はやし浩司(ひろし)

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はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(1000−1050)


最前線の子育て論byはやし浩司(000)(05年11月24日・Nov.24'05)

【2006年を読む(3)】

●日中関係

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中国の反日運動を、私たちは、どう
読んだらよいのか?

日本は、どうあるべきなのか?

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 60年安保闘争につづいて、1970年の夏、いわゆるあの70年安保闘争が起きた。私が大
学生のときである。若い人たちは、「安保闘争」と聞いても、ピンとこないかもしれない。

 一応は、「アメリカとの軍事同盟、反対闘争」ということになっていたが、その本質は、「お祭
り」だった。そのことをいち早く見抜いていたのが、あの石川達三である。つまり私たちは、反
米の、のろしをあげ、安保闘争を繰りかえしたが、確固たるイディオロギーがあって、そうした
のではない。イディオロギーをもっていた学生など、ほとんどいなかった。たいはんの学生たち
は、共産主義の「キ」の字もわかっていなかった。

 私たちは、何かをふっきるために、デモに参加した。抑圧された閉塞感、それを払いのけた
かった。つまり戦後、日本は形の上では、民主主義国家になったが、中身といえば、旧態依然
のまま。とくに学校(大学)教育は、戦前の文部省教育のままだった。

 学校は、絶対。教師は、絶対。教育は、絶対。だれもが、そういう意識をもっていた。そしてそ
ういう意識の中で、だれもかれもが、身も心も、がんじがらめに、縛られていた。つまり安保闘
争は、そのはけ口となった。

 同じく、今、中国では、反日闘争が吹き荒れている。その先頭に立っているのが、「憤青」と呼
ばれている、若者たちである。「憤慨する若者」という意味である。

 こうした若者たちが、本当に何かのイディオロギーをもっているかといえば、それは疑わし
い。深い政治的思想や、政治的理念があるかといえば、それも疑わしい。その状況は、ちょう
ど35年前の、私たちのあの時代に似ている。

 そこで重要なことは、(韓国は別として)、こうした中国の反日運動に対して、日本は、冷静で
なくてはならないということ。つまりこうした運動に呼応する形で、中国攻撃を繰りかえせば、そ
のときは本当に、彼らの反日運動が、ひとつの理念をもってしまうようになる。そうなれば、そ
れこそ、日本は、アジアでは最大級の反日国家を誕生させてしまうことになる。

 ここで「韓国は別」と書いたのには、理由がある。

 韓国は、中国の反日運動に便乗しているだけ。しかもそれを主導しているのは、現在のN大
統領以下、N政権だけである。N政権率いる、与党U党の支持率は、韓国内でも、10%前後ま
で低下している。N大統領の支持率も、20%前後。選挙をするたびに、与党のU党は、完敗に
つづく完敗。N大統領イコール、韓国と考えないほうがよい。

 が、なぜ、こうまで日中関係がこじれてしまったかといえば、原因は、すべて日本のK首相の
Y神社参拝にある。歴代の総理大臣の中で、こうまでY神社参拝にこだわっているのは、K首
相をおいて、ほかにない。K首相は、これで4年連続で、Y神社を参拝したことになる。

 K首相は、若いときから、Y神社を参拝していたのだろうか。そしてそのつど、「反戦の誓い」
とやらをしていたのだろうか。もしそうなら、私は何も言わない。しかし総理大臣になったとた
ん、信仰心が芽生えたというのなら、K首相は、Y神社参拝など、すべきではない。それこそ、Y
神社に眠る「御霊(みたま)」に対する、冒涜(ぼうとく)というものではないだろうか。

 たとえはあまりよくないかもしれないが、その姿は、巨額の遺産を目当てに、突然、先祖の墓
参りを始める相続権者に似ている。忠実な子孫であることを売りこんで、遺産を自分のものに
しようとする。その姿に似ている。

 ひるがえって、日本以外の国々では、Y神社を、軍国主義の象徴的存在としてとらえている。
いくらK首相が、「そうでない」と言っても、相手がそれを認めなければ、しかたのないこと。日
本は、加害者であり、中国や韓国は、被害者なのだ。

 (これに対して、「日本は中国を侵略したのではない。ソビエトからの脅威を、中国大陸で防
いだだけ」と説く人がいる。しかしそれでも中国には、たいへんな迷惑をかけた。その事実は、
変わらない。)

 06年も、勇ましい好戦論や、中国排斥論が、騒々しくなってくるにちがいない。しかしここで
忘れていけないのは、あの60年安保闘争のとき、そして70年安保闘争のとき、アメリカは、日
本に対して、どのような姿勢をとりつづけたかということ。それを思い出そうではないか。

 はっきり言えば、アメリカは、日本の「ニ」の字も相手にしなかった。つまりアメリカは、そのと
きすでに、よく知っていた。

 「もし、アメリカが日本から抜ければ、日本は、毛沢東中国、李承晩韓国、金日成朝鮮の攻
撃にさらされるだけ」と。もちろん当時の、自民党政権も、それを知っていた。だから平然と、か
つ徹底的に、安保闘争を、粉砕するという手段に打って出た。

 そこで日本は、どうすべきか。

 こうした中国の反日運動については、無視を決めこむのがよい。それがわからなければ、あ
のアジアカップの優勝戦(04年夏)のことを思いだせばよい。中国側サポーターたちが、「殺
せ!」「殺せ!」と、日本側サポーターたちに、ものを投げつけた。が、そのとき、日本側サポー
ターたちは、ニンマリと笑いながら、日章旗をあげた。その日章旗には、「日中友好」と書いて
あった!

 世界の人たちは、それをしっかりと見ていた。つづくG8では、イギリス、フランスなどの猛反
対で、中国の招待が、見送られてしまった。中国は、異質の国と、とらえられたわけである。

 さらに言えば、このアジアで本当に嫌われている国といえば、この日本ではなく、中国であ
る。フィリッピンにしても、東南アジア各国にしても、さらにインドにしても、嫌われているのは、
日本ではなく、中国である。

 日本は、そういう国々と連携(れんけい)を深め、逆に中国包囲網を敷けばよい。そのあとの
ことは、そのあとのことに任せればよい。

 で、韓国だが、経済規模からしても、相手にする必要は、まったくない。日本に嫌われて困る
のは、韓国であって、日本ではない。(反対に、韓国に嫌われても、日本は、一向に困らない。
どうぞ、ご勝手に!)

 さらにつけ加えるなら、K首相に一言。Y神社に参拝したからといって、愛国心があるとか、参
拝しないからといって、愛国心がないとか、そういうことで愛国心を判断してもらっては困る。私
など、ただの一度も、Y神社を参拝したことはないが、愛国心だけは、人一倍強い。その証拠
に、こうして日本の未来を心配して、ものを書いているではないか。

 おかしな老人性固着(こだわり)に固執するのではなく、ここは、一歩退いて、もっと地球的な
規模で、アジアの未来をながめてみてはどうだろうか。そうすれば、06年の日本がどうあるべ
きか、その答は、自ずと出てくるはず。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●ある姉妹の運命

+++++++++++++++++

それぞれの人には、それぞれ、
クモの糸のように、無数の
人間関係がからんでいる。

そしてそのクモの糸にからまれている
うちに、その人の人生がどうあるべきかが
決まってくる。

それを運命というなら、運命は、
だれにでもある。

+++++++++++++++++


 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

 大切なことは、どこでどう、その運命を受け入れ、どこでどう前向きに構えるかということ。…
…というほど大げさな問題ではないが、最近、こんなことがあった。ワイフの友人の問題だが、
それには、いろいろ考えさせられた。

それを話す前に、少し、説明しておきたいことがある。

子育ての世界には、「代償的過保護」という言葉がある。一見、過保護のように見えるが、過保
護ではない。過保護には、その背景に、深い親の愛情が見え隠れするが、代償的過保護に
は、それがない。

 子どもを自分の支配下において、子どもを自分の思いどおりにしたいというのが、代償的過
保護。つまりは、過保護もどきの過保護。もっと言えば、子どもを、親の心のすき間を埋めるた
めの、道具として利用する。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔する親たち。「子どものため」
と言いながら、何も、子どものことなど、考えていない。自分の不安や心配を解消するために、
子どもをして、受験勉強にかりたてる。あるいは自分が果たせなかった夢や希望を、子どもを
通して達成するために、子どもを利用する。それが、「代償的過保護」。

 この代償的過保護になる親には、共通のパターンがある。

(1)心のすき間、つまり精神的未熟さ、情緒的不安定さがある。
(2)いつも満たされない欲求不満をかかえている。
(3)「産んでやった」「育ててやった」を口ぐせにしやすい。
(4)子どもの自立、独立を阻止しようとする。自分から離れていくのを許さない。
(5)ベタベタの親子関係をつくりやすい。子どもに依存心をもたせやすい。
(6)自己愛的傾向が強く、ものの考え方が、自己中心的で、人格の完成度が低い。
(7)独得の子ども観をもっている。

 最後の「独得の子ども観」というのは、親にベタベタ甘える子どもほど、いい子で、かわいい
子と考えやすいことをさす。そして、子どもを大切にするということは、子どもにいい思いや、楽
をさせることと誤解する。

 Aさん(60歳、女性)は、まさに、そんなタイプの母親だった。虚栄心が強く、世間体を、異常
なまでに、気にした。その上、自分勝手でわがまま。2人の娘がいたが、その娘たちとは、はや
くから絶縁状態。顔を合わせることもあったが、会うたびに、Aさんは、娘たちに、「親不孝者
め!」とか、「地獄へ落ちるぞ!」とか言って、娘たちをおどした。Aさんは夫とは、その5年ほど
前に、死別していた。

 が、不幸は突然やってきた。不幸といっても、Aさん自身のことではない。娘たちの不幸であ
る。ある朝、Aさんは、脳梗塞を起こして、倒れてしまった。幸い、症状が軽く、運動マヒは残ら
なかった。しかし人格が、変ってしまった。「母は、まるで別人のように、無表情で、怒りっぽくな
った」(妹)とのこと。しかしそれは同時に、娘たちの苦しみのはじまりだった。

 2人の娘は、たがいにけんかをした。「あんたが長女だから、めんどうみろ」「あんたのほう
が、母にかわいがってもらったのだから、あんたが、めんどうをみろ」と。

 結局、生活費は妹夫婦が負担して、姉のほうが、Aさんのめんどうをみることになった。暗黙
の了解ということだったが、娘たちは、自分の人生をのろった。とくに姉のほうが、その負担を
大きく感じた。

 姉は、毎週のように妹の家に来て、グチを言った。そのグチが、ときには、1時間以上もつづ
くことがあった。姉は、介護ノイローゼから、うつ病の一歩手前という状態ではなかったか。

 夜眠れない。朝早く、目がさめてしまう。耳鳴りがひどい。食欲がない。血圧があがった。腰
が痛い。頭痛がする。吐き気がする、などなど。

 そして母親のささいなことを取りあげて、ああでもない、こうでもないと不平、不満を並べた。
たとえば、インスタントラーメンが、台所のシンクの穴につまっていた。洗面所のお湯が流しっ
ぱなしになっていた。パンが、戸だなの中で、腐っていた。植木鉢の花が、枯れてしまった、な
ど。

 そしてあれこれ理由を並べて、妹が出すお金では、足りないと不満を言った。「往復するだけ
でも、20キロはある。ガソリン代が高い」と。

 妹のほうは、言われるまま、そのつど、2万円とか3万円とか、払っていた。が、それが当たり
前になると、今度は、「時間が取られる」「夫の仕事が手伝えなくなった」「旅行に行けなくなっ
た」と、妹に訴えた。

 母親はまだ、そのとき、65歳になっていなかった。一応、身の回りのことは、自分でできるの
で、介護の認定審査も受けられなかった。姉は、母親を、グループ・ホームへ入れたいと言っ
た。が、月々の費用だけで、13万円。プラス、小遣い。

 が、ここで、事件が起きた。母親が、姉に、それまでは自分で隠しもっていた、銀行の通帳と
印鑑を、渡した。見ると、そこには、1000万円近い金額があった。夫、つまり姉妹の父親の生
命保険金も、それに含まれていた。姉は、「私が預かる」と言って、その通帳と印鑑を、自分の
ところへもっていってしまった。が、このことは、妹には、話さなかった。

 しかし、それは、やがて妹の知るところとなった。母親が、妹のほうへ、電話をした。その通帳
と印鑑の話をした。妹は、即、姉に電話をして、金額をたしかめた。が、姉は、「見ていない」
「計算していない」「300万円くらいかな」と、とぼけた。

 とたん、妹は、姉への不信感をもつようになった。それまでは姉の健康に気をつかっていた。
母親のめんどうをみない自分に恥じて、姉の言うままに、お金を出していた。その妹は、私の
ワイフにこう言った。

 「母も母ですが、姉も姉です。私たち姉妹は、母のおもちゃのようなものでした。ウソのかたま
りというか、何が本当で、そうでないのか、わからない人でした。私たちは、母に、いいように操
られていただけです。そういう自分に気がついて、母とは絶縁しましたが、姉まで、ウソつきと
知って、もう何を信じていいのか、わからなくなりました」と。そして、こう言ったという。

 「しばらくしてから、私の心の中に、大きな変化が起きたのがわかりました。姉に対して、平気
でウソをつくようになってしまったということです。たとえば毎週のように私の家までやってきて、
グチを言っていましたが、それに対して、私と夫は、居留守を使うようになりました。息子たちに
も、口裏をあわせさせています。

 電話機をナンバーディスプレイにして、姉からの電話を受けないようにしました。携帯電話の
番号も変えました。姉には、携帯電話はもうやめたと話してあります。

 で、姉が来そうな日には、わざと何か用をつくって、家にはいないようにしています。以前の私
なら、それだけでも、罪の意識をもったでしょうが、今は、もう、ありません」と。

 こうした現象は、シャドウ論で説明できる。

 人はだれしもある程度の「仮面(ペルソナ)」をかぶる。仮面をかぶって生きている。よい例
が、ショッピングセンターの女性である。いつもにこやかな笑みを絶やさない。しかしそれは仮
面。

 で、その仮面を仮面と気づいている間は、問題ない。しかし中には、その仮面を脱ぎ忘れてし
まう人がいる。仮面を仮面とわからなくなってしまう。そして自分を、「善人」と錯覚してしまう。

 ここに書いた、Aさんが、そうではなかったか。妹は、こう言う。「私の母は、他人の前では、ま
るで牧師か何かのように振る舞います。しかしその他人の目の届かないところでは、他人の悪
口ばかり。他人の不幸が、何よりも楽しい、といった感じの話し方をします」と。

 が、やがて、2人の娘たちと疎遠になると、Aさんは、その娘たちにも、まるで牧師のような振
る舞いをするようになったという。で、あるとき、妹が、Aさんにこう言ったという。「母さん、私
に、そんな手を使っても、無駄ですよ。私は、母さんが、本当は、どんな人かよくわかっていま
すから」と。

 しかしもうそのときには、Aさんには、妹の言った言葉を理解する能力がなかった。仮面が、
仮面であるとさえわからなくなっていた。

 が、仮面をかぶればかぶるほど、自分の中の邪悪な部分を、心のどこかに閉じこめようとす
る。意識的にそうすることもあるし、無意識的にそうすることもある。そしてその邪悪な部分に
ついては、あえて「私ではない」と、言い切ったりする。

 その一例として、反動形成がある。牧師が、ことさらセックスや不倫の話を嫌ってみせたりす
るのが、それ。よい人間を演じつづけていると、その反動として、邪悪なものを、おおげさに遠
ざけようとする。

 が、問題は、ここで終わるわけではない。

 こうして仮面をかぶることにより、その邪悪な部分が、心の奥に閉じこめられる。しかしそこで
その邪悪な部分が消えるわけではない。その邪悪な部分が、その人のシャドウ(影)となって、
その人をウラから、操ることがある。

 が、それはそれ。その人の勝手。実は、親がこうしたシャドウをもつと、そのシャドウを、子ど
もが引きついでしまうことがある。そういう例は、たいへん、多い。Aさんのケースで言うなら、姉
が、Aさんのシャドウを引きついでしまったことになる。妹は、こう言う。

 「姉も、私も、あれほど母を嫌っていたのに、その姉が、母そっくりの人間になっていったのに
は、驚きました。もちろん姉は、それに気づいていません。今でも、『私は、母とはちがう』と思っ
ているようです。しかし一歩退いてみると、つまり私から見ると、母と姉は、一卵双生児のように
よく似ています」と。

 ここまで書いて、私は、2つの話をしなければならない。ひとつは、「運命論」。冒頭に書いた
のが、それ。もうひとつは、「代償的過保護論」。これはそのつぎに書いた。

 まず運命論についてだが、姉が、心安くなるためには、運命を受けいれるしかない。が、現状
では、姉は、その運命を拒絶している。だから、つぎからつぎへと、問題が起きてくる。もっとも
これについては、私のワイフは、こう言う。

 「愛情の問題ではないかしら。その姉妹に、母親に対する愛情があれば、問題は、問題でな
くなってしまうはずよ」と。つまりその愛情が欠落しているから、母親の介護が重荷になるので
は、と。

 そこで、問題なのは、なぜ、その姉妹の愛情が消えてしまったかということ。その理由が、実
は、代償的過保護ということになる。Aさんは、もともと、娘たちを愛してはいなかった。口では、
「かわいがってやった」とよく言うそうだが、娘たちは、そうは思っていない。

 姉が結婚するときも、妹が結婚するときも、「スープが冷めない距離」を条件に出したという。
とくに妹のほうは、そのため、遠地に住む恋人と別れねばならなかったという。つまりAさんは、
姉妹の幸福よりも、自分の幸福を優先させた。それが長い時間をかけて、現在の親子関係
を、つくった。

私「今のままじゃあ、姉のほうも、たいへんだね」
ワ「要するに、2人とも、Aさん(母親)を、心の中では、うらんでいるのね」
私「そういうこと。が、うらめばうらむほど、母親のもつシャドウの呪縛のとりこになってしまう。ク
モの巣の糸にからまれるように、ね」
ワ「母親を嫌えば嫌うほど、母親のような人間になってしまうということ?」

私「そういうケースは、多いよ。本来なら、親子関係を清算するのがいいのだけれど、それはで
きないしね」
ワ「すべての原因は、Aさんにあるのよね。子育てそのものが、最初から、ゆがんでいた。Aさ
ん自身の生きザマにも、問題があったと思うわ」
私「ぼくも、そう思う。で、姉のほうもたいへんだろうけど、妹さんのほうは、これから先、もっと
たいへんだろうね。Aさんが死ぬまで、10年とか、20年も、この問題はつづくからね……」と。

 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

++++++++++++++++++

【補記】

 ここに書いた、Aさんというのは、架空の母親です。もともと、この話は、私の義姉から聞いた
ものです。その話をワイフが私にしたので、さらに詳しくということで、私が義姉に会って、内容
をたしかめてきました。

 一部、その人とわからないようにするため、説明不足の点もありますが、それはお許しくださ
い。義姉から、「Aさんがだれか、ぜったいにわからないように書いてね」と、強くクギを刺されて
います。

 なお、本文の中で、「代償的過保護」「シャドウ」という言葉を使いましたが、それは義姉との
会話の中で、私が、義姉に説明した部分です。「そういうのを、代償的過保護というのですよ」と
か、「シャドウとかいうのですよ」とか。

 それについても、どこか説明不足なところもありますが、この原稿は、また日を改めて、書き
なおしてみたいと思います。

【付記】

 ウソをつく人に会うと、こちらまで、ウソをつくことに抵抗感がなくなってしまう。そしてさらにそ
の人と、長く会っていると、ウソをつくことが平気になってしまう。

 こうしてウソつきのまわりには、ウソをつく人ばかりが集まるようになる。そして一趣、独特の
世界をつくるようになる。

 だから、ウソをつく人とは、できるだけ早く、別れたほうがよい。距離をおいたほうがよい。で
ないと、自分の人間性まで、腐ってしまう。長い時間をかけて、そうなる。

 親や、兄弟、親類、縁者のばあいは、そうは簡単ではないかもしれない。そこで重要なこと
は、ウソにはウソで返すのではなく、そのつど、自分と戦う必要がある。心して、正直、誠実を
つらぬく。

 実は、ここに書いた妹さん自身も、すでに、姉のウソの呪縛の虜(とりこ)になりつつある。居
留守を使ったり、ナンバーディスプレイの電話にしたり、さらには、「携帯電話はもうやめた」と
ウソをつくことなど。息子たちに、口裏をあわせるように指示することによって、今度は、息子た
ちが、その呪縛の虜になってしまう可能性もある。

 このままでは、妹さんのほうも、やがて、Aさんのシャドウに巻きこまれてしまう。もちろん妹さ
んも、それに気づいていないが……。ユングが説いた、シャドウ論の本当のこわさは、ここにあ
る。
(はやし浩司 代償的過保護 親の育児姿勢 シャドウ シャドウ論 兄弟の確執 親子の確
執)


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

++++++++++++++

ビデオ・ストリーミングが、
自由にできるようになった。

しかも無料、で。

これが実に楽しい。見るのも楽しいが、
ビデオを制作するのは、もっと、
楽しい。

++++++++++++++

●AWESOME

 ビデオを、T社から配信するようになって、もう2か月くらいになる。そのビデオのコメントに、
「This video is awesome. 」とあった。

 私としては、それほど、真剣に、ビデオ制作に取り組んでいるわけではない。まさに粗製濫造
という感じ。

 が、そのawesome を awful(ひどい、とても不愉快)(研究者「アプローチ」辞典)と誤解してし
まった。(かなり単語力も、鈍ってきたようだ。)

 で、私はこう思った。「無記名でなら、何とでも書けるさ」と。事実、ネットの世界では、無責任
な意見や中傷、非難、批判が、洪水のように飛びかっている。いちいちそんなのを気にしてい
たら、何も書けない。

 で、改めて辞書を引きなおしてみた。「?」と思ったからだ。まあ、そのあたりに、私の英語力
の片鱗(へんりん)が残っていたのかもしれない。で、awesomeを引いてみた。

 意味は、「畏敬の気持ちを起こさせる」(同)とある。ほっとした。……と、同時に、うれしかっ
た。が、ほかのビデオを見ると、私のビデオのほとんどに、そう書きこみがしてあるのがわかっ
た。

 どうやらこの書きこみは、見た人が書いたのではなく、ビデオを配信している、T社のだれか
が書いたものらしい。T社では、いわゆるスケベもの、ハレンチなものについては、出口のとこ
ろで、削除している。何かの基準をもうけているらしい。そのとき、そういう書きこみをした
(?)。

 で、人間の心というのは、おかしなものだ。「ひどいビデオ」と書きこみをされたと思ったときに
は、不愉快になる。そして、その書きこんだヤツは、どんなのかと、ふと怒りに似た気持ちを感
じる。

 しかし「畏敬の気持ちを起こさせる」という意味とわかると、一転、心がなごむのを感じる。英
語の単語1つで、もっと言えば、モニター画面の光の点滅だけで、不愉快に思ったり、心がなご
んだりする。

 で、そのビデオ。ネットの世界では、ストリーミングというが、目下、善と悪が、し烈な戦いを繰
りかえしている。私には、そう見える。

 たとえば昨夜、息子が、同じT社のビデオの中から、イラク戦争のビデオを選んで見ていた。
それらをいっしょに、つづけて見ていると、戦争の世界が現実なのか、私の世界が現実なの
か、どちらがどうなのか、わからなくなってしまう。中には、戦車ごと人間が、吹っ飛んでいくビ
デオもあった。

 そういう世界から見ると、H市で1人の女の子が、誘拐(ゆうかい)され、殺された事件など、
どうでもよくなってしまう。つまり、これが「悪の世界」。しかし一方、子どもたちの笑い声がひび
く世界から見ると、イラク戦争が、きわめて愚劣なものにみえてくる。女の子をダンボール箱に
つめて殺しただれかが、許せなくなる。つまり、これが「善の世界」。

 これら二つの世界が、真正面でぶつかりあっている。

 で、私は、T社のだれかが書きこんだ(多分?)、「This video is awesome.」という言葉の中
に、私を超えた、善の世界の良心を、かいま見た。

 ひるむことはない。負けることもない。いじけることもない。私たちは私たちで、今住んでいる
この世界を、「善」と考え、前に進むしかない。仮に、「ひどいビデオだ」と書きこみをされても、
気にすることはない。「ひどい」と思うなら、そう思う人が、ひどい世界に住んでいるのだ。

 ……ところで、今度、新しいデジタルカメラを買った。パナソニック社の、手ぶれ防止機能つ
きの、カメラだ。「LUMIX」という。

 はっきり言おう。すばらしいカメラだ。今まで、ほかのカメラを使っていたが、手ぶれをしてい
ないと思いこんでいただけ。本当は、どれも手ぶれを起こしていた。それが、今度のカメラを使
ってみてはじめて、わかった。

LUMIXでとった写真は、明らかに、シャープ。このカメラで、もっとすばらしいビデオを制作して
みよう。明日は休みだし。本当にみなが、世界中の人たちが、「This video is awesome.」とほめ
てくれるような作品を、作ってみよう。

 そう思ったところで、この話は、おしまい。みなさん、おやすみなさい。

(付記)

 最近のデジタルカメラは、どれも「ブレ防止」を歌うようになってきている。P社の製品だけで
はないようだ。感度をよくして、シャッター速度を速くするという方法もある。今度発売になった、
S社のデジタルカメラも、薄型ですごい! 少し値段が高かったので、あきらめたが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(002)

【近況・あれこれ】

●マザコン

+++++++++++++++

子どものマザコン、つまりマザコン性
について。

ベタベタの親子関係は、決して好ましい
ものではない。

+++++++++++++++

 マザコンタイプの子どもは、(おとなもそうだが)、いつも自分の母親が、完ぺきな母親である
ことを、求める。(だから、「マザー・コンプレックス」という。)そのため、母親の、ささいなまちが
いさえも許さない。ほんの少しでも、自分が正しいと思ったことに反したことを母親がしたりする
と、それを怒ったり、ときに、ふてくされたりする。

 自分は、完全に愛されているのだという安心感。
 自分は、何をしても許されるのだという安心感。
 自分は、いつでも、どこでも、母親の関心の的でなければならない。

 言うなれば、幼稚な自己中心性そのもののことだが、いつもその安心感を、母親に求める。
そしてそれがないと、安心できない。

 この状態は、結婚してからも、つづく。そしてその対象が、母親から、妻へ移動することはあ
る。

(女性にもマザコンは、多い。女性のばあいは、そのまま母親に対して、マザコンを維持するこ
とが多い。しかも女性のマザコン、これを「隠れマザコン」と言うが、女性のマザコンは、男性の
それより、はるかに強烈になりやすい。ただ女性と女性との関係であるという点で、外からは、
わかりにくい。)

 A君(小3)は、学校のテストなどで、よい点をとってきたりすると、すぐ母親に見せていた。そ
ういう形で、一度は、母親に評価されないと、満足しなかった。そのとき母親が、何かのことで、
A君を無視したような態度をとったりすると、とたんA君は、母親に対して、すねたり、いじけたり
した。そしてその状態が、ばあいによっては、1、2時間もつづくこともあった。

 母親自身が、A君が、マザコンであることに気づいていなかった。つまり母親自身が、ベタベ
タの母子関係をつくりながら、それに気づいていなかった。

 こういうケースのばあい、本来なら、父親が、母子の間に、割って入らなければならない。で
ないと、子どもは、そのまま、マザコンを持続してしまう。が、不幸なことに、A君の父親は、そ
の数年前から、単身赴任で、インドに在住していた。ますますA君は、マザコンになっていった。

 母子関係が、正常に分離できていない。そのため、弊害は、そのあとになってから起こる。男
子のばあいだと、おとなになり、結婚してから、起こる。男性のばあいは、このタイプの男性
は、一般論として、浮気しやすくなると言われている。目の前の妻という女性に、満足できない
からである。

 ある男性(映画監督)は、エッセーの中で、堂々とこう書いていた。「男性は、いつも永遠のマ
ドンナを求めて、さまよい歩くものです」と。これは、つまり自ら、「私はマザコンです」と告白して
いるようなものである。

 男児にしても、女児にしても、子どもがマザコンになってよいことは、何もない。そのマザコン
を是正するのが、父親の役目ということになる。もっとも父親が、マザコンのばあいは、どうしよ
うもないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●カルト抜き

 子どもが不登校的な症状を見せたりすると、たいていの親は、その瞬間、パニック状態にな
る。その気持ちは、よくわかる。そして自分が感じた不安や心配を、直接、子どもにぶつけてし
まう。

 「学校へ行きなさい!」「いやだア!」と。

 ときに親は、子どもをはげしく叱ったりする。しかし親のこの一撃が、子どもの症状を、決定
的なまでに、悪化させる。しかし親には、その自覚がない。「子どもが学校へ行かなくなってしま
ったら、どうしよう……」と、そんなことばかりを、先に考える。

 では、どうするか? ……ということを書いても、意味がない。親の根底に、学歴信仰、学校
神話が残っているかぎり、この問題は解決しない。子どもは、親の不安や心配を敏感に感じと
ってしまう。いくら、親が、口先で、「学校へ行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と言ったと
ころで、意味はない。

 子どもは、親の心の奥の部分、つまりシャドウを読んでしまう。

 つまりそのシャドウを消さないかぎり、この問題は、解決しない。それを、「カルト抜き」という。
学歴信仰というカルトを抜く。

 ところで、あの忌まわしい事件を引き起こしたO真理教というカルト教団が、またまた活動を
活発化させているという。そういうニュースを見たりすると、たいていの人は、こう思うにちがい
ない。「私は、ちがう」「私には、関係ない」「私は、カルトなど信仰していない」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう言い切ることができるだろうか?

 実は、学歴信仰というのは、立派な、カルトである。ただ日本中の親たちがそのカルトを信仰
しているから、自分ではわからないだけ。日本から一歩、外に出てみると、それがよくわかる。

 つまりそのカルトを抜かないかぎり、ここでいう不登校の問題は解決しない。仮に、子どもが、
午前中だけでも、学校へ通うようになると、親は、こう言う。「何とか、給食までいっしょに、食べ
るようになってほしい」と。さらに給食までいっしょに食べるようになると、今度は、「午後まで勉
強するようになってほしい」と。

 逆のこともある。

 今にも不登校児になりそうな子どもがいた。小学2年生の男の子だった。その子どもは、そ
のとき、それでも何とか、学校へは行った。しかし午前中の1、2時間は、保健室や理科室で、
時間を過ごした。

 やっと元気になるのは、3、4時間目くらいからで、ときには、昼休みに時間になってから、教
室へもどっていった。

 それについて母親から、「どうすればいいでしょう」という相談があった。が、私は、こう言っ
た。

 「細い糸かもしれませんが、それを切ってはいけない。お母さんは、子どもを『なおそう』として
いるが、なおそうなどと思ってはいけない。現状維持だけを考えてください」と。

 こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。親は、そのときの状態を最悪と思うかもし
れないが、その最悪の下には、まだ別の「底」がある。この段階で無理をすれば、その二番
底、三番底へ落ちてしまう。

母親「では、どうすればいいのでしょうか?」
私「よくがんばっているわねと、ほめてあげてください」
母親「ほめるんですか?」
私「子どもの立場で考えてみてください。行きたくない学校へ、重い足を引きずりながら、行って
いるのですよ。子どもはそのつらい気持ちと、毎日、戦っているのです。だから、ほめるので
す」

母親「でも、このままでは、うちの子は、ダメになってしまいます」
私「何が、ダメになるのですか。何も、ダメなんかには、なりませんよ」
母親「学校へ行かなくなってしまったら、どうするのですか?」
私「いいじゃないですか。そうなっても。お母さんが、あれこれクヨクヨと心配している分だけ、子
どもの心は不安定になります。不登校が不登校として、長引いてしまいます。子どもが、その気
持ちを感じ取ってしまうからです」と。

 そこで親は、心底、こう思わなければならない。「いいのよ、学校なんて、行きたくなければ行
かなくても!」と。口先だけではいけない。心底、そう思わなければならない。そのために、ここ
でいうカルト抜きをする。とたん、子どもの表情は明るくなる。そしてしばらく時間をおいたあと、
また学校へ行くようになる。前に、『あきらめは、悟りの境地』というエッセーを書いた。これも、
その悟りの境地のひとつということになる。

【付記】

 邪悪な「学歴信仰」を隠しながら、子どもに、「勉強しなさい」と言っても、子どもは、勉強しな
い。子どもは、親の、心の奥底、つまりは、下心を読んでしまう。

 教育の世界でも、同じようなことが起きることがある。

 ある進学塾の講師は、こう言った。「生徒というのは、いくらいい大学へ入っても、進学塾へ
は、礼にはこないものですよ」「結婚式などに招待されるケースは、1000に1つもありません」
と。

 当然である。親も子どもも、進学塾の講師の下心を、進学塾に通っているときから、すでに見
抜いている。

 「教室」という場所でも、教える側は、「無私」でなければならない。そこにほんの少しでも、雑
音が入ると、やがて子どもは、教師の指導に従わなくなる。1年や2年なら、何とかごまかすこ
とはできるが、3年、4年となると、そうはいかない。

 昔、月謝袋を、つめ先で、ポンとはじいて、「先生、あんたのほしいのは、これだろ」と言った
高校生がいた。私はその場で、即刻、その子どもを、退塾させたが、今から思えば、その子ど
もの言ったことは、正しかった。当時の私は、経営を第一に考えて、仕事をしていた。彼は、そ
の私の心を見抜いていた。
(はやし浩司 不登校 学歴信仰 カルト抜き シャドウ 細い糸 二番底)


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●紙一重のちがい

はじめに……

 11月24日の午後のことでした。
 いつものように自転車で、団地内の通りに出ました。
 いつもだったら、もっとも右側寄りの、側溝のフタの上を走って、
 ゆるい坂をくだっていくところでした。
 が、その日は、郵便物をもっていました。
 郵便局は、左側の道へ、折れた方向にあります。

 それでフラフラと、左側へ出たわけです。

 が、とたん、うしろから軽自動車。
 音もなく、猛スピードでした。
 私の左肩をかすめるように通りすぎて行きました。

 あと1メートル、私が左に寄っていたら、
 私は確実に、車にはねられていたでしょう。

 ヒヤッとして見ると、若い女性で、うつむきかげんで、
 下を向いて運転していました。
 多分、携帯電話を何かを、かけていたのでしょう。

 そのときは、それですみましたが、
 半日もすると、「もしも、あのとき私が死んでいたら……」と
 考えるようになってしまいました。

++++++++++++++++

他人の失敗や、不幸、さらには
死を笑う人は、その笑った分だけ、
今度は、自分で、苦しむことに
なる。

++++++++++++++++

 もう20年ほど前になるだろうか。中学の同窓会に出たことがある。中学全体の同窓会であ
る。そのときのこと。私たちの時代には、1学年で、11クラスもあった。その上、1クラス、53〜
55人!

 その同窓会で、こんなことを知った。たいていどのクラスにも、1人か2人、医者か弁護士、あ
るいは会計士になったのがいた。が、その反面、1人か2人、刑務所暮らしを経験したのもい
た。

 私はそのとき、ふと、こう思った。成功者も、そうでない者も、紙一重、と。成功者になるかどう
かは、運と、偶然と、そして確率の問題、と。みながみな、成功者でも困る。(だからといって、
医者や弁護士、会計士が成功者というわけではない。誤解のないように!)

 成功者がいれば、その一方で、そうでない人たちが生まれる。つまり、私たちの人生は、そ
れぞれ大きくちがうようで、それほど、ちがわない。もう少しわかりやすい例では、善人と悪人
がいる。

 人は、ふとしたきっかけで、善人になり、そして悪人になる。もっと言えば、完全な善人など、
いない。完全な悪人も、いない。1人の人間の中に、善なる部分もあれば、悪なる部分もある。
善なる部分がふくらめば、善人になる。悪なる部分がふくらめば、悪人になる。

 それを決めるのは、運と、偶然と、確率の問題。

 だから失敗した人を笑ってはいけない。不幸な人や悪人を笑っては、いけない。そういう人た
ちを笑うということは、結局は、自分の中の自分を笑うことに等しい。つまりそういう人たちを笑
えば笑うほど、自分で自分を追いつめることになる。

 たとえば今、あなたが他人の失敗や不幸、さらには死を願ったとすると、結局は、あなた自身
が、失敗し、不幸になり、そして死ぬことになる。こんな例がある。

 ある男性は、若いころから、小さなアパートに住んでいる人を、バカにしていた。「あんなとこ
ろへ入るヤツは、失敗組だ」と。あるいは老人でも、施設に入ったような人を、「かわいそうだ」
と、口先では言いながら、いつもバカにしていた。「人間の価値は、死ぬときの様子で決まる。
施設で死ぬような老人は、地獄へ落ちたも同然」と。私にもそう言ったことがある。

 しかしやがてその男性は、事業に失敗。全財産をなくした。そしてやむなく、小さなアパートに
移り住んだ。が、そこで病気で倒れた。今度は、自分が施設に入ることになった。

 その男性が、そのときどう苦しんだかは、容易に察する。まわりの者たちが、その男性に、施
設に入るように勧めたとき、その男性は、最後の最後まで、こう言ってがんばったという。「そん
なところへ入れるなら、死ぬ」と。が、結局は、そういう施設へ、入ることになった。

 つまりその男性は、他人の失敗や不幸を笑った分だけ、自分で苦しんだ」ことになる。もっと
卑近な例では、こんなこともある。

 ある母親は、他人の価値を、学歴で決めていた。「あの人は、C高校なんですってねエ」「あ
の人は、大学も出てないんですってねエ」と。

 しかし不幸は、すぐやってきた。(本当は、不幸でも何でもないのだが……。)自分の子ども
(中3)が受験期を迎えた。しかしその子どもには、その力がなかった。だから毎晩のように、母
子の間で、大乱闘を繰りかえすハメになった。「勉強しろ!」「うるさい、このクソババア!」と。

 こういう例は、多い。本当に多い。だから、他人の失敗や不幸を決して、笑ってはいけない。
もちろん「死」についても、だ。

 ある男性(80歳くらい)は、自宅でひとり暮らしをしていた。が、あるとき、となりの家にはっ
て、やってきた。となりの人がその姿を見てびっくり。そこで救急車を呼ぼうとしたら、その男性
は、こう言ったという。「恥ずかしいから、それだけは、やめてくれ!」と。

 その男性は、救急車を呼ぶことを、恥ずかしいことだというのだ。つまりその男性は、ことあ
るごとに、自分より先に死んでいく人たちを笑っていた。「あいつは、偉そうな態度をとっていた
が、オレより、先に死んだ」「オレは、あいつより、長生きして、見返してやる」と。そういう過去
が、その男性を、追いつめた。

 そこでさらに重要なことは、失敗した人や、不幸な人、さらには、今まさに死を迎えようとして
いる人に対して、その人の立場において、ものを考えること。……ではないか。「つぎは、私の
姿だ」と思うのもよい。「その人は、私だ」と思うのもよし。とにかく、自分とは、切り離して考えな
いこと。……ではないか。

 「……ではないか」と書くのは、私自身にも、そう言い切る自信がないからである。偉そうなこ
とはいえない。私も、ふと油断すると、その人の失敗や不幸、さらには死を見ながら、「ああ、自
分でなくて、よかった」と思うことがある。「自分は、ちがう」とか、「ああはなりたくない」と思うこと
がある。笑うところまではいかないにしても、その一歩手間にいる。そういう状態になることは、
よくある。

 他人の不幸話ほど、愉快なものはないと言った、エッセイストがいたが、しかしそのエッセイ
ストは、本当の意味で、不幸な人ではないか。自分で、自分を、真理から遠ざけてしまってい
る。

 ところで、先日、教室の近くの公園に行った。写真をとるためである。で、そこには、5、6人
のホームレスの人たちが住んでいる。結構、大きな、家(?)を建てて、そこに住んでいる。(ダ
ンボールや箱でできた家ではなく、テントとベニヤ材を組みあわせた、がんじょうな家である。)
それを見たとき、瞬間、「何て、悪いヤツらだろう」と私は、思った。そういう家(?)を、構図から
はずして写真をとるのに、それなりに、苦労した。

 が、ふと、こう思った。「私もすぐ、こういう人たちの仲間入りをするかもしれない」と。私の仕
事というのは、そういう意味で不安定。ワイフが死ねば、ひとりぼっちになる。蓄(たくわ)えも、
それほど、ない。とたん、見方が、ガラリと変わった。

 ホームレスの人たちの作る家に、同意したわけではないが、最初、思ったことは、そのまま消
えた。少なくとも、「悪いヤツ」という考えは、消えた。(では、どうしたらよいのかという問題につ
いては、わからないが……。)

 同情? 憐れみ? ……よくわからないが、そういう思いをもったとき、ポッと、心の中が暖か
くなるのがわかった。

 つまりそれが、「善」ではないか。

 ……というところで、この話は、おしまい。私は自分では、私のことを、決して善人だとは思っ
ていない。悪人ではないとも、思っていない。人生も、失敗だらけだったし、今も、いくつか、大
きな問題をかかえている。時限爆弾のようなものだ。そして今は、かろうじて健康だが、この健
康にしても、いつまでもつか、わからない。事実、昨日、私は、交通事故で死にかけた。ほんの
一瞬、油断した。それがあやうく、大事故につながることだった。幸いにも、今、こうして無事、
生きているが、昨日、死んでいたところで、何も、おかしくない。

 そういう思いが、今もつづいている。そしてそういう思いの中で、この文章を書いた。

 私は「今、生きている」という喜びを、同情や、哀れみに昇華しよう。その道は、けわしいかも
しれないが、できなくはないのではないか。多分……?

+++++++++++++++

 あのときもし、私が死んでいたら、
 そのあと、私の周囲は、どう変化しただろう。

 今は、いつものような、静かな一日が流れている。
 しかし「あのとき死んでいたら……」と考えれば考えるほど、
 今の状況が、幻想のようにも、思えてくる。

 死ぬことはないにしても、
 大けがをして、入院していたらどうだろう。
 後遺症が残ったら、どうしよう。

 今日一日が、いつものとおりであることが、
 こんなにも、不思議なことだとは、
 今までに、考えたこともなかった。

 生きるも、死ぬも、紙一重ということか。
 生きている人も、死んだ人も、
 大きくちがうようで、どこも、ちがわない……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●西村S悟という衆議院議員

 民主党の中でも、最右派として知られている、西村S悟、衆議院議員。少し前、刀剣の会(仮
称)の顧問をしていたことも、ひとつの事件になった。その会は、全国のあちこちの団体に対し
て、銃弾を送りつけたり、発砲事件を引き起こしていたりした。

 そして今回は、弁護士法違反事件! 当初、西村S悟は、自身が発行する、メルマガの中
で、こう弁解していた(11月18日)。そのまま引用させてもらう。

++++++++++++++++++++

 本日11月18日の朝刊各紙に、私の法律事務所の元職員が「非弁活動」(弁護士資格が無
いのに弁護士活動をすること)をしたとして検察が捜査に入る旨の記事が掲載されました。以
下、この点について事情をご説明致します。

1、非弁活動の容疑については、元職員本人も認めており事実であろうかと思います。

2、では、私がその非弁活動を知っていたかどうかでありますが、本年はじめ頃に、大坂  府
警から教えられるまで、全く知りませんでした。そして、私は、大阪府警の捜査員に全ての事情
を説明しました。

   大阪府警の捜査は、4月末ころに終了したと思いますので、事件はそのころ検察庁  に
送られ処理されたと、私は思っていました。

   しかしながら、今朝の事態を迎え、驚いている次第であります。

++++++++++++++++++++

 しかし出てくるわ、出てくるは、西村S悟の悪行の数々! そして今朝(11・27)のヤフー・ニ
ュース(産経新聞)は、こう伝える。

++++++++++++++++++++

●元職員扱い金8億円超 報酬として4000万、西村氏へ渡る?

 民主党衆院議員で弁護士の、西村S悟氏(57)の法律事務所をめぐる弁護士法違反事件
で、無資格で弁護士活動(非弁活動)をしていた元職員、鈴木K治容疑者(52)が扱った交通
事故の保険金請求などは、約150件で8億数1000万円分にのぼることが26日、関係者の
証言で分かった。

最大でこのうちの4000万円以上が西村氏側に、報酬の取り分として渡っていた可能性があ
るという。

この間、西村氏の所得等報告書に記載されている弁護士所得は約2400万円しかなく、正確
な報告が行われていなかった疑いが浮上した。

 これらの金は、鈴木容疑者側から西村氏や政策秘書(47)らに、現金で手渡されていたらし
い。大阪地検特捜部と大阪府警は、週明けとみられる、西村氏や政策秘書ら三人の弁護士法
違反容疑などでの逮捕後、不透明な金の流れを追及する方針だ。

++++++++++++++++++++++

 政治家って、こんなものだろうなとは思っていたが、こういう人にかぎって、極端な愛国主義、
民族主義を説くから、恐ろしい。

 この先のことは、まだここでは書けない。捜査の進展をもう少し、注視したい。それにしても…
…? 最初から「?」とは思っていたが、今は、それが「やっぱり……」という気持に変わった。
(11月27日記)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(003)

●『釣りざおを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け』

+++++++++++++++

どうすれば、子どもの心を
つかむことができるか?

年々、疎遠になっていく
親子関係。そのため、
言いようのないあせりや、
虚しさを感じている人も
多いはず……

+++++++++++++++

 子どもの幸福をねたむ親は、少なくない。一方、両親の裕福な生活をねたむ子どもも、少なく
ない。ある父親が、新しいパソコンを買ったとき、それを見て、「おやじは、パソコンばかり買っ
ている」と、怒った子ども(30歳くらい)がいた。そのときその子どもは、結婚していて、自分の
子どももいた。

 そこで父親が、「ぼくは、自分で儲けたお金で買うのだから、ぼくの勝手だ」と答えたという。

 これが兄弟、姉妹の間の話になると、さらに複雑になる。遺産問題がからむと、さらに複雑に
なる。それがこじれて、絶縁関係になってしまう人も少なくない。

 こうして考えてみると、その元凶は、マネー(お金)ということになる。人は、夢や希望、それに
目的をなくしたとき、マネーに固執するようになる。モノや財産や、過去の名声や地位に固執す
るようになる。

 だからそういうもの、とくにマネーについては、できるだけ、サラサラとわかりやすく、つきあう
ようにしたほうがよい。親子でも兄弟、姉妹でも、そして親類でも。わかりやすく言えば、お金の
貸し借りは、なし。財産については、平等に分配すべきものと、最初から、割り切る。もちろんイ
ンチキやウソは、タブー。

 どうしても……ということであれば、「あげる」「もらう」という関係が望ましい。私は、生涯にお
いて、他人からお金を借りたことは、一度もない。(一度だけ、電話代の10円を借りたことはあ
るが……。)バス代がないときは、何時間もかけて、歩いて帰った。学生時代には、20日間、
下宿の朝食と夕食だけで、生きのびたこともある。

 で、反対に、「貸す」立場になったことは、たびたびある。しかし相手が、10万円を借りにきた
ときには、5万円をあげる。100万円を借りにきたときには、50万円をあげる。

 つまり相手が申し出た額の半分程度を、「あげる」という形で、すましてきた。そしてあとは、
忘れる。まったく忘れる。

 しかしこれだけははっきりと覚えておいたほうがよい。マネーなどというのは、あげても、感謝
されるのは、そのときだけ。1年も過ぎて、感謝されるということは、まず、ない。マネーがもつ
力は、それほどまでに、弱い。

 が、それでも、マネーが原因で、いくつかの人間関係を破壊してしまったことがある。こちらに
は、その気がなくても、相手のほうから破壊してくる。マネーで追いつめられた人は、その良心
まで、おかしくしてしまう。誠意や誠実さまで、おかしくしてしまう。お金を借りにきた段階で、そ
の人の心は、かなり破壊されているとみてよい。だからよけいに、マネーがもつ力は、弱い。

 なぜか?

 もともとマネーというのは、欲望の化身だからである。マネーがなければ、人は、確実に不幸
になる。しかしマネーがあったからといって、その人は幸福にはなれない。へたをすれば、際限
のない欲望のウズに、身も心も、巻きこまれてしまう。

 そこで賢明な人は、マネーのもつ力の限界を知り、マネーをいつも自分と切り離して、生き
る。私の知人にこんな人がいる。

 オーストラリア人だが、42、3歳くらいまでに、稼ぐだけ稼いだあと、自分の会社を売り払って
しまった。

 そしてそれからもう20年近くになるが、あとはのんびりと、自分のしたいことをして生きてい
る。10年ほど前には、F1のレーシングチームを結成。そのオーナーとなって、世界中を渡り歩
いていたこともある。

 そういう人は例外ということになるかもしれないが、生きザマとしては、参考になる。

 そこで子育て論ということになるが、今、高校へ通うにしても、親に感謝しながら学校へ通う高
校生は、まず、いない。大学生でも、いない。家父長意識の強い人は、よく息子や娘に向って、
こう言う。「だれのおかげで、お前は大学へ行けたのか、わかっているのか」「お前には、学費
だけでも、4000万円も使った」「親に感謝しろ」と。しかしそれで納得する、子どもは、まずいな
い。

 マネーでは、子どもの心をつかむことはできない。が、最近では、学費どころか、息子や娘が
社会に出るときの支度金、結婚式の費用から、さらには、新築費用まで、親が出す。が、それ
だけではない。孫が生まれれば、その費用。さらに孫がおけいこ塾などに通うようになると、そ
の月謝。このあたりでも、七五三の祝いの行事も、親、つまり祖父母が負担するケースが多
い。

 親としては、そういう形でも、息子や娘、孫の心をつかみたいと考えるのかもしれない。しかし
ここにも書いたように、マネーの力は、弱い。弱いだけならまだしも、出せば出すほど、それが
当たり前になってしまう。マヒする。ときには、逆効果になることもある。

 だからイギリスの格言は、こう言う。『(子どもの心をつかみたかったら)、釣りざおを買ってや
るより、いっしょに、釣りに行け』と。

 けだし、名格言である。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

【子育てワンポイント】
 
●質素を旨(むね)とする

 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見
せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところで
する。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜ
いたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素という
のは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをで
きるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どもの
イスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、も
のを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通い
あう生活を、質素な生活という。

●うしろ姿を押し売りしない

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。
子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでや
った」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自
立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どう
して子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。

●死は厳粛に

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それ
がたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、
それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつか
うようになるかもしれない。しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そ
ういうあなたの姿から、生きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれな
い」と書くのは、あくまでもそうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判
断するにせよ、その大前提として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。

●一喜一憂しない

 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多く
の人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。
 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂
しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さ
あ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこ
まで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手
なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れること
ができるかということ。

●「今」を大切に

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努
力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝
かせて生きていくこと。たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小
学校教育は中学校へ入学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのでは
ない。こうした未来のために、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、
「今」という時を、自分のものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、
精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、
豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づ
けば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人
生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だ
から、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえ
すが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。

●『休息を求めて疲れる』

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。
長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車
に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がつ
いた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの
一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って
休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはた
してしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれ
ば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間を
あとにずらせばよい。

●生きる源流を大切に

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、
解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が
助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私
は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができ
た。不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きて
いるだけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにし、また一方で、親子のパ
イプを太くした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみると
よい。それですべての問題は解決する。

●モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほし
いものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤
解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。
物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のこ
ろは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万
円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、
満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめた
ほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育て
で、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからとい
って、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)

●よき友になる

 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、
ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いった
い何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日
本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関
係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」とい
う、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸び
やか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子
どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気
負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつく
る。

●先輩をもつ

 あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理
をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消
する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメ
リットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、
その人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談して
みたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。

●子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よく
したらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界に
は、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることが
ある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習さ
せると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間
という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見な
がら、勉強するということは、それなりに重要である。

●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこで
ある日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きなが
ら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。

●友を責めるな(中日新聞発表済み)

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。

●仕事に誇りを

 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたの
お父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんし
か、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けな
してはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間
一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言って
いた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをそ
の母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。「あんたのお父さん
は、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところで、それが何になる
のか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあっても、プラスになること
は、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこと、母親の指示にも、
従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感
を与え、子どもを伸ばす。

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これに関連して、中日新聞掲載記事から
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●未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。
原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。

たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定にな
る。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほか
の場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなく
て、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこ
のタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴があ
る。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子ど
もがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出るので、
区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の
立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと
きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ
ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい
う次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。

●守護霊にならない

 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊
んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。
 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親
は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たち
にも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに
服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自
立させる。

●同居は、出産前に

ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査を
してみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわか
った。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から
同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっ
ていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居し
たほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくあ
る。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)が
あきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「お
ばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみ
れば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろん
そうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●許して忘れる

 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われ
るようになった。うれしいことだ。

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もう、10年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
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●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校
を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女
房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい
た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種
はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」
というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおす
ようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なこと
をし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何
でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それがで
きたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

代償的愛(雑誌「ファミリス」に書いた原稿から転載)

●三種類の愛

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。
一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し
たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語
では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また
子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに
真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは
親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、
騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛
するようになる。
(はやし浩司 代償的愛 許して忘れる 許して忘れろ 許して、忘れる)

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●管理・規則は家庭教育の敵

 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な
親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!)

 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、
いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つ
まり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。

 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がい
る。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限につい
て。

 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切な
のは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもあ
る。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関
係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題な
のは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そう
なれば、ますます信頼関係は崩壊する。

 が、それだけではない。

 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪
の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処
のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちてい
く。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族
の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買った
ものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。

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これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
ここに転載します。
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親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者と
なり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そ
ういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほ
ど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ
来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配
者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに
「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そ
のものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……一二%
 就職                ……三四%
 専門学校              ……二八%
 大学・短大             ……二二%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……三三%
 目的追求型             ……二三%
 自由志向型             ……一五%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(004)

●自己嫌悪→自己否定→自暴自棄

+++++++++++++++++++

ときどき、私は、自分がいやになることがある。
いやになって、何もかも破壊したくなることがある。

死にたいと思うことさえある。しかしその勇気も
度胸もない。だから生きているだけ……?
そんなふうに感じることもある。

+++++++++++++++++++

 私は、ちょっとしたきっかけで、よく自己嫌悪に陥(おちい)る。が、そこで止まるわけではな
い。それが瞬間的に増幅されて、自己否定へとつながり、しばらくすると、今度は、何もかもい
やになる。何もかも、破壊したくなる。

 ただ幸いなことに、そうした状態になるのは、家の中だけ。外の世界や、仕事の世界では、な
らない。かろうじてだが、そういう意味では、自己管理能力が、まだしっかりしている。しかし私
のワイフこそ、えらい迷惑。そのため、離婚騒動など、毎年恒例。今では、「離婚」を考えるの
も、めんどうになった。

 こういう私のゆがんだ性格は、私が幼児のときに、心の中に作られた。今なら確信をもって、
そう断言することができる。私は、4、5歳のころから、両親の夫婦げんかを、数日おきに見て
育った。それが私の心のキズ(トラウマ)となった。

 そこで私は、多分、現実の世界から逃れるために、心の中にもうひとつ別の私をつくった。冒
頭に「破壊したくなる」と書いたが、それは、自暴自棄に近い状態をいう。たとえて言うなら、将
棋をさしていて、途中で、何かヘマをすると、駒を投げて投了するようなもの。まだ負けたと決
まっているわけでもないのに、先を悲観して、そうなってしまう。

 そういうときの私は、生きていることさえ、いやになる。が、自分で死ぬほどの勇気も度胸もな
い。だから家を飛び出したようなときには、内心では、「だれかが、車で自分をハネてくれれば
いい」などと思う。そう思いながら、道をトボトボと歩く。

 あえて言うなら、私のワイフは、私のことを愛してはいないと思う。ただ、今、いっしょに住んで
いるのは、心理学でいう、「共依存」のようなもの。ワイフにすれば、見るに見かねて、しかたな
いからいっしょに、いる、といった感じ。ワイフは、「そうでない」とよく言ってくれるが、私は、どう
しても自分の心を開くことができない。だから、そういう精神状態になると、ワイフも含めて、他
人を信ずることができない。

 さみしい男だと、自分でもわかっている。が、そういう私が、同時に、ワイフをも、さみしい思い
にさせている。それもわかっている。夫婦なのだから、たがいの心を全部開いて、ウソ隠しな
く、自分をさらけだす。その大切さはわかっているが、どうしても私には、できない。

 これはたとえて言うなら、過去の不倫や浮気を、どこまでさらけ出せるかという問題に似てい
る。過去に不倫や浮気をしたことがある夫や、妻は、それを今の妻や夫に、話すことができる
だろうか。許しを乞うためでもでも、よい。それを話すことができるだろうか。たがいに心を開く
ということには、そういうところまで、ウソ隠しなく話す……という意味まで含まれる。

 が、ここで重要なことは、こうした心理状態は、私という、どこか特殊な人間のことであって、
そのままそれが、みなに、当てはまるということではない。私はそういう点では、不幸にして不
幸な家庭に育った。親類の人たちは、子どものころの私を思い出して、こう言う。「浩ちゃんは、
いつも明るく、ニコニコ笑っていた」「愛想のいい子どもだった」と。

 しかしそれこそ、まさに捨て犬の根性。私はだれにでもシッポを振る、そんな子どもだった。
忠誠心は、ゼロ。いつも損得の計算ばかりしていた。そして結局は、だれにも心を開かなかっ
たし、開けなかった。本当の自分をさらけ出したくても、本当の自分がどこにいるかさえ、わか
らなかった。

 私の中に、もう1人の「私」ができたのは、そのころである。

 明るく人づきあいのよい私。が、それは仮面。人に好かれるための仮面。が、そうした生きザ
マは、猛烈なストレスを内へ内へとためこむ。それがあるとき、臨界点に達したとき、爆発す
る。それが冒頭に書いた、自己嫌悪である。

 ワイフはこう言う。「私たちは、いろいろなことをしてきたわ。ふつうの夫婦たちよりも、何倍
も、何倍も、濃密な思い出をもっているわ。どうしてあなたは、そういう思い出まで、否定してし
まうのよ」と。

 が、自暴自棄になった私には、それが理解できない。幸福だった日々のほうこそ、幻想のよ
うに思ってしまう。無価値で、無意味、と。だからそれらが破壊されてしまったとしても、おしいと
は思わない。そういう心境になる。つまり、その時点で、自ら死ぬことで、命を断ったとしても、
おしいとは思わない。自暴自棄という状態が極限まで進んだとき、そこにあるのは、自殺という
ことになる。

 が、おかしなことに、そういう状態になっても、もう1人の自分が消えるわけではない。もう1人
の自分、それを「正常な私」とするなら、その正常な私が、自暴自棄になった私に、ブレーキを
かける。「よせよせ、そんなことをして、何になるのだ」「もうやめろ」「お前はバカなことをしてい
る」と。

 しかしこの問題は、脳のCPU(中央演算装置)にかかわっている。だから、どちらが本当の私
で、どちらがニセの私なのか、わからなくなる。どちらも、本当の私ということになる。

 が、夫婦や家庭は、円満であるほうが、よい。けんかするより、仲がよいほうがよい。だから
結局は、もとのサヤに収まることになる。時間にすれば、半日か、1日程度か。たいてい私の
ほうが、「悪かった」「ごめんね」で終わる。

 で、こうして私の心のキズは、今日もつづく。明日も、つづく。このまま一生、つづく。心のキズ
というのは、そういうもの。そしてこうした心のキズをもっている人は、いくらでもいる。ほとんど
の人が、もっていると言っても過言ではない。だれしも、何らかのキズをもっている。

 そこで大切なことは、こうした心のキズがあることが問題ではなく、心のキズがあることに気づ
かないまま、同じ失敗を繰りかえすこと。それが問題。それに気づいたら、あとは、そのキズと
うまくつきあって生きていく。仲よく、つきあって生きていく。

 消そうとしたところで、心のキズなど、簡単に消えるものではない。

++++++++++++++++++

私はあるとき、自分が、捨て犬と同じ
根性をもっていることを知った。

それについて書いたのが、つぎの原稿
です。(中日新聞掲載済み)

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教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っ
ている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心
を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり
人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬
だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて
自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そ
のくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をか
ぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。

同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうも
ので、世代から世代へと伝播しやすい。が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大
半は解決する。

私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロー
ルすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をして
いるぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つま
り子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あな
たも一度自分の心の中を旅してみるとよい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++はやし浩司

●クリスマスの思い出

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この原稿が、マガジンに載るのは、
12月26日の予定。(今日は11月29日。)

クリスマスは、終わっている。

そのクリスマスについて、以前、こんな
原稿を書いた(2作とも、中日新聞掲載済み。)

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神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学1年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃ
が、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇
の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私
にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は1行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私
は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がい
る。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っ
ても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、1日100万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でま
かせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても1日100万件とは! 

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前に
は、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこち
らのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明
が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がい
た。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは
超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。

『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。

そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこと
ではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこ
そ、ほめられるべきだ」と。

もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そ
ういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。

こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、
身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらい
のことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもを
もつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、
そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。

たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でし
なさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子
どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力するこ
とをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や
仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。

1人の子ども(小3男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチ
が当たったからだ」と。

そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家
の人は雨が降って喜んだはずだ」と。翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んで
きた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、
ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人に
は、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理という
のは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところで
す」と。

その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこ
で確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。1人の女の子(小5)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが汗
にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかける
と、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れるから、
さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だっ
た。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がい
るから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。

それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで23万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美
容院の数(20万)より多い(2000年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの
信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その
懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。

ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、
前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから
考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」と
いうことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったという
ことも、あとから母に言われて、はじめて知った。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●親意識

+++++++++++++++++

「うちの子は、口が悪くて困っています。
親を親とも、思わない。そういうときは、
そう対処したらいいですか」という相談は、
多い。

しかし子どもの口が悪いのは、当たり前。
一応叱りながらも、しかしそういうことを
言えないほどまでに、子どもをおさえこんで
しまってはいけない。

++++++++++++++++++ 

親意識が子育てをゆがめるとき

●「私は親だ」というのが親意識 

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲れる。
それだけではない。親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。

上下意識のある関係、つまり命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係は生
まれない。ある母親は、子ども(小1)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向かって何てこと
を言うの!」と、本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、親子は平等だと言う
が、こういうときはどうしたらいいのか」と。

●互いに高い次元で認めあって平等

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。高い次元で認めあうことを
平等という。たとえ相手が幼児でも、そうする。こんなシーンがあった。

あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこと。たまたまその女優が、小さな
女の子(5歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女の子がフラッシュに驚いて、母親
のうしろに隠れた。そのときのことである。母親は、女の子に懸命に笑顔で話しかけながら、そ
のままあとずさりして、家の中へ消えてしまった。

私はそのシーンを見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」と考えた。あるいはあな
たなら、どうするだろうか。

●子どもの気持ちを確かめる

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視点に
立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせるときでも、
「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。やめるときもそうだ。

あるいは子どもが学校で悪い成績をとってきて、落ち込んでいたとする。そういうときでも、子ど
もの気持ちになって、子どもと同じ立場でそれを悩んであげる。それを平等という。それがわか
らなければ夫と妻の立場で考えてみればよい。

もしあなたという妻が、夫から、「お前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われた
ら、あなたはそれに従うだろうか。そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき夫
が、「夫に向かって何だ、その態度は!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。相手
の視点に立って見るということは、そういうことをいう。

●親意識の強い親

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。ある
いは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子どもの側から
みてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そうでない子どもも
いる。

私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分では尊敬に値する人間と思ってい
るらしいが、誰もそんなふうには思っていない。人を尊敬するとかしないとかいうことは、もっと
別のところで決まる。要するに子どもに「バカ」と言われても、気にしないこと。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにしている。「私は
バカではない。大バカだ。まちがえるな」と。先日も私のことを「ジジイ」と言う子どもがいた。そ
こで私はその子どもにこう言ってやった。

「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と。するとその子どもは、「教えて、教えて」と。私はおも
むろにその子どもに顔をむけると、こう言った。

「いいか、これはとても悪い言葉だ。お父さんや先生に言ってはダメだよ。わかったね。……で
は、教えてあげよう。ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。それからというもの、その子どもは私を見るた
びに、私に向かって、「ビダンシ!」「ビダンシ!」と言うようになった。

●子どもを抑え込んではいけない

 子どもの口が悪いのは、当たり前。奨励せよというわけではないが、それが言えないほどま
でに、子どもを押さえつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。このユーモアが、子ど
もの心を広くする。

要するに、相手は子ども。本気で相手にしてはいけない。よく「友だち親子」の是非が話題にな
る。「友だち親子はいいのか、悪いのか」と。しかし子どもが友だちになりえるのは、子どもが中
学生や高校生になってからだ。それまでは友だちにすら、なりえない。

もちろんそれまででも友だち的なつきあいができれば、それはすばらしい。友だち親子、おお
いに結構。どこが悪い? 親の権威だの威厳だのと言っている間は、日本人は、封建時代の
亡霊と決別することはできない。

 そうそうあのアメリカ人の女優のケースだが、日本人なら多分、こう言って子どもを前に押し
出すに違いない。「何をしているの。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとしなさい!」と。
こうした押しつけが、親子の間にミゾを作る。そしてそのミゾが、やがて親子断絶へとつなが
る。

 親意識などなくても、子育てで困ることは何もない。

(付記)
●日本人特有の上下意識(家父長意識)

 親意識と同列に考えてよいのに、「兄意識」「姉意識」、さらには「しゅうと意識」「しゅうとめ意
識」などがある。「先輩意識」「後輩意識」のほか、夫婦の間では「夫意識」というのもある。上下
意識の強い人ほど、あらゆる場面で上下関係を作ろうとする。またそれがないと安心できな
い。上下関係を意識しながら生きること自体が、その人の人生観になっているケースもある。
日本型の出世主義も、こうした背景から生まれた。だからその上下意識を否定するようなこと
を言ったりしたりすると、このタイプの人は猛烈に反発する。「生意気だ」「失敬だ」「礼儀知らず
だ」と。

 なおこのタイプの人は、名誉や地位、肩書きを重んじ、権威に弱い。「立派」「偉い」という言
葉をよく使う。そんなわけで日ごろから、「私は兄だ」「夫だ」「先輩だ」などと、上下関係をよく口
にする人ほど、要注意。親意識が強く、それだけ子育てで失敗する危険性が高い。
(はやし浩司 日本人の上下意識 権威主義 家父長意識 先輩意識 先輩 後輩 上下関
係 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●失敗にめげず、前に進め!

++++++++++++++++++

ある女の子(小6)が落ちこんでいた。

学校で、何か、あったらしい。
そのとき、ふと、私は、あの
スティーブンソンの言葉を思い出した。

『私たちの目的は、成功ではない。
失敗にめげず、前に進むことである』である。

++++++++++++++++++

●私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。四四歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。

そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決する? 落胆
したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場でも、すぐ応
用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。17歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科に
転じ、25歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニアで
知りあった、11歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、30歳のときである。

小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そしてその
あと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。

 こうした生き方を、100年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがすば
らしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたスティー
ブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、生ま
れない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●ウィルスが、130個!

 長男が新しいプリンターを買った。「パソコンショップへ行く」と言うので、ついて行った。

 長男は、パソコンでゲームをするのが趣味。で、長男があれこれパソコンを選んでいる間、私
は、ウィルス駆除ソフトを購入。買いに行くとき、長男が、「前のウィルス・チェックソフトは、期限
が切れたので、今は、使ってない」などと、のんきなことを言っていた。それが、気になった。そ
れで購入した。

 で、家に帰って、プリンターは、簡単に取りつけられた。手伝った。しかしどうも、動作が重
い。パソコンが、勝手なことばかりしているといった感じ。

 そこで先ほど購入してきた、ウィルス・チェックソフトを、インストール。アプデイトして、さっそ
く、検査。

 その間、私は居間に帰り、いとこが送ってきてくれた柿を食べる。雑誌を読む。ワイフと話
す。

 やがて長男が居間にやってきた。どこか暗い表情をしている。「どうだった? ウィルスは発
見できたか?」と声をかけると、「130個も発見された……」とポツリ。

 よほどショックだったらしい。

 私は、しかし思わず、笑ってしまった。「130個だってエ〜!!」と。「大半は駆除したが、残り
は、隔離した」と、長男。またまた笑ってしまった。

「あのなあ、たった1個でも、たいへんな問題だよ。ウィルスによっては、パソコンの起動そのも
のを、おかしくしてしまう。それが130個だなんて……、ハハハ」と。

 もっともそのパソコンは、ゲーム用のパソコン。ウィルスが入っていたところで、実害はない
が、しかしそれにしても……! 130個とは! 私だったら、たった1個でも、リカバリー(再セ
ットアップ)してしまうだろうに……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●晩年論

+++++++++++++++++

このところ、生きる気力が薄れてきた?

そんな感じがしないでもない。

+++++++++++++++++

 HIVの陽性者になっても、すぐ死ぬとはかぎらない。適切な治療をすれば、10年、20年と、
生きながらえることができる。要するに、発症を抑えるということだそうだが、私は少し前、この
話をあるドクターから聞いたとき、「では、私はどうなのか?」と考えた。

 私は現在、満58歳。一応平均寿命で計算すれば、あと20年※は生きられることになる。し
かしその20年間、ずっと健康というわけではない。その前日まで元気で、その日ポックリと死
ぬというふうには、いかない。多分、これも平均的な老人をみるとわかるが、その前、5〜10
年は、闘病生活をすることになる。ということは、私がまあまあ元気なのは、これから先、長くて
も、10〜15年ということになる。つまり立場は、HIVの陽性者と、どこも違わない。

 が、20代の若い人が、HIVの陽性者になったら、人生を悲観する。私だったら、悲観して、頭
がおかしくなっただろう。しかし今、私は、同じような立場だが、それほど悲観しない。この違い
は、どこからくるのか。

 これはあくまでも私のばあいだが、もし神様がいて、私に、もう一度同じ人生を繰りかえせと
言ったら、私は、多分、断るだろうと思う。今の思考状態のまま、青春時代にもどれるなら話は
別だが、しかしあんな無知で、無学で、未熟で、未経験な、動物のような世界にもどれと言われ
ても、困る。とくにあの高校時代は、ごめん。あの高校時代にもどるくらいなら、死んだほうが、
まし。本気でそう思っている。

 そういう自分の心理を分析してみると、いろいろ気がつくことがある。まず、生きる気力そのも
のが、薄れてきたこと。変化や冒険よりも、静かな安定を望むようになってきている。行動に、
融通がきかなくなってきている。行動範囲が、狭くなってきている。今まで経験した範囲のこと
で、それを繰りかえすことはできるが、その範囲を超えると、とたんに、不器用になる。「それで
はいけない」と思うこともあるが、それよりも大きな力が、私に働くようになる。

 こうした変化は、たとえば人間関係にもあらわれる。一度、その人との人間関係がこじれる
と、修復しようという気力そのものが、生まれてこない。むしろ、こちらから積極的に、切ってし
まうこともある。多分、それは、時間に限りを感ずるためではないか。「もう、ムダにする時間は
ない」という思いが、私をして、そうさせる。

 あとは、居直りが強くなる。「私は私だ」と。中には私のことを、よく思っていない人がいる。
(そういう人は多い!)しかしこのところ、「そう思いたければ、勝手にそう思え」と考えるようにし
ている。ここでも、あまり修復しようという思いは、生まれてこない。そういうことをするのがめん
どうというより、そういうことをしている時間がない。ヒマがない。

 ……で、こうした自分自身の老人性と、どう戦うか、である。そのときポイントとなるのが、や
はり健康である。体の健康もさることながら、心の健康である。この年齢になると、心も病みや
すい。そういう人は、いくらでもいる。いや、すでに私の心も病んできるのかもしれない。今のと
ころ、多分、だいじょうぶだとは思うが、心の健康を守ることが、老人性と戦うひとつの方法で
はないか。恩師のT先生は、「(老人性と戦うには)、新しい情報を入れることです」と言ったが、
私もそう思う。常に、新しいことに興味をもち、それにチャレンジしていく。そういう前向きな姿勢
が、心の健康を保つ。

 体の健康は、これは適切な運動をすることで守る。心の健康は、毎日、前向きな生き方をす
ることで守る。なるほど! ……と、自分で感心していては、しかたないが、今、そういう結論に
達した。

 話がどんどんと脱線してしまったが、要するに、平均寿命とか、老人性とか、そういうことは考
えてはいけない。晩年論も、くだらない。もともとそういうものは、人間が勝手に決めた尺度に
すぎない。私は、いつでも、どこでも、何歳になっても、私なのだ。だから私は、HIVの陽性者に
なった若い人のようには、自分の人生を悲観しない。する必要もない。とにかく毎日を、ただひ
たすら燃焼させて生きていく。それだけのこと。
(この原稿は、2年前に書いたものを、書き改めたものです。)

●40歳は青年の老齢期であり、50歳は老年の青春期である。(ユーゴー「断片」)

※厚生省が「1999年簡易生命表」によると、日本人の平均寿命は、女性が83.99歳、男性が77.
1歳、男女平均で80.55歳) 


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●依存心

+++++++++++++++++

俗に言う、甘えん坊。依存性の強い
子どもというのは、たしかにいる。

その依存心について、一考。

+++++++++++++++++

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(六七歳)は、だれかに電話をする
たびに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何
とかしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(六〇歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「アメリカが何
とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。一見、なごやかな世界に見え
るかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだけ。総じて言えば、日本人が
もつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が結集したものとみてよい。
「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌
われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好んで使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン性)
を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的であればあるほど、
美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくことは、まずない。だれ
かが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して
いない。あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代
の全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界から
みて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が
国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」)


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(005)

【寸又峡温泉にて】(05・11月x日)

●金谷で……

 今日は、寸又峡温泉にやってきた。「すまたきょう・おんせん」と読む。東海道線の金谷(かな
や)で下車。そこから大井川鉄道に乗って、千頭(せんづ)でおりる。金谷から千頭までは、S
L。その千頭から寸又峡までは、バス。

 金谷から千頭まで、SLで、1時間10分。千頭から寸又峡まで、バスで40分。朝方は曇り。
小雨模様だったが、金谷へ着くころには、青空が見えた。金谷で、だれかが、「あら、晴れてよ
かったわ」と言ったのが耳に入った。

 それから今度は、SL。蒸気機関車。秋の紅葉のシーズンには、ピークを過ぎたという人もい
たが、水色の空にはえて、赤や黄色の紅葉が、色あざやかに輝いていた。

 「ぼくは、若いころ、秋の紅葉がこんなにも美しい思ったことがない」と言うと、ワイフが、「年を
とると、自然の美しさがわかるようになるのかもね」と笑った。

 その金谷で、30分ほど、過ごす。写真を何枚か、とる。

●SL

 SLといっても、当然、古い汽車。ボロボロといった感じ。「昔は、こんなだったのかな」と思い
つつ、どこかおっかなびっくり。座席は狭いし、それに汚い。洗面所には、「使えません」の張り
紙がしてあったが、張り紙がしてなくても、だれも使わないだろう。使い古した便器のような感じ
がした。

私「ぼくが高校生くらいのときは、SLは、日本中を走っていた」
ワ「私は、見なかったわ」
私「東海道線からは、早い時期に、消えたかもしれない。でも、ぼくにとっては、旅行といえば、
SLだった。トンネルを抜けると、みんなの顔が、煙で真っ黒になっていたりしてね」、ハハハ、
と。

 ときどき石炭を燃やすにおいが、車内にまで入ってきた。が、なつかしさは、あまりなかった。
どこかの汚いトイレに入ったような感じ。それが、まだ残っていた。大井川鉄道は、「古い」とい
うことと、「不潔」ということとを混同しているのではないか。あるいは古いことをよいことに、不
潔なまま、居なおってしまっている。

 やがて汽車は、川に沿って走り出した。美しい紅葉が、つぎつぎと目に飛びこんできた。私は
夢中で、デジタルカメラのシャッターを切った。ビデオもとった。

 車内では、女性の案内が、ガンガンと流れていた。歌も歌った。バスガイドならぬ、汽車ガイ
ドである。こういうガイドには、好き好きがあるのでは……? 中には、静かな旅を楽しみたい
と思っている人もいるはず。しかしそういう人は、少数派。私のような人間は、だまってそれに
耐えるしかない。

●千頭

 千頭へは、もう何度か来たことがある。若いころは、息子たちを連れてやってきた。最近で
は、数年前に来たことがある。その千頭からは、トロッコ列車が走っている。それに乗ったこと
もある。

 が、今回は、ここからバスに乗る。待ち時間は20分ほど。昼食用に弁当をさがすが、どこも
売り切れ。見ると団体客が、旗を先頭に、バス停のほうへと歩いてきた。みな、寸又峡へ向か
うらしい。その団体をぼんやりと、見やる。

 それをのぞけば、のどかな田舎町。いくつかの飲食店とみやげもの屋。それが街道に沿っ
て、並んでいる。駅前のにぎわいとは対称的に、道の向こうでは、白い光りを浴びて、一匹の
ネコが、のそのそと道路を横切っていた。

 「弁当は売り切れだった」と私が言うと、ワイフは、「向こうへ着いたら、食べましょう」と言っ
た。

 今日は、あまり気分がよくなかった。昨夜は、あまりよく眠られなかった。いとこと長電話をし
たのが原因らしい。自分では気がつかなかったが、ワイフは、こう言った。「あなた、興奮して、
ペラペラとしゃべっていたからよ」と。そのせいか、軽い頭痛が残った。どうやら、睡眠不足性
が原因の頭痛らしい。

●寸又峡

 寸又峡へは、午後2時過ぎに着いた。山間の、まさに「寸又峡」という感じのところだった。山
が高く、もう日は、山の向こうに沈んでいた。浜松でいえば、午後4時ごろというところか。

 私たちは旅館でチェックインをすますと、そのまま近くの、そば屋へ。その日はじめての食事
である。私は、やまめ定食。ワイフは、とろろ山菜そばを頼んだ。横が売店になっていて、そこ
に立つ、お姉さん(店員さん)が、おもしろい人だった。

私「夢の橋までは、遠いですか」
店「今からなら、間にあいますよ」
私「片道で何分くらいですか」
店「30分くらい……。往復で1時間くらいかな……」
私「心中するのだから、片道だけで結構です」
店「このあたりでは、心中の捜索は、自費ですからね」
私「はい」と。

 私たちは食事を終えると、そのまま夢の橋へと向かった。

●夢の橋

 峡谷にかかる細いつり橋を、「夢の橋」という。定員は、10人ということだったが、谷間には、
強い風が吹いていた。それだけでも、ブランブランと揺れる。そこへ足を踏み入れると、さらに
揺れる。

 私が先。ワイフが、それにつづく。やっと1人が歩ける程度の、細い板。その板の上を歩く。高
所恐怖症の私には、たまらない。ゾクゾクとした恐怖感が、足の裏から伝わってくる。

 しかしうしろのワイフを見ると、私よりも、もっとこわがっている。前にも1人女性が歩いていた
が、橋の途中で、かがみこんでしまっている。こうなると、おもしろくてしかたない。それとわから
ないように、橋を揺らしながら、歩く。ハハハ。

 しかし私とて、こわい。足元ばかり見ていると、手元の様子がわからない。一応、手すりにな
った細いワイヤをつかんでいるが、ところどころで、それが橋をつりあげる板と結ばれている。
その板のところで、足ならぬ手がとられて、思わず、ころびそうになる。

 ゾーッ! そしてまたゾーッ! この繰りかえし。

 やっとの思いで、反対側へ。美しい景色を楽しむ余裕はない。が、着いたとたん、谷間の美し
さが目に飛びこむ。それがどのように美しいものであったか……。

 百聞は一見にしかず……ということで、ここに、そのときとった写真を何枚か載せる。

●飛Rの宿

 泊まった旅館は、飛Rの宿。……という名前の旅館。インターネットで検索して、予約を申しこ
んだ。1泊1万4000円弱。全体としては、小じんまりとした旅館だが、内部は、どこも広々とし
て気持ちよかった。それに料理が、よかった。

 山の中のひなびた旅館ということで、それほど期待していなかった。しかしその洗練された料
理に、大満足。おいしかった。久しぶりにご馳走を食べて、胃のほうがびっくりしたよう。考えて
みれば、ワイフと2人だけで、こうして旅行に出るのは、珍しい。

 私が、「何年ぶりかな?」と聞くと、ワイフは、あっさりと「4年ぶりよ」と。4年ぶり! 改めて、
「4年」という数字に驚く。こういう数字は、女性のほうが、よく覚えている。フームと言ったきり、
つぎの言葉が出てこない。家庭サービスを、私は、かなりサボっていたようだ。

 「ようし、来年からは、毎月、旅行しよう」と私。「毎月は、無理よ」とワイフ。しかしそれにして
も、4年ぶりとは……! 私にも結構、古風なところがあるようだ。夫としての責任感を、強く覚
えた。申し訳ない気持ちにかられた。

●インターネットでの検索

 今では、宿屋も、インターネットで簡単に検索できる。今回も、そうした。しかし、HPだけで選
ぶと、失敗する。HPでは、やたらと豪華に見えても、実際には……?、という旅館も多い。

 1つの方法としては、その温泉街全体が載っているHPを見るというのがある。そういうHPで
は、宿泊代が、1つの目安になる。たいていのばあい、旅館の序列や格式、内容によって、宿
泊代が決まる。当然のことながら、宿泊代の高い旅館ほど、よい旅館ということになる。

 寸又峡温泉にも、大小、さまざまの温泉宿が、10〜15軒ほどある。しかし本気で(?)、営
業している旅館となると、3、4つ程度にしぼられる。実名を出して恐縮だが、「奥大井観光ホテ
ル翠紅苑」は、★が、3つ。「湯屋・飛龍の宿」が、★が、2つ、というところか。あとは、宿泊予
算と相談して決めたらよい。

 私とワイフは、温泉街を歩きながら、「ここにしなくてよかったね」「今度来るときがあったら、
この旅館にしよう」などと、話した。

●温泉

温泉は、内湯と、露天風呂の2つがあった。湯の中で、体にさわると、軽くヌルっとした感じがす
る。私は、夕食前に1回。夕食後に1回。そして朝早く起きて、1回、計3回も、入った。

 が、ほかにすることはなし。小型のノートパソコンをもってきたので、それを開いて、文章を書
く。ワイフは、BS放送を見る。で、結局、風呂から帰ると、そのまま、寝ることにした。ワイフ
が、「まだ9時よ」と言った。私は、「ぼくは、睡眠不足だから、ごめん」とあやまった。

 こういう旅行先でワイフを見ると、別人のように見える。毎日見慣れているはずなのに、おか
しな気分だ。それにゆかた姿のワイフは、珍しい。ムラムラと……(後略)。

 「お前さあ、今夜は、きれいに見えるよ」と声をかけると、「あら、そう」と言った。

●朝

 朝食は、8時ということになっていた。バスは、8時40分に出る。散歩から帰ると、そのまま朝
食。そしてチェックアウト。私たちはバス停に向かい、そこで列をつくって、バスのドアが開くの
を待った。

 団体客と一般客が混ざって立った。そのときのこと、うしろのほうから、7、8人の男女が、大
柄な男を先頭にやってきた。道路の中央を、ドヤドヤといったふうな感じでやってきた。そして
そのまま、私たちの前に立とうとした。朝から酒を飲んで、酔っぱらっているふうだった。

 私は、2度、3度、「並んで待っていますと」と声をかけた。が、男たちは、無視。バスのドアの
ところに立とうとした。そこで私は、キレた。さらに大きな声で、こう言った。

 「団体客も、一般客も、並んで待っているんだぞ。ちゃんと、うしろに並んだらどうだ!」と。

 態度の大きな男だった。しゃべりかたは、関東地方特有のベラメエ調子。どこかの金持ち
か、政治家といった風体だった。すると、その男のうしろについていた女が、「そんなに怒らなく
てもいいでしょ!」と。

 今度は、私が無視した。男が、もどって、私たちのうしろにつこうとしたからだ。

 あとで私は、ワイフにこう言った。「ぼくはね、ああいうとき、がまんしないよ。言いたいことが
あれば、サッサと言って、それですます。がまんしていると、ストレスがたまるからね」と。

●帰途

 今度は、寸又峡から千頭までは、バス。千頭から金谷まで電車。少し待てばSLが走るという
ことだが、SLは、もうごめん。

 金谷から浜松までは、JRで。午前中までには、自宅へ帰ってくるつもりだったが、列車が何
かの事故で遅れた。

 帰りの電車の中で、私は眠った。眠りながら、山々の紅葉の夢を見た。夢のような景色だっ
た。途中、少し目を開くと、ワイフも、こっくりこっくりと、うたた寝。寸又峡からのバスの中で、ワ
イフとこんな会話をした。

 「春から夏にかけては、山々の緑は、みな、同じ緑だよね。でも、秋になると、みな、色を変え
る。人生を季節にたとえる人もいるけど、秋というのは、人生で言えば、晩年。その晩年に、そ
れぞれの人が、最後に、自分の色で、美しく輝くんだよね」と。 

 さあて、私は、どんな色になるのだろう。赤や黄色ならいい。しかしひょっとしたら、赤サビ色
になるかもしれない。そんなことを考えていたら、また眠ってしまった。

 のどかで、楽しい旅だった。(おしまい)


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●おかしな日本語

 最近、子どもたちの日本語が、おかしい。本当に、おかしい。昨日も、小4のクラスで、こう言
った子どもがいた。

 「先生、終わったら、どうするのですか?」と。

 その子ども(女の子、Oさん)は、「先生、今やっている問題が終わったら、私は何をしたらい
いですか?」という意味で、私にそう言った。それはわかる。しかし、何という、日本語!

 そこですかさず、私はこう言ってやった。

 「あのね、先生が死んだら、葬式でもしてくれれば、先生は、うれしいよ。でも、まだぼくは、終
わらないよ。元気で、ピンピンしているからね」と。

 すると、このところやや反抗的な様子を見せ始めているKさんが、こう言った。「先生は、ふざ
けてばかりいる」と。

私「何も、ふざけていないよ。君たちの話す日本語がおかしいから、そう言っているだけだよ。
もう少し、きちんとした日本語を話してほしいからね」と。

 そこで私は、いくつかの例を出してやった。

 「たとえば、『今日、学校、ある』と言うだろ。それだって、『今日は、学校は、休みではありま
せん。授業があります』と言うべきだ。学校が、消えたり、現われたりするわけないからね。

 ほかに、夏になると、『今日、プールがあった』と言う子どもがいる。しかしそのばあいでも、
『今日は、水泳の授業があった』というべきだ。プールが、消えたり、現われたりするわけでは
ないからね」と。

 さらにこんな例も出して説明してやった。

 「よく、『先生、オシッコ!』という子どもがいる。そういうときは、ぼくは、『先生は、オシッコで
はない。人間だ』と言ってやるよ。いいかな、そういうときは、『私は、トイレに行きたいです』と
言わなくてはいけない」と。

 すると、最初の女の子が、ムキになった。「そんな言い方、いちいちしないわよ。それに今は、
国語の時間ではない! 私は算数が勉強したいの。よけいなこと、教えないでよ!」と。

私「国語の時間ではない、だって? 算数だって、国語の一部だよ。計算問題だけが、算数で
はない。文章で書かれた問題を解くのが、算数だよ。それは君のまちがいだよ」と。
Oさん「だって、意味が通ずれば、いいじゃん」
私「しかしそんな話し方ばかりしていると、文章が書けなくなるよ。たとえば、『これは私の学校』
などと、外国の人に言ってごらん。その外国の人は、びっくりするよ。『これは、君の学校か』っ
てね。そういうときでも、『これは、私が通っている学校です』と言う。正しくはね」と。

 英語の世界では、日本語の世界とは反対に、単語だけの会話を、たいへん、嫌う。たとえ
ば、「何、食べる?」「うん、ラーメン」という言い方は、英語では、しない。英語では、「あなた
は、何を食べたいですか?」「私は、ラーメンを食べたいです」と言う。きちんとした文章で会話
をするのが、ふつう。ふつうというより、当たり前。

 単語だけ並べて会話をすると、大学教育の場では、すかさず、注意される。「あなたは、文章
(センテンス)で、会話をしなさい!」と。ふつうの世界でも、単語だけで応答したりすると、「学
のない人」と、判断される。

 日本語は日本語と、居なおるのもよいが、少なくとも、正しい言い方とは、ほど遠い。その(ほ
ど遠い)状態で、日本語そのものが、ますます、おかしくなってきている。よい例が、バラエティ
番組に出てくる若者たちの会話である。

 「ドヒャー、ヤルー!」
 「スゲエ〜。オレもイッチョ、ヤッカ〜」
 「アホッ、オマエ、アホカ?」と。

 そしてKさんには、こう言った。

 「君は、小説を書いているね。小説を書く人は、日ごろから、正しい言い方を身につけておか
なくてはいけない。でないとね、意味のわからない日本語を書くことになるよ。自分だけわかれ
ばいいという文章は、文章ではないよ」と。

 そして最後に、こう言った。「今、ぼくが言っていることが、まちがっていると思う人は、即刻、
この教室から出て行きなさい!」と。

 とたん、クラスは、シーンとした。そして、いつものレッスンがまた、始まった。

【追記】

 その翌日のこと。またまた、こんなハプニングがあった。

 このあたりでは、「ケチ」のことを、「ケチンボウ」という。おかしな日本語だ。どうやら方言のよ
うなものらしい。

 しかし、それにしても……!

 その言葉を、今日、小5のOさんが、使った。何かの拍子に、Oさんが、「先生は、ケチンボウ
ね」と。

 あまりの言葉に、瞬間、息が止まった。そしてこう言った。「もちろん、毛・チン棒だよ」と。

 とたん、クラス中が、爆笑のウズで埋まった。私も、「ますい」「まずい」と思いながらも、その
ウズに巻きこまれてしまった。

私「あのねえ、若い、君のような女性が、口に出して使うような言葉じゃ、ないよ」
O「どうして、だめなの?」
私「その言葉は、セクハラ言葉だよ」
O「ケチンボウがア……?」
私「ほら、また、使ったア!」と。

 ワハハハ、ゲラゲラ、ワハハハ……。

O「でもね、ママに、ケチンボウと言っても、ママは、笑わないわよ」
私「もういいから、その言葉を使ってはだめ!」
O「どうしてダメなの?」
私「もう、いいから、その言葉を忘れて勉強しなさい!」
O「先生は、考えすぎよ」と。

 あとで家に帰ってから、そのことをワイフに話すと、ワイフも、こう言った。「あら、浜松の人な
ら、みな、その言葉を使うわよ」と。

 それにしても、ギョッとする言葉ではないか。浜松の人には、それがわからないかもしれない
が……。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●6か国協議の崩壊

 6か国協議が、崩壊の危機に立たされている。日米韓vs中ロ北の図式から、韓国が、日米
から離脱。日本も、アメリカとは、距離を置く姿勢を見せ始めた。つまりアメリカだけが、孤立。

 こうなると、何が、6か国協議か?、ということになる。今朝(12・1)のサンケイ新聞は、つぎ
のように伝える。

+++++++++++

6カ国協議 空洞化への序曲 きしむ日米と韓、協力ついに終焉(しゅうえん) 
【ワシントン・樫山Y夫】
北朝鮮の核開発をめぐる日米韓の三国調整グループ(TCOG)の枠組みが、以前からきしみ
をみせていたが、さきの6か国協議での開会が見送られたことで、名実ともに終止符が打たれ
た。
日米と韓国の思惑の違いを克服できなかったことが、最大の原因だった。TCOGは6か国協
議の根幹をなす枠組みだっただけに、その崩壊について、「6か国協議空洞化につながるおそ
れがある」(米国の朝鮮問題専門家)という懸念が台頭している。

+++++++++++

 こういう場で責任のなすりあいをしてもいけないが、孤立しているのは、アメリカではなく、実
は、この日本である。それを忘れてはいけない。はっきり言えば、K国の核兵器など、アメリカ
にとっては、痛くもかゆくも、何ともない。

 もしK国がアメリカに核でおどしをかければ、K国は、1時間で、廃墟の国と化す。「石器時代
にもどる」と説く、評論家もいる。しかもアメリカは、原子力潜水艦1隻で、それができる。

 しかし日本にとっては、そうではない。今のK国と、対等に戦争するだけの力は、ない。もし核
兵器でおどかされれば、日本は、手も足も出せない。憲法上の制約というより、士気そのもの
がちがう。それ以上に、今の日本人は、あまりにもその緊張感に欠ける。

 こういう状況の中で、どこのだれが、K国の核兵器問題を、解決してくれるのか?、ということ
になる。本来ならその責任を負うのは、中国もしくはロシアなのだが、この両国が、K国の肩を
もっている以上、もう、どうしようもない。韓国にいたっては、「核開発など、もうどうでもいい」と
いったカンジ。

 が、この日本にも責任がないわけではない。中国の北京に視点を置いてみると、それがよく
わかる。

 日本列島のあちこちにアメリカ軍の基地がある。原子力潜水艦や空母が、その周辺で、ウロ
ウロしている。最新鋭の戦闘機が、四六時中、飛びかっている。中国に言わせれば、「何が、K
国の核兵器だ!」ということになる。「日本は核武装していません」といくら叫んでも、その論法
は日本の外では、通用しない。

 かたや、そのアメリカとの関係も、ギクシャクし始めている。沖縄からのアメリカ軍の移転につ
いても、何ひとつスンナリと、いかない。アメリカにしてみれば、「もうバカ臭くて、やっていられな
い」という状況になりつつある。「どうして、アメリカが日本など、守らなければならないのか」と
いうのが、アメリカの本音ではないか。

 ……といっても、これは日本とアメリカがしくんでいる、ポーカーフェイスの疑いがないわけで
もない。日米間のきしみを、演出することによって、中国とK国の間に、キレツを入れる作戦で
ある。今ごろ、日本のK首相と、アメリカのB大統領のとの間で、こんな会話をしているかもしれ
ない。

K首相「今、日本が、アメリカベッタリの姿勢を見せると、かえって中国とK国が結束してしまい
ますよ。そこで、どうでしょう、一応、ここでは、日本は、アメリカとは一線を引いているという姿
勢を見せては……? 拉致問題を解決してくれたら、経済援助をすると、におわせるという作
戦です」
B大統領「うむ、それはいい考えですね。日本が、アメをちらつかせる。で、拉致問題が進展し
たところで、さっと手を引く。あいつら、あわてるだろうな、ハハハ」と。
K首相「そうですよ。『そんな約束、したっけ?』と、とぼけて見せればいい。とぼけは、日本人
の得意芸の1つですよ」
B大統領「しかしね、絶対に、核開発問題が解決するまで、ビタ一文、K国に渡してはダメだ
よ。わかっているね、K首相」
K首相「よ〜く、わかっていますよ、B大統領。どうか、ご心配なく」と。

 で、韓国は、相手にせず。

 つづくサンケイ新聞は、つぎのように伝えている。

++++++++++++++

 TCOG崩壊の最大の原因は、6か国協議を通じて、韓国が議長国の中国、ロシアに傾斜、
北朝鮮への柔軟な姿勢を打ち出したことによる。これによって日米との対立が鮮明となり、共
同声明のとりまとめが困難になったためだ。 

 米国は韓国の姿勢に変化が見られない限り、「開いても意味がない」として、復活には消極
的といわれる。その場合、今後の6か国協議では、日米対中韓露の対立の図式が、いっそう
鮮明になる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(006)

●注意する

 電車の中で騒がしい人。大声で話しあっている人。
 順番を待つというルールを守らない人。
 道路にゴミを捨てたり、ツバを吐いたりする人。
 信号を守らない人。
 電車の中で、大きな声で、携帯電話をかけている人。
 駐車場でないところに、車を止める人。
 病院で騒いでいる子どもをもつ、親。
 私が講演しているとき、ずっと、しゃべりっぱなしの人、などなど。

 こういう人たちを注意するには、コツがある。

(1)にこやかな笑顔を絶やさないこと。
(2)一応、下手に出て、お願いするという形をとること。
(3)「すみませんが……」と話しかけて、「よろしくお願いします」で終わること。
(4)早めに注意すること。
(5)相手がムッとしてきたときは、頭をさげて無視すること。
(6)余計な理由などは、言わないこと。

 「早めに注意すること」というのは、がまんしている時間が長くなると、それだけ、ストレスがた
まってしまう。そのあと、うまく注意できなくなってしまう。こちらが興奮状態になるのは、まず
い。おだやかな口調で、注意することができなくなる。

 だから気がついたら、早めに、サラッと注意するのがよい。

 そしてここが重要だが、こうした注意には、練習が必要だということ。夫や妻を相手に、何度
か、練習してみるとよい。いきなり本番、というのは、まずい。私のばあいも、何度か練習した
あと、実際、電車の中で、試してみた。

 最初のころは、心臓がドキドキしてうまく注意できなかったが、回を重ねるごとに、うまくできる
ようになった。今ではたいてい、相手の人は、「あら、すみません」「わかりました」と、引きさが
ってくれるようになった。こちらのもつ、雰囲気が重要。

 が、それでも相手が、ムッとしてくることもある。しかしそういうときでも、こちらは過剰に反応
してはいけない。もう一度、「よろしく」と言って、頭をさげる。そうしてサラッと視線をはずす。

 あとは無視。それで自分をなおしてくれればよし。それでも、なおしてくれないようなら、あきら
めて、その場を去る。反論したり、深追いしてはいけない。言うべきことは言う。しかし、それで
すます。

 概して言えば、外国人のばあいは、みな、笑顔で従ってくれる。とくに欧米人は、そうである。
そういうふうに注意したり、注意されたりするのが、習慣的になっているせいではないか。

 概して言えば、権威主義的な日本人は、ムッと不愉快な顔をする。これは注意されることによ
って、プライドがキズつけられたと思うせいではないか。

 また注意するときも、うるさかったら、「静かにお願いできませんか」とだけ言えばよい。「まわ
りの人に迷惑です」とか、「そんなことをすれば、汚くなります」とか、そういう理由は言ってはい
けない。理由を並べると、どんな人でも、ムッとする。

 だから単刀直入に、言うべきことだけを言って、すませる。

 ところで昨日、乗った電車も、騒々しかった。が、私は、注意しなかった。相手が、80〜90歳
の、おばあちゃん連中だったからである。ワイフが、「みんな耳が遠いのよ」と言った。だから私
たちは、別の車両に席をかえた。そういうこともある。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

【人間の誇りとは……】

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2002年の1月に、つぎのような原稿を
私はこんな原稿を書いた。

今、改めて、それを読みなおしている。

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●私はユネスコの交換学生だった

 1967年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡った。日
韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎えられた。が、
歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学者であ
る。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、しかしすべてを
教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話してくれた。

●奈良は韓国人が建てた?

 「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈落の果て
にある国(ナラ)」という意味で、「奈良」になった、と。

昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。現在の今でも、韓国語で「ナ
ラ」と言えば、「国」を意味する。

もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言え
ば、日本史が日本史にこだわっている限り、日本史はいつまでたっても、世界の、あるいはア
ジアの異端児でしかない。日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本史を見る
必要があるのではないのか。

ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオーストラリ
アでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本はその一部でしか
ない。

●藤木新一の捏造事件

 一方こんなこともある。藤木S一という、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発
掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そ
ういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまった人たちがいるとい
うから、これまたすごい。

たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(1999年
終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議
員をしている。その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれ
た。

「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当
時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本を
はげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

●常識と非常識

 私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見、金素雲氏が話してくれた奈良の話と、
この捏造事件はまったく異質のように見える。奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもな
い風説に過ぎない。

いや、一度、私が金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の
中にあるでしょう」と笑ったのを思えている。しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎ
ない。これに対して、石器捏造事件のほうは、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石
器」という証拠が出てきたのだから、これはたまらない。

事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。が、よく考えてみると、
これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏の話してくれたことは、
日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用しない世界の非常識。
世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく態度も、基本的には同じと
みてよい。

●お前は日本人のくせに!

 ……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。事
実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。

しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれれば、
私は100%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本という国土、
文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。

このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意識は、ゆ
がんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのものをゆがめ
る。これは危険な思想といってもよい。

仮に百歩譲って、「日本民族は誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくとも中国
の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代から5500年の
歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中国からきたものだ。

その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人を「下」
に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義というのは、もともと
そのレベルのものでしかない。

●驚天動地の発見!

 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは
私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば2002年の
はじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。

これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(1月)。さらに同じ月、研
究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。

明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。
詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削
(ゆげ)皇子か」と。

京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる
『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。これはどうやらふつうの発掘
ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分
を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。弓削皇子は、天武天皇の
皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。

●人間を原点に

 話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚かな
い。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。先日愛知万博の
会議に出たとき、東大の松井T典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から見たら、地球には
人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(2000年1月16日、東京)と。

これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じことが言え
る。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、笑いものになる
だけだ。

いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものになるだ
け。日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおかしい。
私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるからということでは
なく、人間であることによる。もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」
ことによる。松井教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。

●非常識と常識

 いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日
がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いていることが正しい
と証明されるだろう。

そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。「なぜ日本の考古学者は、藤木S一の捏造と
いう非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史学者は、東洋史という常識に背を向けたの
か」と。繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついてい
る。(以上、2002年1月記)

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 今朝(05年12月2日)の朝刊によれば、またまた奈良県の明日香村のカヅマヤマで、石積
み石室古墳が見つかったという。

 中日新聞は、「百済王族?」と「クエスチョンマーク」をつけて報道している。時期は7世紀後
半、40〜50代の男性埋蔵か、と。

 「被葬者は渡来系か」と題して、前園・奈良芸術短大の教授は、つぎのように語っている。

 「土を焼いて作った朝鮮半島の「せん」を使った石室を意識した構造で、被葬者は天武天皇
の客人だった、百済王昌成(こうだらのこきししょうじょう)ら、渡来人の人物がふさわしいので
は。丘陵の斜面を削り墳丘を築造する立地条件は、高松塚古墳など、ほかの終末期古墳と一
致するが、規模が大きく、「せき(=石へんに、専の文字)」を積んだ、特殊な石室をもつ点が特
徴だ」と。

 奈良県の明日香村の西南部には、7〜8世紀の終末期古墳が密集している。大半が天皇家
に関係があるとされる。

 中でも、天武、持統天皇陵は藤原京の中軸、朱雀(すざく)大路の延長線上にあり、そこから
南約3キロのエリアを天武天皇一族が、「聖なるライン」として築いた墓域とみる説が有力(同、
新聞)。

 この周辺に、あの高松古墳、キトラ古墳もある。(カヅマヤマと、キトラは、距離にして、1・5キ
ロほど。)今回発見された古墳も、まさに百済や高句麗の様式をまねたもの……というより、百
済や高句麗の様式そのもの。そこで前園教授は、「被葬者は渡来人か?」と。日本人の墓とす
るには、あまりにも無理があるからである。

 日本の天皇は、「ゆかり」という言葉を使って、当時は、大問題になった。しかしこの事実ひと
つだけを見ても、日本の天皇家と、朝鮮半島は、密接に結びついている。どうして日本の聖域
の中に、百済からやってきたと思われる渡来人の墓が、こうまであるのか。また天皇陵の様式
にしても、どうしてこうまで百済、高句麗の様式と酷似しているのか。

 この先のことは私にはわからないが、再び、私は、あの金素雲氏が言った言葉を思い出す。

 「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と。仁徳天皇の墓の中には、何かしら、巨大な謎
が隠されているらしい。
(はやし浩司 カヅマヤマ古墳、キトラ古墳 百済 高句麗 弓削王子 金素雲)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(007)

【2005年を振りかえって……、思いつくまま】

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マガジンでは、いよいよ今年の最終号になり
ます。(この原稿を書いているのは、12月
2日ですが……。)

明日は、大晦日(おおみそか)ということに
なるでしょうか。

気分は、そんなわけで、もう大晦日。今年1
年を、あれこれ振りかえってみます。

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●無事

 昨日(12・1)、1等が3億円のジャンボ、年末宝くじを、30枚買いました。それを買うとき、ワ
イフが横で見ていて、「当たるわけないわ」とさかんに言っていました。が、しかし、当たります。
絶対に、当たります。明日は、その3億円を、私は、手にします。どうか、どうか、ご期待くださ
い。

 で、当たったら、どうしようかと、今、悩んでいます。多分、当たったことは、だれにも言わない
だろうと思います。もちろん息子たちにも……。しばらくワイフとこっそりと現金をながめたあと、
え〜と、そこから先が、私にもわかりません。

 今年も、ハッとさせられるような危うい場面は、何度かありました。が、今日(12・2)まで、今
のところ無事、過ごしてきました。12月31日までこのままなら、それが私にとっては、特等賞と
いうことになります。

 3億円は、ただのお金ですが、(無事)というのには、その3億円以上の価値があります。どう
か、来年も、家族ともども、みな、無事に過ごせればと願っています。

 ……と書きながら、やはり、当たればいいなと思っています。お金は嫌いではありません。


●2006年

 2006年にしたいことは、たくさん、あります。旅行もしたいし、仕事もバリバリしたい。今は、
パソコンが、メインの趣味になっていますから、さらに性能のよいパソコンが、ほしいです。それ
でいよいよ本格的なビデオ編集をしてみたいです。

 そのためP社のビデオカメラを、今、ねらっています。毎晩、カタログをながめながら、「どうし
ようか」と迷っています。デジタルカメラを買ったばかりだから、すぐには無理と思いますが…
…。

 もちろん健康も大切にしたいです。これからもずっと、自転車通勤を欠かさないようにします。
1週間に10単位と決めています。1単位というのは、30分間、自転車に乗ることをいいます。

 あとは食べ物には、ますます注意を払いたいと思います。


●誠司が日本へ!

 年末には、二男が孫の誠司(孫)と奥さんを連れて、日本へ来るかもしれません。昨夜、連絡
がありました。

 毎年、さみしくなる一方のクリスマスと正月。しかしもし誠司がくれば、パッと明るくなるはず。
それからもうすぐ2人目の孫が、男の子か女の子か、わかるそうです。ワイフは、女の子を望
んでいますが、多分、また男の子でしょう。

 我が家は男系家族なのです。

 それにしても、最近、誠司が、どこか、アジア人ぽくなってきました。少し、ほっとしています。
いつも私のHPのトップページを飾ってくれているのが、その誠司です。


●マガジン

 2006年も、マガジンの発行に明け暮れることになりそうです。目標は、1000号! とにか
く、やるしかないのです。今さらあきらめて、おめおめとあとへ引きさがるわけにはいきません。

 世の中には、私のようなバカがいても、よいのです。(自分でも、バカなことをやっていると、よ
く思います。)

 悪いばかりではありません。頭の体操になります。それに写真を取るという趣味も、身につき
ました。毎日、デジタルカメラをポケットに入れて歩いています。それと、本屋へ行っても、あれ
これ幅広く、本を読みあさるようになりました。これもよいことです。

 もともと好奇心が旺盛で、多情多感な人間でしたが、マガジンを発行するようになってから、
さらにそれに拍車がかかったというわけです。……といっても、全体から見ると、ほんの一部に
すぎませんが……。つまり私が関心をもっている世界は、全体からみると、限られた世界にす
ぎないということです。

 で、一言追加。

 カメラをもって歩くというのは、よいことですね。「美」を見る目が、鋭くなってというか、敏感に
なりました。それにヒマさえあれば、よく出歩くようになりました。2006年は、2005年以上に、
あちこちへ出かけ、パチパチと写真をとりたいです。(私のデジタルカメラは、バシャ、バシャと
音が出るように設定してあります。無音にすることもできます。ピッ、ピッという音にすることもで
きます。しかしやはり、バシャ、バシャという派手な音のほうが、気持がよいです。)

 
●年末、年始

 今年は、もし二男夫婦と誠司が来れば、楽しい年末、年始になります。が、まだよくわかりま
せん。この時期は、航空運賃も、割高だし、それに混んでいます。

 もし来なければ、例年のように、どこかさみしく、どこかものわびしい年末年始になりそうで
す。子どもたちが小さいころは、ウスまで買って、モチつきまでしました。門松も、自分たちで作
って立てました。一応、ひと通りのことはしました。

 が、息子たちも、みな、巣立ち、夫婦2人だけになると、そういうことをするのもおっくうになり
ます。で、だんだんと、こうなってしまったというわけです。

 まあ、のんびりと、家で、ビデオでも見ながら過ごします。

 初詣(はつもうで)といえば、正月の3が日にするのが、ふつうですが、私たち夫婦は、混雑し
たところが嫌いです。だから、年末に、初詣の先取りをしたりします。多分、この原稿がみなさ
んの目に届くころには、もう初詣をすませていると思います。神様も、気にしないだろうと思いま
す。とくにご利益(りやく)がほしいとも、思っていませんし……。

 そういえば、このところ神社などへ行っても、手を叩いて、頭をさげるだけです。若いころは、
「〜〜できますように」とか、「〜〜が手に入りますように」とか言って、手を合わせたものです
が……。今は、手を叩いて、頭をさげるだけです。


●家族

 浜松へ流れてやってきたときには、私は、まったくのひとりぼっちでした。その私がワイフと知
りあい、あとは、とにかく、2人だけで、ここまでやってきました。

 たまたま昨日(12・4)も、ワイフとこんな会話をしました。「ぼくたちは、だれの助けも借りず、
よくここまでやってきたね」と。ワイフはワイフで、「無我夢中だったから……」と言います。

 ホント!

 ときどき、自分で、自分に感心することがあります。(かなり、自己愛者ぽいかな?)

 こういう状態を、「幸福」と言ってよいのか、どうか? 今のこの世界では、平凡な生活を送れ
るということだけでも、感謝しなければならないのかもしれません。

 感謝します。ハイ!

 ただひとつ、心残りなのは、ぼくたちは、結婚式をしていないこと。そのお金がなかったという
よりは、収入の約半分は、実家へ仕送りをしなければなりませんでした。当時は、まだ、そうい
う時代でした。


●05年

 05年という年が、思い出の中で、どういう年になるかは、まだ、よくわかりません。04年や、
03年があまり印象に残っていないように、恐らく、05年も、それほど印象に残らないまま、終
わってしまうのではないかと思います。

 今年は、何をしたのかな? 今年は、何ができたのかな? ……今は、そんな思いでいま
す。そしてこの時期、毎年、同じことを思います。「来年こそは!」と。

 しかしそういうふうに思うのも、どこか疲れました。どうせ何も、できないし……。放っておいて
も、地球は、太陽のまわりを、回りつづけるのです。どこが最初で、どこが終わりということもな
いのです。

 だからやはり、朝起きたら、そのときから、懸命に生きるしかありません。結果はあとから、つ
いてきます。そしてその結果は、どういうものであれ、前向きに受け入れるしか、ないのです。

 とまあ、またまたむずかしい話になってしまって、ごめん。今日は、むずかしい話は、しないよ
うにと、心がけているつもりなのですが……。

 ともかくも、正月に、それほど、こだわらなくてもよいのでは……というのが、今の思いです。
季節ごとの、その間にある、休日程度に思えば、よいのではないのかな。とくに私の年齢にな
ると、「年齢」そのものが、わずらわしくて、しかたありません。

 どうしてこんなものに、みなが、こうまでこだわるのか、よくわかりません。「ぼくには年齢は関
係ない」といくら、心の中で叫んでも、まわりの人は、平気でこう言います。「林さんも、今年は5
8歳ですね。もうすぐ還暦ですね」と。

 真の自由を手に入れるためには、この年齢からも、解放されなければなりません。……とま
あ、またまたむずかしい話になってしまいました。ごめん。


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【正月の予定】

1月2日号のマガジンは、お休みします。
多分、1月4日号から配信することになると思いますが、
今のところ、あくまでも予定です。

来年もよろしくお願いします。

(まぐまぐ版・マガジンは、予定どおり、配信を
つづけます。)

このところ、原稿書きをサボっています。
本来なら、今ごろは、1月6日号の配信予約を入れなければ
ならないのですが……。

今は、スランプかな?、という状態です。

ともあれ、今年は、これでおしまい。
読者のみなさん、この1年間、マガジンの愛読(多分?)、
ありがとうございました。

どうか、よい新年をお迎えください。
今年は、これで失礼します。

はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(008)

●タイ人拉致は、でっちあげ(?)

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ジェンキンスさんが、自著の本の中で、タイの女性も
拉致されたと書いたことについて、K国の中央通信は、
「でっち上げ」と主張している。

しかし世の中には、ウソで書ける話と、書けない話が
ある。

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 またまたあのK国が、とんでもないことを言い出した。ジェンキンス氏が、自著の本の中で、実
名をあげながら、「タイから拉致された女性がいた」と書いたことについて、「タイ人の拉致は、
でっちあげ」と。読売新聞の記事を、そのまま紹介する(12・5・読売新聞)。

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 K国のK国中央通信は2日、拉致被害者の曽我ひとみさんや、夫のチャールズ・ジェンキンス
さんらが明らかにした、K国によるタイ人拉致問題について、「でっち上げ」と主張した。

 K国がタイ人拉致問題に言及するのは、はじめて。同通信は、ジェンキンスさんを、「我が国
で長い間、特別待遇を受け、幸福に過ごしたにもかかわらず、日本では虐待を受け、苦労した
などと言っている」と非難し、著書でタイ人拉致問題を指摘したことについて「我々は信ぴょう性
のない、ざれ言だとしか思っていない」としている。 

+++++++++++++++

 ジェンキンス氏は、本の中で、タイ人の女性について、実名(アノーチェ・パンチョイさん)まで
あげている。そしてその後の調査で、その女性が実在し、かつK国と関係の深いマカオのホテ
ルを舞台にして、行方不明になっていることもわかった。

 世の中には、ウソで書ける話と、書けない話がある。

 サンケイ新聞の記事は、つぎのように伝える(11・29)。

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●「タイ人」、マカオでも 

 大韓機事件と拉致事件の接点は、拉致被害者の田口八重子さんで、大韓機事件の実行
犯、金賢姫元死刑囚の日本人化教育係をさせられていたことが捜査当局の調べで判明してい
る。

さらに、最近明らかになったマカオでのタイ人拉致事件の舞台にも、大韓機事件との接点があ
った。 

 タイ人女性のアノーチェ・パンチョイさんは78年7月、仕事先のマカオから拉致された疑いが
もたれている。

「Sホテル」で働いていたアノーチェさんは、日本人を名乗る男に観光ガイドを頼まれ、消息を
絶った。男はK国工作員とみられる。
 
 韓国当局は金元死刑囚が84年9月、「蜂谷真由美」名でこのホテルに一週間滞在したことを
つかんでいる。田口さんから日本人化教育を受けた1年半後のことだ。 

 これまでの調べでは、ホテルを出た金元死刑囚は、大韓機事件で服毒自殺したもう一人の
実行犯、「蜂谷真一」こと、金勝一工作員とマカオで合流する。二人は西側社会への順応訓練
の一環でマカオに現れたのだ。 

 ホテル周辺には西側情報機関が「K国の工作拠点」とする貿易会社、「朝K貿易公司」があ
り、ホテルにはたびたび工作員が出入りしていたことが確認されていた。

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 何ゆえに、こうまでK国は、強引に、拉致事件を否定するのか? どう考えても、K国の主張
には、無理がある。K国中央通信は、こうも書いている。「我が国で長い間、特別待遇を受け、
幸福に過ごしたにもかかわらず……」と。

 「幸福かどうか」は、本人自身が自覚すること。「幸福だった」と決めつける強引さにも、ただ
ただあきれるばかり。

 一連の拉致事件には、K国の最高責任者がからんでいる。それはもう疑いようのない事実で
ある。だからこそ、K国は、こうまで強引に、拉致を否定する。それに日本人や韓国人の拉致
については、それなりの言い訳も通る。しかしタイ人となると、そうはいかない。K国の威信は、
一気に崩壊する。(すでに粉々に崩壊しているが……。)

 言うなれば、現在のK国は、劇画マンガのような国と言ってもよい。何もかもが、現実離れし
ている。この「でっち上げ」説もそのひとつ。しかしそういうバカげたことを言えば言うほど、今度
は、横田めぐみさんのニセ遺骨問題が、ますます国際社会で認知されることになる。そういうこ
とが、まるでわかっていない(?)。

 金xxさん、悪あがきは、もうやめなさい!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●韓国経済

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ますます中国に傾注する韓国。
米韓同盟は、事実上、すでに
崩壊している。

しかし自由貿易圏内で貿易を
しながら、反米、反日を唱え
れば、どうなるか?

