はやし浩司(ひろし)

1400〜
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はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(1400〜1450)
06年7月〜8月23日

最前線の子育て論byはやし浩司(1400)

●掲示板への投稿記事より

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掲示板に、こんな投稿記事があった。

それについて、考えてみたい。

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【KTさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。はやし先生の子育て論を、いつも読ませていただいています。「?」と思う事柄に
も納得できる解説で、感動しています!

うちの第二子、男の子のことについてですが、つい先ごろ6歳になりました。が、まだまだ甘え
ん坊です。幼稚園では、私の姿が見えなければ、頑張り屋さんです。が、自分でできることで
も、参観授業などで、私の姿を見たとたん、「できない」と泣いてしまったりします。そういうとき
の二男は、まるで別人のようです。

家では、のんびりご機嫌で遊んでいて大らかな子供です。担任の先生も驚かれて、私がいない
と、「きっと、泣くこともない。」とのことです。

ちなみに幼稚園は、スパルタ教育方式で、押さえつけが厳しいです。転園を何度か考えなが
ら、ここまできてしまいました。

本人は、情緒不安なのでしょうか? ずっとこの状態なわけではなく、大丈夫なときと、ダメなと
きが、交互に出ているようです。

私としては、ただ抱きしめて、安心させてあげるだけです。時々「泣かないでよ」と言ってしまう
事があります。良いアドバイスお願いします。

【はやし浩司より、KTさんへ】

 基本的には、現在の状況を守ってください。

 幼稚園でがんばっている分だけ、家の中では、息抜きをしようとします。態度が横柄になった
り、ぞんざいになったりします。暴言を吐いたり、暴れたりすることもあるかもしれません。

 そういうときは、「ああ、うちの子は、外でがんばっているから、家の中では、こうなのだ」と思
いなおすようにしてください。

 コツは、3つあります。

(1)暖かい無視
(2)ほどよい親
(3)求めてきたときが与えどき、です。

 つまり愛情で子どもを包むようにして、そっとしておいてあげるということです。また親として、
やりすぎない。過干渉、過関心にならないということ。それに、このタイプの子どもは、ときどき
子どものほうから、スキンシップなど、突発的に求めてくるときがありますので、そのときは、す
かさず、抱いてあげるなどの行為をしてあげます。

 「あとでね」とか、「忙しいから」は、禁句です。

 幼稚園は、スパルタ方式とか。現在、年長児ですので、あなたのお子さんは、すでにじゅうぶ
ん、それに耐え、乗り越えたと思います。あなたのすべきことは、あなたのお子さんをほめ、「よ
くがんばったわね」と、ねぎらうことです。

 (ほかに、とくに神経症あるいは心身症による症状が見られなければ、という話ですが…
…。)

 文面から、たいへん暖かいあなたの愛情を感じます。今のままでよいと思います。

 あなたの姿を見て泣くのは、その瞬間、心の緊張感がゆるむからです。分離不安も考えられ
ます。これらについての原稿は、このあとに添付しておきますので、参考にしてください。

 問題としては、たいへんよくある問題で、この時期の子どもの問題としては、それほど心配し
なくてもよいと思います。一過性の問題として、終わるはずです。(神経症、心身症による諸症
状が見られたら、話は別ですが……。幼児の神経症については、私のHPのどこかに一覧表と
して載せてありますので、参考にしてください。)

 では、今日は、これで失礼します。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子
のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。

といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張し
たり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊
になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症タイプの子どもなどがいるが、それにつ
いてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になる。が、それはごく自然
な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくな
ることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になり
やすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会
経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけ
んかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう
変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうこと
によって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子ど
もの心に大きな影響を与える。

家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマ
イナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめ
させるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とく
に保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注
意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむず
かしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせ
る。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえな
い。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●分離不安(プラス型とマイナス型)

 情緒が不安定な子どもというのは、心がいつも緊張状態にあるのが知られている。その緊張
状態のところに、不安が入り込むと、その不安を解消しようと一挙に緊張状態が高まり、情緒
が不安定になる。

で、そのとき、激怒したり、暴れたりするタイプの子どもと、内閉したりぐずったりするタイプの子
どもがいることがわかる。一見、正反対な症状に見えるが、ともに「不安を解消しようとする動
き」ということで共通点がみられる。それはともかく、私は前者をプラス型、後者をマイナス型と
して考えるようにしている。

 ……というわけで、「プラス型」「マイナス型」という言葉は、私が考えた。この言葉を最初に使
うようになったのは、分離不安の子どもを見ていたときのことである。子どもの世界には、「分
離不安」というよく知られた現象がある。親の姿が見えなくなると興奮状態(あるいは反対に混
乱状態)になったりする。

年長児についていうなら、程度の差もあるが、15〜20人に一人くらいの割で経験する。

その子どもを調べていたときのことだが、症状が、(1)興奮状態になり、ワーワー叫ぶタイプ
と、(2)オドオドし混乱状態になるタイプの子どもがいることがわかった。

そのときワーワーと外に向かって叫ぶ子どもを、私は「プラス型」、内にこもって、混乱状態にな
る子どもを、「マイナス型」とした。

 この分類方法は、使ってみるとたいへん便利なことがわかった。たとえば過干渉児と呼ばれ
るタイプの子どもがいる。親の日常的な過干渉がつづくと、子どもは独特の症状を示すように
なるが、このタイプの子どもも、粗放化するプラス型と、内閉するマイナス型に分けて考えるこ
とができる。子ども自身の生命力の違いによるものだが、もちろん共通点もある。ともに常識
ハズレになりやすいなど。

 ほかにたとえば赤ちゃんがえりをする子どもも、下の子に暴力行為を繰りかえすタイプをプラ
ス型、ネチネチといわゆる赤ちゃんぽくなるタイプをマイナス型と分けることができる。

いじめについても、攻撃的にいじめるタイプをプラス型、もの隠しをするなど陰湿化するタイプ
をマイナス型に分けるなど。また原因はともあれ、家庭内暴力を起こす子どもをプラス型、引き
こもってしまう子どもをマイナス型と考えることもできる。表面的な症状はともかくも、その症状
を別とすると、共通点が多い。またそういう視点で指導を始めると、たいへん指導しやすい。

 こうした考え方は、もちろん確立された考え方ではないが、子どもをみるときには、たいへん
役に立つ。あなたも一度、そういう目であなたの子どもを観察してみてはどうだろうか。
 
 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの神経症

子どものおねしょと、ストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが
多い。

たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキ
ドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発にな
る。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその
緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。

ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」につい
ても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私が
それを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやか
な子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。
その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)

同じストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということも
ある。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほ
とんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)

大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場
所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、また
ストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。

ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、
言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。
 
子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を反
省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。

一番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭
環境を用意する。たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自
身がだれの目を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。

子どものおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのも
のを考えなおす。そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、
対処法ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1401)

【近ごろ・あれこれ】

●新しい携帯電話

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昨日、D社の携帯電話を解約。

つづいてその足で、W社の携帯電話を
買いに行った。

ほしかったのは、W社のキーボード
付の携帯電話。

辞書も、ついている!
もちろんカメラも内臓!

携帯電話というよりは、小型の
パソコンといった感じ。

USB端子もついていて、パソコンと
同調させて使うことができる。

++++++++++++++

 この3年間、D社の携帯電話を使ってきた。買った当時は、最新型だったが、今ではどうとい
うこともない。分厚くて、どうも使い勝手がよくない。

 そこで昨日、D社の携帯電話を解約。その足で、W社の携帯電話を買いに行った。

 ほしかったのは、W社のWS004型機。大きさは、電子辞書ほどの大きさだが、フルキーボ
ードがついている。画面も大きい。

 ワード、EXCEL、OUTLOOK、それに、パワーポイントも使える。つまりこの携帯電話は、携
帯パソコンとしても、使える。USB端子もついていて、パソコンと直接つなぐこともできる。電池
の持ち時間も、5時間と、長い。

 もちろん、インターネットを開いて、読んだり、メールを送信したりすることもできる。前からほ
しかったが、少し迷っている間に、「004型」になっていた。この間に、いろいろと改良が、加え
られたようだ。当初、初期型で感じたような、ガタガタ感はなくなっていた。

 初期型は、キーボードを引き出すとき、作りが悪く、ガタガタとした。作りがチャチな感じがし
た。それがなくなっていた。ガチャ、ガシャという感じで、キーボードを、引き出すことができる。
おまけに、内臓メモリーも、256MBにふえていた。

 で、昨日は、ヒマなときに、マニュアル片手に、あれこれいじってみた。電話をかけてみた。電
話を受け取ってみた。ワードを使って、文章を書いてみた。写真もとってみた。いろいろやって
みたが、肝心のインターネットにつながらない。

 が、それは今日からのお楽しみ。

 こうして分厚いマニュアルとにらめっこしているときが、私にとっては、一番、楽しい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●おかしな現象

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携帯電話の影響か?

このところ、しっかりとした会話の
できない子どもがふえている?

そんな印象を、私は、もち始めている。

+++++++++++++++++

 数日前、ある講演会場へ行くときのこと。私は、講演に行くときは、いつも電車を利用してい
る。電車で行けば、その時間きっちりに、そこへ着くことができる。

 一方、車は、そのつど、渋滞にまきこまれたりする。ハラハラすることが多い。

 で、その電車に乗ったときのこと。2人の小学生が、そこに座っていた。大きな荷物でとなり
の座席をふさいでいた。

 私が「この席は、あいていますか?」と声をかけても、知らぬ顔。携帯電話を片手に、何やら
文字を打ちこんでいる。

 「だから、あいていますか?」と再び声をかけると、さも、めんどくさいといったふうに、自分の
荷物を、下におろした。無言のままである。

 学年は、小学5年生くらいではなかったか。

私「あのね、あいていたら、返事くらいは、してほしいな」
子「……」
私「だまっていたら、あいているかどうか、わからないでしょ」
子「……」と。

 横を見ると、通路と反対側のおとなたちは、私とのやり取りを見ながら、ニヤニヤと笑ってい
た。私も、口をゆがめて、苦笑いをしてみせた。

 と、そのときのこと。通路を、別の子どもが、通り過ぎた。通り過ぎて、私の横にいる子ども
に、何やら目で、合図を送った。私の横にいる子どもも、合図を送った。たがいに、笑みを浮か
べた。

 つまりその子どもたちは、みな、携帯電話で、メールを交わしながら、会話をしていたのだ!

 文字を打ち込んで、送信したあと、たがいに、軽いジェスチャで、「わかった」「いいよ」というよ
うなしぐさをしてみせていた。

 ……ということで、子どもたちの世界が、今、大きく変わりつつある。ふつうなら、音声をともな
った言葉で会話する場面でも、今では、携帯電話でそれをする。極端な言い方をすれば、並ん
で歩きながらでも、そうする。

 それは、まるでテレパシー通信のようなもの。たがいに無言のまま、指先だけで、会話をつづ
ける……?

 「これから先、人間の世界は、どうなるのだろう?」と思ったところで、この話は、おしまい。な
るようにしか、ならない。

ただここで言えることは、これから先、きちんと会話のできる子どもは、ますます少なくなるだろ
うな、ということ。とくに、おとなとの会話が、きちんとできる子どもは、少なくなる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【主義の限界】

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なぜ、共産主義も、資本主義も、そして
民主主義も、最後の最後のところで、
行きづまってしまうのか?

わかりやすく言えば、そのどれも、
最後の、あと一歩というところで、
ほころびを生じてしまう。ボロボロに
なってしまう。

よい例が、今のイラク。民主主義は最善
とばかり、それを押し付けようとする、
アメリカ。

しかしその民主主義とやらを、イラクの
人たちは、どうやら別の目で見ている?

なぜか?

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●教育論の限界

 教育論という「論」がある。それはそれとして、その「論」にも、限界がある。いくら高尚な教育
論を説いたとしても、そこには、一定の限界がある。

 こんな例で考えてみよう。

 私たちが「子ども」というときは、子ども全体をさす。1人ひとりの子どもについて書くこともあ
るが、しかしそれでも、「個人」については、書かない。また書いてはならない。

 私たちが「子ども」というときは、顔をもたない、子どもたちの世界、全体を意味する。

 教育論は、そうした「子ども」を前提として、組み立てる。が、最後の最後のところで、子どもを
もつ親は、こう言う。

 「先生、うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。

 つまり、「うちの子は、ちゃんと目的どおり、SS中学校へ、入学できるでしょうか」と。

 これが教育論の限界である。私たちは「論」を説きながらも、そこにいつも、一定の限界があ
ることを知る。

●主義の限界

 資本主義にも、共産主義にも、似たような限界がある。民主主義にも、ある。ある一定のとこ
ろまでは、その「主義」は、有効であり、それなりの支持を得る。が、それを越えると、とたん
に、ほころびが生ずる。ボロが出る。矛盾が生ずる。

 なぜか?

 こうした限界も、教育論がもつ限界を当てはめてみると、簡単に理解できる。

 「高尚な教育論も結構だが、私という親が目的とすることは、自分の子どもを、SS中学に入
れることなのです」と。

 つまり今日の生活にも困っている人に向かって、資本主義や共産主義、さらには、民主主義
という「主義」を説いても意味はない。「高尚な主義も結構だが、今日の生活を、まず、何とかし
てくれ。主義の話をするのは、そのあとで、結構!」となる。

●強者の論理vs弱者の論理

 こうした「限界」を、如実に表しているのが、「経済理論」である。ご存知のように、経済理論ほ
ど、ツギハギだらけの理論はない。ツギハギにツギハギを重ねながら、何とかその場、その場
をしのいでいる。ごまかしている。

 遠い昔には、アダム・スミスがいた。ケインズがいた。マルクスがいた。最近では、ドラッカー
(1909〜)がいた。しかし一度とて、その理論どおりに、経済が動いたためしがない。

 理由は、簡単である。

 こうした経済理論は、いわば、強者の論理でしかないからである。わかりやすく言えば、とり
あえずは、日ごろの生活には困らない、それなりのエリートたちが考えた論理だからである。

 それに対して、弱者と呼ばれる人たちは、いつも別の論理で、ものを考え、行動する。しかも
不幸なことに、そういった弱者は、「もの言わぬ民」である。自分たちの主義(?)を、論理とし
て、まとめることもできない。今日という現在を、生きていくだけで、精一杯。明日の生活を心配
しながら、不安な毎日を送っている。

 そのためには、ときには、法もやぶる。悪いこともする。そうでもしないと、生きていかれな
い。そういう人たちが、時として、主流となり、エリートたちが説く「主義」を、ことごとく否定してい
く……。

●教育の世界でも……

 高尚な教育論など、受験塾の玄関をくぐれば、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。そこで
は、教育そのものが、個人の欲得の追求の場になっている。

 「1人でも多く、他人を蹴落とせ」
 「点数こそ、すべて」
 「人間の勝ちも、それで決まる」と。

 しかしだれが、そういう受験塾を否定することができるだろうか。彼らは、みな、決まってこう
言う。

 「私の目的は、SS中学校の入試に、合格すること」と。

 わかりやすく言えば、歴然とした社会的格差をそのままにしておいて、いくら、高尚な教育論
を説いても意味はない。親や子どもたちは、日々の生活を通して、否応なしに、その格差を、
肌で感じ取っている。

 「来月はどうやって生きていこうか」と悩んでいる人もいれば、数千万円の年収を稼ぎ、外車
を何台も乗り回している人もいる。

 その入り口に、「教育」がある。つまり彼らにとっての「教育」とは、そういう教育をいう。そして
私たちが説く教育論とは、まったく異質のものである。

●民主主義の限界

 民主主義といっても、いかにいいかげんなものであるかは、すでに、みさなん、ご存知のとお
り。国政選挙があるたびに、だれしも心のどこかで、何かしらの疑問を感じている。「こんなこと
で、本当に政治が変わるのだろうか」と。

 このH市でも、中央から天下り官僚がやってきて、選挙に出馬する。当選する。そしてまた中
央へと戻っていく。それが明治の昔から、慣例になっている。

 で、選挙が終わっても、生活は、何も変わらない。相変わらず、今日という「今」を生きていく
だけで、精一杯。

 もっとも、これは「個人」の話だが、これが、「国家」の話になることもある。

 欧米先進国が、いくら高尚な民主主義を説いたところで、国によっては、今日という「今」を生
きていくだけで精一杯という国もある。

 そういう国へ行けば、「何が民主主義だ!」となる。つまりこれが、民主主義の限界ということ
になる。

●弱者の論理

 こうした「限界」を乗り越えるためには、弱者の論理でものを考え、そのレベルで主義を作ら
ねばならない。が、しかしそうした主義は、今度は、強者の利害と、まっこうから対立する。

 これも教育の場で考えてみると、それがよくわかる。

 「とにかく、この日本では、学歴のあるものが勝ち」
 「勝てば、官軍」
 「1点でも、点数をあげろ。すべては偏差値で決まる」と。

 講演などでも、「日本の教育の未来」という演題では、人は、集まらない。しかし「こうすれば、
あなたの子どもを、目的の大学へ入学させることができます」と言えば、人は、集まる。

 現実の世界は、そこにある。

 しかし教育論を説く人が、そんな話をするわけには、いかない。先にも書いたが、「子ども」と
いっても、子ども、そのものが、ちがう。こんな私にしても、ものを書きながら、その限界を、毎
日のように感じている。

●主義の限界

 つまりは主義には、限界があるということ。それがつまりは、共産主義にせよ、民主主義にせ
よ、資本主義の限界ということにもなる。

 もちろん限界があることが、悪いというのではない。またそれがあるからといって、それぞれ
を否定するのも、おかしい。

 大切なことは、いくら主義をもっても、それは強者の論理でしかないということ。弱者は弱者
で、別の論理で動く。たとえば宗教、さらにはカルト、迷信、占い、まじないにしても、それを「お
かしい」と思うのは、その人の勝手だが、だからといって、そういうものに身を寄せている人を、
「まちがっている」と言ってはいけない。

 そういうものに身を寄せることで、懸命に自分を支えている人だっている。

 それを忘れると、いくらすばらしい主義を唱えても、やがて矛盾を露呈し、ここに書いたよう
に、ボロボロになってしまう。

 なぜあのイラクで、ブッシュ大統領が説く民主主義が定着しないかという理由も、こんなところ
にあるのではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 主義
 主義の限界 民主主義)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【K国、ミサイル発射!】

++++++++++++++++++

とうとうと言うべきか、ついにと言うべきか、
K国は、ミサイルを発射してしまった!

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●評論家たちの意見(?)

 今回のミサイル発射について、いろいろ言われている。それについては、省略。みなさん、ご
存知のとおり。ではなぜK国が、この時期にミサイルを発射したかについてだが、いろいろな評
論家たちは、首をかしげるばかり。「K国の真意は……?」「K国の外交的目標は何か……?」
「意図は……?」と(5日、午前中)。

 それについては、「緊張感をつくって、アメリカとの交渉を有利にするため」という意見が、どう
やら共通した結論のよう。

 しかしね、みなさん、そんなことを論じても、意味はないのですよ!

 わかりやすく言えば、頭の狂った独裁者が、自暴自棄になって、つまりヤケノヤンパチになっ
て、巨大な花火を打ち上げた。それだけのこと。

 あんな独裁者に、まともな論理は、通用しない。またそういう論理をもって理解しようとしても、
ムダ。中には、「軍部が独走した」という意見もあるが、それはどうか? 本当のところは、糖尿
病か何かの病気がこじれて、脳性の障害か何かが起きたのではないか。またそう考えるの
が、自然。

●ミサイルの目的

 ほかに、朝、10時ごろまでの解説では、「なぜ、この日に?」「なぜ、真夜中に?」という意見
も目立った。

 しかし私にはわかっていたぞ。

 朝、一番に起きて、私は、ヤフーのニュースをのぞいた。アメリカのスペースシャトルの発射
がどうなったか、知りたかったからだ。それが午前6時、少し前。

 が、トップに並んだ文字は、「K国、ミサイル、発射!」だった。

 時刻は、アメリカのスペースシャトルの発射は、日本時間の午前3時38分。
 K国のミサイルの発射は、1発目が、日本時間の午前3時32分。(スペースシャトルの発射
時刻の、わずか、6分前だぞ!)
テポドン2号と呼ばれる、大陸間弾道ミサイルの発射は、日本時間の午前4時59分!

 しかもアメリカは、今日は、独立記念日。(日本では7月5日だったが、アメリカでは7月4
日。)

 K国は、明らかに、アメリカのスペースシャトルの発射時刻に合わせて、ミサイルを発射し
た!

 午前10時を過ぎるころから、「アメリカの独立記念日に合わせた……」「スペースシャトルの
発射時刻に合わせた……」という意見を言う人が出てきた。

●着弾点

 が、ミサイルの着弾点について、こんなことを言う評論家がいたのには、驚いた。

 「ロシア寄りに着弾させていますから、多少の、自制心が働いたのかもしれません」と。

 バカめ!

 テポドン2号以外の、5発のミサイルは、K国東南部のミサイル基地から発射されている。

 5初のミサイルは、きれいに一直線に並び、等間隔に並んで、着弾しているのがわかる。そし
てそれらの距離は、発射地点から、東京〜大阪間の距離と、ほぼ同じ。

 つまり方向こそ、ロシア寄りだが、距離は、東京から大阪の距離。その間に、3発のミサイ
ル。

 これは「実験」ではなく、「警告」と受け取るべきではないのか。

●6発のミサイルの意味

 7月5日の午前中までに、K国は、計6発のミサイルを発射した。その内容について、私は、
つぎのように、推察する。

 最初の2発は、それにつづくテポドン2号(大型、大陸間弾道ミサイル)の発射を成功させる
ための、カモフラージュ。

 つまりその2発のほうに注意をひきつけておいて、そのスキに、テポドン2号を打ちあげるつ
もりだった。

 しかし3発目に発射した、テポドン2号は、失敗! 一段目と二段目が切り離せないまま、海
に落下。

 そこで金xxは、つづけて、4発、5発、6発目を発射した。(同日、夕方になって、7発目を発
射!)

●制裁したら、宣戦布告?

 K国の高官たちは、かねてから、「(日本が)制裁を実行したら、宣戦布告とみなす」と発言し
ている。K国の高官といっても、その発言は、すべて金xxの口から出ていると考えてよい。

 実に手前勝手な論理だが、先にも書いたように、もともとまともな論理の通用する相手ではな
い。つまりここまでくると、金xxがつぎに打つ手は、戦争しかない。しかもその矛先(ほこさき)
は、この日本!

 自滅するよりは、戦争をしかけたほうが、まし!

 そのK国にとって、戦争をしかけることについて、ゆいいつ大義名分が立つ国といえば、この
日本。この日本をおいてほかにない。「戦争は、60年前に終わったはず」と考えているのは、
この日本だけ。また「何もしなければ、相手も、何もしてこないだろう」と考えるのは、あまりに
も、甘い。

●東京があぶない!

 経済はメチャメチャ。軍部はガタガタ。民心はバラバラ。

 K国というより、金xx独裁体制は、今まさに、崩壊の瀬戸際に立たされている。こうした国が、
最後に打つ手といえば、戦争ということになる。

 「そんなことは起こらない」と思うなら、ほんの少しだけ、K国の立場で考えてみることだ。

 すべてが八方ふさがり。このままでは、ジリ貧につづく、ジリ貧。国連安保理での制裁決議と
いうことになれば、それこそ万事休す。袋小路に入った末に、上から押しつぶされてしまう。

 ミサイルを発射してしまったことで、K国は、引くに引けないところまで、自分を追いこんでしま
った。

 だから、今、東京があぶない! 大阪があぶない!

●静岡県でも……

 政府は、K国への渡航について、警戒度合いを、2段階ひきあげた。それに呼応するかのよ
うに、静岡県でも、警戒態勢が敷かれることになった。御前崎には、原子力発電所もある。い
つなんどき、テロ攻撃を受けるか、わかったものではない。

 警戒、警戒、警戒!

 つぎにK国がミサイルを発射するときは、もう実験ではない。警告でもない。目標は、ズバリ、
東京。しかもその先には、核兵器、あるいは生物・化学兵器が搭載されているはず。

 そのどれでも、威力は同じ。1発で、約20万人前後の死者が出ると予測されている。

 これはおどしでも、何でもない。仮に原子力発電所が爆破されるようなことのでもなれば、風
の向きにもよるだろうが、日本列島の何分の1かは、人が住めない場所になってしまう!

 忘れてならないのは、金xxの脳みそは、すでに、(おかしい?)という段階を通り過ぎてしまっ
ているということ。「理解に苦しむ」と表現した評論家もいた。

 そういう前提で、日本は、ものを考え、対処しなければならない。日本は、この日本を守らな
ければならない。

●制裁は、慎重に!

 制裁といっても、いろいろある。日本政府は、新潟港にやってくるM号の入港禁止措置をとっ
たが、「その程度では、生ぬるい」という意見もある。

 最終的には、経済封鎖、海上封鎖、軍事封鎖という方法もないわけではない。しかしあんなK
国を、経済封鎖したり、海上封鎖、さらには軍事封鎖したところで、それにどういう意味がある
というのか?

 K国は、すでに、最貧国中の最貧国。

 第一、中国、ロシアがそれに同調しないだろう。K国は、陸路を通して、必要な物資を、自由
に、いくらでも入手できる。

 特定船舶の入港禁止措置くらいなら、それほど問題は大きくならない。「あなたのような客
は、うちへは来てほしくない」といった程度の意思表示ということになる。しかし経済封鎖となる
と、そうはいかない。相手の経済状況を、しめあげることを意味する。

 金xx体制の崩壊、さらには、K国の崩壊から、さらに日本とK国の戦争まで覚悟した上なら、
それも結構。しかし今の段階では、時期が早すぎる。あんなK国などと、日本は心中してはなら
ない。またその必要はない。

 日本は、国際社会に向かって、世界の平和と安全、それにK国の人権問題だけを、冷静に
訴えつづけていけばよい。しつこく、しつこく、かつ繰りかえし、訴えていけばよい。ここで日本
が騒げば騒ぐほど、それこそ、金xxの思うツボ!

 私の印象では、金xxの、余命は、それほど長くはないと思う。静かにそれを待つのも、ひとつ
の手ではないのか。

 ところで余談だが、K国のミサイル問題に関して、日本のA外務大臣は、「糾弾」という言葉
を、「キョウダン」と発音していたぞ! 朝から夕方まで、何度か、その発言は繰りかえし報道さ
れたが、まちがいなく、「キョウダン」だった。「K国を、きびしくキョウダンする」と。

 「?」と思ったが、この話は、ここでストップ。今は、日本の外務大臣の資質を問題にしている
ばあいではない。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【考える力】

+++++++++++++++

考える力とは、何か?

人間にとって、考える力とは、何か?

それほど大げさにとらえる必要はない。
常識的な意味での、考える力とは、何か?

私の身のまわりで、最近起きた事件(?)を
テーマに、それを考えてみたい。

+++++++++++++++

●弁当屋で……

 似たような話は、前にも書いた。しかし今日(7月2日)も、また、同じようなことが起きた。

 いつも行く、弁当屋でのこと。私とワイフは、ドライブに行くときは、いつもその弁当屋で弁当
を買う。

 今日は、昼食用の弁当のほか、夕食用の弁当も買った。買ったというより、注文した。帰りが
遅くなるかもしれない。息子の分も含めて、5個。

 その弁当を、仮に、A(幕の内)、B(天丼)、C(カルビ丼)、D(から揚げ丼)、E(焼き肉弁当)
としておく。

 受け付けをしている女性に、お金を先に払って、番号のついたレシートをもらう。番号は、49
番。

 が、そこへ、つぎつぎと、客が入ってきた。今日は、日曜日。悪い予感がした。そしてその予
感は、そのまま的中した。

 奥の厨房(ちゅぼう)で、3人の男と女が、注文に応じて弁当をつくっていた。それぞれに、分
担が決まっているらしい。早くできる弁当もあれば、そうでない弁当もある。

 で、弁当Aが、できてきた。棚に並んだ。私が注文した、Aの弁当である。と、そこへ、別の男
がやってきた。同じAを注文した。店の中には、5〜8人の客がいた。すると、その受け付けの
女性は、あれこれとほかの客と応対しながら、その客に、ナント、Aをそのまま渡してしまった!

 「それは私の注文した弁当だ」と言いそうになったが、やめた。その男は、電話で、あらかじ
め予約しておいたのかもしれない。

 こうして、B、C、D、Eの弁当も棚に並ぶが、Aがない。そこで受け付けの女性は、私の注文
は、そのまま。レシートの内容と、できあがった弁当の内容を、照合しようともしない。

 が、そこへまた別の客がやってきた。今度は、Bを注文した。すると、受け付けの女性は、棚
の上にあったBを、そのまま、同じようにして、その客に渡してしまった。

 ……こうなると、いつまでたっても、私の注文した、A、B、C、D、Eの5つの弁当が、そろうこ
とはない。

私「あのう、もう20分も待っていますが……」
女「もう少し、お待ちください」
私「私は49番で、今、弁当をもっていった人は、70番ですが……」
女「だから、もう少し、お待ちください」と。

 なぜ、こんな珍事が起きるか? 受け付けの女性の立場になって考えてみると、それがわか
る。

 最初、私は、A、B、C、D、Eの5つの弁当を注文した。そこでその女性は、奥の厨房に向か
って、「オーダーが入ります。A、1個、B、1個、C、1個、D、1個!」と叫ぶ。

 そのとたん、その女性は、私が何を注文したかを、忘れてしまう。ついでにレシートの番号も
忘れてしまう。店が混雑してくれば、なおさらだ。

 で、そこへ別の客がやってきて、Aを注文したとする。受け付けの女性は、同時に弁当の受
け渡しをしなければならない。ほかの客からの注文を受け付け、お金を受け取り、つり銭を渡
す。番号のついたレシートを出す。こうしてほかの客と応対しているうちに、客たちの順番を忘
れてしまう。(多分?)

 が、棚を見ると、「A」のところにチェックが入っているレシートがある。その横には、Aができ
ている。で、受け付けの女性は、注文の弁当ができたと思いこみ、そのまま、Aを、その客に渡
してしまう。(多分?)

 あとは、この繰りかえし。繰りかえしというか、混乱。

 あとでワイフが、「注文順に、お弁当を作って渡さないから、ああなるのよ」と笑っていた。が、
待たされるほうは、たまったものではない。お金を先に払っているから、キャンセルすることも
できない。

 幸いなことに(?)、今日は、20〜30分程度、待たされただけですんだが、前回、同じような
ことが起きたときには、1時間20分も待たされた。(この話は、本当だぞ!)

 「たかが弁当くらいのことで、けんかはしたくない」という思いと、「いつも世話になっているか
ら」という思いで、そのときは、がまんした。今日も、がまんした。

 が、もし受け付けの女性に、もう少し(考える力)があれば、こうした混乱は、起きなかったは
ず。見るからに、何も考えず、ただ機械的に応対しているだけ。そんな感じに見えた。
 
●考える力

 「たかが弁当屋だから……」「たかが受け付けの女性だから……」という、甘えは、許されな
い。もし反対にそう言われたとしたら、その女性だって、怒るはず。「自分のしている仕事に誇
りをもってほしい」とまでは、言わないが、「それ相当の責任はもってほしい」とは、私だって思
う。

 その(責任)の中に、ここでいう(考える力)も含まれる。つまり、その女性には、その(力)がな
いということになる。が、だからといって、その女性が愚かということではない。

 考える力というのは、(力)ではなく、(習慣)によって決まる。

 恐らくその受け付けの女性には、日ごろから、自分で考えるという習慣がないのではないか。
(力)ではなく、(習慣)である。その習慣がないから、自分の置かれた状況の中で、ものごとを
考えることができない。

 ……とまあ、大げさに考える必要はないのかもしれない。

 たかが弁当のことではないか! 手にするのが遅れたからといって、カリカリするようなことで
はない。

 これからは、できるだけその弁当屋を避けようと考えている。ワイフもそう言った。「昼時と、
夕暮れ時は、もう行かない」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

【国際情勢・あれこれ】

+++++++++++++++++

もつれた糸が、さらにもつれてきた。

現在の国際情勢を一言で表現するなら、
そういうことになる。

私たちは、その国際情勢を、どう
考えたら、よいのか?
どう判断したら、よいのか?

+++++++++++++++++

●米朝交渉

 なぜ、K国が、(日本をはずした上で)、米朝交渉に、こうまで執念を燃やすか? ……答え
は、ただひとつ。日本との戦争準備のためである。

 K国の立場で、考えてみれば、それがわかる。

 今、K国にとって、ゆいいつ開戦の大義名分の立つ国と言えば、この日本しかない。この日
本をおいて、ほかにない。しかしその日本には、アメリカという強力なうしろ盾がある。K国にし
てみれば、まさに目の上のタンコブ。日本とアメリカは、日米安保条約という軍事条約で、しっ
かりと結ばれている。

 しかし、もしアメリカとK国が、平和条約、あるいは相互不可侵条約を結べば、その時点で、
ことK国に関しては、日米安保条約は、効力を失う。アメリカ本土が攻撃されないかぎり、アメリ
カは、K国に対して、手も足も出せなくなる。たとえ同盟国の日本が、K国に攻撃されても、だ。

 日本の中にさえ、「アメリカは、K国と、2か国協議をすればいい」などと主張している、ノー天
気な人がいる。しかしこれはとんでもない意見! もしそんなことにでもなったら、そのあと、日
本はどうなるか。

 追いつめられたK国は、現在、自滅か、さもなくば、開戦かという瀬戸際に立たされている。
経済も、体制も、さらに軍事力もガタガタ。が、そのK国が自滅の道を選ぶとは、とうてい思え
ない。当然のことながら、K国は、開戦という道を選ぶだろう。戦争にならなくても、脅すだけ
で、日本からは、莫大な戦後補償金を手にすることができる。

さらに日朝戦争ということになっても、韓国や中国、さらにはロシアは、それを黙認するしかな
い。ばあいによっては、裏で、K国を助けるかもしれない。

 日本やアメリカ、とくに日本が、6か国協議にこだわる理由は、ここにある。


●竹島(独島)問題
 
 あのヨーロッパには、もう国境は、ない。大学ですら、EU内では、単位も共通化された。どこ
の大学で単位を取っても、同じという状況になった。(最終的に、どこの大学で学位が認められ
るかということは、重要だが……。)

 このアジアもやがて、そうなる。またそうならなければ、アジアはアジアとして、生き残っていく
ことはできない。(そうでなければ、やがてアジア内部で、大戦争が勃発し、アジアそのものが、
自滅する。)

 もしこのアジアも、EUと同じように統合されるようなことになれば、竹島だの、尖閣諸島だの
と言っている方が、おかしくなる。今すぐには、無理だとしても、私たち日本人は、そういう世界
をめざす。またそういう世界が、やがてやってくることを前提として、ものを考える。世界に向け
て、意見を言う。

 が、これに対して、「このアジアでは、EUのような統合は、無理」と説く人もいる。ならば聞く
が、ほんの半世紀前に、ヨーロッパが現在のように統合されるようになるなどとは、だれが予
想していただろうか。

 こうした領土問題は、性急に結論を求めないこと。ノラリクラリ……とまでは言わないが、しか
し棚上げ、先送りという方法で、時機が熟するまで、待つ。その時機がくれば、こうした問題
は、自然消滅の形で、解決する。

 たかが、小さな島ではないか!

 そんな島を取りあって、戦いだの戦(いくさ)だのと騒ぐ方が、おかしい。愛国心や民族主義を
説く方がおかしい。

 竹島にせよ、尖閣諸島にせよ、昔は、それぞれの国の人たちが、みな、仲よく使っていた。ど
うしてそういう時代に、今、もどれないのか? そういう話しあいが、今、できないのか?


●K国のミサイル問題

 中国にせよ、韓国にせよ、K国のミサイルより脅威なのは、日本がもつロケット技術である。

 今年に入ってから、日本は、H2ロケットをつぎつぎと打ちあげている。うち1機には、地上を
監視するスパイ衛星を積みこんでいる。

 当時、それについて韓国の各紙は、「韓半島(K国ではない、韓半島)が、日本の監視下に入
った」と騒いだ。日本は、「K国のミサイルや核開発を監視するためのもの」と主張したが、そう
いう言い訳は、日本の外では通用しない。

 またK国の核開発問題にしても、中国や韓国は、「日本も核兵器をもっているではないか」と
主張している。言うまでもなく、「アメリカの核の傘に入っている」ということは、「日本も核をもっ
ている」ということを意味する。

 日本の中で見る日本と、日本の外から見る日本。その両者には、大きなへだたりがある。そ
の(へだたり)を無視して、K国のミサイル問題を論じても、あまり意味がない。意味がないばか
りか、かえって、各国の反発を買うことになる。一連の6か国協議において、中国や韓国、それ
に日本の足並みがそろわない理由は、こんなところにもある。

 で、K国のミサイル問題だが、ミサイル自体は、問題ではない。ミサイルに何を積むかが、問
題である。

 K国は、すでに核兵器を8〜10個ほどもっていると言われている。仮にそういった核兵器
が、ミサイルに積まれたとしたら……!

 そこで問題なのは、ミサイルではなく、核兵器であり、生物・化学兵器ということになる。という
のも、核兵器の運搬手段は、ミサイルだけではないからである。航空機や船に積んで、自爆攻
撃という方法もある。

 しかし悲しいかな、K国の核兵器、さらに生物・化学兵器問題については、日本には解決する
能力はない。ないことは、拉致問題ひとつ取りあげても、わかる。中国にせよ、韓国にせよ、と
くに今の韓国のN政権などは、K国の核開発を黙認しているといった印象すらもつ。

さらに今回のミサイル発射実験にしても、韓国のN政権を支える支持団体は、「自業自得」とい
う言葉さえ使っている。つまり、K国が、こうしたミサイル実験をするのは、K国にしてみれば、
当然の権利である、と。共同歩調など、もとから期待する方が、おかしい。

 ともあれ、K国は、ミサイルを発射してしまった。テポドン2号については、どうやら失敗に終
わったようだが、しかしこれで実験が終わるわけではない。すでに2発目の発射準備にとりか
かっているという(7月7日)。

 で、日本では、K国に対する制裁が、つぎつぎと打ちだされている。しかしここで注意しなけれ
ばならないのは、制裁するのは結構だが、日本には、それだけの覚悟ができているかというこ
と。

 今、日本がK国を制裁すれば、K国に、日本に対しての戦争をしかける口実をあたえるだ
け。つぎのミサイルの発射が、実験で終わるとは、かぎらない。ズバリ、この日本をめがけて、
ミサイルを飛ばせてくるかもしれない。

 その覚悟はできているのか?

 制裁にもいろいろある。M号の新潟港への入港を禁止するという程度なら、まだよい。しかし
K国の、のどもとを締めあげるような制裁は、この際、してはならない。勇ましい経済制裁論も
あるようだが、それは慎重に! もう少し国連の安保理での動きを見てからでも、遅くないので
はないか。

 K国の金xxは、明らかにおかしい。金xxというよりは、金xxの脳みそは、おかしい。そういう
前提で、ものを考える。今回のミサイル問題は、結局は、ここに行き着く。

【付記】

 それにしても、おバカなのが、韓国のN大統領。ミサイルが発射される前日まで、「人工衛星
用だ。ミサイルとはかぎらない」と、K国を擁護。さらにミサイルが発射されたその当日ですら、
つまり世界中が大騒ぎしている最中(さなか)ですら、K国支援のための肥料運搬船を出港さ
せている。

 さらに「N大統領は北朝鮮がミサイルを発射してから、24時間が経つのに、まだ何のコメント
も発表していない。大統領府の関係者は、『大統領が直接乗り出せば、国民の不安感をあお
ってしまうことになるため』と説明しているという」(朝鮮N報)と。 

 朝鮮N報ですら、自国を評して、社説で、「どうかしてる国」と言い切っている。ホント! 私も
そう思う。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【作文指導】

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言葉指導の要(かなめ)は、作文。
わかりやすく言えば、言葉の学習は、
作文に始まって、作文に終わる。

が、それだけではない。

ものを書くということは、そのまま
考える力につながる。

さらに言えば、人は、考えるから
人である。

考えない人は、サル(失礼!)。

まあ、はっきり言えば、
そういうこと。

BW教室では、このところ
その作文指導に、力を入れている。

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●どんなロボットを作りますか?

【問】今度あなたは、新型のロボットを作ることになりました。あなたなら、どんなロボットを作り
ますか? 600〜800字の範囲で、それについて書きなさい。

……という問題を出して、子どもたち(BW生)に、作文を書かせてみた。楽しかった。おもしろ
かった。

Kさん(小6)は、「宿題ロボット」というのを、考えた。学校の宿題をしてくれるロボットだそうだ。
しかも顔を見ただけで、その子どもの筆跡まで、まねてしまうという。

 Kさんは、長々と宿題のたいへんさを訴え、そのあとに、「私は、こんなロボットをつくりたい」
と言って、そう書いた。

 私の評価は、0点。(ABC方式で採点して、C'。)

私「こんなロボットは、絶対に作ってはダメ」
K「どうして?」
私「インチキをするためのロボットなんて、ダメ! だったら、銀行強盗をするロボットというの
は、どう? そのほうが、ずっとわかりやすい」
K「だってエ……」と。

 また別のR君(小4)は、「戦闘ロボット」というのを考えた。

 フィールドで機関銃を、バンバンと撃ちながら、戦いあうというロボットである。が、これも、0
点!

 しかし作文指導も、回を重ねるうちに、みな、何とか、まともな(?)作文を書くようになってき
た。介護ロボットとか、盲導犬ロボットとかなど。自己中心的なものから、利他的なものへと変
わってきた。

 で、昨日は、【問】あなたが未来に残したい宝物は何ですか。それについて書きなさい、という
問題を出した。

 それについて、S君(小4)は、いきなりこう書いた。

 「宝物は、命です。人生はつらい。悲しいこともあるが、楽しい……」と。

 これには、私も爆笑!(ゴメン!) 小学4年生の子どもがそう書いたから、笑った。

 ほかにも、同じ言葉を何度も繰りかえしながら作文を書いた子どもがいた。あるいは前半部
と後半部と、同じ文章を書いた子どももいた。「どうして?」と聞くと、「めんどうだったから」と。

 しかしこれが(はじめの一歩)。最初はいやがっていた子どもたちも、このところ、楽しそうに
作文を書いてくれるようになった。が、それにも、コツがある。

 子どもたちを楽しませること。

 で、こうした作文を、みなの前で読むと、読まれた子どもはいやがる。しかしみなの前で読み
比べることで、子どもたちの作文力は向上する。たがいに批評しあうことこそ大切。そこで私の
ばあい、こうしている。

私「これからみんなの書いた作文を読みます。が、もちろん、だれが書いたかは、言いません。
名前も言いません。だから読まれた人も、だまっていてください」と。

 が、順に読んでいくと、「これはAさんのだ」「これはBさんのだ」と、子どもたちが言いあうよう
になった。そこで私はさらに一歩、前に進んだ(?)。進んで、こんなゲームを考えた。

 「これから作文を書いてもらいますが、名前を書いてはいけません。ぼくが、読んだあと、だ
れが書いたか、言い当ててみます。もしぼくがハズれたら、ハンマーで、ぼくのお尻を叩かせて
あげます」と。(ハンマーといっても、プラスチックでできた、おもちゃのハンマー。)

 つまり作文指導を、こうしてゲーム化する。が、そのあと、爆笑につづく、爆笑。

私、子どもの作文を読みながら、ふとつまづいたフリをして、「サケって、お酒のこと?」と。

 するとすかさず、X君(小4)が、「お酒じゃないよ、魚のサケだよ!」と。

 私はその作文には、X君という名前を書き入れた。子どもというのは、瞬間に反応してしまう。
自分を隠すことができない。

 ほかに、その子どもの作文を読んでいると、たいていそれを書いた子どもは、神妙な顔つき
になったり、だまったりしている。視線をはずしたり、もじもじすることもある。みなが笑っても、
その子どもだけは、別の反応を示す。それを観察すれば、だれがどの作文を書いたか、すぐ
わかる!

 あとで、作文を返すとき、「これはX君のだ」「これはYさんのだ」「これはZさんのだ」と。

 子どもたちは、「どうしてわかったのだろう」といった表情をして見せるが、手の内を明かせば
簡単なこと。

 何はともあれ、笑わせること。その(笑い)が、子どもをして、作文の好きな子どもにする。

 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 作文
 作文指導)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【善と悪】

+++++++++++++++++

明日、講演先で、「善と悪」について
少し話す。

前に書いた原稿をさがしていたら、
こんな原稿が見つかった。

4年間に書いた原稿である。

+++++++++++++++++

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、『善と悪は、神の右手と左手である』という。善
があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということ
らしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だ
が、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪
は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をも
つ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれも
いない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の
邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに
は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へ
きたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもし
れないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよ
うな問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、
決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。

はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすれば
よいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小3)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで
は、意思の力だけでは、説明がつかない。

「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、その
ときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思というこ
とになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。

言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よい
ことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、
自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そのもの
を、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、
しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶか
は、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。そ
れについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、そ
の「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。

もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習
慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」というこ
とになる。
(02−10−25)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 善と
悪 善悪論 子どもの倫理 倫理規範 子供の倫理 規範)


++++++++++++++++++++

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。
小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。

日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。

目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われ
るとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ
に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ
「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰りかえすが、人は、
自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1402)

【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに
由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるとい
う意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れて
も、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらい
だろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人
も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間
は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら
自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカル
ト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようにな
る。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結
構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつ
きつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところ
で、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を
宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなも
の。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思
える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいう
なら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動の
ために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をも
って、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代
から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックにな
っていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

●真の自由を手に入れる方法はあるのか? 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可
能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその
愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここで
いう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ
るがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●仮面とシャドウ

+++++++++++++++

だれしも、ある程度の仮面を
かぶって生きているものだが……。

しかし仮面は仮面。

大切なことは、仮面をかぶっていることを、
いつも意識すること。

+++++++++++++++

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔を
して、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。街道筋の宿場町であったがために、
余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。佐
木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をして
いる。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげた原動力になった
とも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●日本人のアイデンティティ

++++++++++++++++

日本人は、自分はどうありたいと
願っているのか。

それを知るのが、「国」としての日本を
考える、第一歩。

++++++++++++++++
 
 日本人は、日本がどうあるべきだと思っているのか。どうあったらよいと考えているのか。

 日本人が、日本人として、したいことと、日本が今、進んでいるべき道が、一致していればよ
い。問題は、ない。心理学の世界にも、アイデンティティ(自己同一性)という言葉がある。

 (自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致していれば、その子どもは、落ちついて
いる。安定している。これを、アイデンティティという。が、ときとして、その両者がかみあわなく
なるときがある。

 A君(小学3年生)は、「おとなになったら、サッカー選手になりたい」と思っていた。地元のサ
ッカークラブでも、そこそこに、よい成績を出していた。が、そこへ進学問題がからんできた。ま
わりの子どもたちが、進学塾に通うようになった。

 A君は、それでもサッカー選手になりたいと思っていた。が、現実は、そうは甘くなかった。4
年生になったとき、さらに優秀な子どもたちが、そのサッカークラブに入ってきた。A君は、相対
的に、目だたなくなってしまった。

 ここでA君は、(自分の進みたい道)と、現実とのギャップを、思い知らされることになる。が、
こうした不一致は、ただの不一致では、すまない。

 A君は、心理的に、たいへん不安定な状態に置かれることになる。いわゆる「同一性の危機」
というのが、それである。が、さらに進学の問題が、A君に深くからんできた。母親が、A君にこ
う言った。

 「成績がさがったら、サッカーはやめて、勉強しなさい」「サッカーなんかやっていても、プロの
サッカー選手になるのは、東大へ入ることより、むずかしいのよ」と。

 子どもというのは、自我に目覚めるころから、自分のまわりに、(自分らしさ)をつくっていく。
これを役割形成という。が、その(自分らしさ)がこわされ始めると、そこで役割混乱が起きる。

 それは、心理的にも、たいへんな不安定な状態である。

 たとえて言うなら、好きでもない男と、妥協して結婚した、女性の心理に近いのではないか。
そんな男に、毎夜、毎夜、体を求められたら、その女性は、どうなる?

 こうしてアイデンティティの崩壊が始まる。

 一度、こういう状態になると、程度の差もあるが、子どもは、自分を見失ってしまう。いわゆる
(だれでもない自分)になってしまう。自分の看板、顔、立場をなくしてしまう。が、そこで悲劇が
止まったわけではない。

 A君は、進学塾に通うことになった。母親が、「いい中学へ入りなさい」と、A君を攻めたてた。
A君は、ますます、自分を見失っていった。

 こういう状態になると、子どもは、つぎの二つのうちの、一つを選択することに迫られる。

 (だれでもない自分)イコール、無気力になった自分のままで、そのときを、やりすごすか、代
償的な方法で、自分のつぎの道をさがし求めるか。

 代償的な方法としては、攻撃的方法(非行など暴力的行為に走る)、服従的方法(集団を組
み、だれかに盲目的に服従する)、依存的方法(幼児ぽくなり、だれかにベタベタと依存する)、
同情的方法(弱々しい自分を演じて、いつもだれかに同情を求める)などがある。

 ふつうこの時期、多くの子どもたちは、攻撃的方法、つまり非行に走るようになる。(だれでも
ない、つまり顔のない人間)になるよりは、(害はあっても、顔のある人間になる)ことを望むよう
になる。

 この時期の子どもの非行化は、こうして説明される。

 で、自分の存在感をアピールするために、学校でわざと暴れたりするなど。このタイプの子ど
もに、「そんなことをすれば、みんなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても意味はない。みなに
恐れられること自体が、その子どもとっては、ステータスなのだ。

 これは子どもの世界の話である。

 で、日本人も、今、私の印象では、その「同一性の危機」の状態にあるとみてよい。(日本人
として、したい道)と、(進んでいる道)が、一致していない。そのため日本人全体が、今、たい
へん不安定な心理状態にある。

 民主主義国家として、平和と自由を愛する国民になるのか、それとも、復古主義的な流れの
中で、武士道に代表される過去の日本にもどるのか。Y神社を参拝して、戦前の軍神たちに頭
をさげるのか。つまりはわけのわからない状態の中で、混沌(こんとん)としている。

 だから中国や韓国で、反日運動が起きても、「どうしたらいい……」と、ただ右往左往するだ
け。自分の主張すら、ない。ないから、声をあげることもできない。

 では、どうするか。

 私は、もう過去の日本とは決別をして、自由と、平和と、平等の三つを旗印にかかげ、国際
化のうねりの中で、まっしぐらに前に進むしかないと思う。その向こうにあるのは、かつて200
年前にカントが提唱した、世界国家である。コスモポリタンである。

 はからずも今朝(4・21)、オーストラリアのハワード首相が、日本との間で、FTA(自由貿易)
協定を結ぼうと提唱したというニュースが、飛びこんできた。オーストラリアは、イラクの自衛隊
を保護するために、オーストラリア軍を派遣してくれた。

 そういう国もある。(Advance Australia!)

 そういう国の存在を信じて、前に進む。それこそが、まさに日本のアイデンティティの確立に
つながる。

 ついでに一言。よく「アイデンティティ」という言葉を使って、「武士道こそが、日本人が誇るべ
き、アイデンティティだ」と説く人がいる。

 しかしそもそも言葉の使い方が、まちがっている。そういう人は、アイデンティティというのは、
個性のことだと思っている。さらに言えば、武士道など、日本人が誇らなければならない精神で
も、なんでもない。

 わずか数%の、為政者たちが、刀を振り回して、大半の民衆を虐(しいた)げてきた。その中
で生まれた、自分勝手な論理と精神訓、それが武士道である。あえて言うなら、官僚道、役人
道ということになる。

 自分たちの先祖は、その大半が、武士とは無縁の、町民や農民であった。そういう立場を忘
れて、150年たった今、自分が武士にでもなったつもりで、武士道をたたえるのは、どうかと思
う。少なくとも、私はついていけない。

 もちろん文化は文化だし、歴史は歴史。だからそれなりに尊重はしなければならない。が、そ
れを今、もちだす必要は、どこにもない。改めて日本の「柱」にしなければならない理由など、ど
こにもない。

 私たちが進むべき道は、前にある。うしろではない。

 日本人の心を、発達心理学にからめて、考えてみた。
(はやし浩司 日本人 アイデンティティ 自己同一性)

(追記)

 農業問題もあるが、オーストラリア、シンガポールと、自由貿易協定を結べば、それ自体が、
韓国、中国にとっては、たいへんな脅威になる。

 日本には、ほかに、ブラジルがある。インドがある。アメリカも、カナダもある。EUもある。

 日本は、決して孤立していない。

 去年、オーストラリアの友人(国防省勤務)が、メールで私にこう書いてきた。(このことは、当
時のマガジンに原稿として書いた。)

 「ヒロシ、日本が、K国に攻撃されたら、オーストラリアは、自動的にK国を攻撃することになっ
ている。安心しろ」と。日本とK国の間の緊張感が、極度に高まっていたときでもある。

 私はそのメールをもらったとき、どういうわけか、涙が出るほど、うれしかった。そういう心が、
今回の、オーストラリア軍のイラク派遣へと、具体的につながっている。日本の自衛隊を守るた
めに、だ。

 韓国のN大統領よ、日本は、決して世界から、孤立なんかしていないぞ! バカめ! 孤立さ
せたいのは、N大統領、実は、あなた自身ではないのか! 中国で反日運動が起きたとき、イ
の一番に、「これで日本の安保理入りは、流れた」と喜んだのは、どこのどなたでしたか? 私
たち、日本人は、それを忘れないぞ!

 ……とまあ、たがいに、敵意を育てていてもしかたないですよね。しかしね、N大統領、日本
人も変わりましたよ。どうか戦前の日本人のイメージのままで、今の日本人を見ないでくださ
い。くれぐれも、よろしくお願いします。

 やがていつかすぐ、日本と韓国が、FTA協定を結ぶことになると思います。そういう時代は、
すぐそこまできています。そういう共通の目標に向って、いっしょに、前に進もうではありません
か。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●自己概念

+++++++++++++++

あなたは自分を、どうあるべきと、
考えているだろうか。

どうあったらよいかと、考えて
いるだろうか。

それが自己概念である。

+++++++++++++++

 自分の姿、立場、位置を正確に把握することは、とても重要なことである。他人の目を意識
せよということではない。(自分)というものを、客観的に知るということ。それは(私)を知るため
の、第一歩ということにもなる。

 「私はどういう人間なのか」「社会からは、どう見られているのか」「どういう立場にあるのか」
と。

 その自己の概念を知るためには、3つの方向性がある。

(1)自分の容姿、姿、態度、姿勢(自分の姿は、他人には、どう映っているか)
(2)自分の社会的地位、立場(自分は、どういう立場にあるか)
(3)自分の義務、責任(自分は、他人に何をするように期待されているか。何をすべきか)

 こうした概念を、正確にもてばもつほど、自分というものが、よくわかってくる。で、そのばあい
でも、自己中心的な人ほど、それがわからない。私が思っている私(自己概念)と、他人の中の
私(現実自己)の間に、ズレが生じてくる。

 よい例として、定年退職したあとまで、それまでの学歴や経歴をぶらさげて、いばっている人
がいる。そういう人は多い。とくに何らかの権力の座についた人ほど、そうではないか。いつま
でたっても、その亡霊から抜け出すことができない。

 このタイプの人は、定年によって、地位や肩書きをすべて失ったにもかかわらず、それにしが
みつくことによって、自分の権威を守ろうとする。しかし実際には、何もできない、ただの老人。

 いや、老人であることが悪いというのではない。その亡霊にしがみつけば、しがみつくほど、
自分を見失うということ。周辺の人たちと、同化できなくなってしまう。

 私が、このタイプの人を知ったのは、30歳くらいのときのことではなかったか。遠い親戚にあ
たる知人の家に遊びに行ったときのこと。その男性(当時65歳くらい)は、私にこう言った。

 「君は、何をしているのかね?」と。

 そこで私が「幼稚園で働いています」と答えると、「もうすこし、まともな仕事ができんかね。学
生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事には、つけなかったんだろう?」と。

 その男性は、定年まで、ある学校の校長をしていた。私は当時、すでに、「何、言ってるん
だ。自分は、ただの退職者のくせに」と思ったのを覚えている。

 現実の(彼)は、年金で遊ぶ、ただの退職者にすぎない。そういう現実が、まったくわかってい
ない。が、それだけではない。いつまでも過去の肩書きにぶらさがっていると、結局は、さみし
い思いをするのは、その人自身ということになる。

 こうした例は、母親たちの世界にもある。

 ずいぶんと前の話だが、つまり、まだバブル経済、まっさかりのころの話だが、こんな話を聞
いた。

 その銀行の寮(ある都市銀行のH支店・家族寮)では、夫たちの地位に応じて、妻たちの地
位も決まるという。妻たちの年齢や学歴は、関係ない。何かの女性会議の席でも、支店長の妻
が中央にすわり、つづいて、次長、部長、課長……と並ぶのだそうだ。

 廊下ですれちがうときも、相手が地位の高い夫をもつ妻だったりすると、道をあけなければな
らない、と。

 さらに上司の子どもと同じ学校は、受験しないなどという不文律もあるとか。うまく両方が、合
格すればよし。しかし上司の子どもが落ちて、自分の子どもが合格したりすると、さあ、たいへ
ん! ……ということで、そんなことにも気をつかうとか。

 そういう世界も、現実に、ある。バカげているが、当の本人たちには、そうではない。大まじ
め!

 つまりこうした悲喜劇も、つまるところ、(自己概念)と、(現実自己)のズレから生まれる。

 ……で、私のこと。

 以前、ある小さな会合で、7〜8人の男たちが、国際政治を論じていた。どの人も、商店主と
か、小さな町工場の経営者だった。

 私はその話を聞きながら、「そんなことを論じても、マスターベーションにもならない(失礼!)」
と思ってしまった。が、すぐに、それは私自身のことだと、気がついた。

 私は、こうして、子育てを論じ、人生を論じ、ついで同じように、国際政治を論じている。

 しかし、だれも、私を相手にしていない。あえて言うなら、私がしていることは、犬の遠吠え、
そのもの。社会的影響力は、かぎりなくゼロに近い。つまり私のもっている(自己概念)と、(現
実自己)は、大きく、ズレていることになる。

 ワイフだって、ときどき、こう言う。「あなた、日本の心配もいいけど、来月の家計も少しは、心
配してね」と。私が出している電子マガジンなどは、ワイフに言わせれば、まさに、道楽……と
いうことになる。

 考えてみれば、なんともさみしい世界だが、これが私にとっての現実ということになるのだが、
しかし目的がないわけではない。

 こうしてモノを書いていると、それ自体が、ボケ防止になる。それに毎日、新しい世界を知るこ
とは、実のところ、楽しい。未開の荒野をひとりで歩くようなスリルさえ感ずる。だから私にとっ
ては、決してムダではない。

 現実の自分がどうであるかをしっかりと知っていれば、あとは何をしようが、それは私の勝手
ということになる。現実の自分がそうであるからといって、必ずしも、それにこだわらなければな
らないということもない。

 自分を知るということは、本当に、むずかしい……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
概念 現実自己)

【補記】

 同じように、自分の子どもの(概念)を正確にとらえることは、むずかしい。問題のある子ども
を、「問題がない」と思いこむのも、反対に、問題のない子どもを、「問題がある」と思いこむの
も、結局は、子どもの(現実)を性格にとらえていないことになる。

 子どもの姿を、正確にとらえることも、子育てにおける、重要なテーマの一つかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1403)

●悪魔の願い(台風3号)

+++++++++++++++

台風3号が、九州の西方を北上し、
今、あの国をめざして、
まっしぐらに進んでいる。

+++++++++++++++

 水色の空に映(は)える稲の若葉が美しい。青々と、水田が、一面、緑の芝生のよう。これか
ら暑い夏を迎え、稲の生育は、一気に加速する。

 そんな中、台風3号が、九州の西方を北上しつつある。先ほども、気象庁の台風予想進路図
をのぞいてみたが、のぞくたびに、あの国の首都を直撃しそうな気配が濃厚になってきた。

 現在(7月8日、16時)、中心気圧は、950hPa。「強い台風」。このまま進めば、勢力は、9
75hPaと、やや勢力は衰えるものの、10日の真夜中から11日の朝にかけて、あの国に上陸
するはず。

 その上、見るたびに、予想円の中心が、あの国の首都に近づいている。

 ご存知のように、あの国の穀倉地帯は、首都を中心として、西海岸側、東シナ海につきで
た、半島周辺に集中している。もし予想通りのコースを、台風がたどれば、あの国は、まちがい
なく、甚大な被害を蒙(こうむ)ることになる。

 灌漑施設そのものが、整っていない。わずかな雨でも、洪水になる。

 「だいじょうぶか?」などということは、ここには書けない。「心配している」などとは、今の私の
心情では、ウソでも、書けない。ミサイルの発射実験が問題になっているが、「被害」ということ
になれば、あの国は、今度の台風で、たいへんな被害を蒙るはず。

 その話を、今日、ある小学校の教頭と、した。

私「台風があの国に向かっていますね」
教「そうみたいですね」
私「これ以上のことは言えませんが、多分、先生と私は、同じ気持ちです」
教「ハハハ、そうですね。私も、同じ気持ちです」と。

 その10日に、中国の政府高官が、あの国に出向き、あの国の頭のおかしい指導者に、最後
の決断を迫るという。そしてその翌日、日付では同じ、7月10日、日本などのいくつかの国は、
あの国のミサイル発射実験を非難する、非難決議案を、国連の安保理に提案することになっ
ている。

 今のところ、中国が、拒否権を使って、それに反対するという情報が伝わってきている。しか
しそんなことをすれば、あの国イコール、中国ということになってしまう。

 そうでなくても、あの国の評判は、悪い。覚せい剤に、ニセ札、ニセたばこ、それに核兵器!

 そういう国を、拒否権まで行使してかばえば、世界から、どういう目で見られるか? 中国だ
って、それがわからぬはずはない。

 拒否権を行使したかったら、行使すればよい。笑われるのは、中国。「やっぱりね……」と思
われるのは、中国。

 ロシアについては、わからない。多分、採択には棄権という姿勢で臨むのではないか。

 どちらにせよ、経済制裁以上の制裁を、今、台風3号が、あの国に科そうとしている。もし台
風3号が、このまま予想どおり、あの国を直撃すれば、あの国の穀倉地帯を、壊滅させるは
ず。

 何といっても、今は、時期が悪い。稲が、これから……という矢先である。

 さあ、日本人としての私は、どう考えたらよいのか? が、他国の不幸を喜ぶというのも、どう
かと思う。それはわかっている。が、数日前の、あの国の政府高官の、あの高慢な態度は何
だ。あれでは、まるで暴力団の親分ではないか。

ああいう連中に、当時女子中学生だったMさんが、あの国に拉致(らち)されたのかと思うと、
背筋が、ゾッとする。それを思うと、どうも、すなおな、やさしい気持ちにはなれない。

 台風3号。どこへ行こうと、私の知ったことではない。しかしどこへ行けばいいかについては、
今、ここには書けない。書けないが、私の思いは、この文章を読んでいるみなさんには、わか
っているはず。私も、みなさんと、同じように考えている。願っている。

 さあ、みんなで注目しよう、台風3号!

 ……というところで、この話は、おしまい。こういうのを、「悪魔の願い」と言うそうだ。

【付記】

 しかし本当のところ、あの国は、もうこれ以上、追いつめない方がよい。国家経済は、とっくの
昔に、破滅状態。軍部は、ガタガタ。労働者の平均月収は、アメリカドルに換算して、2ドル以
下。(月収が、2ドルだぞ!)

 あの国は、もうこれ以上失うものは、何もない。そういう状態にまで、あの国は、追いつめら
れている。

 そういう国に、これ以上制裁を科したら、どうなるか?

 ミサイルと核兵器だけはもっている。それを忘れてはならない。自滅か、開戦かということに
なれば、歴史の常として、あの国も、開戦を選ぶはず。そしてその矛先(ほきさき)を、当然、こ
の日本に向けてくるはず。

 で、昨日、日本のM元総理大臣が、現在のK首相に、こう忠言したという。「アメリカに同調し
すぎると、日本があぶない」と。

 同感である。

 K国への制裁問題は、10日の中国との会談がどうなるか。つづいて国連安保理での採択が
どうなるか。そして台風3号が、どのような影響をもたらすか。これら3つを見てからでも、遅く
はない。といっても、あと2日しかないが……。

 当然、日本の防衛庁も警戒しているだろう。核兵器の運搬方法は、何もミサイルだけにかぎ
らない。漁船の底にしのばせて、東京湾にもってくることも考えられる。あの国にしてみれば、
そのほうが、ずっと確実。安あがり。

 しかもこの日本には、200人前後の工作員が、すでに侵入して、活動を開始しているという
(週刊誌などの情報)。そういった彼らを支えるC連系の隠れシンパとなると、万人単位でいる
という(同)。

 そういう事実を忘れて、性急に制裁を急げば、どうなるか? 90%近い日本人が、制裁に賛
成しているという。その気持ちはよくわかる。しかしここで感情的になってはいけない。

 制裁に賛成かどうかということになれば、私も賛成。しかし、その前に、日本として、すべきこ
とは山のようにある。少なくとも、ここは、あの台風3号が、どのような結果をもたらすか、それ
を見てからでも遅くはない。何も、日本人自身が、直接手をくだす必要はない。

日本には、昔から、「天罰」という言葉があるではないか。
(060708)

***********************

私の印象では、すでに核兵器のいくつかは、
この日本に運びこまれているのではないかということ。
その可能性は、ゼロとは言えない。仮に万分の1でも、その
可能性があるというのなら、それについて対策を講じておくのは、
当然のことではないか。

制裁論議は、そのあとでもよい。

そこで提案だが、

(1)皇居を中心として、半径、5〜10キロ以内を、
ローラー作戦でも何でもよい、徹底的に、捜索すること。
調べるべき場所は、地上、5〜10階以上の、ビル、
マンションなど。化学兵器、生物兵器についても、同じ。

(2)核兵器を運搬すれば、その痕跡は残っているはず。
隠匿(いんとく)すれば、その放射能は、外に漏れているはず。

 そういう放射能を、東京都内中を、放射能検知器を使って
徹底的に調べること。

(3)地下の核シャルターの用意をしておくこと。あるいは
避難場所を確保する。各個人について言えば、避難方法や、
避難場所を確保しておく。

 あの国が言うところの「物理的反応」というのは、当然の
ことながら、「テロ」、もしくは「破壊活動」を意味する。
それを忘れてはならない。

(核兵器の隠匿 運搬 東京があぶない)

 
Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

【ある会社の社長】

+++++++++++++++++

若いころ、私は、いくつかの会社を回り
ながら、社内報づくりのアルバイトを
していたことがある。

週に、2、3度、その会社に足を運び、
そこで、その会社の社内報を作っていた。

その中のひとつに、「TU繊維KK」と
いう名前の会社があった。

その会社の社長が、ワンマン経営者。
やること、なすこと、めちゃめちゃ。
だれの意見にも、耳を傾けようとしな
かった。

それが、今に見る、K国の金xx、
そっくり! 

今、私の頭の中では、この2人がダブ
って、切り離すことができない。

+++++++++++++++++

●社内報

 私は若いころ、いくつかの会社の社内報を、アルバイトで、作っていた。週に2、3度。あるい
は、月に2、3度、その会社に足を運び、そこでその会社の社内報を作っていた。ついでに、貿
易の手伝いをしたこともある。ときに、そのまま、シンガポールやインドまで、商談のため、飛ん
でいったこともある。

 そういう会社のひとつに、「TU繊維KK」という名前の会社があった。以下、会社の名前を、
「T会社」とする。

 そのT会社の社長が、今に見る、あのK国の金xxそっくり! やることなすこと、メチャメチ
ャ。気分屋でわがまま。デタラメ!

 T会社は、主に縫製部門を担当する、「縫製部」と、販売部門を担当する、「販売部」、それに
縫製部で作った製品を全国に直販する、「直販部」の三つに分かれていた。もちろん、総務部
や経理部もあった。

 社員は、縫製部も含めると、総勢で80人前後ではなかったか。縫製部で働く人たちの多く
は、遠くは北海道や東北地方からやってきた人たちであった。社内報は、そうした人たちの
(輪)をつなぐためのもの、ということだった。

●ワンマン社長

 社長の名前は、TUと言った。会社の名前は、TU繊維KK。自分の名前をちぢめて、そういう
名前の会社にした。しかし本当は、先代の父親が興した会社だったという。それを乗っ取る形
で、TUは、会社の名前を変え、自分の会社にしてしまった。

 当初は、姉の夫、つまり義理の兄を社長にして、会社をスタートさせた。が、やがてすぐ決
裂。姉夫婦は、そのまま、関東の北へと、引っ越してしまった。その過程で、姉夫婦とTUの間
で、大きな衝突があったらしい。

 私が社内報を作ってほしいと依頼を受けたときには、それから10年近くの年月がたったころ
のことである。当時は、縫製の仕事は、かなりもうかったらしい。社長のTUは、まだ日本では
珍しかった、ドイツの高級車を乗り回していた。自宅も、浜松市内では、一等地。どこか畏敬の
念をこめて、「H町」と呼ばれる、閑静な住宅街の一角にあった。

 が、TUは、わがままな人だった。その第一。TUには、時間という概念がなかった。深夜で
も、早朝でも、思い立ったとき、容赦なく、社員のみならず、この私にも、電話をかけてきた。

 「ああ、林君、こんどの社内報には、秋の社内旅行の話も載せてくれ」
 「林君、社内報の特集で、大阪のファッションをとりあげてくれ」と。

 私はそのつど、つまりTUのクルクルと変化する編集方針に、翻弄(ほんろう)された。

●高度成長の波に乗って

 TUは、よく酒を飲んだ。今から思うと、一日中、飲んでいたのではなかったか。いつも酒臭か
った。車を運転しているときも、臭かった。

 そんな会社だったが、そこまで大きくなったのは、経理を担当していた、MU氏(肩書きは、経
理部長)の手腕によるところが大きかった。社長のTUの「甥(おい)っ子」ということだった。会
社の事実上の経営をしていたのは、そのMU氏だった。

 言い忘れたが、私が知りあったとき、TUは、43歳、MU氏は、45歳だった。

 たまたま日本は、未曾有の高度経済成長期に突入していた。私がその会社に通い始めたこ
ろには、周辺は、まだ田畑が残る田園地帯だった。が、1、2年のうちに、あたりはどんどんと
変貌していった。その近辺に土地をもっていたTUは、土地を担保に銀行からお金を借り、それ
で土地を買い、その上にアパートを建てた。そしてその土地とアパートを担保にまたお金を借
り、新しい土地を買い、その上に、アパートを建てた。

 こうして一時は、その戸数が、1000を超えたという。当時は、そういう手品みたいなことが、
簡単にできた。

 H町にあった自宅を、3階建ての豪邸に改築したのも、そのころのことである。半地下の部屋
には、サウナ付のトレーニングルームまで備えていた。

●TUという社長

 TUの特徴をあげたら、キリがない。思い出すまま、それを書いてみる。

(1)気まぐれ。思いついたら、即、行動。他人のつごうなど、まるで考えない。私もよく、真夜中
の1時、2時に、呼び出された。
(2)情緒が不安定で、つかみどころがない。激情したかと思うと、その反面、落ち込み方も激し
かった。
(3)昼と夜が逆転。たいてい夜中の10時すぎに、あちこちに指示を出す。生活パターーンが、
めちゃめちゃ。
(4)見栄っ張り。虚勢を張る。ことさら大物であることを、人に見せびらかす。サイフの中には、
100〜200万円の現金を入れ、いつも、それをもち歩いていた。
(5)熱しやすく、さめやすい。当時、邱永漢(きゅう えいかん)という経済評論家の本が、よく売
れていた。ある時期は、明けても暮れても、その邱永漢の話ばかり。が、突然、それが終わ
る。終わったとたん、今度は別の経済評論家の話ばかり。
(6)複数の愛人がいた。私が知るかぎりでも、2人の愛人がいた。そういう愛人を平気で、私に
紹介したりした。(妻にも会わせていたから、そのへんも、?)
(7)ワンマン。TUに意見を言えるものは、経理担当の、MU氏だけ。しかしそのMU氏さえも、
いつもTUに殴られたり、蹴られたりしていた。社員たちが集まった席で、大声で罵倒(ばとう)さ
れているのを、私は何度も見たこともある。
(8)それでいて、神経が異常にこまやか。気が小さく、おくびょう。とくに身近の社員の動向に
は、あらゆるチャンネルをつかって、さぐりを入れていた。
(9)孤独で、さみしがり屋。そういえば、私はTUが、ひとりでいるところを見たことがない。TU
のそばには、いつもだれかがいた。

 数か月もすると、私は、社内報作りに疑問をもつようになった。が、TUは、そういう私の気持
ちを察知するとすぐ、私にボーナスをくれた。「君の書く社内報はすばらしい。小遣いだ。取って
おいてくれ」と。当時のお金で、10万円単位のお金だった。

●「殺してやる!」

 私は側近の1人として、TUの言動を、つぶさに見ていた。中には、「お前をいつか、殺してや
る!」と怒鳴りながら、会社をやめていった人もいた。

 反対に、銀行から、多額のお金を使って、引き抜かれてきた人もいた。国産車だったが、高
級車をプレゼントされ、高額の給料を与えられた。が、それでも、長くはつづかなかった。その
男性(当時、35歳くらい)は、数か月もしないうちに、精神を病み、そのまま会社から去ってい
った。

 私は、最初から、「酒は飲めません」と断っていたので、そういう会に誘われることはなかった
が、社員によっては、毎朝、4時〜5時ごろまで、TUの酒会に付きあわされた人もいたという。

 が、会社は休めなかった。TUは、社員に、「明日は、休んでいい」とは、口では言っても、実
際にその社員が休んだりすると、「根性が足りない」と言って、反対にその社員を叱ったりし
た。

 私は、一定の距離を保ちながら、つまり深入りしないように、TUと交際した。私の仕事は、社
内報をつくること。それだけに専念した。

●そして倒産

 T会社が、倒産したのは、まさにハプニングだった。

 その少し前、T会社は、1回目の不渡り手形を出していた。しかし経営内容が悪かったわけで
はない。

 当時、この方法で、脱税を画策する会社は少なくなかった。わざと赤字会社であることを装い
ながら、納税を逃れる。インチキといえば、インチキだが、こうしたインチキは、T会社のような
同族会社では、よくなされていた。先にも書いたように、経理を担当していたMU氏にしても、T
Uの身内だった。そのMU氏は、T会社が倒産したあと、私にこう話してくれた。

 「あの会社は、倒産などしなくてもよかったのです。またそういう状態ではなかったのです。倒
産したのは、ハプニングです」と。

 私が「ハプニング?」と聞くと、こう教えてくれた。

 大口取引先の繊維問屋の副社長が、T会社にやってきた。そのときのこと。いつもなら、その
問屋への支払いを、1か月猶予(ゆうよ)してもらう形で、2回目の不渡り手形を出すのを、の
がれていた。

 が、その副社長と、MU氏が懇談している席へ、突然、TUが割りこんできた。酒に酔っていた
という。そして何が気に食わなかったのか、TUは、その副社長に向かって、罵声をあびせかけ
てしまった。

 「テメエ、この野郎!」「この若造が、何を偉そうに!」というような、言い方だったという。

 とたんその副社長は、態度を硬化。そのまま、その足で、銀行に出向き、手形を不渡り処分
にしてしまった。当時の金額で、わずか、3000万円。T会社は、銀行取引を停止され、そのま
ま倒産!

 あっけない倒産劇だった。

●TUの人間性

 話は、ここでぐんと国際的になるが、K国のあの金xxの言動を見ていると、私は、そのまま、
若いころ知りあった、TUという名前の、あの社長を思い出す。

 容姿は、似ていない。金xxは、ああいう人だが、TUは、背が高く、細身で、スポーツマンタイ
プの人だった。

 しかしその容姿をのぞくと、ウリ2つと言えるほど、よく似ている。もちろん私は、個人的には、
金xxを知らない。知る立場にもない。

 しかしああした独裁国家では、その国を独裁する独裁者の心情、動向が、そのまま国の姿と
して、反映される。独裁者の独裁職が強ければ強いほど、そうである。

 で、そののち、TUは、聞くところによると、50歳少し前には、精神そのものを病み、そのあと
二度と退院することなく、62歳の若さで他界したという。「酒の飲みすぎ」と言った人もいたが、
死因そのものは、肝不全だった。

 しかしTUの精神状態は、私が知りあった当時ですら、ふつうではなかった。

 もちろん私の立場では、診断名をここに書くことはできない。またそれを知る由もない。しかし
TUの精神は、すでに当時、つかみどころがないほど、バラバラだった。つぎに何をするか、予
測すらできなかった。何を考えているかさえも、わからなかった。

 社員たちは、そのつど、TUに振りまわされているだけ。TUに不平を漏らしたり、意見を述べ
たりすると、そのときは、TUは、やんわりと、「すばらしい意見だ」と、その社員をほめる。が、
翌日、朝一番で、TUは、その社員をクビにしてしまった。そんなことも珍しくなかった。

 「オレの経営方針に文句があるなら、さっさとやめろ!」と。

 そういう意味では、まさに恐怖政治。中堅以下の社員たちも、みな、社長の機嫌をうかがうだ
けの毎日。TUが玄関に立っただけで、会社中に、ピンとした緊張感が走った。

 TUに忠誠を誓ったからといって、それで安泰というわけでもなかった。へたに忠誠を誓ったり
すると、「このゴマすり野郎」とか、「腑抜け野郎」とか怒鳴られて、みなの前で恥をかかされた
りした。

 私は、TUという男をよく知っている。社内報を書くといっても、実際には、秘書の仕事をする
ようなもの。TUの言葉を直接聞き、それを記事にしていた。で、そのTUを思い出しながら、
今、あのK国の内部も、そうではないかと、推察している。

国と会社という点では、規模はちがう。しかし同じ人間というと点では、大小はない。金xxも、T
Uも同じ。

 またそういう視点で、金xxを見、K国という国を考えると、金xxやK国が、よく理解できる。

 で、私の予想では、これから先も、K国という国は、金xxという独裁者のもと、日本に向かって
もメチャメチャなことを言ったり、したりしてくるのではないかということ。戦争だって、しかけてく
るかもしれない。またそういう前提で、あのK国を考え、金xxを考えなければならない。

 K国をまともな国、あるいは金xxをまともな指導者と思って対処していると、日本は、とんでも
ないことになる。それを結論として書きたくて、ここにTUのことを書いた。

 私がT会社から去ったのは、T会社が倒産する直前だった。しかし今、「TU」と呼び捨てにす
ることについて、私は何ら、抵抗感を覚えない。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1404)

【自分をつかめない子ども】

+++++++++++++++++++++

目的(?)の学校には入ってはみたものの、
自分をつかめない子ども。
そんな子どもが、ふえている。

Dさんの娘さん(中3)も、ひょっとしたら、
そんな子どもかもしれない。

こんな相談が届いている。

+++++++++++++++++++++

【Dさんより、はやし浩司へ】

久しぶりにメールを送らせていただきます。お元気でいらっしゃいますか?
 中3になる娘のことで、最近思うことがあります。

娘は現在、地元の私立女子中学校に通っていますが、高校は他へ行きたいと言うのです。理
由を聞くと、元々どうしてもその学校へ行きたかったわけではないとか、小学校時代の友人と
同じ高校へ行きたかったとか、今の学校に不満は無いが、このまま居続けるのはイヤだとか
言います。

 志があって他へというのなら、私は応援するつもりですが、娘の場合はどうも違うようです。中
途半端な気持ちで他校へ行ったところで、同じことの繰りかえしになるのではと心配です。

このまま今の学校に通っていても不登校になると思うなどと、脅かしてもきました。これには呆
れましたが、大きなことを言っては、実行できずに終わる娘です。部活もロクに活動をしていな
いような部を転々とし、勉強もそこそこ。趣味は寝ることで、夢は妄想めいた事ばかり。

 私には甘えに思えてなりません。やりたいようにやらせ、本人が痛い思いをするのもいい経
験では、とも思うのですが、迷っています。

 はやし先生のご意見をお聞かせいただけるとありがたいです。お忙しいところ申し訳ありませ
んが、どうぞよろしくお願いいたします。
(長崎県・DIより)


【はやし浩司より、Dさんへ】

 こんにちは!

 以前、似たような相談を受け、それについて書いた原稿がありますので、それをまず、ここに
添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【非行のメカニズム】

 子どもの非行。その非行に子どもが走るメカニズムは、意外に単純なもの。言いかえると、
子どもを非行から防ぐ方法も、簡単。

【第一期・遊離】

 (したいこと)と、(していること)が、遊離し始める。「ぼくは、サッカーをしたい。しかし塾へ行
かなければならない」など。「私はケーキ屋さんになりたいのに、親は、勉強をして、いい大学
へ入れと言う」など。

 (〜〜したい)と思っていることと、(現実にしていること)が、遊離し始める。つまり子ども中
で、アイデンティティ(自我の同一性)が、混乱し始める。

 アイデンティティが、混乱し始めると、子どもの心理状態は、不安定になる。怒りっぽくなった
り(プラス型)、反対にふさぎやすくなったりする(マイナス型)。

 この状態を、「同一性の危機」という。

 この段階の状態に対して、抵抗力のある子どもと、そうでない子どもがいる。幼少期から、甘
やかされて育った子どもほど、当然、抵抗力がない。遊離したとたん、一気に、つぎの(同一性
の崩壊)へと進む。

一方、幼少期から、家事の手伝いなどを日常的にしてきた子どもほど、抵抗力が強い。子ども
の世界では、(いやなことをする力)を、「忍耐力」という。その忍耐力がある。

 アイデンティティが混乱したからといって、すぐ、つぎの第二期に進行するわけではない。個
人差は、当然、ある。

【第二期・崩壊】

 (したいこと)と(していること)が、大きくズレてくると、子どもは、まず、自分を支えようとする。
がんばる。努力する。が、やがて臨界点にさしかかる。子ども自身の力では、それを支えきれ
なくなる。

「野球の選手をめざして、もっとがんばりたいのに、毎日、勉強に追われて、それもできない」
「勉強はおもしろくない」「成績が悪く、つまらない」と。

 こうして同一性は、一気に、崩壊へと向かう。子ども自身が、「自分は何をしたいのか」「何を
すべきなのか」、それがわからなくなる。

【第三期・混乱】

 アイデンティティが崩壊すると、精神状態は、きわめて不安定になる。ささいなことで、激怒し
たり、突発的に暴れたりする(プラス型)。

 反対に落ち込んだり、家の奥にひきこもったりする(マイナス型)。外界との接触を断つことに
よって、不愉快な気分になるのを避けようとする。このとき、無気力になり、ボーッとした表情
で、一日を過ごすようになることもある。

【第四期・非行】

 アイデンティティが崩壊すると、子どもは、主につぎの5つのパターンの中から、自分の道を
模索する。

(1)攻撃型
(2)同情型
(3)依存型
(4)服従型
(5)逃避型

 このうち、攻撃型が、いわゆる非行ということになる。独特の目つきで、肩をいからせて歩く。
独特の服装に、独特の暴言などなど。暴力行為、暴力事件に発展することも珍しくない。

 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、君は、みなに、嫌われるんだよ」と説いても意
味はない。このタイプの子どもは、非行を通して、(自分の顔)をつくろうとする。顔のない自分
よりは、嫌われても、顔のある自分のほうが、よいというわけである。

 アイデンティティそのものが、崩壊しているため、ふつうの、合理的な論理は通用しない。ささ
いなどうでもよいことに、異常なこだわりを見せたりする。あるいは、それにこだわる。自己管
理能力も低下するため、自分をコントロールできなくなる。

 以上が、非行のメカニズムということになる。

 では、子どもを非行から守るためには、どうすればよいか。もうその答はおわかりかと思う。

 つねに(子どものしたいこと)と、(子どもがしていること)を、一致させるようにする。あるいは
その接点だけは、切らないようにする。

 仮に受験勉強をさせるにしても、「成績がさがったから、サッカーはダメ」式の乱暴な、指導は
しない。受験勉強をしながらも、サッカーはサッカーとして、別に楽しめるワクを用意する。

 言うまでもなく、(自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、精神的に、き
わめて安定している。どっしりしている。方向性がしっかりしているから、夢や希望も、もちやす
い。もちろん、目的もしっかりしている。

 また方向性がしっかりしているから、誘惑にも強い。悪の世界からの誘惑があっても、それを
はねかえすことができる。自己管理能力もしっかりいているから、してよいことと、悪いことの判
断も的確にできる。

 だから……。

 今までにも何度も書いてきたが、子どもが、「パン屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、す
てきね」「こんど、いっしょにパンを焼いてみましょう」などと、答えてやる。そういう子どもの夢や
希望には、ていねいに耳を傾けてやる。そういう思いやりが、結局は、自分の子どもを非行か
ら守る最善の方法ということになる。
(はやし浩司 非行 子どもの非行 子供の非行 非行から子供を守る方法 非行防止 アイ
デンティティ アイデンテティ 自我同一性の崩壊 顔のない子ども 子供 はやし浩司 非行
のメカニズム)


●スチューデント・アパシー

 無気力、無表情、無感動の状態を総称して、「アパシー」という。そのアパシーが、若者を中
心に、部分的に現れることがある。とくに、男子学生に多い。それを、「スチューデント・アパシ
ー」(ウォルターズ)という。

 このスチューデント・アパシーが、燃えつき症候群や、荷おろし症候群とちがう点は、ここにも
書いたように、学業なら学業だけというように、アパシーになる部分が、かぎられているという
点。学業面では、無気力でも、アルバイトや、交友、遊びは、人一倍、活発にする。

 が、大学の講義室に入ったとたん、別人のように、無気力状態になる。反応もなく、ただぼん
やりとしているだけ。眠ってしまうこともある。

 こうした症状も、(本人がやりたいこと)と、(現実にしていること)のギャップが、大きいことが
原因でそうなると考えると、わかりやすい。「大学へは入ってみたが……」という状態である。と
くに、目標もなく、ただ点数をあげるためだけの受験勉強をしてきたような子どもに、多く見られ
る。

 このタイプの学生は、まず本人自身が、何をしたいかを正確に知らなければならない。しかし
たいていのケースでは、それを知るという気力そのものすら、消えていることが多い。

 「君は、本当は、何をしたいのか?」
 「わからない」
 「でも、君にも、何か、やりたいことがあるだろ?」
 「ない……」
 「でも、今のままでいいとは、君だって、思っていないだろ?」
 「……」と。

 こうした症状は、早い子どもで、小学校の高学年児でも、見られるようになる。概して、従順
で、まじめな子どもほど、そうなりやすい。友だちと遊ぶときはそれなりに活発なのだが、教室
へ入り、机に向かってすわったとたん、無気力になってしまう。

 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、それに気づき、子どもの心を取りもど
す。よく誤解されるが、「いい高校に入りなさい」「いい大学に入りなさい」というのは、子どもに
とっては、(したいこと)ではない。一見、子どものためを思った言葉に聞こえるかもしれない
が、その実、子どもの心を破壊している。

 だから今、目的の高校や大学へ入ったとたん、燃え尽きてしまったりして、無気力になる子ど
もは、本当に多い。市内の進学高校でも、5〜10%が、そうでないかと言われている(教師
談)。大学生となると、もっと多い。
(はやし浩司 アパシー スチューデントアパシー 無気力な子ども 自我の崩壊 同一性の危
機 同一性の崩壊)

+++++++++++++++++++++

少し前、こんな相談がありました。再掲載します。

+++++++++++++++++++++ 

【E氏より】

甥(おい)っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこの
ところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。

とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がないくせに、
やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。

やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身が持っ
ている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 

【はやし浩司より】

●消去法で

 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。

 バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる気が起き
ない、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)など。さらに回
避性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集団非行、非行)など。
自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害の前兆や、学校恐怖症の
初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。

 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を見せ
ることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。この時期だ
と、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハーハーあえぐ、など)。

 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうなのか。あ
るいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一日の中でも、
変動はあるのかないのか。

こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつう心配な
ケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うはずです。たとえ
ばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛もあります。行動面では、
たとえば収集癖や万引きなど。

さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすくなりま
す。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。

こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、これでは
ないか?」とです。

●教育と医療

 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したがって、ア
ドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが診断名をくだす
のは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書いたことを参考に、自分で
判断するしかありません。

 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方が違
うということです。

 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、幼児
期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、たいへん不安
定になります。

 「おとなに扱わないと怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というようにで
す。

 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、検査だ
けをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっていても、知
らないフリをして指導します。

 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。

 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。

 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある部分
(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生まれると説明
されます。

 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩慢動
作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象や回避性
障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進行していきま
す。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことということで、私も、少し気楽
に書いています。)

 ですから安易に考えないこと。

●二番底、三番底へ……

 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに最悪の
状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはしているようですが、
そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならないと思いがちですが……。
決して、そうではないということです。)

 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。そ
れが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。どこかに
心の変調があるとみてよいでしょう。

 では、なおすために、どうしたらよいか?

 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。

●家庭にあり方を疑う……

 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として機能し
ているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうどうと、ふてぶてし
く、体を休めているかどうかということです。

 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるようであ
れば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否があります。反省す
べきは、親のほうです。

 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」というの
は、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三番底へと、子ど
もを追いやってしまうから注意してください。

 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)の悪循
環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環を繰りかえ
し、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。
 
「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような行為と言っ
てもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、この年齢でも、半年
単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどということは、ありえません。

 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその子ど
もを見ていませんので、何とも判断しかねます。

 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということです。
子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離れます。

 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思いなお
し、大目にみます。

 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MGの多い食
生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり情緒が不安定
になっていることも、考えられます。)

 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えませ
ん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、意味がな
いばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に多いです。

 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。あまり
深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 バーントアウト 燃え尽き あしたのジョー症候群 無気力症候群 自我の崩壊
 回避性障害 引きこもり はやし浩司 行為障害 買い物グセ 集団非行 非行 学校恐怖
症 初期症状 怠学 不登校の前兆症状

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【Dさんへ、はやし浩司より(2)】

 少し話が脱線するかもしれませんが、同一性の
危機について、別の角度から書いたのが、つぎの
原稿です。

 どうか、参考にしてください。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本人のアイデンティティ
 
 日本人は、日本がどうあるべきだと思っているのか。どうあったらよいと考えているのか。

 日本人が、日本人として、したいことと、日本が今、進んでいるべき道が、一致していればよ
い。問題は、ない。心理学の世界にも、アイデンティティ(自己同一性)という言葉がある。

 (自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致していれば、その子どもは、落ちついて
いる。安定している。これを、アイデンティティという。が、ときとして、その両者がかみあわなく
なるときがある。

 A君(小学3年生)は、「おとなになったら、サッカー選手になりたい」と思っていた。地元のサ
ッカークラブでも、そこそこに、よい成績を出していた。が、そこへ進学問題がからんできた。ま
わりの子どもたちが、進学塾に通うようになった。

 A君は、それでもサッカー選手になりたいと思っていた。が、現実は、そうは甘くなかった。4
年生になったとき、さらに優秀な子どもたちが、そのサッカークラブに入ってきた。A君は、相対
的に、目だたなくなってしまった。

 ここでA君は、(自分の進みたい道)と、現実とのギャップを、思い知らされることになる。が、
こうした不一致は、ただの不一致では、すまない。

 A君は、心理的に、たいへん不安定な状態に置かれることになる。いわゆる「同一性の危機」
というのが、それである。が、さらに進学の問題が、A君に深くからんできた。母親が、A君にこ
う言った。

 「成績がさがったら、サッカーはやめて、勉強しなさい」「サッカーなんかやっていても、プロの
サッカー選手になるのは、東大へ入ることより、むずかしいのよ」と。

 子どもというのは、自我に目覚めるころから、自分のまわりに、(自分らしさ)をつくっていく。
これを役割形成という。が、その(自分らしさ)がこわされ始めると、そこで役割混乱が起きる。

 それは、心理的にも、たいへんな不安定な状態である。

 たとえて言うなら、好きでもない男と、妥協して結婚した、女性の心理に近いのではないか。
そんな男に、毎夜、毎夜、体を求められたら、その女性は、どうなる?

 こうしてアイデンティティの崩壊が始まる。

 一度、こういう状態になると、程度の差もあるが、子どもは、自分を見失ってしまう。いわゆる
(だれでもない自分)になってしまう。自分の看板、顔、立場をなくしてしまう。が、そこで悲劇が
止まったわけではない。

 A君は、進学塾に通うことになった。母親が、「いい中学へ入りなさい」と、A君を攻めたてた。
A君は、ますます、自分を見失っていった。

 こういう状態になると、子どもは、つぎの二つのうちの、一つを選択することに迫られる。

 (だれでもない自分)イコール、無気力になった自分のままで、そのときを、やりすごすか、代
償的な方法で、自分のつぎの道をさがし求めるか。

 代償的な方法としては、攻撃的方法(非行など暴力的行為に走る)、服従的方法(集団を組
み、だれかに盲目的に服従する)、依存的方法(幼児ぽくなり、だれかにベタベタと依存する)、
同情的方法(弱々しい自分を演じて、いつもだれかに同情を求める)などがある。

 ふつうこの時期、多くの子どもたちは、攻撃的方法、つまり非行に走るようになる。(だれでも
ない、つまり顔のない人間)になるよりは、(害はあっても、顔のある人間になる)ことを望むよう
になる。

 この時期の子どもの非行化は、こうして説明される。

 で、自分の存在感をアピールするために、学校でわざと暴れたりするなど。このタイプの子ど
もに、「そんなことをすれば、みんなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても意味はない。みなに
恐れられること自体が、その子どもとっては、ステータスなのだ。

 これは子どもの世界の話である。

 で、日本人も、今、私の印象では、その「同一性の危機」の状態にあるとみてよい。(日本人
として、したい道)と、(進んでいる道)が、一致していない。そのため日本人全体が、今、たい
へん不安定な心理状態にある。

 民主主義国家として、平和と自由を愛する国民になるのか、それとも、復古主義的な流れの
中で、武士道に代表される過去の日本にもどるのか。Y神社を参拝して、戦前の軍神たちに頭
をさげるのか。つまりはわけのわからない状態の中で、混沌(こんとん)としている。

 だから中国や韓国で、反日運動が起きても、「どうしたらいい……」と、ただ右往左往するだ
け。自分の主張すら、ない。ないから、声をあげることもできない。

 では、どうするか。

 私は、もう過去の日本とは決別をして、自由と、平和と、平等の三つを旗印にかかげ、国際
化のうねりの中で、まっしぐらに前に進むしかないと思う。その向こうにあるのは、かつて200
年前にカントが提唱した、世界国家である。コスモポリタンである。

 はからずも今朝(4・21)、オーストラリアのハワード首相が、日本との間で、FTA(自由貿易)
協定を結ぼうと提唱したというニュースが、飛びこんできた。オーストラリアは、イラクの自衛隊
を保護するために、オーストラリア軍を派遣してくれた。

 そういう国もある。(Advance Australia!)

 そういう国の存在を信じて、前に進む。それこそが、まさに日本のアイデンティティの確立に
つながる。

 ついでに一言。よく「アイデンティティ」という言葉を使って、「武士道こそが、日本人が誇るべ
き、アイデンティティだ」と説く人がいる。

 しかしそもそも言葉の使い方が、まちがっている。そういう人は、アイデンティティというのは、
個性のことだと思っている。さらに言えば、武士道など、日本人が誇らなければならない精神で
も、なんでもない。

 わずか数%の、為政者たちが、刀を振りまわして、大半の民衆を虐(しいた)げてきた。その
中で生まれた、自分勝手な論理と精神訓、それが武士道である。あえて言うなら、官僚道、役
人道ということになる。

 自分たちの先祖は、その大半が、武士とは無縁の、町民や農民であった。そういう立場を忘
れて、150年たった今、自分が武士にでもなったつもりで、武士道をたたえるのは、どうかと思
う。少なくとも、私はついていけない。

 もちろん文化は文化だし、歴史は歴史。だからそれなりに尊重はしなければならない。が、そ
れを今、もちだす必要は、どこにもない。改めて日本の「柱」にしなければならない理由など、ど
こにもない。

 私たちが進むべき道は、前にある。うしろではない。

 日本人の心を、発達心理学にからめて、考えてみた。
(はやし浩司 日本人 アイデンティティ 自己同一性)

(追記)

 農業問題もあるが、オーストラリア、シンガポールと、自由貿易協定を結べば、それ自体が、
韓国、中国にとっては、たいへんな脅威になる。

 日本には、ほかに、ブラジルがある。インドがある。アメリカも、カナダもある。EUもある。

 日本は、決して孤立していない。

 去年、オーストラリアの友人(国防省勤務)が、メールで私にこう書いてきた。(このことは、当
時のマガジンに原稿として書いた。)

 「ヒロシ、日本が、K国に攻撃されたら、オーストラリアは、自動的にK国を攻撃することになっ
ている。安心しろ」と。日本とK国の間の緊張感が、極度に高まっていたときでもある。

 私はそのメールをもらったとき、どういうわけか、涙が出るほど、うれしかった。そういう心が、
今回の、オーストラリア軍のイラク派遣へと、具体的につながっている。日本の自衛隊を守るた
めに、だ。

 韓国のN大統領よ、日本は、決して世界から、孤立なんかしていないぞ! バカめ! 孤立さ
せたいのは、N大統領、実は、あなた自身ではないのか! 中国で反日運動が起きたとき、イ
の一番に、「これで日本の安保理入りは、流れた」と喜んだのは、どこのどなたでしたか? 私
たち、日本人は、それを忘れないぞ!

