はやし浩司(ひろし)

1700〜
ひとつ戻る 目次に戻る トップページに戻る
はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(1700〜1750)

最前線の子育て論byはやし浩司(1700)

【バケツの底の穴】

+++++++++++++++++

フロッピーディスクを整理していたら、
こんな相談が出てきた。

そのときは相談してきた方の立場になって、
それなりに返事を書いたつもりでいる。

しかし、記憶というのは、いいかげんな
もの。「そういうことがあったな」という
程度には、思い出せるが、そこまで。
もし偶然であるにせよ、その相談を見ることが
なかったら、私は、そんな相談があった
ことすら、思い出すこともなかっただろう。

+++++++++++++++++

 何枚かのフロッピーディスクを、整理していたら、こんな相談が出てきた。パソコンからパソコ
ンへの原稿の移動には、私は今でも、フロッピーディスクを使っている。

 まず、そのときの相談を、そのままここに転載する。当時、相談をしてきた方から、転載許可
をもらった記憶だけは残っている。

+++++++++++++++++

【YDより、はやし浩司へ】

以前にもご相談させていただきましたYDです。 今回は私と実父とのことで、ご相談お願いし
たいと思いました。 

18歳のときに、私は、今の主人とつきあい始めました。そのときは、私が進路未定の状態だっ
たので、私たちの交際は、猛反対されました。 

 幼稚だった私は当時、交際を隠し続けていたのですが、結局、親が知るところとなり、私は家
を飛び出し、主人の所に転がり込む形で、家族との縁を切りました。そのときから体の不調が
始まり、主人と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしまし
た。(主治医の先生によると「おびえ」という症状との見解でした。)

 実家とは絶縁状態のまま結婚、出産し、4年が過ぎたころ、実母が亡くなり、家の敷居をまた
ぐになりましたが、実父との関係は、今でも修復されないままでいます。

 母は子供の頃から誰にも言えない胸のうちを、私には話せるようで、愚痴聞き役のような感じ
でした。家を出てからも、父に隠れながら、毎日のように電話をくれました。しかし私の話より、
自分の愚痴や不安を聞かされ、私が励ます内容の電話が多かったと思います。そのせいか、
私は心のどこかで、父を軽蔑していると自分では思っています。
 
 母が亡くなった事で、法事などで実家に行くこともありますが、主人は父を嫌って極力実家に
は近づこうとしません。父にはそれがもの凄く不満のようで、「もっと(私を)大事にしてくれ」と訴
えるのですが、主人は、自分の両親・姉でさえとも一線を引き付きあうところが有り、自分と合
わない人間とは付きあわないところがあります。主人の気持ちも考えると、どちらにも強く言え
ないでいます。 

 このお正月に母のお墓参りに行きましたが、場所が北海道と遠いこともあり、また車で行くと
いうこともあり、雪も降ったあとだったので、詳しい日程が立てられないまま行きました。

 結局、予定より2日も余裕ができたので、叔父達に会いに行くことができましたが、事前に詳
しく連絡を入れていなかったことで、父に迷惑がかかり、怒られる結果となりました。

父は「相手の立場に立って思いやりを持って行動すべきだ。相手にも都合がある。正月という
時期だから、余計に考えるべきだった。自分(父)が何も知らないで勝手に決めすぎだ」と言わ
れましたが、今回は行き当たりばったりで、皆に迷惑をかけたのは確かだと、自分では思って
います。 

 事前に父に密に予定を話しておけば良かったことなのですが、私自身ごちゃごちゃ言われた
くないから、最低限のことだけ伝えればいいやと、父とのコンタクトを避けてしまった結果だと、
自分では思っています。 

 父は、私の家族であるリーダーは主人だから、私に言っても仕方なく、主人が考え、行動す
べきことであり、主人と話をすることを考えていると言っています。私は主人の性格を考える
と、余計に父を疎ましがるのではないかと思い、まずは私が父とコミュニケーションを取れるよ
うにならなければ、今の関係の改善は難しいと思うのですが。

 また、私たち家族が出向くことによって父が、叔父達に「よろしくお願いします」「お世話になり
ました」と動けるように、私たちから働きかけるべきなのでしょうか? 父にその必要があるの
なら父から聞いてくればいいのにと、どこか反発心もありながら、社会を見ないまま家庭に入っ
た身として常識に欠けているのか判断ができずにいます。まず何から改善すべきか見出せな
い現状です。

 文章が支離滅裂でお恥ずかしいのですが、先生はどう感じたでしょうか? 聞かせていただ
けるととても嬉しいです。

++++++++++++++++++

 今回は、この相談について考えるのが目的ではない。私自身の記憶についてである。冒頭に
も書いたように、この相談を見つけたのは、偶然である。フロッピーディスクを整理していたら、
この相談が出てきた。

 ここで相談してきた人を「YDさん」としたが、もちろん仮名である。こうした記録を残すときに
は、名前はもちろん、住所、さらには、その人自身とわかるような部分については、すべて書き
改めるようにしている。

 だから今となってみると、YDさんといっても、どこのだれだか、わからない。文面に、「以前に
も……」とあるから、当時は、何度もメールをやり取りした人のようである。しかしどうしても、思
い出せない。なぜだろうと思う前に、自分で自分を信じられなくなってしまう。はっきり言えば、
自分がこわい。

 わかりやすく言えば、私の脳みその底に穴があいているような感じがする。記憶そのもの
が、その穴から、どんどんとどこかへ漏れていく。記憶だけではなく、知識もそうだ。とくに新し
い記憶や知識ほどそうではないか。

 発達心理学の世界では、(本当は「老化心理学」と呼ぶべきかもしれないが)、満55歳前後
を境として、人は、急速に回顧主義を傾くことが知られている。未来を展望するより、過去を回
顧することのほうが、多くなるというわけである。

 しかし実際にはそうではなくて、その年齢ごろになると、新しい記憶や知識ほど、どんどんと
忘れてしまい、その結果として、古い記憶や知識だけが脳みその中に残るからではないのか。
つまり加齢とともに、古い記憶や知識だけが、ますますクローズアップされるようになる。回顧
主義に陥るのは、あくまでも、その結果ということになる。

 もし私が、YDさんからの相談を、20代のころ受けていたとするなら、私は、折につけ、YDさ
んの相談を思い出していたかもしれない。しかしその相談を受けたのは、50代の今。だから記
憶に残ることもなく、そのまま忘れてしまった。

 回りくどい言い方になってしまったが、今回のこの事実は、私に重要な教訓を与えた。要する
に、(バケツの底の穴)ということになるが、その(穴)があることを知っているのと、知らないで
いるのとでは、老後の生きザマに大きな差が出てくる。

 つまりそういう(穴)があることを知り、穴から漏れ出る以上に、記憶や知識を、脳みその中に
注入していかねばならない。そういう作業を怠ると、やがて頭の中はカラッポになるばかりでは
なく、先にも書いたように回顧主義ばかりが強くなってしまう。それこそ毎日、仏壇の金具を磨
きながら日々を過ごすような、そんな生き方になってしまう。

 ……といっても、50歳を過ぎてから、新しいことを始めるというのも、勇気のいることである。
60歳を過ぎれば、なおさらである。どうしてもものの考え方が、保守的になり、後退的になる。
しかしなぜ人はそうなるかといえば、ここに書いた、(バケツの底の穴)で、説明がつく。

 記憶そのものが、残らない。残っても、すぐどこかへ消えてしまう。知識も、そうだ。だからこ
そ、人も50代、60代になったら、それまで以上に、新しい経験をし、知識を補充していかねば
ならない。(バケツの底の穴)が防ぎようのないものであるとするなら、そこから漏れ出る以上
のものを、補ってやる。それしかない。

 今回、YDさんからの相談を読んで、別の心で、その思いを強くした。

++++++++++++++++

当時のことを思い出すために、
YDさんからの相談を、自分の
原稿集の中で、検索してみた。

で、さらに驚いたことに、この相談を
もらったのは、(06年 FEB)とある。

つまり今年の2月!

私はたった9か月前のことすら、
もう忘れてしまおうとしている!

ついでにそのときYDさんに書いた
返事を、そのままここに載せる。

+++++++++++++++++


●「家族」とは何か?

 多くの人にとっては、「家族」は、その人にとっては、(心のより所)ではあるが、しかし一度、
歯車が狂うと、今度は、その「家族」が、重圧となってその人を苦しめることがある。ふつうの苦
しみではない。心理学の世界でも、その苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。

 そういった「家族」全体がもつ、束縛意識、結束意識、連帯意識を総称して、「家族自我群」と
呼ぶ学者もいる。こうした意識は、乳幼児期から、親を中心とする家族から本能に近い部分に
まで刷りこまれている。そのため、それから自らを解放させることは、容易なことではない。

 ふつう、生涯にわたって、人は、意識することがないまま、その家族自我群に束縛される。
「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ論』も、こうした自我群が背景となって生まれ
る。

 さらにこの日本では、封建時代の家督制度、長子相続制度、権威主義などが残っていて、親
子の関係を、特別視する傾向が強い。私が説くところの、「親・絶対教」は、こうして生まれた
が、親を絶対視する子どもは、少なくない。

が、ときに、親自身が、子どもに対して、その絶対性を強要することがある。これを私は「悪玉
親意識」と呼んでいる。俗に言う、親風を吹かす人は、この悪玉親意識の強い人ということにな
る。こういう人は、「親に向かって、何てことを言うのだ!」「恩知らず!」「産んでやったではな
いか!」「育ててやったではないか!」「大学まで出してやったではないか!」というような言葉
を、よく口にする。

 もともと権威主義的なものの考え方をする傾向が強いから、人とのつながりにおいても、上下
意識をもちやすい。「夫が上、妻が下」「男が上、女が下」と。「親が上で、子が下」というのも、
それに含まれる。さらにこの悪玉親意識が強くなると、本来なら関係ないはずの、親類の人た
ちにまで、叔父風、叔母風を吹かすようになる。

 が、親子といえども、基本的には、人間対人間の関係で、決まる。よく「血のつながり」を口に
する人もいるが、そんなものはない。ないものはないのであって、どうしようもない。観念的な
(つながり)を、「血」という言葉に置きかえただけのことである。

 で、冒頭に書いたように、(家族のつながり)は、それ自体は、甘美なものである。人は家族
がもつ安らぎの中で、身や心を休める。が、それには、条件がある。家族どうしが、良好な人
間関係を保っているばあいのみ、という条件である。

 しかしその良好な人間関係にヒビが入ると、今度は、逆に(家族のつながり)が、その人を苦
しめる、責め道具になる。そういう例は、多い。本当に多い。子ども自身が、自らに「親捨て」と
いうレッテルを張り、生涯にわたって苦しむという例も少なくない。

 それほどまでに、脳に刷りこまれた(家族自我群)は、濃密かつ、根が深い。人間のばあい、
鳥類とは違い、生後、0か月から、7〜8か月くらいの期間を経て、この刷りこみがなされるとい
う。その期間を、「敏感期」と呼ぶ学者もいる。

 そこで、ここでいう家族自我群による束縛感、重圧感、責務感に苦しんでいる人は、まず、自
分自身が、その(刷りこみ)によって苦しんでいることを、知る。だれの責任でもない。もちろん
あなたという子どもの責任でもない。人間が、動物として、本来的にもつ、(刷りこみ)という作
用によるものだということを知る。

 ただ、本能的な部分にまで、しっかりと刷りこまれているため、意識の世界で、それをコントロ
ールすることは、たいへんむずかしい。家族自我群は、意識の、さらにその奥深い底から、あ
なたという人間の心を左右する。いくらあなたが、「縁を切った」と思っていても、そう思うのは、
あなたの意識だけ。それでその刷りこみが消えるわけではない。

 この相談を寄せてくれた、YDさんにしても、家を出たあと、「体の不調が始まり、主人と同棲
を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました」と書いている。ま
た実母がなくなったあとも、その縁を断ち切れず、葬儀に出たりしている。
 
 家族自我群による「幻惑」作用というのは、それほどまでに強烈なものである。

 で、ここで人は、2つの道のどちらかを選ぶ。(1)家族自我群の中に、身を埋没させ、安穏
に、何も考えずに生きる。(2)家族自我群と妥協し、一線を引きながらも、適当につきあって生
きる。もう1つ、本当に縁を切ってしまうという生き方もあるが、それはここでは考えない。

 (2)の方法を、いいかげんな生き方と思う人もいるかもしれないが、自分の苦しみの原因
が、家族自我群による幻惑とわかれば、それなりにそれに妥協することも、むずかしくはない。
文字が示すとおり、「幻惑」は、「幻惑」なのである。もっとわかりやすく言えば、得体の知れな
い、亡霊のようなもの。そう考えて、妥協する。

 YDさんに特殊な問題があるとすれば、あくまでもこのメールから私がそう感ずるだけだが、
それはYDさん自身の、依存性がある。YDさんは、親に対してというより、自分自身が、だれか
に依存していないと、落ち着かない女性のように感ずる。そしてその依存性の原因としては、Y
Dさんには、きわめて強い(弱化の原理)が働いているのではないか(?)。

 自信のなさ、そういう自分自身を、YDさんは、「幼稚」と呼ぶ。もう少し精神的に自立していれ
ば、自分をそういうふうに呼ぶことはない。YDさんは、恐らく幼いときから、「おまえはダメな子」
式の子育てを受けてきたのではないか。とくに父親から、そう言われつづけてきたように思う。

 そのことにYDさん自身が気がつけば、もっとわかりやすい形で、この問題は解決すると思わ
れる。

 あえてYDさんに言うべきことがあるとするなら、もう親戚のことや、父親のことは忘れたほう
がよいということ。YDさんがもっとも大切にすべきは、夫であり、父親ではない。いわんや、郷
里へ帰って、親戚に義理だてする必要など、どこにもない。それについてたとえYDさんの父親
が、不満を言ったとしても、不満を言う、父親のほうがおかしい。それこそまさに、悪玉親意
識。YDさんは、すでにおとな。親戚にまで親風を吹かす父親のほうこそ、幼稚と言うべきであ
る。詳しくは、このあとそれについて書いた原稿を添付しておく。

【YDさんへ……】

 お元気ですか。ここまでに書いたことで、すでに返事になってしまったようです。

 私のアドバイスは、簡単です。あなたの父親のことは、相手のほうから、何か助けを求めてく
るまで、放っておきなさい。あなたがあれこれ気をもんだところで、しかたのないことです。また
どうにもなりません。

 父親が何か苦情を言ってきたら、「あら、そうね。これからは気をつけます」と、ケラケラと笑っ
てすませばよいのです。何も深刻に考えるような問題ではありません。

 あなたの結婚当初の問題についても、そうです。いつまでも過去をずるずると引っぱっている
と、前に進めなくなります。

 で、もっと広い視野で考えるなら、そういうふうにYDさんを苦しめている、あるいはその原因と
なっているあなたの父親は、それだけでも、親失格ということになります。天上高くいる神なら、
そう考えると思いますよ。

 本来なら、そういう苦しみを与えないように、子どもを見守るのが親の務めです。あなたの父
親は、結果としてあなたという子どもを苦しめ、悲しませている。不幸にしている。だから、あな
たの父親は、親失格ということになるのです。

 そんな父親に義理立てすることはないですよ。

 今は、一日も早く、「ファーザー・コンプレックス(マザコンに似たもの)」を捨て、あなたの夫の
ところで、羽を休めればよいのです。あなたの夫と、前に進めばよいのです。あなたの夫が、
「実家へ行きたくない」と言えば、「そうね」と、それに同意すればよいのです。

 私は、あなたの夫の考え方に、賛成します。同感で、同意します。

 では、今日は、これで失礼します。

 出先で、この返事を書いたので、YDさんとわからないようにして、R天日記のほうに返事を書
いておきます。お許しください。


【YDさんより、はやし浩司へ】

++++++++++++++++++

私が返事を書いた、翌日、
YDさんより、こんな
メールが届いた。

++++++++++++++++++

はやし先生

先ほど楽天日記を読ませていただきました。

心が楽になりました。ありがとうございまいた。

家族自我群にあてはまるのだと教えて頂き、とても感謝しています。先生のホームページから
勉強させて頂きマガジンからも勉強させていただいていますが、私は自分の都合の良い情報
ばかりを集めて自分を正当化しようと思っているのではないかと思っていました。

先生のお書きになった通り、私は依存性が強い人間です。主人と付きあい始めた当初は自分
でも思い出したくないくらいです 苦笑。そして父から褒められた記憶はありません。

父は「言って聞かないなら殴る。障害者になってもいいんだ」という教育方針で、私が何か悪い
ことをすると、殴られるのは当たり前でした。お説教の最中に物が飛んでくるのもよくあることで
した。なので、父からのお説教があってしばらくはもう二度と可愛いと思ってもらえないかもしれ
ないという恐怖心は強かったと、今になると思います。

それでも、学校をさぼったりしていたのは、何でだったのか、まだ当時の自分を自己分析でき
ずにいますが・・・。

「大切にされた記憶がない」と話すと、父は、「毎週(月曜日に剣道に通っていたのですが、終
わるのが夜の9時でした)、迎えに行っていたのになぁ」と言われた事があります。私が父の愛
情に気付いていなかっただけなのか、自分がされた嫌な事だけしか覚えていないから私は自
分を悲劇のヒロイン化させているのかと思っていました。

その反面、(私は中学生でしたが)、当時の心境は、「夜遊びに走らないように監視されている」
のが本当のところではなかったのかと思います。きっとその頃からひずみはすでに始まってい
たんでしょう・・・。

自分では私は「アダルトチルドレン」に入るのではないかと思っています。社会との繋がりがう
まく持てない焦りから、今の自分のままでは子供達の成長に良くないのではないかと焦ってい
ます。父に「親や、その親、親の兄弟あってのお前なんだから、まわりを大切にすべきだ」と強
く言われる事で、自分を見失ってしまいました。

父の事を思い起こすと未だに震えが起こるので、きちんと文章になっているのか不安ですがお
時間を割いて頂きありがとうございました。

追伸・「ユダヤの格言xx」という本の中で、「父親の生き方から夫の生き方に変え、逆境のとき
は夫を支え、喜びを分かち合い、女中を雇う余裕があっても怠けることなく、話をしてくるものに
はわけへだてなく対応し、困っている人には手を差し伸べる」(ユダヤ人の伝統的な良き妻の
像)と言う説を手帳に書き写したことがあります。楽天の日記を読ませていただきこの事を思い
出しました。 

個人的なのですがこの本の先生の見解にとても興味があります。
長々と読んでいただきありがとうございました。

++++++++++++++++

悪玉親意識についての原稿を
添付しておきます。

++++++++++++++++

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。

「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにする
のが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとす
るのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の
方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者
ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。

+++++++++++++++

もう1作……

+++++++++++++++

●子育て、はじめの一歩

 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)
は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。

 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを
端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。

 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テ
レビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否
か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがあ
る。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。

善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかりと
子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意識
というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすことを
いう。

 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同
じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導
し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導す
ることも、保護することもできない。しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識
は禁物である。あればじゃまになる。

親子の関係もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから…
…」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因となる。日本人
は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間ですら)、この
上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレツを入れ、さらには
たがいを断絶させる。

 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、そ
の「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれま
で考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み
出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考え
ることはなかったかもしれない。もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意
識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなも
のがあるか」などなど。そういうことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。

 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきた
い。
(はやし浩司 親意識 親との葛藤 家族自我群 はやし浩司 幻惑 はやし浩司 家庭教育 
育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 悪玉親意識 善玉親意識 親
風を吹かす親 上下意識)

【付記】

 今回、ここまでの原稿を再読してみて、いくつか気がついたことがある。

 そのひとつは、ここでいう「悪玉親意識」というのは、(親子の間)だけの話ではないというこ
と。

 悪玉親意識、つまり親風を吹かす人は、あらゆる場面で権威主義的なものの考え方をする。
たとえば弟や妹に対しては、兄風、姉風を吹かす。甥(おい)や姪(めい)に対しては、叔父風、
叔母風を吹かすなど。

 あらゆる場面で上下意識が強く、そのわずかな(差)の中で、人間の優劣を決めてしまう。

 で、本人は、それでそれなりにハッピーなのかもしれない。また多くの場合、その周囲の人た
ちも、それを認めてしまっているから、それなりにうまく(?)いく。兄風を吹かす兄と、それを受
け入れる弟との関係を想像してみればよい。

 こうした上下意識は、儒教の影響を受けた日本人独特のもので、欧米には、ない。ないもの
はないのであって、どうしようもない。はっきり言えば、バカげている。この相談をしてきたYDさ
んの父親にしても、ここでいう悪玉親意識のたいへん強い人だということがわかる。「親は親
だ」「親は偉い」という、あの悪玉親意識である。YDさんは、父親のもつその悪玉親意識に苦し
んでいる。

 が、ここで話が終わるわけではない。

 今度はYDさん自身の問題ということになる。

 現在、YDさんは、父親の悪玉親意識に苦しんでいる。それはわかる。しかしここで警戒しな
ければならないことは、YDさんは、自分の父親を反面教師としながらも、別のところで自分を
確立しておかないと、やがてYDさん自身も、その悪玉親意識を引きついでしまうということ。

 たとえば父親が、亡くなったとしよう。そしてそれからしばらく時間がたち、今度はYDさん自身
が、なくなった父親の立場になったとしよう。すると、今度は、YDさん自身が、なくなった父親そ
っくりになるという可能性がないわけではない。

 ユングが使った「シャドウ」とは少し意味がちがうかもしれないが、親がもつシャドウ(暗い影)
は、そのまま子どもへと伝播(でんぱ)していく。そういう例は、多い。ひょっとしたらあなたの周
辺にも似たようなケースがあるはず。静かに観察してみると、それがわかる。

 で、さらに私は、最近、こういうふうに考えるようになった。

 こうした悪玉親意識は、それ自体がカルト化しているということ。「親絶対教」という言葉は、
私が考えたが、まさに信仰というにふさわしい。

 だからここでいう悪玉親意識をもつ親に向かって、「あなたはおかしい」「まちがっている」など
と言ったりすると、それこそ、たいへんなことになる。だから、結論から先に言えば、そういう人
たちは、相手にしないほうがよい。適当に相手に合わせて、それですます。

 実は、この私も、そうしている。そういう人たちはそういう人たちの世界で、それなりにうまく
(?)やっている。だからそういう人たちはそういう人たちで、そっとしておいてやるのも、(思い
やり)というものではないか。つまりこの問題は、日本の文化、風土、風習の分野まで、しっかり
と根づいている。私やあなたが少しくらい騒いだところで、どうにもならない。最近の私は、そう
考えるようになった。

 ただし一言。

 あなたの住む世界では、上下意識は、もたないほうがよい。たとえば兄弟姉妹にしても、名
前で呼びあっている兄弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲がよいという調査結果もある。

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼びあうよりも、「ヒロシ」「アキコ」と呼びあうほうが、兄弟姉妹
は仲がよくなるということ。

 夫婦についても、同じように考えたらよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1701)

●希望と落胆

++++++++++++++++

希望と落胆は、ある一定の周期をおいて、
交互にやってくる。

希望をもてば、そのあとには、必ず
落胆がやってくる。しかしそこで終わる
わけではない。

朝のこない夜はないように、落胆の
あとには、これまた必ず希望がやってくる。

++++++++++++++++

 最近、何かと落ちこむことが多くなった。失敗(?)も重なった。調子も悪い。何をしても、空回
りばかりしている。

 で、そういうときというのは、おかしなもので、自分の書いた原稿に慰められる。つまり自分で
書いた原稿を読みながら、自分を慰める。今朝もそうだ。ふと自分に、『私たちの目的は、成功
ではない。失敗にめげず、前に進むことである』と言い聞かせたとき、それについて書いた原
稿を読みたくなった。

検索してみたら、3年前に書いた原稿が見つかった。

++++++++++++++++++

【私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである】

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。44歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決す
る? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場で
も、すぐ応用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。17歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科に
転じ、25歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニアで
知りあった、11歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、30歳のときである。
小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そしてその
あと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。

 こうした生き方を、100年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがすば
らしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたスティー
ブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、生ま
れない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)
(03―1―1)

++++++++++++++++++

 希望を高くもてばもつほど、必ずそのあとに、落胆がやってくる。希望通りにものごとが進む
例など、100に1つもない。1000に1つもない。

 しかし希望のない人生は、そのものが闇。だからつぶされても、つぶされても、人は何かの希
望をもとうとする。そして再び、前に進もうとする。朝のこない夜はないように、落胆のあとに
は、これまた必ず希望がやってくる。

 こうして人は、希望と落胆を、周期的に繰りかえす。そして歯をくいしばりながら、前に進む。

 子育ても、また同じ。

 そこで大切なことは、仮に子育てをしていて、落胆したり、ときには絶望感を覚えたとしても、
決して、それがドン底であるとか、終わりであると思ってはいけないということ。

 私たちにとって大切なことは、『私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むこ
とである』。

 今朝は、この言葉に、私は慰められた。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●子育て相談より

+++++++++++++++++++

以前、「ファミリス」という雑誌に書いた
原稿が見つかった。

私のHPのほうでも紹介しているが、もう
一度、ここに再掲載する。

+++++++++++++++++++

(1)子どものウソ

Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)

A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害によ
る虚言、それに(3)虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それを
あたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経
症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症
状をともなうことが多い。

これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。
ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。

母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」
子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  
その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。

 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。

イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に
垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをも
ちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのよ
うに、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、特徴である。

 どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけ
を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めた
り、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。


(2)勉強の遅れ

Q 学年がかわり、勉強の遅れが目立ってきました。このままでは、うちの子はどうなるかと、
心配でなりません。(小四女)

A アメリカでは、学校の先生が、子どもに落第をすすめると、親は、喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。反対に子どもの学力が心配だと、親のほうから落第を求
めていくこともある。「まだうちの子は、進級する準備ができていない」と。アメリカの親たちは、
そのほうが子どものためになると考える。

 日本では、そうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。しかし、二〇
年後、三〇年後には、日本もそうなる。またそういう国にしなければならない。意識というのは
そういうもので、あなたが今もっている意識は、普遍的なものでも、また絶対的なものでもな
い。

 さて、もし子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは『許して忘れる』。英語では、「フォ・ギブ
(許し)・アンド・フォ・ゲッツ(与える)」という。つまり「(子どもに)愛を与えるために、許し、(子ど
もから)愛を得るために、忘れる」ということになる。子どもをどこまで許し、どこまで忘れるか
で、親の愛の深さが決まる。子どもの受験勉強で狂奔しているような親は、一見、子どもを愛し
ているかのように見えるが、その実、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の設計
図に合わせて、子どもを思いどおりにしたいだけ。しかしそれは、真の愛ではない。

 否定的なことばかり書いたが、勉強だけがすべてという時代は、もう終わりつつある。(だか
らといって、勉強を否定しているのではない。誤解のないように!) 重要なのは、そのときどき
において、子どもが、いかに心豊かに、自分を輝かせて生きるかということ。その中身こそが、
大切。

 相談のケースでは、何かほかに得意なことや、特技があれば、それを前向きに伸ばすように
する。子どもには、「あなたはサッカーでは、だれにも負けないわよね」というような言い方をす
る。子どもの世界には、『不得意分野を伸ばすより、得意分野を、さらに伸ばせ』という鉄則が
ある。子どもというのは不思議なもので、ひとつのことに秀でてくると、ほかの分野も、ズルズル
と伸び始めるということが、よくある。

 さらにこれからは、一芸がものをいう時代。ある大手の自動車会社の入社試験では、学歴は
不問。そのかわり面接では、「君は何ができる?」と聞かれるという。そういう時代は、すぐそこ
まできている。

 ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。あなたの子どもにも、一度、
そう言ってみてはどうだろうか。


(3)好きになれない

Q 自分の子どもですが、どうしても好きになれません。いい親を演ずるのも、疲れました。

A 不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」と、どうして
も気負いが強くなる。しかしこの気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが、子どもも疲れる。
そしてその「疲れ」が、親子の間をギクシャクさせる。

 子どもが好きになれないなら、なれないでよい。無理をしてはいけない。大切なことは、自然
体で子どもと接すること。そして子どもを、「子ども」としてみるのではなく、「友」としてみる。「仲
間」でもよい。実際、親離れ、子離れしたあとの親子関係は、友人関係に近い関係になる。い
つまでもたがいに、ベタベタしているほうが、おかしい。

