はやし浩司(ひろし)

1300〜
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はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(1300〜1350)
06年5月〜7月2日

最前線の子育て論byはやし浩司(1300)

【私らしさを知るために……】

+++++++++++++++++

SK氏(65歳)は、温厚な紳士だった。
名前を、崎村昇壱(仮名)といった。

その崎村は、N市で求人案内誌を発刊
していた。今も、つづけているという。

その地方では、郷土料理研究家としても
よく知られ、ときどき新聞などにも、
その顔と名前を出す。

しかしその崎村氏は、今から25年ほど
前、ある凶悪事件を引き起こし、有罪と
なり、そののち、5年間ほど、刑務所に、
服役している。

崎村昇壱というのは、当然、偽名である。

+++++++++++++++++

●ある事件

 今から25年ほど前、この地方を騒がした事件に、N事件というのがある。ある男が、妻を殺
害したという容疑で逮捕されたという事件である。しかし結局は、その件については、証拠不十
分で、無罪。しかし逮捕されたときの別件の容疑、つまり別の殺人未遂罪のほうででは、有
罪。その男は、そのあと、5年間ほど、刑務所に服役するところとなった。

 その男は刑務所から出ると、名前を変え、今のN市に移り住み、「N市会社報」(仮名)という
名前の情報誌を発刊した。情報誌といっても、まともな情報誌ではない。醜聞を暴露すると脅し
ながら、その会社から、法外な広告料金を取るという情報誌である。この世界では、「暴露雑
誌」と呼んでいる。

 裏では、もちろん、そのスジの暴力団関係者と結びついていた。

 私がその男と知りあったのは、5年ほど前のこと。名前は、崎村昇壱(仮名)と名乗った。当
時、60歳と、聞いていた。温厚な紳士で、口調も静かだった。最初、郷土料理研究家、あるい
は郷土料理コンサルタントという肩書きで、ある人から紹介された。

 いっしょに、いくつかの料理店を食べ歩いたこともある。

 が、ふとしたことから、その男に疑問をもつようになった。何かの席で、「ぼくは、S高校の出
身」と言ったのが、耳に残った。息子の1人が通っていた高校である。

 しばらくしてから私は息子の同窓会名簿で、その男の名前をさがしてみた。が、崎村という名
前は、どこにもなかった。で、ちょうど同じころ、別の男から、崎村昇壱についての情報を耳に
した。「林さん、あんたは崎村という男とつきあっているというが、おやめなさい。あの男は、た
いへんな事件を起こした男だから」と。

 それで私は、その男の過去を知ることになった。

 が、どうしても、私には、その話が信じられなかった。私が知る崎村昇壱という男は、紳士だ
った。いつもスリーピースの紳士服で身を包み、髪の毛もしっかりと、とかしていた。おしゃれ
で、腕には、いつも金色のブレスレットを巻いていた。その過去を連想させるような雰囲気は、
どこにもなかった。

 しかしそれを知ってからというもの、私から「友人になろう」という意識は消えた。「観察してや
ろう」という意識が、それに置きかわった。が、とたん、それまで気づかなかった、崎村昇壱とい
う男が、時折見せる邪悪さが、目につくようになった。

 崎村昇壱は、明らかに仮面をかぶっていた。

 その仮面について、少し前、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●仮面(ペルソナ)とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔を
して、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、この町には、のさばっている。身分制度
が、そのまま学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる。その基盤となってしま
う。

 よくシャドウというテーマで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあ
り』である。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごと
な演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、職業は牧師。厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の
嫁と不倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげた原動
力になったとも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまう。見抜くだけならまだしも、そのシャドウ
をそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、まし。そ
ういう親のほうが、子どもにとっては、好ましいということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

+++++++++++++++++

●崎村昇壱

 崎村昇壱という男の話にもどる。

 崎村昇壱は、明らかに紳士だった。ふつうの紳士以上に紳士だった。先にも書いたように、
見るからに温厚な紳士で、口調も静かだった。

 しかしそれは演技によるものではなかった。つまり演技ぽさは、どこにもなかった。身のこなし
やマナーは、精練されていた。が、よくよく観察すると、ふつう以上に、紳士的であるという点
が、不自然といえば不自然だった。

 その男が過去の事件を悔やみ、それを乗り越えることによって、そういった紳士になったの
か、あるいは、自分のシャドウを、心の中の別の部屋に閉じこめることによって、そういった紳
士になったのか、それは、わからない。わからないが、私は、後者ではなかったかと思う。

 私は崎村昇壱という男と話しているとき、ときどき、ぞっとするような冷たさというか、邪悪さ
を、彼の中に感じたことがある。つまり、それが、崎村昇壱という男のシャドウということにな
る。

 で、そのことが昨夜、ワイフと話しているときに、話題になった。私が、「あの崎村っていう男
ね、今度、郷土料理のコンサルタント業を始めたんだって……新聞にそう書いてあった」と話す
と、ワイフは、驚いた、そしてこう言った。「ヘエ〜、あの男がア!?」と。

私「そうなんだよ。あの崎村は、本当に善人に変身したみたい」
ワ「そんなこと、ありえないわよ。自分の過去を、どう思っているのかしら?」
私「自分の過去だとは思っていないだろうね。自分の過去を自分から切り離すことによって、ま
ったく別人になりすましている」
ワ「でも、そんなことで、自分の過去を消すことはできないはずよ」
私「そうなんだよな。だからそういう人は、自分の過去を、心の中の別の部屋に閉じこめること
によって、自分から切り離すのさ」

ワ「閉じこめるということは、消えるということかしら?」
私「いいや、それはありえない。閉じこめても、消えるということではない」
ワ「じゃあ、どうすれば、消せるの?」
私「いいか、X氏の話によれば、崎村という男は、妻を殺害しているらしい。が、証拠不十分で、
その件については、無罪になった。そして逮捕されたときの別件の、つまり別の殺人未遂罪で
は有罪になった。その時点で、崎村という男は、『よかった』『うまくいった』と思ったかもしれな
い」
ワ「その時点で、シャドウを自分の中に作ったということ?」
私「そう。あるいはそれ以前から、いろいろなシャドウが、崎村という男には、あったのかもしれ
ない。その事件を起こす前にも、宝石を詐取するという事件を起こしている」

ワ「どうすれば、シャドウを消せるの?」
私「有罪になるべきだった。自分から罪を告白して、有罪になるべきだった。そして自分の犯し
た過(あやま)ちを、悔い、反省すべきだった。たとえ無期懲役になったとしても、ね」
ワ「そこであの崎村という男は、善人になりすますことによって、過去の自分を隠そうとしたの
ね」
私「そういう例は、多いよ。世間の目を感じて、その世間の目をあざむくために、仮面をかぶる
という例は、ね」と。

 私は、昔、S市で起きた、毒物による町民殺害事件について、ワイフに話した。あの事件で
は、当初から、その地域に住む一人の女性が、犯人ではないかと疑われた。その女性だけ
が、その毒物を手にすることができた。

私「あの殺害事件でも、警察に逮捕される前、あの女性は、いつもにこやかな笑みを浮かべて
いた。マスコミによる取材にも、笑いながら、応じていた。さも、私は、そんな事件には関係あり
ませんといった様子でね」
ワ「不自然ね」
私「そう、不自然だ。自分が犯人ではないかと疑われているのわけだから、もし潔白なら、怒る
はず。『私は関係ありません!』とね」
ワ「本人には、そういう意識はなかったのかしら? つまり世間をごまかしているという意識よ」
私「最初はあったのかもしれない。しかし仮面をかぶっている間に、やがてどちらが本当の自
分かわからなくなってしまった。そしてさらにそれが長くつづいたため、仮面のほうの自分を本
当の自分と思いこむようになってしまった」
ワ「邪悪な自分を、どこかへ押しこめてしまったというわけね」
私「そう。そういうことになる。またそうでもしなと、自分がもたない。演技だけで善人ぶっても、
長つづきはしない。疲れてしまうからね」と。

 ……という話はここで終わるが、私たちも、みな、多かれ少なかれ、その仮面をかぶっている
ことを忘れてはいけない。邪悪な部分を、心の中のどこかの部屋に閉じこめることによって、善
人ぶっている。とくに気をつけなければいけないのが、僧侶や牧師、それに医師や教師のよう
な職業にたずさわっている人たちである。

 みなから、「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自分を見失ってしまう。善人になるということ
は、そんな簡単なことではない。自分の中から、邪悪な部分を消すのも、そんな簡単なことでは
ない。不可能ではないかもしれないが、そこに至る道は、遠くて、険しい。

 そこで大切なことは、まず自分自身がかぶっている仮面に、気づくこと。つぎに、自分自身
が、心の中に閉じこめているシャドウに、気づくこと。その2つに気づけば、あとは早い。その向
こうに本当の自分が見えてくる。

 あとは、その本当の自分に従って生きていけばよい。それが「私らしさ」ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自分
 私 私論 私らしさとは 仮面 シャドウ)

注:ここに書いた、崎村昇壱という人物ならびに、彼が起こしたという事件は、フィクションです。
類似した名前、事件があったとしても、それは偶然によるものです。S市における薬物による毒
殺事件についても、同様です。)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1301)

【掲示板への相談より】

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Nさんの息子さんは、今年、大学に入学しました。
しかしつきあっていた、1歳年上の女性が、
妊娠してしまったというのです。

現在、妊娠6か月。

Nさん夫婦は、息子さんたちの交際に反対していま
した。相手の女性の両親にも、何度もその旨を
伝えていたといいます。

しかし息子さんは、ときどき、相手の女性の家に
連泊。相手の女性の両親は、息子さんがそうすることを、
むしろ歓迎するようなところがあったといいます。

また相手の女性には、それ以前につきあっていた男性
との間にできた、1人の子どもがいます。

その子どもは、現在、満1歳。

そのNさんからの相談です。
掲示板でのやりとりを、そのままここに転写します。

Nさんは、今、落胆のドン底にいます。
みなさんの中で、同じような経験をなさった人が
いれば、どうか連絡してください。

Nさんにとって、何かの助けになれば、
うれしいです。

++++++++++++++++++++


【Nより、林へ】

2月に相談にのっていただいた、元高3息子の母です。
息子の彼女は18歳。1歳の子持ち。

その後、私は林先生のおっしゃる通りにして、頑張ってきました。
息子はなんとか大学に合格して(彼女の家のそば)、卒業もできました。
先生のおかげです。ありがとうございます。

息子は2時間半かけて大学に毎日通っています。彼女のところに行かなくなりました。
大学での女友達もできたようです。先生のおっしゃる通りだと思っていました。
そして、息子も「彼女とは終わった」と言いました。

ところがです、先週、彼女の母親から電話がありました。主人がでました。「娘とは終わったよ
うですが、携帯代その他もろもろのお金を立て替えている。話もあるので、その旨、伝えてほし
い。」とのことでした。

主人は「はじめから認めてないつきあいなので、電話あったことは伝えてきますが、後は息子と
話し合ってください」と言ったそうです。

また、今日電話あり、主人がでました。「息子さんから連絡がない。娘は妊娠6ヶ月です」と。

主人は「始めからずっと反対していると言っていたのに、あなたが2人の仲をあおってきた。携
帯代も払わないでくれ、交通費を出すのもやめてくれ、下宿先も教えないでくれ、といったの
に、あなたと娘さんがすべてしたのです。話し合いは息子としてくれ。一切知りません。」と言っ
たそうです。

今いる彼女の子どもも、元の彼からは、認知してもらっていないと聞いています。
主人も私も息子にすべて任せるつもりです。半分巣立っているのだから・・・
おかしいでしょうか?!
無責任でしょうか?!

でも、今までこんなにも息子と息子の彼女とその親に振り回されてきたのです。息子の1番大
事なときにでも、夜中でも「きて」と言われれば、息子は飛んでいきました。それで4日も帰って
こないことしばしばです。 私達親は、つらかったです。
まだ未青年だけど、巣立ったものとして、本人に任せてよいでしょうか?!
お忙しいのに申し訳ありません。教えてください.


【林より、Nへ】

まゆっくりと考えてみますが、妊娠の件は、フィクションではないかと思います。
きわめて重要な妊娠の話をさておいて、その前に、どうでもよい携帯電話の立替代の話を
請求してくるということは、どう考えても、不自然です。

私が相手の親なら、先週の電話で、開口一番、妊娠の話をしたと思います。

6か月もたっているというのでは、日数もおかしいですね。
まだつきあっているころに、すでに妊娠のことはわかっていたはずですから?

2月にNさんから相談があったときには、妊娠3か月目だったということになるわけです……。
相手の女性は、それに気づかなかったのでしょうか。

息子さんと連絡をとって、そのあたりの事情というか、様子を一度、確認なさって
みてはいかがでしょうか。

ご主人の態度は、立派です。支持します。こういうときは、夫婦が一丸となることです。
たじろいだり、不協和音を相手に見せてはいけません。どんなときも、毅然と、あなたの
ご主人の言ったとおりの態度と姿勢で臨みます。ここが重要です。

息子さんの年齢には、少し負担が大きすぎる事案かと思います。内部では、息子さんを
支え、外部に向かっては、「息子と解決してくれ」と主張なさることが、何よりも
賢明です。

本当に6か月なら、(私はウソだと思いますが)、中絶もできません。仮に妊娠が
本当であるとしても、認知の立証義務は、女性の側にありますから、ここは今、しばらく
様子を見られたらいかがでしょうか。息子さんの子であるという証拠を相手がもってくるまで、
否定つづけるのが、正攻法です。今のところ、打つ手はありません。

またあとでゆっくりと考えて返事を書きます。


【Nより、林へ】

ありがとうございます。
今日の朝方息子は酔って帰ってきました。
彼女のことを言うと、すでに妊娠のことは、2月には知っていたそうです。その時は結婚も考え
たそうですが、またいやになり、おろす事を2人で考えたそうです。

彼女の親はその時点で知っていたそうです。それを告げると、「そうなの?!」とだけ言ったそ
うです。

どうして、妊娠がわかった時点で、彼女の親は、こちらに言ってくれなかったのでしょう?
彼女から3月の終わりに、「別れよう」と言ったそうです。「子供は1人で育てる」と。
彼女の親が妊娠6か月まで言わなかったのは、養育費をこちらに請求するためなのかもしれ
ません。

今までずっと私たち親が、「交際をやめてください」ということを、ずっと言ってきました。
彼女の元彼との間にできた、17才のときに生んだ子供も認知してもらってないそうです。

息子には、入学の前日に「もし、今の彼女との間に子供でもできたらお前との縁は切る」と主人
がいいました。だから息子は、何も言えなかったと、今になって言います。
息子は今、彼女もおなかの子どもも死ねばいい。うざい。と言います。
あまりにも甘いです。

弁護士を立てて話したほうがいいでしょうか?!
私は主人の意見に従おうと思っていますが、息子があまりにも幼すぎて、らちがあかないよう
にも思えます。
お忙しいのに申し訳ございません。よろしくお願いいたします。


【林よりNへ】

そうでしたか……。

この際、責任のなすりあいをしても意味がありませんので、運命は運命として、
受け入れるしかないと思います。(もちろん、そんなことは相手に伝える必要
はありませんが……。あくまでも、こちら側の心づもりとして、です。)

運命というのは、それをのろったとき、悪魔に変身します。しかし受け入れて
しまえば、悪魔は向こうから退散していきます。

あなたのかわいい孫が誕生するのです。生まれ方には、少し問題がありますが、
孫は孫です。

法律的には、あなたのほうにも言い分はあるでしょうが、養育費ということに
なると、拒否はできません。弁護士を立ててくるのは、先方のほうですから、
相手がそう出てきたときに、はじめて、こちらも弁護士に相談してみたら
どうでしょうか。今は、こちらから動くべきときではありません。

息子さんと、向こうの女性と、話し合って解決するのが、何よりも第一です。

親のあなたたちに養育費の支払い義務はありませんので、そういう話があったても、親として
は、きっぱりと、拒否することです。

息子さんに、支払能力がないことは常識ですから、相手も強くは言えないはずです。
ただ、息子さんが、大学を卒業したあと、収入が入るようになった段階で、
養育費の問題は出てくると思います。その覚悟はしておく必要があります。

金額などは、そのとき弁護士双方で、調停でもすればよいかと思います。家事調停なら、
家庭裁判所で、当事者どうしでもできます。

弁護士……ということになると、話がおおげさになりますし、しこりも残ります。
当事者どうしで、円満に解決なさるほうが、賢明かと思います。

また、認知の問題も出てくることでしょう。しかし息子さんは、この問題から
逃げることはできません。

だったら、前向きに受け入れていくしかありません。

なお後日の係争のため、こちら側の言い分などについては、
証拠が取れるものについては、きちんと証拠を取っておくことをお勧めします。

電話なども、すべて録音されることを、お勧めします。

また息子さんと相手の女性との会話についても、
きちんと何らかの方法で、録音しておくことです。息子さんには、
そうお伝えください。

これからは、そうしてください。

親として、こちらから出る幕はありませんので、
相手から何かの動きがあるまで、動く必要はありません。

あとは親どうしでお金で解決するという方法もありますが、
それも一考してみてください。慰謝料、養育費の請求放棄などの
念書は、取っておきます。

苦しいご心中は察しますが、この際、冒頭にも書いたように、
運命を受け入れるのが、その苦しさから逃れる唯一の方法かと
思います。

1人の人間が、もうすぐ、この世に誕生するのですから……。

親というのは、子どもたちの尻拭いばかりさせられるものですよ。

ただ息子さんには、「お前には、人間として責任がある」と、はっきり
言っておくことは重要です。この問題だけは、息子さんにも、逃げる
ことはできません。そういう自覚だけは、しっかりともってもらいます。

ともかくも、相手の出方を、しばらく静観することしか、今のところ、
どうしようもないように思います。そのときがきたら、その覚悟をして
対処します。今は、そういう状況だと思います。

以上、参考までに……。

はやし浩司


【Nより、林へ】

ありがとうございます。

向こうから何か言ってくるまで静観します。
養育費の問題もわかりました。

ただ、息子は、他人ごとのように考えているようです。
彼女もおなかの子についても、死ねばいいなどとばかなことをいいます。
だからこそよけいに息子には、正面から向きあってもらいます.

息子が入学前に主人が「もし、今の彼女との間に子供でもできたら縁を切る。そしてお前への
援助(学費など)一切打ち切る。それを頭に置いて行動しろ」と、伝えていました。
息子は今日「だから言わなかった」と言いました。

今後、息子への親としての対応も考えていかねばなりません.
あのように言い切った以上、息子には一応制裁を親として与えるべきでしょうか?
1人暮らしをしてもらうとか・・・。

未成年だけど、大人として扱い、自立してもらう。
どうでしょうか?!
お忙しいのに申し訳ありません。
読んでいただきありがとうございました。


【林よりNへ】

 Nさんのご家庭では、(おどし)が、親子の会話の基本になっているようで、気になります。

 「縁を切る」とか、「学費を打ち切る」とか、そういう極端な言い方は、親子の間ではあまりしな
いほうがよいかと思います。あるいは長い過程の中で、そういう言い方になってしまったのでし
ょうか。

 おどしても、聞かない。だからますます強いおどしをかける。この悪循環が、どこかで始まって
しまったのかもしれませんね。しかしここは、冷静になってください。

 まずもって心配されるのは、Nさんが、息子さんの言い分だけしか聞いていないということで
す。息子さんは、「相手の女性が、別れると言った」「子どもはひとりで育てると言った」と言って
いるようですが、本当にそうでしょうか。ひょっとしたら、相手の女性は、相手の親たちには、別
のことを言っているかもしれません。

 ですからこちら側だけの言い分を相手にぶつけてしまうと、こうした事案は、こじれてしまいま
す。ですから、ますます冷静になってください。

 客観的に見ますと、その女性の最初の子どもは、その女性がどこかで遊んでいてできた子ど
もということになります。しかし息子さんとの間にできた子どもは、相手の親たちが公認のもと、
しかも息子さんが、その相手の家に出入りしている間にできた子どもということになります。

 「結婚する意思はなかった」と言っても、それは通らないかもしれません。あなたたちから見る
と、交際に反対していたのに、相手の親たちが勝手に、息子をかどわかしたということになりま
す。しかしひょっとしたら、相手の親たちは、そうは思っていないかもしれません。息子さんが、
相手の親たちに、どのような接し方をしていたのかは、あなたたちには、わからないわけです
から……。

 息子さんは、あなたたちにウソは言っていないと思います。しかしすべてを話しているとも、思
われません。

 そんなわけで、まず、当事者どうし、つまり息子さんと、相手の女性と、冷静に話しあう機会と
場所を、つくるようにし向けるのが、最善かと思います。

 お気持ちは理解できますが、「縁を切る」とか、「学費を止める」とか、さらには、「制裁する」と
いう話は、今、すべきではありません。またそれにこだわったところで、問題は解決しません。
この問題の基本には、あなたたち夫婦と、息子さんとの間で、長い時間の中で作られた、深
い、不信感があります。

 私の印象では、あなたの夫は、かなり権威主義的な、つまり古風な、親風を吹かすタイプの
父親ではなかったかと思います。もしそうなら、そうした父親に追いつめられていった、息子さ
んの気持ちが私には、よく理解できます。

 ……とまあ、あなたたちを責めるようなことばかり書きましたが、(子どもができてしまった)と
いう事実は、それくらい責任の重い話だということです。半分は、生まれてくる子どもの立場で、
ものを考えなくてはいけません。そういう子どもを、「うざい」とか、「死んでくれればいい」などと
いうのは、言語道断です。

 仮にあなたの息子さんが、(それにあなたたち夫婦も)、この問題からうまく(?)逃げ切ったと
しても、後味の悪さだけが残り、その後味の悪さは、息子さんにも、あなたたちにも、死ぬまで
ついて回るでしょう。

 だったら、前にも書いたように、この問題は、前向きに考えていきます。逃げるのでなく、正面
からぶつかっていきます。それこそ、相手の女性の子どもを、相手の女性が育てないというの
なら、引き取るぐらいの覚悟はもちます。(だからといって、こちら側から、それを申し出る必要
はありませんが……。)

 またそういう覚悟ができたとき、Nさんたちは、運命を受け入れたことになり、今の悶々とした
苦しみから解放されることになります。

 今こそ、息子さんと、冷静に話しあってみてください。おどすのではなく、冷静に、です。おた
がいに感情的になってしまったので、話しあいにもなりません。ですから、話し方としては、「あ
なたも苦しんでいると思うけど、どうしたらいいの? お父さんも、お母さんも、協力できる面が
あれば、協力する」というような言い方をします。

 「あなたの問題だから、あなたが解決しなさい」という言い方では、息子さんは、もっと突っ張
ってしまうかもしれません。

 あなたたちと息子さんの関係がよくわかりませんが、私の印象では、すでに断絶状態から、
修復不可能に近い段階まで進んでいるように感じます。が、これを機会に、もう一度、親子の
つながりを、取り戻すことができるかもしれません。

 あなたたち夫婦が、相手の親の立場ではなく、相手の女性の立場でもなく、生まれてくる子ど
もの立場で話をすれば、息子さんも、静かに話を聞いてくれるはずです。息子さんには、養育
費を払えとか、払わなくてもいいという話をするのではなく、当然、払うべきだという話し方をし
ます。

(だからといって、こちら側から、今、それを相手に申し出るという必要はありません。あくまで
も、人間として、1人の父親としての自覚と、責任を感じてもらいます。)

 十字架としては、少し大きすぎる十字架ですが、だれしも、この種の十字架の1本や2本は、
背負って生きているものです。しかしその十字架も、相手の両親や、女性のことを考えるなら、
何でもないものかもしれません。相手の女性は、18歳という若さで、これから先、2人の子ども
を育てていかねばなりません。

 欧米だったら、養子制度が発達していますから、今の段階で、養子縁組ができますが、この
日本では、それもままなりません。

 そんなわけで、もしあなたにその勇気と度量があるなら、つぎに相手の親から電話がかかっ
てきたら、「一度、娘さんと会って話をしてみたい」「息子にも、よく言い伝えておくので、息子と
娘さんが話しあう機会と場所を、提供したい」と言ってみてください。どこまでも穏やかに、冷静
に、かつ相手を責めることなく、です。

 決して、「私たちには責任はない」と、はね返してはいけません。もちろんこれらの話は、相手
から何らかのアクションがあってからのことですが……。

 今の状況は、当事者みなが、それぞれに追いつめられて、たがいにキズつけあっている。私
には、そう見えてなりません。ただ時期が、5年から10年、平均的な恋愛より、早かったという
だけのことです。

 なお法律的には、あなたがた両親には、養育費の支払い義務はありません。相手の両親に
も、請求権はありません。養育費を請求できるのは、子どものみ。子どもが未成年のときは、
親がその請求権を代行します。つまり相手の女性だけが、請求権を代行できます。しかし話し
あいの過程で、(取り決め)として、相手の女性が、あなたがた夫婦に、保証人になるように求
めてくる可能性はあります。(現に今、息子さんには支払能力はありませんので……。)

 もしそうならば、つまりあなたがたが保証人になれば、その結果として、たとえば息子さんか
らの養育費が2回程度、延滞したりすると、保証人のあなたがたに支払い義務が生ずることに
なります。

 私も法科の学生でしたが、今は、この程度にしか、わかりません。まちがっているかもしれま
せんので、そのときは、弁護士に相談してみてください。

 ともかくも、息子さんと相手の女性の話しあいを、何よりも優先させてください。それが第一歩
です。


【Nより、林へ】

いろいろとありがとうございます。

昨夜、私の同級生の弁護士に相談しました。
はやし先生と同じことをおっしゃいました。
ただ、息子は学生なので卒業してから支払能力発生になる、しかし、学生の間もアルバイトで
稼げるのなら支払能力ありになる、ということでした。

息子と話し合いました。と、言っても息子は、ほとんど無言でしたが・・・(昔から話し合いのとき
は無言になります。)
今までに息子は検診費として4万円払ったそうです。その時は結婚まで考えていたそうです。

その後、彼女から別れ話がでたそうです。で、おろす話を2人でしたそうですが、そのままにな
ってしまったそうです。

主人は、「人間としての誠意をみせろ。でないとおまえとの今後の関係を考える。生まれる子供
は一生会うつもりは無い」と言いました。私も承諾しました。

でも、この言葉はきつかったかもしれませんね。

息子は彼女と2人で話し合うと言いました。
私たち両親も同席するのがいいのでしょうか?
でも、彼女の顔をみるのもいやですが・・・。

同級生の弁護士は、2人で話し合いがつかないのな、両親をまじえて、それがだめなら家庭裁
判所で調停するのはどうかと言いました。でも、それは相手が何か言ってきてからのこと、との
こと。(はやし先生の意見と同じです)

去年の夏から一変、辛い日々、息子のことは口にチャックをし、大学に合格するまではと、見
守り続けてきました。彼女の親たちには振り回され、嘘をつかれ・・・。

息子には妊娠はさせてはいけないと、彼女ができてからずっと言いつづけてきたのに・・・・。や
っと巣立ってもらおうと、この7月に下宿するまではと思い、頑張ってきたのに・・・。

最後にこのような結果になり、私は立ち直れそうにもありません。でも、そんな息子に育てたの
は、私たち両親なのですね。

この状態を受け入れるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
息子と顔を合わせるのも辛いのです。
でも、頑張ります。


【林から、Nへ】

息子さんに任せるしかないようですね。

息子さんを責めたり、おどしたりしないように!

こうなってしまったのですから、受け入れて、
前に進みましょう!

それから自分を責めないこと。どこかで歯車が狂って、
それが悪循環となって、今の状況を作っただけです。


【Nから、林へ】

ありがとうございます。

以来、息子は全然、帰ってきません。
何度メールを送っても、返事もありません。
こちらの心配はどうでもいいようです。息子はそういう子です。

だから、主人は息子の態度に誠意がない限り、こちらは息子にたいして協力はしないと言って
います。
まずは息子の様子をみて、息子に任せます。

あちらの親も、1度こちらがつっぱねたので、連絡あるかどうかわかりません。
まずは息子に任せます。
で、間に誰か立ててあちらと話あうかもしれません。

ありがとうございます。


【林より、Nへ】

息子さんは、必ず帰ってきます。
許して忘れ、許して忘れ、
いつ帰ってきてもよいように、
窓をあけ、掃除だけはしておきます。

今こそ、Nさんは、親としての
真の愛情をためされているのですね。

めげないでください。

息子さんを信じて、許して、忘れる、ですよ。

いつか必ず笑い話しになりますよ。

では、

掲示板の記事を、そのまま
マガジンに載せますが、許してくださいね。

同じような問題をかかえている人は
たくさんいます。みんなで力を合わせて
いっしょに、がんばりましょう。

読者からの反応があれば、お知らせします。
力になってくれると思います。

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 未成
年の子供の恋愛 妊娠 出産 養育費問題 養育費)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1302)

【過去の亡霊】

+++++++++++++++++

過去の亡霊には、2種類、ある。

ひとつは、自分から内に向かう亡霊。
もうひとつは、自分から外に
向かう亡霊。

+++++++++++++++++

 退職後も、退職前の肩書きや地位、名誉に毒されて、そのまま過去の亡霊を引きずって歩
いている人は多い。

 しがみつくのは、手にする年金だけ。その年金を毎日ながめながら、自分の価値(?)を、確
認しながら生きている。「私は、偉いんだ」と。

 ……とまあ、きびしい意見を書いたが、こうした亡霊と決別するためには、一度、丸裸になる
しかない。丸裸になって、すべてをイチからやりなおす。退職したら、そうする。

 こうした亡霊を、(内に向かう亡霊)とするなら、亡霊には、もうひとつ、ある。それが(外に向
かう亡霊)である。

 こんな話がある。

 昔、Kという映画監督がいた。戦後、数多くの映画を世に送り出した。主に時代劇だったが、
どれも見ごたえのある、すばらしいものだった。今見ても、おもしろい。

 そのためそのKという映画監督は、「世界のK」というニックネームをつけられた。当然の評価
である。

 ところが、である。晩年に近づくにつれて、大作につづく大作。しかしどれも、ダ作。私も、K監
督のファンとして、そのつど、「今度こそ……」「今度こそ……」と思って映画を見に行ったが、
いつも、帰ってくるときは、がっかり。

 こうして、2度、3度、4度と裏切られるうちに、私は、はたと気づいた。「私は過去の亡霊に、
引き回されていただけではなかったのか」と。

 たしかにKという映画監督は、すばらしい映画を作った。しかしそれは戦後という、その監督
が、まだ若いころの話。「世界のK」と呼ばれるようになってからは、Kという監督は、富と地位
と、映画界における権力を、ほしいがままにした。とたん、昔のようなすばらしい映画は、作れ
なくなった。

 ……こう書くと、Kファンの人は、怒るかもしれない。また大方の評論家たちは、当時、その威
光を恐れてか、真正面から、K映画を批判することさえしなかった。だから私のような、純真な
Kファンは(?)、ときの評論家たちの評論にだまされて、映画館まで、せっこら、せっこらと足を
運んだ。

 しかしダ作は、ダ作。どう見ても、ダ作。

 だったら、なぜダ作と、声をあげて、叫んではいけないのか? 当時の評論家たちは、叫ば
なかったのか? 同じ監督が作った映画でも、すばらしいものもあるし、そうでないものもある。
映画に対する評価は、作品としてできあがった映画にたいしてするものであって、監督のもつ
名誉や地位、名声にたいしてするものではない。

 映画の世界だけにかぎらない。この日本では、何かにつけて、過去の亡霊たちが、我がもの
顔で、のさばっている。

 俳優の世界もそうだし、音楽や芸術の世界でもそうである。文学や、教育の世界でも、そうで
ある。スポーツの世界ですら、そうである。政治の世界となると、亡霊だらけ! まさにありとあ
らゆる世界に、それがのさばっている。のさばるだけならまだしも、そうした亡霊が、若い人た
ちの伸びる芽を踏みつけるようなことまでしている。

 これは日本にとっては、大きな損失と考えてよい。たとえて言うなら、地元の有力者が、意味
もなく威張り散らして、若い人たちを、その支配下に置くようなものである。若い人たちが、出る
幕すら、ない。

 こうしたふたつの亡霊は、私の中にもいる。ひょっとしたら、あなたの中にもいる。そしてそう
した亡霊が、ときには、自分を押さえつけ、ときには、社会を押さえつける。どちらにせよ、そう
いった亡霊が、自分の心を曇らせる。

 そうそう私の知人の中には、こんな人もいる。

 今年80歳を越えたと思うが、55歳で定年退職したあとは、ただの一度も仕事をしていない。
あまりにも偉い人(?)だったので、ちまたの仕事などできなかったのかもしれない。近所の人
の話では、あいさつをしても、返事すらしないという。おかげで、今では、その知人と、立ち話す
らする人もいないという。

 かわいそうな人だが、自分がそう思われていることにすら、気づいていない。つまりここでいう
亡霊というのは、そういうものをいう。

そういう亡霊とは、できるだけ早く決別したほうがよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 名誉
 地位 名声 亡霊 内に向かう亡霊 亡霊論 社会の亡霊)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1303)

【雑感・あれこれ】

●平凡で退屈な人生

 アメリカのあるビデオを見ていたら、こんな言葉が出てきた。「平凡で退屈な人生」と。

 どこか頭のおかしい大学の教授が、会社勤めをしている若い男に言った言葉である。その若
い男に、その教授はこう言う。

 「お前は、オレに感謝すべきだ。お前の平凡で退屈な人生を、オレが変えてやった」と。

 英語で何と言ったかは、覚えていない。しかしこの言葉が、気になった。何だか、私自身に言
われたような気がした。

 私の人生は、その平凡で、退屈な人生そのもの。「これでいいのかなあ?」という迷いの連
続。映画の冒険物語のようなスリルや、興奮とは、無縁。いつも無難であることだけを願ってい
る。またそういう生活を送っている。


●人生はドラマ

 三男が、こう言った。「幸福に向かって努力しているときが、人間は幸福なんだ」と。

 私も、そう思う。結果がどうであれ、そこに至るプロセスが、大切。ドラマが大切。そのドラマ
に意味があり、価値がある。

 しかしいつもいつも、うまくいくとは、かぎらない。自分のもつ力には、限界がある。その限界
の向こうで、ドラマが勝手に展開してしまうこともある。しかも、それがときとして悪循環に陥り、
望まぬほうへ、望まぬほうへと、ものごとが進んでしまうことがある。

 気がついたときには、袋小路。にっちもさっちも、いかなくなる。

 そういうときは、どうするか?

 あえてその運命を、受け入れるしかない。運命とは、そういうもの。あたかも無数の糸がから
みつくようにして、その人の進むべき方向を決めていく。

 その運命は、それから逃げる者には、キバをむく。悪魔となって、その人を襲う。しかしそれ
を笑う者からは、シッポを巻いて、退散する。

 自分の不運や不幸をのろえばのろうほど、それこそまさに悪魔の餌食(えじき)。だったら、
笑い飛ばせばよい。バカめ!、ハハハ、と。

 そのとたん、また時計は進み始める。その先に、未来が見えてくる。


●勇気

 その運命について。逃げても、問題は、解決しない。逃げれば逃げるほど、その運命は、あ
なたを追いかけてくる。死ぬまで、追いかけてくる。

 生きている以上、いやなこともある。いやなことが、つぎつぎと起こる。起きて、当たり前。

 しかしそれから逃げてはいけない。ここに書いたように、逃げれば逃げるほど、運命は悪魔と
なって、キバをむく。あなたに襲いかかる。仮に逃げ切ったと思ったとしても、後味の悪さだけ
が、いつまでもつづく。悶々とつづく。

 卑怯(ひきょう)な人間に、安穏(あんのん)たる日々は、決して、やってこない。が、それだけ
ではない。

 すぐそこに真実があっても、それを見ることすら、できなくなる。

 だから問題が起きたら、真正面からぶつかる。それを、人は、「勇気」という。

 
●孤独

 全幅に信じられる人と、ともに暮らす。「信ずる」ということは、「みじんも疑わない」という意
味。それだけが、あなたの孤独を、癒(いや)す。

 人は、一生をかけて、その人をさがし求める。さがし求めて、さまよい歩く。しかしひとつの条
件がある。

 自分が、その信ずるに値しない人間が、どうして人を信ずることができるだろうか。

 卑近な例だが、不倫ばかりしている男が、どうして自分の妻を信ずることができるだろうか。

 人を信ずるためには、まず自分が、その信ずるに値する人間になる。相手を信じたいと願う
なら、相手に信じてもらえるような人間になる。

 が、それは決して、楽な道ではない。たゆまない努力と、忍耐が必要である。またそうしたか
らといって、必ずしも、信じてもらえるというわけでもない。

 が、それをしなければ、あなたは、「孤独」という魔物から、逃れることはできない。あるいは
安易な享楽主義に陥れば、あなたは、「孤独」という代償を払う。

 そう、人生で、孤独ほど、恐ろしいものはない。それはまさに、地獄。人を信ずることができな
い人間は、その無間地獄の中で、もがき、苦しむことになる。


●もっと、怒ろうよ!!

 天下り先で、元中央省庁のOBたちがしていた随意契約が、1兆3800億円(05年度)!

 あのトヨタが、昨年度あげた純利益が、1兆円。新聞の1面トップを飾るようなニュースになっ
た。しかしそれ以上の額を、中央省庁のOBたちは、私利私欲のために、流用している。一説
によれば、そのほか、毎年、約4兆円ものお金が、天下り先への持参金として、使われている
という。

 中日新聞は、こう伝える。

 「随意契約で仕事を回す見返りに、天下りを受け入れさせてきた構図が、浮き彫りになったと
いえる」(5月12日)と。

 が、こうした慣行(?)は、何も中央省庁だけの話ではない。全国津々浦々、お役人たちは、
みな、それをしている。

 おかげで、国家公務員と地方公務員の人件費だけで、38兆円。(38兆円だぞ!)国家税収
が42兆円前後だから、その大半を、公務員たちが、人件費として、使い果たしていることにな
る。

 みんな、もっと怒ろうよ! 本気で!

 もしあなたが、「私には関係ないこと」と思っているとしたら、とんでもないまちがい。今に見
る、この日本の高コスト社会を見ろ! 食費にしても、おおざっぱに見て、値段は、欧米の約2
倍! つまり私たち庶民が、その分だけ、こうした慣行(?)を維持するための、犠牲になって
いる。

 わかりやすく言えば、平均的な日本人が、今より、2倍だけよい生活をしたとしても、何も、お
かしくない。

 何も暴動を支持するわけではないが、フランスあたりで官僚たちがこんな好き勝手なことをし
たら、暴動になる。アメリカでも、オーストラリアでも、暴動になる。

 つまりは、私たちの主義主張まで、官僚たちの思うがまま。キバを抜かれ、もの言わぬ従順
な民に育てられてしまっている。

 怒りのもって行き場すら、ない。与党の党首も、野党の党首も、元中央官僚。全国の都道府
県知事の大半も、国会議員の大半も、みな、元中央官僚。選挙そのものが、形骸化してしまっ
ている。

 さらに評論家にしても、中央にいる連中は、みな、キバを抜かれてしまっている。官僚にたて
ついたら、メシさえ食っていかれない。情報ももらえない。

 こんなバカげた、自称、民主主義国家が、どこにある! 私は怒っている! 本気で怒ってい
る!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●親子の断絶

++++++++++++++++++

Nさんが、息子のことで悩んでいる。
苦しんでいる。

それは理解できる。しかし同じように
その息子も、苦しんでいる。

決して息子を肯定せよということではない。
しかしあなたには、その息子の悩みや、
苦しみが理解できるだろうか。

++++++++++++++++++

 Nさんから、息子の問題について、続報が届いている(「はやし浩司の掲示板」)。それをその
まま、ここに紹介する。

 これを読むとき、もちろん第一義的には、Nさん自身の悩みや苦しみを、理解する。しかし同
じように、息子自身も悩んでいる。苦しんでいる。つまり善良な人たちが、たがいに、キズつけ
あい、悩み、そしてキズつけあっている。それを理解する。

 で、あなたには、この書きこみを読んで、息子の叫び声が聞こえるだろうか。「お母さん、この
苦しみから、ぼくを救ってよ!」と。

 もしここでNさんが、息子との絆(BOND)を断ち切れば、息子は、まちがいなく、奈落の底へ
と落ちていく。今、Nさんは、その正念場を迎えつつある。がんばれ、Nさん! 息子がどうであ
れ、あなたは『許して、忘れる』。それを貫く。

 どんなに裏切られても、どんなにキズつけられても、『許して、忘れる』。真の親の愛は、あな
たの手の届くところにある。そこであなたを待っている。がんばれ。Nさん、それにあなたの手
が届いたとき、あなたの息子は、変わる。本当の自分を前に出す。

 それがわからなければ、アルバムを出して見たらよい。息子が幼児期、少年時代の写真を
見たらよい。

 それを信じて、がんばれ!

【Nより、林へ】

ありがとうございます。

息子は夜中に帰ってきました。

彼女と会っていたのかと思いましたが、友達と遊んできたようです。(許せないです)
今朝、起こすと、怒鳴り声で、「うるさい!」と叫ぶ。で、そのまま私は仕事に出かけ、帰ってくる
と、使うはずの商品券5000円が、なくなっていました。息子は、部屋にそれを包んで箱だけ残
して・・。

夕方、帰ってきた息子に問いただすと、「昼飯代くれなかったから取っただけ」と・・・。

中学時代からしょっちゅう、うちのお金を盗んできた息子。そのつど怒りましたが、バイトを始め
た今でも、手持ちがなくなると平気でこんなことをします。

彼女と会うと言っていたのに、会わずに帰ってきました・・・。

いろんなことから逃げて、人の物を勝手に盗み、自分さえよければ、今だけよければそれでい
い。バイトもしょっちゅう変わり、バイト先の人にも怒られました。

いくら親に何を言われても平気。

こんな息子だからこそ、今回のこと(女友だちが妊娠したこと)は、本当に向き合ってもらいた
いです。
きちんと十字架を背負って。

許して忘れ、いつ帰ってきてもいいようにしておく・・・。
それは、本当につらいことですね。

高校時代、「家を出たい」と、ずっと言ってた息子。資金面で我慢させてしまいました。
今、逆に私は、3月に下宿させればよかった・・・と後悔しています。
今は、早く下宿させたいと思っています・・。

昨日も今日も息子と話し合いできずに終わってしまいました。
冷静に落ち着いて、母親として話し合いたいのですが・・・。

親としての真の愛情を与えられるよう、しばらく息子の態度をみます。
ありがとうございます。

+++++++++++++++++

 「形」としては、家庭内暴力に似ている。またそれに準じて、子どもの心理を考える。Nさんの
息子は、ギリギリのところで、Nさんという母親の限界を確認しながら、(無意識ではあるにせ
よ)、Nさんを痛めつけている。苦しめている。

 息子自身も、自分でも、どうしたらよいのか、わからないでいる。そのため自己嫌悪から、自
暴自棄へと、走りつつある。もしここでNさんが、その絆(BOND)を断ち切れば、息子は、先に
も書いたように、奈落の底へ落ちていく。

 息子もそれがわかっているから、今、懸命にふんばっている。「そんなことをすれば、かえっ
て親に嫌われるだけ」と、ふつうの人だったら、そう考えるだろう。しかし息子は、嫌われること
によって、自己主張している。心理学の世界では、(2匹のヤマアラシ)という言葉を使って、そ
れを説明する。

 寒い夜、2匹のヤマアラシが、穴の中で、眠ることになった。しかしたがいに体を近づけると、
たがいの針が刺さり、痛い。しかし遠ざかれば、寒い。こうして2匹のヤマアラシは、一晩中、穴
の中で、離れたり、くっついたりを繰りかえした。

 この「2匹のヤマアラシ論」は、本来は、人間関係をうまく結べない人が、孤独と、人と接触す
ることによって起こる苦痛の間を、行ったり来たりするのを説明したものである。しかし今のNさ
んと、Nさんの息子を見ていると、そういう感じがする。

 たがいに針を出しあって、たがいに孤独なのに、キズつけあっている。が、さりとて、別れるこ
ともできない……。

 息子の立場で言えば、こうだ。

 「今まで、何度も何度も、SOSのサインを出してきたのに、お父さんも、お母さんも、わかって
くれなかった」と。

 Nさんにしてみれば、息子が甘ったれた人間に見えるかもしれない。バイトを転々としたの
も、不満かもしれない。しかし息子にしてみれば、何をやっても、うまくいかない。自分のしたい
こととちがう。父親や母親からは、何をしても、頭から否定される……。おどされる……。どこか
に自分がいるのだが、どうしても、それがつかめない。

 それが転じて、Nさんの息子は、どこか暴力的だが、そういう方法で、自分を取り戻そうとして
いる。模索している。やり方としては、幼稚だが、息子には、それしか方法が、思いつかないの
だ。

 あえて言うなら、今、こういう状態になっている親子は、決して、少なくない。全体の何割かが
そうであると言ってよいほど、多い。

 だから今のNさんにすべきことは、ただひとつ。

 「あなたにどんなに裏切られても、どんなにキズつけられても、私は、へこたれませんからね。
あなたをとことん愛しますからね」という態度を貫くこと。Nさん自身も気がついているが、人を
愛するということ、つまり『許して忘れる』ということは、それほどまでに過酷で、つらい。きびし
い。

 そのきびしさを、私は、「第二のお産」と呼んでいる。

 それができたとき、親は、真の愛にたどりつくことができる。

 負けてはだめですよ。Nさん、がんばれ! その「愛」さえあれば、息子は、必ず、立ちなお
る! 私はそういう事例を、何十例も見てきた。ウソではない。だから、がんばれ! 私を信じ
て、がんばれ!

 迷ったり、袋小路に入ることはあるかもしれないが、息子にだけには、そんな弱みは、見せて
はいけない。あなたは堂々と、息子を信じ、愛せよ。『許して、忘れよ』。それを息子が肌で感じ
たとき、ひょっとしたら、あなたはこの世にいないかもしれない。10年先かもしれない。20年先
かもしれない。

 しかしそれでも、あなたは、今のあなたを貫く。コツは、暖かい無視。商品券ぐらいのことで、
ガタガタしてはいけない。無視して、お金の管理だけは、しっかりとする。

 私は今まで、本能的愛、代償的愛、そして真の愛について、何度も書いてきた。生まれた赤
ん坊に頬ずりをして、「かわいい」「かわいい」というのが、本能的愛。

 子どもの受験勉強に狂奔するような親が感ずるのが、代償的愛。「子どもため」を口実にしな
がら、結局は、自分の心のスキマを埋めるために、子どもを利用しているだけ。

 そして真の愛。今のNさんには、それがわからないかもしれない。しかし今、Nさんは、その真
の愛の一歩、手前にいる。

 そこは実に、おおらかで、心豊かな世界。5000円くらいの商品券で、カリカリするようなこと
もない。が、今、ここで息子を突き放してしまえば、Nさんは、せっかくのチャンスを逃すことにな
る。

 Nさん、いいですか! 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。それを忘れて
はいけませんよ。今、あなたの息子は、あなたに真の愛というのがどういうものであるかを、命
をかけて、教えようとしている。

 あなたはそれを学べばよい。すなおな気持ちで、それを学べばよい。親意識など、クソ食ら
え! 親の威厳など、クソ食らえ! あなたは、もっとバカな親になればよい。とことんバカな親
になればよい。1人の人間として、息子の前に立ち、泣きたいときは、すなおに泣けばよい。あ
やまるべきことは、すなおにあやまればよい。まず、あなたが全幅に心を開いて、胸の中のあ
りったけの気持ちを、語ればよい。

 あとは、時間が解決してくれる。「愛」には、魔法の力がある。「時」には、心を癒す、これまた
魔法の力がある。

 負けてはだめですよ。くじけたら、だめですよ。ここが正念場ですよ!!!!

 がんばれ、Nさん!!!!!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 真の
愛 親の真の愛 本能的な愛 代償的愛 はやし浩司 親子の正念場 はやし浩司 第二の
お産 第二の出産)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1304)

【粗大ゴミ】

+++++++++++++++++++++

私の家の隣には、広い空き地がある。竹やぶに
なっている。が、そこは、かっこうのゴミ捨て場。

先日も、大きなダブルベッド用のマットが
捨ててあった!

+++++++++++++++++++++

●かっこうのゴミ捨て場

 私の家の横には、大きな空き地がある。竹やぶになっている。その空き地は、かっこうのゴミ
捨て場になっている。1か月も清掃しないでおくと、そこには無数のゴミがたまる。

 だれが捨てるか?

 ときどきゴミや、ゴミ袋の中を確かめることがある。が、だれが捨てたか、それがわかるよう
なものは、めったに入っていない。生ゴミや、冷蔵庫の中で腐ってしまったようなものが捨てて
あることが多い。ショッピングセンターで買ってきた、食材のポリ容器とか、自宅のゴミ箱にたま
ったようなゴミなど。

 そういうものを、袋につめて、ポイポイと捨てていく。

 が、である。ときどき、とんでもないものまで捨てていく。ベッドや、物干し台、ふとんに子ども
の三輪車など。自転車も、ときどき捨ててある。

 夜中にやってきて、こっそりと、捨てていくらしい。

 そんなある日、ちょうど2週間ほど前のことだが、そこにダブルベッド用のマットが捨ててあっ
た。大きなマットである。厚さが20センチ近くもあった。

 さすがの私も、これには、あきれた。あきれて、しばらく、そのままにしておいた。すぐに処分
する気にはなれなかった。

●外国人?

 マットは、半分、竹やぶから外にはみ出し、3分の1ほどが道路にのしかかっていた。一度、
竹やぶの中に、押しこもうとしたが、私1人の力では、ビクとも動かない。

 しかたないので、さらに1週間、そのままにしておいた。とても残念なことだが、このあたりで、
こうした空き地の清掃をするのは、いつの間にか、私の仕事になってしまった。近所の人たち
の中には、そんなわけで、その空き地を、私のものだと思っている人も多い。ゴミがたまったり
すると、「何とかしろ」と怒ってきた人もいた。

 が、さすがに2週間もほうっておくと、マットが目立つようになってきた。それにそうした粗大ゴ
ミをそのままにしておくことは、たいへんまずい。

 それが誘い水となって、そのあたりが、ますますゴミの山になってしまう。以前にも、そういうこ
とが何度かあった。

 いよいよ私の出番である。

 私は、マットの検分から始めた。新しくはないが、しかしどこかに、まだ真新しさを残してい
た。一部には、幼い子どもが描いたと思われる、落書きがあった。顔を近づけてみると、独特
の香水の匂いがした。

 日本人が使わない香水の匂いだった。

 このあたりには、外国人がたくさん住んでいる。「引越しをすることになった外国人が、処分に
困って、ここに捨てていった」というのが、私が出した結論だった。

●作業開始

 まず、三角すきで、マットの上地の縦横に、穴を開けた。以外と簡単に開いた。分厚い布地
の下は、1〜2センチ厚のウレタン層になっていて、さらにその下には、椰子(やし)の実をほぐ
してつくったような下地が、全体に、まぶしてあった。

 それを三角すきで、ほぐすたびに、異様な臭いがした。腐ったような甘い臭いだった。私はそ
の下にあるスプリングに、何度も三角すきをからませながら、マットをズタズタにした。

 問題は、スプリングである。直径が、6〜8センチほどの円形のスプリングが、縦に並べてあ
る。そしてそのスプリングどうしが、がんじょうなコイルでつないである。

 三角スキが、そのスプリングにひかかる。それを手ではずす。そのとき、あの臭いが、手にし
みつく。吐き気を催すような臭いである。加えて、あの香水の匂い。強烈な匂い。

●老人 

 空き地の反対側には、近くの老人たちが集まる広場がある。老人たちが、畑を作ったり、椅
子を持ちこんだりして、好き勝手なことをしている。

 一応、管理人と呼ばれる女性もいる。私たちは、尊敬の念をこめて、「バーバ」と呼んでい
る。しかしその女性は、このところ、体調を崩したとかで、ほとんど姿を見せていない。今年、9
5歳になるという。

 が、その作業、つまり、私がマットの上地に穴をあけているとき、その中の1人の女性が通り
かかった。

私「こういうことをしてもらっては、困りますねエ」
女「そうですねエ」
私「ちゃんと管理してもらわねば……」
女「地主は、東京の人ですから……」
私「いくら東京に住んでいても、やるべきことはしてもらわないと……」と。

 そのままその女性は、通りすぎていった。私は、さらに作業を進めた。

 スプリングは、金テコで切れるような代物(しろもの)ではなかった。歯が立たなかった。

 しかたないので、電気工事屋が使う、特大の金切りハサミをもってきた。太い電線を切るた
めのハサミである。柄の長さが、60センチ近く、ある。こうした工具は、一応、そろえてある。

 その金切りハサミで、スプリングを1本ずつ、バラバラにしていく。が、これがかなりの難作
業。20〜30分もすると、全身が、汗で、びっしょりになった。私は上半身を使う仕事をすると、
すぐ汗をかく。

 やがてワイフも合流した。

●怒り(?)

 マットの解体には、2日、かかった。その2日目のこと。

 マットを、枠(わく)の部分と、スプリングに分解した。枠の部分には、特大の針金が使ってあ
った。特大の金切りハサミを使っても、なかなか切れない。そこでワクをはさんだまま、ハサミ
の柄の一方を地面に置き、もう一方の柄に、私の体重をかけて、切った。

 1か所、2か所と……。

 不思議と怒りのようなものは、そのときは、感じなかった。「楽しい」とまではいかないが、こう
した作業は、もう何度もしてきた。そんなとき、大音声の拡声器をつけた、物干し売りがやって
きた。

 「サオヤ〜、青ダケエ〜」と。

 一度は、その車は、私の横を通り過ぎたが、またどこかで折りかえして、私のところにやって
きた。私はその車を運転している男の顔を、真正面からとらえた。にらんだ。

 そして手で耳をふさぐしぐさをしてみせ、つぎに手でボリュームをさげろという合図を送った。

 男はそのまま、私の横に、車を止めた。

私「もっと、ボリュームをさげろ!」
男「ハア〜」
私「条例違反だぞ!」
男「ベッドですかア? 大きなベッドですねエ〜」と。

 私は無視した。と、そのとき、私は怒っていることに、自分で気づいた。

●報告

 解体がほぼ終了したところで、空き地の反対側、つまり竹やぶの反対側に向かった。いつも
なら、3〜4人の老人たちがいるはずである。

 見ると、その日は、2人、いた。この前、通り過ぎた女性もいた。

私「ベッドは、私のほうで、解体しておきましたから、あとは、お宅のほうで、処分しておいてくだ
さいね」と。

 一応軽い笑みをつくりながら、穏やかな口調で言ったつもりだった。が、その女性は、即座に
反論してきた。

女「そんなこと言われても、困ります。私たちには、関係ありませんから」
私「関係ない? 関係ないということはないでしょう。あなたたちは、いつも、ここにいるのです
から。畑も作っているじゃあ、ありませんか?」
女「この土地は、バーバのものです」と。

 バーバというのは、自称、管理人。この30年以上、その土地を、自分の土地のようにして利
用してきた女性である。畑も作っている。このところ体調を崩して姿を見せなくなったという、そ
の女性である。

私「あのね、私はあなたがたに、ご苦労様と礼を言われる立場の人間ですよ。あなたがたが処
分しないから、私が手伝ったわけでしょ。そんな言い方はないでしょ」
女「私も、85歳ですからねえ」
私「85歳? それがどうかしましたか? 私は58歳です。年齢など、関係ないでしょ」
女「そんな重いものは、私には処分できません」
私「だから、私のほうで、こまかく分解しておきましたから」と。

 ことあるごとに年齢を理由にする老人は、多い。年齢を口にすれば、すべてが免除されると
思っているらしい。不愉快な言い方である。

●肩の痛み

 こうしてマットの解体は、終わった。しばらくしてから、危険物の収集日に、私がそれを出すし
かないようだ。

 が、どうも気が晴れない。いつものような、さわやかさを、感ずることができない。ひとつに
は、その作業のせいで、左肩を痛めてしまったことがある。少し前切った肩の腱が、再び、痛
み出した。その痛みが肩全体に広がった。

 ふつうの痛さではない。何か荷物をもっただけで、ズキンズキンと痛む。立っているだけも、
腕の重さで、痛む。

 昨夜も、おとといも、大きな湿布薬を張って寝た。

 それにあの女性の言い方が、不愉快だった。「私も、85歳ですからねえ」と。それが耳に残っ
た。それをワイフに報告しながら、私は、ワイフにこう言った。

私「ぼくは、死ぬまで、自分の年齢なんか、口実にしないぞ。80歳になっても、90歳になって
も、そういう言い方はしないぞ」と。

 しかし、だれだろう。あんな大きなダブルベッド用のマットを捨てていったのは? あの臭い
は、ひょっとしたら、そのマットの上で繰り広げた、男と女の愛欲の体臭だったかもしれない。

 ……ふと、今、そう思った。
(06年05月13日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【掲示板への相談より】

●子どもの万引き

++++++++++++++++

Mさん(母親が、息子(9歳)の
盗癖(?)に悩んでいます。

それについて、少し考えて
みます。

++++++++++++++++

【Mさんより、林へ】
 
長くなりそうなので、こちらに書かせていただきましたが、住所氏名は不要でしょうか。
小学4年生の息子のご相談をさせていただきます。

ここ2〜3週間の間に、複数の店で万引きをしているようなのです。

家のお金も持ち出して品物を買い、部屋に隠していました。お恥ずかしいですが、お金がない
ことに私はすぐに気づきませんでした。本屋から帰った時の様子がおかしかったので、強引に
手提げ袋の中をみると、ビニールのかかったままの漫画本が、何冊もありました。

主人が問いただすと、ああいえばこういう式のウソをつき、泣き、最終的に「間違えて持って帰
った」というようなことを言いました。

主人と一緒に本屋さんに謝罪に行きましたが、自分が盗ったとは認めていないので、とにかく
悪いことをしたと思っているように見えないのです。その後、ほかの品物について聞こうとする
と、激しく泣いて怒り、逆ギレというかそういう状態になります。

お金のことになると、まず「勝手に財布の中をみないで」と。部屋の中もみないでと言います。こ
ういうことは今まで言ったことはありませんでした。

今とにかく主人と悩んでいることは、もう1軒のお店のものも盗ったようなのですが、それとお金
のことも含めて、きちんと「自分がやった」と認めて欲しいのです。が、その話を持ち出すと泣い
て荒れて、話にならないことです。

認めてくれれば、私達はもちろん許すし、きちんとお店に謝ることができます。なるべく早く謝ま
らなければと思っています。そうしたいのです。そのために今現在私達はどうすればいいので
しょうか。

昨夜は、あまりにシャーシャーと、悪びれない態度なので、初めて主人に激しく叱られた息子で
す。私は「悪いことをした時は謝らないといけないね。大事な○○君だから、なにか思い出した
ことがあったらいつでも言ってね」と言い、それは冷静に聞いてくれました。

最近わがままがきつくなってきた息子。問題、原因は私の今までの息子への態度であるとわ
かっています。先生のHPを読ませて頂いて再確認するまでもなく、私の一貫性のない態度、感
情のままの対応。息子が泣いて物にあたる姿は、私そのもののようです。

自分の意見が通らないとわがままをいう姿も私です。「お母さんはぼくの言うことを信用してくれ
ない」と主人に言ったそうです。こんな私になにかできることがあるのでしょうか。

【林より、Mさんへ】

万引きは、この時期の子どもの熱病のようなものです。
一応はしかりながらも、とことん、……という状況まで、子どもを追いつめてはいけません。
おどしたり、子どもが泣き出すほどまで、責めたててはいけません。

泣いたときには、耳は閉じたと考えてください。

冷静に、どこまでも冷静に。

こうした事案には、二番底、三番底があります。追いつめすぎると、
今度は、子どもは、その二番底、三番底……へと落ちていきます。

万引き程度では、すまなくなるということです。

また返事を書きます。

今しばらく、お待ちください。

はやし浩司

【Mさんより、林へ】

はやし先生
お忙しいところ早速の回答ありがとうございました。
盗ってきたものの量の多さ、シャーシャーとした態度に、ついこちらもなにか
言いたくなってしまうのですが、こらえます。またよろしくお願いいたします。

【林より、Mさんへ】

もうひとつ可能性として考えられるのは、
万引きをしてきたのではなく、おうちの方のサイフなどから、
直接お金を盗んで、買ってきたのではないかということです。

量が多いときは、まず、それを疑います。

家庭内でのお金の管理を徹底することで対処します。

【Mさんより、林へ】

家のお金も持ち出しています。子どもの財布にあるはずのない大金が
入っていたので。そして、たとえば本屋さんでは本を1冊は買い、あと何冊かを
持って帰るという風にしていたようです。

あともう一軒の店でも、少し買っては、同時にほかのものを持って帰り、それを私などに
プレゼントと言ってくれたりしていました。

その時から少しおかしいとは思っていました。今日も、おそらく盗んだであろうところの
折り紙で、私に色々折ってくれました。悲しい気持ちで、ありがとうと言って、それを
受け取りました。

【Mさんより、林へ、追伸】

数日前小4の息子の万引き、お金持ち出しで相談させていただいたものです。
お忙しいのにたびたび失礼します。

月曜以来、子どもに盗ったらしい品物やお金のことは聞いていません。

ここ数日、毎日の日課のようだった私の小言をやめ、子どものペースでやりたいように
やらせていました。やはり情緒不安定な感じで、時々、だだっこのようになりますが。
今朝、子どもが私の財布からお金を抜いていたことがわかったのですが、
私が大変うかつなことをしてしまいました。

まず、うっかり目につくところに財布を置いて寝てしまいました。
朝おきて気がついてみると、財布の中から、数千円がなくなっています。

子どもが別の部屋にいる間に子どもの財布をみると、そのお金が入っていました。
そして私はそのお金を自分の財布にもどして、子どもに聞いてしまったのです。

「お母さんの財布触った? お金しらない?」と。

あとで夫にたしなめられました。先日子どもはお父さんに財布の中を見られた時
激しく泣いて、ちゃんと話ができませんでした。何も言わずお金はそのままに
しておくべきでした。

今朝はその後、子どもがお金がないのに気づき、表情は一変するものの、お父さんとそのまま
朝食→その間に私が財布にお金を戻す→子どもがまたお金を確認→財布以外のかばんに隠
す、という具合で、今、そのお金は子どものかばんの中にあり、今日は多分お友達の家にそれ
を持ってでかけるでしょう。

どうかどうか、お店でそのお金で買い物するだけにして帰ってきてほしい。
お父さんだけでなく、お母さんにも財布をチェックされたと思っている子ども。
何回やってしまったかはわかりませんが、買っても買っても、さらに盗みまでしても、
満たされてない子どもの心を思うと、母として申し訳なさで胸がいっぱいです。

夫は「何があっても、子どもを疑ったり責めたりするような表情をみせたり、言葉に
したりしないようにしよう」と言われました。でも、私は今までいっぱいいろんなことで
責めてきたような気がするのです。

許してあげたいけれども、打ち明けてもらえるのはいつなのか、不安です。

【林より、Mさんへ】

だから、お金の管理だけは、しっかりとします。
徹底的にします。

万引きしないように、家でお金を盗ませるという話は、
筋が通っていません。

もう息子さんは、万引きはしません。だからお金の管理だけを徹底的に
なさることです。

あと通帳、カードも。もうそろそろそういう知恵が
働く時期になっています。

また何があっても、子どものかばんの中、サイフの
中は、のぞいてはいけません。

あなたが老後になり、立場が逆転したときのことを
考えてください。

はやし浩司

【Mさんより、林へ】

お忙しいところお返事ありがとうございます。
拙い文章ですみませんでした。

>万引きしないように家でお金を盗ませるという話は筋が通っていません

「万引きしないように家でお金を盗ませる」ために、わざと財布を見えるところに
置いたのではありません。

テーブルに出しっぱなしで寝て、しまった、私のミスでした。昨夜は祖母が泊まりに
きていたのでそういうことはしないだろうと、私も気が緩んでいました。
結果的にはお金を盗ませたことになってしまいました。
私の本気が足りなかったです。

そして、お金はそのままにしておいた方がいいと判断したのでしたが。

「万引きしないなら家のお金を盗んでもいい」とは決して思っていません。
なので、おっしゃる通りに管理を徹底します。

マガジンも、じっくり読ませていただいています。
たびたびすみませんでした。
ありがとうございました。

【林より、Mへ】

誤解した点はおわびいたします。

すみませんでした。

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【Mさんへ】

 お子さんを、H君としておきます。

 H君は、日常的に、たいへん不安定な心理的状況にあるものと思われます。それについて、
いくつかの原稿を書いたことがありますので、ここに添付しておきます。

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●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいに
は、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げ
たら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけ
ない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかる
と、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱られると、トイレに
逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中に入
って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかってい
くという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小1)は、おさげの中に、野菜まで入れ
て、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、も
し目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければ
ならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家
庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が
幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの
考え方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちもの
を検査せよ」という意見があった。

しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバンの中など、のぞけるものではない。私
など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイフ
を取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それを
してはいけない。子どもの尊厳を守るために。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 逃げ
場 子どもの逃げ場 子供の逃げ場)

++++++++++++++++++

●過関心は百害のもと

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。いわく、
「学校の席がえをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子ど
ものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足り
ない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行ってくれないか」と。

その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だ
が、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほう
だ。こんなこともあった。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついてい
るなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。ある夜、猛烈な抗議の電
話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうこと
だ!」と。その子ども(小3男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二
年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなか
った。

 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかというこ
と。さらにはなぜ、小学2年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどう
しのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払ってい
たら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ7
割、いいかげんさ3割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸
ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもを
つぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズまるけになり
ながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しよう
としているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさ
またげる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過関
心 親の過関心 過干渉 神経質な子育て)

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●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題
をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と
決めつけて、無理をする人がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をす
ればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それ
がわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなも
のがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」とか、「うちの子どものこ
とは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受
け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非
行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ち
は、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこ
と。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれない
が、子育てというのは、もともとそういうもの。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 万引
き 悪循環 巣立ち 二番底)

++++++++++++++++++

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による
虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのよ
うに錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして
表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これら
のウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言に
ついては、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な
要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症に
よる症状は、つぎの三つに分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつ
く)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを
言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処す
る。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな
家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思
い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化さ
せないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 神経
症 心身症 子どもの虚言 空想的虚言 妄言 子どものウソ 子供の嘘)

++++++++++++++++++

 ここに添付した原稿が参考になればうれしいです。

 H君にとって今、一番重要なのは、安定した、心豊かな家庭環境です。それを用意するの
は、容易なことではありませんが、Mさんは、すでにそれに気づいておられます。

 あとは、結局は、自分との戦いということになりますね。

 どうか、がんばってください。

 では、今日は、これで失礼します。



Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1305)

【雑感・あれこれ】

●寿大学で講演(?)

 先日、ある地区の、寿(ことぶき)大学での講演を、依頼された。70歳以上の老人たちが集
まる会だという。

 いろいろなところで講演をしてきたが、そういう会での講演は、はじめて。とたん、闘志がモリ
モリとわいてきた。やるぞ!

 で、おかしなことに、そう思ったとたん、レジュメ(講演要旨)ができあがってしまった。どこから
どう話し始めるかも、決まってしまった。ついでに、講演の締めくくり方も、決まってしまった。

 早くその日がこないかと、楽しみにしている。ワクワクしている。I町のみなさん、どうかよろし
く! 必ず、おうかがいします!


●第二のお産

 母親は、子どもを産むことによって、母親になる。これを第一のお産というなら、母親には、も
う一度、お産がある。これを「第二のお産」という。

 つまり母親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越える。決して平坦な道ではない。
子育てをしながら、道に迷ったり、悩んだりする。人によっては、まさに苦しみの連続。

 よく誤解されるが、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。そうした苦労を重
ねるうちに、母親は、ただの親から、真の親へと育てられる。

 その真の親になる過程で、母親は、第二のお産を経験する。またそれを経験しなければ、真
の親になれない。それは第一のお産より苦しく、そして長くつづく。

 乳幼児をもった若い母親は、臆面もなく、こう言う。「私は息子を愛しています」と。

 しかしそんなのは、愛でもなんでもない。自分の中にある子どもへの本能的な愛着を、(愛)
と、錯覚しているだけ。誤解しているだけ。子どもを愛するということは、そんな甘いものではな
い。

 さらに子どもの受験競争に狂奔している親がいる。そういう親でも、こう言う。「私は子どもを
愛しています」「子どもためです」と。

 しかしそんなのは、愛でもなんでもない。自分の中にある不安や心配を解消するために、つ
まり自分の心のスキマを埋めるために、子どもを利用しているだけ。

 親は、子育てをしながら、「もう、だめだア!」と、何度も叫ぶ。何度も、何度も、そう叫ぶ。そ
の結果として、親は、真の愛というのが、どういうものであるかを知る。

 それは実に苦しい戦いでもある。だから、私は、「第二のお産」と呼んでいる。

 だれしも、苦労はいやだ。苦しむのは、さらにいやだ。しかしぬるま湯につかったような子育
てをしていて、どうして真の愛にたどりつくことができるというのか。

 今、子育てで苦しんでいる人は、幸いなれ。真の愛は、あなたのすぐそばで、あなたに見つけ
てもらうのを、息をひそめて、静かに、あなたを待っている。

 それから逃げるのも、あなたの自由。しかし、逃げれば、せっかくのチャンスを、あなたは失う
ことになる。

 方法は、簡単。あなたは、あなたの子どもを、『許して忘れる』。とことん、『許して忘れる』。そ
の度量の深さと大きさが、あなたに、真の愛というものが、どういうものかを教える。

 親意識なんて、クソ食らえ!
 親の威厳なんて、クソ食らえ!
 親のメンツなんて、クソ食らえ!
バカになる。とことんバカになる。

 あなたは1人の人間として子どもの前に立ち、あなたの胸の内を、子どもに向かって叫べば
よい。泣けばよい。許しを乞えばよい。あなたが子どもに向かって心を開かないで、どうして子
どもが、あなたに向かって心を開くことができるのか。

 それは実におおらかな世界。穏やかな世界。どこまでも広がる、広い広い世界。

 さあ、あなたも勇気を出して、その世界に飛びこんでみよう。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 第二
のお産 第二の出産)


●「十字架」の意味

 人は生きていく。その過程で、人は、無数の糸にからまれる。ときには、自分の意思で、その
糸に、自ら、からんでいくこともある。しかしほとんどのばあい、糸というのは、自分の意思とは
無関係に、向こうからからんでくる。家族の問題、親戚の問題、仕事の問題などなど。病気や
事故も、それに含まれる。

 こうしてその人の進むべき道は、決まっていく。私は、それを「運命」と呼ぶ。

 その運命が、ある一定の幅をもって、自分のコントロールできる範囲にあれば、それでよし。
しかしときとして、人は、予想もしないような糸にからまれ、自分の思いや、願いとは裏腹に、運
命が、別のほうへ勝手にひとり歩きしてしまうことがある。

 そのとき、人は、葛藤する。自分と運命の間の距離が大きければ大きいほど、葛藤する。そ
の葛藤を、私は、「十字架」と呼んでいる。わかりやすく言えば、自分が背負った、原罪的な問
題をいう。その問題が、重荷となって、その人を、苦しめる。

 「原罪的な問題」というのは、自分という「私」を超えた、生物としての人間が作り出す、もっと
言えば、本能が遠因となって引き起こす、問題のことをいう。たとえばその第一に、性欲があげ
られる。

 ……それについて、つまり、少し前、息子のガールフレンドとの間にできてしまった子どもに
ついて、息子の母親が悩んでいるということを書いた。

 それについて、「できてしまった子どもを、十字架とは!」(H市、Oさん)というような意見を、
どこかのBLOGで読んだ。「できてしまった子どもを、十字架と言うのは許せない!」というニュ
アンスを、私は感じた。私の意見を、批判して言ったものである。私の意見を批評するなら、ま
ず、私に言ってほしかったが、それはさておき、私は、「子どもが十字架」とは、一言も書いてな
い。そんなふうに、考えたこともない。

 事実は逆で、これから生まれてくる子どものためにも、運命を受け入れたらよいと、その母親
には、そう返事を書いた。「逃げるのではなく、孫として、前向きに受け入れたらよい」と。

 当然のことながら、その母親や息子は、これから先、大きな責任を負うことになる。その責任
の重大さをふまえて、私は「十字架」と言った。その母親も、息子も、その運命から、逃れること
はできない。責任を回避することはできない。

 おそらく今、その母親は、悶々とした気持ちでいることだろう。現にその母親は、息子の無責
任さに、あきれ、苦しんでいる。もがいている。自分の息子を、そういう無責任な息子にしてしま
ったことで、自分を責めている。他人の子どものしたことなら、笑ってすますことができる。しか
し自分の息子のこととなると、そうはいかない。

そのためその母親は、1日、1分とて、気が晴れることはないだろう。1人の子どもをこの世に
生みだすというのは、それほどまでに、重大なことである。その母親は、それを知っている。

 それが「十字架」である。「心の十字架」ともいう。

 この言葉は、現在、Y市で、あるキリスト教会の牧師をしている友人から、教わった言葉であ
る。

 Oさん、どうか、誤解のないように、お願いします。
 私のほうも、言葉足らずであったことを、おわびしなければなりません。どうかこれからも、よ
ろしくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 十字
架 心の十字架)


●デート
 
 毎週、火曜日、木曜日、それに土曜日の夜は、ワイフとデートをすることにしている。で、今日
が、その土曜日。

 で、今夜は、2人で、近くのレストランで、中華料理を食べた。私が、880円のセット。ワイフ
が、980円のセット。

 若いころから、ワイフは、めったに私より高額な料理を食べない。が、今夜は、例外。私が先
に安いほうの料理を注文してしまった。それでワイフは、もうひとつのセットのほうを注文するし
かなかった。

 まあ、食べだせば、おたがいに分けあって食べるので、どっちがどっちということは、ないの
だが……。

 で、私は、そういうとき、いつも、ふと、こう思う。「こういうときは、いつまでつづくのだろう?」
と。つまり、「こうしてデートできるのは、いつまでだろう?」と。

 私の年齢になると、「時」がもつ冷酷さというか、それがよくわかるようになる。こうして過ごし
ている「今」という時も、やがてすぐ、過去の中に、流れ去ってしまう。過去というよりも、どこか
へ消え去ってしまう。その切なさというか、わびしさが、しみじみとわかるようになる。

で、今、私は、ひとつ、心がけていることがある。

 あと何年、こういう時がつづくか、それは私にはわからない。しかし今まで、私のために犠牲
になり、苦労をしてくれたワイフのために、私の残りの人生のすべてを、ワイフに捧げよう、と。

 こんな私のために、まあ、よく、いっしょにいてくれたものだと思う。私がワイフなら、とっくの昔
に離婚していたことだろう。しかしワイフは、がまんしてくれた。私のそばに、いてくれた。そうし
たワイフの苦労が、今、自分の過去を振りかえってみると、よくわかる。

 もう、私は自分のためには、何も求めない。自分のことは、どうでもよい。だからデートのとき
も、ワイフを楽しませること。笑わせること。心配をかけたり、不安に思わせないこと。

 私ができることは、その程度。ただ願わくは、私は、ワイフより、先に死にたい。確率は2分の
1だが、そう願うのは私のわがままなのか。もしワイフが先に死ぬというのであれば、私は私の
命を、ワイフに差し出す。差し出して、私のほうを、先に死なせてもらう。

 ワイフへ、

 あと何年、こうしてデートできるかわからないが、これからも、仲よくしようね。

 では、おやすみ! Have a good night!
(5月13日、夜記)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1306)

【心を支える、3つの物語】
2006年5月期、講演レジュメ(要旨)より

●私が「私」であるためには、3つの柱が必要です。
(1)(したいこと)を、現実に(している)という実感、つまりは自我の同一性
(2)「いつも、私は、私でいられる」という連続性、一貫性
(3)他者との関係で、いつも良好な人間関係をもつことができるという社会性。

+++++++++++++++++++

  「したいことをする」という姿勢の中から、夢や希望、それに目標が生まれます。自分の描い
た自己概念と、現実の自分が一致している。それが「私」でいるための第一条件ですね。
  つぎに、どんなばあいも、私は、自分でいられる。動じない。それが「私」ということになりま
す。
  また「私」は、いつも、社会というカガミの中で、映し出されます。そもそも社会性をもたない
「私」は、私ではないということです。
  今回は、これら3つの柱を中心に、時間が許すかぎり、私の個人的な過去もふまえて、子ど
もの心を伸ばす、3つの物語を、みなさんに、お伝えしたいです。どうか、よろしくお願いしま
す。

+++++++++++++++++

【意外とシンプルな、心をはぐくむメカニズム】

●(自分のしたいことをする)……それが子ども自身を伸ばす原動力となります。
●(したいこと)をしている子どもは、生き生きとしています。夢や希望もそこから生まれ、その
先には、目標が生まれます。
●子どもを守るのは、子ども自身の中の、(心の抵抗力)です。目的がしっかりしている子ども
は、その抵抗力も強くなります。
 
***************************

●同一性の危機(1)

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。


●夢・希望・目的(2)

 夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力(3)

 同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。


●同一性の崩壊(4)

 同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。


●顔のない自分(5)

 同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力(6)

 暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。


●子どもの自殺(7)

 おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。 


●自虐的攻撃性(8)

 攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って
攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで
勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」と
いう場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポー
ツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性(9)
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力(10)

 「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる(11)

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器(12)

 子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。


●役割混乱(13)

 子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)(14)

 しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。


●進学校と受験勉強(15)

 たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。


●これからはプロの時代(16)

 これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。


●大学生の問題(17)

 現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成(18)

 子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司●同一
性の危機●夢・希望・目的●子どもの忍耐力●同一性の崩壊●顔のない自分●校内暴力●
子どもの自殺●自虐的攻撃性●自我の同一性●心の抵抗力●夢や希望を育てる●子どもを
伸ばす三種の神器●役割混乱●思考プロセス(回路)●進学校と受験勉強●これからはプロ
の時代●大学生の問題●自我の同一性と役割形成)


Hiroshi Hayashi++++++++++May 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1307)

【文明の衝突】

++++++++++++++++

中国や、韓国で吹き荒れている、反米、
反日運動。

なぜ、今なのか?

それをただ単なる、民族主義の高揚に
よるものと考えると、ますますわけが
わからなくなる。またそう考えたと
ころで、解決策には、結びつかない。

++++++++++++++++

●日本も中国も同じ(?)

 前にもどこかで書いたが、ドイツ人のロシア嫌いには、相当なものがある。一部のドイツ人
が、そうであるというのではない。総じてみれば、みな、そうなのである。

 そういうドイツ人を見ていると、ふと、こう思う。私たち日本人から見ると、ドイツ人もロシア人
も、同じなのに、と。

 しかし同じことが、私たち日本人についても、言える。ヨーロッパの人たちから見ると、日本人
も中国人も同じ。区別できない。だから日本人はともかくも、中国人が日本人を嫌っているとい
う話を聞くと、ヨーロッパの人たちは、みな、こう思うにちがいない。

 私たちから見ると、日本人も中国人も、同じなのに、と。

 なぜか?

●生理的な嫌悪感

 つまり、なぜ、こうした、好きとか嫌いとかいう反応が、生理的な部分で起きてしまうのか。そ
の理由として、よくあげられるのが、民族意識であり、歴史認識の問題である。とくにドイツとロ
シアは、数世紀にまたがって、あるいはそれ以前から、たがいに戦ってきた。

 しかしこのことだけでは、なぜ中国人が、今、日本を嫌っているのか、その説明がつかない。
韓国人にしても、そうである。たしかにこの100年の間に、日本と中国、日本と韓国は、不幸な
戦争を経験した。それは事実である。しかしそれ以前はといえば、日本は極東のアジアの島国
として、中国とも韓国とも、それなりに、仲よくつきあっていた。

 ドイツとロシア、日本と中国、それに日本と韓国は、どこか同じようで、同じではない。そのち
がいは、どこから生まれるのか。

 実は、ここに「文明の対立」の問題がある。

 ヨーロッパは、言うまでもなく、西欧文明圏に属している。一方、ロシアは、スラブ文明圏に属
している。「文明」というのは、民族意識の上にあって、意識として意識されない意識をいう。い
わば無意識下の、帰属意識ということになる。相互帰属意識と言ってもよい。

 で、この日本について言うなら、日本は、敗戦時までは、中国や韓国と同じ、儒教文明圏に
属していた。細部はともかくも、マクロな見方をすれば、そうである。独特の集団意識、上下意
識、帰属意識、相互依存意識、先祖崇拝意識など。そういった意識は、儒教文明圏から生ま
れた、共通の意識と考えてよい。

●アメリカ型西欧文明を受け入れた日本

 が、日本は、アメリカという国に、一度は、すべてを焼き払われてしまった。同時に、それまで
もっていた儒教文明圏の中でもっていた、帰属意識まで、焼き払われてしまった。そしてその
かわりに、いわゆるアメリカ型西欧文明を、移植されてしまった。

 日本人というよりは、日本は、つまり、全体として、敗戦と同時に、儒教文明圏から脱し、アメ
リカ型西欧文明圏へと、移動したことになる。

 このことを如実に例として示しているのが、イタリアを観光旅行する日本人たちである。数年
前だが、イタリアに住む友人(オーストラリア人)が、こんなメールをくれたことがある。

「日本人には、2種類ある。ひとつは、ガイドのもつ旗について、ゾロゾロと観光旅行する日本
人。年配者に多い。もうひとつは、個人、もしくは数人ずつのグループをつくり、自由気ままに
旅をする日本人。若い人たちに多い」と。

 こうしたちがいは、30年前、40年前には、さらに、きわだっていた。

 香港へ来る日本人たちは、みな、ガイドがもつ旗を先頭に、ゾロゾロと並んで旅行をしてい
た。しかし香港へ来るヨーロッパ人たちは、みな、それぞれが単独で行動をしていた。

 こうしたちがいを見ただけでも、戦後、日本は、大きく変わったと言える。そのちがいをすべて
文明のちがいによるものだと言い切るには、少し無理があるかもしれない。が、しかしつぎのよ
うな事実を知れば、みなさんも、私の意見に同意するだろうと思う。

●日本人は、半分は、欧米人?

 ためしにあなたの子どもにこう聞いてみるとよい。

 「あなたは、アジア人か、ヨーロッパ人か」と。

 すると、ほとんどの子どもは、こう答える。「アジア人ではない」「半分、ヨーロッパ人だ」と。事
実、自分をアジア人と思っている子どもは、まず、いない。「君の肌だって黄色いではないか」と
言うと、「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ」と答える(テレビのある討論番組より)。

 ここまで書いたところで、私がこの先、何を書きたいか、もうおわかりのことと思う。つまり日
本人は、アメリカ型西欧文明圏の世界にいる。一方、中国や韓国は、昔も、今も、儒教文明圏
の世界にいる。

 こうした文明の対立は、それぞれが離れているときは、起きない。たがいに接しているところ
で起きる。ドイツとロシアがそうである。そして日本と中国がそうである。日本と韓国がそうであ
る。

 しかし日本とヨーロッパ、日本とロシアの間では、起きない。たがいに離れているからである。
が、ヨーロッパは、スラブ文明圏との対立のほか、アフリカ文明圏、さらにはアラブ文明圏とも
対立している。が、インドを中心とする、インダス文明圏とは対立していない。たがいに離れて
いるからである。

 かなりおおざっぱな、かつ乱暴な説明に聞こえるかもしれないが、そのあたりまで踏みこまな
いと、現在の日中関係、日韓関係を、うまく説明することができない。

 もちろん、日本は、完全にアメリカ型西欧文明圏に属したわけではない。この日本の中にも、
まだ儒教文明圏の亡霊のようなものは、残っている。そしてそれが時おり、顔を出して、世間を
騒がす。

 最近では、日本の文化がもつ「形」や「情緒」こそが、日本の顔だと説く本が、大ベストセラー
になっている。これなどは、いわば、行き過ぎたアメリカ型西欧文明に対する、反作用とも理解
できる。

 一方、中国や韓国の内部にも、アメリカ型西欧文明を受け入れようとする動きがある。儒教
文明圏といっても、決して、儒教一色ではない。アメリカ型西欧主義を取り入れた日本も、儒教
文明圏にいる中国も韓国も、どこか、まだら。

 そういった現象はあるものの、しかし全体としてみると、日本は、アメリカ型西欧文化圏に属
し、中国や韓国は、儒教文明圏に属する。

 この文明のちがいが、対立となって、先鋭化している。それが中国や韓国の、反米、反日運
動の底流にある。

●アリの世界

 ……という私の話を、あなたは、とっぴもない意見だと思うだろう。しかしついでにこんな話も
しておきたい。

 10年ほど前だが、アリの研究では、日本で何本かの指に入るという研究者から、直接、こん
な話を聞いたことがある。

 アリというのは、穴の中に住み、地面をはっている、あのアリである。あのアリには、巨大な
縄張りがあって、それぞれの種族が、日本列島を、何分割かに分けているという。その最前線
では、熾烈(しれつ)な、国境闘争を繰りかえしているという。

 驚いて私が、都市部ではどうですかと聞くと、その研究者は、こう言った。山の中だろうが、町
の中だろうが、それは関係ありません、と。その最前線が、ときに都市部の中央部を横切るこ
ともあるという。

 どこでそういう知識と知恵が働くのだろう。いや、アリ自身は、無意識なまま、たがいに戦って
いるにちがいない。

●帰属意識

 では、こうした文明圏を理解するためには、どうしたらよいのか。それをさらにみなさんにも理
解してもらえるように、私は、人間のもつ相互帰属意識を、つぎの7つの段階に分けてみた。

 家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)

 5番目から下の、「文明意識」「人間意識」「生命意識」というのは、現在は、ほとんど無意識
下にあるとみてよい。相対的に、意識のレベルがあがったときはじめて、その姿を現す。

 たとえば少し話がSF的になるが、もし他の天体から、見るからに気味の悪い宇宙人が地球
を攻めてきたようなばあいを想定してみよう。その宇宙人は、人類を滅ぼし、地球を支配しよう
としている。

 恐らく人間は、民族や、国を忘れて、その宇宙人と戦うにちがいない。

 さらにもし、これまた別の天体から、機械じかけの宇宙人が、私たち生物を襲い始めたような
ばあいを想定してみよう。人間は、今度は、その気味の悪い宇宙人とも手を組んで、その機械
じかけの宇宙人と戦うにちがいない。

 つまり民族や、国を忘れて、宇宙人と戦う意識の底流にあるのが、6番目の、「人間意識」と
いうことになる。さらに気味の悪い宇宙人とも手を組んで戦うという意識の底流にあるのが、7
番目の、「生命意識」ということになる。

 では、文明意識は、どうかということになる。その例として、まずあげられるのが、十字軍であ
る。

 かつてヨーロッパのキリスト教徒たちは、ある時期、国や民族を忘れて、十字軍という名前の
軍隊を、イスラエルに向けて送った。名目上は、聖地奪回だったかもしれないが、それは同時
に文明と文明の対立であったとも考えられる。

 国が侵されたとき、その国の人たちは、国を守るために立ちあがる。
 民族も、そうだ。そして同じように、自分たちが属する文明圏に危機感をいだいたとき、その
文明に属する人たちは、立ちあがる。

 ここから先は、まさにSFの世界の話ということになるが、宇宙人が地球を攻めてきたような
ばあいには、地球人は、地球を守るために、立ちあがる。アメリカ映画にも、そんなような映画
があった。『インディペンデンス・デイ』という映画が、それである。

●終わりに……

 で、なぜ今、韓国で、反米、反日なのか? 中国の人たちは、どうして戦後の日本を受け入
れることができないのか。

 その答は、私は、文明のちがいにあると考える。またそう考えることによってのみ、彼らがも
つ、反米、反日感情を理解できる。彼らは、生理的な部分で、日本がもつ文明に対して、嫌悪
感を覚えている。そしてそれを、反米、反日感情へと結びつけている。

 なおアメリカの文明を、あえてアメリカ型西欧文明としたのは、いわゆるヨーロッパの西欧文
明とは、どこか異質なものであることによる。事実、ヨーロッパ人は、アメリカとは、常に一線を
引いている。

 ご存知の方も多いと思うが、総じてみれば、ヨーロッパ人は、アメリカを嫌っている。オースト
ラリア人にしても、そうだ。私が知るかぎり、アメリカが好きだというオーストラリア人は、1人も
いない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 帰属
意識 儒教文明 アメリカ型西欧文明)

【注】この原稿は、私の考えが、まだ半熟の状態で書いたもの。この問題については、近く、さ
らに掘りさげて考えてみたいと考えている。

 なお「文明の衝突」論者として、よく知られた学者に、サミュエル・ハンティントン(1927〜)が
いる。彼は、儒教文明にせよ、イスラム文明にせよ、西欧文明の優越性を認めておらず、その
ため、いつかこの2大文明が、西欧文明と大衝突をすると予測している。

 そうなってはいけないが、今、世界は、そのハンティントンが予測したとおりの道筋をたどって
いるというのは、不気味なことではないだろうか。つまり私の考えでは、その前哨戦が、今、日
本と中国、日本と韓国の間で、行われているということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 文明
の衝突 儒教文明 西欧文明 イスラム文明)

【補足】

 日本も、「愛国心」とか、「国を愛する心」とか、そんな了見の狭いことを言っていないで、どう
だろう、このあたりで、愛文明心とか、愛人間心、さらには愛生命心とか、言ってみては?

 「愛地球心」でも、よい。しかしこれは愛知万博(05年)のテーマにもなっていたので、ここで
は考えない。(二番煎じは、いやですね!)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【掲示板への書き込み記事より】

++++++++++++++++++

20歳の男性から、
こんな書き込み記事がありました。

若者の暴力について、です。

++++++++++++++++++

【20男さんより、林へ】

はじめまして。 掲示板には名前は書かないほうがいいので、ここでは、「20歳男」と名乗りま
す。

相談と言ったらいいのか、伝えたい事と、質問したい事があります。

最近の若者はよくキレると言われ、実際その通りだと思います。では昔はどうだったのだろう
か?、と言う質問です。

また、人を殴ったりしても罪悪感を覚えない若者には、外見上の共通項があるのか。あるとし
たらどんな姿か、ご存知でしょうか。

自分は男の20歳で、(年齢的には、もっと下に見えるそうですが)、
癖毛で長髪、運動する時など、紐で後ろに縛ります。身長163cm程。
少なくとも現代の若者からすると、髪型が笑われます。(自分もついこの前まで高校生でし
た。)

しかし、顔の造詣自体は、目付きが鋭く、オタクの様に気持ち悪がられるより前に、暴力沙汰
に近そうと、怖がられる事もあります。

若者自身がカッコイイと思っている髪形は、スポーツ刈り、普通の短髪、ジェルで短髪を逆立て
たものなどがあります。

こちらが歩いているだけで殴りかかってくるのは上記の、ジェルで短髪を逆立てた小奇麗な外
見の若者です。また殴られはしないものの、このタイプの男は、学校でも乱暴だったような記憶
があります

しかし自分はそういう、若者同士から好評価を得られる髪形ではなく、癖毛で長髪で、ただ伸
ばしているだけです。長髪を紐で後ろに縛っています。

その自分の風貌が目に付いたのでしょう。先日健康のために公園を走っていると、笑われな
がら、缶を投げつけられたり、殴られたりと言う事がありました。被害届を出しました

年代が上の方には分りづらいかもしれませんが、自分のただ伸ばしているだけの長髪は、年
代が上の方には不良、あるいはカッコ良い、音楽をやっている人間と見られる事があります。

しかし今の若者からすると、それはカッコ良い髪型と言う訳でもなく、攻撃の対象(暴力沙汰の
対象)になる事もあります

自分には、男としての魅力だとかは余り無いのでしょうし、それが殴りやすかったり、絡まれや
すかったりする原因なのだと思います。

自分に絡んでくる若者は雄であり、恐らく若い女性だったら、自分が殴られるのを目撃しても、
止めようとはせず、通り過ぎていくことでしょう。(その女性が高校生だとしたら、通報してくれた
りする姿が、自分には、想像できません)。

性的に、どういう人間が魅力的なのかという基準について、どうこう言いたいのではなく、外見
の良し悪しの基準が、ひとつの原因となって、人に襲われるという事もあるということです。

その基準は全ての人間に共通というわけではなく、若者同士の間でだけかけられる見方なの
だと思います。キレた小奇麗な若者は、年代が上の人が見れば、普通の明るい少年に見える
かもしれません。

若者は2極化しています。誰かを殴りながら、その人を、ゴミの様に扱うのもいます。では昔は
どうだったのだろう?、と疑問に思い、こうして、聞きたくなりました。

昔は今よりもマトモな時代だったのでしょうか?

++++++++++++++++++++

 この青年は、今、他人から受ける暴力について、悩んでいる。公園の中を走っているだけで、
笑われたり、缶を投げつけられたりすることもあるという。殴りかかられたこともある。

 そこでこの青年は、その原因として、自分の風貌(ふうぼう)ではないかと書いている。そして
同時に、そういう暴力行為をする人間には、一定の共通点があるかどうかと、私に聞いてきて
いる。

 一見、淡々と自分のことを書いているが、その青年の立場に立って考えてみると、これはた
いへん深刻な問題と言ってよい。へたをすれば、その青年は、人間不信から、自暴自棄に陥
(おちい)ってしまうかもしれない。その青年の置かれた環境は、あまりよくないらしい。それは
よくわかるが、そういう環境しか知らず、その中でもがいている、その青年は、かわいそうです
ら、ある。

 が、決して同情しているのではない。むしろ私は、そういう環境をよいことに、その青年を、理
由もなく、笑ったり、缶を投げつける連中が、心底、許せない。なぜそんなことをするのかという
ことを聞く前に、私でも、そういう連中を、叩きのめしたい衝動にかられる。暴力には暴力という
考え方は正しくないが、しかし暴力でしか、そういう連中に、自分の非を認めさせる方法はない
のではないか。

 そう、弱いものいじめほど、卑怯なものはない。ただこれだけは、覚えておくとよい。人は、い
じめられれば、いじめられるほど、何が大切で、何がそうでないかを知る。一方、いじめる側の
人間は、ますます人生の真理から遠ざかり、遠い、遠い、回り道をすることになる。つまらない
人生を送ることになる。時間を無駄にすることになる。

 気がついたときには、人生も終わっている……。そうなる可能性はたいへん高い。

 だから、そういう連中は、反対に、笑ってやればよい。心底、軽蔑してやればよい。しかしそ
れには、ひとつ、条件がある。そういう連中を笑えるほどまでに、自分自身を高めなければなら
ない。それをしないと、自分自身も、結局は、ズルズルと、そういう連中の仲間に引きずりこま
れてしまう。

 愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまうということは、この
世界ではよくある。つまり批判したり、嫌ったりするだけでは、問題は、解決しない。

 が、自分を高めれば、やがてそういう連中が、餌を求める山猿に見えてくる。ゴミをあさる、カ
ラスに見えてくる。そういう形で、そういう連中と決別する。そういう自分と決別する。同時に、そ
ういう環境と、決別する。

 それがその青年には、できるだろうか?

【はやし浩司より、20歳男さんへ】

 私の時代にも、暴力事件は、ありました。今よりも、もっと多かったかもしれません。しかし1
対1の関係というよりは、集団対集団という関係のほうが多かったように思います。

 ある高校の連中が、突然、となりの学校へ押し入って、そこで相手の連中と殴りあうというよ
うな暴力行為です。また私が入った高校では、上級生が、下級生を暴力でしごくというようなこ
とが、慣例として、なされていました。

 先生たちは、見て見ぬふりをしていたのではなかったのかと、今にして思うと、そういう感じが
します。そのほうが、学校としては、都合がよかったからです。生徒が、先生に対して、おとなし
くなり、従順になるからです。

 そういう意味では、昔の暴力の方が、わかりやすかったかもしれません。まだ戦後のドサクサ
が残っているような時代でしたから……。

 しかしあなたの今、置かれている環境は、ふつうではないですね。心がすさんでいるという
か、殺伐(さつばつ)としているというか……。まるで暴力映画を、地でいくような世界のような感
じがします。

 で、私が今、アドバイスできることと言えば、できるだけそういう世界とは、早く、縁を切りなさ
いということ。でないと、あなた自身も、そういう世界に巻き込まれてしまう。その危険性は、た
いへん高いです。

 何か、自分を高める方法はありませんか? 目標はありませんか? 夢や希望は、ありませ
んか? もしあれば、そういうものに向かって、今は、まっしぐらに進むべきときです。そういう
連中にかかわりあっている暇は、ないはずです。

 はっきり言えば、キレる子どもに定型は、ありません。もちろん髪型で区別するということは、
できません。しかし心がゆがんだ子どもには、共通の症状、つまり俗に言う、ツッパリ症候群と
いうのはあります。独特の歩き方、すさんだ目つき、拒否的態度などなど。

 しかし彼らとて、精一杯、そういう形で、自分の(顔)をもとうとしているのですね。何もとりえが
ないものだから、暴力で訴えることによって、自分の存在感を作ろうとしている。そういう点で
は、あわれな人たちです。あなたから見て、目立つ髪形をするのも、その存在感をアピールす
るためのものと考えてよいです。

 今のあなたに、そういう人たちを、かわいそうと思うだけの余裕はないかもしれません。しかし
あなたが、自分を高めれば、いつかすぐ、そういう目で、そういう人たちを見ることができるよう
になります。あるいは相手にしなくなる。

 私は、少し前、T氏という男性と、2時間ほど、あることで話しあいました。T氏というのは、多
分、明日(15日)、ワールドカップ代表選手として、選ばれる人です。その男性と話しているとき
のこと。私は、その途中で、何度も、その男性のもつ人格の完成度に驚きました。

 「この人は、私より、30歳近くも若いのに、何という完成度!」と。

 T氏は、昨年のアジアカップ杯では、初戦から、最後の北京でのあの優勝戦まで、ずっと活躍
した人です。つまりそこにいたるプロセス、そして幾多の国際試合が、T氏をして、そういうT氏
にしたのですね。

 別れるとき、「すばらしい人生を歩んでおられますね」と声をかけると、T氏は、はにかみなが
ら、「ぼくには、スポーツ(サッカー)しかできませんから」と笑っていました。しかしひとつのこと
をやりとげた人というのは、そういう人を言うのですね。

 20歳という年齢は、すばらしい年齢ですよ。その上、あなたは若いのに、すでに自分を静か
に見つめる目をもっている。今の若い人たちには、なかなかない(目)です。それを信じて、そ
れがたとえかなわぬ夢であっても、あなたはあなたで、ただひたすら前に進む。進むことに、意
味があるのです。

 結果があっても、なくても、です。あるいは結果は、必ず、あとからついてくる。

 私はよく「山登り」という言葉を使います。あなたはあなたで、どんな小さな山でもよいから、登
ってみる。そうするとですね、不思議なことに、意外と、視野が広い。「あんな低い山……」と思
って登ってみても、実際に登ってみると、遠くに、太平洋や、富士山が見えたりして……。

 そしてそれまで自分がいたところが、驚くほど低いところにあったのがわかる。山登りという
のは、そういうものです。

 ここに書いたT氏にしてみれば、この日本中が、足元の小さなゴミのように見えるかもしれま
せん。ひょっとしたら、日本の総理大臣すらも、足元でうごめく、小さな人間に見えるかもしれな
い。そういう人を、人格の完成度の高い人といいます。

 でね、私はそのT氏と別れたあと、こう思いました。「いったい、自分は、この50年間、何をし
てきたのだろう」と。自分という人間が、どこまでも、つまらない人間に見えてきたからです。何
かをしてきたつもりなのに、その何かが、何も残っていない……。それに気がつくのが、私のば
あい、30年、遅かった!