そんなことは、ほんの少しだ
け冷静に考えれば、わかるは
ず。

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 韓国銀行の発表によると、「実質国民総所得(GNI)の伸び率が、3四半期連続で、0%台に
とどまっている」(12月2日)という。

 昨年まで、韓国の国民総所得は、3・8%の伸び率で推移していた。ところが、05年度に入っ
てからは、「第1四半期(1〜3月)の0.5%、第2四半期(4〜6月)の0.0%、続いて第3四半期
も事実上の横ばいとなっている」という。

 つまり、ほぼ0%!

 実質構内総生産(GDP)が、昨年よりも、4・5%(第3四半期)の伸び率を示している……に
もかかわらず、だ。

 つまり、国全体としては、お金を儲けている。しかし、そのお金が、国民に届く前に、どこかへ
消えてしまう。そういう構図が、そこに浮かびあがってくる。理由は、今さら、ここに書くまでもな
い。

 韓国の(儲け)が、海外へ、流出しているのである。そしてその理由も、今さら、ここに書くまで
もない。「流出」ということは、イコール、「逃避」と考えてよい。

 韓国銀行は、こうしたお金を、「損失」と考え、つぎのように伝えている。

 「第3四半期における実質貿易損失は、12兆4232億ウォンとなる。今年に入ってから第3
四半期までの累積損失額は、32兆8580億ウォンにのぼる」と。

 まわりくどい言い方をしたが、韓国人自身が、韓国を見捨て始めている。若者の海外移住に
は歯止めがかからない。頭脳流出も、深刻な社会問題になっている。その上、国内のお金が、
どんどんと海外へ流出している!

 もう少しわかりやすく説明しよう。

 あなたは韓国の企業家である。最先端の電子技術を使って、ある製品を製造している。もち
ろん輸出もしている。

 こうして05年度は、1億円、儲けた。しかしそのお金は、アメリカに留学している自分の子ど
もに、学費として、送金する。あるいはアメリカにいる子どもを通して、外債を買う。あなたは昨
夜も、アメリカに住む息子に、電話でこう話したところだ。

 「朝鮮半島で、何かあったら、パパも、そちらへ逃げて行くからな」「お前は、そちらの大学を
卒業したら、そのままアメリカに残れ」「韓国へは戻ってくるな」と。

韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移住している。
海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越えた。そのため、外貨の流出も、
大きな問題になっている。

(仮に韓国で大学を卒業して学位を取得しても、アメリカでは通用しない。そのため、アメリカへ
移住しても、単純肉体労働につくケースがほとんどだという。)

 ご存知のように、今、韓国では、一部の大企業のみが、巨額の経常黒字をあげている。その
代表的なものとして、S電子工業や、H自動車工業がある。

 しかしこれらの企業は、いわゆる「国策企業」であり、国の保護を徹底的に受けている企業で
ある。(国営とまではいかないが、しかし民営とは言えないという点で、「国策企業」と呼ばれて
いる。)

 が、何よりも深刻なのは、「海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を超え
た」という事実。日本の人口に換算すると、約120万人ということになる。

 もし日本の若者たちが、120万人も、海外定住を目ざし、日本を離れるようになったら、その
とき日本は、どうなるか? それだけでも、たいへんな社会問題になるだろう。しかも、そういう
若者たちは、当然のことながら、多額の外貨をもちだす。そのため韓国政府は、一時期、その
持ち出し額(送金額)を制限したほどである。

 N大統領も、もう少し、「現実」を見たらどうか。今のN大統領をながめていると、かつての社
会党政権を思い出す。やることなすこと、どこか現実離れしている。それに中国に傾注するの
も、どうかと思う。N大統領にすれば、すばらしい国に見えるかもしれないが、中国は、そんな
甘い国ではない。今のチベットや台湾を見れば、それがわかるはず。

 中国の経済状況にしても、「国中が、豊田商事のようになっている」(雑誌「S」)とのこと。ウ
ソ、インチキ、まさに何でもござれ。そういう国をまともに信じて接近すれば、大ヤケドをするの
は、目に見えている。

 私の知ったことではないが、韓国が再び、デフォルト(国家破綻)するのも、時間の問題。しか
しN大統領よ、これだけはよく覚えてよい。

 今度デフォルトになっても、日本は絶対に、韓国を助けない。私が、猛反対してやる。日本の
国連安保理理事国入り問題については、各国に特使まで派遣して反対した。拉致問題のカギ
を握る、K国工作員容疑者を、日本側の再三再四の要請を無視して、K国へ送り返してしまっ
た。おまけに、アメリカのブッシュ大統領に、「日本の自衛隊を、イラクから撤退させよ」と、陰で
要請までした。

 やることなすこと、まず、反日、嫌日。どうぞ、ご勝手に! 日本の投資団が、韓国から引き
あげたら、それこそ、韓国は、1日も、もたない。

 わかっていますか、N大統領!
(05年12月5日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●土建業

+++++++++++++++++++

築15年の家の、屋根と軒天の間の漆くいが、
はがれて落ちてきた。

見ると、ずさんな手抜き工事。「やはり……」
と思ってみたり、「なるほど……」と思って
みたり。

このところ、土建業を見る目は冷たい。中に
は良心的な会社もあるのだろうが……。

+++++++++++++++++++

 雨どいが、つまるようになった。そこで調べてみると、屋根と軒天の間につめてあった、白い
漆くいが、一部、はがれ落ちているのがわかった。で、そのはがれたところを調べてみると、そ
の奥に、紙くずが詰めてあるのがわかった。漆くいの量を減らすためである。

 そこであちこち、漆くいが浮きあがっているところを、手ではがしてみた。今にも、はがれ落ち
そうなところもあった。が、そこにも、紙くずが詰めてあった。何という、インチキ工事! 15年
という年月を超えて、怒りがムラムラと胸の中に充満してきた。

 が、こうしたインチキは、この業界では、常識。ずさんな手抜き工事となると、これまたそれ以
上に、常識。その頂点にあるのが、談合問題。今、問題になっている、耐震強度偽造問題にし
ても、こうした一連の業界の体質の中から生まれた問題と考えてよい。

 つまりこの業界、上から下まで、インチキのかたまり。上が上だから、下も下ということにな
る。たとえば業者に、庭に入れる砂利を注文してみるとよい。業者は、あなたの顔色を見て、
値段を決めるはず。あなたが個人の素人とわかると、容赦なく、高額の値段をふっかけてくる。

 私も、何度か、業者にそれを頼んだことがある。が、最初に、庭屋に頼んだら、1立方メート
ル、2万8000円も取られた。つぎに生コン会社に頼んだら、1万6000円。最後に、砕石工場
まで直接買いに行ったら、たったの2700円。もちろん最後の2700円には、運搬費用は含ま
れていない。しかしそれにしても……!

 こういうことばかりしているから、この業界は、ますます信用されなくなる。もちろんそこで働く
人たちも、信用されなくなる。これについて、ワイフは、「田中角栄の列島改造論が原因ではな
いかしら?」と言った。

 私はそれ以前のことはよく知らない。しかし、土建業の「質」が悪いのは、事実。それも年々、
巧妙かつ、悪質になっている。こんなこともあった。

 山荘の土地作りをしているときのこと。水道パイプの埋設を、一部、業者に頼んだことがあ
る。その部分は、いろいろ事情があって、自分たちでは、できなかった。距離は、17メートルほ
どではなかったか。

 すると彼らはすぐ、設計図とともに、見積書をもってきた。設計図そのものは、たいそうなもの
で、私はそれを見て、「なるほど、水道工事というのは、こういうふうにするものか」と、感心し
た。

一番底に、砂を20センチ厚で敷いて、その上に水道管を置き、それをさらに20センチ厚の砂
でおおったあと、25センチほど、土で埋める、と。工事費は、47万円弱。(山の中の工事だか
ら、そこまでていねいにする必要はなかったのだが……。)

 しかしできあがったところで、村の住人の1人が怒ってきた。「話が、ちがう!」と。あわてて夜
中に、工事現場へ行ってみると、一部、水道管が掘りかえしてあった。私はそれを見て、あ然と
した。

 水道管は、少なくとも、地表から、45センチ下になければならない。しかし手で10〜15セン
チも掘ると、水道管が見えた。それに砂など、どこにも使ってない!

 業者は、私の立会いがないことをよいことに、好き勝手な手抜き工事をしたらしい。翌日一番
に、その業者に抗議の電話を入れると、担当の男は、悪びれる様子もなく、こう言った。

 「すみません、あの仕事は、うちの下請け業者に任せたものですから。すぐやりなおしさせま
すから」と。

 この「下請け業者にさせた」という話は、ウソである。私はその会社の男が、直接工事してい
るところを、ちゃんと目撃している。

 ……とまあ、不愉快な話を書いたが、この業界では、こういうことが当たり前と考えたほうが
よい。またそういう前提で、仕事を頼む。それがいやなら、自分ですること。少なくとも、私は、
そうしている。

 そしてその原因は、つまりこの業界が、なぜ、こうまで悪質になってしまったかという原因は、
談合を頂点とする、官僚、政治家、そしてゼネコン、これら3者の癒着(ゆちゃく)がある。まさ
にここにも書いたように、上が上だから、下も下ということになる。その「上」が改まらないかぎ
り、結局は、そのしわ寄せは、私たち、庶民のところにやってくる。つまり泣くのは、いつも私た
ちということになる。

 軒天の下の漆くいを、手ではがしながら、私はワイフにこう言った。「そのときは、ぼくたちを、
うまくごまかしたつもりなんだろうけどね」と。

【付記】

 人間がもつ誠実さというのは、その世界で、熟成されるものと考えてよい。つまりつきあう相
手によって、大きく、感化される。……されやすい。

 誠実な人には、誠実にこたえようとする。が、不誠実な人と接していると、誠実にこたえようと
する力(モーメント)が、働かなくなる。

 こんなことがあった。詳しくは書けないので、話を少し改変する。内容に不自然なところがあ
るのは、そのため。どうか、ご容赦、願いたい。

 私はある男性の知人に、ある仕事をしてもらうために、その男性に、100万円を渡したこと
がある。もちろん、別に、その男性には、礼金として、20万円ほどを渡した。が、その男性は、
100万円からさらに、自分の取り分として、20万円を引いて、その先の知人に渡した。

 相手の知人は、80万円を受け取ったことになる。その男性は、計40万円を自分のものにし
たことになる。

 それ以来、私は、その男性を、まったく信用できなくなった。当然である。が、それだけではな
い。何かにつけ、その男性に対して、ウソをつくのが、平気になってしまった。「誠実でいよう」と
いうブレーキが働かなくなってしまった。

 ときどき「会いたい」という電話があっても、平気で居留守を使ったり、ウソの用事を並べたり
して、断るようになった。しかしそういうウソをつくのは、私の主義に反する。そこで、私は、その
男性とは、距離を保つようにし、やがて別れた。その男性がイヤになったというよりは、ウソを
つく自分がイヤになったからである。

 自分の中の誠実さを守り、育てるのは、たいへんなこと。(だからといって、私が誠実な人間
であると言っているのではない。誤解のないように!)そしてその誠実さというのは、つきあう相
手によって、大きく影響を受ける。

 だから、……というわけでもないが、つきあう相手を選ぶということは、たいへん重要なことで
ある。わかりやすく言えば、誠実な人間になりたかったら、不誠実な人間とはつきあわないこ
と。それが親類であれ、兄弟であれ、ひょっとしたら、親子であっても、だ。つきあうとしても、ど
こかで強いブレーキをかけながら、つきあう。

 一度、不誠実な人の世界で、自分を見失ってしまうと、それこそ取りかえしのつかないことに
なってしまう。さらにそれが当たり前になってしまうと、何がなんだか、わけがわからなくなってし
まう。タヌキとキツネの化かしあい……そうなってしまう。

 そこで子育ての場では、当然といえば、これほど当然のことはないが、ウソはタブー中のタブ
ーと考える。親は、かぎりなく、どこまでも、子どもに対しては、誠実でなければならない。これ
は子育ての中でも、イロハ中の「イ」と考えてよい。

 きわめて具体的な例として、こんなことがあった。

 その家の5歳になる子ども(男児)が、父親の手帳を勝手に机から取りだして、落書きをして
しまったことがある。

 それについて、その子どもの母親は、私にこう言った。

 「本当は、何でもない手帳だったのですが、これから先、そういうことがあってはいけないと思
い、私は、息子にこう言ってやりました。『これはパパが会社で使う、大切な手帳なのよ。それ
に落書きしたから、パパは、会社で社長に叱られるのよ。罰金を取られるかも知れないのよ』
と。息子は、しおらしい顔をして、うなだれていました」と。

 私は、その話を聞いて、その母親を信用しなくなった。自分の子どもすら、だますような母親
である。私のような他人をだますのは、朝飯前だろう、と、私は考えた。

 さらにこれは私の人生訓のひとつにもなっている。私は、不倫を遊びでするような男を、まっ
たく信用しない。(本気で恋愛……というのなら、まだ許せる。あの『マジソン郡の橋』に出てく
る、キンケードとフランチェスカのように……。)

 自分の妻すらも平気でだますような男である。友人たる私をだますのは、もっと平気なはず。
私は、そう考える。

 加えて一言。

 誠実な世界で、誠実に生きるのは、本当に気持ちのよいもの。すがすがしさすら覚える。そう
いう世界から、不誠実な人の世界を見ると、悪臭がプンプンしているのがわかる。誠実である
に、越したことはない。
(はやし浩司 誠実 誠実論)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●日本語の乱れ

+++++++++++++++++

たしかに、日本語が乱れている。
それはわかる。しかし……。

いろいろ議論されているが、どれも
どこか的をはずれているようにも、
感ずる。

本当に、日本語は乱れているのか?

+++++++++++++++++

 中学生レベルの国語力しかない学生が、国立大で   …… 6%
                   4年生私立大で……20%
                   短大で    ……35%

「大学生の日本語力が低下し、中学生レベルの国語力しかない学生が国立大で6%、四年制
私立大で20%、短大では35%にのぼることがわかった」というのだ。

調査したのは、独立行政法人「メディア教育開発センター」(千葉市)のON教授(コミュニケー
ション科学)ら。(注……04年度に入学した33大学・短大の学生約1万3000人を対象に、中
1から高3相当の問題を盛り込んだテストを行い、02年度に中高生に実施したテスト結果と照
らし合わせて、レベルを判定したという。)

たとえば「憂える」の意味を「喜ぶ」と思いこんでいる学生が多いなど、外国人留学生より劣る
実態で、授業に支障が出るケースもあるという。同教授は「入学後の日本語のリメディアル(や
り直し)教育が必要」と指摘する。

その結果、中学生レベルと判定された学生は、5年前に行われた調査と比較して、国立大が
0・3%から6%、私立大が6・8%から20%、短大が18・7%から35%と、数年間で大きく増
加していることが分かったという。

Yahoo・ニュースは、「テストでは『憂える』の意味を問う設問で、『中学生レベル」』と判定され
た学生の3人に2人が『うれしい』に音感が近いためか『喜ぶ』を選択。『大学生レベル』とされ
た学生の中でも正答率は50%にとどまり、文字通り"憂える"結果となった」と伝えている。

【問題の例】

 ☆露骨に
(1)ためらいがちに     (0%)
(2)おおげさに    (83.3%)
〔3〕あらわに     (16.7%)
(4)下品に         (0%)
(5)ひそかに        (0%)

 ☆憂える
(1)うとましく思う  (16.7%)
(2)たじろぐ        (0%)
(3)喜ぶ       (66.7%)
〔4〕心配する        (0%)
(5)進歩する     (16.7%)

 ☆懐柔する
(1)賄賂をもらう   (50.0%)
(2)気持ちを落ち着ける(33.3%)
(3)優しくいたわる  (16.7%)
〔4〕手なずける       (0%)
(5)抱きしめる       (0%)

(カッコ内は中学生レベルと判定された学生が回答した割合、〔 〕数字が正解)
 *小数点計算で合計は必ずしも100にならない
(以上、Yahoo ニュースより)

 私も、最近の子どもたちが口にする日本語には、かなり問題があると考えている。しかしそれ
は、個々の言葉の使われ方にあるのではなく、文全体として、問題があると考えている。数日
前にも、それについて書いた。「先生、終わったら、どうするのですか?」と言った子どもがいた
ので、私は、こう答えてやった。

「先生は、まだ終わらない。元気でピンピンしている。先生が終わったら、葬式でもしてくれれば
いい」と。

 こうした言い方の代表的なもののひとつに、「先生、オシッコ!」というのがある。「トイレへ行
きたい」と言うべきときでも、子どもたちは、「先生、オシッコ!」と言う。だから、すかさず、私
は、こう言う。「私は、オシッコではない。人間だア!」と。

 で、最初の話題。つまり国語力。

 「日本の論点」(04)は、「国語に関する世論調査」(04)の結果について、報告している。そ
して「誤った敬語を含む例文を、正しいと思う人が目立つ」と。

 たとえば……

 「先ほど、中村さんがお話しされたように、この本は、とても役にたちます」(まちがい)→正しく
は「お話しになったように」
 「先生が、お見えになります」(まちがい)→正しくは「先生が、見えます」
 「ご乗車できません」(まちがい)→正しくは「ご乗車になれません」
 
 しかしこうした議論を一巡すると、つまり、あれこれ議論をしつくすと、そこに、ふと、こんな疑
念がわいてくる。つまり、これは国語力の問題ではなく、日本語そのものがもつ、欠陥(けっか
ん)ではないか、と。

 たとえば英語で、「I go to Tokyo.」は、

 「私、東京、行く」
 「東京、私、行く」
 「東京、行く、私」と、どんな言い方をしても、意味が通じてしまう。私が住む浜松市では、こう
した言葉の間に、(ジャン)(ダニ)を入れる。たとえば、「私、東京、行く」は、「私、東京、行くジ
ャン」と。

 こうした言葉としての欠陥は、100年単位でみると、さらによくわかる。この日本では、たった
100年前に書かれた文章ですら、辞書なしでは、理解することができない。200年前、300年
前の文章となると、さらに、そうである。

 流動的というよりも、言葉としての一貫性が、まだ確立されていない。だから今の今も、日本
語は、乱れつづけている。

 で、問題は、それが悪いことなのかどうかということ。最近では、コンビニ言葉につづいて、オ
タク言葉、さらにはネット言葉というのも、生まれている。そしてそういう言葉が、表に出てきて、
日常会話の中でも使われるようになってきている。

 ためしに中学生たちが話している会話に、そっと耳を傾けてみるとよい。多分、あなたは、彼
らが、何を話しているか、その意味すらわからないのではないだろうか。たとえば、彼らは、こ
んな話し方をする。

「私、あいつにコクられて、いやだった。だって、フタマタよ。それをXXのヤツ、チクってね。あと
は、シュラバ。私には、ラブな人、ちゃんといるのよ。私、マッチョは嫌い。腹筋が、8つに分か
れている男なんて、サイテー。頭にきたから、デニルしてね。あとは、シカト……」と。

 ついでに、若い人たちの間で、よく使われる言葉について、調べてみた。私が中学生たちか
ら、直接、聞き取り調査したものである。

 コクル……告白する。
 デニル……デニーズ(レストラン)に行く。
 マクル……マクドナルドに行く。
 カリパク……借りたあと、返さないで、もっていること。
 パクル……盗む。
 シュラバ……自分のまずいところを見られること。
 フタマタ……浮気のこと。二人の異性とつきあうこと。
 チクル……告げ口をする。
 パシリ……下っ端のこと。子分的な人のこと。
 アリガチ……ありえること。
 シカト……無視する。
 ラブな人……好きな人。
 A(エイ)……手を握るつぎの段階。(つぎに、B、Cへと進む。)
 マッチョ……筋肉質の人。
 
  もっとも、今の若い人たちは、日常的に、そういう言葉、つまり、「テメエ、殺すぞ」式の言葉
を使っている。ドキッとする言い方だが、これも、ごく日常的な言い方で、特別な言い方ではな
い。が、その一方で、旧来型の日本語を知らないからといって、国語力が落ちていると判断す
るのも、どうかと思う。

 つまり言葉というのは、いつも大衆が先導して決めるもの。そしてその大衆は、いつも、若い
世代によって、先導される。つまり一部の学者が、おかしいと言うなら、それを言う学者のほう
が、おかしいということになる。「国語に関する世論調査」(04、ON教授ほか)でも、敬語の使
われ方を問題にしている。

 これについても、「敬語は、日本語の美しさを代表するものだから、守るべき」という意見と、
「敬語など、もうどうでもよいではないか」という意見の2つが、するどく対立している。私自身
は、めったに敬語など使わない。天皇についても、「天皇が浜松へ来た」と書くことはあっても、
「天皇陛下が、浜松へ、おいでになりました」と書いたことは、一度もない。

 敬意を表す、表さないということではなく、どこでどのように一線を引くか、それを考えるのが、
めんどうだからに過ぎない。いちいちそういうことを考えながら文を書くというのも、たいへん疲
れる。それに敬語の底流にあるのは、日本人独特の、上下意識。敬語を考えるときは、いつ
も、その上下関係を考えなければならない。だから敬語は、無視。大きな流れとしても、敬語
は、この先、消えゆく運命にある。

 だから「国語に関する世論調査」そのものが、どこか、おかしい。その調査では、「敬語の使
われ方がおかしいから、日本語が乱れている」というような結論を出したかったのかもしれな
い。しかし最近の若い人に言わせると、「今どき、敬語なんて……」ということになる。

 だから視点を変えてみたら、どうだろうか。つまりここにも書いたように、個々の言葉の使わ
れ方を問題とするのではなく、文全体として、的確に自分の意思を相手に伝えることができる
かどうかという視点で、である。その際、どんな言葉が使われようが、それは問題ではない。

 「今日、学校あった」(まちがい)→「今日、学校で、授業がありました」
 「これは、パパが建てた家」(まちがい)→「これはパパが、買った家」
 「これは、私の学校」(まちがい)→「これは、私が通っている学校」と。

 で、反対に、これを調査した、「メディア教育開発センター」のON教授に、こんなテストをして
みたら、どうだろうか。はたして、ON教授は、何点取れるだろうか?

【問題の例】

☆ムッチョ
(1)むっつりしているさま
(2)貯金がないこと
〔3〕筋肉がモリモリしているさま
(4)いやがっていること
(5)怒っている様子

☆コクル
(1)告発する
(2)忠告する
(3)密告する
〔4〕告白する
(5)納得する

☆カリパク
(1)食べ物の名前
(2)借りて返すこと
(3)カリカリと怒ること
(4)道路で座ってものを食べること
〔5〕借りて返さないこと

☆アリガチ
(1)ありがた迷惑
(2)ありがとう
〔3〕ありえること
(4)ありえないこと
(5)いらぬ節介のこと

☆フタマタ
(1)2つのことを同時にすること
(2)2人の人と、同時につきあうこと
〔3〕浮気すること
(4)2つの選択肢のこと
(5)いやなこと

☆シュラバ
(1)喧嘩すること
(2)がんばること
(3)ここ一番というとき
(4)苦労すること
〔5〕何か、まずいことがバレること

 日本語も、どんどんと変化している。もともと日本語という言語は、そういう言語であるというこ
と。調査では、「憂える」の意味を知らないことを問題にしているが、実際、若い人たちが使わ
ない言葉であれば、それもしかたないのではないか。

 さらに一言つけ加えるなら、私自身は、旧世代の人たちは、もう少し、若い人たちに、謙虚で
あるべきではないかと思っている。繰りかえしになるが、「自分たちは知っている。しかし今の
若い人たちは知らない。だから今の若い人たちは、おかしい」という論法自体が、おかしいとい
うことになる。どこかものの考え方が、復古主義的?

 ただし世の親たちに一言。

 高校入試にせよ、大学入試にせよ、そこで使われる入試問題は、こうしたどこか頭の古い、
旧世代の人たちによって作られている。だから、子どもの(進学)ということを考えるなら、体制
に迎合したほうがよい。そのほうが、あなたの子どももスイスイと、学歴社会を生きぬくことがで
きる。

 そのためにも、あなたの子どもには、ここに書いたように、正しい言葉で、かつ豊かな言葉で
話しかけるとよい。「テメエ、殺すぞ」ではなく、「あなたが、そうすれば、あなたは、私によって、
殺されますよ」と。

 なお、上から(3)(4)(5)(3)(3)(5)の、〔かっこ〕が正解。
(はやし浩司 国語力 日本人の国語力 表現力 敬語 日本語の乱れ はやし浩司 子供の
国語力 子どもの国語力)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(009)

【近ごろ・あれこれ】

●VIDEO「フォーゴットン」を見る

 パッケージに、「シクス・センス以来の……」とか何とか書いてあったので、借りてきた。タイト
ルは、『フォーゴットン』。

 お金もかけている。ていねいに製作してある。しかし途中から、「?」マークの連続。おおまか
なストーリーは、こうだ。

 ある母親の1人息子が、飛行機事故で死ぬ。母親は、毎日、息子のことを思い、嘆き悲し
む。しかしある日、母親が、息子が写っているはずの写真を見ると、そこに写っているはずの
息子が写っていない。ほかにも、ありとあらゆる場所をさがしてみるのだが、息子に関する思
い出の品々が、すべてない。ビデオやアルバムからも、息子に関するものは、すべて消されて
いる。

 精神科医に相談しても、「あなたには息子などいなかった。息子がいたと思うのは、幻覚だ」
「飛行機事故など、なかった」と、逆に諭(さと)されるしまつ。わけがわからなくなった母親は、
ひとりで、息子さがしを始める。

 ワイフは、「X−ファイルみたいな映画」と言った。たしかにそうだ。「宇宙人のしわざ」とは、最
初から最後まで言わなかったが、宇宙人のしくんだ、しわざということは、見ているうちに、わか
る。

 では、なぜ、宇宙人は、その息子も含めて、一度に、10人近い子どもたちを、拉致(らち)し
たかだが、結論は、「親子の絆を試す実験」、だそうだ。つまり子どもを拉致しておいて、親は、
どこまでその絆を保つことができるか、それを知るための実験、と。

 しかしこのあたりから、「?」マークの連続。宇宙人の男は、その母親のまわりから、つぎつぎ
と、息子に関する思い出の品々を消していく。が、それだけではない。その息子のことを知る人
たちからも、その息子に関する記憶を消していく。

 母親が、近所の人に息子のことをたずねても、近所の人たちは、みな、「知らない」と言う。け
げんそうな顔をするばかり。

 しかしここで第一の「?」マーク。飛行機事故の新聞記事はもちろんのこと、その息子を知る
人すべてから、息子の記憶を消すなどということは、いくら宇宙人のしわざといっても、不可能。
近所の人たちや、親戚の伯父や伯母は、どうする? 学校の友人たちは、どうする? その友
人たちの家族はどうする? 飛行機事故のことを知った、アメリカ中の人たちは、どうする? 
つぎつぎとそのワクが、無限に広がってしまう。

 そういう子どもが、10人以上、である。

 最後に、母親から息子の記憶を消すことに失敗したという罪(?)で、その宇宙人の男は、処
罰されて、天へと消えていく。(タイトルの『フォーゴットン』は、「忘れ去る」という意味か?)

 しかし、どうして? たかが記憶を消す実験に失敗したくらいのことで……? またそんな実
験をしたところで、どういう意味があるというのか?

 パッケージには、たしか、二転、三転のミステリーが隠されているというようなことが書いてあ
ったと思う。しかしストーリーそのものは、単純。もう少し何か、ウラがあると期待していたが、そ
ういうものは、まったくなかった。

 そのため、★は、残念ながら、1つ。少し前、メル・ギブソン主演の『サイン』という映画も、そう
だった。思わせぶりなシーンから映画は始まったが、見ているうちに、やはり「?」マークの連
続。とくに、明らかにぬいぐるみとわかる宇宙人との格闘シーンでは、思わず、笑ってしまっ
た。

 『フォーゴットン』でも、「宇宙人ともあろう知的生物が、なぜそんなことをしなければならない
のか?」という疑問が生まれたとたん、興がさめてしまった。『サイン』のほうは、加えて、実に
安あがりの映画という感じもしたが……。

 ハリウッド映画の技術力には、ものすごいものがある。それはこの『フォーゴットン』を見ても、
わかる。しかしこと宇宙人ものに関しては、知的レベルは、それほど、高くない。つまりハリウッ
ドの映画制作者たちの知的レベルは、それほど高くない。

 さあ、今なら、日本映画よ、ハリウッド映画に追いつけるぞ! がんばれ!


●金が、グラム、2095円!

 25年ほど前、金(きん)を、地金で、x00グラムほど買った。当時、たしか、グラム2300円く
らいではなかったか。私にとっては、たいへんな買い物で、それなりに覚悟して買った。

 しかしその後、金の価格は、ジリジリと下降の一途。新聞で見るたびに、さがっていった。で、
やがて見るのもいやになって、その金の地金は、金庫の一番奥にしまいこんでしまった。

 その金。一時は、グラム1000円近くまで、さがった。つまり私はその時点で、買った価格
の、半値以上を損したことになる。

 しかし、である。ここにきて、金価格が、急上昇。インドや中国での金需要に加えて、円安。今
日あたり、1ドルが121円前後で取り引きされている。おかげで、金価格が、グラム、2095円
まで、回復(田中貴金属・12月5日調べ)。喜んでいいのか、悪いのか、本当のところはよくわ
からないが、ひとまず、ほっとしている。

 が、残念に思うこともある。当時、金を買いに行ったら、店のおやじが、「林さん、金ではなく、
プラチナにしておきなさい。金は、まだまだ埋蔵量が残っていますが、プラチナは、もうありませ
んから」と。

 当時は、金とプラチナの価格差は、ほとんどなかった。ややプラチナのほうが高いかなと思っ
た程度。しかしそのプラチナが、今は、グラム4137円! その価格を見ながら、改めて、ため
息。「あのおやじさんの言うことを聞いておけばよかった」と。

 まあ、こうした投資は、いわばバクチのようなもの。こういうもので儲けをアテにしてはいけな
い。儲けをアテにすると、結局は、ヤケドする。あくまでも小遣いの範囲で……というのが、私
のモットー。あのバブル経済のころも、多少、株取引で儲けたこともあるが、そのバブルがはじ
けたとたん、大損。あとで差し引きを計算してみたら、マイナスだった。

 (最後に、証券会社が、勧めてくれた株を買ったのがまちがいだった。つまりその証券会社
は、いわゆるクズ株を私のような素人に押しつけ、自分は売り逃げた。そういうことも重なっ
た。それで大損をした。ハイ。)


●「存在に値しない生き方」

 私のワイフが、どこかで、こんな言葉を聞いてきた。「存在に値しない生き方」と。

 インターネットでその言葉を検索してみたが、見つからない。ワイフに聞くと、「映画のタイトル
じゃ、なかったア?」と。どこか心もとない。しかし私は、この言葉に、ドキッとした。ズバリ、核心
をつかれたような気分。

 つまり私の周囲には、そういう生き方をしている老人たちが、多い。あまりにも多い。で、私
は、「ああは、なりたくない」と、いつも思っている。しかしこのままいけば、私も、ああなる確率
は、きわめて高い。私が、そうした老人たちとちがう点は、ほとんど、ない。もう少し正確には、
そういう老人たちでも、私の年代の時には、私より、もっとマシな生き方をしていた。

 が、どういうわけか、あるときから、人は、その「存在に値しない生き方」になってしまう。どうし
てだろう? 体力や気力が衰えるためだろうか。知力や行動力、それに好奇心が衰えるため
だろうか。が、それだけでもないような気がする。

 何か、もっと大きな作用が働いて、老人は老人ぽくなっていく? そしてだれの目から見ても、
「存在に値しない生き方」になってしまう。

 が、これではいけない。老人というのは、人生の大先輩である。その大先輩が、これから生き
る、つぎの世代の人たちのために、生きるヒントを何も伝えることができないというのは、どう考
えても、おかしい。その存在感がないというのは、どう考えても、おかしい。

 これは私にとっても、たいへん大きなテーマである。老後は、すぐそこまで迫ってきている。ぼ
やぼやしているヒマなど、ない。

 さあ、どうしよう?、……と考えたところで、今日の原稿書きは、おしまい。はやし浩司は、こ
れからも考えつづけるぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

***********************

2006年、明けまして、おめでとうございます!

1月4日(水曜日)号をお届けします。

……といっても、このあいさつを書いているのは、
今日、12月5日(月曜日)です。マガジンでは、
こうして約1か月先の原稿を書いています。

こうすることによって、たとえば、3〜4日のス
ランプ状態になったようなときでも、みなさんの
ところへ、途切れることなく、マガジンを配信す
ることができます。

で、実は、この3、4日ほど、ほとんど原稿を書
きませんでした。いろいろ、忙しいことが重なっ
たこともあります。1泊ですが、ワイフと旅行も
楽しみました。

が、今日は今朝から調子がよく、朝の7時半から
目標の、20枚分の原稿を書くことができました。

今、時刻は、午前10時45分です。少し荒っぽ
い原稿かもしれませんが、今年も、こうしてみな
さんのところに、マガジンをお届けできることを
喜んでいます。

みなさんのご健康とご多幸を、心より念願してい
ます。今年もよろしくお願いします。

          浜松市  はやし浩司

(追伸)

年賀状は、HTML版のほうに、載せておきます。

************************

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(010)

【子育て雑談】

++++++++++++++++++++++++

4年前(01年)に書いた原稿を、改めて読みなおして
います。

そのままそれを紹介しながら、(補記)の部分で、あれこ
れ訂正、修正を加えてみたいと思います。

こうして読みなおしてみると、たった4年前の私ですが、
どこか過激で、どこか反骨的なのがわかります。

とくに進学塾に対する意見は、強烈です。なぜこのよう
な原稿を書いたかについては、いろいろな背景がありま
すが、「これも私」と思い、ここにコメントをつけて、
再掲載することにしました。

               はやし浩司

         2005年12月10日(土)

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●敬語と日本の文化論(フレキシブルな日本語?)
子どもに向かって、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言う人がいる。妻に向かっては、
「食わせてやる」とか「養ってやる」とか言う人がいる。Y氏(52歳)がそうだ。息子(27歳)と
娘(22歳)がいるが、子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言ってい
る。
さぞかし窮屈な家庭だろうと思いきや、Y氏の妻は妻で、「夫のおかげで生活できます」と言
っている。そのY氏の妻が私の家にやってきて、こう言った。「ウチのダンナなんか、冷蔵庫か
ら牛乳を出して飲んでも、それを冷蔵庫に戻すことすらしない。だから夏なんか、あっという間
に牛乳が腐ってしまう」と。
話を聞くと、Y氏は結婚して以来このかた、トイレ掃除はおろか、トイレットパーパーの差し替え
すらしたことがないという。家庭というのは、そういうものらしい。それでうまくいっているなら、
「あなたはまちがっている」などと言う必要はない。言ってはならない。

が、こういう人に限って、私に猛烈に反発してくる。「君は日本のよさまで否定するのか!」。Y
氏はこう言う。「日本では上の人を敬う。英語には敬語すらない。外国では、親でも先生でも、
『ヘイ、ユー』と言うではないか。そういう国が、本当に理想の国なのか」と。

 こういう人に出会うと、気が遠くなるほど、間に距離を感ずる。順に反論してみよう。人間の上
下意識を支えるのが、権威。「偉い人は偉い」という権威である。理由など、ない。日本人は、
平安の昔からこの権威を徹底的に叩き込まれている。「男は上、女は下」「親は上、子は下」と
いう、日本独特の男尊女卑思想や親意識もここから生まれた。こうした文化は、日本独特のも
のであることは認めるが、それが「日本のよさ」になるかどうかは別問題である。少なくとも、日
本を一歩外へ出た外国では、通用しない。

 次に敬語の問題。英語に敬語がないというのは、ウソ。「ユア・マジェスティ」とか「ハイ・エクセ
レンシー」とかいう言い方はある。「サー」という単語にしてもそうだ。日本語よりはるかに少な
いというだけだが、そのかわり、彼らはそれなりの人に対しては、ていねいな言い方をする。
仲間どうしだったら、「ハイ」かもしれないが、それなりの人には、たとえば「このようにお会いで
きる特権を、私の喜びとします」などいうような言い方をする。むしろ日本語に敬語が多いの
は、平安の昔から、きびしい身分制度をとってきたことによる。敬語があることを、必ずしも喜
んでばかりはおられない。

また敬語というのは、人間関係を飾る道具として使われる。あくまでも飾り。だから敬語を使う
から相手を尊敬しているということにもならない。使わないから尊敬していないということにもな
らない。私などいつも生徒に、「ジジイ」とか、「バカはやし」とか呼ばれている。しかしそのほう
が互いに心を開いているから、ストレートな人間関係を築くことができる。気も疲れない。

 最後に何も、アメリカや欧米が理想の国だとは思っていない。日本は日本だ。しかしここで大
切なことは、世界に理解される日本であるか否かということ。もし日本が今までのように、東洋
の島国でよいというのなら、それはそれで構わない。しかしそれでよくないというのなら、日本の
常識を外国へ押しつけるか、あるいは日本は世界の常識を受け入れるしかない。あるいは英
語の敬語を発明して、それをアメリカ人に押しつけるというのもよい考えだ。しかしそれができ
ないというのなら、日本を少しでも外国の常識に近づけるしかない。

私はそう考えるが、あなたは私の意見をどう思うか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)
日本語は、よい意味では、よりフレキシブル(=柔軟性のある)な言語ということになる。いろい
ろな言い方ができる。その点、反対に中国語などは、ガチガチしている。そんな印象を受ける。
たとえば「私はあなたを愛する」は、中国語では、「ウォー・アイ・ニー」となる。が、それだけ。

 しかし日本語のほうでは、「私ね、愛しているわ」「私は、愛しているよ」「ぼく、愛しているか
も」「ぼくさア、愛しているね」などと、いろいろな形で、微妙な表現ができる。

 敬語についても、そうで、これまたさまざまな言い方ができる。しかしそのさまざまな言い方が
できるという部分で、日本語は、より複雑になってしまった。そしてそれが、時をおいて、学者た
ちの間で、話題になったり、問題になったりするのでは?

 ところで、この文の中で、「君は日本のよさまで否定するのか!」と私は書いた。それを言っ
てきたのは、実は、女性である。当時は、まだ生々しい話だったので、「男性」とかえた。その
女性の年齢は、35歳くらいではなかったか。で、そのあと、その女性から、手紙まで届いた。し
かし内容は、支離滅裂。まるで文章になっていなかった。だから「返事を書くまでもない」と思
い、電話で返事をすることにした。

 しかし電話口に出た男性(その女性の夫)は、電話口で、ただ「すみません」「すみません」と
言うだけで、その女性には、電話をとりついでくれなかった。どういう事情になっていたのか、今
でもよくわからないが、多分、その男性(夫)も、その女性(妻)に手を焼いていたのかもしれな
い。
(はやし浩司 敬語 日本語 日本語の問題 言葉)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●壮絶な家庭内暴力(余計なことは、言うな)

 T君は私の教え子だった。両親は共に中学校の教師をしていた。私は7、8年ぶりにそのT
君(中2)のうわさを耳にした。たまたまその隣家の人が、私の生徒の父母だったからだ。いわ
く、「家の中の戸や、ガラスはすべてはずしてあります」「お父さんもお母さんも、廊下を通るとき
は、はって通るのだそうです」「お母さんは、中学校の教師を退職しました」と。私は壮絶な家庭
内暴力を、頭の中に思い浮かべた。

 T君はものわかりのよい「いい子(?)」だった。砂場でスコップを横取りされても、そのまま渡
してしまうような子どもで、やさしく、いつも柔和な笑みを浮かべていた。しかし私はT君の心に、
いつもモヤのような膜がかかっているのが気になっていた。

 よく誤解されるが、幼児教育の世界で「すなおな子ども」というときは、「自分の思っていること
や考えていることを、ストレートに表現できる子ども」をいう。従順で、ものわかりのよい子ども
を、すなおな子どもとは決して言わない。むしろこのタイプの子どもは、心に受けるストレスを内
へ内へとためこんでしまうため、心をゆがめやすい。T君はまさにそんなタイプの子どもだっ
た。

 症状は正反対だが、しかしこの家庭内暴力と同列に置いて考えるのが、「引きこもり」であ
る。家の中に引きこもるという症状に合わせて、夜と昼の逆転現象、無感動、無表情などの症
状が現われてくる。しかし心はいつも緊張状態にあるため、ふとしたきっかけで爆発的に怒っ
たり、暴れたりする。少年期に発症すると、そのまま学校へ行かなくなってしまうことが多い。こ
のタイプの子どもも、やはり外の世界では、信じられないほど「いい子(?)」を演ずる。

 そのT君について、こんな思い出がある。私がT君の心のゆがみを、お母さんに告げようとし
たときのことである。いや、その前に一度、こんなことがあった。私が幼稚園の中にあった自分
の教室で授業をしていると、T君はいつもこっそりと自分の教室を抜け出し、私の教室へ来て、
学習していた。T君の担任が、よく連れ戻しに来た。そこである日、私はT君のお母さんに電話
をした。「私の教室へよこしませんか」と。それに答えてT君のお母さんは猛烈に激怒して、「勝
手に誘わないでほしい。うちにはうちの教育方針というものがあるから」と。しかしT君はそれか
らしばらくして、私の教室へ来るようになった。家でT君が、「行きたい」と、せがんだからだと思
う。私は以後、一年半の間、T君を教えた。

 しかしその「ゆがみ」を告げようとしたとき、お母さんはこう言った。「あんたは、黙ってうちの
息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。

 子どもの心のゆがみは、できるだけ早い時期に知り、そして対処するのがよい。しかし現実
にはそれは不可能に近い。指摘する私たちにしても、「もしまちがっていたら……」という戸惑
いがある。「このまま何とかやり過ごそう」という、事なかれ主義も働く。が、何と言っても、親自
身にその自覚がない。知識もない。どの人も、行きつくところまで行って、はじめて気づく。教育
にはどうしても、そんな面がつきまとう。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 このT君は、今でも強く印象に残っている。その後、どうなったかについては、知らない。私は
そのT君をとおして、自分の「すなおな子ども論」を、頭の中で完成させた。

 従順で、先生の指示にそのまま従う子どもを、すなおな子どもというのではない。心の状態
と、表情が一致している子どもを、すなおな子どもという、と。いやだったら、はっきりと、「いや
だ」と言う。それを表情や言葉にして、ストレートに表現できる。そういう子どもを、すなおな子ど
もという。
(はやし浩司 家庭内暴力 すなおな子ども 素直な子供 すなおな子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●21世紀の子育て論(悪しき画一平等主義)

 頭のいい子どもは、本当に頭がいい。遺伝子が違うかと思うほど、頭がいい。数年前東京の
A中学へ入ったD君も、また昨年同じ中学へ入ったN君も、そうだった。彼らは小学5年のとき
には、すでに中学3年程度の英語と数学をマスターしてしまっていた。と言っても、特別のこと
を教えたわけではない。教科書とノートだけを与えておけば、自分で学習していまう。教える側
からすれば、これほど楽な生徒はいない。ポイントだけを、それこそ雑談混じりに教えれば、そ
れですんでしまう。

 一方、そうでない子どももいる。教えても教えても、ちょうどザルから水がこぼれるように、教
えたことが消えてしまう子どもだ。S君もそんなタイプの子ども(中2)だった。たとえば英語の
単語でも、一時間かけて数個覚えるのが、限度。しかも次の週にはそっくり忘れてしまってい
た。

 誤解がないように申し添えるが、私は午前中は幼稚園の教師を勤め、午後は中高校生の塾
を開いていた。幼稚園の給料だけでは生活できなかったので、当時の園長と話し合ってそうい
うふうにさせてもらった。だから一日の流れの中で、私は幼児から高校3年生まで、見ることが
できた。結果的にそれがよかった。私は幼児を教えながら、いつも「この子どもはこうなるだろ
う」という予測をしながら教えるようになったし、またそれができるようになった。反対に中高校
生を見ながら、「この子がこうなったのは、幼児期のどのあたりに問題があるのか」を考えなが
ら教えるようになったし、それがわかるようになった。

 結論から先に言えば、人間の能力は平等ではない。平等であるという前提で教えるから、話
がおかしくなる。これも誤解があるといけないので申し添えるが、ただし優劣があるというので
はない。先に書いたD君やA君は、たまたま勉強という分野にすぐれた能力を発揮したが、そ
れがすべてではないということだ。D君は運動がまったくダメだったし、N君も、絵がまったく描
けなかった。一方勉強ができなかったS君は、学校をサボって、近くの公園でゴルフばかりして
いた。もし運動や絵画が主要科目ということになれば、D君やN君は、確実に落ちこぼれという
ことになっていたであろう。そのS君にしても、高校を中退したあと、プロゴルファーの道を歩ん
だが、25歳そこそこの若さで、100万円以上の月収を手にしていた(85年当時)。

 こうした子どもたちを見ていると、問題はもっと別のところにあるように思う。D君にしても、N
君にしても、いつも「学校の勉強はつまらない」と言っていた。S君もそうだ。そしてD君もN君
も、そしてS君も、結局は学校とは離れた世界で、自分を伸ばすしかなかった。しかしこれはた
いへんなエネルギーを要することだ。「能力は平等だ」を歌い文句にしている現在の教育が、
一方でこういう子どもたちを生み出している!

 繰り返す。子どもの能力は平等ではない。だからそういう前提で、今の学校教育を再編する
必要があると思う。またしなければならない。もうあの画一平等主義は、21世紀の日本の実
情に合っていない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ここに書いたことは、すべて実話である。こうした子育てエッセーを書くとき、気をつけなけれ
ばならないのは、登場する親や、子どもたちが、だれであるか、それを絶対にわからなくするこ
と。その周辺の人が読んでも、わからなくすること。

 が、ここに書いた、D君にしても、N君にしても、彼らの名前の頭文字を、そのままとった。S
君については、本名は、M君である。この「悪しき画一教育」については、そのあとも、何度もテ
ーマとして、エッセーを書いた。

 で、それから4年。今、学校教育は、急速に変わりつつある。恐ろしいほどの変化と言っても
よい。先生たちの意識も、それに合わせて変わりつつある。いわゆる学校教育そのものが、従
来の「画一型」から、多様性をもった、「個性尊重型」に変わりつつある。

 と言っても、日本の教育が変わりつつあると考えるのは、正しくない。日本の教育は、戦後、
あまりにも(世界の常識)に背を向けすぎていた。それがここにきて、急速に欧米化し始めたと
考えるのが正しい。つまり、世界の標準に近づきつつあるということ。またそういう視点で日本
の教育をながめないと、日本の教育のこの変化を、正しく理解できない。
(はやし浩司 画一教育 教育の欧米化 個性尊重 子どもの能力 日本の教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育界を吹きすさぶ、むなしい風(目標をなくした教育)

 できない子どもがふつうになっても、親は「効果があった」とは言わない。ふつうになればなっ
たで、親は「もっと……」と言う。できないままであれば、親は、「効果がなかった」とか、「あの先
生はダメな先生」とか言ったりする。できる子どもについても同じ。少しでも成績がさがったりす
ると、親は大騒ぎする。考えてみれば、こんなむなしい仕事はない。こうした現象は、算数の世
界でよく見られる。

 計算力というのは、訓練で伸びる。幼稚園児でも掛け算の九九を暗記したり、あるいは小学
一年生でも、計算を即座にしたりする子どもがいる。そういう子どもの親は、「うちの子どもは、
算数の力(=考える力)がある」と思う。しかし計算力と、算数の力は別。基本的な力がないと、
やがてメッキがはがれるように、算数の力は低下する。こういうとき教師は一番、苦労する。親
のきびしい視線を、子どもを通して痛いほど、感ずるからだ。

 教育、教育と言いながら、親の意識の中にも、「育てる」という意識がない。教育とは、勉強を
教えること。子どもの側では勉強をすること。そしてその目的はと言えば、「よい学校に入り、よ
い大学を出て、よい会社に入社するため」と考える。だからどうしてもそこに成績至上主義がは
びこる。成績がよければ善。成績が悪ければ悪、と。こうしたものの見方は明治時代以来、日
本の伝統的な教育観として定着している。あの夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも、職員会議の
席で一人の教師が、「我が校の実績も着実にあがってきております」と発言するシーンがある。
この場合、「実績」とは、大学への進学率をいう。

 私は一度、ある塾連盟の機関紙にこんな記事を書いたことがある。「何だかんだと言ったとこ
ろで、日本の教育の柱は人間選別ではないか。もしこの教育界から受験をはずしたら、塾な
ど、あっと言う間につぶれてしまうでしょ。学校教育だってあぶない。もし塾が本当の教育とや
らをしたいのなら、受験科目とは関係ない科目で、生徒を集めてみればいい」と。ふつうならあ
ちこちから反論が殺到するが、このときばかりは何も反応がなかった。塾教育そのものを、ま
っこうから否定したからだ。

 話をもとに戻すが、今のような教育体制を続ける限り、この教育界から、この「むなしさ」は消
えない。そしてこのむなしさがある以上、教師にやる気など、出てこない。だからいくら外部の
人間が教育改革を叫んでも、絵に描いた餅で終わってしまう。考えてみれば昔はよかった。教
育がわかりやすかった。進学率を高めることが、教育の目標だった。しかし今は、その目標が
ない。現場の教師たちが、何に向かって努力したらよいのか、それがわからなくなってしまっ
た。

へたに創意工夫をすれば、隣のクラスの父母から文句を言われる。「どうしてうちのクラス
では、してもらえないのか」と。そうそう毎日のように子どもたちを近くの公園へ連れていき、そ
こで授業をしていた先生がいた。しかし親たちの反対で、あっという間にやめになってしまっ
た。「そんなことすれば勉強が遅れる」と。

 創造力豊かな子どもを育てるといったところで、教師自身にそれが許されていないのに、どう
してそれができるというのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ごく最近(05年夏)でも、こんなことがあった。

 ある小学校に、オーストラリア人の英語教師が派遣されてやってきた。で、そのオーストラリ
ア人教師が、自分の生徒たちを、近くの公園へ連れて行こうとしたとき、教頭が、それにストッ
プをかけた。「授業は、教室でするように」と。

 そのオーストラリア人の教師は、私にこう言った。「野外授業は、オーストラリアでは、みなや
っている。当たり前の授業なのに、どうして日本では、だめなのか?」と。

 その学校には、その学校なりの、いろいろな事情や規則があったのだろう。「事故でもあった
らたいへん」と、その教頭は考えたのかもしれない。オーストラリア人の教師は、こう言った。
「オーストラリアの子どもたちの遊びを教えたかったのに……」と。

 だからといって、私は、全面的に、そのオーストラリア人の教師の言い分を認めたわけではな
い。日本人には、「土俵」という考え方がある。「土俵では、相撲のルールに従え」と。そこで私
はそのオーストラリア人の教師に、こう言った。「本当に自由な教育をしてみたいと思ったら、英
語教室を自分でつくり、生徒を自分で集めること。そこで好きなことをすればいい」と。

 この私の考え方は、少し、保守的かな?
(はやし浩司 教師の自由 教育の自由 教師のやる気 自由な教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の皮肉(教育の原点)

 家庭教育では、子どもは使えば使うほど、いい子になる。忍耐力も育つし、生活力もつく。そ
してその上、親の苦労のわかる子どもになる。

 子どもは突き放せば突き放すほど、自立する。「あなたの人生だから、あなたはあなたで、勝
手に生きなさい」という姿勢を、親がもてばもつほど、子どもはたくましくなる。

 子どもに期待をしなければしないほど、子どもは親の期待を超えた子どもになる。「私が老人
になっても、子どもたちにはめんどうをみてもらわない」と言う人がいるが、そういう人ほど、ま
た子どもたちの愛を一身に集めている。

 一方、家庭教育では、子どもは手をかければかけるほど、またお金をかければかけるほど、
ドラ息子化する。生活がルーズになり、自分勝手になる。

 子どもは溺愛すればするほど、わけのわからない子どもになってしまう。あるいは親に反発
する。そうでなければ超マザコンタイプの子どもになってしまう。

 子どもに期待をかければかけるほど、子どもはどんどんその期待からはずれ、親の望む方
向とは別の方向へ進んでしまう。あるいは親の過剰期待の中で、子どもは窒息してしまう。

 皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。親たちがよかれと思ってしていることが、かえって
裏目、裏目に出てしまう。なぜか。私はその理由の一つとして、人間には本来、いじってもよい
部分と、そうでない部分があるように思う。たとえば人間の自立に関する部分はいじってはいけ
ないし、いじればいじるほど、子どもの自立は遅れる。つまりそういう部分は、人間が「教育」を
意識する、ずっとはるか昔から人間に備わっていた「力」だと思う。庭にやってくるスズメにして
も、実にたくましい。犬の目を盗んでは、ドッグフードを盗んでいく。

 となると教育とは何か、ということになる。そこで一のヒントとして、スズメの話を続ける。この
スズメは、山バトがやってきても、まったく逃げない。しかしモズがやってくると一斉に逃げ出
す。モズは肉食だ。そこでスズメをよく観察してみると、「逃げる」という行動は、親から子へと
代々教え継がれていることがわかる。親鳥が逃げ出すと、間髪を入れず、子スズメたちが逃げ
出す。そしてやがて子スズメたちはモズがやってきたら、逃げるということを学習する。

 わかりやすく言えば、教育とは、先人の知識や経験を、子どもたちに生きる武器として与える
こと、ということになる。またその視点を忘れて、教育はありえないし、またその視点からはず
れた教育は教育ではありえない。たとえば歴史教育にしても、原爆の悲惨さを教えるのは教育
であっても、○○年△△条約成立などという年号を子どもに暗記させるのは、歴史教育ではな
い。教育がそういう視点に立ちかえったとき、教育が本来どうあるべきかがわかるのではない
だろうか。

 家庭教育は、あくまでもその一部に過ぎない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 今、このエッセーを読みかえしてみても、「まったく、そのとおり」と思う。そういえば、冬になっ
たというのに、ここ1、2年、そのモズが私の庭に来なくなった。どうでもよいことだが、ふと、
今、そう思った。

 また20年来つづけてきた、スズメの餌づけだが、それについては、今年から、やめた。鳥イ
ンフルエンザの問題もある。が、それ以上に、やってくるスズメの数が、あまりにも多くなりすぎ
た。昨年当たりは、数十羽ずつに分かれた群れが、ひっきりなしに私の庭にやってきていた。
 

 朝早く、1〜2キロの餌を庭にまいたり、餌台にのせるのだが、午前中には、それがきれいに
なくなってしまった。しかしこういう餌づけは、結局は、野鳥のためにはならないのでは……。野
鳥が、人間に依存するようになり、野鳥が野鳥でなくなってしまう。

 それがやっとわかった。それでやめた。私自身は鳥が大好きで、庭に鳥がいないと、さみし
いのだが……。
(はやし浩司 忍耐力 自立 子どもの自立 教育の原点 教育の目的)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●新学力観という、観点(役に立つ教育)

 「地面に立てたポールを利用して、太陽の高度を調べるにはどうしたらよいか。図解して説明
せよ」という問題がある。文部省が実施した「新学力テスト問題」の一つだが、中1年生での正
解率は、たったの10・4%。しかしこんなことは、教育が始まる以前から、人間には常識だっ
た。昔の人間は、皆、太陽の位置や影の長さで時刻を知った。今の子どもたちは、そんなこと
も知らないのかということにもなるし、裏を返せば、今の教育は一体、何を教えているのかとい
うことにもなる。

 教育の基本は、「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えるこ
と」ではないのか。そういう視点がないと、受験教育に代表されるように、教育がただ単なる点
数稼ぎのための道具にされてしまう。もっと言えば、教育が人間選別の道具にされてしまう。

ちなみに中学生にこう聞いてみればよい。「君たちは、なぜ勉強するか」と。大半の子どもたち
は、こう答える。「高校へ入るため」「大学へ入るため」と。親にしてもしかり。勉強をしない子ど
もを叱るとき、「そんなことでは、いい大学へ入れないぞ」と叱ることはあっても、「将来、必要な
知識が身につかないぞ」とは言わない。こうした教育がさらにいびつになると、幼稚園で掛け算
の九九を暗記させたり、漢字の読み書きを教えたりするようになる。

 一方、これは当然のことだが、子どもたちはその必要性を感じたとき、実に生き生きと自ら学
習し始める。私はときどき、「お金儲けごっこ」をするが、そのときもそうだ。それはこうして遊
ぶ。

 まず子どもたち(年長児)に、紙で作ったお金を渡す。そしてそれで折り紙を買わせる。大小
さまざまな大きさの折り紙があって、それぞれ値段が違う。子どもたちはその買った折り紙で、
いろいろなものを作る。絵を描く子どももいる。で、それができたら、今度はこちら(教師)が、そ
のできたものを買いあげてあげる。じょうずにできたのは、高い値段で。そうでないのは、低い
値段で。あとはこれを繰り返す。

ときどき、ほかの子どもが作ったものを、別の子どもに売ってあげることもある。20円で買いあ
げたものを、40円で売りつけたりすると、子どもたちは「ずるい、ずるい」と言うが、「これが資
本主義の原理だ」などと難しい言葉で言ってやると、たいてい静かになる。さらに慣れてくると、
子どもたちどうしで、ものの売買をし始めるようになる。

 こうした動機づけがあると、あとは放っておいても、子どもたちは自ら、足し算や引き算をする
ようになる。多い少ないの判断も、そして損得の判断もできるようになる。さらに「労働すること
の喜び」もわかるようになる。

 文部省の新学力観では、「知識の獲得量ではなく、自分で考え、表現する力を重視する」とい
うもの。私はこれには大賛成だが、ただし一言。こういう指導が全国一律になされるところに
も、問題がある。皆が同じように自分で考え、表現するようになったら、それこそ、この日本は
どうなる。そんなことも頭に入れておいてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 日本の教育は、全体としてみると、将来、その道の学者をめざす子どもたちにとっては、きわ
めて効率よく、かつ体系的にできている。理由は、わかりきっている。教科書が、その道の学
者たちによって、作られているからである。

 たとえば英語という科目にしても、将来、英語の文法学者になるには、たいへん効率よく、体
系的にできている。(最近は、こうした考え方が、大きく変わりつつあるが……。)

 しかし今、将来、学者になる、あるいはなりたいと言っている子どもは、いったい、何%いるの
か? 

 また日本の教育には、「子どもたちに実用的なことを教えるのは、悪」と考えているフシすら、
見受けられる。しかしどうして実用的であっては、いけないのか。アメリカでは、中学校の数学
の時間に、小切手の使い方を教えている。

 ここで「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えること」と教え
てくれたのは、オーストラリアのM大学で、教授をしている私の友人である。
(はやし浩司 日本の教育 実用的な教育 子どもの学力 子供の学力 新学力観)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●一つの暴論(教育革命論)

 これはあくまでも暴論だが、学校は午前中だけでやめたらいい。午後は、生徒の自由にす
る。そしてそれぞれの特性に合わせて、塾へ行けばいい。何も学習塾や受験塾だけが塾では
ない。ピアノ教室、料理教室、工作教室、釣り教室、水泳教室、フランス語教室、ダンス教室な
ど。学校の中に、塾を呼びこんでもいい。その分、月謝は割安にする。

 原則として文部省は、学校の運営管理だけに口を出す。教科書検定は廃止。一方、受験指
導は、それを「よし」とする、業者に任せればいい。生徒の答案用紙を採点するのは、しかたな
いとしても、順位をつけ、進学校へ割り振るなどという行為は、教育者を名乗る教師のする仕
事ではない。

 また学校の敷地の3分の1には、樹木を植えさせる。校庭には、緑の芝生をしきつめる。管
理は、授業の一つとして、子どもたちに任せる。また校舎は今後、完全なバリヤーフリー構造
にして、身体障害者や知的障害者を差別することなく入学させる。そして子どもたちどうしで、
互いにめんどうをみあう。

 教師のする仕事は、「教える」ことではなく、「引き出す」こと。子どもたちの特性を見極めな
がら、その特性に応じた指導をする。具体的には子どもの特性に応じたカリキュラムを組んで
あげる。読書が好きな子どもは、毎日でも読書ができるようにしてあげる。皆が皆、算数ができ
なくてもいい。算数ができない子どもは、算数ができる子どもを尊敬し、ピアノがひけない子ど
もは、ピアノがひける子どもを尊敬する。互いに皆が、それぞれの立場で相手を認め合う。

 そうそうA中学に優秀なスペイン語塾があれば、B中学やC中学からも、自由に越境受講で
きるようにすればいい。そうすればもっと多様性が広がる。また基礎学力(算数の基礎、読み
書きなどの基礎)については、単位制を導入して、義務教育機関中に終了すればよいとする。
クラス担任制度は廃止して、生徒の責任者制度を導入する。その責任者(教師)が、それぞれ
の子どもの指導について、責任をもって指導する。必要に応じて、一日中、行動をともにしても
よい。

 高校、大学も基本的には、子どもの多様性に合わせて、多様化する。高校や大学にスキー
学部があってもいいし、釣り学部があってもいい。文学部も、作家部、読書評論部などに分け
る。経済学部も、起業部、ベンチャービジネス部などに分ける。もちろん一方に、アカデミックな
学問を探求する学部があってもいい。哲学や数学の分野で、すぐれた才能を示す子どもにつ
いては、それはそれとして伸ばす。

 これは暴論だが、しかしもし実行したら、それはまさしく教育革命というにふさわしい。長い
間、鎖国と封建制度の中で苦しめられてきた子どもたちにとっては、まさに革命。自由を求め
た革命。が、あなたはそれでも今の教育制度がいいと思うか。もしそうならあなた自身の子ども
時代を思い浮かべてみてほしい。あなたは心の中で、どんな学校を求めていたかを、だ。力の
ない子どもの革命を助けるのは、あなたしかいない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 この原稿を書いてから、4年になる。が、実は、こうした(流れ)は、すでに世界の常識になり
つつある。ドイツやイタリアでは、学校外教育が、ますますさかんになりつつある。カナダでも、
そうだ。「教育は学校で」という発想そのものが、もう古い。

 ただしこの日本で、教育を自由化するには、1つの条件がある。まず、学歴社会を是正する
こと。それをしないで、自由化すれば、進学塾だけが、学校外教育ということになってしまう。
(はやし浩司 教育の自由化 学歴社会 教師の責任)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論)

 大学の教授は、高校の先生より、エライ。高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の
先生は、小学校の先生より、エライ。小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくと
も、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを
学歴信仰という。

 家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、息子のために学費を送り続ける。が、
肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤ
の催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。そしてそれが「親の務めだ」と思
う。こういうのを学歴信仰という。

 浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親
は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏に入ってくると、今度は「A高校。それが無理
なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には際限がないが、そういう思いが、誰にで
もある。こういうのを学歴信仰という。

 新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意はわからないが、文部大臣が、母校のA
高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と述べたとか(99年2月)。つまり「日本には
学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に立ったような人が、しかもその信仰の総
本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、そういう発言をするところに、日本のこ
っけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や
予備校に通わせない。もし本当にないのなら、成績に関係なく、東大の学生を入学させたらい
い。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。

 学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、それを死ぬほどほしがる。お金
と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と言ったところで、その日のお金に困
っている庶民には、説得力はない。私もある時期、自分の学歴にしがみついて生きていた。特
にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、私の教育論になど、誰も耳を傾け
てくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、いかに辛酸をなめさせられたことか。

 話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、その年から手話を教えるようになったと
言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理
由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。こういう姿勢、つまりその
子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、私は学校の本来、あ
るべき姿を見た。

反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが入学してきたら、教師や父母
は、どのように反応するだろうか。さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、学
歴信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、文部大臣ももう少し庶民の側におり
て、ものを考えてほしいと思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いた時点(01年)と今では、障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。1
5年ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、1人の身体に障害のある子どもを入学させよ
うとしたことがある。そのとき、「そういう子どもが入ってくると、子どもたちの勉強の進度にさし
さわりが出る」と、反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、報道されたので、覚えて
いる人も多いと思う。

 たった15年前には、日本はまだそういう国だった。が、今、そんな反対運動をすれば、反対
に、その親たちが袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、親たちの意識が、たしかに今、
変わりつつある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●不気味な思考回路(ポケモン現象)

 一時期よりは下火になったが、いまだにポケモンは根強い人気を保っている。年齢的には幼
稚園の年長児から小学2、3年生児が、そのピーク。私の調査でも、約80%の子どもたち
がハマっていたことがわかっている(98年はじめ)。

 一度こういう世界ができると、「ポケモンを知らない」とか、「ポケモンなんて、つまらない」など
と言おうものなら、それだけで仲間はずれにされてしまう。当時あの「♪ポケモン言えるかな」と
いう歌を、どこまで歌えるかが、その子どものステイタスを決めていた。たとえばその歌を途中
までしか歌えなかったりすると、その子どもは「バカ」というレッテルをはられてしまった。

 問題は、そのハマリ度だ。好きとかファンというレベルならまだしも、中には熱狂してしまう子
どもがいる。現実とゲームの世界が区別できなくなってしまう子どももいる。こうなるとゲームと
は、もう言えない。信仰だ。しかもカルトだ。ある子ども(小3男児)は、親に叱られると、いつも
「♪ポケモン言えるかな」を心の中で歌っていたという。また別の中学生は、毎夜、空に向かっ
て、超能力を授けてもらうよう、祈っていたという。そうでなくても、大半の子どもは、あの黄色い
ピカチューの絵を見ただけで、興奮状態になってしまった。

 今はまだよい。今は、まだゲームの世界に収まっているから、よい。しかしもしポケモンが思
想をもったらどうなる。たとえばサトシが、「子どもたちよ21世紀は暗い。一緒に海へ入って
死のう」などと訴えたら、どうなる。それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。ポケモ
ン、いや一連のポケモン現象には、そういう危険性が潜んでいる。

 それにもう一つ、心配なことがある。幼児期に一度、こうした思考回路ができると、以後、何
かにつけてその思考回路に沿って、ものを考えるようになるということだ。迷信を信じやすくなっ
たり、カルトにハマりやすくなったりする。低劣な運命論やバチ論を振りかざすようになるかもし
れない。ある妻は、狂信的なカルト教団に身を染め、夫に向かってこう言い出した。「あんたと
私は、前世の縁で結ばれていなかったのよ。それを正すためには、信仰の力が必要なのよ」
と。もしあなたの妻がある日突然、そんなことを言い出したら、あなたはそれに耐えることがで
きるだろうか。こんな例もある。

 ある教団では手術そのものを禁止している。私がそのことをその教団に確かめたら、「禁止
はしていないが、熱心な信者なら手術を拒否します」ということだったが、ともかくもそういうこと
だ。そしてその結果として、一人の子どもが交通事故で死んだ。子どもの母親が熱心な信者
で、手術をがんとして拒否したからだ。が、悲劇はそこで終わらなかった。この事件で孫を失っ
た老人はこう話してくれた。

「今は、息子夫婦とも断絶しています。それまでは愛だとか、平和だとか、信仰もそれほど悪い
ものだと思っていなかったのですが……」と。私にはこれ以上のことは何も言えないが、もしあ
なただったらそうするか。それを一度考えてみてほしい。ポケモン現象にはそんな一面も隠さ
れている。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 カルト教団と戦うのも、疲れる。本当に疲れる。彼らは、その信仰に、命をかけている。かた
や私の方は、そこまではしない。命をかけてまで戦うということはしない。が、この(ちがい)が、
結局は、カルトをのさばらせてしまう結果となる。

 私は、当時、まだカルト教団と戦っていた。で、そうしたカルト教団のもつ、カルト性というか、
危険な側面を、あのポケモン・ブームの中に見た。子どもたちは、狂信的なまでに、ポケモンに
夢中になっていた。

 そこで私は「ポケモン・カルト」(三一書房)という本を書いた。

 が、反響というか、抗議の嵐は、すさまじかった! 今でも、その世界では、「トンデモ本」とし
て酷評されている。どこか「?」な人たちに、「トンデモ本」と酷評されることは、たいへん名誉な
ことではないか。

 このエッセーは、そういうときに書いた。いくら酷評されても、今でも私は、自説をひっこめる
つもりは、まったく、ない。
(はやし浩司 カルト カルト教団 ポケモン・カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●わからぬフリをする(うちの子は、どうですか?)

 子どもの情緒障害、専門的には脳の機能的障害には、軽重の程度の差がある。重い場合
は別として、軽い場合には、ふつう児との境があいまいで、そのため指導が難しい。いろいろな
ケースがある。

たとえば自閉症にしても、それと明らかにわかる子どももいるが、「どこか心を開かない」「勝手
な行動をして、どうも心をつかめない」という程度の子どももいる。かん黙児にしても、外の世界
ではまったくしゃべらない子どももいれば、ふとしたきっかけで黙りこくってしまう子どももいる。
私にしても、それぞれ何10例もの子どもたちを直接指導してきたが、その私でもいまだに迷う
ことが多い。いや、判断を誤ることはまずないが、親に言うべきかどうかで迷う。「もし万が一に
もまちがっていたら……」という思いと、「治療法も用意しないまま、診断だけをくだすことはでき
ない」という、二つの思いの中で迷う。言えば言ったで、親に与える衝撃ははかり知れない。

 だから親は、子どもがどこか変わった症状を示したりすると、子どもを叱ったり説教したりす
る。「どうして静かに落ちつけないの」とか、「皆の前で、もっとハキハキ、しゃべりなさい」とか。
しかし脳の機能的障害というのは、そういうものではない。子ども自身がコントロールできな
い、脳の奥深い部分で起こる。そして次に親は、その矛先を、教師に向けてくる。「先生の指導
が悪いから、こうなったのだ」と。教師がやりきれない気持ちに襲われるのは、たいていこんな
ときだ。

 が、教師は知らぬふりをして教える。そういう知識はないという前提で、教える。少なくとも親
のほうから、「どうしてでしょうか?」という質問があるまで、そうする。……こう書くと、無責任な
教師のように思われるかもしれないが、教育には、はっきりとわからなくてもいいことは、山ほ
どある。あるいはわかっていても、わからないふりをして教えることは山ほどある。たとえば子
どもの知能や、家庭問題。性格や気質など。その子どもはそういう子どもなのだということを納
得した上で、教える。仮に情緒に問題があるとしても、ふつう児として自然に扱ったほうが、そ
の子どもにとってはよいということもある。意識すればするほど、逆効果になる。

 そうそう、教師が一番いやがる会話を教えよう。何がいやかって、親に、「うちの子、どうでし
ょうか」と聞かれることぐらい、いやなことはない。「うちの子、最近、いかがでしょうか」と聞く人
も多い。親というのは先生と顔を合わせると、たいていそう言うが、言われたほうは答えようが
ない。親は軽いあいさつのつもりでそう言うのだろうが、何をどの程度答えるべきか、その返答
に困ってしまう。私の場合、そういうふうに聞かれたら、たいてい、「おうちではいかがです
か?」と聞きなおすようにしている。そうすると、相手の聞きたいことがわかる。

私「おうちではいおかがですか」
親「最近、家の手伝いをしなくて困っています」
私「ああ、そのことですね」と。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 「問われるまで、答えない」……それが、教師の間の不文律にもなっている。いくら子どもに
問題があっても、教師の側から、それを指摘してはいけない。中には、それを正しく受け取って
くれる親もいるが、ほとんどの親は、その瞬間から、狂乱状態になってしまう。

 で、最近の教師の傾向としては、こういう言い方をするのが、通例になっている。「一度、専門
医に相談してみられてはいかがですか?」と。あとの判断は、親がすればよいという指導のし
方である。

 一見、無責任にみえる指導法だが、現状では、それもやむをえないのではないか。
(はやし浩司 子供の問題 育児の問題 子供の心の問題 教師の対処法)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●溺愛ママ・ブルース(溺愛は愛ではない)

 子どもを溺愛する親は、珍しくない。たいていは親側の情緒的欠陥が原因で、親は子どもを
溺愛するようになる。ある母親は、息子(小6)が、修学旅行に行った夜、一睡もせず泣き明か
した。また別の母親は、やはり息子(中3)が初恋をしたことについて、はげしい嫉妬心を燃や
した。

 こうしたケースで特徴的なことは、溺愛している母親は、それを「親の深い愛」と誤解している
点にある。ある母親は臆面もなく、こう言った。「息子(高1)の汚れた下着を見ていると、いと
おしくて、頬ずりしたくなります」と。つまりそうすることが、親の鏡というわけである。中に生きが
いのすべてを、子どもに注いでしまう人がいる。考えることといえば、明けても暮れても、子ども
のことばかり。毎月、子ども(幼稚園児)の成長記録を、小冊子にして発行している人もいる。
こういう人は、「子どもは私のすべて」と公言してはばからない。

 しかし溺愛は、「愛」ではない。代償的愛ともいう。つまり自己の支配欲を満たすために、子ど
もを愛する。あるいは自分の心のスキ間を埋めるために、子どもを愛する。つまりは親の身勝
手な愛に過ぎない。子どもを愛するということは、子どもが巣立っていくのを見守りながら、じっ
とそのさみしさに耐えることにほかならない。もっともこう書いたからといって、溺愛が悪いとい
うのではない。もちろん笑っているのでもない。

ただ私がここで言いたいことは、親が溺愛すればするほど、子どもの「核」形成が遅れるという
ことだ。核というのは、子どものつかみどころをいう。その年齢になると、その年齢にふさわしい
「つかみどころ」ができてくる。しかし親が溺愛したりすると、そのつかみどころがわからなくな
る。全体にその年齢に比して、幼い印象を与えるようになる。が、それだけではすまない。

 子どもはその年齢ごとに、ちょうど蝶がカラをぬぐようにしてカラをぬぎながら、成長を繰り返
す。しかしその段階で溺愛などが原因で、カラをぬがないと、そのツケはあとへあとへと回され
る。しかもあとになればなるほど、その衝撃は何10倍も大きくなる。はげしい家庭内暴力に
つながることもある。

「俺を、こんな俺にしたのは、オマエだ!」
「許して、お母さんが悪かったわ」と。

そうでなければ、そのまま子どもはマザコンタイプの子どもになっていく。30歳になっても、40
歳になっても、親離れできない。これは極端なケースだが、結婚してからも実家へ帰るたびに、
母親と風呂へ入ったり、一緒に寝ている男性がいた。そういうふうになる。

 自分自身の中に「溺愛」を感じたら、子育てから遠ざかる。しかしこれは簡単なことではない。
唯一方法があるとすれば、母親であることを忘れ、妻であることを忘れ、ついで女であることを
忘れ、一人の人間として、自分のしたいことをする。そしてその反射的効果として、子育てから
遠ざかる。もちろん自分自身に情緒的欠陥があれば、それと闘う。(以上、01年記「子育て雑
談」)
 
(補記)

 マザコンになるのは、何も男児だけとはかぎらない。女児も、マザコンになるケースは、多
い。しかも女児(女性)のマザコンのほうが、男児(男性)よりも、強烈になりやすい。女性のば
あい、実家に帰って、母親といっしょに風呂に入っても、だれも、おかしいと思わない。(男性だ
ったら、それだけで、大問題になるが……。)そういうスキをついて、女性は、男性よりも、より
強烈なマザコンになる。

 さらにファザコンというのも、ある。自分の父親を偶像化する。「オレのオヤジの悪口を言うヤ
ツは、許さない」と、公の場所で、叫んだ男性(50歳くらい)がいた。

 でき愛は、「愛」ではない。自分の心の欠陥を埋め合わせするために、親は、子どもをでき愛
するようになる。ご注意!
(はやし浩司 溺愛 でき愛 子どもの成長 子供の成長 子供の心の発達 心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●スポイルされる子どもたち(忍耐力のない子ども)

 アメリカ人の友人が、「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」という。わかり
やすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう
言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

 「ときどきホームスティをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対にアメリカへ、ホームスティしてきた高校生が、こう言って
驚いていた。「向こうでは、明らかに不良と思われるような高校生でも、家事だけは手伝ってい
た」と。

 日本人は、子どもを使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解している
ようなところがある。だから生活感がない。「水はどこからくるか」と、年長児たちに聞くと、「水
道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持っていってくれる」と。あるいは
「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「おとうさんが、やってくれるから
いい」と答えたりする。

 こんな話をある講演会で話したら、一人の母親がこう質問してきた。「何をやらせればいいの
ですか」と。話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの30分ですんでしまう。買物といっても、食材
は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。料理のときも、台所の周囲でうろうろされると、かえって
迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親がせんべいを口にして、
寝そべりながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと
動き回り、子どももそれに合わせて、キビキビとすべきことをすることをいう。たとえば次のよう
なとき、あなたの子どもはどういう反応を示すだろうか。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたが……。さっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかしそ知ら
ぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育をかなり反省したほうがよい。

 よく誤解されるが、子どもの忍耐力は、「いやなことをする力」をいう。台所の生ゴミを手で始
末できるとか、寒い夜に隣へ回覧版を届けることができるとか。一日中サッカーをしているか
ら、忍耐力があるということにはならない。その子どもは好きなことをしているだけである。その
忍耐力がないと、子どもは学習面でも伸び悩む。勉強するということには、どうしても苦痛がと
もなう。その苦痛が乗り越えられないからだ。またそれ以前の問題として、生活力が身につか
ない。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女子)がいた。話を聞くと、
「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないた
めにも、子どもは使って使って、使いまくる。子どもが2〜4歳のときが勝負で、それ以後にな
ると、このしつけはできなくなる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ここに書いたアメリカ人というのは、浜松市に住んでいた、R・ケリーという人だった。4、5年
前にアメリカへ帰っていった。で、一度、彼の家を訪問したことがある。すばらしい御殿のような
家だった。半地下室には、卓球ルームまで作ってあった。

 彼が日本へやってきたのは、52歳のとき。ある店で、ぼんやりと外をながめていたとき、私
の方から声をかけた。以来、10年近く、つきあった。

 すばらしいアメリカ人だった。彼の送別会には、300〜400人近い人たちが、ホテルに集ま
った。この原稿を読んでいるとき、それを思い出した。ここ1、2年、音信がないが、今ごろは、
どうしているだろうか? 


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●崩壊家庭の中で(ゆがむ子どもの心)

 荒れた自分の家を、得意げになって見せていた子ども(小3男児)がいた。敷きっぱなしにな
った破れたふとん。その周囲に散乱するティシュペーパー。割れた窓ガラス。汚れた台所に、
ゴミの山。一定の限界を超えると、子どもの心から「家庭」とのつながりが消える。ふつうなら、
「家庭の恥ずかしい部分は隠そう」という意識が働くが、そういう意識がない。当然、心も荒れ
る。ものの考え方が粗野になり、他人の心の動きに鈍感になる。

 いわゆる「家庭崩壊児」はこうして生まれる。家庭が本来あるべき家庭として、機能していな
い。こうした拒否的な環境で育った子どもは、心に深刻なキズを負うことがわかっている。こん
な子ども(高1男子)がいた。いわく、「台風で壊れる家を見ていると、楽しい」と。そこで私が
「本当に楽しいのか」と聞くと、「おもしろい」と。さらに「それが君の家だったら、どうするのだ」と
聞くと、「もっと楽しい」と。

 このタイプの子どもは、「世間に迷惑をかける」ということに、たいへん鈍感になる。真夜中に
マフラーをはずしたバイクを、バリバリとふかしても、それが悪いことだという意識がない。ある
いは路上にビンを叩きつけて割っても、それが悪いことだという意識がない。むしろ人に迷惑を
かけることを楽しむようなところがある。善悪を判断する中枢部分が、変調をきたしているため
と考えるとわかりやすい。仮に立ち直っても、その影響は一生続く。俗に言う、ヒネクレ症状と
いうのが、それである。

夫「こんなところに、サイフを置いてはダメだ」
妻「あんただって、この前、ここに置いたじゃ、ない」
夫「だから、ここに置いてはダメだ」
妻「自分だって、ここに置いたクセに、何よ!」 

 このところの不況で、程度の差こそあるが、このタイプの子どもがふえている。平気で自分の
家族や家庭の恥を口にするから、わかる。

「うちの父ちゃんね、毎晩、エロビデオを見てる」
「ママね、パパの稼ぎが少ないから、苦労してるよ」
「パパが本を投げつけて、ママが頭にけがをした」など。

 家庭崩壊を子どもに経験させてはいけない。これは子どもを妊娠したときからの、親の義務
のようなものだ。が、それでも……というのであれば、これはもう個人の問題ではないように思
う。福祉とか、福祉社会というのなら、老人や障害のある人に、こういうタイプの子どもたちも含
めるべきだと、私は思う。客観的に見て、そういう心配のある子どもは、行政による手厚い保
護が必要だ。親の理解と協力が期待できない以上、そうするしかない。

 家庭崩壊を経験した人は不幸だ。結婚しても、「よい家庭を作ろう」という気負いばかりが先
行して、結局は失敗しやすい。あるいは結婚そのものができない。子どもをつくっても、うまく子
育てができない。頭の中に「家庭像」や「親像」がないからだ。

繰り返すが、家庭崩壊だけは子どもに経験させてはいけない、……と思う。(以上、01年記
「子育て雑談」)

(付記)

 ……とは言っても、思うがままにならないのが、生活。だれが、自ら不幸になることを望むだ
ろうか。そんな人はいない。

 ただいくら貧しくても、「心」だけは、見失ってはいけない。とくに、子どもの前での、夫婦げん
かは、タブー中のタブー。はげしい夫婦げんかは、子どもに、極度の緊張感と恐怖感を与え
る。それが子どもの心にキズをつける。ときに、トラウマとなり、その子どもを生涯にわたって、
苦しめる。が、それだけではすまない。

 このトラウマには、副作用がある。

 やがて時間をかけて、親子関係を破壊する。世代連鎖する。そのトラウマが大きければ、そ
の子どもが多重人格性をもつこともある。激怒したようなときに、まったくの別の人格になってし
まったりする。

 幼児期においては、すねたり、ひがんだり、ぐずったりしやすくなる。人格の「核」形成が遅
れ、善悪の判断にうとくなることもある。

 子どもは、心安らかな家庭環境の中で、親の愛情をたっぷりと受けながら育つのがよい。何
度も書くが、絶対的な信頼関係、絶対的な安心感、この2つが子どもの心をはぐくむ二大要素
と考えてよい。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。
(はやし浩司 夫婦喧嘩 夫婦げんか 家庭崩壊 崩壊児 子供の心理 絶対的な安心感)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●信頼関係を大切に(先生の悪口はタブー)

 子どもの前では、先生の批判、悪口はタブー。子どもが悪口を言ったとしても、「あんたが悪
いからよ」と言ってすます。もし問題があるなら、それは子どものいないところで、また子どもと
は関係のない世界ですます。あなたが先生を批判したり、悪口を言ったら、子どもは学校で、
その先生に従わなくなる。私にはこんな経験がある。

 幼稚園で教えていたころ、まったく私の指示に従わない子ども(年長女児)がいた。ある日そ
の子どもに、「どうして言うことを聞かないのか」と聞くと、その子どもはこう答えた。「だって、先
生は、本物の先生ではないでしょ」と。この話には余談がある。

 このことを当時の園長に告げると、私はそれほど気にしていなかったのだが、その園長は激
怒して、その母親に即刻、電話をした。そしてこう怒鳴った。「何てことを子どもに教えているの
ですか! あなたがそんなこと言ったら、指導できないでしょ!」と。当時はまだこういう気骨の
ある園長が、あちこちにいた。

 「子どもにこの話は、先生には内緒よ」と言うことは、「先生にこの話をせよ」と言うのと同じ。
子どもが言った先生の悪口に、相槌を打つということは、あなたが先生の悪口を言ったのと同
じ。子どもは先生に、こう言う。「ママもこう言っていた」と。仮に子どもが言わなくても、先生に
はそれがわかる。どういう形であるにせよ、あなたの「思い」は、必ず先生に伝わる。子どもと
いうのは、自分の心を隠すことができない。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。
裏を返して言うと、子どもの前では、先生をたてる。「あなたの先生は、すばらしい先生よ」「先
生のような立派な先生に、あなたが教えてもらえて、とてもうれしいわ」と。

 教育は信頼関係で成り立つ。中には「お金(税金)を出しているのだから」という思いからか、
教育を自動販売機のように考えている人がいる。あるいは今では、先生より、特に幼稚園の先
生より、高学歴の人が多い。そういう人は、どうしても先生を下に見る。こういうものの考え方
は、その信頼関係を破壊する。教師だって人間だ。自分を信頼してくれる人には、その期待に
応えようとするし、そうでない人には、熱意そのものが沸いてこない。いくら相手が子どもとわか
っていても、時と場合によっては、「このヤロー」と思うこともある。そうなったら教育そのものが
成りたたない。

 たいへんきわどい話をしてしまったが、そうでなくても難しいのが最近の教育。親と教師が信
頼しないで、どうして教育ができるというのだろう。問題のある教師がいるのも事実だが、もし
そうであるなら、冒頭にも書いたように、子どもとは関係のない世界ですます。

一番よいのは、直接、その先生と交渉することだ。今の制度の中では、教育委員会に相談す
ると、どうしてもおおげさになってしまう。校長に訴えるとしても、校長は今、校長というよりは事
務長に近い。アメリカのように教師を選ぶ権利が親にあれば別だが、日本にはそれがない。な
い以上、やはり直接交渉がよい。勇気がいることだが、それが一番よい。……と私は思う。こ
れはあくまでも私個人の一意見だが。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 今でこそ、保育士というのは、一定の地位を確立しているが、35年前には、そうではなかっ
た。私が「幼稚園で働いている」と言っただけで、ほとんどの人は、「あの林は、頭がおかしい」
と言った。

 そんなわけで、私は、幼稚園の内部では、自分の過去を隠し、幼稚園の外では、自分の職
業を隠さねばならなかった。

 また保母というのは、「母」、つまり女性にかぎられていた。「保父」が生まれたのは、私が30
歳になったころ。現在の保育士という名称になったのは、さらにあとのことである。

 ここに書いた園長というのは、恩師の松下哲子先生をいう。すばらしい先生だった。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ズケズケ言う子どもたち(教師の威厳はどこに?)

 「先生、口、臭いから、あっち向いていてよ。ああ、臭い臭い」と言った子ども(小6女子)がい
た。もともと多動性のある子どもだった。頭の回転はキリキリと早いが、一貫性がなく、ものの
考え方が浅い。幼児のころは、無頓着、無遠慮、無関心などの特徴も見られた。小学校の高
学年になってからは、症状も落ち着いてきたが、ズケズケとものを言うクセは残っていた。

 それはそれとして、私はそう言われたとき、喜んでいいのか不愉快に思っていいのか、一
瞬、迷った。そしてその子どもは、いい子なのか悪い子なのか、迷った。さらに私とよい関係に
あるのかそうでないのか、迷った。あえて私の判断はここには書かないでおくので、皆さんで判
断してほしい。ただ言えることは、こういうふうにものをズケズケと言う子どもが、ふえていると
いうこと。そしてそれを民主的になったと喜んでいいのか悪いのか、このところわからなくなって
きたということだ。

 口が悪いのは、しかたない。今時の子どもは皆そうで、先生に向かって、「ジジイ」とか「クソジ
ジイ」と言う子どもは、いくらでもいる。冗談だとわかっているから、それほど気にならない。問
題は、相手が気にしていること、あるいは気にしそうなことを、ズケズケと言う場合だ。しかもス
レスレのことを言い、またそれを言い合うことを、親しみの表れと誤解しているような場合だ。ど
こかテレビの低俗番組のお笑いタレントのようだが、今は、そうでない子どもをさがすほうがむ
ずかしい。

 最近の子どもは、先生に対して、畏敬の念をなくしたとよく言われる。それはその通りだが、
こういうとき子どもの側ばかりが問題になる。しかし教師の側にも問題がないのか。学校レベ
ル、あるいは教育委員会レベルでもみ消される、教師によるハレンチ事件は、あとを断たな
い。授業にしても、参観用の授業と普通の授業が、天と地ほど違うことを、子どもたちなら皆、
知っている。また教育、教育と言いながら、自分たちが選別されていることを、子どもたちは感
じ取っている。しかもこの傾向は、高学年、さらに中学校になるほど、強くなる。ズケズケともの
を言う子どもは、こういうスキ間をねらって生まれる。

私「臭いか?」
子「臭い」
私「そうか。ありがとう。このところ、女房もそれを教えてくれなくてね。君のおかげで、恥をかか
なくてすむ」
子「もうかいているでしょ」
私「そうだな。申し訳ない。これからも臭かったら、臭いと言ってよ。なおすから」 
子「わかりゃ、イーの。わかりゃア」

 私が子どものころは、そういうことを言いたくても言えなかった。回ってきた先生が、鼻クソを
ポタリと机の上に落としたこともある。しかし私は黙って、それをがまんするしかなかった。そう
いう時代がよかったのか悪かったのか、それも私にはわからない。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 管理能力という言葉がある。この管理能力には、行動の管理能力、精神の管理能力、情緒
の管理能力などがある。

 ここでいう「ズケズケ言う子ども」というのは、行動(言動)の管理能力に欠ける子どもというこ
とになる。言ってよいことと悪いことの判断にうとい子どもということになる。たとえば多動性の
ある子どもには、同時に、多弁性がよく見られる。このタイプの子どもは、相手の気持ちもかま
わず、言いたいことを、そのまま口にする。そのため、それによって相手がキズつくということ
が、よくある。

が、その一方で、こうした子どもには、ウラがない。つまりそれだけ、心の中が、わかりやすい。

 教師と生徒の間ではともかくも、親子や兄弟の間では、言いたいことを言うが、信頼関係の
原点である。それがないと、信頼関係そのものを、築くことができない。

 そこで重要なことは、(言うべきことは)言う。しかし自分の心の中で処理できるような、(言わ
なくてもよいこと)は言わない。そういう判断を的確にするということ。またそういう判断のできる
子どもにするということ。

 ただし一言。「アッ、風が吹いた」「カーテンが揺れた」式の、底の浅い、軽薄な言動について
は、そのつど、たしなめること。
(はやし浩司 子供の多弁性 多弁性 子どもの多弁性)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
 
●しつけの時期(だらしなくなる子ども) 
  
 4、5歳ごろに一度、決められたことに忠実になる時期がある。母親が花を切っていたりす
ると、「先生がねえ、お花、切っちゃダメって、言っていたよ」と。あるいは食事をしながらテレビ
を見ていたりすると、「パパは、この前、食べているときは、テレビを見てはダメと言ったじゃな
い」と。

この時期をうまく利用すると、しつけがしやすい。しかしそれが「頂点」。この時期の過ご
し方が悪いと、どういうわけだか、子どもはだらしなくなる。具体的には幼稚園児より、小学生。
小学生より中学生のほうが、概して、だらしない。学校の周囲を見ても、一番空き缶やゴミが多
いのが、中学校だ。

 先日も街中を歩いていたら、5、6人の男子高校生が飲んだ空き缶を、道路へポイと捨て
た。そこで私はこれ見よがしにその空き缶を拾って、近くのゴミ箱に入れてやった。すると高校
生たちはすっとんきょうな声を張りあげて、「イーヤーミィ」と声を合わせた。また別の日。どこか
の家のまん前で、犬に便をさせていた女子高校生がいたので、私が注意すると、こう言った。
「ここ、アンタの家?」と。

 理由は簡単だ。世間を知れば知るほど、まじめに生きるのがバカらしくなる。子どもたちは年
齢とともに、世間を広げ、それを知る。善か悪かといえば、この世の中、悪のほうがずっと多
い。そういう悪の中でうまく立ち回ることを、スレるというが、子どもたちは年齢とともに、ますま
すスレる。しかもこの傾向は都会ほど強い。そこで私は以前、こんな格言を考えたことがある。
「子どもは社会の縮図」と。

これは社会に4割の善があれば、子どもの中にも4割の善。社会に4割の悪があれば、子ども
の中にも4割の悪が育つという意味だ。社会を是正しないおいて、どうして子どもを是正できる
か。よい例が自然教育。おとなたちが一方でさんざん自然を破壊しておいて、子どもたちに向
かって、「自然を大切にしましょう」は、ない。少し話はそれるが、私は禁煙運動を精力的にして
きたが、息子の一人がどこかで喫煙を覚えたのを知って、その運動はやめた。自分の息子が
吸っているのに、他人に向かって、「タバコをやめましょう」は、ない。反論もあろうかと思うが、
私はそう考えた。

 一方、まじめな子どももいる。ある日一緒にバスを待っているとき、「ジュースを買って飲もう
か」と声をかけたら、「私はこれから夕食を食べるから、いい」と言って、断った女の子(小4)
がいた。そこで私は自分なりに、いつどのように子どもが分かれていくのか観察してみたことが
ある。子どもは、いつ頃からだらしなくなるか、と。その結果得た結論が、冒頭に書いた事実で
ある。4、5歳ごろ、である。

 この時期までにしつけをうまくして、それに合わせた思考回路をうまく作ってあげると、子ども
はまじめになる。一方、その時期をだらしなく過ぎると、子どもはだらしなくなる。ほかにもいろ
いろな要因があるが、そういうことだ。そして一度だらしなくなってしまうと、なおすのが大変難し
い。身についたシミのようなもので、なかなか落とせない。だからこそ、この時期のしつけが大
切なのだ。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ジュースを断った女の子については、よく覚えている。ただ、ここで(小4)と書いたが、(小3)
だったかもしれない。名前を、Aさんと言った。

 で、そのAさんと、それから10年くらいしてから、それについて話しあったことがある。そのと
きAさんは、オーストラリアの大学に留学していた。が、Aさんは、「覚えていません」と。「そんな
ことありましたア?」と。ケタケタと笑っていた。

 そのAさんが、私にこんなことを頼んだ。「いつか結婚するとき、結婚式に来てくれますか?」
と。私は、一も二もなく、「いいよ」とだけ、返事をした。つまり私は、Aさんを、子どものときか
ら、全幅に信頼していた。その信頼感は、あの自動販売機の前でできたものだと思っている。

 ただ残念なことに、Aさんは、そのままオーストラリアに居ついてしまった。今は、オーストラリ
ア人の男性と結婚して、パースに住んでいるという。
(はやし浩司 子どものしつけ まじめな子供 まじめな子ども)


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●肩書き人間(悪しき学歴人間)

 私のいとこの義父に、国の出先機関の長をしていたのがいる。死ぬまで、長の名札をぶらさ
げて生きていたような人で、本人が「自分は偉いのだ」と思うほど、世間は相手にしなかった。
葬式か
ら帰ってきた母は、こう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。

 老人が老人社会へ入るためには、過去の肩書きを捨てなければならない……らしい。過去
の肩書きにこだわっていると、周囲の者が近づかない。恐れ多いからではなく、そういう人とつ
きあっていると、疲れるから。が、こういう人たちにはそれがわからない。どこへ行っても、「私

尊敬されるべきだ」というような態度をとる。

 戦争をはさんで教育を受けた人たちというのは、とくにこの傾向が強い。「立派な社会人にな
る」ことイコール、善と、徹底的に叩きこまれている。ここで言う立派な社会人というのは、言う
までもなく「肩書きのある人間」をさす。あるいは「肩書きを見せただけで、相手がひれ伏す人
間」をさす。

 実際、この日本は肩書きのある人は、それだけで得をする。一方、肩書きのない人は、せっ
かくその力があっても、社会に埋もれてしまう。肩書きのある人は、それはそれでいいと思うか
もしれないが、一方でそうでない人を、いかに虐げているか、それを忘れてはならない。仮にあ
なたはいいとしても、あなたの子どもはどうだろうか。あるいはあなたの孫はどうだろうか。あな
たがもっているような肩書きを手にすることができるだろうか。

 人間の価値は、肩書きではなく、何をしたかによって決まる。こんなわかりきったことが、この
日本で住んで、生活しているとわからなくなる。先のいとこの義父も、同年齢の人と会うたび
に、「あなたは何をしていましたか」と聞いていた。よほどそのことが気になるらしく、自分より立
場が上だった人にはペコペコし、そうでない人に向かっては、胸を張った。年下の人に向かっ
ても、少しでもできが悪そうに見えたりすると、「君は、算数が何点ぐらいだったかね」と聞いて
いた。あるいは「こんなのは、簡単な計算で解けるよ。こんなのもわからないのかね」と言った
りした。

唯一の趣味といえば、新聞や雑誌への投書。毎日のようにせっこらせっこらと書いては、新聞
社や雑誌社へ送っていた。たいてい自画自賛で、読むに耐えない文章だったが、私の母は「偉
いもんだ」と言っては、その記事を人に見せていた。

 その人はその人で、懸命に生きてきたのだろう。彼とてその時代の価値観に染まっただけ
だ。かく言う私だって、私の生きた時代の流れに染まっている。彼がまちがっているということ
にもならないし、私が正しいということにもならない。あるいは次の世代の流れが正しいというこ
とにもならない。ただ私の立場で言えることは、こうした悪しき肩書き人間は、世界では通用し
ないということ。それだけではないが、それも含めて、こういう過去の流れをここで止めなけれ
ばならない。私のいとこの義父には悪いが、肩書きで自分の人生を見失ってはいけない。……
と私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 権威主義の人は、電話のかけ方をみればわかる。動物的なカンで(?)、相手が自分より
(上)か(下)かを判断する。そしてそれに応じて、電話のかけ方が、まるでちがう。(上)の人に
は、ペコペコし、(下)の人には、威張った言い方をする。

 こうした権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものを破壊する。親にとっては居心地のよ
い世界かもしれないが、子どもにとっては、そうではない。その居心地の悪さが、親子の間に、
キレツを入れる。

 これからは親の権威だけで、子どもをしばる時代ではない。またそれでは、子どもを指導する
ことはできない。
(はやし浩司 権威主義 肩書き人間 肩書きで生きる人)


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●超辛口教育論(子どもには本物を)

 音程がズレたような、チャラチャラしたジャリ歌手の歌う歌を、「名曲だ」と思い込んで、
CDやMDを聞き入っている若い人たちを見ると、「かわいそうだ」と思う。「あんな音楽しか知ら
ないのか」と思ってしまう。が、我が身を降り返れば、そうばかりは言っておれない。私たちも中
学生や高校生のときは、そういう歌手の歌う歌を、毎日のように聞いていた。

 今朝もテレビのチャンネルを入れると、タレントカップルの破局を大げさに報道していた。見
るからに知性のひとかけらも感じないようなカップルだが、そんなカップルの破局が、日本中の
ニュースになること自体、不思議なことだ。男のほうが名古屋駅を歩く様子が報道されたが、
報道陣に混じって、若い女性たちがキャーキャーと、声を張りあげていたのが印象的だった。
が、私たちだって、同じようなことをしていた。

 子ども時代、なかんずく幼児期には、本物を見せておく。画家をしている知人にそのことを話
すと、こう教えてくれた。「絵といっても、子どもを圧倒せんばかりの大きな絵がいい」と。食べ物
も、飲み物もだ。最近の子どもたちは、おいしい食べ物はと聞くと、ファーストフードのハンバー
グ。おいしい飲み物はと聞くと、自動販売機のジュースをあげる。しかしこうした食感覚にして
も、いかに不自然なことか。ニセモノばかり見たり、聞いたり、食べたりしていると、子どもは、
皆、そうなる。

 となると、私たちの時代はどうだったのかということになる。私自身もニセモノばかり見て育っ
た。いや、ニセモノしか、周囲になかった。当時はそういう時代だったように思う。5円で買うラ
ムネにしても、10円で買う駄菓子にしても、味はついていたが、それだけのものでしかなかっ
た。今から思うと、「どうしてあんなものばかり欲しがったのか」とさえ思う。

 かく言う私も、高校時代に口ずさんだ歌謡曲を聞くと、たまらないほどの懐かしさを覚える。た
だ私の場合、学生時代はずっと合唱団にいたし、その後も、ごく最近までパソコンミュージック
が趣味で、自分で作曲したりして、より高度な(?)音楽を楽しむことができた。そういう視点で
考えると、どこか損をしたような気分にもなる。人生は長いようで短いし、短いなら短いで、もっ
と本物に触れておけばよかったという気持ちだ。つまりニセモノに染まっていた時代の自分が、
何となく一方で、時間を無駄にしていたようにしか、思えない。

 さて、子どもたちはどうか。今、本物を見ているだろうか。あるいは本物とニセモノを見分ける
力は育っているだろうか。私はこれについては疑問だ。「たまごっち」というゲームに夢中になっ
ていても、小さな虫を見ただけで、キャーキャーと逃げ回る子どもはいくらでもいた。あるいは
「たまごっち」をしている子どもの横で、「殺せ、殺せ!」とはやしたてている子どもはいくらでも
いた。さらに「たまごっち」が終わったあと、本物の動物を育て始めたという話しは聞かない。果
たしてこのままで、いいのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本物を、いつどうやって見せていくか……。しかし実際には、子どもたちは、親が見せるより
も先に、テレビや雑誌などによって、ニセモノをニセモノと見抜けないまま、それを本物と思いこ
んでしまう。

 そこで大切なことは、「子どもに見せよう」「教えよう」と考えるのではなく、親自身が、自分で
本物を見ることではないだろうか。日々の生活の中で、いつも本物だけを見て、それを評価す
る。またそういう目を養っておく。これは子どものためというより、あなた自身のためでもある。

が、だからといって、子どもも本物を見るようになるとはかぎらない。イギリスの格言に、『水場
に馬を連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。最終的に、子
どもが自分の世界で、どういうものを見るかは、親の問題ではなく、子どもの問題ということに
なる。
(はやし浩司 本物 本物を見せる)


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●教育の裏の、人間ドラマ(女房が妊娠した!)