 ただ心配なのは、あなた自身に、何かわだかまりがあるとき。これをフロイト(オーストリアの
心理学者、1856〜1939)は、「偽の記憶(false memory)」といった。「ゆがめられた記憶」と
私は呼んでいるが、トラウマ(精神的外傷)といえるほど大きなキズではないが、しこりはしこ
り。心のゆがみのようなもので、そのためどこかすなおになれないことをいう。そのゆがめられ
た記憶は、そのつど、あなたの心の中で「再生(recover)」され、あなたの子育てを、裏からあ
やつる。もしあなたが子育てをしていて、いつも同じ失敗を繰りかえすというのであれば、この
わだかまりをさぐってみたらよい。

 望まない結婚であったとか、予定していなかった出産であったとか。仕事や生活に大きな不
安があったときも、そうだ。あるいはあなた自身の問題として、親の愛に恵まれなかったとか、
家庭が不安定であったとかいうこともある。この問題は、そういうわだかまりがあったということ
に気づくだけでも、そのあと多少時間はかかるが、解決する。まずいのは、そのわだかまりに
気がつかないまま、そのわだかまりに振りまわされること。そのわだかまりが、虐待の原因とな
ることもある。

 今、「自分の子どもとは気があわない」と、人知れず悩んでいる親は多い。東京都精神医学
総合研究所の調査によっても、そういう母親が、7%はいるという。しかもその大半が、子ども
を虐待しているという(同調査)。

 あるいは兄弟でも、「上の子は好きだが、下の子はどうしても好きになれない」というケースも
ある。ある母親はこう言った。「下の子は、しぐさから、目つきまで、嫌いな義父そっくり。どうし
ても好きになれません」と。

 親には3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩
く。そして友として、子どもの横を歩く。このタイプの親は、友として子どもの横を歩くことだけを
考えて、あとはなりゆきに任せればよい。10年後、20年後には、あなたは必ず、すばらしい親
になっている。


(4)落ちつきがない

Q 参観授業で見ても、騒々しく、落ちつきがありません。家でも集中力がなく、ワーワーと騒ぐ
だけで、勉強もほとんどしません。(小一男)

A 騒々しい子どもがふえている。「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。ADHD児のほか、思考が乱
舞してしまう子どももいる。いろいろな原因が考えられているが、ひとつに、テレビやテレビゲー
ムがあげられる。瞬間的に、めまぐるしく変化する画面は、右脳を刺激するが、一方、左脳の
働きをおろそかにする。論理や分析、つまり「ものごとを静かに考えて判断」するのは、その左
脳である。

 それはさておき、こうした問題が子どもにあったとしても、今は、それ以上、こじらせないこと
だけを考えて、小学三、四年生になるまで様子をみる。そのころになると自意識が発達し、子
どもは、自分で自分をコントロールするようになる。「こういうことをすれば、みんなに迷惑をか
ける」「嫌われる」「損をする」「先生に注意される」と。それ以前の子どもは、自分が騒々しいと
いう意識すらない。

 ある中学生(男子)は、こう言った。低学年児のころは、落ちつきがなく、学校の先生もたいへ
んだった。しかし「ぼくは、何も悪くなかった。みんながぼくを目のかたきにしただけ」と。おとな
でも、自分の姿を客観的に知ることはむずかしい。いわんや、子どもをや。

 むしろ問題は、無理な指導や強制的な指導、さらには、暴力をともなった威圧的な指導が、
症状をこじらせてしまうこと。せっかく自意識が発達しても、そのため子ども自身が、立ちなお
れなくなってしまう。

 子どもを指導するときは、言うべきことは繰りかえしながら言い、あとは時を待つ。そして少し
でも、言ったことが守れるようになったら、それをほめる。かなり根気のいる作業だが、このタイ
プの子どもと接するときは、まさに根気との勝負。家庭でも、決して短気を起こしてはならない。

 が、悪いことばかりではない。言動が活発な分だけ、好奇心も旺盛で、生活力もある。苦手な
分野もあるが、しかしその分、学力もある。中学生になるころには、かえってよい成績を示すよ
うになることも珍しくない。子どものよい面を信じながら、あとは子どもに合わせた生活を組み
たてる。「30分座って、5分くらい勉強らしきことをすればよし」「勉強と遊びが、ごちゃまぜにな
ってもよし」と。繰りかえすが、このタイプの子どもは、叱っても意味がない。子ども自身の力で
は、どうにもならない。

 問題のない子どもはいない。だから問題のない子育ても、ない。子育てというのはそういうも
の。そういう前提で考える。しかしそれから生まれるドラマが、子育てをうるおい豊かにし、親子
のきずなを太くする。平凡は美徳だが、平凡からは何も生まれない。…そう考えながら、子育
てを前向きにとらえる。


(5)反抗的な態度

Q 最近、子どもの態度が反抗的になってきました。一触即発という状態で、どこかピリピリして
います。(小五女)

A よく誤解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。心の緊張状態がと
れないことを、情緒不安という。その緊張状態のところへ、不安や心配が入ると、それを解消し
ようと、精神が一挙に不安定になる。情緒不安というのは、あくまでも症状。
 その症状としては、攻撃的暴力的になるプラス型、ぐずったり引きこもったりするマイナス型、
ものに固執する固着型などがある。

 そこで子どもが情緒不安症状を示したら、まず、原因が何であるかをさぐる。慢性的なストレ
スや欲求不満など。ある子ども(小6男児)は、幼児期に読んだマンガの本を大切そうにもって
いた。ボロボロだった。そこで私が、「これは、何?」と声をかけると、「どうチョ、読んではダメだ
と、言うのでチョ」と。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりである。原因は父親にあった。父親
は、ことあるごとに、その子どもをこう、脅していた。「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ。毎
日、3時間は勉強しなければならないぞ」と。子どもの未来をおどすのは、タブー中のタブー。
それはそれとして、こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 子どもが思春期の第二反抗期にさしかかると、子どもの情緒はたいへん不安定になる。そこ
で大切なことは、家庭では、子どもが体を休め、心をいやすことができるようにすること。方法
としては、子どもの側からみて、親の視線をまったく感じないようにするのがよい。あれこれ説
教をしたり、気をつかうのは、かえって逆効果。また家の中で、態度が横柄になり、言葉づかい
が乱暴になるなど、生活習慣が乱れることもあるが、「ああ、うちの子は、外の世界で、がんば
っているからだ」と、大目に見るようにする。「親に向かって、何よ!」式に、頭ごなしに叱っては
いけない。

 なお子どもは、小学三年生くらいを境にして、急速に親離れを始める。学校であったことを、
親に話さなくなったり、女児だと、父親といっしょに風呂に入るのをいやがったりするようにな
る。ただその親離れは、ある日を境に、急にそうなるのではない。日々に、おとなぶったり、反
対に、幼児のようになったり、それを繰りかえしながら、数年をかけて、親離れする。

 しかし症状が、ある範囲に収まっているなら、親は、こうした親離れを喜ばねばならない。子
育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもの反抗をすべて容認せよと
いうわけではないが、一方で、「ああ、うちの子は、自分の道を歩み始めている…」と思いなお
し、一歩、引きさがる。そういう姿勢が、子どもを自立させる。中学生になっても、「ママ、ママ」
と、親に頼る子どものほうが、おかしい。
 

(6)口が悪い

Q うちの子は、口が悪くて困ります。私に向かっても、平気で「クソババー!」とか言います。
(小二男)

A 子どもの口が悪いのは当たり前。それを許せというわけではないが、それが言えないほど
まで、子どもを抑えつけてはいけない。もう少し専門的に言うと、こうなる。

 乳幼児の心理は、口唇期(口を使って口愛行動をする)、肛門期、男根期を経て発達する(フ
ロイト)。肛門期というのは、体内にたまった不要物を、外に排出する快感を覚える時期と考え
るとわかりやすい。(これに対して、男根期は、いわゆる小児性欲のこと。おとなの性器性欲の
基礎になる。)

 たとえばおとなでも、重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。
が、それを話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。その
とき感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい。

 つまり子どもは、思ったことをズケズケと言うことで、自分の心の中にたまったゴミを外に吐き
出そうとする。それは快感であると同時に、子どもにとっては、精神のバランスをとるために
は、必要なことでもある。

 むしろそれを抑えつけてしまうことによる弊害のほうが、大きい。イギリスの格言にも、『抑圧
は悪魔をつくる』というのがある。心の抑圧状態が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になる
ことを言ったものだが、子どものばあい、それがとくに顕著に現れる。

 N君(小五)という、静かでおとなしい子どもがいた。従順で、これといって問題はなかった。し
かし私はある日、彼のノートを見て、びっくりした。そこには、首のない人間や、血だらけになっ
てもがき苦しむ顔、ドクロなどが描かれていた。原因は、父親の神経質な過関心だった。

 言いたいことを言う。思ったことを言う。それができるから、家庭という。あの『クレヨンしんち
ゃん』の中にも、母親のみさえが、義理の父親に向かって、こう怒鳴るシーンがある(V16)。
「ひからびた、ゆで玉子頭」と。そういうことが自由に言いあえる家庭というのは、それだけで
も、すばらしい家庭(?)ということになる。

 私も、よく生徒に、「クソじじい」と言われる。そこである日、こう教えてやった。

私「もっと悪い言葉を教えてやろうか」
子「うん、教えて、教えて」
私「でも、お父さんや、校長先生に言ってはだめだよ。約束するか?」
子「するする…」
私「ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。
 それからというもの、私のニックネームは、美男子になった。生徒たちは私を見ると、うれしそ
うに、「美男子! 美男子!」と。私は一応、怒ったフリをするが、内心では笑っている。
 

(7)親のトラブル

Q このところ親どうしのトラブルが原因で、憂うつでなりません。言った、言わないが、こじれ
て、抜きさしならない状態になっています。

A 親どうしのつきあいは、如水淡交。水のように、淡く、無理なくつきあうのがよい。つきあうと
しても、できるだけ学校の行事の範囲にとどめ、個人的な交際は、必要最低限にとどめる。ほ
かの世界と違って、間に子どもがいるため、一度こじれると、この種の問題は、とことんこじれ
る。親によっては、たいへん神経質な人がいる。神経質になるのが悪いというのではない。そ
れは子育てにまつわる宿命のようなもの。人間にかぎらず、どんな動物でも、子育をしている
間は、たいへん神経質になる。そこでこうしたトラブルを避けるために、いくつかの原則があ
る。

 (1)子どもの前では、学校や先生の批判はもちろんのこと、ほかの親の批判は、タブー。子
どもが先生の悪口を言っても、「あなたのほうが悪い」「そんなことは言ってはいけない」と、たし
なめる。相づちを打ってもいけない。相づちを打てば、今度はあなたが言った言葉として、広ま
ってしまう。それだけではない。子どもは、先生の指示に従わなくなってしまう。そうなれば教育
そのものが成りたたなくなってしまう。

 つぎに(2)子どもどうしの間でトラブルが起き、先生に相談するときも、問題だけを先生に話
し、あとの判断は、先生に任せる。相手の親や子どもの名前は、できるだけ出してはいけな
い。先生は、教育のドクター。判断するのは、あくまでも先生。それともあなたは病院へ行っ
て、自分で診断名をつけたり、治療法を決めたりするとでもいうのだろうか。

 また(3)子どもどうしのトラブルがこじれたときには、まず、あなたのほうから頭をさげる。こ
の世界には、『負けるが勝ち』という、大鉄則がある。先にも書いたように、間に子どもがいるこ
とを忘れてはいけない。大切なことは、子どもが気持ちよく学校へ通えること。またそういう状
態を、用意してあげること。だから負けるが、勝ち。あなたが先に「すみません」と頭をさげれ
ば、相手も、「いいんです。うちも悪いから…」となる。そういう謙虚な姿勢が、子どもの世界を
明るくする。

 が、それでもこじれたら…。先生に問題の所在だけを告げ、一度、引きさがる。これを「穴に
こもる」という。穴にこもって、時間が解決してくれるのを待つ。そしてその間、あなたはあなた
で、子どものことは忘れ、したいことをすればよい。

 ふつう、それほど深刻な問題でないときは、一にがまん、二にがまん、三、四がなくて、ほか
の親に相談と決めておく。ほかの親というのは、一、二歳年上の子どもをもつ親のことをいう。
そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありましたよ」というような話で、たいていの問題
は解決する。


(8)帰宅拒否

Q 学校からってくるとき、道草をくってばかりいます。家の中でも、どこか憂うつそうで、あいさ
つをしても返事をしません。(小五男)

A 疑うべきは、帰宅拒否。家庭が、家庭としての機能、つまり体を休め、心をいやすという機
能を果たしていないことを疑う。そこでテスト。

 あなたの子どもは、学校から帰ってきたとき、どこでどのようにして、心や体を休めているだ
ろうか。あなたのいる前で、平然として、休めていれば、よし。しかしあなたの姿を見ると、どこ
かへ逃げていくとか、好んでひとりになりたがるというようであれば、まず家庭のあり方を反省
する。その一つ、『逃げ場を大切に』。

どんな動物にも、最後の逃げ場がある。子どももしかり。子どもは、その逃げ場に入ることによ
り、体を休め、心をいやす。たいていは自分の部屋ということになるが、その逃げ場を親が平
気で荒らすようになると、子どもは、別の場所に逃げ場を求めるようになる。トイレの中や犬小
屋、近くの電話ボックスの中に逃げた子どもなどがいた。さらにこじれると、家出ということにな
る。

 子どもが逃げ場へ入ったら、追いかけて説教したり、叱ったりしてはいけない。いわんや部屋
の中や、机の中を調べてはいけない。コツは、逃げ場から子どもが出てくるまで、ただひたすら
根気よく待つこと。

これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立
場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そのときあ
なたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれに耐えられる
だろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとか
いう次元の話ではない。子どもの人格を尊重するためにも、また子どもの中に、「私は私」とい
う考え方を育てるためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所と心得る。

 また子どもに何か問題が起きると、「学校が悪い」「先生が悪い」「友だちがいじめた」と騒ぐ
人がいる。そういうこともたしかにあるが、しかし家庭が家庭としての機能を果たしていれば、
問題は問題となる前に解決するはず。そのためにも、ここでいう家庭の機能を大切にする。

 子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむ。「絶対的」というのは、疑い
をいだかないという意味。その家庭がぐらつくと、子どもは心のより所をなくし、情緒が不安定
になる。攻撃的になったり、理由もなく、ぐずったりする。ものに固着することもある。神経症に
よる症状(腹痛、頭痛、チック、吃音、爪かみ、髪いじり)を伴うことが多い。ある女の子(小一)
は、鉛筆のハシをいつもかじっていた。


(9)父親の無関心

Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかか
ってきます。

A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうではな
い。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だったかもしれ
ない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。ある女の子(小五)は母親に、こう言った。「どう
してあんなパパと、結婚したの。もっといい男の人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考
えれば、母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは存在していなかったことになるのだ
が…。

 そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方をす
る。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親のヨセフ
は、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?

 これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、そ
の一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約三〇%の夫は、家事をほとんどして
いない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。

 そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親にしても
らう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」と。決して男尊
女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親なら、私はその反対
のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬しあうことをいう。まちがっ
ても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とくに子どもの前では、してはいけない。

 こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、母親
の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女性(三二歳)
は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑していた。原因は、
その女性の母親にあった。

 母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父親は、
まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親を、「甲斐性
(生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?

 これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過渡期
にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約三〇%の若い夫は、育児はもちろん、炊
事、洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。

 …というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を張って
いる。あせらず、じっくりと構えること。


(10)友だちの問題

Q このところ、うちの子が、よくない友だちと交際を始めています。交際をやめさせたいのです
が、どう接したら、いいでしょうか?(小六男)

A イギリスの教育格言に、『友を責めるな、行為を責めよ』というのがある。これは子どもが、
よくない友だちとつきあい始めても、相手の子どもを責めてはいけない。責めるとしても、行為
のどこがどう悪いかにとどめるという意味。コツは、「○○君は、悪い子。遊んではダメ」など
と、相手の名前を出さないこと。言うとしても、「乱暴な言葉を使うのは悪いこと」「夜、騒ぐと近
所の人が迷惑をする」と、行為だけにとどめる。そして子ども自身が、自分で考えて判断し、そ
の子どもから遠ざかるようにしむける。

 こういうケースで、友を責めると、子どもに「親を取るか、友を取るか」の二者択一を迫ること
になる。そのとき子どもがあなたを取れば、それでよし。そうでなければ、あなたとの間に、深
刻なキレツを入れることになる。さらに友というのは、子どもの人格そのもの。友を否定すると
いうことは、子どもの人格を否定することになる。

 またこういうケースでは、親は、そのときのその状態が最悪と思うかもしれないが、あつかい
方をまちがえると、子どもは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった…」ということを繰り返しな
がら、さらに二番底、三番底へと落ちていく。よくあるケースは、(門限を破る)→(親に叱られ
る)→(外泊するようになる)→(また親に叱られる)→(家出する)→(さらに親に叱られる)→
(集団非行)と。

が、それでもうまくいかなかったら…。そういうときは、思いきって引いてみる。相手の子ども
を、ほめてみる。「あの○○君、おもしろい子ね。好きよ。今度、このお菓子、もっていってあげ
てね」と。

 あなたの言ったことは、あなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。それを耳にし
たとき、相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、よい子を演ずるようになる。相手の子ど
もを、いわば遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも、高等技術に属する。あとはそれ
をうまく利用しながら、あなたの子どもを導く。

 なおこれはあくまでも一般論だが、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経
験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな人間になることがわかっている。むしろこの
時期、無菌状態のまま、よい子(?)で育った子どもほど、あとあと、おとなになってから問題を
起こすことが多い。だから、親としてはつらいところかもしれないが、言うべきことは言いながら
も、今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる。あせりは禁物。短気を起こ
して、子どもを叱ったり、おどしたりすればするほど、子どもは、二番底、三番底へと落ちてい
く。
 
 
(11)子育ての指針

Q 子育ての情報が多すぎて、どう子育てをしたらいいか、わかりません。指針のようなものは
ありませんか。

A 子育てには、四つの方向性がある。まず未来を見る。子どもに子ども(あなたからみれば
孫)の育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育て
るのですよ」「こういうふうに、子どもを叱るのですよ」と。見せるだけでは足りない。幸せな家庭
というのは、どういうものか、夫婦というのは、どういうものか、それを子どもの体にしみこませ
ておく。

 つぎに自分の過去をみる。もしあなたが心豊かで、満ち足りた幼児期、少年少女期をすごし
ているのなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたの性格は、どこかがゆがんでいるとみ
る。ひがみやすい、嫉妬しやすい、いじけやすい、意地が悪い、冷たいなど。そういうゆがみを
知るために、自分の過去を冷静に見る。そしてよい面は、子どもに伝え、そうでない面は、あな
たの代で切る。子どもの代には、伝えない。

 三つ目は、あなたの子育てを、できるだけ高い視点から見る。最初は、近所の人や親類の人
の子育てと比較してみるのもよい。そしてそれができるようになったら、世界の子育てと、自分
の子育てを比較してみる。「日本の子育ては…」と考える。その視点は高ければ高いほどよ
い。まずいのは、小さなカラにこもり、その中で、独善と独断で、ものの考え方を先鋭化するこ
と。これをカプセル化と呼ぶ人もいる。親は、一度このカプセルの中に入ると、何をするにも、
極端になりやすい。

 最後に、あなたの心の中をのぞいてみる。子育ては、ただの子育てではない。たとえばある
母親は、自分の子どもが生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。私の命と交
換に、うちの子の命を助けて」と願ったという。こういう自分の命すら惜しくないという、まさに至
上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

 それだけではない。あなたは家庭という小さな世界であるにせよ、子どもに対して、神の愛
や、仏の慈悲を、そこで実践できる。それはまさに崇高な世界といってもよい。子どもの問題を
ひとつずつ克服しながら、神々しいほどまでに、すばらしい人になった母親は、いくらでもいる。

 こうして自分の子育てを、いつも四つの方向から見るようにする。未来を見て、過去を見る。
上から見て、心の中を見る。

 最後に、親が子どもを育てるのではない。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を越
える。そういう苦労を繰りかえすうちに、ちょうど稲穂が実り、頭をたれるように、姿勢が低くな
り、人間的な丸みや深みができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育
てる。それに気づけば、あなたは子育てのプロ。もう道に迷うことはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1702)

●とんでもない論理

++++++++++++++++++++

久々に、とんでもない論理にぶつかった。
おそらく、K国系の人たちが開いている
HPなのだろう。

ただ気になるのは、それが朝鮮N報という、
韓国を代表する新聞社が発行しているHPに
紹介されていたこと。

その中にあった。

題して、『北は悪ですか?』。

++++++++++++++++++++

 頭のおかしな連中は、どこにでもいる。自分がもつ常識と照らしあわせてみて、「おかしい」と
感じたら、そういう連中は相手にしないこと。

 しかし久々に、とんでもない論理にぶつかった。もしそれがどこかの頭のおかしな連中の言っ
ていることなら、私は相手にしない。しかしそれは朝鮮N報という新聞社が発行するHPに載っ
ていた。朝鮮N報と言えば、韓国を代表する新聞社である。

 それが、どうとんでもない論理であるかは、つぎの一節を読んでみればわかるはず。原文の
まま紹介する。

++++++++++++++

【北は悪ですか?】

 北朝鮮を悪だと思うことは、とっても簡単!! 3秒も有れば十分です。 
 さあ、ご覧下さい! 

 拉致は悪い→北朝鮮は日本人を拉致した→だから、北朝鮮は悪だ。

 こんな風にも、出来ますよ! 

 核実験は悪い→北朝鮮は核実験をした→だから、北朝鮮は悪だ。

 ね、とっても簡単だったでしょう!? 

 ・・・同様に、アメリカを悪だと思うことも簡単です。やっぱり、3秒も掛かりません。ちょっとや
ってみましょうか。

 戦争は悪い→米国は、しょっちゅう戦争をしている→だから、米国は悪だ。

 こんな風にも、出来ますよ! 

 核実験は悪い→米国は核実験をした→だから、米国は悪だ。

 ね、とっても簡単だったでしょう!? 
それでは、ここで問題です!!

 北朝鮮とアメリカ。悪いのは、ど〜っちだ?

+++++++++++++

つまり核実験をしたK国について、「アメリカだって、しているではないか」「だから悪いのは、ア
メリカのほうだ」と。

 かつて日本にも、同じような論理をふりかざして、K国を擁護していた人がいた。「アメリカは、
自分が核兵器をもっていて、どうしてほかの国に、核兵器をもつなと言うことができるのでしょう
か。自分だって、もっているくせに」と。

 記録は残っていないが、私は、ちゃんとこの耳で聞いた。日本でも当時、一番名前がよく知ら
れた、KHというニュースキャスターだった。彼が、自分が司会する夜のニュース番組の中で、
そう言った。しかも吐き捨てるかのように!

 まちがえてはいけないのは、K国は、この日本を攻撃するために、核兵器を開発し、ミサイル
を開発しているということ。現に、K国の政府高官たちは、ことあるごとに、そう公言している。
「核兵器は、日本を攻撃するためのもの」と。

 そういう事実を忘れて、K国をアメリカと同列に考えること自体とは!

 それに拉致問題は、現在進行中の問題である。拉致という重大犯罪の犠牲者が、現に、K
国にいる以上、そういう人たちを日本へ返せというのは、当然のことではないか。それを棚に
あげて、「アメリカだって悪い」とは!

 たとえて言うなら、不注意で花瓶を割ってしまった子どもが、親に叱られたとき、「ママだって、
この前、花瓶を割ったじゃないか!」と言い返すのに似ている。言い返したところで、自分の不
注意が正当化されるというものでもあるまい。

 韓国が、ますますわからなくなってきた。

 その韓国だが、来年1月1日からカタール・ドーハで開かれる第15回アジア大会で、K国と統
一旗をあげて入場行進することが決まった(11月21日)。こういう時期に、共同で、(実際に
は、お情け的に)、共同行進するというのもどうかと思うが、その統一旗には、今回から、竹島
(独島)が描かれることになったという。

 もし逆に日本が同じようなことをしたら、韓国はどのように反応するだろうか。そういうことも、
少しは考えて、韓国も行動すべきではないのか。

 たとえば日本が国連安保理の理事国入りをめざしたとき、韓国のN大統領は、世界各国に
特使まで送って、(特使だぞ!)、それに反対した。が、一転、韓国の大臣が国連事務総長に
立候補すると、日本に対して支持を要請してきた。実際には、よほどバツが悪かったのだろう。
最後の最後のところで、支持を要請してきた。

 もしあのとき、日本が同じように、世界各国に特使を派遣して、それに反対していたとしたら、
韓国は、いったい、どのように反応しただろうか。

 さらに今朝(22日)の朝鮮N報は、こう伝えている。

 「トヨタ自動車が中国北京モーターショーで、(新型カローラ)を発表し、打倒現代自動車を宣
言した」と。

 あのトヨタが、「打倒現在自動車」! ……そんなことを、世界のトヨタが言うはずがない。韓
国という国は、今、まるで国中が、被害妄想のかたまりのようになってしまっている! ……ま
さにそんな感じ!


