はやし浩司(ひろし)

2006・6
はやし浩司
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2006年 6月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 6月 30日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもたちへ

ほかの人の心を分けもってあげよう

力のない人や、弱い人や、失敗した人を笑ってはいけないよ。
笑えば笑うほど、結局は、自分で自分のクビをしめることになるよ。
だれだって、ちょうど今の君たちのように、精一杯、がんばっているのさ。
しかしね、たいていは自分の思いどおりにはいかない……。
そういうことがいくつか重なると、人はだれだって、そういう人になるのさ。
つまり、力のない人や、弱い人や、失敗した人になるというわけ。
そしてね、ここが大切なことだけれど、今の君だって、いつだってその
力のない人や、弱い人や、失敗した人になるかもしれないということ。だからね、
そういう人を笑ってはいけないよ。そういう人を笑うということは、
結局はいつか自分を笑うことになるわけ。

自分だけの世界で、生きてはいけないよ。自分だけの世界で生きれば生きるほど、
孤独という恐ろしい悪魔が、君たちの心の中に入ってくるよ。
恐ろしい悪魔だよ。この悪魔にとりつかれると、その悪魔は
君たちからすべてのものを奪っていくよ。君たちの幸福や、やすらぎや、
ときには、君たちの命までもね。だから自分の世界だけで生きてはいけないよ。
この悪魔と戦うためにはね、自分だけの世界から飛び出し、ほかの人の世界に
入っていくこと。ほかの人の苦しみや悲しみや、悩みを、わかってあげること。
わかってあげるだけでは、足りないかな。その苦しみや悲しみや、悩みを、
自分のこととして、分けもってあげること。しかし、ね、これはとても
むずかしいことかもね。つまりね、悪魔と戦うことは、
それくらいむずかしいということ。

ただ、ね、こういうことは覚えておくといいよ。
この世界には、力のない人や、弱い人や、失敗した人などはいないということ。
力があるとか、ないとか。強い人とか、弱い人とか。成功した人とか、失敗した人とか、
そういう人は、いないということ。たとえば今、君が、何かのことで落ち込んでいてもね、
それはまあ、何というか、病気のようなもの。心だって、調子が悪くなることがあるのさ。
痛くなったり、熱を出したり、時には寒気がしたりするように、ね。
だからそういうときは、無理をしないこと。静かに心を休めるといいよ。
どんな嵐もいつかは去るし、朝のこない夜はないよ。歩けば谷もあるけど、山もある。
苦しくなったり、悲しくなったら、そこを谷と思って、前に進めばいいよ。
あとは山を登るだけだから、楽しいよ。風も弱くなるし、朝日も出てくる。
そうそう、だれかがね、君たちに、苦しみや悲しみや、悩みを打ち明けたら、
それを自分のこととして受け止めてあげるといいよ。
そういうことをしておけばおくほど、悪魔は君には近づかないよ。
嵐も早く去るし、朝日も早く昇るよ。
ウソじゃないよ。一度試してみたら……。

(エンヤの「a day without rain」を聴きながら……)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司


●上見てキリなし、下見てキリなし

 神奈川県に住む女性から、こんな話を聞いた。

 ある母親が、息子(小2)と一緒に公園の近くを歩いているとき、その息子にこう言っ
たという。公園の中には、10人ほどのホームレスの人たちが生活していた。いわく、「あ
んたもしっかり勉強しなさいよ。勉強しないと、ああいう人になってしまうからね」と。
一見、合理性があるようだが、この話にはまったく合理性がない。ないばかりか、とんで
もない話である。

 昔の人は、よくこう言った。「上を見てキリなし。下を見てキリなし」と。人というのは、
上ばかり見ていると、人間の欲望には際限がなく、いつまでたっても満足をすることはな
い。だから上ばかりを見ていてはいけない。ほどほどのところで満足しろ、と。

同じように自分はダメだと思っていても、自分より、もっと苦しく、つらい立場の人で
もがんばっているから、夢や希望を捨ててはいけない、と。この格言をよいほうに解釈
すれば、そういうことになる。しかし実際には、この格言は戦前の国語の教科書に載っ
ていた。またここでいう「上」「下」というのは、立場や身分のことをいった。

 この「上下論法」は、教育の世界ではよく使われる。先日もテレビの教育講演で、ある
講師がこう言っていた。何でもその人がアフリカへ行ったときのこと。あまりにも貧しい
生活ぶりに、その人は驚き、日本の豊かさを思い知らされたという。

それはわかるが、その話をしながら、講師は会場の小学生たちに、こう話をつづけた。「君
たちは恵まれている。その恵まれていることに感謝して、勉強してください」と。しか
しこの論法は、基本的な部分でおかしい。

 「あなたたちより不幸な人たちがいるから、あなたたちは幸福だ」という論法は、いわ
ば現状をあきらめろというのと同じことである。さらにその講師は、「感謝しなさい」と言
ったが、子どもたちは、いったいだれにどう感謝したらよいというのか。

まさかおとなの世界に感謝せよということでもあるまい。同じようなことだが、最近で
もこんな話を聞いた。ある女性(40歳くらい)が、夫の暴力に耐えかねて、夫の両親
にそれを相談したときのこと。その夫の母親はこう言ったという。「私なんか、夫からも
っとひどい暴力を受けたら……」と。その女性には、その義母の言葉が、「だから、がま
んしなさい」と言ったように聞こえたという。

 さらにこの論法がまかり通るとするなら、では反対の立場におかされたときは、どうな
のかという問題がある。幸福な人に向かって、「あなたたちより不幸な人がいるから、感謝
しなさい」と言うのには、まだ正当性がある。しかし不幸な人に向かって、「さらに不幸な
人がいるから感謝しなさい」とか、さらに「幸福な人がいるから、世の中をうらみなさい」
と言うのには、正当性がない。

それがわからなければ、ではその講師は、アフリカの貧しい子どもたちに向かっては、
何と言うのだろうかということを考えてみればよい。あるいは「君たちは恵まれていな
い。どうか自分たちの境遇をうらんでください。うらんで、勉強なんかしないでくださ
い」とでも言うのだろうか。

 人は、上を見る必要はない。下も見る必要はない。私は私だし、あなたはあなただ。ま
た「感謝」という言葉は、こういうとき使う言葉ではない。いや、実は私の恩師の一人も、
いつも私にこう言っている。「林君は、何が不満なのですか。この日本はいい国です。すば
らしい国です。どうしていつも不平ばかり言っているのですか」と。

 私も何も、この国がつまらないと言っているのではない。私はこの国を、もっとよくし
たいと言っているだけ。不満があるかないかということになれば、不満だらけだが、だか
らといって、この国を嫌っているわけではない。おかしいものは、おかしいと言っている
のだ。決して上を見ているわけでもない。下を見ているわけでもない。そういう状態で、
この国に感謝すれば、感謝したとたん、私はこの国のかかえる矛盾や問題を、是認したこ
とになってしまう。

 さらにつけ加えれば、この「上下論法」は、結局は、相対的なものの見方でしかない。
それはちょうど「世間体」という言葉がもつ意味に通ずる。いつもどこかで他人の目を意
識した生き方になってしまう。そして「隣の家よりも裕福だから、私は幸福」「隣の家より
貧乏だから、私は不幸」と。

自分をいつも他人の目の中に置くようになると、ここでいう「上下論法」を無意識のう
ちにも、自分の中でするようになる。ある女性(50歳)は、いつも自分よりも不幸な
人をみつけてきては、それをゴシップのネタにしてきた。彼女にしてみれば、それは実
に楽しい話題だったかもしれないが、やがてその醜悪さは、顔中にあらわれるようにな
った。60歳も過ぎるころになると、だれが見ても、そういう人だとわかるような顔つ
きになってしまった。が、それだけではすまなかった。

 やがて今度は自分がその不幸な人の立場に置かされたとき、今度は、今まで笑った分だ
け、自分の境遇に苦しむところとなった。そういうこともある。

 「上見てキリなし、下見てキリなし」というのは、一見、人生の核心をついたような格
言だが、その実、その裏には、人間の醜悪さが見え隠れする。繰り返すが、人間には上も
下もない。だから他人を上に見るのも、また下に見るのも正しくない。また見てはならな
い。そして上の人を見て、自分の生きザマの目標にするのならまだしも、下の人を見て、
それを笑ったり、さげすんだりしてはいけない。だいたい「下の人」という発想が、まち
がっている。結局は私の言いたいことは、このことだけかもしれない。

(追記)
 しかし実際には、何かのことでくじけそうになったようなとき、「私だけではない」「私
より苦しい立場でがんばっている人がいる」と思うことで、それを乗りきることができる
ことがある。それはそれとして、だからといって、ここでいうような「下」という言葉を
使うことは許されない。あえて言うなら、この格言は、つぎのように書きかえてはどうだ
ろうか。

 「自分を高めることにキリなし、自分を低めることにキリなし」と。
 あるいは、

 「人には上もなければキリもない。人には下もなければキリもない」でもよい。

 あくまでも、上下は、自分の問題ということ。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●子どもの巣立ち

 子どもは巣立ったあと、無数の父親に出会い、無数の母親に出会う。子どもはたしかに
あなたから生まれ、あなたによって育てられるが、決してあなたのモノではない。あなた
が育てるのは、あくまでも一人の人間。そしてその人間は、やがてあなたから巣立ち、そ
の子ども自身の人生を始める。

 親としては、うれしくも、どこかもの悲しい瞬間でもある。自分の手で子どもの心をす
くっているはずなのに、その心が、指の間からポタポタともれていく。その切なさ。その
はがゆさ。しかし親としてできることはもうない。ただ黙って、その背中を見送るだけ。

 子どもは、子どもの世界で、それから先、無数の父親に出会い、無数の母親に出会って
いく。私ひとりが、子どもの父親ではない。母親でもない。そう思うのは、それは同時に、
私たちが子離れの、最後の仕あげをするときでもある。「お前の人生は、お前のもの。たっ
た一度しかない人生だから、思う存分、この世界を羽ばたいてみなさい」と。

 が、振りかえると、そこには秋の乾いた風。ヒューヒューと乾いたホコリを巻きあげて、
枯れた木々の間で舞っている。心のどこかで、「こんなはずではなかった」と思う。あるい
は「どうしてこういうことになってしまったのか」とも思う。しかし子どもは、もうそこ
にはいない。

 願わくば、幸せに。願わくば、無事に。願わくば、健康に。

 親孝行? ……そんなくだらないことは考えるな。家の心配? ……そんなくだらない
ことも考えるな。私たちは私たちで、最後の最後まで、幸福に生きるから、お前はお前た
ちで、自分の人生を思いっきり生きなさい。この世界中の人が、お前の父親だ。お前の母
親だ。遠慮することはない。

 精一杯、親としてそう強がってはみるものの、さみしいものはさみしい。しかしそのさ
みしさをぐっとこらえて、また言ってみる。「元気でな。体を大切にするんだよ」と。あの
藤子・F・不二雄の「ドラえもん」の中にも、こんなシーンがある。「タンポポ、空をゆく」
(第一八巻・一七六ページ)というのが、それ。

 タンポポがガラスバチの中で咲く。それをのび太が捨てようとすると、ドラえもんが、「や
っと育った花の命を、……愛する心を失ってはいけない」と、さとす。物語はここから始
まるが、つぎにドラえもんは、のび太に、花の心がわかるグラス(メガネ)を与える。の
び太は、そのグラスを使って、花の心を知る。

 タンポポの心を知ったのび太は、タンポポを日当たりのよい庭に植えかえる。が、しば
らくすると、嵐がやってくる。のび太はタンポポをすくうため、嵐の中で、そのタンポポ
に植木バチをかぶせる。こうした努力があって、タンポポはやがてきれいな花を咲かせる。
のび太が「きれいに咲いたね」と声をかけると、タンポポは、「のび太さんのおかげよ」と、
礼を言う。「こんないい場所へ植えかえていただいて、嵐から守ってもらって。のび太さん
は、ほんとうにやさしくて、たのもしい男の子だわ」と。

 そのタンポポの種が、空を飛び始めるとき、のび太は、こう言う。「いよいよだね」と。
小さなコマだが、のび太が手をうしろに組み、誇らしげに空を見ているシーンが、すばら
しい(一八六ページ)。そのあと、のび太はこうつづける。
 「子どもたちが、ひとりだちして、広い世界へ飛び出していって……、きれいな花を咲
かすんだね」と。 
 一人(一本)だけ、母親のタンポポから離れていくのをいやがる種がいる。「いやだあ、
いつまでもママといるんだあ」と。それを見てのび太が、またこうつぶやく。「いくじなし
が、一人残っている……」と。

 タンポポの母親「勇気を出さなきゃ、だめ! みんなにできることが、どうしてできな
いの」
 子どもの種「やだあ、やだあ」
 のび太「一生懸命、言い聞かせているらしい。タンポポのお母さんも、たいへんだなあ」
 タンポポの母親「そうよ、ママも風にのって、飛んできたのよ」
 子どもの種「どこから? ママのママって、どこに生えていたの?」
 タンポポの母親「遠い、遠い、山奥の駅のそば……。ある晴れた日、おおぜいの兄弟た
ちと、一緒に飛びたったの」
 子どもの種「こわくなかった?」

 タンポポの母親「ううん、ちっとも。はじめて見る広い世界が、楽しみだったわ。疲れ
ると。列車の屋根におりて、ゴトゴト揺られながら、昼寝をしたの。夜になると、ちょっ
ぴりさびしくなって、泣いたけど、お月さまがなぐさめてくれたっけ。高くのぼって、海
を見たこともあるわ。青くて、とってもきれいだったわよ。やがてこの町について……。
のび太さんの、お部屋に飛び込んだの」
 子どもの種「ママ、旅をして、よかったと思う?」
 タンポポの母親「もちろんよ。おかげできれいな花を咲かせ、ぼうやたちも生まれたん
ですもの」

 子どもの種「眠くなっちゃった」
 タンポポの母親「じゃあね。歌を歌ってあげますからね。ねんねしなさい」

 子どもの種が旅立つ日。のび太はその種を、タケコプターで追いかける。

 のび太「おおい、だいじょうぶか」
 子どもの種「うん。思ったほど、こわくない」
 のび太「どこへ行くつもり?」
 子どもの種「わかんないけど……。だけどきっと、どこかできれいな花を咲かせるよ。
ママに心配しないでと伝えて」
 のび太「がんばれよ」

 この物語は、全体として、美しい響きに包まれている。何度読み返しても、読後感がさ
わやかである。それだけではない。巣立っていく子どもを見送る親の切なさが、ジーンと
胸に伝わってくる。子どもの種はこう言う。「ママに心配しないでと伝えて」と。タンポポ
の親子にしてみれば、それは永遠の別れを意味する。それを知ってか知らずか、のび太は
こう言ってタンポポの種を見送る。「がんばれよ」と。私はこの一言に、藤子・F氏の親と
しての姿勢のすべてが集約されているように感ずる。

 あなたの子育てもいつか、子どもの巣立ちという形で終わる。しかしその巣立ちは決し
て美しいものばかりではない。たがいにののしりあいながら、別れる親子も多い。しかし
それでも巣立ちは巣立ち。子どもたちは、その先で、無数の父親や母親たちを求めながら、
あなたから巣立っていく。あなたはそういう親たちの一人に過ぎない。あなたがせいぜい
できることといえば、そういう親たちに、あなたの子どもを託すことでしかない。またそ
うすることで、あなたは子どもの巣立ちを、一人の人間として見送ることができる。

 さあて、あなたはいったい、どんな形で、子どもの巣立ちを見送ることになるだろうか。
それを心のどこかで考えるのも、子育てのひとつかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の巣立ち 巣立ち論 子どもの巣立ち 藤子・F たんぽぽ)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●子育てのリズムとパターン

 子育てには、一定のリズムがある。このリズムは、たいてい母親が子どもを妊娠したと
きから始まる。そしてそのリズムは、子育てが終わるまで、あるいは終わってからも、そ
のままつづく。

 たとえばこんな母親がいた。胎教とか何とか言って、妊娠中は、おなかにカセットレコ
ーダーを置き、胎児に英会話やクラシック音楽のCDを聞かせた。生まれてからは、子ど
もが泣き出す前に、つまりほしがる前に、いつも時間をはかってミルクを与えてた。子ど
もがヨチヨチ歩くようになると、スイミング教室へ入れたり、音感教室に入れたりした。
さらに子どもが大きくなると、算数教室へ入れたり、英会話教室に入れたりした。

 この母親のばあい、何かにつけて、子どものテンポより、一テンポ早い。これがこの母
親のリズムということになる。そしてこのリズムが、全体として、大きなうねりとなる。
それがここでいうパターンということになる。このパターンは、母親によって違う。いろ
いろなケースがある。

 ある母親は、子どもによい思いをさせるのが、よい親のあるべき姿と信じていた。だか
ら毎日の食事の献立も、休日の過ごし方も、すべて子ども中心に考えた。家を新築したが、
一番日当たりのよい部屋は、子ども部屋にした。それぞれの部分は、リズムで決まるが、
全体としてそれがその母親のパターンになっているのがわかる。この母親は、子どものた
めと思いながら、結局は子どもを甘やかしている。そしてこのパターンは、一度、できる
と、あとは大きなうねりとなって、繰り返し、繰り返し現れては消える。

 その子どもが中学生になったときのこと。その子どもが大型量販店で万引きをして、補
導されてしまった。その夜のこと。その母親は、まず私の家に飛び込んできた。そしてこ
う泣き叫んだ。「今、内申書に悪く書かれると、あの子は高校へ進学できなくなります。何
とかしてほしい」と。しかし私には助ける術(すべ)がない。断ると、その母親はその夜
のうちに、あちこちを駆け回り、事件そのものを、もみ消してしまった。多分、お金で解
決したのだろうと思う。

 この母親のばあい、「子どもを甘やかす」というパターンがあるのがわかる。そしてその
パターンに気づかないまま、その母親はそのパターンに振り回されているのがわかる。も
しそれがよいパターンならよいが、悪いパターンなら、できるだけ早くそれに気づき、そ
のパターンを修正するのがよい。

まずいのは、そのパターンに気づかないまま、それに振り回されること。子どもはその
パターンの中で、底なしの泥沼に落ち込んでいく。それを防ぐ第一歩として、あなたの
子育てが、どのようなリズムをもっているかを知る。

 一見人間の行動は複雑に見えるが、その実、一定のリズムとパターンで動いている。も
ちろん子育てに限らない。生活のあらゆる部分に、そのリズムとパターンがある。ここに
も書いたように、それがよいリズムとパターンなら、問題はない。しかし悪いリズムとパ
ターンなら、長い時間をかけて、あなたの生活全体は、悪いほうに向かう。そのためにも、
今、あなたの生活が、どんなリズムで、どんなパターンの中で動いているかを知る。

 ついでに一言。こと子どもについて言うなら、このリズムとパターンを知ると、その子
どもが今後、どのようになって、どのような問題を引き起こすようになるかまで、わかる
ようになる。少なくとも、私にはわかる。よく「林は、超能力者みたいだ」と言う人がい
るが、タネを明かせば何でもない。子どもというのは、どんな人間になるかは、無数の方
程式の組み合わせで決まる。その方程式を解くカギが、その親のリズムとパターンという
ことになる。

そのリズムとパターンがわかれば、子どもの将来を予測することぐらい、何でもない。
ただ立場上、わかっていても、それをはっきり言わないだけ。万が一まちがっていたら
という思いもあるが、子育てにははっきりわからなくてもよいことは山のようにある。
わからないまま手さぐりで進むのも、子育てのまた、おもしろいところではないのか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子育てのリズム リズム論 子育てリズム論)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●あと始末論(2)

 ミキサーでジュースをつくる。まずバナナやミカンの皮をむき、それを包丁で小さく切
る。少し水を入れて、スイッチオン!

 できたジュースをコップに注ぐ。そして飲む。いや、その前にやるべきことは多い。ま
ず、コードをコンセントから抜く。包丁を水で流し、ミキサーのカップを洗う。それがす
んだらコードをミキサーに巻き、そして棚へしまう。ジュースを飲むのは、それからだ。
が、それですむわけではない。今度は使ったコップを水で流し、逆さにして、水を落とす。

 あと片づけとあと始末は、違う。きれいに片づけることをあと片づけといい、自分のし
たことについて責任をもって行動することを、あと始末という。日本人はどういうわけか、
あと片づけにはたいへんうるさい民族である。しかしあと始末に甘い?

 ある男性(50歳)は、牛乳を冷蔵庫から出しても、その牛乳を冷蔵庫にしまうことす
らしない。だから彼のワイフはこう言った。「夏場になると、牛乳なんて、あっという間に
腐ってしまうのよ」と。このタイプの男性は、本当に多い。食事のあと、食器を洗うどこ
ろか、その食器をシンクへもっていくことすらしない。あとは一事が万事。何もしない。
本当に何もしない。

 問題はどうしてこういう男性が生まれるかということ。(女性にもいるが……。)しかし
理由は簡単。子どものときから、そういう訓練を受けていない。「おなががすいたア〜」と
言うだけで、親が何でもしてくれる。「のどがかわいたア〜」というだけで、親が何でもし
てくれる。そういう環境で育てられている。親自身も、子どもに楽をさせるのが、親の愛
と誤解している。私が「子どもにもっと仕事を分担させなさい」と言うと、ある母親は、
こう言った。「いいんですか、そんなことさせて。何だか子どもに申し訳なくて……」と。

 多くの親は、ハシ並べやクツ並べをしてくらいで、子どもをホイホイとほめる。しかし
そんなのは手伝いとは言わない。ママゴトという。子どもというのは、皮肉なことに、使
えば使うほど、よい子になる。そこから忍耐力も生まれ、生活力も生まれる。それは家庭
教育の常識だが、それについて話すと、別の母親はこう言った。「使うと言っても、させる
ことがありません」と。

 掃除は掃除機で、5分ですんでしまう。洗濯機も皿洗いも、全自動。「何をさせればいい
ですか?」と。
 
 そこで改めてあと始末論。その気になれば、何だってある。たとえば子どもが、「ジュー
スを飲みたい」と言ったとする。そういうときはまず、ミキサーをもってこさせ、コード
をコンセントにつながせる。バナナとミカンを小さく切らせる。それをミキサーに入れさ
え、水を加えさせる。そしてスイッチを入れて、ミキサーを回す。

しかし重要なのはここからだ。子どもがジュースを飲む前に、あるいは飲んでからでも
よいが、子どもにそのあと始末をさせる。使ったコップにしても、子どもがコップを水
で流し、逆さにして、水を落とさせるまで、やらせることはいくらでもある。そういう
ことを「子どもを使う」という。

 そこであなたの家庭でも、どうだろう。今日から、こう言ってみては……。「あと始末を
しっかりとしようね」と。大切なのは、あと片づけではなく、あと始末。それがしっかり
できるかどうかで、結局は責任感の強い子どもになるかどうかが決まる。あと始末にはそ
ういう意味もある。決して安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
あと始末 あと片づけ 子供のしつけ論 しつけ)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【すばらしい人たち】

●二人の知人
 
石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、
K氏という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界
で、もっともすばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。
この二人ほどすばらしい人を、私は知らない。この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、
どうすれば人は、そういう人になれるのか。またそういう人になるためには、私はどう
すればよいのか、それを考えさせられる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさること
ながら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。
その人たちの言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを
楽しんでくれる。悲しい話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉
で言えば、「すなおな」人たちということになる。

●自分をさらけ出すということ
 
こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのまま
さらけ出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいて
いの人は、心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、
他人には知られたくない、醜いものばかり。つまり人は、そういうものをごまかしながら、
もっとわかりやすく言えば、自分をだましながら生きている。そういう人は、自分をさら
け出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本
の4タヌキというようなタイトルで、4人の女性が紹介されていた。

元野球監督の妻(脱税で逮捕)、元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の
女性(公費流用疑惑で議員辞職)、演劇俳優の女性の四人である。4番目の演劇俳優の女
性は別としても、残る3人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。(週刊誌のほうでは、
実名と写真を掲載していた。)

昔風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、
毎日、いかにして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違いない。
仮にあるがままの自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしな
くなる。つまり化けの皮がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほう
がよいかもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりす
る。自分という人間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで
考えることにして、そんなわけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。と
きどき、あるがままに生きたら、どんなに気が楽になるだろうと思う。が、そう思ってい
ても、それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識したとたん、自分を作
ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居
なおって生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えて
いく道。いや、一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道
なのかもしれない。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでも
ある。疲れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスは
ない。あるいは反対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放される
ことになる。人はなぜ、ときとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分
と、ニセの自分が遊離するからだ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私は
ヘトヘトに疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言し
たことも何度かある。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。
しかしそれ以上に、私を疲れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツ
ンとした緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分で
なくなってしまう。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。と
きどき講演をしながら、その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさ
えあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかし
それは言葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出
したら、それだけで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がい
つもつきまとった。そのときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、
恥ずかしくないような自分になろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り
口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が
悪人になるとしたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。人にウソをつか
ないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。

つまり日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、や
がてその人の人格をつくる。日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。
しかし原点は、あくまでもその人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいこと
ではない。中には滝に打たれて身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけ
るとか、そういうことをする人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんな
ことまでする必要はない。あくまでも日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生
きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが
鳴れば玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソ
コンに向かって、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人
間は、もともと善良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠く
なる時代を生き延びることができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去ってい
たはずである。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越
えてきたということは、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証
拠にほかならない。私たちはまずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。
水の中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無
理をしない。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、
決して深追いをしない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあっ
たからこそ、こうした生き物は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて
例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……

 で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言
っても、それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、
今でも油断をすると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。
これは人間が本能としてもつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単では
ない(※1)。それは性欲や食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこか
らどこまでが自分で、そこから先が自分かわからなくなる。

が、人間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこともあるが、しかし一方、努力によ
って、その本能からのがれることもできる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざ
けること。遠ざけてはじめて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった
人間になることができる。またならねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるが
ままに生きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。
そういうときはどうすればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、
ひょっとしたら、みんな去っていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接し
たら、その誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そう
いう力がある。そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。た
がいに話しこめば話しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消え
ていくのがわかった。別れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、
K氏も、こぼれんばかりの笑顔で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした
二人の知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへ
ん失礼な言い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっ
ただろう。しかし二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまり
にもよく似ているのに驚いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようにな
った。「なぜ、二人はこうも共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えている
うちに、その共通点から、ここに書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!


(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を
伴走する。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間
が歩く程度では、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなと
きでも、だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえ
たりすると、私の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、
私が見ても、「ああ、かっこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそ
れがわかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。
しかし自尊心はもっている? もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があ
るから、人は前向きな努力をする。

私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超え
ると、いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚
勢を張ったり、自分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、
どこからが自分の意思なのか、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこ
かからどこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわ
からない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自尊心 子供の自尊心) 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●最近の話題から

++++++++++++++++

憲法改正、それに道州制の導入など。

このところ、世間の動きが、
急にあわただしくなってきた。

++++++++++++++++

 憲法改正の焦点は、何といっても天皇制。現在の「象徴天皇」から、「国家元首」として
の位置づけを、明確にしようというもの。

 しかしこれには、私は、明確に、反対しておきたい。そもそも、どうして現行の「象徴
天皇」ではいけないのか? 日本が、本当に民主主義を、標榜(ひょうぼう)するなら、「天
皇元首制度」は、まさに、その民主主義の理念を根底から、否定するものと考えてよい。

 つぎに道州制の導入だが、当然のことながら、各道、各州には、「長」が選ばれることに
なる。その世界では、「首長(くびちょう)」という。これについて、「道州に、国の権限を
大幅に移譲し……」とあるが、それを額面どおりに読んではいけない。

 現在の今ですら、全国の都道府県知事の大半が、元中央官僚。副知事の大半も、国会議
員の大半も、また大都市の市長の大半も、元中央官僚。

 明治時代には、士族、華族、とくに元大名の師弟は、こぞって東大から自治省をめざし
た。そしてその自治省から、全国へ県令(現在の県知事)となって散っていった。

 それから100年。この図式は、今も、何も変わっていない。

 仮にもしここで道州制になったら、道、州の「長」は、さらに元官僚たちによって、独
占されることになる。わかりやすく言えば、「国の権限を大幅に移譲し……」というのは、
選挙で選ばれた政治家たちの影響力を弱め、官僚たちによる国の支配を、さらに強固にし
ようというものである。

 その頂点に、元首としての天皇を置く。

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。私が学んだ、オーストラリアの
大学でのテキストでは、「日本は、官僚主義国家」となっていた。「君主(ロイヤル)官僚
主義国家」となっていたのもあった。

 当時の私は、それに猛反発したが、今は、ちがう。「なるほど、そうだったのか」と思う
ようになった。同じ「民主主義」という言葉を使うが、オーストラリアでいう民主主義と、
日本でいう民主主義とは、まるでちがう。どうちがうかということについて書き出したら、
キリがないが、ともかくも、ちがう。

 今、ここで天皇を元首にした道州制を導入したら、それこそ、まさに「王政復古」。16
60年にチャールズ2世が、なしとげたあの王政復古そのものということになる。

 英語では、その「王政復古」を、「the Restoration」という。同じく、明治維新も、外国
の文献では、「the Meiji Resoration」と翻訳されている。日本では、「維新」というが、そ
れはいわば、言葉の煙幕のようなもの。時の政府は、その煙幕を張って、国民をだました。

 そこで、もしここで、天皇が元首になり、今の状態のままで、道州制が導入されたら、
外国では、「the Heisei Resoration(平成王政復古)」と呼ばれるようになるだろう。またま
た明治王政復古に、逆戻り!

 戦後、日本は、当初は押つけられたものであったかもしれないが、アメリカ型西欧文明
を、受け入れた。日本国憲法も、その過程で生まれた。

 しかしここにきて、急速に、復古主義が、台頭してきた。その種の本も、よく売れてい
る。「武士道こそ、日本が誇るべき精神の根幹」と説く人も多い。憲法改正も、道州制の導
入も、その流れの中にある。

 行政改革、つまり官僚制度の是正は、ことごとく暗礁に乗りあげてしまっている。なぜ
そうなったのかということについては、今さら、改めて書くまでもない。

 もちろん私も、みながそれでよいと言うのなら、それで構わない。が、それには前提が
ある。「それでよい」と言う前に、みなが、もっと考えなければならない。考えた末に、「よ
い」というのなら、私も従う。

 しかし、みなは、考えているのか? 本当に考えているのか? 大半の人たちは、政治
の話を口にしただけで、顔をそむけてしまう。そういう状態の中で、「まあ、いいだろう」
というように、安易な結論を出すことは、日本の将来にとって、たいへん危険なことであ
る。

 そのツケを払うのは、結局は、つぎの世代の人たちということになる。今、官僚となり、
わが世の春を謳歌している人たちも、「つぎの世代」、つまりあなたの子ども、あるいは孫
の立場になって考えてみてほしい。

 本当に、それでよいのか、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
憲法改正 天皇元首制 道州制の導入 日本の民主主義 民主主義)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●定年退職ブルー

++++++++++++++++++

定年を迎えた人が、退職したとたん、うつ病(ブルー)
になるケースが多いという。

それまで健康で病気ひとつしたことない人が、
体の不調を訴えるようになるケースも、
珍しくない。

称して、「定年退職ブルー」。
短くして、「定退ブルー」。

しかしこれは深刻な問題と考えてよい。

++++++++++++++++++

 会社人間として、「一社懸命」(M氏)、がんばってきた。が、ある日、定年を理由に退職
を言い渡される。

 人生には、始まりがあれば、必ず、終わりもある。それはわかる。わかるが、まじめに
がんばってきた人ほど、そのショックは、大きい。定年退職をしたとたん、無気力状態に
陥り、そのままうつ病になる人も多い。

 知人のZ氏(現在63歳)は、こう言った。「そのあと、1年間、夜も、ほとんど眠れま
せんでした。それで病院で、うつ病の薬を処方してもらい、それをのんでいました」と。

 Z氏は、私が知るかぎり、精神的にもたいへん、タフな人である。中高年になってから
も、トライアスロンの選手として、活躍していた。そんな人でも、そうなる。

 この話をワイフにすると、ワイフは、こう言った。「あなたは、毎年、分割退職をしてい
るようなものだから、そういう大きなショックはないわね」と。

 自分の話にしてしまって恐縮だが、私の仕事のばあい、定年という、決まった年齢はな
い。そのかわり、毎年、生徒がやってきて、同じように生徒が去っていく。そして全体と
してみると、毎年、少しずつだが、生徒は減っていく。

 私自身の体力の限界もある。若いころは、幼児を相手に、4〜6時間でも、教えること
ができた。しかし今は、2時間が、限度。2時間も教えると、ヘトヘトになる。

 つまり定年退職を、何年かに分けて、分割して経験している。だから「分割定年」!

 おもしろいネーミングだ。

 で、そういう私でも、ときとばあいによっては、ショックを受ける。大きなショックで
はないが、しかし受ける。そしてそのあと数日間、悶々とした日々を過ごすことがある。

 敗北感。挫折感。空虚感。それに悔しさと、情けなさの入り混じったような状態。とき
に自分の仕事を、のろうこともある。

 つまり定年退職をした人は、いくら円満退職といっても、そういうショックを、一度に、
ドッと受ける。私が受けるショックを、砂浜に打ち寄せる小波にたとえるなら、そういう
人が受けるショックは、地震のあと襲ってくる、津波のようなもの。

 先にも書いたように、かなり精神的にタフな人でも、そのショックをひとりで吸収する
ことは、むずかしい。

 そこで、では、そういう定退ブルーを、どう考えたらよいかという問題になる。いろい
ろ対処法が考えられる。心のケアができる専門医を養成するとか、そうした人を指導でき
るカウンセラーを置くとか、など。が、もうひとつ重要なことは、退職した人が、そのシ
ョックをやわらげることができるように、社会で、しっかりとした受け皿を用意すること
ではないだろうか。

 退職者イコール、(仕事をしたくない人)ではない。いろいろな人の話を総合してみると、
「仕事はしたい」「だが、自分のキャリアを生かす職場がない」ということらしい。つまり
退職と同時に、自分がそれまで積み重ねてきたキャリアそのものが、否定されてしまう。

 それがうつ病の引き金を引くということらしい。

 たとえばそれまで出版社で、本の編集の仕事をしてきたとする。その人は、本の編集に
かけては、プロということになる。

 が、退職したとたん、そのキャリアを捨てなければならない。捨てて、何かの仕事をす
るといっても、まったく異なった仕事をしなければならない。それが大きなストレスとな
って、その人を襲う。

 本の編集を、20年とか30年もしてきた人が、どうして人材派遣会社の相談窓口の仕
事ができるだろうか。もしその人が生きがいをもってできる仕事があるとするなら、たと
えば、本の自費出版をしたいと願っている人を、手助けするような仕事である。つまりそ
ういう仕事を紹介できるような、社会のしくみを、用意する。

 そういう受け皿がきちんとできていれば、ここでいうショックを、和らげることができ
る。

 そこで提案だが、インターネットでのしているオークションのように、自分の能力とキ
ャリアを、広く世間に対して、(売る)ことはできないものだろうか。たとえば、「私、6
2歳。本の編集経験歴、30年。自費出版を手伝います。1冊、20万円から」とか、な
ど。

 そういえば、私も、そういう仕事なら、できる。自分の広告を出してみると、こうなる。

【はやし浩司を売ります】

●家庭での子どもの出張教育相談を受けます。1回の相談料、往復にかかる時間こみで、
1時間X000円、プラス交通費。

●原稿の校正、推敲、代筆いたします。400字づめ原稿用紙1枚分で、X000円、と
かなど。 

 そのうち今の仕事がヒマになったら、そういう形で、仕事を作ってみたい。(今でも、し
てみたいが……。これは本気だぞ!)

 つまりこういうことが、もっと、オープンに、気軽に、そして公的な機関を通してでき
るようになればよい。インターネットで、そういうコーナーを作ってもよい。あるいは、
それぞれが、自分のHPの中で、そういうコーナーを作ってもよい。

 定退ブルーは、団塊の世代の大量退職を迎え、これから先、大きな社会問題になる。そ
れはまちがいない。

 だからこそ、何らかのこうした対策が必要ということになる。


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6月号は、今日で、おしまい!

次回から、7月号になります。

今朝は(5月29日)、肌寒さを感じさせますが、
このマガジンが、みなさんのところに届くころには、
暑い夏がやってきていると思います。

長期予報によれば、「平年並み」(?)ということだそうです。

どうか、お体を大切に!

夏バテ対策は、夏バテをしてからではなく、
夏バテをする前にするものですね。

できるだけクーラーにあたらないとか、
体調を整え、睡眠時間を守るとか、など。

私は毎年、どういうわけか、夏場に太ります。
肥満にも、注意したいです。

では、また、来月、2006年7月3日に、
お会いしましょう!

なお、7月3日には、マガジンは、
第747号になります。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 28日
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page027.html

********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
まぐまぐプレミアは、10月から月額300円を予定しています。よろしくお願いします。
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教師によるハレンチ事件

+++++++++++++++

このところ、このS県でも、
教師による、ハレンチ事件が
たてつづけに、起きている。

+++++++++++++++

 今度は、I町(浜松市の近郊)の塾講師が、ハレンチ罪の容疑で逮捕された。新聞の報
道によれば、中学生の女子と、中学生と知りつつ、どこかのホテルで、「いかがわしい行為
をした」(報道)という。

 当の塾講師は、「身に覚えがない」(報道)と、それを否定しているという。それはそれ
として、つまり今の段階では、その講師がシロかクロかはわからないが、今回の事件は、(い
もづる式)に、発覚した。

 その女子は、不特定多数の男性と、そういうことをしていたらしい(?)。で、1人の男
性を調べていたら、ほかにも、同じようなことをしていた男性が何人か見つかり、その中
に、塾講師も含まれていたという。

 で、こういう事件を見聞きすると、その周囲の人間は、(私も含めてだが)、「さも、私は
関係ありません」というような顔をする。「自分は、そういうことをする人間ではありませ
ん」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう考えてよいのだろうか? 言いかえると、だれが、
こういう塾講師を、『石もて、打てるのか』?

 スケベ心はだれにでもある。あなたにも、私にも、だれにでもある。もしそのスケベ心
を否定してしまったら、人間は、人間でなくなってしまう。つまりこういう事件に関して
は、絶対的な悪人もいないし、絶対的な善人もいない。

 では、悪人と善人のちがいは何かということになると、それが(距離)である。(してみ
たい)と思うことと、(実際に、してみる)ということの間には、距離がある。その距離の
短い人を、悪人といい、その距離の長い人を、善人という。

 その距離をつくるのが、道徳であり、倫理ということになる。哲学もそれに含まれる。
その人の社会的地位や立場が、距離をつくるということも考えられるが、こういう事件で
は、あまりアテにならない。アテにならないことは、一連の教師によるハレンチ事件を見
ればわかる。

 「教師なら、そういうことをしないはず」と考えるのは、今では、幻想以外の何もので
もない。

 距離をつくるのは、もっと本質的な問題である。また、そういう視点でこういう問題を
考えないと、こうした事件は、ますます巧妙化するだけ。水面の下にもぐるだけ。言いか
えると、その距離のない人に向かって、自己規制を、いくら求めても、ムダ。
 
 そこで前から私が述べているように、こうしたハレンチ事件に対しては、厳罰主義で臨
むのがよい。たとえば問答無用式に、2年の懲役刑にするとか、など。オーストラリアで
は、さらにそれが進んで、そうした行為を見聞きしたばあい、通報義務まである(南オー
ストラリア州)。

 たとえばあなたの友人(男性)が、未成年者(女子)とそういう交際をしていると知っ
たら、あなたは、それを警察に通報しなければならない。それを怠ると、あなた自身も逮
捕される。

 そういう意味では、日本は、こうした犯罪に対して、甘い。アメリカなどでは、教師が
生徒と性交渉をもったりすると、軽くても、10年近くの刑を科せられる。言い逃れはで
きない。日本も、そうすればよい。そうすることによって、こういう事件の再発を防ぐ。

 わかりやすく言えば、道徳面、倫理面、哲学面で距離を作ることが無理なら、その距離
は、刑罰で作るしかないということ。若い女の子が近づいてきただけで、男性のほうが青
くなって遠ざかるような状況になれば、この種の事件は、ぐんと少なくなるはず。

 世界広しといえども、女子高校生や女子中学生が、売春まがいの遊びをしている国は、
そうはない。またそういった子どもたちに群がって、男性たちがお金を払っている国は、
そうはない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ニート族の60%は、部活動の経験なし(?)

++++++++++++++++

何かの新聞の見出しに、
こんな記事が載っていた。

「ニート族の60%に、
部活動の経験、なし」と。

その記事は、そのまま、
見過ごしてしまった。

心のどこかで、「?」と
思いながら……。

++++++++++++++++

 このS県では、中学校については、部活動には、一応、全員が、参加することになって
いる。義務ではないが、そうなっている。が、特別の事情のある子どもについては、部活
動が免除される。高校生については、公立、私立を問わず、自由参加が原則になっている。

 見出しに、「部活動の経験なし」とあるから、そのまま読めば、小学校、中学校、高校を
通して、部活動の経験がないということになる。しかし、そんな子どもはいるのだろうか?

で、この記事を一読すると、「部活動を経験しない子どもは、ニート族になる可能性が高
い」という印象をもってしまう。ここでいくつかの疑問が、わいてくる。

 ほかの県のことは知らないが、仮に、ある県では、部活動に参加するかしないかは、子
どもの意思に任されていたとする。そのため、部活動に参加しない子どもが、60%、い
たとする。すると、この調査結果は、まったく意味がないことになる。

 「ニート族を調べたら、50%が、男子だった」というのと同じくらい、おかしい。「病
気の子どもを調べたら、50%が男子だった」というのでも、よい。

 しかしこのS県に関していえば、一応、100%の子どもが、何らかの部活動を経験し
ていることになる。何らかの事情があって、部活動を免除してもらっている子どもは、正
確に調査したわけではないが、中学生で、10%前後ではないか。

 そこで、その(10%)という数字の上に、(60%)という数字をのせてみると、こう
いうことになる。

 「部活動を免除してもらった10%の子どものうち、60%がニート族になる」と。

 が、ここでまたまた別の疑問が生まれる。

 そもそも何らかの事情で、部活動を免除してもらう子どもというのは、その前提として、
何らかの「事情」をもっている。「どうしても集団になじめない」とか、「体力的に問題が
ある」とか、など。そういう子どもをもつ親から、私はそういう相談を、よく受ける。

 だから部活動をしないと、ニート族になりやすいと考えるのは、短絡的すぎる。部活動
に参加できない子どもは、それ以前から、もともとニート族になるような要素をかかえて
いる子どもというふうにも、考えられる。

 ニート族というのは、「not in education,employment or training」、略して、「N
EET」。つまり「就学も職業訓練もしていない若年層の無業者」をいう。

 つまり「部活動をしなかったから、ニート族になった」と考えたらよいのか、「そもそも、
その素地は、就学前からあった」と考えたらよいのか、それがよくわからない。個人のレ
ベルでそれを考えてみれば、わかる。

 たとえばA君(中1)という子どもがいたとする。

 彼は最初、テニス部に入りたかった。もともと運動は得意ではなかった。しかしテニス
部は満員。抽選ではずれて、バスケット部へ回された。しかしA君は、背が高くなかった。
反射神経も、よくなかった。

 そこでA君は、毎日、重い足を引きずるようにして、学校へ通うようになった。「部活を
やめさせてほしい」「変えてほしい」と、何度も担任の教師に訴えたが、聞き入られなかっ
た。で、断続的に不登校。あわてた両親が、担任と部活動の指導教師に相談。やっとのこ
とで、A君は、部活動を免除された。

 ……というようなケースは、多い。で、こういうケースのばあい、部活動が先で、A君
はA君のようになったのか、それとも、A君は、もともとそういう子どもであったから、
部活動になじめなかったのかということになる。その判断が、たいへんむずかしい。

 というのも、対人恐怖症、集団恐怖症、さらには回避性障害をもった子どもというのは、
決して少なくない。そしてそういう傾向は、すでに幼児期のときから始まる。

 このタイプの子どもというのは、学校という集団教育にさえ、なじむことができない。
いわんや、体育系の部活動となると、さらになじむことができない。そういう子どもは、
ここでいう「部活動の経験なし」という部類に属する子どもになる可能性は、たいへん高
い。

 ……とまあ、いろいろ考える。

 で、結論から先に言えば、「では、部活動をきちんとできるようにすれば、ニート族にな
るのを、予防することができる」というふうに考えるのは、まちがっている。この調査を
した人は、おそらく、そういう先入観をもって、調査をしたのではないのか。

 というのも、この種の論法は、すでに30年近く前から、よく耳にするからである。つ
まり「だから、部活動は子どもにとって、重要だ」と。そのことを裏づけるために、どこ
かの団体が、こうした調査をして、「ニート族の60%に、部活動の経験、なし」という数
字をはじき出した(?)。

 それに、だれも、(子どもも、そうだが)、なりたくて、ニート族になるのではない。そ
れぞれの人は、(子どもも、そうだが)、そうであることに、人知れず、悩んでいる。苦し
んでいる。ある男性(30歳)は、そのニート族だが、その男性の母親が、こんな話をし
てくれた。

 その男性は、子どものころから、集団活動や訓練が苦手だった。遠足といえば、子ども
は喜ぶはずと考える人が多いかもしれないが、その男性は、遠足が苦痛だった。運動会も
苦痛だった。

 もともと、ある心の問題をかかえていた。

 で、20歳をすぎてからも、職にもつかず、訓練学校にも通わなかった。その男性には、
2人の弟がいたが、その2人の弟は、大学を出て、結婚をした。そういう兄弟や兄弟夫婦
たちと正月に顔を合わせたあと、その男性は、自分の部屋で、おいおいと泣いていたとい
う。

 「ぼくは、兄貴なのに、何一つ、兄貴らしいことをしてやれない……」と。

 ニート族というと、怠けた人間に思う人も多いかもしれない。事実、客観的に見ると、
そう見えなくもない。しかしそういう若者たちがかかえる問題の根は、もっと深い。ここ
でいうように、部活動と短絡的に結びつけて考えられるほど、単純な問題ではない。

 が、この日本では、「集団教育」に、どういうわけか、異常なほどまでに、こだわる。集
団になじめないことを、「おくれる」とか、「落ちこぼれる」とか、いう。むしろ、個人が
個人として生きていくことすら許さない。また個人で生きていくとしても、その道は、た
いへん限られている。しかしほんの少しだけ視点を変えて、もし、「集団のほうが、おかし
い」「問題がある」と考えたら、どうなるのか。

 それがわからなければ、この過密すぎるほど過密な、社会を見たらよい。この忙しすぎ
るほど、忙しい、社会を見たらよい。これが本当に、人間にとって、あるべき環境なのだ
ろうか。

 何割かの子どもが、そういう集団になじめないからといっても、何も、おかしくない。
むしろ大切なことは、そういう子どもが、何割かの確率で生まれるということを前提にし
て、もっと多様性のある社会を用意することではないのか。

 今のように、学校だけが道であり、学校を離れて道はないという社会のほうが、まちが
っている。

 まわりくどい言い方をしたが、「ニート族は悪」であるという発想が、どこか、見え隠れ
して、どうも、この調査結果には、抵抗を覚える。少し前には、「フリーター撲滅論」まで、
あった。(撲滅だぞ!)

さらに一言、つけ加えれば、こうした調査結果が、部活動推進派の教師を、ますます勢
いづかせることを、私は、心配する。そしてその結果、ますます重い足をひきずりなが
ら学校へ通う子どもがふえることを、私は、心配する。

 もちろんだからといって、部活動を否定しているのではない。ただ私は、子どもによっ
ては、部活動そのものが、過負担になるケースもあるということ。それを言いたかった。

 以上、私は、その新聞の見出しを読んだだけなので、ここに書いたことは、まちがって
いるかもしれない。そういう前提で、このエッセーを読んでほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
部活動 ニート ニート族 NEET)


【補足】

 この私の意見に対して、実際、引きこもりを体験したことのある、宮沢K氏が、トラッ
クバックしてくれました。

 それをそのままここに転載させてもらいます。

【宮沢K氏のBLOGより】

●引きこもりは、病気だ!

お気楽にやってきたいのに、今日もシビアになっちまう。

「引きこもり者更生支援施設内で暴行か、引きこもり男性死亡」って事件の話。

 不条理日記さんのIMスクールについて、KMさんという人のコメント。

「このケースは、言ってみれば、自信過剰の民間療法の素人が、
 癌の治療に手を出したようなものでしょう。
 引きこもりの一部は精神科の病気、
 それもとても治療の難しい病気なのだという対応が必要です。」

この人が正しい☆ミ凸ヽ(^-^) タイコバン!

それに対して管理人のじじさんが

「引きこもりが病気!?
 そのように病気病気言うから病気に甘えて
 薬に甘えて医者、病院にあまえて何もできなくなってしまうから
 それがひきこもりって、そのまんまの名前の病気になってしまうんではないで
は? 」

 じじさん、あんたねえ、
KMさんも「引きこもりの一部は」って言ってるでしょ。
引きこもりには怠けもんも多いけど
正しい? 病気の人も多いの。

世間一般、じじさんと同じように思ってるだろうけど
メラトニンやコルチゾールの分泌異常とか
前頭葉領域の血流低下とかアセチルコリンの消費量増大とか
あとはPTSDとか親の共依存とか
かなり脳科学や臨床心理学で解明されてきてる。

やる気だって、脳内の化学物質の反応なんだよ。
無知だよなあ、世間のやつらは。

++++++++++++++++++

引きこもり者更生支援施設依存症の親

 IMスクールの事件じゃ、どうやら家庭内暴力で疲れ果てた家族が
施設に引き渡したらしいね。

 精神科の世界で誰にもわからないから閉じ込めるしかない 
今の医学ではそんなもの。

本人が一番辛かったはず、「なんでおれは暴れちまうんだろう」ってね。
原因はあるんだろうが、わたしにはもちろんわからない 

引きこもりに正面から向き合うこともなく、
病理的な勉強も怠り、
甘えだとかやる気がないとかほかの子はちゃんとやってるのに
とか言ってる大人たちが、こんな、社会やこんな子供を作った。 

あんたらこそ、やる気だしてみろよ
薬打って中毒になってみろよ 
病気で足を切断されて足の大切さがわかり、
元通りにならない事をはじめて認める。

どうにもならない事って、その状況にならないとわからない事って
あるだろう。

自分が正常でございと思ってるすべての連中、
あんたらは
感性が擦り切れて、何も感じられないからこんな世の中で平気でいられるだけだ。
宮沢Kの感性の爪の垢でも飲みやがれ(▼ω▼怒)

この施設がどういう人たちがやってて
どういうことが行われたかはわからない。
事故だったのかなんだったのかはわからない。
引きこもりにはそれなりの意義があるんだけど
わかってないんだろうな、こんな施設つくるくらいだから
(引きこもりの人生の意義の話は、またこんどね)

 親が、子どもの暴力に耐えかねて
預かってくれる施設があると聞いて喜んで拉致させた。

 親がこの施設に依存した。
親と子がいっしょに戦うことをあきらめた。
その結果、子どもは死んだ。
これだけだ。

臭いものにはフタか?
わが子は臭いものか?
誰かにまるごと頼みます、であとは平穏な暮らしが戻るのか?