 ……とまあ、たがいに、敵意を育てていてもしかたないですよね。しかしね、N大統領、日本
人も変わりましたよ。どうか戦前の日本人のイメージのままで、今の日本人を見ないでくださ
い。くれぐれも、よろしくお願いします。

 やがていつかすぐ、日本と韓国が、FTA協定を結ぶことになると思います。そういう時代は、
すぐそこまできています。そういう共通の目標に向って、いっしょに、前に進もうではありません
か。
(050421)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Dさんへ(3)】

 で、いよいよ本論ということになります。

 まず、現在の娘さんの心理状態を知るために、
以下の原稿を読んでくだされば、うれしく思います。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●同一性の危機

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自己の同一性は、危機に
立たされる。


●夢・希望・目的

夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力

同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。


●同一性の崩壊

同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。


●顔のない自分

同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力

暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。


●子どもの自殺

おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性

攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って攻
撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで勉
強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」とい
う場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポーツ
選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力

「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる

たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。


●役割混乱

子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)

しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。


●進学校と受験勉強

たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。


●これからはプロの時代

これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。


●大学生の問題

現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成

子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。

(はやし浩司 子どもを伸ばす 子供を伸ばす 自我の同一性 役割形成 思考プロセス 子
供の非行 子どもの非行 はやし浩司 子供を非行から守る 非行のメカニズム)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Dさんへ(4)】

 Dさんのメールを読んでいて、まず感じたことは、全体に、親のエゴばかりが目立つというこ
と。娘さんは、当初から、その私立女子中学校を望んでいたのでしょうか?

 あるいは、「そこへ行け、行け」と、たきつけたのは、ひょっとしたら、Dさん自身ではなかった
のではないでしょうか?

 「志」……なんて、おおげさなものを、この時期の子どもに期待する方が、おかしいです。今の
娘さんの心理状態は、その前の段階で、自分をつかめないでいるのです。「自分でも、どうした
らいいかわからない」といった状態です。

 理由を言えば、Dさん自身が、子どもの前に立ち、手を引くことだけしかしてこなかった。つま
り娘さんの気持ちを、そのつど、確かめることをしてこなかった。つまりは一方的に、押しつけ
てきただけ。それが積み重なって、今の状態になったと考えられます。

 今からでも遅くありませんから、娘さんの横に立ち、友として、娘さんの相談にのることです。
(友として、です!)娘さんの心には、今、ポッカリと穴があいていますから、誘惑にもたいへん
もろくなっています。どうか、お気をつけください。

 で、つぎのことに注意します。

●一過性の迷いなのか、本気なのか、見極めること。

 こうしたケースは珍しくありません。で、たいていは一過性の迷いのまま、やがて子どもの心
は落ちついていきます。

 一過性のものであれば、暖かく無視する……という方法で、対処します。

 が、本気で、そのほかに随伴症状が見られたら、転校などは、娘さんに任されるとよいでしょ
う。

「大きなことを言っては、実行できずに終わる娘です。部活もロクに活動をしていないような部
を転々とし、勉強もそこそこ。趣味は寝ることで、夢は妄想めいた事ばかり。

 私には甘えに思えてなりません。やりたいようにやらせ、本人が痛い思いをするのもいい経
験では、とも思うのですが、迷っています」(Dさんからのメール)というような見方では、娘さん
は、あなたに対して、心を開くことはないでしょう。

 頭から、「大きなことを言っては、実行できず」とは?
 「部活もロクに活動をしていないような部を転々とし、勉強もそこそこ。趣味は寝ることで、夢
は妄想めいた事ばかり」とは?

 さらに「本人が痛い思いをするのもいい経験では、とも思うのですが」とは?

 率直に言って、「これが親の言う言葉かな?」(失礼!)と思いました。

 おそらく、娘さんが幼いときから、Dさんは、過干渉ぎみ、過関心ぎみで、娘さんとのリズムが
合っていなかったのではないかと思っています。今も、そのリズムがかみあわないままでいま
す。

 どこかあなた自身、少し親意識が強すぎませんか? 今ここで、舵取りを誤ると、娘さんは、
このまま二番底、三番底へと落ちていきます。たいへん微妙な段階です。

 仮に「痛い思い」をしそうであれば、それをカバーするのが、あなたという親の役目ではないで
しょうか。言うべきことは、「また何かあったら、お母さんがあなたを守ってあげるから、心配し
なくてもいいのよ」です。

 さらにひょっとしたら、娘さんが、その私立女子中学校をやめたら、困るのは、あなたなので
はないでしょうか。あなたは娘さんの気持ちよりも、親のメンツ、世間体を気にしているのかもし
れません。

 もしそうなら、親子の断絶も、時間の問題かもしれませんね。(あなた自身も、親意識の強
い、権威主義的な家庭環境で、育てられている可能性も大きいです。ご自身の過去を、冷静
に、振りかえってみてください。)

 なお、気うつ的な状態になると、症状的には、生活態度がだらしなくなり、全体として、怠けて
いるような様子をしてみせるようになります。ですから表面的な症状だけを見て、「怠け」とか、
「甘え」とか、そういうふうに決めてかかってはいけません。

 本来なら、娘さんは、年齢的にも、ハツラツと、明るい表情で、生き生きとしているべきときで
す。が、それが本人も、できない。つまり、一番苦しみ、もがいているのは、娘さん自身だという
ことです。なのに、家に帰ると、母親のあなたから、ガミガミと言われる。冷たくあしらわれる。
「甘えだ」「怠けている」「部活もロクにできない」と。

 私があなたの娘さんなら、「このクソババア!」と叫んで、家を出ますよ! (ホント!)

 ともかくも、ここは、こうしてください。

(1)娘さんのよき聞き役に回ること。(これが重要です!)
(2)転校も考えてやること。(失敗するとわかっていても、です。)
(3)先に書いた、自己の同一性を、娘さんの中に作ってあげること。
(4)一方的に、親の価値観を、娘さんに押しつけないこと。

 一過性の(迷い)のようなものであれば、それほど、深刻に考える必要はありません。ただ、
いただきましたメールの内容からすると、すでに娘さんは、軽い気うつ状態から、うつ症、ある
いはうつ病的になっているのではないかと心配されます。「不登校を起こす」と娘さんは言って
いるようですが、決して、安易に考えないこと。本当に、そうなる可能性は、大です。

 やりたいこともできず、悶々としているより、やってみて失敗するほうが、気分もずっと楽で
す。後悔もしません。私なら、子どもを信じて、本人のやりたいように、させますが……。

 以上です。どうか、参考にしてください。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自分
をつかめない子ども 子供の転校 転校問題 中学生の心理 迷う子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1405)

●生きているという実感

++++++++++++++++

子どもたちに作文を書かせる。

それを読んで、私が、だれがそれを
書いたかを言い当てる。

が、これが結構、むずかしい。

子どもたちも、かなり知恵をしぼる。

++++++++++++++++

 ここ数週間、私は、子どもたちと、「作者当て遊び」ろいうゲームをしている。子どもたちに何
かテーマを与え、作文を書かせる。その作文を読んで、だれがそれを書いたかを、私が言い当
てる。

 このところ、子どもたちも要領を覚え、かなり知能的になってきた。言い忘れたが、私がまち
がえたばあいには、その子どもに、何かの賞品を与えることになっている。

 で、女の子でも、私をだますために、「ぼくは……」と書いたりする。また最近では、「女文字」
「男文字」というのが、昔ほど、明確ではない。女の子でも、男の子が書くような文字を書く。文
字だけを見て、男女を区別することは、むずかしい。

 昨日は、「どんなテーマパークを作りたいですか。そのテーマパークについて、考えなさい。ま
た政府から予算をもらうためには、どのように書けばよいですか」というテーマを与えた。

 制限時間は、20分。子どもたちは、黙々と書き始めた。

 私はその間、目を閉じて、じっと時間が過ぎるのを待つ。いつものように、子どもたちの間を、
回遊することもできない。子どもたちも、それをいやがる。

 ……書くということは、考えること。考えるからこそ、人間は、人間である。人間でいられる。
書くことの重要性は、そこにある。しかし『我思う、故に我あり』だけでよいのか? ……という
疑問もないわけではない。つまりそれだけでは、真の自由にたどりつくことはできない。そこで
生まれたのが、『無の概念』。サルトルである。

 サルトルの『無の概念』を、さらに一歩先に進めたのが、メルロ・ポンティ(1908〜61、フラ
ンスの哲学者)である。メルロ・ポンティは、「自分を確信するためには、我を忘れて、行為に身
を投げ出すこと」というようなことを言った。

 つまり考えるだけでは、人間は、自由になれない。『無』の世界に自分を投じてこそ、人間は、
真の自由を手にすることができる、と。

 私は目を閉じて、静かにその『無』の境地に、ひたる。心のざわめきも、今は、ない。暗闇の
その向こうに見えるのは、私を超えた私の世界。生きているという実感が、まわりのありとあら
ゆる物象とつながる。

 が、突然、タイマーのベルで、その静寂が破られる。子どもたちの声が、それにつづく。見る
と、子どもたちが、自分の書いた作文を、ほかの子どもたちの書いた作文に混ぜ、シャッフル
している。そしていつものゲームが始まる。

 私にとっては、最高に楽しい時。あとは爆笑につづく、爆笑。ゲラゲラと笑って、またゲラゲラ
と笑う。一文、声を出して読むたびに、みな、笑う。

私「これは、A君のだ」
A「ハズレ!」
私「お前のじゃ、ないのか?」
A「ぼくじゃ、ない!」
みな、ゲラゲラ、と。

 この笑いがつづくかぎり、私は、今の仕事をやめない。仮に生徒が1人になっても、仮に赤字
経営になっても、やめない。笑いこけた瞬間、私は、その『無』を感ずる。私にとっては、それが
生きているという実感。……ということになる。
(060712)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 無の
概念 メルロ・ポンティ)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【極東情勢】(06年7月12日)

+++++++++++++++

ますますこじれる、日韓関係。
韓国のN大統領にも、それなりの
思いがあるのだろう。

しかし……、それにしても、しかし
……。

+++++++++++++++

 こんな話がある。あまりよいたとえではないことは、わかっている。

 ある女性が、暗い夜、家路を急いで歩いていた。そして小さな橋にやってきた。その橋には、
以前から、暴漢が出ると、うわさされていた。

 女性は、橋を渡るのをためらった。そこで近くに住む、ボーイフレンドに電話をした。「助けて
ほしい」と。しかしその男性は、冷たくも、「今、サッカーの試合を見ているから、行けない」と。
その女性の申し出を断った。

 女性はしかたないので、意を決し、橋を渡ることにした。が、その橋を渡ったところで、暴漢に
襲われた。身ぐるみはがされた上、殺されてしまった。

 この話の中では、だれが一番、悪いのか? 女性の頼みを断った男性か? それとも、暴漢
か?

 多分、韓国のN大統領なら、「男性が悪い」「女性の申し出を断った、男性にこそ、責任があ
る」と言うだろう。

 しかし本当に悪いのは、暴漢である。K国という暴漢である。その暴漢を問題にすることなく、
一方的に、男性ばかり責めるのは、どうか? 現在の極東情勢を見ていると、まさにそんな感
じがする。もちろんその男性というのは、この日本のことである。

 だからといって、その男性に、責任がないわけではない。はっきり言おう。

 あんなK国など、本気で相手にしてはいけない。また本気で相手にすべき国ではない。国力
は、山陰地方にある1県よりも、乏しい。今では、世界の中でも、アフリカのソマリアと並ぶほど
の、最貧国。「制裁、制裁」というが、これ以上、あの国を制裁して、どうなる?

 K国は、自滅か、さもなければ開戦かという、瀬戸際の、そのまた瀬戸際にまで追いつめら
れている。そういう国を、これ以上、追いつめて、どうする。どうなる。

 それとも、日本は、K国のワナにはまり、そのK国と、心中でもするつもりなのか。

 ミサイル基地を先制攻撃すると息巻いた、A官房長官。ひきつった顔で、自分だけが国士と
いうような顔をしている、A外務大臣。もう、少し、頭を冷やせ! このままでは、日本とK国の
戦争は、時間の問題。へたをすれば、K国は、核弾頭つきのミサイルを、東京に撃ちこんでくる
ぞ!

 もし今、あなたが「いくらなんでも、そこまではしないだろう」と思っていたら、それこそまちが
い。あの金xxは、もう、まともではない。また(まとも)という前提で、現在の極東情勢を考えて
はいけない。これから先、あの男は、何をしでかすか、わかったものではない。昔から、『窮鼠
(きゅうそ)、猫をもかむ』と言うではないか。

 さて、話を韓国のN大統領にもどす。

 今朝(7・12)の、韓国の各紙を見ると、韓国のN大統領以下、政府首脳は、この日本を、
「準敵性国家」と位置づけたとの報道が見られる。とくにA官房長官が口にした、「先制攻撃論」
を、口汚く、韓国側は、公式に批判している。

 韓国内では、反体制派の新聞として知られている朝鮮N報ですら、つぎのように報道してい
る。

「韓日両国の葛藤(かっとう)が深刻化している。準敵対国化するのではないかという懸念さえ
持ちあがっている。大統領府の高位当局者も最近の両国関係に対し、『非正常的』と言及して
いる」と。
 
 いつの間にか、日本は、韓国の準敵性国家となってしまった。「ヘエ〜」と思ったり、「?」と思
ったり……。アメリカ型西欧文明を受け入れた日本。儒教文明との対立には、根深いものがあ
る。が、それはさておき、しかし本当に悪いのは、だれか?

 女性を助けなかった男性か? それとも、橋の上で女性を襲った暴漢か?

 韓国のN大統領は、それすら認識できないほど、老人性の回顧主義に陥ってしまったらし
い。「坊主憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い」というところまでなら、私にも話がわかる。しかしそ
れが高じて、「坊主憎ければ、仏教まで憎い」となってしまった(?)。

 まあ、ここは、制裁は、ひとまずさておいて、国連安保理での「議長声明」にとどめるのがよ
い。そしてそのあと、さらにK国が何かをしでかしたら、今度こそ、「制裁決議案」とする。韓国
はともかくも、今ここで中国まで敵に回してしまったら、それこそ、まさにK国の思うツボ。

 あんなK国など、本気で相手にしてはいけない。あんなK国に、本気で、こぶしを振りあげて
はいけない。あんなK国のために、自衛隊員の1人をも、犠牲にしてはいけない。またその価
値も、ない。こんなのは、喧嘩(けんか)の常識。イロハ。私は子どものころ、その喧嘩ばかりし
ていた。だからこそ、余計に、それがわかる。

 さて、韓国のN大統領だが、今日もあれこれ、この日本を口汚く、ののしっているようだ。今度
は、「日本の敵地攻撃能力は、けしからん」と言い出した。が、言いたいように言わせておけば
よい。気にしてはいけない。

 日本としては、ただひたすら、無視。シカト。どうせ支持率10%台の、レイム・ダック。負け
犬。吠(ほ)えたいように、吠えさせておけばよい。

【補足】

 忘れてならないのは、「貧者」には、「貧者の論理」というものがあるということ。決して、K国
の肩をもてというのではない。

 たとえば、あなたが、今日の食費さえままならない生活をしていたとする。オヤジはぐうたら
で、ピストルばかり買いこんでいる。

 で、隣の家を見ると、豪勢な生活をしている。食卓には、食べ物が山のようになっている。夜
中でも、煌煌(こうこう)と電気がついている。クーラーはつかい放題。

 そういう生活を見せつけられたとき、あなたは、(1)自分のオヤジのふがいなさを責めるだろ
うか。それとも(2)隣の家に反感をもつだろうか。

 いわゆる貧者の論理というのは、ここでいう(2)の心理状態を基盤とする。隣の家の人から
見れば、まことに自分勝手な論理ということになる。「文句があるなら、オヤジに言え」となる。
が、貧者のほうは、そうは思っていない。それを「矛盾」ととらえる。

 つまりここを読み誤ると、相手の論理がわからなくなるばかりではなく、訳がわからなくなって
しまう。

 少し前にも書いたが、私たちが信奉する民主主義にしても、富めるもの、力のあるものだけ
の論理を振りかざして、それを貧者に押しつけても、意味はないということ。それには限界があ
る。かえって反感を買うことにもなりかねない。つまりは、それが民主主義の限界ということにも
なる。

 貧者の論理というのは、貧者の立場になってはじめて理解できる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 貧者
の論理 強者の民主主義)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1406)

●満腹症状(満腹児)

++++++++++++++++

適度な空腹感が、子どもを伸ばす。
しかし今、その空腹感のない子どもが
ふえている。

俗にいう、『満腹児』である。

柔和で、おだやか。満足げで、
おっとりしている。

しかし最大の特徴は、競争心に
欠けること。どこかナヨナヨとし
ていて、ハキがない。

++++++++++++++++

 いつも手の届くところに食べ物がある。何でも、ある。その食べ物を、食べたいときに食べる
ことができる。もしそんな環境に置かれたら、子どもは、空腹感を覚えることはない。が、それ
だけではすまない。

 子どもを伸ばす最大のコツは、子どもを、いつもややハングリーな状態に置くこと。その空腹
感が、生きる原動力になり、やる気も、そこから生まれる。が、そうでなければ、そうでない。

 俗にいう、「満腹児」と呼ばれる子どもがいる。私自身は、まるでひざに抱かれたペットのよう
であることから、「ペット児」と呼んでいる(失礼!)。

 いつも満足げで、おっとりとしている。柔和で、穏やか。やさしい笑みを絶やさないが、ハキが
ない。しかし最大の特徴は、競争心や闘争心に欠けること。どこかナヨナヨとした感じで、たくま
しさに欠ける。

 原因の第一は、手のかけすぎ。生まれたときから、きわめて良好な環境で、手厚く育てられ
ている。親の愛情も、たっぷりと受けている。D君(小1)も、そんな子どもだった。

 ある日のこと。何かを教えているとき、こんなことに気づいた。D君には、損とか、得とかいう
感覚が、まったくないわけではないが、ほかの子どもたちと比較すると、極端に弱いことがわか
った。

 ゲームをしていても、平気で負けてしまう。ふつうなら悔しがるような場面でも、ニコニコと笑っ
ているだけ。そこで私は、あれこれハッパをかけるのだが、反応が鈍い。ヌカに釘といったふ
う。そしてそういった特徴が、学習面にも現れていた。

 計算問題はそこそこにできるのだが、文章題になると、とたんにできなくなる。「合わせていく
つ?」「残りはいくつ?」という問題では、問題の意味そのものがつかめない。日常生活の中
で、そういう会話そのものをしていないといったふう。

 誤解しないでほしいのは、計算力は、練習で身につけることができる。しかし算数力となる
と、そうはいかないということ。日常生活の中で、「多い」「少ない」「増えた」「減った」「得した」
「損した」という経験を通して身につく。そうした経験というか、数に対する意識が、ここでいう算
数力に結びつく。

 ちなみに、年長児で、「ちがい」の理解できるこどもは、全体の10〜20%前後。簡単な指導
で、それが理解できるようになる子どもは、全体の60〜70%前後。残りの10〜20%前後の
子どもは、あれこれと、30分以上、時間をかけて説明するのだが、理解できない。

 「5個と、3個のちがいは、いくつですか?」と聞いても、「5個のほうが多い」とか、「3個」と
か、答えたりする。

 そのD君には、ほかにもいくつかの特徴が見られた。

(1)基本的な生活習慣が身についていない。

 たとえば「片づける」ということができなかった。レッスンが終わって、みなが帰るようなときで
も、机の上には、道具やプリントが散乱したまま。そこで、それを片づけるように促すのだが、
片づけるまでに、おそろしく時間がかかった。

 また片づけるといっても、バッグの中に、ものを押しこむといったふう。鉛筆も筆箱の中に入
れるのではなく、そのままバッグに入れていた。もちろんプリントは、クシャクシャ。

(2)受動的な生活態度

 できないことや、わからないことがあっても、D君は、そのままそこで立ち止まっているだけ。
ときどき隣の子どもに、ちょっかいを出しては、ふざけて遊んだりしている。「これをしなければ
……」という緊張感そのものがない。

 そこでやや脅迫的に、「ここまでしなければ、今日のレッスンは終わらないよ」と言っても、まさ
にどこ吹く風。意に介しない。おとなの世界をなめているというよりは、おとなに甘えきっている
といったふう。

 原因は、先にも書いたように、「手のかけすぎ」。このタイプの子どもは、乳幼児期において、
異常なまでに手厚い保護とケアを受けている。多くは、それに親の過保護とでき愛が加わる。

 そこで対処方法ということになるが、親に、子どもがそういう状態であることを理解してもらわ
ねばならない。が、子育てのリズムに関するものだけに、そのリズムを変えるのは、容易では
ない。根が深い。

 つぎに、「集団生活」という場で、子供どうしを競わせることによって、その子どもをハングリー
な状態に置く。ふつう小学3年生くらいになり、自意識が育ってくると、子どもは自分で自分をコ
ントロールする方法を身につける。

 その時期に期待しながら、つまりその自意識の発達をうまく利用しながら、満腹症状を軽減し
ていく。ふつうは、そういう子どもであると認めた上で、指導する。1〜2年単位の根気のいる指
導が必要だからである。

 で、その結果、満腹症状が消えるかといえば、そうとも言えない。どこかのんびりとした、穏や
かな症状は、残ったままになることが多い。その子どもの性格として、定着してしまうからであ
る。

 さらに学習面について言えば、能力そのものが、不完全燃焼のまま終わることが多い。「が
んばれば、もっとできるのに……」と思うのだが、ここ一番というところで、いつも、その一歩手
前で、(あるいは数歩手前で)、立ち止まってしまう。

 教える立場からすると、「損をしている」と思うだが、もちろん、本人には、その自覚はない。

 そこで大切なことは、つまりは、乳幼児期において、そういう子どもにしないこと。そのために
は、今現在、子育てのリズムがどうなっているか、それを自分で知ること。その(子育てリズム)
について知ってもらうため、以前書いた原稿をここに再掲載する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 満腹
症状 満腹症状の子供 ペット児 子育てリズム論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育てリズム論

 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が4拍子で、子ど
もが3拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、2つの曲を同時に演奏すれば、それは騒
音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。

しかし(2)子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、
要注意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子
どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごと
でも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前
では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮
面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。

父「お前は、パパに何をしてほしいのか」
子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。

この段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのように聞かれ
ると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手
の気持ちを確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(32歳)は、こう言った。「今でも、実
家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会
話はほとんど、ない。

どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいる
ため、変えるのは容易ではない。しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。
もしあなたが子どもの手を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子ど
もの歩調に合わせて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変
えることができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子育
てリズム論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●依存心をつける子育て

 森Sの歌う歌に、『おふくろさん』がある。よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。
しかし……。

 「溺愛児」というときには、二つのタイプを考える。親が子どもを溺愛して生まれる溺愛児。そ
れはよく知られているが、もう一つのタイプがある。

親を溺愛する溺愛児というのが、それ。簡単に言えば、親離れできない子どもということになる
が、その根は深い。

Nさん(女性)は、60歳を過ぎても、「お母さん、お母さん」と言って、実家に入りびたりになって
いる。親のめんどうをあれこれみている。親から見れば、孝行娘ということになる。Nさん自身
も、そう言われるのを喜んでいる。いわく、「年老いた母の姿を見ると、つらくてなりません。もし
魔法の力が私にあるなら、母を50歳若くしてあげたい」と。

 話は飛ぶが、日本人ほど子どもに依存心をつけさせることに、無関心な民族はないとよく言
われる。欧米人の子育てとどこがどう違うかを書くと、それだけで1冊の本になってしまう。

が、あえて言えば、日本人は昔から無意識のうちにも、子どもを自分に手なずけるようにして
子どもを育てる。それは野生の鳥をカゴの中に飼い、手なずける方法に似ている。「親は一番
大切な存在だ」とか、あるいは「親がいるから、あなたは生きていかれるのだ」とかいうようなこ
とを、繰り返し繰り返し子どもに教える。教えるというより、子どもの体に染み込ませる。

そして反対に、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。あるいは
親不孝者として、排斥する。こうして日本では、親に対してベタベタの依存心をもった子どもが
生まれる。が、それは多分に原始的でもある。少なくとも欧米的ではない。あるいはあなたはよ
い歳をして、「♪おふくろさんよ、おふくろさんよ……」と涙を流している欧米人が想像できるだ
ろうか。

むしろ現実は反対で、欧米人、特にアングロサクソン系のアメリカ人は、子どもを自立させるこ
とを、子育ての最大の目標にしている。生後まもなくから、寝室そのものまで別にするのがふ
つうだ。親子という上下意識がないのはもちろんのこと、子どもが赤ん坊のときから、「私は
私、あなたはあなた」というものの考え方を徹底する。たとえ親子でも、「私の人生は私のもの
だから、子どもにじゃまされたくない」と考える。

こうした親子関係がよいか悪いかについては、議論もあろうかと思う。日本人は日本人だし、
欧米人は欧米人だ。「♪いつかは世のため、人のため……」と歌う日本人のほうが、実は私も
心情的には、親近感を覚える。しかしこれだけはここに書いておきたい。

親思いのあなた。親は絶対だと思うあなた。親の恩に報いることを、人生の最大の目標にして
いるあなた。そういうあなたの「思い」は、乳幼児期に親によって作られたものだということ。し
かもそれを作ったのは、あなたの親自身であり、その親も、日本という風土の中で作られた子
育て法に従っただけに過ぎないということ。

言いかえると、あなたの「思い」の中には、日本というこの国の、子育て観が脈々と流れてい
る。それを知るのも、子育てのおもしろさの一つかもしれない。さて、もう一度、『おふくろさん』
を歌ってみてほしい。歌の感じが前とは少し違うはずだ。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉
に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本
能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子
育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習
って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。
スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるも
のなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必
要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経
験を武器として、自分たちの世代を生きる。

そして親になったとき、自分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育
てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。その第一。

たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。洗濯
は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水道、ガスはガ
ス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ますか」と
質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さ
に慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような
知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。
私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。

さらに高校二年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。もうこうなる
と、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつというのか。こう
した事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々ている」(学外
研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たち
が得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、
かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。

将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるように
するのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの自立 自立 自立する子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1407)

【ある日のBW】

++++++++++++++

笑って、騒いで、
クラスはメチャメチャ。

でも、帰るとき、みな、
「残りは、ぜんぶ、家で、
やってくる!」と言って、
部屋から出て行った。

これでいいのだ!

++++++++++++++

 ありのまま。7月12日。小5クラス。

 子どもというのは、一度、笑いぐせがつくと、止まらない。風が吹いても笑う。紙が動いても笑
う。だれかが咳をしても笑う。

 どうしてそんなに笑えるのかと思うほど、よく笑う。そして一度、こうなると、もう収拾がつかなく
なる。

 私はだまって、子どもたちのやりたいように、させる。しかってもダメ。注意してもダメ。脅して
もダメ。

 その中のGさんも、よく笑った。ケチャケチャ、キャッキャッ、と。

私「うるさい。笑うな!」
G「うるさいのは、お前だア」
私「じゃあ、ゲームしよう。ゲームに負けたら、静かに勉強するかア?」
G「する、する。で、私が勝ったら、何をくれる?」
私「うしろにあるおもちゃを、あげる」
G「じゃあ、する。約束よ!」と。

 私の机の上に、スポンジでできたピストルがあった。それで、同じくスポンジでできた、ミサイ
ル(弾)を飛ばす。それをGさんに渡しながら、「ぼくを撃って、そのミサイルが、ぼくの口に入っ
たら、君の勝ち。弾は3発。3発とも入らなかったら、静かに勉強する。わかったかア!」と。

 Gさんは、元気よく前に出てきた。そしてピストルにミサイルをつけると、私にねらいを定め
た。

 どうせ当たらない。私はそれをよく知っていた。私は大きく口をあけて、Gさんが、弾を撃つの
を待つ。言い忘れたが、そういう弾だから、当たっても、痛くない。フワッとした感じしか、残らな
い。

 1発目……はずれて、どこかへ飛んでいった。
 2発目……それが、何と、私の急所に当たった。

私「わざとやったな。セクハラだぞ!」
G「ハハハ、当たった、当たった!」と。

 するとそれを見ていた、K君が、「先生のは、しなびているか?」と。

私「K! セクハラだ!」
K「だって、ぼくのパパのは、しなびている」
私「バカ! そういう話を、女の子のいる前でするんじゃ、ない!」と。

 すると、それを聞いていた、Oさん(女の子)が、「いいもん。私のパパのも、しなびているか
ら」と。

私「あのなア、女の子が、そういう話をしてはダメ。どうしてそんなこと、知っているの?」
O「だって、いつも、お風呂にいっしょに、入っているもん」
私「そういう話も、してはダメ」
O「姉ちゃんだって、いっしょに入っているよ」
私「そういう話も、してはダメ」と。

 あとは、いつもの大混乱。私は、「うるさい、静かにしろ!」と叫ぶ。子どもたちは、さらに大声
で笑う。

 こうなったら、最後の手段。おもちゃのハンマーで、子どもたちを叩くしかない。もぐら叩きの
要領で、しゃべった子どもを叩く。

子どもたち「体罰だア!」「体罰だア!」
私「文句、あるなら、さっさと、BWをやめろ!」「ここは学校じゃ、ない!」と。

 ……ということで、何とか、レッスンを終えた。暑い上に、この調子。終わるころには、汗ダク
ダク。

 で、部屋を片づけて、下の駐車場までおりていくと、そこにGさんが立っていた。そして私にこ
う言った。

 「先生、あのワークブック、今週中にぜんぶ、やってくる」と。

私「ぜんぶは、無理だよ」
G「やってくる。やってきたら、おもちゃ、くれる?」
私「ぜんぶやってきたら、2つ、あげるよ」
G「2つも、くれるの?」
私「約束するよ」と。

 ワークブックといっても、A3大の大型ワークブックである。まだ50ページ以上も残っている。
しかも、レベルは、小6。Gさんは、ほぼ2年、飛び級している。

 と、そこへGさんの母親が、Gさんを迎えに来た。一部始終を、ややおもしろおかしく伝える
と、Gさんの母親は、こう言った。

 「この子は、やると言ったら、やる子ですから……」と。

 私も、それを知っている。Gさんという子どもは、そういう子どもである。ある時期、リズムが乱
れたかと思うと、別のあるとき、今度は、猛然と勉強をし始める。優秀な子どもに、共通してみ
られる現象である。

 『馬を水場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのは、イギリスの
教育格言である。しかしその馬も、のどがかわけば、自分で水場に行って、水を飲む。ガブガ
ブと飲む。

 そういうふうにしむけるのが、私の仕事ということになる。

 なおこのエッセーは、このあと、そのクラスの親たちに、このまま送信するつもり。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●韓国の、おバカ大統領

++++++++++++++++++

ますます「?」な、韓国のN大統領。

「?」を通り越して、おバカになって
しまった(?)。

韓国の中央日報ですら、社説で、
「この国の政府が、嘆かわしい」と
言い切っている。

++++++++++++++++++

 まずは、韓国のプサンで開かれた、南北閣僚級会談の内容から……。

 韓国側は、K国側のご機嫌をとるために、その会議の間に、(1)「ミサイルより、日本のほう
が脅威」と発言してみせたり、(2)「国連安保理へ日本が出した、K国非難の決議案には反対」
と発言してみせたりした。が、それだけではない。

 以下が、まあ、何というか、メチャメチャ。(詳しくは、このあとに、中央日報の記事をそのまま
転載しておくので、必要な方は、そちらを読んでほしい。)

●「韓国を守ってやるから、米、よこせ!」

 K国の代表団は、韓国側にこう伝えたという。「韓国を、核とミサイルで守ってやるから、米を
50万トン、支援しろ」と。

 実際には、「米国の侵攻に対立し、核とミサイルで、北はもちろん南も保護するから、韓国側
はその対価として支援をしろ」(C日報・06年7月13日)と。

 この言葉を裏から読むと、こうなる。つまり「米を支援してくれれば、韓国を、核やミサイルで
攻撃しない」と。

 当然のことながら、韓国側は、そう読んだ。K国からの脅迫と読んだ。

 ほかにもK国側は、(1)韓米軍事訓練中止せよとか、(2)国家保安法廃止せよとか。さらに
は、(3)革命烈士陵などに対する、韓国側関係者の参拝許容までも要求した。また(4)ミサイ
ル発射に対しては、K国側は、直接その質問には答えず、その数日前に出された、K国外務
省スポークスマンの発言を参考にせよと言ったとか、など(※)。

 まさに言いたい放題。

 これに対して、韓国のN大統領の、一連の対K国政策も、おかしい。

 K国内部で、ミサイル発射の動きがあることを知りながら、それを国民には、伏せたままにし
ておきながら、それが日本などから伝えられると、「あれは、ミサイルではない。人工衛星だ」
と、K国を、かばってみせた。

 またミサイルが発射されると、「(日本のように)早朝から大騒ぎする必要はない」とまで!

 で、ミサイルが発射された当日にも、K国に向かって、援助肥料を満載した船を出港させてい
る。

 が、これだけではない。

 韓国は、K国内に、K城工業団地なる工業団地を建設したが、「K城工業団地で生産された
製品は、アメリカがすべて買い取るべき」(韓国政府高官)と。理由は、「韓国が南北に分断さ
れたのは、アメリカの責任だから」(金大中)とか。

 もちろん、こうした意見が、韓国の人たちの総意を代弁しているのではない。ミサイル発射に
ついても、韓国の、54%の人たちが、「再発防止のため強力な制裁が必要」と、考えている
(朝鮮N報)。

 朝鮮N報は、つぎのように報道している。

 「世論調査の専門機関であるリサーチ・アンド・リサーチが、11日、韓国の成人男女800人
を対象に実施した電話アンケートによると、北朝鮮のミサイル発射に対する政府の対応につい
て、

過度に安易な態度に見えた……63・3%という否定的な意見が
落ち着いて慎重に対応していた……28%という肯定的な意見よりはるかに多かった。

 北朝鮮のミサイル発射以降の、国連を通じた米国と日本の北朝鮮に対する強硬的対応の動
きについては、

再発防止のため強力な制裁が必要……53・6%で、
効果もなく事態を悪化させるばかりのため必要ない……37・6%だった。

 「北朝鮮のミサイル発射と関連し不安を感じるか」という質問には、

不安を感じる……50%で、
不安を感じない……49・6%という意見が半々に分かれた。

この調査の誤差範囲は95%、信頼水準は±3・5ポイント」と。

 同じような調査結果が、時事通信社からも、配信されている(7月13日)。

++++++++++

 【ソウル7月13日時事】

13日付の韓国夕刊紙・文化日報は、最近の世論調査で、N大統領政権の融和的な対北朝鮮
政策に、62・3%が「良くない」と回答したと報じた。

一方、「良い」は34・1%にとどまり、否定的な評価が大きく上回った。同紙は、K国によるミサ
イル発射が影響したと分析している。 

++++++++++

 わかりやすく言えば、韓国の国民からも、N大統領は、完全に遊離してしまっている!

 政治、なかんずく国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。まず現実を見る。すべ
ては、そこから始まる。が、韓国のN大統領の政治姿勢は、完全にうしろ向き。いまだに戦前
の日本にこだわり、またそういう目でしか、この日本を見ていない。

 アメリカについて言えば、朝鮮動乱当時の目でしか、見ていない。

 そして現実に、そこにある脅威には、目もくれない。現実を、見ようともしない。これでは、「お
バカ大統領」と酷評されても、文句は言えないだろう。

 前にも書いたが、N大統領が支えているのは、共産主義国家でもなければ、社会主義国家
でもない。頭の狂った独裁者が支配する、軍事独裁国家である。

 韓国のN大統領は、その区別さえも、できなくなってしまったのか? C日報は、「国民は、怒
っている」と、最後を結んでいるが、日本人も怒っている。どうかそれを忘れないでほしい。

++++++++++++++++

注※【C日報・社説】「核とミサイルで韓国を守るから、コメを出せ」

  南北閣僚級会談でK国側団長が、傍若無人な発言をした。同団長は韓米軍事訓練中止と、
国家保安法廃止を主張した。革命烈士陵などに対する韓国側関係者の参拝許容も要求した。
ミサイル発射に対しては数日前に出された外務省スポークスマンの発言を参考にせよと言っ
た。こんなあきれた話を聞くために会談にそれほどまでに執着したのか。この政府が嘆かわし
い。 

  驚かされたのは「K国の先軍政治が、韓国側の安全をはかる」と言ったことだ。それとともに
コメ50万トン支援を要求してきた。「米国の侵攻に対立し、核とミサイルで、北はもちろん南も
保護するから韓国側は、その対価として支援をしろ」と言うのだK国側はミサイル発射という
「正常軍事訓練」ができるが、南側は軍事訓練してはいけないという強硬発言も同じだ。 

  一言で韓国を、「朝貢国」とみなすわけだ。 

  こんなわけのわからないことを言われたのは、ある意味では予想されたことだった。大統領
がすべての物質的、制度的支援をするといった支援ができなくてやきもきしていた。国際犯罪
である偽造紙幣や、悽惨な北朝鮮人権問題などでは、K国をかばうために神経を使った。

ひどいときは、ミサイルを発射してもK国より、日本をとがめることに力を入れている。金xxと首
脳会談をしたくて気をもんだのか、それとも「理念的信条」のためか、まったく理解不可能なこと
が起こっている。 

  大統領個人の信条のために国がここまで壊れるわけにはいかない。韓国側代表という人
は、まともに抗弁もできない。こんな話聞くために南北会談をしたのか。ミサイルに対してはよ
うやくひとこと言ったが、朝貢しろという話を聞くまでになってしまった。K国がこんなに傲慢な態
度を見せたのは、「韓国側は眼中にもない」という意味だ。 

  この政府は「対話の糸を切ってはいけない」という理由で今回の会談を強行した。しかしK国
の意図に対しては、何1つ知らないことを如実に表した。対北政策を原点から見直してほしい。
ここまで脅迫され、思うがままにされる南北対話は、これ以上、いらない。 

  国民は怒っている。 (以上、原文のまま。)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1408)

【最近・あれこれ】

●もっとも立派だと思う国……日本

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韓国の反日ムードを嫌い、
このところ日本企業は、韓国から去り、
その目を、台湾に向け始めている。

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 今年1〜4月期の日本からの台湾投資は、2億1100万ドル(約238億円)となり、前年同期
比で、112%も増加した。

 とくに、薄膜トランジスタ液晶表示装置、半導体、自動車、電子および部品、機械、ゲームプ
ログラムという、5つの中心産業での投資が著しい。そしてこれらの産業は、すべて韓国の国
内産業と競合するものばかり。

 具体的には、NECは、台湾に台湾光電という会社を設立。台湾企業に、日本の主要IT企業
の生産(OEM)基地としての役割をもたせようとしている。

また、ソニーとNECは、2004年から、毎年50億〜60億ドル程度のIT製品を台湾から購入し
ており、台湾に,インターネット情報家電、および、半導体研究開発センターを設立している。

 わかりやすく言えば、日本は、現在、打倒韓国の旗印のもと、静かに、かつ密かに、台湾の
基幹産業にテコ入れを始めたことになる。ターゲットは、もちろん、液晶パネル。すでにその波
及効果は、現れ始めている。

 韓国のL社といえば、液晶パネル生産では、一時は一世を風靡(ふうび)した会社としてよく
知られている。昨年のはじめまでは、どこのショッピングセンターに行っても、L社の液晶テレビ
が、店頭を飾っていた。が、時代は変わった。今年は、L社だけでも、数百億円の赤字が見こ
まれている。

 こうした日本の動きに、嫉妬し、危機感をいだいているのが、韓国。韓国のI貿易研究所主席
研究員は、『日本と台湾が投資と提携をふやせば、台湾と主力輸出産業が重複する韓国の輸
出が、打撃を受ける可能性がある』と話している。

 こういうのを、韓国では、「ブーメラン効果」と呼んでいる。日本をたたけばたたくほど、その効
果は、ブーメランのようになって、韓国に打撃を与えるというもの。

 私たち日本人の知ったことではないが……。

 なお台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思う国」「旅
行したい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)。

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 日本は、こういう国を、もっと大切にしようではないか! 

 我愛台湾!


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1409)

【夏バテ対策】

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数年前の夏、私は体調を崩した。
かなり崩した。

毎日、重い自分の体をもてあまして、
四苦八苦。

そこで一念発起。その翌年からは、
春先から夏に向けて、体力づくりに
専念した。

今年も、神経をつかった。

そしてそれが昨日、試された。

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●クーラーのある寝室

 数年前、寝室に、クーラーを入れた。(本当は、クーラーのある部屋に、寝室を移動した。私
とワイフは、ヤドカリみたいに、よくあちこちの部屋へ、寝室を移動する。)

 最初は、その快適さに驚いた。さわやかな風。ここちよい涼しさ。しかしそれが一巡すると、
体のほうが、変調を訴え始めた。

 朝起きても、だるい。熟睡感がない。暑気を感じただけで、体が重くなる。息が苦しい。根気
がつづかない。

 それに夏風邪が加わった。それが1週間近くもつづいた。とたん、ダウン。

クーラーのかかった部屋に入れば、それなりに元気が出るのだが、長つづきはしない。さらに
その部屋から出たとたん、体はガタガタ。「こんなことで、どうやってこれから先の老後を過ごす
のだ!」と、自分でそう思った。

 やっとの思いで、その年の夏を終えた。といっても、その年は、記録的な猛暑つづきで、10
月末近くまで、この浜松でも、30度を超える気温がつづいた。

●一念発起

 そこでその翌年から、一念発起。春先から、夏にかけての体力づくりに心がけることにした。
それまでの私は、春から夏にかけて、毎年、肥満気味になる傾向があった。その時期になる
と、体重が、2〜4キロもふえた。

(1)体重を、適正体重にキープする。

 肥満と夏バテの関係については、よく知らない。しかし私のばあい、肥満気味になると、とた
んに暑さに弱くなる。そのため夏になってからダイエットをすることが多かった。が、そのとた
ん、あちこちが、皮膚病にやられた。ダイエットをすると、体の抵抗力が落ちてしまうためでは
ないか。

 現在も、やや肥満気味だが、数年前のあのときとくらべると、4〜5キロは、体を軽くしてい
る。

(2)夏がくる前に、運動。

 梅雨の季節になると、どうしても運動量が少なくなる。そこでこの時期は、少しでも晴れ間が
あると、自転車にまたがって、外に出る。汗をかく。

 そう、この汗をかくという運動が、とくに重要なように思う。水分をたっぷりと供給してから運動
に出かけるのがコツ。そのあと、さわやかな汗が、どっと出る。

 こうして春から夏にかけては、運動量を、それまでの週5単位から、9単位にふやす。1単位
というのは、自転車で、40分走ることをいう。多いときは、1日、2単位から3単位、こなす。

(3)寝室には、クーラーをつけない。

 どんなに暑くても、扇風機だけ。汗腺の機能さえしっかりしていれば、扇風機だけで、じゅうぶ
ん、夏を過ごせる。これは私の素人判断だが、……というより経験に基づく判断だが、こういう
ことだ。

 クーラーにあたると、汗腺の機能が低下する。だからますます暑気に弱くなる。が、汗腺の機
能さえしっかりしていれば、汗をかくことで、体温をさげることができる。扇風機だけで、夏を過
ごすことができる。

 こうしてこの数年、私は、(もちろんワイフとともに)、春先から、夏にかけての対策にこころが
けるようにしている。

 その結果が、試される日がやってきた。昨日のことである。

●気温が、38・5度

 昨日、この浜松市は、気温38・5度を記録した。全国1の、高温である。

 朝から、どかっとした暑さ。その異常さが、居間にいても、わかった。「暑い」とは思ったが、そ
のときすでに30度を超えているとは、知らなかった。

 私はむしろ、パソコンの暴走を心配した。今度買ったパソコンは、性能はすばらしいが、その
分だけ、暑さに弱い。

 が、そのあとも、気温は、どんどんと、あがった。昼のNHKのニュースで、たしか35度くらい
と言っていたのではなかったか。しかしまさか、全国1になるとは、思っていなかった。

 私がワイフに、「これから自転車で、仕事に行く」と宣言すると、さすがのワイフも、「今日は、
やめたら?」と。

 しかしこういう日にこそ、私の体が試される。私は、2リットル入りのペットボトルをカゴに入れ
ると、自転車にまたがった。そのころ気温は、38・5度を記録していたと思う。アスファルトの上
では、さらに高い。

 が、快適に走ることができた! うれしかった! 水色の空が、美しく見える。私は、ペダルを
こぐ足に力を入れた。トロトロと走っていたのでは、運動にならない。

 こうして40分。1単位。教室へ着くころには、全身、汗ダクダク。部屋に入ると、体中から、汗
が、噴水のように出た。

 扇風機をつけると、さわやかな風。冷気すら覚えた。気持ちよかった。

 と、同時に、今年も夏をやりすごす自信ができた。「これなら、だいじょうぶ」と。

 そうそう、今日は、土曜日。ニンニク・デー。たっぷりとニンニクを食べることができる。メニュ
ーはもう、考えてある。当然、ニンニク・ライス!

 ふつうの焼き飯(チャーハン)の中に、ニンニクをたっぷりと入れて食べる。そのため、人には
会えないが、これも夏バテ防止には、効果があるように思う。

 みなさんへ、

 がんばって、この夏を、乗り越えましょう! 暑中、お見舞い、申しあげます。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●K国・制裁決議案

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国連安保理での、
K国制裁決議案なるものが、
最終段階を迎えている。

「制裁する」とがんばる、日本とアメリカ。
「制裁はしない」とがんばる、中国とロシア。

今、その土壇場の駆け引きが、
国連という舞台で、行われている。

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ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

……O日本国連大使は14日夕、(日本時間15日朝)、安全保障理事会で大詰めの議論がつ
づいている北朝鮮のミサイル発射問題に対する決議案について、「今日の採決は難しい」と述
べ、採決は15日に延びる見通しを示した、と。

 要するに、「制裁条項」を、入れるか入れないかの、ちがいということになる。

 しかし改めて、私は、主張する。
 
 あんなK国を、制裁して、どうなる? どうする? もうこれ以上、失うものは何もないというほ
どの、貧乏国。おまけに原油は、さらに高値を更新している。そして今の今、K国は、猛烈な豪
雨に見舞われている(7月15日、午前9時現在)。

 大切なことは、中国とK国の間に、クサビを打ち込むこと。その中国が、「K国非難の決議案」
を提出したのだから、ここはひとまず、中国に妥協するのがよい。中国案にそった、非難決議
案を採択するのがよい。また今度、K国がミサイルでも飛ばせば、そのときは、そのとき。中国
は、もう、何も言えなくなるはず。

 「制裁」ということになれば、方法はいくらでもある。現に今、K国のM号の入港は、禁止され
ている。ほかにも、K国の船の寄港を認めない港が、続出している。制裁するとすれば、こうし
た方法で、ジワジワとK国を、しめあげるのがよい。

 理由は、明白。

 K国というより、K国を支配している、あの独裁者は、すでに狂っている! そういう人間を相
手にして、まともに正面からぶつかってはいけない!

 それがわからなければ、あなた自身の問題として、それを考えることだ。

 もしあなたの近所に、そういう人がいたら、あなたはどうする? 認知症でもなんでもよい。頭
の狂った人だ。

 相手が正気なら、まだ、話しあいということもできる。しかし頭の狂った人では、それはできな
い。しかも相手は、ただの相手ではない。ミサイルだとか、核兵器だとか、生物、細菌兵器だと
かいう、凶器を手にしている。

 自民党の中でも、タカ派を自認するA官房長官や、A外務大臣たちは、「制裁」「制裁」と叫ん
でいる。しかしそれこそ、K国の思うツボ。中国の思うツボ。どうしてこんな簡単なことが、わか
らないのか!

 重要なことは、あんなK国のために、たった1人でも、自衛隊員を犠牲にしないこと。またその
価値もない! 日本がとるべき道は、ただひとつ。K国を、自然死の状態で、自滅させること。
そういう方向にもっていくこと。そしてそれが結局は、K国の民衆にとっても、最良の方法という
ことになる。

 ここは、中国とロシアと足並みをそろえて、「非難決議」程度で、収める。フランスが主張して
いるように、これが第一段階。

 つぎにまたK国が何かをしでかしたら、そのときは、中国とロシアに責任を取ってもらえばよ
い。これが第二段階。

拉致被害者の人たちの気持ちもわからないではない。しかし今まで、何十年も待ってきたのだ
から、ここ1、2か月待ったところで、大きく事情が変わるとは、私は思わない。

 ところで、今週の週刊各誌は、K国が明日にでも日本を攻撃してくるかのような記事を並べて
いる。

●週刊新潮(7月20日号)……軍事シミュレーション「日朝もし戦わば」
               強力な「K国空軍」に苦戦する「航空自衛隊」(P136)

●週刊文春(7月20日号)……自衛隊に打つ手なし。「ノドン首都圏直撃で、死傷者81万人」
(P32)

●週刊朝日(7月21日号)……もしノドンが日本を襲えば迎撃不能のお寒い防衛力。(P29)
ほか。 

 週刊文春は、つぎのような記事を載せている。

 「……M・Y氏と、D・I氏の共著『ウォー・シミュレーション』によれば、東京に12キロトン級の
核爆弾が投下されたばあい、死者42万人、被爆者39万人、計81万人の死傷者が出る。

 このシミュレーションは、アメリカ国防省が使用しているソフトを用いた結果であり、都心に通
勤、通学してくる流入人口を加算すると、死傷者は、約100万人にのぼるという。

 K国の技術レベルからすると、ノドンには、核弾頭よりも、生物兵器を積んでいる可能性が高
い。仮に炭疽菌を搭載していたとすると、被害はさらに甚大になり、死者だけで、186万人にな
ると予測される」(P34)と。

 186万人だぞ! わかるか! 日本は、K国と、心中するつもりなのか!

 もしそれほどまでに、A官房長官やA外務大臣に、正義感があるというのなら、まず自国の政
治の場で、それを示すべきではないのか? つぎの総裁選をにらんで、そのウラでは、うす汚
い権力闘争ばかりしている(?)。

もしK国がミサイルでも撃ちこんでくるような事態にでもなったら、イの一番に、首相官邸の地
下奥深くにある、核シェルターに逃げこむのは、これらの人たちではないのか。私には、その
程度の人たちにしか、見えない。

 そんな政治家が、正義論をぶつから、話がおかしい。

 ここ1両日中に、日本とアメリカは、「制裁決議案」なるものを、国連安保理の場で、採択に付
すという。戦後の日本にとっても、今まさに、その正念場を迎えようとしている。

【付記】

 この決議案について、日本とアメリカは、すでに何か月も前から用意し、準備していたという。
これについて、韓国のマスコミ各紙は、「韓国は、カヤの外に置かれた」「仲間はずれにされ
た」と、書きたてている。

 しかし、今の韓国のN政権を見れば、そんなことは、当然のことではないか!


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●ゆがんだ心

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在日朝鮮人の子どもたちに対する、
いやがらせ事件が、相ついでいる。

しかし、みなさん、こんな愚劣なことは、
今すぐ、やめよう!

そんなことをしても、何も問題は解決しない。
かえって、彼らの心を閉ざしてしまうだけ。

+++++++++++++++++

 心だって、ゆがむ。いじけやすくなったり、ひがみやすくなったりする。すねやすくなったり、突
っ張りやすくなったりする。もう本当の自分はそこにいるはずなのに、別の自分に引きずられて
しまう。

 昨年(05年)の中ごろ、新潟港とK国を結ぶ、あのM号(定期貨客船)の内部が、テレビで紹
介されたことがある。それについては、以前にも原稿を書いた。内容が少しダブるが、許してほ
しい。

 その船の中には、在日朝鮮人の大学生の一行が乗っていた。その大学生たちのこと。みな
が、食事のあと、歌を歌い始めた。食事のあと、そうして余興に、歌や踊りを披露するのが、慣
例になっているという。が、その歌がすごい。「♪敵が……崩壊する。敵が……崩壊する」と。

 もちろん彼らが歌うところの「敵」というのは、この日本をいう。その日本が、「♪崩壊する」
「♪崩壊する」と。

 在日朝鮮人といっても、今では二世、三世の時代である。大学生ともなると、四世の時代に
なっているかもしれない。そういう在日朝鮮人の学生たちが、日本が崩壊するという歌を、笑い
ながら、そして楽しそうに歌う。

 私はその番組を見ながら、なんともやりきれない気持ちになった。正直に告白するが、怒りも
感じた。が、同時に、どうして彼らがそういう気持ちになるのか、不思議に思った。いじけている
といえば、これほどいじけた心とうのも、そうはない。

 が、実は、この私にも、そういう経験がある。

 学生時代、観光ガイドのアルバイトをしていたときのこと。金沢の駅前に、Mホテルという国
際観光ホテルがあった。そのホテル専属の通訳をしていた。

 が、客のほとんどは、アメリカ人。観光ガイドといっても、英語で書かれたガイドブックを丸暗
記し、それを口にするだけのガイドであった。質問されても、当時の私は、「YES」「NO」くらい
しか言えなかった。

 それはそれとして、当時のアメリカ人と日本人との間には、雲泥の差があった。日本円で1万
円とか、2万円もするみやげを、彼らは平気で買っていた。大卒の初任給が、4〜5万円の時
代である。

 そういった生活を見せつけられたとき、私は羨望(せんぼう)と矛盾の、両方がいりまざった
気持ちになった。「お前たちが、この日本を焼き尽くしたではないか」という思いと、「どうしてそ
ういう豪勢な生活ができるのだろう」という思い。この2つが交互に、私の心の中に浮かんでは
消えた。

 大半のアメリカ人は、紳士だったが、中には、ひどいアメリカ人もいた。とくに、彼らが私に何
かを命令するときは、すごかった。まるで奴隷扱いだった。地面に地図をポンと置き、「Where
 are we?(今、どこにいる?)」と。私は、地面にはいつくばって、地図を開き、アメリカ人の
足元で、自分たちがどこにいるかを、示した。

 ただ当時のアルバイト料としては、破格に待遇がよかった。デパートで一日働いて、800〜1
000円。Mホテルは、1日、3000円近くを私に払ってくれた。

 それに英語の勉強には、なった。

 恐らく、これは私の推察だが、日本に住んでいる在日朝鮮人の学生たちは、一方で日本の
繁栄ぶりを見ながら、いつも心のどこかでそれを、「矛盾」ととらえているのではないか。「日本
はすばらしい国だ」と思う前に、自分たちの国の貧しさを知るたびに、それを「矛盾」ととらえて
しまう。それが彼らの心をゆがめる。

 だからああまで楽しそうに、「♪崩壊する」「♪崩壊する」と。

 そこで大切なことは、では私たち日本人は、この問題をどう考えたらよいかということ。ある意
味で、氷のように閉ざされたままになっている彼らの心を、どうすれば、溶かし、開くことができ
るかということ。

 ここ数週間、在日朝鮮人の人たちに対するいやがらせ事件が、相ついでいる。在日朝鮮人
の子どもたちに向かって、「日本から出て行け」とか、そういった言葉を浴びせかける日本人も
多いという。

 しかしこうしたやり方は、まちがっている。まちがっているだけではなく、彼らの心を、よりかた
くなにしてしまう。それにそういう行為をするということ自体、私たち日本人が、それだけレベル
が低いことを示す。もちろんそんなのは、愛国心でもなんでもない。

 日本人が、本当に日本人としての優位性を示したかったら、私たち自身の品性や品格をみ
がくことでしかない。具体的には、国としての利他性や、他国との共鳴性をみがき、良好な国際
関係をめざす。そういうもので包むことで、彼らの心を溶かし、開く。

 心だって、ゆがむ。いじけやすくなったり、ひがみやすくなったりする。すねやすくなったり、突
っ張りやすくなったりする。時として、そうなる。ならない人はいない。だから今に見るK国を、そ
のままK国と思うのも、まちがっている。

 よく話しあってみれば、私たち日本人と、どこもちがわないはず。それがわからなければ、反
対の立場で考えてみればよい。

 彼らは子どものときから、徹底した反日教育を受けている。日本人は極悪人と教えこまれて
いる。だから小さい子どもなどは、日本人を見ただけで、泣き出してしまうという(K国を訪れ
た、某カメラマンの話)。

 しかし日本人は、決して悪人ではない。そういうふうに、彼らの政府によって、洗脳されている
だけ。ただ、今は、たがいの意識が、あまりにもズレている。そのズレが、さまざまな摩擦を生
み出している。

 聞くところによると、在日朝鮮人の人の中には、一連の拉致事件について、心を痛めている
人もいるという。今は、一部の人たちかもしれないが、こうしたいやがらせ事件は、そういう善
意ある人たちまで、本当に「敵」に回してしまうことになりかねない。

 日本人として、決して、してはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1410)

【今朝・あれこれ】(K国問題を中心に……)

+++++++++++++++++

いつものように、今日(7月16日)が、
始まった。

まずパソコンに電源を入れて、ニュースに
目を通す……。

「国連安保理での、決議案が、全会一致で
採択」という文字が、目に飛びこむ。

よかった! ほっとした!

+++++++++++++++++

●国連安保理での、K国非難決議

 日本時間で、今朝、国連安保理で、K国非難の決議案が、全会一致で、採択されたという。
もちろん中国、ロシアも、それに賛成した。

 よかった! プラス、ほっとした! TBSのNEWS−iと、ヤフー・ニュースは、つぎのように伝
えている。

「国連安保理、北朝鮮決議を採択 

 北朝鮮のミサイル問題で、国連の安全保障理事会は、日本時間のきょう午前5時前、K国非
難決議を採択しました。国連憲章7章関連部分は、明記されませんでした。(16日05:00)」(NE
WS−i)と。

 K国に対する制裁条項は、削除されたという。が、決議は、今回のミサイル発射について、
「地域の平和、安定、安全を危うくする」として非難。「安保理の特別の責任」のもとで、K国にミ
サイルの開発・試験の禁止、発射の凍結などを要求するとともに、6か国協議への即時無条
件復帰を強く促しているという。

 さらに同決議案は、国連加盟国にはミサイルや関連物資・技術の移転、調達などを阻止する
よう求めている(ヤフー・ニュース)。

 つまり国連による制裁はないが、世界が一体となって、K国にミサイルの開発・試験の禁止、
発射の凍結などを要求するという内容のもの。これに中国とロシアが、賛成したという意味は
大きい。

いまや、K国は、世界から、完全に、見放されてしまった。と、同時に、日本に対して開戦を宣
告する根拠を失ってしまった。日本にとっては、まさに最良の結果ということになる。

●集中豪雨

 現在、K国は、猛烈な集中豪雨に襲われている。この48時間、ずっとそれがつづいている。
気象衛星「ひまわり」は、今の今も、巨大な雨雲が、K国上空をおおっているのを示している
(午前6時30分)。

 梅雨前線は、K国の上空に停滞したまま。そこへ台風4号に刺激された、湿った雨雲が流れ
こんだ。その雨雲がいかにもすごいものであるかは、日本を見ればわかる。

 その雨雲の一端が、昨日、北陸地方にまで届いた。そしてこの日本でも、河川の氾濫、洪水
など被害が続出した(能登半島など)。

 他国の不幸を喜ぶのは、よくないことかしれない。が、制裁ということになれば、これ以上の
制裁は、ない。K国は、先の南北閣僚級会談で、50万トンの米を韓国に要求したが、失敗。そ
の上での、この集中豪雨である。

 灌漑施設が、ほとんど整えられていないK国。降れば洪水、降らなければ干ばつ。そういった
状態が、この10〜15年以上もつづいている。

被害状況は、結果として、やがて世界にも伝えられることになるだろう。先の南北閣僚級会談
の席ですら、台風3号による被害が、話題になったほどである。K国の被害は、相当なものに
なると考えて、まちがいない。
 
 さあ、どうする、K国! 金xx!

 
●めぐみさんの写真

 写真週刊誌各誌は、めぐみさんと、夫のA氏が写っている写真に、疑問を投げかけている。

 とくに2人が、P市入り口にある凱旋門の前に立っている写真が、おかしいという。例によって
例のごとく、合成写真である可能性がきわめて高い。

 周囲の樹木には、影がある。しかしめぐみさんと、夫の足元には、その影がない。真っ白! 
ほかにも2、3点、不審な点がある。専門家は、「光源の強さが、背景と、人物とではちがうよう
だ」「(F誌)と話している。

 よくもまあ、こうインチキを、つぎからつぎへと、してくれるものだ。しかもそれが国ぐるみ、
で!

 常識で考えても、めぐみさんと夫が、凱旋門の外まで、出られるわけがない。写真を見るかぎ
り、私たちがドライブでもして遠出するかのような雰囲気で、2人は写っている。

 こういう見え透いたことをするから、日本は、怒る。バカにしたようなことをするから、日本は、
怒る。


●韓国のおバカ大統領

ついでに、もう1人のおバカの話。

この場におよんでも、韓国のおバカ大統領は、自己正当化のための詭弁(きべん)を弄(ろう)
している。

 「韓国は、歴史上、かつて一度も、他国を侵略したことがない」
 「韓国はK国を侵略する意図がないというシグナルを、K国には、送りつづける必要がある」と
か、など。つまり援助は、このままつづける、と。

 日本が提出した、国連安保理への、「制裁決議案」に対しては、イの一番に、反対を表明して
いる。

 そんな最中(さなか)、今度は、大統領の再任制を口にし始めた。韓国の現行法では、大統
領の任期は、4年と定められている。それを再任によって、さらに4年、延長できるようにしよう
というもの。

 韓国が国内で何をしようが、日本には関係のないこと。だが、その理由が、「?」。

 わかりやすく言えば、(韓国の)大統領は一度、選ばれると、選挙による洗礼を受けない。だ
から大統領が、国民の意思から遊離してしまう危険性がある。

 だから(アメリカのように)、4年に一度、選挙を実施し、国民の意思を確認する必要がある。
大統領の再任制度は、そのためのもの、と。

 ならば聞くが、再任されたあとの4年間は、どうなるのか? どうやって大統領が、国民の意
思から遊離していることを知るのか? 前半の4年間は、おとなしく政治をし、後半の4年間で
は、好き勝手なことができる。そういうことも考えられなくはない。論理的に考えても、これほど
「?」な改正法案を、私は知らない。

 なお、この改正法案は、与党のU党から出されたものだという。要するに、大統領の任期を、
現行の4年から、8年に延ばしたということらしい。

 なぜ韓国のN大統領が、こうまでK国の金xxをかばうかといえば、自身も、独裁志向が強い
からではないのか。この2年半のN大統領の政治手法を見ていると、その感が、しないでもな
かった。が、この再任制度の話が出てからは、その「感」が、「確信」に変わった。

 それほどまでに権力の座というのは、魅力的なものなのか?


●韓国は無視

 以上、今朝の雑感だが、冒頭にあげた、K国に対する非難決議が、最初から最後まで、韓国
抜きでなされたというところにも、別の意義がある。(韓国のN大統領は、おもしろくないだろう
が……。)

 K国が崩壊しかけると、韓国は、そのつど、せっこらせっこらとK国を援助してきた。現金ま
で、渡してきた。

 そのお金で、K国は、「ミサイルを作り、核兵器の開発をつづけてきた」(C日報)。

 そして最近に至っては、この日本を、あろうことか、「準敵性国家」と位置づけ始めている。

 韓国は、「仲間はすれにされた」と騒いでいるが、そんなことは、当然のことではないのか。少
し前まで、日米韓……という言葉が、いつも新聞を飾ったが、もはや、日米の横には、韓国
は、ない。最近の新聞を見ても、「中韓……」という言葉ばかりが目立つ。

 与党の支持率が10%前後。N大統領の支持率も、10%台(先の国政選挙)。今は、その支
持率は、もっとさがっているにちがいない。


●日本の大統領制

 こうしてみると、大統領制というのも、考えものである。少し前まで、(今でも、そういう意見は
根強いが……)、「日本も大統領制を」という意見が、よく聞かれた。

 大統領に強大な権限を与え、臨機応変に、もっと力強い政治をさせたらよいという考え方に
基づく。

 しかし今の韓国を見るまでもない。一時のハプニングで、あの大統領は、今の大統領の座に
ついてしまった。その結果が、今である。

 支持率が10%台に落ちてもなおかつ、大統領なる政治家は、強大な権限を駆使して、好き
勝手なことができる。

 私自身は、かつて一度も、大統領制に、賛意を表したことはない。そういう原稿を書いたこと
もない。しかし内心では、「それもいいかなあ」と思ったことは、何度もある。しかし、今は、ちが
う。

 「大統領制も考えものだなあ……」というのが、今の私の実感である。


●南北統一は、もう無理?

 K国という国は、すでに限界状況を超えて、疲弊しきっている。貧しいというだけでは、ない。
民衆の心まで、こなごなに破壊されている※。

 仮に今、南北朝鮮が統一したとしても、韓国に、それを背負うだけの力は、ない。たとえばK
国の人たちの平均身長は、韓国の人たちよりも、10〜15センチも低いという。こうした後遺症
は、仮に南北が統一されたとしても、この先、30年(1世代)とか、2世代(60年)もつづく。

 破壊された心となると、さらに長くつづく。

 私の印象では、K国が崩壊したあとは、K国の処理は、中国に任せた方がよいのではないか
と思う。すでに中国自身は、そういう方向で、動いている。

 つまり現在の38度線は、南北朝鮮の国境から、韓国と中国の国境に変わることになる。そ
の可能性がないとは言えない。で、今、近視眼的に、N大統領は、「独島」「独島」と騒いでいる
が、韓半島の半分以上が、今度は、中国の領土になる。

 そうなったとき、N大統領は、今度は、何と言うのだろうか? 私たち日本人の知ったことでは
ないが……。

 ただし一言。

 もしK国が中国の支配下に入ったら、中国は、日本やアメリカ向けのミサイル基地を、そのK
国内に建設するかしれない。

 そうなれば、日本にとっては、たいへんなことになる。日本海をはさんで、中国と対峙すること
になる。

 そこで日本やアメリカは、「朝鮮半島の非核化」という言葉からもわかるように、ことあるごと
に、「朝鮮半島」という言葉を使う。

 その理由は、ここにある。つまり今から「朝鮮半島の非核化」を叫ぶことによって、中国の軍
事的な進出を、先手を打って、抑えようというもの。同時に、これは中国にもメリットがある。

 韓国が核武装化したら、それはそのまま中国にとっても、脅威となる。だからアメリカも、中国
も、そして日本も、こう言う場面では、「朝鮮半島」という言葉を使う。

 みなさん、おわかりか?

【注※】貧困による、人心の破壊については、また別のところで書くことにする。つまり貧困が長
くつづくと、人心は破壊され、道徳観や倫理観は、崩壊する。そして一度、崩壊した道徳観や倫
理観は、容易には、もとにもどらない。

 とくに幼児期から少年少女期にかけて、それを経験すると、容易なことではない。南北が統
一すれば、それで問題が片づくと考えるのは、あまりにも短絡的なものの見方でしかない。

【追記】(16日、午前10時)

 この国連での安保理決議に対して、さっそくK国が反応した。「全面的に拒否する」「ミサイル
の発射は、これからもつづける」と。

 どうぞ、ご勝手に!

 中国とロシアまで敵に回してしまった今、これから先、K国は、どうやってミサイル開発ができ
るというのか?

 もし打ちあげれば、今度こそ、中国とロシアに、その責任を取ってもらえばよい。日本は、高
みの見物といこうではないか。

 さらに核実験ということにでもなれば、それこそ、K国は、世界中から袋だたきにあう。その下
地は、今回の国連決議でできあがった!

 日本との開戦をしたかったがために求めた、米朝2か国協議。この協議を通して、K国は、ア
メリカとの間で、「平和条約」、すなわち、「相互不可侵条約」を結びたかった。それさえ結んで
おけば、仮に日朝戦争になっても、アメリカは、その戦争に介入することができない。

 しかし米朝協議は、実現しなかった。日本が、させなかった。小泉政権に対して、辛らつな批
判を繰りかえしている人もいるようだが、これは小泉外交の大勝利とたたえてよい。そればか
りではない。中国もロシアも、決議案を採択してしまった以上、日本に向かって開戦するという
大義名分すら、K国は、失ってしまった。

 が、だからといって、危機が去ったというわけではない。相手は、何といっても、頭のおかしな
独裁者。警戒の手だけは、ゆるめてはならない。

 なおアメリカのB国連大使は、K国を、こう言って揶揄(やゆ=からかうこと)した。

 「(決議から45分後にK国が拒否声明を出したことについて)、これは世界新記録並だ」と。

そして同国連大使は、K国が安保理の要求に応じないばあい、安保理はさらなる追加措置をと
ることになるだろうと警告した。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●やっぱり、そうだったのか!

+++++++++++++++++

秋田県のF町で起きた、幼児殺害事件。
その事件では、当初から、Hという女性は、
自分の娘も殺しているのでは……と、
私は思っていた。

不自然な証言。不可解な行動。

そのHが、「(娘を)橋から突き落として
殺した」と、自供を始めたという。

+++++++++++++++++

 秋田県F町で、小学1年生を殺害した疑いで逮捕されたH容疑者が、4月に水死した長女の
Aさんを「橋から突き落とした」と供述していることがわかった。捜査本部は近く、H容疑者を、
殺人容疑で再逮捕する方針だという。

 法律の世界では、「容疑者」のことを、「被疑者」という。「疑惑がある人」という意味ではなく、
「疑われている人」という意味で、そういう。(あまりちがわないが……。ただ私には、「被疑者」
という言葉の方が、言いやすい。ここでは警察用語で、「容疑者」としておく。)

 こうした事件では、いつも一貫性が、問題となる。H容疑者には、当初から、その一貫性がな
かった。

 家の中では、育児放棄などの虐待をしていたという証言もある。その母親が、娘が死ぬと、
一転、悲劇の主人公に転身。遊戯会では、娘の写真までもって、学校に現れたという。

 さらにあろうことか、娘の葬儀の席では、参列した子どもたちを集めて、記念撮影までしてい
たという!

 どこかおかしい……? だれしも、そう思った。私も、そう思った。

 で、やっぱりというか、そのH容疑者が、「(長女のAさんを)、橋から突き落として、殺した」
と。

 ……ここまで書いて、私は、ウーンと、うなり声をあげてしまった。世の中には、親を殺す子ど
ももいるが、それ以上に、子どもを殺す親もいる。こういう事件のばあい、「親だから……」とい
う、(だから論)ほど、あてにならないものはない。たまたま昨日も、愛知県のT市で、一人の母
親が、陸橋から娘を落とし、殺してしまったという事件が発生している※。

 そこでそのあと、H容疑者は、近所のG君まで、殺害している。週刊誌などの記事によると、G
君が、何やら、H容疑者の自宅で、H容疑者が見られたくないものを見てしまったらしい。それ
で口封じのために、H容疑者は、G君まで殺してしまったらしい。

 で、今回のこの事件で興味深いのは、H容疑者が、逮捕される前、こう言っていたことだ。

 「娘のAを殺したのも、G君を殺したのも、同一人物だと思います」と。

 はからずもH容疑者は、事実を口走ったということになる。こういう例は多いし、心理学の世
界でも、よく話題になる。日本語にも、「思わず本音」という言葉がある。心の奥底に何かを隠
していると、それが、ポロリと口から出てきてしまう。

 あるいは自分で、「この話題だけは口にしてはいけない」と思っていても、ついその話題を口
にしてしまうことがある。たとえばあなたが今、背の低い男性を目の前にして、何かの話をして
いたとする。そういうとき、あなたは、身長の話をするのは、タブーとわかっている。

 しかし何かの拍子に、つい、身長についての話題を出してしまう。「私なんか、いつもMサイズ
ですよ」とか、何とか。

 H容疑者は、そういう点では、心理学のマニュアルどおりのボロを出したことになる。

 ……しかし、これで一貫性が、できたことになる。H容疑者は、実の娘を殺したあと、近所に
住むG君まで殺した。それまでにした不自然な、あの一連の行為の謎は、これで解けた。

【注※】愛知県T市の陸橋から女児が転落して死亡した事件で、県警T市署は16日、同県K
市、無職HN容疑者(39)を殺人容疑で逮捕した(ヤフー・ニュースより)。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1411)

【弱者の視点】

+++++++++++++++++

弱者の立場で、ものを考える。

それがあなたの心を、限りなく
広くする。

+++++++++++++++++

●何が、ナポレオンだ!

 昨夜から、N放送局で、「世界遺産探訪」(仮称)という番組が始まった。以前から楽しみにし
ていた番組である。

 で、第一回目は、フランス縦断。昨夜の番組の中では、フォンテンブローにある古城を紹介し
ていた。が、見ていてがっかり。

 すばらしい城にはちがいないが、出てくるのは、ナポレオンの話ばかり。あるいは、その城を
支配した王の話ばかり。2人の男女のキャスターが出演していたが、まるで自分たちが、その
王にでもなったかのよう。そういう視点でしか、ものを話さない。

 日本人の悪いクセだ。

 ものの考え方が権威主義的というか、「上」からしか、ものを見ない。無意識のうちにも、そう
いう視点でしかものを見ない。意識そのものが、そのように、できあがっている。

 番組の中では、「ここからあのナポレオンが、最後の演説をしたのですね」というようなこと
を、どこか灌漑深そうに、その女性は話していた。バカめ! 何がナポレオンだ!

 こうした傾向は、あの大河ドラマにも見られる。日本の歴史そのものについても、為政者の立
場でしか、見ない。しかしこうしたものの見方は、日本人にとっては、とても悲しむべきことでも
ある。

 弱者の立場がわからなくなる。わからないだけではなく、弱者を「下」に見る。が、それだけで
はない。自分がその弱者になることに、大きな不安をいだくようになる。あるいは本当にその弱
者になったとき、必要以上に、あわてふためき、苦しみ、もがく。

 「他人の悲しみや苦しみを、痛み嘆く人は、幸いだ。なぜなら、彼らは、心安らかに、慰めら
れるだろうから(Blessed are those who mourn, for they will be comforted.)」、「慈悲深い人
は、神に祝福されるだろう。なぜなら彼らは、慈悲を与えられるだろうから(Blessed are the 
merciful, for they will be shown mercy.)」(Matthew 5-9)と。

 どうしてそういう視点で、日本人は、ものを考えることができないのか。以下、いくつか以前書
いた原稿を、ここに掲載する。(内容的には、あまり関係ないものも含まれます。ゴメン!)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。それだけではない。学校の先生や、
みなに、迷惑をかけているのではという思いが、自分をますます小さくする。

よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そう
いう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実
際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさら
されるのは、つらい。

それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに
自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわ
けで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育て
をとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、R社という出版社で仕事をしていたことがある。あのR社の社員は、地位や
肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電
話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたしま
す」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは
言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態
度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといって
もよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役
にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話な
ど、ほとんど役にたたない。

が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組み
たてようとする。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えな
い。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということ
は考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは
自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。

聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろ
う」(Matthew5-9)と。この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分
が笑われる」ということになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に
自分を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。
(040107)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●ホルモンと脳障害

 環境ホルモンが、脳に微細障害を与えるらしいということは、今では常識である。微細障害と
いうのは、目では見えないほどの障害という意味である。そしてこの障害が、今、話題になって
いる、ADHD(attention deficit hyperactivity disorder・注意欠陥多動性障害)にも関連してい
るという(福島章氏「子どもの脳があぶない」・PHP)。

もちろん微細障害の原因は、ホルモンだけではない。「(妊娠六〜七ヶ月から、生後一年くらい
までの間に)、子どもの脳に、感染、外傷、酸素欠乏、栄養不足、有害物質、中毒などの悪影
響が加わると、脳の形成や発達に異常が起こる」(同書、二六頁)ということだそうだ。

 福島章氏は、ある少年犯罪者の例をあげ、「この少年の人並みはずれた攻撃性と、性衝動
は、胎児期に(母親に)与えられた、黄体ホルモン製剤によって、彼の脳がふつう以上に、《男
性化》されたためではないか?」と書いている。黄体ホルモン製剤は、天然の女性ホルモンを
まねてつくられた、化学物質である。

 ……何ともおどろおどろしい話である。というのも、今では環境ホルモンは、ありとあらゆる場
所に侵入していて、もはやそれと無縁であることは、不可能になってしまったからだ。北極に住
むアザラシですら、汚染されている。そうした環境ホルモンが、生態系そのものあり方を崩し、
環境すら今までとは、違ったものにしつつある。子どもの脳への影響は、ほんのその一部に過
ぎない。

そこで私たちは、親として、どのように考えたらよいのだろうか。いや、考えれば考えるほど、不
安が募(つの)るばかりで、その先が見えてこない。こうした感覚は、恐らく、読者の皆さんも、
同じではないかと思う。そこで私は、つぎの三つのことを提案する。

(1)子育ては、「自然」と旨(むね)とする。「自然を旨とする」というのは、生活の基盤を、過去
一〇〇年はどうであったか、その前の一〇〇年はどうであったかという視点で見なおすという
こと。こと環境ホルモンということになれば、食物に注意する。

(2)この問題を考えるときは、「うちさえよければ……」という論理は通用しない。あなたの子ど
もはたとえ無事でも、そのまた子ども(孫)はどうかという問題につながってくる。自分の子ども
が障害をもつのはつらいが、孫が障害をもつのは、もっとつらい。孫のことで苦しむ、あなた自
身の子どもの姿を見るとことは、言うなれば、ダブルパンチということになるのか。ある母親が
そう話してくれた。そこでおかしいと思ったら、どんどんと戦っていく。電話や手紙、あるいはメ
ールで、抗議する。 

(3)問題をもった子どもや、その親に、心から温かく接する。新約聖書の中にも、こんな一節が
ある。

 「他人の悲しみや苦しみを、痛み嘆く人は、幸いだ。なぜなら、彼らは、心安らかに、慰められ
るだろうから(Blessed are those who mourn, for they will be comforted.)」、「慈悲深い人は、
神に祝福されるだろう。なぜなら彼らは、慈悲を与えられるだろうから(Blessed are the 
merciful, for they will be shown mercy.)」(Matthew 5-9)と。

 訳は私がつけた。クリスチャンの人が読んだら、怒るかもしれない。私がもっている聖書は、
アメリカ人の友人のJimがくれたもの。Ryrie版の分厚い聖書だ。表紙には、金文字で私の名
前が入っている。こんなことはどうでもよいが、その人の価値は、相手の立場で、いかにその
悲しみや苦しみを共有できるかということで決まる。それができる人は、人間としての価値があ
る。できない人は、そうでない。

それはわかるが、むずかしいことだ。今の私には、とてもできそうもない。できないが、しかしそ
ういう温かい心を忘れたら、この問題は、絶対に解決しない。またそういう温かい心さえあれ
ば、いかに環境ホルモンで、子どもたちの脳や心が侵されても、こわがるものは何もない。
 
 こう書くと、人間には救いがないということになるが、決してそうではない。このエッセーを書く
ときに読んだ、『子どもの脳があぶない』(福島章氏著)の中には、こんな記述があちこちにあ
る。その一つを、引用してみる(同書、三〇ページ)。

 「早幼児期脳障害児は、その障害による適応不全の上に、思春期の心身の変化と動揺が重
なって、たまたま非行に陥ることがあるが、成人後には心身ともに安定するので、適応障害が
起こりにくくなる。また、非行的なサブカルチャに接触して、逸脱した価値観に染まった脳障害
のない青年よりも、そのようなものと無縁の状態で、偶発的・衝動的に事件を起こした脳障害
児のほうが、青年期を脱すると、非行から足を洗いやすい」と。

福島氏は、「問題を起こすのは、思春期だけで、成人になれば落ちつく」「かえってふつうの子
どもより、非行から足を洗いやすい」と。福島氏のこの言葉は、私たちにとって、大きな励みに
なる。
(02−11−3)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●心の混乱

 自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。長男、長女
のときは、とくにそうだ。

 それについては、何度も書いてきた。

 問題は、なぜそうなのか。さらに、それを防ぐには、どうしたらよいかということ。

 実は、こうした心の混乱には、いつも二面性がある。

 自分の子どもが、一つのコースからはずれるとわかったときの恐怖感は、相当なものであ
る。言葉では表現しがたい。それはわかる。が、なぜ、そうまで恐怖感を覚えるかといえば、そ
こに、それまでの自分自身の生きザマが、そこに集約されるからである。

 私たちは、無意識のまま、心のどこかでコースからはずれていく人を、さげすみ、排斥する。
あるいは、自分とはちがった生き方をする人を、認めない。認めないというよりは、許さない。こ
れは人間という動物が、動物としてもっている本能のようなものかもしれない。

 だから、自分にせよ、自分の子どもにせよ、そのコースからはずれ始めると、言いようのない
恐怖感を覚える。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 学歴をことさら気にする人というのは、学歴コンプレックスをもっている人は別として、その人
自身がその学歴にぶらさがって生きているか、反対に、学歴のない人を、さんざん笑ったり、
軽蔑しているかの、どちらかとみてよい。笑ったり、軽蔑したりしているから、今度は、逆の立
場に立たされたとき、その人は、その何倍も、苦しむ。

 同じように、なぜ、人は、コースからはずれるのを、こうまで恐れるかと言えば、無意識である
にせよ、そのコースからはずれる人を、心のどこかで、笑ったり、軽蔑したりしているからであ
る。

 では、どうするか?

 要するに、人の不幸を笑ってはいけないということ。笑った分だけ、いや、その何倍も、今度
は自分が同じ立場に立たされたとき、苦しむ。

 だから私はあえて、言う。あなた自身は、どうか、と。

 何か、問題のある子どもや親を、あなたは、笑ったり、軽蔑したりは、していないか、と。もし、
そうなら、そういう考え方は、今すぐ、改めたほうがよい。でないと、いつか、今度は、あなた自
身やあなたの子どもの問題として、その何倍も、苦しむことになる。

 こんなことを言う親がいた。

 「ADHD児なんて、教室から追い出せばいいのです。みんなの迷惑になるだけです」と。

 もう15年ほど前になるだろうか。S県のある小学校で、車椅子に乗った身体障害児に対し
て、その入学に反対する集会が開かれたこともある。(ホントだぞ!) 理由は、「そういう子ど
もが入学してくると、子どもたちの学習に、さしさわりが出るから」だった。

 また私にこう言った、経営者がいた。

 「何だかんだといっても、この世界は、弱肉強食の世界です。力のある人がいい生活をする
のは、当然のことです。力のない人は、それなりの生活をするのも、これまた、当然のことで
す」と。

 さらに面と向って、私にこう言った人もいる。私が「幼稚園で働いています」と言ったことに対し
て、だ。

 「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ、ロクな仕事にありつけなかったんだろう」と。

 「幼稚園で働くのは、ロクな仕事ではない」と。

 言いたければ、そう言うがよい。思いたければ、そう思うがよい。しかしそう言ったり、思った
りすればするほど、今度は、自分が逆の立場に立たされたとき、その何倍も苦しむことにな
る。

 ある母親は、毎晩、中学3年生の娘と、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰りかえし
ていた。なぜか? 実は、その母親自身が、いつも、他人を、その出身高校で判断していたか
らである。

「あの人は、S高校出身なんですってねえ」「あの人は、D高校しか出ていないんですってねえ」
と。自分自身も、市内でも、ナンバーワンといわれる、S高校の卒業生だったこともある。

 だから自分の娘の学力がそこまでないとわかったとたん、その母親は、パニック状態! 他
人を笑ったり、軽蔑した分だけ、自分で自分のクビをしめたことになる。

 こうした心の混乱をふせぐためには、日ごろから、自分より弱者に暖かくする。新約聖書の中
にも、『慈悲深い人は、祝福される。なぜなら、彼らは、慈悲を与えられるだろう(Blessed are 
the merciful, for they will be shown mercy)』(Matthew 5-9)というのがある。

 この一文を逆に読むと、(私のようなものが解釈することは、おそれおおいことだが)、「日ご
ろから、他人にやさしくしている人ほど、自分が逆に、その人の立場に立たされたとき、その苦
しみから救われる」ということになる。

 自分の子どもがコースからはずれていくことを心配している人は、一度、自分自身も、コース
からはずれていく人を、心のどこかで、笑い、軽蔑していないかを反省してみるとよい。

【補記】

 あるとき、ある大手の出版社に勤める友人が、私にこう言った。「林さん、ぼくらはね、林さん
のような生き方を認めるわけには、いかないんですよ」と。

 私が、「大手の出版社は、権威主義的すぎる。もっと、人の中身を見て雑誌をつくらないと、
やがて大衆から見放される」と言ったときのこと。

 「でもね、林さん。もしぼくらが林さんのような生き方を認めてしまうと、ではぼくたちの生き方
は何だったのかというところまで、いってしまうのです。つまりね、ぼくらの世界では、林さんの
ような人は、敗北者で、失敗者なんです。また、そうでなければ、ならないのです。

 おかしなもので、林さんのような生き方をしている人が失敗すると、『やっぱり、そうだったん
だ。ぼくらの生き方は、これでいいんだ』と、へんに納得できるんですよ。だから内心では、『あ
の林は、今に、失敗するぞ』『今に、失敗するぞ』と、楽しみにも似た、期待感をもつわけです。

 しかしね、林さんのような人が成功したりするのをみるのが、こわいんですよ。自分の生きザ
マを、否定されるように感じてしまうのですね。ぼくらは、組織の人間、会社人間ですから……」
と。

 コースに乗っている人が、なぜ、そのコースからはずれることを恐れるかと言えば、いつもそ
のコースの外にいる人を、否定しているからではないのか。だから自分はともかくも、自分の子
どもがそのコースからはずれそうになると、狂乱状態になる。

 親たちは、子どもが不登校を起こしたりすると、「うちの子は、このままダメになってしまう」と
言うが、本当のところは、子どものことなど、何も心配していない。自分の生きザマが、否定さ
れるのがこわいのだ。

 子どものことを本当に心配するなら、子どもの心の問題を考える。最初から最後まで、子ども
の心の問題だけを考える。それでよい。それがすべて。本来なら、親は、そうあるべきなのだ
が……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【親の悩み、そして苦しみ】(子どもが不登校児になったとき)

++++++++++++++++++

子どもが不登校児になると、
たいていの親は、その時点で、
狂乱状態になる。

この狂乱状態が、子どもの不登校を、
さらに悪化させる。

昨日も、埼玉県に住んでいる、
Rさん(母親)という方から、
そういう相談のメールをもらった。

同じような事例で、以前、書いた
原稿を、そのまま、ここに掲載する。

+++++++++++++++++++
●岩手県Eさん(父親)からの相談

****************************

小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。

3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。

4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。

そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。

病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。

が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。

「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。

つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)

注:ケトン性低血糖症

ケトン性低血糖症はインスリンが高い結果おこる低血糖症の場合以外の原因でおこる低血糖
症をいう。低血糖症とは、一般に乳児、幼児では血糖値が40mg/dl以下のものをいう。早朝空
腹時、または感冒などの発熱がきっかけになりやすく、また、夕食を食べずに寝た次の日の
朝、発症することが多い。1歳半くらいから見られる。男子に多く、低出生体重児、または新生
児期に何らかの問題があった子どもに、多く見られる傾向がある。

症状としては、嘔吐を伴う朝(空腹時)の低血糖があり、このときけいれんを起こすことがある。
頻回に吐く。ぐったりして元気がなく、顔面は蒼白になったりする。普通の状態のときには血糖
は異常はない。知能の遅れはないがが、身体的な発育は少し遅れたり、体重の増加がよくな
い子どもが多く見られる。低血糖があり、尿検査をすると尿の中にケトン体という物質がたくさ
ん出てくる。(以上、IM小児科医院のHPより転載。)

*******************************

【学校へのこだわり】

 Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、EさんとEさんの妻
が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなことが、詳しく書いて
あった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものというほうが正しい。

 その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこまで学校
にこだわるか、である。

 こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のないよう
に!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子どもが学校へ
行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。

 そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。

 この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言ったら、その
あと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。が、実際には、そう
はいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例を、何十例も経験してい
る。

 Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえば、Eさん
からのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校→午前中学校、
帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっていましたが、10月
からまた体調不良を訴え、行けなくなりました」(原文)とある。

 この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかったのだ
ろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんなに無理をし
なくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。

 率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、Eさんの
相談を一読して、最初に、それを強く感じた。

 ……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれば、そう
考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉は使いたくない
が)、失敗したというわけではない。

 が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信仰、学
校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られてきた意識で
ある。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへん!

 ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。つまり
この無理が、子どもの心を、ゆがめる。

 ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのものでは
ないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継いでしまう。

 その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、子ども
が、それを受け継いでしまう。

 だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校なん
か、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケースで、子ども
にそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。

 「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」と。

【心の緊張状態】

 「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやすい言葉
もない。

 情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が不安定
になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。

 心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。

 そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解消しよう
と、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒が不安定になる
のは、あくまでも結果でしかない。

 子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安定に
なることが多い。

 ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、ときにギャ
ーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたこともあるという。その女
の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっていた。

 そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の緊張感
がとれないか、である。

 原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみてよい。
他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交際できない。
それが心の緊張状態をつくりだす。

 だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択する。

(1)攻撃型(他人に乱暴になる)
(2)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(3)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(4)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(5)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(6)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(7)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)

 最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交際が、
それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集団の中で、仮
面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。

 だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集団
になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかにそういう
ケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。

 無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的な指導に
などによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、少なくない。
幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉症と自閉傾向を混
同しないように……。)

 では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の中で
は、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞いたりする。ま
たいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。

 たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。その時
点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。

 が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。心が
つかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがっているはずな
のに、ニヤニヤ笑うなど。

 原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。

【母子関係の不全】

 絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、築
かれる。

 「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、許される」と
いう安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。

 が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否的な育
児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対してさらけ出し
ができないときもある。

 たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースのばあ
い、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的に子育てで、
失敗しやすくなる。

 あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なことだ
が、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにすら、気がつ
かない人も多い。

 中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ出せ
ない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みなから、へん
に思われるのではないか」と。

 言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母親との関
係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、その人の人間
関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。

 子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、さ
らには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。

【対人障害】

 怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、子ど
ものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。

 で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうということ。
私など、まさに恐怖症のかたまり。

 子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどくなった
のは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に乗れなくなっ
てしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症になる。

 数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにしても、あ
やうく、だ。

 そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走ってくる
ように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。

 人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっていて
も、コントロールできない。それがつらい。

 だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子どもの目線
で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。

 で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間関係
が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわしくなる。人
の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。

 それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。そのた
め、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛や肩こり、不
眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。

 心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。ふつう
は、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的症状(髪いじ
り、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じたら、この心身症を疑っ
てみるとよい。

 で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえばここでい
うような学校恐怖症などとなって現れる。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にしてほし
い。

【学歴信仰】

 「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている人は、多
い。

 しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というのは、そ
の時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあなたがもってい
る意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話も、その一つ。

 私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだが、戦
時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と問いかけて
いたあるテレビ局のレポーターがいた。

 子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう意識
は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころではない
はず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。

 世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、カリキ
ュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」などない。

 学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホームスクー
ラーも、200万人もいる。

 一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。今で
は、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますことが多い
のに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はな
い。

 話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。私が、
「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくても……」などと
私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。

 私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に旅行
すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときたいてい、幼稚
園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、「そういうことを
すると、遅れます」「困ります」と。

 しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」というのは、
どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というのか。だったら、そ
の「コース」とは、何か?

 つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の子どもが
不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック状態になる。そし
てそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。

【あくまでも子どもの目線で】

 決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、Eさんを責
めているのでもない。

 ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることができな
い。

 数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのことで、学
校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りたいと言います。
何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 それに答えて、私は、こう返事を書いた。

 「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。

 こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて午後ま
で……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知っている。つ
まり親の希望や欲望には、際限がない!

 つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りもどすた
め」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不登校! 『元の
木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。

 こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、三番底
へと落ちていく。

 そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎらず、
子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、あるいは
一年単位で、様子をみる」である。

【許して忘れる】

 子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の問題で
は、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。

 ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なことをさせ
るということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が起きたら、それ
を自分のこととして、受け入れることをいう。

 たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。一見、
楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感から解放され
ることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。

 そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」などと言う。
しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。

 それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。子ど
もの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。

 もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだね」「お
前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。できれば、「お父
さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることである。

 こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親だから何
とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のために犠牲になっ
ている親を見ることぐらい、つらいことはない。

 ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたものの、ほ
とんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。

 「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいことはなかっ
た」と。

 その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあと、少し
ずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看護ヘルパーの資
格をとるため、専門学校へ通っている。

 だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負って
やる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそういう前向き
な姿を、子どもに見せていく。

 そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題にも、
よい方向に作用する。

【Eさんへ……】

 書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しかし子の
問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あくまでもここに書
いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。

 あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに何かを
教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。

 あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、その向こう
にある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。

 今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つには、
あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。本気で愛しな
がらも、決して、本気で相手にしてはいけません。

 「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前からは離
れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあなたの子どもの心
をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。

 すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避けられている
かもわかりますよ。

 親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは嫌っては
いけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進むしか、ありませ
ん。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、1000に1つ、子どもの中に(や
さしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それとも、Eさんは、子どもに何を求めています
か。

 子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようとか、い
い親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさんと、子どもの関
係においてはそうです。

 あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』です。

 が、心配は、無用。

 子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何を学ぶ
かはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「ようし、お前
はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。

 あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えているよ
り、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ程度には考え
ているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見えるかもしれませんが…
…。)

 そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何をしてほし
いか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおりにすればよいので
す。

 「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいのです。

 大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求めてきた
ときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。

 最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの家庭で、
心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察すると、長期の引
きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれてくるということはできま
せんか。

 家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりという雰囲
気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、つまり、いつ
か子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係を築くことができま
す。

 引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう大らかさを
感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、これは本当です。

 また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になったりしな
いことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方法は、ありま
せん。

 で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。いつか
あなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。

 「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。

 その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!

 また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなたの子ど
も自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほしくない」と
言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてください。

 そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えています。あ
るいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。

 またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、ずっ
とさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカラ論」だけ
で、です。

 そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。

 なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、こちら
で勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許可をいただ
ければ、うれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1412)

【今宵、思うこと】

●山荘で……

 時は、2006年7月16日。夜の10時5分。場所は、私の山荘。居間。ワイフは横で、テレビ
を見ている。私は、古いパソコンに向かって、この文章を書き始めている。

 シャープのメビウス。PN−15Z。7年前に買ったもの。モニターと本体の一体型。当時の値
段で、24万円弱。そのときはうれしくて、仕事が終わると、毎晩、タオルでみがいていた。が、
そのパソコンも、今では、ボロボロ。

 立ちあげるたびに、F2キーを使って、セットアップしなければならない。BIOSで日時を設定し
ても、つぎに使うときは、00年に戻ってしまっている。その00年を、06年にセットすると、やっ
と動き出す。

 めんどうと言えばめんどうだが、こうしたトラブルは、パソコンには、つきもの。ほかにこのキ
ーボードにしても、「O」のキーがおかしい。「こ」とか、「そ」とかいう文字を打ちこむときは、その
「O」を使う。が、強くそのキーをたたかないと、うまく文字を打ち出してくれない。

 パソコンというのは、こうして使うもの。だまし、だまし使う。少し大げさな言い方に聞こえるか
もしれないが、どこか自分の体に似ている。今のところ、私は一応健康だが、ガタがないわけ
ではない。

 左の耳は、聴力をなくして、もう20年以上になる。以来、耳鳴りが途絶えたことがない。今も
耳鳴りがする。左肩も、この春に腱を傷(いた)めてから、思うように動かない。老眼も進んだよ
うだ。数年前、眼科へ結膜炎か何かの病気で行ったときには、「白内障が15〜20%、進んで
います」とも言われた。

 歯となると、ガタガタ。ほとんどの歯に、治療の痕跡を残している。ほかにも、いろいろある。

 そういう意味では、死というのは、ある日、突然やってくるというものではない。徐々に、目に
見える速さではないが、しかし動きを止めることなく、やってくる。

 このパソコンだって、そうだ。折りたたみ式のデスクトップだが、モニターと本体をつなぐ部分
のプラスチックは、割れたまま。何度か自分で修理しようとしたが、できなかった。そのため、そ
こで接着剤がかたまり、無残な姿を、さらけ出している。

 しかし私は、このパソコンが好きだ。愛着がある。キーボードに指をのせるたびに、買ったと
きのあのうれしさが、よみがえってくる。「古くなったから捨てる」というのは、ひょっとしたら、若
い人の発想かもしれない。

 ワイフは、「古いパソコンは処分したら?」とよく言う。しかし私には、それができない。

●ハンゲコウボク湯(とう)

 静かな夜だ。先ほどからワイフは、寝じたくにかかった。洗面所で、化粧を落としているの
が、音でわかる。

 この儀式は結婚以来、変わっていない。しかし女性というのは、毎晩、なぜ同じことをするの
だろう。私のばあいは、歯をみがくだけ。あとは何もしない。だからというわけでもないが、「いっ
しょに寝よう」と声をかけあっても、いっしょに床にはいったことは、めったにない。いつも私が
先に床に入り、つづいてワイフが床に入る。 

 ワイフを待つ間、私は、雑誌を読んだり、カタログに目を通したりする。

 子どもの世界には、就眠儀式というものがある。英語では、「ベッド・タイム・ゲーム」という。
毎晩、眠りにつく前、子どもというのは、同じ儀式を繰りかえす。

 おとなもそうである。一口、水を口に含んだり、あれこれ時計をいじったりして、眠りにつく。

 そうそう私たち夫婦は、毎晩、眠る前に、「ハンゲコウボク湯」という漢方薬をのんでいる。ガ
ンの予防薬にきくと、恩師の田丸先生が教えてくれた。で、あるとき、その田丸先生に、その根
拠をたずねると、もとはといえば、東大の薬学部で、薬学部長をしていた水野という先生が、そ
れを発見したのだという。

 水野という先生が、理化学研究所というところで、主任研究員をしていたときに発見したとい
う。「林君ものんでみなさい」と言われて、それでのむようになった。それが、もう5年になった。

 量は、耳かき一杯程度で、よいそうだ。それで効果があるそうだ。それを寝る前に、舌の先で
溶かしてのむ。

 おかげで私たち夫婦は、今のところ、がんになっていない。毎年年賀状で、田丸先生に、「お
かげで、今年も、がんにならないですみました」と報告している。

 ただ、頭のボケには、きかないそうだ。その水野という先生は、認知症になってしまい、今で
は家族の顔すらも、見分けがつかないという。

●38.5度!