 しかし今のあなたなら、それができる。こう言うのは自分の敗北を認めるようでつらいです
が、あなたがうらやましい! 私があなたの年齢のときには、私の心の目は、盲目だった。た
だがむしゃらに、人を蹴飛ばしながら、生きていた。

 自分のことしか考えていなかった。自分の利益しか考えていなかった。私は、そういう意味で
は、盲目でした。人の心が、まるで見えなかった。

 だから何も残っていないのです。が、あなたは、盲目ではない。自分につけられた心のキズを
通して、相手の心を冷静に見ようとしている。これはとても、すばらしいことなのですね。

 さあ、あなたも勇気を出して、一歩、前に進んでみよう。前に山があれば、その山に登ってみ
よう。それができたとき、今のあなたがかかえる問題は、自然消滅の形で、あなたの前から消
えているはずです。

 笑われても、缶を投げつけられても、また殴られても、……いや、あなたがどんな小さな山で
もよい、その山に登れば、だれもあなたに対して、もう、それができなくなりますよ。

 「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブンソンは、
こう書き残しています。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい言葉で
すね。今のあなたにあげたい言葉です。

 どうか、がんばってください!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 青年
の悩み いじめ 暴力)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ヒトシ君(いじめ問題の陰で)

 ヒトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめられ
ていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされて
も、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのヒトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒトシ君の祖母から聞い
た話だ。

 祖父はヒトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とヒトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。

帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒトシ君は、「高校に合格しま
すようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように
祈らなかったか」と。そこでヒトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒトシ君(実名)」で呼ぶようになった。
とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒトシ君のような子
どももいる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しっかりと
判断する。愚かな人ばかりではない。

ヒトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内のK高校を卒業したあと、東京のK大学
へと進んでいる。ヒトシ君は、見るからに人格が違っていた。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。

つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐える。そうでないと、子どもがひ弱になってしまう。
今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。

しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているん
だよ」と励ましてあげることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、
親や教師にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、親や教師の
務めではないかと、私は思う。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1308)

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星
術」である。今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。しかし占星
術は、何も、それだけではない。星が見えるところ、すべての世界に、それがある。興味深い
のは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。ならば、その万物の構成要素から、神の
意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。わかりやすく言えば、太
陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。だからそれら万物は、一体となっ
て、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。ついで、それらと一体として連
動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕
生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。原理的には、男の精子
が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。例がないわけで
はない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、
生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。イスラムの世界で
も、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたよう
に、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。少なくとも、占星術では、出産日で
はなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断す
る、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星
術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを
参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。あるいは生物という
単位で、ものを考えるべきではないのか。たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよ
い。もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業による
もの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住む
アリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、
つまり天空という平面で見ているにすぎない。星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。サ
ソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。宇宙船で、100光年も先へ行
けば、星座の位置、形、すべてが変わる。1000光年も先に行けば、もっと、変わる。星位とい
う概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。占星術イコー
ル、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占
星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれ
だけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄
することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよ
いと言うのなら、それはそれでかまわない。そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知
ったことではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術)


【追記】

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。占星術についても、例外ではない。占
星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。つまり占星術の
世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが一体として、
統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性があ
る。事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。とくに占星
術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。つまり、その
ドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめ
ながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソ
クを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。……というより、それはあなたの宗教性による。意
識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それを
超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。笑って無視す
れば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。信仰心といっても、おおざっぱに言
えば、2種類ある。ひとつは、教えを重要視するもの。もうひとつは、超自然的なパワーを盲信
するもの。前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。宗派によっても、
ちがう。しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存
在を、信仰の中心に置く。「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせ
ることはできない。

 神や仏がよい。あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、
宗教が生まれる。そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係
によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。どこかに
は、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。ただ歴史的
には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国でもあったよ
うだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私
の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。こと「星」について言えば、日本人
は、元来、無頓着な民族と言える。星座、それにつづく天文学については、それについて研究
したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。(これは多分に、私の認識不足
によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。(発達したのではなく、発展し
た。誤解のないように。)もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい
(占い)に飛びついた。占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということに
なる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを
埋めていた。私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、そ
の年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのも
のがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。そして今に見る、占星術、全盛期を迎
えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。占星術師なる人物が、テレビに顔を出さ
ない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わし
い。占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義
と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。あの忌まわしいO
真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体は、表向きは、なり
を潜めている。が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れて
はならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかっ
たものではない。忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。しかもその信仰は、神秘
主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)
している。それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。また外見上、いくら
かの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。つまり「異常
な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ある青年の苦悩(2)

++++++++++++++++++

私のHPの掲示板で、ある男性と
2度ほど、やり取りをした。

20歳の男性である。

その男性は、今、自分とは何かを、
懸命に模索している。

++++++++++++++++++

【20歳男性より、林へ……】

>愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまう

たしかに、そう思います。(そもそも、自分に缶を投げたり、殴りかかってきたのは)、見ず知ら
ずの人間でした。もし自分が中年の男性だったら、分かりません。そういうことをしなかったか
もしれません。が、自分は、童顔で高校生に見えて、そのため、対抗意識を持たれたのでしょ
う。)そんな人間の事をいつまでも恨んでいても、こちらの時間が消えていくだけです。

しばらくその現場には、近づかないようにするなどのことはしなければなりませんが…。
今、自分はそう言う人間の事を考えている場合でもありませんし、余裕ができても、関りたい相
手とも思えません

前の投稿では書ききれませんでしたが、自分は高校を2年で辞め、現在20歳です。それまで
のずっと学校に、朝から晩まで、通いづめの生活に疲れて、何もしなくなってしまったのです。
ただ家に帰って、寝るだけの生活でした。

高校での勉強は、中学と変わらない内容です。そういった勉強に、3年も使う事に、馬鹿馬鹿し
さと言うか、「なんでまた3年同じ事をやって無駄にしなければいけないんだ…」と思い、疲れま
した。

女性とつき合いを持とうと考えても、校則で規制されている事が、凄く嫌な気になったりしまし
た。(異性交遊の校則など、守らなくてもどうという事は無かった程度の校則ですし、そのほう
が健全、というか、健康でいられると思います。付き合いをしている人も居ました。)

職員からは気軽に頭を叩かれもするし、生徒と言うのは叩かれやすいよう、頭を少し前に傾け
る事が習慣になっています。そんな所を見られたくは無いなと思い、誰かとつき合いを持つな
ど、できませんでした

今でも、小学校から高校までの生活が、良い勉強になったとは、どうしても思えません。

正直に書けば、自分の知っている学校と言うのは、大した事をやっていませんし、今までの人
生を思い出した時に、「この少ない量の勉強に、人生の大半が、十数年も時間が使われてき
たんだな」「えっ?これだけに今までの人生を取られてたの!?」「で、何だったのだろう」と思
い、どうしても空しくなります。もちろん、人と遊んでいる時はありましたし、楽しかったのです
が。

自分にとって結果的には、途中で、何年間も何もしない時期が続いたのは、これから先、何か
の原動力になると思います。乱暴ですが一度自分でぶち壊して、何かが必要だという時期が
訪れるまで待ちたかったのです。

あのまま大学に行っていれば、まだ高校に行っていたその頃のままの、どこか惨めな自分が
続いただろうと思います。働いていたとしても、いつも止めたい止めたいと思ったまま、何かを
していたはずです

高校を辞めてからは、ワザと家の窓を割り、それによって「自分の空間」を得ました。わがまま
を押し通す事によって、この年齢でようやく親が部屋に入らなくなったのです。ノブも鍵付に変
えました。今までの自分の家なら、鍵付に変えるといっても、一笑に付されて終わっていたでし
ょう。

もう、何もしないで過ごそうか、とも思っていましたが、何時までも親だけが稼いでいるような状
態では、やがて路頭に迷う事になります。

高校を辞め、大学も行かず、働きもせずに、誰とも口を利かない生活が続くうち、一日中頭の
中に怒りが満ち、痛みのようなものが続くようになり、自分は知能が低下してるんじゃないだろ
うかと不安になりました。頭が変になりそうになりながら、部屋に居ながら、知らない道で迷った
ような感覚に陥り、急に誰かと話をしたくなったりしました。

結局、今までの人生で誰が頼れるか、誰となら居ても良いか、許せるのか。そしてこちらを許し
てくれるのかということになると、やはり、親でした

親にも自分の考えている事を話し、以前よりも自然に居られるようになった気がします。
自分は彼らにはもうどうとも思われていないんだろうな、と思いながら話したのですが、両親は
自分をまだ好いてくれていました。


家に彼ら親が居るから、何かをする気になります。これから資格でも取って大学に行こうかと
思いますが、やれると思います。

うまくは書けませんが、「必要になったから、納得できる。やりたくなった」と思います

返信してくれた事、ヒトシ君の話をしてくれた事、(自分が中2の時はとてもそんな事は言えない
人間した)、つぎの言葉を、送ってくれたこと、ありがとうございました

>「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブンソンは、
こう書き残しています。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい言葉で
すね。今のあなたにあげたい言葉です。

 どうか、がんばってください!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 この青年は、(恐らく)、親に言われるまま、つまり自分というよりは、親に先導されるまま、小
学校、中学校へと進み、そして高校へ入った。

 しかしある日、ハタと自分に気がついた。「自分は何か?」「何をしているのだろう?」と。

 その疑問が、彼の行く手をふさぎ、ついでその青年を、混乱させた。心理学で言えば、役割
混乱に近い状態になった。

 こウシタケースは、ケースとしては、少なくない。現在、何割かの中学生や高校生がそうでは
ないかと思えるほど、多い。夢や希望がないから、当然、目標もない。目標もないから……とい
うより、目標をもてないから、悩む。苦しむ。

 よく誤解されるが、「よい高校へ入る」「よい大学へ入る」というのは、子どもにとっては、目標
とは、なりえない。それを目標と思っているのは、親だけである。「入ったからどうなのか」という
部分が、どこにも、ないからである。

 この書き込みを読んで、いくつか気になることがある。その青年は、こう書いている。「この年
齢でようやく親が部屋に入らなくなったのです」「ノブも鍵付に変えました。今までの自分の家な
ら、鍵付に変えるといっても、一笑に付されて終わっていたでしょう」と。

 ということは、それまでは、親は、自由に、その青年の部屋へ出入りしていたことになる。

 そこでその青年は、「ワザと家の窓を割った」ということになる。これだけではよくわからないと
ころもあるが、その青年なりに、そうしたやり方で、両親に、抵抗したことになる。その時期は、
その青年が、高校を中退した時期と重なる。壮絶とまでは言えないかもしれないが、かなりは
げしい家庭内騒動があったことは、容易に察しがつく。

 つまりこうしてその青年は、自我の混乱から、自我の確立へと、自ら、足を一歩、踏み出し
た。抑圧への反発は、たとえば、校則への反抗にも、見られる。「女性とつき合いを持とうと考
えても、校則で規制されている事が、凄く嫌な気になったりしました」と書いているのが、それで
ある。

 しかしその青年は、かろうじてというか、最後の最後のところで、自らの足で、ふんばってい
る。もしこの段階で、親がその青年を見放すようなことがあれば、その青年は、そのまま奈落
の底へと落ちていったであろう。

 しかし両親も、耐えた。その青年は、短い言葉だが、「両親は自分をまだ好いてくれていまし
た」と、すなおな気持ちで、そう書いている。そしてそれが、今、希望の光となって、彼の進むべ
き道を照らしている。

 「資格をとって、大学を受験し……」と。

 こうした一連の流れをみると、すでにその青年は、苦しかったトンネルを抜けつつあるのがわ
かる。まだ完全に抜けたわけではないが、あとは、時間の問題。「立ちなおる」という言い方は
適切ではないかもしれないが、やがて立ちなおる。すでにそのコースに入っている。

 あえて言うなら、こういう青年のほうが、のちのち、常識豊かで、かつ、心豊かな人間になる。
今のその青年には、それがわからないかもしれない。しかしいつか、たとえば、その青年が、4
0代、50代になったとき、それがわかるはず。

 むしろ何も考えず、何も迷わず、スイスイと受験勉強を勝ち抜いてきたような子どもほど、ど
こかおかしな人間になる。いびつな人間になる。だれしも、道に迷うのはいやなことだが、しか
し、その迷いが、その人間を育てる。

 以前、尾崎豊の『卒業』について、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに
添付する。

【林より、20歳男性さんへ】

 今、貴君がしている経験は、決して無駄にはなりません。やがて貴君の人生の中で、燦然(さ
んぜん)と輝くことでしょう。

 それが青春です。わかりますか? それが青春です! 私もタイプは、少しちがいますが、今
の貴君と同じように、もがきました。本当に苦しみました。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。

「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。

「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、
そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻
とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。

大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふら
つき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。

それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向か
って、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかっ
た」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が2億円もあるようなニュースキャスターが、
「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。

いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄
金を訴える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎は
そのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思
いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで200万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、200万枚を超えた(CBS
ソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも
含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、
まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中二
女子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「ど
うせ実現しないから」と。もう一人の中学生(中二男子)は、「それよりもお金がほしい」と言っ
た。そこで私が、「では、今ここに一億円があったとする。それが君のお金になったらどうす
る?」と聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。

ほかに五人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来に
ついて、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意
識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシー
にはメーターはついていなかった。

料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転してくれたのは、いつも運転手をして
いる女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、11人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のよ
うであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。

 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。
一、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、施設または設備を損壊する行為。
四、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつあるとみてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 青年
期の苦悩 悩み 青年の心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1309)

●復古主義の台頭

++++++++++++++++++

最近、気になるのが、復古主義。

混沌(こんとん)とした世相を背景に、
もう一度、過去に復帰しようという動きである。

武士道復活論は言うにおよばず、
その分野の書籍が、書店の店頭に、
ズラリと並んでいる。

中には、100万部単位で売れている
本もある。

++++++++++++++++++

 復古主義ほど、誘惑的な響きをもつ言葉はない。それ自体が、歴史の中で、妥当性を、裏書
されている。新しいことに挑戦するよりは、過去を踏襲したほうが、安全。無事。それに何も、
考えなくてもよい。

 そこで復古主義を唱える人たちは、「伝統」という言葉を高くかかげる。それをかかげて、「控
えおろう」と、私たちに容赦なく迫ってくる。理由など、必要ない。「過去において、そうだったか
ら」というだけで、自ら、それを正当化してしまう。

 が、ここでひとつ、大きなまちがいを犯す。

 その第一は、過去を全体として見ないこと。もっと言えば、自分たちにとって都合の悪い部分
については、目を閉じる。そしてその(よい点)だけにスポットをあて、拡大視する。この手法
は、よく、カルト教団が、信者をだますために使う手法に、似ている。

 たとえば武士道にしても、それ自体がもっていた陰の部分は、あえて見ようとしない。封建時
代において、いかに庶民が、その武士道とやらに苦しめられたか、もっと言えば、刀を振りまわ
す連中が、いかに恐ろしい存在であったかということについては、あえて触れようとしない。

 そういう陰の部分を見ようとしない。

 その武士道について以前、書いたのが、つぎの原稿である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●武士道とは

 武士道を信奉する人たちのバイブルとなっているのが、新渡戸稲造が書いた、『武士道』(明
治32年)である。新渡戸稲造といえば、5000円札の肖像画にもなっているから、知らない人
はいない。明治時代の終わりごろ活躍した人物で、ほかにも『随想録』(明治40年)に書いたり
している。

 もともとは、幕末の南部藩(岩手県)の武士の子弟として生まれ、札幌農学校を卒業したあ
と、アメリカにも留学している。

 その武士道でもっとも重んじるのが、「名誉」ということになる。新渡戸稲造も、『武士道』の中
で、こう書いている。

 「武士は、命よりも高価であると考えられることが起きれば、極度の平静と迅速をもって、命
をすてる」と。

 要するに、名誉のためには、死をも覚悟せよ、と。

 新渡戸稲造が、いつの時代の武士を念頭に置いたのかはしらないが、幕末の武士たちは、
堕落し放題。権威と権力の座に安住し、その中身と言えば、完全にサラリーマン化していた。
サラリーマン化が悪いと言っているのではない。「名誉のために、死をも覚悟した」というのは、
あまりにも大げさ。

 もっともこの心は、やがて日本の軍国主義の精神的根幹にもなっていった。「死して虜囚(り
ょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」とういう、あれである。しかしその言葉の裏で、いかに多
くの日本人が、犠牲になったことか。あるいはいかに多くの外国人が、犠牲になったことか。

 もっとも愛国主義が最初にあり、それから生まれた名誉のために死ぬというのであれば、ま
だ納得できる。正義、あるいは、自由や平等のために死ぬというのであれば、まだ納得でき
る。しかし武士道でいう『名誉』とは、まさに主君もしくは、「家」に対する、忠誠心をいった。

 ほかにも、武士道には、「義」「勇」「仁」という三つの柱があり、さらに「礼節」「誠実」「名誉」
「忠義」「孝行」「克己」の、人が守るべき、徳目として、並べられている。「名誉」それに、それか
ら生まれる「恥」の概念も、こうした徳目から、生まれた。

 もちろんある側面においては、武士道は魅力的であり、それなりに納得できる部分もある。し
かし武士道が、封建時代というあの時代の「負の遺産」を支えたもの事実。「影の部分」と言っ
てもよい。もっとわかりやすく言えば、武士道がもつ「負の側面」に目を閉じたまま、武士道を、
一方的に礼さんするのは、たいへん危険なことでもある。

 たとえばここでいう「義」「仁」にしても、つきつめれば、「仁義の世界」。つまり、現代風に言え
ば、ヤクザの世界ということになる。

 また、名誉についても、『武士は食わねど、高楊枝(ようじ)』(武士というのは、食べるものが
なくて空腹でも、満腹のフリをして、名誉を守った)という、諺(ことわざ)も、ある。

 果たしてそういうメンツや見栄にこだわることも、武士道なのだろうか。武士道を礼さんする
人は、武士道を知らなければ、「人の正義」はないようなことを言う。しかしこの私などは、武士
道とはまったく無縁。しかしそんな私でも、礼節もあれば、名誉もある。誠実、忠義、孝行、克
己についても、自分なりに考えている。

 たしかに、今の世相は、混乱している。それはわかる。しかしそれは当然のことではないか。

 日本は、江戸時代という封建主義時代。明治、大正、昭和という軍国主義時代。そして戦後
の官僚主義時代。こういった時代を、それぞれ経験しながら、そのつど、過去の清算をしてこ
なかった。反省もしなかった。

 だから、今の若い人たちを中心に、「わけのわからない世界」になってきた。

 それはわかるが、で、こうした世相に対する考え方は、二つある。

 一つは、過去にもどるという考え方。よくても悪くても、そこには、一つの「主義」がある。最近
もてはやされている武士道も、その一つかもしれない。

 もう一つは、新しい主義を、創造していくという考え方。当然のことながら、私は、この後者の
考え方を、支持する。またそのために、こうしてモノを書いている。それについては、これからも
追々書いていくが、ともかくも、今の段階では、そういうことになる。

 最後に、忘れてならないのは、私の先祖も、あなたの先祖も、その武士階級にしいたげられ
た、町民や農民であったこと。もし仮に今でもあの封建時代がつづいていたとしたら、私やあな
たも、今でも、ほぼまちがいなく、町民や農民であるということ。

 そういう私やあなたが、武士のまねごとをして、どうなるというのか? 武士でもない私やあな
たが、武士道を説いて、どうなるのか。そのあたりを、じっくりと考えなおしてみてほしい。

今でこそ、偉人としてたたえるが、新渡戸稲造にしても、武士という特権階級に生まれ育った人
物である。アメリカから帰ってきたあとも、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京女子
大の初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任している。まさにエリート中のエリート。時の
権力や権威をほしいままに手に入れた人物である。その事実を、忘れてはならない。
(はやし浩司 武士道 新渡戸 義 勇 仁 仁義の世界 仁義)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 何もこうした復古主義は、今に、始まったことではない。歴史の中でも、そのつど、現れては
消える。ひとつの例を出そう。

 江戸時代の末期、日本に国学が生まれた。国学というのは、日本思想の原点を求める学問
と考えてよい。つまり仏教や儒教が日本へ入ってくる以前の日本人の思想はどうであったか、
それを知るための学問と考えてよい。

その国学の祖としてよく知られているのが、契沖(けいちゅう)である。契沖は、万葉集にとくに
焦点をあて、そこに日本人のルーツを求めようとした。

 この流れは、やがて賀茂真淵らを経て、本居宣長によって、完成される。本居宣長は、『古事
記伝』全44巻を、書き残している。

 こうした国学の動きは、現代に見る、日本の復古主義の動きそのものと言ってよい。アメリカ
型西欧文化の隆盛に危機感をいだいた人たちが、それをよしとせず、さまざまな形で、復古主
義を唱え始めた。先に書いた、武士道復活論も、そのひとつである。

 しかしこうした復古主義は、同時に、危険な側面をはらんでいる。歴史には、流れというもの
がある。そのときどきの万人が、意識することもなく、無数の事実を積み重ねていく。それがこ
れまた無数に集まって、ひとつの流れをつくる。歴史となる。その流れへの反発エネルギー
が、時として、過激な活動へと結びつく。……結びつきやすい。

 国学の流れも、やがて平田篤胤(あつたね)らによる、あの過激な尊王攘夷運動へとつなが
っていったことを、忘れてはならない。

 たしかに今の日本の世相は、混沌(こんとん)としている。どこもかしこも、ボロボロ。それは
認める。しかしだからといって、なぜ、今、復古主義なのか。なぜ、復古主義に、みなが、耳を
傾けるのか。幸か不幸か、ともかくも、戦後、日本は、アメリカ型民主主義を受け入れ、西欧文
明を、そのまま取り入れてしまった。

 今に見るこの日本が、その結果である。

 ここで私たちは、オールターナティブ(択一的)な選択に迫られる。今までにも何度も書いてき
たが、日本は、戦前までの日本のような、もう一度、儒教(中国)文化圏にもどるのか。それと
も、西欧文明圏の一員として、西欧文明を、より積極的に取り入れ、完成させるのか、と。

 しかし、どちらを選択するかという問題ではないのかもしれない。その中間があっても、おかし
くない。しかし今の若い人たちを見るかぎり、その(流れ)は決まっている。今さらどう叫んだとこ
ろで、(一部の人たちがそれを叫ぶのは勝手だが)、日本は、戦前の日本には、もう戻らない。
戻れない。

 が、もしそれを戻そうとするなら、それ相当の歴史的エネルギーを爆発させなければならな
い。それが今すぐ、暴力行為や破壊行為に結びつくとは考えていないが、復古主義を唱える人
たちは、その一方で、そうした火種を作っていることを忘れてはならない。あるいは若者たちの
心の中に、爆薬をつめていることを忘れてはならない。

 私の印象では、こうした復古主義は、一部の学者の意見にすぎないように見える。しかしそ
れに対して、それを批判する勢力、たとえば私のような意見を述べるものがあまりにも、少な
い。へたをすれば、このまま、日本は、その復古主義に押し切られてしまう可能性すら、ある。

 そうでなくても、今の今でさえ、あの封建時代を美化する人たちが多いのは、本当に驚きでさ
えある。江戸時代という時代がどういう時代であったかを知るためには、今のK国を見ればわ
かる。世界の歴史の中でも、類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代だったのが、あの江
戸時代なのである。

 武士という為政者の立場で、江戸時代を見てはいけない。その武士に支配された、庶民とい
う立場で、江戸時代を見なければいけない。

 で、今、私たちが注意しなければならないのは、こうした復古主義が、どこでどのような形で、
過激な闘争へとつながっていくかということ。まさかこの私が暗殺されるようなことはないにして
も、そういう動きにつながっていく可能性はないとも言えない。

 だまって復古主義の隆盛を見過ごすのか。それとも、みなで力を合わせて、復古主義を叩く
のか。そのあとのことは、みなさんの判断ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 復古
主義 復古主義の台頭 武士道 封建時代の清算)

注:時間の関係で、かなり乱暴な意見を書いてしまったようです。あくまでも、参考意見のひと
つとして、お考えください。この問題(原稿)は、これから先、もう少し煮詰めてから、書き改めて
みたいと考えています。(06年5月16日)

【皮肉】

 どうせ復古主義に浸(ひた)るなら、どうだろう、万葉の時代にまで、復古してみたら? それ
こそ本物の日本人のルーツではないのか?


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1310)

【近ごろ・あれこれ】

●おなら

 裏の勝手口のドアが、閉まるとき、「プ〜〜〜〜〜、プ〜〜〜〜、プププッ」と、おかしな音を
出すようになった。それが、人間が出す、おならの音、そっくり!

 先日、三男がやってきたとき、ワイフが、「閉まるのが速すぎる」と言ったらしい。それで三男
が気をきかして、それをなおしてくれた。

 私はその音に合わせて、ワイフのほうに向かって、お尻を向ける。少し力んだ様子をして見
せる。「ほら、おならだア〜」と。

 もう何度もそれをしているが、そのたびに、ワイフはゲラゲラと笑う。「あなたのおならに、そっ
くり!」と。

 自分でも、そう思っている。


●ジーパン

 ジーパンをはくようになってから、他人のジーパンが、やたらと気になるようになった。で、気
がついたが、今では、男も女も、3分の1から、ときには、半数近い人たちが、ジーパンをはい
ているのがわかった。

 老若男女の区別はない。70代、80代の人もはいている。

 ジーパンによいところ。それはまず、たれた尻が、わかりにくくなるということ。これには驚い
た。だれの尻がそうであるかということは、ここには書けないが、ともかくも、そういうこと。

 ジーパンが、お尻を、上にもちあげるためである。

 それに、ジーパンをはくと、足が長く見える。先日も、近くのショッピングセンターで、ワイフとこ
んな会話をした。

私「みんな、足が長く見えるね」
ワ「ジーパンをはくと、長く見えるのよ」
私「でもさア、女性なんか、あんなふうに、大唇陰にまで食いこむようなはき方をして、痛くない
のかねエ?」
ワ「男だって、そういうふうにはけばいいでしょ」
私「男は、できないよ。睾丸が割れてしまうよ、きっと」と。

 
●UFO

 今度、イギリス政府が、正式に(?)、UFOの存在を否定した。バカめ!

 「ある」という証明ができないからといって、否定するというのは、おかしい。論理的ではない。
正確には、「存在が証明されなかった」と言うべきである。

 前にも書いたが、私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃している。「く」の字型のUFOで、
ハバが1〜2キロもあった。目撃したというだけで、証拠はない。

 しかし証拠がないという理由だけで、私たちがあの夜見たものを、否定してもらっては困る。
見たものは、見た。「頭がおかしい」と言われようが、何と言われようが、見たものは見た。

 「君は教育者を名乗っているのだから、そういうことは口にしないほうがいい」と言ってきた人
もいた。しかし、繰りかえすが、見たものは、見た。

 あれだけの乗り物(?)を作る生物である。そう簡単に、証拠など、残すかア!


●魯迅(ろじん)

 突然、かたい話になるが、先ほどまで、魯迅(1881〜1936)の書いた、『阿Q正伝』という
本を読んでいた。前にも読んだことがあるので、ざらざらと、拾い読みしただけ。

 その魯迅は、ペンネームで、本名は、「周樹人」といった。その名前だが、私は、若いころ、カ
ルト批判などの、きわどい内容の本については、「周人」というペンネームを使っていた。

 「周」という漢字が好きだった。それで長男の名前にも、その漢字を使った。それ以上に魯迅
を意識したわけではないが、「周樹人」の、「樹」は、どこか、「林」に通ずる。「林浩司」の「林」で
ある。

 で、『阿Q正伝』は、実は、中国社会を、痛烈に批判していたことが、この年齢になってはじめ
て、わかった。当時は、ただの小説と思っていたが、阿Q(乞食)が、中国そのものを象徴して
いたことがわかった。

 阿Qは、ときどき仕事をしては、その日の日銭を稼ぐ。そしてその稼いだお金で、居酒屋で酒
を飲む。それで一日を終える。

 が、辛亥革命(1911)が起こると、どういうわけか、阿Qは、革命のヒーローに祭りあげられ
てしまう。もともとたいした思想など、もってない。そのため革命が終わると、今度は、捕らえら
れ、最後は、処刑されてしまう。

 まあ、あえて言うなら、阿Qは、東洋版ラマンチャの男ということか。

 読んでいて、何だか、阿Qが、自分自身に思えてきた。


●楽天日記

 毎日、日記形式で、「楽天日記」というコーナーで、エッセーを書いている。思いつくまま書い
ているので、文章はへたくそ。自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこのところ、毎日、200〜300人もの人たちが、それを読んでくれるようになった。(正
確には、アクセス数が、200〜300件ということ。4回、同じ人が訪れたときには、アクセス数
は、4件ということになる。だからアクセス数イコール、訪問者の数ということではない。)

 が、アクセス数が、400〜500件になると、上位にランクされるようになる。だから、200〜3
00件という数字は、たいへんな数字と言ってよい。

 とたん、やる気が出てきた。もっとも読んでくれる人イコール、私の意見への賛同者というわ
けではない。中には、「こんなこと書いて!」と怒っている人もいるはず。それもよくわかってい
る。

 で、私のばあい、まずこうして楽天日記のほうで、エッセーを発表し、読んでくれる人の反応を
見ながら、それをマガジン用原稿に書きなおしている。そのとき、内容を補足したり、内容に注
釈を加えることもある。

そんなわけで、内容的には、楽天日記も、マガジンも、ほとんど同じだが、言うなれば、楽天日
記に発表しているエッセーは、荒削りの文章。マガジンに発表している文章は、推敲(すいこう)
済みの文章ということになる。

 本当に読んでほしいのは、マガジンのほう。もしみなさんの中で、「マガジンを読んでよい」と
思ってくれる人がいるなら、どうか、マガジンの購読を、申しこんでほしい。購読は、無料です!

【今夜のこと】

 今夜は、仕事から帰ってきて、夕食。そのあと、そのままコタツの中で眠ってしまった。おかげ
で、今、こうして眠られない夜を迎えている。時刻は午前0時30分。少し目が、ショボショボして
きたようだ……。

 では、みなさん、おやすみなさい。言い忘れたが、今日は、6月14日(水曜日)。……になっ
たところ。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1311)

【思春期の子ども】

●娘の外泊

++++++++++++++++++++

かわいかった子どもも、思春期を迎えると、
人が変わったかのように、大きく、その心がゆらぐ。

フロイロの自我構造理論によれば、その内的エネルギー、
つまり「イド」が、活発化する。

イドは、元来、欲望のかたまりで、無秩序。無節制。
快楽原理にみによって、その人を、裏から操る。

+++++++++++++++++++

 娘(中3)の外泊に苦しんでいた母親がいた。叱れば叱るほど、逆効果。ますます堂々と外泊
をするようになった。親子の間の会話も消えた。そういう娘をもった母親から、久しぶりに、掲
示板(相談コーナー)に書き込みがあった。

 それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++++

【MFさんより、はやし浩司へ】

こんにちは。あれから林先生のアドバイスどおり、「そうだ、(ボーイフレンドという)、娘には私
以外にも心配してくれる人がいるんだ。私が一人で、やきもきしなくていいんだ。先生の言うと
おりしばらく娘のことは、忘れよう」と思いました。

そこで私は、今までしたかったガーデニング、アロマセラピーを始めました。これが楽しいで
す。ガーデニングをしながら、まいた種がいつ芽を出すか毎日毎日、観察をして芽が出た時
は、とても嬉しかったです。

娘が生まれた時のことを思い出したりしました。

で、その娘は、5月2日に、泣きながら帰ってきました。理由を聞くと、A君(ボーイフレンド)が、
「おまえが帰ったら死ぬ」と言って、帰してしてくれなかったということでした。

私は、娘の話を聞き背中をなでてあげました。

その日の夕方に、娘はAと話し合いに行くと言ってまたでかけ、次の日の朝、帰って来ました。

娘は、「A君の誕生日の5月20日が終わったら、毎日この家で暮らすから、それまで、A君の
家と自分の家を、行ったり来たりするから。」と言いました。

主人と私は、「そうなんだ。そうしたいんだ。」と思い、了解の返事をしました。

娘は、明るくたくさんの話をしてくれるようになりました。

娘が小6の時、次男が誕生したのですが、その時のことを、
「今は、なんとも思ってないけど、Kちゃんが生まれてから、私がもらうパパとママの愛情が、K
ちゃんにいってしまってとてもいやだった。許せなかった。」と、話してくました。

私は、「あなたは、そう思ってたんだ。これからは、たくさんの愛情をあなたに注がなくちゃね。」
と。

娘は、笑っていました。

娘は、いつ私が娘のことを受け入れてくれるのか、それを待っていたような気がします。

林先生もよく言っていますが、私も娘に育てられてるんだなーと、そのとき、実感しました。娘は
この家にいると、生きていけないと感じたらしく、何もかもいやになって、家を出たようです。娘
は、体を張って私たちに訴えてくれたことを、今になってみれば、感謝しています。

娘を信じて一人で立ち上がるまで、何年かかっても見守っていきます。

今は、私の頭の上にあった雲が、なくなったような感じです。

本当にありがとうございました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性的エネルギー論

+++++++++++++++++

自分の中に潜む、
生きる力。
その原動力は、性的エネルギーであると、
あのフロイトは、説いた。

それが正しいかどうかは、知らないが、
しかしその性的エネルギーには、
ものすごいものが、ある。

あなたは、その性的エネルギーを、
うまくコントロールできるか?

+++++++++++++++++

●先生の先生が(?)

 つい先日、このS県で、教育委員会の指導主事が、ハレンチ事件を起こして、警察に逮捕さ
れるという事件が起きた。携帯電話で知りあった女子と、ホテルで、(いかがわしい行為)(新聞
報道)をしたという。

 そういう事件があると、マスコミや世間は、まるで鬼の首でも取ったかのように、騒ぐ。はしゃ
ぐ。そして非難する。「先生の先生が、そんなことをするなんて!」(C新聞記事)と。つまり理性
や、自己管理能力がふつうの人以上にあるはずの人が、そういうことをするということは、信じ
られない、と。

 しかし本当に、そう言い切ってよいのだろうか。そういう視点だけで、こうした事件を考えてよ
いのだろうか。

 もちろん、中学生という子どもを相手に、そういう行為をすることは許されない。しかしこの事
件を、(人間)という視点で考えるなら、人間が原罪としてもつ欲望の力は、それほどまでに強
力、ということにもなる。

 もっと言えば、人間が、原罪的にもつ欲望の力は、理性によるコントロールの範囲を超えて
いる。そうした力を、あのフロイトは、自我構造理論の中で、「イド」という言葉を使って説明し
た。

●性的エネルギー

 イドというのは、性的エネルギーのかたまりと考えるとわかりやすい。快楽原理のみに従い、
無秩序、無節制に、その人の心を裏から操る。

 そのイドをコントロールするのが、「自我」ということになる。「私は私」という意識である。この
「私は私」という意識が、イドを抑え込む働きをする。言うなれば、自分の中に潜む、ジャジャ
馬、もっと言えば、邪悪な悪魔を飼いならす力ということになる。

 しかしそれは容易なことではない。子どもについていうなら、思春期というその年齢までに、自
我をそこまで確立させるということ自体、容易なことではない。むしろ現実は、逆で、多くの親た
ちは、子育てをしながら、その自我を平気で破壊するようなことをしている。

 子どもの中に、「私は私」という意識を育てようとしない。そればかりか、それを破壊しながら、
破壊しているという意識すらない。「そら、ピアンのレッスンだ」「そら、英語のレッスンだ」と。子
ども自身が、自分で何をしたいのか、何をすべきなのかを、知る前に、親が、親がもつ価値観
を子どもの前に、ぶらさげてしまう。(もちろん、MFさんが、そうであったと言っているのではな
い。誤解のないように!)

 中には、子どものほしがるものを、先に、先に……と与えてしまう親がいる。たとえば新しいテ
レビゲームが、発売になったりすると、それを買い求めるために、祖父母が並ぶ。親が並ぶ。
「孫の喜ぶ顔が見たいから」「子どもが喜ぶ顔が見たいから」と。

 こうして多くの子どもたちは、欲望のウズの中で、夢や希望が何であるかもわからないまま、
したがって目標をもつこともなく、思春期を迎える。この時期、イドは肥大化し、活性化する。そ
のイドがもつエネルギーというか、パワーは、相当強力なものである。いかに強力なものである
ことは、すでに、みなさん、ご存知のとおり。

 ハレンチ事件を起こした、教育委員会の指導主事のような例は、まさに氷山の一角。つまり
この事件を裏から読むと、「指導主事ですらそうなのだから、いわんや思春期の子どもたちを
や……」ということになる。

●距離感

 では、「私は私」とは、何かということになる。

 それは距離感をいう。

 たとえばだれしも、たった数時間で、億万長者になれるとしたら、その話に興味をもつだろう。
方法としては、銀行強盗がある。現金輸送車の襲撃がある。しかし、そういうことをしてみたい
という(思い)と、実際の(行動)との間には、(距離)がある。

 この距離感の短い人を、自己管理能力の弱い人という。この距離感の長い人を、自己管理
能力の強い人という。

 「私は私」という自我の確立の進んでいる子どもは、その距離感が長い。心の中で、そう思っ
たとしても、それを実行に移すには、かなりのエネルギーを消費しなければならない。そのエネ
ルギーを感じて、その一歩手前で、心にブレーキをかける。たじろいで、その先へ進むのをや
めてしまう。

 が、その距離感の短い子どもは、それをそのまま、アクセルを踏んでしまう。行動に移してし
まう。

●やがてあなたの子どもも……

 幼児をもつ母親や父親たちは、みな、穏やかな顔をしている。そして中学生や高校生の非行
問題を見聞きしたりすると、「うちの子にかぎって……」とか、「うちの子は、だいじょうぶ」と思
う。

 それもそのはず。この時期の子どもたちは、天真爛漫(らんまん)、まさに天使のような表情
をしている。親の指示にも、すなおに従う。悪とは無縁の世界に住んでいるかのようにも、見え
る。

 しかしそれがその子どもも、やがて大きく変化する。今の子どもの様子を、5年後、10年後
の姿と思ってはいけない。とくに思春期になると、子どもは、一変する。ここに書いたように、イ
ドの力が活性化する。個人差もあるのだろうが、それは、ものすごいパワーと考えてよい。

 そのパワーが、やがてすぐ、子どもの心を裏から、あやつるようになる。で、そのとき、そのパ
ワーが、適切に発散されれば、それでよし。そうでなければ、その子どもの心、そのものを、大
きくゆがめる。

 もちろん、関心内容も、行動内容も、大きく変化してくる。総じてみれば、子どもの非行の原
動力となっているのも、このイドを考えてよい。(ただしフロイトは、そう説いたが、それにつづく
ユングは、「性的エネルギー」ではなく、「生的エネルギー」と説いた。生きる力こそが、その源
泉にあると説いた。念のため。)

●では、どうすればよいのか? 

 こうした変化、つまり思春期というのは、どの子どもも経験するものであり、その変化のし方
は、まさに千差万別。ひとつとて、定型はない。

 あなたがそうであったからといって、あなたの子どももそうであると考えるのは、まちがい。あ
るいは先にも書いたように、「うちの子はだいじょうぶ」と、高をくくるのも、まちがい。

 あなたの子どもは、あなたの子どもとして、思春期を向かえ、変化していく。で、そのとき、ポ
イントは、2つある。

 ひとつは、それまでに、どうやって子どもの中に、自我を確立させていくかということ。そしても
うひとつは、イド(性的エネルギー)は避けられないものだとするなら、そのイドを、どうやって適
切に発散させていくかということ。

 方法、つまり各論については、すでにあちこちで私が書いてきたとおりだが、自我の確立につ
いては、子どもの中に、夢や希望を育てることで対処する。目的がしっかりと定まれば、先に書
いた、(距離感)が生まれる。この距離感が、子どもをして、より自己管理能力の高い子どもに
する。

 また「適切に発散させる」ということは、子どもの存在感を、何らかの形で用意するということ
になる。そのために、私は、「一芸論」を説いてきた。「これこそ私」という一芸を、子どもにもた
せる。

 その一芸が、性的エネルギーを、発散する場所として機能するようになる。

 これらの原稿については、以前、書いたものを、このあとに添付しておく。

【はやし浩司より、MFさんへ】

 今の対処のし方で、正解です。

 こうした問題は、「今以上に、悪くしないことだけを考えながら、子どもの様子を、数か月単位
でみる」が、大原則です。

 無理をすれば、子どもは、さらに、二番底、三番底へと落ちていきます。

 このことに気づいた今、MFさんには、もう迷いはないはず。5年後、10年後には、笑い話に
なりますから、今のまま、進んでください。いつかあなたは、娘さんにこう言うのです。

 「あなたも、あのころ、ずいぶんとお母さんに、心配をかけたわね」と。

 すると娘さんは、こう言います。「そうね、ごめんなさい」と。

 今のMFさんには、わからないかもしれませんが、(また、それを奨励するわけではありませ
んが)、こうした非行(?)を経験した子どもほど、あとあと常識豊かで、世間の道理がよくわか
る子どもになります。

 それを信じて、どうか、この時期を乗り切ってみてください。方法は簡単。川の流れに乗って、
川を下るように、時の流れに、静かに身を任せばよいのです。あとは、時間が、この問題を解
決してくれますよ。

 では……。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●三種の神器

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

(補足)子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの一芸論

 Sさん(中1)もT君(小3)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケー
トで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子
どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その
子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、10年後。ひ
ょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金を
稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(2歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学2年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)もそ
うだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。
パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ
ック言語を、中学1年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向
かって創造的なものをいう。「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれる
ものという意味である。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そう
いう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつし
かいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」とい
う状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春
期の子どもの心理 子供の思春期 思春期の子供 子供の心理)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

ついでに、子どもの中に、「私は私」という
意識を育てるためには、子どもを自由にする。

「自由」とは、もともと、「自らに由(よ)る」と
いう意味である。

それについて書いたのが、つぎに原稿です。

どうか、参考にしてください。

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子育て自由論(中日新聞掲載済み)

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己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたとき
のこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1312)

【子育てポイント】

●ぼんやりする

 子どもは、ふとしたきっかけで、ぼんやりすることがある。英語ではこれを、「デイ・ドリーム」と
いう。日本語では、「白日夢」と訳すが、幻覚をともなうような白日夢とは違う。デイドリームとい
うのは、「ぼんやりすること」をいう。

 このデイドリームは、心の洗濯と考える。子どもは、ときどきぼんやりすることで、心のホコリ
を払う。悪いことと決めてかかってはいけない。たとえば、あのニュートンにしても、エジソンにし
ても、よくぼんやりと、ひとり考えにふけることがあったという。「デイドリーマー(夢見る人)」とい
うニックネームがつけられていた。

 もちろん、いつもぼんやりしているとか、無気力なままぼんやりとしているというのは、好まし
いことではない。慢性的な睡眠不足の子どもも、よくぼんやりする。

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●子どもの睡眠不足(中日新聞掲載済み)
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 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」とい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ
いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し
てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが
不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生彩の
ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ
かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。
(これに対して昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 睡眠
不足 子どもの睡眠不足 子供の睡眠不足


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●ハングリー精神を大切に
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 子どもを伸ばす、最大の秘訣は、子どもをいつも、ややハングリーな状態におくこと。与えす
ぎ、しすぎは、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。「子どもには、これくらいすればいい
かな」とか、「ここまでさせようかな」と迷ったら、その一歩手前でやめる。たとえば子どもの学習
量にしても、三〇分くらいは勉強しそうだなと思ったら、思い切って、一五分でやめる。ワークブ
ックでも、二ページくらいならしそうだと思ったら、一ページでやめる、など。要するに、ほどほ
ど、に。

 とくに注意しなければならないのが、「欲望の満足」。子どものばあい、安易に欲望を満足さ
せてはいけない。たとえば子どもが「ゲームを買ってほしい」と言ったとする。「ほしい」というの
が、その欲望ということになる。問題は、欲望を満足させることよりも、それになれてしまうこと
である。たとえば幼児期に、一〇〇円、二〇〇円の買い物になれてしまった子どもは、中学
生、高校生にもなると、一万円や二万円の買い物では、満足しなくなる。いわんや、幼児期に、
一万円、二万円のものを手に入れることになれてしまったら、その子どもは、どうなるか?

 中には、「うちの子だけ、ゲーム機をもっていないと、友だちから仲間ハズレにされる」と、悩
んでいる親がいる。「いつも友だちの家に行って、ゲームばかりしている」とも。「だから買って
あげるしかない」と。

 ケースバイケースだから、そのつど親が判断するしかない。が、これだけは言える。今の日
本人ほど、モノやお金に固執する民族は、そうはいないということ。五〇年前とくらべても、日本
人は大きく変わった。今、ほとんどの親たちは、あまりにも安易に子どもにモノを買い与えてい
る。そして「子どものほしいものを買ってあげたから、子どもは親に感謝しているはず」「親子の
パイプも太くなったはず」と考える。しかしこれは誤解。あるいは逆効果。

 たとえばこのケースでも、親が子どもにゲーム機を買ってあげれば、子どもは親に、一応「あ
りがとう」と言うかもしれない。しかしそれはあくまでも、「一応」。さらにこわいのは、こうしてでき
た親子のリズムは、そのまま一生つづくということ。いつかその子どもがおとなになったとき、そ
の親は、こう考えるようになる。

 「うちの子だけ大学を出ていないというのでは、みんなに仲間ハズレにされる」「うちの子だ
け、あんなC結婚場で結婚すれば、バカにされる」と。ものの考え方がズレているが、そのズレ
にすら気がつかない。リズムというのは、そういうもので、自分で自分のリズムに気づくというこ
とは、まずない。その狂ったリズムが、いつまでもつづく。

 子どもをハングリーな状態におく……。一見簡単なようで、実際には、そうでない。子育て全
体のリズムの中で考えるようにする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
ものやる気 子供のやる気 やる気 やる気を引き出す)


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●小づかい一〇〇倍論(中日新聞掲載済み)
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子どもの金銭感覚

 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感
覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期
を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、お
となの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買い与
えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円に相当す
る。

「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、
将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくな
ったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。あるいは「子
どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ども(小
二男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行っても
らう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてし
まう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入り
にくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容
そのものが、昔とは違う。変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビ
にこんなシーンが出てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答
えていた。「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚その
ものが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。千円
のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与えると
しても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その前
に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。どちらにせよ、し
かしこれだけは覚えておくとよい。

五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校
生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えなくてはならな
くなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と
度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあな
たの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労する
のはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。

+++++++++++++++++++++

●それでも、ゲームを買ってあげたい、あなたへ、

 「そうは言われても、やっぱり子どもにゲームを買ってあげたい」と思っているあなたは、こう
すればよい。

 クリスマスや誕生日には、心のこもった温かいものをプレゼントする。手作りのものがよい。
そしてゲームは、父親が自分で買ったという前提で、別の日に、買う。そして子どもには、「とき
どきパパに貸してもらおうね」と言えばよい。こうすれば、あとあと指導もしやすくなる。「これは
パパのものだから、パパに借りて使うのだよ」と言うこともできるし、「友だちが遊びにきたら、
パパに使っていいかって聞くのよ」と言うこともできる。遊ぶ時間も、それで決められる。「パパ
が、一時間なら使っていいと言ったよ」とか。

 またこうすることに、つまり父親が主導権をにぎり、子どもと一緒に遊ぶことにより、親子のパ
イプも太くなる。あくまでも一つのアイディアだが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの小遣い 子供の小遣い 小遣いの与え方 小遣い100倍論)


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●子どもは目を見て、判断する
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 子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。外見のハデさに、だまされてはいけない。賢
い子どもの目つきは、静かに落ち着いている。鋭い。輝いている。そうでない子どもの目は、そ
うでない。どこかフワフワとして、つかみどころがない。最近収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕され
た、国会議員のS氏の目を見て、私は驚いた。まるで死んだ魚の目のような目をしている。あ
あいう人間が、国会を動かし、国政を動かしていたかと思うと、ぞっとする。

 話はそれるが、あなたが子どもを叱るとき、子どもの目が、どのようであるかを見てみるとよ
い。そのときあなたの子どもの目が、じっと下へ沈むようであればよし。そうでなく、どこかフワ
フワしていたら、あなたが叱る割には、その効果はないとみる。たいていはこわいから、おとな
しくしているだけ。ある子ども(小三)はこう言った。「ぼくはママに叱られているとき、ポケモンの
歌を、心の中で歌っている」と。

 「外見のハデ」ということが、幼児教育の世界では、よく話題になる。ペチャペチャとよくしゃべ
り、反応もはやい。何か質問をすると、「ハイ!」と言って、それらしいことを言う。このタイプの
子どもは、一見、利発に見えるが、実際には、何も考えていない。テレビのバラエティ番組に出
てくる、お笑いタレントを見れば、それがわかる。軽薄なことを、思いついたまま、言葉にしてい
るだけ。

 賢い子ども、よく考える子どもは、一方、見た感じの反応はにぶい。何かテーマを与えたりす
ると、それを何度も頭の中で反復するようなしぐさを見せる。これは生まれつきというより、習慣
によるものと考えてよい。つまり賢い子ども、よく考える子どもをつくるのは、親の育て方の問
題ということになる。

 ともかくも、子どもの能力は、子どもの目を見て、判断する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの見方 考え方 子供の見方 考え方 賢い子供 子供の目つき)


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●考える子ども(中日新聞掲載済み)
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人間は考えるアシ

 パスカルは、「人間は考えるアシである」と言った。「思考が人間の偉大さをなす」とも。

 よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別
のことである。たとえば、こんな会話。

 A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「いいね」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて取り出しているにすぎな
い。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラ
と言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数がで
きるということにもならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に、意味がある。正しいとか、間違っ
ているとかいう判断は、それをすること自体、間違っている。こんなことがあった。ある朝幼稚
園へ行くと、一人の園児が一生懸命穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石
の赤ちゃんをさがしている」と。

その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為
かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、
パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。私はそれを心配する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 考え
る 思考と情報 思慮 子供の思慮 子供の思考力)

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●叱るテーマはひとつ
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 子どもを叱るときは、おとなの目線を子どもの目線の位置までさげる。具体的には、おとなの
ほうが、腰を落として、子どもの身長の高さにまで、身をかがめる。子どもの両肩をしっかりと
つかみ、子どもの目をしっかりとにらみながら、言うべきことを言う。おどしたり、威圧してはい
けない。子どもに恐怖心をもたせてはいけない。子ども自身に、考えるようにし向ける。

 そしてそのとき、叱るテーマはいつもひとつ。あれこれ、同時に叱ってはいけない。とくに大切
だと思うテーマだけを、ていねいに叱る。また過去の話を、あれこれもちださない。「いつになっ
たら!」「あんたは、また同じことを!」と叱るのは、タブー。そして一度叱ったら、あとはときを
待つ。同じことを、クドクドといつまでも言うのもタブー。『親子げんかは、一日で消す』という格
言も、私が考えた。同じように、『叱ったことは、一日で消せ』。

 ところで先日(〇二年一一月)、市内のS小学校で講演をしたあと、その学校の校長とこんな
ことが話題になった。何でもその少し前、テレビ番組の中で、ある評論家が、「子どもを叱ると
きは、子どもの横から叱れ」と言ったというのだ。それについて、その校長は、「たしかに威圧
感をやわらげるという意味では、効果的かもしれませんが、しかし実際的ではないですね」と。
私も同意見だった。

子どもを叱るときは、しかも真剣に叱るときは、子どもの前にすわり、子どもの目をしっかりと
見つめながら叱る。これはもう常識。横から子どもの肩を抱きながら叱って、それで本当に叱
れるのだろうか。ときどき、こういう(どこか風変わりな子育て論)を説く人が現れる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の叱り方 叱り方のコツ 叱る 子どもを叱る)

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●子どもの叱り方(中日新聞掲載済み)
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子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)
(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。『子どもの脳は耳から遠い』
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる
(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく
(4)興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、
(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。
幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな
る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、
ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎて子どもがうぬぼれて
しまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。

「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結果が悪く、子どもが落ち
込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの理解を示してあげる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の叱り方 伸ばし方)


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●居なおり論
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 子育てをしていて、何かのカベにぶつかったら、その時点で居なおる。「こんなものだ」「どうで
もなれ」「勝手にしろ」と。

私はよく親に、「腹を決めなさい」と言うが、それもそのひとつ。たとえば子どもの夜尿症にして
も、親があれこれあせっている間は、なおらない。しかし親が、「オシッコをしたければしろ。あ
と何年でもかまわない!」と宣言したとたん、不思議と、なおるもの。そういうことは、子どもの
世界では、よくある。

 居なおることにより、親はそこで親は、覚悟を決める。この覚悟が、一本のスジになる。この
スジが、親の迷いを吹き飛ばし、子育てをわかりやすいものにする。そしてそれが子どもに、安
心感を与える。この安心感が、子どもの心に風穴をあける。

……と、どこか、『風が吹けば、オケ屋がもうかる』のような話になったが、これは事実。心理学
の世界にも、フリップ・フロップ理論というのがある。判断がどっちつかずで、フラフラしている
(=フリップ・フロップ状態)ときというのは、心もたいへん不安定になる。しかしどちらかへころ
んでしまえば、心は落ちつく。

 不登校……? 休みたければ、いくらでも休め!
 心の病気……? 何年かかっても、結構。私がなおしてやる!
 体や心に障害がある……? それがどうだというのだ!

 こうしてひとつずつ、居なおっていく。その居なおりのし方が、サバサバしていればしているほ
ど、あなたも明るくなるが、子どもも明るくなる。その時点から、前に進むことができる。要する
に、問題があっても、それには抵抗しないこと。してもムダ。子育てには、居なおりはつきもの。
それを覚えておくだけでも、あなたの心は、ずいぶんと軽くなるはず。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 行き
詰ったときの子育て論 育児論)


+++++++++++++++++
●たくましさは、緊急時をみる
++++++++++++++++++

 子どもが本当にたくましいかどうかを知るためには、緊急時をみればよい。緊急時に、その
つど、臨機応変に、的確にこうどうできれば、その子どもは、たくましい子どもとみる。見かけ
や、外見で判断してはいけない。言葉のいさましさに、だまされてはいけない。こんなことがあっ
た。

 Y君(中二)は、体も大きく、親分的な感じがする子どもだった。大声で怒鳴ったり、ときには
友だちに暴力をふるうこともあった。そのY君たちを、キャンプに連れていったときのこと。私が
別のところで夕食を料理していると、そのY君が、ワーッと泣きべそをかいて、私のところへ飛
んできた。異様な雰囲気だったので、「どうした!」と聞くと、「たき火が一挙に燃えあがって、こ
わくなった」と。あわてて火を見にいくと、その火が近くの雑草に燃え移るところだった。私はす
かさず足で踏んで火を消したが、それにしても……? Y君のたくましさは、見かけだけだっ
た。

 一方、こんな子どももいた。何かのことで母親が家をあけることになった。実家での急用がで
きた。そこで母親は、年長児になったばかりのE君に、あれこれ家事を指示して、家をあけた。
母親はそのつど電話をしたというが、あとで母親はこう話してくれた。

 「いざとなれば、何でも子どもはしてくれるものですね。妹の世話はもちろん、料理も炊事もし
てくれました。戸じまりも、消灯も。寝るときは、妹を寝かしつけてくれました」と。こういう子ども
を、たくましい子どもという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 たくま
しい子供 たくましい子ども 緊急時の子ども)


+++++++++
●あせりは禁物
+++++++++

 子育てをしていて、(1)あせり、(2)イライラ、(3)子どもの遅れを強く感じたら、親は手を引
く。それは子どものためでもあるし、あなた自身のためでもある。今の状態をつづければ、子ど
もは勉強嫌いに、そしてあなたはノイローゼになる。最悪のばあいは、神経症から精神を病ん
で、うつ病になる。が、それだけではすまない。

親子関係は破壊され、家庭そのものもおかしくなる。では、どうするか? あなたはあなたで、
子どもの勉強にはかまわず、子育て以外で、自分の生きがいを見つける。が、それでも「勉強
を……」ということなら、プロに任せたほうがよい。多少、お金を出しても、そのほうが、結局は
安あがりになる。

 何が悪いかといって、親のあせりほど、悪いものはない。ホント! 原因はいろいろ考えられ
る。子どもへの不信感、子どもへの愛情不足、生活の問題、学歴信仰、見栄、メンツ、世間
体、自分自身の精神的欠陥や、情緒の未熟性、さらには将来への不安などなど。そういうもの
が、こん然一体となって、親の心をゆがめる。そこでチェックテスト。あなたはつぎの項目で、い
くつが自分に当てはまるだろうか。

(1)子どもの横に座って、勉強を見ていると、イライラすることが多い。あるいはそのつど、子ど
もを叱ってしまう。
(2)近所の子どもと、何かにつけて比較してしまう。自分の子どもだけができが悪く、また問題
があるように見える。
(3)ほかの親たちと話をしていると、いつも不安になる。「子どもの将来はどうなるか」と考える
だけで、夜も眠られないときがある。
(4)何かにつけて、自分の子どもには問題があるように見える。ささいな失敗であっても、いつ
もおおげさに子どもを叱ってしまう。
(5)子どもが園(学校)に行っていても、子どものことが気になる。子どものことを考えると、家
にいても、気が晴れない。

 これらの項目で、3〜4個以上当てはまれば、あなたはまさにイライラママ(パパ)と考えてよ
い。ある母親はこう言った。「買い物の帰りに、進学塾の光々としたライトを見ただけで、カーッ
と頭に血がのぼるのがわかりました」と。もしそうなら、冒頭にも書いたように、子育てから手を
引く。

 子育ては、本来、楽しいはず。それが楽しくない、楽しめないというのであれば、それは子ど
もの問題というより、あなた自身の問題と考える。ひょっとしたら、望まない結婚であったとか、
あるいは望まない子どもであったとか、あるいはあなた自身が、不幸にして、不幸な家庭で育
てられたということがあるかもしれない。そういった部分まで、一度、あなた自身を疑い、心の
中までメスを入れてみる。

この問題は、一見、親と子どもの問題に見えるかもしれないが、根は深い。このことについて
は、また別のところで考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親の
不安 親の情緒不安)


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●親とのつきあいは、如水淡交
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 親どうしのつきあいは、水のごとく、淡く交わるのがよい。ほかの世界のことならともかくも、
間に子どもがいるため、一度こじれると、そのまま深刻な問題へと発展してしまうことが多い。
数年前だが、親どうしの「言った」「言わない」がこじれて、裁判ざたになったケースもある。任
期途中で、転校をさせられた教師は、いくらでもいる。転向していく親や子どもは、もっと多い。

 東京のある幼稚園では、「子ども交換運動」をしている。自分の子どもを相手の家に預かって
もらうかわりに、相手の子どもを自分の家に預かるというのが、それ。「他人の家の釜(かま)
のメシを食べることはいいことだ」という教育理念から、それが始まった。しかしこの方法も、ひ
とつまちがえると、……? 預かったり、預かってもらったりするなら、できるだけ身近でない人
のほうが、よい。親どうしが親密になりすぎるというのは、それ自体、問題がある。理由はいく
つかある。

 「教育」と言いながら、その底流では、ドス黒い親たちの欲望が、渦を巻いている。とくに日本
では、教育制度そのものが、人間選別の道具として使われている。少なくとも、親たちは、そう
とらえている。こういう世界では、「うちの子さえよければ……」「他人を蹴落としてでも……」と
いう、利己主義的な論理ばかりが先行する。もともと「美しく、清らかな世界」を求めるほうが、
おかしい。そのため親密になることは悪いことではないが、相手をまちがえると、とんでもない
ことになる。

 一方、それを監督する、園や学校は、どうか? 20前、30年前には、まだ気骨のある教師
がいるにはいた。相手が親でも、堂々とけんかをしていく教師もいた。親に説教する教師もい
た。しかしそのあと、学級崩壊だの、いじめだの、教師による体罰だのと問題になっているうち
に、先生自身が、自信をなくしてしまった。ある小学校(I郡I町)の校長は、こう言った。「先生た
ちが萎縮してしまっています」と。

こういう状態をつくったのは、結局は、親自身ということになる。つまり園や学校の先生が、そ
れなりに(?)ことなかれ主義になったからといって、先生を責めることもできない。私にしても、
一〇年前なら、先生のだらしなさを責めたかもしれない。が、今は、むしろ同情する側に回って
いる。忙しいといえば忙しすぎる。「授業中だけが、息が抜ける場所です」と、こっそりと話してく
れた教師(女性)もいた。しかしそれとて、教育はもちろん、しつけから、道徳、さらには家庭問
題まで、私たち親が先生に押しつけているからにほかならない。

 ともかくも、親どうしのつきあいは、如水淡交。そうしていつも身辺だけは、きれいにしておく。
これは今の日本で、子どもを育てるための大鉄則ということになる。

(1)学校の行事、親どうしのつきあいは、あくまでもその範囲で。先生やほかの親に、決して個
人的な問題や、相談はしない。
(2)学校の先生の悪口、批判はもちろん、ほかの親たちの悪口や批判は、タブー。相づちもタ
ブー。相づちを打てば、今度は、あなたの言った言葉として、広まってしまう。子どもにも言って
はならない。
(3)子どもどうしのトラブルは、そのトラブルの内容だけを、学校に連絡する。相手の子どもの
名前を出したり、批判したりするのは、タブー。あとの判断は、先生に任す。
(4)先生への過剰期待は、禁物。あなただって、たった一人の子どもに手を焼いている。そう
いう子どもを三〇人近くも押しつけ、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。
(5)一〇人に一人は、精神状態がふつうでない親(失礼!)がいると思え。そういう親にからま
れると、あとがたいへん。用心するに、こしたことはない。
(6)子どもどうしのトラブルが、大きな問題になりかけたら、とにかくその問題からは遠ざかる。
見ない、聞かない、話さないに徹し、知らない、言わない、考えないという態度で臨む。できれ
ば、どこか「穴」にこもるとよい。
(7)それでも問題が大きくなったら……。時間が解決してくれるのを待つ。この種の問題は、へ
たに騒げば騒ぐほど、大きくなる。そしてそのしわ寄せは、子どもに集まってしまう。それだけ
は、何としても避ける。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 父母
間の交際 父母どうしのつきあい 父母の交際)


+++++++++
●表情は豊かに
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表情のない子どもがふえている。大阪市内で幼稚園を経営するS氏が、こう話してくれた。
「今、幼稚園児で、表情のない子どもや、乏しい子どもが、約二割はいる」と。

少し前に書いた原稿を掲載する。

++++++++++++++++++
スキンシップ
++++++++++++++++++

 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛ん
でしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベ
タしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッ
シュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いている。

 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせが
つくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の
角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱き
ぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく
根拠がない。)仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく
平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップにしかならないだろ
う。この日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分け
て考えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップ
への誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親であ
る、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあ
まりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃ
んの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一〜六か月の乳児を対
象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったと
いう。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きる
ことも推察できる、とも。

先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要だ
が、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人程度の割合
で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・堀内たけし氏)そ
うだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!

+++++++++++++++++++++

 一般論として、豊かな親の愛情に包まれて育った子どもは、表情が豊かで、すなお。「すな
お」というのは、心の状態と、表情が一致していることをいう。うれいしいときには、うれしそうな
顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。しかし心がゆがんでくると、それが一致しなく
なる。すねたり、ひねくれたり、いじけたりする、など。さらに症状が進むと、心と表情が遊離し
始める。うれしいはずなのに、無表情だったり、怒っているはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。

 その子どもが心を開いているかどうかは、抱いてみるとわかる。心を開いている子どもは、抱
くと、スーッと体をすり寄せてくる。しばらく抱いていると、自分の体と一体化し、さらに呼吸のリ
ズムまで同じになる。また親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさが、
子どもの心の中に、そのまましみこんでいくのがわかる。本来、子どもというのは、そうでなけ
ればならない……という前提で、考える。もしそうでないというなら、……。いろいろな問題が考
えられる。

 さて、あなたの子どもは、どうか? 園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただい
ま!」と言って、うれしそうな顔をするだろうか。もしそうなら、それだけでも、あなたの子ども
は、すばらしい子どもということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの表情 子供の表情 表情のない子ども 表情の乏しい子供 表情の豊かな子供 表情の
豊かな子ども)


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●「何とかしてくれ」言葉
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 日本語の特徴なのか? 日本人は、おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言わない。
「おなかがすいたア〜、(だから何とかしろ)」というような言い方をする。

幼児「先生、オシッコ!」
私 「オシッコがどうしたの?」
幼児「オシッコがしたい」
私 「ふうん、だったら、そこでしたら?」
幼児「ここでは、いやだ」
私 「どこでしたいの?」
幼児「トイレへ行きたい!」
私 「だったら、最初からそう言おうね」と。

 ほかにもいろいろ、ある。「のどがかわいたア〜」「足が痛いイ〜」など。幼児や子どもだけで
はない。私の叔母だが、電話で話すたびに、いつもこう言っていた。「オバチャンも、年をとった
からね……」と。つまり「年をとったから、何とかしろ」と。

 こうした言葉が生まれる背景には、日本人独特の、依存型社会がある。「甘え」という言葉を
使って表現する人もいる。つまりたがいに、ベタベタと依存することにより、支えあっている。ま
たそれを美徳と考えている。その一つの例として、たとえば今でも、子どもに向かって、「産んで
やった」「育ててやった」と恩を着せる親はいくらでもいる。それに対して、「産んでいただきまし
た」「育てていただきました」と言う子どもは、これまたいくらでもいる。ともに自立できない、つま
りは依存型親子ということになる。

 たがいに依存型世界に生きる人どうしにとっては、その社会は、それなりに居心地がよい。も
のごとが、ナーナーで動く。が、若い世代を中心に、「それではいけない」と言う人もふえてき
た。そうなると、そこで世代間の対立が生まれる。この対立が、親子関係、さらには家族をぎく
しゃくしたものにする。今、この問題は、日本中の、あらゆる場所で、またほとんどの家庭で起
きつつあるといってもよい。

 英語国では、親子でも、「お前は、パパに何をしてほしい」「パパは、ぼくに何をしてほしい」と
たがいに聞きあっている。これからの日本で求められるのは、こうしたわかりやすさではないの
か。だから……。子どもがここでいう「何とかしてくれ」言葉を口にしたら、「それがどうなの?」と
言って、それをたしなめる。これは子どもを自立させる、そして親自身も自立する、第一歩と考
えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの依存性 子供の依存性 依存型社会 甘えの問題 親の恩着せ 何とかしてくれ言葉)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1313)

【雑感・あれこれ】

●2人目の孫、誕生!

 昨夜遅く、二男から電話があった。娘が生まれたという。予定通り、5月18日。アメリカでも、
5月18日。

 電話を受け取ったワイフの話では、名前は、「May(メイ)」になりそうとのこと。5月だから、M
ay(5月)か?

 少し前は、「Meg(メグ)」にするかもしれないと言っていた。しかし漢字では、どう書くのだろ
う?

 芽衣……あたりが、標準的? 林芽衣か?

 長男の誠司は、2週間ほど、早く生まれてしまった。しかし今度の孫は、ピッタシ、予定どお
り。よかった!


●古(いにしえ)時計

 今度、書店で、『古時計』なる雑誌が発売になった。さっそく、1冊買ってみた。毎号、復刻版
の時計が付録として、ついてくる。本物の懐中時計である。

 が、この時計、昨日買ったばかりなのに、狂いぱなし。で、今朝、書店に電話をすると、「取り
かえます」とのこと。

 「これなら講演で使いやすそう」と喜んでいたが、がっかり。見た目はともかくも、ムーブメント
は、あまりよいのを使っていないのかも(?)。

 調子がよければ、オーストラリアの友人にも送ってやろうと考えていただけに、残念! (悪
口を書いて、ゴメン!)

(追記)

 で、昨日、書店へもっていくと、すぐ取りかえてくれた。で、その時計だが、今のところ、たいへ
ん正確! 我が家の電波時計とくらべてみたが、12時間で、誤差は、1秒以内! これなら、
いける! やはり私の運が悪かったということか。

 次号も買うつもり。


●孫の、メイ(MAY・芽衣?)が、誕生

 2006年5月18日、夜遅く、二男から、電話。孫のメイが、無事、生まれたとのこと。我が家
で迎える、はじめての女児である。


「女の子かア? どうやって抱けばいいのかねえ?」とワイフに言うと、「そうねエ〜」と。

 私は男児は、得意だが、どうも女児が苦手。教えるのも苦手。相手が男児だと、言いたいこ
とも言える。しかし女児だと、いつも、遠慮してしまう。

 写真を何枚か見たが、やはり、私にゼンゼン、似ていない。(よかった!)私に似た女の子と
いうのも、かわいそうだ。

 ワイフも、「S(二男)にも、D(二男の妻)にも、似ていないわね」と。

 しかし子どもの顔というのは、年齢に応じて、どんどんと変っていく。そしてそのつど、父親に
似たり、母親に似たりする。

 どうか、いつまでも、幸福に! 安らかな寝顔が美しい!


●中国

 中国製のパソコンに、何やら、とんでもない(しかけ)がしてあるという。勝手に、パソコンが、
情報(ファイル)を、外に漏洩(ろうえい)するという、しかけらしい。

 そこでアメリカの国防省は、中国から輸入したパソコン(元I社製)について、監視体勢に入っ
たという。その数、1万6000台。国務省が総額1300万ドルで調達した、業務用パソコンであ
る。

 以前から、「そういうこともありえる」と思っていただけに、「なるほど」と思ってみたり、「やは
り」と思ってみたりする。

 しかしこの問題についての、アメリカの反応は、どうもにぶい。

 ひょっとしたら、アメリカも、同じようなことをしているのでは? いろいろ勘ぐりたくもなる。

 ヤフーNEWSは、つぎのように伝える。

 「米国務省が中国政府系企業から大量調達したパソコンをめぐり、機器の(仕掛け)を通じた
中国への情報漏れを懸念する議会側が、不信感を募らせている。同省は18日、機密情報に
かかわる業務から、このパソコンを排除する方針を議会に書簡で伝えたが、議会側では、中
国のスパイ活動を助けかねない調達だとして、他の政府部門での中国製パソコンを含めて引
き続き監視する構え」(5・18)と。

 日本も、じゅうぶん、注意したらよい。どうも、あの国は、信用できない。ホント!


●三峡ダム

 中国、長江にかかる、世界最大のダムが、20日、完成するそうだ。

 ダムの堤本体は、全長2309メートル、高さ185メートル。1994年の正式着工から約12年
もかかったこのダムは、20日午後2時(日本時間同3時)に完工し、内部関係者だけで完工式
典が行われるという。

 巨大なダムである。何でも、日本の黒部第4ダム、約54基分の発電所を備えるという。が、
問題は、山積しているらしい。自然破壊、景観破壊、生態破壊、住民への補償問題、水質汚
染問題、周辺湖水問題、水流問題などなど。ダムの下流では、今後いっそう、洪水が起こりや
すくなるという説もある。

 が、何といっても最大の問題は、土砂。長江は、もともとゆっくりと、かつゆったりと流れる川
である。つまりその分だけ、土砂が堆積しやすい。すでに03年から05年までに堆積した土砂
は、3億トン以上(産経ニュース)にもなるとか。

 3億トンと言われても、ピンとこないが、3トントラック(小型トラック)で、1億台分。この量を2
年(730日)で割ると、毎日約13・7万台のトラックということになる。そのトラックで、土砂を埋
めていることになる。

 つまり反対に考えると、毎日、3トントラックで、13・7万台分の土砂を取り除かないと、三峡
ダムの維持はむずかしいということになる。(13・7万台だぞ!)

 しかしそんなことが、可能なのだろうか? 中国政府は、「(このダムのおかげで)、毎年、火
力発電による二酸化炭素放出量を1億トン以上減少させることになる」と、おめでたいことを言
っている。が、毎日、13・7万台のトラックを走らせれば、どれだけの二酸化炭素が空気中に
排出されることになるのか、それがわかっているだろうか。

 放置すれば、10年で、15億トン。30年で、45億トンもの土砂が、三峡ダムに流れ落ちるこ
とになる。

 悲しいかな、このプロジェクトの失敗は、目に見えている。そのせいか、産経ニュースは、つ
ぎのように伝えている。

 「(20日には)、内部関係者だけで完工式典が行われる」と。

 わかる、わかる、その気持ち!


●お人よし外交

 K国が、ミサイル発射実験に向けての準備(?)をしているという。各新聞は、「恫喝(どうか
つ)外交」と報じている。

 しかし私の印象では、K国に、長距離弾道ミサイル(テポドン2号)を飛ばす技術も技術力も、
ない。ないことは、一連の対艦ミサイルの発射実験を見ればわかる※。

 ひとつの科学だけが、ある国で、特異に発達するということは、ありえない。その科学が発達
するためには、その科学を支える、周辺科学の発達がなければならない。その周辺科学に支
えられて、ひとつの科学が、発達する。

 が、K国には、乾電池を生産する工場すらないという。どうしてそういう国が、長距離弾道ミサ
イルなど、作ることができるというのか?

 仮にできるとするなら、問題は、韓国である。

 韓国は、今、せっこらせっこらと、そのK国を助けている。助けるなら助けるで、まず、K国の
核開発問題、ミサイル問題を解決してから、すべきではないのか。それもしないで、今、K国を
助けるというのは、話の順序がちがう。韓国イコール、K国とみなされても、文句は言えないは
ず。

 その韓国、ICバブルがはじけて以来、このところ、急速に経済状況が悪化している。このまま
では、ここ1、2年のうちに、再びデフォルト(国家破綻)に陥る可能性も出てきた。

 それを察知してか、外資系企業が、今、つぎつぎと韓国から撤退している。

 そこでここが重要だが、日本も、もうお人よし外交は、すべきではない。90年末、K国が食糧
危機に陥ったとき、時の日本の外務大臣のK氏は、周囲の反対を押し切って、120万トンもの
食糧援助を決めてしまった。

 「これでK国が動かなかったら、責任を取る」と、まあ、かっこよいことをK氏は言ったが、その
K国は、何も動かなかった。ついで、そのあと、K氏も何も責任を取らなかった。

 韓国も、K国も、そういう国である。(ついでに日本の政治家も、そういうものである。)

 「韓国がデフォルトしても、日本は、構わない」……とまあ、それくらいの覚悟は、今からして
おいたほうがよい。日本は、韓国なしで、いく。やっていかれる。日本も、かなりの被害をこうむ
るかもしれないが、たかが竹島という小さな領有権問題で、「物理的制裁(=軍事的行動)を加
える」と、大統領自らが公言するような韓国である。

 この際、もう遠慮することはない。

 日本は、日本の国益だけを第一に考えて、行動する。韓国ならびに、K国と対峙する。

注※…ただし中国や、旧ソ連の技術者が介入していれば、話は別。その可能性は、多分にあ
るが……。


●パスワード

 近く、私が使っているパスワードを、全面的に見直すことにした。現在は、xxxxyyyyだが、こ
れだと、すぐ解読されてしまうという。パスワードを解読するための、専用のソフトも、裏の世界
では、数多く、流通しているという。

 先日、パソコンショップへ行ったら、そこの店員がそう教えてくれた。

 そこでいろいろな雑誌などを読むと、英文字と記号、それに数字を混在させたパスワードが、
よいそうだ。しかしそれでも安心できない。「できれば、数か月ごとに変更したほうがいい」との
こと。

 そこでそのパスワードに、暗号を混ぜるという方法が、一般化しているという(某・パソコン雑
誌)。

 たとえば、(hayashi)に、(hiroshi)を1文字ごとに混ぜると、(hhaiyraisshhii)となる。これ
に生年月日の数字を、順に混ぜる。

 すると(h1h2a3i4y5r6a7i8s9shhii)となる。

 この(h1h2a3i4y5r6a7i8s9shhii)から、先頭から、3文字ごとに選び出すと、最終的に
は、(h2i5a8si)となる。これに記号の、(+)や(*)を混ぜる……。すると(h2i*5a8+si)と
なる。

 ……頭が混乱してきた。暗記するだけでも、たいへんだ!

 で、現在、私のばあい、その重要度に応じて、4種類のパスワードを使いわけている。

 一番簡単なのは、yxxxx。これはBLOGや、マガジンなどにアクセスするときに使っている。
一番むずかしいのは、yyyyxxxxxxxxx。これはネット取り引きなど、お金がからむサイトにアク
セスするときに使っている。

 これからも、こうした知恵比べは、つづく。もっとも私のHPにせよ、マガジンにせよ、パスワー
ドが解読されたところで、どうということはない。見たままが、そのまま。秘密は、何もない。

 今回、パスワードを見なおすのは、あくまでも、念のため。みなさんも、くれぐれも、ご注意の
ほどを!


●泥棒の家は、戸締りが厳重(?)

 知人から、こんな話を聞いた。聞きながら、何度も、「本当ですか?」と言ったほど。その話と
いうのは、こうだ。

 その家には、75歳前後の老夫婦が、2人で住んでいる。ともに、まあまあ健康というところ
か。

 その老夫婦のうち、とくにダンナのほうが、異常なまでに、戸締りが厳重。毎晩、すべての雨
戸を閉め、その雨戸を内側からロックしてから、寝るという。が、その程度の話なら、よく聞く。
が、ここからがすごい。

 タイマーで作動するしかけがいくつか作ってあって、門灯と、洗面室の電気などは、老夫婦が
いてもいなくても、自動的に、ついたり、消えたりするという。さらに、ガラス戸にはすべて、防犯
ブザーがついているという。

 そのうちいくつかはダミーだというが、その家の周囲には、監視カメラもついているという。

 私が、「本当ですか?」と驚いていると、さらに、その知人は、こう話してくれた。

 「たとえば日中、2人で外出するようなことがありますね。そういうときは、テレビはわざと、つ
けっぱなしにしていきます。また外出したことがわからないように、車庫にはリモコンで開閉す
るシャッターがとりつけてあります」と。

 その知人によると、実にこまめに、こうした対策をほどこしてから、外出するとのこと。

 私が、「何を、そうまで心配しているのでしょうね」と聞くと、知人は、笑いながら、「泥棒です
よ」と。

 で、私は、こう言った。「昔から、泥棒の家は、戸締りが厳重と言うでしょ。ひょっとしたら、そ
の人は泥棒かもしれませんね」と。

 するとその知人は、さらに大きな声で笑いながら、こう言った。「ビンゴー! その男性はね、
泥棒ではありませんが、退職前は、防犯課の警察官をしていたそうです」と。

 ナルホド!

 『泥棒の家は、戸締りが厳重』を言いかえると、こうなる。『警察官の家は、戸締りが厳重』と。

 長い間、泥棒をつかまえる仕事をしていると、世間の人たちがみな、泥棒に見えるようになる
のかもしれない。

 おもしろい心理なので、記録のために、ここに書きとめておくことにする。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1314)

【自分をさらけ出して生きる】

●ある母親からの相談より

++++++++++++++++++

子どもとの不協和音。
子どもに気をつかい、
思ったことを言うこともできず、
毎日、悶々としているという。

++++++++++++++++++

【Fさんより、はやし浩司へ(1)】

掲示板に書く勇気がありませんでした。何度もすみません。読んでいただくだけで。

私が今までやっていたことは、ほとんど虐待でした。手をあげたことも何度もあります。感情に
まかせて怒鳴るなんてことは、しょっちゅうでした。

ヒステリックに泣いたりしました。夫はそこまで私がしているとは、思ってないようです。

学校ではあまり目立たないほうで、問題なく見える息子。このところとにかく物事の負の部分し
か見ない感じで、習い事などでも、楽しかったことより、いやだったことを口にして、悪態ばかり
つきます。

学校も習い事もすべて嫌だ、やめたいと、今夜も言っていました。それをずっと優しく聞き出し
ていたのは夫です。先日、夫に初めて激しく怒られてから、息子は、特にわがまま、無理難題
を、夫に対して言うようになりました。次から次へ、といった感じです。

あまりのことに夫は病院へ連れていった方がいいのかなと思っているようです。しかし異常な
のは私。外ヅラだけがよく、ウソばかりついています。そのため子どもをドラ息子にしてしまった
私。

息子が万引きをしたのは、私への罰の始まりかもしれません。これ以上酷い状態にならないよ
うに、こんな私でもできることはあるのか。息子を愛してきたという自信がもてないでいます。本
当の自分もよくわかりません。


【Fさんより、はやし浩司へ(2)】

 掲示板はやはり落ち着かなくて、こちらに書くことお許しください。いただきましたご助言を胸
に刻んで、2週間過ごしてきました。自分との戦いは、始まったばかりなのに不安です。

まず心配なのが、子どもの様子です。習い事へ、三つ通っているのですが、それには、行かな
い、と言っています。

遅く寝て、朝、早く起きる、夕食後の風呂にはじまって、就寝までが、なかなかうまくいきませ
ん。

お父さんがかってくれた、N社のゲーム機器で、毎日、ゲーム三昧です。

その後、万引きはしていないようです。(先週私の財布から抜いたお金で、内緒で買い物はし
たようですが……。) 

怒りやすく、ワガママを言い出すと、あとへひかない。たいていお父さんがいる時ですが、ダダ
こねがひどい。

たとえばお父さんに、「会社を休んで欲しい、ゲームを買って」「学校がいやだ」と、強く言い出
すようになりました。

以前と変わらず、体をゆだねて、甘えてくる時もあり、私(達)を避けるようなことはありません。
ただ、夫がいる時は、以前と明らかに違う感じです。

今夜も夫に、「会社を休んで欲しい」とぐずぐずと泣き、私が抱きしめてとんとんして寝かしつけ
ました。三人でいると何かまた言い出すのではと、なんだか子どもの心を探るような雰囲気に
なってしまいます。

私のせいだとわかっていても、その私を責めもしない夫に本当に申し訳ない気持ちです。子ど
もがそこに「いる」だけでいいと、本当に心から思える時もある反面、私は結局夫にも「すべて
をさらけだし」をしていないように思います。もちろん子どもにも、です。

うそつきの私が、このままではどんどん悪い方向にいくのではと、心配で、胸が塞がったりしま
す。一日中とも言えるゲームの電子音を聞きながら、苦悩しています。

ご助言があれば、いただきたく存じます。お時間のない中、長々と失礼しました。

 
【はやし浩司より、Fさんへ】

 Fさんは、いわゆる「気負い先行型ママ」ということになります。「いい母親でいよう」「いい家庭
を作ろう」という気負いばかりが強くて、それで結果として、自分で自分を苦しめてしまっていま
す。

 息子さんについて言えば、親意識過剰というか、「いい子にしよう」という意識が、これまた強
すぎるように感じます。加えて、心配過剰、さらには育児ノイローゼ気味(?)。

 前にも書きましたが、この時期の子どもの万引き、盗みは、珍しくもなんともありません。一
応、言うべきことは言いながらも、あとは、『許して、忘れる』です。あまりおおげさに考えないこ
と!

 おけいこごとについても、そうです。いちいち子どもの機嫌をうかがって、子どもの言うこと
に、振りまわされてはいけません。無視すべきことは、無視。「そうね、たいへんね」と聞き役に
回って、それでおしまいにします。これを「ガス抜き」と、私たちは呼んでいます。

 子どもが、グチを言ったら、グチは聞いてあげれば、それでよいのです。

 そしてここが重要ですが、どうしてあなたは、子どもに嫌われるのを、それほどまでに恐れて
いるのですか? 嫌われてもいいと、もうそろそろ、居直りなさい。どうせ、嫌われるのですから
……。結論を先に言えば、あなた自身が、たいへん依存性の強い方だと思います。子育てをし
ながら、いつも無意識なまま、何かの見返りを求めている。それが回り回って、今の育児姿勢
になっていると考えられます。

 ゲームの音がうるさかったら、「うるさいわねえ」と言えばよいのです。それで子どもに嫌われ
ても、遠慮することはありません。つまりこれが(心のさらけ出し)ということになります。

 ただ、お子さんは、あなたに絶対的な安心感を求めています。が、それを得られないでいる
……。そういう状態です。あなた自身もわかっているように、あなたの育児姿勢には、一貫性
がありません。

 そこでこうします。『求めてきたときが、与えどき』と。

 子どもがあなたにスキンシップなり、甘えるなり、何かの愛着行動を示したら、すかさず、(こ
こが重要です。「すかさず」です)、子どもを抱きかかえてあげてください。そして力いっぱい、抱
いてあげてください。

 たいていものの数分もすると、子どものほうから体を放そうとしますので、そっと、水の中に魚
を逃がす要領で、子どもの体を放します。

 決して、「あとでね」とか、「今、忙しい」などと、言ってはいけません。「すかさず」そうします。

 子どもの心は、それで安定するはずです。「会社を休んでほしい」と、父親に甘えたときも、そ
うです。その旨、お父さん、つまりあなたの夫に、よく言い伝えておいてください。ぐいと抱いて
あげるだけで、じゅうぶんです。理由を言ったり、弁解したりする必要はありません。

 ホント、外づらをよくするのも、疲れますね。わかります、その気持ち!

 私も、若いころ、それなりの教師に見られたくて、苦労しました。しかしある日、気がつきまし
た。クソ食らえ!、と。

 それからは気が楽になりました。あるがままの自分を、さらけ出しながら生きるようになりまし
た。Fさんにも、今すぐは無理かもしれませんが、少しずつ練習すれば、それができるようにな
りますよ。

 ためしに、あなたの夫に向かって、(YES)(NO)をはっきりと言ってみては、どうでしょうか。
いやだったら、いやだと言えばよいのです。してほしかったら、してほしいと言えばよいのです。

 「あんた、今夜、セックスでもする?」「xxxxでもなめてあげようか!」と。(少し、ショックでした
か?)

 ハハハ。そういう形で、自分をさらけ出していきます。あとは、練習です。つまりね、あなたが
心を閉ざしていて、どうして子どもが、あなたに心を開くことができるでしょうか? 

 お子さんの年齢からして、もう、何でも、あなたの思い通りにはならないということを、肝に銘
じてください。夜更かしをして、翌朝困るのは、息子さんです。ですから、こまごまとしたことは、
あまり気にしないで、子どもに任せなさい。

 原因をたどれば、つまりなぜあなたが今、そうなのかという原因をたどれば、あなた自身の幼
児期から子ども時代に、問題があったとみます。権威主義的な親をもち、家父長意識の強い
家庭環境の中で、あなた自身が、いつも、(いい子)を演じていた。

 さらに言えば、あなたとあなたの父親との関係が、あまりうまくいっていなかったことも考えら
れます。そのため、(男)の扱い方が、わからないまま、今日に至っている……。

 一度、自分の過去を冷静に見つめてみる必要があります。で、この問題は、そうした自分の
過去を客観的に見ることができるようになっただけでも、問題の大半は解決したとみます。勇
気を出して、自分の過去と対峙してみてください。

 もっと肩の力を抜きなさい。カエルの子どもはカエル(失礼!)。それ以上高望みしないこと。
過剰に、子どもに期待をしないこと。「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめなさい! こ
の世界には、『あきらめは、悟りの境地』という格言があります。私が考えた格言ですが、あき
らめたとたん、あなたも、そして息子さんも、表情が明るくなるはずです。

 「こんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、逆効果ですよ!

 そしてあなたは、もう子どものことは忘れて、自分のしたいことをしなさい。息子さんは、すで
に親離れを始めていますよ。年齢的にも、その時期に来ています。この時期、親はさみしい思
いをするかもしれませんが、それに耐えるのも、親の務め。

 あとはCA、MG、Kの多い食生活に切り替えてみてください。海産物中心の献立にします。そ
れでも、(こだわり)が消えないようでしたら、一度、心療内科のドクターに相談なさるとよいでし
ょう。今では、すぐれた薬があります。

 あまりくよくよしないこと。少なくとも、万引きの問題は解決したのですから……。つぎからつぎ
へと、あれこれと問題をさがしだし、悩まないこと。「前よりもよくなった」ことだけを実ながら、あ
とは、前向きに生きていきます。

 では、また。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
の悩み 育児ノイローゼ 子供の問題 育児問題)

【補記】

●自分をさらけ出して生きる

++++++++++++++++++++

自分をさらけ出して生きるということは、
口で言うほど、簡単なことではない。

そのことは、子どもの世界を見ればわかる。

子どもの中にも、あるがままの自分を、
すなおにさらけ出しながら生きている子どももいれば、
そうでない子どももいる。

いつも他人の目を気にしながら、いい子ぶる
タイプの子どもである。

このタイプの子どもは、いつも自分を飾る。
ごまかす。作る。偽る。

だから本人も疲れるが、教える側も疲れる。
何を考えているのか、何を望んでいるのか、
それが正確にわからないから、ときとして、
どう教えたらよいのかわからなくなる。

そこで私の教室では、年中児で入ってきた
子どもについては、とにかく、大声で、
声を出させ、大声で笑わせるという指導を
大切にしている。

心の中のものを、すべて吐き出させるように
している。

しかし本当の問題は、母親にある。

母親の中にも、自分を飾る、ごまかす、作る、
偽る人は少なくない。

が、母親のばあい、問題は、本人だけにとどまらない。
その影響は、子どもに現れる。

もちろん夫婦関係も、ギクシャクしてくる。

だから……。

もし、あなたが、ここでいう、心のさらけ出しが
苦手のタイプの人なら、思い切って、
心を開いてみよう。

心を開いて、自分の思いや願いを、空に
向かって、解き放ってみよう。

方法は、簡単。

まず、YES、NOを、はっきりと言ってみよう。

したかったら、YES!
したくなかったら、NO!

自分をすなおに表現してみよう。

自分を飾らないで、
自分をごまかさないで、
自分を作らないで、
自分を偽らないで……。

心を解き放てば、体は、あとからついてくる。

++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の原点になっている、核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをい
かに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、世代を経て、引き継が
れる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

 (このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 この原稿を書いてから、ずいぶんになる。「交番へ届けます」と答えた子どもは、すでに成人
になり、結婚もした。以来、会ったことはないので、今ごろは、どういう考え方をしているか知ら
ない。

 しかしまじめな、いい生徒だった。それは認める。だから今、こうしてそのときのことを思い出
してみると、そういう生徒をからかったわたしの方がまちがっていたのかもしれない。「交番へ
届けます」と彼が言ったとき、私もすなおに、「そうだね。それがいいね」と言うべきだった。それ
で終わるべきだった。

 多かれ少なかれ、私たちはみな、仮面をかぶって生きている。もしみながみな、あるがままの
(私)をさらけ出して生きたら、それこそ、この社会は、動物の世界のようになってしまう。私は
私で、あなたはあなたで、いい人ぶりながら、生きていく。たとえそれが仮面であるとわかって
いても、だまされたフリをして、相手に合わせて生きていく。

 それでよいのかもしれない。

 ただこれだけは、書いておきたい。

 自由とは、自分をさらけ出して生きること。つまり自分をさらけ出して生きることを、自由とい
う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 仮面
 コアアイデンティティ 人格の核 さらけ出し すなおな人間 はやし浩司 世間体 見栄 体
裁 虚栄)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1315)

●虚栄

 「見栄。うわべだけの栄誉」「外見ばかり飾って、実質以上に見せること」を、「虚栄」という(日
本語大辞典)。

 英語では、「vanity」という。

 しかし、日本語で、「虚栄」というときと、英語で、「vanity」というときとでは、感じ方が、ちが
う。なぜだろう?

 ひとつには、そこに宗教的意味がこめられること。キリスト教では、「vanity」を、人間がもつ
原罪のひとつとして、それを強く戒めている。

 小学館の(ランダム・ハウス・英和辞典)によれば、こうある。

 Vanity……(1)うぬぼれ、慢心、虚栄心、(2)うぬぼれの表出、(3)ひどく自慢する、(4)無
価値、つまらなさ、(5)価値のないもの、つまらないもの、と。

 だから日本では、「お前は虚栄心が強い」と言われても、それほど、気にならないが、英語
で、「vanity」と言われたれたりすると、ぞっとする。何か、とんでもないまちがいを犯したかのよ
うにさえ思うこともある。

 そこで改めて考えてみる。「虚栄とは何か?」と。

 「飾る」といっても、それを意識している間は、虚栄ではない。たとえば美しいネックレスを買
い、それで身を飾るというのは、虚栄ではない。

 しかしそのネックレスを身につけ、さも、私は金持ちですと言わんばかりに振る舞うのは、虚
栄ということになる。さらに、その虚栄を使って、相手をだますようなことをすれば、詐欺(さぎ)
ということになる。

 が、虚栄の恐ろしさは、ここでとどまらない。虚栄が長くつづくと、「私」そのものが、なくなる。
「私」がないということは、その時点で、自分の人生を、カットすることになる。もっと言えば、
「私」でない、私に、操り人形となって、操られるだけ。そういう人は、少なくない。

 Nさん(女性)は、今年、80歳を過ぎた。そのNさんは、買い物に行くとき、サイフの中に、札
をいっぱい詰めていくという。しかも、一番前と一番うしろに、1万円札。その間に、1000円札
を詰めていくという。

 そしてレジなどで、お金を出すときは、レジの女性に、これみよがしに、札束を見せて、お金
を払うという。

 それを見ていた、実の娘(60歳くらい)は、こう言った。「うちの母は、昔から、そういう女性で
す。本当は、貧乏なのに、外では、いつも、金持ち風に振る舞うのです」と。

 そういう話を聞くと、私は、すぐ、「80歳も過ぎているのにねエ〜?」と思ってしまう。あわれと
いうより、こっけいですら、ある。虚栄に毒されると、人は、そこまでするようになる。しかも80
歳を過ぎても、それをつづける。

 自分がない人というのは、そういう人のことをいう。言いかえると、「生きる」ということは、その
時点、時点で、「私」をつかみながら生きることをいう。それができない人は、生きていることに
は、ならない。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、虚栄に毒されると、生きていると
いう実感をもてないまま、その日、その日を、ただ無益に過ごすことになる。

 あるがままに、自分を保ちながら、生きる。自分をさらけ出しながら、生きる。そういう生き方
を、「善」とするなら、虚栄に満ちた生き方は、「悪」ということになる。キリスト教のことは、よくわ
からないが、多分、そういう意味で、「虚栄」を、「vanity」と言うのではないか。

 一度、オーストラリアの友人に、問いあわせてみようと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虚栄
 vanity)

+++++++++++++++++

本音と建て前について書いた原稿を
いくつか添付します。

+++++++++++++++++

●本音と建て前

 「すなおな考え方」とは何か。五、六年も前のことだが、小学一年生の生活科のテストに、こ
んなのがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの絵の中
から、答を選んでください。

(1)そのままテレビを見ている絵。
(2)お母さんを手伝う絵。
(3)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子どもは、
(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、ひとりの母親がこ
う言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のまわりでウロウロされる
と、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽です」と。つまり建て前では、(2)
が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を出し
た。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテストでは、本
音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界

 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などというもの
は、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解を求めようと
する。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。が、それで終わるわ
けではない。

ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生が、「答のな
い問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「この世界ので
きごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解にこだわるのか」と笑
っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学だが、
T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしまった。この
状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分離方法
を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参考書もちこみ
OKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にするというもくろみがある。

当然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話してくれ
た。「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさがってくる。大切なの
は、いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすか、です」と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだろうか。
そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもたちにかぎらず、
私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろうか。私は子どもたち
の前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につながるものの考え方の、大きな
ヒントが隠されているような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 本音
と建て前 子供の本音)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●疲れる子どもたち

 本音と建て前。本当とウソ。正直とごまかし。今の子どもたちは、幼いときから、この二つを使
い分けることを教えられる。その結果、その両方を、うまく使い分けられる子どもほど、「学校」
という社会を、スイスイとうまく生きていかれる。そうでない子どもは、そうでない。

 もちろんだからといって、A君のように、拾ったお金を使ってよいというのではない。ないが、A
君のような生き方のほうがわかりやすい。子ども自身も疲れない。心もゆがまない。しかしB君
のような生き方をしていると、それだけで疲れてしまう。その結果、心がゆがむこともある。

 自分の内部に潜む誘惑に打ちかち、拾ったお金を交番へ届けるというのは、かなりむずかし
いことである。強い精神力と、それを支える道徳性が必要である。そしてその道徳性は、たえ
まない反省と思考によって、はぐくまれる。そこらの中学生くらいに、それができるわけがない。
私が「本当のことを言え!」と迫ったとき、もしB君がそれでも、「交番へ届ける!」と言ったら、
私はB君の道徳性を認める。しかしそれとて、私という「他人の目」を感じているから、そう言う
にすぎない。

 ……と書いて、実は、これは親たちの問題でもある。子育ての問題と言ってもよい。たとえば
ある親が自分の子どもに向かって、「学校では、友だちと仲よくするのですよ」と言ったとする。
しかしこの言い方は、「拾ったお金は、交番へ届けるのですよ」という言い方と、どこも違わな
い。

 が、その親が、子どもがもちかえったテストを見ながら、「何だ、この点数は! あのC君は、
何点だった? もっと勉強しろ!」と言ったとする。これは母親の本音と考えてよい。親は、こう
言っているのだ。「C君は、あなたの敵だ。そのC君を負かせ」と。

 かわいそうなのは、そう言われた子どものほうである。一方で、「仲よくしなさい」と言われ、他
方で、「敵と思え」と言われる。拾ったサイフにたとえるなら、一方で、「交番へ届けろ」と言わ
れ、他方で、「拾ったお金は自分のものにしろ」と言われるのに似ている。「同じ」とは言わない
が、「似ている」。

 こうした相反する矛盾の中で、要領のよい子どもは、その二つを、うまく使い分ける。が、そう
でない子どもは、そうでない。そして底なしの自己矛盾の世界へと落ちていく……。しかしそれ
はきわめて不安定な世界でもある。子どもによっては、その不安定さに耐えかねて、非行に走
ったり、引きこもったり、あるいは家庭内暴力を起こしたりする。そこまで進まなくても、自分の
中で葛藤(かっとう)する子どもは、いくらでもいる。

 それはさておき、要領の悪い子どもは、この段階で二つの道に分かれる。徹底して、よい子
ぶるか、それとも居直るか、のどちらかである。冒頭にあげた、B君が、そのよい子ぶっている
子どもということになる。それに対して、A君は居なおっているということになる。

●本音で生きる

 子どもの世界を見ていると、それはそのまま、私たちおとなの問題であることがわかるときが
ある。この問題もそうだ。私たちおとなも、昔は、子どもだった。そしてほとんどの人は、その子
ども時代の自分を、みな、そのまま引きずっている。たとえばあなた自身は、どうだったか。さ
らには、あなた自身はどうかということになる。

「今」という時点で考えてみよう。今、あなたは本音で生きているだろうか。あなたが妻なら、夫
や子どもに対して、本音で生きているだろうか。それとも、あなたは、ここでいうような「いい子」
ぶってはいないだろうか。

 が、これだけは言える。もしあなたが他人との世界の中で、「疲れ」を覚えるようなら、あなた
は、いつも心のどこかで自分をごまかして生きていないかを、少しだけ反省してみるとよい。あ
なたのそうした気負いは、あなた自身を疲れさせるだけはなく、あなたの夫や、子どもまでも疲
れさせてしまう。要は、ありのままの自分を生きるということ。飾ることはない。気負うことはな
い。ごまかすこはない。ありのままでよい。

 一〇万円が入ったサイフを拾い、お金がほしいと思えば、そのまま中身を抜いて、サイフだ
けを捨てればよい。が、もしそれを「よし」としないのなら、交番へ届ければよい。そしてそのサ
イフのことは忘れる。自分にすなおに生きるというのは、そういう意味で、わかりやすい人生を
送ることを意味する。

 そうそう、先のB君も、私が「正直に言え」と迫ると、最後にこう言った。「やっぱり、先生、お金
がほしいから、もらってしまうよ」と。私はその意見を聞いて、安心した。B君には、まだ自分を
取り戻す力が残っていた。すなおな気持ちが、残っていた。私は最後に、B君にこう言った。

 「自分に無理をしてはいけない。先生は、今でも、サイフを拾うたびに、迷う。しかし今は、そう
いうふうに迷う自分がいやだから、何も考えないで、近くに交番があれば、交番に届けるように
している。先日は、コンビニの前で拾ったから、コンビニに届けた。よいことをしているとか、悪
いことをしているとか、そんなふうに考える必要もない。要するに気負わないこと。

 しかしね、誠実に生きることは、とても気持ちがよいことだよ。ウソだと思ったら、一度、拾っ
たお金を交番へ届けてみてごらん。そのあと、ものすごく、気持ちがよくなる。その気持ちのよ
さは、お金では買えないよ」と。
(030319)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●心のバランス感覚

駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から二人の女
子高校生が割りこんできた。

 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。

 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。する
とその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。

 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていましたが……」
 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。

 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。

 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、10
メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。

 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変化に
気づいた。

 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意見を戦
わせた。

 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」という私。この二
人の私が、対立した。

 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれない。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っている
私、。この二人の私が、対立した。

 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだな。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分だけ、
いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。

 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言った。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を決め
た。

 こういう現象は、私だけのものなのか。

 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例としては、
本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、うまく使い分ける。

 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こうした精
神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、それだけで二重
人格を疑われるかもしれない。

 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。

 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のようなものだ
った。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、「無視しろ」と
いう私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスをとっていたことになる。

 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけていたか
もしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたかもしれない。

 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、正義感も
あって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職業がら、無視で
きる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできなかった。

 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに対立して
いる状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思う。

もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経(抑制命
令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。

 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心の状態
を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断する感覚を、
私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた人を、常識豊か
な人といい、そうでない人を、そうでないという。

 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 心のバランス感覚 心のバランス)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

【虚栄について、B君からの返事】

In Australia being vane is not well liked. I would not say it is very 
bad though. We are more inclined to think someone who is vane is being 
rather silly.

オーストラリアでは、(飾る)ことは、それほど嫌われていない。そんなに悪いことだとは思わな
い。自分を飾る人を見ると、ぼくたちは、愚かな人だなと思うが、その程度。

Being 2 faced is another matter. That can get you despised. 

2つの顔をもつというのは、別。それは軽蔑されるべきことだ。

However there different levels of being 2 faced.

しかし2つの顔をもつといっても、程度の問題もある。

For instance if I am nice and smiling to someone's face but are nasty, 
uncomplimentary or sabotage them "behind their back", I will be 
despised by people who see this.

たとえば、ぼくが、だれかいやなやつに対して、よくしながら、そして微笑みながら、その裏で、
その人の悪口を言ったりすれば、ぼくはそれを知った人に軽蔑されるだろう。

On the other hand, if I really don't like someone but I am polite to 
them in public, this will be seen as being diplomatic. That is people 
who see this will understand and see it as not causing unnecessary 
social friction.

一方、本当はその人が嫌いでも、公(おおやけ)の場所で、その人にていねいにしたとしても、
それは外交的なものと受けとめられるだろう。それを見た人も、そうであると理解し、不要な社
会的摩擦を起こさないためのものと、わかってくれるだろう。

So maybe Australia is not that much different to Japan.

そんなわけで、多分、オーストラリア人も、日本とそんなにちがわないと思う。

Cheers,

バイ

Bより


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●急速に悪化する、韓国経済

+++++++++++++++++

ここにきて、にわかに怪しくなってきたのが、
韓国経済。

06年の第一四半期(1〜3月期)の貿易収支は、
かろうじて黒字。

しかし第二〜第四四半期は、赤字になるという。

++++++++++++++++

 過激な民族主義……それが現在、韓国の経済発展の足かせになっている。外資企業排斥
運動も、そのひとつ。が、それだけではない。

 シンガポールの元首相のL氏は、韓国内でのスピーチで、韓国の対外政策を批判している
(06年5月)。「葛藤のエネルギーを、和合のエネルギーに切り替えるのが何より重要だ」(東
亜N報)と。つまり、「韓国の政治的エネルギーは、内へ向きすぎている」と。

 一貫性のない政治姿勢、一貫性のない外交姿勢、それに自由貿易主義体制の中で生き残
りを図りながら、反米、反日を唱えるN政権。韓国が今、得意とする、造船、鉄鋼、自動車、電
子産業にしても、すべて、日本の「お株」を奪って作りあげたもの。どうしてその韓国が、反日な
のか?

 が、ここにきて、にわかに怪しくなってきたのが、韓国経済。ウォン高と原油高、それに資産
バブルが限界に達しつつある。国際金融センターの陳所長は、「最近920ウォン台まで進んだ
ウォン高の影響は、下半期に表面化し、今年の経常収支が赤字に転落する可能性もある」と
述べている。

 N政権の経済政策の限界が、ここにきて顕在化してきたということになる。当然のことなが
ら、N大統領および、与党のウリ党の支持率は、ますます低下。が、これに呼応するような形
で、K国のインターネット・サイト「わが民族同士」は、こう書いている。

 「(野党の)ハンナラ党が政権をとったら、戦争になる」と。

 そんな最中、野党ハンナラ党の次期大統領と目されている、パク・クンヘ代表が、何者かに
よって、カッターナイフで切りつけられるという事件が発生した(5月21日)。韓国政府や警察
は、「偶発的事件」として片づけようと躍起(やっき)になっているという(朝鮮N報)。

 まあ、本当のところはどうであれ、N政権がつづくかぎり、韓国経済は、悪化の一途をたど
る。またそうであるほうが、日本にとっては、望ましい。

 今の韓国政府には、K国の核開発問題にせよ、ミサイル(テポドン2号)問題にせよ、さらに
拉致問題にせよ、本気で解決しようという意欲はない。アメリカや日本が、いくらK国制裁を叫
んでも、その裏で、K国を援助している。

 さらにN大統領が今の地位についたとき、それはN大統領自身の言葉が外に漏れたと考え
るのが正しいが、ある高官は、こう述べている。「K国が核兵器をもつことは、(南北統一後の)
韓国にとっても、有利」と。

 今回のミサイル問題についても、「日本は、過剰反応をしている」と述べたり、拉致問題につ
いては、むしろK国をかばうような発言を繰りかえしている。

 ならば日本は……、ということは、考える必要はない。日本のバブル経済が崩壊したとき、韓
国は、現実に、何一つ、日本を助けてくれなかった。助けてくれなかったばかりか、「チャンス到
来!」と、日本経済の追い落としに懸命になった。

 韓国がK国とともに、心中したいというのなら、それはそれでかまわない。日本としてはそれ
を静観するしかない。

【補記】

 韓国経済がバブル化している今、韓国政府は、金利をあげざるをえない状況に追いこまれて
いる。金利をあげれば、当然、ウオン高になる。しかしウオン高になれば、輸出産業は打撃を
受ける。

 今、韓国経済は、正念場を過ぎて、崖っぷちに立たされている。

【付記】
 ……とまあ、少しきびしい意見を書きましたが、本当のところは、みな、仲よくするのが、一番
よいのです。

 しかしそれにしても、うしろ向きなのが、韓国のN大統領。ここ数年で、韓国の流れは、完全
に変わってしまった。そんな感じですね。

 白黒をはっきりとつけすぎるというか、「自分は絶対的な善で、相手は絶対的な悪だ」という発
想が、たいへん気になります。こうした政治姿勢は、韓国の国論を、2分するだけ。このままだ
と、つぎの大統領選挙まで、韓国の政治情勢は、混乱するだけ。その混乱が、韓国の経済を、
ますます悪化させる……。

 韓国の人たちも、もうそろそろ、それに気づくべきときではないでしょうか。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【雑感・あれこれ】

●1050円で買った時計の、電池交換が、1050円!

++++++++++++++++

1050円で買った時計が、止まって
しまった。

電池をかえることにした。

しかしその費用が、1050円、とは!

++++++++++++++++

 このところ、懐中時計に興味、あり。たいへん、あり。付録に、本物の懐中時計がついている
雑誌が、発売になった。それに刺激された。

 そこで引き出しをさがしてみると、懐中時計が、5、6個も出てきた。仕事がら、懐中時計を使
うことが多い。

 で、その懐中時計だが、意外と安い。1000円〜2000円というところか。ショッピングセンタ
ーでは、だいたいそのあたりの値段で売っている。

 さっそく懐中時計を机の上に並べてみる。しかしどれも止まったまま。それをながめながら、
「電池をかえに行こうか?」とワイフに声をかけると、「うん」と。夕食の食材を買いに行くついで
に、ショッピングセンターに寄ることにした。

 (中略)

 電池の交換を頼むと、その店員は、瞬間、時計をながめたあと、「1050円です」と言った。
「1050円で買った時計を、1050円でなおすのか?」と思ったが、男はすでに時計をもったま
ま、背をこちらに向けていた。

 カウンターの反対側には、時計の売り場コーナーがあった。そこでも同じような懐中時計を、
1050円で売っていた。

 何とも割り切れない気持。「だったら新品を買ったほうがいい」と、だれしも、そう思うにちがい
ない。私も、そう思った。しかしこれこそ、まさに高コスト社会が生み出した、矛盾。モノは安い
が、そこに人がかかわると、そのとたん、コストがハネあがる。

 バカげた社会だが、これが日本の現実。なぜこういう現象が起こるかといえば、ナガ〜イ話
になる。それをを短くすると、つまりそれだけ、日本という国が、ムダな税金を浪費しているか
ら、ということになる。

 国家公務員と地方公務員の人件費だけで、38兆円! 1人ひとりの公務員の人に責任があ
るわけではない。またその責任を追及しているのでもない。それに公務員は、不要といってい
るのでもない。しかしそれにしても、巨額である。日本の国家税収が、42〜3兆円規模だか
ら、その大半を、公務員たちの人件費にあてていることになる。

 それが回りまわって、今の日本の、高コスト社会を生み出している。わかるかな、このメカニ
ズム?