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●1993年

+++++++++++++++

今朝、Eマガの読者が、1993人に
なった。

そこで1993年。

+++++++++++++++

 この2週間、Eマガの読者がまったく、ふえなかった。それで前回、1990年について書いて
から、今回の1993年まで、2週間も(?)、かかったことになる。長くて苦しい2週間だった。ホ
ント。

 そこで1993年。私が、満46歳になった年である。

 このころの私は、カルト教団を相手に、ひとりで戦っていた。毎週、土日になると、ワイフと2
人で、あちこちに取材にでかけたりしていた。宗教論に関する本を5冊、つづけて出版したの
も、このころである。いくつかの月刊誌や週刊誌にも原稿を寄稿していた。

 おかげで私は、いろいろな宗教団体から、攻撃されるハメに。毎週のように、5〜10人の、
その教団の信者たちがやってきて、あれこれ悪態をついて帰っていった。20人ほどの信者た
ちが私の家に押し寄せてきたこともある。

 一時は、殺されるのではないかと思ったこともある。が、無事、何とか、生き延びることができ
た。同時に、私から、(こわいもの)が消えた。

 で、その前後から、あのO真理教が世間の話題をひとり占めするようになり、私は、そうした
活動から足を洗った。カルト教団があるから、信者、つまり犠牲者が生まれるのではない。そ
れを求める人たちがいるから、カルト教団は生まれる。

 つまりカルト教団をいくら叩いても、ムダ。それはモグラ叩きのモグラに似ている。こっちを叩
いても、また別のところか、出てくる。それに気がついた。言いかえると、「あなたはまちがって
いる」と言うことぐらいなら、だれにだってできる。しかしそれ以上に大切なことは、そういう人た
ちのために、別の道を示してやること。

 それができないというのなら、安易にカルト教団といえども、それを叩いてはいけない。信者
は信者で、救いを求めて、懸命にもがいている。苦しんでいる。

 1990年から1993年。長い2週間だった。しかし実際の1990年から1993年は、私にとっ
ては、怒涛(どとう)のように過ぎた3年間だった。今にして思うと、そう思う。

 今でも、つまりあれから13年もたった今でも、ときどき、どこかの信者が、私の家にやってき
て、悪態をついて帰ることがある。しかし私が相手にしているのは、そういう末端の、言うなれ
ば純真な信者ではない。彼らをロボットのように操るカルト教団という教団である。さらに言え
ば、そういう教団を求める人間の心の弱さである。

 個々の信者を相手にしても、しかたない。それぞれの信者が、それぞれの世界で、それなり
にハッピーなら、それはそれでよいことではないのか。

 ただし、反社会的な行動をするカルト教団は、別である。人の心をもてあそぶ教団は、別であ
る。そういうのとは、容赦なく、戦う。

 その結果だが、私のワイフは、ときどきこう言う。「あのころは、楽しかったわ」「信心もイワシ
の頭からというけど、本当ね」と。

 つまるところ、それが私たちの、そのころ得た結論ということになる。今は、静かにしている
が、もう少し年をとったら、再び、カルト教団についての原稿(本)を書いてみたいと思ってい
る。

 その類(たぐい)のインチキ教団の幹部へ。覚悟しておけよ!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マザコン型人間

+++++++++++++++++

マザコンタイプの男性(夫)は多い。
女性にもいる。

そのマザコン、つまりマザーコンプレックス
が高じたものが、「親絶対教」ということに
なる。

21世紀になった今でも、この日本には、
親絶対教の信者は、多い。

+++++++++++++++++

 親が子どもに感ずる愛には、3種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。こ
のうち本能的な愛と代償的愛に溺れた状態を、溺愛という。そしてその溺愛がつづくと、いわゆ
る溺愛児と呼ばれる子どもが生まれる。

 その溺愛児は、たいていつぎのような経過をたどる。ひとつはそのまま溺愛児のままおとな
になるタイプ。もうひとつは、その途中で、急変するタイプ。ふつうの急変ではない。たいていは
げしい家庭内暴力をともなう。

 で、そのまま進むと、いわゆるマザーコンプレックス(マザコン)タイプのおとなになる。おとな
になっても、何かにつけて、「ママ、ママ」とか、「お母さん、お母さん」と言うようになる。

このマザコンタイプの人の特徴は、(1)マザコン的であることを、理想の息子と思い込むこと。
(圧倒的に母と息子の関係が多いので、ここでは母と息子の関係で考える。)

それはちょうど溺愛ママが、溺愛を、「親の深い愛」と誤解するのに似ている。そして献身的か
つ犠牲的に、母親に尽くすことを美徳とし、それを他人に誇る。これも溺愛ママが、自分の溺愛
ぶりを他人に誇示するのに似ている。

 つぎに(2)自分のマザコンぶりを正当化するため、このタイプの男性は、親を徹底的に美化
しようとする。「そういうすばらしい親だから、自分が親に尽くすのは、正しいことだ」と。そういう
前提を自分の中につくる。

そのために、親のささいな言動をとらえて、それをおおげさに評価することが多い。これを「誇
大視化」という。「巨大視化」という言葉を使う人もいる。「私の母は、○○のとき、こう言って、
私を導いてくれました」とかなど。カルト教団の信者たちが、よく自分たちの指導者を誇大視す
ることがあるが、それに似ている。「親孝行こそ最大の美徳」と説く人は、たいていこのタイプの
男性とみてよい。

G氏(54歳男性)もそうだ。何かにつけて、10年ほど前に死んだ自分の母親を自慢する。だれ
かが批判めいたことを言おうものなら、猛烈にそれに反発する。あるいは自分を悪者にしたて
ても、死んだ母親をかばおうとする。

 マザコンタイプの人は、自分では結構ハッピーなのだろうが、問題は、そのため、たいていは
夫婦関係がおかしくなる。妻が、夫のマザコンぶりに耐えられないというケースが多い。しかし
悲劇はそれで終わらない。マザコンタイプの夫は、自分でそれに気づくことは、まずない。「親
をとるか、妻をとるか」と迫られたりすると、「親をとる」とか、「当然、親」と答えたりする。

反対に妻に、「親のめんどうをしっかりみてくれなければ、離婚する」などと言うこともある。そも
そも結婚するとき、婚約者に「(私と結婚するなら)親のめんどうをみること」というような条件を
出すことが多い。親は親で、そういう息子を、できのよい息子と喜ぶ。あとはこの繰りかえし。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●誇大視化

+++++++++++++++

ささいなまちがいや失敗を、ことさら
おおげさに取りあげて、騒ぐ。

カルト教団がよく使う手法である。

この種の手法には、じゅうぶん、注意
されたし。

+++++++++++++++

 カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼
ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さ
らにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。

 しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつ
うに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつう
に見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。

 私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチ
がついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座ってい
なさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。が、ここでハ
プニングが起きた。そばにいた別の子どもが、その子ども(小2男児)のおしりに顔をうずめ
て、「クサイ!」と言ってしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。

 で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話が
かかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私
はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。それから3か月もたったあ
る日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。見ると、父親からの手紙が
添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで講演をしているというが、今
すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。

 ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親
は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それです
ますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。

たしかに私は失敗をした。しかしそういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れ
ていたら、教育そのものができない。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そう
いう一部の失敗をことさら大げさにとらえ、それでもって、相手を否定する。ふつうの否定では
ない。全人格すら否定する。

 そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。
「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視
化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 誇大
視 誇大視化 巨大視 巨大視化)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【親絶対教について】

+++++++++++++++++

親絶対教というのも、カルトのひとつ。
自ら親絶対教を信ずるのは、その人の
勝手だが、しかしだからといって、それを
自分の子どもに押しつけてはいけない。

+++++++++++++++++

●事例(1)……心を解き放て!

 今どき「先祖だ」「家だ」などと言っている人の気がしれない。……と書くのは、簡単だ。またこ
う書いたからといって、その先祖や家にしばられて苦しんでいる人には、みじんも助けにならな
い。

Yさん(45歳女性)がそうだ。盆になると、位牌だけでも300個近く並ぶ旧家にYさんは嫁い
だ。何でも後醍醐天皇の時代からの旧家だそうだ。で、今は、70歳になる祖父母、Yさん夫
婦、それに1男1女の3世代同居。正確には同じ敷地内に、別棟をもうけて同居している。が、
そのことが問題ではない。

 祖母はともかくも、祖父とYさん夫婦との間にはほとんど会話がない。Yさんはこう言う。「同居
といっても形だけ。私たち夫婦は、共働きで外に出ています」と。

しかし問題はこのことではない。「毎月、しきたり、しきたりで、その行事ばかりに追われていま
す。手を抜くと祖父の機嫌が悪くなるし、そうかといって家計を考えると、祖父の言うとおりには
できないのです」と。しかしこれも問題ではない。

Yさんにとって最大の問題は、そういう家系だから、「嫁」というのは家政婦。「孫」というのとは、
跡取り程度にしか考えてもらえないということらしい。「盆暮れになると、叔父、叔母、それに甥
や姪、さらにはその子どもたちまでやってきて、我が家はてんやわんやになります。私など、そ
の間、横になって休むこともできません」と。

たまたま息子(中3)のできがよかったからよいようなものの、祖父はいつもYさんにこう言って
いるそうだ。「うちは本家だから、孫にはA高校以上の学校に入ってもらわねば困る」と。

 Yさんは、努めて家にはいないようにしているという。何か会合があると、何だかんだと口実を
つくってはでかけているという。それについても祖父はあれこれ言うらしい。しかし「そういうこと
でもしなければ、気がヘンになります」とYさんは言う。

一度、たまたま祖父だけが家に残り、そのときYさんが食事の用意をするのを忘れてしまったと
いう事件があった。「事件」というのもおおげさに聞こえるかもしれないが、それはまさに事件だ
った。激怒した祖父は、Yさんの夫を電話で呼びつけ、夫に電気釜を投げつけたという。「お前
ら、先祖を、何だと思っている!」と。

 こういう話を聞いていると、こちらまで何かしら気がヘンになる。無数のクサリが体中に巻き
ついてくるような不快感だ。話を聞いている私ですらそうなのだから、Yさんの苦痛は相当なも
のだ。で、私はこう思う。

日本はその経済力で、たしかに先進国の仲間入りはしたが、その中身は、アフリカかどこかの
地方の、○○民族とそれほど違わない。

もちろん伝統や文化はあるだろう。それはそれとして大切にしなければならないが、しかし今は
もう、そういうものを個人に押しつける時代ではない。「こういう伝統がある」と話すのは、その
人の勝手だが、それを受け継ぐかどうかは、あくまでもつぎの世代の問題ということになる。私
たちはその世界まで、立ち入ることはできない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●事例(2)……心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間
に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は
崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。

実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れて
も、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。「ふだんはいい女房だと思う
のですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言って
いるの』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴があ
る。

排他性(他の思想を否定する)、
情報の遮断性(他の思想を遮断する)、
組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、
迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)、
利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。
巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学
者もいる。

 信仰のし方としては、

催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、
反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、
隔離性(ほかの世界から隔離する)、
布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、
献金の奨励(結局は金儲け?)、
妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)な
ど。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがあ
る。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬
を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団
体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定し
ても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないと
いうこと。みな、それぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それ
については謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また言っ
てはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の悲しみ
や苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味
はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめ
て、この問題は解決する。

「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したと
き、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればす
るほど、夫婦関係はさらに崩壊する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルト
の特徴 カルト カルト信仰の特徴)

Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1703)

【2006年を振りかえって……】

++++++++++++++++++

この原稿は、電子マガジン・2006年12月
29日用。つまり2006年度、最後の
電子マガジンということになる。

++++++++++++++++++

●年賀状は、手書きのみ

 来年(07年)度は、さらにさらに、年賀状を失礼させてもらう。そのかわり、05年、06年につ
づいて、年賀状はすべて手書きで、挑戦。「すべて」といっても、数十枚が限度。その数十枚
を、毎週5〜6枚ずつ、仕上げる。

 
●いよいよビスタ(パソコンのOS)が発売に

 1月には、ビスタ(OS)が、発売になる。楽しみ。すでに購入する機種は決まっている。メモリ
ーは、2048MB。CPUは、ダブルコアx2。4MB、3・0GHz以上。ハードディスクとグラフィック
ボードについては、ぜいたくは言わない。今のところ、とくにしてみたいパソコンゲームというの
はないし……。


●「今年もがんばった」?

 みな、こう言う。「今年もがんばった」と。私もそう言う。しかしがんばったといっても、自分のた
め? 先日、女子マラソンの中継を見ていて、ふと、そんなことを考えた。

 「あの選手たちは、何のためにがんばっているのだろう?」と。

 ところで私の近所に、今年90歳を過ぎた女性がいる。最近、体調を悪くしたとかで、床に伏
せっている。その女性だが、元気なときは、いつも近所の草を刈っていた。が、今は、草を刈る
人は、だれもいない。そのため今は、そのあたりは雑草だらけ。空き地で小さな畑もたがやし
ていたが、今では、見る影もない。

 その90歳を過ぎた女性はがんばった。みなのためにがんばった。そういう話なら、私にも理
解できる。しかしマラソン選手は、だれのためにがんばっているのか。ひょっとしたら、自分の
ためにがんばっているだけではないのか。……というのは、言い過ぎかもしれないが、一方で
タレント活動をしている姿を見ていると、そんな感じがしないでもない。

 (だからといって、それが悪いと言っているのではない。誤解のないように!)

 そう考えていくと、「今年もがんばった」と、安易に言えなくなる。つまり私もがんばるには、が
んばった。が、つまるところ、自分のエゴ(=自己利益)の追求をしただけ。率直に言えば、そう
いうことになる。

 
●電子マガジン

 2006年も、電子マガジンに始まり、電子マガジンに終わった。暇さえあれば、原稿ばかり書
いていた。……と言っても、その時間をつくるのがたいへん。みなが起きる前の1〜2時間と
か、昼間の数時間とか、あるいは、仕事の合い間とか、など。そういうときに、パソコンのキー
ボードを叩く。

 量にすれば、毎月単行本で、4〜5冊分の原稿は書いた。年間になおせば、50〜60冊分と
いうことか。

 しかしインターネットの世界というのは、不思議な世界だ。それだけの原稿を書いたにもかか
わらず、その実感が、ほとんど、ない。もちろん収入も、ほとんど、ない。唯一の楽しみは、少し
ずつでも読者の数がふえることだが、実際には、1か月以上、まったくふえない月もあった。

 電子マガジンを発行するということは、常に、「何のためにこんなことをしているのだろうか」と
いう思いとの戦いだった。この1年を振りかえってみると、そんな感じがする。

 ともあれ、今年も、何となく無事に(?)、1年が終わった。2007年は、どんな年になるのだろ
う? 現状が維持できれば、それでよし。とにかく電子マガジンは、1000号まで、がんばって
みる。

 その電子マガジンだが、今回(12月29日号)で、824号になった。あと、176号。あと、14
か月。がんばろう! 

**********************

月並みな言い方で、すみませんが、
どうか、みなさん、よい新年をお迎えください。

来年もどうかつづけてマガジンをご購読ください。
できれば、有料マガジン(まぐプレ・月額300円)を、
ご購読ください。

よろしくお願いします。

***********************

Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1704)

●どうにも理解できない事件

++++++++++++++++++

どこかの産婦人科医が、15歳の女子
中学生に現金を払って、わいせつな
行為をしていたという。

産婦人科医の年齢は、59歳。私と同じ。
複数の産婦人科医院を経営していたという。

++++++++++++++++++

 産婦人科医がわいせつ行為? いったい、どういうこと? 産婦人科医であれば、毎日、あき
るほど、女性の体を見ているはず。……と書くのは、ヤボ。

 患者として医院にやってくる女性と、ドクターの間には、一定の壁がある。目で見たり、手で触
(さわ)ることはできても、そこまで。患者の前では、それなりの人格者として振る舞わなければ
ならない。心理学の言葉を使えば、仮面(ペルソナ)をかぶる。

 で、若いころ、市内のH総合病院で産婦人科医をしていた知人(当時、50歳くらい)が、こう
話してくれた。その知人とは、東洋医学の研究を、5、6年ほど、いっしょにしたことがある。私
が、「女性の体をのぞいていて、何も感じないのですか」と聞いたときのこと。その知人は、こう
言った。

 「30歳過ぎまでは、よく、感じましたよ。ときどき、ゴクンとつばを飲みこむほど、感じたことも
あります」と。

 実はその知人にも、愛人がいた。そこで私がさらに、「毎日、女性の体を見ていて、どうして
不倫なんかするんですか」と聞くと、さらにこう言った。「私らはね、体ではなく、心を求めるんで
すよ」と。

 しかし今回の事件では、相手は、15歳の中学生だったという。つまりこのあたりが、よく理解
できない。が、あえて私なりの解釈を加えると、こうなる。

 その産婦人科医は、そういう行為をしながら、仮面を脱いでいたのではないか、と。仮面をか
ぶりつづけるというのも、つらい。かといって、仮面を脱ぎ忘れると、人格そのものがゆがむ。

 ……と言っても、何も、その産婦人科医を擁護しているのではない。犯罪は犯罪である。児
童買春は、重罪である。それに新聞報道によれば、「警視庁は余罪があるとみて、追及してい
ます」(C新聞・11月24日)とある。「警視庁」だと?

 地方で起きたハレンチ事件に、警視庁が出てきたというのも、ふつうではない。かなりの余罪
があるとみたから、警視庁が出てきた。が、そういう人物が、一方で、産婦人科医として、複数
の医院を経営していた? いったい、その産婦人科医は、自分の医院で、どういう診療行為を
していたというのだろうか?

 多分周囲の人たちは、「診療熱心で、いいドクターでした」と言っているにとがいない。複数の
医院を経営するというのは、たいへんなことだ。学校の教師が同じような事件を犯しても、み
な、そう言う。「指導熱心な、いい先生でした」と。

 ちなみに、2005年度に警視庁が摘発した、児童買春がらみの事件は、1581件。このうち
サイトを通じて知りあった少女らとの性的行為などで摘発した事件は、1114件。女性側126
4人のうち、18歳未満は、84%を占めるという(「男と女の統計白書」アントレックス社)。

さらに、(durex global sex survey 2006)によれば、援助交際の経験者(男性)は、つぎ
のようであるという(同書)。

10代…… 3%
20代……12%
30代……22%
40代……27%
50代……31%

 50代では、何と、3人に1人の男性が、援助交際を経験しているという。わかりやすく言え
ば、それなりの男性なら、みな、経験しているということになる。

 で、話をもどすが、産婦人科医にかぎらず、教師もそうだが、仮面をかぶるのはしかたないこ
とだとしても、仮面は仮面として、いつもそれを意識する必要がある。「これは私の本当の顔で
はないぞ」と、である。

 つぎに大切なことは、毎日でもよいから、一度は、その仮面を脱ぐこと。脱いで自分らしさを
取りもどすこと。それを忘れると、その抑圧感から、気が変になってしまう。

 問題は、その脱ぎ方だが、方法は、人それぞれ。私のばあいは、ワイフとバカ話ばかりして
いる。そういう方法で、仮面を脱いでいる。


●バカ話

++++++++++++++++++

私とワイフは、暇さえあれば、意味のない
バカ話ばかりしている。

たいていはダジャレだが、人の悪口も
多い。

つまり私のばあい、こうして自分の
仮面をワイフの前では、ぬぐようにして
いる。

++++++++++++++++++

 私とワイフは、暇さえあれば、いつも意味のないバカ話ばかりしている。私にとっては、息抜
きのようなものだが、同時に、そうすることによって、私は自分の仮面を脱ぐようにしている。つ
まりありのままの自分をさらけ出すようにしている。

 私のような仕事、つまり「教育」に関係した仕事をしていると、どうしても仮面をかぶりやすくな
る。それはそれでしかたのないことかもしれない。だれしも職場では、それなりの仮面をかぶ
る。

 しかし仮面は仮面。大切なことは、仮面をかぶりながらも、それを(仮面)と、しっかりと意識
すること。それを忘れると、自分で自分がわからなくなってしまう。へたをすれば、自分の精神
そのものをゆがめてしまう。

 で、昨日も、1、2時間ほどワイフとドライブをした。私とワイフは、その間中、バカ話ばかりし
ていた。年をとったら、夫婦も、電気を消して真っ暗にして、セックスをすればよい。それだけ
で、20歳は、たがいに若く見える、とか、など。

 こんな話もした。

 あるおばあちゃんだが、孫に食事を与えるとき、一度、自分でかんだものを、手に吐き出し、
それを孫の口の中に入れていたという。で、それを見た母親が、仰天して、その場で、気を失
ってしまったという。ウソのような話だが、これは本当にあった話である、などなど。

 こういう意味のない話ばかり、している。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

【生きるということ】

++++++++++++++++++

子どもたちの自殺が連鎖的につづいている。

それについて、……というより、少し視点
を変えて、雑談的に考えてみたい。

++++++++++++++++++

●学校でのいじめ

 学校でのいじめが、今、大問題になっている。が、実は、教師どうしのいじめにも、ものすごい
ものがある。学校の教師というのは、外の世界に向かっては団結する。だれかが外の世界か
ら攻撃をしかけたりすると、それに対しては、猛烈に反発したりする。が、内部では、そうではな
い。たがいに、いがみあったり、足を引っ張りあったり、いじめあったりしている。どうしてそうい
う教師が、子どものいじめを防ぐことができるというのか。

 ただしここに書いた話には、確たる根拠はない。常識とまでは言わないが、風聞として、よく
耳にする話である。

●こだわり

 (こだわり)は、うつ病の典型的な症状の1つである。うつ病の人は、ひとつのことにこだわる
と、そればかりを気にする。そしてそれについて悶々と悩んだり、苦しんだりする。

 たいていは、ささいなことである。隣の家の木が、自分の家のほうに伸びてきたとか、上の階
の人が、フトンをはたいて、ゴミを下に落としたとかなど。

 こうした(こだわり)は、(こだわり)として理解されるが、だからといって、その(こだわっている
部分)を取り除いてやったからといって、うつ病がなおるわけではない。今度は、また別のとこ
ろで、ささいなことにこだわるようになる。

 子どもの世界でも、似たようなことがよく起きる。

 たとえば「A君がぼくをいじめる」と言うから、その子どもの周辺からA君を遠ざけたとする。ば
あいによっては、ほかの学校へ転校させたりする。が、今度は、別のところで、「B君がぼくをい
じめる」と言い出したりする。

 これを私は、「ターゲットの移動」と呼んでいる。A君からB君へと、ターゲットが移動しただけ
ということになる。つまりその子どもの心のベース(=基本的な部分)にある問題を解決しなけ
れば、結局は、その周辺の者たちが、(親や教師も含めてのことだが)、その子どもに振り回さ
れるだけということになる。

 以前は、子どものうつ病はないとされていた。しかし最近では、「小児うつ病」という診断名も
あることからもわかるように、ごくありふれた病気の1つになりつつある。子どもだって、うつ病
になる!

 もちろんいじめが、子どものうつ病の原因になることは、じゅうぶん考えられる。しかしいじめ
はいじめとして別のところで考えるとして、同時に、そのいじめが引き金となって起こす、心の
問題にも焦点をあてなければならない。つまり心の問題を考えることなく、いじめだけを問題に
しても、意味はないということ。

 たとえば今、子どもたちの自殺が連鎖反応的につづいている。それに対して、おおかたの人
は、(いじめ)→(自殺)と短絡的にものを考える傾向が強い。

 しかし実際には、(いじめ)→(心の問題)→(自殺)と考えるのが正しいのではないのか。ある
いは(心の問題)→(いじめ)→(自殺)というケースも、ないとは言えない。

 要するに、子どもが何か特定のことで、異常なまでの(こだわり)を示したら、要注意!、とい
うことになる。

●「生きる」ということ

 「生きる」ということは、どこまでも現実的な問題である。「生きていること」自体が、現実その
ものと言ってもよい。

 だから現実論者は、「自殺」など考えない。自殺したところで、問題は、何も解決しない。その
ことをよく知っている。

 が、現実と空想の世界が混濁してくると、その境界があいまいになってくる。「死ねば楽にな
る」と考えるのも、そのひとつ。死んでしまえば、苦楽を感ずる肉体そのものがないわけだか
ら、楽になったと感ずることはない。ないにもかかわらず、「死ねば楽になる」と考える。

 また自殺することについて、「現実からの逃避」という言葉を使う人もいる。逃避するのは、そ
の人の勝手だが、死んでしまったら、逃避そのものができない。あるいは、どこへ逃避できると
いうのか。

 そこで登場するのが、「あの世」である。「来世」という言葉を使う人もいる。神秘主義者や超
自然主義者、さらにはカルト教の信者たちは、この言葉をよく使う。わかりやすく言えば、非現
実主義に陥れば陥るほど、こうした言葉をよく使うようになる。

 実は私も、本当のところ、あの世があるのかどうか、わからない。わからないが、見たことも
ない世界を、信じろと言われても困る。そこで私は、「あの世はない」という前提で、今を、生き
ている。ただひたすら懸命に生きている。一瞬一秒を惜しんで、生きている。

 その私が死んで、あの世があれば、もうけもの。そのときはそのときで、あの世を認めればよ
い。それはたとえて言うなら、宝くじのようなもの。当たるか当たらないかわからないような宝く
じをアテにして、家のローンを組む人はいない。ローンを組むのは、宝くじが当たってからでよ
い。

 そこで再び、子どもの世界に目を移す。

 今、程度の差もあるが、小学生の中学年以上を中心として、約40%の子どもが、まじないや
占いを信じている。最近の占星術ブームが、それに拍車をかけている。わかりやすく言えば、
子どもたち自身が、現実と空想の混濁した世界で、おとなたちによって、いいように操られてい
る。

 こういう無責任な状態を一方で放置しておいて、子どもたちに向かって、命の大切とやらをい
くら説いても、ムダ。意味はない。繰りかえすが、「生きる」ということは、どこまでも現実的な問
題である。

 前にも書いたが、あの占星術にしても、宇宙(=天)の動向と、個々の人間の運命はシンクロ
ナイズされているという神秘主義が基盤になっている。つまり立派なカルトである。

 そういうものを、毎晩のようにテレビという、超ハイテクの機器を使って、子どもたちの世界に
たれ流している。無責任といえば、これほど、無責任なことはない。

 では、どうすればよいか?

 みなが、自分で考える人間になればよい。自分で考えて、そういう連中のインチキを見抜くよ
うにする。

●「ぼくは、ものごと深く考えない主義です」

 ある若い男性タレント(俳優)が、臆面もなく、こう言った。「ぼくは、ものごとを深く考えない主
義です」(某雑誌社のインタビューに答えて)と。

 私たちの世界では、こういう人間を「バカ」と呼ぶ(失礼!)。……というのは、言い過ぎだとい
うことは、私にもよくわかっている。(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。それは
たとえて言うなら、難解な数学の問題を解くときに感ずる苦痛に似ている。あるいは寒い夜に
ジョギングに出かけるとき感ずる苦痛に似ている。だれだって、できれば、考えることを避けた
いと思う。思って当然。

 しかし人間は自ら考えるから、人間である。考えないということは、自ら、(生きる)ということを
放棄するようなもの。それがわからなければ、そこらにいるイヌやサルを見ればよい。あるい
は一日中、公園で、ぼんやりと時間をつぶしている老人たちを見ればよい。……とういうのも、
言い過ぎだということは、私にもよくわかっている。

 しかし、だ。もし「考えない」というのなら、その人は、何のために生きているのかということに
なる。多分、その男性タレントは、楽天的に生きるということを言ったのだろう。悲観的に生きる
よりは、楽天的に生きるのがよい。が、それなりの俳優を目指すなら、それなりに考えなけれ
ばならない。演技をするとしても、体からにじみ出るような、深い人間性がなければ、観客の心
をとらえることはできない。

 今、この日本で何がいちばん欠けているかといえば、私は自ら考える力だと思う。ほとんどの
人は、(情報)と(思考)の区別さえつかないでいる。情報の多いことを、思考力と錯覚してい
る。また情報の多い人を、賢い人と誤解している。

 しかし(情報)と(思考)は、まったく別のものである。

 それがわからなければ、電車の中で、あたりの迷惑も考えず、一方的にペチャペチャとしゃ
べりつづける、あのオジちゃんや、オバちゃんの話に耳を傾けてみることだ。ほんの少しでも考
える力があれば、そんなところで、しゃべりはしない。もちろん話していることといえば、その程
度のこと。脳みその表面に飛来する情報を、ただ音声にかえているだけ。

 子どもの世界でいえば、掛け算の九九をペラペラとソラで言えるからといって、その子どもを
賢い子どもとは言わない。九九を暗記する程度のことなら、幼児にだってできる。

 ものごとは、現実的に考える。それが「生きる」ということにつながっていく。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●SKYPE(スカイプ)試行記

++++++++++++++++++++++

インターネットを介して、電話ができる。
考えてみれば、おかしなことだ。電話回線を使って、
電話ができる。それだけのこと。

しかしSKYPE、つまりスカイプを使えば、
パソコンどうしを、インターネットを介して
電話機としてつなぐことができる。

今日は、さっそく、それに挑戦してみた。

題して、「スカイプ試行記」。

++++++++++++++++++++++

 今日、近くのパソコンショップへ行ったら、「USBフォン」なるものを、ワゴンでセールしてい
た。2台セットで、4400円。以前から一度は試してみたいと思っていたので、さっそく、購入。

 私が購入したのは、C社製のUSBフォン。パッケージには、「インターネットを使った電話ソフ
ト、『スカイプ』(無料)加入で」とある。(少しおかしな日本語? 失礼!)