 ある日突然、一人の男が私の部屋に飛び込んできて、こう言った。「うちの女房が、妊娠し
た。どうしてくれる!」と。寝耳に水とは、まさにこのこと。私が驚いて戸惑っていると、その様子
から察知したのか、男は急に態度をやわらげ、「すまん、すまん。カマだ」と。話をよく聞くと、こ
うだった。

 私は「幼児教育は母親教育」という信念から、毎日のように母親教室を開いていた。しかしそ
れがよくなかった。その男の妻は、私の話を聞くたびに、家で「はやし先生が……」「はやし先
生が……」と言うようになってしまった。夫であるその男には、あまり愉快なことではなかったら
しい。で、そういう最中にその男と妻は、はげしい夫婦喧嘩をした。喧嘩をして、妻が家を飛び
出してしまった。その男は、妻が私のところに逃げたに違いないと思った。冒頭の話は、そのと
きの続きである。

 またこんなこともあった。ある日幼稚園の庭で園児を迎えていると、黒塗りの外車がスーッと
止まった。そして中から細身の紳士が飛び出し、ツカツカと私のところへやってきて、「貴様が、
はやしか!」と。ものすごい剣幕である。私が「そうです」と言うと、いきなり「このヤロウ!」と言
って、数発、殴りかかってきた。避ける間もなかった。気がつくと私は、地面にたたきつけられ
ていた。男はそのまま帰っていったが、私にはまったく身に覚えがなかった。かけつけたほか
の先生たちが、「どうしたの?」「どうしたの?」と。私は、ポカンとするしかなかった。

 すぐにその紳士が、A君という子ども(年長児)の父親であることがわかったが、そこで一人
の年配の先生が、「A君と何があったか話してごらん」と。私はA君のことを話した。

 「いやあ、A君がいつも忘れ物ばかりするから、昨日も電話して、もう少しけじめのある生活を
してくださいと言いました」と。するとその先生はパチンと手を叩いて、「それよ!」と言った。「け
じめ」という言葉が悪かったのだ、と。A君の母親は、その男の愛人だった。何気なく使った言
葉だが、その言葉が、A君の母親を大きくキズつけてしまっていた。

 ほかにB君という子ども(年長児)が、C君という子どもにいじめられていたから、C君の母親
に、それを注意したことがある。私は軽い気持ちで、「何か家庭で不満に思っていることがある
のではないですか」と言っただけなのだが、その父親が、名誉毀損だと騒ぎ始めた。そして何
回か抗議の電話がかかってきたあと、私を裁判所へ訴えるとまで言い出した。結局この事件
は、私が謝罪する形で決着したが、あと味の悪さだけは、いつまでも残った。

 こうした事件を通して、私は多少なりとも、利口になった。毎日開いていた母親教室は、週一
回にしたし、使う言葉も慎重になった。もう少し正直に言えば、子どもの教育のことで、出しゃば
るのをやめた。相手から聞かれるまで言わないという姿勢をもつようになった。教育、教育と言
いながら、その裏では、さまざまな人間のドラマが展開している。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 教育の世界には、『問われるまで、言うな』という大鉄則がある。わざわざ火中の栗を拾うよう
なことは、してはいけない、と。拾えば、大ヤケドをする。

 先日も、ある小学校で、校長と、こんな会話をした。その校長のほうから、こう言った。「あの
3年B組、金P先生という番組ね。あれほど、教育現場を混乱させている番組は、ありません
よ」と。

 「つまり親たちは、ああいう番組を見て、金P先生のような先生こそが、理想の先生だと思い
こんでしまう。そしてそれを現場の私たちに求めてきます。しかし実際には、教育は、そんな単
純な仕事ではありません」と。

 私も同感である。それはちょうど、ピストルをバンバンと撃ちあうようなシーンを見て、「刑事の
仕事というのは、そういうもの」と思いこむのに似ている。現実には、ありえない。もっと言え
ば、教育の世界は、無数の欲望が複雑にからみ、ドロドロしている。家庭の事情も、千差万
別。さらに子育てには、その親の人生観や哲学観がすべてからんでくる。

 一介の教師の、人生観や哲学観だけで、解決できるほど、子どもの世界の問題は、単純で
はない。


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●短気な子ども(引き金は引かない)

 短気な子ども、つまりすぐカッとなりやすい子どもというのは、確かにいる。しかしそういう表面
的な症状にだまされてはいけない。どんな人でも、短気なときは短気だし、そうでないときは、
そうでない。では、何がそうさせたり、そうさせなかったりするのか。

 子どもたちを観察してみると、こんなことがわかる。子どもたちはカッとなるときは、ほぼ条件
反射的にそうなるということ。何か気にさわることを言われたり、されたりすると、カッとなる。つ
まりある一定の分野で、いつも緊張感をもっている。そしてその緊張感を刺激されたとき、カッ
となる。たとえばある子どもが、「明日の宿題がやっていない」と、心のどこかで思い悩んでいた
とする。子どもはそのことを、心のわだかまりにしている。そういうとき、家族の誰かが「宿題は
やったの?」と声をかけると、それが引き金となって、子どもはカッとなる。「うるさい!」と。

 緊張感のない分野については、カッとなることはない。かなりはげしいことを言われても、子ど
もたちはそれを冗談ととらえる。心にまだ余裕があるからだ。わかりやすく言えば、短気な子ど
もはいつも短気というわけではないし、またそうでない子どもでも、痛いところに触れられるとカ
ッとなる。

 A子さん(年長児)は、母親が「ひらがなを書いてみようね」と言っただけで、別人のように急
変し、そして暴れた。ふつうの暴れ方ではない。母親に向かって手当たり次第にものを投げつ
けた。

 B君(小4)は、父親が何か疑いをかけるようなことを言うと、やはり急変した。「この貯金箱
のお金のことだが……」と。B君は、それだけで「自分が(盗んだと)疑われた」と思ってしまっ
た。父親はこう言った。「ふだんは静かで穏やかな様子なのですが、一度そういう状態になる
と、ピリピリとした雰囲気になります」と。 

 こうした緊張感は、親子の間、友だちどうしの間、さらには教師と子どもの関係にも生まれ
る。そしてそれが刺激されたとき、それぞれの立場で子どもは、カッとなる。ひどい場合には、
キレる。

 もっともこれだけで、子どもたちが「キレる」原因を、すべて説明することはできない。しかし大
半の子どもたちが、「勉強」という言葉に強い反応を示すのも事実で、親が「勉強しなさい」と言
っただけで、カッとなる子どもはいくらでもいる。つまりそれだけ「勉強」に対してわだかまりや、
あるいは緊張感をもっているということになる。あるいはそれ以前の段階として、抑うつ感をた
めこむ。

 子どもがカッとなったら、そんなわけで、子どもがどういう分野で、どういうように緊張感をもっ
ているかを判断する。もしそこに何らかのわだかまりを感ずることができたら、そのわだかまり
にはできるだけ、触れないようにする。要するに引き金を引かないようにする。(以上、01年記
「子育て雑談」)

(付記)

 情緒が不安定な子どもというのは、それだけいつも、心が緊張状態にあるとみる。その緊張
状態にあるところに、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一気に、情緒
が不安定になる。カッとなったり、グズッたりする。

 だから「うちの子は、情緒が不安定だ」と感じたら、何が、その子どもの心を緊張させている
かを、観察、判断する。
(はやし浩司 情緒 子どもの情緒 子供の情緒 情緒不安 情緒不安定)


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●ふえる睡眠障害(寝る前は興奮させない)

 年長児の子どもたち、10人に聞いてみた。「君たちは、恐い夢を見るか」と。すると、その
中で3人が、「見る!」と答えた。「死体の夢を見る」「ワニに食べられる夢を見る」「迷子になっ
た夢を見る」「ロボットに追いかけられる夢を見る」「誰かに食べられる夢を見る」など。

 この答には驚いた。私は幼児というのは、恐い夢を見ないものだとばかり思っていた。見るに
してもときどきで、しかも朝になれば忘れてしまうものだ、と。しかし子どもたちは、あたかもそ
の朝見た夢であるかのように、ワイワイと言って、それを説明してくれた。

 睡眠中というのは、本来、もっとも心身ともに、リラックスした状態になる。またそうでなければ
ならない。特に子どもの世界ではそうで、もしそうでないというのなら、どこかに問題がある。

 この話とは別に、睡眠障害になる子どもがふえている。「夜更かしする」「朝、起きられない」
「夜中に起きる」「なかなか寝つかない」など。夜驚症(夜中に狂人のようになって、大声をあげ
たり、暴れたりする)や、夢中遊行(ねぼけてフラフラとさまよい歩く)になる子どももいる。わか
りやすく言えば、静かに眠って、ぐっすり休んで、爽快な気分で朝を迎えることができない子ど
もがふえているということだ。私の実感では、約50%の子どもに、その傾向が見られる。恐
い夢を見る子どもを含めたら、もっと多いかもしれない。

 原因は、日中のストレスだとよく言われるが、私はもっと身近な問題にあると思う。これはあく
までも「思う」というレベルの話だが、その一つがテレビであり、テレビゲーム。

 子どもにとっては、睡眠前の数時間には、特別の意味がある。特に年少の子どもほどそう
で、この時間、子どもを興奮させたりすることは禁物。心を少しずつ落ち着かせ、やがて睡眠
へと導いていく。少なくともごく最近まで、人間は過去数10万年間、そうしてきた。が、それが
乱れた。子どもたちは寝る間際まで、テレビを見ている。テレビゲームをしている。

しかしこの時間帯に興奮させれば、その睡眠そのものが乱される。根拠はないが、こんなこと
は常識だ。幼稚園児でも、平均して午後八時半前後には床につく。しかし平日でも、幼児向け
番組は、午後5時〜7時台に集中している。午後七時〜九時台には、一応、おとな用とはなっ
ているが、
小学生でも見たがるような番組が、目白押しに並んでいる。こういうものを野放にしておいて、
「うちの子どもは、なかなか寝なくて困る」は、ない。

 子ども、特に幼児には、日没後は、静かな生活を大切にする。そして静かな眠りに入るため
の準備をさせる。そのために、一つの方法として、テレビのスイッチは切る。もちろんテレビゲ
ームなど、言語道断。眠る間際まで、「やっつけろ!」「殺せ!」「倒せ!」と叫んでいて、どうし
て静かな眠りに入ることができるのか。ある子ども(小5男児)は、真夜中にガバッと起きて、
テレビゲームをしていた(姉の話)。もちろんこういう症状が見られたら、即刻、子どもからゲー
ムを遠ざけるようにする。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 私も、最近は、午後8、9時以後は、ビデオ類などを見ないようにしている。この時間帯に一
度、脳ミソを興奮させると、そのまま、寝つかれなくなってしまう。そしてさらに一度、眠りそこね
てしまうと、今度は、午前0時過ぎまで、眠れなくなってしまう。(時には、午前2、3時まで寝つ
かれないこともある。)

 子どものばあいも、同じと考えてよいのでは……。とくに子どものばあいは、就眠儀式(ベッ
ド・タイム・ゲーム)のあり方に注意する。子どもは、眠る前、毎晩、同じこと(儀式)を繰りかえ
す。そのしつけに失敗すると、睡眠不足を引き起こし、さまざまな症状を見せるようになる。
(はやし浩司 子供の睡眠 睡眠不足 就眠儀式)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●塾ブルース(10%のニヒリズム)

 塾を開くのに、認可も許可もいらない。届出も必要ないし、資格もいらない。もしあなたさえそ
の気になれば、明日からだって塾は開ける。塾は通産省の職業区分では、サービス業になっ
ている。

 こう書くと、塾は簡単な商売だと思う人がいるかもしれない。事実その通りだが、それだけに
競争もはげしい。毎年雨後の竹の子のように塾は生まれ、そしてつぶれていく。10周年記念
ができる塾は、何割もない。さらに20周年、30周年記念ができる塾は、10パーセントも
ないのではないか。現在、ほとんどの個人塾はつぶれ、残っているのは、中、大手規模の進学
塾か、チエーン化された塾だ。

 塾は、通産省ではサービス業になっている。そのことは冒頭で述べたが、塾でしていること
は、教育ではない。指導である。中に「教育だ」とがんばっている塾教師がいるが、がんばらな
ければならないところに無理がある。少なくとも世間は、教育機関とは認めていない。

 その塾。毎年あちこちの私塾会に誘われて顔を出すが、酒が入り始めると、本音が出てく
る。おもしろいのは、むしろこちらのほうだ。昼間は「新学力観の問題点とは……」と論じていた
ような教師でも、「塾教師なんて……」と話し始める。そういうところで取材した話をここで書くの
も気が引けるが、たとえばこんなことを言う。「塾教師が教え子の結婚式に呼ばれることはまず
ないよ。いくら苦労した生徒でもね」とか、「中学が受かったとたん、ハイさよならね。あとは塾
へ来たことそのものを、隠す」とか。

 この世界には「10%のニヒリズム」という言葉がある。いくら「指導」に専念しても、全力投
球はしない。全力投球すれば、キズつくのは、結局は塾教師。どんなに専念しても、最後の
10%は自分のためにとっておく。生徒に裏切られても、キズつかないためだ。

 もっとも10%のニヒリズムを意識する教師は、まだ誠実なほうだ。たいていの塾教師はもっ
とドライ。「生計のため」と、はっきりと割りきっている。むしろこういう塾のほうがわかりやすい
し、今の世の中に受ける。手のこんだ料理よりも、ファーストフードのレストランの料理のほうが
おいしいと思う人は、いくらでもいる。

 おまけに塾教師には、当然と言えば当然だが、保障はまったくない。退職金もなければ、年
金もない。30年勤めても、ハクなどつかない。明日病気になって倒れれば、それで塾はおし
まい。収入もそれで途絶える。こういう世界から、学校の先生をながめると、本当に学校の先
生は恵まれていると思う。いろいろたいへんだろうとは思うが、それでも恵まれている。

そうそう学校の先生にそんなグチをぶつけた塾の教師がいる。そしたらその学校の先生は、こ
う言ったという。「くやしかったら、学校の教師になればよかったではないか」と。「私たちは教育
に生
きる。あんたたちは教育で生きる」(塾教師1氏談)とも。

 一見気楽な商売(?)に見える塾の世界だが、もの悲しいブルースは、毎日のように聞こえて
くる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本当に自由な教育というのは、「塾」でこそ、可能である。しかしその自由な教育をすれば、そ
の塾は、あっという間につぶれる。

 そこで本当に自由な教育をするためには、長い時間をかけて、塾教師は、コツコツと、信用と
実績をつみあげるしかない。いきなり自由な教育、というのは、土台、ムリ。反対の立場で考え
てみれば、それがわかる。

 ある日いきなり、あなたの近所に塾ができた。自由な教育をするという。そういう塾に、あなた
は、自分の子どもを預けるだろうか。預けることができるだろうか。子どもを預けるということ
は、親にとっても、それほどまでに覚悟のいることなのである。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●代償的過保護(自分のために子どもを愛する)

 過保護は過保護だが、親の支配欲を満たすためだけの過保護を、代償的過保護という。い
わば過保護モドキの過保護のことになるが、外見上は、一般の過保護とは区別がつきにくい。

 ふつう過保護には、そうするだけの理由、つまり心配の「種」がある。病気ばかりしていたか
ら、子どもを運動面や食事面で過保護にするなど。しかし代償的過保護には、それがない。こ
のタイプの親は、「親に甘えてくれる子どもがいい子ども」と、とらえる傾向がある。つまり子ども
を管理する一方、子どもには依存心をもたせる。そして結果として、子どもを自分の支配化に
置く。Tさんも、そんなタイプの母親だった。Tさんは、こう言った。

 「息子(27歳)の結婚相手は、私が選んであげます。ヘンな女にくっつかれると、財産を食
いつぶされますから」と。そして息子が好きになった女性との結婚に猛反対して、それをつぶし
てしまった。今でも息子の帰宅がちょっとでも遅れたりすると、それをくどくどと叱っている。

 Tさんが恐れているのは、子どもの自立だった。自立して自分から去っていくことだった。こん
なこともあった。息子が高校三年生のときである。息子が県外の大学に進学したいと言ったの
に対して、Tさんは、反対。そして私のところへ来て、こう頼んだ。「先生のところへ来週にでも
息子をよこしますから、よく説得してやってください。先生の言うことなら聞きますから」と。そし
て帰り際に、「今日、私がここへ来たことは内緒にしておいてくださいよ」と。

 このタイプの親に共通しているのは、他人に心を許さないこと。自分の子どもすら信じていな
い。言いかえると、自己中心性が強く、わがまま。その上、気が小さく、おくびょう。「自分」という
ものがあるようで、どこにもない。Tさんも、いつも世間体を気にしていた。「もっと自分の世界を
広くしないと」と、私は言いかけたが、やめた。Tさんは、そのとき、私よりも一〇歳も年上だっ
た。

 かつてアメリカの教育者が、日本人の子育て法を観察して、こう批判した。「日本人は、自分
の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無関心過ぎる」と。つまり子どもに依存心をも
たせながら、平気でいる、と。その結果かもしれないが、同年齢の子どもを比較しても、アメリカ
人の子どもは日本人の子どもよりも、一回りおとなびて見える。反対に日本人の子どもは、幼
稚っぽい。概して甘えん坊が多い。あの成人式にしても、大半の女の子は、親のスネをかじっ
て、美しい着物を着ているという。成人したという自覚すらない。キャーキャーと式場で騒ぐだ
け。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に帰結する。いろいろな考え方があると思うが、
「子どもをよき家庭人として自立させる」ということであれば、こうした代償的過保護は、百害あ
って一利なし。子育ての大敵と考える。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 代償的過保護 代償的愛 真の愛)

(付記)

 同じような意味で、私は、よく「代償的愛」という言葉を使う。いわば愛もどきの愛。ニセの愛
をいう。つまりは、親が自分の心のすき間(情緒不安、精神的欠陥)を埋めるために、子どもを
自分の支配下において、溺愛することをいう。

 これは一見、愛に見えるが、決して愛ではない。たとえて言うなら、ストーカーが見せる、身勝
手な愛に似ている。相手の迷惑もかえりみず、その相手にしつこく、つきまとう。ストーカー行為
を繰りかえす本人は、「愛しているから」と言うが、それは本来の愛とは、まったく異質のもので
ある。

 よくある例は、子どもの受験競争に狂奔する親。一見、子どものことを考えているようで、そ
の実、子どものことは、何も、考えていない。だから代償的愛という。
(はやし浩司 代償的愛 自分勝手な愛 身勝手な愛 溺愛 でき愛)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●親孝行の限界(育ててやったではないか)

 親をだます子どもはいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。だまして、子どもから
お金を巻き上げる。そうでない人には信じられないような話だが、実際にはある。そういう親を
もっている人に向かって、親孝行論を説いても、かえってその人を苦しめるだけだ。Hさん(4
0歳)も、その一人。

 「就職して以来、給料の何割かを、実家の母に送ってきました。母はいつも、『あんたの代わ
りに貯金しておいてやるから』とか、『あんたのかわりに故郷を守ってやるから』と言っていま
した。『先祖を供養せよ』と言って、間接的に、お金を要求してくることもありました。しかしお金
はすべて、自分のために使っていました」と。

 さらに悲劇は続く。Hさんが父親から譲り受けた土地の権利書を、言葉巧みに取りあげ、そ
のまま他人に売却してしまった。「もともと死んだ父の土地でしたが、実家を新築するにあたっ
て、私は2000万円、負担しました。そのお金と交換ということで、土地の権利書を受け取っ
たのです。権利書というのは、それです」と。

 結果、親子の縁は切れた。ついで、親戚との縁も切れた。親戚の叔父や叔母は、表面的な
様子だけを見て、「親不孝者!」とHさんを責めている。無論、Hさんも苦しんでいる。「しかし母
親のことを悪く言うのは、もっとつらい」と。

 子どもは親から生まれる。それは事実だが、子どもの側から見ると、自分が生まれてはじめ
て、親がわかるにすぎない。つまり子どもは親を選べない。このHさんのケースでは、Hさんの
母親は自分の息子を、自分の所有物か何かのように考えているのがわかる。昔はこのタイプ
の親が多かった。しかし一方、子どもの側から見ると、「私は私」であって、決して親の所有物
ではない。親は「産んでやったことを感謝せよ」とか、「育ててやったことを感謝せよ」と言う。「こ
こまで大きくしてやったではないか」とも言う。しかし子どもの側から見ると、そういう親のものの
考え方は、重荷でしかない。

 自分の子どもにいい子になってほしかったら、まず自分がそのいい子になって、手本を子ど
もに見せる。これが親孝行の基本だが、こういうHさんのようなケースを見聞きすると、私には
もう言葉がない。もう少し古い世代の人は、「それでも親は親だから、親に頭をさげるべきだ」と
言う。しかしHさんという、一人の人間を中心に考えると、それもおかしい。Hさんもこう言う。
「私も二人の娘を育てていますが、育ててやっているという意識はどこかにあっても、娘たちに
はそれを言わないようにしています。それを言ったら、親として、おしまい。親として当然のこと
をしているだけです」と。

 いろいろ考えてはいるが、これ以上のことは、私にはわからない。ただ言えることは、このH
さんのケースを知って以来、私は安易に「親孝行」という言葉を使わなくなった。子育ても難しい
が、親孝行も、それと同じくらい難しい。とくに子どもが成人するころになると、それがつくづくと
わかるようになる。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 少し前のこと。まだ電話による相談を受けつけていたときのこと。数日おきに、あれこれと電
話をかけてくる母親がいた。

 「今日は、学校に呼び出された」「おかげで、パートの仕事ができなかった」
 「先日は、近所の看板を倒してしまった」「おかげで、その弁償をさせられた」
 「今日は、学校から電話がかかってきて、給食費を請求された」などなど。

 私はその電話を聞きながら、「その程度の問題なら、どこの家庭にもあるのになあ」と思って
いた。しかしそれを口にすることはできない。その母親は母親なりに、真剣に悩んでいた。

 が、ある日、気がついた。その母親は、子どものことをあれこれ問題にしているが、そうでは
ない、と。つまり、その母親にとっては、子育てそのものが、苦痛なのだ。子育てがいやだか
ら、あれこれ問題を自分で作って、それで悩んでいるだけ。あるいは結婚そのものに、問題が
あったのかもしれない。

 つまり大もとに1つの問題があり、それがあれこれ姿を変えて、その母親を悩ませていた。…
…というような例は多い。

 ここでいう「産んでやった」「育ててやった」と言う親も、そうである。どこかに犠牲的精神がとも
なうということは、すなわち、子育てがそれだけ苦痛であることを意味する。本来なら、親は、子
どもにこう言わねばならないはず。

 「おまえのおかげで、人生を楽しくすごすことができた。ありがとう」と。

 それがあるべき、子育ての本来の姿ということになる。
(はやし浩司 子育て 親の恩 恩着せがましい子育て)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●サトシ君(いじめ問題の陰で)

 サトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのサトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆(静岡県)にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、サトシ君の祖
母から聞
いた話だ。

 祖父はサトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。サトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とサトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。帰る道す
がら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、サトシ君は、「高校に合格しますように
と祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように祈らなか
ったか」と。そこでサトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「サトシ君」で呼ぶようになった。とても
呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、サトシ君のような子どもも
いる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと
判断する。愚かな人ばかりではない。サトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内の
K高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。サトシ君は、見るからに人格が違ってい
た。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐えない
と、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に
相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの訴えることに、とことん耳を傾けてやること
でしかない。子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあげることでし
かない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師にも、できることには限
界がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、 親や教師の務めではないかと、私は思う。
(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 人は、ドン底に落ちると、2つのタイプの人間に分かれる。そのときから、徹底した善人にな
るタイプと、徹底した悪人になるタイプである。どちらの道を選ぶかは、紙一重。

 そこまで深刻な問題ではないにせよ、子どもの世界でも、同じようなことが起きる。いじめを
受け、それをバネに、ここに書いたサトシ君のようになる子どもと、同じように、今度は反対に、
いじめる側に回る子どもである。「いじめられる前に、いじめてやれ」という考え方である。

 そういう意味では、いじめる側の子どもが、すべて「悪」とは言い切れない。(もちろんいじめ
は、悪いことだが……。)抑圧されたうっぷんが、長く蓄積されて、それがいじめに転化すると
いうことも、子どもの世界では、よくある。

 それにいじめる側は、それを(いじめ)と認識していないケースも、多い。軽い遊びか、ふざけ
のつもりで、それをする。しかしいじめられる側にとっては、そうではない。ちょっとした相手の
言動を、おおげさにとらえてしまう。そういうケースも、多い。

 さらに「A君がいじめる」と言うから、学校の先生に相談して、A君を近くから排除してもらう。
すると今度は、その子どもは、「B君がいじめる」と言い出す。そこでまた今度は、B君を近くか
ら排除してもらう。が、つぎに今度は、その子どもは、「学校の先生がいじめる」と言い出したり
する。そういうケースも、少なくない。

 これを「ターゲットの移動」という。つまりその子どもは、もっと大きな心の問題をかかえてい
て、それが原因で、学校へ行きたくないだけである。それがわからないから、親や先生は、子
どもの言うことに、振りまわされてしまう。そういうケースも、多い。

 ここに(いじめの問題)のむずかしさがある。
(はやし浩司 いじめ いじめの問題)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の「陰」の部分(作られる私たち)

 教育には教えて教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。前者を「陽」の部分とす
るなら、後者は「陰」の部分ということになる。たとえばこの日本で教育を受けていると、都会へ
出て、大企業に就職することが大切なことで、反対に、田舎に残り、農業をすることは、つまら
ないことだという意識を植えつけられてしまう。

さらに集団の中で、肩書きをもち、名誉や地位を得ることは大切なことであり、反対に集団から
離れて、一人で生きることは、変わり者のすることだという意識を植えつけられてしまう。これが
教育の「陰」の部分であり、そういう意識が大きな流れとなって、子どもたちの将来像を形づく
る。

 こうした教育の「陰」の部分は、外国の教育と比べてみると、それがよくわかる。たとえば軍事
政権が幅をきかせているような国では、当然のことながら、子どもたちは軍人になることイコー
ル、理想の未来像ととらえる。戦前の日本を例にとるまでもない。マルコス政権下のフィリッピ
ンもそうだったし、今のベトナムもそうだ。

一方、オーストラリアでは、自然保護団体の職員の地位が、日本のそれとは比較にならないほ
ど高いし、欧米では福祉団体の職員の地位が高い。この日本では、戦後、一貫して「金儲け」
イコール、善という社会観が定着している。私たち団塊の世代は、就職先といえば、一にも、二
にも、商社や銀行、あるいは大企業を考えた。

 教育されるのは、子どもたちばかりではない。親もまたそうで、たとえば子どもが不登校を起
こしたりすると、親ははげしい絶望感に襲われる。この日本では集団から離れることは、恐怖
以外、何物でもない。しかしそういう集団性とて、教育の「陰」の部分に過ぎない。幼児のときか
ら、幼稚園の先生は、こう言う。「(幼稚園を)休むと、遅れますから」と。かくして幼稚園や学校
は、行かねばならないところという無意識の意識を植えつけられる。そういう子どもが親にな
り、それを代々繰り返すうちに、今の日本ができた。

 問題は、いつどのような形で、その「陰」の部分に気づくか、だ。気づいた段階で、教育に対
する考え方が、一変する。「私は私だ」と思っているあなただって、「作られた私」を、あなたの
中に発見する。たとえば私の父は、「(天皇)陛下」という言葉を耳にしただけで、いつも体をブ
ルブルと震わせていた。その父とて、結局は戦前の教育で、そのように「作られた」だけなの
だ。

 さて、あなたはどうだろうか。あなた自身を冷静にながめてみてほしい。あなたの中に巣くう、
あなた自身の価値観を、ながめてみてほしい。あなたは今、子育てをしながら、どのような価値
観をもっているだろうか。そしてそれは、あなた自身が自分で考えて手にした価値観なのだろう
か。それとも、昔、いつかどこかで、植えつけられた価値観なのだろうか。ひょっとしたら、あな
たが「私の価値観だ」と思っている価値観は、その「陰」の部分によって作られた価値観かもし
れない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このところ、日本人の意識そのものが、大きく変わりつつある。旧来型の出世主義から、実
力主義へ。それに権威主義も、音をたてて崩れ始めている。そういう意味では、ここに書いた
ことは、実情には、合わなくなっているかもしれない。あくまでも、参考に。

Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●天下の大暴論(子ども知らずの教授たち)

 「子どもにはナイフを持たせろ。親が子どもを信頼している証(あかし)として」と書いた、評論
家がいた。あるいは「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子に
させろ」「子どもにやる気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみれば
いい」「夫婦喧嘩は子どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の
尊さを教えるために、お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた、大学の教授が
いる。ともに、日本を代表する(?)、著名な教育評論家であり、教授だ。

 こういう暴論を書くと、本は売れる。またそういう暴論を書かないと、本は売れない。しかし子
どもには、ナイフなど持たせるものではない。幼児教育の現場では、「マッチやカッターで、遊ん
ではいけません」と教える。またわざと子どもを迷子にすれば、それが子どもにわかったとき、
(わからなくても)、親子の信頼関係は、崩壊する。2、3日、家から追い出してみるとよいとい
う考えにしても、実際には実行不可能だ。もしあなたの子どもが、半日いなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。さらに夫婦喧嘩など、子ども
に見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするなら、話は別だが、そんな夫婦がどこにいる
だろうか。

 さて「命の尊さ」だが、命の尊さは、たとえば身の回りの生き物を通して教える。故人の遺骨
を見せるとは、何事か。私は死んでも、私の骨など、誰にも見せてほしくない。もし子どもに教
えるとするなら、それは教えるのではなく、たとえばペットの死などを、ていねいに弔うことで教
える。「死」があるから、「生」がある。「死の恐怖」があるから、「生きる喜び」がある。もしあな
たがペットの死骸を紙でまるめて、ゴミ箱にポイと捨てるようなことがあれば、子どもは、「死」と
いうものはそういうものだと思う。同時に「生」とはそういうものだと思う。が、もしあなたが死ん
だペットを、ていねいに弔い、その死を悲しめば、子どもは同時に、生きていることの尊さを学
ぶ。そしてそれが命の尊さを学ぶということにつながる。

 私はこういう評論家や教授は、実際には、子どもを教えていないのではないかと思う。もっと
はっきり言えば、どこかの研究室の奥で、子どもの世界を想像しながら原稿を書くから、こうい
う原稿になる。が、世間は、こういう評論家や教授の意見をありがたがる。そして心のどこかで
は「おかしい」と思いながらも、それに従ってしまう。

 暴論は確かにおもしろいが、こと子育てに関する限り、この種の暴論にはじゅうぶん注意した
ほうがよい。子育てに王道はないし、近道もない。流行もないし、時代性もない。あるわけがな
い。人間は、何10万年もの間、子育てを繰り返してきたし、その子育てが、ここ10年や1
00年ぐらいで、質的に変化したと考えるほうがおかしい。要するに子育ても、常識の範囲で
すればよいということになる。その常識があれば、子育てがゆがむということはない。(以上、
01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 暴論 教育の暴論)

(付記)

「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子にさせろ」「子どもにや
る気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみればいい」「夫婦喧嘩は子
どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の尊さを教えるために、
お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた大学の教授がいたというのは、事実で
ある。

 最近でも、日本を代表する、教育(幼児教育)者として、別の新しい本を書いている。しかしそ
の教授(現在は、元教授)の言っていることが、いかに暴論であるかは、ほんの少しだけ常識
を働かせてみれば、わかるはず。

しかしその本を読んだのがきっかけで、私も育児論を書く気になった。体中に充満した怒りを、
抑えることができなくなった。恐らくその教授は、肩書きはともかくも、実際には、子どもを指導
した経験がないのではないか。経験がほんの少しでもあれば、とても、そんな本は、書けない。

また「子どもには、ナイフをもたせろ」(A新聞社刊行の小冊子)と書いた評論家は、そのあと、
派手なパフォーマンスをいろいろしてみせた。が、その直後、中学校などで、ナイフ殺傷事件が
つづくと、その評論家は、自説をいつの間にか、ひっこめてしまった。

ときとして、こうした暴論が、社会をにぎわす。そのほうが、(受け)がよいからである。それを読
む親たちは、じゅうぶん、注意したほうが、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学級崩壊の陰で(学校教育相対論)

 「わしら昔は、学校へ行くのが楽しみだった。学校へ行けば、家の仕事はしなくてすんだから」
と。引佐町(静岡県)で石材屋をしているK氏は、そう言う。私にも、それに似た覚えがある。
たとえば学校の運動会や遠足が、何よりも楽しみだった。運動会には、巻き寿司を食べること
ができた。また当時は、学校で遠足に行くこと以外、旅行で町を出るということはまずなかっ
た。学校で出される給食のほうが、家の食事より、ずっとおいしかった。

 しかし今は違う。子どもにとっては、毎日が盆と正月のようなものだ。食べ物も豊富だし、家
族旅行も、そのつど、している。学校の外には、おもしろいものが、山のようにある。つまり相
対的に、学校の地位がさがった。と、同時に相対的に、学校がおもしろくなくなった。

 幼稚園児とて例外ではない。少しでも作業っぽい学習をさせようものなら、すぐ「つまんナ〜
イ」とか、「もっと、おもしろいの、ナ〜イ?」とか、言い出す。それでも無理に刺せようとすると、
勝手に席を離れて、どこかへ行ってしまう。あるいはほかの子どもを巻き込んで、騒ぎ始める。
最近の子どもは忍耐力がないとよく言われるが、ないと言えば、まったく、ない。

 誤解がないように言っておくが、子どもの忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。たとえ
ば台所の生ゴミを手で始末できるとか、寒い夜に隣の家に回覧版を届けることができるとか。
そういうことを平気でできる子どもを、忍耐力のある子どもという。一日中、サッカーをしている
からといって、忍耐力のある子どもということにはならない。その子どもは好きなことをしている
だけである。

 こうした子どもたちを取り巻く環境の変化に対して、学校教育は、それに応えていない。旧態
依然のまま、30年前、あるいは40年前の教育を繰り返している。子どもたちに「おもしろく
ない」とソッポを向かれても、「子どもたちのほうが、おかしい」と言わんばかりに、文部省も、そ
して学校の教師たちも、努力を怠ってきた。結果、これはあくまでも相対的な変化だが、学校
教育がつまらないものになった。K氏の時代には、学校へ行くのが楽しかったが、今は反対
だ。「明日は学校は休みです」と先生が言おうものなら、子どもたちは、大声で「バンザーイ!」
と叫ぶ。学校が休みになることについて、それを悲しむ子どもなど、まず、いない。

 これだけではないが、つまりほかにも、いろいろな要素がある。が、しかし私は、これが学級
崩壊の大きな原因の一つだと思う。それは自由を知った小鳥を、再び籠の中に押しこめるよう
なものだ。押しこめれば押しこめたで、子どもたちにはストレスがたまる。そしてそのストレス
が、形を変えて校内暴力やいじめに発展する。唯一、子どもをしめつける手段があるといえ
ば、受験でおどすことだが、今はその神通力も消えつつある。

 このままでは学校教育は、完全に崩壊する。あるいはその前に、学校の教師たちが皆、神
経症か何かで倒れてしまう。現在、学校がかかえる問題は、それくらい根が深い。(以上、01
年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いたあと、「ゆとり教育」が叫ばれるようになり、「総合的な学習」の時間がもう
けられるようになった。

 学校教育も、質的に大きく変動し始めた。今は、その過渡期にあると考えてよい。もちろん失
敗もあるだろうが、試行錯誤の段階と考えるべきではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●進学塾VS親(殺伐とした人間関係)

 進学塾の月謝は、平均して2万〜2万5000円(月刊「私塾界」)。しかしこの額では、決
してすまない。すまないことは、入塾してみると、わかる。入会金、教材費、光熱費、模擬テスト
代、補講費などが、「万」単位で、次々とかかってくる。しかも支払いは、銀行振り込み。大半の
進学塾は、そういう支払いをカモフラージュするためにか、「ガクヒ」という名目で引き落とす。

親が通帳を見ても、学校の「学費」なのか、塾の「学費」なのかわからないしくみになっている。
まだ、ある。どこの進学塾も、夏休みや冬休みの特訓を、定例コースにしている。そういう連絡
は小さな文字で生徒に連絡し、お金は前もって自動的に引き落とす。親が、「特訓授業を申し
込んだつもりはない」と抗議しても、あとの祭り。「今からではキャンセルできません」と言われ
るだけ。

 こうした進学塾のやり方は、ほぼどこの塾でも同じ。……とまあ、こう書くと、進学塾の悪どさ
ばかりが目立つが、もともと進学競争の底流では、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。「他
人を蹴落としてでも……」、あるいは、「他人に蹴落とされる前に……」と考えて、親は、子ども
を進学塾にやる。進学塾はそういう親の心理を、たくみに利用して、それを金儲けにつなげる。
現在ある進学塾の現実は、親と進学塾の、醜い闘いの結果ともいえる。塾経営者に言わせれ
ば、「親なんて、信用できない」ということになるし、親に言わせれば、「塾は必要悪」ということ
になる。もともと良好な人間関係が育つ土壌など、どこにも、ない。

 一方、塾には塾の存在意義があると説く人たちもいる。塾こそ、自由教育の砦であると説く人
たちである。事実、すばらしい教育を実践している塾もあるには、ある。しかしそういう塾でも、
「教育」と「受験指導」のジレンマの中で、もがき苦しんでいる。藤沢市在住の塾教師のI氏は、
「塾教育は、矛盾と錯覚の連続だ」と結論づけている。矛盾というのは、今言った、ジレンマをさ
す。錯覚というのは、「大切でないものを、あたかも大切なもであると、思いこんでいること」だ
そうだ。具体的には、受験教育そのものをさす。

 この進学塾業界も、かつてない不況に見舞われている。少子化に不況。それにエリートの凋
落に見られる価値観の変動。それに中高一貫教育に見られる、制度の改革など。そういう中、
したたかな進学塾は、対象学年を、より低年齢化させ、一方大学受験にまで触手をのばし始
めている。金集めを、さらに巧妙化させている。親たちは、そういう事実を知りながら、「この時
期だけだから」とあきらめる。進学塾は、さらにそれを逆手にとる。もうそこには、「教育」という
概念は、どこにもない。商売、だ。I氏はこうつなげる。

 「この世界では、経験など、一片の価値もありません。親に教育論を説いても無駄です。そも
そもそういうものを期待していない。生徒集めのチラシにしても、4色を使ったカラフルで、豪
華なものでないと、生徒は集まりません。そういう目でしか、教育をながめていないのですから」
と。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 進学塾 受験競争 受験の弊害)
 
(付記)

 この日本では、受験は避けては通れない。しかしやり方は、あるはず。そのやり方を考えるこ
となく、子どもたちをただ、競走馬のようしにて競争させることが、本当に(教育)なのか。私た
ちは、もう一度、冷静に、考えなおしてみる必要がある。

 たとえばアメリカでは、成績だけでは、有名な大学には入れない。そこで各学校や、指名され
た教師に、推薦権なるものが与えられる。その推薦を受けて、人格的にもすぐれた子どもが、
その有名大学へと進学していく。

 もちろんこの推薦権を濫用すれば、その推薦権が剥奪(はくだつ)されたりする。だから各学
校は、こぞって真剣に、どの子どもを推薦するかを、独自の立場で検討する。

 日本ではそれにかわるのが、内申書ということになる。が、その大前提として、教師自身に、
子どもを見る目がなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育も適当に!(やり過ぎは、かえって……?)

 当初は喜んでくれた父母も、それが長く続くと、当たり前になる。そしてそれを前提として、父
兄はものを考えるようになる。教育というのは、そういうものだが、問題はそのあとに起こる。
やがて教師はその重圧と多忙から、ふつうの状態に戻ろうとする。しかし父母はそれを許してく
れない。いろいろな例がある。

 ある教師は子ども(小3男児)が、掛け算がまだ苦手なことを知って、毎日授業が終わると、
その子どもを残して、九九を教えた。掛け算でつまづくと、割り算ができなくなり、この二つでつ
まづくと、その子どもは算数がまったくといってよいほど、できなくなる。

 で、やっとのことで掛け算の九九を覚えたころには、割り算の授業は終わっていた。そこで今
度はその教師は、割り算の特訓をしたが、やっとその割り算ができるようになったころには…
…、あとはこの繰り返し。こういうケースでは、子ども自身も、先生の努力を評価しない。子ども
は先生の特訓を「バツ」ととらえる。「できないから、先生はぼくにバツを与えているのだ」と。適
当にしておかないと、かえって子どもを苦しめることになる。

 親は親で、掛け算ができるようになると、「もっと……」と、先生に期待する。そしてその期待
が要求に変わり、要求に答えるのが、教師の努めだと考えるようになる。が、教師とて人間。
聖人ではない。スーパーマンでもない。生徒といっても、30人もいる。できることにも限界が
ある。そこでそういう子どもから手を引こうとすると、親は、「何という教師だ!」となる。

 以前、熱血教師という言葉がもてはやされた。武田T也が扮する、金P先生という人気番組が
あった。しかし教育に携わったことがある人なら、誰でもわかることだが、あれはドラマ。ピス
トルをふりかざして、バンバン撃ち合う、刑事ドラマの類だと思えばよい。あんなことは現実に
は、ありえない。もし金P先生のような先生がいたら、その先生はあっという間に、身も心もズ
タズタにされてしまう。現実の世界は、もっと毒々しい。

 私も教師になりたてのころは、親のウソに、さんざん引き回された。すでによその幼稚園へ入
園届けを出したあとに、「今の担任の指導についていけません。先生のほうから、クラス替えの
ことで、園長にお口添えいただけないでしょうか」と。こんなこともあった。

 明らかに過保護児特有の症状を見せている子どもがいた。原因は、おばあちゃんだったが、
その日は、たまたま母親が、迎えに来ていた。そこでその母親に、「少し、おばあちゃんから離
したほうがいいですよ」と言ってしまった。が、この一言が、そのあと大問題になってしまった。

 ほぼ一か月後、再び母親に会うと、母親は別人のようにやつれた形相をしていた。そしてこう

った。「先生、あれから大変だったのですよ。祖父母と別居か、さもなくば離婚かということにな
りまして、結局、祖父母も別居に同意してくれました」と。

私の一言が、それまでくすぶり続けていた嫁・姑戦争に火をつけた形になってしまったが、こう
いうケースは日常茶飯事。適当にすますところはすます。教育には、そんな面も必要だ。(以
上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 それぞれの家庭には、外からは見えない、複雑な問題がある。100の家庭があれば、それ
ぞれの家庭がかかえる問題は、100種類、ある。そういう家庭の中へ、独断と偏見だけで、一
介の教師が、土足であがりこんでいってよいものか。私が見た、金P先生の番組の中には、金
P先生が、その子どもの親と、その子どもの家で、酒を飲みながら、子どもの教育について論じ
あうシーンがあった。いかにもテレビドラマといった感じのシーンだったが、しかし現実には、そ
んなことはありえない。また、教師たるもの、そこまでしてはいけない。

 教師の本分は、学校という場で、教育をすることである。その点、カナダでの学校教育は、徹
底している。教師は、教室の中で、自分のする教育には、全責任を負う。しかし生徒が一歩、
教室を出たら、何が起きても、それはもうその教師の責任ではない。そのため、学校側は、教
師の住所はもちろん、電話番号すら、教えない。

 日本の病院の中における、医療制度を思い浮かべてみればよい。医師が、それぞれの家庭
にあがりこんで、健康について、患者と議論するなどということがありえるだろうか。もしそんな
ことをすれば、病院における医療行為そのものに、さしさわりが出るようになる。

 今、学校の教師たちは、本当に、いそがしい。そのため、肝心の教育そのものが、おろそか
になる傾向さえ見られる。が、だれも、それでよいとは、思わない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●受験に狂奔する親たち(学歴信仰の陰で)

 「期末試験のころになると、お粥しかのどを通りません」と言った親がいた。「進学塾の光々と
した明かりを見ただけで、頭の中にカッと血がのぼります」と言った親もいた。さらに「子どもが
寝そべってテレビを見ていたりすると、それだけで子どもがダメになっていくようで、不安でなり
ません」と訴えた親もいた。自分の子どもが選別されていくというのは、親にとって恐怖以外、
何物でもない。こういう親を、一体、誰が笑うことができるか。

 ある親は子どもの塾通いのために、免許を取り、軽自動車まで買いそろえた。また別の親
は、子どものテストで採点ミスがあったりすると、学校まで乗り込んでいって、それを訂正させて
いた。子どものために、子ども部屋を増築したり、コピー機を買い入れたりする親になると、い
くらでもいる。ふつうは質素な生活をしていても、子どもの教育のこととなると、惜しみなくお金
を使う親も多い。30万円もする英会話教材をそろえたり、40万円もする百科事典をそろえ
たりするなど。休みのたびに、外国へホームスティさせる親もいる。

 念のために申し添えるなら、こういう親を、私は批判しているのではない。それぞれの親に
は、それぞれの思いというものがあり、その思いをこめて、親は、子どもを育てる。私のような
立場の者が、とやかく言う問題ではない。教育の世界には、「内政不干渉」という大原則があ
る。しかも教育というのは、まさにその人の人生観そのもの。他人が「まちがっている」とか、
「おかしい」などと言うほうが、まちがっている。

 しかしこれだけは言える。自分の意思でそうしていると思っている人でも、結局はもっと大きな
力によって動かされているに過ぎないということ。そしてその力とは何かと言えば、自分の心の
奥底に潜む、無意識の意識であるということ。ある女の子(小5)は、首にお守りをさげてい
た。私が不用意にそれに手をかけ、「これは何?」と聞いたときのことである。その女の子はギ
ャーッと、ものすごい声を出して私の手をはらいのけた。そしてこう言った。「汚(けが)れるか
ら、よして!」と。私は「ごめん、ごめん」とあやまったが、その女の子をそうさせたのは、その無
意識の意識である。つまりそれと同じことが、教育の世界でも起きている!

私「あなたは、本当に自分の意思で、子どもに勉強をさせているのですか」
親「私の意思です。勉強は必要だと考えるし、それを子どもにさせるのは、正しいことです」
私「誰かにそう操られていると、考えたことはありませんか」
親「ありません。あくまでも私の意思です」と。

 私は同じような会話を、いつか、どこかで、カルト教団の信者としたことがある。彼らもまた、
自分たちが絶対に正しいという信念のもと、自分の意思で動いていると主張してやまなかっ
た。学歴信仰が信仰と言われるゆえんは、そこにある。 (以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 教育カルト 学歴信仰 教育のカルト性)

(付記)

 「私はカルトとは無縁」と思っている人でも、無数のカルト的信仰をもっている。その1つが、
学歴信仰ということになる。が、ほとんどの親たちは、学歴信仰が何であるかもわからないま
ま、それを信仰している。信仰しているという自覚すら、ない。

 さらに信仰であるがゆえに、その人から、そのカルト性を抜くのは、容易なことではない。中
には、学歴そのものを、本尊か何かのように、大切にしている人もいる。そういう人から、学歴
信仰を抜くと、かえってその人は、大混乱を起こす。精神不安になる人さえいる。その前に、猛
反発する。私に向って、「あなたにとっては、他人の子どもだから、何とでも言える。自分の子ど
もに向って、同じことが言えるか!」と、食ってかかってきた父親さえいる。

 私が、その子どもの父親に、「受験勉強はあきらめたほうがよい」とアドバイスしたときのこと
である。その子どもは、過負担が原因で、燃え尽きる一歩、手前にいた。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●恐るべき集団性(思考回路の形成)

 80〜90%の子ども(年長児から小2児)が、「ポケモン」にはまった(99年春)。その前
は、やはり同じくらいの子どもが、「たまごっち」にはまった。この原稿を書いているとき(99年
3月)には、「だんご3兄弟」という、たわいもない歌が、子どもたちの世界を支配し始めてい
る。

 私たちの時代にも、フラフープや、ダッコチャンが、流行したことがある。そういう時代を知っ
ているから、今の時代だけが特殊だとは思わない。しかしどこか違う。私たちは流行にハマり
ながらも、流行は流行として、現実の世界との間に、一線を引いていた。……引くことができ
た。しかし今は、違う。

子どもたちは流行にハマりながら、現実と空想の間の垣根をとっぱらってしまう。そして現実の
世界に、空想、あるいは空想の世界に、現実を持ち込んでしまう。あるいは空想の世界に、逃
げ込んでしまう。そういう子どもが少数派であれば、まだいい。互いにブレーキをかけることが
できる。しかしそれが全体となったとき、ブレーキをかける人間がいなくなってしまう。子どもた
ちは暴走するまま、仮想現実の世界に入り込んでしまう。

 「超能力がほしい。そういう力があれば、ビルを吹き飛ばすことができる」と言った子ども(中
1)がいた。そこで私が、「吹き飛ばしたいと思うのは、君の勝手だが、それが君の家だった
ら、どうするのだ」と聞くと、「ぼくの家は、だいじょうぶ。超能力で守るから」と。ずいぶんと身勝
手な考え方だが、そう答える子どもは真剣だ。真剣にそういう「力」があることを、信じている。
信じた上で、自分の論理を組み立てる。が、問題はここから始まる。

 脳には思考回路というものがある。人間は自分の思考回路に従って、ものを考えるという傾
向がある。たとえばかつて和歌山市で、「ヒ素中毒事件」というのがあった。誰が犯人かは知ら
ないが、犯人は「ヒ素でものごとを解決する」という手法を見につけた人物であることには、まち
がいない。ヒ素と遠い距離にある人には、想像もつかない。が、その犯人は、ヒ素と、近い距離
にあった。……と思う。ほかにたとえば私は物を書くのが仕事だから、何か問題があれば、文
を書くことによって解決しようとする。つまりそれぞれ自分の思考回路に従っているにすぎな
い。

 一度、仮想現実の世界でものごとを考えるくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そ
の思考回路に沿ってものごとを考えようとする。あるいは問題を解決しようとする。これがこわ
い。たとえば幼児期に論理的なものの考え方を見つけた子どもは、ものの考え方が論理的に
なる。そうでない子どもは、そうでない。つまりこの時期に、仮想現実の世界でものごとを考え
るくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そういう世界でものごとを考えようとする。そし
てそれが、いつカルト(狂信)へと発展するかもしれない。

 私は子どもたちの流行を見ながら、それを心から心配している。(以上、01年記「子育て雑
談」) 

(付記)

 この日本では、テレビゲームを批評したり、批判したりすると、たいへんなことになる。猛烈な
抗議の嵐がわき起こる。珍現象といえば、珍現象。しかも抗議してくるのは、20代を中心とし
た若者たちである。

 ゲームの世界にハマっている若者たちにすれば、そのゲームが批評されたり、批判されたり
するということは、自分を否定されるのと同じということになる(?)。だから猛烈に反発する
(?)。私のほうは、親切心で、「ゲームには、あぶない部分もありますから、注意したほうがい
いですよ」「とくに子どもに与えるゲームには、注意したほうがいいですよ」と言っているだけで
ある。が、それに対して、反発とは!

 私の息子の友人などは、ゲームにはまりすぎて(?)、現在、おかしくなってしまった青年すら
いる。精神病院に入退院を繰りかえしながら、もう3か月になるという。そういう事実があること
も、忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●国家論(よき家庭人)

 欧米の子育ての柱は、「自立したよき家庭人を作る」こと。このことについては、もう何度も書
いたが、「家庭人」と言うと、日本人は、すぐ「小市民的な生き方」を連想する。しかし家庭人イ
コール、小市民ではない。

 たとえば戦争が起きたとする。そして他国が日本を侵略してきたとする。そのとき日本人は、
「国のために戦う」と言うかもしれない。しかし欧米人は、「家族を守るために戦う」と言う。あの
ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」でも、最後のシーンの中で、主人公のアメリカ人は、
「(国のためではなく)、マリアのためになら死ねる」と叫んで、機関銃を撃ち続ける。

 「国」という言葉が出たので、もう少しつけ加えるなら、日本人は「国があっての国民」と考え
る。一方、欧米人は、「家族を守るために、その集合体としての国がある」と考える。もう少し具
体的には、戦前の日本では、「国」というのは、「天皇」をさしていた。(今も、そう考えている人
は多い。)つまり私たち国民は、あくまでも天皇の臣下に過ぎない、と。

しかし欧米人にとっては、国というのは、あくまでも一つの単位に過ぎない。オーストラリアの友
人とこんな会話をしたことがある。「君たちは北からインドネシア軍が攻めてきたら、どうする
か」と聞いたときのことである。彼はこう言った。「故郷のスコットランドへ家族を連れて逃げる」
と。そこで「国を守らないのか」と聞くと、「オーストラリア人が横一列になって手をつないでも、
オーストラリアの端から端まで、カバーできない。どうやって守ることができるのか」と。彼らが
国を意識するとすれば、それは思い出のしみこんだ国土をさす。日本人のように、抽象的な概
念としての「国」を想定しない。

 こうした国民意識の違いは、そのまま教育の場にも反映される。日本は明治以来、「国(=天
皇)のための国民づくり」が、教育の柱になっている。今もそうだ。国が栄えれば、国民も自動
的に豊かになれる。あるいは企業が栄えれば、社員も自動的に豊かになれる。宗教団体の中
にも、そう考える教団は多い。教団が栄えれば、信者も自動的に幸福になれる、と。さらに県レ
ベル、市町村レベルでも、そう考える人も多い。つまり教育は、常にそういう視点、言いかえる
なら全体主義的な視点で、子どもをとらえてきたし、今もとらえている。しかし、こんな考え方
が、21世紀に通用するはずがない。

 「よき家庭人」というのは、まさに個人主義的な生き方そのものを象徴する。また子どもにそう
教えたからといって、それは決して、子どもに「小さくまとまれ」と教えるのでもない。「よき家庭
人」というのは、「まず自分を大切にせよ」と教えることをいう。そしてその視点で、社会を考え、
国を考え、また社会や国がどうあるべきか考えよと教えることをいう。繰り返すが、国や社会が
あるから、あなたがいるのではない。あなたがいるから、国や社会がある。そういう視点の基
本となるのが、ここでいう「自立したよき家庭人」という考え方なのである。(以上、01年記「子
育て雑談」)

(付記)

 家族主義を主張する人たちが、ここ5、6年の間に、急速にふえてきた。99年前後には、ど
んな調査をみても、30〜40%だったのが、最近では、80%以上の人が、家族主義を唱える
ようになった。日本人の意識が、革命的に変化しつつあることを示す。

 考えてみれば、当然のこと。今までの出生主義、権威主義のほうが、まちがっている。幸福な
どというものは、遠くにあるのではない。私たちの身のまわりに、じっと息をひそめて、そこにあ
る。それに私たちは、気がつき始めた。

 そのため、これまた当然のように、「国」に対する考え方も、変わってくる。今までは、「国あっ
ての民」と考えた。しかしこれからは、「民あっての国」と考える。つまり日本人も、やっと、民主
主義の意味がわかるようになった。

 こうした(流れ)に対して、もちろん抵抗勢力もある。旧態依然の考え方に、固執している人も
いる。決して、年配の人たちばかりではない。が、ここで重要なことは、こうした(流れ)を、私た
ちは、守ることはあっても、決して、後退させてはならないということ。

 国、民、そして国の基本法である憲法のあり方は、その結果として、自然に決まる。
(はやし浩司 国家論 民主主義 民主主義論 家族主義)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●進学塾の合格発表(子どもは宣伝のダシ)

 今年も新聞紙2面を使って、高校入学試験合格者の名前が、発表された。ただし新聞社自
身がそうしたのではない。どこかの進学塾が、それをした。

いわく「今年度、S塾出身の合格者」と。その下にはすぐ、「ここに名前をあげた子どもは、中途
退会者を含まず。模擬試験だけを受けた人を含まず」とある。つまり「正規の(?)塾生の名前
だけだ」と。その進学塾としては、精一杯の良心(?)を演出したつもりなのだろう。以前は、模
擬試験だけに参加した子どもまで合格者に並べて、世間のひんしゅくを買った進学塾がたくさ
んあった。

 しかし、こういうことが堂々とできるところに、問題がある。いくら言論や出版の自由があると
はいえ、そこには教育に携わる者の、一片の良識が感じられない。たとえば合格者名を発表
するぐいらいなら、不合格者名も発表すべきでないか。あるいは、その人数だけでもいい。どこ
の病院が、治療成功者の名前など、新聞紙上で発表するだろうか。もう少し、身近な問題で考
えてみよう。

 仮にあなたに10人の生徒がいたとしよう。そしてそのうち、7人が合格し、3人が落ちたと
しよう。そういうときあなたは合格した子どもに向かって、「よくやったね、おめでとう」と言うこと
はできても、祝賀会など開けるものではない。祝賀会など開けば、残りの3人がキズつくだけ。

もともと受験指導というのは、一人の生徒を合格させれば、別のどこかで1人の生徒を不
合格にさせるだけだ。その底辺では、毒々しい、人間の醜い欲望が渦巻いている。そういうこと
も考えると、ますます祝賀会など、できなくなる。

 もし本当に合格者を祝いたいのなら、こっそりとすればいい。その進学塾がこうして、大々的
に新聞紙上で、合格者の名前を発表するのには、もっと別の意図がある。つまり宣伝である。
「うちの塾は、これだけの合格者を出している。もし受験を考えるなら、うちへ来い」と。わかり
やすく言えば、名前を出された子どもは、宣伝のダシに使われたに過ぎない。ダシになる子ど
もも子どもだが、そういうふうに子どもをダシにしながら、みじんも恥じない進学塾も進学塾だ。
そうまでして、お金を稼ぎたいのか!

 まだある。進学塾は、A高校、S高校など、静岡県下の主だった、進学高の合格者だけを発
表していたが、こういう形で、世間が必死になって忘れようとしている高校の序列を見せつけて
いる。

こういう高校を受験して不合格になった子どももかわいそうだが、そういう序列を見せつ
けられて、不愉快に感じている親や子どもは、その10倍はいる。進学塾にとっては、序列の
低い高校など、高校ではないのだ。まだある。こうして進学校に入り、名前を出してもらった子
どもは喜びながら、ゆがんだエリート意識を植えつけられる。「ぼくたちは、ほかの人間とは違
うのだ」と。皆が皆、そうなるとは思わないが、子どもがそうなる危険性は高い。

 どこをどう考えても、そんなわけで、こういう進学塾の合格者発表は、異常である。こういう宣
伝がなくなったとき、日本の教育は正常になる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 4年前には、かなり過激なことを書いていた……と、自分でも、そう思う。しかし進学塾のあく
どさは、私自身も20代のころ、その進学塾で講師をしていたことがあるので、よく知っている。
で、その当時の印象があまりにもよくなかったので、今でも、その印象を、心からぬぐい去るこ
とができない。

 しかし今では、ふつうの私立高校などが、進学塾から講師を招いて、教育指導を受ける時代
になった。つまり高校自体が、進学塾化している。

 しかしここで誤解していけないことは、進学塾があるから進学競争が過熱しているのではない
ということ。それを求める親や子どもたちがいるから、過熱する。そしてなぜ過熱するかといえ
ば、そこに不公平社会があるからである。親たちは、日々の生活をとおして、その不公平さを、
肌で感じている。

 そのことは今の中国をみれば、わかる。拡大する貧富の格差の中で、進学競争は、今の今
も、過熱の一途をたどっている。つまりこの不公平社会が是正されないかぎり、進学競争もま
た、是正されない。

 もちろん努力した人や、がんばった人たちが、それなりによい生活をするのは、当然である。
しかし今のこの日本では、そうではない。ないことは、あなたの周囲を見れば、わかる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●去り際の美学(わだかまりをつくらず)

 教育には入り口と出口がある。学校でいえば、入学式と卒業式がある。この二つの行事がい
かに大切なものであるか、それは教育をしてみると、わかる。まず入学式だが、そこで教師が
生徒や父母に与える、第一印象は、その後の教育のあり方全般にわたって、大きな影響を与
える。反対にこのときに「わだかまり」をつくると、それを取り除くのに、何倍もの努力とエネル
ギーを、必要とする。

 もう一つは卒業式だ。この卒業式のやり方をまちがえると、これまた大きな「わだかまり」をつ
くってしまう。「どうせ別れるのだから、どうでもいいではないか」と思う人がいるかもしれない
が、そうはいかない。不愉快な別れ方をすると、自分の人生そのものを無駄にしたような感じ
てしまう。もともと教師というのは、どんな立場の教師であれ、自分の時間を切り売りしているよ
うなところがある。仮に4年間、教えた子どもがいたとしよう。そうすると教師というのは、「あ
あ、自分の人生の20分の1は、この子どもとともに過ごしたのだ」と考える。

 これは教師側の意見だが、しかし問題は、父母のほうにある。いくら教師側がそう思っていて
も、父母の中には、机を蹴っ飛ばすようにして去っていく人がいる。それぞれ、いろいろな思い
があってそうするのだろうが、しかしこういう別れ方は、その後の人間関係を完全に破壊する。

ある塾の教師はこう言った。「何が頭へ来るかといってですね、小さな紙切れ一枚、あるいは
電話一本で、『やめます』と言ってくるケースですよ」と。「中には、月末の最後の授業のあと、
つかつかと私のところへやってきて、『今日でやめます』と言ってくる子どももいます。まだある。
『今度、B塾へ行くことになったけど、そちらがおもしろくなかったら、また戻ってきます』と言うの
もいる」と。

塾教師にとっては、「やめる」というのは、「クビを切られる」ことと同じである。それが親にはわ
からない。親にとっては塾というのは、どこまでも自動販売機。それに近い存在。私も「形」は、
塾という形で子どもの指導をしているから、その教師の気持ちはよく理解できる。
 
昔から「初めよければ、終わりよし。終わりがよければ、すべてよし」と言う。私の場合、相手
が幼児だから、よけいにそうなのだろうが、100人教えて、10年後に連絡を取り合ってい
る生徒は、1人ぐらいなものではないか。20年後となると、さらに少ない。もちろん連絡を取
り合っていないからといって、人間関係が消えたというわけではない。最近では、教え子たち
が、息子や娘を連れて、私のところへ来てくれる。

 さて私の場合だが、去り際の美学というのを、常に考えている。いくら頭にきても、あるいは
内心では不愉快に思っていても、きれいに別れるようにしている。人生は長いようで短い。人
の出会いも、多いようで少ない。こちらにもいろいろな「思い」はあるが、別れたとたん、その子
どものことはすべて、忘れるようにしている。そういう形で、自分の心を整理したり、あるいは掃
除したりして、また次の子どもを迎えるようにしている。 (以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 私も若いころは、紙切れ一枚でやめていく生徒がいたりすると、がく然とした。今でもそういう
生徒がいないわけではない。それに今でも、そういう気持、つまりがく然とする気持ちが、消え
たわけではない。

 が、この世界はそういう世界であると、ずいぶんと前に、割り切った。不愉快な思いをするだ
け損だし、不愉快な思いをしたところで、その生徒がもどってくるわけではない。だから不愉快
な思いをするといっても、その瞬間だけ。あとは忘れる。何もかも忘れる。その生徒の思い出
も、名前も。つまりそうして、私は、自分の心を守る。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●医学志願(理想と現実)

 A高校二年の担任が、こう言った。「うちの生徒のうち、20人が、医学部をめざしている」
と。20人といえば、約50%弱ということになる。実は私の三男もそうだったので、ある日こう
言った。「本当になりたいと思うなら、E病院へ行って、その二階の待合室で、一日を過ごして
みろ」と。あそこは消毒薬と悪臭、それに患者の体臭がプンプンと臭う。廊下にポタポタと血が
落ちていることもあるし、ベッドの上で、で、ゲーゲーと吐いている人もいる。「そういうところで
もよかったら、医者になれ」と。

 一方、日本では今、おかしなことが起きている。静岡県は豊かな県だからあまり目立たない
が、鳥取県や島根県へ行ってみると、それがよくわかる。さびれた寒村や町の中で、病院や医
院だけが、やたらと目立つ。虫歯だらけの口の中に、ところどころ金歯があるようなもの。立
派な建物と言えば、病院や医院だけ。それらが周囲の建物とは不釣あいなほどに、目立つ。
言うまでもなく、それだけ国によって手厚く保護されているためである。

 こういう現実を見せつけられると、誰しも、医者になりたいと思う。「医者は儲かる」と。実際、
医者は高額な所得を手にしている。そういう部分だけを見ると、不公平な感じがするが、では、
本当にいい仕事なのかどうかと言えば、疑わしい。世の中には、(汚い・きつい・臭い)という三
Kの仕事があるというが、医者の仕事は、まさにその三K。そういう職場に、優秀な人材を集め
ようと思えば、待遇面で優遇するしかない。要はバランスの問題だが、それでもなおかつ、医
者には魅力があるらしい。それが冒頭で述べた、「50%弱」である。

私「お金が儲かるから医者になりたいと思うと、まちがえるぞ」
子「そうではないけど」
私「世の中には、世間の評判とはまったく違うが、すばらしい仕事はいくらでもある」
子「たとえば……」
私「ぼくは幼児を教えているが、これほどすばらしい仕事はないと思う。子どもは健康だし、純
粋だ。生きる力が満ち溢れている」
子「でも……」
私「でも、何だ?」
子「みんなが笑う……」
私「どうして笑う? あのタレント業にしても、ぼくたちが子どものころは、役者と呼ばれて軽蔑さ
れていた。が、今は違う。そういう目で職業を考えなくてはダメだ」

 それから一年。結局私の息子は医学部をめざすのをやめた。今は、宇宙飛行士になりたい
などと言っているが、それはあくまでも夢。宇宙飛行士だって、命がけだ。私などたった一度、
飛行機事故に遭遇しただけで、以後、飛行機恐怖症になってしまった。現実はそんなに甘くな
い。そうそう戦時中は、医学部はどこも定員割れをしていたそうだ。今から思うと、信じられない
ような話だが、事実は事実だ。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 その三男だが、自分の入った大学がどうも肌にあわなかったらしい。そこである日、突然、
「ぼくは、パイロットになる」と言い出した。

 私は、内心では、当初は、迷った。しかし私は三男を支えるしかない。が、ただ一言、こう言っ
た。「お前は、金メダルを捨てて、銅メダルを買うようなものだぞ。それでもいいのか」と。すると
三男は、「ぼくはそうは思わない」と言った。

 私の考え方のほうが、まちがっていた。

 で、今は、そのパイロットになるべく、がんばっている。毎日三男のBLOGを読んでいるが、
生き生きした文面を読むたびに、「これでよかった」と、自分に言い聞かせている。あとは、事
故でも起こさないように願うだけ。親としてできることは、ここまで。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●一流大学は出たけれど……(ゆがんだエリート意識)

 こんなエピソードが、新聞に載っていた。ある東大の学生が、就職試験で落ちた。それについ
てその学生が、「どうして私をとらないのか」と聞いたら、その試験担当の社員はこう答えたとい
う。「君は、もっとも一緒に仕事をしたくないタイプの人間だから」と。

 学歴さえあれば何とかなる時代は、もう終わった。あるいは学歴をひけらかして生きる時代
は、もう終わった。この私にもこんな経験がある。もう20年以上も前のことだが、私は小さな
翻訳事務所を出していた。そこでのこと。時々、外部の人に仕事を頼んだことがあるが、4年
制の英文科を出た人は、まったく役にたたなかった。むしろ外国で数年、遊んできた人のほう
が、ずっと役にたった。実戦力もあった。通訳についても同じ。

 こう書くからといって、教育を否定しているのではない。私が否定しているのは、立身出世主
義のために利用される教育だ。学歴させ身につけておけば、社会的地位や名誉、さらには富
を手にすることができるという考えだ。こういう考えで、教育が利用されたら、たまらない。

 私の同年齢で、T大やK大を出た人が何人かいる。一緒に仕事をしてきた人も多い。たとえ
ばあの出版社のS社にしてもG社にしても、東大や筑波大の社員がゴロゴロしている。大半が
そうであると言っても過言ではない。ただ救いなのは、そういう人たちでも、ごくふつうの社員と
して、仕事をしているということだ。特別のエリート意識を感じさせる人はいない。世間を「下」に
見ているということもない。大企業か中小企業かの違いを除けば、私の町にある会社の社員
と、区別がつかない。

 高い学歴があるなら、あるでいい。しかし人間は、その中身。その中身で決まる。そういう意
味で、大学を卒業したら、知識や学力(学ぶ力)だけを残して、一度、学歴を捨ててみることが
大切ではないか。あるいは学歴そのものを忘れてしまう。そして一度、裸になったところからス
タートする。

 日本のエリートは、エリートはエリートでも、何かが欠けている。冷たいというか、ドライという
か、どこか人間味が薄い。ものごとをソツなく、合理的にできるが、万事、事務的。その理由を
すべて受験勉強にもっていくことはできないが、私は、あの受験勉強が大きな影響を与えてい
ると思う。勝てば勝ったで、へんなエリート意識をもつし、敗れれば敗れたで、へんな挫折感と
劣等感を植えつけられる。どちらにころんでも、それは人間が本来もっているはずの、「やさし
さ」とは、相容れないものだ。
もちろん子どもたちには罪はないが、問題は子どもたちのCPU(中央演算装置)が狂っている
ため、子ども自身が自分の「狂い」に気がつかないことだ。それが本来の人間の姿であり、ま
たそれが当然だと思いこんでしまう。そしてそのままそれを、次の世代に伝えてしまう。そして
冒頭に述べたような大学生を作ってしまう。つまり「勉強ができれば、社会は自分を優遇すべ
きだ」という、実に鼻持ちならぬゆがんだ、エリート意識をもってしまう。  (以上、01年記「子
育て雑談」)  

(付記)

 中国には、「小皇帝」と呼ばれる子どもたちがいるそうだ。裕福な家庭に生まれ育ち、勉強し
か、しない。勉強しか、できない。勉強だけがすべてで、家庭の中では、皇帝のように振る舞っ
ている子どもたちである。

 先日もそういう子どもがテレビ(NHK)で紹介されていたが、まさに「皇帝」といった感じだっ
た。自分は学校から帰ってくると、デンとソファに座っているだけ。そこへ母親や父親が、かし
づくようにして、お菓子や果物をとどける。

 ……実にこっけいなシーンだったが、20年前、30年前には、この日本でも、同じようなシー
ンが、あちこちの家庭でも見られた。中国は、そういう点では、日本の20年、30年前を再現し
ているのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●幼稚園児のかけ算(見かけの力)

 幼稚園児でもかけ算の九九を、ペラペラとソラで言うことができる子どもがいる。同じように足
し算や引き算を、スラスラすることができる子どもがいる。あるいは本をスラスラと読むことがで
きる子どもや、漢字を読み書きできる子どもがいる。そういう子どもを見ると、「優秀な子ども」
と思いがちだが、本当にそうか。私にはこんな経験がある。

 ある日のこと。年長児になったばかりのTさんが、本をもってきて、それをスラスラと読んでみ
せた。そこで私は別の本を渡し、「これを読んでみてごらん」と言うと、Tさんは、その本もスラス
ラと読み始めた。私はTさんをほめたが、しかしすぐ、それがまちがいであることに気がつい
た。私が「どんな話だったの?」と聞くと、Tさんは、「わかんない」と。そこでさらに「クマさんはど
こへ行ったのかな?」と聞くと、それも「わかんない」と。Tさんは、文字を音に変えていただけだ
った。

 ついでに言うと、読みの深い子どもは、むしろ一文ずつ意味を考えながら読んだり、挿し絵を

て考えながら読む。子どもにとって大切な「力」というのは、そういう力のことをいう。が、親たち
はそれがわからない。わからないから、いわゆる見かけの力でも、それが力だと思いこんでし
まう。幼児ばかりではない。この傾向は大学へ入るまで続く。

子(小5)「分数の割り算ができるよ」
私「ほう、それはすごいね。それは小学6年生が、勉強するところだよ。どうやってやるの?」
子「分数をひっくり返して、かければいい」
私「なるほど。でもさ、どうしてそうすればいいの?」
子「わかんない」

 話を少し戻すが、計算力は訓練によって伸びる。できない子どもはできないが、しかしそうで
ないなら、訓練によって伸びる。少しずつでも毎日すれば、効果的だ。しかし計算力は計算力。
それだけのものであって、それ以上のものではない。が、問題はここから始まる。

多くの親は、そういう表面的な力(?)を見て、自分の子どもは算数が得意だと思う。そしてそ
れを前提にして、子どもの勉強を組み立てる。そして少しでもその力に陰りが見えたりすると、
無理をする。あるいは新たな学習を強要する。そして一度こういう状態になると、親にも子ども
にも、安らかな日々はもうない。山のようなワーク。転々と移り変わる教育方針。そしてお決ま
りの塾めぐ
り。

 こういうケースでは、最終的に行きつくところまで行かないと、親は気づかない。子どもが多少
できるようになればなったで、親の意識はさらに先へ行く。一度できたものの考え方、つまり子
育ての筋道というのは、そんなに簡単に変えられるものではない。「小さいころは、もっとでき
た」「うちの子は、やればできるはず」「こんなはずは、ない。何かのまちがいだ」を繰り返しなが
ら、行きつくところまで、行きつく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 子どもに、見かけの力をつけることは、それほどむずかしいことではない。説明すると長くな
るが、しかしそれをすると、今度は、子どもに、依存性ができてしまう。

 家庭教育の柱は、「よき家庭人として、子どもを自立させること」だが、同じように、教育の柱
は、「子どもの心に灯をともし、その能力を引き出すこと」。

 そのためには、ある時期がきたら、子どもを自立させなければならない。「こんな先生に習うく
らいなら、自分で勉強したほうが、まし」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。そういう
方向に、子どもを、誘導していく。

 それに見かけの力は、いわばメッキのようなもの。やがてすぐはがれてしまう。子どもの本当
の力は、子ども自身が、自ら自分の力を引き出そうとしたときに発揮される。時間はかかる
が、そういう力を、ていねいに育てていく。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ドラ息子(N君の場合)

 生意気で、教師を教師と思わないような生徒がいる。態度もおうへいで、ふてぶてしい。その
くせわがまま。おとなの世界そのものを、なめきっている。こちらからあいさつをしても、「フン」
と横を向いたりする。概してこのタイプの子どもは頭がいい。何かを教えようとしても、「そんな
の知ってっらア」と、吐き捨てたりする。

 その分、生活を楽しんでいるかと思いきや、不平、不満だらけ。何かにつけて、「たいくつだ」
「つまらない」「もっと、おもしろいことはないか」「何かほしい」「何かしてよ」を繰り返す。口をと
がらせて、露骨に不快感を表現することも多い。いわゆるドラ息子だが、N君(小三)も、そんな
タイプの子どもだった。

 両親は共働きだったが、同居している祖父母に、N君は溺愛された。恐らく幼児期において
は、蝶よ花よとかわいがられ、何一つ家事の手伝いはしなかったのだろう。使った道具を片づ
けさせようとしても、両手を下へくるりと巻いて、それを見おろすだけ。片づけようという意識そ
のものが、ない。ほかの子どもの使った道具について、「一緒に片づけてよ」と指示しようもの
なら、「何で、ぼくがしなきゃア、いかんよオ!」と、大声で抗議したりする。 

 こういう生徒と対峙すると、相当気の長い教師でも、頭にくる。大のおとなが、どうしてこんな
子どもを相手にしなければならないなかとさえ、考えたりする。いや、自分がなさけなくなる。
「教育なんて、やっておられるかア!」という気分にすら、なる(失礼!)。

 しかし問題はそのことではなく、親自身に、その自覚がまったくないことだ。親は自分の子ど
もしか見ていない。N君が一人息子だったこともある。教師というのは、それぞれの子どもを比
較しながら、その子どもの位置づけをすることができるが、親にはそれができない。そういう
「問題のある子」でありながらも、それに気づくことがない。せいぜい私が言えることは、「もっと
家事を手伝わせなければいけない」という程度のことでしか、ない。が、それとて、この年齢
になると、手遅れ。だから自然と口が、重くなる。

 そのN君は、小学4年生になるとき、私の手を離れたが、彼の将来を予測することは、そん
なに難しいことではない。このタイプの子どもはいくらでもいる。私も、何10例と経験してき
た。で、その予測。まずこのタイプの子どもは、やがてすぐに家の中でも、手がつけられなくな
る。親は、そういうわがままな態度に手を焼くが、体力的にも、もう追いつけない。「うるせエ!」
とすごまれただけで、震えあがってしまう。そして親の期待と夢はことごとくつぶされ、結果的に
は、「人様に迷惑さえかけなければ……」というレベルまで、落ちる。

勉強については、そこそこにはできるようになるが、あくまでも「そこそこ」。本人も、自尊心と現
実のギャップで悩むのだろうが、しかし自分自身に原因を求めない。おとなになってからも、社
会や世間、あるいは親を逆恨みしながら、不平、不満タラタラの人生を送る。要はそういう子ど
もにしないこと。そういうことを知ってもらいため、私はこの原稿を書いた。(以上、01年記「子
育て雑談」)

(付記)

 教えていて一番、虚しさを感ずるのは、いわゆる、ドラ娘、ドラ息子に接したときである。この
タイプの子どもは、たとえば料理人が、丹精(たんせい)こめて作った料理を、食い散らすような
ことを平気でする。いくらお金のためとはいえ、がまんするにも限度がある。

 そこで私のばあいは、(つまりBW教室では)、小学生以上の子どもについては、紹介のある
人以外は、入塾を認めていない。実際には、小学生になってから入ってくる子どもは、ほとん
ど、いない。

 こうしたドラ息子、ドラ娘になるかどうかの分かれ道は、年中児から年長児にかけてある。つ
まりこの時期の指導が、きわめて重要。

 で、今、この原稿を読みなおしながら、なぜN君はN君のようになってしまったかについて考え
ている。が、そのN君は、たしか、小学2、3年のときに、私のところにやってきたのではなかっ
たか。決して責任のがれをするわけではないが、私のところへきたときには、すでに、手のほ
どこしようがないほどのドラ息子になっていた。

 それにこのN君の話は、今からもう10年以上も前の話である。なぜ4年前に、そのN君のこ
とを書いたのか、よくわからない。多分、何か、いやなことがあって、そのうさ晴らしのために、
この原稿を書いたのだと思う。自分の生徒のことを、こうして悪く書くのは、私のやり方ではな
い。それに今、読みかえしても、どうも、あと味が悪い。

 削除することも考えたが、これも、私の(一部)。このままこの原稿を、ここに残しておくことに
する。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●「女」になる子どもたち(これも時代の流れ?) 

 女子の性体験は、16歳がピークだという。それはそれとして、その子どもがセックスを経験
しているかどうかは、男の教師なら、すぐわかる。「男を見る目つき」そのものが、ほかの子ど
もと違う。ものの言い方や考え方が、「男」をなめた感じになる。「今度のテストは、がんばった
か?」「フフフ、いいじゃん、どうでも……フフフ」と。

 Tさん(中3)が、大きく変化したのは、中学2年の夏ごろだった。ある日爪を見ると、マニキ
ュアをしたあとがついていた。眉にソリを入れ、しかもかすかだが口紅をしていることもわかっ
た。Tさんは、明らかに「おとなの世界」で遊び始めていた。どういう形で遊んでいるかは、私に
はわからなかったが、携帯電話を始終大切そうに持ち歩いていたから、そういう方面で遊んで
いることは、察しがついた。

 こう書くとTさんのことを、不良(?)と思う人がいるかもしれないが、そういうことはまったく、な
い。頭もよかったし、勉強もまあまあできた。家庭もごくふつうだった。いや、両親が別々に外
車を乗り回していたから、平均的な家庭よりもずっと裕福だったかもしれない。いつかTさん
が、「おやじのマンション」と言ったのを覚えている。父親はマンション経営もしていた。そのTさ
ん、性格も明るく、何かにつけて、大声でよく笑った。

 が、この種の問題は、止めて止められるものではないし、親に言えば、かえってやっかいなこ
とになってしまう。男の「カン」だけで、子どもの指導はできない。そこで私は何度かTさんに、ア
ドバイスを試みた。「同年齢の男の子とつきあったら」と。しかしTさんは、同年齢の男子を、「ガ
キんちょ」と呼んだ上、「あんなガキんちょたち、つまんない」と。そしてこの傾向は、Tさんが中
学3年生になるころには、もっと激しくなった。まさに遊びまくっているといった感じになった。

もうそのころになると、筆箱の中の指輪類を隠そうともしなかった。私が「これは何だ?」と、
指輪の一つをつまんで声をかけると、「いいじゃん」と、あやしげな目つきで、それを私の手
からパッと取り返したりした。もしその場だけのやり取りを見た人がいたら、どこかのスナッ
クか、バーでの男と女の会話だと思ったかもしれない。私自身がドキッとするほど、Tさんの
目つきは「女」のそれになっていた。

 こういうケースを、あなたならどう考えるだろうか。またどうTさんを、どう指導したらいいと考え
るだろうか。あるいは、そもそも指導する必要があるのだろうか。ないのだろうか。男と女で
は、判断のしかたも違うだろう。ある人(女性)は、「親のほうから相談があるまで、放っておくし
かないわね」と言った。また別の人(女性)は、「それも時代の流れでしょうか」と笑った。私は男
だから、もう少しシビアな見方をするが、正直言って、まったくわからない。ただ言えることは、T
さんは今、高校2年生だが、今は何ごともなかったかのように、ごくふつうの学生として、学校
に通っている、ということだ。いやいや、男と女の関係などというのは、もともとそういうものかも
しれない。セックスを楽しむことを、悪と決めてかかるのも、正しくないのかもしれない。

それぞれの子どもは、それぞれの方法で、おとなになっていく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 少し前だが、道で、男子高校生の落としたサイフを拾ったことがある。中を見ると、その学生
証のほかに、コンドームが2つ、入っていた。

 それを見て、そのサイフを交番へ届けるのが、バカ臭くなった。それでそのサイフを、落ちて
いたところの近くにあった自動販売機の上に、のせた。

 今は、そういう時代である。で、この話を、私の生徒(当時、女子高校生)にしたら、その生徒
は、こう言った。

 「先生、あのね、放課後の教室って、ラブホテルみたいよ」と。「学校の先生は、何も注意しな
いのか?」と聞くと、「だって、先生はこないもん」と。

 こういう問題でカリカリする、私のほうが、おかしいということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●臭い街(相対性理論)
 
 アインシュタインは、相対性理論を唱えた。そんな高尚な理論ではないが、反対の立場で見
ると、ものの価値観が180度変わるということはよくある。

 引佐郡引佐町のT村に住んでいる婦人が、こう教えてくれた。「町の空気は臭いですね」「先
日もアクトタワー(駅前の高層ビル)へ行ったのですが、通路を歩いているだけで、吐き気を覚
えました。食堂からの臭いがあちこちからしてきて、気持ちが悪くなりました」と。

 こういう感覚は町の中に住んでいる人には、当然のことながら、わからない。それに慣れてし
まっているからだ。そういう意味で、「慣れ」というのは、こわい。自分たちのまわりの様子がわ
からなくなる。そしてそれを前提として、ものごとを考えるようになる。

 そのアクトタワーだが、建設費だけでも2000億円とも、3000億円とも言われている。
あの東京の国立劇場が400億円で建設されているから、いかに莫大な額かが、それでわか
る。で、このことを市の役人に話すと、その役人は笑ってこう話してくれた。「はやしさん、そんな
ものじゃ、ありませんよ」と。もっとお金がかかったというのだ。「土地代は別ですから」と。

 さらに、そのアクトタワー。人の通りもまばらで、楽器博物館にしても、閑古鳥が鳴いている。
「音楽の町にふさわしい建物を」と意気込んで建てられたものの、地下に大小、二つのホール
があるにすぎない。建設費を床面積で割ると、百万円の札束を敷きつめたほどのコストがかか
っているという。

 何となくグチになってしまったが、私が言いたいのは別のことだ。町の人間が「町」を考える
と、こういう町づくりになってしまう。そこで私はふと、こんなことを考えた。T村の住人が町づくり
を考えたら、どんな町を作るか、と。彼らがまず真っ先に考えるのは、「臭くない町」だろうと思
う。

具体的には、田舎の様子をそのまま町へ持ちこむ。土や緑をそのまま町へもちこむ。ちょう
ど町の建設業者が、村の土手や小川を、灰色のコンクリートで埋めつくすように、その反対の
立場で、町を土や緑で埋めつくす。互いにそのほうが、居心地がいいからだ。と、考えると、日
本の社会は、実に都会優先にできていると思う。町の価値観が田舎へ来ることはあっても、田
舎の価値観が、町へ入ることはまず、ない。都会らしい田舎づくりをすることはあっても、田舎
らしい都会づくりをすることは、まず、ない。

先の臭いにしても、都会の人が田舎へやってきて、「おいしい空気ですね」と言うことはあって
も、田舎の人が町へやってきて、「臭いですね」とは、言えない。心の中でそう思っても、それを
口に出して言えない。田舎の人がせいぜいできることと言えば、口をタオルでおさえ、顔をしか
めながら、その場から急ぎ足で立ち去ることでしかない。

 町の人は、自分たちはいい生活をしていると思うのは勝手だが、一度、田舎の人の目で、自
分を見てみるとよい。ものの価値観がひっくりかえるということはよくあるし、新しいものの見方
ができるようになるかもしれない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 都会優先型の社会構造そのものに問題がある。行政にせよ、文化にせよ、すべてが都会側
から一方的に、地方へ流れてくる。反対に、地方から、都会にそれらが向うことは、めったに、
ない。が、こればかりは、いかんともしがたい。

 しかし何も問題意識をもたないのと、問題意識をもつのとでは、ものの考え方が変わってく
る。ときには、田舎の中に自分の視点を置いて、ものを考えることも重要なことだと、私は思
う。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●笑わない子どもたち(萎縮する心)

 子どもというのは皆、大声で笑うもの……と考えているなら、それはまちがいだ。今、大声で
笑えない子どもが、ふえている。10人に2、3人はいる。皆がドッと笑うようなときでも、顔を
そむけてクックッと笑ったりする。原因はいろいろあるが、それだけ心がゆがんでいるとみる。

 まず第一に、過干渉。威圧的な子育て、権威主義的な子育てが日常化すると、子どもの心は
内閉する。次に育児拒否。家庭崩壊や暴力的なしつけが原因で、内閉することもある。最近で
は、「機能不全型家庭」がふえている。家庭が本来果たすべき機能そのものが、欠落している
家庭だ。母親がパチンコに狂う、父親が仕事人間で、家庭を顧みないなど。生活が混乱してい
て、秩序そのものがない。朝食、夕食といっても、時間もめちゃくちゃで、しかも「食」としての形
がない。テーブルの上に、食べかけのパンがころがっているだけ、というように。子どもは満た
されない愛情への欲求不満から、自分の心を傷つける。情緒や精神状態そのものが不安定
になることも珍しくない。

 神経症や脳の機能的障害が原因となることもある。自閉傾向やかん黙傾向のある子ども
は、心のそのものにマクがかかったようになり、いわゆる「何を考えているかわからない子ど
も」になる。自閉傾向のある子どもは、自分の世界に陶酔してしまうので、意思の疎通そのも
のができなくなる。こちらからの働きかけに反応して笑うこともあるが、それが突然であったり、
あるいは場違いなほどおおげさであったりする。ギャーギャーと、勝手に騒ぐこともある。また
かん黙傾向のある子どもは、いつももう一つの心が、別のどこかにあるような感じになる。いつ
も柔和な笑みを浮かべたまま、それでいてまったく話さない。

 子どもは笑わせる。何でもないようなことだが、子どもは大声で笑うことによって、心を開放さ
せる。裏を返して言うと、大声で笑うだけでも、子どもの心がまっすぐ伸びているという証拠だ。
そこでいよいよ本論だが、あなたの子どもはどうだろうか。幼稚園や小学校での様子はどうだ
ろうか。先生の話を聞きながら、大声で笑っているだろうか。それとも笑っていないだろうか。
笑うことはないしにしても、大声で反論したり自分の意見を言っているだろうか。それとも静か
だろうか。

 もしあなたの子どもが静かで、大声で笑うこともないようであれば、あなたは家庭教育のあり
かたを、おおいに反省してみる必要がある。中には「子どもというのは、生まれながらにそうい
う性質は決まっている」と考える人がいるが、それはとんでもない誤解である。子どもは(おとな
も)、生まれながらにして、大声で笑ったり、話したりすることのほうが、自然な姿だ。

 繰りかえすが、幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときは、従順でおとなしい子ども

すなおな子どもとは、言わない。自分の思っていることを、ハキハキと言うことができる子どもを
すなおな子どもという。これも誤解がないように。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 『笑えば、伸びる』……それが私の指導法の柱にもなっている。笑うことには、不思議な力が
ある。その(力)は、大脳生理学の分野でも、近年になってつぎつぎと証明されつつある。

 また「学習」という分野においても、笑うことによって、子どもの中に、前向きな姿勢が生まれ
てくる。私は、ときには、1時間中、幼児たちを笑わせつづけることがある。大声で、ゲラゲラ笑
わせつづける。

 コツがある。

 子どもを笑わせようとしても、あまり意味がない。それでは、子どもは、笑わない。私自身が、
とことん、楽しむ。楽しんで笑う。そのウズの中に、子どもを巻きこんでいく。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●養殖される子どもたち(牙を抜かれる子ども)

 岐阜県の長良川。その長良川の鮎に異変が起きて、久しい。その鮎を見続けてきた1人の
老人は、こう言った。「鮎が縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住む、N氏である。「最近
の鮎は水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。原因というより理由は、養殖。この
20年、長良川を泳ぐ鮎の大半は、稚魚の時代に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられた鮎だ。
体長が数センチになったところで、毎年3〜4月に、長良川に放流されている。人工飼育とい
う不自然な飼育環境が、こういう鮎を生んだ。しかしこれは鮎という魚の話。実はこれと同じ現
象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッチボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、焚
き火が予想以上に燃えあがったとき、「こわい!」と逃げてきた男子がいた。小さな虫が机の
上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では、大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組み合いの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。カプセル化というのは、家族の中だけでしか通
用しない価値観の中で生きることだ。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるい
は他人に心を許さない。カルト教団の信者のように、その内部ではわきあいあいと仲がよい。
「私たちは正しい」という信念のもと、返す刀で、他人には「あなたはまちがっている」と言い切
る。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
どうしの悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭から抑えつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。嘘だと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風景
を観察してみればいい。最近の子どもはみんな、仲がいい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それぞ
れが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そ
のボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほか
の子どもたちは、そのボスの命令に従って砂の山を作ったり、あるいは水を運んでダムを作っ
たりした。もしそういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、
そいつを追い出したりした。

 平和で、のどかに泳ぎ回る鮎。見方によっては、縄張りを争う鮎より、ずっといい。理想的な
社会だ。すばらしい。すべての鮎がそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間どもの傲
慢な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでいいのか。それが鮎の本来の姿
なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ときどき、わんぱくで、たくましい子どもをみかける。30年前には、まだそういう子どもが多か
ったが、今では、そういう子どもは、むしろ少数派。そのため、集団の中では、目立ち、そのた
め、ほかの父母からは、白い目で見られること多い。

 しかし子どもというのは、ADHD児が見せるような多動性は別として、わんぱくで、自己主張
が強ければ強いほど、あとあと、伸びる。たくましく成長していく。このタイプの子どもは、集団
からはみ出るという理由だけで、決して抑えこんでしまってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●カプセル家族(心のさみしい人たち)

 自分の価値観だけで生きる家族、それがカプセル家族。言葉の上では、それで説明できる
が、その言葉の裏には、とてつもないほど巨大な問題が隠されている。しかしここでいうカプセ
ル家族は、どこかの国の、どこかの町の、ある特殊な家族をいうのではない。あなたの周囲に
もいくらでもあるし、あなた自身の家族がそうである可能性は高い。

 核家族は核家族だが、カプセル家族は、他人の価値観を認めない。心を開かない。ものの
考え方が独善的で、排他的。「私は正しい」という確信のもと、相手に向かっては「まちがってい
る」と断言する。いろいろなタイプがある。子どもを溺愛しながら、「これが親の深い愛だ」と、錯
覚している人。子どもの受験戦争に狂奔しながら、「これが教育だ」と、誤解している人。子ども
を自分の欲求不満のはけ口にしながら、「私は子どものよき理解者だ」と、うぬぼれている人。
いろいろあるが、もとはと言えば、現代社会が生み出した、さみしい犠牲者たちだ。

 考えてみれば、この世の中。生きているのは、自分一人だけ。明日、隣人がお金に困って
も、あなたはその人を助けない。そういう思いが、あなたを孤独にする。あなたとて明日、病気
で倒れれば、万事休す。そういう思いが、あなたの家族をカプセル化する。愛することができる
のは、自分の子どもだけ。学歴は人生のパスポート。学歴さえあれば、何だって手に入る。家
族だけが信じられる相手。他人は誰も信じられない。そうそう一つ、忘れた。お金だ。お金。お
金さえあれば何だってできる。地位や名誉があれば、もっといい。

 カプセル家族には、社会も国もいらない。選挙に行くことすら、バカバカしいと思っている。も
ちろん社会奉仕などというものは、時間の無駄。上辺ではいろいろなことを言いながら、自分
の損になることは何もしない。その上、幸福感も相対的なもので、他人が自分より幸福になる
のを許さない。あるいは反対に、他人が不幸になればなるほど、自分が幸福になったと感ず
る。自分こそが、絶対、正しい。

 今、日本では、家族のカプセル化が、急速に進んでいる。田舎よりも都会。しかも皮肉なこと
に、地位の高い人、収入の多い人、学歴の高い人ほど、それが進んでいる。こういう人たち
は、「自分こそが社会のリーダーだ」と思いこんでいる。あるいは「世間も自分たちに見習うべ
きだ」と考えている。結果、この日本がこれからどうなるか。

 私に見える日本の将来は、殺伐とした砂漠のような世界だ。空気はかわき、心を潤す緑はど
こにもない。人はますます功利的でドライになる。なりながら、それが当たり前だと思う。あとは
この悪循環。

 私はこのことを、田舎に住むようになってはじめて、わかった。田舎に住むようになって、人
間というのは、本来、もっともっと不完全で、もっともっと温かいものだということを知った。そし
てこれはたいへんショックなことだったが、自分自身が、そのカプセル家族になっていたことを
知った。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このエッセーについては、いろいろ書き改めたい点もあるが、このままで……。カプセル家族
だから、選挙に行かないということはない。この点については、まちがっていると思う。ただ自
分の住む世界がカプセル化すると、ものの考え方が、独善的になったり、ひとりよがりになった
りする。そういう意味で、つまりその返す刀で、相手を、全面的に否定したりしやすくなる。

 だから……、こう書くと、手前味噌のようでつらいが、もしあなたに子どもと接する機会があっ
たら、どんどんと子どもと接したらよいと思う。子どもは、あなたの進むべき道を、正してくれる。
子どもには、そういう力がある。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●単身赴任(夫婦像は、学習によって身につく) 
 
 単身赴任ほど、非人間的な職場環境はないと思うだが、最近ではそれを歓迎する夫婦もふ
えている。ある妻は、夫の単身赴任が決まったとき、友人に、「ヤッター!」と喜んで見せたとい
う。現実にはそういう夫婦もいる。

 この夫婦像というのは、子ども時代に形成される。しかも本能ではなく、学習によって形成さ
れる。だからもしあなたが、将来、あなたの子どもに「あなたが望むような家庭」を築いてほしい
と願っているなら、今、その家庭がどういう家庭であるかを、しっかりと見せておかねばならな
い。いや、見せるだけでは足りない。しっかりと身にしみこませておく。そういう経験があっては
じめて、あなたの子どもは将来、「あなたが望むような家庭」を、自然と築くことができるように
なる。

 夫婦像も同じ。夫婦が子どもに見せるものがあるとするなら、それは互いに思いやり合い、
気づかい合い、そしていたわり合う姿だ。そういう姿を日常的に見ながら、子どもは自分の中
に夫婦像を作っていく。

 ところで以前、私はこんな本を目にした。ほかの教育者の書いた本を批判するのは、あまり
好きではないが、そこにはこうあった。いわく、「夫婦喧嘩は子どもに見せるとよい。意見の対
立があることを教えるのに、絶好の機会だ」と。日本でも著名な教育者で、これが彼の持論で
もあるから、こう書くと、名前がわかってしまうかもしれない。しかし、夫婦で哲学論争でもする
なら話しは別だが、子どもに夫婦喧嘩など見せるものではない。……と言っても、夫婦喧嘩は
時と場所を選ばず起きるものだから、見せたくなくても見せてしまうかもしれない。それはともか
くとして、やり方をまちがえると、この夫婦喧嘩は子どもを限りなく不安にする。そしてこの不安
が、子どもの心をゆがめる。私はこの教育者は、子ども知らずの教育者だと判断した。

 さて本論。欧米では、そもそも単身赴任など、考えられない。そんなものを命じられれば、ふ
つうの人ならその会社をやめてしまうだろう。あるいは反対に会社が訴えられるかもしれない。
が、日本人というのは、そういうことが平気で(?)できる。ではなぜそれができるかと言えば、
そういう夫婦像を、すでにどこかで見ているからである。ひょっとしたら、その人の父親がそうで
あったかもしれない。あるいは単身赴任ではなくても、その人の父親が仕事人間や会社人間で
あったりして、家庭を顧みない人であったかもしれない。ともかくも、夫の仕事のために家庭が
犠牲になることは、当然だという家庭で育ってきた。そういう背景があるから、冒頭で述べたよ
うな妻が生まれる……。

 私個人のことを言えば、私は田舎町の自転車屋で生まれ、そして育った。だから夫婦が別々
に住んで、別々に暮らすということが信じられないというより、そういう情報そのものが、頭の中
にない。だから私の意見は、ある意味で一方的なものかもしれない。あるいは現実離れしてい
るかもしれない。そういうことも考えながら、この文を読んでほしい。私が正しいという自信が、
実のところ、私にも、ない。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 単身赴任 離婚 離婚の影響)

(付記)

 4年前に書いたこのエッセーを読みながら、私は、心のどこかで、小さな違和感を覚える。た
とえば夫婦であっても、「ダカラ論」にしばられるのは、正しくないのではないかというふうに、こ
のところ考えることが多くなった。離婚についても、それを悪いことと決めてかかる必要は、まっ
たくない。

 ただ子どもに関していえば、離婚というより、離婚にまつわる家庭内騒動が、子どもの心に大
きな影響を与える。離婚するにしても、子どもとは関係のない世界で、淡々とするのが、よい。

 単身赴任については、ここに書いたとおりだと、今でも、思っている。アメリカなどでは、入社
と同時に、そういった問題も含めて、会社と契約書をかわすところが多い。その段階で、転勤
を断ることもできる。日本でも、そういう会社がふえてきたと聞いている。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●先輩・後輩(根強く残る封建制度) 
 
 晴れわたった午後の一日。青い空に白いユニフォームが光る。今日もグランドで、中学校の
野球部の少年たちが、練習をしている。のどかな光景だ。時折、カーン、カーンというボールを
打つ音が聞こえてくる。

 が、それはあくまでも表面。この野球部に限らず、たいていの運動部は、徹底した「上下関
係」で成り立っている。たとえばテニス部。一年生は玉拾いだけ。二年生になってやっとラケット
をもたせてもらうことができ、試合に出られるようになるのは、三年生になってから。それまで
はいくら力があっても、試合には出られないという「オキテ」になっている。

 さらにすさましいのが、柔道部や剣道部。さらに野球部など。野球部に至っては、入部時に、
「先生に殴られても文句を言いません」という誓約書を書かせるところがある。私はこうした指
導について、とやかく言わない。今時の子どもを指導するには、それなりの「抑え」がないと、
指導できない。それに親も子どもも、そのやり方に納得しているのだから、私のような部外
者がとやかく言っても始まらない。

 問題はこうした封建意識が、学校の教育現場に微妙に「影」を落としているということだ。ある
いは先生たちのものの考え方に、影響を与えているということだ。幼稚園教育にしても、たいて
いどこの幼稚園も、徹底した年功序列制度を敷いている。古参の先生が、それぞれ派閥をつく
り、若い先生をその配下におさめているところもある。新米の先生が、古参の先生の指導を批
判するなどということは、この世界ではありえない。実はこの私も、幼稚園で働くようになってか
ら、何度、古参の先生に殴られたり、ひっぱたかれたりしたことか。(この話は、ホントだぞ!)

 そしてこうした古臭い体質は、子どもへと受け継がれていく。それはまさに「教えずして教え
る」という、教育のダークサイド。子どもたちもまた、いつしか先生と同じようなものの考え方を
するようになる。いわゆる封建意識の世代伝播がこうしてなされていく。

 私はN教組という組織について、ほとんど知識をもっていない。もっていないが、「左翼」とい
う言葉からは、民主、平等、博愛というイメージを連想する。上下意識のない、平和な世界だ。
日教組というのは、その左翼ではなかったのか。このことをインターネット仲間の一人に相談す
ると、こう教えてくれた。彼自身も、九州のある高校で教壇に立っている。いわく、「マルクス・レ
ーニン主義と言っても、組織の内部には徹底した上下関係がありますよ」と。この彼の一言だ
けをもって、すべてを判断することはできないが、そういう意見もある。つまり、左翼思想イコー
ル、必ずしも封建意識の打破ということには、ならないようだ。

 何でもかんでも外国がいいというわけではないが、欧米には「先輩、後輩」という言葉にあた
る単語そのものが、ない。そういうことも考えると、日本人の平等意識は、100年は遅れて
いるのではないか……と、私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 「上下意識など、クソ食らえ」。人間に上も下も、あるわけがない。そこを原点として、すべて
の人間関係を改めて、考えなおしてみる。つまり私たちが求める民主主義は、そこから始ま
る。言いかえると、この上下意識が残っているかぎり、日本には、真の民主主義は、訪れな
い。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●指で鼻をさす(教育のダークサイド)

 子どもたち(小学生)は、「自分」を表すとき、指で鼻先を押さえる。欧米では、親指で自分の
胸を押さえる。そこで私はいつごろから、子どもたちが自分の鼻を押さえるようになるかを調べ
てみた。「調べた」というのもおおげさだが、授業の途中で、子どもたちにどうするかを聞いてみ
た。

結果、年長児ではほぼ全員。年中児でも、ほぼ全員。年少児になると、何割かは鼻先を押
さえるが、ウロウロと迷う子どもが多いということがわかった。そんなことで、こういう習慣は、四
歳から五歳ぐらいにかけてできるということがわかった。つまりこの時期、子どもたちは誰に教
えてもらうわけでもなく、いつの間にか、そういう習慣に染まっていく。

 私は何も、ここでジェスチャについて書くつもりはない。私が言いたいのは、教育には、常に
「教えずして教える」という、ダークサイドの部分があるということだ。これはジェスチャという、ど
うでもいいようなことだが、ものの考え方や道筋、思考回路などといったものも、実はこのダー
クサイドの部分でできる。

しかもその影響は、当然のことながら、幼児期ほど、大きい。この時期に論理的なものの考え
方を見つけた子どもは、ずっと論理的なものの考え方ができるいようになるし、そうでない子ど
もは、そうでない。そればかりではない。この時期に、人生観や価値観の基本までできる。異
性観や夫婦像といったものまで、この時期に完成される。少なくとも、それ以後、大きく変化す
るということはない。そのことはあなた自身を静かに観察してみれば、わかる。

 たとえば私は、今、いろいろなことを考え、こうして文を書いているが、基本的なものの考え方
が、幼児期以後、変わったという記憶がない。途中で大きく変化したということは、ないのだ。
今の私は、幼児期の私であり、その幼児期の私が、今の私になっている。それはちょうど金太
郎飴のようなもので、私の人生は、どこで切っても、「私」にほかならない。幼児期に桃太郎だ
った私が、途中で金太郎になるなどということは、ありえない。

 もうわかっていただけると思うが、幼児教育の重要性は、実はここにある。この時期に作られ
る「私」は、一生、「私」の基本になる。あるはその時期にできた方向性に従うだけである。中に
は幼児教育イコール、幼稚教育と考えている人がいるが、それはとんでもない誤解である。

 ……と書いたところで、今、ふと、別のことが頭の中を横切った。実は今、ある男の子(小二)
のことが気になっている。彼は男の子なのだが、言い方、ものごしが、女の子っぽいというよ
り、その女の子を通り越して、同性愛者ぽい。まちがいを指摘したりすると、「イヤーン」と甘
ったるい声を出したりする。いくら注意してもなおらない。で、私が悩んでいることは、このことで
はなく、それを親に言うべきかどうかということだ。もうこの傾向は、ここ1年以上続いている。
なおそうとしてもなおるものではないし、さりとて放置しておくわけにもいかない。放置しておけ
ば、彼はひょっとしたら、一生、そのままになるだろう。近く、結論を出すつもりでいる。(以上、
01年記「子育て雑談」)

(付記)

 教えずして教えてしまうこと。実は、これがこわい。ユングも、「シャドウ」という言葉を使って、
それを説明した。

 たとえばあなたが、本当は邪悪な人間であったとする。その邪悪さをおおいかくして、善人ぶ
っていたとする。そのときその邪悪さが、その人のシャドウとなる。子どもは、あなたの近くにい
るため、そのシャドウをそのまま引き継いでしまう。

 要するに、ウソやインチキ、ごまかしや仮面で、いくら善人ぶっても、子どもはだませないとい
うこと。子どもは、あなたのすべてを見ている。

 そういう意味で、子育ては怖いぞ〜オ!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●書くという仕事(私の墓石)

 私も若いころ、自分をなかなか認めてくれない世間を逆恨みしたことがある。「世間には人を
見る目がない」「世間はバカだ」と。しかし今になってみれば、これほど甘ったれた考え方は、な
い。私が世間を認めていないのに、どうして世間が私を認めてくれるだろうか。あるいは自分
自身が、他人を受け入れるほどまでに「成熟した世間の一員」ではないのに、どうしてそれを世
間に求めることができるだろうか。

 今でも時々、暇になると、原稿を書いて、あちこちの出版社に送っている。どうせ出版されなく
ても、ダメもと。そんなゆとりがあるから、送り返されてきても、何とも思わない。つまりそうされ
ることに、免疫性ができた。しかし若いころはそうではなかった。送り返してきた出版社を、心
底恨んだ。のろった。はげしい失望感と絶望感に襲われたこともある。「貴殿の原稿は、当社
の企画には合致せず、今回は出版を見合させていただきます」などという、いんぎん無礼な手
紙をもらったりすると、それを震える手で握りつぶしたりした。

 もっともそういうときに感じた悔しさが、それ以後のバネになっているから、それはそれで無駄
ではなかった。「チクショウ」という思いが、次の仕事に結びついていった。が、その私も51歳。
著書も、売れない本ばかりだが、20冊を超えた。ペンネームで書いた本も加えると、
30冊以上になる。子ども向けの百科事典や、雑誌の企画、編集もてがけてきた。今はまだ、
その途中だから、ここで結論を述べることもできないが、書くには書いたが、それだけのことだ
ということだ。地位や名声を手にしたわけではない。本を書くと、お金が儲かるだろうと思う人が
いるが、実際には、1冊書いて、30万から50万円。書くエネルギーや、出版までのエネル
ギーを考えると、これほど非効率な仕事はない。趣味か副業のように考えないと、とてもできな
い。

 さて最近、60歳になった人から、こんな相談をもらった。経歴だけは立派な人だ。いわく、
「本を書きたい」と。「ついては手伝ってほしい」と。一時は手伝う気にはなったが、しかし途中
で、できなくなってしまった。私が手伝えば、それは私の本になってしまう。どうしても随所に、私
の思想が入り込んでしまう。ちょうど盗作と逆の現象が、ここで起きてしまう。私は「漏作だ」と
笑ったが、それはそれで、私にとっては都合が悪い。私の書いた本など、トイレットペーパーに
もならないかもしれないが、しかしそれはまさに「私の人生」そのもの。いつかどこかで、私の本
が、逆に盗作したと思われるかもしれない。

 で、最近はこう考えるようになった。「本は私の墓石だ」と。私は無神論者だし、自分の著述
活動を通して、日本の仏教にも疑念を抱くようになってしまった。そうそう宗教論の本も5冊、
書いた。だから、自分が今、ここでこうして生きているという「あかし」を、何とか今、ここにとど
めておきたいと思う。一度、私のような人生観をもつと、あとは毎日が孤独との闘いのようなも
のだ。その孤独と闘うために書く。書くしかない。そういう意味で、今の私には、もうあの世間の
目は、ない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 先日、近くにある陶芸教室をのぞいてみた。骨つぼを作りたいからである。が、もちろん、そ
んなことは言わなかった。そこであれこれ説明をしてくれた先生は、さかんにお茶碗を自分で
作ると楽しいですよ」と言った。が、茶碗なら、ショッピングセンターで買ったほうが、ずっと安
い。使い勝手もよい。

 私は、骨つぼが作りたいのだ! 自分の骨を入れる骨つぼ、である。

 もちろん1個だけでよい。最初で、最後の、1個だけでよい。だから陶芸教室に、何年も通う
必要はない。

 「いえ、自分で作りたいものがありますので、それ1個だけを作ればいいのです」と言うと、そ
の先生は、「ぞれじゃあ……」と言ったまま、黙ってしまった。「それじゃあ、入会できません」と
言いたかったのだろうか。それとも、「それゃじゃあ、進歩しません」と言いたかったのだろう
か。

 デザインは、決まっている。球形で、その球形の上に、無数の思い出をいろいろなモチーフ
(装飾)を使って飾る。色は、白を基調にして、淡いパステルカラー風。

 「ロクロを使うのではなく、縄文時代の土器のように、粘土のヒモをクルクルとまきながら作り
たいです」と説明すると、先生も、少しは納得してくれたよう。「そういう作り方でよければ、その
指導します」と言ってくれた。

 来年の春になったら、入会しようと思っている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(011)

●天国論

+++++++++++++++++

宗教の話の中には、よく天国とか、極楽とか
いう言葉が出てくる。

その反対の世界になっているのが、地獄、と。

しかし私が考える天国には、天国しかなく、
あるのは、天国だけ。地獄など、ない。

その天国について、考えてみた。
もし、本当にあるとするなら、の話だが……。

++++++++++++++++++

 天国には、天国しかない。地獄など、どこにもない。だから死んだ人は、みな、天国へ行く。
善人も、悪人も、みんな、だ。

 が、それでは、不公平と思う人がいるかもしれない。それに善人と悪人は、どうやっていっしょ
に暮らすのかという疑問をもつ人もいるだろう。しかし心配は、ご無用! ここで、私が考える、
天国の構造について、説明してみる。

 天国には、天国しかない。あるのは、天国だけ。死んだ人は、一度、みな、天国へ入る。が、
ここで善人は、そのまま。そのままの状態で、天国で、心豊かな、楽しい生活ができる。しかし
悪人は、そうではない。悪人だった人は、その悪の程度に応じて、乳幼児、幼児、少年・少女
へと、姿を変える。

 とんでもない極悪人だった人は、赤ん坊に、ということになる。つまりそのときから、それぞれ
の人は、自分の人生を、適切な時期からやりなおす。

 仮にあなたが、そのとんでもない悪人、つまり凶悪な犯罪者だったとしよう。するとあなたは
天国へ入ったとたん、赤ん坊になる。まだ目の視線も定まらない、赤ん坊である。

 その赤ん坊の状態から、その天国で、育てられる。天使のような慈愛に満ちた両親と、家族
に包まれて、育てられる。

 あるいはあなたが、小ずるい詐欺師であったとしよう。するとあなたは天国へ入ったとたん、
乳幼児になる。やっとヨチヨチ歩き始めた乳幼児である。で、そのときも、あなたは、天使のよ
うな慈愛に満ちた両親と家族に包まれて、育てられる。

 わかりやすく言えば、現世で、どんな悪人であっても、もう一度、新しくあなたは、天国で育て
なおされるということ。つまり生まれながらの悪人はいない。生まれたあとの、育てられた環境
や教育によって、悪人は悪人になっていく。その人自身には、責任は、ない。そのことは、生ま
れたばかりの赤ん坊を見れば、わかる。赤ん坊に、善人も悪人もいない。

 善人になるか、悪人になるかは、運と確率の問題。波にうまくのった人は、善人になり、のれ
なかった人は、ズルズルと悪人になっていく。

 天国は、それまでに寛容にできている。またそうであるから、天国という。仮にもし天国が、長
生きをしたジジババ様だけの世界になってしまったら、何と、味気なく、つまらないものになって
しまうことか。あるいは頭のボケた、ジジババ様ばかりになったら、もっとつまらない。

 だから天国には、実際には、いろいろな年代の人たちがいる。赤ん坊もいれば、少年、少女
もいる。もちろん、おとなもいる。もう一つ、例をあげて考えてみよう。

 ある男性は、ふとしたきっかけで暴力団に入った。そこで貸し金の取り立てをするようになっ
た。もしそんな男性でも、運とチャンスに恵まれていたら、そこまで心をゆがめることはなかっ
ただろう。子どものころ、その男性の両親は離婚。そのまま多額の借金を踏み倒して、どこか
へ蒸発してしまった。つまりそのとき、暴力団に入るかもしれないという素地が、その男性にで
きてしまった。

 その男性は、最終的には銀行強盗をし、ピストルを撃ちまわしたところで、警官に射殺されて
しまった。そしてそのあと、天国へやってきた。

 しかしだれが、その男性を責めることができるだろうか。もしその男性が、望ましい環境の中
で、あるべき両親の慈愛を受け、幸福に育てられたとしたら、そういう事件は、起こさなかった
はず。もし神や仏が、その男性を地獄へ落すと言ったら、私は、こう言って抗議してやる。「そ
の男性には、罪はない」「その男性は、現世で、さんざんつらい思いやさみしい思いをした」「も
うじゅうぶんではないか」と。

 そこで、その男性は、天国では、赤ん坊の時代から、自分の人生をやりなおすことになる。も
ちろんそれまでの過去は、すべて記憶から消される。だからその男性は、なぜ自分が赤ん坊
であるかということすら知らないまま、自愛に満ちた両親と家族の中で、育てられる。

 こうして天国には、善人のみが、住むようになる。かつての悪人が、赤ん坊や、幼児の姿に
変えて天国へ入ってくれば、天国の住人たちは、その赤ん坊や幼児の親を、自ら、買って出
る。そしてその赤ん坊や、幼児を育てる。自分の子どものようにして育てる。

 そしてこうして育てられた子どもたちは、やがて天国という場で、おとなになる。慈愛に満ち
た、やさしくて親切な、おとなになる。高い道徳と理性、それに知性を兼ね備えた、おとなにな
る。

 これが天国の、本当の姿である。だから俗世間でいうような、地獄など、ない。

 ……ということを、逆に考えることはできないだろうか。つまりこの私たちの住む世界こそが、
その天国である、と。そうすれば、ここでいう天国論が、ずっと現実味をおびてくる。

 たとえば私は、今日も、年中児から中学3年生まで、教えた。教えながら、いろいろな話をし
た。もちろん勉強をみるのが私の仕事だから、それはそれで、きちんとした。

 そういう子どもたちをながめていると、生まれながらの善人もいなければ、もちろん生まれな
がらの悪人もいないことが、よくわかる。教育だけですべてをカバーすることはできないが、し
かし教育によるところも大きい。子どもが、悪人の道に入りそうになったら、その少し前から、
その子どもの教育を、組たてなおす。つまり、こうしてこの世界を、善人で満たしていく。

 そしてもしそれが、この世界でできるようになれば、この世界こそが、天国ということになる。
私たちが最終的にめざす世界とは、そういう世界をいう。そしてそれこそが、まさにユートピアと
いうことになるのではないだろうか。

実のところ、死んでからあとの世界については、私たちは、何もわからないのだから……。

(付記)

 この天国論は、夢を見て、思いついた。数日前だが、私はこんな夢を見た。

 私がある断崖絶壁の淵(ふち)にやってきたとき、そこに黒い、大きなドアがあった。みなにつ
られて中へ入ってみると、その中は、明るい広場になっていた。その広場のあちこちに、円陣
をえがいて、多くの人たちが集まっていた。

 みると、それぞれのグループが、ちょうどハイキングで食事でもしているかのように、円陣をえ
がき、みなが、幼児や子どもたちを囲んで笑っていた。

 そこで私が、「ここはどこですか?」と聞くと、みなが、笑ってこう言った。「ここは天国です」と。

 さらに私が、「あの子どもたちは、どういう子どもたちですか?」と聞くと、みなが、こう説明して
くれた。「不幸な生活をした人たちを、もう一度、みんなで育てなおしてあげているのです」と。つ
まり、その子どもたちは、かつては、悪人だったというわけである。

 おかしな夢だったが、その夢にヒントを得て、この天国論を書いてみた。つまり天国は、天
国。天国しかない。あるのは、天国だけ。地獄など、あるはずもない。 
(はやし浩司 天国論 天国と地獄)


Hiroshi Hayashi+++++++++++Dec. 05+++++++++++++はやし浩司

【最近・あれこれ】

●子どもへの薬物療法

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子どもがかかえる心の問題について、
薬物療法を施したため、かえって症状が
重くなってしまったというケースが
多い。

副作用としてそうなるというよりは、
反作用として、そうなる(?)。

はたして薬物療法は、本当に安全なのか。

++++++++++++++++

 子どもの心と体は、年齢とともに、発達する。同じように、その機能も、発達する。仮に不正
常な部分があっても、成長とともに、機能は回復し、より正常になっていく。

 つまり子どもには、心の問題にせよ、体の問題にせよ、自分で自分を治癒(ちゆ)していく能
力を、生まれながらにしてもっている。その能力についてだが、最近では、たとえば何か心に問
題があったりすると、薬物療法を試みるケースが、ふえている。ADHD児や、自閉症児、かん
黙児、ツーレット症候群の子ども、など。夜尿症を含む、心身症にまで、薬物療法を施すケー
スも、ある。

 果たして、それは安全なのか。また安易に、子ども、とくに乳幼児にほどこしてよいものなの
か。ある小児科の医師が、こう話してくれたことがある。

 「カウンセリングだけでは、医師は、お金を取れません。薬を出して、はじめてお金が取れま
す。こんなところにも、医療制度の矛盾が隠されています」と。

 私は、こうした薬物療法について、たいへん疑問に思っている。というのも、私の周囲にも、
幼児期、もしくは小学校の低学年期に、薬物療法を試み、一時的には、著効を示したものの、
そのあとしばらくして、かえって症状が重くなってしまうというケースが、たくさん多いからであ
る。ほとんどが、そうであると言ってもよい。

 全体として、長期にわたって薬物療法をすればするほど、その反作用というか、そういった作
用によって、症状がかえってひどくなってしまうケースが多い。そういう印象をもっている。

 で、それとなく親に相談すると、たいていの親は、こう言う。「病院の先生が言うには、たいへ
ん効果の薄い、安全な薬だから、問題はないそうです」と。

 しかし本当に、そうか。そう信じて、よいかのか。

 私はときどき、催眠剤(熟睡剤)というのを、のむ。しかし最大で2錠までのんでもよいという
が、1錠ものんだら、たいへん! 翌日の昼まで寝てしまう。それに数時間もすると、幻覚症状
が現れる。

 そこで寝つかれないときは、その1錠を、8分の1から、6分の1程度に割ってのむ。それを舌
の下でとかして、のむ。それでも、8〜10時間は、寝てしまう。その1錠というのは、直径が、3
ミリ程度の小さな薬である。

 脳みそというのは、そういうもの。それくらい繊細にできている。それに脳みそには、フィード
バック作用というのも、ある。たとえば何かの精神薬が脳みそに影響を与えるようになると、そ
の精神薬を無効にするような物質を、脳みそが自ら放出するようになる。つまりこうして脳みそ
は、いつも自分自身を、(カラの状態)に保とうとする。

 このフィードバック作用のことを知ると、たとえば薬物療法を長くつづけていた子どもほど、そ
のあと、かえって症状が重くなってしまうというケースが、理解できる。

 ……というようなことを書くと、医療の現場にいる医師たちは、不愉快に思うかもしれない。こ
れは、私のような素人が、横ヤリを入れるような問題ではない。しかし私の今までの経験からし
ても、うまくいったケースは、10に1つもない。ここで「そのあとしばらくして、かえって症状が重
くなってしまうというケースが、たくさん多いからである。ほとんどが、そうであると言ってもよい」
と書いたが、決して誇張ではない。

 私はとくに、子どもの心の問題については、薬物療法は、もっと慎重であるべきだと思ってい
る。たとえばある種の脳間伝達物質が不足しているからといって、その伝達物質を外部から補
給するようなことをすれば、脳みそのほうが、それを受け入れてしまう。そしてかえって、その子
ども自身がもつ、自然治癒力というか、機能回復能力が、阻害されてしまう。薬による補給を
やめたとたん、今度はかえってその伝達物質が、極端に不足するという状態になる。素人の私
でさえ、それくらいのことはわかる。

 こんな例がある。

 もう5年ほど前になるが、かん黙症の子どもが私の教室へやってきた。そのとき、その子ども
は、年中児(4歳)だった。が、それから1年半の間、教室の中では、ほとんどしゃべらなかっ
た。いつも柔和な笑みを浮かべていたが、外からは、何を考えているか、まったく察することが
できなかった。

 心と表情が、遊離していた。

 が、あと半年で、小学校へ入学というころになって、やっと声を出し、手をあげるようになっ
た。母親にそれを報告すると、母親は、まぶたに透明の涙をいっぱい浮かべて、それを喜ん
だ。

 で、やがて小学校に入学した。と、同時に私の教室を去った。が、それから約半年後。秋の
気配を感ずるころだったが、その母親から、電話がかかってきた。「学校へ行かなくなってしま
いました」と。

 その子どもについて、母親は、こう言った。

 「入学するとまもなく、担任の先生から、一度、心療内科へ行ってみたらというアドバイスを受
けた。それで病院に通うようになった。そこで何種類かの薬を処方されたが、どの薬が効いた
かわからない。が、息子が、別人のように活発になった。明るく元気になった。

 それで喜んでいたが、夏休みが終わるころから、薬が効かなくなってきた。で、別の薬を処方
してもらったが、その薬の効果も一時的で終わってしまった。息子が、学校へ行くのをぐずり始
めたのは、そのころからです」と。

 その子どもは、それから3年以上も、不登校を繰りかえした。で、最近になって気になったの
で、電話をしてみると、今でも、断続的に行ったり、行かなかったりを繰りかえしているという。
行くといっても、午後からのことが多い、とも。

 この一例だけではないが、だいたいほかのケースも、似たりよったりといったところではない
か。医師は医師なりに、治療方法を考えて薬を処方していると思うが、しかし本当に安全性
や、副作用、さらには、反作用なども考えて治療しているかというと、どうもそうではないような
気がする。またその時間もないのでは(?)。診察室で、子どもを見る程度で、それで何がわか
るというのか。

 これ以上のことは、ここには書けないが、そういう問題もあるということだけは、わかってほし
い。あえて言うなら、薬物療法は、できるだけ慎重にしたらよいということ。
(はやし浩司 子供の心の問題 心の問題 薬物療法)


Hiroshi Hayashi+++++++++++Dec. 05+++++++++++++はやし浩司

●天下の悪法

++++++++++++++++++

今度、韓国で、『親日反民族…法案』なる
ものが、可決された。

反日、嫌日がきわまって、もう「日」のつ
くものは、何もかも弾圧……? 
今の韓国を見ていると、そんな感じさえす
る。

現在のN政権を一言で言えば、妄想的回顧
主義政権(?)。

「そこまでする必要があるのか」というの
が私の偽らざる印象である。

+++++++++++++++++++

過去にさかのぼって、罪を追及されたら……。それだけで法秩序どころか、社会体制は、崩壊
する。これを、法の遡及性(そきゅうせい)という。

 たとえば、こんな法律ができたら、あなたは納得するだろうか。

 「今まで、交通違反を起こした人に対して、罰金が軽すぎた。だから交通違反を起こした人
は、その分だけ、得をしたはず。したがって支払った罰金の3倍を、改めて支払いなおしてもら
うものとする」と。

だからこぞって、欧米法では、その法の遡及性をきびしく制限する。 

 ところが、である。今度、あの韓国で、そういう法律ができた。中日新聞(05・12)は、つぎの
ように伝える。

 「韓国国会は、12月8日の本会議で、植民地時代に日本に協力した『親日派』の財産を、国
庫に帰属させる『親日反民族行為者財産帰属特別法案』を可決した」と。

 つまり植民地時代に、日本に協力して築いた財産をもっている者、およびその子孫につい
て、その財産は、国庫として没収するというもの。一応、「大統領傘下の委員会が、国庫に帰
属させるかどうか、審議する」というが、今の段階では、どの程度の審議なのか、内容が定か
ではない。

 ところで、話は変わるが、現在、韓国のソウルで、日米の人権大使も出席して、『人権国際会
議』が開かれている。これに対して、韓国大学総学生会連合(韓総連)と、一部市民団体が、
今大会を「反北朝鮮世論作りに向けた守旧勢力の陰謀」と定義づけ、妨害しているという(韓
国・中央日報)。

 さらに産経新聞によれば、(今回の)「人権国際会議に反対する人権・社会団体(25組織)が
発表した声明は、『K国の政治犯収容所は存在が確認されていない』『食糧難は(K国だけでな
く)多くの国で発生している』『拉致韓国人問題は南北分断の悲劇』などとし、K国には人権問
題は存在しないとするK国の主張そのままに独裁体制擁護に懸命」になっているという。

 そういうお国がらである。親日反民族行為者財産帰属特別法なるものが可決されたとして
も、何ら、おかしくない。しかし「ここまでやる必要があるのか」というのが、私の印象。N政権の
考えていることは、すべてがうしろ向き。過去をほじくりかえしては、「韓国がこうなったのは、日
本のせいだ、アメリカのせいだ」と、そんなことばかりを言っている。いつか体制がかわって、も
し、「親北反人権行為者財産帰属特別法」なるものができたとしたら、今のN大統領ほか、その
一派は、それに納得するとでもいうのだろうか。

 人は年齢とともに、過去をふりかえる傾向が強くなる。回顧性が強くなる。それはわかる。し
かし中には、そこに妄想を重ねる人もいる。「ああすればよかった、こうすればよかった」という
思いを、いつの間にか、「あの人がじゃましたから、自分はこうなってしまった」「この人が、意
地悪したから、自分はこうなってしまった」という思いに転じてしまう。

 もっとわかりやすい例では、こう言って毎日のように言い争いをしている老夫婦がいる。「お
前のおかげで、オレの人生はメチャメチャになってしまった」「私の人生を、返してよ」と。残りの
人生を、どう有意義に生きるかということを考えるのが先だと、だれしも思うのだが、その老夫
婦には、それがわからない。

 が、韓国の人たちがもっている、悶々とした閉塞感を理解できないわけではない。「日本ごと
きの島国に、蹂躙(じゅうりん)されたという屈辱感」、それに「独立を自分たちで果たせなかっ
たという無念さ」、さらには、「東西の冷戦の犠牲となって、国が分断されてしまったという被害
意識」。こういったものが、混然いったいとなって、現在の反日感情に結びついている。

 しかし、それにしても、行き過ぎではないか。ここまで反日感情をむき出しにされると、日本に
いる親韓派の人たちまで、敵に回してしまうことになりかねない。現に私は、この数年、ますま
す韓国が嫌いになりつつある。

 もっとも、韓国の中にも、いわゆる良識派の人たちがいないわけではない。中央日報は、つ
ぎのような社説をかかげている。

 「結局、政府のこうした思考は、K国の機嫌を取るためのものにすぎないのだ。韓国大学総
学生会連合(韓総連)と一部市民団体が、今大会を『反K国世論作りに向けた守旧勢力の陰
謀』と定義づけ、妨害しているが、情けなく思える。常に『人権』と『民族連携』を叫ぶそれらが、
K国人民の惨状には知らんふりするばかりだから、とうてい理解に苦しむ」と。

 私たち日本人は、こうした良識派の韓国の人たちもいることを信じて、ここは冷静に対処する
しかない。ここで日本までカリカリしてしまえば、それこそ、日韓関係は、奈落の底へと落ちてし
まう。それだけは、何としても、避けなければならない。

それにしても韓国は、いったい、どこへ向かおうとしているのか。12/10/2005


Hiroshi Hayashi+++++++++++Dec. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(012)

●格言風・子育て論

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携帯電話用に書いた「子育て格言」です。

私が利用しているサービス会社には、3
か月以内に内容を更新しないと、サービ
スそのものが、停止されてしまうという、
恐ろしい掟(おきて)があります。

で、ときどき、こうして新しい格言を補
充していかねばなりません。

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☆上下意識は、親子にキレツを入れる

「親が上、子ガ下」という上下意識は、親子の間に、キレツを入れる。「上」の者にとっては、居
心地のよい世界かもしれないが、「下」の者にとっては、そうでない。言いたいことも言えない、
したいこともできないというのは、親子の間では、あってはならないこと。親はいつも子どもの友
として、横に立つ。そういう姿勢が、良好な親子関係を育てる。


☆「ダカラ論」は、論理にあらず

「親だから……」「子だから……」「長男だから……」「夫だから……」というのを、『ダカラ論』と
いう。このダカラ論は、論理ではない。えてして、問答無用式に相手をしばる道具として、利用
される。使い方をまちがえると、相手を苦しめる道具にもなりかねない。先日もテレビを見てい
たら、妻が、夫に、「あなたは一家の大黒柱なんだからね」と言っているのを見かけた。それを
見ていて、そういうふうに言われる夫は、つらいだろうなと、私は、ふと、そう思った。


☆親の恩着せ、子どもの足かせ

「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と親が、子どもに恩を着せれば着せる
ほど、子どもの心は親から遠ざかる。そればかりか、子どもが伸びる芽を摘んでしまうこともあ
る。たとえ親がそう思ったとしても、それを口にしたら、おしまい。親に恩を押しつけられ、苦し
んでいる子どもは、いくらでもいる。


☆家族主義は、親の手本から

まず子どもを幸福な家庭で包んでやる。「幸福な家庭というのは、こういうものですよ」と。それ
が家族主義の原点。見せるだけでは足りない。子どもの体の中にしみこませておく。その(しみ
こみ)があってはじめて、子どもは、今度は、自分が親になったとき、自然な形で、幸福な家庭
を築くことができる。夫婦が助けあい、いたわりあい、励ましあう姿は、遠慮なく、子どもに見せ
ておく。


☆離婚は淡々と、さわやかに

親が離婚するとき、離婚そのものは、大きな問題ではない。離婚にいたる家庭内騒動が、子ど
もの心に暗い影を落とす。ばあいによっては、それがトラウマになることもある。だから離婚す
るにしても、子どもの前では淡々と。子どものいない世界で、問題を解決する。子どもを巻きこ
んでの離婚劇、それにいたる激しい夫婦げんかは、タブー中のタブー。夫婦げんかは、子ども
への「間接虐待」と心得ること。


☆よい聞き役が、子どもの思考力を育てる

親は、子どもの前では、よき聞き役であること。ある人は、『沈黙の価値を知るものだけが、し
ゃべれ』というが、この格言をもじると、『沈黙の価値を知る親だけが、しゃべれ』となる。子ども
の意見だから、不完全で未熟であるのは、当たり前。決して頭ごなしに、「お前の考え方はお
かしい」とか、「まちがっている」とかは、言ってはいけない。「それはおもしろい考え方だ」と言っ
て、いつも前向きに、子どもの意見を引き出す。そういう姿勢が、子どもの思考力を育てる。


☆子どもの前では、いつも天下国家を論じる

子どもに話すテーマは、いつも大きいほうがよい。できれば、天下国家を論ずる。宇宙の話で
も、歴史の話でもよい。親が小さくなればなるほど、子どもは小さくなる。隣や近所の人たちの
悪口や批判は、タブー。見栄、体裁、世間体は、気にしない。こうした生き様は、子どものもの
の考え方を卑屈にする。「日本はねえ……」「世界はねえ……」という語りかけが、子どもを大
きくする。


☆仮面をはずし、子どもには本音で生きる

あなたが悪人なら、悪人でもかまわない。大切なことは、子どもの前では、仮面をはずし、本音
で生きること。あるがままのあなたを、正直にさらけ出しながら生きる。かっこつけたり、飾った
りする必要はない。そういうあなたの中に、子どもは、いつか(一人の人間)を見る。ただし一
言。子育てといっても、あなたはいつも一人の人間として、自分を伸ばしていかねばならない。
それが結局は、真の子育て法ということになる。


☆優越感の押しつけは、子どもをつぶす

おとなや親の優越性を、子どもに押しつけてはいけない。賢い親は、(教師もそうだが……)、
バカなフリをしながら、子どもに自信をもたせ、そして子どもを伸ばす。相手は子ども。本気で
相手にしてはいけない。ゲームをしても、運動をしても、ときにはわざと子どもに負けてみる。子
どもが、「うちの父(母)は、アテにならない」と思うようなったら、しめたもの。勉強について言う
なら、「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがマシ」と思うようになったら、しめたもの。


☆親の動揺、子どもを不安にする

たとえば子どもが不登校的な拒否症状を示すと、たいていの親は、狂乱状態になる。そして親
が感ずる不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。が、この一撃が、さらに子どもの心
に、大きなキズをつける。数か月ですんだはずの不登校が、1年、2年とのびてしまう。子ども
の心の問題を感じたら、一喜一憂は、厳禁。半年単位でものを考える。「半年前はどうだった
か?」「1年前はどうだったか?」と。


☆言うべきことは言っても、あとは時を待つ

親は言うべきことは言っても、そこで一歩引き下がる。すぐわからせようとか、実行させようと考
えてはいけない。子どもの耳は、そういう意味で長い。脳に届いてから、それを理解するまで
に、時間がかかる。実行するまでには、さらに時間がかかる。まずいのは、その場で、とことん
子どもを追いつめてしまうような行為。子どもはかえってそれに反発し、その反対のことをする
ようになる。


☆質素が子どもの心を豊かにする

子どもには、質素な生活は、どんどん見せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいない
ところで、また子どもの見えないところでする。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あ
ともどりできない。だから、子どもにはぜいたくを、経験させない。
なお質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素と
いうのは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダを
できるだけはぶく。要するに、こまやかな心が通いあう生活を、質素な生活という。


☆うしろ姿を押し売りは、子どもを卑屈にする

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。
子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。


☆生きる力は、死を厳粛に扱うことから

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。子どもの教育においても、またそうで、子ども
に生きることの大切さを教えたかったら、それがたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつ
かう。


☆度量の大きさは、立方体で計算する

子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろという
ことではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れることができるかというこ
と。


☆「今」を大切に、「今」を懸命に生きる

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。だからといって、過去を否定するものではない。また何
かの目標に向かって努力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現
実の中で、自分を光り輝かせて生きていくこと。


☆『休息を求めて疲れる』は、愚かな生き方

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。しかしほんの少し考え方を変えれば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。
方法は簡単。あなたも1呼吸だけ、今までのリズムを遅くすればよい。


☆行きづまったら、生きる源流に視点を

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、そのとたん、子育てにまつわるあら
ゆる問題は、解決する。「この子は生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題
は解決する。あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを
見てみるとよい。それですべての問題は解決する。


☆モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。親は、よく、「高価なものを買い与えた
から、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほしいものを買い与えたから、親子のパイ
プは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤解。あるいは逆効果。子どもは一時
的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。物欲をモノで満たすことになれた子
どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。


☆子育てじょうずは、よき先輩をもつことから

あなたの近くに、あなたの子どもより、1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理を
してでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、たいてい「うちも、こんなことがありま
したよ」というような話で、あなたの悩みは、解消する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払
うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリットはないのだから、これは当然といえば、当
然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その人の子どもの影響を受けて、伸びる。


☆子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よくし
たらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界には、
『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。子ども自身も、同じ仲間という意識で見るた
め、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、1、2年、先を見ながら、勉強するという
ことは、それなりに重要である。


☆指示は具体的に

子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。
(はやし浩司 子育て格言 子育てのコツ)


Hiroshi Hayashi++++++++++Dec. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(013)

●よくわからない話?

