言ってもよいほど、多い。が、そ
れだけではない。

 都会地域で、子どものころからはげしい受験競争を勝ち抜いてきた子どもほど、独特の
価値観、人生観をもっているのがわかる。(本人は、ぜったいに、それがわからないが……。)
わかりやすく言えば、クールで、冷たい。いつも巧妙に損得計算ばかりしている。ある大
学教授から聞いた話を、正確に、そのまま書く。

 その大学の教授の娘(30歳、当時)が、ある大学の研究室に入った。その研究室に、
ある検査機器が導入されることになった。高額な機器である。が、だれも、その使い方を
教えてくれないという。その検査機器を使うのは、その使い方を知っている、一部の研究
者だけ。「他人に使い方を教えたら損、という雰囲気さえある」と。

 受験競争が、そのまま大学の研究室に反映されている。が、そういう世界が、本当に望
ましい世界と言えるだろうか。あるべき世界と言えるだろうか。多くの親たちは、何も考
えず、子どもを受験競争に駆り立てる。しかしその受験競争のもつ弊害については、ほと
んど耳を貸さない。

 近未来的には、あなたの子どもが、その受験競争に敗れたときのことを考えてみればよ
い。あなたの子どもは、その時点で、キズつき、自信をなくし、自らにダメ人間のレッテ
ルを張ってしまう。そうする可能性は、たいへん高い。はげしい受験競争を経験した子ど
もほど、そうであろう。仮に、どこかの高校や大学へそのあと入ったとしても、もう(や
る気)は起きてこない。(やる気)を期待するほうが、おかしい。そうなる。

 しかしそういうのを、「教育」と言ってよいのだろうか? 「教育」と言えるのだろうか? 
しかし今、多くの親たちが、その(おかしさ)に気づき始めている。それについては、ま
た別の機会に書くことにして、子どもに向かって、「勉強しなさい!」と叫ぶときには、こ
こに書いたようなことを、頭のどこかに置きながら、叫ぶとよい。多分、それだけでも、
あなたの心は、少しは、やさしくなると思う。

(付記)

 自分自身の経験もふまえて、つまり反省の念をこめて、あえて告白する。

 私も、若いころ、ある進学塾で、講師をしていたことがある。今から思うと、とんでも
ないことをしたと思う。若い、子どもの心理の「シ」の字もわかっていない講師が、子ど
もの進学指導をする。その恐ろしさというか、デタラメさというか、世の親たちは、もう
少し、それを知ったほうがよいのでは……。

 豪華なパンフレットや、こうこうと光るネオンサインに、決して、だまされてはいけな
い。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【老人の赤ちゃん返り】

+++++++++++++++

老人の中には、子どもがよく見せる、
赤ちゃん返りに似た様子を見せる人
がいる。

そう、それはまさに赤ちゃん返り。
赤ちゃん返りをすることで、このタイプ
の老人は、だれかに依存しようと
する。

+++++++++++++++

●仏様のようなUさん

 以前、ある女性のことを書いた。その女性は、数年前、88歳で死んだが、私が見た感
じでは、まさに仏様のような人だった。いつも穏やかな顔をして、笑顔を絶やさなかった。
そのあたりに伝わる昔話もよくしてくれた。

 で、その女性が死んでから、数か月後のこと。その近所に住む、S氏(70歳くらい)
という名前の男性と、こんな会話をした。私が、「あのおばあちゃんは、本当にいい人でし
たね。あの人がなくなって、本当に残念です」と。すると、そのS氏は、はき捨てるよう
にして、こう言った。

 「何ですって、林さん! あのUさん(=その女性)が、いい人ですってエ? とんで
もない。若いころは、きつい人でね、みんな、あのUさんに泣かされましたよ」と。

 私はその話を聞いて、本当に驚いた。信じられなかった。「Uさんって、あのおばあちゃ
んのことでしょ?」「そうですよ」と。

●赤ちゃん返り

 子どもの世界には、「赤ちゃん返り」と呼ばれる、よく知られた症状がある。下の子ども
が生まれたことが原因で、上の子どもが、赤ちゃんのようになる症状をいう。それまでし
なかったおもらしを、再び、し始めたり、態度、しぐさ、それにものの言い方などが、赤
ちゃんのようになる。「ママ」のことを、「ウマーマー」と言ってみせたりするなど、言い
方そのものが、ネチネチとした言い方になることも多い。

 本能的な嫉妬心が、子どもの心をゆがめると考えるとわかりやすい。つまり生まれたば
かりの赤ちゃんは、自分のかわいさを親にアピールすることで、親の保護を受けようとす
る。こうした行為は、意思的な行為というよりは、本能的な行為と考えるのが正しい。つ
まりこの時期、愛着行動は、親から赤ちゃんに対してだけではなく、赤ちゃんからも親に
対してと、その双方向においてなされる。

 それを「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」と呼ぶ学者もいる。

 で、下の子どもが生まれたりすると、上の子どもは、もう一度、親の愛情を自分のもの
にしようと、本能的な部分で、親への働きかけ(アタッチメント)を始める。それが「赤
ちゃん返り」である。

●スタスタと歩いていた、Aさんの母親

 老人といっても、大きく分けて、2つのタイプに分かれる。ひとつは、独立心が最後ま
で旺盛で、「私は私」という生き様を貫(つらぬ)くタイプ。

 もうひとつは、依存性が強く、だれかに依存しながら生きていこうとするタイプ。この
タイプの老人の特徴は、加齢とともに、ますます、その依存性を強くしていく。

 私の知人に、こんな女性がいた。そのとき年齢は、75歳くらいではなかったか。電話
をかけてくるたびに、「私も、年をとったからねエ〜」と。つまりその女性は、そう言いな
がら、言外で、「だから、何とかしてほしい」と言いたかったのだろう。何かにつけて、ネ
チネチと他人に甘えるような言い方をした。

 こんなことがあった。これはその知人の娘にあたる女性から聞いた話である。その娘に
あたる女性を、Aさんとしておく。

 そのAさんのところにも、よく電話がかかってきたという。そのときも、今にも死にそ
うな、弱々しい声で、「足が痛い、足が痛い」と。そこでその翌日、Aさんが、母親の家に
行ってみると、母親は、居間から台所へ歩くだけでも、何度もころびそうになったという。
床をすって歩くような歩き方をしていた。

 そこでAさんが、「病院へ行こうか」と声をかけると、「心配しなくていい」「ひとりで歩
けるから」と。しかしそんな母親の様子を見て、心配をしない娘はいない。その日はいっ
たん嫁ぎ先の家に帰り、翌日、母親を病院へ連れていくつもりでいた。

 が、その翌日のこと。それを見て、Aさんは、腰を抜かしそうになったという。電車を
おりて、改札口を出たところで、何と、その私の知人、つまりAさんの母親が、駅の構内
を、ほかの友人たちと、スタスタと歩いているのを見てしまったというのだ。

 Aさんが、思わず、「お母さん!」と声をかけると、その母親は、瞬間、しまったという
ような顔をしてみせたという。

 つまり、私の知人は、Aさんという娘にめんどうをみてもらいたいがため、ウソをつい
ていたことになる。こうした例は、老人の世界には、多い。

●仮面(ペルソナ)

 依存性の強い老人は、弱々しい自分を演ずることで、相手の同情をかう。が、それは演
技によるものというよりは、もっと本能的なものと考えてよいのでは。ある女性(85歳
くらい)は、他人の視線を意識したとたん、まるで別人のように歩き方、話し方まで、変
わってしまうという。

 また別の女性(80歳くらい)は、現在、ひとり住まいをしているが、さみしくなると、
あちこちへ電話をかけるという。やはり今にも死にそうなほど、弱々しい声でそれをする
という。

 最初のころは、みな、それにだまされて(?)、あわててその女性の家に駆けつけたもの
だが、しかしそのうち、だれも相手にしなくなってしまったとのこと。

 で、こうした依存性は、どうして生まれるかという問題がある。それは本来の依存的性
格がそうさせるのか、それとも、演技によるものなのか。さらにあるいは、子どもの赤ち
ゃん返りに似た症状と考えてよいのか。

 ただ子どものばあいとちがって、長い年月をかけてそうなるため、つまり本人自身の(意
識的行為)が混在するようになるため、子どもの赤ちゃん返りのように、単純に考えるこ
とはできない。このタイプの老人は、どうすれば自分がよい老人に見えるか、また人にそ
う思われるかを、いつも他人の目の中で、研究している。そしてそれが、その老人の(仮
面)となって、その老人に定着する。

●もともと依存性が強い

 あえて言うなら、先にも書いたように、このタイプの老人は、もともと依存性の強い人
と考えてよい。他人に対して、服従的で、そのため同情をかうような行為が目立つ。見た
目の外観とは、区別して考えたほうがよい。

 その人が依存的であるかどうかは、もっと本態的なもので、ふつうは、外観からはわか
らない。見た目には独立心が旺盛に見える人でも、依存的な生き方をしている人は、多い。
このタイプの老人、つまり依存性の強い老人は、日常生活の中でも、何かに依存していな
いと、落ちつかない。

 依存する対象は、さまざまである。学歴や過去の肩書き、夫や妻、子ども、財産や名誉
などなど。さらに宗教に依存する人も多い。毎日のように墓参りをしたり、朝夕の勤行を
かかさない人もいる。

 ある男性(75歳くらい)は、足腰が立たなくなったとたん、家人(息子や娘)に、墓
参りをするように命じているという。その息子氏がこう言った。「元気なころには、一度も
墓参りなどしたことがないのに……」と。