(暴力で苦しんでる家庭では
いっぺん親だけでも精神科や心療内科に相談に行くといい。
ハロペリドールなどの精神安定剤の処方でおおかた静まる。
それからゆっくり時間をかけて話をしていってほしい。
相談するなら素人じゃなく専門家にしないとね。

ただ精神科くらい、医者の当たり外れの大きいところもないから
気に入る医者に出会うまで何人も回ること。

わたしは5つくらい、病院、回って奇跡的にいいドクターに会えて
やっと回復できた C=(^◇^ ; 
どうしてこんな無知で精神科の医者やってんの?というのが多い。
答えは「精神科は楽に儲かるから」。
(点数がいろいろ有利なのは事実)

+++++++++++++++++++++

 ★今日は最後に怠け者へ一言★

 じじさんの言ってた
たんなる「怠け者」の引きこもりやニート、不登校のあんたらに言っておく。
怠け者の末路は悲惨だよ。

生活保護って制度もいつまであるかわかんない。
バス代さえなくて何キロも歩いて病院にきてるおばさん、
家族から見放されて無縁墓地にはいるのを待って
光の入らない4畳半に住んでるおじさん。。。

 やっぱ、施設とか、病院って、世の中にすごく必要。
こういう同病者をまじかにみれるもの。

自分の明日が見れるし
いっしょに抜け出そうとする仲間に出会えるもの。

 ただし、自分から入りたい、と覚悟するまでが、時間、かかるのね。

 これから医学はもっともっと進むよ。
病気かそうでないかは、かんたんに見破られるから
病気のフリもできない。
怠け者にはじじさんだけじゃなく、私も世間も、やさしくないよ
(▼O▼)


【宮沢Kさんへ】

 たいへん参考になりました。あなたのような体験をもった人たちが、もっと声をあげれ
ば、IMスクールのような、おかしな更生支援施設(?)は、なくなると思います。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【寿大学での講演】

++++++++++++++++

今度、ある町の寿(ことぶき)大学で
講演をすることになった。

70歳以上の長老者たちがつくる、
勉強会である。

しかし、私のような若輩(じゃくはい)が、
どうして、そういう人生の大先輩を
前にして、講演など、できるのか?

あれこれ、考える。

++++++++++++++++

 こうした講演で重要なのは、冒頭の部分。お決まりの、「エー、本日はよい日に恵まれま
して……」というようなあいさつは、その瞬間、聴衆の人たちを、白けさせてしまう。

 私のばあい、その場の雰囲気で、つぎの2つのうちのどちらかの方法を選ぶ。

(1)いきなり本題に入る。
(2)少し笑ってもらって、肩の力を抜いてもらう。

 若い母親が対象のときは、(1)の方法がよい。講演時間が短いときは、なおさらである。
とくに小さな子どもが同席しているようなばあいには、いきなり、本題へと切りこんでい
く。

 そうしないと、20〜30分もしないうちに、ワイワイ、ガヤガヤといった雰囲気にな
ってしまう。

 しかし聴衆の方に男性が多いときは、(2)の方法をとる。男性のばあい、私のような人
間が演台に立ったりすると、「何だ、このヤロウは!」といった表情をする。それが自分で
も、よくわかる。

 だから少し笑ってもらって、肩の力を抜いてもらう。

 寿大学ということなので、当然、(2)の方法で、講演に入るしかない。

【導入】

 「要支援」と、「幼稚園」の話から。

 先日、私が子どもたちに、「君たちは、ヨーチエンだろ。ぼくはヨーシエンだ」と話して
やると、子どもたちはこう言った。「先生、ヨーシエンじゃなくて、ヨーチエンだよ」と。

 そこで私は、「いいや、ぼくは、ヨーシエンだ。もうすぐ、ヨーシエンになるよ。ウンチ
をしても、自分のお尻をふけなくなったら、今度は、ヨーカイゴだよ」と。

すると子どもたちは、真顔になって、こう言った。

 「先生、ヨーカイ(妖怪)になるの?」と。

私「そう、ヨーカイだア。ヨーカイ学校といってね、1年生から、5年生まであるんだよ。
こわいところだよ」
子「5年生までしかないの?」
私「そう、5年生までしかない」
子「5年生が終わったら、どうなるの?」
私「あの世さ。あの世へ、行くんだよ。いよいよこの世の中から、卒業っていうわけ」と。

【本題】 

 常識論。『世にも不思議な留学記』を話しながら、常識について、話す。人間がもってい
る(常識)ほど、あてにならないものはない。常識そのものが、作られた幻想(イルージ
ョン)のようなもの。

 たとえば少し前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦は、毎朝、白いご飯
の上に、ミルクと砂糖をかけて、食べていた。ある朝は、ココアをふりかけて、食べてい
た。

 そういうのを見ると、自分の頭の中で、バチバチと火花が飛び散るのがわかる。脳細胞
どうしが、ショートするためである。

 私の体験から、そうした話をいくつか、話す。こんなことがあった。

 ある友人の家に、夕食を招待されたときのこと。イギリス人系の家庭だった。食事が終
わって、ふとうしろを見ると、友人の父親が、エプロンをかけて、食器を洗っていた。

 私はそれを見て、心底、驚いた。驚いて、声をあげた。「男が、皿を洗っている!」と。

 今でこそ、笑い話だが、当時の私の常識では、考えられない光景だった。また私の家は、
岐阜県の小さな田舎町にあったが、そんなところでも、男が、台所へ入るなどということ
は、めったになかった。勝手に料理をしていたりすると、よく母にこう言って叱られた。

 「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。

 ……その常識について、以前、こんな原稿を書いた。それをもとに、話を進める。

++++++++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーン
だが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を
過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解でき
る。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。

「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」
ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家
族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。

もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものな
ら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道の
プロになるため。

日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り出すと
き、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生
によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということ
になっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになって
いる。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エ
デュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と
地ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということにな
っている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。
そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教
えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。

++++++++++++++++++

もうひとつ、常識について、
留学記から話を引く。

++++++++++++++++++

【展開】

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学
に留学していたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
正規の日本人留学生は私1人だけ。(もう一人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もと
もとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、
「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、
その手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、
行きたくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識
が、日本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本
へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本で
は軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ
入らないのか」と、やんやの非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コー
スということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼく
は日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言って
いた。が、ある日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
を言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパ
イズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社
マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかな
かった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなた
の夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこ
れだけは言える。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時
代によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるとい
うこと。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必
要があるということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと
泣き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識
にそってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもな
い。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これから
は、もうそういう時代ではない。あってはならない。

+++++++++++++++++

【締めくくり】

 問題は、講演をどう締めくくるか、だ。

 ただここで誤解してはいけないことは、寿大学といっても、そういうところへ来る人た
ちだから、決して(老人)あつかいをしてはいけないということ。私の兄のように、頭の
ボケたような老人は、来ないはず。

 むしろ逆で、頭のシャキシャキした人の方が多いはず。そういう人たちに、若輩(じゃ
くはい)の立場から、何かを伝えたい。

 が、それが説教ぽいものでは、困る。

 どうしようか? どうしたらよいのだろうか?

 ただ今回の講演を通して、寿大学のみなさんの頭の中で、バチバチと火花が飛び散るよ
うな話をしてみたい。それはそのまま脳の活性化につながる。いうなれば、映画『マトリ
ックス』で私が感じたような衝撃を、私は、寿大学のみなさんにも感じてもらいたい。

 そう言えば以前、どこかの同じような会で、私は、水戸黄門の話をしたことがある。そ
のときも、結構、反響が大きかった。この日本では、水戸黄門ですら批判することは、タ
ブー視されている。

 それについて書いた原稿が、つぎのものである。

+++++++++++++++++

●価値観の衝突

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と
信じているから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しな
い。親子でもこのタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」
を考えてみる。

 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三
つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でも
あのドラマは視聴率を、20%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、
あれほど痛快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私
にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも
頭をさげるのか」と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70
歳)は、息子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借
金の返済にあててしまった。

息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子のお金を
使って何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「た
とえ親でも悪いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんな
ことがあっても、子どもに頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というの
は、ほとんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし
互いの価値観が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこ
れだけは言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよ
い世界かもしれないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。

ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくか
もしれないが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そし
て仮面をかぶった分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階
で、互いの間にキレツが入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え
方ではない。ちなみに、小学生6年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんや
お母さんが、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべき
か。それとも、親なのだから、謝るべきではないのか」と。

すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝るべきだヨ〜」と。これがこの日本
の流れであり、もう流れを変えることはできない。

+++++++++++++++++

ついでにこんな話もしてみたい。
寿大学のみなさんには、
少しショックが大きすぎるかも
しれない。

当日は、少し内容をやわらかくして
話すつもり。

+++++++++++++++++

●価値観の衝突(2)

 依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。

たとえば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。
「おなかがすいたア〜(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言え
ば、まわりのものが何とかしてくれるのだろう。

同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わない。「先生、
おしっこオ〜」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本
人はそこまで依存性の強い民族ということにもなる。

で、こうした依存性の強い子どもが生まれる背景には、それを容認する甘い家庭環境が
ある。もっと言えば、親自身も、潜在的にだれかに依存したいという願望があり、それ
が姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。

もっとも親が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、再びそれが現れる。
ある女性(65歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死にそうな、弱々
しい声でこう言う。「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたの
ものだから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思
う存分、自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心
配……? そんなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、
親は親としての義務を果たしたことになる。

親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもい
けない。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をする
というのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 ……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日
本には日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。

 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成6年に総理府がした調査だが、「どんな
ことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(三年後の平成9年に
は19%にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と6
3%である。(ほかにフィリッピン81%(11か国中、最高)、韓国67%、タイ59%、
ドイツ38%、スウェーデン37%、日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親
を)養う」と答えている。

これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。)
欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの
自立はないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
常識論 はやし浩司 寿大学 価値観の衝突 講演要旨)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

*********************************


●自由とは……

自由とは、あるがままの自分を、
堂々と、さらけ出しながら、生きること。

何もかくさない。
何もごまかさない。
何も飾らない。

私を支配するものは、だれもいない。
私に命令できるものは、だれもいない。

私は考えたいことを考え、
書きたいことを書き、
言いたいことを言う。

自由とは、私の中の私を、
どこまでも追求すること。
私であって、私でないものと、
どこまでも戦うこと。

見栄や体裁、世間体など、
クソ食らえ!
それがわからなければ、
出世欲、名誉欲にかられて、
自分を見失っている人を
見ればよい。

あわれな社会の奴隷たちよ、
あわれな金の亡者たちよ、

自分がだれであるか、
自分が何であるか、
それもわからず、
ただ右往左往しているだけ。

自由とは、あるがままの自分を、
堂々と、さらけ出しながら、生きること。

(はやし浩司 詩 詩篇 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 自由 自由論)


***********************************

●脳梗塞(?)

++++++++++++++

今日も、見かけた。

多分、脳梗塞か何かを起こしたのだろう。
不自由な体を懸命に支えながら、その男性は、
大通りの歩道を、杖(つえ)をつき、
口を一文字に結んで、歩いていた。

振りかえってみると、まだ50歳そこそこの
男性だった。

もっと若かったかもしれない。

それを知って、息がつまった。

++++++++++++++

 脳梗塞。これほど、過酷な病気もない。一度、起こすと、その後遺症は、ずっと長くつ
づく。ダメージを受けた部分にもよるが、ばあいによっては、精神まで、おかしくなる。

 たぶん、脳梗塞を起こしたのだろう。車で通りかかると、1人の男性が、杖をついて、
大通りの歩道を、歩いていた。右足を前に出し、つづいて、杖で体をささえながら、左足
を引きずるようにして、歩いていた。

 うしろ姿だったので、そのときはわからなかった。が、通り過ぎて、振りかえってみる
と、その男性は、50歳前後の人だった。もっと若かったかもしれない。

 それを知って、私は、思わず、息がつまった。

「あんな若い人だ!」と、私がワイフに言うと、ワイフも一瞬、驚いた表情をして見せ
た。「最近、若い人でも、脳梗塞になる人がふえたみたい……」と。

 このところ、脳梗塞を起こした人が、やけに気になる。私もその危険年齢に達したとい
うこともある。知りあいの中に、何人か、そういう人がいるということもある。とても、
他人ごとのようには思えない。……思えなくなった。

 こうした病気は、いわば確率の問題。いくら健康に注意していても、なる人は、なる。
またなったからといって、その人を責めることもできない。もちろん笑うなどということ
は、言語道断。

 この病気だけは、まさに、明日はわが身。そう考えた方がよい。

私「去年、ぼくも足の骨を折って、しばらく松葉杖をついて歩いていたことがあるだろう。
あのときね、ぼくは、階段をあがるときも、だれかに手伝ってもらわなければならなかっ
た。そういうとき、目の前をスタスタと階段をあがっていく人たちがいたりすると、ぼく
はそれを見ながら、ああ、人間って、ああいうふうに歩けるんだと、へんに感心したよ」

ワ「……」

私「あの男性から見ると、ぼくたちは、どう見えるだろうか。……きっとあの男性も、あ
のときのぼくのように思っているかもしれないよ。歩ける人は、歩けることを何とも思わ
ないけれど、歩けなくなった人はそうではない。歩けること自体、不思議に思えるかもし
れない。人間の体というのは、そういう意味でも、私のものでありながら、決して私のも
のではないよね」と。

 つまり私が言いたかったことは、こういうこと。

 私は毎日、いろいろな行動を繰りかえしている。しかし大半の行動は、何も考えること
なく、無意識のうちに繰りかえしているだけ。自分の意思によって、それぞれの体の部分
が、どのように反応するか、それを考えることはない。

 それはたとえて言うなら、社員たちに命令ばかりしている社長のようなもの。社員を、
社員とも思っていない。もちろん自分と同じ人間などとは、ぜったいに思っていない。

 しかし私の体は、私のものでありながら、決して、私のものではない。今でもこうして
私の手と指は、パソコンのキーボードを叩いているが、その手や指は、私のものでありな
がら、決して私のものではない。

 その横にあるマウスと、同じ。「これは私のマウス」と言うことはできるが、しかしそれ
は決して、「私」ではない。

 脳梗塞になると、それを思い知らされる。そのときはじめて、自分の体が、実は自分の
ものではなかったことを、思い知らされる。……勝手にこんな想像をするのは、許されな
いことかもしれないが、しかし、それほどまちがっていないと思う。

 たとえばこの手にしても、もちろん「私」がつくったものではない。指の爪も、シワも、
その中の骨も、「私」がつくったものではない。が、私は、それらを、「私のもの」と錯覚
しているだけ。あたかも、「私」の思いどおりになる社員か、さもなければ、奴隷のように
錯覚しているだけ。

私「ぼくたちも、ああなることもあるという、その覚悟だけはしておいたほうがいいよね」
ワ「そうならないように、予防することも大切よ」
私「しかし、いくら予防していても、なるときはなる。みんな、ぼくたちと同じくらいに
は、気をつけているよ。それでもなるんだから……」と。

 私の脳裏には、あの男性の顔が、しっかりと焼きついている。その男性は、しっかりと
道路をにらみ、口を一文字に、かたく結んでいた。表情は、なかった。が、それはまさに、
明日の、私の顔。決して、他人の顔ではない。

 脳梗塞。これほど、過酷な病気もない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 26日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ある女性の悲劇

++++++++++++++++++

Xさんには、2人の娘と、1人の
息子がいた。

しかし上の娘2人は、脳の病気で、
ともに32歳という、同じ年齢で、
あいついで、他界。

夫と息子も、同じ脳の病気で、
現在、入院中。

とくに長男は、現在、
予断を許さない状況だという。

++++++++++++++++++

 これは実話である。

 Xさんには、2人の娘(長女、二女)と、1人の息子(長男)がいた。Xさんは、ごく
ふつうの母親として、3人の子どもを育てた。そのころのことをよく知る近所の人たちは、
みな口をそろえて、こう証言している。   

「子どもをかわいがる人で、休みごとに、子どもたちを、あちこちへ連れていった」と。

当時の写真などは、写真週刊誌などで紹介されているが、どこからどう見ても、ごくふ
つうの、幸福そうな母親といった感じがする。

 そのXさんの家庭に、異変が起きたのは、長女が思春期を迎えたときのことだった。長
女が、脳のある病気で、入院した。そしてそのあと、長い闘病生活のあと、その長女は、
32歳の若さで、他界。

 が、不幸はつづく。

 同じく二女もまた、長女と同じころに発病。やはり脳のある病気だった。Xさんは、最
後の1年間は、二女のそばについて、寝ずの看病をしつづけたという。が、くしくも、そ
の二女が他界したのも、次女が32歳のとき。長女が他界したのと同じ年齢だったという。

 これを「偶然」というには、あまりにもむごい。が、そこで不幸が終わったわけではな
い。

 現在、Xさんの夫も、そして長男も、同じ脳のある病気で、入院中だという。しかも長
男は重症で、余命は、それほど長くないと言われている。

 つまりXさんは、2人の娘を、脳の病気でなくし、さらに今また、夫と長男まで、同じ
脳の病気で、なくそうとしている。不幸といえば、これほど、不幸な家族も、そうはない。
もし、あなたがそのXさんなら、あなたは、そういう自分の境遇を、どう思うだろうか。
あるいは、その苦しみから、どうやって自分を解放するだろうか。

 冒頭に書いたように、この話は、実話である。そしてこれから書く話も、実話である。

 やがてXさんは、どういう理由からか、道をはさんだ隣人のYさんと、トラブルを起こ
すようになる。Yさんの家から聞こえてくる騒音が、気になったという。そこでXさんは、
その腹いせのためか、反対にYさんに対して、攻撃的な姿勢にうってでるようになる。

そうしたトラブルが原因で、Yさんは、何度かにわたってXさんを訴えた。

 Xさんが、「騒音おばさん」と呼ばれるようになったのは、そのあとのことである。テレ
ビでもその様子が紹介されたので、知らない人はいないと思う。大音響のラジカセを鳴ら
しながら、それに合わせて、フトンをバンバンと叩きつづける。

 あるいは隣人の家の前までやってきて、大声で、怒鳴り散らす。

 Xさんは、騒音条例違反で、やがて警察に逮捕。現在は、拘置所に拘置されたまま、裁
判所で裁判を受けている。

 私も最初、その模様をテレビで見たとき、普通でない様子に驚いた。緊張で、ひきつっ
た顔。動物的な怒鳴り声。私は、「これが私たちと同じ人間か」とさえ、思った。いや、個
人どうしというレベルでは、似たような行動をする人を知らないわけではない。

 しかしその個人というレベルを超えて、マスコミが取材している、その目前で、そうい
った行動をする人は少ない。そのためか、当時は、Xさんに同情する人は、まずいなかっ
た。「騒音おばさん」という、どこか親しげなニックネームはつけたものの、それは、Xさ
んにたいする、激しい嫌悪感を裏がえした言い方とも考えられなくもない。

 あえて同情して言うなら、うちつづく不幸の中で、Xさんは、自分を見失ってしまった。
もっと言えば、正気をなくしてしまった。そういうふうにも考えられなくもない。

 こうしたXさんの過去を雑誌や週刊誌などで知ったとき、私は、ものごとは、決して一
方向だけから見てはいけないことを、改めて、思い知らされた。多分、このエッセーを読
んだあなたも、そうではないか。

 だからといって、Xさんがした、あの一連の行為が許されるというのではない。隣人の
Yさんは、毎日、毎晩、さぞかしつらい思いをしたことだろう。こういう事件が近所で起
こると、心底、神経をすり減らす。

 Xさんにしても、またYさんにしても、たいへん悲しい物語であることには、ちがいな
い。

【教訓】

 よく他人の不幸をのぞいては、あれこれ言ってくる人がいますね。無神経というか、無
頓着というか。私も、今まで、そういうことをよくされました。

 しかしこちらには、こちらの、人には言えない事情というものがあります。そういう事
情も知らないで、ときに親分風を吹かせて、ズケズケと、あるいはときに、物知り顔に、
イヤミを言う。おまけに説教までしてくる!

 そういうことは、たがいに、してはいけません。たとえ相手が、身内でも、です。

 今回、Xさんの過去を知り、私は改めて、それを強く思いました。

 それにもうひとつ。被害者となったYさんにはたいへん申し訳ないのですが、私自身は、
Xさんの過去を知り、どこかほっとしたような気持ちになりました。「やはり、根っからの
悪人はいないのだ」と。つまりXさんには、Xさんの、人には言えない事情というものが
あったのです。もっと言えば、同情すべき点も、多いということ。

 どうか、みなさん、心、安らかに!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【中学校での講演】(改作)

++++++++++++++++

先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。

で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。

そこでそのレジュメは、ボツ!

そこで改めて、考えなおしてみる。

(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)

++++++++++++++++

●初恋

 私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。
女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。
私も、からかった。

 その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、す
てきな人だった。

 毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほ
うばかり見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だ
けが、いつも、虹色に輝いていた。

 で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。

 私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家に
も電話はあったが、家ですると、親に見つかる。

 私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それは
もう、死ぬようない思いだった。

 で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と
電話をすると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。

 心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。

 そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。

 「何か、用?」と。

 そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっ
ただけ。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。

●フェニルエチルアミン

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その
物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなって
しまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

●リピドー(性的エネルギー)

 このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、
つまり、「性的エネルギー」である。

 それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、
1856〜1939)である。

 「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギ
ー」(日本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、
より広く、生命エネルギーのことを言った。

 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。

たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわす
のは、口愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動
にかられるのは、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考え
るのは、男根期の固着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わか
りやすい。)

 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることか
ら生まれるというのだ。

 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、
その根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。

●性的エネルギー

 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだこ
とがある。

 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それま
でのズン胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、
売れ行きが爆発的に伸び、今のコカコーラになったという。

 同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動
力となったのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、
出会い系とか何とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?

 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうで
あっても、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、
基本的には、異性との関係で生きている。つまりスケベだということ。

 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後
世へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点に
なっている。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はい
ないし、もしスケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。

 問題は、そのスケベの中身。

●善なるスケベ心

 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。
昔、産婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。

 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った
感情をもっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、
ゾクゾクと感じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。

 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが
女性に求めるのは、体ではなく、心だ」と。

 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかも
しれない。

 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。

 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。
私は若いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気
のない世界だった。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のか
たまりのような人間だった。

 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えな
い。そしてそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東
光氏も、昔、私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連
続で、青春時代がなかったと、こぼしていた。

 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気
にしたり、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、
それぞれが、つぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、
道徳にせよ、あくまでも、その結果として生まれたに過ぎない。

 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じ
ることはない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当
然、スケベである。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなけれ
ば、死んでいるかのどちらかである。

 あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!

●自我構造理論

 が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配
下にある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。

一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした
快楽原理と戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけ
て、それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。

 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うま
く説明できる。

 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネ
ルギーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、
理性もない。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。

 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」とい
う理性である。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑
制する。

●イドと自我の戦い
 
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の
働きが強ければ、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと
思われる。

 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)
でも、説明できる。

 今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)

 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程
度、(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴール
マンは、(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)
他人への思いやり、(5)人間関係の5つをあげた。)

 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということにな
る。

●教師という仮面

 ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といっ
てもよい。おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であると
いう前提で、ものを考える。接する。

 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接す
る。しかしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性
がある。こんなことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、
まったく分離してしまうということは、危険なことでもある。

 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。

 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演
じていると、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、
弱い。長く、つづけることはできない。

●自己管理能力

 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)
はどこにあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと
言えば、自我のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうで
ない人を、(見かけ上、すばらしい人)という。

 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうた
めに、こんな話を書きたい。

●思春期に肥大化するイド

 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。

 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていっ
た。黒い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。

 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車
がいないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。

 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼
児ほど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、
子どもは、とたんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。

 なぜか?

 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはド
ロドロとした欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我の
もつ管理能力が低下する。

 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当に
すばらしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い
(?)。

●では……

 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。

 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らな
ければならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみど
ころがない。ドロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イド
は、私の生きる原動力となっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこか
ら生まれる。

 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を
抱きたい」「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。

 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンの
ようなもの。

 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドル
をとりつける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコント
ロールする部分が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、
しかしそう考えると、(私)というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、
そうしてできあがった、(車)のようなもの、ということになる。

 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)と
いうことになるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボ
ロで、故障ばかり繰りかえす……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自我構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)

●エスの人

 さらに話を進めたい。

フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の
人、(3)エスの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。
いつもいつもエスの人もいない。

 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強
い人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、そ
の自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考え
てよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

●オーストラリアでの経験

 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことが
ある。南オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのこと
である。私たちは、州境にある境界までやってきた。

 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイ
ッチか何かを食べていた。

B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。

 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この
例で言えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったと
いうことになる。

 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信
頼のおける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方
を決めてきた。私は、もともと、小ズルイ人間だった。

●信頼関係は、ささいなことから

 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的な
ところから始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。

先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくて
も、信号が青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、
空くまで、じっと待つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空
き缶などは、決められた場所以外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身
を見ないで、交番や、関係者(駅員、店員)に届ける。そういうところから、始まる。

 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そして
それが熟成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようにな
る。

 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来て
いるが、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促す
と、B君は、いつも、こう言う。

 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。

 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。
「日本では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうし
て、そうまでロジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。

 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」とい
うことか(?)。

 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようにな
った。

●友人との信頼関係

 友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。
しかしその(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。

 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうし
た日々の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼
関係となって、熟成される。

 もちろんその道は、決して、一本道ではない。

 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけない
とか、不倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、
仮にそういう関係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。

 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友
人の中には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学
習を通して、より賢くなっていく。

●超自我の世界

 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう
一つの自我、つまり(超自我)があるという。

 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。

 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかし
あいにくと、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。

 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人
の自分が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れ
られるぞ」と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。

 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるよ
うだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向く
まま、思いつくまま、行動するようになる。

 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。

●シャドウ

 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであ
れば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、そ
れがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。

 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわ
けではないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてし
まう。そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離
れていく。「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。

 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子ども
が、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放
化したりすることなどがある。非行に走るケースも珍しくない。

 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、
しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。

 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。

 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のも
のにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであ
れば問題はない。

 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていの
ばあい、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だ
けを、子どもが引きついでしまう。

 それがシャドウということか。

 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。

つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操って
いる、もう1人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。

 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用
しない。つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。

 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子ども
ではなく、親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て
育つ』というが、それをもじると、こうなる。

 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけな
いで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。

 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えて
みたい。

●【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emo
tional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指
数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管
理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果
たせない。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを
行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階にな
っても、その時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊し
た例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その
人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、
自殺行為も、それに含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよ
う。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほ
うがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行
くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをす
すめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に
染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)
という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとでき
るかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自
我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐
怖症、飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断
できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態
に似ている。(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子ども
だったかもしれない。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与
える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身を
コントロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そ
ういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、
そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをお
りたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされ
る。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私
の人格の完成度は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い
人ということになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がない
ことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、
ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。
その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、ど
うしても足が遠のいてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のド
ラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するか
である。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワ
イフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになる
が、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出し
て、相手を罵倒したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまっ
て……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、
結局は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そ
のつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くという
のは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、
その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別
の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 
人格の完成)

+++++++++++++++++++++

ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】(以下のテストを会場で実施)

****************

【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは
……

○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子
どもは……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子ど
もは……。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の
高い子どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、
HPのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実
施。)


***************************

●順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーター
が、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲
しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、
その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さ
らにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、
権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私
は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているか
わからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっ
きりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言
っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方
を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子
どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらに
ためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけ
のために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわ
らず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口
にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統
制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制
力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界
を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題
のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気に
なる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ
子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向き
に、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしな
ところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、
悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲
気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観
的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」
と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。
さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、
しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、
考える人もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくな
になる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何ら
かの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをし
なかった子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚
園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまって
しまう子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」
と、最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができ
る。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)

●終わりに……

 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、
「私であって、私でない部分」によって、動かされている。

 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしてい
くか。それができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。

 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはい
けない。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切
な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思春期 自我構造理論 中学生)

●おまけ

 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の
本をプレゼントする予定。
 

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●日本型バブルの研究

++++++++++++++++++

あのバブル経済は、いったい、
何だったのか?

小さなサイフが、ひとつ、4万円とか
5万円もした。

それを手にしながら、私は、
「こんな小さなサイフすらも、
ワイフに買ってやることが
できないのか」と、
ひとり、静かに口を閉じた。

その日本のバブル経済を、韓国の
朝鮮N報は、客観的に、つぎの
ように分析している。

日本の外から日本をながめた
日本論であるだけに、
たいへん興味深い。

私なりの注釈をつけ加えながら、
その日本論を読んでみたい。

(私のほうで、より読みやすい
日本語に、改変しました。)

+++++++++++++++++++

●日本型バブル経済

東京の隣の千葉県に、15年かかって、やっとほぼ入居が終わった、超豪華マンション
がある。

その名は「W・ハンドレッド・ヒルズ」。1989年7月のはじめに、入居者募集を始め
た当時、120坪タイプの分譲価格は、最高14億円(約120億ウォン)だった。入
居競争倍率は20倍で、あっという間に売れてしまった。

 しかし、その年末から株価下落が始まり、いわゆる「土地神話」も、1991年から崩
壊し始めた。このマンションは不幸にも、不動産景気が下降をたどり始めたとき、完工
したため、契約放棄者が続出した。

結果、はじめ完工した49戸のうち、25戸が空き家になった。

 いったん入居した世帯も続々と引越し、1990年代後半には、60戸中、3戸しか入
居していない状態だった。

このマンションは15年後の2004年、2億〜4億円で販売し、やっとほぼ全世帯の
入居を果たした。それでもまだ未入居が5戸ほどある。

 1980年代後半、日本で不動産バブルを生んだ主役は、不動産担保融資で手を組んで
いた企業と、それに銀行だった。

 しかしバブルを無理に消そうとして、経済全体を「失われた10年」の長期不況に陥れ
たのは、まぎれもなく、政策当局だった。

当時、日本政府が犯した失敗をたどってみると、現在の韓国政府がしていることと似て
いる感じがする。

●税金爆弾で脅す 

 1990年3月23日。当時の大蔵省(韓国の財経部)は、金融各社に通達を出した。「不
動産融資増加率を、融資総額増加率以下に抑えよ」という内容だった。これは「不動産
融資総量規制」という、日本経済史に残る行政規制だった。

 不動産バブル崩壊前夜だった1990年12月、日本政府は国民に「税金爆弾」を放ち
始めた。「売らなければ我慢できないようにしてやる」と脅しながら、着手したものはや
はり保有税だった。

 先に大蔵省が「地価税」を新設。地価格の0・3%を毎年税金として徴収すると発表し
た。地価税が施行されたのは、不動産暴落が全国に広がった1992年。その年、日本
のデパート業界が、経常利益の20%を地価税として徴収されたという話は、「税金爆弾」
のものすごさを物語っている。

そして次に自治省(韓国の行政自治部)も、それに加わった。

韓国の財産税にあたる固定資産税の算定基準(評価額)を、一挙に公示地価の70%に
引き上げた。

当時、それまでの評価額は、公示地価の10〜20%程度がふつうだった。当時の日本
のメディアは「大蔵省と自治省は、国民にダブルパンチを食らわせた」と表現している。

 日本国民が税金の振り込み用紙を受け取り始めたのは、4年後の1994年、「地価は下
がっているのに、税金はどうして増えるんだ?」という税への抵抗感が、日本中を覆った。
地価税は結局、国民の抵抗の末1998年、事実上、廃止された。

●あとの祭りとなった、金利引き上げ  

 日本の中央銀行、日本銀行。バブル時代の絶頂期だった1989年5月まで腕組みした
まま何もしなかった。1985年のプラザ合意による円高不況を解消すると、低金利(コ
ール金利年間2・5%)を、なんと、2年3か月間も放置した。バブルに油を注いだ当時
の行為は、日銀の歴史的失敗といわれている。

 1989年5月、遅ればせながら始まったコール金利引き上げは、1990年8月まで
続いた。1年3ヶ月間、コール金利は年2・5%からなんと年6%まで急騰した。199
0年はすでに株価や不動産価格が崩壊し始めた時点だ。

火に油を注いだ日銀が、今度は消えそうな火に水をかけてしまったということになる。
バブルというものは無理のないように、徐々にしぼませるものであって、急激なバブル
崩壊は。経済を破壊することもある、と日本の教訓は示している。

+++++++++++++++

 以上の結果が、「今」である。

 その結果、この10年以上、預金しても、利息は、ほとんどゼロのままに据え置かれた。
借金を踏み倒されれば、だれだって怒る。しかしそれと同じことをされても、だれも怒ら
ない。つまり利息がほとんどゼロというのは、その分だけ、銀行に預金を奪われたという
ことになる。

 そのため、今年(06年)3月期の決算では、日本の銀行は、どこも空前の利益を計上
している!

 この韓国の朝鮮N報の報告を読むと、「なるほど、そうだったのか」と思い当たるフシも
いくつかある。つまりは、私たち国民が、不動産屋と銀行、それに政府の失政のツケを払
わされたということになる。

で、今、再び、この日本で、バブル経済が起きた。「ミニ・バブルの再来」と呼んだ人も
いる。「調整インフレ」と呼んでいた人もいる。株価が上昇し始めた、96年〜2000
年にかけて、それが始まったとみてよい。(96年、2000年に、株価は、景気回復の
実感がないまま、2000万円台を記録している。)

政府と日銀は、毎年、30兆円以上ものお金を、市中にバラまいた。こうした状態を、
経済学者たちは、「(お金が)ジャブジャブの状態」と表現した。

しかしそのミニ・バブルが、ここにきて、またまたはじけつつある。株価の下落に、そ
の片鱗(へんりん)を見ることができる。株価は、現在、徐々に、しかし大きな坂をく
だるように、さがり始めている。

 ただ幸いなことに、今、日本の景気は、少しずつだが、上向き始めている。いろいろな
意見はあるが、皮肉なことに中国特需が、日本の経済を支えた。日銀は、さぞかしヒヤヒ
ヤしながら、この数年を過ごしたことだろう。今となってみれば、「中国、様、様」という
のが、本音ではないだろうか。

 が、安心するのは、まだ早い。本来なら、この時期にあわせて、一気に、行政改革を進
めなければならない。景気がわずかでも上向いてきた今こそ、チャンス到来。(というのも、
景気が下降気味のときに、それをすれば、かえって景気を冷えこませてしまうことになる。)

 おおまかな意見としては、公務員の数は、現在の約半分でも、じゅうぶん。「3分の1で
もいい」(H市市役所勤務・友人の部長)と言う人もいる。もしここで行政改革をしっかり
としておかないと、結局は、もとの木阿弥(もくあみ)。日本は、今まで来た道を繰りかえ
しながら、やがて衰退していく。

 それにしても、朝鮮N報の報告を読んでいると、あのときの怒りが再び、ムラムラとわ
いてくる。

 名指ししてはいけないのかもしれないが、当時の、M首相と、H大蔵大臣。この2人こ
そが、日本経済を破滅の崖ップチに立たせた、張本人である。

 が、もちろん、この2人が、その責任を取ったという形跡はまるでない。M首相は、そ
のあと、再び、大蔵大臣に返り咲き、大蔵省の指揮(?)をとっている。H大蔵大臣は、
そのあと、日本の首相にまでなっている。

 さらにあろうことか、H氏は、首相時代に、1億円ものワイロを受け取ったという疑惑
を向けられながら、「記憶にない」と逃げてしまった。(注:この件については、疑惑はあ
るものの、証拠がじゅうぶんでないという理由で、H氏は、不起訴処分になっている。)

 しかし結局のところ、私たち国民が、バカだったということか。で、今の今もそうで、
現に今、怒りの声をあげる人は、ほとんどいない。まさに私たちは、「もの言わぬ従順な民」
そのもの。

 これでよいのか、日本人!、と叫んだところで、この話は、おしまい。どうせだれも、
私の話などには、耳も傾けてくれない。私にも、それが、ヨ〜ク、わかっている。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 23日
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まぐまぐプレミアは、10月から月額300円を予定しています。よろしくお願いします。
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ある中学校での講演】

+++++++++++++++++++++

今度、ある中学校で、中学生を
相手に、講演をすることになった。
父母も、同席するという。

そのレジュメを考えている。

+++++++++++++++++++++

●こんにちは!

 すばらしい校舎ですね。驚きました。で、先ほど、この会場へ来る前に、トイレを借り
ました。いつも、講演の前には、そうしています。講演中にトイレへ行きたくなったら、
たいへんですからね。(注:話題を、状況に応じて、変える。)

 トイレもすばらしいですね。で、そのとき、ふと、私は、こんな事件を思い出しました。
私が中学生のときのことです。

 ある日、トイレに入りました。で、用を足して、外へ出ようと思ったのですが、トイレ
のドアが開きません。カギが壊れていたのですね。

 そこでドアをドンドンと叩いて、だれかに助けてもらおうとしましたが、たしかもう授
業の始業ベルは鳴っていたと思います。だれもいませんでした。困った私は、壁に両手を
かけて、上によじ登ろうとしました。

 よじ登って、トイレのドアを越えて、向こう側に出ようとしたのですね。ところが、最
後のところで手をかけたところで、隣のボックスから、キャーッとものすごい悲鳴が聞こ
えてきたのです。

 隣は、壁をへだてて、反対側が女子用のトイレになっていたのですね。そのボックスで
同じように用を足していた女の子が、上を見て、私の手がそこにあるのを知ったのですね。
それでキャーッと叫んだ。

 あわてて下へおりたのですが、しばらくすると、先生がトイレへやってきました。そし
て、「だれだ、そこにいるのは!」「出てこい!」と、

 私は「トイレのカギが壊れていて、外に出られません」と言ったのですが、先生は、信
用してくれません。外からは、簡単にドアがあいたからです。

 で、先生に叱られたのですが、私は、先生にこう言ってやりました。「じゃあ、先生、中
に入ってみてください」と。

 先生は怒ったまま、トイレに入り、中からカギをかけました。ガチャンとです。しかし
一度かけたら最後、中からは開けることができません。今度は先生が、「開けろ、林!」、
ドンドン、「ドアを開けろ、林!」と。

 私にかけられた疑惑は、それで晴れましたが、疑われた不快感は、そのまま残りました。
先生の叫ぶ声を聞きながら、私は、トイレから出てしまいました。そのあと先生は、たぶ
ん、壁をよじ登って、外へ出たと思います。

●ラッキーな子どもたち

 最初から、汚い話でごめんなさい。

 おそらくみなさんも、この種の話を、さんざんと聞かされていることと思います。つま
り「昔は、貧乏だった」という話です。そしてその返す刀で、「今は、すばらしい時代だ」
という話です。

 こういう話は、どこか恩着せがましいですね。実は、私も、中学生のとき、そう思った
ことが何度もあります。父や母は、食事のことになると、決まって、「戦時中はな……」と
いう話を、し始めました。「戦時中は、食べるものがなかった。でも今はある……」とです。

 そういう話は、いやですね。私も、よくわかっています。そこで今日は、少し、発想を
変えて、「昔」というより、「若いときはすばらしかった」という話を、みなさんに、ここ
でお伝えしたいと思います。

 で、それを話す前に、まず、みなさんにお伝えしたいことがあります。それは、みなさ
んが、たいへんラッキーな子どもたちだということです。この日本に生まれ、この地方に
住んでいるということ自体が、です。

 たとえば今、地球温暖化が世界のあちこちで問題になっていますね。その影響は、さま
ざまな形で、現れています。もちろんこの日本でも、現れています。

 しかし安心してください。たいへん幸いなことに、この日本という国は、四方を海に囲
まれています。しかもですよ、北海道から九州まで、その島を、3000メートル近い山
脈がつらぬいています。

 この地形的な特徴で、日本は、温暖な気候に恵まれ、かつこれから先、水不足の問題も、
ほぼ起こらないだろうということです。あるいは日本が本当に水不足で困るようなことに
なるころには、世界中は、砂漠になっているかもしれない。わかりやすく言えば、最後の
最後まで生き残るのは、この日本だということです。

 もちろん局地的な水不足問題や、気温の上昇などは、起こるかもしれませんが、しかし
それとて、世界の人が今、経験している深刻な問題とくらべると、何でもないものかもし
れません。

 だから日本は、地球温暖化の問題など考えなくてもいいとか、そんなことを言っている
のではありません。この話のつづきは、もう少しあとにすることにして、もうひとつ、話
を進めていきたいと思います。

●すばらしい国、すばらしい地方

 さらに、ですよ。この静岡県の西部に住んでいるということも、ラッキーなことです。

 まわりを見てください。いろいろな木が見えるでしょう。みなさんにとっては、何でも
ない景色に見えるかもしれませんが、しかしですよ、これほどまでに緑が豊かで、かつ緑
の種類が多いのは、この静岡県のこの西部だけなのですね。

 とくに浜名湖周辺は、「照葉(しょうよう)樹林帯」と呼ばれて、九州の鹿児島県と並ん
で、気候が温暖なところとして知られています。

 私も大学生のとき、4年間ほど、北陸の金沢市というところに住みましたが、あちらの
人たちは、「静岡」というだけで、うらやましがりましたよ。今でも、そうです。今は、多
少、気候も変わってきましたが、私が学生時代のころには、1年のうち、約3分の1は、
長靴をはいていましたから。

 11月になると、しぐれが降り始め、それから雪です。それが3月の終わりまで、つづ
くのです。

 このあたりに生まれ、そしてここで育ったあなたたちには、それがわからないかもしれ
ませんが、外から来た人には、それがわかります。

 が、それだけではない。みなさん、意外と知らないかもしれませんが、この浜松市は、
東海地方では、名古屋市についで、第二の大都市なんですね。しかも工業都市ということ
で、活気があります。

 有効求人倍率という言葉を聞いたことがありますか。求職者1人あたりに、いくらの仕
事があるかというのを示すのが、有効求人倍率です。その有効求人倍率が、一貫して、全
国平均をはるかに上回っているのが、実は、この浜松なのですね。

 世界に名だたる、ホンダがある。スズキもある。ヤマハもある。いわゆる日本でも、最
先端をいく企業が、このあたりに集中しているのです。もちろん大学や各種の専門学校も、
あります。

 私の郷里は、岐阜県の田舎町ですが、あのあたりになると、そうした先端的な技術や知
識を身につけたいと願っても、それを学ぶ学校すら、ありません。仮に学んだとしても、
それを生かす会社も工場も、ありません。

 ですから、町全体は、さびれる一方。活気がありません。いや、その活気とて、このあ
たりに生まれ住んでいる人には、わからないかもしれません。それを当たり前のことと思
ってしまうからです。

 でね、私は、ときどき、その岐阜の郷里に帰ることがあるのですが、その街道を、「貧乏
街道」と呼んでいます。

 浜松から名古屋まで行くと、活気が、ガクンと落ちる。その名古屋から岐阜まで行くと、
さらにガクンと落ちる。最後に郷里のM町まで行くと、さらにガクンと落ちる。

 で、今度は、反対にですよ、M町から、岐阜。岐阜から名古屋。名古屋から浜松へもど
ってくると、なんとも言えない開放感を覚えます。とくに三ケ日インターチェンジを過ぎ
て、浜名湖が見えてきたりすると、今でも、ときどき「ウオー」と声をあげるくらいです。

 行きは、「貧乏街道」でも、帰りは、「繁栄街道」となるわけです。

 みなさんは、すばらしい国の、すばらしい地方に住んでいます。

 まず、それをしっかりと肝に銘じてください。みなさんは、本当に、ラッキーな子ども
たちですよ。

●5000本に1本

 さらに、ですよ。いろいろ問題はあるにせよ、この日本は、今でも、アメリカについで、
世界第2の経済大国として、君臨しています。おおまかに見て、世界第3位のドイツの約
2倍。

 最近になって、お隣の韓国は、「11位になった」と、はしゃいでいますが、その韓国と
くらべても、約7倍の経済力をもっています。たしかにこの10数年、日本はきびしい時
代を経験しましたが、ここにきて、また、急速に力を盛り返しつつあります。

 みなさんは、それを実感しているかどうかは知りませんが、現代の日本のように、繁栄
をきわめた国というのは、世界でも、また世界の歴史の中でも、類がないのですね。みな
さんしてみれば、「何だ、こんなものか!」と思うかもしれませんが、それがそうではない
ということです。

 いろいろ不満もあるでしょう。いろいろ言いたいこともあるでしょう。しかし、それで
も、今、日本という国は、そういう国なのです。

 だからまず最初に、みなさんは、こう叫んだらよいのです。「ぼくたちは、ラッキーだ」
「私たちは、ラッキーだ」と。

 世界の人口を約50億人とするとですね、人口約1億人の日本に生まれる確率は、50
分の1。さらにこの静岡県の西部地方に生まれる確率は、100分の1。

 こうして計算してみると、みなさんは、5000本に1本のくじを引いて、当たったよ
うなものです。

●「今」の価値

 だったら、そのチャンスを生かさないという手はありません。が、その前に、まず、自
分たちが、そのラッキーな子どもたちだということを、知らなければなりません。

 みなさんには、それができますか?

 ところで、みなさんは、賢明な人と、愚かな人は、どこがどうちがうか、知っています
か。

 賢明な人というのはですね、何か大切なものや、その価値を、なくす前に気づく人を言
います。そうでない人は、何か大切なものや、その価値を、なくしてから気づく人をいい
ます。

 健康しかり、人生しかり、そして「今」しかり。

 で、その「今」のよいところは、どこかということですね。それがたくさん、あるんで
すね。

●自由の価値

 まず、「自由」です。この自由も、それがなくなったとき、はじめてわかります。反対に、
自由でない国を見てみると、それがよくわかりますね。どこの国がそうであるかなどとい
うことは、私には言えません。しかしあるのですね。

 地方へ旅行するにも、許可書がいるとか、反対に、許可書がないと、都市部に住むこと
すらできないという国もあります。政府の批判をしただけで、警察につかまるという国も
あります。

 さらにひどい国になると、女子は、教育を受けることさえできない国もあります。

 もっとも、そういう国の人だって、自分たちは、自由だと思っているものですが、ね。
人は不自由になったとき、自由の価値がわかります。反対に、自由になったとき、それま
での不自由さが、わかるものです。

 しかし総じてみれば、日本という国は、自由な国と考えてよいのではないでしょうか。
旅行も自由にできる。職業も自由に選択できる。映画だって、本だって、自由に、見たり
読んだりすることができる。

●平和の価値

 つぎに「今」の価値のすばらしいところは、かろうじてかもしれませんが、この日本は、
平和であるということ。

 私自身も戦争を経験していませんが、しかし戦争のもつ、恐ろしいほどまでの後遺症は、
経験しています。話せば長くなりますが、今でも、ある意味で、その後遺症に苦しんでい
ます。

●生きていることの価値

 が、何と言っても、「今」の価値の中で、最高にすばらしいことは、今、みなさんが、こ
こにいて、生きているという事実です。

 わかりますか?

 今、ここに生きているという事実が、ずばらしいのです。

 あのアインシュタイン博士も、こう言っています。「宇宙のすべてが、奇跡だ※」とね。

 地球の歴史は、60億年くらいだそうですね。私が学生時代には、40億年くらいだと
聞いていました。まあ、宇宙では、時の流れほど、いいかげんなものはありません。尺度
そのものが、ないからです。

 ともかくも、60億年とするとですね、人間の歴史は、たかだか、10万年から20万
年。60億年を、60億ミリ、つまり、600万メートル、つまり6000キロの長さの
糸にたとえると、20万年といっても、20万ミリ、つまりたったの200メートル。

 日本列島は、北海道から九州まで、約2000キロですから、6000キロというと、
その3倍の長さということになります。が、人類の歴史は、みなさんの学校の校庭の半分
の長さもないということになります。

 みなさんの寿命を100年とすると、100ミリ、つまりたったの10センチですから
ね。

 宇宙から見れば、瞬間のそのまた瞬間。星がまばたきした間くらいに、みなさんは、生
まれ、そして死んでいくのですね。

 さらに現在、この地球上には、60億人くらいの人が住んでいるそうです。そういう中
で、こうしてひとつの学校に、これだけのみなさんが、集まっている。内部では、いろい
ろ問題はあるでしょうが、しかし、こうして「今」、知りあったというだけでも、奇跡なの
ですね。

 さらにみなさん、驚いてはいけませんよ。

 この宇宙には、あの中田島の砂粒の数ほどの星があるそうですよ。太陽も、そのひとつ
にすぎないわけです。で、地球となると、その砂粒のひとつにもはいっていない。たとえ
ていうなら、宇宙のゴミ、あるいはチリのようなものです。

 こうして考えていくと、あのアインシュタインの言った言葉の意味がわかるような気が
します。ちがいますか?

●みなさんの中の宇宙

 話がとんでもない方向に進みそうなので、今度は、みなさん自身のことについて、話し
てみたいと思います。

 実は、みなさん自身の中にも、宇宙があるのですね。

 これは少し前、愛知万博の何かの会議の席で、養老T氏という人が、使った言葉ですが、
おもしろい言葉ですね。「人体は、宇宙そのものだ」と。解剖学者らしい言葉ですが、この
言葉には、いろいろ考えさせられました。

 で、今のあなたたちは、いわゆる思春期と呼ばれる時期にいます。よくまわりの人たち
に、そう言われるでしょう。ちがいますか?

 でも、自分では、それがわからない。まわりの人たちが勝手にそう言っているだけ、と。

 しかし心と体の変化については、みなさんも、わかっているはずです。たとえば、私も
こんなことがありました。


●私の経験

 高校2年生のときのことだったと思います。今から思うと、かなり晩熟(おくて)だっ
たと思いますが、また、当時は、そういう時代でしたが、図書館で、女体解剖図なる図を
見たことがあります。

 それだけで、私は、体中が熱くなり、歩けなくなってしまいました。

 どうして歩けなくなってしまったかは、男子のみなさんなら、みな、知っているはずで
す。

 で、なぜ、そういう変化が起きるかですが、簡単に言えば、脳内で、自分をそういうふ
うに操るホルモンが、分泌されるからなのですね。つまり遺伝子の中で、そういうふうに
なるように、はじめから、プログラムされているというわけです。

 しかし、それをまちがっていると決めつけてはいけません。

 そういう変化があるからこそ、人間は、ほかの動物や植物たちと同じように、子孫を、
つぎの時代に伝えていくことができるのです。

●性的エネルギー

 で、あのフロイトという学者、名前くらいはどこかで聞いたことがあると思います。世
界でも、もっとも名を知られた精神医学者でしたが、そのフロイトは、そうした「性的エ
ネルギー」が、人間の生きる力の原動力になっていると説きました。

 もちろん反論もありますが……。

 しかし、それほど、まちがっていないと思います。

 コカコーラという飲みものがありますね。今では、缶入りがふつうですが、ビン入りの
もあります。

 あのコカコーラは、当初は、ほとんど売れなかったそうです。そこであるとき、ビンの
形を変えたそうです。それまでは、酒のビンのように、ずん胴だったのですが、女性の体
にまねて、曲線を入れたそうですね。

 とたんに売れるようになった!