 ワイフがたった今、寝室に入っていった。「今夜は、扇風機もいらないわね」と、笑っていた。

 昨日は、暑かった。この浜松市では、38・5度という、猛烈な気温を記録した。身の置き場の
ない暑さである。今日の気温も、それくらいあった。

 が、今夜は、扇風機もいらない。森に囲まれた生活のすばらしさは、ここにある。たしかに日
中は暑い。街の中の気温と、それほど、ちがわない。しかし日没と同時に、冷気をおびたさわ
やかな風が、谷の下から、サーッと吹きあげてくる。

 このあたりに住んでいる人たちは、みな、こう言う。「クーラーを使うことは、めったにありませ
ん」と。

 言い忘れたが、この山荘には、そのクーラーはない。つけようと思ったことは何度かあるが、
結局は、つけなかった。今夜も、窓をあけているだけで、眠るには、寒いほどである。

 もっとも、この10年で、地球の温暖化は、さらに進んでいる。それはもう、だれの目にも明ら
か。このまま温暖化が進めば、2100年を待たずして、この地球には、人が住めなくなるように
なるかもしれない。

ならばクーラーで冷やせばよいということになるが、一説によると、クーラーの能力にも、限界
があるらしい。気温が45度を超えると、クーラーは、クーラーとして、機能しなくなる、とか。

 もっとも気温が45度にもなれば、人類は自滅する。風呂の温度だって、42〜3度が限界。
入れなくはないが、10分も入っていると、頭がのぼせてしまう。

 温暖化と戦うためには、つまり、温暖化が進んでも生きていくためには、体を鍛(きた)え、自
然の樹木を、もっとふやすしかない。

●移住

 で、今日も、ワイフとオーストラリアへの移住について、話しあった。何でも、50万オーストラ
リアドル分の国債を買えば、移住できるという。ほかに収入証明書とか、同じく50万ドル分の
預金残高証明書のようなものがいるらしい※。

 その数字を見ながら、ワイフが、「家と土地を売れば、何とかなるわ」と。

私「移住するから、いいというものでもないよ」
ワ「でも、元気なうちに、移住したいわ」
私「そうだね」と。

 私自身は、もう少し、この日本でがんばってみたいと思っている。たいしたぜいたくはできない
が、しかし今のところ、何一つ、不自由なく生きている。こういう生活を捨ててまで、どうこうとい
うことは、あまり考えたくない。

私「だからさ、もう少しがんばって、収入がなくなってきたら、そうしようよ」と。

 今からちょうど17年前。当時の私は夢中になって、この山荘を建てた。建築以外の工事は、
ほとんど、自分たちでした。毎週、ユンボを借りてきて、土地を造成したり、石組みをしてくれる
業者の人を手伝ったりした。電気工事も、水道工事も、自分たちでした。

 あのころは、本当に楽しかった。

 毎日作業が終わると、丘の上に立ち、「風呂からの景色はこうだ」「居間からの景色はこうだ」
と、それを二人で言いあった。

 しかしそれも一巡すると、それが当たり前の生活になってしまった。あれほどあこがれた田舎
暮らしだったが、5年とか10年もたつと、どうということもない生活になってしまった。

 多分、オーストラリアに移住しても、同じようになるのではないか。つまりそれが今、オーストラ
リア移住をためらわせている、最大の理由でもある。

●夢と希望

 明日も今日と同じ。来月も今月と同じ。来年も今年と同じ。……もしそんな人生になってしまっ
たら、私はそれに耐えられるだろうか。

 ふと、今、そんなことを考えた。

 明日は、何かよいことがあるだろう。来月は、何かよいことがあるだろう。来年は、何かよい
ことがあるだろう。

 そういう思いがあるからこそ、私は、今日を生きていくことができる。今月を生きていくことが
できる。今年を生きていくことができる。

 しかしもし、それがなくなってしまったら……。

 このところ気になるのは、脳梗塞になって、体が不自由になった人たち。そういう人をみかけ
ると、ドキッとする。大きな衝撃を受ける。脳梗塞によって、脳のどこがダメージを受けるかにも
よるそうだが、中には、人格まで変わってしまう人もいるそうだ。

 ほかのことなら私にも耐えられるかもしれない。しかし人格まで変わってしまったら……。脳
のCPU(中央演算装置)が狂うわけだから、狂ったという意識がないまま、狂ってしまう。

 だから狂ったとしても、自分でそれに気づくことはない。そのときでも、「私は私」と思っている
かもしれない。しかしそれほど、恐ろしいことはない。明日は、確実に今日より悪くなってしま
う。来月は、確実に今月より悪くなってしまう。来年は、確実に今年より悪くなってしまう。

 もしそうなるのがわかっていたら、どうやって生きていけばよいのか。

 しかし現実には、現状維持が精一杯。現状維持ができるだけでも、感謝しなければならな
い。夢や希望といっても、身近なささいなものに、自分をつなげるしかない。

 ……唐突だ恐縮だが、今、突然、眠気が襲ってきた。時刻は、午前0時を少し回ったところ。
今夜はここまで。おやすみなさい! 

【注※】オーストラリアへの移住の条件。リタイアメント移住のばあい。

●満55歳以上。
●配偶者をのぞく扶養家族がいないこと。
●地方都市に居住のばあい、50万オーストラリアドルの資産提示。
●プラス年5万ドル以上の所得証明。
●50万オーストラリアドル以上の債券投資。

(50万オーストラリアドル=約4363万円)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 移住
 オーストラリア移住)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1413)

●慈悲深い人は……

+++++++++++++++++

何かのことで、困っている人がいたとする。
そのとき、私は、ふと、こんなことを
考える。

もしも、反対の立場だったら、どうだろうか、と。

つまり、もしも、反対の立場だったら、
その人は、私を助けてくれるだろうか、と。

+++++++++++++++++

 何かのことで、困っている人がいたとする。そのとき、私は、ふと、こんなことを考える。

 もしも、反対の立場だったら、どうだろうか、と。つまり、もしも、反対の立場だったら、その人
は、私を助けてくれるだろうか、と。具体的に、こんな例で考えてみよう。

 ある日、私のところに、1人の男性がやってきたとする。かなりお金に困っているらしい。その
男性が、私にこう言った。「100万円ほど、用立ててほしい」と。

 こういうケースのとき、私はふと、こう考える。「もしも、反対の立場だったら、どうだろうか」「そ
の人は、私に、100万円を貸してくれるだろうか」と。

 そのとき、私が、「この男性なら、私を助けてくれるはず」と確信すれば、私は、その男性に、
100万円を貸すだろう。

(実際には、私は、お金の貸し借りはしない主義なので、その半額程度を、あげてしまうことに
なる。私はいつも、そういうやり方をしてきた。)

 が、そのとき、私が、「この男性は、私を助けてくれないだろう」と確信すれば、その男性の申
し出を断るだろう。

新約聖書の中の一節に、こんなのがある。

『慈悲深い人は、祝福される。なぜなら、彼らは、慈悲を与えられるだろう(Blessed are the 
merciful, for they will be shown mercy)』(Matthew 5-9)と。

 慈悲深い人か、そうでないかは、ある程度、社会的経験を積んだ人なら、わかる。つまりここ
でいう、「この男性なら、私を助けてくれるはず」と確信できるような人は、それだけ慈悲深い人
ということになる。

 だからそういう人は、みなから、慈悲を受ける。みなから、助けてもらえる。が、そうでない人
は、そうでない。

 そこで今、私は、ふと、こんなことを考える。

 「今、この私に、お金を貸してくれる人がいるとしたら、だれだろう」と。

 頭の中で、いろいろな人を思い浮かべてみる。が、どの人も、どうも自信がもてない。「多分、
お金を貸してくれと頼んだら、断ってくるだろうな」と。

 しかし反対に、お金を借りにきたら、貸してあげる人は、決まっている。その半額程度を、あ
げる人である。

 Aさん、Bさん、Cさん……、と。

 その話をワイフにすると、ワイフも、こころよく同意してくれた。「そうね」「あの人たちは、みん
な、いい人たちだわ」と。

 ここに書いた、Aさん、Bさん、Cさん……は、どの人も、心のやさしい人たちだ。いつも忙しそ
うに、他人のために動いている。そのため家族の受けは、あまりよくない。生活は、質素。収入
も、平均より、少ない。

私「でも、ぼくに、お金を貸してくれる人はいないと思うよ」
ワ「どうして?」
私「だって、ぼくは、慈悲深くないもんね」
ワ「あなたは、人にお金を借りるような人ではないわよ。死んでも、借りないと思うわ」
私「そうかもしれないね。ぼくは、子どものときから、そういう人間だった」と。

 学生時代も、お金がないときが、よくあった。最長、20日間、下宿の朝食と夕食だけで、生き
延びたこともある。よく「そうおいとき、風呂はどうした」と聞かれるが、大学のプールで、それを
すました。

 タバコも吸っていたが、パチンコ屋の床に落ちている玉を拾い集めて、それでタバコと交換し
た。

 それでも、私は、お金を人に借りたことはない。一度だけだが、失業保険金が出る立場にな
ったこともある。しかし私は、もらわなかった。

 私は、そういう意味では、がんこな分だけ、他人には冷たかった。お金を借りにくるような男
がいたりすると、内心では、「なんて、情けないヤツだ」と、軽蔑した。

 そういう自分が、だんだんとかたまって、今のような私になった。今の私は、お金の貸し借り
は、いっさい、しない。何かのことで支払いがあれば、どんなに遅くても、1、2週間のうちに、す
べてをすましてしまう。

私「他人から見ると、ぼくは、冷たい男に見えるよ、きっと」
ワ「そんなことないわよ。みんな、助けてくれるわよ」
私「そうかなあ……」と。

 私という人間が、他人にどう思われているか、実際のところ、私にはよくわからない。しかしこ
れだけは、たしかだ。

 私は、慈悲深い人間だとは、絶対に思われていない。自分でも、それがよくわかっている。つ
まり、その分だけ、私は、心のさみしい人間ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●制裁を急ぐな!

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国連安保理での、「K国非難決議採択」を受けて、
このところ、K国制裁論が、にわかに
あわただしくなってきた。

しかし制裁を急いではいけない。
アメリカはアメリカ。しかし日本には、
日本の事情というものがある。

自分の身を危険にさらしてまで、この日本は、
制裁を急いではいけない!

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 A官房長官は、7月18日の記者会見で、「K国は政策を大転換する必要があるが、そういう
状況は見いだせない。国連決議を踏まえ、大量破壊兵器に関するモノ・カネ両面で制裁を行っ
ていく。アメリカをはじめ国際的な連携が重要だ」(産経WEB)と述べ、追加制裁は不可避との
考えを示した

 わかる。その気持ちは、わかる。しかし相手は、まともな国ではない。あの国の指導者は、す
でに狂っている。そういう国を相手に、真正面からぶつかってはいけない。民主党の一部から
は、「制裁は、国連と歩調を合わせてせよ」という意見が出ている。同感である。

 ここで日本が制裁に突っ走れば、K国に、日本攻撃の口実を与えることになる。それがわか
らなければ、あの金xxの脳みその中に、自分を置いて考えてみることだ。

(1)金xxは、日本からの賠償金を手に入れたがっている。
(2)ミサイルや核兵器は、その日本を脅すためのもの。
(3)しかし日本のバックには、アメリカがいる。
(4)だからアメリカを押さえておく必要がある。
(5)アメリカとの間に、「相互不可侵条約」を結びたい。
(6)その条約さえあれば、仮に日朝戦争になっても、アメリカは参戦してこない。
(7)日本は攻撃されても、反撃できない。憲法上の制約がある。
(8)現在、K国の経済、社会制度は、壊滅状態にある。
(9)軍部の不満は大きく、内部はガタガタ。
(10)自滅か、さもなくば、開戦か。

 こういうときに、日本が率先して制裁に突っ走れば、どうなるか? K国は、「待ってました」と
ばかり、戦線の矛先を、この日本に向けてくる。何度も繰りかえすが、あんな国を制裁して、ど
うなる? もうこれ以上失うものは何もないという国である。日本は、そんな国と、心中でもする
つもりなのか?

 もしたった一発でも、東京のど真ん中で、核兵器が爆発すれば、そのときから、日本の経済
と社会は、奈落の底へと転落する。被害は、80万人の死傷者だけではすまない。

 日本は、「弱虫」と言われようが、「卑怯者」と言われようが、そんなことは気にすることはな
い。ここはうまく、K国の矛先をかわしながら、「国連と歩調を合わせて」(民主党)、全体とし
て、徐々に、K国をしめあげるのがよい。

 放っておいても、K国は、やがて自滅する。崩壊する。すでにその兆候は、見え始めている。
金xxの健康問題も浮上してきている。今度の集中豪雨で、農産物にも、かなりの被害が出て
いるらしい(7月中旬)。

 だから、ここはあせってはいけない。つぎにK国が何かをしでかせば、それは中国とロシア、
それに韓国の責任である。しかし今ここで、日本があせって制裁に突っ走れば、今度は、その
責任を、この日本が負うことになる。

 頭を冷やせ、A官房長官! A外務大臣!

(この原稿は、06年7月19日朝に書いたものです。マガジンに載るころには、極東情勢は、大
きく変化しているかもしれません。)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●殺人事件発生率は、日本の37倍

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2010年のサッカーW杯は、
南アフリカで行われる。

しかし南アフリカの殺人事件発生率は、
日本の37倍!

人口10万人あたり、約40件(!)とか。

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 そうでなくても、サッカーのW杯は、熱くなりやすい。そのW杯が、今度、南アフリカで開催さ
れるという。しかし大きな問題がある……。

 南ア警察によると、04年4月〜05年3月の殺人事件発生率は、10万人あたり約40件もあ
るという。この発生率は、何と、日本の約37倍!

 この浜松市の人口は、周辺市町村と合併する前でも、60万人。この数字で計算すると、この
浜松市だけでも、1年間で、240件も、殺人事件が起きることになる。(40x6倍。)

 ほぼ毎日、1件弱の割合で、殺人事件が起きることか。が、それだけではない。治安の悪化
率ということになると、殺人事件の発生数が2倍になると、4倍になる。3倍になると、9倍にな
る。つまり、それくらい、治安は、悪化しているとみてよい。

(この数式には、根拠がない。あくまでも感覚的な数式。本当は、治安の悪化率に比例して、殺
人事件が起きると考えるのが正しい。)

 つまり殺人事件が起きる背景には、それ相当の人心の崩壊がある。それが治安の悪化につ
ながる。もしこの浜松市で、毎年240件もの殺人事件が発生したら、どうなるか? それだけ
で警察の捜査機能は、マヒ状態に陥ってしまうにちがいない。

 さらに言えば、日本で起きる殺人事件と、南アフリカで起きる殺人事件は、質的にちがう。日
本で起きる殺人事件には、その背景には、まだそれなりの理由とか原因がある。一定のワク
がある。

 しかし南アフリカで起きる殺人事件には、それがない。ワクがない。ある日、突然、暴漢がコ
ンビニを襲って、ピストルで、店員を射殺する。……というものが多いらしい。

 そんなところでW杯を開いて、はたして、だいじょうぶなのか?

 2010年のW杯は、サポーターも命がけになりそう!

【付記】

 私も、1970年代の終わりごろ、アルゼンチンへ行き、たいへんこわい思いをしたことがあ
る。

 首都のブエノスアイレスだけでも、1日の殺人事件件数が、30件という時代だった。で、夜、
街中見物と決めこんでタクシーに乗ったのだが、それが強盗タクシーだった。

 私はピストルをつきつけられ、当時のお金で、20万円近い現金を奪われてしまった。あのと
きへたに抵抗していたら、そのまま射殺されていたかもしれない。

 そういうことが、南アフリカでも起きるかもしれない。みなさん、ご用心!


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●韓国のヒガミ節

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韓国を理解するためには、
韓国の論理で考えるしかない。

しかし、その論理そのものが、
おかしい。

本当に、おかしい。

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 UESCOの交換学生で韓国にいたころ、耳にタコができるほど聞かされた話が、これ。

 「日本は、朝鮮動乱で、金を儲けた」
 「今は、ベトナム戦争で、金を儲けている」と。

 たしかに朝鮮動乱で、日本は、戦後復興の足がかりを得た。莫大な軍事特需でうるおった。
しかし、誤解してはいけない。

 日本は、ただの1円も、韓国からもらったわけではない。アメリカを中心とする、連合国からも
らった。ベトナム特需にしても、同じである。

 こういうのを、私たちは、「ヒガミ節」と呼んでいる。何かにつけて、ものの考え方が、うしろ向
き。ゆがんでいる。

 最近では、こんな論理まで、生まれた。

 「(韓国がK国内に建設した)開城工業団地での製品は、すべてアメリカが買い取るべき」「韓
国が南北に分断されたのは、アメリカの責任だから」(金大中、前大統領)と。

 さらには、「南北が分断されたのは、日本の植民地政策が原因」(与党前C議長)とも。つまり
「南北分断の責任は、日本にある」と。

 ここまでヒガミ節が進むと、この私ですら、「?」。

 が、韓国のヒガミ節は、ここで終わらない。

 現在のN大統領は、政権の座につくつすぐ、アメリカに特使を送り、韓国からのアメリカ軍の
撤退を訴えた。が、そのアメリカ。「NO!」と言うかと思っていたら、すんなりと、「YES」と言っ
てしまった。

 これにあわてたのが、N大統領。「撤退には、時間をかけてほしい」と。

 さらにアメリカ軍が撤退し始めると、「撤退は、兵隊だけではなかったのか。装備まで持ちだ
すとは、聞いていなかった」とも。アメリカ軍は、兵隊の撤退と同時に、戦車や大砲などの重火
器まで、持ちだしてしまった。

 アメリカ軍にしてみれば、当然のことをしたまでである。

 で、このあたりから、アメリカと韓国の関係が、おかしくなった。

 韓国のN大統領は、今度は、「撤退するなら、基地周辺を、もとどおりにしてから出て行け」
と。つまり「朝鮮動乱が始まる以前の状態にしてから出て行け」と。

 が、これにはさすがのアメリカ軍も怒った。「半世紀も、韓国を守ってきたのに、何だ、その言
い方は!」(B在韓米軍司令官)と。

 その結果、今日、アメリカ政府は、とうとうこういう結論を出した。

 「戦時作戦統制権を、2010以前に、韓国軍に返還する」と。

 それまでは、2012〜3年ごろということになっていた。それを、数年早めて、「2010年以
前」と。具体的には、「4年以内、2009年までに」ということらしい。

 わかりやすく言えば、2009年までに、アメリカ軍は、韓国からの完全撤退を決めてしまった
ことになる。

 が、これにまたまた韓国があわてた。驚いた。すかさず、「待ってくれ!」「早すぎる!」と。
今、韓国中が、この問題で、大騒ぎしている。

 ……と考えていくと、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。つまりそれが韓国の「ヒガ
ミ節」ということになる。

猛烈な依存性、妄想的な被害者意識、それに鼻もちならぬ民族誇大主義。これら3つが混然
一体となって、今の韓国の政権中枢部を襲っている。「現実」そのものから、国家意識が、完全
に遊離してしまっている。

 あるいは今のN大統領には、「現実」そのものが見えていない?

 韓国といっても、中身は、同胞とやらの、あのK国と同じと考えた方がよいのかもしれない。
(06年07月19日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1414)

【女児願望の男児(?)】【追加原稿】

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掲示板のほうに、少し前、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っている、というものだった。

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 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

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【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、そ
れをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありました。強く否定
していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいいのでしょうか? どう
返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら病
院に行ったほうがいいのでしょうか?

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 この相談について、少し前(06年6月)、子どもの性同一性障害について、書いた。

 それについて、補足しておきたい。

 臨床心理学(ナツメ出版)の中で、松原達哉氏は、つぎのように書いている(要約)。

「小児期に現れる性同一性障害は、自分の肉体的な性に対して、強い苦痛を抱き、反対の性
になりたいとか、自分は反対の性であると主張するものである。

 男児がままごと遊びなどで、女役をしたがったり、人形で遊んだり、女性服を着たがったりす
る。行動が女性的になる。

 女児は、スポーツや乱暴な遊びに興味を示すようになる。男女ともに、自分と同じ性の服装
を強要されたり、ほかの子とちがう行動により、いじめられることなどのことから、登校を拒否
する子どももいる。

 男児では、4歳以前のことが多く、7〜8歳ごろに社会的な葛藤を起こしやすい。また思春期
以降になると、同性愛的傾向を示し始める」と。

 こういう表現は適切ではないかもしれないが、私は、「濃淡」という言葉を使って、性意識を説
明している。

 「濃い男」「薄い男」「薄い女」「濃い女」と。

 濃い男というのは、いわゆる男っぽい男をいう。薄い男というのは、「男」としての輪郭(りんか
く)のはっきりしない男をいう。その反対が、薄い女、濃い女ということになる。

 このうち、同性愛的な傾向を示す男や女は、その分だけ、薄い男、薄い女ということになる。

 で、その程度には、当然のことながら、個人差がある。が、濃い男であろうが、薄い男であろ
うが、その人自身がそれに納得しているなら、それはどこまでいっても、その人個人の問題と
いうことになる。他人がとやかく言うべき問題ではない。

 もし薄い男や薄い女が、葛藤するというのなら、それは本人自身の問題というよりは、そうし
た事実を受けいれない、社会との軋轢(あつれき)の問題ということになる。つまり社会のほう
にこそ、問題があるということになる。

 そも、「性同一性障害」は、「障害」なのかという問題もある。もし「障害」というのなら、何をも
って、だれに対して障害なのかということになる。

 こうした性同一性障害がさらに進行すると(?)、自分の性を、手術的な方法を用いて、変換
しようとすることもある。こうした強い願望をもつ男女を、「性転換症」とか、「性転換願望症」と
か、呼んでいる。

 実際、性転換の手術を受ける男女は、少なくない。が、それとて、どこまでいっても、その人
個人の問題である。

 ただ、子どもをもつ親にとっては、そうでない。冒頭にあげた、ATさんもその1人である。自分
の子どもに、その傾向を見たとき、ほとんどの親は、あわてる。混乱する。

 いくら頭の中では、「個人の問題」とわかっていても、いざ、自分の子どもがそうではないかと
いう疑いをもったときの、親の気持ちには、特別なものがある。

 が、しかしこの問題だけは、どうしようもない。松原氏も、「ホルモン療法や、性転換手術など
により、性を再建する治療を受けるものもいるが、長期的な経過については不明である」と述
べている。

 わかりやすく言えば、根本的な治療法(?)は、ないということになる。が、こんなことは、自分
にあてはめて考えてみれば、だれにでもわかること。

 私は、自称、その「濃い男」である。同性愛にはまったく関心がない。興味もない。その私が、
もしだれかに、「お前は、おかしい。男と女をそういうふうに区別してはいけない。同性愛にも、
少しは興味をもて」と言われたとしても、私は困る。はたして私は、そのとき、どうように反応す
るだろうか。

 私は多分、こう叫ぶにちがいない。「放っておいてくれ。お前には、関係のないことだ。私がそ
れでいいと思っているのだから、それでいいではないか」と。

 「濃い男」にせよ、「薄い男」にせよ、それはあくまでも相対的なもの。私より濃い男は、いくら
でもいる。もちろん薄い男もいる。女性についても、しかり。

 が、教育的な立場では、ものの見方が、少しちがってくる。

 この分野で、ものを考えたことがないので、あくまでも私の推察でしかないが、こういうことは
言える。

 男には、女性恐怖症というのがある。私も経験している。幼稚園で働くようになったころのこと
である。幼稚園へやってくる母親たちが、みな、たいへん恐ろしい存在に見えた。

 で、当時の私は、相手を、「お母さん」と呼んだだけで、そのとたん、その女性から、「女」が消
えたのを覚えている。女性であるはずなのに、「女である」という意識しなくなってしまった。つま
りそれくらい、母親たちには、いびられた!

 で、もし1人の男の子が、たいへん(恐ろしい母親)をもったとしたらどうだろうか? その男の
子は、母親恐怖症から、女性恐怖症になり、ついで、「女」に興味をなくすようになるかもしれな
い。

 症状的には、性同一性障害と似たような症状を示すようになるかもしれない。

 もっともこういうケースのばあいは、(ゆがんだ性意識)という形となって現れやすくなる。ロリ
ータ・コンプレックス(ロリコン)というのも、そのひとつ。おとなになってからも、成人の女性と、
交際することができなくなったりする。そういうことはあるが、(恐ろしい母親)をもつことイコー
ル、性同一性障害、とういうことではない。

 もっとも、それについても、人には、さまざまな性意識というのがある。まさに千差万別。女性
のスカートの下をのぞきたいと願っている男もいれば、大きな尻で顔をおしつぶされてみたいと
願っている男もいる。

 「性」そのものが、人間の生きる原動力となっているというから(フロイト)、この問題だけは、
安易に考えることはできない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 トラン
スセキュシュアリズム 子供の性同一性障害 同性愛 同一性障害)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【今朝のニュースから……】

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毎朝、パソコンを立ちあげると、
まず、各社のニュースに目を通す。

現在、よく見ているのが、
ヤフー・ニュース、TBSのi−news、
産経WEBなど。

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●ジャワ島南西部を襲った津波

 7月17日、ジャワ島南西部を、津波が襲った。AP通信によると。死者数は、少なくとも341
人(保健省当局)にのぼったそうだ。津波に流された瓦礫(がれき)の中には、さらに多くの被
災者が閉じこめられてという。被害は、もっと拡大しそうだ。

 その津波だが、高いところで、2メートル。場所によっては、海岸から300メートル地点まで流
れこんだという。

 たった2メートル?、と思う人もいるかもしれないが、波がもつ威力には、相当なものがある。
私も、伊豆の先にある、神津島の海水浴場で、それを経験している。

 3人の子どもたちを砂浜で遊ばせていたときのこと。突然、大波がやってきた。私はあわてて
海に飛びこみ、最年少の三男を抱きかかえた。そこへ大波が襲ってきた。私は、その波の中
で、三男をかかえたまま、二転、三転。やがて砂浜に体ごとたたきつけられた。

 長男と二男は、無事だった。見ると、ワイフが、2人の手を引いて、砂浜に立ちすくんでいた。

 私は、そのとき、メガネを波に奪われた。被害はそれだけだったが、しかし砂浜だったからよ
かった。岩場だったら、どうなっていたかわからない。

 たかが大波? ……というのも、私は、子どものころから、長良川の激流の中でも、平気で泳
いで遊んでいた。ゴーゴーと渦を巻くようなところでも、である。

 が、川というのは、見た目ほど、あぶなくない。渦に巻きこまれると、洗濯機の中の衣服のよ
うに、回転しながら、底のほうに吸い寄せられる。しかし川底に達すると、そのまま、川下のほ
うに体がはじき飛ばされる。流れに任せていれば、自然と体が川の表面に浮いてくる。

 自然のジェットコースターのようなものである。

 しかし海は、ちがう。そのときも、体中に、ものすごい圧力が加わるのを感じた。同じ水なの
に、川の水と、海の水は、体で感ずる密度がちがう。たった2メートルの高さの津波でも、木造
の家だったら、こなごなに破壊されてしまう。

 これから海へ遊びに行く人も多いかと思うが、あの高波だけには、気をつけたほうがよい。遠
くに台風があるようなときほど、危険である。5分に1度とか、10分に1度とかの割合で、突
然、やってくる。ザザッと、水面をもちあげながら、そのあと、上からたたきつけるようにしてや
ってくる。が、高波の本当の恐ろしさは、その波が引くとき。そのまま、ものすごい力で、海のほ
うへ体を引っ張っていく。

 このとき、みな、溺れるらしい。

 「海はなめてはいけない」……というのが、あの神津島で、私が学んだ教訓である。


●P社の湯沸かし器

 P社の湯沸かし器で、多くの事故が起きていたという。その数、27件(P社公表分)。一酸化
中毒による死者も、いる。

 そもそも、部屋の中で、ガスで湯をわかすということ自体、危険なことと考えてよい。とくに最
近の家屋は、密閉性がよい。密閉性がよい分だけ、一酸化中毒を起こしやすい。

 このニュースを読んで思い出したのが、J君(当時、中学1年生)という子どもだった。

 J君は、夏休み前までは、明るくハキハキした子どもだった。そのJ君が、夏休みが終わった
とたん、別人のように、ヌボーッとした子どもになってしまった。反応が鈍くなり、集中力もなくな
ってしまった。

 そこでJ君の母親に会い、あれこれ原因を問いただした。母親は、「そう言えば……」と言っ
て、こんな話をしてくれた。

 夏休みの間に、家の改築をすることになった。そこでJ君の部屋は、その間だけ、4畳間程度
の部屋に移ることになった。4畳間といっても、ものがぎっしりとつまっていた。実際には、2畳
間程度しかなかったという。

 その部屋にクーラーをつけた。そしてJ君は、家の改築工事の間、そこで過ごした。

 ある朝のこと。起きてきたJ君が、いつもと様子がちがうのに母親は、気づいた。「どうした
の?」と聞いても、ぼんやりとしているだけ。反応がない。つまり、そのときから、J君は、そうな
ってしまった。

 で、これから書くことは、私の素人推理である。

 おそらくJ君は、狭いその部屋の中で、酸欠状態になったのではないか。ふつう酸欠状態に
なると、人は蒸し暑く感じ、窓を開けたりする。が、J君の部屋には、窓がなかった。(窓はあっ
たが、その窓にクーラーが取りつけてあった。)

 で、一晩中、J君は、クーラーをかけたままにして、眠ってしまったらしい。そしてそういう状態
が、何日も、つづいた。そしてJ君は、J君のようになってしまった(?)。

 ただ幸いなことに、J君の症状は、月を追うごとに軽くなり、半年を待たずしてもとのように戻
ったから、よかった。

 ……ということで、子ども部屋の換気には、みなさん、くれぐれもご用心! 昨日も、ある母親
から、こんなメールをもらった。

 「クーラーを使うときは、部屋の換気に注意してください。空気が乾燥しますから、ばい菌も繁
殖しやすくなります。そのため、夏風邪をひきやすくなります。汗をかいて寝るというのは、健康
のためにも、大切なことです」(Kさん)と。


●あるタレントのハレンチ事件

 「G」という名前で売り出していたコンビのメンバーの1人が、北海道のH市で、何やらハレン
チ事件を起こしたらしい。

ヤフー・ニュースによれば、「Yさんは、16日深夜から17日未明にかけ、宿泊していた北海道
H市のビジネスホテルで、17歳の女性に酒を飲ませ、みだらな行為をした疑いで、北海道警
の事情聴取を受けた」という。

 かなり悪質だったらしい。Fテレビは、予定していた出演番組から、Yの出ている部分をカッ
ト。タレントたちを集めて野球チームを組んでいたE氏は、チームそのものの解散まで宣言して
しまった。Yは、そのチームのメンバーだった。

 まあ、この種の事件は、珍しくない。この世界では、日常茶飯事。こうして事件として、表に出
てくるのは、まさに氷山の一角。有名になったことを鼻にかけるタレントたち。それに群がる、
若い女性たち。そういう組みあわせが、夜な夜な、あやしげなドラマを繰り広げている。

 私も、若いころ、あるテレビ局で、ワイドショーの脚本を書いていたことがある。だからその世
界の裏話となると、数多く知っている。こんなこともあった。

テレビ局側が用意してくれたホテルに泊まっていると、突然、1人の女性が部屋にやってきた。
「明日の番組で、モデルをすることになっている、○○です」と。あいさつに来たということだった
が、「いっしょに泊まらせていただけるなら、泊まらせていただいても、結構です」とも。

 今はどうなっているか知らないが、当時のテレビ業界は、そういう世界だった。あるいは今
も、その延長線上にあるのかもしれない。

 まあ、しばらくの謹慎期間を終えると、そのYも、また復活してくるのだろう。こういう事件を報
道しながらも、報道各社は、「Yさん」と、(さん)付けで呼んでいる。もともとこの世界は、そうい
う世界である。


●グーグル・アース

 グーグル・アースを使えば、居ながらにして、宇宙から見た地上の様子を楽しむことができ
る。私も、ときどき、それを使って、遊んでいる。

 そのグーグル・アースの解像度があがり、今度、25センチ大(1ピクセルあたり)のものまで
見えるようになったという。

 ヤフー・ニュースは、こう伝える。

 「グーグルは18日、衛星画像地図ソフト、(Google Earth)において、日本の衛星画像が、大
幅に更新されたことを明らかにした。1ピクセル当たり25cmの高解像度画像が楽しめる地域
もあるという」と。

 さっそくあちこちをのぞいてみる。最初に拡大してみたのが、この浜松市。が、残念なことに、
私が住む浜松市の解像度は低く、そのままにすえ置かれていた。

 ほかに、東京、宮崎などなど。ついでにK国ものぞいてみた。どの地域の解像度があがった
については、よくわからなかった。しかし、K国の首都のP市については、かなり解像度が高い
らしい。道路を走っている車の輪郭も、よくわかった。

 興味のある人は、(↓)から、グーグル・アースを楽しんでみらたよい。無料サービスである。

http://googlejapan.blogspot.com/2006/07/google-earth.html

 で、一言。

 10年ほど前までは、アメリカの偵察衛星でも、30センチ大のものまでしか見えなかったとい
う。しかし今は、25センチ。その後、さらに解像度はあがり、最近では、10センチ大のものま
で見られるようになったという。

 考えてみれば、宇宙からといっても、それほど高い距離ではない。20〜30キロ先から望遠
鏡でのぞくようなものらしい。

 それにしても、すごいことになった。そう思いながら、私は、画面を閉じた。


●冷たい親にして冷たい子ども

++++++++++++++++++

ときとして、ぞっとするほど、心の
冷たい子どもに出会う。

ものの考え方が、合理的で、打算的。
瞬時瞬時に、損得の計算を頭の中で
して、つぎの行動に移る。

なにかにつけて、自己中心的。他者との
共鳴性もない。

++++++++++++++++++

 ときとして、ぞっとするほど、心の冷たい子どもに、出会うことがある。年齢は、あまり関係な
い。

 ものの考え方が、合理的で、打算的。瞬時瞬時に、損得の計算を頭の中でする。もちろん自
分が損になることはしない。その上、なにかにつけて、自己中心的。「自分さえよければ」という
ものの考え方をする。共鳴性もない。だれかが失敗したりすると、「あいつはバカだから」と言っ
て、笑う。切り捨てる。

 で、こういうケースのばあい、親にそれを話しても意味はない。とくに母親に、それを話しても
意味はない。

 母親自身も、その冷たい人であることが多い。つまり子どもは、母親の心を受け継いでいる
だけ。

 こうした例は、「受験」という世界では、露骨に表れやすい。親も、子どももを、我を忘れてしま
う。そのため、その人のもつ「地」が、表に出てくる。

 ある小学校の教師をしている、A氏(男性、40歳くらい)は、こう言った。

 「母親が、どうしてもうちの子を、AA中学校に入れさせてやりたいというから、私もそれなりに
努力してやりました。AA中学校では、内申書を重要視しています。で、AA中学校の入学がほ
ぼ決まりかけたとき、私の知らないところで、SS中学校の入試を受けたのですね。

 で、SS中学校の合格が決まると、その母親は、ハイ、さようならです。一言の連絡も、わびも
ありません。今、そういう母親がふえていますね」と。

 そういう親の姿を見て育った子どもは、どうなるか? 今さら、ここに書くまでもない。こうした
(冷たさ)は、親から子へと、代々と引き継がれていく。A氏が話してくれた母親にしても、そのま
た親から、その(冷たさ)を引き継いだだけなのかもしれない。

 しかし本当の問題は、このことではない。

 親も、その子どもも、同じように(冷たい)ため、たがいにその(冷たさ)に気がつくことはない。
「お宅の子は、心が冷たいですよ」と、私が言ったところで、(そういうことは、言わないが…
…)、親自身も同じように冷たいから、それに気づくことはない。

 一事が万事。

 ある一面で冷たい人というのは、親や子どもにかぎらず、あらゆる面で冷たい。その(冷たさ)
が、その人の人格を形成する。

 が、本当に損をする人というのは、そういう人のことをいう。そういう人にかぎって、やがて、い
つか、「孤独」という無間地獄の世界で、苦しむことになる。

 そこで重要なことは、まず自分自身の(冷たさ)に気がつくこと。すべてはここから始まる。「私
はふつうだ」と思っている人ほど、あぶない。というのも、(冷たさ)というのは、あくまでも相対的
なものでしかないからである。自分がより(暖かい人)になってはじめて、それまでの自分の(冷
たさ)に気がつく。

 そしてその程度には、際限がない。心の冷たい人の下には、さらに冷たい人がいる。心の暖
かい人の上には、さらに暖かい人がいる。「ふつう」ということは、ありえない。

 わかりやすく言えば、私も、あなたも、みな、心の冷たい人という前提で考えたほうがよい。

 それに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。あなたをして、心の暖かい人にしてくれ
る。つまりは、そうすることが、結局は、あなたの子どもを、いつか、幸福にする、最善の方法と
いうことになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【今朝のぼやき節】

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このところ、ふと、疲れを感ずるように
なった。

「こんなことをしていて、何になるのだ
ろう」という疲れである。

毎日が、同じことの繰りかえし……。
そうであってはいけないと思うのだが、
ほかにできることもない。

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●子どもたちの顔

 昨日、子どもたちに作文を書かせている間、順に子どもたちの顔を見やる。Aさん、B君、Cさ
ん……、と。

 このところ参観席には、ワイフが座っている。近くの小学校で、子どもを車に連れこむという
事件が、たてつづけに発生したからである。子どもたちが、迎えの車に乗るまで、ワイフが、そ
れを見届けるようにしている。

 そのワイフは、何やら、静かに手帳にメモを取っている。

 「こんな仕事を、もう何年もしてきたのだろう?」と、ふと、そんなことを考える。が、おかしなも
ので、その実感が、あまりない。年数で言えば、36年ということになるが、その実感が、あまり
ない。

 毎日が、毎日の繰りかえし。単純労働……というほどでもないが、今の私には、それに近い。
この数年、新しい発見が、急速に少なくなってきたように思う。感動も少なくなってきた。

●私の経験

 「知り尽くした」と言えば、少し大げさかもしれない。うぬぼれかもしれない。しかし40歳を過ぎ
るころから、子どもの心理が、手に取るようにわかるようになった。それはある日、突然、やっ
てきた。

 それまでの私は、雲の中に巻きこまれ、悶々としているような状態だった。それがある日突
然、雲の上にぬき出た。とたん、子どもの心理が、手に取るようにわかるようになった。

 「意外と、単純なものだったんだな」と。

 以来、その気持ちは、変わらない。考えてみれば、この36年間、毎日、子どもたちの顔ばか
りを見ていた。こと経験ということになれば、この私の右に出るものはいない。私ほど、幼児の
顔を見つづけてきたものは、いない。

 そしてその幼児が、どのように大きくなっていくかというところまで、私は見届けている。

●ただの塾教師

 たとえば私は、その幼児を、瞬間見ただけで、その子どもがどんな心理状態にあるかを、知
ることができる。

 それだけではない。その子どもが、この先、どうなって、どうなるかまでわかる。さらに、何年
後に、どのような問題を引き起こすようになるかまで、わかる。

 自分でも、超能力者みたいと思うことがある。しかしそれを口に出して言うことは、タブー。「万
が一、まちがっていたらどうしよう」という思いが、口をふさぐ。頭のおかしなバカと誤解される
のも、いやだ。

 「お宅の娘さんは、小6ぐらいになると、手がつけられなくなりますよ。男を求めて、街中をフラ
フラ歩きまわるようになりますよ」「小4、5を境に、成績は急降下。中学校へ入るころには、親
子の関係は断絶状態」などと、どうして言うことができるだろうか。子どもといっても、今の段階
では、天使のように愛くるしい。あどけない。

 だいたい親たちにしても、私に、そこまで求めていない。「ただの塾教師」と、思っている。そ
れが私にも、よくわかる。私は、若いころから、ずっとそういう立場だったし、今も、そう思われ
ている。

 私のすべきことは、バカなフリをし、ヘラヘラと笑いながら、その場をやり過ごすこと。それし
かない。

●母親不信

 率直に告白するが、私は、「母親」というものを、信用していない。またそういう前提で、「母
親」とは、接している。

 若いころは、さんざん、ひどいめに会った。10人のうち、9人までは、信用できる人ではあっ
ても、残りの1人に裏切られたとする。すると、残りの9人の人たちとの信頼関係まで、こなごな
に破壊されてしまう。

 そういう経験を、繰りかえし、繰りかえし、もういやというほど、している。それは決して止むこ
とがない、岸辺に打ち寄せる波のようなもの。36年前にもあったし、今も、ある。

 ただこの仕事をしていて、とても残念だと思うのは、人間関係が、熟成できないということ。相
手は、子どもだし、母親と人間関係をつくるということにも、限界がある。母親といっても、私か
ら見れば、(若い女性)である。

 だから仕事は楽しいが、それ以上に、残るものがない。毎年、同じことを繰りかえしているだ
け……ということになる。

●戦い済んで……

 戦いは、もう終わりに近づいている。それに(戦う)といっても、何と、どう戦えばよいのか。敵
は、そこにも、あそこにも、いたるところにいる。それはわかっている。が、そういう敵を相手に
するのも、疲れた。

 ときどき、「勝手にしやがれ」とか、「オレの知ったことか」と思う。子育てについて言えば、「み
んな、自分で失敗するまで、どうせ気がつかないだろう」と思うことが多い。

 こういうのを、ニヒリズムという。そのニヒリズムが、このところ、自分の心の中で、増大しつつ
あるのがわかる。

 いけないことだと思うが、しかし、だからといって、自分でも、どうしたらよいのか、わからな
い。

 で、私がすべきこと。

 それは、ただひたすら、前に向かって歩くこと。いかに足が重くても、心が疲れていても、前に
向かって歩くこと。

 さあ、今日も、がんばるぞ! みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●韓国の本音の本音、日本の本音の本音

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韓国には、韓国の本音がある。
日本には、日本の本音がある。

みんな、その本音を隠しているだけ。
ごかましているだけ。

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 韓国の本音を、ズバリ言おう。それは「打倒、日本!」である。日本が何かのことで傾くたび
に、彼らは、小躍(おど)りして喜ぶ。「日本ができることで、韓国にできないことはない」と。そう
いう思いも、強い。

 反日的といえば、反日的。超反日的。「日本ごときの国に、蹂躙(じゅうりん)された」という屈
辱感。「日本からの独立を、自分たちでなしえなかった」という不完全燃焼感。この二つが、反
日感情の基盤になっている。

 それに妄想的な被害者意識。最近では、「南北分断の責任は、日本にある」(与党前議長)と
まで言い出した。

 一連のK国問題を見ていても、それがわかる。

 少なくとも、韓国の現政権は、こう考えている。「核兵器にせよ、ミサイルにせよ、統一後の韓
国にとっては、あれば有利」と。現に、そう公言した韓国の政府高官がいる。

 だからK国の国内事情が、緊張するたびに、K国の矛先を、日本に向けさせようとしてきた。
同胞意識も、そこから生まれた。生まれたというよりは、それをうまく利用して、矛先を、日本に
向けさせようとしてきた。

 「ミサイルを飛ばすなら、日本に向けろ」と。韓国の金大中前大統領と、K国の金xxの歴史的
な会談(?)が、終わったあと、金大中は、声高らかに、こう言い切った。「これでK国との戦争
は、もう心配しなくてもよい」と。

 つまりK国に対して、自分だけは(いい子)でいようとした。

 一方、日本は、南北の統一などには、関心がない。はっきり言って、どうでもよい。ただ、今
の段階で、南北が統一したら、日本にとっては、たいへんなことになる。人口6000万人の、巨
大な反日国家が、すぐ隣にできることになる。

 軍人の数では、160万人以上! そんな大軍が押し寄せてきたら、この日本など、ひとたま
りもない。

 だから表向きはともかくも、内心では、南北統一など、みじんも、望んでいない。仮に統一して
も、日本は、ビタ一文も、あのK国には、渡したくない。渡せない。渡したところで、それで反日
感情が好転するという保証は、どこにもない。今の韓国を見れば、それがわかる。
 
 一方韓国は韓国で、内心では、日朝戦争を望んでいる。中国も、望んでいる。これは私の妄
想でも、何でもない。事実、「日朝戦争を利用して、日本を太平洋の向こうに叩き落とせばよ
い」とか、「(中国の)目の上のタンコブを取ることができる」とか言っている、中国人の識者がい
る。

 K国はK国で、同じように、「日本を叩けば、アジアの英雄になれる」と信じている。「朝鮮民族
のうらみを晴らすことができる」と信じている。

 戦争というのは、決して、2国間だけで起きるものではない。その戦争を支える、周囲国家
が、戦争が起きるような流れをつくる。

 今の日本とK国の関係を見れば、それがわかる。が、ここで大異変が起きた。

 日本のK首相は、K国のP市まででかけていき、この(流れ)をひっくり返してしまった。いわゆ
る「日朝ピョンヤン宣言」というのが、それである。私は、日本がした戦後の国際外交の中で、
これほどまでにみごとな外交を見たことがない。

 K国が、ミサイル開発をやめることは絶対にないということを百も承知の上で、K首相は、ミサ
イルの開発問題に、賠償問題をからめてしまった。つまり「ミサイルを一発でも撃ったら、賠償
金は、払わない」と。

 これはそれまでの韓国の思惑に、まっこうから相反するものだった。韓国は、こう考えてい
た。

 「南北が共和制国家にでもなったら、K国の側に立って、莫大な賠償金のおこぼれをもらうこ
とができる」と。あるいは「K国が手にする賠償金で、同時に韓国も、うるおうことができる」と。
が、日本の賠償金をねらっているのは、韓国だけではない。中国も、ロシアも、それをねらって
いる。

 しかしそういう日本や韓国の思惑を尻目に、K国は、突っ走ってしまった。核兵器の保有を宣
言し、それを飛ばすミサイルまで開発してしまった。

 こうなると、もう日本は、だまって見過ごすことはできない。時間がたてばたつほど、K国に
は、有利になる。ますます多くの、核兵器を手にすることになる。

 そこで再び、韓国の登場。日朝間の緊張をあざ笑いながら、南北閣僚級会談を、プサン市で
開いた。「(ミサイル問題ごときで)、朝早くから、騒ぐことはない」と。韓国は、「追いつめられた
K国は、韓国に頭をさげるはず」と読んでいた。が、結果は、逆。その思惑は、完全にはずれ
た。

 「米をよこさなければ、核兵器とミサイルで、韓国を攻撃する」と、逆にK国に脅される始末。

 K国の金xxは、韓国の予想すらもはるかに超えた段階まで、狂っていた。

 「四面楚歌」という言葉があるが、今のK国は、まさにその四面楚歌。しかし同じように、韓国
も、準四面楚歌。日本とアメリカとの間にできてしまったミゾは、ますます深まるばかり。中国と
ロシアは、もとから韓国など、相手にしていない。

 そこで今、韓国のN大統領は、こう考えている。「何とかして、日朝関係を、もっと緊張させろ」
と。具体的には、アメリカや日本の、さらなるK国制裁を、「今か」「今か」と、待ち望んでいる。

 アメリカや日本がK国を制裁してくれれば、その分だけ、自分だけが、(いい子)でいられる。
K国の攻撃の矛先を、日本へかわすことができる。

 以上が、日本と韓国の本音ということになる。しかしこの本音をベースに、現在の極東情勢を
考えると、すべてがすっきりと理解できるはず。これから日本は、どうしたらよいかも、わかるは
ず。

 そのためにも、

(1)制裁は、急いではいけない。国際社会と協調して、制裁を進める。制裁に突っ走れば、そ
れこそ、韓国の思うツボ。

(2)日本のK首相は、8月15日に、Y神社を参拝してはいけない。その参拝を契機に、韓国と
中国はまたまた急接近するはず。今度は日本が四面楚歌の立場に立たされる。


(3)K国問題は、のらりくらりとかわしながら、K国を自然崩壊にもっていく。K国の崩壊は、もう
時間の問題。金xxの健康問題もある。決して、あせってはいけない。

 以上、参考までに……。
(06年07月21日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※


【女児願望の男児(?)】(06年7月改作)

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掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

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 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

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【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、そ
れをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありました。強く否定
していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいいのでしょうか? どう
返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら病
院に行ったほうがいいのでしょうか?

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 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知られてい
る。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、その結果として、
性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。また女
子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自己の変化そ
のものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあれ、ほ
とんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとなへの脱皮をは
かるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、自意識
が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネガティブ)な
世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、そのひとつであ
る。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱として
の「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させることができない「性
同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

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★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の身
体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の
性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容できず、更
にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状態を指して、性
同一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」とい
う表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちであるた
め、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性が食い違っ
た状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの
場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致してい
るが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子
的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察され
る。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれかに
正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられな
い症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。ま
た、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケース
もある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障害者
は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形
態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、(代表的な症例
では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 というの
は、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して
多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまったくなかっ
たと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの
性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場で
は、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうところのニ
ューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、売春以外
観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、男性型の身体
より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去勢をし、十代後半
になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、それを防ぐための文
言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々を、
性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドラインの第2
版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明記された。

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●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりもしそう
であるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」というよりも、
個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たちにとっ
ては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということになる。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、かえって追い
つめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオーストラリアで学生生
活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもっていると考
えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかということさ
え、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うことさえ、許されなくな
る。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたのは、X君
が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあるのを
見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたように、ほかに気に
なることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んでしまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の母親は、
その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、わからなくな
ってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでないものを
見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうすることもでき
ませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方のないこと
と、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあって
いません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問題だけは、
なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なことは、息子が自分
で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3〜4年生
くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両手をすり
あわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、そうし
た冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでにY君
に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱりと言った。
「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてくると、Y
君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめかしいと
いうか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、ここに書いたY君で
ある。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校生と、
恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部の席で、手
をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、それで
終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性同一
性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性障害者ということに
はならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、「自分は女性」と思いこん
んでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」で
ある。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに添付す
る。

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(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が生まれてく
る。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職に応じたものの
考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性をも
つ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、失敗
など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観に大き
な影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そういう方向で
勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を勧められ、文科系コ
ースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさからうなどということは、で
きなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにもこうに
も、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そのと
きですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自分の職業
を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えてよい。ほ
とんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そして、その性別に
ふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まったくの
「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなったということもあ
る。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因については、いろいろな説があ
るが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、いじめられて泣くのは、男児、
いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってしまっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」にな
りきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事をしなさ
い」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、自我そのものま
で軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代に押
しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだということになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなければならな
い。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞき、男女差
別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べる学校もふえて
いる。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線の運
転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そういう問題も、考
えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差別して
はならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、今後は、性に
よる差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日本を変えていく。意
識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなければならない。
(030622)

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●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書いてき
たことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。残念なが
ら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを見たこともない
し、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無だっ
た。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、そうした服装
を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、からかわれた時代
もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、子ど
もは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そういう部分で、
親として、できることはしなければならない。反対に、してならないことは、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、狩り
の仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要である。男児が
男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、考えられる。
(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化するケースもあ
る。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視点で、
一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもしれない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思われる。仮に
性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどない。いわんや病院へ
連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日本では、
たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、もがき苦しん
でいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、もがき苦しんでい
る人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。しかし現実
には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」を自覚することが
多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果として、「自
分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳をとってか
らの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、若いときに見
た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、女を意識
するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自身のことでよく
覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなってしま
った。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の下着を見
てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよくおぼえていない。
しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、私は、そのとき強烈な衝
撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致を起こ
したとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるなら、
問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出てくる
ようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だけで、こうし
た人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視点で、こうした人たち
を、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うことはでき
ない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的には、
自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしかに、自分の子
どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがある。しかしそれは、
(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけなが
ら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が同居して
いることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」というよ
うなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているようにも思う。もしあ
のとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、私を病院へつれていくと
言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。

 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あるいはど
んな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につい
て言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」という図式
が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそうし
た原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同一性障害を
問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいた
ので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう
答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もい
た。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。その
高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう書くと、軟
弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞台でギター独奏
したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞くと、「こわかった……」
と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのは
たいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も
一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、ウンチを教
室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられて
いることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の
子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手と
いうのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなに
も、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らし
くという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、
妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかし
い。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は
皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(98年、
浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐怖症
になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、今、新時代
の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加しなさい」と指導して
も、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次
大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく
女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとた
まりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 男児
の女児化 男性の女性化 性同一性障害 社会的性差 ジャンダー)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【女児願望の男児(?)】【追加原稿】

 この相談について、少し前(06年6月)、子どもの性同一性障害について、書いた。

 それについて、補足しておきたい。

 臨床心理学(ナツメ出版)の中で、松原達哉氏は、つぎのように書いている(要約)。

「小児期に現れる性同一性障害は、自分の肉体的な性に対して、強い苦痛を抱き、反対の性
になりたいとか、自分は反対の性であると主張するものである。

 男児がままごと遊びなどで、女役をしたがったり、人形で遊んだり、女性服を着たがったりす
る。行動が女性的になる。

 女児は、スポーツや乱暴な遊びに興味を示すようになる。男女ともに、自分と同じ性の服装
を強要されたり、ほかの子とちがう行動により、いじめられることなどのことから、登校を拒否
する子どももいる。

 男児では、4歳以前のことが多く、7〜8歳ごろに社会的な葛藤を起こしやすい。また思春期
以降になると、同性愛的傾向を示し始める」と。

 こういう表現は適切ではないかもしれないが、私は、「濃淡」という言葉を使って、性意識を説
明している。

 「濃い男」「薄い男」「薄い女」「濃い女」と。

 濃い男というのは、いわゆる男っぽい男をいう。薄い男というのは、「男」としての輪郭(りんか
く)のはっきりしない男をいう。その反対が、薄い女、濃い女ということになる。

 このうち、同性愛的な傾向を示す男や女は、その分だけ、薄い男、薄い女ということになる。

 で、その程度には、当然のことながら、個人差がある。が、濃い男であろうが、薄い男であろ
うが、その人自身がそれに納得しているなら、それはどこまでいっても、その人個人の問題と
いうことになる。他人がとやかく言うべき問題ではない。

 もし薄い男や薄い女が、葛藤するというのなら、それは本人自身の問題というよりは、そうし
た事実を受けいれない、社会との軋轢(あつれき)の問題ということになる。つまり社会のほう
にこそ、問題があるということになる。

 そも、「性同一性障害」は、「障害」なのかという問題もある。もし「障害」というのなら、何をも
って、だれに対して障害なのかということになる。

 こうした性同一性障害がさらに進行すると(?)、自分の性を、手術的な方法を用いて、変換
しようとすることもある。こうした強い願望をもつ男女を、「性転換症」とか、「性転換願望症」と
か、呼んでいる。

 実際、性転換の手術を受ける男女は、少なくない。が、それとて、どこまでいっても、その人
個人の問題である。

 ただ、子どもをもつ親にとっては、そうでない。冒頭にあげた、ATさんもその1人である。自分
の子どもに、その傾向を見たとき、ほとんどの親は、あわてる。混乱する。

 いくら頭の中では、「個人の問題」とわかっていても、いざ、自分の子どもがそうではないかと
いう疑いをもったときの、親の気持ちには、特別なものがある。

 が、しかしこの問題だけは、どうしようもない。松原氏も、「ホルモン療法や、性転換手術など
により、性を再建する治療を受けるものもいるが、長期的な経過については不明である」と述
べている。

 わかりやすく言えば、根本的な治療法(?)は、ないということになる。が、こんなことは、自分
にあてはめて考えてみれば、だれにでもわかること。

 私は、自称、その「濃い男」である。同性愛にはまったく関心がない。興味もない。その私が、
もしだれかに、「お前は、おかしい。男と女をそういうふうに区別してはいけない。同性愛にも、
少しは興味をもて」と言われたとしても、私は困る。はたして私は、そのとき、どうように反応す
るだろうか。

 私は多分、こう叫ぶにちがいない。「放っておいてくれ。お前には、関係のないことだ。私がそ
れでいいと思っているのだから、それでいいではないか」と。

 「濃い男」にせよ、「薄い男」にせよ、それはあくまでも相対的なもの。私より濃い男は、いくら
でもいる。もちろん薄い男もいる。女性についても、しかり。

 が、教育的な立場では、ものの見方が、少しちがってくる。

 この分野で、ものを考えたことがないので、あくまでも私の推察でしかないが、こういうことは
言える。

 男には、女性恐怖症というのがある。私も経験している。幼稚園で働くようになったころのこと
である。幼稚園へやってくる母親たちが、みな、たいへん恐ろしい存在に見えた。

 で、当時の私は、相手を、「お母さん」と呼んだだけで、そのとたん、その女性から、「女」が消
えたのを覚えている。女性であるはずなのに、「女である」という意識しなくなってしまった。つま
りそれくらい、母親たちには、いびられた!

 で、もし1人の男の子が、たいへん(恐ろしい母親)をもったとしたらどうだろうか? その男の
子は、母親恐怖症から、女性恐怖症になり、ついで、「女」に興味をなくすようになるかもしれな
い。

 症状的には、性同一性障害と似たような症状を示すようになるかもしれない。

 もっともこういうケースのばあいは、(ゆがんだ性意識)という形となって現れやすくなる。ロリ
ータ・コンプレックス(ロリコン)というのも、そのひとつ。おとなになってからも、成人の女性と、
交際することができなくなったりする。そういうことはあるが、(恐ろしい母親)をもつことイコー
ル、性同一性障害、とういうことではない。

 もっとも、それについても、人には、さまざまな性意識というのがある。まさに千差万別。女性
のスカートの下をのぞきたいと願っている男もいれば、大きな尻で顔をおしつぶされてみたいと
願っている男もいる。

 「性」そのものが、人間の生きる原動力となっているというから(フロイト)、この問題だけは、
安易に考えることはできない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 トラン
スセキュシュアリズム 子供の性同一性障害 同性愛 同一性障害)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1415)

【子どもの学習指導】

●子どもの集中力

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パッパと始めて、サッサと終わる。
その間、わき目もふらずに勉強する。
作業する。

そういう力を集中力という。

この集中力を養うためには、幼児期が
勝負。

短時間で、濃密な学習をする。
そういった訓練を、週に1度ほどする。
10分とか、20分とかいう、短時間で
よい。

それが子どもの集中力へとつながる。

ダラダラとしたダラ勉は禁物。
かえって、子どもからやる気を奪って
しまう。

++++++++++++++++

 何か作業を与えても、熱くならない子どもというのは、多い。小学1年生レベルでみても、10
人のうち、3〜4人はいる。

 するでもなし、しないでもなし……というような状態で、時間ばかり、かかる。「ここまでしない
と、終わらないよ」と、軽い脅しをかけても、ニヤニヤと笑っているだけ。症状としては、つぎの
ようなものがある。

(1)ダラ勉、フリ勉、時間つぶし

 強制的な学習、あるいは、無理な学習が日常化しているため、学習に対する反応が、きわめ
て鈍い。ある子ども(6歳児)は、夏休みの間、午前中の2時間、いろいろな勉強をすることにな
っているという。

 しかし幼児に2時間は、無理。私の教室(BW)では、50分間のレッスンをするが、私だから
こそ、できること。またそういったレッスンをするためには、その何倍もの時間をかけて、準備
をしなければならない。

 平均的な幼児だったら、30分が限度。しかも30分のうち、10分程度、勉強らしきことをした
ら、よしとする。それですます。

(2)頭が熱くならない

 ダラダラと時間ばかりつぶす。そのため、頭が熱くなることがない。ジョギングにたとえて言う
なら、走るでもない、歩くでもないといった感じ。道草ばかり食って、前に進まない。

 平均的な子どもは、ここ一番というとき、カッとなって、その作業に夢中になったりする。しかし
このタイプの子どもには、それがない。熱くなるということ、そのものがない。ほかの子どもたち
が、先を争って作業をするようなときでも、柔和な表情を浮かべて、知らぬ顔をしている。あと
をのんびりとついていく。

(3)競争心、闘争心に欠ける

 「勝つ」「負ける」という感覚そのものが、弱い。あるいは負けても、平気。競争心、闘争心が
なく、最初から、万事、あきらめムード。

 では、どうすればよいか。以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもが勉強から逃げるとき 

++++++++++++++++

やらせればできるはず……と考えたら、
STOP!

中には、「うちの子をもっと、しぼって
ください!」と、頼む親だっている。

しかしこの方法では、子どもは、伸びない。

++++++++++++++++

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉

 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。

いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをする。しか
しその実、何もしていない。何も考えていない。

次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。マン
ガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。

このばあいも、時間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。やらなく
てもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくときも、グラフばかり
かいて時間をつぶすなど。

●一時間で計算問題を数問!

 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこ
ともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほしい」と。遠い
親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワ
ークブックを持ってきた。

見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超えたも
のばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよくできるように
なると思っていたらしい。

案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。同じ問題
を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。一時間もかかって、簡単な計算問題を数問し
かしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示すと、なおすのは容易
でない。

●意欲を奪う五つの原因

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、(2)過
関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、(3)過剰期待
(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、(4)過干渉(何でも親が先に決め
てしまう)、それに(5)与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれ
は誤解。

『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこな
い、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいはより高度な勉強
をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。これについては誤解と
までは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあればよいが、そうでなけれ
ばやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう
が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし
方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レ
ベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。

そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行っ
てからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時
間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリ
ス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。

(参考資料)

静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が……

30分から1時間……43%
1時間から1時間30分……31%だそうだ。
(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内100名について調査・2001年)。


●変わる「勉強」への意識

 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」か
ら、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには
「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。少なくとも世界の教育
はそういう方向に向かって動いている。

そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験のあ
り方も変わってきている。だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、それ自体
が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそれを受けいれない。

たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリーダーになった。し
かし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、「ぼくらは、あん
なヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられるから、A進学高校
には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別にして、今はそう
いう時代なのだ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの勉強グセ 勉強嫌い 勉強を避ける子供)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを本好きにする法

子どもの方向性を知るとき 

++++++++++++++++

子どもを伸ばす最大のコツは、
子ども自身が伸びる方向性に沿って、
子どもを伸ばす。

無理をしない。その一言に尽きる。

++++++++++++++++

●図書館でわかる子どもの方向性
 
子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自由
に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。

サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。
そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。

その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理
をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツが
ある。

●無理をしない

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、1〜2年、レベルをさげる。親というのは、どうして
も無理をする傾向がある。6歳の子どもには、7歳用の本を与えようとする。7歳の子どもに
は、8歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。

そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。
本の選択は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買っ
てあげる」と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな本はダメ。もっといい本
にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。

●動機づけを大切に

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの
前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。

子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。本のば
あいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この動機づけがう
まくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあし
で、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。

まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは読む
意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。

●文字を音にかえているだけ?

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力が
あるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。

親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」
子「……わかんない」
親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」
子「……わかんない」と。

もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさんは、
どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その
内容について絵をかかせるとよい。

本を読み取る力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。
そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。また本を理解しながら読んでいる子
どもは、読むとき、目が静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目がフワフワした感じに
なる。

さらに読みの深い子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿し絵
をじっと見ながら読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもな
い。

●文字の使命は心を伝えること

 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤
字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字
好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。

たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、なか
なかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』『なかなかお
いしい』『なかなかなきやまない』」と。

こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児で、
作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、一〇人に三人はい
る。

(付記)
●私の記事への反論

 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときに
は、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流
れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読
み聞かせをしている人からだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多
い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。
たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひと
りの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。

この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」
「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決して
その本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。

意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、フラン
ス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。フランス語がわかれば話は別だが、ふつうの人ならし
ばらく聞いていると、イライラしてくるはずだ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の方向性 図書館の活用方法)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを勉強に向かわせる法

子どもが学習机から離れるとき

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくする
と疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで
きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、
なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の
上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし
その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。

反対に自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合って
いるということになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい
ると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがあ
る。結果、棚式の机のばあい、購入後3か月で約80%の子どもが物置にしていることがわか
った。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかも
しれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あ
るいは低学年児のばあい、机はまだいらない。

たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強を意識する
のではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあいを大切にする。子どもに向
かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。

●学習机を置くポイント

 学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 

(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。

(3)座った位置からドアが見えるようにする。

(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。

(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。

(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強
できないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ち
つかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひ
じかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、
どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかも
しれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を
休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。た
いていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうとこ
ろを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

(詳しくは、「はやし浩司の書斎」に具体的な配置図とともに、書いてあります。どうか、ご覧にな
ってください。)

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大
切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子ども
は何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこ
ともある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
部屋 子供の学習環境 動機付け 子供部屋のあり方)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの個性を伸ばす法

教育が型にはまるとき
●「ちゃんと見てほしい」

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ
チャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき
のことである。

あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そういうときも私
は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっているのに、ど
うして丸をつけるのか!」と。

●「型」にこだわる日本人

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最
近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。

私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意され
た。書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願す
ると、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほう
がよい」と。

そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。書き
順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなくなってし
まった。

 一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。壁に張
られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生
(小三担当)は、こう話してくれた。

「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはないのです。発音が違えば、スペルも
違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉は、ルール(文法やスペル)ではな
く、中身です」と。

●「U」が二画?

 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が10年ほど前、この浜松市であった。その会
議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり2画と決まりました。同じようにMとW
は四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、こ
の日本にあるとは! 

そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、25度傾けて書けと教えられたことがある。今か
ら思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろくな
い。つまらない。

たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌いになっ
てしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、子どもたちの
文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だいたいこのコンピュータの時代に、ハ
ネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばならない理由が、一体どこに
あるのか。

「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子どもを型に押し込めようとすればするほど、子ども
の個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。

●左利きと右利き

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、それで
よし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚える。

オーストラリアでは、すでに10年以上も前に小学3年生から。今ではほとんどの幼稚園で、コ
ンピュータの授業をしている。10年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピーディス
クで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生徒が、常
時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメだ、ハネ
だ、ハライだ! 

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし
ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、
また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

左利きにしても、人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、どちら
か一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活
習慣によって決まるという生活習慣説などがある。

一般的には乳幼児には左利きが多く、3〜4歳までに決まるが、どの説にせよ、左利きが悪い
というのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確かに右利き用にはできてい
るが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。

●エビでタイを釣る

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸
命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人
はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ)
を、そいでしまう。

(付記)

●私の意見に対する反論

 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその一つ。
それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教えておかな
いと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。

しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが
美しい」と誰が決めたのか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、
勝手に押しつけてもらっては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝
えること。「型」ばかりにこだわっていると、文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い
出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字
を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ
ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。

(参考)

●経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・2000年調査)によれ
ば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(15歳)のうち、53%が、
「しない」と答えている。

この割合は、参加国32か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本
は中位よりやや上の8位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。

無回答率はカナダは5%、アメリカは4%。しかし日本は29%! 文部科学省は、「わからない
ものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメントを寄せてい
る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 日本
人の型 型にはめる教育 子供の個性)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを勉強好きにする法

子どもがワークをするとき 

●西田ひかるさんが高校一年生

 学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。今もある。私はこの雑誌に創刊時
からかかわり、その後「知恵遊び」を10年間ほど、協力させてもらった。

「協力」というのもおおげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。この雑誌は両誌で、当時
毎月47万部も発行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市販教材の制作、指導にか
かわってきた。

バーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりする世界初の教材、「TOM」(全10巻)や、
「まなぶくん・幼児教室」(全48巻)なども手がけた。

14年ほど前には英語雑誌、「ハローワールド」の創刊企画も一から手がけた。この雑誌も毎
月27万部という発行部数を記録したが、そのときの編集長の大塚K氏が、横浜のアメリカン
ハイスクールで見つけてきたのが、西田ひかるさんだった。当時まだまったく無名の、高校一
年生だった。

●さて本題

 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがある。私
はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。私の意見を
聞いてもらうのは、そのあとだ。

で、本論。私はこのコラム(中日新聞「子どもの世界」)の中で、「ワークやドリルなど、半分はお
絵かきになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやドリルほどいいかげんなものはな
い」とも書いた。

そのことについて、何人かの人から、「おかしい」「それはまちがっている」という意見をもらっ
た。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教材に携わってきた「私」がそう言うのだから、ま
ちがいない。

●平均点は六〇点

まず「売れるもの」。それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次の
次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベルを想定
して、プロット(構成)を立てる。

その年齢の子ども上位10%と下位10%は、対象からはずす。残りの80%の子どもが、ほぼ
無理なくできる問題、と。点数で言えば、平均点が60点ぐらいになるような問題を考える。

幼児用の教材であれば、文字、数、知恵の三本を柱に案をまとめる。小学生用であれば、教
科書を参考にまとめる。

しかしこの世界には、著作権というものがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほんの少
しだけ変えられ、他社で別の教材になるということは日常茶飯事。こう書いても信じてもらえな
いかもしれないが、25年前に私が「主婦と生活」という雑誌で発表した知育ワークで、その後、
東京の私立小学校の入試問題の定番になったのが、いくつかある。

●半分がお絵かきになってもよい

 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばならないこ
とかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になっているのを見ると、
私としてはつらい。……つらかった。

私のばあい、子どもたちに楽しんでもらうということを何よりも大切にした。同じ迷路の問題で
も、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、あるいは意外性をそこにまぜた。たとえ
ば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷路になっているとか。あの「幼児の学
習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月300枚以上の原案をかいていた。だから繰り返す。

 「ワークやドリルなど、半分がお絵かきになってもよい。それよりも大切なことは、子どもが学
ぶことを楽しむこと。自分はできるという自信をもつこと」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの学習 子供の学習 勉強嫌い 子どもの集中力 子供の集中力 学習指導 勉強指導 
学習机 はやし浩司 子供の勉強グセ 勉強癖 やる気 やる気論 子供を伸ばす法 子供の
伸ばし方 家庭学習 子供の方向性)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1416)

【今朝・あれこれ】

●セミの鳴き声、一番乗り

 今朝、7時10分ごろ、庭先の木の上で、セミが第一声をあげた。今年、一番である。数日
前、ワイフが、木の根元で、セミの抜け殻を見つけた。そのセミかもしれない。

 いよいよ本格的な夏到来、というところか。しかし実際には、小寒い日々がつづいている。


●HPのトップページを改変

 昨日、HPのトップページを、改変した。少し早いかなと思ったが、晩夏モードにした。誠司
(孫)のいとこたちととった写真を、載せた。

 女の子の名前は、アリャーナ。日本人には、少し変わった名前に聞こえる。前回会ったときに
は、車の中で、「キラキラ星」を歌ってくれた。


●ローマ字

 二男が、自分のBLOGの中で、「日本のローマ字はおかしい」と書いている。

 まず、それを紹介する前に、一言。

 英語ほど、発音の乱れた言語はないということ。いつだったか、大学で言語学を教えている
教官(オーストラリア人)にそれを問いただすと、こう教えてくれた。

 「ブリティン(英国)は、絶えず、いろいろな民族に支配された。古くはローマ、フランス、それ
に北欧民族にも。だからを同じアルファベットでも、何種類も読み方がある」と。

++++++++++++++++

(SのBLOGより)
中学校のときに、英語で自分の名前をどう書くか、なんていう勉強をしたのを覚えています。

例えば僕の名前「そういち」は、ローマ字で「Soichi」になるわけです。「せいじ」なら「Seiji」です。
今まで10年近くどうしてアーカンソー人は、みんな僕の名前を、正しく発音できないんだろう、っ
て思い続けてきたんですが、このごろよく考えてみたら、実はこのローマ字を使った日本名の
表し方自体が間違っているような気がします。

というのは、「Soichi」を、アーカンソー英語を話す人に発音してもらうと、9割以上の人が「ソオ
アイチー」と発音します。「Seiji」だったら、「セイアイジー」になります。間違った発音をされた
ら、その時に正せばいいじゃないか、と気楽に考えている人もいるかもしれませんが、これは
仕事や友人関係にも深く影響しますし、ピザの注文にしてもカスタマーサービスの電話一つに
しても、かなり苦痛になります・・。(名前がどうでもいい場合は「Sam」で通っていますが・・・。)

日本語の「あいうえお」はローマ字で「a i u e o」となっていますが、これは正しくは「ah e u a o」
にするべきでしょう。だから「そういち」なら「Souechi」です。(uを省くのも止めたほうがいいで
す。)「せいじ」の場合は「Saeje」になるわけです。アメリカ南部みたいなアクセントが酷いところ
へ来る以上、名前を間違って発音されるのはまず仕方ないのですが、間違っていても大体皆
が同じように発音してくれれば問題はないわけです。

ところで台湾、東南アジアから来る人たちの多くは「英語名」というの持っていて、例えば「スン
ミョン」という中国名の人だったら、社会保障番号を(アメリカの戸籍)登録するときは、「メアリ
ー」など、英語名で登録しています。日本人はそのまま日本名をローマ字化した名前を使って
いますが、留学するにしても仕事で来るにしても、アーカンソーへ来るときは、本名とは別に、
「呼び名」というのを考えてから来ることをお勧めします。

+++++++++++++++

 息子が、そう考えるのは、もっともなことだと思う。しかしもともとローマ字は、読んで字のごと
く、ローマ字。つまりローマの文字。しかしそれが現在、ヨーロッパの言語のベースになってい
る。英語は、その一部でしかない。

 だから英語にそぐわないからといって、ローマ字を否定してもいけない。

 私も同じような経験をしている。

 たとえばあるとき、オーストラリアの友人が、「ケイトー」という土木機械会社を訪ねて、日本へ
やってきた。しかし私は「ケイトー」という名前の会社を聞いたことがない。そこで「知らない」と
答えると、「そんなはずはない」と。

 英語でそれを書いてもらうと、「KATO」、つまり、「カトー(加藤)」という名前であることがわか
った。日本でも有数の土木機械のメーカーの名前だった。

 ほかに、「HITACHI」を、アメリカ人は、「ハイタッチ」と読む。そこで昔、こんなコマーシャル
を、耳にしたことがある。どこかかけあい漫才的なコマーシャルだったが、1人の日本人と、1
人のアメリカ人が、たがいに、「ヒタチ」「ハイタッチ」「ヒタチ」「ハイタッチ」と言いあうというコマ
ーシャルだった。

 ここは「日本は、日本」「アメリカは、アメリカ」という考え方を貫くしかないのではないのかな。

 そう言えば、私も、外国へ出ると、名前を、「ジョージ・ハヤシ」と言っている。そのほうが、彼ら
にしても、わかりやすい。「ヒロシ」という名前は、向こうでは、「ジョージ」に聞こえるらしい。

 Sへ、あまり短気を起こさず、気長に考えなさい。今度、ヨーロッパやほかのアジアの国々へ
でも行ったら、ちゃんとみな、「ソウイチ」と読んでくれるよ。


●講演

 これから隣のI市まで行って、講演をしてくる。一応、I市の教育委員会の主催だというが、I市
N中学校区の人たちが対象とも聞いている。しかし連絡を取りあっているのが、I市・N会館の
M氏。で、先日電話をすると、「I市全域にチラシを配りました」とのこと。

 「どういう会なのだろう?」と思いつつ、これから出かけるところ。

 N会館での講演は、これで3〜4回目ではないかな。今日はホールではなく、会議室での講
演ということらしい。

 「今日こそ、失敗しないでやろう」「今日が、人生、最後の講演だと思ってやろう」と、何度も、
自分にそう言って聞かせる。

 がんばってきます。+おはようございます。

【付記】

 結果は、残念ながら、ガラガラだった。80人の予定と聞いていたが、20人前後。力という
か、気力をふりしぼっての講演となった。率直に言って、自分が、なさけなかった。

 係の若い男性は、「夏休みに入ってしまいましたから……」「小学生の親子映画会と重なって
しまいましたから」と、2度、3度なぐさめてくれた。が、私は、正直言って、講演をキャンセルし
て、そのまま帰ってきたかった。

 「せっかく聞きに来てくれた人もいたのだから……」と、かっこよく書きたいが、相手が20人前
後だからといって、手を抜くことはできない。全力投球は、全力投球。そのあとの疲労感、プラ
ス、往復の時間的ロスを考えたら、今の私には、その余裕は、もうない。

 会館から出たとき、ワイフが、「講演というのは、来てみなと、わからないものね」と、ポツリと
言った。

 私も、そう思う。そう思いながら、ワイフにこう言った。「浜松へ帰って、何か、おいしいものを
食べよう」「忘れよう」と。

【付記2】

 だから今日(7月x日)は、朝から気分が重い。落ちこんでいる。自分のしていることが、つくづ
くなさけなく思われる。「こんなことをしていて、何になるのだろう?」という思い。「今まで、何を
してきたのだろう?」という思い。それが交互に現れては、自分の心をふさぐ。

 ワイフも私に気をつかってか、昨日の講演については、一言も語らない。批評も、批判もしな
い。私も、聞かない。聞きたくない。

 今のところ、10月末までに、15〜20か所の講演予定が入っている。引き受けてしまった分
については、どんな講演でも、がんばってしよう。しかし新規の講演依頼については、これから
は、しっかりと内容を確かめてから、引き受けることにしよう。

 
●天皇のメモ

 今、昭和天皇の心について書いたメモが、話題になっている。Y神社におけるA級戦犯、合祀
(ごうし)に関するメモである。

 そのメモによれば、昭和天皇自身は、A級戦犯の合祀には、反対だったようである。

 そこで分祀賛成派は、「これで決まった」とばかり、声を大きくしている。合祀のままでよいと
主張する側は、「信憑性(しんぴょうせい)がどうのこうの」と言っている。

 しかしこの問題は、本来、天皇とは関係のない問題である。中には、「陛下は、平和主義者
だったんですね」(某評論家、日曜テレビ討論会にて)と言っている人もいたが、あれだけの戦
争の中心にいた天皇が、平和主義者だったというのも、無理がある。戦争への反省から、昭
和天皇がそう思うようになったと考えるのが、自然ではないのか。

 分祀賛成派も、反対派も、ともに「天皇」という最高権威にこだわっている。しかしそういう議
論そのものが、私の感覚から、大きくズレている。どうして今、(天皇の心)が問題になるの
か? 私たちは私たちで、自分で考えればよい。自分で考えて、自分で判断すればよい。

 どうしてそんなに、(権威)にこだわるのだろう?、と思ったところで、この話は、おしまい。

 なお私の姉の義父は、その戦後、戦犯で処刑されている。遺骨は、Y神社に祭られていると
いう。が、肝心の姉夫婦は、一度もY神社を参拝していない。で、私がある日、「どうして(参拝
しないのか)?」と聞くと、姉は、こう話してくれた。

 「だって、お墓は、ちゃんと、こちらにあるから」と。

 政治家や評論家のみなさんは、こういう事実を、いったい、どう考えているのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●子どもの記憶

++++++++++++++

子どもの記憶について、
あのフロイトは、こう言っている。

「言葉や観念によって思い出そうと
することもあるが、意識しないまま、
自分が経験したことを、態度や動作
で、それを表現する」と。

このことには、いくつかの重要な
意味が隠されている。

++++++++++++++

 フロイトは、子どもの記憶について、つぎのようなことを書いている。つまり幼児期記憶の回
想について、「言葉や観念によって思い出すという形で回想するだけなく、むしろその回想する
体験にともなう感情や対人関係のパターン、態度のほうを先に反復する」(「フロイト思想のキ
ーワード」小此木啓吾・講談社現代新書)と。

 わかりやすく言えば、自分が経験したことを、態度や動作で表現するということ。

 このことは、たとえば子どもに、ぬいぐるみを与えてみればわかる。心豊かで、愛情に恵まれ
て育った子どもは、ぬいぐるみを見ただけで、うれしそうな笑みを浮かべ、さもいとおしいといっ
た様子で、それを抱こうとする。それはぬいぐるみを見たとき、自分自身が受けた環境を、そ
の場で再現するからである。

 あるいは絵本を与えてみればわかる。「あっ、本だ!」と喜んで飛びついてくる子どももいれ
ば、目をそむけてしまう子どももいる。その本の内容を確かめる前に、だ。こうした違いは、
「本」というものに、よい印象をもっているかどうかで、決まる。

幼いときから、たとえば親に抱かれて本を読んでもらった子どもは、本を見たとき、その周囲の
状況や情景を、心の中で再現する。つまり本にまつわる「温もり」を、そこに感ずる。だから本
を見ただけで、それを好意的にとらえようとする。一方、たとえばカリカリとした雰囲気の中で、
無理に本を読まされて育ったような子どもは、本を見ただけで、逃げ腰になる。

 このことは、人間関係にも影響する。私はメガネをかけているが、初対面のとき、私の顔を見
て、こわがる子どもは少なくない。そこで理由を聞くと、親は、たとえばこう言う。「近所にこわい
犬を飼っている男性がいて、その人がメガネをかけているからではないでしょうか」と。つまりそ
の子どもにしてみれば、(こわい犬)→(こわい人)→(メガネ)→(メガネの人は、こわい)という
ことになる。

 フロイトは、こうした現象を、「転移」と呼んだ。しかしこうした転移は、おとなの世界でも、ごく
日常的に見られる。とくに人間関係において、それが顕著に見られる。

たとえば、電話の相手によって、電話のかけ方そのものが、別人のように変わる人がいる。自
分より目上の人だとわかると、(無意識のうちに、しかも即座にそれを判断するが)、必要以上
にペコペコする。一方、目下の人だとわかると、今度は必要以上に、尊大ぶったり、威張ったり
してみせる。

 で、こういう人にかぎって、……というより、例外なく、テレビドラマの『水戸黄門』の大ファンで
あったりする。三つ葉葵の紋章か何かを見せて、側近のものが、「控えおろう!」と一喝する
と、周囲の者たちが、「ハハアー」と言って、頭をさげる。このタイプの人は、そういう場面を見る
と、痛快でならない。……らしい。

 そこでさらに調べていくと、こういう人たち自身もまた、そうした権威主義的な社会、あるいは
家庭環境の中で育ったことがわかる。つまりこうした感情なり、言動は、それぞれ一貫性をもっ
てつながっている。

(権威主義的な環境で生まれ育った)→(自分自身も権威主義的である)→(無意識のうちに
も、それがその人の価値観の根底にある)→(無意識のうちにも、人を上下関係を判断する)
→(水戸黄門が痛快)と。

言うなれば、水戸黄門を見ることで、このタイプの人は、自分の価値観を再確認しているのか
もしれない。その確認ができるから、水戸黄門はおもしろく、また痛快ということにもなる。

 何だか、話が込み入ってきたが、要するに、子ども、なかんずく幼児を相手にするときは、表
面的な「心」とは別に、「もうひとつの心」を想定しながら、接するとよい。

たとえば何らかの学習をさせるときも、(何を覚えたか、何ができるようになったか)ではなく、
(そのことが全体として、どのような印象をもって、子どもの心の中に残るだろうか)を、考えな
がらする。そしてその印象がよいものであれば、よし。そうでなければ、失敗、と。先にあげた
例で言うなら、子どもに絵本を見せたとき、「あっ、本だ!」と飛びついてくれば、よし。逃げ腰に
なるようであれば、失敗、ということになる。フロイトの言葉を借りるなら、「よい転移ならよし。
悪い転移には気をつけろ」ということになる。

これを私たちの世界では、「前向きな姿勢」と言っているが、この時期は、こういう前向きな姿
勢を育てることを大切にする。この前向きな姿勢があれば、子どもは自らの力で、前向きに伸
びていくし、そうでなければ、そうでない。が、それだけではすまない。

一度子どもがうしろ向きになってしまうと、それをなおすのに、それまでの何十倍もの努力が必
要になる。たとえば小学校の入学までに、一度本嫌いになってしまうと、以後、好きになるとい
うことは、ほぼ絶望的であると言ってもよい。「だから幼児教育は大切だ」と言ってしまえば、あ
まりにも手前ミソということになるかもしれないが……。
(02−10−30)(06−07−24改)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の記憶 幼児の記憶 前向きな姿勢)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●人間の欠陥

++++++++++++++

生きるために働く……。それが
いつの間にか、働くために生きる
になる。

生きるという目的が、やがて
欲望によって、乗っ取られる。

私はそこに人間がもつ本来的な
悪を感ずる。

++++++++++++++

 人間には、明らかな欠陥がある。個人としての、欠陥。それに集団を組んだときの欠陥。「教
育」というと、子どもを、前に向かって伸ばすことしか考えないが、しかしその欠陥をどう克服す
るかということについても教えていかないと、いつまでも人間は、同じ失敗を繰り返す。で、その
前提として、人間のもつその「欠陥」が何であるかを、知らねばならない。

 もちろん最大の欠陥は、殺しあいであり、戦争ということになる。

太古の昔から争いや戦争は絶えなかったし、今も絶えない。問題は、戦争ではなく、また戦争
にいたる、大義名分でもない。なぜ人間は戦争するかという、その深層部にまでメスを入れな
いと、結局は、その繰り返しになってしまう。仮に宇宙時代がやってきても、今度は、宇宙という
場で、同じような戦争を繰り返すようになる。

 では、人間にとっての最大の欠陥とは何か。そのヒントは、幼児の成長を、発展段階的に観
察してみると、わかる。たとえば満4、5歳ころの幼児は、純粋で無垢(むく)である。この時期ま
で、あるべき環境のもとで、あるがままに育った子どもというのは、実に平和で、のどかな様子
を見せる。

しかしその子どもが、やがて少年、少女期への移行期に入ると、もろもろの「しがらみ」ができ
ると同時に、無数の「しみ」が身につくようになる。いわゆる私たちおとなの原型が、そこででき
る。

 で、この時期をさらに詳しく観察してみると、この時期を境に、「欲」が生まれることがわかる。
フロイトは、「自我」という言葉を使って、それを説明したが、自我とも違う。名誉欲、所有欲、独
占欲、我欲、支配欲など。俗にいう「わがまま」、あるいは「我(が)」という言葉に総称される欲
である。教育の世界では、こうした欲を、善なるものとして、肯定的に受けいれる傾向が強い。
少なくとも、悪いものだとは思わない。

事実、それによって伸びる部分も少なくない。しかしこうした「欲」は、まさに両刃の剣。使い方
をまちがえると、その人の人間性そのものまで狂わす。集団になると、社会、さらには国のあり
方まで、狂わす。戦前の日本や、現在の北朝鮮を見るまでもない。

 そこでこの欲を、どう位置づけるかだが、この欲を、人間が生来的にもつ欠陥と位置づけて
はどうだろうか。つまり欠陥と位置づけた上で、そのコントロールのし方を考える。

一つの基準としては、他者に対して、物理的な影響を与える「欲」については、「悪」という前提
で考える。「物理的」というのは、精神的な影響以外のものということになる。仮にその「欲」をも
った人から精神的な影響を受けたとしても、つぎにその影響を「行動」に移し、他者に影響を与
える段階で、コントロールする。その「コントロールのし方」が、もう一つの教育ということにな
る。

 たとえば昔、『おしん』というテレビドラマが、あった。あのおしんは、数年前、数千億円の借金
をかかえて倒産した、Yジャパンの社長のW氏の母親の、Kさんがモデルだとされる。

最初、おしんは、生きていくために働いた。しかしあるときから、ある意味で金の亡者になり、
今度は、働くために生きるようになった。日本中はその出世ぶり(?)に感動したが、私はちが
った。私の家は昔からの自転車屋だったが、その系列の大型店ができてからは、閉店寸前ま
で追い込まれた。

もしおしんが、生きるために働くということであれば、ああまで店の規模を大きくする必要などな
かった。つまりおしんのもつ我欲が、私たちに物理的影響を与えた。もっと言えば、おしんに
は、そうした我欲にブレーキをかけるだけの哲学がなかった。恐らく「マネー、マネー」というだ
けの人ではなかったのか。

その証拠にというわけではないが、日本中がおしんの苦労話には泣いたが、その反面、あのY
ジャパンが倒産したとき、関係者は別として、涙をこぼす人は、一人もいなかった。

 たまたま今、中央教育審議会(文部科学省の諮問機関、鳥居Y会長)が、教育基本法の見な
おしをしている。そしてその中間報告素案が、明らかになっている。それによると、教育の基本
理念に愛国心や、社会形成に主体的にかかわる「公」の意識を前面に出ていることがわかる。
もともと遠山敦子文部科学相が、昨年(01年)の11月に、中教審に行った諮問は、(1)伝統・
文化の尊重、(2)家庭の役割、(3)宗教的情操の育成の三つの視点が「柱」になっていた。

しかし今回の中間報告素案では、三番目の宗教的情操の育成が見送られた。いろいろな意見
が付記されているが、これはしごく当然のことである。「宗教」といっても、今のように、K党(S
宗教団体が支持母体)が、政権の中枢部にいる「国」では、その宗教的中立性があやぶまれ
る。ただ方向性としては、まちがってはいない。今の日本には、そして教育には、たしかに「柱」
となる情操的理念がない。

 そこで二つの考え方ができる。一つは、既存の宗教に依存するという考え方。遠山敦子氏が
諮問した、「宗教的情操」というのが、それにあたる。もう一つは、私たち自身が、新しい「柱」を
自らつくるという考え方。

当然のことながら、私は後者を支持する。そしてその一つとして、ここに、「人間の欠陥」につい
て考えてみた。これは情操のほんのひとつの「柱」にすぎないが、みなが、それぞれの立場で、
無数の柱をつくり、またそれを補強していけば、やがて宗教に負けないだけの大きな「柱」をつ
くることができる。何も神や仏に頼らなくても、自分たちの力で、それができる。

 話が少しおおげさになってしまったが、人間には、生来的に欠陥があるという前提で、人間や
人間社会をみていくことは、まちがっていない。そうした謙虚さがあれば、私たち自身も、そして
この社会も、もう少し住みやすくなるのではないか。今の人間たちは、あまりにも傲慢(ごうま
ん)すぎる。
(02−10−30)(06−07−24改)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 人間
の欲望 欲 人間の欠陥)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1417)

【今朝・あれこれ】(7月25日)

●バイアグラ

 今朝、パソコンを立ちあげ、Eメールを開いてみて、びっくり。同じ発信者だと思うが、「バイア
グラ」の宣伝だけで、7〜8通も届いていた。パソコンのフィルターを、かいくぐるため、「Vijagrr
a」と、わざと、スペルの一部を、まちがえてある。

 「バイアグラ……ねえ」と思わず、考える。「自分には、必要ないなあ」とも。

 チンチンというのは、小便をするとき、足元をよごさない程度に元気であれば、それでよい。
仮に元気になったとしても、そのチンチンを使う相手がいない。2、3日前も、ワイフとこんな会
話をした。

 庭のキュウリを収穫しながら、ワイフが、「キュウリって、1日で、こんなに大きくなるのよ」と。
見ると、ちょうど私のサイズ。「ぼくなら、15秒で、それくらいになるよ」と。

ワ「15秒?」
私「何なら、10秒でもいい……」
ワ「10秒は、無理でしょう……?」
私「やっぱり、15秒かな……」

ワ「この大きさに……?」
私「そう。かたさだって、負けないよ」
ワ「無理よ」
私「無理だと思うなら、今度から、そのキュウリを使いナ」
ワ「いやよ」と。

 男なるものは、足腰を鍛えるべし。そのためには、自転車に乗るべし。チンチンの性能は、そ
の足腰の強さで決まる。

 なおチンチンの性能は、かたさと、角度、それに持続力によって決まる。それはすでに、みな
さん、ご存知のとおり! 


●デジタルカメラ

 一度は、惚(ほ)れて買ったデシタルカメラ。それを半年前に、息子にやった。が、息子のや
つ、それを落として壊してしまった。

 それで修理に。

 電気屋で、「1万円くらいで修理できませんか?」と聞くと、「1万円以下では、無理です」と。

 つまり、手数料だけで、1万円ということ?

 ともかくも、そのデジタルカメラが、今日、直って、もどってくる。

 で、おかしな気分。たかがデジタルカメラなのに、気分がウキウキしている。久しぶりに、仲が
よかった友人に会うような気分。

 ところで修理費は、1万4000円+消費税。やっぱりね!


●ものすごい雨雲

 台風5号の、巨大な雨雲が、今朝、中国大陸に上陸したようだ。ひまわりの衛星画像では、
その部分が、真っ白!

 たいへんな被害が出そうである。

 ところで、あのK国でも、14〜16日の集中豪雨で、たいへんな被害が出たそうだ。道路や鉄
道が、数百か所で寸断されたという。ついでに電話線も。道路はともかくも、鉄道というのは、
一度寸断されると、復旧までに、この日本でも、半年とか1年もかかる。山間部であれば、なお
さらだ。

 つまり、ミサイルの再発射どころではないということ。日本海に配置されていたイージス艦も、
1隻を残して、みな、日本へ戻ってきたそうだ。しかし、油断、大敵!

 今度は、K国は、核実験の動きを見せているという(中国)。さらに今度ミサイル実験をすると
きは、直接、この日本に向けてミサイルを飛ばしてくる可能性も高いという。実験ではなく、本
番!、というわけである。

 頭の「?」な指導者だけに、つぎに何をしでかすか、予想が立たない。それが不気味!


●イスラエル

 パレスチナは、もとはと言えば、イギリスの植民地。その植民地を、イスラエルは、イギリスか
ら買った。そしてイスラエルという国を樹立した。

 イスラエルにすれば、「イギリスから買った土地だ。文句あるか」となる。しかしパレスチナの
住民にしてみれば、「もともと、オレたちの土地だ」となる。

 加えて、ユダヤ文明とアラブ文明は、水と油。混ざるわけがない。そこへ宗教戦争が加わる。
ユダヤ教対イスラム教。宗教戦争ともなると、信者たちは、命をかける。

 対立の根は、深い。だから年がら年中、戦争、また戦争。この戦争だけは、これから先、10
0年とか、200年はつづく。質によって、戦争は、つぎの4段階に区分される。これは(はやし浩
司)説。

(1)利権争い
(2)領土争い(覇権争い)
(3)宗教戦争
(4)文明の対立

 イスラエルとパレスチナの戦争には、この(2)〜(4)が、からんでいる。

 ならばイスラエルという国を、どこかほかの国へ移すということは考えられないものか。オース
トラリアとかカナダの一部へ、である。しかしそれとて、問題がないわけではない。

 ユダヤ文明というのは、西欧社会の中においてですら、特殊な文明ととらえられている。わか
りやすく言えば、旧約聖書と新約聖書のちがいということになる。が、その(ちがい)は、私たち
日本人が考えているより、はるかに大きい。

 やはり、アメリカしかないのか? テキサスの一部を、新イスラエルとするとか……。そういう
方法も、ないわけではない。そろそろそういうことも考えたほうがよいのでは……。


●日本コンプレックス(?)

 朝鮮N報の記者が、こんな興味深いコラムを書いている。

 何でも日本で駐在生活をしてきた社員たちが、自分の子どもの教育で悩んでいるというのだ
(7月25日)。

 「レベルの低い日本の学校で勉強してきため、韓国にもどってから、子どもたちは、みな、バ
カ(原文のまま)にされる」という。

 そのため、日本に駐在中も、また韓国へ戻ってからも、家庭教師をつけて、不足分を補って
いる、と。

 「そういうものかなあ」とか、「なるほどねえ」とか、思ってみたりする。が、最後のしめくくりが、
すごい! こうある。

 「しかしそれも良い方向にも考えられる。『韓国の子どもたちがこんなに勉強をしているので
あれば、20年後には韓国が日本を追い越すことができるだろう』という希望だ。日本が先進国
入りしたのは1960年代。日本の親たちの教育ブームが大きな役割を果たした」(原文のま
ま、引用)と。

 どうして韓国は、日本のことを、こうまで気にするのだろう。国中が、まさに、受験勉強をして
いるといった感じ! あるいは日本コンプレックスのかたまり(?)。

どうぞ、ご勝手に!

 あのね、韓国のみなさん。大切なことは、みな、心豊かに、生きがいをもって生きること。順
位なんかじゃ、ないですよ! 「先進国」「先進国」って、そういうものは、結果として、あとからつ
いてくるもの。ちがいますか?