 こうした依存性が、つまりは満たされない空虚感が、回りまわって、赤ちゃん返りの引
き金を引く。そう決めてかかるのは危険なことかもしれないが、しかしそう考えることに
よって、依存性の強い老人の行動をうまく理解できる。

 事実、このタイプの老人は、赤ちゃんそのものになる。

●仮面は仮面

 ある男性(75歳くらい)は、機嫌のよいときには、まるで赤ちゃんのように、周りの
人に甘えるという。穏やかな顔つき、やさしい言い方、ニコニコというよりは、ニタニタ
という笑みを浮かべて、すりよってくるという。

 話し方も、どこか幼稚ぽい。話す内容も、自分の子どものころのことばかり。自分は子
どものころ、いい子だったということを、ことさら強調するという。

 が、仮面は仮面。そうした行為を、家人が無視したりすると、突然、怒り出すことも珍
しくないという。あるいは自分の部屋に戻って、ものを壊したりすることもあるという。
こんな例もある。

 ある夜、いつものように、娘のB子さんのところに、B子さんの母親から電話がかかっ
てきた。が、たまたま、そのときB子さんは、夫と言い争いをしていた。虫の居所が悪か
った。そのため、B子さんが、母親に、「今、忙しいから、またあとで電話してくれない」
と告げた。とたん、それまでの猫なで声だった母親の口調が変わり、「何だ、その言い方は!
 親に向かって何てこと言う!」と。そのままその母親は、電話をガチャンと切ってしま
ったという。

 B子さんは、笑いながら、こう言った。「あまりの急変ぶりに、私のほうが驚いたくらい
です」と。

●仏様(?)

 さて、あなたの周囲にも、その「仏様」のような老人は、いくらでもいるはず。すべて
を悟りきったような表情で、穏やかで、やさしい。

 しかしそのほとんどは、仮面と見てよい。苦労に苦労を重ねてそうなった人には、人間
的な深みを感ずるが、仮面をかぶった人にはそれがない。どこか不自然。どこかつかみど
ころがない。そういった感じになる。

 さらに見るべきところは、その人の過去である。

 ある女性(80歳くらい)は、生涯において、ただの一度も働いたことがない。料理と
洗濯はしたが、掃除といっても、部屋の中だけ。道路や、外回りは、すべて子どもたちが
していた。

 「先代からの財産があるから……」と言っていたが、その実、そのつど息子や娘から言
葉巧みにお金を取りあげて、生活費にあてていた。その女性も、今、まわりの人には、「仏
様」と呼ばれている。

 が、そんな女性が、仏様になるはずがない。言うなれば、赤ちゃん返りをしているだけ。
赤ちゃん返りをした老人は、みな、仏様風の様子になる。

 ……ということで、このところ、老人の心理に、たいへん興味をもっている。ひとつに
は、幼児の心理に似ているということもあるが、私自身が、その老人に近いということも
ある。

 さらに人間の心理は、そのつど変化すると、一般的に考えられている。「発達心理学」と
いう言葉も、そこから生まれた。たしかにそういう部分もないわけではないが、しかし私
は基本的には、幼児も老人も、その心理には一貫性があると思う。もっとはっきり言えば、
幼児も老人も、同じ。つまりその間の、少年少女期も、青年期も、壮年期も、同じ。

 そう思うようになりつつある。つまりこのエッセーは、そういう視点で、書いてみたが、
まだよくわからない点も多い。もう少し考えてから、このつづきを書いてみたい。
(はやし浩司 老人の赤ちゃん返り 依存性 依存性の強い老人)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●新年度の決意

+++++++++++++++++++++

一般社会では、正月の元旦、つまり1月1日が、
年の始まりということになっている。しかし私た
ちの世界では、4月1日が、年の始まり。

+++++++++++++++++++++

 私は、この10年間、遠慮ばかりしていた。何かにつけて、控えめにすることばかり考
えていた。それを心のどこかで、モットーにしていた。わかりやすく言えば、年齢を気に
しすぎていた。50歳になったのだから、50歳らしい生き方を、と。もうすぐ60歳に
なるのだから、60歳らしい生き方を、と。

 しかしそれはまちがっていた。そういう生き方は、まちがっていた。

 1人の人間が生きていくことについて、年齢など、関係ない。たしかに気力や体力は弱
くなる。中には、ボケ始める人もいる。しかし私はちがう。みなが、そうだからといって、
私までそうでなくてはならないと考える必要は、ない。まったく、ない。

 ところで世間では、正月の元旦、つまり1月1日をもって、年の始まりとする。しかし
私たちの世界では、4月1日をもって、年の始まりとする。そのため、私たちの世界では、
この時期は、メチャメチャ、忙しい。

 昨日も、おとといも、教室の掃除や、手なおしなどで、一日中、忙しかった。ジュータ
ンを買ってきて、それを教室に敷いた。机をペンキで塗りなおし、その上にビニール・シ
ートをかけなおした。

 教材の整理や、棚の整理などなど。そんな作業をワイフに手伝ってもらいながら、こん
な会話をした。

私「ぼくは、死ぬまで、全力で仕事をするよ」
ワ「そうよ、あなたはまだ若いわよ」
私「そうだな。今までのぼくは、あまりにもジジ臭かった」と。

 この10年間、私はいつも自分の年齢を数えながら生きてきた。そんな感じがする。た
とえば物を買うときも、「あと〜〜年、もてばいい」「ぜいたくなものはいらない」と。

 しかしそれはまちがっていた。

私「ぼくは倒れるまで、仕事をする。これからは今までの何倍も、全力で仕事をする。そ
して倒れたときが、終わり。そのときは、いさぎよく、死ぬ」
ワ「簡単には、死なないわよ」
私「尊厳死という言葉があるけど、ぼくが脳死状態になったら、さっさと、延命装置をは
ずしてほしい」
ワ「……遺言でそう書いてくれないと、私には、できないわ」
私「わかった。そう書いておく。だから、さっさとはずしてほしい」
ワ「わかったわ」と。

 ワイフの話しによれば、今度から、本人の意思表示がなくても、家族の同意があれば、
尊厳死ができるようになるという。そのための法改正が、今、進んでいるという。今まで
は、前もって、本人がその意思表示をしておかねばならなかった。

私「ぼくには、したいことが山のようにある。いつか、お前を、あのメルボルンに連れて
行きたい。それに……」
ワ「何よ?」
私「最新型のパソコンがほしい」
ワ「いつだって、買えるじゃない」
私「そういうものでもないよ。パソコンは、電気製品とはちがうから」と。

 「あと何年、この仕事ができるだろうか」などということは、もう考えない。そういう
ふうに考えること自体、ジジ臭い。体も頭も快調。だったら、それを信じて、仕事をすれ
ばよい。年齢は、関係ない。

 だれだ! 還暦だの何だのと、バカな言葉を考えたのは! そういう言葉を考えるから、
人はいつの間にか、その言葉にしばられるようになってしまう。

 さあて、新しい年度。ジジイになりたいやつは、勝手になればよい。ジジイだと思いた
いやつは、勝手にそう思えばよい。しかし私は、ちがうぞ。これからが人生だ。思う存分、
自分の仕事をするぞ。自分の人生を楽しむぞ。さあ、来い!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●ワイフのビーズ

 このところ私のワイフは、ビーズにハマっている。ビーズを使って、ネックレスやブレ
スレットを作っている。で、今日も、近くのショッピングセンターへ行って、ビーズ玉や、
ネックレスを作るための小物類を、あれこれと買ってきた。

 私は、二男の嫁のために、ほぼ同じものを、買いそろえてやった。しめて合計で、70
00円! 電話で、「ビーズに興味があるか?」と聞くと、嫁は、「YES!」と明るく答
えた。それで嫁にも、買いそろえてやることにした。

 今、ワイフは、横で新しいネックレスに挑戦している。私は、こうして文章を書いてい
る。聞こえるのは、熱帯魚を飼っている水槽の水の流れる音。パソコンのキーボードをた
たく音。それに、カチャカチャと、ワイフが、ビーズ玉をケースに入れたり落としたりす
る音。外はすでに真っ暗。

 時刻を見ると、午後6時半。静かな夜がやってきた。……しかしワイフは、いつ、ネッ
クレスを首に飾るのだろう? 作るばかりで、首にかけない。「どうして?」と聞いたら、
「ネックレスに合う服がない」とのこと。フ〜ン。


●歯医者

 今日で、虫歯の治療が終わった。最後に、ドクターが、歯の磨き方を、ていねいに教え
てくれた。ついでに、看護士さんが歯の掃除もしてくれた。

 口をゆすぐとき、ふと横を見ると、ドクターがそこにいた。そのドクターに世話になる
ようになって、もう35年になる。家族も、みな、そのドクターの世話になっている。

 ふだんは、大きなマスクをしているので、よくわからなかったが、そのドクターも、私
と同じように年をとった。横顔を見たとき、そう思った。

 良心的で、腕も確か。まちがいなく、名医と断言してよい。医院の名前は、K谷歯科医
院。市内の佐鳴台にある。「今日で治療は、ひとまず終わりです」と言われたとき、ふと、
何とも言えないさみしさが心の中を、横切った。
(はやし浩司 浜松市佐鳴台 K谷歯科医院)


●株価

 数か月前に買った株が、その後、どんどん値下がりした。一時は、1株あたり、数万円
も下がった。で、xx万円の含み損。

 こういうときは、株は、塩漬け。それが私のやり方。若いころからの、私のやり方。

 が、ここ数日、どういうわけか、その株の株価が上昇し始めた。昨日も、ストップ高。
まだ元を取り戻すところまではきていないが、あと一息。がんばれ!