 同じように、最近でも、ビデオが生まれたときも、携帯電話が生まれたときも、またイ
ンターネットが生まれたときも、その先導的な役割をしたのが、人間がもつスケベ心だっ
たそうです。スケベビデオが世に出るようになって、とたんに、ビデオが普及したそうで
す。携帯電話もそうですね。

●裏から操るパワー

 だいたい考えてみれば、みなさんが、勉強やスポーツでがんばるのも、そこに異性の目
を感ずるからではないでしょうか。何とかして、異性の間で、目立ちたい……そういう思
いが原動力となって、みなさんを動かしている。

 まあ、男子でいえば、スポーツができて、かっこいい人。女子でいえば……という話は、
みなさんのほうがよく知っているでしょうから、ここでは省略します。

 しかしそれとて、実は、遺伝子の中に、プログラムされているからなのですね。

 たとえばサル。あのサルにしても、一番もてる雄ザルは、いうまでもなく、一番、力の
ある、強いサルです。

 で、雌ザルのほうはといえば、これはある学者が調べたのだそうですが、お尻にポイン
トがあるそうですね。つまり、赤くて、しかもシワクチャのお尻の雌ザルほど、もてるの
だそうです。

 おもしろいのは、ツバメです。

 ツバメのばあい、美男子かどうかは、尾羽の長さで決まるのだそうですね。長い尾羽を
もっている雄のツバメほど、もてるのだそうです。

 そこである人が実験をしてみました。雄のツバメの尾羽を切ってしまったのだそうです。
短く、ね。そうしたらその雄のつばめは、かわいそうなことに、その季節の間中、ずっと、
ガールフレンドができなくて、ひとりぼっちだったそうです。

 ほかにも、あと、コオロギは、ひげの長さで決まるとか、イヌは、においで決まるとか、
いろいろあるようです。

 人間のばあいは……、まあ、この話は、このあたりでやめておきますが、ともかくも、
自分の中には、自分であって、自分でない部分もあるということです。そしていつの間に
か、その自分であって自分でない部分に、操られてしまう。

 それが思春期かもしれませんね。フロイトの説明によれば、その生きる原動力、それを
「イド」と言いますが、みなさんの時期、そのイドの働きが、たいへん活発になってきま
す。そしてそのイドが、「あなた」という人間を、裏から操るようになります。

 それがもつパワーは、ものすごいものです。ふつうの理性や知性では、コントロールで
きないものと思って、まちがいありません。

(つづく)

**************************

以上の話を、中学生たち4、5人に読んで聞かせたら、
みな、「つまらない」と言った。
「小学生に話す話のようで、中身がない」と。

スルドイ!

よって、このレジュメは、ボツ!

**************************


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【前回書いたテーマ、「虚栄」について、B君からの返事】

In Australia being vane is not well liked. I would not say it is very 
bad though. We are more inclined to think someone who is vane is being 
rather silly.

オーストラリアでは、(飾る)ことは、それほど嫌われていない。そんなに悪いことだとは
思わない。自分を飾る人を見ると、ぼくたちは、愚かな人だなと思うが、その程度。

Being 2 faced is another matter. That can get you despised. 

2つの顔をもつというのは、別。それは軽蔑されるべきことだ。

However there different levels of being 2 faced.

しかし2つの顔をもつといっても、程度の問題もある。

For instance if I am nice and smiling to someone's face but are nasty, 
uncomplimentary or sabotage them "behind their back", I will be 
despised by people who see this.

たとえば、ぼくが、だれかいやなやつに対して、よくしながら、そして微笑みながら、そ
の裏で、その人の悪口を言ったりすれば、ぼくはそれを知った人に軽蔑されるだろう。

On the other hand, if I really don't like someone but I am polite to 
them in public, this will be seen as being diplomatic. That is people 
who see this will understand and see it as not causing unnecessary 
social friction.

一方、本当はその人が嫌いでも、公(おおやけ)の場所で、その人にていねいにしたとし
ても、それは外交的なものと受けとめられるだろう。それを見た人も、そうであると理解
し、不要な社会的摩擦を起こさないためのものと、わかってくれるだろう。

So maybe Australia is not that much different to Japan.

そんなわけで、多分、オーストラリア人も、日本とそんなにちがわないと思う。

Cheers,

バイ

Bより


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【06年5月25日・木曜日】

●さわやかな日々

 このところ、さわやかな日々がつづいている。ワイフが、「一年中、こうだといいわね」
と言った。私も、同感!

 で、今朝は、6時半に起きて、新しい挑戦をしてみた。HP用のあいさつ文を、英語の
ほか、ドイツ語、スペイン語、フランス語の4か国語に翻訳してみた。そしてそれをそれ
ぞれの国の言葉で話させるようにしてみた。

 昨夜、簡単な実験をしてみたが、うまくいかなかった。が、今朝は、うまくいった。し
かし結構疲れた。脳みそのエネルギーを、1日分の10%近くを使った感じ。が、楽しか
った。HPにそれをのせて完了したのが、午前8時過ぎ。1時間以上もかかったことにな
る。

 次回からは、もっと簡単にできるようになるだろう。それにこれからは、こういう時代
になる。HPも、どんどん、世界へ飛び出していく。

 興味のある方は、楽天日記、もしくは私のHPのトップページから、「声で朗読」コーナ
ーへと進んでみてほしい。


●平凡な人生

 平凡は美徳だが、しかし平凡な人生からは、何も生まれない。あのL・ドアの、元社長
のH氏は、拘置所から出てきて、こう言ったという。「生き急ぎ過ぎた」と。

 世間の自称「常識人」の人たちは、H氏のしたことを、「虚業」と断じている。しかし何
をもって、「虚業」といい、何をもって、そうでないと言うのか。

 インターネットの利用者をふやし、それに広告を載せ、収入を得るというのは、立派な
実業である。ただH氏のばあいは、少しばかり、インチキをやり過ぎた。それで逮捕され、
拘置所に拘留された。

 裁判はこれからだが、成功者も失敗者も、紙一重。H氏が30年前に生まれていたら、
日本のビル・ゲーツになっていたかもしれない。

 年功序列社会で、安全第一に、平凡な人生を送ってきた人には、H氏がしてみせたよう
な生き方は、容認しがたがったのではないだろうか。とくに、この日本では、そうだ。そ
ういう生き方を認めてしまうと、「では、いったい、私の人生は何だったのか」となってし
まう。

 そのためか、この日本では、平凡は美徳とばかり、その平凡に溺れてしまっている人が、
あまりにも多い。ほとんどの人が、そうではないのか。

 生き急ぐのが悪いというのではない。生き急ぐこと、おおいに結構。少なくとも、のん
べんだらりと、その日その日を、意味もなく生きるよりは、はるかによい。


●児童の殺害事件

 児童の殺害事件が、このところつづいている。

 それについて一言。

 こういう事件が起きると、世間は、親の立場でしか、ものを考えない。そういうのを「世
間的意識」というが、それは世間が、子どもを、1人の人間というよりは、親の(モノ)
としか考えていないからではないのか。

 ここでいう「世間」というのは、マスコミも含めて、警察、裁判所などをいう。もう少
しわかりやすく説明しよう。

 もし40歳の男性が殺されたとしたら、そこにその男性の親は登場するだろうか。40
歳の男性なら、その男性の立場で、事件を考えるにちがいない。その男性の親は、登場し
ない。

 で、順に年齢をさげていく。

 30歳の男性なら、どうだろうか?
 20歳の男性なら、どうだろうか?、と。

 このあたりが微妙な境界で、10歳の児童なら、必ず、親が登場する。反対に、被害者
となった子どもの顔は、ほとんど、表に出てこない。

 そうしたちがいが如実に現れるのが、裁判である。

 たとえば40歳の男性を殺害した被告人がいたとする。そういうとき、裁判官は、その
殺された40歳の男性の立場で、その被告人に判決を言い渡す。「殺されたA氏の無念さは、
いかばかりのものか」と。

 しかし殺害されたのが10歳の子どもだったとすると、裁判官は、殺された子どもの親
の立場で、その被告人に判決を言い渡す。「B君を奪われた両親の悲しみは、いかばかりの
ものか」と。

 しかし、これはおかしい。

 子どもといえども、1人の人間である。感情もある。恐怖心もある。その瞬間には、「生
きよう」と、もがくにちがいない。

 だったら、こうした事件が起きたら、子どもの立場で、ものを考えればよい。またそう
考えることによって、こういう事件を引き起こす犯人の卑劣さを、さらに鮮明にえぐり出
すことができる。

 相手は、まだ人を疑うことも知らない、人間である。
 相手は、これから先、まだ何十年もの未来をもった、人間である。
 相手は、腕力で抵抗することもまだできない、人間である。

 そう考えていくと、当然のことながら、ふつうの殺害事件よりは、極刑で臨むのが正し
いということになる。親の悲しみを代弁するために、極刑に処するのではない。より卑劣
な行為だから、極刑に処する。

 だから私は、ときどきこう思う。

 もし、被害者となった子どもの親が、「被告人を許す」と言ったら、裁判は、どうなるの
か、と。

 多分、裁判官は、冒頭にあげた世間的意識の中で、かなり迷うにちがいない。それまで
は、「B君を奪われた両親の悲しみは、いかばかりのものか」と書いてきたのに、そういっ
た言い方で、判決文が書けなくなる。

 が、子どもを1人の人間とみれば、親は、もう関係ない。子どもだけを見ながら、こう
した事件を考えることができる。またそうでなければならない。

 それにあえて言うなら、40歳の男性でも、10歳の子どもでも、子どもを奪われた親
の悲しみは、同じだろう。

 また殺傷事件といっても、その背景には、それなりの原因なり、理由がある。が、相手
が児童のばあいには、その原因や、理由すらないことが多い。

 だからこそ、この種の事件を起こした被告人には、問答無用に、極刑で臨むのがよい。
またそうした(見せしめ)を、今ここでしっかりとしておかないと、こうした事件は、つ
ぎつぎと起こる。

 昨日も私は、同年齢の子どもたちを見ながら、こう思った。そのとき、私は、A県で起
きた児童殺害事件を思い浮かべていた。「こういう子どもを、どうして殺す気になるのだろ
う?」と。

 ……と同時に、こうも思った。「もし、こういう子どもが殺され、私が裁判官なら、迷わ
ず、その犯人に死刑を言い渡すだろうな」と。

このエッセーは、そういう視点で、書いた。

(注)私は、「死刑」について、それが是か非か、ほとんど考えたことがない。ここでいう
極刑とは、当然のことながら、「死刑」を意味する。が、だからといって、頭から死刑を肯
定しているわけでもない。同時に、死刑を廃止したほうがよいと考えているわけでもない。
この問題については、もう少し、頭を冷やしてから、別の機会に考えなおしてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●急速に悪化する、韓国経済

+++++++++++++++++

ここにきて、にわかに怪しくなってきたのが、
韓国経済。

06年の第一四半期(1〜3月期)の貿易収支は、
かろうじて黒字。

しかし第二〜第四四半期は、赤字になるという。

++++++++++++++++

 過激な民族主義……それが現在、韓国の経済発展の足かせになっている。外資企業排斥
運動も、そのひとつ。が、それだけではない。

 シンガポールの元首相のL氏は、韓国内でのスピーチで、韓国の対外政策を批判してい
る(06年5月)。「葛藤のエネルギーを、和合のエネルギーに切り替えるのが何より重要
だ」(東亜N報)と。つまり、「韓国の政治的エネルギーは、内へ向きすぎている」と。

 一貫性のない政治姿勢、一貫性のない外交姿勢、それに自由貿易主義体制の中で生き残
りを図りながら、反米、反日を唱えるN政権。韓国が今、得意とする、造船、鉄鋼、自動
車、電子産業にしても、すべて、日本の「お株」を奪って作りあげたもの。どうしてその
韓国が、反日なのか?

 が、ここにきて、にわかに怪しくなってきたのが、韓国経済。ウォン高と原油高、それ
に資産バブルが限界に達しつつある。国際金融センターの陳所長は、「最近920ウォン台
まで進んだウォン高の影響は、下半期に表面化し、今年の経常収支が赤字に転落する可能
性もある」と述べている。

 N政権の経済政策の限界が、ここにきて顕在化してきたということになる。当然のこと
ながら、N大統領および、与党のウリ党の支持率は、ますます低下。が、これに呼応する
ような形で、K国のインターネット・サイト「わが民族同士」は、こう書いている。

 「(野党の)ハンナラ党が政権をとったら、戦争になる」と。

 そんな最中、野党ハンナラ党の次期大統領と目されている、パク・クンヘ代表が、何者
かによって、カッターナイフで切りつけられるという事件が発生した(5月21日)。韓国
政府や警察は、「偶発的事件」として片づけようと躍起(やっき)になっているという(朝
鮮N報)。

 まあ、本当のところはどうであれ、N政権がつづくかぎり、韓国経済は、悪化の一途を
たどる。またそうであるほうが、日本にとっては、望ましい。

 今の韓国政府には、K国の核開発問題にせよ、ミサイル(テポドン2号)問題にせよ、
さらに拉致問題にせよ、本気で解決しようという意欲はない。アメリカや日本が、いくら
K国制裁を叫んでも、その裏で、K国を援助している。

 さらにN大統領が今の地位についたとき、それはN大統領自身の言葉が外に漏れたと考
えるのが正しいが、ある高官は、こう述べている。「K国が核兵器をもつことは、(南北統
一後の)韓国にとっても、有利」と。

 今回のミサイル問題についても、「日本は、過剰反応をしている」と述べたり、拉致問題
については、むしろK国をかばうような発言を繰りかえしている。

 ならば日本は……、ということは、考える必要はない。日本のバブル経済が崩壊したと
き、韓国は、現実に、何一つ、日本を助けてくれなかった。助けてくれなかったばかりか、
「チャンス到来!」と、日本経済の追い落としに懸命になった。

 韓国がK国とともに、心中したいというのなら、それはそれでかまわない。日本として
はそれを静観するしかない。

【補記】

 韓国経済がバブル化している今、韓国政府は、金利をあげざるをえない状況に追いこま
れている。金利をあげれば、当然、ウオン高になる。しかしウオン高になれば、輸出産業
は打撃を受ける。

 今、韓国経済は、正念場を過ぎて、崖っぷちに立たされている。

【付記】
 ……とまあ、少しきびしい意見を書きましたが、本当のところは、みな、仲よくするの
が、一番よいのです。

 しかしそれにしても、うしろ向きなのが、韓国のN大統領。ここ数年で、韓国の流れは、
完全に変わってしまった。そんな感じですね。

 白黒をはっきりとつけすぎるというか、「自分は絶対的な善で、相手は絶対的な悪だ」と
いう発想が、たいへん気になります。こうした政治姿勢は、韓国の国論を、2分するだけ。
このままだと、つぎの大統領選挙まで、韓国の政治情勢は、混乱するだけ。その混乱が、
韓国の経済を、ますます悪化させる……。

 韓国の人たちも、もうそろそろ、それに気づくべきときではないでしょうか。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【雑感・あれこれ】

●1050円で買った時計の、電池交換が、1050円!

++++++++++++++++

1050円で買った時計が、止まって
しまった。

電池をかえることにした。

しかしその費用が、1050円、とは!

++++++++++++++++

 このところ、懐中時計に興味、あり。たいへん、あり。付録に、本物の懐中時計がつい
ている雑誌が、発売になった。それに刺激された。

 そこで引き出しをさがしてみると、懐中時計が、5、6個も出てきた。仕事がら、懐中
時計を使うことが多い。

 で、その懐中時計だが、意外と安い。1000円〜2000円というところか。ショッ
ピングセンターでは、だいたいそのあたりの値段で売っている。

 さっそく懐中時計を机の上に並べてみる。しかしどれも止まったまま。それをながめな
がら、「電池をかえに行こうか?」とワイフに声をかけると、「うん」と。夕食の食材を買
いに行くついでに、ショッピングセンターに寄ることにした。

 (中略)

 電池の交換を頼むと、その店員は、瞬間、時計をながめたあと、「1050円です」と言
った。「1050円で買った時計を、1050円でなおすのか?」と思ったが、男はすでに
時計をもったまま、背をこちらに向けていた。

 カウンターの反対側には、時計の売り場コーナーがあった。そこでも同じような懐中時
計を、1050円で売っていた。

 何とも割り切れない気持。「だったら新品を買ったほうがいい」と、だれしも、そう思う
にちがいない。私も、そう思った。しかしこれこそ、まさに高コスト社会が生み出した、
矛盾。モノは安いが、そこに人がかかわると、そのとたん、コストがハネあがる。

 バカげた社会だが、これが日本の現実。なぜこういう現象が起こるかといえば、ナガ〜
イ話になる。それをを短くすると、つまりそれだけ、日本という国が、ムダな税金を浪費
しているから、ということになる。

 国家公務員と地方公務員の人件費だけで、38兆円! 1人ひとりの公務員の人に責任
があるわけではない。またその責任を追及しているのでもない。それに公務員は、不要と
いっているのでもない。しかしそれにしても、巨額である。日本の国家税収が、42〜3
兆円規模だから、その大半を、公務員たちの人件費にあてていることになる。

 それが回りまわって、今の日本の、高コスト社会を生み出している。わかるかな、この
メカニズム?

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 私の隣人たちは、みな、元公務員。私の住んでいるこの班だけでも、30世帯近くある。
が、ざっと見ても、5〜7世帯が、現役の公務員もしくは、退職した元公務員。公務員と
いうのは、純然たるサービス業。公務員そのものは、利益をまったく生み出さない。言う
なれば、社会的な扶養家族ということになる。つまり残りの、24、5世帯で、それら5
〜6世帯の人たちを養っているということになる。

 その(養っている部分)が、高コストとなって、私たちにはねかえってくる。

 では、どうするか、だが、答は、簡単。

 扶養家族は、少なければ少ないほど、よい。つまり小さな行政政府をめざす。効率をよ
くして、人件費をおさえる。多少の不便さは出てくるかもしれないが、今のように、便利
すぎるほうが、おかしい。

 たとえばこんなことがある。

 今から20〜30年ほど前には、この地域の清掃は、住民が総出で、それをした。神社
や川辺の草刈りもした。

 しかし今では、それを、市が委託した清掃会社や、どこかの管理会社がしている。そう
した費用もまた、結局は、私たちに税金となってはねかえってくる。そしてその費用が、
回りまわって、高コスト社会を生み出す。

 本来なら、無駄な出費をおさえるため、地域の住民たちが、自分たちでできることは、
自分でするのがよい。自分のことは、自分でするのがよい。

 しかし現実は逆。行政サービスはますます肥大し、一方、住民の行政への依存性は、ま
すます強くなっている。今では、道路に落ちた枯葉ですら、住民が、市役所に電話をして、
清掃を依頼する時代になってしまった※。

(もちろん直接清掃するのは、公務員ではない。公務員の天下り先となっている公社の
職員が、それをする。)

 こうして公務員は、ますます権限を拡大し、私たちの生活のあらゆる部分を管理するよ
うになる。一方、住民は、さらに行政に依存するようになる。

 1050円で買った時計の中にも、電池はあるはず。しかしその電池をかえるだけで、
1050円!、とは……。

 そうそうワイフが、こう言った。「今ではね、時計が故障しても、修理に出す人はいない
わよ」と。「修理にもっていくとね、時計屋の人が、新品を買ったほうが、安いですと言う
くらいよ」とも。

 時計の修理にかかる代金のほうが、新品の時計の値段よりも、高いとは!

 「そういうものかなあ……」「こんなことでいいのかなあ……」と思いながら、私は、そ
の場を離れた。

注※……この話をしてくれた、市役所の職員に、「どうして?」と問いただすと、その職員
は、こう教えてくれた。「最近の人たちは、枯葉をゴミと考えるからです」と。つまりゴミ
ということになれば、それは市の仕事ということになる、と。

 「枯葉はゴミとはちがうでしょう」と、私が反論すると、「私もそう思うのですが……」
と。

【補記】

●国家公務員の人件費、1403万円!

 このほど、はじめて、(はじめてだぞ!)、国家公務員の人件費が、公表された(産経新
聞・05年・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6
571億円でだそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表さ
れているが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも
紛れ込んでいる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間
1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・
2万人で計算。)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っている
ことになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言って
よい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、
たとえば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方
の出先機関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受
給できる」(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカ
ラクリがわかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! (公務員の平均で、
1018万円!) ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、
官僚主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%
を使っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知ら
ない。おまけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全
国津々浦々、どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤
字国債(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約4
0倍! それでも足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護
保険制度に例をみるまでもなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をも
とに、計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということ
になる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額417兆28
29億円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出に
なることが6月15日、財務省などの調べでわかった。

公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件
費が「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減に
よって財政再建を加速させたい考えだが、「省庁側の抵抗は激しさを増しそう」(産経新
聞)とのこと。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 21日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自分をさらけ出して生きる】

●ある母親からの相談より

++++++++++++++++++

子どもとの不協和音。
子どもに気をつかい、
思ったことを言うこともできず、
毎日、悶々としているという。

++++++++++++++++++

【Fさんより、はやし浩司へ(1)】

掲示板に書く勇気がありませんでした。何度もすみません。読んでいただくだけで。

私が今までやっていたことは、ほとんど虐待でした。手をあげたことも何度もあります。
感情にまかせて怒鳴るなんてことは、しょっちゅうでした。

ヒステリックに泣いたりしました。夫はそこまで私がしているとは、思ってないようです。

学校ではあまり目立たないほうで、問題なく見える息子。このところとにかく物事の負の
部分しか見ない感じで、習い事などでも、楽しかったことより、いやだったことを口にし
て、悪態ばかりつきます。

学校も習い事もすべて嫌だ、やめたいと、今夜も言っていました。それをずっと優しく聞
き出していたのは夫です。先日、夫に初めて激しく怒られてから、息子は、特にわがまま、
無理難題を、夫に対して言うようになりました。次から次へ、といった感じです。

あまりのことに夫は病院へ連れていった方がいいのかなと思っているようです。しかし異
常なのは私。外ヅラだけがよく、ウソばかりついています。そのため子どもをドラ息子に
してしまった私。

息子が万引きをしたのは、私への罰の始まりかもしれません。これ以上酷い状態にならな
いように、こんな私でもできることはあるのか。息子を愛してきたという自信がもてない
でいます。本当の自分もよくわかりません。


【Fさんより、はやし浩司へ(2)】

 掲示板はやはり落ち着かなくて、こちらに書くことお許しください。いただきましたご
助言を胸に刻んで、2週間過ごしてきました。自分との戦いは、始まったばかりなのに不
安です。

まず心配なのが、子どもの様子です。習い事へ、三つ通っているのですが、それには、
行かない、と言っています。

遅く寝て、朝、早く起きる、夕食後の風呂にはじまって、就寝までが、なかなかうまく
いきません。

お父さんがかってくれた、N社のゲーム機器で、毎日、ゲーム三昧です。

その後、万引きはしていないようです。(先週私の財布から抜いたお金で、内緒で買い物
はしたようですが……。) 

怒りやすく、ワガママを言い出すと、あとへひかない。たいていお父さんがいる時です
が、ダダこねがひどい。

たとえばお父さんに、「会社を休んで欲しい、ゲームを買って」「学校がいやだ」と、強
く言い出すようになりました。

以前と変わらず、体をゆだねて、甘えてくる時もあり、私(達)を避けるようなことは
ありません。ただ、夫がいる時は、以前と明らかに違う感じです。

今夜も夫に、「会社を休んで欲しい」とぐずぐずと泣き、私が抱きしめてとんとんして寝
かしつけました。三人でいると何かまた言い出すのではと、なんだか子どもの心を探る
ような雰囲気になってしまいます。

私のせいだとわかっていても、その私を責めもしない夫に本当に申し訳ない気持ちです。
子どもがそこに「いる」だけでいいと、本当に心から思える時もある反面、私は結局夫
にも「すべてをさらけだし」をしていないように思います。もちろん子どもにも、です。

うそつきの私が、このままではどんどん悪い方向にいくのではと、心配で、胸が塞がっ
たりします。一日中とも言えるゲームの電子音を聞きながら、苦悩しています。

ご助言があれば、いただきたく存じます。お時間のない中、長々と失礼しました。

 
【はやし浩司より、Fさんへ】

 Fさんは、いわゆる「気負い先行型ママ」ということになります。「いい母親でいよう」
「いい家庭を作ろう」という気負いばかりが強くて、それで結果として、自分で自分を苦
しめてしまっています。

 息子さんについて言えば、親意識過剰というか、「いい子にしよう」という意識が、これ
また強すぎるように感じます。加えて、心配過剰、さらには育児ノイローゼ気味(?)。

 前にも書きましたが、この時期の子どもの万引き、盗みは、珍しくもなんともありませ
ん。一応、言うべきことは言いながらも、あとは、『許して、忘れる』です。あまりおおげ
さに考えないこと!

 おけいこごとについても、そうです。いちいち子どもの機嫌をうかがって、子どもの言
うことに、振りまわされてはいけません。無視すべきことは、無視。「そうね、たいへんね」
と聞き役に回って、それでおしまいにします。これを「ガス抜き」と、私たちは呼んでい
ます。

 子どもが、グチを言ったら、グチは聞いてあげれば、それでよいのです。

 そしてここが重要ですが、どうしてあなたは、子どもに嫌われるのを、それほどまでに
恐れているのですか? 嫌われてもいいと、もうそろそろ、居直りなさい。どうせ、嫌わ
れるのですから……。結論を先に言えば、あなた自身が、たいへん依存性の強い方だと思
います。子育てをしながら、いつも無意識なまま、何かの見返りを求めている。それが回
り回って、今の育児姿勢になっていると考えられます。

 ゲームの音がうるさかったら、「うるさいわねえ」と言えばよいのです。それで子どもに
嫌われても、遠慮することはありません。つまりこれが(心のさらけ出し)ということに
なります。

 ただ、お子さんは、あなたに絶対的な安心感を求めています。が、それを得られないで
いる……。そういう状態です。あなた自身もわかっているように、あなたの育児姿勢には、
一貫性がありません。

 そこでこうします。『求めてきたときが、与えどき』と。

 子どもがあなたにスキンシップなり、甘えるなり、何かの愛着行動を示したら、すかさ
ず、(ここが重要です。「すかさず」です)、子どもを抱きかかえてあげてください。そして
力いっぱい、抱いてあげてください。

 たいていものの数分もすると、子どものほうから体を放そうとしますので、そっと、水
の中に魚を逃がす要領で、子どもの体を放します。

 決して、「あとでね」とか、「今、忙しい」などと、言ってはいけません。「すかさず」そ
うします。

 子どもの心は、それで安定するはずです。「会社を休んでほしい」と、父親に甘えたとき
も、そうです。その旨、お父さん、つまりあなたの夫に、よく言い伝えておいてください。
ぐいと抱いてあげるだけで、じゅうぶんです。理由を言ったり、弁解したりする必要はあ
りません。

 ホント、外づらをよくするのも、疲れますね。わかります、その気持ち!

 私も、若いころ、それなりの教師に見られたくて、苦労しました。しかしある日、気が
つきました。クソ食らえ!、と。

 それからは気が楽になりました。あるがままの自分を、さらけ出しながら生きるように
なりました。Fさんにも、今すぐは無理かもしれませんが、少しずつ練習すれば、それが
できるようになりますよ。

 ためしに、あなたの夫に向かって、(YES)(NO)をはっきりと言ってみては、どう
でしょうか。いやだったら、いやだと言えばよいのです。してほしかったら、してほしい
と言えばよいのです。

 「あんた、今夜、セックスでもする?」「xxxxでもなめてあげようか!」と。(少し、
ショックでしたか?)

 ハハハ。そういう形で、自分をさらけ出していきます。あとは、練習です。つまりね、
あなたが心を閉ざしていて、どうして子どもが、あなたに心を開くことができるでしょう
か? 

 お子さんの年齢からして、もう、何でも、あなたの思い通りにはならないということを、
肝に銘じてください。夜更かしをして、翌朝困るのは、息子さんです。ですから、こまご
まとしたことは、あまり気にしないで、子どもに任せなさい。

 原因をたどれば、つまりなぜあなたが今、そうなのかという原因をたどれば、あなた自
身の幼児期から子ども時代に、問題があったとみます。権威主義的な親をもち、家父長意
識の強い家庭環境の中で、あなた自身が、いつも、(いい子)を演じていた。

 さらに言えば、あなたとあなたの父親との関係が、あまりうまくいっていなかったこと
も考えられます。そのため、(男)の扱い方が、わからないまま、今日に至っている……。

 一度、自分の過去を冷静に見つめてみる必要があります。で、この問題は、そうした自
分の過去を客観的に見ることができるようになっただけでも、問題の大半は解決したとみ
ます。勇気を出して、自分の過去と対峙してみてください。

 もっと肩の力を抜きなさい。カエルの子どもはカエル(失礼!)。それ以上高望みしない
こと。過剰に、子どもに期待をしないこと。「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきら
めなさい! この世界には、『あきらめは、悟りの境地』という格言があります。私が考え
た格言ですが、あきらめたとたん、あなたも、そして息子さんも、表情が明るくなるはず
です。

 「こんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、逆効果ですよ!

 そしてあなたは、もう子どものことは忘れて、自分のしたいことをしなさい。息子さん
は、すでに親離れを始めていますよ。年齢的にも、その時期に来ています。この時期、親
はさみしい思いをするかもしれませんが、それに耐えるのも、親の務め。

 あとはCA、MG、Kの多い食生活に切り替えてみてください。海産物中心の献立にし
ます。それでも、(こだわり)が消えないようでしたら、一度、心療内科のドクターに相談
なさるとよいでしょう。今では、すぐれた薬があります。

 あまりくよくよしないこと。少なくとも、万引きの問題は解決したのですから……。つ
ぎからつぎへと、あれこれと問題をさがしだし、悩まないこと。「前よりもよくなった」こ
とだけを実ながら、あとは、前向きに生きていきます。

 では、また。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
育児の悩み 育児ノイローゼ 子供の問題 育児問題)

【補記】

●自分をさらけ出して生きる

++++++++++++++++++++

自分をさらけ出して生きるということは、
口で言うほど、簡単なことではない。

そのことは、子どもの世界を見ればわかる。

子どもの中にも、あるがままの自分を、
すなおにさらけ出しながら生きている子どももいれば、
そうでない子どももいる。

いつも他人の目を気にしながら、いい子ぶる
タイプの子どもである。

このタイプの子どもは、いつも自分を飾る。
ごまかす。作る。偽る。

だから本人も疲れるが、教える側も疲れる。
何を考えているのか、何を望んでいるのか、
それが正確にわからないから、ときとして、
どう教えたらよいのかわからなくなる。

そこで私の教室では、年中児で入ってきた
子どもについては、とにかく、大声で、
声を出させ、大声で笑わせるという指導を
大切にしている。

心の中のものを、すべて吐き出させるように
している。

しかし本当の問題は、母親にある。

母親の中にも、自分を飾る、ごまかす、作る、
偽る人は少なくない。

が、母親のばあい、問題は、本人だけにとどまらない。
その影響は、子どもに現れる。

もちろん夫婦関係も、ギクシャクしてくる。

だから……。

もし、あなたが、ここでいう、心のさらけ出しが
苦手のタイプの人なら、思い切って、
心を開いてみよう。

心を開いて、自分の思いや願いを、空に
向かって、解き放ってみよう。

方法は、簡単。

まず、YES、NOを、はっきりと言ってみよう。

したかったら、YES!
したくなかったら、NO!

自分をすなおに表現してみよう。

自分を飾らないで、
自分をごまかさないで、
自分を作らないで、
自分を偽らないで……。

心を解き放てば、体は、あとからついてくる。

++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間
が……」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束
縛から離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは
個人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく
言えば、自分らしさ(アイデンティティ)の原点になっている、核(コア)をいう。この
コア・アイデンティティをいかに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われてい
るかを気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるか
を気にする。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、
このタイプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイ
フが落ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。そ
の中学生は、臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思
ったのか」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイ
フをほしいと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困り
ます」と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかっ
たら、ほしいと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。
その上で、そのサイフをどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」
と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論
が始まるということ。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらっ
てしまえ」と言っているのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目
を気にした生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化
が遅れる。「私は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりませ
ん」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘
には、国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニ
ール袋など)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽ト
ラックだ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、
いい印象をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえ
ってわざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴ
ミを集めているのに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふ
うに考えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、
その周囲の人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の
虐待らしい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親
が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。
そればかりか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせた
り、骨折していない別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のま
まだった。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度
は、他人の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、
自分であって自分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するというこ
とは、よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってし
まってはいけない。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にし
ていたように思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするよ
うにしている。他人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめて
しまう。他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を
気にしている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となり
の人より悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜
んでみせたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそ
うですね。本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、
万引きをして、補導されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」
と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情し
たフリをしながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうです
から。Gさんは、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件
にこういうことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言っ
た。(今まで、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大
学」「H大学」と、伏せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』とい
うのは、ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響
が大きいのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり
世間体を気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体
を否定するようになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、世代を経て、引
き継がれる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

 (このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 この原稿を書いてから、ずいぶんになる。「交番へ届けます」と答えた子どもは、すでに
成人になり、結婚もした。以来、会ったことはないので、今ごろは、どういう考え方をし
ているか知らない。

 しかしまじめな、いい生徒だった。それは認める。だから今、こうしてそのときのこと
を思い出してみると、そういう生徒をからかったわたしの方がまちがっていたのかもしれ
ない。「交番へ届けます」と彼が言ったとき、私もすなおに、「そうだね。それがいいね」
と言うべきだった。それで終わるべきだった。

 多かれ少なかれ、私たちはみな、仮面をかぶって生きている。もしみながみな、あるが
ままの(私)をさらけ出して生きたら、それこそ、この社会は、動物の世界のようになっ
てしまう。私は私で、あなたはあなたで、いい人ぶりながら、生きていく。たとえそれが
仮面であるとわかっていても、だまされたフリをして、相手に合わせて生きていく。

 それでよいのかもしれない。

 ただこれだけは、書いておきたい。

 自由とは、自分をさらけ出して生きること。つまり自分をさらけ出して生きることを、
自由という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
仮面 コアアイデンティティ 人格の核 さらけ出し すなおな人間 はやし浩司 世間
体 見栄 体裁 虚栄)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●虚栄

 「見栄。うわべだけの栄誉」「外見ばかり飾って、実質以上に見せること」を、「虚栄」
という(日本語大辞典)。

 英語では、「vanity」という。

 しかし、日本語で、「虚栄」というときと、英語で、「vanity」というときとでは、
感じ方が、ちがう。なぜだろう?

 ひとつには、そこに宗教的意味がこめられること。キリスト教では、「vanity」を、
人間がもつ原罪のひとつとして、それを強く戒めている。

 小学館の(ランダム・ハウス・英和辞典)によれば、こうある。

 Vanity……(1)うぬぼれ、慢心、虚栄心、(2)うぬぼれの表出、(3)ひどく
自慢する、(4)無価値、つまらなさ、(5)価値のないもの、つまらないもの、と。

 だから日本では、「お前は虚栄心が強い」と言われても、それほど、気にならないが、英
語で、「vanity」と言われたれたりすると、ぞっとする。何か、とんでもないまちが
いを犯したかのようにさえ思うこともある。

 そこで改めて考えてみる。「虚栄とは何か?」と。

 「飾る」といっても、それを意識している間は、虚栄ではない。たとえば美しいネック
レスを買い、それで身を飾るというのは、虚栄ではない。

 しかしそのネックレスを身につけ、さも、私は金持ちですと言わんばかりに振る舞うの
は、虚栄ということになる。さらに、その虚栄を使って、相手をだますようなことをすれ
ば、詐欺(さぎ)ということになる。

 が、虚栄の恐ろしさは、ここでとどまらない。虚栄が長くつづくと、「私」そのものが、
なくなる。「私」がないということは、その時点で、自分の人生を、カットすることになる。
もっと言えば、「私」でない、私に、操り人形となって、操られるだけ。そういう人は、少
なくない。

 Nさん(女性)は、今年、80歳を過ぎた。そのNさんは、買い物に行くとき、サイフ
の中に、札をいっぱい詰めていくという。しかも、一番前と一番うしろに、1万円札。そ
の間に、1000円札を詰めていくという。

 そしてレジなどで、お金を出すときは、レジの女性に、これみよがしに、札束を見せて、
お金を払うという。

 それを見ていた、実の娘(60歳くらい)は、こう言った。「うちの母は、昔から、そう
いう女性です。本当は、貧乏なのに、外では、いつも、金持ち風に振る舞うのです」と。

 そういう話を聞くと、私は、すぐ、「80歳も過ぎているのにねエ〜?」と思ってしまう。
あわれというより、こっけいですら、ある。虚栄に毒されると、人は、そこまでするよう
になる。しかも80歳を過ぎても、それをつづける。

 自分がない人というのは、そういう人のことをいう。言いかえると、「生きる」というこ
とは、その時点、時点で、「私」をつかみながら生きることをいう。それができない人は、
生きていることには、ならない。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、虚栄に
毒されると、生きているという実感をもてないまま、その日、その日を、ただ無益に過ご
すことになる。

 あるがままに、自分を保ちながら、生きる。自分をさらけ出しながら、生きる。そうい
う生き方を、「善」とするなら、虚栄に満ちた生き方は、「悪」ということになる。キリス
ト教のことは、よくわからないが、多分、そういう意味で、「虚栄」を、「vanity」
と言うのではないか。

 一度、オーストラリアの友人に、問いあわせてみようと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
虚栄 vanity)

+++++++++++++++++

本音と建て前について書いた原稿を
いくつか添付します。

+++++++++++++++++

●本音と建て前

 「すなおな考え方」とは何か。五、六年も前のことだが、小学一年生の生活科のテスト
に、こんなのがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの
絵の中から、答を選んでください。

(1)そのままテレビを見ている絵。
(2)お母さんを手伝う絵。
(3)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子
どもは、(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、
ひとりの母親がこう言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のま
わりでウロウロされると、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽で
す」と。つまり建て前では、(2)が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を
出した。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテス
トでは、本音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界

 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などとい
うものは、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解
を求めようとする。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。
が、それで終わるわけではない。

ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生が、「答
のない問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「こ
の世界のできごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解に
こだわるのか」と笑っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学
だが、T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしま
った。この状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分
離方法を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参
考書もちこみOKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にすると
いうもくろみがある。

当然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話
してくれた。「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさが
ってくる。大切なのは、いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすか、です」
と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだ
ろうか。そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもた
ちにかぎらず、私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろ
うか。私は子どもたちの前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につなが
るものの考え方の、大きなヒントが隠されているような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
本音と建て前 子供の本音)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●疲れる子どもたち

 本音と建て前。本当とウソ。正直とごまかし。今の子どもたちは、幼いときから、この
二つを使い分けることを教えられる。その結果、その両方を、うまく使い分けられる子ど
もほど、「学校」という社会を、スイスイとうまく生きていかれる。そうでない子どもは、
そうでない。

 もちろんだからといって、A君のように、拾ったお金を使ってよいというのではない。
ないが、A君のような生き方のほうがわかりやすい。子ども自身も疲れない。心もゆがま
ない。しかしB君のような生き方をしていると、それだけで疲れてしまう。その結果、心
がゆがむこともある。

 自分の内部に潜む誘惑に打ちかち、拾ったお金を交番へ届けるというのは、かなりむず
かしいことである。強い精神力と、それを支える道徳性が必要である。そしてその道徳性
は、たえまない反省と思考によって、はぐくまれる。そこらの中学生くらいに、それがで
きるわけがない。私が「本当のことを言え!」と迫ったとき、もしB君がそれでも、「交番
へ届ける!」と言ったら、私はB君の道徳性を認める。しかしそれとて、私という「他人
の目」を感じているから、そう言うにすぎない。

 ……と書いて、実は、これは親たちの問題でもある。子育ての問題と言ってもよい。た
とえばある親が自分の子どもに向かって、「学校では、友だちと仲よくするのですよ」と言
ったとする。しかしこの言い方は、「拾ったお金は、交番へ届けるのですよ」という言い方
と、どこも違わない。

 が、その親が、子どもがもちかえったテストを見ながら、「何だ、この点数は! あのC
君は、何点だった? もっと勉強しろ!」と言ったとする。これは母親の本音と考えてよ
い。親は、こう言っているのだ。「C君は、あなたの敵だ。そのC君を負かせ」と。

 かわいそうなのは、そう言われた子どものほうである。一方で、「仲よくしなさい」と言
われ、他方で、「敵と思え」と言われる。拾ったサイフにたとえるなら、一方で、「交番へ
届けろ」と言われ、他方で、「拾ったお金は自分のものにしろ」と言われるのに似ている。
「同じ」とは言わないが、「似ている」。

 こうした相反する矛盾の中で、要領のよい子どもは、その二つを、うまく使い分ける。
が、そうでない子どもは、そうでない。そして底なしの自己矛盾の世界へと落ちていく…
…。しかしそれはきわめて不安定な世界でもある。子どもによっては、その不安定さに耐
えかねて、非行に走ったり、引きこもったり、あるいは家庭内暴力を起こしたりする。そ
こまで進まなくても、自分の中で葛藤(かっとう)する子どもは、いくらでもいる。

 それはさておき、要領の悪い子どもは、この段階で二つの道に分かれる。徹底して、よ
い子ぶるか、それとも居直るか、のどちらかである。冒頭にあげた、B君が、そのよい子
ぶっている子どもということになる。それに対して、A君は居なおっているということに
なる。

●本音で生きる

 子どもの世界を見ていると、それはそのまま、私たちおとなの問題であることがわかる
ときがある。この問題もそうだ。私たちおとなも、昔は、子どもだった。そしてほとんど
の人は、その子ども時代の自分を、みな、そのまま引きずっている。たとえばあなた自身
は、どうだったか。さらには、あなた自身はどうかということになる。

「今」という時点で考えてみよう。今、あなたは本音で生きているだろうか。あなたが
妻なら、夫や子どもに対して、本音で生きているだろうか。それとも、あなたは、ここ
でいうような「いい子」ぶってはいないだろうか。

 が、これだけは言える。もしあなたが他人との世界の中で、「疲れ」を覚えるようなら、
あなたは、いつも心のどこかで自分をごまかして生きていないかを、少しだけ反省してみ
るとよい。あなたのそうした気負いは、あなた自身を疲れさせるだけはなく、あなたの夫
や、子どもまでも疲れさせてしまう。要は、ありのままの自分を生きるということ。飾る
ことはない。気負うことはない。ごまかすこはない。ありのままでよい。

 一〇万円が入ったサイフを拾い、お金がほしいと思えば、そのまま中身を抜いて、サイ
フだけを捨てればよい。が、もしそれを「よし」としないのなら、交番へ届ければよい。
そしてそのサイフのことは忘れる。自分にすなおに生きるというのは、そういう意味で、
わかりやすい人生を送ることを意味する。

 そうそう、先のB君も、私が「正直に言え」と迫ると、最後にこう言った。「やっぱり、
先生、お金がほしいから、もらってしまうよ」と。私はその意見を聞いて、安心した。B
君には、まだ自分を取り戻す力が残っていた。すなおな気持ちが、残っていた。私は最後
に、B君にこう言った。

 「自分に無理をしてはいけない。先生は、今でも、サイフを拾うたびに、迷う。しかし
今は、そういうふうに迷う自分がいやだから、何も考えないで、近くに交番があれば、交
番に届けるようにしている。先日は、コンビニの前で拾ったから、コンビニに届けた。よ
いことをしているとか、悪いことをしているとか、そんなふうに考える必要もない。要す
るに気負わないこと。

 しかしね、誠実に生きることは、とても気持ちがよいことだよ。ウソだと思ったら、一
度、拾ったお金を交番へ届けてみてごらん。そのあと、ものすごく、気持ちがよくなる。
その気持ちのよさは、お金では買えないよ」と。
(030319)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●心のバランス感覚

駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から
二人の女子高校生が割りこんできた。

 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。

 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。
するとその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。

 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていまし
たが……」
 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。

 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。

 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、
10メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。

 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変
化に気づいた。

 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意
見を戦わせた。

 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」とい
う私。この二人の私が、対立した。

 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれな
い。だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と
怒っている私、。この二人の私が、対立した。

 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだ
な。学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)
な分だけ、いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。

 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言っ
た。そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行
動を決めた。

 こういう現象は、私だけのものなのか。

 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例
としては、本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、う
まく使い分ける。

 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こ
うした精神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、そ
れだけで二重人格を疑われるかもしれない。

 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。

 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のような
ものだった。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、
「無視しろ」という私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスを
とっていたことになる。

 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけて
いたかもしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたか
もしれない。

 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、
正義感もあって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職
業がら、無視できる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできな
かった。

 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに
対立している状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思
う。

もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経
(抑制命令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくな
い。

 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心
の状態を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断す
る感覚を、私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた
人を、常識豊かな人といい、そうでない人を、そうでないという。

 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
はやし浩司 心のバランス感覚 心のバランス)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●2人目の孫、誕生!

 昨夜遅く、二男から電話があった。娘が生まれたという。予定通り、5月18日。アメ
リカでも、5月18日。

 電話を受け取ったワイフの話では、名前は、「May(メイ)」になりそうとのこと。5
月だから、May(5月)か?

 少し前は、「Meg(メグ)」にするかもしれないと言っていた。しかし漢字では、どう
書くのだろう?

 芽衣……あたりが、標準的? 林芽衣か?

 長男の誠司は、2週間ほど、早く生まれてしまった。しかし今度の孫は、ピッタシ、予
定どおり。よかった!


●古(いにしえ)時計

 今度、書店で、『古時計』なる雑誌が発売になった。さっそく、1冊買ってみた。毎号、
復刻版の時計が付録として、ついてくる。本物の懐中時計である。

 が、この時計、昨日買ったばかりなのに、狂いぱなし。で、今朝、書店に電話をすると、
「取りかえます」とのこと。

 「これなら講演で使いやすそう」と喜んでいたが、がっかり。見た目はともかくも、ム
ーブメントは、あまりよいのを使っていないのかも(?)。

 調子がよければ、オーストラリアの友人にも送ってやろうと考えていただけに、残念!
 (悪口を書いて、ゴメン!)

(追記)

 で、昨日、書店へもっていくと、すぐ取りかえてくれた。で、その時計だが、今のとこ
ろ、たいへん正確! 我が家の電波時計とくらべてみたが、12時間で、誤差は、1秒以
内! これなら、いける! やはり私の運が悪かったということか。

 次号も買うつもり。


●孫の、メイ(MAY・芽衣?)が、誕生

 2006年5月18日、夜遅く、二男から、電話。孫のメイが、無事、生まれたとのこ
と。我が家で迎える、はじめての女児である。


「女の子かア? どうやって抱けばいいのかねえ?」とワイフに言うと、「そうねエ〜」と。

 私は男児は、得意だが、どうも女児が苦手。教えるのも苦手。相手が男児だと、言いた
いことも言える。しかし女児だと、いつも、遠慮してしまう。

 写真を何枚か見たが、やはり、私にゼンゼン、似ていない。(よかった!)私に似た女の
子というのも、かわいそうだ。

 ワイフも、「S(二男)にも、D(二男の妻)にも、似ていないわね」と。

 しかし子どもの顔というのは、年齢に応じて、どんどんと変っていく。そしてそのつど、
父親に似たり、母親に似たりする。

 どうか、いつまでも、幸福に! 安らかな寝顔が美しい!


●中国

 中国製のパソコンに、何やら、とんでもない(しかけ)がしてあるという。勝手に、パ
ソコンが、情報(ファイル)を、外に漏洩(ろうえい)するという、しかけらしい。

 そこでアメリカの国防省は、中国から輸入したパソコン(元I社製)について、監視体
勢に入ったという。その数、1万6000台。国務省が総額1300万ドルで調達した、
業務用パソコンである。

 以前から、「そういうこともありえる」と思っていただけに、「なるほど」と思ってみた
り、「やはり」と思ってみたりする。

 しかしこの問題についての、アメリカの反応は、どうもにぶい。

 ひょっとしたら、アメリカも、同じようなことをしているのでは? いろいろ勘ぐりた
くもなる。

 ヤフーNEWSは、つぎのように伝える。

 「米国務省が中国政府系企業から大量調達したパソコンをめぐり、機器の(仕掛け)を
通じた中国への情報漏れを懸念する議会側が、不信感を募らせている。同省は18日、機
密情報にかかわる業務から、このパソコンを排除する方針を議会に書簡で伝えたが、議会
側では、中国のスパイ活動を助けかねない調達だとして、他の政府部門での中国製パソコ
ンを含めて引き続き監視する構え」(5・18)と。

 日本も、じゅうぶん、注意したらよい。どうも、あの国は、信用できない。ホント!


●三峡ダム

 中国、長江にかかる、世界最大のダムが、20日、完成するそうだ。

 ダムの堤本体は、全長2309メートル、高さ185メートル。1994年の正式着工
から約12年もかかったこのダムは、20日午後2時(日本時間同3時)に完工し、内部
関係者だけで完工式典が行われるという。

 巨大なダムである。何でも、日本の黒部第4ダム、約54基分の発電所を備えるという。
が、問題は、山積しているらしい。自然破壊、景観破壊、生態破壊、住民への補償問題、
水質汚染問題、周辺湖水問題、水流問題などなど。ダムの下流では、今後いっそう、洪水
が起こりやすくなるという説もある。

 が、何といっても最大の問題は、土砂。長江は、もともとゆっくりと、かつゆったりと
流れる川である。つまりその分だけ、土砂が堆積しやすい。すでに03年から05年まで
に堆積した土砂は、3億トン以上(産経ニュース)にもなるとか。

 3億トンと言われても、ピンとこないが、3トントラック(小型トラック)で、1億台
分。この量を2年(730日)で割ると、毎日約13・7万台のトラックということにな
る。そのトラックで、土砂を埋めていることになる。

 つまり反対に考えると、毎日、3トントラックで、13・7万台分の土砂を取り除かな
いと、三峡ダムの維持はむずかしいということになる。(13・7万台だぞ!)

 しかしそんなことが、可能なのだろうか? 中国政府は、「(このダムのおかげで)、毎年、
火力発電による二酸化炭素放出量を1億トン以上減少させることになる」と、おめでたい
ことを言っている。が、毎日、13・7万台のトラックを走らせれば、どれだけの二酸化
炭素が空気中に排出されることになるのか、それがわかっているだろうか。

 放置すれば、10年で、15億トン。30年で、45億トンもの土砂が、三峡ダムに流
れ落ちることになる。

 悲しいかな、このプロジェクトの失敗は、目に見えている。そのせいか、産経ニュース
は、つぎのように伝えている。

 「(20日には)、内部関係者だけで完工式典が行われる」と。

 わかる、わかる、その気持ち!


●お人よし外交

 K国が、ミサイル発射実験に向けての準備(?)をしているという。各新聞は、「恫喝(ど
うかつ)外交」と報じている。

 しかし私の印象では、K国に、長距離弾道ミサイル(テポドン2号)を飛ばす技術も技
術力も、ない。ないことは、一連の対艦ミサイルの発射実験を見ればわかる※。

 ひとつの科学だけが、ある国で、特異に発達するということは、ありえない。その科学
が発達するためには、その科学を支える、周辺科学の発達がなければならない。その周辺
科学に支えられて、ひとつの科学が、発達する。

 が、K国には、乾電池を生産する工場すらないという。どうしてそういう国が、長距離
弾道ミサイルなど、作ることができるというのか?