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朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)理事会は、
K国での軽水炉建設事業廃止を決定した。一時韓国は、
単独でも、K国での軽水炉建設を慣行する構えを見せた。

しかしこと軽水炉に関しては、アメリカの助けがないと
どうにもならないことがわかり、泣く泣く断念。
KEDOの決定に従った。

しかし、ここで問題が終わったというわけではない。
ここから先の話が、よくわからない。

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軽水炉建設の総事業費は46億ドル(約5400億円)。このうち事業主体の中心である韓国
は、11億3500万ドル、日本は2番目に多い4億1000万ドルを投じた。

KEDO事務局は北朝鮮に資金返還を求める意向だが、応じる可能性は低く、日本の資金回
収は困難な見とおしになった。つまり日本は、日本で、その4億1000万ドルについては、あき
らめるという方向で、意思をかためた。

 流れからすれば、それはしかたのないこと。もともとその4億1000万ドルというお金は、捨て
金。軽水炉が完成したところで、また完成しなかったところで、日本に返ってくるお金ではない。

 ところが、である。こうした常識に、韓国が、「待った!」をかけた。「清算するならするで、そ
の清算費を、アメリカや日本が、一定額を負担せよ」と。

 韓国側のいう清算費というのは、K国東部・琴湖(クムホ)地区の建設用地に残っている軽水
炉関連施設・機材の維持、解体、回収費用や、契約企業への違約金・補償金の支払いなどを
いう。その額、総額数10億〜200億円に達するとみられている。

 しかしどう考えても、韓国側の言い分は、おかしい。順に考えてみよう。

 まず軽水炉関連施設・機材の維持、解体費用だが、当初、韓国側は、11億3500万ドル分
を負担すると言ったのだから、その範囲で、払えばよいのではないのか。契約企業への違約
金や補償金についても、同じ。

 話がゴチャゴチャしてきたので、もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 あるところに、たいへん貧しい男がいた。そこでそれを見るにみかねた5人の男たちが、みな
で、お金を出しあって、その貧しい男のために、家を建ててやることになった。

 音頭を取ったのが、A氏。その家の建築を請け負うことになれば、ばく大な利益を得ることに
なる。A氏が、設計、建築を担当することになった。

 話しあいの結果、A氏が、1100万円、B氏が、400万円、ほかの3人が、残りの2200万円
を負担することになった。総額4600万円の豪邸である。そしてその豪邸の建築が始まった。
が、その建築が半分程度すんだところで、問題が起きた。

 その貧しい男は、約束を破ってばかりいる。そればかりか、にせ札を偽造したり、ピストルを
密造したりしていることがわかった。そこでみなが、家の建築は、もうやめようということになっ
た。

が、A氏だけは、その貧しい男と親戚関係にあったこともあり、最後までがんばった。みなが引
きあげたあとも、建築途中の家をそのままの状態で、維持した。機材や大工も、現場に残し
た。こうして2年近い年月が流れた。

で、やはり、建築は、中止。みなが、そう決めた。A氏以外の人たちは、それまでに出したお金
は、戻ってこないと、あきらめた。が、A氏だけは、こう主張した。

 「今まで建築した分の解体費用や、下請け業者などに支払う違約金など、200万円につい
て、みんなで分担して払ってほしい」と。

 韓国側の言い分を聞いていると、頭の中でバチバチと脳細胞が、ショートするのがわかる。
一見、正当性があるようで、まるでない。200億円などという金額は、自分が負担するといっ
た、1100億円の範囲内で、払えばよいことである。「違約金」「違約金」と言うが、その契約
は、韓国政府と業者の間で結んだ契約である。日本やアメリカにしてみれば、その契約の内容
についてまで、どうしてその責任を負わねばならないのか。

 こうした韓国側の横ヤリのため、「K国での軽水炉建設事業廃止に伴う清算費の分担問題を
めぐり、意見がまとまらず、廃止の正式決定が大幅に遅れている」(Yahooニュース)とのこと。

 K国もK国なら、韓国も韓国だと思う。ホント! あえて言うなら、軽水炉建設が中止されたす
べての責任は、K国にある。だったら、どうして韓国は、そのK国に、責任を追及しないのか。
違約金にせよ、補償金にせよ、K国に払ってもらえばすむのではないか。
(05年12月11日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●「パープル・バタフライ」を見る 

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ビデオ「パープル・バタフライ」を見る。

おもしろかった。久々に、脳ミソが、
かき回されたというカンジ。

一応、SF映画ということになっているが、
しっかりと見ていないと、何がなんだか、
さっぱりわけがわからなくなる。

「パープル・バタフライ」は、まさに
そんなビデオ。

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★「パープル・バタフライ」

 あらすじは、1人の青年が、そのつど自分の過去へ戻って、その過去をいじるというもの。
が、過去をいじったとたん、現在にもどってみると、すべてが、変わっている! ……とまあ、ど
こかありふれた、いわゆるタイム・マシン的な映画だが、そういったマシン(機械)は、登場しな
い。

 その青年には、子どものころから、ときどき記憶が抜けてしまうという、特異な現象が起きて
いた。記憶が、ある時間だけ、まったく抜けてしまうのである。たいては何か、大きな事件、つま
り人生の節目に遭遇したときに、そうなる。

そこで、その青年は、毎日、克明に日記を書きつづける。もちろん記憶に残った部分について
は、日記として書くことができる。しかし記憶が残らない部分については、日記を書くことができ
ない。

その青年は、青年になる。やがて何かの偶然から、古い日記を読んでいると、その日記の抜
けた部分の過去にもどることができるのを知る。そしてその過去にもどって、自分の過去をい
じることができることを知る。

 ……とまあ、ここから先が、実にゴチャゴチャしてくる。過去に戻って過去をいじるのが、1度
や2度でないため、ここに書いたように、しっかりと見ていないと、やがて何がなんだか、さっぱ
り、わけがわからなくなる。登場人物の様子が、みな、そのつど、まったく別人のように変化す
る。「なぜ?」「どうして?」と考えているヒマもないほど、目まぐるしく変化する。

 私の印象では、娯楽映画としては、少し、複雑すぎるかなといったカンジ。過去へもどって、
自分の過去をいじったとたん、現在の様子が、すべて変わる。同じようなテーマは、映画『バッ
ク・ツー・ザ・ヒューチャ』で、すでにおなじみ。しかしどういうわけか、パープル・バタフライは、新
鮮。理由の一つとして、論理的に、細部まで、矛盾がないように、きちんと構成されているという
点がある。

 そういう意味ではおもしろい。が、「私は理屈ぽい映画は嫌い」という人は、見ても、あまり意
味がわからないのではないかと心配する。見て楽しむ映画というよりは、見て考えるという映
画。私は★を、2個半つける。

 で、ここからが私の意見。

 ★もし、過去をいじることができたら……

 ビデオの中では、その青年は、何か都合の悪いことが起きるたびに、過去へもどって、そこ
で自分の過去を修正しようとする。が、それでうまくいくわけではない。その結果、思わぬ副作
用が出てきて、また別の新しい問題を作り出してしまう。

 人生というのは、そういうものかもしれない。私もときどき、「もし、あのとき……」というような
ことを考える。「もし、あのとき、別の選択をしていたら、私のその後の人生は、大きく変わって
いただろうな」と。

 しかし結局は、私の人生は、私の人生であっただろうと思う。そのときどきにおいて、そのつ
ど、私は最善とまではいかなくても、その道しかなくて、その道を選んできたように思う。そして
そのとき、別の選択をしていたら、今の私はいないだろうなと思う。

 少し前までは、こんなことを考えた。「もし、私があのまま、M物産という会社にいたら、今ご
ろ、どうなっているだろうか」と。多分、今ごろは、くも膜下出血か何かで、死んでいるかもしれ
ない。あるいはそこそこの子会社で、社長くらいにはなっているだろうが、毎日、マネー、マネー
と、あくせくしているだろうな、とも。

 ところで最近、私は、「人生は1度でいい」とか、「1つだけでいい」とか、考えるようになった。
「2度も生きたくないし、2度生きたからといって、それがどうなのか?」と。「死ぬのはこわい
が、死がそこまできたら、そのときは、そのとき」と。だから今朝も、朝食を食べながら、こう思
った。

 「どうやら、今日も健康で仕事ができそうだ。ありがたいことだ」と。

 やはり自分の過去であれ、過去など、いじってはいけない。その影響は、無数の人に及ぶ。
考えてみれば、これほど、恐ろしいことはない。だから映画の中でも、それを知った父親は、息
子のその青年の首をしめて、その青年(子ども)を殺そうとする。

 そのあたりにも、この映画のすばらしさがある。つまり論理性が一貫しているのみならず、そ
の論理性が、深い。今も、そのビデオのあちこちの場面を思い出しながら、「やはりそうだろう
な……」と考える。

 最後は、その青年自身が、犠牲になることで、みなを、ハッピーエンドに導く。そして過去にも
どるための道具となる日記を、すべて燃やしてしまう。

 が、ただ1つ、私には、どうしても理解できない部分がある。

 最初のシーンで、その青年は、紙切れに、メモを残す。「もしこのメモをだれかに読まれたら、
私は死んでいると思ってほしい」というような内容である。そしてそのメモを書いたあと、その青
年は、別の方法で、子ども時代に、もどる。

 私は、そのメモの意味が、いまだによく理解できない。何度考えても、理解できない。なぜ、そ
の青年は、そんなメモを残したのか。残さねばならなかったのか。そのメモには、どういう意味
があるのか。つまりこのあたりが私の脳ミソの限界ということになる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●いじめ

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佐賀県にお住まいのHTさん(母親)より
こんなメールが届いています。

子どものいじめについての問題です。

HTさん、掲載許可、ありがとうございま
した。

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はやし先生

寒くなりました。

今日、楽天の方の「サトシ君」のエッセイを読ませていただき、
メールしたくなりました。

(注「サトシ君」についてのエッセーは、このあとに添付
しておきます。)

娘のことです。
同じクラスにMさんという女の子がいます。
この子とは、娘が幼稚園児のときから、
クラスがよくいっしょになります。

私は、娘が2年の時に学年PTA役員という仕事をしました。
保護者の方々と先生との連絡役のような仕事です。

ほとんど2年生も半ばを過ぎる頃から、娘の口からMさんへの
不満が聞かれるようになりました。

帰りに、上履き袋を投げつけられる。

鬼ごっこで鬼になった子に向かって、優しい声で
「目をつぶって、10かぞえるのよ」と言った次の瞬間
「お前はそうやって一生そこで、数えていろ!」と言って
みんなを引き連れて、逃げてしまう。

面白くないことがあれば靴を履いた足のかかとで、
思い切り足を踏まれる。

傘のとがった部分で足の甲をつかれる。

手提げで殴りかかってくる。

ある子に向かって無視をするよう、強要する。

「私の言うことが聞けないなら仲間はずれにするから」
と脅される。

まだまだ色んなことがありましたが、こんな不満を
毎日もらしていました。

そんな、緊張状態のある日娘が「ワー!」と声を上げて
泣いた日がありました。
「もう私こんな生活いやだ!」と…。

私は、びっくり! 娘の腕には、ひどい
内出血のあと(鉛筆でつつかれたり、傘でつかれたり)
もう我慢できない。
限界だったようです。

私もここまで娘が追いつめられているとは思っていませんで
同じクラスの仲の良いお母さんに学校の様子を聞いてみました。

状況は娘と全く同じでした。
特定の子をいじめると言うよりは、面白くなければ
だれかれかまわず、という状態だったようです。

先生に状況を話すと、とても驚いて「エーッ! Mさんがですか?」と。
先生の前ではおとなしいニコニコ笑みを絶やさない
どちらかというと気の弱い優しい女の子という、とらえ方だったようです。

実際、学校や家でわたしと顔を合わせたときも
満面の笑みで、「○○ちゃんのママ、んにちは〜。」と
言いましたので、私もこのギャップには信じられませんでした。

その後、先生がクラスの子ども達から話を聞いてみると
なんと18人もの子が、Mさんから上記のようなことをされている
ことがわかりました。

そのうち、一人は腕のけがで、通院までしたようです。

いろいろと親のあり方を考えさせられました。

そして、6年生になった、今年です。

母 「最近、Mさんどうなの?」
娘 「まあ、暴力はふるわないけど、相変わらずだよ」
母 「そうなんだ〜。」
娘 「Mさんね、テストの点が私より悪いと、私に向かって、いばってるだの
  かっこつけてるだの、うるさいよ。
  金持ちは話が合わないから、近寄るな。
  あんたその服、合わない。趣味悪〜!」
  こんなこと毎日言ってるよ。
母 「あなたそんなこと毎日言われて、嫌じゃないの?」
娘 「そりゃ、嫌だよ、頭にくるけど。でも何とも思わない。くだらないから。」
母 「すごい! あなためちゃめちゃ大人の対応できてるじゃん!」
娘 「そう?  ハッハッ、まあね。」

こんなような会話を頻繁にしていたある日のことです。

娘が家に帰って来るなり、大声で泣き叫び
かぶっていた帽子を投げつけ、玄関に入ってきました。

聞くと、Mさんのことでした。

内容はこうです。

放課後数人で遊んでいたところへ、Mさんが娘に向かって

Mさん 「肩車をしてくれない?」
娘   「昨日もしてあげたから、今日は肩と首が痛いからイヤだ。」
Mさん 「あんた、生意気、私の言うことが聞けないの?」
娘   「私は、しない。したくない。」
Mさん 「あんたなんか絶交! これから完全無視よ!
     いい? ここで遊んでいる人全員これからこの子のこと無視だからね!」
Gさん 「やめなよ。そんなこと何でするの? かわいそうだよ」
Mさん 「あんたも無視されたいの?」
Gさん 「…。」

そして、その後Mさんは娘を独りにさせ
「あの子と一緒に帰るんじゃないよ」と言って
みんなを引き連れていったそうです。

独りぽつんと残されて悔しかった。
私独りになっちゃうー。 と
つらくてつらくて、いられなかった。

と、言っていました。

本当に悔しかったと思います。
毎日Mさんの暴言にたえている上に、このような出来事があったので
もう極限だったようです。

娘の話だと、やはりそのときによってターゲットが変わるようで
Mさんの周りは毎日トラブルだらけ、いささか疲れた…。
でも、許せない…。と

母 「つらかったね。あなたよく頑張っているよ。でもね、Mさんのお陰で
  本当にいい勉強させてもらっているね。」
娘 「勉強?」
母 「そうだよ。あなたはつらい人の気持ちがよくわかる子になっているでしょ?
  つらい子にどうしてあげたらいいかわかるようになったでしょ?
  それに、絶対にMさん側(いじめる側)になりたいなんて思わないでしょ?」
娘 「そうだけど…。でも、むかつく。」
母 「ホント、それはそう。ママだってむかつくけど。
  でも、Mさんはかわいそうな人よ。」
娘 「かわいそう?かわいそうなのは私だよ」
母 「だって、もうあなたやあなたの周りの人はMさんを
  半分に扱ってるじゃない。」
娘 「どういうこと?」
母 「同等じゃないってこと。だって、あなた、Mさんの言うこと、くだらない
  から気にしてないとか、まだ、そんなこと言ってるの?とか、半分はあきれ
  てるじゃない。Mさんだからしょうがないって。ね」
娘 「そう言われてみればね。」
母 「あなたは、すごく成長したと思うよ」
  そして、 一年生の頃の話をしてあげました。

こんな話をして、その後私は、娘の仲の良いお友達に学校の様子を
聞き、確かにMさんの言動、行動がエスカレートしていると判断したので
先生にお話ししました。

先生には、今まであった事実をお話しした後
Mさんの親御さんに抗議したいわけではない。
Mさんに謝罪して欲しいわけではない。
先生に子ども達の人間関係の修正をお願いしたいわけではない。

これは、子ども達が成長していく上での勉強だから
先生が現状を把握していただくだけでいいです。

と言うことを伝えました。あとは、子ども達が自分で考えて対処していく
しかないと思いますから。と。

娘も同席しているところでの三者面談でしたので、娘もよく理解できたと思いま
す。
後で、娘に聞くと「ママ、すっきりだよ」と言っていました。

こんな出来事が最近あって、また、娘のお陰で私もちょっと母親になれたかな〜
と思っていたところでしたので、サトシ君のエッセイは心に響きました。

それから、おまけですが、この一件を横で聞いていた二女と、こんな会話をしました。

母  「あなたは、何か困っていることはないの?」
二女 「ないよ! 毎日楽しい。明日の朝が早く来ないかなッて、いつも思ってる」
母  「それは幸せね。何よりね。」
二女 「だけど、クラスの中では色々あるよ。」
母  「なあに?」
二女 「Wさんのことだよ。毎日みんな先生に苦情言ってるよ。
   Wさんてね、興奮したり気に入らないことがあったりすると
   大声出したり、ものを投げつけてくるんだよ。」
母  「ものを? いきなり?」
二女 「そうだよ。だからみんなイヤなんだよ、当たると痛いし、急にくるからね。」
母  「で…、あなたのところは飛んでこないの?」
二女 「飛んでくるよ、毎日ね。」
母  「イヤじゃないの?」
二女 「全然イヤじゃない。むしろカワイイ子だなって思っているよ。」
母  「え? 何で?」
二女 「わからない。でも、投げられた後、Wさんに今日のは痛かったよ!
   とか、今のは、ビシッときいたよ!、って言ってやると
   Wさんたら、すなおに戻って ごめん悪かったよ。って言ってくれるんだよ。
   大騒ぎしたり、怒ったりしてもおさまらないからね。余計に興奮するんだ
   よ。 それに、もしかしたら病気なのかもしれない。だって、ものを投げてく
   るときは、よだれ垂らしたり目がどこかに行っちゃってたりするから。」
母  「あなた、心の広いいい子に育ったね〜。ママうれしい! そのまんま大
   きくなりなさいね〜。」
 
本当にうれしい出来事でした。
そう言えば初めてWさんのお母さんにお会いしたときに、
すごく丁重にご挨拶をされたことを覚えています。

「うちのWが学校でお世話になっています。
あなたの娘さんが、友達の中で一番優しくしてくれると
Wがいつも言っています。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。」、と…。

あまりの丁寧さに違和感すら覚えたのを記憶しています。
今思えば、Wさんとお母さんはずっと友達関係で悩んでいたのでしょうね。


それにしても、知らない間に子ども達は成長しているものですね。

外に出ると何とか人間関係をうまくやろう。トラブルにならないようにしよう。
と、日々神経をすり減らす長女。

何かあっても、許してわすれる(はやし先生談)そして
好んでそれを包み込んでしまおうとする二女。

はやし先生がおっしゃるように家が体を休める場所でなければならないと
子ども達を見ていて実感します。


2学期も残りわずかとなりました。
元気にすごして欲しいと思っています。


長いメールになりました。

時節柄ご自愛ください。こちらは、九州地方も、急に冷えこんで
きました。

佐賀県S市、HTより

++++++++++++++++++

HTさんが、読んでくださった原稿を
ここに添付しておきます。

++++++++++++++++++

●サトシ君(いじめ問題の陰で)

 サトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのサトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆(静岡県)にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、サトシ君の祖

から聞いた話だ。

 祖父はサトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。サトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とサトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。帰る道す
がら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、サトシ君は、「高校に合格しますように
と祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように祈らなか
ったか」と。そこでサトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「サトシ君」で呼ぶようになった。とても
呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、サトシ君のような子どもも
いる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと
判断する。愚かな人ばかりではない。サトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内の
K高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。サトシ君は、見るからに人格が違ってい
た。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐えない
と、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、
こういう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超え
たいじめは別である。しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四が
なくて、五に相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの訴えることに、とことん耳を傾けてやる
ことでしかない。子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあげるこ
とでしかない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師にも、できるこ
とには限界がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、 親や教師の務めではないかと、
私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 人は、ドン底に落ちると、2つのタイプの人間に分かれる。そのときから、徹底した善人にな
るタイプと、徹底した悪人になるタイプである。どちらの道を選ぶかは、紙一重。

 そこまで深刻な問題ではないにせよ、子どもの世界でも、同じようなことが起きる。いじめを
受け、それをバネに、ここに書いたサトシ君のようになる子どもと、同じように、今度は反対に、
いじめる側に回る子どもである。「いじめられる前に、いじめてやれ」という考え方である。

 そういう意味では、いじめる側の子どもが、すべて「悪」とは言い切れない。(もちろんいじめ
は、悪いことだが……。)抑圧されたうっぷんが、長く蓄積されて、それがいじめに転化すると
いうことも、子どもの世界では、よくある。

 それにいじめる側は、それを(いじめ)と認識していないケースも、多い。軽い遊びか、ふざけ
のつもりで、それをする。しかしいじめられる側にとっては、そうではない。ちょっとした相手の
言動を、おおげさにとらえてしまう。そういうケースも、多い。

 さらに「A君がいじめる」と言うから、学校の先生に相談して、A君を近くから排除してもらう。
すると今度は、その子どもは、「B君がいじめる」と言い出す。そこでまた今度は、B君を近くか
ら排除してもらう。が、つぎに今度は、その子どもは、「学校の先生がいじめる」と言い出したり
する。そういうケースも、少なくない。

 これを「ターゲットの移動」という。つまりその子どもは、もっと大きな心の問題をかかえてい
て、それが原因で、学校へ行きたくないだけである。それがわからないから、親や先生は、子
どもの言うことに、振りまわされてしまう。そういうケースも、多い。

 ここに(いじめの問題)のむずかしさがある。
(はやし浩司 いじめ いじめの問題)


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●2人目の孫

+++++++++++++++++

家の広さ基準は、国によって、みな
ちがう。

しかしアメリカ人がもつ基準は、ケタ
はずれに、大きい。つまりアメリカ人
の家は、大きい。

+++++++++++++++++

 アメリカに住む二男が、こんな日記(BLOG)を書いた。今度、2人目の子どもが生まれること
になったが、それについて、だれかが、「こんな(狭い)家で、2人も育てるの?」と言ったそう
だ。

 それについて二男は、こう思ったそうだ。「日本の基準で考えたら、広すぎるほど、広いのに」
と。

 たしかにアメリカでは、広さの基準そのものが、ちがう。当然、家は、大きい。若いころ、こん
な失敗をしたことがある。

 「ぼくの家は、2階建てだ。階段がある」と手紙を書いたら、そのアメリカ人は、かなり大きな
家を想像してしまったようだ。アメリカで「階段」というと、映画『風と共に去りぬ』に出てくるよう
な、幅の広い、あの大きな階段をいう。

 が、日本の家の階段は、階段ではない。あえて言えば、ハシゴ? 二男のワイフ(アメリカ人)
が、私の家に来たときも、「日本の階段は急で、こわい」と言った。それではじめは2階に寝室
を用意していたが、急きょ、1階にある部屋に、寝室を移してやった。

 基準がちがう。まったく、ちがう。そのアメリカ人は、つまりかなり大きな家を想像してしまった
アメリカ人は、多分、ずっとあとになって私の家が、とんでもないほど小さいのを知って、驚いた
にちがいない。礼儀正しいアメリカ人だったから、それを口に出して言うことはなかったが…
…。

 ともかくも、2人目の孫が、来年には生まれる。そこでふと考える。「アメリカでは、一人前の
生活をするのも、たいへんなことだな」と。が、ここで誤解してはいけないことは、アメリカでは、
家が、安い。プラス土地が安いから、その分だけ、大きな家を建てることができる。

 それに日本のように、広さに応じて税金が高くなるとか、こまかい建築基準法というのがな
い。もちろん地震対策など、考えなくてもよい。いつだったか二男がこう言ったのを覚えている。

 「アメリカでは、1200万円も出せば、豪邸を買うことができる」と。近所の小さな空き地(30
坪くらい)に、「売り地、1200万円」という立て札が立ったいるのを見たときのことである。

 もっとも広い、狭いということになれば、G県の郷里に帰るたびに、私は、こう思う。「よくもま
あ、こんな狭い土地に、何百軒も家がひしめいているな」と。正確に調べたわけではないが、ど
の家も、20〜30坪程度の敷地に、ほとんどすき間なく軒をつらねている。私が今住んでいる
町内だけで、あの町全体が、すっぽりと入るのではないか?

 つまりこうした感覚というのは、あくまでも相対的なもの。アメリカ人から見れば、私の家は狭
い。しかし私の家から見れば、郷里の家々は、狭い。が、『住めば都』とは、よく言ったもの。私
にとっては、今住んでいるここが、一番、気に入っている。

 だからアメリカ人の家がうらやましいとは思わないし、反対に郷里の人たちが、かわいそうだ
とも思わない。そういう点では、人間は、フレキシブルにできている。それに悪いことばかりでは
ない。人口密度が濃密である分だけ、人間関係も濃密。私の郷里では、隣り近所が、みな、親
戚といった感じがする。

 さてさて、2人目の孫は、どうするのだろう。より広い家を、二男夫婦も、当然、考えていること
だろう。二男夫婦のためというよりは、その孫のために、何とかしてやりたい。そんな気持ち
は、強いが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(014)

●スパムメール

++++++++++++++++++++++

スパム・メールが、じゃかすか、やってくる。
最近では、「連絡、ありがとうございました」
「お待たせしました」「先日は、ありがとうご
ざいました」という、どこか、思わせぶりな
ものが多い。

身に覚えがないから、「バカめ」と言って、そ
のまま削除することができるが、そうでない
人は、そうではないだろう。

+++++++++++++++++++++++

M社のウィルス・ソフト対策コーナーを読むと、こうしたスパム・メールへの対策法として、つぎ
のようにある。

(1)絶対に、相手にしてはいけない。相手にすれば、あなたのアドレスが生きていることがわか
り、さらに転売の対象になる。
(2)公開するメールアドレスは、フリーメールアドレスを使え、などなど。

 そこで私のアドレスを、Y社の検索にかけてみた。で、驚いたことに、私のアドレスを公開して
いるサイトがいくつかあるのがわかった。

 さっそく、削除を申し込む。「どうしてこんなことが、私の了解もなくできるのだろう?」と考えて
も、あまり意味はない。幸いにも、その中のいくつかは、私が削除を申し込むと、すぐそれに応
じてくれた。悪い人たちばかりではない。

 そこで(3)番目の対策として、どこかのだれかから、リンクの申し込みがあっても、それに安
易に応じてはいけないということ。一度、「OK」すると、あとはそのまま自由勝手に使われてし
まう。アドレスを使うとしても、M社の注意書きのように、フリーのメールアドレスを使うのがよ
い。

 そうそう数週間前だが、こんなのもあった。

 「あなたのHPを、もっと多くの人に読んでもらいたいと思いませんか。ついては、当サイトに、
あなたのHPを登録してください。○×・HP登録センター」と。

 で、メールを開いてみると、HPのアドレスのほか、簡単な自己紹介文、住所、名前、電話番
号、それにパスワードまで、記入するようになっていた。パスワードは、紹介文を修正、訂正す
るためのものだそうだ。

 「?」と感じたので、そのまま削除。思わず、ひかかってしまうとこころだった。HPの紹介だけ
なら、住所や名前、電話番号など、いらないはず。そこでその「紹介サイト」なるものを開いてみ
たが、「目下、制作中」とあるのみ。まだ、だれも登録していないことがわかった。(あるいは、
最初から、制作などしていないのかもしれない。)

 この世界、本当に油断もスキもあったものではない。みなさんも、くれぐれも、ご注意のほど
を!

(付記)

 加えて、こうして名前とHPを公開しているため、心ない人からの、いやがらせも、多い。今朝
もあった。

 京都で起きた、塾講師(D大学学生)による、小学生の殺傷事件をにおわせながら、「林さん
のところでも、事件が起きることを楽しみにしています」と。

 掲示板からは、相手のプロバイダーの名前までしか追跡できないが、掲示板に書き込むた
めには、一度、私のHPを経由しなければならない。そのHPを経由したとき、私のほうで、プロ
バイダーと、個人を特定するIP番号などが、把握できる。ついでに過去に何回、私のHPへアク
セスしたかもわかる。

 本人は、匿名のつもりなのだろうが、その気になれば、さらに詳しく調べることもできる。しか
し、そういう人は、相手にしない。削除して、忘れる。

 文句があるなら、堂々と名前を名のってから言え!、……と私は考えるが、みなさんは、どう
思うだろうか?

(付記2)

 私も最初のころは、こうした書き込みについて、かなり不愉快な思いをした。しかしそういうも
のをいちいち気にしていたのでは、先に進めない。中には、(ほとんどの人がそうではないかと
思うが)、こうした書き込みがあると、そのままHPや掲示板を閉じてしまう人がいる。

 しかしここでくじけてはいけない。くじけたら、負け。これはインターネットのもつ、欠陥(けっか
ん)のようなもの。あるいは、善の道を妨げる、イバラのようなもの。前に進めば進むほど、こ
の種の、心ない人からのいやがらせがふえる。

 が、それも2つ、3つ……と重なってくると、そのうち免疫性ができてくる。気にならなくなる。1
00人の読者がいれば、そのうち、1%の1人には、頭の「?」な人がいる。1000人の読者が
いれば、そのうち、0・1%の1人には、さらに頭の「?」な人がいる。

 そういう頭の「?」な人に、負けてはいけない。

 先日もここに書いたのと同じようなエッセーを書いた。それについて、「私も、私のHPの掲示
板に、悪意に満ちた書き込みをされて、いやな思いをしています」というメールをもらった。M県
に住む、Eさんという女性からのものだった。

 Eさん、負けてはだめですよ。無視して、削除。あとは忘れる。このタイプの「?」な人には、無
視するのが一番です。何を書いてきても、ただひたすら無視、です。

(付記3)

 こうした書き込みをする人は、インターネットのもつ匿名性を悪用しているわけだが、その分
だけ、心のゆがんだ人とみてよい。いじけやすく、ひがみやすく、おく病で、その上、卑怯。自己
優越性が強く、ものの考え方が、自己中心的。そのため、友人の数は、恐ろしく、少ない。家族
の中でも、孤立しているのでは?

 しかし自分では、そうは思っていない。それに気づくこともない。心の中は、いつも暗く、ジメジ
メと湿っている。少し昔には、無言電話というのがあった。受話器を取ると、すぐ電話を切って
しまうというのが、それ。こうした書き込みをしてくる人の心理は、その無言電話をかけてくる人
のそれに、共通している。

 (今は、ナンバーディスプレイ方式という便利な電話機が開発されて、この無言電話によるい
やがらせは、ほとんどなくなった。)

 もともと相手にしなければならないような連中ではない。そう考えて、Eさん、負けてはだめで
すよ! 今にインターネットの世界でも、電話機のナンバーディスプレイ方式のようなものが、
開発されると思います。今は、その過渡期かな?


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●シャワートイレ

 私の隠れた趣味。それは、用をすますたびに、トイレをピカピカにみがくこと。その中で、弁当
を食べられるほどまでに、みがく。

 それについては、前にも書いた。

 で、そのトイレ。実は、シャワートイレ。今どき、珍しくもなんともないが、はじめてそれを見た
のは、リオデジャネイロ(ブラジル)のホテル。何でもその1か月前に、あの田中角栄氏(元総
理大臣)が泊まったとかいう、リオデジャネイロでも、由緒あるホテルだった。もう30年も前のこ
とである。

 そのホテルのトイレに入ったときのこと。用をすまして横を見ると、大きなレバーが二つもある
ではないか。私はどれが何だか分からなかったので、1つのレバーを、思いっきり、下へさげて
みた。

 とたん、便器の下から、噴水のような水が噴きあげてきた。ものすごい勢いである。私はそれ
にびっくりして、トイレから走りだしてしまった。

 以来、シャワートイレを使うたびに、あの日のことを思いだす。

 このシャワートイレ。いろいろな使い方がある。ちまたには、腸内洗浄とかいう健康法がある
そうだ。そのための器具もいろいろ市販されている。要するに、腸内に温水(薄い塩水)を、流
しこみ、腸内を洗浄するというもの。

 しかしシャワートイレがあるなら、わざわざそんなものを買わなくても、トイレの中で、腸内洗
浄ができる。どうやってするかについては、多分、すでにみなさん、経験済みだと思うので、ここ
には書かない。(あまり、美しい話ではないので……。)

 そこである日、私は、一体、どれだけの水が腸内に入るか、たしかめてみたことがある。方法
は簡単。

 まず、前もって、体重を測定しておく。つぎに、シャワートイレを流しながら、腹が痛くなるまで
がまんする。最初はボコボコという音が、腸のあちこちから聞こえてくる。が、それも一巡する
と、キリキリと腹が痛みだす。腹の左下を押さえてみると、水(実際には温水)が、パンパンに
つまっているのがわかる。「もう、だめだ」という限界まで、がまんする。

 その状態で、体重計の上に乗ってみる。ふえた分が、水の量ということになる。つまりこうして
腸内に入った水の量を知ることができる。

 で、私のそのときの実験では、約1・5キロ! 何と、1・5リットルもの水が入ったことがわか
った。たいへんな量である。もう少しで2リットル。

 さらに私は、こんな実験もしてみた。その状態、つまり、腸の中がパンパンになった状態で、ト
イレの外で、逆立ちをしてみる。そうすれば理屈の上では、水は逆流して、大腸全体に回るは
ずである。

 その状態で腸内の水を排出すれば、大腸全体が、美しくなる。が、これは失敗だった。その
あとすぐ、船に酔ったみたいに、ムカムカと気持ち悪くなった。逆立ちしたのが原因なのか、そ
れとも、腸内に水を大量に入れたのが原因なのかはわからない。ともかくも、気持ち悪くなっ
た。

 で、この実験は、失敗。(こうした実験も、医学発展のため。)

 こうして私は、日々に、腸内を洗浄している。そこで私はある日、ワイフにこう言った。「ぼくの
腸ね、切ってホルモン焼きにしてもいいほど、きれいだよ。そのまま焼いて食べられるよ」と。

 そのせいかどうかわからないが、最近では、腸内のどこに、どの程度の、カスがあるか、それ
がわかるようになった。腸の中の様子が、よくわかるようになった。つまりこれも私の隠れた趣
味ということになる。つまり腸内洗浄が、である。

 方法は……。やはりここには、書けない。みなさんも、どうか努力して、その方法をさがしてみ
てほしい……、と書いたところで、こんなこともあった。

 シャワートイレの話を、あるとき、私の生徒たち(当時、小2)に話すと、M君が、こう言った。
「シャワートイレを使うと、お尻の穴の中に水が入るんだってエ。ママが、そう言っていた」と。

 つまりすでに、みなさん、ご存知のとおりということになる。しかしトイレもピカピカ。腸の中もピ
カピカ。とてもさわやかなよい気分。今は、そのよい気分。

 バカな話を書いて、ごめん!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(015)

●老いるとは……

++++++++++++++++++

周囲の人たちが、どんどんとバカに
なっていく。ものの道理が通じなく
なっていく。こまかい、繊細な話が
できなくなっていく。

老いるということは、そういうこと。
それが私を、さみしくさせる。

++++++++++++++++++

 老人イコール、人格の完成者というのは、ウソ。まったくのウソ。幻想。人は老いれば老いる
ほど、愚かになる。どん欲になる。自分勝手になる。ごう慢になる。がんこになる。わがままに
なる。そしてバカになる。

 自分がその(老い)の戸口に立ってみて、それがはじめてわかった。つまり今までは、「老人と
いうのはそういうもの」と、心のどこかで一線を引いて、老人を見ていた。老人を私たちの世界
の外に置いて、老人をながめていた。現在、若い、あなたも、多分、そうだろう。「私には、老い
は、関係ない」と。

 しかしこのところ、老人を見ればみるほど、心がさみしくなる。それは自分が老いるからでは
なく、まわりの老人たちが、自分からどんどんと離れていくのを感ずるからである。中には、何
を話しても、ヘラヘラ、ニタニタと笑っているだけ。こちらの話が、まるで通じない老人もいる。

 「私も、そういう世界へ、入っていくのか?」と思うだけで、ツンとしたさみしさが、心をふさぐ。

 高い道徳や倫理など、もう望むべくもない。文化性そのものをなくす老人も、多い。その姿
は、欲におぼれた、餓鬼(がき)そのもの。一応、表面的には善人を装ってはいるが、それは
長年の知恵で身につけた、仮面のようなもの。身内や家族の者を前にすると、想像もできない
ほど汚い言葉で、ののしったり、怒鳴ったりしている。

 どうして老人は、老人になるのか。単純に考えれば、身体面の衰えが、そのまま精神面の衰
えにつながるということになる。が、しかし本当にそれだけだろうか。

 私は、老人になればなるほど、その人が本来的にもつ(地)が、表に出てくるためではないか
と思う。若いうちは、そうした(地)を、気力でカバーすることができる。しかし老いれば老いるほ
ど、その気力が弱くなり、(地)をカバーすることができなくなる。

 こんな例がある。ある女性(現在、60歳と少し)は、50代のころから、近所のひとり暮らしの
老人の世話をしていた。献身的な世話だったという。そういう老人のために、役所へ届ける書
類を作成してやったり、ときには、買い物もしてやったりしていたという。

 しかし自分の母親が他界、残された父親が認知症になったとたん、様子が変わった。周囲の
人たちは、当然、その女性が、その父親のめんどうをみるものとばかり思っていた。しかしその
女性は、父親をすぐさま、精神病院へ入れた。もともと父親との折りあいが悪かったこともあ
る。母親が他界したあと、父親を虐待していたという、うわさもある。

 そして3か月が過ぎると、今度はそのまま別の老人専用施設に入居させてしまった。だからと
いって、その女性を責めているのではない。それぞれの家庭には、外からはうかがい知ること
のできない、複雑な事情がある。

 が、近所の人たちは、そのあまりの(落差)に、驚いた。老人思いのすばらしい女性から、老
人を毛嫌いするただの女性へ、と。

 よくよく考えてみると、もともとその女性は、その程度の女性ではなかったのかと思う。心理学
の世界にも、「愛他的自己愛」という言葉がある。自分をよく見せるために、他人を愛している
フリをして見せることをいう。よくどこかのテレビタレントが、その団体に頼まれて、慈善活動を
して見せるのが、それ。

 その女性も、それまでは、近所のひとり暮らしの老人の世話をしていた。しかしそれは、その
老人のためというよりは、まわりの人たちに、すばらしい人と思われたいがため、そうしてい
た。が、身内にそういう老人ができると、一変した。道楽で、老人を介護するのと、追いつめら
れて介護するのとでは、中身は、まるでちがう。

 そこで俗な言い方をすれば、「化けの皮がはがれた」ということになる。つまりここでいう(地)
が表に出てきた。

 そこで改めて、(老い)について考えてみる。

 私たちは、自分の気力を過信するあまり、その奥に潜む(地)にあまりにも、無関心でいすぎ
るのではないだろうか。「私は善人だ」と思っている人でも、本当のところは、そういうフリをして
いるだけではないだろうか。わかりやすく言えば、自分をごまかしているだけ。

 しかしその(地)を変えるのは、容易なことではない。毎日、心の中に、ある種の緊張感を保
ちながら、常に前向きに生きていかねばならない。自分をみがいていかねばならない。仏教の
世界でも、それを「精進(しょうじん)」という。

 「私は完成された」と、うぬぼれたとたん、そこを頂点として、あっという間に、またもとの俗世
間へとたたき落とされてしまう。それは何度も繰りかえすが、健康法に似ている。

 究極の健康法などない。また究極の健康法を極めたからといって、その人がそのあと、一
生、健康ということもない。同じように、究極の精神鍛錬法というのもない。「私は悟った」と、う
ぬぼれたとたん、そこを頂点として、またもとの俗世間にたたき落とされてしまう。

 そういう意味では、年をとればとるほど、脳みその底に穴があく。そしてその穴は、年々、大
きくなることはあっても、小さくなることはない。知識や知恵、経験は、その穴から、どんどんと
下へこぼれ落ちてしまう。

 そしてやがて、その人の(地)が、表に出てくる。もともと邪悪だった人は、そのまま邪悪にな
る。

 悲しいかな、すでに60歳前後の人でも、どこか鈍くなってしまった人となると、いくらでもい
る。会話そのものが、かみあわない。通俗的な世間話はできるが、それ以上の会話ができな
い。会話そのものが、はずまない。思考力そのものが低下しているから、ものの考え方が、短
絡的。

 「林君、何だかんだと言ってもだよ、金だよ、金。金が、大事だよ」
 「K国なんか、あんた、戦闘機で、バンバン攻撃してやればいいんだよ」
 「あのね、女なんかに、力をもたせてはいけないよ。女は家庭に閉じこめておけばいいの」
 「幼児教育なんてものはね、必要ないの。だれだってそんな教育、できるでしょう」と。

 では、どうするか。老いを迎える私たちは、どうしたらよいのか。

 やはり「精進」という言葉に、私は、行き着く。

 脳ミソの穴から、知識や知恵、経験がこぼれ落ちていくなら、その落ちていく分以上のもの
を、補給する。(地)があまりよくないというのなら、その(地)と戦う。戦って、戦って、戦いぬく。

 健康法で言えば、毎日の運動は欠かさない。一日、一度は、汗をかく。暑くても、寒くても、そ
れをつづける。「今夜は寒いから、やめた」というようであれば、健康を維持することはできな
い。

 同じように、精神面では、考える。考えて、考えて、考えぬく。そのためには、私は、ものを書
くのがよいと思うが、ものを書くだけではない。本を読んだり、絵を描いたりすることでもよい。
音楽を聞いたり、旅行をするのもよい。何らかの方法で、いつも、前向きに生きていく。新しい
ことを見つければ、どんどんとそれに挑戦していく。

 こうして考えていくと、「老いる」ということは、自分の敗北を認めること、ということになる。つ
まり私たちが「老人」と呼んでいる人は、その敗北者ということになる。そこで言いかえると、70
歳になっても、80歳になっても、元気で飛びまわっている人は、老人ではないということにな
る。同じように、70歳になっても、80歳になっても、「精進」を繰りかえしている人は、老人では
ないということになる。

 老人は老人になってはじめて、老人になる。老人であっても、老人でなければ、いつまでも、
老人ではない。わかりやすく言えば、そういうことになる。
(はやし浩司 老人 老人論 老いとは 老いとは何か 老人とは何か)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●言葉を反復する子ども 

++++++++++++++

いちいちこちらの言った言葉を
反復する子どもがいる。

反復しないと、こちらの言った
ことが、理解できないといった
ふう。

原因は、脳の中で、情報の伝達が
適切になされないためではないか。

教えていると、そんな印象をもつ。

++++++++++++++

 そのつど、こちらの言った言葉を、いちいち言葉を反復する子どもがいる。年齢を問わない。
たとえば先生との間では、こんな会話をする。

私「うさぎさんが、6匹いました。そこで……」
子「うさぎさんが、6匹?」
私「そうだよ、6匹だよ」
子「6匹、ね」
私「そこで、みんなに、帽子を1個ずつあげることにしました」

子「みんなに……?」「帽子……?」
私「そうだよ。みんなに、帽子だよ」
子「何個ずつあげるの?」
私「1個ずつだよ」
子「1個ずつ?」と。

 もう少し年齢が大きくなると、言葉の混乱が起きることがある。

私「1リットルのガソリンで、10キロ走る車があります」
子「何んだったけ? 10リットルで、1キロ?」
私「そうじゃなくて、1リットルのガソリンで、10キロ走る車だよ」
子「1リットルの車で、10キロ走る、ガソリン?」
私「そうじゃなくて、1リットルで……」と。

 このタイプの子どもは、少なくない。私の経験では、10人中、1人前後、みられる。特徴として
は、つぎのような点が観察される。

(1)こちらの言ったことがすぐ言葉として、理解できない。
(2)そのためこちらの言ったことを、そのつど、オウム返しに反復する。
(3)こちらの言った言葉に、すぐ反応することができない。
(4)全体に、軽度もしくは、かなりの学習遅進性が見られることが多い、など。

 私の印象としては、音声として入った情報を、そのまま理解することができず、それを理解す
るため、もう一度、自分の言葉として反復しているかのように見える。あるいは音声として入っ
た情報が、脳の中の適切な部分で、適切に処理できず、そのままどこかへ消えてしまうかのよ
うに見えることもある。脳の中における情報の伝達に問題があるためと考えられる。

 このタイプの子どもは、もちろん叱ったり、注意したりして指導しても、意味がない。またその
症状は、幼児期からみられ、中学生になっても残ることが多い。脳の機能的な問題がからんで
いると考えるのが正しい。

 ほかに、こんな会話をしたこともある。相手は、小2の子どもである。

私「帰るとき、スリッパを並べておいてね」
子「帰るとき?」
私「そうだよ。帰るときだよ」
子「スリッパをどうするの?」
私「スリッパを並べるんだよ」
子「スリッパを並べるの?」
私「そうだよ」
子「帰るとき、スリッパを並べるんだね、わかった」と。

 このタイプの子どもは、今のところ、そういうタイプの子どもであると認めた上で、根気よく指
導するしかほかに、方法がないように思われる。
(はやし浩司 言葉を反復する子ども 言葉を反復する子供 言葉がすぐ理解できない子ども
 言葉の反復、反復児 言葉を反復 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(016)

【近況・あれこれ】

●薄着で散歩 

 しばらく見かけなかった。が、久しぶりに通りで見ると、その老人は、薄いセーター1枚で、外
を歩いていた。セーターの下には、シャツ1枚。シャツを見たわけではないが、そんな感じだっ
た。その老人は、80歳と少し。

 ここ数日、日本列島を、猛烈な寒波が襲っている。全国的に雪模様。九州南部でも、みぞれ
が降ったという。寒いというよりは、身を切るような冷たさ。そんな中での、散歩である。

 かたや私は、マフラーに皮ジャン。手には分厚い手袋。その元気そうな様子にすっかり感心
して、そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「あら、あなた知らないの? あのXさんね、認知症だそうよ」と。

私「認知症?」
ワ「そうよ。だからこんな寒い日に、そんなかっこうで歩くのよ」
私「認知症の老人が、服をたくさん着るという話は聞いたことがある。しかし薄着になるという話
は、聞いたことがない」
ワ「ううん、ときどき、いるそうよ」と。

 そこでネットを使って調べてみると、たしかにそういう症状をもつ老人がいるそうだ。

 認知症の特徴として、(1)記憶力の低下(もの忘れがひどくなる)、(2)自己認知力の低下
(自分がどこにいるかわからなくなる)、それに(3)判断力の低下(何をすべきかわからなくな
る)があるそうだ。

 その判断力が低下してくると、夏でもセーターを着てみたり、反対に冬でも、薄着でいたりす
ることもあるそうだ。ナルホド!

私「あれじゃあ、すぐ風邪をひいてしまうよ」
ワ「そうね。だから老人は、よく風邪から肺炎になって、死ぬのよ」
私「奥さんは、どうしているの?」
ワ「聞いた話では、あのXさんは、奥さんの言うことなど、もう何も聞かないそうよ」と。

 認知症といっても、定型があるわけではない。脳みそのどの部分の機能が低下するかによっ
て、症状も、万別ということらしい。Xさんは、恐らく前頭葉のどこかが、ダメージを受けているら
しい。それにしても、この寒い日に、薄いセーター1枚で外出とは!!


●単純なミスで400億円の損失

 詳しいいきさつはともかくも、東京証券取引所を介して、M証券グループが、400億円の損
失を出したという。

 400億円の損失!、……ということは、だれかがその400億円を、儲けたことになる。1等
が3億円のジャンボ宝くじなど、どこかへ吹き飛んでしまう。しかしここにネット取引のこわさが
ある。数字だけが一瞬のうちに、ひとり歩きを始めてしまう。そしてそれにつづく、つぎの瞬間に
は、すべてが決まってしまう。

 私もネット取引を、小遣いの範囲で楽しんでいる。が、それはたとえて言うなら、数字の遊び
のようなもの。その数字が勝手にふえたり、へったりする。100万円というと、たいへんな金額
だが、それは実生活での話。ネット取引の世界で、400億円と聞いても、ピンとこない。

 つまりお金というのは、実際、使ってみてはじめて、その価値が生まれる。たとえば私は、パ
ソコンの周辺機器の何かがほしくなると、ネットで株取引をして、その儲けで買うようにしてい
る。

 そのとき、たとえば10万円、儲けたとする。しかしモニター画面上で、いくらその数字をなが
めていても、実感がわかない。そこで証券会社へ出向き、カードを使って、その10万円をおろ
す。おろして、デジタルカメラを買う。

 そのデジタルカメラを買ったときはじめて、10万円の価値がわかる。が、そのとき、また別の
不思議な感覚にとらわれる。今度は反対に、株取引で儲けたという実感がわかない。10万円
といっても、札に名前がついているわけではない。仕事で儲けた10万円も10万円なら、株取
引で儲けた10万円も10万円。

 「もったいない」などと思う必要はないはずなのに、「2台ももって、もったいない」とか、「この
前、新しいのを買ったばかりではないか」と、自分で、自分を責める。

 で、その400億円だが、M証券グループにとっては、たいへんな額にちがいない。しかしその
実感がない。だから同情心も生まれない。むしろ反対に、その400億円を儲けた人たちを、う
らやましくさえ思う。私もそのとき、その株価を見ていたら、すかさず買いを入れたと思う。そし
てあとになって、「あの株価はまちがいでした。買いをキャンセルしてください」と、だれかに頼ま
れても、私は、多分、それに応じないだろう。

 それが「数字」の世界。その世界には、血も涙もない。考えてみれば、おかしな、おかしな、た
いへんおかしな世界である。


●浜名湖のうなぎ

 中学生たちが使う社会の教科書には、こうある。「浜名湖のうなぎ」と。

 つまりうなぎが、浜名湖の特産品ということになっている。しかしその様子は、ここ30年で大
きく変った。うなぎの子ども、つまりシラスウナギは、ほとんど取れなくなった。そのため養満鰻
業者も、そのほとんどが姿を消した。もちろん浜名湖でとれる自然産のうなぎなど、数が知れて
いる。

 現在、ほとんどのうなぎは、中国や台湾からの輸入品である。それを浜名湖周辺の工場で加
工して、全国へ出荷している。しかし嘆くことはない。

 もともと、浜名湖のうなぎといっても、明治以後、新興産業の1つとして生まれたもの。その産
業をおこしたのは、服部倉次郎という人だそうだ(「地図帳」青春出版社)。

 服部倉次郎は、もともと東京の深川というところで、うなぎの養殖をしていた。その服部倉次
郎が、どこかへ出張の折、列車の窓から、浜名湖を見て、うなぎの養殖を思いついたという。

 その浜名湖には、うなぎの養殖に適していたという。上述「地図帳」によれば、シラスウナギ、
水、それにエサが、浜名湖にはあった。その上、天竜川から運ばれてきた、砂地、さらに年間
をとおして、平均気温が、15度というのも、養殖に適していた。

 「地図帳」によれば、浜名湖は、東京と大阪のちょうど中間点にあることも幸いしたとあるが、
それは何も、うなぎの養殖だけにかぎった話ではない。つまり浜名湖のうなぎといっても、意外
と歴史は浅い。だから時代の流れの中で、浜名湖からうなぎが消えたところで、それもまた、し
かたのないこと、ということになる。

 少し、残念な話だが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(017)

●ADHD児

++++++++++++++++

ADHD児といっても、注意力散漫型
なのか、それとも、多動性型なのか、
2つに分けて考えるようになってきて
いる。

そして近年の傾向としては、多動性よ
りも、注意力散漫型、つまり注意力そ
のものに、障害があると考える学者が
ふえている。

++++++++++++++++

 最近の文献によれば、アメリカでは、ADHD児といっても、主に、つぎの3つのタイプに分けて
考えていることがわかる(DSM−IV,APA 1994)。文献などを見ていると、(ADHD、C)タイ
プとか、(ADHD、IA)タイプとかいうような表現方法をとっている。

(1)ADHD, Combines Type (ADHD,C)


(2)ADHD,Predominantly Inattentive Type (ADHD,IA)

(3)ADHD,Hyperactive Impulisive Type (ADHD, HI)

 ADHD児といっても、(1)注意力が散漫型なのか、(2)多動性型なのかによって、症状は、
大きくちがう。

 (ADHD、C)というのは、(DSM-IV;APA 1994)の診断基準のうち、注意力散漫項目の9項目
うち、少なくとも6個該当、衝動的多動性項目の9項目のうち、少なくとも6個該当する子どもを
いう。

 (ADHD,IA)というのは、(DSM-IV;APA 1994)の診断基準のうち、注意力散漫項目の9項目
うち、少なくとも6個該当するものの、衝動的多動性項目の9項目のうち、6個より少なく(5個
以下)、該当する子どもをいう。

 (ADHD,HI)というのは、(DSM-IV;APA 1994)の診断基準のうち、衝動的多動性項目の9項
目うち、少なくとも6個該当するものの、注意力散漫項目の9項目のうち、6個より少なく(5個
以下)、該当する子どもをいう。

 つまりADHD児といっても、(1)注意力散漫型+衝動的多動性のある子ども(ADHD、C)タ
イプ、(2)注意力のほうが散漫型で、衝動的多動性の少ない子ども(ADHD、IA)タイプ、(3)
衝動的多動性が強く、注意力散漫が、それほど顕著ではない子ども(ADHD、HI)タイプの三
つに分類されるということ。(「多動性をともなわない、注意力欠陥障害のある、注意力散漫型
タイプの子どもについて」 by J・M Wheeler & C・L Carlson、テキサス大学))

 近年は、学校教育の場でも、ADHD児といっても、注意力欠陥型なのか、多動型なのか、区
別して考えるようになっている。そのため、表記方法も、従来の「ADHD」から「AD・HD」という
ように、間に「・」を入れる学者も少なくない。


(参考文献)
Attention Deficit Disorder Without Hyperactivity:
ADHD, Predominantly Inattentive Type
By Jennifer Wheeler, M.A., and Caryn L. Carlson, Ph.D.
The University of Texas at Austin

+++++++++++++++++++++

In 1980, the third edition of the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM
-III) [American Psychiatric Association (APA), 1980] introduced a major change in the 
conceptualization of the childhood disorder that had previously been called "hyperkinesis" 
or "hyperactivity". Because experts had begun to speculate that attention deficits, rather 
than high activity level, might play a greater role in the problems of these children, the 
term "attention deficit disorder" (ADD) replaced the earlier diagnostic terminology. Along 
with this shift in diagnostic emphasis came the recognition that attention deficits could exist 
even in the absence of high activity level, and thus two ADD subgroups were defined: ADD 
with hyperactivity (ADDM) and ADD without hyperactivity (ADD/WO). While the ADD/H 
category was fairly consistent with previous definitions, the latter subtype represented 
essentially a new category, for which there was no previous counterpart. Thus, almost 
everything we know about ADD/WO is based on research conducted since 1980.

1980年に、DSM−III(精神障害の診断および統計的マニュアル)は、それまで「過剰行動」
あるいは「多動児」と呼ばれていた子どもについて、その概念を大きく改めた。

 というのも、専門家たちが、多動性よりも、注意力欠陥のほうに、注目し始めたからである。
そして「注意力欠陥障害(ADD)」が、これらの子どもたちにとっては、より大きな問題であると
わかった。

 そして多動性はなくても、注意力そのものに欠陥のある子どもがいることが、強調されるよう
になり、新たに2つのADD児タイプが、つけ加えられるようになった。

 多動性をともなう、注意力欠陥型タイプ(ADDM)と、多動性をともなわない、注意力欠陥タイ
プ(ADD/WO)の2つである。後者は、それ以前にはわかっていなかったという点で、新しい
カテゴリーを示す。
However, such a classification scheme led to problems in the field as it was inconsistent 
with previous research supporting a behavioral distinction between the ADD subtypes. In 
addition, it was problematic clinically, in that there was no particular symptom 
constellation required for a diagnosis of ADHD, thus allowing children who were previously 
diagnosed as having ADD/WO to be inappropriately included in the ADHD category1. In 
response to such difficulties, the most recent edition of the DSM (DSM-IV; APA 1994) 
returned to DSM-III-type terminology. Current criteria delineates two separate symptom 
lists, inattention and hyperactivity-impulsivity, and allows children to be classified into one 
of three categories based on the presence or absence of symptoms in each of these areas: 
ADHD, Combined Type (ADHD,C), which requires children to display at least six out of 
nine inattentive and six out of nine hyperactive-impulsive symptoms; ADHD, Predominantly 
Inattentive Type (ADHD,IA), which requires at least six out of nine inattentive symptoms 
and less than six hyperactive-impulsive symptoms; and ADHD, Hyperactive-Impulsive Type 
(ADHD,HI), which requires the presence of six out of nine hyperactive-impulsive 
symptoms and less than six inattentive symptoms. The ADHD,IA category is presumed to 
identify children diagnosed with DSM-III as ADD/WO, ADHD,C is thought to identify 
children given DSM-III ADDM or DSM-III-R ADHD diagnoses, and ADHD,HI is essentially a 
new category, presumed to identify extremely active children who do not display gross 
inattention. Although some of the research discussed below was conducted with children 
diagnosed as ADDM, ADD/WO, and ADHD, in this paper we will use the terms ADHD,C 
and ADHD,IA to refer to all attention-disordered children with and without hyperactivity, 
respectively.

●Activity Level(活動性のレベル)

ADHD−Cの子どもについては、しばしば、騒々しさ、興奮性、過剰行動性といった、行動的な
活発さをともなう。が、ADHD−IAの子どもについては。こうした行動的な活発さは、ずっと少な
い。
One area in which fairly consistent findings have emerged involves the "behavioral activity 
style" demonstrated by ADHD,IA children. While children with ADHD,C are often 
described as boisterous, impulsive, excitable, and overactive, children with ADHD,IA 
are much less likely to receive such labels. In fact, studies have found that children with 
ADHD,IA are often described as "hyperactive", i.e., they are likely to show "underactivity
" and be described as sluggish, lethargic, and daydreamy. This unexpected finding has 
generated some interesting speculation about the ADHD,IA subgroup and further 
distinguished them from their ADHD,C peers. While children with ADHD,IA typically do not 
differ in activity level from nondisordered children, they are most notably not impulsive, a 
key characteristic of children with ADHD,C. The so called impulsivity of children with 
ADHD,IA is typically more related to disorganization than the physical impulsivity of 
children with ADHD,C. For example, raters are more likely to endorse items such as an 
inability to complete tasks and poor organizational skills when rating children with ADHD,
IA, and items such as acts without thinking, shifts from one activity to another, and 
frequently interrupts others when rating children with ADHD,C. This distinction was 
clarified in DSM-IV when a factor analysis revealed that many of the DSM-III "impulsivity" 
items clustered with "hyperactivity", and others (e.g., "difficulty organizing tasks") 
clustered with inattention. This led to the current use of a single-symptom list for 
hyperactivity-impulsivity versus two separate listings (impulsivity and hyperactivity) used in 
DSM-III.

●Accompanying Disorders(付随する症状)

ADHD−Cタイプの子どもにも、ADHD−IAタイプの子どもにも、不随的な症状が見られる。A
DHD−IAタイプの子どもは、心配性や行為障害のような、いわゆる「内面性の外見化」の問題
は、あまり示さない。

一方、ADHD−Cタイプの子どもは、落胆感や心配性などの、いわゆる「心の内面的な」問題
を、より多く示す。
Research has shown that accompanying behavior disorders are likely to be found in both 
ADHD,C and ADHD,IA children. Thus, children with ADHD,IA are less likely to display "
externalizing" problems, such as aggression and conduct disorders. Some research also 
finds that among clinic-referred children, ADHD,IA children are more likely than ADHD,C 
children to display "internalizing" problems, such as depression and anxiety. This theory is 
supported by research conducted by Barkley and his colleagues (1990) who, using a clinic-
referred sample, found that the relatives of children with ADHD,C were more likely to 
suffer problems with substance abuse, aggression, and ADHD,C, than the relatives of 
children with ADHD,IA and nondisordered controls. In contrast, the relatives of children 
with ADHD,IA were more likely to have anxiety disorders than the relatives of children in 
the other groups. Still, findings on co-occurring internalizing problems between the ADHD 
subtypes are inconsistent. For example, a recent large-scale school-based study7 found 
that teachers rated ADD,C children as showing more anxiety/depression than ADHD,IA 
children. This finding led the authors to speculate that it may be only among ADHD children 
who are referred to clinics that this pattern of greater internalizing problems among ADHD,
IA children is displayed8. Thus, it may be that children with ADHD,IA who also display high 
levels of anxiety and/or depression are more likely to be referred to clinics than children 
with ADHD,IA alone. However, when identified in a general population, ADHD,IA children 
may not necessarily show greater levels of anxiety/depression than children with ADHD,C.

●Peer Relationships(仲間との関係)

全体的にみれば、ADHD児は、仲間の間で、人気がないという傾向があるが、ADHD−Cタイ
プの子どもと、ADHD−IAタイプの子どもとでは、様子が異なる。

 ADHD−Cタイプの子どものほうが、深刻(severe)であり、ADHD−IAタイプの子どもと比較
して、行動面で嫌われる傾向が強い。一方、ADHD−IAタイプの子どもは、社会的により引き
こもる(withdraw)する傾向が強い。

Since the problematic peer relationships of children with ADHD,C has been consistently 
found, it has been of interest to researchers to examine what, if any, peer relationship 
problems might characterize children with ADHD,IA. Of the studies that have examined this 
issue, the overall conclusion appears to be that both ADHD subtypes are less popular with 
their peers; however, the nature of their unpopularity seems slightly different9. For 
example, there is some evidence that the peer relationship problems of children with 
ADHD,C are more severe than those of children with ADHD,IA10. When rated by their 
peers, some studies find that children with ADHD,C are more "actively disliked" than 
children with ADHD,IA and nondisordered controls, whereas children with ADHD,IA are 
more "socially withdrawn". Based on these findings, some researchers have suggested that 
the nature of the ADHD subtypes' social deficits may, in fact, be qualitatively different. 
Using Gresham's (1988) model of social skills, Wheeler and Carlson (1994) proposed that 
children with ADHD,C may suffer from social performance deficits (i.e., they know what to 
do but do not use this knowledge appropriately), whereas children with ADHD,IA may 
suffer from deficits in both social performance and knowledge (i.e., they don't know what to 
do in social situations, thus they cannot use this knowledge appropriately). The authors 
further speculate that these deficits may be mediated by so-called interfering responses, 
which correspond to symptoms typically associated with the disorder. Thus, impulsivity and 
hyperactivity may prevent a child with ADHD,C from waiting his turn in line, even though 
he knows he is supposed to do so, and "sluggishness" and anxiety may prevent a child with 
ADHD,IA from participating in enough social interactions to learn the rules of the game. 
While this hypothesis has not been empirically tested, it clearly has important treatment 
applications. For example, if children with ADHD,C are found to possess adequate social 
knowledge, attention should be directed at decreasing what prevents them from interacting 
appropriately, rather than focusing exclusively on training in social skills. In contrast, if 
children with ADHD,IA are found not to know what to do in social situations, social skills 
training will be the most useful.

●School Performance(学業)

ADHD−IAタイプの子どもも、ADHD−Cタイプの子どものように、学校では、学業的な問題を
もつことが観察されている。

We have evidence that children with ADHD,IA, like those with ADHD,C, often experience 
school learning problems. Indeed, some research has indicated that children with ADHD,IA 
may show elevated rates of school failure and are rated by teachers as having greater 
problems in learning, relative to nondisordered controls. One relatively recent finding is the 
strong relationship between inattention and academic problems. Studies examining the 
behavioral correlates of the ADHD subtypes have consistently shown greater academic 
difficulties in children diagnosed with ADHD,C and ADHD,IA than children with excess 
motor activity/impulsivity (ADHD,HI) alone11. With respect to intellectual functioning, 
there is little evidence for significant IQ differences between the ADHD groups, however, 
there is some research in support of a higher rate of learning disabilities in children with 
ADHD,IA12. In addition, children with ADHD,IA are typically more similar behaviorally to 
children with learning disabilities than are children with ADHD,C13. However, the specific 
nature of the relationship between learning disabilities and ADHD has not been clearly 
established. More research needs to be conducted before any firm conclusions can be 
drawn.

●Etiology(病因)

ADHDの病因、つまり原因については、不明である。神経学的な理論が、いろいろ取りざたさ
れている。

The precise etiology, or cause, of ADHD is unknown. Numerous theories have been 
proposed, including those relating to abnormal brain development (e.g., an "immature brain
"), neurochemical abnormalities, exposure to environmental toxins, and deficient 
childrearing practices. Although research has been conducted in all of these areas, no firm 
conclusions cam yet be drawn. Also, most studies have been done with children with 
ADHD,C, resulting in even less knowledge about the etiology of ADHD,IA. Some 
researchers have speculated ADHD,IA and ADHD,C are entirely different disorders, in 
which case they may stem from different causes. The most promising theories to date 
include exposure to various agents that can lead to brain injury (e.g., trauma, disease, 
fetal exposure to environmental toxins), diminished brain activity, and heredity14.
Research on children with ADHD,C has found that they seem to have underactive orbital-
frontal regions, the part of the brain which is thought to be responsible for sustaining 
attention, inhibiting behavior, self-control, and planning15. This finding has been 
documented in several studies in which children with ADHD were shown to have diminished 
electrical activity and blood flow in this region, relative to nondisordered controls.
Again, less research exploring the possible cause of ADHD,IA has been conducted. Given 
the "sluggish" cognitive tempo and frequent achievement problems typically occurring in 
this subtype, some researchers have speculated that children with ADHD,IA may suffer 
from posterior, rather than frontal, right hemispheric dysfunction16. However, studies 
using neuropsychological measures that have examined this hypothesis have failed to find 
the predicted deficits17. Thus, research involving more sensitive measures of neurological 
processes are needed before any firm conclusions regarding etiology can be drawn.
It should also be noted that many previous theories of ADHD have not been supported. 
Thus, there is no conclusive evidence that ADHD can be caused by diet, hormones, 
lighting, motion sickness, or bad parenting18. Given the exciting new advances in our 
ability to examine the way the brain works, we can be hopeful that continuing research in 
these areas will soon expand our understanding of the causes of ADHD.

●Treatment Considerations(治療についての考察)

リタリン(Ritarin)の投与について

One of the most pressing issues in developing effective treatments for children with ADHD,
IA has been whether or not these children will show similar responses to stimulant 
medication as do children with ADHD,C. The best evidence that we have concerning this 
issue comes from a study in which the responses of children with ADHD,C and children 
with ADHD,IA were evaluated to 5, 10, and 15 mg doses of methylphenidate (Ritalin)19. 
While the groups did not significantly differ on any of the outcome measures, children with 
ADHD,IA were more likely to be nonresponders (24%) or to respond best to the lowest dose 
(35%) as compared to children with ADHD,C. In contrast, 95% of the ADHD,C children 
were judged to be positive responders, with the majority (71%) recommended to receive a 
moderate or high dose. Thus, it may be that at least a portion of children with ADHD,IA 
respond favorably to stimulant medication, although at a lower dosage than children with 
ADHD,C. One factor that may mediate this subgroup's responsiveness is the presence of co
-occurring internalizing disorders (e.g., anxiety) when they exist. There is some evidence 
that children with ADHD who display accompanying internalizing symptoms are less likely to 
respond positively to stimulant medication than are children who suffer from ADHD alone20. 
In any case, stimulant responsiveness is clearly a matter in which more research needs to 
be done. For any given ADHD child, decisions about the usefulness of medication should be 
made based on am individual child's responsiveness.
It is likely that the development of other effective treatments for children with ADHD,IA 
will depend upon the individual pattern of the accompanying problems they display. The 
information reviewed above suggests several areas of functioning that might be considered 
relevant for evaluation, including school functioning, the presence of other disorders (e.g., 
anxiety or depression), and peer relationship problems. Based on assessment in each of 
these areas, treatment programs can be individually tailored to meet each child's specific 
needs. As is becoming increasingly clear with children with ADHD,C, it is likely that 
children with ADHD,IA will be heterogeneous in many ways and that there will be wide 
individual variation in the types of accompanying problems they display. While we are still in 
the early stages of understanding the disorder, heightened interest in this area and the 
recent publication of DSM-IV should lead to increasing knowledge about its causes and 
responsiveness to treatments.

●Conclusions(結論)

The above review addresses research in many areas affecting children with ADHD. While 
few studies have been conducted using DSM-IV terminology, preliminary reports suggest 
that the findings are consistent. According to these studies, both ADHD subtypes are 
generally less popular than their peers, suffer difficulties academically, and frequently 
display accompanying problems. Given the relatively recent identification of ADHD,IA, it is 
mandatory that further research be conducted. Although these children generally show 
fewer overt behavior problems than their ADHD,C peers, they are just as in need of 
diagnosis and treatment.
(はやし浩司 ADHD−C ADHD、C ADHD,C AD・HD ADHD児)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(018)

●反面教師は、教師にあらず

+++++++++++++++++

身近に、邪悪な人がいると、その人を
反面教師として、自分は、その反対の、
つまり邪悪でない人になろうと努力す
ることがある。

しかしそうしてできたあなたの姿は、
本当の姿ではない。

その邪悪な人が、目の前から消えると、
今度はその人が邪悪な人になることが
ある。そういうケースは、少なくない。

++++++++++++++++++

 「反面教師」という言葉がある。ひとつの例をあげて、考えてみよう。

 Aさん(現在、70歳くらい)の母親は、その地域でも、評判の小ズルイ女性だった。口達者
で、人をごまかす、だますは、朝飯前。昔からの商売人で、表面的な人当たりは、悪くなかっ
た。初対面の人にでも、「ああら、いらっしゃい。まあ、その洋服、よく似あいますわね。あなた、
きっと、東京かどこか、そういうところからおいでになったのでしょう。センスがここらの人とは、
一味、ちがいますわよ」と。

 そういう母親を、Aさんは、子どものころから、嫌っていた。「母は、ずるい」と。それがまた、A
さんの口ぐせにもなっていた。だからAさんは、務めて、母親とはちがった自分、つまり母親を
反面教師としながら、Aさんは、Aさんとしての自分を確立しようとした。

 Aさんは、そのため、母親とは正反対の、正直な女性になった。自分でもウソをつかなかった
が、何よりも、他人のウソを嫌った。

 ……というような話は、よく耳にする。Aさんは、母親を反面教師として、母親とは正反対の人
間になったことになる。が、しかしそれでAさんは、本当に正直な人になったかというと、そうで
はない。この話には、つづきがある。

 やがてAさんの母親は、他界。Aさんが、60歳になる少し前のことだった。しかしそのとたん、
……というより、しばらくして、みなが気がついたときには、Aさんは、Aさんの母親そっくりの人
間になっていた。小ズルくて、口達者。やがて人をごまかすことが平気になっていた。現在、70
歳くらいだが、まわりの人たちは、みな、こう言う。

 「Aさんは、死んだ母親そっくり」と。

 つまりここに反面教師の限界がある。その反面教師がそこにいるときは、その反面教師に反
発することで、別の自分を、自分の中に作ることができる。その人に対する反発心や緊張感
が、いわば(つっかい棒)のようになって、その人の心を、裏から支える。

しかしそれは、いわば、仮の姿。その反面教師がいなくなれば、そのとたん、心の中の(つっか
い棒)がはずれる。とたん、その人は、その反面教師がもっていたシャドウを、受けついでしま
う。

 とくに親子の間では、それが極端な形で現れることが多い。関係が、それだけ濃密であるた
めと考えると理解しやすい。

 こういう例は、ほかにもある。あなたの周囲にもそういう例はあるはず。つまりAさんが、かろ
うじて(?)、善人のフリをすることができたのは、母親のようになりたくないという強力な(つっ
かい棒)があったからにほかならない。しかし母親が死ねば、その(つっかい棒)は、はずれ
る。とたん、Aさんの心の奥底に潜んでいた、邪悪な心が、表に出てくる。母親からシャドウとし
て引きついだ、邪悪な心である。

 もう少しわかりやく説明しよう。

 あなたの脳みその中には、意識する「意識」と、意識しない「無意識」の2つがある。しかし意
識する「意識」というのは、意識しない「無意識」とくらべると、はるかに小さい。無意識の世界
は、意識の世界の、何十万倍もあると説く学者もいる。

 そこでAさんは、意識の世界で、母親を嫌い、「母親のようには、なりたくない」と思ったとす
る。そして務めて、自ら正直な人間になろうとしたとする。しかしこれらはすべて、意識の世界で
のことである。

 一方、親子の間には、濃密な人間関係が形成される。その濃密な人間関係をとおして、その
数十万倍もの情報が、母から娘へと伝えられる。しかしそれはもともと、意識でコントロールで
きるような範囲のものではない。意識の世界を、水道から流れる水にたとえるなら、母から娘
へと流れる水の量は、大きな川を流れる水のようなもの。

 だから心の中の(つっかい棒)がはずされたとたん、Aさんは、その川の水に溺れることにな
る。もっとわかりやすく言えば、それまで心の中に潜んでいた(地)が、表に出てくることになる。
つまりこうしてAさんは、やがて母親そっくりの人間になっていく。

 こう考えていくと、悪人に触れて、その悪人を反面教師として善人になるというのは、正道で
はないということになる。仮に善人になったかのように見えたとしても、それは仮面。心の中の
(つっかい棒)がある間だけの、仮の善人にすぎない。

人は、善人に触れて、はじめて善人になることができる。(もちろん、その反対に、悪人に触れ
て、悪人になっていく人も多いが……。)だから……というわけでもないが、このことには、2つ
の教訓を含む。

 ひとつは、悪人とはつきあわないこと。「ああは、なりたくない」と、強く思えば思うほど、結局
は、その人のシャドウを引きついでしまうことになる。その思いが強ければ強いほど、そうな
る。こうした心理的な現象を、心理学ではどう説明するのかは知らないが、似たような例として
は、こんな話がある。

 あなたがそこにいるその相手の人を、背の低い人だと思っていたとする。だからあなたは背
の高さに関する話は、避けようと思っていたとする。しかしその思いが強ければ強いほど、ふと
したことで、話題を、「背の高さ」に向けてしまう。「近所に、背の低い男の人がいましてね」と
か、「背の低い人は、服も小さいのですむので、得ですね」とか。

 つぎにあなたが親なら、一度、あなたの子どもの目の中にいる自分はどうなのかを、冷静に
判断してみること。もしあなたの子どもが、あなたを反面教師に仕立てているなら、あなた自身
のもつシャドウを、さらに冷静に見なければならない。それをしないと、あなたの子どもが、結局
は、そのシャドウを、そっくりそのまま引きついでしまうことになる。

 つまりはあなた自身が、心底から善人にならなければ、あなたの子どももまた、善人になるこ
とはないということ。つまり親であるということは、それくらいにまで、きびしいことであるというこ
と。……ということになる。

(付記)

 心の中の(つっかい棒)が、まったく別の心をつくるということは、よくある。私がはじめてそれ
を意識したのは、高校生のときのことだった。

 私はテスト期間になると、いつも、無性に映画を見たくなった。おかしなクセだ。で、いつもこう
思った。「テストが終わったら、映画を見に行くぞ」と。しかし実際、テストが終わってみると、何
もする気が起きなくなってしまった。もちろん、映画を見たいという気持も、消えてしまっていた。

 これは「テストがある」という緊張感が、「映画をみたい」という気持のつっかい棒になっていた
ことを示す。しかしテストが終わったとたん、そのつっかい棒が消える。と、同時に、映画を見た
いという気持ちも、消える。
(はやし浩司 つっかい棒 心のつっかい棒 反面教師 反面教師論)

 
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(019)

●勉強する習慣

+++++++++++++++++

勉強の中身など、それほど、
重要ではない。

重要なのは、勉強のし方、
さらには、勉強しつづける
という習慣。

それを教えるのが学校である。

+++++++++++++++++

 少し前だが、こんなことがあった。自治会の寄り合いの席で、2人の女性(ともに60歳くらい)
が、こんな話を始めた。2人を仮に、Aさん、Bさんとしておく。

A「うちの母(義母)は、私が留守の間に、ガスコンロを使うのね。先日も、火がつけっぱなしに
なっていて、煮物が、すべてこげていたわ」
B「うちなんか、洗面所の湯が出しっぱなしになっていた。いくら言っても、老人って、わからな
いのね」
A「だから、うちなんか、心配で、外出もできないのよ」
B「ガスストーブも、そう。買い物から帰ってきたら、むっとするような暑さでしょ。見ると、ガスス
トーブがつけっぱなし。灯油ストーブって、こわいからね」と。

 その話を横で聞きながら、私は、こう思った。「今では、カラ炊き防止用の装置がついたコン
ロがあるのに……」「加熱防止つきのコンロだってある」「それに石油ストーブがあぶなけれ
ば、電気ストーブにすればいい」と。

 そう、この分野では、この10年、かなりの進歩が見られる。Bさんは、Aさんに「電気ストーブ
もあるけど、安定性が悪そうだし……」と。

 電気ストーブのばあい、転倒すれば、自動的に電源が切れるしくみになっている。「そんなこ
とも知らないのかなあ」と、私は、思った。

 それでも心配なら、火災警報装置をつければよい。さらにガス会社へ連絡すれば、一定時間
以上ガスが使いっぱなしになると、電話で警告してくれるシステムも無料でつけてくれる。月々
の費用は、500円程度かかる(私の家のばあい)。

 湯についても、一定時間たつと、給水が自動的に止まる蛇口だってある。温泉地などへ行く
と、よくホテルの浴室についている、あれである。

 私はそういう話を聞きながら、「どうしてこの人たちは、自分の頭の中だけで考えるのだろう」
と思った。心配だったら、ガス会社か、電気会社へ相談すればよい。つまり、子どもの世界で
いう、「勉強」というものを、ほとんど、していない。

 そこで私は、考えた。

 「勉強」というのは、一生、ついて回るものだ、と。この年代の人は、「勉強というのは、学校で
するもの」「学校を出たものは、勉強などしなくてもいい」と考える傾向が強い。

 そこでさらに私は、考えた。

 学校では、勉強をすることになっているが、何を学んだかということはあまり重要なことではな
い。もっと重要なのは、(勉強の中身)ではなく、(勉強にし方)。もっと言えば、(勉強しつづける
という習慣)である。教える側で言うなら、「勉強のし方を教えるのが、学校」「勉強の習慣を身
につけさせるところが、学校」ということになる。もしそのときのAさんにせよ、Bさんにせよ、(勉
強のし方)を知っていたら、そういう会話をしなかったはず。

 何かの問題にぶつかれば、そのつど、勉強をすればよい。そして何かの方法を考えればよ
い。

 別れぎわ、私は、口をはさんでやった。

 「今ね、から炊き防止用の装置のついたコンロや、加熱防止つきのコンロが売っていますよ」
「電気ストーブは、見た感じでは安定性が悪く見えますが、倒れても安心な設計になっていま
す。それによほどのことがないかぎり、やけどもしませんよ。一度、○○ガスセンターに問いあ
わせてみたらどうでしょうか」と。

 Aさんも、Bさんも、私の意見を聞いて、「そうですかア?」と言って、驚いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●家族

++++++++++++++++

もうすぐ、二男がアメリカから
帰ってくる。

三男も、北海道から帰ってくる。

++++++++++++++++

 二男が、もうすぐアメリカから、帰ってくる。妻のデニーズと、誠司を連れて帰ってくる。そして
ちょうど同じころ、三男が、北海道から、帰ってくる。ガールフレンドを連れて帰ってくる。

 こうして家族全員が、大晦日に顔を合わせるのは、何年ぶりのことか。8年ぶり? 10年ぶ
り? それを思うと、熱いものが、胸の中にこみあげてくる。私は、ずっと、家族に飢えていた。
だから家族を何よりも、大切にしてきた。しかしそういう時期は、あっという間に終わってしまっ
た。一人、巣立ち、また一人、巣立ち、また……。

 こうして気がついてみると、残されたのは私とワイフだけ。毎年さみしくなるクリスマス。さらに
さみしくなる正月。ここ3、4年は、いつもワイフと2人だけのクリスマス。ワイフと2人だけの正
月。

 訪れてくる人もいない。たずねて行く人もいない。クリスマスには、簡単なケーキとジュースで
乾杯。正月も似たようなもの。息子たちが小さいころは、臼(うす)も買った。毎年、日を決め
て、モチもついた。正月には、門松も立てた。しかし今はちがう。おせち料理といっても、形だ
け。

 そんな私の心に、明かりがともった。ポッと暖かい明りがともった。今年は、家族全員が、正
月に集まる。だから今年は、15年ぶりに、モチをつくことにした。臼を確かめると、まだ、いけ
そうだ。それと、今日は、居間の掃除をした。隅から隅まで、ピカピカにみがいた。

 そして8人が、みな、すわれるように、特大の、こたつを用意した。カーテンを新調した。テー
ブルクロスもかえた。忙しい一日だった。まだ年末まで、2週間もあるというのに……。

 昔、オーストラリアの友人の父親が、私にこう言った。「ヒロシ、子どもたちが巣立っていくこと
を悲しんではいけない。子どもたちは、自分たちの子どもを連れて、また君のところに戻ってく
るよ」と。

 そう、そのときがやってきた。いつか夢見た、そのときがやってきた。

 私は誠司を連れて、日本中を回ってやろう。温泉も、ディズニーランドも連れていってやろう。
毎日、日本料理を、みなにごちそうしてやろう。そう、今年は、おせち料理を山のように買いこ
んでやろう。この5、6年分のおせち料理だ。いや10年分のおせち料理かもしれない。

 一日が終わり、その特大のこたつに座って、この日記を書く。先ほどから、細くて長い涙が、
頬を伝って下へ落ちている。その熱さが、肌をとおして、心にしみる。

 みんな、ありがとう! みんな、楽しい思い出をありがとう! つぎに家族が全員、顔を合わ
せるのは、10年後か、20年後か、それはわからない。しかし私は、今度の1回だけでじゅうぶ
ん。2回目は、いらない。その一瞬を、永遠の時として、胸の中に、しまうだろう。

 私は、生まれてはじめて、家族というものがどういうものか、それを味わうことができる。

 MERRY CHRISTMAS!
 
(付記)

 そこに父親がいて、母親がいる。子どもがいる。父親は仕事をして、母親も、毎日、忙しそう。
家庭全体が、心地よい緊張感に包まれている。

 何でもないようなことかもしれないが、それを今、心のどこかで感ずることができる人は、幸
福な人だ。

 仲のよい夫婦。夫は妻をいたわり、妻は夫を理解し、たがいに励ましあい、助けあい、なぐさ
めあい、教えあい、守りあう。

 何でもないことのようかもしれないが、それを今、心のどこかで感ずることができる人は、幸
福な人だ。

 家庭は、やすらぎの場所。外から帰ってきて、ふと、どこかに腰をおろす。何とも言えない、安
堵感、安心感、そして心を温めるやすらぎ。

 何でもないことのようかもしれないが、それを今、心のどこかで感ずることができる人は、幸
福な人だ。

 すべてを戦後の混乱期のせいにするのは、正しくないと思う。しかし私の生まれ育った家庭
には、これらのうち、どれも、なかった。だれが悪いわけでも、だれに責任があるわけでもな
い。しかし私の生まれ育った家庭には、何か、大切なものが欠けていた。

 中学生や高校生のころ、実際には、小学生のころから、家に帰っても、私は、私の居場所す
らなかった。いつもひとりぼっちだった。両親にしても、同居していた祖父母にしても、そして私
の兄弟にしても、たがいにつなぐ、家族の糸のようなものは、どこにもなかった。

 原因の第一は、私の母にあったと思うが、まだ母は生きている。だからそれについて詳しく
は、ここには書けない。しかし私の生まれ育った家庭というのは、そういうものだった。

 だから、私は、ワイフと結婚してからというもの、「いい家庭を作らねば」という気負いばかり
が強くて、いつも心の中は、ギクシャクとしていた。そのため、いつも、ワイフや、3人の息子た
ちが、どこにいるのかさえわからなかった。その心さえ、つかむことができなかった。

 やがてお決まりのキレツ、断絶。離婚の危機に立たされたことも、何度か、ある。加えて、私
には、大きなトラウマ(心のキズ)があった。今もある。私の父は、私が4、5歳のころから、数
日おきに、酒を飲んで暴れた。今から思うと、父自身も、戦争の犠牲者だった。戦地の台湾で
は、貫通銃創を、2発も受けている。生きて帰ってきたのが、不思議なくらいの人だった。

 が、本当は、それだけではなかった。それについて、まだここには、書けない。

 ゆいいつ救いだったのは、祖父が、父親がわりになってくれたこと。今にして思えば、それに
ついても、深刻な裏があったわけだが、ここには、まだ書けない。おかしなことだが、本当に、
おかしなことだが、私は、生涯において、父と同居しながら、ただの一度も、父に抱かれたこと
がない。手をつないでもらったこともない。

 父が、結核をわずらっていたこともある。母が抱かせなかったというより、父のほうが、私を
抱かなかった。今にして思うと、そう思う。

 幸福な家庭は、みな似ている。しかし不幸な家庭には、定型がない。みな、ちがう。それぞれ
が複雑な家庭の事情をかかえ、その中で、もがき、苦しんでいる。

 だから私は、あえて言う。

 もし、今、みなさんに、「家庭」というものがあるなら、それを大切にしなさい、と。家族は、薄い
ガラスでできたコップのようなもの。デリケートで、ほんの少しでも、扱い方をまちがえると、すぐ
割れてしまう。

 方法は簡単。本当に大切なものだけを、大切に守り育てていけばよい。それらはあなたのす
ぐそばにあって、今の今も、息をひそめて、あなたに見つけてもらうのを、じっと、待っている。

 あなたは、それを見つければよい。それが、「家庭」ということになる。
(はやし浩司 家庭論 家族論 原S)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●突然、変わった娘

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小3、4年生ごろまでは優等生。しかし
その女の子が、突然、変わる……という
ことは、珍しくない。

そんな事例が、アメリカのフリーBLOG、
「ERes」に載っていた。

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Sudden loss of control
by Txxx Nxxxx, posted on 11/21/2005 at 11:30.

I have a female student in my 2nd hour, sixth grade, class that has always been very well 
behaved, always has done assignments, never talks back and has been a modle student. She 
recently has become loud, silly, and basically out of control. I will go to ask her a question 
and she is on the floor sitting. Sometimes I will look up and her legs are sticking up in the air. 
She runs in and out of the class, and has become very active. Of course I have discussed 
the behaviors with her and tried to get some type of logical reason why the change in 
behavior. She cries when I discuss her behaviors and sayes she will do better. I have spoken 
to her mother, she sayes she has noticed the same behaviors at home and is at a loss of 
what to do with her. Is this some type of hormone change? Or is their more going on?

●突然、変わった女子生徒

 (私が教えている)6年生の女子のことです。それまではとても行儀のよいこどもでした。宿題
もきちんとしてきて、私に対して、口答えもしませんでした。が、最近になって、大声を出したり、
愚かなことをしたり、自制心をなくしてしまいました。何か質問しようとしても、床の上に座った
り、足を空にあげたりします。クラスの中や外を走りまわったり、とても活動的になりました。も
ちろん彼女とは、彼女の行動について、なぜ彼女がそんなことをするのか、よく話しあいまし
た。すると彼女は、泣き出したり、つぎからはいいこでいると言ったりします。母親とも話しあい
ましたが、母親は家でも同じようだと気づいていました。そして娘をどうしたらいいのか、わから
ないでいると言いました。これはホルモンのせいでしょうか。あるいは何かもっとほかのことが
起きているのでしょうか。

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 こういう例は、多い。概して言えば、教育熱心で、ふつう以上に裕福な家庭に生まれ育った女
子に、よく見られる。それまでは、学習態度も悪くない。勉強も、よくできる。しかし小学5、6年
ごろ、急変する。

 友だちの間でも評判になるほど、男遊びを始めたり、外泊、非行、家出を繰りかえすようにな
る。もちろん学校での態度も、粗放化する。先生が何かを話しかけても、「ウッセー!」と言い
かえしたり、ときには、「コノヤロー!」と、足蹴りを入れてきたりする。

 服装も乱れ、学校の規則を破って、マニキュアをしたり、髪の毛を染めたりする。

 しかしこう書くと、「突然」という印象をもつかもしれないが、こうした傾向は、小学2、3年ごろ
から現れる。気がつかないのは親だけ、ということになる。私のほうも、わかっていても、「もし
まちがっていたら……」という思いもあって、それを口にすることができない。(親のほうから、
相談があれば、話は別だが……。)

 どこかおとなを、なめたような態度を見せる。ルールを無視する、自分勝手になるなど。あと
はお決まりの非行(反社会的逸脱行為)コース。

 BLOGへの書きこみを読んでみよう。

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Re: Sudden loss of control
by Bear50, posted on 11/21/2005 at 13:46.

It seems as if it is time to introduce her to the school counselor to do some more in-depth 
talking. There could be many reasons for such behavior, but I would suggest the counselor 
consider approaching the topic of inappropriate sexual contact with adult or adolescent 
relative/friend of family.

もっと内面的な問題をさぐるために、スクールカウンンセラーに紹介すべきときのように思いま
す。何かもっと重大な問題があるように思います。おとなとの不適切な性行為、あるいは、思春
期の問題など、そういった問題にカウンセラーは、踏みこんでくれるだろうと思います。

++++++++++++++

Re: Sudden loss of control
by jdtm, posted on 11/22/2005 at 0:47.

Could drugs be involved? The behaviours you described sound similar to a drug/medication 
change. I know she is young, but today drugs are in most (if not all) of our schools.

ドラッグが関係しているのでは? あなたが書いておられる症状は、ドラッグ・薬物による症状
に似ていると思います。彼女は若いですが、しかし今では、ほとんどの学校に、ドラッグはあり
ます。

+++++++++++++++

Re: Sudden loss of control
by Dxxx Mxxxx, posted on 11/23/2005 at 19:16.

Dear, Txxx Nxxx、 

I can understand your frustration with your student, as it appears she has made a complete 
behavioral change. It seems like she has some emotional problems that she is hiding and the 
only way she can work through them is misbehaving in class. Have you consult with the 
counselor at school? I do see that you have spoken to the mother, but she does not know 
what is wrong her daughter either. I have a few suggestions that might help you. 

あなたが困っている様子が、理解できます。彼女は、まったく態度が変わってしまったのですか
ら。彼女は、何か隠している情緒的な問題があるように思います。そしてそれが教室の中で現
れているのです。学校のカウンセラーに相談しましたか。母親に話したということですが、母親
も、娘のどこが悪いのか、知らないのですね。いくつかの提案をしてみたいと思います。

I suggest that you have a meeting with the mother and counselor and come up with a plan. I 
recommend that you and the mother take data on her behavior, which are called anecdotal. 
An Anecdotal is a daily record on the child behavior, whether it is good or bad. Make sure 
to note the time and the date of each behavior occurrence. Once you begin this process, 
you will be able to recognize whether or not there is a pattern to her behavior. Have the 
counselor come to your class and observe her behavior. I would then suggest having a follow 
up meeting with the mother and counselor in order to go over the findings of the anecdotal 
and the counselor observation. If the data was consistent, then I would suggest that the 
child would receive one on one counseling sessions in order to get to the root of the 
problem. I would also suggest that the mother and the daughter would have a counseling 
session together. 

一度、母親とカウンセラーと3人で、ミーティングをしてみたら、どうでしょうか。そして彼女の行
動の記録を、「逸話的」に話しあいます。(具体的に、どこでどんなことがあったかを話しあうこ
と。)これをしてみると、彼女に何かのパターンがみつかると思います。カウンセラーは、あなた
の教室にやってきて、彼女を観察したことがありますか。そしてその上で、また母親とカウンセ
ラーと3人で、話しあいます。データが集まったところで、問題の根をさぐるために、カウンセリ
ング期間をもつことを提案します。母親も同時に、カウンセリングを受けるとよいでしょう。

I hope that my suggestions are of use to you in dealing with your students・that previously 
had no behavioral problems, but now has suddenly developed emotional outburst. Here are a 
few web sites that might help. Emotional Behavior Resources www.psychology.org/links/
Environment_ Behavior_Relationships/Emotion. Emotional Behavior Disorders www.geocities.
com/Athens/Oracle/1580/pacerebd.html. 

この提案が役に立つことを望みます。ここに役立ちそうなサイトのいくつかを紹介しておきま
す。

Good Luck 
Happy Thanksgiving

+++++++++++++

Re: Sudden loss of control
by Lxxx, posted on 11/24/2005 at 0:24.

Wow! I'm no expert, but it sounds like something major is going on. Was she on medication 
and has suddenly stopped? I know this happens sometimes when we never even knew the 
student was on medication. If this isn't the case, I think something must be going on or 
something has happened. I wouldn't think that hormones alone could cause such a drastic 
change (even as powerful as they can be)! Consider having the counselor talk to her. 
Sometimes they can get things out of them that we can't. Beyond that, you may want to 
have a conference with her parents and bring her in to the meeting at some point. Maybe if 
she sees that everyone is there and working together to help her, she will feel more able to 
cope with whatever is going on. Good luck! 

Lxxxx

私は専門家ではありません。しかし何かもっと深刻な問題があるように思います。彼女は何
か、薬物療法を受けていましたか。それを突然、やめたとか。そうでなければ、何かが起きたと
思います。ホルモンだけでは、こんな突然の変化は起きないと思います。カウンセラーに相談
すべきです。カウンセラーは、私たちが知ることができないことを、引き出すことができます。み
ながそこにいて、彼女のために心配していることがわかれば、彼女も、その問題について、よ
り対処できるようになると思います。

++++++++++++++++++

 日本では、この時期、子どもの心は、受験期と思春期がからんで、極度の緊張状態に置か
れるようになる。ときとして、進学校の女子が、(もちろん男子もだが……)、大きく変化するの
は、そのためと考えられる。

 多くの親たちは、(今の状態)を基盤として、「さらによくなること」だけを考えて、子どもを、追
いたてる。しかしその時点で、子どもにとって、選択すべき道は、2つある。(1)親の望みどおり
になるか、(2)それとも、親の望みに反発するようになるか、である。

 可能性は、フィフティ・フィフティ。が、多くの親たちは、「うちの子にかぎって」とか、「まさか…
…」とか考えて、後者の子どもになることを、ほとんど計算に入れていない。進学塾が発表す
る、華々しい合格発表の裏で、どれだけ多くの子どもたちが、キズつき、進学競争から脱落し
ていくか、世の親たちは、そういうことを考えたことがあるのだろうか。

 こうした変化は、ある日、突然、起こる。1か月とか2か月という期間ではなく、1週間とか、2
週間とかいう期間のうちに起こる。はげしい夫婦げんかなど、何かのショックがきっかけとなる
こともある。

それまでは、従順でものわかりのよかった子どもが、突然、反抗的になる。ツッパル。キレやす
くなる。もちろんその時点から、親子の会話は消滅し、親は、悶々とした閉塞状況に置かれる。
が、そのままの状態がつづくわけではない。限界状況に達すると、はげしい衝突が繰りかえさ
れるようになる。

 「バカヤロー! 親に向かって何てことを言う!」「ウッセー、黙れ、このクソ親父!」と。

 概して言えば、男子より、女子のほうが、扱い方がむずかしい。一度お決まりの非行コースに
入ると、そのまま、あっという間に、ドン底のドン底まで落ちていく。それだけ女子を取り巻く世
界は、邪悪であるということを意味する。

 なお平成14年度に、刑法犯として、検挙された少年、少女は、約14万人。その刑法犯の最
近の特徴としては、(1)低年齢化、(2)集団化、粗暴化、(3)一般化、(4)女子の増加、(5)学
校内非行の顕在化だそうだ(深堀著「心理学のすべて」)。

 この中には、いわゆる援助交際から始まった、闇の世界に閉ざされた、性的非行については
含まれていない。が、今では、それを問題にするのもわずらわしいほど、性的非行は、一般化
している。このH市だけでみても、中3レベルで、公然と性的非行を自認している女子は、100
人のうち、1〜2人前後は、いる。(実際には、もっと多い。)

 そして女子のばあい、一度、こうした性的非行に走るようになると、学業がおろそかになるど
ころか、怠学を繰りかえすようになり、教師に対しても、きわめて反抗的な態度をとるようにな
る。まさに「手がつけられない」といった状態になる。

 大切なことは、子どもがそうならないように、その初期の段階で、芽をつむことである。しかし
そこまで勉強している親となると、そうはいない。

 (しかしこの原稿を読んだあなたは、すばらしい。その糸口だけでも、自分でつかんだことに
なる。ホント! たいていの親は、こうした原稿すら読まない。)

 少し話が脱線したが、アメリカの「教育BLOG」を読んでいて、少し気になったので、この問題
を取りあげてみた。
(はやし浩司 突然変わった子供 思春期の女子 非行 反社会的逸脱行為)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(020)

【近ごろ・あれこれ】

●掃除また掃除

 この数日間、掃除ばかりしていた。まず、居間。それから客間、日本間。まだ正月までには、
日があるというのに、我が家は、すでに大掃除モード。

 しかしその掃除。私は嫌いではない。それに始めたら最後、止まらない。とことんしなけれ
ば、気がすまない。「手を抜かない」が、私のモットー。

 多分、正月までには、また掃除をしなければならないだろう。少し時期が、早すぎたかな?


●原稿書き

 そんなわけで、ここ数日、ほとんど、原稿を書いていない。今ごろは、1月20日号の配信予
約を入れなければならないころ。が、まだ1月18日号すら、書き終えていない。このままだと、
マガジンは、どうなるのだろう?

 ぼんやりとした無気力状態が、ダラダラとつづいているカンジ。何を考えても、「もうどうでもい
いや」という、投げやり的な気分ばかりが、先に立つ。

 が、今朝(12・21)、Eマガの読者数を見ると、3人ふえていた。久々の増加。で、少しだけ、
やる気がわいてきた。しかし何を書こう……ということで、この(近ごろ・あれこれ)を書き始め
た。


●「♪丘の上の小さなベンチ」

 長男と三男が、2人で、新曲を作った。タイトルは、「♪丘の上の小さなベンチ」。作詞は長男
の周市、作曲は三男の英市。さっそく、TUBE(無料ストリーミング配信会社のサービス)を使っ
て、ビデオ風にしあげる。

 興味のある方は、はやし浩司のHPのトップページより、「声と朗読・ごあいさつ」へ進んでみ
てほしい。

 何度聞いてもあきない、ほっと心の休まる曲だと、自分では、そう思っている。(親バカか
な?)


●忘年会

 このところ、ワイフは、忘年会つづき。何かにかこつけて、忘年会ばかりしている。しかし女性
って、どうしてこうも忘年会がすきなのだろう。(もちろん男性にだって、忘年会の好きな人はい
るが……。)

 私自身は、酒が飲めないこともあって、(プラス)、仕事の時間帯が、ふつうの人たちとはズレ
ていることもあって、忘年会とは、ここ10年ほど、とんと縁がない。そのかわり、子どもたちと、
年末は毎日のように、ラーメンを食べに行ったり、ハンバーガーを食べに行ったりしている。

 子どもたちは、勝手に、「忘年会だ!」「忘年会だ!」と、騒いでいるが……。


●アメリカから客が……

 二男の妻のデニーズが、妹のドーンを、日本へ連れてくるという。急に、決まった。「前から、
一度、日本を訪問してみたい」と言っていたとか。「できるときが、最善のとき」(It is the best 
time when you can do it.)。つまりものごとには、「機」というものがある。その「機」がないとき
に、あれこれしようとしても、ものごとは動かない。しかし「機」がくれば、ものごとは、自然に動
きだす。今が、そのとき。

 さっそく招待状を、メールで書く。

 そのアメリカ人たちだが、ものの考え方が、本当にストレート。二男に、「航空運賃は、ぼくの
ほうで、出してあげるよ」とメールで連絡してやったら、すかさず、デニーズから、「Thank you.」
という返事!

 日本人なら、こういうとき、「悪いですね……」「申し訳ありません……」「お言葉に甘えまして
……」とか書くのだろうが、そういう奥ゆかしさは、まったくない。

 しかしそういうアメリカ人のわかりやすさが、私は、好き。日本人のように、表だとか裏がな
い。見たままが、ありのまま。それがアメリカ人。


●もののない美しさ

 50歳をすぎるころから、(もののない美しさ)というのが、よくわかるようになった。よい例が、
道路の上にクモの巣のように張りめぐされた電線。あの電線のある風景と、電線のない風景
は、まるでちがう。たまに電線のない風景を見たりすると、フーッと、自然と息がもれるような解
放感を覚える。

 家の中も、また同じ。

 先ほど掃除のことを書いたが、掃除をするときのコツは、不用品は、容赦なく、どんどんと捨
てること。「少しもったいないかな?」と思っても、捨てる。これを繰りかえしていると、やがて、
部屋の中がすっきりとしてくる。

 ものがゴチャゴチャとつまっている部屋は、それだけで、息苦しい。息苦しいだけではない。
(汚い)。(汚い)というよりは、解放感がない。

 数年前だが、ある知人の家に行ったら、廊下から階段まで、ものが、ぎっしり! 人がやっと
歩けるほどしか、間があいていなかった。しかしそういう人を、(ものを大切にしている人)とは、
言わない。

 (ものを大切にする)ということは、多少の不便は感じながらも、限られたものを、うまくやりくり
しながら、使うこと。生活をしているという実感も、そこから生まれる。

 ものがぎっしりとつまっている家……生活感をほとんど感じないのは、そのためではないか。

 ……そう言えば、人間の心も、同じ。

 雑念だらけの人もいる。そういう人の心というのは、言うなれば、ものが散乱した部屋のよう
なもの。その人の心が、どこにあるかさえも、わからない。心の中をすっきりさせるためには、
そうした雑念を、どんどんと捨てていく。自分の心を、わかりやすくしていく。
 
 要するに、心の裏で、あれこれと、ものを考えないこと。計算しないこと。ありのままの自分を
さらけ出しながら、さわやかに生きること。美しい心というのは、その結果として、あとからつい
てくる。


●孫の誠司

 孫の誠司が、もうすぐ日本へやってくる。で、昨夜、ワイフと、孫の誠司といっしょに何をする
か、行動計画をリストアップしてみた。

(1)近くの遊園地へ行く。
(2)浜名湖で船に乗る。
(3)町へつれていき、ショッピングする。
(4)一度だけ、BW教室で勉強させる。
(5)ディズニーランドへ、つれていく。
(6)どこかの温泉地に泊まる。
(7)写真を、毎日、500枚くらい撮影する。
(8)毎晩、コタツの中で、ひざに抱いて、本を読む。
(9)毎日、ちがった日本料理を食べさせる。
(10)毎日、いろいろな模型を作ってみせる。
(11)毎日、近所を、いっしょに散歩する。

 ほかにもあるが、これらを、すべて実行する。どういうわけか、自分の孫というのは、かわいく
見える。他人が見れば、そうではないのかもしれないが、私には、かわいく見える。(私も、ジジ
バカかな?)


●無気力症状

 この数日間、ほとんどといってよいほど、原稿を書いていない。書く意欲そのものが、わいて
こない。頭の中も、どこか、ぼんやりとしている。何を考えても、投げやり的。無気力感ばかり
が、先に立つ。「どうにでもなれ」「どうでもいいや」と。

 書斎にすわることはあっても、ニュースを見たり、ゲームをしたりするだけ。あとは本を読んだ
り、雑誌をながめたり……。その間に、ときどき、メールを開いてみたりする。

 私は、今、いわゆる、無気力状態に陥(おちい)っている。「なぜだろう?」……と考える前に、
私の症状を、正確に記録しておきたい。子どもでも、ときとして、今の私に似たような症状を示
すことがある。そういうときの子どもの心理を理解するのに、あとで、少しは役に立つかもしれ
ない。

(1)思考の拡散 

 集中力が消えたというわけではない。一つのことを考えていると、別の新しい考えが、頭の中
に浮かんで消える。いつものようなピリピリとした緊張感がない。思想のかたまりのようなもの
が、頭の中に浮かんでこない。書きたいテーマが、モヤモヤとしているのはわかるが、つかみ
どころがない。それはたとえて言うなら、目的もなく、街の中をフラフラ歩いているようなカンジ
(?)。

(2)現実感の喪失

 考えていることに、実感がともなわない。現実感そのものが、薄い。教育問題にしろ、政治問
題にしろ、はたまた人生問題にせよ、「こんなことを書いて、何の役に立つのだろうか?」「こん
な問題は、今の私とどういう関係にあるのだろうか?」と、ふと考えて、立ち止まってしまう。現
実はそこにあるのに、自分の書いていることが、その現実から遊離してしまう。

(3)疲労感の増大

 もともと考えることには、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越えるのが、おっくうにな
る。これもたとえて言うなら、ジョギングにでかけようと玄関から外に出たとたん、冷たい風にあ
おられたときの気分に似ている。その冷気を乗りきるパワーそのものがわいてこない。「今日
はやめておこう」と、そのまま家の中にもどってしまう。体力と気力は、関連している。東洋医学
では、そう教える。体力そのものが、弱っている(?)。

(4)ニヒリズムの増大

 「どうでもなれ」という思いが、(1)〜(3)と並行して、増大する。K国の核兵器開発がどうなろ
うとも、それがいつか、日本の大都市でどう使われようとも、私の知ったことではない。どうせ私
は、だれにも相手にされていない。その私が、どうして世界や、社会のことを心配しなければな
らないのか。みんな、自分のことしか考えていないではないか。そんな思いが、強くなる。

(5)被害妄想の増大

 何を考えても、「あれが悪い」「これが悪い」という発想になる。そして1つの問題が解決する
と、また別の問題が、ちょうどモグラたたきのモグラのように、現れては消える。「自分がこうい
う状態になったのは、あのせいだ」とか、「あのことが原因だ」とか、そういうふうに考える。

(6)敗北感と虚脱感

 「もう私は負けたのだ」という思い。それに何をしても、口から出てくる言葉は、一つ。「疲れた
……」。ただ救われるのは、それが「私」という個人の世界の範囲でとどまっていること。ワイフ
や息子を前にすると、いつものような声で、いつものように会話をする。ワイフや息子は、私
が、今のような状態になっているとは、夢にも思わないだろう。もっとも、もしそれがだれの目に
もわかるようになれば、私は、うつ病(depression)ということになる。

 こうした症状が出たら、どうするか。

 解決方法は自分でもわかっている。1に休養、2に休養。あとは好きなことをして、その日を
過ごす。やがて何かのきっかけがあれば、もとの状態にもどる。

 で、私のばあい、いろいろな方法がある。一番効果的なのは、買い物。とくにパソコングッズ
を買うのがよい。つぎに掃除。草刈り。人に会うのは、あまり好きではない。仕事では、毎日、
多くの親や子どもたちと会う。だから、子どもが好きなはずなのに、こういうときというのは、子
どもの声を耳にするだけでも、わずらわしく感ずる。

 そういう状態が、数日つづくと、少しずつだが、また(やる気)が起きてくる。今が、ちょうど、そ
のとき(?)。この文章を書いているのが、何よりの証拠ということになる。

 機械でいえば、ならし運転という状態。思いついたまま書いていると、やがて指の動きもなめ
らかになってくる。速くなってくる。頭の回転も調子よくなってくる。それを繰りかえしていると、い
つもの自分に、またもどる。

 そうそうもう一つ、気がついたことがある。こういう状態のときというのは、パソコンを相手にし
て、将棋をさしても、すぐ負けてしまう。注意力が散漫になっている。深く考えることができない。
集中力も弱くなる。そのためいわゆるうっかりミスが多くなる。それで負けてしまう。
(はやし浩司 無気力 無気力な状態 虚脱感 無気力症候群)


Hiroshi Hayashi+copyright by H. Hayashi+De.'05+はやし浩司 

●札幌、福岡で講演?