 新聞の報道によれば、バブル経済が再燃しているという。まあ、日銀もこれだけ市中に
お金をバラまけば、それも当然。仮に年間、30兆円もバラまけば、国民1人あたり、約
30万円弱。我が家で計算すれば、150万円(5人分)ということになる。

 株で、それくらい儲けたとしても、おかしくない。しかし少なくとも我が家には、そん
なお金は入ってきていない。いったい、どこへ、こうしたお金は消えていくのか?


●新聞の3面記事

 夕刊(中日新聞4・4日号)が、私の左に、開いたまま、そこにある。見ると、性犯罪
がらみの記事が、3つ!

(1)九州のRKB毎日放送の記者が、女子高校生を強姦し、そのときの模様を、ビデオ
にまで収めていたという。ほかにも余罪があるらしい。

(2)静岡県の清水市の消防士が、わいせつ未遂で、再逮捕されたという。ほかに10数
件の余罪が疑われているという。

(3)浜松市の女子中学生を相手にした売春事件で、さらに3人が逮捕されたという。う
ち1人の36歳の男は、私が住む町内と同じ町内の住人だという。

 私も「男」だから、男性の心理が理解できないわけではない。しかし(思い)と(行動)
の間には、距離がある。たとえば「若い女性とセックスをしてみたい」というのは、(思い)。
しかしそれを実行に移すには、かなりの努力と時間的エネルギーが必要である。

 その(思い)と(行動)の間に距離がある人を、自己管理能力の高い人という。距離の
ない人を、自己管理能力の低い人という。つまりその人がもつ、道徳心や倫理観というの
は、その間の(距離)のハバによって決まる。

 で、私のことだが、私は、それほど自己管理能力が高い人間だとは思わない。誘惑には
弱い。優柔不断で、自分の意思をはっきりさせることができない。人に頼まれると、何と
なく、それを手伝ってしまう。

 しかしこと、女性ということになると、私は、極端に臆病(おくびょう)になる。自信
がない。だいたい私は女性にモテるタイプではない。ワイフはいつも私のことを、「MR.
ビーンみたい」と言う。

 私も、そう思っている。ムードは、ゼロ。若いころ失恋をしたのが、いまだに尾を引い
ている。そのときから、女性は、あきらめた。遠い存在になった。今も、そうで、ときど
き、(本当だぞ)、私のことを、「すてきな男性だ」と言ってくれる女性もいるにはいるが、
そういう女性は、それを喜ぶ前に、頭がおかしいのではと思ってしまう。

 しかし私のような男ほど、あぶないのか? モテる男性だったら、こういう事件など、
起こさない。モテないから、こういう事件を起こす(?)。

 どこがちがうのか? 私とそういう事件を起こす連中とは、どこがちがうのか?

 簡単に言えば、私には、そのチャンスがないということ。そういう世界とは、無縁の世
界を生きている。つまり私の頭の中には、そういう情報そのものがない。それで、かろう
じて、私は私のままでいられる。

 そこで重要なことは、『危うきに近寄らず』ということか。そういう人を、「君子」と言
うらしい。

(追記)

 こうしたハレンチ罪を犯した人に対しては、もっと重罪で臨むべきである。問答無用に、
懲役2年くらいは、常識ではないのか。アメリカでは、そうしている。しかしこの日本で
は、初犯だと、ほとんどのばあい、執行猶予をつけて、そのまま再び社会に放り出してし
まう。性犯罪に、甘い。甘すぎる。

前にも書いたことがあるが、オーストラリアでは、そうした若い女性(16歳未満※の
女子)との性交渉については、たとえ合意があったとしても、性交渉をもった本人(男)
はもちろんのこと、それを見聞きしながら、それを通報しなかった人も、罰せられるこ
とになっている(南オーストラリア州)。つまり通報を、義務化している。

 日本も、この際、それくらい罰則をきびしくしてもよいのではないのか。
(はやし浩司 性犯罪 通報の義務化)
(※年齢については、未確認。前回書いた原稿のほうが、正確。)


●肥満

 春休みなって、とたん、体重が、2キロもふえてしまった。で、さっそく今日、4月4
日から、ダイエット開始。運動開始。

 同じ日、医療センターから、先日の健康診断の結果が届く。1項目をのぞいて、オール
A! 1項目というのは、「総コレステロール」。それが「B」。

 (A…異常なし。B…日常生活に支障なし。C1…12か月後に要検査。C2…6か月
後に要検査。C3…3か月後に要検査。E…要精密検査。つぎにF1、F2とつづく。)

 総コレステロールの正常値は、130〜230mg/dlだそうだが、私の値は、23
3。3mgのオーバー。

 しかしこのところ、食事がおいしくて、ならない。ついつい食べ過ぎてしまう。気をつ
けよう。


●超能力捜査官(?)

 おとといも、そして昨夜も、民放のテレビ局が、超能力捜査官なる人物を登場させて、
わけのわからない番組を流していた。

 で、最後までしっかりと見たが、結局は、みな、ハズレ! おとといの番組は、超能力
捜査官なる人物を使って、生き別れになった母親を探し出すというもの。昨日の番組は、
アメリカで失踪した、女子大学生の行方を探し出すというもの。

 ものごとは、常識で考えろ! そんなことで、生き別れになった人や、失踪した人の居
場所など、わかるはずがない。多少の科学性があるとするなら、ダウジングだが、しかし、
私は、信じない。ダウジングというのは、針金のような棒をもって、地下に埋まっている
ものをさがしだすという、あれである。

 その(モノ)の上に、何かの棒(これをダウジングロッドという)をもってやってくる
と、その棒が地下にあるものと反応して、動いたりするという。その動きを見ながら、地
下にあるものをさがしだす。

磁場や磁力の微妙な変化を感じ取ってそうなるらしいが、しかし水脈や鉱脈のような大
きなものについては、その可能性もないとは言えないが、地下に埋まった筒や箱程度の
ものに、それほどまでに大きな力があるとは、思われない。つまり手にもった棒を動か
すほどの力があるとは、思われない。

 番組の中では、学校の校庭に埋められたタイムカプセルをさがし出すというようなこと
をしていたが、逆に考えてみれば、トリックは、簡単にわかるはず。

 あなたがタイムカプセルを埋めるとしたら、どんな場所に埋めるだろうか。まさか校庭
に中央ということはあるまい。たいていは、校庭のすみで、木とか、鉄棒とか、何かの目
印になるものの横に埋める。そうした常識を働かせば、タイムカプセルがどこに埋められ
ているかは、おおよその見当がつくはず。

 ああいう番組を、何の疑いももたず、全国に垂れ流す、その愚かさを知れ。当たりもし
ないのに、そのつど、ギャーギャーと騒いでみせる、その愚かさを知れ。さらにこうした
番組が、それを見る子どもたちにどのような影響を与えるか、その恐ろしさを知れ。

 超能力捜査官を名乗る男たちは、その過程で、道路の様子や、風景について、あれこれ
と言い当てて見せたりする。しかしそんなことは、あらかじめ簡単な下調べをすれば、わ
かること。

男「近くに湖があります」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」
男「学校があるはずです」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」と。

 しかし肝心の遺骨は出てこなかった。が、それ以上に許せないのは、遺族ともまだ言え
ない家族を前にして、「殺されています」「埋められています」と、口に出して、それを言
うこと。他人の不幸を、こういう形で、娯楽番組にしてしまう、その冷酷さを知れ。残酷
さを知れ!

 本当に、日本人はバカになっていく。昔、「一億、総xxx」と言った、著名な評論家が
いたが、日本人は、ますますそのxxxになっていく。「xxx」というのは、ノーブレイ
ンの状態をいう。脳死の状態と言ってもよい。

 こういうことを書くと、それを信じている人は、猛烈に怒る。その気持ちは、わかる。
しかしそれこそカルト信仰ではないのか。あるいはカルト信仰の前段階と言ってもよい。
そういうものを信ずることによって、知らず知らずのうちに、その人は、カルト信仰の下
地を、自ら、作っていることになる。

(付記)

 そうであるとは断言できないが、テレビ局は、たまたま当たったばあいだけを、編集し
て放送しているのではないかという疑いもある。もしそうなら、それこそ、まさに詐欺と
断言してよい。国民の良識を愚弄(ぐろう)する、詐欺である。こうした番組を見るとき
は、そういう目で見ることも忘れてはならない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●トンチンカンな論法

+++++++++++++++++

韓国のN政権は、言うこと、なすこと、
すべてトンチンカン!

+++++++++++++++++

 朝鮮N報が、こんな記事を載せている(4月2日)。いわく「韓国がK国を経済援助する
のは、アメリカの国益にもかなっている」と。

 「?」と思って記事を読むと、こうあった(要約)。

「韓国のK国支援は、アメリカの戦略に合致。

 中国はK国を、K国を『中国の東北第4省』として、自国にとりこもうとしている。こ
のままでは、K国は、そうなってしまうだろう。つまり38度線が、中国と韓国の国境と
なってしまう。

 これはアメリカのアジア戦略にも大きな影響を与える。

 だから韓国はK国を支援し、これに対抗しなければならない。つまり韓国がK国を支援
するのは、アメリカの国益にかなったこと」(韓国・政府当局者)と。

 ものは言いようだが、しかしここまで現状認識がズレてくると、どう韓国を理解してよ
いのか、わからなくなる。アメリカも含め、日本も、これから先、経済制裁を強め、K国
をしめあげようと考えている矢先のことである。韓国は、K国の核兵器開発を、どう考え
ているのだろう?