 仮にできるとするなら、問題は、韓国である。

 韓国は、今、せっこらせっこらと、そのK国を助けている。助けるなら助けるで、まず、
K国の核開発問題、ミサイル問題を解決してから、すべきではないのか。それもしないで、
今、K国を助けるというのは、話の順序がちがう。韓国イコール、K国とみなされても、
文句は言えないはず。

 その韓国、ICバブルがはじけて以来、このところ、急速に経済状況が悪化している。
このままでは、ここ1、2年のうちに、再びデフォルト(国家破綻)に陥る可能性も出て
きた。

 それを察知してか、外資系企業が、今、つぎつぎと韓国から撤退している。

 そこでここが重要だが、日本も、もうお人よし外交は、すべきではない。90年末、K
国が食糧危機に陥ったとき、時の日本の外務大臣のK氏は、周囲の反対を押し切って、1
20万トンもの食糧援助を決めてしまった。

 「これでK国が動かなかったら、責任を取る」と、まあ、かっこよいことをK氏は言っ
たが、そのK国は、何も動かなかった。ついで、そのあと、K氏も何も責任を取らなかっ
た。

 韓国も、K国も、そういう国である。(ついでに日本の政治家も、そういうものである。)

 「韓国がデフォルトしても、日本は、構わない」……とまあ、それくらいの覚悟は、今
からしておいたほうがよい。日本は、韓国なしで、いく。やっていかれる。日本も、かな
りの被害をこうむるかもしれないが、たかが竹島という小さな領有権問題で、「物理的制裁
(=軍事的行動)を加える」と、大統領自らが公言するような韓国である。

 この際、もう遠慮することはない。

 日本は、日本の国益だけを第一に考えて、行動する。韓国ならびに、K国と対峙する。

注※…ただし中国や、旧ソ連の技術者が介入していれば、話は別。その可能性は、多分に
あるが……。


●パスワード

 近く、私が使っているパスワードを、全面的に見直すことにした。現在は、xxxxy
yyyだが、これだと、すぐ解読されてしまうという。パスワードを解読するための、専
用のソフトも、裏の世界では、数多く、流通しているという。

 先日、パソコンショップへ行ったら、そこの店員がそう教えてくれた。

 そこでいろいろな雑誌などを読むと、英文字と記号、それに数字を混在させたパスワー
ドが、よいそうだ。しかしそれでも安心できない。「できれば、数か月ごとに変更したほう
がいい」とのこと。

 そこでそのパスワードに、暗号を混ぜるという方法が、一般化しているという(某・パ
ソコン雑誌)。

 たとえば、(hayashi)に、(hiroshi)を1文字ごとに混ぜると、(hha
iyraisshhii)となる。これに生年月日の数字を、順に混ぜる。

 すると(h1h2a3i4y5r6a7i8s9shhii)となる。

 この(h1h2a3i4y5r6a7i8s9shhii)から、先頭から、3文字ご
とに選び出すと、最終的には、(h2i5a8si)となる。これに記号の、(+)や(*)
を混ぜる……。すると(h2i*5a8+si)となる。

 ……頭が混乱してきた。暗記するだけでも、たいへんだ!

 で、現在、私のばあい、その重要度に応じて、4種類のパスワードを使いわけている。

 一番簡単なのは、yxxxx。これはBLOGや、マガジンなどにアクセスするときに
使っている。一番むずかしいのは、yyyyxxxxxxxxx。これはネット取り引き
など、お金がからむサイトにアクセスするときに使っている。

 これからも、こうした知恵比べは、つづく。もっとも私のHPにせよ、マガジンにせよ、
パスワードが解読されたところで、どうということはない。見たままが、そのまま。秘密
は、何もない。

 今回、パスワードを見なおすのは、あくまでも、念のため。みなさんも、くれぐれも、
ご注意のほどを!


●泥棒の家は、戸締りが厳重(?)

 知人から、こんな話を聞いた。聞きながら、何度も、「本当ですか?」と言ったほど。そ
の話というのは、こうだ。

 その家には、75歳前後の老夫婦が、2人で住んでいる。ともに、まあまあ健康という
ところか。

 その老夫婦のうち、とくにダンナのほうが、異常なまでに、戸締りが厳重。毎晩、すべ
ての雨戸を閉め、その雨戸を内側からロックしてから、寝るという。が、その程度の話な
ら、よく聞く。が、ここからがすごい。

 タイマーで作動するしかけがいくつか作ってあって、門灯と、洗面室の電気などは、老
夫婦がいてもいなくても、自動的に、ついたり、消えたりするという。さらに、ガラス戸
にはすべて、防犯ブザーがついているという。

 そのうちいくつかはダミーだというが、その家の周囲には、監視カメラもついていると
いう。

 私が、「本当ですか?」と驚いていると、さらに、その知人は、こう話してくれた。

 「たとえば日中、2人で外出するようなことがありますね。そういうときは、テレビは
わざと、つけっぱなしにしていきます。また外出したことがわからないように、車庫には
リモコンで開閉するシャッターがとりつけてあります」と。

 その知人によると、実にこまめに、こうした対策をほどこしてから、外出するとのこと。

 私が、「何を、そうまで心配しているのでしょうね」と聞くと、知人は、笑いながら、「泥
棒ですよ」と。

 で、私は、こう言った。「昔から、泥棒の家は、戸締りが厳重と言うでしょ。ひょっとし
たら、その人は泥棒かもしれませんね」と。

 するとその知人は、さらに大きな声で笑いながら、こう言った。「ビンゴー! その男性
はね、泥棒ではありませんが、退職前は、防犯課の警察官をしていたそうです」と。

 ナルホド!

 『泥棒の家は、戸締りが厳重』を言いかえると、こうなる。『警察官の家は、戸締りが厳
重』と。

 長い間、泥棒をつかまえる仕事をしていると、世間の人たちがみな、泥棒に見えるよう
になるのかもしれない。

 おもしろい心理なので、記録のために、ここに書きとめておくことにする。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 19日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子育てポイント】

●ぼんやりする

 子どもは、ふとしたきっかけで、ぼんやりすることがある。英語ではこれを、「デイ・ド
リーム」という。日本語では、「白日夢」と訳すが、幻覚をともなうような白日夢とは違う。
デイドリームというのは、「ぼんやりすること」をいう。

 このデイドリームは、心の洗濯と考える。子どもは、ときどきぼんやりすることで、心
のホコリを払う。悪いことと決めてかかってはいけない。たとえば、あのニュートンにし
ても、エジソンにしても、よくぼんやりと、ひとり考えにふけることがあったという。「デ
イドリーマー(夢見る人)」というニックネームがつけられていた。

 もちろん、いつもぼんやりしているとか、無気力なままぼんやりとしているというのは、
好ましいことではない。慢性的な睡眠不足の子どもも、よくぼんやりする。

++++++++++++++++++++++
●子どもの睡眠不足(中日新聞掲載済み)
++++++++++++++++++++++

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」
という。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベ
ッド・タイム・ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは
眠ることに恐怖心をいだいたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」
と言って、無理やり電気を消してしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、
ばあいによっては、情緒そのものが不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐ
るみを置いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱い
てあげたり、手でたたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセ
ットに声を録音して聞かせるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば
刺激性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの
脳を覚醒させる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠
ってから起きるまで)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低で
もその睡眠時間は確保する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』
と覚えておく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大
切にする。今、年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はい
る。日中、生彩のない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、
キャッキャッと騒いだかと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。
(これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
睡眠不足 子どもの睡眠不足 子供の睡眠不足


++++++++++++++++++
●ハングリー精神を大切に
++++++++++++++++++

 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。
与えすぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくら
いすればいいかな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。
たとえば子どもの学習量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切っ
て、一五分でやめる。ワークブックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ペ
ージでやめる、など。要するに、ほどほど、に。

 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満
足させてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほし
い」というのが、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、そ
れになれてしまうことである。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれて
しまった子どもは、中学生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しな
くなる。いわんや、幼児期に、一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまった
ら、その子どもは、どうなるか?

 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」
と、悩んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だ
から買ってあげるしかない」と。

 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今
の日本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくら
べても、日本人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもに
モノを買い与えている。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に
感謝しているはず」「親子のパイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。ある
いは逆効果。

 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一
応「ありがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわい
のは、こうしてできた親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子ど
もがおとなになったとき、その親は、こう考えるようになる。

 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの
子だけ、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、
そのズレにすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズム
に気づくということは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。

 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子
育て全体のリズムの中で考えるようにする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どものやる気 子供のやる気 やる気 やる気を引き出す)


+++++++++++++++++++
●小づかい一〇〇倍論(中日新聞掲載済み)
+++++++++++++++++++

子どもの金銭感覚

 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その
金銭感覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子ど
もはこの時期を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そ
してそれがそれから先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、
おとなの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買
い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円
に相当する。

「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子
どもが、将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そう
いう傾向は小さくなったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親
の愛と誤解している人は多い。より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心
をつかんだはず」と考える。あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。が、
これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ど
も(小二男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに
買いに行ってもらう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言
うと、「それではおくれてしまう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の
子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによって、
自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容そのものが、昔とは違う。変質
している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーンが出
てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。「ど
うしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚そのも
のが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばか
り!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろう
か。千円のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだ
ろうか。与えるとしても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせ
るだろうか。いや、その前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせて
いるだろうか。どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。

五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子ど
もが高校生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与え
なくてはならなくなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。
あなたにそれだけの財力と度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、
やめたほうがよい。やがてあなたの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられ
なくなる。そうなればなったで、苦労するのはあなたではなく、結局は子ども自身なの
だ。

+++++++++++++++++++++

●それでも、ゲームを買ってあげたい、あなたへ、

 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなた
は、こうすればよい。

 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものが
よい。そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子ど
もには、「ときどきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導も
しやすくなる。「これはパパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできる
し、「友だちが遊びにきたら、パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊
ぶ時間も、それで決められる。「パパが、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。

 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、
親子のパイプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの小遣い 子供の小遣い 小遣いの与え方 小遣い100倍論)


++++++++++++++++
●子どもは目を見て、判断する
++++++++++++++++

 子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。外見のハデさに、だまされてはいけな
い。賢い子どもの目つきは、静かに落ち着いている。鋭い。輝いている。そうでない子ど
もの目は、そうでない。どこかフワフワとして、つかみどころがない。最近収賄罪(しゅ
うわいざい)で逮捕された、国会議員のS氏の目を見て、私は驚いた。まるで死んだ魚の
目のような目をしている。ああいう人間が、国会を動かし、国政を動かしていたかと思う
と、ぞっとする。

 話はそれるが、あなたが子どもを叱るとき、子どもの目が、どのようであるかを見てみ
るとよい。そのときあなたの子どもの目が、じっと下へ沈むようであればよし。そうでな
く、どこかフワフワしていたら、あなたが叱る割には、その効果はないとみる。たいてい
はこわいから、おとなしくしているだけ。ある子ども(小三)はこう言った。「ぼくはママ
に叱られているとき、ポケモンの歌を、心の中で歌っている」と。

 「外見のハデ」ということが、幼児教育の世界では、よく話題になる。ペチャペチャと
よくしゃべり、反応もはやい。何か質問をすると、「ハイ!」と言って、それらしいことを
言う。このタイプの子どもは、一見、利発に見えるが、実際には、何も考えていない。テ
レビのバラエティ番組に出てくる、お笑いタレントを見れば、それがわかる。軽薄なこと
を、思いついたまま、言葉にしているだけ。

 賢い子ども、よく考える子どもは、一方、見た感じの反応はにぶい。何かテーマを与え
たりすると、それを何度も頭の中で反復するようなしぐさを見せる。これは生まれつきと
いうより、習慣によるものと考えてよい。つまり賢い子ども、よく考える子どもをつくる
のは、親の育て方の問題ということになる。

 ともかくも、子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの見方 考え方 子供の見方 考え方 賢い子供 子供の目つき)


++++++++++++++++
●考える子ども(中日新聞掲載済み)
++++++++++++++++

人間は考えるアシ

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すという
のは、別のことである。たとえば、こんな会話。

 A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「いいね」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出してい
るにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいというこ
とにはならない。算数ができるということにもならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には
考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話
をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言
ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まち
がいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、
間違っているとかいう判断は、それをすること自体、間違っている。こんなことがあった。
ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声
をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。

その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚
な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つ
まりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだ
とは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。
かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
考える 思考と情報 思慮 子供の思慮 子供の思考力)

+++++++++++++
●叱るテーマはひとつ
+++++++++++++

 子どもを叱るときは、おとなの目線を子どもの目線の位置までさげる。具体的には、お
となのほうが、腰を落として、子どもの身長の高さにまで、身をかがめる。子どもの両肩
をしっかりとつかみ、子どもの目をしっかりとにらみながら、言うべきことを言う。おど
したり、威圧してはいけない。子どもに恐怖心をもたせてはいけない。子ども自身に、考
えるようにし向ける。

 そしてそのとき、叱るテーマはいつもひとつ。あれこれ、同時に叱ってはいけない。と
くに大切だと思うテーマだけを、ていねいに叱る。また過去の話を、あれこれもちださな
い。「いつになったら!」「あんたは、また同じことを!」と叱るのは、タブー。そして一
度叱ったら、あとはときを待つ。同じことを、クドクドといつまでも言うのもタブー。『親
子げんかは、一日で消す』という格言も、私が考えた。同じように、『叱ったことは、一日
で消せ』。

 ところで先日(〇二年一一月)、市内のS小学校で講演をしたあと、その学校の校長とこ
んなことが話題になった。何でもその少し前、テレビ番組の中で、ある評論家が、「子ども
を叱るときは、子どもの横から叱れ」と言ったというのだ。それについて、その校長は、「た
しかに威圧感をやわらげるという意味では、効果的かもしれませんが、しかし実際的では
ないですね」と。私も同意見だった。

子どもを叱るときは、しかも真剣に叱るときは、子どもの前にすわり、子どもの目をし
っかりと見つめながら叱る。これはもう常識。横から子どもの肩を抱きながら叱って、
それで本当に叱れるのだろうか。ときどき、こういう(どこか風変わりな子育て論)を
説く人が現れる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の叱り方 叱り方のコツ 叱る 子どもを叱る)

+++++++++++++++++++++
●子どもの叱り方(中日新聞掲載済み)
+++++++++++++++++++++

子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる
子どもの耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。
が、反省しているから、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱る
ほどには、効果はない。叱るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。『子どもの脳は耳か
ら遠い』と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる
(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えな
いため)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の
両手で固定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部
への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく
(4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、
(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめ
てあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は
公(おおやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。その
とき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめ
る。特に子どものやさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについ
ては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、
かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女
子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので
慎重にする。頭をほめすぎて子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらに
は頑張っている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえっ
て子どもから、やる気を奪ってしまう。

「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結果が悪く、子
どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの理
解を示してあげる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の叱り方 伸ばし方)


++++++++
●居なおり論
++++++++

 子育てをしていて、何かのカベにぶつかったら、その時点で居なおる。「こんなものだ」
「どうでもなれ」「勝手にしろ」と。

私はよく親に、「腹を決めなさい」と言うが、それもそのひとつ。たとえば子どもの夜尿
症にしても、親があれこれあせっている間は、なおらない。しかし親が、「オシッコをし
たければしろ。あと何年でもかまわない!」と宣言したとたん、不思議と、なおるもの。
そういうことは、子どもの世界では、よくある。

 居なおることにより、親はそこで親は、覚悟を決める。この覚悟が、一本のスジになる。
このスジが、親の迷いを吹き飛ばし、子育てをわかりやすいものにする。そしてそれが子
どもに、安心感を与える。この安心感が、子どもの心に風穴をあける。

……と、どこか、『風が吹けば、オケ屋がもうかる』のような話になったが、これは事実。
心理学の世界にも、フリップ・フロップ理論というのがある。判断がどっちつかずで、
フラフラしている(=フリップ・フロップ状態)ときというのは、心もたいへん不安定
になる。しかしどちらかへころんでしまえば、心は落ちつく。

 不登校……? 休みたければ、いくらでも休め!
 心の病気……? 何年かかっても、結構。私がなおしてやる!
 体や心に障害がある……? それがどうだというのだ!

 こうしてひとつずつ、居なおっていく。その居なおりのし方が、サバサバしていればし
ているほど、あなたも明るくなるが、子どもも明るくなる。その時点から、前に進むこと
ができる。要するに、問題があっても、それには抵抗しないこと。してもムダ。子育てに
は、居なおりはつきもの。それを覚えておくだけでも、あなたの心は、ずいぶんと軽くな
るはず。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
行き詰ったときの子育て論 育児論)


+++++++++++++++++
●たくましさは、緊急時をみる
++++++++++++++++++

 子どもが本当にたくましいかどうかを知るためには、緊急時をみればよい。緊急時に、
そのつど、臨機応変に、的確にこうどうできれば、その子どもは、たくましい子どもとみ
る。見かけや、外見で判断してはいけない。言葉のいさましさに、だまされてはいけない。
こんなことがあった。

 Y君(中二)は、体も大きく、親分的な感じがする子どもだった。大声で怒鳴ったり、
ときには友だちに暴力をふるうこともあった。そのY君たちを、キャンプに連れていった
ときのこと。私が別のところで夕食を料理していると、そのY君が、ワーッと泣きべそを
かいて、私のところへ飛んできた。異様な雰囲気だったので、「どうした!」と聞くと、「た
き火が一挙に燃えあがって、こわくなった」と。あわてて火を見にいくと、その火が近く
の雑草に燃え移るところだった。私はすかさず足で踏んで火を消したが、それにしても…
…? Y君のたくましさは、見かけだけだった。

 一方、こんな子どももいた。何かのことで母親が家をあけることになった。実家での急
用ができた。そこで母親は、年長児になったばかりのE君に、あれこれ家事を指示して、
家をあけた。母親はそのつど電話をしたというが、あとで母親はこう話してくれた。

 「いざとなれば、何でも子どもはしてくれるものですね。妹の世話はもちろん、料理も
炊事もしてくれました。戸じまりも、消灯も。寝るときは、妹を寝かしつけてくれました」
と。こういう子どもを、たくましい子どもという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
たくましい子供 たくましい子ども 緊急時の子ども)


+++++++++
●あせりは禁物
+++++++++

 子育てをしていて、(1)あせり、(2)イライラ、(3)子どもの遅れを強く感じたら、
親は手を引く。それは子どものためでもあるし、あなた自身のためでもある。今の状態を
つづければ、子どもは勉強嫌いに、そしてあなたはノイローゼになる。最悪のばあいは、
神経症から精神を病んで、うつ病になる。が、それだけではすまない。

親子関係は破壊され、家庭そのものもおかしくなる。では、どうするか? あなたはあ
なたで、子どもの勉強にはかまわず、子育て以外で、自分の生きがいを見つける。が、
それでも「勉強を……」ということなら、プロに任せたほうがよい。多少、お金を出し
ても、そのほうが、結局は安あがりになる。

 何が悪いかといって、親のあせりほど、悪いものはない。ホント! 原因はいろいろ考
えられる。子どもへの不信感、子どもへの愛情不足、生活の問題、学歴信仰、見栄、メン
ツ、世間体、自分自身の精神的欠陥や、情緒の未熟性、さらには将来への不安などなど。
そういうものが、こん然一体となって、親の心をゆがめる。そこでチェックテスト。あな
たはつぎの項目で、いくつが自分に当てはまるだろうか。

(1)子どもの横に座って、勉強を見ていると、イライラすることが多い。あるいはその
つど、子どもを叱ってしまう。
(2)近所の子どもと、何かにつけて比較してしまう。自分の子どもだけができが悪く、
また問題があるように見える。
(3)ほかの親たちと話をしていると、いつも不安になる。「子どもの将来はどうなるか」
と考えるだけで、夜も眠られないときがある。
(4)何かにつけて、自分の子どもには問題があるように見える。ささいな失敗であって
も、いつもおおげさに子どもを叱ってしまう。
(5)子どもが園(学校)に行っていても、子どものことが気になる。子どものことを考
えると、家にいても、気が晴れない。

 これらの項目で、3〜4個以上当てはまれば、あなたはまさにイライラママ(パパ)と
考えてよい。ある母親はこう言った。「買い物の帰りに、進学塾の光々としたライトを見た
だけで、カーッと頭に血がのぼるのがわかりました」と。もしそうなら、冒頭にも書いた
ように、子育てから手を引く。

 子育ては、本来、楽しいはず。それが楽しくない、楽しめないというのであれば、それ
は子どもの問題というより、あなた自身の問題と考える。ひょっとしたら、望まない結婚
であったとか、あるいは望まない子どもであったとか、あるいはあなた自身が、不幸にし
て、不幸な家庭で育てられたということがあるかもしれない。そういった部分まで、一度、
あなた自身を疑い、心の中までメスを入れてみる。

この問題は、一見、親と子どもの問題に見えるかもしれないが、根は深い。このことに
ついては、また別のところで考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
親の不安 親の情緒不安)


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●親とのつきあいは、如水淡交
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 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならとも
かくも、間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしま
うことが多い。数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたにな
ったケースもある。任期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向してい
く親や子どもは、もっと多い。

 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預か
ってもらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜
(かま)のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。しか
しこの方法も、ひとつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、
できるだけ身近でない人のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ
自体、問題がある。理由はいくつかある。

 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。と
くに日本では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、
親たちは、そうとらえている。こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を
蹴落としてでも……」という、利己主義的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、
清らかな世界」を求めるほうが、おかしい。そのため親密になることは悪いことではない
が、相手をまちがえると、とんでもないことになる。

 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 20前、30年前には、まだ気骨のあ
る教師がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教す
る教師もいた。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題
になっているうちに、先生自身が、自信をなくしてしまった。ある小学校(I郡I町)の
校長は、こう言った。「先生たちが萎縮してしまっています」と。

こういう状態をつくったのは、結局は、親自身ということになる。つまり園や学校の先
生が、それなりに(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を責めることもで
きない。私にしても、一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。が、今
は、むしろ同情する側に回っている。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が
抜ける場所です」と、こっそりと話してくれた教師(女性)もいた。しかしそれとて、
教育はもちろん、しつけから、道徳、さらには家庭問題まで、私たち親が先生に押しつ
けているからにほかならない。

 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいに
しておく。これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。

(1)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、
決して個人的な問題や、相談はしない。
(2)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づ
ちもタブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子
どもにも言ってはならない。
(3)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の
子どもの名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。
(4)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。
そういう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。
(5)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親
にからまれると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。
(6)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは
遠ざかる。見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態
度で臨む。できれば、どこか「穴」にこもるとよい。
(7)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問
題は、へたに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってし
まう。それだけは、何としても避ける。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
父母間の交際 父母どうしのつきあい 父母の交際)


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●表情は豊かに
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表情のない子どもがふえている。大阪市内で幼稚園を経営するS氏が、こう話してくれ
た。「今、幼稚園児で、表情のない子どもや、乏しい子どもが、約二割はいる」と。

少し前に書いた原稿を掲載する。

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スキンシップ
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 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行く
と、吹っ飛んでしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、
夫婦でも、いつもベタベタしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタ
ベタしている。あのアメリカのブッシュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いて
いる。

 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱
きぐせがつくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心について
は、もっと別の角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存
心がつく」とか、「抱きぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうこ
とを言う人もいるが、まったく根拠がない。)

仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく平
均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップにしかならない
だろう。この日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシッ
プと溺愛は分けて考えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをとも
なう。それがスキンシップへの誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親
である、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やお
んぶをあまりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。
(泣かない赤ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳
児を対象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモン
の量が減ったという。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんに
さまざまな異変が起きることも推察できる、とも。

先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要
だが、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人
程度の割合で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病
院・堀内たけし氏)そうだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!

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 一般論として、豊かな親の愛情に包まれて育った子どもは、表情が豊かで、すなお。「す
なお」というのは、心の状態と、表情が一致していることをいう。うれいしいときには、
うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。しかし心がゆがんでくる
と、それが一致しなくなる。すねたり、ひねくれたり、いじけたりする、など。さらに症
状が進むと、心と表情が遊離し始める。うれしいはずなのに、無表情だったり、怒ってい
るはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。

 その子どもが心を開いているかどうかは、抱いてみるとわかる。心を開いている子ども
は、抱くと、スーッと体をすり寄せてくる。しばらく抱いていると、自分の体と一体化し、
さらに呼吸のリズムまで同じになる。また親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、
その親切や、やさしさが、子どもの心の中に、そのまましみこんでいくのがわかる。本来、
子どもというのは、そうでなければならない……という前提で、考える。もしそうでない
というなら、……。いろいろな問題が考えられる。

 さて、あなたの子どもは、どうか? 園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただ
いま!」と言って、うれしそうな顔をするだろうか。もしそうなら、それだけでも、あな
たの子どもは、すばらしい子どもということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの表情 子供の表情 表情のない子ども 表情の乏しい子供 表情の豊かな子供 
表情の豊かな子ども)


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●「何とかしてくれ」言葉
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 日本語の特徴なのか? 日本人は、おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言わない。
「おなかがすいたア〜、(だから何とかしろ)」というような言い方をする。

幼児「先生、オシッコ!」
私 「オシッコがどうしたの?」
幼児「オシッコがしたい」
私 「ふうん、だったら、そこでしたら?」
幼児「ここでは、いやだ」
私 「どこでしたいの?」
幼児「トイレへ行きたい!」
私 「だったら、最初からそう言おうね」と。

 ほかにもいろいろ、ある。「のどがかわいたア〜」「足が痛いイ〜」など。幼児や子ども
だけではない。私の叔母だが、電話で話すたびに、いつもこう言っていた。「オバチャンも、
年をとったからね……」と。つまり「年をとったから、何とかしろ」と。

 こうした言葉が生まれる背景には、日本人独特の、依存型社会がある。「甘え」という言
葉を使って表現する人もいる。つまりたがいに、ベタベタと依存することにより、支えあ
っている。またそれを美徳と考えている。その一つの例として、たとえば今でも、子ども
に向かって、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる親はいくらでもいる。それに
対して、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言う子どもは、これまたい
くらでもいる。ともに自立できない、つまりは依存型親子ということになる。

 たがいに依存型世界に生きる人どうしにとっては、その社会は、それなりに居心地がよ
い。ものごとが、ナーナーで動く。が、若い世代を中心に、「それではいけない」と言う人
もふえてきた。そうなると、そこで世代間の対立が生まれる。この対立が、親子関係、さ
らには家族をぎくしゃくしたものにする。今、この問題は、日本中の、あらゆる場所で、
またほとんどの家庭で起きつつあるといってもよい。

 英語国では、親子でも、「お前は、パパに何をしてほしい」「パパは、ぼくに何をしてほ
しい」とたがいに聞きあっている。これからの日本で求められるのは、こうしたわかりや
すさではないのか。だから……。子どもがここでいう「何とかしてくれ」言葉を口にした
ら、「それがどうなの?」と言って、それをたしなめる。これは子どもを自立させる、そし
て親自身も自立する、第一歩と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの依存性 子供の依存性 依存型社会 甘えの問題 親の恩着せ 何とかしてくれ
言葉)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【思春期の子ども】

●娘の外泊

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かわいかった子どもも、思春期を迎えると、
人が変わったかのように、大きく、その心がゆらぐ。

フロイロの自我構造理論によれば、その内的エネルギー、
つまり「イド」が、活発化する。

イドは、元来、欲望のかたまりで、無秩序。無節制。
快楽原理にみによって、その人を、裏から操る。

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 娘(中3)の外泊に苦しんでいた母親がいた。叱れば叱るほど、逆効果。ますます堂々
と外泊をするようになった。親子の間の会話も消えた。そういう娘をもった母親から、久
しぶりに、掲示板(相談コーナー)に書き込みがあった。

 それをそのまま紹介する。

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【MFさんより、はやし浩司へ】

こんにちは。あれから林先生のアドバイスどおり、「そうだ、(ボーイフレンドという)、娘には
私以外にも心配してくれる人がいるんだ。私が一人で、やきもきしなくていいんだ。先生の言う
とおりしばらく娘のことは、忘れよう」と思いました。

そこで私は、今までしたかったガーデニング、アロマセラピーを始めました。これが楽しいで
す。
ガーデニングをしながら、まいた種がいつ芽を出すか毎日毎日、観察をして芽が出た時は、と

も嬉しかったです。

娘が生まれた時のことを思い出したりしました。

で、その娘は、5月2日に、泣きながら帰ってきました。理由を聞くと、A君(ボーイフレン
ド)が、「おまえが帰ったら死ぬ」と言って、帰してしてくれなかったということでした。

私は、娘の話を聞き背中をなでてあげました。

その日の夕方に、娘はAと話し合いに行くと言ってまたでかけ、次の日の朝、帰って来ました。

娘は、「A君の誕生日の5月20日が終わったら、毎日この家で暮らすから、それまで、A君の
家と自分の家を、行ったり来たりするから。」と言いました。

主人と私は、「そうなんだ。そうしたいんだ。」と思い、了解の返事をしました。

娘は、明るくたくさんの話をしてくれるようになりました。

娘が小6の時、次男が誕生したのですが、その時のことを、
「今は、なんとも思ってないけど、Kちゃんが生まれてから、私がもらうパパとママの愛情が、
Kちゃんにいってしまってとてもいやだった。許せなかった。」と、話してくました。

私は、「あなたは、そう思ってたんだ。これからは、たくさんの愛情をあなたに注がなくちゃね。」
と。

娘は、笑っていました。

娘は、いつ私が娘のことを受け入れてくれるのか、それを待っていたような気がします。

林先生もよく言っていますが、私も娘に育てられてるんだなーと、そのとき、実感しました。娘
はこの家にいると、生きていけないと感じたらしく、何もかもいやになって、家を出たようです。
娘は、体を張って私たちに訴えてくれたことを、今になってみれば、感謝しています。

娘を信じて一人で立ち上がるまで、何年かかっても見守っていきます。

今は、私の頭の上にあった雲が、なくなったような感じです。

本当にありがとうございました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性的エネルギー論

+++++++++++++++++

自分の中に潜む、
生きる力。
その原動力は、性的エネルギーであると、
あのフロイトは、説いた。

それが正しいかどうかは、知らないが、
しかしその性的エネルギーには、
ものすごいものが、ある。

あなたは、その性的エネルギーを、
うまくコントロールできるか?

+++++++++++++++++

●先生の先生が(?)

 つい先日、このS県で、教育委員会の指導主事が、ハレンチ事件を起こして、警察に逮
捕されるという事件が起きた。携帯電話で知りあった女子と、ホテルで、(いかがわしい行
為)(新聞報道)をしたという。

 そういう事件があると、マスコミや世間は、まるで鬼の首でも取ったかのように、騒ぐ。
はしゃぐ。そして非難する。「先生の先生が、そんなことをするなんて!」(C新聞記事)
と。つまり理性や、自己管理能力がふつうの人以上にあるはずの人が、そういうことをす
るということは、信じられない、と。

 しかし本当に、そう言い切ってよいのだろうか。そういう視点だけで、こうした事件を
考えてよいのだろうか。

 もちろん、中学生という子どもを相手に、そういう行為をすることは許されない。しか
しこの事件を、(人間)という視点で考えるなら、人間が原罪としてもつ欲望の力は、それ
ほどまでに強力、ということにもなる。

 もっと言えば、人間が、原罪的にもつ欲望の力は、理性によるコントロールの範囲を超
えている。そうした力を、あのフロイトは、自我構造理論の中で、「イド」という言葉を使
って説明した。

●性的エネルギー

 イドというのは、性的エネルギーのかたまりと考えるとわかりやすい。快楽原理のみに
従い、無秩序、無節制に、その人の心を裏から操る。

 そのイドをコントロールするのが、「自我」ということになる。「私は私」という意識で
ある。この「私は私」という意識が、イドを抑え込む働きをする。言うなれば、自分の中
に潜む、ジャジャ馬、もっと言えば、邪悪な悪魔を飼いならす力ということになる。

 しかしそれは容易なことではない。子どもについていうなら、思春期というその年齢ま
でに、自我をそこまで確立させるということ自体、容易なことではない。むしろ現実は、
逆で、多くの親たちは、子育てをしながら、その自我を平気で破壊するようなことをして
いる。

 子どもの中に、「私は私」という意識を育てようとしない。そればかりか、それを破壊し
ながら、破壊しているという意識すらない。「そら、ピアンのレッスンだ」「そら、英語の
レッスンだ」と。子ども自身が、自分で何をしたいのか、何をすべきなのかを、知る前に、
親が、親がもつ価値観を子どもの前に、ぶらさげてしまう。(もちろん、MFさんが、そう
であったと言っているのではない。誤解のないように!)

 中には、子どものほしがるものを、先に、先に……と与えてしまう親がいる。たとえば
新しいテレビゲームが、発売になったりすると、それを買い求めるために、祖父母が並ぶ。
親が並ぶ。「孫の喜ぶ顔が見たいから」「子どもが喜ぶ顔が見たいから」と。

 こうして多くの子どもたちは、欲望のウズの中で、夢や希望が何であるかもわからない
まま、したがって目標をもつこともなく、思春期を迎える。この時期、イドは肥大化し、
活性化する。そのイドがもつエネルギーというか、パワーは、相当強力なものである。い
かに強力なものであることは、すでに、みなさん、ご存知のとおり。

 ハレンチ事件を起こした、教育委員会の指導主事のような例は、まさに氷山の一角。つ
まりこの事件を裏から読むと、「指導主事ですらそうなのだから、いわんや思春期の子ども
たちをや……」ということになる。

●距離感

 では、「私は私」とは、何かということになる。

 それは距離感をいう。

 たとえばだれしも、たった数時間で、億万長者になれるとしたら、その話に興味をもつ
だろう。方法としては、銀行強盗がある。現金輸送車の襲撃がある。しかし、そういうこ
とをしてみたいという(思い)と、実際の(行動)との間には、(距離)がある。

 この距離感の短い人を、自己管理能力の弱い人という。この距離感の長い人を、自己管
理能力の強い人という。

 「私は私」という自我の確立の進んでいる子どもは、その距離感が長い。心の中で、そ
う思ったとしても、それを実行に移すには、かなりのエネルギーを消費しなければならな
い。そのエネルギーを感じて、その一歩手前で、心にブレーキをかける。たじろいで、そ
の先へ進むのをやめてしまう。

 が、その距離感の短い子どもは、それをそのまま、アクセルを踏んでしまう。行動に移
してしまう。

●やがてあなたの子どもも……

 幼児をもつ母親や父親たちは、みな、穏やかな顔をしている。そして中学生や高校生の
非行問題を見聞きしたりすると、「うちの子にかぎって……」とか、「うちの子は、だいじ
ょうぶ」と思う。

 それもそのはず。この時期の子どもたちは、天真爛漫(らんまん)、まさに天使のような
表情をしている。親の指示にも、すなおに従う。悪とは無縁の世界に住んでいるかのよう
にも、見える。

 しかしそれがその子どもも、やがて大きく変化する。今の子どもの様子を、5年後、1
0年後の姿と思ってはいけない。とくに思春期になると、子どもは、一変する。ここに書
いたように、イドの力が活性化する。個人差もあるのだろうが、それは、ものすごいパワ
ーと考えてよい。

 そのパワーが、やがてすぐ、子どもの心を裏から、あやつるようになる。で、そのとき、
そのパワーが、適切に発散されれば、それでよし。そうでなければ、その子どもの心、そ
のものを、大きくゆがめる。

 もちろん、関心内容も、行動内容も、大きく変化してくる。総じてみれば、子どもの非
行の原動力となっているのも、このイドを考えてよい。(ただしフロイトは、そう説いたが、
それにつづくユングは、「性的エネルギー」ではなく、「生的エネルギー」と説いた。生き
る力こそが、その源泉にあると説いた。念のため。)

●では、どうすればよいのか? 

 こうした変化、つまり思春期というのは、どの子どもも経験するものであり、その変化
のし方は、まさに千差万別。ひとつとて、定型はない。

 あなたがそうであったからといって、あなたの子どももそうであると考えるのは、まち
がい。あるいは先にも書いたように、「うちの子はだいじょうぶ」と、高をくくるのも、ま
ちがい。

 あなたの子どもは、あなたの子どもとして、思春期を向かえ、変化していく。で、その
とき、ポイントは、2つある。

 ひとつは、それまでに、どうやって子どもの中に、自我を確立させていくかということ。
そしてもうひとつは、イド(性的エネルギー)は避けられないものだとするなら、そのイ
ドを、どうやって適切に発散させていくかということ。

 方法、つまり各論については、すでにあちこちで私が書いてきたとおりだが、自我の確
立については、子どもの中に、夢や希望を育てることで対処する。目的がしっかりと定ま
れば、先に書いた、(距離感)が生まれる。この距離感が、子どもをして、より自己管理能
力の高い子どもにする。

 また「適切に発散させる」ということは、子どもの存在感を、何らかの形で用意すると
いうことになる。そのために、私は、「一芸論」を説いてきた。「これこそ私」という一芸
を、子どもにもたせる。

 その一芸が、性的エネルギーを、発散する場所として機能するようになる。

 これらの原稿については、以前、書いたものを、このあとに添付しておく。

【はやし浩司より、MFさんへ】

 今の対処のし方で、正解です。

 こうした問題は、「今以上に、悪くしないことだけを考えながら、子どもの様子を、数か
月単位でみる」が、大原則です。

 無理をすれば、子どもは、さらに、二番底、三番底へと落ちていきます。

 このことに気づいた今、MFさんには、もう迷いはないはず。5年後、10年後には、
笑い話になりますから、今のまま、進んでください。いつかあなたは、娘さんにこう言う
のです。

 「あなたも、あのころ、ずいぶんとお母さんに、心配をかけたわね」と。

 すると娘さんは、こう言います。「そうね、ごめんなさい」と。

 今のMFさんには、わからないかもしれませんが、(また、それを奨励するわけではあり
ませんが)、こうした非行(?)を経験した子どもほど、あとあと常識豊かで、世間の道理
がよくわかる子どもになります。

 それを信じて、どうか、この時期を乗り切ってみてください。方法は簡単。川の流れに
乗って、川を下るように、時の流れに、静かに身を任せばよいのです。あとは、時間が、
この問題を解決してくれますよ。

 では……。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●三種の神器

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして
老人だって、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きてい
る。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生
きていかれないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目
的になることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希
望や目的になることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、
消えたように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどっ
てくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉
(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)
という名言を残している。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウ
が、そう書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

(補足)子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」
と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ど
も学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、そ
れを伸ばすのは、親の義務と、心得る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの一芸論

 Sさん(中1)もT君(小3)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、
T君は、スケートで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつま
ずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……と
いうだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支え
る。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなっ
てしまった。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、
10年後。ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほう
が先生より、お金を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失
敗する。Eさん(2歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。
そこで母親が、「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさ
んは水泳ですぐれた才能を見せ、中学2年のときには、全国大会に出場するまでに成長し
た。S君(年長児)もそうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これ
は何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげ
ることを勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学
三年生のころには、ベーシック言語を、中学1年生のころには、C言語をマスターする
までになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをや
めさせる」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成
績は、もっとさがる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいと
か、カードをたくさん集めているというのは、一芸ではない。ここでいう一芸というのは、
集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。「創造的なもの」というのは、
努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかけ
る。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関
しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは
絶対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、
五歳ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするか
を静かに観察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらし
い才能が隠されていることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つで
ある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思春期の子どもの心理 子供の思春期 思春期の子供 子供の心理)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

ついでに、子どもの中に、「私は私」という
意識を育てるためには、子どもを自由にする。

「自由」とは、もともと、「自らに由(よ)る」と
いう意味である。

それについて書いたのが、つぎに原稿です。

どうか、参考にしてください。

++++++++++++++++++++

子育て自由論(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++ 

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分
こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分
のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親
は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あ
なたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のも
とだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室
育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひ
き起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言
って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、
ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 今回は、お休みします。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 16日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ある青年の苦悩(2)

++++++++++++++++++

私のHPの掲示板で、ある男性と
2度ほど、やり取りをした。

20歳の男性である。

その男性は、今、自分とは何かを、
懸命に模索している。

++++++++++++++++++

【20歳男性より、林へ……】

>愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまう

たしかに、そう思います。(そもそも、自分に缶を投げたり、殴りかかってきたのは)、見
ず知らずの人間でした。もし自分が中年の男性だったら、分かりません。そういうことを
しなかったかもしれません。が、自分は、童顔で高校生に見えて、そのため、対抗意識を
持たれたのでしょう。)そんな人間の事をいつまでも恨んでいても、こちらの時間が消えて
いくだけです。

しばらくその現場には、近づかないようにするなどのことはしなければなりませんが…。
今、自分はそう言う人間の事を考えている場合でもありませんし、余裕ができても、関り
たい相手とも思えません

前の投稿では書ききれませんでしたが、自分は高校を2年で辞め、現在20歳です。それ
までのずっと学校に、朝から晩まで、通いづめの生活に疲れて、何もしなくなってしまっ
たのです。ただ家に帰って、寝るだけの生活でした。

高校での勉強は、中学と変わらない内容です。そういった勉強に、3年も使う事に、馬鹿
馬鹿しさと言うか、「なんでまた3年同じ事をやって無駄にしなければいけないんだ…」と
思い、疲れました。

女性とつき合いを持とうと考えても、校則で規制されている事が、凄く嫌な気になったり
しました。(異性交遊の校則など、守らなくてもどうという事は無かった程度の校則ですし、
そのほうが健全、というか、健康でいられると思います。付き合いをしている人も居まし
た。)

職員からは気軽に頭を叩かれもするし、生徒と言うのは叩かれやすいよう、頭を少し前に
傾ける事が習慣になっています。そんな所を見られたくは無いなと思い、誰かとつき合い
を持つなど、できませんでした

今でも、小学校から高校までの生活が、良い勉強になったとは、どうしても思えません。

正直に書けば、自分の知っている学校と言うのは、大した事をやっていませんし、今まで
の人生を思い出した時に、「この少ない量の勉強に、人生の大半が、十数年も時間が使われ
てきたんだな」「えっ?これだけに今までの人生を取られてたの!?」「で、何だったのだ
ろう」と思い、どうしても空しくなります。もちろん、人と遊んでいる時はありましたし、
楽しかったのですが。

自分にとって結果的には、途中で、何年間も何もしない時期が続いたのは、これから先、
何かの原動力になると思います。乱暴ですが一度自分でぶち壊して、何かが必要だという
時期が訪れるまで待ちたかったのです。

あのまま大学に行っていれば、まだ高校に行っていたその頃のままの、どこか惨めな自分
が続いただろうと思います。働いていたとしても、いつも止めたい止めたいと思ったまま、
何かをしていたはずです

高校を辞めてからは、ワザと家の窓を割り、それによって「自分の空間」を得ました。わ
がままを押し通す事によって、この年齢でようやく親が部屋に入らなくなったのです。ノ
ブも鍵付に変えました。今までの自分の家なら、鍵付に変えるといっても、一笑に付され
て終わっていたでしょう。

もう、何もしないで過ごそうか、とも思っていましたが、何時までも親だけが稼いでいる
ような状態では、やがて路頭に迷う事になります。

高校を辞め、大学も行かず、働きもせずに、誰とも口を利かない生活が続くうち、一日中
頭の中に怒りが満ち、痛みのようなものが続くようになり、自分は知能が低下してるんじ
ゃないだろうかと不安になりました。頭が変になりそうになりながら、部屋に居ながら、
知らない道で迷ったような感覚に陥り、急に誰かと話をしたくなったりしました。

結局、今までの人生で誰が頼れるか、誰となら居ても良いか、許せるのか。そしてこちら
を許してくれるのかということになると、やはり、親でした

親にも自分の考えている事を話し、以前よりも自然に居られるようになった気がします。
自分は彼らにはもうどうとも思われていないんだろうな、と思いながら話したのですが、
両親は自分をまだ好いてくれていました。


家に彼ら親が居るから、何かをする気になります。これから資格でも取って大学に行こう
かと思いますが、やれると思います。

うまくは書けませんが、「必要になったから、納得できる。やりたくなった」と思います

返信してくれた事、ヒトシ君の話をしてくれた事、(自分が中2の時はとてもそんな事は言
えない人間した)、つぎの言葉を、送ってくれたこと、ありがとうございました

>「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブ
ンソンは、こう書き残しています。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい
言葉ですね。今のあなたにあげたい言葉です。

 どうか、がんばってください!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 この青年は、(恐らく)、親に言われるまま、つまり自分というよりは、親に先導される
まま、小学校、中学校へと進み、そして高校へ入った。

 しかしある日、ハタと自分に気がついた。「自分は何か?」「何をしているのだろう?」
と。

 その疑問が、彼の行く手をふさぎ、ついでその青年を、混乱させた。心理学で言えば、
役割混乱に近い状態になった。

 こウシタケースは、ケースとしては、少なくない。現在、何割かの中学生や高校生がそ
うではないかと思えるほど、多い。夢や希望がないから、当然、目標もない。目標もない
から……というより、目標をもてないから、悩む。苦しむ。

 よく誤解されるが、「よい高校へ入る」「よい大学へ入る」というのは、子どもにとって
は、目標とは、なりえない。それを目標と思っているのは、親だけである。「入ったからど
うなのか」という部分が、どこにも、ないからである。

 この書き込みを読んで、いくつか気になることがある。その青年は、こう書いている。「こ
の年齢でようやく親が部屋に入らなくなったのです」「ノブも鍵付に変えました。今までの
自分の家なら、鍵付に変えるといっても、一笑に付されて終わっていたでしょう」と。

 ということは、それまでは、親は、自由に、その青年の部屋へ出入りしていたことにな
る。

 そこでその青年は、「ワザと家の窓を割った」ということになる。これだけではよくわか
らないところもあるが、その青年なりに、そうしたやり方で、両親に、抵抗したことにな
る。その時期は、その青年が、高校を中退した時期と重なる。壮絶とまでは言えないかも
しれないが、かなりはげしい家庭内騒動があったことは、容易に察しがつく。

 つまりこうしてその青年は、自我の混乱から、自我の確立へと、自ら、足を一歩、踏み
出した。抑圧への反発は、たとえば、校則への反抗にも、見られる。「女性とつき合いを持
とうと考えても、校則で規制されている事が、凄く嫌な気になったりしました」と書いて
いるのが、それである。

 しかしその青年は、かろうじてというか、最後の最後のところで、自らの足で、ふんば
っている。もしこの段階で、親がその青年を見放すようなことがあれば、その青年は、そ
のまま奈落の底へと落ちていったであろう。

 しかし両親も、耐えた。その青年は、短い言葉だが、「両親は自分をまだ好いてくれてい
ました」と、すなおな気持ちで、そう書いている。そしてそれが、今、希望の光となって、
彼の進むべき道を照らしている。

 「資格をとって、大学を受験し……」と。

 こうした一連の流れをみると、すでにその青年は、苦しかったトンネルを抜けつつある
のがわかる。まだ完全に抜けたわけではないが、あとは、時間の問題。「立ちなおる」とい
う言い方は適切ではないかもしれないが、やがて立ちなおる。すでにそのコースに入って
いる。

 あえて言うなら、こういう青年のほうが、のちのち、常識豊かで、かつ、心豊かな人間
になる。今のその青年には、それがわからないかもしれない。しかしいつか、たとえば、
その青年が、40代、50代になったとき、それがわかるはず。

 むしろ何も考えず、何も迷わず、スイスイと受験勉強を勝ち抜いてきたような子どもほ
ど、どこかおかしな人間になる。いびつな人間になる。だれしも、道に迷うのはいやなこ
とだが、しかし、その迷いが、その人間を育てる。

 以前、尾崎豊の『卒業』について、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをこ
こに添付する。

【林より、20歳男性さんへ】

 今、貴君がしている経験は、決して無駄にはなりません。やがて貴君の人生の中で、燦
然(さんぜん)と輝くことでしょう。

 それが青春です。わかりますか? それが青春です! 私もタイプは、少しちがいます
が、今の貴君と同じように、もがきました。本当に苦しみました。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』
の中でこう歌った。

「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」
と。

「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコー
スがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾
崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。し
かし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことす
ら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、
そこそこの夢をかなえることができる。

大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後
街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パ
ツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張
しているだけだ。

それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなん
てできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」で
もあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が2億円もあるようなニュースキャス
ターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。

いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難
民への寄金を訴える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そ
こで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方
法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、
打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで200万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、200万枚を超
えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中
に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の
教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、
中学生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の
中学生(中二女子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」
と聞くと、「どうせ実現しないから」と。もう一人の中学生(中二男子)は、「それより
もお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今ここに一億円があったとする。それ
が君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。

ほかに五人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将
来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少
年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えた
のが、41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリ
トルロック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2
001年4月)。タクシーにはメーターはついていなかった。

料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転してくれたのは、いつも運転
手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれない
が、一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦
しいだけならまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そう
いう超管理社会に対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日
新聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、
11人の人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまと
めると、次のようであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締
まってほしい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛
情をもって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(1
6歳女子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)


●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。

 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められると
きは、その児童に出席停止を命ずることができる。
一、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、施設または設備を損壊する行為。
四、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつあるとみてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
青年期の苦悩 悩み 青年の心理)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)
占星術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それが
ある。興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、
神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやす
く言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら
万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体と
して連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て
誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、
男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例
がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とす
るのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イス
ラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書い
たように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術
では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判
断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体
占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の
動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物
という単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考え
てみればよい。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、
清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわ
けではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二
次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れてい
ない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎな
い。サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、10
0光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、も
っと、変わる。星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術
イコール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八
丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。
しかしこれだけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きる
ことを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するよ
うなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、そ
れぞれの人の勝手。私の知ったことではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
占星術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)


【追記】

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占
星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが
一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性
がある。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つま
り、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味を
なくす。たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算
盤を見つめながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、
ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性によ
る。意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたい
して、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということに
なる。笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっ
ぱに言えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的な
パワーを盲信するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということにな
る。

 もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によ
っても、ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、
絶対的な存在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭で
は、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいる
から、宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給の
バランス関係によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。ど
こかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかっ
た。ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本で
も、中国でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、
私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、
日本人は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それに
ついて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、
私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発
展した。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、も
っともらしい(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うま
く答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のス
キマを埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見
ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」
そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星
術、全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔
を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、そ
れは疑わしい。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、
占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が
高い。あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的
宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その
勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、
わかったものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその
信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(か
っぽ)している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、
いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
占星術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●おなら

 裏の勝手口のドアが、閉まるとき、「プ〜〜〜〜〜、プ〜〜〜〜、プププッ」と、おかし
な音を出すようになった。それが、人間が出す、おならの音、そっくり!