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●精進

+++++++++++++++++++

肉体は、日々に、死に、そして新しく
生まれかわる。

皮膚細胞の寿命は、20日前後。
胃壁の細胞にいたっては、3〜4日。

骨にしても、2年。つまり2年で、死に、
そして新しく生まれかわる。

脳みそも、また同じ。

+++++++++++++++++++

 肉体は、日々に、死に、そして新しく生まれかわる。皮膚細胞の寿命は、20日前後。胃壁の
細胞にいたっては、3〜4日。硬い骨にしても、寿命は、せいぜい2年。その2年で、死に、そし
て新しく生まれかわる(NHK「ためして、がってん」)。

 脳細胞も、またしかり。

 言いかえると、私たちの肉体は、見た目には同じでも、全部が全部、ほぼ2年以内に生まれ
かわっているということ。もっと端的に言えば、2年前の私は、私ではないということ。あなた
は、あなたではないということ。

 ……というのは、言い過ぎかもしれない。しかしこと、脳細胞については、気をつけたほうがよ
い。記憶が薄れるなどという、生やさしいものではない。へたをすれば、どんどんと退化する。
退化するのみならず、過去の自分へと、もどってしまう。

 このことは、自分で書いた文章を読みなおしてみると、わかる。

 私は、ほぼ毎日、こうして何らかの文章を書いている。書きながら、ときどき、2年前、3年前
に書いた文章を読みなおしてみることがある。

 そういうとき、「たしかに私の書いた文章」ということはわかる。しかしそういう文章を読みなが
ら、この2年、あるいは3年で、自分という人間が、ほとんど進歩していないのを知り、がっくり
することがある。ばあいによっては、より俗化し、だらしなくなっているのを知る。

 ……となると、私は、この2年間、あるいは3年間、何をしてきたのかということになる。

 こういう私の意見に対して、異論、反論もあろうかと思う。しかしこれだけは、言える。

 人間は、年を重ねれば重ねるほど、賢く、人間味がますと説く人がいる。しかしそれは、ウ
ソ。誤解。むしろ人間は、年を重ねれば重ねるほど、思想は鈍磨し、通俗的になる。中には邪
悪になっていく人すらいる。

 さらにひどくなると、10年どころか、20年、30年一律のごとくに、同じ持論を繰りかえす人が
いる。「林君、女というのは、家庭にいて、家庭を守るもんだよ。それが宿命というもんだよ」と
か、など。

 そこで重要なことは、肉体はもちろんのこと、脳みそも、日々の鍛錬の中で、磨き、育ててい
かねばならないということ。記憶のみならず、知識や経験、さらには、思想や哲学など、どんど
んと忘れていく。そればかりではない。

 せっかく手にした哲学や倫理観まで、失う。失うばかりではなく、それ以前に自分の中に巣を
作っていた邪悪な部分まで、表に出てきてしまう。これがこわい!

 私のように、とくに邪悪な幼少期を過ごした人ほど、注意したらよい。ふと油断しただけで、そ
れが表に出てきてしまう。

 さあて、つぎの2年を、どのようにして過ごそうか? ……と考えたところで、この話は、おしま
い。2年後も今と同じように健康であればよい。今と同じように、ほどほどに脳みその働きが活
発であればよい。

 そう思いながら、今の自分を鍛える。

【付記】

 死んだ人は、遺骨を残す。しかし「遺骨」といっても、それはその人の最後の2年間の骨にす
ぎない。

 では、残りの骨は、どこへ消えたか?

 言うまでもなく、クソとなって、トイレの中に消えた!

 言いかえると、私たちは日々、クソをしながら、自分の骨を、トイレに流していることになる。
つまり、本当の墓は、トイレということになる。しかしトイレに手を合わせて拝む人は、いない。

 では、なぜ、遺骨が遺骨なのか?

 これまた言うまでもなく、保存がきき、運搬に便利だからである。本来なら、脳みそのほうを、
(その人)と思って祭るのが正しい。心臓でもよい。しかし脳みそでは、保存がきかない。それ
にドロドロとした形をしていて、気味が悪い。

 こうして考えてみると、人間が文化(?)として創りあげた習慣の中には、ずいぶんと、いいか
げなんなものが多いことがわかる。つまり人間のご都合主義によって、決まっているものも多
いということ。

 考えてみれば、あんな骨(失礼!)に、その人の魂など、宿るはずがない。宿るとしたら、私
は、「文章」だと思う。こうした文章だと思う。画家であれば、絵ということになる。少なくとも、私
は、そういうつもりで、自分の文章を書いている。

 「これが私の魂だ」と。

 だからいつか、そういう人はいないと思うが、私が死んだあと、(はやし浩司)を偲(しの)んで
くれるような人がいたら、墓参りではなく、(どうせ、墓など作らないが)、私の書いた文章を読
みなおしてみてほしい。そのほうが、私としては、ずっとずっと、うれしい。

 これは私の、息子たちへの遺言でもある。
(06−07−25日記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 遺言
 私の遺言)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1418)

【心のキズ】

●子どものうつ病

+++++++++++++++++

うつ病の素因(遠因)は、満5歳から
10歳ごろまでに、つくられるという。

しかもその主なる原因は、離別体験だ
という。

つまり幼少期に親と離別体験を経験した
子どもほど、のちにおとなになって
から、うつ病(抑うつ状態)に
なりやすいということがわかって
いる。

もし今、あなたがうつ病、もしくは
うつ病的な傾向があるなら、まず、
自分の過去をのぞいてみよう。

それがあなたの心を守る第一歩となる。

++++++++++++++++

●幼少期の離別体験

 児童期の喪失体験が、子どもの抑うつ状態と、深く関係しているという(社会精神医学、7;1
14―118)。

 いわく「10歳以前の両親のいずれかと死別体験、もしくは、分離体験という喪失体験が、正
常対象群(9%)に対して、患者群(39%)に有意の差をもって多く認められた。

 しかし抑うつ状態の診断下位群、抑うつ状態の臨床結果とは特異な所見を得られなかった。

 さらに5〜10歳までが、喪失体験が抑うつ状態の素因を形成するための臨界期であろうと
推察した」と。

 わかりやすく言うと、こうなる。

10歳以前に、両親のいずれかと死別、もしくは分離体験をした子どもほど、のちにおとのなに
なってから、抑うつ状態になりやすいということ。

 同じような報告は、イギリスのバーミンガム病院でも、報告されている(精神医学、28;387
〜393、1986)。

 精神障害のある39人の患者について調べたところ、「15歳以前で、12か月以上の離別体
験をもった人」は、そうでない人よりも、明らかに関連性があることがわかったという。

 しかもこの報告で、興味深いのは、異性の親(男児であれば、母親、女児であれば、父親)と
の離別体験をもった人ほど、「有意な差」が見られたという。

 さらに報告書は、こう書いている。

 「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連を呈さなかったが、離別体験は家族歴の有無と
有意(exact probability test, p=0.026)の関連をもち、この傾向は、離別の対象が異性の親で
ある際に強いものであった。

 異性親からの離別を体験したものは、家族歴を有する20人のうち、7名(35%)であるのに
対して、家族歴を有さないもの19名では、皆無(0%)であった。

 このことから、うつ病発症に関与していると考えられる幼少期の離別体験は、一部には、家
族員の精神疾患から発生したものである可能性が示された」(北村俊則)と。

 以上を、わかりやすくまとめると、こうなる。

(1)10歳以前に親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(2)異性の親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(3)家族のだれかに精神疾患があった人ほど、うつ病になりやすい。

 かなり乱暴なまとめ方なので、誤解を招く心配もないわけではないが、おおざっぱに言えば、
そういうことになる。そしてこうした調査報告を、裏から読むと、こうなる。

(1)10歳以前に、子どもに、離別体験を経験させるのは、避けたほうがよい、と。

 しかし実際には、たとえば親の離婚問題を例にあげて考えてみると、離婚(離別)そのものが
子どもに影響を与えるというよりは、それにいたる家庭内騒動が、子どもに影響を与えるとみ
るべきである。バーミンガム病院での報告書にも、「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連
を呈さなかった」とある。

 解釈のしかたにも、いろいろあるが、死別のばあいは、離婚騒動で起きるような家庭内騒動
は、起きない。

 だから離婚するにしても、(それぞれの人たちは、やむにやまれない理由があって離婚する
ので)、子どもとは無縁の世界で、話を進めるのがよいということになる。子どもの目の前で、
はげしい夫婦げんかをするなどという行為は、タブーと考えてよい。

 また、この調査結果は、もうひとつ重要なことを私たちに教えている。

 もし今、あなたがうつ病、もしくはうつ病的な傾向を示しているなら、その原因は、ひょっとした
ら、あなた自身の幼少期に起因しているかもしれないということ。(うつ病の原因が、すべて幼
少期にあると言っているのではない。誤解のないように!)

 そこであなたは、自分の過去を、冷静に、かつ客観的に見つめなおしてみる。

 しかし問題は、あなた自身が、そういう過去を経験したということではなく、そういう過去があ
ることに気がつかないまま、そういう過去の虜(とりこ)となって、その過去に操られることであ
る。

 そこでまず、自分の過去を知る。

 もしそのとき、あなたが心豊かで恵まれた環境の中で、育てられたというのであれば、それは
それとして結構なことである。が、反対に、ここでいうような不幸な体験(親との死別体験や離
別体験)を経験しているなら、あなたの心は、何らかの形で、かなりキズついているとみてよ
い。

 しかしそれがこの問題を克服する第一歩である。

 自分の過去を知り、自分の心のキズに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。5年とか
10年とか、あるいはもっと時間がかかるかもしれない。が、あとは、時間に任せればよい。少
なくとも、自分の(心の敵)がわかれば、恐れることはない。不必要に悩んだり、苦しんだりする
こともない。

 うつ病にかぎらず、心の問題というのは、そういうものである。

 私自身の経験を書いたエッセーが、つぎのものである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。今
でいう、アルコール依存症だったのか? 3〜4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れた。大声
を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事をすべて、ひっく
り返したこともある。

私と5歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、こわ
いよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのように、
一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響を与える。

が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振り回さ
れることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜がこ
わくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならない。帰ると
決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。

しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。もう少し若いころは、そういう自分を心
のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、50歳も過ぎるころになると、自分の
姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」ということまでわかってく
る。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」と、そ
んなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果たしていな
かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。

だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で
寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母
に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう「過
去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を受ける。
が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。ただこういうこと
は言える。

心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。さらに同じ
ようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめくるようにして、キズ口
は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。しかし
父は、先にも書いたように、3〜4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳になった今でも、そ
のときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。

「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。
54歳になった今でも、だ。

心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私の経験から

 私が、自分の過去を冷静にみるようになったのは、私が30歳もすぎてからのことではなかっ
たか。それについて書いたエッセーが、つぎのものである。内容的に一部、ダブるところがある
が、許してほしい。4年前に書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【自分を変えるために……】

+++++++++++++++++++++

あなたは本当に、あなたか? 
あなたは「私は私」と、本当にそのように、
自信をもって言えるか?

+++++++++++++++++++++

●私の不安発作

 ときどき、自分が夜の闇に吸い込まれていくように感じて、言いようのない不安に襲われるこ
とがある。私は夜が苦手。子どものころから苦手だった。そういう不安に襲われると、この年齢
(54歳)になっても、ひとりで寝ることができない。ワイフが床に入るのを待ってから、自分もそ
の床に身をすべらせる。

 夜が苦手になった理由は、父が酒乱だったことによる。私が4,5歳くらいのときから父の酒
グセが悪くなり、父は数日おきに酒を飲んだ。見さかいなく暴れた。ときにはそういう騒動を、お
もしろおかしく見たこともあるが、私には恐怖だった。

父が酒を飲んで暴れるたびに、そして大声で怒鳴り散らすたびに、私と姉は、2階の奥にあっ
た物干し台の陰に身を隠し、それにおびえた。今でも、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ちゃん、こわ
いよ」と声を震わせて泣いた自分の声を、よく覚えている。姉は私より、5歳年上だった。

●心のキズにきづいたのは、三〇歳を過ぎてから

 しかし私がこうした自分の心のキズに気づいたのは、私が30歳を過ぎてからだった。それま
では自分の心にキズがあるなどとは、思ってもみなかった。が、今から思い出すと、いろいろな
症状があった。

たとえば私は酒臭い人が大嫌いだった。近くにいるだけで、生理的な嫌悪感を覚えた。赤い夕
日が沈むのを見ると、ときどき不安になった。暗いトンネルに入ると、ぞっとするような恐怖感
に襲われた。カッとなると、すべてを破壊してしまいたいような衝動にかられた。自分を消してし
まいたいような衝動で、そのためときどきワイフに暴力を振るったこともある。

父が母に暴力を振るっていたのを見たことがあるためか、自分の暴力は正しいと思い込んで
いた。そして最大の症状は、ここに書いたように、夜がこわかったということ。

●不安発作の原因

 一度不安発作に襲われると、自分でもどうやって身を守ってよいのかわからなくなる。たいて
いはふとんの中で、体を丸めて、ガタガタ震える。あるいはワイフの体にしがみついて眠る。

しかしそれでも、なぜ自分がそういう発作に襲われるのか、理由がわからなかった。が、ある
夜のこと。私がワイフにふとんの中で、私の子どものころの話を語っていたときのこと。やがて
話が父の酒乱の話しになり、暴力の話になった。そして姉と物干し台で震えていたときの話に
なった。そのときのことだ。突然、私はあの不安発作に襲われた。

 体がガタガタと震えだし、そして自分が夜の闇に吸い込まれていくのを感じた。そして年甲斐
もなく、大声で、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ちゃん、こわいよ」と泣き出した。

ワイフは、私を自分の体で包みながら、「あなた、何でもないのよ」となだめてくれたが、そのと
きはじめて私はわかった。私が感じる不安は、あの夜感じた不安と同じだった。そしてそれは
あの夜から始まっていたのを知った。

 赤い夕日が沈むのを見ると不安になるのは、そのころ父はいつも近くの酒屋で酒を飲んでい
たからだ。いつだったか、父が真っ赤な夕日を背景に、フラフラと通りを歩いているのをみかけ
たことがある。そのときの光景が、今でもはっきりと覚えている。

 また私が暗いトンネルが苦手なのは、暗闇がこわいということよりも、何らかの恐怖症が形を
変えたためと考えられる。子どもというのは、一度恐怖症になると、その思考プロセスだけは残
り、いろいろな恐怖症に姿を変える。私のばあいも、暗闇恐怖症が、飛行機事故で今度は、飛
行機恐怖症になったりした。

●私の中の私でない部分

 が、ここで私の中に大きな変化が起きたのを知った。「私は私」と思っていたが、私の中に、
私でない部分を知ったとき、そのときから、本当の自分が見えてきた。私は、私の中の別の私
に動かされていただけだった。

たとえば私が酒臭い人を嫌うのも、赤い夕日が沈むのを見ると、ときどき不安になるのも、ま
た暗いトンネルに入ると、ぞっとするような恐怖感に襲われるのも、カッとなると、すべてを破壊
してしまいたいような衝動にかられるのも、すべて、私の中の別の私がそうさせていることに気
づいた。これは私にとっては、大きな発見だった。この先を話す前に、こんなことがある。

●子どもを見ていて……

 子どもを教えていると、それぞれの子どもが、何らかの問題をかかえている。問題のない子
どもなどいないと言ってもよい。それほど深刻なケースでなくても、いじけたり、すねたり、つっ
ぱったり、ひねくれたり、ひがんだりする子どもは多い。そういう子どもを観察してみると、子ど
も自身の意思というよりは、何か別の力によって動かされているのがわかる。もちろん本人
は、自分の意思で行動していると思っているようだが、別の思考パターンが作動しているのが
わかる。

 原因はいろいろある。たいていは家庭環境や家庭教育。年齢が大きくなるにつれて、学校と
いう場が原因になることもある。私が印象に残っている女の子に、A子さんという子ども(年長
児)がいた。

ある朝、私が園庭でA子さんに、「今日はいい天気だね」と話しかけたときのこと。A子さんは、
こう言った。「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」と。そこでまた私が、「雲があって
も、いい天気だよ」と言うと、さらにかたくなな様子になり、「あそこに雲がある!」と。ものの考
え方がどこかひねくれていた。

で、話を聞くと、A子さんの家は、父子家庭。ある日担任の先生がA子さんの家を訪れてみる
と、父親の飲む酒ビンが、床にころがっていたという。

●いつ、それに気づくか?

が、問題はこのことではない。そういう「すなおでない性格」について、子ども自身がいつ、どの
ような形で気がつくか、だ。が、このことも、問題ではない。問題は、そういう自分であって自分
でない部分に気がつくことがないまま、自分であって自分でない部分に引き回されること。そし
て同じ失敗を繰り返す。これが問題である。

しかしなおす方法がないわけではない。まず、自分自身の中に潜む心のキズがどんなもので
あるかを、客観的に知る。

 私のばあいは、あの夜、ワイフの胸の中で、「姉ちゃん、こわいよ」と泣いたときから、自分が
変わったように思う。それまで心の奥底に潜んでいた「わだかまり」に気づくと同時に、それを
外に吐き出すことができた。

もっともそれですぐすべての問題が解決したわけではないが、少しずつ、そのときからわだか
まりがこわれていった。同じような症状はそれからも繰り返し出たが、(今でも、出るが……)、
そのつど、なぜ自分がそうなるかがわかり、そしてそれに合わせて、症状も軽くなっていった。
 そこで……

●自分を変えるために

(1)もしあなたが、いつも同じようなパターンで、同じような失敗を繰り返すようであれば、自分
さがしをしてみる。どこかにおおきなわだかまりや、心のキズがあるはずである。

(2)あなたの過去に問題があることが問題ではない。問題は、そういう問題に気づくことがない
まま、その過去に振り回されること。ただし、自分の心の中をのぞくことは、こわいことだが、勇
気を出して、それをすること。

(3)心の中のキズやわだかまりは、あなたを、無意識のまま、あなたを裏から操(あやつ)る。
ふつうは操られていることに気づかないまま、操られる。たとえば子どもへの暴力など。親はと
っさに暴力を振るうが、あとで「なぜそんなことをしたかわからない」というケースが多いのは、
そのため。

(4)しかしあなたが自分の中の、「自分であって自分でない部分」に気づけば、そのときから、
この問題は解決する。

(5)同じような症状(反応)が出たとき、「ああ、これは私であって、私でない部分」と自分自身を
客観的にみる。あとは時間が解決してくれる。

 これは私の体験からの報告である。

(追記)

 こうした自分自身の体験を公開するのは、一方で、そういう自分と決別するためでもある。自
分自身を思いきってさらけ出すのも、ひとつの解決方法かもしれない。

なお私のばあい、それ以上に心がゆがまなかったのは、やさしい祖父母が同居していたため
と考えられる。もうひとつは、近くに親類が何人かいて、私のめんどうをみてくれた。ああいう家
庭環境で、もし祖父母や親類が近くにいなかったら、今ごろの私は、どうなっていたか……。そ
れを考えると、ぞっとする。

そういう意味で、よく子どもの非行が問題になるが、私はすべて子どもの責任にするのは、まち
がっていると思う。
(02−9−29)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心の
傷 トラウマ うつ病 離婚 離別体験 死別体験 子供の心理 バーミンガム病院 恐怖症 
はやし浩司 離別体験 うつ秒 心の問題)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1419)

【雑感・あれこれ】

●心の敵

 心には、さまざまな(ゆがみ)がある。

 ひがむ。
 いじける。
 ねたむ。
 こだわる。
 ふてくされる。
 くじける。
 すねる。
 うとむ。
 おじける。
 からむ、などなど。
 
 こうした(ゆがみ)のほとんどは、実は、私であって、私でない部分ということになる。あなたで
あって、あなたでない部分ということになる。

 私やあなたの中には、もうひとりの別の自分がいて、その別の自分が、私やあなたを、ウラ
で操る。このもうひとりの自分を、(心の敵)という。

 こうした(心の敵)は、私やあなたの自己意識(自意識)が芽生える以前、つまり5、6歳まで
にできるものと考えてよい。少なくとも、それ以後は、私は、私。あなたは、あなた。

 そこでもし、そういう(心の敵)を、心のどこかで感じたら、それは(敵)と思うこと。決して、それ
は私自身でもないし、あなた自身でもない。(心の敵)にまどわされていると、私は私でなくなっ
てしまう。あなたはあなたでなくなってしまう。

 つまりは、時間のムダ。人生のムダ。そればかりか、私やあなたの人間関係まで、おかしくし
てしまう。

 ついでに一言。

 子どもの世界でも、こうした(ゆがみ)の少ない子どもを、「すなおな子ども」という。そのため
には、つぎの3つを、乳幼児期は、避ける。

(1)嫉妬(とくに下の子が生まれたときに起きる、赤ちゃんがえりに注意。)
(2)闘争(はげしい競争心をともなう闘争は避ける。)
(3)不安(とくに親子関係について不安に感ずるようなことは避ける。)

 とくに0歳〜2、3歳までは、静かで、穏やか、愛情豊かで、心の休まる家庭環境、親子関係
に心がけるとよい。子どもが、愛情を求めてきたようなときには、すかさず与える。ほどよい環
境。暖かい無視に心がけるとよい。

 まさに三つ子の魂、百まで……ということになる。


●Nさんからの相談

 掲示板のほうに、Nさんという母親から、相談の書きこみがあった。そのままここに紹介させ
てもらう。Nさんの息子さんは、高校生のとき、すでに一児をもつ女性と、半同棲生活を経験し
ている。そしてこの春に、その女性との間に、子どもまで、できてしまった。相手の女性は、「中
絶はしない」「子どもは、産む」と言っているという。

 やっとのことで、息子さんは、その女性とは別れ、この春に、大学に入学。

+++++++++++++++++++++

【Nさんより、はやし浩司へ】

ご無沙汰しています。
冬から春にかけて、大1の息子の悩みを聞いていただき、その節はありがとうございました。

先生のお言葉の通り、「真の愛」を探して「受容、黙認」で、頑張ってきました。
息子の元彼女や彼女の親から、あれ以来、一切連絡はありません。

息子に、「元彼女と話し合った?」と聞いても、「いいや」というだけです。
4月は元気の楽しく大学に通っていましたが、私たち親が、元彼女の妊娠を知ってからは、息
子の様子は、また逆戻りになりました。

最近は高校中退のフリーターとバイトに通いだし、学校に行っいてる様子ありません。でも、本
人は「ちゃんと通っている」というので、定期券代も渡し、様子をみていました。

今前期試験真っ最中です。

昨日、「明日は2時間目から試験」と言い、今朝、「電車に間に合わないから車で送って」と言う
ので、送っていきました。その後、買い物して帰ろうと別の道を走っいると、息子の姿がありま
す。

その先はバイト先のパチンコ屋です。車を止めて「試験は?」と聞くと、「明日やった・・・・」と。
本人にしたらウソがばれたのです。
今までの試験も受けてないと思います・・

動機もよくわからないまま、受けた遠い大学です。

私たち親もあの時は、なんとか彼女の家に入り浸りになる状況から、ほかの明るい世界を見
せようと必死でした。本人が受けたい大学(元彼女の家の近く)ということで 受験。合格。親は
不満でしたが入学させました。だけど、彼女と別れたので、必要がなくなったのかもしれませ
ん。

今、高校中退のフリーターの友達と一緒にいるのが楽なのかも・・。
そうやって、常に現実逃避ばかりしています。

夏休みに2輪の免許を取ると言い、お金が必要なんだと言っています。

先生が、自立の一歩にウソをあげられていましたが、親は騙されっぱなしです。

旦那は「ほっとけ」しか言いません。

秋になったら、もしかしたら元彼女側からなにか要求があるかもしれません。(生まれてくる子
どもの養育費など。)

絶対それには、息子に、そっぽをむかせたくありません。(責任を取らせます。)
でも、こんな状態でなにもかも中途半端。今さえよければそれでいい。今の息子は、そんな感じ
です。

春休みにしていたガソリンスタンドのバイトも途中でやめて、息子は、上司に家の前で怒られて
いました。

(ありがたかったです)

でも、本人は責任というものが何もなく、感謝の気持ちもなく、私はどうしたらいいのでしょう?

文章が支離滅裂でごめんなさい。

+++++++++++++++++++++++

【はやし浩司よりNさんへ】

 大学生といえば、おとなです。親は、だまされたとわかっていても、だまされたフリをして、あと
は、許して忘れなさい。Nさんの息子さんだけが、そうというわけではありません。みな、そうで
す。

 あなたの夫も言っているように、「ほってけ」です。またそれが正解です。

 今のあなたの息子さんの心理は、(自分のしたいこと)と、(していること)が一致していない状
態にあるとみます。自己の同一性(アイデンティティ)がもてないまま、右往左往している状態と
考えると、わかりやすいでしょう。

 私も、一時期、……といっても、5年間ほど、つづきましたが、そういう時期がありました。そ
れは当人にとっても、たいへん苦しい一時期です。はたから見ると、無責任に見えるかもしれ
ませんが、今までの、あなたの子育てのツケが、今の息子さんに集約されていると考えてくださ
い。

 いつもあなたは、子どもの手を引きながら、子どもの前ばかり、歩いていた。あるいは、グイ
グイと、うしろから押しつづけてばかりいた。以前の書きこみを読んでいると、そんな感じがして
なりません。

 もともとあなたは、心配先行型の子育てをしてきた。息子さんが、赤ちゃんのときからです。
それがいまだにつづいている。はっきり言えば、いまだに、子離れができていない(?)。

 私はあなた自身の、精神的な未熟性を強く感じます(失礼!)。あるいは、情緒も不安定かも
しれません(失礼!)。

 息子さんのことは、もう、放っておきなさい。水が、やがて流れいく場所を自分をみつけて流
れていくように、息子さんも、自然の流れの中で、自分の進むべき道をみつけていくでしょう。こ
ういう問題では、親が心配すればするほど、子どもは、あなたの望む方向とは別の方向に進ん
でしまうものです。

 あなたはあなたで、したいことをすればよいのです。そしてもし、何か息子さんのことで問題が
起きたら、そのときは、「友」として、息子さんの横に立ちます。友として、相談にのってやりま
す。

 このあたりが、親の限界ということにもなります。またその限界を知る親が、賢い親ということ
になります。

 私の母も、私が幼稚園の教師になると告げたとき、電話口の向こうで、ワーワーと泣き崩れ
てしまいました。母には母の思いというものがあったのでしょう。それはわかりますが、今のNさ
んの書きこみを読んでいると、当時の私の母を思い出します。

 大切なことは、だまされても、だまされても、息子さんを信ずることです。あなたの息子さんで
は、ないですか。またそれしか、今のあなたにできることはありません。

 あなたの子どもといっても、大学生です。おとなですよ! 


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1420)

【今朝・あれこれ】

●もう、うんざり!

 韓国のN大統領の発言には、もう、うんざり! このところ、韓国の新聞に目を通すのも、い
やになった。なにかあれば、すぐ反日! つい先日は、こう言った。「これからは、日本とは、も
っと対決していく」と。

 支持率がさがるたびに、「反日」「反日」、また「反日」。

 これから来年の大統領選に向けて、N大統領の反日姿勢は、さらに加速しそう。あのおバカ
大統領は、反日を唱えれば、それで支持率があがるとでも、思いこんでいるらしい。ある韓国
の評論家は、こう書いている。

 「日本人よ、N大統領の反日発言は、あまり気にするな」と。

 N大統領イコール、韓国の人たちの意見ではない。昨日も、韓国では、補欠選挙が行われ
た。が、与党U党は、またまた全敗。4議席すべてを、野党に取られた※。これでN大統領が政
権を取ってから、与党のU党は、一度も議席を確保していないことになる。

 どうして今、秀吉の朝鮮出兵が、問題になるのか? あきれて、ものも言えない!

【注※】

 「韓国国会(定数299)の4選挙区(各1議席)で、7月26日、再選挙・補欠選挙が投開票さ
れ、最大野党ハンナラ党が3議席、第2野党の民主党が1議席を確保した。与党ウリ党は04
年4月の総選挙勝利の後、昨年4月、10月そして今回と、補選では1議席も取れない全敗を
続けている。同党は5月末の統一地方選でも大敗した。今回の4選挙区平均投票率は暫定集
計で補選史上最低の24.6%」(毎日新聞)


●集中豪雨

 やはりというか、思ったとおりというか。K国の被害は、相当なものらしい。共同通信は、「(今
回の集中豪雨で)、死者不明者、3000人(以上)」と伝えている。

 そのK国、今また、集中豪雨にさらされている。梅雨前線に、台風5号からの雨雲が、容赦な
く流れこんでいる。さらなる被害が、予想される(7月27日)。

 が、ここからが「?」。同じK国なのに、北部では、干ばつだという。「降れば洪水、降らなけれ
ば干ばつ」という国である。灌漑設備がほとんど整っていない国だから、当然といえば、当然。

 悪政のもとで苦しむのは、民衆だけ。結局は、そうなる。


●老人医療費

 医療費だけでも、30兆円を超えている。国家税収の、約80%! その中でも、老人医療費
が、どんどんとふえつづけているらしい。まさに天井知らず。

 どうなるのだろう? ……いや、医療費のことを心配しているのではない。私たち団塊の世代
が、老後を迎えるころには、どうなるのだろう? このままでは確実に老人医療は、破綻(はた
ん)する。そうなったとき、私たちは、どうなるのだろう?

 粗大ゴミ? 私たちは、やがてそういう目で見られるようになるかもしれない。「お前たち老人
は、早く死ね」と。

 だからあえて私は、声を大にして、こう訴えたい。

 団塊の世代よ、健康を大切にしよう! 働けるまで、働こう! そして若い人たちにとって、役
に立つ人間になろう! 決して、隠居の地を求めて、そこに安住してはならない、と。


●散歩

 たった今、ハナ(愛犬)を連れて、中田島砂丘から帰ってきたところ。朝日を写真に取りたか
ったが、少し、遅かった。が、朝もやにかすんだ海は、幻想的だった。それに台風の影響か、
波が、いつもより数倍、高く感じた。

 詩的に書くと、こうなる。

 朝もやに包まれた、潮の香り。
 岸辺に打ち寄せる、白い波、また波。

 遠くで、カラスが散った。そのあたりに
 犬のハナがいる。幾重にも重なった砂丘の
 陰に隠れて、その姿は見えない。

 流木が不規則な線を描いて、海ぎわに
 並んでいる。今は、引き潮から満ち潮に
 変わるとき。

 白い泡が、足元を濡らす。
 朝の冷気にまざって、強い日差しが、頬を照らす。

 砂のやわらかい感触。その上に残る無数の足跡。

 やがて私は、大声で、ハナを呼ぶ。
 手を丸めて、その方角に向かって……。

 波の音で、私の声など、聞こえるはずはない。
 しかし私は、何度も叫ぶ。

 さらに日は昇り、日差しが強くなってきた。
 もうそろそろ、砂浜から引きあげるころ。

 と、そのとき、遠くに、小さな黒い一点が見えた。
 ハナが、一目散に私に向かって、走ってきた。

 それを見届けて、私は、防風林のほうに歩き出す。

 潮の香り。海の香り。そして耐えることなくつづく、
 海の音。それにハーハーとあえぐハナの息づかいが、
 その音の上に重なった。

 「さあ、帰ろう」と。ハナは、頭を下にうなだれたまま、
 だまって、私のうしろをついてきた。

(何とも、へたくそな詩で、ごめん!)


●二男の誕生日

 今日、7月27日は、二男の誕生日。あとで、二男に電話をするつもり。

 その二男のよいところ。

 幼いときから、心のやさしい子どもだった。謙虚で、遠慮深かった。こういう言い方をすると二
男は、不愉快に思うかもしれない。が、そんな二男を、私は、いつも心のどこかで、申し訳ない
気持ちで、育ててきた。

 どうしてだろう?

 いつも中途半端な子育てだった……? 何かをしてやりたいと思いながら、それがいつも中
途半端で終わってしまった……? 今、二男の子育てを振りかえってみると、そんな感じがす
る。

 「もっと、いろいろなことをさせてやればよかった」と、悔やむ。豊かな才能をもちながら、私
は、親として、それをじゅうぶん、伸ばしてやることができなかった。

 率直に言えば、今も、その気持ちは、消えない。「もっと、何かできるはずなのに……」という
思いは、まだ残っている。「もったいなあ」という気持ちも、まだ残っている。しかしまあ、二男
が、自分で納得して、今の人生を歩んでいるとするなら、私としては、何も言うことはない。

 二男の人生は、二男の人生。どこまでいっても、二男の人生。

 今は、2人目の子どもも生まれて、きっと、忙しい毎日を送っていることだろう。時期としては、
無我夢中で過ぎていくころでもある。私たちも、そうだった。何がなんだかわからないまま、そ
の日が終わり、つぎの日がやってきた。

 が、あえて一言。

 二男よ、決して自分の才能を眠らすな!

 お前にはお前のライフワークがある。もうそろそろそれを見つけ、それに向かって歩み出すこ
ろだ。時間をムダにするな。人生をムダにするな。前に進め!

 誕生日、おめでとう!

*  *   *     ***   ***    *   *
**  * *    *  *  *  *   *   *
****  * *    *  *  *  *    * *  
*  * *****   ***   ***      *
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***          ****     *     *   *    *      
*  *         *   *   * *    *   *    *      
***    ****  *   *   * *     * *     *  
*  *         *   *  *****     *      *     
***          ****   *   *     *      ● 

(結構、苦労して、書いたぞ! 読めるか? HAPPY B−DAY!と、書いたつもり。ハハ
ハ!)


●昨日も、暑かった!

 温度計を見ると、34度! まだ正午前に、だ。ワイフと顔を合わせるたびに、「暑いね」と。

 ドカッとした、暑さ。時間とともに、ますます暑くなった。もうこうなると、何もやる気が起きな
い。床の上に寝転んで、扇風機で、風を体にあてる。

私「クーラーのある部屋で休もうか?」
ワ「……」
私「やっぱり、がまんしよう」と。

 クーラーにあたれば、そのときは、涼む。しかしその反動というか、そのあと、かえって体がバ
テてしまう。それがこわい。だからここはがまんするしか、ない。

 がんばろう! がんばります!


●怒り心頭に発する

 「怒り心頭に発する」は、正しくて、「怒り心頭に達する」は、まちがいだそうだ。ほかに、「お疲
れ様」「ご苦労様」は、上司が部下に言う言葉で、部下が上司に言う言葉ではないそうだ。

 が、大半の人たちは、こうした言葉を、まちがって使っているという。このたび、文化庁が、そ
んな調査結果を公表した。

 私も、知らなかった。私も、「怒り心頭に達する」と書いていた。しかし、だ。いちいちそんなこ
とを考えて、ものを書いたり、言ったりする人など、いるだろうか?

 言葉というのは、大衆が、その流れの中で決めていくもの。報告によれば、約74%(文化庁)
の人たちが、「怒り心頭に達する」が正しいと思っているという。ならば、その言い方が、正しい
ということになる。「正しい」とか、「正しくない」とか、決めつけるほうが、おかしい。

 「昔は、『怒り心頭に発する』と言いましたが、最近では、『怒り心頭に達する』と言うようにもな
りました」でも、よいではないか。

 ほかに、「愛嬌(あいきょう)を振りまく」は(○)、「愛想を振りまく」は(X)。
「言葉を濁す」は(○)、「口を濁す」は、(X)。
「腹に据えかねる」は(○)、「肝に据えかねる」は、(X).。


 過去に照らし合わせて、現在がまちがっているという言い方は、復古主義者たちが好んで使
う論法でもある。よい例が、「伝統」という言葉である。復古主義者たちは、好んで「伝統」という
言葉を使う。

 自分で考えるよりも先に、「昔は、こうでしたから」という論法で、自分を正当化してしまう。

 今回のこの調査でも、私は、その臭いをプンプンと感じた。

 私たちは、こんな調査など気にすることはない。大衆の流れにそって、自分たちの言葉を決
めていけばよい。言葉というのは、そういうもの。一部の言語学者たちの、重箱の底をほじくり
かえすような意見で、影響を受けることはない。

 (一応、参考意見として、聞くべきところは、聞くが……。)

+++++++++++++++++++++

【注※】(中日新聞)

激しく怒ることを意味する慣用句「怒り心頭に『発する』」を、「怒り心頭に『達する』」と間違って
使っている人が、74・2%と、ほぼ4人に3人に上ることが7月26日、文化庁の国語に関する
世論調査で分かった。

本来は上司が部下をねぎらう「お疲れさまでした」という言葉を、上司に使うとの回答も、約7割
に上った。

 ほかに「愛嬌(あいきょう)を振りまく」という本来の言い方は、43・9%で、誤用の「愛想を振
りまく」が、48・3%と、本来の言い方を上回ったという。
 また、本来「言葉を濁す」とすべきところを、27・6%が、「口を濁す」と回答。本来は「腹に据
えかねる」という言葉は、18・2%が「肝に据えかねる」とした。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【首相のY神社参拝問題】

++++++++++++++++

(首相は)参拝すべきではない……49・1%
(首相は)参拝すべき    …… 9・4%

これが日本の常識ということになる。

++++++++++++++++

 中日新聞社が、「政治ネットモニター」を対象にした、調査結果を公表した。その結果が、つ
ぎである。

参拝すべきではない……49・1%
参拝すべき    …… 9・4%  ……(1)

  首相の判断に任す ……29・8%  ……(2)

これが日本の常識ということになる。ただし中日新聞は、(1)と(2)の数字を合計して、「容認
派は、35・3%」と記事に書いている(7月28日)。「首相の判断に任す」と答えた人イコール、
容認派というわけではないはず。

 私も、「参拝すべきではない」と思う。また現在のK内閣発足以前から、何度も、そう書いてき
た。

 2年前(2004)の8月に、こんな原稿を書いた。2年前の原稿なので、その後の国際情勢の
変化について、現状にそぐわない部分もあるかもしれない。お許しください。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●反日感情

 今回のサッカーのアジアカップ戦で、改めて、中国の人たちの反日感情が、明らかになった。
このままでは、北京でのオリンピックは、どうなることやら? しかし日本が、こうまで四面楚歌
だったとは!

 韓国からのアメリカ軍の撤退は、加速している。「前倒し撤退」(朝鮮日報)とかで、自走砲や
戦車も、約半数が、撤退するという。さすがの韓国も、これにはあわてた。

 「撤退するのは、兵員(兵隊)だけではなかったのか」と。

 これを見て、K国は、さかんに「アメリカ軍は、韓国から、全面撤退せよ」と騒いでいる(8・
7)。

 そんなとき、アメリカのニューヨークタイムズ誌は、「K国の核兵器阻止の外交政策は、失敗し
た」(8・9)と報じた。こういうとき責任をなすりあうのはよくないが、その責任は、韓国と中国に
ある。

 そのK国が、なぜ核兵器を作っているかと言えば、それは日本向け。アメリカの脅威を口実
にしているが、あくまでも日本向け。K国は、本気で日本を、廃墟にしようとしている。どうして、
日本よ、日本人よ、それがわからないのか。

 K国の人たちがもっている反日感情は、中国の人たちの、それの比ではない。仮に日朝戦争
ともなれば、中国はもちろん、韓国も、K国に、加担する。悲しいかな、日本の味方になってくれ
る国は、このアジアには、どこにもない。

 ただ一人の友人は、アメリカということになるが、そのアメリカにしても、ケリー(民主党)大統
領になれば、どうなることやら。

ブッシュ大統領は、「同盟国(日本)が、K国に攻撃されたら、ただちに反撃する」と言ってくれた
が、ケリー大統領は、そこまでは言わないだろう。ケリー大統領は、むしろ「米朝間で、相互不
可侵条約を結んでもよい」というようなことまで言っている。

 事実上の、日本、切り捨てである。

 で、その日本は、どうかといえば、各地で、米軍の基地移転反対運動。「出て行け」「出て行
け」の大合唱。私がアメリカ軍なら、そんなこと言われなくても、さっさと出て行く。「何で、こんな
国、嫌われてまで、守らなければならないか」と。アメリカ人なら、だれしも、そう思う。

 その一つの例が、今の韓国ということになる。3万6000人近くいた、アメリカ軍も、もうすぐ、
半数以下になる。この先、その数は、さらに減るだろう。38度線や板門店から、アメリカ軍が
消えて、もう久しい。

 これから先、日本は、(そして韓国も)、K国の核兵器におびえながら、生きていかねばならな
い。まさにK国の言いなり。「東京に核ミサイルを撃ちこむぞ」と言われたら、もう、何も、できな
い。

 こういう現実を前にして、日本は、中国や韓国の人たちの神経を、逆なでするようなことばか
りしている。K首相のY神社参拝も、その一つ。「日本人が日本で、何をしようが、日本人の勝
手」という論理は、国際社会では、通用しない。

 ゆういつの望みは、K国が、自己崩壊すること。日本は、ともかくも今、それを促すべく方策を
実行することである。

 確実な方法は、一つある。

 脱北者をどんどんとふやし、そういった人たちを、援助すること。K国の人権問題を、ことさら
大げさに取りあげて、それを口実にすればよい。この方法は、韓国に亡命した、ファン・ジャン・
ヨプ氏(元朝鮮労働党書記)が、さかんに提唱している方法である。

 それから東京都のI知事には、悪いが、I知事には、もう少し発言をひかえてもらいたい。ああ
いう人たちが、勇ましいことを言うたびに、国際情勢が、おかしくなる。日本が過去に、何をした
かという反省もなしに、日本の正当性だけを主張しても、かえってアジアの国の人たちの反発
を買うだけ。

 もしかつての日本がした侵略戦争が正しかったとするなら、逆に、日本が外国に同じことをさ
れても、日本は、文句を言えないことになる。どうして日本よ、日本人よ、そんな簡単なことが
わからないのか。

 今、日本がもっとも大切にしなければならない国は、中国である。頭をさげてでも、中国には
協力してもらわねばならない。日本には、日本のプライドもあるだろう。それはわかるが、しか
し、政治、なかんずく国際政治は、現実だけを見て、考え、判断しなければならない。

 今の日本には、K国の核兵器開発を抑えこむ力は、ない。それが現実なのである。
(04年8月8日記)

【補記】

 最近の中国、韓国の人たちの反日感情は、私が1967年に、韓国で経験した反日感情と
は、異質のものではないかと思っている。

 あの当時の反日感情は、体中から、日本がなめたツバを、拭い去りたいという、生理的な嫌
悪感が主体になっていたと思う。

 最近の反日感情を見ていると、どこか反日感情を利用した、政治闘争のような感じがしない
でもない。その点、日本が、1970年当時経験した、安保闘争、学生運動と似ていると思う。

 この先、日中関係、日韓関係がどうなるか、注意深く、見ていかねばならない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 なお中日新聞のほうでは、「反対派は、52・3%にのぼっている」となっている。(数字が、合
わないが?)

 ともあれ、先にも書いたように、これが日本の常識と考えてよい。反対に、なぜ、日本の首相
たちが、こうまでY神社参拝にこだわるのか、私には、その理由がよく理解できない。

 K首相は、「反戦の誓いのため」ということをよく言うが、反戦の誓いというのなら、何も、Y神
社でしなくてもよい。それこそ、心の問題。また反戦の誓いをしたからといって、それで(戦い)
がなくなるわけではない。こちらが望まなくても、向こうから、戦争がやってくることだって、あ
る。

 そのとき、「反戦だ」などと言っていたら、それこそ、バカかアホ。「いざとなったら、戦う」。そう
いう覚悟があってはじめて、私たちは、私たちの国の平和を守ることができる。

 政治、なかんずく国際政治は、冷徹なほどまでに、現実主義でなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1421)

【茶パツと文化】

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

++++++++++++++++

子どもの茶パツが、問題になった。

先日も、ある小学校の先生と電話で、
そんな話題になった。

少し前に書いた原稿を、それについて
書いたものを、拾ってみる。

++++++++++++++++

●子どもの茶パツ

 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理

 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。

裏を返していうと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でな
いか」を、そこらの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。
こういう論理がまかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗

で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある。

小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校長に
してみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤとした
風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。…
…らしい。

●まるで宇宙人の酒場!

 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。

身長の高い低い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から
来た生物のような、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国
によって、まるで違う。

アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にし
たら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさ
わしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩い
ていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?

 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 

私にはよくわからないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【死は厳粛に】

乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に(失敗危険度★★)

++++++++++++++++++

子どもに「死」を、どのように教えたら
よいか。

言うまでもなく、「死」があるからこそ、
「生」のすばらしさがわかる。

++++++++++++++++++

●死を理解できるのは、3歳以後

 「死」をどう定義するかによってもちがうが、3歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。

飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子ども(3歳男
児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(3歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と言
った子ども(3歳男児)もいた。

子どもが死を理解できるようになるのは、3歳以後だが、しかしその概念はおとなとはかなり違
ったものである。3〜7歳の子どもにとって「死」は、生活の一部(日常的な生活が死によって変
化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平気でやり過ごすことがある。

●死への恐怖心

 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼ
っちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。

たとえば母親が臨終を迎えたとき、子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死
そのものではない。ちなみに小学5年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問して
みたが、8人全員が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。1人「60歳くらいになったら、考え
る」と言った子ども(女子)がいた。

質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいやだ」「そ
れは困る」と答えた。

●死は厳粛に

 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそ
れを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知
る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。

死を茶化してはいけない。もてあそんでもいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛に
あつかう。たとえば飼っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように
紙で包んでポイと捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかし
それではすまない。

死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていね
いにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、
子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

●死をとおして、生きることの大切さを

 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという
目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなこと
も頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【子どもの金銭感覚】

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

++++++++++++++++

子どもにホイホイと、
ものを買い与えてはいけない。

そんなことをすれば、子どもは、
スポイルされるだけ。

++++++++++++++++

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学2、3年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●100倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、100倍にして考えるとよい。100円のものな
ら、100倍して、1万円。1000円のものなら、100倍して、10万円と。

つまりこの時期、100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものを買ったときの満足
感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて100円や1000円のものでは満
足しなくなる。中学生になれば、1万円、10万円。さらに高校生や大学生になれば、10万円、
100万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安
易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。

一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを
求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、60歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。
しかも徹夜で! 

そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためで
す」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していた
が、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学5年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。

感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。

少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思
い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【評論家の宿命】

一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)

++++++++++++++++

ものをこうしてオープンに書くことに
は、いつも、批判がともなう。

しかしその批判を恐れていたら、
ものなど、書けない!

++++++++++++++++

●摩擦はつきもの

こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命
のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新
聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚
問題を考えたものではない。

が、その直後から、10人近い人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したので
も、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚と
して問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が
子どもの心に影響を与える。

が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離
婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうした
コラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似
たような事件があった。

●「一方的にものを言わないでほしい」

同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の
外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎
朝6時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いて
きた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にも
のを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。

●いじめられる側にも問題

 20年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、とも
かくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに2度ほどかりだされて意見を述べ
ることになったが、そのときのこと。

そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もち
ろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないという
わけではない。もっともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題と
いってもよい。

いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマン
だけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがあ
る。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りさ
れても、それに抗議することができない、など。

そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後か
ら猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)
「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。

●個人攻撃をしているのではない!

 こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできな
い。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、もの
の本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。

いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文
の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の
先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた
先生は少なくない。こんなことも……。

●学校の先生もたいへん!

 まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝い
にきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、4つも5つも行かせている
バカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。

当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ4つや5つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、
音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってし
まった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局
この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去る
ことになってしまった。

 視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見
失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1422)

【今朝・あれこれ】

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今までに書いた原稿を、このところ、少しずつ
手なおししている。

そんな中から、いくつかを選んでみた。
これらは、ちょうど4年前に書いた原稿である。

++++++++++++++++++++

●トラウマ(精神的外傷)

 心にフタ(lid)をしてはいけない。フタをすれば、その心は行き場をなくし、やがて心そのものを
ゆがめる。

ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856―1939、オーストリアの心理学者)は、それをネズ
ミの穴にたとえて言った。「カワネズミの入り口をふさげば、そのカワネズミは、また別の穴から
出てくる。(抑圧された)潜在意識は、別の形となって、その人の心を裏から操(あやつ)る」と。

 そこでフロイトは、そのフタを取り除くために、まず患者自身に、思いつくままを話させた。こ
れがよく知られている、「自由連想法」(free association)という手法である。

これは患者をリラックスした状態におき、患者に自由にしゃべらせることにより、その話の内容
から、患者の心理状態をさぐるという方法である。フロイトは、ささいなことも、不愉快なことも、
さらには恥ずかしいようなことも、すべてしゃべらせた。そして患者の心をふさいでいる「フタ」が
何であるかを知ろうとした。

たとえばノイローゼ患者がいる。このタイプの患者は、自分の心をふさぐ「不愉快なこと」
(unpleasant thing)を、取り去ろうともがくことによって、ノイローゼ状態になることが知られてい
る。問題は不愉快なことがあることではなく、どうしてそれを不愉快に思うか、である。その思い
を封じ込めてしまっているのが、ここでいう「フタ」である。

人間の心は一見複雑のようで、単純。単純のようで、複雑。私は幼児を教えるようになって、い
つしか、幼児には、大声で話させる訓練をするようにした。レッスンが始まると、最初の5〜10
分は、とにかく大声を出させるようにしている。

つまりこうすることで、まず子どもの心を解放させる。フロイトの言葉を借りるなら、「フタを取
る」ということになる。この方法を用いると、簡単な情緒障害なら、その場でなおってしまう。「治
る」という言葉は使えないので、あえて、「なおる」とするが、それに近い状態になる。そして子ど
もの心は一度、解放させてあげると、あとは自らの力で、前に伸びていく。

 さて、その「自由連想法」だが、実のところ、これを自分でするのは、むずかしい。何人かの
高校生に試してもらったが、なれないうちは、「何を思うの?」「どうすればいいの?」という質問
が出てくる。私も自分でしてみたが、「思い」というのは、なかなか形になって出てこない。

そこで私なりに方法を変えてみた。何かマイナスの思い出がトラウマ(trauma、精神的外傷)の
原因になることが多いので、それについて、簡単な作文を書かせてみた。読者の方も、一度、
自分を試してみるとよい。これはいわば、私が考えた「作文連想法」ということになる。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。
(質問2) 今までで一番。悲しかったことを、三つ書きなさい。
(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。
(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。
(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。
(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。
(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。
(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。
(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。

 この質問、正直に答えてみてほしい。そして、答の中に、ある共通点を見出したら、今度はそ
の理由を考えてみる。「なぜ、そうなのか」「なぜ、そうなったのか」と。そのときその原因を、で
きるだけ自分の過去に求めてみるとよい。それがあなたのトラウマということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、ほとんど、どの人も、トラウマの一つや二つはもっ
ているということ。あるいはもっと、もっている。トラウマのない人はいない。だからトラウマがあ
ることが問題ではない。問題は、そういうトラウマがあることに気づかず、それに振りまわされ
ること。そして同じパターンで、同じ失敗を繰り返すこと。

言いかえると、もしあなたが子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じような失敗を繰りか
えすというのであれば、このトラウマを疑ってみる。虐待にしても、暴力にしても、あるいは育児
拒否にしても、だ。さらに夫婦不仲、夫婦げんか、近隣との騒動などなど。そしてそれを知るた
めの一つの方法が、ここでいう、「作文連想法」である。

 そしてこのトラウマというのは、おもしろい性質をもっている。つまりそれが何であるかわから
ない間は、いつまでもあなたを裏から操る。が、ひとたびわかってしまうと、消えることはないに
しても、心のスミに、なりを潜めてしまう。そしてそのあと多少時間はかかるが、やがて問題は
解決する。そういう意味で、自分のトラウマが何であるかを知るのは、とても大切なことである。

ちなみに、私もこの質問に答えてみた。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。
         父が酒を飲んで暴れたこと。
XXXXX(Secret)。
若いとき恋人と別れたこと。

(質問2) 今までで一番、悲しかったことを、三つ書きなさい。
         信じていたXXに裏切られ、だまされたこと。
         親友を、私の不用意な言葉で失ったこと。
         XXXXXX(Secret)

(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
         ウソ
         世間体
         酒
 
(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。
         XXXタイプの人間。
         だらしなく、XXXXの人間。
         ギャーギャーと騒ぐ軽薄な人間。

(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。
         XXXへ、行くこと。
         人にへつらうこと。
         飛行機に乗ること。

(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。
         XXの問題。
         環境問題。
         将来への不安。

(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。
         XXがあること。
         自分をごまかすこと。
         XXXXX(Secret)。
        
(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。
         父が酒を飲んで暴れたときの夜。
飛行機事故。
         アメリカへ、02年10月に行ったときのこと。
         
(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。
         孤独死。
         絶望。
         ムダ死。
 
(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。
         飛行機に乗ること。
         XXXXX(Secret)
         無一文になること。

 自分の回答を読んでも、何となくどこにトラウマがあるか、わかるような気がする。そしてそれ
が今まで、私の心を裏から操ってきた。それが何となくわかるような気がする。正確なものでは
ないかもしれないが、自己分析のためには、役立つかもしれない。
(02−10−25)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 トラウ
マ 精神分析 子供の心理 フロイト 自由連想法 心的外傷 ノイローゼ 自己分析)

【追記】

 この原稿を書いてから、もう4年になる。早いものだ。

 そこで2006年の7月。もう一度、自分の手法に従って、自分を分析してみる。

(質問1) 今までで一番、つらかったことを、三つ書きなさい。

       頭のボケた兄が、近所の人たちと、トラブルを起こすようになったこと。
       xxにだまされたこと。
       学生時代の恋人と別れたこと。

(質問2) 今までで一番。悲しかったことを、三つ書きなさい。

       XXが、XX(病気)になったこと。
       自分の不注意で、親友だったxxx君を失ったこと。
       (もうひとつが思い浮かばない)

(質問3) 今、一番、嫌いなものを、三つ書きなさい。
       
       酒
       タバコ
       コーヒー

(質問4) どんなタイプの人間が一番嫌いか、その特徴を三つ書きなさい。

酒臭い女性
       ルールを守らない人たち+ウソつき
       ギャーギャーと騒ぐ人たち

(質問5) 今、一番したくないことを、三つ書きなさい。

       人のために文章を書くこと
       郷里へ帰ること
       だらしない生活

(質問6) 今、一番心をふさいでいる問題を、三つ書きなさい。

       郷里の問題
       母の問題
       兄の問題

(質問7) 自分のことで、一番いやだと思っているところを三つ書きなさい。

       xxxxが、xxxxこと
       性格がxxxxxxであること
       いいかげんで、小ズルイこと

(質問8) 今までで一番、こわかったことを三つ書きなさい。

       飛行機事故にあったこと。
       交通事故にあいそうになったこと。
       息子たちが海で溺れたこと

(質問9) 将来、自分のことで、そうであってほしくないことを三つ書きなさい。

       マガジンの廃止
       バカになること(認知症になること)
       孤独になること

(質問10)今、一番、苦手と思い、避けたいと思っていることを三つ書きなさい。

       病気との闘い
       孤独
       目的のない生活

(以上、みなさんの参考までに……。)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●振り回される親たち

+++++++++++++++

乳幼児のおしゃぶり。

それをよしとする人もいれば、
そうでない人もいる。

口呼吸、鼻呼吸を問題にする
人もいる。

しかし……。

+++++++++++++++

 少し前、赤ちゃんがおしゃぶりを使うと、指しゃぶりが残りやすいという説があった。そこで一
時期、おしゃぶりが、子どもの世界から姿を消した。しかし今度は、無理におしゃぶりをやめさ
せると、子どもの情緒が不安定になるという説が出た。すると親たちは、再び、おしゃぶりを子
どもに与えるようになった。

が、再び、おしゃぶりが、よくないという説がまた出てきた。理由はあれこれあるらしいが、もっ
ともらしい説が、つぎつぎと育児雑誌をにぎわした。歯並びが悪くなるというのも、そのひとつ。

 そのつど、親たちは、ささいな情報に振り回される。新説が出るたびに、ああでもない、こうで
もないと振り回される。が、またまたまおしゃぶり論争。こんどは、おしゃぶりは、必要という説。
それに火をつけたのが、子どもたちによく見られる、口呼吸。

「最近の子どもは口呼吸をする。それは母乳で、じゅうぶん育てられなかったからだ」と。あるド
クターが、テレビ番組の中でしゃべったのがきっかけだった。つまり赤ちゃんは、母親の乳首を
吸っている間、鼻呼吸をする。その乳首を吸う回数が少ないと、口呼吸になりやすいというの
だ。そして鼻には、バイ菌などを遮断する機能があるので、鼻呼吸する子どもは健康に、一
方、口呼吸する子どもは、病気になりやすい、と。

つまりおしゃぶりは、その鼻呼吸を子どもにさせるには、効果的であるということらしい。とた
ん、また、おしゃぶりが、復活した……!

 こういう論争を耳にすると、(私は乳児については、まったくの門外漢ということもあるが)、
「?」と思ってしまう。「どうしてもっと基本的なことを論じないのか」と。

 仮に百歩譲って、口呼吸より鼻呼吸が健康によいということにしよう。しかしそれでも、この問
題は、無数にある問題のひとつにすぎない。「無数」だ。こうした情報というのは、夜のバラエテ
ィ番組に出てくるクイズのようなもの。アフリカの一民族が使うような料理用の道具を持ち出し、
「これは何でしょうか?」と。

自称、知識人やタレントたちが、さもしたり顔で、それを討論したり、ときには、ギャーギャーと
騒いだり……。しかしそれがわかったところで、どうということはないし、わからないからといっ
て、これまたどうということはない。少なくとも、テレビというマスメディアを通して、全国の人たち
に知らせなければならないような問題ではない。

 たしかに口呼吸と鼻呼吸はちがうが、子どもが口呼吸したらしたで、それはそのとき考えれ
ばよい。赤ん坊のときから、神経を使わねばならないような問題ではない。どうして親たちは、
こういう重箱の底をほじくりかえすような、ささいな問題で、そのつど振り回されるのか? 私に
はむしろ、そちらのほうを問題としたい。

 では、どう考えるべきか。 

この口呼吸と鼻呼吸の問題にしても、子育てを自然体でしていれば、何も問題はないはず。人
類は、そうして何十万年も生き延びてきた。つまりこれからも自然体で子育てをすれば、何十
万年も生きられる。そうした視点に立ちかえれば、一挙に、無数の問題を解決することができ
る。口呼吸と鼻呼吸の問題も、それに含まれる。

「口」はものを食べるため。「鼻」は呼吸をするため。そんなことは、自然の中では、常識ではな
いか。こうした「自然体」というか、「自然にかえれ」ということを、なぜ、もっとみんなが声を大き
くして言わないのか。言いかえると、もしあなたが子育てをしていて、何かのことで迷ったり、わ
からなくなったら、自然にかえればよい。それで結論は出る。すべてが解決する。私はこうした
情報が出るたびに、それに振り回されている親をみると、「はたして情報とは何か」と、そこまで
考えてしまう。
(02−10―25)※
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 口呼
吸 鼻呼吸 幼児 おしゃぶり)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●考える力

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考える力は、無限にあるわけではない。

体力と同じように、限界がある。
しかもその考える力は、年齢とともに
退化する。

それも体力に似ている。

+++++++++++++++

 考える力というのは、無限にあるわけではない。それはちょうど体力に似ている。使えば使う
ほど、疲れる。一日に運動できる量(時間)が決まっているように、一日に考えられる量(時間)
も、決まっている。その上、その量は、年齢とともに、減少する。とくに体の調子が悪かったりす
ると、とたんに減少する。考えるのも、おっくうになる。

 が、それだけはでない。考えるとき、大切なのは、いかに鋭く、いかに深いかということ。疲れ
てくると、その力が弱くなる。ものを書いても、どこか、いいかげんになる。浅くなる。私はこれを
「うわすべり」と呼んでいる。うわすべりした文章は、つまらない。あとから読みなおしても、どう
もおもしろくない。

 また、考えるというのは、習慣のようなもの。その習慣のない人は、考えることすらしない。ま
たその習慣があっても、いつも考えていないと、その技術が低下する。これは運動に似てい
る。しばらく考えないでいると、考えるコツすら忘れてしまう。

 そこで年をとると、その考える力を、いかに大切に使うかが、重要になる。それは限られた予
算のようなもの。ムダには使えない。ムダに使ってはいけない。私のばあい、考える前に、それ
が考える価値があることかどうかを、まず決める。価値があることについては、考える。価値の
ないと判断したものについては、考えない。

 よく「考えることは苦痛ではありませんか」と言う人がいる。しかし私は考えることが楽しい。反
対に、頭の中がモヤモヤとしてくると、それを吐き出したくなる。そう、すべてを吐き出したとき
の、あの爽快感(そうかいかん)は、何ものにも、かえがたい。だから考える。

 ただこのところ、自分でも、その考える力が衰えてきたように思う。一番、気になるのは、集
中力がなくなってきたこと。一、二時間、文章を書いただけで、すぐ疲れてしまう。若いころは、
一晩で何一〇枚も原稿を書くことができた。今は、とても無理。ときどきワイフに、「ぼくは最
近、ボケてきてないか?」と聞く。ワイフは、「別に……」というが、もしワイフも同じようにボケて
いたら、どうなのか。それはわからない。

 みなさんは、今の私の文章を読んで、どう感じるだろうか。鋭さが消えたと思うだろうか。深み
がなくなったと思うだろうか。一年前の文章と比較して、どうだろうか。つまらなくなったと思うだ
ろうか。もしこれからも、このマガジンを読んでくださるようなら、そういうことも注意して読んでく
ださると、うれしい。
(02−10−25)※
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 考え
る力 思考力)

(付記)
 私の近所に、夫も妻も、同時に、同じようにボケてしまった人がいる。その会話をワイフが聞
いてきた。実にユニークな会話だったそうだ。夫は、勝手に山の話をしていた。妻は勝手に海
の話をしていた。しかし不思議なことに、たがいに結構、会話になっていたそうだ。「私たち夫
婦の近未来像かもね」と、ワイフは笑っていた。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【子育て段階論】

+++++++++++++++++

忘れもしない。

今からほぼ20年ほど前、ある小学校で
はじめて講演をしたときの演題が、これ。

「子育て段階論」。

そのときのレジュメをまとめたのが、
つぎの原稿。

かなり荒削りの原稿だが、当時の私は
私。そのまま、ここに掲載する。

+++++++++++++++++


●『まいた種のものしか、実はならない』

 『まいた種のものしか、実はならない』は、イギリスの格言。日本でも同じように、『蛙(かわ
ず)の子は、蛙』とか、『ウリのツルに、ナスビはならぬ』とかいう。

 こう書くと、『トビがタカを生む』とか、『青は藍(あい)より出でて、藍より青し』とも言うではない
かと言う人もいる。まあ、そういうことも、たまにはあるが、しかしふつうは、『まいた種のものし
か、実はならない』。

 子育ては、つぎの四つの時期に分けて考えるとよい。

●子育て段階論

(第一期)(夢と希望の時期)……乳幼児期から小学校入学前までの時期をいう。この時期は、
親は、子どもにかぎりない夢や希望を託す。それが悪いというのではない。この夢や希望があ
るから、子育てもまた楽しい。少しボールを蹴っただけで、「将来は、サッカー選手に」、少しお
もちゃのピアノの鍵盤をたたいただけ、「将来は、ショパンコンクールに」と親は考える。

 しかしこの時期、それが過剰期待になってはいけない。親の夢や期待が過剰になればなる
ほど、子どもにとっては、重荷になる。その重荷が、子どもの伸びる芽すら、押しつぶしてしま
う。

 またこの時期、子どもの得意分野と不得意分野が、少しずつ分かれ始める。そのときコツ
は、不得意分野をどうこうしようと考えるのではなく、得意分野をより伸ばすようにすること。そ
れを「一芸」というが、子どもの一芸は大切にする。

中には、「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、
坂をころげ落ちるかのように成績がさがる。だから子どもの一芸は大切にする。子どもを側面
からささえるのみならず、生来の仕事につながることも多い。さらに時期、才能の芽が見えてく
るが、その才能は、つくるものではなく、見つけるもの。無理につくろうとしても、たいてい失敗
する。

 ときに戦場のようにもなり、イライラすることも多い。あたふたとするうちに、その日が終わっ
たというようにして、日々はすぎていく。

(第二期)(落胆と抵抗の時期)……子どもが小学校へ入ってから、受験勉強に入るまでの時
期をいう。この時期、親は、そのつど落胆を味わいながらも、それに抵抗する。子どものできが
悪かったりすると、「そんなハズはない」「うちの子はやればできるハズ」と、考える。たまによい
成績をとってきたりすると、「やっぱりそうだった」と、自分を納得させる。

 この時期は、親の方にも、心の余裕ができる時期でもある。乳幼児期の雑務から解放され、
子育ても一段落する。親が再び活動的になり、外に目を向けるようになる。またこの時期は、
子どもがちょうど親離れする時期に重なる。が、それに合わせて親も子離れをすればよいが、
それがむずかしい。親は自分から離れていく子どもを、一方で喜びながら、一方でさみしく思っ
たりする。親自身の心も、この時期、揺れ動く。

 日々はそのつど平凡に流れる。朝、起きると子どもがそこにいる。私もそこにいる。子どもは
子どもで、勝手なことをし、親は親で勝手なことをする。そんな感じで流れる。しかしこの時期、
子どもは、それまで親がもっていた夢や希望を、ちょうどキャベツの葉のように、一枚ずつはぎ
取りながら成長していく。

(第三期)(地獄と絶望の時期)……子どもが受験期を迎え、受験の結果が、出されるまでの時
期をいう。この時期、親は無意識のうちにも、自分の受験時代を再現する。選別されるという
恐怖、将来への不安。もっとも親がそれを感ずるのは、親の勝手。しかしそれを子どもにぶつ
けてはいけない。が、たいていの親は、その恐怖や不安を、子どもにぶつけてしまう。「もっと勉
強しなさい!」「こんな成績では、いい中学に入れないでしょ!」と。

 この時期以前は、日本のばあい、親子関係が外国のそれとくらべても、とくに悪いということ
はない。しかしこの時期を境に、日本では、親子関係は急速に悪化する。最初は小さなキレツ
だが、それがやがて断絶へと進む。今、中学生でも高校生でも、たがいに信頼しあい、慰めあ
い、助けあっている親子など、さがさなければならないほど、少ない。その原因がすべてこの受
験勉強にあるとは言えないが、受験勉強が原因でないとは、もっと言えない。

 が、それだけではすまない。この「受験」には、恐ろしいほどの魔力が潜んでいる。それまで
は美しく、どこか華やいでいた母親も、この時期に入ると、血相が変わってくる。子どものテスト
週間になっただけで、「お粥しかのどを通りません」と言った母親がいた。「進学塾の明かりを
見ただけで、カーッと頭に血がのぼりました」と言った母親もいた。

 そして受験が近づくと、親は、いよいよ狂乱の時期へと突入する。たかが子どもの受験と笑っ
てはいけない。子どもが入試に失敗したあと、自殺を図った母親だっている。夫婦関係がおか
しくなり、離婚騒動になるケースとなると、いくらでもある。子どもの受験という、あの独得の緊
張感が、それまで家族の中でくすぶりつづけていた火種に火をつけるからである。

 そしていよいよ子どもの受験……。親は狂乱し、子どもはその中で、悶絶する。程度の差も
あるが、この時期の親は、合理的な判断力すら失う(失礼!)。私は以前、『受験家族は、病人
家族』という格言を考えた。受験生がいる家族は、大きな病気をかかえた病人のいる家族と思
えばよい。みながみな、どこかピリピリしている。安易ななぐさめや、はげまし、さらには興味本
位の詮索(せんさく)はタブー。言い方をまちがえると、かえってその家族を苦しめることにな
る。その家族の気持ちになって、そっとしておいてあげることこそ、大切である。

 日々は、まさに緊張と一触即発の状態ですぎていく。暗くて重苦し毎日がつづく。

(第四期)(あきらめと悟りの時期)……まさに地獄のような受験期を抜け、一段落したあと、子
どもが巣立っていくまでの時期をいう。やがて親は、少しずつだが冷静さを取り戻す。そしてこ
う思うようになる。

 「いろいろやってはみたけれど、やっぱり、あんたはふつうの子だったのね。考えてみれば、
何のことはない。私だって、ふつうの人間ではないか」と。

 親はあきらめの境地に達するわけだが、あきらめることは悪いことではない。あきらめること
により、親は子どもの本当の姿を見ることができる。「まだ何とかなる」と思っている間は、それ
が見えない。子どもも心を開かない。「やっぱりあんたはふつうの子だったのね」と、親がそう思
うことで、子どもは、その重荷から解放される。そしてそのときを出発点として、親子という上下
意識のある関係から、「友」という対等の関係へと、その関係が、質的に変化していく。

●親子関係を大切に

 要するに、親はいつ、どこで、『まいた種のものしか、実はならない』という事実を悟るかという
こと。しかしあえていうなら、その時期は早ければ早いほどよい。親子といえども、その基本は
一対一の人間関係。子育てには、山もあれば谷もある。とくに子どもが受験期を迎えるころに
は、その山や谷は大きく深くなる。が、これだけは、ここに書ける。

この日本では、子どもの受験は避けては通れないものかもしれないが、しかしそれには親子の
人間関係まで破壊する価値はない。またたかが受験(失礼!)のことで、親子関係を破壊して
はいけない。それはちょうど、ドロの玉を包むのに、絹のハンカチを使うようなものだ。いや、子
どもの受験に狂奔する親にしても、結局は、大きな流れの中で、踊らされているに過ぎない。
「私は私」と思っているかもしれないが、「私」そのものが、流されているから、自分ではそれが
わからない。

●終わりに……

 「ふつうの家族」「ふつうの子育て」「ふつうの子ども」には、すばらしい価値がある。賢明な親
は、ふつうの価値をなくす前に気づく。そうでない親は、なくしてから気づく。仮に気づくとして
も、ほとんどの親は、その前に大きな回り道をする。が、ふつうの価値に気がついてしまえば、
何でもない。すべての問題は解決する。そして日々はまた平穏、無事に流れ始める。それはお
おらかでゆったりとした世界。まさに悟りの境地。だから、私はこの時期を、あえて、「悟りの時
期」とした。

 ここでいう「子育て段階論」は、あくまでも一般論。しかし大多数の親が、多かれ少なかれ通
る道でもある。ひょっとしたら、あなたとて例外ではない。そんなことも考えながら、子育て段階
論を頭の中に入れておくと、道に迷ったときの地図のように、あなたの子育てで役にたつ。
(02−10−28)※
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子育
て段階論)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【親どうしのトラブル】

Q:子どものことで、つぎつぎとわずらわしいトラブルが起きてきます。たいていは、親同士のつ
きあいに関することです。「悪口を言った、言わない」「礼儀を欠いた、欠かない」など。こういう
とき、どうしたらいいでしょうか。

A:何かトラブルが起きたら、そのトラブルのレベルを考えます。これは私流の、トラブルの解決
のし方ですが、一つの方法として、参考になると思います。つまり私は、そういうささいなトラブ
ルについては、無視するという方法を使います。しかし、ただ「無視しろ」と言われても、簡単に
はできません。そこで私のばあいは、よりレベルの高い問題にぶつかっていくことで、結果とし
て、そのトラブルを無視するという形をとります。それについて書いたのが、つぎの「レベル論」
です。

+++++++++++++++++

●レベル論

 身のまわりで起こる問題には、レベルがある。たとえば……。

レベル1…… 少し前、自転車でコンビニの駐車場を横切ろうとしたら、一台の車が、けたたま
しい急ブレーキをかけて、目の前で止まった。私はあやうく、はねられるところだった。見ると、
若い男女で、男は私に、「バ〜カ」と言った。声は聞こえなかったが、口の動きでそれがわかっ
た。女のほうは、視線をはずしたまま、ニヤニヤ笑っていた。

レベル2…… 私の家の近くは、かっこうの犬の散歩道。そのため、犬の糞だらけ。先日は、
何と、私の家の玄関前にそれがあった。そこで私は張り紙を木にぶらさげた。「どうか玄関の
前で、犬のフンをさせないでほしい」と。しかし数日後、その張り紙は破って捨てられてしまっ
た。おまけに、その下には、犬の糞がおいてあった。腹いせのためにしたのだろう。

レベル3…… 隣の空き地が、水道工事の「土場(どば)」になった。「土場って何ですか?」と
聞いたら、「資材置き場だ」と。それで安心していたら、これがとんでもないウソ。工事が始まる
と、終日、ユンボとダンプが、ゴーゴーとうなり音をあげるようになった。その騒音がいつ始まる
とも、またいつ終わるともなく、断続的につづく。短い期間ならよいが、もうそれが六月から、丸
四か月、つづいている。

レベル4…… 国政選挙になるたびに、どこかの宗教団体が、いっせいに選挙活動に動き出
す。思うように外出できない老人や、老人ホームにいる人、あるいはひとり暮らしの老人を、自
分の車に乗せ、投票所まで一日中、ピストン移送している。車の前には、申し訳程度に、「小さ
な親切運動」と書いたカードがはってある。「なるほど、小さな親切運動か」と思いたいが、どう
もスッキリしない。そういうタイプの老人(失礼!)に、そういうサービスをするのは、買収行為に
なるのでは? いくら無料でも、車の償却費、ガソリン代、それに「うべかりし人件費」を加えれ
ば、立派な買収行為になる。

レベル5…… K国が、何人もの日本人を拉致(らち)した。「拉致」というと、わかりにくいが、
中身は、国家的誘拐事件。しかもその半数近くが、すでに死亡しているという。実際には、拉致
された日本人は、数十人とも、あるいはそれ以上とも言われている。在日朝鮮人の拉致は、も
っと多いとも(週刊S誌)。金xxという独裁者が、ありもしない外国の脅威をでっちあげ、自国の
国民をだましつづけている。日本人の拉致事件は、こういう流れの中で起きた。

 以上、五つのレベルの話を書いた。私にとっては、どれも、少なからず、頭にくる話だ。が、こ
こで、重大な事実に気がつく。それは人というのは、相手にしている、その相手を見れば、自分
のレベルがわかるということ。小さな人間は小さな人間を相手にする。大きな人間は、大きな
人間を相手にする。(だからといって、金xxが大きな人物と言っているのではない。彼は見るか
らに小さな人間だ。)

 そこでこの(レベル1・コンビニの車)から(レベル5・拉致問題)までの問題を自分にあてはめ
てみた。本当はどれも、頭にくるが、しかし(レベル1・コンビニの車)と、(レベル2・犬の糞)の
人間は、相手にしない。無視する。問題は(レベル3・騒音問題)だが、これについては、実は
先日、地主に手紙を書いた。これは相手にするとか、しないとかいう問題ではなく、静かな環境
を求めるのは、正当な権利だ。

 さて(レベル4・選挙問題)と、(レベル5・拉致問題)はどうか。時間があれば、(レベル4)も問
題にしたい。本当に今、問題すべきは、(レベル5)の問題だ。しかし私のような地方に住む人
間が、(レベル5)を問題にしてどうなる。さらにここには書かなかったが、(レベル6)として、環
境問題がある。この問題も、私のような地方に住む人間が論じたところで、ほとんど意味がな
い。

 しかしレベルの高い問題を考えるということは、自分を大きくするという意味で、とても大切な
ことである。レベルが高ければ高いほど、低い問題が、相対的に小さく見えてくる。たとえばこ
こでいう(レベル5・拉致問題)を考えていると、(レベル1・コンビニの車)や、(レベル2・犬の
糞)の問題は、どうでもよくなる。

 そこで今、あなたはどうなのかと、少しだけ振り返ってみてほしい。あなたは今、どのレベル
の問題を考えているだろうか。もしレベルの高い問題なら、それでよし。しかしレベルの低い問
題なら、できるだけ視野を高くもって、大きな問題にぶつかっていくとよい。そうすれば結果とし
て、今ある問題を、自然消滅的に解決できる。

+++++++++++++++++++++++

(追記)相談者の件でも、「つぎつぎとわずらわしいトラブルが起きる」ということであれば、それ
はトラブルが起きることに問題があるのではなく、「わずらわしい」と思う、その相談者自身に問
題があるとみる。つまり視点が低い(失礼!)。レベルが低い(失礼!)。

そういうときは、ここにも書いたように、もっと大きな問題、大きな敵を考え、それにぶつかって
いく。そうすれば、あなた自身を大きくすることができると同時に、それまでのささいなトラブル
を、「無視できる」という形で、一挙に解決することができる。
(02−10−28)※


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1423)

【BWの指導から】

●「NO!」が、はっきり言える子ども

+++++++++++++++

今週は、どのクラスでも、「NO!(いや!)」
とはっきり言える子どもの指導をしている。

指導というよりは、訓練。

大きな声で、しっかりと、「いや!」と言わせる。

この簡単な訓練だけで、子どもから優柔不断さが
消える。

+++++++++++++++

 今週は、幼児クラスを中心に、「いや!」とはっきり言う訓練をしている。方法は、こうだ。

 まず、子どもたちがいやがるような、誘いをかけてみる。

私「ゴキブリ・ハンバーグをあげようか」
子「……いらないよう……」
私「だったら、『いや!』とはっきりと言いなさい」
子「いや……」
私「そんな声じゃ、だめだよ。いやだったら、はっきりと『いや!』と言わなくては……」
子「いや!」と。

 つづけて、

私「ねずみのシッポのからあげをあげようか」
子「いや!」

私「シカのウンチのから揚げをあげようか」
子「いや!」

私「ミミズのラーメンはどう?」
子「いや!」と。

 こうしたかけあいを、5〜10回繰りかえすと、子どもたちは、大声で、「いや!」と言うようにな
る。

 そこでさらに、こう問いかける。いやらしい中年オジサンの雰囲気で……。

私「どこかへ連れていってあげようか?」
子「いや!」

私「お菓子を買ってあげようか?」
子「いや!」

私「そんなこと言わないで、車にのってよ」
子「いや!」

私「おもちゃを買ってあげるからさあ」
子「いや!」

私「じゃあ、おじさんのおうちに遊びに来る? お菓子がたくさんあるよ」
子「いや!」と。

 こうした方法は、心理学の世界でも、有効性が証明されている。「YES」「NO」を、はっきりと
言わせることによって、自我の確立を、より、めざすことができる。が、それだけではない。昨
今、子どもを犯罪に巻きこむ事件が、相ついでいる。この方法は、そうした事件に対する、予
防策にもなる。

 もしあなたの子どもに、どこか優柔不断で、グズグズした雰囲気があるなら、一度、この方法
を試してみるとよい。

が、本当は、集団教育の場で、みなが大声を張りあげていうような場面が望ましい。1人、2人
だと、大声を出さない子どもでも、みなが大声を張りあげると、つられて自分も大声を出すよう
になる。

 どこかの見知らぬおじさんが、「お菓子を買ってあげるから、いっしょに来ないか?」と声をか
けたとき、子どもが、最初に「いや!」とはっきり言う。犯罪の防止になるだけではなく、今のこ
うした社会では、とても大切なことだと思う。

【付記】

 この指導法を参観していた母親が、そのあと、こう言った。

 「私なんか、セールスがきても、はっきりと断れないため、よくトラブルに巻きこまれてしまいま
す」と。「私ははっきりと、いやと言うのですが、主人が、優柔不断で、困ります」といった母親も
いた。

 もしそうなら、日ごろから、夫婦の間で、こうした訓練をしておくとよい。

夫「奥さん、おもしろい薬があります」
妻「いりません」
夫「お買い得ですよ」
妻「興味ありません」
夫「奥さん、元気が出ますよ。あのK国製ですから」
妻「いりません。お帰りください」と。

 私たち夫婦も、ときどき、この訓練法を自分たちに試している。私も、若いころは優柔不断な
ところがあった。誘われると断りきれず、ついつい……ということがよくあった。しかし最近は、
ない。

 この訓練法のおかげである。

 なお、教育の場で、この訓練法をしているのは、私のBW教室だけである。(ほかの幼児教
室は、まねするな!)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 返答
訓練法 自我 YES NO はっきり言う子供 はっきりとした子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●マガジン、8月30日号

++++++++++++++++++++

今日は、7月29日、土曜日。

が、今、マガジンの8月30日号を書いている。
マガジンでは、こうして約1か月先の原稿を書くようにしている。

書き終わったら、8月30日に配信されるように、予約を入れる。
8月30日(水曜日)になると、自動的に、読者のところに
配信される。

++++++++++++++++++++

 私の生活は、週単位、月単位で、クルクルと回っている。今は、月、水、金発行のマガジンを
中心に、週が回り、それが重なって、今度は、月単位で回る。

 月末は、翌月のマガジンの原稿用紙、それにHTML版(HP版)の編集などをしなければなら
ない。一番、忙しくなるのは、そのため、月末ということになる。

 今が、その忙しいとき。

 これから8月30日号(このマガジン)の配信予約を入れ、そのあと、9月号のHTML版の準
備をしなければならない。

 何はともあれ、これが私の生きがいになっているので、文句は言わない。楽しい。今月も読
者はふえなかったが、このところ、私を支えてくれる人たちの熱い思いを、肌で感ずるようにな
った。

 近くのW医院のスタッフのみなさんは、私のマガジンを毎回、コピーして、待合室に置いてくだ
さっているとのこと。うれしかった。

 で、その8月を振りかえって、そのほかに、うれしかったこと。

 アメリカに住む二男が、自宅から勤め先まで、自転車で通勤するようになったこと。ワイフに
電話でそう話したらしい。

 「ぼくも、パパのように、自転車で通勤するよ」と。

【みなさんへ+二男へ】

 みなさん、自転車通勤は、健康によいですよ! 10年とか、20年とか、つづけてみると、そ
れがよくわかりますよ! 足腰も強くなります。男も女も、50歳を過ぎると、足も、鳥のガラみた
いになりますが、自転車通勤をしていると、そういうことはありません。もし機会があるなら、自
転車通勤を試みてください。10年先、20年先をみながら、そうしてみてください。

 私もその自転車通勤+運動をするようになって、37年になります。38年かな?

 おかげで成人病とは無縁。バイアグラも、必要ありません。

 で、アドバイス。

(1)自転車は、アップハンドルのものを、お勧めします。

 ドロップハンドルは、危険。頭から相手にぶつかっていきますから、ぶつかったら、最後、とい
うことになります。

 それに自転車をこぐときは、体全体を左右に大きく揺らしながら乗ります。ほかの人が見た
ら、奇異に思うかもしれませんが、そんなことは気にしてはいけません。

 そうそうアップハンドルのほうが、手、腕の力もいれてこぐことになりますから、上半身の運動
にもなります。

(2)安全には、じゅうぶん気をつけてください。

 ライトは当然。そのほか、私は、前にピカピカ灯、うしろには赤色の、テールランプをつけて走
っています。あと、あちこちに、反射シールをペタペタと張りつけて走っています。

 自転車に乗っていると、事故は、向こうからやってきます。車も、こちらが自転車だと、遠慮し
ません。ですから、こちらのほうで、相手に警告を与えるしかありません。

 欧米では、ヘルメットをかぶらないと、自転車に乗れないそうです。それに万が一、事故にあ
っても、保険金はおりないそうです。(日本では、まだそういうことは、ないようですが……。)

 私も、何度かヘルメットをかぶって走ったことがありますが、自分には、どうもなじみませんで
した。そのためにも、自転車は、アップハンドルのものをお勧めします。

 この37年間で、ひやっとさせられたことは、何度かあります。で、もうひとつのアドバイス。

(3)自転車で走るときは、『負けるが勝ち』と心得ることです。

 自転車で走っていると、いつも、自動車と対立します。しかし自動車と張りあっても、勝ち目は
ありません。相手はカスリキズでも、こちらは致命傷です。

 ですから、いつも、『負けるが勝ち』と心得ます。具体的には、自動車には、さっさと道を譲
る。張りあわない。競わない。けんかしない、です。

 相手が悪くても、こちらのほうが、頭をさげ、相手に道を譲ります。

 この精神さえ守れば、事故は防げます。

 あとは、その運動をつづけます。10年とか、20年とか、つづけます。

 あなたもいつか、健康であるという優越感を、思う存分、楽しむことができるようになります
よ。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1424)

【今朝のニュースから】

●奨学金

++++++++++++++

「貸す」のではなく、「与える」のが、
奨学金ではないのか?

日本の奨学金制度は、どこか、おかしいぞ!

++++++++++++++

 子どものいる家庭にとって、教育費の負担は、相当なものである。「負担」というより、「負担
感」と言ったほうが、正確かもしれない。とくに、「幼稚園と大学段階の負担感が、もっとも大き
いとされる」(時事通信)。

 そのため、今度、文科省は、「返還分を所得控除対象とするなどの税制上の対応を求め、卒
業後の返還を支援することとした」という。

 わかりやすく言えば、奨学金を返還する際、その分は、所得分から控除されるという。が、し
かしそんなことで、負担感が、本当に軽減されるのだろうか? 借金は、借金として、そのまま
将来にわたって、残る。

 「奨学金」といえば、つまり欧米で、「スカラシップ」といえば、「ただ金」をいう。しかもそういう
制度が充実していて、アメリカでも、オーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通っている
学生など、さがさなければならないほど、少ない。

 カラクリは、こうだ。

 各企業や団体は、奨学金として、返済不要の奨学金を、学生に提供する。しかしその分だ
け、つまり奨学金として提供した分だけ、各企業や団体は、税控除を受ける。わかりやすく言え
ば、「国に税金を払うくらいなら、学生に奨学金として払った方が、得」という考え方をする。

 各企業や団体にとっても、大きなメリットがある。優秀な学生に、前もって、ツバをつけておく
ことができる。

 日本の奨学金制度は、基本的な部分で、まちがっている。

(1)貧しいから払うという発想ではなく、払う価値のある学生に、無償で与えろ。

 日本の教育には、おかしな平等主義がはびこっている。もともとその能力も意欲もない学生
に対してまで、奨学金を貸与している。そしてその学生たちが、日本の将来を考え、奨学金を
貸与してくれる国に感謝しているかというと、そういうことはない。

 大半(私の印象では、80%以上)は、奨学金を、遊興費に回している。あるいはアルバイトで
得るお金の不足分として、利用している。

 今年度の奨学金貸与人員は109万人と、10年前の2倍以上にもなっている。事業費は96
年度の約2400億円から約8000億円に増加しているという(時事通信)。単純に計算すれ
ば、8000億円÷109万人で、1人あたり、73万4000円となる。

 この額を多いとみるか、少ないとみるか、意見は分かれる。73万円といえば、遊興費として
は、じゅうぶん。しかし学費としては、絶対的に少なすぎる。73万円で、どうして大学へ通うこと
ができるのか?

 なおアメリカでもオーストラリアでも、子どもたち(高校生たち)は、どこの大学へ入学するかと
いうことよりも、どこでどのような奨学金を得るかを、問題にする。たいていは、学校の学校長
や教師にその推薦権があり、高校での成績や、その子どもの能力、やる気をみて、学校長や
教師が推薦文を書く。

 学校長や教師にしても、必死である。へたに、おかしな学生を推薦してしまったりすると、次
回から、その推薦権を取り消されてしまう。つまりその分だけ、その学校の評価がさがってしま
う。

 もちろん奨学金といっても、ハンパな額ではない。たいていはそれだけで、学生生活のすべ
てをまかなえるほどの額である。が、中には、足りない学生もいる。そういう学生は、銀行で、
(銀行で、だぞ!)、自ら借金をして、それを補う。

 だから学ぶ学生も、必死! 東大のT名誉教授は、HPの中で、こう書いている。「アメリカな
どでは、休み時間になると、教授室の前にズラリと学生が並ぶ。こういう光景は、日本では、見
たことがない」と。

 自分の体を削りながら、大学へ通う……。そういう精神があるから、アメリカの大学生たち
は、よく学ぶ。私の二男でさえ、大学生のとき日本へ帰ってきて、こう言った。

 「アメリカでは、大学生が、アルバイトをするなんて、考えられない。そんな時間は、ない」と。

 日本の奨学金制度は、基本的な部分で、おかしい。現在、官僚たちが、天下りするために使
う持参金(?)が、裏金まで含めると、年間、10兆円にもなるという。もし10兆円もあるなら、全
国、200万人の学生に、500万円の奨学金の奨学金を、無償で与えることができる。400万
人の学生に、250万円の奨学金を無償で与えることができる。

 どうしてそういうふうに、そういうところで、お金を使わないのか?

 「貸与(貸し与える)」ではなく、「供与(ただでくれる)」にする。それが奨学金の基本的な性格
ではないのか。「貸与」なら、何も、文科省がしなくても、銀行に任せればよい。事実、アメリカで
は、そうしている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 奨学
金制度 日本の奨学金)

+++++++++++++++

6年前に書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++

●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私
が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでに
うんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金
を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者
がふえている。

 1997年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめ
んどうを、あなたはみるか」と。それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、た
ったの19%! 

この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者
たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94
年)の数字より、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化
は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均2
7万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。だからどこの家でも、
子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に灯をともすような生活
を強いられる。

が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている! 
先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。春先だったというが、一日
中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何を
いまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、
行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。大半の高校生
は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランドだけで、大学
を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新
聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私た
ち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。私の話は、すでに一世
代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。

「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけで
も、月に4万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろう
か。

(補記)親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約26・6万
円。毎月の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる
親の平均年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、
182万円。1999年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

大学生の親、貧乏盛り

 少子化? 当然だ! 

都会へ今、大学生を1人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7000円(99年東京地区
私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。

……となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間
は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。しかも、だ。日本の対G
NP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。

欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの10年間、
毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないとい
うことは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という1銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだ
けのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨学金を渡せ
る!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世
界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも
個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが
積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育てた
くない!」と。「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろい
ろあって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。
もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくな
い」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●あやしげなカルト教団

+++++++++++++++++

この日本にも、あやしげなカルト教団は、
いくらでもある。

信者を洗脳しながら、金品を捧げさせるというのが、
おおかたのカルト教団のやり方だが、中には、
女性の肉体を、もてあそぶのが目的というのもある。

今度、刑事告訴が検討されている、「S」という団体も、
そのひとつ。

+++++++++++++++++

 今、「S」というカルト教団が、元信者たちによって、刑事告訴が検討されているという。その
「S」という教団は、80年ごろ、韓国で設立された教団だという。毎日新聞によれば、こうある。

 「この集団は、韓国で80年ごろに設立された「S」で、以前は「MS」とも称していた。キリスト
教の聖書を独自解釈し、CM教祖(61)を崇拝の対象としている。CM教祖は韓国で女性信者
に対する性的暴行が表面化した99年に、同国を脱出。その後、強姦容疑で同国の捜査当局
に指名手配された。国際刑事警察機構(ICPO)を通じ、国際手配されており、今春まで中国に
いたとの情報もある」と。

 驚くべきことは、何とこの日本にも、2000人近い信者がいたということ。

刑事告訴を検討しているW弁護士らによると、日本では首都圏や関西の大学生を中心に、約
2000人の信者がおり、6割が女性。国立大や有名私立大でスポーツ、演劇、チアリーダーな
どのサークルと称して、学生を勧誘。「聖書の勉強をしよう」と教義を教えこみ、「従わないと地
獄に落ちる」などとマインドコントロールしたという。

 さらに毎日新聞は、こう報道している。

 「CM教祖は02年ごろまでしばしば来日。千葉県の信者宅などに滞在し、数人ずつ女性信者
を呼び出しては、(健康チェック)と称して、下半身を触るなどの行為を繰りかえしていたという。
教義で服従させ抵抗できなかったことを理由に、準強姦容疑の適用を検討している。W弁護
士は、『強姦されたという5人前後を含め、十数人の女性から性的被害の相談を受けている』
と話している」とのこと。

 何ともポルノチックな教団ではないか。ワイドショーなどの報道によると、入信してくる女性を、
全裸にして、入信式をとりおこなったという。しかし問題は、そのことではない。「大学生を中心
に……」という部分である。

 いまどきの大学生は、そんなにも、バカなのか? しかもこの手のインチキ教団は、ひとつや
ふたつではない。いくらでもある。社会的な問題となった教団だって、多い。にもかかわらず、こ
ういう教団にひかれ、そして餌食(えじき)となっていく。

 バカ!

 利益(りやく)論と、バチ論を並べて信者を洗脳する方法は、カルト教団の常套手段。「信仰
すれば、幸福になれる。金持ちになれる」、しかし「脱退すれば、地獄に落ちる。不幸になる。
死ぬ」と。

 バカ!

 人知をはるかに超越した神や仏が、いちいち人間ごときに、バチなど、与えるものか! もの
ごとは、常識で考えろ! 人知をはるかに超越し、無量無辺に心が広いから、(それに甘えて
もいけないが……)、神といい、仏という。

 バカ!

 それにしても、2000人! まさか韓流映画の影響ということでもないのだろうが、それにして
も、2000人! どうしてこういう怪しげな教団が、モグラ叩きのモグラのように、現れては消
え、そのたびに、おびただしい数の若者たちが、犠牲になっていくのか? いろいろ理由は考
えられるだろうが、私はそのひとつに、低劣なテレビ文化をあげる。

 超能力者だの、占星術師だの、はたまた霊能者だの、そういったインチキな連中を、テレビ
に登場させて、みじんも、恥じない。こういった低劣文化が、いかに多くの子どもたちの心に影
響を与え、ここでいう犠牲者の予備軍を作っていることか!

 これから先も、この種のカルト教団は、ふえることはあっても、消えることはない。理由があ
る。

 こうした教団があるから、信者が生まれるのではない。そういう教団を求める潜在的な信者
がいるから、教団は生まれ、力をもつ。今回、問題になっている「S」というカルト教団は、まさに
その氷山の一角にすぎない。

【付記】

 改めて、人間が原罪的にもつスケベ力には、驚かされる。今、この種の事件が、ほとんど毎
日のように報道されている。

 それにしても……? 全裸になって入信式とは……? これはもう信仰の世界の話ではな
い。ポルノ映画の世界の話である。

++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

++++++++++++++

●ゲームづけの子どもたち

 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マ
ジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっている(20
00年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。

ある日、一人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、融合させ
る。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティミットドラゴンをフィールドに出
せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が9000になる」と。

子どもの言ったことをそのまま書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的にはカードどうし
を戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカードを取る「かけ勝負」と、
取らない「かけなし勝負」とがある。カードは、1パック5枚入りで、150円から330円程度で販
売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった子ども
たち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中2)いわく、「今はマジック・
ザ・ギャザリングだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。

カード(15枚で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)は、1000枚
近く集めたそうだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊びをする。内容は高度になっ
ている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよくわからない。要するに、ポケモンカ
ードから始まった世代は、同じように遊戯王のカードを集め、今は、マジギャザのカードを集め
ている。そしてそのカードを戦わせながら、遊んでいる。

 浜松市内の中学1年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、多か
れ少なかれハマっているのがわかった。1人がだいたい1000枚近いカードをもっている。中
には1万枚ももっている子どももいるという。

マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバー
ジョン、さらに中国バージョンもあるという。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は
質がよくて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、カケをしたり、大会で賞品集めをすることもある。「大会で勝つと、
新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい20歳以上のおとなばかり
だよ」とも。要するにポケモン世代は、大きくなるにつれて、その思考回路はそのままで、より
複雑な遊びに転じているということになる。

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。年間100億円から200億円の市
場になっている。たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている。子どもたちはそのカー
ドを手に入れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値
段も高い。

つまり子どもたちは、商魂たくましいおとなたちによって操られている。しかしこんなことが許さ
れてよいものか。



Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●悪化する韓国経済

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ますます雲行きがあやしくなってきた、
韓国経済。

N大統領は、「一時的な停滞」と言っているが、
だれも、そんなふうには、みていない。

韓国の朝鮮N報ですら、「構造不況」と
書いている。

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 韓国の経済が、ますます悪化している。(だからといって、韓国のことを心配しているのでは
ない。誤解のないように!)今年(1〜6月)の半年だけで、自己破産者は、4万9581人(約5
万人)。この数は、昨年1年間の3万3931人より、はるかに多い。

 経済の3大指標である、(1)成長率、(2)物価、(3)経常収支ともに、悪化している(朝鮮N
報)。「対内的には投資・消費・雇用不振の中で物価が上昇しており、対外的には経済の支柱
となってきた、経常収支までが原油価格の高騰とウォン高の影響で、悪化し始めた」(同)と。

 が、ひとり強気なのが、N大統領。「一時的な停滞にすぎない」と。しかし韓国経済の、早老化
現象を指摘する学者も少なくない。青年期から、一気に老年期に入ってしまったというのだ。さ
らにN大統領はまだ気づいていないかもしれないが、アメリカが本気で韓国から手を引いたら、
韓国経済は、そのまま奈落の底へ。

 今、かろうじて韓国が韓国でいられるのは、アメリカ軍が、韓国に、まがりなりにも駐留してい
るからにほかならない。もし韓国からアメリカ軍が消えたら、だれが韓国などに、投資をするも
のか。残っていた外資も、いっせいに、ひきあげるだろう。

 なお、韓国に総務庁の発表によれば、「(06年)6月の産業活動動向によると、6か月後の景
気を予告する指標である景気先行指数(前年同月比)は、4.9%で、前月比0.4%落ちた」
(東亜N報)そうだ。今年の2月以後、5か月連続で、下降していることになる。が、ここで止まる
わけではない。

LG経済研究院常務は、「単なる景気鈍化ではなく、下降局面に入ったと考えられる。建設景気
が引きつづき振わない中、成長動力だった輸出も世界景気の鈍化で、本格的な影響を受け始
めるだろう」と言っている(朝鮮N法)。

 もちろん日本側からの反撃にも、ものすごいものがある。前にも書いたが、韓国の基幹産業
をねらいうちする形で、台湾などへの投資を活発化させ、日本国内においても、各企業へのテ
コ入れを本格化させている。

 朝鮮N報ですら、こう書いている。

 「松下の猛烈な低価格攻勢は、シャープ、ソニーなど液晶テレビを生産するメーカーはもちろ
ん、サムスンやLGなど、韓国の競争メーカーの価格引き下げ競争の引き金となり、韓国と日
本の電子メーカーの競争をあおっている。

 現在までなら、韓国の電子メーカーが克服しなければならない(第1のショック)は、中国の低
価格攻勢だった。しかし、今や日本メーカーによる、(第2の価格引き下げショック)のほうが恐
ろしいということを北米市場が示している」と。

 具体的には、ソニーは、アメリカで、昨年末のブラビア40インチ発売当初から、サムスン電
子、LG電子の競争製品より、数百ドルも安い価格で発売している。今年に入ってからも3000
ドル(約35万円)以下の40インチ液晶テレビを、他社メーカーに先駆け発売している。

 負けるな、日本! がんばれ、日本! この戦いは、サッカーの試合とはわけがちがう。日本
全体の浮沈にかかわる重大問題である。

【付記】

 今こそ、みなさん、日本製を買おう。パソコンのモニターの分野などでも、韓国製が、この日
本には、多く出回っている。が、買うべきは、日本製。私も、韓国のS社製と、L社製のモニター
を使っているが、(パソコンの購入時に、同時に付属。表には日本のM社製のロゴが入ってい
たが、裏面に、Made in Koreaと書いてあった)、性能は、明らかに日本製のほうがよい。

 打倒、N政権! 負けるな、日本! 「日本人には、(先進国の仲間ということになっている
が)、その資格はない」とまで言い切ったN大統領。ならば今こそ、日本は、その実力を、N大
統領に見せつけてやろうではいか!