 私がまず言いたいのは、それがK国のやり方だということ。「振り子外交」ともいう。K
国は、戦後、ソ連と中国、ロシアと中国、中国とアメリカの間を、それぞれ、振り子のよ
うに行ったりきたりしながら、経済支援を取りつけてきた。そして今度は、中国と韓国で
ある。

 中国に向かっては、「援助してくれないなら、韓国と仲よしになるぞ」と言いつつ、韓国
に対しては、「援助してくれなければ、中国の属国になるぞ」と脅す。つまり2つの国の間
を、振り子のように行ったりきたりしながら、その両国から援助を引き出す。

 韓国のN政権は、まんまとそのワナにひかかってしまった。

 で、「?」の第一。アメリカは、韓国など、相手にしていない。K国については、なおさ
ら。「韓国が、アメリカの戦略的な前線基地」という考え方は、もう、もっていない。韓国
が共産化したところで、アメリカは、驚かない。「どうぞ、ご勝手に」というのが、アメリ
カの本音ではないだろうか。

 そのアメリカは、その戦略的防衛ラインを、極東から、グアムーハワイラインまで、す
でに引きさげている。(日本すらも、その防衛ラインから、はずされている!)アメリカの
立場で、考えてみればそれがわかる。

 ことあるごとに「反米」の、のろしをあげる韓国や日本を、どうしてアメリカが、命ま
でかけて、守らなければならないのか。日本はともかくも、韓国については、戦略的な視
点から見ても、また資源確保という視点からも見ても、価値はゼロ。

 K国の金xx政権が崩壊しそうになると、せっこらせっこらと助けているのが、韓国。
日本のA外務大臣も、つい先ごろ、「両国(韓国と中国)が、K国を助けているが、いった
いどういう目的なのか理解に苦しむ」(3月15日)と発言している。国際的な常識からす
れば、A外務大臣が行っていることのほうが、正当である。

 あのね、N大統領、もし韓国がK国を援助することが、アメリカの国益にもかなってい
るというのなら、アメリカは、何も、経済制裁など、しませんよ! 何というトンチンカ
ンな論法!

 先ごろ、K国は、日本の脱北支援者たち4人に対して、逮捕状を出した。K国がいやで、
そのK国から逃げてきた人を助けた人たちに対して、だ。このトンチンカンぶりにもあき
れるが、今回の韓国の政府当局者の発言にも、あきれる。

 そのせいか、朝鮮N報ですらも、その報道を伝えながら、終わりに、こう書いている。

 「あるK国の核開発問題専門家は、『韓国の当局者たちが、中国の影響力を抑制するため
にも、K国に対する支援を増やさなければならないと主張しはじめたのは、米国がK国に
対する制裁への参加を求めることを恐れて、その場しのぎで作った論理』と説明した」と。

 わかりやすく言うと、韓国は、先手を打って、K国への経済制裁を回避しようとして
このような論法をもちだしたというのだ。しかしそれにしても、トンチンカンな論法。ア
メリカのことなど、何も考えていないくせに! つごうのよいときだけ、「アメリカの国益」
をもちだす。こういうのを、私たちの世界では、詭弁(きべん)という。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ロバート・デニーロの「ハイド&シーク(かくれんぼう)」を見る

++++++++++++++++++++

ロバート・デニーロ主演の「ハイド&シーク」
を見る。

おもしろかった。星は★★★★の、4つ星。

++++++++++++++++++++

 昨夜、夕食後、ロバート・デニーロ主演の「ハイド&シーク」を見た。おもしろかった。
星は★★★★の、4つ星。

 まだビデオを見ていない人のために、ストーリーは、ここには書かない。見てからの、
お楽しみ。この映画も、最後のどんでん返しがおもしろい。

 で、改めて、多重人格障害について、考えさせられる。ふつう多重人格障害というと、「異
なった人格どうしは、他を意識できないとされる」(かんき出版「心理学用語」)。つまりひ
とつの人格になっている間は、もうひとつの人格を意識できない。

たとえば1人の人が、A人格とB人格の2つをもっていたとする。その人がA人格から
B人格になったとたん、その人は、A人格である間に経験したことを、忘れてしまう。
記憶すら残らない。

しかし最近では、多重人格でありながら、それぞれの人格を、たがいに部分的に認識し
たり、認めあったりするというケースもあるとこともわかってきた。こうした症状をも
つ人を、「解離性同一障害者」という。

 このばあいは、部分的、あるいは全体的に別人格になりながらも、もうひとつの人格に
ついての意識もある。当然、記憶にも連続性がある。ただ本人は、それぞれの人格になり
ながら、そのつど、どちらの自分が、本当の自分なのか、わからなくなる。たとえばA人
格になったときは、その人は、B人格のほうが、ニセだと思う。B人格になったときは、
その人は、A人格のほうが、ニセだと思う。

 こうして二重、あるいは三重……の人格の間を、慢性的に行ったりきたりする。

 ここで「解離性同一障害」という言葉を使ったが、「障害」というほどの障害ではないが、
会うたびに、そのつど雰囲気がちがうという人は、少なくない。あるいは、平常なときと、
激怒したときと、まったく別人のようになる人も、少なくない。

 さらにそういう人を、「解離性同一障害」と言ってよいのかどうかは知らないが、たとえ
ば酒を飲んでいないときと、酒を飲んだあとの様子が、まるでちがうという人もいる。人
格そのものまで、まったく別人になってしまう。

 シラフのときは、やさしく、シャイ。気も小さい。が、ひとたびアルコールが回りだす
と、大声で怒鳴ったり、叫んだりする。自信満々な様子になる。

 私の父親もそうだった。酒を飲んでいるときは、態度も大きくなり、暴れたり騒いだり
した。が、その酒がさめてくると、再び、別人のように、穏やかになった。シラフのとき、
本人は、酒を飲んでいたときの自分のことを覚えていたのかどうか? 一度もそれについ
ては聞いたことがないので、私は知らない。ただ私の印象では、シラフになったときでも、
酒を飲んで、怒鳴ったり、叫んだりしたときのことは、ある程度は、覚えていたのではな
いかと思う。

 で、似たような現象は、私自身も経験している。

 私の中には、たしかに、2人の「私」がいる。1人は、気が小さく、臆病。まじめで、
さみしがり屋。理屈ぽくて、人にやさしい。ふだんは、そういう私である。これを「私A」
とする。

 が、何かのことで、私は、もう1人の「私」になる。イライラしたり、気がふさいだと
きに、そうなる。時間的には、1〜2分の間に、そうなる。

 そのときの私は、自信家。孤独に強く、世界を相手に、勝負したくなる。もちろんこわ
いものは、何もない。が、同時に自分の人生が、陳腐に見えてくる。つまらなく思えてく
る。とたん、自己嫌悪に陥ることもある。これを「私B」とする。

 しかし私Bは、それほど、長つづきしない。時間的には、長くても半日程度。少しずつ、
やがてもとの私に戻る。

 で、そのあと、つまり私Bから私Aにもどったあとというのは、前頭部が重いのがわか
る。スッキリしない。頭痛がすることもある。もちろん私Aは、私Bの間にしたことや、
言ったことは、すべて覚えている。ただ責任感は薄い。「私Bは、本当の私ではない」とい
うように思うことで、私Bがしたことや言ったことについて、責任を逃れてしまう。

 ……ということは、私も、その「解離性同一障害者」ということになる。ゾーッ!

 が、考えてみれば、つまりざっと私の周囲を見回してみれば、多かれ少なかれ、みな、
そうではないかと思う。私のワイフにしても、精神はきわめて安定した女性だが、私とけ
んかをすると、やはり別人のように冷たくなる。(私はそう感ずる。)

 よく言われるのは、多重人格障害者と長くいっしょに同居していると、そのまわりの人
も、それに同調して、多重人格者的になることもあるということ。これはその多重人格障
害者の症状に合わせて、そのつど、まわりの人が、影響を受けるためと考えられる。

 ということは、私のワイフが、私とけんかしたときなど冷たくなるのは、私に合わせて
そうなるとも考えられる。私が私Bになるから、ワイフも、それにその私Bに合わせて、
冷たくなる(?)。もしそうなら、ワイフが冷たくなるのは、私のせいということになる。
(ゴメン!)