 先日、三男がやってきたとき、ワイフが、「閉まるのが速すぎる」と言ったらしい。それ
で三男が気をきかして、それをなおしてくれた。

 私はその音に合わせて、ワイフのほうに向かって、お尻を向ける。少し力んだ様子をし
て見せる。「ほら、おならだア〜」と。

 もう何度もそれをしているが、そのたびに、ワイフはゲラゲラと笑う。「あなたのおなら
に、そっくり!」と。

 自分でも、そう思っている。


●ジーパン

 ジーパンをはくようになってから、他人のジーパンが、やたらと気になるようになった。
で、気がついたが、今では、男も女も、3分の1から、ときには、半数近い人たちが、ジ
ーパンをはいているのがわかった。

 老若男女の区別はない。70代、80代の人もはいている。

 ジーパンによいところ。それはまず、たれた尻が、わかりにくくなるということ。これ
には驚いた。だれの尻がそうであるかということは、ここには書けないが、ともかくも、
そういうこと。

 ジーパンが、お尻を、上にもちあげるためである。

 それに、ジーパンをはくと、足が長く見える。先日も、近くのショッピングセンターで、
ワイフとこんな会話をした。

私「みんな、足が長く見えるね」
ワ「ジーパンをはくと、長く見えるのよ」
私「でもさア、女性なんか、あんなふうに、大唇陰にまで食いこむようなはき方をして、
痛くないのかねエ?」
ワ「男だって、そういうふうにはけばいいでしょ」
私「男は、できないよ。睾丸が割れてしまうよ、きっと」と。

 
●UFO

 今度、イギリス政府が、正式に(?)、UFOの存在を否定した。バカめ!

 「ある」という証明ができないからといって、否定するというのは、おかしい。論理的
ではない。正確には、「存在が証明されなかった」と言うべきである。

 前にも書いたが、私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃している。「く」の字型の
UFOで、ハバが1〜2キロもあった。目撃したというだけで、証拠はない。

 しかし証拠がないという理由だけで、私たちがあの夜見たものを、否定してもらっては
困る。見たものは、見た。「頭がおかしい」と言われようが、何と言われようが、見たもの
は見た。

 「君は教育者を名乗っているのだから、そういうことは口にしないほうがいい」と言っ
てきた人もいた。しかし、繰りかえすが、見たものは、見た。

 あれだけの乗り物(?)を作る生物である。そう簡単に、証拠など、残すかア!


●魯迅(ろじん)

 突然、かたい話になるが、先ほどまで、魯迅(1881〜1936)の書いた、『阿Q正
伝』という本を読んでいた。前にも読んだことがあるので、ざらざらと、拾い読みしただ
け。

 その魯迅は、ペンネームで、本名は、「周樹人」といった。その名前だが、私は、若いこ
ろ、カルト批判などの、きわどい内容の本については、「周人」というペンネームを使って
いた。

 「周」という漢字が好きだった。それで長男の名前にも、その漢字を使った。それ以上
に魯迅を意識したわけではないが、「周樹人」の、「樹」は、どこか、「林」に通ずる。「林
浩司」の「林」である。

 で、『阿Q正伝』は、実は、中国社会を、痛烈に批判していたことが、この年齢になって
はじめて、わかった。当時は、ただの小説と思っていたが、阿Q(乞食)が、中国そのも
のを象徴していたことがわかった。

 阿Qは、ときどき仕事をしては、その日の日銭を稼ぐ。そしてその稼いだお金で、居酒
屋で酒を飲む。それで一日を終える。

 が、辛亥革命(1911)が起こると、どういうわけか、阿Qは、革命のヒーローに祭
りあげられてしまう。もともとたいした思想など、もってない。そのため革命が終わると、
今度は、捕らえられ、最後は、処刑されてしまう。

 まあ、あえて言うなら、阿Qは、東洋版セルバンテスの男ということか。

 読んでいて、何だか、阿Qが、自分自身に思えてきた。


●楽天日記

 毎日、日記形式で、「楽天日記」というコーナーで、エッセーを書いている。思いつくま
ま書いているので、文章はへたくそ。自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこのところ、毎日、200〜300人もの人たちが、それを読んでくれるように
なった。(正確には、アクセス数が、200〜300件ということ。4回、同じ人が訪れた
ときには、アクセス数は、4件ということになる。だからアクセス数イコール、訪問者の
数ということではない。)

 が、アクセス数が、400〜500件になると、上位にランクされるようになる。だか
ら、200〜300件という数字は、たいへんな数字と言ってよい。

 とたん、やる気が出てきた。もっとも読んでくれる人イコール、私の意見への賛同者と
いうわけではない。中には、「こんなこと書いて!」と怒っている人もいるはず。それもよ
くわかっている。

 で、私のばあい、まずこうして楽天日記のほうで、エッセーを発表し、読んでくれる人
の反応を見ながら、それをマガジン用原稿に書きなおしている。そのとき、内容を補足し
たり、内容に注釈を加えることもある。

そんなわけで、内容的には、楽天日記も、マガジンも、ほとんど同じだが、言うなれば、
楽天日記に発表しているエッセーは、荒削りの文章。マガジンに発表している文章は、
推敲(すいこう)済みの文章ということになる。

 本当に読んでほしいのは、マガジンのほう。もしみなさんの中で、「マガジンを読んでよ
い」と思ってくれる人がいるなら、どうか、マガジンの購読を、申しこんでほしい。購読
は、無料です!

【今夜のこと】

 今夜は、仕事から帰ってきて、夕食。そのあと、そのままコタツの中で眠ってしまった。
おかげで、今、こうして眠られない夜を迎えている。時刻は午前0時30分。少し目が、
ショボショボしてきたようだ……。

 では、みなさん、おやすみなさい。言い忘れたが、今日は、6月14日(水曜日)。……
になったところ。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●復古主義の台頭

++++++++++++++++++

最近、気になるのが、復古主義。

混沌(こんとん)とした世相を背景に、
もう一度、過去に復帰しようという動きである。

武士道復活論は言うにおよばず、
その分野の書籍が、書店の店頭に、
ズラリと並んでいる。

中には、100万部単位で売れている
本もある。

++++++++++++++++++

 復古主義ほど、誘惑的な響きをもつ言葉はない。それ自体が、歴史の中で、妥当性を、
裏書されている。新しいことに挑戦するよりは、過去を踏襲したほうが、安全。無事。そ
れに何も、考えなくてもよい。

 そこで復古主義を唱える人たちは、「伝統」という言葉を高くかかげる。それをかかげて、
「控えおろう」と、私たちに容赦なく迫ってくる。理由など、必要ない。「過去において、
そうだったから」というだけで、自ら、それを正当化してしまう。

 が、ここでひとつ、大きなまちがいを犯す。

 その第一は、過去を全体として見ないこと。もっと言えば、自分たちにとって都合の悪
い部分については、目を閉じる。そしてその(よい点)だけにスポットをあて、拡大視す
る。この手法は、よく、カルト教団が、信者をだますために使う手法に、似ている。

 たとえば武士道にしても、それ自体がもっていた陰の部分は、あえて見ようとしない。
封建時代において、いかに庶民が、その武士道とやらに苦しめられたか、もっと言えば、
刀を振りまわす連中が、いかに恐ろしい存在であったかということについては、あえて触
れようとしない。

 そういう陰の部分を見ようとしない。

 その武士道について以前、書いたのが、つぎの原稿である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●武士道とは

 武士道を信奉する人たちのバイブルとなっているのが、新渡戸稲造が書いた、『武士道』
(明治32年)である。新渡戸稲造といえば、5000円札の肖像画にもなっているから、
知らない人はいない。明治時代の終わりごろ活躍した人物で、ほかにも『随想録』(明治4
0年)に書いたりしている。

 もともとは、幕末の南部藩(岩手県)の武士の子弟として生まれ、札幌農学校を卒業し
たあと、アメリカにも留学している。

 その武士道でもっとも重んじるのが、「名誉」ということになる。新渡戸稲造も、『武士
道』の中で、こう書いている。

 「武士は、命よりも高価であると考えられることが起きれば、極度の平静と迅速をもっ
て、命をすてる」と。

 要するに、名誉のためには、死をも覚悟せよ、と。

 新渡戸稲造が、いつの時代の武士を念頭に置いたのかはしらないが、幕末の武士たちは、
堕落し放題。権威と権力の座に安住し、その中身と言えば、完全にサラリーマン化してい
た。サラリーマン化が悪いと言っているのではない。「名誉のために、死をも覚悟した」と
いうのは、あまりにも大げさ。

 もっともこの心は、やがて日本の軍国主義の精神的根幹にもなっていった。「死して虜囚
(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」とういう、あれである。しかしその言葉の
裏で、いかに多くの日本人が、犠牲になったことか。あるいはいかに多くの外国人が、犠
牲になったことか。

 もっとも愛国主義が最初にあり、それから生まれた名誉のために死ぬというのであれば、
まだ納得できる。正義、あるいは、自由や平等のために死ぬというのであれば、まだ納得
できる。しかし武士道でいう『名誉』とは、まさに主君もしくは、「家」に対する、忠誠心
をいった。

 ほかにも、武士道には、「義」「勇」「仁」という三つの柱があり、さらに「礼節」「誠実」
「名誉」「忠義」「孝行」「克己」の、人が守るべき、徳目として、並べられている。「名誉」
それに、それから生まれる「恥」の概念も、こうした徳目から、生まれた。

 もちろんある側面においては、武士道は魅力的であり、それなりに納得できる部分もあ
る。しかし武士道が、封建時代というあの時代の「負の遺産」を支えたもの事実。「影の部
分」と言ってもよい。もっとわかりやすく言えば、武士道がもつ「負の側面」に目を閉じ
たまま、武士道を、一方的に礼さんするのは、たいへん危険なことでもある。

 たとえばここでいう「義」「仁」にしても、つきつめれば、「仁義の世界」。つまり、現代
風に言えば、ヤクザの世界ということになる。

 また、名誉についても、『武士は食わねど、高楊枝(ようじ)』(武士というのは、食べる
ものがなくて空腹でも、満腹のフリをして、名誉を守った)という、諺(ことわざ)も、
ある。

 果たしてそういうメンツや見栄にこだわることも、武士道なのだろうか。武士道を礼さ
んする人は、武士道を知らなければ、「人の正義」はないようなことを言う。しかしこの私
などは、武士道とはまったく無縁。しかしそんな私でも、礼節もあれば、名誉もある。誠
実、忠義、孝行、克己についても、自分なりに考えている。

 たしかに、今の世相は、混乱している。それはわかる。しかしそれは当然のことではな
いか。

 日本は、江戸時代という封建主義時代。明治、大正、昭和という軍国主義時代。そして
戦後の官僚主義時代。こういった時代を、それぞれ経験しながら、そのつど、過去の清算
をしてこなかった。反省もしなかった。

 だから、今の若い人たちを中心に、「わけのわからない世界」になってきた。

 それはわかるが、で、こうした世相に対する考え方は、二つある。

 一つは、過去にもどるという考え方。よくても悪くても、そこには、一つの「主義」が
ある。最近もてはやされている武士道も、その一つかもしれない。

 もう一つは、新しい主義を、創造していくという考え方。当然のことながら、私は、こ
の後者の考え方を、支持する。またそのために、こうしてモノを書いている。それについ
ては、これからも追々書いていくが、ともかくも、今の段階では、そういうことになる。

 最後に、忘れてならないのは、私の先祖も、あなたの先祖も、その武士階級にしいたげ
られた、町民や農民であったこと。もし仮に今でもあの封建時代がつづいていたとしたら、
私やあなたも、今でも、ほぼまちがいなく、町民や農民であるということ。

 そういう私やあなたが、武士のまねごとをして、どうなるというのか? 武士でもない
私やあなたが、武士道を説いて、どうなるのか。そのあたりを、じっくりと考えなおして
みてほしい。

今でこそ、偉人としてたたえるが、新渡戸稲造にしても、武士という特権階級に生まれ
育った人物である。アメリカから帰ってきたあとも、京都帝国大学教授、第一高等学校
校長、東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任している。まさにエリー
ト中のエリート。時の権力や権威をほしいままに手に入れた人物である。その事実を、
忘れてはならない。
(はやし浩司 武士道 新渡戸 義 勇 仁 仁義の世界 仁義)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 何もこうした復古主義は、今に、始まったことではない。歴史の中でも、そのつど、現
れては消える。ひとつの例を出そう。

 江戸時代の末期、日本に国学が生まれた。国学というのは、日本思想の原点を求める学
問と考えてよい。つまり仏教や儒教が日本へ入ってくる以前の日本人の思想はどうであっ
たか、それを知るための学問と考えてよい。

その国学の祖としてよく知られているのが、契沖(けいちゅう)である。契沖は、万葉
集にとくに焦点をあて、そこに日本人のルーツを求めようとした。

 この流れは、やがて賀茂真淵らを経て、本居宣長によって、完成される。本居宣長は、『古
事記伝』全44巻を、書き残している。

 こうした国学の動きは、現代に見る、日本の復古主義の動きそのものと言ってよい。ア
メリカ型西欧文化の隆盛に危機感をいだいた人たちが、それをよしとせず、さまざまな形
で、復古主義を唱え始めた。先に書いた、武士道復活論も、そのひとつである。

 しかしこうした復古主義は、同時に、危険な側面をはらんでいる。歴史には、流れとい
うものがある。そのときどきの万人が、意識することもなく、無数の事実を積み重ねてい
く。それがこれまた無数に集まって、ひとつの流れをつくる。歴史となる。その流れへの
反発エネルギーが、時として、過激な活動へと結びつく。……結びつきやすい。

 国学の流れも、やがて平田篤胤(あつたね)らによる、あの過激な尊王攘夷運動へとつ
ながっていったことを、忘れてはならない。

 たしかに今の日本の世相は、混沌(こんとん)としている。どこもかしこも、ボロボロ。
それは認める。しかしだからといって、なぜ、今、復古主義なのか。なぜ、復古主義に、
みなが、耳を傾けるのか。幸か不幸か、ともかくも、戦後、日本は、アメリカ型民主主義
を受け入れ、西欧文明を、そのまま取り入れてしまった。

 今に見るこの日本が、その結果である。

 ここで私たちは、オールターナティブ(択一的)な選択に迫られる。今までにも何度も
書いてきたが、日本は、戦前までの日本のような、もう一度、儒教(中国)文化圏にもど
るのか。それとも、西欧文明圏の一員として、西欧文明を、より積極的に取り入れ、完成
させるのか、と。

 しかし、どちらを選択するかという問題ではないのかもしれない。その中間があっても、
おかしくない。しかし今の若い人たちを見るかぎり、その(流れ)は決まっている。今さ
らどう叫んだところで、(一部の人たちがそれを叫ぶのは勝手だが)、日本は、戦前の日本
には、もう戻らない。戻れない。

 が、もしそれを戻そうとするなら、それ相当の歴史的エネルギーを爆発させなければな
らない。それが今すぐ、暴力行為や破壊行為に結びつくとは考えていないが、復古主義を
唱える人たちは、その一方で、そうした火種を作っていることを忘れてはならない。ある
いは若者たちの心の中に、爆薬をつめていることを忘れてはならない。

 私の印象では、こうした復古主義は、一部の学者の意見にすぎないように見える。しか
しそれに対して、それを批判する勢力、たとえば私のような意見を述べるものがあまりに
も、少ない。へたをすれば、このまま、日本は、その復古主義に押し切られてしまう可能
性すら、ある。

 そうでなくても、今の今でさえ、あの封建時代を美化する人たちが多いのは、本当に驚
きでさえある。江戸時代という時代がどういう時代であったかを知るためには、今のK国
を見ればわかる。世界の歴史の中でも、類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代だった
のが、あの江戸時代なのである。

 武士という為政者の立場で、江戸時代を見てはいけない。その武士に支配された、庶民
という立場で、江戸時代を見なければいけない。

 で、今、私たちが注意しなければならないのは、こうした復古主義が、どこでどのよう
な形で、過激な闘争へとつながっていくかということ。まさかこの私が暗殺されるような
ことはないにしても、そういう動きにつながっていく可能性はないとも言えない。

 だまって復古主義の隆盛を見過ごすのか。それとも、みなで力を合わせて、復古主義を
叩くのか。そのあとのことは、みなさんの判断ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
復古主義 復古主義の台頭 武士道 封建時代の清算)

注:時間の関係で、かなり乱暴な意見を書いてしまったようです。あくまでも、参考意見
のひとつとして、お考えください。この問題(原稿)は、これから先、もう少し煮詰めて
から、書き改めてみたいと考えています。(06年5月16日)

【皮肉】

 どうせ復古主義に浸(ひた)るなら、どうだろう、万葉の時代にまで、復古してみたら? 
それこそ本物の日本人のルーツではないのか?


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【掲示板への書き込み記事より】

++++++++++++++++++

20歳の男性から、
こんな書き込み記事がありました。

若者の暴力について、です。

++++++++++++++++++

【20男さんより、林へ】

はじめまして。 掲示板には名前は書かないほうがいいので、ここでは、「20歳男」と名
乗ります。

相談と言ったらいいのか、伝えたい事と、質問したい事があります。

最近の若者はよくキレると言われ、実際その通りだと思います。では昔はどうだったのだ
ろうか?、と言う質問です。

また、人を殴ったりしても罪悪感を感じない若者には、外見上の共通項があるのか。ある
としたらどんな姿か、ご存知でしょうか。

自分は男の20歳で、(年齢的には、もっと下に見えるそうですが)、
癖毛で長髪、運動する時など、紐で後ろに縛ります。身長163cm程。
少なくとも現代の若者からすると、髪型が笑われます。(自分もついこの前まで高校生でし
た。)

しかし、顔の造詣自体は、目付きが鋭く、オタクの様に気持ち悪がられるより前に、暴力
沙汰に近そうと、怖がられる事もあります。

若者自身がカッコイイと思っている髪形は、スポーツ刈り、普通の短髪、ジェルで短髪を
逆立てたものなどがあります。

こちらが歩いているだけで殴りかかってくるのは上記の、ジェルで短髪を逆立てた小奇麗
な外見の若者です。また殴られはしないものの、このタイプの男は、学校でも乱暴だった
ような記憶があります

しかし自分はそういう、若者同士から好評価を得られる髪形ではなく、癖毛で長髪で、た
だ伸ばしているだけです。長髪を紐で後ろに縛っています。

その自分の風貌が目に付いたのでしょう。先日健康のために公園を走っていると、笑われ
ながら、缶を投げつけられたり、殴られたりと言う事がありました。被害届を出しました

年代が上の方には分りづらいかもしれませんが、自分のただ伸ばしているだけの長髪は、
年代が上の方には不良、あるいはカッコ良い、音楽をやっている人間と見られる事があり
ます。

しかし今の若者からすると、それはカッコ良い髪型と言う訳でもなく、攻撃の対象(暴力
沙汰の対象)になる事もあります

自分には、男としての魅力だとかは余り無いのでしょうし、それが殴りやすかったり、絡
まれやすかったりする原因なのだと思います。

自分に絡んでくる若者は雄であり、恐らく若い女性だったら、自分が殴られるのを目撃し
ても、止めようとはせず、通り過ぎていくことでしょう。(その女性が高校生だとしたら、
通報してくれたりする姿が、自分には、想像できません)。

性的に、どういう人間が魅力的なのかという基準について、どうこう言いたいのではなく、
外見の良し悪しの基準が、ひとつの原因となって、人に襲われるという事もあるというこ
とです。

その基準は全ての人間に共通というわけではなく、若者同士の間でだけかけられる見方な
のだと思います。キレた小奇麗な若者は、年代が上の人が見れば、普通の明るい少年に見
えるかもしれません。

若者は2極化しています。誰かを殴りながら、その人を、ゴミの様に扱うのもいます。で
は昔はどうだったのだろう?、と疑問に思い、こうして、聞きたくなりました。

昔は今よりもマトモな時代だったのでしょうか?

++++++++++++++++++++

 この青年は、今、他人から受ける暴力について、悩んでいる。公園の中を走っているだ
けで、笑われたり、缶を投げつけられたりすることもあるという。殴りかかられたことも
ある。

 そこでこの青年は、その原因として、自分の風貌(ふうぼう)ではないかと書いている。
そして同時に、そういう暴力行為をする人間には、一定の共通点があるかどうかと、私に
聞いてきている。

 一見、淡々と自分のことを書いているが、その青年の立場に立って考えてみると、これ
はたいへん深刻な問題と言ってよい。へたをすれば、その青年は、人間不信から、自暴自
棄に陥(おちい)ってしまうかもしれない。その青年の置かれた環境は、あまりよくない
らしい。それはよくわかるが、そういう環境しか知らず、その中でもがいている、その青
年は、かわいそうですら、ある。

 が、決して同情しているのではない。むしろ私は、そういう環境をよいことに、その青
年を、理由もなく、笑ったり、缶を投げつける連中が、心底、許せない。なぜそんなこと
をするのかということを聞く前に、私でも、そういう連中を、叩きのめしたい衝動にから
れる。暴力には暴力という考え方は正しくないが、しかし暴力でしか、そういう連中に、
自分の非を認めさせる方法はないのではないか。

 そう、弱いものいじめほど、卑怯なものはない。ただこれだけは、覚えておくとよい。
人は、いじめられれば、いじめられるほど、何が大切で、何がそうでないかを知る。一方、
いじめる側の人間は、ますます人生の真理から遠ざかり、遠い、遠い、回り道をすること
になる。つまらない人生を送ることになる。時間を無駄にすることになる。

 気がついたときには、人生も終わっている……。そうなる可能性はたいへん高い。

 だから、そういう連中は、反対に、笑ってやればよい。心底、軽蔑してやればよい。し
かしそれには、ひとつ、条件がある。そういう連中を笑えるほどまでに、自分自身を高め
なければならない。それをしないと、自分自身も、結局は、ズルズルと、そういう連中の
仲間に引きずりこまれてしまう。

 愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまうということ
は、この世界ではよくある。つまり批判したり、嫌ったりするだけでは、問題は、解決し
ない。

 が、自分を高めれば、やがてそういう連中が、餌を求める山猿に見えてくる。ゴミをあ
さる、カラスに見えてくる。そういう形で、そういう連中と決別する。そういう自分と決
別する。同時に、そういう環境と、決別する。

 それがその青年には、できるだろうか?

【はやし浩司より、20歳男さんへ】

 私の時代にも、暴力事件は、ありました。今よりも、もっと多かったかもしれません。
しかし1対1の関係というよりは、集団対集団という関係のほうが多かったように思いま
す。

 ある高校の連中が、突然、となりの学校へ押し入って、そこで相手の連中と殴りあうと
いうような暴力行為です。また私が入った高校では、上級生が、下級生を暴力でしごくと
いうようなことが、慣例として、なされていました。

 先生たちは、見て見ぬふりをしていたのではなかったのかと、今にして思うと、そうい
う感じがします。そのほうが、学校としては、都合がよかったからです。生徒が、先生に
対して、おとなしくなり、従順になるからです。

 そういう意味では、昔の暴力の方が、わかりやすかったかもしれません。まだ戦後のド
サクサが残っているような時代でしたから……。

 しかしあなたの今、置かれている環境は、ふつうではないですね。心がすさんでいると
いうか、殺伐(さつばつ)としているというか……。まるで暴力映画を、地でいくような
世界のような感じがします。

 で、私が今、アドバイスできることと言えば、できるだけそういう世界とは、早く、縁
を切りなさいということ。でないと、あなた自身も、そういう世界に巻き込まれてしまう。
その危険性は、たいへん高いです。

 何か、自分を高める方法はありませんか? 目標はありませんか? 夢や希望は、あり
ませんか? もしあれば、そういうものに向かって、今は、まっしぐらに進むべきときで
す。そういう連中にかかわりあっている暇は、ないはずです。

 はっきり言えば、キレる子どもに定型は、ありません。もちろん髪型で区別するという
ことは、できません。しかし心がゆがんだ子どもには、共通の症状、つまり俗に言う、ツ
ッパリ症候群というのはあります。独特の歩き方、すさんだ目つき、拒否的態度などなど。

 しかし彼らとて、精一杯、そういう形で、自分の(顔)をもとうとしているのですね。
何もとりえがないものだから、暴力で訴えることによって、自分の存在感を作ろうとして
いる。そういう点では、あわれな人たちです。あなたから見て、目立つ髪形をするのも、
その存在感をアピールするためのものと考えてよいです。

 今のあなたに、そういう人たちを、かわいそうと思うだけの余裕はないかもしれません。
しかしあなたが、自分を高めれば、いつかすぐ、そういう目で、そういう人たちを見るこ
とができるようになります。あるいは相手にしなくなる。

 私は、少し前、T氏という男性と、2時間ほど、あることで話しあいました。T氏とい
うのは、多分、明日(15日)、ワールドカップ代表選手として、選ばれる人です。その男
性と話しているときのこと。私は、その途中で、何度も、その男性のもつ人格の完成度に
驚きました。

 「この人は、私より、30歳近くも若いのに、何という完成度!」と。

 T氏は、昨年のアジアカップ杯では、初戦から、最後の北京でのあの優勝戦まで、ずっ
と活躍した人です。つまりそこにいたるプロセス、そして幾多の国際試合が、T氏をして、
そういうT氏にしたのですね。

 別れるとき、「すばらしい人生を歩んでおられますね」と声をかけると、T氏は、はにか
みながら、「ぼくには、スポーツ(サッカー)しかできませんから」と笑っていました。し
かしひとつのことをやりとげた人というのは、そういう人を言うのですね。

 20歳という年齢は、すばらしい年齢ですよ。その上、あなたは若いのに、すでに自分
を静かに見つめる目をもっている。今の若い人たちには、なかなかない(目)です。それ
を信じて、それがたとえかなわぬ夢であっても、あなたはあなたで、ただひたすら前に進
む。進むことに、意味があるのです。

 結果があっても、なくても、です。あるいは結果は、必ず、あとからついてくる。

 私はよく「山登り」という言葉を使います。あなたはあなたで、どんな小さな山でもよ
いから、登ってみる。そうするとですね、不思議なことに、意外と、視野が広い。「あんな
低い山……」と思って登ってみても、実際に登ってみると、遠くに、太平洋や、富士山が
見えたりして……。

 そしてそれまで自分がいたところが、驚くほど低いところにあったのがわかる。山登り
というのは、そういうものです。

 ここに書いたT氏にしてみれば、この日本中が、足元の小さなゴミのように見えるかも
しれません。ひょっとしたら、日本の総理大臣すらも、足元でうごめく、小さな人間に見
えるかもしれない。そういう人を、人格の完成度の高い人といいます。

 でね、私はそのT氏と別れたあと、こう思いました。「いったい、自分は、この50年間、
何をしてきたのだろう」と。自分という人間が、どこまでも、つまらない人間に見えてき
たからです。何かをしてきたつもりなのに、その何かが、何も残っていない……。それに
気がつくのが、私のばあい、30年、遅かった!

 しかし今のあなたなら、それができる。こう言うのは自分の敗北を認めるようでつらい
ですが、あなたがうらやましい! 私があなたの年齢のときには、私の心の目は、盲目だ
った。ただがむしゃらに、人を蹴飛ばしながら、生きていた。

 自分のことしか考えていなかった。自分の利益しか考えていなかった。私は、そういう
意味では、盲目でした。人の心が、まるで見えなかった。

 だから何も残っていないのです。が、あなたは、盲目ではない。自分につけられた心の
キズを通して、相手の心を冷静に見ようとしている。これはとても、すばらしいことなの
ですね。

 さあ、あなたも勇気を出して、一歩、前に進んでみよう。前に山があれば、その山に登
ってみよう。それができたとき、今のあなたがかかえる問題は、自然消滅の形で、あなた
の前から消えているはずです。

 笑われても、缶を投げつけられても、また殴られても、……いや、あなたがどんな小さ
な山でもよい、その山に登れば、だれもあなたに対して、もう、それができなくなります
よ。

 「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブ
ンソンは、こう書き残しています。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい
言葉ですね。今のあなたにあげたい言葉です。

 どうか、がんばってください!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
青年の悩み いじめ 暴力)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ヒトシ君(いじめ問題の陰で)

 ヒトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、
いじめられていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱ
い落書きをされても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでい
ただけだよ」と言っていた。 

 そのヒトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞
で倒れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒトシ君の祖
母から聞いた話だ。

 祖父はヒトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒトシ
君がひげを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、
祖父とヒトシ君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そ
こでのこと。

帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒトシ君は、「高校
に合格しますようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わし
の病気が治るように祈らなかったか」と。そこでヒトシ君はあわてて神社へ戻り、もう
一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒトシ君(実名)」で呼ぶように
なった。とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒト
シ君のような子どももいる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大き
な財産を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そして
いつか、そのことで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そ
ういう人が、しっかりと判断する。愚かな人ばかりではない。

ヒトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内のK高校を卒業したあと、東京の
K大学へと進んでいる。ヒトシ君は、見るからに人格が違っていた。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、
いつどこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、
人はいじめられながら成長し、そしてたくましくなる。

つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐える。そうでないと、子どもがひ弱になっ
てしまう。今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」
と、親は騒ぐ。が、こういう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿
ないじめや、限度を超えたいじめは別である。

しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばって
いるんだよ」と励ましてあげることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とても
つらいことだが、親や教師にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと
耐えるのも、親や教師の務めではないかと、私は思う。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【心を支える、3つの物語】
2006年5月期、講演レジュメ(要旨)より

●私が「私」であるためには、3つの柱が必要です。
(1)(したいこと)を、現実に(している)という実感、つまりは自我の同一性
(2)「いつも、私は、私でいられる」という連続性、一貫性
(3)他者との関係で、いつも良好な人間関係をもつことができるという社会性。

+++++++++++++++++++

  「したいことをする」という姿勢の中から、夢や希望、それに目標が生まれます。自分の描い
た自己概念と、現実の自分が一致している。それが「私」でいるための第一条件ですね。

  つぎに、どんなばあいも、私は、自分でいられる。動じない。それが「私」ということになりま
す。
  また「私」は、いつも、社会というカガミの中で、映し出されます。そもそも社会性をもたない
「私」は、私ではないということです。
  今回は、これら3つの柱を中心に、時間が許すかぎり、私の個人的な過去もふまえて、子ど
もの心を伸ばす、3つの物語を、みなさんに、お伝えしたいです。どうか、よろしくお願いしま
す。

+++++++++++++++++

【意外とシンプルな、心をはぐくむメカニズム】

●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、その

には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしてい
る子どもは、その抵抗力も強くなります。
 
***************************

●同一性の危機(1)

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめ
を、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしている
こと)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子
どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの
自我の同一性は、危機に立たされる。


●夢・希望・目的(2)

 夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のし
たいこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があ
るとき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。
そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」
とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力(3)

 同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)
を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。ある
いは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、
忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。
この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。


●同一性の崩壊(4)

 同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をし
たいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私
は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それ
は「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべ
きもの。当然、子どもは、目的を見失う。


●顔のない自分(5)

 同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大き
く分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻
撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。
ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースで
は、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力(6)

 暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭
(さと)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の
顔)をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、
恐れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子ど
もの心理的のメカニズムは、こうして説明される。


●子どもの自殺(7)

 おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあ
いは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)
を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットする
ことで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(し
ょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。 


●自虐的攻撃性(8)

 攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に
向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝
から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでい
るのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかり
やすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性(9)
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子
どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分が
していること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が
一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちつい
ていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力(10)

 「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子ど
もは、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学
年から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、
同一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘
いがあると、スーッとその世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる(11)

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親
は、それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみ
ましょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやるこ
と。が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこ
う言う。「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器(12)

 子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。


●役割混乱(13)

 子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時
に、「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間
にか、自分の周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸
ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役
割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)(14)

 しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがん
ばっていた子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれな
い。しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考
プロセスは、そのまま残る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこ
へ入る。中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、が
んばり始める。


●進学校と受験勉強(15)

 たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的
になりえたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのも
のが崩壊してしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考え
やすいが、子どもにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好
きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢
をつぶす。「つぶしている」という意識すらないまま……。


●これからはプロの時代(16)

 これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでた
プロのほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君
は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生
きと、自分の人生を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだ
けは、だれにも負けない」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸
ばす。


●大学生の問題(17)

 現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んで
いる。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力
になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、
荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、
誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成(18)

 子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在しているこ
と)に一致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまら
ない仕事」「そんなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子ども
が、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。
こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司●同一
性の
危機●夢・希望・目的●子どもの忍耐力●同一性の崩壊●顔のない自分●校内暴力●子ど
もの
自殺●自虐的攻撃性●自我の同一性●心の抵抗力●夢や希望を育てる●子どもを伸ばす
三種
の神器●役割混乱●思考プロセス(回路)●進学校と受験勉強●これからはプロの時代●大
学生
の問題●自我の同一性と役割形成)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●寿大学で講演(?)

 先日、ある地区の、寿(ことぶき)大学での講演を、依頼された。70歳以上の老人た
ちが集まる会だという。

 いろいろなところで講演をしてきたが、そういう会での講演は、はじめて。とたん、闘
志がモリモリとわいてきた。やるぞ!

 で、おかしなことに、そう思ったとたん、レジュメ(講演要旨)ができあがってしまっ
た。どこからどう話し始めるかも、決まってしまった。ついでに、講演の締めくくり方も、
決まってしまった。

 早くその日がこないかと、楽しみにしている。ワクワクしている。I町のみなさん、ど
うかよろしく! 必ず、おうかがいします!


●第二のお産

 母親は、子どもを産むことによって、母親になる。これを第一のお産というなら、母親
には、もう一度、お産がある。これを「第二のお産」という。

 つまり母親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越える。決して平坦な道では
ない。子育てをしながら、道に迷ったり、悩んだりする。人によっては、まさに苦しみの
連続。

 よく誤解されるが、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。そうした苦
労を重ねるうちに、母親は、ただの親から、真の親へと育てられる。

 その真の親になる過程で、母親は、第二のお産を経験する。またそれを経験しなければ、
真の親になれない。それは第一のお産より苦しく、そして長くつづく。

 乳幼児をもった若い母親は、臆面もなく、こう言う。「私は息子を愛しています」と。

 しかしそんなのは、愛でもなんでもない。自分の中にある子どもへの本能的な愛着を、
(愛)と、錯覚しているだけ。誤解しているだけ。子どもを愛するということは、そんな
甘いものではない。

 さらに子どもの受験競争に狂奔している親がいる。そういう親でも、こう言う。「私は子
どもを愛しています」「子どもためです」と。

 しかしそんなのは、愛でもなんでもない。自分の中にある不安や心配を解消するために、
つまり自分の心のスキマを埋めるために、子どもを利用しているだけ。

 親は、子育てをしながら、「もう、だめだア!」と、何度も叫ぶ。何度も、何度も、そう
叫ぶ。その結果として、親は、真の愛というのが、どういうものであるかを知る。

 それは実に苦しい戦いでもある。だから、私は、「第二のお産」と呼んでいる。

 だれしも、苦労はいやだ。苦しむのは、さらにいやだ。しかしぬるま湯につかったよう
な子育てをしていて、どうして真の愛にたどりつくことができるというのか。

 今、子育てで苦しんでいる人は、幸いなれ。真の愛は、あなたのすぐそばで、あなたに
見つけてもらうのを、息をひそめて、静かに、あなたを待っている。

 それから逃げるのも、あなたの自由。しかし、逃げれば、せっかくのチャンスを、あな
たは失うことになる。

 方法は、簡単。あなたは、あなたの子どもを、『許して忘れる』。とことん、『許して忘れ
る』。その度量の深さと大きさが、あなたに、真の愛というものが、どういうものかを教え
る。

 親意識なんて、クソ食らえ!
 親の威厳なんて、クソ食らえ!
 親のメンツなんて、クソ食らえ!
バカになる。とことんバカになる。

 あなたは1人の人間として子どもの前に立ち、あなたの胸の内を、子どもに向かって叫
べばよい。泣けばよい。許しを乞えばよい。あなたが子どもに向かって心を開かないで、
どうして子どもが、あなたに向かって心を開くことができるのか。

 それは実におおらかな世界。穏やかな世界。どこまでも広がる、広い広い世界。

 さあ、あなたも勇気を出して、その世界に飛びこんでみよう。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
第二のお産 第二の出産)


●「十字架」の意味

 人は生きていく。その過程で、人は、無数の糸にからまれる。ときには、自分の意思で、
その糸に、自ら、からんでいくこともある。しかしほとんどのばあい、糸というのは、自
分の意思とは無関係に、向こうからからんでくる。家族の問題、親戚の問題、仕事の問題
などなど。病気や事故も、それに含まれる。

 こうしてその人の進むべき道は、決まっていく。私は、それを「運命」と呼ぶ。

 その運命が、ある一定の幅をもって、自分のコントロールできる範囲にあれば、それで
よし。しかしときとして、人は、予想もしないような糸にからまれ、自分の思いや、願い
とは裏腹に、運命が、別のほうへ勝手にひとり歩きしてしまうことがある。

 そのとき、人は、葛藤する。自分と運命の間の距離が大きければ大きいほど、葛藤する。
その葛藤を、私は、「十字架」と呼んでいる。わかりやすく言えば、自分が背負った、原罪
的な問題をいう。その問題が、重荷となって、その人を、苦しめる。

 「原罪的な問題」というのは、自分という「私」を超えた、生物としての人間が作り出
す、もっと言えば、本能が遠因となって引き起こす、問題のことをいう。たとえばその第
一に、性欲があげられる。

 ……それについて、つまり、少し前、息子のガールフレンドとの間にできてしまった子
どもについて、息子の母親が悩んでいるということを書いた。

 それについて、「できてしまった子どもを、十字架とは!」(H市、Oさん)というよう
な意見を、どこかのBLOGで読んだ。「できてしまった子どもを、十字架と言うのは許せ
ない!」というニュアンスを、私は感じた。私の意見を、批判して言ったものである。私
の意見を批評するなら、まず、私に言ってほしかったが、それはさておき、私は、「子ども
が十字架」とは、一言も書いてない。そんなふうに、考えたこともない。

 事実は逆で、これから生まれてくる子どものためにも、運命を受け入れたらよいと、そ
の母親には、そう返事を書いた。「逃げるのではなく、孫として、前向きに受け入れたらよ
い」と。

 当然のことながら、その母親や息子は、これから先、大きな責任を負うことになる。そ
の責任の重大さをふまえて、私は「十字架」と言った。その母親も、息子も、その運命か
ら、逃れることはできない。責任を回避することはできない。

 おそらく今、その母親は、悶々とした気持ちでいることだろう。現にその母親は、息子
の無責任さに、あきれ、苦しんでいる。もがいている。自分の息子を、そういう無責任な
息子にしてしまったことで、自分を責めている。他人の子どものしたことなら、笑ってす
ますことができる。しかし自分の息子のこととなると、そうはいかない。

そのためその母親は、1日、1分とて、気が晴れることはないだろう。1人の子どもを
この世に生みだすというのは、それほどまでに、重大なことである。その母親は、それ
を知っている。

 それが「十字架」である。「心の十字架」ともいう。

 この言葉は、現在、Y市で、あるキリスト教会の牧師をしている友人から、教わった言
葉である。

 Oさん、どうか、誤解のないように、お願いします。
 私のほうも、言葉足らずであったことを、おわびしなければなりません。どうかこれか
らも、よろしくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 十字架 心の十字架)


●デート
 
 毎週、火曜日、木曜日、それに土曜日の夜は、ワイフとデートをすることにしている。
で、今日が、その土曜日。

 で、今夜は、2人で、近くのレストランで、中華料理を食べた。私が、880円のセッ
ト。ワイフが、980円のセット。

 若いころから、ワイフは、めったに私より高額な料理を食べない。が、今夜は、例外。
私が先に安いほうの料理を注文してしまった。それでワイフは、もうひとつのセットのほ
うを注文するしかなかった。

 まあ、食べだせば、おたがいに分けあって食べるので、どっちがどっちということは、
ないのだが……。

 で、私は、そういうとき、いつも、ふと、こう思う。「こういうときは、いつまでつづく
のだろう?」と。つまり、「こうしてデートできるのは、いつまでだろう?」と。

 私の年齢になると、「時」がもつ冷酷さというか、それがよくわかるようになる。こうし
て過ごしている「今」という時も、やがてすぐ、過去の中に、流れ去ってしまう。過去と
いうよりも、どこかへ消え去ってしまう。その切なさというか、わびしさが、しみじみと
わかるようになる。

で、今、私は、ひとつ、心がけていることがある。

 あと何年、こういう時がつづくか、それは私にはわからない。しかし今まで、私のため
に犠牲になり、苦労をしてくれたワイフのために、私の残りの人生のすべてを、ワイフに
捧げよう、と。

 こんな私のために、まあ、よく、いっしょにいてくれたものだと思う。私がワイフなら、
とっくの昔に離婚していたことだろう。しかしワイフは、がまんしてくれた。私のそばに、
いてくれた。そうしたワイフの苦労が、今、自分の過去を振りかえってみると、よくわか
る。

 もう、私は自分のためには、何も求めない。自分のことは、どうでもよい。だからデー
トのときも、ワイフを楽しませること。笑わせること。心配をかけたり、不安に思わせな
いこと。

 私ができることは、その程度。ただ願わくは、私は、ワイフより、先に死にたい。確率
は2分の1だが、そう願うのは私のわがままなのか。もしワイフが先に死ぬというのであ
れば、私は私の命を、ワイフに差し出す。差し出して、私のほうを、先に死なせてもらう。

 ワイフへ、

 あと何年、こうしてデートできるかわからないが、これからも、仲よくしようね。

 では、おやすみ! Have a good night!
(5月13日、夜記)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

以下、まだ未完成の原稿ですが、そのまま配信します。

++++++++++++++++++++

【文明の衝突】

++++++++++++++++

中国や、韓国で吹き荒れている、反米、
反日運動。

なぜ、今なのか?

それをただ単なる、民族主義の高揚に
よるものと考えると、ますますわけが
わからなくなる。またそう考えたと
ころで、解決策には、結びつかない。

++++++++++++++++

●日本も中国も同じ(?)

 前にもどこかで書いたが、ドイツ人のロシア嫌いには、相当なものがある。一部のドイ
ツ人が、そうであるというのではない。総じてみれば、みな、そうなのである。

 そういうドイツ人を見ていると、ふと、こう思う。私たち日本人から見ると、ドイツ人
もロシア人も、同じなのに、と。

 しかし同じことが、私たち日本人についても、言える。ヨーロッパの人たちから見ると、
日本人も中国人も同じ。区別できない。だから日本人はともかくも、中国人が日本人を嫌
っているという話を聞くと、ヨーロッパの人たちは、みな、こう思うにちがいない。

 私たちから見ると、日本人も中国人も、同じなのに、と。

 なぜか?

●生理的な嫌悪感

 つまり、なぜ、こうした、好きとか嫌いとかいう反応が、生理的な部分で起きてしまう
のか。その理由として、よくあげられるのが、民族意識であり、歴史認識の問題である。
とくにドイツとロシアは、数世紀にまたがって、あるいはそれ以前から、たがいに戦って
きた。

 しかしこのことだけでは、なぜ中国人が、今、日本を嫌っているのか、その説明がつか
ない。韓国人にしても、そうである。たしかにこの100年の間に、日本と中国、日本と
韓国は、不幸な戦争を経験した。それは事実である。しかしそれ以前はといえば、日本は
極東のアジアの島国として、中国とも韓国とも、それなりに、仲よくつきあっていた。

 ドイツとロシア、日本と中国、それに日本と韓国は、どこか同じようで、同じではない。
そのちがいは、どこから生まれるのか。

 実は、ここに「文明の対立」の問題がある。

 ヨーロッパは、言うまでもなく、西欧文明圏に属している。一方、ロシアは、スラブ文
明圏に属している。「文明」というのは、民族意識の上にあって、意識として意識されない
意識をいう。いわば無意識下の、帰属意識ということになる。相互帰属意識と言ってもよ
い。

 で、この日本について言うなら、日本は、敗戦時までは、中国や韓国と同じ、儒教文明
圏に属していた。細部はともかくも、マクロな見方をすれば、そうである。独特の集団意
識、上下意識、帰属意識、相互依存意識、先祖崇拝意識など。そういった意識は、儒教文
明圏から生まれた、共通の意識と考えてよい。

●アメリカ型西欧文明を受け入れた日本

 が、日本は、アメリカという国に、一度は、すべてを焼き払われてしまった。同時に、
それまでもっていた儒教文明圏の中でもっていた、帰属意識まで、焼き払われてしまった。
そしてそのかわりに、いわゆるアメリカ型西欧文明を、移植されてしまった。

 日本人というよりは、日本は、つまり、全体として、敗戦と同時に、儒教文明圏から脱
し、アメリカ型西欧文明圏へと、移動したことになる。

 このことを如実に例として示しているのが、イタリアを観光旅行する日本人たちである。
数年前だが、イタリアに住む友人(オーストラリア人)が、こんなメールをくれたことが
ある。

「日本人には、2種類ある。ひとつは、ガイドのもつ旗について、ゾロゾロと観光旅行
する日本人。年配者に多い。もうひとつは、個人、もしくは数人ずつのグループをつく
り、自由気ままに旅をする日本人。若い人たちに多い」と。

 こうしたちがいは、30年前、40年前には、さらに、きわだっていた。

 香港へ来る日本人たちは、みな、ガイドがもつ旗を先頭に、ゾロゾロと並んで旅行をし
ていた。しかし香港へ来るヨーロッパ人たちは、みな、それぞれが単独で行動をしていた。

 こうしたちがいを見ただけでも、戦後、日本は、大きく変わったと言える。そのちがい
をすべて文明のちがいによるものだと言い切るには、少し無理があるかもしれない。が、
しかしつぎのような事実を知れば、みなさんも、私の意見に同意するだろうと思う。

●日本人は、半分は、欧米人?

 ためしにあなたの子どもにこう聞いてみるとよい。

 「あなたは、アジア人か、ヨーロッパ人か」と。

 すると、ほとんどの子どもは、こう答える。「アジア人ではない」「半分、ヨーロッパ人
だ」と。事実、自分をアジア人と思っている子どもは、まず、いない。「君の肌だって黄色
いではないか」と言うと、「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ」と答える(テレビのある討
論番組より)。

 ここまで書いたところで、私がこの先、何を書きたいか、もうおわかりのことと思う。
つまり日本人は、アメリカ型西欧文明圏の世界にいる。一方、中国や韓国は、昔も、今も、
儒教文明圏の世界にいる。

 こうした文明の対立は、それぞれが離れているときは、起きない。たがいに接している
ところで起きる。ドイツとロシアがそうである。そして日本と中国がそうである。日本と
韓国がそうである。

 しかし日本とヨーロッパ、日本とロシアの間では、起きない。たがいに離れているから
である。が、ヨーロッパは、スラブ文明圏との対立のほか、アフリカ文明圏、さらにはア
ラブ文明圏とも対立している。が、インドを中心とする、インダス文明圏とは対立してい
ない。たがいに離れているからである。

 かなりおおざっぱな、かつ乱暴な説明に聞こえるかもしれないが、そのあたりまで踏み
こまないと、現在の日中関係、日韓関係を、うまく説明することができない。

 もちろん、日本は、完全にアメリカ型西欧文明圏に属したわけではない。この日本の中
にも、まだ儒教文明圏の亡霊のようなものは、残っている。そしてそれが時おり、顔を出
して、世間を騒がす。

 最近では、日本の文化がもつ「形」や「情緒」こそが、日本の顔だと説く本が、大ベス
トセラーになっている。これなどは、いわば、行き過ぎたアメリカ型西欧文明に対する、
反作用とも理解できる。

 一方、中国や韓国の内部にも、アメリカ型西欧文明を受け入れようとする動きがある。
儒教文明圏といっても、決して、儒教一色ではない。アメリカ型西欧主義を取り入れた日
本も、儒教文明圏にいる中国も韓国も、どこか、まだら。

 そういった現象はあるものの、しかし全体としてみると、日本は、アメリカ型西欧文化
圏に属し、中国や韓国は、儒教文明圏に属する。

 この文明のちがいが、対立となって、先鋭化している。それが中国や韓国の、反米、反
日運動の底流にある。

●アリの世界

 ……という私の話を、あなたは、とっぴもない意見だと思うだろう。しかしついでにこ
んな話もしておきたい。

 10年ほど前だが、アリの研究では、日本で何本かの指に入るという研究者から、直接、
こんな話を聞いたことがある。

 アリというのは、穴の中に住み、地面をはっている、あのアリである。あのアリには、
巨大な縄張りがあって、それぞれの種族が、日本列島を、何分割かに分けているという。
その最前線では、熾烈(しれつ)な、国境闘争を繰りかえしているという。

 驚いて私が、都市部ではどうですかと聞くと、その研究者は、こう言った。山の中だろ
うが、町の中だろうが、それは関係ありません、と。その最前線が、ときに都市部の中央
部を横切ることもあるという。

 どこでそういう知識と知恵が働くのだろう。いや、アリ自身は、無意識なまま、たがい
に戦っているにちがいない。

●帰属意識

 では、こうした文明圏を理解するためには、どうしたらよいのか。それをさらにみなさ
んにも理解してもらえるように、私は、人間のもつ相互帰属意識を、つぎの7つの段階に
分けてみた。

 家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)

 5番目から下の、「文明意識」「人間意識」「生命意識」というのは、現在は、ほとんど無
意識下にあるとみてよい。相対的に、意識のレベルがあがったときはじめて、その姿を現
す。

 たとえば少し話がSF的になるが、もし他の天体から、見るからに気味の悪い宇宙人が
地球を攻めてきたようなばあいを想定してみよう。その宇宙人は、人類を滅ぼし、地球を
支配しようとしている。

 恐らく人間は、民族や、国を忘れて、その宇宙人と戦うにちがいない。

 さらにもし、これまた別の天体から、機械じかけの宇宙人が、私たち生物を襲い始めた
ようなばあいを想定してみよう。人間は、今度は、その気味の悪い宇宙人とも手を組んで、
その機械じかけの宇宙人と戦うにちがいない。

 つまり民族や、国を忘れて、宇宙人と戦う意識の底流にあるのが、6番目の、「人間意識」
ということになる。さらに気味の悪い宇宙人とも手を組んで戦うという意識の底流にある
のが、7番目の、「生命意識」ということになる。

 では、文明意識は、どうかということになる。その例として、まずあげられるのが、十
字軍である。

 かつてヨーロッパのキリスト教徒たちは、ある時期、国や民族を忘れて、十字軍という
名前の軍隊を、イスラエルに向けて送った。名目上は、聖地奪回だったかもしれないが、
それは同時に文明と文明の対立であったとも考えられる。

 国が侵されたとき、その国の人たちは、国を守るために立ちあがる。
 民族も、そうだ。そして同じように、自分たちが属する文明圏に危機感をいだいたとき、
その文明に属する人たちは、立ちあがる。

 ここから先は、まさにSFの世界の話ということになるが、宇宙人が地球を攻めてきた
ようなばあいには、地球人は、地球を守るために、立ちあがる。アメリカ映画にも、そん
なような映画があった。『インディペンデンス・デイ』という映画が、それである。

●終わりに……

 で、なぜ今、韓国で、反米、反日なのか? 中国の人たちは、どうして戦後の日本を受
け入れることができないのか。

 その答は、私は、文明のちがいにあると考える。またそう考えることによってのみ、彼
らがもつ、反米、反日感情を理解できる。彼らは、生理的な部分で、日本がもつ文明に対
して、嫌悪感を覚えている。そしてそれを、反米、反日感情へと結びつけている。

 なおアメリカの文明を、あえてアメリカ型西欧文明としたのは、いわゆるヨーロッパの
西欧文明とは、どこか異質なものであることによる。事実、ヨーロッパ人は、アメリカと
は、常に一線を引いている。

 ご存知の方も多いと思うが、総じてみれば、ヨーロッパ人は、アメリカを嫌っている。
オーストラリア人にしても、そうだ。私が知るかぎり、アメリカが好きだというオースト
ラリア人は、1人もいない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
帰属意識 儒教文明 アメリカ型西欧文明)

【注】この原稿は、私の考えが、まだ半熟の状態で書いたもの。この問題については、近
く、さらに掘りさげて考えてみたいと考えている。

 なお「文明の衝突」論者として、よく知られた学者に、サミュエル・ハンティントン(1
927〜)がいる。彼は、儒教文明にせよ、イスラム文明にせよ、西欧文明の優越性を認
めておらず、そのため、いつかこの2大文明が、西欧文明と大衝突をすると予測している。

 そうなってはいけないが、今、世界は、そのハンティントンが予測したとおりの道筋を
たどっているというのは、不気味なことではないだろうか。つまり私の考えでは、その前
哨戦が、今、日本と中国、日本と韓国の間で、行われているということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
文明の衝突 儒教文明 西欧文明 イスラム文明)

【補足】

 日本も、「愛国心」とか、「国を愛する心」とか、そんな了見の狭いことを言っていない
で、どうだろう、このあたりで、愛文明心とか、愛人間心、さらには愛生命心とか、言っ
てみては?