 12月も押し迫った昨日(12・20)、とんでもない講演依頼が、舞いこんできた。主催者は、東
京のH堂社。間に入っているのは、C社。今年も、こうした大きな講演会の依頼は、ときどきあ
ったが、しかしそのうちの5つのうち、4つは、主催者のほうが、断ってきた(05年度)。私の知
名度では、人は集まらない。自分でも、それはよくわかっている。

 会場は、北は北海道の札幌市、仙台市、東京、名古屋、大阪、そして福岡。「やってくれます
か?」と言ったので、「どこへでも、行きます」とだけ答えた。しかしいつもだと、このあとしばらく
すると、主催者の方が、断ってくるはず。「はやし浩司なんて、知りませんよ」「どんな人です
か?」「ほかの人にしたいです」と。

 しかし私は、しばしの夢を見た。心のときめきを覚えた。一度は、東京で講演をしてみたいと
思っている。東京で、テレビには、何度か出演したことはあるが、講演はない。家に帰ってその
ことをワイフに話すと、ワイフは、「そういうときが、近づいてきたのね」とだけ言って、笑った。

 そう、近づいてきているのは、私にもわかる。しかしそれは、いつも、私の頭の上をかすめ
て、そのままどこかへ飛んでいってしまう。

 その翌日の今日になると、私は、その夢から、すっかりさめた。心のときめきも、消えてい
た。現実は、そんな甘くない。それも、自分では、よくわかっている。

 H堂さん、C社さん、お声をかけてくださっただけで、感謝しています。ありがとうございまし
た。


●ホームレスの家

 こんなことを書いてよいのかな? マネをする人がいると、困る。しかし私は、路上で生活をし
ているホームレスの人たちを見るたびに、こう思う。「冷暖房完備、住み心地満点、そんな住み
かが、街中にあるではないか」と。

 しかし一応、犯罪の教唆(きょうさ)になるので、どこにあるとは、ここには、書けない。しかし
ちゃんと、ある。いたるところにある。しかも絶対、安心、安全。だれにもじゃまされない。

 ワイフにその場所を説明すると、こう言った。

 「あなた、そんなこと、原稿に書いてはだめよ」と。

私「わかっている。しかしどうしてホームレスの人たちは、それに気づかないのだろう。ぼくがホ
ームレスになったら、そういうところに住むよ」
ワ「でも、どうやって、中に入るの?」
私「簡単だよ。xxには、どこにでも、xxxがある。そのxxxのxxから、中に入ればいい」
ワ「そうね。そういうところから、中へ入ればいいわね」
私「xx員の服装をするのがコツ。で、中をあちこち歩き回ってみると、意外なところに別の出入
り口があるはず。そういうところから、出入りすればいい」
ワ「やっぱり、そんなこと原稿に書いてはだめよ。マネをする人が出てきたら、たいへんなこと
になるわよ」
私「わかっている。電気だって使い放題だしね。水道も、使い放題。自分で工事することもでき
る」と。

 ホームレスのみなさん、どうせ路上に住むくらいなら、もっと知恵をしぼれ。知恵をしぼれば、
もっと快適な生活ができるぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(021)

●育児ノイローゼ、Mさんのケース

++++++++++++++++++

以前、Mさん(当時40歳くらい)から、
毎晩のように、子育てについての相談を
受けたことがある。

Mさんは、何かにつけて、子ども(当時
14歳)の問題点を見つけては、それを
大げさに問題にしていた。

明らかに育児ノイローゼであった。

そのMさんについて書く前に、以前書い
た原稿(中日新聞掲載済み)を、ここに
掲載する。

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【母親が育児ノイローゼになるとき】

●頭の中で数字が乱舞した   
 
 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(4
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(2歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭を
まちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中で
数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、36歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうAさんを、夫は「だらしな
い」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさん
に任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょう
か」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞

(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする(記憶力の低
下)

(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)

(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。

さらにその状態が進むと、Aさんのように、

(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、ムダ買いや目的の
ない外出を繰り返す(行為障害)

(6)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)

(7)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど、感情のコントロールができなく
なる(感情障害)

(8)他人との接触を嫌う(回避性障害)

(9)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる

(10)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)

(11)異常な多弁性をともなうことがあり、一方的にしゃべるだけで、相手の話を聞かない(多
弁性)

(12)ふとしたきっかけで、「死んでしまいたい」と考えることがある(自殺願望)

(13)動悸、息切れ、不眠、早朝覚醒などの身体的症状を伴うことが多い。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。

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【Mさんのケース】

 Mさんの子ども(名前をA君とする)は、「生まれながらにして、発育不良だった」(Mさんの言
葉)とのこと。そのためMさんは、A君を溺愛する一方、過保護にして育てた。ふつうの過保護
ではない。過保護の上に「超」がつく、超過保護である。つまり、Mさんは、いわゆる(心配先行
型)の子育てを繰りかえした。

 ただ、過保護の基盤に愛情があったかというと、それは疑わしい。Mさんは、子どもを自分の
支配下に置いて、自分の思いどおりにしたかっただけではなかったか。

 たとえばA君が自分で、シャツや服を着るような年齢になったときでも、「心配だ」「心配だ」と
言って、Mさんが手を貸していたという。「どうして手を貸したのですか?」と聞くと、「自分で着さ
せると、前とうしろを反対に着た」「汚れたシャツをそのまま着た」「2枚もセーターを着たことも
ある」と。

 一事が万事。A君が風呂に入っても、「きちんと洗わない」「髪の毛を洗わない」「石鹸で遊ん
でしまう」などといっては、Mさんは、いつもA君といっしょに、風呂に入っていた。A君の体を洗
ってやっていた。そしてそういう状態が、A君が、小学5、6年生になるまでつづいた。

 その間にもいろいろあった。A君は、学校で、いじめを受けていたこともある(Mさんの言
葉)。そのためMさんは、毎日学校まで、A君を迎えに行ったこともある。そしてこんなこともあ
った。

 A君の修学旅行に行ったときのことだったという。Mさんは、恥ずかしげもなく、私にこう言っ
た。「Aのことが心配で、2晩、泣いて明かしました」と。が、そういうMさんだが、その一方で、A
君を虐待していた。虐待といっても、言葉の虐待である。Mさんは、ことあるごとに、A君にこう
言っていたという。

 「あんたのような子は、将来は、こじきをするしかないわね」
 「あんたのような子は、生まれてくるべき子ではなかったのよ」
 「しっかりと勉強しないと、あなたもホームレスの人たちのようになるのよ」
 「あんたさえいなければ、お母さんは、もっと楽しく過ごせるのにね」と。

 Mさんは、A君に自覚をもってもらいたいと願って、そう言ったという。もちろんMさん自身に
は、虐待しているという意識は、まったくなかった。しかしこうした母親の日常的な言葉で、A君
は、ますます萎縮していった。

 そのA君に、大きな変化が見られたのは、A君が中学生になってからである。ものごとに異常
にこだわるようになった。A君は、カード集めをしていたが、そのカードを、何よりも大切にして
いた。そしてそのカードを、数千枚近く(母親の言葉)も、もっていた。

 「部屋中、カードだらけだったので、Aが学校へ行っている間に、ダンボール箱に入れて、納
屋へしまってやりました」(Mさん)と。

 そのとたん、A君は、ふつうではなくなってしまった。何かの拍子に、二階へつづく階段から、
とびおりたりするようになった。腕の骨を折ったこともある。が、何よりも気になったのは、オド
オドと、何かにおびえるような様子を見せるようになったことである。ふだんでも、ときおり、下を
みつめたまま、ニヤニヤ(ニタニタ)と笑いつづけることもあった。

 当時は、今のように、児童相談所も整備されていなく、また虐待に対する認識もそれほど深く
なかった。

 そのころMさんが私に電話で、相談してくるようになった。ときには、毎晩つづけて、1〜2時
間も、電話がかかってくることもあった。内容もさることながら、Mさんは、一方的に、しゃべる
だけ。こちらの私が、何かをアドバイスしようとすると、即座に反論したりして、会話にならなか
ったのをよく覚えている。

 「このままでは、うちの子は、だめになってしまう」
 「こんな状態で、私は、Aのめんどうを、一生みなければならない」と。

 私が「そういうふうに決めてかかってはいけない」と言いかけると、「叔父がそうだった」「近所
の子どももそうだった」と、つぎからつぎへと、そういう話ばかりした。

 Mさんが、ふと、こう漏らしたこともある。「このままでは、Aは、うちの財産を食いつぶしてしま
う」と。Mさんは、そんなことまで心配していた。

 そこで私は、Mさんに、一度、A君を、心療内科医院でみてもらったらよいとアドバイスしたこ
とがある。で、Mさんは、それをしたが、「近所の医院では恥ずかしいから」という理由で、電車
で40分もかかる、隣町にある、医院へ通うようになった。

 が、やがてそれについても、「時間がかかる」「このまま一生、医療費がかかる」などと言い出
した。1つの問題が解決すると、それが解決したことを喜ぶよりも先に、つぎのまた別の問題を
もちだして、それを心配した。そんなとき、また電話がかかってきた。

 「先生、今日、Aを病院へ、車で連れていきました。その途中のことですが、私は思わず、反
対車線に入りそうになってしまいました。このまま死ぬことができたら、どんなに気が楽だろうと
思いました」と。

 明らかにMさんは、育児ノイローゼになっていた。しかしMさんには、その自覚はなかった。
病因で診察を受けたら、「うつ病」と診断されたかもしれない。Mさんは、こう言った。

 「朝は、2時ごろ目がさめてしまいます。はげしい動悸がして、体中が、ほてってしまいます」
 「Aのことを考えると、心配で心配で、夜も眠られません」と。

私「何が、心配なのですか?」
M「夜も、電気ストーブをつけっぱなしです」
私「どうしてそれが心配なのですか」
M「倒れたら、火事になります」
私「なりません。倒れれば、自動的に電気が切れるしくみになっています」
M「カーテンのそばに、電気ストーブがあります。火事になります」と。

 こういう意味のない、押し問答が、いつまでもつづく。

 Mさんの特徴は、ほかにもある。当時書いた原稿をまとめてみると、こうなる。

(1)きわめてささいな、しかも表面的な問題について、心配していた。
(2)私の説明が、理解できない。何かを説明しても、それがどこかへ消えてしまう。
(3)私が言った、何かの言葉じりをつかまえて、私に食ってかかってくることもあった。
(4)一方的にペラペラと話すだけで、私の話を聞かない。ほとんどがグチ。
(5)何冊か本を読むように勧めたこともあるが、「本は読みたくない」と言った。

 Mさんの夫については、私は知らない。会ったことも、電話で話したこともない。ただMさんの
話では、無口で、仕事だけをしているような人らしかった。もちろん家事、育児については、ほ
とんど関心がないといったふうだった。夫婦の会話も、なかった。そのため、よけいにMさん
は、追いつめられていった。

 Mさんからの電話相談は、かれこれ3年近くもつづいた。で、2年前、私はそのMさんだけの
ことが理由ではないが、こうした電話相談については、すべて断るようにした。電話相談だけ
で、午前中の時間が、すべてつぶれてしまうことも珍しくなかった。

 以上、Mさんという母親について書いたが、Mさんと特定できないよう、細部については、私
の方で、ほかのいくつかの事例を混ぜて書いた。そのため、話の流れとして不自然な部分もあ
るかもしれない。それは許してほしい。

 で、今から思うと、Mさんには、育児そのものが負担ではなかったかということ。さらに言え
ば、良好な親子関係、夫婦関係があれば、同じ重荷でも、感じ方がちがったはず。しかしMさ
んには、その両方が欠けていた。さらにMさんは、自分では、「私の両親には問題はなかった」
と何度も言ったが、客観的に判断すると、Mさんはかなり不幸な家庭に生まれ育っていた。

 そういう深い因縁が、回りまわって、そのときのMさんの育児ノイローゼにつながっていった
のではないかと思う。

 それからx年。M君は、無事高校を卒業し、今は、農協関係の仕事をしているという。Mさん
の話は、以来、耳にしていない。

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●どうしたらよいか?

 育児ノイローゼになる人には、ある一定のパターンがある。ここでは思いつくまま、書いてみ
る。

(1)気を抜くための、趣味などがない。

 相談を受けながらいつも思うことは、「この人は、別のところで、つまり子育てを忘れられるよ
うなところで、自分の世界をもてばいいのに……」ということ。しかしそういう人にかぎって、子育
てがすべて、といった感じがする。この閉塞感が、症状を重くする。

 子育ては子育て。しかしその一方で、親は親としてというより、1人の人間として、自分の世界
をもつこと。育児をしながらも、同時進行の形でもつのがよい。

(2)視野が狭い。

 大局的な見方ができない。身近な、ささいな問題をとらえては、それを針小棒大に心配する。
たとえば「学校でしてきたプリントを見たら、計算の答が、すべて一行ずつ、ズレていた。きっと
隣の席の子どもの答を、丸写しにしたにちがいない。こんなことでは、うちの子は、将来、ズル
い人間になってしまう」とか。

 あるいは「体操教室で、跳び箱の練習を見ていたら、うちの子は、順番をうまくすり抜けて、そ
れをしないですませていた。こんなことでは、うちの子は、ダメになってしまう」と心配していた母
親もいた。

 さらにこんな相談もあった。「今、英会話教室に通っているが、先生が、アイルランド人だ。へ
んなナマリがつくのではないかと、心配だ」と。

 こうして自分自身を、小さな世界に押しこめてしまう。その閉塞感が、育児ノイローゼへとつな
がっていく。

 そのため、親は、いつも視野を大きくもつ。大きければ大きいほど、よい。興味の対象を、大
きくする。政治の世界や、絵画、音楽などの芸術の世界に興味をもつのもよい。交際範囲を広
くする。ほかにもいろいろあるが、小さい世界に閉じこもってしまってはいけない。

(3)愛情の欠落

 このタイプの親でも、「私は子どもを愛しているから、心配してやっている」というようなことを
言う。しかし話をよく聞くと、親の心配や不安を子どもにぶつけているだけ、といった感じがす
る。

 「愛」といっても、愛もどきの愛。いわゆる代償的愛というのである。自分の心のすき間(=精
神的な欠陥や、情緒的な未熟性)を埋めるために、子どもを利用する。子どものことを考えて
いるようで、子どもの立場になって、ものを考えていない。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔
する親である。親の価値観を一方的に、子どもに押しつけているだけ。

 が、この問題は、それに気づくだけでも、その大半が解決したとみる。愛情がなければない
で、居なおればよい。子どもを愛せないことで、自分を責めてはいけない。子どもが好きでなか
ったら、「私は子どもが好きではない」と、正直に告白すればよい。それがふさいだ心に、風穴
をあける。

(4)哲学、宗教観の欠落

 若い母親に、哲学や、宗教観をもてといっても、むずかしい。しかしそういったものがあれば、
子育ての指針にはなる。が、方法がないわけではない。

 「子どもを育てよう」「子どもを育てている」という意識を捨て、「子どもからものを学ぶ」という
意識に置きかえる。わかりやすく言えば、「私は親だ」という親意識を捨て、子どもの横に、友と
して立つ。さらにもっと言えば、子どもに何かを教わるつもりで、子どもの言うことに耳を傾け
る。

 育児ノイローゼになる親というのは、そういう意味では、親意識が強い。「私は親だから、何と
かしなければ」と思いながら、自分をどんどんと追いこんでしまう。生真面目な人ほど、育児ノイ
ローゼになりやすいと、よく言われるのは、そのため。

 肩の力を抜くためにも、親意識を捨て、子どもに対しては、友だち意識をもつ。子どもは、放
っておいても、いつかはおとなになる。そういう子ども自身がもつ力を信じて、無責任になるとこ
ろは、なって、あとは、子どもに任す。

 親は子どもをもつことで親になるが、それから先、真の親になるためには、幾多の山や谷を
越えなければならない。そしてそういう山や谷を越えるうちに、いつしか自分なりの哲学をもつ
ことができるようになる。

 「親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる」。それに気がついたとき、あなたは、
今の育児ノイローゼから、解放される。
(はやし浩司 育児ノイローゼ)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●暴れまわる子ども(キレる子ども)

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アメリカのBLOGサイトに、こんな
相談があった。

預かっている子どもについての相談だが、
暴れまわって、困るという内容のもの。

Bulletin Board for EDSPC 753より転載。

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We have had custody of my 6 year old stepson for 9 months now, and I am truly worn out 
and need help ASAP. I went to the school today to pick him up for a doctor appointment 
(for his behavior & yes he is on medications for this)and upon seeing me in the hallway he 
became hysterical and ran in the oposite direction screaming. The principal and I caught up 
with him and he began punching, kicking, slapping, biting, and pulling several handfulls of my 
hair out of my head before the principal could restrain him. When he seemed calmed a bit i 
tried to calmly let him know that I was just picking him up for his doctor's appointment, at 
that point he kicked me in the face and continued to scream as loud as he could, disrupting 
several classrooms. The principal tried to carry him out to my vehicle, but once in he began 
kicking the daylights out of my car, he then got out and threw himself on the ground 
screaming. Please tell me what in the world to do and how should this be handled if it should 
occur at school again. The only facts we know about his life with his real mother is that she 
admitted in court to having heavily used methamphetamines daily throughout the 
pregnancy. I am not a teacher, but I fell terrible that the staff at his school had to go 
through this. He had an episode eight weeks ago where he did the same thing to his teacher 
that he did to me, I am in fear that his abuse will only escalate. He is scheduled for a psych 
evaluation in Tacoma in 2 weeks, please give me advice for the mean time, we have 5 other 
well behaved children in our home, how do I keep them safe?

6歳の子どもを預かるようになって、9か月になる。私は本当に疲れた。今日も、ドクターの診
察を受けるため、学校へ子どもを迎えに行った。玄関で私を見るやいなや、子どもはヒステリッ
クになり、反対方向へ走って逃げていった。校長と2人で、追いついたものの、殴ったり、蹴っ
たり、ひっぱたいたり、髪の毛を引っぱったりした。少し落ち着いたところで、今日は、病院へ
行くだけだと話して聞かせた。そのときも、私の顔を蹴り、大声で泣き叫び、いくつかの教室の
授業を混乱させてしまった。どうしたらよいのか、どうか、教えてほしい。また学校で同じような
ことが起きたら、どうすればよいのか。8週間ほど前も同じようなことをしたとき、このままエスカ
レートしたら、どうしようかと悩んだ。彼は、タコマで、心理教育を受けることになっている。この
間、どうすればよいのか、教えてほしい。私のところには、ほかにも5人の子どもを預かってい
るが、みな、行儀がよい。

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ある教育者からの返事

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It sounds like you are dealing with an extremely difficult situation. So far the other 
suggestions posted by Dina and Bear should be helpful. I have two more techniques that 
may be helpful for your stepson. One technique that you might want to try is creating a 
behavior contract with your stepson. First, you can figure out what behaviors you would like 
to see him exhibit in school and at home. Some suggestions would be he needs to draw 
when he is feeling angry or he needs to follow directions the first time that they are given. 
Set a time frame for each time you or the teacher will be evaluating his behavior. Start 
small to encourage his success with the technique. You might want to say, if you can do this 
for 30 minutes you will receive a reward. And, keep track of whether or not he is exhibiting 
this behavior every 30 minutes. You will talk to him about what kinds of rewards he is willing 
to work for. If he loves to play with his toy trucks maybe you can use extra play time as a 
reward or getting to watch a favorite movie. It is important to figure out what rewards 
matter to him. You can find more information on using behavior contracting on this website. 
Go to the main behavioradvisor.com screen and you will find the link for contracts. 

たいへん困難な状況にあると思う。先にコメントを書いた、DさんやBさんの意見も、役に立つ
でしょう。で、私は、役にたつであろう2つの技術をもっている。
1つは、まず試してみるべきことは、その子どもとの、(行動契約)を結ぶこと。まず、学校や家
で、彼がどうあるべきかを、あなたがそれを具体的に頭の中で描いてみる。彼が怒っていると
きや、最初に指示に従う必要にあるとき、どうするかを決めるのもよい。それぞれのときに、時
間のワクをつくれば、先生が、子どもの行動を(客観的に)評価するだろう。もし30分以内にで
きれば、ほうびを与えるなどとする。30分ごとに、その契約が守れるかどうかを、観察する。ま
たその子どもがどのようなほうびを求めているかを、子どもと話しあう。たとえばおもちゃのトラ
ックと遊びたいとか、好きな映画を見たいというのであれば、それらをほうびとする。その子ど
もが何をしたがっているかを知ることが、重要。このサイトで、(行動契約)についてのさらなる
情報を、手に入れることができる。そちらを訪問してみたらよい。

The second technique that you might want to try is having your stepson self monitor his 
own behavior. You will start out when he is calm to identify a behavior that you would like to 
encourage. Be confident in his ability to master this technique. It may sound unlike you, but 
give him excessive amounts of your confidence that he can master this behavior. Many 
children take their cues from the adults in their lives. Once you have figured out what 
behavior you will be working on, create a sheet with smily faces and frowning faces. At 
designated times, ask him to circle the smiling face if he is exhibiting this behavior or the 
frowning face if he is not. This will build his own motivation to exhibit appropriate behaviors. 
And, celebrate when he is improving!!! I know this can be difficult to do, as some of the 
improvements will seem small in relation to the problems; however, it is good for you and 
him to recognize when changes are occuring. 
It seems like you are really commited to helping this child and he is lucky to have such a 
stable adult in his life. Good luck with this situation. 

Keely

2番目の技術は、子ども自身の行動について、自己監視させること。子どもがあなたから見
て、落ち着いていて、好ましい状態にあるときから、始める。この技術をマスターするための能
力が子どもにあると、自信をもつこと。子どもが自分で自分を管理できると、あなたが、(今の
あなたには、そうではなくても)、自身をもっていることを、子どもに強く印象づける。多くの子ど
もたちは、彼らの生活において、おとなたちから、その手がかりを得る。どんな様子が望ましい
かがわかったら、(ニコニコマーク)と(しかめっつらマーク)を描いたシートを用意する。このこと
で、子どもに自覚を促す。そしてうまくいったときは、その子どもをほめたたえる。このことはむ
ずかしいことは、わかっている。この問題に関しては、進歩は、少ないだろう。しかしあなたとそ
の子どもにとって、変化が起きつつあることを気がつくためには、よい。その子どもにとって、あ
なたのような安定したおとなをもっているということは、すばらしいことだ。

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●子どもの過剰行動性について

 子どもの突発的な過剰行動性、いわゆるキレる子どもについては、いろいろな分野から考察
が繰りかえされている。

 大脳の微細障害説、環境ホルモン説、食生活説など。それらについて、数年前に書いた原
稿を、ここに添付する。

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【子どもがキレるとき】

●ふえるキレる子ども

 2000年、全国の教育委員会から報告された校内での暴力行為は、前年度より11.4%
ふえて、34595件に達したことがわかった(文部科学省)。「対外的に問題の見られなかった
子どもが、突発的に暴力をふるうケースが目立つ」と指摘。同省・児童生徒課は、キレる子ども
への対応の必要性を強調した(中日新聞)。

 暴力行為が報告された学校の割合は、小学校が全体の2・2%だったが、中学校が35・
8%、高校が47・3%にのぼった。また学校外の暴力行為は、小中高校で、計5779件だっ
た。私が住む静岡県でも、前年度より210件ふえて、1132件だった。マスコミで騒がれること
は少なくなったが、この問題は、まだ未解決のままと考えてよい。

 こうしたキレる子どもの原因について、各方面からさまざまな角度から議論されている。教育
的な分野からの考察については言うまでもないが、それ以外の分野として、たとえば(1)精神
医学、(2)栄養学の分野がある。さらに最近では(3)環境ホルモンの分野からも問題が提起さ
れている。これは、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)が、子どもの脳に影響を与え、それ
が子どもがキレる原因の一つになっているという説である。以下、これらの問題点について、
考えてみる。

(1)精神医学の分野からの考察

●躁状態における錯乱状態 

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」と位置づけられてい
る。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・1856〜1926)だが、一般的には
躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによって
は、重複して起こることが多いからである。それはそれとして、このキレた状態になると、子ども
は突発的に攻撃的になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若い人の間では、ただ
単に、激怒した状態、あるいは怒りをコントロールできなくなった状態を、「キレる」と言うことが
多い。ここでは区別して考える。)私にもこんな経験がある。

●恐ろしく冷たい目

 子どもたち(小3児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった
机とイスを足げりにしてひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、その目は恐ろしいほど冷た
く、すごんでいた……。

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定な状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状に過ぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の
緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に不安が入りこむと、その不安を解消しようと、一
挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のばあいも、「問題が解けなかった」とい
う思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではない
か」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。言いかえると、このタイプの子ど
もは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さない。周囲に気をつかうなど。表情
にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、その裏で心をゆがめる子どもは
少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」という。「遊離現象」というときもある。心(情意)
と表情がミスマッチを起こした状態をいう。一度こういう状態になると、教える側からすると、「何
を考えているかわからない子ども」といった感じになる。

 その引き金となる原因はいくつかあるが、その第一に考えるのが、欲求不満である。欲求不
満が日常的に続くと、それがストレッサー(ストレスの原因)となり、心をふさぐ。その閉塞感が、
子どもの心を緊張させる。子どもの心について、こんな調査結果がある(98年・文部省調査)。

 「いらいら、むしゃくしゃすることがあるか」という質問に対して、小学6年生の18.6%が、
「日常的によくある」と答え、59.8%が、「ときどきある」と答えている。その理由としては、

(1)友だちとの人間関係がうまくいかないとき……51.8%
(2)人に叱られたとき……45.7%
(3)家族関係がうまくいかないとき……35.5%
(4)授業がわからないとき……34.1%
(5)意味もなくむしゃくしゃするときがある……18.5%

また「不安を感ずることがあるか」という質問に対しては、やはり小学六年生の7.8%が、「日
常的によくある」と答え、47.7%が、「ときどきある」と答えている。その理由としては、

(1)友だちとの関係がうまくいかないとき……51.0%
(2)授業がわからないとき……47.7%
(3)時間的なゆとりがないとき……29.3%
(4)落ち着ける居場所がないとき……22.4%
(5)進路、進学について……20.4%
 
 この調査結果から、現代の子どもたちは、およそ20人に一人が日常的に、いらいらしたり、
むしゃくしゃし、10人に一人が日常的にある種の不安を感じていることがわかる。

●子どもの欲求不満

 子どもの欲求不満については、その原因となるストレスの大小はもちろんのこと、それを受け
取る子ども側の、リセプターとしての問題もある。同じストレスを与えても、それをストレスと感じ
ない子どももいれば、それに敏感に反応する子どももいる。そんなわけで、子どものストレスを
考えるときは、対個人ではどうなのかというレベルで考える必要がある。それはさておき、子ど
もは自分の欲求が満たされないと、欲求不満になる。この欲求不満に対する反応は、ふつう、
次の三つに分けて考える。

(1)攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状態あ
り、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と
話しかけただけで、包丁を投げつけた女の子(年長児)がいた。私が「今日は元気?」と声をか
けて、肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を足げりにした女の子(小五)もいた。こう
した攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイ
プ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)に分けて考えることができる。

(2)退行・依存タイプ

 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったりする(退行性)。あるいは誰かに依存しようとする(依存
性)。このタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを叱れば叱
るほど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが多い。

(3)固着・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったりする(固着性)。あるいはささいなことを気にして、悶々と悩ん
だりする(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩いていた。
最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
りを起こす。ある男の子(小五)は、幼児期に読んでいたマンガの本をボロボロになっても、ま
だ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」と声をかけると、その子ど
もはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。読んでは、ダメだというんでチョ」
と。

 ものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすための代償行為と考えるとわかり
やすい。よく知られているのに、指しゃぶりや、爪かみ、髪いじりなどがある。別のところで指の
快感を覚えることで、自分の欲求不満を解消しようとする。
 キレる子どもは、このうち、(1)攻撃・暴力タイプということになるが、しかし同時に退行性や
依存性、さらには固着性や執着性をみせることが多い。 

●すなおな子ども論

 補足だが、従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれ
は誤解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、す
なおな子どもという。うれしいときにはうれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情
をする。しかし心と表情が遊離すると、ここに書いたようにそれがチグハグになる。ブランコを
横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするな
ど。中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、よく
できた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大き
なストレスを心の中でため、そのためた分だけ、別のところで「心のひずみ」となって現われる。
よく知られた例として、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界で
は借りてきたネコのようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追いこまないように、穏やかな生活を何よ
りも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚な
スキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ち着かせる。カルシウム、マグネシ
ウム分の多い食生活にこころがけ、リン酸食品をひかえる。リン酸は、せっかく摂取したカルシ
ウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサー)
があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

●子どもの感情障害

 ほかに自閉症やかん黙児、さらには小児うつ病など、脳に機能的な障害をもつ子ども、さら
に近年問題になっている集中力欠如型多動性児(ADHD)は、感情のコントロールができない
ことがよく知られている。これらのタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、突発的に(1)
激怒する、(2)興奮、混乱状態になる、(3)暴言を吐いたり、暴力行為に及ぶ。攻撃的に外に
向って
暴力行為を及ぶタイプを、プラス型、内にこもり混乱状態になるのをマイナス型と私は分けてい
る。どちらにせよその行動は予想がつきにくく、たいていは子どもの「ギャーッ」という動物的な
叫び声でそれに気づくことが多い。こちらが「どうしたの?」と声をかけるときには、すでに手が
つけられない状態になっている。

(2)栄養学の分野からの考察

●過剰行動性のある子ども

 もう20年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によ
るナイフの殺傷事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取り
あげられたことがある(98年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節
夫教授らが、この分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。話
を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱していて、
その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意すると、
H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動性も
気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興奮
状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなった。
私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設
が確立しているケース(たとえば自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することは
あっても、その段階で止める。この過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っ
ても、親に向かって、「あなたの子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえな
い。教師としてすべきことは、知っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開
始することである。
 
●原因は食生活?

 ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気
力、(3)疲れやすい、(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという
(朝日新聞98年2・12)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子ども
にも共通してみられる症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞っ
たとき、看護婦からそういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。この二つの命令がバランス
よく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低血糖になると、このうちの抑
制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。先のH君
の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝手に小刻みに動いてしまい、
それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコントロールもできなくなり、一度
激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それがキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。体内のカ
ルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の発育が不
良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた回復が遅く
なるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく言えば、カ
ルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こしやすいとい
うのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」81年7号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる問題
行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている白
砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知
り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰
ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビスケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫ん
だというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状のようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それ
から数日後。今度はH君が一転、無気力状態になってしまったという。私がH君に会ったのは、
ちょうど一週間後のことだったが、H君はまるで別人のようになっていた。ボーッとして、反応が
まるでなかった。母親はそういうH君を横目で見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょう
か」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒス
テリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけでなおる」(「マザーリング」81年7
号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与
えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本
与えるということは、体重60キロの人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュースを4本は
飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
 
●多動児(ADHD児)との違い

 この過剰行動性のある子どもと症状が似ている子どもに。多動児と呼ばれる子どもがいる。
前もって注意しなければならないのは、多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)の診断基
準は、二〇〇一年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏ら委託し
て、そのひな型が作成されたばかりで、いまだこの日本では、多動児の診断基準はないという
のが正しい。つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しないということにな
る。一般に多動児というときは、落ち着きなく動き回るという多動性のある子どもをいうことにな
る。そういう意味では、活発型の自閉症児なども多動児ということになるが、ここでは区別して
考える。

 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリスト」)
は、次のようになっている。

(チェック項目)
1行動が幼い
2注意が続かない
3落ち着きがない
4混乱する
5考えにふける
6衝動的
7神経質
8体がひきつる
9成績が悪い
10不器用
11一点をみつめる

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる……1点、
当てはまらない……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」

この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動児が
多動児なのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。教師による抑えがきけば、
多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動児は行動が突発的に過剰になるとい
うだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別される。また活発型の自閉症
児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状であって、主症状ではないという点で、こ
の多動児とは区別される。またチェック項目の中の(1)行動が幼い(退行性)は、過保護児、
溺愛児にも共通して見られる症状であり、(7)神経質は、敏感児、過敏児にも共通して見られ
る症状である。さらに(9)成績が悪い、および(10)不器用については、多動児の症状というよ
りは、それから派生する随伴症状であって、多動児の症状とするには、常識的に考えてもおか
しい。

ついでに私は私の経験から、次のような診断基準をつくってみた。

(チェック項目)
1抑えがきかない
2言動に秩序感がない
3他人に無遠慮、無頓着
4雑然とした騒々しさがある
5注意力が散漫
6行動が突発的で衝動的
7視線が定まらない
8情報の吸収性がない
9鋭いひらめきと愚鈍性の同居
10論理的な思考ができない 
11思考力が弱い

 このADHD児については、脳の機能障害説が有力で、そのために指導にも限界がある……
という前提で、それぞれの市町村レベルの教育委員会が対処している。たとえば静岡県のK
市では、指導補助員を配置して、ADHD児の指導に当っている。ただしこの場合でも、あくまで
も「現場教師を補助する」(K市)という名目で配置されている。

(3)環境ホルモンの分野からの考察

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言を
行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)な
ものであった。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではな
く、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応
性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の発達を阻害す
る。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。
多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の
生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具
体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーン
ピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

(4)教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しか
しながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子ど
もの議論だけが先行している。ただその原因としては、(1)親の過剰期待、そしてそれに呼応
する子どもの過負担。(2)学歴社会、そしてそれに呼応する受験競争から生まれる子ども側
の過負担などが、考えられる。こうした過負担がストレッサーとなって、子どもの心を圧迫する。
ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。最近の子どもは、飽食とぜいたくの

で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずかな負担だけで、それを過負担と感じ、
そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させてしまう。親の期待にせよ、学歴社会にせ
よ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度は容認されるべきものであり、こうした
環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできない。これらを整理すると、次のようにな
る。

(1)環境の問題
(2)子どもの耐性の問題。

 この二つについて、次に考える。

●環境の問題
●子どもの耐性の問題

終わりに……

以上のように、「キレる子ども」と言っても、その内容や原因はさまざまであり、その分野に応じ
て考える必要がある。またこうした考察をしてのみ、キレる子どもの問題を正面からとらえるこ
とができる。一番危険なのは、キレる子どもを、ただばくぜんと、もっと言えば感傷的にとらえ、
それを論ずることである。こうした問題のとらえ方は、問題の本質を見誤るばかりか、かえって
教育現場を混乱させることになりかねない。
(はやし浩司 キレる子ども 過剰行動性 突発的に暴れる子供 暴れる子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

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安心して、HP、HTML版マガジン、
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私のパソコンは、以下のような方法で、パソコンの安全
と健康を、いつも監視しています。

ですから、どうか、安心して、私のHP、HTML版
マガジン、および動画(TUBE社)を、お楽しみく
ださい。

●プロバイダーのほうで、ウィルスチェエクを自動的に
しています。

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行っています(プロバイダー、WBS.NE.JP)。

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ールし、(これも今では常識ですが)、そのつど、ウィ
ルスチェックを行っています。

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「スパイボット(SPYBOT)」をインストールし、
常時監視しています。

●さらに、HP制作用のパソコンと、通常作業用のパ
ソコンを分けて使っています。

中には「HTML版はこわい?」と心配している方
もいらっしゃるかもしれませんが、どうか、安心して
お楽しみください。

以上、これからもパソコンの安全と健康には、じゅう
ぶん留意して、HP、マガジンの制作をしていきます。

よろしくお願いします。

はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(022)

【近ごろ、世間では……】

●やっぱり、ねつ造!

 韓国の大学教授が、世界ではじめて人のクローン胚から、胚性幹細胞(ES細胞という)を作
ったと発表した論文について、ソウル大学の調査委員会が、このたび、「ねつ造」と断定した(1
2月23日)。

 大学教授の名前は、F・ウソク。名前からして、「?」を連想させる。そのウソク教授は、05年
5月、アメリカの科学雑誌、「サイエンス」に、ES細胞を11個作ったと発表したが、調査の結
果、「故意にデータを偽造したもの」(ソウル大学)と判断されたという。同、調査委員会は、「科
学の信頼を傷つける重大な行為」と批判している。

 当然である。

 このウソク大学の研究論文については、かなり以前から、疑問を投げかける人が多かった。
つまり人のES細胞を作るのは、それくらい、むずかしい。が、それに対して、韓国政府や韓国
人たちは、猛反発。その猛反発が、かえってヤブヘビになってしまった。

 ふつう、科学の発展には、周囲科学の発展が不可欠。つまり1つの科学的成果を出そうとす
るなら、その周囲の科学が、整っていなければならない。たとえばロケットを飛ばすにしても、ロ
ケット工学はもちろん、燃料工学、電子工学などなど、それを支える周囲科学がじゅうぶん整っ
ていなければならない。

 そういう周囲科学がないところに、突然、降ってわいたように、1つの科学が特異に発展する
ということは、ありえない。

 今回の人のES細胞を作ったというニュースには、そうした疑問が、最初からついて回ってい
た。「どうして韓国人が?」と。が、結果は、やはり、クロ。韓国のソウル大学の調査委員会の
調査結果だから、ほぼ、そう断定してまちがいないだろう。

 しかしこういう事例は、決して少なくない。日本でも、あの藤木S一による、石器ねつ造事件が
ある。つまり私たち日本人も、あまり偉そうなことは言えない。この世界では、功名をあせるあ
まり、デタラメな論文を発表する人は、いくらでもいる。私が昔知りえた事件にも、「電磁場麻
酔」事件なるものもあった。「静電界麻酔」事件というのもあった。大げさな事件にはならなかっ
たが、そのどこかSF的な、どこかインチキ臭い研究のために、ときの厚生省が、その研究者ら
に助成金を支払ったという事実がある。


●米韓関係の崩壊

アメリカのゼーリック国務副長官が、訪米した韓国の鄭東泳統一相と、12月20日に会談し
た。そのときゼーリック氏は、韓国政府による北朝鮮への経済支援が核問題解決に役立って
いないとして、不満を表明。支援を縮小するよう要求したという。

 こういう報道が、私の耳にも入ってくるようなら、すでに米韓関係は、終焉(しゅうえん)のとき
を迎えたとみてよい。同盟国なら、たとえそういう話しあいがなされたとしても、内部で、留保さ
れる。決して、表には出てこない。そういう話しあいがあったという話が出てきたということは、
「もう韓国など、どうでもよい」という認識を、アメリカ側がもったことを意味する。

 当然である。

 韓国は、K国寄りというよりは、すでに中国側についてしまっている。K国との関係において
も、少なくともN政権イコール、K国と考えたほうがよい。どうしてそんな韓国を、同盟国として、
アメリカは守らなければならないのか。

 韓国のN大統領よ、もう少し、現実を見たらよい。もし韓国からアメリカが抜けるようなことが
あれば、外資は、みな、韓国から逃げ出すだろう。そうなれば、韓国自体が崩壊する。どうして
こんな簡単なことが、N大統領、あなたには、わからないのか。

 それに「南北統一」を口にするのはよいが、中国は、そんな甘い国ではない。K国がへたをす
れば、中国に吸収合併されてしまう。チベットをみれば、それくらいのことは、だれにでもわかる
はず。そうなれば、南北統一など、夢のかなたへ吹っ飛んでしまう。


●K国の制裁問題

 拉致被害者の気持ちもよくわかるが、何度も書いてきたように、あんなK国など、本気で相手
にしてはいけない。制裁などしてはいけない。安倍官房長官は12月22日、都内のホテルで拉
致被害者の家族会と面会、その席で、「北朝鮮の時間稼ぎを許すつもりはない」と述べ、拉致
問題の解決を北朝鮮に強く求めていく考えを強調したという(産経新聞)。が、制裁について
は、安倍官房長官も、何も言わなかった。制裁については、どうやら慎重になってきたように感
ずる。

 当然である。

 今、日本がK国を制裁しても、ほとんど、効果はない。ないばかりか、かえって中国、韓国、K
国を、結束させてしまうことになりかねない。へたをすれば、K国は、この日本に核攻撃をしか
けてくることも考えられる。

 日本は、あくまでも国際世論に働きかけ、ジワジワとK国をしめあげるのがよい。たとえば現
在、日本政府は、整理回収機構(RCC)を利用して、朝鮮S連を提訴したり、人権担当大使の
新設などの作業を推し進めている。

 私は、それが正攻法だと思う。制裁したところで、拉致問題は、解決しない。もともとK国は、
そうした制裁に耳を貸すような国ではない。まともな国ではない。

 どうしても……、というのなら、朝鮮S連へ抗議デモをしかけるという方法などもある。韓国に
対して、K国への援助をやめるように、圧力を加えるという方法もある。ともかくも、K国は、国
際社会につっぱることによって、自分の「顔」をもとうとしている。経済規模は、日本の数千分の
1もない。アジアの中でも、最貧国。もうこれ以上、なくすものは何もないというほどの、最貧
国。

 そんなK国を制裁して、どうする? どうなる?
 

Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(023)

●家族へのクリスマス・プレゼント

 今度、10年ぶりに、正月に、家族全員が集まる。3人の息子たちが、まだ幼いころから、「正
月には、どんなことがあっても、みんな集まろう」と呼びかけてきた。が、それは私の一方的な
(呼びかけ)でしかなかった。

 そのうち息子たちが外国へ行くようになったりすると、この(呼びかけ)は、霧散した。それに
息子たちは、(家族)よりも、(ガールフレンドとのデート)を優先するようになった。私もワイフ
も、若いときはそうだったので、息子たちを責めることはできない。

 が、そのため、ますます正月は、さみしいものになっていった。とくにここ数年は、クリスマスも
正月も、私とワイフの2人だけ。正月のおせち料理も、形だけ。鏡餅については、一番小さいの
を買ってきて、テレビの上にのせるだけ。あとはビデオを見ての、寝正月。

 が、今年は、どういうわけか、みなが、集まる。そのため、何かと気ぜわしい。大掃除に、寝
室の用意。昨日は、息子たちや息子のワイフのために、クリスマス・プレゼントを買ってきた。

 何を買ったかって? ……それはここにはまだ書けないが、それが結構、楽しかった。もっと
もそれを渡すのは、12月28日以後。クリスマスが終わってからの、クリスマス・プレゼント。み
んなが喜んでくれれば、それでよい。ハハハ。

 今日は、土曜日。午後から休みになる。今日も、忙しくなりそう!

 では、みなさん、これからその仕事にでかけます。Merry Christmas!

 12月24日、午前8時記。


●鳥インフルエンザ

 昨日、女医(内科医)をしているTさんと、教室の中で、立ち話をする。その場で、アメリカから
帰ってくる息子夫婦のために、インフルエンザのワクチン注射を、お願いする。「いつでも、どう
ぞ」と、Tさんは、言ってくれた。

 で、Tさんは、私にこう言った。「先生、本当にこわいのは、インフルエンザではなく、鳥インフ
ルエンザ(高病原性鳥インフルエンザウィルス、H5N1型)ですよ」と。

 正直なところ、(鳥インフルエンザ)と言われても、ピンとこない。しかし専門家はみな、口をそ
ろえて、「鳥インフルエンザはこわい」と言う。「もし流行したら、ふつうのインフルエンザどころで
はない」と。

 すでに中国では、6人が感染。うち2人が死んでいる(12月22日)。さらにベトナムでは、抗
ウィルス薬タミフルへの耐性をもつウィルスまで検出されたという(同22日)。中日新聞によれ
ば、「耐性ウィルスが見つかったのは、13歳と18歳の少女。いずれも1月に入院。タミフルに
よる治療を受けたが、それぞれ発症後、8日目と20日目に死亡した」という。

 タフミルでもきかないウィルスが出現したということらしい。ゾーッ!

 もしこの日本で、こうした鳥インフルエンザが流行し、さらにタフミルに対して耐性をもってウィ
ルスが発見されたら、それこそたいへんなことになる。Tさんは、それを言った。「最前線のドク
ターたちが、最初の犠牲者になります」と、Tさんは笑っていたが、決して笑いごとではすまされ
ない。ドクターたちがしりごみをしてしまったら、患者の私たちはどうすればよいのか。

 話を聞いているうちに、私も、だんだんとこわくなってきた。

 マスクは、今ではもう、情備品。私も、カバンの中には、いつも、数枚、用意している。人ごみ
の中に入るときには、必ず、かけるようにしている。みなさんも、くれぐれも、お体を大切に!


●K国のにせ札

 K国は、にせ札を作って儲けようとした。しかしこうした行為は、かえって自分で自分のクビを
しめることになる。新聞報道などによると、K国の貿易関係者は、相手に現金を支払うとき、真
札とにせ札を混ぜるのを、常套(じょうとう)手段にしているらしい。

 しかしこんなことを繰りかえせば、だれも、K国と取り引きしなくなる。つまり真札まで、にせ札
と疑うようになる。さらに仮に今ここでにせ札作りをやめたとしても、失った信用を取りもどすま
でには、何年も、何年もかかる。

 バカなことをする人をバカという。バカなことをする国をバカという。K国は、そのバカなことば
かりしている(?)。


●寒い冬

 今年の冬は、寒い。おととい、家の中ですら、朝起きてみたら、気温は、6度。このところ、庭
の水がめが凍るという日がつづく。

 私は、もともと、寒さに弱い。苦手。寒いと、体の活動そのものが、にぶる。何をするにも、お
っくうになる。当然、頭の回転も鈍くなる。ものを考えても、それが(思想)にまで、かたまらな
い。

 が、だからといって、暖かくすればよいかというと、そうでもない。暖かくすれば、今度は、眠く
なる。こたつの中に入ったら最後、そのまま横にゴロリとなって、グーグー、スースー。

 しかし今年の冬は、それにしても寒い。つぎからつぎへと、寒波が押し寄せている。日本海側
の各都市では、記録的な大雪が降っている。浜松生まれで、浜松育ちの人たちは、雪を知らな
い。だから雪に対して、ノスタルジック(郷愁的)な、あこがれをもっている。しかし私は、雪が好
きではない。学生時代、金沢で、その雪を、うんざりするほど、経験している。

 雪そのものは、よいとしても、その前後が寒い。みぞれに始まって、道路がぬかるむ。雪が
美しいのは、一時だけ。やがてすすけた茶色に変化する。そのまま、いたるところで、ゴミの山
をつくる。

 その浜松でも、先日、雪が降った。朝起きてみると、庭がうっすらと雪化粧。ワイフは、「雪
よ!」「雪よ!」と喜んでいたが、私は、ア〜ア〜で、おしまい。雪が降らない浜松を、私は、こと
あるごとに、自慢していたのに……。

 豪雪地方のみなさん、豪雪、お見舞い申しあげます!
(05年12月26日記)


●オートレース

 浜松には、公営のオートレース場がある。そのオートレース場が、存続か廃止かで、もめてい
る。民営化するという案も浮上している。もちろん、赤字。2年連続で、毎年2億円近い赤字を
出している。

 もっとも赤字といっても、「基金を取り崩しての赤字であって、税金をいっさい使っていない」
(O支部長談)とのこと。だから「オートは開設以来、800億円を一般会計に繰り入れてきたの
に、(たった)2億円の赤字でオートレース事業検討委は廃止の方向に向いているというのは、
おかしい」と。

 そこで全日本オートレース協議会は、全国で、6万8500人分の署名を集めて、市に提出し
た。そこで、一度は廃止に傾きかけた市側が、またまた存続側に。これに対して、反対派が、
反発……。とくに市から委託された行財政改革推進審議会(行革審)は、猛反発。「(廃止する
という提言を)重く受け止めると言っておきながら、軽く無視するのか!」と。

 ……というようなドタバタがつづいている。

 私も若いころ、まだ子どもが生まれる前のことだったが、ときどき、ワイフと、そのオートレー
スを楽しんだことがある。ときどきといっても、年に1度か2度。しかしいつも、損ばかりしてい
た。オートレースというのは、そもそも、素人が儲かるしくみにはなっていない。

 もっともそのころは、レース場につづく道路は、大混雑。そのころとくらべると、今は、その面
影は、どこにもない。閑散としている。つまりレースを楽しむのは、その道のプロだけ。どことな
く、そういう雰囲気をもった、男たちだけ。もちろん子どもづれの夫婦には、無縁の世界。

 しかしここは合理的に考えるのが、一番。未来に向かって残さねばならないものかどうか。こ
れから先、市の財政を圧迫してまで、残さねばならないものかどうか。存続させたばあいの、メ
リットは何か。廃止したばあいの、デメリットは何か。そういう視点から、合理的に考えればよ
い。

 そういう点では、今回の行革審の出した結論は、正論ではないのか。が、それに対して、行
政側は無視。

 もともと(審議会)というのは、そういうもの。ふつうは、行政側が、何らかのお墨つきをもらう
ため、あるいは権威づけのために、するもの。審議会のメンバーにしても、どういう基準で選ば
れたのかさえ、ふつうは、わからない。もっとはっきり言えば、イエス・マンだけを集めて、行政
側にとって、都合のよい結論を出させる。

 それが審議会。が、今回は、そうではなかった。メンバーの1人は、「はじめから結論ありき
の審議に、どんな意味があるのか」と疑問を呈し、「出来レースではないのか」「ばかにされた
印象」「聞く耳をもたないなら、何のための審議か」(中日新聞)と反発。

 がんばれ、行革審! 負けるな行革審! ついでに一言。だからといって、こうした行革審
を、廃止するな! おそらく行政側内部では、今ごろ、こんな議論がかわされているにちがいな
い。「ああいう、うるさい行革審は、もう終了しましょう」「そうですねエ〜」と。

 ついでに以前書いた原稿の一部を、掲載する。

++++++++++++++

●諮問機関という、ごまかし

 官僚が世間を動かすとき、きまって使われる手法が、「諮問(しもん)委員会」の設立である。
懇談会、研究会、検討会、審議会などという名称を使うこともある。(名称は決まっていない。
教育の世界には、中央教育審議会などがある。)

 まずもっておかしいのは、委員を選ぶときの、その人選のし方。不明確、不明瞭。どういう基
準で、だれが選んでいるかが、まったくわからない。委員ですら、どうして自分が選ばれたの
か、わからないときがある。関係機関に問い合わせても、「お答えできません」と言われるの
み。もちろん委員に選ばれるのは、「イエス・マン」だけ。この世界には、こうした諮問機関をつ
ぎからつぎへと渡り歩いている「有識者?」がいくらでもいる。

 そうして委員会は始まるが、(そうした会議はテレビでもよく紹介されるから、みなさんもご覧
になったことがあると思う)、会議での討論内容のほとんどは、あらかじめ官僚によって作成さ
れる。そして座長と呼ばれる人が、それを順に読みあげ、「いかがですか?」「ご意見は?」と
いう調子で、会議が進んでいく。時間は委員一人あたり、約5〜10分程度。一方的に意見を
述べるだけ。討論に発展することは、まずない。大きな諮問委員会でも、回数は5〜6回程度。
最後に座長が、官僚の意向にそった結論をまとめて、文書にして、答申する。それでおしま
い。

 あとはいわゆる「お墨つき」を得た官僚は、その答申をもとに、したい放題。大きな国家プロ
ジェクトの大半は、こうして決まる。空港も、高速道路も、港も、はたまた博覧会も。日本が官
僚主義国家だと言われるゆえんは、こんなところにある。

 さて今夜も、あちこちの諮問委員会の模様が、テレビで報道されることだろう。一度、ここに
書いたような知識を頭に置きながら、ああいった委員会をながめてみたらよい。あなたも諮問
委員会のもつおかしさに、気づくはずである。
(021017)

+++++++++++++++

 日本の政治は、まあ、こんなもの。こういう流れの中で、決まっていく。悲しいかな日本は、奈
良時代の昔から、官僚主義国家。中央集権国家。その亡霊が、いまだに、日本全国、津々
浦々に残っている。その1つが、今回のオートレース場の存続問題である。


●夫婦

 自分で自分の顔を見ることはできない。顔に、食べ物の残りカスがついていることだって、あ
る。ときには、鼻くそがついていることだってある。さらに口臭となると、自分ではわからない。

 しかしそれを教えてくれるのが、夫であり、妻ということになる。

 が、それだけではない。同じように、自分で自分の心を見ることはできない。ときにその心
は、とんでもない方向へ、暴走してしまうことがある。心の病気となると、自分ではわからない。

 しかしそれを教えてくれるのが、夫であり、妻ということになる。

 その夫婦。このところ、私はワイフの顔をみながら、よくこう思う。「こいつも、ますますバーさ
んらしくなったなあ」と。恐らくワイフはワイフで、そう思っているにちがいない。「この人も、ます
ますジーさんらしくなったわね」と。

 そしてこう思う。「もし、ワイフが死んだら、ぼくは、自分の顔を見ることができなくなる。自分の
心を見ることができなくなる」と。

 そう考えていくと、心細くなる。いや、実のところ、私には、ひとりで生きていく自信は、ない。も
しワイフが死んだら、私も、おしまい。たとえばこうして書いている文にしても、そのつどワイフ
があれこれと批評してくれるから、その範囲にとどまっていることができる。しかしそれがなくな
ったら、私のことだから、とんでもない方向に暴走してしまうにちがいない。

 だから文を書くことも、できなくなる。もちろん、心の問題となると、なおさらである。

 ところで今朝、朝食のとき、ワイフがこう言った。「私、最近、人の名前をよく忘れるわ」と。

私「ぼくなんか、しょっちゅうだ、よ」
ワ「私も……。どうしてもその人の名前を思い出せないことがあるわ」
私「ところで、ぼくの名前、覚えている?」
ワ「ヒロ……何だってけ?」

私「ヒロトシだよ。な、トシコ」
ワ「私、トシコじゃ、ないわよ。ユキコよ」
私「そうだったけ。ユキコか。先日まで、アキコかと思っていた」
ワ「わかっているくせに……」と。

 私の名前は、浩司(ひろし)。ワイフの名前は晃子(あきこ)。どうか、おまちがえなく。

 
●依存と愛着

++++++++++++++++++

3年前に書いた原稿を改めて
読みなおしてみる。

自分のボケ度を知るには、
たいへんよい。

つまり3年前の自分と、
今の自分を、それで比較する
ことができる。原稿は、
ランダムに選んでみた。

テーマは、『依存と愛着』。

さあ、どうかな?

+++++++++++++++++++

 子どもの依存と、愛着は分けて考える。中には、この2つを混同している人がいる。つまりベ
タベタと親に甘えることを、依存。全幅に親を信頼し、心を開くのを、愛着という。子どもが依存
をもつのは問題だが、愛着をもつのは、大切なこと。

 今、親にさえ心を開かない、あるいは開けない子どもがふえている。簡単な診断方法として
は、抱いてみればよい。心を開いている子どもは、親に抱かれたとき、完全に力を抜いて、体
そのものをべったりと、すりよせてくる。心を開いていない子どもや、開けない子どもは、親に抱
かれたとき、体をこわばらせてしまう。抱く側の印象としては、何かしら丸太を抱いているような
感じになる。

 その抱かれない子どもが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査による
と、4分の1もいるという。原因はいろいろ考えられるが、報告によれば、「抱っこバンドだ」とい
う。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の1に及ぶことが、『臨床育児・保育研究
会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が3
3%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が2割前後見
られ、調査した六項目の平均で25%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固い」
「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で20%の赤ちゃんから報告されたという。さら
にこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放され
たい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。また
抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を使っ
ているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)2
〜3割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 子どもは、生後7、8か月ころから、人見知りする時期に入る。一種の恐怖反応といわれてい
るが、この時期を通して、親への愛着を深める。が、この時期、親から子への愛着が不足する
と、以後、子どもの情緒はきわめて不安定になる。ホスピタリズムという現象を指摘する学者も
いる。いわゆる親の愛情が不足していることが原因で、独得の症状を示すことをいう。だれに
も愛想がよくなる、表情が乏しくなる、知恵の発達が遅れ気味になる、など。貧乏ゆすりなど
の、独得の症状を示すこともあるという。

 一方、冒頭にも書いたように、依存は、この愛着とは区別して考える。依存性があるから、愛
着性があるということにはならない。愛着性があるから、依存性があるということにはならな
い。が、この二つは、よく混同される。そして混同したまま、「子どもが親に依存するのは、大切
なことだ」と言う人がいる。

 しかし子どもが親に依存性をもつことは、好ましいことではない。依存性が強ければ強いほ
ど、自我の発達が遅れる。人格の「核」形成も遅れる。幼児性(年齢に比して、幼い感じがす
る)、退行性(目標や規則、約束が守れない)などの症状が出てくる。もともと日本人は、親子で
も、たがいの依存性がきわめて強い民族である。依存しあうことが、理想の親子と考えている
人もいる。たとえば昔から、日本では、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコー
ル、よい子と考える。そして独立心が旺盛で、何でも自立して行動する子どもを、かわいげのな
い「鬼ッ子」として嫌う。

 こうしたどこかゆがんだ子育て観が、日本独特の子育ての柱になっている。言いかえると、よ
く「日本人は依存型民族だ」と言われるが、そういう民族性の原因は、こうした独特の子育て観
にあるとみてよい。もちろんそれがすべて悪いと言うのではない。依存型社会は、ある意味で
温もりのある社会である。「もちつもたれつの社会」であり、「互いになれあいの社会」でもあ
る。しかしそれは同時に、世界の常識ではないことも事実で、この日本を一歩外へ出ると。こう
した依存性は、まったく通用しない。それこそ生き馬の目を抜くような世界が待っている。そうい
うことも心のどこかで考えながら、日本人も自分たちの子育てを組み立てる必要があるのでは
ないか。あくまでも一つの意見にすぎないが……。
(はやし浩司 愛着 依存 抱かれない子供 抱かれない子ども ホスピタリズム 抱っこバンド
 子どもの依存性 子供の依存性 はやし浩司

++++++++++++++++

 こうして読みかえしてみると、文章は少しあらいものの、今より鋭かったのかなと思う。という
のは、今の私は、かくして、確実にボケ始めている(?)。

 気をつけよう!


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●要支援と幼稚園

 少し前まで、幼稚園児とこんな会話ができた。

 「君たちは、年中(児)。ぼくは、中年(児)!」と。

 すると子どもたちは、「チューネンではなく、ネンチューだよ」と。

 しかしその私も、さらに年をとった。中年の時代も、終わった。そこで今は、こんな会話をして
いる。相手は、年長児たち。

 「君たちは、ヨーチエン(幼稚園)だってねエ。ぼくは、ヨーシエン(要支援)だよ」と。

 すると子どもたちは、「先生、ヨーシエンではなく、ヨーチエンだよ」と。

私「あのね、自分でウンチをして、それをきちんと自分でふけなくなったら、要支援って、言うん
だよ」
子「ぼくは、ちゃんとふけるよ」
私「だったら、君は、要支援ではない」
子「要支援ではなく、幼稚園だってばア」

私「でも、ぼくも、もうそろそろ、要支援だよ」
子「幼稚園は、子どもが行くところだよ」
私「それがひどくなって、自分のウンチを食べるようになったら、要介護かな」
子「ゲーッ! ウンチを食べるの?」
私「要介護というのは、そういう人のことをいうよ」
子「ヨーカイゴではなくて、ヨーチエンって、言うんだよ」

私「要支援が終わったら、要介護。要介護1年生だよ」
子「幼稚園が終わったら、小学校だよ」
私「ぼくは、要介護になるの」
子「ぼくは、小学校だよ」
私「要介護は、5年生まで、あるの。知ってる?」
子「フ〜ン。お兄ちゃんは、小学5年生だよ」

私「5年生かあ?」
子「6年生まであるよ」
私「要介護には、6年生はないの」
子「5年生のつぎは、何?」
私「あの世へ行くの」と。

 こうしたジョークは、子ども向けというよりは、参観している、親向け。親たちが笑ってくれる
と、教室がなごむ。そのなごんだ雰囲気が、子どもたちの表情を、明るくする。しかし子どもた
ちは、真剣。

 子どもたち「先生、ヨーシエンではなく、ヨウーチエンだってばア!」と。


●ダジャレ

コウモリが、子守り歌を歌った。
それをネコが、寝転んで聞いていた。
ウマが、「うまい」と、コウモリをほめた。
しかしサルは、その場を、去った。

カバが、カバンを買った。
シカは、帽子しか、買わなかった。
そこへネズミ色の服を着たネズミがやってきて、こう言った。
「パンダさんの食べたいのは、パンだ」と。

トラがトラックに乗って、旅に出た。
ラクダも乗せてもらって、「楽だ、楽だ」と言った。
そこへワシがやってきて、「わしは、ワシだ」と言った。
それを聞いたゾウが、「わしは、ゾウだぞう」と言った。

……意味のないダジャレで、ごめん! 幼稚園児たちと話していて、こんなダジャレを思いつい
た。何かの歌の歌詞になるそう(?)。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(024)

【子どもの緊張感】

+++++++++++++++++

子どもに緊張感をもたせる。その緊張感
が、たとえば受験勉強などにおいて、よ
い方向に作用するという。

しかし本当にそうか? そう言いきって
よいのか?

今、あちこちで、その受験戦争が、火花
を飛ばしている。

その「緊張感」について、ここで、はっ
きりと、結論を出しておきたい。

+++++++++++++++++

●幼児に受験の自覚?

 私のところへきて、1人の母親が、こう言った。「A進学教室(浜松市内)の幼児科では、『子ど
もに受験するという緊張感をもたせるために、毎日、合格しますと子どもに言わせているそうで
す』と。

 5歳、6歳の子どもに、受験の自覚をもたせる? こういう例は、ほかにもある。浜松市内のX
幼稚園では、S小学校を受験する子どもたちだけを集めて、特訓教室を開いている。そしてそ
こでもやはり、「私は、合格します」と、子どもたちに、何度も復唱させているという。

 模擬テストもしているというが、その緊張感のあまり、途中で、泣き出してしまう子どももいると
いう。

 ……これはとんでもない暴論と言ってよい。メチャメチャな指導と言ってもよい。

 この時期、愚かな親たちは、(はっきりそう断言してよいが……)、自分の子どもが合格する
ことしか考えていない。またそのための努力しか、してしない。しかし万が一にも、子どもが受
験に失敗したときは、どうするのか。子どもは、どうなるのか?

 子どもによっては、それを大きな心のキズ(=トラウマ)としてしまう。子ども自身がキズとする
のではなく、親たちが、そういう状態に子どもを追いこんでしまう。子どもが受験に失敗したと
き、狂乱状態になる親も少なくない。そういう親の姿を見て、子どもは、それを(心のキズ)とし
てしまう。

●内的緊張感と外的緊張感

 緊張感にも、2種類ある。その子ども(人)自身の中から、わきでてくる緊張感を、内的緊張
感という。たとえばその子ども自身がもつ、向上心、向学心、競争心、自尊心、好奇心が、そ
の子どもを緊張させる。わかりやすく言えば、これは「善玉緊張感」ということになる。

 一方、外的緊張感というのもある、外部から、子どもを脅したり、子ども自身を絶壁のフチに
負いこんだりして与える、緊張感である。「こんな成績では、A中学に入れないわよ」「A中学へ
入れなかったら、あなたはダメになるのよ」と。わかりやすく言えば、これは「悪玉緊張感」とい
うことになる。

 幼児にも、内的緊張感をもたせる方法はないわけではないが、しかし少なくとも幼児には、外
的緊張感を、自分の中で、自己処理する能力は、まだない。

 理由は明白。自分の立場を、客観的に判断する能力が、まだ育っていないからである。そう
いう幼児に向って、受験の目的、受験の内容、ついでに受験がもつ制度としての社会的意義を
説明しても、意味はない。

 子ども自身が、内的緊張感を理解し、その緊張感で、自発的に自分をコントロールするよう
になるのは、早くても小学校の高学年。ふつうは、中学生くらいになってからである。この時
期、内的緊張感をうまく引き出せば、子どもは、自ら伸びる力で、自分自身を前向きに引っぱ
っていく。

●心のキズ(トラウマ)

 印象に残っている女の子に、Sさん(当時、中学生)がいた。

 彼女はいつも、ここ一番というときになると、何ごとにつけ、自らしりごみしてしまった。私が、
「ここでふんばれ!」「へこたれるな!」と励ましても、彼女の心には届かなかった。理由を聞く
と……というより、いつも、Sさんは、こう言っていた。

 「どうせ、私は、S小学校の入試に落ちたもんね」と。

 つまりSさんは、もうとっくの昔に忘れていてもおかしくないようなことを、心のキズとしていた。
「だから、私は、ダメな人間だ」と。

 親たちは、先にも書いたように、合格することしか考えていない。しかし受験に失敗した子ど
もたちが、いかにそのはざまで、もがき、苦しんでいることか。そういうことについては、親たち
は、ほとんど知らない。Sさんのように、それを心のキズとしてしまう子どもも、決して、少なくな
い。

 ひょっとしたら、あなた自身もそうではないのか。

●落ちることを考えて準備する

 子どもの受験勉強を考えたら、受験に落ちることを考えて準備する。子どもに準備させよ、と
いうのではない。親自身が、準備する。

 万が一にも、不合格の通知が届いたら、あなたは、どうするか。どう対処するか。さらには、
どう子どもには、接するか。それを考えながら、準備する。

 しかしここにも書いたように、5歳、6歳の幼児には、まだ(受験)を自己処理する能力はな
い。仮にあったとしても、この時期、合格して、おかしなエリート意識をもたせることは、長い目
で見て、その子どもにとっては、不幸なことである。

 だから、子どもの受験勉強を考えたら、受験に落ちることを考えて準備する。

 たとえば不合格の通知が届いても、親は、動揺しない。無視する。態度に表さない。平然とし
て、日常生活をつづける。そういう姿勢が、子どもの心を守る。

●情緒不安の原因にも……

 よく誤解されることがある。

 子どもの情緒が不安定になると、親たちは、それを問題として、それをなおそうとする。ぐず
る、いじける、引きこもる子どもをを、内閉型(マイナス型)とするなら、暴れる、怒りっぽくなる、
ピリピリする子どもは、外方型(プラス型)ということになる。

 しかしそれはあくまでも症状。病気にたとえるなら、発熱や悪寒ということになる。

 子どもにとって、(もちろんおとなにとってもそうだが)、情緒不安というのは、心の緊張感が取
れないことをいう。その緊張感の中に、不安や心配が入りこむと、心は、その不安や心配を解
消しようとして、一気に不安定になる。その状態を、情緒不安という。

 こんなことは、心理学の世界でも、常識ではないか。

 そこでこの時期、子どもに外的緊張感を与えれば、子どもの心は、そのまま緊張し、多少の
個人差はあるだろが、子どもの情緒は、不安定化する。何度も書くが、この時期、幼児には、
そうした緊張感を、自己処理する能力は、まだない。

 が、それだけではない。

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

 抑圧された心理状態が、恒常的に長くつづくと、子どもの心が悪魔的になることをいう。「死」
「殺す」「地獄」などという言葉に敏感に反応するようになる。それについては、このあとに原稿
(中日新聞掲載済み)を1つ、添付しておく。

 はっきり言えば、子どもの心はゆがむ。さらにそれが原因で、親子関係が、破壊されることも
ある。親がそうではなくても、子どものほうが、親から離れていく。

 たとえば小学校の高学年児でも、進学塾へ入ったとたん、人間性そのものが変化するという
ことは、よくある。決して珍しくない。親は、「おかげで、緊張感が生まれました」と喜んでいる
が、とんでもない誤解。そうした緊張感の裏で、人間的な暖かい心が、いかに破壊されている
ことか!

 毎日、毎晩、成績という点数だけで人間を評価しないような世界が、本当に正常な世界と言
えるのか。そしてその点数だけで、子どもを絶壁のフチに立たせることが、本当に正常な世界
と言えるのか。

 どうして世の親たちよ、そんなことがわからないのか!

●無責任な受験塾 

 受験塾にもいろいろある……と書きたいが、ほんの少しだけ、冷静な目で、受験塾をながめ
てみたらよい。

 どんな講師が、どういう教育的な理念をもって、子どもを指導しているか。それをほんの少し
でも、考えてみたらよい。

 中には、熱血指導を売りものにしている進学塾もある。子どもたちの話を聞くと、「いつも先生
たちは、竹刀(しない)をもち歩いている」という。当然、親たちの了解を得て、そうしているのだ
ろうが、あまりにもバカげている。コメントする気にもならない。

 が、親たちは、そういう進学塾ほど、よい塾だと考える。この愚かしさ。このバカ臭さ。

 彼らこそ、子どもたちが合格することしか、考えていない。不合格になったとき、子どもの心の
ケアを考えている進学塾など、話に聞いたこともない。反対に、合格者は、翌年の生徒募集に
利用されるだけ。

 その陰で、いかに多くの子どもたちが、キズつき、自らダメ人間のレッテルを張っていること
か!

●ゆがむ人生観

 受験期をスイスイと渡り歩いたような人にも、問題がないわけではない。そういう例は、皮肉
なことに、60代、70代の、元エリートと呼ばれる人たちを見ればわかる。

 彼らがもつ、一種独特の、あの鼻もちならないあのエリート意識は、いったい、どこから生ま
れるのか。以前、私にこう言った男(当時50歳くらい)がいた。私が、「幼稚園で講師をしてい
ます」と言ったときのことである。

 「君は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にはつけなかったんだろ」と。

 仕事に、ロクな仕事もなければ、ロクでない仕事もない。

 彼は当時、国の出先機関の公社の副長をしていたが、そういう意識をもつようになる。そして
そうしたゆがんだエリート意識が、その人の人生を、味気なく、つまらないものにする。わかり
やすく言えば、人間の価値そのものを、学歴や経歴でしか見なくなる。

●緊張感

 適度な緊張感が、子どもを伸ばすということは、私も否定しない。ストレス学説の中でも、それ
は肯定されている。

 しかしここでいう緊張感というのは、冒頭に書いた、内的緊張感(善玉緊張感)をいう。向上
心、向学心、競争心、自尊心、好奇心が、その子どもを伸ばす。

 ある男児(当時、小6)は、夏期の合同合宿訓練の長に選ばれた。そのため、訓練の冒頭
で、あいさつをすることになった。

 その男児は、そのため、その1週間ほど前から、毎晩、眠られない夜を経験した。そして当日
は、フラフラの状態で、あいさつに臨んだ。しかし結果的に、それがうまくできた。以後、その子
どもは、「長」という「長」を総なめにして、学業を終えた。

 あるいは、その地域での演奏会に先立って、猛練習をした女児(当時、小5)がいた。そのた
め「演奏会の朝から、胃が痛いと苦しんでいました」(母親談)とのこと。しかし演奏会は、無
事、終わった。その子どもは、そのあと、見ちがえるほど、おとなっぽくなった。

 こうした内的緊張感は、たしかに子どもを伸ばす。子どもを伸ばす原動力として作用する。

 しかし外的緊張感は、どうか?

 「この仕事をしないと殺すぞ」と、ナイフをのどにつきつけられたら、どうか。あなたは、それで
もその仕事をするだろうか。楽しくできるだろうか。自分の力を、じゅうぶん、発揮できるだろう
か。

●結論

 幼児に、緊張感をもたせる? そのために、受験を自覚させる?
 
 あまりにもバカバカしい。反論したり、こうして説明するのも、実のところ、バカバカしい。はっ
きり言えば、そこらのド素人の、とんでもない意見。幼児に関する心理学の本を、一冊でも読ん
だことのある人なら、私のこの気持ちが理解できるはず。

 しかしそういうことを平気で口にして、幼児の受験指導とやらをしている進学塾もある。これが
現実かもしれない。

 だからこそ、私は親たちに向かって、この原稿を書く。そしてもっともっと、親たちに、賢くなっ
てほしい。

+++++++++++++++

子どもの心が破壊されるとき 

●バッタをトカゲのエサに

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカゲをつか
まえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、
トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が
凍りつくのを覚えた。よく見ると、それは虫の頭だった。

その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませる。かんだところで、体
をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。小さなトカ
ゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。「あっ、ト
カゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏んで、その
ままつぶしてしまった!

●心が壊れる子どもたち

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。

もちろんその中には、受験競争も含まれる。

要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。
さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することも
ある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する
能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。

昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減
らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言
いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある
子どもになる。心もやさしくなる。

●無関心、無感動は要注意

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される
が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入
ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結
果的に、「悪」に染まってしまう。

●心の修復は、4、5歳までに

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを
渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れてい
る子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、4、5歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(はやし浩司 受験 子供の受験 緊張 内的緊張感 外的緊張感 受験の心構え 子どもの
バランス感覚 バランス感覚 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(025)

●12月27日、火曜日

 この数日、掃除また掃除。そんな日々がつづいた。で、やっと今日、一段落。ほっとした。

 その掃除をしながら、いろいろなことを発見した。その1。ものがない美しさ。その美しさを、
改めて確認した。このことについては、前にも書いた。多少の不便はあるかもしれないが、もの
がない部屋は、美しい。すっきりとしている。気持ちよい。もちろん掃除もしやすい。

 実は、心の中も同じ。たとえば1つのウソをつくと、つぎからつぎへと、ウソをつかねばならな
い。相手が複数の人だと、そのウソを記憶しているだけでもたいへん。そういう意味では、ウソ
は、心のゴミということになる。

 韓国のあの科学者も、そうだ。11個のES細(胞胚性幹細胞)のうち、9個までが捏造(ねつ
ぞう)とわかった。残りの2個も、どうやらニセモノと断定されたようだ。それに対して、当の科学
者は、「仲間のだれかが、本物とニセモノをすりかえた」と言い出した。きっとあの科学者の心
の中には、足の踏み場もないほど、ゴミがたまっているのだろう。かわいそうな人だ。

 その2。掃除は、絵画に似ている。もの書きは、文章を書く。絵描きは、絵を描く。そのもの書
きと、絵描きとは、どこがどうちがうか? ふつう文章を書いていると、頭の中がクシャクシャし
てくる。しかし絵を描いていると、無我というか、無心の状態になる。何もかも忘れて、絵を描く
ことに没頭する。

 掃除は、その、絵を描くことに似ている。掃除をしている間というのは、何も考えない。ただひ
たすら、あちこちをきれいにする。それを繰りかえしていると、やがて心の中が、すっきりとして
くる。

 その3。掃除というのは、最初は人のためにする。心のどこかで、喜んでくれる人を、思い浮
かべる。そういうところから始まる。しかししばらくつづけていると、やがてそれが自分のためと
いうことがわかってくる。似たような心の変化は、ボランティア活動をしているときにも、経験す
る。もっとも何かのボランティア活動をしているときは、心のどこかで(他人のため)から、(自分
のため)にスイッチングをしないと、心がもたない。

 ボランティア活動をしていると、報われることよりも、裏切られることのほうが、多い。はるか
に多い。いちいち裏切られることを気にしていたら、ボランティア活動など、できない。掃除もそ
うだ。

 掃除をしても、すぐだれかによごされる。一番、露骨にそれをするのは、イヌのハナだ。昨日
も、窓ガラスをすべてふいた。その前に、洗剤をつけて、窓ガラスを洗った。が、夜になって、
ハナが、その窓ガラスを、足でこすって、ドロをつけてしまった。

 あああ……!

 とにかく、こうして我が家の大掃除は、終わった。一応、終わった。明日、28日、二男夫婦
が、孫と、嫁の妹を連れて我が家にやってくる。そのあとのことは、知らない。知ったことではな
い。さあて、どうなることやら? まあ、あまり考えないでおこう。無我、無心。それが何よりも重
要。今は、そんなふうに、考えている。


●熱帯魚

 熱帯魚を飼うようになって、もう18年になる。どうして覚えているかって? 理由がある。

 私たち夫婦も、何度か、離婚の危機を経験した。その中でも、一度だけ、今のワイフが本気
で家を飛び出してしまったことがある。

 そのとき、私は近所の熱帯魚屋から、水槽と何匹かの熱帯魚を買ってきた。それが平成元
年になる少し前のこと。それで「18年」ということになる。来年は、2006年、平成18年!

 きっとさみしかったのだろう。それで熱帯魚を飼うようになった。熱帯魚を見ながら、私は、心
を、まぎらわした。以来、18年。ずっと、熱帯魚を飼っている。

 その水槽を、昨日、ピカピカにみがいた。下に敷いてあるジャリも洗った。当然、水もかえた。
あとは、カルキ抜きの中和剤を入れ、病気予防のための、いくつかの薬をまぜた。おかげで、
今は、その水槽が、夢の中の世界のように、美しい世界になった。すべてが、澄んだクリスタル
色に輝いている。

 それをぼんやりと見つめていると、「大昔、人間も、魚だったんだなあ」と思う。本気で、そう思
う。深い森の中にいるときよりも、さらに大きな安堵感を覚える。本能的な安堵感というのであ
る。

私「人間のことだから、きっと、太古の昔には、熱帯地方の海に住んでいたと思うよ」
ワ「そうね」と。

 仮に私が今、魚になったとしても、冷たい海の中には、住みたくない。風呂のような温水がよ
い。そういうことから、太古の昔、人間の祖先たちは、暖かい海の中に住んでいたと思う。勝手
な想像だが、私は、そう思う。

 ところでその熱帯魚だが、人間の私たちが考えているより、はるかに頭がよい。どう頭がよい
かについては、もう何度も書いてきたので、ここには、書かない。しかし頭がよい。魚だから…
…と、決してバカにしてはいけない。


●電子出版に挑戦!

『まぐまぐ! POD』というサービスが始まった。「POD」といのは、は読者からの注文を受け
て、1冊、1冊、本を印刷・製本するというサービスをいう。「POD」というのは、「Publish on 
demand」の略語だと思う。

 「へえ〜」と驚くやら、感心するやら……。

 自費出版というのは、生涯においてしたことがない。どこかプライドが許さなかった。しかし今
度は、私自身が、出版社の立場になる。映画でいえば、監督と主演の、両方を、自分でするよ
うなもの。あのクリント・イーストウッドだって、何度か、そうしている。

 とりあえず、「子育て一口メモ」を、本にしてみようと思う。売れるかどうかわからないが、何ご
とも、新しいことに挑戦してみるというのは、楽しい。この方式が軌道にのれば、ここにも書い
たように、私自身が、出版社を経営することができるようになる。

 これからは、そういう時代かもしれない。おもしろいことだ。


●1月3日

 原稿書き、再開!

 この1週間、インフルエンザから、そのあと、扁桃腺炎、気管支炎などを併発し、病気の連
続。悪寒、発熱の繰りかえし。熱も38度を超えたと思ったら、翌日には、37度。しかしそのま
た翌日には、また38度!

 やがて今度は、薬中毒。頭痛薬をのんでも、かえって、頭痛がひどくなるだけ。いやな気分だ
った。ときどき郷里の姉から電話があるが、そのたびに、「この前も風邪をひいていると言った
じゃない!」「まだ、風邪をひいているの?」と、なじられるしまつ。

 1月1日から、そんなわけで、病院通い。おかげでそのあとは、急速に症状は、よくなった。
で、今日は、1月3日の朝。こうして原稿を書けるようになった。

 しかしこの1週間、あれこれ考えた。「こんな原稿など、書いて、何の役にたつのだろうか?」
と。ホント! 絵にたとえるなら、トイレの落書きのようなもの。それとはちがうとは思いたいが、
しかしどこがどうちがうというのか。自分のしていることが、何か、まちがっているような気がし
てしてならない。

 頭の中では、「多くの人が読んでくれているのだ」と思うようにしているが、それについても、最
近は、「?」と思うことが多い。私のワイフでさえ、このところ、忙しいこともあるが、私の原稿
を、ほとんど、読んでいない。

 どこがまちがっているのだろうか?

 だいたいにおいて、私の、ものを書く姿勢がまちがっている。ものの書き方が、どうも権威主
義的。上から下へと、「控えおろう!」というような感じで書いている。それに読者の意向など、
まったく無視。ひとりよがりも、よいところ。自己満足のために書いた文章など、だれが読みた
がるだろうか。

 いつだったか、そう批評してきた女性が1人、いた。辛らつな批評だった。「ママ診断を読んだ
が、あんな長い診断なんか、だれも受けない。自己満足のためだけに、ああいうものを書くな」
と。

 つぎにこういう(見返りのない原稿)を書いていると、どうしてもグチが多くなる。実際、05年度
は、賛助会への協力者はゼロ。絵も売ろうとしたが、買ってくれた人は、ゼロ。つまりHPとマガ
ジン関係での、収入は、ゼロ。

 そのグチが、私が書く原稿を、暗く、重いものにする。だから読者もふえない。そのため、書く
意欲もわいてこない。水にたとえるなら、流れが止まった、水たまりのようなもの。(この原稿そ
のものが、水たまりのようなもの?)

 さあて、心機一転! 今年も、再開。とにかく、前に進むしかない。グチグチ言っていても、し
かたない。2006年はやってきた。「今年こそは……」と信じて、前に進む。「今年こそは、何
か、いいことがあるだろう」と。

 この文章を読んでくださった、読者の方へ、

 今年も、よろしくお願いします。


●やはり孫は、かわいい?

+++++++++++++++++

1年ほど前、ある読者の女性から、
こんなメールをもらった。

「娘夫婦は、いつも私に孫を預けて、
遊びほけている。祖母だから、孫が
かわいいはず」と、決めてかかっている。

それでとうとう私がキレてしまった。

『祖母だからといって、孫がかわいいはず
と決めてかかってもらっては困る!』と。

私だって自由な時間がほしい。
子育てから解放されて、やっと一息ついて
いるのに、今度は、孫のめんどう?!

『もういいかげんにしてくれ!』と
叫びたいです」と。

この女性のメールは、当時、マガジンのほうで、
取りあげさせてもらった。

で、私も、今、その孫のめんどうをみるハメに……。
立場的には、その女性のメールにやっと返事を
書けるようになった。

++++++++++++++++++

 孫は、かわいいのか。それとも、かわいくないのか。私も、孫の誠司を見ながら、ふと、そん
なことを考える。

 一般的には、ジイ様、バア様だから、孫はかわいいはず、とだれしも考えるにちがいない。と
くに自分の子どもをもった若い父親や、母親は、そうであろう。

 しかし孫に対する感覚は、自分の実の子に対する感覚とは、明らかにちがう。自分の実の子
のばあいは、無我夢中というか、すべてを投げ出して、育てる。しかし孫となると、そうはいかな
い。そこに息子が介在する。

 (孫の誠司ではなく)、その息子のほうを見ていると、ふと心のどこかで、「子育ては、もうたく
さん」「こりごり」と思う。そういう思いが、心をふさぐ。子育ては、つまりは重労働。その子育て
からやっと解放されたと思ったとたん、また同じ思いをもてと言われても、困る。そうは簡単に、
心は動かない。

 さらに私のばあい、何十人も、幼児を教えている。毎週、毎月、そういった子どもたちと会って
いる。そういう子どもたちと、どう区別したらよいのか。孫と、どう区別したらよいのか。実際に
は、できない。

 みんなで買い物に出かけても、息子夫婦は、孫には、ハレ物かガラス箱に触れるかのよう
に、注意を払う。自分のワイフには、荷物を、いっさい、もたせない。(妊娠中ということもある
が……。)しかし重い荷物をもたされるのは、たいてい、私たち、夫婦。決して見返りを求めて
自分の子育てをしたわけではないが、そういう立場に立たされてみると、「子育てって、いった
い、何だったのか?」と考えさせられてしまう。

 息子は、こう言う。「電池式のおもちゃは、創造性がない。だからぼくは、そういうおもちゃで
は、遊ばせない」とか、何とか。

 まあ、言いたいことを言えばよいが、何千例も幼児教育をみてきた私に向って、そう言う。何
百回も、あちこちで講演を重ねてきた私に、そう言う。「そうだね」と一応返事をしつつ、「そうい
う単純なものでもないのだがなあ」とも思う。言いたいことは山ほどあるが、ここは、バカなジイ
様のフリをしているのが、一番。

 そこで恐る恐る、ワイフに、昨夜、そのことを告白した。

私「息子のヤツね、どこか緒しつけがましいだろ。『孫はかわいいだろ』とね。で、お前さ、孫
を、かわいいと思うか?」
ワ「フ〜ム。毎月とか、毎週とか、会っていれば、また別の感覚をもつかもしれないけど、私た
ちには、まだ、そういう感覚は、もてないわね」
私「そこなんだよな。昨日も、息子は、こう言った。『アンシュタインなんて、くだらない男さ。あん
な男には、学ぶべきものは、何もない』とね。ぼくは、それを聞いていて、『あんたのようなおや
じには、学ぶべきものは、何もない』と言われたように感じたよ」

ワ「それは考えすぎよ」
私「でも、田丸先生も、ぼくも、アインシュタインを尊敬している。ああまで頭から否定されてしま
うと、自分が否定されてしまうかのように感ずる」
ワ「息子といっても、もう別の人格をもった、別の人間よ。あなたには、まだ親意識が残ってい
るのよ。子離れが、まだできていないのよ。息子といっても、思い出のつながった、友人と思え
ばいいのよ」

 いろいろな統計を見ても、「老後は、息子や娘と離れて暮らしたい」と望んでいる人がふえて
いるという。欧米化というか、オーストラリア化、アメリカ化というか、そういう傾向が、この日本
でも、急速に進んでいる。

 で、その私は23歳のときには、すでに収入の半分を、実家へ仕送りし始めていた。ワイフと
結婚したときも、すでにそれが条件になっていた。だから、ワイフは、何も言わずに、それに従
ってくれた。が、それから、35年。いまだに年間、100〜200万円単位の生活費や介護費用
が、のしかかってくる。

 そういう「私」とくらべると、今の私の息子たちは、いったい、何かと思う。そして同時に、「そん
な息子や娘となら、同居はごめん」ということになる。老後のめんどうをみてもらうなどというの
は、夢のまた夢。反対に、息子たちのめんどうをみるのは、親の私たちということになる。知人
の中には、息子夫婦の新居の費用から、孫のおけいこ教室の費用まで、負担している人がい
る。

 だから、その知人は、「同居は、ごめん」と。わかる、その気持ち!

 そこで若い夫婦のみなさんには、こんなアドバイスができる。

(1)ジイ様、バア様には、孫がかわいいはずと思いこむのは、やめたほうがよい。またそういう
前提で、押しつけがましく、ジイ様、バア様に孫を押しつけるのはよくない。とくにマザコンタイプ
の男性は、自分の母親を偶像化しやすい。そのため、自分の孫にも、マドンナ的な深い愛情を
期待しがちだが、愛情というのは、血のつながりだけでは、生まれない。

(2)孫のかわいさは、それまでの親子関係、それと息子の妻や、娘の夫との関係によって決ま
る。良好な親子関係であれば、ふつう程度に孫をかわいく思うようになる。そうでなければ、そ
うでない。

これは別の知人(男性)から聞いた話だが、こんなケースもある。その知人の息子が、ある女
性と結婚した。5歳年上の女性だった。子ども(孫)を妊娠したことをよいことに、その女性は、
強引に、息子との結婚を迫った。

 知人は、結婚そのものに反対した。その女性の両親に何度か中絶を申しいれた。が、話にな
らなかった。さらに相手の両親に大金を積んで、婚約解消を申しいれたが、それでも、だめだ
ったという。が、そのうち、子どもは生まれてしまった。その知人にしてみれば、孫ということに
なるが、彼はこう言った。「一応、遊びにくれば、それなりの接し方はしますが、正直言って、
(孫の)顔など見たくもないです」「見たとたん、頭痛が始まります」と。

 もちろん中には、孫を目の中に入れても痛くないと思うジイ様、バア様もいる。つまりそれくら
い孫をかわいいと思っている人もいる。しかしそうでない人のほうが、実際には、多い。たいは
んのジイ様、バア様は、よきジイ様、よきバア様でいようと、仮面をかぶろうとする。「息子夫婦
に嫌われるのもいやだから」と。いろいろな人の話を聞いてみると、どうやらそのあたりに、本
音があるのではないか。

 そこで息子に聞いてみると、息子は、あっさりとこう言った。「パパ、アメリカの両親など、あっ
さりとしたものだよ。レストランなどでいっしょに食事をしても、みんな割り勘だよ」と。

 ナルホド!

 さて、私のばあいだが、今日(1月3日)は、市内のレストランで、昼食。それから新幹線で、
隣町まで行こうとしたが、駅は、Uターンラッシュで、たいへんな混雑。しかたないので、駅前の
アクトタワーの展望台へ。

 孫の誠司を抱きながら、自分の心がどう変化していくのかを、静かに観察してみた。淡々とし
た気持ちは、それほど、変わらなかった。が、ちょうど帰りの道についたときのこと。孫の誠司
が、こう言った。

 「You've got water? (水をもっている?)」と。どこか遠慮がちな、やさしい言い方だった。

 それで「You want water? (お前は、水を飲みたいのか?)」と聞くと、「Yes!」と。そのとき瞬間
だが、誠司の中に、言いようのない愛くるしさを感じた。心を全幅に開いて、私に話しかけてくる
孫。私の顔を見たとたん、ニコニコと笑って、「ジイジ!」と声をかけてくれる孫。

 とたん、それまでたがいをへだてていたカベが、パラパラと崩れたのを感じた。そしてそれま
でになかった、心の交流が、流れ出すのを感じだ。そういうものが積み重なって、はじめてそこ
に、別の新しい人間関係が生まれるのかもしれない。そしてそれが、たがいの絆(きずな)に変
わる。孫といっても、その新密度は、基本的には、人間関係で決まる。「祖父だから……」と
か、「孫だから……」という『ダカラ論』だけで、ものを考えてはいけない。

 同居して、1週間目。やっと私にも、孫のかわいさが、わかるようになってきた! やはり、孫
っていうのは、かわいいですねエ〜。
(原S)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(026)

●実名を出して恐縮だが……

 H市内に、「大内歯科医院」というのがある。それを見て、2人のアメリカの女性(二男の嫁と
妹)たちが、ゲラゲラと笑いだした。

 英語では、「OUCHI Dental Clinic」という。日本語の看板の下に、そう書いてあった。

 また別のところで、これまた、大笑い。その店は、何かのどんぶりものを食べさせる店だっ
た。

 いわく「牛丼……Meat Bowel Food」

 その中でも、もっとも大声で、ゲラゲラ笑いだしたのは、「Haxd−Off」(1文字、伏字)という
店を見つけたとき。とにかく、笑いが止まらないといったふうだった。

 どうしてアメリカ人たちが笑ったか?

 英語では、「痛い!」というとき、「Ouch!」という。
 「Bowel」というのは、「ウンチ」の下品語。
 さらに、男性のペニスが勃起したあと、なえた状態を、英語では、「haxd−off」という。ここま
で書けば、なぜアメリカ人たちが笑ったか、その理由がわかってもらえるはず。

 書店に入ったときも、そうだ。「Woody Life」という雑誌をみつけて、「これ、何?」と言いあ
っている。「木の温もりのある生活」という意味で、その雑誌社は、そういうネーミングを考えた
のだろうが、私が、「どうして?」と聞くと、「まったく、意味をなさない」と、ポツリ。装丁が豪華
で、日本でもよく知られた雑誌だったので、意外だった。


●子育てを忘れて……

 正月休みになって、1週間がすぎた。この間、接した子どもは、孫の誠司だけ。おかげで、私
の育児論は、完全に、サビついてしまった。こうして何かを書こうとするのだが、頭の中に、何
も、浮かんでこない。

 育児論は、子どもを前にして、はじめて、書ける。かなり以前から、そう感じていたが、私の育
児論は、とくにそう。あちこちの参考書や資料をカンニングしながら書くというのは、私のやり方
ではない。

 目の前で、現実の子どもたちを見ながら、原稿を書く。私のばあい、それがとても大切なこと
のように思う。が、「何も書けない」とがんばっていてもしかたない。そこであれこれ思いついた
ままを書いてみる。

(1)『ダカラ論』

 またまた出てきた、『ダカラ論』。今、私の友人(男性)が、実家の近くに住む姉から、実家の
改築費を出すように迫られているという。「あんたは、男だから……」「あんたは、家を出たのだ
から……」「あんたは長男なのだから……」と。

 その友人はこう言う。「姉は、じぶんにとって都合のよいダカラ論を並べているだけなんです
ね。遺産相続の場では、きっと、こう言いますよ。『私は、娘だから……』『私も子どもだから…
…』とね」と。

 つまり人に金を出させるときは、「あんたは長男だから……」と言い、金を取るときは、「私は
娘だから……」と言う、と。

 実際、『ダカラ論』をふりかざす人は、それだけ思考力のない人とみてよい。自分で考える力
がないから、『ダカラ論』をふりかざす。つまり『ダカラ論』は、思考力のない人の、便利な論法
の1つということになる。

 「あなたは夫ダカラ……」
 「お前は妻ダカラ……」
 「あんたは、私の子ダカラ……」
 「オレはお前の親ダカラ……」と。

 一見、論理的なようで、どこにも論理性がない。それが『ダカラ論』ということになる。

(2)インフルエンザを軽くみない

 正月の1日に、病院へ行く。そこでドクターが、こう話してくれた。「インフルエンザは、最初の
48時間が勝負です。それまでに適切な処置をしないといけません。それ以後は、薬も、ほとん
どきかなくなります」と。

 「ウィルスが全身に回ってから、処置をほどこしても、意味がない」ということか。私は、勝手に
そう解釈した。漢方でも、インフルエンザだけは、特別扱いをしている。後漢のころ活躍した張
仲景という学者は、よく知られた『傷寒論』という独立した一冊の本を書いている。

 まだ(熱邪)が、体の表面にただよっている間に治すのが、コツ。体の奥深くに入ってしまって
からでは、もう遅い、と。

 つまりインフルエンザは、決して、軽くみてはいけない。一度、こじらせると、命まであぶなくな
る。熱も40度を超え、身のおき場がないほど、体をだるく感ずるようになる。そしてそういう症
状が、4〜7日もつづく。へたをすれば、肺炎! そして死!

 昨日(1・5)の新聞によれば、そのインフルエンザが、とうとう流行期に入ったという。人ごみ
の中に入るのは、避けたほうがよい。


●うれしいメール

年末(05年12月)、BW教室のYさんから、こんなうれしいメールが届いています。
Yさんに承諾(xxxx)

今年の正月は、風邪、風邪……で、さえない毎日でしたが、そのこともあって、本当にうれしか
ったです。

+++++++++++++++++++++

こんにちは。いつもS太とA子がお世話になっています。今年は、私の仕事の関係とかで、教室
の時間を変更していただいたり、幼稚園児のA子まで、小学生のクラスに入れていただいたり
と、ご迷惑をおかけしてばかりで、本当に申し訳ありませんでした。

先生に、子供たちがいろいろご馳走になったそうで、二人とも大喜びで「BW教室に行ってて、
良かったー!」などと言っています。どうもご馳走様でした。ありがとうございました。

S太は、今年は算数だけでなく、苦手だった国語や体育の成績も上がり、勉強態度も、自分か
ら進んで部屋に行き勉強するようになりました。なんとなく頼りになる息子に成長してきたような
気がします。自信がついて来たみたいで、表情が明るくなりました。

妹のA子も、兄に習って勉強の癖がついてきました。

「一月から二年生の勉強をするんだよ! 勉強って楽しいよ! どうして幼稚園のみんなは勉
強しないんだろう? 林先生にね、すばらしいって言ってもらうと、みんなが拍手してくれてすご
くうれしい気持ちになるよ。」と、すごくお喋りになりました。

二人とも、いい影響を受けて成長をしているんだなと実感しています。

今年一年、本当にお世話になりました。
来年もこどもたち二人をよろしくお願いします。
ありがとうがざいました。

                          S太、A子の母より


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【シャドウ】

●親の心を代弁する娘 

 20年ほど前のことだが、こんな事件があった。

 あるときある母親が、教室へやってきて、こう言った。「先生、うちの娘(6歳)は、私の心を、
そっくりそのまま口にしてします。

 たとえば私が祖母(義理の母親)のことを、内心で、『汚い』と思っていたりすると、娘が、私の
横で、祖母に向って、『あんたは、汚い!』と言うのです。

 あるいは、私が内心で、『祖母なんか、いないほうがいい』と思ったとします。するとすかさず
娘が、祖母に向って、「あんたなんか、あっちへ行っていてよ」と言うのですね。

 そういう娘を見ていると、ときどき、自分がこわくなります」と。

●親がつくる、シャドウ

 いくら善人の仮面をかぶっても、邪悪な心までは、隠せない。他人ならまだしも、自分の子ど
もの前では隠せない。親子というのは、そういうもの。子どもは、親が、心の裏でつくるシャドウ
を、そっくりそのまま読んでしまう。

 たとえば(あなた)で、考えてみよう。

 あなたには、善良な部分もあれば、邪悪な部分もある。が、接する相手によって、あなたは仮
面をかぶる。

 仮面をかぶることが悪いというのではない。だれしも、そのときどきにおいて、ある程度の仮
面をかぶる。よい例が営業上の仮面。ショッピングセンターなどへ行くと、若い女性が、豊かな
笑みを浮かべて、「いらっしゃいませ」と、あいさつする。

 しかしそれは営業上の仮面。そういう笑みを見て、「この子は、私に気があるのかも」「人間
的にできた女性だ」と思っていはいけない。仮面は、仮面。

 しかし中には、その仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。脱ぎ忘れてしまう人も
いる。

●偽善者

 仮面をかぶればかぶるほど、邪悪な心を、心の奥底に封じこめようとする。自分の心の中
に、いわばゴミ箱のようなものをつくる。そこへ邪悪な心を押しこむことによって、さらに、自分
が仮面をかぶっていることを忘れてしまう。

 よい例が、牧師や教師が、性的な話や、セックスの話を、ことさら嫌ってみせるというのがあ
る。中には、そういう話題になると、顔を不愉快に曇らせる人もいる。

 そういう人というのは、牧師の仮面、教師の仮面をかぶっていることになる。そして自分の中
にある邪悪な心、(だれにでもあるものだが……)、それをゴミ箱の中に押しこんでしまう。

 しかしそれで邪悪な心が消えるわけではない。ゴミ箱に入った邪悪な心は、その人のシャドウ
となって、その人を、今度は、裏から操るようになる。その一例が、「偽善者」と呼ばれる人たち
である。

 自分の名声を利用して、苦しんでいる人や、貧しい人たちのための救済運動をしてみせたり
する。そうしてさらに、自分の名声にハクをつけ、何らかの利己的利益へと結びつけていく。

●シャドウを受けつぐ子ども

 このシャドウをウラからしっかりと見ている人たちがいる。こんな例がある。

 ある夜夫が、自宅へ帰ってきた。そしてワイフにこう言った。「今夜、○○の十字路にさしかか
ったとき、突然、横から、自転車が飛び出してきて、ぼくは、ハンドルを右へ切った。そのとき、
あやうく対向車と衝突しそうになったよ」と。

 それを聞いたワイフは、すかさず、こう言った。「あんたが、悪いからよ!」と。

 夫の話を半分も聞かないうちに、妻が、「あんたが、悪いからよ!」と。

 その女性、つまり夫のワイフは、人前では、献身的で従順な妻を演じていた。自分でも、「よく
できた家庭的な妻だ」と思っていた。しかしそれはいわば仮面にすぎなかった。内心では、不本
意な夫と結婚したことを、いつも不満に思っていた。

 そういう不満が、姿を変えてシャドウとなり、とっさのときに、思わず、口をついて出てきた。
「あんたが、悪いからよ!」と。そう言わさせたのは、まさに、そのシャドウということになる。

●邪悪な心は、伝播(でんぱ)する

 昔から、『親も親なら、子も子だ』という言い方をする。そういう言い方をするときは、決してそ
の親子をほめているからではない。「親も悪いやつだが、子も悪いヤツだ」というニュアンスを
こめて、そう言う。

 実際、そういう例は、多い。たいていのばあい、親が小ズルいと、子も小ズルくなる。そうでな
いケースのばあいは、ふつう、子どものほうが、たいへん苦しむ。さらにこんな例もある。

 日本中を驚かせるようたような事件を起こしたような子どもの両親をみると、ときとして、「どう
して?」とわからなくなってしまうことが多い。ふつう以上に、ふつうの家庭。両親は、教育熱心
な教師であったりする。地域でも、評判はよい。ある凶悪事件を起こした少年の父親は、その
地域のミニコミ紙を発行していた。

 そういう親をもちながら、子どもは、想像もつかないような凶悪な犯罪を犯す! こうした例で
よく持ちだされるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。佐木隆三の
同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の複線がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄
との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。
そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげた原動力になっ
た。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

●教師とて、例外ではない

 親子の関係ほどではないが、教師と生徒との関係においても、同じようなことが起きるときが
ある。生徒が、教師のシャドウをウラから読んでしまう。あるいは、受けついでしまう。

 「この先生は、給料のためだけに仕事をしている」「うわべでは、かっこうのいいことばかり言
っているが、実は、オレたちを利用しているだけだ」と。

 こうなると、生徒は、その教師の指導に従わなくなる。

 私にも経験がある。昔、もう25年ほど前のことだが、月謝袋をポンと爪先ではじいて、私にこ
う言った生徒(高2・男子)がいた。

 「おい、あんた、あんたのほしいのは、これだろ!」と。

 私は激怒して、即刻、その生徒を退塾処分にしたが、そのときのその生徒は、私のシャドウ
を見抜いていたのかもしれない。あのころの私は、(今でもそうかもしれないが……)、お金の
ために、進学指導をしていた。

●シャドウを消すために

 シャドウを消すことは、決して簡単なことではない。それこそ10年単位の年月が必要となる。
何はともあれ、まず、それに自分で気がつかねばならない。

 仮面をかぶっているなら、かぶる必要がないときには、その仮面をはずす。はずして本来
の、ありのままの自分にもどる。

 つぎに、どんなささいなことからでもよいから、正直に、かつ誠実に生きる。とくに子どもに対
しては、そうだ。ウソをつかない。約束は、かならず守る、など。インチキはしない。ルールは守
る。

 そしてそのワクを、自分から、家庭へと広げていく。そういう操作を、繰りかえす。一年や2年
では足りない。ここに「10年単位」と書いたが、私の経験では、それでも少ないのではないかと
思っている。

 こうした積み重ねが、やがてシャドウを自分から消していく。そして(あなた)が、「私は私だ」
「これが私だ」と、ありのままの自分で生きることができるようになったとき、同時に、シャドウ
は、あなたから消える。

 シャドウは、あなたの子どもの心をゆがめる大敵と考えて、対処する。
(はやし浩司 シャドウ シャドー論 子どもの心 子供の心)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【ファミリス(静岡県教育委員会発行雑誌)・掲載原稿より】

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05年11月号
05年12月号
雑誌「ファミリス」掲載原稿から、
原稿を転載して、

お届けします。

『疑わしきは、罰する』です。

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●ゲーム脳

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。疑わしいものは、まず遠ざける。子どもに渡すものは、しっかりと安全が確認されてからで
よい。そういう姿勢が、子どもの世界を守る。

●ゲーム脳

このところ、「ゲーム脳」という言葉が、よく話題になる。ゲームづけになった脳ミソを「ゲーム
脳」という。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」と
は、何か。

『脳の中に、前頭前野という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分
である。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になる』(日大大学院・森教授)と。

 つまりゲームばかりしていると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、賛否両論があり、「ゲームをやっても脳が壊れてしまうことはない」と
主張する学者(東北大学・川島教授)もいる。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

●なぜ、抗議の嵐が?

 この日本では、ゲームを批判したり、批評したりすると、ものすごい抗議が殺到する。実は、
私自身も経験している。6年前に、『ポケモンカルト』という本を出版したときである。上記の森
教授らのもとにも、「多くのいやがらせが、殺到している」(報道)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。ゲームにもいろいろあるが、どうしてそのゲ
ームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか? 

 森教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与える危険性がありますよ」と、むし
ろ親切心から、そう警告している。それに対して、いやがらせとは!

●動き出した文科省

そこで文部科学省は、ゲームやテレビなどを含む生活環境要因が子どもの脳にどう影響を与
えるかを研究するために、2005年度から1万人の乳幼児について、10年間長期追跡調査す
ることを決めた。この中で、ゲームの影響も調べられるという(「脳科学と教育」研究に関する
検討会の答申)。

 近く中間報告が、公表されるだろう。が、しかしここで誤解してはいけないのは、「ゲームは危
険でないから、子どもにやらせろ」ということではない。「ゲームは、危険かもしれないから、や
らせないほうがよい」と、考えるのが正しい。とくに動きのはげしい、反射運動型のゲームは、
避けたほうがよい。
(はやし浩司 ゲーム脳)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●右脳教育

●右脳教育ブームの中で

左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(スペリー)。その右脳をきたえると、た
とえば次のようなことができるようになるという(七田氏)。

ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像
を心に描くことができる(直観像化)、見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる
(フォトコピー化)、計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。

 しかしこういう説に対して、疑問を投げかける学者も少なくない。目白大学の渋谷氏もその1
人で、著書「心理学」の中で、こう書いている。

 『なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブ
ーム」は、こういった理論から生まれたのではないでしょうか。これらの説の中には、まったくウ
ソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあるものとは言えません』と。

●だから、どうなの?

 ときどき、右脳教育の成果(?)として、神業的な能力を示す子どもが紹介される。まさに神
業。しかし「だからどうなの?」という部分がないまま、子どもにそういう訓練をほどこしてよいも
のか。はたしてそれが能力と言えるのか?

 昔、「一晩で百人一首を覚えたら、5000円あげる」と母親に言われ、本当に、一晩で暗記し
てしまった子どもがいた。その子どもというのは、あの忌まわしい殺人事件を起こした、「少年
A」である。彼は専門家の鑑定により、「直観像素質者」という診断名がくだされた。

 イメージの世界ばかりが、極端にふくらんでしまい、空想と現実の世界の区別がつかなくなっ
てしまった子どもと考えるとわかりやすい。

●大切なのは、静かに考える子ども

右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべき人間の理想像
ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(=論理)、他人の心を静かに
思いやること(=分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。その論理や
分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

 で、今、その静かに考えることができる子どもが、むしろ減っているのではないか。私は、個
人的には、これだけ映像文化が発達しているのだから、あえて右脳を刺激しなくても、よいので
はと考えている。

 要はバランスの問題。右脳教育にせよ、左脳教育にせよ、いつもバランスを考えながらす
る。
(はやし浩司 右脳教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(027)

【子育て一口メモ】

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今度、有料版で、「子育て一口メモ」を
冊子にすることにしました。

まぐまぐ社のPODサービスを利用し
ます。定価は、850円!

購入方法などは、HPのほうで、紹介
しますので、もし購入してくださる方
がいらっしゃれば、どうか、よろしく
お願いします。

……ということで、今日は、特別サー
ビス!

マガジンのほうで、その「一口メモ」を、
無料で読んでいただけるよう、ここに、
掲載することにしました。

ここに掲載するのは、その一部です。
全体をご希望の方は、HPか、もしく
は、POD版をご購入ください。

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【子育て一口メモ】

● 父親(母親)の悪口は、言わない

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判したり
すると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父親の間に、
三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができると、子どもは、
親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


● 逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その逃げ場
に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋ということに
なる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定になる。だから子どもが
逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。


●心は、ぬいぐるみで……

年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子どもが、約
80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、中には、キックし
てくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをもっている子どもは、約8
0%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかどうかは、ぬいぐるみを抱かせ
てみるとわかる。


●国語教育は、言葉から
子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたとき、
「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親がしていて、ど
うして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどうでも、「バスがきます。
あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子をかぶっていますか」と話
す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。


●計算力は、早数えで……

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イチ、ニ、サン
……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。さらに手をパンパンとたた
いてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を信号化する。たとえば「2足す3」
も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の信号化という。この力が、計算力の基礎とな
る。


●やさしさは苦労から

ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほしい。
そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そうでなく、テレビや
ゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよい。今は、(かわいい子)か
もしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、自分で苦労をしてみてはじめて、
他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから生まれる。


●釣りザオを買ってやるより……

イギリスの教育格言に、『釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっしょに釣りに行
け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜んでいるはず。感謝し
ているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。しかしこれは幻想。誤解。むし
ろ逆効果。


●100倍論

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍してえる。たとえば100円のものでも、100倍
して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはいけない。一度、お金
で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、10倍、100倍とエスカレートし
ていく。高校生や大学生になるころには、1000円や1万円では、満足しなくなる。子どもが幼
児のときから、慎重に!
●子どもは、信じて伸ばす

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、『相手は、あな
たが相手を思うように、あなたのことを思う』というのがある。あなたがその人を、いい人だと思
っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでなければそうでない。子
どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを伸ばしたいと思うなら、まず
自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、大鉄則である。


●強化の原理

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくなる」
「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来に不安をいだ
かせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバーして、「ほら、やっぱ
り、できるじゃない!」と、ほめて仕あげる。


●叱るときの原則

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高さを
あわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっかりと見
つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせても意味はな
い。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというような様子を見せる子
どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。


●仮面に注意

絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前で、そう
であればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしているようであれば、
親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見て、「何を考えているか
わからない」というのであれば、さらに要注意。
●根性・がんこ・わがまま

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりとげると
いうのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。理由もなく、自
分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。その根性は、励まし
て伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではないので、その理由と原因
をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。


●アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るために、ア
ルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。それもそのは
ず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアルバムには、楽しい
思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするためにも、アルバムを、部屋の
中央に置いてみるとよい。


●名前を大切に

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」と、ことあるごとに
言う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてその自尊心
が、何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たとえば子どもの名
前が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところに張ったりする。そう
いう親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。


●子どもの体で考える

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、5本、
飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのかし
ら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。


●CA、MGの多い食生活を!

イギリスでは、『カルシウムは、紳士をつくる』と言う。静かで落ちついた子どもにしたかったら、
CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心とした献立にする。
こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。いわゆるレトルト食品、イ
ンスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合して、リン酸カルシウムとして、CA
は、体外へ排出されてしまう。


●親の仕事はすばらしいと言う

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それだけで
はない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいるはず。そう
いうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。あるいは「私の仕事
はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。まちがっても、暗い印象をも
たせてはいけない。


●はだし教育を大切に

将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、足の
裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性は、あらゆ
る運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうしてそれで敏捷性の
ある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできない子どもがふえてい
る。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも多い。どうか、ご注意!


●自己中心性は、精神的未熟さの証拠

相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」(サ
ロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人を、
低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそういう人ほど、人格の完
成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自己中心性と戦い、子ども
に、その見本を見せるようにする。


●役割形成を大切に

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず「すてきね」と言ってあげる。「いっしょ
に、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょうね」と言ってあげ
る。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつくっていく。これを「個性化」
という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、希望、そして生きる目的へとつながっ
ていく。


●父親の二大役割

母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、また子
どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさびを打ち込み、
是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教えるのも、重要な役割。
昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、父親の役割ということに
なる。


●欠点は、ほめる

子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなかったと
しても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるようになったわね」と言
うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声で言えるようになったわね」
と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ばすときに、よく使う手である。


●負けるが、勝ち

ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。これは
父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだろう。言いた
いこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なことは、子どもが、楽し
く、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そのときから人間関係は、スム
ーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこじれる。


●ベッドタイム・ゲームを大切に

子どもは(おとなも)、寝る前には、決まった行動を繰りかえすことが知られている。これをベッ
ドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗すると、子どもは眠る
ことに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定になったりする。いきなり
ふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なことをしてはいけない。子どもの側か
らみて、やすらかな眠りをもてるようにする。


●エビでタイを釣る

「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、10人
のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して恐怖心をも
っているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、一度、文字嫌いにし
てしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いても、それをほめる。読んであ
げる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エビでタイを釣る』の要領である。


●子どもは、人の父

空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。
(ワーズワース・イギリスの詩人)


●冷蔵庫をカラにする

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。そ
のとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と思った
ら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセをなおす。子ども
の小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。そういう買い物グセ
が、習慣になっている。それを改める。

●正しい発音で……

世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなものでは
ないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるのは、甘い。子
どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に先立って、音の分
離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンと叩きなが
ら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。


●よい先生は、1、2歳、年上の子ども

子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。そういう子
どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるようにするとよい。「無
理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意味。あなたの子どもは、その
子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。


●ぬり絵のすすめ

手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、きれい
な丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなたの子どもが、
多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。小さなマスなどを、縦
線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。


●ガムをかませる

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」
という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話すと、「では」と言っ
て、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5年後。その子どもは、本当
に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガムの効用を確認している。この方法
は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに効果的である。


●マンネリは大敵

変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばある
母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、教育評
論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤族の子どもは、
頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激になっているからと考え
られる。
●本は抱きながら読む

子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであげると
よい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。こうした積み
重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆる学習の基本とな
る。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、学校教育の基本にすえて
いる。


●何でも握らせる

子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。その感
触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない子どもがふえ
ている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよい子どもほど、もの
を手にとって調べる傾向が強い。


●才能は見つけるもの

子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのときには、風
呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚のように泳ぎ出
した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長した。また別の男の
子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコンを買ってあげると、小学3
年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるようにまでなった。子どもの才能を
見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。


●「してくれ」言葉に注意
日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わな
い。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほかに、「たいく
つウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」など。老人でも、若い
人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」というような言い方をす
る。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こんなところにもある。


●人格の完成度は、共鳴性でみる

他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこと
を、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その反対側に
いる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度
は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのと
きあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフリをしているようなら、人格
の完成度は、低いとみる。


●平等は、不平等

下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみれば、
「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の子は、欲求不
満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこともある。それまでし
なかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子に対して攻撃的になることもあ
る。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までのことをする。平等は、不平等と覚え
ておくとよい。


●イライラゲームは、禁物

ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。動きが
速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間は、禁物。以
前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。そうなれば、すでに
(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。「ゲーム機器は、パパのも
の。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのもよい。遊ばせるにしても、時間と場
所を、きちんと決める。


●おもちゃは、一つ

あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておくとよい。
「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切にする。子ども
は、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようになる。


●何でも半分

子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、もう
片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。これは子ど
もを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうずにできるようにな
ったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものためにならない。


●核(コア)攻撃はしない

子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダメ人間
よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうした(核)攻撃が日
常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現れてくる。子どもを責めるとしても、
子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身の力では、どうにもならないこと
で責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃ということになる。
●引き金を引かない

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親ということに
なる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子どもを指導する。たと
えば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、だれでも、そうなる。たっ
た一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二役の、ひとり言をいうようになっ
てしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほど、穏やかで、心静かな環境を大切にす
る。


●二番底、三番底に注意

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうとする。
しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たとえば門限を
破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二番底)、さらには
家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起きたら、それ以上、状況
を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。


●あきらめは、悟りの境地

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもというのは、
不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と
がんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。そこは、おおらかで、実
にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。そういうときは、思い切って、あ
きらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあける。

●自らに由らせる

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由(よ)らせる」。だから自由というのは、自分で考え
させる。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手なことを、
子どもにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親の過保護は、子
どもから、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をうばう。子育ての目標
は、子どもを自立させること。それを忘れてはいけない。


●旅は、歩く

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に足がつ
かない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように心がけるとよ
い。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きながら、見る景色のほう
が、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則でもある。いかにして、そ
のときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうことも考えながら、旅に出たら、ゆっく
りと歩いてみるとよい。


●指示は、具体的に

「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言っても、ほとん
ど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にもっていってあげて
ね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話
してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせるとよい。

●休息を求めて、疲れる
イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもなって
いる格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学する
ため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き方にな
る。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねない。


●子どもの横を歩く

親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと保護者は得意。し
かし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子どもの手を引きながら、「早
く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてみるとよい。
それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、見えてくるはず。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打っ
たり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」
と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。
これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもとは関係
のない世界で処理する。


●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その
楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとっ
たり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを
教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、あり
もしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわ
せてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもち
やすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子ども
がウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言う
べきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音
楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキ
ャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が
作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、
人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえて
いるので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子ど
もがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりを
ほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめす
ぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に!
●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、
前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、
子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪
の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをい
う。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。
そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子ど
もがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。
が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子ども
は、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せ
たくなくても、見せてしまう。しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。つまり恩
着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするために、私は
犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。


●親孝行を美徳にしない
日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私
たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子ども
の背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあ
と、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳
でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉
い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」
という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には
関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と
言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹
の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。最後にドロシーは、
真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、8
0〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはま
さにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この
世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立
ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動
し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、運勢に合わせただけなのだが
……。)子どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷
信は、まさに合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考
える力を失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学
び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して
遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするよう
になるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言え
ば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛
に。どこまでも厳粛に。


●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識
である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそ
う」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすの
が、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対
教」という。

●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・
できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえ
まちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやった
わね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。


●子どもは下から見る

子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、こ
こに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言
った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、
際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点か
ら見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ。


●失敗にめげず、前に進む

「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残してい
る。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことであ
る』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみて
ほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。


●すばらしいと言え、親の仕事

親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はな
い。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、
職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生
きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心
を豊かに育てる。

●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安
全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこ
を神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋
ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」というこ
とにもなりかねない。


●代償的過保護に注意

過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。
いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争
に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく
考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」
と呼んでいる。


●同居は出産前に

夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前
からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居
は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子ども
の教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それ
が同居を成功させる、秘訣のようである。


●無能な親ほど、規則を好む

イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無
能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また
規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限
にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お
前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。


●プレゼントは、買ったものはダメ

できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうし
のプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長
期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっ
ている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこ
もったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。


●子育ては、質素に

子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そうい
うぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あ
ともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そ
うでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。


●ズル休みも、ゆとりのうち
子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためという
わけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの
方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行
けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そ
んなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。


●ふつうこそ、最善

ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。「もっ
と……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。よい例
が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負担もある。賢い親
は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、それをなくしてから気づ
く。


●限界を知る

子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもというのは
不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、やればできる
はず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こんなもの」「よくがんばっ
ている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、親がそばにいるだけで、萎
縮してしまう子どもも、少なくない。


●子どもの世界は、社会の縮図

子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子どもの
世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、
4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同時に、社会にも目を
向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」であったり、「セックス」
であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、そこから始まる。


●よき家庭人

日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米では、
伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。そのため
学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリカ)などを教え
る。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされている。どこか戦後直後
の日本を思い出させる言葉である。


●読書は、教育の要(かなめ)

アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもある。つま
り、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができるが、ライブ
ラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師は、毎週、その子
どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見なおされてきている。
読書は、教育の要である。


●教師言葉に注意

教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられたら、
額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師言葉を使
う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが……」「私の
指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、まだその力を出し切
っていませんね」というような言い方をする。


●先取り教育は、幼児教育ではない

幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入学準
備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教えたり
するのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児期には幼児期
で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決まる。その方向性を決
めるのが、幼児教育である。


●でき愛は、愛にあらず

でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマをうめ
るための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる「愛?」とよく
似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。「子どものことを心
配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するために、子どもを利用している
だけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子どもの自立をじゃましてしまう。


●悪玉家族意識

家族のもつ重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の束縛
性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家族が、自立
できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責の念から、自己否
定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論理で、子どもをしばっては
いけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(028)

●伸びたバネは、ちぢむ

受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓な
ど。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事
的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。『伸びたバネは
ちぢむ』と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、
水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほし
い。


●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、も
ってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中にな
っていれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、
いかに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成
度の低い子どもとみる。勉強のできる、できないは、関係ない。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子ども
の姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人よ
り、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」
と、相対的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴につい
て、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分
のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から
学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているのですが、
ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知るこ
と。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロンもこう言っている。『汝自身を、知
れ』と。哲学の究極の目標にも、なっている。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。

●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

 
●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分で自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。


●上下意識は、もたない

兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。


●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。た
とえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄弟
(姉妹)は、仲がよいと言われている。


●差別しない

長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。


●嫉妬はタブー

兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。


●たがいを喜ばせる

兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連れ
ていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買い
与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てるた
めにも、重要である。


●決して批判しない

子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。


●得意面をさらに伸ばす

子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえ
ば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始め
るということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そ
もそも、その発想からしてまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の
悪循環を繰りかえすようになる。


●悪循環を感じたら、手を引く

子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめ
て、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親
ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一
度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自
信喪失から、自己否定に走ることもある。


●子どもは、ほめて伸ばす

『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言え
ば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、
字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、
ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自
信が、子どもを伸ばす原動力になる。


●孤立感と劣等感に注意

家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼく
はダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方
は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれ
ば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。


●すなおな子ども

従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の
世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情
表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子ども
にやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがす
る。そういう子どもを、すなおな子どもという。


●自己意識を育てる
乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なこと
は、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばAD
HD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの
自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症
状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立
ちなおりが遅れる。


●まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子ど
もは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったよ
うなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向か
っては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身に
ある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


●「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「や
ってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子ども
を苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで
子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にし
てね)」と。


●「子はかすがい」論
たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、そ
れで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかか
っているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかな
い。日本には『子は三界の足かせ』という格言もある。


●「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では『子は親のうしろ姿を見て
育つ』というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せ
ろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは
見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、
お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。


●「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地
のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ、上のもの
の前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一
利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、
封建時代の遺物と考えてよい。


●「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、
子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えてい
る間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の
世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育
てにかこつける必要はない。


●「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに
求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子ど
もの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思
いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが
親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬され
る」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」
と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人
の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、
無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。


●「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといって、身
分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつか
りながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この
権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その
矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どん
なことでもできる。ご注意!