 ……ということを考えながら、「ハイド&シーク」を見た。ブルース・ウイリスの「シク
ス・センス」と、かなり似た映画だったが、「ハイド&シーク」のほうは、現実味がある分
だけ、恐ろしかった。見終わったあと、ワイフと、「こわかったなあ」「こわかったわ」「ホ
ント」と、たがいに言いあった。

 多重人格障害に興味のある人は、ぜひ、見てみたらよい。あるいは、「私もひょっとした
ら、解離性同一障害?」と思っている人も、ぜひ、見てみたらよい。この映画には、いろ
いろと考えさせられた。
(はやし浩司 多重人格障害 解離性同一障害 二重人格 多重人格)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 5月 1日(No.720)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●「棒」の恐ろしさ

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7年前、割り箸が、子どもの脳に突き
刺さるという事件が起きた。

その事件について、医師の過失があっ
たかどうかを問う裁判の、判決が出た
(3月28日)。

++++++++++++++++++

 今から7年ほど前のことだが、割り箸が脳に突き刺さって、子どもが死ぬという事件が
あった。死んだのは、当時4歳だった、H君。祭で買った綿アメの割り箸が、転倒したと
き、のどに突き刺さったという。

 H君は病院へ運ばれたが、H君の母親が、「ぐったりしているけど、連れて帰って大丈夫
ですか?」と聞くと、担当した医師は、「疲れて眠っているので休ませて下さい」と言った
という(H君の母親・裁判記録)。

 で、そのままH君は、死んでしまった。

 この事件を聞いたとき、当時、私が最初に思ったのは、「棒ほど、危険なものはない」だ
った。しかしこれは幼児教育の世界では、常識中の常識。棒や鉛筆などを、口にくわえて
いる子どもを見かけたら、即座に注意する。ときには、はげしく叱る。

 鉛筆を口にくわえたまま転倒したときのことを、想像してみればよい。あるいはその状
態で、だれかがぶつかってきたときのことを想像してみればよい。あなたは、それだけで
ゾッとするはずである。

 私も、こんな失敗をしたことがある。この世界に入ってまもなくのころのことだったが、
鉛筆をもったまま手をあげた子どもがいた。

 幼児だと、そういうとき、まっすぐ上に手をあげない。中には、横に手をのばす子ども
がいる。そのときもそうだった。その子どもは、「ハ〜イ!」と言って、鉛筆を握ったまま
手を横にのばした。が、その瞬間、その声を聞いて、横に座っていた子どもが、振りかえ
った。鉛筆の先が、振りかえった子どもの頬(ほお)を、突いた。鉛筆の芯が、そこで折
れた。

 もしあのとき、その鉛筆が、子どもの目を突いていたとしたら……。想像するだけでも
ゾッとするが、もしそんなことになっていたとしたら、今の私は、ない。

 さらに私が小学3年生だったか、4年生だったかは忘れたが、こんな事件もあった。

 そのときその子どもは、両手に鉄製の火箸をもって走っていた。そしてそのままの状態
で、ころんだ。火箸は、一本ずつ両目を突いた……。以来、その子どもは、失明してしま
った。

 ……ということで、子どもには、棒をもたせない。いわんや口にくわえさせるなどとい
う行為は、言語道断。見かけたら、即、注意する。……ということだが、だからといって、
子どもを、いつも監視しているわけにもいかない。棒にかぎらず、親のちょっとした油断
が、大事故につながるというケースは、いくらでもある。

 H君のばあいは、どういういきさつで、綿アメの棒がのどに突き刺さったのかは、わか
らない。が、私が想像するに、あの綿アメを上のほうから口に入れ、その状態で、ころん
だのではないかと思う。そしてそれがころんだ拍子に、のどの奥につきささり、折れ、つ
いで脳の奥に突き刺さってしまった。

 不幸な事件である。

 で、H君の両親は、診察した医師の過失を問い、裁判で争った。その結果は、「無罪」。
その判決を聞いた、母親のSさんは、こう述べている。

「無罪という言葉は決して出てこないと信じていたから、体が凍りついたような思いで
した」(報道)と。

 裁判官は、「H君の頭の中に異変があったことを疑うことは可能で、CT撮影や脳神経外
科への相談を行うべきだった」と指摘した上で、「H君の状態を考えると、命が救えた可能
性は極めて低かった」として、医師には医師としての過失はあるものの、死亡との間に因
果関係があることには合理的な疑いが残るとして、無罪の判決を言い渡した。

 つまり医師としての過失はあるが、しかしそれが直接の原因で死亡したとは言いがたい
ということで、無罪である、と。H君の母親には、たいへんつらい判決かもしれないが、
判決としては、妥当な判決だと、私は思う。医師という、特殊な職業の世界では、一般社
会とは、ややちがった尺度で、過失を考える。過失をあまり厳格に問いすぎると、医師の
業務そのものが成り立たなくなってしまう。

 それにこうした事件は、ひとつだけの不運で、起こるものではない。いくつかの不運が
重なって、起こる。

 第一の不運は、H君が、たぶん、棒の先のほうを口に入れていたこと。第二の不運は、
その状態で、ころんでしまったこと。第三の不運は、折れた箸に、両親が気がつかなかっ
たこと。第四の不運は、医師もそれに気がつかなかったこと。その結果として、H君は、
死んでしまった。

 だからすべての責任を、医師にかぶせるわけにはいかない。しかしH君の両親の無念さ
も、理解できる。100に1つでも、1000に1つでも、助かる見込みはあったかもし
れない。その思いがあったからこそ、両親は、医師を訴えた。

 ……とても残念だが、私は、これ以上のことは、ここには書けない。が、あえて言うな
ら、この事件は、改めて、「棒」のもつ恐ろしさを、世の親たちに教えた。それは事実であ
る。以後、私の周辺でも、親たちが、その「棒」に、神経質になったのを、私は感じてい
る。

 そう、「棒」はこわい。本当にこわい。だからほとんどの私立幼稚園では、鉛筆の使用を
禁じている。つまりそれだけ危険な道具であることを、現場の先生たちも知っているから
である。事故も多い。

 みなさんも、幼児を指導するときは、「棒」の恐ろしさをじゅうぶん理解して、指導して
ほしい。

 ……ということで、何とも歯切れの悪いエッセーになってしまった。奥歯にものをはさ
んだようなエッセーになってしまった。加えてH君の両親の心情を察すると、何かしら割
り切れないものが残る。おそらく裁判官もそう感じたのだろう。だから裁判官は、判決の
最後で、担当医師に対し、こう述べている。

「医師として基本的かつ初歩的な作業を怠ったことについて、批判に謙虚に耳を傾ける
べきだ」(判決文)と。

 無罪判決で、裁判官がこうした指摘するのは、異例のことである。

(付記)

 幼児を指導するとき、(1)火遊び、(2)ナイフやカッターを使っての遊び、(3)袋か
ぶり、(4)棒(鉛筆)の使用などには、とくに注意する。年中児でも、何でもものを口の
中に入れる子どもがいる。そういう子どもは、とくに注意して指導にあたる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●咳

++++++++++++++++

日本人ほど、咳に無頓着な国民は
いないのでは……?

人ごみの中でも、平気で、ゴホン、
ゴホンと咳く……。

++++++++++++++++

 先日、驚いたことに、本当に驚いたことに、あの回転寿司の寿司のほうに向かって、ゴ
ホン、ゴホンと咳をしている男性(60歳くらい)がいた。一応、手でこぶしをつくって、
それをしていたが、それを見ていて、私は、心底、ゾッとした。

 おかげで食欲は半減。隣に、妻らしき女性が座っていたが、平気な顔をしていた。私な
ら即座に、夫を注意するだろうにと思った。

 ……総じてみると、日本人ほど、咳に無頓着な国民は、いないのではないか。人ごみの
中でも、平気で、ゴホン、ゴホンと咳をする。手でこぶしをつくったり、中には、口を手
で押さえたりしている人もいるが、しかしそんな方法では、ばい菌の拡散は、防げない。

 実は、おとなの世界がそうであるためか、子どもの世界も、そうである。私に向かって、
口を押さえることもなく、ゴホン、ゴホンと咳を吹きかけてくる子どもとなると、いくら
でもいる。大半がそうではないか。そのつど、「口を押さえなさい」「横を向いて咳をしな
さい」と教えるが、効果は、その場だけ。そういう習慣そのものが、身についていない。

 おかげで、風邪にせよ、インフルエンザにせよ、流行したとたん、私たちのような人間
が、最初の犠牲者になる。よく誤解されるが、風邪にせよ、インフルエンザにせよ、菌に、
おとなも、子どももない。子どもの風邪だから、菌もそれだけ弱いだろうと考えるのは、
まったくの誤解!

 では、どうするか?

 咳をするときは、必ず、ハンカチ、あるいは小さなタオルで口をおおう。そういう習慣
を、子どもの前で見せておく。子どもの心にしみこませておく。咳をするにしても、相手
から顔をはずし、すみのほうに行って、それをする。

 なお欧米では、ハンカチやタオルで、口を押さえたり、鼻をかんだりする。私も若いと
きからそうしているが、それを子どもたちが見ると、「汚い」と言う。ハンカチやタオルで
鼻をかむことを、汚いという。しかし私には、それが何十年来の習慣になっているため、
反対に、そういう子どもたちの気持ちが理解できない。

 咳をするときは、ハンカチやタオルで口を押さえる。これは日本の外、つまり国際社会
では、常識である。汚いと思わず、あなたも、そうしてほしい。そうするのは、結局は、
あなたやあなたの子どものためでもある。
(はやし浩司 咳 咳のし方)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●流れる水

+++++++++++++++++

水が、自然と流れる場所を求めて
流れていくように、人生もまた、
自ら流れる場所を求めて、流れて
いく。

+++++++++++++++++

 いろいろあった。すったもんだの騒動もあった。しかし人生というのは、水が自然と流
れる場所を求めて流れていくように、流れていく。そしてその流れた先で、やがて落ちつ
く。

 私の兄は、現在、グループホームで、生活をしている。母は、姉の家で同居生活をして
いる。兄はともかくも、母は、自分の家を絶対に離れないとがんばっていた。しかし足腰
が立たなくなり、大便や小便をもらすようになると、自分なりに観念したのか、姉の家に
落ちついた。

 姉も、見ちがえるほど、明るくなった。体重もふえたという。私も、母が、姉の家に入
ったというその夜、はじめて、心安らかに、朝まで、ぐっすりと眠ることができた。

 大切なことは、流れに任すこと。その流れに逆らえば、角が立つ。無理をすれば、どこ
かでその歪(ひず)みが出る。騒動になる。この数年間の経験で、私は、それがよくわか
った。