 「愛地球心」でも、よい。しかしこれは愛知万博(05年)のテーマにもなっていたの
で、ここでは考えない。(二番煎じは、いやですね!)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【掲示板への相談より】

●子どもの万引き

++++++++++++++++

Mさん(母親が、息子(9歳)の
盗癖(?)に悩んでいます。

それについて、少し考えて
みます。

++++++++++++++++

【Mさんより、林へ】
 
長くなりそうなので、こちらに書かせていただきましたが、住所氏名は不要でしょうか。
小学4年生の息子のご相談をさせていただきます。

ここ2〜3週間の間に、複数の店で万引きをしているようなのです。

家のお金も持ち出して品物を買い、部屋に隠していました。お恥ずかしいですが、お金が
ないことに私はすぐに気づきませんでした。本屋から帰った時の様子がおかしかったので、
強引に手提げ袋の中をみると、ビニールのかかったままの漫画本が、何冊もありました。

主人が問いただすと、ああいえばこういう式のウソをつき、泣き、最終的に「間違えて持
って帰った」というようなことを言いました。

主人と一緒に本屋さんに謝罪に行きましたが、自分が盗ったとは認めていないので、とに
かく悪いことをしたと思っているように見えないのです。その後、ほかの品物について聞
こうとすると、激しく泣いて怒り、逆ギレというかそういう状態になります。

お金のことになると、まず「勝手に財布の中をみないで」と。部屋の中もみないでと言い
ます。こういうことは今まで言ったことはありませんでした。

今とにかく主人と悩んでいることは、もう1軒のお店のものも盗ったようなのですが、そ
れとお金のことも含めて、きちんと「自分がやった」と認めて欲しいのです。が、その話
を持ち出すと泣いて荒れて、話にならないことです。

認めてくれれば、私達はもちろん許すし、きちんとお店に謝ることができます。なるべく
早く謝まらなければと思っています。そうしたいのです。そのために今現在私達はどうす
ればいいのでしょうか。

昨夜は、あまりにシャーシャーと、悪びれない態度なので、初めて主人に激しく叱られた
息子です。私は「悪いことをした時は謝らないといけないね。大事な○○君だから、なに
か思い出したことがあったらいつでも言ってね」と言い、それは冷静に聞いてくれました。

最近わがままがきつくなってきた息子。問題、原因は私の今までの息子への態度であると
わかっています。先生のHPを読ませて頂いて再確認するまでもなく、私の一貫性のない
態度、感情のままの対応。息子が泣いて物にあたる姿は、私そのもののようです。

自分の意見が通らないとわがままをいう姿も私です。「お母さんはぼくの言うことを信用し
てくれない」と主人に言ったそうです。こんな私になにかできることがあるのでしょうか。

【林より、Mさんへ】

万引きは、この時期の子どもの熱病のようなものです。
一応はしかりながらも、とことん、……という状況まで、子どもを追いつめてはいけませ
ん。
おどしたり、子どもが泣き出すほどまで、責めたててはいけません。

泣いたときには、耳は閉じたと考えてください。

冷静に、どこまでも冷静に。

こうした事案には、二番底、三番底があります。追いつめすぎると、
今度は、子どもは、その二番底、三番底……へと落ちていきます。

万引き程度では、すまなくなるということです。

また返事を書きます。

今しばらく、お待ちください。

はやし浩司

【Mさんより、林へ】

はやし先生
お忙しいところ早速の回答ありがとうございました。
盗ってきたものの量の多さ、シャーシャーとした態度に、ついこちらもなにか
言いたくなってしまうのですが、こらえます。またよろしくお願いいたします。

【林より、Mさんへ】

もうひとつ可能性として考えられるのは、
万引きをしてきたのではなく、おうちの方のサイフなどから、
直接お金を盗んで、買ってきたのではないかということです。

量が多いときは、まず、それを疑います。

家庭内でのお金の管理を徹底することで対処します。

【Mさんより、林へ】

家のお金も持ち出しています。子どもの財布にあるはずのない大金が
入っていたので。そして、たとえば本屋さんでは本を1冊は買い、あと何冊かを
持って帰るという風にしていたようです。

あともう一軒の店でも、少し買っては、同時にほかのものを持って帰り、それを私などに
プレゼントと言ってくれたりしていました。

その時から少しおかしいとは思っていました。今日も、おそらく盗んだであろうところの
折り紙で、私に色々折ってくれました。悲しい気持ちで、ありがとうと言って、それを
受け取りました。

【Mさんより、林へ、追伸】

数日前小4の息子の万引き、お金持ち出しで相談させていただいたものです。
お忙しいのにたびたび失礼します。

月曜以来、子どもに盗ったらしい品物やお金のことは聞いていません。

ここ数日、毎日の日課のようだった私の小言をやめ、子どものペースでやりたいように
やらせていました。やはり情緒不安定な感じで、時々、だだっこのようになりますが。
今朝、子どもが私の財布からお金を抜いていたことがわかったのですが、
私が大変うかつなことをしてしまいました。

まず、うっかり目につくところに財布を置いて寝てしまいました。
朝おきて気がついてみると、財布の中から、数千円がなくなっています。

子どもが別の部屋にいる間に子どもの財布をみると、そのお金が入っていました。
そして私はそのお金を自分の財布にもどして、子どもに聞いてしまったのです。

「お母さんの財布触った? お金しらない?」と。

あとで夫にたしなめられました。先日子どもはお父さんに財布の中を見られた時
激しく泣いて、ちゃんと話ができませんでした。何も言わずお金はそのままに
しておくべきでした。

今朝はその後、子どもがお金がないのに気づき、表情は一変するものの、お父さんとその
まま朝食→その間に私が財布にお金を戻す→子どもがまたお金を確認→財布以外のかばん
に隠す、という具合で、今、そのお金は子どものかばんの中にあり、今日は多分お友達の
家にそれを持ってでかけるでしょう。

どうかどうか、お店でそのお金で買い物するだけにして帰ってきてほしい。
お父さんだけでなく、お母さんにも財布をチェックされたと思っている子ども。
何回やってしまったかはわかりませんが、買っても買っても、さらに盗みまでしても、
満たされてない子どもの心を思うと、母として申し訳なさで胸がいっぱいです。

夫は「何があっても、子どもを疑ったり責めたりするような表情をみせたり、言葉に
したりしないようにしよう」と言われました。でも、私は今までいっぱいいろんなことで
責めてきたような気がするのです。

許してあげたいけれども、打ち明けてもらえるのはいつなのか、不安です。

【林より、Mさんへ】

だから、お金の管理だけは、しっかりとします。
徹底的にします。

万引きしないように、家でお金を盗ませるという話は、
筋が通っていません。

もう息子さんは、万引きはしません。だからお金の管理だけを徹底的に
なさることです。

あと通帳、カードも。もうそろそろそういう知恵が
働く時期になっています。

また何があっても、子どものかばんの中、サイフの
中は、のぞいてはいけません。

あなたが老後になり、立場が逆転したときのことを
考えてください。

はやし浩司

【Mさんより、林へ】

お忙しいところお返事ありがとうございます。
拙い文章ですみませんでした。

>万引きしないように家でお金を盗ませるという話は筋が通っていません

「万引きしないように家でお金を盗ませる」ために、わざと財布を見えるところに
置いたのではありません。

テーブルに出しっぱなしで寝て、しまった、私のミスでした。昨夜は祖母が泊まりに
きていたのでそういうことはしないだろうと、私も気が緩んでいました。
結果的にはお金を盗ませたことになってしまいました。
私の本気が足りなかったです。

そして、お金はそのままにしておいた方がいいと判断したのでしたが。

「万引きしないなら家のお金を盗んでもいい」とは決して思っていません。
なので、おっしゃる通りに管理を徹底します。

マガジンも、じっくり読ませていただいています。
たびたびすみませんでした。
ありがとうございました。

【林より、Mへ】

誤解した点はおわびいたします。

すみませんでした。

++++++++++++++++++++

【Mさんへ】

 お子さんを、H君としておきます。

 H君は、日常的に、たいへん不安定な心理的状況にあるものと思われます。それについ
て、いくつかの原稿を書いたことがありますので、ここに添付しておきます。

++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによ
って、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあ
いには、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ
逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱っ
たりしてもいけない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわ
かると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱ら
れると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年
長児)は、犬小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上
に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」というこ
とになる。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんど
ん遠ざかっていくという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小1)は、お
さげの中に、野菜まで入れて、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。
が、もし目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛
省しなければならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを
反省する。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で
調べる人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになる
から注意する。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにす
る。たとえ相手が幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなた
はあなた」というものの考え方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持
ちものを検査せよ」という意見があった。

しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバンの中など、のぞけるものでは
ない。私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可が
あっても、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとす
るほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子
どものころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。
またプライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理
屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような
不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、
それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
逃げ場 子どもの逃げ場 子供の逃げ場)

++++++++++++++++++

●過関心は百害のもと

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。い
わく、「学校の席がえをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言った
が、(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子ども
に対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行ってく
れないか」と。

その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境
が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、
むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがつ
いているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。ある夜、猛
烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせ
るとは、どういうことだ!」と。その子ども(小3男児)は、たまたま学校で、「ウンチも
らし」と呼ばれていた。小学二年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったこと
がある。もちろん私はそれを知らなかった。

 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないか
ということ。さらにはなぜ、小学2年生のときにそれをもらしたかということだ。さらに
こうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそ
んなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息が
つまるだろう。教育は『まじめ7割、いいかげんさ3割』である。子どもは、この「いい
かげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子
どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズ
まるけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれ
を自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、
かえって子どもの成長をさまたげる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 過関心 親の過関心 過干渉 神経質な子育て)

+++++++++++++++++++++

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、
心の問題をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」
「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、
無理をすればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親
というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。
その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかって
いない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてし
まう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを
繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出
てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその
状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある
例が、子どもの非行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。し
かしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く
叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化
させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、
決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく
子どもいる。しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、
あなた自身を振り返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの
巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子ども
には期待しないこと。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。
失礼な言い方かもしれないが、子育てというのは、もともとそういうもの。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
万引き 悪循環 巣立ち 二番底)

++++++++++++++++++

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害
による虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実である
かのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状
のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と
並べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区
別して考える。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理
的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう
神経症による症状は、つぎの三つに分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫
症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的に
ウソをつく)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけ
のわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴
れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿
症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、
便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般
的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での
神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって
行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気
力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようにな
る。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として
対処する。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。
愛情豊かな家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試
されていると思い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「こ
れ以上症状を悪化させないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、
ウソも消える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
神経症 心身症 子どもの虚言 空想的虚言 妄言 子どものウソ 子供の嘘)

++++++++++++++++++

 ここに添付した原稿が参考になればうれしいです。

 H君にとって今、一番重要なのは、安定した、心豊かな家庭環境です。それを用意する
のは、容易なことではありませんが、Mさんは、すでにそれに気づいておられます。

 あとは、結局は、自分との戦いということになりますね。

 どうか、がんばってください。

 では、今日は、これで失礼します。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●親子の断絶

++++++++++++++++++

Nさんが、息子のことで悩んでいる。
苦しんでいる。

それは理解できる。しかし同じように
その息子も、苦しんでいる。

決して息子を肯定せよということではない。
しかしあなたには、その息子の悩みや、
苦しみが理解できるだろうか。

++++++++++++++++++

 Nさんから、息子の問題について、続報が届いている(「はやし浩司の掲示板」)。それを
そのまま、ここに紹介する。

 これを読むとき、もちろん第一義的には、Nさん自身の悩みや苦しみを、理解する。し
かし同じように、息子自身も悩んでいる。苦しんでいる。つまり善良な人たちが、たがい
に、キズつけあい、悩み、そしてキズつけあっている。それを理解する。

 で、あなたには、この書きこみを読んで、息子の叫び声が聞こえるだろうか。「お母さん、
この苦しみから、ぼくを救ってよ!」と。

 もしここでNさんが、息子との絆(BOND)を断ち切れば、息子は、まちがいなく、
奈落の底へと落ちていく。今、Nさんは、その正念場を迎えつつある。がんばれ、Nさん! 
息子がどうであれ、あなたは『許して、忘れる』。それを貫く。

 どんなに裏切られても、どんなにキズつけられても、『許して、忘れる』。真の親の愛は、
あなたの手の届くところにある。そこであなたを待っている。がんばれ。Nさん、それに
あなたの手が届いたとき、あなたの息子は、変わる。本当の自分を前に出す。

 それがわからなければ、アルバムを出して見たらよい。息子が幼児期、少年時代の写真
を見たらよい。

 それを信じて、がんばれ!

【Nより、林へ】

ありがとうございます。

息子は夜中に帰ってきました。

彼女と会っていたのかと思いましたが、友達と遊んできたようです。(許せないです)
今朝、起こすと、怒鳴り声で、「うるさい!」と叫ぶ。で、そのまま私は仕事に出かけ、帰
ってくると、使うはずの商品券5000円が、なくなっていました。息子は、部屋にそれ
を包んで箱だけ残して・・。

夕方、帰ってきた息子に問いただすと、「昼飯代くれなかったから取っただけ」と・・・。

中学時代からしょっちゅう、うちのお金を盗んできた息子。そのつど怒りましたが、バイ
トを始めた今でも、手持ちがなくなると平気でこんなことをします。

彼女と会うと言っていたのに、会わずに帰ってきました・・・。

いろんなことから逃げて、人の物を勝手に盗み、自分さえよければ、今だけよければそれ
でいい。バイトもしょっちゅう変わり、バイト先の人にも怒られました。

いくら親に何を言われても平気。

こんな息子だからこそ、今回のこと(女友だちが妊娠したこと)は、本当に向き合っても
らいたいです。
きちんと十字架を背負って。

許して忘れ、いつ帰ってきてもいいようにしておく・・・。
それは、本当につらいことですね。

高校時代、「家を出たい」と、ずっと言ってた息子。資金面で我慢させてしまいました。
今、逆に私は、3月に下宿させればよかった・・・と後悔しています。
今は、早く下宿させたいと思っています・・。

昨日も今日も息子と話し合いできずに終わってしまいました。
冷静に落ち着いて、母親として話し合いたいのですが・・・。

親としての真の愛情を与えられるよう、しばらく息子の態度をみます。
ありがとうございます。

+++++++++++++++++

 「形」としては、家庭内暴力に似ている。またそれに準じて、子どもの心理を考える。
Nさんの息子は、ギリギリのところで、Nさんという母親の限界を確認しながら、(無意識
ではあるにせよ)、Nさんを痛めつけている。苦しめている。

 息子自身も、自分でも、どうしたらよいのか、わからないでいる。そのため自己嫌悪か
ら、自暴自棄へと、走りつつある。もしここでNさんが、その絆(BOND)を断ち切れ
ば、息子は、先にも書いたように、奈落の底へ落ちていく。

 息子もそれがわかっているから、今、懸命にふんばっている。「そんなことをすれば、か
えって親に嫌われるだけ」と、ふつうの人だったら、そう考えるだろう。しかし息子は、
嫌われることによって、自己主張している。心理学の世界では、(2匹のヤマアラシ)とい
う言葉を使って、それを説明する。

 寒い夜、2匹のヤマアラシが、穴の中で、眠ることになった。しかしたがいに体を近づ
けると、たがいの針が刺さり、痛い。しかし遠ざかれば、寒い。こうして2匹のヤマアラ
シは、一晩中、穴の中で、離れたり、くっついたりを繰りかえした。

 この「2匹のヤマアラシ論」は、本来は、人間関係をうまく結べない人が、孤独と、人
と接触することによって起こる苦痛の間を、行ったり来たりするのを説明したものである。
しかし今のNさんと、Nさんの息子を見ていると、そういう感じがする。

 たがいに針を出しあって、たがいに孤独なのに、キズつけあっている。が、さりとて、
別れることもできない……。

 息子の立場で言えば、こうだ。

 「今まで、何度も何度も、SOSのサインを出してきたのに、お父さんも、お母さんも、
わかってくれなかった」と。

 Nさんにしてみれば、息子が甘ったれた人間に見えるかもしれない。バイトを転々とし
たのも、不満かもしれない。しかし息子にしてみれば、何をやっても、うまくいかない。
自分のしたいこととちがう。父親や母親からは、何をしても、頭から否定される……。お
どされる……。どこかに自分がいるのだが、どうしても、それがつかめない。

 それが転じて、Nさんの息子は、どこか暴力的だが、そういう方法で、自分を取り戻そ
うとしている。模索している。やり方としては、幼稚だが、息子には、それしか方法が、
思いつかないのだ。

 あえて言うなら、今、こういう状態になっている親子は、決して、少なくない。全体の
何割かがそうであると言ってよいほど、多い。

 だから今のNさんにすべきことは、ただひとつ。

 「あなたにどんなに裏切られても、どんなにキズつけられても、私は、へこたれません
からね。あなたをとことん愛しますからね」という態度を貫くこと。Nさん自身も気がつ
いているが、人を愛するということ、つまり『許して忘れる』ということは、それほどま
でに過酷で、つらい。きびしい。

 そのきびしさを、私は、「第二のお産」と呼んでいる。

 それができたとき、親は、真の愛にたどりつくことができる。

 負けてはだめですよ。Nさん、がんばれ! その「愛」さえあれば、息子は、必ず、立
ちなおる! 私はそういう事例を、何十例も見てきた。ウソではない。だから、がんばれ! 
私を信じて、がんばれ!

 迷ったり、袋小路に入ることはあるかもしれないが、息子にだけには、そんな弱みは、
見せてはいけない。あなたは堂々と、息子を信じ、愛せよ。『許して、忘れよ』。それを息
子が肌で感じたとき、ひょっとしたら、あなたはこの世にいないかもしれない。10年先
かもしれない。20年先かもしれない。

 しかしそれでも、あなたは、今のあなたを貫く。コツは、暖かい無視。商品券ぐらいの
ことで、ガタガタしてはいけない。無視して、お金の管理だけは、しっかりとする。

 私は今まで、本能的愛、代償的愛、そして真の愛について、何度も書いてきた。生まれ
た赤ん坊に頬ずりをして、「かわいい」「かわいい」というのが、本能的愛。

 子どもの受験勉強に狂奔するような親が感ずるのが、代償的愛。「子どもため」を口実に
しながら、結局は、自分の心のスキマを埋めるために、子どもを利用しているだけ。

 そして真の愛。今のNさんには、それがわからないかもしれない。しかし今、Nさんは、
その真の愛の一歩、手前にいる。

 そこは実に、おおらかで、心豊かな世界。5000円くらいの商品券で、カリカリする
ようなこともない。が、今、ここで息子を突き放してしまえば、Nさんは、せっかくのチ
ャンスを逃すことになる。

 Nさん、いいですか! 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。それを
忘れてはいけませんよ。今、あなたの息子は、あなたに真の愛というのがどういうもので
あるかを、命をかけて、教えようとしている。

 あなたはそれを学べばよい。すなおな気持ちで、それを学べばよい。親意識など、クソ
食らえ! 親の威厳など、クソ食らえ! あなたは、もっとバカな親になればよい。とこ
とんバカな親になればよい。1人の人間として、息子の前に立ち、泣きたいときは、すな
おに泣けばよい。あやまるべきことは、すなおにあやまればよい。まず、あなたが全幅に
心を開いて、胸の中のありったけの気持ちを、語ればよい。

 あとは、時間が解決してくれる。「愛」には、魔法の力がある。「時」には、心を癒す、
これまた魔法の力がある。

 負けてはだめですよ。くじけたら、だめですよ。ここが正念場ですよ!!!!

 がんばれ、Nさん!!!!!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
真の愛 親の真の愛 本能的な愛 代償的愛 はやし浩司 親子の正念場 はやし浩司 
第二のお産)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●平凡で退屈な人生

 アメリカのあるビデオを見ていたら、こんな言葉が出てきた。「平凡で退屈な人生」と。

 どこか頭のおかしい大学の教授が、会社勤めをしている若い男に言った言葉である。そ
の若い男に、その教授はこう言う。

 「お前は、オレに感謝すべきだ。お前の平凡で退屈な人生を、オレが変えてやった」と。

 英語で何と言ったかは、覚えていない。しかしこの言葉が、気になった。何だか、私自
身に言われたような気がした。

 私の人生は、その平凡で、退屈な人生そのもの。「これでいいのかなあ?」という迷いの
連続。映画の冒険物語のようなスリルや、興奮とは、無縁。いつも無難であることだけを
願っている。またそういう生活を送っている。


●人生はドラマ

 三男が、こう言った。「幸福に向かって努力しているときが、人間は幸福なんだ」と。

 私も、そう思う。結果がどうであれ、そこに至るプロセスが、大切。ドラマが大切。そ
のドラマに意味があり、価値がある。

 しかしいつもいつも、うまくいくとは、かぎらない。自分のもつ力には、限界がある。
その限界の向こうで、ドラマが勝手に展開してしまうこともある。しかも、それがときと
して悪循環に陥り、望まぬほうへ、望まぬほうへと、ものごとが進んでしまうことがある。

 気がついたときには、袋小路。にっちもさっちも、いかなくなる。

 そういうときは、どうするか?

 あえてその運命を、受け入れるしかない。運命とは、そういうもの。あたかも無数の糸
がからみつくようにして、その人の進むべき方向を決めていく。

 その運命は、それから逃げる者には、キバをむく。悪魔となって、その人を襲う。しか
しそれを笑う者からは、シッポを巻いて、退散する。

 自分の不運や不幸をのろえばのろうほど、それこそまさに悪魔の餌食(えじき)。だった
ら、笑い飛ばせばよい。バカめ!、ハハハ、と。

 そのとたん、また時計は進み始める。その先に、未来が見えてくる。


●勇気

 その運命について。逃げても、問題は、解決しない。逃げれば逃げるほど、その運命は、
あなたを追いかけてくる。死ぬまで、追いかけてくる。

 生きている以上、いやなこともある。いやなことが、つぎつぎと起こる。起きて、当た
り前。

 しかしそれから逃げてはいけない。ここに書いたように、逃げれば逃げるほど、運命は
悪魔となって、キバをむく。あなたに襲いかかる。仮に逃げ切ったと思ったとしても、後
味の悪さだけが、いつまでもつづく。悶々とつづく。

 卑怯(ひきょう)な人間に、安穏(あんのん)たる日々は、決して、やってこない。が、
それだけではない。

 すぐそこに真実があっても、それを見ることすら、できなくなる。

 だから問題が起きたら、真正面からぶつかる。それを、人は、「勇気」という。

 
●孤独

 全幅に信じられる人と、ともに暮らす。「信ずる」ということは、「みじんも疑わない」
という意味。それだけが、あなたの孤独を、癒(いや)す。

 人は、一生をかけて、その人をさがし求める。さがし求めて、さまよい歩く。しかしひ
とつの条件がある。

 自分が、その信ずるに値しない人間が、どうして人を信ずることができるだろうか。

 卑近な例だが、不倫ばかりしている男が、どうして自分の妻を信ずることができるだろ
うか。

 人を信ずるためには、まず自分が、その信ずるに値する人間になる。相手を信じたいと
願うなら、相手に信じてもらえるような人間になる。

 が、それは決して、楽な道ではない。たゆまない努力と、忍耐が必要である。またそう
したからといって、必ずしも、信じてもらえるというわけでもない。

 が、それをしなければ、あなたは、「孤独」という魔物から、逃れることはできない。あ
るいは安易な享楽主義に陥れば、あなたは、「孤独」という代償を払う。

 そう、人生で、孤独ほど、恐ろしいものはない。それはまさに、地獄。人を信ずること
ができない人間は、その無間地獄の中で、もがき、苦しむことになる。


●もっと、怒ろうよ!!

 天下り先で、元中央省庁のOBたちがしていた随意契約が、1兆3800億円(05年
度)!

 あのトヨタが、昨年度あげた純利益が、1兆円。新聞の1面トップを飾るようなニュー
スになった。しかしそれ以上の額を、中央省庁のOBたちは、私利私欲のために、流用し
ている。一説によれば、そのほか、毎年、約4兆円ものお金が、天下り先への持参金とし
て、使われているという。

 中日新聞は、こう伝える。

 「随意契約で仕事を回す見返りに、天下りを受け入れさせてきた構図が、浮き彫りにな
ったといえる」(5月12日)と。

 が、こうした慣行(?)は、何も中央省庁だけの話ではない。全国津々浦々、お役人た
ちは、みな、それをしている。

 おかげで、国家公務員と地方公務員の人件費だけで、38兆円。(38兆円だぞ!)国家
税収が42兆円前後だから、その大半を、公務員たちが、人件費として、使い果たしてい
ることになる。

 みんな、もっと怒ろうよ! 本気で!

 もしあなたが、「私には関係ないこと」と思っているとしたら、とんでもないまちがい。
今に見る、この日本の高コスト社会を見ろ! 食費にしても、おおざっぱに見て、値段は、
欧米の約2倍! つまり私たち庶民が、その分だけ、こうした慣行(?)を維持するため
の、犠牲になっている。

 わかりやすく言えば、平均的な日本人が、今より、2倍だけよい生活をしたとしても、
何も、おかしくない。

 何も暴動を支持するわけではないが、フランスあたりで官僚たちがこんな好き勝手なこ
とをしたら、暴動になる。アメリカでも、オーストラリアでも、暴動になる。

 つまりは、私たちの主義主張まで、官僚たちの思うがまま。キバを抜かれ、もの言わぬ
従順な民に育てられてしまっている。

 怒りのもって行き場すら、ない。与党の党首も、野党の党首も、元中央官僚。全国の都
道府県知事の大半も、国会議員の大半も、みな、元中央官僚。選挙そのものが、形骸化し
てしまっている。

 さらに評論家にしても、中央にいる連中は、みな、キバを抜かれてしまっている。官僚
にたてついたら、メシさえ食っていかれない。情報ももらえない。

 こんなバカげた、自称、民主主義国家が、どこにある! 私は怒っている! 本気で怒
っている!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【粗大ゴミ】

+++++++++++++++++++++

私の家の隣には、広い空き地がある。竹やぶに
なっている。が、そこは、かっこうのゴミ捨て場。

先日も、大きなダブルベッド用のマットが
捨ててあった!

+++++++++++++++++++++

●かっこうのゴミ捨て場

 私の家の横には、大きな空き地がある。竹やぶになっている。その空き地は、かっこう
のゴミ捨て場になっている。1か月も清掃しないでおくと、そこには無数のゴミがたまる。

 だれが捨てるか?

 ときどきゴミや、ゴミ袋の中を確かめることがある。が、だれが捨てたか、それがわか
るようなものは、めったに入っていない。生ゴミや、冷蔵庫の中で腐ってしまったような
ものが捨ててあることが多い。ショッピングセンターで買ってきた、食材のポリ容器とか、
自宅のゴミ箱にたまったようなゴミなど。

 そういうものを、袋につめて、ポイポイと捨てていく。

 が、である。ときどき、とんでもないものまで捨てていく。ベッドや、物干し台、ふと
んに子どもの三輪車など。自転車も、ときどき捨ててある。

 夜中にやってきて、こっそりと、捨てていくらしい。

 そんなある日、ちょうど2週間ほど前のことだが、そこにダブルベッド用のマットが捨
ててあった。大きなマットである。厚さが20センチ近くもあった。

 さすがの私も、これには、あきれた。あきれて、しばらく、そのままにしておいた。す
ぐに処分する気にはなれなかった。

●外国人?

 マットは、半分、竹やぶから外にはみ出し、3分の1ほどが道路にのしかかっていた。
一度、竹やぶの中に、押しこもうとしたが、私1人の力では、ビクとも動かない。

 しかたないので、さらに1週間、そのままにしておいた。とても残念なことだが、この
あたりで、こうした空き地の清掃をするのは、いつの間にか、私の仕事になってしまった。
近所の人たちの中には、そんなわけで、その空き地を、私のものだと思っている人も多い。
ゴミがたまったりすると、「何とかしろ」と怒ってきた人もいた。

 が、さすがに2週間もほうっておくと、マットが目立つようになってきた。それにそう
した粗大ゴミをそのままにしておくことは、たいへんまずい。

 それが誘い水となって、そのあたりが、ますますゴミの山になってしまう。以前にも、
そういうことが何度かあった。

 いよいよ私の出番である。

 私は、マットの検分から始めた。新しくはないが、しかしどこかに、まだ真新しさを残
していた。一部には、幼い子どもが描いたと思われる、落書きがあった。顔を近づけてみ
ると、独特の香水の匂いがした。

 日本人が使わない香水の匂いだった。

 このあたりには、外国人がたくさん住んでいる。「引越しをすることになった外国人が、
処分に困って、ここに捨てていった」というのが、私が出した結論だった。

●作業開始

 まず、三角すきで、マットの上地の縦横に、穴を開けた。以外と簡単に開いた。分厚い
布地の下は、1〜2センチ厚のウレタン層になっていて、さらにその下には、椰子(やし)
の実をほぐしてつくったような下地が、全体に、まぶしてあった。

 それを三角すきで、ほぐすたびに、異様な臭いがした。腐ったような甘い臭いだった。
私はその下にあるスプリングに、何度も三角すきをからませながら、マットをズタズタに
した。

 問題は、スプリングである。直径が、6〜8センチほどの円形のスプリングが、縦に並
べてある。そしてそのスプリングどうしが、がんじょうなコイルでつないである。

 三角スキが、そのスプリングにひかかる。それを手ではずす。そのとき、あの臭いが、
手にしみつく。吐き気を催すような臭いである。加えて、あの香水の匂い。強烈な匂い。

●老人 

 空き地の反対側には、近くの老人たちが集まる広場がある。老人たちが、畑を作ったり、
椅子を持ちこんだりして、好き勝手なことをしている。

 一応、管理人と呼ばれる女性もいる。私たちは、尊敬の念をこめて、「バーバ」と呼んで
いる。しかしその女性は、このところ、体調を崩したとかで、ほとんど姿を見せていない。
今年、95歳になるという。

 が、その作業、つまり、私がマットの上地に穴をあけているとき、その中の1人の女性
が通りかかった。

私「こういうことをしてもらっては、困りますねエ」
女「そうですねエ」
私「ちゃんと管理してもらわねば……」
女「地主は、東京の人ですから……」
私「いくら東京に住んでいても、やるべきことはしてもらわないと……」と。

 そのままその女性は、通りすぎていった。私は、さらに作業を進めた。

 スプリングは、金テコで切れるような代物(しろもの)ではなかった。歯が立たなかっ
た。

 しかたないので、電気工事屋が使う、特大の金切りハサミをもってきた。太い電線を切
るためのハサミである。柄の長さが、60センチ近く、ある。こうした工具は、一応、そ
ろえてある。

 その金切りハサミで、スプリングを1本ずつ、バラバラにしていく。が、これがかなり
の難作業。20〜30分もすると、全身が、汗で、びっしょりになった。私は上半身を使
う仕事をすると、すぐ汗をかく。

 やがてワイフも合流した。

●怒り(?)

 マットの解体には、2日、かかった。その2日目のこと。

 マットを、枠(わく)の部分と、スプリングに分解した。枠の部分には、特大の針金が
使ってあった。特大の金切りハサミを使っても、なかなか切れない。そこでワクをはさん
だまま、ハサミの柄の一方を地面に置き、もう一方の柄に、私の体重をかけて、切った。

 1か所、2か所と……。

 不思議と怒りのようなものは、そのときは、感じなかった。「楽しい」とまではいかない
が、こうした作業は、もう何度もしてきた。そんなとき、大音声の拡声器をつけた、物干
し売りがやってきた。

 「サオヤ〜、青ダケエ〜」と。

 一度は、その車は、私の横を通り過ぎたが、またどこかで折りかえして、私のところに
やってきた。私はその車を運転している男の顔を、真正面からとらえた。にらんだ。

 そして手で耳をふさぐしぐさをしてみせ、つぎに手でボリュームをさげろという合図を
送った。

 男はそのまま、私の横に、車を止めた。

私「もっと、ボリュームをさげろ!」
男「ハア〜」
私「条例違反だぞ!」
男「ベッドですかア? 大きなベッドですねエ〜」と。

 私は無視した。と、そのとき、私は怒っていることに、自分で気づいた。

●報告

 解体がほぼ終了したところで、空き地の反対側、つまり竹やぶの反対側に向かった。い
つもなら、3〜4人の老人たちがいるはずである。

 見ると、その日は、2人、いた。この前、通り過ぎた女性もいた。

私「ベッドは、私のほうで、解体しておきましたから、あとは、お宅のほうで、処分して
おいてくださいね」と。

 一応軽い笑みをつくりながら、穏やかな口調で言ったつもりだった。が、その女性は、
即座に反論してきた。

女「そんなこと言われても、困ります。私たちには、関係ありませんから」
私「関係ない? 関係ないということはないでしょう。あなたたちは、いつも、ここにい
るのですから。畑も作っているじゃあ、ありませんか?」
女「この土地は、バーバのものです」と。

 バーバというのは、自称、管理人。この30年以上、その土地を、自分の土地のように
して利用してきた女性である。畑も作っている。このところ体調を崩して姿を見せなくな
ったという、その女性である。

私「あのね、私はあなたがたに、ご苦労様と礼を言われる立場の人間ですよ。あなたがた
が処分しないから、私が手伝ったわけでしょ。そんな言い方はないでしょ」
女「私も、85歳ですからねえ」
私「85歳? それがどうかしましたか? 私は58歳です。年齢など、関係ないでしょ」
女「そんな重いものは、私には処分できません」
私「だから、私のほうで、こまかく分解しておきましたから」と。

 ことあるごとに年齢を理由にする老人は、多い。年齢を口にすれば、すべてが免除され
ると思っているらしい。不愉快な言い方である。

●肩の痛み

 こうしてマットの解体は、終わった。しばらくしてから、危険物の収集日に、私がそれ
を出すしかないようだ。

 が、どうも気が晴れない。いつものような、さわやかさを、感ずることができない。ひ
とつには、その作業のせいで、左肩を痛めてしまったことがある。少し前切った肩の腱が、
再び、痛み出した。その痛みが肩全体に広がった。

 ふつうの痛さではない。何か荷物をもっただけで、ズキンズキンと痛む。立っているだ
けも、腕の重さで、痛む。

 昨夜も、おとといも、大きな湿布薬を張って寝た。

 それにあの女性の言い方が、不愉快だった。「私も、85歳ですからねえ」と。それが耳
に残った。それをワイフに報告しながら、私は、ワイフにこう言った。

私「ぼくは、死ぬまで、自分の年齢なんか、口実にしないぞ。80歳になっても、90歳
になっても、そういう言い方はしないぞ」と。

 しかし、だれだろう。あんな大きなダブルベッド用のマットを捨てていったのは? あ
の臭いは、ひょっとしたら、そのマットの上で繰り広げた、男と女の愛欲の体臭だったか
もしれない。

 ……ふと、今、そう思った。
(06年05月13日記)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   6月 9日
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page019.html

********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【掲示板への相談より】

++++++++++++++++++++

Nさんの息子さんは、今年、大学に入学しました。
しかしつきあっていた、1歳年上の女性が、
妊娠してしまったというのです。

現在、妊娠6か月。

Nさん夫婦は、息子さんたちの交際に反対していま
した。相手の女性の両親にも、何度もその旨を
伝えていたといいます。

しかし息子さんは、ときどき、相手の女性の家に
連泊。相手の女性の両親は、息子さんがそうすることを、
むしろ歓迎するようなところがあったといいます。

また相手の女性には、それ以前につきあっていた男性
との間にできた、1人の子どもがいます。

その子どもは、現在、満1歳。

そのNさんからの相談です。
掲示板でのやりとりを、そのままここに転写します。

Nさんは、今、落胆のドン底にいます。
みなさんの中で、同じような経験をなさった人が
いれば、どうか連絡してください。

Nさんにとって、何かの助けになれば、
うれしいです。

++++++++++++++++++++


【Nより、林へ】

2月に相談にのっていただいた、元高3息子の母です。
息子の彼女は18歳。1歳の子持ち。

その後、私は林先生のおっしゃる通りにして、頑張ってきました。
息子はなんとか大学に合格して(彼女の家のそば)、卒業もできました。
先生のおかげです。ありがとうございます。

息子は2時間半かけて大学に毎日通っています。彼女のところに行かなくなりました。
大学での女友達もできたようです。先生のおっしゃる通りだと思っていました。
そして、息子も「彼女とは終わった」と言いました。

ところがです、先週、彼女の母親から電話がありました。主人がでました。「娘とは終わっ
たようですが、携帯代その他もろもろのお金を立て替えている。話もあるので、その旨、
伝えてほしい。」とのことでした。

主人は「はじめから認めてないつきあいなので、電話あったことは伝えてきますが、後は
息子と話し合ってください」と言ったそうです。

また、今日電話あり、主人がでました。「息子さんから連絡がない。娘は妊娠6ヶ月です」
と。

主人は「始めからずっと反対していると言っていたのに、あなたが2人の仲をあおってき
た。携帯代も払わないでくれ、交通費を出すのもやめてくれ、下宿先も教えないでくれ、
といったのに、あなたと娘さんがすべてしたのです。話し合いは息子としてくれ。一切知
りません。」と言ったそうです。

今いる彼女の子どもも、元の彼からは、認知してもらっていないと聞いています。
主人も私も息子にすべて任せるつもりです。半分巣立っているのだから・・・
おかしいでしょうか?!
無責任でしょうか?!

でも、今までこんなにも息子と息子の彼女とその親に振り回されてきたのです。息子の1
番大事なときにでも、夜中でも「きて」と言われれば、息子は飛んでいきました。それで
4日も帰ってこないことしばしばです。 私達親は、つらかったです。
まだ未青年だけど、巣立ったものとして、本人に任せてよいでしょうか?!
お忙しいのに申し訳ありません。教えてください.


【林より、Nへ】

まゆっくりと考えてみますが、妊娠の件は、フィクションではないかと思います。
きわめて重要な妊娠の話をさておいて、その前に、どうでもよい携帯電話の立替代の話を
請求してくるということは、どう考えても、不自然です。

私が相手の親なら、先週の電話で、開口一番、妊娠の話をしたと思います。

6か月もたっているというのでは、日数もおかしいですね。
まだつきあっているころに、すでに妊娠のことはわかっていたはずですから?

2月にNさんから相談があったときには、妊娠3か月目だったということになるわけです
……。相手の女性は、それに気づかなかったのでしょうか。

息子さんと連絡をとって、そのあたりの事情というか、様子を一度、確認なさって
みてはいかがでしょうか。

ご主人の態度は、立派です。支持します。こういうときは、夫婦が一丸となることです。
たじろいだり、不協和音を相手に見せてはいけません。どんなときも、毅然と、あなたの
ご主人の言ったとおりの態度と姿勢で臨みます。ここが重要です。

息子さんの年齢には、少し負担が大きすぎる事案かと思います。内部では、息子さんを
支え、外部に向かっては、「息子と解決してくれ」と主張なさることが、何よりも
賢明です。

本当に6か月なら、(私はウソだと思いますが)、中絶もできません。仮に妊娠が
本当であるとしても、認知の立証義務は、女性の側にありますから、ここは今、しばらく
様子を見られたらいかがでしょうか。息子さんの子であるという証拠を相手がもってくる
まで、
否定つづけるのが、正攻法です。今のところ、打つ手はありません。

またあとでゆっくりと考えて返事を書きます。


【Nより、林へ】

ありがとうございます。
今日の朝方息子は酔って帰ってきました。
彼女のことを言うと、すでに妊娠のことは、2月には知っていたそうです。その時は結婚
も考えたそうですが、またいやになり、おろす事を2人で考えたそうです。

彼女の親はその時点で知っていたそうです。それを告げると、「そうなの?!」とだけ言っ
たそうです。

どうして、妊娠がわかった時点で、彼女の親は、こちらに言ってくれなかったのでしょう?
彼女から3月の終わりに、「別れよう」と言ったそうです。「子供は1人で育てる」と。
彼女の親が妊娠6か月まで言わなかったのは、養育費をこちらに請求するためなのかもし
れません。

今までずっと私たち親が、「交際をやめてください」ということを、ずっと言ってきました。
彼女の元彼との間にできた、17才のときに生んだ子供も認知してもらってないそうです。

息子には、入学の前日に「もし、今の彼女との間に子供でもできたらお前との縁は切る」
と主人がいいました。だから息子は、何も言えなかったと、今になって言います。
息子は今、彼女もおなかの子どもも死ねばいい。うざい。と言います。
あまりにも甘いです。

弁護士を立てて話したほうがいいでしょうか?!
私は主人の意見に従おうと思っていますが、息子があまりにも幼すぎて、らちがあかない
ようにも思えます。
お忙しいのに申し訳ございません。よろしくお願いいたします。


【林よりNへ】

そうでしたか……。

この際、責任のなすりあいをしても意味がありませんので、運命は運命として、
受け入れるしかないと思います。(もちろん、そんなことは相手に伝える必要
はありませんが……。あくまでも、こちら側の心づもりとして、です。)

運命というのは、それをのろったとき、悪魔に変身します。しかし受け入れて
しまえば、悪魔は向こうから退散していきます。

あなたのかわいい孫が誕生するのです。生まれ方には、少し問題がありますが、
孫は孫です。

法律的には、あなたのほうにも言い分はあるでしょうが、養育費ということに
なると、拒否はできません。弁護士を立ててくるのは、先方のほうですから、
相手がそう出てきたときに、はじめて、こちらも弁護士に相談してみたら
どうでしょうか。今は、こちらから動くべきときではありません。

息子さんと、向こうの女性と、話し合って解決するのが、何よりも第一です。

親のあなたたちに養育費の支払い義務はありませんので、そういう話があったても、親と
しては、きっぱりと、拒否することです。

息子さんに、支払能力がないことは常識ですから、相手も強くは言えないはずです。
ただ、息子さんが、大学を卒業したあと、収入が入るようになった段階で、
養育費の問題は出てくると思います。その覚悟はしておく必要があります。

金額などは、そのとき弁護士双方で、調停でもすればよいかと思います。家事調停なら、
家庭裁判所で、当事者どうしでもできます。

弁護士……ということになると、話がおおげさになりますし、しこりも残ります。
当事者どうしで、円満に解決なさるほうが、賢明かと思います。

また、認知の問題も出てくることでしょう。しかし息子さんは、この問題から
逃げることはできません。

だったら、前向きに受け入れていくしかありません。

なお後日の係争のため、こちら側の言い分などについては、
証拠が取れるものについては、きちんと証拠を取っておくことをお勧めします。

電話なども、すべて録音されることを、お勧めします。

また息子さんと相手の女性との会話についても、
きちんと何らかの方法で、録音しておくことです。息子さんには、
そうお伝えください。

これからは、そうしてください。

親として、こちらから出る幕はありませんので、
相手から何かの動きがあるまで、動く必要はありません。

あとは親どうしでお金で解決するという方法もありますが、
それも一考してみてください。慰謝料、養育費の請求放棄などの
念書は、取っておきます。

苦しいご心中は察しますが、この際、冒頭にも書いたように、
運命を受け入れるのが、その苦しさから逃れる唯一の方法かと
思います。

1人の人間が、もうすぐ、この世に誕生するのですから……。

親というのは、子どもたちの尻拭いばかりさせられるものですよ。

ただ息子さんには、「お前には、人間として責任がある」と、はっきり
言っておくことは重要です。この問題だけは、息子さんにも、逃げる
ことはできません。そういう自覚だけは、しっかりともってもらいます。

ともかくも、相手の出方を、しばらく静観することしか、今のところ、
どうしようもないように思います。そのときがきたら、その覚悟をして
対処します。今は、そういう状況だと思います。

以上、参考までに……。

はやし浩司


【Nより、林へ】

ありがとうございます。

向こうから何か言ってくるまで静観します。
養育費の問題もわかりました。

ただ、息子は、他人ごとのように考えているようです。
彼女もおなかの子についても、死ねばいいなどとばかなことをいいます。
だからこそよけいに息子には、正面から向きあってもらいます.

息子が入学前に主人が「もし、今の彼女との間に子供でもできたら縁を切る。そしてお前
への援助(学費など)一切打ち切る。それを頭に置いて行動しろ」と、伝えていました。
息子は今日「だから言わなかった」と言いました。

今後、息子への親としての対応も考えていかねばなりません.
あのように言い切った以上、息子には一応制裁を親として与えるべきでしょうか?
1人暮らしをしてもらうとか・・・。

未成年だけど、大人として扱い、自立してもらう。
どうでしょうか?!
お忙しいのに申し訳ありません。
読んでいただきありがとうございました。


【林よりNへ】

 Nさんのご家庭では、(おどし)が、親子の会話の基本になっているようで、気になりま
す。

 「縁を切る」とか、「学費を打ち切る」とか、そういう極端な言い方は、親子の間ではあ
まりしないほうがよいかと思います。あるいは長い過程の中で、そういう言い方になって
しまったのでしょうか。

 おどしても、聞かない。だからますます強いおどしをかける。この悪循環が、どこかで
始まってしまったのかもしれませんね。しかしここは、冷静になってください。

 まずもって心配されるのは、Nさんが、息子さんの言い分だけしか聞いていないという
ことです。息子さんは、「相手の女性が、別れると言った」「子どもはひとりで育てると言
った」と言っているようですが、本当にそうでしょうか。ひょっとしたら、相手の女性は、
相手の親たちには、別のことを言っているかもしれません。

 ですからこちら側だけの言い分を相手にぶつけてしまうと、こうした事案は、こじれて
しまいます。ですから、ますます冷静になってください。

 客観的に見ますと、その女性の最初の子どもは、その女性がどこかで遊んでいてできた
子どもということになります。しかし息子さんとの間にできた子どもは、相手の親たちが
公認のもと、しかも息子さんが、その相手の家に出入りしている間にできた子どもという
ことになります。

 「結婚する意思はなかった」と言っても、それは通らないかもしれません。あなたたち
から見ると、交際に反対していたのに、相手の親たちが勝手に、息子をかどわかしたとい
うことになります。しかしひょっとしたら、相手の親たちは、そうは思っていないかもし
れません。息子さんが、相手の親たちに、どのような接し方をしていたのかは、あなたた
ちには、わからないわけですから……。

 息子さんは、あなたたちにウソは言っていないと思います。しかしすべてを話している
とも、思われません。

 そんなわけで、まず、当事者どうし、つまり息子さんと、相手の女性と、冷静に話しあ
う機会と場所を、つくるようにし向けるのが、最善かと思います。

 お気持ちは理解できますが、「縁を切る」とか、「学費を止める」とか、さらには、「制裁
する」という話は、今、すべきではありません。またそれにこだわったところで、問題は
解決しません。この問題の基本には、あなたたち夫婦と、息子さんとの間で、長い時間の
中で作られた、深い、不信感があります。

 私の印象では、あなたの夫は、かなり権威主義的な、つまり古風な、親風を吹かすタイ
プの父親ではなかったかと思います。もしそうなら、そうした父親に追いつめられていっ
た、息子さんの気持ちが私には、よく理解できます。

 ……とまあ、あなたたちを責めるようなことばかり書きましたが、(子どもができてしま
った)という事実は、それくらい責任の重い話だということです。半分は、生まれてくる
子どもの立場で、ものを考えなくてはいけません。そういう子どもを、「うざい」とか、「死
んでくれればいい」などというのは、言語道断です。

 仮にあなたの息子さんが、(それにあなたたち夫婦も)、この問題からうまく(?)逃げ
切ったとしても、後味の悪さだけが残り、その後味の悪さは、息子さんにも、あなたたち
にも、死ぬまでついて回るでしょう。

 だったら、前にも書いたように、この問題は、前向きに考えていきます。逃げるのでな
く、正面からぶつかっていきます。それこそ、相手の女性の子どもを、相手の女性が育て
ないというのなら、引き取るぐらいの覚悟はもちます。(だからといって、こちら側から、
それを申し出る必要はありませんが……。)

 またそういう覚悟ができたとき、Nさんたちは、運命を受け入れたことになり、今の悶々
とした苦しみから解放されることになります。

 今こそ、息子さんと、冷静に話しあってみてください。おどすのではなく、冷静に、で
す。おたがいに感情的になってしまったので、話しあいにもなりません。ですから、話し
方としては、「あなたも苦しんでいると思うけど、どうしたらいいの? お父さんも、お母
さんも、協力できる面があれば、協力する」というような言い方をします。

 「あなたの問題だから、あなたが解決しなさい」という言い方では、息子さんは、もっ
と突っ張ってしまうかもしれません。

 あなたたちと息子さんの関係がよくわかりませんが、私の印象では、すでに断絶状態か
ら、修復不可能に近い段階まで進んでいるように感じます。が、これを機会に、もう一度、
親子のつながりを、取り戻すことができるかもしれません。

 あなたたち夫婦が、相手の親の立場ではなく、相手の女性の立場でもなく、生まれてく
る子どもの立場で話をすれば、息子さんも、静かに話を聞いてくれるはずです。息子さん
には、養育費を払えとか、払わなくてもいいという話をするのではなく、当然、払うべき
だという話し方をします。

(だからといって、こちら側から、今、それを相手に申し出るという必要はありません。
あくまでも、人間として、1人の父親としての自覚と、責任を感じてもらいます。)

 十字架としては、少し大きすぎる十字架ですが、だれしも、この種の十字架の1本や2
本は、背負って生きているものです。しかしその十字架も、相手の両親や、女性のことを
考えるなら、何でもないものかもしれません。相手の女性は、18歳という若さで、これ
から先、2人の子どもを育てていかねばなりません。

 欧米だったら、養子制度が発達していますから、今の段階で、養子縁組ができますが、
この日本では、それもままなりません。

 そんなわけで、もしあなたにその勇気と度量があるなら、つぎに相手の親から電話がか
かってきたら、「一度、娘さんと会って話をしてみたい」「息子にも、よく言い伝えておく
ので、息子と娘さんが話しあう機会と場所を、提供したい」と言ってみてください。どこ
までも穏やかに、冷静に、かつ相手を責めることなく、です。

 決して、「私たちには責任はない」と、はね返してはいけません。もちろんこれらの話は、
相手から何らかのアクションがあってからのことですが……。

 今の状況は、当事者みなが、それぞれに追いつめられて、たがいにキズつけあっている。
私には、そう見えてなりません。ただ時期が、5年から10年、平均的な恋愛より、早か
ったというだけのことです。

 なお法律的には、あなたがた両親には、養育費の支払い義務はありません。相手の両親
にも、請求権はありません。養育費を請求できるのは、子どものみ。子どもが未成年のと
きは、親がその請求権を代行します。つまり相手の女性だけが、請求権を代行できます。
しかし話しあいの過程で、(取り決め)として、相手の女性が、あなたがた夫婦に、保証人
になるように求めてくる可能性はあります。(現に今、息子さんには支払能力はありません
ので……。)

 もしそうならば、つまりあなたがたが保証人になれば、その結果として、たとえば息子
さんからの養育費が2回程度、延滞したりすると、保証人のあなたがたに支払い義務が生
ずることになります。

 私も法科の学生でしたが、今は、この程度にしか、わかりません。まちがっているかも
しれませんので、そのときは、弁護士に相談してみてください。

 ともかくも、息子さんと相手の女性の話しあいを、何よりも優先させてください。それ
が第一歩です。


【Nより、林へ】

いろいろとありがとうございます。

昨夜、私の同級生の弁護士に相談しました。
はやし先生と同じことをおっしゃいました。
ただ、息子は学生なので卒業してから支払能力発生になる、しかし、学生の間もアルバイ
トで稼げるのなら支払能力ありになる、ということでした。

息子と話し合いました。と、言っても息子は、ほとんど無言でしたが・・・(昔から話し合
いのときは無言になります。)
今までに息子は検診費として4万円払ったそうです。その時は結婚まで考えていたそうで
す。

その後、彼女から別れ話がでたそうです。で、おろす話を2人でしたそうですが、そのま
まになってしまったそうです。

主人は、「人間としての誠意をみせろ。でないとおまえとの今後の関係を考える。生まれる
子供は一生会うつもりは無い」と言いました。私も承諾しました。

でも、この言葉はきつかったかもしれませんね。

息子は彼女と2人で話し合うと言いました。
私たち両親も同席するのがいいのでしょうか?
でも、彼女の顔をみるのもいやですが・・・。

同級生の弁護士は、2人で話し合いがつかないのな、両親をまじえて、それがだめなら家
庭裁判所で調停するのはどうかと言いました。でも、それは相手が何か言ってきてからの
こと、とのこと。(はやし先生の意見と同じです)

去年の夏から一変、辛い日々、息子のことは口にチャックをし、大学に合格するまではと、
見守り続けてきました。彼女の親たちには振り回され、嘘をつかれ・・・。

息子には妊娠はさせてはいけないと、彼女ができてからずっと言いつづけてきたのに・・・・。
やっと巣立ってもらおうと、この7月に下宿するまではと思い、頑張ってきたのに・・・。

最後にこのような結果になり、私は立ち直れそうにもありません。でも、そんな息子に育
てたのは、私たち両親なのですね。

この状態を受け入れるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
息子と顔を合わせるのも辛いのです。
でも、頑張ります。


【林から、Nへ】

息子さんに任せるしかないようですね。

息子さんを責めたり、おどしたりしないように!