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 私の隣人たちは、みな、元公務員。私の住んでいるこの班だけでも、30世帯近くある。が、
ざっと見ても、5〜7世帯が、現役の公務員もしくは、退職した元公務員。公務員というのは、
純然たるサービス業。公務員そのものは、利益をまったく生み出さない。言うなれば、社会的
な扶養家族ということになる。つまり残りの、24、5世帯で、それら5〜6世帯の人たちを養って
いるということになる。

 その(養っている部分)が、高コストとなって、私たちにはねかえってくる。

 では、どうするか、だが、答は、簡単。

 扶養家族は、少なければ少ないほど、よい。つまり小さな行政政府をめざす。効率をよくし
て、人件費をおさえる。多少の不便さは出てくるかもしれないが、今のように、便利すぎるほう
が、おかしい。

 たとえばこんなことがある。

 今から20〜30年ほど前には、この地域の清掃は、住民が総出で、それをした。神社や川辺
の草刈りもした。

 しかし今では、それを、市が委託した清掃会社や、どこかの管理会社がしている。そうした費
用もまた、結局は、私たちに税金となってはねかえってくる。そしてその費用が、回りまわって、
高コスト社会を生み出す。

 本来なら、無駄な出費をおさえるため、地域の住民たちが、自分たちでできることは、自分で
するのがよい。自分のことは、自分でするのがよい。

 しかし現実は逆。行政サービスはますます肥大し、一方、住民の行政への依存性は、ますま
す強くなっている。今では、道路に落ちた枯葉ですら、住民が、市役所に電話をして、清掃を依
頼する時代になってしまった※。

(もちろん直接清掃するのは、公務員ではない。公務員の天下り先となっている公社の職員
が、それをする。)

 こうして公務員は、ますます権限を拡大し、私たちの生活のあらゆる部分を管理するようにな
る。一方、住民は、さらに行政に依存するようになる。

 1050円で買った時計の中にも、電池はあるはず。しかしその電池をかえるだけで、1050
円!、とは……。

 そうそうワイフが、こう言った。「今ではね、時計が故障しても、修理に出す人はいないわよ」
と。「修理にもっていくとね、時計屋の人が、新品を買ったほうが、安いですと言うくらいよ」と
も。

 時計の修理にかかる代金のほうが、新品の時計の値段よりも、高いとは!

 「そういうものかなあ……」「こんなことでいいのかなあ……」と思いながら、私は、その場を離
れた。

注※……この話をしてくれた、市役所の職員に、「どうして?」と問いただすと、その職員は、こ
う教えてくれた。「最近の人たちは、枯葉をゴミと考えるからです」と。つまりゴミということになれ
ば、それは市の仕事ということになる、と。

 「枯葉はゴミとはちがうでしょう」と、私が反論すると、「私もそう思うのですが……」と。

【補記】

●国家公務員の人件費、1403万円!

 このほど、はじめて、(はじめてだぞ!)、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・0
5年・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億
円でだそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表されてい
るが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも紛れ込んで
いる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403
万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算。)そして
社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言ってよい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、たと
えば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方の出先機
関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受給できる」
(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカラクリが
わかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎ
のようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件
費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! (公務員の平均で、1018万
円!) ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、官僚
主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%を使
っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知らない。お
まけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全国津々浦々、
どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤字国債
(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約40倍! それでも
足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護保険制度に例をみるまで
もなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をもとに、
計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということになる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額417兆2829億
円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出になることが6
月15日、財務省などの調べでわかった。

公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費が
「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によって財政
再建を加速させたい考えだが、「省庁側の抵抗は激しさを増しそう」(産経新聞)とのこと。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【ある中学校での講演】

+++++++++++++++++++++

今度、ある中学校で、中学生を
相手に、講演をすることになった。
父母も、同席するという。

そのレジュメを考えている。

+++++++++++++++++++++

●こんにちは!

 すばらしい校舎ですね。驚きました。で、先ほど、この会場へ来る前に、トイレを借りました。
いつも、講演の前には、そうしています。講演中にトイレへ行きたくなったら、たいへんですから
ね。

 トイレもすばらしいですね。で、そのとき、ふと、私は、こんな事件を思い出しました。私が中
学生のときのことです。

 ある日、トイレに入りました。で、用を足して、外へ出ようと思ったのですが、トイレのドアが開
きません。カギが壊れていたのですね。

 そこでドアをドンドンと叩いて、だれかに助けてもらおうとしましたが、たしかもう授業の始業ベ
ルは鳴っていたと思います。だれもいませんでした。困った私は、壁に両手をかけて、上によじ
登ろうとしました。

 よじ登って、トイレのドアを越えて、向こう側に出ようとしたのですね。ところが、最後のところ
で手をかけたところで、隣のボックスから、キャーッとものすごい悲鳴が聞こえてきたのです。

 隣は、壁をへだてて、反対側が女子用のトイレになっていたのですね。そのボックスで同じよ
うに用を足していた女の子が、上を見て、私の手がそこにあるのを知ったのですね。それでキ
ャーッと叫んだ。

 あわてて下へおりたのですが、しばらくすると、先生がトイレへやってきました。そして、「だれ
だ、そこにいるのは!」「出てこい!」と、

 私は「トイレのカギが壊れていて、外に出られません」と言ったのですが、先生は、信用してく
れません。外からは、簡単にドアがあいたからです。

 で、先生に叱られたのですが、私は、先生にこう言ってやりました。「じゃあ、先生、中に入っ
てみてください」と。

 先生は怒ったまま、トイレに入り、中からカギをかけました。ガチャンとです。しかし一度かけ
たら最後、中からは開けることができません。今度は先生が、「開けろ、林!」、ドンドン、「ドア
を開けろ、林!」と。

 私にかけられた疑惑は、それで晴れましたが、疑われた不快感は、そのまま残りました。先
生の叫ぶ声を聞きながら、私は、トイレから出てしまいました。そのあと先生は、たぶん、壁を
よじ登って、外へ出たと思います。

●ラッキーな子どもたち

 最初から、汚い話でごめんなさい。

 おそらくみなさんも、この種の話を、さんざんと聞かされていることと思います。つまり「昔は、
貧乏だった」という話です。そしてその返す刀で、「今は、すばらしい時代だ」という話です。

 こういう話は、どこか恩着せがましいですね。実は、私も、中学生のとき、そう思ったことが何
度もあります。父や母は、食事のことになると、決まって、「戦時中はな……」という話を、し始
めました。「戦時中は、食べるものがなかった。でも今はある……」とです。

 そういう話は、いやですね。私も、よくわかっています。そこで今日は、少し、発想を変えて、
「昔」というより、「若いときはすばらしかった」という話を、みなさんに、ここでお伝えしたいと思
います。

 で、それを話す前に、まず、みなさんにお伝えしたいことがあります。それは、みなさんが、た
いへんラッキーな子どもたちだということです。この日本に生まれ、この地方に住んでいるとい
うこと自体が、です。

 たとえば今、地球温暖化が世界のあちこちで問題になっていますね。その影響は、さまざま
な形で、現れています。もちろんこの日本でも、現れています。

 しかし安心してください。たいへん幸いなことに、この日本という国は、四方を海に囲まれてい
ます。しかもですよ、北海道から九州まで、その島を、3000メートル近い山脈がつらぬいてい
ます。

 この地形的な特徴で、日本は、温暖な気候に恵まれ、かつこれから先、水不足の問題も、ほ
ぼ起こらないだろうということです。あるいは日本が本当に水不足で困るようなことになるころ
には、世界中は、砂漠になっているかもしれない。わかりやすく言えば、最後の最後まで生き
残るのは、この日本だということです。

 もちろん局地的な水不足問題や、気温の上昇などは、起こるかもしれませんが、しかしそれ
とて、世界の人が今、経験している深刻な問題とくらべると、何でもないものかもしれません。

 だから日本は、地球温暖化の問題など考えなくてもいいとか、そんなことを言っているのでは
ありません。この話のつづきは、もう少しあとにすることにして、もうひとつ、話を進めていきた
いと思います。

●すばらしい国、すばらしい地方

 さらに、ですよ。この静岡県の西部に住んでいるということも、ラッキーなことです。

 まわりを見てください。いろいろな木が見えるでしょう。みなさんにとっては、何でもない景色に
見えるかもしれませんが、しかしですよ、これほどまでに緑が豊かで、かつ緑の種類が多いの
は、この静岡県のこの西部だけなのですね。

 とくに浜名湖周辺は、「照葉(しょうよう)樹林帯」と呼ばれて、九州の鹿児島県と並んで、気候
が温暖なところとして知られています。

 私も大学生のとき、4年間ほど、北陸の金沢市というところに住みましたが、あちらの人たち
は、「静岡」というだけで、うらやましがりましたよ。今でも、そうです。今は、多少、気候も変わっ
てきましたが、私が学生時代のころには、1年のうち、約3分の1は、長靴をはいていましたか
ら。

 11月になると、しぐれが降り始め、それから雪です。それが3月の終わりまで、つづくので
す。

 このあたりに生まれ、そしてここで育ったあなたたちには、それがわからないかもしれません
が、外から来た人には、それがわかります。

 が、それだけではない。みなさん、意外と知らないかもしれませんが、この浜松市は、東海地
方では、名古屋市についで、第二の大都市なんですね。しかも工業都市ということで、活気が
あります。

 有効求人倍率という言葉を聞いたことがありますか。求職者1人あたりに、いくらの仕事があ
るかというのを示すのが、有効求人倍率です。その有効求人倍率が、一貫して、全国平均を
はるかに上回っているのが、実は、この浜松なのですね。

 世界に名だたる、ホンダがある。スズキもある。ヤマハもある。いわゆる日本でも、最先端を
いく企業が、このあたりに集中しているのです。もちろん大学や各種の専門学校も、あります。

 私の郷里は、岐阜県の田舎町ですが、あのあたりになると、そうした先端的な技術や知識を
身につけたいと願っても、それを学ぶ学校すら、ありません。仮に学んだとしても、それを生か
す会社も工場も、ありません。

 ですから、町全体は、さびれる一方。活気がありません。いや、その活気とて、このあたりに
生まれ住んでいる人には、わからないかもしれません。それを当たり前のことと思ってしまうか
らです。

 でね、私は、ときどき、その岐阜の郷里に帰ることがあるのですが、その街道を、「貧乏街
道」と呼んでいます。

 浜松から名古屋まで行くと、活気が、ガクンと落ちる。その名古屋から岐阜まで行くと、さらに
ガクンと落ちる。最後に郷里のM町まで行くと、さらにガクンと落ちる。

 で、今度は、反対にですよ、M町から、岐阜。岐阜から名古屋。名古屋から浜松へもどってく
ると、なんとも言えない開放感を覚えます。とくに三ケ日インターチェンジを過ぎて、浜名湖が見
えてきたりすると、今でも、ときどき「ウオー」と声をあげるくらいです。

 行きは、「貧乏街道」でも、帰りは、「繁栄街道」となるわけです。

 みなさんは、すばらしい国の、すばらしい地方に住んでいます。

 まず、それをしっかりと肝に銘じてください。みなさんは、本当に、ラッキーな子どもたちです
よ。

●5000本に1本

 さらに、ですよ。いろいろ問題はあるにせよ、この日本は、今でも、アメリカについで、世界第
2の経済大国として、君臨しています。おおまかに見て、世界第3位のドイツの約2倍。

 最近になって、お隣の韓国は、「11位になった」と、はしゃいでいますが、その韓国とくらべて
も、約7倍の経済力をもっています。たしかにこの10数年、日本はきびしい時代を経験しまし
たが、ここにきて、また、急速に力を盛り返しつつあります。

 みなさんは、それを実感しているかどうかは知りませんが、現代の日本のように、繁栄をきわ
めた国というのは、世界でも、また世界の歴史の中でも、類がないのですね。みなさんしてみ
れば、「何だ、こんなものか!」と思うかもしれませんが、それがそうではないということです。

 いろいろ不満もあるでしょう。いろいろ言いたいこともあるでしょう。しかし、それでも、今、日
本という国は、そういう国なのです。

 だからまず最初に、みなさんは、こう叫んだらよいのです。「ぼくたちは、ラッキーだ」「私たち
は、ラッキーだ」と。

 世界の人口を約50億人とするとですね、人口約1億人の日本に生まれる確率は、50分の
1。さらにこの静岡県の西部地方に生まれる確率は、100分の1。

 こうして計算してみると、みなさんは、5000本に1本のくじを引いて、当たったようなもので
す。

●「今」の価値

 だったら、そのチャンスを生かさないという手はありません。が、その前に、まず、自分たち
が、そのラッキーな子どもたちだということを、知らなければなりません。

 みなさんには、それができますか?

 ところで、みなさんは、賢明な人と、愚かな人は、どこがどうちがうか、知っていますか。

 賢明な人というのはですね、何か大切なものや、その価値を、なくす前に気づく人を言いま
す。そうでない人は、何か大切なものや、その価値を、なくしてから気づく人をいいます。

 健康しかり、人生しかり、そして「今」しかり。

 で、その「今」のよいところは、どこかということですね。それがたくさん、あるんですね。

●自由の価値

 まず、「自由」です。この自由も、それがなくなったとき、はじめてわかります。反対に、自由で
ない国を見てみると、それがよくわかりますね。どこの国がそうであるかなどということは、私に
は言えません。しかしあるのですね。

 地方へ旅行するにも、許可書がいるとか、反対に、許可書がないと、都市部に住むことすら
できないという国もあります。政府の批判をしただけで、警察につかまるという国もあります。

 さらにひどい国になると、女子は、教育を受けることさえできない国もあります。

 もっとも、そういう国の人だって、自分たちは、自由だと思っているものですが、ね。人は不自
由になったとき、自由の価値がわかります。反対に、自由になったとき、それまでの不自由さ
が、わかるものです。

 しかし総じてみれば、日本という国は、自由な国と考えてよいのではないでしょうか。旅行も自
由にできる。職業も自由に選択できる。映画だって、本だって、自由に、見たり読んだりするこ
とができる。

●平和の価値

 つぎに「今」の価値のすばらしいところは、かろうじてかもしれませんが、この日本は、平和で
あるということ。

 私自身も戦争を経験していませんが、しかし戦争のもつ、恐ろしいほどまでの後遺症は、経
験しています。話せば長くなりますが、今でも、ある意味で、その後遺症に苦しんでいます。

●生きていることの価値

 が、何と言っても、「今」の価値の中で、最高にすばらしいことは、今、みなさんが、ここにい
て、生きているという事実です。

 わかりますか?

 今、ここに生きているという事実が、ずばらしいのです。

 あのアインシュタイン博士も、こう言っています。「宇宙のすべてが、奇跡だ※」とね。

 地球の歴史は、60億年くらいだそうですね。私が学生時代には、40億年くらいだと聞いてい
ました。まあ、宇宙では、時の流れほど、いいかげんなものはありません。尺度そのものが、な
いからです。

 ともかくも、60億年とするとですね、人間の歴史は、たかだか、10万年から20万年。60億
年を、60億ミリ、つまり、600万メートル、つまり6000キロの長さの糸にたとえると、20万年
といっても、20万ミリ、つまりたったの200メートル。

 日本列島は、北海道から九州まで、約2000キロですから、6000キロというと、その3倍の
長さということになります。が、人類の歴史は、みなさんの学校の校庭の半分の長さもないとい
うことになります。

 みなさんの寿命を100年とすると、100ミリ、つまりたったの10センチですからね。

 宇宙から見れば、瞬間のそのまた瞬間。星がまばたきした間くらいに、みなさんは、生まれ、
そして死んでいくのですね。

 さらに現在、この地球上には、60億人くらいの人が住んでいるそうです。そういう中で、こうし
てひとつの学校に、これだけのみなさんが、集まっている。内部では、いろいろ問題はあるでし
ょうが、しかし、こうして「今」、知りあったというだけでも、奇跡なのですね。

 さらにみなさん、驚いてはいけませんよ。

 この宇宙には、あの中田島の砂粒の数ほどの星があるそうですよ。太陽も、そのひとつにす
ぎないわけです。で、地球となると、その砂粒のひとつにもはいっていない。たとえていうなら、
宇宙のゴミ、あるいはチリのようなものです。

 こうして考えていくと、あのアインシュタインの言った言葉の意味がわかるような気がします。
ちがいますか?

●みなさんの中の宇宙

 話がとんでもない方向に進みそうなので、今度は、みなさん自身のことについて、話してみた
いと思います。

 実は、みなさん自身の中にも、宇宙があるのですね。

 これは少し前、愛知万博の何かの会議の席で、養老T氏という人が、使った言葉ですが、お
もしろい言葉ですね。「人体は、宇宙そのものだ」と。解剖学者らしい言葉ですが、この言葉に
は、いろいろ考えさせられました。

 で、今のあなたたちは、いわゆる思春期と呼ばれる時期にいます。よくまわりの人たちに、そ
う言われるでしょう。ちがいますか?

 でも、自分では、それがわからない。まわりの人たちが勝手にそう言っているだけ、と。

 しかし心と体の変化については、みなさんも、わかっているはずです。たとえば、私もこんなこ
とがありました。


●私の経験

 高校2年生のときのことだったと思います。今から思うと、かなり晩熟(おくて)だったと思いま
すが、また、当時は、そういう時代でしたが、図書館で、女体解剖図なる図を見たことがありま
す。

 それだけで、私は、体中が熱くなり、歩けなくなってしまいました。

 どうして歩けなくなってしまったかは、男子のみなさんなら、みな、知っているはずです。

 で、なぜ、そういう変化が起きるかですが、簡単に言えば、脳内で、自分をそういうふうに操る
ホルモンが、分泌されるからなのですね。つまり遺伝子の中で、そういうふうになるように、はじ
めから、プログラムされているというわけです。

 しかし、それをまちがっていると決めつけてはいけません。

 そういう変化があるからこそ、人間は、ほかの動物や植物たちと同じように、子孫を、つぎの
時代に伝えていくことができるのです。

●性的エネルギー

 で、あのフロイトという学者、名前くらいはどこかで聞いたことがあると思います。世界でも、も
っとも名を知られた精神医学者でしたが、そのフロイトは、そうした「性的エネルギー」が、人間
の生きる力の原動力になっていると説きました。

 もちろん反論もありますが……。

 しかし、それほど、まちがっていないと思います。

 コカコーラという飲みものがありますね。今では、缶入りがふつうですが、ビン入りのもありま
す。

 あのコカコーラは、当初は、ほとんど売れなかったそうです。そこであるとき、ビンの形を変え
たそうです。それまでは、酒のビンのように、ずん胴だったのですが、女性の体にまねて、曲線
を入れたそうですね。

 とたんに売れるようになった!

 同じように、最近でも、ビデオが生まれたときも、携帯電話が生まれたときも、またインターネ
ットが生まれたときも、その先導的な役割をしたのが、人間がもつスケベ心だったそうです。ス
ケベビデオが世に出るようになって、とたんに、ビデオが普及したそうです。携帯電話もそうで
すね。

●裏から操るパワー

 だいたい考えてみれば、みなさんが、勉強やスポーツでがんばるのも、そこに異性の目を感
ずるからではないでしょうか。何とかして、異性の間で、目立ちたい……そういう思いが原動力
となって、みなさんを動かしている。

 まあ、男子でいえば、スポーツができて、かっこいい人。女子でいえば……という話は、みな
さんのほうがよく知っているでしょうから、ここでは省略します。

 しかしそれとて、実は、遺伝子の中に、プログラムされているからなのですね。

 たとえばサル。あのサルにしても、一番もてる雄ザルは、いうまでもなく、一番、力のある、強
いサルです。

 で、雌ザルのほうはといえば、これはある学者が調べたのだそうですが、お尻にポイントがあ
るそうですね。つまり、赤くて、しかもシワクチャのお尻の雌ザルほど、もてるのだそうです。

 おもしろいのは、ツバメです。

 ツバメのばあい、美男子かどうかは、尾羽の長さで決まるのだそうですね。長い尾羽をもって
いる雄のツバメほど、もてるのだそうです。

 そこである人が実験をしてみました。雄のツバメの尾羽を切ってしまったのだそうです。短く、
ね。そうしたらその雄のつばめは、かわいそうなことに、その季節の間中、ずっと、ガールフレ
ンドができなくて、ひとりぼっちだったそうです。

 ほかにも、あと、コオロギは、ひげの長さで決まるとか、イヌは、においで決まるとか、いろい
ろあるようです。

 人間のばあいは……、まあ、この話は、このあたりでやめておきますが、ともかくも、自分の
中には、自分であって、自分でない部分もあるということです。そしていつの間にか、その自分
であって自分でない部分に、操られてしまう。

 それが思春期かもしれませんね。フロイトの説明によれば、その生きる原動力、それを「イド」
と言いますが、みなさんの時期、そのイドの働きが、たいへん活発になってきます。そしてその
イドが、「あなた」という人間を、裏から操るようになります。

 それがもつパワーは、ものすごいものです。ふつうの理性や知性では、コントロールできない
ものと思って、まちがいありません。

(つづく)

**************************

以上の話を、中学生たち4、5人に読んで聞かせたら、
みな、「つまらない」と言った。
「小学生に話す話のようで、中身がない」と。

スルドイ!

よって、このレジュメは、ボツ!

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Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1316)

【06年5月25日・木曜日】

●さわやかな日々

 このところ、さわやかな日々がつづいている。ワイフが、「一年中、こうだといいわね」と言っ
た。私も、同感!

 で、今朝は、6時半に起きて、新しい挑戦をしてみた。HP用のあいさつ文を、英語のほか、ド
イツ語、スペイン語、フランス語の4か国語に翻訳してみた。そしてそれをそれぞれの国の言
葉で話させるようにしてみた。

 昨夜、簡単な実験をしてみたが、うまくいかなかった。が、今朝は、うまくいった。しかし結構
疲れた。脳みそのエネルギーを、1日分の10%近くを使った感じ。が、楽しかった。HPにそれ
をのせて完了したのが、午前8時過ぎ。1時間以上もかかったことになる。

 次回からは、もっと簡単にできるようになるだろう。それにこれからは、こういう時代になる。H
Pも、どんどん、世界へ飛び出していく。

 興味のある方は、楽天日記、もしくは私のHPのトップページから、「声で朗読」コーナーへと
進んでみてほしい。


●平凡な人生

 平凡は美徳だが、しかし平凡な人生からは、何も生まれない。あのL・ドアの、元社長のH氏
は、拘置所から出てきて、こう言ったという。「生き急ぎ過ぎた」と。

 世間の自称「常識人」の人たちは、H氏のしたことを、「虚業」と断じている。しかし何をもっ
て、「虚業」といい、何をもって、そうでないと言うのか。

 インターネットの利用者をふやし、それに広告を載せ、収入を得るというのは、立派な実業で
ある。ただH氏のばあいは、少しばかり、インチキをやり過ぎた。それで逮捕され、拘置所に拘
留された。

 裁判はこれからだが、成功者も失敗者も、紙一重。H氏が30年前に生まれていたら、日本
のビル・ゲーツになっていたかもしれない。

 年功序列社会で、安全第一に、平凡な人生を送ってきた人には、H氏がしてみせたような生
き方は、容認しがたがったのではないだろうか。とくに、この日本では、そうだ。そういう生き方
を認めてしまうと、「では、いったい、私の人生は何だったのか」となってしまう。

 そのためか、この日本では、平凡は美徳とばかり、その平凡に溺れてしまっている人が、あ
まりにも多い。ほとんどの人が、そうではないのか。

 生き急ぐのが悪いというのではない。生き急ぐこと、おおいに結構。少なくとも、のんべんだら
りと、その日その日を、意味もなく生きるよりは、はるかによい。


●児童の殺害事件

 児童の殺害事件が、このところつづいている。

 それについて一言。

 こういう事件が起きると、世間は、親の立場でしか、ものを考えない。そういうのを「世間的意
識」というが、それは世間が、子どもを、1人の人間というよりは、親の(モノ)としか考えていな
いからではないのか。

 ここでいう「世間」というのは、マスコミも含めて、警察、裁判所などをいう。もう少しわかりや
すく説明しよう。

 もし40歳の男性が殺されたとしたら、そこにその男性の親は登場するだろうか。40歳の男
性なら、その男性の立場で、事件を考えるにちがいない。その男性の親は、登場しない。

 で、順に年齢をさげていく。

 30歳の男性なら、どうだろうか?
 20歳の男性なら、どうだろうか?、と。

 このあたりが微妙な境界で、10歳の児童なら、必ず、親が登場する。反対に、被害者となっ
た子どもの顔は、ほとんど、表に出てこない。

 そうしたちがいが如実に現れるのが、裁判である。

 たとえば40歳の男性を殺害した被告人がいたとする。そういうとき、裁判官は、その殺され
た40歳の男性の立場で、その被告人に判決を言い渡す。「殺されたA氏の無念さは、いかば
かりのものか」と。

 しかし殺害されたのが10歳の子どもだったとすると、裁判官は、殺された子どもの親の立場
で、その被告人に判決を言い渡す。「B君を奪われた両親の悲しみは、いかばかりのものか」
と。

 しかし、これはおかしい。

 子どもといえども、1人の人間である。感情もある。恐怖心もある。その瞬間には、「生きよう」
と、もがくにちがいない。

 だったら、こうした事件が起きたら、子どもの立場で、ものを考えればよい。またそう考えるこ
とによって、こういう事件を引き起こす犯人の卑劣さを、さらに鮮明にえぐり出すことができる。

 相手は、まだ人を疑うことも知らない、人間である。
 相手は、これから先、まだ何十年もの未来をもった、人間である。
 相手は、腕力で抵抗することもまだできない、人間である。

 そう考えていくと、当然のことながら、ふつうの殺害事件よりは、極刑で臨むのが正しいという
ことになる。親の悲しみを代弁するために、極刑に処するのではない。より卑劣な行為だから、
極刑に処する。

 だから私は、ときどきこう思う。

 もし、被害者となった子どもの親が、「被告人を許す」と言ったら、裁判は、どうなるのか、と。

 多分、裁判官は、冒頭にあげた世間的意識の中で、かなり迷うにちがいない。それまでは、
「B君を奪われた両親の悲しみは、いかばかりのものか」と書いてきたのに、そういった言い方
で、判決文が書けなくなる。

 が、子どもを1人の人間とみれば、親は、もう関係ない。子どもだけを見ながら、こうした事件
を考えることができる。またそうでなければならない。

 それにあえて言うなら、40歳の男性でも、10歳の子どもでも、子どもを奪われた親の悲しみ
は、同じだろう。

 また殺傷事件といっても、その背景には、それなりの原因なり、理由がある。が、相手が児童
のばあいには、その原因や、理由すらないことが多い。

 だからこそ、この種の事件を起こした被告人には、問答無用に、極刑で臨むのがよい。また
そうした(見せしめ)を、今ここでしっかりとしておかないと、こうした事件は、つぎつぎと起こる。

 昨日も私は、同年齢の子どもたちを見ながら、こう思った。そのとき、私は、A県で起きた児
童殺害事件を思い浮かべていた。「こういう子どもを、どうして殺す気になるのだろう?」と。

 ……と同時に、こうも思った。「もし、こういう子どもが殺され、私が裁判官なら、迷わず、その
犯人に死刑を言い渡すだろうな」と。

このエッセーは、そういう視点で、書いた。

(注)私は、「死刑」について、それが是か非か、ほとんど考えたことがない。ここでいう極刑と
は、当然のことながら、「死刑」を意味する。が、だからといって、頭から死刑を肯定しているわ
けでもない。同時に、死刑を廃止したほうがよいと考えているわけでもない。この問題について
は、もう少し、頭を冷やしてから、別の機会に考えなおしてみたい。

【追記】

 今まで、この日本では、「子どもは親のモノ」という意識が強かったように思う。少なくとも欧米
人の意識とは、明らかにちがっていた。

 欧米人は、子どもでも、独立した1人の人間としてみる。あるいはキリスト教国では、「神の
子」という考え方で、みる。

 だから日本式の一家心中事件というのは、欧米では、めったに起きない。

 この「子どもは親のモノ」という意識が背景にあって、今まで、日本人は、子どもへの親の虐
待について、たいへん甘かった。「子どもに何をしようが、それは親の勝手」というわけである。

 しかしこれからはちがう。

 子どもといえども、1人の独立した人間。たしかに子どもは、あなたという親から生まれるが、
その子どもは、それはあなたという親を介して、この世に生まれたにすぎない。またそういう意
識をもつことで、ここでいう(モノ意識)を、自分の中から消すことができる。

 たいへん大ざっぱな意見だが、この問題については、また別のところで考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 モノ意
識 親意識 子供は親のモノ)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1317)

●日本型バブルの研究

++++++++++++++++++

あのバブル経済は、いったい、
何だったのか?

小さなサイフが、ひとつ、4万円とか
5万円もした。

それを手にしながら、私は、
「こんな小さなサイフすらも、
ワイフに買ってやることが
できないのか」と、
ひとり、静かに口を閉じた。

その日本のバブル経済を、韓国の
朝鮮N報は、客観的に、つぎの
ように分析している。

日本の外から日本をながめた
日本論であるだけに、
たいへん興味深い。

私なりの注釈をつけ加えながら、
その日本論を読んでみたい。

(私のほうで、より読みやすい
日本語に、改変しました。)

+++++++++++++++++++

●日本型バブル経済

東京の隣の千葉県に、15年かかって、やっとほぼ入居が終わった、超豪華マンションがある。

その名は「W・ハンドレッド・ヒルズ」。1989年7月のはじめに、入居者募集を始めた当時、12
0坪タイプの分譲価格は、最高14億円(約120億ウォン)だった。入居競争倍率は20倍で、
あっという間に売れてしまった。

 しかし、その年末から株価下落が始まり、いわゆる「土地神話」も、1991年から崩壊し始め
た。このマンションは不幸にも、不動産景気が下降をたどり始めたとき、完工したため、契約放
棄者が続出した。

結果、はじめ完工した49戸のうち、25戸が空き家になった。

 いったん入居した世帯も続々と引越し、1990年代後半には、60戸中、3戸しか入居してい
ない状態だった。

このマンションは15年後の2004年、2億〜4億円で販売し、やっとほぼ全世帯の入居を果た
した。それでもまだ未入居が5戸ほどある。

 1980年代後半、日本で不動産バブルを生んだ主役は、不動産担保融資で手を組んでいた
企業と、それに銀行だった。

 しかしバブルを無理に消そうとして、経済全体を「失われた10年」の長期不況に陥れたの
は、まぎれもなく、政策当局だった。

当時、日本政府が犯した失敗をたどってみると、現在の韓国政府がしていることと似ている感
じがする。

●税金爆弾で脅す 

 1990年3月23日。当時の大蔵省(韓国の財経部)は、金融各社に通達を出した。「不動産
融資増加率を、融資総額増加率以下に抑えよ」という内容だった。これは「不動産融資総量規
制」という、日本経済史に残る行政規制だった。

 不動産バブル崩壊前夜だった1990年12月、日本政府は国民に「税金爆弾」を放ち始め
た。「売らなければ我慢できないようにしてやる」と脅しながら、着手したものはやはり保有税だ
った。

 先に大蔵省が「地価税」を新設。地価格の0・3%を毎年税金として徴収すると発表した。地
価税が施行されたのは、不動産暴落が全国に広がった1992年。その年、日本のデパート業
界が、経常利益の20%を地価税として徴収されたという話は、「税金爆弾」のものすごさを物
語っている。

そして次に自治省(韓国の行政自治部)も、それに加わった。

韓国の財産税にあたる固定資産税の算定基準(評価額)を、一挙に公示地価の70%に引き
上げた。

当時、それまでの評価額は、公示地価の10〜20%程度がふつうだった。当時の日本のメデ
ィアは「大蔵省と自治省は、国民にダブルパンチを食らわせた」と表現している。

 日本国民が税金の振り込み用紙を受け取り始めたのは、4年後の1994年、「地価は下が
っているのに、税金はどうして増えるんだ?」という税への抵抗感が、日本中を覆った。地価税
は結局、国民の抵抗の末1998年、事実上、廃止された。

●あとの祭りとなった、金利引き上げ  

 日本の中央銀行、日本銀行。バブル時代の絶頂期だった1989年5月まで腕組みしたまま
何もしなかった。1985年のプラザ合意による円高不況を解消すると、低金利(コール金利年
間2・5%)を、なんと、2年3か月間も放置した。バブルに油を注いだ当時の行為は、日銀の歴
史的失敗といわれている。

 1989年5月、遅ればせながら始まったコール金利引き上げは、1990年8月まで続いた。1
年3ヶ月間、コール金利は年2・5%からなんと年6%まで急騰した。1990年はすでに株価や
不動産価格が崩壊し始めた時点だ。

火に油を注いだ日銀が、今度は消えそうな火に水をかけてしまったということになる。バブルと
いうものは無理のないように、徐々にしぼませるものであって、急激なバブル崩壊は。経済を
破壊することもある、と日本の教訓は示している。

+++++++++++++++

 以上の結果が、「今」である。

 その結果、この10年以上、預金しても、利息は、ほとんどゼロのままに据え置かれた。借金
を踏み倒されれば、だれだって怒る。しかしそれと同じことをされても、だれも怒らない。つまり
利息がほとんどゼロというのは、その分だけ、銀行に預金を奪われたということになる。

 そのため、今年(06年)3月期の決算では、日本の銀行は、どこも空前の利益を計上してい
る!

 この韓国の朝鮮N報の報告を読むと、「なるほど、そうだったのか」と思い当たるフシもいくつ
かある。つまりは、私たち国民が、不動産屋と銀行、それに政府の失政のツケを払わされたと
いうことになる。

で、今、再び、この日本で、バブル経済が起きた。「ミニ・バブルの再来」と呼んだ人もいる。
「調整インフレ」と呼んでいた人もいる。株価が上昇し始めた、96年〜2000年にかけて、それ
が始まったとみてよい。(96年、2000年に、株価は、景気回復の実感がないまま、2000万
円台を記録している。)

政府と日銀は、毎年、30兆円以上ものお金を、市中にバラまいた。こうした状態を、経済学者
たちは、「(お金が)ジャブジャブの状態」と表現した。

しかしそのミニ・バブルが、ここにきて、またまたはじけつつある。株価の下落に、その片鱗(へ
んりん)を見ることができる。株価は、現在、徐々に、しかし大きな坂をくだるように、さがり始め
ている。

 ただ幸いなことに、今、日本の景気は、少しずつだが、上向き始めている。いろいろな意見は
あるが、皮肉なことに中国特需が、日本の経済を支えた。日銀は、さぞかしヒヤヒヤしながら、
この数年を過ごしたことだろう。今となってみれば、「中国、様、様」というのが、本音ではない
だろうか。

 が、安心するのは、まだ早い。本来なら、この時期にあわせて、一気に、行政改革を進めな
ければならない。景気がわずかでも上向いてきた今こそ、チャンス到来。(というのも、景気が
下降気味のときに、それをすれば、かえって景気を冷えこませてしまうことになる。)

 おおまかな意見としては、公務員の数は、現在の約半分でも、じゅうぶん。「3分の1でもい
い」(H市市役所勤務・友人の部長)と言う人もいる。もしここで行政改革をしっかりとしておかな
いと、結局は、もとの木阿弥(もくあみ)。日本は、今まで来た道を繰りかえしながら、やがて衰
退していく。

 それにしても、朝鮮N報の報告を読んでいると、あのときの怒りが再び、ムラムラとわいてく
る。

 名指ししてはいけないのかもしれないが、当時の、M首相と、H大蔵大臣。この2人こそが、
日本経済を破滅の崖ップチに立たせた、張本人である。

 が、もちろん、この2人が、その責任を取ったという形跡はまるでない。M首相は、そのあと、
再び、大蔵大臣に返り咲き、大蔵省の指揮(?)をとっている。H大蔵大臣は、そのあと、日本
の首相にまでなっている。

 さらにあろうことか、H氏は、首相時代に、1億円ものワイロを受け取ったという疑惑を向けら
れながら、「記憶にない」と逃げてしまった。(注:この件については、疑惑はあるものの、証拠
がじゅうぶんでないという理由で、H氏は、不起訴処分になっている。)

 しかし結局のところ、私たち国民が、バカだったということか。で、今の今もそうで、現に今、
怒りの声をあげる人は、ほとんどいない。まさに私たちは、「もの言わぬ従順な民」そのもの。

 これでよいのか、日本人!、と叫んだところで、この話は、おしまい。どうせだれも、私の話な
どには、耳も傾けてくれない。私にも、それが、ヨ〜ク、わかっている。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ある女性の悲劇

++++++++++++++++++

Xさんには、2人の娘と、1人の
息子がいた。

しかし上の娘2人は、脳の病気で、
ともに32歳という、同じ年齢で、
あいついで、他界。

夫と息子も、同じ脳の病気で、
現在、入院中。

とくに長男は、現在、
予断を許さない状況だという。

++++++++++++++++++

 これは実話である。

 Xさんには、2人の娘(長女、二女)と、1人の息子(長男)がいた。Xさんは、ごくふつうの母親
として、3人の子どもを育てた。そのころのことをよく知る近所の人たちは、みな口をそろえて、
こう証言している。   

「子どもをかわいがる人で、休みごとに、子どもたちを、あちこちへ連れていった」と。

当時の写真などは、写真週刊誌などで紹介されているが、どこからどう見ても、ごくふつうの、
幸福そうな母親といった感じがする。

 そのXさんの家庭に、異変が起きたのは、長女が思春期を迎えたときのことだった。長女が、
脳のある病気で、入院した。そしてそのあと、長い闘病生活のあと、その長女は、32歳の若さ
で、他界。

 が、不幸はつづく。

 同じく二女もまた、長女と同じころに発病。やはり脳のある病気だった。Xさんは、最後の1年
間は、二女のそばについて、寝ずの看病をしつづけたという。が、くしくも、その二女が他界し
たのも、次女が32歳のとき。長女が他界したのと同じ年齢だったという。

 これを「偶然」というには、あまりにもむごい。が、そこで不幸が終わったわけではない。

 現在、Xさんの夫も、そして長男も、同じ脳のある病気で、入院中だという。しかも長男は重症
で、余命は、それほど長くないと言われている。

 つまりXさんは、2人の娘を、脳の病気でなくし、さらに今また、夫と長男まで、同じ脳の病気
で、なくそうとしている。不幸といえば、これほど、不幸な家族も、そうはない。もし、あなたがそ
のXさんなら、あなたは、そういう自分の境遇を、どう思うだろうか。あるいは、その苦しみから、
どうやって自分を解放するだろうか。

 冒頭に書いたように、この話は、実話である。そしてこれから書く話も、実話である。

 やがてXさんは、どういう理由からか、道をはさんだ隣人のYさんと、トラブルを起こすようにな
る。Yさんの家から聞こえてくる騒音が、気になったという。そこでXさんは、その腹いせのため
か、反対にYさんに対して、攻撃的な姿勢にうってでるようになる。

そうしたトラブルが原因で、Yさんは、何度かにわたってXさんを訴えた。

 Xさんが、「騒音おばさん」と呼ばれるようになったのは、そのあとのことである。テレビでもそ
の様子が紹介されたので、知らない人はいないと思う。大音響のラジカセを鳴らしながら、それ
に合わせて、フトンをバンバンと叩きつづける。

 あるいは隣人の家の前までやってきて、大声で、怒鳴り散らす。

 Xさんは、騒音条例違反で、やがて警察に逮捕。現在は、拘置所に拘置されたまま、裁判所
で裁判を受けている。

 私も最初、その模様をテレビで見たとき、普通でない様子に驚いた。緊張で、ひきつった顔。
動物的な怒鳴り声。私は、「これが私たちと同じ人間か」とさえ、思った。いや、個人どうしという
レベルでは、似たような行動をする人を知らないわけではない。

 しかしその個人というレベルを超えて、マスコミが取材している、その目前で、そういった行動
をする人は少ない。そのためか、当時は、Xさんに同情する人は、まずいなかった。「騒音おば
さん」という、どこか親しげなニックネームはつけたものの、それは、Xさんにたいする、激しい
嫌悪感を裏がえした言い方とも考えられなくもない。

 あえて同情して言うなら、うちつづく不幸の中で、Xさんは、自分を見失ってしまった。もっと言
えば、正気をなくしてしまった。そういうふうにも考えられなくもない。

 こうしたXさんの過去を雑誌や週刊誌などで知ったとき、私は、ものごとは、決して一方向だ
けから見てはいけないことを、改めて、思い知らされた。多分、このエッセーを読んだあなた
も、そうではないか。

 だからといって、Xさんがした、あの一連の行為が許されるというのではない。隣人のYさん
は、毎日、毎晩、さぞかしつらい思いをしたことだろう。こういう事件が近所で起こると、心底、
神経をすり減らす。

 Xさんにしても、またYさんにしても、たいへん悲しい物語であることには、ちがいない。

【教訓】

 よく他人の不幸をのぞいては、あれこれ言ってくる人がいますね。無神経というか、無頓着と
いうか。私も、今まで、そういうことをよくされました。

 しかしこちらには、こちらの、人には言えない事情というものがあります。そういう事情も知ら
ないで、ときに親分風を吹かせて、ズケズケと、あるいはときに、物知り顔に、イヤミを言う。お
まけに説教までしてくる!

 そういうことは、たがいに、してはいけません。たとえ相手が、身内でも、です。

 今回、Xさんの過去を知り、私は改めて、それを強く思いました。

 それにもうひとつ。被害者となったYさんにはたいへん申し訳ないのですが、私自身は、Xさん
の過去を知り、どこかほっとしたような気持ちになりました。「やはり、根っからの悪人はいない
のだ」と。つまりXさんには、Xさんの、人には言えない事情というものがあったのです。もっと言
えば、同情すべき点も、多いということ。

 どうか、みなさん、心、安らかに!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【中学校での講演】(改作)

++++++++++++++++

先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。

で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。

そこでそのレジュメは、ボツ!

そこで改めて、考えなおしてみる。

(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)

++++++++++++++++

●初恋

 私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。女の子
といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。私も、からか
った。

 その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、すてきな人
だった。

 毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほうばか
り見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だけが、いつも、
虹色に輝いていた。

 で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。

 私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家にも電話
はあったが、家ですると、親に見つかる。

 私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それはもう、
死ぬようない思いだった。

 で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と電話を
すると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。

 心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。

 そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。

 「何か、用?」と。

 そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっただ
け。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。

●フェニルエチルアミン

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

●リピドー(性的エネルギー)

 このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、つま
り、「性的エネルギー」である。

 それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、1856
〜1939)である。

 「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギー」(日
本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、より広く、生
命エネルギーのことを言った。

 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。

たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすのは、口
愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動にかられるの
は、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考えるのは、男根期の固
着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わかりやすい。)

 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることから生まれ
るというのだ。

 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、その
根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。

●性的エネルギー

 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだことがあ
る。

 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それまでのズン
胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、売れ行きが爆発
的に伸び、今のコカコーラになったという。

 同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動力となっ
たのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、出会い系とか何
とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?

 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうであって
も、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、基本的には、異
性との関係で生きている。つまりスケベだということ。

 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後世
へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点になってい
る。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はいないし、もしス
ケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。

 問題は、そのスケベの中身。

●善なるスケベ心

 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。昔、産
婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。

 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った感情を
もっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、ゾクゾクと感
じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。

 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが女性に求
めるのは、体ではなく、心だ」と。

 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかもしれな
い。

 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。

 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。私は若
いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気のない世界だ
った。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のかたまりのような人
間だった。

 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えない。そし
てそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東光氏も、昔、
私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連続で、青春時代がな
かったと、こぼしていた。

 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気にした
り、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、それぞれが、つ
ぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、道徳にせよ、あくまで
も、その結果として生まれたに過ぎない。

 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じること
はない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当然、スケベであ
る。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなければ、死んでいるかのど
ちらかである。

 あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!

●自我構造理論

 が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配下に
ある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。

一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした快楽原理と
戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心の
どこかにしまいこんでしまう。

 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うまく説明でき
る。

 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネルギ
ーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、理性もな
い。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。

 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」という理性であ
る。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑制する。

●イドと自我の戦い
 
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働きが強け
れば、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思われる。

 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)でも、説明できる。

 今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)

 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程度、
(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴールマンは、
(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)他人への思いや
り、(5)人間関係の5つをあげた。)

 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということになる。

●教師という仮面

 ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。
おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、も
のを考える。接する。

 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接する。し
かしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性がある。こん
なことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、まったく分離してしまう
ということは、危険なことでもある。

 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。

 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演じている
と、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、弱い。長く、
つづけることはできない。

●自己管理能力

 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)はどこ
にあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと言えば、自我
のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうでない人を、(見かけ
上、すばらしい人)という。

 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうために、こ
んな話を書きたい。

●思春期に肥大化するイド

 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。

 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていった。黒
い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。

 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車が
いないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。

 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼児ほ
ど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、子どもは、と
たんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。

 なぜか?

 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはドロドロと
した欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我のもつ管理能力
が低下する。

 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当にすば
らしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い(?)。

●では……

 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。

 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らなければ
ならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみどころがない。ド
ロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イドは、私の生きる原動力と
なっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこから生まれる。

 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を抱きたい」
「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。

 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンのようなも
の。

 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドルをとりつ
ける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコントロールする部分
が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、しかしそう考えると、(私)
というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、そうしてできあがった、(車)のような
もの、ということになる。

 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)ということ
になるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボロで、故障ばかり
繰りかえす……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)

●エスの人

 さらに話を進めたい。

フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エス
の人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。い
つもいつもエスの人もいない。

 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」と
いうことになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立
が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し
専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、
どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの
「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つ
まりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そも
そも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれか
ら進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

●オーストラリアでの経験

 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことがある。南
オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのことである。私たちは、
州境にある境界までやってきた。

 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイッチか
何かを食べていた。

B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。

 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この例で言
えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったということにな
る。

 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信頼のお
ける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方を決めてき
た。私は、もともと、小ズルイ人間だった。

●信頼関係は、ささいなことから

 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的なところか
ら始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。

先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、信号が
青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空くまで、じっと待
つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶などは、決められた場所以
外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ないで、交番や、関係者(駅員、店
員)に届ける。そういうところから、始まる。

 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そしてそれが熟
成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようになる。

 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来ている
が、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促すと、B君は、
いつも、こう言う。

 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。

 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。「日本
では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうして、そうまでロ
ジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。

 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」ということか
(?)。

 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようになった。

●友人との信頼関係

 友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。しかし
その(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。

 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうした日々
の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼関係となっ
て、熟成される。

 もちろんその道は、決して、一本道ではない。

 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけないとか、不
倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、仮にそういう関
係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。

 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友人の中
には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学習を通して、
より賢くなっていく。

●超自我の世界

 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう一つの自
我、つまり(超自我)があるという。

 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。

 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかしあいにく
と、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。

 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人の自分
が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れられるぞ」
と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。

 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるようだが、
ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向くまま、思いつく
まま、行動するようになる。

 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。

●シャドウ

 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであれば、そ
れが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、それがよいこと
だと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。

 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわけでは
ないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてしまう。そして
それが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離れていく。「何だ、お
母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。

 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子どもが、かえ
って、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放化したりするこ
となどがある。非行に走るケースも珍しくない。

 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、しか
しではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。

 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。

 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のものに
してしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであれば問題は
ない。

 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていのばあ
い、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だけを、子ど
もが引きついでしまう。

 それがシャドウということか。

 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。

つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操っている、もう1
人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。

 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用しない。
つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。

 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子どもではなく、
親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て育つ』というが、
それをもじると、こうなる。

 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけないで、どう
して子どもをしつけることができるのかということにもなる。

 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えてみたい。

●【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

●行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

●精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

●感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成)

+++++++++++++++++++++

ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】(以下のテストを会場で実施)

****************

【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力

Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力

Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ

Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性

Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、HPの
ほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実施。)


***************************

●順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)

●終わりに……

 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、「私で
あって、私でない部分」によって、動かされている。

 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしていくか。それ
ができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。そうでない人を
そうでないという。

 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはいけな
い。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春
期 自我構造理論 中学生)

●おまけ

 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の本をプ
レゼントする予定。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1318)

●自由とは……

自由とは、あるがままの自分を、
堂々と、さらけ出しながら、生きること。

何もかくさない。
何もごまかさない。
何も飾らない。

私を支配するものは、だれもいない。
私に命令できるものは、だれもいない。

私は考えたいことを考え、
書きたいことを書き、
言いたいことを言う。

自由とは、私の中の私を、
どこまでも追求すること。
私であって、私でないものと、
どこまでも戦うこと。

見栄や体裁、世間体など、
クソ食らえ!
それがわからなければ、
出世欲、名誉欲にかられて、
自分を見失っている人を
見ればよい。

あわれな社会の奴隷たちよ、
あわれな金の亡者たちよ、

自分がだれであるか、
自分が何であるか、
それもわからず、
ただ右往左往しているだけ。

自由とは、あるがままの自分を、
堂々と、さらけ出しながら、生きること。

(はやし浩司 詩 詩篇 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 自由 自由論)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●教師によるハレンチ事件

+++++++++++++++

このところ、このS県でも、
教師による、ハレンチ事件が
たてつづけに、起きている。

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 今度は、I町(浜松市の近郊)の塾講師が、ハレンチ罪の容疑で逮捕された。新聞の報道に
よれば、中学生の女子と、中学生と知りつつ、どこかのホテルで、「いかがわしい行為をした」
(報道)という。

 当の塾講師は、「身に覚えがない」(報道)と、それを否定しているという。それはそれとして、
つまり今の段階では、その講師がシロかクロかはわからないが、今回の事件は、(いもづる
式)に、発覚した。

 その女子は、不特定多数の男性と、そういうことをしていたらしい(?)。で、1人の男性を調
べていたら、ほかにも、同じようなことをしていた男性が何人か見つかり、その中に、塾講師も
含まれていたという。

 で、こういう事件を見聞きすると、その周囲の人間は、(私も含めてだが)、「さも、私は関係あ
りません」というような顔をする。「自分は、そういうことをする人間ではありません」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう考えてよいのだろうか? 言いかえると、だれが、こういう
塾講師を、『石もて、打てるのか』?

 スケベ心はだれにでもある。あなたにも、私にも、だれにでもある。もしそのスケベ心を否定
してしまったら、人間は、人間でなくなってしまう。つまりこういう事件に関しては、絶対的な悪人
もいないし、絶対的な善人もいない。

 では、悪人と善人のちがいは何かということになると、それが(距離)である。(してみたい)と
思うことと、(実際に、してみる)ということの間には、距離がある。その距離の短い人を、悪人
といい、その距離の長い人を、善人という。

 その距離をつくるのが、道徳であり、倫理ということになる。哲学もそれに含まれる。その人
の社会的地位や立場が、距離をつくるということも考えられるが、こういう事件では、あまりアテ
にならない。アテにならないことは、一連の教師によるハレンチ事件を見ればわかる。

 「教師なら、そういうことをしないはず」と考えるのは、今では、幻想以外の何ものでもない。

 距離をつくるのは、もっと本質的な問題である。また、そういう視点でこういう問題を考えない
と、こうした事件は、ますます巧妙化するだけ。水面の下にもぐるだけ。言いかえると、その距
離のない人に向かって、自己規制を、いくら求めても、ムダ。
 
 そこで前から私が述べているように、こうしたハレンチ事件に対しては、厳罰主義で臨むのが
よい。たとえば問答無用式に、2年の懲役刑にするとか、など。オーストラリアでは、さらにそれ
が進んで、そうした行為を見聞きしたばあい、通報義務まである(南オーストラリア州)。

 たとえばあなたの友人(男性)が、未成年者(女子)とそういう交際をしていると知ったら、あな
たは、それを警察に通報しなければならない。それを怠ると、あなた自身も逮捕される。

 そういう意味では、日本は、こうした犯罪に対して、甘い。アメリカなどでは、教師が生徒と性
交渉をもったりすると、軽くても、10年近くの刑を科せられる。言い逃れはできない。日本も、
そうすればよい。そうすることによって、こういう事件の再発を防ぐ。

 わかりやすく言えば、道徳面、倫理面、哲学面で距離を作ることが無理なら、その距離は、
刑罰で作るしかないということ。若い女の子が近づいてきただけで、男性のほうが青くなって遠
ざかるような状況になれば、この種の事件は、ぐんと少なくなるはず。

 世界広しといえども、女子高校生や女子中学生が、売春まがいの遊びをしている国は、そう
はない。またそういった子どもたちに群がって、男性たちがお金を払っている国は、そうはな
い。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ニート族の60%は、部活動の経験なし(?)

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何かの新聞の見出しに、
こんな記事が載っていた。

「ニート族の60%に、
部活動の経験、なし」と。

その記事は、そのまま、
見過ごしてしまった。

心のどこかで、「?」と
思いながら……。

++++++++++++++++

 このS県では、中学校については、部活動には、一応、全員が、参加することになっている。
義務ではないが、そうなっている。が、特別の事情のある子どもについては、部活動が免除さ
れる。高校生については、公立、私立を問わず、自由参加が原則になっている。

 見出しに、「部活動の経験なし」とあるから、そのまま読めば、小学校、中学校、高校を通し
て、部活動の経験がないということになる。しかし、そんな子どもはいるのだろうか?

で、この記事を一読すると、「部活動を経験しない子どもは、ニート族になる可能性が高い」と
いう印象をもってしまう。ここでいくつかの疑問が、わいてくる。

 ほかの県のことは知らないが、仮に、ある県では、部活動に参加するかしないかは、子ども
の意思に任されていたとする。そのため、部活動に参加しない子どもが、60%、いたとする。
すると、この調査結果は、まったく意味がないことになる。

 「ニート族を調べたら、50%が、男子だった」というのと同じくらい、おかしい。「病気の子ども
を調べたら、50%が男子だった」というのでも、よい。

 しかしこのS県に関していえば、一応、100%の子どもが、何らかの部活動を経験しているこ
とになる。何らかの事情があって、部活動を免除してもらっている子どもは、正確に調査したわ
けではないが、中学生で、10%前後ではないか。

 そこで、その(10%)という数字の上に、(60%)という数字をのせてみると、こういうことにな
る。

 「部活動を免除してもらった10%の子どものうち、60%がニート族になる」と。

 が、ここでまたまた別の疑問が生まれる。

 そもそも何らかの事情で、部活動を免除してもらう子どもというのは、その前提として、何らか
の「事情」をもっている。「どうしても集団になじめない」とか、「体力的に問題がある」とか、な
ど。そういう子どもをもつ親から、私はそういう相談を、よく受ける。

 だから部活動をしないと、ニート族になりやすいと考えるのは、短絡的すぎる。部活動に参加
できない子どもは、それ以前から、もともとニート族になるような要素をかかえている子どもとい
うふうにも、考えられる。

 ニート族というのは、「not in education,employment or training」、略して、「NEET」。つ
まり「就学も職業訓練もしていない若年層の無業者」をいう。

 つまり「部活動をしなかったから、ニート族になった」と考えたらよいのか、「そもそも、その素
地は、就学前からあった」と考えたらよいのか、それがよくわからない。個人のレベルでそれを
考えてみれば、わかる。

 たとえばA君(中1)という子どもがいたとする。

 彼は最初、テニス部に入りたかった。もともと運動は得意ではなかった。しかしテニス部は満
員。抽選ではずれて、バスケット部へ回された。しかしA君は、背が高くなかった。反射神経も、
よくなかった。

 そこでA君は、毎日、重い足を引きずるようにして、学校へ通うようになった。「部活をやめさ
せてほしい」「変えてほしい」と、何度も担任の教師に訴えたが、聞き入られなかった。で、断続
的に不登校。あわてた両親が、担任と部活動の指導教師に相談。やっとのことで、A君は、部
活動を免除された。

 ……というようなケースは、多い。で、こういうケースのばあい、部活動が先で、A君はA君の
ようになったのか、それとも、A君は、もともとそういう子どもであったから、部活動になじめなか
ったのかということになる。その判断が、たいへんむずかしい。

 というのも、対人恐怖症、集団恐怖症、さらには回避性障害をもった子どもというのは、決し
て少なくない。そしてそういう傾向は、すでに幼児期のときから始まる。

 このタイプの子どもというのは、学校という集団教育にさえ、なじむことができない。いわん
や、体育系の部活動となると、さらになじむことができない。そういう子どもは、ここでいう「部活
動の経験なし」という部類に属する子どもになる可能性は、たいへん高い。

 ……とまあ、いろいろ考える。

 で、結論から先に言えば、「では、部活動をきちんとできるようにすれば、ニート族になるの
を、予防することができる」というふうに考えるのは、まちがっている。この調査をした人は、お
そらく、そういう先入観をもって、調査をしたのではないのか。

 というのも、この種の論法は、すでに30年近く前から、よく耳にするからである。つまり「だか
ら、部活動は子どもにとって、重要だ」と。そのことを裏づけるために、どこかの団体が、こうし
た調査をして、「ニート族の60%に、部活動の経験、なし」という数字をはじき出した(?)。

 それに、だれも、(子どもも、そうだが)、なりたくて、ニート族になるのではない。それぞれの
人は、(子どもも、そうだが)、そうであることに、人知れず、悩んでいる。苦しんでいる。ある男
性(30歳)は、そのニート族だが、その男性の母親が、こんな話をしてくれた。

 その男性は、子どものころから、集団活動や訓練が苦手だった。遠足といえば、子どもは喜
ぶはずと考える人が多いかもしれないが、その男性は、遠足が苦痛だった。運動会も苦痛だ
った。

 もともと、ある心の問題をかかえていた。

 で、20歳をすぎてからも、職にもつかず、訓練学校にも通わなかった。その男性には、2人
の弟がいたが、その2人の弟は、大学を出て、結婚をした。そういう兄弟や兄弟夫婦たちと正
月に顔を合わせたあと、その男性は、自分の部屋で、おいおいと泣いていたという。

 「ぼくは、兄貴なのに、何一つ、兄貴らしいことをしてやれない……」と。

 ニート族というと、怠けた人間に思う人も多いかもしれない。事実、客観的に見ると、そう見え
なくもない。しかしそういう若者たちがかかえる問題の根は、もっと深い。ここでいうように、部
活動と短絡的に結びつけて考えられるほど、単純な問題ではない。

 が、この日本では、「集団教育」に、どういうわけか、異常なほどまでに、こだわる。集団にな
じめないことを、「おくれる」とか、「落ちこぼれる」とか、いう。むしろ、個人が個人として生きて
いくことすら許さない。また個人で生きていくとしても、その道は、たいへん限られている。しかし
ほんの少しだけ視点を変えて、もし、「集団のほうが、おかしい」「問題がある」と考えたら、どう
なるのか。

 それがわからなければ、この過密すぎるほど過密な、社会を見たらよい。この忙しすぎるほ
ど、忙しい、社会を見たらよい。これが本当に、人間にとって、あるべき環境なのだろうか。

 何割かの子どもが、そういう集団になじめないからといっても、何も、おかしくない。むしろ大
切なことは、そういう子どもが、何割かの確率で生まれるということを前提にして、もっと多様性
のある社会を用意することではないのか。

 今のように、学校だけが道であり、学校を離れて道はないという社会のほうが、まちがってい
る。

 まわりくどい言い方をしたが、「ニート族は悪」であるという発想が、どこか、見え隠れして、ど
うも、この調査結果には、抵抗を覚える。少し前には、「フリーター撲滅論」まで、あった。(撲滅
だぞ!)

さらに一言、つけ加えれば、こうした調査結果が、部活動推進派の教師を、ますます勢いづか
せることを、私は、心配する。そしてその結果、ますます重い足をひきずりながら学校へ通う子
どもがふえることを、私は、心配する。

 もちろんだからといって、部活動を否定しているのではない。ただ私は、子どもによっては、
部活動そのものが、過負担になるケースもあるということ。それを言いたかった。

 以上、私は、その新聞の見出しを読んだだけなので、ここに書いたことは、まちがっているか
もしれない。そういう前提で、このエッセーを読んでほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 部活
動 ニート ニート族 NEET)


【補足】

 この私の意見に対して、実際、引きこもりを体験したことのある、宮沢K氏が、トラックバック
してくれました。

 転載許可がもらえましたので、それをそのままここに転載させてもらいます。

【宮沢K氏のBLOGより】

●引きこもりは、病気だ!

お気楽にやってきたいのに、今日もシビアになっちまう。

「引きこもり者更生支援施設内で暴行か、引きこもり男性死亡」って事件の話。

 不条理日記さんのIMスクールについて、KMさんという人のコメント。

「このケースは、言ってみれば、自信過剰の民間療法の素人が、
 癌の治療に手を出したようなものでしょう。
 引きこもりの一部は精神科の病気、
 それもとても治療の難しい病気なのだという対応が必要です。」

この人が正しい☆ミ凸ヽ(^-^) タイコバン!

それに対して管理人のじじさんが

「引きこもりが病気!?
 そのように病気病気言うから病気に甘えて
 薬に甘えて医者、病院にあまえて何もできなくなってしまうから
 それがひきこもりって、そのまんまの名前の病気になってしまうんではないでは? 」

 じじさん、あんたねえ、
KMさんも「引きこもりの一部は」って言ってるでしょ。
引きこもりには怠けもんも多いけど
正しい? 病気の人も多いの。

世間一般、じじさんと同じように思ってるだろうけど
メラトニンやコルチゾールの分泌異常とか
前頭葉領域の血流低下とかアセチルコリンの消費量増大とか
あとはPTSDとか親の共依存とか
かなり脳科学や臨床心理学で解明されてきてる。

やる気だって、脳内の化学物質の反応なんだよ。
無知だよなあ、世間のやつらは。

++++++++++++++++++

引きこもり者更生支援施設依存症の親

 IMスクールの事件じゃ、どうやら家庭内暴力で疲れ果てた家族が
施設に引き渡したらしいね。

 精神科の世界で誰にもわからないから閉じ込めるしかない 
今の医学ではそんなもの。

本人が一番辛かったはず、「なんでおれは暴れちまうんだろう」ってね。
原因はあるんだろうが、わたしにはもちろんわからない 

引きこもりに正面から向き合うこともなく、
病理的な勉強も怠り、
甘えだとかやる気がないとかほかの子はちゃんとやってるのに
とか言ってる大人たちが、こんな、社会やこんな子供を作った。 

あんたらこそ、やる気だしてみろよ
薬打って中毒になってみろよ 
病気で足を切断されて足の大切さがわかり、
元通りにならない事をはじめて認める。

どうにもならない事って、その状況にならないとわからない事って
あるだろう。

自分が正常でございと思ってるすべての連中、
あんたらは
感性が擦り切れて、何も感じられないからこんな世の中で平気でいられるだけだ。
宮沢Kの感性の爪の垢でも飲みやがれ(▼ω▼怒)

この施設がどういう人たちがやってて
どういうことが行われたかはわからない。
事故だったのかなんだったのかはわからない。
引きこもりにはそれなりの意義があるんだけど
わかってないんだろうな、こんな施設つくるくらいだから
(引きこもりの人生の意義の話は、またこんどね)

 親が、子どもの暴力に耐えかねて
預かってくれる施設があると聞いて喜んで拉致させた。

 親がこの施設に依存した。
親と子がいっしょに戦うことをあきらめた。
その結果、子どもは死んだ。
これだけだ。

臭いものにはフタか?
わが子は臭いものか?
誰かにまるごと頼みます、であとは平穏な暮らしが戻るのか?

(暴力で苦しんでる家庭では
いっぺん親だけでも精神科や心療内科に相談に行くといい。
ハロペリドールなどの精神安定剤の処方でおおかた静まる。
それからゆっくり時間をかけて話をしていってほしい。
相談するなら素人じゃなく専門家にしないとね。

ただ精神科くらい、医者の当たり外れの大きいところもないから
気に入る医者に出会うまで何人も回ること。

わたしは5つくらい、病院、回って奇跡的にいいドクターに会えて
やっと回復できた C=(^◇^ ; 
どうしてこんな無知で精神科の医者やってんの?というのが多い。
答えは「精神科は楽に儲かるから」。
(点数がいろいろ有利なのは事実)

+++++++++++++++++++++

 ★今日は最後に怠け者へ一言★

 じじさんの言ってた
たんなる「怠け者」の引きこもりやニート、不登校のあんたらに言っておく。
怠け者の末路は悲惨だよ。

生活保護って制度もいつまであるかわかんない。
バス代さえなくて何キロも歩いて病院にきてるおばさん、
家族から見放されて無縁墓地にはいるのを待って
光の入らない4畳半に住んでるおじさん。。。

 やっぱ、施設とか、病院って、世の中にすごく必要。
こういう同病者をまじかにみれるもの。

自分の明日が見れるし
いっしょに抜け出そうとする仲間に出会えるもの。

 ただし、自分から入りたい、と覚悟するまでが、時間、かかるのね。

 これから医学はもっともっと進むよ。
病気かそうでないかは、かんたんに見破られるから
病気のフリもできない。
怠け者にはじじさんだけじゃなく、私も世間も、やさしくないよ
(▼O▼メ)


【宮沢Kさんへ】

 たいへん参考になりました。あなたのような体験をもった人たちが、もっと声をあげれば、IM
スクールのような、おかしな更生支援施設(?)は、なくなると思います。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●脳梗塞(?)

++++++++++++++

今日も、見かけた。

多分、脳梗塞か何かを起こしたのだろう。
不自由な体を懸命に支えながら、その男性は、
大通りの歩道を、杖(つえ)をつき、
口を一文字に結んで、歩いていた。

振りかえってみると、まだ50歳そこそこの
男性だった。

もっと若かったかもしれない。

それを知って、息がつまった。

++++++++++++++

 脳梗塞。これほど、過酷な病気もない。一度、起こすと、その後遺症は、ずっと長くつづく。ダ
メージを受けた部分にもよるが、ばあいによっては、精神まで、おかしくなる。

 たぶん、脳梗塞を起こしたのだろう。車で通りかかると、1人の男性が、杖をついて、大通り
の歩道を、歩いていた。右足を前に出し、つづいて、杖で体をささえながら、左足を引きずるよ
うにして、歩いていた。

 うしろ姿だったので、そのときはわからなかった。が、通り過ぎて、振りかえってみると、その
男性は、50歳前後の人だった。もっと若かったかもしれない。

 それを知って、私は、思わず、息がつまった。

「あんな若い人だ!」と、私がワイフに言うと、ワイフも一瞬、驚いた表情をして見せた。「最近、
若い人でも、脳梗塞になる人がふえたみたい……」と。

 このところ、脳梗塞を起こした人が、やけに気になる。私もその危険年齢に達したということ
もある。知りあいの中に、何人か、そういう人がいるということもある。とても、他人ごとのように
は思えない。……思えなくなった。

 こうした病気は、いわば確率の問題。いくら健康に注意していても、なる人は、なる。またなっ
たからといって、その人を責めることもできない。もちろん笑うなどということは、言語道断。

 この病気だけは、まさに、明日はわが身。そう考えた方がよい。

私「去年、ぼくも足の骨を折って、しばらく松葉杖をついて歩いていたことがあるだろう。あのと
きね、ぼくは、階段をあがるときも、だれかに手伝ってもらわなければならなかった。そういうと
き、目の前をスタスタと階段をあがっていく人たちがいたりすると、ぼくはそれを見ながら、あ
あ、人間って、ああいうふうに歩けるんだと、へんに感心したよ」

ワ「……」

私「あの男性から見ると、ぼくたちは、どう見えるだろうか。……きっとあの男性も、あのときの
ぼくのように思っているかもしれないよ。歩ける人は、歩けることを何とも思わないけれど、歩
けなくなった人はそうではない。歩けること自体、不思議に思えるかもしれない。人間の体とい
うのは、そういう意味でも、私のものでありながら、決して私のものではないよね」と。

 つまり私が言いたかったことは、こういうこと。

 私は毎日、いろいろな行動を繰りかえしている。しかし大半の行動は、何も考えることなく、無
意識のうちに繰りかえしているだけ。自分の意思によって、それぞれの体の部分が、どのよう
に反応するか、それを考えることはない。

 それはたとえて言うなら、社員たちに命令ばかりしている社長のようなもの。社員を、社員と
も思っていない。もちろん自分と同じ人間などとは、ぜったいに思っていない。

 しかし私の体は、私のものでありながら、決して、私のものではない。今でもこうして私の手と
指は、パソコンのキーボードを叩いているが、その手や指は、私のものでありながら、決して私
のものではない。

 その横にあるマウスと、同じ。「これは私のマウス」と言うことはできるが、しかしそれは決し
て、「私」ではない。

 脳梗塞になると、それを思い知らされる。そのときはじめて、自分の体が、実は自分のもので
はなかったことを、思い知らされる。……勝手にこんな想像をするのは、許されないことかもし
れないが、しかし、それほどまちがっていないと思う。

 たとえばこの手にしても、もちろん「私」がつくったものではない。指の爪も、シワも、その中の
骨も、「私」がつくったものではない。が、私は、それらを、「私のもの」と錯覚しているだけ。あ
たかも、「私」の思いどおりになる社員か、さもなければ、奴隷のように錯覚しているだけ。

私「ぼくたちも、ああなることもあるという、その覚悟だけはしておいたほうがいいよね」
ワ「そうならないように、予防することも大切よ」
私「しかし、いくら予防していても、なるときはなる。みんな、ぼくたちと同じくらいには、気をつけ
ているよ。それでもなるんだから……」と。

 私の脳裏には、あの男性の顔が、しっかりと焼きついている。その男性は、しっかりと道路を
にらみ、口を一文字に、かたく結んでいた。表情は、なかった。が、それはまさに、明日の、私
の顔。決して、他人の顔ではない。

 脳梗塞。これほど、過酷な病気もない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1319)

【寿大学での講演】

++++++++++++++++

今度、ある町の寿(ことぶき)大学で
講演をすることになった。

70歳以上の長老者たちがつくる、
勉強会である。

しかし、私のような若輩(じゃくはい)が、
どうして、そういう人生の大先輩を
前にして、講演など、できるのか?

あれこれ、考える。

++++++++++++++++

 こうした講演で重要なのは、冒頭の部分。お決まりの、「エー、本日はよい日に恵まれまして
……」というようなあいさつは、その瞬間、聴衆の人たちを、白けさせてしまう。

 私のばあい、その場の雰囲気で、つぎの2つのうちのどちらかの方法を選ぶ。

(1)いきなり本題に入る。
(2)少し笑ってもらって、肩の力を抜いてもらう。

 若い母親が対象のときは、(1)の方法がよい。講演時間が短いときは、なおさらである。とく
に小さな子どもが同席しているようなばあいには、いきなり、本題へと切りこんでいく。

 そうしないと、20〜30分もしないうちに、ワイワイ、ガヤガヤといった雰囲気になってしまう。

 しかし聴衆の方に男性が多いときは、(2)の方法をとる。男性のばあい、私のような人間が
演台に立ったりすると、「何だ、このヤロウは!」といった表情をする。それが自分でも、よくわ
かる。

 だから少し笑ってもらって、肩の力を抜いてもらう。

 寿大学ということなので、当然、(2)の方法で、講演に入るしかない。

【導入】

 「要支援」と、「幼稚園」の話から。

 先日、私が子どもたちに、「君たちは、ヨーチエンだろ。ぼくはヨーシエンだ」と話してやると、
子どもたちはこう言った。「先生、ヨーシエンじゃなくて、ヨーチエンだよ」と。

 そこで私は、「いいや、ぼくは、ヨーシエンだ。もうすぐ、ヨーシエンになるよ。ウンチをしても、
自分のお尻をふけなくなったら、今度は、ヨーカイゴだよ」と。

すると子どもたちは、真顔になって、こう言った。

 「先生、ヨーカイ(妖怪)になるの?」と。

私「そう、ヨーカイだア。ヨーカイ学校といってね、1年生から、5年生まであるんだよ。こわいと
ころだよ」
子「5年生までしかないの?」
私「そう、5年生までしかない」
子「5年生が終わったら、どうなるの?」
私「あの世さ。あの世へ、行くんだよ。いよいよこの世の中から、卒業っていうわけ」と。

【本題】 

 常識論。『世にも不思議な留学記』を話しながら、常識について、話す。人間がもっている(常
識)ほど、あてにならないものはない。常識そのものが、作られた幻想(イルージョン)のような
もの。

 たとえば少し前、私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦は、毎朝、白いご飯の上
に、ミルクと砂糖をかけて、食べていた。ある朝は、ココアをふりかけて、食べていた。

 そういうのを見ると、自分の頭の中で、バチバチと火花が飛び散るのがわかる。脳細胞どうし
が、ショートするためである。

 私の体験から、そうした話をいくつか、話す。こんなことがあった。

 ある友人の家に、夕食を招待されたときのこと。イギリス人系の家庭だった。食事が終わっ
て、ふとうしろを見ると、友人の父親が、エプロンをかけて、食器を洗っていた。

 私はそれを見て、心底、驚いた。驚いて、声をあげた。「男が、皿を洗っている!」と。

 今でこそ、笑い話だが、当時の私の常識では、考えられない光景だった。また私の家は、岐
阜県の小さな田舎町にあったが、そんなところでも、男が、台所へ入るなどということは、めっ
たになかった。勝手に料理をしていたりすると、よく母にこう言って叱られた。

 「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。

 ……その常識について、以前、こんな原稿を書いた。それをもとに、話を進める。

++++++++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。

「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え
られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。

もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それ
だけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。

日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り出すとき、
「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するの
ですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、
よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の
基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本
になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。

++++++++++++++++++

もうひとつ、常識について、
留学記から話を引く。

++++++++++++++++++

【展開】

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学に留学し
ていたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、正規の日本人留
学生は私1人だけ。(もう一人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もともとメルボルンに住
んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、一通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、「君
を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、その手
紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行きたくない」
と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとは
まったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本へ帰った
ら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本では軍隊はあまり人気
がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ入らないのか」と、やんや
の非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コースというこ
とになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼくは日本
へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言っていた。が、あ
る日、一番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなことを言うのはよせ。日
本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパイズ(軽蔑する)」という言葉
を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社マ
ンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかなかった。こ
の友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなたの夫はど
のような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこれだけは言え
る。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代によっ
て、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるということ。大切なこと
は、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があるということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩
れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア〜」と。母は母の時代の常識にそってそう
言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、もうそう
いう時代ではない。あってはならない。

+++++++++++++++++

【締めくくり】

 問題は、講演をどう締めくくるか、だ。

 ただここで誤解してはいけないことは、寿大学といっても、そういうところへ来る人たちだか
ら、決して(老人)あつかいをしてはいけないということ。私の兄のように、頭のボケたような老
人は、来ないはず。

 むしろ逆で、頭のシャキシャキした人の方が多いはず。そういう人たちに、若輩(じゃくはい)
の立場から、何かを伝えたい。

 が、それが説教ぽいものでは、困る。

 どうしようか? どうしたらよいのだろうか?

 ただ今回の講演を通して、寿大学のみなさんの頭の中で、バチバチと火花が飛び散るような
話をしてみたい。それはそのまま脳の活性化につながる。いうなれば、映画『マトリックス』で私
が感じたような衝撃を、私は、寿大学のみなさんにも感じてもらいたい。

 そう言えば以前、どこかの同じような会で、私は、水戸黄門の話をしたことがある。そのとき
も、結構、反響が大きかった。この日本では、水戸黄門ですら批判することは、タブー視されて
いる。

 それについて書いた原稿が、つぎのものである。

+++++++++++++++++

●価値観の衝突

 価値観の衝突は、えてして宗教戦争のような様相をおびる。互いに「自分が正しい」と信じて
いるから、その返す刀で、「あなたはまちがっている」とぶつける。互いに容赦しない。親子でも
このタイプの衝突は、行きつくところまで行きつく。たとえば「権威主義」を考えてみる。

 日本人は本来、権威主義的なものの考え方を好む。よい例が、あの水戸黄門である。三つ
葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すれば、まわりの者が皆頭をさげる。今でもあのド
ラマは視聴率を、20%以上稼いでいるというから驚きである。つまり日本人には、あれほど痛
快な番組はない?

 しかしこうした権威主義は、欧米では通用しない。あるときオーストラリアの友人が私にこう聞
いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。そのときでも頭をさげるのか」
と。同じような例は、ときとして家庭の中でも起きる。

 親をだます子どもがいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。Kさん(70歳)は、息
子が海外へ出張している間に、息子の貯金通帳からお金を引き出し、自分の借金の返済にあ
ててしまった。

息子がKさんを責めると、Kさんはこう居なおった。「親が先祖を守るため息子のお金を使って
何が悪い」と。問題はこのあとだ。周囲の人の意見は、まっ二つに分かれた。「たとえ親でも悪
いことをしたら、あやまるべきだ」という意見。もう一つは、「親はどんなことがあっても、子ども
に頭をさげるべきではない」という意見。

 あなたがどちらの意見であるにせよ、こういうケースでは、その中間の考え方というのは、ほ
とんどない。そして親も子も同じように考えるときには、衝突は起きない。しかし互いの価値観
が対立したとき、それはそのまま衝突となる。

 もっともこうしたケースは特殊なもので、そう日常的に起こるものではない。しかしこれだけは
言える。親が権威主義的であればあるほど、「上」のものにとっては、居心地のよい世界かもし
れないが、「下」のものにとっては、そうではないということ。

ここにも書いたように、下のものが上のものに同調すれば、それはそれでうまくいくかもしれな
いが、たいていは下のものは、上のものの前で仮面をかぶるようになる。そして仮面をかぶっ
た分だけ、上のものは下のものの心がつかめなくなる。つまりその段階で、互いの間にキレツ
が入る。そしてそのキレツが長い時間をかけて、断絶となる。

 結論から言えば、親の権威主義など、百害あって一利なし。少なくともこれからの考え方では
ない。ちなみに、小学生6年生10人に私がこう聞いてみた。「君たちのお父さんやお母さん
が、何かまちがったことをしたとき、お父さんやお母さんは、君たちに謝るべきか。それとも、親
なのだから、謝るべきではないのか」と。

すると、全員がすかさず大きな声でこう答えた。「謝るべきだヨ〜」と。これがこの日本の流れで
あり、もう流れを変えることはできない。

+++++++++++++++++

ついでにこんな話もしてみたい。
寿大学のみなさんには、
少しショックが大きすぎるかも
しれない。

当日は、少し内容をやわらかくして
話すつもり。

+++++++++++++++++

●価値観の衝突(2)

 依存性には相互作用がある。つまり子どもだけの依存性を問題にしても意味はない。

たとえば依存心の強い子どもがいる。何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おな
かがすいたア〜(だから何とかしてくれ)」などという。多分、家庭ではそう言えば、まわりのもの
が何とかしてくれるのだろう。

同じように園でも、トイレへ行きたいときも、トイレへ行きたいとは言わない。「先生、おしっこオ
〜」などと言う。日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそこまで依存性
の強い民族ということにもなる。

で、こうした依存性の強い子どもが生まれる背景には、それを容認する甘い家庭環境がある。
もっと言えば、親自身も、潜在的にだれかに依存したいという願望があり、それが姿を変えて、
子どもの依存心に甘くなる。

もっとも親が壮年期にはそれは目立たない。しかし老年になると、再びそれが現れる。ある女
性(65歳)は、自分の息子や娘に電話をかけるたびに、今にも死にそうな、弱々しい声でこう
言う。「お母さんも歳をとったからネエー(だから何とかしろ)」と。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。「あなたの人生はあなたのもの
だから、この広い世界を自由に羽ばたきなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分、
自分の人生を生きなさい。親孝行……? そんなことを考えなくていい。家の心配……? そ
んなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげてこそ、親は親としての義務を
果たしたことになる。

親孝行や家の心配を子どもに求めてはいけない。それを期待するのも、強要するのもいけな
い。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであ
れば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 ……と書くと、こう言う人がいる。「林、君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。日本には
日本独特の美徳というものがある。親孝行もその一つだ」と。

 ところがどっこい。こんな調査結果もある。平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことを
してでも親を養う」と答えた日本の若者はたったの、23%(三年後の平成9年には19%にまで
低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である。
(ほかにフィリッピン81%(11か国中、最高)、韓国67%、タイ59%、ドイツ38%、スウェーデ
ン37%、日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。

これを裏から読むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。)欧米の人
ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきているとみる
べきではないのか。

 子どもを自立させたかったら、親自身も自立する。つまり親の自立なくして、子どもの自立は
ないということになる。そしてそのほうが、結局は親子の絆を深める。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識
論 はやし浩司 寿大学 価値観の衝突 講演要旨)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1320)

●最近の話題から

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憲法改正、それに道州制の導入など。

このところ、世間の動きが、
急にあわただしくなってきた。

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 憲法改正の焦点は、何といっても天皇制。現在の「象徴天皇」から、「国家元首」としての位
置づけを、明確にしようというもの。

 しかしこれには、私は、明確に、反対しておきたい。そもそも、どうして現行の「象徴天皇」で
はいけないのか? 日本が、本当に民主主義を、標榜(ひょうぼう)するなら、「天皇元首制度」
は、まさに、その民主主義の理念を根底から、否定するものと考えてよい。

 つぎに道州制の導入だが、当然のことながら、各道、各州には、「長」が選ばれることにな
る。その世界では、「首長(くびちょう)」という。これについて、「道州に、国の権限を大幅に移
譲し……」とあるが、それを額面どおりに読んではいけない。

 現在の今ですら、全国の都道府県知事の大半が、元中央官僚。副知事の大半も、国会議員
の大半も、また大都市の市長の大半も、元中央官僚。

 明治時代には、士族、華族、とくに元大名の師弟は、こぞって東大から自治省をめざした。そ
してその自治省から、全国へ県令(現在の県知事)となって散っていった。

 それから100年。この図式は、今も、何も変わっていない。

 仮にもしここで道州制になったら、道、州の「長」は、さらに元官僚たちによって、独占される
ことになる。わかりやすく言えば、「国の権限を大幅に移譲し……」というのは、選挙で選ばれ
た政治家たちの影響力を弱め、官僚たちによる国の支配を、さらに強固にしようというもので
ある。

 その頂点に、元首としての天皇を置く。

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。私が学んだ、オーストラリアの大学
でのテキストでは、「日本は、官僚主義国家」となっていた。「君主(ロイヤル)官僚主義国家」と
なっていたのもあった。

 当時の私は、それに猛反発したが、今は、ちがう。「なるほど、そうだったのか」と思うようにな
った。同じ「民主主義」という言葉を使うが、オーストラリアでいう民主主義と、日本でいう民主
主義とは、まるでちがう。どうちがうかということについて書き出したら、キリがないが、ともかく
も、ちがう。

 今、ここで天皇を元首にした道州制を導入したら、それこそ、まさに「王政復古」。1660年に
チャールズ2世が、なしとげたあの王政復古そのものということになる。

 英語では、その「王政復古」を、「the Restoration」という。同じく、明治維新も、外国の文献で
は、「the Meiji Resoration」と翻訳されている。日本では、「維新」というが、それはいわば、言
葉の煙幕のようなもの。時の政府は、その煙幕を張って、国民をだました。

 そこで、もしここで、天皇が元首になり、今の状態のままで、道州制が導入されたら、外国で
は、「the Heisei Resoration(平成王政復古)」と呼ばれるようになるだろう。またまた明治王政
復古に、逆戻り!

 戦後、日本は、当初は押つけられたものであったかもしれないが、アメリカ型西欧文明を、受
け入れた。日本国憲法も、その過程で生まれた。

 しかしここにきて、急速に、復古主義が、台頭してきた。その種の本も、よく売れている。「武
士道こそ、日本が誇るべき精神の根幹」と説く人も多い。憲法改正も、道州制の導入も、その
流れの中にある。

 行政改革、つまり官僚制度の是正は、ことごとく暗礁に乗りあげてしまっている。なぜそうなっ
たのかということについては、今さら、改めて書くまでもない。

 もちろん私も、みながそれでよいと言うのなら、それで構わない。が、それには前提がある。
「それでよい」と言う前に、みなが、もっと考えなければならない。考えた末に、「よい」というのな
ら、私も従う。

 しかし、みなは、考えているのか? 本当に考えているのか? 大半の人たちは、政治の話
を口にしただけで、顔をそむけてしまう。そういう状態の中で、「まあ、いいだろう」というように、
安易な結論を出すことは、日本の将来にとって、たいへん危険なことである。

 そのツケを払うのは、結局は、つぎの世代の人たちということになる。今、官僚となり、わが
世の春を謳歌している人たちも、「つぎの世代」、つまりあなたの子ども、あるいは孫の立場に
なって考えてみてほしい。

 本当に、それでよいのか、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 憲法
改正 天皇元首制 道州制の導入 日本の民主主義 民主主義)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●定年退職ブルー

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定年を迎えた人が、退職したとたん、うつ病(ブルー)
になるケースが多いという。

それまで健康で病気ひとつしたことない人が、
体の不調を訴えるようになるケースも、
珍しくない。

称して、「定年退職ブルー」。
短くして、「定退ブルー」。

しかしこれは深刻な問題と考えてよい。

++++++++++++++++++

 会社人間として、「一社懸命」(M氏)、がんばってきた。が、ある日、定年を理由に退職を言
い渡される。

 人生には、始まりがあれば、必ず、終わりもある。それはわかる。わかるが、まじめにがんば
ってきた人ほど、そのショックは、大きい。定年退職をしたとたん、無気力状態に陥り、そのま
まうつ病になる人も多い。

 知人のZ氏(現在63歳)は、こう言った。「そのあと、1年間、夜も、ほとんど眠れませんでし
た。それで病院で、うつ病の薬を処方してもらい、それをのんでいました」と。

 Z氏は、私が知るかぎり、精神的にもたいへん、タフな人である。中高年になってからも、トラ
イアスロンの選手として、活躍していた。そんな人でも、そうなる。

 この話をワイフにすると、ワイフは、こう言った。「あなたは、毎年、分割退職をしているような
ものだから、そういう大きなショックはないわね」と。

 自分の話にしてしまって恐縮だが、私の仕事のばあい、定年という、決まった年齢はない。そ
のかわり、毎年、生徒がやってきて、同じように生徒が去っていく。そして全体としてみると、毎
年、少しずつだが、生徒は減っていく。

 私自身の体力の限界もある。若いころは、幼児を相手に、4〜6時間でも、教えることができ
た。しかし今は、2時間が、限度。2時間も教えると、ヘトヘトになる。

 つまり定年退職を、何年かに分けて、分割して経験している。だから「分割定年」!

 おもしろいネーミングだ。

 で、そういう私でも、ときとばあいによっては、ショックを受ける。大きなショックではないが、し
かし受ける。そしてそのあと数日間、悶々とした日々を過ごすことがある。

 敗北感。挫折感。空虚感。それに悔しさと、情けなさの入り混じったような状態。ときに自分
の仕事を、のろうこともある。

 つまり定年退職をした人は、いくら円満退職といっても、そういうショックを、一度に、ドッと受
ける。私が受けるショックを、砂浜に打ち寄せる小波にたとえるなら、そういう人が受けるショッ
クは、地震のあと襲ってくる、津波のようなもの。

 先にも書いたように、かなり精神的にタフな人でも、そのショックをひとりで吸収することは、
むずかしい。

 そこで、では、そういう定退ブルーを、どう考えたらよいかという問題になる。いろいろ対処法
が考えられる。心のケアができる専門医を養成するとか、そうした人を指導できるカウンセラー
を置くとか、など。が、もうひとつ重要なことは、退職した人が、そのショックをやわらげることが
できるように、社会で、しっかりとした受け皿を用意することではないだろうか。

 退職者イコール、(仕事をしたくない人)ではない。いろいろな人の話を総合してみると、「仕
事はしたい」「だが、自分のキャリアを生かす職場がない」ということらしい。つまり退職と同時
に、自分がそれまで積み重ねてきたキャリアそのものが、否定されてしまう。

 それがうつ病の引き金を引くということらしい。

 たとえばそれまで出版社で、本の編集の仕事をしてきたとする。その人は、本の編集にかけ
ては、プロということになる。

 が、退職したとたん、そのキャリアを捨てなければならない。捨てて、何かの仕事をするとい
っても、まったく異なった仕事をしなければならない。それが大きなストレスとなって、その人を
襲う。

 本の編集を、20年とか30年もしてきた人が、どうして人材派遣会社の相談窓口の仕事がで
きるだろうか。もしその人が生きがいをもってできる仕事があるとするなら、たとえば、本の自
費出版をしたいと願っている人を、手助けするような仕事である。つまりそういう仕事を紹介で
きるような、社会のしくみを、用意する。

 そういう受け皿がきちんとできていれば、ここでいうショックを、和らげることができる。

 そこで提案だが、インターネットでのしているオークションのように、自分の能力とキャリアを、
広く世間に対して、(売る)ことはできないものだろうか。たとえば、「私、62歳。本の編集経験
歴、30年。自費出版を手伝います。1冊、20万円から」とか、など。

 そういえば、私も、そういう仕事なら、できる。自分の広告を出してみると、こうなる。

【はやし浩司を売ります】

●家庭での子どもの出張教育相談を受けます。1回の相談料、往復にかかる時間こみで、1
時間X000円、プラス交通費。

●原稿の校正、推敲、代筆いたします。400字づめ原稿用紙1枚分で、X000円、とかなど。 

 そのうち今の仕事がヒマになったら、そういう形で、仕事を作ってみたい。(今でも、してみた
いが……。これは本気だぞ!)

 つまりこういうことが、もっと、オープンに、気軽に、そして公的な機関を通してできるようにな
ればよい。インターネットで、そういうコーナーを作ってもよい。あるいは、それぞれが、自分の
HPの中で、そういうコーナーを作ってもよい。

 定退ブルーは、団塊の世代の大量退職を迎え、これから先、大きな社会問題になる。それは
まちがいない。

 だからこそ、何らかのこうした対策が必要ということになる。


*********************************

6月号は、今日で、おしまい!

次回から、7月号になります。

今朝は(5月29日)、肌寒さを感じさせますが、
このマガジンが、みなさんのところに届くころには、
暑い夏がやってきていると思います。

長期予報によれば、「平年並み」(?)ということだそうです。

どうか、お体を大切に!

夏バテ対策は、夏バテをしてからではなく、
夏バテをする前にするものですね。

できるだけクーラーにあたらないとか、
体調を整え、睡眠時間を守るとか、など。

私は毎年、どういうわけか、夏場に太ります。
肥満にも、注意したいです。

では、また、来月、2006年7月3日に、
お会いしましょう!

なお、7月3日には、マガジンは、
第747号になります。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●子どもたちへ

ほかの人の心を分けもってあげよう

力のない人や、弱い人や、失敗した人を笑ってはいけないよ。
笑えば笑うほど、結局は、自分で自分のクビをしめることになるよ。
だれだって、ちょうど今の君たちのように、精一杯、がんばっているのさ。
しかしね、たいていは自分の思いどおりにはいかない……。
そういうことがいくつか重なると、人はだれだって、そういう人になるのさ。
つまり、力のない人や、弱い人や、失敗した人になるというわけ。
そしてね、ここが大切なことだけれど、今の君だって、いつだってその
力のない人や、弱い人や、失敗した人になるかもしれないということ。だからね、
そういう人を笑ってはいけないよ。そういう人を笑うということは、
結局はいつか自分を笑うことになるわけ。

自分だけの世界で、生きてはいけないよ。自分だけの世界で生きれば生きるほど、
孤独という恐ろしい悪魔が、君たちの心の中に入ってくるよ。
恐ろしい悪魔だよ。この悪魔にとりつかれると、その悪魔は
君たちからすべてのものを奪っていくよ。君たちの幸福や、やすらぎや、
ときには、君たちの命までもね。だから自分の世界だけで生きてはいけないよ。
この悪魔と戦うためにはね、自分だけの世界から飛び出し、ほかの人の世界に
入っていくこと。ほかの人の苦しみや悲しみや、悩みを、わかってあげること。
わかってあげるだけでは、足りないかな。その苦しみや悲しみや、悩みを、
自分のこととして、分けもってあげること。しかし、ね、これはとても
むずかしいことかもね。つまりね、悪魔と戦うことは、
それくらいむずかしいということ。

ただ、ね、こういうことは覚えておくといいよ。
この世界には、力のない人や、弱い人や、失敗した人などはいないということ。
力があるとか、ないとか。強い人とか、弱い人とか。成功した人とか、失敗した人とか、
そういう人は、いないということ。たとえば今、君が、何かのことで落ち込んでいてもね、
それはまあ、何というか、病気のようなもの。心だって、調子が悪くなることがあるのさ。
痛くなったり、熱を出したり、時には寒気がしたりするように、ね。
だからそういうときは、無理をしないこと。静かに心を休めるといいよ。
どんな嵐もいつかは去るし、朝のこない夜はないよ。歩けば谷もあるけど、山もある。
苦しくなったり、悲しくなったら、そこを谷と思って、前に進めばいいよ。
あとは山を登るだけだから、楽しいよ。風も弱くなるし、朝日も出てくる。
そうそう、だれかがね、君たちに、苦しみや悲しみや、悩みを打ち明けたら、
それを自分のこととして受け止めてあげるといいよ。
そういうことをしておけばおくほど、悪魔は君には近づかないよ。
嵐も早く去るし、朝日も早く昇るよ。
ウソじゃないよ。一度試してみたら……。

(エンヤの「a day without rain」を聴きながら……)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●あと始末論(2)

 ミキサーでジュースをつくる。まずバナナやミカンの皮をむき、それを包丁で小さく切る。少し
水を入れて、スイッチオン!

 できたジュースをコップに注ぐ。そして飲む。いや、その前にやるべきことは多い。まず、コー
ドをコンセントから抜く。包丁を水で流し、ミキサーのカップを洗う。それがすんだらコードをミキ
サーに巻き、そして棚へしまう。ジュースを飲むのは、それからだ。が、それですむわけではな
い。今度は使ったコップを水で流し、逆さにして、水を落とす。

 あと片づけとあと始末は、違う。きれいに片づけることをあと片づけといい、自分のしたことに
ついて責任をもって行動することを、あと始末という。日本人はどういうわけか、あと片づけに
はたいへんうるさい民族である。しかしあと始末に甘い?

 ある男性(50歳)は、牛乳を冷蔵庫から出しても、その牛乳を冷蔵庫にしまうことすらしない。
だから彼のワイフはこう言った。「夏場になると、牛乳なんて、あっという間に腐ってしまうのよ」
と。このタイプの男性は、本当に多い。食事のあと、食器を洗うどころか、その食器をシンクへ
もっていくことすらしない。あとは一事が万事。何もしない。本当に何もしない。

 問題はどうしてこういう男性が生まれるかということ。(女性にもいるが……。)しかし理由は
簡単。子どものときから、そういう訓練を受けていない。「おなががすいたア〜」と言うだけで、
親が何でもしてくれる。「のどがかわいたア〜」というだけで、親が何でもしてくれる。そういう環
境で育てられている。親自身も、子どもに楽をさせるのが、親の愛と誤解している。私が「子ど
もにもっと仕事を分担させなさい」と言うと、ある母親は、こう言った。「いいんですか、そんなこ
とさせて。何だか子どもに申し訳なくて……」と。

 多くの親は、ハシ並べやクツ並べをしてくらいで、子どもをホイホイとほめる。しかしそんなの
は手伝いとは言わない。ママゴトという。子どもというのは、皮肉なことに、使えば使うほど、よ
い子になる。そこから忍耐力も生まれ、生活力も生まれる。それは家庭教育の常識だが、それ
について話すと、別の母親はこう言った。「使うと言っても、させることがありません」と。

 掃除は掃除機で、5分ですんでしまう。洗濯機も皿洗いも、全自動。「何をさせればいいです
か?」と。
 
 そこで改めてあと始末論。その気になれば、何だってある。たとえば子どもが、「ジュースを飲
みたい」と言ったとする。そういうときはまず、ミキサーをもってこさせ、コードをコンセントにつな
がせる。バナナとミカンを小さく切らせる。それをミキサーに入れさえ、水を加えさせる。そして
スイッチを入れて、ミキサーを回す。

しかし重要なのはここからだ。子どもがジュースを飲む前に、あるいは飲んでからでもよいが、
子どもにそのあと始末をさせる。使ったコップにしても、子どもがコップを水で流し、逆さにして、
水を落とさせるまで、やらせることはいくらでもある。そういうことを「子どもを使う」という。

 そこであなたの家庭でも、どうだろう。今日から、こう言ってみては……。「あと始末をしっかり
としようね」と。大切なのは、あと片づけではなく、あと始末。それがしっかりできるかどうかで、
結局は責任感の強い子どもになるかどうかが決まる。あと始末にはそういう意味もある。決し
て安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 あと
始末 あと片づけ 子供のしつけ論 しつけ)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●すばらしい人たち

二人の知人

●二人の知人
 
石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K氏
という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっともす
ばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この二人ほどすばら
しい人を、私は知らない。この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう
人になれるのか。またそういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせら
れる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることなが
ら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの
言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲し
い話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人た
ちということになる。

●自分をさらけ出すということ
 
こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさらけ
出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、心
の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られた
くない、醜いものばかり。つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言え
ば、自分をだましながら生きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の4タ
ヌキというようなタイトルで、4人の女性が紹介されていた。

元野球監督の妻(脱税で逮捕)、元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女
性(公費流用疑惑で議員辞職)、演劇俳優の女性の四人である。4番目の演劇俳優の女性は
別としても、残る3人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。(週刊誌のほうでは、実名と写真
を掲載していた。)

昔風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、い
かにして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違いない。仮にあるがまま
の自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくなる。つまり化けの皮
がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよい
かもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人
間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんな
わけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。ときどき、あるがままに生きたら、ど
んなに気が楽になるだろうと思う。が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目
を意識し、それを意識したとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なお
って生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、
一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれな
い。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲
れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反
対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、と
きとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するから
だ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに
疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言したことも何度かあ
る。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲
れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした
緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしま
う。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、
その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言
葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだ
けで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そ
のときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分にな
ろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違
っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になる
としたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。人にウソをつかないとか、ゴミを
捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。

つまり日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがて
その人の人格をつくる。日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点
は、あくまでもその人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には
滝に打たれて身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする
人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あくまでも
日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば
玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向か
って、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善
良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びる
ことができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずで
ある。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということ
は、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちは
まずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の
中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無理をしな
い。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して深追いをし
ない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物
は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……

 で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、
それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をす
ると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能とし
てもつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。それは性欲や
食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまでが自分で、そこから先
が自分かわからなくなる。

が、人間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、そ
の本能からのがれることもできる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけ
てはじめて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。
またならねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生
きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどう
すればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っ
ていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、そ
の誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。
そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。たがいに話しこめば話
しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えていくのがわかった。別
れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔
で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした二人の
知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへん失礼な言
い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。しかし
二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ているのに驚
いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「なぜ、二人はこうも共通
点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その共通点から、ここに書いた
ようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!