 兄が、近所でトラブルを起こすようになったのは、今から、ちょうど4年ほど前のこと。
ゴミをそのあたりにまき散らす。自動車のナンバーに落書きをする。植木鉢の葉先を、指
で摘んでしまう、など。しかし火遊びをするようになって、さすがの姉も、音(ね)をあ
げた。

 一度は、近所の旗を、ライターで火をつけて燃やしてしまったことがある。放火である。
で、私が兄を、とりあえずということで、引き取った。心療内科へ通いながら、介護保険
の申請を出した。

 が、母は、それを許さなかった。毎日のように電話をかけてきて、私や姉に、兄を返せ
と言ってきた。母も、すでに、現実を理解する能力をなくし始めていた。放火事件のこと
を話しても、「うちのJ(=兄)は、そんなことはしない!」と、がんばった。

 しかしその母も、2度、3度と倒れた。病院へ入った。そのころから、足腰が立たなく
なった。姉は、母が、水道を出しっぱなしにする、ガスコンロをつけっぱなしにすると、
そのつど心配した。悩んだ。

 が、そうした私や姉の心配や悩みなど、どこ吹く風。母は、相変わらず、私や姉を口汚
く罵倒した。ボケもかなり進み始めていた。気丈な人だが、老いには勝てない。それで今
のような状態になった。落ちついた。

 悪魔はそれを恐れたとき、牙(きば)をむいて、あなたに襲いかかってくる。しかしそ
れを笑ったとき、悪魔は、尻尾を巻いて、あなたから退散する。姉はともかくも、私は笑
った。

 兄が暴れて、ラジカセをこわしたときも、廊下で糞をもらしたときも、笑った。ボケた
兄は、飼っているペットのようなもの。本気で相手にしてはいけない。相手にしても、し
かたない。

 その姉の家へ、今日、長男と2人で行ってきた。36年ぶりという雪が、3月の末だと
いうのに、降っていた。突然の訪問で、姉も予定していなかった。連絡してから行くと、
姉もあれこれ気をつかうだろうということで、そうした。

 姉は家にいた。母も、今日はデイサービスもなく、家にいた。姉が預かっている孫の女
の子もそこにいた。家中が、明るい笑い声で満ちていた。私はそれを見て、目頭が熱くな
った。うれしかった。

 これからもまだ、いろいろあるだろう。問題は、何一つ、解決していない。しかし水が、
自然と流れる場所を求めて流れていくように、人生もまた、その場所を求めて流れていく。
流れた先で、やがて落ちつく。

 ジタバタしても、いけない。あせっても、いけない。なるようになる。なるようにしか
ならない。人にはそれぞれ、無数の糸がからんでいる。その無数の糸が、その人の進むべ
き方向を決める。

 それを「運命」というのなら、だれにも、その運命はある。どうにかなる問題であれば、
それとは戦う。ふんばる。それは当然だ。しかしどうにもならない問題もある。老後の問
題、親子の問題、介護の問題、病気の問題、子どもの問題、夫婦の問題などなど。こちら
が求めなくとも、こうした問題は、向こうから、クモの糸のようにあなたにからんでくる。

 今、その運命の糸にからまれて、苦しんでいる人も多いと思う。袋小路に入って、どう
したらよいか、わからないまま、もがいている人も多いと思う。しかしときには、その運
命に身を任せてみることも大切なことではないのか。自分の運命を、すなおに流れの中に
置いてみる。

 あとのことは、その運命が決めてくれる。時間が解決してくれる。あなたは静かに、そ
の運命に身を任せればよい。逆らわず、静かに、淡々と……。
(はやし浩司 運命 運命論 運命とは) 

++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。
あまり関係のない話かもしれませんが、
参考までに……。
(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++

【袋小路から抜け出る法(レット・イット・ビー!)】

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その
夫と妻が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少
ない。どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。

そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になっ
て家族を守ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそうい
うものではないのか。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、10年も20年も、新
婚当時の気持ちのままでいることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレの
こと好きか?」と聞くと、「考えたことないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫
婦もいる。先日もある女性(40歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バ
ンザーイ、やったわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。

ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の
女性(33歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に1度ある
かないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじ
ゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、
人それぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてと
やかく言う必要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう
思おうが、そんなことは気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがく
こともある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それ
に縛られれば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とか
いう気負いをもつ。この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる

不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係
を築こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗す
る。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ
自体が「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、
もうけもの。一部でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だか
ら……」と考えると、あなたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じな
いから結婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そ
んなようにおおげさに考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところ
で、あきらめる。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫
婦や家族、親子関係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レ
ット・イット・ビー(あるがままに……)」と。それはまさに、「智恵(wisdom)の言葉」
だ。
 

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●14歳で家出

++++++++++++++++++++

14歳で家出。15歳の男子(男性?)との
同棲生活?

そんな女子(女性)をもつ親から、
以下のような相談がありました。

(掲示板より)

++++++++++++++++++++

はじめまして。よろしくお願いします。
長女 14才についてどうか相談にのって頂きたく、メールをしました。

長女がおかしいなと思うようになったのは、中1の2学期が終わる頃でした。
学校でクラスメートに、「上級生にいじめられている」とうそを言って、そのことが先生に
まで伝わり問題になったことです。それについては、後で本人からうそをついたと、正直
に私に言ってきました。そのときから、部活もやめてしましました。

中2の秋から、ある男子生徒ですが、A君という子につきまとわれて迷惑していると、担
任の先生や、周りの友人に相談していたそうです。担任先生からこの件で電話をもらい、
A君が評判の悪い子であること、長女に危害がおよばないように気をつけてください、と
いうことでした。先生も学校で気をつけて見て下さったり、私たちも本人と相談し、送り
迎えを、1、2度しました。

同じ頃、友人とトラブルがあったこともあり、なぜか長女は、そのA君に友人とのトラブ
ルを相談していたのです。それが原因でクラスで孤立。A君と交際をしはじめました。そ
れから摂食障害で入院、その後は不登校となりました。夕方近くになると遊びにいきたい
と言う長女に対して、私は、許して遊びに行かせることができませんでした。長女のつら
い気持ちは、理解しているつもりでいましたが・・。

次の日1/21、長女は、そのA君宅に家出をしました。向こうの両親とも話しをし、迎
えにいきましたが、帰っては、きませんでした。

主人は、これ以上長女の精神状態が悪化しないようにこのまま様子をみようと言い私も同
意しました。

週に1度程度は、帰ってきますが、数時間後、また出て行きます。こちらからは、話しか
けていません。本人が言ったことに、うなずくことしか言っていません。

3/14 再度A君の両親に会ったところ、A君の両親が、「来月、引っ越しします。S(長
女)ちゃんもつれていきたいのですが・・・。Aと結婚させたいのです。」と。
主人は、「長女は、なにもかもわかった上で、こういう交際ををやっているんだと思います。
長女を信じているので、本人が決めてもいいと思います。」と言ってかえってきたそうです。

が、先日、長女が帰って来たとき、長女は、「今更、世話になっているのに、帰りたいから
帰るというわけには、いかない。引っ越しを機に、家に帰って来たい。Aの母親も15才
の時に家出をして今のお父さんと結婚したんだって。だから、私の気持ちが、よくわかる
と言って家に帰らないでいいよと言ってくれるんだけど、本当のこといえないんだ。」と言
いました。つまり家に戻りたいが、それをA君にすなおに話せないというのです。

このまま、どんなことがあっても私は、長女の帰りを待っているべきでしょうか? 向こ
うの両親と話しあうべきでしょうか? よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司よりFTさんへ】

 先ほど、電話で、だいたいのことは話しました。A君に対する熱病も、やや冷めかかっ
た状態なので、2人の間に割って入るには、今がチャンスかもしれません。方法はいくつ
か考えられますが、お母さん(=あなた)と娘さん(以下、Sさんとします)の2人で、
相手の両親もしくは、父親と話し合うのが、最良かと思います。

 できればなごやかな状況で、話し合うのがコツです。一歩退いて、負けるが勝ちと思い、
話し合います。争わず、常識論を淡々と話します。

 生活力のない15歳の男と、14歳の女が、結婚状態に入ることは、常識の範囲を超え
ています。それをすなおに相手の親に話せばよいでしょう。

 で、こういうケースでは、Sさんを、(1)責めない(「あなたは、〜〜が悪い」と責め
ること)、(2)励まさない(「がんばれ」「がんばれる」式の励ましをしないこと)、(3)
脅さない(「こんなことで、どうするの」式の脅しをしないこと)の、3大鉄則を、厳守し
てください。Sさんの心は、常に、緊張状態にあると判断してください。したがって、い
つも、一触即発の状態です。ささいなことで、突発的に錯乱状態になることもあります。

 本来なら、心療内科で、精神を安定させる(=精神の緊張感をとる)薬剤を処方しても
らうのが、よいと思いますが、電話によれば、それもむずかしいとのこと。そこで電話で
話しましたように、あなた自身が、心療内科(内科でもよい)で、薬を処方してもらい、
それをSさんに分け与えるという方法があります。それはいかがでしょうか?