こうなってしまったのですから、受け入れて、
前に進みましょう!

それから自分を責めないこと。どこかで歯車が狂って、
それが悪循環となって、今の状況を作っただけです。


【Nから、林へ】

ありがとうございます。

以来、息子は全然、帰ってきません。
何度メールを送っても、返事もありません。
こちらの心配はどうでもいいようです。息子はそういう子です。

だから、主人は息子の態度に誠意がない限り、こちらは息子にたいして協力はしないと言
っています。
まずは息子の様子をみて、息子に任せます。

あちらの親も、1度こちらがつっぱねたので、連絡あるかどうかわかりません。
まずは息子に任せます。
で、間に誰か立ててあちらと話あうかもしれません。

ありがとうございます。


【林より、Nへ】

息子さんは、必ず帰ってきます。
許して忘れ、許して忘れ、
いつ帰ってきてもよいように、
窓をあけ、掃除だけはしておきます。

今こそ、Nさんは、親としての
真の愛情をためされているのですね。

めげないでください。

息子さんを信じて、許して、忘れる、ですよ。

いつか必ず笑い話しになりますよ。

では、

掲示板の記事を、そのまま
マガジンに載せますが、許してくださいね。

同じような問題をかかえている人は
たくさんいます。みんなで力を合わせて
いっしょに、がんばりましょう。

読者からの反応があれば、お知らせします。
力になってくれると思います。

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
未成年の子供の恋愛 妊娠 出産 養育費問題 養育費)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私らしさを知るために……】

+++++++++++++++++

SK氏(65歳)は、温厚な紳士だった。
名前を、崎村昇壱(仮名)といった。

その崎村は、N市で求人案内誌を発刊
していた。今も、つづけているという。

その地方では、郷土料理研究家としても
よく知られ、ときどき新聞などにも、
その顔と名前を出す。

しかしその崎村氏は、今から25年ほど
前、ある凶悪事件を引き起こし、有罪と
なり、そののち、5年間ほど、刑務所に、
服役している。

崎村昇壱というのは、当然、偽名である。

+++++++++++++++++

●ある事件

 今から25年ほど前、この地方を騒がした事件に、N事件というのがある。ある男が、
妻を殺害したという容疑で逮捕されたという事件である。しかし結局は、その件について
は、証拠不十分で、無罪。しかし逮捕されたときの別件の容疑、つまり別の殺人未遂罪の
ほうででは、有罪。その男は、そのあと、5年間ほど、刑務所に服役するところとなった。

 その男は刑務所から出ると、名前を変え、今のN市に移り住み、「N市会社報」(仮名)
という名前の情報誌を発刊した。情報誌といっても、まともな情報誌ではない。醜聞を暴
露すると脅しながら、その会社から、法外な広告料金を取るという情報誌である。この世
界では、「暴露雑誌」と呼んでいる。

 裏では、もちろん、そのスジの暴力団関係者と結びついていた。

 私がその男と知りあったのは、5年ほど前のこと。名前は、崎村昇壱(仮名)と名乗っ
た。当時、60歳と、聞いていた。温厚な紳士で、口調も静かだった。最初、郷土料理研
究家、あるいは郷土料理コンサルタントという肩書きで、ある人から紹介された。

 いっしょに、いくつかの料理店を食べ歩いたこともある。

 が、ふとしたことから、その男に疑問をもつようになった。何かの席で、「ぼくは、S高
校の出身」と言ったのが、耳に残った。息子の1人が通っていた高校である。

 しばらくしてから私は息子の同窓会名簿で、その男の名前をさがしてみた。が、崎村と
いう名前は、どこにもなかった。で、ちょうど同じころ、別の男から、崎村昇壱について
の情報を耳にした。「林さん、あんたは崎村という男とつきあっているというが、おやめな
さい。あの男は、たいへんな事件を起こした男だから」と。

 それで私は、その男の過去を知ることになった。

 が、どうしても、私には、その話が信じられなかった。私が知る崎村昇壱という男は、
紳士だった。いつもスリーピースの紳士服で身を包み、髪の毛もしっかりと、とかしてい
た。おしゃれで、腕には、いつも金色のブレスレットを巻いていた。その過去を連想させ
るような雰囲気は、どこにもなかった。

 しかしそれを知ってからというもの、私から「友人になろう」という意識は消えた。「観
察してやろう」という意識が、それに置きかわった。が、とたん、それまで気づかなかっ
た、崎村昇壱という男が、時折見せる邪悪さが、目につくようになった。

 崎村昇壱は、明らかに仮面をかぶっていた。

 その仮面について、少し前、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●仮面(ペルソナ)とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。いくら客に怒鳴られても、
にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、この町には、のさばっている。身分
制度が、そのまま学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる。
その基盤となってしまう。

 よくシャドウというテーマで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我
にあり』である。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方
拳が、みごとな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、職業は牧師。厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、
息子の嫁と不倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、その
シャドウを、そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者
に仕立てあげた原動力になったとも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまう。見抜くだけならまだし
も、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、まし。そういう親のほうが、子どもにとっては、好ましいということに
なる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる
本」)

+++++++++++++++++

●崎村昇壱

 崎村昇壱という男の話にもどる。

 崎村昇壱は、明らかに紳士だった。ふつうの紳士以上に紳士だった。先にも書いたよう
に、見るからに温厚な紳士で、口調も静かだった。

 しかしそれは演技によるものではなかった。つまり演技ぽさは、どこにもなかった。身
のこなしやマナーは、精練されていた。が、よくよく観察すると、ふつう以上に、紳士的
であるという点が、不自然といえば不自然だった。

 その男が過去の事件を悔やみ、それを乗り越えることによって、そういった紳士になっ
たのか、あるいは、自分のシャドウを、心の中の別の部屋に閉じこめることによって、そ
ういった紳士になったのか、それは、わからない。わからないが、私は、後者ではなかっ
たかと思う。

 私は崎村昇壱という男と話しているとき、ときどき、ぞっとするような冷たさというか、
邪悪さを、彼の中に感じたことがある。つまり、それが、崎村昇壱という男のシャドウと
いうことになる。

 で、そのことが昨夜、ワイフと話しているときに、話題になった。私が、「あの崎村って
いう男ね、今度、郷土料理のコンサルタント業を始めたんだって……新聞にそう書いてあ
った」と話すと、ワイフは、驚いた、そしてこう言った。「ヘエ〜、あの男がア!?」と。

私「そうなんだよ。あの崎村は、本当に善人に変身したみたい」
ワ「そんなこと、ありえないわよ。自分の過去を、どう思っているのかしら?」
私「自分の過去だとは思っていないだろうね。自分の過去を自分から切り離すことによっ
て、まったく別人になりすましている」
ワ「でも、そんなことで、自分の過去を消すことはできないはずよ」
私「そうなんだよな。だからそういう人は、自分の過去を、心の中の別の部屋に閉じこめ
ることによって、自分から切り離すのさ」

ワ「閉じこめるということは、消えるということかしら?」
私「いいや、それはありえない。閉じこめても、消えるということではない」
ワ「じゃあ、どうすれば、消せるの?」
私「いいか、X氏の話によれば、崎村という男は、妻を殺害しているらしい。が、証拠不
十分で、その件については、無罪になった。そして逮捕されたときの別件の、つまり別の
殺人未遂罪では有罪になった。その時点で、崎村という男は、『よかった』『うまくいった』
と思ったかもしれない」
ワ「その時点で、シャドウを自分の中に作ったということ?」
私「そう。あるいはそれ以前から、いろいろなシャドウが、崎村という男には、あったの
かもしれない。その事件を起こす前にも、宝石を詐取するという事件を起こしている」

ワ「どうすれば、シャドウを消せるの?」
私「有罪になるべきだった。自分から罪を告白して、有罪になるべきだった。そして自分
の犯した過(あやま)ちを、悔い、反省すべきだった。たとえ無期懲役になったとしても、
ね」
ワ「そこであの崎村という男は、善人になりすますことによって、過去の自分を隠そうと
したのね」
私「そういう例は、多いよ。世間の目を感じて、その世間の目をあざむくために、仮面を
かぶるという例は、ね」と。

 私は、昔、S市で起きた、毒物による町民殺害事件について、ワイフに話した。あの事
件では、当初から、その地域に住む一人の女性が、犯人ではないかと疑われた。その女性
だけが、その毒物を手にすることができた。

私「あの殺害事件でも、警察に逮捕される前、あの女性は、いつもにこやかな笑みを浮か
べていた。マスコミによる取材にも、笑いながら、応じていた。さも、私は、そんな事件
には関係ありませんといった様子でね」
ワ「不自然ね」
私「そう、不自然だ。自分が犯人ではないかと疑われているのわけだから、もし潔白なら、
怒るはず。『私は関係ありません!』とね」
ワ「本人には、そういう意識はなかったのかしら? つまり世間をごまかしているという
意識よ」
私「最初はあったのかもしれない。しかし仮面をかぶっている間に、やがてどちらが本当
の自分かわからなくなってしまった。そしてさらにそれが長くつづいたため、仮面のほう
の自分を本当の自分と思いこむようになってしまった」
ワ「邪悪な自分を、どこかへ押しこめてしまったというわけね」
私「そう。そういうことになる。またそうでもしなと、自分がもたない。演技だけで善人
ぶっても、長つづきはしない。疲れてしまうからね」と。

 ……という話はここで終わるが、私たちも、みな、多かれ少なかれ、その仮面をかぶっ
ていることを忘れてはいけない。邪悪な部分を、心の中のどこかの部屋に閉じこめること
によって、善人ぶっている。とくに気をつけなければいけないのが、僧侶や牧師、それに
医師や教師のような職業にたずさわっている人たちである。

 みなから、「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自分を見失ってしまう。善人になる
ということは、そんな簡単なことではない。自分の中から、邪悪な部分を消すのも、そん
な簡単なことではない。不可能ではないかもしれないが、そこに至る道は、遠くて、険し
い。

 そこで大切なことは、まず自分自身がかぶっている仮面に、気づくこと。つぎに、自分
自身が、心の中に閉じこめているシャドウに、気づくこと。その2つに気づけば、あとは
早い。その向こうに本当の自分が見えてくる。

 あとは、その本当の自分に従って生きていけばよい。それが「私らしさ」ということに
なる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自分 私 私論 私らしさとは 仮面 シャドウ)

注:ここに書いた、崎村昇壱という人物ならびに、彼が起こしたという事件は、フィクシ
ョンです。類似した名前、事件があったとしても、それは偶然によるものです。S市にお
ける薬物による毒殺事件についても、同様です。)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【過去の亡霊】

+++++++++++++++++

過去の亡霊には、2種類、ある。

ひとつは、自分から内に向かう亡霊。
もうひとつは、自分から外に
向かう亡霊。

+++++++++++++++++

 退職後も、退職前の肩書きや地位、名誉に毒されて、そのまま過去の亡霊を引きずって
歩いている人は多い。

 しがみつくのは、手にする年金だけ。その年金を毎日ながめながら、自分の価値(?)
を、確認しながら生きている。「私は、偉いんだ」と。

 ……とまあ、きびしい意見を書いたが、こうした亡霊と決別するためには、一度、丸裸
になるしかない。丸裸になって、すべてをイチからやりなおす。退職したら、そうする。

 こうした亡霊を、(内に向かう亡霊)とするなら、亡霊には、もうひとつ、ある。それが
(外に向かう亡霊)である。

 こんな話がある。

 昔、Kという映画監督がいた。戦後、数多くの映画を世に送り出した。主に時代劇だっ
たが、どれも見ごたえのある、すばらしいものだった。今見ても、おもしろい。

 そのためそのKという映画監督は、「世界のK」というニックネームをつけられた。当然
の評価である。

 ところが、である。晩年に近づくにつれて、大作につづく大作。しかしどれも、ダ作。
私も、K監督のファンとして、そのつど、「今度こそ……」「今度こそ……」と思って映画
を見に行ったが、いつも、帰ってくるときは、がっかり。

 こうして、2度、3度、4度と裏切られるうちに、私は、はたと気づいた。「私は過去の
亡霊に、引き回されていただけではなかったのか」と。

 たしかにKという映画監督は、すばらしい映画を作った。しかしそれは戦後という、そ
の監督が、まだ若いころの話。「世界のK」と呼ばれるようになってからは、Kという監督
は、富と地位と、映画界における権力を、ほしいがままにした。とたん、昔のようなすば
らしい映画は、作れなくなった。

 ……こう書くと、Kファンの人は、怒るかもしれない。また大方の評論家たちは、当時、
その威光を恐れてか、真正面から、K映画を批判することさえしなかった。だから私のよ
うな、純真なKファンは(?)、ときの評論家たちの評論にだまされて、映画館まで、せっ
こら、せっこらと足を運んだ。

 しかしダ作は、ダ作。どう見ても、ダ作。

 だったら、なぜダ作と、声をあげて、叫んではいけないのか? 当時の評論家たちは、
叫ばなかったのか? 同じ監督が作った映画でも、すばらしいものもあるし、そうでない
ものもある。映画に対する評価は、作品としてできあがった映画にたいしてするものであ
って、監督のもつ名誉や地位、名声にたいしてするものではない。

 映画の世界だけにかぎらない。この日本では、何かにつけて、過去の亡霊たちが、我が
もの顔で、のさばっている。

 俳優の世界もそうだし、音楽や芸術の世界でもそうである。文学や、教育の世界でも、
そうである。スポーツの世界ですら、そうである。政治の世界となると、亡霊だらけ! ま
さにありとあらゆる世界に、それがのさばっている。のさばるだけならまだしも、そうし
た亡霊が、若い人たちの伸びる芽を踏みつけるようなことまでしている。

 これは日本にとっては、大きな損失と考えてよい。たとえて言うなら、地元の有力者が、
意味もなく威張り散らして、若い人たちを、その支配下に置くようなものである。若い人
たちが、出る幕すら、ない。

 こうしたふたつの亡霊は、私の中にもいる。ひょっとしたら、あなたの中にもいる。そ
してそうした亡霊が、ときには、自分を押さえつけ、ときには、社会を押さえつける。ど
ちらにせよ、そういった亡霊が、自分の心を曇らせる。

 そうそう私の知人の中には、こんな人もいる。

 今年80歳を越えたと思うが、55歳で定年退職したあとは、ただの一度も仕事をして
いない。あまりにも偉い人(?)だったので、ちまたの仕事などできなかったのかもしれ
ない。近所の人の話では、あいさつをしても、返事すらしないという。おかげで、今では、
その知人と、立ち話すらする人もいないという。

 かわいそうな人だが、自分がそう思われていることにすら、気づいていない。つまりこ
こでいう亡霊というのは、そういうものをいう。

そういう亡霊とは、できるだけ早く決別したほうがよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
名誉 地位 名声 亡霊 内に向かう亡霊 亡霊論 社会の亡霊)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司    6月 7日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●私設施設での怪死事件(?)

 名古屋市にある、I・Mという、自称「メンタル・スクール」で、1人の男性(26歳)
が、怪死した。

 NEWS−iは、以下のように伝える。

 「先月(4月)、引きこもりの人たちが暮らす名古屋の民間施設で、入所していた26歳
の男性が死亡した事件で、愛知県警は施設の代表ら7人を、逮捕監禁致死の疑いで逮捕し
ました。

 逮捕されたのは、NPO法人(I・Mスクール)の代表で、SG容疑者(49)や、施
設の従業員ら合わせて7人です。

 調べによるとSG容疑者らは、先月14日、26歳の無職の男性を東京の自宅から名古
屋の施設に車で連れていく際、体を床に押さえつけたり、手錠やロープなどを使って拘束
したほか、施設に着いてからも、柱に鎖でつなぐなどして、4日後に死亡させた逮捕監禁
致死の疑いがもたれています。

 この施設は1991年にSG容疑者が、不登校や引きこもりの人たちを、共同生活を通
して更生させようと設置しました」と。

 さっそくI・Mスクールを、ヤフーで検索してみる。が、肝心の施設についてのページ
がない。HPの管理者が、早々と、関連ページを削除してしまったらしい。

 私の推測によれば、息子の引きこもりで困った家人が、I・Mスクールに連絡して、強
制的に入居させようとした過程で起きた事件ということになる。よく似た事件に、Tヨッ
ト・スクール事件というのがあった。あれも、そういえば、名古屋市を舞台として起きた
事件ではなかったか。

 ほかに、不登校の子どもを、罵倒(ばとう)してなおす(?)という女性も、名古屋に
はいる。

 いろいろいきさつはあるのだろうが、全体としてみると、心の病気を、みなが、軽く考
えすぎているのではないか。とくに引きこもりについては、そうである。一見すると、怠
け病(そんな病名はないが……)に見える。そのため、まわりの者たちが、「何とかなる」
「そんなはずはない」と無理をする。その無知と無理解、そして無理が、積もり積もって、
こうした事件へとつながる。

 SGという女性の顔は、報道記事などに添付されているが、そのSGという女性に、ど
れだけの基礎知識があったのか、はなはだ、疑問である。T・ヨットスクールの指導者に
しても、また不登校の子どもを、罵倒してなおすという女性にしても、そうである。

 熱病で苦しんでいる子どもに向かって、あたかも水をぶっかえるような対処法が、(理屈
の上では、熱を冷ますのだから水、という論理は成りたつが……)、果たして子どもの心の
更生につながるといえのだろうか。

 子どもが引きこもりを引き起こすまでには、長いプロセスがある。そしてそのプロセス
は、子どもが生まれたときから始まる。

 そうしたプロセスを無視して、いきなり……という対処法は、メチャというより、無謀、
無謀というより、デタラメと考えてよい。

 また別の機会に書いてみたいが、たとえば引きこもりをなおす(?)にしても、5年単
位の時の流れが必要である。そのためには、家人の根気と努力、それに愛情が必要である。
苦しい戦いかもしれないが、その戦いなくして、子どもを立ちなおさせることはできない。

 今回の事件は、まさにT・ヨットスクール事件の再現を思い起こさせる。これから先、
I・Mスクールの内情が、明らかにされるだろう。それを待って、またこの問題を考えて
みたい。

+++++++++++++++

私の経験を書いた原稿を
1作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

+++++++++++++++

子どもが恐怖症になるとき

●九死に一生

 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、
こうして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙
な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かっ
て走ってくるように感じた。

私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった
……。恐怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。

 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ
行きたくない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがっ
たことがある。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」
という子どもが続出した。

これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。そ
れが恐怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、
ふつう、次の三つに分けて考える。

(1)人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、
ある程度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子
どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着で、はじめて
行ったような場所でも、わがもの顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失
語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる
(学校恐怖症)などの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会
えない、人と話せないなどの症状が表れることもある。

(2)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベータ
ーに乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。これはある子ど
も(小一男児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始めると
いう。親から相談があったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにある、
トンネルらしいということがわかった。

その子どもは閉所恐怖症だった。実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すこと
ができなかった。それと関係があるかどうかは知らないが、今でも窮屈なトンネルなど
に入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

(3)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわ
がる、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。何かのお面をかぶって見
せただけで、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、一五人に一人はいる(年中児)。

ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもな
かなか原因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前
後に出ることが多い。

これも私のことだが、私は三〇歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そ
のためそれ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることは
できるが、いつも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」とい
う不安が不眠症の原因になる。

また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表
れる。高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パ
ターン)ができるためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖
症が飛行機恐怖症になり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。

●忘れるのが一番

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱
っても意味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場
で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。

無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。い
わば心が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるようにする。症状だけを
みると、神経症と区別がつきにくい。私のときも、その事故から数日間は、車の速度が
五〇キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とはわ
かっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。

が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言いきかせる
ことで、克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、
夜中でも興奮状態になってしまう。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道
理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学

不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症と
は区別する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと
考える学者もいる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因とな
ると考えるとわかりやすい。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの世界・携帯電話】

●子供向け携帯電話

++++++++++++++++++++

子どもに携帯電話は、是か非か?

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 今ごろ、こんなことを論じても意味は、ほとんどない。すでに携帯電話は、おとなの世
界ではもちろんのこと、子どもの世界でも、社会的に認知され、(あたりまえの道具)にな
ってしまった。このあたりの高校でも、携帯電話をもっていない高校生は、クラスに1人
か2人……という程度にすぎない(筆者、2002年ごろ、調査)。

 最近では、セキュリィティ上の理由から、小学生の間で、測位システム(GPS)機能
つきの携帯電話も、普及してきた。

 これに対して、「不要だ」「それがあれば安全だと、過信しやすい」「授業中にかかってき
て、授業を妨害する」などの、反対論も多い。

 一方、長距離通学の子どもをもつ父母の間からは、「必要だ」「ほかに安全を確保する手
段がない」などの意見が続出。結局、全体としてみれば、私立小学校では、携帯、OK、
公立小学校では、携帯、NOというのが現状のようである(参考、読売新聞)。

 で、こうした議論は、あたかも浜辺に打ちあげる波のように、そのつど、わき起きてき
ては、また消える。私が子どものころには、漫画があった。漫画是非論である。

 すでに当時、手塚治が活躍していたが、私が住んでいたG県では、「漫画禁止令」なるも
のも、出された。「学校では、漫画を読んではいけない」と。

 それからテレビ是非論、さらにはビデオ是非論、テレビゲーム税非論、インターネット
是非論、そして携帯電話是非論へと、つづいた。

 で、結果としてみると、こうした時代の流れには、私たちおとなは、無力でしかないと
いうこと。いろいろ騒いではみるが、しかしその流れを止めることはもちろんのこと、内
部に立ち入ることすらできない。つぎの世代はつぎの世代の人たちが、自分たちで決めて
いく。

 携帯電話にしても、その(流れ)の中にある。今では、電車の中でも、ワイワイ、ギャ
ーギャーと騒ぐ中学生や高校生は、ほとんどいない。みな、電車に乗ったとたん、携帯電
話を開き、黙々と、メールを打ち始める。

 私たちの世代にとっては、異様な光景だが、彼らにしてみれば、ごく当たり前の、ごく
日常的な光景である。そういう彼らに対して、「おかしい」「まちがっている」と、いった
い、だれが言えるだろうか。

 テレビが急速に普及し始めたころも、そうだった。(今でもそうだが……)、テレビやテ
レビゲームが理由で、外で遊ぶ子どもが、めっきりと減った。一時は、それが塾通いのせ
いだと言われたが、実際には、農村部の子どもほど、家の中に閉じこもる時間が長いこと
もわかった。

その結果が、今、である。

 テレビにせよ、ゲームにせよ、携帯電話にせよ、(あたりまえの道具)になってしまった。
今さら、こうした(流れ)を逆行させることはできない。冒頭にも書いたように、是非を
論じても、意味がない。

 GPS機能付携帯電話にしても、「子ども自身が自ら考えて安全を守るという意識が薄れ
る」という意見や、「子どもにもプライバシーというものがある。子どもの人権が守れない」
という意見もあるようだが、それは、少し考えすぎではないのか。私の知る範囲でも、そ
のGPS機能付携帯電話をもっている子どもは、多い。しかしもの珍しさが目立ったのは、
当初だけ。今では、話題にもならない。

 ある程度の方向性は、おとなたちが作ってやらねばならない。それは当然だが、しかし
それにも限界がある。10人のうち、7〜8人が、抵抗したところで、2〜3人が、その
ルールを破れば、それでおしまい。抵抗を繰りかえす子どものほうが、かえって仲間はず
れにされてしまう。

 テレビゲームやカードゲームに、その例をみるまでもない。

 では、私たちおとなは、どうすればよいのか。これからも、こうした問題は、そのつど、
わき起きてくる。その(流れ)は、加速されることはあっても、減速されることはない。
つまり各論をいくら論じても、意味はない。で、総論として、どう考えたらよいのか。

 ひとつには、子ども自身に、(自ら考える力)を、幼児期から養っておくこと。その方法
については、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する(原稿を、あとで添付※1)。

 つぎに重要なのは、子ども自身に、(心の抵抗力)をつけておく。その方法についても、
すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する(原稿を、あとで添付※2)。が、何より
も重要なのは、おとなの私たちが、生きザマを、子どもたちに見せておくということ。そ
れを棚にあげて、つまりそういうことをしないで、子どもたちの世界ばかり心配しても、
意味はない(原稿を、あとで添付※3)。

 ともかくも、こうした2つの力が子どもにあれば、子どもは、自ら自分を守っていく。
自分の進むべき方向を定めていく。

 が、それでも問題が起きてしまったとしたら……。

 それについては、各論として考えるしかない。そういった(当たり前の道具)を介して
非行問題が起きたとしたも、非行問題は非行問題として考えるしかない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
携帯電話 GPS機能付携帯電話 時代の流れ)

++++++++++++++

いくつか、以前書いた原稿を
添付しておきます。

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 子育て自由論(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++

※1【子育て自由論】

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分
こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分
のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親
は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あ
なたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のも
とだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室
育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

※2【心の抵抗力】

●夢のない子どもたち

 ロシア・北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠事件は、小学生たちにも、強い
衝撃を与えた。

 どの小学生も、顔をあわせると、その話を始める(9月6日)。「みんな殺された」「裸に
された」「爆弾で吹っ飛ばされた」と。

 こういう話は、決して好ましいものではない。やがて子どもたちの心を、ボディブロー
のように、むしばみ始める。おとなたちのへの不信感、未来への不安感となって、はねか
えってくる。

 そこで私は、「そんな事件は例外だよ」「この日本では、ありえないよ」と、必死になっ
て、それを打ち消す。が、焼け石に水!

 そうでなくても、子どもたちから、夢が消えつつある。「明日は、きっといいことがある」
と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども
学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。

 子どもだから、明日という未来に向かって、夢や希望をいだきながら生きているという
のは、もはや幻想でしかない。

 が、否定的なことばかりを言っていてはいけない。

 私たちは、親として、子どもの夢や希望を前向きにとらえていく。これを発達心理学の
世界でも、役割形成という。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そ
うね、すてきな仕事ね」と言ってあげる。

「明日は庭に、花を植えてあげましょうね」「今度、テーブルを花で飾ってあげましょうね」
と。

 こういう前向きなストローク(強化)が、子どもに夢をもたせる。そしてそれが子ども
をさらに前向きに、ひっぱっていく。

 つまりは、子どもたちに夢をもたせるのは、親の役目ということになる。決してむずか
しいことではない。が、実際には、世の親たちは、子どもの夢を破壊しながら、それに気
づいていない。

 「あなたも、Mさんのような宇宙飛行士になるのよ」「でも、今の成績では無理ね」「も
っと勉強しなければ、S中学校へは入れないわよ」と。

 こうして子どもたちは、役割混乱を起こす。心理的にも、情緒的にも、きわめて不安定
な状態になる。その役割混乱の深刻さについては、たびたび書いてきたので、ここでは省
略する。

 子どもたちから夢が消えたのは、あくまでも、その結果でしかない。今度のベスランで
起きた学校占拠事件は、さらに、それに拍車をかけた?


●もの知りの子どもより、深く考える子どもを!

 心の抵抗力は、「考える力」によって、決まる。その抵抗力が、子ども自身を、守る。

 たとえばインターネットや、携帯電話を使った、「出会い系サイト」というのがある。凶
悪犯罪の温床にもなっている(04年度、「青少年白書」)。

 こうした出会い系サイトは、もはやコントロール不能状態にあるとみてよい。それはた
とえて言うなら、性病のようなもの。もう、この日本には、出会い系サイトにしても、性
病にしても、それらからのがれる場所は、ない。方法も、ない。

 そこで最後の砦(とりで)は、子ども自身の「力」ということになる。「抵抗力」と言っ
てもよい。つまりは、子ども自身を、「自ら考える子ども」にするしかない。 

 が、いまだに幼児教育というと、知育教育と考えている人が多い。知識を身につけさせ
ることが、幼児教育というわけである。英会話を覚えさせ、掛け算の九九を暗記させる。
それが幼児教育、と。

 決してムダだとは思わないが、しかしそれだけでよいとは、だれも思っていない。とく
にこれからの日本では、そうだ。

 で、どうしたらよいのか? 子どもを自ら考える子どもにするのは、どうしたらよいの
か?

 方法は、もう一つしかない。親自身が、自ら考える姿勢を、子どもに見せることである。
そういう環境で、子どもを包む。親が、意味もないバラエティ番組を見てゲラゲラと笑っ
ていて、どうして子どもを考える人間に育てることができるだろうか。

 ちなみに、「子どもに見せたくない番組」(PTA全国協議会調査)としては、つぎのよ
うな番組があげられている。

 ロンドンxxx(テレビ朝日系)
 水xx!(フジテレビ系)
 クレヨンxxちゃん(テレビ朝日系)
 めちゃ2xxxxッ(フジテレビ系)などがある。

 こういう番組を、あなたの子どもが好んで見ているようなら、あなたの子どもに将来は
ない(失礼!)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして
老人だって、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きてい
る。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生
きていかれないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目
的になることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希
望や目的になることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、
消えたように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどっ
てくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉
(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)
という名言を残している。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウ
が、そう書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

※3【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが
あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
心の抵抗力 4割の善 四割の善 子どもの世界 子供の世界)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●マナー

 岐阜県の長良川といえば、清流中の清流として、知られている。その長良川の支流に、
板取川という、これまた美しい川がある。

 その板取川のほとりに住む、H氏がこう言った。

 「夏になると、板取川の周辺は、ゴミの山になる」と。ビニールシートや雑多なゴミだ
けではない。今では、バーベキューコンロさえ、みな、捨てていくという。私が、「どうし
て?」と聞くと、「持ち帰っても、しまう場所がないのではないか……」とのこと。

 以前、夏が終わると、川の周辺は、人の糞だらけになるという話を書いた。捨てたティ
ッシュペーパーが、無数に咲いた白い花のようになるという話である。しかしそれ以上の
キャンパーたちは、それを川の中でする。だから雨量の少ない年には、あの板取川ですら、
汚水の川のようになる。

 岩場に何か、べっとりとくっついているので見てみたら、人の糞だった……という話は、
よく聞く。

 ただ最近は、公営のトイレもでき、キャンプできる場所も限定するようになってきてい
る。そのため以前よりは、よくなったとのこと。しかしそれで、問題が解決したわけでは
ない。

 ゲリラ的にやってきたキャンパーたちが、相も変わらず、川を汚す。川の周辺を汚す。

 私も最近、その板取川へ行ってきたが、板取川の下流のM市あたりまでくると、無数の
ビニールシートが、川沿いの木々にひかかって、まるで旗のようになって、連なっていた。
H氏の住む、旧武儀群板取村のほうには、それがなかったのは、多分、村の人たちが、総
出で、清掃作業をしているためではないか。

 ともかくも、都会人たちよ、無責任な行動は、慎もうではないか! 自分たちの出した
ゴミをもって帰るくらいのマナーは、守ろうではないか! これからその季節になるので、
あえて一言、あの板取川を愛する者の1人として、ここで提言してみたかった。


●小寒い朝

 昨日は一日中、雨。低気圧が、このあたりを通過した。で、今は、寒冷前線が、このあ
たりに停滞しているらしい。小寒い。

 先ほどから、パソコンのウィルスチェックをしている。その間、ぼんやりと、目を閉じ
て、時を待つ。肌をなでる湿気を帯びた冷気。

 肌というのは、おもしろいもの。その冷気を通して、昔、同じような冷気を感じた日々
を思い出す。「同じような冷気を感じたことがあるぞ」という思いが、過去の、ある時の思
い出へとつながっていく。

 まず思い浮かんだのが、ボブの家のベッドの上。時期は忘れたが、遠くに、ボブの両親
が住む、家が見える。私は、ベッドの上で、毛布にくるまって、寒さをしのいでいる。遠
い昔のことだが、肌が、タイムトンネルのように、今と、その時をつなぐ。

 うつろな頭。まだ眠い。たった今、コタツに電源を入れた。とたん、睡魔。どうやらウ
ィルスチェックは、終わったようだ。ウィルスの感染は、なし。頭を振って、パソコンの
画面に向かって、文字を打ちこむ。今日も、始まった。

 06年5月8日。長い連休が、終わった。今日から、仕事、再開! がんばろう!

(ウィルス感染防止の大鉄則)

 あやしげなメール、「?」なメールは、即、削除、また削除。迷わず、削除。容赦なく、
削除。あやしげなサイト、「?」なサイトは、絶対に開かない。見ない。それにまさるウィ
ルス感染防止策は、ない。


●忙しすぎる教師たち

++++++++++++++++

学校の先生は、いそがしい。
本当に、いそがしい。
かわいそうなくらい、いそがしい。

++++++++++++++++

 子ども相手の仕事が、いかにたいへんなものかは、経験したものでないと、わからない。
たとえば私の三男は、学生時代、夏になると毎年、サマーキャンプの手伝いをしていた。
自分自身が世話になったということもある。

 しかしその三男いわく、「先生なんて、こりごり」と。

 好き好きや、向き、不向きもあるのだろう。しかし相手が、小学生や中学生ならまだよ
い。幼児ともなると、大のおとなでも、数時間が限度。いくら子どもが好きといっても、
そこには限度がある。

 05年6月に文科省は、こんな発表をした。「義務教育に関する意識調査」というのが、
それだが、それによると、

 公立小中学校の年間授業時間数をふやすことについて、保護者の67%が賛成したのに
たいして、教員は、36・3%にすぎなかった。

 放課後や、土日に補習授業を行うことについては、保護者の61・4%が賛成したのに
たいして、教員は、13・8%が賛成。59・5%が反対した。「もう、これ以上、負担を
かけないでくれ!」という教師の本音が、こうした数字に表れている。

 そうでなくても、教師はいそがしい。そのいそがしい上での、さらなる負担である。あ
る女性教師(40歳くらい)は、こう言った。「授業中だけが、体を休める時間です」と。

 そこで今、教職を、さらに専門職化しようという動きが出てきた。教師の仕事は、教育
であるという考えに基づく。「教師教育を学部段階から、大学院段階へと引きあげるべき」
と主張する意見もある。

 しかしそれにはひとつの条件がある。つまり雑務からの解放である。

 現在のように、雑務、雑務の連続の中では、いくら教師の質をあげても、それこそ、宝
のもち腐れ。絹のハンカチで鼻をかんで捨てるようなことになってしまう。教師が「教育」
という、本来の仕事に立ち戻れるよう、当然のことながら、人、モノ、金の充実が図らな
ければならない。が、それだけでも、足りない。

 父母がもつ、学校への依存性の問題がある。それはもう、神話的とさえ言ってもよい。
だから「神話的依存性」。ほとんどの父母は、子どもの世界で何か問題が起きると、すぐ「学
校で……」と考える。こうした安易な依存性が、その一方で、教師の雑務をふやす。

 今では、自分の子どもが家出したりすると、父母たちは、まず担任の教師に電話をする。
助けを求める。自分たちでさがしまわる前に、そうする。だからますます教師は、いそが
しくなる。

 ある教師を夫にもつ女性(35歳)は、こう言った。「昨夜も、家出した女の子をさがし
て、夫は、深夜2時ごろまで、街の中を歩いていました」と。

 こんな状態で、すぐれた教育など、期待するほうがおかしい。つまりは父母の意識改革
も、同時に進めなければならない。参考とすべき、例がないわけではない。

 たとえばあなたが通うかかりつけの医院なり病院を、思い浮かべてみたらよい。あなた
はそこで医師に診察をしてもらい、病気を治してもらう。しかし診察室から一歩出れば、
そこであなたと医師との関係は切れる。

 こうして医師は、自分の仕事に責任をもち、患者は、あくまでも自己の責任で、自分の
健康を管理する。

 制度的には、学校教育も、基本的には、そうであっても、何もおかしくない。学校とい
う場は、子どもを教育する場である。教育というのは、教育であって、より高次元な教育
を意味する。家出した娘を、親といっしょになって街の中をさがし回るような行為は、こ
こでいう教育ではない。

 いそがしすぎる教師たち。そういった教師の悲鳴が、今日も、私のところに届いている。
そうした教師の声を、ここで代弁してみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育の質 忙しすぎる教師 教員 教員の問題 義務教育に関する意識調査)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ゆとり教育の限界

 学校週五日制(92年)につづいて、「ゆとり教育」(96年)なるものが始まった。学
習内容の3割削減と同時に、総合的な学習も始まった(02年)。授業時間も、全体として、
15%程度、削減された(02年)。

 当初は「(勉強が)簡単になった」と喜んでいた子どもたちも、1年たち、2年たつと、
それ以前と同じ(流れ)の中に、埋没してしまった。が、それだけではない。中学生を中
心として、「勉強なんかしてもムダ」という気風すら生まれてしまった。

 このあたりの中学生でも、約60%の子どもたちは、受験勉強さえ満足にしない。「勉強
でがんばるより、部活でがんばって、推薦で、高校へ入る」と言っている。中には、「進学
校なんかに入って、勉強させられるのはいや」と言う子どもさえいる。

 もともと進学する目的などないのだから、これは当然といえば、当然である。総じてみ
れば、今の子どもたちには、切羽(せっぱ)つまったというか、追いつめられた感じがな
い。「何がなんでも……」という気迫をもった子どもとなると、10%もいないのではない
か。あるいはもっと、少ない。

 だから皮肉なことに、むしろ受験競争が、楽になった。少しがんばれば、だれでも、そ
こそこの中学や高校へ進学できる。大学にいたっては、定員割れしているところのほうが
多い。ぜいたくさえ言わなければ(?)、だれでも、どこかへは、入れる。

 こういう状態が、だれも、よいとは思わない。その結果だが、世界的にみても、日本の
子どもたちの学力の低下は、著しい。

 OECDが調査した「生徒の学習調達度」によれば、日本は、読解力では、2000年
には、世界ランキング、第8位だったが、2003年には、14位に。数学的応用力では、
1位から6位に、それぞれさがっている。

 PISA(学習到達度調査)や、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)でも、同
じような結果が出ている。

 つまりこうした一連の文科省による教育改革(?)が、子どもたちに、「もう勉強をしな
くてもいいよ」という、まちがったメッセージを与えてしまった。その結果が、今である。

 正直に書こう。

 能力的にふつうであれば、今の算数の教科書(「上」「下」)など、週1回の指導で、2〜
3か月で終えることができる。2時間で、20〜30ページを消化する子どももいる。も
ちろん計算練習などの訓練を要する部分もあるが、とくに何かを教えるという必要は、ほ
とんどない。

 私の教室でも、「わからないところがあったら、もっておいで」というような指導で、じ
ゅうぶんである。

 それだけ教科書が、内容的にも軽くなったということ。言うなれば、これは、教科書が、
平均的な子どもを対象にして作られたものというよりは、最下位部の子どものレベルに合
わせて、(最低限、これだけの知識は必要)という観点で作られたことによる。

 だから現状として、私立中学校などでは、数学にかぎらず、英語、国語でも、教科書を
ほとんど無視して、授業を進めている(H市内)。で、その結果として、私立中学、私立高
校の大学進学率が高くなり、さらにその結果として、親の所得格差が、そのまま「格差」
として、子どもの世界にも反映されるようになってきている。

 そこで最近、ゆとり教育なるものの見直し議論が、さかんになってきた。92年以前の
教育に、もどそうという動きも見られる。しかしそれに対して、反対意見も多い。「従来型
の、詰めこみ式教育に対する反省がないまま、92年以前にもどすのはどうか」という意
見である。

 どちらであるにせよ、教育というのは、常に、30年先をみて組み立てる。今、改善し
たからといって、その結果が出るのは、30年先ということになる。

 で、今、92年体制の結果が出つつある。日本が、ゆとり教育なるものを打ち出したと
き、小躍りして喜んだのが、韓国であり、中国である。「これで日本を追い抜ける」と。仮
に今、92年以前にもどしたとしても、日本の子どもたちの学力低下は、このまましばら
くつづく。韓国や中国が日本を追い越す前に、日本の教育が立ちなおればそれでよいが、
すでに日本は、その韓国にさえ、追い抜かれてしまっている。

 OECDの調査による「生徒の学習到達度」によれば、読解力においては、韓国6位、
日本8位(2000年)、韓国2位、日本14位(2003年)。数学的応用力においては、
日本1位、韓国2位(2000年)、香港1位、韓国3位、日本6位(2003年)、であ
る。

 このままの低下傾向がつづけば、つぎの調査では、もっと悪い結果が出るはず。

 要するに、中央管制による、いわゆる文科省の(思いつき教育行政)にも、限界が見え
てきたということ。「見えてきた」というより、「限界を露呈した」と言ってもよい。日本
の未来は、今の子どもたちが作るという常識すら、わかっていない。

 教育面での行政改革、つまり教育の自由化を、日本は、さらにいっそう、進めるべきで
ある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育の自由化 規制緩和 行政改革 子供の学力 ゆとり教育)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   6月 5日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●わかりやすい世界

++++++++++++++++++

少し前、ベストセラーになった、
「B〜」という本。
そして今回、ベストセラーになった、
「K〜」という本。

共通点は、どれも、難解!

++++++++++++++++++

 最近のベストセラー書の特徴といえば、一言で言うなら、難解。やたらと専門用語が多
く、見たことも、聞いたこともないような言葉が、ズラズラと並ぶ。

 読んでいる人は、本当に、そういう言葉を理解して読んでいるのだろうか? それとも
わかったようなフリをして、読んでいるだけなのだろうか?

 こうした動き、つまり(知識と戯れる現象)は、西欧では、1960年代に、経験して
いる。

 「(この時代)難解な言葉、気取った表現、それだけに重々しく荘厳な言葉でもって、大
衆はもちろん、知識人ですらわからないような本がつぎつぎと刊行された」(「現代思想の
すべて」湯浅赳男)。

 はっきり言えば、今の日本がそうではないか。前にも書いたが、私がバカなのか、私に
は、日本を代表する思想家、O氏や、Y氏、それにT氏の書いた文章が、あまりよく理解
できない。今、話題になっているF氏の書いた本にしても、そうである。理解はできるの
だが、読んでいるうちに、言葉の煙に包まれてしまうかのような錯覚すら、覚える。

 しかしあえて言おう。

 難解な文章で書かれた本イコール、良書ということには、ならない。むしろ、実際には、
その逆。こんな私にしても、よりわかりやすい文章を書くということは、たいへんむずか
しい。ときに自分の書いた数行の文章をながめながら、5分、10分と、四苦八苦するこ
とがある。

 一方、難解な文章というのは、意外と、書くのが楽。ためしに、一文、書いてみる。

 「個人の品格とは、無意識下の自己概念の具現化の過程で、生まれるもの。代言するな
ら、現実的自己は、存在する私としての存在を映す、幻想的鏡にすぎない。従って個人の
品格の優劣は、無意識下の自己の認識と、知的、理性的生産性と、その昇華のみによって、
具現化される」と。

 わかるかな?

 私が言いたいのは、要するに、「人間の品格は、内から光るような理性、知性で決まる」
ということ。もっとわかりやすく言えば、「自分の品格をみがきたかったら、中身をみがけ」
ということ。だったら、最初から、そう書けばよいのではないのか?

 今は、その過渡期ということか。歴史的にみれば、日本は、30〜40年前の西欧の思
想界のあとを、追いかけている。

 で、こうして現象は、今、しばらくつづくだろう。西欧で、こうした(知識と戯れる現
象)が批判されるようになったのは、ベトナム戦争以後の、1980年以後〜とみてよい。

 今日も電車の中でも、これ見よがしに、そんな感じのするインテリ風の男や女たちが、
新書を片手に、むずかしそうな顔をして、こうした本を読んでいる。多分、本人たちは、
それなりに、ある種の優越感に浸(ひた)っているのだろう。しかしそんな本なら、もっ
と別のところで、読めばよい。何も、バカで、品格のない人たちの間で、読まなくてもよ
い。

 一方、その私は、いつも330円のパソコン雑誌を読んでいるが……。ハハハ!

 わかりやすい人たちが、わかりやすい思想で、わかりやすく生きる。私たちは、そうい
う、わかりやすい世界を、めざそう!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●シンプルライフ!

+++++++++++++++

わかりやすい人たちが、
わかりやすい思想で、
わかりやすく生きる。

私たちは、そんな世界を
めざそう!

称して、シンプル・ライフ!