(かなり過激な意見で、ごめん!)

【付記】

 韓国のおバカ大統領の論理は、一貫している。

 「K国が、ニセ札を作っているという証拠は、ない」
「証拠がないのだから、K国を、金融制裁するのはまちがっている」
「よって、アメリカのしていることは、正しくない」
「アメリカは禁輸制裁を解除すべき」
「どうして、アメリカを批判してはいけないのか」と。

 そして今度、フランスのパリで、インターポール(国際刑事警察機構)による、K国産のスーパ
ーノート(超精密偽造紙幣)の現況と対策について話しあうための、実務会議をが行われた(7
月26日)。

 それに世界中の加盟国が出席したが、韓国のN大統領だけは、「その必要はない」と、偽造
紙幣製造の関係者を送らなかった。

 当初、韓国の当局者は、その会議に出席するつもりでいたが、N大統領の雰囲気を感じて、
出席をとりやめたという(朝鮮N報)。

 今、世界で一番、そのニセ札が流通しているのは、中国と韓国である。その韓国が、関係者
を送らなかったとは!

 いったい、あの大統領は、何を考えているのか。ファンタスチックな民族主義と、回顧性の被
害妄想。プラス儒教的権威主義。この3つの中で、N大統領は、現実を見失ってしまった。私に
は、どうしても、そうとしか思えない。

 いいのか、韓国! このままで!


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1426)

●子どものセックス、香港編

++++++++++++++++++++

香港でも、日本に負けないくらい、
子どもたちのセックスが、当たり前に
なっている。

香港の中学1〜2年生のうち、性交渉の
経験がある生徒は、全体の17%だ、そうだ。

しかし「これは氷山の一角」とか!

++++++++++++++++++++

 このほど、香港中文大学などが実施した調査によると、香港の中学1〜2年生のうち、性交
渉の経験がある生徒は、17%もいるそうだ。約5人に1人。7月28日、中国新聞社が、その
調査結果を、公表した。

 中学1〜2年生の性交渉経験者……17%
 中学3〜7年生の性交渉経験者……14%※
香港中文大学心理学科などは06年7月、12〜21歳の学生、3299人を対象に、対面調査
を実施した。

 またパートナーが妊娠したばあいの、対応については、

 避妊をする   ……25%
 自分が育てる  ……50%
 友だちに相談する……56%
 父母に打ち明ける……26%

 さらに父母に対する対面調査では、

 子どもに性教育をしている父親……5%以下
 子どもに性教育をしている母親……13%
 
 「娘が妊娠していると知ったとき、どうするか」については、

 「出産して育てるように勧める」と答えた父親……84%
 「人工中絶をするよう勧める」と答えた父親 …… 4%
 「人工中絶をするよう勧める」と答えた母親 ……42%

 しかしこれは、「氷山の一角」(「母親の選択」(Mother's Choice)の劉小草・主任)とのこと。
「未成年の性交渉はごく当たり前のことになっている」とも。

 この調査で、「?」と思ったのは、上記(※)の部分。中学3〜7年生(日本の中学3年生〜高
校2年生)の性交渉経験率が、中学1〜2年生より少ないこと。多分、上級生ほど、本当のこと
を話していないのだろう。日本でも、非公式の調査だが、女子高校生の約60%は、高校を卒
業するまでに、セックスを経験するという。

 私たちの時代にも、中学生くらいのときから性交渉を経験していた子どもがいなかったわけ
ではない。しかしそれとて、ずっとあとになってから知ったこと。私たちが中学生、高校生のとき
には、そうした雰囲気さえなかった。

 何はともあれ、セックスの解放(本当の意味での「性の解放」とは、意味がちがう。念のため)
は、このアジアでも、急速に進んでいるようだ。親である、みなさん! その覚悟と準備は、もう
できていますか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 香港
 性の解放 性交渉事情 子供のセックス)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【BWの指導から(2)】(主張訓練法)

●「NO!」が、はっきり言える子ども

少し前、「YES」「NO」がはっきり言える
子どもについて書いた。

その根拠というか、それが見つかったので
報告します。

+++++++++++++++

心理学には、「行動療法」というのが
ある。

その中のひとつに、「主張訓練法」という
のがある。

これは子どもに、(おとなでも構わないが)、
「YES」「NO」をはっきり言わせることに
よって、
「対人場面における、不安感や緊張感を
軽減する方法」(臨床心理学・ナツメ出版)
である。

もう一度、そのとき書いた原稿をここに
添付しますので、どうか、参考に
なさってください。

+++++++++++++++

今週は、どのクラスでも、「NO!(いや!)」
とはっきり言える子どもの指導をしている。

指導というよりは、訓練。

大きな声で、しっかりと、「いや!」と言わせる。

この簡単な訓練だけで、子どもから優柔不断さが
消える。

+++++++++++++++

 今週は、幼児クラスを中心に、「いや!」とはっきり言う訓練をしている。方法は、こうだ。

 まず、子どもたちがいやがるような、誘いをかけてみる。

私「ゴキブリ・ハンバーグをあげようか」
子「……いらないよう……」
私「だったら、『いや!』とはっきりと言いなさい」
子「いや……」
私「そんな声じゃ、だめだよ。いやだったら、はっきりと『いや!』と言わなくては……」
子「いや!」と。

 つづけて、

私「ねずみのシッポのからあげをあげようか」
子「いや!」

私「シカのウンチのから揚げをあげようか」
子「いや!」

私「ミミズのラーメンはどう?」
子「いや!」と。

 こうしたかけあいを、5〜10回繰りかえすと、子どもたちは、大声で、「いや!」と言うようにな
る。

 そこでさらに、こう問いかける。いやらしい中年オジサンの雰囲気で……。

私「どこかへ連れていってあげようか?」
子「いや!」

私「お菓子を買ってあげようか?」
子「いや!」

私「そんなこと言わないで、車にのってよ」
子「いや!」

私「おもちゃを買ってあげるからさあ」
子「いや!」

私「じゃあ、おじさんのおうちに遊びに来る? お菓子がたくさんあるよ」
子「いや!」と。

 こうした方法は、心理学の世界でも、有効性が証明されている。「YES」「NO」を、はっきりと
言わせることによって、自我の確立を、より、めざすことができる。が、それだけではない。昨
今、子どもを犯罪に巻きこむ事件が、相ついでいる。この方法は、そうした事件に対する、予
防策にもなる。

 もしあなたの子どもに、どこか優柔不断で、グズグズした雰囲気があるなら、一度、この方法
を試してみるとよい。

が、本当は、集団教育の場で、みなが大声を張りあげていうような場面が望ましい。1人、2人
だと、大声を出さない子どもでも、みなが大声を張りあげると、つられて自分も大声を出すよう
になる。

 どこかの見知らぬおじさんが、「お菓子を買ってあげるから、いっしょに来ないか?」と声をか
けたとき、子どもが、最初に「いや!」とはっきり言う。犯罪の防止になるだけではなく、今のこ
うした社会では、とても大切なことだと思う。

【付記】

 この指導法を参観していた母親が、そのあと、こう言った。

 「私なんか、セールスがきても、はっきりと断れないため、よくトラブルに巻きこまれてしまいま
す」と。「私ははっきりと、いやと言うのですが、主人が、優柔不断で、困ります」といった母親も
いた。

 もしそうなら、日ごろから、夫婦の間で、こうした訓練をしておくとよい。

夫「奥さん、おもしろい薬があります」
妻「いりません」
夫「お買い得ですよ」
妻「興味ありません」
夫「奥さん、元気が出ますよ。あのK国製ですから」
妻「いりません。お帰りください」と。

 私たち夫婦も、ときどき、この訓練法を自分たちに試している。私も、若いころは優柔不断な
ところがあった。誘われると断りきれず、ついつい……ということがよくあった。しかし最近は、
ない。

 この訓練法のおかげである。

 なお、教育の場で、この訓練法をしているのは、私のBW教室だけである。(ほかの幼児教
室は、まねするな! ハハハ! 心が狭いかな?)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 返答
訓練法 自我 YES NO はっきり言う子供 はっきりとした子供 行動療法 対人訓練法 
主張訓練法 子供の心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●原始反射

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赤ちゃんには、赤ちゃん特有の反射
的運動がみられる。

これを、「原始反射」と呼ぶ。

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 二男の娘(私の孫)が生まれて、もう2か月になる。名前を芽衣(Mae)という。最近、やっと漢
字の名前が決まった。

 その芽衣を想像しながら、改めて心理学の本(心理学用語辞典・かんき出版)を、ひもとく。
乳児と幼児は、必ずしも、連続的につながっているわけではない。たとえば、赤ちゃんには、赤
ちゃん特有の、反射的運動がある。

 これを「原始反射」と呼ぶ。この原始反射の多くは、生後3〜4か月で、消失してしまうことが
知られている。

 その原始反射には、つぎのようなものがある(心理学用語辞典より)。

(1)把握反射
(2)バビンスキー反射
(3)モロー反射
(4)口唇探索反射
(5)自動歩行反射
(6)マグネット反射

 把握反射というのは、手のひらを指などで押すと、その指を握ろうとする現象をいう。

 バビンスキー反射というのは、新生児の足の裏を、かかとからつま先にかけてこすると、親指
がそりかえり、足の指が開く現象をいう。

 赤ちゃんの胸の前に何かをさし出すと、それに抱きつくようなしぐさを見せることをいう。ドイツ
のモローによって発見されたところから、モロー反射と呼ばれている。

 口唇探索反射というのは、赤ちゃんの口のまわりを指などで触れると、その指を口にくわえよ
うとする現象をいう。

 自動歩行反射というのは、脇の下を支えながら、右足に重心をかけると、左足を前に出そう
とする。これを繰りかえしていると、あたかも歩いているかのように見えることをいう。

 マグネット反射というのは、両脇を支えて立たせると、足が柱のようにまっすぐになる現象を
いう(以上、同書より要約)。

 これらの現象は、短いので、生後2〜4週間で、長くても、8〜10か月で消失すると言われて
いる。で、こうした現象から、つぎの2つのことが言える。

 ひとつは、乳児が成長して、そのまま幼児になるのではないということ。赤ちゃんには、赤ち
ゃん特有の成長過程があり、その期間があるということ。

 もうひとつは、前にも書いたが、いわゆるネオトニー進化論の問題である。その原稿は、この
あとに添付しておくが、要するに、人間は、未熟なまま誕生し、その未熟さが、こうした現象とな
って、現れるのではないかということ。

 本来なら、こうした原始反射といったものは、母親の胎内で経験し、誕生するまでに消失して
いるべきということになる。つまりわかりやすく言えば、人間は、その前の段階で、誕生してしま
うということになる。

 ご存知の方も多いと思うが、人間は、(ほかの動物もそうだが)、母親の胎内で、原始の時代
からの進化の過程を、一度すべて経験するという。初期のころには、魚のような形にもなるとい
う。その一部が、誕生後も、こうした原始反射となって現れる(?)。

 もしあなたに、今、赤ちゃんがいるなら、一度、この原始反射を試してみるとよい。何かの新
しい発見ができるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

日本人は、未熟な民族?

そんなことを考えさせられるのが、
ネオトニー進化論である。

+++++++++++++++++++

●幼児性の持続(ネオトニー進化論)

 人間は、ほかの動物たちとくらべても、幼児期から少年少女期までの期間が、著しく長い。鳥
の中には、孵化すると同時に歩き始め、エサを自分で食べ始めるのもいる。

 つまり人間は、未熟なまま、生まれる。そしてその分、親(とくに母親)の手厚い保護を受けな
ければならない。

 ……という話は、常識だが、同じ人間でも、種族によって、その「期間」が違うのではないか。

 私自身も、幼稚ぽいところがあったが、35年前に、オーストラリアの大学へ留学したとき、向
こうの学生たちが、みな、私よりはるかにおとなに見えたのには、驚いた。本当に、驚いた。「こ
れが同じ大学生か!」と。

 で、以来、ときどき、私は、この問題を考える。こうした「違い」は、なぜ生まれるのか、と。

 それについては、いろいろな説がある。欧米と日本とでは、子育てのし方そのものが違うとい
う説。日本では、元来、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子と位置づける。が、欧
米には、そういう考え方は、ない。ないものはないのであって、どうしようもない。

 つまり、欧米では、子どもは、生まれながらにして、1人の人格者として、扱われる。育てられ
る。

 ……というふうに、私は考えてきた。しかしそれだけでも、ないのではないか。

 昨夜も、バラエティ番組なるものを、かいま見た。20〜25歳前後の若い女性が、10〜15
人ほど、そこに並んでいた。私は、その若い女性たちの顔を見て、あ然とした。

 幼稚顔というよりは、まさに幼児そのもの。Sというよく知られた、司会者(お笑いタレント)に
誘われてあれこれ意見を述べていたが、「これが20歳を過ぎた女性の意見なのだろうか」とさ
え、思った。

 一説によると、私たち日本人は、欧米人と比べても、幼児性を残したまま、おとなになる遺伝
子をもっているという。生まれてからおとなになるまでの期間が長いとも解釈できるし、反対に、
精神的におとなになりきれないまま、体だけはおとなになるとも解釈できる。

 前者の説をとるなら、日本人は、それだけ教育期間を長くしなければならないということにな
る。後者の説をとるなら、日本人は、民俗学的(生態学的)に、未熟な人間ということになる。さ
らに恐ろしい意見もある。

 日本人の子どもの前頭連合野の発育が、以前よりも、未熟になりつつあるというのだ(沢口
俊之著「したたかな脳」日本文芸社)。そのため、

「以前は、小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないという
のが、現状です。

 これは状況を判断する力や、自己をコントロールする力が衰退しているということ、すなわ
ち、自分の行動を積極的に制御する脳の機能が未熟になっていることを示しています」(同、P
131)と。

 「小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現
状です」という澤口氏の意見には、「?」を一つ、つけたいが、しかし、年々、子どもたちが幼稚
化しているのは、私も感ずるところである。

 とくに男児の幼稚化が著しい。たいはんが、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 で、こうして、子どもたちは、幼児性(幼稚性)を残したまま、おとなになる。あるいはおとなに
なりきれないまま、おとなになる。

 一般論として、子どもというのは、その年齢になると、その子どもの年齢にふさわしい、「人
格」が育ってくる。「核」というか、(つかみどころ)ができてくる。その年齢に比して、「子どもっぽ
く見える」というのは、日本では、あまり問題視されないが、国際的に見れば、決して、好ましい
ことではない。

 そこで全体として、たとえば高校生や大学生をみると、日本の高校生や大学生は欧米の子ど
もたちと比較すると、かなり子どもっぽいのがわかる。澤口氏の説によれば、つまりその分、大
脳前頭連合野の発達が、未熟(?)ということになる。

 こうした違いが生まれるのは、教育によるものなのか。それとも遺伝子によるものなのか。

 「したたたかな脳」の著者の澤口氏は、「ネオテニー」という言葉を使って、日本人の幼児性を
説明する。

 「ネオテニーとは、(幼児成熟)、つまり幼い時期の特徴をもったままで成熟し、繁殖すること
をいいます。

 その有名な例は、アホロートル(ウーパールーパー)です。アホロートルは、サンショウウオの
一種で、サンショウウオは、両生類です。

 ですから幼生期に水中でエラで呼吸し、成長すると、変態して、肺で呼吸するようになり、陸
上で生活します。

 ところがアホロ−トルは、変態しません。つまりエラをもったまま、つまりは幼生期のまま、水
中で生活します。繁殖も幼生期のままの姿でします。いってみれば、カエルがオタマジャクシの
ままで、卵を産んでしまうようなものです。

 これをヒトにあてはめて考えた進化論が、「ネオテニー進化論」です。(中略)

 ネオテニー化が進むということは、進化の過程で、ヒトがネオテニー的な特徴をより多く、身
につけてきたという意味です。

 ネオテニー的な特徴とは、単純な言い方をすれば、外見的に、子どもぽいとか、未熟だとか
いうことです。このような身体的な特徴から見ると、ヒトの大人は、幼児の姿をとどめたまま成
熟したチンパンジーのようにも見えます。

 そしてアジア人(モンゴロイド)が、年齢よりも若く見えるのは、より多く、ネオテニー的な特徴
を備えているということです。とくに日本人は、幼くみえるようです」(同書、P133〜)と。

(わかりやすく言えば、欧米人は、たとえていうなら、サンショウウオ。アジア人は、幼児成熟な
ままで発育が止まっている、ウーパールーパーということになる。)

 ナルホドと思ったり、そうだったのかと思ったり……。日本人は、極東の島国で生活し、他民
族のように、「血」の交流をほとんどしてこなかった。その結果、モンゴロイドとしての特徴が、そ
のままより色濃く残ってしまったのかもしれない。骨相学的に見ても、日本人の骨相(顔)が、
悲しいかな、世界で一番、貧弱だと言われる理由も、そこにある。

 それはさておき、澤口氏の意見に従うなら、私たち日本人は、日本人のあり方そのものを、
基本的な部分から、考えなおさなければならない。短い足や、貧弱な骨相はともかくも、人格的
な完成度という意味では、考えなおさなければならない。

 そしてそれが教育でカバーできるものであれば、「教育」そのものも考えなおさなければなら
ない。澤口氏の言葉を借りるなら、「状況を判断する力や、自己をコントロールする力」を、どう
やって養うかということにもなる。

 昨日、静岡市での講演に出かけるとき、駅構内で購入した本だったが、おもしろかった。
久々に、頭の中で、火花がバチバチと飛ぶのを感じた。興味のある方は、どうぞ!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司はやし
浩司 幼児性 幼稚性 ネオトニー ネオトニー進化論 はやし浩司 原始反応 把握反射 ウ
ーパールーパー)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1427)

●謎のテポドン2号

+++++++++++++++++

テポドン2号は「完全な失敗」だったという。

ならば、大きな謎が、残る。
ならばなぜ、当初、韓国政府だけが、
「成功だった」と、マスコミに向かって、
発表していたのか?

+++++++++++++++++

 K国が打ちあげた、あのテポドン2号は、完全な失敗だった。

 毎日新聞は、つぎのように書いている。「K国が今月5日に発射した弾道ミサイル、テポドン2
号は、発射台から、1・5キロ以内の北朝鮮の領空内で爆発し、数十キロ以内の海上に墜落し
たことが判明した」(7月30日)と。

その残骸は、アメリカの偵察衛星でも、確認されている。

……となると、大きな謎が残る。韓国政府は、テポドン発射前は、「あれは人工衛星を打ちあ
げるためのロケットで、ミサイルではない」と、K国をかばっていた。が、テポドン2号が、ほかの
ミサイルとともに、打ちあげられると、今度は、「7分間で499キロ飛行したのち、東海(日本
海)に墜落したと推定される」(韓国国防部)と発表した。

 そのときの各国の報道は、つぎのようであった。

日本……テポドン2号は発射直後にトラブルが発生し、爆発して破片の一部が発射場から数
キロの地点に落下した(発射から2日後)。

アメリカ……テポドン2号は発射直後にトラブルが発生し、数秒後に統制不能状態に陥った(C
NN、発射から2日後)。

韓国……7分間で499キロ飛行したのち、東海(日本海)に墜落したと推定される(発射当
日)。

あのK国……「ミサイル発射実験は、すべて成功した」と発表。

 日本やアメリカは、発射直後から、「失敗だった」という見方をしていた。が、韓国政府だけ
は、K国と肩を並べるかのように、「ほぼ、成功だった」と。この韓国とK国との、奇妙な符号性
は、いったい、何を意味するのか?

 朝鮮N報ですら、こう書いている。

 「結局、7分間で499キロ飛行したといった当初の分析は、韓国政府だけから出たことになる
が、国防部では当時なぜこのような判断をしたのかについては、追加説明を全く行っていな
い。

国防部では韓国側の調査結果について、『ノーコメント』を通している。発射直後の『7分間飛
行した』という推定が、韓国の情報当局の独自の分析なのか、米国側の情報なのかについて
もコメントしていない」と。

 つまり韓国政府は、少なくともその根拠となる、独自のデータをもっていなかったことになる。
ならば、韓国政府は、どこで、どのような形で、まただれから、「7分間で499キロ」という情報
を得たのかということになる。

 だれからか?

 賢明な読者諸氏なら、もうおわかりかと思う。その答はあえて、ここには書かない。で、その
韓国政府だが、N大統領は、今年5月、K国への(条件なしの援助)を惜しまないと宣言してい
る(ウォールストリート・ジャーナル)。

 さらに日本がなした経済制裁についても、N大統領は、「強い不快感」なるものを示している。
が、考えてみれば、これもおかしい。

どうして日本が、K国に対して、経済制裁をすることが、不快なのか。韓国は、この件には、ま
ったく関係ないはずである。

 ……こうした一連の流れというか、動きを見ていると、N大統領が、水面下で、どこかのだれ
かとつながっているとしか、考えられなくなる。

 そのどこかのだれかとは、だれか?

 考えれば考えるほど、謎は、深まるばかりである。
(この原稿は、06年7月31日に書いたものです。マガジンに発表するまでに、また新しい事実
が出てくるかもしれません。)


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

●育てやすい子、育てにくい子

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親からみて、育てやすい子と、
育てにくい子がいる。

同じ兄弟なのに、兄は、育てやすいが、
弟は育てにくい……というケースも、
少なくない。

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 親からみて、育てやすい子と、育てにくい子がいる。同じ兄弟なのに、兄は育てやすいが、弟
は、育てにくいというケースも少なくない。

 そして親によっては、こう言う親がいる。「子育てが、こんなに楽なものでいいのかと、ときどき
思う」と。一方、そうでない親もいる。「子育てなんて、もうこりごり。二度と子育てなんか、したく
ない」と。

 一般的に言えば、育てやすい子というのは、つぎのようなタイプの子どもをいう。

(1)性質……温厚で、おだやか。すねたり、ひがんだりしない。
(2)性格……ほがらかで、明るい。いつもニコニコ笑っている。
(3)態度……言いたいことを言い、したいことをしている。YES・NOが明確。
(4)生活……規則正しく、よく眠り、よく遊ぶ。
(5)世話……何でもひとりでやってしまうので、手間がかからない。
(6)能力……平均以上の能力があり、とくに教えなくても、自分で学んでしまう。
(7)反応……楽しいことがあると、それをすなおに喜ぶ。
(8)根気……何かに関心をもつと、それに夢中になる。
(9)食事……好き嫌いがなく、何でもよく食べる。
(10)活動……行動的で、何でもテキパキとやりこなす。
(11)対人……だれとでも、心を開き、うちとける。友だちが多い。
(12)感覚……まわりの変化に敏感で、好奇心が旺盛。清潔好き。

 育てにくい子というのは、つぎのようなタイプの子どもをいう。

(1)性質……ささいなことでキレやすく、感情が不安定。
(2)性格……全体的に暗く、何を考えているか、わからない。いじけやすい。
(3)態度……ぐずぐずすることが多く、いつまでもネチネチと気にしたりする。
(4)生活……生活が不規則で、夜中でも起きて、騒いだりする。
(5)世話……何をするにも、手間がかかる。自分では、何もしようとしない。
(6)能力……能力的には、平均以下で、なにかにつけて、みなより遅れがち。
(7)反応……人の心のウラを見るようなところがある。いじけたり、嫉妬しやすい。
(8)根気……ものごとにあきっぽく、集中力がない。単一の遊びしかしない。
(9)食事……好き嫌いがはげしく、わがままで、自分勝手。
(10)活動……内向的で消極的。めんどくさがり屋。命令しなければ動かない。
(11)対人……好き嫌いがはげしく、人との交際を嫌う、
(12)感覚……まわりの変化に鈍感で、不潔なままでも、気にしない。

 ここでは、親の目から見た子どもについて書いた。同じように、教える側からみた、教えやす
い子と、教えにくい子がいる。

 一般的に言えば、教えやすい子というのは、心の状態が外に表れていて、心がつかみやす
い子どもをいう。一方、教えにくい子というのは、いわゆる(何を考えているかわからない子ど
も)をいう。

 で、ここでは、「どうしたらよいか」という問題はさておき、その先について、考えてみたい。つ
まり、あなた自身は、どうだったかということ。あなた自身は、あなたの親からみて、育てやすい
子だったか。それとも、育てにくい子だったか。

 こういう質問をすると、ほとんどの人は、こう答える。「私は、問題なかった」「私は、親からみ
て、育てやすい子だった」と。しかし考えてみれば、それもそのはず。

 自分を客観的に判断するという、自己認識力が育ってくるのは、小学3〜4年生くらいにかけ
てである。それまでは、ない。こんな例がある。

 ひとり、ADHD児と診断された子どもがいた。幼児期から、小学1〜4年にかけて、その多動
性のために、周囲の人たちは、それぞれに、たいへんな思いをした。で、その子どもが、中学2
年生くらいになった。そのころは、もちまえのバイタリィティが、よい方に作用して、クラスでも、
リーダー的な存在になっていた。名前を、U君としておく。

 その子どもにある日、私は、こう聞いた。

私「U君は、子どものころ、学校でもみんなに、迷惑をかけたが、覚えているか?」
U「ううん、ぼくはだれにも、迷惑をかけたことはない」
私「でもU君は、学校の先生に、よく叱られただろ?」
U「ううん、ぼくは叱られなかった。ただ先生やみなが、ぼくだけを、目の敵(かたき)にして、い
じめた」
私「目の敵にした?」
U「ぼくが何も悪いことをしていないのに、いつも、ぼくだけを怒った」と。

 だからほとんどの人は、「自分は、問題はなかった」と答える。あのU君ですら、そうだった…
…という言い方は、U君には、失礼かもしれない。しかしあのU君のおかげで、私の教室も、毎
回、メチャメチャにされてしまった。しかしU君には、その意識は、まったくなかった!

 自分の子どもを知るということは、結局は、自分自身を知るということになる。はたしてあなた
は、どういう子どもだったのか。それを知れば、あなたは自分の原点を知ることができる。

 なお、育てやすい子どもは、全体の40%前後、育てにくい子どもも、全体の40%前後とみ
る。もちろん親の許容性、受忍性の問題もからんでくるので、一概に、どうこうとは言えない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育て
やすい子 育てにくい子)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【今朝、あれこれ】(8月1日)

●アクセス数が、毎月、1万5000件!

 HPのアクセス数が、毎月4000〜4500件を超えるようになった。楽天の日記は、毎月600
0〜7000件。ほかにマガジンやBLOGの読者なども含めると、合計で、毎月1万5000件前
後。それだけの人たちが、私の書いた文章を、何らかの形で、読んでくれている。

 単行本の世界でも、1万冊も売れれば、「まあまあ、売れた本」ということになる。だから自分
としては、喜ばなくてはいけないのかもしれない。が、1万5000件とわかっても、ピンとこない。
「1万5000件ねエ?」と思ったりする。

 もちろん、「1万5000」という数字は、トータルの数字をいう。「1万5000人」というわけでは
ない。1人で、10〜100回、アクセスしてくれる人も含まれる。だから正確には、「1万5000件
のアクセス」ということになる。

 で、「これからは、インターネットの時代だ」と思う。それはわかっている。しかしインターネット
といっても、これまたおかしな世界で、そこは光と電子の織りなす「無の世界」。実体感が、まる
でない。本のように、自分の手でつかんで、「これが私の思想だ」という実体感が、まるでない。

 加えて利益も、影響力も、ない。本の世界で、毎月、1万部も超える本を出版していたら、そ
れだけで生活ができる。雑誌社や新聞社から執筆依頼がやってくる。しかしインターネットの世
界には、それがない。どうも、紙を主体とする雑誌社や新聞社と、インターネットの世界は、相
性がよくないようだ。

 かく言う、私は、もうこの5年ほど、1冊も本を書いていない。今は、全精力を、電子マガジン
発行に注いでいる。書いても、書いても、どこかつかみどころのない世界だが、今の私には、こ
のほうが楽しい。

 私から直接、読者の方に話しかけることができる。それに速い。今日考えたことを、遅くとも
来月までには、原稿として、届けることができる。その俊敏性は、ほかの何ごとにもかえがた
い。

 読者のみなさん、これからも、よろしくお願いします。

 プラス、もうひとつお願いがあるとすれば、どうか、マガジンは、「まぐまぐプレミア」(有料版)
のほうを、ご購読ください。月額300円です。よろしく、よろしく、お願いします。


●イスラエルによるレバノン攻撃

 イスラエル軍は、48時間の停戦決定をしたにもかかわらず、今の今も、レバノンを攻撃しつ
づけているという。

 イスラエルのオルメルト首相は、「人質が解放されるまで、停戦はない」と、強硬姿勢を崩して
いないそうだ(TBS)。

 しかし人質といっても、軍人ということらしい。私には、人質を口実にした、ヒズボラ壊滅作戦
のようにしか思えない。それにもし、それが世界の常識というのなら、つまり人質奪回のための
戦争が正しいとするなら、日本は、あのK国に、とっくの昔に、戦争をしかけていたはず。罪も
ない若い人たちが、この日本から拉致されてしまったのだから……。

 私は、イスラエルにしても、パレスチナの人にしても、もっと世界の良識を信じてもよいのでは
ないかと思う。ただひたすら静かに、自分たちの思いを、世界に迎えて伝えていく。時間はかか
るかもしれないが、そういう人たちを、ちゃんと見ている人もいる。そういう見ている人たちが、
世界の良識となってやがて動きだす。

 今回(06年7月)に行われた、第13回ASEAN(東南アジア諸国連合)地域フォーラム(AR
F)の席でも、K国のP外相は、完全に仲間はずれにされていたという。P外相と握手をかわす
要人は、ひとりもいなかったという(朝鮮N報)。

 そういう形で、いつか、世界の良識は、判断をくだす。そういう良識をもっと、信じてもよいの
ではないだろうか。


●吸水口事故

 S県のF市で、こんな痛ましい事故が起きた。流水プールで泳いでいた、小学2年生の女の
子が、吸水口にはさまれて、死亡した。

 ヤフー・ニュースによれば、「吸水口のふたの一部が外れていた」という。そのため警察は、
安全管理に問題があったとして、管理者を、業務上過失致死の疑いで、捜査を始めたという。
当然である。

 で、この記事を読んだとき、私も、子どものころ、用水の排水口に足をとられて溺れそうにな
ったことを思い出した。

 こんな事故だった。

 私が生まれ育った町の西側には、通称「井掘(いぼり)」と呼ばれる、用水路がある。幅は、4
〜5メートルで、流れは、かなり速い。深さもある。その季節になると、深いところで、2メートル
くらいはあるのではないか。

 その用水には、ところどころに、田んぼや畑に水を取るための排水口がもうけられている。
大きさはさまざまだが、大きいのになると、直系が、30〜40センチはある。

 この排水口に足を取られると、猛烈な勢いで、体がそこに吸い寄せられてしまう。実際には、
一度足を取られると、自力で、そこから脱出するのは、不可能。

 私たちは子どものころ、並行して流れる長良川で遊ぶのにあきると、この用水に飛びこんで
遊んだ。大きな浮き輪(自動車のチューブとか、そういうもの)にぶらさがりながら、一気に、1
〜2キロ下流へとくだっていく。

 それがおもしろかった。

 で、だれからというわけではないが、用水のフチに近寄るのはあぶないということを、聞いて
知っていた。排水口があるからである。

 が、ある日、私は、その用水で泳いでいるとき、排水口に足を取られてしまった。私が小学
3、4年生のときのことではなかったか。流れる用水の圧力も加わって、体全体が、土手にたた
きつけられるような衝撃を受けた。

 それほど大きな排水口ではなかった。それも幸いした。

 で、そのときは、高校生の姉たちが近くにいて、みんなで私を引き出してくれた。それで一命
はとりとめたが、もしあのときそばにだれもいなかったら、私は確実に、死んでいた。

 つまり私たちの世界では、排水口の恐ろしさは、(今回の事件では、吸水口ということになっ
ているが……)、いわば常識。今回の事件では、管理者は、そんなことも知らなかったのか、と
いうことになる。

 さて、これからが夏本番。

 こうした事故は、ちょっとした油断で起きる。水をなめてはいけない。「絶対、安全」と思われ
ているプールですら、こんな事故は起きる。

それが私の率直な感想ということになる。

 
●イランの核開発問題

 考えようによっては、K国の核開発問題より、はるかに深刻なのが、これ。イランの核開発問
題。

 そのイランの核開発問題について、8月1日、国連の安全保障理事会は、イランに対して、ウ
ラン濃縮活動の全面停止を義務づける決議案を採択した。

 もしイランが、8月31日までに、この決議に従わないばあいは、国連は、つぎに制裁決議案
を採択する予定だという。今回のは、いわば、その暫定的措置。

 しかしもしイランが、今回の決議に従わず、さらに8月31日以後、制裁決議案が採択される
ようなことにでもなれば、日本にとっては、たいへんなことになる。簡単に言えば、中東からの
原油輸入が、その時点で、ストップしてしまうかもしれない。

 イランのザリフ国連大使は、「事態を悪化させるだけだ」(TBS)と述べている。

 日本は、アザデガン油田の問題もかかえている。へたをすればその利権も、どこかへ吹っ飛
んでしまう。

 このマガジンが配信されるころ(9月4日)には、その結論が出ていることだろう。これから
先、どうなることやら?
(このエッセーは、8月1日に書いたものです。)


●国連とK国

 イランの核開発問題は、どこかでK国の核開発問題とからんでいる。そしてそれは、韓国とも
からんでいる。

 今度、国連の次期事務総長に、韓国のB氏が、なりそうだという。韓国は、その話題一色とい
った感じだが、「そのカギを握るのが日本」(朝鮮N報)とか?

 しかし日本は、B氏の事務総長就任に、賛成はしない。反対まではしないが、賛成はしない。
そのことを韓国も、よく承知している。朝鮮N報は、つぎのように伝えている。

 「日本は米国に次ぐ国連分担金支出国であり、米国にとってはアジア政策をめぐって緊密に
連携をとるパートナーだ。また次期事務総長が決まる可能性が高い10月に、安保理議長国を
務めることになっている。このように日本の影響力が大きい中で、韓日両国の対立が相次ぎ、
また日本の安保理常任理事国入りに韓国が反対したり、さらには北朝鮮の核・ミサイル問題
と、明らかな悪材料が存在している」と。

 そう、日本が安保理事国入りの運動をしていたころ、韓国のN大統領は、各国に特使まで送
って、(特使だぞ!)、それに反対した。「日本には、その資格はない」とまで、言い切った。中
国で反日暴動が起きると、「これで日本の理事国入りは流れた」と、喜んでみせた。

 その日本が、どうして韓国のB氏を、推薦しなければならないのか!

 私の予想では、シンガポールの、ゴー・トクチョン氏がもっとも有力だと思う。前回の予備選挙
では、韓国のB氏が、指名第一位を獲得しているが、アメリカのボルトンも、日本のA外務大臣
も、それをよくは思っていないはず。

 表だって韓国のB氏に反対する必要はない。シンガポールのゴー・トクチョン氏の指名に向け
て、日本は活発に運動すればよい。それが日本にとっては、最善。これから先、10月に向け
て、その動きが活発化するはず。

 もし今のN大統領の息のかかった国連事務総長が生まれたら、国連はどうなるか? 国連そ
のものが、K国の手先になってしまうかもしれない……ということは、ありえないにしても、何か
につけて、K国問題がやっかいになることだけは、事実。

 それだけは、今の日本としては、何としても避けなければならない!


●Viagrra

 バイアグラという薬がある。その薬について、このところ、海外から、しつこいほど無数のスパ
ム・メールが届いている。この2、3日だけでも、50〜100通は届いている。

 そこでフィルターをかけて処理しているのだが、そのつど、スペルを変えてくる。

 Viagrraa
 Vjagra
 ViJagrra、などなど。

 おかげで本当のつづりは、どうなのか。それがわからなくなってしまった。たぶん「Viagrra」だ
と思うが……。

 こうした連中は、相手にしないほうが、よい。こういうズルイことをする人間は、一事が万事。
あらゆる面で、ズルイ。へたに信用して手を出すと、あとで大やけどする。

 こうしたメールが、無数に届くということは、それだけ需要があるということなのか。しかしそん
な薬をのむことを考えるなら、自転車で、足の筋肉をきたえたほうが、よっぽど、よい。

 チンチンというのは、立つだけではいけない。持続力こそ、大切。その持続力は、足腰の強さ
で決まる。……と、私は、勝手にそう思っている。今のところ、それを試す相手もいない。つまり
宝のもち腐れ……ということ。ハハハ。

 ……以上、8月1日、朝の雑感でした。これからやや遅い、朝食です。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1427)

【今朝・あれこれ】(8月2日)

●今朝は、4時半起き

 今朝、明け方にトイレに行きたくなった。それでトイレに行った。本当は、目を覚ます直前に、
ひどい夢を見た。その夢で脳が、興奮状態になってしまった。

 で、トイレから出て、そのまま書斎へ。時計を見ると、午前4時半だった。

 すぐパソコンに電源を入れ、いつもの日課。ニュースサイトを、あちこちのぞく。

 私のばあい、パソコンを目的別に使い分けている。電子メールを送受信するパソコン、文章
を打つパソコン、それにネット・サーフィンをするパソコン。とくに気を使っているのが、HP作成
用のパソコンである。

 プロバイダー(サーバー)のほうで、無料のウィルス検査をしてくれているが、さらに有料のウ
ィルス検査もしてもらっている。が、それで安心しているわけではない。現在、どのパソコンに
も、個別に、ウィルス検査ソフトとボット検査ソフトを導入。常時、それぞれのパソコンをガードし
ている。

 あとはあやしげなメールは、即、削除、また削除。あぶないHPには、ぜったいに、近づかな
い。

 おかげで、この5年ほどは、ウィルスなどによる被害は、ゼロ。この世界には、(やりすぎ)と
いうことはない。

 そうそうもうひとつ、重要なウィルス対策をほどこしている。どのパソコンにも、外付けのハー
ドディスクを用意し、データ(文書とか、HPファイル)は、そちらに保存するようにしている。こう
することによって、万が一、パソコン本体にウィルスが侵入しても、被害を最小限に食い止める
ことができる。

 いろいろ言われているが、基本さえしっかりと守っていれば、ウィルスなど、こわくない。インタ
ーネットは、実に便利で、安全な通信手段である。


●Mデパート

 浜松市内に、昔、Mデパートという、デパートがあった。戦前からの老舗(しにせ)中の老舗の
デパートで、アメリカ軍による空襲からも、生き残った。私が浜松へきたころには、デパートと言
えば、そのMデパートをいった。

 が、バブル経済がはじけるころ、倒産、閉店。その直前に、巨額の投資をして、高級化をねら
ったのが、裏目に出た。重厚かつ豪華な内装。エレベーターも、金色と銀色に輝いていた。
 
 私は、職場から近いということもあって、そのMデパートをよく利用した。しかし、ここにも書い
たように、倒産、閉店。理由はほかにもいろいろ言われているが、要するに、郊外にできた大
型ショッピングセンターへと、客の流れが変わったということ。この浜松市でも、市の中心部の
空洞化が叫ばれるようになって、久しい。

 で、今度、そのMデパートが、再生されることになった。大阪に本社を置く、Dデパートが、経
営に乗り出すという。中日新聞は、つぎのように伝える。

 「浜松市K町の百貨店Mデパート跡の再開発問題で、浜松市と開発事業者のAコーポレーシ
ョンは、7月31日、関西を主地盤にする百貨店大手のDと本格的な出店交渉に入ると正式発
表した。今後は賃料など具体的な交渉を進めるとともに、地権者の同意を取りつけるなどし、
年内をめどに合意を目ざす」と。

 「しかしうまく、いくのかなあ……?」というのが、私の率直な感想。隣に並ぶZ・シティ中央館
と、西館(ともにデパート)は、赤字つづき。土日でも、閑散としている。ひとり元気なのは、駅前
にあるEデパートだけ。しかしそのすぐ隣の、Iデパートでさえ、最近、閉店したばかり。

 市は、ことあるごとに、「市の中心部の活性化」という言葉を、まるで金科玉条のごとくに唱え
つづけている。が、どうして中心部の活性化が、それほどまでに重要なのか。私には、それが
よく理解できない。

 外国のどこの国へ行っても、鉄道の駅のある周辺というのは、どこも閑散としている。むし
ろ、ほかの地域よりさびれているところが多い。つまり「駅前」という言葉に、こうまでこだわる
のは、私たち日本人だけかもしれない。それに土日など、駅前を歩いてみればわかると思う
が、目につくのは、チャラチャラとした若者たちだけ。一見、華々しく見えるが、中身がまるでな
い。

 私自身も、「街まで行って買い物」という発想が、わいてこない。駐車場もなく、不便。それに
「街は物価が高い」という印象が根づいてしまっている。仮にMデパートが再生されたとしても、
わざわざそこまで買い物に行く気は、起きないだろう。

 「どうぞ、ご勝手に」と私は言いたいが、そうはいかないところもある。中日新聞は、こうつづ
けている。

 「市も中心街活性化には、松菱跡を含め、大型商業施設の進出が欠かせないとの判断か
ら、テナント出店時に最大5億円の内装工事費補助制度を設け、事業所税などを減免する方
針を打ち出すなど、積極的な姿勢を示してきた」と。

 5億円といえば、合併前の浜松市民60万人で割ると、1人あたり、約5000円弱ということに
なる。「それくらいはしかたないのかなあ」と思ってみたり、「もったいないなあ」と思ってみたりす
る。もちろん市が中心部に注ぎこんでいる税金は、これだけではない。ここでいう5億円は、ほ
んの一部にすぎない。

何かしら、あの市の中心部が、ブラックホールのように思えてきた。お金をどんどんと吸いこん
でいくブラックホールである。……とまあ、そんなふうに思っているのは、果たして私だけだろう
か。


●TOBって、何?

「製紙業界最大手のOZ製紙は、M商事と業務提携する予定のHK製紙に対して、きょうから敵
対的なTOB=株式の公開買い付けに踏み切ることになった」と、新聞記事には、ある。

 この記事を読んで、最初に「?」と思ったのは、「敵対的なTOBって、何?」ということ。

 そこでまず、ウィキペディア百科事典(インターネットの無料百科事典)で、「TOB」を検索す
る。便利になったものだ。そのウィキペディア百科事典によれば、「TOB」というのは、「テイク・
オーバー・ビッド(Take Over Bit)」のことだそうだ。わかりやすく言えば、「会社の乗っ取り」
のこと。

 「ある株式会社の経営権の取得(乗っ取り)などを目的に、株式の買い取りを希望する企業
や個人が、買い付け期間、買い取り株数、価格を公表して、不特定多数の株主から、株式市
場で株式を買い集める制度をいう」とある。

 が、「敵対」という言葉が気になる。どうして「敵」という言葉を使うのか。

 そこでさらに調べてみると、TOB(乗っ取り)には、2種類あることがわかった。「友好的TO
B」と、「敵対TOB」である。

 これは「買収される会社の経営陣の賛同を得て実施するのが、友好的TOB、賛同を得ず
に、一方的に行うのが、敵対TOB」(同)だそうだ。つまり相手が買収、吸収、合併を望んでい
ないのに、一方的に、乗っ取りを目的として、企業や個人が、乗っ取りを画策するのが、「敵対
的なTOB」ということになる。

 この記事を改めて読みなおして、「そういう世界なんだなあ」と思ったりする。つまり今回、OZ
製紙は、M商事と組んで、HK製紙がそれを望んでいないにもかかわらず、HK製紙を乗っ取
ろうとしている。「乗っ取り」という言葉は、ここで私が勝手につけた名前だが、「Take Over」と
いう言葉は、もともと、そういう意味である。

 M商事の背後では、当然、元M銀行が構えている。資金は、豊富。つまりOZ製紙は、それだ
けの価値があるとふんだから、HK製紙の乗っ取りにとりかかったということらしい。

 それにしても、「敵対的なTOB」とは! この世界も、結構、物騒な世界らしい。

【付記】

 このOZ製紙のTOBに対して、HK製紙側は、「防衛」するという。今朝(8月3日)のヤフー・ニ
ュースによれば、こうある。

「製紙業界最大手のOZ製紙が、業界5位のHK製紙に対して、敵対的TOBを開始したことを
受け、HK製紙側は買収防衛策の発動に向けた準備に入りました」と。

 これでは、まるで戦争ではないか! あるいは戦争用語を使って、ビジネスを楽しんでいるみ
たい? 


●楽天日記

 8月2日、この半年で、はじめて、楽天日記をサボった。理由はいくつかあるが、どうせグチに
なるから、ここには書かない。

 しかしそのときふと感じた解放感は、何か? 長い間、「書かねばならない」という思いだけ
で、日記を書いてきた。そういう思いが、いつも、心のどこかにあった。

 私は、自分でも、どうしてこうまで生真面目(きまじめ)なのだろうと思う。ワイフも、よく、そう言
う。自分で自分を追いこんでしまうようなことがよくある。やらなくてもよいようなことを、そのまま
つづけてしまう。

 だからというわけでもないが、午後、市内のパソコンショップに行って、ムダ買いをして遊んで
きた。何を買ったかは、ワイフには内緒。それで少しは、心に穴があいた。風通しがよくなっ
た。で、今朝(8月3日)は、またまた日記の再開。

 そうそう昨日は、3単位(40分x3回分)の運動をしたぞ。だれかが「暑いからたいへんでしょ
う」と言ったが、暑いときこそ、運動が大切。またそういうときにするから、運動という。

 おかげで今朝は、気分は悪くない。いろいろあるが、グチを言ってはいけない。『我らの目的
は、成功することではない。失敗しても、それにめげず、前に進むこと』(スティーブンソン)なの
だア!


●韓国の全教組

 韓国の教職員組合は、すごい! 韓国には、全国教職員労働者組合というのがある。短くし
て、「全教組」という。

 今朝(8月3日)の、朝鮮N報によれば、こうある。

「今日の全教組が、どのような組織なのかを示す例は、枚挙にいとまがない。ソウルの全教組
は、『先軍政治万歳』というスローガンが書かれた北朝鮮の政治宣伝ポスターを、教室の環境
美化用に使うよう推奨し、インターネットに掲載した。

釜山全教組は金日成の抗日闘争を美化した北朝鮮の歴史書を丸写しし、教師研修用の教育
資料として使った。

京畿道富川で『国旗に対して敬礼をするな、軍隊には行くな』と教えていた教師も、全教組だ。
まさに今この瞬間にも、全国のどこかで全教組の教師が子供たちの頭の中に毒素を注入して
いる」と。

つまり韓国の全教組は、K国の金日成の抗日闘争を美化し、先軍政治を支持しているというの
だ。朝鮮N報は、こうした全教組の活動を、「毒素」と断言したあと、こうつづけている。

 「全教組の行為はこれだけにとどまらない。全教組突撃隊は教育関連の公聴会が開かれる
たびに乱入し、騒動を巻き起こしている。

ある学校では教師らによる投票の結果、朝の授業開始時間を繰り上げる決定を下したとこ
ろ、全教組の教師らが抗議の意思表示だとして、頭を丸めて教壇に立った。全教組は放課後
の補習、学校の情報公開、成果給の支給、教師評価制度など、教育競争力を高めようとする
あらゆる政策に『ノー』を叫んでいる。 

 このような全教組の性格は容易に変化しそうにはない。CH全教組委員長は、『われわれは
数歩先に立って未来の価値観を見すえている。今、われわれが教えている価値観も、5年から
10年後には正しいものであったと判明するだろう』と語った」と。

 以前からうわさには聞いていたが、韓国の全教組が、ここまで過激だったとは、知らなかっ
た。が、それにしても、すごい! 朝鮮N報は、「邪教集団も、顔負け」と表現している。ホント!

で、この記事を読んで、それ以上に忘れてならないのは、現在のN大統領率いる与党は、こう
した全教組という支持基盤の上に成りたっている政権だということ。朝鮮N報の社説は、つぎの
ように結んでいる。

 「この邪教集団が、われわれの子どもたちを人質にとって、全国民を脅かしているのが韓国
教育界の現状だ。現政権が国民に選ばれた政府であるならば、保護者らに全教組の教師を
拒否する権利を保障しなければならない」と。

 全教組も全教組なら、朝鮮N報も朝鮮N報。両者たがいに、一歩も譲らずといった感じの、対
立をつづけている。

 ここしばらくN大統領と、朝鮮N報の戦争は、ますますはげしくなりそうである。

【付記】

 日本政府は、こうした韓国内部の動きもにらみながら、自分たちはどうあるべきか、それを考
えなければならない。

 韓国のN大統領は、先日、「これからは、日本と対決していく」と宣言した。ときどきこういう突
飛(とっぴ)もないことを口にするのが、あの大統領だが、しかしそういう大統領を利するような
ことだけは、日本は、してはいけない。つまり今のN大統領にしてみれば、「反日」しか、生き残
る道はない。

 その「反日」に手を貸すようなことだけは、してはならない。

 つまり、今のN大統領が倒れれば、韓国は、再び、西側諸国の一員として、もどってくる。す
でにその(流れ)はできあがっている。日本は、その(流れ)を逆行させるようなことだけは、して
はいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【父と子】

+++++++++++++++

奈良県で起きた、16歳の少年による
放火殺人事件を、覚えている人は、多い
かと思う。

この事件では、少年の家族3人が、
その犠牲となった。

この事件の特異性は、父親のきびしい
勉強の強制が、事件の背景にあったこと。

そして母親を含む、家族が犠牲に
なったこと。

この2点に集約される。

その事件について、弁護士が、父親の
手記を、このほど、公開した。

+++++++++++++++

奈良県T町の医師(47)宅放火殺人事件で、現住建造物等放火や、殺人などの非行事実で奈
良家裁に送致された長男(16)の付添人弁護士が、8月2日、長男と事件後初めて面会した
際のやりとりをまとめた、父親の手記を公開した。

父親は、長男に対して、「暴力をふるったパパを許してくれ」と謝罪する一方、「パパは死ぬま
で、一緒になって罪を背負って生きていくつもり」と語りかけ、長男は、終始泣きながら、「ごめ
んなさい」と繰りかえしたという。

一方、同家裁(I裁判長)は,同日開いた第2回少年審判で、長男の精神鑑定の採用を決定し
た。

●面会のやりとり 父親が手記

手記は父親が付添人にあてたもので、今月8月1日に届いた。長男の家裁送致翌日にあたる
7月13日、父親が奈良少年鑑別所に出向いて面会した際に、父親が抱いた印象や長男の様
子、具体的なやりとりなどがつづられている。

 冒頭、面会の際の様子を示した部分では、父親は、「まず、会ってすぐ、直立して『ごめんなさ
い』と謝ってくれました」と長男の様子を伝え、「事件を起こしたときも、捕まった後も、人生をほ
かして(捨てて)いるような感じ」「自分から望みを絶ったのかもしれません」と案じている。その
一方、「私の愛情に非常に飢えている様子」とし「できるだけ会って、少しでも心を開かせたい」
と決意を述べていた。

 長男とのやりとりでは、父親は、「家にいるのが辛かったやろ」「パパを許してくれ」と謝罪し、
「もう勉強しろとは言わない。パパは死ぬまで、一緒になって罪を背負って生きていくつもり」
「今は一層反省して謝罪すること。それが償いの始まりや」と語りかけ、「もう一度やり直せる可
能性があると信じている。若いから、まだまだやり直せる」と励ました。

 長男は面会の間、終始泣きじゃくっていたといい、父親に「(亡くなった)3人に対し、今はどう
思ってるんや」と問われると、「ごめんなさい、ほんとにひどいことをしてしまったと思ってる。僕
の代わりに毎日花、供えたって……」と話した。

 また、長男は、事件後も自分を親身に心配してくれている友人がいることを聞いて一層強く泣
き、父親も多くの人が長男の更生を願っていることを教えたという(以上、ほぼ原文のまま、ヤ
フー・ニュースより転載)。

 こうした事件が起きるたびに、私は、こう思う。「彼らだって、犠牲者にすぎない」と。「狂った
日本の学歴制度、受験競争の犠牲者にすぎない」と。

だからといって、日本の教育システムが、すべてまちがっているというのではない。ただこうした
事件が起きた、その背景には、それを支える学校神話があり、そのさらに背景には、不公平
社会が横たわっている。

 あえて言おう。

 こうした事件は、まさに氷山の一角の、そのまた一角。そのすぐ下には、その一歩手前の状
態で、かろうじて踏みとどまっている親子が、ゴマンといる。予備軍となると、もっと、多い。子ど
もの心を粉々に破壊しながら、その意識すらない。そういう親となると、さらに、多い。

 ほとんどの親は、「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」「まだ、何とかなる…
…」とか思って、自分の子どもを、受験勉強にかりたてる。さらに「このままでは、うちの子だけ
が、損をする」と思って、受験勉強にかりたてる。

 不安と心配と焦燥。こういったものが、混然一体となって、親の心を重く、苦しいものにする。
親は、それをそのまま、子どもにぶつけてしまう。

 奈良県で起きたあの悲惨な事件は、何も、特別な背景があって起きた事件ではない。報道を
読むかぎり、どこの家でも起こりそうな事件である。ひょっとしたら、明日、あなたの家で、同じ
ような事件が起きたとしても、何ら、おかしくない。

 「爆弾」という言い方は好きではないが、受験生をもつ家庭なら、どこでも、その爆弾をかかえ
ている。

 父親はこう言ったという。「もう勉強しろとは言わない。パパは死ぬまで、一緒になって罪を背
負って生きていくつもり」と。

 結局は、親というのは、行き着くところまで行かないと、それに気がつかないものなのか。こ
の一文を読んだとき、グサリとその言葉が、私に心に突き刺さった。プラス、何ともやりきれな
い気持ちだけが、心に残った。

 いったい、教育って、何だ!

 話は大きく飛躍するが、子どものやる気を引き出し、それを育てるには、3年とか、5年はか
かる。それは私の仕事。それだけを目的にして、私は、仕事にしている。

 しかしこわすのは、簡単。1か月でよい。1週間でよい。子どもがふつうにできる子になればな
ったで、親は、「もっと……」「さらに……」とか言って、子どもを受験勉強にかりたてる。

 時は今は、夏。どこの受験塾でも、夏期講習でにぎわっている。しかしこんな講習が、本当
に、教育と言えるのか。今の今も、私の教え子たちが、そういう夏期講習に参加している。そう
ところへ子どもを送るのは親の勝手かもしれないが、結局は、やる気を、粉々に破壊されて、
また私のところに戻ってくるだけ。仮にうまくいったとしても、つまり(そこそこの成果)があったと
しても、その期間を境に、子どもの心は冷たく、殺伐とした心なるだけ。

 勉強そのものを、「勝った」「負けた」という視点でしか、とらえなくなる。人間の価値を、点数と
いう数字だけでしか、判断しなくなる。もっと言えば、将来、あなたという親の価値ですら、金銭
的な尺度でしかみなくなる。「親の恩も、遺産しだい」と。

 いつになったら、親はそれに気がつくのか! いつになったら、親はこの愚かさに気がつくの
か!

 そうした思いが、ますます私の心を、重くする。

 まあ、みなさん、どうぞご勝手に……と言いたいが、今回の奈良県で起きた事件は、あまりに
も重い。重すぎる。もう一度、私たちひとりひとりが、父と子、その両方の気持ちになって、この
事件を、その双方から見つめなおしてみる必要があるのではないだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●首相のY神社参拝

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日本のK首相が、8月15日の
Y神社参拝に向けて、準備を始めた。

当日の、Y神社周辺の警護や、
そのあとの記者会見が、予定に
あがり始めている。

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 東京の外交消息筋によると、日本のK首相の参拝に備え、首相官邸は当日の警護の準備
や記者会見などの日程の調整を、極秘裏に進めているという(8月3日)。

 K首相が終戦記念日に靖国神社に参拝した場合、日本の首相としては85年8月15日に中
曽根首相が参拝して以来、21年ぶりになるということだそうだ。

 しかしどうしてこんなときに、しかも、K首相にとっては最後の最後というところで、K首相は、
あえて中国や韓国の神経を逆なでするようなことをするのか?

 「反戦の誓い」というのなら、首相を近々やめるのだから、もう必要はないだろう。日本人の
大半も、それを望んでいない。そうでなくても、K首相が、Y神社を参拝するたびに、日中関係、
日韓関係は、悪化の一途をたどっている。今ここで、また、Y神社参拝を強行すれば、中国や
韓国の反日勢力を勢いづかせるだけ。

 とくに韓国のN大統領は、「ここぞ!」とばかり、反日活動にうって出るはず。

 こうした私の意見に対して、「日本人には日本人のアイデンティティがある」と説く人もいる。し
かし首相が、Y神社を参拝するのは、アイデンティティでも何でもない!

 アイデンティティというのは、(日本という国がどうあるべきか)という、国としての自己概念と、
(現実の日本はどうなのか)という、国としての現実自己が一致していることをいう。

 日本は、民主主義国家である。自由と、平等と、平和を愛する国である。これが自己概念。
そしてその自己概念に向かって、一歩ずつ、駒を進めていくのが、現実自己。この両者が一致
した状態を、アイデンティティ、つまり「自己の同一性」という。

 K首相よ、もしそれほどまでに、「亡き英霊」と、戦没者をたたえるなら、なぜ、日本中を焦土
と化したアメリカに、今、ゲリラ戦法でも何でもよい、攻撃をしかけないのか? 一方で、アメリ
カの大統領とプレスリーの歌をいっしょに歌いながら、何が、「亡き英霊」だ!

 K首相の国際外交のすばらしさは、私も認める。しかし今度だけは、Y神社を参拝してはいけ
ない。もしそれでも……というのなら、首相をやめてから、すればよい。1か月や2か月、参拝
の時期をずらしたところで、「亡き英霊」たちも、怒りはしないだろう。

 K首相よ、どうかどうか、ここは、これからの日本のことを考えて、Y神社参拝を、見合わせて
ほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1428)

●子どもの同性愛(3)

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同性愛的傾向を示す子どもは、
少なくない。

そういう傾向があることを知ると、
たいていの親は、あわてる。

しかしこうした同性愛的傾向は、
子どもの世界では、珍しくない。

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 同性愛といっても、いろいろある。(1)完全同性愛、(2)両性的同性愛、(3)機会的同性愛
(「心理学」・西東社)。

 完全同性愛というのは、同性の人にしか恋愛感情をもてない人をいう。両性的同性愛という
のは、同性と異性と、その双方に対して、恋愛感情をもてる人をいう。また機会的同性愛という
のは、ある特殊な環境で、過渡的に、同性愛的傾向を示すことをいう。

 子どものばあい、そのほとんどが、この機会的同性愛と考えてよい。

 「フロイトによると、人間の性愛の対象は、成長の過程で、自己→同性→異性と変わってい
く。したがって思春期における同性愛的感情は、むしろ自然なことである」(同書・渋谷昌三)
と。

 たとえば女子高などでは、こうした傾向を示す子どもは、いくらでもいる。(私も、映画館のい
ちばんうしろの席で、女子高校生どうしが、接吻をしているのを、見たことがある。)ほかに、寺
院や刑務所でも、多いという(同書)。

 私自身は、同性に対して恋愛感情をいだいたことはない。が、そのかっこよさに、あこがれた
ことはある。高校生のときは、何といっても、西郷輝彦にあこがれた。加山雄三にあこがれた。
その少し前、つまり子どものころは、長谷川一夫にあこがれた。市川雷蔵にあこがれた。

 こうした同性に対するあこがれは、今でもある。が、それは恋愛感情とは、まったく異質のも
のである。

 ここでいう恋愛感情とは、ズバリ、セックス(性交)を目的とした恋愛感情をいう。つまり自己
から同性、さらには異性へと(あこがれ)の対象が変化するにつれて、そこから徐々に、恋愛感
情が生まれるようになる。

 その過程で未分化のまま、恋愛感情まで発展してしまう状態が、同性愛ということになる。言
いかえると、子どもが同性愛的傾向を示したら、「機会として」、異性との交流の多い環境の中
に、子どもを置くという方法で、対処する。またそのあたりが、指導の限界ということにもなる。
たいていは、そのま、何ごともなかったかのように、その時期を過ぎていく。

 で、いろいろなケースを見聞きしてきたが、ことこの問題だけは、人間の「性(さが)」に関する
ものだけに、なるようにしかならないということ。あとのことは、子どもに任すしかない。またそう
いう目で、一歩、退いて見るしかない。

 この世界には、(正常)という言葉は、存在しない。何がノーマル(正常)で、何がアブノーマル
(異常)なのか、その定義すらない。また定義づけること自体、まちがっている。要は、どこまで
いっても、その子ども(人)自身の、きわめて個人的な問題ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 追記)


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※ 

最前線の子育て論byはやし浩司(1429)

●子どもたちの夏休み

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Aさんが、聞いた。「自由研究は、
何をすればいい?」と。

私は「好きなことをすればいい」と
答えた。

今度は、B君が聞いた。
「読書感想って、何を書けばいい?」と。

私は「思ったとおりを書けばいい」と
答えた。

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 Aさん(小5)が、バッグから、顕微鏡を取り出しながら、こう聞いた。「自由研究では、何をし
たらいい?」と。見ると、倍率が300倍の顕微鏡。「これなら、かなりのものまで見えるね」と。し
かし……?

 それを横で見ていたB君(小4)が、こう聞いた。「読書感想文って、何を書いたらいいの?」
と。

 みんな、そえぞれに頭を悩ましているようだ。しかし答は簡単。「したいことをすればいい」「書
きたいことを書けばいい」と。

私「あなたは何をしたいの?」
A「これを使って、何を調べたらいいの?」
私「だから、何を調べたいの?」
A「……?」と。

私「思ったとおり書けばいい」
B「何て?」
私「くだらなかったら、くだらない。つまらなかったら、つまらい。おもしろくなかったら、おもしろく
ない。そう書けばいい」
B「それじゃあ、感想文にならないよオ」
私「いいや、それが感想文だよ」と。

 Aさんは、鳥が好き。イラスト画を描かせたら、Aさんの右に出る子どもはいない。だったら、A
さんは、なぜそういう分野での研究を深めないのか?

 B君は、ハリーポッターのファン。だったら、どうしてその本についての感想文を書かないの
か。著者の生い立ちなどを調べ、それがどうハリーポッターにつながっていったかを書いてもよ
い。

 みな、「研究」とか、「読書」とか言って、気負うから、話がおかしくなる。また自分から、かけ離
れたところで、研究をしたり、読書をしたりしても、意味はない。あとに何も残らない。

 私は、小学生のころ、自由研究では、戦闘機について調べて書いたことがある(小6)。飛行
機が好きだったからだ。また工作も好きだったから、毎年、いろいろなものを作った。組み立て
式のボートを作ったこともある(小5)。が、感想文というのは、ほとんど記憶がない。書いたよう
な覚えはあるが、何をどう書いたかは、覚えていない。自分のしたいこととは、かけ離れていた
からだ。

 つまり仮にAさんが、顕微鏡を使って何かを調べたとしても、あとに何も残らないだろう。また
B君が、推薦図書なる本を読んで感想文を書いたところで、あとに何も残らないだろう。

 (だいたいあの推薦図書と言われている本ほど、つまらないものはない。取ってつけたような
美談ばかり。ウソだと思うなら、一度でもよいから、書店で立ち読みをしてみることだ。失礼!)

 まず、自分が何に一番興味をもっているかを、知る。そしてそれがわかったら、あとは、それ
にすなおに従えばよい。すべては、ここから始まる。たとえば今、私が料理や、テニスについて
の原稿を書けと言われたら、それだけで、脳みそが重圧感でおしつぶされてしまうだろう。

Aさんへ……鳥の研究をしなさい。同じすずめでも、イギリスのすずめと、日本のすずめは、顔
がちがう。その顔のちがいを調べても、おもしろい。また1か月かかって、コミック漫画を描いて
もよいでしょう。あるいは私があなたなら、アニメ機能つきのデジタルカメラを使って、アニメ漫
画を作ります。

B君へ……好きな本をまず読みなさい。読んだあと、心に浮かんだ通りを、文にして書きなさ
い。文というのは、飾ってはだめ。気取ってはだめ。ありのままの自分を書く。それが基本で
す。で、その本がおもしろかったら、あとは、どこがどうおもしろかったかを書けばいい。それが
感想文です。

 以上! みんな、がんばれ!


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●「日本」の謎

++++++++++++++++++

「日本」がもつ、最大の謎。
それは、日本が、なぜ「日本」なのか。

日本という国の名前を、「ニッポン」と、
音読(中国式の読み方)すること自体、
おかしい。

また、「日本」とは、読んで字のごとく、
「日の本(もと)」、つまり、
「太陽が昇る国」という意味
である。

が、どうして日本が、その
「太陽が昇る国」なのか?

++++++++++++++++++

 私がUNESCOの交換学生で、韓国にいたとき、こんな話を聞いた。話してくれたのは、金素
雲という名前の歴史学者だった。当時の韓国を代表する文化人でもあった。

 「日本の都の奈良は、韓国人が創建した都市だ。韓国から見て、(地の果てにある国)という
意味で、『奈落』とした。『ナラ』という言葉は、今でも、韓国語では、『国』を意味する。

 しかし『奈落』では、まずい。で、そのあと、『落』という文字を、『良』にかえ、『奈良』とした」と。

 私が「証拠がありますか?」と食い下がると、金素雲氏は、笑いながら、こう言った。「仁徳天
皇の墓を発掘すれば出てくるはずです」と。

 で、この話と少し関連するかもしれないが、日本が、なぜ、「日本」なのかという謎がある。わ
かりやすく言えば、いつ、だれが、この国を、日本と呼ぶようになったかということ。

 「日本」という国の名前は、もともとは、「日の本(もと)」という意味である。「太陽が昇る国
(Country of the Rising Sun)」という意味である。となると、おかしなことになる。日本は、自ら、
自分の国を、「太陽が昇る国」と名づけたことになる。

 つまり日本が、その太陽が昇る国であるかどうかは、日本の西側にある国に住んでいる人で
ないとわからないはず。日本人自身が、自らの国を、「太陽が昇る国」と名づけたとするなら、
その視点そのものが、おかしい。(反対に日本が、「日没の国」という名前であったとしたら、ど
うなるのか。そういう視点で考えてみると、わかりやすい。)

もし「日本」という名前を決めた人が、日本人であるとするなら、その人は、きわめて国際的な
感覚をもっていた人ということになる。少なくとも、一歩でも、日本から外へ出たことのある人で
ないと、そういう発想は、わいてこない。

 日本は、その昔、「倭(わ)」と呼ばれていた。「倭の国」とも呼ばれていた。「倭」というのは、
「伽耶※(かや)」(任那の古称。その任那には、日本府が置かれた)の別称でもあった。その
「倭の国」が、いつごろからか、今の「日本」という名前で呼ばれるようになった。

 それについて、韓国の、ある貿易会社の理事(S社P氏)は、こう書いている。P氏は貿易会
社の理事をしながら、一方で、歴史学者としても、知られている。

 「『日本』という国号を創案したのは、7世紀の高句麗僧・道顕である」と。

 つまり日本という名前を考案したのは、韓国人(高句麗人)だった、と。

 たいへんショッキングな意見だが、しかし、この説に従うと、日本がなぜ『日本』なのかという
謎が、解ける。韓国から見れば、日本は、たしかに「太陽が昇る国」である。だから日本は、
「日本」になった?!

 P氏は、こうつづける。「つまり古墳時代はもちろん、奈良時代まで、古代日本の主流階層
は、韓半島(朝鮮半島)から渡った渡来人だった」(同氏著「日本の源流を訪ねて」(サムエ社
刊)と。

 まあ、こうした説は、日本の外では、常識。ここに書いた、「任那の日本府」(正確には「任那
日本府」という)にしても、日本では、あたかも日本が韓国を支配下に置くために設置した、出
先機関のような印象をもって語られている。私も、学生のころ、歴史で、そう習った。しかししか
し韓国では、「ただの使途集団にすぎなかった」というのが常識。

 日本の歴史辞典(「角川新版日本史事典」)ですら、「百済または伽耶が設置した機関とする
説もあるが、倭国が伽耶の安羅国に送りこんだ、使臣集団とする説が有力」※と書いている。

 なぜ日本が、「日本」なのか? そんなことを考えた人は少ないと思う。だいたい日本という国
名を、「ニッポン」と、音読(中国式の読み方)すること自体、おかしい。なぜ日本という国名が、
中国式の読み方になっているのか。日本が、「日(ひ)の本(もと)」であっても、何ら、おかしくな
い。それについては、岩波書店の広辞苑には、つぎのようにある。

 「……大和(やまと)を国号とし、(日本はその昔)、『やまと』『おほやまと』といい、古く中国で
は「倭」と呼んだ。

 中国と修交した大化改新頃も、『東方』すなわち『日の本』の意から、『日本』と書いて、『やま
と』と読み、奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになった」と。

 中国では、「東方にある国」という意味で、「日本」と書いて、「やまと」と呼んでいたというの
だ。

(マルコポーロの時代には、中国では、日本は、「Chipangu」(「東方見聞録」)と呼ばれていた
らしい(日本大百科事典)。「日本国」を、元の時代には、そう発音したらしい。通説では、それ
が「ジパング」となり、さらに「ヤーパン(JAPAN)」となり、英語式の発音で、「ジャパン」となっ
た。ただしこれについては、諸説が氾濫している。

ここに書いたように、「ジパング」が、Japanとなったという説のほか、「日本」を、南シナで「Jip
enguo」と呼んでいたのが、Japanとなったという説などがある。)

もちろんここに書いたのは、数多くある「日本」説の中の一説にすぎない。しかしこと、この「日
本」にかかわる問題だけに、重大な問題と考えてよい。

 なぜ、日本が「日本」なのか? 考えれば考えるほど、謎が深まる。

(注※)(任那の日本府)……任那日本府は、倭国(日本の前身)の属領もしくは貢納国であ
り、任那地域に一定の経済利得権(おそらく製鉄の重要な産地があった)を持っており、事実
上の属領であったと考えられていた。

しかし、1960年代ごろから、大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国で研究が進み、また日本
でも1970年代ごろから新たな視点から再検討が行われた結果、ヤマト朝廷の任那支配は疑
問視されるようになり、任那日本府については、倭と関連する集団(倭臣、倭人集団)が、任那
地域に一定の経済利得権を持っていたとする説が有力となっている。

近年、日本特有の墳墓であるとされていた前方後円墳が、任那に相当する地域から相次いで
発見され、その関連性が指摘されている(以上、ウィキペディア百科事典)。

(注※)「伽耶※(かや)」の「耶」は、人偏に、「耶」の字。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 日本
論 任那日本府 任那の日本府 倭 日本の謎 大和 大和朝廷)

【付記】

 日本と韓国の歴史を比較していて興味深いのは、日本では、「献上」となっているところが、
韓国では、「下賜」となっていることが多いということ。

 たとえば日本の歴史で、「朝鮮の使節団が、天皇に宝物を、献上した」というような部分が、
韓国の歴史では、「日王(=天皇)に下賜した」となっているなど。

 考えてみれば、当時の朝鮮(百済、任那、新羅、高句麗)が、日本の天皇に頭をさげなけれ
ばならない理由など、どこにもない。当時の上下関係からすると、「下賜」のほうが正しいという
ことになる。

 私はそのことを、韓国の慶州へ行ったときに知った。バスの窓から、巨大な古墳群が、まる
で海の波のようにつながっているのを見たときのことである。私はそのスケールの大きさに、た
だただ圧倒された。

このことからだけでも、どちらが「上」か「下」かということになれば、明らかに、日本が、「下」。
当時の上下関係を、今ここで論ずること自体、おかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●同一性の崩壊(子どものやる気)

+++++++++++++++++++++

心の病気のほとんどは、自己同一性の崩壊が
原因で起こると考えてよい。

言いかえると、自己同一性の崩壊さえ回避すれば、
心の病気の予防になる。また自己同一性を確立
すれば、心の病気は「なおる」ということにな
る。

+++++++++++++++++++++

 自分のしたいことを、前向きにしている人は、生き生きとしている。明るく輝いている。そうで
ない人は、そうでない。

 こうした心理的なちがいを、心理学の世界では、「自己同一性」(アイデンティティ)という言葉
を使って説明する。

 「私はこうあるべきだ」「こうしたい」という、自分が心の中に描く自己像を、「自己概念」とい
う。一方、その人には、その人の現実的世界がある。そういう現実的世界における自己像を、
「現実自己」という。

 この自己概念と現実自己が一致している人のことを、「自己同一性(アイデンティティ)の確立
している人」という。このタイプの人は、ものごとに対して積極的で、行動力もある。静かに落ち
ついている。動じない。

 が、何らかの原因で、自己概念と、現実自己が、ズレることがある。

 わかりやすい例で考えてみよう。

(1)Aさん(女性)は、好きで好きでたまらない人と結婚した。
(2)Bさん(女性)は、好きでも嫌いでもない人と結婚した。
(3)Cさん(女性)は、顔を見るのもいやな人と、ハプニングで結婚してしまった。

 この3つのケースで、Aさんは、好きで好きでたまらない人と結婚したわけだから、満足感は
きわめて大きいということになる。毎日、夫が食べる食事を用意するのも、楽しくてならない。

 Bさんは、好きでも嫌いでもない人と結婚したわけだから、満足感もないが、同時に、不満も
ないということになる。

 が、Cさんは、嫌いな人と、ハプニングで結婚してしまった。その結果、毎日の結婚生活が、
苦痛でならない。つまり不満感は、きわめて大きいということになる。毎日、夫が食べる料理を
用意するのも、めんどう。おっくう。

 つまり(自分はこういう男性と結婚したい)という思いが、「自己概念」ということになる。そして
(今、現実に結婚している相手)が、「現実自己」ということになる。

 が、ここでいう自己同一性は、決して安定的なものではない。常に流動的である。

 再び結婚生活にたとえて考えてみる。

 好きで好きでたまらない人と結婚しても、結婚したあと、しばらくしてから、気が変わるというこ
ともある。反対に、それほど好きでもない人と結婚したのだが、そのあと、苦楽をともにするうち
に、相手を愛するようになるということもある。

 反対に、さらに嫌いになって、離婚……ということもありえるが……。

 ともかくも、自己同一性は、かならずしも、不変のものではないということ。日々に流動的であ
り、また変化して当然。たとえば「この道しかない」と思って、その職業についてはみたものの、
2年、3年とその仕事をするうちに、その仕事がいやになることだってありえる。

 そういうとき、いわゆる自己同一性は、危機的な状況を迎える。そしてそういう状態を、「同一
性の危機」と呼ぶ。

 つまりこうした変化に、そのまま適応できれば、よし。そうでなければ、そうでない。こうした変
化は、大きなストレッサーとなって、その人を襲う。つまりそれが心の病気の引き金を引いてし
まう。ときには精神障害の遠因となることもある。

 ……という話は、おとなの世界の話だが、この話は、そのまま、子どもの世界の話としても、
応用できる。

 今、あなたの子どもは、どんな自己概念を抱いているか。そしてその自己概念は、現実の子
どもの姿と一致しているか。

 この1点だけを正確に、かつ、しっかりとみていけば、あなたの子どもの心の問題は、事前に
予防することができる。さらに今、すでに何らかの心の病気をもっているなら、その病気を改善
することができる。

 要するに子どもにとって、重要なことは、子ども自身がしたいことを、夢や希望をもって、その
子そもが、前向きにするということ。やる気や目標も、そこから生まれる。またそういう状態に
子どもを導き、それができる家庭環境を用意するのが、結局は、親の務めということになる。

 まずいのは、親の意向にそって、子どもをミスリードすることだが、それについては、また別
の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
のやる気 やる気 自己同一性 同一性の危機)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1430)

●青年の樹

+++++++++++++++++++++

試験(チェック)にパシしなければ、即、退学。
これが航空大学の掟(おきて)らしい。

息子が通うその航空大学で、私が知るかぎり、
2人目の退学者が出たという。当初、18人の
同期生がいたというが、これで残ったのは、
14人になった。

それにしても、きびしい!

+++++++++++++++++++++

 テレビドラマの影響とかで、息子が受験したときには、入試倍率は60倍を超えていた。み
な、飛行機が好きでたまらない受験生たちである。中には、4〜5回目の受験、という学生もい
たという。

 しかしそれでも、途中で、つまり意半ばにして、大学を去る学生もいるという。

 息子のBLOGには、こうある。

+++++++++++++++

 HDという同期がいる。頑固者で、繊細で、回期一の努力家で、島根出身の元ヤン英語教
師。帯広の後半では班員として、とりわけ厳しい教官のもと、苦楽を共にした。

 HDにとって、パイロットへの道は苦労の連続だった。僕がもし彼の立場だったら、もうとっくに
辞めてしまっているだろう。だが彼は、決して逃げ出したり投げ出したりせず、今日の今日ま
で、すべてのチェックをクリアし、全力で走り抜けてきた。

 今日、特別進度審査というものがあって、HDが不合格になった。それはFail、つまり退学を
意味する。

 僕は次の日、NO FLIGHTだったので、HDを誘って、鳥秀という店に飲みに行った。全力を
出し切った、という彼の顔には、悔しさや不甲斐なさの影は見られず、むしろスッキリしている
ように見えた。

だが、話がおふくろさんのことになると、声が少しだけうわずった。飛行機にまだ一度も乗った
ことのないおふくろさんに、俺が空の上からの景色を見せてあげたかった。箱根へ連れて行っ
てあげたかった・・・。どんな顔して帰ればいいか、それがわからない、と。彼のお母さんは、箱
根駅伝の大ファンだった。

 それから、同期全員が集まってお疲れさん会を催したり、みんなでプールに落ちて風呂に入
ったり、温泉に行ったりしながら、同期のそれぞれが他愛のない会話を彼と交わした。遠くから
見るHDの笑顔は、ときどき泣いているかのように見えた。その場を惜しんでか、HDはなかな
か温泉の湯船から上がらなかった。

長風呂が苦手な同期も、いつまでもそれに付き合った。上がってからHDに、いやぁ、やっぱ温
泉はいいねと話しかけると、島根にもいい温泉はいっぱいあるから、遊びに来てよと言う。とて
も同期の言葉とは思えなかった。空港へは全員で見送りに行った。また、パイロットシャツに寄
せ書きをした。まだ書いてない人がいたので渡せなかったが、あとで送るからと、ガラス越しに
そのシャツを見せると、HDは目頭を押さえて泣いた。

 もっと何かをしてあげられたんじゃないかと、おこがましいことを何度も思う。僕は同期同期と
いいながら、結局自分のことだけになっていたのではないだろうか。もう二度と同期を失いたく
ないと心に刻んだ帯広最後の一週間。あれから僕は、同期のために何をしてきたのだろう。何
を心に刻んだのだろう。たった一人、苦悩と戦い続けたHD。その苦しみ、悲しみを、共有する
ことができなかったことが、悔やしくて、涙が出た。

 HD最後のフライトは、種子島から宮崎へのナビゲーションだった。視程がよく、雲もなく、どこ
までも続く水平線を眺めることができたんだそうだ。綺麗だ、と思ったんだそうだ。チェック中な
のに、HDはフライトを楽しんでいたという。今までで初めてだったんじゃないか、と問うと、あぁ
そうだったかもしれないね、と言った。最後の最後で初めて飛ぶことの楽しさを見つけたHD。
それを聞いて、少し嬉しくなった。

 最後まで諦めなかったHっち。死力を尽くして戦ったHっち。胸を張って帰ればいい。誰が君
を恥じるものか。君が見せてくれたものは、この世のどんなものよりも立派で、綺麗で、頑丈
で、僕たちの心の中にいつまでも花を咲かせ続けるだろう。

エアマンシップという名の花を。君の姿が、そのままエアマンシップ。そんなことを思ったよ。H
っちのあの『手』をもう見れないと思うと悲しい。俺の角度はまだ甘いのに、もう指導してくれな
いのかと思うと……。たくさんの思い出をありがとう。力をありがとう。いつか君の操縦で、おふ
くろさんを箱根に連れて行こう。約束、忘れないよ。

 本当に、お疲れ様。

++++++++++++++++

 この文章を読んで、私も、思わず、もらい泣きをしてしまった。いつの間にか、私は、こういう
感動を忘れてしまった。ジジ臭くなってしまった。そして久しぶりに、「♪青年の樹」という歌を口
ずさんだ。

 私にも、遠い昔、青春時代があった。この歌を歌うたびに、私はそのころの私を思い出す。

 この息子のBLOGにはあまり関係ない原稿かもしれないが、以前書いた原稿を、ここに添付
します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●青年の樹(き)

雲が流れる 丘の上
花の乱れる 叢(くさむら)に
共に植える ひともとの
ひともとの
若き希望と 夢の苗
空に伸びろ 青年の樹よ


嵐すさぶ 日もあらん
憂いに暗い 夜もなお
腕組み合わせ 立ち行かん
立ち行かん
熱き心と 意気地もて
森に育て 青年の樹よ


多感の友よ 思わずや
祖国の姿 今如何に
明日の夜明けを 告げるもの
告げるもの
我等をおきて 誰かある
国を興(おこ)せ 青年の樹よ

(作詞、東京都知事・石原慎太郎氏)

 私は学生時代、悲しいことやつらいことがあると、決まってこの歌を口ずさみ、自分をなぐさ
めた。今でも、ときどき、この歌が、口から出てくる。

 で、この歌には、こんなエピソードがある。

 私がオーストラリアのカレッジで、この歌を歌っていると、一人の友人(オーストラリア人)が、
「それは何の歌か?」と。そこで私が、「これはすばらしい歌だ。訳してあげよう」と言って、訳し
てやった。

「雲が、丘の上に流れて、みんなで青年の木という木を植えた。その木よ、伸びろという歌だと
教える」と、その友人は、顔をかしげて、「何だ、そんな歌か」というような顔をした。

 で、私が「いい歌詞だろ」とたたみかけると、「ヒロシ、雲が丘の上にあるって、そんなことは何
でもないではないか」と。彼らには、日本的なデリカシーが理解できないようだ。

 しかし、これと反対のことがある。

 ずいぶんと昔だが、一人の高校生(男子)が、興奮したおももちで私のところにやってきて、こ
う言った。「先生、すばらしい歌がある。翻訳してほしい」と。

 それがロッド・スチュアートの「セーリング」だった。が、訳してみると、何でもない歌詞。

 「ぼくは、航海している。ぼくは航海していると、何でもないよ。海を横切って、あなたのところ
へ帰るって、ね」と。

 その高校生は、がっかりした様子だったが、それからしばらくしたあとのこと。私はその曲を
聞いて、たいへんなまちがいをしたことを思い知らされた。「セーリング(sailing)」は、すばらし
い曲だった。

 あとで、その高校生にあやまったことは、言うまでもない。

●Sailing

               
I am sailing, I am sailing,
home again 'cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
to be near you, to be free.


I am flying, I am flying,
like a bird 'cross the sky.
I am flying, passing high clouds,
to be with you, to be free.


Can you hear me, can you hear me
thro' the dark night, far away,
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.


Can you hear me, can you hear me,
thro' the dark night far away.
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.


We are sailing, we are sailing,
home again 'cross the sea.
We are sailing stormy waters,
to be near you, to be free.


Oh Lord, to be near you, to be free.
Oh Lord, to be near you, to be free,
Oh Lord.

(Written by Rod Stewart)

 若いお父さん、お母さんは、「青年の樹」も、「セーリング」も知らないかもしれない。不思議な
ものだ。しかしこういった歌を口ずさむと、そのときの光景のみならず、友の顔、雰囲気、心の
様子まで心の中によみがえってくる。歌というのは、そういうものか。

 そしてもう一つ。そういう歌が出てくるときというのは、そのときの心情と共通するとき。「青年
の樹」が出てくるということは、今がそのさみしいとき、つらいときかもしれない。がんばろう!
(030831)

●ロッド・スチュアートは、最後にこう歌う。
「♪オー、主よ。あなたに近づくために、魂を解放するために。
  オー、主よ、あなたに近づくために、魂を解放するために。
  オー、主よ」と。

 こういう歌を堂々と歌える人が、うらやましい。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1431)

【今日・あれこれ】

●いとこ会

 近く、いとこ会を開くという。姉から、昨日、そう連絡が入った。
 
 前回のいとこ会は、楽しかった。「またやろう!」とみなで、声をかけあった。しかしそれから
ほぼ、5年。6年かな? たがいの事情も、それぞれに変わった。

 どうしようか?

 ちょうどその日から、私は仕事を始める。自由なようで自由でないのが、私の仕事。1日のう
ちでも、たった1、2時間、拘束されるだけ、その日は、身動きが取れなくなる。

 もう一度、スケジュールを調整してみて、あとで姉に報告するつもり。


●メモリーを2GBに!

 一台のパソコンのメモリーを、1GBから、2GBに増設した。今、そのパソコンを、私の左側で
テストをしているところ。

 メモリーを増設すると、パソコンの動きがよくなるという。しかしその実感があまりない。どうし
てだろう?

 考えてみれば、2GBなんて、ひところ昔には、夢のような話。私が最初に買ったパソコンは、
たったの2KB。つまり2000バイト。

 2GBと言えば、20億バイト。お金でいうと、2000円と20億円のちがいということになる。20
00円だと、2人で昼食をとることくらいしかできない。しかし20億円もあったら、……? 想像
もつかない。

 それにしても、すごい話だ。2GBとは!

 ひとつだけ気になるのは、パソコンのCPUのクロック数と、メモリーのクロック数が、ちがって
いること。だいじょうぶかな? ……という不安はあるが、今のところ、サクサクと軽快に動いて
いる。


●「ダーク・スカイズ」と見る

 ビデオの「ダーク・スカイズ」が、ビデオショップで、全巻(1〜10巻)を、計1000円で売って
いた。宇宙人と人間の戦いをテーマにしたビデオである。

 今からちょうど10年くらい前の作品である。

 このビデオを毎日、少しずつ、見ている。が、結構、おもしろい。

 毎晩、ワイフとああでもない、こうでもないと言いあって、見ている。私とワイフは、30年近くも
前になるが、夜、散歩しているとき、巨大なUFOを目撃している。ハバが1〜2キロはあろうか
と思えるほど、巨大なUFOである。

 「頭がおかしい」と言われようが、なんだろうが、見たものは見た。それでこの種のビデオに
は、たいへんx100倍、興味がある。


●トマト

 今年は、トマトがたくさんできた。豊作である。私は赤くなったものから、もぎ取って、食べてい
る。

 そのときのこと。私が、「このトマトは、18、9歳の女の子のおっぱいみたい」と言うと、ワイフ
が、すかさず、「あぶないわよ」と。

私「どうして?」
ワ「18歳未満の女の子と遊ぶと、逮捕されるわよ」
私「オー、あぶない、あぶない」
ワ「でも、どうして18、9歳なの?」
私「まだ、かたさが残っているから……」
ワ「どうして、そんなこと、知っているの?」

私「想像だよ、想像……ハハハ」
ワ「40歳の女性のおっぱいは、どうなの?」
私「温室育ちのトマトという感じかな?」
ワ「やわらかいということ?」
私「水っぽくて、まずいということ」

ワ「じゃあ、50歳の女性のおっぱいは……?」
私「まあ、たとえて言うなら、のびたラーメンみたいかな?」
ワ「干し柿みたいと言う人もいるわよ」
私「ワー、そんなかたくないよ。たるんで、ペラペラしているよ」と。

 ときどきこんな会話をしながら、ワイフは、本当に女性なのかと思ってしまう。いや、多分、う
ちのワイフは、自分では、女性だと思っていないと思う。何かにつけて、私より、男っぽい。

 今日も、トマトの話をしながら、それを感じた。


●ニュース

 毎朝、起きると一番に、インターネットを立ちあげ、ニュースを読む。が、そのとき、こんなこと
に気がついた。

 私がまず目を通すのは、国際ニュース。つぎに国内の政治ニュース。芸能ニュースとか、ス
ポーツニュースには、ほとんど目を通さない。……というより、まったく興味がない。

 「それではいけない」とは思っているが、私のような人間も、少なくないはず。とくにつまらない
のが、芸能ニュース。日本の「芸能界」は、まさに作られた世界。俳優といっても、どこかのプロ
ダクションの商品のようなもの。もっと言えば、人間商品。

 そういう芸能ニュースに、どれほどの意味があるというのか。

 昨夜も、民放で、ある邦画を見た。あまりのレベルの低さに、驚く。タイトルは忘れたが、スト
ーリーは、どこかの女子高生たちが、ジャズバンドを結成し、最後は、大会に出場するというも
の。比較するのもヤボなことだが、日本版「ミュージック・オブ・ハート」ということになるのか?

 が、内容は、不自然な演技。とってつけたような表情。それに流れが、不自然、チグハグ。ケ
チをつけたら、キリがない。

 ……どうしてこうまで日本の映画のレベルは、低いのか? ……ということで、ますます芸能
ニュースには、興味をなくした。

 で、この夏、最後の望みは、「俺たちの大和」。あと少しで、そのDVDが、ビデオショップに並
ぶ。もしこの映画で、裏切られたら、さらにさらに、私は、邦画から遠ざかるだろう。


●プロ野球

 少し前、頭のボケた兄が、こう言った。「野球なんて、いつ見ても、同じ」と。

 頭のボケた兄にしては、なかなか鋭いことを言うなと、そのときは、そう思った。しかし兄は、
ほかのテレビ番組を見たかったから、そう言っただけ。それはそれとして、私も、実は、そう思
っている。

 「野球なんて、いつ見ても、同じ」と。

 つまり脳みそには、一定の容量がある。それはたとえて言うなら、穴のあいたバケツのような
もの。上から水(=情報)を入れれば、一方で、下の穴から水(=情報)が漏れていく。その一
例が、プロ野球ということになる。

 去年の試合を忘れた分だけ、新しい試合が、その中に入ってくる。そして来年の試合が始ま
ると、今度は、今年の試合を忘れていく。あとは、この繰りかえし。

 もちろん娯楽は娯楽だから、そのときは、それで楽しめばよい。しかしハマりすぎると、思考
そのものがループ状態になる。ばあいによっては、退化する。結局は、貴重な時間をムダにす
ることになる。

 野球を見ながらも、心のどこかで、「たかがボールのゲーム」と、まあ、そんな冷めた目をもつ
ことも、大切なことだと、私は思う。


●思考のループ

 ものを考えるときに、一番、こわいのが、「思考のループ」。同じことを、一定周期で、繰りか
えし考えることをいう。

 年を取れば取るほど、この思考のループが多くなる。そしてそのループから、抜け出せなくな
る。が、それだけではない。

 脳みそというのは、体の一部。前向きに鍛えてこそ、その健康を保つことができる。だらしな
い生活をすれば、即、肉体の健康は害される。それと同じように、だらしない生活をすれば、
即、脳みその健康も害される。

 ただボケるということではない。おかしな思想にハマったり、非常識な考え方をするようになる
こともある。脳みその健康というときには、そうした問題も含まれる。

 ただここで重要なことは、もし私やあなたが、まわりの人たちと同じように思考のループ状態
になり、同じように脳みそが不健康になったとしたら、自分でそれに気づくことはないというこ
と。

 肉体の健康と同じように、脳みその健康も、他人と比較してみて、それがわかる。

 だからそのためにも、人は、いつも新しい世界に興味をもち、その世界にチャレンジしていか
なければいけない。恩師の田丸先生は、こう言った。「その道で認められた人に、もっと会いな
さい」と教えてくれた。が、それだけでは、足りない。

 先に、脳みそは、穴のあいたバケツのようなものと書いた。そのバケツだが、年を取れば取
るほど、穴が大きくなり、容量そのものが、小さくなる。つまり新しい世界にチャレンジしながら
も、穴が大きくなるのはしかたないとしても、同時に、その容量を大きくすることを考えなければ
ならない。

 そのためには、どうすればよいか?

 具体的には、「自ら考える」。この一語に尽きる。それはたとえて言うなら、ジョギングのような
もの。ジョギングをして肉体を鍛えるように、考えることで、脳みそを鍛える。つまりこうすること
で、脳みその容量そのものを、大きくすることができる。

 (このエッセーそのものにしても、以前書いた原稿に、どこか似ている。つまり、私自身も、思
考のループ状態に陥っているということになる。ゾーッ!)


●K首相のY神社参拝問題

 今日は、8月6日。日曜日。ワイフは、法事で、一日、家にいない。パソコンのモニターをなが
めながら、ふと、K首相のY神社参拝問題を考える。

 ……といっても、私のような人間がいくら叫んでも、東京という中央には、私の声は届かな
い。何かしら、言いようのない空しさだけが、心に残る。で、そのK首相だが、8月15日に、Y神
社を参拝するつもりらしい。で、それについて、ある国務大臣は、こう言って、K首相をかばっ
た。「心の問題だ」「個人の問題だ」と。

 ならば言うが、どうして日本は、K国のミサイル問題で、かくも、大騒ぎをするのかということに
なる。

 K国は、かねてより、こう言っている。「これはK国の主権問題だ」と。つまり「ミサイルの実験
をするかしないかは、われわれの自由だ」と。

 しかしそのミサイル問題では、日本は、大騒ぎする。ということは、同時に、ではなぜ、K首相
のY神社参拝で、中国や韓国が大騒ぎしてはいけないのかということになる。

 話がゴチャゴチャしてきたが、要するに、私が言いたいのは、日本のK首相も、K国の金xx
も、相手の立場で、ものを考えることができない人だということ。K首相も、「これは心の問題
だ。日本国内で、日本人が何をしようが、それは私の勝手」というようなことを言っている。

 しかし(心の問題)は、考えようによっては、(ミサイルの問題)よりも、深刻である。相手によ
っては、心の一番奥まで、グサリと刺さる。

 日本のK首相が、今、すべきことは、相手の立場に立って、「どうして私が、Y神社を参拝する
ことが、そんなにも不愉快なのか」と、相手に聞くことである。問いただすことである。

それもしないで、一方的に、K国のミサイルに大騒ぎすることは許されない。つまり日本のK首
相ともあろう人物が、相手の立場に立ってものを考えることができない。そういうK首相が、どう
して、K国の金xxを責めることができるというのか。

 たがいに自己中心的な世界で、自分勝手なことをしているだけ。そういうことになる。

 狂信的と言ってよいほど、Y神社参拝にこだわる日本のK首相。「やっぱり、K首相も、その
程度の人だったのだなあ」と、パソコンのモニターをながめながら、改めて、それを思い知る。


●東京という中央

 ついでにこの浜松市に住んでいると、東京という中央が、ときどき、どこか遠い国のように思
えてくることがある。

 たとえばそのY神社にしても、私たちには、ほとんどといってよいほど、なじみがない。「東京
には、そういう神社もあるんだなあ」という思いしか、わいてこない。

 そういう東京という中央が、いつも、私たちの意思を無視して、好き勝手なことばかりしてい
る。中央集権国家がもつ、悪しき弊害のひとつと考えてよい。

 言いかえると、K首相ならK首相でよいが、東京という中央の論理だけで、ものを考え、行動
をしてほしくないということ。首相というのは、あくまでも、日本という国全体の代表である。東京
という中央だけの首相ではない。

 しかしその視野は、いつも東京という中央に固定されている。狭い。首相というよりも、東京
都知事。東京都知事というよりも、霞ヶ関の自治会長。ひょっとしたら、その視野は、この私よ
りも、狭いのではないか?