 また家に戻ってきたら、Sさんの居場所をしっかりと確保することです。ここに書いた
三大鉄則を守り、今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。Sさん
の心の問題がからんでいるため、半年単位の忍耐が必要でしょう。1か月や2か月で、心
の状態が改善するなどということは、ありえません。そういう前提で、対処します。

 最後に、ここが重要ですが、どんなことがあっても、最後の最後でも、愛情の糸だけは
切らないようにしてください。どんなことがあっても、です。(その点、お父さんのほうに、
どこか冷めたところがあるように感じました。どうか、お父さんも、最後の最後でも、愛
情の糸だけは切らないようにお伝えください。)

 その「糸」は、Sさんにとっては、最後の砦(とりで)のようなものです。その糸を切
ったら、それこそSさんは、再び、糸の切れた凧のような状態に戻ってしまうでしょう。
今からでも、じゅうぶん間に合います。

 あとは、暖かい無視と、ほどよい援助。「求めてきたときが、与えどき」と、心得てくだ
さい。そして問題が起きたら、『許して忘れる』だけを心の中で念ずる。そしてここが重要
ですが、そのあとは、(時の流れ)に任せます。時間が解決してくれます。2年では無理か
もしれませんが、遅くとも5年後には、笑い話になります。それを信じて、前向きに考え
てください。

 それぞれの人間には、無数の糸がからんでいます。その糸が、その人の進むべき道を決
めていきます。人は、それを「運命」と呼びますが、その運命について、少し前、こんな
ことを書きました。

 悪魔(不幸)というのは、(決してFTさんが不幸というのではありません。誤解のない
ように!)、それを恐れたとき、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。しかしそれ
を笑い飛ばしたとき、シッポを巻いて、あなたから退散していきます。

 今、重要なことは、くだらない親意識など捨てて、ついでにプライドも捨て、Sさんの
友として、Sさんの横に立ってみてください。それだけで、Sさんに対する態度が大きく
変るはずです。

 以上ですが、このつづきは、4月28日号のほうで、もう一度、考えさせてください。
今夜は、これで失礼します。

はやし浩司

【付記】励ましは、なぜ悪いか

 前向きに、伸びつつある子どもに、「がんばれ!」式の励ましは、それなりに効果があり
ます。しかし落ち込んでいる子どもに向かって、「がんばれ!」式の励ましは、効果がない
ばかりか、かえってその子どもを、窮地に追い込んでしまうことにもなりかねません。

 落ち込んでいる子どもは、落ち込んでいる子どもなりに、苦しみ、もがいているのです。
「がんばりたくても、がんばれない」というジレンマに陥っているのです。そういうとき、
たとえ家族からでも、「がんばれ!」と言われると、その子どもは、ますます、どうしてよ
いかわからなくなってしまうというわけです。

 わかりやすい例で考えてみましょう。

 たとえばあなたが、学校のテストで、よい点数を取ってきたとします。そのときそれを
見て、あなたの母親が、「よくがんばったわね。これからもがんばりなさいよ」と言ったと
します。

 あなたは、その言葉を、すなおな気持ちで、聞くことができるはずです。

 しかし反対に、あなたが予想していたよりも、悪い点数だったばあいは、どうでしょう
か。あなたなりにがんばったけれど、しかし、点数が悪かったというようなばあいです。
あなたは落ち込んでいます。で、そういうとき、たとえ家族でも、「がんばれ!」と言われ
ても、あなたはそれをすなおな気持ちで、聞くことはできないと思います。

 英語では、こういうとき、「Take it easy!」と言います。「気を楽にしな
よ」という意味です。そういう言い方なら、まだわかりますね。

 それについて書いた原稿が、つぎの2作の原稿です(中日新聞掲載済み)。どうか参考に
してください。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親子のきずなが切れるとき】 

●親に反抗するのは、子どもの自由?

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親
に反抗してはいけない」と考えている高校生は、15%。

この数字を、アメリカや中国と比較してみると、親に反抗してもよい……アメリカ16%、
中国15%。親に反抗してはいけない……アメリカ82%、中国84%(財団法日本青
少年研究所・九八年調査)。

日本だけは、親に反抗してもよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗しては
いけないと考えている高校生が、ダントツに少ない。こうした現象をとらえて、「日本の
高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家O氏)と論評する人がいる。

しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそうなのか、ということ
について、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに個人主義が進んでいる
ということはありえない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのもおかし
い。

●受験が破壊する子どもの心

 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせる
と、祖父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、
そういう感動が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。
「何よ、この点数は! 平均点は何点だったの?」と。

さらに「幼稚園のときから、高い月謝を払ってあんたを英語教室へ通わせたけど、ムダ
だったわね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子どもからやる気をなく
す。いや、その程度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親子の信頼感、
さらには親子のきずなそのものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「八五%」と
いう数字は、まさにその結果であるとみてよい。

●「家族って、何ですかねえ……」

 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、
そのとき手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事
は行きづまってしまった。R氏には2人の娘がいた。1人は大学1年生、もう1人は高校
3年生だった。

R氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の
娘の学費が難しくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言っ
たが、下の娘はそれに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも
何でもして、あんたの義務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなけれ
ばならないのだが、その妻まで、「生活ができない」と言って、家を出て、長女のアパー
トに身を寄せてしまった。そのR氏はこう言う。「家族って、何ですかねえ……」と。

●娘にも言い分はある

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさ
い」と言うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言
われつづけてきた。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車を
かけている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれ
が原因でないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿
題はやったの」という言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そ
こでどうだろう、言い方を変えてみたら……。

たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イー
ジィ(気楽にやりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉
だ。あなたの子どもがテストの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言っ
てみてほしい。「気楽にやりなよ」と。この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子
のきずなを深める。子どももそれでやる気を起こす。   
(はやし浩司 親子の断絶 絆 親子断絶)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前
向きに生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考え
なくていい。親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形
で子どもに子どもの人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待す
るのも、いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親
に孝行をするというのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育てて
やった」と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」
と、恩を着せられてしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌
手のI氏が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(2000年夏)。「私は母の女手
一つで、育てられました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」
と。はじめ私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。

しかしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくな
ってしまった。50歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで
追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のう
ちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかり
やすく言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく
当然のこととして、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』
である。「♪かあさんは、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着
せがましい歌はない。窪田Sという人が作詞した『かあさんの歌』は、3番まであるが、
それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引
用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あ
なたはどう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけな
くなってしまうに違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べ
ながら、手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にも
ときどき載るよ」「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」であ
る。そう書くべきである。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々
と織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中2男子)がいた。自分
のことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そ
ういう言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取
り」という言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはい
る。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければな
らない。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢
が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを
育てるために苦労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本
では「親のうしろ姿」というが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し
売りすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。
 
 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美
徳の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こ
んな調査結果がある。

平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若
者はたったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と6
3%である(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、
大きな転換期にきているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親の
ものでもない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のため
でもある。私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなけ
ればならない。親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳
ではない。あなたの親もそれを望まないだろう。

いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。あくまで
もフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あ
なたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平
※成6年)は、次のようになっている。

 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%

 日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏
から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●友人の退職 

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今日、友人が、小学校の校長を最後に、
教職を退職することになった。

その離任式が今日、ある。
私は、校門のところで、その友人に、
花束を、渡すつもり。

「ありがとうございました」と。

++++++++++++++++++

 今日、友人が、小学校の校長を最後に、教職を退職することになった。その離任式が、
その学校である。教頭に時刻を問い合わせると、午前9時40分から10時ぐらいにかけ
て、校門を通るとのこと。私は、そこで友人に、花束を渡す。私にとっては、かけがえの
ない友人だった。これからも、ずっと、かけがえのない友人になるだろう。

 しかしこのさみしさは、いったい、何か? どこからくるのか?

 友人は、5、6年前から、「私は、あと5、6年で退職です」と、言っていた。そのとき
は、5、6年が、遠い未来に思えた。2、3年前になると、「私は、あと2、3年で退職で
す」と、言っていた。そのときも、2、3年が、遠い未来に思えた。

 しかし時の流れというのは、不思議なもの。その5、6年が終わり、2、3年が終わっ
てみると、あっという間に、時が、どこかへ消えてしまったかのように感ずる。実際、あ
っという間に、そのときが、やってきてしまった。人は、未来を遠くに思うかもしれない
が、過去は、短い。本当に短い。

 だから本当なら、私は、その友人に、「ごくろうさま」とか、「おめでとう」と言うべき
なのだろうが、そういう気持ちが、どうしても、わいてこない。「どうして教職を去るのだ!」
「どうしてそんなに年をとってしまったのだ!」「まだ、働けるではないか!」「もっと、
先生をつづけるべきではないか!」と。

 子どもたちの成長を見守るときは、時の流れは、ゆるやかで暖かい。しかし自分の老後
となると、その同じ時が、過酷で、冷たくなる。こうした「時」のもつ二面性を、どうと
らえたらよいのか。どう理解したらよいのか。

 友人も、多くの人生をみてきたにちがいない。親から子へ、そして孫へ、と。そして「時」
の流れのもつ不思議というか、切なさを、数多くみてきたにちがいない。が、やがて、そ
れは私自身へと返ってくる。友人の退職は、つまり私自身の人生のしめくくりが、そこま
でやってきていることを、意味する。

 時刻は、今、午前4時11分。ほんのりと空が明るく見えるのは、気のせいか。こんな
早起きをしたのは、ここ数か月では、はじめて。多分、その友人も、眠られぬ朝を迎えて
いるにちがいない。静かな朝だ。本当に、静かな朝だ。庭の木々をこする風の音も、今朝
は聞こえない。

 N先生、本当に長い間、ありがとうございました。今日、先生の離任式のあと、渡せる
かどうかわかりませんが、花束をもって、校門のところに立たせてもらいます。そして一
言、お礼を言わせていただきます。先生、本当に長い間、ありがとうございました。これ
からも、いつまでも、ずっと、先生の友人でいさせてください。ありがとうございました。

                                   はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●直葬(ちょくそう)

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病院から、直接、火葬場へ。
そしてそのまま、家族だけの
静かな密葬。

それを直葬(ちょくそう)という。

今、その直葬が、ふえているという。
都市圏では、約30%が、その直葬だと
いう(中日新聞)。

+++++++++++++++++

 葬儀費用もさることながら、それまでの介護費用、病気治療費が、以前とは比較になら
ないほど、高額になってきている。だからほとんどの家庭では、その家の老齢者が死ぬこ
ろには、大半の貯金を使い切ってしまうことになるという。「とても、葬儀費用なんて、出
せない」というのが、本音?