+++++++++++++++

 家具の少ない部屋、
 飾りの少ない家、
 まっすぐな道、
 シンプルなルール、
 規則や規制の少ない社会、
 そしてわかりやすい世界。

 わかりやすい人たちが、わかりやすい思想で、わかりやすく生きる。私たちが求めてい
る世界は、そんな世界ではないのか。

 方法は簡単。よいものは、すなおによいと思えばよい。おかしいものは、すなおにおか
しいと思えばよい。それがわからなければ、子どもたちの世界を見ればよい。とくに幼児
の世界を見ればよい。

 幼児だから、「幼稚」と思うのは、まちがい。幼児イコール、未熟で、未完成と考えるの
も、まちがい。幼児の世界には、人間が生きる原点がある。そして人間が最終的に目標と
する、ゴールがある。

 幼児は、たしかに、未経験で、知識はとぼしい。しかしそれをのぞけば、おとなと、ど
こも、ちがわない。むしろ人は、おとなになるにつれて、俗化する。純粋で、美しい心を
忘れる。もっと言えば、わかりやすい生きざま、そのものをなくす。

 もしそこに倫理や哲学というものが入りこむとしたら、すべては、「常識」に従えばよい。
鳥は水にもぐらない。魚は陸にあがらない。そういう常識に従えばよい。あとは、その常
識に従って、自分を磨く。

 美しい音楽を聴いて、美しい絵を見て、美しい世界を知る。「美しい世界」というのは、
みなが、懸命にがんばっている世界をいう。

 つまりは、シンプルな生き方ということになるのか。

 突っ張らない、ひがまない、ねたまない、いじけない、くじけない……。世俗に毒され
ることもなく、私は私で、すなおに、生きる。
 
+++++++++++++++++

以前、書いた原稿をいくつか、
添付します。
(中日新聞にて発表済み)

++++++++++++++++++

●自由が育てる常識

 魚は陸の上にあがらない。鳥は水の中にもぐらない。そんなことをすれば、死んでしま
うことを、魚も鳥も知っているからだ。そういうのを常識という。

 人間も同じ。数10万年という気が遠くなるほどの年月をかけて、人間はその常識を身
につけた。その常識を知ることは、そんなに難しいことではない。自分の心に静かに耳を
傾けてみればよい。それでわかる。たとえば人に対する思いやりや、やさしさは、ここち
よい響きとなって心にかえってくる。しかし人を裏切ったり、ウソをついたりすることは、
不快な響きとなって心にかえってくる。

 子どもの教育では、まずその常識を大切にする。知識や経験で、確かに子どもは利口に
はなるが、しかしそういう子どもを賢い子どもとは、決して言わない。賢い子どもという
のは、常識をよくわきまえている子どもということになる。映画『フォレスト・ガンプ』
の中で、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人を、バカと言うのよ。
(頭じゃないのよ)」と。その賢い子どもにするには、子どもを「自由」にする。

 自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。無責任な放任を自由とい
うのではない。

つまり子ども自らが、自分の人生を選択し、その人生に責任をもち、自分の力で生きて
いくということ。しかし自らに由りながら生きるということは、たいへん孤独なことで
もある。頼れるのは自分だけという、きびしい世界でもある。

言いかえるなら、自由に生きるということは、その孤独やきびしさに耐えること、とい
うことになる。子どもについて言うなら、その孤独やきびしさに耐えることができる子
どもにするということ。もっとわかりやすく言えば、生活の中で、子ども自身が一人で
静かに自分を見つめることができるような、そんな時間を大切にする。

 が、今の日本では、その時間がない。学校や幼稚園はまさに、「人間だらけ」。英語の
表現を借りるなら、「イワシの缶詰」。自宅へ帰っても、寝るまでガンガンとテレビがか
かっている。あるいはテレビゲームの騒音が断えない。友だちの数にしても、それこそ掃
いて捨てるほどいる。自分の時間をもちたくても、もつことすらできない。

だから自分を静かに見つめるなどということは、夢のまた夢。親たちも、利口な子ども
イコール、賢い子どもと誤解し、子どもに勉強を強いる。こういう環境の中で、子ども
はますます常識はずれの子どもになっていく。人間としてしてよいことと、悪いことの
区別すらできなくなってしまう。あるいは悪いことをしながらも、悪いことをしている
という意識そのものが薄い。だからどんどん深みにはまってしまう。

 子どもが一人で静かに考えて、自分で結論を出したら、たとえそれが親の意思に反する
ものであっても、子どもの人生は子どもに任せる。たとえ相手が幼児であっても、これは
同じ。そういう姿勢が、子どもの心を守る。そしてそれが子どもを自由人に育て、その中
から、心豊かな常識をもった人間が生まれてくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 自由論 自由と常識 常識論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今どきの子どもたち

 「騒いでる子どもは、チンチンをハサミで切るぞ」と私が言ったときのこと。一人の女
の子(小五)が、「私にはないわ」と言った。ふつうはここで会話が終わるはずだったが、
そのときはそうではなかった。すかさず別の男の子が、こう叫んだ。「何、言ってるんだ! 
クリトリスがあるだろ!」と。

 今どきの子どもたちの性知識は、ふつうではない。先日も、一人の男の子がニヤニヤ笑
いながら、「先生、フェラって知っている?」と。「何だ、それ!」と言い返すと、「知って
るくせに……」と、笑いつづけた。

 今どき、小学生で、「セックス」を知らない子どもはいない。これはもう15年近くも前
のことだが、一人の女子中学生が、私にこう聞いた。「先生は純情か?」と。そこで私が「そ
うだ」と言うと、「そんなハズないでしょう。子どもがいるクセに!」と。直後、私はその
意味がわからなかった。が、しばらく考えてやっと理解できた。さらにこんなことも。

 ある日、一人の女子大生が私に会いたいと電話をかけてきた。「どうしても相談したいこ
とがある」と。そこで会って話を聞くと、「先生の知り合いで、私を援助交際してくれる人
はいないか?」と。「先生、あなたでもいい。1か月20万円ならいい」と。私の教え子だ
ったというが、記憶にはなかった。美しい女の子だった。

……そう思っていた。そういう私の「プライベートな思い」が、どこかで伝わり、それ
が誤解されてしまったらしい。

 私はもうこの種の話にはうんざり。私とて「ふつうの男」だから、興味がないわけでは
ない。しかしここまで性が乱れてくると、もう手の施しようがない。それはちょうど、野
に放たれた小鳥のようなものだ。つかまえることすら、できない。

 ……あのアダムとイブが、禁断の実を食べたという説話は、こういった状況を言ったも
のか。しかしここで考え方を一転させて、「性そのものなど、何でもない」という前提に立
つと、話が変わる。思いきって、「性」を、単なる排泄行為と考えてはどうか。毎日小便や
大便をするように、人は、セックスをする、と。アダムとイブについて言うなら、禁断の
実を禁断の実とするから、話がおかしくなる。小鳥について言うなら、カゴの中に閉じ込
めておこうとすことのほうが、おかしい、と。

 この問題については、また別の機会に考える。しかしこんな事実もあることを忘れない
でほしい。アメリカの中西部に、アーカンソー州という州がある。その州に、H州立大学
がある。そのH州立大学でのこと。フットボールクラブのメンバー60人を調べたところ、
そのうち15人(25%)が、HIV(エイズ)検査で陽性だったという(2000年)。

たいへんな数だし、きわめて深刻な問題といってもよい。しかしそれはそのまま日本の、

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●指導方法

 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)
脅(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。

 ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対
に、「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従
わなければ天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)

 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と
教える宗教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマる
と、冷静な判断力すらなくす。

 もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学
というのが、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。こ
の方法こそが、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」とい
う習慣をどう養うか、である。

たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。
あるいは、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。
実に軽いことを、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見
えるかもしれないが、実のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する
情報を、そのつど適当に加工して言葉にしているだけ。

「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」そのものと言ってもよ
い。だからたいていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることそのもの
を放棄している人も、少なくない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった
TK先生も、「日本の教育の欠陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。

 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも『パンセ』の中で、「思考
こそが、人間の偉大さをなす」と書いている。私は宗教を否定するものではないが、しか
し人間の英知は、その宗教すらも超える力をもっている。まだほんの入り口に立ったばか
りだが、しかし自らの足で立つところにこそ、人間が人間であるすばらしさがある。

 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。
私は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、
考えている。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に
従って、自分の方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。

言うまでもなく、私たちの体には、数10万年という長い年月を生きてきたという「常
識」がしみついている。その常識に耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識
に従えば、人間はやがて真理にたどりつくことができる。少なくとも私は、それを信じ
ている。あくまでもひとつの参考意見にすぎないが……。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単な
ことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であると
か、そういうことだ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。
あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そうい
う力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。
もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学
や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。
たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでし
まうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過
去数10万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからも
ずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいは
いかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の
中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にす
る。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快
なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そ
のものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあ
って、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠
いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人
も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだっ
て、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。
方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はい
つもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思
えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そ
ういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にと
って不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ
袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あな
たはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直に
なってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まち
がえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私
がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそう
に笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそ
うでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実の
ところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分
では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることが
できない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つ
っぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車
に飛び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋
のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私
は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分
のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私で
あって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。
いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そうい
う私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」
を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、そ
れなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」
をみがくことと言ってもよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
常識論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて、書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだ
から故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめ
んどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常
識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子ど
もを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医
学総合研究所の調査・00年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと
思うが、兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正
月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「ど
うして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに
「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦し
めることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準に
して、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、
それぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引
きずっている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、
Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、
そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のとき
に家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)と
いうことだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をは
るかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわか
らなかった。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくな
い。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要が
あるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考
えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危
険なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」
を親や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに
頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。ま
た人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれ
からの子育ての基本である。
(はやし浩司 安易な常識論)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●アメリカ論

 よく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、家族主
義を口にするが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」「アメリカでは、夫婦でも裁
判ザタになっているケースが、日本とは比較にならないほど、多いではないか」と。(実際
には、日本とアメリカの離婚率は、それほど変わらない。)

 これについて反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いか
ら家族がしっかりしているということにもならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、
それだけ女性ががまんしているからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。
男尊女卑思想もまだ残っている。

たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうものなら、
それだけで即、離婚。実際にはそういう会話をする夫はいない。ウソだと思ったら、近
くにいるオーストラリア人に聞いてみることだ。

 つぎに裁判だが、たしかに多い。しかしそれは日本とアメリカの制度の違いによる。ア
メリカには、それこそ地区ごとに、「コートハウス」と呼ばれる仲裁裁判所がある。人口数
万の小さな町にさえ、ある。

そんなわけで、近隣で何かもめごとがあると、彼らはすぐ「では、判事に判断してもら
おうではないか」と、裁判所へでかけていく。こういう気安さ、気軽さがベースになっ
ているから、夫婦であっても、裁判所へ出向く率は日本より、はるかに高い。

 さらにアメリカから伝えられる凶悪事件を例にあげて、アメリカ社会は崩壊していると
主張している人もいる。しかしアメリカと言っても広い。あのテキサス州だけでも、日本
の2倍の広さがある。カルフォニア州だけでも、ほぼ日本の広さがある。

一方、アメリカ人の目から見ると、日本も東南アジアも区別できない。区別されない。
インドネシアで暴動が起きると、アメリカ人は、日本もそれに巻き込まれていると思う。
同じようにカルフォニア州の一都市で何か事件が起きたとしても、決して、アメリカ全
土で起きているわけではない。先日もアメリカへ行ったら、知人のF氏(アメリカ人)
はこう言った。

「日本人はハリウッドをアメリカだと思い込んでいるのでは」と。そして「ハリウッド
映画だけを見て、それがアメリカと思ってほしくない」とも。

 たしかにアメリカも多くの問題をかかえている。それは事実だが、しかしこれだけは忘
れてはいけない。アメリカには「アメリカ人」と呼ばれるアメリカ人はいないということ。
それは東京には「東京人」と呼ばれる東京人はいないのと同じ。先のテキサス州では、人
口の40%がヒスパニックが占めている。もちろん中国系、日系などのアジア人も多い。
白人ばかりがアメリカ人ではないことは、常識だ。

そういう多民族が集合して、「アメリカ人」というアメリカ人をつくっている。単一民族
しか知らない日本人とでは、そもそも「国民」意識そのものがちがう。言いかえると、
日本人対アメリカ人というように、そもそも対等に考えることすら正しくない。

 冒頭の問題は、そういう前提で考えなければならない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーン
だが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐ
るみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、
まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。
しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。

「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職
場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マ
フィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけでは
ないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府
時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道の
プロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを
学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ
系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発
言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教
育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引
き出す」が基本になっている、などなど。同じ「教育」といっても、その考え方におい
て、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。

私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明した
ら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オー
ストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●家族のつながりを守る法

2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務
省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけ
に、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪わ
れた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京
から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざま
な苦痛を受けた」と。単身赴任は、六年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのた
めにゆがめられた部分も多い。

今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくら
でもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日
本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、
周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、1999年の9月、次のような
判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えてい
ない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何
をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言
った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに
答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、ア
メリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜ん
で」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。

軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積も
りに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、
日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●孤独

 連休中、いろいろな人に会った。楽しかった。しかしいつも、そのあとにやってくるの
が、(さみしさ)。人と会うのは楽しいが、別れるのは、さみしい。

 で、明日から、また仕事。私という人間を求めて、たくさんの人や子どもたちが、来て
くれる。そう思ったとたん、ポッと心が温まるのを感ずる。と同時に、「私の生きがいは、
ここにある」と実感する。

 私は、結局は、どういう形であれ、死ぬまで、仕事をするだろう。仕事というより、人
と会いつづけるだろう。

 ……今日、三男が、宮崎へと帰っていった。駅まで見送った。「さみしいね」「またまた
2人ぼっちになってしまったね」とワイフに言うと、「これでいいのよ」と、ワイフは言っ
た。


●今日は雨

 大型連休最後の日だというのに、今日(5・7)は、朝から雨。せっかく買ったデジカ
メの出番もないまま、一日が終わってしまった。

 で、ヒマなので、アニメを1作、作ってみた。しかし最後の編集のところで操作をまち
がえて、パーにしてしまった。あああ……!

 こういう失敗が1度でもあると、創作意欲が、とたんに消えてしまう。コタツに入って、
ふて寝をしていると、そのまま眠ってしまった。目をさますと、午後4時。2時間ほど、
時間を無駄にしてしまった。

 パソコンを開くと、TK先生からのメールが入っていた。今度(5月20日)、鎌倉のB
という会で、講演をするという。その原稿を送ってくれた。

 その中の一文に、こんなことが書いてあった。

 先生のお嬢さんたちは、あのアインシュタイン博士がなくなった同じ病院で、その1週
間後に生まれているという。そのアシンシュタイン博士は、なくなる前の晩、何やら大声
で、ワーワーと叫んでいたという。

 あいにくとドイツ語だったので、そばにいた看護婦たちにも意味がわからなかったとい
う。TK先生は、「何やら重要なことをしゃべっていたかもしれない」というようなことを
書いている。

 アインシュタイン博士は、どんなことをしゃべっていたのだろう。たいへん興味がある。
そのうち、『アインシュタイン・コード』という本が出るかもしれない。ダビンチもおもし
ろいが、アインシュタインのほうが、もっと、おもしろい。……と私は、勝手にそう思っ
ている。


●中東情勢

 残念ながら、中東情勢については、私は、詳しくない。しかしテレビの報道で見るかぎ
り、彼らは、いつも戦争ばかりしている。そんな感じがする。たった今も、何かの特集番
組で、それを見た。それを見ながら、ふと、こう漏らす。

 「……少しは、仕事でもして、働けばいいのに……」と。私が見たシーンでは、兵士た
ちが、小銃を空にもちあげて、何やら叫びながら、行進を繰りかえしていた。

ワイフ「あれが仕事みたいね」
私「小銃をあげて、行進することが?」
ワイフ「そうみたい」と。

 世界には、おかしな仕事があるものだ。ホント!


●飛行機

 三男と、昨夜、遅くまで、飛行機の話をする。いくつか、おもしろいことを話してくれ
た。

 パイロットによって、当然のことながら、操縦のじょうずな人と、そうでない人がいる。
そこで私が、「ときどき、ドスンと着陸する、へたくそなパイロットがいる」と話すと、三
男は、こう言った。

 「それはヘタということではない。たとえば滑走路が雨などで、濡れてすべりやすくな
っているときは、わざと、ドスンと着陸させて、タイヤが滑らないようにする」と。

 なるほど!

 そういう話をつぎからつぎへと、してくれる。練習機は、1機、数千万円もして、1時
間も飛ぶと、経費が5万円もかかるという話もしてくれた。今度、仙台の飛行場で練習す
る飛行機は、1機、1億円もするそうだ。

 今は宮崎にいるが、10月からは、仙台へ移るという。仙台に住んでいる人がいたら、
息子を、どうかよろしく! 飛行機事故のニュースを聞くたびに、このところ、そのつど、
少なからず、ドキッとする。


●いとこの来訪

 岐阜県のS市に住むいとこが、おととい、我が家に来てくれた。奥さんと子どもと、一
泊してくれた。

 楽しかった。私のワイフの運転で、浜松周辺の観光地を回った。

 が、どこへ行っても、人また人。ゴールデンウィークというのは、こういうものかと、
改めて、思い知らされた。

 (私自身は、人ごみは、苦手。しばらく人ごみの中にいると、頭痛が始まる。)

 そこでその人ごみを避けて、より静かな場所へと移動。つまり一般の人たちの常識の逆
を、いった。

 これはうまくいった。

 まず気賀の関所へ。つづいて、寸座から観光船に乗って、寸座→舘山寺→寸座と、浜名
湖を往復。(観光客は、ふつう、舘山寺から遊覧船に乗る。)

 で、夕方、浜名湖の周辺をドライブすると、みなが、潮干狩りをしていた。すかさず、
私たちも合流! 

 昨日の夕方、いとこたちは岐阜へと帰っていった。いつも別れはさみしい。家に帰って、
コタツに入ったとたん、ものすごい睡魔。そのまま、私は眠ってしまった。


●デジタルカメラ

 昨日、新しいデジタルカメラを買った。衝動買いである。

 買ったのは、P社の、LUMIX。「旅行カメラ」というニックネームのついた、TZ1。
 
 画素数こそ、500万画素と、今では標準的だが、レンズは、光学10倍ズーム。しか
し何といっても、ISO感度がすごい。驚くなかれ、ISO・1600。

 これだけの感度があれば、夜の街も、フラッシュなしで、撮影できるはず。(まだ試して
いないので、楽しみ!)

 で、店員が在庫を確認に行っているとき、横を見ると、隣に、一組の男女が立っていた。
そしてあれこれ、女性のほうが、男性に話しかけていた。デジタルカメラについての知識
は、ゼロとみた。

 「画素数が多ければ、それだけ、性能がいいみたい」
 「撮影枚数が多ければ、いいみたい」
 「軽い方が、いいわ」と。

 で、合い間を見て、私が声をかけた。

私「画素数が多いからといって、いいカメラとはかぎりませんよ。800万画素のカメラ
もありますが、実際には、使い道がありません。

インターネットで使うなら、100万画素でじゅうぶん。ハガキ大の紙に印刷するにし
ても、200〜300万画素もあれば、じゅうぶん。

それに軽すぎるカメラは、ブレやすく、カメラとしては、不向きです。デジカメは、あ
る程度、重い方が、よいですよ。

800万画素の写真をとっても、印刷のしようがありません。A4サイズの写真を印刷
するとですね、それだけで、インク代が、1枚、200〜300円はかかるとみてくだ
さい。

それに800万画素の写真をとったりすると、あっという間に、メモリーを消費してし
まいます。もちろんその分だけ、バッテリーの消耗も、はげしい」

女「どれが、お薦めですか?」

私「あのね、デジカメは、ブレ防止があるかないかを、まずみますよ。とくに、はじめて
デジカメを買う人は、そうです。あとは、使いやすさで選びます。簡単なのがいいです」
と。

女「じゃあ、どれがいいと思いますか?」

私「私なら、P社のカメラをお勧めします。今年に入って、もう3台も買いました」と。

 1台は、二男夫婦に買ってやった。1台は、私用。そして今日、もう1台。

P社、つまりパナソニック社のカメラを推薦する理由。

★光学式のブレ防止機能がついていること。実際、使ってみると、その性能のすごさに驚
く。(他社のは、感度をあげ、シャッタースピードを速くし、それによって、ブレを軽
減するという方法を採用している。)

★P社のは、一部、アナログ式の、回転ダイアルになっている。一見、使いにくそうだが、
実際には、指でカリカリと回すだけで、撮影体勢に入れるので、楽。他社のほとんどは、
モニター画面を見ながら、それをする。これが結構、めんどう。

 私が現在使っているのは、(1)FX−8と、(2)昨日買った、TZ−1。ほかにも、
C社やF社のを、それぞれ2〜3台ずつ買ったことがあるが、すべて息子たちへ、払い下
げてしまった。その結果、現在のP社のカメラに落ち着いた。

 値段は他社のより、1〜3割高めだが、ブレ防止機能がついている、使い勝手のよさと
いう点を考慮するなら、やはりP社のがよい。あとはデザイン。これについては、好き好
きがあるので、私は、何とも言えない。

 まあ、あえて欠点を言うなら、音声録音機能がついていないこと。以前、使っていたC
社のカメラには、それがついていた。結構、重宝した。できれば、ICレコーダーとして
も使えるとよい。やがてそういう機能のついたカメラも登場すると思われるが……。

 それに操作部のデザインは、みな同じなのに、使い方がちがうというのは、おかしい。
たとえば、FX8と、TZ1とでは、写真の削除など、それぞれ操作のし方がちがうとい
うのは、P社ファンの私としては、困る。

 ちなみに、このブレ防止機能のおかげで、それまでマイナーだったP社が、一躍、デジ
カメの世界では、トップに躍り出たそうだ。その理由は、ここに書いたとおりである。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●バブル経済

++++++++++++++++++

すべてがパワフルで、
すべてが生き生きと輝いていた。

それがあのバブル経済の時期だった。

しかしそのバブルは、はじけた。
日本は、そのあと、長いトンネルの
時代に入った……。

++++++++++++++++++

 実体経済以上に、資産価値が上昇した状態を、「バブル経済」と呼んでいる(ウィキペデ
ィア百科事典)。

 わかりやすく言えば、東京都周辺部の土地の値段が、40坪単位で、1億円とか2億円
になることを想像してみればよい。(実際に、日本のバブル経済のころは、そうなったが…
…。)それがバブル経済である。

 土地をもっている人は、何も働かなくても、そのまま億万長者になるが、もっていない
人は、一生働いても、自分の住む家すら確保できない。

 だからいつかは、はじける。はじけて、その上昇分が、調整される。それが「バブル崩
壊」である。言うなれば、バブル経済というのは、巨大な博打(ばくち)のようなもの。
みなが、「買った」「買った」と言っている間に、資産価値だけが、どんどんと上昇する。

 しかし実体がともなわない。だから、はじける。

 で、日本のバブル経済も、はじけた。その結果、日本は、長くて苦しい時代を迎えた。
この10年を、「失われた10年」と呼ぶ人もいる。

 で、同じ愚を、中国が、現在進行形の形で、繰りかえしている。中国人のビジネスマン
たちを見ていると、10数年前の日本人を思い起こさせる。あのころの日本人も、自信満々。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、世界で、覇権(はけん)を広げていた。

 が、このところ、中国の経済が、急速におかしくなってきた。ペキンでも、新築のマン
ションのうち、60%弱が売れ残るようになっているという。

 ペキン不動産管理網によると、「現在、新築中のマンションの約11万戸が売れず、売れ
残り率が、59・1%(面積基準)に達した」という。これを受けて、中国の新華社は、「バ
ブル経済崩壊」のニュースを、世界に配信し始めた。

 それを裏づける資料がある。

 1997年、中国の不動産融資は、200億人民元。それが最近では、3兆700億人
民元にまで、ふくれあがっている。この10年間で、実に154倍になったことになる。

 また住宅融資を受けた、31・8%の人は、年収の50%以上を、その返済にあててい
るという(「新浪」)。

 これは、もう、メチャメチャな数字と言ってよい。日本のバブル経済もひどかったが、
中国のバブル経済も、ひどい。このままでは、中国のバブル経済は、やがて崩壊するし、
崩壊したあとも、その後遺症は、長くつづく。

 その時期はいつか? 日本の経験から言うと、政府が、金利の引き上げを始めたときが、
そのときということになる。日本も、時のH大蔵大臣が、金利の引き上げを宣言したのを
きっかけとして、バブル経済が崩壊した。

 中国も、融資金利を、このところあげ始めている。しかし時、すでに遅し。それが、新
築マンションの売れ残り率、60%という数字に表れている。

 さあ、どうする、中国? どうなる、中国? 私の知ったことではないが……。
(06年5月6日記)

【補足】

 中国政府は、自国の元を、必要以上に、安くおさえている。安くおさえれば、おさえる
ほど、輸出に有利だからである。

 そのため、世界中に、MADE IN CHINAの製品が、氾濫(はんらん)するよ
うになった。そのことは、100円ショップと呼ばれる店の商品を見ればわかる。「こんな
ものまで100円!」と驚くような商品が、ズラリと並んでいる。

 そのため、その周辺国が、この10年、大打撃を受けている。まず東南アジア各国が、
その被害を受けた。そしてそれが今、韓国、台湾へと広がりつつある。

 そこで元の切り上げ……ということになるが、それが簡単ではない。

 すでに世界の投資家たちは、それを見込んで、中国に、これまた必要以上の投資をして
しまっている。仮に元の価値が2倍になれば、投資額は2倍になって戻ってくる。こんな
ウマイ話はない。

 一方、中国はそれを知っているから、今さら、元を切り上げたくても、できない。もし
ここで元を切り上げれば、投資家たちが、いっせいにそれをドルに換えて、中国から引き
あげてしまう。

 中国は、欲をかきすぎて、墓穴を掘ってしまったことになる。つまり「働けど、働けど、
わが身……」というような状況を、自ら、作ってしまった。今も、相も変わらず、安い労
働力を使って、安い製品を作るしかない。

 もしここで、そうした安い製品づくりをやめたら、たちまち、ちまたに労働力があふれ、
失業者がふえてしまう。そうなれば、そうした失業者が、暴動を起こすかもしれない。中
国政府は転覆(てんぷく)の危機にさらされる。

 だいたい、今どき、一党独裁の政治体制があること自体、おかしい。日本でたとえて言
うなら、霞ヶ関の官僚たちが、日本の政治を支配しているようなもの。(日本も、似たよう
なものだが、中国よりは、まし。)中国の民衆たちも、すでにそれに気づき始めている。

 しかし、いつかやがて、今のバブル経済は、はじける。

 そうなったとき、中国は、どうなるか? 私の印象では、そのとき、中国各地では、民
主の暴動が多発し、やがてそれが中国民主化への動きとつながっていくだろうと思う。も
ちろん日本にも大きな影響を与える。

 しかしそのばあいでも、この暴動の矛先を、決して、日本に向けさせてはいけない。つ
まり反日運動に、結びつけさせてはいけない。

 日本は、音なしの構えで、静かに中国の変動を、見守るのがよい。そしてころあいをみ
て、中国民主化の、手伝いをする。

 で、気になるのが、現在のA外務大臣。このところ、過激な発言がつづいている。「天皇
にY神社参拝をしてもらうのがよい」などというようなことまで言っている。ああいう人
が、日本の首相になったら、日本は、どうなるか? 日本というより、まわりの国々がど
う反応するか? 想像するだけでも、私は、ぞっとする。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   06年 6月 2日(No 734 )
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●優等生ブルース

 小学生のときから、勉強がよくできた。スポーツも万能。だから親にも、先生にも期待
されている。そこでA君は、いつの間にか、自分で「そういう人間」をめざすようになっ
た。「そういう人間」というのは、そういう人間である。

 A君は、いつも周囲に注目されているのを知っている。それは悪くない世界だ。が、同
時に、みなの期待を裏切ることもできない。だから、いつもA君は、優等生であろうとし
ている。……優等生でなければならない。

 しかし本当のA君は、どこにいるのか? 何を望んでいるのか? 何をしたいのか? 
それがわからないまま、A君は、孤独だった。

●劣等生ブルース 

 毎日、学校へ行っても、ハラハラしている。先生に指されないことだけを願いながら、
体を小さく丸めている。が、ときどき指されてしまう。そして「前に来い」「お前、説明し
てみろ」などと言われる。とたん、教室は、笑いのウズ。

 B君は、そんなとき、いつも、みなの前で、おどけて見せる。ひょうきんな顔をして、
その場を茶化す。みなに「バカ」と思われるより、「おもしろい」と思われるほうが、まだ
まし。

 しかし本当のB君は、どこにいるのか? 何を望んでいるのか? 何をしたいのか? 
それがわからないまま、B君は、孤独だった。

●中間層ブルース

 勉強も、スポーツもほどほどにできる。しかしとくに、目立つということはない。夢も
希望もない。毎日、それとなく過ごしている。

 C君の趣味は、テレビゲームとカードゲーム。塾も二つ通っているが、本当のところは、
行きたくない。しかし行かなければ、立場がない。立場がなくなる。しかしこのところ、
家にも居場所がなくなってきた。親は、C君の顔を見るたびに、「宿題はあるの?」「勉強
はすんだの?」と言う。

 しかし本当のB君は、どこにいるのか? 何を望んでいるのか? 何をしたいのか? 
それがわからないまま、C君は、孤独だった。

●ブルース

 それぞれの子どもが、それぞれの立場で、ブルースを口ずさんでいる。優等生といわれ
ている子どもも、またそうでない子どもも。それが学校というところ。それが人生という
もの。しかし忘れてならないのは、彼らもまた、私やあなたと同じ、人間だということ。

 ……と考えて、我が身を振りかえってみる。そしてこう思う。何のことはない。私たち
だって、同じではないか、と。私たちもそれぞれが、それぞれの立場で、それぞれのブル
ースを口ずさんでいる。

 しかし本当の私は、どこにいるのか? 何を望んでいるのは? 何をしたいのか? そ
れがわからないまま、私たちもまた、孤独な世界を生きている?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
優等生 劣等生)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●やる気

+++++++++++++++++++

このところ、忙しい。
そのせいか、疲労気味。
こうしてパソコの前に座っても、
ものを書く気があまり起きない。

気力の減退。
それについて、記録する。

+++++++++++++++++++

 東洋医学(漢方)では、体力と気力は、同一源のものとして考える。天の気(呼吸)と、
地の気(飲食物)が、合体して、人精となる。

 この人精(じんせい)が、エネルギーの根源というわけである。「精」は、「精力の精」「精
神の精」と考えると、わかりやすい。少し前まで、何かのことでがんばっている人を見か
けると、「精が出ますねえ」と、声をかけたりした。(最近は、この言い方を、あまり耳に
しないが……。)

 だから体力や気力が落ちてきたときは、第一義的には、おいしいものを食べて、適度な
運動を繰りかえすのがよいということになる。

 が、やる気は、それだけで起きてくるというものではない。伊藤氏の「思考システム」
によれば、思考は大脳新皮質部の「新・新皮質」というところでなされるが、それには、
帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという(伊
藤正男)。

 さらに最近の研究によれば、脳内のカテコールアミンと呼ばれるホルモンが、やる気に
大きく関係していることもわかった(澤口俊之「したたかな脳」)。その中のノルアドレナ
リンは、集中力、ドーパミンは、思考力に関係しているという(同書)。

 つまりこうした作用が総合的に機能して、やる気が決まるということらしい。

 で、私の今の状態は、どうか?

 何を考えても、「どうでもいいや」という思いが、先に立ってしまう。めんどうというよ
り、むなしさが先に立ってしまう。ラマンチャの男(ドンキホーテ)が、風車を相手に、
ひとりで戦っているようなもの。所詮(しょせん)、相手は、風車!

 実際、「あなたの書いていることは、学問的には一片の価値もない」と言ってきた、大学
の教授がいた。(この話は、本当だぞ!)。「田舎のおばちゃんたちを相手に、講演をして、
どういう意味があるのか」とも。(この話も、本当だぞ!)

 そのときは、怒り、心頭に達したが、今になって思うと、「そのとおりだな」と納得する。
私のしていることは、どうせ、その程度。

 そういう思いが、私から、どんどんとやる気を奪っていく。

 だから、やる気がないのではなく、書く気がわいてこないということになる。そのほか
の面では、やる気はある。気力はある。

 今朝も、犬のハナの体を、シャップーで洗ってやった。午後に客人がくるので、居間の
掃除もした。腕につけるブレスレットの修理をした。言うなれば、書くのを、後まわしに
しただけ。しかしこうしてパソコンに向かって座っていると、「ああ、これが私の時間だ」
という思いは、強くもつ。それにおかしなことだが、こうしてサクサクと動くパソコンを
相手にしていると、気持ちよい。

 ……ということで、昼まで、まだ3時間弱もある。今日から、マガジンの6月号の原稿
を書くことにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
やる気 気力 帯状回 カテコールアミン 動機づけ)

+++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++はやし浩司 

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。

その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、
認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶とい
うのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれ
に含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記
憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶
は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日
本実業出版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だ
けでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題
によって、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであ
ると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが
近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当た
る。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。
しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。

この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳と
いうことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などとい
う記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論と
して、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。

で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるというこ
とがわかってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の
「新・新皮質」というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬
(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」
は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多い
から思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはな
らない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数
ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子ど
もということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここで
ひも解いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
知識 思考 記憶 記憶のメカニズム)

Hiroshi Hayashi+++++++++はやし浩司

●思考について

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、
ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言っ
たパスカル(「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、
ただひたすら文を書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なこ
とではない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み
合わせながら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以
上のものだ。子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、
まだ救われる。大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、
ダメ人間のレッテルを張られてしまう。だからますます思考するということに、苦痛を
感じてしまう。

が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも
同じような苦痛がついて回る。それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、
そうでなければそうでない。そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避け
ようとする。一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性……10年一律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や
価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。

●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手
が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。

●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え
方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、
年齢的な問題もある。私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集
中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。そう
いうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が
停止する人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。個人差というよ
り、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子ど
もの思考を育てる構造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本
人像をつくりだしていると考えられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 思考について デカルト パスカル)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●善人と悪人

+++++++++++++++++++++

道路に人が倒れていた。
苦しそうである。
そういうとき、あなたは、倒れていた人を、
無視して、通りすぎることができるか?

+++++++++++++++++++++

●倒れていた男

 一度だけだが、私は、こんな光景を見た。神奈川県のK市に行ったときのことである。
ワイフと2人で歩いていると、10数人の人たちが、円陣をつくって、そこに集まってい
た。見ると、中央には、1人の男性が倒れていた。

 男性の年齢は、50歳くらいではなかったか。

 みなは、何やらたがいに話しあいながらも、その男性を見ているだけであった。声をか
けるといったふうでもなかったし、救急車を呼ぶというふうでもなかった。私とワイフは、
その一群の人たちをうしろのほうから見ながら、そしてその集団を避けるようにして、そ
のままその場を離れた。

 男は、酔っ払っていたのか? それとも何かの急病だったのか? それはよくわからな
かったが、私たちにとっては、旅先でのできごとだった。

 が、もし、その男が、私の近所で倒れていたとしたら……。おそらく、私はその男に声
をかけ、ばあいによっては、救急車を呼んだかもしれない。

●ニヒリズム

 人の心の原点には、ニヒリズムという、悪魔が住んでいる。言うなれば、(冷たい残忍な
心)ということになる。

 そのニヒリズムが、ときとして、心の奥から、顔を出す。たとえば、今朝の朝鮮N報(韓
国系新聞社)によれば、今年、K国の食糧事情が悪化するかもしれないという。90年末
の食糧危機の再来になるかもしれないという。

 そういうニュースを読んでいると、ふと、自分の心の中で、そのニヒリズムが、顔を出
すのがわかる。「ザマーミロ」とまではいかないが、「知ったことか」という思いが、顔を
出す。苦しむのは、罪もない一般庶民たちということは、よくわかっている。しかしそう
した理性は、こういうばあい、どこかへ行ってしまう。

 私の心がおかしいのか? それとも、私だけではなく、こうしたニヒリズムは、みな、
もっているのか? もしみながもっているとしたら、そのニヒリズムは、心のどこから、
どのようにして、生まれるのか?

●生きる力の、プラスとマイナス

 前向きに生きていく。これを(プラスの生きる力)という。しかしその生きる力には、
もうひとつの作用がある。

 (他人を蹴飛ばしてでも生きる)という、マイナスの生きる力である。たとえばこんな
状況を考えてみよう。

 あなたは沈没船から、あやうく、小型のボートに乗り移ることができた。九死に一生を
得たような状況だった。

 小型ボートの定員は、40人。しかしすでに、50人以上もの人たちが乗っている。ボ
ートは今にも沈みそうである。しかも明かりひとつない、夜の、真っ暗な海。

 そのときボートの手すりにだれかが手をかけた。見ると、一人の女性である。その女性
は、かよわい声でこう言った。「助けて……」と。

 映画『タイタニック』の1シーンを、想像してもらえばよい。

 もしそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか? その女性を助けるだろ
うか? それとも、無視するだろうか? その女性を助けあげれば、ボートは、ボートご
と、沈んでしまうかもしれない。

 そこでもしあなたが、その女性を無視して、下を向いたとする。(映画『タイタニック』
の中にも、そういうシーンがあったように思う。)それが(マイナスの生きる力)というこ
とになる。

●表と裏

 ニヒリズムを悪と決めつけるのは、どうかと思う。このニヒリズムがあるからこそ、人
は、平常心を保つことができる。

 さらにこんな例で考えてみよう。

 あなたは町の郊外に、大型のショッピングセンターをつくった。超大型のショッピング
センターである。センターそのものが、ひとつの町のようになっている。

 毎日、多くの買い物客で、にぎわっている。あなたはその成功に酔いしれ、自分の偉大
さを確認する。

 しかし心のどこかでは、罪の意識も感じている。あなたがそのショッピングセンターを
作ったおかげで、それまで近くにあった、多くの零細商店が、閉店に追いこまれた。しか
しそのとき、あなたは、こう思うにちがいない。

 「この世界は、食うか、食われるかの、弱肉強食の世界。いちいち、そんなことを心配
していたら、生きていかれない」と。「へたに温情を示していたら、今度は、自分が食われ
てしまう」とも。

 つまり(プラスの生きる力)は、いつも、(マイナスの生きる力)と、ペアになっている
のがわかる。もしこのとき、(マイナスの生きる力)イコール、ニヒリズムと考えるなら、
ニヒリズムは、生きる力そのものということになる。

 少なくとも、ニヒリズムを否定してしまうと、その人は生きていかれなくなってしまう。

●受験というニヒリズム

 さらによい例が、受験というニヒリズムである。

 合格する人たちに、ワク(定員)があるばあい、1人の受験生が合格するということは、
同時に、別のところで、1人の不合格者を作りだすことになる。しかしその不合格者のこ
とを心配していたのでは、受験そのものが、できなくなる。

 そこで合格したとたん、ほとんどの人は、不合格で落ちた人のことは、忘れてしまう。
心のスミで、ふと、その人を思い浮かべることはあっても、それを自ら打ち消してしまう。
「私のせいではない」と。そしてあなたはあなたの道を歩き始める。

 つまり私たちの生活から、こうしたニヒリズムを取り去ることはできない。それはわか
るが、ただこういうことは言える。

 そのニヒリズムを決して、野放しにしてはいけないということ。それが必要であるとし
ても、最小限におさえること。そういった努力を怠れば、まさにこの世は、闇と化す。

●ニヒリズムとの闘い

 学生時代に見たミュージカルに、『ヘアー』というのがあった。私は、シドニーのキング
スクロスにあった劇場で、それを見た。

 そのミュージカルの中で、1人の女の子が、こう歌う。「どうして、人々は、残忍になれ
るの……?」と。その女の子は、戦争という残忍さを頭に置きながら、そう言った。

 言うまでもない。ニヒリズムが、極限化すると、それはそのまま残忍化する。さらに放
置すれば、悪魔化する。

 そこで私たちは、生きることを考えるときは、同時に、ここに書いた、(マイナスの生き
る力)を、念頭に置かねばならない。そのことがわからなければ、先に書いた、ショッピ
ングセンターを思い浮かべればよい。受験勉強を思い浮かべればよい。

 常に、(生きる力)には、ニヒリズムがともなう。

 そのニヒリズムを、理性でコントロールできる人を、善人といい、そうでない人を、悪
人という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ニヒリズム 善人 悪人)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【心を偽る人たち】

●反動感情

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私
は、これを勝手に「反動感情」と呼んでいる。心理学の世界に、「反動形成」という言葉が
ある。反動形成というのは、自分の心を抑圧すると、その反動から、正反対の自分を演ず
るようになることをいう。たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、
まったく性には関心がないように振るまうことがある。性に対して、ある種の罪悪感をも
った人が、そうなりやすい。ほかに、たとえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな
人間のフリをするのも、それ。その反動形成に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(34歳女性、当時)に会ったのは、私が40歳くらいのことだった。もと
もとは奈良県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古
都の雰囲気を感じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫
を愛しています」「娘を愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。
それで私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は
最初、Aさんの家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。
が、そうではなかったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそ
のとき六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別
れてしまった。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その
好きな人に、腹いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆ
がんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を
始める前までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)
という。が、離婚はしなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業
で、たがいにもちつ、もたれるの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そして
その教え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でな
ければ、あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いや
だ」という感覚を味わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感
を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに
反発するものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろ
うとする。反対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反
動感情」である。このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうと
する。わかりやすく言えば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好
きになることで、不快感を克服しようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認
め、自分を劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。
自分という「主体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き
(affection)」という状態をつくるが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブ
な好意でしかない。若い男女が、電撃的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好
き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や
社会は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、
「ストックホルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になっ
たような人が、そのテロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意
をいだくようになり、そのテロリストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく
言ったが、どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけな
のかもしれない。Aさんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっ
ていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。
しかし夫婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる
人は、いくらでもいる。

 Bさん(40歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くこと
になったときのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。
「冗談でしょ?」と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的
には、仲のよい夫婦に見えた。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃ
あ、どうして離婚しないのですか?」と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(45歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさ
つすらしなかった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しか
しC氏は、人前では、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、
その学校のPTAの副会長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく
覚えているのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使って
いたことだ。父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲
れさせる。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度
は、その反動として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケース
は、少ない。たいていは、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。
つづくというより、もちつづける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の
人形として生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。
その中でも、よく知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。ヘルメルが、ノラに、「(家
事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。「そんなこともう
信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の家」岩
波書店)と。そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう
反動感情で作られた愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを
感じていたとしたら、ということだが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろ
いろな人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、
本当は、つきあいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれ
ない。あるいは「私はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、い
ったい、どれだけいるだろうか。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親
の前で、ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理
によい子ぶっていないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私た
ちはすばらしい親子関係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。ひょっとしたら、
あなたの子どもは、あなたと良好な関係にあるフリをしているだけかもしれない。本当は
あなたといっしょに、いたくない。いたくないが、し方がないから、いっしょにいるだけ、
と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思っているなら、その可能性は、ぐんと高
くなる。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。


注……ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行
襲撃事件に由来する(1973年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるう
ち、人質となった人たちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候
群」と呼ぶ。のちにその人質となった女性は、犯人と結婚までしたという。

注……イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメ
ル。好意でしたことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。
それがここに取りあげた会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメ
ルと、三人の子どもを残して、家を出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小2男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作ってい
た。そこでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その
子どもを施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いた
い、会いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きな
の?」と聞くと、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子
どもは、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようと
した。その子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父
親に嫌われたら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感
情を、自分の中につくることで、自分の心を防衛したと考えられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
心を偽る 反動形成 虐待 心理 人形の家)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●イラン危機と日本

++++++++++++++++

原油価格が上昇している。
今日(5・4)のニュースによれば、
5月2日、ドバイ産原油価格は、
1バレル当たり、68・33ドル
にまで上昇したという。

最高値である。

もしアメリカとイランの関係が
悪化し、ホルムズ海峡が閉鎖される
ようなことにでもなれば、
1バレル、100ドルということも
ありえるという。

++++++++++++++++

 「アメリカが経済制裁すれば、テロ活動を起こす」「アメリカがイランを攻撃すれば、イ
ランは、イスラエルに報復攻撃をする」と、ますます過激な発言を繰りかえす、イランの
マフムード・アフマディーネジャード大統領。(名前が長い!)

 日本はこの地域から、90%近い原油を輸入している。もしアメリカとイランの関係が
こじれ、ホルムズ海峡が封鎖されるようなことにでもなれば、日本への影響は、甚大であ
る。

 しかしそれこそ、中国のねらい。中国は、今回のイラン危機(私は、そう呼んでいるが
……)を利用して、日本を叩き落そうとしている。中国の一連の動きを見ていると、そん
な感じさえする。

 現在、日本がイランで開発しているアザデガン油田が、中国の手に渡れば、極東アジア
における日本と中国の立場は、逆転する。近い将来において、日本が中国に頭をさげて原
油を輸入するような事態にも、なりかねない。

 ことは、重大である!

 一方、目が離せないのが、韓国情勢。

 5月3日、ドル・ウオンの為替レートが、1ドル=930ウオン台ににまで、ウオンが
高騰した。基本的には、韓国は、加工貿易で成りたっている国である。ウオンが上昇すれ
ば、輸出面での打撃は大きい。

 韓国では、かねてより、1ドル=950ウオンが、輸出のボウーダーラインとされてき
た。つまりそれ以上にウオンがあがれば、輸出そのものが成りたたなくなる、と。

 しかしその950ウオンをあっさりと、突破してしまった。朝鮮N報の報道によれば、
最近になって、約1000社の企業が、輸出業務を停止しているという。もしこのままウ
オン高がつづけば、韓国は、再びデフォルト、つまり国家破綻の危機にさらされる。

 加えて、このところの原油高。

 5月2日、ドバイ産原油価格が、とうとう、1バレル当たり、68・33ドルにまで上
昇した。ホルムズ海峡が封鎖されれば、1バレル当たり、100ドルになると予想する経
済学者もいる。

で、その韓国は、日本以上に、原油を中東(ドバイ)に依存している。しかも石油の備
蓄量が、75日分程度しかない。(日本は、約160日分、アメリカは、80日分。)

 持久戦ということになれば、韓国には、それほど、力はない。

 しかしあえて言おう。すでに日本と韓国の経済戦争は、始まっている。その戦争に、中
国も加担し始めている。日本にその気はなくても、韓国や中国は、その気で、日本と戦っ
ている。そしてその戦争は、日増しに熾烈(しれつ)になってきている。

 だったら、日本も、それ相当の応戦をすべきではないのか。ここで日本が手をこまねい
ていれば、日本は、それこそ本当に、「太平洋の海溝に叩き落とされてしまう」(中国)。

 もちろん戦争といっても、これは経済戦争である。人と人が殺しあう戦争ではない。「戦
争」という言葉に語弊(ごへい)があるなら、経済試合でもよい。ともかくも、今、日本
は、その正念場を迎えつつある。

 話はそれたが、先に書いたイラン危機が、これから先、日本のみならず、中国や韓国に、
どのような影響を与えるか、ますます目が離せない。日本にとってもっともよいシナリオ
は、イランのマフムード・アフマディーネジャード大統領(本当に、名前が長い!)が、
核開発を断念してくれることだが、それは、もうありえない。

 つぎのシナリオは、中国とロシアが、イランへの制裁に傾いてくれることだが、それも、
どうやらありえない。日本と中国の間の距離以上に、アメリカとロシアの間には距離があ
る。言うなれば、西欧文明とスラブ文明の対立。それを乗り越えるのは、容易なことでは
ない。(日本人は、アメリカ人もロシア人も同じと考えやすいが、それはとんでもないまち
がいである。)

 有志連合によるイランへの経済制裁ということもあるが、日本への被害への大きさを考
えるなら、日本にとっては望ましくない。利するのは、中国や韓国、それにロシアだけ。(韓
国は、有志連合には乗ってこないはず。)それに穴だらけの経済制裁をしたところで、どれ
ほどの意味があるというのか。

 で、ここから先は、まさに悪魔のシナリオということになる。そうあってほしいと願っ
て書くわけではない。しかし日本の国益を最優先するなら、つぎのようなシナリオもある。

 イスラエルがイランを先制攻撃して、イランの核開発関連施設を攻撃してくれること。
つまり中東戦争を、アメリカ対イランという構図ではなく、イスラエル対イランという構
図に限定する。アメリカには傍観者になってもらう。

 このあたりで、イランが、核兵器開発を断念してくれれば、一番、よい。

 で、それがないと、日本は、最悪の状態を迎えることになる。

 しかし心配は、無用!

 ホルムズ海峡が封鎖され、石油危機が到来したあとは、世界各国は、持久戦へともつれ
こむ。もちろん日本も被害を受けるが、しかし最後まで生き残るのは、このアジアでは、
この日本だけ。

 中国も今、油田開発に躍起(やっき)になっているが、石油不足は、年々、深刻さをま
している。1996年には、1350万トンの原油を輸入していた。それが、99年には、
2850万トンに増加。毎年原油需要が4%ずつふえているにに、供給量は、2%ずつし
かふえていない。2020年ごろには、世界一の原油輸入国家になるとも言われている。

 日本は、今回のイラン危機を利用して、逆に、韓国や中国を、東シナ海に、叩き落すこ
とができる。

 とても悲しいことだが、韓国にN政権があるかぎり、そしてK国に金xx政権があるか
ぎり、日韓関係が、好転することはありえない。で、ここが重要だが、もし、再度、韓国
がデフォルト(国家破綻)に陥ったとしても、次回は、日本のほうから助けを申し出る必
要は、まったく、ない。またそんな愚を、繰りかえしてはいけない。

 何度も、まず、頭をさげさせる。「助けてください」と言うまで、頭をさげさせる。それ
を見届けてから、日本は、韓国を助ければよい。

 あの竹島にしても、そのあと、韓国の大臣が、ヘリコプターで上陸している。さらに今
度は、竹島に電話線まで施設するという。まさにやりたい放題のことをしている。日本の
神経を逆なでするようなことを、平気でしている。そういう韓国を、日本が、どうして助
けなければならないのか。
(この原稿は、06年5月4日に書いたものです。)

【追記】

●どうなっているの、統一部長官?

++++++++++++++++++

韓国は、いつから、K国の属国になって
しまったのか?

ますますわからなくなった、韓国の行方
(ゆくえ)?

++++++++++++++++++

 06年5月3日の討論会で、韓国のイ統一部長官は、つぎのように述べている。朝鮮N
報の日本向け記事から、一部、そのまま抜粋する。(日本の新聞ではないぞ!)

 「『日本人拉致被害者・横田めぐみさんの父親と会う意向はあるか?』との質問には、『そ
のような計画はない。必要だとは思わない。K総書記が拉致を告白してまで歩み寄りを見
せたが、日本ではこれを過小評価しているようだ』と述べた」と。

 つまり韓国のだれかが、イ統一部長官に、「横田めぐみさんの父親と会う意向はあるか?」
と聞いたことに対して、長官は、「必要だとは思わない」と。

 それはわかるとしても、つぎの発言が、「?」。イ統一部長官は、こう言っている。

 「K総書記がが、拉致を告白してまで、歩み寄りを見せた」「(しかしそれに対して)日
本では、これを過小評価している」と。

 まあ、最近にない、とんでもない発言である。「拉致を告白してまで……」とは! 告白
すればそれですむという話でもないだろうし、「告白した」ということは、拉致の実行責任
者は、金xxであることを、韓国の高官自身が、認めたことになる。

 さらにこの発言の前には、こんなことまで言っている。

 今度、韓国に亡命した、脱北者が、再度、アメリカに亡命したことに対して、「ナンセン
ス」と。「韓国政府は弾圧したこともないのだから、S氏(=アメリカに亡命した人)亡命
はナンセンス」(同、朝鮮N報)と。

 さらにさらに、「?」な発言がつづく。イ統一部長官は、こうまで述べている。

 「アメリカのK国に対する体制変動の試みについては、明確に反対する」(同、朝鮮N報)
と。

 つまり独裁国家を支持する、と。

 こうした統一部長官の発言を並べてみると、儒教国家の特徴というか、権威主義がどう
いうものか、それがよくわかる。繰りかえすが、イ統一部長官は、こう述べている。

 「拉致を告白してまで……」と。

つまり「K国の最高権力者ともあろうお方が、わざわざ拉致を告白してまで……」と。
私はこれを読んだとき、即座に、テレビドラマの『水戸黄門』を思い浮かべた。三つ葉
葵の紋章を見せて、「控えおろう!」と一喝する、あのテレビ番組である。

 形は民主主義国家でも、韓国は、まさに権威主義国家。ここが重要だが、相手がだれで
あろうが、そんなことで遠慮する必要はない。横田めぐみさんの両親は、「娘を返せ」と言
っているだけである。先にも書いたように、告白したからといって、それですむような問
題ではない。

 仮にもし告白しなかったら、今ごろは、どうなっているだろう。恐らく今の今も、K国
の高官たちは、「拉致問題は、日本政府のでっちあげ」と言いつづけて、協議のたびに、大
声で激怒して見せているにちがいない。(演技たっぷりに!)

 で、このイ統一部長官の発言は、権威主義というものがどういうものであるかを知るの
に、たいへんよい素材である。

 日本でも、昔から、為政者には、一目も二目も置くのが、ならわしになっていた。相手
が天皇だと、なおさらである。目と目を合わせることすら、許されなかった。名前を口に
することすら、許されなかった。

 「偉い人」という言葉は、そういうところから生まれた。言いかえると、イ統一部長官
は、(出世)に(出世)を重ね、今のような(偉い人)になったのだろう。恐らく、自分で
もそう思っているにちがいない。だから「告白までして……」という言葉が出てくる。

 さらにつけ加えるなら、韓国は、K国に、骨のズイまで魂を抜かれてしまった。K国に
核兵器で脅されつづけているうちに、いつの間にか、K国の機嫌をとるだけの国になって
しまった。

 心理学の世界にも、「ストックホルム症候群」という言葉がある。犯罪者に仕えているう
ちに、犯罪者に協力するようになってしまう心理状態をいう。ことの善悪すら、わからな
くなってしまう。それに似ている。つまり国全体が、そのストックホルム症候群に陥(お
ちい)ってしまった。

 そんな感じさえする。

 どこへ行く、韓国?

 もうすぐまた、韓国の平和ノーベル賞受賞者でもある、金大中が、K国の金xxと、会
談をすることになっている。南北共和制を敷く、その筋道を作るために、会談をするらし
い。

 ならば、これだけは忘れないでほしい。そういった話しあいは、K国の核兵器開発問題
を解決からにしてほしい。その話しあいを棚にあげたまま、南北の統一ということになれ
ば、それだけは、絶対に、日本は容認できない。

 少し前、韓国のN大統領は、Y神社参拝問題にからんで、公式の場で、「(日本よ)、いい
気になるな」と言った。しかし今度は、日本が、その言葉を返す番になった。

 韓国のN大統領よ、いい気になるな!

 それにしても、ますますわからなくなった、韓国の行方(ゆくえ)。いったい、韓国は、
どこへ行こうとしているのか?

(注)ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃
事件に由来する(1973年)。その事件で、6日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質
となった人たちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。
のちにその人質となった女性は、犯人と結婚までしたという。
(はやし浩司 ストックホルム症候群 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評
論 幼児教育 子育て はやし浩司)


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はやし浩司(ひろし)