(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走す
る。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度で
は、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、
だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私
の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、か
っこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれが
わかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自
尊心はもっている? もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は
前向きな努力をする。

私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、
いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自
分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なの
か、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこかから
どこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自尊
心 子供の自尊心) 


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●上見てキリなし、下見てキリなし

 神奈川県に住む女性から、こんな話を聞いた。

 ある母親が、息子(小2)と一緒に公園の近くを歩いているとき、その息子にこう言ったとい
う。公園の中には、10人ほどのホームレスの人たちが生活していた。いわく、「あんたもしっか
り勉強しなさいよ。勉強しないと、ああいう人になってしまうからね」と。一見、合理性があるよう
だが、この話にはまったく合理性がない。ないばかりか、とんでもない話である。

 昔の人は、よくこう言った。「上を見てキリなし。下を見てキリなし」と。人というのは、上ばかり
見ていると、人間の欲望には際限がなく、いつまでたっても満足をすることはない。だから上ば
かりを見ていてはいけない。ほどほどのところで満足しろ、と。

同じように自分はダメだと思っていても、自分より、もっと苦しく、つらい立場の人でもがんばっ
ているから、夢や希望を捨ててはいけない、と。この格言をよいほうに解釈すれば、そういうこ
とになる。しかし実際には、この格言は戦前の国語の教科書に載っていた。またここでいう
「上」「下」というのは、立場や身分のことをいった。

 この「上下論法」は、教育の世界ではよく使われる。先日もテレビの教育講演で、ある講師が
こう言っていた。何でもその人がアフリカへ行ったときのこと。あまりにも貧しい生活ぶりに、そ
の人は驚き、日本の豊かさを思い知らされたという。

それはわかるが、その話をしながら、講師は会場の小学生たちに、こう話をつづけた。「君たち
は恵まれている。その恵まれていることに感謝して、勉強してください」と。しかしこの論法は、
基本的な部分でおかしい。

 「あなたたちより不幸な人たちがいるから、あなたたちは幸福だ」という論法は、いわば現状
をあきらめろというのと同じことである。さらにその講師は、「感謝しなさい」と言ったが、子ども
たちは、いったいだれにどう感謝したらよいというのか。

まさかおとなの世界に感謝せよということでもあるまい。同じようなことだが、最近でもこんな話
を聞いた。ある女性(40歳くらい)が、夫の暴力に耐えかねて、夫の両親にそれを相談したと
きのこと。その夫の母親はこう言ったという。「私なんか、夫からもっとひどい暴力を受けたら…
…」と。その女性には、その義母の言葉が、「だから、がまんしなさい」と言ったように聞こえた
という。

 さらにこの論法がまかり通るとするなら、では反対の立場におかされたときは、どうなのかと
いう問題がある。幸福な人に向かって、「あなたたちより不幸な人がいるから、感謝しなさい」と
言うのには、まだ正当性がある。しかし不幸な人に向かって、「さらに不幸な人がいるから感謝
しなさい」とか、さらに「幸福な人がいるから、世の中をうらみなさい」と言うのには、正当性がな
い。

それがわからなければ、ではその講師は、アフリカの貧しい子どもたちに向かっては、何と言う
のだろうかということを考えてみればよい。あるいは「君たちは恵まれていない。どうか自分た
ちの境遇をうらんでください。うらんで、勉強なんかしないでください」とでも言うのだろうか。

 人は、上を見る必要はない。下も見る必要はない。私は私だし、あなたはあなただ。また「感
謝」という言葉は、こういうとき使う言葉ではない。いや、実は私の恩師の一人も、いつも私にこ
う言っている。「林君は、何が不満なのですか。この日本はいい国です。すばらしい国です。ど
うしていつも不平ばかり言っているのですか」と。

 私も何も、この国がつまらないと言っているのではない。私はこの国を、もっとよくしたいと言
っているだけ。不満があるかないかということになれば、不満だらけだが、だからといって、こ
の国を嫌っているわけではない。おかしいものは、おかしいと言っているのだ。決して上を見て
いるわけでもない。下を見ているわけでもない。そういう状態で、この国に感謝すれば、感謝し
たとたん、私はこの国のかかえる矛盾や問題を、是認したことになってしまう。

 さらにつけ加えれば、この「上下論法」は、結局は、相対的なものの見方でしかない。それは
ちょうど「世間体」という言葉がもつ意味に通ずる。いつもどこかで他人の目を意識した生き方
になってしまう。そして「隣の家よりも裕福だから、私は幸福」「隣の家より貧乏だから、私は不
幸」と。

自分をいつも他人の目の中に置くようになると、ここでいう「上下論法」を無意識のうちにも、自
分の中でするようになる。ある女性(50歳)は、いつも自分よりも不幸な人をみつけてきては、
それをゴシップのネタにしてきた。彼女にしてみれば、それは実に楽しい話題だったかもしれな
いが、やがてその醜悪さは、顔中にあらわれるようになった。60歳も過ぎるころになると、だれ
が見ても、そういう人だとわかるような顔つきになってしまった。が、それだけではすまなかっ
た。

 やがて今度は自分がその不幸な人の立場に置かされたとき、今度は、今まで笑った分だ
け、自分の境遇に苦しむところとなった。そういうこともある。

 「上見てキリなし、下見てキリなし」というのは、一見、人生の核心をついたような格言だが、
その実、その裏には、人間の醜悪さが見え隠れする。繰り返すが、人間には上も下もない。だ
から他人を上に見るのも、また下に見るのも正しくない。また見てはならない。そして上の人を
見て、自分の生きザマの目標にするのならまだしも、下の人を見て、それを笑ったり、さげすん
だりしてはいけない。だいたい「下の人」という発想が、まちがっている。結局は私の言いたい
ことは、このことだけかもしれない。

(追記)
 しかし実際には、何かのことでくじけそうになったようなとき、「私だけではない」「私より苦しい
立場でがんばっている人がいる」と思うことで、それを乗りきることができることがある。それは
それとして、だからといって、ここでいうような「下」という言葉を使うことは許されない。あえて言
うなら、この格言は、つぎのように書きかえてはどうだろうか。

 「自分を高めることにキリなし、自分を低めることにキリなし」と。
 あるいは、

 「人には上もなければキリもない。人には下もなければキリもない」でもよい。

 あくまでも、上下は、自分の問題ということ。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●子どもの巣立ち

 子どもは巣立ったあと、無数の父親に出会い、無数の母親に出会う。子どもはたしかにあな
たから生まれ、あなたによって育てられるが、決してあなたのモノではない。あなたが育てるの
は、あくまでも一人の人間。そしてその人間は、やがてあなたから巣立ち、その子ども自身の
人生を始める。

 親としては、うれしくも、どこかもの悲しい瞬間でもある。自分の手で子どもの心をすくってい
るはずなのに、その心が、指の間からポタポタともれていく。その切なさ。そのはがゆさ。しかし
親としてできることはもうない。ただ黙って、その背中を見送るだけ。

 子どもは、子どもの世界で、それから先、無数の父親に出会い、無数の母親に出会ってい
く。私ひとりが、子どもの父親ではない。母親でもない。そう思うのは、それは同時に、私たちが
子離れの、最後の仕あげをするときでもある。「お前の人生は、お前のもの。たった一度しかな
い人生だから、思う存分、この世界を羽ばたいてみなさい」と。

 が、振りかえると、そこには秋の乾いた風。ヒューヒューと乾いたホコリを巻きあげて、枯れた
木々の間で舞っている。心のどこかで、「こんなはずではなかった」と思う。あるいは「どうしてこ
ういうことになってしまったのか」とも思う。しかし子どもは、もうそこにはいない。

 願わくば、幸せに。願わくば、無事に。願わくば、健康に。

 親孝行? ……そんなくだらないことは考えるな。家の心配? ……そんなくだらないことも
考えるな。私たちは私たちで、最後の最後まで、幸福に生きるから、お前はお前たちで、自分
の人生を思いっきり生きなさい。この世界中の人が、お前の父親だ。お前の母親だ。遠慮する
ことはない。

 精一杯、親としてそう強がってはみるものの、さみしいものはさみしい。しかしそのさみしさを
ぐっとこらえて、また言ってみる。「元気でな。体を大切にするんだよ」と。あの藤子・F・不二雄
の「ドラえもん」の中にも、こんなシーンがある。「タンポポ、空をゆく」(第一八巻・一七六ペー
ジ)というのが、それ。

 タンポポがガラスバチの中で咲く。それをのび太が捨てようとすると、ドラえもんが、「やっと育
った花の命を、……愛する心を失ってはいけない」と、さとす。物語はここから始まるが、つぎ
にドラえもんは、のび太に、花の心がわかるグラス(メガネ)を与える。のび太は、そのグラスを
使って、花の心を知る。

 タンポポの心を知ったのび太は、タンポポを日当たりのよい庭に植えかえる。が、しばらくす
ると、嵐がやってくる。のび太はタンポポをすくうため、嵐の中で、そのタンポポに植木バチをか
ぶせる。こうした努力があって、タンポポはやがてきれいな花を咲かせる。のび太が「きれいに
咲いたね」と声をかけると、タンポポは、「のび太さんのおかげよ」と、礼を言う。「こんないい場
所へ植えかえていただいて、嵐から守ってもらって。のび太さんは、ほんとうにやさしくて、たの
もしい男の子だわ」と。

 そのタンポポの種が、空を飛び始めるとき、のび太は、こう言う。「いよいよだね」と。小さなコ
マだが、のび太が手をうしろに組み、誇らしげに空を見ているシーンが、すばらしい(一八六ペ
ージ)。そのあと、のび太はこうつづける。
 「子どもたちが、ひとりだちして、広い世界へ飛び出していって……、きれいな花を咲かすん
だね」と。 
 一人(一本)だけ、母親のタンポポから離れていくのをいやがる種がいる。「いやだあ、いつま
でもママといるんだあ」と。それを見てのび太が、またこうつぶやく。「いくじなしが、一人残って
いる……」と。

 タンポポの母親「勇気を出さなきゃ、だめ! みんなにできることが、どうしてできないの」
 子どもの種「やだあ、やだあ」
 のび太「一生懸命、言い聞かせているらしい。タンポポのお母さんも、たいへんだなあ」
 タンポポの母親「そうよ、ママも風にのって、飛んできたのよ」
 子どもの種「どこから? ママのママって、どこに生えていたの?」
 タンポポの母親「遠い、遠い、山奥の駅のそば……。ある晴れた日、おおぜいの兄弟たち
と、一緒に飛びたったの」
 子どもの種「こわくなかった?」

 タンポポの母親「ううん、ちっとも。はじめて見る広い世界が、楽しみだったわ。疲れると。列
車の屋根におりて、ゴトゴト揺られながら、昼寝をしたの。夜になると、ちょっぴりさびしくなっ
て、泣いたけど、お月さまがなぐさめてくれたっけ。高くのぼって、海を見たこともあるわ。青く
て、とってもきれいだったわよ。やがてこの町について……。のび太さんの、お部屋に飛び込ん
だの」
 子どもの種「ママ、旅をして、よかったと思う?」
 タンポポの母親「もちろんよ。おかげできれいな花を咲かせ、ぼうやたちも生まれたんですも
の」

 子どもの種「眠くなっちゃった」
 タンポポの母親「じゃあね。歌を歌ってあげますからね。ねんねしなさい」

 子どもの種が旅立つ日。のび太はその種を、タケコプターで追いかける。

 のび太「おおい、だいじょうぶか」
 子どもの種「うん。思ったほど、こわくない」
 のび太「どこへ行くつもり?」
 子どもの種「わかんないけど……。だけどきっと、どこかできれいな花を咲かせるよ。ママに
心配しないでと伝えて」
 のび太「がんばれよ」

 この物語は、全体として、美しい響きに包まれている。何度読み返しても、読後感がさわやか
である。それだけではない。巣立っていく子どもを見送る親の切なさが、ジーンと胸に伝わって
くる。子どもの種はこう言う。「ママに心配しないでと伝えて」と。タンポポの親子にしてみれば、
それは永遠の別れを意味する。それを知ってか知らずか、のび太はこう言ってタンポポの種を
見送る。「がんばれよ」と。私はこの一言に、藤子・F氏の親としての姿勢のすべてが集約され
ているように感ずる。

 あなたの子育てもいつか、子どもの巣立ちという形で終わる。しかしその巣立ちは決して美し
いものばかりではない。たがいにののしりあいながら、別れる親子も多い。しかしそれでも巣立
ちは巣立ち。子どもたちは、その先で、無数の父親や母親たちを求めながら、あなたから巣立
っていく。あなたはそういう親たちの一人に過ぎない。あなたがせいぜいできることといえば、そ
ういう親たちに、あなたの子どもを託すことでしかない。またそうすることで、あなたは子どもの
巣立ちを、一人の人間として見送ることができる。

 さあて、あなたはいったい、どんな形で、子どもの巣立ちを見送ることになるだろうか。それを
心のどこかで考えるのも、子育てのひとつかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の巣立ち 巣立ち論 子どもの巣立ち 藤子・F たんぽぽ)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●子育てのリズムとパターン

 子育てには、一定のリズムがある。このリズムは、たいてい母親が子どもを妊娠したときから
始まる。そしてそのリズムは、子育てが終わるまで、あるいは終わってからも、そのままつづ
く。

 たとえばこんな母親がいた。胎教とか何とか言って、妊娠中は、おなかにカセットレコーダー
を置き、胎児に英会話やクラシック音楽のCDを聞かせた。生まれてからは、子どもが泣き出
す前に、つまりほしがる前に、いつも時間をはかってミルクを与えてた。子どもがヨチヨチ歩くよ
うになると、スイミング教室へ入れたり、音感教室に入れたりした。さらに子どもが大きくなる
と、算数教室へ入れたり、英会話教室に入れたりした。

 この母親のばあい、何かにつけて、子どものテンポより、一テンポ早い。これがこの母親のリ
ズムということになる。そしてこのリズムが、全体として、大きなうねりとなる。それがここでいう
パターンということになる。このパターンは、母親によって違う。いろいろなケースがある。

 ある母親は、子どもによい思いをさせるのが、よい親のあるべき姿と信じていた。だから毎日
の食事の献立も、休日の過ごし方も、すべて子ども中心に考えた。家を新築したが、一番日当
たりのよい部屋は、子ども部屋にした。それぞれの部分は、リズムで決まるが、全体としてそ
れがその母親のパターンになっているのがわかる。この母親は、子どものためと思いながら、
結局は子どもを甘やかしている。そしてこのパターンは、一度、できると、あとは大きなうねりと
なって、繰り返し、繰り返し現れては消える。

 その子どもが中学生になったときのこと。その子どもが大型量販店で万引きをして、補導さ
れてしまった。その夜のこと。その母親は、まず私の家に飛び込んできた。そしてこう泣き叫ん
だ。「今、内申書に悪く書かれると、あの子は高校へ進学できなくなります。何とかしてほしい」
と。しかし私には助ける術(すべ)がない。断ると、その母親はその夜のうちに、あちこちを駆け
回り、事件そのものを、もみ消してしまった。多分、お金で解決したのだろうと思う。

 この母親のばあい、「子どもを甘やかす」というパターンがあるのがわかる。そしてそのパタ
ーンに気づかないまま、その母親はそのパターンに振り回されているのがわかる。もしそれが
よいパターンならよいが、悪いパターンなら、できるだけ早くそれに気づき、そのパターンを修
正するのがよい。

まずいのは、そのパターンに気づかないまま、それに振り回されること。子どもはそのパターン
の中で、底なしの泥沼に落ち込んでいく。それを防ぐ第一歩として、あなたの子育てが、どのよ
うなリズムをもっているかを知る。

 一見人間の行動は複雑に見えるが、その実、一定のリズムとパターンで動いている。もちろ
ん子育てに限らない。生活のあらゆる部分に、そのリズムとパターンがある。ここにも書いたよ
うに、それがよいリズムとパターンなら、問題はない。しかし悪いリズムとパターンなら、長い時
間をかけて、あなたの生活全体は、悪いほうに向かう。そのためにも、今、あなたの生活が、
どんなリズムで、どんなパターンの中で動いているかを知る。

 ついでに一言。こと子どもについて言うなら、このリズムとパターンを知ると、その子どもが今
後、どのようになって、どのような問題を引き起こすようになるかまで、わかるようになる。少な
くとも、私にはわかる。よく「林は、超能力者みたいだ」と言う人がいるが、タネを明かせば何で
もない。子どもというのは、どんな人間になるかは、無数の方程式の組み合わせで決まる。そ
の方程式を解くカギが、その親のリズムとパターンということになる。

そのリズムとパターンがわかれば、子どもの将来を予測することぐらい、何でもない。ただ立場
上、わかっていても、それをはっきり言わないだけ。万が一まちがっていたらという思いもある
が、子育てにははっきりわからなくてもよいことは山のようにある。わからないまま手さぐりで進
むのも、子育てのまた、おもしろいところではないのか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子育
てのリズム リズム論 子育てリズム論)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1322)

【近況・あれこれ】

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たった今、マガジン6月30日号の
配信予約をすませた。

ほっとしたと同時に、気が抜けた。

今度からは、7月号。

ところが、今は、頭の中がカラッポ。
昨夜はよく眠ったはずなのに、
まだ眠い。このまま眠ろうか?
それとも、もう少し、何かを書いて
みようか?
(06年5月29日記)

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●捨てられたマット(続報)

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少し前、捨てられた、大きなマットについて
書いた。

その続報。

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 少し前、捨てられた、大きなマットについて書いた。その続報。

(1)だれかが、ダブルベッド用の分厚いマットを、私の家の横の空き地に捨てた。
(2)だれかが引越しのとき困って、捨てていったらしい。
(3)強烈な香水のにおいと、それにP語らしい文字の落書き。たぶん外国人のだれかが捨てて
いったのだろう。
(4)マットの3分の1ほどが、道路にはみ出していた。
(5)ひとりではとても、運べない。空き地といっても、竹やぶが密集している。
(6)そこで私は、工事用のカッターを持ち出して、そのベッドを、バラバラに解体した。
(7)空き地の自称管理人の女性に、あとの始末を頼むと、「関係ない」と断られた。
(8)それから1週間ほど、雨の日がつづいた。
 
 以上が、前回までに書いた部分。

 ところが、である。

 昨日、そのバラバラにしたゴミの一部が、私の家の駐車場に投げこまれていた。ワイフは、
「風のせい」と言ったが、ぬれたマットが、風で飛ぶはずはない。しかもうまいぐあいに、それが
駐車場の中に入るということは、常識では、考えられない。

(9)だれかが、わざと、マットの一部を、私の家の駐車場に投げこんだらしい。

 近所の人の中には、その空き地を、私の私有地と誤解している人がいる。私がいつも、清掃
しているからである。しかしその空き地は、私の私有地ではない。

 しかたないので、今朝、ワイフと2人で、残ったゴミを始末した。さらにベッドをバラバラにし
て、いくつかの袋につめた。

ワ「だれかしら? あんなことするの?」
私「わかっているくせに……」と。

 だれが、私の家の駐車場にゴミを投げこんだか? ワイフは、それを聞いた。しかし私には、
わかっていた。

 「あのジイさんのしわざだよ。ヒマなら、自分で始末すればいいのにね」と私。

 で、先ほど、その作業が終わった。おかげで気分は、そう快。すがすがしい。「損な仕事をす
ると、心が広くなるって、本当だね」と私が言うと、ワイフは、少しためらった様子だったが、「そ
うね」と答えた。

 損をすればするほど、心が広くなる。その広くなった分だけ、幸福感が大きくなる。

 どこのだれとは書けないが、日本のどこかに、そういうジイさんがいる。孤独なジイさんだ。心
がゆがんでいる。だれからも相手にされない。訪れる人もない。

 どうか、心安らかに、ジイさん! ちゃんと私が始末するからね!


●竹島問題

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日本は自衛隊を派遣すべきだった……、
という過激な意見が目立つ。

勇ましい意見だが、それこそN政権(韓国)の
思うツボ。

ここは、冷静になったほうがよい。

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 いろいろな世論調査の結果をみても、韓国のN大統領の支持率は、20%前後。与党U党の
支持率は、10%前後。

 そこでN大統領は、危険なカケに出た。竹島問題で、日本に強行に出ることによって、国論を
自分の味方につけようとした。韓国の地方選挙も迫っていた。が、それは空振りに終わった。

 空振りに終わらせたのは、日本外交の勝利と考えてよい。もしあのとき、日本が自衛隊を派
遣していたら、韓国の国論は、N大統領一本にかたまっていただろう。が、果たして、それです
んだだろうか。

 機を見計らって、K国の金xxが、横から口を出した。「いっしょに、日本を攻撃しよう」と。

 はっきり言おう。

 たかが竹島ごとき小さな島の問題で、日本は、自衛隊など、派遣してはいけない。あくまでも
冷静に、しつこく、ただひたすらしつこく、事務的に対処するのがよい。理由がある。

(1)韓国人が基底にもつ反日感情には、ものすごいものがある。日本人は、決して、それに火
をつけてはいけない。
(2)今、日本と韓国が真正面からぶつかったら、部分戦争では、終わらない。そのまま全面戦
争になる。
(3)勇ましい意見も結構だが、今、日本と韓国が真正面からぶつかったら、日本に勝ち目はな
い。彼らは完全徴兵制のもとで、国民全体が軍人化している。
(4)日本と韓国が戦争すれば、当然、そこへK国が加わってくる。中国も、背後で、韓国を助け
るだろう。もしそうなれば、間にアメリカを置き、わけのわからない戦争になってしまう。
(5)長い目で見て、やがてこの極東アジアも、EUのような連合体を形成するようになる。また
そうならなければ、日本も韓国も、そして中国も、生き残れなくなる。
(6)今、重要なことは、K国の核兵器開発問題を解決すること。それが最優先課題である。
(7)N政権は、やがて倒れる。あのような時代錯誤的な左翼政権が、今の韓国を牛耳っている
こと自体、おかしい。
(8)K国の金xx政権にしても、同じ。あのような独裁国家を、共産主義国家を誤認しているN大
統領は、いったい、どういう頭をしているのか。N大統領イコール、K国の金xxと考えて、まちが
いない。

 以上のような理由から、日本は、竹島問題については、バカだ、アホだと言われても、ただひ
たすら、事務的にことを進めるのがよい。必要なら、毎月でもよいから、国際裁判所に提訴す
ればよい。

 その一方で、日本を怒らせたら、韓国の経済そのものが成りたたなくなることを、日本の経済
力を使って、示す。日本外資の引きあげぐらいは、今の段階で、臭わせてもよいのではない
か。いつも、いつも、遠慮している必要はない。

 どちらにせよ、韓国のN政権は、もはや風前のともし火。今度の地方選挙(6月4日)で、与党
U党が大敗するようなことにでもなれば、(まちがいなく、そうなるが)、N大統領は、韓国の民
衆からも、そっぽをむかれる。

 日本がすべきことは、そうなるように、韓国の世論を誘導することである。

【付記】

 かつては、日本の電子産業の頂点を飾ったソニーだが、そのソニーは、今、韓国のS社と組
んで、「ソニーコリア」を設立。日本の最先端技術を、惜しげもなく、韓国に提供している。

 ソニーにも、いろいろ事情はあるのだろう。一時は、経営危機もささやかれた。しかしこうした
安易な生き残り策は、かえって、回りまわって、日本のクビをしめることになる。率直に言え
ば、ソニーには、少なからず、失望している。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【親絶対教について】

++++++++++++++++++++

M県に住む人から、「親絶対教」についての
コメントが届いた。

B氏(42歳)からのものである。

++++++++++++++++++++

【B氏より、はやし浩司へ】

親絶対教を読んで、まったく同感です。

私も田舎の親絶対教の環境に生まれた長男として、精神的に疲れていますが、貴殿の親絶対
教の記事を読んで、なにか心がすっとしました。

知る人ぞ知る「MG」という宗教(?)。その宗教にハマった、親戚一同に、スッポリと囲まれてい
ます。私の父は実業家ですが、いまは些細な家庭内事情でたがいに口もきかない間になり、
別居する羽目になりました。父が経営する会社からも、そのうち追われるのではないかと思っ
ています。

私達夫婦には子供ができませんでしたが、私自身、このままだと精神的に自立できないので
はないかと不安でした。

インターネットで「親絶対」と検索した所、貴殿の記事と出会えました。そこに「真理」があるとい
うことを理解できて、本当に感謝いたします。

まだ人生半ば。なんとかここで、再起したいと思います。

私のような方が他にもたくさん見えると思いますので、ぜひ脱「親絶対教」を、育児の立場だけ
でなく広く世間に広めてください。

ほんとにありがとうございます。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

親絶対教について書いた原稿を、もう一度手直しして、
ここに再掲載します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親絶対教】

++++++++++++++++++++++++

「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

04年6月27日
(再構成 06年5月30日)

++++++++++++++++++++++++
          
●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩を、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を、決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。
 
 親に逆(さか)らうのは、もってのほか。
 あなたが一番大切にすべきことは、
 親孝行です。

 親孝行こそが、あなたの人生を明るく照らす、真理です。

 ……というのが、親絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引きつがれている。しかも、その人が
乳幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれているというより、脳の奥深くに、
しみこまされている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。
何もしなくても、つまり放っておいても、子どもは、親絶対教にハマりやすい。あるいはほんの
少しの指導で、子どもは、そのまま親絶対教の信者となっていく。

 最近の研究では、人間にも、鳥のような(刷り込み)があることが、わかってきた。生後直後
から、数週間にかけて、そうなるという。この時期を、「敏感期」と呼んでいる。もう少し詳しく説
明しよう。

●刷り込み

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞いたりし
たものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後すぐから、24時
間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしがきかな
くなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ学者もいる。その
鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生後直後
から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新生児は、生
後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、脳の中に刷り込
むと言われている。

 この時期に(刷り込まれたもの)を、子どもは、親として、絶対視するようになる。

 そんなわけで、親を絶対視するのは、その人の勝手だが、だからといって、「親は絶対」と考
えるのは、正しくない。鳥のばあいだが、孵化した直後、人間の姿を見せたり、人間の声を聞
かせたりすると、人間を親と思うようになる。

「産んでやった」という言葉を口にする親は多い。しかしそれはあくまでも結果。生まれる予定
の子どもが、幽霊か何かの姿で、親の前に出てきて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、
話は別。しかしそういうことはありえない。

 少し話が飛躍してしまったが、親絶対教の基底には、「親がいたからこそ、子どもが生まれ
た」という考え方がある。親あっての、子どもということになる。その考え方が基礎になって、親
は子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。
「恩」とか、「孝行」とかいう概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親絶対教の信者たちは、子どもが親に逆らうことを許さない。口答えなど、もってのほか。親
自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲になっ
ている、あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇
る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈
川県の実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう
言ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまっ
て、父親の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親
を捨てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずか
しくて、外も歩けない」と。

 さらにこんな例もある。

 ある母親は、息子から預かった土地の権利書を、勝手に売り飛ばし、それで得たお金を、母
親の実家に貢いでいた。そこで息子が泣きながら、それに抗議すると、その母親は、こう言い
放ったという。

 「私は、自分のために、お金を使ったのではない。(私の)実家のために使った。お前も世話
になったことがあるだろ! 親が先祖を守るために、息子のお金を使って、どこが悪い!」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的
である。だから「親絶対教」という。親絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親絶対教の人たちは、「産んでやった」
「育ててやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽し
く過ごすことができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのもの
を、「今」という時点から、とらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し
言うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、
何かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを
好きになれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うように
なった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」「私は、子どものた
めに犠牲になっている」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私はそう思う
が、ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親絶対教の信者であり、その子どももまた、親絶対教であれば、その親子関係は、そ
れなりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲になる
子ども。こうした関係では、親子関係も、それなりにうまくいく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入っ
てくるばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、は
やし先生が言うところの、親絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、
父の批判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも
許さない!』とです。

だから話しあいになりません。母は数年前に他界しましたが、法事の費用について文句を言っ
ただけで、姉は、やはり狂ったように怒りだします」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、こ
う言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言
います。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私
より、母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近
いものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あご
で使われました」と。

●親絶対教の特徴

 親絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのま
ま、先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積も
りにつもって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着
民的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分と
いう親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親絶対教の信者たちは、
先祖という言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若い
ものたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大
切にしろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった
話だが、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こん
なことがあった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を
否定しているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をしてい
るようだが、即刻、そういった活動をやめろ」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、親
絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方、つまり先祖にかこつけて、自分に利益を誘導するような言い方は、卑
怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言
った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
 
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやるか
らな」と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 これに実家意識が加わると、さらに問題が複雑になる。

 ある息子が家を新築したとき、母親が飛んできて、こう言ったという。「自分の家を建てるよ
り、実家を建てなおすのが、先だろ!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容易
ではない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、「あ
なたはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あ
なたはまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。
ハシゴだけはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学
習意欲があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目と
いうことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができない
……というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、私
一人だけが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばされ
てしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、親
絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦い」と
いうのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやっ
た」とか、「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子ども
たちが生意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばること
ができたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うこと
はある。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になってい
た。そういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれ
た。飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜
も、なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れた
ら、いつでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 一方、親は親で、親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親
は親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間とし
て、だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの
前で、それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶
対である」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長
することを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ども
の友として」と。

 親絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友と
して、子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあ
い、よき親子関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。自分
という(親)を中心にして、ものを考える。そしてその返す刀で、子どもを自分の(モノ)というふう
に、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみてよい。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思
議なことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、幼児教育の世界では、「人工論」という言葉を使って説明
する。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えて
よい。つまり親絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと
考えられる。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと
大きな生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そし
て出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえで
も、一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しか
し心のどこかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どう
か、誤解しないでほしい。もちろんいつか、ある女性が私に向かって言ったように、先祖を否定
しているのでもない。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの
勝手ということ。あなたが親絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親絶対教を押しつけてはいけないこと。強要
してはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論 はやし浩司 家庭教育 育児
 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親孝行 孝行論)

+++++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

+++++++++++++++++++++++

●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽
をさせること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独
立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえ
て言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日
本独特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容
を、まとめると、こうなる。

 その男性(43歳)は、その母親(76歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期までは、
ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つようにな
った。きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告した
のだが、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かし
た」(男性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気
づくときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその
男性は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始
めたというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子
とは、縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかっ
てきたという。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対して
は、「あれだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふう
にも使われる。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意味
です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの
一度も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、
おばあちゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見てい
ると、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮か
べるだろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。そ
れとも、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけて
しまう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだ
から」という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親絶
対教 親の権威 親風 権威主義の親 親孝行 孝行論)

 
Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●マザコン型人間

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。こ
のうち本能的な愛と代償的愛に溺れた状態を、溺愛という。そしてその溺愛がつづくと、いわゆ
る溺愛児と呼ばれる子どもが生まれる。

 その溺愛児は、たいていつぎのような経過をたどる。ひとつはそのまま溺愛児のままおとな
になるタイプ。もうひとつは、その途中で、急変するタイプ。ふつうの急変ではない。たいていは
げしい家庭内暴力をともなう。

 で、そのまま進むと、いわゆるマザーコンプレックス(マザコン)タイプのおとなになる。おとな
になっても、何かにつけて、「ママ、ママ」とか、「お母さん、お母さん」と言うようになる。このマザ
コンタイプの人の特徴は、(1)マザコン的であることを、理想の息子と思い込むこと。(圧倒的
に母と息子の関係が多いので、ここでは母と息子の関係で考える。)それはちょうど溺愛ママ
が、溺愛を、「親の深い愛」と誤解するのに似ている。そして献身的かつ犠牲的に、母親に尽く
すことを美徳とし、それを他人に誇る。これも溺愛ママが、自分の溺愛ぶりを他人に誇示する
のに似ている。

 つぎに(2)自分のマザコンぶりを正当化するため、このタイプの男性は、親を徹底的に美化
しようとする。「そういうすばらしい親だから、自分が親に尽くすのは、正しいことだ」と。そういう
前提を自分の中につくる。そのために、親のささいな言動をとらえて、それをおおげさに評価す
ることが多い。これを「誇大視化」という。「巨大視化」という言葉を使う人もいる。

「私の母は、○○のとき、こう言って、私を導いてくれました」とかなど。カルト教団の信者たち
が、よく自分たちの指導者を誇大視することがあるが、それに似ている。「親孝行こそ最大の
美徳」と説く人は、たいていこのタイプの男性とみてよい。G氏(54歳男性)もそうだ。何かにつ
けて、10年ほど前に死んだ自分の母親を自慢する。だれかが批判めいたことを言おうものな
ら、猛烈にそれに反発する。あるいは自分を悪者にしたてても、死んだ母親をかばおうとする。

 マザコンタイプの人は、自分では結構ハッピーなのだろうが、問題は、そのため、たいていは
夫婦関係がおかしくなる。妻が、夫のマザコンぶりに耐えられないというケースが多い。しかし
悲劇はそれで終わらない。マザコンタイプの夫は、自分でそれに気づくことは、まずない。「親
をとるか、妻をとるか」と迫られたりすると、「親をとる」とか、「当然、親」と答えたりする。

反対に妻に、「親のめんどうをしっかりみてくれなければ、離婚する」などと言うこともある。そも
そも結婚するとき、婚約者に「(私と結婚するなら)親のめんどうをみること」というような条件を
出すことが多い。親は親で、そういう息子を、できのよい息子と喜ぶ。あとはこの繰り返し。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マザコン度テスト

 つぎの12の質問項目のうち、6つ以上、当てはまれば、かなりのマザコン人間とみてよい。
(権威主義的なものの考え方が混在しているタイプのマザコン人間)

( )いつも生活の中心に親がいる。親がいないと何も始まらないという感じ。重要なことは、何
でも親に相談したり、報告したりする。
( )「親は絶対」という意識が強く、親に反抗したり、親を粗末にするということは、考えられな
い。献身的かつ犠牲的な親孝行をするのが、子どもの務めと考えている。
( )「親を選ぶか、妻を選ぶか」という択一に迫られたようなとき、「親!」と当然のように考え
る。そういう意味では、妻は、親の前では家政婦のような存在でしかない。
( )親の悪口を言ったりする人を許さない。あるいは徹底的に反論し、それを「息子のカガミ」
と、かえって他人に誇示することが多い。
( )常日ごろから、「産んでいただきました」「育てていただきました」と、親に感謝することを美
徳とする。また自分の息子や娘にも、同じように思うように求める。
( )親を喜ばすことを、最大の目標とし、一方親は親で、そういう息子を、「親孝行で、できのい
い息子」と評価することが多い。
( )家庭や家族の中での上下意識が強く、自分の親には服従的である一方、自分の子どもが
反抗したりすると、「親に向かって何だ!」というような言い方をする。
( )妻や家族といるよりも親といるほうが、なごやかな雰囲気になり、安心しているような様子
や表情を見せる。
( )自分の妻よりも、母親のほうに、より広く心を開くことができる。悲しいことやつらいことが
あると、妻に相談するよりも先に、母親に相談することが多い。
( )森進一の「おふくろさん」を聞いたりすると、涙を流さんばかりに感動したり、それを「すばら
しい歌」と評価する。
( )親の間では、まさに「子ども」といった感じになる。親は親で、まるで子ども扱いをし、またそ
う扱われることを当然と納得している。
( )親を必要以上に美化することが多い。親のささいな部分をとらえて、親のすばらしさ、ある
いは自分の親のすばらしさを強調する。

 こうしたマザコン人間に、それを指摘すると、猛烈に反発するので、注意すること。マザコンで
あること自体が、その人の人生観の基本になっていることが多い。したがって妻の立場でいう
なら、仮に夫がマザコン人間であるなら、それを受け入れるしかない。この問題は対処のし方
をまちがえると、たいへんな家庭騒動に発展する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 マザ
コン度 マザコン度テスト マザーコンプレックス度)


【補注】

●誇大視化

 カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼
ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さ
らにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。

 しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつ
うに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつう
に見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。

 私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチ
がついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座ってい
なさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。が、ここでハ
プニングが起きた。そばにいた別の子どもが、その子ども(小二男児)のおしりに顔をうずめ
て、「クサイ!」と言ってしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。

 で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話が
かかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私
はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。それから3か月もたったあ
る日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。見ると、父親からの手紙が
添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで講演をしているというが、今
すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。

 ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親
は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それです
ますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。

たしかに私は失敗をした。しかしそういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れ
ていたら、教育そのものができない。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そう
いう一部の失敗をことさら大げさにとらえ、それでもって、相手を否定する。ふつうの否定では
ない。全人格すら否定する。

 そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。
「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視
化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 誇大
視 誇大視化 巨大視 巨大視化)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【親絶対教について】

●事例(1)……心を解き放て!

 今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこ
う書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならな
い。

Yさん(45歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも300個近く並ぶ旧家にYさんは嫁い
だ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、70歳になる祖父母、Yさん夫
婦、それに1男1女の3世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居している。が、
そのことが問題ではない。

 祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居
といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。

しかし問題はこのことではない。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われていま
す。手を抜くと祖父の機嫌が悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりには
できないのです」と。しかしこれも問題ではない。

Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは家政婦。「孫」というのとは、
跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れになると、叔父、叔母、それに甥
や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわんやになります。私など、そ
の間、横になって休むこともできません」と。

たまたま息子(中3)のできがよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言って
いるそうだ。「うちは本家だから、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。

 Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実を
つくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうこと
でもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。

一度、たまたま祖父だけが家に残り、そのときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったと
いう事件があった。「事件」というのもおおげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だ
った。激怒した祖父は、Yさんの夫を電話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前
ら、先祖を、何だと思っている!」と。

 こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻き
ついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なも
のだ。で、私はこう思う。

日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中身は、アフリカかどこかの
地方の、○○民族とそれほど違わないのでは、と。もちろん伝統や文化はあるだろう。それは
それとして大切にしなければならないが、しかし今はもう、そういうものを個人に押しつける時
代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その人の勝手だが、それを受け継ぐかどうか
は、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私たちはその世界まで、立ち入ることはで
きない。


●事例(2)……心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間
に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は
崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。

実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れて
も、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。「ふだんはいい女房だと思う
のですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言って
るの』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴があ
る。

排他性(他の思想を否定する)、
情報の遮断性(他の思想を遮断する)、
組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、
迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)、
利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。
巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学
者もいる。

 信仰のし方としては、
催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、
反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、
隔離性(ほかの世界から隔離する)、
布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、
献金の奨励(結局は金儲け?)、
妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)な
ど。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがあ
る。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬
を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団
体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定し
ても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないと
いうこと。みな、それぞぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、そ
れについては謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また
言ってはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の
悲しみや苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味
はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめ
て、この問題は解決する。

「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したと
き、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればす
るほど、夫婦関係はさらに崩壊する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルト
の特徴 カルト カルト信仰の特徴)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●後手、後手の日本の教育改革

 約60%の中学生は、「勉強で苦労するくらいなら、部活を一生懸命して、推薦で高校へ入っ
たほうが楽」と考えている。また同じく約60%の中学生は、「進学校へ入ると勉強でしぼられる
ので、進学校ではない高校に入り、のんびりと好きなことをしたい」と考えている。(静岡県では
高校入試が、入試選抜の要になっている。これらの数字は、中学校の校長たちのほぼ一致し
た見方と考えてよい。)

 こうした傾向は進学高校でもみられる。以前は勉強がよくでき、テストの点が高い子どもほ
ど、周囲のものに尊敬され、クラスのリーダーになった。が、今は、ちがう。ある日私が中間層
にいる子どもたちに、「君たちもがんばって、(そういう成績優秀な連中を)負かしてみろ」と言っ
たときのこと。全員(7人)がこう言った。「ぼくらはあんなヘンなヤツとはちがう」と。勉強がよく
できる子どもを、「ヘンなヤツ」というのだ。

 夢があるとかないとか、ということになれば、今の中高校生たちは、本当に夢がない。また別
の日、中学生たち(7人)に、「君たちもがんばって宇宙飛行士になってみろ。宇宙飛行士のM
さんも、そう言っているぞ」と言うと、とたん、みながこう言った。「どうせ、なれないもんネ〜」と。

 こうした現実を、一体今の親たちは、どれだけ知っているだろうか。いや、すでに親たち自身
も同じように考えているのかもしれない。こうした傾向はすでに20年以上も前からみられたこと
であり、今に始まったことではない。ひょっとしたら中学生や高校生をもつ親の何割かも、ここ
にあげた中高校生のように考えているかもしれない。「どうせ勉強なんかしてもムダ」とか、「勉
強ができたところで、それがどうなのか」と。さらに今の親たちの世代は、長渕剛や尾崎豊の世
代。「学校」に対するアレルギー反応が強い世代とみてよい。「学校」と聞いただけで、拒絶反
応を示す親はいくらでもいる。

 問題は、なぜ日本がこうなってしまったかということよりも、こうした変化に、日本の教育が対
応しきれていないということ。いまだに旧態依然の教育制度と教育観を背負ったまま、それを
親や子どもたちに押しつけようとしている。「改革」といっても、マイナーチェンジばかり。とても
抜本的とはいいがたいものばかり。すべてが後手、後手に回って、教育そのものがあたふたと
しているといった感じになっている。

 こうした問題に対処するには、私は教育の自由化しかない。たとえば基礎的な学習は学校
で、それ以外の学習はクラブで、というように分業する。学校は午前中で終わり、午後はそれ
ぞれの子どもはクラブに通う。学校内部にクラブがあっても、かまわない。先生がクラブの指導
をしても、かまわない。各種スポーツクラブのほか、釣りクラブ、演劇クラブなど、さまざまなクラ
ブが考えられる。月謝はドイツ並みに、1000円程度にする。方法はいくらでもある。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●知識と思考は別

+++++++++++++++++

みなさん、
思考と情報は、別ですよ!

混同してはいけませんよ!

もの知りイコール、賢い子どもということには
なりませんよ。

+++++++++++++++++

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、
B「スパゲティはどう?」、
A「いいね。どこの店にする?」、
B「今度できた、角の店はどう?」、
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の
九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはな
らない。算数ができるということにはならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私
が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう
言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行
くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、
「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思ってい
た。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考え
て、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わない
が、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから
考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある
子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わな
い。頭のよし悪しも関係ない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のこ
とを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがん
でくる。私はそれを心配する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
 情報 思考と情報)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1323)

●姓名判断(?)

++++++++++++++++

2人の女性が、私の家を訪問してきた。
話を聞くと、「姓名判断を受けてみませんか?」、
だった。

セールス?
それとも、新手の宗教?

しかしいまどき、姓名判断とは?

++++++++++++++++

 姓名判断とは、姓名を、上から、(天格)、(人格)、(地格)と分け、さらに総合して、(総格)、
(社会運)、(家庭運)に分けて考える。文字がもつ画数が、その判断の基準となっている。しか
し……?

 人間には、たしかに、運命と呼ばれるものはある。たとえば私という人間には、無数の糸が
からんでいる。過去という糸、現実という糸、人間という糸、社会という糸、仕事という糸、能力
という糸、家族という糸などなど。そういう糸が無数にからんで、私の進むべき方向を決める。

 それを運命というのなら、それが運命である。

 しかし私は、運命のなすがままに生きているわけではない。ときにそれに抵抗することもあ
る。土俵でいうなら、最後の最後で、足をふんばることもある。そういう意味では、運命とは、な
すべきことがないときには、受け入れ、なすべきことがあるときには、戦うべきものと考えてよ
い。

 どうしようもないことは、どうしようもない。しかしどうにかなるものについては、戦う。戦って、
運命の方向を変える。つまりそこに、人間の生きる意味がある。無数のドラマもそこから生ま
れる。そのドラマが、私たちの人生を、うるおい豊かなものにする。

 が、ここで忘れてはいけないのは、そうした運命の中で生きていくのは、「私」であって、「私」
以外の何ものでもない。

 しかし姓名判断によれば、そうした人の運命というのは、その人の名前がつけられたときに、
すでに決まっているという。まあ、あえて反論するのも、バカバカしいが、一言。

こういうのを、「誇大視」とか、「巨大視」とかいう。きわめてささいな一部を、誇大視することによ
って、自己の神秘主義を正当化しようとすることをいう。カルト教団と呼ばれる狂信団体がよく
用いる手法である。

 まあ、他人がそれぞれ、好きなことをするのは、その人のかって。しかし他人の家までやって
きて、こういうものを押し売りする心理が、私には、理解できない。言いかえると、それだけ、今
の世相が、不安定になっているということか。

 そう言えば聞くところによると、あのK国では、占いとか、まじないが、大流行しているという。
飢餓、貧困、それに不幸がつづくと、人は、虚無主義に陥る。その虚無主義は、神秘主義に結
びつきやすい。

 ついでに一言つけ加えるなら、占星術というのは、立派な、カルト! どこかのオバチャン
が、「あんたの背中には、ヘビがとりついている」「毎朝、30回、背中を洗いなさい」とか、「あん
たは、まちがいなく、45歳で死ぬ」「それがいやなら、今の住みかを、東南の方角に変えなさ
い」とか言う。

 よくもまあ、こういうアホなことを、ヌケヌケと言えるものだ。またそれを聞くほうも、聞くほう
だ。大のおとなが、真顔でそれを聞き、落ちこんだり、喜んだりしている。しかもそれを、テレビ
局という、先端企業が、電波を使って全国に流す。わかりやすく言えば、テレビ局が、カルトの
手先となって、カルトの宣伝活動をしている!

 話をもとにもどすが、名前にもいろいろある。見るからに立派な名前もあるだろうし、そうでな
い名前もある。しかしそれはニュアンス(=感じ方のちがい)の問題でしかない。さらに、今の状
況だけを見て、名前が原因であるとか、ないとか、そういうことを論じても、まったく、意味がな
い。

 社会的に大成功したところで、それがいつまでもつづくとはかぎらない。LドアのH元社長の例
をみるまでもない。が、さらに、今、H元社長が、ドン底にあるからといって、そのままということ
も、ありえない。またまたHモンとして、いつか、復活するかもしれない。復活することがないとし
ても、私やあなたと同程度の幸福くらいは、手にするかもしれない。

 が、中には、何かの失敗が原因で、自分の名前すら、変えてしまう人もいる。「今までの不幸
の原因は、自分の名前にあった」と。つまり姓名判断は、そういうときにも、使われる。

 2人の女性は、にこやかな笑みを浮かべて、こう言った。「本来なら、鑑定料は、x千円です
が、今回は、特別に無料です。○○大先生が、個人的に鑑定してくださいます」と。

 が、ここにきわめて重要なトリック(=ワナ)がある。もしあなたが、幸福で満ち足りた生活をし
ているなら、そういう場所へ、わざわざ出かけていくだろうか? だいたい、そういう場所へ出か
けていく人というのは、何らかの問題をかかえた人ということになる。

 だから出かけて行けば、「姓名に問題がある」「祈祷しなさい」「改名しなさい」「それには、○
百万円、必要です」となる。

 こうしたトリックと戦うゆいいつの方法は、自らが賢くなること。それ以外に方法は、ない。自
分で考える力を身につけ、自分で考える。自分で考える力のある人は、そういうトリックを見破
ることができる。

 2人の女性は、例として、ある(偉人)の母親の姓名を紙に書いて、説明してくれた。私がそれ
をだまって聞いていたのは、それに感心したからではない。「なるほど」と思ったからでもない。

 あきれて、声も出なかっただけ! バカめ!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 姓名
判断 姓名 運命論 迷信 カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●大言壮語(たいげんそうご)

+++++++++++++++++

韓国のN大統領の大言壮語には、
もう、うんざり!

就任したときには、「北の核兵器開発
問題は、我々が解決してみせる」と言った。

そして今年(06年)も、年頭に、こう言った。

「今年は韓半島(朝鮮半島)の平和と
南北関係が、飛躍的に発展する転機となる」
(朝鮮N報)と。

++++++++++++++++

 韓国の金前大統領が、K国の金xxと、近く会談をすることになっているという。それについ
て、韓国の金前大統領は、「列車で行く」と、がんばった。

 が、それについて、K国の軍部(?)が、「NO!」と。

 それもそうだろ! 韓国の金元大統領にすれば、たいへん、かっこいい話ということになる。
数千ウオン(数百億円)もかけて鉄道を敷き、最新型の列車で、K国へ乗りこむのだから。

 が、金前大統領にとって、(かっこいい)分だけ、K国にとっては、おもしろくない。韓国のN大
統領たちは、「?」と首をかしげているようだが、こんなことは、貧者、あるいは弱者の立場で考
えてみれば、常識。だれにも、わかるはず。

 だからK国のスポークスマンは、こう言った。「列車を使った誰それの平壌(ピョンヤン)訪問
といった行事が、例外なく協力と交流に見せかけた、政略的な企みに端を発するものだという
ことをわが軍は、以前から看破していた」(朝鮮N報)と。

 それにしても、N大統領周辺の、ノー天気ぶりには、あきれるばかり。その直前まで、「どんな
形であれ(試験運行のための軍事的保障は)得られるはず」とか、「北朝鮮軍部も同意してい
るだろう」(I統一部長官)とか言って、最後の最後まで、がんばった。

 一方、K国も、K国!

 何からなにまで、すべて韓国側にやってもらいながら、「わが軍は、以前から看破していた」
と。ならば、最初から、反対すればよかった。自分のことは、自分ですればよかった。

 さらに韓国側が全額出資し、K国のためにと開発した開城工業団地にしても、K国のスポー
クスマンは、「韓国側はおおごとのように騒いでいたが、地ならし作業を終えて試験的な運営を
行っている程度に過ぎない」「南北協力交流が短命で終わった、琴湖地区(新浦軽水炉)の建
設の二の舞にならないかどうか注視している」と。

 つまり言外で、「もっと金を出せ」と。これではまるで、韓国が自分たちの国を支えるのが当た
り前、と言っているようなもの。

 この図々しさというか、異常なまでの依存性は、いったい、どこからくるのか。こういう国を、
「同胞」「同胞」と呼ばなければならない韓国も、さぞかし頭が痛いことだろう。

 そろそろ、韓国のN大統領も、目をさますときがきているのではないのか。N大統領が支えて
いるのは、共産主義国家でも社会主義国家でもない。ただの独裁国家。

 朝鮮N報(韓国系の中立新聞社)ですら、社説の題として、こう書いている。

 『相も変わらす、K国にもてあそばれる韓国政府』と。まさにそのとおり!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●損(?)

+++++++++++++++++

「損」という言葉がある。
しかし何が、損で、何がそうでないか、
本当のところ、それがよくわからない。

+++++++++++++++++

 まさか、ジョギングをしている人が、「自分は、損をしている」とは、思わないだろう。ジョギング
をすることによって、体を鍛える。健康を維持する。気分も、そう快になる。

 しかしそこに他人が介在するようになると、それが一変する。

 たとえば他人が捨てたゴミを拾って集めるようなばあいを、考えてみよう。同じような運動だ
が、しかしそれをしていると、最初は、怒り、つづいてそれが、「損をしている」という感覚に変わ
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。

 私はときどき、レッスンの最後に、子どもたちに、あれこれ仕事を頼むことがある。「机を並べ
てね」「スリッパを並べてね」と。

 今ではそれがみなの習慣になっているから、それに対して文句を言う子どもは、ほとんどいな
い。しかし中には、こう言う子どもがいる。「どうして、ぼくがア!」とか、あるいは、「どうして私が
しなければいけないの!」と。

 明らかに「損」を意識している。損を意識しているから、そう言う。

 しかし損をすることは、悪いことばかりではない。損をすることによって、人は、その心を広く
することができる。心に余裕をつくることができる。

 反対に、損をしたことがない人を見ると、それがよくわかる。もっともそれがわかるようになる
ためには、自分で、損を経験しなければならない。損をしたことがある人からは、損をしたこと
がない人が、よくわかる。しかし損をしたことがない人には、それがわからない。損をしたことが
ない人には、損をした人が、バカに見える。

 が、さらに一歩進んで、子育てそのものを、「損」と考える人は、少なくない。ある女性は、会う
たびに、私にこう言う。

 「林さん、子育てなんて、するもんじゃ、ないね。息子なんか、横浜の嫁に取られてしまいまし
た」と。

 どこから、またどうしてそういう発想が生まれるのか、私には、理解できない。できないが、そ
の女性は、そう言う。言い忘れたが、その女性は、今年80歳になる。息子は、現在、横浜に住
んでいる。50歳を超えたという。

 ジョギングが損でないのと同じように、ゴミを拾って歩くのも、損ではない。それ自体、よい運
動になる。環境もよくなる。ついでに心も広くなる。考えようによっては、ジョギングより、はるか
に「得」!

 さらに一言。

 心が広ければ広いほど、また幸福感も大きくなる。だから……。損をすることを恐れてはいけ
ない。あえて損をする必要はないが、心のどこかで「損」を感じたら、その損に向かって、前向
きに進んでいく。

 さらにあえて言うなら、本当の「得」とは何かということになれば、それは私たちの健康という
ことになる。肉体だけではない。心の健康も、それに含まれる。もし今、あなたが健康なら、い
ったい、何をして、損になることがあるというのか。

 実は、このことも、子どもたちの世界を見て、私が学んだ。

 子どもというのは、使えば使うほど、すばらしい子になる。生活力も身につく。忍耐力も身につ
く。つまり損を日常的に経験している子どもほど、すばらしい子どもになる。肉体的にも、精神
的にも、健康になる。

 そうでない子どもは、そうでない。ドラ娘、ドラ息子になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 損 
損論 得論 すばらしい子供)

【補記】

 損をすることに平気な子どもと、そうでない子どもがいる。中には、いつも損得の計算ばかり
している子どももいる。そういう子どもは、何か、不本意な仕事を押しつけられたりすると、猛烈
に、反発する。

 そういう子どもは、それだけ心がせまいというこちになる。総じて見れば、そんなわけで、ドラ
息子、ドラ娘と言われるタイプの子どもは、心がせまい。

 さあ、あなたも、求めて、損をしてみよう。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●相手を喜ばす

 子どもにとって(おとなもどうだが)、やさしい人というのは、思いやりのある人のことをいう。そ
の思いやりのある子どもに育てるコツがこれ、「相手を喜ばす」。

 たとえばスーパーなどでものを買い与えるときでも、直接子どもに買い与えるのではなく、「こ
れがあるとパパが喜ぶわね」とか、「あとでお姉さんに半分分けてあげてね。お姉さんは喜ぶ
わよ」とか言うなど。

昔、幼稚園にこんな子ども(年長男児)がいた。見るといつも三輪車にだれかを乗せ、それをう
しろから押していた。そこで私が、「たまにはだれかに押してもらったら?」と声をかけると、そ
の子どもはこう言った。「先生、ぼくはこのほうが楽しい」と。そういう子どもをやさしい子どもと
いう。

 よく誤解されるが、柔和でおとなしい子どもをやさしい子どもとは言わない。たとえばブランコ
を横取りされても、ニコニコ笑ってそのまま明け渡してしまうなど。むしろこのタイプの子どもほ
ど、表情とは裏腹のところでストレスをためやすく、その分、心をゆがめやすい。教える側から
見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子」といった感じになる。

 子どものやさしさは、心豊かな環境で、はぐくまれる。そのためにも、乳幼児期にはつぎの三
つを避ける。(1)闘争心、(2)嫉妬心、(3)不満と不安。

攻撃的な闘争心は、子どもの動物的な本能を刺激する。ばあいによっては、善悪の判断がで
きなくなり、性格そのものが、凶暴化することもある。

嫉妬心はえてして情緒不安の原因となる。赤ちゃんがえりに見られるように、本能的な部分で
子どもの心をゆがめることもある。

またこの時期、不満や不安は、子どもの性格をゆがめる。攻撃的になったり、反対にものに固
着したり執着したりする。さらに神経症や情緒不安、さらには精神不安の原因になることもあ
る。要するにこの時期は、心静かで穏やかな環境を大切にする。

 やさしさというのは、作って作れるものではない。家庭環境の中から、自然に生まれてくるも
のである。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●親絶対教・アメリカ事情

+++++++++++++++++

アメリカにも、親絶対教というのが、
あろそうだ。

二男が、自分のBLOGで、そう
書いている。

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父のブログで「親絶対教」なるものについて書かれているのを読みました。子供は親に「生んで
もらった」のだから尊敬すべきだというのが、「親絶対教」の考え方なんだそうです。

が、ここアーカンソーでもこの「親絶対教」が隅々まではびこっていて、特に田舎のほうでは、か
なり露骨な親権威主義が見受けられます(アーカンソー東北部なんか特にひどい)。

所変われど何も変わらず、ということでしょうか。

 誠司にしても、メイにしても、彼らには生まれてくるかどうかなんていう選択はなかった訳です
から、彼らの命というのは僕ら親に、100%の責任があるわけです。

親は子供のために存在し、子供のためにするすべてのことは、親にそうする義務があるからす
る訳です。実際その義務を放棄することは、州法違反になるわけで、その場合親は投獄され、
子供はフォスターケアに送られます。法律だから面倒を見るって訳ではありませんが・・。

 そういえば僕の大学の友達が一人が、ソーシャル・ワーカーとして働いていたんですが、彼女
の仕事は、まさにそういった仕事でした。親の義務を果たしていない人達から親権を剥奪して、
子供をFC送りにする、というかなりストレスが溜まりそうな仕事だったようです。

「事実は小説よりも奇なり」といいますが、本当に行き着くとまで行ってしまったような家族という
のは、ゴロゴロあります。その友達は、いつも色んな人間ドラマに関する話を話してくれました。

今はもうその仕事してないみたいですが・・。

【二男へ】

 同じ「親絶対教」といっても、日本とアメリカとでは、事情も内容も、多少ちがうのではないか
な。

 また「権威主義」といっても、国、それぞれです。

 以前から、お前から話は聞いていましたが、アメリカにも、親絶対強的な雰囲気があるという
のは、たいへん興味深いね。フ〜ンと思ってみたり……。ただアメリカといっても、広いしね。ア
ジア大陸が、スッポリと入ってしまうくらいだから。

 それにいろいろな人種もいるしね。もちろんアジア人も!

 アメリカの中南部というところは、ちょっと、ほかのアメリカとちがうようだね。

 まあ、お前もそういうところで、何かとたいへんだろうけど、『When you are in Roma,
 do as the Romans do.(ローマにいるときは、ローマ人のするようにせよ)』の格言ど
おり、アメリカに合わせるしかないだろうね。

 この問題だけは、根が深いし、この日本では、親絶対教は信仰にもなっているほどだから。
「そうです」「そうです」と言って、相手に合わせて生きる。若い人たちを教育するのは簡単だけ
ど、年配者を教育するのは、ほぼ不可能と考えたほうがいいよね。

 親子の間で、家庭内宗教戦争を繰りかえしている人となると、日本には、ゴマンといるよ。

「親のオレを取るか、嫁を取るか」と、本気で息子に迫っている親だって、いるよ。息子は息子
で、妻に向かって、「オレの親に不満があるなら、お前の方こそ、この家から出て行け」と。

おかしな世界だけれど、日本人にも、それが少しずつ、わかり始めてきたというところかな。
今、日本は、その過渡期の過程にあると思うよ。

 ただ子どもを大切にするということと、でき愛は別だから、注意しよう。

 また何か、具体的なエピソードがあったら、BLOGに書いてほしい。とても参考になるよ。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1324)

【気になる、最近のニュースから】

●WD氏の絵画盗作事件

 「あれを盗作と言わずとして、何と言う?」というのが、私の率直な感想。WD氏なる画家の作
品は、どれも、イタリアのSG氏の作品とそっくり!

 で、今までの盗作疑惑について、当のWD氏は、「了解してもらった」「手法がちがう」(NHKテ
レビ報道)と述べていたが、別の作品(Y火災東郷青児美術館大賞作品)については、「共同制
作だ」(News−i)と居なおっている。

 が、ワイドショーなどの報道によると、その一方、WD氏は、イタリアのSG氏に対して、「告発
しないでほしい」「私は肺がんだから、静かに死なせてほしい」などという手紙を送っていたとい
う。さらに、WD氏は、「自分の描いた絵画をすべて、返す」とSG氏に約束したという。が、SG
氏は、今にいたるまで、一枚も絵を受け取っていないという。

 盗作かそうでないかの判断は、これから、というが、絵のばあい、そんなことは、一目瞭然(り
ょうぜん)。あえて言えば、私も、こんなインチキな画家というより、人間を、知らない。しかも悪
びれる様子もなく、NHKテレビのインタビューでは、笑みまで浮かべて、それに対応していた。

 そうそう、こうも言っていた。「共同で、個展を開きたい」と。

 むしずが走るというのは、そういうときの感覚をいうのか。私はそのインタビュー場面を見て
いて、あまりのおぞましさに、ぞっとした。

 イタリアに住むSG氏が告発しないかぎり、刑事罰を科すのは、たいへんむずかしい。が、で
あるならなおさら、こうした画家は、社会的に、徹底的に抹殺するのがよい。

 韓国の、人クローン捏造事件、さらには、その前の日本の、石器捏造事件と並んで、なんとも
お粗末な事件ではないか。


●K国のテポドン2号

 「発射の気配はない」と言っていたが、ここにきて、急にあわただしくなってきた。「準備は、最
終段階」(Yahoo News)とか(6月1日)。

 アメリカ軍は、電子偵察機による監視飛行を始め、防衛庁もイージス艦や電子測定機を展開
させたという(同日)。自衛隊の高級幹部による海外出張を、相ついで中止しているという事実
を重ねあわせてみると、ことは、かなり深刻なようだ。

 「実際の発射はないだろう」というのが、今のところ、おおまかな見方だが、私個人は、K国に
は、その能力も技術もないと見ている。それにアメリカは、もしK国が、長距離ミサイルの発射
実験をすれば、即、経済制裁をすると構えている。

 頭のおかしな独裁者が、いよいよ狂ったか……というのが、私の率直な印象。


●野党ハンナラ党の圧勝

 韓国で、5月31日、統一地方選挙が行われた。まだ最終結果が出る前だが、野党ハンナラ
党が、圧勝する勢いだという。

 ソウル市長のほか、16の首長選(日本の知事選)のうち、少なくとも12か所で、ハンナラ党
の首長が誕生するという。が、これに対して、N大統領率いるウリ党は、1か所程度だという。

 私は、これが韓国の常識だと思う。またあるべき姿だと思う。N大統領の悪口を書いたらキリ
がないが、いくつか並べてみると、こうなる。

(1)自分は絶対的な善であるという思考パターン。どこか狂信的?
(2)回顧復古主義的な個人的政治思考。プラス老人性の妄想。どこかジジ臭い?
(3)K国の代弁機関となってしまった、韓国の大統領府。金xxの身内?
(4)反米、反日を旗印にかかげ、親K国、新中国に傾斜。共産主義者?
(5)時代錯誤的な権威主義的政治姿勢。何をそうも威張っている?
(6)外資や外資企業に対して、猫の目のように変わる経済政策。

 そこで今の日本にとって重要なことは、野党ハンナラ党との連携を深めること。と、同時に、
たとえば小泉首相によるY神社参拝問題などで、野党ハンナラ党との間に、これ以上のキレツ
を入れないこと。(ハンナラ党にしても、小泉首相のY神社参拝を容認しているわけでない。)

 少なくとも、N大統領が政権をとっている間は、日本は、対韓国については、きびしい経済政
策で臨むのがよい。韓国のバブル経済がはじけるのは、もう時間の問題。そうなったとき、日
本は、隣国として、どう対処すべきか、今のうちから、考えておいた方がよい。

 日本政府よ、N大統領が頭をさげて頼みにくるまで、こちらから助けるなどとは、絶対、言う
な!


●謎に満ちた殺人事件

 秋田県で起きた幼児殺害事件は、ますます謎をおびてきた。もっか、事件は捜査中なので、
ここでは何も書けないが、事実を並べてみると、こうなる。

(1)女の子が水死した。事故か事件か、不明。
(2)そのあとしばらくして、その女の子の家から二軒目に住む男の子が殺害された。
(3)女の子も、男の子も、最後に目撃されたのは、それぞれの自宅のすぐ近く。

 いろいろな仮説と推理が成りたつが、それについて書くことはできない。過去に似たような事
件があったが、それについても、書くことはできない。

 ともかくも、謎に満ちた事件であることには、ちがいない。

興味本位で、こういうことを書いて、ごめん!
(以上、06年6月1日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1325)

●今日から6月!

+++++++++++++++++

今日から、6月。
今月の大きな行事は、
ワイフの誕生日の祝い。

「お前の愛する夫が喜ぶような
プレゼントを、何か買ってやるよ」と
言うと、「何、それ?」と。

+++++++++++++++++

 今日から6月。しかしどこか気分は、重い。昨夜、I町で講演会の講師をしたが、時間がなく
て、最初から最初まで、早口。そのまま、すっ飛ばした。

 あとでワイフが、「早口すぎた」と、一言。つらかった。

 それで今日は、どこか気分が、重い。私は、早口。興奮してくると、さらに早口になる。時間が
ないと、さらに早口になる。

 「ここからここまでは、どうしても話しておきたい」という気持ちばかりが先に立つ。で、そうなる
と、あとは、時間との勝負。時計をにらみながら、一方的に、まくしたてる。

 まあ、今度の講演では、ゆっくりと話そう。今月は、10か所での講演を予定している。


●ウィルスチェック

 で、今朝、起きて一番にしたことは、パソコンのウィルスチェック。ついでに、ボットチェック。ど
ちらも、「感染なし」。よかった!

 ところで、昨日、生徒のKさん(小5)に、「今度、あなたのパソコンを掃除してあげるよ」と声を
かけたら、「分解するのオ?」と。

 分解して、私が掃除機で、掃除をすると思ったらしい。

 で、「ううん、電子的な掃除だから、そういうことはしない」と言うと、何がなんだかわけがわか
らない、というような表情をして見せた。

 前回、そのパソコンをたちあげてみたが、デスクトップ画面になるまでに、10分以上も時間
がかかった。それでまず、ディスクのクリーンアップを試みたが、20分近く待っても、動きなし。
タイムアップで、作業は中止。

 そのクリーンアップのことを、私は、「掃除」と呼んでいる。


●マガジン

 私のマガジン(Eマガ・メルマガ)を、中には、読んでくれている人もいると思う。ときどき、そう
いうメールが届く。しかしそろそろ私の創作意欲も限界にきつつある(?)。

 いや、これは私の限界というより、電子マガジンそのものがもつ限界と言ったほうがよいかも
しれない。ほかの人が発行しているマガジン(Eマガ・ランキングと読者数)を見ても、読者数が
ほどんどふえていないのがわかる。

 どうしようか? どうしたらいいのか? ……と、ぼんやりと考えながら、半時間が過ぎる。

 とにかく、9月いっぱいまで、がんばれるだけ、がんばってみよう。で、この10月からは、まぐ
まぐプレミアのほうに、力を入れることにしよう。

*********************

【まぐまぐプレミアの読者のみなさんへ】

いつもまぐまぐプレミアを購読してくださり、
ありがとうございます。

で、購読料のことですが、この10月から購読料を、
現行の200円(月額)から、300円に、値上げ
させてください。よろしくお願いします。

HTML版(カラー+写真)も、毎号、できるだけ
従来どおり、お届けできるように、努力します。

はやし浩司

(ご注意)

HTML版は、毎号の発行を約束するものではあり
ません。どうか、あらかじめご了解ください。

*********************

●ビデオ『陰陽師(おんみょうじ)』を見る

+++++++++++++++++++++++

古いビデオを、ビデオショップで、100円で
売っていた。

『陰陽師(おんみょうじ)』というビデオを買った。
見た。

いろいろ考えさせられた。

+++++++++++++++++++++++

●迷信

 ビデオ『陰陽師』を見た。かなり古いビデオらしい。あまり期待していなかったが、結構、おも
しろかった。「日本のCG(コピュータ・グラフィックス)も、なかなかやるね」というのが、私とワイ
フの共通した感想。

 内容はともかくも、つまりビデオそのものの評論は、さておいて、「迷信」というものがどういう
ものかを知りたい人は、一度は、見てみたらよい。まさに迷信のかたまりのようなビデオ。最初
から、最後まで、迷信、また迷信。

 ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。そのまま引用する。

++++++++++++++++++

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)……古代日本の律令制において、陰陽寮に属した官職の1
つ。律令国家において、陰陽道と呼ばれる呪術・占術を担当する専門家であった。土地の吉
凶を占うことで、遷都などでも、大きな役割を果たした。

有名な陰陽師としては安倍晴明、賀茂保憲などがいる。

平安時代においては権勢を振るったが、その後、宮廷が力を失った時代などを経て、国家的
な保護を完全に喪失。現代社会においては神職の一種として定義されてはいるものの、実態
としては、霊媒や口寄せなどで、高額の祈祷料を請求するものもおり、極めてオカルティックな
存在となった。

+++++++++++++++++

 ビデオを見た私の印象としては、陰陽師というのは、まじない、うらない、それに催眠術を合
体した、祈祷師のような存在ということになる。とくに、催眠術による人心の誘導に、たけていた
のではないか。

 現在でも、ほとんどのカルト(教団)は、催眠術、もしくは催眠術による洗脳をたくみに利用し
ている。

 加えて当時は、(私が子ども時代のときも、それは色濃く残っていたが)、ありとあらゆるもの
が、迷信と結びついていたと考えても、おかしくない。また迷信が、それだけ信じられやすかっ
た時代とも言える。

 この話は以前にも書いたが、自動車販売会社のディーラーが、こんな話をしてくれた。

 ある男性が、新車を購入した。それについて、その男性は、そのディーラーに、車の納入日と
時間、さらに、車を納入する方角まで、指定してきたという。

 「○月○日、x時からy時までの間に、車を届けてほしい。なお車は、一度、北の方角まで走ら
せ、そこから南に向かって、私の家に届けてほしい」と。

 迷信にこだわる人は、そこまでこだわる。が、ビデオ『陰陽師』の中にも、似たようなシーンが
出てきた。宮殿を建てるとき、それに使う材木を、どの方角から運びこむか、と。陰陽師なる男
が、それを帝(みかど)にアドバイスしていた。

 つまり迷信というのは、迷信を口にする人と、その迷信を信ずる人が、ちょうど、キーとロック
のように、一致したとき、パワーを発揮する。たとえばこんな例を考えてみよう。

●ワラ人形

 ビデオの中にも、頭の上にローソクを3本立てて、ワラ人形を木に打ちつけるシーンが、出て
きた。呪(のろ)いを、だれかにかけるためである。

 そこで話をわかりやすくするために、あなたの友人のAさんが、あなたに呪いをかけるため
に、ワラ人形を木に打ちつけていたとしよう。もちろんAさんは、あなたが、苦しむことを願って、
そうしている。

 もしこのとき、Aさんが、そういうことを、あなたの知らない世界で、そうしているというのであれ
ば、あなたは、何も気にしない。何も変化は起きない。

 しかしあなたは、Aさんが、毎晩、そうしていることを知ったときは、どうだろう。しかもAさん
が、そうしているのは、あなたに呪いをかけるためだ、と。

 とたん、あなたは、それを気にし始める。が、もしこのとき、あなたが、迷信をまったく信じない
人だったら、あなたは、それを笑って無視することができる。が、そこまで割り切ることができる
人は少ない。

 あなたはAさんの行為をやがて、気にするようになる。もしあなたが迷信を信じているなら、な
おさらである。

 心理学の世界にも、「自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)」というのがある。自分でその
予言を信じているうちに、その予言どおりの世界を、身の回りにつくってしまうことをいう。

 こんな例がある。

 ある女子高校生が、ある日、私にこう言った。「私は、明日、事故を起こす。けがをする」と。

 そこで私が、そんなのは迷信だ。信じてはだめだと言ったが、その女子高校生は、本当にそ
の翌日、事故を起こした。自転車で走っているとき、自転車ごと、壁にぶつけて、腕と足にけが
をしてしまった。

 その女子高校生は、「予言が当たった」と驚いていたが、女子高校生は、予言を信ずるあま
り、無意識のうちにも、自分で事故を起こしただけと考えられる。

 で、もしあなたがAさんの行為を気にし始めたとしたら、どうだろう。体の不調が起こるたび
に、「これはAさんのせいだ」と思うようになるかもしれない。そしてその不調に不調が重なり、
重篤(じゅうとく)な病気になるかもしれない。

 するとますますあなたは、「この災いは、Aさんのせいだ」「Aさんが、ワラ人形を打ちつけてい
るせいだ」と思うようになるかもしれない。

 つまりワラ人形には、それなりの効果があったということになる。

 ビデオに出てくる、安部晴明という陰陽師は、実在した人物だという。平安時代後期の人物と
されている。宮廷に仕え、帝(みかど=天皇)にアドバイスをしたり、政(まつりごと)にあれこ
れ、口をはさんだりしていたらしい。

 そういう点では、陰陽師というのは、ときには、帝の暴走を食い止めたり、反対に、帝が判断
に迷ったようなとき、よき助言者として、帝に客観的なアドバイスを与えていたのかもしれない。
つまりそれなりの存在価値は、あったということになる。

 邦画は、めったに見ないが、最後まで、楽しかった。奇想天外というか、いろいろ考えさせら
れた。で、見終わったあと、両手の指をくねくねとからませながら、ワイフに、あれこれ呪いをか
けるマネをしてみせると、結構、ワイフも、それに乗ってくれた。

 なお現在の今でも、「陰陽師」を語り、それを職業にしている人もいるので、この話は、ここま
で。しかし私は、残念ながら、そういう迷信は、まったく信じない。私を呪い殺したかったら、どう
ぞ勝手に。ワラ人形でも何でも、木に打ちつけて楽しんでほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
成就的予言 預言 予言 自己成就預言 自己成就予言 陰陽師)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●ルポライターのMG氏の長男が襲われる!

++++++++++++++++++++

ルポライターのMG氏の長男が、
暴力団の組員に襲われ、
けがをするという事件が発生した。

++++++++++++++++++++

 MG氏といえば、カルト教団や暴力団を相手に、原稿を書いているルポライターとして、よく知
られた人物である。その勇気ある言動を、私は、いつも尊敬のまなざしで見つめている。

で、この日本では、言論の自由は保障されているとはいうが、実際には、そうではない。とくに
カルト教団や暴力団を相手にしたときは、そうではない。こうした団体を叩いたような記事を書
くと、そのあと、必ずと言ってよいほど、その報復を受ける。相手が巨大な組織であればあるほ
ど、そうである。

 私も、あるカルト教団を相手に、5冊の本を書いたことがある。月刊誌や週刊誌にも、たくさ
んの記事を書いた。で、そのときの顛末(てんまつ)記はまた別の機会に書くことにするが、一
時は、身の危険すらも感じた。毎週のように、10〜20人の信者たちが、我が家に抗議に押し
寄せてきた。いやがらせのためか、数か月に渡って、怪しげな男たちに尾行されたりもした。

 私のシンパを装って近づいてきた男も、いた。いろいろあった。いろいろあったが、その結
果、私は、今の私のように、(怖いもの知らずの人間)になることができた。

 それはそれとして、ものを書く人間を襲うなどという卑劣な行為を、絶対に許してはいけない。
今回も、MG氏は、暴力団関連の記事を週刊誌などに書いていた。それが事件の引き金にな
ったらしい。

しかしカルト教団も、そのスジの人間を使うことで、よく知られている。表向きは、記事に怒った
暴力団関係者が、MG氏の長男を襲ったというふうにも見える。が、ひょっとしたら、その裏で、
どこかのカルト教団が動いていた可能性もないわけではない。

 バカなことをし、バカなことを言う自由は、この日本にもある。しかしそのワクを超えて、何か
をし、何かを言う自由は、この日本には、ない。言論の自由にも、制限があるというわけであ
る。

 その制限のひとつとして機能するのが、こうした暴力行為である。

 もし日本が、本当に民主主義国家を標榜(ひょうぼう)するなら、まず言論の自由を保障する
こと。徹底的に保証すること。その保証するという行為の中には、当然のことながら、こうした
能力行為を許さないという姿勢も含まれる。

 もっともMG氏級のルポライターともなると、こうした暴力行為は、かえって逆効果。MG氏な
ら、ますます反骨精神たくましく、ものを書きつづけることだろう。バカな連中には、それがわか
らないだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1326)

【三男へ】

●大空へ、はばたけ!

お前がパイロットになると言ったとき、
お前が、私のかなわなかった夢を
果たそうとするのを知った。

しかしはじめから賛成したわけではない。
その日から、毎日、ワイフと話しあった。
危険な職業であることには、ちがいない。

が、あるとき、お前は、私にこう言った。
「パパ、ぼくの夢はね、パパにいつか、
本物の操縦桿を握らせてやることだよ」と。

私は、ときどき、フライト・シミュレーターで
遊んでいた。遊びながら、子どものころの
かなわなかった夢を、そこでなぐさめていた。

お前は、そういう私を上から、立ってみながら
そう言った。

それを聞いて、私は、うれしかった。そして決心した。
どんなことがあっても、お前を応援する、と。

そしてやがてお前は、横浜K大を中退、
航空大学校に合格した。

それを喜びながら、私は、お前に言った。

「もし、お前が、空で死んでも、ぼくは、
涙を流さない。覚悟はできているか」と。

お前は、「できている」と、きっぱりと、言った。

「もし、事故を起こしても、お前は最後の最後まで
飛行機に残れ。その覚悟はできているか」と。

お前は、「できている」と、きっぱりと、言った。

私は、親として、友として、
それ以上、お前に何を言うことができるか。
何を望むことができるか。

さあ、息子よ、空に飛びたて。
思う存分、お前の人生を、はばたけ!

●息子の新作ビデオ

http://www.youtube.com/watch?v=NbWEp13FYJk

お楽しみください(↑……クリック)

【補記】

●日本のみなさんへ、

 飛行機なんて、みな、同じ……と考えている人はいませんか? しかし、それが、そうではな
い!、……ということです。

 たとえばパイロット。そのパイロットを育てるにしても、それぞれの国が、それぞれの教育機
関を通して、育てています。国よっては、元軍人が、そのまま民間機のパイロットになることも、
珍しくありません。

が、この日本ですが、とにかく、きびしい……この一言に、尽きます。それにお金をかけてい
る。きわめて少人数で、1機数千万円から、数億円の飛行機を使って、パイロットを養成してい
ます。こんな国は、ほかには、ないそうです。

 見た感じでは、ただの小型機でも、たとえば計器ひとつにしても、大型機のそれと同じもの
を、装備しているとか。

 そんなわけで、みなさんも、日本国内はもちろん、外国へ行くときは、やはりJALか、ANAを
利用した方が、よいですよ。こと「安全」ということに関しては、(機体や整備のことは知りません
が……)、日本のパイロットたちは、その過程で、徹底的に訓練を受けています。

 会うたびに、息子と、「そんなにきびしいの?」「そうだよ」というような会話をしています。「外
国の飛行機は、こわくて乗れないね」と話すと、やはり「そうだよ」と。

 格安の外国チケットを買って、外国の飛行機に乗るのは、(国によっても、ちがいますが…
…)、かなり考えものです。

 私たち日本人は、JALに乗ろう! ANAに乗ろう!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●懐中時計(2)

 懐中時計が付録についている雑誌が発売になった。本物の懐中時計である。

 で、先週、その第2号が発売になった。キンキラ金の、金時計である。

 さっそく、それも買ってみた。が、いくら、時刻を合わせても、すぐ狂う。だいたい12時にセット
しても長針と短針が、ぴったりと重ならない!

 そこで書店へもっていくと、書店の店員さんたちも、首をかしげるばかり。で、別のものと、取
りかえてくれた。が、それも、同じ!

 実は、私たちは、文字盤を見まちがえていた。

 第2号の懐中時計は、第1号の付録の時計とくらべると、12時の位置が、9時の位置になっ
ている。つまり、90度、左にずれている。かつ、フタがついているが、そのフタは、左開き!

 文字が、細くて読みづらかった。それでそうなった。つまりそういうミスを犯した。ハハハ。

 罪滅ぼしに、私は、第1号と第2号を、その場で、2冊ずつ購入した。そしてそれらを、オース
トラリアとアメリカの友人に、送ることにした。書店の店員は、「いいです、いいです」と言った
が、それでは、私の良心(?)が、許さない。

 なお第6号まで買うと、おまけの時計が1個もらえるとか。2号以後は、1990円! 少し値段
が高いな? 第6号までは、とりあえず、買ってみることにする。

  
Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1327)

【女児願望の男児(?)】

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掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

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 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

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【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、そ
れをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありました。強く否定
していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいいのでしょうか? どう
返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら病
院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知られてい
る。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、その結果として、
性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。また女
子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自己の変化そ
のものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあれ、ほ
とんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとなへの脱皮をは
かるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、自意識
が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネガティブ)な
世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、そのひとつであ
る。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱として
の「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させることができない「性
同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の身
体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の
性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容できず、更
にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状態を指して性同
一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」とい
う表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちであるた
め、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性が食い違っ
た状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの
場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致してい
るが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子
的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察され
る。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれかに
正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられな
い症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。ま
た、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケース
もある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障害者
は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形
態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、(代表的な症例
では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 というの
は、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して
多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまったくなかっ
たと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの
性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場で
は、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうところのニ
ューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、売春以外
観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、男性型の身体
より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去勢をし、十代後半
になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、それを防ぐための文
言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々を、
性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドラインの第2
版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明記された。

++++++++++++

●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりもしそう
であるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」というよりも、
個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たちにとっ
ては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということになる。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、かえって追い
つめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオーストラリアで学生生
活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもっていると考
えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかということさ
え、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うことさえ、許されなくな
る。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたのは、X君
が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあるのを
見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたように、ほかに気に
なることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んでしまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の母親は、
その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、わからなくな
ってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでないものを
見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうすることもでき
ませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方のないこと
と、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあって
いません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問題だけは、
なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なことは、息子が自分
で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3〜4年生
くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両手をすり
あわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、そうし
た冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでにY君
に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱりと言った。
「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてくると、Y
君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめかしいと
いうか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、ここに書いたY君で
ある。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校生と、
恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部の席で、手
をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、それで
終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性同一
性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性障害者ということに
はならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、「自分は女性」と思いこん
んでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」で
ある。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに添付す
る。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が生まれてく
る。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職に応じたものの
考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性をも
つ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、失敗
など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観に大き
な影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そういう方向で
勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を勧められ、文科系コ
ースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさからうなどということは、で
きなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにもこうに
も、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そのと
きですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自分の職業
を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えてよい。ほ
とんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そして、その性別に
ふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まったくの
「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなったということもあ
る。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因については、いろいろな説があ
るが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、いじめられて泣くのは、男児、
いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってしまっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」にな
りきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事をしなさ
い」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、自我そのものま
で軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代に押
しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだということになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなければならな
い。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞき、男女差
別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べる学校もふえて
いる。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線の運
転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そういう問題も、考
えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差別して
はならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、今後は、性に
よる差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日本を変えていく。意
識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなければならない。
(030622)

++++++++++++++

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書いてき
たことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。残念なが
ら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを見たこともない
し、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無だっ
た。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、そうした服装
を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、からかわれた時代
もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、子ど
もは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そういう部分で、
親として、できることはしなければならない。反対に、してならないことは、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、狩り
の仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要である。男児が
男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、考えられる。
(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化するケースもあ
る。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視点で、
一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもしれない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思われる。仮に
性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどない。いわんや病院へ
連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日本では、
たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、もがき苦しん
でいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、もがき苦しんでい
る人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。しかし現実
には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」を自覚することが
多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果として、「自
分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳をとってか
らの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、若いときに見
た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、女を意識
するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自身のことでよく
覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなってしま
った。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の下着を見
てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよくおぼえていない。
しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、私は、そのとき強烈な衝
撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致を起こ
したとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるなら、
問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出てくる
ようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だけで、こうし
た人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視点で、こうした人たち
を、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うことはでき
ない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的には、
自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしかに、自分の子
どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがある。しかしそれは、
(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけなが
ら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が同居して
いることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」というよ
うなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているようにも思う。もしあ
のとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、私を病院へつれていくと
言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。

 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あるいはど
んな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につい
て言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」という図式
が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそうし
た原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同一性障害を
問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいた
ので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう
答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もい
た。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。その
高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう書くと、軟
弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞台でギター独奏
したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞くと、「こわかった……」
と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのは
たいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も
一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、ウンチを教
室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられて
いることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の
子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手と
いうのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなに
も、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らし
くという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、
妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかし
い。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は
皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(98年、
浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐怖症
になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、今、新時代
の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加しなさい」と指導して
も、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次
大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく
女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとた
まりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 男児
の女児化 男性の女性化)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1328)

【今日・このごろ】

●マガジンのアンケート調査

+++++++++++++++++

6月5日、Eマガ、「子育て最前線の育児論」
についての、アンケート調査を実施した。

その結果……。

+++++++++++++++++

 昨日(6月5日)、Eマガ、「子育て最前線の育児論」についての、アンケート調査をした。結果
は、つぎのようであった。

 マガジンを欠かさず読んでいる……22票
 ほぼ毎回、読んでいる    ……18票
 週に1、2度読んでいる   …… 3票
 月に1、2度読んでいる   …… 2票

 計、45票(6月6日現在)。

 一応読者の方の数は、1830人ということになっている(Eマガ・ランキング)。が、読んでくれ
ている人+アンケート調査に協力してくれた人は、45人だけということになる。

 これが現実。「こういうものだろうな……」と自分に言い聞かせてみたり、「まあ、しかたない
な」と、自分をなぐさめたりする。

 読んでくれている人+アンケート調査に協力してくれた人には、感謝している。しかしそれにし
ても……。たったの45人とは!

 私は、今まで、何をしてきたのだろう? 何を訴えてきたのだろう?

 現実を受け入れ、つぎに、マガジンをどうするか、それを考えるしかない。とりあえず、7月か
らは、EマガのHTML版は、廃止。10月からは、Eマガについては、内容と発行回数を、順
次、縮小することにした。小売店で言えば、赤字廃業というところか。とりあえず、9月いっぱい
まで、がんばってみる。

+++++++++++++

(補記)

 そんなわけで、今日は、執筆意欲は、ゼロ。半ば、放心状態(?)。ぼんやりと、パソコンの画
面をながめたり、雑誌を読んだり……。懐中時計を手の中で、いじったりしている。

 まあ、これ以上書くと、グチになるので、この話は、これでおしまい。

【まぐまぐプレミアの読者の方へ】

 まぐプレ版は、今までどおり10月からも発行していきます。どうかご安心ください。これから
も、よろしくご購読ください。がんばって書きつづけます。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【ある離婚】

+++++++++++++++++

ある離婚劇を、間近で見聞きしてきた。

それは、レールの上に乗った電車のようなもの。
あれよあれよと思うまもなく、
離婚劇は進んでしまった。

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 妻は、こう言う。「私の人生を、返してよ!」と。
 夫は、こう言う。「オレだって、仕事で、自分の人生を犠牲にした。家族を支えてきた。何が、
不満なんだ!」と。

 一度、離婚劇がレールに乗ると、離婚劇は、あれよあれよと思うまもなく、進んでしまう。それ
は金属疲労で破壊される鉄板のようなもの。一見、強固に見える鉄板でも、一度キレツが入る
と、あとは、早い。バリッと、裂けてしまう。

 離婚の三大事由はといえば、(1)浮気、(2)借金、(3)暴力と、相場は、決まっている。しか
し離婚にブレーキをかけるものもある。それが、(1)子ども、(2)財産、(3)見栄とめんつと、世
間体。ほかに外国などでは、宗教的な理由で離婚を思いとどまる人もいるが、この日本では、
少ない。

 で、『子はかすがい』とは言うが、同時に、『子は、三界の足かせ』ともいう。子どものために離
婚を思いとどまっている人も多いが、しかし万能ではない。中には、「子どものために離婚す
る」という人もいる。

 つぎに「財産」。定年離婚というのがあるが、夫が定年退職を迎えるから、妻のほうが離婚を
申し出るのではない。夫が、退職により、退職金を手にするから、妻のほうが離婚を申し出る。
「半分は、私のものよ!」と。

 さらに夫側の財産を目当てに、離婚を思いとどまっている妻も少なくない。「夫が死ねば、○
○家の莫大な財産が、自分のものになる」と。

 が、意外と大きなブレーキになるのが、見栄とめんつと、世間体。そういう意味では、男も女
も、生涯、自分を化粧して生きるものなのか? 仮面をかぶって生きるものなのか? が、この
タイプには、2種類ある。

 その仮面を、仮面と意識しながら、結婚生活をつづけるタイプ。もうひとつは、仮面を仮面と
意識しないで、結婚生活をつづけるタイプ。

 前者のほうは、外から見ても、わかりやすい。夫は夫、妻は妻で、それぞれ勝手なことをして
生活している。別々に愛人がいるケースもある。男と女の関係というよりは、いっしょの家にい
る、同居人といった感じ。

 が、問題は、後者のほう。仮面を仮面と意識しないで、結婚生活をつづけるタイプ。夫も、妻
も、いつの間にか、多重人格性をおびるようになる。見た目には仲がよいが、ささいなことで、
大喧嘩になることも珍しくない。仲がよいときと、大喧嘩するときは、たがいに、まったく別人に
なる。

 私がその離婚劇を間近で見聞きしてきた夫婦は、この後者のタイプの夫婦だった。

 外の世界でその夫婦を見てきた人は、みな、こう言う。「仲のよい夫婦だったのに……」と。し
かし内の世界でその夫婦を見てきた人は、みな、こう言う。「たがいに何を考えているかわから
なかった」と。

 が、あるとき気がつく。その夫婦のばあい、妻の方が、先に気がついたらしい。「私は人形み
たい」と。そう、まさに人形。夫の操(あやつ)り人形。

 自分の出世だけしか考えない夫。その夫は、「自分が出世すれば、妻は喜ぶはず」としか考
えない。近所でも、「○○大会社の専務さん」「○○大会社の専務さん」ともてはやされる。通勤
は、いつも、運転手付の大型乗用車。

 しかしあるとき、その空しさに気がつく。そしてそれがキレツとなって、一気に、鉄板を破壊す
る。バリッ、とだ。

 男と女の関係は、所詮、そんなもの。自営業か何かで、ともに苦楽をともにしてきたような夫
婦は別として、男と女の関係は、所詮、そんなもの。結婚によって、同じ電車に乗ってはみる
が、降りる駅は、別々。

 もっと言えば、円満な夫婦は、みな似ている。しかしそうでない夫婦は、千差万別。定型がな
い。さらに離婚した男と女は、みな似ている。つまりこうして離婚劇は、終わる。

 ……その知人が離婚してから、もう1年が過ぎた。で、今は、たがいに、あたかも何ごともな
かったかのように、平和で、のんびりと、生活している。そういう人たちを見ると、「夫婦って、何
だろう」と、改めて、考えなおさせられる。

+++++++++++++++

イプセンの『人形の家』について
書いた原稿を思い出しました。

ここに添付します。

+++++++++++++++

【反動感情】

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。

心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動形成というのは、自分の心を抑圧する
と、その反動から、正反対の自分を演ずるようになることをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうことがある。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。ほかに、た
とえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。その反動形成
に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(34歳女性、当時)に会ったのは、私が40歳くらいのことだった。もともとは奈良
県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を感
じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘を
愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき
六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)という。が、離婚は
しなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もた
れるの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反動感情」である。

このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうとする。わかりやすく言え
ば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好きになることで、不快感を克服し
ようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。自分という「主
体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き(affection)」という状態を
つくるが、

このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意でしかない。若い男女が、電撃的に打
たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や社会
は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、「ストックホ
ルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になったような人が、そのテ
ロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意をいだくようになり、そのテロリ
ストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(40歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになったと
きのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でしょ?」
と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦に見え
た。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないのですか?」
と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(45歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらしな
かった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前で
は、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副会
長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。

そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反動感情で作られた
愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたとしたら、ということ
だが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。

ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良好な関係にあるフリをしているだけかもしれな
い。本当はあなたといっしょに、いたくない。いたくないが、し方がないから、いっしょにいるだ
け、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思っているなら、その可能性は、ぐんと高くな
る。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(1973年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人たち
が、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質とな
った女性は、犯人と結婚までしたという。

※イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小2男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。そ
の子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われた
ら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につく
ることで、自分の心を防衛したと考えられる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夫婦とは……

 ついでながら、夫婦について、考えてみる。

 フランシス・ベーコンは、こう言った。『若い男にとっては、妻は、女主人であり、中年の男にと
っては、友であり、老年の男にとっては、看護婦である』(「結婚と独身生活」)と。

 男の側から見た、夫婦というのは、そういうものかもしれない。では、女の側から見た、夫婦
というのは、どういうものか。最初に思い浮かんだのが、イプセンの「人形の家」。その中でイプ
センは、夫婦は、どういうものか、それを如実に表した。

 『私はあなたの人形妻になりました。ちょうど父の家で、人形子であったように……』と。

 最初は他人どうしで始まる夫婦だが、何年もいっしょに暮らしていると、1+1=1になってし
まう。たがいにからみあう木のようなもので、一体化してしまう。どこからどこまでが、「私」で、ど
こから先が、「妻」なのか、「夫」なのか、わからなくなってしまう。

 そういう点では、ベーコンも、イプセンも、たがいの間に、一線を引いている。1+1=2の原
則を、貫いている? 夫婦でいながら、どこか他人行儀。それがよいことなのか、悪いことなの
かという議論はさておき、世の中には、(1+1=1夫婦)と、(1+1=2夫婦)がいる。あるい
は、(1+1=1+1夫婦)というのも、いる?

【1+1=1夫婦】

 ショッピングセンターの中でみかける夫婦でも、服装の趣味から、雰囲気、様子までそっくり
の夫婦がいる。ワイフは、「奥さんが、ダンナの衣服をそろえていると、夫婦も、ああなるのよ」
と言うが、そうかもしれない。『似たもの夫婦』とは、よく言ったものだ。

 で、農村へ行くと、この(1+1=1夫婦)に、よくであう。仕事も、生活も、あらゆる面で、夫婦
が、一体化している。原付リアカーで、うしろに奥さんを乗せて、トコトコと走っている夫婦が、そ
の一例である。

 こうした夫婦は、二人に、分けることはできない。どちらか一方が欠けても、仕事も、生活も、
できなくなる。二人の境界が、溶けて混ざりあうように、密着している。

【1+1=2夫婦】

 宇宙飛行士の夫婦に、そういう人がいる。奥さんのMさんは、アメリカで宇宙飛行士として活
躍している。ダンナさんは、日本に残って、「家」を守っている……。

 ダンナさんは、得意になって本まで書いているが、しかしそういう夫婦の形が理想的だとは、
だれも思っていない。だいたいにおいて、「夫婦」と呼んでよいものか、どうか?

 もっとも最近の傾向としては、(1+1=2夫婦)が、標準的になりつつある。概して言えば、サ
ラリーマン家庭では、そうではないか。夫の仕事の中に、(妻の存在)を組みこむということ自
体、無理がある。それで、「夫は夫、妻は妻」となる。

 本来は、やはり(1+1=1夫婦)が自然だとは思うが、社会も変わってきたので、そうばかり
は言っておられない。(1+1=1・5夫婦)とか、(1+1=2夫婦)というのがあっても、しかたな
いということになる。どこかで夫婦としての接点があれば、それでよいということか。

 どちらを選ぶかというよりも、どちらの夫婦になるかということは、生活の「形」が決めること。
あくまでも、成り行き。夫婦というのは、結果として、(1+1=1夫婦)になったり、(1+1=2夫
婦)になったりする。

 たがいに個性的に生きるなら、(1+1=2夫婦)がよいということにもなるが、私のように、も
ともと依存性が強い男には、そういう夫婦は、さみしい気もする。仮に、ワイフが、アメリカへ行
き、そこで宇宙飛行士として活躍し始めたら、それを受入れる前に、別れてしまうだろうと思う。

 その宇宙飛行士にしても、今は花形職業(?)だが、たかが宇宙飛行士ではないのか。明治
のはじめ、東京、新橋間を走る、あのチンチン電車の運転手は、まさに英雄だったという。そう
いうチンチン電車の運転手になるため、妻が、逆単身赴任で、東京に出た。状況的には、それ
と、どこも違わない。このタイプの夫婦は、(1+1=2夫婦)ではなく、(1+1=1+1夫婦)とい
うことになるのかもしれない。

 (私が言いたいのは、宇宙飛行士になるため、夫婦が別々に暮らすというが、それほどまで
の価値が、宇宙飛行士という職業に、あるかということ。夫婦を家庭の基盤に置くなら、そうい
う考え方になる。)

 夫婦は、同居して、夫婦なのである。守りあい、教えあい、励ましあって、夫婦なのである。セ
ックスだって、重要な要素だ。この大原則は、昔も、今も、変わらない。あるいは、これからは、
(1+1=1+1夫婦)というのも、ごくふつうのことになるのかもしれない。が、それを決めるの
も、やはり成り行き。

 わかりやすく言えば、夫婦に形はない。最初はみな、同じでも、その形は、それぞれが決め
る。大切なことは、それがどんな形であっても、たがいに認めあい、尊重するということ。自分
の形を、決して、他人に押しつけてはいけない。

 ここまでのところをワイフに読んで聞かせたら、ワイフは、こう言った。「ホモの人どうしが、結
婚するということもあるからねエ……」と。

 ナルホド! ワイフの一言が、私の夫婦論を、根底から粉々に、破壊してしまった!

 つきつめれば、一人の人間と、一人の人間が、それぞれに納得すれば、それでよいというこ
とか。「夫婦」という名称にこだわるほうが、おかしいということになる。となると、ここに書いた、
(1+1=1夫婦)も、(1+1=2夫婦)も、そうして考えること自体、無意味ということになる。

 ああああ。

 私が今まで考えてきたことは、無意味ということか。私はときどき、この(1+1=1夫婦)と、
(1+1=2夫婦)の話を、あちこちでしてきたのだが……。

 となると、話は、振り出しにもどってしまう。「夫婦とは、何か?」と。このつづきは、また別の
機会に……。

+++++++++++++++++++++
 
【MRさんよりの返事】

はやし様

早速の返答を、ありがとうございます。

はやし様の言うとおりで、読んでいて、涙が出ました。
私は主人を愛しています。
できれば離婚はしたくないのです。

主人も娘の事で悩んだりはしていますが、私との夫婦関係には何
も問題がないので「幸せだ」と言ってくれています。

私は血の繋がらない親子関係は、難しいと思い込み
主人の親戚たちにも、何とか娘を認めてもらおうと必死でした。

主人の母は主人をとても愛しているので、主人が悩んでいると、私へ
の当たりが強くなります。
「あなたがしっかりしてちょうだい」と・・・。

娘はとても良い子です。
明るくてやさしくて思いやりもあれば、礼儀も正しいです。
娘がずっと欲しがっていたお父さんができたのです。
みんなで仲良く暮らしたいです。

主人には前妻さんとの間に、私の娘より一歳年上の男の子がいます。
まったく面会などはないのですが、その子と比べられるのが
一番イヤで、娘に必要以上に良い子を要求していたのだと反省し
ています。

良い母、良い妻、良い嫁・・・。
頑張りすぎていたのかも知れませんね。

これからは肩の力を抜いて、楽しんで生活したいと思います。

はやし様ありがとうございました。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 離婚
 夫婦 夫婦論 離婚劇 イプセン 1+1=1夫婦論 離婚と子供 離婚と子ども 子どもと離
婚 子供と離婚)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1329)

【最近の事件から】

+++++++++++++++++++++

いろいろな事件が起きている。
そういう事件を見聞きしながら、その事件の
内容を、あれこれ推理してみるのも、
それなりによい、頭の刺激になる。

+++++++++++++++++++++

●WDなる画家

 まず頭に浮かんだのが、WDなる画家の、盗作問題。WDなる画家は、イタリアでも数本の指
に数えられる著名な画家、その画家」の絵画を、盗作し、自分の作品として発表していたとい
う。当の本人は、「共同制作だ」「盗作ではない」とがんばっているようだが、イタリア人画家のS
G氏ほうは、「だまされた」と、WDなる画家を訴える構えでいる。

 盗作か盗作でないかは、まさに一目瞭然(りょうぜん)! もしWDなる画家の絵を盗作でな
いというのなら、何をもって、盗作と言うのか。また「一目瞭然」という言葉は、なんのためにあ
るのか。……ということになる。

 WDなる画家は、「色や構図は同じでも、タッチや使った絵の具はちがう」と反論しているが、
そんなことは当然ではないか。WDなる画家は、SG氏の作品をカメラで写真にとって、日本へ
もちかえっている。タッチや使う絵の具まで、同じにすることはできない。

 ただ驚いたのは、この事件を評論しながら、コメンテイターの「T」が、こう言ったこと。

 「私たちの知らない、秘密の取り決めが、2人の間にあったのではないか」
 「WD氏の描いた絵は、SG氏(イタリア人画家)への、オマージュ(尊敬の念をこめた、模写)
とも考えられる」(6月3日・民放)と。

 WDなる画家をかばった発言とも考えられるが、そのあまりにも的をはずれた発言に、私は
あ然としてしまった。
  
 むしろ事実は逆で、WDなる画家は、ひそかに、SG氏が早く死んでくれることを願っていたの
ではないか。もしSG氏がすでに死んでいたら、WDなる画家は、今ごろ、こう主張しているにち
がいない。「いつも私がイタリアへ出かけていき、2人で絵を共同制作していた」と。

 死人に口なし……ということになるが、WDなる画家には、とても残念なことに、SG氏は、ま
だイタリアに健在していた。そして盗作と思われる作品がつぎつぎと出てくると、そのSG氏は、
「裏切られた」「WD氏を訴える」と言い出した。

 WDなる画家は、ひんぱんにイタリアへ行き、SG氏に会っているというが、それは同時に、S
G氏と親しいかったことをあとになって主張するための、下地づくり(アリバイづくり)とも考えら
れる。が、それ以上に考えられるのは、SG氏の作品が日本で発表されるのを、何よりも恐れ
ていたためではないのかということ。

 それで、つまりSG氏や、その周辺の人たちの動向をさぐるために、イタリアへ行っていた
(?)。もしSG氏の作品が、日本で発表されるようなことにでもなれば、自分の盗作がバレてし
まう……。WDなる画家は、それを一番恐れていた(?)。

 今になってWDなる画家は、共同で個展を開きたいなどと言っているが、もし共同制作をして
いたとか、SG氏を親友などと言うくらいなら、もっと昔に、共同で個展を開くべきだった。

 『恥』という言葉はあまり好きではないが、WDなる画家は、まさに日本の恥。それを世界に
向かって、さらけ出した。さらに言えば、そういう画家であることを、何一〇年にもわたって見抜
けなかった、日本の画壇の、無能ぶりというか、不勉強ぶりも、問題である。聞くところによる
と、日本の画壇も、権威主義のかたまりようなところだという。絵の中身や質よりも、「賞」や「名
声」のほうが、ものをいうという。

 SG氏は、イタリアでも、ここに書いたように、何本かの指に入るような著名な画家だという。
ならば絵そのものはともかくも、そういう画家の画風さえ知らなかったとは、驚きでさえある。し
かも今は、昔とちがって、世界の情報を、家の中に居ながらにして、知ることができる。

 ……とまあ、いろいろ書けるが、しかし今回の盗作事件は、スケールが大きい。別の報道に
よると、わかっただけでも、その数は、30点近くにもなるという。こうなると、WDなる画家は、
画家というよりは、詐欺師ということになる。


●A県で起きた児童殺害事件

 秋田県で起きた児童殺害事件の犯人が、逮捕された(6月5日)。犯人は、殺された児童の、
一軒となりに住んでいた、33歳の女性だったという。

 当初から、犯人ではないかと、疑われていた女性である。

 で、今日(6・5)の報道番組などでは、さかんに動機を問題にしていたが、私の推理では、こ
うだ。

 ……といっても、詳しくは書けない。報道されている範囲で、まず、いくつかの事実を並べて
みよう。

(1)犯人の女児も、事故か、事件に巻きこまれて、死んでいる。
(2)その女児には、どうやら保険がかけられていたらしい(報道)。
(3)母親は、「事件」を主張し、自前で張り紙をつくり、あちこちに張りつけている。
(4)「事件」であるとすると、国から被害者補償金が出るという。その額、最高で、約1500万
円。
(5)その母親は、自己破産を宣告したことがあり、生活保護を受けていたという。
(6)一方、その母親は、死んだ娘を虐待していた(?)という、うわさもある。学校の教師が見る
にみかねて、パンや牛乳などの食事を届けていたという。
(7)母親の家の中は、足の踏み場もないほど、ゴミ類が散乱し、荒れ放題であったという。
(8)小学校の運動会では、亡き娘の写真を立てて、その運動会に見学に顔を出していた。
(9)(5)〜(7)の事実から浮かびあがってくるその母親像と、(8)で見せる母親像とは、まった
くと言ってよいほど、食い違っている。一貫性がない。矛盾している。
(10)そういう状況のとき、1軒おいた隣人の子どもが、変死体となって発見された。
(11)犯人は、その母親だったという。

 児童を殺害した動機について、今の段階では、なにもわかっていない。わかっていないが、し
かしなぜその母親は、ああまで事件説にこだわっていたのか。その母親は、逮捕される前、さ
かんに、「自分の娘の死は、事故ではなく、事件である」「警察は信用できない」と言っていた。

 事件ということになれば、保険金のほか、被害者補償金も支払われることになる。今となって
みると、その母親の娘を殺した犯人はだれであるかは、別として、その母親は、補償金ほしさ
のために、事件説を主張していたと考えられなくもない。

……ということで、その母親は、ここにも書いたように一貫して、事件説を主張しているが、もち
ろん今のところ、その母親の娘が死んだのは、事故なのか、事件なのかは、不明である。しか
し皮肉なことに、しかし当の母親は、逮捕される前、テレビのレポーターに、こんなようなことを
話している(テレビ報道)。

 「(男の子を殺した)犯人と、(うちの娘を殺した)犯人は、同一人物かもしれません」と。

母親のこの言葉が正しいとするなら、その母親の娘は、だれかに殺されたことになる。だれか
に殺されたとするなら、その娘を殺したのも、実は、その母親自身ということになる……? 今
ごろ、その母親は、拘置所の中で、自分が言った言葉を、どのように考えているのだろうか。

 これから取り調べが、本格化するだろう。その過程で、やがて動機も明らかにされるだろう。
ひょっとしたら、娘の死についても、別の事実が明らかにされるかもしれない。

 今は、その取り調べを静観するしかない。

【補記】

 同じような事件は、時を経て、繰りかえし起きる。よく知られた事件に、W県で起きた、カレー
毒殺事件がある。

 あの事件のときも、当初から、1人の女性が犯人ではないかと疑われていた。私と同姓の女
性だったから、名前は、忘れない。

 あの女性も、今回の女性と同じように、ときには笑みを浮かべ、マスコミのインタビューに答
えたりしていた。しかし全体としてみると、態度や姿勢に一貫性がなかった。どこか不自然。そ
の不自然さが、疑惑を増幅させた。

 (私は犯人ではない)と、まず自分をだます。つぎに、(犯人でないなら、このように振る舞うだ
ろう)と頭の中で考えて、それを演技をする。が、悲しいかな、所詮、素人の演技。そのためど
うしても、言動が不自然になる。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【Eマガ・45人の読者】

++++++++++++++++++++

ここ数日、私は、たしかに、弱気になっている。
ものを考えようとしても、気力そのものが、
わいてこない。

投げやりな態度、逃避的な姿勢。
しかし何よりも気になるのは、
無気力感。虚脱感。それに敗北感。

++++++++++++++++++++

 この1〜2か月近く、Eマガの読者は、ほとんど、ふえなかった。最初は、「読者の数など、気
にしなくていい」と自分をなぐさめていた。しかしそのうち、読者の数を見るのも、いやになった。

 が、Eマガのばあい、マガジンの発行予約を入れるとき、最初のトップページで、そのときの
読者の数が、数字として、表示されるしくみになっている。だから否応(いやおう)なしに、その
数字を見てしまう。それがますます、私を落ちこませる。

 「どうしようか?」「本当に、みな、読んでくれているのだろうか?」と思い悩んでいるうちに、そ
の1、2か月が過ぎた。そこで、アンケート調査をしてみることにした。Eマガの読者は、一応、
数字の上では、1830人、ということになっている。

 が、実際に返事をくれた人は、45人(6月8日現在)。こう書くと、返事をくれた人には申しわ
けないが、たったの45人! 率直に言って、私は、この数字に、改めて、ショックを受けた。「こ
の3年間、私は、何をしてきたのだろう」と。アンケート調査といっても、所定の欄の中に(・)を
入れるだけの、簡単なもの。

 半ば放心した状態で、昨日という1日が過ぎた。ワイフは、「マガジンって、そういうものよ」
「読者が減らないだけでも、感謝しなければ」「1000号まで出しなよ」と励ましてくれた。しかし
1000号まで出しても、事情は、同じ。変わらない。

 ……が、だれかのために書いているのではない。書くのは、自分のため。それはたとえて言
うなら、健康のためにするジョギングのようなもの。だから本来なら、読者の数など、気にしなく
てもよいはず。自分でも、それは、よくわかっている。しかしならば、この無気力感、虚脱感、そ
れに敗北感は、いったい、どこからくるのか?