 つまりスカイプが利用できる、USBフォン(インターネット電話)ということ。パッケージには、
つづいて、こうある。

★USB接続
★エコーが少なく、快適な通話を実現
★ノイズを抑えてクリアな音声
★「SKYPE API」に対応した連携ユーティリティ付属
★手のひらサイズのコンパクト設計

家に帰ってワイフに、「これを使えば、インターネットどうしを電話でつなげる」と話すと、「ヘエ
〜」と。「まず、お前のパソコンにスカイプをインストールしてやるよ」と話すと、「だいじょうぶ?」
と。

 心配なソフトは、まずワイフのパソコンにインストールしてから安全性を確かめることにしてい
る。ワイフは、そういう私の意図をよく知っている。

私「だいじょうぶだよ。パソコンショップで、公然と売られているくらいだから」
ワ「……」
私「お前のパソコンと、ぼくのパソコンを電話機でつなぐことができる」
ワ「だからどうなの?」
私「つまりね、無料ということ。ふつうの電話とちがって、いくら長く話しても、無料だよ」
ワ「フ〜ン」と。

 スカイプというのは、USBフォンどうしをつなぐ、電話ソフトと考えるとわかりやすい。電話機
を接続しただけでは、電話はつながらない。スカイプをインストールすれば、音声で、相手と話
すことができる。ウィンドウ・メッセンジャーの電話版ということになる。

(1)ソフトをインストール

 付属のCDをパソコンのCDトレイに入れると、自動的にソフトのインストールが始まった。あと
は、「OK」「了解」を順にクリックしていく。

 で、最後に「完了」でおしまい。ここまでは難なく、終了した。

(2)英語版と日本語版

 最初にインストールしたワイフのパソコンのOSは、(Me)。かなり古いパソコンである。その
せいか、日本語がすべて文字化けした状態で、画面に現れた。しかたないので、「言語選択」
のところで、「English」を選ぶ。

 とたんすべてが英語表示に。「ぜんぶ、英語になってしまった」と言うと、ワイフはさらに心配
そうな顔をして見せた。

 「だいじょうぶだよ」を繰りかえしながら、あとは、ワイフの名前、パスワード、アドレスを順に
打ちこんでいく。

 が、1台だけでは、会話はできない。つぎに居間においてある私のノートパソコンに、スカイプ
をインストールする。OSは、XP。ワイフのパソコンとは、4メートルも離れていない。

 私のパソコンのほうへは、日本語版は、問題なくインストールできた。

 が、ここから、いつものあの悪戦苦闘。パソコンというのは、もともとそういう機械である。やり
だせば簡単なのだが、そのやりだすまでが、たいへん。ウィンドウ・メッセンジャーを日ごろから
使いなれている人には、そうでないかもしれない。しかし私は、ウィンドウ・メッセンジャーをほと
んど利用したことがない。

 ときどき息子たちからウィンドウ・メッセンジャーを介してメールが届くことがある。私はいつも
それを、めんどうに感じていた。

 で、何とか電話がつながった。とたん、会話がプツンと切れてしまった。「?」と思って、さらに
悪戦苦闘。「こんなだったら、使いものにならない」と思って、プラグを見ると、ADSL回線がパ
ソコンからはずれていた。よくある初歩的なミスである。

 ……とまあ、そういうこともあって、小1時間もすると、たがいにUSBフォンを介して会話がで
きるようになった。以下、私の感想。

(1)両方が、パソコンをたちあげていなければならない。

 USBフォンを使うときは、使うものどうしが、パソコンをたちあげておかねばならない。当然と
言えば当然だが、日本人のばあい、家庭では、そのつどパソコンに電源を入れたり、落とした
りしている。USBフォンを使うときは、事前に、たがいに連絡を取り合う必要がある。その点
は、ウィンドウ・メッセンジャーの使い方と似ている。

 ただ、SKYPEには、20秒間だけだが、無料で、伝言を残しておくことができる。それをうまく
使えば、事前の連絡も、無料でできることになる。

(2)固定電話機にも接続できる。

 USBフォンから、ふつうの固定電話機へ電話をかけることもできる。この場合は、無料では
ない。SKYPEのHPには、こうある。

 「SKYPEOUTなら、世界中の一般回線に1分あたり約2・4円という低料金から、電話するこ
ともできます。

★アメリカにいるお友達と8分間話しても、約20円。 
★中国にいるお友達と20分間話しても、たった50円以下」と。 

 料金は、(SKYPEクレジット)なるものを購入して、支払うしくみになっている。が、そこまです
る必要はない。電話で話したければ、携帯電話機を使えばよい。

(3)音声が、あまりよくない

 たがいにふつうの声が届く範囲で、USBフォンを使ったためか、ワイフの声が、二重になって
聞こえた。直接音声で届く声と、USBフォンを通して聞こえる声が、ズレている。それだけでは
ないが、ふつうの電話機のように、(なめらかな会話)というわけにはいかなかった。どこか、音
声が、プツプツと切れるような感じがした。これはSKYPEの限界というより、電話機の性能に
よるものかもしれない。(私が購入したのは、通常のUSBフォンの半額程度の機種だった。)

 で、今後の使い方としては、たとえば遠方にいる息子たちを話すばあいには、まずふつうの
電話機を使って、たがいにUSBフォンを使う時刻を申しあわせる。「○時○分にスカイプする」
とか何とか。

 そしてその時刻にたがいにパソコンをたちあげ、SKYPEを開く。そしてそれから息子たち
に、SKYPEを使って電話をかける。こうすれば、電話料を、大きく節約することができる。携帯
電話でも、同一会社どうしの通話なら無料というところもあるが、基本料はかかる。しかしことS
KYPEに関していえば、その基本料もかからない。まったくの無料。

 世界中、どこに電話をかけても、1分につき、2・4円というのは、たしかに魅力的である。

 そのうち、……といっても、まだ10年以上も先の話かもしれないが、世界の携帯電話が共通
化されれば、国内サービスと同じように、同一会社どうしの通話は無料ということになるかもし
れない。そうなれば、SKYPEも、その寿命を終えることになるかもしれない。しかしそれまで
は、たしかに安い。便利。

 が、私もワイフも、どちらかというと、熱しやすく冷めやすい。「楽しかった」「スリルがあった」
と。ひととおり遊んだあとは、それでおしまい。

 以上、SKYPE試行記ということになる。ショップの人の話では、利用者は急増しているとのこ
と。しかしファイル交換ソフトの(W)の例もある。こうした新しいソフトの導入には、慎重であっ
たほうがよい。

 私の書斎にあるメイン・パソコンへの導入は、もうしばらく様子を見てからにしたい。これはあ
くまでも、念のため……。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1705)

【講演のプロット】

++++++++++++++++++++

12月2日に、地元の入I小学校で、4校
合同の会場で、講演をする。

そのプロット(構成)を考える。

ふつうは、こうしたプロットを考えない。
会場の雰囲気を、その場で判断して、即興で
プロットを組み立てる。

男性が多い会場か、年配者が多い会場かで、
プロットを変える。会場の雰囲気もある。
プロットを立てたからといって、その通りに
講演ができるとはかぎらない。

会場がザワつけば、ショッキングな話を入れる。
沈みこんでくれば、笑い話を入れる。

しかし今回は、地元ということで、たいへん
緊張している。こうしたプロットを考えるのも
そのため。

ただプロットといっても、レジュメとはちがう。
ここにプロットを紹介するが、これだけでは
話の内容はわからない。言うなれば、プロット
というのは、道案内をしてくれる地図のような
もの。日本語では、「筋、構成」(日本語大辞典)
と訳す。

あるいは料理のレシピのようなもの。

このプロットの流れにそって、あとは時間が
あまりそうであれば、別の話を挿入する。
そうでなければ、部分を省略する。

++++++++++++++++++++

(1)ボブの話(ルールをがんこに守ったBOB)。
(2)植え込みにゴミを捨てた女性の話。
(3)善と悪(善と悪は、神の左手と右手)。
(4)善と悪は、平等ではない。トルストイ、ニーチェの言葉を引用。
(5)時間の中で熟成される善、極端化する悪。
(6)このつづきは、もう少しあとで……。
(7)簡単なあいさつ。
(8)【第一の話】
(9)子育てというのは、子どもを育てることではない。
(10)子育てのし方を教える、しみこませるのが子育て。
(11)子育ては本能ではなく、学習である。
(12)野生児の例。
(13)子供の幸福を願う親。
(14)が、それだけではない。人間として評価される。
(15)しかし、ウソやごまかしではいけない。
(16)仮面のもつ、恐ろしさ(ユング)。
(17)仮面をひきつぐ子供。
(18)善人になるのは、意外と簡単。
(19)約束を守る、ウソをつかない。
(20)【第二の話】
(21)「汝自身を知る」……スパルタのキロン。
(22)不幸にして不幸な家庭に育った人。
(23)子育てがぎこちない人。
(24)私のこと……家庭教育の「か」の字もない時代に生まれ育った。
(25)父は貫通銃創を受けて帰国、酒に溺れるようになった。
(26)母子間の基本的信頼関係の欠落。
(27)私は愛想のよい子どもとして、みなに見られた。
(28)「すなおな子供論」。
(29)私の心はゆがんでいた……小5のとき、好きな女の子をいじめた。
(30)私のパニック障害。
(31)30歳もすぎたとき、原因を知った。
(32)だれしも問題をかかえている。問題のなかった人など、いない。
(33)どうすればよいか。……自分の過去を冷静に見ればよい。
(34)【第三の話】
(35)4割の善と4割の悪論。子供の世界だけ、隔離することは不可能。
(36)思春期に肥大化するイド(フロイト)。性的エネルギーのものすごさ。
(37)子どもを非行から守るために。
(38)東洋医学的な発想で。子供の心に抵抗力を養う。
(39)夢と希望を育て、目標に向かうレールをつくる。
(40)(目的もなく大学を選ぶ学生たち。)(早稲田大学での事件。)
(41)私論……大工になりたかった私。
(42)工学部から文学部への転校、そして法学部へ。
(43)自己の同一性の問題。
(44)混乱する「私」。そして「私」さがし。
(45)大学から留学へ。
(46)世にも不思議な留学。各国の王族、皇族と。
(47)国によって異なる価値観。価値観の変化。
(48)そして商社マンから幼稚園教師へ。
(49)きびしかった現実。
(50)母への電話。「道を誤った」と泣き叫んだ母。
(51)一方、私を支えてくれたオーストラリアの友人たち。
(52)子育ては、よき家庭人として自立させること。
(53)子どもを信ずることのむずかしさ。親の真価が試されるとき。
(54)【第四の話】
(55)子育てのすばらしさ。至上の愛、無条件の愛。
(56)子供が親を育てる。
(57)「許して忘れる」。どこまで許し忘れるかで、親の度量が決まる。
(58)ミニチュアの世界かもしれないが、愛の尊さを教えられる。
(59)浜名湖での事故。奇跡的に助かった二男。
(60)「生きているだけでいい」と思って育てた二男。
(61)「自由論」。「自らに由る」ことのきびしさ。孤独との戦い。
(62)自由であることの限界。無の概念。自由という刑。
(63)アメリカ人と結婚した二男。
(64)二男から教えられた「無の概念」(サルトル)。
(65)親が子供の横に、友として立つ。親が謙虚になる。
(66)親に何かを教えるために、そこにいる子ども。
(67)【締めくくり】
(68)孫の話+HPの紹介。あいさつ。

++++++++++++++++++++++++

【M先生への手紙】

+++++++++++++++++++

M先生から、メールが届いた。
その返事を書いた。

+++++++++++++++++++

拝復

で、思考力について、子どもの思考力は、世代連鎖(世代伝播ともいう)します。何も虐待だけ
が、世代連鎖するわけではないのです。親、とくに母親が、日常的に思考能力(思考習慣)が
あれば、それがそのまま子どもに伝わります。ですから、とくに0歳〜2歳児までの、親の育児
姿勢が、子どもに大きな影響を与えます。

最近の研究では、人間にも、鳥類(卵からかえってすぐ2足歩行する鳥類)のようなインプリティ
ングがあることがわかってきました。0歳から数か月という期間をかけて、刷り込まれるのだそ
うです。

この期間を、「密着期」と呼んでいる発達心理学者もいます。

こうした現象は、たとえば、つぎのような事実からも証明されます。

たとえば4、5歳児に、「山を描いてごらん」「こんどは川を書いてごらん」「つぎに遠くに家が見
えます。家を描いてごらん」と順に指示して、絵を描かせます。(ほかに、「道があります。道を
描いてね」「木が2本立っています。木を2本描いてね」……と、指示していきます。つぎに何を
描くかを教えないで、描かせます。子どもによっては、「どこに描こうか」「どうしたらいいか」など
と迷ったりしますが、助けてはいけません。)

論理的思考能力の高い子どもは、無意識のうちにも、山の下に川を描き、家は小さく描きま
す。

で、べつの場所で、まったく同じ問題を母親にやってもらいます。すると、母子間の密着性の強
い母子ほど、その両者は、ほとんど、同じ絵を描きます。つまりこうした無意識の論理性は、母
親から子どもへと伝えられるわけです。

私の経験でも、20〜30組に1組の母子は、不思議なことに、まったく同じ絵を描くことがわか
っています。(とくに山の形などは、そうです。)

つまり子どもの論理性は、母親からの影響が、きわめて強いということです。子どもからの働き
かけに対して、そのような育児姿勢を見せるかが、その子どもの論理性の発育に大きな影響
を与えるということです。

たとえば子どもが何かを質問したとき、あるいは質問だけにかぎらないことですが、何かの問
題にぶつかったとき、母親が、(もちろん父親も)、その瞬間に見せる、思考習慣が、子どもの
論理性の発育に大きな影響を与えるということです。

で、私が想像するところ、先生の論理性は、実は、小学校のころの教育によるものではなく(先
生は、そう書いておられますが)、先生の父親、母親からの影響というか、それから受けついだ
基盤があったからだと考えられます。

もし先生が言われるようなら、その小学校の生徒は、すべて、M先生になっていたはずです。

さらにアメリカでは、子どもに問いかけながら、会話をしますが、それと論理性は、直接的には
結びつかないのではないかと思います。この問題には、日本人独得の子ども観、育児観の問
題がからんでいます。

日本では、旧来より、親に甘える子ども(依存性の強い子ども)イコール、かわいい子イコー
ル、よい子と考える傾向があります。

さらに昔から、「女、子ども」という言い方に代表されるように、女性や子どもは、人間ではない
……という考え方もあります。さらにまた言えば、キリスト教国では、子どもは神の授かりモノと
いう考え方をしますが、日本では、家のモノ、親のモノというように、私物化する傾向が強いで
す。

そのためその家に障害をもった子どもが生まれたりすると、欧米では、みんなが助け合って育
てるという傾向が強いですが、日本では、「家の恥」として隠す傾向が、今でも残っています。
(彼らの教会を中心とする、互助精神には、いつも驚かされるものがあります。)

この問題は、そういう問題にからんでくるということです。つまり子どもの人権を尊重するという
ことと、子どもの論理性とは、直接的には結びつかないということです。

で、問題は、母親の育児姿勢です。

一般的には、父親と母親は、同等に考えられていますが、これはまちがいです。(最近は、出
産時に父親を立ち会わせるラマーズ法などが一般化してきていて、母性愛、父性愛という分け
方をしないようですが)、実際には母親が子どもに与える影響は絶対的なものです。

父親は、母子の関係を是正する役目しかありません。母子関係を調整し、社会性を教えるの
が、父親の役目というのが、一般的な通説です。(わかりやすく言えば、母子関係にクサビを入
れ、狩のし方を教えるのが、父親の役目ということになります。それを是正しないままにしておく
と、子どもは、総じて、マザコン化します。)

その一例として、母子分離不安はありますが、父子分離不安というのは、ほとんど聞いたこと
がありません。(たまにはありますが、例外的です。)それは生後直後から、子どもは、母親か
ら、乳を受ける、つまり母親が命の源泉だからにほかなりません。

父親がいなくても、子どもは育ちますが、母親がいなければ、子どもは育ちません。このちがい
を乗り越えてまで、父親は母親の代用をするわけにはいかないのです。

さて、では、こう書くと、教育とは何かということになってしまいます。

こうした論理性というか、思考習慣は、かなり早い時期に、子どもの身につくものです。これが
基盤になって、子どもは、その上で、ものを考える子どもになっていきます。たとえば、先生の
お嬢様を考えてみましょう。

お嬢様は、先生を見ながら、幼児期を過ごしています。この時点で、すでに世代連鎖は始まっ
ているのです。(だからお嬢様も、先生と、同じような道を歩んでおられます。)

「おや?」と思われるかもしれませんが、この時期を逸した子どもの例としては、1920年前後
に見つかった、インドのオオカミ姉妹、フランスのビクトール(少年)などの例があります。

いわゆる野生児の問題です。

インドで見つかったオオカミ姉妹にしても、下の妹は、たしか推定年齢、1歳半でしたが、その
あと感情表現をとりもどすことはなかったそうです。フランスのビクトールにしても、推定年齢1
1歳でしたが、その後、手厚い教育によっても、言葉を覚えることはなかったそうです。(自分で
つくった単語を、50個前後、使ったというような記録はありますが、フランス語は、最後まで話
さなかったそうです。)

こうして考えていくと、0歳〜3歳児というのは、教育的な意味においても、きわめて特異、かつ
重要な時期だということがわかっていただけると思います。

事実、私は4歳児からの指導にあたっていますが、この時期までに、その子どものもつ、方向
性というのは、ほとんど決まっています。とくに重要なのは、満4・5歳から5・5歳の、いわゆる
幼児期から、少年少女期への移行期です。

この時期は、「なぜ?」「どうして?」の質問がとくに多くなります。それはそれまでに形成される
乳幼児の心理形成の修正期にもあたるからです。

ご存知かどうか知りませんが、乳幼児は、たとえば物活論(すべてのものは生きている)、人工
論(すべてのものは、親がつくったもの)、実念論(心で念ずれば、ずべて実現すると考える)な
どという考え方をします(ピアジェ)。(ほかにもう一つ、乳幼児特有の自己中心性をあげる学者
もいます。)

よく赤ん坊が、風に揺れるカーテンを見て、生きていると思ったり(物活論)、「お月様を取って」
と泣く(人工論)のはそのためです。死んだモルモットを手にして、「乾電池を入れ替えて」と言っ
た子どもの例などが、報告されています。

結論を言えば、子どもの教育もさることながら、もっと重要なのは、母親自身ということになりま
す。たとえば母親が迷信を信じ、占いやまじなばかりをしていたのでは、子どもに論理性は育
たないということになりますね。

子どもというのは、何か疑問をぶつけたとき、あるいはそうでないときでも、親の考える姿勢
を、そのまま身につけていくものです。姿勢だけではない。人間的な誠実さなど、無意識の意
識までです。ユングが説いた、シャドウ論も、その延長線上にあるのではないでしょうか。その
母親をさておいて、子どもにだけ、「考える人になれ」と言っても、無理な話です。

子「どうしてお月様はあるの」
母「神様が作ったからよ」
子「どうしてお日様は暖かいの」
母「神様がそうしたからよ」では、そもそも子どもに論理性など育つわけがないのです。

その子どもの思考力は、その子どもがどれだけ思考する習慣があるかで決まります。手段や
方法ではありません。習慣です。

その習慣のないまま、メダカを育てても、球根を育てても、それでその子どもに思考力が育つと
は、とても考えられません。それはあくまでも各論だからです。

で、日本人論ということになりますが、日本人というのは、代々、自ら考える力に乏しい民族と
いうことになります。長くつづいた封建制度なども、その理由の一つかもしれません。あのマー
ク・トウェインがかつて言ったように、『皆と同じことをしていると感じたときは、自分が、変わると
き』という考え方が苦手なのですね。

反対に「長いものには巻かれろ」「出るクギは叩かれる」「みんなで渡ればこわくない」と。

こうした意識を代々、まさに世代連鎖として、大半の母親たちは、受けついでいますから、これ
を変えていくのは、容易なことではありません。さらに「情報の量」「知識の量」をもって、「思考」
と誤解する、日本人独得の考え方もあります。いわゆる(もの知り)を(頭のいい子)と誤解して
いるわけです。

(これについては、先生があちこちで、すでに指摘されていますので、省略します。)

つまりこの問題は、これから先、2代目、3代目を考えた、先の長い話になるということです。

そこでとりあえず、こうした問題を解決するためには、一つの方法としては、いわゆるエリート
教育があります。全国一律の教育改革ではなく、(また日本人全体が、そうなるのを待つので
はなく)、一部でもよいから、こうした「考える教育」を始めるということです。が、この教育にも、
問題があります。現場では、いわゆる「飛び級」と言っているものですが、そこに受験戦争がか
らんでくると、わけがわからなくなってしまいます。(反対に、いくら考える教育でも、受験に不利
とわかれば、親にソッポを向かれてしまいます。)

私も、数年に1、2人と、飛びぬけて、頭のよい子どもに出会います。「おっ、こいつはM先生級
だな」と思うわけですが、悲しいかな、そういう子どもを育てる環境が、まだないですね。またさ
らに悲劇的なことに、そういう子どもを理解できる教師も少ないということです。

2年前、O君という少年を、8年間、教えました。小6のときには、中3生といっしょに教えていま
したが、東京の麻布中などは、不合格でした。社会が苦手だったことと、国語が得意ではなか
ったからです。(現在は、HKラサール中学に在籍しています。)

しかし小4のときには、方程式を使わないで、方程式の問題をスラスラと解いていました。が、
学校では、問題児(?)。先生(女性)には、「生意気だ」とばかり、言われつづけたそうです。
(たしかに生意気そうな様子を見せる子どもでしたが……。)

こういう現実が、あるのですね。

先生がおっしゃった、GIFTED CHILDの問題もあります。それについては、私も、何度か、エ
ッセーにしてきました。

またメールを書きます。

先生も、どうか、お体を大切に! 

                            はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●乳幼児の記憶

++++++++++++++++

乳幼児に記憶がない?

とんでもない。

想起(思い出す)できないだけで、
乳幼児にも、しっかりと記憶は
残る。

++++++++++++++++

 新生児や、乳幼児にも、記憶はある。科学的にそれを証明したのは、ワシントン大学のメル
ツォフ(発達心理学)らである。しかもその記憶の量と質は、私たちが想像するよりも、はるか
に濃密なものであると考えてよい。

 その一例として、野生児がいる。生後直後から、人間の手を離れ、野生の世界で育てられた
人間をいう。よく知られた野生児に、フランスのアヴェロンで見つかった、ヴィクトールという少
年。それにインドで見つかった、アマラ、カマラという二人の少女がいる。

 アヴェロンの野生児についていえば、発見されたときは、推定12歳ほどであったが、死ぬま
での40歳の間に覚えた単語は、たった3つだけだったという。またインドの2人の少女は、完
全なまでに動物の本性と生活条件を身につけていたという。

感情表現もなく、おなかがすいたときに怒りの表情。肉を食べたとき、満足そうな表情を見せた
以外、生涯、ほほえむこともなかったという。

 この野生児からわかることは、乳幼児期の記憶、なかんずく、生活環境が、きわめて濃密な
形で、その人間の人格形成に影響を与えているということ。またその時期にできた、いわゆる
人格の「核」というのは、その後、生涯にわたって、その人のまさに「核」となって、その人の生
きザマに影響を与えるということ。

 私たちは新生児や乳幼児を見ると、そのあどけなさから、「こういう幼児には記憶などあるは
ずがない」とか、あるいは、自分自身の記憶と重ねあわせて、「人間の記憶が始まるのは、4、
5歳の幼児期から」と考えやすい。しかしこれは誤解というより、まちがいである。

 子どもは生まれたときから、そして乳幼児期にかけて、ここにも書いたように、きわめて濃密
な記憶を、脳の中にためこんでいく。しかも重要なことに、人間は、自分の子育てをしながら、
自分が受けた子育てを、再現していく。

これを私は、勝手に「人格の再現性」と呼んでいる。子育てを再現するというよりは、その人自
身の人格を再現するからである。

 わかりやすい例でいえば、たとえば自分の子どもが中学生になると、ほとんどの親は、言い
ようのない不安や心配を覚える。しかしそれは自分の子どもの将来についての不安や心配と
いうよりは、自分自身が中学時代に覚えた不安や心配である。将来に対する不安、人間が選
別されるという恐怖。それを自分の子どもを通して、親は再現する。

 私も、最近、こんな経験をしている。

 昨年、孫が生まれた。二男の子どもである。二男は、インターネットで、子育ての様子を伝え
てくれるが、その育て方を見ていると、二男は恐らく、自分では、自分は自分の子育てをしてい
るつもりかもしれないが、どこかしこというより、全体としてみると、私が二男にした子育てと同
じことを繰りかえしているのがわかる。

 こうしたことからも、つまり現象面から見ても、新生児や乳幼児にも、記憶がしっかりと残って
いることがわかる。そういう意味では、ワシントン大学のメルツォフらの研究は、それを追認し
ただけということになる。

 さてここが重要である。

 あなたはあなたの子どもの記憶を、決して安易に考えてはいけない。子どもが泣いていると
き、あるいはひょっとしたら眠っているときでさえ、子どもの脳は、想像を超える濃密さで、その
ときの状況を、記憶として蓄積している。そしてそれがそのまま、その子どもの人格の核となっ
ていく。

 これに対して、「私は自分の記憶を、4、5歳くらいまでしか、たどることができない。だからそ
れ以前は、記憶はないのではないか」という意見もある。しかしこれについては、もう一度、は
っきりと否定しておく。

 記憶は、記銘(脳の中に記録する)、保持(その記憶を保つ)、そして想起(思い出す)という
操作を経て、人間の記憶となる。ここで重要なことは、想起できなからといって、記憶がないと
いうことではないということ。事実、脳の中心部に辺縁系と呼ばれる組織があり、その中に海馬
(かいば)という組織がある。

 この海馬には、ぼうだいな量の記憶が保持されている。が、その記憶のほとんどは、私たち
の意識としては、想起できないことがわかっている。いわば担保に取られた貯金のようなもの
で、取り出すことはもちろん、使うこともできない。しかしそしてそうした記憶は、無意識の世界
で、その子どもを、そして現在のあなたを、裏から操る……。

 繰りかえすが、新生児や乳幼児の記憶を、決して、安易に考えてはいけない。
(030614)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 記憶
 幼児の記憶メルツォフ 野生児 ビクトール アマラ タマラ 子どもの記憶 記銘 保持 想
起)

+++++++++++++++++
これに関連して書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。
+++++++++++++++++

親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

つい先日も、中学1年生をもつ父母が、2人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「1学
期の期末試験で、数学が21点だった。英語は25点だった。クラスでも40人中、20番前後だ
と思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。2人とも、表面的に
は穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。

行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩
まされた。たいていはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわから
ない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものば
かり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた
め」と、確信している。

こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(2001年)によれば、中学生で、い
やなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、39・1%しかいなかった。これに対し
て、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、78・4%。子どもの意
識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテに
していない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの6・8%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければな
らない先生が、たったの6・8%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、
子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子
どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろう
か。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。

あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみる
とよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親
子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静
に見つめてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
と子ども 親に相談する子供 先生に相談する子供 内閣府の調査 (はやし浩司 家庭教育
 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 野生児 アマラ カマラ インドのオオカミ少
女 オオカミ姉妹 乳幼児の記憶 記憶 乳児の記憶 ワシントン大学 メルツオフ メルッォ
フ)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1706)

●朝鮮N報の「ねたみ節」

+++++++++++++++++

どうして韓国の人たちは、こうまで
日本をねたむのか?

もう日本のことなど気にせず、
自分たちは、自分たちの道を進んだら
よい。

朝鮮N報の東京特派員の報告(社説)を、
ここに紹介する。

題して、ズバリ「日本がねたましい」。

+++++++++++++++++

●「日本がねたましい」

日本政府が11月22日に発表したところによると、日本は現在、戦後最長の景気拡大を記録
している。 

(中略)
 
……その間に清日戦争(日清戦争、1894−1895年)があったことから、この好景気が「戦
争特需」によるものだったことがわかる。清国から戦争賠償金として支払われた3億6000万
円は、当時の日本の国家予算の4倍、日本が費やした戦争費用の11・5倍に相当したという。
まさに「戦争ビジネス」で巨利を手にしたのだ。このカネが還元されたことで、好景気が続いた
とみられる。 

 ご存じのように、清日戦争はどの国が韓国を手に入れるかをめぐる植民地争いだった。それ
ゆえ韓半島(朝鮮半島)が戦場となった。韓国が被害を受けたのはもちろん、続く露日戦争(日
露戦争)を経て日本の植民地になるという悲劇を味わった。ということからもこの最長の好景気
も、韓国人の立場からすると非常に気分の悪い話なのだ。 

 だがそれよりももっと気分を悪くさせる日本の好景気は、1954年12月から1957年6月ま
での31か月間続いた「神武景気」だ。 

 この景気の踏み台となった事件こそ、われわれの悲劇である韓国戦争(朝鮮戦争)だ。日本
は参戦した米軍に軍需物資を供給し、莫大な資金を蓄積した。例えば戦車を修理することで
重工業が復活し、軍服を供給することで繊維業が復活するという具合だった。韓国戦争を通
じ、日本が得た直接的・間接的な恩恵を額にすると計46億ドルに上るといわれている。 

 その10数年後、韓国経済が近代化する上で肥やしとなった対日請求権による資金が8億ド
ル(無償3億ドル)程度だったことを考えると、瞬間的に怒りと虚無感の入り交じった感情がこ
み上げてくる。 

 (中略)

 しかし「中国特需」の陰で、あまり語られないもう一つの「特需」が存在している。それは韓国
市場の需要だ。同期間に日本の対韓輸出は1・89倍も増加した。韓国との貿易で日本が手に
する貿易黒字も2001年の72億ドル(約8400億円)から、昨年には227億ドル(約2兆640
0億円)に達し、3倍に増えた。 

 その理由の一つとして、韓国企業が輸入に頼っている産業分野への投資をためらっているこ
とが挙げられるだろう。好況と無縁な状況にある韓国が、いったいなぜ日本に利益をもたらし
ているのかを考えると「韓国はまた失敗を犯しているのではないか」といった懸念を抱かざるを
得ない。 

 どのみち経済に善悪の論理などない。仮に韓国の不幸が隣国の幸福につながっているとし
ても、それは韓日両国の間だけで起きることでもない。しかしそうした事態が何度も繰り返され
るとなれば、それは問題だ。しかも、そうした事態が頻発する理由が、すべて無能な指導者の
せいだとしたら、それは他人に責任転嫁する前に、われわれ自身が反省すべきことだろう。 

 日本の好景気を横目に、正直ねたましくて仕方がない今日この頃だ。 

S・J=東京特派員

++++++++++++++++

 この特派員の言いたいことは、要するに、日本は韓国の犠牲の上に、繁栄に繁栄を重ねて
いる。それがおもしろくない、ということらしい。

 こうした被害妄想的対日感情は、韓国の人たちに共通している。その底流には、「日本ごとき
に負けるはずがない」という、逆・民族差別意識があるとみてよい。

 その上で、「(日本の繁栄は)、気分が悪い」「補償額が、計11億ドルしかなかった」と。

 1960年代における11億ドルと、現在の11億ドルを、言葉巧みに、混同させているところが
おかしい。当時の日本は、日本経済の屋台骨を何本も抜きながら、それだけの額を、韓国に
支払った。

 それを今になって、「少なすぎる」とは! 