 かたや、この浜松市もそうだが、東京という中央から流れてくる情報を、一方的に受け取るだ
け。反論することはもちろん、自分たちの考えを伝えることすら、できない。「東京から来た」と
いうだけ、なんでもかんでも、ありがたがる。まさにそこは上意下達方式の世界。

 そういう世界で、今、K首相によるY神社参拝問題が、論じられている。私たち地方に住む人
間には、どうでもよいというよりは、どうしようもない問題である。私が今感じている言いようの
ない空しさは、多分、そういうところから生まれているのだろう。

 が、しかし、私は、めげない。繰りかえす。あえて、言う。

 K首相よ、Y神社参拝は、おやめなさい! それができないというのなら、K国のミサイル問題
については、もう口を閉ざしなさい!
(8月6日、広島原爆の日に)


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1432)

【老後は、どうあるべきか】

+++++++++++++++++

年をとればとるほど、戦わねば
ならないもの。

それが「回顧性」。

人間も、過去ばかりみて生きるように
なったら、おしまい。

半分、棺おけに足をつっこんだような
もの。

この4年間、私は、この問題を、ずっと
考えてきた。

最初は、(老後の準備)を考えた。
しかしやがて、そういう考え方、つまり、
老後を意識した考え方は、まちがって
いることに、気がついた。

++++++++++++++++++

●分岐点は、満55歳前後

 年齢とともに、人は未来をみることよりも、過去をみるようになる。過去をなつかしんで、その
過去に浸(ひた)るようになる。

 心理学などの本によると、その分岐点は、満55歳前後だという。つまりこの年齢を境にし
て、人は、未来をみることよりも、過去をみるようになる。同窓会や同郷会、さらには「法事」に
名を借りた親族会も、この年齢を境に、急に多くなる。

 要するに、満55歳を境に、人は、自らジジ臭くなり、ババ臭くなるということ。が、それだけで
は終わらない。

 回顧性が強くなればなるほど、思考力そのものが退化する。そのためその人は、融通性を
失い、がんこになる。過去を必要以上に美化し、心のよりどころを、そこに求めるようになる。

 つまり回顧性などといったものは、それが肥大化すればするほど、魂の死につながると考え
てよい。過去を懐かしんでばかりいる人は、いくら肉体は健康でも、魂は、すでに半分、棺おけ
に足をつっこんだようなもの。

 そこで重要なことは、自分の中に、回顧性の芽を感じたら、それとは徹底的に戦う。戦いなが
ら、いつも目を未来に向ける。あの釈迦自身も、『死ぬまで精進せよ』(法句教)というようなこと
を言っている。

 わかりやすく言えば、死ぬまで、前向きに生きろということ。

 2年半前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●回顧性と展望性

 過去をかえりみることを、「回顧」という。未来を広く予見渡すことを、「展望」という。

 概して言えば、若い人は、回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い。老人ほど、回顧
性のハバが広く、展望性のハバが、狭い。

 幼児期から少年、少女期にかけて、展望性のハバは広くなる。数日単位でしか未来を見
ることができなかった子どもでも、成長とともに、数か月後、数年後の自分を見渡すこと
ができるようになる。つまりそのハバを広げていく。

 言いかえると、展望性と回顧性のバランスを見ることによって、その人の精神年齢を知
ることができる。つまり未来に夢や希望を託す度合が、過去をなつかしむ度合より大きけ
れば、その人の精神年齢は、若いということになる。そうでなければ、そうでない。

 ある女性(80歳くらい)は、会うと、すぐ、過去の話をし始める。なくなった夫や、
その祖父母の話など。こうした行為は、まさに回顧性の表れということになる。が、こうした回顧
性は、老人の世界では、珍しくない。ごくふつうのこととして、広く見られる。

 一方、若い人は、未来しかみない。時間は無限にあり、その未来に向かうエネルギーも、
永遠のものだと思う。それは同時に、若さの特権でもあるが、問題は、そのハバである。

 自分の未来を、どの範囲まで、見ているか?
 1年後はともかくも、20年後、30年後は、見ているか?

 いくら展望性があるといっても、それが数か月どまりでは、どうにもならない。「明日も
何とかなる」では、どうにもならない。

 そこで、このことをもう少しわかりやすくまとめてみると、こうなる。

(1) 回顧性と展望性のハバが広い人……賢人
(2) 回顧性のハバが広く、展望性のハバが狭い人……老人一般
(3) 回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い人……若い人一般
(4) 回顧性と展望性のハバが狭い人……愚人(失礼!)

 (1)〜(3)は、比較的、わかりやすい。問題は(4)の愚人である。

 過去を蹴(け)散らし、その場だけの享楽に身を燃やす人は、ここでいう愚人というこ
とになる。

 このタイプ人は、過去に対して、一片の畏敬(いけい)の念すらない。同時に、明日の
こともわからない。気にしない。その日、その日を、「今日さえよければ」と生きる。健康
も、またしかり。

 暴飲暴食を繰りかえし、今だけよければ、それでよいというような考え方をする。もち
ろん運動など、しない。まさにしたい放題。

 で、問題は、どうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。一歩話を進め
ると、どうすれば、子どもがもつ展望性のハバを、広くすることができるかということ。

 ためしに、あなたの子どもと、こんな会話をしてみてほしい。

親「あなたは、おとなになったら、どんなことをしないか?」
親「そのために、今、どんなことをしたらいいのか?」
親「で、今、どんなことをしているか?」と。

 以前、こんな女の子がいた。小学3年生の女の子だった。たまたまバス停で会ったので、
近くの自動販売機で、何かを買ってあげようかと提案したら、その女の子は、こう言った。

 「私、これから家に帰って夕食を食べます。今、ジュースを飲んだら、夕食が食べられ
なくなるから、いいです」と。

 その女の子は、自分の未来を、しっかりと展望していた。で、その女の子で、もう一つ、
印象に残っていることで、こんなことがあった。

 正月のお年玉として、かなりのお金を手にしたらしい。その女の子は、それらのお金を
すべて貯金すると言う。

 そこで私が、その理由を聞くと、「お金を貯金して、フルートを買う。そのフルートで、
音楽を練習して、私はおとなになったら、音楽家になる」と。

 一方、そうでない子は、そうでない。お金を手にしても、すぐ使ってしまう。浪費して
しまう。飲み食いのために、使ってしまう。

 少し前だが、タバコを吸っている女子高校生とこんな会話をしたことがある。

私「タバコって、体に悪いよ」
女「知ってるヨ〜」
私「ガンになるよ」
女「みんな、なるわけじゃ、ないでしょう……?」

私「奇形出産のほとんどは、タバコが原因でそうなるっていう話は、どう?」
女「でも、そんな出産したという話は、聞かないヨ〜」
私「みんな、流産という形で、処置してしまうから……」
女「結婚したら、やめるヨ〜」

私「で、タバコって、おいしいの?」
女「別においしくないけどサ〜。吸ってないと、何となく、さみしいっていうわけ」
私「だったら、やめればいいじゃん」
女「また、病気にでもなったら、そのときはそのとき。そのとき、考えるわ」と。

 先の「フルートを買う」と答えた子どもは、ハバの広い展望性をもっていることになる。
しかしタバコを吸っていた子どもは、ほどんど、その展望性のハバがないことになる。

 こうしたちがいが、なぜ起きるかと言えば、結局は、私の説く「自由論」に行き着く。「自
らに由(よ)る」という意味での、自由論である。

 それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。しかし結局は、子
どもは、(自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとれる子ども)にする。展望性のハバ
の広い子どもになるかどうかは、あくまでもその結果の一つでしかない。
(040125)(はやし浩司 回顧 展望 老後論 自由論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 ちょうど57歳のとき、私も、中年期クライシスなるものを経験した。今から思うと、あのとき
が、回顧性と展望性が、自分の中で交差するときではなかったと思う。その前後、私の考え方
が、急速にうしろ向きになっていったのを覚えている。

 そのとき書いた原稿が、つぎのものである。かなり暗い内容だが、少しがまんして読んでほし
い。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●中年期クライシス(危機)

 若い人たちを見ていると、「いいなあ」と思うことがある。「苦労がなくて」と。しかし同時に、「い
いのかなあ?」と思うときもある。目の前に、中年の危機がすぐそこまできているのに、それに
気づいていない?

 危機。「クライシス」という。そして中高年の男女が感ずる危機を、総称して、「中年期クライシ
ス」という。

 健康面(心臓疾患、高血圧症、糖尿病などの、生活習慣病)、精神面(抑うつ感、うつ病)のク
ライシス。仕事面、交遊面のクライシスなど。もちろん夫婦関係、親子関係のクライシスもあ
る。

 こうしたクライシスが、それこそ怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。若い人は、遠い未来の
話と思うかもしれないが、そのときになってみると、あっという間に、そうなる。それがまた、中
年期クライシスのこわいところでもある。

●中年期クライシス、私のばあい

 私は、もうそろそろ中年期を過ぎて、初老期にさしかかっている。もうすぐ満57歳になる。

 まず健康面だが、このところ、ずっと、どうも心が晴れない。軽いうつ状態がつづいている。そ
れに仮性うつ病というか、頭が重い。ときどき偏頭痛の前ぶれのような症状が起きる。

 仕事は楽で、ほどほどに順調だが、何かと悩みごとはつきない。ときどき「私は、もう用なしな
のか」と思うことがある。息子たちも、ほぼ、みな、巣立った。ワイフも、あまり私の存在をアテ
にしていないようだ。「あんたが死んだら、私、息子といっしょに住むわ」などと、平気で言う。

 私を心配させないためにそう言うのだろう。が、どこかさみしい。

 性欲は、まだふつうだと思うが、しかしここ数年、女性が、急速に遠ざかっていくのが、自分で
もわかる。若い母親たちのばあい、(当然だが……)、もう私を「男」と見ていない。それが自分
でも、よくわかる。

 だから私も、気をつかうことが、ぐんと少なくなった。「どうせ私を男とみてくれないなら、お前
たちを、女とみてやるかア!」と。

 しかしこの世の中、「女」あっての、「男」。女性たちに「男」にみてもらえないのは、さみしい。

 そう、中年期クライシスの特徴は、この(さみしさ)かもしれない。

 たとえばモノを買うときも、「あと○○年、もてばいい」というような考え方をする。何かにつけ
て、未来的な限界を感ずる。

 あるいは今は、ワイフも私も、かろうじて健康だが、ときどき、「いつまで、もつだろうか?」と
考える。「そのときがきても、覚悟ができているだろうか?」と。そういう私の中年期クライシスを
まとめると、こうなる。

(1)健康面の不安……体力、気力の衰え。自信喪失。回復力の遅れなど。
(2)精神面の不安……落ちこむことが多くなった。うつ状態になりやすい。
(3)家族の不安……子どもたちがみな、健康で幸福になれるだろうかという心配。
(4)老後の不安……収入面、仕事面での不安。何か事故でもあれば、万事休す。
(5)責任感の増大……「私は倒れるわけにはいかない」という重圧感。

 こうしたもろもろのストレスが、心を日常的に、おしつぶす。そしてそれが、食欲不振、頭重
感、抑うつ感、不安神経症へとつながる。「心が晴れない」というのは、そういう状態を、総合し
ていう。

●何とかごまかして、前向きに生きる

 自分の心を冷静に、かつ客観的にみることは大切なことだが、ときとして、自分の心をだます
ことも必要なのかもしれない。

 楽しくもないのに、わざと楽しいフリをしてみせて、まわりを茶化す。おもしろくもないのに、わ
ざとおもしろいと騒いでみせて、まわりをごまかす。

 しかしそれも、疲れる。あまりひどくなると、感情が鈍麻することもあるそうだ。よく言われる、
「微笑みうつ病」というのも、それ。心はうつ状態なのに、表情だけはにこやか。いつも満足そう
に、笑っている。

 そう言えば、Mさんの奥さん(60歳くらい)も、そうかもしれない。通りであっても、いつも、ニコ
ニコと笑っている。が、実際、話してみると、どこか上(うわ)の空。会話が、まったくといってよ
いほど、かみあわない。

 ただ生きていくことが、どうしてこんなにも、つらいのか……と思うことさえ、ある。ある先輩
は、ずいぶんと昔だが、つまりちょうど今の私と同年齢のときに、こう言った。

 「林君、中年をすぎたら、生活はコンパクトにしたほうがいいよ。それに人間関係は、簡素化
する」と。

 生活をコンパクト化するということは、出費を少なくするということ。60歳を過ぎたら、広い土
地に大きな家はいらない。小さな家で、じゅうぶん。

 人間関係を簡素化するということは、交際範囲を狭くし、交際する人を選ぶということ。ムダ
に、広く浅く交際しても、意味はない。

 が、なかなか、その切り替えができない。「家を小さくする」といっても、実際には、難題であ
る。心のどこかには、「がんばれるだけ、がんばってみよう」という思いも残っている。

 交際範囲については、最近、こう思うようになった。

 親戚や知人の中には、私のことを誤解して、あれこれ悪く言っている人もいる。若いころの私
だったら、そういう誤解を解くために、何かと努力もしただろうが、今は、もうしない。「どうでも
勝手に思え」という、どこか投げやり的な、居なおりが、強くなった。

 どうせ、みんな、私も含めて、あと20年も生きられない。そういう思いもある。

 が、考えたところで、どうにかなる問題ではない。だから結論はいつも、同じ。

 そのときまで、前向きに生きていこう、と。生きている以上、ここで死ぬわけにはいかない。責
任を放棄するわけにもいかない。だから生きていくしかない。自分をごまかしても、偽っても、生
きていくしかない。

 そしてそれが中年期クライシスにある私たちの、共通の思いではないだろうか、……と、今、
勝手にそう思っている。
(040619)
(はやし浩司 中年期クライシス 中年クライシス 中年期の危機)

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同じころ、書いたのがつぎの原稿である。

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●展望性と回顧性(2)

 自分の未来や将来は、どうなのか。どうあるべきなのか。それを頭の中で組み立てるこ
とを、展望性という。未来や将来に、夢や希望をはせらすことも、それに含まれる。

 一方、自分の過去は、どうであったのか。どこにどんな問題があったのかを反省するこ
とを、回顧性という。思い出にひたったり、過去をなるかしむのも、それに含まれる。

 賢人は、ハバ広い展望性と、回顧性を、いつも同時にもつ。しかし愚人は、そのどちら
もハバが狭い。その場だけを、享楽的に過ごす。それでよしとする。

 概して言えば、若い人は、よりハバの広い展望性をもち、老人は、よりハバの広い回顧
性をもつと言われている。そこであなた自身の展望性と、回顧性が、どの程度のハバをも
っているかを知るとよい。それによって、あなたの精神年齢を、推定することができる。

 もしあなたが今でも、未来に向かって、目標や目的をもち、生き生きとしているなら、
展望性のハバは広いということになり、あなたは精神的に若いということになる。しかし
いつも過去をなつかしんだり、過去の栄華や、過去の思い出にひたってばかりいるという
のであれば、あなたの精神年齢は、老人のそれということになる。

 その展望性と回顧性は、満60歳前後を境として、入れかわると言われている。つまり
満60歳を過ぎると、展望性よりも回顧性のほうが、強くなるという(心理学者のB・ボ
ナーら)。

 実は、私も何かにつけて、このところ回顧性が強くなったように思う。昨夜も、ある飲
食店で、オーストラリアの旅行案内書を読んでいたときのこと。その一頁に、ジーロン(メ
ルボルンの南にある町)から、ローン(避暑地)を経て、アデレード(南オーストラリア
州の州都)にのびる街道のことが、書いてあった。

 「グレート・オーシャン・ロード」という名前の道路である。第一次大戦の退役軍人ら
が建設した道と聞いている。

 その街道の記事が、その本に載っていた。

 その記事を読んでいたときのこと、いつしか私の目は、涙で、うるんできてしまった。
私には、思いで深い街道だった。今でも、私の机の上には、その街道の写真が飾ってある。

 「また行きたいな」という思いと、「もう死ぬまで行けないかもしれない」という思いが、
その記事を読んでいるとき、複雑に交錯した。

 つまりそのとき、自分の心の中で、ここでいう展望性と回顧性が、同時に交錯したこと
になる。もちろん若いときは、そういう感情をもつことは、なかった。「もう死ぬまで……」
などとは、考えもしなかった。未来は、永遠につづくように思っていた。

 だからといって、回顧性をもつことが悪いということではない。若いころの自分を回顧
することで、私の中の心のハバを広くすることができる。ただ、それにひたりすぎるのは、
よくない。あくまでも、過去は過去。未来を、よりよく生きるために、過去は、ある。

 あえて言うなら、こうして過去を回顧することによって、生きることにまつわる「いと
おしさ」のようなものを知ることができる。生きることのすばらしさというか、美しさと
いうか、そういうものである。おかしな感覚だが、懸命に生きてきた、自分が、どういう
わけか、かわいい。いとおしい。そして当然のことながら、なつかしい。

 が、そのままここに、立ち止まるわけには、いかない。

 私は、今、こうしてここに生きている。そして、まだまだ生きなければならない。生き
ることをあきらめるわけには、いかない。そこで大切なのは、いかにして、展望性のハバ
を広くするかということ。

 一〇年後も、二〇年後も、今日と同じように、「今」はある。青い空がそこにあって、冬
であれば、冷たい風が吹いている。そのとき、私は、いったいどうなっているだろうか。
今のままなら、多分、一〇年後も、今と同じように元気で、生きていると思う。しかし二
〇年後は、わからない。そのときも、私は今の私のように、まだ心の荒野の中を、前に向
って進んでいるだろうか……。健康や生活は、どうだろうか……。

 展望性と回顧性。この二つには、より心豊かに生きるための、重要なカギが隠されてい
るように思う。今は、その程度のことしか、わからないが、この先、機会があれば、また
ゆっくりと考えてみたい。
(040201)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 しかし私は、まちがっていた。やがてそれに気がついた。人は年をとっても、コンパクトに生き
る必要はない。またコンパクトな生き方をしてはいけない。

 何も、自ら好き好んで、死ぬための準備など、する必要はない。最後の最後まで、自分をま
っとうさせる。

 そうした変化を自分の中で感じたのが、つぎの原稿を書いたときである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●小さく生きる人、大きく生きる人

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老人になると、小さくなっていく
人と、大きくなっていく人がいま
すね。

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 人は、人、ぞれぞれ。生き方も、人、それぞれ。最近、老人観察をつづけている。このところ、
老人の生き様が、気になって、しかたない。それについては、少し前にも、書いた。

 で、大別して、老人になればなるほど、より小さく生きる人と、より大きく生きる人がいることが
わかる。その間にあって、(その日、その日を、ただ生きている人)もいるが、そういう老人は、
ここでは考えない。

【より小さく生きる人】

 より小さく生きる人は、生活そのものを、コンパクトにしようとする。しかしそれはそれで賢明
なことかもしれない。欧米人でも、高齢化すればするほど、そういう生き方をするのが、ふつう
のようである。

 たとえば、住環境を縮小したり、人間関係を整理したりするなど。収入も減り、健康にも自信
がなくなれば、それは当然のことかもしれない。

 しかしそれにあわせて、自分という人間そのものまで、小さくしてしまう人がいる。わかりやす
く言えば、より自己中心的になる。

 より利他的な生き方をする人を、人格のより完成した人とみるなら、より自己中心的になると
いうことは、それだけ、人格が後退したとみる。より自己中心的になれば、やがて、自分のこと
だけしかしなくなる。自分さえよければというような、考え方をするようになる。

 たとえば世間的な活動には、まったく参加せず、個人的な趣味だけしかしないという老人は、
少なくない。で、このタイプの老人にかぎって、少しでも、自分の生活圏が侵されたりすると、猛
烈に反発したりする。

【より大きく生きる人】

 これに対して、自分の生活を、より大きくしようとする人がいる。「大きい」といっても、住環境
を拡大したり、新しい人間関係を求めるというのではない。ある男性は、いつも口ぐせのよう
に、こう言っている。

 「私は今まで、こうして無事に生きてくることができた。それを最後には、社会に還元するの
が、私の最後の務めである」と。すばらしい生き方である。

 つまりこのタイプの人は、より、利他的になることによって、人格の完成度を高めようとする。
ある女性は、80歳をすぎてからも、乳幼児の医療費、完全無料化のための運動をつづけてい
た。「どこからそういうエネルギーがわいてくるのですか?」と私が聞くと、その女性は笑いなが
ら、こう言った。「私は、ずっと保育士をしてきましたから」と。

 その人の人生は、その人のもの。だから他人がとやかく言ってはいけない。最近の私は、「と
やかく思ってもいけない」と、考え始めている。仮にあなたの隣人が、優雅な年金生活をしてい
たとしても、それはその人の人生。批判したり、批評したりすることも、いけない。

 反対の立場で言うなら、他人にどう思われようが、気にすることはない。

 大切なことは、私は私で、納得のできる老後の道をさがすこと。あくまでも、私は、私。が、こ
れだけは、言える。

 愚かな人からは、賢明な人がわからない。しかし賢明な人からは、愚かな人がよくわかる。同
じように、人格の完成度の低い人からは、完成度の高い人はわからない。しかし完成度の高
い人からは、、完成度の低い人がよくわかる。

 それはちょうど、山登りに似ている。低いところにいる人は、高いところから見る景色がどん
なものか、わからない。しかし高いところにいる人は、低いところにいる人が見ることができな
い景色を見ることができる。

 そしてより広い景色を見た人は、きっと、こう思うだろう。「今まで、こんな景色を知らなかった
私は、愚かだった。損をした」と。

 ……といっても、それはあくまでも、相対的なもの。こんなことがあった。

 私が、地域の公的団体の主催する講演会で、講師をしたときのこと。少し自慢げに、恩師の
T先生にそのことを話したら、T先生から、すかさず、一枚の写真が送られてきた。その写真と
いうのは、T先生が、「中国化学会創立50周年記念」で、記念講演をしているときの写真だっ
た。しかも添え書きには、「中国語でしました」とあった。

 T先生は、いつも私が見たこともない世界で、仕事をしている。だから私ができることといえ
ば、先生の言葉の断片から、その見たこともない世界を想像するだけでしかない。そのT先生
から見れば、私の住んでいる世界などというものは、まるでおもちゃの世界のようなものかもし
れない。

 そうそう、もう一人、別の恩師は、こうメールを書いてきた。その恩師も、世界を舞台に、あち
こちで、講演活動をしている。いわく、「林君、田舎のおばちゃんたちなんか、相手にしていては
だめだ」と。

 ずいぶんときつい言葉である。そのときは、「そんなことを女性たちが聞いたら、怒るだろう
な」と思った。しかし同時に、「そういうものかなあ?」と思った。その恩師にしても、私の世界を
はるかに超えた世界で、仕事をしている。

 まあ、このところ、私の限界も、はっきりしてきた。「私の人生は、こんなもの」と、心のどこか
で、ふんぎりをつけるようになった。だから後悔はしないが、しかしこれで私の人生が終わった
わけではない。

 できれば、これから先、ここに書いた、(より大きく生きる老人)になりたいと願っている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

ちょうど上の原稿を書いたころ、こんな原稿も書いた。

内容が少しダブるかもしれないが、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●過去と未来

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。ある
心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかしこれには、当然、
個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反対に、40
歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんどちらがよいとか、
悪いとかいうのではない。ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が
半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど毎日、幼児
や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、な
い。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。10年後、あるいは20
年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしか
ない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※をいくら読
んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、天国の話はしてい
るが、ここでいう前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏教典のほ
とんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてでき
た。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あればもうけも
の」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわからないが、私には見
たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手に
しない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。大きな正義を貫く勇気も、度
胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づ
けないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。それしかな
い。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。体力や気力
が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが、表に出てくるのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉に
ぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、いくらでもいる。が、同時に、そ
ういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進」という言葉を使って、「日々に前進することこ
そ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。

わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。そういう釈迦の教えにコメントをは
さむのは許されないことだが、私もそう思う。人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前
向きに生きるところにある。過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

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前向きの人生、うしろ向きの人生

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そ
うなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしでき
るなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だ
った。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を五人ほ
ど雇うほどまでになった。

が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで
追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから2年後に他
界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の
娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。

「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげた
ような置物まで、「返してほしい」と言い出したという。「それも、私がどこにあるか忘れてしまっ
たようなものです。値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大
波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければ
ないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわか
らなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意
味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がい
る。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、
いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだ
というのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演を
させてもらったが、その会を主宰している女性が、80歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療
費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚
いた。

「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。「長い
間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばらしい女
性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそうい
う航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そ
してそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば
少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その
波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまで
も信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなけれ
ば、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって
説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとした
ら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別
の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間にな
るということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、
今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもた
らしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなか
ったのかということになる。

数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数10万年など、マバタキのよ
うなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。しかし数10万円で
は、パソコン1台しか買えない。数億年と数10万年の違いは大きい。モーゼがシナイ山で十戒
を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年ほど前のこと。たったの6000
年である。それ以前の数10万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたとい
うのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多
い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。そしてそ
の論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、
あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといっ
て、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こす
ようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではな
い。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパ
ダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわからな
いが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そ
こに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎
晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その1人と言ってもよい。同じようなことは
子どもたちの世界でも、よく経験する。

たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。そう
いうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎
晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。もしそういう人がい
れば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格で、その時点からさ
らに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言っ
たのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(75歳くらい)だった。が、何も私は、そういう女
性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその女性に向かって、「そうい
う生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生きザマは生きザマとして、
尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずす
ようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。何ら
かのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言
ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どう
すれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生き
なくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人
生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、
毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私
とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をくいし
ばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世
界に、吹き飛ばされてしまう。

しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値もそこから生まれる。もっと言
えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。……つまり、
そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察す
る。先日も、そうだ。

「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目的をもっているの
だろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考えているのだろう」
と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになっ
た。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと
考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャに
なったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。

人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。愚かにな
るだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこと
もある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か
自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世
界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなけ
れば、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々
に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進
(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始
める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、
その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(030613)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

そして昨年(05年)の1月に、つぎのような原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心に残る人たち

 個性的な生き方をした人というのは、それなりに強く印象に残る。そしてそれを思い出す私た
ちに、何か、生きるためのヒントのようなものを与えてくれる。

 たとえば定年で退職をしたあと、山の中に山小屋を建てて、そこに移り住んだ人がいた。姉
が中学校のときに世話になった、Nという名前の学校の先生である。その人が、ことさら印象に
強く残っているのは、郷里へ帰るたびに、姉が、N先生の話をしたからではないか。

 「N先生が、畑を作って、自給自足の生活をしている」
 「半地下の貯蔵庫を作って、そこできのこの栽培をしている」
 「教え子たちを集めて、パーティを開いた」など。

 ここまで書いたところで、つぎつぎと、いろいろな人が頭の中に浮かんでは消えた。

 G社という出版社で編集長をしていた、S氏という名前の人は、がんの手術を受けたあと、一
度、元気になった。その元気になったとき、60歳になる少し前だったが、自動車の運転免許証
を手に入れた。車を買った。そしてこれは、あとから奥さんから聞いた話だが、毎週、ドライブ
を繰りかえし、なくなるまでの数年間、1年で、10万キロ近く、日本中を走りまわったという。

 またS社という、女性雑誌社に勤めていた、I氏という名前の人は、妻を病気でなくしたあと、
丸1年、南太平洋の小さな島に移り住み、そこで暮らしたという。一時は、行方不明になってし
まったということで、周囲の人たちはかなり心配した。が、1年後に、ひょっこりと、その島から
戻ってきた。そしてそのあとは、何ごともなかったかのような顔をして、10年近くも、S社の子会
社で、また、健康雑誌の編集長として活躍した。

 で、それからもう20年近くも過ぎた。山の中に山小屋を建てて住んだNという先生は、とっく
の昔に、なくなった。G社の編集長をしていたS氏も、なくなった。女性雑誌社に勤めていたI氏
は、私が知りあったとき、すでに50歳を過ぎていた。私が、25歳のときのことだった。だから
今、生きているとしても、80歳以上になっていると思う。

 I氏からは、あるときまでは、毎年、年賀状が届いた。が、それ以後、音信が途絶えた。住所
も変わった。

 そうそうG社という出版社に、Tさんという女性がいた。たいへん世話になった人である。その
Tさんは、G社を定年で退職したあとまもなく、大腸がんで、なくなってしまった。

 その葬式に出たときのこと。こんな話を聞いた。

 そのとき、私は、そのTさんにある仕事を頼んでいた。その仕事について、ある日の昼すぎ
に、電話がかかってきた。Tさんが病気だということは知っていた。が、意外と、明るい声だっ
た。Tさんは、いつものていねいな言い方で、私の頼んだ仕事ができなくなったということをわび
た。そして何度も何度も、「すみません」と言った。

 そのことを葬儀の席で、Tさんをよく知る人に話すと、その人は、こう言った。「そんなはずは
ない。Tさんが、あなたに電話をしたというときには、Tさんは、すでに昏睡状態だった。電話な
ど、できるような状態ではなかった」と。

 おかしな話だなと、そのときは、そう思った。あるいはそういう状態のときでも、ふと、意識が
戻ることもあるそうだ。Tさんは、そういうとき、私に電話をかけてくれたのかもしれない。

 親類の人たちや、友人は別として、その生きザマが、印象に残る人もいれば、そうでない人も
いる。言うなれば、平凡は美徳だが、平凡な生活をした人は、あとに、何も残さない。だからと
いって、平凡な生活をすることが悪いというのではない。「私らしい生きザマ」とは言うが、しかし
それができる人は、幸せな人だ。

 たいていの人は、世間や家族、さらには親類などのしがらみに、がんじがらめになって、身動
きがとれないでいる。いまだに「家」を引きずっている人も、少なくない。そういう状況の中で、そ
の日、その日を、懸命に生きている。

 それにこうした個性的な生きザマを残した人にしても、私たちに何かを(残す)ために、そうし
たわけではない。私たちに何かを教えるために、そうしたわけでもない。結果として、私たち
が、勝手にそう思うだけである。

 ただ、こういうことは言える。

 それぞれの人は、それぞれの人生を懸命に生きているということ。悲しみや苦しみと戦いな
がら、懸命に生きているということ。その懸命に生きているという事実が、無数のドラマを生
み、そのドラマが、そのあとにつづく私たちに、ときに、大きな感動を残してくれるということ。

 で、かく言う私はどうなのかという問題が残る。

 ここ数か月以上、私は、「老人観察」なるものをしてきた。その結論というか、中間報告とし
て、ここで言えることは、私は、最後の最後まで、年齢など忘れて、がんばって生きてみようと
いうこと。

 ときに、「生活をコンパクトにしよう」とか、「老後や、死後に備えよう」などと考えたこともある
が、それはまちがっていた。エッセーの中で、そう書いたこともある。まだ、その迷いから完全
に抜けきったわけではないが、私は、そういう考え方を捨てた。……捨てようとしている。

 つまりそういう生きザマを、こうした人たちが、私に教えてくれているように思う。私たちはそ
の気にさえなれば、最後の最後まで、何かができる。それを教えてくれているように思う。

 N先生……私自身は一面識もないが、心の中では、いつも尊敬していた。
 S氏……そのS氏が、私にエッセーの書き方を教えてくれた。
 I氏……いっしょに健康雑誌を書いた。……I氏の実名を出してもよいだろう。I氏は、主婦と生
活社の編集長をしていた、井上清氏をいう。健康雑誌の名前は、『健康家族』という雑誌だっ
た。その名前を覚えている人も、中にはいると思う。

 そしてTさん。電話では、自分の病状のことは、何も言わなかった。それが今になって、私の
胸を熱くする。私は、そのTさんの葬儀には、最後の最後まで、つきあった。藤沢市の会館で葬
儀をし、そのあと、どこかの火葬場で、火葬にふされた。アメリカ軍の基地の近くで、ひっきりな
しに、飛行機の爆音が聞こえていた。私は、Tさんが火葬されている間、何度も何度も、その飛
行機を見送った。

 遠い昔のことのようでもあるし、つい先日のことのようにも思う。みなさん、私に生きる力を与
えてくれてありがとう。私も、あとにつづきます!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●終わりに……

 老後の敵、それはここに書いた「回顧性」ということになる。その回顧性を感じたら、すでにあ
なたも、老人の仲間入りをしたということになる。

 もし、それがいやなら、つまりジジ臭くなったり、ババ臭くなるのがいやだったら、回顧性とは、
戦うしかない。

 私は死ぬまで、現役。あなたも、死ぬまで、現役。いつまでも、若々しく、前向きに生きてい
く。

 繰りかえすが、毎日、過去をなつかしみながら、仏壇の金具を磨きながら日を過ごすようにな
ったら、その人も、おしまい。そういうこと。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 回顧
性と展望性 展望性と回顧性 老後 老後の問題)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【付記】0608月06日

 生き様の問題は、どこまでいっても、その人個人の問題。仮にその人の生き様が、あなたの
意見とはちがったものであったとしても、私たちは、それについて、何も言ってはいけない。干
渉してはいけない。

 同じように、それぞれの老人が、それぞれの生き方をしていたとしても、私たちは、それにつ
いて、何も言ってはいけない。干渉してはいけない。

 人は、みな、それぞれ。

 ここで私は、「人は、老後を、どう生きるべきか」というテーマで、エッセーを書いた。しかしこ
のエッセーは、決して、他人のために書いたのではない。あくまでも、自分のために書いた。

 そして最初から読んでくれた人には、わかってもらえたと思うが、私はこの数年間だけでも、
自分の考え方が、大きく変化したのを知っている。

 (老後に備えて、コンパクトに生きよう)という考え方から、(それに疑問をもつ考え方)。そして
今は、(老後になっても、前向きに生きることこそ、大切という考え方)に変わってきた。

 が、ここで結論が出たわけではない。

 この問題だけは、そのウラで年齢がからんでくるだけに、今、ここで結論を出すことができな
い。この先、年齢とともに、考え方が、変わってくることもありえる。事実、この原稿を読んでくれ
た恩師のT先生は、こう言った。

 「(私の意見は)、若い人の考え方で、老人向きではありませんね」と。

 尊敬する先生の意見だけに、その言葉は、私の胸に、ズシリと響いた。

 これからもこの問題については、考えつづけてみたいと考えている。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1433)

【今日・あれこれ】

●台風シーズン

 現在、日本の南では、3つの台風(7号、8号、9号)が、時を同じくして、発生している。そのう
ち2つ(7号と8号)は、九州直撃コースに入った。(9号は、このまま直進すれば、中国大陸に
向かうと予想される。)

 「3つが1つにならなくてよかった」と、思った。同時に、「日本を避けて、ほかの国に行ってほ
しい」とも思った。具体的には、あのK国を頭の中で思い浮かべた。が、先月の集中豪雨で、
かなりの被害が出たらしい。死者、行方不明者、あわせて2万人という説もある。

 そうでなくても、灌漑施設は、かなりのダメージを受けているはず。もしまたここで、台風の直
撃ということにでもなったら、さらに多くの被災者が出るかもしれない。しかし悪いのは、独裁者
である金xx。K国の民衆ではない。

 そう考えると、K国の民衆は、本当にかわいそう。お気の毒。今ごろ、被災者を中心に、私た
ちが想像もつかないような、地獄絵図が繰りひろげられているにちがいない。報道などによる
と、子どもの人肉さえ、闇で売買されているという。

 今後、台風が、どちらへ向かうか。日本にも来てほしくないが、さりとて、「K国に向かえ」と
は、とても書けない。自然現象であるがゆえに、どこへ行くかは、自然に任せるしかない。

この2、3日、目が離せない。


●心の病をかかえる社員が、6割?!

 読売新聞の見出しに、こんなのがあった。

 「心の病をかかえる社員が増加。30歳代が6割」と。

 ギョッ! 6割! ……しかし、いくらなんでも、そんなことはありえない。社員の半数以上が、
何らかの心の病気(うつ病、ノイローゼなど)をかかえているということになる。そこで記事をて
いねいに読むと、こうあった。

 「6割を超える企業で、(心の病)を抱える社員が増加傾向にあることが、社会経済生産性本
部の実施したアンケート調査でわかった」と。

 つまり6割の企業で、心の病をかかえる社員がいるということがわったというのだ。「30歳代
で6割」ということではないようだ。

 ……となると、どう考えても、この見出しは、おかしい。どうして読売新聞は、こんな見出しを
書いたのだろう。「?」と思ったところで、これについてのコメントは、おしまい。


●冷え込む日韓関係

+++++++++++++++++++++++++++

読売新聞社と韓国日報社が実施した「日韓共同世論調査」で、
日韓関係が「悪い」と見る人が、日本ではほぼ6割に上り、
過去最悪となったという(読売新聞)。

+++++++++++++++++++++++++++

 韓国でも、日本のK首相の靖国神社参拝に反感を抱く人や、日韓両国が領有権を主張して
いる竹島(韓国名・独島)問題の解決に、悲観的な人が大多数を占めた。「靖国」「竹島」での
対立が、両国民の意識に、暗い影を落としているようだ。

 調査は06年6月下旬から7月上旬にかけて、両社がそれぞれ日韓の有権者を対象に、面
接方式で行った。

 現在の日韓関係を「良い」と見る人は、日本では計36%で、昨年(05年)の前回調査に比べ
24ポイント減。逆に「悪い」と見る人は同24ポイント増の計59%に上り、1995年以来、計5
回の共同調査で最悪となった。

 つまり日本人の約6割は、「現在の日韓関係は悪い」とみている、と。

韓国では「良い」は計12%、「悪い」が計87%で、前回調査と比べ、あまり変化はなかった。 

 日本は、日本の論理で動く。韓国は、韓国の論理で動く。

 日本は、「首相のY神社参拝は、日本の問題。心の問題。だから日本人が日本国内で、何を
しようが、それは日本の勝手」という論理で、ものを言う。

 韓国は、「独島(竹島)は、韓国の島だから、韓国が何をしようと、韓国の勝手」という論理
で、竹島を、事実上支配する。日本の新聞社がセスナ機を飛ばしただけで、韓国は、ジェット
戦闘機で、それに応戦(?)する。

 たがいに、相手の立場でものを考えることができない。

 先の戦争では、300万人もの日本人が死んだ。しかし同時に、その日本人は、日本の外で、
同じく300万人もの外国の人たちを殺している。K首相は、こう言う。「日本のために犠牲にな
っていった御霊(みたま)を、参拝して、何が悪い」と。

 では、K首相に聞くが、日本人によって殺された、300万人もの外国の人たちは、どうなの
か、と。それにK首相は、ことあるごとに、「日本のために犠牲になった」と言うが、本当にそう
か? そう言い切ってよいのか? 大半の日本人は、国に逆らうこともできず、否応なしに、戦
場へと駆り立てられて行ったのではないのか? 「犠牲になった」のではなく、「犠牲にさせられ
た」。そちらのほうが、事実に近いのではないのか?

 K首相が、Y神社参拝を強行するたびに、悪化する、日韓関係、それに、日中関係。そしてそ
のたびに、迷惑するのが、韓国や中国で働いている日本人たち。先のアジアカップ杯では、日
本人サポーターたちは、中国側のサポーターたちに、ものを投げつけられた。罵声を浴びせか
けられた(中国・北京)。

 国の威信を問題にす人も多い。しかし「国の威信」とは何か?

 「日本人は正しかった」といつまでも、がんばることが、果たして、威信なのか? 威信につな
がるのか?

 むしろ、そうではなくて、国としての威信を守るということは、すなおに、「私たちはまちがって
いました」と、頭をさげることではないのか? 正直に、すなおに生きる。国としての威信は、そ
ういう国としての国民性が積み重なって、生まれてくるのではないのか?

 韓国のN大統領は、たしかに、おかしい。中国のK主席も、たしかに、おかしい。しかし彼らと
同じくらい、日本のK首相も、おかしい。それぞれの国の人は、自分たちの指導者について、そ
うは思っていないかもしれない。しかし、おかしいものは、おかしい。

 そうした(おかしさ)が、それぞれの国で増幅されて、こういう調査結果になった。

 日韓関係が悪いと答えた日本人……59%
 日韓関係が悪いと答えた韓国人……87%

 日本のK首相が8月15日に、Y神社参拝を強行すれば、この数字は、さらに悪化するはず。
その8月15日まで、あと8日!

【付記】

 竹島問題について言えば、今すぐ結論を出そうと考えるのではなく、たがいに50年先、100
年先を見つめながら、ゆっくりと話しあえばよい。あんなちっぽけな島を取りあって、戦争!、と
いうのも、バカげている。日本にはその気はなくても、日本が竹島を実行支配しようとすれば、
韓国のほうが、戦争をしかけてくる。

 しかし50年先、あるいは100年先には、この極東アジアも、ヨーロッパのようになるはず。ま
たそうならなければ、日本も韓国も、生き残れなくなる。そうなったとき、竹島の問題は、自然
消滅する。

 日本は、そういう未来をめざせばよい。そしてそういう未来図を頭に描きながら、韓国と交渉
すればよい。

 一部の人たちは……、(というより、そういう意見の人は結構、多いが)、「竹島に自衛隊を派
遣せよ」とか、「竹島に自衛隊を派遣してみれば、日米同盟の有効性が確認されるはず」と主
張している。

 しかしこういう攻撃的な好戦論こそが、もっとも、危険。へたをすれば、日本そのものを、破滅
に導いてしまう。

勇ましい好戦論には、じゅうぶん、注意しよう!

【補記】

 日韓関係、日中関係の悪化をよそに、中国と韓国が、このところ急速に接近している。

 時期は不明だが、最近の世論調査によると、中国人の90%が韓国人に好感を持っていると
いう結果が出たという(韓国国政広報部調査)。この結果をふまえながら、中国外交部のRK氏
は、「おそらく、韓国人も中国人に対して似たような数値の好感を持っているだろう」と、述べて
いる(8月7日、朝鮮N報)。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ピーターパン・シンドローム

ピーターパン症候群という言葉がある。日本では、「ピーターパン・シンドローム」とも
いう。いわゆる(おとなになりきれない、おとな子ども)のことをいう。

この言葉は、シカゴの心理学・精神科学者であるダン・カイリーが書いた「ピーターパ
ン・シンドローム」から生まれた。もともとこの本は、おとなになりきれない恋人や息子、
それに夫のことで悩む女性たちのための、指導書として書かれた。

 症状としては、無責任、自信喪失、感情を外に出さない、無関心、自己中心的、無頓着
などがあげられる。体はおとなになっているが、社会的責任感が欠落し、自分勝手で、わ
がまま。就職して働いていても、給料のほとんどは、自分のために使ってしまう。

 これに似た症状をもつ若者に、「モラトリアム人間」と呼ばれるタイプの若者がいる。さ
らに親への依存性がとくに強い若者を、「パラサイト人間」と呼ぶこともある。「パラサイ
ト」というのは、「寄生」という意味。

 さらに最近の傾向としては、おもしろいことに、どのタイプであれ、居なおり型人間が
ふえているということ。ピーターパンてきであろうが、モラトリアム型であろうが、はた
またパラサイト型であろうが、「それでいい」と、居なおって生きる若者たちである。

 つまりそれだけこのタイプの若者がふえたということ。そしてむしろ、そういう若者が、
(ふつうのおとな?)になりつつあることが、その背景にある。さらには、そういう若者が結婚し、
子どもをもつ。そういうこともある。

 概して言えば、日本の社会そのものが、ピーターパン・シンドロームの中にあるのかも
しれない。

 国際的に見れば、日本(=日本人)は、世界に対して、無責任、自信喪失、意見を言わ
ない(=感情を外に出さない)、無関心、自己中心的、無頓着。

 それはともかく、ピーターパン人間は、親のスネをかじって生きる。親に対して、無意
識であるにせよ、おおきなわだかまり(固着)をもっていることが多い。このわだかまり
が、親への経済的復讐となって表現される。

 親の財産を食いつぶす。親の家計を圧迫する。親の生活をかき乱す。そしてそれが結果
として、たとえば(給料をもらっても、1円も、家計には入れない)という症状になって
現れる。

 このタイプの子どもは、乳幼児期における基本的信頼関係の構築に失敗した子どもとみ
る。親子、とくに母子の関係において、たがいに(さらけ出し)と(受け入れ)が、うま
くできなかったことが原因で、そうなったと考えてよい。そのため子どもは、親の前では、
いつも仮面をかぶるようになる。ある父親は、こう言った。「あいつは、子どものときから、
何を考えているか、よくわかりませんでした」と。

 そのため親は、子どもに対して、過干渉、過関心になりやすい。こうした一方的な育児
姿勢が、子どもの症状をさらに悪化させる。

 子どもの側にすれば、「オレを、こんな人間にしたのは、テメエだろう!」ということに
なる。もっとも、それを声に出して言うようであれば、まだ症状も軽い。このタイプの子
どもは、そうした感情表現が、うまくできない。そのため内へ内へと、こもってしまう。
親から見れば、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)といった、感じになる。
ダン・カイリーも、「感情を外に表に出さない」ことを、大きな特徴の一つとして、あげて
いる。

 こうした傾向は、中学生、高校生くらいのときから、少しずつ現れてくる。生活態度が
だらしなくなったり、未来への展望をもたなくなったりする。一見、親に対して従順なの
だが、その多くは仮面。自分勝手で、わがまま。それに自己中心的。友人との関係も希薄
で、友情も長つづきしない。

 しかしこの段階では、すでに手遅れとなっているケースが、多い。親自身にその自覚が
ないばかりか、かりにあっても、それほど深刻に考えない。が、それ以上に、この問題は、
家庭という子どもを包む環境に起因している。親子関係もそれに含まれるが、その家庭の
あり方を変えるのは、さらにむずかしい。

 現在、このタイプの若者が、本当に多い。全体としてみても、うち何割かがそうではな
いかと思えるほど、多い。そしてこのタイプの若者が、それなりにおとなになり、そして
結婚し、親になっている。

 問題は、そういう若者(圧倒的に男性が多い)と結婚した、女性たちである。ダン・カ
イリーも、そういう女性たちのために、その本を書いた。

 そこでクエスチョン。

 もしあなたの息子や、恋人や、あるいは夫が、そのピーターパン型人間だったら、どう
するか?

 親のスネをかじるだけ。かじっても、かじっているという意識さえない。それを当然の
ように考えている。そしてここにも書いたように、無責任、自信喪失、感情を外に出さな
い、無関心、自己中心的、無頓着。

 答は一つ。あきらめるしかない。

 この問題は、本当に「根」が深い。あなたが少しくらいがんばったところで、どうにも
ならない。そこであなたがとるべき方法は、一つ。

 相手に合わせて、つまり、そういう(性質)とあきらめて、対処するしかない。その上
で、あなたなりの生活を、つくりあげるしかない。しかしかろうじてだが、一つだけ、方
法がないわけではない。

 その若者自身が、自分が、そういう人間であることに気づくことである。しかしこのば
あいでも、たいていの若者は、それを指摘しても、「自分はちがう」と否定してしまう。脳
のCPU(中央演算装置)の問題だから、それに気づかせるのは、容易ではない。

 が、もしそれに気づけば、あとは時間が解決してくれる。静かに時間を待てばよい。
(040201)((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はや
し浩司 ピーターパン シンドローム)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●カルトに気をつけよう

 大不況、温暖化、国際情勢の不安定化、鳥インフルエンザ、SARSなどなど。私たち
を取り巻く環境は、ますます悪化しています。

 当然のことながら、人々の心は、それに並行して、不安定になります。私もそうですが、
あなたも、そうではないでしょうか。

 こういうとき、あやしげなカルト教団が、一挙に勢力を伸ばします。戦後直後の日本、
旧東ドイツ崩壊後のドイツ、旧ソ連崩壊後のロシアに例を見るまでもありません。

 現に今、私のまわりにも、実にあやしげなカルト教団が、近づきつつあります。たいて
いは終末論や末法論を唱え、「この信仰をしたものだけが救われる」などと、説きます。

 みなさん、常識を信じましょう!

 私たちが数十万年という長い年月を経て、身につけた常識です。その常識に従って、判
断し、行動しましょう。いえ、決して、むずかしいことではありません。おかしいものは、
おかしいと思えばよいのです。たったそれだけのことです。

 もし私たちがすることがあるとすれば、その常識をみがくことです。本を読み、映画を
見て、音楽を聞く。自然の中を歩き、人と会い、ごく日常的な生活をする。奇をてらった
修行をしたから、その境地に達せれるとか、しなかったから、達せられないとか、そうい
うことではありません。

 野に遊ぶ動物や、同じく野に咲く花を見れば、それがわかるはずです。動物や、花が、
そんなことを、しているでしょうか。私たち人間も、まさに自然の一部です。だったら、
自然に生きていきましょう。自然とともに、生きていきましょう。

 たしかにいろいろな問題が、起きてきています。そしてそのつど、私たちは、不安にな
ります。私たちだけのことならともかくも、子どもの未来を考えると、暗澹(あんたん)
たる気持ちになります。

 しかしそのときでも、常識に従って生きていきましょう。人間として、人間の道を生き
ていけば、それでよいのです。

 その結果、人間は、どうなるか? それは私にもわかりませんが、同時に、私は、人間
がもつ知恵や勇気、英知や努力を信じます。みんながそういう力を結集すれば、そういう
問題を、ひとつひとつ克服できるはずです。逃げるのではなく、絶望するのではなく、最
後の最後まで、戦うのです。

 みなさん、常識を信じましょう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルト
論 子供の信仰 子供の宗教)


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1434)

【今朝・あれこれ】

●息子のBLOG

 毎日、息子たちのBLOGを読むのを、楽しみにしている。日課になっている。つまり私の1日
は、ここから始まる。

 EのBLOGには、こうあった。何でも、佐賀まで、ソロ(単独)飛行をしたらしい。いわく、

 「……人生でソロは、あと一回だけ(仙台課程にはソロはない)。2生地ソロといって、宮崎以
外の2空港を回って帰ってくるというもの。朝出発して、夕方帰ってくる。一日がかりのフライト
だ。昼飯はどこかの空港で好きなものを。どこがおいしいかな。

Sぺーの出身地は鹿児島県川内市というところで、今日の1生地ソロで鹿児島空港へ行く途
中、川内の上空を通り、自分の生まれ育った街を見てきたんだそうだ。涙が出そうだったらし
い。

Iっちーはおばあちゃん家が大分にあり、上空を通過するとき、下で手を振っているおばあちゃ
んの姿が見えたそうだ。M先輩は実家が佐賀で、空港まで家族全員が見に来てくれたんだと
か。

九州に家族や友達がいると、こういう時いいなぁと思う。僕も誰か、見に来てくれないかな
ぁ・・・」と。

 Eへ、今度、仙台へ移ったら、僕と晃子で、仙台へ、行くよ! 約束するよ!


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1435)

特集【子どもの評価】

+++++++++++++++++

W県のある小学校で、こんな事件が起きた。

その学校の、あるクラス(2年生、児童数23人)
の1学期の通知表について、父母たちが、「評価が
きびしすぎる」と、先生に抗議をしたというのだ。

そこで学校側(教師)が、評価をしなお
し、再評価をしたところ、今度は、父母たち
が、「子どもたちが不信感を抱く」(読売新聞)
と、それを受け取るのを拒否したという。
(06年8月8日)。

+++++++++++++++++

W県のある小学校で、こんな事件が起きた。

その学校の、あるクラス(2年生、児童数23人)の1学期の通知表について、父母たちが、
「(ほかのクラスより)、評価がきびしすぎる」と、学校側に抗議をしたというのだ。

そこで学校側(教師)が、評価をしなおし、再評価をしたところ、今度は、父母たちが、「子ども
たちが不信感を抱く」(読売新聞)という理由で、それを受け取るのを拒否したという。

 「同小によると、2年生は2クラスあり、通知表は担任が、国語や算数など、計6教科を30項
目に分けて、A〜Cの3段階で絶対評価をつけることになっていた。50歳代の女性教諭が担
任するこのクラスでは、最高評価のAが、1人平均3・6個だった」(同新聞)という。

 この事件について考える前に、子どもを評価する方法について、書いてみたい。よく知られて
いる方法に、偏差値というのがある。

●偏差値

 子どもを評価するとき、その尺度にするのが、(1)絶対評価と、(2)相対評価であある。

 絶対評価というのは、一定の基準をもうけ、たとえば、「90点以上を取ったら、成績は、A。8
0点以上を取ったら、成績は、Bとする」というもの。

 これに対して相対評価というのは、たとえば100人の生徒がいたとすると、「上位1〜10位
は、A。11〜20位は、Bとする」というもの。

 この相対評価を、さらに数学的に処理して、精度の高いものにしたのが、偏差値ということに
なる。

 平均点を50点に修正して、その50点を基準に、プラス・マイナス何点……というようにして、
その子どもの点数を決める。

 その偏差値を求める公式は、日本人が考えたものだという。が、それはさておき、個人の偏
差値を計算するためには、まず、(標準偏差)を求める。(一応、標準偏差を求める数式を、こ
こに書いておく。)

【標準偏差】

 

X=個人の得点
M=その年齢集団の平均点
N=受験者数

たとえば平均点が40点、SDが、10点であれば、30〜50点の範囲に、3分の2の子ども(受
験者)が入っていることを示す。わかりやすく言えば、平均点プラス・マイナスSDの範囲に、3
分の2の子ども(受験者)が入っていることを示す。

 さらにこの標準偏差が10、平均が50になるように、数学的に変換したのが、(偏差値)という
ことになる。その偏差値は、つぎのようにして、求める。

【偏差値】

 

  SS=個人の偏差値
  SD=標準偏差
  X =個人の得点
  M=その年齢集団の平均点

 たいへんむずかしい計算のように思う人がいるかもしれないが、公式さえコンピュータに一度
入力しておけば、あとはコンピュータが瞬時に、偏差値をはじき出してくれる。今は、そういう時
代である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 標準
偏差 偏差値 絶対評価 相対評価 子供の評価 成績)

●親の抗議(?)

もう一度、なぜ親たちが、学校側に抗議をしたかについて、読売新聞から、そのまま引用す
る。

「同小によると、2年生は2クラスあり、通知表は担任が、国語や算数など、計6教科を30項目
に分けて、A〜Cの3段階で絶対評価をつけることになっていた。50歳代の女性教諭が担任す
るこのクラスでは、最高評価のAが、1人平均3・6個だった」(同新聞)という。

 それぞれの子どもが、それぞれ30項目について評価を受けるわけだから、A、B、Cを均等
に分散するなら、1人平均、10個のA、10個のB、10個のCという成績をもらうことになる。

 しかしその担任は、「1人平均3・6個のAしか、与えなかった」という。

 つまりその分、BやCをもらう子どもが、多くなったということになる。

 しかし、だ。はっきり言おう。こんなことで、どうして親たちが、抗議をするのか! また抗議を
しなければならないような問題では、ない!

 30項目というが、実際には、それぞれの項目について、正確に評価するなどということは、
不可能! 絶対に不可能! ふつうは、その子どもを大ざっぱに見て、あとは、「多分、この項
目はこうだろうな……?」というような評価のしかたで、点数をつける。

 で、その先生は、1人平均3・6個のAしか、子どもに与えなかった……。そこでそのクラスの
親たちが、それに抗議をした。中学生や高校生なら、まだ話もわかる。しかし子どもといって
も、小学2年生!

 こうした抗議をすることで、親たちは、子どもをかばったとでも思っているかもしれない。が、こ
うした抗議をすることによって、先生(学校)と、子どもたちの間の関係は、こなごなに破壊され
る。

 それによる被害のほうが、私は、よっぽど、深刻だと思う。へたをすれば、今後、教室での授
業そのものが、なりたたなくなってしまう。

 私はこの記事を読んだとき、私自身が経験した話をいくつか思い出した。それをここに紹介
する。今回の事件とは、直接関係ないが、何かの参考になれば、うれしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【自分を知る親・知らない親】

●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・7賢人の1人)だが、自分を知ることは難しい。
こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとそ
の子どもは、こう言った。

「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子
どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のこととい
うか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。

ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。
自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それ
に気づくことが、自分を知る第一歩である。

まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることであ
る。そしていつも同じ失敗を繰りかえすことである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【学校の先生が許せない!】

●汝自身を知れ

 自分を知ることはむずかしい。本当にむずかしい。理由はいくつかあるが、それはさておき、
自分の子どものことを知るのは、さらにむずかしい。

 一般論として賢い人には、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは賢い人が見えない。
もっと言えば、賢い人からは愚かな人がよく見えるが、愚かな人からは賢い人が見えない。か
なり心配な人(失礼!)でも、自分が愚かだと思っている人はまずいない。さらにタチの悪いこ
とに、愚かな親には、自分の子どもの能力がわからない。これが多くの悲喜劇のモトとなる。

●「ちゃんと九九はできます」

 学校の先生に、「どうしてうちの子(小4男子)は算数ができないのでしょう」と相談した母親が
いた。その子どもはまだ掛け算の九九すら、じゅうぶんに覚えていなかった。そこで先生が、
「掛け算の九九をもう1度復習してください」と言うと、「ちゃんと九九はできます」と。

掛け算の九九をソラで言えるということと、それを応用して割り算に利用するということの間に
は、大きなへだたりがある。が、その母親にはそれがわからない。九九がソラで言えれば、そ
れで掛け算をマスターしたと思っている。子どもに説明する以上に、このタイプの親に説明する
のはたいへんだ。その先生はこう言った。

 「親にどうしてうちの子は勉強ができないかと聞かれると、自分の責任を追及されているよう
で、つらい」と。私もその気持ちが、よく理解できる。

●神経質な家庭環境が原因 

が、能力の問題は、まだこうして簡単にわかるが、心の問題となるとそうはいかない。ある日、
1人の母親が私のところへきてこう言った。「うちの子(小1男子)が、おもらししたのを皆が笑っ
た」というのだ。母親は「先生も一緒に笑ったというが、私は許せない」と。だから「学校へ抗議
に行くから、一緒に行ってほしい」と。

もちろん私は断ったが、その子どもにはかなり強いチック(神経性の筋肉のけいれん)もみられ
た。その子どもがおもらしをしたことも問題だが、もっと大きな問題は、ではなぜもらしたかとい
うこと。なぜ「トイレへ行ってきます」と言えなかったのかということだ。もらしたことにしても、チッ
クにしても、神経質な家庭環境が原因であることが多い。

●ギスギスでは教育はできない

学校という場だから、ときにはハメをはずして先生や子どもも笑うときがあるだろう。いちいちそ
んなこまかいことを気にしていたら、先生も子どもも、授業などできなくなってしまう。

また笑った、笑われたという問題にしても、子どもというのはそういうふうにキズだらけになりな
がら成長する。むしろそうした神経質な親の態度こそが、もろもろの症状の原因とも考えられ
る。が、その親にはわからない。表面的な事件だけをとらえて、それをことさらおおげさに問題
にする。

●子どもを知るのが子育ての基本

 まず子どもを知る。それが子育ての基本。もっと言えば子どもを育てるということは、子どもを
知るということ。しかし実際には、子どもを知ることは、子育てそのものよりも、ずっとむずかし
い。

たとえば「あなた」という人にしても、あなたはすべてを知っているつもりかもしれないが、実際
には、知らない部分のほうがはるかに多い。「知らない部分のほうが多い」という事実すら、気
がついていない人のほうが多い。

人というのは、自らがより賢くなってはじめて、それまでの愚かさに気がつく。だから今、あなた
が愚かであるとしても、それを恥じることはないが、しかし、より賢くなる努力だけはやめてはい
けない。やめたとたん、あなたはその愚かな人になる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●過関心は百害のもと

 私自身も、こんな失敗をしたこともある。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついてい
るなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。その夜、猛烈な抗議の電
話がかかってきた。

いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。その子ど
も(小3男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学2年生のとき、学校で
ウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなかった。

 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかというこ
と。さらにはなぜ、小学2年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどう
しのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払ってい
たら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。

教育は、『まじめ7割、いいかげんさ3割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息
を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもを
つぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズだらけになり
ながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しよう
としているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。

へたな口出しは、かえって子どもの成長をさまたげる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●抗議、そして再評価?

話をもとにもどすが、「成績のつけ方がきびしすぎる」と抗議した親たち。子どもたち自身が自
分で考えて、そう抗議するのなら、まだ話がわかる。どうして親たちが、そんなところへ出てくる
のか? その前に、何を基準に、親たちは、「きびしすぎる」と判断したのか?

 中学生だと、成績(内申書)が、高校入試の合否に大きくかかわることもある。しかし今回の
事件では、子どもといっても、まだ小学2年生!

 もっともだからといって、こうした抗議をしたい親たちを責めているわけではない。報道には書
かれていないが、親たちには、何か別の言い分があるのかもしれない。ここまで問題がこじれ
るというのは、それ以前にもいろいろあったとみるほうが、自然である。つまり、それまでの不
信感や不満が、積もりに積もって、こうした事件につながったとも考えられる。表面的な部分だ
けをみて判断するのは、危険なことでもある。

 で、それはそれとして、学校側は、親たちの抗議を受けて、成績を再評価しなおしたという。
が、ここでも問題が残る。

どうして再評価したのか? その先生は先生なりに、ある信念をもって、そういう成績をつけた
のかもしれない。「私は、私のクラスの子どもたちに、もっとがんばってほしいと思いましたか
ら、きびしい成績をつけました」と。

 が、抗議を受けたとたん、再評価? ……考えてみれば、これもおかしい。

 相対評価といっても、決して、絶対的なものではない。たとえばふつうの学校ではトップクラス
の子どもでも、進学校へ入ったとたん、中位以下になるということも、ある。もちろん、その反対
のこともある。

 だったら、それはそれでよいのではないのか? 国公立の大学のばあいは、各高校からあ
がってくる内申書について、その点数を補正して使っている。そういうデータをしっかりともって
いる。「A県のA高校は、平均偏差値は、59点。D高校は、43点」と。そのデータに照らしあわ
せて、つまり内申書の内容を、一度、補正した上で、その子どもの学力を評価している。

 「となりのクラスはともかくも、うちのクラスは、うちのクラスで、絶対評価をしてみました。その
ため成績のつけ方が、きびしくなりました」でも、よいのではないのか?

●先生も、たいへん!

 あなたという親は、平均して、2人前後の子どもを育てている。しかし2人といっても、子どもを
育てるのが、いかにたいへんなことかは、あなた自身も、よく知っているはず。そういう子ども
を、23人も押しつけて、「もっとしっかり、めんどうをみろ」「しっかり、評価しろ」は、ない。実際
には、無理。不可能。

 つまりこれが学校教育の限界ということにもなる。

 が、一方に、この日本には、信仰とも言ってよいほどの、学校神話がある。学校万能主義、
学校絶対主義も、そこから生まれた。つまり親たちは、学校の先生を、(人間)と見る前に、神
様か仏様のように思ってしまう。先生に無謬性(むびゅうせい=1点のまちがいも、汚れもない
こと)を求めてしまう。

 それに今回の事件には、「?」と思う部分がないわけではない。

 親たちは「もうひとつのクラスより、成績のつけかたがきびしい」と言って抗議をしたという。な
らば、どうして、それがわかったのかという疑問である。

 それがわかるためには、まずクラス全員の子どもたちの成績を知らなければならない。つぎ
に、もう1つのクラス全員の子どもたちの成績を知らなければならない。どうして、またどうやっ
て、親たちは、それを知ったのだろうか?

 それを知るためには、たいへんなエネルギーと、時間が必要である。親のほうばかりを、一
方的に責めるようでつらいが、それを想像するだけで、私は、息がつまる。こんなエッセー(中
日新聞掲載済)を書いたことがある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【勉強だけできればいいの!】

●基礎教養

 「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。

ある母親は娘(小2)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研
究会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、
クラス対抗のお母さんバレーも指導していた。

そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その母親のまわりには、その基礎教育があっ
た。が、一方、その基礎教養がまったくない親がいる。ないまま、受験教育だけが「教育」と信
じ、それだけに狂奔する。Rさん(35歳)がそうだ。

●なりふりかまわない子育て

 Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫は
ある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小2男児)の教育
には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も4つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、英語
教室、それに水泳教室、と。

水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだが、当然のことながら家計はパン
ク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それだけではない。夫の1か月の給料
でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近では子どもの学習用にと、中古だ
がコピー機まで購入している。

●モチまきのモチ?

 Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。
それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をた
いらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾ってい
る女性のようでもある。

「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもない。いや、そういう人にし
てみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。

●私はハタと困った

 私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんか
ら子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。

最近、子ども(小2男児)が、Rさんの言うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接し
てみると、その子どもには、いわゆるツッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、
キレやすい性格など。動作そのものまで、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、ま
ちがいなく非行化する。

●私は超能力者?

私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どうい
う問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のよう
だ」と言われるが、30年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。

方法は簡単。まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そして
その子どもがその後どうなっていったかを知る。さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校
3年生まで、教えている。しかも問題のあった子どもほど、印象に強く残っている。あとはそれ
を思い出しながら、親に話せばよい。

そういう意味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまっ
た。「それを親に言うべきか、どうか」と。

●間の距離が遠すぎる

 ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、そ
の子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話しても
ムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のし
ようがない。

それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするようなものだ。
もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするようなものだ。たが
いの間に感ずる距離が、あまりにもある!

Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。
よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一
杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。

このタイプの親というのは、もともと一本スジの通った哲学がない。ないから、成績がさがった
らさがったで、今度は私の責任をおおげさに追及する。それがわかっているから、その子ども
の指導を引き受けることができない。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれな
いと告げると、私の説明を半分も聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【受験ノイローゼ】

●受験ノイローゼ

 子どもが受験期を迎えると、受験ノイローゼになる親は多い。子どもではない。親がなる。あ
る母親はこう言った。「進学塾の光々とした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼりました」
と。「家でゴロゴロしている息子(中2)を見ただけで、気分が悪くなり、その場に伏せたこともあ
ります」と言った母親もいた。

 親が受験ノイローゼになる背景には、親自身の学歴信仰、それに親自身の受験体験があ
る。「信仰」という言葉からもわかるように、それは確信を超えた確信と言ってもよい。学歴信仰
をしている親に向かって、その信仰を否定するようなことを言うと、かえってこちらが排斥されて
しまう。

「他人の子どものことだから、何とでも言えるでしょ!」と。話の途中で怒ってしまった母親もい
た。私が、「これ以上ムリをすると、子ども自身が、燃え尽きてしまう」と言ったときだ。

 また受験体験というのは、親は自分の子どもを育てながら、そのつど自分の体験を繰りかえ
す。とくに心の動きというのは、そういうもので、子どもが受験期を迎えるようになると、親自身
がそのときの心を再現する。将来に対する不安や、心配。選別されるという恐怖。そしてそれ
を子どもにぶつける。

もっと言えば、親自身の心が、極度の緊張状態におかれる。この緊張状態の中に、不安が入
り込むと、その不安を解消しようと、一挙に情緒が不安定になる。

 「受験ノイローゼ」と一口に言うが、それは想像を絶する「葛藤」をいう。そういう状態になる
と、親は、それまで築きあげた家族の絆(きずな)すら、粉々に破壊してしまう。家族の心を犠
牲にしながらも、犠牲にしているという感覚すらない。小学5年の女児をもつある母親はこう言
った。

「目的の中学入試に合格すれば、それですべてが解決します。娘も私を許し、私に感謝するは
ずです」と。その子どもは毎晩、母親の前で、泣きながら勉強していた。

 その受験ノイローゼにはきわだった特徴がいくつかある。そのひとつ、ふつうの育児ノイロー
ゼと違うところは、親自身が、一方でしっかりと自分をもっているということ。たとえば人前で
は、「私は、子どもが行ける中学へ入ってくれれば、それでいいです」とか、「私はどこの学校で
もいいのですが、息子がどうしてもS高校へ入りたいと言っているので、何とか、希望をかなえ
させてやりたい」とか、言ったりする。

外の世界では、むしろ温厚でものわかりのよい親を演じたりすることが多い。

 もちろん育児ノイローゼに似た症状も出てくる。育児ノイローゼの症状を、まず考えてみる。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞……どこかぼんやりとしてくる。うつろな目つき、元
気のない応答など。

(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)……同じことを考えたり、繰り返したりする。

(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)……ものごとに興味がみてなくなる。

(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)……朝早く目が覚めたり、眠っても眠りが浅い。

(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)……不注意による事
故が多くなる。

(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)……万引きをしてつかまったりする。
衝動的に高額なものを買ったりする。同じものを、あるいは同じようなものを、同時にいくつか
買う。

(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)……ささいなことが頭から離れず、それ
が苦になってしかたない。

(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)……怒っている最中は、自分のしていることが絶対正しいと思うことが多い。ヒ
ステリックに泣き叫んだりする。

(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)……人と会うだけで極端に疲れる。家の中に閉じこも
る。

(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。……過食症や拒食症になる。体重
が極端に変化する。

(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)……ささいなことで、
相手に謝罪の電話を入れたりする。自分のしていることが客観的に判断できなくなる。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●受験ノイローゼ

 受験ノイローゼも、ノイローゼという意味では、育児ノイローゼの一種とみることができる。し
かし育児ノイローゼに見られない症状もある。先に述べたように、「自分をしっかりもっている」
のほか、ターゲットが、子どもの受験そのもの、あるいはそれだけにしぼられるということ。

明けても暮れても、子どもの受験だけといった状態になる。

むしろ子どもの受験以外の、ほかのことについては、鈍感になったり、無関心になったりする。
育児ノイローゼが、生活全体におよぶのに対して、そういう意味では、限られた範囲で、症状
がしぼられる。が、その分だけ、子どもの「勉強」「成績」「受験」に対して、過剰なまでに反応す
るようになる。

 毎日、書店のワークブックや参考書売り場へ行っては、そこで1〜2時間過ごしていた母親が
いた。あるいは子どもの受験のためにと、毎日、その日の勉強を手作りで用意していた母親も
いた。しかしその中でもナンバーワンは、Tさんという母親だった。
 
 Tさんは、私のワイフの友人だった。あらかじめ念のために書いておくが、私はこういうエッセ
ーを書くとき、私が直接知っている母親のことは書かない。書いても、いくつかの話をまとめた
り、あるいは背景(環境、場所、家族構成)を変えて書く。それはものを書く人間の常識のよう
なもの。そのTさんは、私が教えた子どもの母親ではない。

 そのTさんは、子どもが小学校に入ると、コピー機を買った。それほど裕福な家庭ではなかっ
たが、30万円もする教材を一式そろえたこともある。さらに塾の送り迎え用にと、車の免許証
をとり、中古だが車まで買った。そして学校の先生が、テストなどで採点をまちがえたりすると、
学校へ出向き、採点のしなおしまでさせていた。

ワイフが「そこまでしなくても……」と言うと、Tさんはこう言ったという。「私は、子どものために、
不正は許せません」と。

 こういう母親の話を聞くと、「教育とは何か」と、そこまで考えてしまう。そのTさんは、いくつ
か、Tさん語録を残してくれた。いわく、「幼児期からしっかり子どもを教育すれば、東大だって
入れる」「ダ作(Tさんは、そう言った)を二人つくるより、子どもは一人」と。

Tさんの子どもが、たまたまできがよかったことが、Tさんの受験熱をさらに倍化させた。いや、
もっともTさんのように、子どものできがよければ、受験ノイローゼも、ノイローゼになる前に、あ
る程度のレベルで収めることができる。が、その子どものできが、親の望みを下回ったとき、ノ
イローゼがノイローゼになる。

●特徴

 受験ノイローゼは、もちろんまだ定型化されているわけではない。しかしつぎのような症状の
うち、5個以上が当てはまれば、ここでいう受験ノイローゼと考えてよい。

あなたのためというより、あなたと子どもの絆(きずな)を破壊しないため、あるいはあなたの子
どもの心を守るため、できるだけ早く、あなた自身の学歴信仰、および自分自身の受験体験に
メスを入れてみてほしい。

○子どもの受験の話になると、言いようのない不安感、焦燥感(あせり)を覚え、イライラした
り、情緒が不安定になる。ちょっとしたことで、ピリピリする。

○子どもがのんびりしているのを見たりすると、自分の子どもだけが取り残されていくようで、
不安になる。つい、子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ってしまう。


○子どもがテストで悪い点数をとってきたり、成績がさがったりすると、子どもがそのままダメに
なっていくような気がする。何とかしなければという気持ちが強くなる。

○同年齢の子どもをもつ親と話していると、いつも相手の様子をさぐったり、相手はどんなこと
をしているか、気になってしかたない。話すことはどうしても受験のことが多い。


○子どもが学校や塾へ言っているときだけ、どこかほっとする。子どもが家にいると、あれこれ
口を出して、指示することが多い。子どもが遊んでいると、落ちつかない。

○子どものテストの点数や、順位などは、正確に把握している。ささいなミスを子どもがしたり
すると、「もったいないことをした!」と残念に思うことが多い。

○テスト期間中になると、精神状態そのものがおかしくなり、子どもをはげしく叱ったり、子ども
と衝突することが多くなる。たがいの関係が険悪になることもある。

○明けても暮れても、子どもの学力が気になってしかたない。頭の中では、「どうすれば、家庭
での学習量をふやすことができるか」と、そればかりを考える。

○「うちの子はやればできるはず」と、思うことが多く、そのため「もっとやれば、もっとできるは
ず」と思うことが多い。勉強ができる、できないは、学習量の問題と思う。

○子どもの勉強のためなら、惜しみなくお金を使うことが多くなった。またよりお金を使えば使う
ほど、その効果がでると思う。今だけだとがまんすることが多い。(以上、試作)
(02―9−30)※

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【親が過去を再現するとき】(中日新聞東掲載原稿より)

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。

それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日
も、中学1年生をもつ父母が、2人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「1学期の期末
試験で、数学が21点だった。英語は25点だった。クラスでも40人中、20番前後だと思う。こ
んなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。2人とも、表面的には穏やか
な笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて
いはこんな夢だ。

……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思った
ら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働か
ない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。

そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言ってもムダ。脳のCPU(中央処理装
置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。こうしたズ
レは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(2001年)によれば、中学生で、いやなことが
あったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、39・1%しかいなかった。

これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、78・4%。
子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは
親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの6・8%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければな
らない先生が、たったの6・8%とは! 

先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく。親子関係も、
同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。

どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせってみたと
て、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさな言い方だが、私
の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。

が、子どもが中学生になったとたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろう
か。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもって
いるなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。

あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみる
とよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親
子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静
に見つめてみるとよい。

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【子育て狂騒曲】

●「あなたの教育方針は何か」

 ある日1人の母親が4歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先
生は、30歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、1年間ドイツの音楽学校に留学して
いたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。

しかしその母親は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来
像をどう考えているか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。

●幼児と教育論?

 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週1回の音楽教室ではないか」と、その音楽教室
の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あれ
これ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家に
帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?

●「失礼」を知らない母親たち

 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通う
ことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につ
くのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算
数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいた。

さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言う
のでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じ
ない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、
それすら口で言うほど簡単なことではない。

●「フン、何をお高くとまってんの!」

 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと
入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでし
ょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。

●初対面のときとは別人

 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキ
のなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。

会うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、どこ
かインギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたが、私は「返事はあとで」とその場は逃
げた。親の希望が高すぎるときは、安易に引きうけるわけにはいかない。

で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。
「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったら
どうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。

私が「息子さん能力とは関係ありません」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ち
ゃんとうちの子をA高校に入れてみせる!」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あ
まりあとに、脳内出血でなくなってしまった。私と女房は、妙にその事実に納得した。「うむ…
…」と。
(02−9−30)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●終わりに……

今回は、親の問題点ばかりを、指摘した。私の文を読んでくれる人の大半が、その親である。
そういうことを考えると、こうしたエッセーは、マガジンに載せないほうがよい。それはよくわかっ
ている。

 が、私は、決して、あなたや、学校に子どもの成績のつけ方で抗議をした親たちを責めてい
るのではない。まただからといって、学校の先生たちに問題がないと言っているのでもない。

 先にも書いたように、こうした事件の背景には、報道には書かれていない(何か)がある。そう
いう(何か)を知らないまま、一方的にどうのこうのと書くことは許されない。

 それにもし親と教師の間に、もう少し別の信頼関係があったなら、こうしたことは、笑い話です
んだかもしれない。つまり笑い話ですまなかったという点に、今回の事件の特異性がある。

 本当の犠牲者は、親と、先生の間にいる、子どもたちということになる。これから先、親と教
師は、どうやって信頼関係を取り戻していくのだろう。そしてその間にあって、子どもたちは、ど
う振る舞っていくのだろう。

 親に対しても、また当事者である先生に対しても、何とも言えない、ある種の(やりきれなさ)
を感じたのは、決して、私だけではないと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
ノイローゼ 受験ノイローゼ 育児問題)

Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1436)

【今日・あれこれ】(8月9日)

●霊媒師(霊能力者)?

+++++++++++++++
またまた新しい霊媒師なる男性が
現れた。

昨夜も、テレビでその男性を紹介
していた。

+++++++++++++++

 またまた新しい霊媒師(霊能力者)なる人物がテレビ画面に現れた。今度は、男性の霊媒師
である。それを見て、「よくもまあ、つぎつぎと、テレビ局は、こういう人間を作りあげるものだ」
と、まず、私は、それに感心した。プラス、あきれた。

 で、昨夜の番組は、こうだった。

 1人の若い娘が、脳腫瘍で死んだ。長い闘病生活の末のことだった。以後、両親とその家族
は、重くて苦しい毎日を送っていた。

 その家庭へ、その霊媒師なる男性がやってきた。そして「死んだ霊の言葉です」と前置きした
あと、まことしやかに、ああでもない、こうでもない、と言い出した。

 「みんな、幸せになってほしい」「私のために悲しまないでほしい」「私は幸せだった」と。

 そして食堂に入ると、その霊媒師なる男性は、「霊は、そこにいます」「そこから、いつもあな
たたち家族を見ています」と。

 その言葉を聞いて、両親と家族は、さらにオイオイと涙を流し始めた……。

 両親と家族の気持ちを思いやると、今の私には、その霊媒師なる男性を批判することができ
ない。霊媒師がどうのこうのという問題よりも、その両親と家族が背負っている苦しみや悲しみ
のほうが、はるかに重い。大きい。そういう方法でも、両親や家族の苦しみや悲しみが、少しで
もやわらぐなら、それはそれでよいことかもしれない。

 が、矛盾がないわけではない。

 娘の霊(?)は、その霊媒師なる男性を介して、自分の気持ち(?)を、家族に伝えていた。し
かしここで注意しなければならないのは、その話の中に、事実の暴露があるかどうかというこ
と。霊媒師はもちろん、家族も知らなかったようなことを、娘の霊が話したというのなら、その霊
媒師は、本物(?)ということになる。

 たとえば死んだ娘の霊が、こう言ったとする。

「私の好きだったA君から借りた本が、私の机の中に、入っている。その本を、A君に返してお
いてほしい」とかなど。あるいは殺されて死んだ人の霊だったら、「私を殺したのは、Bという男
だ。そのとき使った凶器は、Cという池の中に捨てられている」とかでもよい。

 そこで家族のだれかが、死んだ娘の机の中を調べてみると、本当にA君の本が出てきた。あ
るいはBという男を取り調べてみると、本当にその男が犯人だった……、というようなことがあ
れば、まだ信じられる。またそういうのを、「事実の暴露」という。その事実の暴露があれば、そ
の霊媒師は、本物と考えてよい。

 で、私はその霊媒師なる男性が語る言葉の中に、その事実の暴露があるかどうかを、注意
深く観察してみた。が、結果は、ゼロ。まったく、なかった。

 ほかにも2人の人たちの霊についても、(1人は、交通事故で死んだ父親。もう1人は、電車
にはねられた子ども)、その霊媒師なる男性は、霊を透視(?)したという。が、やはり、事実の
暴露は、ゼロ。まったく、なかった。

 霊媒師なる男性は、先にも書いたように、もっともらしいことを、実にもっともらしく話していた
だけ。

 それにもう1点、おかしなことに気づいた。

 日本では、死んだ人を、すべて「仏(ほとけ)」と呼ぶ。つまり死んだとたん、その人は、釈迦と
同列の「仏」として祭られる。しかしこうした仏教観は、日本独特のものと考えてよい。

 昨日の番組の中でも、それを感じた。

電車にはねられて死んだ子ども(やっと歩き始めた男児)については、霊媒師なる男性は、こう
言っていた。「ぼくは、パパとママの子で、幸福だった」と。

 記憶によるものなので、言葉としては正確ではないかもしれない。しかしそういうようなことを
言っていた。が、考えてみれば、これもおかしい。やっと歩き始めたような幼児が、そんなことを
考えるだろうか。言うだろうか。

 つまりこうして死んだ人を、若い女性であるにせよ、子どもであるにせよ、ここまで美化するの
は、日本独特の風習(?)と考えてよい。少なくとも、こうした風習は、世界でも、あまり例がな
い。

 その霊媒師なる男性も、その風習の中で、つまり日本的な常識の中で、霊の心を代弁してい
た(?)。その「日本的」という部分が、お・か・し・い。だいたい私が子どものころには、「霊」とい
えば、幽霊を意味した。「霊媒師」という言葉そのものが、どこか西洋的(?)。

 悲しみにうちひしがれている家族の心を考えるなら、「インチキだ」とは、とても私には言えな
い。言えないが、反対に考えると、テレビ局は、そういうふうに悲しみにうちひしがれている家族
の心を、全国に披露することによって、もてあそんだことになる。もしそうだとするなら、ことは
重大である。

 そんなことが、堂々と、許されてよいものか!

むずかしい話はさておき、これから先、もしみなさんが、こうした番組を見る機会があったら、
私がここに書いた、「事実の暴露」という視点から、番組を見たらよい。事実の暴露があるか、
どうか、と。もし、それまでだれも知らなかったことを、霊が言ったとしたら、その霊媒師(?)
は、本物と考えてよい。

 もっとも、その事実の暴露にすら、巧妙なトリックをしかける、自称、霊媒師なる人たちもいる
から、じゅうぶん、注意したほうがよい。あらかじめ下調べをしておいてから、あたかも霊がそ
れを教えたかのように言うケースも、考えられなくはない。

 ともかくも、私自身は、この手の霊媒師は、みな、例外なく、インチキだと思っている。

 あえて言うなら、テレビ局も、子どもたちに与える影響を考えて、この種の「?」番組は、もっと
自粛してほしい。あるいは最低でも、そういう内容を、中立な立場から批判したり、批評できる
人を、番組の中で同席させてほしい。
 
【付記】

 以前、別の霊媒師なる女性が、テレビで紹介されていたことがある。その霊媒師なる女性
は、いろいろな霊を、自分の中に呼びこむことができるという。で、番組の中では、リクエストに
応じて、霊媒師なる女性は、あのナポレオンの霊を呼びだした。(フランスの、あのナポレオン
だぞ!)

 その霊媒師なる女性は、こう言いだした。「苦しい……」「苦しい……。ここはどこだア?」と。

 そういう場面が、5分とか10分もつづいた。意味のない言葉。支離滅裂な内容……。

 で、それを見ていた一人の男性が、番組の途中で、こう問いかけた。

男「あなたは、ナポレオンですか?」
女「そうじゃあ」
男「そこはどんな世界ですか」
女「暗い……、苦しい……、苦しい……」
男「苦しいですか?」

女「苦しい……、苦しい……」
男「ナポレオンさん、フランス語で何かをしゃべってください……」
女「苦しい……、苦しい……」
男「どうして、あなたは日本語が話せるのですか……」
女「苦しい……、苦しい……」と。

 結局、その霊媒師なる女性は、「苦しい……」という言葉を繰りかえすことで、その場を逃げ
てしまった。

 もし本物の霊なら、そして本物の(?)霊媒師なら、フランス語で、ちゃんと答えられたはず。
……ではないか? これも事実の暴露のひとつと考えてよい。

 パリヴ・フランセ? (フランス語が話せるか?)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●G県のK知事

+++++++++++++++++

作った裏金が、何と数億円以上!

県の幹部たちは、その裏金を、
飲み食いの遊興費に使っていたという。

が、それだけではない。

裏金が発覚すると、何と、その
処分に困り、金庫の中にあった
現金を、焼却処分までしていたという。

さらに……。

裏金作りに関与を否定しつづけていた
K県知事は、最近になって、
それを認める発言をしている!

いったい、G県という県は、
どういう県なのだあ!

++++++++++++++++

 まあ、あきれるというか、とんでもない事件が、G県で起きた。何でも作った裏金が、数億円
以上。県の幹部職員たちは、その裏金を使って、まさにしたい放題。飲み食いなどの遊興費に
使っていたという。

 しかもその裏金の存在が発覚すると、処分に困り、金庫の中にあった現金を、焼却してしま
ったという。つまりお金を、ゴミとして、燃やしてしまった!

 とんでもない事件である。

 で、当初、元県知事のKは、「知らぬ」「関係ない」の一点張り。しかし直属の部下だった男
が、「県知事に、そのつど承認してもらっていた」と証言すると、一転、今度は、「知っていた」
と。

 G県よ、G県のみなさんよ、いったい、あなたたちの県は、どうなっているのか? 怒りの声を
あげる人もいないのか? 責任を追及する人もいないのか?

 ……と書いているが、こうした黒いウワサは、実は、私も、あちこちで耳にしていた。あの県に
まつわる、うさん臭い話は、山ほど聞いていた。何を隠そう、私も、そのG県の元県人。G県庁
の中には、高校や大学時代の友人も、多い。

 それにしても、現金を、焼却処分とは……?

 しかし私はそんなことは信じない。だれかの懐(ふところ)に、今ごろは、こっそりと入っている
はず。燃やしたことにすれば、返す必要はない。

 そのだれかとは、だれか? こういう小ズルイことをする人は、どこまでも小ズルイ。まさに一
事が万事。そう考えれば、そのだれかはだれか。それがわかるはず。

 それにしても、レベルの低い話ではないか。


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1437)

●極東アジア情勢

+++++++++++++++++++

極東アジア情勢が、目下、激変中!

米韓関係の崩壊、韓国に触手をのばす中国、
急接近する日米両国、崩壊寸前のK国。

ふつう、サッカーというのは、2チームで
戦うもの。だが、現在の極東情勢は、
まるで、4チーム、5チームが
混戦試合をしているようなもの。

どうなる、極東情勢!

+++++++++++++++++++

 日本のK首相が、8月15日に、Y神社を参拝すれば、「待ってました!」とばかり、韓国のN
大統領は、大騒ぎするはず。反日運動を開始するはず。今ごろは、手ぐすね引いて、その時
機を、うかがっているはず。今のN大統領には、反日しか、生き残る道はない。

 こういう状況の中、アメリカは、韓国からの撤退を、正式に発表した(8月7日、アメリカ国防
省発表)。遅くとも2009年までには、そうなる。戦時作戦統制権を韓国に移譲するということ
は、即、アメリカ軍の韓国からの撤退を意味する。

 どうしてアメリカ軍が、韓国軍の指揮下に入らなければならないのか。

 一方、日本は、韓国に対して、本気で、経済戦争をしかけ始めている。

 東芝は、8月はじめ、第4番目の半導体工場に着手した。投資規模は、6000億円。2008
年から、NANDフラッシュメモリーの量産体制に入る。

 さらに08年までに、総額1兆円の大型投資を予定している。もちろん敵は、韓国のサムソ
ン。

 また日本第2位の半導体メーカーの、エルピーダは、やはり今月はじめ、1兆円の投資をし
て、半導体生産ラインを拡充すると発表。09年3月以前に、量産体制に入る。

そのほか、プラズマテレビの分野でも、松下、パイオニアも、相ついで工場を増設しつつある。

松下は、6月、主力工場である兵庫県尼崎工場の生産量を、年間340万枚にふやした。さら
に08年をめどに、同じ尼崎に、2番目の工場を建設しつつある。

パイオニアも、同じように300億円を投資し、山梨県に新工場を建設する予定でいる。

 シャープも負けていない。8月末から、いよいよ第8世代の液晶生産ラインと呼ばれる、生産
ラインを使って、液晶の量産体制に入る。

 サムスン電子の幹部は、「日本のメーカーがこのような攻撃的投資に乗り出しているのは、
業績回復に伴う自信が反映されている」(朝鮮N報)と話している。

実際、ソニー、松下、シャープ、東芝、キャノン、富士通など日本の電子メーカーは、今年第1四
半期では、一斉に黒字を計上しており、大型投資に乗り出す下地を確保している。

 そして今まで、韓国内で下請けさせていた部品などについては、その工場を、台湾やそのほ
かの国々に、移しつつある。

 つまりこれらの一連の動きは、明らかに、打倒韓国を意識したもの。1、2年前から、各社に
よって綿密にねられた作戦によるものと考えてよい。

「反日運動をするならするで結構。しかし日本だって、黙ってはいないぞ」という、強烈なメッセ
ージが、これらの動きの中にこめられている。

 が、ひとりノー天気なのが、韓国のN大統領。こうした日米の動きに反比例する形で、急速に
中国に接近を試みている。

 しかし、だ。中国がそんな甘い国でないことは、チベットを見ればわかるはず。台湾を見れば
わかるはず。へたをすれば、竹島(独島)どころか、38度線以北を、中国に乗っ取られてしま
う。

 またアメリカ軍が韓国から撤退すれば、再び、韓国を通貨危機を襲うかもしれない。その可
能性は高い。どこのだれが、そんなあぶない国に、投資などするだろうか。今の韓国の平和が
かろうじて維持されているのは、強力なアメリカ軍が駐留しているからにほかならない。

 そういえば、先ごろ、その通貨危機について、もし日本が通貨危機に陥れば、韓国は50億ド
ル、反対に韓国が通貨危機に陥れば、日本は100億ドルの金額を、それぞれ相手の国に支
援するという。そういう取り決めがなされた※。

 一見、何とも不平等な取り決めのように見えるかもしれないが、言いかえると、「日本は、10
0億ドルしか支援しませんよ」という意思表示をしたことになる。前回、韓国がデフォルト(国家
破綻)したときには、100億ドルの緊急融資のほか、日本は、アジア開発銀行などを通して、
総額500億ドル近い支援をしている。

 儒教の国でありながら、韓国のN大統領という人は、そういうことについては、まったく恩義を
感じない人らしい。つまり日本は、先手を打って、「つぎは、100億ドルまで」と決めこんだわけ
である。

 残るはK国。今では中国にも見離され、孤立無援。中国でさえも、「韓国は、(中国の)親戚
だ」(中国外交部・報道官・8月9日)と言いだした。で、そのK国だが、こんなおもしろいエピソ
ードが、もれ伝わってきている。

 国連安保理で、中国が非難決議案に賛成したときのこと。K国の外務省は、駐P中国大使を
呼びつけ、「裏切り行為」と非難したという。が、このあとが、実にK国らしい。ヤフーのニュース
を、そのまま紹介する。

「同じころ北京では、C・K国大使が、R中国外相に面会を求めた。しかし断られたことから、K
国のC大使は、大使館員10人とともに3台の車で中国外務省に押しかけ、同省前で3時間以
上にわたり、『裏切り者』などの言葉を荒々しく繰りかえした。同省は無視しつづけたが、『現場
の様子があまりに険悪で、警察を呼ぶ話もあった』(香港の中国消息筋)という」と。 

 K国の大使館員たちが、中国の外務省前で、「裏切り者」と言って、3時間もねばったというの
だ。

 K国は、もう、ここまで狂っている。

 さて8月15日まで、あと残すところ、6日。日本のK首相は、Y神社参拝の参拝の腹を決めた
ようである。が、もしこういう状況の中で、K首相がY神社を参拝すれば、どうなるか。

 その日を境に、極東アジア情勢は、さらに混乱する。一次的には、中国、韓国の反日勢力を
勢いづかせる。二次的には、その勢力にのって、韓国のN大統領一派が、反日運動を展開す
る。中国も、それに同調する可能性が、きわめて高い。

 具体的には、韓国はさらに竹島の実効支配を推し進めるだろう。中国は、尖閣諸島周辺で
の油田開発を、堂々と推し進めるだろう。

 ますます極東アジア情勢は、不安定になる。つまり戦争への道を、日本は、一歩、踏み出す
ことになる。ひとり日本のK首相は、「平和の誓いのため」と言っているが、そんな論理は、日
本の外では、通用しない。

私の知ったことではないが……。

(注※)日韓両国は通貨危機などの際、総額150億ドルで、互いに支援しあう通貨スワッピン
グ契約を締結することに合意した。 

 韓国のH副首相兼財政経済部長官と谷垣禎一財務大臣は、4日、東京で第1回、日韓財務
相会合を開き、このような内容を盛り込んだ合意分を発表した。 

 両国が発表した6項目からなる合意文によると、韓国の通貨危機時には、日本は100億ド
ルを、日本の危機時には韓国は、50億ドルをそれぞれ支援することにしたという。

(この原稿は、8月9日に書いたものです。マガジンに載せる、9月13日には、情勢が大きく動
いているかもしれません。)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1438)

【家族という呪縛】

++++++++++++++++++

私の知人が話してくれたことを、
そのまま書く。

家族とは、何か?

++++++++++++++++++

 もう15年ほど前になるだろうか。東京のM区に住んでいる友人(当時55歳くらい)がこう言っ
た。

 「親のめんどうなんて、もうコリゴリ。そのたいへんさを知っているから、私の息子や娘たちだ
けには、そういう思いをさせたくありません」と。

 当時はまだ、今のような介護制度もなかった。親の老後は、子どもたちがみるというのが、ま
だ常識(?)になっていた。そのため、その負担は、すべて、その子どもたちにのしかかってい
た。

 が、基本的には、この事情は、今も変わらない。

 先日、私の別の知人の母親が死んだ。享年、85歳だったという。しかしそれまでの10年間、
その知人は、母親の介護で、もがき、苦しんだ。それは壮絶な戦いだったという。

 「良好な親子関係があれば、まだ救われます。が、私と母は、そうではありませんでした」と。

 で、母親が死ぬころには、財産のほとんどを食いつぶした上、多額の借金まで、残ったとい
う。

 そこでその知人は、葬儀らしい葬儀もせず、(実際には、お金がなくて、できなかったのだが
……)、母親を見送った。が、これに、叔父、叔母たちが、猛反発! 「何という息子だ! 葬式
も満足にしないとは、何ごとか!」と。

 しかしその知人は、ひるまなかった。「お前らに、オレの苦しみがわかってたまるかア!」と。

 以後、その知人は、親類との縁も切ったという。

 その知人は、こう言った。

 「あのね、林さん、親子といっても、いろいろあるんですよ。それぞれの家庭によっても、事情
がちがう。ちがって当然です。

 外の人には、何でもなく見えるような家庭でも、その奥は深い。親子であるがゆえに、歴史も
ある。確執もある。

 私は、母のめんどうをみているとき、何がいやかって、親戚どもがあれこれ干渉してくること
ほど、いやなことはありませんでした。こちらの事情も知らないくせにね。

 それに家族の問題は、同じような問題をかかえた人でないと、理解できないものです。経験し
た人でないと、わからない。そのわからない人たちが、とやかく言ってくる。もう、うるさくて、たま
りませんでした。

 簡単な葬式ですましましたが、私には、あれで精一杯です。叔父は、『借金してでも、やれ』と
言いましたが、もう勘弁してほしいです」と。そして同じように、こう言った。「家族なんて、コリゴ
リです」と。

 家族って何だ!