 私は、少なくとも、Eマガについては、何も求めなかった。ときに「BW教室の宣伝にでもなれ
ば」と思ったことはある。が、どうせ無料のマガジン。無料のマガジンだから、読む人も、そうい
うつもりで読んでいる。それは、私にも、よくわかっている。

 しかし心のどこかでは、「だれかの役に立っているはず」という思いは、いつも、どこかにあっ
た。またそういう思いが、私を支えてきた。たとえば、この3年間だけでも、私は、数百人以上
の方からの相談や質問に答えてきた。相談や質問のあった方には、ほぼ全員に、しかも、1〜
2日以内に、返事を書いてきた。

 が、たったの45人!

 ……これは私のグチか? ワイフは、いつもこう言う。「グチを言うくらいなら、マガジンなど、
サッサとやめなさいよ」と。

 ……と書いて、ここで「マガジンは、廃刊!」というふうにすれば、ことは、簡単。しかしここか
らが、私の正念場。ほかの人と、ちがうところ。『我らが目的は、成功することではない。失敗に
めげず、前に進むこと』(スティーブンソン)。

 こういう状態から、はいあがってこそ、(はやし浩司)なのだア!

 そこでまず、この無気力感を分析してみる。
 
私は心のどこかで、「私は、これだけのことをしてやっているから、読者の人は、感謝している
はず」「喜んでいるはず」という期待をいだいていた。つまり今回、それがはからずも、裏切られ
たということ。そしてそれが、回りまわって、私の無気力感へとつながっていった。虚脱感も敗
北感も、似たようなもの。

 期待するということは、要するに、(甘え)ということになる。コンピュータにたとえるなら、セキ
ュリィテイ・ホールのようなもの。この弱点をついて、いろいろなウィルス、つまり迷いが忍びこ
んでくる。

 だったら、もう一度、「無私」にもどるしかない。私を忘れて、ものを書く。だいたい読者の数を
気にするというのも、おかしな話だ。一方で、何百万冊も売れる本がある。そういう本と競いあ
っても、意味はない。つまり読者が2000人になろうが、倍の4000人になろうが、所詮(しょせ
ん)、ドングリの背くらべ。

 大切なことは、書くことで、私自身が生きていくこと。そういう視点で、もう一度、自分を見つめ
なおす。マガジンを発行するかどうかは、つぎの問題。

 ただ文章というのは、それを読んでくれる人がいて、文章。文章は、文章として生きる。そうい
う意味では、私にとっては、マガジンという発行媒体は、大切な存在ということになる。

 で、ここで「たったの45人!」と書いたが、こういう言い方そのものが、返事をくれた人には、
失礼というもの。それは、よくわかっている。だから、取り消す。もう2度と、この言葉は、口にし
ない。

そのかわり、私は、これからも、その45人の人たちのために、書く。1000号まで書くという自
信は、今はないが、とにかく、がんばって、書く。

【45人のみなさんへ!】

 今回、アンケート調査に返事をくれた、45人のみなさん、どうもありがとうございました。もし
その45人の人さえもいなかったら、Eマガは、本当に廃刊していたと思います。ありがとうござ
いました!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●教育の自由化

+++++++++++++++

自由と、社会の多元化は、
相関関係にある。

と、同時に、つまり自由が
ませばますほど、教育もまた
多元化する。……しなければ
ならない。

+++++++++++++++

 かつて官僚たちは、「天皇」という絶対的な権威者を頂点に置くことによって、自分たちの「存
在」を正当化していた。「自分たちは、天皇の命令のみによって行動する、忠実な僕(しもべ)で
ある」と。

 しかしその権威が崩れた。「天皇」という権威である。(今でも、国家的な賞などについては、
ハクづけのため、天皇の前で表彰されることが多い。)

 そこで官僚たちは、民主主義という仮面をかぶった。あたかも選挙で選ばれた議員のために
働くという形をつくりながら、その実、その議員たちを、裏で操っている。こうして今、官僚たち
は、自分たちの「存在」を正当化している。

 日本が、民主主義国家だと思っているのは、おそらく、日本人だけではないのか。たとえばあ
のソ連がなぜ崩壊したかだが、おおざっぱに言えば、ソ連型官僚主義が崩壊したとみるのが
よい。社会主義という(主義)が崩れたのは、あくまでも、その結果でしかない。言い忘れたが、
ソ連は、「社会主義」という仮面をかぶった、官僚主義国家であった。

 そのソ連だが、なぜ崩壊したか? いろいろな説があるが、社会の対立構造を、資本家と労
働者という、一元論でしか、みなかったことが、最大の原因と、私は考える。「資本家は、すべ
て悪であり、労働者は、すべて善である」「労働者こそ、絶対的な権威である」という、どこか間
の抜けた、単純な発想である。

 しかし社会の対立構造は、それほど、単純なものではない。

 小資本の上には、中資本があり、中資本の上には、大資本がある。同じく労働者といっても、
勤勉で能力のある労働者もいれば、そうでない労働者もいる。

 さらに資本家どうしも、多元的な社会構造を形成する。大資本家どうしが、たがいに熾烈(し
れつ)な、戦いを繰りかえすこともある。つまり社会構造は、3次元、4次元……となっている。
そこへ時的変化が加わる。

 ソ連は、こうした社会構造の変化に対応できなかった。それで崩壊した。わかりやすく言え
ば、人間が本来的にもつ、多元性に適応できなかったということ。

 では、今の日本は、どうか? ……という議論は、私のような人間がしても、意味はない。そ
こでもう少しレベルをさげて、今の日本の教育は、どうか? ……というレベルで、ものを考え
てみたい。

 「自由」と「多元的社会」は、たがいに相関関係にある。自由がませばますほど、社会は、多
元化する。

 教育に関していえば、自由のない全体主義国家ほど、教育は一元化される。一本になる。ひ
とつになる。今のK国を、みれば、それがわかる。戦前の日本を、みれば、それがわかる。

 しかし反対に、自由が拡大すればするほど、社会は多元化する。個人の趣味は広がり、嗜
好性も多様化する。そしてそれに応じて、当然のことながら、教育も多元化する。また多元化し
なければ、教育は、社会の変化に対応できなくなる。(ワクに押しこもうとする教育行政)と、(ワ
クに入りたがらない子どもたち)、その間で、はげしい軋轢(あつれき)が生まれる。

 あるいは、社会が伸びる芽そのものを、教育が摘んでしまうことにもなりかねない。
 
 で、もしあのとき、ソ連が、いち早く、社会がもつ多元性に気がついていたら、ソ連の崩壊は
なかったかもしれない。いつまでも、(資本家)と(労働者)という、一元論にしがみついていたか
らこそ、ソ連は、やがて崩壊した。

 ただ私は日本の教育が崩壊するのは、かまわないと思う。崩壊して困るのは、人口のコン
マ、ゼロゼロにもならない文部官僚たちだけである。しかしそれによって、日本の子どもたち
が、宙に浮いてしまうのは、困る。日本の子どもたちが、将来を見失ってしまうのは、困る。

 だからあえて言うなら、日本の文科省は、今こそ、教育の多元化を目指すべきではないの
か。今のように、「学校しかなく、学校しか、子どもの進むべき道がない」ということのほうが、お
かしい。

 さらに少し前までは、主要5教科と言われ、算数、国語、社会、理科、英語だけが、偏重され
ていた。しかしこれもおかしい。

 その(おかしさ)に、まず気がつくこと。オーストラリアの中学校では、たとえば「キャンピング」
という科目が、必須科目になっている(ビクトリア州など)。「どうして?」と理由を聞くと、「砂漠な
どで、ひとりになったとき、生き延びる術(すべ)を身につけるため」と。

 どうして日本の教育には、こうした発想がないのか? いつまでも、今のような一元論にこだ
わっていると、日本の教育は、本当に崩壊する。ここにも書いたように、私自身は、崩壊しても
かまわないと思っている。が、その被害を受けるのは、結局は、子どもたち自身ということにな
る。それだけは何としても、避けなければならない。

 教育の自由化は、今や、当然の流れと考えてよい。そしてもしそれがわからなければ、あの
ソ連を見ればよい。旧東ドイツを見ればよい。

 具体的には……。

(1)教科書検定の廃止
(2)カリキュラム編成の自由化
(3)学校設立の自由化
(4)ホームスクール(フリースクール)の自由化
(5)単位制の導入(同時に、全国的に単位を共通化する。)
(6)クラブ制の導入

 ざっと思いついたまま書いたので、不備はあると思う。しかしそうした方向に向けて、教育を
少しずつでもよいから、自由化していく。

 日本に残った、最後の、ソ連型官僚主義社会、それが文科省であり、今の日本の教育制度
である。そういう視点で、この評論を書いたみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 日本
の教育 教育の自由化 自由な教育)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●アメリカの論理vs韓国の論理

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在韓米軍の司令官が、とうとうキレた!

当然だ!

私にも、韓国のN大統領の頭の中が、
まったく理解できない!

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 韓国のN大統領は、大統領に就任するとすぐ、アメリカへ特使を送った。送って、こう言った。
「在韓米軍を撤退せよ」と。

 N大統領は、ここで誤算をした。N大統領は、ブッシュ大統領がこう言うと思った。「まあ、待っ
てくれ。それはできない」と。しかしアメリカは、こう答えた。

 「我々は、望まれない地域に、アメリカンボーイズ(米軍)を置かない」、つまり「撤退する」と。

 これにあわてたのが、韓国のN大統領。反対に「撤退を待ってくれ!」と。

 しかしアメリカの決断は、早い。この3年間だけで、アメリカは、韓国内の32の基地および訓
練場を閉鎖した(06年6月現在)。私が韓国にいたころは、ソウルの北、板門店に至る街道す
じには、いたるところにアメリカ兵がいた。もちろん板門店は、アメリカ軍が管理していた。

 が、それから40年。このあたりもすっかり、様変わりした。とくにN大統領が政権についてか
らは、変わった。このあたりでアメリカ兵の姿を見ることは、まず、ない。が、ここからが、「?」。

 アメリカは、ここにも書いたように、32の基地および訓練場を閉鎖した。しかし韓国側は、7
つの基地および訓練場しか受けいれていない。残りの25か所については、「朝鮮動乱以前の
状態にして、返せ」と。

 そこで在韓米軍の司令官(=米韓連合司令部司令官)のベル氏が、キレた。

 「私たちは(韓国で)55年間軍事任務を遂行するとともに、環境保護にも最善を尽くした。韓
国の土地と国民を守るため、命をかけているというのに、米国が韓国の土地に対して無責任
だとする非難に対して、私は大変残念に思う」(ソウル竜山戦争記念館戦友会館での講演・06
年6月)と。

 わかりやすく言えば、「55年間も、韓国を守ってきてやったのに、そういう言い方はないだろ
う」と。

 さらに韓国側は、アメリカに対して、「作戦統制権を韓国側に渡せ」と主張している。わかりや
すく言えば、韓国内のアメリカ軍を、どう動かすかは、韓国側の自由にさせろ、と。

 もちろんこんな要求に、アメリカ側が応ずるはずがない。アメリカンボーイズの命を、韓国側
に預けることになる。ベル氏は、さらにキレた!

 「作戦統制権の返還は大変重要な軍事問題であり、両国に多大な影響を及ぼしている。独
自の作戦権を持つならば、独自の作戦計画を発展させるべきである」(社団法人韓国国防安
保フォーラム(KODFF)招請講演にて・06年6月)と。

 ベル氏の言葉は、やわらかいが、つまり、「生意気なことを言うな。それだけのことを言うな
ら、それだけの力をもってから言え」と。

 以上、韓国のN大統領の主張を整理すると、こうなる。

(1)アメリカ軍は韓国から撤退せよ。
(2)それについては、朝鮮動乱以前の状態にして、基地や訓練場を返せ。
(3)戦時作戦統制権を、韓国側に渡せ。

 一見、ムチャクチャな論理に見えるかもしれないが、N大統領の言い分は、こうではないか。
老人性の被害妄想のかたまりのような人である。

(1)朝鮮動乱は、もとはと言えば、日本の植民地政策に起因している。
(2)南北の朝鮮人は、アメリカとソ連(中国)の代理戦争をさせられた。
(3)我々は、アメリカの犠牲になっただけ、と。

 でなければ、どうにもこうにも、N大統領の頭の中を理解できない。日本風に言えば、「考え
方が、完全に、うしろ向き」。外国風に言えば、「内部にエネルギーを、向けすぎ」(シンガポー
ル、R元首相)。

 今では、完全にレイム・ダック(Lame Duck)と化した、N大統領。レイム・ダックというの
は、「足の不自由なアヒル」をいう。政治の世界では、「任期切れを待つだけの、形だけの大統
領」を意味する。

 しかしその任期は、まだ1年半も残っている。

 N大統領が、このまま静かに引退の道をさぐるとは、とても思えない。N大統領は、その強大
な権力を使って、ますます過激に、ますます露骨に、この1年半の間に、やりたい放題のことを
するだろう。が、それこそ、えらい、迷惑! 韓国そのものが、とんでもない方向に引っ張られ
ていく危険性すら、ある。

韓国情勢からは、ますます目が離せなくなった。

【補記】

 韓国のN大統領は、反米については、トーンダウンしたあと、これから先、国論を自分に引き
つけるため、反日を利用してくるはず。

 竹島問題もそのひとつだが、こうした挑発に、日本は、決して乗ってはいけない。のらりくらり
と、どこまでも事務的に対処するのがよい。中には、勇ましい好戦論を口にする人もいる。竹
島に自衛隊を派遣せよ、とかなど。が、しかしそれこそ、N大統領の思うツボ。

 日本のA新聞社がセスナ機を飛ばしただけで、ジェット戦闘機を飛ばしてくるような大統領で
ある。日本人がもつ常識で、N大統領の頭の中を理解してはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1330)

●自己責任

++++++++++++++++++

アメリカ在住のSさんから、
こんなメールが、届いています。

アメリカの教育事情の一端が
理解できて、たいへん興味深いです。

++++++++++++++++++

【Sより、はやし浩司へ】

日本、ハンガリー、アメリカと移動し、子供たちに起こる問題を一つ一つ乗り越えてこられたの
も、先生のおかげです。いつも感謝しています。

4年前、S台の公園で出会った方に、BW教室のうわさを聞き、見学に行きました。先生の手作
りの教材を見て、すぐに子供をあずけようと決めました。

下の娘を連れていたので、10分程で教室を出て行った時は、周りの方に誤解されましたが、
気に入らなかったのではなく、一目で気に入ったのです。手作りの教材は、手間がかかり、考
えなければ作れないからです。

この出会いが無かったら、私は、子育てなどできなかったと思います。とても、貴重で、重い出
会いであったと思っています。

さて、話は変わり、子供たちの通うカリフォルニアの公立小学校には、制服があります。制服と
言っても、学校指定のポロシャツと、トレーナーだけです。ズボンの色、アクセサリーの禁止な
どについては、大まかなDress Code(校則)が示されています。もし、制服を着たくなければ、
保護者のサインをした書類を提出します。

制服を着ていなくても、きちんとしていれば、とがめられることはありません。

これは、各学校によって違います。隣の学校は、制服は無く、Dress Codeだけです。

これらのことは、PTAの話し合いによって決まります。

日本とは、規則の考え方、自由の考え方が大きく違うように感じます。本人にゆだねられる部
分が大きいというか、うまく言えませんが・・・。 

【はやし浩司よりSさんへ】

 Sさんのメールを読んで、最初に頭に浮かんだのは、三男のことです。

 現在、三男は、パイロットの卵として、航空大学校に通っています。私は、三男が帰ってくるた
びに、飛行機の話を聞くのを、何よりも楽しみにしています。で、その三男から話を聞けば聞く
ほど、「なるほど、そういうものか……」と、感心することがあります。

 つまり航空大学校では、いつどのように飛行機に乗るかは、学生自身の判断に任されている
というのです。教官は、テーマだけを学生に与えて、「あとは自分で考えて、判断せよ」と。

 つまり(飛行機を飛ばすかどうかの判断)も、学生たちに任せているのだそうです。そのため
学生たちは、朝起きると、天気図をながめ、飛行場の中に立ち、雲の動きを観察するのだそう
です。

 そして「飛べる」と判断したときには、事務室へ行って、飛行計画を提出し、許可をもらい、そ
のあと、自分で飛行機に乗るのだそうです。もちろん教官はいますが、教官は、学生たちの判
断に応じて、飛行機に同乗するだけ、ということらしいです。(もちろん飛行機の操縦のし方は、
教官から学びますが……。)

 教官が、カリキュラムを組んで、学生に指示しながら訓練するのではないということらしいで
す。

 飛行機の世界では、(とくにライン機の世界では)、機長の自己判断と自己責任で、すべてが
決まるそうです。つまりそういう判断が、自分でできるようにするのが、航空大学でいうところ
の、「訓練」ということになっているそうです。

 「会社のほうから、飛べとか、飛ぶなとかいう指示はないのか?」と聞くと、「そういうものは、
ない。飛ぶ、飛ばないの判断は、すべて機長に任されている」とのこと。

 この方式は、どこかアメリカ的な教育法を連想させますね。自己判断と自己責任という部分
が、です。

 三男の様子は、私のHPのトップページ、「E・Hayashi」から見ていただけます。また機会が
あったら、ぜひ、見てやってください。

 また三男が、ビデオを作りました。ここに書いた、天気図を見る、外に立って空の様子や、風
の具合を見るといったシーンも、その中に、瞬間ですが、入っています。

 自分のことばかり書いてすみません。またゆっくりと返事を書きます。いただきましたメール
につきましては、いつものように、マガジンに載せますが、どうかお許しください。

 では、これから講演に行ってきます。がんばります。ここ数日、30度近い気温でしたが、今朝
は一変、肌寒さを感じさせるほどです。ベストコンディションです。今日は、よい講演ができそう
です。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●天皇vs天皇陛下

+++++++++++++++++

ある新聞社が、天皇を、「天皇」と呼び
捨てにした。記事を書いた。

それに政府が、かみついた。

「陛下という敬称をつけろ」と。

しかしそんなことを、政府が、国民に
強要するほうが、おかしい。

+++++++++++++++++

 私は、自分の文章を書くとき、敬称や敬語は、ほとんど使わない。それに気づいている人も
多いかと思う。たとえば、天皇がこのH市にやってきたことがある。そのときも、私は、「天皇
が、H市へ来た」と書いた。正しくは、「天皇陛下が、浜松へ、おこしになりました」か(?)。

 本来なら、「天皇」ではなく、「天皇陛下」と書くべきなのかもしれない。しかしこうした敬称や敬
語は、一度、使い始めると、その基準をもうけるのに苦労する。だから私は、相手がだれであ
ろうとうも、敬称や敬語は、使わない。

 が、誤解しないでほしい。敬称や敬語を使わないからといって、その人を軽くみているわけで
はない。悪くみているわけでもない。「人間は、みな、平等である」。

 しかしこういうこともある。

 ふつう二重の敬称をつけることは、相手に対して失礼となる。たとえば、「林先生」と呼ぶの
は、かまわない。しかし「林先生様」とか、さらに「林先生様殿」というのは、かえって失礼とな
る。言われたほうも、何となく、バカにされたような気分になる。

 なお、宗教団体などでは、自分たちの指導者を、二重、三重、さらには四重の敬称をつけて
呼ぶところが多い。(この話は、本当だぞ!) たとえばその指導者の名前が「鈴木」であったり
すると、「鈴木御導師上人様殿」となる。(鈴木・御・導師・上人・様・殿だぞ!)

 で、天皇の話にもどる。私は、子どものころから、天皇を、「天皇」と呼んでいた。しかし「天
皇」という言葉そのものが、日本では、地位を表す名称である。学校で言えば、「校長」、会社
で言えば、「社長」、大学で言えば、「教授」という言葉に、それぞれ当たる。

 その校長に対して、「校長」と呼ぶことは、決して、失礼ではない。「社長」も、そうだ。が、この
日本では、「校長先生」と呼ぶ。(別に、「校長」だけでも、かまわないはずだが……。) 一方、
「社長様」と呼ぶケースは、少ない。「教授先生」と呼ぶケースは、もっと少ない。

 つまり、「校長・先生」「社長・様」「教授・先生」と、肩書きに敬称をつけるのは、二重の敬称と
同じに考えてよいのではないのか。

 しかし私は、子どものころ、「天皇」と呼び捨てにしただけで、(呼び捨てにしているという意識
はなかったのだが……)、父親に殴られた。「陛下と言え!」と。そんなわけで、正直に言えば、
今でも、天皇の問題について論じるときには、ツンとした緊張感を覚える。

 さて本題。

 「陛下」というのは、天皇だけにつけられる、特殊な敬称である。宗教の世界にも、それぞれ
の宗派で、特殊な敬称をつけることがある。それをつけなければ、その世界では、失礼になる
という。しかしそれは、その宗教を信じている人の世界での話。その宗教の世界の外にいる人
には、関係ない。

 天皇についても同じように考えてよいではないだろうか。つまり私は、天皇は、天皇でよいと
思う。昭和天皇は、外国では、ただ単に、「ヒロヒト」と呼ばれていた。それが愛称になってい
た。考えてみれば、これほど失礼な呼び方はないわけだが、しかし、どうして、そういう呼び方
をしてはいけないのか?

 私は個人的には、(当然のことながら)、天皇を、知らない。だから「天皇」という言葉を使うと
きは、いつも、「天皇制」という制度を頭に置いた言い方ということになる。その天皇制につい
て、「天皇陛下制」などと言う人はいない。

 目の前に天皇がいれば、当然、私は、「天皇陛下」と呼ぶだろう。「陛下」と呼ぶかもしれな
い。しかしここにも書いたように、天皇は、そこに、いない。

 だから私にとっては、天皇は、「天皇」でしかない。

 ついでながら、私は、教室では、生徒たちによく、呼び捨てにされる。私のことを、「先生!」と
呼ぶのは、約半数。何割かの子どもは、私を、「林!」と呼び捨てにする。

 だからといって、そんなことで目くじらを立てることはない。「林!」と呼ばれたほうが、私も、
気が楽。こちらも、生徒を呼び捨てにできる。「おい、鈴木!」とか、「おい、佐藤!」とか、な
ど。

 が、私のことを、「先生様」と呼んだ子どもは、いまだかって、1人もいない。

 ……そんなわけで、もし、天皇のことを、「天皇陛下」と言うのがふつうになってしまったら、つ
ぎに今度は、「天皇陛下様」と、「様」をつけて呼ぶようになるかもしれない。「殿」でもよい。戦
前の日本が、そうであったように……。

 ともかくも、こんなことで、いちいち政府が、とやかく言うべきではない。天皇自身だって、それ
を望んでいないだろう。

【補記】

 英語にも、敬称は、あるにはある。「Your Majesty(陛下)」とか、「Your Excellency(閣
下)」とかいうのが、それ。

 しかしそれはその相手を前にしたとき、つまり直接相手に語りかけるときの敬称で、一歩退
いた世界では、こうした敬称は、ほとんどつけない。ブッシュ大統領にしても、マスコミの世界で
は、「ミスター・ブッシュ」である。あるいはほとんどのばあい、呼び捨て。

 私は、それでよいと思うが、反対に、どうして、そうであっては、いけないのか?、ということに
もなる。

が、それでも、そのおかしさがわからないというのであれば、あのK国を見ればよい。K国で
は、金xxの敬称どころか、敬称を言うときのイントネーションをほんの少し言いまちがえただけ
で、政治犯として収容所に送られてしまうという。実際、そういうテレビキャスターが、過去にい
た。

 「陛下という敬称をつけろ」と迫る政府。しかし、その延長線上に、あのK国がある。戦前の日
本がある。それだけは、忘れてはいけない。

++++++++++++++++

ついでながら、「偉い」という
言葉について……。

それについて書いた原稿を、
ここに添付します。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++

【「偉い」という言葉を、廃語にしよう!】

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言う。よ
く似たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。

日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう
言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信
長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。

「信長は古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業
ができるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……? 
   
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ恐
怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生活
を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。

ひとつの例だが、由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」でも、事件の所在があいまいなま
ま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)安部川近くの小川は血で染
まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と書いている。

家康にしても、その後300年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の悪い事実は、こ
れまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた
自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが
地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心
のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。

「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人をめざす出世主義がは
びこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだしも、政治にそれが利用さ
れると、とんでもないことになる。

幼稚園を訪れ、そこで会った幼稚園児たちに、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらい
た。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 天皇
 天皇制 呼称について 敬称 敬語 偉人 偉人論 偉い人)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●文章

+++++++++++++++++

このところ、私の書く文章が、
ますますへたになったように感ずる。

リズムが、どうしてもつかめない。
そのため、あとで読みなおしてみると、
読みづらい。ぎこちない。

これはどうしたことか?

+++++++++++++++++

 文章の(よさ)は、つぎの3つで決まる。

(1)読みやすいこと。
(2)内容がわかりやすいこと。
(3)訴えたいことが、はっきりとしていること。

 さらに評論の世界では、(4)ものの考え方が、リベラルで、常識的であること。(5)より深い
内容であれば、さらによい。

 が、このところ、自分の書く文章が、ますますへたになったように感ずる。どうも、リズムがつ
かめない。それに自分の考え方が、どこか偏屈になってきた。それに浅い。

 理由のひとつに、頭の中で、思考の断片が、乱舞しやすくなったということがある。ひとつのこ
とを考えながらものを書いていると、別の考えが、あたかも蝶が空を舞うかのように、つぎつぎ
と、脳みその中に、飛来する(※)。

 それであっちを書き、こっちを書きとしているうちに、自分でも、わけがわからなくなってしま
う。(それに、誤字、脱字も、多くなった……。)

 これは多分に、脳の老化現象によるものなのか。

 そこで5年前、10年前に書いた自分の文章と、今、こうして書いている自分の文章と、読みく
らべてみる。

 で、最初に気がついたのは、最近、私の書く文が、長くなってきたということ。ときにひとつの
文が、60〜80文字以上になることがある。

 5年前の私だったら、先の(※)の部分でも、こう書いた。

 「ひとつのことに、自分を集中できなくなった。ひとつのことを考えていると、別の考えが、つぎ
つぎと、脳みその中に、飛来する。あたかも蝶が空を舞うかのように」と。

 が、何よりも深刻なのは、自分の書く文章が、偏屈になってきたということ。どこかゆがんでい
る。プラス、暗い。明るく、楽しい話題について書こうと思うのだが、何かにつけ、ものごとを、悪
いほうへ、悪いほうへと、考えてしまう。

 これはひょっとしたら、うつ病の初期症状か? ゾーッ!

 ともかくも、これではいけない。最近、マガジンの読者が、ほとんどふえないのも、ひょっとした
ら、こんなところにも原因があるのかもしれない。そういう意味では、文章も、絵画も似ている。

 読んで楽しい文章、見て楽しい絵画……そういうもののほうが、読む人や、見る人の心をとら
える。

 そう言えば、若いころ、学研の編集長をしていた、福島H氏という人が、こんなことを教えてく
れた。

 「林君、エッセーというのはね、まず相手を喜ばすように書くこと。それが90%。残りの10%
のうち、その半分の部分だけでも、自分の意見を書くことができれば、それで感謝しなければ
いけないよ」と。

 わかりやすく言えば、「あなたは、すばらしい」「あなたはすばらしい」と、まず書く。そして残り
の5〜10%の部分で、「でも、こうすれば、あなたはもっとすばらしくなれる」と、自分の意見を
書く。それがエッセーだ、と。

 いつの間にか、私は、その福島H氏の教えを、忘れてしまった。もう一度、初心にかえって、
自分の文章のあり方を、考えなおしてみよう。

*****************

読者のみなさんへ、

深く、反省しています。

これからも努力しますので、
よろしくお願いします。

******************

Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1331)

●親のレベル

++++++++++++

賢明な親もいれば、
そうでない親もいる。

子どもを伸ばそうと考えたら、
親も、子どもといっしょに、
伸びなければならない。

賢明な親というのは、
それが自然な形でできる親をいう。

++++++++++++

 「親」といっても、いろいろなレベルの人がいる。賢明な親もいれば、そうでない親もいる。

 昔、幼稚園で働いていたころのこと。こんなことがあった。

 ある子ども(年長児)が、掛け算の九九を、ソラで言うようになった。「ニニンが4、ニサンが6
……」と。多分、兄かだれかがいて、その兄を見ながら、九九を覚えてしまったらしい。

 その子どもを見て、ある親が、「あの子は、天才!」と騒ぎ出した。「幼稚園児なのに、もう掛
け算ができる!」と。

 しかし掛け算の九九をソラで言えるからといって、その子どもが、本当に掛け算を理解してい
るとはかぎらない。その子どもにとっては、歌のようなもの。しかしレベルの低い親は(失
礼!)、表面的な部分だけをみて、子どものレベル、さらには教育のレベルまで、自分で決め
てしまう。

 あるいは、こんなこともあった。

 あるとき、職員室へ、若い母親が飛びこんできた。そしていきなり、こう言った。

 「うちの子は、3年保育で、この幼稚園に入った。どうして2年保育で入った○○さんより、で
きが悪いのか!」と。つまり「3年保育で入園してきた自分の子どもが、2年保育で入園してき
た○○さんより、できが悪いのは、おかしい」と。

 その母親の子どもは、何かにつけて、できが悪かった(失礼!)。しかしその親は、自分ので
きの悪さには、気づいていなかった(失礼!)。

 ……とまあ、実は、こういうケースは、多い。幼稚園や保育園という世界では、日常茶飯事。
そういう話を見聞きするたびに、「幼稚園の先生も、たいへんだな」と思う。

 で、今では少なくなったが、当時は、子どもの能力を、テストの点数だけで判断する親がい
た。学校のテストでつけられる点数である。その点数を見て、一喜一憂するのはしかたないとし
ても、そのたびに、家の中で、大騒動。「勉強しろ!」「いやだ!」と。

 しかし親でも、小学3、4年生の問題を解けない人は、いくらでもいる。高校を出たあと、(勉
強)から遠ざかった人なら、みな、そうではないか。そういう親が、子どもを叱りながら、「どうし
てこんな問題が解けないの!」「何よ、この点数は!」と言うから、おかしい。

 (本当に、そういうことがあったぞ!)

 そこで私が、やんわりとその母親に、こう言った。「この問題は、むずかしいですよ。何なら、
一度、お母さん、あなたが解いてみたら、どうでしょう?」と。すると、その母親は、はにかみな
がら、こう言った。「私は、もう終わりましたから……」と。

 子どもを産むことで、親は親になる。しかし親になったからといって、別の人間になるわけで
はない。環境は変わるが、中身まで変わるわけではない。つまりその時点から、親は、今度
は、親になる努力をしなければならない。それを怠ると、名ばかりの親になってしまう。

 勉強にしても、しかり。

 ほとんどの親は、中学や高校で勉強したことは、そのまま頭の中に残っていると誤解してい
る。しかし実際には、卒業すると同時に、忘れていく。どんどんと忘れていく。英語の単語や、
算数の計算問題を、例にあげるまでもない。

 さらに分数の足し算、引き算のできない大学生となると、いまどき、珍しくもなんともない。

 そこで賢明な親と、そうでない親とは、どこがちがうかといえば、賢明な親ほど、子どもに対し
て謙虚。自分も子どもといっしょに、伸びようとする姿勢が見られる。

 が、そうでない親は、そうでない。「自分は絶対」という自己中心性ばかりが強い。目立つ。自
分の世界だけで、自分の子どもを判断しようとする。先にあげた、テストの点数だけで、子ども
の能力を判断する親も、そうである。

 どこをどうまちがえたか。どうしてまちがえたか。どこに弱点があるか。そういうことは、まった
く、みない。だからつぎにどうしたらよいのか、それを的確に判断することができない。その判
断ができないから、いきなり、子どもに向かって、「もっと、勉強しなさい!」となる。

 正直に告白するが、教育をする側の者の意欲、つまり教師としての意欲を引き出すのは、親
である。子どもではない。教師は、親を見て、「教えたい」と思うようになったり、「教えたくない」
と思うようになったりする。とくに、「教えたくない」と思うときは、そうである。親をみて、そう思う
ようになる。

 「こういう親の子どもは、教えたくない」と思うことは、しばしばある。親をみただけで、絶望感
を覚えるときもある。たがいの間に、あまりにも遠い距離感を覚えるからである。

 そうそう、たまたま、昨日も、そういうことがあった。

 教室にいると、電話がかかってきた。そして電話口の向こうで、その母親は、いきなり、こう言
った。

 「うちの子を、今度、SS小学校に入れたいのですが、お宅の塾へ入れていただけますか?」
「お宅では、どんなことを教えているのですか?」と。

 私が、「うちは、受験塾ではありませんので、どこかほかのところを当たってみてください」と言
うと、その母親は、「あら、そう」と言って、そのまま電話を切ってしまった。

 名前も言わない。あいさつもしない。おまけに、私の教室を、受験塾と誤解している。電話の
切り方も、ふつうではない。

 そういう母親の子どもは、私は、ぜったいに、教えたくない。その前に、そういう母親とは、つ
きあいたくない。時間のムダ。人生のムダ。

 ……と話が脱線したが、最後にこれだけは、気をつけた方がよい。

 あなたの子どもも、やがておとなになる。そのとき、あなたという親が、自分の子どもに何かを
示せれば、それでよし。しかしそうでなければ、あなたという親は、その時点で、容赦なく、あな
たの子どもによって、評価される。

 そのときのためにも、あなたという親は、親として、自分をみがいていかなければならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親論
 親のあり方 親のレベル)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●住空間

++++++++++++++++

日本の家は、狭い。
狭いだけではなく、個人を
分ける壁さえない。

こうした独特な住空間は、
当然のことながら、
子どもの心理にも、
大きな影響を与える。

+++++++++++++++++

 少し前、あるきっかけで、子どもの引きこもりに悩んでいる家庭を、訪問したことがある。その
子どもは、高校1年生ということだった。

 住所を頼りに、そのあたりをさがしてみると、そのマンションは、すぐ見つかった。白亜の殿堂
といった感じの、巨大なマンションだった。環境もよい。すぐ裏手には、公園があり、豊かな森
が、その公園を取り囲んでいた。

 「こんなところだったら、ぼくたちも住みたいね」と、私が言うと、ワイフも、「そうね」と。

 しかしその会話は、そこまで。玄関からエレベータに乗ると、雰囲気は一変した。その部屋に
入ると、さらに一変した。「狭い!」……それが私の第一印象だった。むっとするような圧迫感。
よどんだ空気。マンション独特の、どこかコンクリートくさい、独特の臭い。

 全体でも、12〜3坪もなかったのでは? 部屋はこまかく区切られていた。その子どもの部
屋は、一番通路側にあったが、4畳か、4畳半(?)。ベッドと学習机。あとは足の踏み場もない
ほど、ものが、散乱していた。

たまたまそのときは、いろいろ事情が重なって、その子どもは部屋にはいなかった。

 ……といっても、ここで、引きこもりについて、書くつもりはない。私は、そのマンションを見
て、改めてというか、日本の住空間の貧弱さを、思い知らされた。そのマンションには、夫婦2
人と、高校1年生の男の子、それに小学6年生の女の子の4人が住んでいた。

 オーストラリアやアメリカと比較するのもヤボなことだが、日本の住空間の狭さは、世界でも
有名である。かつて「うさぎ小屋」と評した、フランス人のジャーナリストがいた。台湾や韓国と
比較しても、ひょっとしたら、日本の住空間のほうが、狭いのではないか。いや、住空間だけで
はない。プライバシーの保護という観点からしても、日本には、そういう概念そのものが、希
薄。ない。

 かく言う私も、高校生になるまで、自分の部屋など、なかった。兄と姉がいたが、それまでは、
6〜7畳の部屋で、いっしょに寝ていた。そのころとくらべると、日本もずいぶんと変わったが、
しかし、とてもじゅうぶんとは言えない。

 たとえばオーストラリアでは、子どもが高校生くらいになると、別棟(別棟だぞ!)に住むケー
スが、多い。レイ君という友人がいたが、彼は庭の端にあるバンガローで、ひとりで生活してい
た。ボブ君という友人は、家から100メートル以上は離れた別宅に住んでいた。

 アメリカでは、それがさらに広くなる。広くなるというか、あまりにも広すぎて、日本の感覚で
は、理解できないときがある。日本の平均的な家の、2〜3倍もあるような大きな家に住みなが
ら、「狭い」と言ったりする。子どもがいる家庭では、なおさらである。

 ただ、映画などで見ていると、それほど広く感じないのは、ひとつには、天井が高いということ
がある。つぎに生活のスケールそのものが、大きい。ベッドにしても、むこうでいうシングルベッ
トにしても、日本のダブルベッドほどの大きさがある。

 もちろん廊下も広い。階段も広い。それに傾斜もゆるい。

 そうそう二男の嫁(アメリカ人)が、我が家に来たとき、我が家の階段を「こわい」と言った。
「そういうものかなあ?」とは思ったが、どうやら、そういうものらしい。で、寝室を、急きょ、2階
から1階へと移してやった。そんなことがあった。

 で、最初の話にもどるが、私はそのあまりにも狭いマンションを見ながら、「これじゃあ、子ど
もも息を抜けないな」と感じた。マンションのどこにいても、親の視線や息づかいを感じてしま
う。「引きこもりになってもしかたない」とまでは思わなかったが、しかし一度、そういう状態にな
ってしまったら、どうしようもないのではないか。

 狭い部屋に入って、中からかぎをかければ、そこは独房のようなもの。

 親たちは、「どうしたらいいでしょうか?」「なおるでしょうか?」と言っていたが、もちろん私
は、住空間については、何も言わなかった。その人たちはその人たちで、精一杯の生活をして
いる。「できれば、もっと、広いところに住んだ方がいい」とは、思ったが、それも言わなかった。

 見た目には、すばらしいマンションである。「マンション」というのは、「邸宅」という意味であ
る。しかし「邸宅」とは、名ばかり(失礼!)。そのマンションには、いろいろな問題がある。私と
ワイフは、そんなことを考えながら、その場を去った。

(付記)

 浜松市の郊外の町へ行くと、昔ながらの街道が、そのまま残っているところがある。狭い道
に、民家が、ぎっしりと並んでいる。間口は、3〜4間ほど。奥行きも、それくらい。

 日本人にとって、「住空間」というのは、基本的には、そのサイズをいう。

 ここにも書いたように、私も、子どものころ、そういう住環境の中で育った。だから、はじめて
オーストラリアへ渡ったとき、その(広さ)に、度肝を抜かれた。

 が、やがて、その(広さ)が、プライバシーの問題だけではなく、親子関係、さらには、家族どう
しの意識にまで、大きな影響を与えているのを知った。

 簡単に言えば、日本では、親子の密着度、つまり相互依存性、もっとわかりやすく言えば、ベ
タベタ度が、オーストラリアとは比較にならないほど、強い。またそうならざるをえない家庭環境
で、みな、育っている。

 そしてそれが回りまわって、日本独特の文化というか、家族意識をつくりあげている。私がよ
く書く、「親絶対教」というのも、そういう文化を背景にして生まれたものと考えてよい。

 ……日本に生まれ、日本の中だけで育ち、世界を知らない人には、それはわからないかもし
れないが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 住環
境 子供と住環境 住環境が与える心理的影響)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(6月10日)

●Hが、心情を吐露(?)

 秋田県で、男子児童を殺害した、Hという女が、弁護士に、いろいろ話しているらしい。

 「(その男の子を見たら)切なくなって、思いあまって殺してしまった」「(男の子の)両親には、
手を合わせて、あやまりたい」(弁護士の記者会見)とか、など。

 つまり殺害にいたる動機というか、心情を、あれこれ詳しく話しているらしい。しかし……、こ
の話には、待ったア!

 こうした心情を話すということ自体、極刑をまぬがれるための、カモフラージュではないの
か? どうも、あやしい。どうも、クサい。

 Hという女は、逮捕される寸前まで、ああまでシクシクと、自分の無実を訴えていた。娘をなく
した母親を、みごとなほどまでに演じていた。その悲しみを織り交ぜながら、「そんな私が、そん
なことをするはずがない」というようなことを言っていた。そんな女が、突然、「謝罪したい」だと
オ? 白々しいにも、ほどがある!

だいたい、いくら自分の子どもをなくしたからといって、それで切なくなって、他人の子どもを殺
すような親が、いるだろうか。

 漏れ伝わってくる報道をみると、証拠をつきつけられるまで、そのHという女は、自分のしたこ
とを認めなかったという。俗な言い方をすれば、かなり、(したたかな女)ということになる。

 どこか不自然。一貫性が、ない。

 だれに殺されたとは言わないが、その母親の娘も、殺されているとみるのが、自然である。
警察は、事件と事故の両面で、今も、捜査中だという。事件であるとするなら、その犯人も、や
がてわかるはず。

(追記)

 6月11日の中日新聞朝刊の記事によれば、警察も、私と同じような見方をしているのがわか
った。

(1)ストーリーができすぎている。
(2)部屋の中で、G君を殺したというが、靴下には、ウサギの毛がついていない。
(3)Hという女は、軍手は、雪かき用のものだというが、雪かきには、軍手は、使わない。
(4)Hという女が、雪かきをしているのを、近所の人は見たことがないと証言。
(5)取調べ中でも、証拠をつきつけられるまで、ウソばかりついていた。「涙の告白」(記事)を
したからといって、すべてを信用することはできない、と。

(補記)

 私自身も、ウソは大嫌い。これは自分が子どものころ、ウソつきだったことによる、反動形成
かもしれない。「私」というより、私を包む環境が、ウソのかたまりのような世界だった。それで
私も、いつしか、ウソが当たり前のような人間になってしまった。

 だから他人のウソが、簡単に見破れるようになった。と、同時に、ウソをつく人間とは、それ
がたった一度でも、それ以後、つきあわないようにしている。

 ありのままを正直にさらけ出して生きる……それは、よき人間関係をつくる上において、とて
も重要なことだと思う。 


●ワイフの誕生日

 今日は、ワイフの誕生日。とくにどうということはないのだが、しかし何か、落ちつかない。何
かをしてやらねばならないのだが、アイディアがわいてこない。

 今日は午後から、客がくる。夕食をいっしょに食べることになっている。まさかその席で、誕生
日パーティをするというわけにもいかない。

 客が帰ったら、長男と3人で、誕生日パーティをするつもり。

 そうそう昨日、その長男が、「父の日」のカードをくれた。「パパ、ありがとう。ぼくもできるだ
け、がんばってみる」と、書いてあった。うれしかった。

 目下、長男は、再度、専門学校に通い始めている。「もう一度、最初からやりなおしたい」とい
うことで、そうなった。

 その長男が、この2か月、土日も部屋に閉じこもって、勉強している。毎晩、12時過ぎまで、
勉強している。来週、国家試験があるという。その準備らしい。

 「あいつが、あんなふうに勉強しているのを見たのは、はじめてだ」と私が言うと、ワイフも、
「私も、そう」と。

 そういう点では、長男も二男も、心が繊細(せんさい)。それにくらべると、三男は、まったく無
頓着。無神経。いまだかって、私やワイフの誕生日に、カードなど、送ってくれたこともない。自
由気ままというか、自由奔放というか……。

 今朝、起きたとき、「何がほしい?」と聞いたのだが、ワイフは、「別に……」と。

 これから近くのケーキ屋まで行って、ケーキを買ってくるつもり。「プレゼントに、ビデオカメラ
を買ってあげようか?」と言うと、「あなたがほしんじゃなア〜イ?」と。

 そう、私がほしい。今、ねらっているのは、P社のブレ防止つきの、ビデオカメラ。昨年の10
月の製品とかで、今は、7万円前後で売っている。買うなら、今なのだが……。

 しかし今は、株価も、大暴落! しばらく持ち株は、塩漬け。だから高価なものは、買わない。
買えない。

 ……とまあ、とりとめのないことを書いて、今朝の日記は、おしまい。

 ところで、今日は、寒い! 

6月10日、午前10時40分記。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1332)

特集【子どもの心】

++++++++++++++++++++++

わがままを言っては、親を困らせる。
このところ、学校へも行っていない。

そんな子どもで悩んでいる、NBさんという
方から、相談がありました。

++++++++++++++++++++++

【NBさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、お忙しいところ長文で失礼します。

万引きをしたあと、ぎくしゃくした息子(小学3年生)との関係のことで、相談したことのあるW市
(T県)のNBです。ブログにもご回答いただきました。ありがとうございました。今回はその後、
学校を休んでいる息子のことで、相談します。お時間がある時に、ご意見いただきたく思いま
す。

息子の現状についてどう考えればいいのでしょう。先生のおっしゃった通り、もう万引きはして
いません。お金の管理も厳重にしているので、盗まれるということもありません。

ただ、公園に友達と行くとウソをついて、前のお金の残りで、コンビニでカードを買ったりしたこ
とが2度ほどありました。5月23日から休み始め、9日ぶりに、今週の月曜に(授業はなく校外
学習でしたが)、行き、また今週いっぱい休む、というような状態です。

月曜の登校は本人が決めて行きました。いろいろ読ませていただき、学校恐怖症というのでは
なく怠学というのでしょうか、まあ呼び名よりも息子の心の中が問題なわけで。万引きやそれを
問いただした時の息子のパニック(泣き叫び万引きを認めずウソで終始)が、私達にとって大
変ショックでした。

そのため当初から、「行きたくなければいいよ」「行かなくてもいいよ」というような言い方で、対
応しています。担任の先生もゆっくり見守る姿勢を示して下さるので、夫も私も今は本当に見
守る気持ちでいます。

振り返れば、何年も前から問題行動が時折あり、それをきちんと気づいてあげられなかった私
たちに、原因があります。私への絶対的な安心感を得られないまま、外でも緊張状態のまま過
ごしていたのが、ここにきて万引きや不登校という形で爆発したと考えています。

今は学校が終わる時間までは、たいてい家にいて、(私の外出は、まだ認めてくれません)、ゲ
ームや読書で過ごし、ほとんどゲームばかりしています。家事を終えてから一緒に遊んだり、
時々、買い物に行ったりしています。皆が学校から帰ってくると、頻度は減ってきましたが、
(「どうして休んでるの?」と、聞かれる友達とは遊ばなくなりましたが)、友達に電話して、遊び
に行ったりしています。

「今はちょうど給食の時間だ」とか自分から言ったり、「来週からは学校へ行く」などと言うことも
あります。本人は、内心では、学校へは行かなければとは思っているようです。

宿題などには全く関心ないようです。新聞を取ってくるとか、金魚のえさをやるとかの手伝いも
全くやる気なしです。池で釣ったザリガニを持ち帰り、世話をせず、2匹とも死なせてしまいまし
た。平気な顔をしています。

それでも私と二人の時はそれなりに穏やかにすごしているのですが、(以前のように口やかま
しく言わないですが)、途方にくれてしまうのは、夫と三人でいる時です。延々と遊びたがるので
す。特に三人で遊びたがります。このひと月で、ますますこだわりが強くなったようです。

外で遊べば、とっぷり暗くなるまで帰らない、家では寝ないで遊びたがる。11時くらいまでは、
ゲームか他の遊びをすることになります。それも少しずつ、時間帯が遅くなってきました。

「帰ろう」「寝よう」と言うと、機嫌が悪くなり、時には怒り出します。せっかく楽しんでいたのに、
いつも、最後は怒るか泣くかで終わるわけです。夜は怒り出すと、その時、胸にある不満をぶ
ちまけ暴れることもあります。ソファをけったりクッションを投げたり壁をたたいたり。

今の最大の不満は、今週末、お父さんが土曜は仕事、日曜は結婚式で家にいない、ということ
です。前の日曜の夜はこのことを言い出して2時間以上もぐずり、収まったのは、夜中の2時を
過ぎていました。

そのような時はお父さんや私が抱きしめようとしても、「やめて」と言って、怒ります。以前はそう
ではなかったのですが。絶対に式になんか行くなとか、会社や、式をあげる人を罵るような言
葉も、次々に出てきたりします。それを聞いていると、私などは最初悲しく、だんだん腹がたっ
てきてしまいます。

夫には、怒るような口調で「うるさいなあ」と言って、目でたしなめられます。私は本当にこらえ
性がないです。夫は悲しげですが、でも冷静ですね。決してきつく言うことはない。興奮して泣
いている時は、夜中でも、子どもの面倒をみています。

自分の子であって自分の子でないような気分になってしまい、そう感じる自分にも嫌悪したりし
ます。「これでもか」「これでもか」と、息子に要求されているような感じです。夫もそう感じている
らしいですが、三人いるときほど、息子がきつくなるのはどういうことなんでしょう。

万引きをした時に夫が始めてお尻をたたいて、本当に初めて、大きな声で叱ったのが関係して
いるのでしょうか。夜は、ほおっておいて寝る、というわけにも行かず、寝不足の日々です。

寝るときはもちろん川の字で。

学校の先生は今の甘えている状態を、「(幼児期の)忘れ物を取りにいってるんですね」と表現
されました。9年間の忘れ物が1ヶ月やそこらで取り戻せるとは思ってはいませんし、数ヶ月単
位で様子を見なければならないんですね。

なのに、本当に今はこれでいいのだろうか?、どう推移するのだろうと、明るくゲームに興じて
いる様をみていると不安になります。

「お母さんはいつも太陽でいてください」と言われているのですが、実は人に会うのも少し、おっ
くうになってきた、今日、このごろです。


【はやし浩司より、NBさんへ】

 息子さんは、(絶対的な安心感)が得られず、いつも、不安な状態にあると考えてください。つ
まり心は、いつも緊張状態にあるとみます。絶対的な安心感というのは、「疑いすらもたない」と
いう意味です。心理学で言えば、あなたと息子さんの関係は、「基本的不信関係」ということに
なります。

 で、NBさんは、何とか、息子さんに安心感を与えようと努力していますが、残念ながら、息子
さんは、あなたの心の奥まで、読んでしまっています。あなた自身が、子育てをしながら、不安
でならない。つまり絶対的な安心感を覚えていないため、それを息子さんは、感じ取ってしまっ
ているわけです。

 つまりあなたは、「不安だ」「心配だ」と思っている。それがそのまま息子さんに伝わってしまっ
ているというわけです。

 こういうケースでは、『あきらめは、悟りの境地』という格言が、役にたつと思います。「うちの
息子は、こうなんだ」と、あきらめて、受け入れてしまうということです。「ほかの子とは、ちがう」
「このままでは、心配だ」「どうすればいいんだろう」と、悩んでいる間は、決して、安穏たる日々
はやってきません。息子さんにしても、そうです。

 もちろん原因は、息子さんが生まれたとき、息子さんを、全幅に受け入れなかったあなた自
身にあります。が、今さら、それをどうこう悩んでも、しかたのないことです。

 ただこうした子どもの心の問題には、二番底、さらには、三番底があります。形としては、つま
り、症状としては、(家庭内暴力)に似ています。息子さんが、まだ小さいため、NBさんの管理
下というか、コントロール下にありますが、息子さんが、小学校の高学年児、あるいは、中高校
生だとしたら、こうは、簡単には、片づかないはずです。

 私はドクターではないので、これ以上のことは書けませんが、もし今のようなはげしい不安状
態、混乱状態、さらには緊張状態がつづくようなら、一度、心療内科のドクターに相談なさって
みられたらよいでしょう。そのとき、NBさんが、私にくれたメールなどを、ドクターに読んでもらう
とよいでしょう。

 今では、すぐれた薬も開発されています。それによって、息子さんが見せている、一連の(こ
だわり)症状も、軽減するはずです。

 家庭では、(1)求めてきたときが、与え時と考えて、スキンシップなど、そのつど、子どもをす
かさず抱いてあげたりします。が、やりすぎてはいけません。そこで大切なことは、(2)暖かい
無視です。無視すべきところは、無視しながら、子ども自身の自由な時間には、干渉しないよう
にします。

 不登校については、学校恐怖症というよりは、怠学に近いと思われます。子どもの言葉に一
喜一憂したり、振りまわされたりしないように、注意してください。このタイプの子どもの(約束ご
と)には、意味がありません。意味がないというより、子ども自身、自分をコントロールできない
でいるのです。

 で、今度は、NBさん側の問題ですが、お気持ちはわかりますが、全体的に過関心かな…
…?、という印象をもっています。すべてが、子ども中心に動いてしまっている(?)。すべてが
子どもに集中しすぎているといった感じです。状況としては、しかたないのかもしれませんが、
そのため、NBさん自身が、育児ノイローゼの一歩手前にいるようにも思います。

 不登校については、今の状況では、すぐには改善しないと思います。NBさんが言っているよ
うに、どうか、数か月〜半年単位で、考えてみてください。この問題は、根が深いということ。コ
ツは、「なおそう」とは思わないこと。「今の状況をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処す
る」です。

 消極的な対処法にみえるかもしれませんが、無理をすれば、ここでいう二番底、さらには三
番底へと、子どもが、落ちていきます。今はまだ何とかなりますが、子どもの体が大きくなった
り、腕力がついてくると、そうはいかなくなるということです。

 たまたま別の方から、同じような相談が届いていますので、どうか、参考にしてみてください。
よろしくお願いします。

●掲示板への書きこみから

++++++++++++++++++++++

NBさんから、相談のメールをもらった同じ日、
掲示板にこんな書きこみがあった。

小学2年生の、Mさん(女児)についてのもの
だった。

++++++++++++++++++++++

【掲示板への相談より……】

教員ではありませんが、小学校で子どもと関わる仕事をしています。教員免許は持っていま
す。

お手伝い先生のような仕事です。大卒後、企業で8年間、勤務し、退職後、初めての職場。初
めての教育の現場です。詳しく書くことができなく、申し訳ありません。不適切なら削除してくだ
さい。

現在、ある小2女子児童の担当になっています。(Mさんとしておきます。)・・・と言っても、日替
わりで上から指示されるので、とても不安定です。

Mさんは両親が離婚したあと、4月中旬に転校してきました。前の学校では不登校。現在は毎
日来ていますが、徐々に完全に保健室登校になってきています。

毎朝お母さんが送ってきますが、子どもがお母さんから離れられません。お母さんは、Mさん
を、車からぽーんと出し、バン!と閉めて、そのまま帰ってしまいます。そこでMさんは、泣き叫
び後を追いかけます。

道路でMさんを出すのは危険なのでというような指導が、学校側からあったようです。それから
は、お母さんは、Mさんを、学校の中まで中まで送ってきます。が、送ってくると、Mさんは、抱
きついたままお母さんの髪をぎゅーっとつかんで離しません。

そのとき、お母さんの靴を隠す、持ち物を隠す、取り合いになったりすることもあります。転んだ
すきに、お母さんは逃げるように、振り返らず去っていきます。

そのあとも、切れ端(ゴミのようなもの)を握り締め、「ママ・・・」と、しくしく泣き、「それどうする
の?」と聞くと、「お守りだから・・・」と。それを聞くと、胸が張り裂けそうになります。

私にはこの子を抱きしめる事しかできません。背中をさすって、「そう、そう、つらかったんだ
ね」と、沢山聞いてあげる事しかできません。担任からはくわしく話を聞かせてもらうこともあり
ません。でも一応、Mさんの担当なのです。

学校の担任の先生は、「早く教室に入りなさい」と言うだけです。クラスの児童からは、常に、
「この学校は、○○なんだぞ!」とか、「○○ちゃんがきたから、席が替わったじゃない!」と言
われ、みなは、どこかMさんをじゃまにしているような雰囲気です。

私がMさんの担当になる前は、誰も付いていなかったので、たとえば教室前でもじもじしている
と、担任(女性)から腕をつかまれ、引きずられるように入れられていたそうです。

Mさんが、抵抗すると、担任は、お腹をつねっていたようです。そしてとうとう教室を見ただけで
吐き気が起こすようになったり、担任を見ると逃げたり、隠れたり、さらには、クラスの児童を見
ると、「恐い・・・」と消えそうな声で、つぶやくようになってしまいました。

「恐い」にしても、初めの段階では、「集団が恐い」と言っていました。が、最近ではクラスの児
童に限定されてきたようです。優しい子もふくめて、どの子も恐がっているようです。

時限ごとに、Mさんが、「教室へ行ってみる・・・でも無理だったら戻ってもいい?」と言うので、
一緒について行くと、やはり、「恐い・・・やっぱりダメ」という感じです。

また、学校の対応もバラバラです。「今日は1日、この部屋で2人でいていいですよ」というの
で、それなりにおたがいに楽しそうに、じゃあ、今、国語だから漢字ドリルしようか、というような
調子でやっていると、ガラっ!と、突然開いて、知らない先生が「次! 図工だよ! 行け
る!?」と、Mさんのランドセルを持って行ってしまうのです。

子どもは一気に緊張した顔で、条件反射的に、「はい」と答え、部屋を出る。が、やはり行けな
い。そこでその先生が、「はいって言ったじゃない、どうしていけないの?」となじったりしま
す・・・・。と、思ったらまた急に他の先生が入ってきて、保健室にいてもいいですよ。いつ来ても
いいですよー、と言う始末。

はやし先生。これでこの子はどうなってしまうのでしょう。「ママ、バイバイしないで行っちゃった
ー」と泣くことから1日が始まり、クルクルと周りの指導が変わり、(私も規則で12時までしかい
っしょに、いられません)、Mさんにしてみれば、親に裏切られ、先生に裏切られ、友達も・・・と
いうような状況ですよね。

お母さんの話をするときは、赤ちゃん言葉です。以前、過呼吸に近い状態になり驚きました。
最近、混乱してくると頭を、自分で、げんこつでボカボカと自分で殴ります。見ていて恐いくらい
です。

本人の話しによると、以前は、お父さんの実家で同居していたそうです。いとこ(中学生)たちも
いたようで、よく殴られたと言います。

そして現在、お母さんにはお友達がいて、私の話ををちっとも聞いてくれない。お友達は男性
で、毎日のように泊まっていくとのこと。

また、反対にMさんのお母さんからの話しでは、家ではまったく甘えない。そんなそぶりさえ見
せない。学校でこんなに離れないなんてウソみたい。帰ったら遊ぶ約束をしてやっているのに、
宿題が終わらないから泣いてばかりで、遊べない、ということです。
(高知県在住・KUより)

【KU先生へ、はやし浩司より】

 掲示板の記事を読んで、その内容が、最近経験した、Z君(中2男子)と、あまりにも酷似して
いるので、驚きました。

 Z君は、乳幼児のときから、母親の冷淡、無視、育児放棄を経験しています。母親は、「生ま
れつき、そうだ」と言いますが、Z君は、見るからに弱々しい感じがします。全体に、幼く見え、
言動も幼稚ぽく、その年齢にふさわしい人格の核(コア・アイデンティティ)の確立がみられませ
ん。

 はきがなく、追従的で、いつも他人の同情をかうような行動をします。かなり強烈なマイナス
のストロークが、働いているようで、何をしても、「ぼくはできない」「ぼくはだめな人間」と言いま
す。

 ほかの子どもたちのいじめの対象にもなっています。母親は、そういうZ君を「かわいい」「か
わいい」とでき愛していますが、その実、Z君を、外へ出したがりません。「外へ出すと、みなに
いじめられるから」を理由にしています。典型的な、代償的過保護ママです。

 特徴としては、つぎのようなことがあります。思い浮かんだまま、並べてみます。

(1)自己管理能力がない……薬箱のドリンク剤を一日で、全部(10本ほど)、飲んでしまう。そ
のため、ますます母親に強く叱られる。届け物に買ってきた、菓子などを、勝手に封をあけて、
食べてしまったこともある。

(2)特定のものに、強くこだわる……カードゲームのカードをたいへん大切にしている。それを
毎日、戸棚から出し、また並べなおしたりしている。下に、6歳離れた弟がいるが、弟がそのカ
ードに触れただけで、パニック状態(オドオドとして、混乱状態)になる。

(3)時刻にこだわる……片時も腕時計を身からはなさず、いつも、時計ばかり見ている。行動
も、数分単位で、正確。朝、目をさましても、その時刻(6時半)がくるまで、床の中でじっと待っ
ている。そのときも、時計ばかり、見ている。メガネをかけているが、寝るときでさえも、かけた
まま。

(4)衝動的な自傷行為……ときどき、壁に頭をうちつけたりする。あるいは、ものを、壁にぶつ
けて、壊してしまう。ラジカセが思うようにならなかったときも、かんしゃく発作を起こして、こわし
てしまったこともある。が、満足しているときは、借りてきた猫の子のようにおとなしく、おだやか
だが、ふとしたことで急変。二階へつづく階段から、大の字のまま、下へ飛び降りたこともあ
る。現在、前歯が2本、欠損しているが、自傷行為のために、そうなったと考えられる。

(5)異常なまでの依存性……独特の言い方をする。おなかがすいたときも、「〜〜を食べた
い」というような言い方をしない。「〜〜君は、何も食べなかったから、死んでしまった」「ぼくは、
10日くらいだったら、何も食べなくても、平気」などと言ったりする。自主的な行動ができず、他
人の同情をかいながら、全体に、何かをしてもらうといった生活態度が目につく。

(6)幼児がえり……しばらく話しあって、打ち解けあうと、とたんに、幼児言葉になる。年齢的に
は、4〜5歳くらいの話し方をする。「ママが、ぼくを、たたいた」「○○さん(Z君の叔母)が、ぼく
をバカにした」と。

 母親は、仮面型タイプの人間で、私のような他人の前では、きわめて穏やか。始終、やさしそ
うな笑みを浮かべて、さもZ君を心底、思いやっているというようなフリをします。私が会ったと
きも、母親は、Z君の背中を、さすりながら、「元気を出そうね」と言っていました。

 このZ君というより、Z君の母親について、問題点をあげたら、キリがありません。代償的過保
護のほか、代理ミュンヒハウゼン症候群、虐待、基本的不信関係、仮面型人間、ペルソナ…
…。

 これらの原稿については、このあとに添付しておきますので、どうか、参考にしてください。

 で、私もこうした事例に、よく出会います。そしてそのつど、(限界)というか、(無力感)を味わ
います。ここにあげたZ君にしても、最終的に、私が預かるという覚悟ができれば、話は別です
が、そうでなければ、結局は、母親に任すしかないということになります。

 またこういう母親にかぎって、私のようなものの話を聞きません。何かを説明しようとすると、
ここにも書いたように、「生まれつきそうだ」とか、「遺伝だ」とか、さらには、「父親(夫)が、ひど
いことをしたからだ」と、他人のせいにします。

 ものの考え方が、きわめて自己中心的なのが、特徴です。もっと言えば、自分の子どもを、モ
ノ、あるいは奴隷かペットのように考えています。ひとりの人間として、みていません。

 で、30代のころは、そういう子どもばかり預かって、四苦八苦したことがあります。夜中中、
車で、走り回ったこともあります。しかしその結果たどりついたのが、「10%のニヒリズム」とい
う考え方です。

 若いころ、どこかの教師が、何かの会議で教えてくれた言葉です。

 決して、全力投球はしない。90%は、その子どものために働いても、残りの10%は、自分の
ためにとっておくという考え方です。そうでないと、身も心も、ズタズタにされてしまいます。今の
KU先生、あなたが、そうかもしれません。

 が、ご心配なく。もっと複雑で、深刻なケースを、たくさんみてきましたが、子どもは子どもで、
ちゃんと、大きくなっていくものです。もちろん心に大きなキズを残しますが、そのキズをもった
まま、おとなになっていきます。が、やがて自分で、それを克服していきます。つまりそういう人
間が本来的にもつ(力)を信じて、やるべきことはやりながらも、子どもに任すところは、任す。

 あとは、時間が解決してくれます。

 で、Mさんは、明らかに、分離不安ですね。心はいつも緊張状態にあって、その緊張状態か
ら解放されないでいるとみます。家庭の中でも、心が休まることがないのでしょう。一応、母親
の前では、(いい子?)でいるのでしょうが、それは、本来のMさんの姿でないことは、確かなよ
うです。

 (いい子?)でいることで、母親の愛情を取り戻そうとしているのです。私がときどき書く、「悲
しいピエロ」タイプの子どもというのは、このタイプの子どもをいいます。

 が、肝心の母親は、それに気づいていない。つまりここにこの種の問題の悲劇性がありま
す。

 また閉ざされた子どもの心を開くことは、容易なことではありません。1年や2年は、かかるか
もしれません。ちょっとしたことで、また閉じてしまう。この繰りかえしです。しかしあきらめては
いけません。ただ、このタイプの子どもは、いろいろな方法で、あなたの心を試すような行動に
出てくることがあります。

 急にわがままを言ってみたり、乱暴な行動に出てみたりする、など。こちらの限界を見極めな
がら、ギリギリのことをしてくるのが、特徴です。で、そういうときは、まさに根競べ。とことん根
競べをします。子どもの方があきらめて手を引くまで、根競べをします。

 「私はどんなことがあっても、あなたを見放しませんからね」と。

 それに納得したとき、子どもははじめて、あなたに対して心を開きます。

 幸いなことに、Mさんは、あなたというすばらしい先生に、出会うことができました。何が大切
かといって、あなたの今の(思い)ほど、大切なものは、ありません。その(思い)が、あなたとM
さんの絆(きずな)、あるいはMさんの心を支えるゆいいつの柱になっていると思います。

 ところで私は、最近、はじめて、ADHD児の指導を断りました。今までは、むしろそういう子ど
もほど、求めて教えてきたようなところがあります。

 しかし体力の限界だけは、もうどうしようありません。1〜2時間、接しただけで、ものすごい
疲労感を覚えるようになりました。それで断りました。

 そのとき感じた、敗北感というか、虚脱感には、ものすごいものがありました。悶々とした気
持ちで、数日を過ごしました。

 しかしあなたは、まだ若いし、いくらでも、そういう仕事ができます。どうかあきらめないで、が
んばってください。

 繰りかえしますが、あなたのような先生に出会えたことは、Mさんにとっては、本当に幸いなこ
とです。Mさんにかわって、喜んでいます。どうか、どうか、がんばってください。応援します。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。

( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。

( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。

( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。

( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。

( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償
的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親が見せる一連の症候
を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ミュン
ヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母親)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●基本的信頼関係

信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。

絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」と
いう意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。

 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友
人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信
頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。

 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関
係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた
不安を、「基底不安」という。

 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいて
も、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる
部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこ
と、親子関係においても、である。

 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしや
すくなる。

●基底不安

 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や
心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親
は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になって
も、「それは子どものため」と思いこむ。

 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。

 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした
生きザマをするようになるということ。

 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは
「世代伝播(でんぱ)」という。

 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そん
な先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説
得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。
(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)


●人間関係を結べない子ども(人)

人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地の
よい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。

(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地
のよい環境をつくろうとする。
(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとす
る。
(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境を
つくろうとする。
(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同
情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に
対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対し
て攻撃的になる)に分けられる。

 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタ
イプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、
居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。

●子どもの仮面

 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。

 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手を
キズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相
手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。

 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一
方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗
談と、割り切ることができない。

 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶる
ようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、
独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。

 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ど
も」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようにな
る。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑って
みせるなど。

 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。
さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」
とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。

一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。い
やなときはいやな顔をする。

たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子
どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」
がなく、実際には教えやすい。

いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またそ
の分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。

 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさ
む、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子
どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとた
ん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様
子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かさ
れているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」というこ
とになる。

 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えると
わかりやすい。

●仮面をかぶる子どもたち

 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい
世界をつくろうとする。

 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、
いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答え
のしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。

先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」
子ども「警察に届けます」
先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」
子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。

 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。

先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」
子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」
先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」
子ども「やったこと、ネーヨ」と。

 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。

●心の葛藤

 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえ
すようになる。

 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。

 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった」と。

 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相
当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。

一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張す
ると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結
果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。

こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子ど
ものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変
調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。

 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな
神経症による症状を、引き起こす。

●神経症から、心の問題

ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れ
た状態を、「神経症」という。

子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)
は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。

(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないも
のに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。

●たとえば不登校

こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。

しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい
花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。

(3)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。

ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たい
ていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。

(4)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。

この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おのの
く)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じが
するため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうこ
とが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ
友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなこと
を、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二
日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか

 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をと
るかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理
をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

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【参考】

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによ
ることが多い。

ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない
ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて
すむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。

親にすれば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返してい
るうちに、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。

(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、
子どもの様子をみる。

(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈をもてあまし、身をもてあ
ますまで、何も言わない、何もしないこと。

(4)生活態度(部屋や服装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とく
に子どもが引きこもる様子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部
屋の掃除をする親もいるが、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。

●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……45%
教師との関係   ……21%
クラブ・部活動  ……17%
転校などでなじめず……14%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

+++++++++++++++++ 

●自己診断

 子育てにおいて、母子関係の重要性については、今さら、改めて言うまでもない。そしてその
中でも、母子の間で構築される「基本的信頼関係」が、その後、その子ども(人)の人間関係の
みならず、生きザマにも、決定的な影響を与える。まさに「基本的」と言う意味は、そこにある。

 そこで子どもの問題もさることながら、親である、あなた自身が、その基本的信頼関係を構築
しているかどうかを、一度、疑ってみるとよい。

 あなたは自分の子どものときから、いつも自分をさらけ出していただろうか。またさらけ出す
ことができたただろうか。もしつぎのような項目に、三〜五個以上、当てはまるなら、ここに書い
たことを参考に、一度、自分の心を、冷静に見つめてみるとよい。

 それはあなた自身のためでもあるし、あなたの子どものためでもある。

○子どものころから、人づきあいが苦手。遠足でも、運動会でも、みなのように楽しむことがで
きなかった。今も、同窓会などに出ても、よく気疲れを起こす。

○他人に対して気をつかうことが多く、敬語を使うことが多い。気を許さない分だけ、よそよそし
くつきあうことが多い。

○ひとりで、静かに部屋の中に閉じこもっているほうが、気が楽だったが、ときどきさみしくなっ
て、孤独に耐えられないこともあった。

○いつも他人の目を気にしていたように思う。そして外の世界では、いい子ぶることが多かっ
た。無理をして、精神疲労を起こすことも、多い。

○夫(妻)や子どもにさえ、自分の心を許さないときがある。過去の話や、実家の話でも、恥ず
かしいと思うことは、話すことができない。

○言いたいことがあっても、がまんすることが多い。その反面、他人の言った言葉が、気にな
り、それでキズつくことが多い。

○自分は、どこかひねくれていると思う。他人の言葉のウラを考えたり、ねたんだり、嫉妬(しっ
と)することが多い。

○子どものころから、親に対しても、言いたいことが言えなかった。どこか遠慮していた。親や
先生に気に入られることばかりを、考えていた。

●勇気を出して、自分をさらけ出してみよう!

 もしあなたがここでいう「信頼関係」に問題がある人(親)なら、勇気を出して、自分をさらけ出
してみよう。

 まず、手はじめに、あなたの夫(妻)に対して、それをしてみるとよい。言いたいことを言う。し
たいことをする。身も心も、素っ裸になって、体当たりで、ぶつかってみる。何も、セックスだけ
が、さらけ出しということにはならないが、夫婦であることの特権は、このセックスにある。

 そのとき大切なことは、自分をさらけ出すのと同時に、夫(妻)の、どんなさらけ出しにも、寛
容であること。つまり受入れること。「おかしい……」とか、「変態とか……」とか、そういうふうに
考えてはいけない。

 あるがままを、あるがままに受入れて、あなたがた夫婦だけの問題として、処理すればよい。

 で、こうした夫婦の絆(きずな)を、伸ばす形で、つぎに精神面でのさらけ出しをする。思った
ことを話し、考えたことを伝える。

 これは私のばあいだが、私は、ある時期まで、講演をするたびに、ものすごい疲労感を覚え
た。そのつど、聖人ぶったりしたからだ。自分を飾ったり、つくったりしたこともある。

 しかしそれでは、聞きに来てくれた人の心をつかむことはできない。役にもたたない。

 そこでは私は、講演をしながら、その講演を利用して、自分をさらけ出すことに心がけた。あ
りのままの自分を、ありのままに話す。それで相手が、私のことを、「おかしい」と思っても気に
しない。そのときは、そのとき。

 自分に居直ったわけだが、そうすることで、私は自分にすなおになることができた。そう、もと
もと、私は、どこかゆがんだ人間だった。(今も、ゆがんでいる?)私のこうした生きザマが、ギ
クシャクした親子関係で悩んでいる人のために、一つの参考になればうれしい。

【注】この原稿は、W小学校区の教員研修会のための資料として書き始めたものです。まだ公
表できるような段階ではないかもしれませんが、マガジンにこのまま掲載します。時期をおい
て、また書き改めてみます。

(※1)実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛
することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わ
ずらわしくてしかたない」とかなど。

私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約10%(私の母親教室で約
200人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感
じている母親は、7%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待しているこ
とがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)そうだ。

同じく妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をして
いるという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの17項目を作成
し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しばしばある……2
点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(494
人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待なし」が、61%であったという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 不登
校 不登校児 家庭で荒れる子ども 家庭内暴力)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1333)

【今朝・あれこれ】

●三男のビデオ

 三男が、デジタルカメラを使って、ビデオを作った。第3作目らしい。1作目と2作目をまとめ
て、第3作目とした。

 で、公開初日(TUBE)に、200件近い、アクセスがあったという。そして数日後の今日(6・1
2)には、1800件!

 私が作ったビデオなどは、一番多くても、500件。しかも作成してから2年目にして、である。
改めて、若い人たちの世界の(ものすごさ)というか、そのパワーに、驚く。

 とても、勝ち目はない。「どうしてそんなに多いのか?」と三男に電話で聞くと、「出演してくれ
た友だちが、『見ろ』『見ろ』と、ほかの人たちに勧めてくれたから」と。

 航空大学生の日常を、簡単に紹介したビデオだが、見ていて、気持ちがよい。自分が空を飛
んでいる気分になる。アクセスが多い、本当の理由は、そこにあるのかもしれない。


●名古屋での同窓会

 6月x日、今度、名古屋で同窓会をするという。酒の飲めない私で申し訳ないが、出席するこ
とにした。ホント!

 連絡してくれたS君のメールには、「うまい酒を飲もう」とあった。あああ……。どうやったら、う
まい酒が飲めるのか? 私はビールをコップに3分の1ほど飲んだだけで、二日酔いどころ
か、三日酔いになってしまう。

 同窓会のよいところ……相手にまったく気をつかわなくてすむということ。気楽。自分を飾って
も意味はない。どうせみんな、たがいの素性の、そのまた素性まで、知り尽くしている。


●懐中時計

 本屋(書店)で、本物の懐中時計が付録についた雑誌を売っている。「付録」という言葉に
は、独特の響きがある。とくに、私のような団塊の世代には、そうだ。

 私たちは、子どものころ、雑誌を買ってもらうのが、何よりも楽しみだった。その雑誌には、付
録がついていた。私たちは、その付録ほしさに、お金をにぎって、本屋へ走った。こういう雑誌
を手にすると、そのときの思いが、そのまま、よみがえってくる。

 で、その懐中時計。第1号は、ツルツルの時計だったが、第2号は、こまかい彫り物が再現し
てある。(本当は、プレスか何かで、簡単に刻印したものだろうが……。)

 しかしこの懐中時計、指先でいじっていると、とても気持ちがよい。脳内で、エンドロフィンか、
エンケファリンが、ズンズンと分泌される感じ。

 そのため今では、片時も話さず、指先で、いじっている。

 ……ということをするのは、ボケ防止には、効果があるそうだ。指先の神経は、そのまま脳み
そに直結しているという。隣の中国には、石でできた球を握ることで、ボケ防止をするという方
法もある。何らかの効果があることは、確かなようだ。

 今度の水曜日に、第3号が発売になる。

 私はまたお金を握って、本屋へ走る。子どものころのように……。


●悪夢

 少し前、電子マガジンのアンケート調査をした。そのことについては、すでに書いた。で、その
悪夢(?)から、やっと、抜け出た感じ。

 ものを書くというのは、健康のために、ジョギングをするようなもの。だれのため、ではない。
自分のため、である。こうしてものを書いていると、脳みそにとっては、よい刺激になる。が、そ
れだけではない。

 ものを書いていると、そのつど、辞書を引いたり、あれこれ参考書を調べたりする。そうした
作業そのものが、勉強になる。が、ときどき、こう思うときがある。

 「世の中には、私の知らないことが、まだ山のようにある」と。

 その「山」に驚いて、たじろぐことさえある。「こんなことも、私は知らなかったのか」と、絶望感
に似た気持ちに襲われることもある。

 もっとも、それがおもしろいから、こうしてものを書く。

 アンケート調査に返事をくれた、45人のみなさん、本当にありがとう! 今回だけは、その4
5人の人に、本当に支えられた。


●カジテツ姫(?)

 「カジテツ姫」という言葉があるそうだ。昨夜、テレビで、そういう若い女性を紹介していた。

 言うなれば、仕事もしない、家事も手伝わない、ドラ娘のこと。(「カジテツ」というのは、自称、
「家事手伝い」という意味だそうだが……。)

 その中の1人の女性が、ヌケヌケとこう言った。「結婚相手の男性は、年収1000万以上でな
いと……」「でないと、こういう(ぜいたくな)生活は維持できないでしょう……」と。

 その女性は、毎日、化粧ざんまい。エステざんまい。

 父親は、みな、会社の経営者ということだったが、超豪華な御殿に住みながら、どこか、おか
しい? 変? チグハグ? この親にして、この娘……。画面を通して、それがおもしろいほ
ど、よくわかった。

 何が、姫だ! できそこないの、バカヤロー!


●W杯が始まった!

 とうとうW杯が始まった。ときどき、かいま見る程度だが、しかしこの胸の高まりは、何か?
 
 いよいよ日本vsオーストラリア戦!

 オーストラリアの友人たちは、みな、メールでこう書いてくる。「日本など、問題ではない」「日
本が勝つなどとは、だれも、思っていない」と。かなり自信があるらしい?

 オーストラリアには、「オージー・フットボール」と呼ばれる、どこかラグビーに似たスポーツが
ある。それは、あちこちでさかんに行われている。それに使われるボールは、楕円形をしてい
る。が、サッカーは、それほどポピュラーではない。

 ……しかし、その実況中継を見るかどうか、今、迷っている。私には、あまりにも刺激が強す
ぎる。もう少し気楽に見られるとよいのだが、そうはいかない。

 で、こういう試合のときは、私は、いつも、こうしている。

 私のかわりに、ワイフに試合を見てもらう。日本が得点を入れたときや、勝っているときだ
け、声をかけてもらう。つまりそういうときだけ、テレビの前にすわる。そうでないときは、見な
い。


●教育者によるハレンチ事件(わいせつ行為事件)

+++++++++++++++++

このところ、このS県でも、教育者による
ハレンチ事件が、たてつづけに起きている。

それについて県の教育員会も、かなりの
危機感をもち始めている。

どこかの校長が、私にそう話してくれた。

しかし……。

+++++++++++++++++

 このS県でも、教育者によるハレンチ事件(わいせつ行為事件)が、たてつづけに起きている
※。現場の教師のみならず、県の教育委員会の職員(指導主事)によるものも、それに含まれ
る。

 それについて、S市の教育委員会は、今度、教員を対象に、校長による面談テストを実施す
ることにした。そのテストの一項目には、「児童・生徒を性的対象と見ていないか」というのがあ
るという。

 しかしこれほど、「?」な、質問項目もない。

 若い男性教師なら、女子中学生や女子高校生を見て、何も感じない方が、おかしい。健康な
男性教師なら、なおさらである。

 私にも、以前、こんなことがあった。

 女子高校生の中には、ときどき、無頓着な子どもがいる。胸元を大きくあけて、乳房を見せん
ばかりの服装をしてくる子どもがいる。そこであるとき、F市に住む、進学塾の先生に、それを
相談した。すると、その先生は、こう言った。

 「林先生、見ておけばいいのですよ。見せてくれるのですから……」と。「目のやり場がなくて、
困っている」と私が言ったことについて、その先生は、そう言った。

 むしろ、こういうテストで、「性的対象と見ていない」と答える教師のほうが、心配である。自分
の下心を見抜かれないように、ウソをつく。仮面をかぶる。が、正直に、「性的対象と見ること
がある」と答える教師のほうが、正常と考えてよい。またそういう教師は、ハレンチ事件など、
起こさない。

 ただ私のばあいは、相手が幼児〜小学生である。本当に正直に告白するが、生徒を、性的
な対象として、私は、見たことがない。それについて今朝も、ワイフが、「どうして?」と聞くから、
私はこう言った。

 「あのな、ぼくは、まだ子どもがウンチ臭いときから、教えるんだよ。ときどきその子のそばに
行くと、ウンチ臭いときがある。プ〜ンと臭うんだよ。言うなれば、父親と娘の関係になる。父親
は自分の娘を、性的対象とは見ないだろ。それと同じではないかな」と。

 ただし一言。

 こうしたハレンチ事件は、まさに、氷山の一角。現在、週刊誌などによる非公式な調査によれ
ば、女子高校生の約60%は、高校を卒業するまでに、初体験をすますという(東京都)。その
中でも、相手として一番多いのが、実は、高校の教師だという。

 私も実際、そういう話を、直接女子高校生たちから、聞いている。女子高校生にしても、一番
身近にいて、安全で、手っ取り早い相手といえば、高校の教師ということになる。独身で、若く
て、ハンサムなら、さらによい。

 だからとくに教師については、厳罰主義で臨むのがよい。またそれしか、こういったハレンチ
事件を防ぐ方法はない。生徒と性的関係をもったら、即、問答無用に、10年くらいの懲役刑を
科すとか、など。

 が、今の法律は、甘すぎる。初犯だと、たいてい執行猶予がついて、そのまま放免となってし
まう。「被告は、職を失うなどの社会的制裁をすでに受けているので……執行猶予……」とか、
など言って……。懲戒免職によって、職を失うのは、当然のことではないか。

私「欧米では、きびしいよ」
ワ「日本も、そうすればいいのよ」
私「しかしきびしすぎると、今度は、犯罪が凶悪化するということも考えられる」
ワ「どういうこと?」
私「警察にバレるくらいなら、殺してしまえとか、そういうふうに考える男が出てくる」
ワ「でも、こと教員に関しては、きびしくしてもいいわよね」
私「ぼくも、そう思う」と。

 ここにも書いたように、仮面をかぶる教師ほど、こわい。このチェックテストで、「私は、女子
児童や、女子生徒には、まったく興味はありません」と答える教師ほど、あぶない(?)。かく言
う、校長だって、教育委員会の職員だって、みんな、寝る前には、マスターベーションをしてい
る。私だって、している。あなただって、している。みんな、している。

 つまりフロイトの言うところの、性的エネルギー(リピドー)は、それほどまでに強烈であり、強
力である。個人の理性や知性で、コントロールできるようなものではない。つまりこの問題だけ
は、そういう前提で考える。

 で、今回、S市では、各学校の校長が、それぞれの教師を面談して、チェックするという。しか
しどこのだれが、そういう教師を、『石もて、打てるのか』。

ワ「あなたなら、何て、答えるの? そのチェックテストでは……」
私「はい、あります、と答えるだろうね」
ワ「そんなことを言ったら、要注意人物にされてしまうわよ」
私「そこなんだよ。仮面、つまりペルソナをかぶればかぶるほど、その人の裏には、シャドウが
できる。そのシャドウがこわい。だからね、こうしたハレンチ事件が起きるたびに、まわりの人
たちは、みな、こう言うだろ。『信じられません』『まじめで、指導熱心ないい先生で、生徒の信
頼も、厚かったのに……』と。教育委員会の先生なんだから、こんなことは、知っていると思う
けど……」と。

 こうした問題は、教師自身の問題というよりは、制度の問題である。あるいは刑事罰の問題
と考えてよい。

 で、私のことだが、昔、私が幼稚園の世界に入ったとき、ときの園長は、最初に私にこう言っ
た。

 「林先生、どんなことがあっても、女児には、指一本、触れるんじゃ、ありませんよ。どんなこと
があってもです。それを守れますか」と。

 以来、私は、女児については、頭と手以外、触れたことは、ただの一度もない。何か問題が
あるときには、女児を抱きあげることはあるが、その前には、必ず、母親の許可をもらい、母
親の目の前で抱くようにしている。しかもそうして女児を抱くようになったのは、ここ数年のこと
である。

 抱くことで、その子どもに情緒的な問題があるかどうかを、知ることができる。(自閉症、かん
黙症など、情緒に障害のある子どもは、体をこわばらせて、抱かれない。つまりそっと抱いてみ
るだけで、簡単な診断ができる。)

 この世界では、誤解が、時として、仕事上の致命傷になることがある。そういう点では、学校
の先生は、たしかに甘い。甘すぎる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教師
による破廉恥事件 ハレンチ事件 教師 教師と性 わいせつ行為 猥褻行為 わいせつ行為
事件)

※……2002〜2004年度中、教師によるわいせつ行為で懲戒処分を受けた教員は、22人
(このS県のみ)。

年代別では、

20代……6人
30代……7人
40代……6人
50代……3人

半数以上が、勤続10年以上のベテラン教諭。

担当科目は、理科(5人)、保健体育(4人)。勤務評定では、3分の1にあたる6人が、「優れて
いる」という評価を受けていた。

被害者は、自校の生徒が、14人と圧倒的に多い。


●日本版『ダビンチ・コード』

++++++++++++++++++

この話を知ったら、映画『ダビンチ・コード』
など、腸から出るガスのようなもの。

驚くなかれ、あのイエス・キリストの墓は、
この日本にある!

++++++++++++++++++

青森県に、戸来(へらい)という村がある。その村はずれの丘の上に、イエス・キリストの墓があ
るという。イエス・キリストだけではない。弟の、イスキリの墓まであるという。

 「日本史おもしろBOOK」(主婦と生活社)によれば、「ともに土まんじゅうに十字架を立てた
墓で、十来塚(とらいづか)とあるのが、キリストの墓、十代墓とあるのが、イスキリの墓」だ、そ
うだ。

 現地に残る言い伝えによると、キリストは、何と、前後2回にわたって、この日本に来ていると
いう。

 1回目は、21歳のときで、このときキリストは、越中国(富山県)で修行を重ね、33歳にして
ユダヤ国に帰国。聖書に書いてある布教活動を開始したという。

 2回目は、ローマの官憲に捕らえられる直前、ユダヤにいては殺されるとみて、海外脱出を
決意し、数人の弟子とともに、シベリア経由で、八戸港に上陸し、戸来に移り住んだという。

 以後キリストは、八戸太郎天空坊と称し、天狗のように空を飛びながら、日本中を旅したとい
う(同、日本史おもしろBOOKより)。

 ……となると、最後の晩餐をしたあと、ゴルゴダの丘で十字架にかけられたのはだれかとい
うことになるが……?

それについては、戸来村に残る言い伝えによれば、弟のイスキリだったという。つまりイスキリ
が、兄のキリストの身代わりになって、処刑されたというのだ。

にわかに信じがたい話だが、もちろん現地の人たちは、それを信じているらしい。さっそくイン
ターネットを使って、戸来村について、調べてみる。

ウソか、マコトか?

念のため、ヤフーの検索エンジンを使って、「八戸太郎天空坊」を検索してみる。結果、3〜5
件の関連ページをヒット! (興味のある方は、自分で検索してみたらよい。)

 中には、「十代墓」の写真まで載っているページがある。また「八戸太郎天空坊」というのは、
天狗のこと。言いかえると、天狗は、キリストであったという説まで紹介されている。

 この説に従えば、キリストが、十字架にかけられるとき、なぜペトロ(12使徒の1人)が、「私
は(この男を)知らない」と言ったのか。あるいは、キリストの死後、マグダラのマリアが、キリス
トの復活を目にすることができたかなどについて、その謎が説明できる(?)。

 キリストに弟がいたという説は、決してありえない話ではないらしい。一説によると、3歳年下
で、兄のキリストに、たいへんよく似ていたという。つまりこの説に従えば、その弟のイスキリ
が、兄のキリストの身代わりになって処刑されたということになる。

 またペトロは、キリストではないから、「私は、知らない」と言ったということになる。

 しかし最大の問題は、キリストは、どうやって日本へ、2度までもやってきたかということ。シベ
リア経由で日本へ来たというが、「ハア?」と思ったところで、私は、何も書けなくなってしまっ
た。

 神の乗り物、つまりUFOのような乗り物に乗って、この日本へやってきたというのなら、まだ
話もわかる。が、これ以上のことを書くと、敬虔(けいけん)なクリスチャンの方を冒涜(ぼうとく)
することになるので、この話は、ここまで。

 しかし何とも、ロマンに満ちた話ではないか。ただ注意してほしいのは、この説に従って、すで
にある宗教団体が、活動しているらしいということ。深入りは禁物。

 ……とまあ、この話を知ったら、映画『ダビンチ・コード』など、腸から出るガスのようなもの。
そのうちいつか、この日本でも、『天空坊・コード』なる映画が作られるかもしれない。楽しみに
していよう。

 ついでながら、この話をワイフにすると、ワイフは、こう言った。「私、今度、青森まで、旅行を
したくなった」と。

 何も目的のない旅行よりは、そのほうがずっと楽しい。


●それぞれのW杯

++++++++++++++++

いよいよ、日本vsオーストラリア戦!

私とワイフは、テレビの前に座った。

あと15分!

私は席を立ち、オーストラリアの友人たちに、
電話をかけまくった。

++++++++++++++++

 まず、R君に電話した。

私「とても残念だな。それを言いたくて、電話した」
R「何か、あったのか?」
私「いや、今夜、君たちが敗北の悲劇を味わうと思うと、とても残念だ」
R「ははは、猫に指をかまれるのは、君たちのほうだ」
私「猫に指をかまれる?」
R「痛い思いをするのは、君たちだ」
私「いいや、3−0で、オーストラリアが負ける」
R「オーストラリアが勝ったら、電話するよ」
私「電話はいらない。どうせ、負けるから」と。

 つづいて、B君。

私「どうだ、調子は?」
B「何が?」
私「オーストラリアの選手たちだよ」
B「みんな、消極的だよ」
私「どうして?」
B「日本なんか、相手じゃないとね」
私「そういうことなら、前もって、言っておくよ。とても残念だったなとね」
B「それは日本流の心理作戦かい?」
私「そういうことかな。まあ、涙を拭くハンカチを用意しておいたほうがいいよ」
B「君たちこそ、用意しておけよ」と。

 D君にも電話をした。

私「みんな見ているかい?」
D「オーストラリアでは、サッカーの試合など、見ない。ぼくもルールをよく知らない」
私「今夜、ワールドカップの試合があるよ」
D「決勝戦なら、見る」
私「日本戦は見ないのか?」
D「ぼくは見たくなくても、家族が、みんな見るからね。日本が負けるのを見るのは、ぼくには、
とてもつらい」
私「ぼくは、オーストラリアが負けても、ゼンゼン、つらくない」
D「じゃあ、ぼくは、日本を応援するよ」
私「そうしてくれ、プリーズ」
D「ぼくが応援するチームは、いつも、100%、負けるからね」と。

 みんな口の悪い連中ばかりだ。南オーストラリア州は、午後10時30分。ビクトリア州は、11
時。そして日本は、午後10時。キックオフ!

 で、その結果だが……。みなさん、ご存知のとおり。1−3で、日本の負け。試合のあと、反対
に、みなから電話がかかってきた。

 いやな電話だった。私は、すなおに、「おめでとう! すばらしい試合だった」とだけ言った。あ
とは、何も言わなかった。

 それにいやな気分だった。私とワイフは、ムダ話をしながら、1時間ほど、過ごした。今夜は、
興奮しすぎたようだ。(6−13記)


●男色(だんしょく)道

 戦国時代から江戸時代、あるいはその前後にも、「男色道」というのは、ごくふつうに、なされ
ていたらしい。

 男色道……つまり、今でいう、同性愛。

 驚くのは、あの織田信長も、それをしていたこと。さらにあの武田信玄も、それをしていたとい
うこと。

 武田信玄にいたっては、ある男性にあてた、ラブレターまで、ちゃんと残っている。

 「どうなっていたんだろう?」と考えたくもなるが、いろいろ考えていくと、今、私たちがもってい
る(常識)のほうが、おかしいのかもしれない、ということになる。

 たとえば天皇家でも、兄と妹が結婚したという例もないわけではない。敏達(びだつ)天皇と、
推古(すいこ)天皇は、ともに、兄と妹の関係だった。(過去には、女性が天皇になった例だって
あるんだぞ!)

 となると、ここでもう一度、私たちの中にある(意識)を疑ってみる必要がある。

 私たちが「常識」と思っていることでも、常識的でないことは、たくさんある。反対に、「非常識」
と思っていることでも、常識的なことは、たくさんある。そういう視点で、ものを考えなおす。

 ……ということで、その同性愛だが、残念ながら、私には、まったく理解できない。「同性愛の
男性にとっては、男性は、私が見る女性のようなものなのだろうな」というところまでは、理解で
きる。が、そこまで。

 反対に、同性愛の男性に近寄られたりすると、心底、ぞっとする。その感覚は、痴漢に襲わ
れた女性のそれに似ているのではないか?

 そういう意味では、私は、自分では、「濃い男」と思っている。つまり男の中でも、濃い男と薄
い男がいる。私は、その濃い方の男に属するということ。いまだかって、男性に興味をもったこ
とは、一度もない。

 が、それでよいというわけではない。

 私のような「濃い男」は、女性の目から見た「男」がわからない。どういう男がモテて、どういう
男がモテないか、それがわからない。「男」として、自分を客観的に見る目が、ないからと考え
てよい。

 つまり私のような「濃い男」にすれば、女性は、みな、女性。攻撃的に奪う相手ではあっても、
いちいち許しを乞いながら、つきあう相手ではない。だから、女性のあつかい方がへた。自分
勝手で、自己中心的。だから女性にモテない。

 自分でも、それがヨ〜ク、わかっている。だから、この分野については、とっくの昔に、あきら
めた。

 で、今、こう考えている。

 しかしそういう自分を中心にして、ものを書いてはいけないということ。少し前も、女児願望の
男児についての、エッセーを書いた。

 若いころの私なら、「それは問題」という視点で、ものを書いたかもしれない。それを相談して
きた母親も、そう思っているにちがいない。

 しかし今は、ちがう。10人、人間がいれば、その感覚は、みな、ちがう。ちがって当然。だか
ら、自分の常識を中心にものを考えて、それを相手に押しつけてはいけない。同性愛の問題
も、その中のひとつ。

 大切なことは、それぞれの人が、自分の常識の中で、楽しく、ほがらかに暮らすこと。そういう
意味では、同性愛者どうしが結婚したところで、何も、問題はない。それでだれかに迷惑をか
けるということがなければ……、という条件つきだが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
同性愛について 同性愛 常識 男色道)

【補記】

●男児の性

 男児はいつごろから性にめざめるかだが、小学校に入学するころには、男児は、すでにその
兆候を見せ始める。

 それは何とも言えない、甘美な世界である。女性の乳房や、陰部、そういったものを思い浮
かべたり、想像したりするだけで、体がとろけていくような気分になる。フロイトは、母親に最初
の女性をみると説いたが、私のばあいには、母親には、まったく女性を感じなかった。

 私のばあいは、同年齢の女の子だった。1歳、年上でもダメ。1歳、年下でもダメ。同年齢の
女の子にしか、女性を感じなかった。

 隠れて、女の子の裸の絵を描いて楽しんでいたこともある。私が小学2〜4年生くらいのこと
ではなかったか。

 その私が、射精を覚えたのは、中学生になったころのことだと思う。6年生のときだったかも
しれない。年齢はよく覚えていない。

 近所に、1、2歳、年下の女の子がいて、その女の子といっしょにテレビを見ていたときのこ
と。横にすわった女の子が、私のズボンの中に、手を入れてきた。私が入れさせたのかもしれ
ない。その女の子が、私のペニスをいじり始めた。

 そのときまでにも、そういうことは、何回かあったと思う。私も、その女の子の体の中を、何回
か、のぞいたことがある。

 で、そのとき、体中が燃えるように熱く感じたあと、そのまま気を失うように感じた。ペニスは
はげしく脈動し、私は、そのまま射精をした。が、私は、それが射精だとは思わなかった。その
女の子が、「おしっこした!」と声をあげた。それはよく覚えている。で、あとになって、それが射
精だと知った。

 それからは周期的に夢精が始まり、私は、「男」になった。

 こうした性の変化は、女性の生理と、よく比較される。この時期、女の子も、初潮を経験す
る。

 ただいつも不公平だと思うのは、女の子の生理については、罪悪感もなく、堂々と論じられる
のにたいして、男の子の生理については、いつもそこに罪悪感がともなうということ。陰で論じ
られることはあっても、表に出てこない。

 男の子の射精についても、もっと、オープンに論じられて、よいのではないか。

 で、こんなこともあった。

 中学3年生のときのこと。まだ射精を経験したことがないという友だちがいた。G君という、体
の大きな友だちだった。彼があれこれ、私に相談してきた。

 そこで、私は、そのG君を、学校の屋上へつれて行き、マスターベーションのし方を教えてや
った。ペニスを出させて、「こういうふうに、こするのだ」というようなことをして見せた。

 が、G君のは、いっこうに大きくならない。そこで私が指先でつまんでみると、皮をかぶったま
ま、フニャフニャしている。あとでそれが「包茎」ということを知った。が、そのときは知らなかっ
た。

 「お前のは、へんだな……」、「そうかア?」というような、会話をしたと思う。

 そこで私は、屋上の床をこすって、砂をつくり、その砂で、彼のペニスをまぶし、思いっきり、
上下にこすってやった。その友だちは、何度も「痛い」と悲鳴をあげた。が、私はかまわず、こ
すった。強引に皮をむいてやった。

 それで包茎はなおったが、射精したというわけではない。射精するためには、勃起しなけれ
ばならない。勃起するためには、たとえば女性の裸の写真を見るとか、そういうことをしなけれ
ばならない。しかし、私も、そこまで詳しくはなかった。

 今となってみれば、それもなつかしい思い出。ついでに、さきほど、インターネットを使って、そ
のときのG君がどうなったかを調べてみた。郷里のG県で、ある会社の専務をしているとのこ
と。彼もあの日のことを、忘れていないはず。

 で、みな、男の子は、こうして、それぞれの方法で、おとなになっていく。

 「男」を知らない母親のために、参考になればと思い、あえて自分の経験を書いた。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1334)

【やる気論】

+++++++++++++++++

昨夜のサッカーの試合の後遺症か?
あるいは、睡眠不足か?

今朝は、どうも頭が重い。

体の動きが、にぶい。

気力も、あわせて、弱い。やる気が起きない?

+++++++++++++++++

●義理の兄

 義理の兄夫妻が、遊びに来てくれた。夕食をいっしょに、食べた。義理の兄は、会社を経営し
ている。あちこちに土地をもっていて、その上に、賃貸ビルや会社を建てている。「悠々自適」と
いう言葉は、そういう人のためにある。

 驚いたのは、70歳に近いというのに、髪の毛が黒々としていること。おまけにフサフサしてい
る。「染めているの?」と聞くと、「いいや」と。

 私の髪の毛も、フサフサしているが、20〜30%は、もう白髪(しらが)。ワイフなどは、90%
近くが、白髪。

 いろいろ話しているうちに、ひとつ気がついたことがある。それは兄の生き方が、前向きなこ
と。年齢を感じさせない。今は、ハーブ栽培に凝(こ)っているとか。「縁側が、ハーブだらけだ
よ」と言って、うれしそうに笑っていた。

 あとゴルフのクラブを、特注で作らせているとか、など。設計図も自分でひき、材質まで指定
して作るのだそうだ。「それが楽しい」と。

 そういうふうに、前向きに生きている人と話していると、楽しい。自分まで、どんどんと若返っ
ていくのがわかる。

 ところで、(やる気)を引き出すのは、脳内で分泌される、カテコールアミンという物質だそう
だ。

 つまり、何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が
分泌される。そしてそれが、回りまわって、やる気につながるという。

 兄の脳みその中には、その物質が充満しているらしい。

 以前書いた原稿を、2作、添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悲しき小学生vs前向きな小学生

私「君は、何をしたい?」
小「何も、ない」
私「何をしているときが、一番、楽しいの?」
小「友だちと、遊んでいるとき」

私「おとなになったら、何をしたいの?」
小「何もない……」
私「してみたい仕事はないの?」
小「あんまり、ない。考えてない」

私「だけど、何か、しなければいかんだろう?」
小「……わからん」
私「もうすぐ、おとなになるよ。目標をもたなくちゃあ……」
小「まだまだ、だよ」

私「じゃあ、なぜ、勉強しているの?」
小「一応、やらなくちゃ、いけないから……」
私「したい勉強は、ないの?」
小「ふん……」と。

 小学6年生のK君(男子)との会話である。

 K君に、問題があるというのではない。夢も、希望もない。もちろん目的もない。今、そういう
小学生が、ふえている。全体の、半数以上が、そうではないか。

 が、親は、「勉強しろ」「いい学校へ入れ」と、子どもを追いたてる。つまり親自身が、子どもの
進路を混乱させている。それに気づいていない。

 一方、今、小説を書くことに、熱中している小学生がいる。5年生のOさん(女子)である。毎
週、何かの小説を書いてきて、私に読ませてくれる。

 そういう小学生は、生き生きしている。目も輝いている。

私「おとなになったら、何になるの?」
小「お医者さん」
私「じゃあ、うんと勉強しなくちゃいけないね」
小「でも、花が好きだから、花屋さんでもいい」

私「また小説、書いてきてよ。読みたいから……」
小「今度は、冒険の話でもいい?」
私「いいよ。ハリーポッターのようなのを、ね」
小「わかった……」と。

 このタイプの子どもは、つぎつぎと、自分のしたいことを、決めていく。多芸多才。ひとつの目
標を決めると、自らコースを設定して、その中に自分を置く。あとは、自身の力で、前に進んで
行く。

 ここに書いた、K君も、Oさんも、実は、架空の子どもである。今までに、私の前を通りすぎた
何人かの子どもを、まとめて書いた。

 で、その分かれ道というか、どうして子どもはK君のような子どもになり、またOさんのような子
どもになるのか。また、いつごろ、その分かれ道はできるのか。

 私は本当のところ、0〜1歳児については、よくわからない。しかしそのころ、すでにその分か
れ道はできると思う。4歳や5歳ではない。2歳や3歳ではない。その前だ。

 となると、そのカギをにぎるのは、母親ということになる。母親が、子どもが進むべき道を決め
る。むずかしいことではない。

 子どもというのは、あるべき環境の中で、あるべき方法で育てれば、Oさんのようになる。しか
しそうでないとき、子どもは、K君のようになる。

 あるべき環境というのは、心暖まる親の愛情に包まれ、安定し、信頼関係のしっかりした環
境ということになる。そういう環境の中で、静かに、どこまでも静かに育てる。

 それを、生まれた直後から、ほら、英才教育だ、ほら、早期教育だ、ほら、バイリンガルだ…
…とやりだすから、話がおかしくなる。子どもは、親に振りまわされるだけ。振りわされながら、
子どもは、自分が何をしたいのかさえ、わからなくなってしまう。

 子どもがK君のようになると、親は、あせる。そして無理をする。あとは、この悪循環。子ども
はますます、やる気のない子どもになっていく。

 「友だちと遊んでいるときだけが、楽しい」と。

 そうなってしまってからは、もう手遅れ。子どもの心というのは、そうは、簡単にはできない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 子供 子供のやる気 積極的な子供 消極的な子ども)

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
どうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気のある子供 やる気のない子供 子どものやる気 子供のやる気 やる気論)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1335)

【子育て・あれこれ】

●ウソ、ごまかし、盗み

++++++++++++++

子どもがウソをついたからといって、
トコトン、子どもを追いつめては
いけない。

子どもは、おとなをごまかすことで、
自信をもち、ついで、自立していく。

++++++++++++++

 子どもにとって、(1)ウソ、(2)ごまかし、(3)盗みは、いわば、おとなになるための熱病のよ
うなもの。この3つを通して、子どもは、おとなからの(自立)を学ぶ。「おとなを、してやった!」
という思い、つまり自信が、子どもを自立させる。

 私もときどき、こんなことをする。

 「戦いごっこ」と称して、子どもたちと戦いごっこをする。そのためのコスチュームも一応、一式
すべて、そろえてある。

 この戦いごっこを通して、私は、わざと負けてやる。「痛い、痛い」「参った、参った」「ごめん、
ごめん」と。

 この方法は、母親の威圧で押しこめられてしまったような子どもに、効果がある。どこかおと
なしく、どこかいい子で、どこか自信をなくしたような子どもである。これを1、2回(1、2回でじゅ
うぶん)するだけで、その子どもの表情は、とたんに、見ちがえるほど、明るくなる。

 悪いのは、おとなの優位性を子どもに押しつけること。「おとなは偉い」「おとなはすばらしい」
と。そして子どもに向かっては、「君たちは、おとなには、かなわない」と、その力(?)を誇示す
る。子どもは、自信をなくすだけではなく、服従的になったり、反対に、権威主義的になったりす
る。

 子どもを伸ばすコツ……ときには、子どものレベルまで自分をさげ、子どもに、「バカだ、アホ
だ」と思わせつつ、自信をもたせること。

 この自信が、子どもを伸ばす。

 で、ここに書いた、(1)ウソ、(2)ごまかし、(3)盗みも、同じように考えてよい。それを許せと
いうのではない。しかし、それをしたからといって、神経質になったり、カリカリしてはいけない。
一応、叱りながらも、「子どもというのは、そういうもの」と、一歩退いて考える。この余裕が、子
どもの表情を明るくする。

 子どもは、満1・5歳〜2歳前後から、ウソを覚える。ウソ寝、ウソ泣きが、その代表的なも
の。さらに3〜4歳になると、おとなをごまかすことを覚える。また5〜6歳になり、金銭感覚が
身につくようになると、盗みをするようになる。親のサイフから、お金を抜き取るなど。

 こうして子どもは、自立を学ぶ。

 なお最終的には、「こんな親は、アテにならない」「自分でやったほうがマシ」と思わせること
で、子どもに自立を促す。私も、子どもたち(生徒)が、小学5〜6年生になったら、そういう形
で、子どもを手放すようにしている。

 「こんな先生は、アテにならない」「自分でやったほうがマシ」と。

 それを私は、「卒業」と呼んでいる。それまでが、私の仕事と考えている。子どもたちは、あと
は、自分で伸びていく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの自立 子供の嘘 虚言 ごまかし 盗み 盗癖 子どもの自立)

(追記)

 反対に、ウソもついたことがない、ごまかしたこともない、ものを盗んだこともないという子ども
のほうが、心配である。(そういう子どもは、いないと思うが……。)

しかし親が、威圧を加えて、子どもがそうすることを許さないケースもある。過関心、過干渉マ
マと言われる親が、このタイプの親である。このタイプの親は、ささいなミスや、まちがいを、お
おげさにとらえて、これまたおおげさに叱ったり、問題にしたりする。

そういう環境に育った子どもが、どうなるか? ……それについては、また別の機会に改めて、
考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●あやしげな行動

++++++++++++++++

コンビニの横の駐車場。
2人の男と、2人の女子高校生。
あやしげな雰囲気。

しかしこうした光景は、
今どき、珍しくも、なんともない。

全国、どこでも見られる。
あたりまえの光景。

++++++++++++++++

 2人の女子高校生が、どこかあやしげな雰囲気で、こちらに向かって歩いてきた。歩くという
よりも、迷いながら、フラフラと歩いているといったふう。1人は、携帯電話を顔につけたまま。

 その携帯電話をもった女子高校生の視線の先を見ると、そこに、一台の車が止まっていた。
軽のワゴン社だった。男が2人、乗っていた。年は、25〜8歳くらいか。運転席の男も、携帯電
話を顔につけていた。太った、しまりのない顔をしていた。

 私は、コンビニの前に、自転車を止め、いくつかの買い物をした。外を見ると、2人の女子高
校生と2人の男が、窓越しに、何やらたがいに交渉しているといったふうだった。

 女子高校生のうちの1人は、数歩、うしろに立ち、交渉を見守っているといった。顔を下へ向
けながらも、上目づかいに、男たちの顔を見ていた。もじもじしている様子が、私にも、よくわか
った。

 男たちは、精一杯、笑みを浮かべ、やさしそうな、それでいて、下心見え見えの雰囲気で、さ
かんに2人の女子高校生たちに話しかけていた。

 だれが見ても、そういう関係に見えた。「いっしょに、遊ぼうよ」「いくらで?」と。

 ……いまどき、こんな光景は、珍しくも、なんともない。どこでも見られる。都会だけではない。
地方をドライブしても、それらしい光景は、どこでも見られる。共通点は、いくつかある。

 たいていは女子高校生と男たちの組みあわせ。それにコンビニと携帯電話。時刻は、昼過
ぎ、もしくは夕方。

 目的は、ズバリ、セックスとマネー。

 こういうとき、「女」は、スケベ心を、体で表現するものか。体を、どこかなまめかしく、よじらせ
ながら、男たちと話す。一方、「男」は、笑顔で、そのスケベ心を隠すものか。懸命に、女子高
校生たちの警戒心を解こうとする。

 いつから日本がこうなってしまったのかは知らないが、どこか雰囲気が、うす汚い。退廃的。
そのあたりの空気だけが、どんよりと、よどんでいる。

 で、私は、買い物をすませ、そのコンビニを離れた。離れながら、最後に、もう一度だけ、そ
ちらのほうを見た。

 2人の女子高校生たちが、ちょうど、車に乗りこむところだった。どこか不安げに。どこか不
満げに……。

 私は、それを見て、「知ったことか!」と、軽くはき捨てた。

 ただこれだけは、世の母親たちは、覚えておくとよい。

 「うちのダンナにかぎって、そういうことはしていない」「うちの娘にかぎって、そういうことはし
ていない」と思うのは、もはや幻想でしかない。つまりそれくらい、こうした光景は、この日本で
は、日常的なものになってしまった。

 だからあえて、私は、言う。厳罰主義にしろ、と! もうそれしか、この問題を解決する方法
は、ない!