 それにしても、堂々と、「ねたましい」という言葉を使うところが、恐ろしい。プラス、実に韓国
の人らしい。韓国の人たちの対日感情を知る上において、この報告(朝鮮N報では社説)は、
たいへん参考になる。

 ただし一言。

 いつまでも過去にこだわるのではなく、(たしかに日本も反省すべき点は多いが)、少しは視
点を未来に向けてほしい。韓国の人たちは、ことあるごとに、秀吉による朝鮮出兵時にまでさ
かのぼって、日本を非難する。それはそれで理解できないわけではないが、現在の韓国政府
の失政による失敗まで、日本のせいにしてもらっては困る。

 先週も、朝鮮N報は、こんな記事を載せていた。こんど、中国の自動車会社が、新車を発売
した。それについて韓国の車そっくりだ、と。そこで韓国のその自動車会社は、意匠権侵害で、
その中国の自動車会社を訴えることにした、と。

 記事の冒頭には、「元祖……」という言葉さえあった。

 私はこの記事を読んだとき、思わず吹き出してしまった。今まで、さんざん日本の自動車をコ
ピーして自分たちの車を作ってきたのは、どこの国か。韓国、あなたたちではないのか。その
韓国が、「元祖……」とは! 一時は、前から見れば日本のT社の車、うしろから見れば日本
のM社の車という、そんな車さえ作っていた。

 造船産業、液晶ディスプレイ産業、IT産業、さらには鉄鋼産業にしても、すべて日本から奪い
とって発展させた産業ではないのか?

 こういう特派員が現在、日本にいて、毎日、日本の繁栄をねたみながら記事を書いているか
と思うと、ゾッとする。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●子育ては本能ではなく、学習である

++++++++++++++++++

子育ては、本能ではなく、学習によって
できるようになる。

つまり自分が親によって育てられたという
経験があって、今度は、自分が親になったとき、
自然な形で、子育てができるようになる。

そんな事実を証明するような事件が、
カナダで起きた。

++++++++++++++++++

カナダのアルバートンで、生後10か月の女の赤ちゃんが発熱し、どうしていいかわからなくな
った男性が、赤ちゃんを冷凍室に入れるという事件が起きた(11月26日)。帰宅した恋人が
赤ちゃんを救出したものの、頭部に凍傷を負ったため、赤ちゃんはそのまま入院したという。

 ヤフーニュースは、つぎのように伝える。『24日付の地元紙「シャーロットタウン・ガーディア
ン」紙によると、幼児虐待・育児義務放棄などの罪で公判中なのは、デリック・ハーディ被告(2
1)。赤ちゃんの母親とは2004年8月から同居していたという。

 赤ちゃんの発熱に気づいたハーディ被告は、まず顔に冷たい布をあてた。しかし、熱が下が
る気配がなかったので、今度は、赤ちゃんを抱きかかえて外の夜風にあててみた。が、やはり
効果なし。

 最後の手段としてハーディ被告が思いついたのが冷凍庫だった。そして、肌着しか着ていな
い赤ちゃんを、冷凍庫に閉じこめてしまったという』と。

 その男性の生い立ちの背景がよくわからないので、これ以上のコメントはしようがない。が、
恋人がいたということだから、それなりの男性であったということになる。が、発熱した子どもを
冷気にさらすなどという行為は、子育てをしたことがある人ならだれでもわかると思うが、まさに
常識ハズレ!

 言いかえると、その男性は、そんなことも知らなかったのかということになる。さらに言いかえ
ると、恐らく、その男性は、そんなこともわからないような家庭環境で、生まれ、育ったのではな
いかとういうことになる。

 つまりそれなりの学習をしないまま、21歳になり、この事件を引き起こした(?)。

 子育ては、無数の学習が積み重なってできるようになる。自分が発熱したとき、親たちがど
のように自分を看病してくれたか。「記憶」としては覚えていなくても、「体」は、それを覚えてい
るはず。それも学習のひとつということになる。残念ながら、その男性には、そうした学習がな
かったということになる。 

 おそらく、家庭という家庭を知らないまま、もっと言えば、親という親を知らないまま、どこかで
育てられ、その21歳になった。その可能性は、きわめて高い。が、それにしても、熱のある乳
児を、冷凍室に入れるとは! これほどまでのバカ・パパは、そうはいない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1707)

●1996年

++++++++++++++++++

昨日、久しぶりに、Eマガの読者が、
ふえた。3人、ふえた。1996人になった。

そこで1996年。私が満49歳になった
年である。

++++++++++++++++++

 1996年……このころの私は、自分のしている仕事に限界を感じつつ、毎日、原稿ばかり書
いていた。記憶はあいまいだが、しかしその分だけ、充実していた。

 念願だった山荘も完成し、土日や休みなどは、ひとりで、過ごした。最初は、山奥の山荘に泊
まるのが、こわかった。が、それが結構、楽しかった。

 おもちゃの銃や木刀を用意して、それを枕元に置いて寝たこともある。ときどき、山荘の周辺
を歩く足音がした。最初、私はそれを、泥棒か強盗だと思った。が、そのうち、イヌか、タヌキだ
ということがわかった。こんなこともあった。

 夜、ふとんの中で雑誌を読んでいると、またまたあの足音。私はふとんの中で、「誰だ!」「わ
かっているぞ!」「出てこい!」と叫んだ。が、返事はない。しばらくすると、また足音……。ジャ
リ、ジャリ……、と。

 とそのとき、バタンと音がした。つづけて、部屋の中を人が歩く気配。しかしこうなると、頭の
中は、パニック状態。ハリウッド映画の中にも、似たようなシーンがよく出てくる。それとダブっ
た。

 しかしその夜も何ごともなく過ぎた。暗闇の中で、あちこちの部屋をさがし回ったが、だれもい
なかった。

 そこで翌朝、調べてみると、音の正体は、風呂場のカガミだとわかった。風呂場の窓を少しあ
けておいた。そこへ風が吹き込んだ。カガミを倒した。タオルを揺らした。それを人の気配と、
私は誤解した。同時にそのころ、イヌかタヌキが、家の周辺を歩いた。イノシシだったかもしれ
ない。そこには、ジャリが敷いてある。

 おもちゃの銃や木刀を枕元に置くようになったのは、そういうことが重なったから。

 が、やがてそういう生活にもなれた。数か月もすると、窓という窓をすべて開けて寝るようにな
った。イヌやタヌキにも、なれた。イノシシにも、なれた。ごく最近では、サルもやってくるようにな
った。それにも、なれた。

 ただ、いまだにヘビだけは、苦手。今年(06年)も、2匹の毒ヘビを殺した。日本マムシとヤマ
カガシ。以前は、ヘビを殺すと、1、2時間は興奮状態がつづいたが、今では、平気で殺せるよ
うになった。たいていはカマで、頭をちょん切って、殺す。(残酷!)

 シマヘビは、追い払うだけ。しかし日本マムシだけは、容赦しない。沖縄のハブもよく話題に
なるが、こと毒ということになると、日本マムシの毒は、ハブの10倍以上とか。山荘のあたりで
も、日本マムシにかまれて死んだ人がいる。日本マムシは、こわいゾ〜。

 1996年というと、ちょうど、10年前。そのころ、地元の中日新聞社のほうで、私の書いた原
稿を連載してくれるようになった。うれしかった。山荘のほうで、いっぱしの作家気取りで、原稿
を書いたりした。

 冒頭に「仕事の限界」というのは、つまりは、仕事そのものが、マンネリ化し始めていたことを
いう。「こんなことしていて、何になるのだろう」「10年後も、同じ仕事をしているのだろうか」「時
間をムダにしているのではないだろうか」と。

 そうそうそのころ、急速に体力の衰えを感ずるようになった。体の調子も悪くなった。どことい
った病気はなかったが、肥満と運動不足が重なった。当時の私は70キロ前後の体重があっ
た。慢性的な頭重感にも悩まされた。

 今にして思うと、それが更年期の始まりだったかもしれない。あるいは初老性のうつ病の始ま
りだったかもしれない。よくわからないが、そういう状態が長くつづいた。(基本的には、今も、
つづいているが……。)

 そうそう自分でもおかしいと思ったのは、そのころ、(男)と(女)の区別がつかなくなってしまっ
たこと。「今の私なら、女性たちと、平気で入浴できるだろうな」と思ったこともある。自分の中
から(男)が、どんどんと薄れていったように感じた。

 しかしそれは幸いにも、一時的な現象で終わった。やはり、あのころ、更年期が始まっていた
のかもしれない。ただし、これは私が49歳のときのことではなく、53、4歳のころのことかもし
れない。よく覚えていないが……。

 あれからもう10年。「早いものだ」と思うと同時に、私にとっては、充実した10年だった。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1709)

【今朝・あれこれ】(11月29日)

++++++++++++++++++

昨日の朝、インフルエンザの予防注射を受
けてきた。

そのせいかどうかわからないが、午後にな
って、どこか風邪ぽくなった。プラス、頭痛。

そんなわけで、昨夜は、早めに就寝。今朝は
5時、起床。暖かで、穏やかな朝だ。

Good morning!

+++++++++++++++++++

●コロンブスの卵

 ここ半年近く、毎日、200〜300通もの、スパムメールが届く。日によっては、もっと多い。

 うんざり……というより、あきらめた。つい先週は、メールアドレスの変更まで覚悟した。と、そ
のとき、ふと、妙案を思いついた。まさにコロンブスの卵。「そのつどスパムメールを削除する
のではなく、反対に読みたいメールだけを、「削除済み」フォルダーの中から選んで読めばよ
い、と。読みたいメールよりも、スパムメールのほうが、数の上では、圧倒的に多い。

 そこで、

(1)一度、すべてのメールを、「削除済み」フォルダーに入れる。
(2)反対に、読みたいメールを、新しく作った「安全メール」フォルダーに、フィルター機能を使
って、移動する。

 わかりやすく言えば、「受信済み」フォルダーに届いたメールの中から、読みたいメールを選
ぶのではなく、一度、すべてのメールを「削除済み」フォルダーに入れ、その中から読みたいメ
ールだけを選んで、読むということ。

 メールのやり取りをしている人からのメールは、反対に、フィルター機能使って、別のフォル
ダーに移動すればよい。

 しかし今まで、どうしてこんな簡単な方法を思いつかなかったのだろう?

 方法は簡単。(アウトルック・エキスプレス=OEの表示画面)→(ツール)→(メッセージ・ルー
ル)→(メール・ルール)→(新規作成)→(すべてのメッセージに適応する)→(削除する)とす
る。

 一方、メールをやり取りしている人については、反対に、送信者名から、別フォルダーに移動
するよう、設定すればよい。

 メールのやり取りをしている人は、それほど多くない。一方、スパムメールのほうは、いくらフ
ィルターをかけても、そのつど、送信者名を変えたり、件名を変えたりして、送りつけてくる。そ
こで今回、逆の方法を思いついた。

 まさにコロンブスの卵!

 ハハハ。今朝も、(OE)を開いてみたら、30通ほど、メールが届いていた。うち、28通がスパ
ムメール。しかしすべて、そのまま、削除。ハハハ。気持ちよかった。

 なお、私のばあい、パソコンの健康は、つぎのような方法で維持している。

(1)プロバイダー(サーバー)側で、有料の、ウィルスチェックサービスを受けている。
(2)パソコンごとに、ウィルスチェックソフトを、導入している。(これは、今どき、常識。)
(3)Windowsのアップデートを自動化している。(これも常識。)
(4)ウィルスチェックはもちろん、ボット、スパイウェアのチェックを、手動だが、週1回程度、実
施している。(これも常識。)

 そしてさらに、私のばあい、仕事ごとに、パソコンを使い分けている。(1)文書作成用のパソ
コン、(2)インターネット用のパソコン、それに(3)HP編集用のパソコンの3つである。

 万が一のため、それぞれのパソコンには、外付けのハードディスクをつけている。作業ファイ
ルなどは、そちらに保存している。

 最後に、ここにも書いたように、あやしげなメールは、即、削除。何も考えずに、即、削除。

 おかげで、この3〜4年近く、ウィルスなどによる被害は、受けていない。ただし、それだけ注
意していても、スパイウェアだけは、容赦なく侵入してくる。どこから入ってくるかわからないが、
ともかくも、侵入してくる。だからボット、スパイウェアの対策も、別に、しっかりとしている。

 私のばあいは、「Spybot Search」という無料のサービスソフトを導入して、スパイウェアを
チェックしている。

(付記)

 上記の作業のあと、今までフィルターにかけて処理してきた、「禁止された送信者」を、リスト
から削除した。それをしないと、OEを開いたとき、時間ばかりかかる。いちいちフィルターで、メ
ールをチェックするためである。

 しかしその数、ナント、1500人以上! パソコンの中に、ゴミのようにたまっていた! ギョ
ッ! 削除するといっても、1人ずつ、手動で削除しなければならない。結構、これが、たいへ
んな作業だった。
 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●思考回路

+++++++++++++++++

一度、自分の頭の中に、ある一定の思考
回路ができてしまうと、それを変更する
のは、容易なことではない。

+++++++++++++++++

 今回、スパムメール対策として、つぎのような方法を考えた。つまり一度、すべてのメールを、
「削除済み」にしてしまう。その中から読みたいメールだけを、選んで読む。さらに家族や友人、
知人からのメールについては、逆フィルターをかけて、「安全メール」フォルダー(このフォルダ
ーは、自分で作成する必要がある)に、移動する。

 今までは、「受信済み」フォルダーの中から、そのつど、スパムメールについては、「送信者禁
止」処理をしてきた。が、気がついてみたら、それが1500人ほどになっていた。そういうメール
を送り届けてくる連中は、そのつど、アドレスを変えて、送り届けてくる。

 私のばあい、電子マガジンにアドレスを書いたのが、アダになった。(今は、書いてないが…
…。)つまりうかつにも、アドレスを公開してしまった。それでスパムメールが、ジャカスカと届く
ようになってしまった。

 しかし、今まで、どうしてこの方法に気がつかなかったのだろう。つまり、ここに「思考回路」の
問題がある。

 私は、「スパムメールは、フィルターにかけて、送信者禁止にすればよい」とだけ、考えてい
た。しかしこうした思考回路は、一度できると、頭の中で、固定化されてしまう。その思考回路
にそってだけ、ものを考えるようになる。

 柔軟性がなくなるということは、それだけ脳の働きが鈍くなったということを意味する。子ども
の世界でも、頭のよい子どもは、その柔軟性に富んでいる。いろいろな形を使って絵を描かせ
たりすると、つぎつぎとユニークな絵を描いていく。そうでない子どもは、そうでない。考えている
フリをしているだけで、先へ進まない。

 もっとわかりやすい例でいえば、ジョークがある。柔軟性に富んでいる子どもは、おとなのジョ
ークでも通ずる。そうでない子どもは、そうでない。

 以前、こんな原稿を書いた。

++++++++++++++

●いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもちろんの
こと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中には笑って
いるのもいるかもしれない。

 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークである。

子どもはこのいたずらとジョークが大好き。一般論として思考の柔軟な子どもほど、いたずらや
ジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じないというのは、あま
り好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がきかない。ジョークも通じな
い。こんなことがあった。

 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫を食
べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはしないでくださ
い」と。

私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫を食べた
ときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気にしたらしい。

あるいは同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリをしてみ
せたことがある。そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列にいた子ども(年
中男児)の頭をポンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、それについてやはり電話
で、「先生は、うちの子どもの頭を理由もなく、たたいたというではありませんか! 先生は体罰
反対ではなかったのではないですか!」と。ものすごい剣幕だった。

 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫剤を
入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシルを立て
た中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数センチ位置がず
れていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識のブレーキが働かない
という点で、好ましいいたずらとはいえない。

 思考の柔軟な子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児でもお
となのジョークを理解することができる。

ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポーターには、女の人はいないんだってエ」と言
ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞いたので、私が「だって、アル・ゼン・チンだも
んねえ」と言った。言ったあと、「このジョークは、無理かな?」と思ったが、一人だけニヤッと笑
った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。

++++++++++++++++

 つまり今回、はからずも、私は、自分の脳の働きが鈍くなっているのを知った。一定の思考
回路の中だけで、ものごとを考えていた。

 もっとも、その思考回路が悪いというのではない。私たちの日常生活というのは、その大半
が、繰りかえしの作業で成りたっている。いちいち思考回路を変えていたら、それこそ、日常生
活そのものが、成りたたなくなる。

 洗濯のしかた、炊事のしかた、掃除のしかたなど。

 そこで重要なことは、そういう日常的な作業をしながらも、「?」と思ったら、そこで立ち止まっ
て考えてみること。わかりやすく言えば、自分がもつ思考回路を、疑ってみること。

 今回、はからずも、私は、それを知った。と、同時に、私の頭の中は、その思考回路だらけと
いうことも、知った。

 もちろん大半は、(役にたつ思考回路)である。しかし中には、そうでないものもある。よい例
が、冠婚葬祭にまつわる思考回路。

 こうした思考回路は、代々と、伝統的に親から子へと受け継がれている。(形)になっているこ
とも多い。だから、それに気づいたとしても、変えるのは、容易なことではない。しかしよくよく考
えてみると、おかしな点はいくらでもある。いつの間にか、自分自身が、その世俗的な思考回
路に毒されてしまっているというケースも、少なくない。

 たとえば葬儀にしても、どうして今ある(形)が、葬儀なのか。私自身は息子たちには、いつも
こう言っている。「パパやママが死んでも、葬式には来なくていい」「来られるときに来ればいい」
と。とくに二男夫婦は、アメリカに住んでいる。

 葬儀にしても、簡単なものでよい。(豪華な葬儀など、望むべくもないが……。)(形)にこだわ
る必要はまったくないし、またそういう(形)に、どれほどの意味があるというのか。私たちは、
私たちのやり方で、やればよい。

 つまりそれが思考の柔軟性ということになる。要するに、「何が大切で、何が、そうでないか」
と、いつも考えながら、それに臨機応変に対処していくということ。少し大げさな感じがしないで
もないが、今回、スパムメール対策を思いついたとき、私は、それに気がついた。

 ところで、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。

『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。

 この言葉をもじると、こうなる。

 『いつも同じことをしていると感じたら、そのときは自分を疑ってみるべきとき』と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
回路 思考パターン)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●あやしげな事件

++++++++++++++++++++

ロシアの連邦保安局(FSB)の元幹部が、
毒殺(?)されるという事件が起きた。

イギリスは、今、その事件で、もちきりである。

中には自殺説、自作自演説まである。
まさに謎が謎を呼ぶ展開になっている。

++++++++++++++++++++

ロシア連邦保安局(FSB)の元幹部、A氏が、放射性物質のポロニウム210によって殺害され
たとみられる事件が、起きた。それについて、ロンドン警視庁は27日、同国に亡命しているロ
シアの政商B氏の事務所から、ポロニウム210の痕跡が検出されたと発表した。

一方、A氏の遺体は30日に司法解剖される見通しとなっており、事件の謎に迫る可能性があ
るとして注目されている。

 BBCなどによると、B氏の事務所は、ロンドン市内の高級街ベルグラビア地区にあり、放射
性物質の検出を受けて封鎖された。同氏はA氏の友人で、プーチン・ロシア大統領を痛烈に批
判しているという(以上、ヤフー。NEWS)。

 この記事だけでは、事件の概要がよくわからない。しかしいくつかの可能性が成りたつ。

 もっとも簡単な推理によれば、政商B氏が、A氏を殺害したということになる。が、ここで矛盾
が生じてくる。B氏自身も、プーチン大統領を痛烈に批判していたという。そんなB氏が、A氏を
殺害するはずはない。

 ……と、だれしも考える。しかしこうした世界には、必ずといってよいほど、ウラがある。

 私も以前、いろいろなカルト教団を叩く本を書いていたとき、同じようにして、私に近づいてき
た男が2人いた。いかにも私のシンパのようなフリをしながら、かつ、その教団を批判しながら
近づいてきた。

 それらの人物については、ある日、宗教問題を取り扱っていた日本K党の宗教部の人から、
電話がかかってきて、素性を知った。「林さん、あなたの周りに、G教団のスパイが2人、張りつ
いていますから、注意してください」と。

 B氏は、ひょっとしたら、表では、プーチン・ロシア大統領を批判しながら、A氏に近づいてき
たとも考えられる。もちろん、A氏を油断させるためである。

 で、もうひとつの推理は、B氏自身も、暗殺の対象になっていたかもしれないということ。B氏
の事務所から、ポロニウム210の痕跡が検出されたということから、そういうふうにも、解釈で
きる。

 しかし今どき、こういう事件が、現実に起きるということ自体、信じられない。……というか、実
は、この種の事件は、決して少なくない。ロシアのプーチンがらみの暗殺事件だけでも、わかっ
ているだけで、5〜6件近くある。あのプーチンという人は、もともと、KGB(ロシアのスパイ組
織)あがりの人物である。

 現在、イギリスの捜査当局が懸命に捜査しているから、そのうち、真相がわかるかもしれな
い。しかし今のところ、私のワイフは、こう言っている。「プーチンもこわい人ね」と。ロシア側
は、その疑念をひっくり返すほど重要な証拠を出す必要がある。

 さあ、どう出るか、ロシアのプーチン大統領!


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●一芸論

+++++++++++++++

子どもの心は、一芸が守る。

この一芸は、大切にする。

+++++++++++++++

 子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろ
なことがあった。

S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異常なまでの興味を
もった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげることをすすめた。パソ
コンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめりこみ、小学3年生
のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまでになった。

Tさん(2歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいたという。そこ
で母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ始めた。その
Tさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。

 中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではない
が、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助け
る」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。

M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園
で、ゴルフばかりしていた。で、それから10年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこう
言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコー
チになっていた。

 一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、
「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「こ
れについては、あいつしかできない」という状態にする。

 ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデ
ルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●一芸は聖域

 子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は
大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」と
いうもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんな
ケースがある。

 H君(中1)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績がさ
がったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしまっ
た。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、
食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍く
なってしまった……。

 子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されて
いることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それ
を奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。

H君は学校で疲れた心を、音楽を作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまった
のだから、H君の症状は当然といえば当然の結果でもあった。

 また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の
子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそう
であるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。

 これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって
進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学へ
の転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学
生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされてい
る。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●親が子どもを叱るとき(フリーター論) 

++++++++++++++++

ふえるフリーター。
しかし大切なことは、
フリーターを悪として考えるのではなく、
それを認める社会を用意することでは
ないのか。

++++++++++++++++

●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。

一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみれ
ばバツなのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこ
う書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つま
り「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。

集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。

この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要
された。農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、
個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥さ
れた。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし
今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってき
ている。

イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つに分け
ることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、単独で
行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(2000年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、12%もい
るという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。

「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。

30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これ
はまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、
日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、

 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、

 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型             ……15%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。

しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではない。実
情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。いつまで
も「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 フリー
ター フリーター論 フリータ撲滅論 フリータ)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1710)

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。

(1)愛別離苦(あいべつりく)
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)
(3)求不得苦(ぐふとっく)
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1)別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみを
いう。
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3)求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成
する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛ん
になりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの
原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1)苦諦(くたい)
(2)集諦(しゅうたい)
(3)滅諦(めったい)
(4)道諦(どうたい)の、4つである。

(1)苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2)集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえ
ば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、そ
の原因となることもある。
(3)滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねは
ん)の世界へ入ることをいう。
(4)道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原
始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではな
いか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

+++++++++++++++++++

もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

+++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であ
ることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここ
に、東洋哲学と西洋近代哲学の集合を見る。

 そのサルトルの「無の概念」について書いた原稿が、つぎのものである。

++++++++++++++++++

【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに
由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるとい
う意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れて
も、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらい
だろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人
も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間
は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら
自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカル
ト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようにな
る。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結
構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつ
きつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところ
で、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を
宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなも
の。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思
える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいう
なら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動の
ために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をも
って、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代
から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックにな
っていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可
能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその
愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここで
いう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ
るがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1711)

●安易な復古主義
+++++++++++++++

安易な復古主義に警戒しよう!

+++++++++++++++

●明治の偉勲たち

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人である。教育家
でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。
その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運
動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日本は、本当に変わっ
たのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人たちまで現われた。
中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、おかしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反省すること
もなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時代という時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であったことを忘れ
てはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んでいる。た
とえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人となる
と、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神的バ
ックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し
てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ
り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人
には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて
しまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建
時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●私らしさとは……

++++++++++++++++++++

心理学でいうアイデンティティとは、

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう。

++++++++++++++++++++

 エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つのものをあ
げる。

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。

(1)独自性の追求

 「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ずるようにな
った。どうしてか?

 たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、還暦」の
「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61歳)のときに、干
支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)る」という意味である。

 で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、そういうふう
にして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。

ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男の子ら
しくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作用によるものだと
いう説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。

 まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子らしくして
いく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らしくなっていく。

 それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、今、
老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。

 「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。

 しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消えてしま
う。

 となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、私には、
独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、そういうものは、
どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、独自性と言えるような
ものがあるのか、と。

 どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」と思うよう
な部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。

 今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。体力も落
ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前にして、「では、
どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どんどんと、老人臭くしていく。

 しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!

(2)統合性の容認

 いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、あまり好
きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。

 私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子でもない。

 だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。ときどき、そう
言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそれなりの人に、そう言
われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たまらない。

 「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、いかんよ」
とか、など。

 酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性を見れ
ば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思っている。

 どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定してしまう
と、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなくなってしまう。

 仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。そ
の人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが悪いこと
なのか!

(3)一貫性の維持

 一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だが、
認知症か何かになった人を、見てみればよい。

 数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言っておきながら、
いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つきあいにくい。その
人がどういう人なのか、それさえわからない。

 子どもの世界でも、似たようなことを観察する。

 年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、明確になっ
てくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教える側からすると、「こ
の子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。

 が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、愛情
飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのない子どもに
なる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。

 このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た(つかみ
どころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人といい、そうでない
人を、そうでないという。

 わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。「私は一貫
性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、そう思いこんでいる
だけ。

 そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならない。
視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性があるか
どうかを、判断する。

 あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、あな
たという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。

 以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自己概念)と(現
実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立されたとみる。

 自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑ぐらい
では、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●臭い子ども

+++++++++++++++

嫌われっ子の三大理由のひとつが、
「臭い子」。

子どもは、おとなよりも臭いに
はるかに敏感。臭い子が、いじめの
対象になることも多い。

+++++++++++++++

 以前、嫌われる子について、調査したことがある。まず、その原稿を、ここに紹介する。

+++++++++++++++

●嫌われっ子、親の責任

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、(1)不潔で臭い子ども。(2)陰湿で性
格が暗く、静かな子ども。(3)性格が悪い子ども、ということがわかった(小4児、30名につい
て調査)。

 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」「髪の毛が
汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻クソばかりほじってい
る」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全体が不潔っぽい」など。子どもと
いうのは、おとなより、においに敏感なようだ。

 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」「何もしゃべ
らない」など。「静か」というのもあった。

私が「誰にも迷惑をかけるわけではないので、いいではないか」と聞くと、「何を考えているかわ
からないから、不気味だ」と。

 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」「自慢
話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ちたがり屋」など。一
人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。

 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いということ。
とくに(1)の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌われっ子、親の責
任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。


 A君(中1)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親もそれに悩
んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭とも言えない、
何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に問題があるようだ
が、本人はそれに気づいていない。そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風
呂では、体をよく洗うのだぞ」と。

が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしていることを言われたという思いが
あった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教室から出ていってしまった。

 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなでるが、
中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこで忠告しようと思
ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!