 もう一度、それについて考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【家族意識】

++++++++++++++++++++

家族は大切なものだが、しかしそのあり方を
まちがえると、今度は、家族を苦しめる、責め具
として機能する。

今、「家族」という重圧感の中で、もがき、
苦しんでいる人は多い。

それを知る、第一歩。

それが善玉親意識と悪玉親意識である。

++++++++++++++++++++

●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書い
た。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識とい
う。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々……」とか
何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、10代目になったとする。が、大
きな問題が起きた。1人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」と言い出し
たのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろうか。父
親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう意味で、
家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉家族意
識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちがってい
るとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日本人は、江戸
時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(=特定の考え方の型)をもって
いる。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それは多分に
宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプの人に、「家制
度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった江戸時
代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代であってはい
けない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショックを受け
た経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボルンの校
外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つぎつぎと、新し
い家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。これが三番目の家
だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカリみたいだ」
と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショックを受
けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できないだろう
と思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだが、だいたい
において、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私のばあいも、そうい
うことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、最後に
遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。つまり彼ら
にしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこもちがわ
ない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念と同じ。どこも
ちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。田舎
のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。私が最初に
「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、親戚の人
たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気にしては
だめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中に入
りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、色濃く、
残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよりは、家どうし
の結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れを始め
る。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを発達心理学の
世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民族とい
うことになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜け
出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボーエン)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 個人
化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、60人
近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」にこだわる人も
いれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方的に、
そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君は、そうすべ
きだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもっていな
い。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自らを否定し
てしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うようなものであ
る。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体的成
長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内面化を
はばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親もいる。親に少
し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀打ち
できない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化を、さら
にはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか弱き
人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫ってく
る。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのではない。たいてい
の人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン(脳なし)。

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。いろい
ろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、ここに書い
た、「鮮明なちがい」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【悪母3態】

+++++++++++++++++++++

悪い母親のタイプを、大きく、3つに
分けて考えてみた。

称して、「悪母3態」。

+++++++++++++++++++++

【1】独立を許さない親

 子どもが、親から離れ、独立していくのを許さない親がいる。子育てを生きがいにしてきた、
どこか溺愛タイプの父親、母親に、多い。

 最初に申し添えるなら、溺愛は、「愛」ではない。自分の心のすき間を埋めるための、自分勝
手な愛をいう。もともと情緒的に未熟な人、精神的に未完成の人が、何らかのきっかけで、溺
愛に走るケースが、多い。

 ある母親は、自分の一人娘が結婚したあと、その娘にこう言ったという。「あなたを、一生か
かって、のろい殺してやる。親を捨てるとは、どういうこと。あなたが地獄へ落ちるのを楽しみに
している」と。

 この話は、本当にあった話である。ワイフが、その女性に会って、直接、確かめている。そし
て私には、こう言った。「世の中には、いろいろな親がいるのねえ」と。

 が、その子ども自身にとっても、これは不幸なことである。

 親が、子どもを溺愛し、その結果、子どもの自立、独立を許さないのは、親の勝手。親のエ
ゴ。が、そのエゴにからまれ、もがき苦しむ子どもも、少なくない。

 前にも書いたことがあるが、実母の葬式に出なかったことを、いまだに悔やんでいる男性(5
5歳)がいる。実母は、10年ほど前、その男性が45歳のときに、なくなっている。

 いろいろ人には言えない事情があるらしい。それはそれとして、問題は、なぜその男性が、
悔やむかということ。もし私がその母親なら、天国なら天国からでもよいが、その男性にこう言
うだろう。「気にしなくてもいいのよ! あなたはあなたで、幸福になってね」と。

 子どもは、ある年齢に達すると、「家族」というワク、これを心理学の世界では、「家族自我
群」というが、そのワクから、のがれようとする。最初は、抵抗、反抗という形で、それを表現す
る。ときに家族、なかんずく親を否定することもある。

 こうしたを心理学の世界では、「内的促し」という。「内的」というのは、心の世界をいう。肉体
を「外的」というのに対して、精神を「内的」という。子どもは、自立、独立するために、精神の完
成を自ら、求めるようになる。

が、こうした子どもの行為に対して、とくにこの日本では、それを悪いことと決めてかかる傾向
が強い。親に反抗しただけで、「親に向かって、何だ!」と、怒鳴り散らす父親や母親は、多
い。「非行」というレッテルを張ることも珍しくない。

 これを「内的つぶし」という。この言葉は、私が考えたものだが、親自身が、子どもの自立や
独立を、つぶしてしまうことも、珍しくない。そしてさらにその結果として、子どもは、自ら、罪悪
感をもつようになる。先の男性が、その一例である。

 「私は、親の葬儀にも出なかった。私は、できそこないの息子だ」と。

 子どもは、小学3、4年生をさかいに、急速に親離れを始める。生意気になり、親に口答えす
るようになる。反抗もするようになる。しかしそれは、国際的な基準でみるかぎり、ごく自然な
(流れ)であり、そういう流れの中で、子どもは、自立していく。

 もちろん日本には日本の風土、文化というものがある。親子関係も、どこか特殊? いまだ
に「父親に求められるのは、威厳である」と説く人も、少なくない。最近では、家庭教育に武士
道をもちだす人まで、現れた。

しかしそれらは、ほとんどのばあい、どこか不自然な子育て観といってもよい。日本の子どもだ
けは特別と考えるのは、おかしい。日本式の子育てが正しくて、外国の子育てはおかしいと考
えるのは、さらにおかしい。安易にそれを受け入れれば受け入れるほど、あなたは、(自然な
形での子どもの姿)を見失う。


【2】子どもを支配する親

 「代償的過保護」という言葉がある。

 ふつう、過保護というときは、その背景に、親の深い愛情がある。その愛情が、転じて、親は
子どもを、保護過多、つまり過保護にする。

 が、代償的過保護には、その背景に、親の深い愛情があっても、希薄。子どもを自分の支配
下に置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

ただ、この代償的過保護は、見た目には、過保護と、たいへんよく似ている。区別がつかな
い。それにたいていのばあい、子どもに対して代償的過保護を繰りかえしながら、親自身は、
それを親の深い愛情と誤解している。

よくある例は、「子どもはかわいい」「かわいい」を口ぐせにしながら、その一方で、子どもが、自
立したり、独立していくことを、許さない、など。「渡る世間は鬼ばかり」と、子どもを、ほとんど外
出させなかった母親もいる。子どもといっても、30歳を過ぎた子どもである。

 ……というような話は、前にも書いた。

 ここでは、その先を書く。

 こうした代償的過保護のもとで育つと、子どもは、当然のことながら、自立できない、ひ弱な
子どもになる。(反対に、親に猛反発する子どももいる。その割合は、7対3くらい。)

 が、それだけではない。

 子どもは、ある年齢に達すると、急速に親離れを始める。自立のための準備期間に入る。そ
の年齢は、小学3、4年生ごろ、満10歳前後とみる。

 これを発達心理学の世界では、「内的促し」(ボーエン)という。このころから、子どもは、自立
をめざし、内的、つまり精神面での完成をめざすようになる。

 この時期、子どもは、家族的自我群(家族としてのまとまりのある意識)から逃れ、自分を確
立していく。が、ここで誤解してはいけないのは、内的促しをするからといって、その子どもが、
家族を否定するようになるのではないということ。

 子どもは、内的促しをしながら、その一方で、家族との調和をはかる。つまりこうして子ども
は、精神的にバランスのとれた人間へと、成長していく。

 が、代償的過保護のもとで育つと、子どもは、この精神の発達を、阻害(そがい)されることに
なる。そしてその結果、自立できないばかりか、現実検証能力を失う。30歳をすぎても、親の
サイフからお金を盗んで使っていた男性がいた。親といっても、安い給料の、サラリーマンだっ
た。

 自分で、してよいことと、悪いことの区別がつかなくなる。自分ですべきことと、してはいけない
ことの区別がつかなくなる。

 総じて言えば、代償的過保護には、親の過関心と過干渉がともなう。ある女性は、こう言っ
た。「母が兄を見る目つきは、いつもキリで心を突き刺すように、鋭かった」と。親自身の精神
的未熟性がその背景にあるので、問題の解決は、容易ではない。

 なお、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。明けても暮れても、頭の中は、子どもの進学
問題でいっぱい。……というような親は、ここでいう代償的過保護傾向の強い親とみてよい。一
見、子どもの将来を心配しているようだが、その実、自分の不安や心配を、子どもにぶつけて
いるだけ。

 もう少し極端な例としては、ストーカーがいる。嫌われても嫌われても、その男性(女性)をお
いかけまわす。相手が迷惑していることすら、理解できない。つまり自分が置かれた現実を理
解できない。

 少し話がバラバラになってきたので、この話はここまで。

【代償的過保護・自己診断テスト】

( )いつも子どもの行動を知っていないと、落ちつかない。不安。心配。
( )いつも子どもにあれこれ指示を出し、命令している。勝手な行動を許さない。
( )子どものために、自分の人生を犠牲にしていると思うことが多い。
( )子どもの世話をやくのが、親の努めだと思う。めんどうみのよい親がよい親と思う。
( )うちの子は、外の世界では、ひとり立ちして生きていくのは無理だと思う。

 ここに書いたことが、いくつか思い当たれば、あなたは本当に子どもを愛しているか。何か、
おおきなわだかまり(固着、こだわり)をもっていないか。それを反省してみる。それと同時に、
あなた自身も、一人の人間として、ひとり立ちできているかどうかも、反省してみるとよい。


【3】子どもを否定する親

 Kさん(60歳、女性)は、いつも自分の長男氏(34歳)について、「あの子は、バカで……」と
言っていた。いろいろな母親がいるが、自分の息子を、「バカ」という親は少ない。

 で、ある日、私がそれとなくKさんに、「そんなふうに言ってはいけない。ぼくには、そうは思え
ない」と話すと、Kさんは、こう言った。「あの子は、生まれつき、ああです」と。

 そのKさん。親類の間では、「仏様」と呼ばれていた。もう一人、1歳年下の妹がいたが、子ど
も思いのよい母親と思われていた。人前では、おだやかで、やさしい母親を演じていた。

 しかしその長男氏は、ハキがなく、いつも何かにおびえたように、オドオドしていた。明らか
に、母親の否定的な育児姿勢が、その長男氏の自我を押しつぶしてしまっていた。

 こんなことがあった。

 そのKさんの横に、10坪くらいの空き地があった。花壇や畑になっていた。しかしそこを駐車
場にすれば、車が4、5台、駐車できる。そこで私が、その長男氏に、貸し駐車場にしたらよい
のではと話すと、その長男氏は、こう言った。

 「そんなことを言うと、母さんに叱られる」と。

 30歳をすぎても、母親の威圧(幻惑)に、おびえていた。

私「駐車場にして貸せば、あそこだったら、毎月、10万円くらいの収入が見込める」
長「植木鉢は、どうする?」
私「横へ並べておけばいい」
長「そんなこと言ったら、母さんに叱られる」と。

 強烈な母親のイメージ。長男氏は、その呪縛の中で、もがき苦しんでいた。

 こうした否定的な育児姿勢が日常化すると、子どもは、つぎのような症状を見せるようにな
る。

(1)自信喪失
(2)判断力の低下
(3)自我の喪失
(4)現実検証能力の喪失
(5)強度な依存性(服従性)
(6)基底不安をもちやすい
(7)常識ハズレの行動
(8)萎縮性、自閉傾向など。

 Kさんは、長男に、こんな言い方をしているという。文にすると、その場の雰囲気を伝えること
ができない。かなり、きつい言い方である。

(客が来たとき、Kさんは、長男氏に、お茶をもってくるように言った。そのときのこと)、「早くも
って来なさい。どうせ、ぐずぐずもってくるんでしょ。ぐずぐずしていると、お客さんが、帰ってしま
うでしょ」と。

(客がくれた、みやげの菓子を長男氏に渡しながら)、「菓子だよ。あんたがもらっても、私には
くれないけど、私は、ちゃんとあんたに、あげているよ」と。

(長男氏が菓子を食べていると)、「いらないと言っているくせに、どうせ全部、食べてしまうので
しょ。あとで腹が痛いというんじゃ、ないよ!」と。

 長女は、私にこう訴えた。「母は、いつも一言、多いのです。その一言が、兄の心をキズつけ
ます。しかし母は、それに気づいていません。が、何よりも不幸なのは、そういうあつかいを受
けながら、兄が、母のその呪縛を解き放つことができないでいることです。ベタベタの依存性が
ついてしまって、兄は、母の指示がないと、ひとりでは何もできなくなってしまっています」と。

 「うちの子は、何をしてもだめだ」「何をしても心配だ」と、もしあなたがそう思っているなら、そ
れはあなたの子どもの問題ではない。あなた自身の問題と考えてよい。

 あなたの中にある、わだかまりやこだわり(固着)をさぐってみたらよい。望まない結婚であっ
たとか、望まない子どもであったとか、など。

 こうしたわだかまりやこだわりが、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることは多い。子ども
の側からみて、何が不幸かといって、そういう親をもつことくらい、不幸なことはない。

 もしあなたがそうなら、まずそのわだかまりや、こだわりに気づくこと。気づくだけでよい。少し
時間がかかるが、あとは時間が解決してくれる。

 ついでに一言。

 よく「うちの子は生まれつき……」と言う親がいる。しかしこれほど、実に不愉快な、しかも卑
怯な言い方はない。

 あの赤子を見て、「生まれつき……」などとわかる人は、絶対にいない。えてして、親は、自分
の育児の失敗を、「生まれつき」という言葉でごまかす。親として、絶対に口にしてはいけない
言葉である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 個人
化 幻惑 個人志向 共同体志向 家族自我群 現実検証能力)
(040612)(060810改)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●日本の教育が遅れるとき 

+++++++++++++++++

いまだに、「英語教育は必要ない」と
説く識者(?)がいるのには、驚く。

偏屈な民族主義にしがみついて、
「武士道こそ、日本が誇る
アイデンティティ」と説く識者(?)も
いる。

+++++++++++++++++

●英語教育はムダ?

 D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。

「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。

つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅
行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」
と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日
本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育
 
これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、公
立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子
どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている
知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営者協会会
合の席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が
終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要は
ない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こう
いう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそ
うだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思
を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだわ
っているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。

ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わ
りには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの1次方程式や2次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには2次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営
む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学1年で1次方程式を学び、3年で2次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」
と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもた
ちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーション・「第三回学
習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こうい
う議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。

早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子
どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにク
ラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、
「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないの
か。それでほとんどの問題は解決する。

注※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示してい
るが、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校はその
ガイダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。

注※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在日
イギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。

「イギリスでは、1990年代半ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国
家の誇りが失われた認識があった。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、
現代社会はIT(情報技術)革命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値
の変化に直面しているが、これも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。

つまり子どもたちが急激に変化する世界で生活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対
応できる教育制度が必要と考えたからである」(長野県経営者協会会合の席で)と。

そして「当初は教師や教職員組合の抵抗にあったが、国民からの支持を得て、少しずつ理解
を得ることができた」とも。イギリスでの教育改革は、サッチャー首相の時代から、もう丸四年
になろうとしている(2001年11月)。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(8月11日・金曜日)

●読者のみなさん、ありがとう!

 6〜7月中、ほとんどふえなかった読者。しかし今週は、毎回、4人ずつ、読者がふえました。
月水金の週3回の発行ですから、計12人、ふえたことになります。

 ありがとうございました。おかげで、やる気(=書く気)が、またまた、わいてきました。今朝
も、こうして、朝、4時に起きて、書斎に入りました。これから6時まで、原稿を書きます。


●……といっても、頭の中は、まだ睡眠状態

が、朝、4時は、まだ早い。きつい。眠い。出てくるのは、あくびばかり。今まで、あちこちのニュ
ースサイトをのぞいていました。が、思考力は、ゼロ。

 気になったのは、やはり韓国情勢。何も韓国のことを心配しているわけではありません。ただ
このところ、ここへきて、米韓関係が、急速に悪化しているということ。アメリカ軍の完全撤退ま
で、言葉として、アメリカ側からささやかれるようになりました。

 現在の韓国のN大統領のもとでは、それもしかたのないことかもしれません。N大統領のこと
を、「K国の、顧問弁護士」と、揶揄(やゆ)する人もいます。

 ……まったく何を考えているか、わからないN大統領。いつ見ても、ニンマリというか、ニタニ
タというか、不気味な笑みを浮かべています。極東情勢は、どんどんと別の方向に向かって動
いているのに、「心配ない」「だいじょうぶ」と。どこかあの大統領は、(?=ヘン)ですね。


●K国の核実験

 そんな中、K国の核実験のうわさが、飛びかっています。やるとしたら地下核実験ということ
になりますが、おおかたの専門家は、「しないだろう」と読んでいます。

 K国のような小さな国で核実験をすれば、日本や韓国にまで、その死の灰が飛んでくることに
なりますが、当然、中国にも影響が及びます。つまり中国を、その時点で、完全に敵に回すこと
になります。

 K国は、そこまではしないだろうというのが、その根拠です。

 しかし何をしでかすか予想がつかないのが、あのK国。決して、油断できません。


●P社のガス湯沸かし器

 P社のガス湯沸かし器で、たくさんの人たちが犠牲になっていたという。当初、P社側は、「不
正改造が原因」とがんばっていました。しかしここにきて、その改造を、P社の社員自身がして
いたという事実が、明るみになってきました。ヤフー・ニュースは、つぎのように伝えています。

 「一酸化炭素(CO)中毒事故が相次いだ、P工業製の瞬間湯沸かし器に関し、P者側の複数
の元社員が読売新聞の取材に対し、安全装置が機能しないようにする不正改造を行っていた
と証言した」と。

 そうではないかと、私は、最初から思っていました。「改造」といっても、素人にできる改造で
はないからです。私の家でも、山荘のほうでは、その湯沸かし器を使っていますが、カバーのフ
タをあけても、チンプンカンプン。自分で配線をつなぎなおすなどということは、実際には、不可
能です。


●Y神社の非法人化?

 ここにきて、Y神社の非法人化の動きが出てきました。つまり「宗教法人でなければ、問題は
ないだろう」というのです。

 しかしこういう小ズルイことばかりしているから、日本は、世界から信用されないのです。何と
か抜け道を作って、世界の目をごまかそうとする……。そんなことばかりしている。

 宗教法人であろうと、なかろうと、Y神社は、Y神社。むしろ非宗教法人化することによって、
政治家たちは、堂々と、Y神社を、堂々と参拝することができるようになります。「宗教法人では
ないのだから、Y神社に参拝しても、宗教活動をしたことにはならない」とです。

 戦争で死んだいった人たちを、英霊(=英雄)に祭りあげて、自分たちの責任を回避する。そ
んな醜い意図が、私には、見え見えなんですが……。

 どうして、日本の政治家たちは、「みなさん、ごめんなさい。みなさんを戦場に駆りたてたの
は、私たちです。みなさんの命を、むだにしたのは、私たちです」と、すなおに言えないのでしょ
うか。

 そういう視点に立てば、A級戦犯(=戦争遂行責任者)と、罪もない兵隊たちと、同じ神社で
祭る、そのおかしさがわかるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1439)

【相手を喜ばす】

+++++++++++++++++++++

相手を喜ばすためには、何を、どうすればよいか。

よい思いをさせる。何か、ものをあげる。

しかしそのとき、何が一番重要かといって、
相手の、生きがいを知ることほど、重要な
ことはない。

相手の生きがいを知る。その生きがいに
なっていることを、助ける。ほめる。伸ばす。

それが相手を喜ばす。

私は、そのことを、子ども(生徒)を
教えていて、発見した。

++++++++++++++++++++

●生きがいを知る

 その相手を喜ばすためには、まず、その相手、つまりその人の生きがいが何であるかを知
る。その生きがいになっているものが何であるかわからないまま、何かをしてあげたり、ものを
あげたりしても、ほとんど、意味はない。

 たとえばゴルフをしたことがない人に、クラブをあげても意味はない。魚釣りをしたことがない
人に、釣竿をあげても意味はない。が、その人の生きがいを知るだけでは、足りない。

 子どもも、またしかり。

 サッカーの好きな子どもには、サッカーの話をする。ゲームの好きな子どもには、ゲームの話
をする。音楽の好きな子どもには、音楽の話をする。が、安易な迎合主義には、気をつけたほ
うがよい。

 私も、最近、こんな経験をした。

 ある人が、私に、一冊の本をくれた。「よい親子関係は、幼児期に決まる」(仮称)というタイト
ルの本だった。私が幼児教育に関心があるという程度のことは、その人は知っていた。しかし
私は、その本を、数ページ読んだだけで、そのまま本箱へしまってしまった。

 読むに耐えない内容の本だった。文章も稚拙(ちせつ)。その人はその人なりに、私を喜ばそ
うと、懸命に考えたにちがいない。そしてその本を選ぶために、書店で、それなりに苦労したに
ちがいない。

 しかし私には、とても、読むに耐えない内容の本だった! ……というようなこともある。

●生きがい

 しかし生きがいといっても、いろいろある。出世主義の人は、出世だけを、生きがいにしてい
る。名誉や地位を求めることだけに、夢中になっている人も、少なくない。

 さらに金儲けを生きがいにしている人もいる。明けても暮れても、考えていることといえば、お
金(マネー)のことばかり。

 そういう人を喜ばすのは、簡単なこと。出世することや、お金儲けにつながるようなことを、し
てあげればよい。そういう話をすればよい。が、それには限界がある。こちら側も、それに同調
できればよい。同調できなければ、こちら側のもつ主義主張と、その時点で、衝突する。頭の
中で、火花がバチバチと飛ぶ。

 出世することが、まちがっているというのではない。お金儲けをすることが、まちがっていると
いうのではない。しかし、それがどうだというのか? ……という疑問を感じてしまうと、同調で
きなくなってしまう。

 たとえばある人は、市内で寿司店を経営していた。味もよく、結構、繁盛していた。で、2代目
のその人は、郊外に、もう1店、支店をもった。が、これが当たった。その人は、こうして、2店
目、3店目……と、店の数をふやしていった。

 その人は、今、県外に、店を構えることに、夢中になっている。そしてその目標に向かって、
がんばっている。つまりそれがその人の生きがいになっている。

 しかしそれが、どうだというのか……?、と、考えてしまうと、その人を助ける気持ちなど、どう
してもわいてこない。あるいは、どうやって喜ばせばよいのか。

●人、それぞれ

 その人の価値は、その人が、何を生きがいにしているかで決まるといっても、過言ではない。
そういう意味では、(生きがい)というのは、崇高であればあるほど、よい。

 出世主義や、金儲けを生きがいにしている人もいる。しかしその一方で、ボランティア活動に
夢中になっている人もいる。学者や研究者のように、真理の探究に夢中になっている人もい
る。……といっても、名誉だけを先に追い求めている学者も、いないわけではないが……。

 さらに全国の山岳めぐりを生きがいにしている人もいれば、冒険を生きがいにしている人も
いる。本を書いたり、私のように、ものを書くのを生きがいにしている人もいる。さらに進んで、
文学や芸術の世界で、真理の探究を生きがいにしている人もいる。

 もちろん子育てを生きがいにしている人もいる。親孝行を、生きがいにしている人もいる。宗
教活動を生きがいにしている人もいる。

 人、さまざまだし、それぞれ。その相手を喜ばそうとしたら、その人が何を生きがいにしてい
るかを、知る。

●適当につきあう

 だからといって、先にも書いたように、こちら側にも、できることと、できないことがある。生き
がいというのは、私たち1人ひとりの、人生観、哲学と深く、かかわりあっている。

 いくら相手を喜ばすといっても、犯罪者に手を貸すわけにはいかない。カルト教の信者に手を
貸すわけにはいかない。

 そこで、私たちは、「適当につきあう」という方法で、こうした問題を回避する。盆暮れのつけ
届けにしても、当たり障(さわ)りのない、菓子や食べ物で、すますとかなど。相手が、それなり
に喜んでくれれば、それでよしとする。またその程度のつきあいで、すます。

 よい例が、年賀状である。

 中には、その年の信念や抱負を書いている人もいるが、たいはんは、決まり文句を、10年
一律のごとく書いている。不特定多数の人に、年賀状を出すには、そのほうが、よいのかもし
れない。無難。つまり、そういうつきあい方になる。

 が、そういうつきあい方に、どれほどの意味があるというのか? こういうのを、一般社会で
は、「虚礼」と呼ぶ。

●虚礼

 ある年齢までは、それもできるだろう。しかしある年齢をこえると、突然、虚礼のもつむなしさ
というか、無意味さが、わかるようになる。

 よい例が年賀状だが、ほかに、法事もある。葬式がある。結婚式がある。ごく最近も、私は、
ある親族の息子の結婚式に出た。その結婚式だが、「式」には、それなりの意味を感じた。
が、披露宴なるものには、どうか?

 はっきり言えば、ただのバカ騒ぎ。私たちジジ、ババは、そういう披露宴の(飾り)でしかない。
そういうジジ、ババの1人として、私は、楽しむというよりは、じっと、それに耐えるしかなかっ
た。

 ここでいう(ある年齢)というのは、それをいう。若いころは、バカ騒ぎができたかもしれない。
しかし、今は、もうできない。

 年賀状にしても、10年1律、20年1律の文章を書いてくる人には、ここ数年、返事を書いて
いない。法事にしても、できるだけ、断るようにしている。

●孝行論

 で、もうひとつの例が、親孝行である。

 知人の中に、1人、猛烈なマザコンタイプの男性がいる。今年、60歳になるのではないか。
会うたびに、「母が……」「母が……」と言う。自分の母が年老いていくのが、よほど、つらいらし
い。

 そうした気持ちは、程度の差こそあれ、みな、もっている。私にも、理解できる。が、その知人
は、自分の母を喜ばすことだけが、生きがいのようでもある。庭先には、母のためにと、小さい
が、茶室まで、用意した。

 が、その一方で、親をうらみ、憎んでいる人も少なくない。親といっても、いろいろある。親子
関係も、さまざま。「自分がそうであるから」という理由だけで、それを相手に押しつけてはいけ
ない。

 その知人は、数か月おきに、母親を車椅子に乗せて、あちこちの温泉めぐりをしている。が、
ここで注意しなければならないのは、ではその知人が、すばらしいことをしているかと言えば、
そうとは言えない。

 その知人には妻がいたが、知人のマザコンぶりに耐え切れず、もう20年ほど前に、2人の子
どもを連れて、離婚している。その知人は、そのとき、自分の妻にこう言ったという。

 「親のめんどうをきちんとみられないような嫁は、この家から出て行け!」と。離婚劇の過程
で、嫁と姑(しゅとめ)のはげしい、葛藤(かっとう)もあったらしい。

 それにもうひとつ。

 そういう知人の孝行ぶりを、母親自身が、喜んでいるかどうかというと、これも疑わしい。私の
目には、たがいに、ただ、ベタベタの親子関係を、つづけているようにしか、見えない。

●再び、生きがい

 正直に告白する。

 私の現在の(生きがい)は、毎朝、こうして、エッセーを書くことである。ただ私は、もともと、そ
れほど、意思の強い男ではない。だから、自分で自分に、ノルマを課している。

 週3回の電子マガジンを発行するというノルマである。1回分を、A4サイズの原稿用紙(40x
36字)で、20枚以上と決めている。

 そうでもしないと、すぐだらしなくなってしまう。が、ノルマを課すことによって、自分で自分をお
いつめることができる。つまりそれが、こうしてものを書く、原動力になっている。

 で、そういう自分を喜ばすものは、何か?

 これまた正直に告白するが、読んでくれる人がいて、はじめて、文章は、文章としての、意味
をもつ。価値をもつ。

 読んでくれる人がいるということが、私には、大きな喜びを与える。

 もちろん中には、私の文章を読んで、怒っている人もいる。みながみな、私の意見に賛同し、
同調してくれているわけではない。で、それを知るひとつのバロメーターが、読者数ということに
なる。

 本で言えば、発行部数ということになる。

 私は毎回、マガジンを発行するたびに、読者がふえていくのを、何よりも楽しみにするように
なった。

●私は私

 これは私の話だが、それぞれの人には、それぞれ、何か、生きがいにしていることがあるは
ず。

 相手を喜ばすということは、まず、その生きがいが何であるかを知る。ただこの時点で、大切
なことは、それが何であれ、批評したり、批判したりしてはいけないということ。

 出世に情熱を注いでいる人がいても、金儲けに血眼(ちまなこ)になっている人がいても、
人、それぞれ。それぞれの人に合わせて、その人を喜ばすことを考えればよい。

 ゴルフが好きな人には、ゴルフの話をすればよい。魚釣りが好きな人には、魚釣りの話をす
ればよい。

 が、それができないとうのなら、適当につきあって、それですます。何も、こちらから対立して
いくことはない。喧嘩を売ることはない。

 ただお願いがあるとするなら、私にも私の(生きがい)がある。主義主張もある。たいしたもの
ではないが、哲学もある。

 そういう私の(生きざま)が気に食わないからといって、私の生きざまを批評したり、批判した
りしないでほしい。あなたがあなたであるように、私は私。あなたの(生きがい)を、私に押しつ
けないでほしい。

●相手を喜ばす

 相手を喜ばすということを考えていくと、結局は、それが自分の問題となって、はね返ってくる
のがわかる。相手の生きがいを知るということは、同時に、自分の生きがいが何であるかを知
ることになる。

 その(生きがい)が、ときには、たがいに衝突する。その衝突したとき、自分の生きざまが、よ
りはっきりとした輪郭(りんかく)をもって、目の前に現れてくる。それまで気がつかなかったもの
が、目の前に現れてくる。

 そして私は、自分にこう問う。

 「私は、いったい、何をしたいのだ!」と。ワイフも、ときどき、私にこう聞く。「あなたは、いった
い、何をしたいの?」と。

 実のところ、それがそこにあることはわかっている。しかし、どうしても(それ)がわからない。
先ほど、読者の数がふえることが、生きがいになっていると書いたが、それについても、「だか
らどうなの?」と問われると、返事のしようがない。

 そこでさらに掘りさげてみると、私のばあい、こうしてものを書きながら、何か新しいことを発
見したとき、そこに喜びを感ずるのを知る。頭の中でモヤモヤしていたものを、吐き出す。それ
は私にとっては、快感でしかない。

 で、あえて言えば、それが私にとっての(生きがい)ということにもなるし、(喜び)ということに
なる。

 さて、あなたにとっての(生きがい)とは何か。(喜び)とは何か。

 もしそれがわからなければ、あなたは、だれに、どうしてもらったとき、一番、うれしいか、そ
れを考えてみるとよい。その第1歩として、だれでもよい。だれかを頭の中に描きながら、その
人を喜ばすには、どうしたらよいか、それを考えてみたらよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

【乗鞍岳】

+++++++++++++++++

台風の動きを心配しながら、
ワイフと2人で、乗鞍岳に
登った。

絶好の登山日和(びより)。
ラッキーだった。

+++++++++++++++++

●どこかへ行こう

 地元の電車会社が経営するバス会社のツアーを利用して、岐阜県の乗鞍岳へ行ってきた。
その会社では、『バンビ・ツアー』と呼んでいる。

 息子たちが子どものころは、よく利用させてもらった。しかし一度、タバコの煙でこりてからと
いうもの、利用するのをやめた。が、先日、問い合わせると、「全車、禁煙です」とのこと。

 行き先は、決めていなかった。何しろ、「どこかへ……」と思いたったのが、数日前。空席が
あるところをさがしたら、そこしかなかった。つまり、乗鞍岳・お花畑ツアー。

 「ここにしようか?」「しかたないわね……」と。

●天気は最高

 料金は、おとな6900円。往復のバス代金と、昼食のお弁当つき。安い!

 が、心配なのは、天気。台風、7号、8号、9号が、相ついで日本に向かって進んでいるときで
もあった。が、7号は、日本列島をかすめて北上。8号、9号は、中国大陸に上陸。

 8月11日は、日本は、おだやかな高気圧にすっぽりと包まれた。朝から、好天気。ワイフは、
傘や雨合羽(がっぱ)まで用意していたが、その必要はなかった。

 私たちは、ウキウキ気分で、バスに乗った。ガイドさんも、乗ったとたん、「今日は、好天気に
恵まれました」と、さかんに言いだした。「おとといのツアーは、キャンセルだったのです」と。

●高速道路

 バスは、一度東名高速道路に入り、岡崎から、東海環状自動車道を通り、美濃へ。そこから
今度は、東海北陸自動車道に乗りかえ、郡上八幡へ。最後は、高山市内を経て、乗鞍岳(のり
くらだけ)へ。

 朝、6時40分に浜松の西インターを出発して、昼前には、乗鞍岳へ着いた。

 いつの間にか、高速道路が網の目のように、張りめぐされていた。「便利になった」と感心す
る前に、「ムダなものばかり作っている」と。東名高速道路は、渋滞ぽくなっていたが、東名高
速道路をはずれると、車は、まばら。対向車となると、ときどき、ポツンポツンと、すれちがう程
度。

私「道路を作るのはいいが、こういう道路は、維持費がたいへんなんだよ」
ワ「立派な道ね」
私「立派過ぎるよ……」
ワ「今は、もっと、車が多くてもいいはずよ」
私「今でさえこんな程度だから、ふだんは、もっと閑散としているはずだよ」と。

 時は、夏休み。すでに盆休みをとっている人も多いはず。

●乗鞍岳

 バスは、どんどんんと山道を登った。曲がりくねった道だったが、それほど気にならなかっ
た。が、登るにつれて、まわりの美しい景色が、つぎつぎと目に飛びこんできた。

 「あれは槍ヶ岳だ」「そのこちらは穂高だ」と。本当は、名前しか知らなかった。その名前を、
口にした。が、乗鞍岳は、見えなかった。

私「この先に乗鞍岳があるのだろうか」
ワ「この先みたいね」と。

 バスは、深い林の中を、相変わらず、何度も方向を変えながら走りつづけていた。

 が、突然、その林が消え、背の低い木々、それにゴロゴロとした岩場が、目に飛びこんでき
た。と、同時に、目の前に、おおいかぶさるように、高い山が見えてきた。

 それが乗鞍岳だった。そのころから、私は、あたりかまわず、デジタルカメラのシャッターを切
った。

●富士見岳

 バスのターミナルは、野球場ほどの広場になっていた。何台かの観光バスが、すでにとまっ
ていた。

 私はバスをおりると、これまた真っ先に、デジタルカメラのシャッターを、切った。

 何とも言えない開放感。青い空、緑の草原、それに澄んだ空気! 近くの山々が、どれも手
が届くような距離に見える。遠近感が、まるでない!

 前に、富士見岳(2817m)、うしろに魔王岳(2831m)。広場から見て、右前方に、コロナ観
測所のある摩利支天岳(2872m)。

 私たちは、迷わず、富士見岳をめざした。これといった理由はなかったが、登れそうな山で、
一番高そうな山が、それだったからである。

●ワイフ

 私の足は、鍛えてある。しかしワイフは、そうでない。10分も歩くと、案の定、ワイフは、ハー
ハーとあえぎ出した。

 「空気が薄いわね」と、何度も言ったが、私には、それはわからなかった。さわやかな高原の
空気。下界では、35度を超えているということだったが、山頂は、肌寒さを感ずるほどだった。

私「休もうか」
ワ「だいじょうぶよ」と。

 こんな会話を繰りかえした。が、気がつくと、私はワイフの手を引きながら、歩いていた。

私「あと半分だ」
ワ「……」
私「ここまで来て、引きかえすこともいやだしね」
ワ「……」と。

 ゴロゴロした岩がむき出しになっていた。道というよりは、その岩を避けながら、山道を登っ
た。

 こういう山では、距離感が、わからない。下にいる人と、山頂にいる人を見比べならが、自分
がどのあたりにいるかを知る。私たちは、その両者が、ほとんど同じくらいに見えるところで、
一休みした。

●山頂

 予想どおりだった。登った甲斐(かい)があった。すばらしかった。気持ちよかった。

 山頂には、10人前後の人たちがいて、それぞれ思い思いの場所に腰をすえたり、そこで立
って写真を撮ったりしていた。風はあったが、春のそよ風といったふうだった。

 夏山では、ここまで晴れる日は珍しいとか。そのありがたさは、よくわからなかったが、私は、
そこで何十枚も写真を撮った。記念にと、だれかに写真も撮ってもらった。

 ワイフは、何度も、「天国みたい」と言った。私も、すなおにそれに同意した。

 「もし、天国があるなら、こういう世界を言うのかもね」と。

ワ「ずっと、このままで時間が止まるといいわ」
私「そうだな。このままでね」
ワ「止まらないかしら」
私「それは無理だよ」と。

 そのとき、少し高いところを、双発の小型機が飛んでいった。

私「英市も、ああして、空を飛んでいるのか」
ワ「昨日のBLOGでは、高度1万フィートまであがったとあったわ」
私「3000メートルくらいだよ」
ワ「ここと同じくらいね」
私「そうだな」と。

 飛行機は見る見るうちに遠ざかって、やがて、私たちはそれを見失ってしまった。

 とたん、また時が流れ始めた。

 私たちは、登ったときとは反対側の道をおりて、広場にもどることにした。「こちらのほうが、
おりやすいみたい」とワイフが、言った。それでそうした。
(06年8月11日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1440)

●ビデオ『男たちの大和』

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楽しみにしていた、ビデオを見た。
『男たちの大和』。

よかった。何度も涙をこぼした。
こまかい点では、いろいろ言いたい
こともある。が、日本映画にしては、
よくやった。

とくに仲代達也の演技が、光った!

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 以前から楽しみにしていたビデオを見た。『男たちの大和』。何とも言えない、切なさに包まれ
た映画だった。最後まで、しっかりと見た。何度も、泣いた。

 こまかい点では、いろいろ言いたいこともある。たとえば、かぎられた予算。それが見ている
私にも、よくわかった。それに脇役たちの、どこか不自然な演技。おおげさな演技。ところどこ
ろで、ふと、白けた。

 しかし仲代達也の名演技は光った。(飛びぬけて、光りすぎかな?)それに長渕剛の歌も光っ
た。(これも飛びぬけて、光りすぎかな?)そういう点では、全体にバランスが、やや欠けてい
た。

 あと1歩、ここにも書いたように、脇役がしっかりと脇をかためていたら、もっとすばらしい映
画になっていただろう。たとえば大和が出航するとき、家族たちが岸壁に立ち、旗を振って見
送るシーンがある。

 力んで、大声をあげているのは、主役とその家族だけ。あとの人たちは、無表情というか、ど
こか間の抜けたような表情で、ただ旗を振っているだけ。そんな感じだった。

 また、飛行機の飛び方が不自然だった。大和の上を、アメリカのグラマン・ヘルキャットが、旋
回して飛び去るシーンが、数回出てきた。糸でつりさげて飛ばしたという感じがよくわかった。
飛行機というのは、水平を保ったまま、旋回はしない。加えて、同じシーンが、何度も使われて
いたのには、がっかり。

 (私は、飛行機には、うるさいのだ!)

 まあ、全体として、今までの日本映画のようなことはなかった。6億円(シネマトゥディ)かけて
つくったという、大和のセットは、たしかにすばらしかった。

 もう少し予算があれば、もっとすばらし映画になっただろう。大和以外のセットは、小さく、また
そのため、アップの画面が多すぎた。ところどころで、舞台劇を見ているような印象すらもっ
た。

 が、どういうわけか、それでも私は、泣いた。先にも書いたように、切なかった。若い水兵たち
が、負けるとわかっていながら、大和に乗りこんでいく。死ぬとわかっていながら、大和に乗りこ
んでいく。それが何とも言えないほど、切なかった。

 最後に……。

 ムダなセリフが多すぎる。

 たとえば最後に、大和が沈んだ海域で、娘役の鈴木京香が、遺灰を捨てるシーン。ああだこ
うだと説明する必要はない。ただ一言、「遺言でした」とだけ言えばよい。

 日本映画の悪いところ……ムダなセリフが多すぎる。おしゃべりが、多すぎる。せっかくすば
らしい演技力をもった女優なのだから、任すところは、任せばよい。……と思った。

 全体の構成というか、流れは、映画「タイタニック」に似ていた。それも残念といえば、残念な
点だった。

 きびしい批評を書いて、ごめん!

【付記】

 よくもまあ、こんなメチャメチャな戦争をしたものだと思う。改めて、それをこの映画を通して、
知った。戦艦ごと、3000人以上もの水兵たちが特攻していくなんて、いくら戦争とはいえ、常
軌を逸している。

 もっと早く、白旗をあげていれば、無駄に死ぬ人も少なくて、すんだはず。映画の中で、「ぼく
たちは、新しい未来をつくるために、死んでいく」というようなセリフがあったが、それこそまさ
に、犬死ではないのか? そんな必要はなかった。

 そう言えば、私のワイフの父親も、死ぬまで、こう言っていた。「申し訳ない」「申し訳ない」と。
映画の中で、仲代達也も、同じようなことを言っていた。

 ワイフの父親は、あのラバウルに第一陣として、出征している。が、日本へ帰ってきたのは、
第一陣で渡った3000人の中の、たったの300人。ワイフの父親は、その300人の中の1人
だった。

 だからことあるごとに、「申し訳ない」「申し訳ない」と言っていた。

 「自分だけ、生きて帰ってきて、申し訳ない」という気持ちをこめて、いつもそう言っていた。

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孫の誠司が生まれたとき、息子が、それについて
書きました。

この原稿を書いてから、もう3年以上になるかも
しれません。

その原稿を、ここに添付します。

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【二男のメモより……】

この前、弟に、どうしたら誠司の父親としてふさわしい人間になれるかっていうのは、結局誠司
が僕に教えてくれるんじゃないか、って思うようなことを言ったけれど、近頃僕が誠司に教えて
あげられること、言葉にできるようなことなんてそれほど重要性がないんじゃないかな、と思
う。 

僕が妻と接するとき、夫としてどうあるべきなのか、それは皆父がぼくの母にどうあったかを僕
の人生から学び、それを受け入れたり拒絶したりしながら僕の接し方に反映しているから分か
るんだと思う。しかし、僕は二男として生きる意味が良く分からない。息子とは何なのか? 父
親とどう接していくものなのか? よく分からない。 

ぼくの人生には祖父、祖母といった人物がほとんど存在しない。僕は父が僕の祖父と一緒に
いるのを見たことがないし、僕の父は僕に「父」や「夫」が何であるかを教えてくれたけれども、
「息子」とか「孫」が何であるのかはほとんど空白のままだ。僕は、それが僕の息子として生き
る意味の曖昧さの原因なのだろうかと思う。 

義理の父(ジム)の家へ滞在するとき、ぼくはいつも彼と彼の父の関係から目が離せない。空
を飛ぶのを夢見ていた人間が、あるとき急に空を飛べるようになった感覚だろうか? ロイス
(ジムの父)は高齢で、もうあまり身の回りのことができないのだけれど、会うといつも昔のリト
ルロックの話や、彼が太平洋戦争中に、艦船でペンキ塗りの仕事をしていた話などおなじみの
話ばかりを繰り返す。

ジムはロイスを軽蔑しているようだけれど、好き嫌い、なんてことは僕には関係ない。僕は彼ら
が「関係している」という事実そのものに学ぶべきことがあるような気がする。目のあわせ方、
話の聞きかた、食事中にお茶のお変わりを出すタイミング、そういったような事の中に、「父」と
「子」があって、今の僕にはいったいそれにどういう意味があるのか言葉にはできない。けれど
もそこになにか重大なものがあることは僕の血と魂から感じる。 

僕は、誠司にはぜひ、僕と父との関係の中に何かを見てもらいたい。僕が誠司に僕の父につ
いて話すとき、彼に僕の表情を見て欲しい。僕が父と話をするとき、彼に僕らが何をどう話して
いるのか、テレビゲームをしながらでも耳にして欲しい。つまり、僕が父と関係している、という
事実そのものが彼の人生の一部にあって欲しい。 

父と祖父だけではなくて、あらゆる人と人との関係こそ、彼がこの世で学ぶ一番大切なことだと
思うけど、今日はそんな当たり前のことがふと頭に残った。

【宗市へ……、はやし浩司より】

 お前のエッセーを読んでいたとき、関係ないことかもしれないが、こんなことが頭の中に浮か
んだ。

 すべてを戦争の責任にすることはできないが、半世紀前の日本は、本当に貧しかったよ。そ
れがわからなければ、戦後の日本の、古い写真を見ればよい。

 ラムネ(国産)が、一本、5円の時代のときにね、バヤリースオレンジが、100円だった。それ
がね、店の一番奥の棚の上に、誇らしげに並べてあったよ。

 それを見ながら、ぼくは、「あんなの買う人がいるのだろうか」と思いつつ、「どんな味か、一
度、飲んでみたい」と思った。結局は、一度も飲まなかったけれどね。

 家族旅行などというのは、小学6年生までに、一度だけだよ。たったの一度だけ。しかもね、
行ったところが伊勢。ぼくらは、「お伊勢参り」と呼んでいた。

 旅館といっても、当時の旅館は、おおぜいの人との相部屋。そこで父は酒を飲んで暴れてし
まい、夜中のうちに、岐阜のほうへ帰ってきてしまった。

 悲惨な少年期だったけれど、今から思うと、ぼくの父も、台湾で、アメリカ軍と戦い、腹に貫通
銃創を受けている。九死に一生どころか、千死に一生だね。ははは。それで心に、深いキズを
負っていた。今で言う、PTSDだね。夜中に、よくうなされて、暴れた。

 父親として、誠司の祖父として、じゅうぶんなことをしてあげられないのは、申し訳ないと、い
つも思っている。しかしこうまで時代が変るとは、このぼくでさえ、予想さえしていなかったよ。ホ
ント!

 しかし、まあ、お前の祖父は、お前が生まれる前に死んでいる。祖母にしても、日本とアメリカ
とでは、歴史的な背景もちがうだろう。ぼくたちが、デニーズの家族と同じことができなかったか
らといって、あるいはしていないからといって、それはそれではしかたないことではないかと思っ
ている。(弁解がましいが……。)

 まあ、お前はお前で、元気でやりなさい。いろいろさみしい少年期を送らせたことは、悪かっ
たと思う。まあ、その分、誠司に、心豊かな少年期を送らせるよう、がんばればよい。

 たった今、晃子が高校の同窓会から帰ってきた。何でもない生活に見えるかもしれないけれ
ど、これがぼくにとっては、きわめて大切な生活だよ。明日は英市が、オーストラリアから帰っ
てくる。たった今、「これから飛行機に乗る」という連絡が入った。

 30年前、50年前には、こんな生活は、考えられなかった。夢だった。今の生活は、そんな夢
のような生活だよ。ぼくにとってはね。そう、毎日、その気になれば、腹いっぱい、ごはんが食
べられるだけでも、ぼくには、すばらしい生活だよ。毎週、その気になれば、車で、ドライブがで
きるだけでも、ぼくにはすばらしい生活だよ。

 幸か不幸か、(たぶん、不幸なのだろうが)、お前たちは、そういう貧しさを知らない。その分
だけ、今の価値がわからないのかもしれないね。

 いやね、25年前、自分の家を建てたとき、そこに水洗便所があるのを知ったとき、ぼくは、
毎日、それをみがいていたよ。それまでは、どこでも、ボットン便所だったから……。ときどき
は、そういう視点からも、日本を見て、家族を見てほしいよ。とても悲しいことだが、そのアメリ
カと日本は、60年前には、殺しあっていたんだよ。ぼくらには、少しだけど、そのしこりは、まだ
残っているよ。

 つまりお前が、アメリカ人になると言ったとき、ぼくは、そのしこりを、心の中で、つぶさねばな
らなかった。その苦痛は、多分、お前には理解できないものだろうね。もしぼくの父、つまりお
前の祖父が今、生きていたら、祖父は、お前たちの結婚は、絶対、認めなかっただろうね。が
んこで、生真面目な人だったからね。

 ぼくが子どものころでさえ、「天皇」と呼び捨てにしただけで、頭を殴られたよ。今のお前から
見ればおかしいと思うかもしれないけれど、しかしぼくは、ぼくの父が、なぜそうであったかにつ
いて、今なら、父の気持ちが理解できるよ。

台湾でも、父の友人のほとんどが、アメリカ軍によって殺されている。晃子の父親は、もっと悲
惨だったよ。ラバウル島での戦闘がどういうものであったかは、お前も知っていることと思う。

晃子の父親は、3000人の部隊の一人として、ラバウルに向かい、帰ってきたときには、300
人もいなかったそうだ。日本へ帰ってきてからも、死んだ戦友たちに申しわけなくて、小さくなっ
て生きていたそうだ。

 だから今、二つの気持ちが、ぼくの中にある。メジャーな気持ちとしては、「だから戦争は、く
だらない」という思い。もう一つは、マイナーな気持ちとして、「孫がアメリカ人というのは、どうい
うことだ」という思い。

 すべてを戦争の責任にするわけにはいかないが、今、ぼくたちが、お前たち家族に対して、
祖父らしいこと、祖母らしいことをできないからといって、……この話はやめよう。グチになる。
これからもがんばるよ。よき父親、よき祖父になれるように、ね。

 本当のところ、ぼくたちが見せることができなかった「家族」というものを、デニーズさんの家
族が、お前に見せてくれていることについては、感謝している。喜んでいる。まあ、元気でやり
なさい。

 晃子も、ぼくも、今、望むことは、いつまでもお前たちが、今のまま、幸福であること。

 ではね、バイ! また何かよいものを見つけたら、送るよ!

++++++++++++++++++++

もう1作、ワイフの父親について
書いた原稿を添付します。

私は、ワイフの父親を、心から尊敬して
いました。

内容が少しダブるかもしれませんが、
お許しください。

++++++++++++++++++++


●嫌われる老人

 これから先、この日本は、超高齢者社会を迎える。はっきり言えば、老人だらけの国になる。
しかしこれは、これからその老人になる私たちにとっては、深刻な問題である。

 理由の第一。

 社会にとって、老人が、「お荷物」になるということ。「粗大ゴミ」という言葉を使う人もいる。

 医療費や社会生活費の増大など、若い人たちのへの負担は、ますます大きくなる。もうすで
に今、パンク(破産)状態だと言う人もいる。そのうち、「医療費がしっかり払えないようなら、あ
なたはもう用なしですから、早く死んでください」と言われるようになるかもしれない。

 理由の第二。

 日本型、家族社会の崩壊。昔は、二世代、三世代同居住宅がふつうであった。若い人が老
人の世話をするというシステムが、まだ機能していた。

 しかし今、そのシステムは、崩壊した。それはしかたないとしても、それにかわる受け皿整備
が、遅れてしまった。これからは、ひとり暮らしの老人が、ますますふえる。その分だけ、孤独
な老人がふえる。

 こうした超高齢社会を前にして、私たちは、どうすればよいのか。

 要するに、若い人たちに、嫌われず、役にたつ老人になるということ。つきつめれば、そこへ
結論が飛ぶ。

 そこでまわりの老人たちを観察してみる。あなたのまわりの老人たちでもよい。すると、いろ
いろなタイプに、分類できるのがわかる。

(1)趣味、道楽型(毎日、道楽ざんまいで日を過ごす)
(2)引きこもり型(ほとんど社交せず、とじこもる)
(3)旅行、社交型(外出が多く、旅行ばかりしている)
(4)家族、孫育て型(家庭に入り、孫育てに没頭する)
(5)仕事、現役型(生涯、現役人間。仕事ばかりする)
(6)奉仕、献身型(他人のために奉仕活動をする)
(7)病弱、闘病型(病気ばかりしている。その繰りかえし)
(8)無益、無害型(いるのかいないのかわからない状態)
(9)権威、威圧型(過去の肩書きや役職をカサに着て、いばる)
(10)孤独、孤立型(ひとり暮しをする。友人もいない)

 ざっと思いつくまま、あげてみたが、もちろん複合型もある。状況や相手に応じて、変わると
いうこともある。

 しかし重要なことは、老人は老人として、その存在感をもたねばならない。人生の先輩とし
て、また経験者として、つぎの世代の人たちに、道を示せるようでなければならない。

 が、悲しいかな、事実は、逆である。この日本では、老人は、ないがしろにされている。で、そ
の責任はといえば、むしろ、老人自身にある。老人になるまでに、それなりの準備と努力をして
いない。決して、老後の資金だけの問題ではない。その結果として、この日本では、年々、老
人の影は、ますます薄くなってきている。

++++++++++

【例1】

 A氏は、今年、75歳。健康である。公団を退職してから、20年になる。妻も準公務員をして
いて、やはり退職してから、15年以上になる。

 そのA氏についていえば、どこか偏屈なところはあるが、性格は温厚。知的で、もの知り。長
い間、どこか別々の生活をしてきたということもあり、夫婦仲は、それほど、よくない。しかし他
人の目から見ると、ごくふつうの夫婦。

 A氏の趣味は、盆栽。庭から、二階の物干し台まで、盆栽が、ぎっしりと並んでいる。妻の趣
味は、刺繍(ししゅう)と料理。二人の子どもがいたが、すでに独立。都会で、結婚して生活して
いる。

 そんなわけで、A氏夫婦は、けっしてぜいたくな生活ではないが、そこそこに、優雅な生活を
楽しんでいる。毎月のように、旅行会の旅行に参加し、年に、2、3度は、海外旅行にもでかけ
ている。

【例2】

 B氏は、55歳まで、中規模の工場に勤めていた。そのあと、家業の農業を引き継ぎ、今にい
たっている。現在、79歳。

 若いころから、町の世話役として活躍。今は、祭の屋台の新造に情熱を注いでいる。屋台と
いっても、新造すると、1500万円もかかる。地元の自治会長を歴任し、このところ、毎晩のよ
うに、金策のため、あちこちを動きまわっている。

 通りで会うたびに、「今夜は、A地区の寄りあいがあってねエ」と、酒の入った赤い顔で、私に
あいさつをしてくれる。

【例3】

 C氏は、市役所を退職するとまもなく、軽い心筋梗塞で倒れた。幸い、そのあとのバイパス手
術が成功した。で、それからもう27年。が、健康というわけではない。

 「私の体は、病気のデパートみたいです」と言って、C氏は笑う。現在、83歳。

 年齢も年齢だが、このところ、数か月に一度は、救急車の世話になっている。軽い脳梗塞も
併発して、言葉もままならないような状態がつづいている。

 趣味は、とくにない。山を歩きながら、山草を集めたりしている。あとは、毎日、こまごまとした
家事のみ。もともと器用な人で、電気器具をなおしたり、家具を自分でつくったりしている。

+++++++++++

 以上、A氏、B氏、C氏の3人を考えてみた。もちろんみな、架空の人物である。私が、勝手に
想像した。

 しかしこれら3氏は、恵まれた人たちである。じゅうぶんな退職金と、じゅうぶんな年金を手に
している。が、老人が、みな、この3氏のようであるとは、かぎらない。そういうことは別にして、
好かれる老人は、B氏であり、そうでない老人は、A氏やC氏ということになる。

 実際、「好かれる老人」のナンバーワンは、健康であること。どんなアンケート調査をしても、
そういう結果が、出てくる。が、実際には、それだけでは足りない。この世界では、「人に迷惑を
かけないから、いい老人」ということにはならない。また、それだけに甘えてはいけない。

 そこでさらに、老人のもつ問題点を整理してみる。

(1)依存性(だれかに頼ろうとする)
(2)閉鎖性(自分のカラにこもる)
(3)隠遁(いんとん)性(世捨て人になる)
(4)独断性(人の意見に耳を傾けない)
(5)権威主義(老人は偉いという意識が強い)
(6)絶対意識(親・絶対教の信者である)
(7)懐古主義(何かにつけて、過去がよかったと口にする)
(8)否定主義(「今の若いものは……」と若い世代を否定する)
(9)虚無主義(何ごとにも無関心。世の不幸を笑う)

 ほかにも老人特有の自己中心性もある。しかしこうした自己中心性は、若いときからの引き
ずっているだけで、老人になったからといって、自己中心性が現れるわけではない。

 もちろんボケによる、症状もそれに加わる。アルツハイマー型のボケになると、がんこになっ
たり、融通がきかなくなったりする。無関心になったり、繊細さがなくなり、他人に対して、鈍感
になったりする。

 こうした状態になるのを覚悟するなら、生きザマは、二つに一つしかない。

 「我、関せず」と、(嫌われる・嫌われない)などを考えずに生きるか、あるいは、周囲の人た
ちに好かれるように生きるか、である。

 が、実は、もう一つの生きザマがある。

 「だからどうなの?」と自分に問いかけながら、生きる、生きザマである。つまり自分自身に、
いつも、生きる理由を問いかけながら、生きる。

 つまり、好かれる老人は、いつも「だからどうなの」という部分が、はっきりしている。そうでな
い老人は、そうでない。ただ無益に、長生きをしているだけ。しかしそういう人生に、どういう意
味があるというのか。そういう人が、長生きをしたところで、それが、どうだというのか。

 今年死んでも、来年死んでも、同じ。ただ生ているだけ……という人生には、意味がない
(?)。生きる以上は、そこに何らかの意味がなければならない。

 その生きる「意味」がここでいう、「だからどうなの」という部分になる。

 最後に、私の義父(ワイフの父親)について書く。

 義父は、戦時中は、ラバウル島にいた。3000人いた部隊だったが、生きて帰ってきたの
は、たったの300人! そういう戦争を経験している。

 その義父は、生きている間中、「オレは、一度、死んで、命をもらった」が、口ぐせだった。
が、その義父が、胃がんになった。

 病院へ行くときは、すでに手遅れ。最期を予期していたのかもしれない。身辺の整理を静か
にしてから、家を出た。

 そして私たちが見舞いに行くと、いつも、ベッドの上で正座をして、座っていた。義父は、ただ
の一度も、弱音も、泣き言も言わなかった。「さみしい」とも、「つらい」とも、言わなかった。最後
の最後まで、そのままの様子だった。

 で、いよいよ最期の日。手術は、転移がひどいということで、開腹はしたが、そのまままた縫
いなおされてしまった。

 私はいろいろな人の死を見てきたが、私の義父ほど、堂々たる最期を見たことがない。最期
の最期は、みなの見ている前で、自分で延命器具を手ではずした。そしてそのまま静かな眠り
についた。

 私たちは、つまりあとに残されたものたちは、そういう生きザマの中から、何かを学ぶ。義父
は、それをしっかりと、私たちの脳裏に焼きつけてくれたが、それが、あるべき、私たちの老後
の姿ではないかと、私は、思う。義父は、老後を生きるとき、「だからどうなの?」という部分を、
いつも、大切にしていた。

 このテーマは、これから先、自分の問題として、ゆっくりと考えてみたい。

【補記】

 おいしいものを食べる……だから、どうなの?
 すばらしい車に乗る……だから、どうなの?
 楽しい思いをする……だから、どうなの?

 長生きをする……だから、どうなの? それがどうしたというの?

 老人たちよ、元気なら、まだ体が動かせるなら、そしてじゅうぶんな知力があるなら、みんな
に、その「命」を還元しようではないか。つぎの世代の人たちのために、何かをし、何かを残し
ていこうではないか。

 ただ優雅な隠居生活をしていてはいけない。
 趣味三昧(ざんまい)の生活をしていてはいけない。

 そうでないと、本当に私たちは、その「粗大ゴミ」になってしまう! あるいは結局は、そうする
ことが、老人自身のためにもなる。生きがいにもなる。

 知人のI氏(神奈川県F市在住)は、いつもこう言っている。「その年齢をすぎたら、自分の人
生を、つぎの世代を生きる人たちに、還元(かんげん)しなければいけません」と。

 私はこの「還元」という言葉が好きである。決して、自分の「命」を、自分だけのモノと、思って
はいけない。

++++++++++++++++

もう1作、以前、こんな原稿を
書いたことがあります。

それを添付します。

++++++++++++++++

●だから、どうなの?

「だから、どうなの?」という部分がないまま、戦後、日本は、日本人は、ただがむしゃらに生き
てきた。マネーを追い求めてきた。それがまちがっていたというのではない。そのおかげで、今
に見る、この日本ができた。

恩師のT先生は、いつも口グセのように、こう言っている。「日本は、いい国じゃあ、ありません
か」と。私が何か、日本について批判めいたことを口にしたときだ。

しかし、今、多くの日本人は、それではいけないと思い始めている。たしかに生活は豊かになっ
た。が、しかし、何か、ものたりない。そのものたりなさの理由は、何か、と。

今日の朝、私は、老人問題について、考えた。その中で、こう書いた。

たしかに日本人は、長寿になった。しかし、だから、それがどうなの?、と。

これはたいへん危険な意見でもある。「命」の否定にもつながりかねない。へたをすれば、老人
不要論にまでいってしまう。

さらに(だから、どうなの)論を、どんどんと拡大していくと、生きていること自体の否定にもつな
がりかねない。事実、うつ病か何かになって、自殺を試みる人は、「生きていて、何になる?」と
いうふうに考えるという。

それは、わかる。しかしその一方で、「だから、どうなの?」を考えないまま、突っ走るのも、こ
れまた危険なことである。欲望が欲望を呼びさまし、それこそ際限がなくなってしまう。収拾が
つかなくなってしまう。

一つの例をあげて、考えてみよう。

たとえばあなたは、今、一食、数万円もする料理を注文したとする。とてもおいしい料理だ。珍
しい食材に、特殊な調理法。それを料理した、コックは、全国大会でも、入賞するほどの腕前
をもっている。

あなたはその料理を食べた。おいしいと満足した。が、ここでクエスチョン。

だから、それがどうなの?

 せっかくすばらしい料理を食べたのだから、その分、何かがなければならない。この広い世
界には、満足に食べ物も手に入れることができる、苦しんでいる人が、何億もいる。その「何
か」がないまま、ただ「おいしかった」では、すまされない。あるいは、それですませて、本当に、
よいのだろうか?

 この段階で、「ああ、おいしかった」ですませてしまうと、今度は、あなたは、さらに高級な料理
を求めて、さまよい歩くかもしれない。その結果、肥満、そして成人病(ギョッ!)。

 「命」というのは、実は、私のものであって、私のものではない。ウソだと思うなら、あなたの手
指をじっと、ながめてみることだ。あなたは、その手指を自分のものだと思っているかもしれな
いが、あなたが、その手指を作ったわけではない。

 あなたの「命」は、あなたを超えた、はるかに大きな(流れ)の中で、過去から未来へと流れて
いる。あなたはその一部、その一瞬を、みなと共有しているにすぎない。

 「だから、それがどうなの?」と考えることで、あなたは、その命の流れの中で、立ち止まるこ
とができる。あなたよいうより、あなたの中に流れる、人間という命の欲望に、ブレーキをかけ
ることができる。

 本来、動物の行動には、すべてムダがないはず。昆虫でも、魚でも、鳥でも……。彼らの行
動のすべてには、「だから……」という部分が、はっきりしている。

 私たち人間も、そういう原点に、一度、立ちかえってみる必要がある。

 ……とまあ、むずかしい話を書いてしまったが、あなたも、ためしに、何かをしたら、「だから、
どうなの?」「それが、どうしたの?」と、自分に、問いかけてみてほしい。その時点で、ものの
考え方が一変するかもしれない。

 おいしいものを食べた……だから、どうなの?
 すばらしい車を買った……だから、どうなの?
 旅行に行って、温泉に入った……だから、どうなの?


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】

●明日は、8月15日

 いよいよ明日は、8月15日。日本のK首相は、Y神社を参拝するつもりでいるしい。ふだん
は、ヘラヘラとした感じの人だが、それは表ヅラ。あれでいて、結構、狂信的なところがあるよ
うだ。

 ここへきて、中国や韓国の動きが、にわかにあわただしくなってきた。「中止を要請する」(中
国)、「強硬手段に出る」(韓国)と。

 反対派の人たちは、都内でローソク行進をしたという(13日)。一方、右翼の街宣車が、反対
派のデモの人たちと衝突したというニュースも、伝わっている。

 「参拝するかどうかは、個人の勝手」とがんばる、日本のK首相。
 「ミサイルを飛ばすかどうかは、K国の勝手」とがんばる、K国の金xx。

 まったく正反対のことを言っているようだが、中身は、同じ。脳みその構造は、同じ。今回は、
参拝することによるデメリットが、あまりにも大きすぎる。それがわかったら、政治家、なかんず
く総理大臣は、日本全体の国益を優先させて、参拝を中止すべきである。

 ……しかしこの無力感は、いったい、どこからくるのか? 日本のK首相が、Y神社で、「反戦
の誓い」とやらをすればするほど、極東アジア情勢が悪化する。戦争へと一歩ずつ、近づいて
いく。

 そこまでいくことはないにしても、中国や韓国で、反日運動がさかんになる。この8月、MTさ
ん一家が、上海へ転勤することになった。いろいろと仕事がやりにくくなるだろうなと、私は心配
する。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1441)

【男と女】

++++++++++++++++

男と女は、出会い、
そして関係をつくる。

が、出会いといっても、
電撃的な出会いもあれば、
そうでない出会いもある。

そうでない出会いは、
どこかさみしげで、淡く、
そして切ない……。

++++++++++++++++

●パック旅行

 先日、地元のバス会社が運営する、パック旅行で、大坂まで行ってきた。私とワイフは、前か
ら5列目にすわった。席は、バス会社のほうで、あらかじめ、決められていた。

 幸い、子ども連れは、1組だけ。私は、休みには、できるだけ、子どもの姿を避けるようにして
いる。とくに、こうした旅行ではそうだ。仕事がら、子どもがいると、気になってしかたない。

 ほかに何組かの団体、それに老夫婦。姉妹らしき女性たちや、兄弟らしき男性たちのグルー
プもあった。前日まで、23人の参加と聞いていたが、フタをあけてみると、40人にふえてい
た。

 私たちはバスに乗ると、まず、あれこれ食べ物をテーブルに並べたり、もってきた雑誌を、椅
子のアミに入れたりした。ワイフは、コンビニで買ってきた、おにぎりと、ペットボトルの水を、自
分のテーブルの上に置いた。

 さあ、旅の開始!

●前の席の男と女

 私たちの横には、兄弟らしき2人の男たちが座った。兄弟ということは、顔の骨格から、すぐ
わかった。よく似た顔をしていた。うしろには、60代はじめと思われる夫婦。そして前には、1
組の男女が、すわった。

 しかしその男女、どこか、ぎこちない。おかしい。それに、ぜんぜん、楽しそうでない。ガイド
が、それなりにおもしろい話をしても、まったく反応しない。心は上の空といった、感じ。

男性のほうは、かなり女性に気をつかっているよう。しかし肝心の女性のほうは、表情をこわ
ばらせたまま、つんとしていて、そっけない。

 言い忘れたが、男性のほうは、45〜7歳というところか。女のほうは、40歳前。あるいはもう
少し若い。髪の毛の様子から、年齢差は、10歳近くあったかもしれない。

 私が、「?」と思っていると、ワイフも、そう思ったらしい。耳のそばで、ワイフが、こう言った。

ワ「夫婦ではないみたいね」
私「うん……」
ワ「どういう人たちかしら……」
私「まるで、見合いした直後みたいだ」と。

●夫婦

 どこかでその男性と女性は、出会ったらしい。そこでたがいの心を確かめるために、いっしょ
に、デートをすることになった。

 ……というのが、私たちの出した結論だった。

 が、男性のほうは、ボサボサ頭。後頭部はややはげ、白髪が混じっていた。それに不健康に
太った顔つき。油顔でギラギラしていた。一方、女性のほうは、こざっぱりとした服装。それに
紺色の、色鮮やかなTシャツを着ていた。

 夫婦だったら、こうしたチグハグな服装には、ならない。私たち夫婦もそうだが、夫の服装
は、たいてい妻が決める。そのため、夫婦の服装は、どこか似てくる。

 で、同業者の直感というか、私は、その男女が、ともに、学校の教師だと思った。それをワイ
フに伝えると、ワイフも、同意した。

 「2人とも、先生みたいだね」「そうね」と。

 パーキングエリアで、バスをおりたとき、それは疑いから、確信へと変わった。

●親密度

 2人は、歩いてトイレの方に向かった。しかしその間隔は、夫婦のそれではなかった。心理学
の世界でも、たがいの親密度は、たがいの距離でわかるという。親密度が高ければ高いほ
ど、当然、その距離は、短くなる。そうでなければ、長くなる。

 男のほうはともかくも、女のほうは、男を避けているといった感じだった。距離は、どんな歩き
方をしても、腕と腕が触れあうという距離ではなかった。もちろん、手をつなぐということも、なか
った。

私「あれじゃあ、ダメだよ」
ワ「何が……?」
私「女性のほうが、避けている……」
ワ「そうだね。ぜんぜん、楽しそうでないし……」
私「じゃあ、なぜ来たんだろ?」
ワ「そうね……」と。

 どこかでその男性と女性は、出会った。そういう出会いを用意する会は、多い。で、ある程度
意気投合した男女は、つぎのステップへと進む。いっしょにお茶を飲んだり、旅行をしたりす
る。

 この段階で、そのまま別れる男女も多い。が、中には、そのまま、ラブラブの関係になり、結
婚へと結びつけていく男女もいる。

●電撃性

 男女の出会いにも、そういう意味では、いろいろある。電撃に打たれるような、はげしい衝撃
を感じて恋愛関係に陥る男女もいれば、長い時間をかけて、恋愛関係に陥る男女もいる。

 若いときであれば、そのまま結婚……というケースも少なくない。が、年齢を重ねると、そうは
いかない。電撃の量そのものが、少なくなる。若いときは、数10万ボルトの電撃かもしれない
が、30代、40代ともなると、それが、数万ボルト、さらには、数千ボルトへと、減っていく。

 またそれほど、長つづきしなくなる。

 最近の研究では、こうした電撃性すらも、脳内ホルモンで説明されるようになってきている。
わかりやすく言えば、年齢を重ねれば重ねるほど、その脳内ホルモンの分泌が少なくなる。弱
くなる。

 加えて、男女の出会いも、打算的になる。功利的になる。老い先を考えたものになる。若いと
きのように、何もかも忘れて、無我夢中に……というわけには、いかない。

 バスの前に座った男女には、その電撃性が、感じられなかった。淡々というか、たがいに、冷
めた感じだった。とくに、女性のほうが、そうだった。

●旅

私たちは私たちで、小さな旅行だったが、それを楽しんだ。ガイドの指示に従って、バスをお
り、そして乗るだけ。どこをどう回ったかについては、別の機会に書くことにして、それなりに楽
しかった。

 こうした旅行のよい点は、気が楽なこと。バスの中では、眠りたいときに、眠ることができる。
道に迷うこともない。それに安い。7000円ほどの料金で、12時間程度の旅ができる。それに
昼食つき。観光案内つき。

 ゆいいつの欠点は、プライバシーがないこと。それに運が悪いときには、騒々しいグループと
同乗することもある。今回も、となりに座った兄弟らしき、2人の男は、よくしゃべった。ときお
り、携帯電話もかけていた。

 が、そのうち、この問題は解決した。2人が、どっさりともちこんだコミック漫画を読み出した
からだ。

 私たちは、旅のほとんどを、うたたねをして過ごした。

●印象

 バスは、そのとき、帰路を急いでいた。盆も近い夏休みということで、高速道路での渋滞が心
配されたが、それはなかった。ほどよい疲れが、ぼんやりとした眠気を誘った。時計を見ると、
もう夕方の7時になっていた。

 相変わらず、前の席の男女は、そのままだった。多少女性のほうが、心を開いたかなという
印象はもったが、それは儀礼的なものであったかもしれない。「好きではないが、嫌われるの
も、いや」というような感じだった。

 こう書くからといって、私たち夫婦が、その男女のことを心配していたからではない。関心が
あったからでもない。ただ、気には、なった。「どういう関係なのだろう?」という疑問が、そのま
ま、そうなった。

 まあ、あえて言えば、旅の肴(さかな)のようなものだった。(ごめん!)

 もし夫婦であれば、気にはならなかっただろう。しかしその男女には、夫婦特有の自然らしさ
が、まったくなかった。恋人どうしという雰囲気も、まったくなかった。

私「これじゃあ、ダメだね」
ワ「そうね」
私「男のほうが、つまらない。もっと、女性を楽しませなくてはいけない」
ワ「きっと、まじめな人なのよ」
私「あとは、別れ方をみればわかるよ。バスをおりたとき、どういう雰囲気で別れるか、それで
わかる」と。

●別れ

 が、バスがターミナル駅に近づくころ、ものすごい、尿意。私は、こうした旅では、いつも、2リ
ットル入りのペットボトルを、2本、用意する。暑い夏場は、もっと飲む。

 私は、ときどきそういう自分を、海生人のように思う。いつも水を飲んでいる。が、トイレの問
題もある。バスは、ほぼ1時間間隔で、トイレ休憩をしてくれる。が、それでも間にあわないとき
がある。

 うまく自分をコントロールしながら、水を飲む。

 が、あと1時間ほどで浜松……というところあたりで、私は、ペットボトルの水を、ぐいぐいと飲
み始めた。油断した。しかし、これがいけなかった。

 ワイフが、「あなた、だいじょうぶ?」と何度も、声をかけてくれた。私は、「ああ」「うん」と答え
るのが、精一杯だった。

 で、それは何とか、間にあった。バスを一番におりると、私はそのまま、その裏手にあるデパ
ートのトイレへと、駆けこんだ。

 で、その帰り道。私とワイフは、こんな会話をした。

私「どうだった?」
ワ「あら、見ていなかった」
私「いっしょに歩いて行ったか?」
ワ「見ていなかった……」
私「だめじゃないか、ちゃんと、見ていなければ……」

ワ「だって、あなたのことが心配で……。まにあったの……?」
私「7割、床で漏らしてしまったよ」
ワ「エーッ?」
私「ウソだよ、ウソ」と。

 それきり、その男女のことは忘れた。私の印象では、あのままあの男女は、別れてしまった
だろう。男と女の出会いは、どこか心ときめくものだが、しかし同時に、別れるときは、淡く、切
ない。

 そのときも、その切なさを、心のどこかで強く感じた。駐車場にとめてあった車に乗りこむと、
ワイフは、クーラーを入れた。その冷気が、心地よかった。

 おしまい。


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1442)

●めぐみさんは、xx婦?

韓国のH首相が、こう言った。

「強制動員や拉致は北朝鮮であれ他の国であれ、あってはならない。日本は(横田)めぐみさ
んの話で堂々としていたいのであれば、韓国にいる、数多くのめぐみさんのような方々の問題
を先に解決しなければならないだろう」と。そして従軍慰安婦問題の解決に消極的な日本政府
を批判したという(朝鮮N報よりそのまま)。

 日本側の報道では、「この見解は拉致と強制連行問題などを同一視する、K国の主張と似通
っており、日本の拉致被害者家族らの反発を呼びそうだ」(時事通信)とある。

 微妙かつ、遠まわしな言い方だが、つまりめぐみさんは、xx婦だった、と。

 しかしこの言葉は、最後の最後まで、使ってはならない言葉だった。だれしも、心の奥底で、
そういう心配はしていたかも知れないが、それでも、使ってはならない言葉だった。

 このH首相のもつ言葉の衝撃度は、計り知れない。とくにめぐみさんの両親には、そうだろ
う。

 「何てことを、言う!」というのが、私の率直な感想。

 ……といっても、今日、8月15日、日本のK首相は、Y神社を参拝した。中国や韓国は、矢継
ぎ早に、日本攻撃のボルテージをあげ始めている。

 こういう動きを見ていると、「戦争って、こうして始まるんだな」と思う。私たちが知らない世界
で、声の届かない世界で、政治家たちが、たがいに意地を張りあいながら、つっぱりあう。

 そのつっぱりあいが、やがて戦争へと、つながっていく。

 しかし私の力は、ここまで。いろいろ訴えてきたが、私のようなものがいくら叫んでも、私の声
など、そのままどこかへかき消されてしまう。だれにも届かない。

 何とも言えない、無力感。虚脱感。空虚感。それに敗北感。

 これでは、日本のK首相のしていることは、K国の金xxと同じではないか。たがいに、相手の
立場で、ものを考えることができない。いや、その前に、日本のK首相のY神社参拝を、いちば
ん喜んでいるのは、K国の金xxのはず。

 これで金xxは、国際的な孤立から抜け出ることができる。

 日本よ、日本人よ、私たちが進むべき道は、前にある。自由と平等と平和。それを目指して、
前に進む。けっして、うしろではない。前にある。

 どうして日本よ、日本人よ、それがわからないのか!

 話はそれたが、それにしても、めぐみさんが、xx婦とは!

 韓国のH首相は、決して口にしてはならない言葉を口にしてしまった! 決して言ってはなら
ないことを、言ってしまった!

 いくら冷静であれと言われても、この言葉だけには、冷静でいられない。バカヤロー!
(06年8月15日記)

Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【今日・あれこれ】

●台風

 またまた台風が、2つ。この日本をめざして、北上している。台風、10号と11号である。

 さっそく、ひまわりの衛星写真で、台風の様子を見る。で、驚いたことに、巨大な雨雲が、あ
のK国の上空に、居座っているではないか。あわせて気象庁の天気図を見ると、前線がK国を
横切っていることもわかった。

 今ごろK国は、またまた猛烈な集中豪雨に見舞われているはず。しかも台風10号は、日本
列島を横切ったあと、朝鮮半島に向かうらしい。台風というのは、高気圧のヘリに沿って、移動
するそうだ。

 K国の人たちには、まことにもって、お気の毒としか、言いようがない。


●昼寝

 昼食後、けだるい睡魔に襲われた。で、そのまま寝室に入って、昼寝。

 10分ほど……と思って寝たが、気がついてみると、2時間。午後1時ごろ、横になったのだ
が、起きてきて時計を見ると、3時!

 昨日は、旅行で、大坂まで行ってきた。その疲れが出たのかもしれない。気温は30度を軽く
超えていたが、扇風機ひとつで、気持ちよく眠ることができた。

 何か夢を見ていたのだが、起きると同時に忘れてしまった。

 何だったのだろう? あまり楽しい夢ではなかったような気がするが、どうしても、思い出せな
い。


●3Dチャット

 3Dチャットというのが、ある。バーチャルな世界で、それぞれの人が別のキャラクターになり
すまして、会話をするというものだ。

 さっそくチャレンジしてみる。が、どうもうまくいかない。が、暑いせいか、根気がつづかない。
「こんなものか」と思いながら、画面を閉じる。もう少し涼しくなったら、再度、一度チャレンジし
てみよう。


●ハチの巣

 山荘の屋根の軒下に、大きなハチの巣ができている。先週、ワイフが見つけた。

 今夜、そのハチの巣を、退治するつもり。下からライトで照らしながら、殺虫剤を、容赦なくぶ
っかける。

 私は、ほかの動物たちは、殺すことができないが、毒ヘビと、ハチだけは、平気で殺すことが
できる。容赦しない。結構、私は、残忍な性格の持ち主のようだ。

 ところでそのハチだが、体は足長バチに似ているが、それよりは、大きい。それに全体に黒
い体をしている。数年前、ワイフを刺したのは、そのハチだ。町に住むハチと、山の中に住む
ハチは、種類が明らかにちがう。


●アルツハイマー病

 90歳を超えた母が、このところ、少し様子がおかしいという。そこで介護をしている姉が、病
院でみてもらうと、アルツハイマー病の心配があるとのこと。

 そう言えば、この数年、母は、他人にはともかくも、私たち子どもに向かっては、ズケズケとひ
どいことを言った。私に、「お前は、地獄に落ちる!」と言ったこともある。

 で、そのアルツハイマー病だが、2種類あるそうだ。

 家族で遺伝するタイプと、そうでないタイプ。原因はいろいろだが、これといって治療法はない
そうだ。ただ80歳を過ぎると、約15%の人が痴呆症になり、そのうち、何割かは、このアルツ
ハイマー病だそうだ。

 姉は、「90歳だから……」「でも、口と手だけは、達者で……」と言っていた。私は、「施設に
入れようか?」と言いかけたが、やめた。


●三男が松山に

 九州の航空大学にいる三男から、たった今、電話がかかってきた。何でも、今日、四国の松
山(愛媛県)まで、教官と行ってきたらしい。

 航空大学生は、九州の地を離れることができないことになっているのだが、今日は、特別に
許可がおりたそうだ。

 松山では、タッチ&ゴー(タッチー)だけだったそうだが、どこかうれしそうだった。何かの技術
認定試験だったらしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1443)

【権威主義】

+++++++++++++++

いまだに権威主義的なものの考え方をする人は、
多いですね。

しかも最近の傾向としては、その権威主義を
復活させようとする動きすらあります。

その種の本が、書店の店頭を飾り、
ベストセラーとなっています。

このままでよいのでしょうか?

+++++++++++++++

●権威

今でも、権威や権力をカサに着て、威張り散らす人は、少なくない。傍(はた)から見れば、バカ
げているのだが、当の本人には、そうではない。威張ることが、その人にとって、ステータスに
なっている。生きる哲学になっている。

 このタイプの人は、異常なほどまでに、上下意識にこだわる。たった1年でも先輩は、先輩、
後輩は後輩というような考え方をする。組織の中では、地位や、役職にこだわる。そして目上
の人(?)には、必要以上にペコペコし、目下の人(?)には、必要以上に、威張り散らす。

 こうした上下意識は、まさに封建時代の亡霊と考えてよい。その亡霊が、軍国主義時代にな
って、軍人たちによって、引き継がれた。そしてそれが、戦後は、政治家や官僚、さらには、会
社という組織の中で生き延びた。

 もっとも、今の若い人たちにこんな話をしても、理解できないかもしれない。威張るということ
が、どういうことかさえ知らない人も多い。いや、知らないなら知らないでも、かまわない。しかし
それも知らないまま、過去を美化してはいけない。安易な復古主義に陥っては、いけない。

 で、今でも、威張り散らす人は、少なくない。ときどき政治家の中に、そういう人を見かける。
胸を張り、ふんぞり返って歩いたりする。そしてことあるごとに、「無礼だ!」とか、「失敬だ」とか
言ったりする。こういうのを、私の世界では、「権威主義」と呼んでいる。いくつかの特徴があ
る。

(1)強い上下意識
(2)職業による差別意識
(3)男尊女卑思想
(4)見栄、体裁、世間体意識
(5)「偉い人」に代表される、偉人意識
(6)度を越した礼儀意識
(7)権威、権力への隷属意識

 ざっと思いつくまま書きあげたが、こうした権威主義は、そのまま民主主義の発展をさまたげ
る、「敵」と考えてよい。権威主義がはびこればはびこるほど、民主主義は、後退する。あるい
は、権威主義は、民主主義の完成度を知るためのバロメーターにもなる。

 よい例が、あの『水戸黄門』である。

 今でも、あのテレビ番組は、20%前後の視聴率を稼いでいるという。しかしそれは同時に、
日本の民主主義の未熟さを示していると考えてよい。三つ葉葵の紋章を見せただけで、まわり
の者たちは、地面に額(ひたい)をこすりつけて、それに答える。

 実にバカげた世界なのだが、日本人には、そうは思わない。そういう場面を、「痛快」と思う。
つまりそれだけ、ものの考え方が権威主義的というか、権威に対して、あこがれをいだいてい
る。

 実を言うと、私も、子どものころは、あの『水戸黄門』をよく見た。痛快に思ったこともある。し
かしあるときから、体が、それを受けつけなくなった。で、今は、見れば見るほど、バカらしく思
う。今の私なら、三つ葉葵の紋章を見せつけられても、多分、こういい返すだろう。

 「だから、それがどうしたというの?」と。

 もっとも、そんなことを江戸時代に言えば、そのまま首をはねられたにちがいない。私は、そ
れがバカげていると言う。

 が、ここで誤解しないでほしいのは、だからといって、こうした権威主義を否定しているのでは
ない。歴史の中のある過程では、こうした権威主義が必要な時代もあった。江戸時代も、そう
いう時代だったかもしれない。

 上下意識によって、社会秩序を維持することができる。またそれがあったからこそ、時の為
政者たちは、江戸時代という(時代)をつくることができた。が、それは同時に、多くの人たち
の、犠牲の上に成り立った時代とも言える。

 いかに多くの人たちが、その上下意識という意識の中で、押しつぶされたことか! その話
はまた別の機会に考えることにして、この上下意識を支えるのが、「権威」ということになる。

 「どうして上の者が上なのか?」「下の者が下なのか?」……それを説明するのが、権威とい
うことになる。

 「上だから、上」「下だから、下」と。

 この権威主義が家庭に入ると、「親が上で、子が下」「夫が上で、妻が下」「兄が上で、弟が
下」となる。理由など、ない。あるわけがない。

 しかし今、この権威主義が、再び、日本の社会の中に台頭し始めている。それについて書い
た本が、ベストセラーとなり、書店の店頭で、平積みにされている。中には、「武士道こそ、日本
人のアイデンティティ」と説く本もある。あるいは「英語教育不要論」を説く本もある。

 こうした復古主義を唱える人たちは、伝統とか文化、さらには「過去」を背負っているだけに、
強い。少なくとも未知の道を歩きつづける私たちより強い。

 しかし、権威主義など、クソ食らえ!

 それがわからなければ、韓国のあのN大統領を見ればよい。何を、ああまで威張っているか
と思うるほど、威張っている。悪しき儒教文明の亡霊を、そのまま引きずっている。多分、N大
統領自身は、それが大統領としてあるべき姿だと思っているかもしれない。が、冒頭にも書い
たように、傍から見れば、バカげている。

 私たちは、前に進もう。道なき道かもしれないが、前に進もう。自由と平等と、そして平和を求
めて、前に進もう!

+++++++++++++++++

2作、以前書いた原稿を添付します。
内容が、少しダブりますが、
お許しください。

若いころ(?)書いた原稿なので、
かなり過激な部分もあります。
あらかじめ、ご承知おきください。

+++++++++++++++++

●権威主義の象徴「水戸黄門」

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えお
ろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。

日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。オース
トラリアの友人はこう言った。

「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス革命以来、あるいはそれ以前から、
欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して15年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。

「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。

一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の
仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像
以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。そしてことあるごとに、先
祖の血筋を自慢した。

Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。ふつうの会話をしてい
ても、「M家は……」と、「家」をつけた。そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自
分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間に
ミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。

権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私
は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なもの
になる。そのため子どもは心を閉ざす。

Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。こういうケースでは、親が権威主義を捨てるの
が一番よいが、それはできない。権威主義的であること自体が、その人の生きざまになってい
る。それを否定するということは、自分を否定することになる。が、これだけは言える。

もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義
は百害あって一利なし。『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●家族主義

 日本人は、古来より上下意識の強い国民である。男が上で女が下。夫が上で、妻が下。先
生が上で生徒が下、と。

たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という関係をつくる。そしてそれが組織の秩序とな
る。で、この秩序を支えるのが、権威。もともと上下関係には、理由などない。根拠もない。「偉
いものは偉い」という権威が、その関係を支える。日本人はこの権威に弱い。あるいはその権
威にあこがれを抱く。そのよい例が、「水戸黄門」。

水戸黄門の取り巻きが、葵の紋章を見せて、「控えおろう。これが目に入らぬか!」と一喝する
と、周囲の者が、「ははあ」と言って頭をさげる。日本人はそういう世界を「痛快だ」と思う。しか
し水戸黄門は絶対的な善玉だからよいようなものの、もし悪玉だったら、どうする。日本人のこ
とだから、それでも頭をさげるに違いない。実際、秀吉や家康といった圧政暴君たちが、この
日本では必要以上に美化され、英雄になっている!

 この権威主義は、教育にも暗い影を落としている。「大学の教授」というだけで、一も二もな
く、日本人は皆、頭をさげる。しかし実際には、大学の教員の世界は、完全に年功序列の世
界。「そこに人がいるから人事」が、長年慣行化している。

幼児教育の世界に限ってみても、実際幼児教育などしたこともないような教授が、その道の権
威者になっている。日本でも有名なA教授は、たった数か月間、幼児の心理を調査しただけ。
またN教授は、ラジオのトーク番組の中で、ふとこう口をすべらせている。「私は三人の孫で、
幼児教育を学びました」と。たった三人である! 