(1)16歳未満の女子、男子と性交渉をもった、20歳以上の男女は、問答無用式に、2年間の
懲役刑。

(2)それを見聞きしたものは、警察への通報義務を負う。それを怠ったばあいには、問答無用
式に、1年間の懲役刑。(こうして、ホテルなど、場所を提供するものを、シャットアウトすること
ができる。)

 ……こうした法律は、アメリカや、オーストラリアでは、すでに施行されているぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●ミス、まちがいを許さない親たち

++++++++++++++++++

俗にいう、「完ぺき主義のママ」たちは、
子どもの、ミスや、ささいなまちがいを、
許さない。

あるいは、子どもがミスや、まちがいを
おかしたりすると、ことさら大げさに、悩んだり、
それを問題にしたりする。

そのため、子どもは、萎縮する。
萎縮するだけならまだしも、
その成長過程で、脱ぐべきカラを脱げないため、
問題を先送りすることになる。

しかし、これがこわい……。

+++++++++++++++++++

 子どもは、その過程で、それぞれ、カラ(殻)を脱ぎながら、成長する。それはよく、昆虫の脱
皮にたとえられる。(たとえているのは、実はこの私だが……。)

 たとえば満4・5歳から、満5・5歳にかけて、子どもは、たいへん生意気になる。親や先生に
対しても、口答えをするようになる。

親「新聞をたたんでちょうだい!」
子「自分のことは、自分でしな!」と。

 この時期は、ちょうど、(幼児期)から(少年、少女期)への移行期にあたる。この時期を通し
て、子どもは、幼児というカラを脱いで、少年、少女へと成長していく。

 「この子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)がはっきりとしてくる。人格の核(コア・アイ
デンティティ)が確立してくる。「私」という意識がはっきりとしてくる。

 が、この時期、親の威圧、強圧、過関心、過干渉が日常化すると、子どもは、いわゆる(いい
子)のまま、過ぎてしまう。つまりカラを脱げない、あるいは脱がないまま、体だけが、大きくなっ
てしまう。

 親は、「いい子だ」「育てやすい」と喜んでいるが、これはとんでもない誤解。先日も、ハキがな
く、オドオドし、見るからにおとなしい自分の子どもをさして、「うちの子は、すばらしい子どもで
す」と言っていた母親がいた。

 しかしそういう子どもが、将来、どうなるか?

 大きく分けて、二つの道をたどる。

 そのまま、ナヨナヨとした性格のまま、それにふさわしい人生を送るタイプ。もうひとつは、カラ
を脱がなかったツケを、やがて払うタイプ。さまざまな問題行動の原因になることも多い。とくに
対人関係で、障害が出ることが多い。はげしい家庭内暴力につながるケースも、少なくない。

 だから、……というわけでもないが、子どもはその時期々々において、脱ぐべきカラは脱いで
おく。あるいは、脱がせておく。たとえば、ウソ、ごまかし、盗みにしても、それを繰りかえしなが
ら、子どもは、やがて常識豊かな人間へと成長していく。

 子どもの成長には、(ワル=悪)も大切な肥料と考える。子どもは、(ワル)をしながら、おとな
の世界からの自立を模索する。

 そこで親は、そうした行為を見たり知ったりしたときには、それなりに叱ったり、注意したりし
ながらも、別の心では、それを許す。「ああ、この子は、自立しつつあるのだ」と。子どもを、トコ
トン、追いつめたり、責めたりしてはいけない。ほどほどのところで、手を引く。引きながら、あと
は、子どもの判断に任す。

 この余裕が、子どもの表情を伸びやかにし、明るくする。

 が、ときどき、こんな相談がある。「うちの子は、サイフからお金を盗んで、使います。どうした
らよいでしょう?」と。

 こういうとき親によっては、絶望感(?)にさいなやまれ、被害妄想もからんで、子どもの将来
を大げさに心配したりすることがある。しかしこのとき重要なのは、「どうすれば、そういうことを
やめさせられるか」ではなく、「どうすれば、子ども自身を、考えて行動できる子どもにすること
ができるか」、である。

 やめさせる方法は、簡単である。家の中で、お金の管理を徹底すればよい。しかし、それで
問題が解決するわけではない。家の中で盗むことができなければ、外の世界で盗むだけ。

 そこで子どもには、考えさせる。が、ガミガミ叱ったのでは、子どもに考えさせることはできな
い。中には、叱られじょうずな子どもがいる。何かを叱ったりすると、さも反省していますという
ような様子をして見せて、頭をうなだれたりする。さらには、即座に土下座して、頭を床にこすり
つける子どももいる。

 しかしそういう子どもは、何も考えていない。考えていないから、反省もしない。むしろ、ますま
す小ズルくなるだけ。つまり叱っても、意味がない。ばあいによっては、逆効果。

 子どもが(ワル)をしたときほど、親は冷静になる。静かに子どもに語りかける。この語りかけ
が、子どもを成長させる。子どもを、常識豊かな子どもにする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の叱り方 子どもの叱り方 しかり方 盗み 万引き ウソ 虚言 ごまかし インチキ 親の対
処法)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●インチキ占い師

+++++++++++++++++

この世の中には、「インチキ」と名のつく
ものは、多い。

インチキ霊媒師、インチキ占い師、
インチキ占星術師、インチキ宗教家……。
インチキ教育評論家というのもいる。

ハハハ、私のことか?

みんな、自分で、そう思っているだけ。
つまり「自分こそは、まとも」と思っているだけ。

誇大妄想狂というか、はたまた脳みそ分裂症
というか……。

+++++++++++++++++

 日本という国は、たいへん愉快な国である。周期的に、その手のインチキ霊媒師だとか、イン
チキ占い師だとかが、顔を出して、世を騒がす。

 そういう点では、マスコミにも大きな責任がある。ワーワーとそういう人物を祭りあげておきな
がら、問題になると、あとは、知らぬ顔。そういうインチキ霊媒師やインチキ占い師に、どれほ
ど子どもの世界が影響を受けていることか。それを少しでも反省したら、今後は、もう少し、慎
重であってほしい。

 で、その人物がインチキかどうかは知らないが、今、週刊誌の世界では、Hという女性が、話
題になっている。占星術師として、売りだした女性である。私は占星術については、たびたび批
評してきたので、あえて、その先というか、そのあとのことをここでは、考えてみる。あえてその
Hという女性については、無視。あんな女性など、論ずる価値もない。

 まず、カルトは、立派な宗教であることを忘れてはいけない。人心をまどわす。人心を狂わ
す。人心を誘導して、自分の利益につなげる。こうした神秘主義は、どこかで神や仏とつなが
る。

 そういったものを、マスコミが取りあげる。わかりやすく言えば、マスコミが、カルトの手先とな
る。占いやまじないにしても、ただの娯楽では、すまされない。その異常性に、まず、私たち
は、気がつかねばならない。

 つぎに人間の脳みそには、エアーポケットのような空白部分がある。だれにでも、ある。その
エアーポケットに、ある日突然、カルトが入ってくる。それは、本当に、ある日、突然で、ある。

 一度カルトが入りこむと、脳のCPU(中央演算装置)が狂うため、その人は、カルトを信仰し
ながらも、それに気づくことはない。「私は絶対正しい」と思いこみながら、ハタからみると、愚に
もつかないようなことを、言ったりしたりするようになる。

 が、それだけではすまない。

 ある有名なロックバンドの、Hという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中心に、
3〜4名の若者があと追い自殺をしたという。

家族によって闇から闇へと隠された自殺者は、もっと多いはず。自殺をする人にはそれなりの
人生観があり、また理由があってそうするのだろうから、私のような部外者がとやかく言っても
始まらない。しかしそれがもし、あなたの子どもだとしたら……。

 1997年の3月のこと。ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件が
アメリカで起きた。

「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船とラン
デブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。

結果、39人の若者が犠牲になった。この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイ
アナで起きた人民寺院信徒による集団自殺事件がある。この事件では、何と914名もの信者
が犠牲になっている。

なぜこんな忌まわしい事件が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」
と考えるのは早計である。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想の混
濁が、それである。

あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。あの不可解な生きもの(?)が死ん
だだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。そして驚くなかれ、当時は、あのたまごっちを供
養するための専門の寺まであった。ウソや冗談で供養しているのではない。本気だ。本気で供
養していた。中には手を合わせて、涙を流しているおとなもいた(NHK『電脳の果て』)。

さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の範囲だ
からよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどうなるか。仮にポケ
モンのサトシが、「子どもたちよ、未来は暗い。一緒に死のう」と言えば、それに従ってしまう子
どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現の自由だなどと、のんきなこと
を言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、その延長線上にいるにすぎない。

 さて現在。旧ソ連崩壊のときロシアで。旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカルト教団が
急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをなくしたとき、こう
したカルト教団が急速に勢力を伸ばす。

終戦直後の日本がそうだったが、最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、
急速に勢力を拡大しているカルト教団がある。あやしげなパワーや念力、超能力を売りものに
している。「金持ちになれる」とか「地球が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト
教団もある。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この日本で
はまったくの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本当に安全なのか。
あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者になってからでは遅い。
このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほしい。

 ……ということで、もう一度、私やあなたの身のまわりのカルトに目を向けてほしい。この世界
では、「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。すでに何かのカルトの信者になって
いる可能性が高い!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルト
 占い まじない)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●フリースクールに通う二男

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TKさんの息子が、
フリースクールに通うようになって、
3か月になるという。

ときどき横ぎる親の不安。
その不安と戦いながら、
TKさんは、今、子育ての最前線で、
その息子と懸命に向かいあっている。

++++++++++++++++

【掲示板より、はやし浩司へ】

3、4月に二男が進学が決まった高校への入学を拒否したことでご相談いたしましたTKという
ものです。
いつもEマガジン楽しみに読ませていただいています。

その後、二男はM市の隣のN市のフリースクールに、毎日通っています。

毎日、朝7:30に起床し、9時に家を出て、9時30分にスクールに着き、高認の試験勉強を
し、12時にそこで弁当を食べ、1時にスクールを出て帰宅します。

家では相変わらずのランニングや筋トレ、「脳力道場」というソフトでHQを向上させるんだと、こ
れも規則正しく生活しています。

もちろん家の近所や駅で、中学の同級生に会うことを嫌がり、かなり神経を使っています。
それでも毎日、リュックサックを背負って通う姿を見ると、何か胸にくるものがあります。

こういう生活をしだしてから、普段イライラすることも少なくなり、暴言をはくことも一度あったの
みです。その時は大声を上げてから、泣き声に変わり「本当は高校に行きたいけれど、行ける
高校がない」と言い、本人もとても苦しいのだなと私にも、わかりました。

中学の担任だった先生には、本人からお詫びも含め、手紙を書きましたが、何も返事がありま
せん。「やはり嫌われたかな」と、とても気にしています。「返事がないのは、先生も理解したと
いうことだよ」と言うと、「そうかな」と言いましたが、返事は待っているようです。

残念ながらフリースクールには朝から来るような生徒さんはおらず、先生と二人で学習してい
ます。お友達がいれば、いろいろ話せるだろうなと思いますが、先生もこんなに規則正しく通う
生徒さんははじめてだそうです。

高認の試験に合格したあとは、アルバイトするか、留学するか考えているようです。以前から
みれば、突拍子もない希望や要望も少なくなり、またあまり希望が変化することがなくなってき
ました。

私たち夫婦には、よく話しかけてきます。やはり話し相手がほしいのだろうなと思います。

高校に行かなくて将来に影響が出ないのかという親の不安も、依然あります。それをあおるよ
うに今何とかしないと、将来大変なことになるという、別のスクールからのお話も聞きました。そ
のスクールに入れると、半年でとんでもない費用がかかります。

(ちなみにN市のUTやRE塾など。二男が通っている、TYスクールではありません)。

しかし本人が今のスクールの先生と相性がよく、スクールもこじんまりしていて、気に入ってい
るようです。彼の意思にまかせています。

これからの彼がどういうふうに自分の道を切り開くのか、見守りたいと思います。

【はやし浩司より】

 掲示板への投稿ありがとうございました。同じような問題をかかえ、同じように悩んでいる多く
の父母にたいして、おおきな励みになると思います。

 TKさんの書きこみの中で、一番重要な部分は、『私たち夫婦には、よく話しかけてきます。や
はり話し相手がほしいのだろうなと思います』という部分です。

 そして息子さん自身が、TKさんに、『本当は高校に行きたいけれど、行ける高校がない』とい
うようなことを、語った部分です。

 すばらしい親子ではありませんか! わかりますか、TKさん。すばらしい親子ですよ!

 今のTKさんには理解できないことかもしれませんが、こうした問題(今、TKさんがかかえてい
る問題)は、終わってみると、「何だ、こんなことだったのか」と、ウソのように静かになります。
あたかも何ごともなかったかのように、終わります。

 私が知るかぎり、例外なく、そうなっています。「時」の流れには、不思議な力があります。そ
の時々は、遅々として進まなく見える時の流れも、終わってみると、あっという間。しかもそのつ
ど、「今」という時点でみると、それまでの過去が、きれいに消えてしまっているものです。

 もともと過去などというものは、どこにもないのですから……。

 だから不安に思わないこと。息子さんは、すでに自分の道を歩み始めています。『高校に行
かなくて、将来に影響が出ないのかという親の不安も、依然あります』という部分ですが、そう
いうことは、まったく、ありません。

 『それをあおるように今何とかしないと、将来大変なことになるという、別のスクールからのお
話』という部分ですが、私の返事は、ただひとつ。『今どき、バカじゃなア〜イ?』です。正直言っ
て、この珍説には、笑ってしまいました。

 何が、将来、大変なことになるのですか? 何をもって、大変というのですか? 学歴信仰の
亡者どもめ!、です。こういうバカがいるから、日本の学歴信仰、学校神話はいつまでたって
も、なくならないのです。コースに乗った子どもだけが正常で、コースからはずれた子どもは、
そうでないという、実にバカげた、まさに日本型非常識が、いまだに、大手を振って歩いてい
る!

 (塾の先生というと、高邁な人格者を想像しがちですが、実際には、レベルが低い人が多い
ですよ(失礼!)。思想や哲学が背景にあって、塾の先生になった人など、ほとんどいません
(本当に、失礼!)。教材の元セールスマンが、そのまま塾の経営者になったりしています。

 何も、元セールスマンが、塾を経営してはいけないと言っているのではありません。ただ金儲
け第一主義で、塾の経営をしている人も、多いということです。)

 そしてその結果、善良な親や、子どもたちが、必要以上に苦しめられるのです。

 しかし何が大切かといって、今のTKさんと息子さんにとって、たがいの(支えあい)ほど、大切
なものはありません。それがあれば、この先、どんな苦労も、問題も、乗り越えることができま
す。

 その(支えあい)のない状態。それを『大変なこと』というのですよ。

 TKさん、まず、あなたが、堂々としていなさい。息子さんは、今、どこか自分を卑下していま
す。しかしなぜそうするかといえば、あなたのシャドウ(心の陰)を引きずっているからです。あ
なた自身の学歴信仰を引きずっているからです。TKさん、あなたには、それがわかりますか?

 あなたが、あなた自身の生き様を、まず示す。それを見て、子どもは、自分の生き様を決め
ていきます。世間体や、世間の目なんて、クソ食らえ、ですよ。どうして自分の道を進んでいる
あなたの息子が、小さくなっていなければならないのですか?

 コースにのって、楽な道を歩んでいる連中のほうこそ、小さくなっているべきでしょう。

 私の長男も、いろいろあって、ある時期、半年ほどですが、道路工事の旗振りの仕事をしまし
た。正直言って、私にしても、つらい時期でした。しかしあるとき、息子のほうが、私に聞きまし
た。

 「パパは、ぼくが、こんな仕事をしていて、恥ずかしくないか」とです。

 道路では、いろいろな人に会います。息子の友人たちにも会います。そういう友人たちが、家
に帰って、親たちに、「あの林の息子が、旗振りをしている」と。(このあたりでは、私も、少しだ
け、よく名が知られた存在なものですから……。)

 みな、陰で、そう言いあっているのが、私にも、よくわかりました。息子も、それを感じたのでし
ょう。それで私に、そう聞きました。

(またそういうことだけを、やたらと大声で話題にするバカが、いるのですね。本物のバカです。
どうして林の息子が、旗振りをしてはいけないのですか?)

 正直言って、「もう少しちがった仕事をしてほしい」と思いました。しかしそれは、仕事そのもの
が悪いというよりも、息子の健康が心配だったからです。夏の炎天下で、しかも排気ガスを、ボ
ンボンと吸い込むような環境です。とても、「よい仕事」とは、言えません。

 私は、「何を恥ずかしがるのだ!」と、長男に言い聞かせました。長男は、「自分を鍛えるた
め、いちばんきびしい仕事をしてみたい」と言って、その仕事を自分で選んだからです。息子が
最初に、私にそう言いました。で、私たち夫婦は、日焼け止めクリームを買ってきて、彼の部屋
の前に置いてやりました。

 最高級品の日焼け止めクリームです。彼の1週間分の給料よりも、高額だったかもしれませ
ん。

 親としてできることは、せいぜい、その程度のことです。

 そのあとも長い時間がかかりましたが、今では、ごくふつうの親子として、たがいに思いやり
ながら、生活しています。そういう「今」から見ると、過去など、何でもありません。

 いいですか、TKさん、今の親子関係だけを信じ、大切にして、あなたは子どものことだけを考
えて、今、できることを、懸命にすればよいのです。そうすれば、必ず、明日は、やってきます。

 今がいちばんつらいときです。しかしこのときも、やがて終わります。これからも苦しいときが
あるでしょう。つらいときも、あるでしょう。しかしどんなときも、『許して、忘れる』。それだけを守
って、前に進みます。

 幸いなことに、……というより、息子さんも、少し無理をしているかなという感じはありますが、
息子さんは、がんばって、フリースクールに通っています。ですからあまり先のことは心配しな
いで、今は今で、懸命にできることだけをすればよいのです。

 あのね、「世間」も、少しずつですが、変わってきましたよ。日本にも、やっと「自由」がやって
きたという感じです。それぞれの生き様を認める時代が、もう、すぐそこまでやってきています。

 そのために、私もがんばっています。TKさんも、どうか、がんばってください。みんなで力を合
わせて、この日本を変えていきましょう! 未熟な国から、成熟した国へと、です。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 不登
校 フリースクール)


【補足】

●自由とは……

 自由とは、あるがままの自分を、さらけ出しながら、あるがままに生きること。他人の目や、
世間体など、気にしない。他人がどう思うと、知ったことではない。それが自由。

 しかし、そんな自由が、この日本にあるだろうか?

 昨日、Tさんという母親から、掲示板に、こんな書きこみがあった。

 Tさんの息子は、高校へ入学はしたものの、そのまま不登校。今は、隣町にあるフリースクー
ルへ通っているという。
 
 そのフリースクール(塾)へ通う途中、Tさんの息子は、まわりの人たちに、かなり気を使って
いるらしい。とくに中学時代の友人たちに会うのを、何よりもいやがっているという。

 しかし、どうして? どうして中学時代の友人たちを気にするのか? どうしてその息子は、あ
るがままの自分をさらけ出して、あるがままに生きることができないのか。

 つまり、ここに、「自由」の問題がある。

 学校へ行かないことは、何も、恥ずべきことではない。アメリカには、学校へ行かないで、家
庭で勉強している、いわゆるホームスクーラーと呼ばれる子どもたちが、約200万人以上もい
る。希望すれば、州政府が、先生まで派遣してくれる。私の二男の嫁の実母が、その仕事をし
ている。

 学校へ行かないことで、差別されることはない。本人も家族も、そしてだれも、それをおかし
いこととは思わない。ついでながら、小学校から高校まで、一度も学校へ行かなかった子ども
でも、現在、ほとんどの大学が、そういった子どもを、受け入れている。

 しかしこの日本では、そうはいかない。日本には、コースというものがある。形というものがあ
る。そのコースからはずれ、形とはちがったことをすることが、たいへんむずかしい。

 他人がそれを許さないというより、自分が許さない。自分の中につくられた、(コース)意識、
(形)意識が、それを許さない。つまり自分で自分をがんじがらめにする。意識というのは、そう
いうもの。こんなことがあった。

 A県で公認会計士をしている友人がいる。その友人が、この町へ遊びにきて、こう言った。私
が「自転車通勤をしている」と話すと、「よく、そんな恥ずかしいことができるなア」と。

 自転車通勤をすることを、彼は、「恥ずかしいこと」というのだ。そしてこう言った。「ぼくらは、
見栄えをよくしないと、仕事ができない」と。彼のばあい、いつも運転手つきの大型車で、それ
ぞれの会社を回るという。「自転車なんかで行ったら、バカにされて仕事にならない」とも。

 しかしどうして、公認会計士が、自転車で通勤をしたら、いけないのか。あるいは、医師が、
自転車で往診をしたら、いけないのか。自転車通勤は、健康には、たいへんよい。立場があ
る? 世間体がある? 地位や名誉がある? それはそれとして、私たちにまわりには、こうい
う一見常識的に見える非常識(?)が、満ち満ちている。その非常識が、自分をしばる。
 
 自由とは、あるがままの自分をさらけ出しながら、あるがままに生きること。他人の目や、世
間体など、気にしない。他人がどう思うと、知ったことではない。それが自由。

 さあて、今、「私は自由だ」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろうか。

(付記)

 一方で、この日本では今、おかしな復古主義が台頭してきている。「伝統」とか、「文化」とか、
そういった言葉を使って、自分を正当化する。こういった言葉は、まさに伝家の宝刀。そういう
意味では、「過去」をぶらさげた人は、強い。改革による失敗よりも、保守による安全のほう
が、居心地がよい。その居心地のよさに中に、どっぷりとつかって、改革を批判する。

 伝統なんて、クソ食らえ! 文化なんて、クソ食らえ! ……というのは、言いすぎだが、しか
しその伝統や文化が、いかに日本人の意識をがんじがらめにしているかということについて、
私たちは、気づくべきではないだろうか。

 大切なことは、それぞれの人が、自分らしく、明るく楽しく生きること。Tさんの子どもについて
言うなら、他人の目や友人たちの目を気にすることなく、堂々と自分の道を歩くこと。通りでだ
れかに会っても、明るい声で、たがいに、あいさつができること。

 それが「自由」。そういう国を、日本もめざそう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
とは 自由論 伝統と文化)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1336)

【雑談・あれこれ】

●6月15日

せっかくの休日なのに、今日は、雨。はげしい雨。とくに決めた計画もなかったので、そのまま
ワイフと、山荘へ。

 ちょうどビワが、収穫の時期を迎えていた。そのビワを、傘をさしながら、取る。おおむね、買
い物袋3杯分。まあまあの収穫。

 で、そのあと、チャーハンを作って、2人で分けて、食べた。まぐろのフレークを、具にして入
れた。おいしかった。

 が、ますます雨ははげしくなる一方。しかたないので、居間で、ビデオを見た。何ともつまらな
い休日。

 タイトルは忘れたが、ビデオは、ブルース・ウイリス主演のものだった。離婚の危機を迎えた
夫婦が、あちこちで袋小路に入りながらも、最後は、離婚の危機を乗り切るという内容。

 ワイフも、私も、じっと見入る。決して、他人ごとではない。私たち夫婦も、離婚の危機を、何
度か経験している。で、そういう立場から、一言。

 夫婦の間では、決して、つっぱっては、いけない。意地を張ってはいけない。かっこうをつけて
はいけない。好きだったら、好きだと言えばよい。いっしょに寝たかったら、寝たいと言えばよ
い。自分が悪いと感じたら、ごめんと言えばよい。

 この世界には、『負けるが勝ち』という言葉がある。夫婦の間では、何があっても、負けるが
勝ち。負けて、負けて、負けまくる。

 私たち夫婦も、最後は、どちらか一方が、自分の負けを認めて、それで片づいた。そのビデ
オもそうだった。

 最後は、妻が、「愛している」「別れたくない」と言ったところで、ハッピーエンド。

 夫婦というのは、決して見つめあってはいけない。いっしょに手をつないで、前だけを見て歩
く。そういうものか。

 言葉では、ヨ〜ク、わかっているのだが……。


●講演

 私がこう言った。「今度の、どこかの講演ではね、こんな話から切り出してみようと思う」と。

 「ぼくがね、こう言うんだよ。『エー、今朝、起きるとワイフが、セックスしたいとねだるものです
から、今朝は、一番にセックスを済ませてきました』とね。みんな、びっくりするだろうね」と。

 ワイフは、「ぜったい、そういう話はしないで」と言った。しかし私には、ねらいがある。

 教育講演会というと、講師たちは、みな、牧師か僧侶が話すような話をする。(私は、そうでは
ないが……。)またそういう顔をして、話す。「聖職」という言葉も、そういうところから生まれた。

 しかしこれほど、不気味なものもない。そういうふうに誤解されるのもいやだ。またそういう仮
面をかぶればかぶるほど、自分がわからなくなる。

 「つづけて、こう言うんだよ。『エー、街角でも、きれいな女性を見たりすると、今でも、ムラム
ラときますね。それは何も悪いことでもなんでもない。そういうふうになるということは、自分が
健康だという、証拠です。漢方でも、精力の(精)と、精神の(精)は、同じものと教えます。(精)
というのは、もともとは、食事から得られる(精微な物質)という意味です。

わかりやすく言えば、エネルギー源ということです。つまり、精力のある人は、精神も、それだけ
タフということになります。その反対でもいい。

 そんなわけで、スケベであることは、何ら、恥じるべきことではありません。健康な人ほど、ス
ケベです。若い男性なら、なおさらです」と。

ワ「どうして、そんな話をするの?」
私「いいか、自分らしく生きるということは、自分をさらけ出して生きることをいう。自分も、広く
見れば、人間の一部だろ。自分が考えたり、したりすることは、自分を超えた人間のすること
さ。その人間について、話す」
ワ「でも、そんな話は、やめてよ」
私「だからさ、そう言ったあと、こう言えばいい」と。

 「先ほど、私のワイフの話をしました。みなさん、それを聞いて、ドキッとしたと思います。教育
講演会で、セックスの話をするなんて……と、思った人も多いかと思います。しかしね、みなさ
ん、それこそ、偏見です。

私は、みなさんに、ドキッとしてもらうため、あえて作り話をしてみました。『ワイフがねだった』と
いう話は、ウソです。が、しかし、男というのは、24時間のうち、20時間は、(女)のことを考え
ています。あのフロイトも、人間の生きる原点には、(性的エネルギー)があると説いています。

 私は、ありのままの私を、ありのままに話す。それが講演ではないかと思うのです。それがわ
かってほしかったから、あえて作り話をしてみました」と。

 あとは、いつものように、ありのままを話せばよい。飾ることはない。教育評論家だと、気取る
こともない。気負う必要もない。聖人ぶればぶるほど、疲れる。講演をし終わったあと、気分も
悪い。

私「今は、心のどこかで、気負っている」
ワ「そうね」
私「だろ。でもね、もうあと数年もすれば、そういう気負いも取れるかもしれない。そうなれば、
ぼくは、ありのままの自分で、ありのままの教育論を、みなに、話すことができるようになる」
ワ「……」
私「だから、少しずつ、そういう自分に向けて、話す準備をしたい。それができたとき、ぼくは、
それを最後の講演としたい」
ワ「最後?」
私「そう、それでおしまい。二度と、講演なんか、しない。そろそろ体力も、もう限界に近づいて
きたしね」と。

 タラタラと話す講演もあるかもしれないが、しかし私のばあいは、いつも全力投球。2時間なら
2時間、ぶっつづけで話す。それはまさに、体力との勝負。気力との勝負。たまに、私の公演中
に、居眠りをしたり、雑談をする人もいるが、それは私の講演では、例外。ぜったい、そういう
スキは与えない。

 そういう講演ができなくなったら、私も、おしまい。そうなったら、講演は、もうやめる。

 終わりにワイフも、こう言った。

 「講演は、もう、何回しても同じね。聞いた人は、そのときは、あなたのことを覚えているかも
しれないけど、1、2年もすると、みな、忘れてしまうから……」と。

 さみしいが、講演の世界というのは、そういうもの。はっきり言って、何も残らない。私のほう
にも、残らないが、聞いてくれるのほうの人にも、残らない。そういう(限界)が、このところ、強く
感ずるようになった。


●サッカーW杯

 対オーストラリア戦の後遺症が、まだ残っている。このところ、W杯のニュースを見聞きする
たびに、気が重くなる。日本は、そのオーストラリアに、1−3で負けた。

 負けた理由については、毎日のように、あちこちで解説している。まあ、理由はともあれ、負
けたのだから、し方ない。ゲームは、ゲーム。

 次回は、クロアチア戦。そしてそのあと、ブラジル戦へと、つづく。どうなるのだろう? ジー
コ・JAPANで、はたしてだいじょうぶなのだろうか?

 それにしても、選手のみなさんは、たいへんだ。どんな気分でいるのだろう。勝てば英雄だ
が、負ければ、批判の矢面(やおもて)に立たされる。サポーターというのは、そういう意味で
は、二面性をもっている。やさしいが、同時に、こわい。

さて、日本が決勝リーグ戦に出られるためには、クロアチアとブラジルをくださねばならない。と
もにきびしい戦いになりそうだ。

 ハラハラ……。

 やはり今度の対クロアチア戦は、もう試合を見ない。私には、刺激が強すぎる。対オーストラ
リア戦を見た夜は、それから1時間以上も、寝つかれなかった。が、もし日本が負ければ、この
梅雨時(つゆどき)の私の楽しみは、完全に、文字通り、露(つゆ)と消える。

 どうかどうか、日本の選手のみなさん、がんばってくれ! 頼むウ〜〜〜〜〜!!
(06−6月15日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1337)

【今を生きる】

++++++++++++++++++

今を生きる。
口で言うのは簡単なこと。
しかしその「今」を生きることは、
たいへんなこと。きびしい。

++++++++++++++++++

●いつか死ぬ。だから生きる。

 病気があるから、健康のありがたさが、わかる。同じように、死があるから、生きることのあり
がたさが、わかる。

 もし病気がなかったら、健康のありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 もし死がなかったら、生きることのありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 しかし病気も、そして死も、できれば、避けたい。病気はまだしも、死は、その人の(すべての
終わり)を意味する。つまり人は、死によって、すべてをなくす。「私」という自分のみならず、こ
の宇宙もろとも、すべてをなくす。

●生きることの不安

 ……そう考えることは、たいへん不安なことである。つまり死ぬことを考えると、不安でならな
い。しかしその不安が、「今」を生きる、原動力となる。「かぎりある人生だからこそ、今を懸命
に生きよう」と。

 こうした死生観、それにつづく「不安」を説いたのが、あのドイツのマルティン・ハイデッガー(1
889〜1976)である。ハイデッガーは、フライブルク大学の総長をしていたとき、ナチス支持
の演説をしたことで、戦後、批判の矢面(やおもて)に立たされた。そういう側面は別として、彼
が残した業績は大きい。実存主義の骨格を作ったと言っても過言ではない。

 ハイデッガーの説いた、「存在論」、「実存論」は、その後、多くの哲学者たちに、大きな影響
を与えた。

●不安との戦い

 で、話を少し、もどす。その不安を感じたとき、どうすれば、人は、その不安を解消できるか。
つまり生きることには、いつも、何らかの不安がともなう。それはたとえて言うなら、薄い氷の上
を、恐る恐る、歩くようなもの。その薄い氷の下では、いつも「死」が、「おいでおいで」と、手招
きしている。そういう不安を、どうすれば解消することができるか。

 そういう点では、実存主義は、たいへんきびしい生き方を、人に求めるていることになる。今
を生きるということは、「私は私であって、私にかわるものは、だれもいない」という生き方のこ
とをいう。

 たとえば地面を歩くアリを見てみよう。

●私しかできない生き様

 あなたがある日、その中のアリを一匹、足で踏みつけて殺してしまったとする。しかしそれで
アリの世界が変わるということはない。アリの巣はそのまま。いつしかそのアリの死骸は、別の
アリによって片づけられる。そのあと、また何ごともなかったかのように、別のアリがそこを歩き
始める。

 そういうアリのような生き方をする人を、ハイデッガーは、「ただの人」という意味で、「das M
ann」と呼んだ。わかりやすく言えば、生きる価値のない、堕落した人という意味である。

 今を生きるということは、だれにも、自分にとってかわることができないような生き方をするこ
とをいう。社会の歯車であってはいけない。平凡で、単調な人生であってはいけない。私は、ど
こまでも私であり、私しかできない生き方をするのが、「私」ということになる。

●宗教

 少しわかりにくくなってきたので、話をわかりやすくするために、こうした生き様の反対側にあ
る、宗教を考えてみる。

 ほとんどの宗教では、「あの世」「来世」を教えることによって、この世を生きる私たちの不安
を、解消しようとする。「あの世がちゃんとあるから、心配するな」と。

 つまりほとんどの宗教では、死後の世界を用意することで、「死」そのものを、無意味化しよう
とする。実際、あの世があると思うことは、死を前にした人たちにとっては、それだけでも、大き
な救いとなる。あの世に望みを託して、この世を去ることができる。

 しかし実存主義の世界では、あの世は、ない。あるのは、どこまでも研ぎ澄まされた、「今」し
かない。が、そうした「今」に、耐えられる人は、少ない。私が知る人に、中村光男がいる。

●中村光男

 一度だけ、鎌倉の扇が谷の坂道で、すれちがったことがある。中村光男の自宅は、その坂
道をのぼり、左側の路地を入ったところにあった。恩師の田丸先生が、小声で、「あれが中村
光男だよ」と教えてくれた。私は、それを見て、軽く会釈した。

 その中村光男は、戦後の日本を代表する哲学者であった。ビキニ環礁での水爆実験の犠牲
となった、第5福竜丸事件以来、反核運動の旗手として活躍した人としても、よく知られている。

 その中村光男ですら、死ぬ1週間前に、熱心なクリスチャンであった奥さんの手ほどきで、洗
礼を受け、クリスチャンになったという。何かの月刊誌にそう書いてあった。

 私はそれを知ったとき、「あの中村光男ともあろう人物が!」と驚いた。つまり「死」は、それ
ほどまでに重大で、深淵である。だから今の私には、実存主義的な生き方が、はたして正しい
のかどうか、わからない。またそれを貫く自信は、ない。

●あの世はないという前提で生きる

 だがこれだけは言える。

 私は、今のところ、「あの世」や「来世」は、ないという前提で生きている。見たことも、聞いた
こともない世界を信じろと言われても、私にはできない。だから死ぬまで、懸命に生きる。私で
しかできない生き方をする。

 あの世というのは、たとえて言うなら、宝くじのようなもの。当たればもうけものだが、しかし最
初から、当たることを前提にして、予算を立てるバカはいない。

 その結果、いつか、死ぬ。私とて、例外ではない。で、そのとき、あの世があれば、もうけも
の。なくても、私という(主体)がないのだから、文句を言うこともない。

●そこで私は……

 そのハイデッガーは、1976年に死去している。私がこの浜松で、結婚し、ちょうど二男をもう
けたころである。彼の死が、全国ニュースで報道された日のことを、私は、つい先日の日のよう
に、よく覚えている。その少し前の1970年に、あのバートランド・ラッセルが死んでいる。実存
主義の神様と言われる、(実存主義の神様というのも、矛盾した話だが……)、ジャンポール・
サルトルは、1980年に死んでいる。

 みんな、どんな気持ちで死んだのだろうと、今、ふと、そんなことを考えている。

 そうそう中村光男だが、田丸先生の家の前の家に住んでいた。で、彼が死ぬ1週間前に、ク
リスチャンになった話を田丸先生にすると、田丸先生は、どこか感慨深げに、ポツリとこう言っ
た。「あの中村さんがねえ……」と、

 田丸先生も、それを知らなかったらしい。

 このエッセーをしめくくるために、最後に一言。

●ドラマにこそ、価値がある

 こうしてみなが、それぞれ一生懸命に生きている。その生きることから生まれるドラマにこそ、
私は、価値があると思っている。実存主義であろうと、なかろうと、そんなことは構わない。だれ
が正しいとか、正しくないとか、そんなことも、構わない。

私は、そのドラマにこそ、人間の生きることのすばらしさを感ずる。
(06年6月15日の夜に……)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ハイ
デッガー サルトル ジャンポール・サルトル バートランド・ラッセル 実存主義 はやし浩司 
存在論 実存論)


●【das Mann】

++++++++++++++

ただの人で、終わるのか。
あるいは、ただの人でない人生を送るのか。

それはそれぞれの人の勝手。

他人がとやかく言うべき問題ではない。

しかし……。

++++++++++++++

 ハイデッガーは、その人がいなくても、別のだれかが、その人のかわりができるような生き様
をしている人のことを、どこか軽蔑の念をこめて、「das Mann」と呼んだ。「ただの人」という
意味である。

 わかりやすく言うと、こうなる。

 私が私であるためには、「私」でなければならないということ。私がいなくても、ほかのだれか
が私のかわりをしてくれるだろうというような生き方をしている人には、「私」は、ないということ。

 そういう意味では、平凡は美徳だが、その平凡からは、何も生まれない。仮にその人がいなく
ても、社会は、何も困らない。その人のかわりができる人は、いくらでもいる。

 そこで実存主義の世界では、「私」の追求こそを、何よりも重要視する。「私らしさとは何か」
「私らしくあるためには、どうすればよいのか」「私が私であるためには、私はどうあればよいの
か」と。

 つまり「死」という限界状況の中で、とことん、今というときを燃焼させて生きる。それが「私」と
いうことになる。

 一方、宗教の世界では、むしろ「私」を捨てさせ、信仰に身を寄させることで、その人の心の
救済をはかる。「私」は、むしろ、敬遠(けいえん)される。一方、「私」がある人は、信仰そのも
のができない。信仰するためには、みなに、同化しなければならない。仏教で言う、「異体同
心」という言葉も、そこから生まれた。

 体は別々でも、心はひとつという意味である。

 どちらの生き方が正しいのかは、私にはわからない。またどちらの生き方を選ぶのかは、そ
れぞれの人が決めることである。

 ただ実存主義の世界には、宗教の世界でするような、布教活動というのは、しない。もとより
そういう活動は、なじまない。つまり、他人の生き様には、干渉しない。「どうぞ、ご勝手に!」と
いう姿勢を貫く。

 私は私という生き様は、どこまでいっても、私は私なのである。

 ただの人であっても、またただの人でなくても、どうせ死ねば、みな、同じなのだから……。

 ……という生き方は、あまりにも、さみしい。「私」が死ねば、この宇宙もろとも、すべてが消え
るという考え方は、(実際、そうなのだろうが)、あまりにも、さみしい。

 そこでどうだろう、こう考えては……?

 私たちは、「私」を超えた、大きな生命の流れの中で生きている、と。たとえて言うなら、私
は、波間に浮かぶ、泡のようなもの。その泡は、生命というおおきな波のうねりの上にある。
「私」はただの泡かもしれないが、それは同時に、おおきなうねりの一部である。泡は消えて
も、うねりは、なくならない。

 おおきなうねりは、うねるたびに、これまた無数の泡をつくる。そしてこれまた無数のドラマを
作っていく……。

 それについては、以前、こんな原稿を書いた。そのまま添付する。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●業(ごう)

 仏教の世界には、「業(ごう)」という言葉がある。「悪業」「善業」というような使い方をする。

 この「業」について、私のような凡人が、軽々しく論ずることは、許されない。この一語につい
てだけでも、仏教学者たちは本を書くほどである。

 業……「広辞苑」には、こうある。「行為。行動。心や言語の働きを含める。善悪の業は、因
果の道理によって、のちに必ずその結果を産むというのが、仏教および、多くのインドの宗教
の説」と。

 ついでに、「日本語大辞典」のほうでは、こうなっている。「仏教で、身・口・意(しん・く・い)(身
体・言葉・心)によって成す善悪の行為。カルマ。のちの世にある結果をもたらす前世の行為」
と。

 それを「業」と言ってよいのかどうかは知らないが、最近になって、私は、その「業」らしきもの
を、よく感ずる。

 まず生命そのものが、大きな流れの中で、つながっている。それは大海原(うなばら)のうね
りのようなもの。もしその中に「私」がいるとするなら、そのうねりの中でざわめく、小波(さざな
み)程度のもの。

 いくら「私は私だ」と叫んでも、髪の毛1本、私が設計したわけではない。その大海原は、数十
万年という、気が遠くなるほどの昔からつづいているし、私が死んだあとも、何ごともなかった
かのように、さらに永遠につづいていく。

 が、その中で、私は懸命に生きている。その懸命に生きるという行為そのものが、私の前の
時代に生きた人から、そしてつぎの時代に生きる人に対して、何かの橋渡しをすることにすぎ
ない。私は、それが「業」ではないかと思う。

 仏教学者の人が、この解釈を読んだら、吹きだして笑うかもしれない。

 しかし私は残念ながら、「生命」の永遠性は認めても、「個」の永遠性は認めない。私個人に
ついて言えば、私に、前世などあるはずもないし、来世などあるはずもない。「私」が死ねば、
私もろとも、この大宇宙すら、消えてなくなる。

 しかしここで私が、何かの「善」をなしておけば、その善は、つぎの世代に伝えることができ
る。もちろん「悪」をなせば、その悪も、何らかの形で、つぎの世代に残ることになる。

 親子関係というせまい範囲の話ではない。人間全体という、もっと広い世界の話である。

 つまり「私」自身が、前の世代の人たちのなした、「悪業」や「善業」を、そのままひきついでい
ることになる。私の中には、私であって私である部分と、私であって私でない部分が、広く混在
している。

 その(私であって私でない部分)こそが、まさに、「業」のなさせるわざということになる。たとえ
て言うなら、今、韓国や中国では、反日運動が燃えさかっている。彼らが反日的であるというの
は、よくわかる。

 しかし戦後の生まれの私が、どうしてそういう反日運動を見ながら、不愉快な思いをしなけれ
ばならないのか。本来なら「私は関係ない」と逃げることだって、できるはず。が、彼らは、戦前
の植民地時代をむしかえしながら、日本を非難する。攻撃する。

 それも考えてみれば、先に述べた、「大海原のうねり」のようなものかもしれない。私を超えた
ところで、人間社会全体が、その「うねり」の中にある。

 そこで仏教ではさらに、「因果を断つ」という言葉を使う。

 そのうねりの中に、つぎの世代に伝えてはならないものを感じたら、その段階で、その流れ
を、断っておく。反日感情についていうなら、もう私たちの時代でたくさん。うんざり。だから、
今、それを解決しておく。

 先のアジアカップ杯のときもそうだ(04年)。決勝戦は、中国の北京で行われた。中国人側サ
ポーターたちは、「(日本人を)殺せ!」「殺せ!」と叫んでいた。

 しかしそのサッカーをしている選手たちは、私よりさらに戦争とは無縁の、私たちのつぎの世
代の人たちである。私は、その光景を見ながら、何とも、申し訳ない気持ちにすらなった。

 そう言えば、話は少しそれるが、私の恩師にTK氏という人がいる。もうすぐ90歳になる人だ
が、ごく最近まで、内科医をしていた。そのTK氏に、私が、こんな話をしたことがある。

 「香港や台湾へ行っても、日本人だとわかると、高額な値段を吹っかけてきます。それで私は
英語だけをしゃべり、ハワイ人だと言います。すると、値段が、すべて半額程度になります」と。

 その話を聞いて、TK氏は、こう言った。「みんな、私たちが悪いのです。そういう話を聞くと、
戦争を遂行した私たちとしては、申し訳ない気持ちになります」と。

 そういう人もいる。が、その一方で、「Y神社を参拝しないような政治家は、政治家としての資
格はない」などと、どこまでも時代錯誤的な、はっきり言えば、ノーブレインな政治家もいること
も、これまた事実。仏教的な「業」の知識が少しでもあれば、絶対に出てこない言葉である。

 で、話をもどす。

 この「業」だが、大切なことは、善業を重ねるということ。しかも「私」という世界を超えて、それ
をするということ。

 人が見ているとか、見ていないとか、そういうことは、関係ない。人に認められるとか、認めら
れないとか、そういうこととも関係ない。善業を重ねたところで、社会的に成功者になるとはか
ぎらない。「業」というのは、そういう意味で、「私」をはるかに超えている。もっと言えば、人間全
体の問題ということになる。

 何ともむずかしい話になってしまった。が、簡単に言えば、私たちは懸命に生きながらも、そ
の生きるという行為を、私だけのもので終わらせてはいけないということ。心のどこかで、人間
全体のことも考えながら、生きなければならないということ。

 それが「業」ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 業 
善業 悪業 カルマ 因果応報)

【付記】

 善人が必ずしも、成功するわけではない。同じように、成功している人の中には、結構、悪人
も多い。むしろ現実の世界では、こうしたケースが、多い。

 まじめに、コツコツと生きている人が損をし、貧しい生活をしている。その一方で、悪いことを
し放題している人が、豪勢で、よい生活をしている。「いつか、いいこともあるだろう……」と信じ
て生きる人ほど、その結果が現れてこない。「いつか、バチが当たるぞ……」と思う人ほど、ス
イスイと、楽な生活をしている。

 こういう現象だけをとらえて、「業」を考えてはいけない。

 「業」というのは、個人を超えた、はるかに大きな生命の(うねり)のようなものをいう。個人と
いうのは、そのうねりの上ではじける、波のアワのようなもの。小さなアワだけを見て、うねりの
価値を決めてはいけない。

 中には、「私」という個人を超えて、大きなうねりのために生きている人だって、いる。貧しい
生活をし、有名でもなく、損ばかりしていても、人類全体、生命全体のことを考えて、生きている
人もいる。

 それを善業と呼び。そういう人こそ、善人と呼ぶにふさわしい。

 善業、悪業を考えるときは、そんなことも、頭のすみに置いておくとよいのでは……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 因果
応報 善業 悪業 うねり 泡 アワ)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1338)

【近ごろ・あれこれ】

●支持率、10数%

 韓国のN大統領の支持率が、現在(06年6月)、10数%しかないという。与党ウリ党の支持
率は、もっと低く、10%前後(中日新聞)。

 が、当のN大統領は、そうした支持率をものともせず、今の今も、親北政策を続行中。「K国
がミサイルをうちあげても、親北政策は、影響受けない」とまで、言い切っている。

 N大統領の脳みそは、いったい、どうなっているのか?


●認知症ドライバー

 先日、NHKで、認知症ドライバーについて報道していた。わかりやすく言えば、頭の機能が
悪くなった、老人ドライバーの問題である。

 実は、私も、15、6年前に、その認知症ドライバーを経験している。乗った車が、まずかっ
た。運転してくれたのは、当時、75歳くらいの男性。2人で、共通の友人宅を訪問するときのこ
とだった。

 恐ろしいなどというものではない。往復、1時間ほどいっしょに乗ったが、その間中、生きた心
地がしなかった。

(1)運転中も、家をさがすため、横を見てばかりいた。(前を見ない。)
(2)細い路地でも、50〜60キロ前後の猛スピードで飛ばす。
(3)突然スピードを出したり、突然ブレーキを踏んだりの繰りかえし。
(4)信号は、ほとんど、無視。赤信号でも、左右に車がいないとそのまま走る。

 あとでその老人の息子夫婦に会ったので、そのことを話すと、息子氏は、こう言った。「オヤ
ジのヤツ、いくら言っても、車の運転をやめないので困っているんです」と。

 しかし認知症と診断されたら、車の運転は、やめるべきではないのか。あるいは運転免許証
を取りあげる。認知症の人が事故を起こすのはかまわない。が、事故を起こされた相手の人こ
そ、えらい迷惑。いろいろ事情のある人もいるようだが、やはりやめるべきではないのか。

 ときどき、それと思われる老人ドライバーと、自転車ですれちがうときがある。そのたびに、ヒ
ャッとさせられる。


●1年の長さ

 三男が、自分のBLOGの中で、こう書いている。

 「この1年ほど、今までに長く感じた1年はなかった」と。

 同じ1年だが、私には、短かった。年々、1年が、短くなっていくように感ずる。と、同時に、私
にも、三男が感じているような時代があったのを思い出す。

 私が、オーストラリアで学生生活をしていたときのことだ。当時、私は、金沢での学生生活の
1年よりも、オーストラリアでの1日のほうを、長く感じた。決して、大げさなことを言っているの
ではない。本当に、そう感じた!

 ちょうど3か月目の、ある朝のことだった。私はそのとき、「まだ3か月しか過ぎていないの
か!」「まだこういう生活が、9か月もつづくのか!」と、驚くと同時に、胸が張り裂けんばかりに
うれしかった。

 私のまわりの、すべてのものが、黄金色に輝いていた。そんな時代だった。それをつい昨日
のできごとのように、鮮明に覚えている。

 私にとっては、充実した毎日だった。それを思い出しながら、今、三男がそういう状態にいる
ことを知る。そして喜ぶ。

(付記)

 年配の人たちは、みな、こう言う。「年を取れば取るほど、1年を短く感ずる」と。

 それは私も同感。正月が近づいてくると、「もう正月か」と思う。そして正月が終わると、「もう
正月から半年も過ぎたのか」と思う。こうしてあっという間に、1年が過ぎていく。

 とくに、死んだ人の1年は、早い。

 隣人のRさんが、死んで、もう1年になる。いや、正確に計算してみたら、実は、2年。……そ
ういうふうにして、死んだ人は、さらに私から遠ざかっていく。

 1日を、1年のように生きる。それは決して、不可能ではない。不可能ではないことは、私は
知っている。三男も知っている。


●トイレ通信

 トイレの中に、一冊のメモ帳が置いてある。家族の連絡用に、使っている。

 面と向かっては話せないようなことでも、そのメモ帳には、書ける。本音を書ける。私とワイ
フ、それに長男。ときどき、客人が、メモを残していくこともある。

 しかしこれには条件がある。

 トイレはもとより、便器その他、すべて、ピカピカの状態であること。薄暗く、薄汚いトイレの中
では、それはできない。

 私は、毎日、毎回、自分のうちのトイレだけは、ピカピカにみがいている。消毒もしている。そ
ういうところだから、みなは、メモ帳に、メモを書き残すことができる。安心して……。(多分?)


●ウィルス定期便

 このところ、毎朝欠かさず、(欠かさずだ)、8:50〜9:00という、短い時間帯に、ウィルス入
りメールが、1通、届く。プロバイダーのほうで、2重のチェックを受けているので、私のところに
届くことはない。ただ、プロバイダーのほうから、その旨、連絡がある。「ウィルス入りメールな
ので、削除しました」とか、なんとか。

 ほかの時間帯にもウィルス入りのメールが届くことがあるが、しかし時間は、まちまち。しかし
どういうわけか、毎朝、この時間帯に、ウィルス入りメールが、必ず、1通、届く。

 だれかのパソコンにウィルスが侵入していて、そのパソコンには、私のメールアドレスがあ
る。そのだれかは、毎朝、8:50〜9:00の間に、パソコンを立ちあげる。それでその時間帯
に、私のところに、ウィルス入りのメールが届く。どうやら、そういうことらしい。

 どこのどなたか知りませんが、(1)私のアドレスが、アドレス帳にあり、(2)毎朝、8:50〜9:
00の間に、パソコンを立ちあげる人がいたら、どうか、一度、ウィルスチェックをしてみてほし
い。

 これは世のため、私のため。そしてあなた自身のため。


●竹林

 私の家の横の空き地は、そのまま竹林になっている。以前は、空き地だったが、今は、竹
林。この時期は、笹竹といって、直径が2センチ前後の細い竹が、無数に生えてくる。

 そこで私の出番。運動には、最適。空き地のおばちゃんが、ひとりでその竹を切っていたの
で、合流。「手伝いましょうか」と声をかけると、すっかり気をよくして、あれこれ私に指示してき
た。

 「このあたりを切ってよ」
 「下の根元のほうを切ってよ」
 「長すぎると処分に困るから、半分くらいに切ってよ」と。

 しばらく竹を切っていると、上半身が汗でダクダクになった。それに蚊。腕や顔を容赦なく刺し
てくる。蚊も必死だ。追い払ったくらいでは、逃げていかない。私の手でパシッとつぶされるま
で、そこにいる。

 死ぬほど、私の血はうまいのか? あるいは私の血を吸えるなら、死んでもかまわないとでも
思っているのか?

 あとでそのことを、ワイフに話すと、ワイフは、ケラケラと笑った。「きっと蚊にしてみれば、死
ぬほど、人間の血はおいしいのかもね」と。

 ところで、竹を切るときは、2つのことに注意しなければならない。

(1)枯れた竹の枝は、危険。扱い方をまちがえると、目を突いてくる。竹を切るときは、ゴーグ
ル、もしくは、メガネは、必需品。

(2)竹林では、ぜったいに転(ころ)んではいけない。転んだ拍子に、切った竹が体に突き刺さ
ることがある。実際に、本当に死んだ人がいる。

 そんな話をしながら、ワイフに体中に、かゆみ止めを塗ってもらった。

「今度から、(防虫)スプレーをかけてから行きなよ」と、何度もワイフに叱られた。


●1日を、1年にして、生きる

 1日を、1年にして生きるためには、それだけ刺激的な環境に、自分を置かねばならない。
と、同時に、その環境の中で、前向きに生きなければならない。

 「見るもの、聞くもの、すべてが珍しい」という世界で、前向きに生きてこそ、人は、1日を、1
年にして生きることができる。今できることは、今、する。この瞬間にできることは、この瞬間に
する。決して、あと回しにしない。

 平凡は、それ自体、美徳だが、平凡な人生からは、何も生まれない。感動もない。だから10
年生きたとしても、ふりかえってみると、あっという間に終わってしまう。

 こわいのは、老後。サラリーマンで言えば、退職後。過ごし方をまちがえると、それこそ、その
あとの30年を、そのままムダにしてしまう。事実、そういう人は、多い。

 では、どうすればよいのか?

 時の流れは、どの人にも、みな、平等にある。その時の流れをうまくつかんで、今という時を、
2倍とか、3倍とかに、ふやして生きる。

 そうすれば同じ人生でも、2倍とか、3倍とか、長く生きることになる。損か、得かということに
なれば、そのほうが、得に決まっている。

 そこで大切なことは、まず自分の生活を、より刺激的にすること。わかりやすく言えば、新しい
ことには、どんどんと挑戦していく。自分の世界を広める。新しい人と出会い、その人の人生を
知る。

 つぎに大切なことは、そうした刺激的な世界で、決して、逃げ腰にならないということ。

 私はこのことを、子どもの世界を見ていて、気づいた。

 子どもにも、前向きにどんどんと伸びていく子どももいれば、そうでない子どももいる。伸びて
いく子どもは、何かにつけて、挑戦的。ダンスをしたかと思えば、今度は管楽器に挑戦。それ
が一巡すると、つぎに、「フルートを吹いてみたい」と言ったりする。

 そうでない子どもは、そうでない。「やりたくない」「できない」と、自分から逃げてしまう。

 同じ時の流れの中にありながら、前向きな子どもは、その時を、2倍とか、3倍にして生きる。
そうでない子どもは、そうでない。

 つまりそのことは、そっくりそのまま、老後、もしくは退職後の私たちについても、言える。言
いかえると、自分の人生を長く生きるのも、短く生きるのも、つまるところ、私たちの心構えしだ
いということになる。

 さあ、がんばろう! 「私も、年だ」と決して、あきらめてはいけない。逃げてはいけない。その
気になれば、1日を、1年は無理だとしても、1日を、1か月にして生きることは、まだまだ可能
である。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【掲示板より】(ある女の子の、保健室登校)

+++++++++++++++++

掲示板にこんな書き込みがあった。
ある学校で、1人の児童(女児)を
世話している、先生からのもの。

以前からのメールのやり取りを通して、
私が知っている範囲で、私のほうで、
少し内容を補った。

+++++++++++++++++

【Sより、はやし浩司へ】

今日までで、(私が担当している、Mさんが)、急激に変わってきました。そして新たな問題が出
てきました。

私は、いろいろな副次的な問題が起きてくるだろうと予想していたので、あまり気にはならない
のですが、養護教諭は、そうではありません。

養護教諭は、「私は専門のカウンセラーだから」と言いますが、どうしても、すべてを信用できな
いでいます。イヤミがひどく、「私には、問題もなく、とってもいい子なのに!」と、言うばかりで
す。

これは愚痴ですね。すみません。で、本題です。

保健室入り口に木の柱があります。その柱に、私の名前が、ハサミのようなもので、強くひっか
いて書いてあり、その横に、「○○のばか」と彫られていました。

Mさんは私のあとをおいかけてきて、よく、保健室隣りの更衣室までついてきます。きっとその
とき、Mさんが書いたものだろうと思います。

私のあとを追いかけて、更衣室まで一緒に来るとき、いろんな子がついてくるときがあります。
ADHD児、クラスの児童などなど。それがどうも、Mさんには、不満なのかもしれません。

その養護教諭は、「この子(=Mさん)には、二面性があります。かまってやれば、嬉しそうな顔
をするけど、そういう様子をして見せるのは、私(=養護教諭)に、○○先生(=私)がうるさ
い。何とかしてほしいという訴えているからです。○○先生もよくやってくださっています。あなた
が悪いのではありませんが、分離不安なら、私がめんどうをみます」と。

Mさんが、分離不安であることは、もちろん、この先生もよく知っているはずです。が、Mさん
が、保健室に行くたびに、「忙しい忙しい」と、ほとんどMさんの世話をしませんでした。たとえば
私がいないときは、Mさんに、忙しいから教室へ行ってなさいと、廊下に出したりします。だれも
Mさんのめんどうを見ないからこそ、私がついていたのですが・・・・。

私はこう思います。Mさんは、心のバランスをとっているのではないか、とです。ものすごく頑張
り屋なところがあり、私のことを受け入れ始めた時に、他の子に邪魔され、むかむかしたので
はないでしょうか。嫉妬のような感情です。

そこでこうした悪口を、こっそり書くことで、自分の心の中の不満を、解消してるんじゃないか
な?と。もしそうなら、これくらいのことは何でもありません。だって、Mさんは、家でも、母親
に、受け入れてもらえないんですから。

が、このように養護教諭に言われると、また学校で、学校の方針とは違った方向に、私は、行
きそうになってしまいます。

「私はカウンセラーだから!」「いらぬことは言うな」という養護教諭。それとも、私が、まちがっ
ているのでしょうか。

下にも書きましたが、Mさんが、ここにきて、急に「保健室に行く」と言わなくなりました。「無理
なら保健室行く?」と聞くと、「ここ(=私の教室)がいい」と言います。このMさんの言葉と、養
護教諭とは、関係があるでしょうか。無理をさせないようにとしてきたつもりなのですが、どこか
で無理をさせていたのでしょうか。

しかし、私の悪口を書いたのが、Mさんではなく、他の子だったらどうでしょうか。それもまた、
あれこれと考えてしまいます。

今までの経緯を、もう少し、お話しします。

以前の不登校の状態から、今は、保健室で1日を過ごすようになりました。養護教諭も同じ部
屋で、私といっしょに仕事をしています。私はMさんと、折り紙を折ったり、ごっこ遊びをしたり、
漢字を学習したりしています。そういうときのMさんは、とてもいい笑顔を見せます。私も、ずっ
とつきっきりで、Mさんを指導しています。

が、教室には全く行けません。時々、「(教室へ)行ってみる」と、Mさんが自分から言うので、教
室へ向かうと、その途中で、「恐い」「○○さんがああ言った」「みんながいる。恐い」「気持ちが
悪い」「担任の先生が恐い」などと言い出したりします。

毎朝、無理にはがすようにお母さんと引き離し、Mさんは、泣いてお母さんと、別れます。「ママ
がバイバイって言ってくれなかったー」から始まり、そのあとは、とお母さんの悪口。「ママはこ
んなにひどい」と、です。

この状態を段階を1とするなら、2の段階はこうです。

朝、学校の靴箱のところで、なんとかお母さんと、泣かないで離れる。午前の4時間の内、私が
付き添うのは3時間。その間中、教室前の廊下で過ごしています。

担任はそれをいやがっているようですが、私と一緒に廊下で、授業。そういうときMさんは、
時々、教室の中の様子をうかがったりします。私も時々、いっしょに教室の中に入り、「入れる
かな〜?」と、たまに声をかけたりします。

が、Mさんは、「気持ち悪い」「無理」とか言います。下痢も頻繁に訴えたりします。Mさんの訴
えることについては、全部聞くようにしています。「無理しなくていいのよ。気持ちが悪ければ保
健室でもいいのよ。お腹が痛ければトイレにいけばいいのよ」と。

ほかにMさんが、悪口を言われていると言ったようなときには、「つらかったねー」となだめた
り、教室に入りたくなさそうなときには、「廊下でノートを広げればいいのよ」と。少しでも教室に
入ることができたときには、「すごいねー。がんばったねー」と、抱いたりします。

それをしていると、全体の1時間分くらいは、教室へ入れるようになります。担任へも「無理は
やめましょう。きっといつかは入れますよ」と話したりしています。

午前中は、赤ちゃん言葉を使うことが多いようです。時間がたち、教室に入れるころになると、
「こんなのできない〜!」などなど、文句がたくさん出るようになります。でも、つぎの瞬間、「は
っ!」と、私の顔色をうかがったりします。・・・そのときは、家では、お母さんに厳しく言われて
いるのかなと感じましたが。

そこで軽くたしなめると、Mさんは、えへへ・・・と笑ったりします。

休み時間は、教室の前では嫌だというので、子どもの少ないところへつれていきます。休み時
間中、抱きしめてあげたりします。ほかの先生がその場を通りかかり、先生に、「ア〜甘えてる
〜」と言われても、Mさんは、「いいもん!」と答えたりしています。

授業開始前にMさんを説得し、、教室前へ連れて行くこともあります。が、私のあとを追いかけ
るばかり。トイレまでついてきます。

が、学校側の指示で、Mさんから離れ、本来の業務にもどるようという話が出たので、授業中
は、1時間の中で、行き来しながら、少しずつ離れるようにしています。(5分〜10分間隔くらい
です。)

苦労して、3時間かけて、やっと入った教室。みんなと同じようにドリルをし、先生の列に並ぶ。
が、担任から一言。「申し訳ないですが、先生、今こんな事をしている場合じゃないんですよ。
○○体験の絵と文をかかせてください。掲示するのに困るんです」と。

私にとっては、なんとも悲しい言葉。やはり担任の先生は、何も分っていないのか・・・・。

ただ、Mさんのまわりの子どもたちの態度が、少し変わってきたように感じます。私も、普通に
みんなと接するようにしています。子どもたちも、Mさんと私に慣れてきたような感じです。が、
Mさんにしてみれば、不満気味。算数教えて!と、私を、ほかの子どもたちと、取り合いになる
こともあります。

ここで事件発生(?)

段階3、行動は同じでも、「気持ち悪い」「○○さんがああいう、こういう」「だってさー・・・だもん」
「ママね・・・・」という言葉は、極端に減ってきました。とくにママの話はしなくなりました。

そして段階4、今日の事です。

朝、家から近所の上級生と徒歩で登校してきました。自分で教室へ行き、朝の準備をしたあ
と、Mさんは、私が来るのを玄関で待っていました。

「今日、ひとりで来れたよ!」というMさんが奉公するものですから、「頑張ったねー!」と、Mさ
んを抱き、一緒に教室へ行きました。が、そのあと、「今日は先生はどこの教室?」「行っちゃ
嫌だ」と、私を放しません。「先生が、行くなら、私も廊下」と、だだをこねました。

わがままが出てきたようです。はやし先生が言っていたとおりです。できないことはできません
ので、よく話して聞かせ、「休み時間にはこれるけど、ここではダメだよ」と話し、「無理なら保健
室でもいいよ」と言ったのですが、Mさんは、「保健室は行かない。ここにする」と言うばかりで
す。そんなわけで、4時間ほとんどを、私の教室で過ごすことになりました。

が、3クラスの合同の一斉自習があり、Mさんのクラスも含めて、回っていくと「ここにずーっと、
いてぇー」を繰りかえします。あるいは、「気持ち悪い」「目が痛い」などと、そのときも、訴えまし
た。Mさんは、「ふーって、(息をかけてくれると)治るんだよ」と言って、私のスキンシップを求め
てきます。私がMさんにさわっていると。Mさんは、安心したのか、落ち着いてきました。

担任とは相変わらずです。担任の授業だと、Mさんは、教室に入りにくいようです。そんな状態
が、今、つづいています。

【はやし浩司からS先生へ】

 このタイプの子どもの指導には、とにかく、根気が必要です。ばあいによっては、1〜2年単
位の根気比べになります。幼児のときは、とくに、そうです。

 しかし現在小学2年生ということなので、年齢的には、もうそろそろ、自己管理ができるころに
さしかかっています。これから先、大きな変化が見られるかもしれません。あと一息というところ
では、ないでしょうか。

 ただ、担任の先生を一方的に責めることもできません。ご存知のように、先生も、忙しいで
す。現実問題として、Mさんのことに、今のSさんのように気を配るということは、不可能のよう
に思います。上からは、課題をこなせと言われる。一方、親たちからは、もっとしっかりとめんど
うをみろと言われる。先生も、たいへんです。

 Mさんは、たしかに、仮面をかぶっていると思います。二面性があるというよりは、仮面だと
思います。(いい子)ぶることで、自分の立場をとりつくろっているのですね。悲しい子どもの心
です。

 が、あなたの前では、少しずつ、仮面をはずしつつある。そんな感じがします。ありのままの
自分をさらけ出しながら、あなたとの信頼関係を、確かめようとしている。そんな感じがします。

 このタイプの子どもの指導のむずかしいところは、Mさん自身でもどうにもならない、もうひと
つ奥の、別のMさんが、Mさんを、裏から操っているという点です。ですから、Mさんに、言葉と
して、あれこれ諭(さと)しても、あまり意味がありません。(言うべきことは、言わなければいけ
ませんが。またその程度で、終わるようにします。)

 Mさん自身も、自分でも、どうしていいのか、わからないでいるからです。また、まだ、自分を
客観的に見ることができることができません。母親の威圧的な過干渉、育児拒否などによっ
て、ほかの子どもたちよりも、そういう面の発達が、つまり人格の核形成が、遅れがちになって
いることも考えられます。

 ふつうは、小学3年生くらいになると、自我が急速に発達し、自己管理能力ができてくるもの
ですが、Mさんのばあい、1〜3年、それが遅れる可能性があります。

 Mさんのように、他人との良好な人間関係を結ぶことができない子どもは、(1)攻撃的なった
り、(2)服従的になったり、(3)同情的になったり、(4)依存的になったりします。

 Mさんのばあいは、(3)と(4)の混合したパターンで、それが現れているのではないでしょう
か。気持ち悪いと訴えるのは、あなたに同情をしてもらうため。あなたのあとを追いかけるの
は、依存的になっていることを示します。

 でも、意外とこういうケースでは、(私たちがしてやっている)という思いと、(子どもがしてもら
っている)という思いの間には、大きなギャップがあるから、注意してください。

 私は、もう少し年齢の低い子どもたちを相手に四苦八苦した経験が、たくさんあります。が、
去っていくときは、みなさん、淡白なものです。親も、子どもも、です。若いころは、それだけで
落ちこんだりしたものです。

 ですから、(してあげている)という意識が、どこかにあったら、今のうちに、消しておくことで
す。無我とは言いませんが、それに近い気持ちで、Mさんと、接することです。これはあとで自
分がキズつかないための予防策のようなものです。

 今の私には、この程度のアドバイスしかできません。どうか、お許しください。前回も書きまし
たが、最近、私は、こうした指導をしていませんし、また指導を断るようにしています。体力がと
ても、つづかないからです。つまり、もう偉そうなことは、言えなくなりました。

 S先生の苦労というか、努力には、本当に頭がさがります。今回も掲示板に書きこみをしてい
ただき、私の方が、勉強させてもらっているような感じです。ありがとうございました。

 それでもよければ、自己開示、もしくは、うさ晴らしのためでも結構ですから、また何でも書き
こんでみてください。同じような問題をかかえた、多くの親や先生たちの、参考になると思いま
す。

 では、今日はこれで失礼します。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 保健
室 保健室登校 集団恐怖 回避性障害)

【S先生より、はやし浩司へ】

早速のお返事、ありがとうございます。

「根気」という言葉、身にしみて感じます。

今回、自分が予想していたよりも、ものすごいスピードで、Mさんが変わってきて、私の方に、
「喜び」といった感情が湧いてしまったということがあります。そして同時に、「これはMさんが、
頑張りすぎているせいだ」「もしそうだとするなら、どこかできっと・・・」と、思ってしまったわけで
す。

少々、自分のペースが乱れてしまったのですね。だから担任や、その他の先生にも、感情的に
なってしまったのですね。反省しています。

子どもには、感情で対応しない。これは鉄則でしょうね。全くの素人で、不安が多い中での今回
のこと。はやし先生のお返事で、冷静になれそうです。

実は、私にも小学生の子どもが2人います。私の子供との関わりは、「感情で接しない」「対等
の人間として扱う」です。

・・・例えば子どもたちのものでも、許可を得てから見たり使ったりする。ましてや黙って、カバン
を開けない、など。・・・・そして「愛情はあげるだけのもの」と考えています。絶対にお返しにこ
のくらいしてくれたって、とは思わない。

これは、私の両親から受けた教育の全く逆のことです。私は、親の恩を押しつけられて、育て
られました。だからここでは、ブレません。ここまでに強くなるまで、大変でした。今は笑い話で
すが、私の反抗期はたいへんなものでした。

以上、余談でした。私も熱いタイプですね(笑)。

そうですね。どこかに、「これだけしてやっているんだよ」という気持ちがあったと思います。Mさ
んにも、他の先生にも。

そういえば、私も子供の頃、熱い先生に必死に指導されても、う〜ん?、と思った経験がありま
す。どうも、社会人をやった後、教職の世界に入ったせいか、先生をみては「あなたのような先
生がいるから!!!」と、怒鳴りたくなってしまったのだと思います。

「おまえはダメな人間だ!」「いい人間に拍手をしろ!」「声が小さい!」と。答えを間違えただ
けで、何もそこまでしなくても・・・・というような先生でした。そして授業中、必ず誰か泣いていま
した。私も、です。私が悪いのだから叱られて当然・・・と。

長々と申し訳ありません。お返事は結構です。(変な意味ではありません。)ただ、本当に「うさ
晴らし」をしてしまいました。すっきりしました。こんなつたない文章ですが、読んでいただいて、
そして救っていただいて感謝しております。

お忙しい中、本当に本当にありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1339)

●親不孝を悔やむ人

+++++++++++++++++

親子の縁は、絶対と、説く人は多い。
それもそのはず。

人間も、あの鳥類と同じように、
ある時期、それを「敏感期」と呼ぶが、
親子の関係は、本能に近い部分にまで、
脳の中に、刷り込まれる。

それが親子の(縁)をつくる。

心理学の世界では、それを
「家族自我群」と呼ぶ。

その自我群にがんじがらめにされ、
もがき、苦しんでいる人は、多い。

その苦しみを、心理学の世界では、
「幻惑」「幻惑作用」と呼んでいる。

ふつうの苦しみではない。
それはまさに、身を引きちぎるような
苦しみと言ってよい。

++++++++++++++++++

 「私は、親不孝者でした」と、悔やんでいる人は多い。「親にさんざん苦労をかけながら、その
恩がえしができなかった」と。

 日本では、ことさら親孝行がもてはやされる。親孝行を売り物にしている倫理研究団体も、い
くつかある。その中には、何十万人という会員を集めているのもある。

 そういう風潮の中で、多くの日本人は、親孝行を美徳とし、その一方で、親孝行をしない者
(?)を、「人間のクズ」と、排斥する。

 それが日本の文化だから、私は、それを受け入れるしかない。まただからといって、私は、親
孝行を否定しているのではない。

 ただこうした風潮の中で、親孝行ができなかった人、あるいは親孝行をしなかった人が、自
分で自分を責めるケースも、少なくない。さらにそれが進んで、自分を否定してしまう人もいる。
自分で自分のことを、人間のクズと思いこんでしまう。

 子どもの世界でも、これに似た現象が、よく起きる。

 たとえばある子どもが、親に、小さいころから、「いい大学へ入りなさい」「いい大学へ入らな
ければ、いい生活ができない」と、さんざん言われつづけたとする。そういう子どもが、そのまま
その(いい大学)は入れれば、問題はない。

 しかしその(いい大学)は入れなかったとしたら、その子どもは、どうなるのか? その子ども
は挫折感から、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまう。

 こういう状態になると、子どもは、現実に適合できなくなり、「現実検証能力」を失うと言われて
いる。自信喪失から自己嫌悪におちいることもある。わかりやすく言えば、ハキのない、ナヨナ
ヨとした人生観をもつようになってしまう。

 私も、幼稚園で働くと母に告げたとき、母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまっ
た。私は、母の声を聞いたとき、どん底にたたき落とされたように感じた。たいへんなことをして
しまったと感じた。実際には、それから十年以上、私は、外の世界で、自分の職業を隠した。

 私たちは、ともすれば、子どもに向かって、「こうあるべきだ」と、言いがちである。しかしそう
いう言葉の裏で、子どもに、別の負担を課してしまうことがある。そしてその負担を感じて、こど
も自身が、自らを追いこんでしまう。冒頭に書いた、親孝行もその一つということになる。

 つまり子育てを、ある一定のワクの中で考えると、どうしても、そのワクを子どもに押しつけよ
うとする。そしてその結果、そのワクが、子ども自身を押しつぶしてしまうことがある。しかもた
いていは、そういうふうにしながらも、親自身に、その自覚がない。

 ……ということで、いきなり結論。

 こうした押しつけは、慎重に。それから一言。いくらあなたの子どもが、親不孝の息子や娘で
あっても、その息子や娘が苦しむようなことだけは、避けたい。そのためにも、親は、いつも、
無条件の愛をつらぬく。見かえりを求めない。そういうサバサバした生き方が、子どもの未来
を、明るくする。つまりそういう未来を用意してあげるのも、親の務めということになる。

 子どもが、「私は親不孝者」と、自ら苦しむような状況だけは、つくってはいけない。
(040223)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親孝
行論 孝行論 家族自我群 親不孝 親は絶対 親絶対 親絶対教)

+++++++++++++++++++
以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を
書きました。
+++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、『許して忘れる』の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、そ
れまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩
んでは、身を焦がす。

先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミック
に入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」
と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 許して
忘れる 親子論)

+++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。

「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所
の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。

いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてく
れるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。

「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むの
ですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしか
ない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつ
もドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってく
る。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってく
る。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親子
の絆 親子論 生きる源流 家族 家族の喜び)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1340)

【母親、三態】(改)(060617)

++++++++++++++++

母親にも、いろいろある。
すばらしい母親が大半だが、
しかし、そうでない母親も多い。

日本は、総じて見れば、母系社会。
したがって、日本人は、総じて見れば、
どこか、総マザコン的。

その母親について……。

++++++++++++++++

●独立を許さない親

 子どもが、親から離れ、独立していくのを許さない親がいる。子育てを生きがいにしてきた、
どこか溺愛タイプの父親、母親に、多い。

 最初に申し添えるなら、溺愛は、「愛」ではない。自分の心のすき間を埋めるための、自分勝
手な愛をいう。もともと情緒的に未熟な人、精神的に未完成の人が、何らかのきっかけで、溺
愛に走るケースが、多い。

 ある母親は、自分の一人娘が結婚したあと、その娘にこう言ったという。「あなたを、一生か
かって、のろい殺してやる。親を捨てるとは、どういうこと。あなたが地獄へ落ちるのを楽しみに
している」と。

 この話は、本当にあった話である。ワイフが、その女性に会って、直接、確かめている。そし
て私には、こう言った。「世の中には、いろいろな親がいるのねえ」と。

 が、その子ども自身にとっても、これは不幸なことである。

 親が、子どもを溺愛し、その結果、子どもの自立、独立を許さないのは、親の勝手。親のエ
ゴ。が、そのエゴにからまれ、もがき苦しむ子どもも、少なくない。

 前にも書いたことがあるが、実母の葬式に出なかったことを、いまだに悔やんでいる男性(5
5歳)がいる。実母は、10年ほど前、その男性が45歳のときに、なくなっている。

 いろいろ人には言えない事情があるらしい。それはそれとして、問題は、なぜその男性が、
悔やむかということ。もし私がその母親なら、天国なら天国からでもよいが、その男性にこう言
うだろう。「気にしなくてもいいのよ! あなたはあなたで、幸福になってね」と。

 子どもは、ある年齢に達すると、「家族」というワク、これを心理学の世界では、「家族自我
群」というが、そのワクから、のがれようとする。最初は、抵抗、反抗という形で、それを表現す
る。ときに家族、なかんずく親を否定することもある。

 こうしたを心理学の世界では、「内的促し」という。「内的」というのは、心の世界をいう。肉体
を「外的」というのに対して、精神を「内的」という。子どもは、自立、独立するために、精神の完
成を自ら、求めるようになる。

が、こうした子どもの行為に対して、とくにこの日本では、それを悪いことと決めてかかる傾向
が強い。親に反抗しただけで、「親に向かって、何だ!」と、怒鳴り散らす父親や母親は、多
い。「非行」というレッテルを張ることも珍しくない。

 これを「内的つぶし」という。この言葉は、私が考えたものだが、親自身が、子どもの自立や
独立を、つぶしてしまうことも、珍しくない。そしてさらにその結果として、子どもは、自ら、罪悪
感をもつようになる。先の男性が、その一例である。

 「私は、親の葬儀にも出なかった。私は、できそこないの息子だ」と。

 子どもは、小学3、4年生をさかいに、急速に親離れを始める。生意気になり、親に口答えす
るようになる。反抗もするようになる。しかしそれは、人間の発達という基準でみるかぎり、ごく
自然な(流れ)であり、そういう流れの中で、子どもは、自立していく。

 もちろん日本には日本の風土、文化というものがある。親子関係も、どこか特殊? いまだ
に「父親に求められるのは、威厳である」と説く人も、少なくない。最近では、学校教育に武士
道をもちだす人まで、現れた。

しかしそれらは、ほとんどのばあい、どこか不自然な子育て観といってもよい。日本の子どもだ
けは特別と考えるのは、おかしい。日本式の子育てが正しくて、外国の子育てはおかしいと考
えるのは、さらにおかしい。安易にそれを受け入れれば受け入れるほど、あなたは、(自然な
形での子どもの姿)を見失う。


●子どもを支配する親

 「代償的過保護」という言葉がある。

 ふつう、過保護というときは、その背景に、親の深い愛情がある。その愛情が、転じて、親は
子どもを、保護過多、つまり過保護にする。

 が、代償的過保護には、その背景に、親の深い愛情があっても、希薄。子どもを自分の支配
下に置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

ただ、この代償的過保護は、見た目には、過保護と、たいへんよく似ている。区別がつかな
い。それにたいていのばあい、子どもに対して代償的過保護を繰りかえしながら、親自身は、
それを親の深い愛情と誤解している。

よくある例は、「子どもはかわいい」「かわいい」を口ぐせにしながら、その一方で、子どもが、自
立し、独立していくことを、許さない、など。「渡る世間は鬼ばかり」と、子どもを、ほとんど外出さ
せなかった母親もいる。子どもといっても、30歳を過ぎた子どもである。

 ……というような話は、前にも書いた。

 ここでは、その先を書く。

 こうした代償的過保護のもとで育つと、子どもは、当然のことながら、自立できない、ひ弱な
子どもになる。(反対に、親に猛反発する子どももいる。その割合は、7対3くらい。反発して、
自立していく子どもを、7とするなら、自立できない、ひ弱な子どもになっていくのが、3。)

 が、それだけではない。

 子どもは、ある年齢に達すると、急速に親離れを始める。自立のための準備期間に入る。そ
の年齢は、小学3、4年生ごろ、満10歳前後とみる。

 これを発達心理学の世界では、「内的促し」(ボーエン)という。このころから、子どもは、自立
をめざし、内的、つまり精神面での完成をめざすようになる。

 この時期、子どもは、家族的自我群(家族としてのまとまりのある意識)から逃れ、自分を確
立していく。が、ここで誤解してはいけないのは、内的促しをするからといって、その子どもが、
家族を否定するようになるのではないということ。

 子どもは、内的促しをしながら、その一方で、家族との調和をはかる。つまりこうして子ども
は、精神的にバランスのとれた人間へと、成長していく。

 が、代償的過保護のもとで育つと、子どもは、この精神の発達を、阻害(そがい)されることに
なる。そしてその結果、自立できないばかりか、現実検証能力を失う。30歳をすぎても、親の
サイフからお金を盗んで使っていた男性がいた。親といっても、安い給料の、サラリーマンだっ
た。

 自分で、してよいことと、悪いことの区別がつかなくなる。自分ですべきことと、してはいけない
ことの区別がつかなくなる。

 総じて言えば、代償的過保護には、親の過関心と過干渉がともなう。ある女性は、こう言っ
た。「母が兄を見る目つきは、いつもキリで心を突き刺すように、鋭かった」と。親自身の精神
的未熟性がその背景にあるので、問題の解決は、容易ではない。

 なお、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。明けても暮れても、頭の中は、子どもの進学
問題でいっぱい。……というような親は、ここでいう代償的過保護傾向の強い親とみてよい。一
見、子どもの将来を心配しているようだが、その実、自分の不安や心配を、子どもにぶつけて
いるだけ。

 もう少し極端な例としては、ストーカーがいる。嫌われても嫌われても、その男性(女性)をお
いかけまわす。相手が迷惑していることすら、理解できない。つまり自分が置かれた現実を理
解できない。

 少し話がバラバラになってきたので、この話はここまで。ここで、あなたの代償的過保護度を
チェックしてみよう。

【代償的過保護・自己診断テスト】

( )いつも子どもの行動を知っていないと、落ちつかない。不安。心配。
( )いつも子どもにあれこれ指示を出し、命令している。勝手な行動を許さない。
( )子どものために、自分の人生を犠牲にしていると思うことが多い。
( )子どもの世話をやくのが、親の努めだと思う。めんどうみのよい親がよい親と思う。
( )うちの子は、外の世界では、ひとり立ちして生きていくのは無理だと思う。

 ここに書いたことが、いくつか思い当たれば、あなたは本当に子どもを愛しているかどうか。
何か、おおきなわだかまり(固着、こだわり)をもっていないかどうか。それを反省してみる。そ
れと同時に、あなた自身も、一人の人間として、ひとり立ちできているかどうかも、反省してみる
とよい。


●子どもを否定する親

 Kさん(60歳、女性)は、いつも自分の長男氏(34歳)について、「あの子は、バカで……」と
言っていた。いろいろな母親がいるが、自分の息子を、「バカ」という親は少ない。

 で、ある日、私がそれとなくKさんに、「そんなふうに言ってはいけない。ぼくには、そうは思え
ない」と話すと、Kさんは、こう言った。「あの子は、生まれつき、ああです」と。

 そのKさん。親類の間では、「仏様」と呼ばれていた。もう一人、1歳年下の妹がいたが、子ど
も思いのよい母親と思われていた。人前では、おだやかで、やさしい母親を演じていた。

 しかしその長男氏は、ハキがなく、いつも何かにおびえたように、オドオドしていた。明らか
に、母親の否定的な育児姿勢が、その長男氏の自我を押しつぶしてしまっていた。

 こんなことがあった。

 そのKさんの横に、10坪くらいの空き地があった。花壇や畑になっていた。しかしそこを駐車
場にすれば、車が4、5台、駐車できる。そこで私が、その長男氏に、貸し駐車場にしたらよい
のではと話すと、その長男氏は、こう言った。

 「そんなことを言うと、母さんに叱られる」と。

 30歳をすぎても、母親の威圧(幻惑)に、おびえていた。

私「駐車場にして貸せば、あそこだったら、毎月、10万円くらいの収入が見込める」
長「植木鉢は、どうする?」
私「横へ並べておけばいい」
長「そんなこと言ったら、母さんに叱られる」と。

 強烈な母親のイメージ。長男氏は、その呪縛の中で、もがき苦しんでいた。

 こうした否定的な育児姿勢が日常化すると、子どもは、つぎのような症状を見せるようにな
る。

(1)自信喪失
(2)判断力の低下
(3)自我の喪失
(4)現実検証能力の喪失
(5)強度な依存性(服従性)
(6)基底不安をもちやすい
(7)常識ハズレの行動
(8)萎縮性、自閉傾向など。

 Kさんは、長男に、こんな言い方をしているという。

(客が来たとき、Kさんは、長男氏に、お茶をもってくるように言った。そのときのこと)、「早くも
って来なさい。どうせ、ぐずぐずもってくるんでしょ。ぐずぐずしていると、お客さんが、帰ってしま
うでしょ」と。

(客がくれた、みやげの菓子を長男氏に渡しながら)、「菓子だよ。あんたがもらっても、私には
くれないけど、私は、ちゃんとあんたに、あげているよ」と。

(長男氏が菓子を食べていると)、「いらないと言っているくせに、どうせ全部、食べてしまうので
しょ。あとで腹が痛いというんじゃ、ないよ!」と。

 長女は、私にこう訴えた。「母は、いつも一言、多いのです。その一言が、兄の心をキズつけ
ます。しかし母は、それに気づいていません。が、何よりも不幸なのは、そういうあつかいを受
けながら、兄が、母のその呪縛から、自分を解き放つことができないでいることです。ベタベタ
の依存性がついてしまって、兄は、母の指示がないと、ひとりでは何もできなくなってしまってい
ます」と。

 「うちの子は、何をしてもだめだ」「何をしても心配だ」と、もしあなたがそう思っているなら、そ
れはあなたの子どもの問題ではない。あなた自身の問題と考えてよい。

 あなたの中にある、わだかまりやこだわり(固着)をさぐってみたらよい。望まない結婚であっ
たとか、望まない子どもであったとか、など。

 こうしたわだかまりやこだわりが、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることは多い。子ども
の側からみて、何が不幸かといって、そういう親をもつことくらい、不幸なことはない。

 もしあなたがそうなら、まずそのわだかまりや、こだわりに気づくこと。気づくだけでよい。少し
時間がかかるが、あとは時間が解決してくれる。

 ついでに一言。

 よく「うちの子は生まれつき……」と言う親がいる。実に不愉快な、しかも卑怯な言い方であ
る。

 あの赤子を見て、「生まれつき……」などとわかる人は、絶対にいない。えてして、親は、自分
の育児の失敗を、「生まれつき」という言葉でごまかす。親として、絶対に口にしてはいけない
言葉である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 個人
化 幻惑 個人志向 共同体志向 家族自我群 現実検証能力 (はやし浩司 家庭教育 育
児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て マザコン マザーコンプレックス 内的促し ボ
ーエン 親の呪縛 言葉の虐待)
(040612)(060617)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【雑談・あれこれ】

●猫か虎か……

 K国が、ここ両日中にも、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の実験をするかもしれないという。海
外ニュースが、にわかにあわただしくなってきた。(K国は、形ばかりの人工衛星をのせて、平
和目的だ、ミサイルではないと主張する可能性も、高いが……。)

 そのK国だが、K国の内部情報によれば、この5月ごろ、「猫になるか、虎になるか」という議
論をしたという。そしてその結果、「虎」になる道を選んだという。つまり今回の一連の動きは、
アメリカへの強硬策というわけである。

 しかし「?」。

 かねてから、K国の金xxほど、(合わせて、韓国のN大統領ほど)、現実検証能力に欠ける人
間は、いないと思っていた。まるで、自分のことがわかっていない。自分がどういう立場で、何
をしているかも、わかっていない。それが、ここにきて、さらにはっきりとしてきた。

 N大統領はともかくも、金xxは、あえて言えば、ただのガキ。つっぱって、粋(いき)がっている
中学生のようなもの。あるいは、それ以下。周囲の人たちに恐怖感を与えて、それで自分は、
一人前と思いこんでいる。

 虎も結構だが、国民の30%近くが、飢えて苦しんでいる。5%が、覚せい剤づけになってい
る。世界から、食糧を援助してもらっている。どうしてそんな国が、虎になれるのか。食うものも
食わず、花火を打ちあげて、それでどうするのか。どうなるのか。

 ミサイルを飛ばせば、ますます世界から相手にされなくなる。同時に、孤立する。それとも、こ
れは、最後の悪あがきなのか。(6月17日記)


●アメリカ追従外交(?)

 小泉政権を総括して、政治評論家たちは、みな、異口同音にこう言う。「アメリカ追従外交だ
った」と。

 しかし浜松市という、この地方都市に住んでいると、少しちがった印象をもつ。アメリカ、アメリ
カというが、どこに、アメリカがあるのか?

 むしろ、この浜松市に住んでいると、アメリカよりも、「東京」という都市がもつ傲慢さという
か、独善性のほうばかりが、目につく。何でもかんでも、「東京」「東京」、また「東京」。

 おそらく東京に住んでいる人は、それに気づいていないだろう。もちろん、東京に住んでいる
人に、責任があるわけではない。しかし地方から見ると、そうではない。「東京」は、どこか、遊
離している。私たちが、この浜松で感じている日本とは、どこかがちがう。

 実際、「東京」から流れてくる文化には、「?」なものが多い。この浜松という地方都市とくらべ
ても、どこか、低劣、低俗、低レベル! こう書くと、東京に住んでいる人は怒るかもしれない。
が、私は、何も、東京に住んでいる人が、そうであると言っているのではない。

 東京から流れてくる文化が、そうであると言っている。言いかえると、東京に住んで、東京で
文化をリードしている人たちは、もう少し、その自覚をもってほしいということ。つまり「私たちが
日本をリードしているのだ」という自覚である。東京が日本の中心だというのなら、それはそれ
で構わない。だとするなら、それだけの責任を心のどこかで、感じてほしいということ。

 その「東京」が、率先して、どこかアホなことばかりしている。どこかバカなことばかりをしてい
る。よい例が、テレビのギャーギャー番組。見るからに軽薄そうな男女が、意味もないギャグを
飛ばし、ギャーギャーと騒いでいる。

 あとは、右へならへ! 全国の道府県が、それにならう。

 日本は、奈良時代の昔から、中央集権国家。それはわかる。しかしそれは政治の話。文化
まで、中央集権国家になっているというのは、実に、おかしい。中央には中央の文化がある。
それは否定しない。しかし地方には地方の文化がある。優劣は、ない!

 構造主義をうちたてた、あのレヴィ・ストロース(1908〜、サルトルと激論したことで有名)
も、こう述べている。

 都市で近代的な生活をする人も、ジャングルの中で野性的な生活する人も、どちらにも優劣
はない、と。つまり「もともと別の価値観をもった文明である」と。

ジャングルの中で生活している人は、パソコンや近代機器についての知識はないかもしれな
い。が、自然については豊富な知識をもっている。そのちがいに、優劣はないというのだ。

 が、この日本では、何かにつけて、都会文明ばかりが、優先される。そしてそれが容赦なく、
この浜松市という地方都市にまで、流れこんでくる。よい例が、講演。

 このあたりでは、講演の講師でも、「東京から来た」というだけで、相場は100〜200万円。
幼児教室でも、「東京の幼児教室と同じ教材を使っています」というだけで、月謝は、2〜4万
円にハネあがる。(週2回の指導で、5万円もとっているところがあるぞ!)

 さらに今では、小学生たちと何かのパーティを開いても、どれもバラエティ番組風になってしま
う。結婚式の披露宴もそうだ。みな、意味もなく、ギャーギャーと騒ぐだけ。ギャクにつづく、ギャ
グ、またギャグ。

 楽しむということは、そういうことだと、おとなはもとより、子どもたちですら、思いこんでいると
いったふう。そして今に見る、この日本になった。

 全国の、道府県のみなさん、(東京)に追従するのを、もうやめませんか?、……と提案した
ところで、この話は、おしまい。どうせ、どうにもならない。私が書いたくらいでは、この日本は、
ビクともしない。

 「アメリカ追従外交」と、小泉政権を批判する、「東京」人たち。しかしその「東京」人たちは、
私たち地方人を追従させて、平気な顔をしている。このおかしさを、いったい、どう理解すれば
よいのか。


●がんばれ、歳出改革プロジェクトチーム!

政府・与党の歳出入改革で、自民党の歳出改革プロジェクトチーム(PT、座長・中川秀直政調
会長)は、国と地方の公務員人件費の削減額を計2兆円台前半とする方向で、最終調整に入
ったという(6・17)。

 5月に成立した行政改革推進法は、10年度までに国家公務員を5%以上、地方公務員を
4.6%以上純減すると定めており、これで計1兆2300億円が削減されるという。

 みなさん、おわかりか?

 そこで問題! では、国家公務員、地方公務員の人件費は、現在、いくらと推定されるか?

 中学校の入試問題に出してもよいような問題である。

 行政改革推進法によれば、「国家公務員、地方公務員の、5〜4・6%を削減すると、計1兆
2300億円が削減される」という。

 数の上では、地方公務員のほうが圧倒的に多いわけだから、この際、国家公務員の削減数
も、4・6%として計算してみる。すると、こうなる。

 (現在の公務員の人件費)x0.046=1兆2300億円

 だから(現在の公務員の人件費)=1兆2300億円÷0.046となる。

 この数式で計算すると、現在の公務員の人件費(退職金や年金を含まない、ネットの人件
費)は、26兆7400億円となる。しかし実際には、こんな額ではない。この削減額の中には、そ
の4・6%の人たちの退職手当金などが含まれているはずだから、人件費は、もっと多いは
ず。

同じ行政改革推進法によれば、こうした一連の公務員削減により、合計、2兆円を削減すると
いう。2兆円ということになれば、人件費は、一挙に、2兆円÷0.046=43兆4800億円に、
ハネあがる。

 43兆円だぞ! この額は、国家税収の総額(=国の収入)、42〜3兆円のほぼ、全額という
ことになる。

 天下りするだけで、持参金を、わかっているだけでも、1〜2兆円。闇に隠れた持参金も含め
ると、4兆円前後も使うという国である。学校の先生のように、それだけの働きをしながら、そ
れだけの給料をもらうのなら、私は文句は言わない。(学校の先生は、はたで見ていても、か
わいそうなくらい、忙しい!)

 しかしその一方で、ヒマをもてあましている公務員は、いくらでもいる。この話を暴露してくれ
た、N県のM君(現在、N県県庁の、検査課に勤務)には、悪いが、M君は、こう言った。

 「毎日、ヒマでヒマでしかたない。パソコン相手にゲームをしていても、だれも文句を言わない
よ」「夕方5時には、もう課にはだれもいない。ぼくは、そのままトレーニングジムに直行!」と。

 H市の市役所で、部長職をしている友人でさえ、こう言っている。「公務員の数は、2分の1で
じゅうぶん。3分の1でもいいよ」と。

 さらに今では、近くの郵便局にしても、正規の職員は、40〜50%以下。残りの仕事は、すべ
てアルバイトにやらせている。つまりこうして表に出てきた人件費は、あくまでも総人件費の一
部でしかない。

 日本の将来のため、子どもたちの未来のため、こういうムダづかいは、もうやめよう。

 歳出改革プロジェクトチーム、がんばれ! もっともっと、がんばれ! ただし教育費だけは、
別。国際基準なみに、引きあげるべき。


●子どもが伸びる、三種の神器

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子ども自ら伸びる、三種の神器。

それが、(1)ウソ、(2)生意気、(3)悪口。

この3つを通して、子どもは、
おとなの世界からの、自立を図る。

++++++++++++++++++++

 ウソにもいろいろある。病的なウソ(空想的虚言や妄想)は別として、子どもは、基本的には、
ウソが好き。一説によると、満1・5歳から2歳にかけて、子どもは、そのウソをつき始めるとい
う。

 ウソ寝、ウソ泣きがその代表的なもの。

 つぎに生意気。

 子どもは、満4・5歳ごろから、急速に生意気になる。親に対して、口答えするようになる。

母親「ちょっと、手伝ってよ!」
子ども「自分のことは、自分でしな!」と。

 この時期は、ちょうど幼児期から、少年、少女期への移行期にあたる。この時期を通して、子
どもは、幼児のカラを脱ぐ。

 3つ目が、悪口。

 親に向かって、「バカヤロー」「クソババ」「クソジジイ」と言うようになる。あるいは親や先生
を、からかったりするようになる。

 こうした3つの神器を許せというわけではないが、しかし子どもがそれをできないほどまでに、
子どもを押さえつけてはいけない。子どもは、この3つを通して、自分に自信をもち、人としての
(自立)を学ぶ。

 まずいのは、過干渉、過関心、それに威圧的な権威主義。「おとなはすぐれている」「親は絶
対」という、いわゆる(おとなの優位性)を見せつけすぎると、子どもは、おとなに対して従順に
なる。依存的になる。が、しかしその一方で、子どもは、ハキのない子どもになってしまう。

 「おとなを、やっつけてやった」「してやった」「おとなを動かしてやった」という思いが、子どもの
自信につながり、その自信が、子どもを自立させる。

 そんなわけで、子ども、とくに幼児期の子どもが、ウソを言ったり、生意気になったり、悪口を
言ったりしても、親は、カリカリしないこと。大げさに考えないこと。一応は叱りながらも、「ああ、
うちの子は、自立しようとしている」と思い、本気にはしないこと。

 子どもを伸ばす、最大のコツ。それは、子ども自身が、「おとなはアテにならない」「親はアテ
にならない」と思うように、親がしむけること。時には、親もバカなフリをして、子どもに教えを乞
う。その謙虚な姿勢が、子どもに自信をもたせ、子どもを伸ばす。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もを伸ばすコツ 嘘 生意気 悪口 三種の神器)
 

●時の流れ


++++++++++++++

三男のBLOGを読む。
なつかしさが、こみあげてくる。

私は、そんなことは、
とっくの昔に忘れていた。

しかし三男の記憶の中には、
残っていた。

++++++++++++++

●長崎は本当に綺麗な街だ。

ひょんなことから、再び長崎へ行く機会に恵まれた。しかも今回はフル・ストップ付き(=着陸し
て、駐機場へとまること)。僕はバゲージ(=飛行機のバランスをとるための、重し)だったの
で、操縦もする必要なし。ほんとにただのお客さんとして長崎へ連れていってもらい、お土産を
買って帰って来た。おいしい1日だった。

 空港でお土産を選ぶとき、僕たちは制服を着ているので、ちょっと自慢げになる。今日もそん
な調子で見せびらかしながらターミナルを闊歩していたら、前方から本物のパイロットが歩いき
た。ちょっと気恥ずかしい思いをした。挨拶をしたら、向こうも挨拶を返してくれた。SNAのキャ
プテンとコパイ(=副機長)さんだった。

 雲仙と言えば思い出がある。昔、父と二人で九州へ旅行に来たことがあった。

まだ噴火して間もない雲仙岳を見て、そこから船に乗って、多分島原から大牟田のあたりへ渡
ったんだと思う。その船上で父が僕に、売店へ行って、カキ氷か何かを買ってくるように頼ん
だ。

しかし僕は何を聞き間違えたのか、売店のお姉さんに、「水割りをください」とオーダーしてしま
った。多分、氷に水みたいなものがかかっているヤツだと認識し、それまで聞いてはいたが何
なのかわからなかった『水割り』が、それのことだと誤解したのだろう。

小学生が水割りをくれと言ってくるのだから、お店の人もかなり驚いていた。「お父さんに、で
す」と言いそれを受け取る。酒がまったく飲めないのに父は、苦笑いしながらもその水割りを飲
んでくれた。

 あの頃の自分に、父に、今の自分の姿を見せたらどんな顔をするだろう。

 光よりも速い速度で飛行すれば、過去を見ることができる。地球がはなった何十年前の光は
今、何十光年先の宇宙を飛行中だ。僕は今、わずか3×10のマイナス13乗光年上空を飛ん
でいるだけ。でも意識だけは、あの頃へタイムスリップしているようだ。空にはいろんな力が宿
っている。

++++++++++++++

【英市へ、パパより】

 あのころの思い出が、何十光年もかけて、今、長崎から、ぼくの脳裏に届いたよ。そういえ
ば、そういうこともあったと、今、思い出したよ。

 雲仙から向かったのは、熊本港だよ。熊本城を見たのは、よく覚えているよ。

 ところで今日(6・18)は、S(長男)が、国家試験を受ける日だよ。この2、3か月、あいつは、
猛勉強をしていた。かわいそうなくらいの猛勉強だ。Sも必死なのだろうね。

 「無理をするな」と、トイレの連絡帳に書いたら、「パパ、ありがとう。やれるだけのことはして
みる」とあった。うれしかったよ。

 みんな、それぞれの道でがんばっている。お前も、自分の人生を、まっすぐ進めよ!