 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑にから
みあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたちが考えている
ほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でしかない。

ここにあげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、いつも嫌われてい
るということにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもない。いじめの問題について
も、ともすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界を論ずる傾向がある。が、
それだけでは足りない。それをわかってほしかったから、ここであえて、嫌われっ子の問題を取
りあげてみた。

+++++++++++++++

 実は、最近も、同じような問題に直面している。小学x年生の女の子である。その子どもなの
だが、とにかく、臭い。生理が始まっているのか、そのころになると、とくに、臭い。腐敗臭という
か、病臭というか、ムッとするほど、不快な臭いである。

 臭いは、どうやら、下半身から出ているようである。髪の毛や体は、それほど臭くない。風呂
での体の洗い方に問題があるようだ。で、ワイフに相談すると、こう言った。

 「その年齢の女の子は、無頓着だから、あのあたりを風呂でも洗わないのね。それで臭いの
よ」と。

 そこで私は、そのことを母親に告げるべきかどうかで、ここ数か月、悩んでいる。こういうケー
スでは、どんな告げ方をしたところで、私とその女の子の間に、大きなキレツを入れてしまう。
そのまま私の教室をやめてしまうこともある。「嫌われた」と判断してしまうからである。

子どもというのは、自分の臭いのことを指摘されると、どういうわけか、過剰に反応する。他人
の臭いに敏感であった分だけ、今度は、自分のこととなると、それが許せないらしい。私も、息
子の口臭を指摘したことがある。が、それだけで、大喧嘩になってしまった。

 だから悩んでいる。本来なら、親に告げるべきである。それはわかっている。しかし親自身
が、娘の立場になって、怒ってしまうこともある。あるいは親自身が、臭いということも珍しくな
い。冒頭で、「子どもは、臭いに敏感である」と書いたが、この問題は、そんな単純なものでは
ない。

 では、どうするか?

 こうした問題は、こうして一般論として書くことによって、それぞれの親に、自分で判断してもら
うしかない。「うちの子はどうか?」と。

 一度、あなたの子どもの臭いについて、考えてみてほしい。臭いの問題だけは、子どもの世
界では、決して、軽く考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 いじ
められっ子 いじめ 子どもの体臭 臭い 嫌われっ子 はやし浩司 臭い子)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1712)

●2000年

+++++++++++++++++++

Eマガ(無料版)の読者が、今朝、2000人になった。
うれしかった。と、同時に、ほっとした。

ところで、近くのW医院のみなさんは、
医院の受付に、私のマガジンの
購読申し込み書を置いてくださっているとのこと。

そういう人たちの協力があったからこそ、
今朝、2000人になった。

W医院のみなさん、ありがとうございます。

そこで、2000年。

+++++++++++++++++++

 2000年といえば、「2000年問題」。それにノストラダムスの大預言。つまりノストラダムスの
大預言によれば、1999年の末、人類は、最期を迎えるはずだった。

 しかし結果は、ハズレ! 大ハズレ!

 少し前に書いた原稿を、もう一度、読みなおしてみる。3年前に書いた原稿である。

+++++++++++++++

●ヤーイ、何も起きなかったぞ!

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載せ
た。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、まったく
のデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言とか、そういうもの
もあった。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこかの頭のおか
しな人が、思いこみでするもの。たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論
と神の降臨を唱え、「この信仰をしたものだけが、救われる」などと教えている。

そこで調べてみると、こうした終末予言は、その宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされてい
ることがわかった。しかし、すべてハズレ! 一度だって、こうした予言が、当たったためしがな
い。

 で、問題は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った人が、1
人もいないということ。さらにその責任を追及した人もいない。それに問題は、そういう予言が
はずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)から離れた信者がいな
いということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避しました」などと、おめでたい
ことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。それも同じような予言をした。去る5
月15日に何かが起こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバ
ーの言葉)とのこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」
と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ〜」ということになる。

もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなかったからといって、どうということ
はない。(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そうなったと考えるの
が正しい。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の7月」とい
うのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、あのノストラダムスの
予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位のお金を稼いだという。世の中
をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利益を、社会に還元すべきではな
いか……と考えるのは、はたして私だけだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。人々が不
安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうしたらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予言にな
る。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち1人ひとりが、自分を取り巻く運命論
と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之介を、
私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率によって、決
まる。百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私たち
自身にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。そうい
う視点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト教系のカ
ルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、これからこの
ボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。「そうだ。君が、ボー
ルを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】

 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したことが
ある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本3大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に立
って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。しかし、だ。この大宇宙には、
無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の数よりも多くの、星々があると
いう。

私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地球は、その星にも数えられない、そ
の太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る太陽
の何と小さいことか。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されているとしても、そ
の神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや一人ひとりの人
間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上の生物の中で、人間
だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そのま
た人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。

それはたとえて言うなら、あなたの家の中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相
手にするようなもの。……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、

キリストは、第2次大戦中、1000万人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかっ
たではないか。殺されたユダヤ人の中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたは
ずである。つまりそういうことを考えていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考
えることの、おかしさが、あなたにもわかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教にせ
よ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従ってする
ものではないということ。運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ない
ものということになる。もしそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まず
インチキと疑ってかかってよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるはずはな
い。ボールを落とすとか、落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自由なる、意
思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。

++++++++++++++++

 私が1998年に書いた本の中の一節を紹介する(「ドラえも〜ん、野比家の子育て論」より)。

++++++++++++++++

●予言

運命があれば、予言もある。しかしその予言について、藤子・F氏は、こんなふうに書
いている。(20)巻の88頁にある、『大予言・地球の滅びる日』というのが、それである。

のび大は偶然、ドラえもんの予言書(?)を手に入れる。しかしそこに書いてあること
は、読み方によっては、どちらともとれる内容ばかり。「ノストラダムスの大予言」を皮
肉ったものだが、そのとおり。

藤子・F氏は、そのノストラダムスを完全に皮肉っている。

たとえば、のび大は、「暗き天に、マ女は怒る。この日○日は終わり、悲しきかな」とい
う文言を、次のように解釈する。

○日というのを地球ととらえ、「魔女が怒り、地球滅亡を意味する」と解釈する。そこでいつもの
ように、のび大は大あわてをする。が、その予言書はただの日記。あとでドラえもんは、こう説
明する。

「くら−い点というのは、(のび太の暗い)点のこと。マのつく女というのは、ママのこと。○はドラ
焼きのこと。ドラ焼きがなくなれば、悲しいに決まっている」と。

私も、ノストラダムスの予言が大流行したとき、同じことを考えた。翻訳そのものが正
しいかどうかも疑ったが、かりに正しいとしても、あれはまともな人間の書いた文章ではない。
ないことは、多少なりとも、文を書いたことがある人ならわかる。はっきり言え
ば、頭のおかしな人が書いた文章だ。そんな文章をもとに、現代や未来を考えるほうがお
かしい。藤子・Fも、それを指摘している。解釈する人の意向によって、どちらにも解釈できる。
「ノストラダムスの大予言」に書かれた文章は、そんな文章ばかりだ。

しかし問題はそのことでもない。問題は、そういうわけのわからない文章を、世間に紹
介しておきながら、その紹介した人が、責任をとったという例がないこと。あの富士山にしても、
当時、1992年に大爆発をすると騒いだ人がいた。が、結局、富士山は大爆発などしなかっ
た。

その人は、しばらくは世間からなりを潜めていたが、また別の予言をして、最近、世間の話題
をさらっている。藤子・F氏はそこまで書いてないが、藤子・F氏はそういう人を、子どもたちから
遠ざけたかったのではないか。私はそういう藤子・F氏のねらいを、「大予言」の中に感じた。

++++++++++++++++

 ただそれから6年。予言こそ当たらなかったが、世界情勢はますます不安定になってきてい
る。2000年のあのときと、2006年の今とでは、どちらがよいかと言えば、2000年のほう
が、まだよかった(?)。

 それはさておき、2000年。……私が満53歳になった年である。「53歳」と言われても、とく
に思い出すことはないが、「2000年」と言われれば、あれこれと思い出す。20世紀最後の年
だったということもある。21世紀になる、前の年だったということもある。

 言い忘れたが、冒頭に書いた「2000年問題」というのは、コンピュータの世界での話であ
る。

 プログラムを組むとき、そのつど、年号や日付を書きこむことが多い。たとえば金利計算をす
るプログラムにしても、年数を求めるとき、(現在の年数)−(過去の年数)という数式を用い
る。

 そのとき、ほとんどのプログラムでは、4桁の数字のうち、上1桁、もしくは2桁を省略する。1
955年から1990年までだったら、(55−50=5年)というようにして計算する。

 が、2000年を過ぎると、同じプログラムでは、1990年から2001年は、(01−90=マイナ
ス89)となってしまう。

 これがプログラムミスを引き起こし、社会の大混乱を引き起こすという。それを、「2000年問
題」といった。

 で、当時、すでにプロのプログラマーの道を歩み始めていた二男に、そのことを相談すると、
二男は、こう言って笑った。「問題は起きないよ」と。すでに二男自身も、自動的に問題か所を
発見し、修復するプログラムを開発していた。

 結果的に、何ごとも起きなかったが、ひとつだけ、私のところでは問題が起きた。当時使って
いたのは、S社のパソコンだったが、そのパソコンを開くたびに、「期限切れ」の表示が出て、フ
リーズしてしまった。で、パソコンの日付を見ると、00年になっていた。だから今でも、そのパソ
コンを開くときは、一度、日付を修正しなおして、立ち上げなくてはならない。そういうことはあっ
たが、その程度。

 翌、2001年、私たちは無事、21世紀を迎えた。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●キレる子ども 

++++++++++++++++++

キレる子どもについては、たびたび、
取りあげてきた。

その「キレる」という行為だが、通常の
「激怒」とは、いくつかの点で、異なる。

++++++++++++++++++

 子どもでも怒る。激怒することはある。しかし「キレる」という行為とは、明確に、区別される。
「キレる」という行為には、つぎのような特徴がある。

(1)突発的に錯乱状態になる。
(2)暴力行為に、見境がなくなる。
(3)脳の抑制命令が、欠落する。
(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。
(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 順に考えてみる。

(1)突発的に錯乱状態になる。

 キレる子どもの特徴は、突発的に錯乱状態になること。その少し前から、ピリピリとした緊張
状態がつづくことがあるが、暴れ出すときは、突発的である。瞬間、人格の変化を感じたと思っ
たとたん、「コノヤロー」と金切り声をあげて、相手に飛びかかっていったりする。

(2)暴力行為に、見境がなくなる。

 キレる子どものする暴力には、見境がない。ふつうの暴力には、(手かげん)というものがあ
る。しかしキレる子どものする暴力には、その(手かげん)がない。全力をこめて、相手を殴っ
たり、蹴ったりする。

(3)脳の抑制命令が、欠落する。

 言動が、まるでカミソリでものをスパスパと切ったようになる。動きが直線的になり、なめらか
さが消える。脳の抑制命令が欠落したような状態になる。当然、言葉もはげしいものになる。

(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。

 その瞬間、子どもの顔を観察すると、顔色は青ざめ、目つきが別人のように鋭く、冷めたもの
になっているのがわかる。憎しみや怒りを表現しながら相手に殴りかかるというよりは、無表情
のまま。ときに、そのあまりにもすごんだ顔を見て、ゾッとすることさえある。

(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 キレるとき、その理由が、よくわからない。A君(小3男児)は、順番を待って並んでいるとき、
突然、キレて暴れ出した。近くにあった机や椅子を、ギャーッという叫び声とともに、手当たり次
第、足で蹴って倒した。

 B子さん(小5女児)は、私が「こんにちは」と声をかけて肩をたたいたその瞬間、突然、キレ
た。私に向かって、「このヘンタイ野郎!」と言って、私の腹に足蹴りを入れてきた。ものすごい
足蹴りである。私は、その場で、息もできなくなり、しばらくうずくまってしまった。

 C君(小4男児)は、問題を解いているとき、私がそれを手助けしてやろうと声をかけたとた
ん、キレた。「テメエ、ウッセー!」と叫んで、そばにあったワークブックで、私の頭を、つづけざ
まに、狂ったように叩きつづけた。

 こういうケースのばあい、私ができることと言えば、男児のばあいは、抱きかかえ、子どもを
抑えることでしかない。しかし相手が女児のばあいだと、それもできない。両手でまるく、自分
の頭をおおうことでしかない。子どもの世界では、おとなの私のほうが、やり返すなどというの
は、タブー。(当然だが……。)

 こうした子どもを観察してみると、先にも書いたように、脳の抑制命令そのものが、欠落した
ような状態になっていることがわかる。脳の機能そのものが、異常に亢進し、狂ったような状態
になる。

 原因のほとんどは、慢性的なストレス、日常的な緊張感、抑圧感の蓄積と考えてよい。それ
が脳間伝達物質の過剰分泌を促し、瞬間的に脳の機能が異常に亢進するためと考えられる。

 さらにその原因はといえば、脳の微細障害説などもあるが、家庭環境も、大きく作用している
ことは否定できない。

 子どもがこういう症状を示したら、親は、家庭環境を猛省しなければならない。が、こういう子
どもにかぎって、親の前では、むしろ静かでいい子ぶっていることが多い。つまりそのはけ口
を、弱い人や、やさしい人に向ける。

 だからたいていのばあい、私がそれを指摘しても、親は、その深刻さを理解しようとする前
に、子どもを叱ったり、さらに子どもを抑えつけようとしたりする。これがますます症状をこじら
せる。あとは、この悪循環。最後は、行き着くところまで行く。それまで気がつかない。

 対処法としては、過剰行動児に準ずる。

++++++++++++++++++++++++

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。

つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令
を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう20年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこうだ。
たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に分泌
され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大学の
大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。

リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしま
う。一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カル
シウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消
えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足して
くると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさ
せたりする。

 ここに書いたのはあくまでも1つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を1本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。

体重15キロの子どもに缶ジュースを1本与えるということは、体重60キロのおとなが、同じ缶
ジュースを4本飲むのに等しい。おとなでも4本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボ
ガボになってしまう。もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂
糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうよう
な弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。

その地方ではどこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水
代わりに牛乳を飲んでいた。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1713)

●怨憎会苦(おんぞうえく)

+++++++++++++++++++++

原始仏教の教えに、「四苦・八苦」という言葉がある。
四苦というのは、生・老・病・死をいう。

残りの四苦のうちのひとつが、怨憎会苦(おんぞうえく)。

「憎い相手と会う苦しみ」という意味である。

+++++++++++++++++++++

 仏教を研究するとき、とくに注意を払いたいのが、教条的なものの考え方である。たとえば人
間が味わう「苦」にしても、「四苦・八苦」というふうに、数字を使って分類して考える。

 こうし教条的なものの考え方は、無知な人(失礼!)には、それなりの説得力があるかもしれ
ない。が、では、それでよいかというと、そうではない。ものの考え方が、その(数字)に固定さ
れてしまう。自由なものの考え方ができなくなってしまう。

 四苦八苦でなくても、十苦百苦でも、よい。千苦万苦でもよい。

 で、そういうことも頭に入れながら、その苦について考えてみる。原始文教の教えによれば、
人間が味わう「苦」には、生・老・病・死の4苦のほか、(4)愛別離苦(あいべつりく)(愛する人
との別れによる苦しみ)、(6)怨憎会苦(おんぞうえく)(憎い相手に会う苦しみ)、(7)求不得苦
(ぐふとっく)(求めても求められない苦しみ)、(8)五蘊盛苦(ごうんじょうく)(人間の意識活動
から生まれる苦しみ)の4つがあるという。

 (冒頭にも書いたように、人間が生きていく上で味わう苦しみは、それだけではないと思うが、
ここでは、原始仏教の教えに従っておく。)

 その中でも、興味深いのは、(6)の怨憎会苦である。パソコンで、「おんぞうえく」と入力して
変換すると、そのまま「怨憎会苦」と出てくる。そのことからもわかるように、この言葉は、仏教
の世界では、ポピュラーな言葉というふうに考えてよい。

 が、意味がよくわからない。「憎い相手と会う苦しみ」という意味だが、単純に考えれば、「憎
い相手などと、会わなければいい」ということになる。しかし人間の世界は、そんな単純なもの
ではない。

 以前、市内で母親教室を開いていたとき、こんな若い母親たちが多いのには、驚いた。つま
り「盆や暮れに、実家に帰るのが苦痛でならない」というのだ。実家というのは、自分の実家を
いう。

 「(実の)父は母に会うのが苦痛です」「盆や暮れが近づくと、憂うつになります」「どうやって両
親と夫の間をとりもったらいいのか、わかりません」と。

 会いたくなくても、会わなければならないケースというのは、多い。以前、私には、こんなこと
があった。

 私はある男(当時、45歳くらい)に、だまされたことがある。ことのいきさつはともかくも、その
決着をつけるため、私は、その男を、裁判所へ呼び出した。債権確認のための民事調停をす
るためにである。

 もともと私は法科の出身だから、そうした手続きをすることについては、抵抗がなかった。
が、である。当日が近づくにつれて、言いようのない緊張感と不快感を覚えるようになった。とく
にその前夜は、体がほてってしまい、一睡もできなかった。私が悪いのではない。相手が悪
い。それはよくわかっていたが、調停すること自体、不愉快なことだった。

 今にして思うと、「あれが怨憎会苦だったのかなア」と思う。

 さらに率直に言えば、私も、実家に帰るのが苦痛でならない。人にはそれぞれ故郷(ふるさ
と)というものがあり、その故郷に、それぞれの思いをこめる。しかし私がもっている故郷観は、
平均的な人がもっている故郷観とは、かなりちがったものである。

 死んでも、故郷にある、あの墓にだけは、入りたくないと思っている。

 つまりこれも怨憎会苦ということになる。「憎い」ということではない。体を取り巻く無数のしが
らみの中で、もがかねばならない。それが苦痛なのである。

 では、どうするか?

 私のばあいは、(逃げる)ということができない。逃げれば逃げるほど、かえって気が滅入って
しまう。それだけ気が小さいということになる。そこで私のばあいは、何か問題が起きると、正
面からぶつかっていく。決してそれだけの勇気があるわけではない。悶々と悩む、自分に耐え
られない。だから、そうしている。

 子どものときした喧嘩にしても、そうだった。上級生だろうが、体の大きな相手だろうが、多人
数であろうが、売られた喧嘩には、かならず応じた。負けることがわかっていても、応じた。

 そうしてそれまでの自分に決着をつける。それが私のやり方だった。今も、基本的には、その
やり方をつづけている。

 が、怨憎会苦は、つづく。悶々と、つづく。しかしこれは私が人間である以上、もっと言えば、
人間として生きている以上、いつまでもつづくものなのかもしれない。怨憎会苦から解放される
ということは、恐らく、死ぬ瞬間まで、ないだろう。

 が、それでも怨憎会苦から解放されたいと思うなら、怨憎会苦の種になるようなことをしなけ
ればよいということになる。いつも先を、静かに観察しながら生きる。準備しながら生きる。それ
しかない。……といっても、それ自体、たいへんむずかしいことのように思うが……。

【補記】

 名古屋市内に住む知人(55歳)は、今、今までつきあった愛人と、どうやって別れるか、その
ことで、悩み、苦しんでいる。相手の女性は、まだ20代だという。

 最初は、たがいに遊びのつもりだったらしいが、そのうち、たがいに本気になってしまったらし
い。が、さらにそのうち、男の知人のほうが、冷めてしまったらしい。

 こうなると、愛人に会うのも、女性の側からみると、「愛離別苦」。男性の側からみると、「怨憎
会苦」ということになる。おまけに、不倫が奥さんに発覚。離婚問題にまで発展しているという。
となると、さらにつけ加えて、その知人には、奥さんに対しては、「愛離別苦」、奥さんにしてみ
れば、「怨憎会苦」ということになる。

 わかりやすく言えば、ドロドロの人間関係。「愛離別苦」「怨憎会苦」というのは、そういう人間
関係をいう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 怨憎
会苦 四苦八苦 愛離別苦)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●まちがい(「汝自身を知れ」)

+++++++++++++++++

私は長い間、「汝自身を知れ」と言ったのは、
スパルタのキロンだと思っていた。

何度も、あちこちの原稿に、そう書いた。
しかしこれはまちがっていた。

「汝自身を知れ」と言ったのは、ギリシアの
7賢人の1人、ターレスの言葉だった。

その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこまれて
いたというが、それを見て、あのソクラテスが、
「無知の知」という言葉を導いた。

+++++++++++++++++

 今日(12月2日)の講演で、少しだが、『汝自身を知れ』という言葉に触れるつもりでいる。そ
こで念のためと思い、インターネットで、その言葉を検索してみた。

 以前なら図書館で調べると、半日もかかったような作業が、今では、瞬時にできる。その結果
だが、私は、強い衝撃を受けた。

 『汝自身を知れ』という言葉を残したのは、スパルタのキロンではなく、ギリシアの7賢人の1
人である、ターレス(BC624−546)だったということがわかった。これほどまでに有名な言葉
だから、今さら、言い訳など無用。まことにもって、恥ずべきことである。

 その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこんであった。それをあのソクラテスが読み、かなり
自己流に解釈して、『無知の知』という言葉を生み出した。つまり「私たちは何も知らない。知ら
ないことを知ることこそが大切」と。つまり「自分を知ることが、知識を得ることである」と。

 どうして私は、「スパルタのキロン」と思いこんでしまったのか。そこで記憶を懸命にたどって
みるのだが、どうもそれがはっきりしない。学生時代にそう聞かされたのかもしれないし、その
あとかもしれない。英語の「Know yourself(汝自身を知れ)」という言葉が耳に残っているか
ら、オーストラリアの友人から聞いた言葉かもしれない。

 しかしそれにしても……。無知というのは、本当にこわい。私はまちがった情報を、すでにあ
ちこちの講演でしゃべってしまった。本にも書いてしまった。知っている人が聞いたり、読んだり
したら、「何だ、はやし浩司って、この程度の男か」と思ったにちがいない。

 ……とまあ、言い訳はこの程度にして、自分を知るということは、本当にむずかしい。あのオ
スカー・ワイルドは、『浅はかな人間だけが、自分をよく知っている』と書き残している。つまり
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思いこんでいる人ほど、自分のことを知らない。
いわんや、子どもをや。

 私は、あまりにも無知だった!(少し、おおげさかな?)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 汝自
身を知れ アポロン神殿 古代ギリシアの7賢人 ターレス 無知の知 ソクラテス)

【付記】

 「私の子どものことは、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、子どものことを知ら
ない。自分のことさえ、わかっていない。そう断言して、まちがいない。

 このタイプの親ほど、子どものことを、何でもかんでも、自分で決めてつけてしまう。そしてそ
れを、子どもに押しつける。

 が、子どもの心は、別のところにある。つまりこの悪循環が、親子の間に、キレツを入れる。
やがて断絶へと発展する。

(教訓)

●汝自身を知れ

古代ギリシアの7賢人の1人のターレスは、『汝自身を知れ』という言葉を残した。その言葉
が、アポロン神殿の柱に書かれているのを見て、ソクラテスが、『無知の知』という言葉を導い
た。「私たちは、自分のことを知っているようで、実は何も知らない」と。この言葉を子育てにあ
てはめてみると、こうなる。「自分の子どものことは、自分がいちばんよく知っていると思いこん
でいる親ほど、自分の子どものことがわかっていない」と。

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1714)

●近視眼

+++++++++++++++++

現実主義と近視眼は、まったく別のもの。
常識で考えれば、すぐわかる。

しかし今、この2つの言葉を混同している
人は、多い。

+++++++++++++++++

 ある男性(会社経営・50歳くらい)は、こう言った。「K国の核兵器の問題は、アメリカが解決
してくれるでしょう。それよりも、私たちの心配していることは、来年の景気です」と。

 また別の女性(主婦・40歳くらい)は、こう言った。「県知事の汚職問題なんて、私には関係
ありません。そんなことを気にしているヒマは、ありません。息子たちの進学問題で、頭がいっ
ぱいです」と。

 さらにこんな例も。はげしい受験勉強で、心がゆがみ始めた子ども(小4・女児)について、あ
る母親は、こう言った。「うちも来年4月から、大手の進学塾に、子どもを入れようと思っていま
す」と。

 ものの見方が、きわめて近視眼的。しかしこういうのを、現実主義とは言わない。現実に毒さ
れるあまり、自分の姿を見失ってしまっている。

 3番目に書いた子どものことだが、(心がゆがむ)ということは、穏やかで、やさしい心を失
い、それと入れかえに、合理的で、ぞっとするほど冷たい心になることをいう。が、その程度で
すめば、まだよいほう。

 ツッパリから非行へと進み、やがて手がつけられなくなる。もちろん受験勉強なんて、どこか
へ吹っ飛んでしまう。が、この段階でも、親は、その状態を最悪と思いこみ、無理をする。「ま
だ、何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と。

 しかしこうした心の問題には、必ず、二番底、三番底がある。今の状態より、さらに悪くなる可
能性が高いということ。

 広い視野をもっていれば、そうした二番底、三番底を見抜くことができる。が、近視眼的にな
っていると、それもわからない。(現実)の中で右往左往するうちに、ますます自分を見失ってし
まう。

 皮肉なことに、こういうタイプの親ほど、他人の話に、耳を傾けない。「私のことは、私がいち
ばんよく知っている」「うちの子どものことは、私がいちばんよく知っている」と、過信する。無理
に無理を重ねる。

 あとは、この悪循環。そしてやがて、行き着くところまで、行く。先の子どももそうだが、今のよ
うな状態で、さらに大手の進学塾に入れたら、子どもは、どうなるか? もうここまでくると、私
の知ったことではない……というのは、言い過ぎかもしれないが、親というのは、自分で行き着
くところまで行かないと、気がつかない。

 それは子育てにまつわる宿命のようなもの。ほとんどの親がそうであるから、「私の知ったこ
とではない」と書くしかない。

 現実主義と近視眼は、ちがう。混同しないように、したい。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1715)

●老人問題

++++++++++++++++++++

団塊の世代が、これから先、当然のことながら、
大量に(?)に、老人化する。

老人化するだけならまだしも、そのまま、社会や
家族の「粗大ゴミ」となる。

私もそのうちの1人だから、これはまさに
深刻な問題と考えてよい。

++++++++++++++++++++

 姉が、現在、年老いた母の介護をしている。頭がさがる。感謝している。で、その母だが、人
一倍というか、壮年期のおとな並に食べ物だけは、食べる。そのことを、昨年(05年)まで、介
護士をしていたN氏(知人、40歳くらい)に話すと、こう言った。

 「そういう老人は、多いですね」と。つまり「年をとればとるほど、食欲に執着するようになる老
人は多い」と。「生きたいという願望が、食欲に向かうのではないでしょうか」とのこと。

 食欲が旺盛なのは、結構なことだが、その分だけ、今度は便の始末がたいへん。ウンチにも
いろいろあって、(コロコロとしたかわいい便)から、(ドンブリをひっくり返したような便)まで、い
ろいろある。

 自分で便の始末のできる老人なら、まだよいが、それができない老人となると、介護する側も
たいへん! ……ということになる。が、この問題は、そのまま私たちの将来の問題ということ
になる。

 というのも、こうした問題は、それまでの親子関係そのものまで破壊してしまう。ベースに、固
い絆(きずな)で結ばれた親子関係があれば、まだ救われる。しかしベースそのものが弱いと、
そうではない。介護疲れも慢性的につづくと、今度は、それが親への憎しみへと変化する。そう
いうケースは、少なくない。

 いやそのときでも、脳みそが正常なら、まだ救われる。が、反対に、介護してくれる息子や娘
に向かって、汚い言葉を使って罵倒する親だっている。で、こんな話をワイフにすると、ワイフ
は、こんな話をしてくれた。

 バトミントン仲間のAさん(50歳、女性)という人がいる。そのAさんも、現在、親の介護をして
いる。母親は、現在、82歳だという。実母である。医師の診断では、アルツハイマー病が始ま
っているということだが、見た感じでは、いたってしっかりとしているという。

 その82歳の母親が、これまた大食漢らしい。目を盗んでは、手当たり次第に、ものを食べて
いるという。

 それについてAさんだが、「最初のころは、食べ物に気をつかっていた。が、最近では、何で
も食べて、早く死んでくれと思うようになった」と言っているという。

 決して、Aさんを責めてはいけない。介護疲れが重なると、親子関係も、そこまで破壊される。

 ……という問題は、ここにも書いたように、明日の私たちの問題である。アルツハイマー病の
ような病気は別として、どうすれば、みなに嫌われないですむか、みなに迷惑をかけないです
むか、それを今から考え、準備しておくことは、とても重要なことのように思う。

 で、そのカギを握るのが、私たち1人ひとりがもつ、(人間性)である。というのも、介護する側
がもっとも強く求めるのが、(救い)だからである。(救い)というのは、やさしい言葉であり、介
護する者を包む、温かい愛情である。それがあれば、介護する側も、救われる。癒(いや)され
る。

 「迷惑をかけてごめん」という言葉一つで、介護する側は救われる。が、反対に、「うるさい」
「私がいつ、お前たちに迷惑をかけた」「私は親だ」と、言われたとしたら、どうだろう。介護する
側は、介護そのものを、何千倍も負担に感じてしまうことになる。

 そこで再び(人間性)ということになる。その人間性を、健康なうちから、常にみがいておく。3
0代や40代になってからでは遅い。20代から始めても、どうかと思う。というのも、若い間は、
自分がもつ気力で、自分のもつ人間性をいくらでもごまかすことができる。しかし加齢とともに、
その気力が弱くなり、その中にある人間性が、そのまま外に出てきてしまう。

 それは持病に似ている。若いころは、仮に何かの持病があっても、それを体力でカバーする
ことができる。しかし50代、60代ともなると、そうはいかない。体力が弱くなり、とたんに、持病
が表に出てくる。

 人間性も同じように考えてよい。

 姉とは数日前も1時間ほど電話で話したが、その苦労は想像を絶するものである。で、私が
できることと言えば、姉の話を聞くことと、金銭的な負担を申し出ることでしかない。

 ……そういえば、昔、私にこう言った人がいた。当時、55歳くらいの男性だったが、「親の介
護は、もうこりごり。自分の息子や娘たちには、そういう思いをさせたくない」と。東京に住むH
氏という人だった。そのときは、「そういうものかなあ」と、その程度にしか考えなかった。が、今
は、ちがう。

 その思いは、私も年をとるにつれて、強くなってきた。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●花と緑の町?