ある幼稚園で講演をしたときのこと。「S大学附属幼稚園」という名前がついていたので、「教授
たちは来ますか」と聞くと、そこの副園長がこっそりこう教えてくれた。「たまにね。来てもお客様
ですから」と。そういう教授でも、「教授」というだけで、皆、頭をさげる。

 家族主義というと、小市民的な生き方を連想する人は多い。99年の春、文部省がした調査
でも、「一番大切にすべきもの」として、約40%の人が、「家族」をあげている。が、これに対し
て、さっそくその夜、あるテレビの解説者が、「日本人は小市民的になった」と評した。

とんでもない。とんでもない誤解である。

家族主義は、新しい国家観、新しい愛国心にもつながる。昔の日本人は、国、つまり天皇制と
いう体制を守るために戦場に出かけたが、これからはもうそういう時代ではない。家族の集合
体としての「国」を考える。そしてもし戦争することがあるとするなら、私たちは「家族を守るため
に」戦う。愛国心も、そこから生まれる。

 日本は欧米化したとよく言われるが、それは表面的な部分だけ。日本は日本。しかも旧態依
然のまま。今でも日本は、世界から見ると、「わけのわからない国」ということになっている。欧
米化が必ずしもよいというわけではないが、世界の人に安心してつきあえってもらえる国民に
なるためには、欧米化は避けて通れない。

これからは「家族を大切にします」「一番大切なものは家族です」と、日本人も胸を張って言う時
代になった。家族主義は、決して恥ずかしいことではない。 


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●敏感な子ども

++++++++++++++

敏感な子ども。昔は、
「神経質な子ども」といった。

++++++++++++++

 A子さん(年長児)は、見るからに繊細な感じのする子どもだった。人前に出るとオドオドし、
その上、恥ずかしがり屋だった。母親はそういうA子さんをはがゆく思っていた。そして私に、
「何とかもっとハキハキする子どもにならないものか」と相談してきた。

 心理反応が過剰な子どもを、敏感児という。そしてその程度がさらに超えた子どもを、過敏児
という。敏感児と過敏児を合わせると、全体の約30%が、そうであるとみる。

一般的には、精神的過敏児と身体的過敏児に分けて考える。心に反応が現れる子どもを、精
神的過敏児。アレルギーや腹痛、頭痛、下痢、便秘など、身体に反応が現れる子どもを、身体
的過敏児という。A子さんは、まさにその精神的過敏児だった。

 このタイプの子どもは、

(1)感受性と反応性が強く、デリケートな印象を与える。おとなの指示に対して、ピリピリと反応
するため、痛々しく感じたりする。
(2)耐久性にもろく、ちょっとしたことで泣き出したり、キズついたりしやすい。
(3)過敏であるがために、環境になじまず、不適応を起こしやすい。集団生活になじめないの
も、その一つ。そのため体質的疾患(自家中毒、ぜん息、じんましん)や、神経症を併発しやす
い。
(4)症状は、一過性、反復性など、定型がない。そのときは何でもなく、あとになってから症状
が出ることもある(参考、高木俊一郎)。A子さんの場合も、原因不明の発熱に悩まされてい
た。


 結論から先に言えば、敏感児であるにせよ、鈍感児であるにせよ、それは子どもがもって生
まれた性質であり、なおそうと思ってなおるものではないということ。無理をすればかえって逆
効果。症状が重くなってしまう。

が、悪いことばかりではない。敏感児について言えば、その繊細な感覚のため、芸術やある特
殊な分野で、並はずれた才能を見せることがある。ほかの子どもなら見落としてしまうようなこ
とでも、しっかりと見ることができる。

ただ精神的な疲労に弱く、日中、ほんの10数分でも緊張させると、それだけで神経疲れを起
こしてしまう。一般的には集団行動や社会行動が苦手なので、そういう前提で理解してあげ
る。……というようなことは、教育心理学の辞典にも書いてある。が、こんなタイプの子どももい
る。

見た目には鈍感児(いわゆる「フーテンの寅さん」タイプ)だが、たいへん繊細な感覚をもった
子どもである。つい油断して冗談を言い合っていたりすると、思わぬところでその子どもの心に
キズをつけてしまう。

ワイワイとふざけているから、「パンツにウンチがついているなら、ふざけていていい」と言った
りすると、家へ帰ってから、親に、「先生にバカにされた」と泣いてみせたりする。このタイプの
子どもは、繊細な感覚をもちつつも、それを茶化すことにより、その場をごまかそうとする。心
の防御作用と言えるもので、表面的にはヘラヘラしていても、心はいつも緊張状態にある。先
生の一言が思わぬ方向へと進み、大事件となるのは、たいていこのタイプだ。

その子ども(小3男児)のときも、夜になってから、親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。
「パンツのウンチのことで、息子に恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。敏感かどうかという
ことは、必ずしも外見からだけではわからない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 敏感
な子ども 神経質な子供 神経質な子ども 感受性の強い子供 敏感児 神経衰弱)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●子育ての宿命

 緘黙児の子ども(年長女児)がいた。症状は一進一退。少しよくなると親は無理をする。その
無理がまた、症状を悪化させる。私はその子どもを一年間に渡って、指導した。指導といって
も、母親と一緒に、教室の中に座ってもらっていただけだが、それでも、結構、神経をつかう。
疲れる。このタイプの子どもは、神経が繊細で、乱暴な指導がなじまない。

が、その年の年末になり、就学前の健康診断が始まった。が、その母親が考えたことは、「い
かにして、その健康診断をくぐり抜けるか」ということ。そしてそのあと、私にこう相談してきた。

「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえます。ですから心
理療法士にかかることにしました。ついては、先生(私)のところにもいると、パニックになってし
まいますので、今日限りでやめます」と。「何がパニックになるのですか」と私が聞くと、「指導者
が二人では、私の頭が混乱します」と。

 緘黙児に限らず、子どもの情緒障害は、より症状が重くなってはじめて、前の症状が軽かっ
たことに気づく。あとはその繰り返し。私が「3か月は何も言ってはいけません。何も手伝っては
いけません。子どもと視線を合わせてもいけません」と言った。が、親には一ヶ月でも長い。一
週間でも長い。そういう気持ちはわかるが、私の目を盗んでは、子どもにちょっかいを出す。

一度親子の間にパイプ(依存心)ができてしまうと、それを切るのは、たいへん難しい。情緒障
害は、半年、あるいは1年単位でみる。「半年前とくらべて、どうだったか」「1年前は、どうだっ
たか」と。1か月や2か月で、症状が改善するということは、ありえない。が、親にはそれもわか
らない。

最初の段階で、無理をする。時に強く叱ったり、怒ったりする。あるいは太いパイプを作ってし
まう。きわめて初期の段階で、つまり症状が軽い段階で、それに気づき、適切な処置をすれ
ば、「障害」と言われることもないまま終わる。

が、私はその母親の話を聞いたとき、別のことを考えていた。はじめて母親がその子どもを連
れてきたとき、私はその瞬間に緘黙児とわかった。母親も、それを気づいていたはずだ。しか
し母親は、それを懸命に隠しながら、「音楽教室ではふつうです」「幼稚園ではふつうです」と言
っていた。

それが今度は、「心理療法士にかかっていると言えば、学校でも、ふつう学級に入れてもらえ
ます」と。母親自身が、子どもを受け入れていない。そういう状態になってもまだ、メンツにこだ
わっている。もうこうなると、私に指導できることは何もない。私が「わかりました。ご自分で判
断なさってください」と言うと、突然取り乱して、「そんな冷たいこと言わないでください!」と。

 子どもの情緒障害の原因のほとんどは、親にある。親を責めているのではない。たいていの
親は、その知識がないまま、それを「よかれ」と思って無理をする。この無理が、症状を悪化さ
せる。それはまさに泥沼の悪循環。そして気がついたときには、にっちもさっちもいかない状態
になっている。

つまり親自身が、自分で失敗して、その失敗に気づくしかない。確かに冷たい言い方だが、子
育てというのはそういうもの。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1444)

【今日・あれこれ】

●地球温暖化

 地球温暖化は、年を追うごとに、顕著になってきた。今では、だれも、それを疑う人はいな
い。で、このまま温暖化が進めば……。

 その一例というわけではないが、現在、中国の重慶市周辺では、深刻な干ばつに襲われて
いるという。気温も、45度を超える日がつづき、約1000万人の人たちが、水不足に苦しんで
いるという(8月16日)。

 報道されている写真を見るかぎり、住民の人たちは、穏やかそうな顔をしている。みなで助け
あっているかのように見える。しかしその裏で、どんな地獄絵図が繰り広げられていることやら
……? それを想像するだけで、ゾッとする。

 幸いなことに、本当に幸いなことに、日本は島国。周囲を、海に囲まれている。そのため気候
異変といっても、重慶のような、極端なことには起きない。が、日本だけが無関係というわけに
は、いかない。

 立秋も過ぎたというのに、この日本でも、連日、35度を超える猛暑がつづいている。昔とちが
って、台風の動きも、メチャメチャ。今度の台風10号も、四国から九州に向かって、進んでい
る。

 こうした無数の「?」が重ねながら、地球温暖化は、ますます進む。

 中国の重慶は、そのまま、日本の近未来の姿ということになる。


●ガソリンが、1リットル、144円

 「まだ余裕があるかな……?」というところで、ガソリンを満タンにした。車は、トヨタのビッツ。
ワイフの愛車。

 で、請求された金額を見て、びっくり。何と、5000円弱。

 ガソリンの値段が、あがっている。見ると、1リットル、144円とある。つまりは、その分だけ、
アメリカのドルが、暴落したとみてよい。言うまでもなく、原油は、そのドルで売買されている。

 それにしても、みなさん、大きな車に乗っている! 近くのショッピングセンターでさえ、大型の
バンで乗りこんでくる。しかも若い人ほど、大きな車に乗っている。

 「どうして、あんな若い人が、あんな大きな車に乗れるのだろう」と、ときどき思う。ついでに、
「さぞかし、ガソリン代が、たいへんだろうな」とも思う。いらぬ心配かも知れないが……。


●漁船が、銃撃される

 北海道の漁船が、ロシア側の海域でカニを密漁中、ロシア側に発砲された。1人の船員が、
そのため死んだ。

 日本側は、「何も、そこまでしなくても!」と、現在、ロシア側に抗議している。一方、ロシア側
は、わかりやすく言えば、「何度取り締まっても、言うことをきかないから、発砲した」と、弁解し
ている。

 「日本側の海域では、乱獲のためか、漁獲量が、少ない。それでロシア側まで行って、密漁
する漁船が、あとを絶たない」(新聞報道)ということらしい。最初は、「密漁ではない」「組合長
をしているような人が、密漁など、するはずがない」とがんばっていた、漁業関係者たちも、船
に3トンものカニが残っていたと知ってからは、口をつぐんだ。(ロシア側の発表によれば、大半
のカニは、逃げる途中、海へ捨てたという。)

 なお「何も、そこまでしなくても!」という日本側の抗議に対しては、ロシア側は、「たまたま弾
が当たってしまった」と、これまた弁解している。「波が高く、弾が当たってしまった」と。

 日本側の漁業関係者たちは、「これからはこわくて、その海域では操業(=密業)もできない」
(新聞報道)と話しているという。

 何とも、あと味の悪い事件である。歯切れの悪い事件である。もともとあの海域は、日本の領
土。そういう視点に立って、ロシア側も、もう少し謙虚になってほしい。が、もしそうなればなった
で、乱獲につづく乱獲で、そのあたりから、カニは、消えてしまうかもしれない。

 今回の事件は不幸な事件だが、日本側も、反省すべきところは反省しないと、この種の事件
は、これから先も、また起きるだろう(06年8月17日)。


●痴呆症

 いくらがんばっても、アルツハイマー型痴呆症は、病気だから、なる人は、なる。防ぎようがな
い。あのレーガン大統領も、それになったという。『ベン・ハー』で主役をした、チャールス・ヘス
トンも、それになったという。

 私のよく知っている人に、川崎敬三という司会者がいた。昔、NETで、『アフタヌーン・ショー』
という番組の司会者をしていた。私は、その火曜日版の企画を書いていた。

 その川崎敬三も、それになったという。

 みんな、それなりに、頭のよい人たちで、しかもそれなりに頭をよく使っていた人たちである。

 で、このところ、痴呆症、なかんずく、アルツハイマー型痴呆症が、気になってしかたない。つ
い先ほども、ワイフとこんな会話をした。

私「なあ、お前。ぼくって、最近、ヘンじゃないか?」
ワ「どこか?」
私「感情が平坦になったとか、がんこになったとか、ジコチューになったとか……?」
ワ「別に……」
私「そんなことないよ。たとえばぼくの書く原稿が、浅くなったとか、つまらなくなったとか……。
そういうことはないか?」
ワ「あなたは、だいじょうぶよ。毎日、ちゃんと頭を鍛えているから……」と。

 このところ、思考力が低下してきたように思う。暑さのせいもあるのだろうが、根気もつづかな
い。ものを考えても、すぐ、めんど臭くなってしまう。

 そんなわけで、このところ毎日のように、インターネットで、アルツハイマー型痴呆症の検索ば
かりしている。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●同時的二重人格

+++++++++++++++++

多かれ少なかれ、だれにも
二重人格性はある。

二重人格というほど、重篤(じゅうとく)な
ものではないかもしれない。

しかし、だれにも、ある。

が、本当の問題は、大半の人は、
それに気づかないでいること。

気づかないまま、本来の自分でない
自分の引き回されてしまう。

+++++++++++++++++

 ふつう二重人格というときは、人格そのものが入れかわると同時に、別人格になったとき、も
う一方の人格の記憶がなくなってしまうことをいう。つまり記憶の連続性がないということ。よい
例が、スティーブンソンが書いた、『ジキル博士とハイド氏』である。

 ジキル博士のときのジキル博士は、ハイド氏としてしたことは、まったく覚えていない。が、ひ
とたび、ハイド氏になると、今度は、ジキル博士のしたことは、まったく覚えていない。

 が、そうでない二重人格もある。別人格になりながら、もう一方の人格を、意識している二重
人格がある。記憶も、そのまま残っている。これを「同時性二重人格」とか、「同時的二重人格」
という。

たとえばあるきっかけで、夫婦げんかになったとたん、その人は別人格になるのだが、同時
に、もう一方の人格が心の別のどこかにいることを知っている。あるいは感じている。そして夫
婦げんかをしながらも、別の自分が、「やめろ」「疲れるだけだ」「仲なおりしろ」と命令したりす
る。

 もちろん記憶は、そのまま残る。夫婦げんかが終わったあとも、けんかをしている最中のこと
をよく覚えている。

 こうした二重人格性、つまり二重人格というほど重いものではないが、そういう傾向があると
いう意味での二重人格性というのは、多かれ少なかれ、だれにも、ある。何かの拍子に、本来
の自分でない自分が、顔を出し、その自分が支配的になったりする。

 原因は、幼児期に経験した、心的外傷(トラウマ)、というのが、通説になっている。

 この時期に、何か耐えがたい心的経験をすると、それから逃れたいという一念が、その人の
二重人格性を形成する。そしてそれがさらに極端になったのが、同時的二重人格であり、さら
に極端になったのが、二重人格ということになる。

 親の虐待、暴力、家庭騒乱など。ふつうでない不安感や恐怖感、さらには慢性的な心配ご
と。はげしい離婚騒動が、引き金になることもある。またここでいう虐待には、性的虐待も含ま
れる。

 この二重人格性の特徴は、ただ単に、人格が入れかわるということだけではなく、価値観、
人生観まで、入れかわってしまうということ。ある男性(50歳)は、妻とけんかを始めたとたん、
別人格になってしまうという。

 「それまでの自分は、さみしがりやで、ひょうきん者なのですが、妻と言い争いになったとた
ん、南米のジャングルでも、ひとり旅ができるのではないかと思えるほど、自分が強くなったよ
うに感じます」と。

 しかし本当の問題は、当の本人が、二重人格性をもちながら、それに気づかないこと。その
つど、「私は私」と、自分で自分を納得させてしまう。この点でも、自分を知ることは、本当にむ
ずかしい。

 そこであなた自身は、どうか? 簡単なチェックテストをしてみよう。

(1)カッと興奮したようなとき、別人のように、暴れたり、暴言を吐いたりする。
(2)別人のようになったとき、ときに破滅的なものの考えかをし、自暴自棄になる。
(3)別人のようになったとき、それまでの価値観とはちがった価値観をもつ。
(4)別人のようになったとき、好きだったはずの人まで、嫌いになったりする。
(5)別人になったとたん、それまで心のどこかでがまんしてきた不平、不満が顔を出す。
(6)別人になったとたん、グチぽくなり、過去にこだわりやすくなったりする。
(7)しばらくすると、またもとの自分にもどるが、まるで他人事のように忘れてしまう。
(8)もとの自分のもどっても、気分の悪さだけが、心のどこかに残ることが多い。

 こうした症状がみられたら、あなた自身の二重人格性を疑ってみたらよい。たいていの人
は、こう言う。「そのときは、どっちの自分が、本当の自分なのか、わからなくなります」と。

 つまり本来の自分(生活時間の大半を占める自分)と、別人格(何かの拍子に、短期間だけ
そうなる自分)とでは、ものの感じ方、考え方、感情の表れ方まで、変わってしまう。そしてそれ
ぞれが、たがいに、もう一方の人格を否定する。

 そこで重要なことは、まず、自分が、そういう自分であることに気づくこと。まずいのは、気づ
かないまま、同じ失敗を繰りかえすこと。

 そういう自分であることに気づけば、これは心の病気一般に通ずることだが、あとは、時間が
解決してくれる。1年とか2年では、無理かもしれないが、10年とか20年をかけて、時間が解
決してくれる。

 なおつぎのようなことにも注意しなければならない。

 たとえば夫側か妻側か、どちらか一方に、二重人格性があったとする。当然、このタイプの夫
婦のばあい、夫婦げんかも、並はずれて激しいものになりやすい。で、こうした夫婦げんかを
繰りかえしていると、長い時間をかけて、もう一方の妻側か夫側のほうも、二重人格性をもち
はじめることがあるということ。

 こうした(伝染性)は、心の病気では、よく観察される。よく知られた例に、うつ病がある。家族
のうちのひとりがうつ病になったりすると、いつの間にか、家族全員が、同じうつ病になったりす
ることがある。もちろん、親子の間でも、伝染することがある。ほかに、最近、私が聞いた例で
は、こんなのもある。

 ある会社のある課で、課長がうつ病になったという。で、しばらくすると、その課のほぼ全員の
社員まで、うつ病になってしまったという。

 二重人格性についても、そういう例は多い。そんなわけで、この問題は、あなた個人の問題
ですますというわけにはいかない。繰りかえすが、そのためにも、まず、自分を知る。すべては
ここから始まる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 二重
人格 同時的二重人格 同時性二重人格 多重人格 心的外傷 トラウマ)

++++++++++++++++++++

私が、私自身の二重人格性に気づいたのは、
私が、45歳くらいのときではなかったか。

それまでは、私は、いつも、「私は私」と
思っていた。

しかし私の中には、たしかにもう1人の私が
いる。

そんな私について書いたのが、つぎの原稿
である。

日付を見ると、03年とあるから、もう、3年前の
原稿ということになる。

++++++++++++++++++++

●多重人格性

 私が自分の多重人格性に気づいたのは、45歳もすぎてからではないか。それまでは、多重
人格者の話を聞いても、他人ごとのように思っていた。そして自分とは、関係のない話だと思っ
ていた。

 しかし私は、多重人格者かもしれない。いや、こう断言するのは危険なことだが、程度の差こ
そあれ、どんな人でも、そういう側面があるのかもしれない。たとえば怒りを感じたとき、ただ怒
りを感ずるのではなく、人格そのものまで、いつもの自分とは違ってしまう。

 ふだんの私は、冗談好きで、おだやか。お茶目なところがあって、さみしがり屋。よく「おもし
ろい人」と評される。人を笑わすのがうまい。これを「私A」とする。

 が、怒りを感ずると、別人のように強くなる。これを「私B」とする。そういうときは、「これからヨ
ットを買って、ひとりで太平洋を横断してやる」とさえ思うことがある。こわいものが消える。相手
が暴力団の親分でも、平気で直談判できるような気がする。

 その怒りを感ずるときというのは、いろいろなばあいがある。よくあるのは、ワイフとの夫婦げ
んか。あるいは、何か目の前で不正なことを見せつけられたようなとき。頭にカッと血がのぼる
と、見境なく、相手に向って行ってしまう。

 ただおかしなことに、そういうとき、もう一人の「私A」が、別のところにいて、「私B」を見ている
ということ。そしてときどき、「やめろ」とか、「よせよせ」とブレーキをかける。が、怒りを感じてい
るときの「私B」は、「うるさい」「黙っていろ」とか言って、それをはらいのけてしまう。

 もしこのとき、つまり「私B」になったとき、「私A」であるときの記憶が消えたりすれば、人格障
害者(?)ということになる。が、私のばあい、まだ記憶に連続性があるから救われる。どちら
の自分になっても、もう一方の自分の言ったことや、したことをよく覚えている。

 そこでさらに自分を観察してみると、「私」という人間は、それぞれのとき、それぞれの人格に
なって微妙に変化するのがわかる。ワイフに話すと、「だれにでもそういうことはあるわよ」と言
ったが、本当にそうか? 他人の心の中に入ったことがないのでわからないが、しかしこういう
ことはある。

 ふだんの「私A」が、ふだんの生活をしていたとする。そこで何か事件が起きたとする。そのと
きは、私はそれを笑ってすます。しかし、何かのことで、「私B」とか、「私C」とかになったとき、
私はあれこれ、それをほじくりかえして、そのことについて怒る。たぶん「私A」が気にしないこと
でも、「私B」とか、「私C」が別のところにいて、それを気にしているためではないか。

 たとえば私の大切にしている何かが、だれかにこわされたとする。そのときは、「まあ、いい
や」という思いで、それを笑ってすます。しかしずっとあとになって、「私B」になったようなとき、
「どうして、あれをこわしたのだ!」と、相手を責めたりする。

 こうして考えてみると、人間の人格には、多重性があるということになる。私という1人の人間
だけをみて、そう判断するのは、ここにも書いたように危険なことである。しかしいろいろな人に
会って話を聞いてみると、みな、同じようなことを言う。私のワイフですらも、何かのことで不愉
快になったとたん、まったくの無口になってしまう。ものの言い方がつっけんどんになり、何かに
つけて反抗的になったりする。

 この問題は、私自身のこととも関係しているので、これから先、もう少し、ほりさげて考えてみ
たい。今日はこれから何人かの人に会わねばならないので、ここまで。

 ところで今の私は、多分「私C」。論理的で、冷静。学者風で、紳士。しかしこの「私C」という
のは、どこか本当の私ではないような気がする……。多分、仮面をかぶった私かな……?
(030620)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1445)

●言葉による虐待

+++++++++++++++

言葉による虐待が、問題になって
います。

暴力による虐待も問題ですが、
言葉による虐待も、それ以上に
問題とすべきです。

+++++++++++++++

 虐待にも、いろいろある。暴力による、肉体的な虐待のほか、無視、冷淡、拒否的態度など。
しかしこれらと同列、それ以上に深刻に考えてよいのが、「言葉による虐待」である。

 ある母親と話していたときのこと。A子さん(小6)の弟(小3)のB君の話になった。そのとき、
B君の母親は、ふと、「Bは、バカだから」と口をすべらせた。どこかはき捨てるような言い方だ
った。

 いろいろな母親がいるが、自分の子どもを、「バカ」と呼ぶ親は少ない。その言葉が、ずっと
私の耳に残った。

 それから数年後。私はそのB君と、接する機会があった。夏休みになって、まもなくのことだ
った。が、私はB君を見て、驚いた。ナヨナヨしていて、まるでハキがない。オドオドしているとい
ったほうが正確かもしれない。

私が何かを言っても、「ママが、怒るから……」と、力ない声で言った。ときにブツブツと、ひとり
ごとを言い、何を言っているか、わからないこともあった。

 私は、A子さんを通して、B君のことを聞きだそうとした。しかしA子さんの言葉は、さらに衝撃
的だった。

私「B君も、もうすぐ中学生だね」
A「あんなヤツ、嫌い」
私「嫌いって……?」
A「あいつ、バカだもん」
私「でも、あなたの弟でしょ。いっしょに、遊ばないの?」

A「遊ばない」
私「どうして?」
A「私、Bなんて、大嫌い。Bがバカなのは、生まれつきよ」
私「生まれつきって、どうして、それが君にわかるの?」
A「ママが、いつも、そう言っている」と。

 A子さんの母親は、B君を産むとまもなく、離婚。現在の夫は、再婚した夫だった。その母親
にしてみれば、B君は、望まない子ども(unwantede child)だったかもしれない。あるいはその
前後の家庭騒動が、影響を与えたのかもしれない。こういうケースは、少なくない。

 つまり望まない結婚から、望まない子どもを産んだ。その結果として、その子どもに愛情を感
ずることができず、その子どもを、虐待するようになる。これは別のケースだが、「自分を捨て
た男にそっくりだったから……」という理由で、中学生の男の子を虐待していた母親もいた。

 言葉による虐待には、つぎのような特徴がある。

(1)日常的につづく。ささいなことで叱る、怒る。
(2)冷淡、無視、拒否的態度、否定的姿勢。
(3)「あなたはダメな子」式の、人格の否定。子どもへの不信感。
(4)親の命令的な口調、姿勢。子どもに向かっては、服従を強いる。
(5)神経質な過干渉。行動の制限。過関心。

 一方、親は(母親に多いが)、そうした自分の虐待を隠すために、人前では、むしろ子ども思
いの、よい親を演ずることが多い。ことさら子どもを愛していると言う。そして子どもに現れた症
状を正当化するため、「(子どもが萎縮しているのは)、生まれつき」という言葉をよく使う。「うち
の子が、ああなのは、生まれつきです」と。

 しかし生まれたときから、その子どもが萎縮しているかどうかは、熟練した産婦人科医でもわ
からない。「生まれつき」という言葉を使う親は、それだけ卑怯(ひきょう)な親と考えてよい。

 結果、子どもは、大きく、二つのタイプに分かれる。(1)攻撃的に、反発するタイプ。(2)性格
が内閉し、萎縮するタイプ。

同じ兄弟でも、兄が萎縮し、弟が粗放化するというケースも、珍しくない。どちらにせよ、(ます
ます虐待する)→(症状が悪化する)の悪循環の中で、最終的には、行き着くところまで、行く。

 言葉による虐待は、肉体的な虐待とちがい、外からは、たいへんわかりにくい。母親自身も、
それを隠す。あるいは反対に、その反動形成として、むしろ子ども思いの、よい母親を演ずる
ことが多い。心理学の世界には、代理ミュンヒハウゼン症候群※という用語もある。

しかし冒頭にも書いたように、深刻さという点では、肉体的な虐待と同等に考えてよい。

 さらに深刻なのは、その背景に、子どもに対する、憎しみ、嫌悪感があること。こうした感情
が、姿を変えて、子どもを虐待する。つまりこうした感情を克服しないかぎり、言葉による虐待
は、解決しない。ついでに、B君の症状について、当時の記録を、ここに載せておく。

【B君、小6】(私の記録より)

 柔和で、おだやかな表情をしているが、ハキがない。すべてに自信がなさそうで、逃げ腰。
「どんなテレビを見ているの?」と聞くと、「ママが、怒る」と。そしてあとはブツブツとひとり言を
言い始める。意味がよくわからない。

緩慢行動、言葉のオウム返しもみられた。軽い自閉傾向も観察される。何をしたいとか、何を
しなければならないということが、わかっていないよう。

命令には従順に反応するが、自分では何もしようとしない。B君の書いた文字は、異常にきれ
いで、ていねい。最近ローマ字を覚えたらしく、こちらが求めもしないのに、自分からローマ字を
書いてみせてくれた。軽くほめてあげると、はじめてニッコリと笑った。

(注※)代理ミュンヒハウゼン症候群

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親が見せる一連の症候
群を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 はやし
浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 言葉の虐待 
言葉による虐待)

+++++++++++++

もう1作、これと関連した
原稿を掲載しておきます。

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●器用でない心

 Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……ということができるほど、人間の
心は、器用にはできていない。

 こんな事件があった。

 ある母親は、表面的には、やさしく思いやりのある母親を演じながら、その裏で、当時、中学
生だった長男を虐待していた。冷酷、無視、冷淡、拒否的な育児態度など。暴力といっても、言
葉の暴力。それを毎日のように、長男に、浴びせかけていた。

 「お前なんか、早く死んでしまえ」
 「用なし」
「役立たず」
 「お前のような親不孝者は、地獄へ落ちる」と。

 こういうのを代理ミュンヒハウゼン症候群という。ミュンヘハウゼンというのは、18世紀にい
た、男爵の名前に由来する。「ホラ吹き男爵」としても、よく知られている。

このタイプの母親は、たとえば息子が病院へ入院したりすると、医師や看護婦の前では、神様
のようにやさしい母親を演じてみせたりする。背中をやさしくさすってみせたりする。そういうこと
が平気でできる。他人の視線を気にしたとたん、豹変する。

 で、その母親には、もう1人、娘がいた。

 長男とは、10歳近く年齢が離れていたせいもある。が、その娘が、30歳になるころから、母
親の態度が変わり始めた。娘氏はこう言う。

 「私が30歳になるころまでは、母とは割りと良好な人間関係でした。が、そのうち、母の私に
対する態度が変わってきたのを感じました。情け容赦ないというか、冷酷になりました」と。

 理由や事情は、いろいろあるのだろう。親でも、長男に対する育児姿勢と、二男に対する育
児姿勢が微妙にちがうということは、よくある。しかしそれはあくまでも、誤差の範囲。

 冒頭に書いたように、「Aさんに対しては善人で、Bさんに対しては、そうでない。……というこ
とができるほど、人間の心は、器用にはできていない」。母親にしても、長男に対する育児姿勢
と、娘に対する育児姿勢が、大きくちがうということは、ありえない。

 その母親は、長男を虐待しながら、やがてその一方で、娘を、まるで奴隷のように、使い始め
た。

 「私は結婚して、家を出た身分です。でも、そんな私に、ときどき、『うちにきて、庭掃除くらい
しなよ』などと、母は電話をかけてきます。

 そこで私が実家に帰ると、今度は、別人のようにしおらしい顔をして、『お前がいると、助か
る。ありがたいことだ』などと言います。母の心が、さっぱり理解できません」と。

 ここに書いた話は、新潟県に住んでいるUさんという女性からのメールを、まとめたものであ
る。

 しかしつぎのように考えると、その母親の心が理解できるのではないか。

 その母親は、長男や娘に対してですらも、心を開くことができない。新潟県という土地柄もあ
って、親意識、家父長意識が、ことさら強いのかもしれない。ものの考え方が、権威主義的。そ
の母親は、私がいう親・絶対教の信者かもしれない。

 その母親が、なぜ長男を虐待したかについては、わからない。しかしその虐待するという精
神構造が基礎にあって、今度は、娘を奴隷のように使うようになった。一見、バラバラに見える
育児姿勢だが、その精神構造までほりさげて考えると、それが一つの基盤につながっているの
がわかる。

 自分の支配下に入った長男は虐待し、自分の支配下に入らなかった娘については、同情・
依存という手段で、娘を自分の支配下におこうとした。こういうケースは、よくある。決して珍しく
ない。

 さらにその原因はといえば、母親自身の精神的欠陥、あるいは情緒的未熟性によるものと
考えてよい。

 私はUさんに、つぎのような返事を書いた。

 「とてもかわいそうだと思いますが、あなたのお母さんは、子どもを愛せないタイプの女性の
ようですね。あるいは子どもにすら、心を開くことができない。不幸にして不幸な過去(幼児期)
を背負った方だと思います。

 で、虐待の直接的な原因ですが、たとえば望まない結婚であったとか、望まない子どもだった
とか、そういうことがあるのかもしれません。

 さらにその原因は、ここにも書いたように、お母さん自身の不幸な生い立ちがあるのかもしれ
ません。

 ともかくも、今、あなたのお母さんは、あなたの兄に対しては、攻撃的に虐待し、そしてあなた
自身に対しては、依存し、同情を求めながら、あなたを支配下におこうとしています。

 こういうケースは、多いです。そこにも、ここにもあるというほど、多いです。

 先日も、埼玉県の女性から、こんなメールをもらいました。『母は、私の前では、数歩、歩くの
も苦しそうな様子を見せますが、私がいないところでは、スタスタと歩いています。駅で母がスタ
スタと歩いているのを見かけたときは、別人かと思うほど、驚きました』と。

 つまり埼玉県のその女性の母親は、弱々しい老人を演ずることで、その女性を、自分の支配
下におこうとしたのですね。

 実は、代理ミュンヒハウゼン症候群を示す親というのは、もともと子どもも含めて、他人と良
好な人間関係を結べない人と考えてよいのではないでしょうか。それが変質して、そうなる? 
私はそう考えています。

 もう少し、この問題については、別の角度から深く考えてみたいですが、ともかくも、そのよう
に考えていくと、あなたも、あなたのお母さんの心理状態が理解できるのではないでしょうか。

 そういう意味では、あなたのお母さんは、心のさみしい、かわいそうな人ということになります」
と。

 ……と書きながら、こんな問題もある。

 実は、その代理ミュンヒハウゼン症候群だが、一方で、義父母を虐待しながら、世間的に
は、やはり神様のように演じている女性(嫁)もいるということ。

 しかし虐待されている義父母は、その女性(嫁)が、こわくて、それを他人に話すこともできな
い。

 そんな事例も、私のところには、伝わってきている。とても、恐ろしい話ではないか? ホン
ト!
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群)


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

●子どもの整形手術

+++++++++++++++++

子どもの整形手術がふえているという。
中には、その必要性があって、手術を
受ける子どももいる。

しかし最近、急増しているのは、
いわゆる「美容整形」。

ある医院(テレビ報道)では、
この数年だけでも、5〜6倍に
ふえているという。

+++++++++++++++++

 「そういう時代かな?」と思ってみたり、「いいのかなあ?」と思ってみたりする。このところ、子
どもの整形手術がふえているという。

 もちろん中には、その必要性があって、整形手術を受ける子どもがいる。しかし最近、急増し
ているのは、いわゆる「美容整形」。ある美容整形医院(東京都)では、この数年だけでも、そ
の数が、5〜6倍にふえているという。

 もちろん子どもがそれを望んで、手術を受けるわけではない。親が、「そのほうがいい」という
理由で、子どもに手術を受けさせる。たまたま私が見た報道番組では、小学2年生の男児が、
紹介されていた。

 小学2年生の男児だぞ!

 その子どもは、目を大きくするための、二重まぶたにするための整形手術を受けていた。親
は、番組の中で、こう言った。「初対面の人などに、よい印象を与えるためです」と。

 しかし本当に、そうか?

 目にせよ、鼻にせよ、手術で整形したものは、私のような者にも、それとすぐわかる。10
0%、わかる。どこか不自然。どこか不釣あい。で、かえってそういう人の顔を、まじまじと見つ
めてしまう。

 美しいから見るのではない。おかしいというより、ヘンだから見る。

 で、化粧と、整形美容は、基本的な部分で、同じではない。化粧は、そのつど、やりなおしが
きく。しかし整形美容は、やりなおしがきかない。いつか、その整形美容を恥じることだってある
かもしれない。後悔することもあるかもしれない。

 そのとき、その人や、子どもは、どうするのか?

 ……というようなことを考えるだけでも、ヤボ。今は、そういう時代なのかもしれない。またそう
いう時代にさからっても、意味はない。これから先も、自分の子どもに対する美容整形は、どん
どんとふえるだろう。

 ここらで私が、「見てくれを気にするヒマがあったら、もっと中身を磨きなさい」と言ったところ
で、今の時代の中では、焼け石に水。みながみな、その見てくればかりを気にしながら、生きて
いる。子どもの美容整形は、ほんのその一部に、すぎない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●アルツハイマー病

++++++++++++++++

アルツハイマー病には、初期症状の、
そのまま初期症状というのがあるという。

大切なのは、その初期症状のうちに
それに気づき、適切な措置を講ずる
ことだそうだ。

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 アルツハイマー病には、初期症状の、そのまた初期症状というのがあるそうだ。昨日も、中
日新聞のほうに、その記事が載っていた。

(1)感情の鈍磨
(2)自己中心性
(3)思考力の低下など。

 うつろな目つきで、ぼんやりとすることが多くなったら、要注意、ということだそうだ。

 で、この段階で、適切な措置を講ずれば、病気の進行を遅らせることができるそうだ。が、そ
の中でも、もっとも効果的なのが、足などの大きな筋肉を使った運動とか(雑誌「クロワッサ
ン」)。具体的には、ジョギングや散歩など。

 週に3回ほど、汗をじわっとかくほどの運動を、40分くらいするのがよいとのこと(同、雑
誌)。雑誌の中では、運動をする人と、しない人とでは、2〜3倍ほど、発病率がちがうというデ
ータも紹介されていた。

 ほかに、(1)新しいことに興味をもって、チャレンジしていく、(2)脳の運動をするなど。まあ、
このあたりは、常識的なこと、ということになる。

 で、アルツハイマー病のこわいところは、まわりの人たちに迷惑をかけること。本人は、脳の
CPU(中央演算装置)が狂うわけだから、自分では、狂ったことさえわからない。

 別のテレビ番組では、老夫婦が、ともにアルツハイマー病になった例を紹介していた。いわゆ
る(老々介護)の問題である。そのせいかどうか知らないが、このところ、少し、ワイフを見る目
が変わってきた。

 何かにつけて、「この人は、だいじょうぶかな?」と。そんな目で、ワイフを見る。

 で、そのことをワイフに話すと、ワイフはワイフで、私を同じような目で見ているのを知った。
「私も、あなたは、だいじょうぶかな?、って、見ているわよ」よ。

 肉体の健康は、努力で、まだ何とかなる。しかし脳の病気は、そういうわけにはいかない。進
行を多少、遅らせることはできるかもしれないが、それを止めたり、なおしたりすることはできな
い。

 私の年代には、ガンとならんで、コワ〜イ、病気の一つということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●知人の糖尿病

++++++++++++++++++

息子の友人の父親が、糖尿病を悪化させ、
1日おきに、人工透析を受けているという。

父親といっても、今年、56歳。私より
3歳も若い。

目も、緑内障と白内障で、ほとんど見えない
という。

++++++++++++++++++

 息子の友人の父親が、糖尿病ということは知っていた。で、先日、息子の友人が、うちへ遊び
にきたとき、「お父さんは、どう?」と声をかけたら、いろいろ話してくれた。

 1日おきに、人工透析を受けている。
 透析には、半日かかる。
 緑内障と白内障で、目も、ほとんど見えない、と。

 息子の友人は、ヘラヘラと笑いながらそう話していたが、かなり重症らしい。「腎臓が、ほとん
ど機能していないのか?」と聞くと、「そうだよ」と。

 近所の人なので、私も、その父親をよく知っている。が、見るたびに、道路をはさんで反対側
にある飲み屋で、酒ばかり飲んでいた。加えて、まれに見るヘビースモーカー。私と会ったとき
も、休みなく、タバコを吸っていた。が、すでにそのころから、糖尿病だったとは!

私「もっと、早くから、手を打つことができなかったのか?」
友「ハハハ、糖尿病は、うちの家系の持病のようなものだから……」
私「持病?」
友「おじいちゃんも、叔父も、みんな、糖尿病だから……」
私「君は、だいじょうぶなのか?」
友「今のところはね」と。

 いくら家系の持病でも、もっと早い段階で、防ぐことはできたはず。56歳という年齢は、あまり
にも、若い。

 こういう話を聞くと、相手のことを心配するより先に、「明日は、わが身」と、体中がこわばるの
が、わかる。息子の友人の父親の姿は、5年後の私の姿。10年後の私の姿。遅かれ早か
れ、私も、そうなる。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●健康診断

+++++++++++++++++

航空大学へ行っている息子から、電話。
今度、健康診断を受けるから、お金を
送ってほしい、と。

金額を聞くと、x万円!

+++++++++++++++++

 航空大学という大学は、ほかの大学とは、かなりちがう。そのつど、適性検査や技術審査と
いうのがあって、それにパスしないと、容赦なく、退学させられる。留年とか、休学というのは、
認められない。追試とか、再試というものもない。

 が、それだけではない。健康診断といっても、ふつうのものではないようだ。わかりやすく言え
ば、MRI(磁気共鳴画像法)という診断方法を使って、脳みその奥の奥まで、調べられる。精神
科医による、面接検査もある。

 私が冗談で、「HIV(エイズ)検査も含まれるのか?」と聞くと、息子は、「当然」とだけ、答え
た。

 それにプロのライン・パイロットになるには、無数の資格を取らなければならないらしい。先日
は、「ぼくも、プロの気象予報士の資格を取った」と言っていた。

 また飛行機の世界では、機種ごとのライセンスが必要となる。747を操縦していたからといっ
て、727が操縦できるというわけではない。

 もちろん精神面、情緒面の検査も、徹底的になされる。少しでも疑問に思われると、これまた
即、退学。客を乗せて飛ぶパイロットの仕事というのは、そういう仕事らしい。

 で、その健康診断の費用が、x万円!

 こういう話を聞いていると、私は、こう思う。

 『みなさん、飛行機に乗るなら、JALか、ANAなど、日本の航空会社にしなさいよ。息子もい
つも言っていますが、ここまでお金をかけ、安全教育を徹底している国は、ほかには、あまりな
いそうです。

 あぶないのは、ほかのアジアの国々の飛行機。中には、飛行機事故で死んでも、補償額の
上限が200万円と決められている航空会社もあります。あのK国の飛行機などは、ロクに計
器も積んでいないそうです。

 多少、航空運賃が高くても、日本の航空会社は、それだけ安全ということになります。安いか
ら……と、格安チケットを買うのは、賢人のすることではありませんよ』と。

 飛行機恐怖症の私だが、息子の話を聞いているうちに、その恐怖症が少しずつ、和らいでい
くのを感ずる。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1446)

●戦陣訓

++++++++++++++++++

その後の軍国主義をとばし、
いまだに武士道なるものを
美化する人が多いのには、
驚かされる。

武士道を説く人は、その武士道が、
戦時中、「戦陣訓(せんじんくん)」と
して、いかに多くの犠牲者を
生み出したことか。

それを忘れてはならない。

+++++++++++++++++

 明治時代、天皇は、軍の最高指揮官であった。その天皇が、明治15年(1882)に、陸海軍
のすべてに下した「勅諭(訓諭)」が、『軍人勅諭』である。

 陸海軍の兵士は、(1)忠節、(2)礼儀、(3)武勇、(4)信義、(5)質素を守るべしとし、その
一方で、天皇への絶対服従、天皇の神格化をはかった。

 もちろんその原型は、武士道なるものにあったことは、言うまでもない。わかりやすく言えば、
武士道が、そのまま明治天皇のもとで、軍人勅諭になった。そしてそれが、やがて、あの東條
英機によって、昭和16年(1941)、『戦陣訓』として、補足された。

『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず』という、あの戦陣訓である。

 この戦陣訓のおかげで、日本兵たちは、最後の一兵まで、玉砕(ぎょくさい)を強いられた。
日本は、いくら勝ち目のない、無駄な戦いであるとわかっていても、敵の捕虜になることを許さ
なかった。

 武士道なるものを美化する人たちは、同時に、その武士道なるものが、明治、大正、そして
昭和の時代に、どう利用されていったかも知らねばならない。つまりそうした負の側面を見るこ
となく、一方的に、武士道なるものを称えることは、危険なことでもある。

 はっきり言おう。

 武士道なるものは、日本人が誇らなければならないような規範でも、心のより所でも、なんで
もない。ただの官僚道、ただの軍人道。それがわからなければ、あなた自身の祖先を、静かに
思いやることだ。

 あなたの祖先のたいはんは、農民であり、町民だったはず。刀をもった為政者たちに虐(しい
た)げられた、物言わぬ従順な民だったはず。その「民」が、どうして今、武士道なのか?

 忘れてならないのは、あの江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど
の、暗黒かつ圧制の時代だった。現在のK国と、それほど、ちがわない。その時代を支えたの
が、武士道ということになる。が、それを忘れて、「武士道」「武士道」と、題目のように唱える。
私には、そういう人たちの気が、理解できない。

 さらに悲しいことに、日本という国は、いまだかって、あの封建時代、さらには、それにつづく
軍国主義時代という時代を、その(歴史の流れ)の中で、一度たりとも清算していない。反省も
していない。別に中国や韓国の肩をもつわけではないが、事実は事実だから、これはどうしよ
うもない。

 幸か不幸か、(私は、それでよかったと思っているが)、戦後、日本は、アメリカ型ではあるに
せよ、西洋文明を受けいれてしまった。自由、平等、平和、そして民主主義。そしてそれまでの
儒教文明とは、決別した。

 少し前にも書いたが、私たち日本人が進むべき道は、前にある。うしろではない。その前に
ある道は、道なき道かもしれないが、それでも前にある。道に迷ったからといって、今さら、うし
ろに戻ることは許されない。

 もちろん歴史は歴史だから、それなりの理解をすることは必要である。江戸時代には、武士
道なるものにも、それなりの存在意義があったかもしれない。しかしそれは日本人が、全体とし
てつくりあげた、規範でもなければ、心のより所ではなかったはず。どうしてそんな武士道なる
ものを、現代の今、私たち日本人のルーツとして、賛美しなければならないのか。

【補足】

 つぎの憲法改正では、天皇を国家元首にするという。そういう動きが、ここにきて、急にあわ
ただしくなってきた。が、どうして「象徴」であってはいけないのか? いや、その前に、今の天
皇家の人たちが、そうなることに納得しているのか? あるいは一度とて、天皇家の人たちに、
おうかがいを立てたことがあるのか? その意思を確認したことがあるのか?

 それはものすごい重圧感と言ってよい。その重圧感がどのようなものであるかは、今の皇后
陛下を見ればわかるはず。今の皇太子妃を見ればわかるはず。

 日本という国が、今、過去へ過去へと、引き戻されていく。書店の店頭には、その種の本が、
ズラリと並んでいる。百万部を超えるベストセラーになった本もある。私は、そんな印象をもって
いるが、はたして、それでよいのか? このままで、よいのか?

 私は、安易な復古主義には、断固、反対する!


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【韓国問題】

+++++++++++++++++++

韓国の新聞には、毎日のように、
しかも、何かにつけて、日本の記事が
出ている。

まるで国中が、日本を相手に
受験競争をしているかのよう。

それはそれでかまわないが、
しかし、このところ、ますます韓国の
動きが、わからなくなってきた。

おかしいぞ、韓国!

+++++++++++++++++++

●Y田めぐみさんは死んでいる?

 最近になく驚いたのが、つぎの記事。何でも、Y田めぐみさん(拉致被害者)は、すでに死んで
いるというのだ。しかも、そのことを日本政府は、知りつつ、国民をだましている、と。

 Y田めぐみさんの遺骨なるものついては、日本側は、すでに偽物(にせもの)という結論を出し
ている。その鑑定結果についても、「インチキ」と。その記事を、そのまま紹介する(朝鮮N報・
8・18日)。

 『(韓国)拉致者家族の会のCS代表(54)は17日、「日本政府は、日本人拉致被害者のY田
めぐみさんが死亡している事実を確認していたにもかかわらず、これを意図的に隠ぺい・わい
曲し、政治的に利用した」と主張した。 

 CS代表は日本政府関係者の言葉を引用し、「日本政府はめぐみさんの遺骨であるとして、
北朝鮮から渡された遺骨を鑑定のために帝京大学に預けたときから、これを"偽物"とすること
で方向性を定めた。

しかしこの後、反K国世論が高まり、引っ込みがつかなくなった」と述べた。また、「これまで会
った日本の関係者らもめぐみさんの死亡についてすでに知っていたが、世論のために口に出
せずにいる」と主張した』と。

この記事を読んで、怒らない日本人は、いないと思う。つまり韓国の拉致被害者の家族会の代
表は、つぎのように言っている。

(1)日本政府は、Y田めぐみさんの死亡をすでに確認している。
(2)日本政府は、それを意図的に、隠ぺい、わい曲し、政治的に利用している。
(3)日本政府は、遺骨なるものを鑑定する前に、(偽物)とする方向性を定めていた。
(4)関係者の多くは、めぐみさんの死亡について知っているが、口に出せないでいる。

 K国のだれかが、そう言ったのなら、まだ話がわかる。しかしどうして韓国の拉致者家族の会
(=拉致被害者家族の会)の代表が、わざわざ、こんなことを言わなければならないのか。

 つい先日は、韓国の首相ともあろう人物が、従軍慰安婦問題にからめて、「韓国には、たくさ
んのめぐみさんがいる」と発言している。韓国の首相は、使ってはいけない言葉を、使ってしま
った! めぐみさんの両親が聞いたら、(すでに聞いているとは思うが)、どんなに悲しむことだ
ろう。怒ることだろう。

 めぐみさんは、生きている。その可能性が、億分の1でもあるかぎり、私たちは、めぐみさん
は生きているとみる。しかも、だ。めぐみさんが、「慰安婦だった」とは!

●過関心国家

 母親の世界には、過関心ママ、過干渉ママというのがいる。自分の子どものことが、気になっ
てしかたない。明けても暮れても、考えるのは、自分の子どものことばかり……。

 現在の韓国を見ていると、まさに、それ。まるで日本を相手に、受験競争をしているかのよ
う。明けても暮れても、「日本が……」「日本は……」と、そんな記事ばかりが、目立つ。それは
それでかまわないが、しかしだからといって、日本とK国の問題に割ってはいって、K国寄りの
発言を繰りかえすのは、どうか。

 ついでながら、典型的な過干渉ママの会話を紹介しよう。

私、子どものほうに向かって、「○○君は、夏休みに、どこかへ行ってきたの?」
母親、会話に割ってはいりながら、「○○! おばあちゃんの家へ行ったでしょ。だったら、そう
言いなさい!」
○○君「……」
私、また子どものほうに向かって、「そう、おばあちゃんへ行ったの。楽しかった?」
母親、またまた会話に割ってはいりながら、「○○! 楽しかったでしょ。だったら、楽しかった
と言いなさい」
○○君「……?」と。

 つまりこの過干渉ママと同じことを、今、韓国が、国ぐるみで、している。Y田めぐみさんの遺
骨なるものの鑑定結果が出た段階でも、韓国は、自分たちの技術レベルを基準にしながら、
「(焼いた骨では)、鑑定できるはずはない」と主張していた。

●戦時作戦統制権

 その韓国が、今、「戦時作戦統制権」なる問題で、大揺れに揺れている。

 現在、韓国軍は、アメリカ軍の作戦統制権下にある。わかりやすく言えば、アメリカ軍の下
に、韓国軍がある。形の上では、「米韓連合司令部体制の下で、戦時作戦統制権を共同行使
している」(I元国防長官)ことになっているが、アメリカ軍が韓国軍を動かすことはできても、韓
国軍が、アメリカ軍を動かすことはできない。

 これに「待った!」をかけたのが、金前大統領であり、現在のN大統領である。韓国の自主権
を問題にしながら、戦時作戦統制権の返還を、アメリカ側に迫った。

 つまり、韓国では、アメリカ軍は、韓国軍の下に入れ、と。

 が、こんな申し出に、アメリカが同意するはずがない。その前に、どうしてアメリカが、韓国な
ど、守らなければならないのか? そのあたりの基本的な部分が、韓国には、まったくわかって
いない。

 戦時作戦統制権が韓国側に渡るということは、そのまま、米韓同盟の崩壊を意味する。が、
韓国側にも、思惑がないわけではない。

(1)仮にアメリカとK国が、交戦状態になっても、韓国は、部外者でいられる。
(2)仮にアメリカと中国が、交戦状態になっても、韓国は、部外者でいられる。
(3)仮に日本とK国が、交戦状態になっても、韓国は、部外者でいられる。

 つまり韓国のN大統領は、「主権」という言葉をさかんに使っているが、ホンネを言えば、自分
たちだけは、安全圏の中にいたいということ。他国の戦争に、巻きこまれたくないということ。事
実、N大統領は、こうも言っている。

 「(アメリカと中国が戦争状態になったようなとき)、在韓米軍が、その戦争に介入することに
ついて、韓国は、拒否権を行使する」と。

 わかりやすく言えば、韓国内のアメリカ軍は、韓国を守るためのだけのものであり、それ以外
の目的のために行動するのを許さない、と。

 さらに、だ。

 アメリカ軍には、事実上、出て行けと最後通牒(つうちょう)をつきつけながら、その一方で、ア
メリカに向かって、「韓国が有事の際には、韓国を守るべき、その保証せよ」※と。

 こんなバカげた意見に、アメリカが同意するはずがない。韓国の朝鮮N報ですら、「こんな非
常識な話があるだろうか」(社説)と、書いている。

そこでにわかに急浮上してきたのが、アメリカ軍の撤退問題である。事実、すでにアメリカ側
は、その方向に沿って、撤退の意思を固めてしまった。

●K国の核実験

 さらにここにきて、K国の核実験問題が、浮上してきた(8月17日、ABC放送)。

 韓国のN大統領は、「同胞の韓国に、核兵器を使うはずはない」「これだけ援助してやってい
るのだから、韓国に向けてミサイルを撃ちこんでくるはずはない」と、妄想的に確信しているよ
うである。

 「K国が核兵器をもてば、南北統一後の朝鮮にとって有利になる」(N政権高官)と暴言を吐
いたこともある。

 しかしK国が、そんな国でないことは、一連の流れを見れば、わかるはず。先の南北閣僚級
会談(プサン・06年)で、K国の代表団はこう言っている。

 「K国の核兵器で、韓国を守ってやるから、米を50万トン、よこせ」と。

 言いかえると、「米を50万トンよこさなければ、韓国を、核兵器で攻撃する」と。

 こういう現実を前にしても、まだ、韓国は、K国をかばっている。K国が核兵器を実用化すれ
ば、一番の脅威に立たされるのが、韓国である。日本もあぶないが、それ以上にあぶないの
が、韓国である。そういう現実が、まるでわかっていない!

●K国イコール、韓国?

 Y田めぐみさんについての発言もさることながら、K国イコール、韓国と考えたほうがよい。も
っと正確には、K国イコール、現在のN政権と考えたほうが、よい。N大統領のことを、K国の顧
問弁護士と揶揄(やゆ)する人もいる。感覚そのものが、国際常識からかけ離れてしまってい
る。

 K国は、核実験をする。可能性として50−50という意見もあるが(ABC放送)、それ以外
に、K国が、今、取るべき道は、ない。が、そうなればなったで、K国は、国際社会から、徹底的
に糾弾(きゅゆだん)される。本来なら、韓国にその責任を取ってもらいたいが、あの国には、
もうその能力も、自覚もない。

 そればかりか、再び妄想的被害者意識を発揮させ、N大統領は、「K国を、核実験に追いこ
んだのは、アメリカだ」と言い出すかもしれない。「日本が悪い」と言い出すかもしれない。その
可能性は、じゅうぶんある。

 ちなみに、現在、韓国内におけるN大統領の支持率は、先の選挙時の19%から、さらにさが
って、14%台になっている。戦時作戦統制権の問題にしても、N大統領自身が、部下(国策研
究院)に、「文章を書くように命令したが、だれも書かなかった(=大統領の指示に従わなかっ
た)」と、吐露している(新聞社幹部との昼食会の席で、8月19日)。

(注※)『……U党(与党)と国防部は、16日、戦時作戦統制権が韓国の単独行使に切り替わ
ることにより予想される、安保上の懸念に対処するため、韓米相互防衛条約の維持、在韓米
軍の駐留維持や有事の際の米軍追加派遣、情報資産など韓国軍の弱点分野に対する持続
的支援、戦争抑止力や共同対応態勢の維持の4項目を保証するよう、事前に米国の理解を
得るとした。 
 こんな非常識な話があるだろうか』(朝鮮N報の社説より)と。

【付記】

 K国が核実験をすれば、国連安保理による、『制裁決議案』が、可決される可能性が高い。し
かしそれにひとり、背を向けるのが、韓国ということになる。

 そこで日本は、アメリカと協調して、韓国も含めて経済制裁……ということにしたいが、現状で
は不可能。

 では、どうするか。

 日本は、韓国経済の中枢をになう、S社、あるいはG社を標的にして、経済戦争にもっていく
しかない。とくにS社である。

 この1社だけをねらいうちにして、経済戦争をしかけていけば、あとはドミノ倒しのように、韓
国経済は、総崩れになる。韓国の経済人ですら、そう言っている。「S社が、(国家破綻の)震
源地になる危険性がある」と。

 日本に核兵器が使われる危険性が、ぐんと高まった今、私たち日本人は、この問題とは、正
面から取り組んでいかねばならない。
(この原稿は、06年8月19日に書いたものです。)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1447)

●論語

++++++++++++++++

今度、小学校でも、論語の朗読を
するようになったという。

しかし、今、なぜ、論語なのか?

++++++++++++++++

 論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応神天
皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百科事典)。

 その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言えば、
官僚たちの教科書だった。

 その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論語なの
か? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わない。また
それまでは、私も否定しない。

 が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、どうしても、
それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和のために戦った人
たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本である。

 たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。それには抵
抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。

 フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。

+++++++++++++++++

1条
人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に基
づくのでなければ、存在することはできない。

2条 
すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保全であ
る。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。

3条 
あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明示的に
発せられていない権限を行使することはできない。

4条 
自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各人の自然権
の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保すること以外の限界
を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに過ぎない。

(以下、つづく)

+++++++++++++++++

 アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可侵、不
可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。

 この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまでもな
い。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。

『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即
チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノ
ナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ
満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革
シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナ
リ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディ
ア百科事典より抜粋)

 この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と
いう言葉が、生まれた。

 で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、アメリカ
型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たされてい
る。

 どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、しかしそ
の(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手につくることは、許
されない。

 しかし、どうして今、論語なのか?

【付記】

 日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、それを自信を
もっていえる人は少ない。

 天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにくい。ど
こか口ごもってしまう。

 が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)と書
いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま読めば、
天皇制の否定とも解釈できる。

 そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭吉の
ような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。

 「人の上の人とは、だれのことか」と。

 で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。

 「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」という解釈
など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈などが生まれた。詳
しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は人の」で検索してみれ
ばよい。

 しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じていた。

 その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎのような
事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対する
アメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰も
ワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、
徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持って
いないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭
吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人
を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』
と。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1448)

●「片山さつき」という名前の国会議員

+++++++++++++++++++++++

片山さつき氏は、私の選挙区から選出された、
国会議員である。

ふつうは、こうしたエッセーでは、実名を伏せる
ことにしているが、ここでは、あえて、実名で
書かせてもらう。

雑誌「諸君」の中に、こんな記事があった。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」(片山さつき談)と!

++++++++++++++++++++++

 06年の8月。先の衆議院議員選挙(05年8月)が終わって、ちょうど1年になる。同じ自民党
の城内実氏を僅差で破って、衆議院議員になった。それが片山さつき氏である。城内実氏は、
郵政民営化に反対して、K首相の反感をくらった。

 つまり片山さつき氏は、城内実氏をたたき落とすために、中央から送り込まれた、刺客という
ことになる。片山さつき氏は、財務省主計局主計官(防衛担当)を退官し、静岡県7区から立候
補した。

 私が住む、この選挙区で、である。

 その片山さつき氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書いてい
る。

 『……片山さつきさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪ではない、
媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務省キャリア」と
いう自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土下座なんてしたら、この
辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、自分が客
観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もはやお手上
げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イ
チコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田真由美氏
に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 片山さつき氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話は、当
時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんてしたら、この
辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした発言はな
い。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないかとは疑ってい
たが、片山さつき氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは何か?
 あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私は片山さつき氏を許さない。片山さつき氏は、まさに
選挙のために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだけ利用して
おきながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、片山さつき氏が、この1年間、この地元に帰って
きて、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞いてみたが、ワイ
フも、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、片山さつき氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言えば、自
己の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、まかり通
ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。もち
ろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをくぐりぬけて、
国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の代表なのか?

 そののち片山さつき氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話題をふ
りまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元の利益につな
がったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知らない。

 片山さつき氏のポスターを、ここに紹介しておく。06年8月に、街角で見かけたポスターであ
る。いまでもあちこちに、張ってある。みなさんは、このポスターを見て、どう思うだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1449)

【今朝・あれこれ】

●暑い!

 このところ原稿を書く時間が、かぎられてきている。朝の数時間。それ以外の時間は、暑く
て、ものを考えることさえ、できない。脳みそというのは、やや冷えた状態のほうが、調子がよ
いようだ。


●ゲーム

 携帯電話のおまけに、「バブルなんとか」というゲームがついていた。最初は、単純なゲーム
と思っていたが、それがどっこい! おもしろい。奥が深い。

 ルールは、簡単。5色のバブル(球)があって、2つ以上、同じ色のものが並んでいるときは、
タッチペンで消すことができる。

 こうしてバブルを消していく。コツは、できるだけたくさん同じ色のバブルを並べてから消すこ
と。数が多くなればなるほど、累乗的に、得点が多くなる。

 で、今までの最高点は、964点。平均点は、450点前後。けっこう、むずかしい。「今度こ
そ、1000点!」と思って、がんばる。夢中になる。

今は、ヒマがあると、このゲームばかり、している。

 
●今日は、日曜日

 今日は、日曜日。昨日、何かと忙しかった。今日も、ワイフとあちこちへ行く予定を立ててい
たが、やめた。「今日は、一日、静かにしているよ」と。

 とくにしたいことはない。しなければならないことも、ない。あえて言えば、今度封切りになっ
た、『スーパーマン・リターンズ』を見たい。しかしこの映画は、BWの子どもたちと、月末に見に
行くことになっている。

 そうそう昨夜は、犬のハナと自転車で、散歩に行ってきた。暑かったせいもあるが、ハナも年
をとった。少し走っただけで、ハーハーと苦しそうに、あえぎだした。もう10歳になるから、人間
でいえば、70歳くらいということか。口のまわりには、白髪が生えてきた。(犬でも、白髪が生え
るんだぞ!)

 おかげで、私の運動にはならなかった。ハナの走る速度のあわせて、トロトロと自転車をこい
だ。そのかわり、遠出をした。1時間ほど、走った。

 帰ってきてから、冷たい牛乳を、2人で分けあって、飲んだ。おいしかった。


●仕事開始!

 夏休みも終わって、仕事開始。とはいっても、これとて大きな変化はない。淡々と、その日の
ルーティーン(茶飯事)をこなすだけ。

 やりたいことは、いろいろある。しかしどれも、時間がかかることばかり。そのため、とりかか
る前に、何かと、おっくうになる。

 そういえば、昨日(19日)は、頭にカチンとくることがあった。あの片山さつき氏(静岡県7区
から立候補、当選)のことだ。

 片山さつき氏は、この選挙区(地方区)で敗れても、全国区の比例区で当選する段取りにな
っていた。だから当時から、(熱意に欠ける選挙運動)が、問題になっていた。その片山さつき
氏が、東京へ戻ってから、こんなことを言っていたという。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(倉田真由美氏指摘・「諸君」)。

 ここまで書いて思い出したことがある。昔、中央官庁で部長をしていた知人が、私にこう言っ
た。

 「定年退職をしたら、郷里の長野県のS市に帰って、市長でもしようかな」と。「……でも」とい
うところが、恐ろしい!

 片山さつき氏の発言は、その部長の発想の延長線上にある。何が、市長だ! バカヤロ
ー!

 何でもかんでも、「東京からきた」というだけで、ありがたがる田舎根性。それはたしかに、こ
の浜松市にもある。私は、否定しない。

 しかしその田舎根性を逆に利用して、中央からやってくる政治家たち。私は、そういう政治家
というより、そういう政治家を生み出す、この日本のシステムに腹が立つ。

 わかりやすく言えば、日本の民主主義も、この程度。みなが、何かに動かされるまま、動かさ
れてしまう。自分で、考えようとしない。自分で考えて、行動しようとしない。

 近く、もう少し涼しくなったら、この問題に取り組んでみよう。今は、暑くて、脳みそも、だらけ
がち。それに明日から、仕事が待っている。まず、私の生活を優先させなければならない。

 がんばろう! がんばります!


●わかば耳鼻咽喉科医院のみなさんへ

 いつも、声援、ありがとうございます。ときどきくじけそうになると、みなさんからいただいたメ
ールを読んで、励みにしています。

 いつも、(ほとんど毎日)、わかば耳鼻咽喉科医院の前を自転車で通るたびに、心の中で、
「ありがとうございます」とつぶやいています。そしてときどき、看護士さんらしい人を見かける
と、「Mさんかな……」と思ったりしています。

 私は道路の反対側を走るため、顔までは、よくわかりません。

 心からお礼、申しあげます。Mさん、本当に、ありがとうございます。

++++++++++++++++++

わかば耳鼻咽喉科医院では、私が発行する
マガジンを、待合室にコピーして、置いて
くださっているとのこと。

もしわかば耳鼻咽喉科医院へ行かれるような
ことがあれば、ぜひ、私のマガジンを
読んでみてください。

++++++++++++++++++


●8月20日

今日は、孫の誠司の誕生日! 満4歳になる。もっとも、アメリカは、まだ8月19日。今夜遅く、
電話をするつもり。

 エアロプレーン・ジージと、ロープウェイ・バーバより

 誕生日、おめでとう!

 Happy Birthday, Sage!

 from aeroplane−Jiji & Ropeway−Baba

(注)前回、私の家に来たとき、誠司は、私がつくったプラモデルを、片っ端から、破壊してしま
った。(毎日、2、3機ずつ、50機くらい、こわしたぞ!)

 そのときから私のことを、「飛行機・ジージ」と呼ぶようになった。

 またワイフと私が、一度、誠司を舘山寺(浜松市郊外の温泉地)へ連れて行き、そこでロープ
ウェイに乗せてやったことがある。

 そのときからワイフのことを、「ロープウェイ・バーバ」と呼ぶようになった。


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1450)

【今朝・雑感】

●眠い……

 今朝は、午前6時に起きた。昨夜は、午前0時過ぎに、床についたから、睡眠時間は、6時間
弱ということになる。このところ、毎日のように、1〜2時間の昼寝時間をとっている。だから全
体の睡眠時間としては、それで足りないはずはない。

 しかし、それでも眠い……。

 今も、ぼんやりしたまま、こうして、ムダに時間を過ごしている。どうしてだろう?

 理由のひとつに、熟睡感がないことがある。暑いため、一晩中、扇風機はかけっぱなし。顔
だけに軽く当たるように調整しているが、それでも朝方になると、体が冷えすぎてしまう。(さりと
て、扇風機が止まると、これまた暑くて、すぐ目がさめてしまう。)

 それに今朝は、目をさます前、だれかに追いかけられる夢を見た。夢の中では、逃げても、
逃げても、必ず、見つかってしまう。今朝の夢も、そうだった。

 私は自転車に乗って、悪党たちから逃げる。細い道から、さらに路地に入り、どこかの民家
の軒先に入る。念のため、その民家の家の中にまで入る。が、それでも見つかってしまう。

 で、今から思うと、どうして逃げなければならなかったのか、その理由が、よくわからない。相
手は、2人組。私がもっていた模型のヘリコプターの設計図がほしかったようだ。が、そんなも
のなら、相手にくれてやればよい。

 そう言えば、夢の中で、こんな会話をした。

 私が、「どうしてこの隠れ場所がわかったのか?」と聞くと、ひとりが、こう言った。「人間の心
理は、みな、同じ」と。つまり「考えることは、みな、同じ」と。

 ナルホド!

 そのぼんやりとした頭で、いろいろ考える。まず、最初に頭の中に浮かんだのが、「定年退
職」。どういうわけか、それが頭の中に、浮かんだ。

●定年退職

 どうして定年退職という制度があるのか。世の中には、「早く、今の仕事をやめたい」と思いな
がら、仕事をしている人がいる。しかしその一方で、「もっと今の仕事をしていたい」と思いなが
ら、仕事をしている人がいる。

 私のばあいは、仕事そのものが、生きがいになっている。同時に、今の仕事をやめたら、精
神的にも、自分で自分を支えることができないだろう。それが自分でも、よくわかっている。子
どもたちとワイワイと騒いだとたん、心の中のモヤモヤが、そのままどこかへ吹き飛んでしま
う。消えてなくなってしまう。

 しかしそういう意思など、無視。一律に定年をもうけ、その定年になった人を、問答無用式
に、退職させる。定年退職という制度は、そういうのをいう。

 いや、私にも、怠(なま)け心というものがある。一日中、ぼんやりと、何もしないで過ごしたい
という気持ちもないわけではない。しかしそんなだらしない生活をすれば、あっという間に、私
は、何かの病気になってしまうだろう。だから、心をひきしめて、運動に、出かける。

 昨日(20日)も、ワイフと2人で、スーパーまでの、往復、7〜8キロの道のりを歩いた。本当
はもっと近いのだが、わざと、大回りをして、歩いた。車で行けば、5分足らずの距離である。

 そんなわけで、定年かどうかは、あくまでも個人的な問題。それをたとえば「60歳で定年」と、
一律に年齢で、「斬(き)る」ほうが、おかしい。……といっても、それが社会のしくみなのだか
ら、私のようなものが、とやかく言ってもしかたない。

 ただ私は、定年など気にせず、がんばれるだけ、がんばってみたいと思う。もっと言えば、自
分の年齢など、気にしないで、がんばれるだけ、がんばってみたいと思う。

●定年後

 定年になったからという理由で、それまでの仕事をやめ、別の仕事につく人は多い。が、たい
てい、そんな仕事は、長つづきしない。あるいは、そのとたん、老(ふ)けこんでしまう人もいる。
こんな例もある。

 昔、RKというアメリカ人の友人がいた。日本へ来る前まで、高校で、音楽の先生をしていたと
いう。

 で、彼と知りあったのが、彼が、日本へ来て、2、3か月目のこと。RKは、どこかの店先の椅
子にポツンと座っていた。私のほうが声をかけた。そして以後、10回程度、私の教室に講師と
して、来てもらった。

 それからは、順調だった。RKは、そのとき52歳だったが、62歳前後で、アメリカへ帰るまで
には、一財産を築いた。毎月、100万円近い現金を、アメリカの自分の口座に振りこんでいた
という。

 で、アメリカへ帰ってから、一度、私は、彼の家に遊びに行ったことがある。驚くほどの豪邸だ
った。地下室には、卓球場まで備えていた。が、RKの顔からは、日本にいたころ感じた、あの
生気は、消えていた。

 いろいろ公的な仕事を、パートタイマー的に引き受けてはいたようだが、いかにも、「ヒマだか
らしている」といった感じだった。

 言い忘れたが、RKは、この浜松市内で、下は幼児から、上は、おとなまで、自宅で、英会話
を教えていた。

 そのRKだが、日本を去って、もう5、6年になる。最初の1、2年は、メールのやり取りしてい
たが、何度か、メールにウィルスが入っていたということが重なって、そのまま疎遠になってしま
った。(RKは、ウィルスには、まったくといってよいほど、無頓着な人だった。)

 そのRKを思い出しながら、私は、こう思う。

 定年になったからといって、仕事を変えては、だめだ、と。そう言えば、この4月に小学校の
教師を退職した、NG先生は、数日前、こんな絵葉書をくれた。

 「……最近になって、やっと、生活のリズムが整いつつあります。中学生指導や、初任者指
導、S小学校での講演など、公務以外の仕事があったのが、よかったのかもしれません。補導
のほうは、夏休み〜秋祭りの間は、忙しい時期です。(今の仕事は)非常勤とはいえ、盆の休
みもありません。結構、忙しくしています」と。

 私はそれを読んで、「よかった」と思った。NG先生は、定年退職をうまく、乗り越えることがで
きたようだ。もう少し涼しくなったら、NG先生の家に、遊びに行こう。

(多分、この文章を読んでいる、Mさん、お父さんのNG先生に、よろしくお伝えください。)

●調子

 こうして文章を書いていると、だんだんと調子がもどってくるのがわかる。どこか重苦しい朝の
気分が、霧が晴れるように、軽くなってくる。頭の調子も、よくなる。脳みその回転が速くなると
いうか、サクサクと動くようになる。

 今、時刻は、7時少し過ぎだから、調子をもどすのに、30分ほどかかったことになる。言うな
れば、これが私にとってのウォーミング・アップということになる。

 そう言えば、若いころよりは、このウォーミング・アップの時間が長くなったように感ずる。若い
ころは、5〜10分もあれば、頭はフル回転になった。今は、それが3〜40分もかかるようにな
った。

 やはり私の脳みそも老化してきたのか?

 定年退職がなぜあるかといえば、つまりは、体と脳みそが、老化するからにほかならない。わ
かりやすく言えば、使いものにならなくなる(失礼!)。

 が、これには、個人差がある。私が知っている人の中にも、まだ30代なのに、老人臭い人も
いれば、80歳を過ぎたのに、まだかくしゃくとしている人もいる。要は、生き様(ざま)の問題と
いうこと。年齢ではない。あくまでも、生き様!

 さあて、今日も始まった。夏休みも、終わった。やる気満々……というところまではいかない
が、元気で、こうして仕事ができることに感謝しよう。

 みなさん、おはようございます!

【付記】

 脳みそを活性化させるための、一番効果的な方法は、「怒り」を覚えること。東洋医学でも言
うように、「カッとなると、血(けつ)は、逆上する」。

 とくに私のように、血圧が低い人間には、効果的なようである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●携帯電話用HP

 携帯電話からでも、私のHPを読んでもらうことができる。そのためのコラムももうけている。

 しかし宣伝不足もあってか、アクセス数は、3200件程度で止まったまま。もし携帯電話で…
…という人がいたら、

http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/bwhayashi/

 にアクセスしてほしい。

よろしくお願いします。携帯電話でも読みやすいように、編集してあります。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司






Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【K国の核実験】

+++++++++++++++

K国の核実験が、どうやら秒読みの
段階に入ったようである。

韓国側も、現在、監視体制に入った
(8月21日)。

+++++++++++++++

 K国の核実験が、どうやら秒読みの段階に入ったようである。K国は、その周辺に住む住民
を、疎開させたりしている。ウィスコンシン核軍備統制計画のゲーリー・ミルホリン所長も、「K
国はその気にさえなれば、数週間以内に核実験ができる力を持っている」と語っている(18
日)。

 が、ひとりノー天気なのは、韓国のN大統領の側近中の側近である、I統一部長官。

「韓米間で北朝鮮の核とミサイル関連情報は、ほぼ完璧なほど、お互いに情報を交換してい
る。関連するすべての事項について韓米間で情報を共有している」と、まずマスコミに釘を刺し
た上で、「北朝鮮の核実験と関連して確認できる、いかなる情報も持っていない」(韓国国会・
特別委員会)と。

 I統一部長官は、先のミサイル発射実験では、発射直前まで、「ミサイルではない。人工衛星
だ」と、K国をかばっていた。こういう状態になっても、N大統領自身も、まだこういっている。

 「ま日本については、ありもしない脅威をでっち上げている」(韓国新聞記者団との会見で。朝
鮮N報・8月20日)と。

 金大中の時代から、現在のN大統領にいたる時代までに、韓国政府は、現金だけでも、600
〜700億円ものお金を、K国の金xxに直接渡している。今さら、そういう現金が、ミサイル開発
や核開発のためにつかわれたとは、とても言えないのだろう。

 で、ちょうど、同じころ、K国の収容所の記事が、朝鮮N報に掲載された。日本語に翻訳され
たものだが、読みづらいので、私のほうで、読みやすくして、ここに転載させてもらう。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【ある脱北者の証言より】

【1】

キム・ウンチョルさんは、自分が今日までこうして無事でいられたのは、国際社会の関心があ
ったからだと話した。

 キムさんは脱北後、スパイ容疑で、耀徳収容所に連行された。キムさんは幸い、革命化区域
に配置された。期限は決まってはいなかったものの、強制労働で生き残れば、出所が可能と
いう、収容所だった。

 K国でキムさんのような「罪人」は、死刑や終身刑を言い渡されることはないが、収容所の完
全統制区域に収監される。いわゆる「民族反逆者」に分類されるため、更正のチャンスは与え
られないというのが、脱北者らの共通した説明だ。

 キムさんは自分がこのような措置を受けなかったのは、99年11月、ロシアで外信記者を相
手に、脱北記者会見を行ったことと、北に強制送還された後も、国際人権団体が救命を訴えて
くれたためだと話す。

 キムさんは、「私たちがあまりにも外部に知られていたので、(K国当局が)、殺さぬようにと
指示したのかもしれない。K国は外部から援助を受けて生きている社会であるため、国際社会
の持続的な関心と圧力は、無視できないようだ」と話した。また、「今からでも遅くないから、K
国に強制送還され、収容所で死んでいく数万人の脱北者たちに対し、国際社会が、救命を訴
えて欲しい」と強調した。

【2】

●一緒に捕まった脱北者と収容所で再会

キム・ウンチョルさんは、中ロ国境で一緒に捕まった6人の脱北者のうち、未成年だったキム・
スンイルさんを除く5人と、収容所で再会した。キム・スンイルさんは取り調べの最中に亡くなっ
たようだ。

パン・ヨンシルさん(「パン・ヨンスン」と誤って伝えられた)は取り調べの際に、鞭(むち)で打た
れ続け、話にならないほど痛々しい姿になっていた。収容所に来た後は、名前だけは「病院」と
なっているが、実際には何の治療施設もない施設でずっと過ごしていた。

夫のホ・ヨンイルさんが彼女を助けようと力を尽くしたが、ついにミイラのように干からびた状態
になり、その年に9月に亡くなった。私たちは彼女の遺体を牛車に乗せて収容所内の墓地へ
運び埋葬した。

キム・クァンホさんは終身収容所に送られた後、消息不明になった。ほかの3人は現在出所し
て、それぞれの故郷で暮らしている。 

●最悪の仕事を割り当てられる
  
 わたしは健康な人が配置される建設小隊に行った。夏には早朝4時に起き、6時30分まで
作業をし、朝食をとった後は、夜真っ暗になるまで作業をした。その間の食事時間は1時間ず
つしかなかった。

ブロックを作るときは1時間しか寝られないときもあった。木の伐採、ハギの刈り取り、草刈り、
クワの葉の刈り取りなど、いろいろな仕事があった。斧(おの)で木を切って、森の奥から積載
場まで10里あまりの距離を引っ張ってこなければいけなかった。 

 収容所では食べ物をめぐる競争もあった。材木の積載場にトウモロコシの粉を練って作った
餅を用意して、約200人に競争させ、10番目以内に入ってきた人だけが1キロずつ余分にも
らえた。

ひどく腹が減ったので、それを食べるために死に物狂いで働いた。野山に自生しているクワの
葉を刈り取り、一度に85キロも背負って下りてきたこともある。草刈りは一日800キロが目標
だったが、400キロしか刈り取れなかったりすると、配給量も半分に減らされた。 

 収容所に初めて来た人は、6か月ほどの間は1日のノルマをまずこなせない。配給が減らさ
れれば元気がなくなり、元気がなくなれば配給が減らされるという悪循環だ。

そんな生活に6か月耐えられれば生き残れるが、耐えられなければ飢え死にしてしまう。わた
しが耀徳収容所でも、3年の間に、240人の収容者のうち約半数が亡くなった。飢えて仕事が
できなくても、担架に乗せて作業場に連れて行かれた。夏は日差しが照りつけ、冬は極寒の作
業場に座らせられた。

ネズミ、ヘビ、カエル、虫なども食べた。担架に乗せて連れて行くような弱った人でも、ヘビを見
たら3メートルは追いかけるという。飢えた腹を満たすためだ。 

 わたしが耀徳収容所に来てから6か月ほど経った2000年12月、とても疲れてこのまま生き
ていけるのかと思えるほどになった。斧で木を切っていたついでに自分の足も切った。死にた
かった。ふくらはぎの骨は折れなかったが、おかげで2日間休むことができた。

【3】

●脱走に失敗すれば公開処刑

わたしが耀徳収容所にいたとき、公開処刑が2回あった。チェ・クァンホさんは2000年8月、
草刈り作業に向かったときにアズサの木の下で眠ってしまい、隊列から離れた。戻ったら鞭で
打たれるのではないかと恐れ、しばらく隠れていたが、3日後に警備隊に捕まった。

それからわずか10日後に公開銃殺刑になった。

またキム・ホシクさんは2003年2月28日、ハギの刈り取りに行ったときにジャガイモを盗み食
いしようとして、そのまま逃亡した。保衛部が犬を放して捜索し、キムさんは顔を犬に噛みちぎ
られた姿で連行された。彼が連れてこられたとき、収容者が全員集められ、「見ろ、逃げたらこ
うなる。われわれは外国だろうとどこだろうと、必ず捕まえる」と言われた。彼はそれから5日後
に処刑された。3人の軍人が6発ずつ銃撃した。 

●死を覚悟で脱出   

 2003年7月、どういう風の吹き回しか、突然出所命令が出た。「党の配慮で釈放する。再犯
の場合は死刑だ」といわれた。

当時、K国では韓国のテレビドラマや映画が流行していた。中国での経験があったのでビデオ
を販売した。『オールイン運命の愛』『将軍の息子』『秋の童話』『野人時代』などのビデオを売っ
て、かなり稼いだ。脱北ではなく、商売のために中国へ出入りしたこともある。もちろん、保衛
部の軍人にわいろをかなり渡した。 

 しかし、わいろを渡さなかった軍人に引っかかって危ない目にあったこともある。本当に死ぬ
しかないと思った。わたしの一生はこれで終わるんだという思いで、K国を脱出した。

幸いにも同胞に助けられ、韓国に来ることができた。26歳にして新しい生活の第一歩を踏み
出すことができた(以上、韓国・朝鮮N報・日本語版より)。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 K国の収容所では、想像を絶する、悲劇が繰りかえされているようだ。もし私のような人間が
K国にいたら、その命は、1時間も、もたないだろう。それにしても、ひどい話ではないか!

 で、再び、K国による核実験問題。

 国際社会から追いつめられ、袋小路に入ってしまったK国。「最後に残されたカードは、核」
(読売新聞)とか。「ただ単なる、脅し」という意見もあるが、あの国を考えるときは、(まともな論
理)で考えてはいけない。

 何しろ、トップにいる金xxが、ふつうではない。はっきり言えば、狂っている。そのことは、この
脱北者の手記を読んでもわかるはず。

 私の印象では、K国は、近々、核実験をするだろうと思っている。が、うまくいくとは、かぎらな
い。途中で暴発ということも考えられる。あるいは放射能が漏れて、周囲を汚染するということ
も考えられる。不発のまま、終わるということも考えられる。

 パキスタンから技術援助を受けたということらしいが、周囲科学、周囲産業の整っていないK
国である。が、それだけに、大きな不安が残る。大量の放射能が空中に放出されれば、その
放射能は、風にのって、日本海を汚染する。ばあいによっては、北海道から東北地方まで汚染
する。

 アメリカ政府は、「やれるものなら、やってみろ」という姿勢のようだが、日本は、それでは困
る。今からでも遅くないから、放射能測定装置を、日本海側の市町村レベルまで、各自治体に
設置することぐらいのことは、しておいてほしい。
(06年8月21日記)

【付記】

 ところで、韓国内では、こんな報道もなされている。まず、それを読んでみてほしい。

 『またK国の核実験は、日本の軍事大国化に道を開くも同然の行動だ。日本のA外相は前回
のミサイル発射の際、「金xxに感謝しなければならない」と発言した。K国が核実験を行えば、
日本の首相も、金xxに感謝の言葉を述べるかもしれない』(朝鮮N報・8月21日)と。

 A外務大臣は、本当にこんな発言をしたのか?

 もししたとするなら、とんでもない外務大臣ということになる。が、もししていないとするなら、韓
国の朝鮮N報に、ただちに抗議すべきである。

 しかしどうしてあんな人物が、日本の外務大臣などしているのだろう。英語がまったく話せな
いのは、しかたないにしても、それにしても、レベルが低すぎる!

 
Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●受験意識

++++++++++++++++

勉強は、楽しんでするもの……。

しかし子ども(生徒)のほうが、
先に、受験意識をもってしまう
ことがある。

勉強とは、受験のためにするもの、と。

小学4、5年生の子どもを教えていると、

ときどき、その意識のズレを感ずること
がある。

++++++++++++++++

 少し前、Tさん(5年生)が、パズルゲームをもってきた。さらにその少し前、Tさんの母親が電
話で、「うちの娘が、どうしても、林先生を負かしてやりたいと言っていますので、一度、相手に
してやってください」と言った。

 私は、「いいでしょう。コテンパーにやっつけてやります」と答えた。

 Tさんは、たいへん聡明な子どもで、現在は、中学1年の内容を、自分で勉強している。

 で、その日が、きた。Tさんは、大きな袋に、ゲーム一式をもってやってきた。名前は忘れた
が、陣取りゲームのようなもの。複雑な図形をしたコマがあって、そのコマを並べながら、自分
の陣地を広げていく。

 夏休み中ということもあって、約半数が、その日は、欠席していた。それにレッスンの前に、
そうして遊ぶことは、悪いことではない。子どものやる気を引き出すには、たいへん効果的であ
る。

 が、日本人は、「勉強」について、少し、ゆがんだ概念をもっている。「勉強とは、机に向かっ
て、黙々とするもの」という先入観も、そのひとつ。いわゆる受験生がするような受験勉強的な
勉強を、「勉強」と思いこんでいる。

 このちがいは、アメリカの小学校を見て、知った。向こうでは、図書館でも、みな、子どもたち
は、それぞれの方法で本を読んでいた。中には、床に寝転んで、本を読んでいる子どもさえい
た。

 私たちがもっている「勉強」についての概念は、決して、国際的な標準ではない。あえて言え
ば、日本のそれは、本山の小僧教育にルーツを求めることができる。「形」ばかりを気にする。
机の前にきちんと正座して、黙々と学ぶ。それが勉強、と。

 もともと「学ぶ」というのは、「マネブ」、つまり(まねをする)という言葉に由来しているという(T
先生、指摘)。まねるためには、それなりの礼儀が必要というわけである。

 で、こうした概念を、親がもっている。しかも幼児をもつ親がもっている。子どもの姿勢が悪か
ったりすると、「うちの子は、姿勢が悪い」と心配する。あるいは、少しふざけて遊んでいたりす
ると、「集中力がない」と心配する。

 頭の中で、受験生が受験勉強するような姿を想像して、それを子どもに求める。まだ、4、5
歳の子どもに、だ。

 私は、そういうとき、こう答えるようにしている。「30分、机に向かっても、(何も机に向かうこと
が勉強というわけではないのだが……)、5分、勉強らしきことをすれば、それでよしとします。
この時期、大切なのは、『勉強は楽しい』という意識を育てることです」と。

 が、私の印象では、10人の母親のうち、3人は、それに納得しない。つまりそういうことも知
った上で、幼児を指導する。私とて、スポンサーである親のニーズを無視して、自分の仕事を
することはできない。

 ……という方針をもって、私は、子どもたちを指導している。で、その日も、ゲームをした。

 誤解がないように言っておくが、ゲームといっても、きわめて知的なゲームである。そのまま
幾何学の基礎としてもよいようなゲームである。私は、そう判断したから、子どもたちの相手を
した。

 4人、1組のゲームだったが、そのとき、J君(小5)は、部屋のすみで、自分の勉強を始め
た。が、それがまずかった。

 15分ほどでゲームは終わった。ゲームを知り尽くしていたTさんが、1位。私が、2位、そして
……、と。

 が、そのとき、J君の異変に気づいた。明らかに怒っている。不満そうに、顔をひきつらせて
いる。いつキレても、おかしくないといったふうだった。

 私が「どうした?」と声をかけても、返事をしない。「理由を話しなよ」と、促しても、無視。ピリ
ピリとした緊張感が、教室の中に、漂った。私は、一枚の紙切れを渡し、「今の気持ちを書きな
さい」と指示した。それにたいして、J君は、こう書いた。

 「塾の中で、ゲームをするなんて、オレには、信じられない!」と。

 私は、ていねいにJ君にあやまった。J君は、ほかにも、ある受験塾へ通い始めた。つまりそ
こでの指導とは、ちがう、と。

 J君は、J君なりの、「勉強」についての概念をもち始めていた。明治の昔から、延々と日本人
の底流に流れている概念である。それ以前はといえば、江戸時代の寺子屋であり、さらにそれ
以前はといえば、先に書いたように、各本山における小僧教育に、ルーツを求めることができ
る。

 しかも「勉強とは、受験のためにするもの」と。覚え、暗記し、テストを受け、順位を出してもら
う。「それが勉強」と。

 それが日本における(現実)だから、私は、否定しない。中学校も、高校も、予備校化してしま
っている現状では、そういう(現実)にひとり背を向けても、しかたない。私の仕事にしても、(受
験)を無視しては、成りたたない。

 だから私は、ていねいにJ君にあやまった。「ごめん、ごめん。さあ、勉強しよう!」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マガジン(9月22日号)

++++++++++++++++

この原稿は、マガジンの9月22日
号に載ることになる。

苦しい戦いだった。

何かと忙しかったこともある。
しかしなにしろ、この暑さ。

身の置き場のない暑さである。

苦しい戦いだった……。

+++++++++++++++

 全号の9月20日号の発行予約をすましてから、もう3、4日になる。本来なら、マガジンの発
行に合わせて、2、3日おきに、つぎのマガジンの発行予約を入れていかねばならない。

 しかしこのところの、この暑さ。原稿を書くといっても、早朝の数時間にかぎられる。昼ごろに
なると、まず体がだるくなる。ついで、頭がぼんやりしてくる。

 そこで運動、ということになる。

 しかし改めて、確認した。運動は、重要ということ。

 運動といっても、私のばあいは、自転車ということになる。しかしその自転車にしても、タラタ
ラと乗っていたのでは、運動にはならない。ほぼ全速力で、ハーハーとあえぎながら走る。

 昨日も、そういう運動を、2単位(40分x2)した。おかげで、今朝は、快調。細胞の1つひとつ
が、プチプチとはじけるような感覚すら残っている。脳みそも、すっきりしている。で、一気に、9
月24日号を、こうして書きあげた。(といっても、予定の枚数より、まだ数ページ足りないが…
…。)

 「運動って、大切だなあ」と、今、つくづく、そう思う。

 今日も暑い。しかし、私は負けない。これから自転車に乗って、運動に行ってくる。
(06年8月22日記)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●脳みその欠陥

++++++++++++++++

このところ、脳みそ自体がもつ欠陥
について、よく考える。

脳みそには、たしかに欠陥がある。

たとえば、人間の脳みそは、ものごとを
総合的に考えることができない?

ほかにもある……。

++++++++++++++++

 このところ脳みそ自体がもつ欠陥について、よく考える。ときどき、自分の脳みそすら、信じら
れなくなるときがある。「これでいいのかなあ?」と。

 脳みそには、たしかに欠陥がある。たとえばそれまで、(ごくふつうの人)だった人が、ある
日、突然、カルト教団の信者になって、とんでもないことを言い出すことがある。私は、これを
「脳みそのエアーポケット」と呼んでいる。

 つまり、脳みそには、そういう部分があって、そのエアーポケットに落ちると、だれでも、簡単
にカルト教の信者になってしまう。例外はない。むしろ、「私はだいじょうぶ」と、高をくくっている
人ほど、あぶない。

 それにもうひとつ。
 
 人間の脳みそは、ものごとを総合的に考えることができない。たとえば身のまわりに、重大な
問題と、軽微な問題があったとする。そのとき軽微な問題にとりかかってしまうと、その問題だ
けで頭の中がいっぱいになってしまう。重大な問題がもつ(重大さ)がわからなくなってしまう。

 たとえば今、イランの核開発問題が、最終局面を迎えつつある。成りゆきによっては、日本
は深刻な影響を受けることになる。昨日のNHKニュースによれば、現在1バレル70ドル前後
の原油が、100ドル近くまで高騰するかもしれないという。これは日本にとって、(重大な問題)
と考えてよい。K国による核実験についても、そうだ。

 しかしその一方で、軽微な問題もある。

 たとえば昨日(21日)、高校野球の決勝戦が、甲子園球場で行われた。20日の試合で、決
着がつかなかったため、再試合をしたという。で、その結果、東京都代表のW高校が優勝し
た。

 昨夜(午後7時)のNHKの定時ニュースは、そのニュースで始まった。そしてそれを5分近く、
報道していた。同じその日、イランでは、最高指導者のハメネイ師が、国連安保理の常任理事
国とドイツの6カ国による包括的見返り案に、否定的な見解を示していた。もしことの重大性と
いうことを考えるなら、こちらの問題のほうが、はるかに重大である。

 が、脳みそは、そうした総合的な判断が、できない?

 ……これはNHKのニュースの話だが、同じようなことが、いつも私たちの脳みその中でも、
起きている。たとえば地球温暖化による影響が、もうだれにも疑いようがない状態になってい
る。中国の重慶周辺では、連日、45度を超える猛暑がつづいている。(45度だぞ!) にもか
かわらず、ガソリンの値段を心配するなど。

 もし地球温暖化のことを心配するなら、ガソリンなど、1リットルあたり、1000円くらいになっ
たほうがよいのかもしれない。経済は、そのため大打撃を受けるだろう。が、地球が火星のよ
うになるよりは、よい。

 ほかにも脳みそには、いくつかの欠陥がある。

 たとえば記憶にしても、ファイルを積み重ねるように、古い記憶の上に、新しい記憶が、積み
重ねられていくのではない。「今」という時点でみると、10年前の記憶と、20年前の記憶は、等
距離にある。新しい記憶か、古い記憶かを判断するのは、脳の別の部分である。

 たとえば高校生のときした修学旅行の記憶と、大学生のときした旅行の記憶は、記憶として
は、等距離にある。が、どちらが古い記憶かと聞かれれば、(高校のとき)と(大学のとき)とい
う、別の事実をそこにダブらせながら、判断する。記憶そのものだけで、どちらが古いかという
ことを判断することはできない。

 もし人間の記憶が、ファイルを積み重ねるように、古い記憶の上に、新しい記憶を積み重ね
られていくなら、人間の脳みそは、もっと効率よく、記憶を整理できるかもしれない。取り出すこ
とができるかもしれない。が、それが、ない。

 つまり記憶は、てんでバラバラに、それぞれが好き勝手なところに、記銘(記憶)されている。
たとえて言うなら、地震か何かで、本箱が崩れて、ゴチャゴチャになってしまった図書館のよう
なもの。自分で、自分の記憶を整理することすら、できない。どこに何があるかさえ、わからな
い。

 まだ、ある。

 たとえばパソコンの世界には、(上書き)という機能がある。古い原稿を呼び出し、それに上
書きをかけると、古い原稿はそのまま、新しい原稿に生まれかわる。

 しかし脳みそでは、それができない。古い記憶は古い記憶のままとして残ってしまう。新しい
記憶を記銘(記憶)しても、両方とも、それが残ってしまう。

 で、さらにタチの悪いことに、たとえば歳をとると、新しい記憶のほうが、先に削除されてしま
う。そしてその結果、古い記憶のほうが優勢になり、また生きかえってしまう。まるでゾンビのよ
うに、だ。

 ……というように、脳みそには、いろいろな欠陥がある。

 もっともその欠陥があるからこそ、脳みそは、より柔軟に、周囲の環境に適応できる。たとえ
ば高校野球に熱中することで、深刻な問題がそこにあることを忘れることができる。

 あるいは必要な記憶だけを、そのつど取り出せるから、その前後に起きたいやな記憶を、呼
び出さないですますことができる。

 さらに年をとってからの記憶よりも、若いときの記憶のほうが楽しいに決まっている。体も健
康だ。すべてのものが、華やいで見える。

 考えようによっては、こうした欠陥が、生活を、心豊かなものにしていると考えられる。だから
欠陥があるからといって、それを否定してしまうことはできない。

 しかし欠陥は、欠陥。

 そうした欠陥があることを知った上で、脳みそとつきあうのと、知らないでつきあうのとでは、
大きくちがう。

 明けても暮れても、高校野球のことで頭がいっぱい、という人のことを、私たちの世界では、
「バカ」という(失礼!)。プロ野球にしても、サッカーにしても、そうだ。

 あるいは年をとってから、過去の栄光にしがみついて、それから一歩も足を踏み出せない人
のことを、私たちの世界では、「バカ」という(失礼!)。地位や、肩書きにしても、そうだ。

 さらにおかしな復古主義にこだわり、何でもかんでも、「過去がよかった」と主張する人のこと
を、私たちの世界では、「バカ」という(失礼!)。武士道だ、論語だと騒ぐのも、そうだ。

 ……ということで、この脳みその欠陥と戦うためには、ものごとを、いつもどこかで総合的に
考えるクセを身につけなければならない。たとえて言うなら、新聞を広げて、見出しを見なが
ら、どれが重要で、どれが重要でないかを判断するようなことをいう。

 それを怠ると、たちまち脳みそ自体がもつ欠陥によって、私たちは袋小路に入ってしまう。

 コワイゾー!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
欠陥 思考の欠陥 脳みその欠陥 弱点 思考の弱点)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●大悲劇

+++++++++++++++++

かわいそうなことをした。

虫を殺して、こうまで後悔したことはない。

それにしても、かわいそうなことをした。

++++++++++++++++

 ぼんやりと庭を見つめていると、おかしな虫がいることに気がついた。

 いや、最初はとても、虫だとは思えなかった。素早いというか、サササッと、直線的に走って、
1休止。そしてまたサササッと、別の方向に直線的に走り出す。

 見た感じ、つまり虫の大きさを自動車にたとえるなら、時速、50〜70キロ程度で走っている
ような感じ。速い!

 その1休止したとき、体を見ると、どこかハチに似ている。しかし体全体が、黒っぽい。

 「何だろう?」「何だ?」と思いながら、目をこらして、その虫を見ていると、やがてその虫は、
小さなくぼみの中に、身を隠した。

 私は、殺虫剤を手につかむと、庭へおどり出た。虫の正体を確かめたかった。「ひょっとした
ら、宇宙人の乗った乗り物かもしれない」と思った。このところ、その種のビデオをたてつづけ
に見ている。(1週間で、「ブラック・スカイズ」全10巻を見たぞ!)

 で、くぼみまでくると、その虫はそこにいた。が、見て、驚いた。

 それはハチだった。山のほうではよく見かけるハチだった。体全体が、黒っぽい。大きさは、
スズメバチほど。私は、容赦なく、殺虫剤を吹きかけた。ハチに対しては、私は、容赦しない。

 で、動きを完全に止めるのを見届けてから、指先でつかんで、そのハチを見た。ハチはハチ
だったが、左側の羽が、根元から4分の1ほどを残して、切れていた。切れていたというより、
ちぎれていた。

 とたん、後悔の念が、心の中に充満した。「かわいそうなことをした」と思った。

 一部始終を居間から見ていたワイフに、「こいつ、羽がない。だから、地面を走っていた」と。

 しかしハチが、地面を走るという話は聞いたことがない。しかも、ものすごいスピードで、であ
る。

 で、このことを、その日の午後になって、K君という、昆虫博士に聞いてみた。私は畏敬の念
をこめて、彼のことを、そう呼んでいる。小学5年生である。私が知るかぎり、こと昆虫に関して
は、彼の右に出る子どもはいない。専門の研究者でも、少ない(?)。

 そのK君が、こう教えてくれた。

 「先生、それはね、モズかカラスにやられたんだよ。モズかカラスに、羽をちぎられてね。それ
でそうなったんだよ」と。

 「走るのが速かったよ」と私が言うと、さらにこう教えてくれた。

 「ふつうは、交尾ができなかったオスのハチは、羽が抜けて、地上におりるんだよ。地上にお
りて、地面の餌を食べて、生き延びるんだよ。でも羽が残っていたということは、モズかカラスに
破られたとみていいよ」と。

 ナルホド!

 とたん、さらに後悔の念が、心の中に充満した。「本当にかわいそうなことをしてしまった」と。

 しかしこういうことも言える。

 ハチは、そういう運命もあることを知っていて、地面を走るスピードを、進化の過程で、身につ
けた、と。つまりあれほどまで速く走れるということは、すでにそういう運命もあることを予想し
て、そういう遺伝子がDNAの中に、あらかじめ、組みこまれているということ。

 少しくらい練習したくらいで、あそこまで速く走れるようになれるはずがない。

 ならば、私のしたことは、それほど、悪いことではない、ということにもなる。

 どこか自己弁解がましいが、そういうふうに考えて、私は自分をなぐさめた。

 しかし、だ。ハチにそんな運命と、能力があることは知らなかった。もしみなさんが、今度ハチ
をつかまえたら、羽を切り取ってみるとよい。みなさんも、ハチがもつ別の能力に、驚くはず。

 あくまでも、みなさんの向学のため。

 で、K君の話を聞いたあと、私は、こうつぶやいた。

 「それにしても、ぼくの知らないことは、まだ山のようにあるんだなア……」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「形」

++++++++++++++++++++

パソコンを相手に、何かをしていると、
ときおり、以前には経験したことがない
独特の不安感に襲われる。

たとえば今、私は、デジタルカメラで撮った
写真を、パソコン内部に取り入れた。

そこまでは、よい。

で、そのあと、メモリーカードに残っている
写真を、削除(フォーマット)しようとした
ときのこと。

またまた、あの不安感に、襲われた。

+++++++++++++++++++++

●パソコンの世界

 私は、基本的には、パソコンなる電気製品を、信用していない。便利すぎるほど便利な電気
製品だが、扱い方が、むずかしい。ひとたび扱い方をまちがえると、そのまま奈落の底へと、
叩き落される。

 1〜3時間もかかって書いた文章が、そのまま消えてしまうということもある。

 で、その道のプロに相談すると、(プロといっても、私の二男だが……)、こう教えてくれた。

 「データは、二重、三重の方法で保存しておくのが、この世界の常識だよ」と。

 データを、パソコン本体に保存するだけではなく、外づけのハードディスクに保存したり、DVD
に焼いておくのが常識、と。私のばあいは、それでも安心できず、さらにインターディスクにも、
保存している。

(インターディスクというのは、インターネット上の架空のハードディスクをいう。いろいろなサー
ビス会社があって、年間1万円ほどの費用で、1GB分までのデータを保存してくれる。)

 が、それでも、不安が残る。今でも、ときどき失敗して、データを削除してしまうことがある。
で、みなさんご存知のように、一度削除してしまったデータは、それこそ、まったく跡形(あとか
た)もなく、消えてしまう。

 こうした不安は、パソコンとつきあっていると、いつもつきまとう。たった今も、そうだ。

 デジタルカメラのメモリーがいっぱいになったので、一度、撮った写真をパソコンの中に取り
こんだ。そのあとのこと。

 いつものようにメモリーの中の写真を削除するため、メモリーカードをフォーマットしようとし
た。そのとき、あの独特の不安感が、ふと、心の中を横切った。フォーマットするということは、
撮った写真を、すべて消すことを意味する。

 「だいじょうぶかな?」「本当に、パソコンは、写真を取りこんでくれたかな?」と。

 そこでフォーマットする前に、もう一度、それを確認する。マイドキュメントの中の、マイピクチ
ャを開く。そしてその中に、たった今取りこんだ写真のフォルダがあることを、確認する。

 しかしそれでも安心できない。フォルダを開いて、そこに写真があることを確認する。

 写真なら、つまりフィルムで撮った写真なら、こういうことはない。「形」として残るからだ。しか
しパソコンの世界には、それがない。ないから、不安になる。

●形のない世界

 私たちは、長い間、形のある世界に生きてきた。何億年という長い間、だ。今も、基本的に
は、形のある世界に生きている。

 野原も山も、空も、そしてこの地球も、だ。私たちも含めて、ありとあらゆる生物には、「体」と
いう形がある。

 しかしパソコンの世界は、まったく異質の世界と考えてよい。そこは電子と信号の織りなす世
界。たとえば今、私はこうして文章を、架空の便箋の上に書きこんでいる。そして今、あなたは
こうして私の書いた文章を、架空の便箋の上で、読んでいる。

 が、これらはすべて、架空の世界である。便箋など、どこにもない。文章にしても、画面を下
へスクロールしたとたん、上の文章は、そのままどこかへ消えてなくなってしまう。

 しかし私たち人間は、形ある世界を常識として、今まで生きてきた。ものを書いても、写真を
撮っても、それを、形あるものとして残すことによって、そこに安心感を覚えてきた。もっとも安
心感といっても、そのときは、そんなことも考えなかったが……。

 しかしパソコンの世界は、ちがう。形そのものがない。ほかにたとえばネット取り引きがある。
ネット取り引きで、株の売買をしても、動くのは、画面上の数字だけ。「儲けた」「損した」と言っ
ても、現実に札が、動くわけではない。実感がないといえば、これほど実感のない世界はない。

 ほかにもある。

 たとえば単行本を出版する。そのとき初版で送られてきた本というのは、自分の子どものよう
に、いとおしい。かわいい。私のばあいは、そのあと数日間、いつもそれを抱いて寝る。

 が、パソコンの世界には、それがない。まったくない。現在、電子マガジンの読者が、2200
人ほどいる。HPへのアクセス数も、毎月、4000〜5000件ある。BLOGへのアクセスについ
ては、毎月、1万件近くもある。

 単純に計算すれば、毎月、(毎月だぞ!)、2万人ほどの人たちが、私の書いた文章を読ん
でくれていることになる。

 こんな数字は、単行本の時代には考えられなかったことだ。

 で、私としては、それを喜ばなければならないのだが、これまた不思議なことに、その実感が
ない! まったくない!

 つまり、「形」のない世界というのは、そういう世界を言う。

●不安の中身 

 話はぐんと飛躍するが、そういう意味では、パソコンの世界と霊の世界は、どこか似ている。

 私自身は、霊の存在など、まったく認めていない。見たこともない世界のことだから、「あると
信じろ」と言われても、困る。それが私にとっては、常識ということになる。

 だからたとえばだれかが、こう言ったとしても、私は、安心しない。……できない。「あなたが
死んでも、あの世はちゃんとあります。安心しなさい」と。

 そう言われると、かえって不安になってしまうこともある。ないなら、「ない」と、はっきり、そう
言ってくれたほうが、よっぽど、気が楽。それを「ある、ある」というから、かえって不安になって
しまう。

 そう言えば、私が学生だったころ、こんなことを言う信者がいた。どこかのカルト教団に属す
る男性だった。

 「(テレビなどの)電波は見えない。見えないけど、ある。同じように、霊も、見えないだけで、
ある。目で見えないからといって、簡単に否定してはいけない」と。

 そのときは、「なかなかうまいことを言うなあ」と感心したが、同じように考えると、パソコンの
世界も、形がないだけで、「ある」ということになる。霊とちがって、少なくとも、こうして目で見る
ことだけはできる。

 で、もう一度、目の前の、この文章について、考えてみたい。

 私はこうして文章を、架空の便箋の上に書きこんでいる。そして今、あなたはこうして私の書
いた文章を、架空の便箋の上で、読んでいる。

 この便箋を、「ある」と言い切ってよいのか。便箋の上に書かれている文章を、「ある」と言い
切ってよいのか。

 しかし、私には、どうしても、「ある」と言い切ることができない。こうして書いたものが、自動的
に横でプリントアウトされて、本として残れば、「ある」ということになる。そしてその本が、何千
部も印刷されて、書店に並べば、「ある」ということになる。

 が、それがない。その実感が、ない。つまり「ある」と言い切れないところに、不安が残る。そ
してその不安が、不安感となって、ときおり、私を襲う。

 わかりやすく言えば、私が死ねば、そしてだれかが、プロバイダーへの更新料を払いつづけ
てくれなければ、私の書いた文章や、撮った写真は、それこそ、完全に、この世から消える。消
えてなくなる。私が生きたという痕跡すら、この世から消えてなくなる。

 形のない世界というのは、そういう世界をいう。

 それが時折、不安感となって、私を襲う。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

【金相場】

●国際情勢のバロメーター

+++++++++++++++

イランの核開発問題が、
こじれてきた。

このままでは、この日本も
含めて、世界は、たいへんな
ことになる。

+++++++++++++++

 ことイランの核開発問題の動きを知りたかったら、金(きん)相場の動向を見ればよい。私
は、いつもそうしている。

 イランの核開発問題は、そのまま中東情勢に連動している。原油情勢に連動している。わか
りやすく言えば、中東情勢が不安定になればなるほど、原油価格は上昇する。同時に金相場
は上昇する。そうでなけば、そうでない。

 「金相場」というのは、そういう意味では、国際情勢の不安定さを知るための、ひとつのバロメ
ーターと考えてよい。

 で、その金相場だが、中東情勢が不安定になるのに並行して、上昇の一途をたどった。一時
は、グラム2600円近くまで、上昇した。が、そのあとは、乱高下を繰りかえし、現在は、2400
円前後で取り引きされている。

 数年前には、グラム1100円程度だったから、2倍以上になったことになる。

 で、イランの核開発問題が決着しそうかなという雰囲気になったとき、暴落。が、それは一時
的なもので終わってしまった。ここにきて、とくに今日(8月22日)、再び、急上昇を始めた。

 イランの核開発問題が、デッドロックに乗り始めたことを意味する。イランの最高指導者ハメ
ネイ師が、21日、国営テレビで「核開発の続行を決定した」と述べたという。

つまりイランは、国連安保理の常任理事国とドイツの6カ国による包括的見返り案に、22日に
回答する予定だった。世界は、「多分、イランは、世界の要求をのむだろう」と、期待していた。
が、その原案を、拒否する姿勢を、その前日の今日、同師が鮮明にしてしまったことになる。

 このまま予定どおり、国連安保理で制裁決議案が可決されることにでもなれば、中東情勢
は、一気に、不安定になる。同時に、原油価格は上昇する。90%近い原油を、このあたりから
輸入している日本にとっては、まさに死活問題といってよい。

 その動向を先行して示しているのが、金相場ということになる。

 その金相場だが、今日(8月22日)、グラム当たり、61円も、上昇している!


***************以上、1450作****************
(2006年 8月 23日、稿了)







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市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒
 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし
浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi /
 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ は
やしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできまし
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