●「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は
仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世
界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻
の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんな
ことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本
にあるとみる。


●「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはい
ない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘
になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザ
コン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになって
いる。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほ
ど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭
に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは
居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくる
よ」だ。


●「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、『内助の功』という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉
ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題
は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女性が、「それでい
い」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と
いう考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


 ●子育ては、考えてするものではない

だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言う。子育てとい
うのは、もともと、そういうもの。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗をするとき
は、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわり)があれ
ば、まず、それに気づく。あとは時間が解決してくれる。


●子育ては、世代連鎖する

子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖する。またそう
いう部分が、ほとんどだと考えてよい。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によるも
の」と考える。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のうちに繰
りかえしているだけだということになる。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代に、残
さないということ。これを昔の人、『因を断つ』と言った。


●子育ての見本を見せる

子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せると
いうこと。見せるだけでは、足りない。子どもを包む。幸福な家庭というのは、こういうものだ。
夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、と。そういう(学習)があっ
て、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになる。


●子どもには負ける

子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしてもし
かたないし、本気で相手にしてはいけない。ときに親は、わざと負けて見せたり、バカなフリをし
て、子どもに自信をもたせる。適当なところで、親のほうが、手を引く。「こんなバカな親など、ア
テにならないぞ」「頼りにならない」と子どもが思うようになったら、しめたもの。


●子育ては重労働

子育ては、もともと重労働。そういう前提で、考える。自分だけが苦しんでいるとか、おかしいと
か、子どもに問題があるなどと、考えてはいけない。しかしここが重要だがが、そういう(苦し
み)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長する。そのことは、子育てが終わってみ
ると、よくわかる。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親に見せてくれる。
子育ての終わりには、それがやってくる。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立する。「あなたはあなたで、勝手に生
きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクとし
がちな、親子関係に、風を通す。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないというの
は、それだけその人の生きザマが、小さいということになる。あなたはあなたで、したいことを、
する。そういう姿が、子どもを伸ばす。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
もの。そういう前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない
株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、な
おさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言ったか
らといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言いな
がらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意
「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。


 ●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたと
する。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう
何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。
子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、
叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これ
を弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになる
と、学習効果は、著しく落ちるようになる。


●内面化
子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の
発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自
己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、
社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、
「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母
親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的
過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対し
ては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい
無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、
やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き
症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程
度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標
をもたせるようにする。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(029)

●●アメリカ厚生省発表●●

【新型インフル対策で米政府】

 【ワシントン1月6日共同】

レビット・アメリカ厚生長官は6日、発生への危機感が高まっている、新型インフルエンザの大
流行に備え、食料や飲料水の買いだめなどを一般家庭に勧める手引を発表した。

 新型ウイルスの感染を防ぐワクチンはなく、大流行で食品流通など社会機能が、まひする恐
れがあるため。ロイター通信は、「予防のためにできることがいかに少ないかを物語るものだ」
と伝えた。

 手引は「調理せずに食べられる肉や野菜、スープの缶詰やクラッカー、ミネラルウオーター」
など非常食のほか、解熱剤やビタミン剤などの備蓄も推奨。子供を持つ親には「せっけんで手
を頻繁に洗い、せきやくしゃみは口を覆ってするよう教育を」と、感染の機会を減らすよう求め
た。

++++++++++++++++++

【BW教室のみなさん・おうちの方へ】

専門家たちは、みな、異口同音に、今後起こるかもしれない、「新型インフルエンザ」の脅威を
口にする。「新型インフルエンザにしてみれば、ふつうのインフルエンザなど、ただの風邪のよ
うなもの」と。

 で、その新型インフルエンザが、一度、流行し始めると、学校や幼稚園は、もちろん閉鎖。職
場すらも、閉鎖になる可能性がきわめて高い。そうなれば、「社会機能はまひする」(ロイター通
信)。

 そこで今度、アメリカの厚生省長官は、上記のように、国民に、手引きを発表した。そしてつ
ぎのようなものを、各家庭で備蓄するようにと勧告している。

(1)食糧や飲料水の買いだめ
(2)解熱剤やビタミン剤の買いだめ、など。

 すでに外国では、ちらほらと、新型インフルエンザの発生が認められつつある。死亡者も、ふ
えている。死亡率は、約50%というところか? つまり新型インフルエンザに感染したら、約5
0%の人が死ぬということらしい。

 とりあえず、私の家庭でも、つぎのように考えている。もしこの日本で、新型インフルエンザの
感染者が確認されたら、

(1)使い捨てマスクを、大量に購入する。
(2)調理せずに食べられる食品の備蓄を開始する。
(3)ビタミン類、とくにビタミンC(アスコルビン酸)などの購入。

 もちろん、BW教室は、学校閉鎖に合わせて、閉鎖。その間、月謝などの費用は、免除。学
校が再開されたら、BW教室も、再開。

 今後しばらくは、様子をみながら、咳、くしゃみをする児童については、マスクをかけることを
徹底する。(マスクは、教室で用意。)なお、今後は、消毒薬を教室の入り口に常備し、感染の
拡大を阻止する。

(おうちの方へ)

 たとえば6月の中ごろ(6月15日なら、6月15日とします)、新型インフルエンザが発生し、学
校が、学校単位で閉鎖されたようなときには、BW教室も、同時に閉鎖します。

 で、そのとき、すでにいただきました、6月分の残りの月謝は、お返しでできませんが、つぎに
新型インフルエンザの感染が止まり、学校閉鎖が解かれたようなとき、たとえば、9月15日か
ら学校が再開されたようなときは、BW教室も再開。その翌月分の10月分から月謝をいただ
きます。6月分の残りの月謝を、9月分に充当させていただき、7月分、8月分の月謝は、いた
だかないようにします。

 新型インフルエンザの流行期に重なった、7月、8月分の月謝は、免除します。BW教室とし
ては、無収入ということになりますが、何とか、がんばりますので、よろしくご理解の上、ご協力
ください。

BW・はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●男女共同参画社会(男女の平等社会)

+++++++++++++

女は家庭を守るべし(?)

+++++++++++++

 いきなり「ぼくは、男女共同参画社会などには、反対だよ」と言った男性(60歳くらい)がい
た。公的な機関で、長い間、「長」の仕事を歴任してきた人物である。

 「いいかね、林君、女が男のようになって、どうする? どうなる? 女が家庭から抜けたら、
家庭はバラバラになってしまうよ。女は、家庭を守らなければならない。それが女の役目だよ」
と。話のきっかけは、NHKの今度の、大河ドラマだった。

 土佐藩の基礎を築いた戦国武将に、山内一豊がいた。その夫を支え、夫の出世をなしとげ
たのが、妻の千代。その千代の物語が、今度の大河ドラマのテーマになっている。『内助の功』
という言葉も、そこから生まれた。その男性は、その千代を懸命にたたえながら、「女はそうで
なくてはいけないよ、林君」と。

 私は、「ハア〜」と思っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。その男性との間に、遠い距
離を感じた。どこからどう説明したらよいのかさえ、皆目、見当もつかなかった。

 つぎに、その男性は、それなりの人物である。私の思想が私の思想であるように、その男性
の思想もまた、その男性の思想である。その上、この話は、相手がもち出した話題である。一
応の敬意は、払わなければならない。いきなり反論するというのも、その男性に対して、失敬な
こと。

 そこで私は、こんなことをさぐってみた。

 その男性が、どうしてそういう思想をもったかという、その背景である。つまり思想には、必
ず、それをもつに至った背景というものがある。生まれ育った環境や、教育など。しかし何より
も重要なのは、その男性が、どの程度の問題意識をもっているかということ。どんな本を読み、
どの程度の文章を書き、自分の思想を思想として、まとめあげたかということ。

 方法は簡単。いくつかの専門用語を、ぶつけてみればよい。勉強している人は、それなりに、
即座に反応してくる。そうでない人は、そうでない。

私「ジェンダー(社会的性差別)の問題は、世界的な問題だよ」
男「それは知っているが、いくらがんばっても、女は男にはなれないよ、君!」
私「最近の研究によれば、男にも、女にも、両性性があることがわかってきた」
男「何だね、その両性性って、いうのは?」

私「男が男らしくなるのも、女が女らしくなるのも、3歳までの育て方の問題ということ。もともと
男と女を区別するほうが、おかしいということかな」
男「男は、子どもを産むことができない。大きなちがいだよ、これは!」と。

 そこでこんな例を出して、説明してやった。

 あるところに1人の女の子(?)がいた。5歳くらいまで、女の子として育てられた。その女の
子は、外性器も女の子のもので、見た感じも女の子だった。しかし6歳を過ぎるころから、卵巣
がないことがわかってきた。

 そこで調べてみると、腹の中に、睾丸があることがわかった。その女の子(?)は、実は男の
子だった。この女の子(?)のケースは、さらに、染色体レベルまで調べられて、最終的には、
男の子と確定されたが、しかしそれで問題が解決したわけではなかった。

 ここにも書いたように、男の子が男の子らしくなる、女の子が女の子らしくなるというのは、3
歳ごろまでに決まる。これを心理学の世界でも、「役割形成」と呼ぶ。しかしその女の子(?)の
ばあいは、6歳前後まで、女の子として育てられた。が、そこで、男の子と判定された。

 その女の子にすれば、「私はどうすればいいのか?」ということになる。

 やはり心理学の世界では、こうした混乱を、「役割混乱」と呼んでいる。たとえて言うなら、トラ
ックの運転手に、いきなり、リカちゃん人形のコスチュームを着せるようなもの。ばあいによって
は、自己嫌悪から自己否定につながるかもしれない。精神は、極度の緊張状態に置かれる。

 「わかりました。では、私は、今日から、男の子になります」というわけには、いかない。

 つまり私たちがもっている「男意識」「女意識」といったものは、その延長線上にあるにすぎな
い。もっと言えば、「ジェンダー」なるものは、生まれたあと、生まれ育った環境の中で、作りあ
げられたものにすぎない。つまりそういったもので、そもそも、人間を、「男」と「女」に区別する
ほうが、おかしい。まちがっている。

 ついでだが、私が子どものころには、こんな話も残っていた。

 江戸時代という封建時代が終わって150年もたっていたというのに、身分に応じて、着る服
の色が、ある程度決まっていたということ。商人は、茶系統、農家の人は、青系統……というよ
うに(この部分は、不確か)。今でも、その傾向がないとは言わない。しかし江戸時代には、着
物の色はもちろん、模様のあるなしまで、さらに厳格に決められていた。

 だから子どもながらに、その人の物腰、話し方によって、私は、その人の職業が何であるか、
だいたいのことはわかった。つまりこうした「その人の様子」にしても、その人が生まれ育った
環境の中で、つくりあげられたものということになる。

 さて、現在、男女の両性化は、ますます進んでいる。男が女性化し、女が男性化するというよ
りは、ともに、その両性性に、気づき始めている。今では、使う言葉にしても、男女の区別はな
い。意識や価値観にしても、男女の区別はない。「男だから……」「女だから……」と言うほう
が、おかしい。

 しかし現実には、冒頭にあげたような男性のような考え方をしている人は、決して、少なくな
い。そういう環境で生まれ育っているから、そういった意識は、心の奥底に、しっかりと根づい
ている。加えて、そういう意識を、疑ってみたこともない。もちろん、それなりの勉強もしていな
い。言うなれば、思想が、サビついたまま硬直化してしまっている。

 だから、議論してもムダ!

私「まあ、そうは言っても、今は、そういう時代でもないように思いますがね」
男「だから、今の時代は、おかしいのだよ。教育がまちがっている」
私「しかしつぎの時代を決めるのは、私たちではありませんから。こういう問題は、若い人たち
に任すしかないでしょう」
男「いやな時代になったものだよ。若い人は、もっと、NHKの大河ドラマでも見て、勉強したら
いい」と。
(はやし浩司 ジェンダー 男女論 男女の両性化 両性性 意識 はやし浩司 山内一豊 千
代 内助の功 内助の功論)


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数年前書いた原稿を添付します。
(中日新聞、発表済み)

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子どもに性教育を語るとき

●性の解放とは偏見からの解放 

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏
見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益
を受けてはならない」と。それからほぼ30年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを
理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(48歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなん
か、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわ
サ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。

話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取
り替えたことがないという。私が、「ペーパーがないときはどうするのですか?」と聞くと、「何で
も『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

●家事をしない男たち

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ50%
以上もいるという(2000年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、50歳以上の男
性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をしていないと
みてよい。

この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。男ばかり
ではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじ
ゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自らが、こうした偏見に手
を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、23%もいるという(同調査)! 

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が99年に浜松市内でした調査で
は、20代、30代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫
が、65%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

●男も昔はみんな、女だった?

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らさ
れた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人もの
ドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠
後3か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激を
受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はその
まま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、180
度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえる
と、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」とい
う考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし
ない」と答えた夫は、いずれも50%以上であったという。

 部屋の掃除をまったくしない夫          ……56・0%
 洗濯をまったくしない夫             ……61・2%
 炊事をまったくしない夫             ……53・5%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……30・2%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……39・3%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……34・0% 
(全国の配偶者のいる女性約1万4000人について調査・98年)

●平等には反対?

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、76・7%いるが、
その反面、「反対だ」と答えた女性も23・3%もいる。男性側の意識改革だけではなく、女性側
の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」
と答えた女性は、半数以上の52・3%もいる(同調査)。

 こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した
「第二回、全国家庭動向調査」(1998年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答え
た妻は、51・7%しかいない。この数値は、前回1993年のときよりも、約10ポイントも低くな
っている(93年度は、60・6%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻
も、52・5%もいた。
(はやし浩司 男の家事 夫の家事 性教育 性の解放 男女意識 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(030)

【子どもとゲーム】

子どもがゲームづけになるとき

●ゲームづけの子どもたち 

 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マ
ジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっている(20
00年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。

ある日、一人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、融合させ
る。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに出
せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が9000になる」と。

子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。カードゲームという
のは、基本的にはカードどうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手
のカードを取る「カケ勝負」と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、一パック5枚入り
で、150円から330円程度。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。

●ポケモンからマジギャザまで

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった子ども
たち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中2)いわく、「今はマジギャザ
だ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。

カード(15枚で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)は、1000枚
近く集めたそうだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと
思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよく
わからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子
どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通してい
る。

●現実感を喪失する子どもたち

 話はそれるが、以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからな
い生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを
供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。

中には北海道からやってきて、涙をこぼしながら供養している、20歳代の女性までいた(NHK
「電脳の果て」97年12月28日放送)。そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これ
は生き物ではない。ただの電気の信号だ」と話しても、彼らには理解できない。

が、たかがゲームと笑ってはいけない。その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とが
んばったカルト教団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが(2
000年当時)、もともと生きていない「電子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した
死体」を生きていると思い込むその教団の信者は、どこがどうちがうのか。方向性こそ逆だ
が、その思考回路は同じとみる。あるいは同じ。ゲームには、そういう危険な面も隠されてい
る。

●思考回路はそのまま

 で、さらに、浜松市内の中学1年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊
戯王に、多かれ少なかれハマっているのがわかった。1人が平均約1000枚のカードを持って
いる。中には1万枚も持っている子どももいる。

マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバー
ジョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は質がよ
くて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあるという。「大会
で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい20歳以上のお
となばかりだよ」とも。

 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったとい
うこと。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中
毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに4万円も払ったりする!

●子どもをダシに金儲け

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間100億
円から200億円の市場になっているという(経済誌・00年前後)。しかしこれはあくまでも表の
数字。闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。

たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に入
れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高い。
しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるまま、そ
うしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放しになってよいのか。

(注)この原稿を書いた2001年はじめには発売中止になっていたが、2001年の終わりには
再び発売されているとのこと。

●はびこるカルト信仰

 ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中心に、3
〜4名の若者が、そのあとを追い、自殺した。家族によって闇から闇へと隠された自殺者とな
ると、もっと多いはず。自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理由があってそうする
のだろうから、私のような部外者がとやかく言っても始まらない。しかしそれがもし、あなたの子
どもであるとしたら……。こんなこともあった。

 1997年の3月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件がアメリカ
で起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船とラン
デブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、39人の若者が犠牲になった。

この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイアナで起きた人民寺院信徒による集
団自殺事件がある。この事件では、何と914名もの信者が犠牲になっている。なぜこんな忌ま
わしい事件が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」と考えるのは
早計である。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想の混濁が、それで
ある。

 そのよく知られた事件に、あの『淳君殺害事件』がある。それについて書く前に、「右脳教育」
について、少しだけ、考えてみたい。

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像
化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現
場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、教育の世界では、「神童」というの
は認めない。もう少しわかりやすい例で言えば、100種類近い自動車の、その一部を見ただ
けでメーカーや車種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが、よく知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の
一小節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強
ければ強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を取りあげ、そうした成
果の陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人
というイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと
考えられなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(=論理)、他
人の心を静かに思いやること(=分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということにな
る。その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右
脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる
研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、5000円
やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」(「少年
A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで
目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの
非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

●才能とこだわり

 ところでここにも書いたように、たとえば自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せる
ことは、よく知られている。たとえば、CDを何枚も集めたり、ゲームソフトを、何千個も集めたり
するなど。

 先にも書いたように、そういった「こだわり」が、神業的なものになることもある。

 が、こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育
の世界では、繰りかえすが、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、
才能とは認めない。たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記で
きるなど。あるいは一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏で
きた子どももいた。まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めな
い。「こだわり」とみる。

 教育が教育となりうるためには、普遍性(だれにも応用しうるもの)や、再現性(同じことをす
れば、みながそうなる)、が必要である。そしてそういったものが、教育プロセスとして、確立さ
れなければならない。もっと言えば「だからどうなの?」という部分がない「力」は、教育の世界
では、「力」とは認めない。

 ここで取りあげた、「少年A」については、精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されて
いる。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしま
うことができる子どもをいう。もっとわかりやすく言えば、空想の世界が、かぎりなくふくらんでし
まい、空想と現実の世界の区別がつかなくなってしまった子どもということになる。

「少年A」も、一晩で百人一首を暗記できるような力をもっていた。そういう特異な「力」が、あの
悲惨な事件を引き起こす遠因になったと、考えられなくもない。

●才能とは何か

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技
術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの
は、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。まさに
それだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、
理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうし
た背景のない子どもが、一回曲を聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではな
い。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい
る。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

●一小節を聞いただけで、曲名を当てた、S君

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当て
た子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。ある程度の計
算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかっ
た。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。1000円程度のも
のを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。母親は、S
君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそ
れはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教育する
ことによって、伸ばすことができること」を、才能という。それが先に書いた、「教育プロセス」と
いうことになる。

が、それだけでは足りない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければなら
ない。またそれができるから、教育という。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」
は、才能ではない。

 要するに、「だからどうなの?」という部分がないのは、才能とは言えない。「瞬間に見ただけ
で、車の車種から型、メーカー名まで言える子どもがいたとする。しかしそれができたからとい
って、だから、どうだというのか?

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわること
で、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわ
り」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたな
い「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能と
なって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前
を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれ
ない。そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。

 しかしその「こだわり」には、いつも、一定の限度がある。「こだわり」が限度を超えたときに、
さまざまな問題が生ずる。

●カルト性をもつゲーム

ところで、最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の範囲
だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどうなるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、未来は暗い。一緒に死のう」と言えば、それに従って
しまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現の自由だなどと、のん
きなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、その延長線上にいるにすぎな
い。

 思いだしてみればよい。旧ソ連崩壊のときロシアで、旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞ
れカルト教団が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをな
くしたとき、こうしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。終戦直後の日本がそうだったが、最近
でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、急速に勢力を拡大しているカルト教団が
ある。

あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。「金持ちになれる」とか「地球が滅亡
するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もある。フランスやベルギーでは、国をあ
げてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この日本ではまったくの野放し。果たしてこ
のままでよいのか。子どもたちの未来は、本当に安全なのか。あるいはあなた自身はだいじょ
うぶなのか。あなたの子どもが犠牲者になってからでは遅い。このあたりで一度、腰を落ちつ
けて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほしい。

●ゲーム脳

 さらに最近では、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳
ミソを「ゲーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲ
ーム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11
日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)
という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、日
大大学院の森教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。この
ゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。
要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、もの
すごい抗議が殺到するということ。上記の森教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到して
いる」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうし
てそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 M教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、
そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

●ポケモンカルト

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本
を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市
にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづ
けたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとん
どが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか?
 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性
からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。
「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強し
てからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などな
い。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのと
きは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度に考えて、私はすませた。

 で、今回も、森教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

●カルト的連帯感をもつゲーマーたち

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつ
つ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中
になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論
理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判され
たりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。
教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピ
カチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー
状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえい
た。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間に
は、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と
空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだ
だけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだ
ろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまっ
た若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁
気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。
そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはな
く、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリ
スで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に
基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS
 WEB JAPANの記事より)。

●M君、小3のケース

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」
と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、
M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、しているこ
ともある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人
たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているか
のようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみし
がっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別
の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けが
をしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのです
が、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切
れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取り
あげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガ
ラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。
そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやって
きた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。その
ときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化し
た。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。
イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割
り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N
社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無
表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづける
そうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをし
ていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。話は少しそれるが、
それをここに紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化し
ている。

●収拾がつかなくなる子ども

 一方、学校という場でも、こんな珍現象が起きつつある。

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそ
のままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目
が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、そ
れだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒
ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 こうした現象だけが原因とは言えないが、そのため、「学級指導の困難に直面した経験があ
るか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育
大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友
だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破った
り捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない ……19人
 教師の指示を行動に移せない        ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、
キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわ
からなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、
精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ
状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係
のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、
新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制に
し、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。

●失行

 近年、さらに、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツと
いう医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たと
き、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに
着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらに
ある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられると
いう。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二
つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだ
と、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動その
ものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

●抑制命令

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべ
ればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、
「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなり
に、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、こ
れから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとた
ん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言った
でしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑
制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食
べてしまった。

●前頭連合野

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そして
この前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくな
ってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB・NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケ
ーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一
説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそ
うである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適
齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したり
するということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力と
いったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。
その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激され
ることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容
易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

●子どもの人格の完成度

 「ゲーム脳」になると、子どもは管理能力を喪失するという。しかしこの現象を、安易に考えて
はいけない。管理能力は、その子ども(人)の人格をも決定する、重要な要素だからである。

 たとえば、子どもの人格の完成度は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。話を先
に進める前に、あなた自身の子どもの人格の完成度はどうか。参考までに、一度、立ち止まっ
て判断してみてほしい。テストの内容、項目は、子ども向けに私がアレンジしてみた。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。

(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)

(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)

(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

***************************

●順に考えてみよう

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

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 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

●EQ論

 ついでながら、EQ論について以前、書いた原稿を添付しておく。

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。

●終わりに……

 子どもたちを取り巻く環境は、現在、急速に変化している。恐ろしいほどの勢いである。しか
も、こうした変化は、社会の水面下で起きている。毎日、多くの子どもたちと接している私です
ら、気がつかないことが多い。

 そうした変化の中でも、最大のものはといえば、言うまでもなく、ゲームであり、テレビゲーム
である。こうした変化が、子どもたちの心にどのような変化をおよぼしつつあるか。

 そこで文部科学省は、ゲームやテレビなどを含む生活環境要因が子どもの脳にどう影響を
与えるかを研究するために、2005年度から1万人の乳幼児について、10年間長期追跡調査
することを決めた。この中で、ゲームの影響も調べられるという(「脳科学と教育」研究に関する
検討会の答申)。

 近く中間報告が、公表されるだろう。が、しかしここで誤解してはいけないのは、「ゲームは危
険でないから、子どもにやらせろ」ということではない。「ゲームは、危険かもしれないから、や
らせないほうがよい」と、考えるのが正しい。とくに動きのはげしい、反射運動型のゲームは、
避けたほうがよい。

 具体的には、私は、つぎのような方法を提唱する。

(1)ゲーム機器の所有権、占有権は、親に!

 もともと高額なゲーム機器である。そうした機器を安易に子どもに与えること自体にも、問題
がある。されはさておき、ゲーム機器、およびそのソフロ類の所有権、占有権は、一義的に
は、親にあるとする。またそういう前提で、考える。

 だから子どもがゲームをしたいときは、子どもは、親から貸してもらう。そういう立場を、徹底
する。子どもの立場からすれば、自由にゲームをできないということになるが、そういう形で、親
は、子どものゲームに干渉することができる。

 (ゲーム機器メーカーには、ゲーム機器に、カギのようなものでロックできないかと、提案して
いる。こうすれば、親の許可があったときだけ、子どもはゲームをすることができる。)

(2)反射神経運動型のゲームは避ける

 テレビゲームといっても、いろいろある。将棋や囲碁のような、オーソドックスなものから、戦
争ゲームのようなものまで。その中には、都市形成ゲームや、鉄道敷設ゲームのようなものも
ある。

 一方、アメリカでさえ発売禁止になったような、意味のない殺戮(さつりく)ゲームが、この日本
では、野放しになっているというケースもある。こうしたゲームが子どもの精神の発育によくない
ことは、言うまでもない。

 で、あえて言えば、こうしたゲームのほか、動きがきわめて速い、反射神経運動型のゲーム
は、子どもには、避けたほうがよい。私もときどき、ショッピングセンターなどで、体験をさせても
らうが、あまりの速さに目が回る……というよりは、しばらくしていると、気がヘンにすらなる。

 そういうゲームを、3〜6歳の子どもたちが、一心不乱に画面を見つめながらしている……。
この異常さに、まず、おとなの私たちが、気がつくべきである。

 忘れてならないのは、97年に起きた「ポケモンパニック事件」である。

●ポケモンパニック事件

 劇場で映画を見るとどうなるかを、子どもたち(小学4〜6年生)に聞いてみた。

    見ると、たいてい頭が痛くなる……1人
    見ると、ときどき痛くなる  ……2人
    ほぼ何ともない       ……2人(そのときの体の調子によるとのこと)
    何ともない         ……4人
    眠くなったりする      ……1人

 この質問をした背景に、私自身は、「いつも痛くなる」ということがある。先日もデパートで、子
どもたちがテレビゲーム(「スーパーマリオ・サンシャイン」)をしているのを、横で見ていたが、
それだけで、私は頭が痛くなってしまった。どういうメカニズムによるのかはわからないが、日
常的でない刺激が、脳にダメージを与えるらしい。

年齢的な問題もある。最近では家庭でビデオを見ていても、頭痛が起きることがある。いや、
子どもだって無難ではない。この調査でもわかるように、10人中、3人までが、「痛くなる」「とき
どき痛くなる」と答えている。

 ここでいう「日常的でない刺激」というのは、はげしい光の点滅による刺激をいう。その刺激
が脳にある種の緊張感をつくり、その緊張感が頭痛を起こすということは、容易に察しがつく。
よい例が、97年に起きた「ポケモンパニック事件」である。

その年の12月16日、テレビ東京系列のポケモンを見ていた子どもが、光過敏性てんかんと
いう、わけのわからない症状を示して倒れた。はげしいけいれんと、嘔吐。その日の午後11時
までにNHKが確認したところ、埼玉県下だけでも、59人。全国で382人。さらに翌々日の18
日までには、その数は全国で、0歳児から58歳の人まで、750人にもなった。気分が悪くなっ
たという被害者まで含めると、全国で1万人以上! 大阪では発作を起こして、呼吸障害にな
った上、意識不明の重症におちいった5歳の子ども(女児)もいた。「酸素不足により脳障害の
後遺症が残るかもしれない」(大阪府立病院)と。たかが映画ではないかと、軽く片づけること
はできない。

 が、問題はここで終わらない。こうした刺激が、子どもから、「論理的にものを考える力」をう
ばう危険性すらある。今、授業中、イメージが乱舞してしまい、静かな指導になじまない子ども
が急増している。これはあくまでも私の推察だが、その理由の一つに、ここでいう「日常的でな
い刺激」があるのでは……? 

法律の世界には、「疑わしきは罰せず」という不文律がある。しかし子どもの世界では、「疑わ
しきは、先手先手で、どんどん罰する」。それが原則である。
(はやし浩司 テレビゲーム ゲーム ポケモンパニック事件)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(031)

【賢者の言葉】(政治編)

●Nearly all men can withstand adversity; if you want to test a man's character, give him 
power. - Abraham Lincoln
ほとんどすべての人は、逆境にあえば、それと戦う。もしその人の性格を試してみたいと思うな
ら、彼に力を与えてみろ。(A・リンカーン)
++++++++++++++++++
 平凡な生活を、可もなく、不可もなく過ごしている人は、それなりに人格者に見える。いっぱし
の人生論を口にしたり、ときには、他人に説教をしたりする。しかしその人が、本当に人格者か
どうかということになると、わからない。リンカーンは、逆境でこそ、その人の真価が試されると
いう。ナルホド!

●They that can give up essential liberty to obtain a little temporary safety deserve neither 
liberty nor safety. - Ben Franklin, "Historical Review of Pennsylvania"
ささやかな一時的な安全を得るために、基本的な自由をあきらめるような人は、自由も安全
も、もつことはない。(B・フランクリン)
++++++++++++++++++
 基本的な自由とは、何か? ……このところ、それがよくわからなくなってきた。たとえば私の
体には、無数の、「運命」と呼ばれる糸がからみついている。私が望まなくても、向こうからから
みついてくる。それがうるさいほど、無数にからみついてくる。そんな私に、「自由」など、望む
べくもない。しかしもし、その私がその無数の糸から解放されたら、私はどうなるか? それを
考えるのも、こわい。フランクリンは、自由と安全をからめて考えている。「?」と思って、ここま
で。

●Government is the Entertainment Division of the military-industrial complex. - Frank 
Zappa
政府というのは、軍産共同体の、娯楽部門のようなもの。(F・ザッパ)
++++++++++++++++++
 2006年になって、世界は、より不安定になった。そんな感じがする。イランはますます過激
になってきた。K国も、そうだ。中国国内では、各地で暴動が発生し、死者まで出ている。この
極東にしても、ガソリンがまかれたような状態と言ってもよい。だれかがどこかで小さな火をつ
ければ、それはたちまちのうちに、パッと燃え広がるにちがいない。日本国内でも、過激な発
言が目立つ。そしてそれを支持する人がふえているように思う。2006年の日本は、どうなるの
だろう?

●The body politic, as well as the human body, begins to die as soon as it is born, and 
carries in itself the causes of its destruction. - Jean Jacques Rousseau
政治体というのは、人間の体と同じように、生まれたときから、死に始める。つまりそれ自体
が、破滅の原因をもっている。(J・J・ルソー)
+++++++++++++++++++
 どんな政治体制も、誕生したときから、死に向って進み始めるという。発展的に、さらに進化
した政治体制になるということはない、ということか。問題は、しかし、どんな政治体制も、静か
には、破滅しないということ。破滅に至る過程で、悪あがきを繰りかえす。これが世相を混乱さ
せる。ときには、それが戦争につながることもある。それがこわい。

●The more that is given the less people will work for themselves, and the less they work 
the more their poverty will increase. - Leo Tolstoy
与えられれば与えられるほど、民衆は自分のために働かなくなる。そして働かなくなればなる
ほど、彼らの貧困は、増大する。(L・トルストイ)
+++++++++++++++++++
今の日本のことかもしれない。ろくに働かないで、そのくせ、貧しさを訴える人は、少なくない。
生活そのものが、ぜいたくになってしまったということもある。生活だけは、一人前。昔は、「ク
ーラー」というだけで、ぜいたく品だった。が、今では、当たり前。そういう生活をしながら、一方
で、「貧しい」「貧しい」と訴える。

●Politicians are the same all over. They promise to build a bridge even when there is no 
river. - Nikita Khrushchev
政治家なんてものは、みな、同じ。川がないのに、橋をかけてやると、約束する。(N・フルシチ
ョフ)
+++++++++++++++++++
 ホント! だからはじめっから、政治家などに、何も期待しないこと。そのかわり、政治家への
監視の目を強める。きびしくする。たとえ1円でも、ワイロを手にしたら、禁固10年とか、そうい
うふうにする。

●You only have power over people as long as you don't take everything away from them. 
But when you've robbed a man of everything he's no longer in your power -- he's free 
again. - Nobel Prize-Winning Author Alexander Solzhenitsyn
あなたがすべてを奪い取らない限り、あなたはその人たちの上に、力を行使できる。しかしす
べてを奪えば、もうかれは、あなたの力の中にはいない。その人は、再び、自由になる。(ノー
ベル賞受賞者、A・ソルジェニツィン)
+++++++++++++++++
 私の翻訳が悪いのだろう。意味が、よくわからない。この文を読んで思いつくこともない。ソル
ジェニツィンという、極限状態を生きた人だけが言える言葉であり、また同じような極限状態を
生きた人だけが理解できる言葉かもしれない。私のような凡人が、安易な解釈を加えること
は、危険ですらある。

●Politics is perhaps the only profession for which no preparation is thought necessary. - 
Robert Louis Stevenson
政治というのは、この世界で、唯一、準備のいらない職業である。(R・L・スティーブンソン)
 まあ、あえて言うなら、必要なのは、「口」だけ。脳ミソは、必要ない。とくにこの日本では、一
度、政治家になると、自分で静かに考える時間はなくなってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(032)

●共依存

+++++++++++++++

たがいにベタベタの夫婦がいる。
一見、仲がよく見えるが、たがいに
愛しあっているから、そうしているのではない。

実は、たがいに、心のすき間を埋めあっているだけ。

そういうふうに、たがいに依存しあう関係を、
共依存関係という。

+++++++++++++++

 私の知人に、A氏とB氏がいる。A氏は、今年、74歳。B氏は、83歳。A氏は、長い間、造園
業を営んできたが、ちょうど4年前、心筋梗塞で倒れた。幸い症状は軽く、そのあと、バルーン
を入れて血管を拡張。さらに心臓への血管バイパス手術が成功。今は、農作業ができるほど
までに、健康を回復している。

 B氏は、ここ12〜3年の間、軽い脳梗塞を繰りかえしている。そのたびに症状は重くなり、最
近は、左半身の自由が、ほとんどきかなくなっている。しかし杖をつけば、何とか、歩けるとい
う。

 このA氏とB氏。実は、1つの共通点がある。その共通点が、たいへん興味深いので、ここに
記録しておく。あえて申し添えるなら、A氏とB氏は、私の知人だが、たがいに、まったく無縁の
人物である。

 その共通点というのは、ともに、妻のそばを、片時も離れないということ。A氏のばいいは、妻
がトイレに行こうとしても、それについていくという。B氏も、どこへ行くにも、妻をつれて歩くとい
う。私のワイフは、「病気になって、不安なんじゃない?」と言うが、そんな単純な問題でもない
ようだ。

 たとえば心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。

+++++++++++++++++

その共依存について書いた原稿を
先に添付しておきます。

+++++++++++++++++

●共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的な例とし
ては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に怒鳴り
散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前
でやめる。(それ以上のことすれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。サービス
精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけ
ている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。だ
からこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰ってくるとき
は、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ
があった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依存性をも
たせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だ
った。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をも
たせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダ
ルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。こ
のような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないか
という不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル
ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症と
も考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような
症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、
貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存するように
なる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」であるが、
しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。親
子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざと、弱々しい
母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いてい
る自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、友人た
ちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではな
い。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。決して珍し
くない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、
男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっしょに風呂
に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題には
ならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

++++++++++++++++++

言うなれば、共依存関係になる夫婦は、その両方、もしくは一方に、情緒的な欠陥、もしくは精
神的な未熟性があるとみてよい。その(心のすき間)を埋めるために、夫や妻を利用する。

 ここにあげたA氏にしても、B氏にしても、(A氏は心筋梗塞だが、しかし同じ血栓性の病気と
いうことで、脳のほうにも、ダメージを受けている可能性は、高い)、脳梗塞による影響とも考え
られなくはない。

 そこでネットを使っていろいろ調べてみると、こんなことがわかった。つまり脳梗塞や心筋梗
塞を起こした人が、さまざまな精神障害的な症状を示すようになるのは、薬の副作用によるも
のも少なくない、ということ。

 それぞれ専門のサイトには、投薬名と、その副作用が列挙してあるので、興味のある人は、
そちらをみたらよい。私は、ヤフーの検索エンジンを使って、「脳梗塞 随伴症状 孤独」で調
べてみた。

 ナルホド!

 簡単には結論づけられないが、A氏もB氏も、何らかの薬を服用している。その結果として、
妄想観念や被害妄想をもちやすくなったと考えられなくはない。A氏の妻は、私のワイフにこう
言った。

 「私がトイレに入っている間、夫は、そのトイレのドアの外で、立って待っているのですよ」と。

 ふつうなら笑い話になるような話だが、「明日は我が身か」と思うと、笑うことはできない。

 Aさん、Bさん、病気なんかに負けないで、がんばって生きてくださいよ!


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(033)

●親子の確執

+++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、親子の問題に悩む、1人の
女性から、相談の書きこみがあった。

いわく、「良好な人間関係がベースにあれば、
苦労も苦労ではなくなるのですが、それがないと、
親子でも、苦労は倍化します。

ときどき、『どうして私なんか、産んでくれたのよ』と
母に叫びたくなることもあります。

子どものころから、親のことでは、苦労のしっぱなし。
結婚してからも、一日とて、気が晴れる日は
ありませんでした」(静岡県S市・Yより)と。

このメールを読んで、数年前、私にこんなメールを
くれた人のことを思い出した。

それをここに再掲載します。

++++++++++++++++++++++

【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するため
に書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことをめぐって
私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなかなか
理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできません。人生
経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である方のご意見を
聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に至らなくて、どうにも
ならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていただきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前は、
三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確なのか
もしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなおす
と言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県から和歌
山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。それがだ
めでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。それが突然、東
京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くにいてほしかった。あな
たに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもしれな
い」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではありません。母も
体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むのが当然
だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。昔風の
理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相手を
自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問題が噴
き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのがイヤ
だなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚当初は、親
の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ夫婦喧嘩に発展
したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、近くに住
んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えられないハードルだ
ったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにして電
話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調子。結局、流
産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうかもしれませんが、ひどい
ことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子どもだ
から、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていいね」などな
ど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ夜中に叫んで目が
さめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行くたびに
面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親兄弟
の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の実家
のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっと帰る…
などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせずに家にいるだけ
というふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で暮ら
していていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦那が東京
を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、兄弟が住んで
いる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との結論にいたったの
でした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談なん
てできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かったとは思
います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わない
で!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくて
いいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて、世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられるかと
恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子どもをつれて散歩
にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種の車とでくわした
りすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助けをもとめて電話する…そ
んな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬になっ
てしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘状態と
なり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけた時期が
ありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こちらの言
い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身で、何を生
意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのですか
ら、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がとれず、ちょっ
と苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで結婚
しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間たちと一
緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとなってつきささ
り、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と思っ
たことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義父母に泣
いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝わらなかった
のに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親は責めてこきおろし
て…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はないじゃないか。親が地獄のよ
うな日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、こ
れまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れないようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪いわ
けではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡りに迷
いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理学用語
でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子ども…など
など。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかしらあてはまる話に
は、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それにあて
はまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住めなかった私
は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあります。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、幸せ
だなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れた人生を
選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだろうか…など
と。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にして、お
まけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めないような、かた
よった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしまいます。よってくる我
が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあります。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にまで
向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家との一切の
関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質的な
信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さを、彼
はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、成
人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをためる悪循環
からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間そう簡単には変
わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響が
出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつかな
いどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできていませ
ん。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女のための
本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子どもを預
けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼る人のいな
い三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互いの気持ちの問
題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中に、
ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるのかもしれ
ない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を形
に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親棄て」
の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み出
しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもにしっかり
愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限りない感
謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と思ってい
ます。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!こう
して打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、言っている
間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。彼ら
の親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよった親意識
にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、ふだん
ご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話したくなさそう
に、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまったそうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダイレ
クトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわからないよ
うに)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんでしょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけであ
るような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のストーカー
の話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、まったく
わからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度みてあきれ
た」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえでは、実の親子なん
ですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろいろや
るべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に
帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私が仕事(検査助
手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けてきて途中で放棄された
ままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去りになっているアップライトの
ピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強するこ
と。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるよう
になること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味を
しっかり受け継ぐこと…などなどが考えられます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っています(実
際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても一言子どもの
立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはいるのですが、ほん
とうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕もとに包丁をもって立って
いた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のねじまがった価値観を認めることに
なりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと親の
顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意見が
ございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りしてしま
いまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうございました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより

+++++++++++++++++++++

【静岡県S市・Yさんへ】

 『悪魔は、それを笑ったものからは退散し、それを恐れたものには、重い十字架となって、容
赦なく、襲いかかる』

 親子の問題を、「悪魔」にたとえましたが、親子であるがゆえに、その関係も一度こじれると、
「悪魔」にたとえてもおかしくないほど、問題は、深刻になりがちです。

 実は、私も同じような問題をかかえています。しかもそれが、断続的ではあるにせよ、定期的
にやってきては、私を苦しめます。

 しかしそんなとき私は、ふと、こう思います。「笑ってやろうではないか」と。

 笑えばよいのです。笑えば……。「バカめ!」と、です。すると、悪魔は向こうのほうから、シッ
ポを巻いて退散していきます。それが、ときとして、「実感」として体感できるから、おもしろいで
す。とたん、心も軽くなります。

 親に対して、「親だから……」という幻想は、捨てること。ただのジジイ、もしくは、ただのババ
アと思えばよいのです。私たちが幼少の子どもを本気で相手にしないように、老人など、本気
で相手にしてはいけません。そのためにも、ここに書いたように、「親であるという幻想」を捨て
ることです。

 親だから、人生の先輩のはず。
 親だから、すばらしいはず。
 親だから、子どものことを愛しているはず。
 親だから、子どものことを心配しているはず。……みんな、幻想です。

 もちろん中には、そういうすばらしい親もいますが、大半は、ただのジジイか、ババアです。最
近聞いた話には、子どもを虐待し、子どもを精神病に追いこんでしまった親の例もあります。
が、当の親には、その自覚がありません。「あの子は、生まれつき、ああだ」などと、平然として
いるそうです。

 親もただの人間。私と同じ人間。そう気づいたとき、暗くて長いトンネルの向こうに、あなた
も、一筋の光を見ることができるはずです。

 で、あなたが感じているような苦しみを、心理学の世界でも、「幻惑」(=家族自我群という束
縛があるゆえの、苦しみ)と呼んでいます。こうした独立した言葉があることからもわかるよう
に、広く、たいへん多くの人たちが、あなたのかかえるような問題で苦しんでいます。

 決して、あなた1人だけがそうであると思わないこと、ですね。がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(029)

●グループホーム

 兄の入った、グループホームを見舞う。
 兄は、カーテンを閉めた暗い部屋の中で、
 ひとり、こたつの中に入って、横になっていた。

 それを見て、あわてて、同行した姉が、カーテンをあける。
 「そのままでいいのに」と私は思ったが、
 気がついたときには、カーテンは、もう開いていた。

 横にベッド。こたつの上には、小さなラジカセが1つ。
 それを見て、思わず、息をのむ。
 財産らしきものと言えば、それだけ。それしかない。

 人生を、68年も生きて、財産といえば、
 たったそれだけ? 兄の人生は、いったい、
 何だったのか。

 場ちがいに明るいヘルパーの声、そして姉の声。
 私は、黙ったまま、清潔そうな、それでいて
 人間的な温もりの感じない部屋を、みやる。

 事情を知らない私の長男は、「いい部屋だね」
 「ぼくも、こんなところに住みたいな」などと、
 無責任なことを口にする。

 それを聞きながら、「明日は我が身か」と、ふと、
 心のどこかで思う。そしてそれがそのまま、
 私の心を重く、ふさぐ。

 かといって、どうすることもできない。
 虚脱感。そして無力感。むなしさ。さみしさ。
 何度も心の中で、「ごめんな」と、兄にあやまる。

 元気で生きている人は、みな、傲慢になりやすい。
 「自分だけは、だいじょうぶ」と思いやすい。
 そして自分の人生だけは、安全に、いつまでもつづくと思いやすい。

 そして年老いて、不健康になった人を、
 そのまま自分の世界から、遠ざけてしまう。
 「私とは関係ない」と切り捨ててしまう。

 しかし、例外はない。1人とて、例外は、ない。
 だれにでも、老いは平等にやってくる。
 そして自分が、反対に、その老いの立場に立たされるときが、やってくる。

 私を、うらめしそうに見つめる、兄の目。
 しかしその目は、10年後、20年後の、私の目。
 その兄が、別れ際、私にポツリと、こう言った。

 「うちへ帰りたい……」と。
 子どものような言い方だった。
 私は、だまったまま、何も答えることができなかった。
そしてそのまま、そのまま長い廊下を静かに歩いて、外に出た。

 外には、冬の明るい、澄んだ空が、まばゆいばかりに光っていた。
 それが私には、かえって、異様に見えた。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(030)

●まあ、ええじゃないか!

++++++++++++++++++

どうにもならないことに、ぶつかったら、
こうつぶやいてみよう。

「まあ、ええじゃないか」と。

たったそれだけのことだが、それで
あなたの心は、ずっと軽くなるはず。

++++++++++++++++++

 姉から、こんな話を聞いた。

 その家には、長男を頭に、2人の姉妹がいる。現在、90歳近くなった父親を、長男夫婦が、
世話をしている。

 それについて、長男夫婦は、2人の妹に、「介護費用を分担してほしい」という願いを、たびた
び言い伝えている。それに対して、2人の姉妹は、「女だから……」「夫のお金は私のものでは
ないから……」と。「女」であることを理由に、そのつど、費用を出し渋ってきた。

 が、ごく最近、その父親の容態が、おかしくなってきた。脳梗塞を併発して、介護センターか
ら、一般病院へ移された。

 とたん、遺産相続問題が発生。2人の妹たちが、「私たちも子どもだから……(遺産相続権は
ある)」と言い出した。

 ここまで聞くと、身勝手な姉たちの様子しか頭に浮かんでこない。しかしこの話には、こんな
伏線がある。ここから先も、姉から聞いた話である。

 実は、2人の妹たちは、今から5、6年前に、相談して介護費用を出している。額は、1人、1
00万円。2人で、200万円。ともに夫はサラリーマン。決して楽な額ではなかった。しかしその
200万円は、父親の介護のために使われることはなかった。たまたま兄(長男)の息子が大学
に進学するときに重なり、その学費にと、兄の妻が使ってしまった。

 それについて2人の妹が抗議すると、「今まで自腹を切って、父親のめんどうをみてきたのだ
から、当然。貸したお金を返してもらっただけ」というようなことを言ったという。

 ……とまあ、こういうゴタゴタ話は、介護には、つきもの。お金がからんだ騒動となると、いま
どき、珍しくもなんともない。が、問題は、どうしてそうなるか、だ。長い間、司法書士をしてきた
友人のH氏は、こう言う。

 「若いときは、まだ先がある。だからそれほどお金に執着しない。しかし年をとればとるほど、
先が短くなる。つまり、ケチになる」と。つまりケチになるから、その分だけ、財産分与の問題が
大きくなる、と。

 一方、長男側はこう言っているという。「自分のつごうに合わせて、妹たちは、『私は女だか
ら』と言い、また別のときは、『私は子どもだから』と言う。しかし私は、こんなことで、兄弟げん
かをしたくない。私は親の財産などに、執着心はない。それよりも、もうこういうゴタゴタは、たく
さん!」と。

 で、こういうとき、私たちは、どう構えたらよいのか。そのヒントの1つとして、こんな話がある。

 ある著名な作家は、若いころから、無精子症だった。名前を出せば、その人のことを知らな
い人は、この日本には、いない。文学界でも、賞という賞を総なめにしたあと、文学界の「長」と
して長い間、活躍していた。

 が、その作家には、1人の娘がいた。そこで私が、その話を直接聞いたあと、つまり無精子
症であることを直接聞いたあと、その作家にこう言った。

 「だって、先生……。先生には、娘さんが……」と。

 するとその作家は、ゲラゲラと大声で笑いながら、私にこう言った。「まあ、ええじゃないか、え
えじゃないか」と。

 ある意味で、すばらしい言葉である。「まあ、ええじゃないか」。

 思うようにならないのが、人生。思うようにならないからといって、のろったり、うらんだりして
も、始まらない。どうにかなることについては、それなりにがんばらなくてはいけない。努力もし
なければならない。しかしどうにもならないことについては、あきらめる。受けいれる。そして笑
い飛ばす。「まあ、ええじゃないか」と。

 その長男にしても、2人の妹たちにしても、「明日は、我が身」。長くて、あと10年もすれば、
みな、ボケ始め、20年もすれば、あの世行き。ゴタゴタに巻きこまれて苦しむくらいなら、「ま
あ、ええじゃないか」と笑ってすましたほうが、得。俗な言い方をすれば、そのほうが利口。

 実はその長男が、今は、そう言っているという。「まあ、ええじゃないか」と。「財産といっても、
たいしたものはない。ちゃんと平等に分けてやる」と。

 しかしそういう心境になるのも、たいへん。とくに戦後の日本を、がむしゃらに生きてきた人た
ちは、お金への執着心が、人一倍、強い。本能的な部分にまで、その執着心が、刷りこまれて
いる。そういう執着心から、自分を解放するのは、容易なことではない。金銭的にも、かなりの
余裕がないと、むずかしい。

 しかし「まあ、ええじゃないか」と笑えば、たしかに気が楽になる。どうせ人生というのは、そう
いうもの。生きることの、99・99%には、意味はない。残りの、0・01%に、それらしき意味が
あれば、御(おん)の字。つまらないゴタゴタに巻きこまれれば、その0・01%の人生すら、ムダ
にしてしまう。

 だったら、つまらないことであくせくするだけ、損。「まあ、ええじゃないか」とあきらめたところ
で、失うものは、ほとんど、ない。

 まあ、ええじゃないか!

 私も、その作家に会ってからというもの、どうにもならないことが起きるたびに、「まあ、ええじ
ゃないか」と、自分で自分をなぐさめるようにしている。それで問題が解決するわけではない
が、しかし死ねば、すべてを失う。そのことを知れば、そこらのわずかな財産など、腸から出る
ガスのようなもの。「まあ、ええじゃないか」という言葉のウラには、そういう意味も隠されてい
る。

 そう言えば、その作家は、私にその言葉を教えてくれたあとまもなく、がんで死んでしまった。
うわさでは、まれに見る、大往生だったという。きっとその作家は、「まあ、ええじゃないか、ええ
じゃないか」とつぶやきながら、死んでいったにちがいない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●息子のSへ

息子のSへ

今度の正月に、日本へ来てくれて、ありがとう。10年ぶり、あるいはそれ以上ぶりに、楽しい正
月を迎えることができました。

お前がときどきアメリカから送ってきてくれる写真を見ながら、ウィルソン家の人たちを、いつ
も、うらやましく思っていました。ぼくたちには、クリスマスや正月といっても、最近は、晃子と2
人だけ。やってくる客もいなくて、まあ、さみしいものでした。

でも、今度、お前たちが来てくれると知って、ぼくたちは、2週間前から、毎日、大掃除をしまし
た。それがとても楽しかった。居間のクーラー(暖房機)を入れたり、あれこれ電気製品をそろ
えたり。ふとんも、運んだりしました。

コタツも、特製のものにしました。一日がかりで、やっとふとんを見つけ、それを居間のふとん
にしました。庭掃除ももちろん、お前たちが来る日の朝には、ハナを風呂に入れたり、あるい
は餅つきの用意をしたりもしました。

それが実に楽しかった。本当に楽しかった。

が、おかげで、ばかげたことだが、疲れてしまった。きっと気を張りすぎたためだと思う。そのた
め、お前たちが来たちょうどその夜から、ぼくは、風邪をひいてしまった。そういう自分が、なさ
けなかった。ふとんの中で、静かにしていると、涙ばかり出てきた。それについては、本当に申
し訳ないことをしたと思う。

まあ、人生、こういうことがあるから、楽しい。本当に楽しい。

これでまたしばらく、お別れだけど、いつでも、また遊びに来てください。誠司もすばらしい。デ
ニーズもすばらしい。ところで最近、C(長男)とは、よく会話をするようになった。先日は、ぼく
の健康を気遣って、Cは、岐阜までいっしょについてきてくれた。ぼくも変わったけど、Cも変わ
った。残されたぼくの最後の仕事は、Cを一人前の人間にして、世に送り出すこと。今、その準
備をしているところだよ。

今回、正月に、遊びにきてくれてありがとう。晃子は、「またこういう日が来るわよ」と言ってくれ
るけど、ぼくは、今度だけで、じゅうぶん、楽しかった。満足した。2度目があると思って、今とい
う時代を生きるのは、ぼくの主義ではないしね。

では、S、さようなら。

元気で、やれよ。何もできない親父だけど、いつも、お前のことを心配しているよ。嫌われてい
るのはよく知っているけど、その責任はぼくにあるわけだから、決して、お前をうらんだり、嫌っ
たりはしないよ。

別れるのはさみしいけれど、またいつか会いえるよな。

じゃあ、元気でな!

BYE!

2006年1月25日(水)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【BW教室から】

●ほめつぶし

 年長児のクラス。11人。私が、前列にいた、A君とB君に向って、「A君、B君、前に出て、2
人で歌を歌ってください」と声をかけた。そのときのこと。

 すかさず、A君が、「いや!」と。

 そこで私もすかさず、「すばらしい! みなさん、聞きましたか? A君は、2人で歌うのはい
やだと言っています。ひとりで歌いたいと言っています。みんなで、手をたたいてほめてあげま
しょう!」と。

 (子どもたち、参観の親たち、みな、パチパチ!)

私「A君、君は、歌が好きなんだってね。さあ、前に来てごらん」
A「うん……」

 そこでA君、どこかしぶしぶながら、ひとりで歌を歌いだした。私も、横で、いっしょに、歌っ
た。そして歌が終わったとき、また、こう言った。

私「うまいじゃないか。君は、歌がうまい。さすがだね。ひとりで歌うというのは、勇気のいること
なんだよ。よく歌ったね。すばらしい!」と。

 (それを聞いて、子どもたち、参観の親たち、みな、パチパチ!)

 すっかり気分をよくしたA君、まわりをみながら、こう言った。

 「もう一度、歌ってもいい……」と。


●ゴミ捨て?

 小4のKさんと、Iさんと、3人で、近くの書店まで、ワークブックを買いに行く。その帰り道のこ
と。突然、Kさんが、こう言った。

 「先生、今、ポケットからゴミを捨てたでしょう!」と。

 そこで私は、こう言った。「ぼくは、30年以上、ゴミを、道路に捨てたことはないよ。つばも吐
いたことはないよ」と。

 すると、Iさんまで、「私も見た」と。

 私はそのとき、私だけ自転車に乗っていた。

私「じゃあ、確かめにいこう。ぼくのゴミかどうか、わかるはずだから」と。

 そして帰り道を、また戻った。距離は、100メートルほどあった。

私「ぼくはね、ゴミを捨てたことはないよ」
K[でも、先生、ちゃんと、捨てたよ。ヒラヒラとゴミが落ちていくのを見たわ]
I「うん、私も、見た」
私「おかしいな?」と。

 そして私がゴミを捨てたという場所に来てみると、何と、1000円札が落ちているではない
か! 私がポケットに入れていた、1000円札である!

私「アッ、ぼくの1000円だ!」
K「ホント!」
I「先生、よかったね」と。

 子どもたちと書店へ行くとき、1000円だけ、ポケットに入れた。子どもたちのお金が足りない
とき、私がそれで払うつもりでいた。その1000円だった。「ゴミを捨てたことがない」という確信
が、その1000円札を救った(?)。

 「君たちが気がついてくれたおかげで、ぼくは1000円をなくさないですんだよ。ありがとう」
と。

 いつもだったら、その1000円で、何かを買って、お礼をするのだが、冷たい冬の風を感じた
ので、そのまま教室にもどった。

 ところで、当然のことだが、子どもたちと書店へ行くときも、私は、絶対に、何人かの子どもた
ちといっしょに行くことにしている。この世界には、「誤解」という言葉がある。1対1で行けば、
いつどこで、どんな誤解をされるか、わからない。それでそのときは、Kさんに、同行してもらっ
た。Iさんが、「Kさんに、いっしょに来てほしい」と言ったからである。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(031)

●ミニ・退職体験

++++++++++++++++

長い休暇は、休職のようなもの。
退職のようなもの。

働き蜂の私には、長い休暇は、
必要ない。かえって、心と体の
調子がおかしくなってしまう。

++++++++++++++++

 1年のうちで、私にとって、もっとも長い休暇。それが正月休暇である。合計で、13日もある。
前後に土日が重なると、もう少し長くなることもある。

 私は、しかし、その正月休暇のたびに、「ミニ・退職」なるものを、模擬体験する。倒産の模擬
体験、リストラの模擬体験、あるいは、病気や事故による休職の模擬体験と言ってもよい。

 総合的にみると、「いやな体験」である。ワイフは、「休暇なのだから、思いっきり、遊べばい
い」などと、のんきなことを言う。しかしどういうわけか、休暇になったとたん、いつも体調を崩
す。運動不足や、食生活の乱れがそれに拍車をかける。

 それ以上に、私は、子どもたちとワイワイと騒いでいてこそ、自分を支えることができる。私に
とっては、職場そのものが、ストレス解消の場となっている。それができなくなる。だから、とた
ん、気がふさぐ。重くなる。

 実は、これがこわい。

 私はもともと、「うつ気質」。川の流れにたとえるなら、サラサラと調子よく流れているときは、
それなりに気分もよい。しかし一度、どこかで堰(せ)き止められると、そこで水がよどみ、すぐ
に、腐り始める。若いときは、腐るまでに、かなりの時間があった。しかし50歳を過ぎるころか
ら、すぐに、腐るようになった。

 症状としては、まず頭重感。こうして毎日、原稿を書いているが、そういう状態になると、原稿
を書くのもままならなくなる。頭の機能が悪くなる。

 それにいくら、「運動しよう」とがんばってみても、その気力がわいてこない。「今日、1日くらい
は、いいや」と思って、サボってしまう。それが2日、3日と重なってしまう。だからよけいに、体
の調子が悪くなる。

 するとお決まりの「うつ症状」。私のばいいは、心配性が増幅して、それが被害妄想に発展す
ることが多い。「このまま、ぼくは、ダメになってしまう」「ぼくが死んだら、家族はどうなるのだ」
と。そして考えることは、将来の心配ばかり。5年先、10年先を悩み始める。

 朝、起きたとき、少し足がフラついただけで、「このまま歩けなくなって、車椅子に乗るようにな
ったらどうしよう」とか、あるいは、食べ過ぎて、胃が重く感じたりすると、「がんになったらどうし
よう」とか、そんなふうに考える。

 もちろん収入や、家計の心配もする。ふだんは、そんなことは何も考えないで生活している。
実際、我が家では、家計簿なるものは、つけていない。いつも最低限の生活をするように心が
けている。それでお金が足りなくなれば、土地や家、山荘を売ればよい。

 が、うつ状態になると、そうはいかない。合理的なものの考え方そのものができなくなる。「こ
の家を売るようになったらどうしよう」とか、「山荘を手放すのは、つらい」とか、さらには、「犬の
ハナが死んだら、そのさみしさに耐えられるだろうか」とか、そんなことまで考える

 で、昨日(11日)から、仕事、開始。私は思う存分、子どもたちと、騒いできた。笑いあってき
た。楽しかった。自分の中で、脳細胞がパチパチと音をたててはじけるのが、よくわかった。心
も、ウソのように軽くなった。ついでに体も軽くなった。

 1時間もすると、それまでの「うつ状態」が、消えてしまった。「どうしてあんなことでクヨクヨと悩
んだのだろう」と、反対にそういう状態になってみると、そちらのほうが信じられないほど。

 やはり私は、死ぬまで、仕事をするしかないようだ。そのことを昨夜、寝る前にワイフに話す
と、ワイフも、「そうね……」と言って笑ってくれた。

 そうそう、1つ、こんなよいことがあった。

 3〜4か月の間、使いまくったデジタルカメラだが、最初から、USB接続がうまくできなかっ
た。カメラからパソコンへの直接転送ができなかった。「1年近くになったら、修理に出せばい
い」と考えて、昨日まで、だましだまし、使っていた。保証期間は、その1年間である。

 が、どうも、不便。いつもメモリーカードを、カメラから取りだして、一度、カードリーダーへ挿入
しなければならない。そこで修理に出すことにした。しかし一度、修理に出すと、1、2週間は、
カメラを使えなくなる。

 店員の前で、なんとなくためらっていると、店員が一とおりカメラをみたあと、こう言った。「こ
れは修理不可能ですから、新品と交換します」と。

 新品と交換! すでにキズまるけになったカメラを、新品と交換! 私は心の中で、バンザー
イと叫んだ。

 ……というわけで、今、私の胸のポケットの中には、その新品のカメラが、静かに、納まって
いる。そういうこともあって、今日は、気分は晴れ晴れ。私は、結構、単純な人間なのだア!


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●利己主義と孤独

+++++++++++++++++

孤独ほど、恐ろしいものはない。
孤独は最大の恐怖であり、ときに
その人の命すらも、うばう。

なぜ、人は、孤独になるのか。
どうすれば、人は、その孤独から、
自分を回避することができるのか。

+++++++++++++++++

 世に、孤独ほど、恐ろしいものはない。本当に、恐ろしい。仏教でも孤独を、無間地獄の1つ
に数えている。

その孤独だが、だれでも経験しうるものだろうが、その恐ろしさは、経験したものでなければ、
わからない。

 夜、ふとんの中で身を丸めて、ただひたすら震える。体を縮(ちぢ)めても、縮めても、その恐
怖から逃れることはできない。身の置き場がない。つらい。さみしい。自分の心が、どこにある
さえあるかわからない。

 恐ろしいほどの虚無感。むなしさ。味気なさ。

 それは病気にたとえるなら、不治の病を宣告されたようなもの。断崖絶壁に立たされたような
絶望感。ひしひしと迫りくる、絶望感。

 その孤独を、あのイエス・キリストも経験している。あのマザーテレサは、つぎのように語って
いる。

 訳はかなりラフにつけたので、必要な方は、原文をもとに、自分で訳してほしい。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

【キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリ
スト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれに
も求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつ
け、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、
もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。】

 孤独は、あらゆる人が共通してもつ、人生、最大の問題といってよい。だからもしあなたが
今、孤独だからといって、それを恥じることはない。隠すこともない。大切なことは、その孤独か
ら自分を回避させるために、自分はどうあるべきかを、いつも考えること。それについて書く前
に、世界の賢者たちは、どのように考えていたか、それを拾ってみる。

No one would choose a friendless existence on condition of having all the other things in the 
world. ―Aristotle
世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独(friendless condition)は選ばない
だろう。(アリストテレス)

No my friend, darkness is not everywhere, for here and there I find faces illuminated from 
within; paper lanterns among the dark trees. - Carole Borges
友がいれば、暗闇ばかりとはかぎらない。私は彼らの輝く顔を思い浮かべるが、それが暗い
木々にかかる、ちょうちんのようなものだ。(C・ボーグ)

To dare to live alone is the rarest courage; since there are many who had rather meet their 
bitterest enemy in the field, than their own hearts in their closet. - Charles Caleb Colton
あえてひとりで生きるというのも、勇気のいることだ。なぜならクロゼットに心をしまっておくより
も、戦場で、最悪の敵に会うことを望む人は多い。(C・C・コルトン)

Pray that your loneliness may spur you into finding something to live for, great enough to 
die for. - Dag Hammarskjold
あなたが孤独であるなら、何かそのために生きることができる目標が見つかるように、できれ
ばそのために死ぬことができる目標が見つかるように、祈れ。(D・ハマーショルド)

There is no greater sorrow than to recall in misery the time when we were happy. - Dante
あなたが幸福だったときを、みじめな状態で思い起こすほど、悲しいものはない。(ダンテ)

We're all lonely for something we don't know we're lonely for. How else to explain the curious 
feeling that goes around feeling like missing somebody we've never even met? - David 
Foster Wallace
私たちがなぜさみしいか、それがわからないのに、私たちは、みな、さみしい。会ったこともな
いような人をしのぶような、実におかしな感情を、どうやって説明したらよいのか。(D・F・ウォレ
ス)

The most I ever did for you was to outlive you. But that is much. - Edna St. Vincent Millay
あなたのためにした最大のことといえば、あなたより長生きをしたことです。それだけです。(E・
S・V・ミレー)

The end comes when we no longer talk with ourselves. It is the end of genuine thinking and 
the beginning of the final loneliness. The remarkable thing is that the cessation of the inner 
dialogue marks also the end of our concern with the world around us. It is as if we noted the 
world and think about it only when we have to report it to ourselves. - Eric Hoffer
自分と話をすることが、もうないとき、終わりはやってくる。それは純粋な思想の終わりであり、
かつ最終的な孤独のはじまりでもある。はっきりわかっていることは、心の対話の終わりは、私
たちのまわりの世界に関心をもつことの終わりであるということ。つまり世界というのは、私た
ちがそれを、自分に問いかけるときのみ、そこにある。(E・ホッファー)

With some people solitariness is an escape not from others but from themselves. For they 
see in the eyes of others only a reflection of themselves. ー Eric Hoffer
他人から逃れるから、孤独になるのではなく、自分から逃れるから孤独になる。なぜなら彼ら
は、他人に目の中に、自分の姿を見るからである。(E・ホッファー)

It is loneliness that makes the loudest noise. This is true of men as of dogs. ー Eric Hoffer
もっとも騒々しいのは、さみしさである。犬も、人間も同じ。(E・ホッファー)

"Don't you want to join us?" I was recently asked by an acquaintance when he ran across 
me alone after midnight in a coffeehouse that was already almost deserted. "No, I don't," I 
said. ー Franz Kafka
「いっしょに、やらないか?」と、真夜中の、みすぼらしいコーヒーショップで、最近、知りあいの
男にたずねられた。私は、「いいや」と答えた。(F・カフカ)

I've never found a companion as companionable as solitude. ー Henry David Thoreau
孤独ほど仲がよくなりやすい友だちはいないことを、私は知った。(H・D・ソロー)

Ships that pass in the night, and speak each other in passing, Only a signal shown, and a 
distant voice in the darkness; So on the ocean of life, we pass and speak one another, Only 
a look and a voice, then darkness again and a silence. ー Henry Wadsworth Longfellow
夜、行きかいながら交信する船。
暗闇の中の、ただの信号と遠くの声。
人生の海においても、またそうで、
私たちは通りすぎ、会話を交わす。
ただ見て、たがいに声をかける。
それから再びやってくる、暗闇と静寂。(W・ロングフェロー)

Oh, sweet sorrow, the time you borrow, will you be here when I wake up tomorrow? ー 
Katherine Wolf
オー、甘い悲しみよ、生きながらえて、あなたは明日、私が目ざめるとき、ここにいるだろうか。
(K・ウルフ)

What should young people do with their lives today? Many things, obviously. But the most 
daring thing is to create stable communities in which the terrible disease of loneliness can 
be cured. ー Kurt Vonnegut
今日、若い人たちは、自分の人生をどうすべきか? 明らかに多くのことがある。しかしもっと
も大切なことは、孤独という恐ろしい病気が癒されるべき、確かな人間関係をつくりあげること
である。(K・ボネー)

In solitude, where we are least alone ー Lord Byron
孤独の中で、我、ひとりにあらず。(L・バイロン)

Life dies inside a person when there are no others willing to beーfriend him. He thus gets 
filled with emptiness and a nonーexistent sense of selfーworth. ー Mark R. J. Lavoie
喜んで彼の友になる人なければ、人生は、その人は死ぬ。彼はかくして、空しさに包まれ、生
きる価値を見失う。(M・R・J・ラボー)

Music was my refuge. I could crawl into the spaces between the notes and curl my back to 
loneliness. ー Maya Angelou
音楽は、私の逃げ場。私は音符の間の空間に身をすべらせ、孤独に身をかがめる。(Mアンジ
ェロウ)

There is no pleasure to me without communication: there is not so much as a sprightly 
thought comes into my mind that it does not grieve me to have produced alone, and that I 
have no one to tell it to. Michel Eyquem De Montaigne
人との交わりのない喜びというのは、私には考えられない。たとえばこれはと思うひらめきがあ
ったとき、私はそれを自分ひとりで考え出したとは思わないし、それをだれかに話さずにはおら
れない。(M・E・D・モンテニュー)

Our language has widely sensed the two sides of being alone. It has created the word "
loneliness" to express the pain of being alone. And it has created the word "solitude" to 
express the glory of being alone. ー Paul Tillich
私たちの言語は、ひとりでいることについて、二つの見方をする。一つは、「さみしさ」という語
で、これは、ひとりでいることの苦痛を意味する。そしてもう一つは、「孤独」という語で、これは
ひとりでいることの栄光を意味する。(P・チリッヒ)

God made everything out of nothing, but the nothingness shows through. -Paul Valery
神は、無からすべて作り出した。しかし無は、透けて現れる。(P・バレリイ)

The person who tries to live alone will not succeed as a human being. His heart withers if it 
does not answer another heart. His mind shrinks away if he hears only the echoes of his 
own thoughts and finds no other inspiration. ー Pearl S. Buck
ひとりでいようと思う人は、人間としては、成功しない。もしだれの心にも答えることがなけれ
ば、その人の心は、しぼみ、もし彼自身の心のエコーだけを聞いているならば、その人の心
は、縮む。そして新しい発見も、そこで終わる。(P・S・バック)

When you're lonley, go to the music store and visit with your friends. ー Penny 
Lane, "Almost Famous"
さみしかったら、あなたの友と、ミュージック・ショップへ行け。(P・レイン)

The body is a house of many windows: there we all sit, showing ourselves and crying on the 
passersーby to come and love us. ー Robert Louis Stevenson
体は、たくさんの窓がある家。その窓辺に座って、自分を見せ、その外を行き交う人に、やって
きて、自分を愛するようにと泣き叫ぶ。(R・L・スティーブンソン)

Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it away, and in 
the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, and sometimes 
we lose them there again. ー Stephen King, "The Green Mile"
時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを奪い、
運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。そしてとき
に私たちは、その人すら再び見失う。(A・キング・「グリーンマイル」)

Better be alone than in bad company ー Thomas Fuller
悪い仲間といるくらいなら、ひとりのほうがよい。(T・フラー)

The whole conviction of my life now rests upon the belief that loneliness, far from being a 
rare and curious phenomenon, peculiar to myself and to a few other solitary men, is the 
central and inevitable fact of human existence. ー Thomas Wolfe
今や私は、人生の中で、孤独というのが、人間の存在には欠かせないものであることを、信念
として発見した。その孤独というのは、とくに私や、二、三の孤独な人にとっては、まったく理解
しがたい奇妙な現象ではあるが……。(T・ウルフェ)

And I look again towards the sky as the raindrops mix with the tears I cry. - Unknown
雨と涙が混ざるように、私は再び空を見あげる。(作者不詳)

One may have a blazing hearth in one's soul, and yet no one ever comes to sit by it. ー 
Vincent Van Gogh
人は、魂の中に、燃えさかる暖炉をもっているかもしれないが、だれもそのそばにきて、座るこ
とはない。(V・V・ゴッフォ)

Skillful listening is the best remedy for loneliness, loquaciousness, and laryngitis. ー William 
Arthur Ward
孤独な人、多弁な人、咽頭炎の人には、しっかりと耳を傾けてあげよう。それが最善の治療法
だから。(W・A・ウォード)

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(付記)

 ここでは「loneliness」(さみしさ)と「solitude」(孤独)を、ともに「孤独」と訳した。孤独は、たいて
いさみしさをともなう。中に、孤独を楽しむ人もいるというが、私にはそういう人の気持ちが、理
解できない。私にとって孤独は、人生、最大の敵。孤独と戦うことが、生きることの目的にもな
っている。

 私は冒頭で、「孤独との戦い」を口にした。いかなる方法をもってしても、孤独を取り除くこと
ができないなら、共存するしかない。それが今の、私の考え方である。それは人間が、原罪とし
てもって生まれたものではないかと思う。つまり「知恵ある生物」が、その知恵で、自分が孤独
な存在であることに気づいてしまった。

 もし人間が、もう少しバカなら、バカなまま、何も考えることもなく、従って孤独になることもな
かった。へたに利口になってしまったから、孤独を感ずるようになってしまった。「原罪的」という
のは、そういう意味である。

 こうして世界の賢人の言葉を拾い集めてみると、幸福論と孤独論は、ちょうど紙の表と裏の
関係にあるのがわかる。そして多くの賢人が、幸福を追求するかたわら、孤独について語って
いる。この中で、とくに私の関心をひいたのが、マザーテレサの言葉。「イエスも孤独だった」と
いう言葉である。私は、これを読んでほっとした。多分、あなたもそうであろう。

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●利己主義との戦い

 人は、なぜ孤独になるのか。その最大のカギを握るのが、「利己」と「利他」ではないか。つま
り利己主義に陥れば陥るほど、人は孤独に襲われる。しかし利他主義になれば、孤独を避け
ることはできないにしても、孤独の恐怖をやわらげることができる。

 その利他主義を、仏教の世界では、「慈悲」といい、キリスト教の世界では、「愛」という。マザ
ーテレサによれば、イエス・キリストは、「飢え」という「孤独」に苦しんだという。そしてその苦し
みの結果、「愛」を説くようになったという。

 つまり宗教がもつ究極の目標は、ここにある。いかにすれば私たちは、利己から脱し、利他
の世界へと、自らを導くことができるか。いくつかのヒントがある。

(1)まず、誠実であること。他人に対しては、もちろん、自分に対しても、だ。ウソやインチキ
は、心のゴミとなって、やがてその人自身の人生観を、暗く、見苦しいものにする。それは、実
は、ささいな日常的な行為から始まる。その日々の積み重ねが、月となり、月々の積み重ね
が、年となり、やがてその人の人格となって熟成される。

(2)いつも前向きに生きる。前向きに生きるということには、ある種の緊張感がただよう。その
緊張感を、決して、失ってはいけない。それは健康論に似ている。立ち止まって、休んだときか
ら、その人の健康は、失われる。が、前向きに生きるだけでは足りない。日々に補ったところ
で、脳ミソの底からは、容赦なく、知識や経験は、流れ出ていく。失う分以上のものを、補って
生きる。だから生きることには、ゴールはない。死ぬまで、前に進む。精進(しょうじん)する。

(3)生きていることを喜び、そして感謝する。この広大な宇宙の一点で、生きていること自体
が、奇跡。アインシュタインも、そう言っている。金銭的な損得勘定から、自らを解き放つ。いわ
んや人間関係を、その損得勘定で判断してはいけない。この世界では、マネーは、必要だ。マ
ネーがなければ、不幸になることはある。しかしマネーは、決して、人を幸福にすることはな
い。

(4)幸福感や充足感は、薄いガラス箱のようなもの。幸福感や充足感を覚えたら、静かに、そ
っとそのまま、守り育てていく。自分の中に、「利他」を感じたときも、そうだ。それらはとても、こ
われやすい。決して、うぬぼれたり、ごう慢になってはいけない。幸福感や充足感は、一度こわ
れると、取りもどすのに、その何倍もの時間とエネルギーが必要となる。

(5)他人の目の中に、自分を置く。その相手と対峙してすわったときでも、自分の視点を一度、
相手の視点の中に置いてみる。その相手から、自分を見る。それを繰りかえしていると、やが
て相手の心の状態や、何を考えているかまで、わかるようになる。言うなれば、「利他」の深さと
いうのは、どこまで相手の立場でものを考えられるかによって決まる。

 もっとも、孤独になることが悪いというのではない。死の恐怖があるからこそ、生きていること
の喜びがわかるように、孤独になることがあるからこそ、利他のすばらしさがわかる。あなたな
らあなたが、利己主義でも、一向に構わない。しかしその結果として、孤独を覚えたら、そのあ
と、その苦しみを、利他主義に転化すればよい。……と口でいうほど、実は、簡単なことではな
いが……。がんばろう!
(はやし浩司 利己主義 利他主義 孤独論)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

親意識が子育てをゆがめるとき

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いまだに、「私は親だ」とがんばって
いる人がいる。

そういうのを親意識という。
しかし親意識ほど、おかしな
意識はない。

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●「私は親だ」というのが親意識 

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲れる。
それだけではない。親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。

上下意識のある関係、つまり命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係は生
まれない。ある母親は、子ども(小一)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向かって何てこと
を言うの!」と、本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、親子は平等だと言う
が、こういうときはどうしたらいいのか」と。

●互いに高い次元で認めあって平等

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。高い次元で認めあうことを
平等という。たとえ相手が幼児でも、そうする。こんなシーンがあった。

あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこと。たまたまその女優が、小さな
女の子(五歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女の子がフラッシュに驚いて、母親
のうしろに隠れた。そのときのことである。

母親は、女の子に懸命に笑顔で話しかけながら、そのままあとずさりして、家の中へ消えてし
まった。私はそのシーンを見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」と考えた。ある
いはあなたなら、どうするだろうか。

●子どもの気持ちを確かめる

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視点に
立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせるときでも、
「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。やめるときもそうだ。ある
いは子どもが学校で悪い成績をとってきて、落ち込んでいたとする。そういうときでも、子どもの
気持ちになって、子どもと同じ立場でそれを悩んであげる。それを平等という。

それがわからなければ夫と妻の立場で考えてみればよい。もしあなたという妻が、夫から、「お
前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われたら、あなたはそれに従うだろうか。
そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき夫が、「夫に向かって何だ、その態度
は!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。相手の視点に立って見るということは、
そういうことをいう。

●親意識の強い親

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。ある
いは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子どもの側から
みてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そうでない子どもも
いる。私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分では尊敬に値する人間と思っ
ているらしいが、誰もそんなふうには思っていない。人を尊敬するとかしないとかいうことは、も
っと別のところで決まる。要するに子どもに「バカ」と言われても、気にしないこと。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにしている。「私は
バカではない。大バカだ。まちがえるな」と。先日も私のことを「ジジイ」と言う子どもがいた。そ
こで私はその子どもにこう言ってやった。

「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と。するとその子どもは、「教えて、教えて」と。私はおも
むろにその子どもに顔をむけると、こう言った。「いいか、これはとても悪い言葉だ。お父さんや
先生に言ってはダメだよ。わかったね。……では、教えてあげよう。ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。
それからというもの、その子どもは私を見るたびに、私に向かって、「ビダンシ!」「ビダンシ!」
と言うようになった。

●子どもを抑え込んではいけな

 子どもの口が悪いのは、当たり前。奨励せよというわけではないが、それが言えないほどま
でに、子どもを押さえつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。このユーモアが、子ど
もの心を広くする。要するに、相手は子ども。本気で相手にしてはいけない。よく「友だち親子」
の是非が話題になる。「友だち親子はいいのか、悪いのか」と。

しかし子どもが友だちになりえるのは、子どもが中学生や高校生になってからだ。それまでは
友だちにすら、なりえない。もちろんそれまででも友だち的なつきあいができれば、それはすば
らしい。友だち親子、おおいに結構。どこが悪い? 親の権威だの威厳だのと言っている間
は、日本人は、封建時代の亡霊と決別することはできない。

 そうそうあのアメリカ人の女優のケースだが、日本人なら多分、こう言って子どもを前に押し
出すに違いない。「何をしているの。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとしなさい!」と。
こうした押しつけが、親子の間にミゾを作る。そしてそのミゾが、やがて親子断絶へとつなが
る。

 親意識などなくても、子育てで困ることは何もない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●夫婦論

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夫婦って、何だろうと、
このところ、ときどき、考える。

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 かつては、母のような女性を、理想の女性と考えたこともある。姉のような女性を、理想の女
性と考えたこともある。あるいはそのときどきに、叔母や伯母、さらには、映画やテレビに出てく
る女性を、理想の女性と考えたこともある。

 しかし私は、どこまでいっても、私であるように、私のワイフは、どこまでいっても、私のワイ
フ。当初は、恋愛で始まる結婚だが、長くいっしょに生活をしていると、私が私のワイフになり、
私のワイフが私になる。

 つまり結婚にまつわる苦労や思い出が、私をつくり、ワイフをつくる。そしてやがて、こう思う。
「これが私だ」「これが私のワイフだ」と。

 私のワイフに不満がないと言えば、ウソになる。しかしこのことは、私のワイフについても、同
じで、ワイフが、いつも何かしらの不満を私にいだいていることは、私も知っている。若いころ
は、いつもこう言っていた。「あなたの身長が、あと10センチ高ければよかったのに……」と。

 しかしやはり、私は私だった。私は決して理想の「男」ではない。自分でもそれがよくわかって
いる。性格はチャランポランで、情緒はいつも不安定。無責任で、いいかげん。ここに書いたよ
うに背も低いし、容姿は、最悪。そんな「男」が、理想の女性を求めても、しかたがない。

 私が今以上に、よい「男」に変われないなら、ワイフに今以上の理想の「女」を求めることも、
おかしい。たがいに、妥協しあいながら、つまり欠点を補いあいながら、生きていくしかない。

 が、悪いことばかりではない。ともにしてきた苦労や思い出が、年月を経てくると、ジワジワ
と、いぶし銀のように光り始める。「光る」というほど、おおげさなものではないかもしれないが、
相対的に、若いころ「理想の女性」と思っていた人たちが、順に、記憶の中から消えていく。そ
して気がついてみると、そこに残ったのが、ワイフだけということになる。

 今では、よく、「母のような女性と結婚しなくてよかった」とか、「姉のような女性と結婚しなくて
よかった」とか、思うこともある。叔母や伯母にいたっては、なおさらそうで、「どうしてああいう
女性を、一時的ではあるにせよ、理想の女性と思ってしまったのだろう?」と思うこともある。

 唯一の例外と言えば、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中に出てきた、ジュリー・アンドリ
ュースか? ジュリー・アンドリュースが演じた、マリア像は、今でも、心の片隅に、「理想の女
性」として、残っている。

 それはともかくも、「男」も一巡すると、「まあ、私もこんなものだ」という、あきらめの境地に達
する。そして同時に、「まあ、私の結婚生活もこんなものだ」という、同じようなあきらめの境地
に達する。

 その(思い)は、ワイフにしてみても、同じではないか。もう少し若いころには、私は、よくワイ
フにこう言った。「お前も、ぼくのような男と結婚したために、苦労ばかりしている。もっとほかに
いい男がいただろうに、ごめんね」と。

 まあ、この先は、細々と燃える残り火だけを大切に、生きていくだけ。私が私でしかなかった
ように、私たち夫婦も、私たち夫婦でしかなかった。洋服にたとえるなら、どうせ私に合う洋服
は、一着しかない。だったら、それを大切に着るしかない。それが夫婦というものではないか…
…と、このところ、強く、思うようになった。
2006年1月25日(水)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

●謎の中国訪問

++++++++++++++++++

K国の金xx(拉致事件に抗議の念をこめて、
あえて金xxとする)が、現在、中国を訪問
しているという(1月14日現在)。

しかしその足どりは、まったく不明。謎。

いったい、金xxは、どこにいるのか?

++++++++++++++++++

 詳しい行動内容は、報道機関の報道に任せるとして、おおまかに言えば、こういうことだ。

 当初、K国から、金xxを乗せたと思われる、特別列車が、K国から中国へ向った。しかしその
列車は、中国へは向わず、途中で、方向をロシアに変えた。

 その間に、金xxと思われる人物は、飛行機で北京に。そしてそこで中国の要人と会談したあ
と(?)、広州へ。香港発の共同通信は、つぎのように伝える(13日)。

【香港13日共同】中国南部・広州の最高級ホテルに13日午前、リムジンを含む50台前後の
車列が到着した。国家元首級の代表団とみられ、中国を訪問しているK国の金xxの代表団の
可能性もあるが、金xxの姿は目撃されていない。

 周辺は早朝から厳重な警戒態勢が敷かれ、ホテルは入り口に金属探知機を設置、15日ま
で一般客の予約受け付けを中断している。同ホテルの従業員の1人は「金xx一行をお迎えし
ている」と述べた。車列は約1時間半後に再びホテルを出発、視察に向かったとみられる。

 外交筋は、金xxが今後の経済改革に中国の経験を反映させるため、中国の改革・開放政策
を象徴する広州や深センなどの経済開発特区を視察することも予想されるとしている。

 ここで注目すべき点は、「中国を訪問しているK国の金xx総書記の代表団の可能性もある
が、金総書記の姿は目撃されていない」というところ。

 一方、金xxの目撃も、各地で報告されているが、「その可能性がある」(時事通信)という程
度。本当に、金xxは、広州にいるのか。それともいないのか。ふつうの常識からすれば、「視
察」という以上、リムジンから外に出て、直接その場の雰囲気を肌で触れるため、そこに立た
なければならない。当然、現地の人たちや、マスコミの目に触れることになるが、それはしかた
のないこと。

 外からは中が見えないようなリムジンに乗って、金xxは、いったい、何を視察しようとしている
のか?

 ……と考える前に、今回の電撃的な中国訪問には、いくつかの謎がある。それが「電撃的」
であった点もさることながら、どうして今なのか? どうしてこうまで小細工に小細工を重ねてま
で、遠く、広州の経済開発特区を視察しなければならないのか。

 隠密行動といいながら、その一方で、わざと目立つように、リムジンほか、大型乗用車を、5
0台もつらねている?

 私は、今回の中国訪問には、もっと大きな秘密が隠されていると思う。韓国の朝鮮N報です
ら、「非正常な訪問」と位置づけている。その謎を解くヒントとなっているのが、実は、金xxが、
北京到着と同時に、健康診断を受けているということ。韓国の中央N報は、つぎのように伝えて
いる。

 「 別の関係者は『金委員長は北京到着直後、彼を担当する医療陣から健康診断を受けたと
いうことだ』とし、『深刻な状況ではないが、健康状態があまりよくないらしい』と述べた。また北
京の宿所は以前、訪中際に宿泊した外国貴賓用釣魚台ではなく、市郊外の別荘であるという
ことだ」(1月12日)と。

 こうまで秘密主義にかたまった隠密行動の中で、こうした(事実?)がもれてきたこと自体、不
思議なことである。金xxは、健康診断を受けたというが、これこそ、K国が、もっとも秘密にしな
ければならないことである。

 私の推測によれば、(憶測に近いが……)、事実はこうではないか。

 金xxは、北京に到着したあと、ずっと、北京に残って、何らかの医療的治療を受けている。中
国南部への視察は、金xxのそっくりさん、つまり替え玉を使った、いわばダミー視察。つまりマ
スコミや世界の目を、北京からそらすための、カモフラージュ。

 金xxの健康状態がよくないことは、以前から、話題になっている。持病の糖尿病のほか、い
ろいろあるらしい。ときに浴びるように酒を飲んでいるといううわさもある。こうした健康状態
は、かいま見る写真などによっても、わかる。

 ブヨブヨに太った、しまりのない体。化粧をしても、その化粧では、ごまかせないほど、顔色は
よくない。そういう人を、健康な人とは、だれも思わない。

 私は、私の推理が正しいとするなら、今回の中国訪問は、それだけ緊急を要したから、と考
える。たとえば心筋梗塞や脳梗塞のような、血栓症による何らかの病変を起こした、とか。だい
たいにおいて、「深刻な状況ではないが、健康状態があまりよくないらしい」というような金xx
が、遠く広州まで、出かけていくだろうか。

 「国の将来を考えて、命がけで視察」と言えば、聞こえはよいが、金xxがそんな人物でないこ
とは、客観的なほかの事実でも、わかるはず。

 K国では、スーパーマン以上のスーパーマンとして、あがめ奉(たつま)られている金xxだが、
それは映画の世界での話。やがて事実は明らかにされるだろうが、私は、今回の中国訪問の
目的は、十中、八、九、金xxの病気治療のためとみている。

 さて、事実は、どこにあるのか? 興味津々(しんしん)。
2006/01/25


Hiroshi Hayashi+++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(032)

●権威主義

+++++++++++++++++

はびこる権威主義。
その権威主義について原稿を書いたら、
先日、BLOGの書きこみに、こんなのがあった。

「日本には、権威主義は、もうないと思いますが。
はやし先生は、日本のどこをどのように見て、
権威主義的だと言うのでしょうか」と。

本当にそうだろうか?
そう考えてよいのだろうか?

++++++++++++++++++

 権威主義というものが、どういうものか? それを示す、こんな記事がある。まずその記事を
そのまま、紹介する。あなたはこの記事を読んで、どこにどのように、その権威主義を感ずる
であろうか。

 その前に、その予備知識として、隣の韓国でこんな事件があったことを思いだしてほしい。何
でも、ソウル大学に、とんでもない教授がいて、インチキ論文で、世界中をだましたという事件
である。日本にも、藤木S一という、これまたどえらいインチキ考古学者がいたが、その藤木S
一の比ではない。

 だました相手は、世界。目標は、ノーベル賞。しかも、国家の英雄として!

 それについて、T報(韓国の新聞社)は、つぎのように報道する。

 「問題のU教授は、大学を罷免されることになるだろう。詐欺罪を適応されるかもしれない。
目下、政府内部でその処分を検討中。将来は、獣医くらいならできるだろうが、研究者としての
地位は、絶望的である」(06年1月)と。

 そのU教授は、韓国でも最高の科学者として認定され、毎年、3億円以上もの研究費が国か
ら支給されていたという。

 で、この記事のどこがどのように、権威主義的か、みなさんには、それがわかるだろうか。も
う一度、この記事をじっくりと読んでみてほしい。そこには、こう書いてある。

 「獣医くらいならできるかもしれないが……」と。

 この文章を読んだら、獣医をしている人は、どう感ずるだろうか。獣医といっても、相手が動
物というだけで、その責任の重大さという点では、人間を相手にする医師と、立場は何もちが
わない。

 しかしT報は、「獣医くらいなら」と言いきっている。実は、ここに、権威主義が隠されている。

 大学の研究者は、トップ。医師は、そのつぎ。その世界で、最下位に位置するのは、獣医、
と。しかも、だ。こういう記事を、そこらの一介の新聞記者程度の人間が書いているところが恐
ろしい。

 何というごう慢さ! つまりそのごう慢さの背景にあるのが、私が言う「権威主義」である。つ
まりその記者は、無意識のうちにも、人間の価値を、権威主義によって、格づけしている。そし
てその結果として、「獣医くらいならできるかもしれないが……」と。

 そう、この記事を読んだら、獣医をしている人は、怒るだろう。怒って、当然。獣医をしている
人は、そのインチキ学者と同レベル。あるいはそれ以下(?)ということになる。人間に上下は
ない。職業に上下はない。しかし韓国では、いまだにそういった上下意識が、ハバをきかせて
いる。

もう3年ほど前になるだろうか、 私も、ある研究者から、こんなことを言われたことがある。こ
の話は、当時、私のマガジンでも取りあげた。覚えている人も多いと思う。その研究者は、こう
言ってきた。

 「田舎のおばちゃん相手に、講演をして、何になるのか。あなたの書いているようなことは、お
ばちゃんたちを感動させることはできても、学問的には、一片の価値もない」と。

 ある都市の国立大学で、ある学部の学部長をしている人からの意見だった。何度もメール
で、議論を戦わせたあとでの意見だったので、私は、「世の中、そういうものだろうな」と、その
ときは、そう納得した。

 しかしこういう権威主義は、今でも、日本中にはびこっている。

 先日もあるオーディションを紹介する番組を見ていたら、こういうシーンが出てきた。何でも俳
優の世界にも、中央(東京や大阪)で活躍する、メジャー俳優と、地方から外に出られないマイ
ナー俳優というのがいるらしい。

 で、その俳優志望の若い女性は、俳優になるためのオーディションを受けた。結果は、最終
審査で不合格。1人の審査員(テレビによく顔を出す俳優)が、その若い女性にこう言った。「中
央で、(メジャー俳優として)活躍するのは、無理でしょうね」と。

 まるで「中央で活躍できないような俳優は、俳優ではない」というような言い方だった。しかし
それにしても、いやな言い方だった。

 総じて言えば、「権威主義」は、「格づけ(=ランク分け)」によって、成りたっている。もっと言
えば、上下意識。そしてその「上下」は、権力や、財力、知名度、家柄、団体での地位などによ
って決まる。大切なのは、「能力」なのだろうが、その能力まで、格づけによって決められてしま
う。

 数年前のことだが、ある野球チームの監督の妻と、ある演劇劇団の女座長をしている女性と
が、連日、マスコミの世界で、大激論を繰りかえしたことがある。発端は、監督の妻の、学歴詐
称事件だったように記憶している。

 そのときも、その監督の妻は、女座長をしている女性を批判して、こう言っていた。「私はメジ
ャーリーグの人間だが、あの人は、マイナーリーグの人間よ」と。このときも、まるで「マイナーリ
ーグの人間には、価値はない」というような言い方だった。

 一般論として、権威主義者というのは、独特の雰囲気をもっている。まず相手を、肩書きや地
位で判断する。そうした判断を、瞬時のうちにやってのける。そして自分より(目上の者?)に
は、必要以上にペコペコし、(目下の者?)には、尊大ぶった言い方や態度をする。

 そして平気で、こう言い切る。「男が上で、女が下」「夫が上で、妻が下」「親が上で、子が下」
と。つまりこうした意識が集合されて、「獣医くらいならできるかもしれないが……」という発想に
つながる。

 その象徴的人物が、あの水戸黄門である。それについて書いた記事(中日新聞掲載済み)
を、紹介する。

++++++++++++++++++

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではな
い。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってき
た。総勢30人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国
旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」
と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていた
らしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。まったく通用しない。よい例があの
テレビドラマの『水戸黄門』である。今でもあの番組は、平均して20〜23%もの視聴率を稼い
でいるという。

が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団
のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだ
のと同じ。あるいはどこがどう違うのか。が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある
日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それ
でも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人の
ように電話のかけ方を変える人は多い。

私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。相手が大学の教授であったりすると、「ハ
イハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたします」と言ったあと、私のような地位も肩書きも
ないような人間には、「君イ〜ネ〜、そうは言ってもネ〜」と。しかもそういうことを、若い、それ
こそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうしているから、おかしい。つまりその
「無意識」なところが、日本人の特性そのものということになる。

 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明
しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振り
まわす。「親に向かって何だ!」と。

子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキ
レツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶ
る。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。ウソだと思うなら、あなた
の周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威主義の人もいるだろう。そ
うでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、その親子関係はぎくしゃく
しているはずである。

ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、た
だニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。このこと
は「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから35年あまり。日本も変わったが、基本的に
は、今もつづいている。

++++++++++++++++

内容はダブりますが、同じような
内容で書いた原稿をいくつか、
ここに掲載しておきます。

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●価値観の衝突を防ぐにはどうするか

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じて
いるから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でも
このタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。

 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ
葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのド
ラマは視聴率を、20%以上も稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど
痛快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞
いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」
と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70歳)は、息
子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済にあ
ててしまった。

息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子のお金を使って
何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「たとえ親でも悪
いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことがあっても、子ども
に頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほ
とんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観
が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは
言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもし
れないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。

ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれな
いが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶっ
た分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツ
が入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方では
ない。ちなみに、小学生六年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さん
が、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親
なのだから、謝るべきではないのか」と。すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝る
べきだヨ〜」と。これがこの日本の流れであり、もうその流れを変えることはできない。

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●権威主義は断絶のはじまり

 「私は親だ」というのが、親意識。この親意識が強いと、子どもはどうしても親の前でいい子ぶ
るようになる。もう少しわかりやすく言うと、仮面をかぶるようになる。その仮面をかぶった分だ
け、子どもの心は親から離れる。

 親子の間に亀裂を入れるものに、三つある。リズムの乱れと相互不信、それに価値観のズ
レ。このうち価値観のズレの一つが、ここでいう親の権威主義である。もともと権威というの
は、問答無用式に相手を従わせるための道具と考えてよい。「男が上で女が下」「夫が上で妻
が下」「親が上で子が下」と。

もっとも子どもも同じように権威主義的なものの考え方をするようになれば、それはそれで親子
関係はうまくいくかもしれない。が、これからは権威がものを言う世界ではない。またそういう時
代であってはならない。

 そこであなた(あなたの夫)が権威主義者かどうか見分ける簡単な方法がある。それには電
話のかけ方をみればよい。権威主義的なものの考え方を日常的にしている人は、無意識のう
ちにも人間の上下関係を判断するため、相手によって電話のかけ方がまるで違う。地位や肩
書きのある人には必要以上にペコペコし、自分より「下」と思われる人には、別人のように尊大
ぶったりいばってみせたりする。

このタイプの人は、先輩、後輩意識が強く、またプライドも強い。そのためそれを無視したり、
それに反したことをする人を、無礼だとか、失敬だとか言って非難する。もしあなたがそうなら、
一度あなたの価値観を、それが本当に正しいものかどうかを疑ってみたらよい。それはあなた
のためというより、あなたの子どものためと言ったほうがよいかもしれない。

 日本人は権威主義的なものの考え方を好む民族である。その典型的な例が、あの「水戸黄
門」である。側近のものが三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、周囲のもの
が皆頭をさげる。ああいうシーン見ると、たいていの日本人は「痛快!」と思う。しかしそれが痛
快と思う人ほど、あぶない。このタイプの人は心のどこかでそういう権威にあこがれを抱いてい
る人とみてよい。ご注意!

++++++++++++++++++++

【権威主義緒は、親子断絶のはじまり】
(「ファミリス」投稿原稿)

●親意識の背景に権威主義

 「私は親だ」という意識を「親意識」という。たとえば子どもに対して、「産んでやった」「育てて
やった」と考える人は多い。さらに子どもをモノのように考えている人さえいる。

ある女性(60歳)は私に会うとこう言った。「親なんてさみしいものですね。息子は横浜の嫁に
取られてしまいましたよ」と。息子が結婚して横浜に住んでいることを、その女性は「取られた」
というのだ。

日本人はこの親意識が、欧米の人とくらべても、ダントツに強い。長く続いた封建制度が、こう
した日本人独特の親意識を育てたとも考えられる。

●上下意識と権威主義

その親意識の背景にあるのが、上下意識。「親が上で、子が下」と。そしてその上下意識を支
えるのが権威主義。理由などない。「偉い人は偉い」と言うときの「偉い」が、それ。日本人はい
つしか、身分や肩書きで人の価値を判断するようになった。

ふつう権威主義的なものの考え方をする人は、自分のまわりでいつも、人間の上下関係を意
識する。「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」と。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩と
考える。そして自分より立場が上の人に向かっては、必要以上にペコペコし、そうでない人に
はいばってみせる。私のいとこ(男性)にもそういう人がいる。相手によって接し方が、別人のよ
うに変化するからおもしろい。

●親意識は親子を断絶させる

 この親意識が強ければ強いほど、子どもにとっては居心地の悪い世界になる。が、それだけ
ではすまない。子どもは親の前では仮面をかぶるようになり、そのかぶった分だけ、心を隠
す。親は親で子どもの心をつかめなくなる。そしてそれが互いの間に大きなキレツを入れる…
…。

昔は「控えおろう!」と、三つ葉葵の紋章か何かを見せれば、人はひれ伏したが、今はそういう
時代ではない。親が親風を吹かせば吹かすほど、子どもの心は親から離れる。ものの考え方
が県主義的な人は、あなたというより、あなたが育った環境を思い浮かべてみてほしい。あな
た自身もその権威主義的な家庭環境で育ったはずである。

そして今、あなた自身があなたと親の関係がどうなっているか、それを冷静に見つめてみてほ
しい。たいていはぎくしゃくしているはずである。たとえうまくいっている(?)としても、それはあ
なた自身も権威主義的なものの考え方にどっぷりとつかっているか、あるいは親に対して服従
的もしくは親離れできていないかのどちらかである。

●変わりつつある日本人の意識

 こうした私のものの考え方に対して、とくに男性の立場から、「父親の権威は必要だ」と反論
する人は多い。「父親は家の中でもデ〜ンとした存在感さえあればいい」と。いや、父親どころ
か、「夫の権威」にこだわる人さえいる。

今でも「女房や子ども食わせてやる」と暴言を吐く夫はいくらでもいる。が、こうしたものの考え
方は、これからの日本ではもう通用しない。そのひとつのあらわれというべきか、家事をまった
く手伝わない夫がまだ50%以上もいる一方(国立社会保障人口問題研究所調査・2000
年)、そうした夫に不満をもつ妻がふえている。

厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、全国家庭動向調査」(98年)によると、「家事、
育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・7%しかいない。この数値は、前回93年のとき
よりも、10ポイント近くも低くなっている(93年度は、60・6%)。今、日本人は、大きな転換期
にきているとみてよい。

●親は友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。「親には三つの役目がある。親は、ガイドとして子ど
もの前を歩く。保護者として子どものうしろを歩く。そして友として子どもの横を歩く」と。日本人
は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、友として横を歩くのがヘタ。ものの考え方が権威
主義的な人は、今日からでも遅くないから、子どもと一緒に横を歩いてみてほしい。今まで聞こ
えなかった子どもの声が聞こえてくるはずである。

++++++++++++++++

日本の常識、世界の非常識(中日新聞投稿済み)

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度とい
う(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」が
わからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひ
れ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪い
ことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国
宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そう言って居直った)と称して、手玉にして遊
ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族
は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人
だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論には
じゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマ
ザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)は、
かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪お
とうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってる
よ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くと
したら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておい
たよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと
温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%
の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と
いう考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++++++++++++++

 要するに、いまだに、日本人は、あの封建時代の亡霊を、ひきずっているということ。身分制
度という亡霊である。世の中には、その封建時代を美化し、たたえる人も少なくないが、本当に
そんな世界が理想の世界なのか、またあるべき世界なのか、もう一度、冷静に考えなおしてみ
てほしい。
(はやし浩司 権威主義 権威主義者 親子の亀裂 断絶)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

●仕事ができる喜び

++++++++++++++

仕事ができる喜び。
私は人生58年目にして、
はじめてそれを知った。

++++++++++++++

 私は、満58歳になった。幼児を教えるようになって、36年目になった。その私が、おかしなこ
とだが、本当におかしなことだが、この年齢になってはじめて、いわゆる(仕事ができる喜び)を
感じ始めるようになった。

 とくに今年の正月は、最悪だった。軽いインフルエンザがきっかけで、いくつかの雑病を併
発。暮れの29日から、正月の5日ごろまで、連日、37〜38・5度の熱と悪寒に、繰りかえし、
襲われた。苦しんだ。

 ときどき「もう、だめだ」と思った。「こんな調子では、今年は、とても仕事は、つづけられない」
と思った。

 しかし正月休みが終わり、いつものように自転車にまたがってみた。すると、驚くなかれ。何
と、足だけは、スイスイと動くではないか! 教室のある街までの途中には、ゆるいが、長い、
ダラダラ坂がある。「今年は、だめだろうな……」と思っていたが、その坂でさえ、途中で休むこ
ともなく、登ることができた! うれしかった!

 とたん、心をおおっていた、モヤモヤした黒い霧が、パッと晴れた。「まだまだ、できる!」と、
声には出さなかったが、心の中で、そう叫んだ。

 ……というような話を若い人に言っても、ピンとこないかもしれない。しかしこの年齢になる
と、老いゆく自分の姿や形を見ながら、いつも「どこまでがんばれるのだろう」と思うことが多く
なる。将来への不安は、いつも、影のように、自分につきまとう。

 一方、まだ仕事をやめる年齢ではない。悠々(ゆうゆう)自適の隠居生活というが、そんな生
活には、私は興味はない。またそんな生活に、どんな意味があるというのか。またそんな生活
をしたからといって、それがどうだというのか。5年を1日のように生きるだけ。10年を1日のよ
うに生きるだけ。しかしそれこそ、時間というより、命の無駄。だから私は、働く。死ぬまで、働
く。

 が、その気持ちも、大きな壁にぶつかる。ぶつかって、容赦なく、はねとばされる。その気持
ちはあっても、体力や気力がつづかない。とくに今度のように、病気になったときは、そうだ。

 が、私は、健康だった。体が動いた。気力が動いた、子どもたちの声を聞いたとたん、心が
パッと晴れた。

 その私は、健康のありがたさを、しみじみと感じている。おかしなことだが、本当におかしなこ
とだが、私は、人生58年目にして、仕事ができる喜びを感じ始めている。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老人よ、働こうよ!

++++++++++++++++

くだらない隠居生活など、
考えてはいけない。

私たちは、働く。死ぬまで働く。
それこそ、健康なものだけがもつ、
特権なのだ。

働くことを、決して、損と考えては
いけない。

++++++++++++++++

 2007年問題というのがある。この年、団塊の世代が、いっせいに退職を開始する。そのた
め、2007年以後、日本の労働力は急減。社会にも大きな影響をおよぼすという。それが200
7年問題。

 かなり深刻な問題らしい。

 しかし悲観的になることはない。その団塊の世代が、またまたがんばり始めている。書店に
も、その種の本が並ぶようになった。「団塊パワー」(仮称)とか、何とか。

 私も、昭和22年生まれの、その団塊の世代の1人。だが、60歳になったからといって、引退
したり、仕事をやめる気は、毛頭、ない。もっと言えば、年齢など、関係ない。死ぬまで現役。
仕事をやめるときイコール、年貢の納めどき。

 さあ、老人たちよ、働こうではないか。働けば働くほど、世のため、人のため。そして自分の
ため。「道楽」と「仕事」のちがいなど、今さら、説明するまでもない。緊張感がまるでちがう。そ
の緊張感が、自分を若返らせる。健康にもよい。だから働く。責任をもって、働く。

 もし働ける老人たちが、75歳まで働いたら、日本の少子化問題は、吹き飛んでしまうという
(某総合誌)。かなりおおまかな計算だが、そういうことらしい。もちろん病気になったりする人も
いるだろう。健康な老人は、そういう人たちの分まで働けばよい。

 しかしそれは決して、損なことではない。働くということを、損と考える人もいるかもしれない。
しかし毎日、毎日、庭木の手入れができたとしても、それが本当に「得をした」ということになる
のか。

働く、働けるということは、それ自体が、すばらしい財産なのだ。価値なのだ。健康な人は、そ
の特権にこそ、目を向けるべきである。そして喜ぶべきである。損得の勘定は、そのあとに考
えればよい。

【補記】

 仕事を、責務と考えている間は、働く喜びは、わいてこないのではないか。それに働く喜びと
いうのは、働けなくなった苦しみの反射的効果としてわいてくるものであって、一度は、その苦
しみの洗礼を受けなければならない。

 「生活のため」「お金のため」「家族のため」と考えながら働いていると、どうしても、そこに責
務感がともなう。その責務感が、時として、自分がしている仕事を、重く、苦しいものにする。

 限りある人生の中で、その先に限界を感じながら、つまり今を生きる証(あかし)として、働く。
そういう追いつめられた気持が、働くことに、喜びをそえる。だれのためでもない。もちろん自
分のためでもない。昔の狩人(かりうど)が、生きるために狩をしたように、生きるために働く。
その実感が、ここでいう働く喜びということになる。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●繊細な感覚

+++++++++++++++++++

ボケの初期症状の一つに、周囲の人や
人の心の動きに、鈍感になることが
あげられる。

つまり、繊細な感覚がなくなり、
ものの言い方や態度が、どこかつっけんどんになる。

しかし自分で、それに気づく人は少ない。
他人に指摘されても、それを理解できる人はいない。

この問題には、脳みそのCPU(中央演算装置)が
からんでいるだけに、ことは、やっかいである。

++++++++++++++++++++

●自分を知る

 ボケ始めた人が、それを自分で知るためには、どうすればよいのか。もの忘れがひどくなっ
たとか、生活習慣がだらしなくなったとか、ある程度のことは、自分でそれを知ることができる。

 しかしそれも、ある程度までの話。その程度を超えると、とたんに、それがわからなくなる…
…らしい。「あなた、少しボケてきたんじゃないの?」と指摘しても、「私は、ふつう」「だいじょう
ぶ」と言って、がんばる。

 私の身近に、Aさんという女性(今年65歳くらい)がいる。昔から、1年に1度くらいの頻度で、
何らかの機会に会ったり、話をしたりしている。そのAさん、このところ、少し様子がおかしい。
急速に繊細さが消え始めた。

 私が微妙な話をしても、それが通じない。トンチンカンというか、ヌカにクギというか、反応が
まるでない。「だから、それがどうしたの?」というような返事をする。そこで私が、「たいへん深
刻な問題だと思いますが……」と、うながしても、「あら、そう?」で終わってしまう。

 私は、Aさんが、認知症の一歩手前か、すでに認知症の段階に進んでいるのではないかと思
う。で、そのAさんを見ながら、先日は、こんなことを考えた。

 「どうすれば、Aさんは、自分でそれに気づくことができるか」と。

 で、あれこれ考えてみたが、結論は、「無理だろうな」ということ。先にも書いたように、この問
題には、脳みそのCPUがからんでいる。つまりCPUそのものが、変調するため、自分を客観
的に見たり、判断することができなくなる。自己認識したり、自己評価したりすることができなく
なる。

 Aさんのばあいも、私が何かの意見を言ったりすると、その10倍くらいの反論が返ってくる。
よくしゃべる。しかし一方的な反論で、ほとんど意味がない。薄っぺらい。中身がない。脳みそ
の表層部分に飛来する情報を、そのままペラペラと音声にかえているだけといった感じ。

 しかしまさか、「脳の検査を受けてみたら」と言うわけには、いかない。仮に何らかの処置をし
たところで、それで認知症がなおるわけではない。進行の速度を遅くすることはできるらしい
が、そこまで。

 ……ということで、Aさんの話はここまでにして、では、私たちはどうしたらよいのか。どうすれ
ば、自分を知ることができるか。認知症なら認知症でもよい。どこまで自分の認知症が進んで
いるかを、どうすれば、知ることができるか。

 私のばあいは、こうしてほとんど毎日、何らかの文章を書いている。だから、その文章を比較
することで、ボケの進行度を、ある程度、知ることができる。5年前に書いた文章や、10年前
に書いた文章を読みなおしてみる。そして今、書いている文章と比較しながら、その(深さ)や
(鋭さ)を、知ることができる。

 (深さ)や(鋭さ)が鈍っていれば、それだけ、脳みその活動が鈍ってきたことを意味する。ボ
ケが始まっていることを意味する。

 そういう視点で見ると、たしかに、ここ1、2年、その(深さ)や(鋭さ)が鈍ってきたように思う。
文章も、くどくなってきた。視野も狭くなってきた。独断と偏見も多くなってきた。ときに自分で書
いた文章が、高校生が書いた作文のように思えるときもある。

 たしかに私も、ボケ始めている?