 ぼくも、先日、晃子に、「ぼくは、あと10年はがんばる」と言ったら、晃子のヤツ、「あなたった
ら、5年前にも、同じことを言っていたわ」だって。

 ぼくのことだから、68歳になっても、「あと10年はがんばる」と言っているだろうね。ハハハ!

 Sが国家試験に合格したら、祝いの電話を頼むね!

 パパ公より、英市へ。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●蒲幼稚園での講演

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浜松では、どこの幼稚園が
よいか?

よく、そんな相談を受ける。

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 今日は日曜日だったが、市内の蒲幼稚園で、講演をさせてもらった。長年、浜松市の幼稚園
協会の理事長をしていた、大貫英一先生の幼稚園である。人格者というのは、まさに大貫先
生のような人物を言う。講演の前後に話をさせてもらったが、その間中、私は、心が洗われて
いくかのような(さわやかさ)を覚えた。

 この蒲幼稚園は、現在の浜松市長である北脇氏の出身幼稚園だという。みやげに、「蒲幼稚
園・50周年記念誌・童心U」をもらったが、それにも北脇氏が、寄せ書きをしている。

 少子化が問題になっているが、活気のある幼稚園には、活気がある。園児は、どんどんとふ
えている。見るからに、幼児教育にかける熱意がちがう。それがビンビンと伝わってくる。

 私が推薦する幼稚園は、浜松市内では、アイオウエ順に……、

★旭ヶ丘幼稚園
★蒲幼稚園
★湖東幼稚園
★蜆塚幼稚園
★平和幼稚園の5園である。

教育方針というのは、園長がもつ哲学で決まる。その哲学がはっきりしている幼稚園は、すば
らしい。現場で働く先生たちも、その分、生き生きとしている。子どもたちの表情も、明るい。

 もちろんその反対の幼稚園も、ある。金儲け第一主義で、お飾りの行事だけを、無難にこな
している幼稚園である。教育方針といっても、何もない。ただ園児を預かっているだけ。そうい
う幼稚園では、子どもが、伸びるはずがない。かえって、子どもの伸びる芽を摘んでしまうこと
にもなりかねない。

 しかしこれら5園は、まちがいない。私自身が、園長と直接話をし、しっかりと、それを確認し
ている。もしどこの幼稚園にするか、幼稚園選びで迷ったら、これらの幼稚園の中から選んだ
らよい。

 またほかの地域で、幼稚園を選ぶときは、現場の先生を見て、選ぶ。現場の先生が、生き生
きと楽しそうに園児を指導している幼稚園なら、まず安心してよい。

 ついでにそのとき、先生と子どもの様子を観察してみるとよい。子どもたちが先生のまわりに
集まって、言いたいことを言い、したいことをしているなら、すばらしい幼稚園ということになる。

 そうでない幼稚園では、総じて見れば、先生の表情は暗い。子どもたちの表情も暗い。少子
化問題や、園児の減少ばかりを心配しているような幼稚園では、困る。

 そう言えば、今日、大貫先生は、こんなことを言っていた。大貫先生は、幼稚園で教師になる
前、小学校で、教師をしていたという。そのためはじめて幼稚園教育の世界に飛びこんだとき
には、何をどう教えてよいか、わからなかったという。

 そのとき先代の園長が、大貫先生にこう教えたという。

 「子どもたちの前で倒れてみせろ。子どもたちを、あなたの体の上で、乗って遊ばせてみろ」
と。

 そのときから、大貫先生は、園児を教えることができるようになったという。

 そういう幼稚園を、すばらしい幼稚園という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 大貫
英一先生 蒲幼稚園)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●A外務大臣

+++++++++++++++++

K国が、今日、明日にでも、ミサイルの
発射実験をするかもしれないという。

それについて、日本のA外務大臣は、
早々と、「制裁」という言葉を口にした。

どうしてあのA外務大臣は、こうまで
過激なのか。浅薄なのか。勇ましいのか?

脳みその皮が、一枚、ほかの政治家とく
らべても、薄いような感じがする。

+++++++++++++++++

 今夜(6・18・7時)のNHKの定時ニュースによれば、この1両日中にも、K国は、大陸間弾
道ミサイル、テポドン2号の発射実験をするかもしれないという。K国情勢が、にわかにあわた
だしくなってきた。

 明日19日は、K国の、何かの記念日に当たるという。K国では、今日の午後2時(日本時間
と同じ)から、国旗を掲揚するよう、全国民に指示を出したという。

 ミサイル実験は、あるとみるのが、正しい。聞くところによると、ミサイルへの燃料の注入はす
でに始まっているという。また一度注入したら、抜き取ることができないという。

 私の予想では、仮に実験しても、失敗する可能性の方が高いとみる。1段式ロケットと、多段
式ロケットでは、その技術には、大きな差がある。たとえばペットボトルで、1段式のロケットを
打ちあげるのは、小学生でもできる。しかし2段式のペットボトルのロケットとなると、そうはい
かない。大学の教授が、それについて、論文を書くほど、むずかしい。

 その技術が、今のK国に、あるか? あるとすれば、旧ソ連、あるいはロシアもしくは、中国
の科学者が、背後で指導しているとみてよい。

 そこでA外務大臣!

 今夜のヤフー・ニュースは、こう伝える。

 「政府は、北朝鮮がミサイルを発射したばあい、国連安全保障理事会に経済制裁を提案す
るとともに、改正外為法、特定船舶入港禁止法による、単独の経済制裁を検討する方針だ。A
外相は、6月18日、民放テレビ番組などで、繰りかえし北朝鮮をけん制。防衛庁はイージス艦
などによる警戒監視活動をつづけている」と。

 これではまるで、戦争前夜みたいではないか。

 大国、日本が、とるべき道ではない。つまりあんなK国など、本気で相手にしてはいけない。
また相手になるような国ではない。

 どうして、日本よ、日本政府よ、それがわからないのか? 

 K国といっても、その国力、経済規模は、山陰地方にある、ひとつの県ほどもない。国民の3
0%は、飢餓状態にある。喧嘩(けんか)をすれば、日本が勝つに決まっている。が、ここで喧
嘩をすれば、日本だって、無傷というわけにはいかない。

 へたをすれば、円と株の大暴落のきっかけをつくってしまうことにもなりかねない。その引き
金を引いてしまうことにもなりかねない。

 今、日本の国家経済は、超巨額の借金をかかえて、薄氷の上を、恐る恐る、歩いているよう
な状態にある。「日本があぶない」とわかれば、外資は、いっせいに、日本から引きあげるだろ
う。そうなったとき、日本はどうするのか? どうなるのか?

 世界は、A外務大臣の言葉のみならず、表情やしぐさを見て、日本を判断する。そのA外務
大臣が、まるで、小さな会社の社長か専務のよう。ガタガタと騒いでいる。それを見れば、「日
本って、やはり小さな国だなあ」と、だれしも思うにちがいない。

 「制裁」などという言葉は、最後の最後に使う。また安易に使ってはいけない。そういう言葉を
使うのは、「ミサイル発射実験を思いとどまらせるための、警告」ということらしい。が、そんな
警告が通ずるような相手ではない。ないことは、先刻、みな、わかっているはず。相手は、まと
もな常識の通らない、頭のおかしな金xxである。

 警告すればするほど、ムキになるはず。あるいは騒げば騒ぐほど、相手の術中に、はまって
しまう。つまり相手の思う壺(つぼ)。

 ここは冷静に! 日本は、もっとどっしりと構えるべきではないのか。つい先日も、あるアメリ
カ政府高官は、A外務大臣の政治家としての資質を疑うような発言をしている。あるいは、こう
した一連の過激発言は、A外務大臣が、次期総裁戦で不利な立場にあるために、そのための
巻き返し戦術のひとつなのか?

 もうそうであるなら、なおさら、こうした軽薄な発言は、謹んでほしい。勇ましい好戦論など、も
う結構! A外務大臣の個人的な野心のために、日本が戦争に巻きこまれるようなことだけ
は、ごめんである。
(06年6月18日、午後8時記)


●グーグル・アース(Google Earth)

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グーグル・アースを使うと、無料で、
宇宙から見た、衛星画像を、
楽しむことができる。

私たちの家の屋根の色や形まで、
見ることができる。

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 グーグル・アース(google Earth)というサイトをご存知だろうか? このサイトを利用すれ
ば、居ながらにして、宇宙から見た、私たちの町や道路、それに家々を、楽しむことができる。
もちろん衛星画像である。

 私は、暇なとき、ときどきこのサイトで、遊ぶ。地域にもよるが、つまり地域によって解像度も
ちがうが、解像度が高い地域では、道路や、そこを走る車の形、色まで、判別できる。

 こうして私は、今までに行ったことがある外国や、日本の街や、田舎を、楽しんでいる。「これ
があの町だ」「これがあの通りだ」「これがあの家だ」と。

ただとても残念なことに、私が現在住む、この浜松市の解像度は、高くない。だから私の家に
しても、やっと、それらしきものに見える程度。反対に、それほど重要でないと思われる地域の
解像度が高かったりする。たとえば私の郷里のG県のM市などは、ニューヨーク市(マンハッタ
ン)と同じ解像度で、見ることができる。

 で、今は、あのK国を見て、遊んでいる。昨夜と今朝にかけて、ミサイル発射場(舞水端里)を
さがしてみたが、それは見つからなかった。しかしそのかわりに、いくつかの飛行場を見つけ
た。どれも殺風景な飛行場で、滑走路も、満足に舗装されていないといった感じだった。が、そ
の中のひとつに、7〜8機前後の、双発機が並んでいるのに気がついた。

 「?」と思ったのは、その双発機だ。よく見ると、同じ機種のはずなのに、ひとつだけ、形が崩
れているのがあった。壊れているのか? 

それに機種がわからない。飛行機の機種については、私はかなり詳しい。その知識を総動員
しても、なんという機種なのか、わからない。形としては、イギリスのキャンベラ爆撃機に似てい
る。しかしK国に、キャンベラ爆撃機があるはずがない。

それにもっとおかしなことに、飛行機を格納する、格納庫が近くに見当たらない。飛行機という
のは、雨ざらしにしておくと、すぐ傷(いた)む。整備もしなければいけない。

 そこで私の出した結論は、こうだ。つまりこれらの飛行機は、たしかに飛行機の形はしている
が、ただのダミーにすぎないのではないか、と。つまりハリボテ。K国は、こうしたダミーの飛行
機を滑走路に並べているという話は、何かの雑誌で読んだことがある。

 それをたまたま書斎にやってきたワイフに見せると、ワイフは、こう言った。「今では、こんな
ことまでわかるのよね」「K国の人たちは、こういう事実を知っているのかしら?」と。

 つまり国内では、「スパイだ」「写真撮影は禁止だ」と騒いでいるようだが、そんなことをわざわ
ざしなくても、みんな宇宙から、見ることができる。

 グーグル・アースの解像度では、車の種類、色程度までしかわからない。しかしアメリカがも
っている偵察衛星では、人の顔までわかるという。今回も、それをつかって、ミサイルの発射を
監視しているにちがいない。

 あとでもう一度、そのミサイル発射実験場をさがしてみることにする。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●サッカー、対クロアチア戦

++++++++++++++++

昨夜、またまたサッカーの試合を
見てしまった。

0対0の、引き分けだったが、
すばらしい試合だった。

しかしおかげで、またまた興奮して
しまい、今朝は、どうも気分がよくない。

++++++++++++++++

 昨夜、またまたサッカーの試合を見てしまった。「またまた」というのは、前回の、対オーストラ
リアにこりて、「もう見ない」と誓っていたことをいう。あの夜も、そのあと、1〜2時間ほど、眠れ
なくなってしまった。それに気分が悪かった。

 しかしワイフは、「見る!」とがんばった。それで私も、つきあった。

 結果は、0対0の引き分け。結果はともかくも、すばらしい試合だった。とくに川口の、PKを止
めたシーンは、感動的だった。日本のサッカーの歴史にも残るだろう。真剣勝負というのは、あ
あいう試合のことを言う。双方の気迫が、画面を通して、ビンビンと私に伝わってきた。

 ここにも書いたように、ゴールキーパーの川口の活躍はすばらしかった。と、同時に、ヒヤッと
させられる場面もあった。

 だれかがボールをパスして、そのボールを、川口に渡そうとしたときのこと。ボールが、イレギ
ュラーとなって、川口の足元から、はずれて、チョロチョロと、うしろに流れた。

 もしあのとき、あのボールが、そのままゴールに入っていたとしたら……! 幸いなことに、ボ
ールは、右へ流れてネットの外に出た。が、もしあのとき、ボールが、そのままゴールに入って
いたとしたら……!  

 オウンゴールということで、クロアチアは、1点を先取していたことになる。ゾーッ! 本当に、
ゾーッ! 川口は苦笑いしながら、胸をなでおろすようなしぐさをして見せたが、一瞬の気のゆ
るみで、とんでもないことになっていたかもしれない。

 で、昨夜は、あまり興奮しないように、つまり自制しながら、試合を見た。こうした試合を、寝
る前に見るのは、あまりよくない。とくに私は、不安神経症的なところがある。あのゾーッとした
シーンが、脳裏に焼きついて、離れなかった。今も離れない。……そこで私は、考えた。

 18歳未満の人が見てはいけない映画を、「18禁」という。同じように、50歳以上の人が見て
はいけない試合を、「50禁」とする。

 バカげた提案だが、中には、試合を見ていて、心筋梗塞(こうそく)か何かを起こして死んだ
人もいたかもしれない。決して、油断はできない。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●第九交響曲

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先ごろ、岩城宏之氏がなくなった。
その追悼番組が、昨夜NHKで
放送された。
(06−06−18)

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昨夜(6月18日)、NHKテレビで、指揮者だった故・岩城宏之氏の追悼番組が放送された。岩
城氏は、つい先ごろ、何かの病気で、なくなった。岩城氏は、静かな口調で、いろいろなことを
話していた。

道を究(きわ)めた人だけが知る、深い含蓄(がんちく)のある言葉が、印象的だった。

が、その中でも、一番、うれしかったのは、岩城氏がこう言ったこと。

「ベートベンの第九交響曲で、すばらしいのは、第2楽章と第3楽章だ。第4楽章の『合唱』は、
つまらない」と。

 別名「合唱交響曲」とも呼ばれている、通称「第九」について、第4楽章は、「つまらない」と。
これには、驚いた。

 が、実は、私も、そう感じていた。しかし天下の「第九」を、面と向かって批判するのは、気が
引ける。だからそれについては、書かなかった。しかし、たしかにあの第九の第4楽章は、つま
らない。「神よ」「神よ」と、意味のない言葉がつづく。名曲だと言われているが、第4楽章を貫
く、あの主旋律は、どこか安っぽい。

 しかし第2楽章と、第3楽章のすばらしさは、私も認める。すでに何年も前から、そう書いてい
る。とくに第3楽章は、すばらしい。それについても、そう書いている。そして岩城氏も、こう言っ
た。

 「とくにすばらしいのは、第3楽章です」と。

 私はそれを聞いて、涙が出るほど、うれしかった。あの岩城氏が、私が今まで感じていたこと
を、追認してくれた! 何を隠そう、私は、昼寝をするときは、いつも、その第3楽章を聞きなが
らしている。第1でも、第2でもない。第4でもない。第3楽章である。

 以前、その第3楽章は、つづく第4楽章をもりあげるための前座にすぎないと書いた、音楽評
論家がいた。しかしそれはまちがっている。

 ベートーベンは、早くから、この第九を書き始めている。岩城氏は、たしか23年を経て、第4
楽章を完成したというようなことを言った。つまり第4楽章は、ベートベンの人格が、どこかおか
しくなったあとに書かれた楽章ということになる。そういう雰囲気が、第4楽章には、ないわけで
はない。全体からしても、どこかツギハギだらけ(?)。

 どこかチャラチャラした感じ。わざとらしい、はげしいエンディング。一度聞くと、少なくとも、つ
づけては聞きたくない。しかし第3楽章はちがう。聞くものに、神々しい感動を与える。何度聞い
ても、あきない。

 しかしあの岩城氏が、そう思っていたとは、夢にも思わなかった。岩城宏之イコール、第九交
響曲。私は、そう思っていた。

 で、かく言う私も、学生時代から、その第九を歌っていた。つまり元合唱団員。音符もロクに
読めない、合唱団員だった。自信もなかった。が、音楽に対するセンスだけは、それほど、悪く
なかったと思う。

 岩城氏は、そうした私のコンプレックスを、みごとなまでに、吹き飛ばしてくれた。

天国の岩城宏之さん、ありがとう!
 

Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1341)

●恐怖政治

++++++++++++++++

あのK国では、胸に金xxのバッジを
つけていないだけで、逮捕、投獄、
収容所送りになるという。

実際には、バッジをつけていない人は
いない。

そういうのを恐怖政治という。

人々は、いつも、何かにおびえている(?)。

++++++++++++++++

 江戸時代を、必要以上に、美化して考える人は多い。NHKの大河ドラマに、その例を見るま
でもない。

 しかしあの江戸時代は、世界の歴史の中でも、類を見ないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代
であった。何も、私が言っているのではない。これは世界の歴史学者たちの、共通した認識で
ある。

 その片鱗は、近くでは、新居(あらい)の関所でも、見ることができる。新居の関所というの
は、東海道の新居の宿(しゅく)にある、関所のことをいう。

 江戸時代には、だれかがその関所破りをすると、そのだれかのみならず、一族(家族、親類)
すべてが、死罪に処せられたという。関所には、こんな記録も残っている。

 1人の男が、関所破りをした。「関所破り」といっても、何も関所を破壊したというわけではな
い。関所を通らずに、新居の宿を抜けたというだけである。多分、近くの山の中を通り抜けた
のだろう。

 その男は、伊豆で逮捕、処刑。その死体は、塩漬けにされ、わざわざ新居の関まで運ばれ、
改めて、そこで磔(はりつけ)の刑に処せられたという。もし興味のある人がいたら、新居の関
所を訪れてみたらよい。建物は、江戸時代のまま、残っている。

 同じような例というか、恐怖政治の一端は、将軍綱吉(つなよし)の時代にも見ることができ
る。

 言わずと知れた、「生類憐(あわれ)みの令」である。

 戌(いぬ)年生まれの綱吉が、自分に子どもができないことを、護持院隆光に相談したとこ
ろ、そういうことになったらしい。多分、2人の間で、こんな会話がなされたにちがいない。

綱吉「どうしたらよいかのオ?」
隆光「生き物を大切になされ」
綱吉「わかった、そうしよう」と。

 そこで綱吉は、「生類憐みの令」を発布した。生き物、とくに、犬をキズつけたり、殺してはい
けない、と。

 ウソや冗談ではない。本気だ。

 綱吉は、もともと「偏執的な性格」(日本史BOOK・主婦と生活社)だった上に、「下僚が、せ
っせと、点取りに励んだので、法令の適応範囲がどんどんとエスカレートした」(同書)ということ
らしい。

 結果、綱吉の小姓・伊藤淡路の守などは、蚊をはたいて殺しただけで、他家へお預け処分。
本所相生町のある町民は、犬を斬ったため、獄門さらし首にされたという。

 伯楽・橋本権之助という人物は、犬を傷つけただけで、切腹を命じられたという記録も残って
いる(同書)。

 ……などなど。これらは、当時のほんの一例にすぎない。しかしあまりにも常識からはずれて
いるため、今では笑い話のように聞こえるかもしれない。が、決して笑い話ではすまされない。
それがわからなければ、将軍綱吉の視点に自分を置いて考えるのではなく、庶民の視点に自
分を置いて、ものを考えてみることだ。

 それが恐怖政治である。

 そしてその恐怖政治が、まさに今、あのK国で、進行している。全体主義という恐怖政治であ
る。

 そこで重要なことは、私たちは、ああいう現代の恐怖政治を見ながら、(過去)を学び、(未
来)を学ばなければならないということ。実のところ、日本も、戦前、そして戦時中、今のK国に
まさるとも、劣らないほどの恐怖政治を体験している。それが(過去)。

 そして未来にわたって、私たちは、2度と、恐怖政治を、実現させてはいけない。それが(未
来)。

 その第一の方策。それが民主主義ということになる。「国あっての、民」ではない。「民あって
の、国」である。そういう意識をさらに完成させる。

 ただ誤解しないでほしい。だからといって、私は何も、日本の歴史を否定しているのではな
い。歴史は歴史として、当然のことながら尊重されなければならない。しかし、同時に、歴史の
ある部分だけを誇大視して、それを美化してはいけない。

 先にも書いたが、その代表的な例が、NHKの大河ドラマである。今は、「功名xxx」という番
組を放送しているが、NHKはああした番組を通して、いったい、何を私たちに訴えようとしてい
るのか? いや、その前に、私たち日本人は、一度とて、あの江戸時代という封建主義時代
を、清算したことがあるのか?

 しかしこれでは、(過去)を、(未来)へ、生かすことはできない。

 恐怖政治……それがわからなければ、現在のあのK国を見ることだ。胸に金xxのバッジをつ
けていないだけで、逮捕、投獄、収容所送り。実際には、バッジをつけていない人はいないそう
だ。

 たかがバッジくらいのことで!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恐怖
政治)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●今朝(6月20日)
    
++++++++++++++

久しぶりに、偏頭痛。
頭が重い。痛い。

このエッセーを書き終えたら、
食事をして、薬をのんで、
また床に、もぐるつもり。

++++++++++++++

 偏頭痛がほかの頭痛をちがうところは、いくつかある。

 その第一。眠っていても、痛いということ。

 風邪の頭痛は、熟睡しているときは、痛くない。二日酔いの頭痛は、眠っていても痛いが、痛
みが鋭い。しかし偏頭痛は、その名のとおり、頭のスジに沿って、痛い。どんよりとした痛み
が、頭全体に、ズシン、ズシンと響く。

 今は、右側のほう。頭のシンで、重苦しい頭痛が、やむことなしにつづいている。

 しかし最近は、よい薬ができた。それをのむと、30〜40分のうちに、痛みがウソのように消
える。それがわかっているから、こうしてのんきに、パソコンに向かって原稿を書くことができ
る。

 が、私のばあい、偏頭痛の薬をのむと、胃が荒れる。だから食後、あるいは食事といっしょ
に、のまないといけない。それをしないと、そのあと、胃がおかしくなってしまう。だから今は、こ
うして静かに、ワイフが作ってくれる朝食を待っている。

 食事まで、あと30分ほど。

 ……原因は、何か? 昨日、とくに気をつかったということもない。あえて言うなら、おとといの
深夜、サッカーの試合(日本対クロアチア戦)を見たおかげで、睡眠サイクルが狂ってしまった
ことが考えられる。

 (日本が勝っていたら、安眠できたのだろうに……。)

 偏頭痛というのは、心が緊張しているときは、起きない。その緊張状態から解放されたとき、
つまりホッとしたときに起きる。若いころは、「さあ、今日から休みだ」という、その朝に、よく起
きた。

 気が緩(ゆる)んで、血管が拡張したとき、周囲の神経を圧迫して、偏頭痛は起きる。

 が、ここで不思議なことを経験しつつある。

 若いころは、偏頭痛が起き始めると、その恐怖感が、さらにその偏頭痛を倍加させた。が、
今は、よい薬がある。その薬があると思うだけで、偏頭痛の薬をのまなくても、偏頭痛が収まっ
てしまうのである。

 今が、そうだ。明け方、まだ眠っているときに、偏頭痛が始まった。そういうときというのは、
恐ろしい夢を見る。その恐ろしい夢が、偏頭痛を倍加する。

 ……が、あと、20分。もうすぐワイフが、「食事、するウ?」と言ってくる。この言葉は、この20
〜30年、変わっていない。そのとき、私は、薬をのむ。しかしそれを思うだけで、痛みがどんど
んと和らいでいく。

 この10分間だけでも、痛みが半減したように思う。(右のこめかみの奥が、痛いが……。)

 しかし今朝の原稿書きは、ここまで。食事のあとは、しばらく休む。そしてそのあとは、日常の
仕事をこなす。

 では、今日はここまで。
 
 みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 偏頭
痛)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【家庭内暴力】

●壮絶な家庭内暴力

+++++++++++++++

東京都に住んでいる、Eさんという
母親が、長男の家庭内暴力に
苦しんでいる。

父親と、二男とは、そのため別居。
疲れきったEさんは、「死んでしまいたい」
とまで思うようになったという。

+++++++++++++++

E様へ

拝復

 パソコン上で原稿を書くと、どこかに記録が残ってしまいます。それがいつか、思わぬところ
で、表に出てきてしまうことがあります。それでここでは、「E様」とします。お許しください。

 また、同じような問題をかかえている、ほかの多くの親たちの参考と励みになるよう、一部、E
様からいただいた相談内容を、引用させていただきますが、どうか、ご了解の上、お許しくださ
い。

 E様からのメールを、要約させていただきます。

++++++++++++++++

【Eより、はやし浩司へ】

 2年前に相談したことがある、東京都のEです。

 現在、兄は、高校1年生、弟は、中学2年生です。以前は、父親と私、子ども2人で、生活して
いました。

 その兄、つまり長男のことです。

 中学3年になるころから、暴力がはげしくなり、「こんな俺にしたのは、お前だ」と、私を殴った
り、蹴ったりします。タバコを吸い始め、髪の毛も茶色に染め始めました。3年の中ごろから、
学校へも、ほとんど行かなくなりました。

 学校の先生から、「排除」という言葉が出てきたのも、そのころです。長男を、学校から排除
するというのです。それで長男の荒れは、ますますひどくなりました。

 そこで父親(私の夫)と、二男は、近くにアパートを借りて、別居。現在は、私と、長男だけが、
いっしょに暮らしています。食事は、私が作り、毎日、父親と二男に届けています。

 長男の暴力はひどいですが、一線だけは守ってくれているようです。今のところ、指の骨折程
度ですんでいます。

 一応、単位制の通信高校に通っていますが、ほとんど学校へは行っていません。昼夜が逆
転し、夜中に起きてきて、私に、「食事を作れ」「こうなったのは、お前のせいだ」「弟は、お前と
別れて、よくなっただろ」「お前は、この家から出て行け」と、蹴ったりします。

 私の精神はボロボロで、自殺願望も生まれてきました。

 『許して、忘れる』という先生から教えてもらった言葉を口ずさみながら、何とか、それに耐え
ていますが、本当にこれでいいのでしょうか。一言、アドバイスをしてください。
(東京都・Eより)

+++++++++++++++++++++++

Eさんの転載許可がいただけましたので、
Eさんからのメールを、ほぼそのまま、
ここに紹介します。

上記の内容とダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++++++++++

【Eより、はやし浩司へ】


+++++++++++++++++++++++++++

転載許可がいただけましたので、Eさんからのメールを、
そのまま紹介させていただきます。(6・21)
Eさん、ありがとうございました。

+++++++++++++++++++++++++++

【Eより、はやし浩司へ】

2年ほど前、当時小学6年生だった。次男の不登校のことでご相談した事がある者です。
長男は、当時、中学2年生でした。

その長男が中3になり、中1とし、弟は同じ中学校に入学してきましたが、そのときもまだ、弟
の学校恐怖症がつづき、学校へは、行けない状況にありました。

そのことで長男は友達から、弟のことで、いろいろとつらいことがあったようです。

家でゴロゴロと寝ている弟をみて登校していく長男でしたが、6月の運動会が終わったあたりか
ら、変わってきました。

タバコを、学校帰りに、友達と吸ったり、不良なんだとわざと見せるような行動をとるようになり
ました。

深夜徘徊をしたり、学校から排除されるようなことを先生に言われたりし、しのともあって、友達
も、みんな長男から、引いてしまったようです。孤立してしまいました。

2学期からはほとんど学校へは行かず、受験も拒否。

髪は茶髪、金髪、弟へのプロレスごっこと称しての暴力もはじまり、それを止めないといって弟
は、容赦ない暴力を私へ向けてきました。

去年の12月に主人と次男は隣町のマンションへ、出て行きました。

次男は中学も変わり、中1の3月までは不登校でしたが、中2になり4月からはまだ1日も休む
ことなく楽しく登校できているようです。

長男は卒業式にも出席することなく、一応単位制の通信高校に入学はしましたが、ほとんど登
校していません。

昼夜が逆転し、夕方ぐらいに起きてきて、夜中にわたしを起こし、飯を作れとか、耳元で、わざ
と、うるさい音楽を流したりと、嫌がらせがつづいています。

『お前がこんなにしたんだ、お前が出て行けば俺はよくなる! ○○(次男)もお前から離れた
からよくなっただろう』と、蹴ったり殴ったりします。

それでも手加減はしてくれているようで、いままで病院へ行ったのは右手小指の骨折だけで
す。
私も学校へ行けだとか、昼夜が逆転していることを、なおしなさいとか、言わないようにしていま
す。

次男へは毎日夕食を運んでいます。

自分を高めなければ精神がボロボロになってしまって、自殺願望が強くなるばかりです。
許して、許して忘れるの先生のお言葉を毎日、念仏のように口ずさみ、耐えています。
やがて時間が解決してくださると・・・

先生、それでいいのでしょうか、何も言わず、待つことがいちばんなんですよね。
もし、それでよけでば、それでよしとお答えくだされば、とても強い力になります。

孤独に閉鎖された中で戦う私に、後押ししてくださいませんでしょうか。
どうか、よろしくお願いします。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家庭
内暴力 親への暴力)


【追伸、Eより、はやし浩司へ】

長男のことについての相談のお返事、ありがとうございました。
ブログへの掲載はかまいません。

昨日も、長男が、弟は、おたくっぽくてかっこ悪いというので、そんなことないよ、かっこいいよと
いったことに腹を立て、殴ったり、ものをこわしたり、網戸を破ってそれにライターで火をつけよ
うとしました。

私はそれに驚き、集合住宅でもあるし、火を出したら大変だと、脅す大河をそれだけはいけな
いと叫びました。

私が嫌がる事はわざとやるので、ソファーも火をつけたり、(すぐ消える程度)していたので、私
がまず、家を出なければと急いで家を出ました。

そして一晩帰宅しませんでした。
長男へはメールで、「火をつけたり、暴力が続くとお互い傷つくし、自分も他人も取り返しのつ
かないことになったら大変だから、暴力が治まるまで帰りません。何がそんなに哀しいのか
な・・・みんな、大河を愛しているよ、それはいつまでも変わりません。」
と送りました。

警察の少年サポートセンターの方が暴力からは逃げてください、受けたそのときに家を出てく
ださい、毎日連絡は入れてください、と指導されました。

私も、どうしていいやら家を出て実家に帰ったものの、心配でなりません。
今は荷物を取りに帰宅しています。

次男へ食事も運べませんし、夫がコンビニの弁当を買ってきているようです。
2〜3日したら帰宅しようとは思いますが、どうなんでしょうか。

火をつけたり、そんなまねごとでも危険な事は、許すわけにはいきません。

私は内科でデパスとメイラックスという、不安を取り除くお薬を処方してもらい、寝る前に飲んで
います。

メイラックスと言う薬は次男も、G大病院思春期外来で処方され、飲んでいました。
長男に、飲ませてはどうでしょうか。

とても、病院に一緒に行ってくれる状態ではありません。
長男が苦しんでいるのはわかります。
だから、強がって仮面をかぶって外に出るのもわかります。
不良になりたがるのも、よくわかります。

私も、そんな格好を非難する言葉や、世間体が悪いだとか、罵るような事を言ってしまいまし
た。

反省しています。

それなのに、今からでも大丈夫でしょうか、母と子の関係を修復できるでしょうか。  

今回はご返答ありがとうございました。
私は「許して忘れて、諦める」を念頭に、がんばって母親をやっていきます。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Eさんへ】

 家庭内暴力の背景には、つぎのような素因があると考えてください。ざっと、急いで書きあげ
たので、不備があるかもしれません。

(1)子ども自身の、うつ病。(心の病気)
(2)子ども自身の人間関係調整機能の喪失。(基本的信頼関係の構築の失敗)
(3)子ども自身の自己管理能力の欠落。(幼児性の持続。わがまま)
(4)子ども自身の二重人格性。(自分とは別の自分による暴力行為)
(5)子ども自身の欲求不満。(性的欲求不満も含まれる。)
(6)子ども自身の生育上の問題。(乳幼児期に「いい子」で通ってしまった。)
(7)下の弟との関係。(「兄」であることから受ける重圧感。欲求不満)

 が、何よりも大きな素因は、(8)自己嫌悪から発生する、自暴自棄的自虐性です。

 このタイプの子どもは、自分の中にある、(自己嫌悪感)を解消したくても、それができないジ
レンマに陥っていることが多いです。自己管理能力のしっかりしている子ども(人)は、それを、
うまく処理できるのですが、それができません。

 それで弱い母親に対して、「こんなオレにしたのは……!」という言葉が出てきます。つまり自
分で、自分を嫌っているわけです。(嫌う)というよりも、みなに嫌われているもどかしさ、本当の
自分を認めてもらえないつらさ、それを(暴力)にかえていると思ってください。

 だから本当に、母親であるあなたを嫌っているというわけではありません。形こそ、少しいび
つですが、暴力的な(甘え)と理解すれば、よいかもしれません。

 もちろんその(甘え)の中には、さまざまな要因がつまっています。

 ここにあげた(人間関係調整機能の喪失)も、そのひとつです。つまり人間関係がじょうずに
調整できない子どもは、依存的になったり、服従的になったり、同情的になったりしますが、他
者に対して攻撃的になったりします。

 お子さんは、最後の攻撃型タイプということになります。(攻撃型タイプも、他者に対して攻撃
的になるタイプと、自分に対して自虐的になるタイプがあります。)

 が、心理状態は、いつも、孤独で、心の中に空虚感を覚えていると理解してください。つまり
心の中は、さみしいのです。そのさみしさを、埋めるために、あなたに対して暴力を振るってい
るのです。

 ……と書くと、どうして?、と思われるかもしれませんね。

 実は、あなたはお子さんのことを思ったり、心配してはいますが、そのつど、同時に、お子さ
んを、突き放すような言動をしているからだと考えてください。これは無意識のうちに、そうして
いるのがふつうです。

 子どもの心というのは、そういう意味では、たいへん敏感です。あなたのささいな言動から、
それをさぐり当ててしまいます。

 そこであなたのお子さんは、ギリギリのところまでしながら、あなたの心を試そうとします。ギリ
ギリのところです。

 家庭内暴力を起こす子どもは、いつもその限界の内側で暴れます。あなたが言う(自制)とい
う言葉は、それを言います。「これ以上のことをしたら、おしまい」という、その一歩手前で、暴
力を止めます。

 これはお子さんの中に、もう一人の別のお子さんがいて、それを制御しているためと考えれ
ば、わかっていただけると思います。つまりそのつど、もう一人のお子さんが、「もう、やめてお
け」「そのへんで、ストップしろ」と命令をくだしているわけです。

 それで「指の骨折程度」ですんでいるわけです。

 つまりあなたのお子さんがしていることは、典型的な、「家庭内暴力」ということになります。で
すから、今は、つらいかもしれませんが、(お気持ちは察しますが)、問題としては、とくに変わ
った問題ではないということです。

 少なくとも、まったく同じような状況で、引きこもりを起こす子どもよりは、立ちなおるのがずっ
と楽ですし、立ちなおったあと、むしろ、かえって常識豊かな人間になります。

 私はそういう子どもの例を、何十例も見てきました。ですから、決して希望を捨てず、あきらめ
ず、短気を起こさず、前に向かって進んでください。必ず、一過性のもので終わります。そして
みな、なにごともなく、終わっていきます。

 『許して、忘れる』……これは何も、まちがっていません。今こそ、あなたの愛というよりも、深
い人間性が、子どもによって確かめられているのです。わかりますか? 

 親が子どもを育てるのではありません。親は、子育てで苦しみながら、子どもによって育てら
れるのです。

 そこでつぎのことに注意してみてください。

(1)突き放すようなことは言わない。 

 一方でお子さんのことを心配しながら、他方で、お子さんを突き放すようなことを言ったり、し
たりしていませんか? たとえば、「ごめん、ごめん」と口で言いながら、少し、お子さんの機嫌
がよくなると、「もう、あなたなんかイヤ」とか言う、など。

 これは究極の状態ということになりますが、「私はもう殺されてもいい。それでも、私はあなた
を見捨てませんからね」という状態になったとき、あなたのお子さんは、はじめて、あなたに安
心感を覚えるようになります。

 あなたにその覚悟はできていますか。が、あなたには、その覚悟は、まだできていない。「殺
されるのはいやだ」「世間体が悪い」「子育ては、もうこりごり」と。

 あなたのお子さんは、そのスキをついて、家の中で暴れます。満たされない愛への欲求不満
を、あなたにぶつけてきます。ですから、あなたはつぎの言葉だけを、子どもの前では、繰りか
えします。

 「ごめんなさい。お母さんが、悪かった」「どんなことがあっても、私はあなたを愛しつづけま
す」と。何があっても、最後の最後まで、その言葉を繰りかえします。これはまさに、壮絶な根く
らべです。

(2)子どもも苦しんでいる。

 あなたには想像できないかもしれませんが、あなたのお子さんも、そういうあなたを見なが
ら、苦しんでいます。あなたが苦しんでいる以上に、お子さんも苦しんでいるということです。(今
のあなたには、想像できないかもしれませんが……。)

 あなたは、お子さんにとって、最後の(心の拠り所)です。砦(とりで)です。その拠り所を、自
分で破壊しながら、お子さん自身は、自分でそれをよしとはしていないのです。愛する人(=あ
なた)をキズつけながら、それをしている、自分が苦しいのです。

 自己嫌悪から自暴自棄になるのは、そのためと考えてください。

 しかも自分に関することが、すべてうまくいかない。中学校の友人たちには嫌われる。高校へ
も進めなかった。何をしてよいのかわからない。何をしたいのかもわからない。家族もバラバラ
になってしまった。(現実の自分)と、(自分が頭の中に描く自分)が、一致せず、混乱している。

 それは思春期のお子さんにしてみれば、たいへんな苦しみということになります。

 今のお子さんの心理状態は、そういう状態であると考えてください。つまりあなたが、それをま
ず、理解します。その上で、「あなたも苦しんでいるのね」と、子どもを暖かく包んであげます。

(3)心の病気と考えてください。

 できれば、一度、心療内科を訪れてみてください。今ではすぐれた薬も開発されていて、お子
さんの(突発的なキレ)(異常なこだわり)(うつ症状)などにも、すぐれた効果があります。

 心の病気といっても、脳の機能的な障害ですから、おおげさに考えないこと。決してお子さん
が、このまま人格障害者になるとか、そういうことではありません。いわば、一過性の、はげし
い熱病のようなものです。

 しかも、確実になおる見込みのある熱病です。今までの私の経験からしても、今が山で、18
歳ごろまでには、ウソのように落ち着いてきます。先にも書きましたが、引きこもりを起こすタイ
プよりは、ずっと回復も早く、予後(その後の経過)もいいです。

(家庭内暴力を起こすタイプを、「プラス型」というなら、引きこもりを起こすタイプは、「マイナス
型」ということになります。まったく正反対の症状ですが、原因も、対処の仕方も、同じです。)

 ですから、薬で落ち着かせる部分については、薬に頼ります。あなた自身が、カプセルの中
に入ってしまわないで、他人に任すところは、任せます。

 私はドクターではありませんが、心療内科のドクターも、「うつ病」に準じて、治療を開始する
はずです。

 ただこのときも、注意しなければならないことは、たとえ心療内科へ連れていくとしても、(突き
放すような言動)は、タブーだということです。施設へ入れるとか、入院させるとか、そういう話
は子どもの前では、ぜったいに、してはいけません。

 少し前、子どもの立場で、自分の心の状態を語ってくれた青年がいました。(私のBLOGなど
に書いておきましたが、ご覧になってくださいましたか? マガジンでも取りあげたことがありま
す。)

 このBLOGの中で、「じじさん」というのは、その青年を批判した男性のことをいいます。内容
はわからいませんが、多分、その男性は、その青年を、「引きこもりは、怠け病だ」とでも言っ
たのではないかと思います。それでその青年が、反発しました。

+++++++++++++++++

【宮沢KさんのBLOGより転載、転載許可済み】

● 引きこもりは、病気だ!

お気楽にやっていきたいのに、今日もシビアになっちまう。

「引きこもり者更生支援施設内で暴行か、引きこもり男性死亡」って事件の話。

不条理日記さんのIMスクールについて、KMさんという人のコメント。

「このケースは、言ってみれば、自信過剰の民間療法の素人が、
癌の治療に手を出したようなものでしょう。
引きこもりの一部は精神科の病気、
それもとても治療の難しい病気なのだという対応が必要です。」

この人が正しい。タイコバン!

それに対して管理人のじじさんが

「引きこもりが病気!?
そのように病気病気言うから病気に甘えて
薬に甘えて医者、病院にあまえて何もできなくなってしまうから
それがひきこもりって、そのまんまの名前の病気になってしまうんではないでは? 」

じじさん、あんたねえ、
KMさんも「引きこもりの一部は」って、言ってるでしょ。
引きこもりには怠けもんも多いけど
正しい? 病気の人も多いの。

世間一般、じじさんと同じように思ってるだろうけど、
メラトニンやコルチゾールの分泌異常とか
前頭葉領域の血流低下とかアセチルコリンの消費量増大とか、
あとはPTSDとか親の共依存とか
かなり脳科学や臨床心理学で解明されてきてる。

やる気だって、脳内の化学物質の反応なんだよ。
無知だよなあ、世間のやつらは。

++++++++++++++++++

●引きこもり者更生支援施設依存症の親

IMスクールの事件じゃ、どうやら家庭内暴力で疲れ果てた家族が
施設に引き渡したらしいね。

精神科の世界で誰にもわからないから閉じ込めるしかない 
今の医学ではそんなもの。

本人が一番辛かったはず、「なんでおれは暴れちまうんだろう」ってね。
原因はあるんだろうが、わたしにはもちろんわからない 

引きこもりに正面から向き合うこともなく、
病理的な勉強も怠り、
甘えだとかやる気がないとかほかの子はちゃんとやってるのに
とか言ってる大人たちが、こんな、社会やこんな子供を作った。 

あんたらこそ、やる気だしてみろよ
薬打って中毒になってみろよ 
病気で足を切断されて足の大切さがわかり、
元通りにならない事をはじめて認める。

どうにもならない事って、その状況にならないとわからない事って、
あるだろう。

自分が正常でございと思ってるすべての連中、
あんたらは
感性が擦り切れて、何も感じられないからこんな世の中で平気でいられるだけだ。
宮沢Kの感性の爪の垢でも飲みやがれ!

この施設がどういう人たちがやってて、
どういうことが行われたかはわからない。
事故だったのかなんだったのかはわからない。
引きこもりにはそれなりの意義があるんだけど
わかってないんだろうな、こんな施設つくるくらいだから
(引きこもりの人生の意義の話は、またこんどね)

 親が、子どもの暴力に耐えかねて
預かってくれる施設があると聞いて喜んで拉致させた。

親がこの施設に依存した。
親と子がいっしょに戦うことをあきらめた。
その結果、子どもは死んだ。
これだけだ。

臭いものにはフタか?
わが子は臭いものか?
誰かにまるごと頼みます、であとは平穏な暮らしが戻るのか?

(暴力で苦しんでる家庭では、
いっぺん親だけでも精神科や心療内科に相談に行くといい。
ハロペリドールなどの精神安定剤の処方で、おおかた静まる。
それからゆっくり時間をかけて話をしていってほしい。
相談するなら素人じゃなく専門家にしないとね。

ただ精神科くらい、医者の当たり外れの大きいところもないから
気に入る医者に出会うまで何人も回ること。

わたしは5つくらい、病院、回って奇跡的にいいドクターに会えて
やっと回復できた。

どうしてこんな無知で精神科の医者やってんの?というのが多い。
答えは「精神科は楽に儲かるから」。
(点数がいろいろ有利なのは事実)

+++++++++++++++++++++

★今日は最後に怠け者へ一言★

じじさんの言ってた、
たんなる「怠け者」の引きこもりやニート、不登校のあんたらに言っておく。
怠け者の末路は悲惨だよ。

生活保護って制度もいつまであるかわかんない。
バス代さえなくて何キロも歩いて病院にきてるおばさん、
家族から見放されて無縁墓地にはいるのを待って
光の入らない4畳半に住んでるおじさん。。。

やっぱ、施設とか、病院って、世の中にすごく必要。
こういう同病者をまじかにみれるもの。

自分の明日が見れるし
いっしょに抜け出そうとする仲間に出会えるもの。

ただし、自分から入りたい、と覚悟するまでが、時間、かかるのね。

これから医学はもっともっと進むよ。
病気かそうでないかは、かんたんに見破られるから
病気のフリもできない。
怠け者にはじじさんだけじゃなく、私も世間も、やさしくないよ。


【宮沢Kさんへ】

 たいへん参考になりました。あなたのような体験をもった人たちが、もっと声をあげれば、IM
スクールのような、おかしな更生支援施設(?)は、なくなると思います。

++++++++++++++++++++

【再び、Eさんへ……】 

 ここで宮沢Kさんが、書いていることは、何かの参考になると思います。宮沢KさんのBLOG
は、今のあなたのお子さんの立場で、自分の過去の経験を語っています。あとでそのBLOG
のアドレスを添付しておきますので、一度、あなたも、のぞいてみられたらよいかと思います。

 ともかくも、『許して、忘れる』ですよ。

 あなたがこれを乗り切ったとき、あなたはすばらしいものを手にするはずです。つまり(真の
愛)がどういうものであるかを、知るはずです。今は、その試練のとき。あなたのお子さんは、
あなたにそれを教えるために、今、そこにいます。

 決して短気を起こさず、決してあきらめず!

 そうそうあなたの自殺願望ですが、これは育児にかぎらず、介護に疲れた人も、みな覚える
ものです。あなた自身も、一度、心療内科で、精神安定剤を処方してもらうとよいかもしれませ
ん。

 私も、姉に教えられて以来、女性用の精神安定剤をのんでいますが、よくききます。

 なお、あなたからのメールを、こちらで一度手なおしして、私のマガジンに掲載したいのです
が、その許可をいただけませんか。あなたであることは、ぜったいわからないように、書き改め
ます。

 よろしくお願いします。

【宮沢Kの風・BLOG】

 ここに書いた宮沢KさんのBLOGです。子どもの立場がよくわかり、Eさんの参考になると思
います。

http://kenjinokaze.livedoor.biz/archives/50669992.html

 どうか、めげないで、がんばってください。必ず解決する問題ですから。約束します。

(つづきは、Eマガのほうで。7月26日号、掲載予定)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●子どもの家庭内暴力で苦しんでいるEさんへ、

 基本的には、心の病気と考えますが、この(病気)にいたるまでに、さまざまな原因や理由
が、そこにからんでいると考えてください。

 糸が複雑にからむようにからんでいるため、それを解きほぐすのは、容易なことではありませ
ん。それこそ、乳幼児期からの糸がからんでいることもあります。

 ついでながら、乳幼児期から、(いい子)で通ってきた子どもほど、思春期を迎えるころから、
この家庭内暴力も含めて、さまざまな問題行動を起こすことがわかっています。

(そういう点でも、子どものころから、(何を考えているかわからない子ども)ほど、心配な子ども
ということになりますね。)

 で、その家庭内暴力を起こす子どもの行動には、一定のパターンがあります。

(1)限界状況の把握

 家庭内暴力を繰りかえす子どもの最大の特徴は、自ら、無意識のうちにも、限界状況を設定
するということです。つまり子どもは、「これ以上のことをしたら、おしまい」という、その限界ギリ
ギリのことまではします。が、しかしそれ以上のことはしません。

 (自分に対する怒り)を、(家族)にぶつけているだけだからです。つまり本当に相手(あなたと
いう親や兄弟)を憎んでいるから、暴力行為を繰りかえしているのでないということです。(自分
でも、自分をどうしたらいいかわからない)という思いを、(怒り)に変えているだけなのです。

 そういう点では、わがままな子、あるいは、俗な言い方をすれば、「甘ったれた子」ということ
になります。それだけ、人格の核形成(コア・アイデンティティ)の遅れた子どもということになり
ます。

(2)自虐的な愛の確認

 家庭内暴力を起こす子どもは、完ぺきな愛を、家族、なかんずく母親に求めようとします。完
ぺきな愛です。「どんなことをしても、自分は許されるのだ」「愛で包んでもらえるのだ」という
愛、です。

 その点、マザーコンタイプの子どもの心理に似ています。で、その完ぺきな愛を確認するた
めに、暴力行為を繰りかえします。

 が、暴力行為を加えられるほうは、たまったものではありません。当然のことながら、(子ども
を愛したい)という気持ちと、(子どもから離れたい)という気持ちの間で、はげしく葛藤します。

 その葛藤の間げきをついて、子どもは暴れます。たとえば親が、「病院へ一度、行ってみよう
か?」「そんなに私(=母親)が嫌いなら、私は、この家から出て行こうか?」「ひとりでアパート
に住んでみる?」などという言葉を口にすると、突然暴れ出す子どもが多いのは、そのためで
す。

 子どもは、その一言に、大きな不安を覚えることになります。

(3)二面性

 家庭内暴力を起こす子どもについて、多くの親たちが、「どうして?」と悩んでしまうのが、二
面性の問題です。

 はげしく暴れながらも、それが収まったようなときには、別人のようにやさしくなったり、親をい
たわったりします。

 実はそうした二面性は、暴力行為を繰りかえしている最中でも、それがあります。ある男性
は、こう言いました。彼は高校時代から青年期にかけて、その家庭内暴力を繰りかえしまし
た。

 「親を殴りつけている間も、もう1人の、別のぼくが自分の中にいて、『やめろ』『止めろ』と叫
んでいた」と。

 そこで私が、「では、どうしてそのとき、暴力をやめなかったのだ?」と聞くと、その男性は、こ
う言いました。

 「やめようと思っても、もう1人の自分が、どんどんと勝手に怒ってしまった」「途中でやめる
と、かえって、自分がへんな人間に見られるようで、できなかった」「自分でも、どうしようもなか
った」と。

 で、その男性のばあい、家庭内暴力をやめるきっかけになった事件があったそうです。

 ある夜のこと。その男性は、いつものように自分の母親を殴ったり、蹴ったりしました。で、そ
のあとのこと。その男性が、いつものように家を出ようとしたところ、(本当は出るつもりではな
く、庭先にあるガレージの二階に行こうとしたのですが)、母親がその男性を追いかけてきて、
「出て行かないで」「どこへも行かないで」と、泣きながら懇願したそうです。

 それを見て、その男性は、自分にそんなことまでされて、なおかつ、「出て行かないで」と泣き
叫んだ母親に、自分が求めていたものが、それだったと気がついたというのです。以後、その
男性は、それまでの男性とは別人のように、穏やかになっていったそうです(母親談)。

(4)緊張状態

 子どもが暴れるメカニズムは、つぎのようです。

 基本的に、子どもの心は、極度の緊張状態にあると考えます。この緊張状態が、日常的に
悶々とつづいています。

 この緊張状態の中に、不安(将来への不安、現実への不安、孤独への不安など)、心配(将
来への心配)などが入りきんでくると、それを解消しようと、心の緊張状態が、一気に倍加しま
す。

 それが突発的な暴力行為へと発展します。

 ですから、このタイプの子どもについては、(1)緊張状態の緩和を心がける、(2)不安や心
配ごとを持ちこまないということになりますが、ふと言った言葉が、キーワードになり、それが子
どもを激怒させるということも、少なくありません。

 これはある年長児の女の子の例ですが、母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と声をかけた
だけで、激変し、あるときは、母親に向かって、包丁まで投げつけたといいます。

 そこで対処のし方ということになります。

 今ではすぐれた薬もあり、またこうした心の病気に対する理解も深まってきましたから、決し
て、ひとりでは、悩まないこと。本人は、なかなか行きたがらないかもしれませんが、よく説得し
て、一度、心療内科の医院を訪問してみることが、第一です。

 つぎに子どもが暴れだしたら、説教したり、自分の意見を述べたりするのは、タブーと心得ま
す。かえって火に油を注ぐようなことになりかねません。ですから、「ごめんなさい」とだけ言い、
それを、どんなことがあっても、繰りかえします。子どもが意見を求めてきたようなときでも、「ご
めんなさい」とだけ言って、それですまします。

 「子どもが暴力行為を始めたら、家から出て、逃げろ」と教える指導員もいるようですが、私
は、反対です。

 そのときはそれですむかもしれませんが、つぎのとき、それが理由で、また暴力が始まること
が多いからです。「この前の夜は、ぼくを捨てて、家を出て行ったではないかア!」「どうして、オ
レを捨てたア!」とです。

 それまでに苦労してつくりあげた、親子の信頼関係を、破壊することにも、なりかねません。
親のほうには、そのつもりはなくても、子どものほうが、そう感じてしまいます。
 
 Eさんの息子さんが、ソファにライターで火をつける行為も、「火をつけて家を燃やしたい」から
ではなく、「オレをひとりにしておくと、オレはたいへんなことをするぞ」「だからオレをひとりにす
るな」ということを、あなたに伝えたいからです。またそう解釈すると、あなたのお子さんの心理
が、より理解できるのではないでしょうか。

 この問題の根底には、根深い、相互の不信関係(基本的不信関係)がからんでいます。そし
てそれは、どこかにも書きましたが、子どもが、乳幼児期に始まります。

 本来なら、子どもは、親に向かって、言いたいことを言い、したいことをしながら、そのつど自
分を発散しながら成長するのが、好ましいのですが、それができなかった。それが回りまわっ
て、子どもの心を、ゆがめてしまった。それが今、はげしい暴力行為となって、家庭の中で起き
ている。現状を解説すれば、そういうことになります。

 で、家庭内暴力を経験した子ども(おとな)は、みな、こう言います。

 「あんなことをしたのに、親は、自分を見捨てなかった」「それが自分を立ちなおらせるきっか
けになった」と。

 反対に、そうでないケースも、少なくありません。親のほうが、根をあげてしまい、子どもを施
設へ送ったりするようなケースです。それぞれの親には、それぞれの、やむにやまれない事情
もあるのでしょう。が、それをするのは、最後の最後。またそれをしたからといって、この問題
は、解決しません。

 さらに二番底、三番底へと、子どもは、落ちていきます。

 しかし心の病気と考えれば、気も楽になるはずです。しかも、この病気だけは、必ず、なおり
ます。そういう病気です。ですから、どうか、短気だけは起こさないでください。ただ家庭内暴力
にかぎらず、どんな(心の病気)もそうですが、1年単位の時間はかかります。それは覚悟して
おいてください。

 許して、忘れる。あとは、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて、対処する」で
す。静かな無視、暖かい無視を大切に。ほどよい親でいることに心がけます。

 もちろん、「こんなことでは、落ちこぼれになってしまう」とか、「がんばれ」などと、子どもを、脅
したり、励ましたりするのは、タブーです。かえって子どもの心を窮地に追いこんでしまうことに
もなりかねません。

 つまり、その度量の深さによって、あなたのお子さんへの愛情の深さが決まります。子どもを
投げ出したとき、あなたは、親として、はげしい敗北感を味わいます。ですから、決して、投げ
出さないこと。

 谷が深ければ深いほど、そのあと、あなたと息子さんは、すばらしい親子関係を築くことがで
きます。それを信じて、前に進んでください。

 いくつか、役にたちそうな原稿を、ここに添付します。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【アルバムの効用】

 子育てをしていて、苦しいことや悲しいことがあったら、アルバムをのぞくとよいですよ。ある
いは、アルバムを、家の中心に置いてみてください。

 アルバムには、私たちが想像する以上の力があります。理由は簡単です。そこには、楽しか
ったとき、うれしかったときが、凝縮されているからです。

 ぜひ、Eさんも、一度、ためしてみてください。それだけで、心が軽くなるはずです。お子さんへ
の、愛情も、それで取りもどせるはずです。ひょっとしたら、お子さん自身も、です。

++++++++++++++++

原稿を一作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++++

●子どもの心をはぐくむ法(アルバムをそばに置け!)

子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。

子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。

ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃ
んだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なの
だ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男
児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まず
いない。

哺乳ビンを見せながら、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい
「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。

記憶が記憶として残り始めるのは、満4・5歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、
子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、
「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長
児にならないとわからない。

が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理
解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思
議な力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。

つまりアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、
写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。
が、それだけではない。

冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や
母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子ども
にとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じ
たショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これ
がぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。

それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師
のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ
ているのを知った。

ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。そしてそのあと、
つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をしているのに、私は
気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよ
い。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィー
ク誌二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アル
バム アルバムの効用 アルバムのすばらしさ 心を癒すアルバム)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

親の口グセが子どもを伸ばすとき

●相変わらずワルだったが……  

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようとする。そういう性質を
利用して、子どもを伸ばす。こんなことがあった。

 昔、私が勤めていた幼稚園にどうしようもないワルの子ども(年中男児)がいた。友だちを泣
かす、けがをさせるは、日常茶飯事。それを注意する先生にも、キックしたり、カバンを投げつ
けたりしていた。どの先生も手を焼いていた。

が、ある日、ふと見ると、その子どもが友だちにクレヨンを貸しているのが目にとまった。私は
すかさずその子どもをほめた。「君は、やさしい子だね」と。数日後もまた目が合ったので、私
はまたほめた。「君は、やさしい子だね」と。それからもその子どもはワルはワルのままだった
が、しかしどういうわけか、私の姿を見ると、パッとそのワルをやめた。そしてニコニコと笑いな
がら、「センセー」と手を振ったりした。

●子どもの心はカガミ

 しかしウソはいけない。子どもとて心はおとな。信ずるときには本気で信ずる。「あなたはよい
子だ」という「思い」が、まっすぐ伝わったとき、その子どももまた、まっすぐ伸び始める。

 正直に告白する。私が幼稚園で教え始めたころ、年に何人かの子どもは、私をこわがって幼
稚園へ来なくなってしまった。そういう子どもというのは、初対面のとき、私が「いやな子ども」と
思った子どもだった。つまりそういう思いが、いつの間にか子どもに伝わってしまっていた。人
間関係というのは、そういうものだ。

イギリスの格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。つま
りあなたが相手をよい人だと思っていると、相手も、あなたをよい人だと思うようになる。いやな
人だと思っていると、相手も、あなたをいやな人だと思うようになる。

一週間や二週間なら、何とかごまかしてつきあうということもできるが、一か月、二か月となる
と、そうはいかない。いわんや半年、一年をや。思いというのは、長い時間をかけて、必ず相手
に伝わってしまう。では、どうするか。

 相手が子どもなら、こちらが先に折れるしかない。私のばあいは、「どうせこれから一年もつ
きあうのだから、楽しくやろう」ということで、折れるようにした。それは自分の職場を楽しくする
ためにも、必要だった。もっともそれが自然な形でできるようになったのは、三〇歳も過ぎてか
らだったが、それからは子どもたちの表情が、年々、みちがえるほど明るくなっていったのを覚
えている。そこで家庭では、こんなことを注意したらよい。

●前向きな暗示が心を変える

 まず「あなたはよい子」「あなたはどんどんよくなる」「あなたはすばらしい人になる」を口グセ
にする。子どもが幼児であればあるほど、そう言う。もしあなたが「うちの子は、だめな子」と思
っているなら、なおさらそうする。

最初はウソでもよい。そうしてまず自分の心を作りかえる。人間関係というのは、不思議なもの
だ。日ごろの口グセどおりの関係になる。互いの心がそういう方向に向いていくからだ。が、そ
れだけではない。相手は相手で、あなたの期待に答えようとする。相手が子どものときはなお
さらで、そういう思いが、子どもを伸ばす。こんなことがあった。

 その家には四人の男ばかりの兄弟がいたのだが、下の子が上の子の「おさがり」のズボンや
服をもらうたびに、下の子がそれを喜んで、「見て、見て!」と、私たちに見せにくるのだ。ふつ
う下の子は上の子のおさがりをいやがるものだとばかり思っていた私には、意外だった。そこ
で調べてみると、その秘訣は母親の言葉にあることがわかった。

母親は下の子に兄のおさがりを着せるたびに、こう言っていた。「ほら、あんたもお兄ちゃんの
ものがはけるようになったわね。すごいわね!」と。母親はそれを心底、喜んでみせていた。そ
こでテスト。

 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、あるいは何かよいニュースが
あるたびに、「見て、見て!」「聞いて、聞いて!」と、あなたに報告にくるだろうか。もしそうな
ら、それでよし。そうでないなら、親子のあり方を少し反省してみたほうがよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 前向
きな働きかけ 強化の原理 子どもを伸ばす 伸びやかな子供 親の口癖 口ぐせ))


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。

それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日
も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期
末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと
思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には
穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室
に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動
かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。

親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわか
る。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」
と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。これに対して、「(子どもはいやなことがあったと
き)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転して
いるのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)というこ
と。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ
ならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほ
ど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろう
か。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷
静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあ
なたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しな
いためでもある。

受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
の再現 過去の再現 過去を再現する親たち)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

●評論家のウソ

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教育評論家は、ウソが、好き。
そんなエッセーを、またまた、
読んだ。

私も、その評論家のハシクレだが、
そのウソには、いつも注意している。

もちろん、事実を、伏せて書くことは
ある。

しかし、それとウソとは、ちがう。

+++++++++++++++++

 教育評論家は、ウソが好き。自分の説を、美談で飾る。ウソで飾る。そういう例は、多い。最
近も、新聞で、こんなエッセーを読んだ(C新聞、6月)。

 夫は、日本人。妻は、デンマーク人。3人の、子持ち。

その中の長男(小3)のこと。みながデンマークに住んでいるときには、よく家事を手伝った。食
後も皿洗いも、日課としてしていた。

 が、日本へやってくると、その皿洗いをしなくなった。デンマーク人の母親が、理由を聞くと、
長男は、こう答えたという。

 「皿洗いをしていると言うと、友だちにバカにされた」「日本では、男は皿洗いをしないと言わ
れた」「だから、もう皿洗いはしない」と。

 エッセーを要約すると、そういう話になる。しかしこの話は、どうも、できすぎ。それに不自然。
要するに、「日本人は、皿洗いをしない」「男尊女卑的な思考プロセスがまだ残っている」「それ
が子どもの世界にまで、影響を与えている」ということを、その評論家は、言いたかったらしい。

 しかし、これはいつの時代の話のことか?

 いろいろな調査結果を見ても、50代、60代以上の男性は、たしかに家事をしない。しかし2
0代、30代の若い夫をみると、このところ、家事を手伝う人がふえている。私がした調査でも、
35%前後の若い夫のばあい、炊事、洗濯、育児などの家事を積極的に手伝っていることがわ
かっている。

 (同じく、35%の夫は、何もしないが……。残りの30%は、ほどほどに家事をしたり、しなか
ったりという状態らしい。)

 しかしこれとて、もう5、6年前の調査である。最近は、家事を手伝う夫は、もっとふえている
はず。

 「日本では、男は皿洗いをしない」と子どもが、その長男に言ったというが、疑問の第一。最
近の子どもが、そんなことを言うだろうか?

 つぎに、子どもの世界でも、家事が、よく話題になることはある。しかし家の手伝いをよくして
いる子どもほど、みなに、尊敬される。「お前、すごいなあ」という言葉は出てくるかもしれない。
が、「バカにされた」とは? これが疑問の第二。

 さらに家庭における習慣というのは、自分が他人の家庭をのぞいたり、あるいは反対に、他
人が自分の家庭に入り込んできてはじめて、比較できるもの。子どもどうしの会話くらいで、影
響を受けるものではない。

 そんなことは、家庭教育の、イロハ。

 反対のことを考えてみれば、そんなことはすぐわかる。

 もしあなたの子どもが、家事の手伝いをしないことで、(しないことで、だぞ!)、友だちにバカ
にされたとする。すると、あなたの子どもは、その日から、家事の手伝いをするようになるだろ
うか。しかし、そんなことはありえない。

 昔、日本へやってきた、オーストラリアの留学生などは、その家のホストが、「皿洗いはしなく
ていい」と言ったそうだが、しかしそのあと1年以上も、その皿洗いをつづけた。身についた習
慣というのは、そういうものである。

 ……などなど、まだいろいろ書きたいが、「できすぎている」という点で、この話は、ウソと断定
していよい。

 ただ教育的なエッセーでは、事実を隠して書くということはある。とくに批判的な原稿を書くと
きはそうで、それは当然のことである。地名や、家族構成を変えたりする。父親の職業を、変え
ることもある。2つの話を、1つにすることもある。

 しかしそれと、ウソとはちがう。

 以前、書いた原稿を、ここに添付する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 評論
家のウソ 嘘 嘘をつく評論家 評論家の美談)


++++++++++++++++++

●教育者が口にする美しい話は疑え!

教育者が美談を口にするとき

●どこかおかしい美談

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話
がある。

 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやって
きて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。

理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。そ
のタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(2000年夏、H市で
の教育講演)。

しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、
「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充は
どうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレ
ントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。

●日本の学用品は使えない?

 15年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を持
って帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話はテ
レビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。

そしてその結果だが、何とトラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。

 で、その約一年後、その学用品がどう使われているか、二人の教師が現地まで見に行った。
が、大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学
校の倉庫に眠っていたという。

理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の一日の給料よりも高価なノートや鉛筆
を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう
話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは?

 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおか
しい。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取り
あげられ、その後、映画にもなった。

しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食
べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを
捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。

●「ぼくのために負けてくれ」

 運動会でのこと。これから五〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)が、A君に
こう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。

そこでA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならない
と思い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な大学教授が、
ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。

その教育者は、二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人な
らすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、まだ小学二年生には、ない。仮にあったとして
も、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も…
…。

●子どもたちは何をしていたか?

 ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学一年生の生徒たちが、「先
生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。

原因は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出て
いた。そこでその教師は、三〇分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、
そして再び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立
つときは心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。

その三〇分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、そ
の教師は子どもたちを教室に残したまま散歩に行ったということになるのだが……?

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意した
らよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい
話で自分の説話を飾りたがる。

※……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がも
てはやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北
京第三三中学校教師談)。

それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言った」と話したが、
その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語すらない。

あえて言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそういう単語
は、こういう会話では使わない。別の意味になってしまう。一体その物乞いの子どもは、そのタ
レントに何と言ったのか。この点からも、そのタレントの話は、ウソと断言してよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
者の美談 虚言 美談に注意 教育評論家の美談)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●あと始末論

 ミキサーでジュースをつくる。まずバナナやミカンの皮をむき、それを包丁で小さく切る。少し
水を入れて、スイッチオン!

 できたジュースをコップに注ぐ。そして飲む。いや、その前にやるべきことは多い。まず、コー
ドをコンセントから抜く。包丁を水で流し、ミキサーのカップを洗う。それがすんだらコードをミキ
サーに巻き、そして棚へしまう。ジュースを飲むのは、それからだ。が、それですむわけではな
い。今度は使ったコップを水で流し、逆さにして、水を落とす。

 あと片づけとあと始末は、違う。きれいに片づけることをあと片づけといい、自分のしたことに
ついて責任をもって行動することを、あと始末という。日本人はどういうわけか、あと片づけに
はたいへんうるさい民族である。しかしあと始末に甘い?

 ある男性(五〇歳)は、牛乳を冷蔵庫から出しても、その牛乳を冷蔵庫にしまうことすらしな
い。だから彼のワイフはこう言った。「夏場になると、牛乳なんて、あっという間に腐ってしまうの
よ」と。このタイプの男性は、本当に多い。食事のあと、食器を洗うどころか、その食器をシンク
へもっていくことすらしない。あとは一事が万事。何もしない。本当に何もしない。

 問題はどうしてこういう男性が生まれるかということ。(女性にもいるが……。)しかし理由は
簡単。子どものときから、そういう訓練を受けていない。「おなががすいたア〜」と言うだけで、
親が何でもしてくれる。「のどがかわいたア〜」というだけで、親が何でもしてくれる。そういう環
境で育てられている。親自身も、子どもに楽をさせるのが、親の愛と誤解している。私が「子ど
もにもっと仕事を分担させなさい」と言うと、ある母親は、こう言った。「いいんですか、そんなこ
とさせて。何だか子どもに申し訳なくて……」と。

 多くの親は、ハシ並べやクツ並べをしてくらいで、子どもをホイホイとほめる。しかしそんなの
は手伝いとは言わない。ママゴトという。子どもというのは、皮肉なことに、使えば使うほど、よ
い子になる。そこから忍耐力も生まれ、生活力も生まれる。それは家庭教育の常識だが、それ
について話すと、別の母親はこう言った。「使うと言っても、させることがありません」と。

 掃除は掃除機で、五分ですんでしまう。洗濯機も皿洗いも、全自動。「何をさせればいいです
か?」と。
 
 そこで改めてあと始末論。その気になれば、何だってある。たとえば子どもが、「ジュースを飲
みたい」と言ったとする。そういうときはまず、ミキサーをもってこさせ、コードをコンセントにつな
がせる。バナナとミカンを小さく切らせる。それをミキサーに入れさえ、水を加えさせる。そして
スイッチを入れて、ミキサーを回す。

しかし重要なのはここからだ。子どもがジュースを飲む前に、あるいは飲んでからでもよいが、
子どもにそのあと始末をさせる。使ったコップにしても、子どもがコップを水で流し、逆さにして、
水を落とさせるまで、やらせることはいくらでもある。そういうことを「子どもを使う」という。

 そこであなたの家庭でも、どうだろう。今日から、こう言ってみては……。「あと始末をしっかり
としようね」と。大切なのは、あと片づけではなく、あと始末。それがしっかりできるかどうかで、
結局は責任感の強い子どもになるかどうかが決まる。あと始末にはそういう意味もある。決し
て安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 あと
始末 後始末 あと始末論)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●講演・あれこれ

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今日は、講演活動のウラ話!

では、はじまり、はじまり!

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★小会場かと思ったら、大会場!

 講演というのは、そのつど、一回かぎりの1発、勝負! 2回目は、ない。そのため、勝負は
勝負でも、いつも真剣勝負!

 しかしその講演にも、いろいろある。

 S県での講演会のこと。片道、8時間の大遠征である。「教員の研修会」と聞いていたので、
小さな、30〜50名ほどの会場を想像していた。

 控え室といっても、会場の外にあった。そこでお茶を飲んだり、主催者の人と雑談をしたり…
…。すっかり、リラックスしていた。

 で、時間がきたので、案内されてついていくと、どうも様子がおかしい。いくつかの会議室の
前を通りすぎて、そのまま裏手に。
 
 案内されるまま、数段の階段を登ってみると、ビックリ、仰天! そこはそのまま劇場の舞台
になっていた!

 ナ、何と、1000人以上もの人たちがいるではないか! しかもほとんど全員が、S県下の教
員であるという。(あとで聞いたら、1400人だったとのこと。)

 ドキッとしたと同時に、ボーッと血が顔面にのぼってくるのがわかった。(最初から、覚悟して
いれば、そういうことはなかったのだが……。)

 もちろん、その反対のこともある。

 4、5時間もかけて行ったのだが、20人前後の小さな会場だった……ということも、ときどき
ある。しかも校長室へ行くと、講師の先生たちが、4、5人もいたりする。

 話を聞くと、「各学年ごとの勉強会」とのこと。私以外の講師は、みな、地元の、開業医とか、
スポーツ指導者とか、菓子職人のおやじさんとか……。

 で、私だけが、スーツ姿。あとの人たちは、ジーパンにTシャツ!

 正直に告白するが、そういうときは、来なければよかったと、心底、後悔する。

●会場の中央が、託児コーナー

 ふつう若い母親を対象にした講演会では、別に託児ルームをもうけてくれるところが多い。し
かし、そこは、ちがった。

ある幼稚園で講演をしたときには、中央部に、(中央部にだぞ!)、幼い子どもを預かるコーナ
ーが作ってあり、それを取り囲むように、若い母親たちがすわっていた。

 ちょうど、ドーナツのように、だ。

 で、しばらく話していると、その中央にいる幼児たちが、騒ぎ出した。走り出した。レスリングま
がいの遊びもし始めた。

 ギャーギャー、ワイワイ、ドスンドスン……、と。

 私は、右と左のほうへ、そのつど大きく顔を振りながら、大声で、怒鳴りつづけた。そうでもし
ないと、幼児たちの騒音にのまれてしまいそうになる。もちろん汗、ダクダク。マイクはあるには
あったが、問題は、母親たちだ。

 母親たちが、幼児たちの騒音にのまれそうになる。が、のまれたら最後。母親たちは、雑談
を始める。しかし、もうそうなったら、講演は、おしまい。メチャメチャ。だから私も必死。私の迫
力のほうで、母親を、私にひきつけておく必要があった。だから怒鳴った。

 終わったときには、私の声は、完全にかれていた。

★恐ろしい会場

 一番、こわい思いをしたのは、F市のRシアターというところで講演をしたとのこと。演台は舞
台の上にあったが、真正面と真上から、まばゆいばかりのスポットライト。おまけに聴衆席は、
真っ暗。

 前がまったく見えない。聴衆の姿はもちろん、顔も見えない。表情も見えない。本当に真っ
暗!

 私は、暗闇に向かって、……というよりも、スポットライトの下にいるはずの聴衆に向かって、
そのときも2時間近くしゃべった。しかし、こわかった。聴衆の姿が見えないところで、講演をす
るということが、かくもおそろしいことだとは、それまで、想像すらしなかった。

 不気味なんてものではない。かろうじて、会場のそでの、最前列あたりの人たちは見えたが、
まさか、そちらのほうばかり見て話をするというわけにもいかない。

★おしゃべりは厳禁

 会場の人たちは、舞台の話し手からは、自分の姿は見えないと思っているかもしれない。し
かし、それは、まったくの誤解。

 演台からは、コソコソと話している人が、たいへんよくわかる。いくら声をひそめても、静かに
話していても、それが、たいへんよくわかる。

 それは白い紙の上に落ちた、黒いシミのようなもの。本当に、本当に、たいへん、よくわか
る。

 で、私のばあい、そういう人たちを見かけると、集中的に、そちらばかりにらみながら、話すこ
とにしている。ジーッとにらんで話す。

 しかしそういう人たちにかぎって、平気で話しつづける。そういう人たちというのは、私の視線
すら見ていない。だから私もムキになる。ムキになって、机をたたいたりして、注意をひきつけ
る。

★顔が見えない会場

 先ほど、スポットライトが強すぎて、会場の人の顔が見えなかった話をしたが、長細い会場で
も、似たようなことが起きる。

 ある幼稚園で講演をしたときのこと。そこは3つほどの部屋をつなげた、細長い会場だった。

 で、そこで講演をしたのだが、同じ床の上に立って話したこともある。親たちがすわる椅子
が、高かったこともある。

 私から見えるのは、前のほう、約3分の1ほどの人たちだけ。うしろのほうの人たちは、頭の
先、あるいは、そのてっぺんしか見えない。

 聴衆の顔が見えないというだけで、話す側としては、不安になる。反応がわからないからだ。
だからそのときも、大声で、怒鳴るようにして講演をした。

★私があがった!

 講演慣れをしているとはいえ、ときとしてあがることもある。

 あるRクラブで講演したときのこと。

 そこは、全員、男性だった。

 しかも一番前にすわっていたのが、ワイフが世話になったことがある、I医師。その医師が、
私が話し始めるとすぐ、ポケットから時計を取り出して、それをみがき始めた。私はそれが気に
なった。気になって、私も、その時計を見ながら、話した。

 が、そのうち頭の中が、混乱。自分でも何をどう話しているか、わからなくなってしまった。と
たん、あがってしまった。

 男性というのは、反応を示さない。無表情。ふつうなら笑ってもらえるような場面でも、シーン
としているだけ。それで、私は、ますますあがってしまった。

 こういう講演をすると、あとで、ヘトヘトに疲れる。

★いつも同じ

 よく誤解されるが、大会場であろうと、小会場であろうと、私の話し方は同じ。大会場だから真
剣に話して、小会場だから手を抜くということは、ありえない。そういうことを考えるだけで、疲れ
てしまう。

 ただ大きな講演を近くにひかえているときは、小さな講演で、同じ内容の話をして、練習する
ときはある。「練習」というと失礼な感じがするが、しかしだからといって、いいかげんな気持ち
で、それをするわけではない。

 また私は、講演の直前には、ぜったい、食事をしない。食事をしたら最後、眠ってしまう。一
度だけだが、講演の前に食事をしてしまい、本当に眠ってしまったことがある。

 大阪のある幼稚園で講演したときのこと。その前に出された、寿司を食べてしまった。で、あ
ろうことか、講演の途中で、猛烈な睡魔に襲われた。そしてその瞬間、コックリと眠ってしまっ
た。(本当だぞ!)

 で、あとで主催者の方に聞いたら、「気がつきませんでした」とのこと。ホッとした。

★うれしくない聴衆

 私のばあい、できるだけ、どの会場でも、ちがった話をするようにしている。が、それでも、似
たような話をすることがある。

 そういうとき、「先月、先生の話を聞いたのですが、今日も聞きにきました」と伝えてくる人が
いる。

 そういう話を聞くと、さあ、たいへん!

 ワイフに相談すると、「同じ話をしても、構わないんじゃ、ない」と。平気でそう言う。が、私は、
そうではない。あわてて話の構成を変える。

★構成を変える

 講演が始まってから、構成を変えるということは、そんなわけで、よくある。

 会場に来てみたら、「男性がほとんど」「老人がほとんど」「若い母親がほとんど」ということ
が、よくある。

 そういうことは、会場に行ってみないと、わからない。「若い母親が対象」と思って行ってみた
ら、ほとんどが年配の男性、ということも、ときどきある。

 そういうときは、あらかじめ用意したレジュメ(要旨)は、破棄。その会場の雰囲気にあった話
に切りかえる。

★時間に追われて……

 私は、元来、早口。乗ってくると、さらに早口になる。

 が、さらに早口になるときがある。

 「3つの話をします」と最初に宣言したようなばあい。2つ目までは何とか、話した。で、これか
ら3つ目の話……というときになって、時計を見ると、10〜15分しか、残っていない!

 そういうときは、さらに早口になる。

 暴走族が、200キロ前後のスピードで走るようなものである。

 自分でも、それがよくわかっている。

★すばらしい会場

 会場といっても、「箱」は、関係ない。立派な会場だから、話しやすいとか、小学校の炊事室
だから、話しにくいということはない。講演の「質」は、聞いてくれる人の、「真剣さ」で決まる。

 静かな会場で、講演をする「私」と、それを聞いてくれる「理解者」とが、一本の糸でつながっ
たのを感じたとき、私は、講演者としての、講演冥利(みょうり)を覚える。

 (「冥利を覚える」というのは、正しい日本語ではないかもしれない。冥利……「神仏が人知れ
ず与える利益」「ありがたさ」と、日本語大辞典にはある。)

 そういうときは、講演のあと、「してよかった」と感ずる。

★講師料

 講師が受け取る講師料は、県の公立機関(学校ほか)でするときは、x万円と相場が決まって
いる。自治体が主催するときは、もう少しよいが、反対に、1万円以下ということもある。

 そういうときは、「名誉職」、あるいは、「ボランティア活動」ということで、自分を納得させる。

 そんなわけで、「講演すれば、もうかるでしょう?」と、言われたりすると、私は、ムキになっ
て、こう反論する。「それは、中央から来たような講師のばあいです。私は、そうではありませ
ん!」と。

 「お金もうけのためにしている」と思われることほど、不愉快なことはない。また、そういうこと
を考えたら、講演など、できない。だから今まで、一度とて、講師料のことで、文句を言ったり、
不平を言ったりしたことはない。「自分の考えを聞いてもらえる」ということだけでも、ありがた
い。

 それはたとえて言うなら、自分の時間、つまり人生、つまり命を、みなと、共有できることを意
味する。

 それはすばらしい体験である。

 こういう計算をするのは、失礼なことかもしれないが、100人の人が、2時間、私の講演を聞
いてくれるということは、私は、その2時間を、200時間、生きることになる。ときどき、講演の
途中で、そう思うこともある。

 で、今年も、講演の季節は、終わった。この6月には、10か所で講演をさせてもらった。7月
1日に、F市で講演をしたあとは、講演も、1、2週間に1回程度になる。

 忙しかった。そして疲れた。時間のやりくりが、たいへんだった。

 私は別にBW教室という、小さな教室を経営している。昨年は、教室を犠牲にして、講演活動
をした。そのため、教室のみなさんには、大きな迷惑をかけた。しかし、今年は、教室運営に影
響のある講演は、すべて断った。

 そのため、私のために、学校や幼稚園のスケジュールを、変えてくれたところもある。

 本当にみなさん、ご協力、ありがとうございました。再び、みなさんにお会いできることを、楽し
みにしています。本当に、ありがとうございました。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 講演)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1342)

●さびしいアメリカ人


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さびしいアメリカ人がふえているという。

共同通信社が、そんな事実を伝えた。

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共同通信社は、こんな事実を伝えた(06年6月24日)

【ワシントン23日・共同】

米国人の4人に1人が、「大切なことを話せる親友などは1人もいない」と感じていることが23
日、アメリカン・ソシオロジカル・レビュー誌(電子版)に掲載された、デューク大などの調査でわ
かった。

 1985年と比較して、この割合は約2・5倍にふえており、研究者は核家族化や、少子化が進
み、社会とのきずなが薄れたことが、「さびしい米国人」急増の要因と、分析している。

 全米の約1500人を対象に、2004年に行った調査によると、「個人的に重要なことがらを
相談できる相手の数」は、「ゼロ」が24・6%で最も多く、平均では2・08人だった。

85年の調査では「ゼロ」は、10%、「3人」が最多(20・3%)で、平均は2・94人。約20年で、
親友などの数がおおむね1人減ったことになる(以上、共同通信)。 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 数字をもう一度まとめてみると、こうなる。

 個人的に重要なことがらを相談できる相手の数   0人……24・6%

                         平均で、2.08人。

 つまりアメリカ人の4人に1人は、「個人的に重要なことがらを相談できる相手が、いない」、と
いうことだそうだ。

 また「相手がいる」と答えた人でも、2人が、平均値だという。

 この数字を知って、私は、ほっとしたというか、「そういうものだろうな」と、納得した。何を隠そ
う、私だって、個人的に重要なことがらを相談できる人は、ワイフのほか、あと1、2人くらいし
かいない。

 親や兄弟、親類の人といっても、私のように故郷から離れて住んでいると、年々、ますます疎
遠になっていく。それに、脳の老化の問題もある。相談するといっても、私の話を理解できる人
でないと困る。それなりに、同じ苦労を共有した人でないと困る。

 だれでもよいというわけではない。

 言いかえると、中には、友人の数を、ことさら自慢する人もいるが、そういうのは、たいていの
ばあい、ウソと考えてよいということ。(もちろん友人といっても、いろいろなレベルがあるだろう
が……。)

 つぎに、生涯において、1人でもよいから、「個人的に重要なことがらを相談できる相手」をつ
くることができた人は、それだけで、ラッキーな人と考えてよいということ。その1人を作るの
が、むずかしい。

 そこで(アメリカン・ソシオロジカル・レビュー誌)は、その理由として、「核家族化や、少子化が
進み、社会とのきずなが薄れたこと」をあげている。

 しかしそれはおかしい。

 核家族化や少子化が進めば、それだけ、人間関係も、濃密になると考えられる。不特定多
数の人たちと、広く、浅く交際するよりは、少人数の人たちと、狭い世界の中でもよいから、深く
交際するほうがよい。少なくとも、そういう部分が、生活していく上では、重要である。核家族化
や少子化イコール、さびしい(孤独)ということではない。

 では、何が、個人的に重要なことがらを相談できる相手の数を減らしたのか?

 ざっと思いつくことをあげるなら、(1)社会の功利化、(2)打算主義、(3)マネー万能の人間
関係、(4)過密化、(5)多忙化などがあると、私は、考える。つまり社会構造そのものが変化し
てきた(?)。

 その結果として、個人的に重要なことがらを相談できる相手の数が、減った(?)。

 このことは私の個人的な経験をもとにして考えても、わかる。

 私も過去において、いろいろな人とつきあってきたが、とくに仕事上(ビジネス上)でつきあっ
た人についてみれば、終わってみると、何も残っていない。もともと、そういうものと、割り切って
つきあってきたからである。

 わかりやすく言えば、(金)、つまり(マネー)がからんだ人間関係というのは、それだけ、もろ
く、壊れやすいということ。

 そういう人間関係が、個人の世界にまで、容赦なく押し寄せている。私は、それが原因で、こ
こでいう、24・6%という数字になったのではないかと思う。

 どうであるにせよ、つまり原因がどうであるにせよ、現代人は、それだけ孤独になってきてい
るということ。それは事実。が、決して、他人ごとではない。

 私のばあいも、もしワイフが死んだら、それこそ、万事休す! その24・6%の中の1人にな
る。つまりこの問題は、決して、他人の問題ではないということ。老後に近づくにつれて、だれし
も、同じような問題をかかえることになる。

 だから、もう少していねいに、この数字を見ると、こういうふうにも、読める。

 20代の人……個人的に重要なことがらを相談できる相手……58%
 70代の人……個人的に重要なことがらを相談できる相手……6%、と。

 もちろんこの数字は、デタラメである。が、その平均値をとって、24・6%になったと考えるの
が、自然である。それに若いころというのは、それほど、深刻な問題は、ない。少なくとも、(生
きる)(死ぬ)にかかわる問題は、少ない。

 一方、(個人的に重要なことがらを相談できる相手)というのは、一朝一夕にできるものでは
ない。熟成に熟成を重ねて、20年とか、30年とか、そういう長い年月をかけて、できる。そうい
うことも考えると、豊かな老後を築くためには、(今)からその準備をしても遅くないということに
なる。若ければ若いほど、よい。

 この数字には、いろいろ考えさせられる。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孤独
 孤独な人 孤独な老人 相談できる相手)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●反日から、仮想敵国
 
++++++++++++++++++++

反日から、今度は、仮想敵国に!

あの韓国のN大統領は、いったい、どこまで、
考え方が、うしろ向きなのだろう。

ますますあの大統領の脳みその中身が、理解できなく
なった!

++++++++++++++++++++

 韓国のN大統領が、こんなことを言い出した。

 いわく、「N大統領は22日、独島(日本名竹島)水域を守る海洋警察と会見し、『日本の戦力
は韓国より優れているが、韓国にも少なくとも日本が挑発できない程度の国防力はある。相手
が挑発しようとした時に、利益より損することのほうが多いなと思わせる程度の防御能力を備
えることが重要だ』と話した」(韓国・C日報)と。

 つまり韓国の仮想敵国は、日本である、と。

 いつこの日本が、韓国を挑発した? 被害妄想も、よいところ。A新聞社が、セスナ機を飛ば
しただけで、ジェット戦闘機を飛ばしてきたのは、韓国のほうではなかったのか。

 測量のため巡視船を派遣しようとしたら、軍艦を並べてきたのは、韓国のほうではなかった
のか。

 C日報ですら、社説の中で、「いくら発言の相手が独島を守る警察であったとしても、大統領
の発言にはそれなりの節度があるべきだった。『独島を守る軍事能力』を強調したいとしても、
このような宣戦布告めいた宣言以外に、いくらでも方法はあったはず」と。

 そう、まさに宣戦布告!

 いろいろな意見があるだろうが、ここまで言われて、日本も、おとなしくしている必要はない。
韓国を、経済的にしめあげるくらいのことは、日本も、そろそろ考えてよいのではないだろう
か。

 各団体や企業がしている、韓国の団体や企業との連携を解消するくらいのことはしてもよ
い。あるいは、日本の資金を、韓国から引きあげるくらいのことはしてもよい。

 (少し、過激かな?)

 ところで、心理学の世界には、「活動性理論」(フリードマンとハヴィガースト)、「離脱理論」(カ
ミングとヘンリー)という言葉がある。

 壮年期と同じように、老齢期にはいってからも、活動をつづける人もいれば、老齢期にはいっ
たとたん、生活そのものが、防衛的になり、生活を縮小させようとする人もいる。そうした現象
を総合的にみて、前者の基本となる考え方を、「活動性理論」と呼び、後者のそれを、「離脱理
論」と呼ぶ。

 あえて言うなら、韓国のN大統領は、ものの考え方が、すべてその「離脱理論」に基づいてい
る。

 しかしこういう大統領をもった、韓国は、不幸である。あわれである。今の日本人に、韓国や
(ついでにK国)を、侵略しようなどという意思をもっている人は、1人もいない。いないことは、
ほんの少しだけ、冷静にこの日本を見ればわかるはず。(頼まれても、断る。)

 だいたい、韓国にせよ、K国にせよ、日本は、相手にしていない。それとも、この日本では、
韓国のウォンの価値を、毎日、新聞やテレビで報道しているとでもいうのだろうか。韓国の動
静を毎日、テレビで報道しているとでもいうのだろうか。(韓国では、うるさいほど、日本のこと
を報道しているが……。)

 反日も結構だが、同じ自由主義貿易体制の中で国を建てながら、今、どうして反日なのか?
 仮想敵国なのか?

 N大統領の支持率は、とうとう10%台にまで落ちこんでしまった。与党U党の支持率は、それ
以下。10%前後あたりを低迷している。

 当然である。

 私は、これほどまでに現実検証能力を失った指導者を、ほかに知らない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 活動
性理論 離脱理論 老後 前向きな政治家 うしろ向きな政治家)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1343)

●スケベ力

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スケベ力には、ものすごいものがある。

それも、そのはず。

スケベ力は、あらゆる生きる力の、
原動力になっている。

そのため、そのスケベ力を抑えることは、
不可能と言ってもよい。

もし人間から、(動物でもよいが)、
そのスケベ力を奪ってしまったら、
人間は、その時点で、絶滅することになる。

スケベ力が悪いと決めてかかっては
いけない。

大切なことは、そのスケベ力を、
どう、コントロールするか、だ。

++++++++++++++++

●ビデオショップ

 おととい、近くのビデオショップへ、DVDを借りに行った。いつも行く店である。

 が、ふと見ると、カウンターの横に、カーテンがおろしている部屋があるのに気づいた。「?」
と思い、何の気なしに中をのぞくと、そこはスケベDVDの山!

 驚いた。私は、その店に通うようになって、もう3年近くになる。が、そんな部屋があることさ
え、気づかなかった。(これは、本当だぞ!)

 で、中に入ってみると、その部屋が、ふつうのDVDを並べてある部屋と同じくらいか、それ以
上に広いことを知った。これにも驚いた。

 たまたまDVDを棚へ戻しにやってきた店員に、「今一番の、人気ものはどれ?」と声をかける
と、店員は、すかさず、「ナンパもの」と言って、そのコーナーを指さしてくれた。

 見ると、「ナンパ」という文字のつくDVDが、そこには、ズラリ!、とあった。

 私は、その中から、「素人・ナンパ・中出し(X)」というタイトルのDVDを手に取った。

 素人の女をナンパし、コンドームなしで、体内で射精までするというDVDである。

●フロイトとユング

 フロイトは、人間がもつ、(人間にかぎらないが……)、あらゆる生きる力の根源に、(性的エ
ネルギー)があると説いた。性的エネルギーこそが、人間の生きる原動力というわけである。

 一方、ユングは、(生的エネルギー)があると説いた。

 「性」と「生」のちがいだが、どちらが正しいということを議論しても、あまり意味はない。

 健康なときは、(性的エネルギー)が、人間を支配する。しかし病気になれば、今度は、(生的
エネルギー)が、人間を支配する。たとえば、死ぬか生きるかというような大病の状態になれ
ば、だれしも、「生きたい」と願うようになる。と、同時に、そういうときというのは、性(セックス)
への興味は、ほとんどゼロになる。

 どちらが原点にあるかと言えば、ユングが言ったように、(生的エネルギー)のほうが、原点に
あるということになる。フロイトが言った、(性的エネルギー)は、その(生的エネルギー)の上に
ある。

 もっとわかりやすく言えば、生きているからこそ、セックスをしたくなる。

●ナンパ 

 私とて「男」だから、ふつう程度のスケベ心はある。(こんな弁解をするのも、おかしなことだが
……。)

 だからそういうDVDに興味がないわけではない。若いころは、その類(たぐい)のビデオ、さら
に若いころは、そういうスケベ本を、よく見た。しかし今は、DVD。

 そのDVDを、別の場所でビデオを選んでいたワイフに渡すと、ワイフは、けげんそうな顔をし
た。で、しばらくそれを見つめたあと、こう言った。「こんなの、借りるのオ?」と。

私「オー、久しぶりにナ」
ワ「私は、見ないわよ」
私「自分のパソコンで見るから、いい」と。

 私は、ほかに、戦争もののDVDを、2本、借りた。

●ナンパ

 若い男が、街角で、若い女に声をかける。恐怖心をもたせないように、あれこれ、気をつか
う。それが私にも、よくわかった。

男「ひとり?」
女「うん……」
男「今日は、暑いね」
女「うん……」
男「学校は休み?」
女「午後から、サボちゃったア」と。

 こうして男と女は出会い、たがいの会話をからませる。

男「お願いがあるんだけど、いいかな?」
女「何?」
男「お小遣いも、少しだけど、出すよ」
女「……」
男「プライベートな話を、聞くだけ……」と。

●若い女

 そのDVDには、5人の女たちが、順に登場する。年齢は、一応、18歳以上の女ばかりという
ことになっているが、それは「?」。

 1人の女は、「高校生よ」と言った。18歳の高校生もいないわけではないので、それはそれで
よいのかもしれない。しかしどう見ても、高校1年生か2年生(?)。

男「どこから来たの?」
女「○○」
男「じゃあ、新幹線で来たの?」
女「うん……」と。

 その若い女は、新幹線を使って、東京まで、やってきたらしい。わざわざナンパされるために
(?)。

 そしてお決まりの会話。

男「親は、(ここへ来ていることを)、知っているの?」
女「知っているわけないわよ」と。

●パターン

 5人の女たちが、ほとんど同じパターンで、やがて最終的には、男たちと、体をからませてい
く。それをまとめると、こうなる。

(第1ステージ・警戒と説得)

 先に書いた会話が、それにあたる。男は、女を警戒させないように、細心の注意を払う。ひと
つひとつ、女の気持ちを確かめながら、つぎの会話へと、話を進めていく。

(第2ステージ・じゃれあい)

 男が女のもちものや、服、下着について、あれこれ話しかける。それに答えて女は、ケタケタ
と笑いながら、「これはア……」「うん、そう」とか答える。

 こうして少しずつ、男は、その場の気分をもりあげていく。

 この段階では、まだ女のほうに、理性というか、自己管理能力が残っている。男に向かって、
「顔を出さないで」「乱暴にしないで」「写すのはいいけど、下着だけよ」とか、言う。

(第3ステージ・崩壊)

 が、ある一線を超えると、女のほうが、突然、大胆になる。男の方が、「すてきな乳首だね」と
か、何とか言って、乳首を口にふくむ。あるいは、下着の中に手を入れる。

 とたん、女の顔からは、笑みが消える。苦痛に満ちた顔つきになる。そのとき、……つまりそ
の瞬間、女は、「女」になる。

 理性と、自己管理能力が、その瞬間、崩壊する。羞恥心も消える。それはまさに「瞬間」。「ウ
フ〜ン、アア……」と目を閉じたとたん、そうなる。

 女が、男のペニスを口に含み、あとは、男たちのなすがままに、身を任せる。

 そのDVDには、先にも書いたように、5人の女たちが別々に登場する。が、どの女も、まった
く同じパターンで、男たちと遊び始めるのには、驚いた。

男「顔を(DVDに)出してもいい?」
女「いい……」
男「中で、出しても(射精しても)いい?」
女「うん、出して……」
男「何をしたい?」
女「お尻の穴をなめさせてエ!」と。

●人間の向こうの人間

 男たちもそうなのだろうが、女たちは、みな、自分で考えて、自分の意思で行動していると思
っているにちがいない。しかしこうして5人の女たちの行動パターンを並べてみると、どれも同じ
であることがわかる。

 まったく同じ。

 つまりその同じであるという部分が、(人間)ということになる。

 ちょうど、顔には目が2つあり、手には、指が5本あるように、人間の心の内部には、みな、同
じ(性的エネルギー)がある。

 男にしても、そうである。

 男は、女の体に興味をもつ。乳首を見れば、その乳首に唇をこすりつける。あるいは女の陰
核を、口で吸う。

 つまり男にしても、自分を超えたところにある、(人間)によって、動かされている。動かされて
いると気づかないまま、動かされている。

 それに応じて、女も、動かされていると気づかないまま、動かされている。

●性病は? 妊娠は?

 一度、理性と自己管理能力が崩壊すると、女は、まさに動物的な「メス」へと変身する。あれ
ほど、「顔を(DVDに)出さないで」と言っていた女でも、途中で、「顔を出しても、いい」と言い出
す。

 ブラジャーの端を見られただけで、「イヤ!」と言っていた女が、その10数分あとには、足を
大きく広げて、男たちのなすがままに、身を任せる。

 驚いたのは、「中出し」、つまり、膣の中での射精。DVDのタイトルにもなっている。3〜4人
の男たちは、かわるがわる、女の体をもてあそぶ。つぎつぎと、女の体の中で、射精する。コン
ドームは、もちろん、なし!

 私はそれを見ながら、「病気になったらどうするんだろう?」「妊娠したら、どうするんだろ
う?」と考えた。「今では、HIV(エイズ)の心配だってあるのに……」とも。

 しかし女の表情を見るかぎり、そんな心配など、どこ吹く風。陶酔感に浸りきっているといった
感じ。なまめかしい、うめき声。ア〜ンア〜ンと、泣き声に近い声。それを、絶え間なく、あげつ
づける! が、それだけではない。

男たちの射精が終わったあと、1人の女は、自分の膣に指を入れ、その指についた男の精液
を、おいしそうに、なめた!

●同一性の崩壊

 (自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、強い。(おとなも、そうだが…
…。)

 しかしその両者が不一致を起こすと、そこで同一性は、危機的な状態に立たされる。さらにそ
の状態が、長くつづくと、自我は、やがて崩壊し始める。精神的にもたいへんもろくなる。同時
に、情緒も、不安定になる。

 自分でも何をしたのか、それがわからなくなる。何をすべきかのかも、わからなくなる。

 こうなると、子どもの心には、大きな隙間(すきま)ができる。わかりやすく言えば、(スキ)がで
きる。そのスキをねらって、誘惑が入りこむ。

 その女たちを見ながら、(女の子たちと言ったほうが正しいかもしれないが)、私は、こう思っ
た。

 「スキだらけ」と。「夢も希望もない。夢も希望もないから、目標もない。だから遊ぶ」と。

 先にも書いたように、一人の高校生は、新幹線を使って、東京まで、やってきた。わざわざナ
ンパされるために、だ。今は、そういう時代なのか? 決して、(ヤラセ)でないことは、DVDを
見ればわかる。演技で、できることと、できないことがある。ウソで言えることと、言えないことが
ある。

 私にも、それくらいの区別はできる。

●所詮、無

 しかし、射精にせよ、オルガスムスにせよ、その前に儀式としてするセックスにせよ、すべて、
所詮、「無」である。

 わかりやすく言えば、私たちが毎日する、小便や大便と同じ。どこもちがわない。「便」と同じ
にすることに抵抗がある人は、「食欲と同じ」と考えたらよい。

 小便のばあいでも、がまんしている間は、苦しい。しかし一度出してしまえば、その前までの
苦痛は、ウソのように消える。消えてなくなる。

 同じように、性欲も、一度、排泄(?)してしまえば、あとには、何も残らない。ばあいによって
は、男は女の体を、女は男の体を、見るのも、いやになる。

 つまり、最初から、「無」。「便」や「食欲」と同じように、「無」。

 それに気づいてしまえば、あとは、はやい。

●心を求めて……

 男にも更年期があるという。年齢的には、50〜55歳前後だという。そのせいかもしれない。
このところ、若い女の体を見ても、どこか(肉のかたまり)といった感じがしてならない。

 が、今は、その年齢をすぎて、やや「男」を取り戻しつつある……というのが、現在の私の状
態である。

 だから、そういうDVDを見ながら、それなりに、男として、私の体が反応したのは事実であ
る。

 しかしやはり、「無」は「無」。トイレで小便をするのとまったく同じように、それ以上の反応は、
私にはなかった。

 で、スケベとは何か……ということになれば、そこには、(心の問題)がからんでくる。また(心
の問題)がからまないスケベには、意味がない。つまり意味のないスケベをするほど、私は、暇
ではない。

 もちろん若い女と体をからませてみたいという欲求も、ないわけではない。しかしそこに至る
プロセスというか、道のりには、ものすごい距離感を覚える。エネルギーも、つづかない。その
距離感を覚えただけで、自ら、遠ざかってしまう。あきらめてしまう。

●結論

 はからずも、私は、若い男と女の生態を、そのDVDで知ることができた。頭の中では、「そう
いうものだろう」とは思っていたが、そこに映し出された男と女は、まさに、生(なま)の男と女で
ある。

 わかりやすく言えば、どこかのジャングルで、動物たちの生態を見せつけられたような感じ…
…。

 私も若いころは、それなりにスケベだった。セックスも好きだった。しかしそれはいつも、男の
側から見たスケベだった。

 しかし今は、女の側から見たスケベも、理解できるようになった。あるときなどは、「女も、人
間だったのだ」と、へんに感心したこともある。もっと言えば、男も、女も、同じ。どこもちがわな
い。

 ただ男は、ストレートに、セックスへ入るのに対して、女には、それなりのお膳立てが必要、と
いうこと。このわずかなちがいが、男と女の(ちがい)を際だたせる(?)。無数のドラマも、そこ
から生まれる。

 が、ちがいがないわけではない。そうしたDVDにしても、男たちは見るだろうが、女たちは見
ない。つまりそこに(男)と(女)の、ちがいが、凝縮されている。(それとも、女も、そういうDVD
を見るのだろうか?)

 ……一度でたくさん。二度と見たくない。そんなDVDだったが、私には、よい勉強(?)になっ
た。いろいろ考えさせられた。若い男や女を見る目が、少し変わったような感じがする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 性 
男の性 女の性 性的エネルギー)

(付記)

 あらためて私は、「性」のもつ力の、ものすごさを知った。

 男が「中出し」をすれば、女は、妊娠する。その可能性は高い。いくら排卵日を避けたとして
も、いつもうまくいくとはかぎらない。

 しかしある一線を越えると、女は、まさに「メス」になる。その「メス」になったとき、女からは、
知性や理性、それに判断力が消える。

 こう断言することは、危険なことかもしれない。「私は、ちがう!」と、怒る女性もいるかもしれ
ない。もしそうなら許してほしいが、しかし、だからといって、「メス」になることを、私は、まちが
っていると言っているのではない。

 人間というのは、人間である前に、動物である。だから人間が、本能の世界で、動物になった
ところで、何もおかしくない。

 ただ、ふつうなら、(つまり、ほどほどの知性や理性が残っているなら)、知りあって1時間もた
たないような男と、セックスなどしない。膣の中での射精まで、許しはしない! 繰りかえすが、
それで妊娠したら、その女はどうするのか!