 今、首都圏を中心に、直葬という葬儀のし方がふえているという。「じきそう」と、私は、
読んだ。しかし正しくは、「ちょくそう」と読むのだそうだ。つまり病院で死亡すると、そ
のまま火葬場へ。そして家族だけの静かな密葬を行う。

 新聞報道(中日新聞)によると、人も80歳をすぎると、友人も少なくなり、葬儀とい
っても、家族だけの集まりになるという。従来の日本の儒教的感覚からすれば、派手な葬
儀を行うのが、親の死であれば、子の務めということになっている。が、そうした感覚そ
のものが、今、大きく、音をたてて崩れ始めている。

 つまり、無駄な葬儀に、どれほどの意味があるのか、と。

 数日前、私は、ワイフにこんな会話をした。ワイフは、「葬儀など、してくれなくてもい
い」と。そこで私が、「お前が死んだら、一晩、お前を抱いて寝てやるよ」と言うと、「ど
うして?」と。

 で、私はこう答えた。「もし、ぼくが先に死んだら、多分、お前は、ぼくにそうしてくれ
るから」と。ワイフは、それを聞いて、うれしそうに笑った。

 ずっと先かもしれない。あるいは、すぐ先かもしれない。しかし私は、ワイフが死んだ
ら、もうこの世の中で生きていく自信は、ない。そんな私が、ワイフの葬儀など、できる
わけがない。したくもない。ワイフが死んだら、その夜は、そしてそのつぎの夜も、その
つぎの夜も、静かに2人だけで過ごしたい。だれにも、その静かな時をじゃまされたくは
ない。

 それを葬儀というのなら、それが私にとっての葬儀ということになる。方式や儀式など、
クソ食らえ! そんなことをしたからといって、どうして自分の心が癒されるのか!

 話をもとに戻す。

 私はたくさんの葬儀を見てきた。しかしこのところ、葬儀に出るのが、おっくうになっ
た。はっきり言えば、出たくない。できるだけ、あれこれ理由をつけて、出ないようにし
ている。そういう私を非難している人もいるようだが、非難したい人には、させておけば
よい。そういう人は、自分で考えて私を非難しているのではなく、型にはまったものの考
え方から抜け出せず、その中で、私を非難しているだけだ。

 だから、私はあえて言う。私が、死んでも、だれも来なくてよい。つまりその覚悟がで
きているからこそ、「出たくない」と、言う。私の葬儀に来ない人をうらんだり、非難した
りはしない。

 ……と少し力んでしまったが、大切なことは、どう死ぬかではなく、どうそのときまで、
生きるか、だ。その結果として、葬儀があるとするなら、それはそれ。あとは残された遺
族の問題ということになる。死んだ本人の問題ではない。

 だから私は、ワイフや息子たちにこう言っている。「無駄なお金は使うな。直葬ですれば、
費用も30万円程度ですむ」と。私は私の家族には、できるだけ迷惑をかけたくない。だ
からそういう(やり方)であっても、何ら、思い残すところはない。

 ただこういうことは言える。今、日本人のもつ意識は、大きく変わりつつあるというこ
と。戦前までの儒教的文化圏から抜け出て、アメリカ型の西欧型文化圏へと、その変革期
にあると言ってもよい。日本人にとっては、ルネサンスとも言えるべき、意識革命が、深
く、静かに、しかし確実に進行しつつある。

 そのひとつが、葬儀のし方ということか。が、「直葬」という言葉に、少なからず抵抗を
覚える人もいるかもしれない。地方の田舎へ行けばいくほど、そうだろう。しかしその葬
儀も、「型」から抜け出て、「人間」を見る方式に変わってきている。もっとわかりやすく
言えば、自然体ということか。自然な形で、自然にする。

 だからといって、もちろん、人の死を軽く考えてよいというのではない。しかし派手な
葬儀をしたからといって、人の死を重くとらえたということにはならない。あくまでもそ
れは心の問題。そういう視点で、ものごとを考えればよい。

 私のワイフが死んだ夜、親類や、近所のうるさい連中がワイワイとやってきたら、私は、
こう言うだろう。「出ていけ!」「2人だけにしてくれ!」と。そういう私を、他人がどう
思おうが、私の知ったことではない。

 これから先、長生きをすればするほど、私を知る人は少なくなり、私の死を悲しむ人も
少なくなる。人も80歳を過ぎると、ほとんどが、そうなるという。新聞記事にも、そう
書いてあった。派手な葬儀など、もとから望むべくもないが、あえてしてほしいとも思わ
ない。これはあくまでも、私の個人的な希望だが、私は、静かに、だれにも知られず、死
んでいきたい。ずっとあとになって、「あの林が死んでいた?」と思われるような、そんな
死に方をしたい。

 死ぬということは、その人にとって、人生最大の醜態をさらけ出すようなもの。少なく
とも、私にとっては、そうだ。大げさに騒いでほしくない。直葬、大いに、結構!

(付記)

 それぞれの遺族は、それぞれの思いをもって、故人と別れを告げる。その遺族が、それ
ぞれの考えもって、葬儀をする。それは、その遺族の勝手。まわりのものたちが、とやか
く言ってはいけない。

 しかし中には、世間体を優先させ、派手な葬儀をする人たちもいる。反対に、親類のだ
れかが質素な葬儀をしたりすると、「世間体が悪い」と、あれこれ不満を口にする人もいる。
どちらにせよ、つまるところ、それだけその人の精神構造が、未熟ということ。そう判断
して、まちがいない。

 派手な葬儀にせよ、質素な葬儀にせよ、大切なのは、「心」。いくら派手でも、その心が
なければ、ただの祭。しかしいくら質素でも、その心があれば、葬儀は葬儀。他人の目な
ど、気にするほうがおかしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●脱北支援者に逮捕状?

+++++++++++++++

あのK国が、日本の脱北支援者に
逮捕状を出した!!

あの国は、国全体が、
もう、狂ってしまったとしか、
言いようが、ない。

+++++++++++++++

 あのK国が、拉致実行者に対して、日本が逮捕状を出したことに対抗して、脱北支援者
の日本人に、逮捕状を出したという。

 近ごろにない、とんでもないニュースである!

 ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

 「朝鮮C通信によると、K国の警察に相当する人民保安省の報道官は、27日、『公民の
誘拐や拉致を背後で操ったり、直接関与した』として、日本人妻の帰国や、K国脱出住民
の生活を支援する日本の非政府組織(NGO)の幹部4人に、K国の刑法、刑事訴訟法に
基づき逮捕状を出したと明らかにした」(06年3月27日)と。

 日本から出たくない人を拉致、誘拐した人に、日本政府が逮捕状を出す。それは当然の
ことではないか。

 一方、K国から出たがって逃げてきた人を助けた人に、逮捕状を出す? ここまでくる
と、もう、あのK国は、国全体が狂ってしまったとしか、言いようがない。何を、どうい
う基準で考えているのか、さっぱり、理解できない。

 しかしこの胸騒ぎは、いったい、何か? このところK国の問題を考えていると、おか
しな胸騒ぎを覚える。不愉快というような簡単なものではない。ヒルが心に張りついてく
るような感じ。はがしてもはがしても、容赦なく、張りついてくる。あえて言うなら、頭
の狂った人間を相手にしたときのうような気分に似ているが、相手は、個人ではない。一
応、「国」という国家である。

 しかもその国は、核兵器までもっている! 『Kちがいに刃物』とは、昔から言うが、
その頭の狂った人間に、執拗にストーカーされているような感じ。印象としては、それに
近い。

 だからあえて言おう。K国は、日本在住の4人の人に、逮捕状を出したということだが、
この3人は、当然のことながら、日本は、国をあげて、守る。どんなことがあっても、守
る。

 それにしても、K国は、この先、どこまで狂っていくのだろう? このところのアメリ
カの動きを見ると、アメリカは、どうやら金xx政権の転覆(てんぷく)を、本気で考え
始めたようである。私は、今は、それが正攻法のように思う。日本にしても、まともな考
え方で、つきあえる相手では、ない。

 拉致問題にしても、今の金xx政権がつづくかぎり、解決はしない。理由は明白。K国
の最高責任者である金xx自身が、拉致問題に深く、かかわっているからである。こうし
た度を越したいやがらせ、それはまさに、いやがらせだが、それをする背景には、それが
ある。

(付記)

 同日、韓国のR合ニュースによれば、東欧にあるどこかのK国大使館員とその家族が、
ハンガリーにある韓国大使館へ、亡命を申請したという。

 K国の政府要人たちは、こうしたニュースをどうとらえているのだろうか。それとも、
ハンガリーにある韓国大使館員全員に対しても、逮捕状を出すつもりなのだろうか?




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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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はやし浩司(ひろし)