 では、文章を書かない人たちは、どうすれば、自分の認知症の程度を知ることができるか。

 やはり、それには、「テスト」ということになる。ちょうど受験生たちが、ときどき模擬テストを受
けるように、50歳を過ぎたら、定期的に、テストを受ける。科目は、算数、国語の2科目でよ
い。

 そういうテストを定期的に受けて、自分の脳みその具合を知る。これはたいへん有意義なこ
とである。たとえば新聞社主催でよい。年に1回程度、そういうテストを新聞に載せてみる。そし
て年ごとの変化をグラフ化して、自分の脳みその状態を知る。「06年のテストでは、87点だっ
た。しかし07年のテストでは、56点しか取れなかった。だから私の脳みそは、かなり老化して
いるぞ」と。

 簡単にテストをしようと思えば、小学6年生程度(小3程度でもよい)の内容の算数と国語の
問題を出してみればよい。そういうものを利用すればよい。

 ナルホド! これはたいへんよい思いつきである。どこかのだれかがすれば、一つのビッグ・
ビジネスになるかもしれない。その気のある人がいれば、やってみたらどうだろうか。ここで私
は、「たとえば新聞社主催でよい……」と書いたが、新聞のような身近な媒体を使って、全国的
にするところに意味がある。またそのほうが、より客観的なデータを手に入れることができる。

 一度、だれか、考えてみてくれないだろうか。
(はやし浩司 ボケテスト 認知症テスト 認知症診断テスト ボケ診断テスト)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(033)

【ボケと人格の後退】

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「あの人が……?」

++++++++++++++++++

50代、60代のころは、人一倍、
しっかり者に見えた女性。

そういう女性が70歳になるころから
急速にボケ始める。

そういう例は、多い。だからそういう
人の話をすると、たいていの人は

こう言って、驚く。
「エッ、あの人が……!」と。

+++++++++++++++++++

 私の義理の姉の母が、つい先日、亡くなった。数年前に聞いたときには、まだらボケというこ
とだった。しかし晩年は、かなりボケていた。とくにもの忘れがひどく、「サイフが盗まれた」と
か、「嫁が、財産を使い果たした」とか、そんなことを、よく口にしたという。

 その義理の姉の母は、私が知るかぎり、若いころは、しっかり者で、口達者。しゃきしゃきとし
た感じの人だった。もしそのころのその人のことを知ったら、みな、こう思うだろう。「この人だけ
は、ボケないな」と。

 しかしそんな人でも、ボケた。ボケたまま、亡くなった。

 で、私が知るかぎり、このタイプの人には、女性が多いということ。少なくとも、私が話に聞く
のは、女性ばかり。男性は、いない。男性のばあいは、ボケ始めると、がんこになったり、無口
になったり、引きこもったりする。

 そこでまず考えてみるのが、女性特有の多弁性。よくしゃべるから頭がよいとか、そうでない
から頭が悪いとか、そういうことは関係ない。そのことは、子どもの世界を見ればよくわかる。
よくしゃべる子どもイコール、頭のよい子ということにはならない。たとえばAD・HD児でも、女
児のばあいは、ふつうでない多弁性となって症状が現れることが多い。

 しゃべるといっても、その内容、である。いくつかの特徴がある。

(1)ペラペラと一方的に、間断なく、よくしゃべる。
(2)考えてからしゃべるというよりは、脳に飛来する情報をそのまま音声にかえているといった
ふう。
(3)言っていることの内容が浅い。こまごまとしたことを、つなげて話す。
(4)繰りかえしが多い。同じ内容のことを、繰りかえし、話す。
(5)相手の言うことを聞かない。聞いても上(うわ)の空。
(6)繊細で、微妙な会話ができない。
(7)視線が定まらない。ときに死んだ魚のような目つきになる。

 つまりその人の思考力と、多弁性は、関係ないということ。そのことは、その人の話している
内容を、よく吟味すれば、わかる。

(1)一貫性がない

 話している内容が、ポンポンと飛んでいくことがある。野菜の話をしていたかと思うと、「ああ、
そうだ」とか何とか言って、今度は、寺の話をし始めたりする。

(2)論理性がない

 「寒いから困った」「雪が降ったから困った」というようなことは言う。しかしなぜ今年はそうな
のかということまでは、考えない。原因として、このところの異常気象があり、さらには、地球の
温暖化の問題がある。そういう話題に切りかえようとすると、とたん、「私には、そういう話は、
むずかしいから、わからない」と逃げてしまう。

(3)情報、知識の欠落

 このタイプの人は、ほとんどといってよいほど、本を読まない。雑誌も読まない。テレビを見て
も、ただぼんやりと見ているだけ。そのことは、その人の周辺を観察すればわかる。本や雑誌
らしきものが、まったくない。新しい情報や知識を吸収しようという意欲そのものを、感じない。

(4)生活範囲の縮小

 自分の世界だけで、生きているといった感じになる。自己中心的で、ものの考え方が利己的
になる。そして年齢とともに、その世界を、どんどんと、小さくしていく。自分の損得に関係する
ことには、極端に敏感になったり、それ以外のことには、極端に鈍感になったりする。

(5)一般的なボケ症状

 こうした症状と並行して、一般的なボケ症状が現れるようになる。物忘れがひどくなったり、感
情が鈍麻したりするなど。被害妄想がひどくなることもある。

 以上、気がついたままを書いてみた。が、ボケることによる最大の問題は、(1)人格の後退
と、(2)人格の崩壊である。

 その人の人格の完成度は、「情動(こころ)の知能指数」、つまりEQによって測定される。そ
の「EQ」について、以前、書いた原稿を添付する。ボケるということは、人格の完成に向った動
きと、正反対の動きになると考えると、わかりやすい。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

●【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成)

+++++++++++++++++++++

ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて
考えてみたい。

それを診断テストにしたのが、
つぎである。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてあります。集計結果などは、H
Pのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。)

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(3)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(4)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

++++++++++++++++++++

●では、どうすればよいか?

 脳ミソが機質的に変化してボケるというのは、これはどうしようもない。しかし機能的に変化し
てボケるという部分については、私たちの努力で、何とかなるのではないか。

 脳ミソの健康論は、何度も書くが、そういう点では、肉体の健康論と、よく似ている。日々の絶
え間ない運動が、肉体の健康を維持するように、日々の絶え間ない思考が、脳ミソの健康を維
持する。つまり、考えるということ。日々に新しいものに興味をもち、それにチャレンジしていくと
いうこと。

 補う程度では足りない。私の実感としては、年を取ればとるほど、脳ミソの底に、大きな穴が
あく。その穴から、容赦なく、知識や経験、技術や知恵、さらには人格までもが、下に落ちてい
く。だから、下に落ちていく以上のものを、私たちは日々の生活の中で、補給しなければならな
い。

 若いころは、さほど運動をしなくても、ある程度の健康を維持できる。しかし年を取ればとる
ほど、そういうわけにはいかない。運動のもつ重要さが、ます。しかもその運動は、きびしいも
のとなる。少しサボれば、その時点から、健康は、下り坂に向う。

 同じように、脳ミソの健康を維持するためには、若いとき以上に、脳ミソを鍛えなければなら
ない。方法は、簡単。

 考える。考えて、考えて、考え抜く。1つのヒントとして、フランスの哲学者のモンテーニュ(15
33〜92)は、こう書き残している。

「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)
と。これは私にとっては、座右の銘になっている。参考までに!
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(034)

【近ごろ・あれこれ】

●重要文化財・中村家

 浜松市の西、車で、あと5分で浜名湖というところに、「中村家」という、江戸時代の旧庄屋家
が、復元されて、観光客を集めている。

 中村家といえば、江戸時代の大庄屋である。徳川家康とのゆかりも深く、徳川家康の側室、
お万の方が、家康の第二子である、於義丸(おぎまる)を、この中村家でもうけている。天正2
年(1574)、2月8日のことだそうだ。

 係の女性にあちこちを案内してもらったが、驚いたのは、「切腹の間」というのがあったこと。
四畳半の狭い部屋だったが、その部屋だけは、壁が朱色に塗られていた。案内の女性は、こ
う言った。「当時は、少しでも何かあれば、すぐ切腹を命じられました。そのための部屋です」
と。

 また玄関の右横には、使用人専用の部屋があった。全体でも八畳ほどの細長い部屋だっ
た。ただ寝るだけの部屋だったという。窓は、まったくなかった。

 「使用人は、代々、使用人で……」と。今のように、仕事ぶりに応じて、地位や役職があがる
ということはなかった。

私「一生、使用人のままですか?」
女「そうでしょうね。しかし当時は、中村家の使用人になるというだけでも、名誉なことだったそ
うですよ」
私「……」と。

 横で話を聞いていたワイフが、何度も、「そんな時代に生まれなくてよかった」とつぶやいた。

 それにもう一つ驚いたことは、あちこちに、泥棒対策がほどこされていたということ。部屋を仕
切る敷居も、高さが20センチほどあった。「泥棒が、足をひっかけて、つまずくようにしたため
です」と。案内の女性は、笑いながら、そう説明してくれた。バリヤーフリーではなく、まさに敷居
がバリヤーになっていた。それに外と内を仕切る戸にしても、どれも、外からはあけられないし
くみになっていた。

私「泥棒が、多かったのですか?」
女「あちこちで一揆が起きるほどでしかたらね。庄屋はよく、ねらわれたのでしょうね」
私「なるほどねエ……」と。

 こういう旧家を見ると、私はすぐトイレの話をする。「トイレはありましたか?」と。

 案内の女性によれば、身分に応じて、7か所もトイレがあったそうだ。「フ〜ン」と驚いたり、感
心したり……。

 現代建築にも負けない、立派な庄屋である。デザインもすばらしい。カヤぶきの、丸みを帯び
た屋根。ほっとするようなぬくもりを感ずる家。その家を中心に、無数のドラマが展開されたの
だろう。柱に残された無数のキズを見ながら、心のどこかでふと、そんなことを考える。

 ところで、その女性の案内を聞きながら、こんなことも思った。「ずいぶんと私もボケたもの
だ」と。

 徳川家の家系図を見ながら、その女性はなれた口調で、ペラペラと、歴代の人物の名前を
説明してくれた。が、どれも私の頭の中に残らない。「14代目はだれだれで、15代目はだれだ
れで……。その15代目のときに、何々があって……」と。

 あとでそのことをワイフに話すと、「私もわからなかった……」と。

 「ぼくはね、パソコンの前に座って、キーボードをたたいるときだけ、ものを考えることができ
る。ああいうところで説明を受けても、何も理解できない。考えることもできない。これはおかし
な現象だ」と。

 (考える)ことにも、作法というものがあるのか? あるいはそういう(作法)を、自分で作ってし
まったのか? よくわからないが、そういうときの私は、一方的に説明を聞くだけ。「ヘエ〜」と
か、「ホウ〜」とか。

 ただ一つだけ感じたことは、「やはり江戸時代という時代は、今とは比較にならないほど、窮
屈な時代だった」ということ。観光客の人たちは、そういう旧家を案内されると、自分が庄屋の
家主か何かになった立場でしか、もの考えない。しかし重要なことは、使用人、あるいはそうい
う庄屋にせきたてられて、年貢を徴収される農民の立場で、ものを考えること。 

 生まれながらに使用人は、使用人。農民は農民。そしてつぎの代までバトンタッチするまで、
使用人は使用人。農民は農民。それが江戸時代という時代の(現実)である。

 なお於義丸(おぎまる)を産んだときの胞衣(えな)(=後産)が埋められたという場所には、例
の葵の紋章がかかげられていた。家康お手植えの梅の木も残っていた。興味のある方は、ぜ
ひ、訪れてみてほしい。

 案内をしてくれた女性は、さかんに、「桜の咲く、春ごろがすばらしい」と言っていた。入場料
は、おとな200円。帰るとき、ワイフは、「また春に来ようね」と言った。私は、「うん」と言って、
それに答えた。

 そのとき取った写真は、
 http://bwhayashi.fc2web.com/page091.html
で、どうぞ!


●パソコンはなおして、使うもの

 丸5年使ったパソコン。そのパソコンのCD−RW、DVDユニットが、故障した。ガリガリと音
をたてるだけで、用を足さない。

 そこでF社に電話で相談すると、「修理費は2万3000円です」と。ついでに、「修理するくらい
なら、外付けのCD−RW、DVD−RWを買ったほうがいいですよ」というアドバイスを受けた。

 それで外付けのCD−RW、DVD−RWを買った。値段は、1万2000円ほど。

 が、先日、二男がアメリカから帰ってきたとき、そのパソコンを見て、こう言った。「パパ、その
部分だけ、新品と交換すればよかったじゃん」と。

 ナルホド! それには、気づかなかった。F社のパソコンだから、F社の純正の製品でなけれ
ば、交換できないと思いこんでいた。で、さっそく、近くのパソコンショップへ足を運ぶ。

 店員は、こう説明してくれた。「交換できます。値段は、3000円です」と。

 3000円と聞いて驚いた。F社が言った額の8分の1程度。さっそく、それを購入。家に帰っ
て、長男に手伝ってもらって、CD−RW、DVDユニットを交換する。

 で、恐る恐る電源をつなぎ、スイッチ・オン! ……ということで、無事、修理は完了。5年使っ
たとはいえ、当時、24万円で買ったパソコンである。簡単には手放せない。何というか、私にと
っては、愛人のようなもの。実際、それぞれにパソコンには、女性名をつけている。F社のパソ
コンは、「富士子」。P社のパソコンには、「パナ子」と。

 しかしそのため、そのパソコンには、ますます愛着心がわいてきた。かわいいというか、いと
おしいというか。「富士子、愛しているよ」とか、何とか。ハハハ。こういうのを、この世界では、
ビョーキと言うらしい。まあ、いいか。ビョーキでも、何でも……。愛人は、健康であるにかぎる。


●男と女

 いまだに私は、女性というものが、よくわからない。子どものころは、遊ぶといっても、男ばか
り。男とだけ遊んでいた。女と遊んだ経験がない。

 その上、幼稚園で働くようになってからは、私は、女性恐怖症になってしまった。母親恐怖症
というほうが、正確かもしれない。今でも、相手の女性を、「母親」と意識しただけで、ツンとした
緊張感を覚える。「女」をまったく感じなくなる。

 「女」は、私にとっては、ずっと謎だったし、今も謎。これから先、死ぬまで、そうだろう。

 が、こんな記事を読んだ。あちこちネットサーフィンをしていて、その瞬間、かいま見た記事な
ので、出典は忘れた。しかしこう書いてあった。

 「本来、女のほうが、男より、スケベなのです」と。

 どういうわけか、この記事には、少なからず、ショックを受けた。ウソかホントかは、別として、
私は、そんなことを、考えたこともなかった。私はずっと、男性のほうがスケベだと思っていた。
そのため、女性に対して攻撃的になりやすいと思っていた。

 しかし「女のほうが、男より、スケベ」とは? いったいこれは、どういうことなのか。男が女を
求める以上に、女は、いつも男を求めている、と。

 が、考えてみれば、思い当たるフシは、たくさんある。今の若い人たちを見ていると、女性の
ほうが積極的なような気がする。攻撃的であるかないかということになれば、女性のほうが、は
るかに攻撃的である。あのフロイトは、「すべての生きるエネルギーの源泉に、性的エネルギー
(リピドー)がある」と説いた。が、こと性的エネルギーに関しては、女性のほうが強烈なように
思う。

 とくに現代社会では、女性は「女」を意識してから、結婚するまでの期間が、短い。つまりその
間に、理想の「男」を手に入れなければならない。猛烈な勢いで、男をあさる。それはまさしく、
命をかけた戦いと言っても過言ではない。

 一方、男性は、そこまで追いつめられた気持ちはない。仕事にしても、「一生」というスパン
(時的間隔)で考える。結婚イコール、すべてという考え方をしない。

 で、男と女は結婚する。(しない人もふえてはいるが……。)が、その状態が、そのままつづ
く。結婚したからといって、その性的エネルギーが消えるわけではない。むしろ、女性のばあ
い、結婚したことによって、それまでの夢や目的、仕事を断ち切られてしまう。その不満という
か、うっぷんは、相当なもので、そのエネルギーが、今度は、育児や、ばあいによっては、「セッ
クス」に向う。

 だから「女のほうが、男よりスケベ」ということになるのか?

 女性のことがいまだによくわからない私が、こうした女性論を書くのは、危険なことでもある。
自分でも、それがよくわかっている。しかしあえて言うなら、所詮(しょせん)、セックスなんて、
無。スケベだからといって、どうということはないし、スケベでないからといって、これまたどうと
いうことはない。

 それはわかっているが、しかしその記事には、一瞬、ドキッとした。それを書いた人は、どん
な根拠があって、そう書いたのか。それを知りたくて、あちこちもう一度、ネットサーフィンをして
みたが、その記事を探し出すことは、二度とできなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(035)

●不登校(学校恐怖症・学校拒否症)の問題

++++++++++++++++++++

栃木県に住んでいる、Yさんから、息子(小2)
の不登校についての相談があった。

この問題について、少し考えてみたい。

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【Yより、はやし浩司へ(1)】

小2の長男が二学期末に胃腸風邪になり、回復しても学校で嘔吐して早退ということを二度繰
り返しました。その時ピンと感じましたが、そのまま冬休みに入ったので、冬休みは家族でのん
びり楽しく過ごしました。

始業式は普通に登校できました。が、昨日、通常の登校をするため玄関で靴を履きそうになっ
たとたん、『気持ち悪い。吐きそう』と訴えたので欠席させました。

その後は元気で弟とケンカしたり、一日遊んでいました。が、学校は行きたくない。三日休みた
いとのことなので、三日休ませることにしました。

先生の本に書いてある不登校の前兆だと思うので『誰だって休みたい時はあるよ』と言いまし
た。長男は二年前に神経症を発しています。

小1の4月からプレイセラピーに通っています。かなり安定して小1の冬にまた神経症が悪化
し、しばらくして回復。その後2年生になり驚くほど毎日元気に過ごしていました。

セラピーも終了間近でした。ちょっと疲れが溜まっているのかもしれません。そして、冬は彼が
2歳の時に家庭不和があったのでトラウマになっているのではと思います。だから冬になるとこ
うした症状が出るのではとも思います。不登校というのはついに来たかという感じです。

夫と私は今はとても良い関係で、関係修復後は長男の事をよく語り合い、反省し、考えていま
した。現在、神経症は出ていないものの、三日休んで、次に登校すると言った月曜に登校でき
るかなというなという不安はあります。

約束だから登校だけはさせるべきか、休んで単身赴任の夫の元へ遊びに行ってしまうか、家
でのんびりするか、迷っています。

先生に学校は行くべきものという考えを捨てなさいとお叱りを受けそうですが、まだ小2。弟とケ
ンカばかりするし、一日家で見ているのはとてもしんどいです。勉強も根気よく教える事ができ
ません。

今まで二度メールさせていただいて、先生の的確なアドバイスにとても助けられました。今回
も、簡単で結構ですので、迷っている私にどうかアドバイスをお願いします。


【Yより、はやし浩司へ(2)】

はやし先生

子どもの不登校について相談しています、U市のYです。

相談している私がこう書くのも変ですが、先生とても大変だったのですね。お体はもう大丈夫で
すか?

今度は急に暖かくなり、なだれも心配ですね。

さて、私の息子(小2)についてですが、先生のアドバイスで学校恐怖症を疑ってみるようにとの
事だったので、先生のHPから学校恐怖症の部分を読んでみました。

まさにそうです。今、前兆期です。ほんとうにピッタリとパターンに当てはまるので、驚くほどで
す。

昨夜も登校すると言っていて、今朝も通常通り支度をし、ランドセルをしょって、部屋を出ようと
したとたん血の気が引いたようになり、トイレへ駆け込みました。

しばらくすると落ち着いて、自分で欠席を決め、今は顔色も良く元気です。
先生のおっしゃる通りです。

そこで質問なのですが、無理をせず休ませて、その後はどのようにしていったら良いでしょう
か?

先生は本にもHPにも前兆期での対応が大切だと書かれています。いかにこの時期をとらえる
かと。

本には悪いパターンが書いてありますが、前兆期に無理をさせず対処した場合、今後どのよう
に推移していくのでしょうか?

私達は夫婦で、子どもが真面目タイプでがんばりすぎていたこと、弟のようにもっと甘えたかっ
た、そして疲れ果ててしまったのだと考えています。

でも、ずっとこのままずるずると家にいるのではという不安でいっぱいです。
休んだ一週間が、一ヶ月のように長く感じます。

この先もこれが続くかという閉塞感、不安感でいっぱいです。

もともと神経症がある子なので、無理強いしても無駄、逆に悪化するというのはわかっていま
す。

どうにもならないと思っても、今の状況では落ち着けません。

先生、それでも、この手の話しはよく聞くことで、経験のある友人が何人かいます。
中には首に縄つけて引っ張っていき、それで乗り越えたという人が2、3人います。
その後、パニック期などに推移せず、それで解決したそうです。

やはり、子の性質や心にある原因によりけりなのでしょうか?
私はとても今の状況で子どもに無理に登校はさせられないけど、友人達には甘いと言われて
います。そうでない人が一人いるのが救いです。

なんだか、書いていてまとまりがつかなくなりました。
はやし先生、前兆期でゆっくり休んだ子が推移するパターン、今、私がどうやっていたらよい
か、またアドバイスくださると嬉しいです。

お返事は急ぎません。先生のお時間があるときにで結構です。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

それでは失礼します。

+++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Yさんへ……】

 不登校といっても、心の問題がからむタイプもあれば、怠学といって、(なまけ心)がからむ問
題もあります。「首に縄つけて引っ張っていき、それで乗り越えたという人が2、3人います」とい
うのは、学校恐怖症のほうではなく、怠学のほうではないでしょうか。

 あくまでも子どもの症状を見て判断しますが、学校恐怖症と怠学のちがいについては、アメリ
カの内科医学会の判断基準を参考に、Yさんご自身が判断されたらよいかと思います。(詳しく
は、「はやし浩司のHP」→「タイプ別子どもの見方」→「学校恐怖症」を、ご覧になってください。
一部を、以下に抜粋しておきます。)

+++++++++++++++++

TABLE 1 
Criteria for Differential Diagnosis of School Refusal and Truancy (学校拒否と、怠学の基準)
 

School refusal (学校拒否)Truancy (怠学)
Severe emotional distress about attending school; may include anxiety, temper tantrums, 
depression, or somatic symptoms.
学校に通うことについて、心配、不安、腹立たしさ、うつ、体の変調などの、苦痛が見られる。

Lack of excessive anxiety or fear about attending school. 
学校に通うことについて、大きな不安や恐れはない。

Parents are aware of absence; child often tries to persuade parents to allow him or her to 
stay home. 
両親がそれ気づいていて、子どもが、「行きたくない」と、親を説得する。

Child often attempts to conceal absence from parents. 
両親の知らないところで、勝手に学校へ行くのを、さぼったりする。

Absence of significant antisocial behaviors such as juvenile delinquency. 
少年非行などの、顕著な、反社会的行動をともなわない。

Frequent antisocial behavior, including delinquent and disruptive acts (e.g., lying, stealing), 
often in the company of antisocial peers. 
(ウソ、盗みなどの)反社会的行動をともなうことが多い。集団非行グループに属することが多
い。

During school hours, child usually stays home because it is considered a safe and secure 
environment. 
学校へ行く時間に、家にいることが多い。そのほうが安全と考えるからである。

During school hours, child frequently does not stay home . 
学校へ行く時間でも、家にいないことが、多い。

Child expresses willingness to do schoolwork and complies with completing work at home. 
子ども自身は、家庭で宿題をしたり、宿題をすることに応ずる。

Lack of interest in schoolwork and unwillingness to conform to academic and behavior 
expectations. 
学校の勉強そのものに興味を示さず、勉強するのをいやがる。

●アメリカ内科医学会は、「学校拒否症」の要因となる、不安障害(Anxiety disorders)として、
つぎのものをあげている。 

Separation anxiety (分離不安)
Anxiety disorder(不安障害)
Generalized anxiety disorder (不安障害全般)
Social phobia (社会恐怖症)
Simple phobia (孤立恐怖症)
Panic disorder (パニック障害)
Panic disorder with agoraphobia (広場恐怖症をともなうパニック障害)
Post-traumatic stress disorder (PTSD)
Agoraphobia(広場恐怖症) 
Mood disorders(気分障害) 
Major depression (うつ病)
Dysthymia(抑うつ症)

●また同じく、「学校拒否症」の要因となる、破滅行動障害(Disruptive behavior disorders)に
ついては、つぎのようなものをあげている(同)。 

Oppositional defiant disorder (反抗障害)
Conduct disorder (行為障害)
Attention-deficit/hyperactivity disorder (注意力散漫、過集中障害)
Disruptive behavior disorder,(破滅的行為障害) 
Other disorders(他の障害) 
Adjustment disorder (with depressed mood or anxiety) (うつをともなう、適応障害)
Learning disorder (学習障害)
Substance abuse 
Other

The evaluation should include interviews with the family and individual interviews with the 
child and parents. Assessment should include a complete medical history and physical 
examination, history of the onset and development of school refusal symptoms, associated 
stressors, school history, peer relationships, family functioning, psychiatric history, 
substance abuse history, and a mental status examination. Identification of specific factors 
responsible for school avoidance behaviors is important. Collaboration with school staff in 
regards to assessment and treatment is necessary for successful management (Table 5) . 

School personnel can provide additional information to aid in assessment, including review of 
attendance records, report cards, and psychoeducational evaluations. 
 
The School Refusal Assessment Scale includes a child, parent, and teacher form and is 
reported to have a high reliability and validity. 

学校拒否症の診断基準は、高い信頼性と、有効性が報告されています。
 
Several psychologic assessment tools (e.g., teacher and parent rating scales, self-report 
measures, clinician rating scales) have been developed to provide additional information 
about the child's general functioning at home and at school. These tools may be used by a 
physician, but because of time constraints, a school psychologist or mental health counselor 
should administer these scales whenever possible. Generalized scales (e.g., Child Behavior 
Checklist, 21 Teacher's Report Form 22 ) identify areas of difficulties. Specific rating scales 
assess for symptoms and severity of psychiatric problems, including anxiety and depression. 

Although these scales are used frequently in children with school refusal, their clinical 
usefulness in developing effective treatment strategies has not been demonstrated. 

More specific assessment scales to measure symptoms of school refusal have been 
developed recently. They provide functional and symptomatic assessment of refusal 
behaviors and therefore provide more valuable information. The School Refusal Assessment 
Scale (Table 6, online) 23 includes a child, parent, and teacher form and examines school 
refusal in correlation to negative and positive reinforcers. This scale has been reported to 
have high reliability and validity. 23,24 
 
TABLE 6 

Items from the School Refusal Assessment Scale-Revised 
学校拒否症の評価基準項目
 
Items from child version (子どもへの質問項目)

How often do you have bad feelings about going to school because you are afraid of 
something related to school (e.g., tests, school bus, teacher, fire alarm)? (1) 
何か学校に関係あることで、学校へ行くことで、気分が悪くなることが、どれだけしばしばありま
すか。(たとえばテスト、通学、先生、あるいは火災警報器など)

How often do you stay away from school because it is hard to speak with the other kids at 
school? (2) 
学校で、ほかの仲間と話すのがつらくて、学校を休むことが、どれくらいありますか。

How often do you feel you would rather be with your parents than go to school? (3)
学校へ行くより、家で両親といたいと思うことは、どれくらいありますか。 

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how often do you leave the 
house and do something fun? (4) 
(月曜日から金曜日までの)間で、あなたが学校へ行っていないとき、どれくらいしばしば、家を
離れたり、何かほかの楽しみをしますか。

How often do you stay away from school because you feel sad or depressed if you go? (1) 
学校へ行くと、悲しくなったり、落ちこんだりするので、どれくらいしばしば学校を休みますか。

How often do you stay away from school because you feel embarrassed in front of other 
people at school? (2) 
ほかの仲間のいるところだと、落ちつかないという理由で、どれくらいしばしば、学校を休みま
すか。

How often do you think about your parents or family when you are in school? (3) 
学校にいる間、どれくらいしばしば、両親や家族のことを考えますか。

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how often do you talk to or 
see other people (other than your family)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、学校を休んでいるとき、どれだけしばしば、(家族以外の)ほ
かの人と会ったり、話したりしますか。

How often do you feel worse at school (e.g., scared, nervous, sad) compared with how you 
feel at home with friends? (1) 
家で友といるときとくらべて、学校にいるときのほうが、より悪く感じますか。(たとえば恐れた
り、神経質になったり、悲しくなったりするなど)

How often do you stay away from school because you do not have many friends there? (2) 
学校には友だちがいないという理由で、どれほどしばしば学校を休みますか。

How much would you rather be with your family than go to school? (3) 
学校へ行くより、あなたの家族といっしょに家にいたいと、どれだけ強く感じますか。

When you are not in school during the week (Monday to Friday), how much do you enjoy 
doing different things (e.g., being with friends, going places)? (4) 

(月曜日から金曜日までの間で)、あなたが学校にいないとき、(たとえば友だちといることや、
どこかへ行くことなどで)、あなたはどれだけ、違ったことを楽しみますか。

How often do you have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) when you think 
about school on Saturday and Sunday? (1) 

土曜日や日曜日に、学校のことを思うと、どれだけしばしば、あなたは学校に対して、悪い感
情をもちますか。

How often do you stay away from places in school (e.g., hallways, places where certain 
groups of people are) where you would have to talk to someone? (2) 
学校にいるとき、(通路や友が集まるところなど)、あなたがいるべきところから、あなたはどこ
か別の場所に、どれくらいしばしば離れて行きますか。

How much would you rather be taught by your parents at home than by your teacher at 
school? (3) 
学校の先生よりも、家で両親によって、むしろ教えられると、どれくらい強く感じますか。

How often do you refuse to go to school because you want to have fun outside of school? 
(4) 
学校の外で楽しみたいという理由で、どれくらいしばしば、学校へ行くのを拒絶しますか。

If you had fewer bad feelings (e.g., scared, nervous, sad) about school, would it be easier for 
you to go to school? (1) 
もし不愉快な感情(恐れ、神経質、悲しみなど)を学校に感じないなら、あなたにとって学校へ
行くことは、楽なことだと思いますか。

If it were easier for you to make new friends, would it be easier for you to go to school? (2) 
もしあなたが新しい友だちをつくることが、もっと簡単なら、学校へ行くのも楽になると、あなた
は思いますか。

Would it be easier for you to go to school if your parents went with you? (3) 
両親がいっしょに行ってくれるなら、学校へ行くことは、もっと楽になると思いますか。

Would it be easier for you to go to school if you could do more things you like to do after 
school hours (e.g., being with friends)? (4) 
放課後、もっといろいろなことができれば、あなたにとって学校へ行くのが、もっと楽になると、
思いますか。(たとえば友だちといっしょにいるなど。)

How much more do you have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) 
compared with other kids your age? (1) 
同年齢の仲間とくらべて、あなたはどれだけより多くの不愉快な感情(恐れ、神経質、悲しみ)
などを、もっていると思いますか。

How often do you stay away from people in school compared with other kids your age? (2) 
他の仲間たちと比べて、あなたはどれくらいしばしば、学校の中で、他の中間たちと離れてい
ますか。

Would you like to be home with your parents more than other kids your age would? (3) 
同年齢の他の仲間がそうであるよりも、あなたは家で、両親といたいと、あなたは思いますか。

Would you rather be doing fun things outside of school more than most kids your age? (4) 
同年齢の他の仲間たちがそうであるよりも、あなたは学校の外で、楽しいことをもっとしたいと
思っていますか。

Items from parent version (両親への質問項目)

How often does your child have bad feelings about going to school because he/she is afraid 
of something related to school (e.g., tests, school bus, teacher, fire alarm)? (1) 
学校へ行くことに関して、(たとえばテスト、通学、先生、火災警報器などで)、それがこわいな
どの理由で、悪い感情を、どれくらいしばしば、あなたの子どもは、もちますか。

How often does your child stay away from school because it is hard for him/her to speak 
with the other kids at school? (2) 
学校で友だちと話すのがいやで、どれくらいしばしばあなたの子どもは、学校を休みますか。

How often does your child feel he/she would rather be with you or your spouse than go to 
school? (3) 
学校へ行くより、あなたや、あなたの夫(妻)といっしょにいたいと、あなたの子どもは、いかにし
ばしば、思いますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how often does he/she 
leave the house and do something fun? (4) 
(月曜日から金曜日までで)、あなたの子どもが学校にいないとき、いかにしばしば、あなたの
子どもは家から出て、何か自分の好きなことをしますか。

How often does your child stay away from school because he/she will feel sad or depressed 
if he/she goes? (1) 
いかにしばしば、あなたの子どもは、学校へ行くとこわいとか、悲しいとかいう理由で、学校を
休みますか。

How often does your child stay away from school because he/she feels embarrassed in 
front of other people at school? (2) 
いかにしなしば、あなたの子どもは、学校で人の前で、どうしたらいいか、わからないという理
由で、学校を休みますか。

When your child is in school, how often does he/she think about you or your spouse or 
family? (3) 
あなたの子どもが学校にいるとき、いかにしばしばあなたの子どもは、あなたや、あなたの夫
(妻)もしくは家族のことを考えますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how often does he/she 
talk to or see other people (other than his/her family)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、あなたの子どもが学校を休んでいるとき、いかにしばしば、
(家族以外の)だれかと会ったり、話したりしますか。

How often does your child feel worse at school (e.g., scared, nervous, sad) compared with 
how he/she feels at home with friends? (1) 
家で友だちと会うときと比較して、あなたの子どもは、学校で友だちを会うことのほうを、いかに
しばしばいやがりますか。

How often does your child stay away from school because he/she does not have many 
friends there? (2) 
学校には、あまり友だちがいないという理由で、いかにしばしばあなたの子どもは、学校を休
みますか。

How much would your child rather be with his/her family than go to school? (3) 
あなたの子どもは、学校へ行くより、家にいたいと、どれだけ強く思っていますか。

When your child is not in school during the week (Monday to Friday), how much does he/she 
enjoy doing different things (e.g., being with friends, going places)? (4) 
(月曜日から金曜日までの間で)、あなたの子どもが学校を休んでいるとき、あなたの子ども
は、どれくらい、(たとえばあなたの友だちといるか、どこかへでかけていくとかで)、あなたの子
どもは、ちがったことをしていますか。

How often does your child have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) when 
he/she thinks about school on Saturday and Sunday? (1) 
土曜日や日曜日など、学校のことを考えたりしたりして、あなたの子どもは、どれくらいしばし
ば、学校について(たとえば恐れを感じたり、神経質になったり、悲しんだりするなど)、悪い感
情をもちますか。

How often does your child stay away from places in school (e.g. hallways, places where 
certain groups of people are) where he/she would have to talk to someone? (2) いかにしばし
ばあなたの子どもは、学校の中で、ふつうならそういう場所に、いたいと思うようなところ、(たと
えば通路やあるグループなど)から、離れていますか。

How much would your child rather be taught by you or your spouse at home than by his/
her teacher at school? (3) 
あなたの子どもは、学校で先生に教えられるより、家で、あなたやあなたの夫(妻)から、いか
に多く、教えられていますか。

How often does your child refuse to go to school because he/she wants to have fun outside 
of school? (4) 
学校の外での楽しみたいというような理由で、いかにしばしばあなたの子どもは、学校へ行くの
を拒否しますか。

If your child had fewer bad feelings (e.g., scared, nervous, sad) about school, would it be 
easier for him/her to go to school? (1) 
もしあなたの子どもが、学校に対して、悪い感情(たとえば恐れ、神経質、悲しみなど)がなけ
れば、あなたの子どもが、学校へ行くことは、よりたやすくなると思いますか。

If it were easier for your child to make new friends, would it be easier for him/her to go to 
school? (2) 
もしあなたの子どもが、より簡単に友だちができるとしたら、あなたの子どもが学校へ行くの
は、もっと簡単になると思いますか。

Would it be easier for your child to go to school if you or your spouse went with him/her? 
(3) 
もしあなた、もしくは、あなたの夫(妻)が、子どもといっしょに行くなら、あなたの子どもにとっ
て、学校へ行くのが、もっと簡単になると思いますか。

Would it be easier for your child to go to school if he/she could do more things he/she likes 
to do after school hours (e.g., being with friends)? (4) 
もし放課後、あなたの子どもが、もっとほかのjことができたら、あなたの子どもにとって、学校
へ行くのが、もっと簡単になると、あなたは思いますか。

How much more does your child have bad feelings about school (e.g., scared, nervous, sad) 
compared with other kids his/her age? (1) 
ほかの同年齢の子どもと比較して、あなたの子どもは、どれくらい強く、学校に対して、(恐れ、
神経質。悲しみなど)の悪い感情をもっていますか。

How often does your child stay away from people in school compared with other kids his/
her age? (2) 
ほかの同年齢の子どもと比較して、あなたの子どもは、学校の中で、いかにしばしば、友だち
から遠ざかっていますか。

Would your child like to be home with you or your spouse more than other kids his/her age 
would? (3) 
ほかの同年齢の子どもより、あなたの子どもは、あなたや、あなたの夫(妻)といっしょに家に
いたがりますか。

Would your child rather be doing fun things outside of school more than most kids his/her 
age? (4) 
ほかの同年齢の子どもより、あなたの子どもは、学校の外で、もっと楽しいことをしたいと思っ
ていますか。
 

I = avoidance of stimuli that provoke negative affectivity; 
否定的行動のを引き起こす、刺激の回避
2 = escape from aversive social or evaluative situations;
嫌悪的な社会的もしくは評価的な状況からの逃避
 3 = pursuit of attention;
興味の追求
 4 = pursuit of tangible reinforcement. 
現実強化の追求
Adapted with permission from Kearney CA. Identifying the function of school refusal 
behavior: a revision of the School Refusal Assessment Scale. J Psychopathol Behav Assess 
2002;24:235-45. 
 

Treatment (治療)
The primary treatment goal for children with school refusal is early return to school. 
Physicians should avoid writing excuses for children to stay out of school unless a medical 
condition makes it necessary for them to stay home. Treatment also should address 
comorbid psychiatric problems, family dysfunction, and other contributing problems. 
Because children who refuse to go to school often present with physical symptoms, the 
physician may need to explain that the problem is a manifestation of psychologic distress 
rather than a sign of illness. A multimodal, collaborative team approach should include the 
physician, child, parents, school staff, and mental health professional. 

Treatment options include education and consultation, behavior strategies, family 
interventions, and possibly pharmacotherapy. Factors that have been proved effective for 
treatment improvement are parental involvement and exposure to school. 25,26 [Reference 
25--Evidence level B, uncontrolled trial] However, few controlled studies have evaluated the 
efficacy of most treatments. Treatment strategies must take into account the severity of 
symptoms, comorbid diagnosis, family dysfunction, and parental psychopathology. 

A range of empirically supported exposure-based treatment options are available in the 
management of school refusal. When a child is younger and displays minimal symptoms of 
fear, anxiety, and depression, working directly with parents and school personnel without 
direct intervention with the child may be sufficient treatment. If the child's difficulties 
include prolonged school absence, comorbid psychiatric diagnosis, and deficits in social skills, 
child therapy with parental and school staff involvement is indicated. 

BEHAVIOR INTERVENTIONS (行動介入)
Behavior approaches for the treatment of school refusal are primarily exposure-based 
treatments. 27 [Evidence level B, lower quality randomized controlled trial (RCT)] Studies 
have shown that exposure to feared objects or situations reduces fear and increases 
exposure attempts in adults. 28 These techniques have been used to treat children with 
phobias and school refusal. Behavior techniques focus on a child's behaviors rather than 
intrapsychic conflict and emphasize treatment in the context of the family and school. 

Behavior treatments include systematic desensitization (i.e., graded exposure to the school 
environment), relaxation training, emotive imagery, contingency management, and social 
skills training. Cognitive behavior therapy is a highly structured approach that includes 
specific instructions for children to help gradually increase their exposure to the school 
environment. In cognitive behavior therapy, children are encouraged to confront their fears 
and are taught how to modify negative thoughts. 

EDUCATIONAL-SUPPORT THERAPY (教育的サポートセラピー)

Traditional educational and supportive therapy has been shown to be as effective as 
behavior therapy for the management of school refusal. 29 [Evidence level B, lower quality 
RCT] Educational-support therapy is a combination of informational presentations and 
supportive psychotherapy. Children are encouraged to talk about their fears and identify 
differences between fear, anxiety, and phobias. Children are given information to help them 
overcome their fears about attending school. They are given written assignments that are 
discussed at follow-up sessions. Children keep a daily diary to describe their fears, thoughts, 
coping strategies, and feelings associated with their fears. Unlike cognitive behavior therapy, 
children do not receive specific instructions on how to confront their fears, nor do they 
receive positive reinforcement for school attendance. 
Child therapy involves individual sessions that incorporate relaxation training (to help the 
child when he or she approaches the school grounds or is questioned by peers), cognitive 
therapy (to reduce anxiety-provoking thoughts and provide coping statements), social skills 
training (to improve social competence and interactions with peers), anddesensitization (e.g., 
graded in vivo exposure, emotive imagery, systematic desensitization). 

PARENT-TEACHER INTERVENTIONS (親と教師の介在)

Parental involvement and caregiver training are critical factors in enhancing the 
effectiveness of behavior treatment. Behavior interventions appear to be equally effective 
with or without direct child involvement. 25 [Evidence level B, lower quality RCT] School 
attendance and child adjustment at post-treatment follow-up are the same for children 
who are treated with child therapy alone and for children whose parents and teachers are 
involved in treatment. 

Parent-teacher interventions include clinical sessions with parents and consultation with 
school personnel. Parents are given behavior-management strategies such as escorting the 
child to school, providing positive reinforcement for school attendance, and decreasing 
positive reinforcement for staying home (e.g., watching television while home from school). 

Parents also benefit from cognitive training to help reduce their own anxiety and 
understand their role in helping their children make effective changes. School consultation 
involves specific recommendations to school staff to prepare for the child's return, use of 
positive reinforcement, and academic, social, and emotional accommodations. 

PHARMACOLOGIC TREATMENT (薬物治療)

Pharmacologic treatment of school refusal should be used in conjunction with behavioral or 
psychotherapeutic interventions, not as the sole intervention. Interventions that help 
children develop skills to master their difficulties prevent a recurrence of symptoms after 
medication is discontinued. 

Very few double-blind, placebo-controlled studies have evaluated the use of 
psychopharmacologic agents in the treatment of school refusal, although several controlled 
studies are in progress. Problems with sample sizes, differences in comorbidity patterns, lack 
of control of adjunctive therapies, and differences in medication dosages have resulted in 
inconclusive data in trials of pharmacologic agents in the treatment of school refusal. 30,31 

Earlier studies of tricyclic antidepressants failed to show a replicable pattern of efficacy. 
Selective serotonin reuptake inhibitors (SSRIs) have replaced tricyclic antidepressants as 
the first-line pharmacologic treatment for anxiety disorders in children and adolescents. 

Although there are few controlled, double-blind studies of SSRI use in children, preliminary 
research suggests that SSRIs are effective and safe in the treatment of childhood anxiety 
disorders and depression. 32,33 [Reference 32--Evidence level B, nonrandomized study] 

Fluvoxamine (Luvox) and sertraline (Zoloft) have been approved for the treatment of 
obsessive compulsive disorder in children. SSRIs are being used clinically with more 
frequency to treat children with school refusal. Benzodiazepines have been used on a short-
term basis for children with severe school refusal. A benzodiazepine initially may be 
prescribed with an SSRI to target acute symptoms of anxiety; once the SSRI has had time 
to produce beneficial effects, the benzodiazepine should be discontinued. Side effects of 
benzodiazepines include sedation, irritability, behavior disinhibition, and cognitive impairment. 
Because of the side effects and risk of dependence, benzodiazepines should be used for 
only a few weeks. 34 

The author thanks John Smucny, M.D., for assistance in preparing the manuscript. The 
author indicates that she does not have any conflicts of interest. Sources of funding: none 
reported. 

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Yさんへ】

 前兆期は、すでにすぎています。そう考えてください。また「3日」とか何とか、時限を決めて、
子どもを追いつめるのは、かえって逆効果ですから、注意してください。これについては、すで
に前に書いたとおりです。
 
 で、学校恐怖症と怠学のもっとも簡単な見分け方としては、つぎのようなものがあります。

学校恐怖症の子どもは、学校へ行かない間、家の中に引きこもる傾向を示すのに対して、怠
学の子どもは、ほかに目的があって、学校をサボるということ。そのため、学校へ行かない間
は、平気で外出したりします。

 しかし「首に縄つけて……」というのは、恐ろしく乱暴な言い方ですね。怠学的な不登校児で
あれば、それなりに効果的(?)かと思いますが、学校恐怖症であれば、その一撃が、取り返し
のつかないトラウマ(心の傷)となって、心をキズつけてしまうことになりかねませんので、ご注
意ください。

 症状からして、午前中はひどく、午後は快方に向うという、日内変動が見られますので、やは
り学校恐怖症を疑ってみたほうがよいかと思います。だから前回も書きましたように、本人が
気分がよくなるのを待って、2、3時間目から登校をうながしてみるとか、午後からの登校をうな
がしてみるのがよいかと思います。

 Yさんが不安なのは、よくわかりますが、その不安感を、シャドウとして、子どもも感じ取ってし
まいますので、ご注意ください。親のピリピリ、イライラは、百害のもとです。

 お子さんの様子を見ていませんので、これ以上のことはよくわかりません。表情だけ、どこか
柔和で、何を考えているかわからないといった様子であれば、(つまり情意と表情の遊離現象
が見られるようであれば)、不登校は、かなり長期にわたると覚悟することです。「なおそう」と
考えるのではなく、「あなたは、つらいけど、よくがんばっているのよ」と、子どもを包むようにし
て対処します。

 こうした症状は、下の子どもが生まれたことによる、赤ちゃん返りがこじれて、起きるものと、
私は考えています。何%かの子どもがそうなります。(世間の人たちは、赤ちゃん返りを軽くみ
る傾向がありますが、決して、赤ちゃん返りを軽くみてはいけません。)かん黙症や、自閉症の
引き金を引いてしまうことも、珍しくありません。

 「お兄ちゃんだから……」という安易な『ダカラ論』をぶつけないこと。Yさんが住んでいる地域
のことをよく知っていますが、その地域は、そうした封建主義的なものの考え方が、いまだに根
強く残っているところです。注意してください。(このことは以前にも、書いたと思いますが……。
外の世界からそれを見ると、よくわかります。)

 「うちの子は、どうなるのだろう?」と不安になられる気持ちはよくわかりますが、今こそ、あな
たの真の愛情が試されるべきと考えて、つまり十字架を1つ背負うつもりで、この問題に対処し
てみてください。

 「まあ、いいわよ」とあなたが思えるようになったとき、(実際、今どき、不登校など、何でもな
い問題ですが)、不安は、あなたのほうから去っていきます。『不幸は、それを笑ったとき、向こ
うから去っていく。しかしそれを恐れたとき、不幸は、あなたを重荷となって苦しめる』というの
は、私が作った格言です。

 この問題の解決には、数か月単位の忍耐と努力が必要です。ここで症状をこじらせると、半
年から1年単位での不登校につながる危険性があります。心の休養を大切に。「気分転換」な
どと安易に考えて、子どもをあちこち引き回すのも避けてください。安静と安心感、それに心の
安定が、何よりも大切です。もし午後、1時間でも学校へ行くようなら、「よくがんばったね」とほ
めてあげてください。「もうあと1時間行こうね」などと、子どもを責めてはいけません。

 それ以上に症状がひどくなるようであれば、心療内科を訪れてみるという方法もありますが、
私は薬物治療については、疑問に思っています。どうか、慎重に!
(はやし浩司 不登校 学校恐怖症 学校拒否症 怠学 アメリカ内科医学会 米内科医学会
 診断基準 はやし浩司)
2006/01/25

【補記】

 それにしても、「首に縄つけてでも……」という言い方には、驚きました。今でも、そういう言い
方をする人がいるのですね。子どもの人格や人権を、いったい、どのように考えているのでしょ
うか。

 私はこの言葉の中に、恐ろしいほどの親意識、権威主義、それに上下意識を感じました。
と、同時に、それを口にする人たちは、学校神話、学歴信仰の盲信者という印象ももちました。
「子どもなど、親の意思でどうにでもなる」とでも、そういう人たちは考えているのでしょうか。

 あまりにも無知、無学、メチャメチャ! そしてあまりにも日本的! 逆の立場で、自分がそう
されたときのことを考えてみたらよいのです。ただ単なる(比喩(ひゆ))では、すまされません。

 だからといって、子どもを甘やかせとか、学校へは行かなくていいと言っているのではありま
せん。日ごろから、もっと子どもの心に耳を傾ける姿勢が、親側に育っていれば、こうした発想
は、出てこないはずです。あるいはひょっとしたら、こうした問題は起きなかったかもしれませ
ん。

 まさに原始的というか、後進国的というか。あまりにも心の問題を、安易に考えすぎているの
では! 子どもに何かをさせるときには、ある程度の強制力は必要かもしれません。が、それ
は子どもを見ながら判断します。相談してきたYさんのお子さんのケースでは、幼いころ神経症
を発症し、心は、疲れているはず。ボロボロかもしれません。

 私には、Yさんのお子さんの悲痛な叫び声が、聞こえてきます。表面的には元気でも、それ自
体が、仮面と考えてよいのではないでしょうか。

 こうしたケースでは、親が「学校へ行かせよう」とあせればあせるほど、その(あせり)が、子ど
もの心の中に、緊張感を作ってしまいます。つまり子どもの不登校の問題は、子どもの問題で
はなく、親の問題だということです。それに気づけば、あとは、時間が解決してくれます。

 夫が単身赴任で、同居していないとか……。この問題は、Yさんひとりで、解決できる問題で
もないように思います。子育ては、それだけ重労働だということ。加えて、Yさんひとりで対処し
ていると、Yさん自身が、育児ノイローゼになってしまうかもしれません。何とか、夫に、いっしょ
に住んでもらうわけにはいかないでしょうか。内政干渉ですみません!

++++++++++++++++++++++

ついでながら、「学校恐怖症」について書いた
記事(中日新聞掲載済み・2001年10月1日)
を、ここに添付しておきます。

この原稿は、あちこちの団体や個人に、無断で
転載、転用されています。やめてほしいですね、
こういうことは!

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【子どもが学校恐怖症になるとき】

●四つの段階論

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。

(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。

(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。

この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おのの
く)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じが
するため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうこ
とが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親
はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪
化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)
●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取
り返しがつかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行
きたくないときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重く
ならなくてすむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にす
れば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうち
に、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考え
て、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈
をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)生活態度(部屋や服
装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様
子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいる
が、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(036)

●保護司

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自治会長が、保護司の仕事をもってきた。

さあ、私は、どうすべきか?

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引きうけるべきか、引きうけざるべきか……それが問題。

 つい先日は、自治会の副会長職を断ったばかり。しかしいつもいつも、断ってばかりいるわ
けにはいかない。自治会長には、世話になっている。

 保護司……一応、身分は、国家公務員。任期は2年。ただし、無給。おかしなことだが、私
は、「保護司」の「司」に、親しみを覚えた。「浩司」の「司」と同じ。結構、私にも、単純なところ
がある。

 そこで床についてから、分厚いパンフレットを読む。ウム〜。読めば読むほど、ウム〜。

「保護司は、犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える、ボランティアです」(第2章冒頭)
とある。

つづいて「使命」として、「保護司は、社会福祉の精神をもって、犯罪をした者の、改善厚生を
助け、犯罪予防のため世論の啓発に努めています」とある。

ますます考えこんでしまう。

善人の仮面をかぶるのは、簡単なこと。が、その仮面をかぶってできるような仕事ではない。
相手は、それぞれ、大きな問題をかかえた人たちである。そういう人たちを相手に、私のような
人間は、どう対処すればよいのか。

 ワイフはのんきに、「あなたもそういう年齢になったのよ」と言う。つまり社会に、恩返しをする
年齢になった、と。

 しかし、これはむずかしい仕事である。それに責任は、重大! 子育て相談とは、わけがち
がう。「忙しいから、今日は、失礼します」と、逃げるようなことは、許されない。

 が、何といっても、一番、警戒しなければならないのが、「仮面」。そういう例は多い。たとえ
ば、他人には、すばらしくよい人を演ずる人がいる。面倒見もよい。世話好き。しかしそれは外
面(そとづら)。本当に他人のために働いているかというと、そうではない。自分をよい人間に見
せたいために、そうする。そういうのを、心理学でも、「愛他的自己愛」という。そういう人にとっ
ては、「あの人はいい人」とうわさされるのが、何よりも快感なのだ。

 しかし仮面は仮面。わかりやすく言えば、「化けの皮」。大切なことは、その人のために、どこ
まで親身になって、つまり真剣に、考えてやることができるかということ。が、私に、それができ
るか?

 私は、幸か不幸か、(幸に決まっているが……)、何かの犯罪を犯した人たちとは、無縁の世
界で生きてきた。知りあいの中にもいない。そういう私が、保護観察中の人たちと、どうやって
向きあえばよいのか。さも私は善人でございますというような顔をして接するのは、私のやり方
ではない。かといって、そういう相手を説教したりするような立場でもない。

 保護司の役割の第1は、「犯罪をした者の、改善厚生を助け、犯罪予防のため世論の啓発
する」とある。

仕事の内容としては、(1)保護観察を受けている少年やおとなの指導として、毎月面接や、家
庭訪問を行う。(2)刑務所や少年院に入っている人の帰住先の調整として、出所後の生活設
計などについて、引き受ける家族と話しあいなどをする。(3)犯罪や非行の予防活動として、
犯罪や非行をした人の立ち直りを見守るよう、広く社会に呼びかけを行う、とある。

 保護司研修制度というのもある。保護司として活動する前に、地域別定例研修、特別研修、
自主研修、新任保護司研修、第一次研修、第二次研修……などなど。

 私には私の仕事がある。このところ、時間が合わないため、講演すら断ることが多くなった。
息子の1人は、まだ大学生である。ボランティア活動をするといっても、仕事を犠牲にするわけ
にはいかない。こうした研修会が、私の仕事と重なったら、私は、どうすればよいのか。

 考えれば考えるほど、気が重くなる。

 やはりこの仕事を引き受けるかどうかは、もう少し様子を聞いてからにしよう。こちらから「や
ります!」と手をあげてするような仕事ではない。時間的にも、今の私には、まったく余裕がな
い。


●ライブD・ショック

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株価が急降下している! 昨日1日だけで、
日経平均は、500円近くも、値をさげた。

今日も午前中だけで、444円も、値をさ
げた。

きっかけは、ライブD社の粉飾決算(?)

しかし……

2006年1月25日(水)

++++++++++++++++++

 現在、日銀は、ゼロ金利政策(量的緩和策)を実行中! わかりやすく言えば、日銀は、市中
銀行をとおして、日本中に、お金をバラまいている。今の日本は、「お金がジャブジャブの状
態」(某経済誌)だそうだ。

 おまけに、原油価格は高止まり。加えて、ドル安。「景気はよくなった」とはいうが、中身は、あ
のバブル経済の時期そっくり。

 そこで株式市場は、いつ日銀が、量的緩和策を解除するか。その時期を見きわめようと、
戦々恐々としている。そんな状態。解除されたとたん、「日本経済には、急ブレーキがかかるこ
とになるかも」とのこと。

 今回のライブDショックは、その引き金を引いてしまった。「株価がさがるのは、年度末決算
がすんだあとの4月ごろ」と、大方の経済評論家は、読んでいた。しかし株価は、先手、先手で
動く。

 ところで昨夜、仕事の帰りに書店で読んだ週刊誌には、ある若い男性の手記として、こんな
記事が載っていた。

 「今は、株で、もうけどき。100万円をサラ金で借りて、ネットで、信用取引。年末から年始に
かけて、25万円のもうけ」と。週刊誌の名前は忘れた。

 つまりサラ金で100万円借りてきて、そのお金で株を買う。株を売買するときには、信用取引
という方法がある。ある一定額の損(このばあいは100万円の損)をするまで、株を売買する
ことができる。この方法だと、100万円で、10万円の株を、たとえば50〜100株も買うことが
できる。現物売買では、100万円では、10万円の株なら、10株しか買えないのだが……。

 信用取引では、株価があがれば、もうけも大きいが、株価がさがれば、100万円は、そのま
ま、パー。

 今ごろその手記を書いた若い男性は、たぶん、大損をして、泣いていることだろう。つまり株
式の売買のこわいところは、ここにある。わかりやすく言えば、バクチ。「もうけた、もうけた」と
喜んでいると、その人は、もっと、もうけたくなる。そしてもっと大きなお金を、そのバクチにかけ
るようになる。

 そして最終的には、大損!

 だから私のような素人が株式売買をするときには、絶対に守らなければならない大原則があ
る。それは(1)最高限度額を必ず、決めておくということ。100万円までとか、200万円まで、
とか。あくまでも小遣いの範囲でするのがよい。(2)信用取引はしない。あくまでも現物売買。
そして株価がさがったら、その株は塩漬けにして、3か月でも半年でも、じっとがまんしてもつ。

 だいたい、働きもしないで、お金をもうけるという、その根性がまちがっている。……というの
は、この現代社会においては、通用しない考え方かもしれないが……。

(補記)

 何を隠そう、この私もこの2日で、x万円の損をしたのだ。ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●ものは、言いよう

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みなさん、往生際(ぎわ)が悪いですね。

弁護士法違反と、組織犯罪処罰法
違反の罪で逮捕、起訴された、
あの西村S悟議員が、今度は、拉致問題
にかこつけて、議員職にしがみついて
いる(?)

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 新聞報道によれば、逮捕、起訴されたにもかかわらず、あの西村S悟衆議院議員は、つぎの
ように述べているという。

 「弁護士の名義を貸す見かえりに違法な報酬を受け取ったとして、弁護士法違反と組織犯罪
処罰法違反の罪で起訴された、衆議院議員、西村S悟被告(57・前民主党議員)が(1月)17
日、東京都内で記者会見し、『(K国による)拉致被害者救出のために議席を維持しなければ
ならない』として、議員辞職しない意向を明らかにしたという」(サンケイ新聞)。

 ものは、言いようである。拉致問題を、自分の政治的利益に利用している議員は多い。が、
ことここにいたってまで、拉致問題にかこつけて、議員職にしがみつくとは!

 西村S悟被告は、昨年末(05年)11月18日の段階では、まだつぎのように述べていた。

「本日11月18日の朝刊各紙に、私の法律事務所の元職員が(非弁活動)(弁護士資格が無
いのに弁護士活動をすること)をしたとして検察が捜査に入る旨の記事が掲載されました。以
下、この点について事情をご説明致します。

1、非弁活動の容疑については、元職員本人も認めており事実であろうかと思います。

2、では、私がその非弁活動を知っていたかどうかでありますが、本年はじめ頃に、大坂  府
警から教えられるまで、全く知りませんでした。そして、私は、大阪府警の捜査員に全ての事情
を説明しました。

大阪府警の捜査は、4月末ころに終了したと思いますので、事件はそのころ検察庁に送られ
処理されたと、私は思っていました。

しかしながら、今朝の事態を迎え、驚いている次第であります。

3、この非弁活動を行なった者は、私の法律事務所にいた者であることは事実であります  
ので、今になっていくら悔いても致し方の無いことながら、このたびの事態を迎えて、私の元職
員に対する管理監督の不行き届きを深く反省し、皆様にご心配をおかけしていることを、深くお
詫び申し上げます。

  以上が申し上げるべきことの骨子であります」(「西村S悟の時事通信」・Eマガより抜粋)
と。

 つまり西村S悟議員は、(1)知らなかった、(2)私は関係ない、(3)驚いている、と。が、一転
逮捕、起訴されると、今度は、「拉致問題解決のために、議席を確保しなければならない」と。

 どうやら西村S悟議員は、相手の立場でものを考えることができない人のようだ。そういう議
員が、何かの会合に顔を出せば、拉致被害者およびその家族の人たちは、かえって迷惑する
のではないか。そんな簡単なことさえ、西村S悟議員には、まったく、わからないようだ。

 ……あるいは、それほどまでに、権力の座は、魅力的なのか? どの人も、一度手にした
ら、もう手放せない……といった心境になるらしい。私には無縁の世界の話だが、想像はでき
る。あのインチキ論文を発表した韓国のU教授にしても、いまだに、「技術はたしかにある」
「(研究室の胚性幹(ES)細胞は、(同僚たちによって)すりかえられたものだ」などと主張して
いる。

 みんな、どこまでがんばるのだろう? また何のために? 私には、理解できない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●コメント・トラックバック・掲示板

+++++++++++++++++

以前は、HPの掲示板への不良書きこ
みに悩んだ。

相手は、名前がわからないことをよい
ことに、まさに言いたいことを書き放題。

今は、BLOGの時代。しかしそのBLOG
のトラックバックにさえ、このところ、
不良書きこみが、絶えない。

しかも悪質、執拗、うるさい。

+++++++++++++++++

 現在、私は、R天のフリーサービスを使って、毎日、日記+BLOGを書いている。それはそれ
で、私の生きがいになっているが、少し前まで、掲示板への不良書きこみに悩んだ。中には、
良心的な書きこみをしてくれる人もいたが、大半は、中傷、悪口、誹謗、それにスケベ。

 セレブな人妻紹介。
 童貞、買います。
 今晩できます、などなど。

 そこで、私は掲示板を閉鎖した。コメントコーナーも閉鎖した。毎日、そうした不良書きこみを
削除する作業だけでも、たいへん。めんどう。

 ところが、である。R天のフリーサービスのばあい、トラックバックだけは、閉鎖することができ
ない。そのトラックバックをねらって、ほとんど毎日、同じような書きこみがつづく。しかも、5〜1
0通、同じ文面のものばかり!

 そこでトラックバックの表示個数を、(1)に設定したが、それでも、それぞれの日記に、トラッ
クバックに書きこみがつづく。どうしたらよいものか。トラックバックがあるからこそ、BLOG。も
しトラックバックがなくなってしまったら、またもとの、(ただの日記)。BLOGがBLOGでなくなっ
てしまう。

 しかし、こうまで不良書きこみがつづくと、無視するわけにもゆかない。

 そこでR天サービスに直接相談しようとしたが、そういう方法は、どこにも書いてない。つまり
連絡先がわからない。で、今は、泣く泣く、そのままの状態。

だれか、トラックバックを閉鎖する方法を、知りませんか。もしご存知でしたら、お教えください。
お願いします。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(037)

【受験・不安の構造】

●不安を訴える、親たち

 寒さが緩んだ、ある日の午後。1人の母親が、私の教室へやってきた。M君、小学3年生の
母親である。「どうしましたか?」と聞くと、「ちょっとこちらの方へくる用事がありましたので…
…」と。

私「ハア、何か?」
母「実は、息子の進学の相談ですが、このままでいいのでしょうか?」
私「このままって……?」
母「一応、SS中学の受験を考えているんですが……」
私「はあ……。それで?」と。

 つまりM君の母親は、私の教室から、別の進学塾への移籍を考えていた。30年以上も、若
い母親たちに接していると、そうした心の変化は、雰囲気でわかる。

私「M君は、今、がんばっていますよ。成績も伸びてきたところですし、今は、自分で、5年生レ
ベルの学習をしています」
母「でも、国語が、苦手なんです」
私「国語、ですか?」
母「算数は、おかげで、クラスでもトップなのですが、国語の成績が、今イチなんです……」と。

 こうした押し問答がつづく。いつまでもつづく。

●よくなることしか考えない(?)

 こういうケースでは、親たちは、自分の子どもが、(今の状態)より、よくなることしか考えてい
ない。「やれば、もっとできるはず」と。

 しかし可能性としては、フィフティ・フィフティ。やり方をまちがえれば、成績は、さがる。が、そ
れですめば、まだよいほう。親の希望には際限がない。「B中学へでも入れれば……」と言って
いた親でも、その子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は、「せめてA中学へ……」と
言い出す。

 さらにそのA中学へ入れそうだとわかると、今度は、「もう少しがんばらせて、S中学へ……」
と言い出す。

 子どもがそうした親の期待に、従順に(?)、応じている間は、それなりに、親子関係も、うまく
いく。しかしそんなケースは、10に1つもない。理由は、簡単。

 こうした親の期待には、あるいは欲望と言ってもよいかもしれないが、それには、ここにも書
いたように、際限がない。が、それ以上に、『だからどうなの……?』という部分がない。「いい
中学へ入ったから、だからどうなの?」と。

それがないまま、子どもを追い立てても、子どもには、負担になるだけ。その(負担)が、やがて
親子関係を破壊する。

●過剰期待

 何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。それは
たとえて言うなら、馬の前にぶらさげられたニンジンのようなもの。いくら走っても、馬は、その
ニンジンを、自分のものにすることはできない。

 が、人間は馬ではない。やがてすぐ子どもは、それに気づく。こんな例がある。

 あるとき電話で、こんな相談をしてきた母親がいた。私の知らない人だった。

 「うちの子は、プリント学習を、毎日3枚することになっています。しかし2枚しかしません。3枚
目になると、とたんに、いやがります。どうすれば、3枚目を子どもにさせることができます
か?」と。

 プリント教材を売り物にしている教材会社があるようだ。

 で、私は、こう答えた。「では、2枚でやめることです」と。

 もしその子どもが、スイスイと3枚目をしたら、親は、きっと今度は、こう言い出すにちがいな
い。「明日からは、4枚しなさい」と。

 子どもも、それを知っている。だから、2枚目が終わったところで、しぶり始める……。

●自我の同一性

 わかりやすく言えば、(やりたいこと)と、(現実にしていること)が、一致している子どもは、表
情が明るい。伸びやか。それに安定感があって、情緒も落ちついている。

 しかしときとして、その(やりたいこと)と、(現実にしていること)が、遊離し始めることがある。
そうなると、子どもは、とたんにある種の緊張感に包まれる。これを心理学の世界でも、「同一
性の危機」という。

 ある講演会場でその話をしたとき、1人の母親が、そのあと、こんな質問をした。「それはどう
いう心理状態ですか?」と。予定外の質問だったので、少し戸惑ったが、私はこう答えた。

 「それはですねエ〜。たとえて言うなら、顔を見るのも、声を聞くのもいや。肌に触れられるの
もいやという男性と結婚した、女性の心の心のようなものではないでしょうか」と。

 あとで考えて、我ながら、名答だったと思った。

 もっとも、それほど深刻なケースではないにしても、同じ仕事でも、(自分で進んでする仕事)
と、(いやいやする仕事)では、能率はまったくちがう。とくに、自分が納得しない仕事を押しつ
けられたときは、そうだ。

 子どもも、そういう状態になる。親は、「いい中学へ入れ」と、せき立てる。しかし子どもには、
その意思がない。少しでも成績がさがったりすると、親は、「サッカーをやめなさい」「ゲーム
は、取りあげます」などと、子どもをおどす。とたん、それまでの親子関係は、崩壊する。

●『だから、どうなの?』

 こんな例がある。もう15年近くも前のことだが、夏休みが終わったころ、2人の女子高校生
が、私のところにやってきた。そしてこう言った。2人とも、私の幼児教室のOBである。

 「先生、私たち、横浜のF大学に入ることにしました」と。

 声は明るかった。それにF大学なら、私も知っている。それで「よかったね」と。で、そのあとこ
んな会話をした。

私「ところで学部は……?」
子「……国際関係学部……です」
私「国際……カンケイ、学部……?」
子「そう……」
私「フ〜ン。ぼくは昔の人間だから、法学部とか経済部とかいうのはわかるが、その国際関係
学部っていうのは、何を勉強するところ?」
子「……私にも、わかりません」と。

 その2人の女子高校生たちは、「何を勉強するのか、わからない」と。当時は、「大学遊園地
論」が、あちこちで騒がれていた。だから私は、すぐこう思った。「この子たちも、大学へ入った
ら、遊ぶのだろうな」と。

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばす三種の神器といえば、(夢)、(希望)、(目的)である。この3つが、子どもを、
前向きに引っぱっていく。

 しかし今、その(夢)、(希望)、(目的)をもっている子どもは、少ない。いろいろな調査結果を
みても、小学校の高学年で、30%もいない。勉強にしても、親に言われるから、ただ勉強して
いるだけ……といった子どもが、ほとんど。

 で、よく誤解されるが、今どき、よい中学、よい高校、さらには、よい大学へ入るなどということ
は、夢でも、希望でも、目的でもない。親にとっては、そうかもしれないが、少なくとも、子どもに
は、そうではない。

 この数年だけでも、自ら、進学先の学校のレベルをさげる子どもが、どんどんとふえている。
「A高校なんか入って、勉強でしごかれるくらいなら、B高校で、のんびりと高校生活を楽しみた
い」と。「約60%の子ども(中学生)がそうですよ」と、HK市にある中学校の校長が、笑いなが
ら話してくれた(05年)。

 昔なら、「名門」というブランドにあこがれて、そこへ入ることを目標にした子どももいたかもし
れない。しかし今は、いない。また、そういう時代ではない。

●勉強しかしない子どもたち

 せっかく(いい中学)(いい高校)へ入っても、中退して自分の道を選ぶ子どもも、ふえている。
ここに例を書くまでもなく、あなたの周囲にも、1人や2人は、必ず、いるはず。

 むしろ勉強だけして、スイスイと、(いい中学)(いい高校)そして(いい大学)へと進学して子ど
もほど、どこか、ヘン(失礼!)。そういう子どもは、勉強しかしない。勉強しかできない。たしか
に成績はよいが、よい成績をとることが、その子どもにとっては、趣味のようなものになってい
る。

 頭の中は、偏差値という数字でいっぱい。もちろん弊害もある。

 このタイプの子どもは、人間の価値そのものすら、その(数字)で判断する。そこでおかしなこ
とだが、本当に、おかしなことだが、今の日本の教育システムの中では、人間的にも魅力があ
り、人格的にもすぐれた子どものほうが、むしろ、受験競争から、脱落していくという傾向がみ
られる。

 このことも、あなたの周囲を見渡してみれば、わかるはず。あなたの周囲にもいろいろな人
がいる。が、受験とは無縁の世界を生きてきた人ほど、心暖かく、人間味が豊かであることを、
あなたも知っているはず。

 もちろんだからといって教育を、否定しているのではない。つまりこうした弊害を、教育者自身
が、気がつき始めている。そしてそれに合わせて、教育制度、さらには受験制度そのものも、
変わり始めている。

●点数から人間性へ

 この静岡県でも、いろいろな試行錯誤があったが、全体として見ると、より内申書重視の入
試方法に変わってきている。欧米の例を参考にするなら、これは当然のことである。

 たとえばアメリカでは、いくら成績がよくても、その成績だけでは、有名大学には入れない。推
薦権をもつ、教師や学校の推薦がなければ、入れない。そしてその推薦するかどうかは、その
子どもの人格や人間性を見て、判断される。

 日本でも、最近、学歴不問という会社が現われつつある。入社試験でも、面接官は、こう聞
く。「君は、何ができるかね?」「君は、わが社に、何を貢献してくれるかね?」と。

 こうした話は、恩師のT教授(元東大・副総長)からも聞いたことがある。20年ほど前の話
で、今は、そういう学生も少なくなったと思うが、T教授は、こう言った。

 「林君、東大へ入ってくる学生の、3分の1は、頭がおかしいよ」と。そこで私が、どこがどうお
かしいですかと聞くと、T教授は、こう言った。

 「実験中にね、かんしゃく発作か何かを起こして、ビーカーなどの実験道具を床にたたきつけ
て、割ってしまうのがいる」「そこで親まで呼んで、自主退学を勧めるのだが、親のほうが、猛然
と拒否する」と。

 そうした反省もあって、そのあと、入試方法も、大きく変わった。学力テスト1本という入試方
法から、面接重視の入試方法へ、と。とくにそのT教授は、退官後、東京R大(私大)へ移り、東
京R大の入試方法そのものを変えてしまった。

 「参考書、辞書、持参は自由」というのが、その入試方法である。この入試方法は、そのあ
と、いろいろな世界で、大きな話題になったので、ご存知の方も多いと思う。

●不安の構造

 何ゆえに、親たちは、不安になるのか? とくに自分の子どもが受験期を迎えると、言いよう
のない不安感に襲われる。

 自分の子どもが選別されるという不安。子どもの将来への不安。が、それだけではない。日
本人には、体質として、明治以来の学歴信仰がしみついている。それに拍車をかけるように、
この日本には、不公平が蔓延(まんえん)している。

 そうした不公平を、親たちは、日々の生活を通して、いつも肌で感じている。

 だから親たちは、子どもを受験競争に駆り立てる。今の今でも、「勉強しなさい!」「うるさ
い!」の大乱闘を繰りかえしている親子は、多い。

 が、ここで注意しなければならないのは、不安に思っているのは、親だけということ。子ども
は、何も、不安に思っていない。もっと言えば、親が、自分の不安感を、子どもにぶつけている
だけ。

 こうした親は、一見、子ども思いの、よい親に見える。しかしその実、身勝手な愛(?)を、子
どもに押しつけているだけ。こういうのを、私は、「代償的愛」と呼んでいる。つまりは、愛もどき
の愛。それはたとえて言うなら、ストーカーが口にする「愛」に似ている。

 子どものことを考えているようで、結局は、子どものことなど、何も考えていない。どこまでも、
ジコチューな愛、ということになる。

●失敗してはじめて気づく親たち

 しかしどの親も、ほとんど例外なく、自分で失敗するまで、自分が失敗したと気づかない。だ
いたいどの親も、自分が失敗するなどとは、思っていない。

 だから親は、子どもを、「あなたはやればできるはず」「もっとできるはず」と、子どもを、追い
立てる。が、いつまでもこんな異常な状態がつづくはずはない。

 H市にS県でもナンバーワンと呼ばれる進学高校がある。その進学高校の教師が、私にこう
話してくれたことがある。

 「うちの高校でも、高校入学時にすでに、バーントアウト(燃え尽き症候群)している子どもが、
5%はいます。3年生で、20%はいます」と。

 有名大学となると、(こういう言葉は、本当に不愉快だが……)、もっと多い。「大学へは入っ
てはみたけれど……」と。

 が、その程度ですめばまだよいほう。引きこもりや、家庭内暴力、さらには、心そのものまで
ゆがめてしまう子どもも少なくない。

 が、親というのは、不思議なものだ。親子関係は完全に崩壊している。子どもも、「大学へは
入ってはみたけれど……」という状態になっている。しかしそれでも、他人の前では、「おかげ
で、いい大学へ入ることができました」と喜んでみせる。

 この段階で、失敗を認めるということは、親にしてみれば、自己否定につながる。世間的に
は、それだけは何としても避けたい。そうそうこう言っていた母親もいた。

 「毎日、毎晩、小5の娘と大乱闘です。しかし娘も、目的の中学へ入ってくれれば、そのとき私
の気持ちを理解し、私を許してくれるでしょう」と。

 が、残念ながら、それで親に感謝する子どもなど、ぜったいに、いない。

●変化する子どもたち

 進学塾へ入ったとたん、目つきの変わる子どもは、少なくない。何割か、あるいはそれ以上
の子どもがそうなる。

 親は、「自覚ができました」「緊張感ができました」と喜ぶ。が、それですむわけではない。受
験競争が長くつづけばつづくほど、そしてそれがはげしければはげしいほど、おかしな競争
心、おかしなエリート意識、そういったものが、子どもの心を粉々に破壊する。

 概して言えば、温もりのある子どもらしさが消え、心がドライになる。冷たくなる。点数だけで、
人を判断するようになる。それを指導する講師が、そういう姿勢だから、子どもの心など、生贄
(いけにえ)に差し出された子羊のようなもの。

 さらに言えば、指導する講師にしても、それだけ子どもの心を知った上で、指導しているかと
いえば、それは疑わしい。

 派手な宣伝、広告、チラシ……。そういったので発表される合格者数の裏で、いかに多くの
子どもたちが、もがき、苦しみ、自信をなくしていることか。ほとんどの親たちは、勝つことだけ
を考えて、負けることは考えていない。

 「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、子どもを受験競争に追い立てる。し
かし成功するか失敗するかということになれば、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしそのときになって、子どもの心を再び、取りもどそうとしても、もう遅い。一度こわれた心
を、もとにもどすには、その何倍もの努力と時間が必要となる。

●日本の特殊性

 日本がもつ構造的な異常さというのは、日本だけに住んでいる人には、理解できない。ある
いは、逆に、「欧米も、日本と似たようなもの」と思っている人も多い。

 しかし、ちがう。まったくちがう。5、6年前に書いた原稿(本で発表済み)の中から、一部を抜
粋して、紹介する(全文は、この原稿のあとに添付)。

 『つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で7
0校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先
が明記してあった。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒1人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち』。

●子どもを信じて伸ばす

 では、どうすればよいのか。現実に、この日本には、不公平が蔓延している。学歴制度もあ
り、受験競争もある。こうした現実に背を向ければ、そのまま外の世界へ、はじき飛ばされてし
まう。

 こんな笑い話(?)がある。東京に住んでいる、ある女性が話してくれた。

 「ある母親は、自分の子ども(小学生)を、近くの公園へ連れていった。そしてそこで生活して
いるホームレスの人たちを見せながら、こう言ったという。『あんたも、しっかりと勉強しなけれ
ば、ああいう人になるのよ』と」と。

 とんでもない指導だが、だれがこの話を聞いて、笑えるだろうか。その母親は、この日本で
は、まさに現実主義者ということになる。笑いたくても、笑えない。

 その一方で、今、この日本でも、価値観が、多様化してきている。そして「幸福」に対する考え
方も、変わってきている。そこで重要なことは、子ども自身が、自らの力で、自分の道を切り開
いていく力をもつようにすること。学歴などというものは、あとからついてくるもの。かりにどこの
大学を出ようとも、そこで(勉強)が終わるわけではない。

 むしろ本物の実力が試されるのは、社会へ出てからということになる。もちろん今でも、過去
の学歴にぶらさがり、のんべんだらりとした生活を送っている人は多い。悪しき学歴社会の、
亡霊のような人たちである。50代、60代以上の人に、とくに多い。

●夢から目標へ

 子どもには、子どもの夢がある。その夢をじょうずに育てながら、それを目標につなげていく。

 子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と。子どもが「バスの運
転手さんになりたい」と言ったら、「そうね、それはすてきね」と。

 「夢」を育てる姿勢が子どもの中にあれば、(夢の内容は、そのつど変化するものだが…
…)、子どもは自分で伸びていく。

 もし子どもを伸ばす方法があるとするなら、それしかない。またそれが王道である。親にでき
ることがあるとするなら、その目標に向って進む子どもを、側面から支えること。イギリスの格
言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのが、あ
る。あとの判断は、子ども自身に任せるしかない。

 そのとき重要なことは、それがどんな道であろうが、子どもが選んだ道であれば、親は一歩
引き下がった状態で、子どもを支える。そしてそれが良好な親子関係を保つ、王道でもある。

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の講師になるという道を選んだとき、それを母に告
げると、母は電話口の向こうで泣き崩れてしまった。

 決して母を責めているのではない。母は母で、当時の常識に従って、そうしたにすぎない。し
かしあのとき、母だけでも、私を支えてくれていたら、その後の私の人生は、大きく変わっただ
ろうと思う。もっと自信をもって、私は、自分の道を進むことができただろうと思う。

 そういう私を支えてくれたのは、実は、オーストラリアの友人たちである。オーストラリアの友
人たちは、みな、「すばらしい選択だ」と言って、私を支えてくれた。つまり、こういうところにも、
意識のちがいがある。

 今でも、「幼稚園の講師?」と言って、吐き捨てる日本人は、多い。しかしそういう日本人を超
えるようにならないと、この日本はいつまでたっても、教育後進国。校舎や教師がいくら立派に
なっても、中身は旧態依然のまま(?)ということになる。

 つまりは、私たち1人ひとりが、そういう意識を変えていくしかない。

 冒頭にあげた母親とは、それで別れた。その母親との間には、越えがたいほど、遠い距離を
感じた。「どこからどう説明しようか」と考えているうちに、どうでもよくなってしまった。

 M君が私のところを去るのは、時間の問題だろう。しかしそれも卒業。

母「これからも、よろしくお願いします」
私「わかりました。おいでになる間は、一生懸命、教えさせていただきます」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が
多いが、それは誤解。アメリカだけでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を
超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われて
いる。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230ドイツ・マルク(日本
円で約14000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するま
で、最長27歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒1人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●笑い話

 年長児のクラス。そのクラスでのこと。

私「ぼくは、もうすぐ、ヨーシエン(要支援)になるよ」
子「ちがうよ、先生、ヨーチエン(幼稚園)だよ」
私「ううん、もうすぐ、要支援になるよ」
子「幼稚園だってばア」

私「そう言えば、君たちも、要支援だろ?」
子「ちがうよ、幼稚園だよ」
私「だって、自分でご飯をつくれないだろ?」
子「つくれないよ」
私「だったら、要支援だ」

子「だから、要支援ではなくてエ、幼稚園!」
私「お風呂で、頭を自分で洗えるか?」
子「ぼくは洗えるけど、MK(妹)は洗えないよ……」
私「だったら、MKちゃんは、要支援だよ」

子「MKは、まだ幼稚園に行っていないよ」
私「だから、そういう人を、要支援って、言うの」
子「だから要支援ではなくて、幼稚園だってばア」
私「要支援が終わると、要介護1年生になるんだよ」

子「ちがうよ、小学1年生だよ」
私「ちがうよ、要介護1年生だよ」
子「1年生になって、それから6年生まで行くんだよ」
私「要介護は、5年生までしかないの」

子「5年生までしかないの?」
私「そう。5年生まで」
子「5年生が終わったら、どうなるの?」
私「あの世行き。死ぬんだよ」
子「死なないよ。5年生が終わったら、6年生だよ」
私「でも、本当に6年生は、ないよ」
子「ぼくは、HS小学校へ行くよ。ヨーカイゴ小学校なって、知らないよ」
私「それはよかったね」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(038)

【反面教師論】

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反面教師という言葉がある。
しかし反面教師は、本当に教師なのか。
教師たりえるのか。

それについて考えてみたい。

このテーマについて書くきっかけとなったのは、
ある母親が話してくれた、彼女の息子の話だった。

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●犬の叱り方

 ある母親が、仕事の休憩時間にこんな話をしてくれた。「息子に、犬を買い与えたのだが、そ
の叱り方を見ていて、驚きました」と。

 息子、つまり小学5年生のY君のことだが、そのY君は、犬を飼っている。飼い始めて、3年に
なる。「毎日、学校から帰ってくると、1時間は、その犬の世話をしているんですよ」とのこと。

 それについて、母親は、こう言った。「Yは、ときどき、はげしく犬を叱るのですが、その叱り方
を見て、驚きました。その口調、言い方、怒り方が、私、そっくりなのです。私は、私のいやな面
を見せつけられたようで、ショックを受けました」と。

 似たような経験は、私にも、ある。

 私は、高校生のとき、英語の教師のMが、大嫌いだった。Mのする授業は、何の楽しみもな
い、一方的な(詰めこみ方式)だった。その教師の授業になるたびに、私は重苦しい憂うつ感
に襲われた。

 その私が、結果的にみると、英語が得意になったのは、英語という科目が好きだったからと
いうよりは、内心では、「あんなMなんかに、負けてたまるか」と思ったからである。Mにバカに
されるのが、何よりもいやだった。が、Mには、それがわからない。ときどき私の名前をみなの
前で出して、「お前たちも、林のように、勉強しろ!」「こんな成績では、どうする!」とハッパを
かけたりしていた。

 私はいつもこう考えていた。「私は教師になっても、あんな教師にだけはならない」「私が教師
になったら、あんなふうには教えない」と。

 が、である。

 その私が、このH市にやってきて、ある進学塾でアルバイト講師をするようになったときのこ
と。ある日、気がついてみると、私の教え方が、あの英語の教師、Mそっくりになのを知って、
驚いた。口調、言い方、怒り方など、すべてが、である。

 それだけではない、私も、生徒を、成績でしか、みていないことに気づいた。「お前もX君のよ
うに、勉強しろ!」「こんな成績では、どうする!」とか、何とか。

●反面教師という「教師」

 教師といっても、2種類、ある。手本としたい教師と、手本としたくない教師。手本としたい教
師のばあい、その教師のすばらしい面を見ながら、自分の人格や人間性を、その教師に、より
近づけようとする。

もう1つは、手本としたくない教師。その教師を批評、批判しながら、「私は、ああいう人間だけ
にはならない」「ああはなりたくない」と、自分の中で、その教師を否定していく。

 後者のような教師を、反面教師という。念のため、「日本語大辞典」(講談社版)をひくと、こう
ある。

「反面教師……否定的なことを示すことによって、肯定的なものをいっそう明らかにするのに役
立つこと」と。英語の格言も、併記してあった。

 One from bad example another can learn.(悪い例から、ものを学ぶこと)と。

 しかし反面教師が、本当に「教師」になりえるかというと、それは疑わしい。教師は教師。私の
例を見るまでもなく、長くつきあっていると、その(手本としたくない部分)まで、受けついでしま
う。影響を受けてしまう。

 その典型的な例が、「虐待」である。

●世代連鎖

 虐待は、世代連鎖しやすい。親が子どもを虐待すると、その子どももまた、親になったとき、
その子どもを虐待しやすい。それはよく知られた事実だが、その(子ども)に視点を置いて考え
てみると、興味深いことに気がつく。

 その子どもは、親から虐待を受けながら、心の中では、きっとこう思っているにちがいない。
「私は、こういう親だけにはならないぞ」と。意識しないまでも、内心では、親に、大きく反発して
いるにちがいない。

 つまりその子どもは、(虐待)されることについて、うらみ、のろっているはず。何よりも、そうし
た(虐待)を、恐れ、嫌っているはず。……こう簡単に決めつけてはいけないかもしれないが、
虐待されて、それを喜ぶ子どもはいない。

 が、その子どもが、親になったとたん、自分を超えた大きな力によって、今度は、自分で、自
分の子どもに、虐待を加えてしまう。

 その(虐待)に、ここでいう反面教師論をあてはめてみると、ピッタリとまではいかないが、反
面教師というのがどういうものかが、よく理解できる。

 虐待を受ける子どもにしてみれば、自分を虐待する親は、まさに反面教師ということになる。
が、その自分が、今度は、親になったとき、自分の親と同じことを繰りかえしてしまう。自分の
子どもに、虐待を加えてしまう。

●つっかい棒

 少し前に、私は、「つっかい棒」論を書いた。つっかい棒というのは、わかりやすく言えば、(自
分を支える気力)ということになる。

 たとえば目の前に、その反面教師がいたとする。その教師を見ながら、「私は、ああいう人間
だけにはなりたくない」と思ったとする。そして自分がその教師のようになることを、心の中で抵
抗する。

 その抵抗する力が、ここでいう(つっかい棒)ということになる。

 で、その(つっかい棒)がある間は、その人は、その人であることができる。しかしそのつっか
い棒は、それほど強靭(きょうじん)なものではない。とくに、その反面教師となっていた人が、
自分の前から消えたときには、そうである。同時に、そのつっかい棒も消える。

 自分を支える必要がないからである。が、ここで思わぬ弊害が現れる。

 そのつっかい棒がはずれたとたん、その反面教師としてきた人から受けた影響が、表に出て
きてしまう。たいていは、自分ではそれに気がつかない。気がつかないまま、「ああいう人間に
はなりたくない」と思った部分を、自分で再現してしまう。

 それが冒頭にあげた、Y君と犬の例であり、私と英語教師の例ということになる。虐待につい
ては、もう少し別の角度から考えなければならない面もあるが、おおまかに言えば、同じように
考えてよい。

●反面教師の限界

 つまり、これが反面教師の限界である。

 私たちは日々の生活をしながら、手本としたい人たちから、何かを学び、一方、手本としたく
ない人たちからも、何かを学ぶ。

 そのとき重要なことは、手本としたくない人たちを見たら、ただ批評や批判をするだけでは、
足りないということ。長くつきあえばつきあうほど、へたをすれば、その人の人格や人間性に、
染まってしまうということもある。「いやな人」「おかしな人」と思っていても、気がついてみると、
自分も、その人そっくりになっていた……というような経験は、ひょっとしたら、あなた自身にも、
1つや2つは、あるかもしれない。

 そこで反面教師と感ずる人と接するときには、いくつかの鉄則がある。

(1)批評、批判するだけでは、足りない

 その相手を、批評、批判することだけなら、だれにでもできる。しかしそれよりも重要なこと
は、自分の中に、それ以上の人格にせよ、人間性を、同時につくりあげていくこと。

 すこし話はそれるが、もう少し深刻な例では、こんなこともある。

 ある夫の妻が、あるカルト教団に入信してしまった。「修行」と称して、パートの仕事もやめ、
ほとんど毎日、その教団内部で過ごすようになった。それについて、夫は、あれこれ資料を集
め、妻にこう迫ったという。

 「お前が信仰している教団は、インチキ教団だ。わからないのか!」と。

 夫は、その教団を批判することによって、妻の信仰をやめさせようとした。が、妻は、それに
応じなかった。応じなかったばかりか、かえって夫婦の亀裂(きれつ)を大きくしてしまった。

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、こうした信者が生まれるのではない。カルト教団を
求める信者がいるから、カルト教団が生まれる。力をのばす。

 夫のした行為は、屋根にあがった妻に対して、ハシゴをはずすようなもの。そういうことをす
れば、かえって妻は、不安になるだけ。ますます信仰に埋没するようになる。

 そこで重要なことは、夫自身が、そのカルト教団にかわる、(心のより所)を用意すること、と
いうことになる。あるいはそのヒントを与える。「お前はまちがっている」と言うなら、それにかわ
る、何か別のものを用意しなければならない。

 そこでその夫は、それまでの自分のあり方を反省し……ということになったが、このつづき
は、また別のところで書くとして、同じように、反面教師を前にしたときには、「あなたはおかし
い」「あなたはまちがっている」と批判するだけでは、足りない。それにかわる、もっと大きな(自
分)を用意しなければならない。でないと、結局は、その反面教師そっくりの人間に、自分も、な
ってしまう。

(2)人を選ぶ

 いろいろな人と幅広く交際する……ということは、重要なこと、ということになっている。しかし
それにも、1つの原則がある。

 30代や40代の人には、まだひょっとしたらわからないかもしれない。しかし50代にもなる
と、自分にとって大切な人と、そうでない人の色分けが、ますますはっきりとしてくる。

 利益があるとか、ないとか、そういうことではない。学ぶべきものがある人かどうか、というこ
とである。中には、50代を過ぎて、ますます邪悪になっていく人もいる。そういう人と時間を共
にするというのは、まさに時間の無駄ということになる(?)。

 実は、この問題は、私にとっては、大きな問題だった。が、その結論を出してくれたのは、あ
るアメリカ人の青年が書いた、手記だった。その青年は、そのときHIVに感染し、エイズを発症
していた。余命は、1年と宣告されていた。

 その青年は、こう書いている。4年前に書いた原稿だが、それをそのまま、ここに転載する。

++++++++++++++++++

●人間関係

 エイズと戦っている1人の患者の手記を読んだ。10ページ足らずの英文の手記だった。アメ
リカに住む若い人が書いた手記なので、それほど内容的には深い文章ではなかった。が、そ
の中に、いくつか、はっと思うようなことが書いてあった。

たとえばエイズになって、だれが真の友で、だれがそうでないかがわかったとか、家族の大切
さが改めてわかったとか、など。が、その中でも、つぎのことを読んだときには、とくに強烈な印
象を受けた。こうあった。

「エイズが発病してからというもの、時間がたいへん貴重になった。意味のない人と、意味のな
い会話をすることが苦痛になった。そういう人とはすぐ別れる」と。

 私も50歳を過ぎてから、ときどき、同じように思うようになった。が、最初は、それは悪いこと
だと思った。だれとでもつきあい、だれとでも会話をする。それが大切で、人を、意味のある人
と、そうでない人に、区別をしてはいけない、と。

しかし本当の私は、別のほうに進み始めた。いつも心のどこかで、意味のある人と、そうでない
人を区別するようになってしまった。利益があるとか、ないとか、そういうことではない。が、そ
のことを思い知らされたのは、A氏(54歳)に出会ったときのことだ。

 ほぼ25年ぶりにA氏に会った。偶然、通りを歩いていて会った。で、会話がはずみ、一緒に
昼食でも食べようということになった。が、そのうち、会話がまったくかみあっていないことに、
私は気がついた。たがいに、どこか薄っぺらい会話で、つかみどころがない。

一通り家族や、仕事の話をしたのだが、それ以上に話が進まない。そこで聞くと、A氏はこう話
してくれた。

 「家での楽しみは、野球中継を見ること。休みは釣り。雨の日はパチンコ」と。「本や新聞は読
んでいるのか。インターネットはしているのか」と聞くと、「読んでいるのは、スポーツ新聞だけ。
インターネットはしていない」と。

A氏はA氏なりに自分の世界で、自分の仕事をしてきた。しかしその25年間で、そしてその仕
事を通して、A氏は何をつかんだというのか。

 だからといって、私が「何かをつかんだ人間」と言うつもりはない。おそらくA氏から見れば、
私はつまらない人間かもしれない。酒は飲まない。パチンコもしない。女遊びもしない。野球の
話すら、できない。そういう意味では人の心というのは、カガミのようなもの。私がA氏をつまら
ない人間と思っているなら、(決して「つまらない人」と思っているのではない。仮に、そう思った
とするならという話)、同じようにA氏も私をつまらない人間と思っているはず。

 が、私は正直に告白する。私はそのA氏と早く別れたかった。何かしら時間をムダにしている
ように感じだった。が、一方で、別の私がそれに抵抗した。「25年ぶりではないか」「友は大切
にしなければならない」と。が、それでも「ムダ」という思いが、心をふさいだ。私は懸命に、自分
にこう言って聞かせた。「お前は冷たい人間だ。ムダと思うのは、お前の冷酷さによるものだ」
と。

 しかし本当に私は冷たい人間なのか。「時間をムダにしている」と感ずることは、私が冷たい
からなのか。今でもそれはわからないが、私はあるがままに生きてみようと思う。ムダと思った
ら、ムダなのだ。そしてムダと思ったら、はやく別れればよい。……と考えていたところで、冒頭
の手記を読んだ。だから強烈な印象を受けた。

 その患者は、手記のあとがきによると、それから2年間の闘病生活のあと、なくなったという。
つまりその手記を書いたとき、自分の命がそれほど長くないことを知っていたはず。

私も50歳をすぎて、人生の終わりをそこに感ずるようになった。が、深刻さの度合いは、その
患者とくらべたら、はるかに低い。そういう患者が、「時間がたいへん貴重になった。意味のな
い人と、意味のない会話をすることが苦痛になった。そういう人とはすぐ別れる」と書いている。
その手記を読んだおかげで、私は私の生き方に自信をもったというか、「ああ、今のままでい
いのだ」と、思いなおすことができた。

 さて、私はこれから先、人間関係を整理する。たとえば今でも、表では、私の知人や友人のフ
リをしながら、うらで、敵対行為をしている人が、何人かいる。こうして書いたエッセーについて
も、いちいちアラを見つけては、「これはあの人のことだ」「ここに書いてあるのは、あんたのこ
とだ」と、告げ口をしている人がいる。私はそういう人でも、知人や友人ということで、今までは
つきあってきた。しかしもうやめる。

そういう人は、知人でも友人でもない。私はかつて一度だって、個人攻撃をするために、文を
利用したことなど、ない。それをしたら、私はおしまいとさえ思っている。いろいろな人のことは
書くが、それは別の目的で書いている。そんなことは、私のエッセーの全体を読んでもらえば、
すぐわかることではないか。

……と、少し話が脱線したが、このところ、「生きるとはどういうことか」と、またまたよく考えるよ
うになった。ムダが悪いわけではないが、私には今、ムダにできる時間など、どこにもない。そ
れだけは確かのように思う。
(02・9・14)

++++++++++++++++++

 要するに反面教師と思うような人とは、つきあわないということ。「反面教師」と、「教師」という
言葉を使うが、反面教師は決して、「教師」ではない。が、しかしそうはいかないばあいもある。

 職場での人間関係、さらには、親戚、さらには親子や兄弟関係など。こちらがつきあいたくな
くても、無数のしがらみに縛られて、それがままならないことがある。

 そういうときは、どうすればよいのか?

 実のところ、私にもよくわからないが、私のばあいは、「相手にしない」という方法で、対処して
いる。表面的な交際はしても、そこまで。それ以上、深入りはしないようにしている。

 さらに問題がこじれてきたようなときは、こうして文を書きながら、徹底的に、その人を自分の
中から消すようにしている。そういう形で、自分の心を守らないと、あっという間に、その人の心
が、私のほうに移動してきてしまう。今のところ、この方法は、私にととっては、うまく機能してい
るように思う。

 少し疲れてきたので、この話のつづきは、また別の機会に考えてみたい。なお内容的にボロ
ボロの原稿だが、後日、もう一度書き改めることを前提に、今は、このままにしておく。
(はやし浩司 反面教師論 反面教師 育児論 子育て論)

 
Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(039)

【4年前に書いた原稿から……】

+++++++++++++++++

少し前、気分転換に……と思って、
4年前に書いた原稿を読みなおしてみた。

「なるほど」と思ってみたり、
「あのときは、そう考えたのだな」と
思ってみたり……。

現在の自分と比較してみるというのは、
それなりに楽しいことでもある。

+++++++++++++++++

●正直に生きることの勇気

 この日本、正直に生きるということだけでも、勇気がいる。いや、勇気にも、2種類ある。他人
に向かう勇気と、自分に向かう勇気だ。こんなことがあった。

 魚屋でいくつかの食品と、煮干の入ったパックを3つ買った。一パック、800円。3パックで、
2400円。しかしレジの女性は、一パック500円で計算し、3パックで1500円とした。

私はおもむろに、「これは1パック、800円ですよ」と告げた。その女性はうれしそうに笑って礼
を述べたが、私はその女性のためにそうしたのではない。自分自身のためにそうした。礼など
言われる筋あいではない。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年となり、やがてその人の人格をつくる。
で、その日々の積み重ねとは何かと言えば、その瞬間瞬間の行いをいう。もし私がそうした場
面で、小ズルイことをしていれば、私はやがてそのタイプの人間になってしまう。たとえその場
で、1000円近く「得をした」(?)としても、これは私にとっては大きな損失だ。が、私はここで
考えた。

 この日本では、資本主義が原則になっている。金儲けだ。で、その金儲けは何かということに
なれば、それは「だましあい」。

私は自転車屋という商人の家に生まれ育ったので、そのあたりのだましあいが、どういうもの
であるかを、よく知っている。たとえば1000円で仕入れたものを、客の顔色を見ながら、200
0円で売りつける。相手が、「高いね」と不満を口にすれば、その場で適当にウソを並べて、「ま
あ、いいでしょう。あなたですから、1500円にしておきます」と言う。こういう芸当が即座にでき
なければ、商人など務まらない。

 ……となると、レジの女性が値段を打ちまちがえたということは、それはレジの女性のミスと
いうことになる。商人の世界では、ミスは、ミスしたものの責任ということになる。そのためこう
いうケースでは、客はふつう黙っている。

こう書くと叱られるかもしれないが、少なくとも私が知っている世界では、黙っている。もともと商
売というのは、そういうもの。だまされたとしても、だまされたほうが悪い。ミスをすれば、ミスを
したほうが悪い。つまりこの日本では、正直に生きようと思えば思うほど、損をする。そういうし
くみができあがってしまっている。つまり正直に生きるということは、同時に損をするということ。
自ら自分を損の世界に、押し込むことになる。だから勇気がいる。

 この点、私のワイフは、純朴な女性だから、ものごとを深く考えない。あとになって、「おかしい
と思ったけど、安くしてくれたのかしらと思ったわ」と、平然と言ってのける。人を疑うことすら知
らないから、値段もそのまま信じてしまう。だから問題意識ももたない。が、私はそうではない。

レジの女性がカチカチと打ったその瞬間、別の脳が同時進行の形で、合計金額を計算する。
これは私のクセのようなものだ。だからレジの女性が値段を打ちまちがえると、即座に「ちがい
ますよ」と言う。そしてそういう能力が、かえってわざわいする。あれこれ悩む原因となる。

 が、やはり正直に生きる。とくに私は、幼児期が貧しかったから、ふと油断すると、醜い自分
に押し戻されてしまう。私はもともとは小ズルイ人間だし、小ズルイことをするのに、それほど抵
抗がない。だから余計に、自分の老後が心配になる。今は何とか気力で、そういう醜い自分を
押し隠している。が、その気力が弱くなったとき、それがモロに表面に出てくる。その可能性
は、じゅうぶん、ある。それがこわい。こわいから、今から、少しずつ、自分を変えなければなら
ない。時間がない。いや、もう間に合わないかもしれない。

だから、私は正直に、そのレジの女性に、まちがいを告げた。しかしそれはあくまでも、私のた
めだ。レジの女性のためではない。だから礼を言われる筋あいではない。

(追記)

 岐阜は関西商人の経済圏に入っているから、ものの値段など、あってないようなもの。買い
物にしても、定価(正札)で買う人などいない。即座にその場で、値段の交渉を始める。が、こ
の浜松というところは、東京の経済圏に入っている。だから値段の交渉をする人はいない。私
はこの浜松に移り住むようになって、35年になるが、そのため、いまだに戸惑いを覚えること
がある。

 そういう意味では、浜松の人は、正直だ。少なくとも岐阜の人たちよりは、あるがままに生き
ている。自分を飾らないし、偽らない。もともと街道筋の宿場町で発達した町ということもある。
古い伝統や文化が根づかなかったという欠点はあるが、一方、何からなにまで、どこかさっぱ
りしている。

ものの考え方が合理的、先進的、開放的。世界をリードする、ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワ
イ、ローランドなどの各会社が、この浜松から生まれた背景には、そういう理由がある。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●セックス&セックスレス

 ワイフが、こんな話をした。「テレビの人生相談を見ていたけど、8年間で、1度しかセックスを
しない夫婦がいるんだって」と。聞くと、まだお互いに30代前半の夫婦だという。私はその話を
聞いたとたん、「もったいない」「信じられない」「夫婦って何だ」「おかしい」「かわいそうに」とい
ろいろ考えた。

 「もったいない」というのは、これは男の本能のようなもの。30歳くらいの若い女性を見ると、
心のどこかで「裸になって肌をこすり合わせたら、さぞかし気持ちいいだろうな」と考える。そう
いう自分の中に潜む本能が、「もったいない」と思わせる。

 「信じられない」「夫婦って何だ」「おかしい」というのは、夫婦はセックスをして、夫婦なのだ。
何を隠そう、私など、今のワイフとつきあい始めたときからほぼ10年間、xxxxxxxxxxxxは、ワ
イフとセックスをしていた。……というのは、? 毎日自転車通勤で下半身を鍛えていたから、
そういうことができたのかもしれない。ときどきワイフが、「私は、身がもたない。浮気でもしてき
て!」と、こぼすほどだった。

 ……ここで残念ながら、ワイフ・ストップがかかった。これ以上、私たちのセックスについて書
くことはできない。ワイフの名誉の問題もある。またいつか、別の機会に書くことにして、話を進
める。

 セックスレスが悪いというのではない。人それぞれだし、それでうまくいっている夫婦はいくら
でもいる。ただ若いときは、セックスをすることで、たがいの心を開き、わかりあえるということ
はある。セックスをするということは、まさに自分をさらけ出すこと。あるいはセックス以外に、
自分をさらけ出すという方法はあるのか。

いや、セックスをしたからといって、自分をすべてさらけ出すことができるかといえば、そうでは
ない。やり方をまちがえると、ただの排泄行為に終わってしまう。セックスがもつ力にも限界が
ある。

 まあ、私もワイフと結婚生活を35年近くもしてきたから、いろいろなことはあった。まだ20代
のころだが、スワッピング(夫婦交換)をしないかともちかけられたこともある。もちかけてきた
のは、仕事先の女性だった。しかしワイフがああいうカタブツ人間だから、実現しなかった。

 若い主婦たちだけでつくる、秘密クラブのようなものもあった。それにも誘われたことがある。
「美人妻クラブへ来ませんか」と。私は最初は冗談だと思ったが、本当にそういうクラブがあっ
た。私が断ると、「あなたの知っている人で、口のかたい人はいませんか。お金持ちなら大歓
迎!」と。

 この世界には、いろいろなことがある。が、何が驚いたかと言って、母親が自分の娘(高3)に
ついて、「セックスの指導をしてやってほしい」ともちかけられたときほど、驚いたことはない。こ
のときは、私はあれこれ口実をつくって、その場から逃げたので、ことなきをえたが……。しか
しそれにしても……! (この話は、本当だぞ!)

私はもともと岐阜の山奥育ちだから、セックスというと、どこかに、うしろめたい「暗さ」を感ず
る。その暗さが、いろいろな場面で、ブレーキとなって働いた。が、そういう暗さをまったく感じな
い人も多い。……らしい。実に、あっけらかんとしている。いろいろいきさつはあったが、私に面
と向かって、「私のアレは、10万人に1人の名器だって、夫がいつも、そう言っていますわ。あ
なた、ためしてみます?」と言われたこともある。……などなど。

こういう話はここまでにしておくが、もともとセックスというのは、そういうものかもしれない。意味
があるようで、それほどない。ひょっとしたら、小便や大便と同じ、ただの排泄行為かもしれな
い。今の今も、目の前の栗の木の間で、野性のハトたちが、こと忙しそうに交尾を繰り返してい
る。

そういうのを見ていると、「人間も同じだなあ」とか、「人間がそういうハトとちがうと考えるほうが
おかしい」と思う。たがいの合意があれば、もっとセックスを楽しんでもよいのではないか、と
も。とくに8年間もセックスレスというのは、夫はかまわないが、妻がかわいそうだ。セックスで
得る快感というのは、ほかでは経験できない。あの快感は、まさに人間が生物としてもつ特権
のようなもの。その特権を、自ら封印してしまうとは!

 ……この話は、教育論とは関係ないので、ここまでにしておく。ただいろいろなことがあって、
私はこの道に入ってからというもの、この問題に関しては、「我、関せず」を貫いている。若い人
たちのセックスについても、だ。「どうぞ、ご勝手に」と言いつつ、「病気にだけは気をつけろよ」
と言うようにしている。

そういう相談はいままで一度もなかったから、これはあくまでも仮定の話だが、もし女子中学生
や高校生からセックスの相談を受けても、私はそう言うだろうと思う。「どうぞ、ご勝手に。病気
にだけは気をつけろよな」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【自分のこと】

●ある読者からのメール

 一人のマガジン読者から、こんなメールが届いた。「乳がんです。進行しています。診断され
たあと、地獄のような数日を過ごしました」と。

 ショックだった。会ったことも、声を聞いたこともない人だったが、ショックだった。その日はた
またま休みだったが、そのため、遊びに行こうという気持ちが消えた。消えて、私は1日書斎に
座って、猛烈に原稿を書いた。

●55歳という節目

 私はもうすぐ55歳になる。昔で言えば、定年退職の年齢である。実際、近隣に住む人たちの
ほとんどは、その55歳で退職している。私はそういう人たちを若いときから見ているので、55
歳という年齢を、ひとつの節目のように考えてきた。だから……というわけではないが、何とな
く、私の人生がもうすぐ終わるような気がしてならない。この1年間、「あと1年」「あと半年」「あ
と数か月……」と思いながら、生きてきた。が、本当に来月、10月に、いよいよ私は、その55
歳になる。もちろん私には定年退職はない。引退もない。死ぬまで働くしかない。しかしその誕
生日が、私にとっては大きな節目になるような気がする。

●私は愚かな人間だった

 私は愚かだった。愚かな人間だった。若いころ、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。時間
というのが、かくも貴重なものだとは思ってもみなかった。その日、その日を、ただ楽しく過ごせ
ればよいと考えたこともある。今でこそ、偉そうに、多くの人の前に立ち、講演したりしている
が、もともと私はそんな器(うつわ)ではない。もしみなさんが、若いころの私を知ったら、おそら
くあきれて、私から去っていくだろう。そんな私が、大きく変わったのは、こんな事件があったか
らだ。

●母の一言で、どん底に!

 私はそのとき、幼稚園の講師をしていた。要するにモグリの講師だった。給料は2万円。大
卒の初任給が6〜7万円の時代だった。そこで私は園長に相談して、午後は自由にしてもらっ
た。自由にしてもらって、好き勝手なことをした。家庭教師、塾の講師、翻訳、通訳、貿易の代
行などなど。全体で、15〜20万円くらいは稼いでいただろうか。しかしそうして稼ぐ一方、郷里
から母がときどきやってきて、私から毎回、20万円単位で、お金をもって帰った。私は子どもと
して、それは当然のことと考えていた。が、そんなある夜。私はその母に電話をした。

 私は母にはずっと、幼稚園の講師をしている話は隠していた。今と違って、当時は、幼稚園
の教師でも、その社会的地位は、恐ろしく低かった。おかしな序列があって、大学の教授を頂
点に、その下に高校の教師、中学校の教師、そして小学校の教師と並んでいた。幼稚園の教
師など、番外だった。私はそのまた番外の講師だった。幼稚園の職員会議にも出させてもらえ
ないような身分だった。

 「すばらしい」と思って入った幼児教育の世界だったが、しばらく働いてみると、そうでないこと
がわかった。苦しかった。つらかった。そこで私は母だけは私をなぐさめてくれるだろうと思っ
て、母に電話をした。が、母の答は意外なものだった。私が「幼稚園で働いている」と告げる
と、母は、おおげさな泣き声をあげ、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア、誤ったア!」と、何度
も繰り返し言った。とたん、私は、どん底にたたきつけられた。最後の最後のところで私を支え
ていた、そのつっかい棒が、ガラガラと粉々になって飛び散っていくのを感じた。

●目が涙でうるんで……

 その夜、どうやって自分の部屋に帰ったか覚えていない。寒い冬の夜だったと思うが、カンカ
ンとカベにぶつかってこだまする自分の足音を聞きながら、「浩司、死んではだめだ。死んでは
だめだ」と、自分に言ってきかせて歩いた。

 部屋へ帰ると、つくりかけのプラモデルが、床に散乱していた。私はそのプラモデルをつくっ
て、気を紛らわそうとしたが、目が涙でうるんで、それができなかった。私は床に正座したまま、
何時間もそのまま時が流れるのを待った。いや、そのあとのことはよく覚えていない。一晩中
起きていたような気もするし、そのまま眠ってしまったような気もする。ただどういうわけか、あ
のプラモデルだけは、はっきりと脳裏に焼きついている。

●その夜を契機(けいき)に……

 振り返ってみると、その夜から、私は大きく変わったと思う。その夜をさかいに、タバコをやめ
た。酒もやめた。そして女遊びもやめた。もともとタバコや酒は好きではなかったから、「やめ
た」というほどのことではないかもしれない。しかしガールフレンドは、何人かいた。学生時代
に、大きな失恋を経験していたから、女性に対しては、どこかヤケッパチなところはあった。と
っかえ、ひっかえというほどではなかったかもしれないが、しかしそれに近い状態だった。1,2
度だけセックスをして別れた女性は、何人かいる。それにその夜以前の私は、小ずるい男だっ
た。もともと気が小さい人間なので、大きな悪(わる)はできなかったが、多少のごまかしをする
ことは、何でもなかった。平気だった。

 が、その夜を境に、私は自分でもおかしいと思うほど、クソまじめになった。どうして自分がそ
うなったかということはよくわからないが、事実、そうなった。私は、それ以後の自分について、
いくつか断言できることがある。

たとえば、人からお金やモノを借りたことはない。一度だけ10円を借りたことがあるが、それは
緊急の電話代がなかったからだ。もちろん借金など、したことがない。どんな支払いでも、1週
間以上、のばしたことはない。たとえ相手が月末でもよいと言っても、私は、その支払いを1週
間以内にすました。ゴミをそうでないところに、捨てたことはない。ツバを道路にはいたこともな
い。あるいはどこかで結果として、ひょっとしたらどこかで人をだましているかもしれないが、少
なくとも、意識にあるかぎり、人をだましたことはない。聞かれても黙っていることはあるが、ウ
ソをついたことはない。ただひたすら、まじめに、どこまでもまじめに生きるようになった。

●もっと早く自分を知るべきだった

 が、にもかかわらず、この後悔の念は、どこから生まれるのか。私はその夜を境に、自分が
大きく変わった。それはわかる。しかしその夜に、自分の中の自分がすべて清算されたわけで
はない。邪悪な醜い自分は、そのまま残った。今も残っている。かろうじてそういう自分が顔を
出さないのは、別の私が懸命にそれを抑えているからにほかならない。

しかしふと油断すると、それがすぐ顔を出す。そこで自分の過去を振り返ってみると、自分の中
のいやな自分というのは、子どものころから、その夜までにできたということがわかる。私はそ
れほど恵まれた環境で育っていない。戦後の混乱期ということもあった。その時代というのは、
まじめな人間が、どこかバカに見えるような時代だった。だから後悔する。私はもっと、はやい
時期に、自分の邪悪な醜い自分に気づくべきだった。

●猛烈に原稿を書いた

 私は頭の中で、懸命にその乳がんの女性のことを考えた。何という無力感。何という虚脱
感。それまでにもらったメールによると、上の子どもはまだ小学1年生だという。下の子ども
は、幼稚園児だという。子育てには心労はつきものだが、乳がんというのは、その心労の範囲
を超えている。「地獄のような……」という彼女の言い方に、すべてが集約されている。55歳に
なった私が、その人生の結末として、地獄を味わったとしても、それはそれとして納得できる。
仮に地獄だとしても、その地獄をつくったのは、私自身にほかならない。しかしそんな若い母親
が……!

 もっとも今は、医療も発達しているから、乳がんといっても、少しがんこな「できもの」程度のも
のかもしれない。深刻は深刻な病気だが、しかしそれほど深刻にならなくてもよいのかもしれな
い。私はそう思ったが、しかしその読者には、そういう安易なはげましをすることができなかっ
た。

今、私がなすべきことは、少しでもその深刻さを共有し、自分の苦しみとして分けもつことだ。だ
から私は遊びに行くのをやめた。やめて、一日中、書斎にこもって、猛烈に原稿を書いた。そう
することが、私にとって、その読者の気持ちを共有する、唯一の方法と思ったからだ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(040)

●すなおな常識

+++++++++++++++++++

ある評論家の文章を読む。日本では、たいへん
よく知られた人物の文章である(週刊B・1月
26日号)。

その人物が、皇位継承権の問題について、こう
書いている。

「現代人は、なんでも、言葉にできると信じてい
ます。昨今の『女帝』に関する議論も、要するに
『議論』で、それは言葉です。しかし、天皇とは
日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言葉
にしがたいものでもあります」と。

つまり「皇位継承権の問題は、言葉の問題ではなく、
伝統の問題である。伝統は、言葉によって、
解決できる問題ではない」と。(要約)

しかし……。

+++++++++++++++++++

 皇位継承問題について、日本でもよく知られた評論家が、週刊誌の中で、こう述べている。Y
R氏という、学者である。

「現代人は、なんでも、言葉にできると信じています。昨今の『女帝』に関する議論も、要するに
『議論』で、それは言葉です。しかし、天皇とは日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言
葉にしがたいものでもあります」(抜粋)と。

 ここで皇位継承問題を論ずるつもりはない。それは別の問題として、ここでは、YR氏が書い
た言葉そのものを、考えてみる。つまり要するにその評論家は、「日本の天皇制度というの
は、伝統であって、言葉であれこれ論ずる問題ではない」と言いたいらしい。

 しかし私は、この文章を読んで、ハタと考えこんでしまった。「天皇とは日本の伝統そのもので
あり、伝統とは安易に言葉にしがたいものでもあります」という意味が、理解できなかったから
である。何というか、その評論家は、「言葉の問題ではない」と言いつつ、その言葉で、私たち
を煙に巻いている。

 それとも私がバカなのか?