 こうした女たちは、特別の女と見るべきなのだろうが、しかしそういう雰囲気もなかった。見る
からに、「素人」という感じだった。

 ……そんなわけで、ますます私は、こう思うようになった。「性のもつ力、つまりスケベ力に
は、ものすごいものがある!」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1344)

●老齢期の知能

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先日、旭ヶ丘幼稚園のH理事長に
会ったとき、理事長が、一枚のグラフ
を私に見せてくれた。

「ほかの幼稚園では見せないように」
とのことだった。

そのグラフを見せながら、理事長は、
「判断力は、年齢とともに、衰える
ことはない。

むしろ、判断力は、老人になれば
なるほど、ますものだ」と、教えて
くれた。

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 心理学の世界にも、「流動性知能」という言葉と、「結晶性知能」という言葉がある。

 流動性知能というのは、臨機応変にその場の状況に応じて、学習しながら、身につける知能
をいう。たとえば外国へ行って、その国の言葉を覚えるのが、それにあたる。

 結晶性知能というのは、自分のした経験や体験を、結晶化させた知能をいう。わかりやすく
言えば、時の流れとともに、熟成される能力ということになる。判断力もそれに含まれる。

 流動性知能は、児童期から青年期にかけてピークを迎えるが、結晶性知能は、老年にいた
るまで、一貫して、上昇しつづける(ホーン、ほか)。

 つまりH理事長が言ったように、判断力は、年をとればとるほど、ましていくということになる。

 ただし、それには条件がある。当然のことながら、結晶性知能を維持するためには、それな
りの努力をしなければならない。それは何も、結晶性知能にかぎったことではない。流動性知
能にしても、それなりの努力をしなければ、宝のもち腐れで終わってしまう。

 外国へ行って、その国の言葉を覚えるにしても、それなりの努力をしなければならない。同じ
ように、結晶性知能を磨くためには、やはりそれなりの努力をしなければならない。当然であ
る。

 では、どうしたらよいのか?

 体(肉体)の健康と、脳みそ(知的能力)の健康は、日々の鍛錬(たんれん)のみによって、維
持される。たとえば運動をしたり、ジョギングをしたりして、体の健康を維持することができるよ
うに、脳みそもまた、それを刺激することによって、その健康を維持することができる。

 それを怠れば、体の健康も、脳みその健康も、ない。怠ったとたん、その時点から、体の健
康と、脳みその健康は、低下する。

 以前、こんな原稿を書いたことがある。何かの本で発表しようと思って書いた原稿だが、内容
が内容だけに、ボツにした。

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●子どもの自我

 ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その
30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。話そのものがかみあわない。どこかヘラ
ヘラしているだけといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。

 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、
晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。

「パチンコでは半日で5万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が
積み重なって、今のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)

 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりた
い!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う
子どももいる。

フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間の方向性を決
めるのだ、と。たとえば……。

 自我が強い子どもは、(1)生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にす
る)、(2)ものの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、(3)創造的(将来に
向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、(4)自制心が強く、善悪の
判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、(1)物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉を
よく口にする)、(2)考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占い
や手相にこる)、(3)一時的な快楽を求める傾向が強く、(4)ルールが守れず、衝動的な行動
が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。
反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわ
からない子どもといった感じになる。

 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だっ
てできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。
それが「結果」として表れてくるからだ。

先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないかもしれないが)、今のS氏は、この30年
間の生きざまの結果でしかない。

 帰りぎわ、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてくださ
い」と言ったが、私は「ハア」と言っただけで、何も答えることができなかった。

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 ここでいう「自我」とは、「私は私」という意識のことをいう。自我の発達がすぐれている子ども
は、「YES・NO」の意思表示がはっきりとしている。ハツラツとしていて、表情も明るい。

 そこでもう一度、フロイトの自我論に耳を傾けてみよう。

自我が強い子どもは、(1)生活態度が攻撃的、(2)ものの考え方が現実的、(3)創造的、(4)
自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、(1)物事に対して防衛的、(2)考え方が非現実的、(3)一時的
な快楽を求める傾向が強く、(4)ルールが守れず、衝動的な行動が多くなる、と。

 この理論を、反対に読むと、そのまま脳みその健康論としても、応用できる。つまり、(1)生
活態度が攻撃的、(2)ものの考え方が現実的、(3)創造的、(4)自制心が強く、善悪の判断に
従って行動できれば、その人(子ども)の脳みそは、健康であるということになる。

 反対に、(1)物事に対して防衛的、(2)考え方が非現実的、(3)一時的な快楽を求める傾向
が強く、(4)ルールが守れず、衝動的な行動が多くなれば、その人(子ども)の脳みそは、健康
ではないということになる。

 そこであなたの脳みその健康度を、チェックしてみよう。

【脳みその健康度チェックテスト】

問1

 あなたは何か新しいものを見たり聞いたりすると、それに興味を示すか? それとも、「めん
どうだからいや」と、それから逃げてしまうか?

問2

 あなたは頼れるのは、私だけと考える傾向が強いか? それとも、いつも何か神秘的な力に
あこがれ、占いやまじないに頼る傾向が強いか?

問3

 あなたは誘惑に強く、自制心が強いほうだと思うか? それとも誘惑に弱く、一時的な快楽を
求める傾向が強いか?

問4

 あなたはいつも社会のルールをきちんと守るほうか? それともその場その場で、適当にル
ールを破って生活をすることが多いか?

 もしこのテストを、子どもに応用してみるなら、(あなた)の部分を、(あなたの子ども)という言
葉に置きかえてテストしてみるとよい。

 このテストで、より前者のようであれば、あなた(あなたの子ども)の脳みそはそれだけ、健康
ということになる。そうでなければ、そうでない。

 その脳みその健康は、「考えること」のみによって、維持される。それについても、以前、こん
な原稿を書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
健康度チェックテスト)

+++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くよ
うなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをな
す」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報
の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。20歳でループに入る人もい
れば、50歳や60歳になっても入らない人もいる。

「ループ状態」というのは、そこで進歩を止め、同じ思考を繰りかえすことをいう。こういう状態
になると、思考力はさらに低下する。私はこのことを、講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよ
い。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたち
に接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしてい
る。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)

で、ある日のこと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中
で、それをさかのぼること20年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗
北感を感じた。「私はこの20年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、10年前より進歩しただろうか。20年前より進
歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほし
い。

さらにあなたはこの10年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろうか。こ
わいのは、思考のループに入ってしまい、10年一律のごとく、同じ話を繰りかえすことだ。

もう、こうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失
礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし
犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だか
ら犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなた
はすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅く
ないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。

何かテーマを決めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんど
ん繰りかえしていく。どんどん繰りかえして、それを積み重ねていく。それで脱出できる。

+++++++++++++++

 しかし実際問題として、(考える)というのは、能力の問題ではなく、習慣の問題である。それ
はちょうど、健康論に似ている。

 健康は、日々の体の鍛錬のみによって、維持される。しかしそれは努力の問題ではなく、習
慣の問題である。

 わかりやすく言えば、脳みそにせよ、健康にせよ、それを鍛錬する習慣が、日常的にあるか
どうかということ。それがあれば、その結果として、それらの健康は維持される。

 たとえば私は、今のところ、健康である。成人病とは無縁である。ではなぜ、私がそうである
かといえば、理由は、はっきりしている。

 私はこの35年間、自転車通勤を欠かしたことがない。片道、7キロ、往復、14キロの道のり
だが、その間には、1キロ前後のダラダラ坂もある。夏の暑い日も、冬の寒い日も、汗を流しな
がら、そこを通っている。

 それがここでいう(習慣)である。

 つまりそういう習慣を、自分の生活の中で作ること。それが体の健康と、脳みその健康を守
る。

 最後に、一言。

 旭ヶ丘幼稚園のH理事長が見せてくれたグラフは、最後のところ、つまり老齢期の終わりのと
ころで、ストンと、下にさがっている。つまり判断力が、突然、下に落ちている。それについて、
私が、「?」というような表情をしてみせたら、H理事長は笑いながら、こう教えてくれた。

 「認知症か何かになると、こうなりますよ」と。

 そういうこともある。(ゾーッ!)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老齢
期 判断力 結晶性知能 流動性知能 思考力 脳の健康 脳の健康力)

【付記】

 はっきり言おう!

 ものの考え方が、防衛的、依存的、保守的、非現実的であり、快楽主義的な傾向が強いとい
うのであれば、その人の脳みそは、それだけ、非健康的であると考えてよい。

 神秘主義も、そうだ。たとえばカルト教団に身を寄せる人は、それだけ、非健康的であると考
えてよい。占いや、まじないを信ずる人も、そうである。

 脳みそという、頭の内部の問題であるだけに、外からは、わかりにくい。また、それだけに、
だまされやすい。どこかのオバチャンに、もっともらしいことを言われたりすると、それなりに信
じてしまう人は多い。

 老人について言うなら、老齢期を迎えても、前向きに積極的に生きて人もいれば、現実世界
から離脱していく人もいる。前者は、「活動性理論」(フリードマンとハヴィガースト)、後者は、
「離脱理論」(カミングとヘンリー)によって、説明される。

 「私は老人だから……」と、「ダカラ論」で自分を正当化しようとする人は、それだけ脳みそ
が、非健康的であることを示す。

 脳みそが健康な人は、肉体の健康と同じように、ものの考え方が積極的、独立的、かつ現実
主義的である。またそういう自分をめざして、がんばらなければならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
健康論 健康な脳)

【付記2】

 昨今、「脳年齢」という言葉に代表されるように、脳みその(でき・ふでき)は、知能的な能力の
みによって判断される傾向が強い。

 しかしそれ以上に大切なのは、「脳みそ」の健康度である。

 いくら頭がよくても、どこかのカルト教団の研究室で、毒薬を作る研究をしていたのでは、何
も、ならない。脳みそそのものが、非健康的であることを示す。

 これから先、「脳みその健康」について、さらによく考えてみ
たい。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1345)

●子どもをよい子にする方法

+++++++++++++++++

意外と簡単なのが、子どもをよい子に
する方法。

つぎの3つを守れば、あなたの子どもは、
まちがいなく、そのよい子になる。

+++++++++++++++++

 意外と簡単なのが、子どもをよい子にする方法。つぎの3つを守れば、あなたの子どもは、ま
ちがいなく、そのよい子になる。

(1)よい人間の見本を、子どもに見せる。
(2)(子どものしたいこと)と、(していること)を、一致させる。
(3)子どもを使う


(1)よい人間の見本を、子どもに見せる。

 子育てというのは、子どもを育てることではない。子育てというのは、子どもに、子どもの育て
方を教えることをいう。

 「父親というのはこういものだ」「母親というのはこういものだ」と。さらに「家族というのはこう
いうものだ」「幸福な家庭というのはこういうものだ」と。

 その中のひとつに、「よい人間の見本を見せる」というのもある。

 子どもをよい子にしたかったら、まず、親が、その見本を見せる。誠実で、まじめで、勤勉で、
約束を守る人間の姿である。ウソやごまかしではいけない。そういう親の姿を、日常的に見せ
る。見せるだけでは足りない。子どもの体の中に、しみこませておく。

(2)(子どものしたいこと)と、(していること)を、一致させる。

 (したいこと)を、(している)子どもは、強い。夢や希望もそこから生まれる。目標も、生まれ
る。

 そういう子どもは、誘惑にも強い。だからまちがった道には、入らない。

 たとえて言うなら、愛しあった末、結婚した夫婦がそうである。そういう夫婦は、たがいに生き
生きとしている。何かの苦労があっても、それを共に乗り越える力をもっている。

 が、そうでない夫婦は、そうでない。誘惑にも弱い。基盤も軟弱だから、こわれやすい。

 そこで重要なことは、子どものしたいことを、子どもができるように、仕向けてやること。子ども
が「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それは、すばらしいことよ」「いっしょに、畑
に苗を植えようね」と、子どもを励ます。

(3)子どもを使う

 子どもというのは、使えば使うほど、よい子になる。社会性や生活力が身につくことはもちろ
ん、忍耐力も、養われる。

 子どものばあい、忍耐力というのは、(いやなことをする能力)をいう。

 子どもをドラ息子、ドラ娘にすれば、やがて苦労するのは、子ども自身ということになる。

+++++++++++++++++++++++

 以上の3つに関する原稿を、ここに添付します。

+++++++++++++++++++++++

●仲のよいのは見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育
てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませ
ておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。
とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはど
んどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な
形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮
せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきた
ら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうも
のであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ
世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。
しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえ
ない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう
思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑
いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があ
って、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったと
き、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子ど
もへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるとき
は、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦
の仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

●日本人のアイデンティティ
 
 (自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致していれば、その子どもは、落ちついて
いる。安定している。これを、アイデンティティ(自己同一性)という。が、ときとして、その両者が
かみあわなくなるときがある。

 A君(小学3年生)は、「おとなになったら、サッカー選手になりたい」と思っていた。地元のサ
ッカークラブでも、そこそこに、よい成績を出していた。が、そこへ進学問題がからんできた。ま
わりの子どもたちが、進学塾に通うようになった。

 A君は、それでもサッカー選手になりたいと思っていた。が、現実は、そうは甘くなかった。4
年生になったとき、さらに優秀な子どもたちが、そのサッカークラブに入ってきた。A君は、相対
的に、目だたなくなってしまった。

 ここでA君は、(自分の進みたい道)と、現実とのギャップを、思い知らされることになる。が、
こうした不一致は、ただの不一致では、すまない。

 A君は、心理的に、たいへん不安定な状態に置かれることになる。いわゆる「同一性の危機」
というのが、それである。が、さらに進学の問題が、A君に深くからんできた。母親が、A君にこ
う言った。

 「成績がさがったら、サッカーはやめて、勉強しなさい」「サッカーなんかやっていても、プロの
サッカー選手になるのは、東大へ入ることより、むずかしいのよ」と。

 子どもというのは、自我に目覚めるころから、自分のまわりに、(自分らしさ)をつくっていく。
これを役割形成という。が、その(自分らしさ)がこわされ始めると、そこで役割混乱が起きる。

 それは、心理的にも、たいへんな不安定な状態である。

 たとえて言うなら、好きでもない男と、妥協して結婚した、女性の心理に近いのではないか。
そんな男に、毎夜、毎夜、体を求められたら、その女性は、どうなる?

 こうしてアイデンティティの崩壊が始まる。

 一度、こういう状態になると、程度の差もあるが、子どもは、自分を見失ってしまう。いわゆる
(だれでもない自分)になってしまう。自分の看板、顔、立場をなくしてしまう。が、そこで悲劇が
止まったわけではない。

 A君は、進学塾に通うことになった。母親が、「いい中学へ入りなさい」と、A君を攻めたてた。
A君は、ますます、自分を見失っていった。

 こういう状態になると、子どもは、つぎの二つのうちの、一つを選択することに迫られる。

 (だれでもない自分)イコール、無気力になった自分のままで、そのときを、やりすごすか、代
償的な方法で、自分のつぎの道をさがし求めるか。

 代償的な方法としては、攻撃的方法(非行など暴力的行為に走る)、服従的方法(集団を組
み、だれかに盲目的に服従する)、依存的方法(幼児ぽくなり、だれかにベタベタと依存する)、
同情的方法(弱々しい自分を演じて、いつもだれかに同情を求める)などがある。

 ふつうこの時期、多くの子どもたちは、攻撃的方法、つまり非行に走るようになる。(だれでも
ない、つまり顔のない人間)になるよりは、(害はあっても、顔のある人間になる)ことを望むよう
になる。

 この時期の子どもの非行化は、こうして説明される。

 で、自分の存在感をアピールするために、学校でわざと暴れたりするなど。このタイプの子ど
もに、「そんなことをすれば、みんなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても意味はない。みなに
恐れられること自体が、その子どもとっては、ステータスなのだ。

 子どもを伸ばす鉄則。(子どもがしたがっていること)と、(していること)を一致させる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 同一性の崩壊 同一性の危機 自己同一性 現実自己 自己概念)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

(子どもが伸びるとき)

●伸びる子どもの4条件

 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。(1)好奇心が旺盛、(2)忍耐力がある、(3)生
活力がある、(4)思考が柔軟(頭がやわらかい)。

(1)好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、
身のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多
才。友だちの数も多く、相手を選ばない。数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。
何か新しい遊びを提案したりすると、「やる!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。
反対に好奇心が弱い子どもは、一人で遊ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」
とか言ったりする。

(2)忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといっ
て、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなこ
とをする力」のことをいう。

たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。そういう仕事でもいやがら
ずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。あるいは欲望
をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあっても、手を出さないなど。こん
な子ども(小三女児)がいた。たまたまバス停で会ったので、「缶ジュースを買ってあげよう
か?」と声をかけると、こう言った。「これから家で食事をするからいいです」と。こういう子ども
を忍耐力のある子どもという。この忍耐力がないと、子どもは学習面でも、(しない)→(できな
い)→(いやがる)→(ますますできない)の悪循環の中で、伸び悩む。

(3)生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹
の世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせれ
ばできるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン
(アメリカの詩人、「自然論」の著者、1803〜82)も、『教育に秘法があるとするなら、それは
生活を尊重することである』と書いている。

(4)思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずら
でも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬい
てトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カ
ラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座
る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。

 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意
固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現
が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態
になり、子どもの心がつかみにくくなる。

●子どもを伸ばすために

子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示を
かけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あ
なたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。

もしあなたが、「うちの子は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは
「あなたはダメになる」式のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな
子ね」式の、その子どもの人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。

その上で、(1)あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする
(好奇心をますため)。また(2)「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝い
はさせる。「子どもに楽をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる
(忍耐力や生活力をつけるため)。

そして(3)子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場では、「アレッ!」と思うような意外
性を大切にする。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるのは、それだけ刺激が多いこと
による。マンネリ化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のためには、好ましい環境とは言
えない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 よい
子の条件 よい子にするほ方法)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1346)

【私の過去】

++++++++++++++

私が高校生になるころには、
私の家は、まさに火の車。

表向きはともかくも、家計など、
あってないようなものだった。

この状態は、私が、大学生に
なってからもつづいた……。

++++++++++++++

●貧乏

 私が高校生になるころには、私の家は、まさに火の車。家業は自転車屋だったが、月に、4
〜5台も売れればよいほう。ときには、数台ということもあった。

 あとはパンク修理で、何とか、その日を食いつないでいた。が、そのパンク修理とて、毎日あ
ったわけではない。一日の大半は、祖父も、父も、兄も、することもなく、店先と奥を行ったりき
たりしながら、過ごしていた。

 祖父は、すでに病気がちで、現役から引退していた。祖母は、二階にあった物干し台ですべ
って腰を打ってからといもの、そのときすでに、寝たきりの状態だった。

 父は、酒を飲みすぎて、すでに肝臓を悪くしていた。兄は、子どものころから、今でいう自閉
症で、そのため、母は、兄を、家の中に閉じこめたままにしていた。

 私にとっても、人生の中で、一番、つらい時期だった。

 言い忘れたが、私には、もう1人、姉がいた。5歳年上の姉で、そのときは、G市にある洋裁
学校を卒業し、家の中で、縫製の仕事をしていた。稼ぎは、それほど、多くはなかったと思う。

●父の酒乱

 貧乏というのは、慢性疾患に似ている。いつ止(や)むともなしにつづく、痛みをともなった慢
性疾患である。が、それだけではない。よどんだ空気、重苦しい空気、それが口をふさぐ。おま
けにあの独特の臭い。木にしみこんだ、腐った油の臭い。

 その私は、自転車屋の仕事を、まったく手伝わなかった。手伝おうという気持ちも、起きなか
った。すでにそのとき、私の目から見ても、自転車屋という私の家の商売は、もうどうしようもな
いところまで行ってしまっていた。

 それまでの長いいきさつも、ある。おまけに父は、今でいうアルコール依存症だった。酒を飲
まない日には、借りてきた猫の子のように、静かで、おとなしかったが、酒が口に入ると、様子
が一変した。

 肝臓を悪くするまで、つまり私が中学3年生くらいまでは、2、3日に一度は、酒を飲み、家の
中で暴れた。

 ふつうの暴れ方ではない。食卓のテーブルをひっくり返し、障子やガラス戸を、容赦なくこわし
た。父が発する大声や、ものをこわす音は、おそらく近所中に聞こえていただろう。が、私は、
気にしなかった。

 私の家には、「恥」という言葉すら、もう、なかった。

●大学生に……

 私はいつも母に、こうおどされた。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」と。しかしその言葉ほ
ど、私に恐怖心を与えるものはなかった。

 私はいつしか、あの郷里のM町から逃れ出ることだけを考えていた。「ふるさと」という思い
は、とっくの昔に消えていた。

 さらに大学入試が近づくと、母は、こう言い出した。「大学は、国立でないと、行くな。お金がな
い」と。

 それについては、何も母に言われなくても、よくわかっていた。母は、私が、外に出て行くの
を、何よりも恐れていた。「地元に残って、私のめんどうをみろ」というようなことまでは言わなか
ったが、言われなくも、それが私には、よくわかった。

 具体的には、「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れるな」と言った。耳にタコができ
るほど、よく言った。

 その私が、倍率、8・6倍のK大学に合格した。今では考えられないような倍率だが、当時
は、どこの国立大学も、同じようなものだった。私たちの世代は、団塊の世代と呼ばれている。
中学校でのクラス数も、1学年上が、5、6クラス。私たちの学年からは、11クラスもあった。し
かも1クラス、55人前後。まさに寿司詰め!

●仕送りは、1万円だけ

 当時、下宿代が、9000円前後だったと思う。4年生のときには、1万2000円になってい
た。

 が、実家からの仕送りは、4年間を通して、月に1万円だけ。学費と、足りない分は、アルバ
イトで稼ぐしかなかった。が、試験期間中になると、そのアルバイトもできなかった。私は、朝と
夕に出される下宿の食事だけで、生き延びたこともある。

 その1万円も、母は、「頼母子講(たのもしこう)」と呼ばれた、相互金融救済制度をつかっ
て、工面していた。1万円といっても、当時の大卒の初任給が、4〜5万円の時代だったから、
それなりの高額であったことには、まちがいない。

 こうして私は、大学を卒業するまで、貧乏が当たり前の生活をした。今になってみると、それ
がよかったのか、悪かったのか……。中には、「若いころに、貧乏を経験しておくといい」と言う
人もいるが、その貧乏にも、程度というものがある。それに期間というものがある。

 私のばあい、中学生になるころには、「ジリ貧」を感じていた。ジリジリジリと、家が貧乏になっ
ていくのが、私にも、よくわかった。

 が、父も兄も、なすすべもなく、それに耐えるだけ。祖父は、道楽でオートバイをいじっている
だけ。母は母で、おかしな迷信ばかり信じて、そのときすでに私とは、まったく会話がかみあわ
なかった。今でも家の中には、仏壇のほか、4〜5種類の神棚が祭ってある。

 私のばあい、その期間が長すぎた。多情多感なあの思春期という時代にしてみれば、それは
「一生」と言えるほど、長すぎた。

●実家への仕送り

 プライド? そんなものは、どこにもなかった。店は、M町という田舎町だったが、その町の中
心部にあった。その町の中心部で、父は、先にも書いたように、酒を飲み、大声をあげて、暴
れた。

 だれの目にも、私の家が、そういう家であることは、よくわかった。私ができることといえば、
居直って生きるだけ。「今だけだ」と、自分を慰めて、生きるだけ。

 私は、そんなわけで、あのM町については、今も、「ふるさと」という思いは、まったく、ない。
帰りたいと、思ったこともない。

 ただ私が、ワイフと結婚する前から、収入の約半分を、実家へ仕送りをしていたのは、それ
をするのが、私の義務と感じていたからにほかならない。「ふるさとを捨てた」という自責の念が
あったためかもしれない。

 何も、好きこのんで、そうしていたわけではない。

 そういう思いの中で書いたエッセーが、つぎのエッセーである。これは中日新聞に発表した記
事だが、ほかの記事とちがって、大きな反響があった。それを紹介する。

++++++++++++++++

●父のうしろ姿

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の
父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。2、3日おきに近所の酒屋で酒
を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。

そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から
帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を
飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も52歳。1人、2人と息子を送り出し、今は三男が、高校3年生になった。のんきな子
どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを20人も呼んで、パーティを開くという。「が
んばろう会だ」という。

土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこう
聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。

すると三男は、「どうして?」と聞いた。理由など言っても、三男には理解できないだろう。私に
は私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友
だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。

「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子の
さんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が30歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、ど
こか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じ
がした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。

40歳を過ぎるころになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。商
売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよ
りも安いものもあります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。

「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたことも
ある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった。

叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったの
だろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからう
しろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うし
ろには誰もいない。そんなことも多い。

ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、い
つも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、
黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独な
ど、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。
いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。

「パパ、ありがとう」と。

そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。

+++++++++++++++++

 この中で、「叔父が……」という話を書いた。これについて、その叔父の息子、つまり従兄弟
(いとこ)から、「Jストアに店を出したのは、父ではない。このぼくだ。(だから父のことを悪く書
かないでほしい)」という、抗議の電話をもらった。

 それについては、私は知らなかった。叔父といっても、私にとっては、父親のような人だった
から、悪口を書いたという思いは、私にはなかった。

 それに私は子どものころから、商売というのは、そういうものだと、わかっていた。勝った、負
けたは、当たり前。負けたからといって、どうと思うこともないし、私は、何とも思わなかった。つ
まり叔父をうらんだことは、一度も、ない。

 それに勝ったと思ったところで、そんな思いは、長くても、1世代もつづかない。今度は、自分
が、だれかに追われる立場になる。あとは、その繰りかえし。

●貧乏という心のキズ

 そんなわけで、私の心には、無数のキズがついている。貧乏という、キズである。そのキズ
が、具体的に形となって現れているのが、今の私の不安神経症ではないか? いつも何かに
追われているという強迫観念、それが、心のどこかにある。

 悪夢も、よく見る。

 たいていはどこかの旅先にいて、そこでバスや電車に乗り遅れるという夢である。あるいはホ
テルで荷物の整理をしているうちに、刻々と時間だけが過ぎていく。そんな夢である。

 で、おそらく私は、死ぬまで、そういう夢から解放されることはないだろうと思う。だからといっ
て、そういう自分の過去を、うらんでいるというわけではない。そののち、いろいろな人と会っ
た。知りあった。

 そういう経験を通してみると、ほとんどの人が、形や内容こそちがえ、みな、何らかの心のキ
ズをもっている。心のキズをもっていない人はいない。そしてそれぞれの人が、そのキズを背
負いながら、懸命に生きている。それがわかった。

 こうした私の過去は、決して私だけのものではない。むしろ、私など、まだ幸福なほうだった
かもしれない。

 そのあと、今のワイフに恵まれた。3人の健康な息子たちにも恵まれた。結婚してからは、そ
れほどぜいたくな生活はできなかったが、ほどほどに、自分の人生を楽しむことができた。今
も、こうして自分の人生を、思う存分、楽しんでいる。

 が、ひとつだけ言えることは、私がしたような経験は、私、ひとりでたくさん。息子たちには、そ
ういう思いだけは、させたくないということ。今も、そのつもりで、がんばっている。

 そういう私を知ってか知らずか、息子の1人は、よくこう言う。「パパは、何でも、お金で解決し
ようとする」と。

 私は、そう言われたとき、ふとこう思う。「何を、生意気なことを! 私の気持ちを話したところ
で、お前たちに、理解できるものか!」と。

 しかしその(思い)を伝えたくて、今朝、このエッセーを書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 私の
過去 過去 貧乏論)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【今日・あれこれ】

●7月31日号

 これから7月31日号の、マガジンの配信予約を入れる。

 が、今日は、6月27日。小雨が降る、どこか小寒い朝だ。暑いよりはよい。

 このところ、やっと調子がもどってきた。キーボードを打つ手も、どこか軽やか。

 で、読者の方にお願い。

 もしできれば、マガジンは、「まぐまぐプレミア(有料版)」のほうを、購読してほしいということで
す。現在、月額200円で、提供しています。(10月からは、300円にさせてください。)

 よろしく、よろしく、お願いします。心から、よろしくお願いします。

 では、7月号は、これでおしまい。また8月号のほうで、お会いしましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1347)

【日本VS韓国】

++++++++++++

心配していたとおり、
韓国のN大統領は、
メチャメチャなことを
やり出した。

国民の世論にあえて、
背を向けて、
共産主義国家への道を、
まっしぐら(?)。

++++++++++++

 サッカーのW杯が始まったとき、韓国チームのコーチは、こう言った。「日本だけには、勝って
ほしくない」と。コーチがオーストラリア人だったから、ここまでは、私にも、理解できる。が、そ
のあと、こう言った。「日本には、負けてほしい。日本が決勝トーナメントに出ないことを願う」
(朝鮮N報)と。

 これが当時の、韓国の人たちのおおかたの世論だったと考えてよい。朝鮮N報も、そう伝え
ている。

 かたや日本は、どうか?

 日本がブラジル戦に破れ、日本が決勝トーナメントに出られないとわかったときのこと。「日
本の報道機関は、こぞって、『韓国に期待する』というコメントを発表した」(同、朝鮮N報)と。

 このちがいが、わかるか?

 試合が始まる前、「日本だけは負けろ」と公言した韓国。しかしその日本は、「アジアで残った
のは韓国だけ。だから韓国に期待する」と。日本は、悲しくも、その韓国にエールを送った。

 以上の話は、朝鮮N報の社説に載った記事をまとめたものである。私が憶測で書いた記事
ではない。日本の報道機関が書いた記事でもない。韓国の朝鮮N報が書いた記事である。

 私は、この記事を読んで、うれしかった。どういうわけだか、うれしかった。おとなになった日
本。成熟した日本。それを、私は、この記事の中に感じた。

 で、たまたま昨日から今日にかけて、東京で身代金目的の誘拐(ゆうかい)事件が起きた。
ある美容整形外科の娘が、誘拐された。犯人は、中国系の男と韓国系の男だったという。

 私はその事件を見ながら、こう思った。もし同じような事件が、韓国で起きたとしたら、韓国の
人たちは、どのように反応するだろうか、と。つまり日本人が、韓国の女性を誘拐して、身代金
を要求したら、韓国の人たちは、どのように反応するだろうか、と。

 へたをすれば、反日感情に火がついて、各地で暴動を起こすかもしれない。日本製品のボイ
コット運動を起こすかもしれない。

 しかし韓国人が日本で犯す犯罪の数とくらべたら、日本人が韓国で犯す犯罪の数は、比較に
ならないほど、少ない。凶悪性についても、だ。

 こういう事実を、韓国のN大統領や、韓国の人たちは、どう考えているのだろうか。が、この
日本では、犯罪は犯罪として、冷静に対処している。つまりそれだけ、日本のほうが、いまや成
熟した国ということになる。

 しかしその日本について、N大統領は、公式の場で、こう言い放った。「(日本は、未成熟な国
で)、指導国家にはなれない」(注1)(06年05月)と。

 よくも言ったり! ならば日本へやってくる、あの武装スリ集団は、いったい、何か?

 あるいは日本中にいる、韓国の産業スパイは、いったい、何か? 日本から、ありとあらゆる
情報を盗み取っているのは、韓国のほうではないのか。韓国の産業スパイは、いまや、市町村
レベルの村にまで、はびこっている。しかも現在、韓国の基幹産業になっている、自動車、造
船、電子の各産業のすべては、日本の(お株)を奪ってつくりあげたもの。

 もしそれほどまでに、日本が嫌いなら、日本から学ぶものは、何もないはず。私なら、日本を
無視する。仮に援助を申し出られても、断る。それが国家としての、プライド(威信)というもの
ではないのか?

 が、韓国のN大統領は、そうでない。日本を、あろうことか、「仮想敵国」(朝鮮N報、06年06
月)とまで、位置づけた。日本における民団(韓国系)と、総連(K国系)の「歴史的和解」(朝鮮
N報)につづく、発言である。

 しかし日本の対応もすばやかった。

 民団と総連が和解したとたん、民団を、民団イコールK国の一派と位置づけ、民団の各施設
に対して、非課税措置を撤廃、課税措置を強化した。民団系の遊戯団体(=パチンコ店)に
も、片っ端から税務査察を入れた。そののち、民団は、「歴史的和解を白紙にもどす」と発言し
たが、すでに時、遅し。日本は、日本としての制裁を開始してしまった(注2)。

 日本としては、当然の制裁行為である。韓国のN政権イコールK国と考えて、防戦を張った。

 が、N大統領の、珍言は、これで終わったわけではない。「テポドンは、ミサイルとはかぎらな
い」とか、「日米は、テポドン問題について、過剰反応をしている」とか、など。N大統領は、今回
のミサイル問題を、「テポドン問題」と呼んでいる。今の段階では、ミサイルとは断言できないか
らだそうだ。

 それにしても、韓国は、今、どちらに向かって、進もうとしているのか? 米韓同盟は、いまや
風前のともし火。在韓米軍は、韓国から空軍の撤退まで口にし始めた。N大統領自身も、201
1年ごろまでに、米韓同盟の解消をもくろんでいる。そればかりか、アメリカ軍に対して、「朝鮮
動乱以前の状態にして、韓国から出て行け」とまで、言い出した。

 そのくせ日本とアメリカが歩調を合わせればあわせるほど、「ああでもない」「こうでもない」
と、やきもちを焼く。日本がイラクへの派兵を決めたときでさえも、「日本には、行かせるな」と、
ブッシュ大統領に進言。

 まあ、何をしようが韓国の勝手だが、このままでは、N大統領の任期が終わるころには、米
韓関係はもちろん、日韓関係も、めちゃめちゃになっていることだろう。ついでに韓国経済も、
めちゃめちゃになっていることだろう。韓国のコスダック指数にしても、今年だけでも、20%弱
の下落率を記録ている(06年上半期)。この数字は、世界45か国中、最下位。

 今回の民団への制裁行為に見られるように、日本も、ただだまって韓国の言いなりになって
いるわけではない。口にこそ出さないが、確実に、韓国を、しめあげている。それを、韓国国内
では、「ブーメラン効果」と呼んでいる。

 日本をたたけばたたくほど、ブーメランのようになって、韓国にそれが影響してくるという意味
である。それを望むわけではないが、その結果についての責任は、すべて今のN大統領自身
にある。

 近く、早ければ今年中に、韓国のバブル経済ははじける。悪くすれば、韓国は、そのまま再
び、国家破綻する。そのとき重要なことは、日本は、N大統領ではなく、その向こうにいる、良
識をもった韓国の人たちと、連携を保つことである。

 N大統領の支持率は、すでに10%台にまで落ちこんでいる。韓国の内部にも、N大統領の
政策に、批判的な人も多い。「日本は、友邦国だ」と主張している人も少なくない(注3)。今の
日本にとって重要なことは、こうした人たちまで、日本の敵に回してしまわないこと。

 日本は、あくまでもポストN大統領をにらんで、これからの日韓関係を構築していく。

+++++++++++++++
 
(注1)盧大統領は「時間のかかる難しいことであっても、明確な対応をしていくべき」と話した。
「日本は(韓国の領土を侵奪しようとする)行為を続ける限り、国際社会で経済力と民主的水準
に見合った指導的国家になることはできないだろう」とした。

(注2)横浜市は今月初め、在日本大韓民国民団(民団)関連施設に対し、固定資産税などの
減免措置の取り消しを通告した。追加で課せられる税額は年間270万円に上る見込みだ。日
本の当局は対北朝鮮制裁措置の一環として、総連施設に対し、税金の減免を取り消すなどの
経済制裁措置を行っていた。しかし、民団に対しこうした制裁措置が取られるのは初めてだ。
民団会館などの民団施設は町内会の会館と同様、公益性を認められ、税金の減免対象となっ
ていた。
 
(注3)韓日両国の対立について鄭議員は「日本が見せているさまざまな対応は、韓国として到
底容認できるものではないが、日本は基本的に友邦と見なすべきだ。日本を敵視するムード
が政府内にあるような印象を受けるが、それは間違っていると思う」と述べた。
(以上、朝鮮N報の記事より)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】

●同窓会

 先日、名古屋で、大学のミニ同窓会があった。みんな元気だった。それを知っただけで、うれ
しかった。励まされた。

 まだまだがんばれるぞ、と! つまり同窓会というのは、その元気をもらうところ。おかげで、
今週は、気分も、そう快。自分でも、生き様が前向きになっているのを感ずる。

 みんな、いつまでも元気で、がんばろう! これからも、よろしく!


●心の健康

 先日、(心の健康)についてのエッセーを書いた。その(心の健康)は、(1)生き様が攻撃的
で、積極的であるか、(2)生き様が、独立心が旺盛で、はっきりしているか、(3)生き様が現実
的で、柔軟であるか、(4)生き様に一貫性があり、計画的で、誘惑に強いかで決まる。

 そうでない人は、そうでない。

 (1)生き様が依存的で、服従的であったり、(2)生き様が、優柔不断で、ナヨナヨしていたり、
(3)神秘的なものにあこがれ、占いやまじない、宗教にハマりやすくなっていたり、(4)生き様
が享楽的で、誘惑に弱いというのであれば、それだけで、心が病んでいるとみてよい。

 そこで心の健康を守るためには、どうすればよいかということになる。当然のことながら、
(心)というのは、外から見えない。見えない分だけ、どういう状態なのか、わかりにくい。それに
表面的には、いくらでも、ごまかしがきく。

 では、どうすればよいか? どうすれば、心の健康を守ることができるか?

 私は、たいへん手前勝手な意見で申し訳ないが、幼児と接することが、そのひとつの方法で
はないかと思う。子どもでもよい。

 幼児や子どもたちと接していると、ときどき、自分の心が、シャワーか何かで、サーッと洗わ
れていくかのような錯覚を覚えることがある。子どもの世界では、ウソやインチキ、それに、ご
まかしは通用しない。

 そんなわけで、もしみなさんにも、幼児や子どもたちと接する機会があれば、どんどんとそれ
を利用したらよい。自ら、その中に、飛びこんでいけばよい。

 そのときコツがあるとするなら、年長者であるという気負いは、捨て去ること。童心に返って、
それをする。心を解き放つ。ワーワーと幼児や子どもたちといっしょになって、騒ぐ。

 私のばあい、それ以上に、(心の健康)を守る方法を知らない。知らないので、この方法を、
みなさんに勧める。


●K国のミサイル

 ロシアの政府高官(元K国駐在大使)が、こう言った。K国のミサイル発射実験について、で
ある。

 「ミサイルでも何でも、発射させてみればいい。飛ばさせてみればいい。着弾させてみればい
い。(どうせ、飛ばないから)」と。

 私も、実は、同意見である。アメリカのミサイルの専門家たちも、そう言っている。「K国のミサ
イルは、初歩的なものだ」と。

 ただし背後で、中国やロシアが、K国を助けているなら、話は別。しかし今のところ、そういう
話は、伝わってきていない。


●狂った世界

 ある県で、医師の息子が、家族を殺害したあと、自分の家に放火するという事件が起きた。

 理由は、「英語の成績が悪かったことが、父親にバレるのが、いやだったから」(報道)とか。

 日本の受験競争の、狂った側面が、この事件に集約されている。が、この事件は、まさに氷
山の一角。その一歩手前で、かろうじて家族の体裁を保っている家庭は、多い。二歩手前とな
ると、もっと多い。受験生をかかえる、ほとんどの家庭がそうであると言っても、過言ではない。

 子どもに、親のエゴを押しつけてはいけない。押しつけたところで、意味はない。それをこの
事件は、私たちに教えている。


●またまたダイエット開始

 私のばあい、少し油断すると、すぐ体重がふえる。数日前も、計ってみたら、何と、65キロ!
 自分で設定している適性体重を、2キロもオーバー!

 さっそく、ダイエット開始。

 が、このところ、食事がおいしくてならない。何かにつけて、ついつい食べてしまう。それがよく
ない。

 そこで私は気がついた。

 空腹感というのは、(逆・依存症)のことである、と。

 たとえば喫煙がある。あれほど意味のない習慣はないと思うが、一度その依存症になってし
まうと、喫煙を断つのは、むずかしい。

 同じように、空腹感と戦うのも、むずかしい。本当に、むずかしい。その(むずかしさ)という点
で、依存症と、空腹感は似ている。中身は、正反対かもしれないが、似ている。だから(逆・依
存症)。

 今日こそ、がんばってみよう。その空腹感と、戦ってみよう。


●共依存

 「共依存」という言葉がある。夫婦の間で、たがいに依存しあいながら生きている様子をいう。
が、ふつうの依存のし方ではない。ふつうの依存のし方ではないから、「共依存」という。

 よくある例は、仕事もせず、暴力を繰りかえす夫と、それにただひたすら献身的に仕える妻と
の関係。ともに、自分の心の隙間(すきま)を埋めるために、相手を利用する。

 同じような「共依存」は、親子の間に見られることもある。

 ベタベタに子どもを愛する親と、これまたベタベタに、親に依存する子ども。マザコンタイプの
子どもを、想像すればよい。一見、仲がよい親子に見えるが、しかしこういうのは、「仲がよい」
とは言わない。

 ともに、たがいの心の隙間、つまり情緒的欠陥や、精神的な未熟性を補っているだけ。ともに
独立した人格をもてないから、依存しあって生きている。

 今、原因や理由はともあれ、この共依存関係に陥っている親子が、あまりにも多いのには、
驚かされる。


●おかしなウグイス

 山荘では、この時期、今でもウグイスが鳴いている。そのウグイスだが、先日、山荘の近くに
やってきたウグイスは、こんな鳴き方をしていた。ふつう、ウグイスというのは、「ホーケキョ」と
鳴くものだが、そのウグイスは、「ホーキョキョ」と。

 夏も近づくと、ウグイスも、そういう鳴き方になるのか? しかし私は、そんな鳴き方は、はじ
めて耳にした。

 ワイフに、「脳の微細障害が原因かもしれないね」と言ったが、意外と当たっているかもしれ
ない。ひょっとしたら、環境ホルモンか何かが、ウグイスの脳みそに、影響を与えているのかも
しれない。

 不気味な話だが、私には、そうとしか考えられない。万年単位でつづきてきた鳥の鳴き声が、
ここ10年とか、20年のうちに変わるはずがない。変わったとしたら、何か、微細な変化が、ウ
グイスの脳みその中で起きたと考えるのが妥当である。

 ワイフも、「おかしな鳴き方」と言って、笑っていた。


●時計

 今日、本物の懐中時計がおまけについた雑誌が、発売になる。第4号である。

 1〜3号については、何と、3冊ずつも買ってしまった。息子たちにやったり、外国の友人に送
ったりした。

 で、今回の時計は、写真で見るかぎり、こげ茶色で、鯉(こい)の図柄が浮き彫りになったケ
ースに収まっている。

 楽しみだ。

 昼になったら、買いに行くつもり。2つ、買うつもり。1つは、私のため。もう1つは、オーストラ
リアの友人のため。

 いつになっても、(おまけ)というのは、うれしいものだ。ハハハ。


●戦争ごっこ

 的当て遊び用に買ってきた、ピストルのおもちゃで、子どもたちが勝手に、戦争ごっこを始め
た。

 2つのグループに分かれて、机をはさんで、ポンポンとそのピストルで撃ちあう。

 弾(たま)といっても、やわらかい発砲スチロールでできている。至近距離で目に当たっても、
痛くない。安全性は、確認してある。が、それにしても、戦争ごっことは!

 私が、「あのなア、学校で、そんな遊びをしたら、学校の先生は、クビになるよ」と声をかける
と、子どもたちは、「いいの、いいの、先生。ぼくらはだれにも言わないから」と。

 で、いつの間にか、私が、その審判に。弾が当たったら、その場で、「君は、死んだ」「退
場!」とか言う。

 「いいのかなあ?」「こんなことをしていて?」と思いながら、それをつづけた。

 しかし私が子どものころには、私たちは、毎日のように戦争ごっこをしていた。しかもこんな生
易(やさ)しいものではない。相手の敵をつかまえたら、捕虜にして、リンチまで加えていた。

 リンチといっても、壁に立たせて、ボールを当てるというものだったが……。

 今の子どもは、そういう遊びをしない。してはならないという風潮すら、ある。だいたい、「ごっ
こ遊び」というのを、しない。子どもとっては、とても大切なあそびのひとつだと思うのだが……。

 BWの親のみなさん、こんな遊びをして、ごめんなさい。したのは、2度だけ。今は、そのピス
トルはすべて、片づけてあります。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1348)

【あせる親たち】

●親は、なぜあせるか?

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自分の子どもが受験期を迎えると、親たちは、
言いようのない不安にかられる。かられるまま、
子どもに向かって、こう言う。

「勉強しなさい!」と。

なぜ、親たちは、自分の子どもが受験期を迎えると、
そうなるのか? おかしくなるのか?

ある母親は、こう言った。「頭の中では、いけない
とわかっているのですが、どうしても、あせりを
覚えてしまいます、と。

なぜか?

どうしたらよいのか?

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●不安の内容

自分の子どもが受験期を迎えると、親たちは、言いようのない不安にかられる。自分の子ども
は、だいじょうぶかしらという心配が、そのまま、その不安となって結びつく。自分の子どもが選
別されるという恐怖感もある。

 ある母親は、そうした不安感をこう表現した。

 「夜、進学塾のビルが、こうこうと明かりをつけているのを見ただけで、カーッと頭に血がのぼ
るのを感じました」と。

 また別の母親は、こう言った。「子どものテスト期間になると、お粥しか、のどを通りません」
と。その母親の髪の毛は、ぼうぼう。ほんの数年前の、あの優雅な表情は、もうどこにもなかっ
た。

●過去を再現する親たち

親たちは、自分の子どもの子育てをしながら、そのつど、自分の過去を再現する。無意識のう
ちにも、再現する。

たとえば自分の子どもが幼児のときは、自分自身が幼児であったころの自分を、親の目を通し
て、再現する。これを心理学の世界でも、「世代連鎖」と呼んでいる。「世代伝播(でんぱ)」とも
いう。つまり子育てというのは、本能ではなく、学習によって繰りかえされる。

わかりやすく言えば、親は、自分が受けた子育てを再現しながら、今度は、自分の子どもに対
して、同じような子育てを繰りかえす。よく知られた例に、虐待や暴力がある。しかし世代連鎖
は、何も、虐待や暴力にかぎったことではない。

 同じように、自分の子どもが受験期を迎えると、親たちは、自分の受験時代をそこで再現す
る。言いようのない不安感というのは、実は、自分自身が自分の受験期に覚えた不安感をい
う。

 そしてさらにその不安感は、そのまた親、つまり自分自身の両親から、植えつけられた不安
感をいう。こうして過去をどんどんとさかのぼっていくと、その不安感は、さらにそのまた親たち
から植えつけられたものであるということがわかる。

●明治の昔から……

日本は、明治の昔から、今に見る、日本独特の学歴社会をつくりあげた。一部の「学卒」と呼
ばれる超特権階級が、日本を支配する一方、残りの多くの民衆は、いわゆる(もの言わぬ従
順な民)として、飼いならされていった。

 「飼いならす」という言い方は、不適切な言い方に聞こえるかもしれない。が、富国強兵政策
の国では、そういう人間こそ、「民」として、あるべき民の姿だった。国からの命令とあれば、喜
んで命を捨てていく、従順な民である。その結果が、日清戦争であり、日露戦争ということにな
る。

 これらの戦争では、おびただしい数の若者たちが、その犠牲となっていった。

 つまり簡単に「学歴社会」とは言うが、その歴史の中には、おびただしい数の人間の血がし
みこんでいる。もちろんその学歴社会を通して、一般の人たちは、不公平社会をいやというほ
ど、見せつけられている。

 徹底して優遇される「学卒」組。かたや、徹底して冷遇される、「無学歴」組。江戸時代からの
身分制度が、それに拍車をかけた。親たちが今、感じている不安は、それほどまでに「根」が
深い。

●自分の子どもの受験競争に狂奔する母親たち

さらに結婚と同時に、職場を去り、家庭に入る女性には、それなりの大きなストレスがある。挫
折感がある。加えて「女は家事と育児」という、伝統的な慣習もある。しかし母親といっても、そ
の前に人間である。その人間が、家庭という環境に、みな、順応できるというわけではない。

 いつしか母親たちは、子育て、なかんずく、自分の子どもの(でき・ふでき)に、生きがいを見
出すようになる。あるいは、そこに自分自身の生きがいを傾けることになる。

 それは壮絶な戦いと言ってもよい。概して言えば、父親より、母親の方が、子どもの受験競
争に狂奔しやすいという理由は、そこにある。しかも、そこに、母親独特の、本能的な母性愛が
からむことがある。虚栄心や嫉妬心がからむことがある。

 これは当然の帰結ということになるが、しかし危険な側面もはらんでいる。母親がもつ、本能
的な母性が、母親自身の理性をつぶしてしまうことがある。またそういうケースは、ゴマンとあ
る。

 わかりやすく言えば、自分の子どもの受験競争に狂奔するあまり、自分自身を見失ってしま
う。

 ライバルの母親の娘(年長児)を、人の目を盗んで、足蹴りにしていた母親がいた。(これに
ついて書いた原稿があるので、このあとに、添付しておく。)

●代償的愛

愛にも、いろいろある。本能的な愛もあれば、真の愛もある。が、もうひとつ、代償的愛という
のもある。

 「代償的愛」というのは、私が考えた言葉だが、つまりは、愛もどきの愛をいう。一見、愛に見
えるが、しかし、決して、愛ではない。自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利用するた
めの愛、と考えるとわかりやすい。

 ここでいう子どもの受験競争に狂奔する親が、その一例である。「子どものため」「子どもの
将来のため」と言いながら、何も、子どものことなど、考えていない。自分のエゴを、子どもに押
しつけているだけ。結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用し
ているだけ。

 中には、自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに託す例もある。さらには、子ども自身
を、先にも書いたように、自分の虚栄の道具として、利用するケースもある。

ライバルの母親の子どもを、自分の子どもが、打ち負かす(?)。このタイプの母親にとって
は、それが何よりも痛快、ということになる。

 つまりは、代償的な愛というのは、親の、一方的な思いこみによる愛をいう。

●うちの子にかぎって……

親というものを、総合的にみると、ひとつの共通点があるのがわかる。つまりどの親も、「うちの
子にかぎって……」という、ものの考え方をする。それをベース(基礎)として、自分の子育てを
考える。自分の子育てを組み立てる。 

 「うちの子にかぎって、引きこもりや、家庭内暴力など、起こすはずはない」「うちの子にかぎ
って、燃え尽きたり、荷卸し症候群にかかったりするはずはない」「情緒障害や精神病になるは
ずがない」と。

 それもそのはず。

 どんな子どもでも、幼児期の子どもを見れば、その悲惨な将来を予測させるような部分は、ど
こにもない。この時期の子どもは、あどけない。愛くるしい。従順で、親の言うことにすなおに、
従う。

 中には、「子どもは、教育によって、どうにでもなる」と言った母親がいる。「幼児期からしっか
りと教育すれば、東大だって入れるはず」と言った母親もいた。

 が、その子どもも、思春期を迎えるころから、大きく変化する。崩れ始める。子どもは子ども
でなくなり、1人の人間として、自分のめざめる。が、そうなり始めても、それに気がつかない親
のほうが、多い。

 「うちの子にかぎって……」「こんなはずはない……」「まだ何とかなる……」「どうして……?」
と。

●家庭が修羅場

 そういう意味では、親というより、親であることは、因果な仕事(?)である。どんな親でも、自
分が子育てで失敗するとは、思っていない。あるいは、失敗してみて、そのときはじめて、それ
が失敗であると気がつく。

 さらに親子関係が崩壊した状態になっても、失敗と気づかない親も多い。

 毎日、毎晩、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘。憩いの場であるはずの家庭が、まさに修
羅場。もちろん親子関係は、とっくの昔に崩壊。たがいの間には会話もなければ、心の通いあ
いもない。廊下ですれちがっても、あいさつすら、しない。

 そういう状態になっても、まだ「うちはだいじょうぶ」とがんばる。「まだ、何とかなる」とがんば
る。

 ある母親は、こう言った。

 「あの子が、目的の学校にさえ入ってくれれば、それでいいのです。そのとき、あの子は、私
に感謝してくれるはずです」と。

●受験ノイローゼ

 子どもの受験にからみ、自分自身が、受験ノイローゼになる親は、少なくない。症状として
は、うつ病に準じて考える。症状も、似ている。

 ある母親は、こう言った。

 「うちの子が、学校のテストで、98点を取ってきた、どうしたらいいでしょう」と。

 98点という点数は、決して悪い点数ではない。(マイナス2点)ということだから、どこかで小さ
なミスをしたにちがいない。で、私は、「何でもありませんよ」と言ったのだが、その母親は、一
歩も、ひきさがらなかった。「こんなことで困ります!」と。

 こうして受験ノイローゼになった母親は、ささいな問題点をとりあげ、それをことさら大げさに
問題にして悩んだりする。

 いくつかの特徴がある。

(1)誇大視性(ささいなことを、大げさに悩んだり、心配したりする。)
(2)不和随行性(デマやうわさに、左右されやすくなる。)
(3)狂奔性(明けても暮れても、考えるのは、子どもの受験のことばかり。)
(4)盲目性(客観的に、自分の子どもの姿を見ることができなくなる。)
(5)狂信性(学歴信仰に陥り、学歴こそ、すべてと考える。)
(6)闘争性(ライバルの子どもに、はげしい憎悪の念や嫉妬心をいだく。)

 あとは、お決まりのノイローゼ。そしてそのノイローゼにともなう、心的、および身体的症状。
不眠、食欲不振(あるいは過食)からはじまって、頭痛、腹痛、さらには、情緒不安、精神不安
へとつながっていく。

●破壊される親子関係

親が受験ノイローゼになるのは、親の勝手。しかし子どもこそ、たいへんな迷惑。が、それだけ
ではすまない。

 たいていこの時期を通して、親子の関係は、粉々に破壊される。

 最初は、親の指導や親の言うことに従っていた子どもも、その親に、疑問をいだくようにな
る。親のウラに隠された親の意図を見抜くようになる。そしてやがてお決まりの家庭内騒動。そ
れを繰りかえしながら、親の関係は、こわれていく。

 が、子どもの受験ノイローゼになった親には、それがわからない。わからないばかりが、親子
関係よりも、子どもの受験のほうを、優先させてしまう。ある母親は、こう言った。

 「あの子が目的の中学校へ入ってくれれば、それでいいのです。私は、そのために、犠牲に
なってもいいのです」「あの子が目的の学校に入ってくれれば、あの子も、私のことを理解してく
れるはず」「感謝してくれるはず」と。

 しかし一度こわれた親子関係は、二度と修復されることはない。ほとんどのばあい、親子は、
そのまま断絶していく。

仮に受験でうまくいったとしても、それで親に感謝する子どもは、いない。ぜったいに、いない。
むしろ、親に対して、はげしい憎悪の念をもつようになる。

ことの深刻さを考えたら、はるかにこちらのほうが深刻。が、このタイプの親には、それすらわ
からない。が、さらに問題は、つづく。

●独特の価値観

はげしい受験競争を経験した子どもほど、独特の価値観をもつようになることは、よく知られて
いる。

 人間の価値ですら、学歴や、点数で評価するのも、そのひとつだが、ほかにも、いろいろあ
る。

 命の価値ですら、金銭的な数字に置きかえて判断する。損得だけで、人間関係を考える。相
対的な評価だけで、自分は幸福だと思ったり、不幸だと思ったりする。

 親に対しても、「親の恩も、遺産しだい」と。

 つまりは、独特の価値観をもった、冷たい人間になる。が、当の本人ですら、それに気づくこ
とはない。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、狂うからである。

 しかし結局は、一番、損をするのは、その子ども自身ということになる。

 私の知人の中にも、定年退職をしたあとも、退職前の学歴や職歴(肩書き)を、そのまま引き
ずっている人がいる。そのため一般の社会に同化できず、孤独で、さみしい人生を送ってい
る。

 このタイプの人は、あなたの周囲にも、1人や2人は、かならずいるはず。

●変わる入試問題

しかし教育のほうだって、何も、こうした現状を前にして、手をこまねいて、おとなしくしているわ
けではない。

 現在、教育は、欧米化をめざして、どんどんと変わってきている。教育の自由化もそのひとつ
だが、受験体制、さらには、入試問題そのものも、大きく様変わりしてきている。

 いわゆる受験塾では、対処できない問題になりつつある。

 学校における内申書を重要視しながら、入試問題も、たとえば、総合的な判断力をみるもの
へと、変わりつつある。

 わかりやすく言えば、(できる・できない)よりも、(より深く考えられる。考えられない)という視
点で、子どもを判断する。

 その一例として、こんな問題がある。

 環境の変化についてのさまざまなデータを、グラフや表で見せながら、「あなたは、これらの
データを見て、どう考えますか。200字以内で、自分の意見を書きなさい」(H市内N高校中等
部入試問題)と。

 こうした傾向は、そのまま高校入試、さらには、大学入試へとつづいている。

●では、どうするか?

簡潔に言えば、親自身が、賢くなること。これにまさる解決方法は、ない。賢くなる……、つまり
親自身が、自分で考えて行動する。

 それはたとえて言うなら、荒野の一軒家で、夜の闇におびえながら、ビクビクしているようなも
の。わずかの物音に驚き、ものの気配におびえる。

 しかしそんなところに住みながらも、物音の正体を知り、ものの気配といっても、思い過ごしで
しかないことを知る。夜の闇がこわければ、電灯をつければよい。ついでに戸締りも厳重にす
ればよい。

 賢くなるというのは、そういうことをいう。

 人間(動物)の宿命として、バカからは、バカがわからない(失礼!)。自分がバカであること
にさえ、気づかない(失礼!)。しかしそのバカは、脳みその問題ではない。努力の問題であ
る。

 が、そのバカな人たちから一歩、抜き出てみると、あなたをとりまく世界は、一変する。あなた
がそれまでいた世界が、あたかも、サルの世界のように見えてくる。そして、同時に、あなたに
も、何が大切で、何がそうでないかがわかるようになる。子どもの教育が、今、どうあるべきか
が、わかってくる。

 つまりそういう形で、自分を昇華させながら、問題を解決する。

 その第1歩として、この原稿を書いてみた。

 あなたをよりよく知るための、その参考になれば、うれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
ノイローゼ 子供の受験 受験勉強 育児ノイローゼ 子供の受験に狂奔する親たち)

++++++++++++++++++++

中日新聞紙上で発表した原稿を、3作、
転載します。

++++++++++++++++++++

●いじめの陰に嫉妬

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。

この嫉妬というのは、恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一
つと言える。それだけに扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。

その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。その立場をよいことに、いつもその幼稚園
に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ない
じめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさい
ね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、また
その子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるようになった
という。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、その母
親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師だった
ということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(3歳男児)を、や
はり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、80歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言って
笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小3女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが1年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残って、
なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。Tさんは、クラスの人気者。背
が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子ども
には見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。そして最
近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中2)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、毎朝、迎
えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。「朝、その子どもが迎えにきた
ら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いな
さい」と。

その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、もの隠し
はウソのように消えた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 いじ
め 子供のいじめ いじめ問題 嫉妬)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生意気な子どもたち

 子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学3年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、1年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。

冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。彼が幼稚園児のとき、彼の問題点
を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言った。「あなたは黙って、息子の勉強
だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言うな」と。母親自身が、先生を先生と
も思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほかにも、私はいろいろな経験を
した。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校1年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小6女児)もいた。やは
りクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。

官庁にも銀行にも、そして政治家のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、
出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはいけない。いや、ふつうの人は
だませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、いかにすれば自分がよい人
間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●発作的に暴れる子ども

 ある日の午後。一人の母親がやってきて、青ざめた顔で、こう言った。「娘(年中児)が、包丁
を投げつけます! どうしたらよいでしょうか」と。

話を聞くと、どうやら「ピアノのレッスン」というのが、キーワードになっているようだった。母親が
その言葉を口にしただけで、子どもは激変した。「その直前までは、ふだんと変わりないのです
が、私が『ピアノのレッスンをしようね』と言ったとたん、別人のようになって暴れるのです」と。

 典型的なかんしゃく発作による家庭内暴力である。このタイプの子どもは、幼稚園や保育園
などの「外」の世界では、信じられないほど「よい子」を演ずることが多い。柔和でおとなしく、静
かで、その上、従順だ。

しかもたいてい繊細な感覚をもっていて、頭も悪くない。ほとんどの先生は、「ものわかりがよ
く、すなおなよい子」という評価をくだす。

しかしこの「よい子」というのが、クセ者である。子どもはその「よい子」を演じながら、その分、
大きなストレスを自分の中にため込む。そしてそのストレスが心をゆがめる。つまり表情とは裏
腹に、心はいつも緊張状態にあって、それが何らかの形で刺激されたとき、暴発する。

ふつうの激怒と違うのは、子ども自身の人格が変わってしまったかのようになること。瞬間的に
そうなる。表情も、冷たく、すごみのある顔つきになる。

 ついでながら子どもの、そしておとなの人格というのは、さまざまな経験や体験、それに苦労
を通して完成される。つまり生まれながらにして、人格者というのはいないし、いわんや幼児で
は、さらにいない。もしあなたが、どこかの幼児を見て、「よくできた子」という印象を受けたら、
それは仮面と思って、まずまちがいない。つまり表面的な様子には、だまされないこと。

 ふつう情緒の安定している子どもは、外の世界でも、また家の中の世界でも、同じような様子
を見せる。言いかえると、もし外の世界と家の中の世界と、子どもが別人のようであると感じた
ら、その子どもの情緒には、どこか問題があると思ってよい。

あるいは子どもの情緒は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときを見て、判断する。運
動会のあとでも、いつもと変わりないというのであれば、情緒の安定した子どもとみる。不安定
な子どもはそういうとき、ぐずったり、神経質になったりする。

 なお私はその母親には、こうアドバイスした。「カルシウムやマグネシウム分の多い食生活に
こころがけながら、スキンシップを大切にすること。次に、これ以上、症状をこじらせないよう
に、家ではおさえつけないこと。暴れたら、『ああ、この子は外の世界では、がんばっているの
だ』と思いなおして、温かく包んであげること。叱ったり、怒ったりしないで、言うべきことは冷静
に言いながらも、その範囲にとどめること。

このタイプの子どもは、スレスレのところまではしますが、しかし一線をこえて、あなたに危害を
加えるようなことはしません。暴れたからといって、あわてないこと。ピアノのレッスンについて
は、もちろん、もう何も言ってはいけません」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 スポイ
ルされる子供たち 受験戦争の弊害)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1349)

【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

+++++++++++++++++++++

過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

+++++++++++++++++++++

 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。学校の社会科の
勉強で使ったような歴史の年表のようなものでもよい。過去から、現在、そして未来へと、ちょう
ど、蒔絵のように、それがつながっている。それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像する人も
いるかもしれない。過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。あるいは上書
きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。瞬間の、そのまた瞬間に、未来は
そのまま過去となっていく。そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業を、何千回も
繰りかえす。が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となっていく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出された映
像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思うだけの
話。本当は、どこにもない。つまり私にとって、時の流れというのは、どこまでいっても、研(と)
ぎすまされた、(現実)でしかない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インドでは、そ
れがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。つまり未来は、やがて過去とつなが
り、その過去は、また未来へとつながっていく、と。ちょうど、車輪の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。現代
に視点をおくと、理解できない。たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)というもの
が、ほとんどなかった。「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、100年一律のご
とく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人と同じ
ような生活を始める。同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。人の動きもない。話す言
葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかもグルグ
ルと回転しているかのように見えるはず。死んだ人がいたとしても、しばらくしてその家に行っ
てみると、死んだ人が、そのまま若返ったような状態で、つまりその子孫たちが、以前と同じよ
うな生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、みなが、
生活している。それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリはいる。しかしその
アリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえしている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という概念が生
まれた。輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。それが輪廻思想へと、発展
した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。現代社会では、
古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。10年一律どころか、数年単位
で、すべてが変わっていく。数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。している仕事もちがう。こうした社会では、時の流れが、グル
グルと回っていると感ずることはない。ものごとは、すべて、そのつど変化していく。流れてい
く。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。もっとわかりやすく言えば、冒頭に書い
たように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長い帯のようになった年表である。しかし
ここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在をとらえ、そして未来を考
えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないということ。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私あたちは、過去、現在、未来のとらえかたを、
見誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。それが発展して、前世思想、来世思想となった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。しかし釈迦自身は、
一言も、そんなことは言っていない。ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』(釈迦生
誕地の残る原始仏教典)を読んでみることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自身は、そ
れについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年を経てか
ら、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称(仏の生まれ変わりたち)によって、書かれた
経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。

 (それについて書いた原稿は、このあとに添付しておく。)
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知れぬ
真理が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見することが
できるかもしれない。

 そこでその第一歩。あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えているか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。いわく「妻が、新興宗教の
T仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。長い手紙だった。その手
紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫し
てしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれて
いなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やして
いる。布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけ
で、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」
と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。たいていは夫が知らないうちに妻がど
こかの教団に入信するというケース。最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超える
と、急に、おおっぴらに信仰するようになる。そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信す
るか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラ
になった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。すでにその前から
バラバラ、つまり危機的な状況であったということ。それに気がつかなかったのは、夫だけとい
うことになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗
教がある。とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自
分の勢力を伸ばす。しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈
迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べ
ている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法を
よりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や
教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダの
やり方ではない。ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与え
た。死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたも
って、実践し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、というこ
とをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のため
に、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村
元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き
方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。事実、「あとの書かれ
た経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。そしてそれぞれが
宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」
と主張している。それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということ
は別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、その
うちのひとつであるということは常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批
判研究を行っている諸学者の間では異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。この一節は、その法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っ
ていない。いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。(だからといっ
て、仏の心に甘えてはいけないが……。)そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分
から離れたからといって、バチなど与えない。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしな
い。大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだ
ろうか。バチなど与えるだろうか。ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドア
を閉ざす。「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目
をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一
巻三二頁)と言っている。友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、
そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時
点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。すでに
その前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。あ
るいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。そういう人でも、つぎの鉄則だけは守って
ほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。
(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。
(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにし
てほしいということ。読んで、決して、損はない。
(02−7−24)

【注】
 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。話し言葉のまま
と言ってもよい。もともと吟詠する目的で書かれた文章である。それが法句経の特徴でもある
が、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。寺の僧侶が読む経典にしても、ほとん
どの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。肝心の中国人が聞いてもわからないの
だからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいな
い。そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうや
うやしく読みあげる。そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。日本の仏教のお
かしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそ
れ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非
仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた仏教ではない)を唱え
ていたが、それが世界の常識。こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本
ということになる。

たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてあるが、
来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。むしろ法句経の中には、釈迦が来世を
否定しているようなところさえある。法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。そういう意味
では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。「チベット密教そ
のもの」と主張する学者もいる。

チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりする。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩を
たいているところを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教
の儀式ではない。釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって、完全な清浄を得たいと願
っても、それによっては清らかな心とはならない。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、
内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。

仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろう
か。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去
論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教)


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1350)

【日本人の生活】

●生活が苦しい

++++++++++++++++

このほど、厚生労働省が、
国民生活基礎調査の調査結果
なるものを公表した。

それによると、国民の、
何と、56%が、生活が苦しいと
訴えているという。

ゾーッ!

++++++++++++++++

●月額48万円?

 このほど、厚生労働省が、国民生活基礎調査の調査結果なるものを、公表した(06−06−
29)。

(05年5〜7月期に、所得については、全国約6800世帯について、世帯については、約4万
5000世帯について、それぞれ調査)

 それによれば、2004年度の1世帯あたりの平均所得は、前年比、0・1%増の、580万40
00円だったという。

 話を先に進める前に、まず一言!

 580万4000円、だってエ?!

 月額になおすと、12で割って、48万円強。本当にそうだろうか?、というのが、私の実感。

 あくまでも平均値だから、超高額所得者や、高額所得者が、その一方で、平均値をおしあげ
ていることは、容易に察することができる。
 
 が、48万円もあれば、それなりの生活ができるはず。

 オーストラリアやニュージーランドでは、月額20万円もあれば、かなり裕福な生活を楽しむこ
とができる。アメリカでは、2000万円も出せば、豪邸が買える。

 何かが、おかしい? どこかが、おかしい?

●目一杯の生活

 ときどき昼の番組で、「家計簿診断」というような番組が、放送される。ホームエコノミストが、
一般家庭からの依頼を受けて、その家庭の家計簿を診断するという番組である。

 つい先日見たのには、こんなのがあった。

 夫と妻の収入は、あわせて、40万円弱。しかし毎月、家計は赤字だという。で、調べてみる
と、11万円程度の家のローン。毎月、2〜3万円の車のローン、などなど。

 妻は趣味で集めている小物に、おしみなくお金を使っている。家の中は、その小物だらけ。

 言い忘れたが、夫は、32歳。妻は33歳。子どもは、7歳と5歳の女児2人。家のローンにつ
いては、完済するまでに、あと35年近くも残っているという。夫は、「満70歳のとき、完済です」
と、苦笑いをしていた。

見ると、家は、丘の上に建った、ほどほどの邸宅という感じだった。もちろん新築。車は、2台。
うち1台は、大型のバン。大型のバンは、家族のドライブ用だという。

 家計診断でよく知られた女性が、大型冷蔵庫の中をのぞくと、食品の山。中には、腐った野
菜まで!

 若い夫婦が、まさに、目一杯の生活をしているのが、それでわかる。しかしこれが今の、おお
かたの夫婦の生活様式と考えてよい。

●世帯に関する調査

 現在、65歳以上の老人だけで住んでいる高齢者世帯は、800万世帯を超えているという
(同調査)。(全国の世帯数は、約4700万世帯。)「800万世帯」と言われてもピンとこない。
が、計算上では、17・7%となる。約20%!

 ところで、若いころ、外国を旅行していたとき、こんなことを教えてくれた人がいた。

 「街角に職を求めて浮浪者が立ち並ぶようになったら、失業率は、20%を超えたとみてよ
い」と。1960年代中ごろの韓国が、そうだった。

 つまり高齢者世帯が、20%近くになったということは、あなたのまわりにも、さがさなくても目
立つほど、高齢者世帯がふえたということになる。私の近所でも、あそこも、ここもというほど、
目立つようになってきた。

 その一方で、18歳未満の子どもがいる家庭は、たったの、26・3%! 4世帯に1世帯にす
ぎない。これも、少子化の一端と考えてよい。そのうち、子どもがいる家庭よりも、高齢者世帯
のほうが、多くなる。

●所得層 

 今回の調査では、所得に応じて、つぎの5段階に分けたという。

(1)第一世帯……209万円以下
(2)第二世帯……372万円以下
(3)第三世帯……574万円以下
(4)第四世帯……893万円以下
(5)第五世帯……それ以上

 こうした統計をみるとき、一番注意しなければならないことは、どの層が、一番、多いかという
こと。そういう意味では、平均値などというものは、まったく、あてにならない。先にも書いたよう
に、年収が1000万円の人と、年収が100万円の人がいたとすると、その平均値は、550万
円ということになる。

 その550万円をもって、「日本人の平均月収は……」と話を進めると、とんでもないことにな
る。問題は第5世帯だが、先ごろ娘の誘拐事件に巻きこまれた美容整形外科医のばあい、日
収(日収だぞ!)だけでも、数百万円もあったという!

 また550万円あるから、それなりの生活ができるとは、かぎらない。

 言うまでもなく、それにもろもろの税金がそこから引かれる。日本全体が、国際的な標準から
しても、欧米の約2倍程度の、高コスト社会になっている。

 わかりやすく言えば、食品の価格も、家の価格も、欧米の約2倍の価格になっている。理由
など、今さら言うまでもない。つまりその分だけ、お役人たちの生活費を、私たち一般庶民が負
担しているということになる。

●ぜいたくが当たり前

 一方、私たちの時代と比較するのも、ヤボなことだが、今では、ぜいたくが当たり前の時代に
なってしまった。

 若い人たちが、「ふつうの生活」というときは、先に、家計簿診断で登場した家族がしているよ
うな生活をいう。つまり何もかも、ひととおりそろった、ぜいたくな生活をいう。

 何が、家のローンだ!
 何が、車のローンだ!

 私はその番組を見ながら、その一方で、今の若い人たちのぜいたくぶりに、あきれた。言い
忘れたが、娘2人には、個室があてがわれていた。冷蔵庫は、大型。居間には、しゃれたソフ
ァと、棚。棚には、洋酒も並んでいた。

 家はともかくも、どうしてドライブ用に、大型のバンなのか!

 つまり最近の若い人たちは、「ふつうの生活」というものを、まず頭の中に描き、それに合わ
せて、無理やり、現実をそれに合わせてしまう。収入とか、家計というのは、そのあとに考え
る。

 これでは、いくらお金があっても、「生活は苦しい」(報道)、ということになる。

●レベルをさげられない?

 話はぐんと現実的になるが、今どき、ボットン便所など、口に出しただけで、笑われる。しかし
ボットン便所は、生活の原点でもある。すべては、ここから始まる。

 私たちの時代には、そうだった。それがやがて水洗トイレになったが、「水洗」といっても、水
で便を流すだけ。ボットン便所は、ボットン便所。便所は、臭いままだった。

 が、今はちがう。新婚当初から、近代的なシャー付きトイレ。においの「ニ」の字もしない。し
かも今では、芳香剤は当たり前。小学生ですら、用をたしたあとには、スプレーで臭いを消し
て、トイレを出る。

 冷暖房完備のトイレすら、珍しくない。

 こうした生活を一方でしながら、「生活が苦しい」は、ない。もし苦しいというなら、何をもって、
苦しいというのか。どこが、苦しいというのか。

 苦しかったら、レベルをさげればよい。トイレが、再び、ボットン便所になったところで、しかた
ないではないか。自動車だって、軽自動車でじゅうぶん。冷蔵庫も、収入に見あった小型のも
のよい。

 ……というのは、少し、言い過ぎかもしれない。自分でも、よくわかっている。わかっている
が、総合的に判断すれば、そういう社会や若者たちを作り出してしまったのも、結局は、私たち
の責任ということになる。

 いや、私はすでに20〜30年も前から、こうなることがわかっていた。

●ジジバカ、バババカ

 孫が生まれると、まず、ジジ様とババ様がやってくる。かけつける。そして孫を見て、手をかけ
る。時間をかける。ついでにお金もかける。

 20〜30年前の当時ですら、ピアノ教室へ通うのは、当たり前。どこの家にも、場違いなほ
ど、大きなピアノが置いてあった。

 そしてやがてゲームの時代。

 新しいゲーム機器が店に並ぶと、ジジ様、ババ様たちが、孫のためにと、それを買い求め
る。1台、2〜4万円もする、ゲーム機器である。

 こんなこともあった。

 夏場になると、青い顔をして、ハーハーとあえいでいる中学生がいた。理由を聞くと、「クーラ
ーのない部屋では、勉強ができない」と。

 あるいは、レッスンの途中で、「家に帰る」「タクシーを呼んで」と叫んだ女の子(小5)がいた。

 あとで母親に理由を聞くと、「うちの子は、よそのトイレでは、便(大便)をすることができない
からです」と。

 当時私は、何かのエッセーでこう書いた。「こういう子どもたちが、おとなになったら、どうなる
か」「親になったら、どうなるか」と。

 その結果が、今である。

●数字どおりなら……

 厚生労働省が公表した数字どおりなら、580万円も年収があるなら、みな、裕福な生活がで
きるはず。

 あのK国と比較するのもヤボなことだが、あのK国では、労働者の平均月収は、(月収だ
ぞ)、1〜2ドル。日本円で、100〜250円程度。

 それでも、何とか、人間は生きていかれる。

 が、この日本では、そうではない。どこかがおかしい。狂っている。

 その(おかしな部分)については、これからよく考えてみることにするが、私は、このままでは
引きさがらない。

 あと6〜7年もすれば、私の家庭も、その高齢者世帯になる。加えて、年収209万円以下の
第一世帯になる。そうなってから、あわてたのでは、遅すぎる。今のうちに、何とか、しておかね
ばならない。

 これは、私にとっても、切実な問題である。

【付記】

 今回の調査で、高齢者世帯のほとんどが、年金と貯金の取り崩しで生活をしていることがわ
かった。

 一般サラリーマンにしても、どういうわけか、手にする年金は、年々、減っている。私のような
自営業者は、国民年金ということになるが、もとあらアテにしていない。(アテにできない。)

 そこで貯金ということになるが、老後になるころには、子どもたちの教育費、親の介護費など
で、ほとんどの人たちは、大半の貯金を使い果たしてしまっている。

 さあ、どうしよう?、……と考えたところで、この話は、おしまい。要するに働けるだけ働いて、
あとは、パッと死ぬ。結論を先に言えば、そういうことになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++June 06+++++++++++はやし浩司

【雑感・あれこれ】

●グループ・ホーム

 兄が、グループ・ホームへ入居して、かれこれ、もう1年になる。何かと制約はあるようだが、
三食、昼寝つき。ときどき、マンツーマンで、買い物にも、連れていってもらえるという。

 費用は月額12〜3万円プラス、1〜2万円の雑費。病院の治療代や、床屋代などなど。

 「老人介護には、大学生並みの生活費がかかる」と、よく言うが、それは正しい。それくらいの
費用はかかる。ならば自宅で……ということになるが、それはできない。実際にめんどうをみる
のは、私のワイフ。

 実の親の介護をしていても、介護ノイローゼになる人は多い。いわんや、義理の兄では、ワイ
フも、たいへん。便をもらすこともある。廊下に便をこぼすこともある。が、それだけではない。

 頭は半分ボケていても、性欲だけは、人一倍、ある。下半身だけは、達者。詳しくは書けない
が、その対策を考えたり、始末をするだけも、たいへん!

 ……ということで、グループ・ホームに落ちついた。

 で、その兄は、スキをみては、介護士の女性に抱きついたり、胸にさわったりしているそう
だ。兄の性癖のようなものだから、これだけは、どうしようもない。まあ、兄にとっては、天国の
ようなところかもしれないが……。

 そういう話を、昨夜、姉と、長々と電話でした。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●遊び

 BW教室(私の実験教室)では、毎週、レッスンの前に、5〜10分間程度の遊びを、取り入れ
ている。

 はじめてから、もう3、4年になる。

 サッカーゲーム、パズル、手品、ドミノ、工作、ビーズ遊び、などなど。今週は、レーシングカー
で遊んでいる。

 一見、むだに見える遊びだが、しかしそれをすることによって、そのあとのレッスンで、効率
が、何倍も、よくなる。子どもたちの学ぶ姿勢が、ちがう。生き生きと、レッスンに取り組んでく
れる。

 それ以前のように、いやいや勉強する……という子どもが、ほとんど、いなくなった。

 で、今では、教室へ入ってくるやいなや、子どもたちは、「今日は、何〜イ?」と言うようになっ
た。が、こうなると、私のほうも楽しくなる。子どもたちと遊びながら、「来週は、何にしようか」と
考える。子どもたちの意見を聞くときもある。

私「来週は、折り紙をしようと思うけど……」
子「いやヨ〜。折り紙なんてエ〜」
私「じゃあ、何をしたい?」
子「戦争ごっこ」
私「それはダメ」

子「だって、ママに話したら、楽しそうだねって言ってたよ」
私「戦争ごっこなんかしたら、ぼくは、クビになってしまうよ」
子「いいから、いいから、ママには、だまっててあげるから」
私「もう、話してしまったくせに!」
子「だって、私、家では、姉ちゃんと、チャンパラごっこをしてるわよ」

私「ホント? 女の子でも、そんな遊びをするのオ?」と。

 こういう指導ができるのも、私と親との間に、信頼関係ができているから(多分?)。それに甘
えてはいけないが、こういうことができるようになるまでに、35年近い、歴史がある。キャリアと
実績がある。

 そのクラスの子どもたちも、みな、2〜4年程度の飛び級をしている。英語の格言にも、こうい
うのが、ある。

 「Happy learners learn the best.(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ)」と。

 それが私の教室のモットーにも、なっている。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●拉致問題

 横田めぐみさんの元夫が、韓国の実母、実姉と対面した。しかしあれほどの「茶番劇」(報道)
を、私も、知らない。

 ああいう茶番劇を、堂々と演じて見せるK国には、ただただ、あきれるばかり。が、それ以上
に不気味なのは、ああまで見え透いた小細工を、国ぐるみでする、その姿勢。テレビ報道を見
ながら、改めて全体主義国家の恐ろしさを、確認する。

 要するに、崩壊エネルギーが、こうしたゆがんだ国家姿勢に現れていると考えてよい。ふつう
の国家なら、とっくの昔に崩壊している。が、あの金xxは、独裁者として、それを許さない。

 そのエネルギーが、こうした茶番劇に集約されている。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●もっとも、移民したい国は、日本!

 台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思う国」「旅行し
たい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 ことあるごとに、日本のアラさがしをしては、悪口を書きたてる、韓国の報道機関。最近でも、
「日本の株式市場は、新興市場」(朝鮮N報)とか、「指導国家としての資質なし」(N大統領)と
か、書きたてている。

 しかしここで誤解してはならない点が、ある。

 私の経験を書く。

 1960年代の終わり、私は、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った。日韓の間にまだ
国交のない時代で、私たちは、どこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

 そんなある日、大邸(テグ)大学での議論を終えたあと、私は、ひとり、大邸(テグ)大学の屋
上にのぼった。屋上からは、眼下に大邸の町並みが一望できた。

 そこでぼんやりとしていると、ひとりの学生が近づいてきた。私は、「こんなところでも、また議
論か……!」と身構えたが、その学生は、こう言った。つい先ほどまで、私たちを、口汚く攻撃
していた学生である。

 「ぼくは、日本へ留学したい。君は、何か、方法を知らないか」と。

 私は、その(落差)に驚いた。一方で、燃えるような反日感情をもちながら、その一方で、「日
本に留学したい」と(?)。

 つまり、こうした調査結果は、決して、数字だけで判断してはならないということ。現に、台湾
の人たちは、ことあるごとに、反日的な姿勢を示している。と、同時に、ではその韓国が、反日
的かというと、そうでもない。会って話をしてみると、個人的には、みな、よい人たちばかりだ。

 が、何は、ともあれ、今回の「遠見」誌による調査結果には、ほっとした。「日本の近くには、
そういう国もあったのだ」と、改めて思い知らされた。と、同時に、日本は、台湾のような国を大
切にしなければならないと感じた。

 で、話は、ぐんと現実的になるが、パソコンの液晶モニターにしても、私は韓国製というだけ
で、自分の選択肢からはずしている。買うなら、日本製。どうしても……ということなら、台湾製
ということにしている。

 近く、液晶テレビを買うつもりだが、それもそうだ。性能のよい日本製にしようか、値段の安い
台湾製にしようか、今、迷っている。韓国製などは、もとから、眼中にない。ぜったいに、韓国
製だけは、買わない。

【付記】今朝(7月1日)も、朝鮮N報の記事をのぞいてみたが、1〜3番の記事は、どれも、日
本がらみの記事ばかり。

(1)韓国の家は、実は日本の家より、狭い……。
(2)自負心調査では、日本、18位、韓国、31位……。
(3)韓国の殺人、性犯罪、日本の約2倍……と。

 「韓国の人たちよ、もう日本のことなどかまわず、自分たちの道を行きなさい」と、私は言いた
い。韓国の新聞に目を通すたびに、過関心ママに支配された子どものような心境になる。受験
ママでも、よい。つまり、イヤ〜ナ気分!


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●便の始末

 現在、年老いた母(90歳)のめんどうを、姉がみている。頭がさがる。

 その母が、このところ、大便をもらすようになったという。ときに、やわらかい便を、部屋中に
まき散らすという。

 それについて、姉は、こう言った。「私なら、そうなる前に、死ぬわ。子どもたちには、めんどう
を、かけたくないもの」と。

 しかし同じ言葉を、昔、母が言ったのを、私は、思い出した。私の母も、昔、まったく同じこと
を言っていた。が、その母が、自分で便をもらすようになった。

 人は、そうは簡単には、死なない。死ねない。死にたいと思っても、死ねるものではない。

 一方、あっけなく死んでいく人もいるが、そうでない人は、そうでない。

私「(母の)食欲は、あるのか?」
姉「ものすごいわよ。私より、たくさん食べている」
私「そりゃあ、たいへんだ」
姉「その上、便秘症で、4〜5日に1度でしょ。それが、どさっと出るわけ」
私(ギョッ!)
姉「家中に臭うほど、臭いのよ」と。

 先日も、健康診断を受けたらしいが、一番、健康だったのが、頭のボケた兄。つぎに母。どこ
にも病気がない。

 一方、その2人のめんどうをみている姉や、姉の夫は、病気だらけ。私も、兄や母ほどは、健
康ではない。つまりめんどうをみてもらえる人は、それに甘えて、優雅な(?)生活を送ることが
できる。だから、ますます健康になる。が、めんどうをみる人は、そうではない。

 介護ノイローゼという言葉すらある。介護する人たちの負担というか、重圧感には、相当なも
のがある。もちろん金銭的な負担も大きい。母まで施設に入れるとなると、兄と合わせて、月
額、30万円近くになる。

 どうしよう、どうしたらいい……と考えたところで、どうしようもない。この問題だけは、なるよう
にしか、ならない。

 気が重い日々が、まだまだつづきそう……。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●橋本R元総理大臣

 昨日(7月1日)、橋本R元総理大臣が、死んだ。急死である。直接の死因は、多臓器不全。
腸の中の大動脈がつまり、その結果、腸全体が、壊死(えし)してしまったためだという。

 橋本R元総理といえば、あのテカテカの頭とテカテカの顔で、よく知られていた。テカテカの頭
は、ポマードをたっぷりとつけていたためだという。そのポマードをつけた手で、ついでに顔をな
でる。そのため、顔も、テカテカになったのだという。

 何かの雑誌で、そう読んだ。

 テカテカの顔は、それだけでも、健康そうに見える。東洋医学(漢方)でも、顔のツヤは、(衛)
という物質で、決まると教える。(衛)は、(栄養)の(栄)、あるいは、(営養)の(営)に通ずる。

 ツヤのある人は、外邪、つまり外からの病気にも強いとされる。

 が、もちろん、ポマードでは、だめ。(衛)は、皮膚の内側から、分泌されるもの。それについ
て、ワイフと話しながら、私は、こう言った。

 「健康そうに見えたけど、そうではなかったのかもしれないね」と。

 で、昨日は、橋本R元総理の追悼報道で、一色。元来、日本では、死んだ人は、すべて、「仏
様」ととらえる。そのせいかどうかは知らないが、橋本R元総理をたたえる報道ばかり。「すばら
しい政治家だった」「惜しい人をなくした」「米軍削減の道筋をつけた」「小さな政府の道筋をつ
けた」など。

 驚いたのは、野党の元党首ですら、橋本R元総理を、たたえていたこと。

 本当に、そうか? それでよいのか?

 橋本R元総理と言えば、M総理大臣のもと、大蔵大臣だったときには、あのバブル経済を起
こし、そのあと、日本の経済をメチャメチャにした、その張本人。私には、そういう印象しかな
い。そして最近は、1億円というワイロを、日本S会から受け取ったという疑惑をかけられなが
ら、「覚えていない」と言って、逃げてしまった。

 たしかに橋本R元総理の残した業績は、多い。しかしそれらは、「総理」という立場上、どれ
も、当然のことをしたものばかり。総理大臣ともなれば、想像もつかないほど強大な権限を使っ
て、国政を自由に操ることができる。

 ……とまあ、否定的なことばかり書いてはいけない。しかし私は、こんなところに、つまり、「死
んだ人は、すべて仏様」、という発想の中に、日本人独特の、無責任思想が凝縮されているよ
うに思う。

 遠くは、江戸時代という封建主義。近くは、戦前、戦中という軍国主義がある。

 どれも終わったとたん、「仏様」とばかり、美化してしまう。もちろん反省の、「ハ」の字もない。

 こうした日本人独特の国民性は、外国のそれとくらべてみると、よくわかる。

 たとえばアルゼンチンでは、その政治家が死んだとしても、罪を許さない。死体が安置されて
いる廟(びょう)を襲って、その死体を、ズタズタにしたりする。機関銃か何で、廟そのものが、
ボロボロにすることもある。そのため、大物政治家の墓の前には、護衛をつけたりする。

 私は、実際、そういう廟というか、廟の集まった墓地を、この目で見たことがある。墓地のま
わりを、高い塀で囲い、その出入り口のところに、銃をもった護衛を立たせていた。

 そういうことをするのがよいとは思わないが、本当に、「死んだ人は、みな、仏様なのか?」。
これは何も、橋本R元総理だけの問題ではない。私たち、みなの問題である。

 「死んだ人は、釈迦と同列の仏様」。だから「死んだ人を責めてもしかたないではないか」とい
う発想が、日本人独特の無責任体質の基盤になっている。死とともに、その人の過去を、すべ
て(水に流して)しまう。

 それでおしまい?

 田中K元総理大臣のときもそうだったが、本人が死んだと同時に、お金まで消えてしまった。
しかし人間は消えることはあっても、お金が消えることはない。今ごろは、どこかのだれかの懐
(ふところ)に、ちゃんと納まっているはず。

 なぜ、そういうことは、問題にしないのか?

 あのテカテカの頭と、テカテカの顔を思い出しながら、私は、そんなことを考えた。

【付記】

 橋本R元総理大臣を、一方的に美化する報道ばかりなので、あえて、どこかヒネクレタ視点
から、私なりの意見をここに書いてみた。(ゴメン!)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【宗教について】

+++++++++++++++++

宗教について。

以前、書いた原稿を読みなおしている。

+++++++++++++++++

霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなけ
ればならない。

数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難
のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。非公式の調査でも、約70〜8
0%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。

「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。で、それはそれとし
て、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。また
この出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。たとえば携帯電話の
運勢占いには、毎日100万件ものアクセスがあるという(2001年秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を180度変えなければならない。これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじの
ようなものだ。宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。「当たるか
もしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。もちろん当たれば、もうけも
の。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。見たことも、感じたこともないの
だから、これはしかたない。で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけ
もの。それから霊の存在を信じても遅くはない。何と言っても、霊の世界は無限(?) 時間的
にも、空間的にも、無限(?) そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足り
ない小さなもの(?) 

 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。だからこの世界を、まず大切にしたい。神様
や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。

ただここで言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるという
こと。人間として懸命に生きる。そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様
や仏様のほうこそ、まちがっている。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(1)

私の思い出

 小学1年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃ
が、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇
の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私
にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、
私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人が
いる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思
っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多い。が、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、1日100万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でま
かせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても1日100万件とは! 

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった25年前には、
「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらの
ほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こ
んな子ども(小5男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞く
と、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすこと
ができる!」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(2)

教育と宗教

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。

たとえば親鸞の『回向論(えこうろん)』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行け
る」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のあ
る子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな
経験がある。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(3)

地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。

こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、
身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。

他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが
言うところの慈悲ではないのか。私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判さ
れている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。

しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批
判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではな
い。悪魔だ。

だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということ
が地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまで
わかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。

ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生…
…」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何
とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。

いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で
努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人
間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努
力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう
考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(4)

子どもの世界

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。1人の子ども(小
3男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったから
だ」と。

そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家
の人は雨が降って喜んだはずだ」と。翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んで
きた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、
ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。1人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、
シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。

そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと
思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会
話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(5)

宗教とは

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がい
るから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定さ
れたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるもの
ではない。

 今、この時点においても、日本だけで23万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美
容院の数(20万)より多い(2000年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの
信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その
懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。

ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、
前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから
考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」と
いうことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったという
ことも、あとから母に言われて、はじめて知った。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(6)

孤独

 孤独であることは、まさに地獄。無間地獄。だれにも心を許さない。だれからも心を許されな
い。だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。だれも愛さない。だれからも愛されな
い。

……あなたは、そんな孤独を知っているか? もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自
分の心に、耳を傾けてみよう。あなたは何をしたいか。どうしてもらいたいか。それがわかれ
ば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。あな
たの中のあなた自身を信ずればよい。あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数10万
年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。ほかの人に親切にすれば、心地よい響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、
どこまでも誠実に生きる。ウソをつかない。飾らない。虚勢をはらない。あるがままを外に出し
てみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響き
がする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこま
でも誠実に生きてみる。人を助けてみる。人にものを与えてみる。聞かれたら正直に言ってみ
る。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。が、もし、あなたが進んで
心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かに
する。

一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たく
し、邪悪にする。だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。静かに
自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。言いたいと思うことを言えばよ
い。ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、
逃れることができる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(7)

常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。たったこれだけのことで、
あなたはあなたの常識をみがくことができる。大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の
心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。

 手始めに、空を見てみよう。あたりの木々を見てみよう。行きかう人々を見てみよう。そして
今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。つっぱることはない。いじけるこ
とはない。すねたり、ひがんだりすることはない。すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心
に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。そのときは、「今夜は家には戻ら
ない」と、そう思った。しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけて
みた。「お前は、ひとりで寝たいのか? ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。すると本
当の私がこう答えた。「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝
たい」と。

 そこで家に帰った。帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだ
った。自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。しかし私がそうして心を開いたとき、ワ
イフも心を開いた。と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。あなたの心に、がまんすることはない。ご
まかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。あなたが心を開かないで、どうして相手が
あなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。みなは、それができな
いから、苦しんだり、悩んだりする。本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認
め、自分が弱いことを認める人をいう。みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をは
ったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。一見、何でもないことのよ
うに見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最
初の一歩となる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●宗教について(8)

再び孤独について

 私は子どものころから、愛想のよい人間と言われてきた。しかしそれは仮面。本当の私は、
人嫌いで、むずかしがり屋で、わがまま。自分勝手で、傲慢(ごうまん)。だから友だちの数は、
少ない。本当に心を開いて、何でも話せる人というのは、ワイフくらいしかいない。あとは郷里
にいる姉。そういう意味では、私は、実にさみしい人間。孤独な人間。

 そんな私だから、ときどき、こう考える。もしワイフや姉がいなくなったら、私はどうなるか、と。
第一に、私は生きる力をなくすだろう。第二に、今のような精神状態を保つことはできなくなる
だろう。第三に、……?

 私の知人のI氏(51歳)は、妻を病気でなくしたあと、自(みずから)も精神病院へ入ってしまっ
た。約6か月入院していたが、そのあと、別人のようになってしまった。私との関係は、ここで切
れたが、それから数年たって消息を聞くと、I氏はそのあと、全国を旅して回ったという。I氏には
暗くて、苦しい六か月だったに違いない。

これに似た話だが、昔、長谷川一夫という俳優がいた。日本人で彼の名前を知らない人はい
なかった。そういう俳優だったが、妻が死んだあと、そのあと数か月で、自分も死んでしまっ
た。毎日、毎晩、妻の仏壇の前で、彼女の死を悲しんでいたという。

 私たちはひとりでは生きられない。仮にあなたが巨億の富を手にして、あらゆる権力を手にし
たとしても、ひとりだったら、孤独に打ち克つことはできない。たいした富もない、権力もない私
がこう結論づけるのは、危険なことだが、こんなことは常識。少し頭を働かせば、だれにだって
わかる。

 そこで改めて、生きる意味を考える。私たちは、どうして生きているか、と。あるいはどうすれ
ば、生きることにまつわる孤独から、自分を解放することができるか、と。あるいはそもそも生
きる意味など、考える必要はないのか、と。「あるがままを生きて、死ぬときは、さっさと死ぬ。
それでいい」と言う人もいる。「そのときはそのときだから、ジタバタしても、しかたないではない
か」と。

実のところ、私もできれば、そうしたいと思っている。今は、今なりに、結構、ハッピーなのだか
ら、それでよいではないか、と。しかしこういう生き方は、あとでドンとツケが回ってくるのではな
いかと、それがこわい。

 こうした恐怖感から逃れるために、ひとつの方法としては、宗教がある。神や仏に身を寄せて
しまえば、それはそれなりに楽になれる。実際には、同じ信仰をする仲間どうしが、たがいに慰
めあい、いたわりあうことで、楽になれる。しかし今の私には、それもできない。いや、とても残
念なことだが、いまだかって、そういう宗教にめぐりあっていない。

 ああ、私は神や仏にすら、見放された人間なのか。ああ、私はそこまで孤独な人間なのか。
私はこの孤独から、いったいどうすれば逃れることができるのか。


【付記】

 以上の原稿は、私が、4年ほど前に書いた原稿である。一部「?」と思う部分もないわけでは
ないが、そのままここに再掲載してみた。

 4年前というと、書いたことは覚えているが、内容までは覚えていない。しかし読んだとたん、
内容がそのままスーッと頭の中に入っていく。それもそのはず、これらの文章は、(私自身)だ
からである。

 その結果として、今の私がいる。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【4年前に書いた原稿より】

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4年前というと、賞味期限はすっかり消え、
どこかカビ臭い感じがする。

しかし私にとっては、私そのもの。

読みなおしてみると、その当時の私が
そのまま頭の中で、よみがえってくる。

++++++++++++++++

●耐性のない子どもたち

一人の生徒(小4)が、レッスンの途中でトイレに行った。が、すぐ帰ってきてしまった。理由を
聞くと、「ゴキブリがいたから」と。

 あるいは別の日。私の家に遊びに来ていた中学生(中2女子)が、突然タクシーを呼んでくれ
と言った。理由を聞いても言わない。しかたないので、タクシーを呼んだ。で、それからしばらく
してから母親に理由を聞くと、こう話してくれた。「あの子は、便座型のトイレだと、よそのトイレ
が使えないのです」と。

 私が小学生のころは、ボットン便所が当たり前だった。トイレットペーパーすらなかった。学校
のトイレでは、新聞紙をノート大に切った紙がヒモでぶらさげてあって、それを使った。もっと
も、そのままでは使えない。使う前に、一度、手でもんで、ほぐさなければならない。だからトイ
レでは、その新聞紙をクシャクシャとほぐす音が、いつも聞こえていた。

 私が経験したような貧しい時代が、よい時代とは思っていない。しかし今の子どもたちより
は、生活に対して、はるかに耐性があった。が、問題は耐性がなくなったことではない。今のよ
うな豊かな生活が維持できれば、それでよし。しかし生活がマイナス方向に進みはじめたとき、
果たして今の子どもに、それを乗り切る力があるかということ。

仮に明日から、「トイレはボットン便所にします」と宣言したら、子どもたちはパニック状態になっ
てしまうかもしれない。もっともこれは極端なケースだが、しかし便利さに溺れるあまり、自分を
見失っている子どもは多い。

 もう10年も前だが、高校生たちと旅行をしたことがある。が、帰るときになると、みな、手ぶら
である。驚いて「荷物はどうしたの?」と聞くと、「宅急便に預けた」と。で、このことを当時、ある
雑誌のコラムに書こうとしたら、編集長がこう言った。「林さん、知らなかったのですか。今で
は、それが常識ですよ」と。

 夏になると、青い顔をして、苦しそうにハーハーとあえいでいる子どもは、いくらでもいる。「ク
ーラーがないと、何もできない」のだそうだ。皆さんはご存知ないかもしれないが、今では、小さ
なハエが1匹教室に入ってきただけで、クラスはパニック状態になる。いわんやゴキブリとなる
と、大騒動! 

私はそういう状態をみるたびに、「これでいいのか」と思ってしまう。いうまでもなく、子どもたち
には、山を登る力はある。しかし山をくだる力はない。いかにして山をくだるかを教えていくか
も、教育の大切な役目ではないのか。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●山をくだる力

 教育というと、山を登ることばかり教える。

たとえば少し前まで、「勉強して、いい大学へ入れ」と教える親や先生は、いくらでもいたが、子
どもがすべったときの、心のケアまで考える親や教師はいなかった。みながみな、合格するこ
とだけを考えて、子どもの尻を叩いた。しかし山の登り方に劣らず大切なことは、山の下り方で
ある。こんな女の子(中学生)がいた。

 何でも「ここ一番!」というときになると、自ら手を引いてしまうのである。「私は、どうせダメだ
もん」と。そこで「どうして」と聞くと、こう話してくれた。

「だって、私はA小学校の入試に落ちたモン」と。

その子どもは、6年以上も前に、A小学校の入試に失敗したことを、気にしていた。しかしこうい
うことは本来、あってはならない。

 子どもに向かって、「伸びろ!」とハッパをかけるのは、簡単なことだ。しかしその過程で、挫
折し、キズつく子どもがいる。そういう子どもはどうすればよいのか。もっと言えば、日本人は、
目が上ばかり向いているから、弱者のことは考えない。

ひところ昔までは、たとえば大学入試についても、「落ちたら落ちた生徒が悪い。あとは自分で
考えろ」というのが、ごく一般的な考え方だった。成功者をワーワーともてはやす一方、失敗者
を容赦なく切り捨てた。……今も、切り捨てている。中には自分が弱者であるにもかかわらず、
その弱者であることを忘れてしまっている人がいる。

 私の母がそうだった。昔、「おしん」というテレビドラマがあった。貧しい家の少女が、全国チェ
ーンにまで、自分の店を育てるというドラマである。数年前に倒産した、ヤオハンジャパンの社
長の、Kさんがモデルと言われている。

そのヤオハングループのスーパーが、私の家の近くにでき、そのため私の家は閉店に近い状
態に追い込まれた。しかし当時の母は、毎日、涙をこぼしながら、「おしん」を見ていた!

 こうした日本人独特の「おめでたさ」というのは、結局は体制側によってつくられたものと考え
てよい。なかんずく教育そのものが、そうなっている。山に登ることばかり教えるから、目が上
ばかり向くようになる。下を見ない。下がわからない。さらに自分自身が弱者であるにもかかわ
らず、その弱者であることすら忘れて、強者をたたえてしまう。

 山をくだる教育がどういうものかは、それからゆっくり考えることにして、これはまさに、日本
の教育がもつ最大の欠陥といってもよい。今でも、「勉強ができないのは、できない子どもが悪
い」と平気で言う人は、いくらでもいる。しかしこうした教育観は、基本的な部分で、まちがって
いる!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●織田信長論

 先日もテレビを見ていたら、こう言った知事(M県)がいた。「私は信長の生き方に共感を覚
えます。今の日本に必要なのは、信長型の政治家です」と。

 信長のもとで、いかに多くの善良な庶民が苦しみ、犠牲になったことか。京都の川原では、毎
日40〜50人もの人が処刑されたという記録も残っている。少し冷静に歴史を見れば、彼がま
ともな人間でなかったことは、だれにだってわかるはずだ。

私たちはともすれば、あの時代を、信長の目でしか見ない。が、一度でもよいから、信長にクビ
を切られる庶民の立場で見てはどうだろうか。県知事という、権力のトップに立ったような人に
は、信長は理想かもしれないが、しかし私はゴメン。もし今、信長型の政治家が出てきたら、徹
底的に私は戦う。

 日本以外の多くの国々では、外国の勢力によって、圧制に苦しんだという歴史がある。そうい
う国々で、そうした外国勢力をたたえるようなドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあ
う。

あのオーストラリアでさえ、英国総督府時代のイギリスを美化するだけで、袋叩きにあう。

しかし信長やそれにつづく封建領主たちのした圧制は、植民地の統治者でもしなかったような
圧政である。ウソだと思うなら、一度、新居町(静岡県浜名湖の西にある町)の関所跡へ行って
みることだ。当時は関所破りをしたというだけで、一族すべてが処刑された。そんな記録が残っ
ている。

圧制は圧制でも、信長は日本人だったから許されるという論理は、それ自体、おかしい。もし
仮に信長が、朝鮮の李朝の出身者だったら、今ごろはどう評価されていることやら。ほんの少
しだけでもよいから、それを想像してみてほしい。それともあなたは、それでも信長をたたえる
だろうか。もしそうなら、鎌倉時代に、日本を襲った、蒙古のチンギスハン(モンゴル帝国の創
始者、元の太祖)をたたえたらよい。信長より、ずっとスケールが大きい。

 歴史は歴史だから、それなりの評価は大切である。しかしそれ以上に大切なことは、その歴
史を冷静に評価することである。あのナポレオンは、「歴史はみなが合意のもとにつくった、作
り話である」(ナポレオン「語録」)と書いている。

ときには、そういう冷めた目も大切である。で、ないと、「歴史は繰り返す」(ツキュディデス「歴
史」)ということになりかねない。


**************以上、1350作****************
(終了年月日)2006年7月2日







はやし浩司(ひろし)