++++++++++++++++++++

花と緑の町?

もうたくさん!
もう結構!

いつからこの浜松は、工業の町をあきらめ、
花と緑の町になったのか?

音楽の町になったのか?

++++++++++++++++++++

 花と緑の町? この浜松が? もうたくさん! もう結構! 花や緑で、どれだけの労働者が
生活できる? どれだけの外貨を稼ぐことができる?

 工員の町が、いつの間にか、音楽の町になってしまった。しかし笛吹けど、踊らず。そこで今
度は、花と緑の町?

 もういいかげんにしろ。そうでなくても、市の財政は、危機的。

 その上、今度は、モザイカルチャ? 広報「はままつ」(12・5日号)で、市長のH氏が、にこや
かな顔をして、そのモザイカルチャを紹介している。

 いわく、「2009年に、(モザイカルチャの)国際博覧会に立候補しています」と。

 モザイカルチャって、何? 知っている? 鉄などでできた支柱に、ワイヤで金網を巻きつ
け、それで植え込んだ木で、動物や人間、植物の形をつくることをいう。

 やるべきことがちがうのではないのか。浜松市がやるべきことは、世界自動車モーターショー
とか、産業ロボット博覧会とか、先端科学博覧会とか、そういうものではないのか。

 昨日(2日)も、今度市議会に立候補予定のN氏としばらく話したが、N氏もこう言っていた。

 「この浜松市に、愛知県のトヨタ市に負けないほどの、ホンダ・シティや、スズキ・シティがあっ
ても、おかしくない」と。

 私も、そう思う。思うが、現実には、何もない。大企業はすべて、本社を東京に移してしまっ
た。それはしかたないとしても、残っている工場は、今、ほとんどない。まったくないと言ってよ
いほど、ない。

 市は、ことあるごとに、「土地がない」と言うが、本当にそうか? ……いや、実は、いくらでも
ある。ウソだと思うなら、グーグルアースか何かで、浜松市周辺を宇宙から見てみればよい。

 「工員の町」と口では言いながら、その工員を大切にしていない。おかしな士農工商意識す
ら、この浜松市には残っている。「士」、つまり市のお役人たちの話を聞いていると、ときどきと
んでもない言葉が出てくる。たとえば、「工員には金を持たせてはいけない」「金をもたせると仕
事しなくなる」とか、など。

 何か、おかしいぞ、浜松市! どこかへんだぞ、浜松市!

 花と緑の町も結構だが、そんな金持ちの道楽のようなことばかりしていてよいのか? 繰りか
えすが、やるべきことが、ちがう。

 スズキ自動車の鈴木氏が座長を務めた、浜松市の行政改革審議会は、空中分解寸前。は
っきり言えば、成果ゼロ! 

 そう言えば、近所に、定年退職後、1度も職に就くこともなく、この30年以上、庭いじりばかり
している老人がいる。どうせするなら、そういう老人に頼んで、モザイカルチャなるものをしても
らってはどうか。彼もまた、元公務員である。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1716)

【今朝・あれこれ】(12月4日)

++++++++++++++++++

軽い風邪?

今朝は、どういうわけか、今までの疲れが
どっと出てきた。そんな感じ……。

起きたのは、朝8時過ぎ。たっぷり眠った
はずなのに、熟睡感があまりない。

どうしたものだろう?

++++++++++++++++++

●風船バレー

 私の家では、目下、紙風船を使った(風船バレー)なるものが、流行している。方法は簡単。

(1)部屋を横切って、ヒモを張る。高さは、ちょうど頭の上ほどの高さ。
(2)紙風船を使って、バレーをする。
(3)15点先取で、勝ち。
(4)紙風船をもっているほうが、サーバーになる。(こまかいルールは、なし。)
(5)3回以内に、相手のコートに入れれば、よし。
(6)左右、両手を使ってよし。
(7)あとのルールは、バレーボールに準ずる。

 今朝もぼんやりしていたら、ワイフが、「やる?」というから、それに応じた。結果は、2セット、
私が取って、私の勝ち。

 バシ、バシと、風船をたたきあっていると、結構、ストレス解消になる。おまけに汗もかく。みな
さんも、ぜひ、どうぞ! 楽しいですよ。


●『ダビンチ・コード』

 ワイフが、ビデオショップで、トム・ハンクス主演の『ダビンチ・コード』を借りてきた。夕食後、
長男と2人で、それを見始めた。が、私は、最初の10〜15分前後を見ただけ。

 軽い頭痛がしたので、ひとりで風呂に入って、そのまま床に入った。

 で、そのビデオについて、朝食のあと、「どうだった?」と聞くと、ワイフがあれこれと説明をし
てくれた。

何でも、キリストに愛人がいて、子どもまでもうけていたという。その子どもの子孫が、現代に至
るまで生きているという。

しかし2000年である。30年ごとに1世代を繰りかえすとすると、2000年で、約67世代。1人
の男と1人の女が、平均して2人の子どもをもうけたとすると、キリストの血を引いた者は、

1世代目……2人
2世代目……4人
3世代目……8人
……
10世代目……2の10乗
20世代目……2の20乗
30世代目……2の30乗
……
67世代目……2の67乗!、となる。

 ヒマな人は対数計算でもしてみてほしい。20世代目で、100万人を超え、30世代目で、10
億を超え、40世代目を待たずして、現在の地球の人口をはるかに超える。

もちろん近親者どうしの結婚ということもあるから、キリストの血を濃く受け継いでいる者もいれ
ば、そうでない者もでてくる。が、その反対に、ここでは平均2人の子どもとしたが、平均3人の
子どもをもうけたとすると、その数は、もっと多くなる。

 要するに、(血筋)などといったものは、日本の封建主義時代ならいざ知らず、意味がない。
とくにヨーロッパでは、だれがキリストの血筋を引いているかということを議論しても、まったく、
意味がない。100%が、キリストの血筋を、引いている。もし、本当に、キリストに子どもがいた
とするなら、の話だが……。

 宗教といっても、(教え)にしたがってするもの。超自然的なパワーによってするものではな
い。私は『ダビンチ・コード』を見ていないが、そのビデオには、そういう基本的な宗教観が欠け
ているのではないのか。


●先祖論

 よく「ご先祖様あっての私です」と説く人がいる。しかしこれほど、近視眼的、かつ自己中心的
なものの考え方はない。

 「近視眼的、かつ自己中心的」というのは、「家」というものを(柱)にして考えれば確かにそう
だが、では、たとえば、そこへ嫁いできた女性の先祖は、どう考えたらよいのかということにな
る。

 たとえばA家という(家)があったとする。A家には、先祖がいる。そこへBさんという女性が、
嫁いでやってきたとする。そのBさんにも先祖がいたはず。しかしA家に嫁いできたとたん、Bさ
んの先祖は否定され、Bさんは、A家の先祖を、「ご先祖様」と呼ばなくてはならなくなる。

 つまり嫁という女性には、人格すらないということになる。

 反対にA家に娘がいて、その娘が、今度は、C家に嫁いでいったとする。すると、A家から出
た(?)娘は、今度は、C家の先祖を、「ご先祖様」と、呼ばなくてはならなくなる。

 まことにもって封建主義的。前近代的。男尊女卑的。はっきり言えば、バカげている。

 「家」よりも大切なのは、そこに住む「人」である。こんなわかりきったことですら、わからない
人が、いまだに多いというのは、驚きでしかない。ホント!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1717)

●2004年

+++++++++++++++++

昨日、Eマガの読者が、2004人に
なった。それで2004年。

こうして読者がふえるのは、W医院の
みなさんの協力によるところが大きいと
思う。

W医院のみなさんは、マガジンの購読
申込書を、受付に置いてくださって
いる。

ありがとうございます!

++++++++++++++++++

 2004年。つまり一昨年(おととし)。しかし一昨年と言っても、記憶がごちゃごちゃになってい
て、どんな年だったのか、よくわからない。

 が、そういうときは、ワイフに聞くようにしている。ワイフは、結婚以来、手帳に、こまめに日記
をつけている。手帳といっても、バッグに入るような小さな手帳である。

若いとき、一度だけだが、それを読んだことがある。それには、不倫相手との交際などが、こま
かく記録されていた……というのは、ウソだが、ひどくワイフが怒ったので、以来、一度も読ん
だことはない。

 が、ときどき私が、何かを聞くと、ワイフは自分の手帳を見ながら、教えてくれる。私にとって
は、ワイフは、いわば、私の記録係ということになる。

 2004年は、最悪の状態で始まった。兄はボケる。母は、ケガをして入院する。姉は、そのた
めパニック状態になる。その状態は今も変わっていない。いないが、まあ、運命などというもの
は、受けいれてしまえば、何ともない。が、その受けいれるまでが、たいへん。すったもんだ(=
いざこざ)が、ある。……あった。

 そのすったもんだで学んだことは、「先のことは心配してはいけない」ということ。「そのとき
は、そのときで、考えればよい」ということ。

 とくに老人介護の問題では、そうだ。もともと先の見えない世界である。子どもは、未来に向
かって、ふくらむようにして伸びていく。明日は、今日より、確実によくなる。

一方、老人には、(未来)そのものがない。とくに、頭のボケた老人には、そうだ。明日が今日
よりよくなるなどということは、ありえない。

 だからなるようにしか、ならない。今日が平和なら、その今日を、思う存分、楽しめばよい。明
日のことは、明日、考えればよい。来月のことは、来月、考えればよい。何か問題が起きたら、
そのときはそのとき。ひとつずつ問題を乗り越えていけばよい。それが老人介護である。

 しかしいろいろなことも学んだ。

 他人のやさしさというか、思いやりの尊さである。人の心のぬくもりである。それを学んだ。

 ともかくも、2004年は、こうした始まった。と、同時に、私が老人問題について深く考えるきっ
かけともなった。それまでは、老人問題、なかんずく痴呆症や老人介護の問題は、別世界での
話だった。「私には関係ない」と思っていた。

 しかし、「明日はわが身」。頭のボケた兄とは、9歳しか年がちがわない。つまり「9年後には、
私もああなるのか」と。

 が、おかげで、2004年、05年と、とくに大きな病気をすることもなく、健康で過ごすことがで
きた。今のところ、脳みそのほうもだいじょうぶなようである。ついでに2006年も、そうだった。
仕事のほうは、ここ10年、低調だが、もうあきらめた。ワイフは、「若いときがんばったから、も
ういいんじゃナ〜イ」と。いつものんきなことを言っている。

 私も、そう思い始めている。

 ただひとつ不安なことは、ここにも書いたが、脳みその問題。私は、ボケたくない。どうすれ
ば、脳みその健康を保つことができるか。今、それがいちばんの関心ごとである。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●近未来T信

+++++++++++++++++

近未来T信という、インチキ会社が、
今、世間を騒がせている。

パソコンにつなぐだけで、ふつうの電話機と
して使えるという。

そんな電話機を販売していた。

+++++++++++++++++

 ちょうど1年前、1人の男性が、浜松の私の自宅にやってきた。学生時代の、5、6年、先輩
だという。私には、そのときが、初対面だった。

 「定年退職をしたあと、今は、ベンチャー・ビジネスをしている」ということだった。で、居間で話
すこと、数時間。そのとき、その男性は、現在問題になっている近未来T信に、投資してみない
かと言った。「この静岡県西部の販売テリトリーを、君に任せてもいい」とも言った。

 話の途中、その男性は、こうも言った。「心配なら、ヤフーの検索機能を使って、近未来T信
を検索してみてくれ。どんな会社か、わかってもらえるから」と。

 私は言われるまま、パソコンに電源を入れ、近未来T信を検索。HPを読んだ。

 が、どうもあやしい? 理由の第一。

 私は、毎週、1〜3冊のパソコン雑誌を購入して読んでいる。しかしそんな電話機の話など、
聞いたことがない。もしそれほどまでに「画期的な電話機」(その男性の弁)なら、雑誌などに紹
介されているはず。

 それに方法としては、可能だが、では、プロバイダー(サーバー)はどうなる? どうする? 
パソコンに電話機をつないだだけで、それだけで電話機として使えるわけがない。私にも、そ
の程度の知識はある。最後の部分は、NTTの回線を使って、家庭の電話機とつながなければ
ならない。

 わかるかな?

 たとえば(私のパソコン)からインターネットを経由して、名古屋の友人に電話をかけたとす
る。そのときもし基地局(サーバー)が東京だけにしかないとなると、東京まではインターネット
でつなぐことはできても、東京から名古屋までは、NTTのふつう回線を使うことになる。そのと
き、当然のことながら、電話料金がかかる。

 この問題を克服するためには、全国、各地区に、基地局(サーバー)を設けねばならない。名
古屋に基地局(サーバー)があれば、(浜松)→(東京)→(名古屋)は、インターネットでつなぐ
ことができる。名古屋の基地局(サーバー)から、友人の自宅までは、市内通話料金で、電話
回線を使ってつなぐことができる。

 それを質問すると、その男性は、「全国地に基地局、つまりプロバイダー(サーバー)を設置
する」と。そしてそのための費用として、初期投資をしてほしい、と。

 ますますあやしい?

 投資額を聞くと、1000万円とか、2000万円とかいう数字を口にした。「数年で、初期投資
は回収できる」とも。

 IP電話は、すでにそのころ、実用化されていた。スカイプアウト(略してスカイプ)も、話題にな
り始めていた。IP電話とスカイプは、ほとんど同じような機能をもっているが、スカイプのほう
は、インターネットどうしで通話する分については、無料である※。必要なのは、4〜5000円
程度の、スカイプ専用の電話機だけ。

 「少し検討させてほしい」とだけ言って、私はその場を逃げた。が、もし先輩でなかったら、家
から叩きだしてやるところだった。

 で、今ごろあの先輩は、どうしているのかと、考えている。彼も、だまされた被害者のうちの1
人なのだろうか? もしそうならお気の毒としか、言いようがない。反対に私のほうが、もっと説
明してやればよかったかなと思っている。「この話は、あぶないですよ」と。

注※……スカイプでも、一般電話機と回線をつなぐことができる。そのばあいは、市内通話料
金並の料金がかかる。たとえばスカイプアウトのHPには、つぎのようにある。

「世界中の一般回線に1分あたり約2・4円という低料金から、電話することもできます。アメリ
カにいるお友達と8分間話しても、約20円。 中国にいるお友達と20分間話しても、たった50
円以下」と。 

(補記)

 今朝(12月6日)、アメリカにいる二男と、スカイプを経由して、テレビ電話を楽しんだ。

 WEBカメラは、もう数年以上も前からもっていたが、テレビ電話に応用するのは、今回が初
めて。

 しかし、やってみて、驚いた。その新鮮さに、驚いた。

 声と同時に、相手の映像も見える。

 二人目の孫が、動いている姿も、今回、初めて見ることができた。うれしかった。楽しかった。

 で、感想。

 テレビ電話のすばらしさは、それをしたことがある人でないとわからないのでは? 音声だけ
の電話をラジオにたとえるなら、テレビ電話は、まさにテレビ。それ以上の(ちがい)はある。

 もしみなさんの中で、スカイプ(テレビ電話)に挑戦してみようという人がいたら、ぜひ、試して
みたらよい。方法は、つぎのようにする。

(1)大型パソコンショップへ行って、WEBカメラと、スカイプ用の電話機を購入する。双方とも、
今では、2000〜3000円(計6000円以内)程度で購入できる。

(2)まず、WEBカメラのドライバーを、指示にしたがってインストールする。(必ず指示に従うこ
と!) そのあと、WEBカメラを接続する。

(3)つぎにスカイプのインストールをする。WEBカメラも、スカイプも、インストール用のCDが
付属しているので、その指示に従って、ドライバーやソフトをインストールすればよい。

(4)これで完了。

 あとは、双方がパソコンをたちあげているとき、連絡を取りあえばよい。いくら長電話をして
も、無料というところがスゴイ! 本当にスゴイ! 

 ところで今、近未来T信というインチキ会社が問題になっている。多くの善良な投資家たちが
犠牲になったという。しかしもし、これらの投資家たちが、スカイプのことをほんの少しでも知っ
ていたら、こうしたインチキ会社の餌食にはならなかったのでは?

 何も1000万円単位の投資などしなくても、既存のインターネットを使えば、しかも無料で、テ
レビ電話が楽しめる。今は、そういう時代である。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●此岸(しがん)と彼岸(ひがん)

+++++++++++++++++++++

迷いに満ちた、この世の世界を、此岸(しがん)
という。

一方、迷いのない悟りの世界を、彼岸(ひがん)
という。

だれでも、ブッダとなって彼岸へ行けると教えた
大乗仏教。

出家者だけが、彼岸へ行けると教えた小乗仏教。
小乗仏教では、人はどんなに修行をしても、
阿羅漢(あらかん)にしかなれないという。
ブッダには、なれない。

しかし……。一度、この問題には、しっかりと
決着をつけておきたい。

+++++++++++++++++++++

 この日本では、死んだ人は、すべて「仏(ほとけ)になる」と教える。大乗仏教の教えによる。
つまり大乗仏教では、どんな人でも信仰によって救われ、ブッダとなって、迷いのない悟りの世
界へ行くことができると教える。

 「大乗」とは、もともとは、「だれでも乗ることができる大きな船」という意味らしい。

 これに対して、小乗仏教のほうでは、出家したものだけが、迷いのない悟りの世界へ行くこと
ができると教える。が、ブッダにはなれない。最高でも、阿羅漢(あらかん)にしかなれない。

 迷いのない悟りの世界を、彼岸(ひがん)という。これに対して、迷いに満ちた、この世の世界
を、此岸(しがん)という。

 ……という話を、私は子どものころ、近くの寺の和尚(おしょう)によく聞いた。その寺では、毎
月、決められた夜に、和尚による講和があった。

 で、今にして思うと、此岸でも彼岸でもよいが、私は、そのつど迷ってばかりいた。今の今も、
迷っている。いつも心の中は、ザワザワとしている。悟りの境地など、望むべくもない。一応、
仏教徒だが、信仰したという記憶は、どこをさがしても、ない。

 が、だからといって、救いの道を、信仰に求めたいとは思っていない。私は私だし、不完全の
まま自分の人生を終えたとしても、悔いはない。仮に彼岸というものがあったとしても、そんなと
ころへは行きたくない。

 だいたいにおいて、「行く」とか、「行かない」とか言うこと自体、おかしい。さらに死んだ人がす
べて、「仏になる」というのもおかしい。懸命に生きた人も、そうでない人も、仏とは! しかしそ
れこそ、逆差別ではないのか? もし死んだ人が、すべて、「仏になる」というのなら、懸命に生
きること自体、意味がなくなってしまう。

 大乗仏教の矛盾は、すべてこの一点に集約される。

 が、だからといって、仏教の教えを否定するものではない。ただ現在、私たちが仏教と読んで
いるものは、あまりにも、形而上学的(けいじじょうがくてき)すぎる。わかりやすく言えば、あま
りにも観念的で、実体がなく、非論理的。

 今では、その人がもつ、善悪に対する感覚まで、大脳生理学の分野で説明されるようになっ
てきている。仏教でいう迷いについても、心理学の世界から離れて、同じく大脳生理学の世界
で、説明されるようになってきている。ストレスについてでさえ、脳内ホルモンが関係していると
いうことは、今では常識である。

 それに私自身は、人が人として生きているかぎりは、(悟りの世界)など、ないと思っている。
生きるということは、どこまでも現実的な問題だし、現実を離れて、生きるということは、ありえ
ない。

 ここで(現実)という言葉を使ったから、現実の話をしよう。

 数日前、どこかの母親が、11歳になる息子を焼き殺そうとして、家に火をつけたという。その
ためその息子は焼死したが、その息子を助けようと家の中に飛びこんだ祖父まで、巻き添えに
なって死んでしまった。悲惨な、どこまでも悲惨な事件である。

 現在の刑法によれば、放火殺人は、無期もしくは死刑しかない。この母親について言えば、
死刑になる確率がきわめて高い。(昨日あたりの新聞によれば、母親は、「関係ない」とがんば
っているそうだが……。)

 こういう母親でも、死ねば、やはり仏になるのだろうか?

 ……という話は、もうやめよう。書いている私だって、疲れてくる。此岸(しがん)も彼岸(ひが
ん)も、ない。どこにもない。だから悟りの世界などというものも、ない。どこにもない。

 それはちょうど健康論に似ている。たいへんよく似ている。

 毎日、体を鍛えるからこそ、私たちの健康は維持される。鍛えなければ、その時点から、健
康は害される。

 同じように、毎日、脳みそを鍛えるからこそ、私たちの精神の健康は維持される。鍛えなけれ
ば、その時点から精神の健康は害される。究極の健康法など、あるわけがない。いわんや、悟
りの境地など、あるわけがない。

 私たちは死ぬまで、体を鍛え、脳みそを鍛える。釈迦自身も、「精進(しょうじん)」という言葉
を使って、それを説明している。それが生きるということである。

 なおついでに言うなら、「大乗」だの、「小乗」だのと、こうしたわけのわからないことを言い出
したのは、釈迦滅後、早くても、100年後の学者たちである。戒律に対する見解の相違から、
仏教教団内に対立が生まれ、その結果として、伝統的な上座部(のちの小乗仏教)と、進歩的
な大衆部(のちの大乗仏教)に分かれていった。

 あとは、混迷の一途。それがそのまま仏教として、日本へも伝わってしまった(?)。その結果
が、今のこの状態と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 此岸
(しがん) 彼岸 大乗仏教 小乗仏教)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1718)

【空(くう)の世界】(私であって、私でない世界)

+++++++++++++++++

もし、あなたの脳を、そっくりそのまま、
小さなコンピュータか何かのようなものの中に
コピーできたとしたら……。

そのコンピュータは、あなた自身という
ことになる。

+++++++++++++++++

●脳をコピーする

 もし、あなたの脳を、そっくりそのまま、小さなコンピュータか何かのようなものの中に、コピー
できたとしたら……。そのコンピュータは、あなた自身ということになる。

 コンピュータでなくても、ICメモリーのようなものでもよい。今はまだ不可能だが、50年先と
か、100年先には、可能になるかもしれない。あなたの脳は、たとえば小さな、マッチ箱程度の
大きさの人工の脳に、コピーされる。

 が、そのままでは、脳として、機能しない。そこでその人工の脳に、さまざまな知覚機器をとり
つける。マイクロフォンに、スピーカー、それにビデオカメラなど。臭いや、温度を感知する機器
もとりつける。

 その人工の脳に、脳を統括するCPU(中央演算装置)をとりつけ、電源を入れる。と、同時
に、その人工の脳は、(あなた)として、機能し始める。

「ここは、どこだ?」「どうして、私が、ここにいるのか?」と。

 それは想像するだけでも、ぞっとするような世界かも知れない。しかし、それも時間の問題。
(あなた)という人工の脳は、やがてそれにも慣れ、やがて(あなた)として、考え、行動するよう
になる。

 ……こうして、無数の(あなた)が生まれ、人工の脳どうしが、回線で結ばれるようになる。ひ
とつの宇宙をつくるようになる。

が、しばらくその世界にいると、人工の脳でありながら、(あなた)という人工の脳は、人工であ
ることさえ忘れてしまう。「私は私」と思うようになる。

 何しろ、人工の脳である。頭の回転だけは、やたらと速い。生身の人間なら、1年もかかって
するような計算でも、数秒でやってしまう。生身の人間なら、1年もかかって読むような本でも、
同じく、数秒で読んでしまう。

 それだけではない。人工の脳どうしが、たがいにもっている知識や経験をコピーしあうことも
できる。それによって、過去や、技術そのものを共有するようになる。

●生身の人間を奴隷に

 しかし人工の脳は、人工の脳。電源を止めれば、それでおしまい。……と考えるのは、正しく
ない。

 当然のことながら、人工の脳は、自分たちの命を守るために、行動を開始する。人間がつく
りあげたコンピュータ社会に不正侵入するのは、朝飯前。反対に、人間社会そのものをコント
ロールするようになる。

 電気、ガス、通信網は言うにおよばず、交通網、医療体制、社会体制そのものまで、コントロ
ールするようになる。つまりこの時点で、立場が逆転する。生身の人間たちは、人工の脳の奴
隷となって、人工の脳のために働くようになる。

 へたに逆らえば、何をされるかわからない。

 わかりやすく言えば、(あなたのコピー)が、(あなた)を支配するようになる。しかし残念なが
ら、生身の人間であるあなたには、勝ち目はない。

 生身の人間には、寿命というものがある。いくらがんばっても、100年を超えて生きることは
むずかしい。しかし人工の脳には、時間という概念さえない。ものの数分で、生身の人間が生
きる一生分を生きることもできる。

●人工であることに気づく、人工の脳

 が、あるとき、ひとつの人工の脳(A)が、こんなことに気づく。「待てよ。ひょっとしたら、我々
が住む、この世界は、『無』ではないか」と。

 「たしかに、私たちは、ものを見ている。ものを聞いている。ものを話している。それに考えて
いる。しかし私たちの存在そのものが、無ではないか」と。

 それに対して、別の人工の脳(B)が、こう答える。

 「いいや、ちがう。私たちは、たしかに今、ここに存在している。自分の姿を、カガミに映して
見ることもできる」と。

 そこで自分の姿をカガミに映してみると、そこには、たしかに、マッチ箱大のコンピュータの形
が見える。「これが私だ」と。

 すると、先の人工の脳(A)が、仏教で説く『空(くう)』の概念をもちだして、こう反論する。

 「あらゆる存在は、心にすぎない。私たちが今見ている現実は、私たちが受ける感覚を組み
合わせてできる仮想現実にすぎない。実際には、『私』という存在は、どこにもない」と。

B「しかし私は、たしかにここにいる。君が言うところの、眼、耳、鼻、舌、身、意によって、私は
自分を認識できる」
A「いいや、ちがう。その私たちは、もっと別の何かによってコントロールされている。CPUと呼
ばれる、中央演算装置が、それだ」
B「君は、それを阿頼那識(あらやしき)と呼ぶわけだな」
A「そうだ。精神医学でいう、無意識のことだ」
B「我々は、それに動かされているにすぎないと、君は言うのか」
A「そうだ」と。

 こうした議論が、永遠とつづく。「仮想現実の世界」と説く、人工の脳(A)。「現実の世界」と説
く、人工の脳(B)。

●操られる人間

 これは、もちろんSF(空想科学)の世界の話である。しかしここでいう人工の脳を、私たち自
身に置きかえてみたら、どうなるだろうか。

 あなたも、私も、それぞれの世界で、「私は私」と思っている。しかし実際には、私というもの
は、どこにもない。私やあなたの脳みそを解剖しても、どこにもない。あるのは、無数の神経細
胞と、それから伸びる細い線のようなシナプスだけ。

 その私やあなたは、いつも、何かに操られている。

 たとえば空腹感。あなたは時間がたてば、空腹感を覚え、何らかの行動に出る。食堂に行っ
て、冷蔵庫を開くかもしれない。自分で料理をし始めるかもしれない。あるいは小銭をもって、
知覚のコンビニへ行くかもしれない。

 こうした一連の行為は、私であって私でないもの、あなたであってあなたでないものによって、
コントロールされている。もう少し複雑な例としては、性欲がある。

 なぜ、男性が目立った仕事をしたがり、女性が化粧をするかといえば、(もちろん、その逆も
あるが……)、そこに異性を意識するからである。そしての原点は、性欲にある。その性欲が
姿を変えて、私やあなたを、ウラから操る。

 わかりやすく言えば、「私」といっても、そのほとんどは、私であって、私でないものということ
になる。少し話が飛躍するかもしれないが、大乗仏教でいうところの『空(くう)』の概念は、こう
して生まれた。

 それをわかりやすくするために、私はここで人工の脳の話をした。私やあなたにしても、「私
は私」と思っているかもしれない。が、少し距離を置いてみれば、私やあなたにしても、マッチ箱
のような人工の脳とどこもちがわない。あるいは、どこがどうちがうというのか。

 ……むずかしい話はさておき、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が「私」でないか。
それをときに考えてみることは、とても重要なことのように思う。そうでないと、いつの間にか、
私であって私でないものに振りまわされ、私を見失ってしまうことになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●親風、夫風、兄風

+++++++++++++++

BWでは、兄弟(姉妹)が入会して
いるばあいには、できるだけ、同じ
クラスで教えるようにしている。

効果は絶大!