 実は、こうした現象というか、わけのわからない文章というのは、その世界では、よく見かけ
る。たとえばその世界では、私なら、「わからない」と書くようなときでも、こう書く。

 「それは、私の理性的理解力の範囲を、逸脱している」と。

 わざとまわりくどい言い方をする。そしてそれが、評論の世界では、あるべきものの書き方で
あるかのような書き方をする。たとえば同じような文章を書く人物に、OE氏がいる。TB氏がい
る。そしてこのコメントを書いたYT氏も、その1人。3人とも、日本を代表する評論家(?)という
ことになっている。

 が、その中でも、とくにOE氏の文章は難解である。世界でも最高と呼ばれる文学賞を受賞し
た人物だから、そのつど、それなりに敬意を払い、それなりに懸命に読んではみるのだが、私
のようなバカには、まさに「理性的理解力の範囲を、逸脱している」。理解できない。

 そこで私は、この文章を読んでいるみなさんに、こう問うてみたい。「みなさんは、本当に、あ
あいう人たちの書く文章が、すばらしいと思っているのか?」と。「あるいは、そう思いこまされ
ているだけではないのか?」と。

 マスコミの力によってつくられた虚像といってもよい。子どもの世界にも、ポケモンというのが
ある。今でも、あのピカチューを見ただけで、「かわいい」「かわいい」と騒ぐ子どもは、いくらで
もいる。

 そこで私はある日、子どもたち(小学生)に、こう聞いてみた。「君たちは、本当に、あのピカ
チューがかわいいと思うのか?」と。とたん、教室中が、ハチの巣をつついたような騒ぎになっ
てしまった。私は、あわや、子どもたちに袋叩きにされるところだった。

 こういう例は、多い。若者たちの世界にも、そしておとなの世界にも……。評論の世界も、そ
の一部かもしれない。

 そこで私は、(すなおな常識)という言葉を考えた。「常識」といっても、もともと常識というもの
は、存在しない。千差万別。1000人の人がいれば、1000種類の常識がある。しかしその常
識でも、子どもたちの世界を鏡(かがみ)として映(うつ)しだしてみると、(すなおな常識)と、(そ
うでない常識)というものがあるのがわかる。

 そういう意味では、子どもの心は、純粋である。水にたとえるなら、山奥深く、岩盤の間からし
み出た清水のようなもの。しかしその水も、やがて下流に向かって流れるうちに、さまざまな形
に加工される。ジュースになるものもあれば、酒になるものもある。しかしおとなたちには、それ
がわからない。

 「これは本物のみかんを使った、本物のみかんジュースだ」「これは、純米100%の、本物の
酒だ」とか、言い出したりする。

 しかしそこで一度でもよいから、岩盤からしみ出る清水のことを考えてみてほしい。そういう視
点で、ものを考えてみてほしい。それが私がここでいう、(すなおな常識)ということになる。

 ……という点では、私は、本当にラッキーだと思う。その子どもの世界に、毎日触れている。
子どもといっても、さらに純粋な、幼児である。その幼児に接していると、ときに、自分の心がサ
ラサラと洗い清められていくのを感ずることもある。子どもの世界では、ウソやインチキ、ゴマカ
シは、絶対に通用しない。ゆがんだ考え方をしようものなら、その場で、瞬時に、はじき飛ばさ
れてしまう。

 そういう世界で積み重ねられた常識が、ここでいう(すなおな常識)ということになる。

 で、その(すなおな常識)に従って、皇室問題を考えてみると、こういうことになる。つまりそも
そも人間に種類があることのほうが、おかしい、と。もっと言えば、上下関係があることのほう
が、おかしい、と。どうして明治時代には、華族だの士族だのが、いたのか? もし伝統とやら
が、それほどまでに重要なものであるとするなら、どうして今、華族や士族がいないのかという
ことにもなる。

 が、私たちは、何も困らない。困っていない。華族や士族などいなくても、何も困らない。困っ
ていない。YR氏は、こういう事実を、言葉で、どう説明するのだろうか。

 実は、そういう(おかしさ)をごまかすのが、「伝統」という言葉である。伝統という言葉をもちだ
せば、おかしなことでも、おかしくなくなってしまう。いや、それ以前に、天皇自身の意思は、どう
なのかという問題もある。

 ほとんどの人は、生まれながらにして、最高の住宅地で、最高の家に住み、最高の生活がで
きるのだから、不満はないはずと考える。そういう前提で、ものを考える。だから天皇に不満
は、ないはず、と。しかし本当にそうだろうか。そう決めてっかかってよいのだろうか。少なくとも
一度は、天皇に、「これからも天皇をしてくれますか」「それでよろしいですか」と聞いてみるべき
ではないのか。

 天皇だって、天皇である前に、1人の人間である。私やあなたと同じ、1人の人間である。もし
皇位継承者のだれかが、「私だって人間だア!」「自由にものを言いたい!」と叫んだら、私た
ち国民は、それに何と答えればよいのか。

 で、最初の問題にもどる。「天皇とは日本の伝統そのものであり、伝統とは安易に言葉にし
がたいものでもあります」と。

 YR氏という人物は、どうやら今、書斎という本の世界で、言葉の渦に巻き込まれてしまってい
るにちがいない。何かか欠けている。私は先の一文を読んで、ふとそれを感じたが、それがこ
こでいう(すなおな常識)である。つまり、ものを考え、ものを書くというのは、もっと単純なこと。
台所につづく居間でもよい。公園のベンチの上でもよい。今は、ワープロの時代だから、それこ
そ縁側に寝そべってでも、よい。

 そういう世界を通して、世の中を見る。考える。そしてものを書く。が、残念ながら、YR氏の書
斎には、そういう(すなおな常識)を感じない。まるで文をもて遊んでいる感じ。一応YR氏は、
「何も言いたくない」という立場で意見を書いていたが、そのため、読めば読むほど、「?」。

 あえて言うなら、伝統が言葉の問題ではないとしても、その言葉なくして、どうやって伝統を論
ずるのか……ということになる。さらに言えば、今、そうした伝統論をふりかざして、王室や皇
室を維持している国というのは、そうはない。このアジアの中では、日本のほかに、タイとか、
ネパールとか、インドネシアとか、そのあたりの国だけである。

 もしYR氏の言うことが正しいとするなら、こうした伝統のない国、たとえば中国や韓国、台
湾、フィリッピンなどは、言葉の上では、国ではないということになるのでは……(?)。(少し言
いすぎかな?)

 そこでみなさんに提案する。私たちは、もっとすなおな常識で、ものを考えようではないか、
と。おかしいものは、おかしい、と。勇気を出して、そう思えばよい。考えればよい。それがわか
らなければ、子どもたちに聞いてみればよい。「日本には天皇制という制度があって、男子しか
天皇になれないということになっている。君は、そういう制度を、どう思う?」と。

 そのとき返ってきた言葉が、つまりは、ここでいう(すなおな常識)ということになる。


●どちらが虚業?

++++++++++++++

私たちの人生は、いったい、何だったのか?

今回の一連のライブDア社事件をながめていると、
はからずも、そんなことを考えさせられる。

++++++++++++++

 一連のライブDア社事件をながめていて、驚くのは、そこに出てくる金額の大きさもさることな
がら、登場人物たちの、年齢的な若さである。

 たとえば主役の、堀江T文社長は、33歳。
 宮内R治取締役は、38歳。
 ほかにライブDア社の子会社である、「バリュークリックJ」の株式分割事件で登場する、熊谷
F人取締役は、28歳! (28歳だぞ!)

 こういった数字、つまり、33歳、38歳、28歳という数字をながめていると、ライブDア社の虚
業性もさることながら、事件全体が、まるで夢か、おとぎ話の世界、もしくはアニメの世界で起
きたような印象すらもつ。

 少なくともこれは、私たち団塊の世代の常識ではない。私たち団塊の世代の常識によれば、
社長というのは、50代から60代。取締役などという重役は、何年も何年も地道に働いた結
果、やっとたどり着けるところ……ということになっている。

 事実、大学の同窓生にしても、大学を卒業後、民間会社に就職した仲間は、みな、そういう
道を歩んでいる。が、それで最終的に役職につくことができたかといえば、そうでもない。50歳
を超えるころから、リストラにつづくリストラ。私が54歳のときに出た同窓会でも、就職時のまま
民間会社に残っていた仲間は、ゼロだった。

 みな、リストラされ、子会社など、別の会社に移籍していた。

 ……となると、私たち団塊の世代にとって、会社とは、いったい、何だったのか?、……という
ことになる。ライブDア社が、小さな個人会社だったというのなら、まだ話がわかる。しかし今回
の事件をみてもわかるように、ライブDア社は、日本の株式市場に激震とも言えるような、大き
な影響を与えた。そういう力をもっていた。

 しかもそういう会社を、20代、30代の若者たちが経営していた!

 私も含めて、こうした事実に、ショックを受けた日本人も、少なくないはず。「どうしてそんな若
者たちに、そんなことができたのか?」と。「どうして私たちには、それができなかったのか?」
と。

 28歳といえば、私のばあい、毎週のように世界を飛び回っていた。幼稚園で講師として働く
かたわら、貿易の手伝いをしていたころ。

 33歳といえば、今の家に移り住み、ささやかながらも、マイホーム生活を楽しみ始めていた
ころ。

 そして38歳といえば、過労から、左の耳の聴力を完全になくし、仕事の限界を感じ始めてい
たころ。

 そういう自分の年齢と照らしあわせてみると、ライブDア社の若者たちは、ものすごいことをし
た、という印象をもってしまう。日本中の投資家に迷惑をかけたのは、悪いことだが、言いかえ
ると、そんな若者たちを信じて、投資した人たちも、それなりに、愚かだったということにもな
る。

 報道などによると、ライブDア社の堀江T文社長は、「働く」というよりは、仕事そのものを、マ
ネーゲーム化していたという。新聞報道などでは、「虚業」という言葉さえ使われている。

 個人的には、私は、堀江T文社長に同情するが、しかしそれにしても、巨額である。先週の株
価暴落では、数日にして、ライブDア社だけでも、4500億円前後※の資産が、ツユと消えたと
いう。その巨額さを思うと、あまりにも現実離れしていて、ピンとこない。少なくとも、コツコツと
汗水流しながら働いて手にする金額ではない。

 ここに、私は、今回の事件のアニメ性を感ずるが、しかし同時に、ではいったい、私たちの人
生は何だったのかということにもなる。つまり、私を含めて、私たちのしてきた人生が、バカバ
カしく思えてくる。

 したいこともせず、いつも何かをじっとがまんしながら、ただひたすらまじめに(?)働いてき
た。高望みもせず、野心も、野望ももたず、自ら社会の歯車を自認し、生きてきた。いつも、ど
こか、不完全燃焼のまま。しかし働くということは、そういうものだと、割り切っていた。そういう
私たちは、いったい、何だったのか。

 時代が変わったといえばそれまでだが、しかし私たちには、もうつぎの時代は、ない。過去を
とりもどすこともできない。こういう事件を知ると、そんなわけで、悔恨の念が、どっと襲ってく
る。「私だって、やればできたはず」という思いが、やがて、「どうして私は、こうまで社会に遠慮
しながら生きてきたのだ」という思いに変わってくる。

 それ、悶々とした悔しさとなって、胸をふさぐ。

 それにしても、33歳ねえ……。38歳ねえ……。28歳ねえ……、と。

 一方、先のライブDア社が買収しようとした某テレビ局のほうはといえば、ズラリ、老人たちば
かり。権威と威厳をカサに着て、いばっているような人たちばかりだった。その落差というか、
ちがいが、私にはあまりにも強烈だった。

 どちらが本当に虚業だったのか。ライブDア社だったのか。それとも、団塊の世代が生きてき
た人生だったのか。そう考えていくと、頭の中が混乱してくる。わからなくなってくる。

 ただここではっきり言えることが、一つ、ある。それは、今回、はからずもライブDア社は、大
きな蹉跌(さてつ)を踏んだことになるが、しかしこれからの日本を支えていくのは、ライブDア
社のような会社になるだろうということ。今までの、つまり私たち団塊の世代がいだいていた
(会社観)というのは、あまりにも、陳腐。古い。これからの日本では、もう通用しない。

 若者たちよ、ライブDア社の失敗にめげず、前に進め! がんばれ! これからの日本を支
えていくのは、まさに20代、30代の、君たち若者なのだ!
※……ライブドア本体の時価総額は1月23日時点で、約2686億円。強制捜査直前の16日
終値の約7300億円から3分の1近くまで減った(ヤフー・ニュース)。

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●牛の肉

牛の肉といっても、人間も哺乳動物。牛も哺乳動物。基本的には、人間の肉と牛の肉は、構造
は、ちがわない。色も形も、ちがわない。

その解体された牛の映像が、テレビに出てくる。インターネットに出てくる。新聞に出てくる。TB
Sのi−newsによれば、「農水省、問題の牛肉写真を公開」とある。 

いわく、「政府がアメリカ産牛肉の輸入を再び停止した問題で、農水省は停止の原因となった
背骨付きの牛肉の写真を公開しました」と。

しかし牛の肉の現物なら、そこらのショッピングセンターに行けば、いくらでも見ることができ
る。

 で、私は、ああいうのを見ると、ときどき、人間の肉も、同じなのだろうなと思う。

 が、今回は、BSE問題とからんで、切断された背骨まで紹介されている。それがゾーッとする
ほど、不気味。気持ちが悪い。

 つまり私は、さらに考えてしまう。もし、あれが牛の背骨ではなく、人間の背骨だったら、どうな
のか、と。

 もしそれが人間の背骨だったら、ゾーッとするのを通り越して、私は、気絶してしまうかもしれ
ない。考えてみれば、これほど残酷なことはない。もしあなたの体が、骨ごと輪切りにされて、
そこらにつりさげられているとしたら……!

 しかも、だ。人間はそういう牛の肉を、あろうことか、台所のまな板の上で、ほかの食材といっ
しょに、調理する。ときには、まな板に、牛の血が流れることもある。しかし人間は、平然とし
て、調理をつづける。

 恐ろしいことだ。本当に恐ろしいことだ。もしそれが人間の肉だとしたら……!

 人間の肉は人間の肉。牛の肉は、牛の肉。人間の肉と牛の肉はちがうと思っている人も多
いかもしれない。しかし先にも書いたように、人間の肉も、牛の肉も、基本的には、同じ。皮を
はげば、同じ。区別など、できない。区別するほうが、おかしい。

 で、そういう牛の肉を、私たちは食べる。ゾーッ!

 そう言えば、市内の大病院で、外科部長をしているN氏がこう話してくれたことがある。「私は
ぜったい、焼き肉だけは食べません」と。実際には、「食べられない」と。

 毎日、手術室で、人間の肉を切り刻んでいるため、牛の肉を見ると、それを連想してしまうた
め、ということだった。

 しかし考えてみれば、そのN氏の感覚のほうが、正常ということになる。牛の肉を、平気で調
理できる私たちのほうが、おかしい。

 それにしても不気味な写真ではないか。牛の肉が、背骨を切断された状態で、靴下のように
チェーンにつりさげられている。

 あなたも、一度、「もしそれが人間の肉だったら……」と想像してみたらよい。多分あなたも、
私と同じように、ゾーッとするはず。ハハハ。ホント!


●保護司、無給の国家公務員

++++++++++++++++++

無給の国家公務員?

そんな国家公務員がいることなど、
私は、今まで知らなかった!

私は、今まで、国家公務員の給料というのは、
(総人件費)÷(国家公務員数)で計算する
ものばかりと思っていた。

しかし無給の国家公務員がいるとなれば、
この算出方法は、役に立たなくなる!

++++++++++++++++++

 保護司という役職(?)は、「無給の国家公務員」だそうだ。「法務大臣から委嘱(いしょく)され
たボランティアで、保護監察官と協力して、環境調整と、保護観察の仕事に当たっています」
(保護観察所配布パンフ)とある。

 そしてここが重要だが、別のパンフには、こうある。「保護司は、非常勤で一般職の国家公務
員とされています。給料は、至急されません」と。

 全国のみなさん、わかりますか? この不透明感。

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを正確
に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しかし計算方法がな
いわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員数)
で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給料を算出
している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4
兆6571億円でだそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円(!)と
いうことになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)そして社会保障費
だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎ
のようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件
費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近いもの給料を
手にしていることになる。

 しかし保護司のような、無給の国家公務員までいるとは知らなかった。ということは、(総人件
費)÷(国家公務員数)で、国家公務員の給料を算出しても、意味がないということになる。

 その保護司だけでも、全国に、5万2500人(保護司法、第2条第2項、定数)もいる。この無
給の国家公務員、5万2500人を国家公務員に加えて、総人件費を割れば、当然のことなが
ら、みかけ上、国家公務員の給料は、低く算出される。

 言いかえると、その分だけ、さらに国家公務員は、手厚く保護されることになる。つまりもし保
護司のような無給の国家公務員を、国家公務員としてその数に算入すれば、国家公務員の給
料は、さらにあがることになる! わかりやすく言えば、1403万円という数字そのものが、あ
やしくなる! 保護司のほか、無給の国家公務員は、いったい、何人いるのか? 無給ではな
くても、非常勤で、安い給料に甘んじながら、身分だけは国家公務員という人は、何人いるの
か?

 知らなかった!

 しかしまあ、いろいろなところに、カラクリがあるものだ。日本は官僚主義国家ということにな
っているが、ここまでやっているとは、夢にも思わなかった。全国には、まじめな気持ちで保護
司というボランティア活動をしている人も多いはず。

 が、その仕事そのものが、別のところで、官僚たちの利益に利用されていると知ったら、保護
司の人たちは、どう思うだろうか。考えれば考えるほど、頭にくる話ではないか!

+++++++++++++++++

昨年(05)書いた原稿を、ここに
そのまま添付します。

+++++++++++++++++

●国家公務員の給料

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億
円でだそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表されてい
るが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも紛れ込んで
いる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403
万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算。)そして
社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言ってよい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、たと
えば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方の出先機
関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受給できる」
(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカラクリが
わかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎ
のようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件
費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近いもの給料を
手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、官僚
主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%を使
っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知らない。お
まけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全国津々浦々、
どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤字国債
(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約40倍! それでも
足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護保険制度に例をみるまで
もなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をもとに、
計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということになる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆2829億
円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出になることが6
月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明ら
かにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してき
た形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだが、省庁側の抵抗は激し
さを増しそうだ(産経新聞)。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●2005年度「ワースト」映画

 このほど、週刊文春が、「2005年度ワースト映画・文春きいちご賞」を発表した。それによれ
ば、ワースト10は、つぎのようになっている(「週刊文春・06・1・26日号」。

 1  SHINOBU
 2  TAKESHIS'
 3  宇宙戦争
 4  戦国自衛隊1549
 5  オペレッタ狸御殿
 6  春の雪
 6  アレキサンダー
 6  北の零年
 9  鳶がクルリと
 9  東京タワー

 この中で、私は、3位の「宇宙戦争」と、6位の「アレキサンダー」については、以前、エッセー
を書いたことがある。おおむね正当な評価だと思う。

6位の「アレキサンダー」については、日本を代表する評論家のTB氏が、月刊誌(BS)の中
で、大絶賛していたので、それにダマされて、劇場で見てしまった。私の評価は、がっかり。退
屈。★なし。見終わったあと、「どうしてこんな駄作を、TB氏が大絶賛したのか?」と、悔しくて
ならなかった。

 3位の「宇宙戦争」についても同じ。内容は矛盾だらけ。それについては、劇場で映画を見た
あと、エッセーを書いたので、このあとに添付しておく。

 で、一番問題としたいのが、北野T監督の「TAKESHIS'」。週刊文春は、つぎのように酷評を
重ねている。

●彼の才能の枯渇と、引き出しの少なさばかりが伝わり、見ていていたたまれなくなった。

●たけしの好きなものだけをぶちこんだ、ツギハギだらけ。バラエティー番組『たけしのだれで
もピカソ』のような構成」

●前衛的手法を使った映像作品のつもりらしいですが、これではまるで、もってまわった高校
映研の実験ビデオです。

●昨年のベネチア映画祭では、「絶賛」と一部のマスコミはもちあげたが、大多数の記者の本
音は、「耐え難いほど、退屈で眠かった」。

 私は、残念ながら、北野T氏監督、あるいは出演の映画を、一本も見ていない。……見たくも
ない。彼に対する人物評価は、バラエティー番組でかいま見るあの姿だけで、じゅうぶん。同年
齢ということもあるが、北野T氏といえば、私にとっては、もっとも影響を受けたくない人物の1
人でもある。

 が、マスコミは、ああいう人物ほど、ワーワーともちあげてしまう。そしてその結果できたの
が、悪作中の悪作、『バトル・R』という映画。それについても、以前書いた原稿があるので、こ
こに添付しておく。

++++++++++++++++++++

北野T氏主演の「バトル・ロワイヤル」。

映画は見ていないが、それを見てきた
中学生が、こう言った。

「おもしろかった」と。

それを聞いて、私は、ゾッとした
戦慄(せんりつ)を覚えた。

++++++++++++++++++++ 

暴力番組を考えるとき  

●まき散らされたゴミ
 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり一面にゴ
ミをまき散らした……。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこかの島で、
生徒どうしが殺しあうという映画である。

これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、15歳未満の子どもの入場を規制した。が、主演
のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。監督のF氏も、「戦
前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間団
体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】一三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   一七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】一七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が1968年から始まっている。が、この日本では野放し。先日もビ
デオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。

子(小3くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」
母「お母さんは見ないからね」
子「ううん、ぼく一人でみるから……」、母「……」と。

見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁止のソ
フトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、見境なく撃ち殺
すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。が、そ
のため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人の理性と良
識ということになる。が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空
洞化している。言いかえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。
先のB氏のような人が、フランス政府や東京都から、日本や東京都を代表する「文化人」とし
て、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。そういう
ものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)
●テレビづけの子どもたち

「ファミリス」の調査によれば、小学3、4年生で45・7%の子どもが、また小学5、6年生で59・
3%の子どもが、それぞれ毎日2時間以上もテレビをみているという。

さらに小学3、4年生で71%の子どもが、また小学5、6年生で83・3%の子どもが、それぞれ
毎日1時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内一〇〇名の児童について調査・二
〇〇一年)。

さらに2時間以上テレビゲームをしている子どもも、3、4年生で19・3%、5、6年生で41・
7%! これらのデータから、約6〜7割前後の子どもが、毎日3時間程度、テレビを見たり、テ
レビゲームをしていることがわかる。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●スピルバーグの『宇宙戦争』を見る

 昨夜、仕事が終わってから、町の中の映画館で、スピルバーグの『宇宙戦争』を見る。ある日
突然、宇宙人たちが、人間に向って、攻撃をしかけてくるという、あの映画である。

 全体としてみれば、ただそれだけの映画。

 三本足の攻撃戦車(トライポッド型戦車)が、レーザー光線銃で、つぎからつぎへと、人間を
殺していく。逃げ惑う人間。攻撃をしかける人間。

 私は、その映画を見ながら、いろいろ考える。

(1)高度な知的能力をもっている宇宙人が、そんな稚拙(ちせつ)な、攻撃のしかたを、するだ
ろうか。

 人間だけを抹殺するなら、たとえば化学兵器や、生物兵器がある。遺伝子兵器だって考えら
れる。人間の脳ミソを、100年単位で、空洞化するという兵器である。映画の中で、宇宙人た
ちがしていることは、まるで、ゴキブリを、火炎放射器か何かのような武器を使って、殺している
ようなもの。

(2)宇宙人が、わざわざ地上におりてきて、人間を攻撃するだろうか。

 この疑問は、映画『インディペンデンス・デイ』を見たときも感じた。人間を攻撃するなら、人間
のもつ兵器が届かない、高々度から、人間を攻撃する。たとえば高度、数万メートルの上空か
らでもよい。

(3)意味のない地上戦をしかけて、どうするのか。

 三本足の攻撃戦車は、地上を、ノシノシと動き回りながら、人間を殺していく。いくら破壊力が
あるといっても、一つの攻撃戦車で攻撃できる範囲には、かぎりがある。映画の中では、トム・
クルーズ親子が隠れた民家にまで、それはやってきて、地下室のすみずみまで捜索する。

 観客を、ハラハラ・ドキドキさせようとしたのだろうが、その意図が丸見え。かえって興ざめし
てしまった。

 実にめんどうな作業である。もし同じことを地球上、すべての家庭でしようとしたら、50億人
の人間を殺すのに、仮に1つの攻撃戦車が、1万人を殺すとしても、50万台の攻撃戦車が必
要である。

 しかしそんな非能率、非効率な攻撃方法はない。

 で、映画は、ある日突然、攻撃戦車を操縦する宇宙人たちが、地球上の細菌(微生物)によ
って汚染され、死滅するシーンで終わる。つまり宇宙人たちは、自滅する。

 が、何よりも、最大の疑問は、人間を攻撃する、その理由が、わからない。なぜ、宇宙人たち
は、人間を殺さねばならないのか。殺して、どうするのか。一つのシーンの中では、人間の
「血」を、パイプのようなもので、吸いあげるところがあった。宇宙人の目的の一つは、人間の
血を採取することのようだった。

 しかもその三本足の攻撃戦車は、宇宙からやってきたのではない。地球上のあらゆる場所
に、100万年以上も埋められたままになっていたという。それに空からやってきた宇宙人たち
が乗りこんで、人間を攻撃し始める。

 私は、映画を見ながら、あちこちに、「無理」を感じた。「100万年ねエ〜?」と。

 見終わったあと、ワイフも、私も、期待が大きかっただけに、がっかり。★は、2つ。「やっぱ
り、スターウォーズにすればよかった」と私が言うと、「あっちのほうには、ストーリーがあるから
ね」とワイフ。その『スターウォーズ』は、もうすぐ劇場公開される。

【補足】

 仮にこれほどまでに好戦性の強い宇宙人だったら、宇宙では、(もちろん地球上でも)、生存
していくことはできない。破壊兵器が巨大化すればするほど、その宇宙人は、自滅する危険性
が高くなる。あるいは、他の宇宙人たちと、最終戦争を繰りかえすことになる。

 たとえばある宇宙人が、太陽系全体を、一瞬にしてこなごなにする兵器を手にしたとしよう。
そういう兵器を手にもちながら、たとえば1万年もの間、平和を保つことは、むずかしい。かりに
10万年に1回、戦争しただけでも、1億年の間に、100回も、彼らは惑星ごと、こなごなにして
しまうことになる。

 核兵器に例を見るまでもなく、兵器が巨大化すればするほど、人間(=知的生物)は、平和
主義者でなければならない。言いかえると、この宇宙に、知的宇宙人がいるとするなら、彼ら
は、それこそ「神」のような平和主義者であるはずである。

 だからこそ、宇宙人は、宇宙人でいられる。

 人間のように、ちょっとしたことで、戦争を起こしてばかりいたとしたら、この宇宙は、あっとい
う間に、メチャメチャになってしまう。そういう意味では、人間は、攻撃的すぎる。どん欲で、ごう
慢。

 本来なら兵器の巨大化に合わせて、人間の知的レベルも、同時進行の形で、進化しなけれ
ばならない。そうでなければ、それこそ、サルに核兵器をもたせるようなことになってしまう。

 サルには、サルにふさわしい武器がある。人間には人間にふさわしい武器がある。限度と言
ってもよい。そういう視点で考えても、人間には、核兵器は、必要ない。それをもつ資格もな
い。これから先、K国のような、わけのわからない独裁国家でさえ、つぎつぎと核兵器をもち始
めたら、世界は、いったい、どうなるのか?

 映画『世界戦争』の中では、宇宙人たちは、まるでゲームでもするかのように、つぎつぎと人
間を殺していく。そこには、一片の知性も、理性も、思いやりもない。

 そんな宇宙人だったら、とっくの昔に、自滅していたはずである。そうした考証も、映画の中
で、まったくなされていなかった。娯楽映画といえば、娯楽映画ということになるのだろうが、今
は、もうオーソンウェールズの生きていた時代とは、ちがう。

 最後のナレーションで、「地球人たちを守ったのは、武器ではなかった。人間と共存してき
た、目に見えない微生物たちであった」と、もっともらしいコメントが、述べられている。しかし、
である。

 あれこどまでの攻撃兵器をもつ知的生物にとっては、そんなことは、常識中の常識。私も若
いころ、それぞれの国へ行くときは、それぞれの国の風土病についてのガイダンスを受けてか
ら、その国へ行った。何らかの予防接種を受けたこともある。

 ほかに、「その国の水は飲まないように」「歯をみがくときも、コーラを使うように」などという指
示を受けたこともある。地球へ、人間を抹殺にやってくる宇宙人たちが、そういうことさえ、知ら
なかったとは? 

 いろいろ考えさせられた。

【補足2】

●知的レベルと平和主義

 その生物の知的レベルが高くなればなるほど、当然のことながら、その兵器水準も高くなる。

 原始民族の時代には、こん棒や、弓、ヤリが武器だった。刀が武器だった。しかし今は、核
兵器の時代である。

 そこで改めて私たちは、考えなおさねばならない。

 こん棒とくらべると、核兵器の破壊力は、格段どころか、数百万倍以上。しかしそれをコントロ
ールする人間の知力は、それに応じて、同じように、進化したのだろうか。

 もし相応に進化していないとなると、武器だけが特異に進歩して、私がここに書いたように、
それこそ、サルに核兵器をもたせるようなことに、なってしまう。

 で、ここで兵器の進歩が止まれば、まだ問題は、ない。

 これから先、人間は、確実に宇宙へ飛びだしていく。そういうとき、さらに強力な兵器を手にす
ることも考えられる。もしそうなった、人間というよりは、この地球は、どうなるのか?

 すでに、(あくまでも、今は、SFの段階だが)、反重力爆弾というのも、考えられているそう
だ。それを使えば、あの太陽ですら、一瞬にして、こなごなにしてしまうこともできるそうだ。

 ……と考えていくと、人間が宇宙へ飛びだしていくのは、必然の結果であるとしても、はたして
それが正しいことなのかどうかとなると、私にはわからない。

 もしこの太陽系に、「地球を監視している宇宙人」(「世界戦争」)がいるとするなら、今ごろ
は、こんな会話をしているにちがいない。

 「人間どもを、私たちの宇宙へ迎え入れることは、まずいのではないですかねえ」
 「そうだなあ。あいつら好戦的だからなあ」
 「宇宙へ出てきてからも、また戦争をするのではないでしょうか」
 「ありえるね。それは、ありえる」
「やはり、地球人どもは、地球にとじこめておくのが、一番、いいのではないでしょうか」と。


●なぜ宇宙人は、人間を滅ぼすのか?

 逆説的な言い方で、人間は、どうあるべきかを考えてみたい。つまり「なぜ宇宙人は、人間を
滅ぼさなければならなかったのか」。それを考えていくと、反対に、人間はどうあるべきかが、
わかってくる。

 S・スピルバーグの『宇宙戦争』を見た感想と言ってもよい。あの映画の中では、宇宙人たち
は、情け容赦なく、人間を、殺す。こなごなにして、殺す。なぜ、か? 

 映画の中での、宇宙人たちの、あの殺し方を見ていると、何か、人間に、ものすごいうらみで
もあるかのように思えてくる。憎しみ、憎悪、嫌悪……。まるで家庭の主婦が、台所でゴキブリ
を見つけたような感じ。ギャーッと興奮して、殺虫剤をかけまくるような雰囲気で、人間を殺す。

 人間を殺す前に、宇宙人と人間の間で、何か、話しあいのようなものは、できなかったのだろ
うか。そういう話しあいが決裂した結果として、戦争が始まったのなら、まだわかる。しかし映画
の中では、そういった話しあいらしきものをした形跡は、まったくない。ある日突然、トライポッド
(三脚型)の戦車に乗った宇宙人たちが、稲妻とともに現れ、地球上の人間たちを、殺し始め
る。

 言うなれば、意味のない恐怖映画。殺戮(さつりく)映画。

 が、批判ばかりしていてはいけない。入場料まで出して、映画館で見たのだから、それなりに
何か得るものは、得たい。

 そこで最初の話。

 なぜ、宇宙人は、人間を殺さねばならなかったのか?

 理由は、いくつか考えられる。

(1)人間を邪悪な生物と判断した。(しかし宇宙人のしたことも、邪悪だぞ! 罪もない人たち
を、片っ端から殺した。)

(2)人間を危険な生物と判断した。(しかし宇宙人たちも、危険だぞ。ものすごい武器をもって
いる。青いレザー光線を浴びただけで、ビルは、まるごと、すべてふっとんでしまう。)


(3)人間だけが支配する、この地球のあり方に、がまんできなくなった。(地球上のほかの動物
や、生物たちを守るために、人間を殺した。そういう話なら、私にも理解できる。)

(4)人間を殺して、自分たちがかわりに地球に住む。(だったら、建物や、橋などは、こわさな
い方がよいのでは……。途中、数匹の宇宙人たちが出てくるが、歩き方などは、それほど、人
間とちがわない。)


(5)宇宙人には、そうした感情そのものがない。知能だけが発達した、虫のような生物。(つま
りゲーム感覚で、人間を殺した。しかしたしか映画の中では、宇宙人たちは、人間が残した写
真を興味深そうに見ていたぞ。感情がまったくないわけでも、なさそう。)

(6)地球環境をこれ以上、人間に破壊させないために、人間を殺した。(このままでは、地球
は、火星のようになってしまう。それに宇宙人たちは、危機感をもった。それで人間を絶滅させ
ようとした。しかしそれなら、レザー光線で焼き払うというのは、矛盾していると思うのだが…
…。かえって環境を破壊してしまう。)


(7)人間が宇宙へ進出してくるのを、まえもって、つまり予防的に、阻止しようとした。人間がど
こかで、彼らの怒りをかってしまったのかもしれない。(しかしもしそうなら、宇宙で決着をつけ
ればよい。宇宙を自由に飛び回る宇宙人にしてみれば、人間など、敵ではないはず。)

 こうして考えてみると、一番、妥当性があるのが、(3)と(6)ということになる。地球や、地球
の人間以外の生物を守るために、宇宙人がやってきて、地球人を滅ぼそうとした。ほかにあれ
これ理由を考えてみたが、どうも、このあたりが、一番、妥当な解釈のようである。

 しかしよくよく考えてみると、それについても、矛盾だらけ。映画『インディペンデンス・デイ』の
ときも、そう感じたが、彼らは、いったい、人間のどこが気に入らないのだろう。

 どん欲で、ごう慢なところか? 野蛮で、邪悪なところか?

 そこでもしあなたが、宇宙を支配する宇宙人だったら、人間をどうするか、考えてみよう。あな
たは、きわめて平和的な人だ。右の頬を打たれたら、「左の頬もどうぞ」と、さしだすような人
だ。

 もちろんきわめて高い、知性や理性もある。そういうあなたから見ると、私たち地球人は、い
ったい、どのように見えるだろうか。

 心理学の世界には、「自己概念」という言葉と、「現実自己」という言葉がある。「私はこういう
人間であると、自分で描く概念」を、自己概念という。それに対して、「現実の自己」がいる。現
実の自己というのは、多分に、他人から評価された自分とということになる。

 同じように、人間自身の「自己概念」がある。「人間というのは、こういう生物だ」という、人間
自身が思い描く概念である。しかしその自己概念は、はたして正しいものだろうか。現実の人
間は、もう少し、醜く、邪悪なものではないだろうか。

 『世界戦争』は、あまりおもしろくない映画だったが(失礼!)、人間全体について考えるに
は、よい機会になった。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●「アレキサンダーの悲劇」

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評論家のTB氏は、映画「アレキサンダー
の悲劇」を、月刊誌の中で絶賛している。

その記事について、自分の意見を書いた。

ただしこの意見を書いたときには、まだ
私は、その映画は見ていなかった。

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 評論家TB氏の「アレキサンダーの悲劇」の記事も、おもしろかった(?)。副題は、「アメリカ
の悲劇」。

 TB氏の評論の特徴は、最初に、徹底した資料集めから始めるところにある。こうしてTB氏
は、「オレほど、精密な資料をもっている者はいない」と誇示して、おおかたの評論家を、まず、
カヤの外に置く。「黙れ!」と。「控えおろう!」でもよい。

 しかし、史実に沿ったこまかい内容(時代、舞台、人名など)は、TB氏にしても、その原稿を
書いているときだけは、記憶にあるのだろうが、実際には、書き終わったあと、すぐ忘れてしま
っているにちがいない。

 読者の私たちなら、なおさらである。つぎからつぎへと、聞きなれないカタカナ名が出てくる
が、読んだつぎの瞬間には、もう忘れてしまった。

途中、「オりジナルのスクリプト(台本)では……」とか、「(ギリシア神話の)予備知識を得ていた
ほうがいい」などという、いつものTB氏らしい、どこか高慢な(失礼!)な、評論姿勢も、目立
つ。

 ……とまあ、かなり過激なことを書いたが、副題の「アメリカの悲劇」に関する部分は、全編で
14P中、2Pのみ。

 私は、TB氏の評論を読みながら、「アメリカの悲劇」というよりは、独裁者への反発心のほう
を、強く感じた。映画の評論という性格上、そこまでは気が回らなかったのかもしれないが、TB
氏が見ている視点は、まさに王者のそれ。

 同性愛についても、「純粋に精神的な関係は、男と女の間には成立せず、むしろ男と男の間
に成立する」という論法で、書きこんでいる。たしかにそういう面もあるかもしれないが、しかし
同性愛者たちがみな、そこまで深く考えて、同性愛をしているとは、私には考えにくい。

 この映画は、アメリカでは、評判が悪かったという。その理由が、その同性愛を肯定した部分
が目立ったからだという。しかしTB氏は、「こういうバカげた反応が出てくるところが、いかにも
今のアメリカらしい」と、逆に、酷評している。

 現実の同性愛は、エイズ問題に象徴されるように、それほど美しいものではない。それとも、
アレキサンダーのような歴史上の大物になると、おなじ同性愛でも、すばらしい哲学をもつよう
になるとでもいうのだろうか。

 私には、残念ながら、同性愛者の気持ちが、まったく理解できない。だから何とも評論のしよ
うがない。が、さすがTB氏、同性愛者に対する理解も、たいへん深い(?)。

 (若いころ、ときどき、同性愛者にアプローチされ、たいへん不愉快な思いをした経験が、何
度かある。それは、今でいうセクハラ。それから受ける不快感は、実際、そういうことをされたも
のでないとわからないだろう。

 だから今でも、同性愛者どうしが、体をからませているシーンを見たりすると、それを美しいと
思う前に、先に、はげしい嫌悪感を覚えてしまう。※)

 しかしTB氏は、「(この映画のアメリカでの評判が悪いのは、そうした同性愛など)、アレキサ
ンダーの性的側面の描き方に対する不満である。はっきりいうと、映画の中で、アレキサンダ
ーは、同性愛傾向を持った人物として描かれているが、それが不満なのだ」と決めつけてい
る。

 そうかな?

 本当に、TB氏は、アメリカ人に、それを確かめたのかな?

 同性愛を擁護したいという気持ちが先にあって、TB氏が、勝手にそう思いこんでいるだけで
はないのかな? 今のアメリカは、TB氏が思いこんでいるほど、同性愛に対して、それほどセ
ンシティブではないような気がする。

 全体として、TB氏は、映画「アレキサンダーの悲劇」は、史実にきわめて忠実に作られた、す
ばらしい映画だと、絶賛している。3回も、見たそうだ。そして「(そのすばらしさは)、3回見て、
はじめて発見できることである」と。

 ここを読んで、私は、この映画は、映画館では、見ないことに決めた。ビデオでじゅうぶん。
「そこまでアレキサンダーについて、詳しく知りたい」とは、思わない。(それに3回も見たくな
い!)何というか、テーブルの上に、どっさりとごちそうを出されたような気分。TB氏の評論を
読んだだけで、満腹になってしまった。

 (あるいは、先に出版社のほうから、映画評論を頼まれたから、3回も見たのではないかな?
 ……これは私の勝手な憶測。)

(補足※)

 一度は、同性愛者とは知らず、その家に泊めてもらったことがある。夜中にハッと気がつく
と、その男は、私の横に寝ていて、私の背中を、さすっていた。ゾーッ!

 もう一度は、それまでに、10年ほどつきあった男だが、ある日、喫茶店で、いきなり手を握ら
れた。そして「林君は、同性愛をどう思いますか?」と、質問された。そのときも、心底、ゾーッと
した。

 あるいはこんな例も。

 結婚式を終えて、花嫁が夫の部屋に入ってみると、その夫が、男の友人と抱きあって、キス
していたという。その光景を見て、花嫁は狂乱状態になり、花嫁の友人の家に逃げこんでき
た。

 たまたま私がその場に居あわせた。花嫁は、友人にあれこれとなだめられていたが、花嫁の
狂乱状態は、そのままだった。

 同性愛者が同性愛を肯定するのは、同性愛者の勝手だが、しかし世の中には、それをすな
おに受けいれられない人たちがいることも、忘れてはいけない。

 が、だからといって、私は何も、同性愛を否定しているのではない。また映画の中に、そうい
うシーンがあったからといって、映画全体の評価を変えることはない。ただ「バカげた反応」と決
めつけるTB氏の評論には、抵抗を感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【宇宙大戦争】

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私はSF映画が、好き。学生時代は、
SF小説ばかりを読んでいた。

「宇宙戦争」という映画を見る前に
こんなエッセーを書いてみた。

そのときは、その映画を見るのを
何よりも、楽しみにしていた。

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 今度、S・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の、「宇宙大戦争」という映画が、封切られ
る。今日は、6月14日。まだ私は、その映画を見ていない。あらすじも知らない。こういうとき、
そのあらすじを、勝手に想像して書くのは、楽しい。

 かいま見た予告映画では、高架式の高速道路が、バリバリに壊れていくシーンがあった。そ
れが民家に倒れ、その民家も、つぎつぎと壊されていく……。

 今度の「宇宙大戦争」という映画は、そういう映画らしい。

 しかし宇宙人という、きわめて高度な知能をもった生物が、地球を攻撃するとき、そういう攻
撃方法を使うだろうか? つまり破壊的な武器を使うだろうか?

 私が宇宙人なら、生物兵器かと化学兵器とかを使う。時間は、たっぷり、ある。仮に宇宙人
の寿命が800歳ということなら、10年かかって、ゆっくりと、地球人を滅ぼせばよい。10年と
言っても、彼らの時間にすれば、瞬時だ。

 核兵器のような武器を使って、地球を攻撃するほうがおかしい。……と思って、「宇宙大戦
争」のあらすじを、勝手に想像してみる。

 なお。これはあくまでも、私の勝手な想像によるもの。ストーリーが、万が一、偶然一致してい
ても、それはあくまでも、偶然。どうか、そういうことを承知おきの上、楽しんでいただきたい。

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【宇宙大戦争】byはやし浩司(勝手な空想小説)

 宇宙人どうしがつくる、宇宙会議で、評決が下された。場所は、木星の衛星、イオの地下基
地。「地球人を抹殺すべし」と。強硬にそれを主張したのは、X星のX星人たちだった。中には、
反対する宇宙人たちもいたが、会議では少数派だった。

 「地球人は、邪悪で、このまま宇宙へ飛び出してくるようなことがあると、自分たちの生存が
危険にさらされる。だから抹殺すべし」と。これが、その会議の結論であった。

 そのころの地球では、退廃的な文化が、はびこっていた。暴力、麻薬、売春、殺人、戦争、殺
しあい、奪いあい、テロなど。

 そこでその役割を、X星に住む、X星人が担(にな)うことになった。X星と、地球は、環境がよ
く似ていた。

 X星人たちは、まず月に前進基地をもうけ、そこから、地球を攻撃することにした。主要な空
港や施設を破壊する。それがすんだら、地上を、攻撃機でしかけ、そのあと、生物兵器で、人
間を、全滅させる。

が、その情報を、たまたま月を周回していた、アメリカの宇宙ステーション、ハイスター号が、キ
ャッチする。それはまさに、偶然によるものだった。

そのハイスター号には、何組かの技術者家族が常駐していた。その中に、トム・クルーズが演
ずる、デニスという名前の技術者と、その妻と娘のサリーがいた。そのサリーのもっていた、人
形が、未知の信号をキャッチして、共鳴振動を起こし始めたのだ。

 サリーは言った。「お父さん、私の人形が、おかしな声を出すの……」と。人形は、精巧にでき
た、ロボット人形だった。

最初は、人形の故障と考えていたが、その規則性から、父親のデニスは、信号と判断する。そ
してその信号を解析すると同時に、その発信元を、特定する。

が、信号の解析は、容易なことではなかった。そこでためにし、月の数か所で、人工地震を発
生させてみる。と、同時に、信号量がふえ、その解析から、それが宇宙人どうしの交信であるこ
とを、デニスは、つきとめる。

デ「今度は、月の223−43に向けて、レザーX光線を発射してみる」
管制官「ラジャー。それで彼らの数字を解読できる」
デ「……5,4,3,2,1、照射!」と。

 こうしてナゾの信号の解析が繰りかえされた。

その報告は、すぐ、地球のIASA(国際宇宙連盟)に送られ、そこで超高速コンピュータを使っ
て、信号の本格的な解析が始められる。が、結果は、恐るべきものだった。地球時間になおし
て、2週間後に、宇宙人たちが、地球に向けて、攻撃を開始するというものだった。

 時間的な余裕はない。世界から集まった政治家たちの緊急会議では、つぎのことが決まる。

信号の発信先に向けて、使者を送る。同時に、地球防衛のための攻撃態勢を整える。そまた
核兵器とそれを運搬するロケット技術をもつ国々は、万が一のために、月の前進基地を攻撃
するための準備を整える。

 地球の大気圏外に、核兵器を積んだ小型の宇宙ステーションが並べられた。同時に、月に
向かって、間断なく、和平希求の信号が送られた。が、応答はない。そこで別の宙ステーション
にいた2人の宇宙飛行士が、使者として、月に向かうことになった。デニスの友人と、もう1人、
中国人飛行士の、2人が選ばれた。

 が、その使者が月に着く前に、その連絡船は、こつ然と姿を消す。強力な熱線銃によって、
蒸発してしまったものと思われた。それをX星人からの攻撃と早合点した中国は、核兵器をX
星人の基地にめがけて、発射してしまう。もちろん、その核兵器も、蒸発してしまう。

 X星人たちは、態度を硬化させた。それが、デニスにも、よくわかった。

危険を察知したデニスは、妻と娘のサリーを、地球へもどすことを決める。が、サリーは、スキ
をみて、発射直前に、連絡船から逃げ、父親のデニスのところに残る。しかしその連絡線は、
宇宙ステーションから切り離されたとたん、蒸発してしまう。宇宙ステーション、ハイスター号に
残された連絡船は、残り1隻となった。

月の基地にレザー砲を設置したX星人たちは、着々と、地球攻撃の準備を進めていた。デニス
は、攻撃開始まであと1週間であることを知る。そこでデニスは、自らハイスター号を爆発さ
せ、その混乱にまぎれて連絡線で、地球へもどる計画を立てる。

 連絡線1隻で、離脱すれば、目だってしまう。

X星人たちのレザー砲は、強力なものだった。数百分の1秒の放射で、巨大なビルをこなごな
に破壊できる能力をもっていた。そのレザー砲を、まるで嵐の雨のように、地球に向けて、発
射する。数時間で、南北アメリカの主要建物、道路、空港、電力施設は、灰になってしまう。デ
ニスは、ハイスター号からの脱出の機会をうかがう。

 連絡船だけで飛び出せば、その瞬間、連絡船は、X星人の攻撃によって蒸発してしまう。デニ
スは、それをよく知っていた。ハイスター号そのものの運命も、時間の問題だった。

そこでハイスター号を自ら爆破する時刻は、刻一刻と、迫りつつあった。

 X星人の攻撃、5日前のこと。連絡船が宇宙ステーション、ハイスター号から飛び出すと同時
に、宇宙ステーション、ハイスター号を爆破……しかし、失敗。その爆風による破片で、連絡船
は、反対に、月の方向に向ってしまう。

 デニスとサリーは、死を覚悟する。が、あと10数秒で、月に激突というところで、Y星人の宇
宙船に救われる。Y星人は、地球攻撃にもともと反対の立場をとっていた宇宙人である。

 デニスとサリーは、Y星人の月基地へ、強制着陸させられる。そして彼らは、DNAレベルか
ら、徹底的に、調べあげられる。が、その過程で、サリーが、Y星人の子どもと知りあいにな
る。

 その女の子は、まれにみる美しい心の持ち主であった。その女の子と、Y星人の子どもは、
親しくなる。子どもといっても、地球人の年齢になおすと、68歳ということになる。

 が、ちょうどそのころ、X星人による、地球攻撃が始まる。地球連合は、多少の反撃らしきこと
はできたものの、まるで歯がたたない。ことごとく失敗する。X星人には、さしたる損害を与えな
い。力の差は、歴然としていた。

 X星人たちは、ひと通りの攻撃がすむと、第二段階として、小型の飛行隊を組んで、地球攻
撃をしかけ始める。逃げまどう人々を、容赦なく、攻撃。熱戦を当てられた人々は、そのまま空
気のように、蒸発していく……。

 一方、女の子と親しくなった、Y星人の子どもは、地球攻撃がまちがっていることを、宇宙会
議に知らせようとする。「人間は、決して邪悪な生物ではない」と。

 こうしてY星人の子どもと、女の子が、宇宙会議のある、木星のイオに向かう。が、それを知
ったX星人たちが、追いかける。サリーとY星人の子どもは、懸命に逃げる。

 それを追う、X星人の追撃隊。そしてそれを阻止しようとするY星人の父親たち。この三つども
えの追撃と防衛戦。

 Y星人の子どもと、女の子の乗った宇宙船は、命科ながら、火星に不時着。が、そのころ地
球では、大きな変化が起きつつあった。攻撃を逃れた人々が、山奥に入り、そこでたがいに励
ましあい、助けあいながら、生活を始めていた。それはX星人たちが、予想もしなかった光景で
あった。

 子どもをかばって、レザー光線の前にたちはだかる親。恋人を守るため、決死の覚悟で、X
星人に戦いを挑む、勇敢な若者。中には、X星人に向かって、ベートーベンの第九交響曲を演
奏するグループまで現れた。X星人たちは、やがて地球人を殺すのをためらい始める。

 X星人といっても、本来は、平和的で、おだやかな知的生物(ET)であった。
 
 同じころ、火星でも、Y星人の子どもが、女の子をかばうため、女の子を殺そうとする追撃隊
の前にたちはだかる。こうしてX星人たちは、地球人が、以前知られていたほど、邪悪な生き
物でないことを知る。

 そこへY星人の親たちも追いつく。そしてY星人の助言を受けて、宇宙会議が、再び、召集さ
れる。

 X星人の司令官は、地球攻撃を一時、中止する。地球では、喜びの声が、こだまする。

 が、完全な平和がもたらされたわけではない。地球人たちは、それまでの自分たちの行いを
改め、より完成された生物になることを誓う。そしてそれが、宇宙会議の宇宙人たちが、地球
人に出した条件でもあった。

 地球人を代表して、その会議で、スピーチをしたのは、その女の子であった。

 「1年間の時間をください。その間に、私たち、地球人は、変わります」と。それは宇宙人たち
の心を大きく動かした。

 こうして地球人に、1年間のモラトリアム(猶予期間)が与えられる。「1年間で、平和な地球を
つくりあげろ」と。

 地球人、つまり人々は、それまでの邪悪な心を改め、善にみちあふれた世界をめざして、前
に進み始める。破壊されつくした地球の瓦礫(がれき)の中から……。

++++++++++++++++++

 以上が、映画を見る前に、私が勝手に想像した、この映画のストーリーである。はたして、ど
こまで合っていることやら。しかしこういう想像をするのは、本当に楽しい。あとは、その映画を
見てからの、お楽しみ!

 もし万が一、ストーリーが一致していても、それは私の責任ではない。念のため!
(05年6月15日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●新春のロマン

●ESAの火星着陸機が行方不明に 

++++++++++++++++

ついでにもう1作、先の「宇宙戦争」について
書いたときに書いた原稿を、ここに添付します。

これはロマンです。

++++++++++++++++

 ESA(欧州宇宙機関)の火星着陸機が火星の大気圏に突入後、行方不明になっているとい
う。

 ESAの火星探査機「マーズエクスプレス」は、12月25日午前4時前(日本時間の正午前)、
火星の周期軌道に入った。しかし、ほぼ同時に大気圏に突入した着陸機「ビーグル2」は着陸
成功を知らせる信号が届かず、行方不明になっているといる。
 
 「ビーグル2」は、赤道近くの平原に着陸、来年3月まで岩石や土を分析し生命活動を示す炭
疽やメタンを探す予定だったという(TBS・i・NEWSより)

●どうして?

日本の火星観測衛星(宇宙航空研究開発機構の「のぞみ」)もそうだが、このところ、火星探査
機が、つぎつぎと、失敗している。どうして? ……なんて、ヤボなことは書かない。ワイフは、
火星には、宇宙人が住んでいて、それをじゃましているのではないかと言う。実は、私も、そう
思う。

 それについては、何度も書いてきたので、ここでは、その先というか、なぜ、こうした探査を、
宇宙人たちが嫌うかということについて考えてみたい。

 同じくワイフに言わせると、「何か、つごうが悪いことがあるのよ」「知られたくないことがある
のよ」ということになる。常識で考えれば、そうなる。しかし、私は、そうではないような気がす
る。

●地球人を恐れている?

 宇宙人が、宇宙人として、宇宙で平和に暮らすためには、それこそ、「右の頬を殴られたら、
左の頬を差し出す」くらいの非暴力主義が必要。

 宇宙に住むほどだから、当然のことながら、きわめて高度な科学技術をもっている。そのた
め、宇宙人にすれば、核兵器はもちろん、一発で、惑星をこなごなにする爆弾を作ることなど、
朝飯前。

 もし宇宙人の中に、あのK国の金XXのような独裁者が現れたら、太陽系そのものも、危機に
立たされる。

 言いかえると、今、宇宙が、見たところ、平和に保たれているということは、こうした非暴力主
義が、宇宙人の間で、貫かれているということになる。

 が、問題は、この地球に住む、人間である。自分の乗っている車が、足で蹴飛ばされたくらい
で、相手を殺してしまうような生物である。「右の頬を殴られたら、左の頬を差し出す」ような非
暴力主義は、夢のまた、夢。

 もし人間が宇宙へ飛び出したら、「水星はオレのもの」「火星もオレのもの」と、やり出すにち
がいない。そしてあっという間に、宇宙戦争!

 宇宙人は、それを恐れている……と、私は、思う。

●人間には、宇宙へ飛び出す資格はあるか 

 あなたの国の近くに、もし、きわめて野蛮な国があったとする。

 その野蛮な国では、毎日のように、たがいに殺しあっている。ちょっとしたことで、すぐカッとな
る。喧嘩する。年がら年中、領土を取りあって、戦争をしている。

 文化がちがうというより、DNAの構造そのものがちがう。そういう野蛮な国の人が、あなたの
国へやってきたとする。見た目には、穏やかそうな顔をしている。一応、その国の代表者たち
だからである。

 しかしあなたは、その野蛮な国の人たちの素性を、見抜いている。だからあなたは、内心で
は、その野蛮な国の人たちとは、つきあいたくないと思っている。あるいは、とても、つきあえる
ような相手ではないと思っている。

 一方、野蛮な国の人たちは、何とかして、あなたの国の科学技術を自分のものとしたいと思
っている。高度な航行技術、科学技術などなど。

 しかしそんな技術を、野蛮な国の人たちに渡したら、どうなる? あっという間に、あなたの国
は、その野蛮な国の人たちに、侵略されてしまうかもしれない。あなたは、それをよく知ってい
る。

●もし、私が宇宙人なら……

 もし私が宇宙人なら、この地球人が、宇宙へ進出してくることを、何としても、阻止する。地球
人に、宇宙へ出る資格があるとかないとか、そういうレベルの問題ではない。地球人は、あまり
にも、野蛮すぎる。

 だいたいにおいて、地球人は、ほどよく満足するということを知らない。富をもてばもつほど、
さらに多くの富をもちたがる。こうした貪欲さが、摩擦を生み、闘争を生む。

 暴力的な気質も、大きな問題である。人間の歴史の中で、戦争のなかった時代は、ない。た
またま人間がこうして今、存在しているのは、平和だったからではない。人類全体をほろぼす
大量破壊兵器が、まだ一定の管理下にあるからにほかならない。

 もしこの管理がくずれ、ワクがはずれたら、それこそそこらのゲリラですら、核兵器を使うよう
になる。もしそうなれば、人間のみならず、地球人はあっという間に、絶滅する。

 もっとも、これが地球だけのことなら、まだよい。月でも、火星でも、金星でも、それをやられ
たら、たまらない。……とまあ、宇宙人なら、そう考える。

●さて、どうする?

 もしあなたが宇宙人で、宇宙に住んでいたら、人間をどうする? その前に、人間の存在を
許すかどうかという問題もある。

 人間が、地球環境というオリの中にいるのならまだよい。しかしそのオリを出て、あなたの住
む宇宙へやってくるようになったら、どうする? あなたはそれを受け入れるか?

 しかし私なら、受け入れない。人間をとりあえずは、地球環境というオリの中に、閉じこめてお
く。あるいは……。ひょっとしたら、人間を、抹殺することも考えるかもしれない。

 しかしあなたは、きわめて平和的な生物だ。「殺す」という概念そのものに、なじまない。あな
たの苦悩も、それゆえに、大きくなる。

 では、どうするか? 

 やはりここは、地球人を、地球環境というオリの中に、閉じこめておくのがよい。私なら、そう
考える。そのために、その前段階としての、人間の活動に、制約を加える。それがひょっとした
ら、冒頭に書いた、探査機の妨害かもしれない。

 ……もちろんこれは、私のSF(空想科学)。荒唐無稽(むけい)な空想。つまり、ロマン。とき
には、こういうふうに、宇宙人の視点から、ものを考えるのも、楽しい。
(031226)

【注】

 私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃している。ハバが、一〜二キロもあるような、ブー
メラン型のUFOである。宇宙人がいるかいないかということになれば、いるに決まっている。そ
ういう前提で、このエッセーを書いた。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(041)

【雑感・あれこれ】

●ビデオ『コーラス』

 久々に、すばらしいビデオを見た。フランス映画の、『コーラス』である。星は、★★★★★の
5つ星。ロビン・ウィリアムズ主演の『今を生きる』に、まさるとも劣らない映画だった。途中で、
どういうわけか、つまり泣くようなシーンでもないのに、涙がポロポロとこぼれてきてしまった。

 合唱大好き人間。おまけに私は、同年齢の子どもたちと毎日のように接している。そういう自
分の(現実)が、映画にそのままダブってしまった。
 

●BW教室

 ある母親が、私にこう言った。「BW(=私の教室)をやめた生徒さんは、二度と、BWへもど
れないというのは、本当ですか?」と。

 「もどれない」ということを公言したことは一度もない。ないが、私としては、一応、断ることにし
ている。理由がある。

 子ども(生徒)が去っていくというのは、いつもつらい。そのつらさを乗りこえるには、それなり
に苦しい。で、去っていく子どもについては、「元気でがんばれよ」と声をかけながらも、その場
で、その子どものことは忘れるようにしている。心の中で、ふんぎりをつける。

 が、その子どもが、またもどってきたいと言ったりすると、そんなわけで、私はたいへん複雑
な心境になる。まさか「お帰り」とも言えない。ザワザワとした、(わだかまり)が、残っていること
もある。その(わだかまり)が、わずらわしい。

 教えるということは、ふつうのビジネスとはちがう。1、2年も教えていると、たがいの間に情が
通い始める。親身になって教えれば教えるほどそうで、そういう子どもが去っていくときというの
は、本当につらい。そのまま落ちこんでしまうことも多い。ここで「去る」という言葉を使ったが、
本当は、「別れる」という言葉のほうが、適切かもしれない。

 だから子どもが去ったときには、私は過去をみない。前だけを見て、前に進む。そのために
も、その子どものことは、その場で忘れるようにしている。考えないようにしている。

 で、私は、また新しい子どもを迎えて、一から教え始める。私にとっては、そのほうが、ずっと
楽しい。気も楽。だから一度BWをやめた子どもについては、一応、断ることにしている。


●一家心中

 山口県で、両親が子ども2人(9歳と6歳の女児)を殺すという事件があった。(1月22日)。

一家心中しようとして、失敗。親たちは、先に子ども2人を殺したものの、自分たちは死に切れ
なかったのだろう。新聞報道などを読むと、どうやらそういうことらしい。

 で、この事件を知ってまず考えたことは、これから先、この親たちは、どうやって生きていくの
だろうかということ。十字架といっても、その十字架は、あまりにも重すぎる。「バカなことをし
た」では、とうていすまされない。

 もう1つ考えたのは、こうした心中事件というのは、きわめて日本的。死にたければ、親たち
は、自分たちだけが死ねばよい。何も、子どもを巻き添えにすることはない。今ではそういう子
どもを預かる施設も、充実している。

 子どもはモノではない。財産でも、ペットでもない。独立した人格をもった、1人の人間であ
る。が、日本人は、そうは考えない。子どもに対する人権意識も、弱い。「親がいなければ、か
わいそうだろう」という、実に身勝手な論理だけで、子どもを先に殺してしまう。

 つまりこの親たちは、子どもを愛していると錯覚しているだけで、その実、子どものことなど、
何も考えていない。何も愛していない。自分たちが感じている絶望感を、子どもにぶつけている
だけ。

 ……とは言いつつも、その親たちも、追いつめられていたのだろう。深い事情があったのだ
ろう。他人の死を安易に論ずることはできない。それはわかるが、子どもたちこそ、えらい迷
惑。もしその親たちに、ひとかけらでも、ここでいう人権意識、つまり自分の子どもといえども、
独立しった1人の人間であるという意識があれば、子どもたちを殺すことはなかっただろうと思
う。

 実に日本的。つまりこんなところにも、「日本人は、子どもの人格を認めない」という、悪しき
例を、かいま見ることができる。

 心中するにも、決して、子どもたちを巻き添えにしてはいけない! (だからといって、心中を
肯定しているのではない。誤解のないように!)
(はやし浩司 心中 一家心中 心中事件)


●吐き出す

 今朝、起きたとき、頭の中がモヤモヤとしていた。雑念、雑感が、取りとめもなく脳ミソの奥底
から、わいてきた。

 そういうときというのは、あまり気分がよくない。

 で、私はパソコンに向って座り、そういう雑念、雑感を、つぎつぎとキーボードを通して叩きだ
す。それが快感。気持ちよい。

 そして今は、午後8時少しを回ったところ。やっと、頭の中がスッキリしてきた。あといくつか書
きたいこともあるが、今日は、ここまで。

 いや1つだけ、書きたいことがある。

 先日、ある会場で講演をしたら、そのあと、こんな質問があった。「うちの子は、依存心が強く
て困ります。何でも親の私に頼ってきます。どうしたらいいでしょうか」と。

 あれこれ総論と各論を織り交ぜながら質問に答えたが、1つだけ、言い忘れたことがある。

 依存性の強い子どもというのは、たしかにいる。親は、そういう子どもをもつと、「どうしたらい
いのか」と、相談してくる。が、しかし実は、親自身も、その依存性が強いというケースも多い。
多いというより、ほとんど。

 親自身が依存性が強いため、子どもの依存性に甘い。あるいは子どもの依存性に気がつか
ない。気がつかないまま、子育てをつづけてしまう。そして結果として、子どもに依存心をもたせ
てしまう。

 つまり依存性というのは、相互的なもの。「うちの子は依存性が強い」と感じたら、では自分自
身はどうかと反省してみるとよい。

 それにもう1つ。

 こうした親というのは、(その質問をした母親のことではない)、子どもに依存されながらも、そ
れなりに、子育てを楽しんでいるもの。つまり一方で子どもに依存心をもたせながら、その依存
心を楽しんでいる。「うちの子は、何でも私に頼って困ります」「何かにつけて、ベタベタと甘えて
きます」と口では言いながら、無意識のうちにも、子どもがそうするように、親がしむけている。
心理学でいう、「共依存」という関係に似ている。

 仮にもし、その子どもが親から離れていくようなことがあると、今度は逆に、「どうすれば、ま
たいい親子関係を取りもどすことができるのか?」と、相談してくる。

 子どもの依存性には、そういう問題も隠されている。

 ……ああ、これで頭の中がスッキリした。

 では、今日は、ここまで。おやすみなさい!
(はやし浩司 子供の依存性 依存心の強い子供 親に頼る子供 幼児心理 幼児心理学 
はやし浩司)
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(042)

●ボケとウツ

++++++++++++++++

いろいろな分野に興味をもつことは、
とても大切なこと。

ボケ防止には、たいへんよい。

++++++++++++++++

 うつ症状になると、ボケ症状(認知症)に似た症状が現れる。それはよく知られているが、反
対に、ボケてくると、うつ症状に似た症状は出てくるのか?

 ともかくも、うつ症状と、ボケ症状は、ときに区別しがたい。私の母(90歳)や、兄(67歳)を
見ていると、そう感ずる。

 で、いくつか気がついたことがある。その1つが、うつ症状が強くなると、脳ミソ全体が、単細
胞化するということ。(これはあくまでも私が、印象としてそう思うというだけということで、学問的
には、一片の価値もない。)

 たとえば(こだわり)がひどくなり、そのことだけを、繰りかえし考えるようになる。思考が、ル
ープ状態になる。途中でほかの話に切りかえてやろうと、別の話題をもちかけるのだが、「そん
な話は知らない」「私には関係ない」と、はねのけてしまう。

 そしてあとは一方的に、自分の話をするのみ。

 そこで私は1つの教訓を得た。ボケを防ぐためには、いつもいろいろな分野に、興味をもつこ
と、と。野球なら野球だけとか、庭の手入れなら庭の手入れだけというのは、よくない。脳ミソ全
体が、ますます単細胞化する。

 たとえばだれかと会話をするときでも、相手が何を話したがっているかがわかったら、こちら
のほうが、その会話の内容に合わせて会話をする。そうすれば、話題が、ぐんと広がる。

 そこで昨日、実験的だが、私は、近くの書店に行き、いろいろな書籍コーナーを回ってみた。
いつもなら、私が足を止める場所は決まっている。まずパソコン関連の書籍コーナーへ行き、
そこでいくつかの雑誌に目を通す。つぎに週刊誌コーナー、模型雑誌コーナー、最後に経済
誌、子ども向け雑誌コーナー。

が、昨日は、女性雑誌コーナーや、スポーツ雑誌コーナーのほうまで回ってみた。新書版コー
ナーや、写真集コーナーのほうも回ってみた。

 そしてその場所で、それぞれの本に目を通す。とたん、バツバチと脳ミソが火花を飛ばすの
がわかった。そうそう、とくにバチバチと火花が飛んだのは、あのH木何とかという女性が書い
た、「占い」の本に目を通したときのこと。

 論理性、ゼロ!
 科学性、ゼロ!
 おまけに根拠、ゼロ!

 しかし脳みそを刺激するには、よい。たいへん、よい。頭の中で、大花火が、ドカン、ドカンと
はじけるのがわかった。

 それはともかくも、いろいろな分野に興味をもつということは、それだけでよい刺激になる。
と、同時に、ボケ防止にもなる。ただ、それがうつ病の予防につながるかどうかは、私にはわ
からない。

 そこで私も、書いてみる。

(今日のあなたの運勢)

 今日は、月が、第7宮に入り、木星が火星と一列に並ぶ。このとき地球は、安堵の気に包ま
れる。おとめ座、サソリ座の人には、大幸運。何をしても、うまくいく。商売は、大攻勢をかける
とよい。恋愛も、今日、大願成就する。

 ……それにしても、よくもまあ、こういうバカバカしいことを書けるものだ。時間と労力、それに
(紙)資源のムダ。ついでに読む人にとっては、思考力と知力のムダ。ご苦労様!

 ……ということで、今日もいそがしい1日になりそう。まぐまぐ社のPODサービスを使って、1
冊、本をまとめたい。銀行と証券会社にも行かねばならない。仕事もある。がんばろう。がんば
ります。


●株価の暴落

+++++++++++++++

株価が暴落しつづけている。
だいじょうぶか、日本経済!

+++++++++++++++

 ギョッ! 株価が暴落しつづけている! 暴落に近い。今週に入ってからも、ライブDアショッ
クが、まだつづいている。おかげで、私も、かなりの損をしそう。そんな気配が濃厚になってき
た(1月23日)。

 まあ、こういうときは、静観。株は、塩漬け。しかしそれにしても、暴落ぶりがはげしい。どうし
たことか?

 目下、日本の株価は、(1)量的緩和の解除時期、(2)原油価格、(3)アメリカの経済動向の
3つのモーメントによって、決まる。政府は、さかんに「景気回復は軌道にのった」と言っている
が、それは、ウソ。日銀を通して、ジャブジャブと、市中にお金をバラまいているだけ。

 「3月末までは、株価はあがりつづける」と大方の経済評論家は、口をそろえてそう言ってい
たが、株価というのは、先へ、先へと進んでしまう。「4月から株価は暴落する」という予想が出
たとたん、それを先取りした形で、株価が暴落してしまう。

 今がそのとき? 

 しかし先日、個人投資家の人で、今回のライブDア社事件のあおりを受けて、たった数日間
で、約2000万円も損をした人の話を聞いた。年齢は、25、6歳。女性。仕事はしていないとい
う。「毎日、パソコンとにらめっこしているだけ」と。

 「そういう人もいるのだなあ……」「日本にも、そういう人が現れるようになったのだな……」
と、そのときは、そう思ったが、それにしても、2000万円とは! 恐らくその女性にとっては、
全財産ではなかったのか。

 ところで若いころ、ある会社の社長が私にこう教えてくれたことがある。「林君、ビジネスの世
界で成功するためには、まず、基本的な収入を確保すること。それがあれば、何とか生活だけ
はできるという収入だ。それができたら、別の世界で、暴れる。したいことをする」と。

 その社長は、その後、H市内だけでも数百室ものアパート、マンションを経営するまでになっ
たが、あのバブル経済崩壊とともに、一転、全財産を失ってしまったという。今は、その所在す
ら、だれも知らない。

 が、あの社長の言ったことは正しいと思う。ただ私はビジネスの世界には入らなかったので、
その教えを生かすことはできなかったが、あえて言うなら、その女性には、こう言いたい。

 「まず、働きなさい。それであまったお金ができたら、それを株投資に回しなさい」と。いらぬ
お節介かもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(043)

【子育てのイロハ】

●子どもの記憶力

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うちの子は、どうももの覚えがよくないと
悩んでいるお母さんは、多いですね。

そういう子どもは、どう指導したらよいのか。
それについて考えてみます。

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 記憶といっても、(記銘)→(保持)→(想起)という3つのプロセスを経て、全体として、記憶を
構成する。(記銘)というのは、脳の中に、記憶として信号を刻みこむこと。(保持)というのは、
それを脳の中にとどめること。そして(想起)というのは、それを記憶として、脳の中から引き出
すことをいう。

 で、老人になると、物忘れがひどくなるとよく言われるが、私は、そうではないと思う。物忘れ
がひどくなるのではなく、そもそも、それを記憶として、それを脳の中に記銘する力が弱くなるた
めではないかと思っている。

 たとえば食事をしているとき、横でワイフがあれこれと話しかけてきたとする。しかし肝心の私
は、横目で、雑誌を読んでいたりする。そのためワイフの話は、脳の中をかけ抜けていくだけ
で、記憶として残らない。つまり老人の脳も、同じように考えることはできないか。

 (忘れる)前に、記憶として脳に記銘する力が弱くなる。

 このことは子どもたちを見ていると、よくわかる。

 子どもの中にも、もの覚えのよい子どもと、そうでない子どもがいることがわかる。もの覚え
のよい子どもは、心理学でいう「リハーサル」がうまい。つまりものを覚えるとき、無意識のうち
にも、その言葉を、頭の中で繰りかえしている。

 そうでない子どもは、そうでない。学習しているときも、ソワソワとして、注意をこちらに向けな
い。別のことを考えている。

 そこで幼児にものを教えるとき、とくに、何かの言葉を覚えさせるときには、このリハーサルを
大切にする。それによって記銘力をますことができる。

私「何だって? 5……?」
子どもたち「5本だよ」
私、わざと聞こえないフリをしながら、「5……?」
子どもたち「5本だってばあ、5本!」
私「5……本?」
子どもたち、「そうだよ、5本!」と。

 こうして木や鉛筆を数えるときには、「本」という言葉を使うことを教える。これがリハーサルで
ある。

 が、さらに高学年になって、たとえば小学5、6年生になってくると、この記憶するという方法
が、技巧的になってくる。たとえば歴史の年表を覚えるときでも、「大化の改新、虫5匹(=645
年)」などとか言って覚える。

 これは、記憶を、あとで、より想起しやすくするために、ゴロ合わせをすることをいう。

 ところで、記憶力のテストには、「再生テスト」と、「再認テスト」がある。

 「再生テスト」というのは、たとえば10個の言葉を言い、あとで、どんな言葉があったかを言い
当てさせるようなテストをいう。認知症のテストでも、よく用いられる方法である。

 「再認テスト」というのは、たとえば何枚かの絵を見せ、あとで、「前に見た絵が、この中にあり
ますか」と、何十枚もの絵の中から、選ばせるようなテストをいう。よくテレビ番組などで、犯人
を目撃した人に、「この中に、あなたが見た人がいますか」というシーンがあるが、あれが「再
認」という手法である。

 「再生テスト」と「再認テスト」のちがいはといえば、要するに想起するための(手がかり)があ
るかないかということになる。手がかりがないのが、再生。手がかりがあるのが、再起。

 「再生テスト」については、子どもでも、年上であればあるほど、成績がよいことが知られてい
る。一方、「再認テスト」については、年齢差はほとんどないことが報告されている。つまり「再
生」には、年齢とともに発達する、記憶するための技術が必要ということになる。先に書いた、
ゴロ合わせも、その1つということになる。

 さらにものごとを記憶するとき、聴覚(音声)だけではなく、視覚(絵や写真)を併用すると、効
果が倍増することもわかっている。たとえば、「ネコは、CAT」と教えるよりも、ネコの絵を見せ
ながら、「ネコは、CAT」と教えるほうが、はるかに効果的である。

 そこで「うちの子は、もの覚えが悪い」と感じたら、つぎのような方法をとるとよい。

(1)いつもその場で、言葉を反復させる。(記銘力をます)
(2)聴覚だけではなく、視覚をうまく利用する。(記銘力をます)
(3)ときどき思い出したようなときに、その話題について話す。(保持力をます)
(4)「ネコのこと、英語で、C……何と言ったかな」と、思い出させる。(想起力をます)

 年齢が大きくなれば、子どもは自分で記憶法を学んでいく。たとえば私は中学生のとき、こん
な記憶法を考えたことがある。「A直、V平」と。これはアンペア計(電流計)は、直列につなぎ、
ボルト計(電圧計)は、平行につなぐことを意味する。こうした技術的な記憶調整法を、「メタ記
憶」というが、それについては、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 記憶 記憶力 再生 再認 子供の記憶力 メタ記憶)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(044)

【受験期の親の不安】

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子どもが受験期を迎えると、親は、みな、
不安になる。

その不安の構造について……。

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●外的不安と内的不安

 子どもが受験期を迎えると、親たちは、言いようのない不安感に襲われる。まさに得体の知
れない不安感。「足元から体がすくわれるような不安感」「つかみどころのない不安感」「頭から
暗闇に包まれたかのような不安感」などなど。

 その不安感は、外的不安感と内的不安感に分けることができる。

 受験によって、子どもが選別されるという不安感、子どもの将来が見えないという不安感。受
験という制度から直接生まれる不安感を外的不安感とするなら、自分の中から、わき出てくる
不安感を、内的不安感という。

 その内的不安感。少しわかりにくい話なので、もう少し具体的に説明してみよう。

 親は、子育てをしながら、子どものそれぞれの年齢に応じて、自分の過去を再現する。それ
はたとえて言うなら、木の年輪のようなもの。親には親の年輪がしっかりと刻まれている。その
年輪を、一枚ずつはがすようにして、親は、自分の過去を再現する。

 たとえば子どもが5歳になると、親は自分が5歳のとき受けた子育てを、そのまま再現する。
子どもが10歳になると、親は自分が10歳のときに受けた子育てを、そのまま再現する。

 『子育ては本能ではなく、学習である』という意味は、そこにある。

 で、子どもが受験期を迎えると、親は、自分の受験期を、自分の中に再現する。それは意識
的な行為というよりは、無意識下の行為というほうが正しい。潜在意識の奥深くに刻まれた意
識を、そのまま再現する。

 そのとき、自分の内側からわき起こって不安感を、内的不安感という。つまりは自分が受験
期に感じた不安感を、親は、そのまま子どもを育てながら、再現してしまう。「選別されるという
不安」「自分の将来はどうなるのだろうという不安」「自分が、本来の目的地でないところへ、勝
手に連れていかれてしまうのではないか」という不安。

 そうした不安感が、自分の子どもが受験期を迎えると、どっとやってくる。しかも皮肉なこと
に、はげしい受験競争をし、その競争の中で、いやな思いをした親ほど、その不安感が強い。
ある父親は、こう話してくれた。

 「私は、進学校で、いやな思いをしました。だから自分の息子にだけは、そういう思いをさせ
たくないと思いました。しかしそんな私でも、夜、仕事から帰ってくるとき、近くの進学塾の電気
が、こうこうとついているのを見るだけで、頭にカッと血がのぼるのを覚えました」と。

 こうして親たちは、不安のウズの中に巻きこまれていく。考えることは、子どもの受験のことば
かり。明けても暮れても、子どもの受験のことばかり。中にはそのままノイローゼ状態から、う
つ病になっていく人もいる。子どもの受験の話になると、とたんに興奮状態になる。多弁にな
る。そして一方的に、受験の話をペラペラと、いつまでも話しつづける。そういう人もいる。が、
弊害は、つづく。

 その人の価値観や人生観が、それでゆがむこともある。子どもの価値を、受験だけで判断す
る親も出てくる。

 「あの人は、子どもの教育に熱心だったのですがねエ。それがみなさい。その子どもといえ
ば、あのD中学ですってねエ」と。

 さも同情しているようなフリをしているだけで、その実、何も同情していない。が、その反対の
こともある。自分の子どもが受験に失敗した夜、知人に、こう電話をかけた母親もいた。

 「幼児のときから、英語教室や算数教室へ通わせましたが、すべてムダでした」と。

 つまり受験に失敗したことで、それまでの努力が、すべてムダだった、と。

 こうしたものの見方、考え方は、どこかおかしい。しかし、そのおかしさがわからないほどまで
に、その人の価値観や人生観がゆがむ。が、それだけでは、すまない。こういう状態になると、
たいてい、親子の間に大きなキレツ(亀裂)が入るようになる。そのまま親子断絶と進むケース
も少なくない。さらに、受験どころか、子どもが燃え尽きてしまったり、反対に非行に走るケース
もある。

 親は、そのときの状態を、最悪と思うかもしれないが、その最悪の下には、さらに最悪があ
る。これを私は「2番底」と呼んでいるが、親には、それがわからない。

 そこでもし、あなたが自分の子どもの教育のことで、不安感を覚えたら、それを黄信号と考え
て、(1)思いきって子育てから手を引く、(2)あきらめるという方法で、子育てから遠ざかるの
がよい。それは子どものためでもあるが、あなたという親自身のためでもある。

 ……実は、こういう話を、ある懇談会で話したら、そのあと、ある父親から猛烈な抗議の電話
がかかってきたことがある。「あんたは、他人の子どものことだから、好き勝手なことが言える
かもしれないが、あきらめろとは、何だ。失敬ではないか!」と。

 だから結局は、親たちは、自分で行きつくところまで行かないと、気がつかない。それは子育
てのもつ宿命のようなもので、自分の体に刻まれた年輪を変えることは、それほどまでにむず
かしい。よほどのことがないかぎり、不可能と言ってもよい。

 さて、今、あなたが感じている不安感は、外的不安感だろうか。それとも内的不安感だろう
か。ちょっと立ち止まって、一度、ここで考えてみたらどうだろうか。それがわかるだけでも、あ
なたの感じている不安は、半減するはずである。
(はやし浩司 子どもの受験 親の不安 子供の受験 不安心理 親の不安心理 内的不安 
外的不安 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(045)

【1月24日の朝に……】

 今朝は、午前4時すぎに目がさめた。ワイフが風邪気味だったので、昨夜は、午後9時ごろ
就寝。それで午前4時ということになった。

 枕もとの電灯をつける。明るさは調整できる。薄暗くして、時計を見る。水を飲む。時計のカ
チカチという音。どこか遠慮がちな、ワイフのいびき。ぼんやりと浮かんだカーテンを見ながら、
いろいろ考える。

●電子マガジン

 現在、電子マガジンを、2つのスタンドから発行している。Eマガと、メルマガである。が、数日
前、メルマガのほうの読者が、163人から、137人へと、突然、26人も減った。

 理由はわからないが、多分、メルマガ社のほうで、幽霊会員を整理したためではないか。より
安価で、よりサービスのよいプロバイダー(サーバー)を求めて、アドレスを変える読者は多い。

 そのこともあって、メルマガについては、毎週月曜日だけの発行にすることに決めた。このと
ころ、何かと忙しい。で、昨日(1月23日)発行のメルマガに、その旨の断りを入れた。

++++++++++++++++++

【おわび】

BIGLOBE版メルマガは、今週から、週1回の
月曜日発行の、簡略版のみとなります。

月曜日版のみは、これからも、できるだけ発行する
つもりでいますが、(水曜日版)(金曜日版)の
購読も希望なさる方は、どうか、Eマガ(無料版)
もしくはまぐまぐプレミア(有料版)を、ご購読
ください。

申し込みは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
のトップページよりしていただけます。

これからも、よろしくお願いします。

++++++++++++++++++

 それでも現在、数字の上では、137人の読者の方が、私のマガジンを読んでいるということ
になる。私はその137人の読者の方に申し訳ないと思いつつも、こうした(おわび)を書いた。

 で、中には、今までのように、毎週、月、水、金の、週3回、購読を希望してくれる人もいると
思った。つまり、中には、そのままEマガのほうへ移動してくれる人もいると思った。

 しかしEマガについては、大きな変化は、まったくなかった。有料版のまぐまぐプレミアについ
ては、+1人の読者が増加だけ。

 つまりすでに、メルマガは、幽霊マガジン化していた? 私はそれも知らず、毎週、毎週、メ
ルマガを発行していた? これは、正直言って、私には、ショックだった。同じように考えれば、
Eマガのほうにしても、現在、数字の上では、1713人の読者の方がいることになっている。

 しかしメルマガと同じ割合で計算すれば、内、すでに300人近い読者の方が、幽霊会員にな
っていることになる。さらに私のマガジンを読んでくれている人となると、100人もいないのでは
(?)、ということになる。

 しかしこれが現実かもしれない。あえて言うなら、電子マガジンの限界かもしれない。若いこ
ろ、ある作家の先生が、私にこう話してくれたことがある。

 「林君、自分の書いた本をね、決して、ただで人にくれてはいけないよ。ただでもらった人は
ね、あなたの本を読まないよ。いいかね。あなたの本を読んでもらいたかったら、たとえ100円
でも、相手から、お金を取ることだ。お金を出した人は、あなたの本を読むからね。わかった
ね」と。

 お金がほしいわけではないが、それ以後、私は、相手がたとえ友人でも、私の本を渡すとき
には、その作家先生の言葉を復唱しながら、いくらかのお金をもらうようにしている。

 「申し訳ないけど、あなたにこの本を読んでもらいたいがため、100円でもいいから、この本
のために、お金を払ってほしい」と。

 しかしメルマガにせよ、Eマガにせよ、無料。私が勝手に無料で発行しているわけだから、読
んでくれる読者に、もちろん責任はない。読者の方が、どんな読み方をしたところで、私は、そ
れについて文句を言うことはできない。購読(?)してくれるということだけでも、感謝しなければ
ならない。

 しかしその(思い)も、限界に近づきつつある。中には、毎週、私のマガジンを楽しみにしてく
れている人もいる。ときどき、そういうメールをもらう。一応、私のワイフも、熱心な読者というこ
とになっている。最近になって、二男や三男に含めて、長男まで、マガジンを読み始めてくれ
た。

 が、本当に読んでくれている読者となると、まぐまぐプレミア(有料版)を購読してくれている読
者ではないか。有料版といっても、月額200円である。200円という金額にしたのは、先の作
家先生の言葉が、耳に残っていたからである。しかしたとえ200円でも払ってくれる読者は、あ
りがたい。

 ただ、Eマガを廃刊、あるいは、簡略版にできない重要な事情が、1つ、ある。

 Eマガのほうは、私の過去に発行したマガジンを、すべて、しかも全文、保存していてくれてい
る。Eマガの過去版コーナーを開けば、発刊当時からのマガジンがすべて、記録として残って
いる。ぼう大な量の原稿になっている。ここでEマガを廃刊にすれば、(3か月間発行しなけれ
ば、自動的に廃刊になるが……)、過去の記録がすべてそのまま消えてしまうことになる。

 それに私のマガジンだけ、特別に、配信容量をふやしてもらっている。本当は、A4サイズの
原稿用紙(1600字)で、10枚前後が限度らしい。しかし私のマガジンだけ、30枚前後まで、
一度に配信できるようにしてもらっている。そうした心づかいが、うれしい。Eマガ社や、Eマガ
社のみなさんの厚意を裏切ることはできない。

 だから結論は、もう出ている。

 読者の方の数は気にしないで、Eマガとまぐまぐプレミアだけは、今までどおり、発行してい
く。とにかく、1000号まで。1000号が目標!

 で、お願いがあるとすれば、もし、読者の方の中で、「まぐまぐプレミア」(有料版)のほうを購
読してもよいと思ってくれる人がいるなら、どうか、どうか、そちらを購読してほしいということ。
たとえ200円でも、払ってほしいということ。

 そのまぐまぐプレミアのほうの、現在読者数は、21人。これらの読者の方は、1000号を超
えても、これからも大切にしていきます。約束します。よろしくお願いします。


●ライブDアのH社長

 このところ、連日、マスコミは、ライブDア関連のニュース一色といった感じ。昨年は、あれほ
ど、ワッショ、ワッショとH社長をもちあげておきながら、今度は、一点、極悪人扱い(?)。株主
の中には、H社長に対して、損害賠償訴訟を起こす動きまで、出てきた。

 しかしH社長は、それほどまでに、極悪人なのか? 私は、こうまでH社長を叩く理由の背景
には、もう一つ、別の群集心理が隠されているように思う。それは一口で言えば、(ひがみ)
(?)。つまりH社長のような若い男性が、数千億円ものお金を自由に動かし、巨大テレビ局を
相手に、買収劇を演じたことに対する、(ひがみ)(?)。

 10年ほど前のことだが、私に直接こう話してくれた女性(40歳くらい)がいた。東京で、新聞
記者をしている女性だった。それを思い出しながら、彼女が話してくれたことを、そのままここ
に書く。

 「あのね、林さん。私たちの世界では、あなたのような人が成功するのを、おもしろくないと思
っている人は多いのよ。たったひとりで、どこの組織にも属さず、生活できるということだけで
も、許せないのよ。わかる? もしあなたのような人を認めるとね、私たちはみな、自己否定の
世界に陥ってしまうのよ。『私たちの仕事は何か』ってね。

 サラリーマンの人なら、みな、そう考えると思うわよ。だからあなたのような人が失敗するの
を、みな、待っているというわけ。で、あなたのような人が失敗すると、『ザマーミロ!』とか、『ソ
レミロ!』とか言って、笑うわけ。そうすることによって、『やっぱり、オレたちの生き方が正しか
った』と確認するわけ」と。

 H社長について言えば、証券取引法違反とか何とか、マスコミは大騒ぎしているが、悪意とか
犯意ということになると、それほど、おおげさなことではない。私の仕事にたとえて言うなら、こう
いうこと。

 本業の、著述業は、赤字。講演業は、そこそこ。何とか黒字を保っているのは、教室業。しか
し看板は、著述業だから、教室経営でもうけたお金を、あれこれ口実をつくって、著述業に回
す。

 口実はいくらでもできる。自分の書いた本の中で、教室の宣伝をしたから、その宣伝費とし
て、教室業で得たお金を、著述業のほうへ払ったことにする。講演で使うパンフを、著述業の
印刷機で印刷したから、印刷代を、著述業のほうへ払ったことにする、などなど。

 こうして利益を著述業のほうに移しかえて、私は、何とか著述業者としての体裁を保つ。そん
なわけで、H社長が、「私は人をだましたつもりはない」と言っている理由が、私には、わかるよ
うな気がする。

 もっとも、これから先、どんなほこりが出てくるか、だれにもわからない。ビジネスの世界とい
うのは、そういうもの。叩けば、ほこりなど、いくらでも出てくる。だからここでH社長を擁護する
のも、慎重にしなければならない。しかし私には、あの男性が、どうしても憎めない。若干33歳
で、ここまで日本の経済を激震させたという事実。その事実こそが、H社長の実力と、私はみ
たい。

 がんばれ、若者たち、青年よ! これからは、あなたたちのような若い人たちが、旧態依然と
した権威の世界で、居座っている老人たちを、どんどんと、崩壊させていく。自己否定させてい
く。つまりは、それが日本を変える、大きな力となる。ひるむな。負けるな。前に進め!


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(046)

【BW教室から】

●要支援(3)

 このところ「要支援」と、「幼稚園」が、よく話題になる。昨日も話題になった。

 年長児のクラスで、「ぼくは、ヨーカイゴ(要介護)だよ」と話したら、子どもたちが、「ヨーカイ
(妖怪)」「ヨーカイ(妖怪)!」と言って、騒ぎだした。

私「ちがうよ、要介護だよ。ヨーシエン(要支援)のつぎが、要介護だよ」
子「先生は、ヨーカイ(妖怪)だ」「ヨーカイ(妖怪)だ」
私「……そう、実は、先生は、妖怪なんだ。コワーイ、妖怪だよ」
子「怪談だ」「怪談だ」「怪談の妖怪だ」

私「実はね、このBW教室にも、恐ろしい、怪談があるんだよ」
子「どんな話?」「聞かせて!」
私「でも、君たちに話すと、君たち、夜、眠れなくなるよ」
子「だいじょうぶ」「だいじょうぶ」

私「本当にこわがらないか?」
子「こわがらない」
私「……ウーン、じゃあ、話してもいいけど、その前に、BWの怪談を見たいか?」
子「見たい」「見たい」

 そこで私は、子どもたちを廊下の外に誘導。子どもたちは、どこかおっかなそうな様子で、ゾ
ロゾロと私についてきた。

 で、私は、BW教室の廊下につながった、階段(かいだん)を見せながら、こう言った。「これ
がBWのカイダン(階段=怪談)だよ」と。

 子どもたちがゲラゲラと笑った。参観していた母親たちは、かなり前に私の策略を察知したら
しく、その前からクスクスと笑っていた。

子「何〜だア、怪談って、階段のこと?」
私「そうだよ、ハハハ」と。

 1月23日の一こまでした。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●Y発動機の無人ヘリ

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地元の会社のY発動機が、家宅捜査された。
容疑は、「無人ヘリ対中不正輸出」。

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 ラジコンヘリを、最初に見たのは、もう30年も前のこと。当時のラジコンヘリは、姿だけはリ
アルだったが、構造は、実に簡単なもの。そのため、操縦は、不可能と言ってよいほど、むず
かしかった。

 私も、当時、30万円近くの大金を払って、一機買ったことがある。しかし一度も飛ばせないま
ま、部屋の飾りとなってしまった。

 が、それから30年。ラジコンヘリの世界は、飛躍的に進歩した。そんな中、地元のY発動機
が、ラジコンヘリの実用化に向けて、開発研究をしているのを知った。ある時期、その開発ぶり
が、毎月のように、ラジコン専門雑誌に紹介されていた。

 当時の私は「ラジコンを実用化するなんてできるのだろうか」と、そんなふうに考えていた。
が、さすがY発動機! 

 5、6年前のことだったか、そのラジコンヘリが、近くの畑で、農薬を散布しているのを見た。
驚いた。

 ラジコン特有の不安定さが、まったくなかった。本物のヘリ……とまではいかないが、しっかり
と高度と方向を保ちながら、正確に左右前後、まっすぐに飛んで、農薬を散布していた。

 エンジンは、大型のものになっていた。排気量も200CCとか、250CCはあったと思う。私は
道路の端に自転車を寄せて、かなりの時間、そのラジコンヘリに見とれていた。

 で、今回、そのラジコンヘリを、中国へ不正輸出したとかで、Y発動機が、家宅捜査を受け
た。取締役のO氏は、「違法性の認識はなかった」(中日新聞)と釈明会見を行ったが、私は、
「そうだろう」と思う。開発当時の苦労話を先の雑誌などで読んで知っていたので、よけいにそう
思う。

 もしそれが軍事目的に開発されたラジコンヘリなら、つまりそういう認識が会社側にあったと
するなら、ラジコン雑誌などで、開発の苦労話など、披露するバカはいない。それにその開発
にたずさわったのは、当時の私の友人の1人だった。

 その友人は、私が製作したラジコンの飛行機のテスト飛行を、いつも、喜んで引き受けてくれ
ていた。

 が、あまりにも性能がよくなりすぎた。で、それに中国の人民解放軍(軍部)が、目をつけたら
しい。そして今回の不正輸出(?)となったらしい。

 ただ価格がすごい。新聞報道などによれば、1機、1575万円! 「Y発動機によると、同社
は平成13年以降、BVE社に(RMAX TypeIIG)型を改良した、(RMAX L181)型(全長約
3・6メートル、1575円)を9機輸出し、昨年12月に10機目の輸出申請をしていた」という。

 1575万円といえば、趣味で買える金額ではない。一応農薬散布用ということで輸出したとい
うが、中国で、その目的のために買う人もいないだろう。Y発動機では、そのあたりのことをどう
考えていたのだろう。つまりこのあたりが、今後の捜査の焦点ということになる。

 しかし私も、その性能を目の当たりに確認しているので、「軍事分野の転用が可能」とする、
静岡、愛知、福岡県警の見解は、まちがっていないと思う。あれで毒ガスでもまかれたら、その
下の人間は、ひとたまりもないだろう。

やはり、ああいうものは、中国やロシアには、売ってほしくない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(047)

【2月号の終わりに……】

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今日で、2月号は、おしまい。
……といっても、この原稿は、
1月24日に書いています。

マガジンの原稿は、ほぼ1か
月前に、書き終え、配信予約
を入れるようにしています。

こうすることで、みなさんの
ところに、安定的に、マガジ
ンをお届けすることができま
す。

で、今年の正月も、あっとい
う間に終わりました。本当に
あわただしい正月でした。

そんな思いをこめながら、頭
の中にモヤモヤしている雑感
を書いてみたいと思います。

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【雑感あれ・これ】

【希望論】

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希望があれば、生きていくことができる。
たとえ貧しくても、たとえ今は不幸でも……。

しかしその希望をなくしたら……。

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●近くのホームで……

 近くのグループ・ホームでヘルパーをしている女性から、こんな話を聞いた。「グループ・ホー
ム」というのは、ひとりでは生活できない老齢者たちが、グループになって共同生活をするとい
う施設をいう。個室をあてがわれ、三食つき。有料。

 1人の老人がいる。老人といっても、まだ70歳前。幼いころから、母親に虐待され、精神をゆ
がめている。その老人が、毎日、決まった時刻になると、帰りじたくを始めるという。小さなカバ
ンに、衣服や電気カミソリなどをつめ、服装を整えて、玄関に近い居間の椅子(いす)に座る。
そして毎日、同じセリフを言う。

 「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 じいちゃんというのは、その男性の祖父のことをいう。もう30年以上も前に他界し、この世に
はいない。そこでヘルパーが、「来るといいですね」「でも、今日も来ないかもね」と答えることに
しているという。
 
 不幸な男性である。母親に虐待され、精神は萎縮し、内閉した。そのままの状態で、つまり半
ば母親に監禁されたような状態で、70年近く、その母親と生活をともにした。

 2人、妹がいるが、1人は、東京に住んでいる。もう1人は、近くに住んでいるが、その母親の
めんどうをみている。「2人もめんどうをみれない」ということで、その男性をグループ・ホームに
入居させた。

 で、その男性は、日が暮れて、あたりが真っ暗になるまで、そのままの状態で、そこに座って
いるという。毎日のことなので、ヘルパーたちは、そのままにさせておくという。つまり、それが
その男性の希望ということになる。「いつか、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 人は、希望があれば、たとえ衣食住に不足があっても、生きていくことができる。しかしその
希望がなければ、生きていくことはできない。あのルーマニアの作家のゲオルギウは、こう書い
ている。

「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかって
いても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 ゲルニオウという人は、生涯のほとんどを、収容所や監獄で過ごした人である。

 もしその男性が、「じいちゃんが、もう来ない」ということを、本当に知ったとしたら、そのとき、
その男性は、最後に残された自分の希望を失うことになる。だからときどき、不用意な人が、
「あなたのじいちゃんは、死んでしまって、もうこの世にはいませんよ」と言っても、その男性は
それを信じない。

「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 その男性にやさしかったのは、祖父だけだったようだ。父親は、若くして、交通事故でなくなっ
ている。祖母もいたが、祖母は、家庭的な人とは、とても言えないような人だったようだ。毎日、
化粧ばかりしていたという。エプロンの上に、それが汚れるといけないからという理由で、もう一
枚、エプロンをかけるような人だったという。

で、その男性は、折につけ、「じいちゃんが、風呂で、体を洗ってくれた」「じいちゃんが、祭につ
れていってくれた」「じいちゃんが、ぜんざいを食べさせてくれた」と、そんなことを繰りかえし、繰
りかえし、口にした。

 かわいそうな男性だが、しかしその男性を不幸な男性と決めてかかってはいけない。その男
性は、まだ恵まれているほう。グループ・ホームといっても、毎月、11〜12万円前後の費用が
かかる。ほかに雑費や病気の治療代として、2〜5万円がかかる。そうした費用は、東京に住
んでいる妹夫婦が、負担している。

 その男性は、快適な老後生活を送っている。自由はないが、それは認知症という病気のせい
であって、だれのせいでもない。

 で、私はこの話を聞いて、こう思った。人は、どんなに年をとっても、またどんな境遇に置かれ
ても、希望を自らつくりながら生きていく。それがたとえかなわぬ希望であっても、その希望を
捨てることはできない。たとえ他人が、バカだアホだといっても、その希望を捨てることはできな
い。

 希望を捨てるということは、どんな人にとっても、死を意味する。たとえ体は生きていても、心
は死んでいることになる。その男性は、ひょっとしたら、祖父が死んで、もうこの世にいないこと
を、知っているのかもしれない。しかしそれを認めることはできない。認めたとき、その男性の
心は死ぬ。

 たぶん今日も、その男性は、その時刻になると、その場所で、来るはずもない(じいちゃん)を
待っているのだろう。そのさみしそうな姿が、私には、目に見える。
(はやし浩司 希望論 希望)


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ゲオルギウについて書いた原稿を、
いくつか、集めてみます。

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●春

 私のばあい、春は花粉症で始まり、花粉症で終わる。……以前は、そうだった。しかしこの八
年間、症状は、ほとんど消えた。最初の一週間だけ、つらい日がつづくが、それを過ぎると、花
粉症による症状が、消える。……消えるようになった。

 一時は、杉の木のない沖縄に移住を考えたほど。花粉症のつらさは、花粉症になったことの
ない人には、わからない。そう、何がつらいかといって、夜、安眠できないことほど、つらいこと
はない。短い期間ならともかくも、それが年によっては、二月のはじめから、五月になるまでつ
づく。そのうち、体のほうが参ってしまう。

 そういうわけで、以前は、春が嫌いだった。二月になると、気分まで憂うつになった。しかし今
は、違う。思う存分、春を楽しめるようになった。風のにおいや、土や木のにおい。それもわか
るようになった。ときどき以前の私を思い出しながら、わざと鼻の穴を大きくして、息を思いっき
り吸い込むことがある。どこか不安だが、くしゃみをすることもない。それを自分でたしかめな
がら、ほっとする。

 よく人生を季節にたとえる人がいる。青年時代が春なら、晩年時代は、冬というわけだ。この
たとえには、たしかに説得力がある。しかしふと立ち止まって考えてみると、どうもそうではない
ような気がする。

 どうして冬が晩年なのか。晩年が冬なのか。みながそう言うから、私もいつしかそう思うように
なったが、考えてみれば、これほど、おかしなたとえはない。人の一生は、八〇年。その八〇
年を、一年のサイクルにたとえるほうが、おかしい。もしこんなたとえが許されるなら、青年時代
は、沖縄、晩年時代は、北海道でもよい。あるいは青年時代は、富士山の三合目、晩年時代
は、九合目でもよい。

 さらに、だ。昔、オーストラリアの友人たちは、冬の寒い日にキャンプにでかけたりしていた。
今でこそ、冬でもキャンプをする人はふえたが、当時はそうではない。冬に冷房をかけるような
もの。私は、そんな違和感を覚えた。

 また同じ「冬」でも、オーストラリアでは、冬の間に牧草を育成する。乾燥した夏に備えるため
だ。まだある。砂漠の国や、赤道の国では、彼らが言うところの「涼しい夏」(日本でいう冬)の
ほうが、すばらしい季節ということになっている。そういうところに住む友人たちに、「ぼくの人生
は、冬だ」などと言おうものなら、反対に「すばらしいことだ」と言われてしまうかもしれない。

 が、日本では、春は若葉がふき出すから、青年時代ということになるのだが、何も、冬の間、
その木が死んでいるというわけではない。寒いから、休んでいるだけだ。……とまあ、そういう
言い方にこだわるのは、私が、晩年になりつつあるのを、認めたくないからだ。自分の人生
が、冬に象徴されるような、寒い人生になっているのを認めたくないからだ。

 しかし実際には、このところ、その晩年を認めることが、自分でも多くなった。若いときのよう
に、がむしゃらに働くということができなくなった。当然、収入は減り、その分、派手な生活が消
えた。世間にも相手にされなくなったし、活動範囲も狭くなった。それ以上に、「だからどうな
の?」という、迷いまかりが先に立つようになった。

 あとはこのまま、今までの人生を繰りかえしながら、やがて死を迎える……。「どう生きるか」
よりも、「どう死ぬか」を、考える。こう書くと、また「ジジ臭い」と言われそうだが、いまさら、「どう
生きるか」を考えるのも、正直言って、疲れた。さんざん考えてきたし、その結果、どうにもなら
なかった。「がんばれ」と自分にムチを打つこともあるが、この先、何をどうがんばったらよいの
か!

 本当なら、もう、すべてを投げ出し、どこか遠くへ行きたい。それが死ぬということなら、死ん
でもかまわない。そういう自分が、かろうじて自分でいられるのは、やはり家族がいるからだ。
今夜も、仕事の帰り道に、ワイフとこんな会話をした。

「もしこうして、ぼくを支えてくれるお前がいなかったら、ぼくは仕事などできないだろうね」
 「どうして?」
 「だって、仕事をしても、意味がないだろ……」
 「そんなこと、ないでしょ。みんなが、あなたを支えてくれるわ」
 「しかし、ぼくは疲れた。こんなこと、いつまでもしていても、同じことのような気がする」
 「同じって……?」
 「死ぬまで、同じことを繰りかえすなんて、ぼくにはできない」
 「同じじゃ、ないわ」
 「どうして?」
 「だって、五月には、二男が、セイジ(孫)をつれて、アメリカから帰ってくるのよ」
 「……」
 「新しい家族がふえるのよ。みんなで楽しく、旅行もできるじゃ、ない。今度は、そのセイジが
おとなになって、結婚するのよ。私は、ぜったい、その日まで生きているわ」

 セイジ……。と、考えたとたん、心の中が、ポーッと温かくなった。それは寒々とした冬景色の
中に、春の陽光がさしたような気分だった。

 「セイジを、日本の温泉に連れていってやろうか」
 「温泉なんて、喜ばないわ」
 「じゃあ、ディズニーランドに連れていってやろう」
 「まだ一歳になっていないのよ」
 「そうだな」と。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きていれ
ば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 私という人間には、単純なところがある。冬だと思えば、冬だと思ってしまう。しかしリンゴの
木を植えようと思えば、植える。そのつど、コロコロと考えが変わる。どこか一本、スジが通って
いない。あああ。

 どうであるにせよ、今は、春なのだ。それに乗じて、はしゃぐのも悪くない。おかげで、花粉症
も、ほとんど気にならなくなるほど、楽になった。今まで、春に憂うつになった分だけ、これから
は楽しむ。そう言えば、私の高校時代は、憂うつだった。今、その憂うつで失った部分を、取り
かえしてやろう。こんなところでグズグズしていても、始まらない。

 ようし、前に向かって、私は進むぞ! 今日から、また前に向かって、進むぞ! 負けるもの
か! 今は、春だ。人生の春だ! 
(03年03月07日)

【追記】「青春」という言葉に代表されるように、年齢と季節を重ねあわせるような言い方は、も
うしないぞ。そういう言葉が一方にあると、その言葉に生きザマそのものが、影響を受けてしま
う。人生に、春も、冬もない。元気よく生きている毎日が、春であり、夏なのだ!

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先の原稿を書いたら、読者の方から
メールをもらいました。SZさんという
方です。

それに対する返事が、つぎの原稿です。

++++++++++++++++++++

●SZさんへ、

今日、リンゴの木を植えることだ!

 このところ、反対に読者の方に励まされることが、多くなった。一生懸命、励ましているつもり
が、逆に私が励まされている? 今朝(三月一六日)も、SZさんから、そういうメールをもらっ
た。「先生は、リンゴの木を植えていますよ」と。三月一五日号のマガジンで、つぎのように書い
たことについて、だ。

「ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きていれ
ば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。」

 「二十五時」は、角川書店や筑摩書房から、文庫本で、翻訳出版されている。内容は、ヨハ
ン・モリッツという男の、収容所人生を書いたもの。あるときはユダヤ人として、強制収容所に。
またあるときは、ハンガリア人として、ルーマニア人キャンプに。また今度は、ドイツ人として、
ハンガリア人キャンプに送られる。そして最後は、ドイツの戦犯として、アメリカのキャンプに送
られる……。

 人間の尊厳というものが、たった一枚の紙切れで翻弄(ほんろう)される恐ろしさが、この本
のテーマになっている。それはまさに絶望の日々であった。が、その中で、モリッツは、「今日、
リンゴの木を植えることだ」と悟る。

 ゲオルギウは、こうも語っている。「いかなる不幸の中にも、幸福が潜んでいる。どこによいこ
とがあり、どこに悪いことがあるか、私たちはそれを知らないだけだ」(「第二のチャンス」)と。
たいへん参考になる。

 もっとも私が感じているような絶望感にせよ、閉塞(へいそく)感にせよ、ゲオルギウが感じた
であろう、絶望感や閉塞感とは、比較にならない。明日も、今日と同じようにやってくるだろう。
来年も、今年と同じようにやってくるだろう。そういう「私」と、明日さえわからなかったゲオルギ
ウとでは、不幸の内容そのものが、違う。程度が、違う。が、そのゲオルギウが、『どんなときで
も、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、
リンゴの木を植えることだ』と。

 私も、実はSZさんに励まされてはじめて、この言葉のもつ意味の重さが理解できた。「重さ」
というよりも、私自身の問題として、この言葉をとらえることができた。もちろんSZさんにそう励
まされたからといって、私には、リンゴの木を植えているという実感はない。ないが、「これから
も、最後の最後まで、前向きに生きよう」という意欲は生まれた。

SZさん、ありがとう! 近くそのハンガリーへ転勤でいかれるとか、どうかお体を大切に。ゲオ
ルギウ(Constantin Virgil Gheorgiu) は、ヨーロッパでは著名な作家ですから、また耳にされる
こともあると思います。「よろしく!」……と言うのもへんですが、私はそんなうような気持ちでい
ます。(ただし左翼作家ですから、少し、ご注意くださいね。)
(030316)


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もう1作、「希望論」について書いた原稿を
ここに添付します。

みなさん、元気で、がんばりましょう!

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【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが
あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

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ついでにもう1作……

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●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残
している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。
(はやし浩司 希望 希望論 孤独 孤独論 希望とは 生きる希望とは 絶望 絶望論 ゲオ
ルギウ はやし浩司 林檎の木 りんごの木 リンゴの木)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(048)

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「今」を懸命に生きる。
そのときがきても
ジタバタしないように、
その覚悟をもって……。

日々是充足。
日々是覚悟。

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●不幸

 病気、事故、災害は、突然、やってくる。突然やってきて、その人の人生を狂わす。それまで
は、だれしも、「私には関係ない」と思っている。いや、心のどこかで、かすかな不安を覚えるこ
とはある。が、それを自ら、打ち消してしまう。

 そして一度、人は不幸の坂を、ころげ落ち始めると、そのまま、あれよ、あれよと思う間もな
く、不幸のどん底へと落ちてしまう。それは、本当に、あっという間である。

 仮に今、あなたが、がんを宣告されたら……。仮に今、あなたが交通事故で、重症を負った
ら……。仮に今、あなたの家を、大地震が襲ったら……。そのときから、あなたの生活は、一
変する。

 実は、私の周辺でも、スレスレのことが、いくつか起きている。1、2か月前には、車にはねら
れそうになった、などなど。詳しくはともかくも、そのたびに、私はヒヤリ、ヒヤリとしている。私ひ
とりの生活なら、何も変わらないだろうが、大学生の息子やワイフのことを考えると、そうはい
かない。

 経済的な問題もあるが、心の問題がある。たとえば私のワイフが先に死んでしまったとした
ら、はたして私は、その悲しみを乗り越えることができるだろうか。息子が交通事故か何かで
死んでしまったら、はたして私は、その悲しみを乗り越えることができるだろうか。

 それを考えると、気が重くなる。私はそのまま、不幸の坂を、まっさかさまに、ころげ落ちてい
くかもしれない。

 が、表面的には、毎日を、何ごともないかのように、過ごしている。忘れたフリをして、過ごし
ている。言いかえると、私たちは、毎日、薄い氷の上を、恐る恐る歩いているようなもの。不幸
は、私たちの足元で、「おいで、おいで」と、手招きしながら、私たちを待っている。

 そこで私たちは、2つの道を考える。毎日ビクビクしながら生きるのにも、限界がある。

 1つは、であるなら今、そこにある幸福を、最大限充実させながら、生きるということ。毎日
を、精一杯、最大限生きる。中国語風に言えば、「日々是充足」ということになるのか。

 もう1つは、常に、不幸を覚悟しながら、生きるということ。そのときがきても、ジタバタしない
ように、心を構えておく。中国語風に言えば、「日々是覚悟」ということになるのか。

 かく言う私も、どこまでできるかわからない。しかし今を生きるための、これが2本の柱という
ことになる。今を懸命に生きれば生きるほど、覚悟もまた、しっかりとしてくる。そして覚悟がし
っかりとすればするほど、今を懸命に生きるようになる。2本の柱は、相互に補完しあいなが
ら、私の行きザマを決める。

 あえて言うなら、「不幸なんかに負けてたまるか!」ということか。私たちは生きている間は、
ただひたすら、歯をくいしばって生きていく。それしかない。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(049)

●依存性の強い子ども

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 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、
相談があった。「何かにつけて、リズムが、ワ
ンテンポ遅く、心配である」と。転載の許可が
もらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親の
EAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相談
者の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の
母)の7人。

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学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までしてい
る。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければならないという
ことがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)人より遅くても、気にしな
い。(4)いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣のことおし
ゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作品は完成していた。と
いった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

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 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母との同
居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性について考
えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念のた
め。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとんどのば
あい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうものであるかさえ、
わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子としてしまう。だから「あ
なたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意する。
洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを脱がせ、服を
着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさしだしたり
する。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようとする。子
どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子どもも、
考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、無意識のうち
に、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親というの
は、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子どもの依存性
にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがおばあち
ゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖してい
る。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本の子育て
は、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなっている。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を迎える
ことすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変わってきた
が……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子どもの自立と
いうことになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になることはあっても、益に
なることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、これもむ
ずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、その関
係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらない。兄弟、
夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当然と考えるように
なる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そしてたがいがが、その前提
で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて書いた原
稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

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●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバ
ッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中
に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。
そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、
その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声
を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をし
ていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれる
ような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あ
るいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがい
になっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を
書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こ
ういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてです
か」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配
で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、
反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあ
と母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケース
は今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの
園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親
は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて
逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だ
った。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今で
も、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイ
プの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこ
の子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成
そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える
側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が
遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイ
プの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、
ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけ
で育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪
をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとり
では何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だ
ちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠
ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れな
いなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そし
てその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動
面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA
君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ
行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけ
で、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくな
る。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にして
いるかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されるこ
とになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずに
だが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分で
させるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるに
しても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえ
て言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳
から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子
どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、
社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくな
る。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それは
ちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。
同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがた
いへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにな
らない。これは子どもを育てるときの常識である。

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 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれることがあ
る。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特定の
人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるということではな
い。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞う子ども
もいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。あるいは年齢
とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親のありがたみを、こ
とさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えてよい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受けて
育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。しかしこれ
は子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。それだけに、扱
い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、別居という
ところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きるとしても、マ
イナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、親は親として、好き
勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その内容
は、つぎのように分けて考える。

(1)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(2)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(3)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(4)無責任(責任ある行動ができない。)
(5)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(6)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(7)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(8)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(9)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自己管理
能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、スム
ーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ムラ(邑)」
社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の技法
も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それでもい
い」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いたように、相互に依
存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心地のよい世界である。今
でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることがある。「これこそ、まさに日本人
が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉しあうと
いうのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できないほど、濃密な
人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもないわけ
ではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっきりしない。日
本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な合理主義にも、抵抗を
感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がかか
える、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」あるい
は、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観を根
底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のような若い女性
には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、よい
のではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもになってい
ます」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、解
決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されていく。そ
ういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を考えてい
く。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そのあとということ
になる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、子ども
どうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞いてみるの
も、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別の子どもであるこ
とが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしまいました。
あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、うれしいです。(あるい
は、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構です。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、(満腹
症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じの子どもをい
います。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼児期か
ら、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもありません。ひょ
っとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもしれません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えてみられ
ては、いかがでしょうか。

(1)いつも満足げで、おっとりとしている。
(2)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(3)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(4)ほかの子どもに、追従的。
(5)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなことはしな
い。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほうがよいかもし
れません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなりできあがってしまって
いると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が出てくる
ことが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。柔和だが、ハキ
がない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この時期の
鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育ってきます。
そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の状態を維持しな
がら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父母は、
旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。「うちの子
は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、しかし
メリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押しつけない
ことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、何かと思うよ
うにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や期待を一枚ずつ、
はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこれしようと
考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなりかねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、三番底
があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできるようになった
わね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだかまりや、不信感が
あれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、いつまでた
っても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛的に、
自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分があるのかもしれ
ません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)というようであれば、この
気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接しているようであ
れば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもっている
人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちです。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみしさに耐
えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、自立できない、
ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置いて、
これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。
(はやし浩司 子供の依存性 依存性の強い子供 甘えん坊 子どもの依存 親に依存する子
供 子供の自立 はやし浩司 子どもの自立 自立心 子供を自立させる)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(050)

【今日・あれこれ】

 この原稿で、(最前線の子育て論byはやし浩司)シリーズの原稿が、1050作になった。もっ
ともこの数字には、意味はない。仮のナンバーのようなもの。

 そしてこの原稿が、06年2月最後のマガジンに載る。つまり2月号、最後の原稿ということ。

 今日は、1月25日だから、ちょうど1か月と少し先ということになる。その1か月と少し先を思
いやりながら、2月の終わりには、どうなっているだろうと、ふと考える。何が、ということはな
い。

 昨日も寒かったが、少しは暖かくなっているだろうか。
 元気で、仕事をしているだろうか。
 家族は、みな、元気だろうか、と。

 1か月先の原稿を書いていると、何かしら、得をしたような気分になる。1か月だけ、余分に
長生きしたような気分だ。

 たとえば今日、私が交通事故か何かで死んだとする。しかしマガジンだけは、2月末まで、自
動的に発信されつづける。つまり私は、2月末までは、生きることができるということになる。

 ……とまあ、ものごとを何でも暗いほうに考えてはいけない。

 マガジンを発行していて、一番楽しいのは、自分が、どこかの雑誌社の編集長にでもなった
ような気分になること。反対に、昔、出会った、出版社の編集長たちの気持ちが、今になって、
よく理解できるようになった。

 「ああ、こういうふうに考えて、マガジンを発行していたんだな」と。

 で、私は、ささやかながら、その夢を果たしつつある。小さな出版社の編集長という夢であ
る。その編集長が、私という(もの書き)に、こう命令する。

 「原稿が遅れているぞ!」
 「今度の原稿は、おもしろくないぞ!」
 「明るいテーマで、ものを書け!」
 「具体例が少なく、読みづらい!」と。

 私はそれに答えて、「ハイ、わかりました、編集長!」と声をあげる。

 それが楽しい。

 では、みなさん、3月号も、よろしくお願いします。

 マガジンの購読、ありがとうございます。
 それからBW教室の生徒さんを募集しています。近所で、お知りあいの人がいらっしゃたら、
ご連絡下さい。案内書を送ります。(電話 053−452−8039、常時留守番電話です。)
(06−1−25)


***************以上1050作****************






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浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi /
 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ は
やしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできまし
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