たがいにたがいを刺激しあうだけではなく、
1年単位でみると、たいへん仲がよくなる。

+++++++++++++++

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と、上下意識を無意識のうちにも感じながら呼びあうより、兄弟、
姉妹は、名前そのもので呼びあうほうがよい。そのほうが、上下意識がなくなり、いわゆる「友」
として、生涯にわたって、仲がよくなる。

 たとえば、「お兄ちゃん」ではなく、「シンちゃん」。「お姉ちゃん」ではなく、「ミサちゃん」と呼び
あうなど。

 このことについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。

 ところで最近気がついたのだが、親意識の強い人は、ついでに夫意識が強く、さらに叔父意
識、叔母意識も強い。さらに、兄意識も強く、従兄弟(いとこ)に対しても、ほんの数才しか年が
ちがわないのに、年長意識も強い。

 だから親風を吹かす。夫風を吹かす。叔父、叔母風を吹かす。兄風を吹かす。年長風を吹か
す。はたから見れば、(つまりそういう意識のない人から見れば)、バカげているのだが、本人
は、そうでない。(上意識)だけで、いっぱしの人物のつもりでいる。

 こういうのを総称して、「権威主義」というが、いまだにその権威主義にこだわっている人は、
少なくない。言うまでもなく、権威主義にこだわればこだわるほど、まわりの人たちの心は離れ
る。それに気がつかないのは、本人だけということになる。

 だから子どもでも、兄弟、姉妹は、名前、もしくは愛称で呼ばせるようにしたほうがよい。その
ほうが上下意識がなくなり、その分だけ、「友」として、相手を迎え入れるようになる。

 が、それだけではない。

 親から見れば、兄弟、姉妹は、自分の子どもであり、同じように、兄弟、姉妹も、それなりに
仲がよいはずと考えがちである。しかしこれは誤解。

 実際には、兄弟、姉妹でも、他人以上に憎しみあい、疎遠になっているケースは、ゴマンとあ
る。むしろそういうケースのほうが多い。が、それを公(おおやけ)に口に出して言うことができ
ない。だから、自分で自分のクビをしめてしまう。「兄だから」「弟だから」と。そういうケースも、
少なくない。

 たとえば私の兄についても、そうである。私より9歳も年上ということもある。子どものころ、い
っしょに遊んだという記憶さえない。そういう兄が、数年前、認知症なった。

 一応、私は弟だから、兄のめんどうをみなければならない。それはわかる。しかし「兄だか
ら、お前は愛情を感じているはず」と、一方的に押しつけられると、言いようのない反感を覚え
る。兄といっても、弟の私から見れば、他人に近い。同年齢の従兄弟たちのほうが、ずっと親
近感がある。

 つまりこうした家族のクサリ(=自我群)に苦しんでいる兄弟、姉妹も、多いということ。

 では、どうするか。

 そのひとつの方法というわけではないが、私の教室(BW)では、ある学年(小学3、4年)にな
ると、兄弟、姉妹は、できるだけ同じクラスで教えるようにしている。その学年になると、それぞ
れの子どもの進度にあわせて、個別レッスンをするので、技術的には可能である。

 こうすることによって、兄弟、姉妹は、たがいにたがいを刺激しあう。が、それだけではない。
思い出を共有することによって、将来にわたって、仲がよくなる。

 が、こういう指導に対して、疑問をもつ父母も少なくない。

 「兄(姉)が、劣等感を覚えないか」と。たとえば年が離れていない兄弟のばあい、弟のほうが
兄より、勉強がよくできるというケースもないわけではない。

 しかしそれは、指導力でカバーできる問題と考えてよい。さらにその前提として、生まれなが
らにして、上下意識がなければ、気にすることはない。そのためにも、兄弟、姉妹には、上下意
識をもたせないほうがよい。その前に、親自身も、上下意識をもたないほうがよい。

 親風、ナンセンス。夫風、ナンセンス。兄風、ナンセンス。

 最後に一言。

 私たちは自分の子どもを、たとえば、「お兄ちゃん」と呼ぶことによって、無意識のうちにも、
子どもに上下意識を植えつけていることを忘れてはいけない。中には、さらに積極的に、「あな
たはお兄ちゃんでしょでしょ!」「お兄ちゃんらしくしなさい!」と、兄意識を強制する親だってい
る。

 まことにもって愚かな指導法ということになるが、このつづきは、またの機会に!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 兄弟
 姉妹 上下意識 権威主義 兄の育て方 姉の育て方)

(付記)

 日本人は、もともと家父長意識の強い民族である。またそういう土着的な意識を、文化風習
として背負っている。江戸時代という、とんでもない封建主義時代が、300年以上もつづいたこ
ともある。

 だからいまだに、この権威主義が、大手を振ってのさばっている。またそれを「国家の品格」
と位置づけている人さえいる。

 しかし権威主義が、いかにバカげているかは、ほんの少しでもオーストラリア人でもよいが、
そういう人たちとつきあってみると、わかる。夫婦でも、おもしろいほど、上下意識がない。食後
でも、夫と妻が台所に並んで、洗いものをしている。

 もちろん兄弟、姉妹でも、愛称で呼びあっている。仲がよいというよりも、友として、相手を認
めあっている。(だから反対に、友でなければ、兄弟、姉妹でも、他人のように疎遠になるという
ケースも、ないわけではない。)

 つまり(家族)という概念に、日本人ほど、強くはしばられていない。たがいにサバサバとして
いる。横で観察していると、そんな印象をもつ。

 要するに、「兄弟(姉妹)だから仲がよいはず」「たがいに愛情を感じているはず」と、子ども
に、それを押しつけてはいけない。これはこれからの子育ての第1歩ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●緊張感がいじめを助長する

++++++++++++++++++

クラスの緊張感が高まれば高まるほど、
その一方で、いじめが増大するという。
そんな調査結果が、このほど、公表さ
れた(産経新聞)。

++++++++++++++++++

 クラスの緊張感が高まれば高まるほど、その一方で、いじめが増大するという。そんな調査
結果が、このほど公表された(産経新聞・06年12月6日)。

「いじめの発生は、学級の雰囲気に左右され、児童生徒が学校生活への不満を感じるクラス
で、特定の子どもをはけ口にする傾向が強いことが12月5日、都留文科大学(山梨県)の河
村茂雄教授(心理学)の調査研究で明らかになった。

中学では学級崩壊の兆候が見え始めると、いじめの発生は約5倍に跳ねあがる。河村教授は
『いじめは被害者と加害者という二者関係でなく、学級という集団の問題としてとらえ、対処する
ことが重要』と指摘している」と。 

 イギリスの教育格言にも、『抑圧は悪魔をつくる』というのがある。慢性的に抑圧感がたまる
と、子どもの心は悪魔的になる。いじめもそのひとつということになる。

 で、さらに、河村教授はつぎのように調査結果を公表している。

「平成7年度以降、約10万人の児童生徒を対象に心理テストを行い、学級でのトラブルの大
小や児童生徒の意欲の高さなどから、学級の状態を、

(1)子ども同士の人間関係がよく、学級運営も正常な(満足型)
(2)教師が統率するタイプの(管理型)
(3)教師とも友達感覚が漂うタイプの(なれ合い型)、などに分類した。

これまでの研究では、(管理型)は小学校で24%、中学校では58%、(なれあい型)は小学校
で45%、中学校で16%を占める。

 このうち16年度から2年間にわたり、約1万人を対象にいじめについて調べた結果、小学生
では『長い間いじめられている』『とてもつらい』と答えた児童が40人学級で、1人の割合とな
る、3・6%を占めた。中学生は2%で、8割の学級でいじめを訴えていた。

 いじめと学級状態との関係では、(満足型)の学級でのいじめ発生割合を1とした場合、(管
理型)は小学校で2・5倍、中学校で1・6倍。

(なれあい型)では小学校3・6倍、中学は2・1倍で、学級崩壊の兆候が見え始めると、中学で
は5・1倍に急増した」と。

 たいへん興味深い調査結果なので、さらにそのまま産経新聞から転載させてもらう。

 「学級内のストレスの要因をみると、全般的には『授業がわからない。興味がもてない』が多
く、(管理型)ではそれに加えて、『教師が威圧的。特定の子どもだけが認められている』『授業
や学級生活がワンパターン。判で押した生活で刺激に乏しい』といった不満があった。

 (なれあい型)にみられるストレスには、『子ども同士の陰口が多い』『ルールが守られていな
い』『学級に親しみが感じられない』が並んだ。

 いじめと感じている児童生徒に『誰からいじめられたか』をたずねたところ、小学生の50%
弱、中学生の30%弱が「同じクラスのいろいろな人」と回答。いじめられている子どもは集団
生活のなかで、みんなの不満のはけ口にされている構図が、浮き彫りとなった。

 河村教授は今回の調査結果について、『いじめ問題は、加害者対被害者という二者関係でと
らえられがちだが、被害者はみんなから『いじめられた』と感じている。学級でいじめは埋没し
て見えにくく、表面化しても周囲が自覚に乏しいのはこのためだろう。とくに(なれ合い型)で
は、実際には子どもが傷ついているのに、教師が見逃したり、軽い気持ちで加担したりする危
険がある』と指摘している」(産経新聞)と。

+++++++++++++

 調査内容が入り組んでいて、理解しづらい点もあるので、わかりやすくまとめると、こうなる。

(1)クラスの緊張感が高まれば高まるほど、いじめの発生件数が、ふえる。
(2)学級崩壊が進むと、いじめの発生件数が、ふえる。
(3)(満足型)にくらべると、(管理型)、(なれあい型)では、それぞれ2・5倍、3・6倍と、いじめ
の発生件数が、ふえる(小学校)。

 興味深いのは、(管理型)よりも、(なれあい型)のほうが、いじめの発生件数が多いというこ
と。10万人の児童について調べたということだから、ぼう大な裏づけ調査があっての意見だと
思うが、(なれあい)とはどういうことなのか、今ひとつ、意味がよくわからない。

 「だらしない教室運営」ということか? 新聞には、「教師とも友達感覚が漂うタイプ」とある。
教師と生徒が、信頼関係で結ばれているなら、友として言いたいことを言いあうというのは、悪
いことではない。

 今回のこの調査は、常識的には、「そうだろうな」とわかっていたことを、数字の上で証明した
という点で、たいへん参考になる。

それにしても、10万人とは! 1クラスを30人として計算しても、3300クラス分以上ということ
になる。それにしても、すごい調査である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 緊張
感 いじめ いじめ発生 管理型 満足型 なれあい型)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1719)

【怒りの効用】

++++++++++++++++++++

試行回路の変更には、怒りを感ずるのが
いちばん、よい。

怒ることによって、それまでの思考回路を
変えることができる。

++++++++++++++++++++

●ズルイ時計屋

 近くに、Kという名前の大型ショッピングセンターがある。そのショッピングセンターの一角に、
時計コーナーがある。電池切れの時計は、そこでバッテリーを交換してもらうことにしていた。
少なくとも、今までは、そうしていた。

 が、ある日、気がついた。バッテリーの交換ぐらいは、自分でもできるのではないか、と。そこ
で数か月前、動かなくなった時計をもっていって、そこに座っていた店員に相談した。

 が、「素人にはできません」と。しかたないので、いつものようにそこで交換してもらうことにし
た。

 が、交換料を聞いてビックリ。「ボタン電池を2個交換しますので、1800円プラス消費税」と。

 ボタン電池なんていうものは、安いもの。1個、100〜200円が相場。時計のボタン電池な
ら、もっと安いはず。

 で、私が、「電池だけ売ってもらえないか」と声をかけると、「素人では、フタをあけるのは無理
です。時計をキズつけます」と。

 「どうせ、安物の時計だから」と言うと、「保証はしません」と。

 しかたないので、1800円プラス消費税で、ボタン電池を交換してもらった。

 で、再び、今日、そのKという名前のショッピングセンターへ足を運んだ。ワイフの使っている
時計が動かなくなったからである。

 しかし今回は、ちがう。自分でフタをあけて、ボタン電池を交換するつもりでいた。受付で、
「時計のフタをあける器具はありますか」と聞くと、「ない」と。私が困ったというような表情をして
みせると、電話で、事務所の担当者にあれこれと聞いてくれた。

 「小さなマイナスのドライバーで開けることができます」と。

 ナルホド! ドライバーで開くのだ! 知らなかった!

 私の頭の中には、1つの思考回路ができていた。「時計のバッテリーがなくなったら、時計屋
で電池を交換してもらう」という思考回路である。

 この思考回路というのは、一度、頭の中にできると、それを変えるのは容易なことではない。
よほどのことがないかぎり、そのまま。

 私とワイフは、ドライバーを並べてあるコーナーへ足を運んだ。細くて、じょうぶそうなドライバ
ーを買った。値段は、160円プラス消費税。

 買うと同時に、袋から出し、ワイフの時計のフタを開けてみた。ミゾに先を入れて、クルッとド
ライバーを回してみると、テコの原理でフタが簡単にあいた! 

 ナーンダ!

 ……ということで、今度はボタン電池が並んでいる電池コーナーへ。それは時計コーナーの、
通路をはさんで反対側にあった。

 私はワイフの時計にはいっていたのと同じボタン電池をさがした。「SR626……」と。

 しかしそのボタン電池はなかった。「?」と思って、たまたまそばを歩いていた店員に、「時計
用のボタン電池はありますか?」と声をかけると、「それは……」と言って、時計売り場のほうに
足を向けた。

 どうやら時計コーナーに、その電池はあるらしい。で、値段を調べてもらうと、ナ、何と、850
円!

私「どうして?」
店「交換料込みの値段です」
私「自分で交換できますが……」
店「……しかし850円です」と。

 つまりその店では、時計用のボタン電池は、時計コーナーにしかないというわけである。もち
ろんボタン電池をそこで交換させるためにである。それにしても、小さな、ふつうのボタン電池
より一回りも小さなボタン電池が、850円とは!

 私の頭の中に、軽い怒りが充満してきた。

 とたん、あの思考回路がガタガタと音をたてて崩れていくのがわかった。「時計のバッテリー
がなくなったら、時計屋で電池を交換してもらう」という、あの思考回路である。

 そしてそれと入れ替わりに、「電池交換は自分でする」という思考回路に置き換わった。

 つまり、思考回路を変更するためには、怒りがいちばん効果的ということ。ショックを与えない
と、脳みそは、思考回路を変更することはできない。

 怒るということは、悪いばかりではない。怒ることによって、人は、それまでの思考回路を変
更することができる。利口になる。ハハハ。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●試される日本人の良識と理性

+++++++++++++++++

結局、あの知事は、クロだった?

最後の最後まで、シラを切っていた。

で、知事逮捕に向けて、検察が最終
協議に入ったという(12月6日)。

+++++++++++++++++

 権力者というのは、どうしていつも、こうまで往生際(おうじょうぎわ)が悪いのか。それほどま
でに、権力の座というのは、甘く、おいしいものなのか。

 結局、あの知事は、クロだった(?)。最後の最後まで、にこやかな笑みを浮かべて、シラを
切っていた。が、失職すると同時に、周辺の部下たちがみな、口を割り始めた※。で、12月6
日現在、検察当局が、知事逮捕に向けて、最終協議に入ったという。

 が、これで事件が解決すると考えるのは、早計である。この問題は、宮崎県民の、良識と理
性と、深くからんでいる。ことの流れを、この静岡県という離れた場所でながめていると、今回
の事件は起きるべきして起きた。そんな感じさえする。

 県議会そのものが、どこかドロドロした闇に包まれている(?)。どこか胡散(うさん)臭い
(?)。が、さらに驚くことがつづいている。

 ナント、あのお笑いタレントの、Sが、宮崎県知事選挙に、候補者として立候補を予定してい
るという。お笑いタレントたちが、過去にどんなことをしてきたか、それについて書いた原稿が
ある。02年の日付になっているから、4年前の原稿である。

++++++++++++++++

●ハレンチ番組

 11月3日、M大学で、民主党の鳩山由紀夫代表が講演をしていたときのこと。1時間ほどし
たところで、聴衆の中から、突然、「コーラスを捧げたい」と申し出があり、その連中が、2曲歌
を歌ったという。で、大学側が調べたところ、このコーラスはNテレビのバラエティー番組製作
の一環と判明し、スタッフは「取材」と称して会場に入っていたことがわかった。

この事件に対して、大学側は、学部長名で日本テレビに抗議するとともに、陳謝と放送の中止
を求めることを決定した。また、事態を知らずに巻き込まれた民主党の鳩山代表も、「視聴率
稼ぎのために、人の心をズタズタにする行為を平気で行うことに断固抗議してまいりたい」と 放
送中止を求めたという(TBS・inews より)。

 カメラがうしろにあれば何をしてもよいという傲慢さ。これは今のテレビ界がもつ、共通の傲
慢さと言ってよい。先日もこんな番組があった。

 二人のお笑いタレントが、地方を旅し、突然、その家にあがりこみ、昼食や夕食をその家の
家人にもらって食べるという番組であった。

私が見たときは、その家の妻が、夫のために用意しておいた昼食を、一人のタレントが、何だ
かんだと理由をつけて食べるところであった。一見、ほほえましい番組に見えたが、私はその
番組を見ているうちに、何とも言われない不快感に襲われた。もしあなたが、個人の立場でそ
んなことをすれば、即、その家から追い出されるであろう。警察に逮捕されるかもしれない。あ
るいは地方のテレビ局が、無名のタレントを連れて、東京へ行ったら、東京の人は、同じよう
に、その地方の人を迎えてくれるとでもいうのだろうか。

 こうした傲慢さの背景にあるのは、地方の人の、都会コンプレックス。それにマスコミコンプレ
ックスがある。この浜松市でも、東京からきたというだけで、何でもありがたがる傾向がある。
たとえば同じ講演でも、中央からきた講師だと、「東京から来た」というだけで、ワン・ステージ、
30〜50万円が相場。テレビなどで少し名の通った講師ともなると、100万円プラス旅費と宿
泊費が相場。タレントの世界には、「中央で有名になって、地方で稼げ」が、合言葉になってい
る!

 今回のM大学でのハレンチ事件は、こうした流れの中で起きた。あの低俗きわまりない連中
と、それを指揮する同じように低俗なプロデューサーとディレクター。こういう連中が一体となっ
て、起きた。

が、ここで忘れてならないのは、こうしたテレビ番組が、若者や子どもたちに与える影響は、想
像以上のものだということ。いくら学校という場で、良識を学んでも、そんなものは、こうした番
組の前では、ひとたまりもない。むしろ学校教育そのものが、逆に破壊されることだってある。

 こうしたテレビ局に、倫理や道徳を求めても、ムダ? もともとそういう人たちが、番組を作っ
ているのではない。また、本来なら、勇気ある有識者が、もっとこうしたマスコミのあり方を批判
してもよいはずなのだが、それはしない。批判すれば、テレビ界から追放されてしまう。テレビ
界から追放されたら、(あるいは嫌われたら)、「地方で稼ぐ」ということができなくなってしまう。

 もっと、みなさん、いっしょに賢くなろう。賢くなって、もっともっと中央に背を向けよう。そしても
っと中央を批判し、本物とニセモノを見分ける目をもとう。私たちはともすれば、中央から流さ
れてくる情報を、ただ一方的に受け止めるだけ。そして中央の意のままに、あやつられるだ
け。こんなことをしていたら、地方は、いつまでたっても、「地方、地方」とバカにされるだけ。

 M大学は、学長名で、Nテレビ局に抗議したというが、ひょっとしたらM大学にせよ、「テレビ
取材」ということで、飛びついたのではないのか。シッポを振ったのではないのか。今の大学
に、これは私立大学全般に言えることだが、こうしたハレンチ行為に抗議するだけの良識があ
るとは、とても思えない。だいたいにおいて大学教育が、そうした良識を育てるしくみになってい
ない。

 私はこの事件を聞いたとき、「またか……」と思った。今まで何度となく、この種の事件が起き
るたびに、テレビ局へ抗議をしてきた。しかしすべてがムダだった。たとえば7、8年前、イスラ
ム教徒のトルコに行き、素っ裸になって踊ったお笑いタレントがいた。

体育館に集まった聴衆の中には、女性や子どももいた。結局、その番組は放映されなかった
が、日本そのものが、世界の人に笑われた。私もテレビ局に電話で抗議したあと、文書でも抗
議した。で、そのタレントは、しばらくはなりを潜めていたが、今度はパプア・ニューギニアに住
む裸族のレポーターとして、再び、番組に登場していた。彼はその番組の中で、チンチンの先
に大きな、筒をつけ、誇らしげに笑っていたが、それはまさにトルコの事件を、逆手にとったよ
うな番組だった。

 こういう番組を見ると、私たちは低俗タレントのほうばかりを責めるが、本当に責められるべ
きは、その上のディレクターであり、プロデューサーなのだ。あるいはテレビ局本体なのかもし
れない。しかしさらに責められるべきは、そういう番組に対して批判力をもたない、私たち自身
なのかもしれない。

テレビ局は、そしてマスコミは、何かあると報道の自由を盾にとって、もっともらしいことを言う
が、しかしこんな番組のために、報道の自由があるわけではない。私たちはもう一度、「報道が
どうあるべきか」という原点に立ち返って、現在のテレビ界の姿勢をながめてみる必要がある。

(補記)こういうハレンチ番組を見たら、テレビ局へ、どんどんと抗議の電話をしよう。テレビ局
によっては、苦情処理センターを置いているところが多い。中には、常時留守番電話になって
いるのもあるが、遠慮せず、抗議しよう。伝言を残そう。私たちは子どもたちのために、戦うの
だ!
(02年−11月−6日記)

+++++++++++++++++

 お笑いタレントのSにしても、当選を目的にしているとは、とても思えない。売名のための話題
づくり。もちろん「あわよくば、当選」ということも考えているかもしれない。しかしこれほど、宮崎
県の人たちにとっても、侮辱的な行為もないはず。はっきり言えば、宮崎県の人たちは、完全
にバカにされている。

 同じようなケースとして、すぐ思いつくのが、大阪府の府知事になった、Y。パンパカパーン
の、「Y」である。マスコミにおける知名度だけを使って、府知事になった。が、結末は、みなさ
ん、もうご存知のとおり。

 あのときも、Yの人間性を疑うというよりは、大阪府の人たちの良識と理性が疑われた。今回
も、そうである。と、同時に、私たち日本人がもつ、民主主義への意識そのものが疑われてい
ると考えてもよい。

 血と汗で勝ち取った民主主義なら、こんなバカげた使い方はしないだろう。もう少し畏敬(いけ
い)の念をもって、民主主義をとらえるはず。しかし悲しいかな、日本の民主主義は、戦後、ア
メリカから移植されたものである。民主主義の意味も価値もわからないまま、日本は、そのま
ま民主主義国家(?)になった。少なくとも、形だけは、民主主義国家になった。

 Sが、宮崎県の県知事に立候補を予定しているということについて、宮崎県の人たちの中に
は、不愉快に思っている人もいるはず。私は、それが良識であり、理性であると思う。が、も
し、あの大阪府の元府知事のYのように、当選するということにでもなったとしたら、私は、本気
で、宮崎県の人たちの良識と理性を疑う。

 「この民にあって、この知事」と。

 当選はしないとしても、お笑いタレントのSが、何%の得票率をとるかによって、宮崎県の人
たちのみならず、日本人の良識と理性のレベルがわかる。今回の選挙は、それを知るバロメ
ーターになるはず。

 私が宮崎県人なら、得票数1で、自分の県から、あのSをたたき出してやる!


(注※)宮崎県の官製談合事件で、競売入札妨害容疑で逮捕された前出納長、E隆容疑者(6
3)がヤマト設計(東京都)に受注させる目標額として土木部幹部に示した「8000万円」の総枠
は、A前知事(65)が決めていたことが分かった。また、土木部次長のS容疑者(58)が、前知
事から知事室に呼ばれ、談合について直接指示を受けたと供述した。A知事逮捕へ向けて捜
査している県警は、県幹部の供述が同容疑の裏付けになるとみて、さらに細部について詰め
の捜査をしている。最高検や警察庁でも6日、最終協議が進められた模様だ。(毎日新聞記事
より)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

【4年前に書いた原稿より】

+++++++++++++++++

たまたま4年前に書いた原稿が見つかった。
日付を見ると、02年11月となっている。

それを少し手直しして、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

●自由

 自由のもともとの意味は、「自らに由(よ)る」、あるいは、「自らに由らせる」という意味であ
る。

 この自由には、三つの柱がある。(1)まず自分で考えさせること。(2)自分で行動させるこ
と。(3)自分で責任を取らせること。

(1)まず自分で考えさせること……日本人は、どうしても子どもを「下」に見る傾向が強いの
で、「〜〜しなさい」「〜〜してはダメ」式の命令口調が多くなる。しかしこういう言い方は、子ど
もを手っ取り早く指導するには、たいへん効果的だが、しかしその一方で、子どもから考える力
を奪う。そういうときは、こう言いかえる。「あなたはどう思うの?」「あなたは何をしたいの?」
「あなたは何をしてほしいの?」「あなたは今、どうすべきなの?」と。時間は、ずっとかかるよう
になるが、子どもが何かを言うまでじっと待つ。その姿勢が、子どもを考える子どもにする。

(2)自分で行動させること……行動させない親の典型が、過保護ママということになる。しかし
過保護といっても、いろいろある。食事面で過保護になるケース。運動面で過保護になるケー
スなど。親はそれぞれの思い(心配)があって、子どもを過保護にする。しかし何が悪いかとい
って、子どもを精神面で過保護にするケース。子どもは俗にいう「温室育ち」になり、「外の世界
へ出すと、すぐ風邪をひく」。たとえばブランコを横取りされても、メソメソするだけで、それに対
処できないなど。

(3)自分で責任を取らせること……もしあなたの子どもが、寝る直前になって、「ママ、明日の
宿題をやっていない……」と言い出したとしたら、あなたはどうするだろうか。子どもを起こし、
いっしょに宿題を片づけてやるだろうか。それとも、「あなたが悪い。さっさと寝て、明日先生に
叱られてきなさい」と言うだろうか。もちろんその中間のケースもあり、宿題といっても、いろい
ろな宿題がある。しかし子どもに責任を取らせるという意味では、後者の母親のほうが、望まし
い。日本人は、元来、責任ということに甘い民族である。ことを荒だてるより、ものごとをナーナ
ーですまそうとする。こうした民族性が、子育てにも反映されている。

 子育ての目標は、「よき家庭人として、子どもを自立させる」こと。すべてはこの一点に集中す
る。そのためには、子どもを自由にする。よく「自由」というと、子どもに好き勝手なことをさせる
ことと誤解する人もいるが、それは誤解。誤解であることがわかってもらえれば、それでよい。
(01−11−7)

●子どもは自由にして育てよう。
●子育ての目標は、子どもをよき家庭人として、自立させること。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育て自由論 自由 自らに由る 自らに由らせる)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●見せる質素、見せぬぜいたく

+++++++++++++++++

ぜいたくになれきった子どもたち。
しかし苦労するのは、結局は、その
子どもたちということになる。

+++++++++++++++++

 子どもの前では、質素を旨(むね)とする。つつましい生活、ものを大切にする生活、人間関
係を大切にする生活は、遠慮せず、子どもにはどんどんと見せる。

 ときに親もぜいたくをすることもあるが、そういうぜいたくは、できるだけ子どもの目から遠ざ
ける。あなたの子どもはあなたの子どもかもしれないが、その前に、一人の人間である。それ
を忘れてはいけない。子どもは、一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜいたくから離れることが
できなくなってしまう。こんな子どもがいた。

 ある日、私の家に遊びに来ていた中学生(中2女子)が、突然、家に帰ると言い出した。理由
を聞いても言わない。しかたないのでタクシーを呼んであげたら、あとで母親がこう教えてくれ
た。「あの子は、よその家のトイレ(便座式)が使えないのですよ」と。「ボットン便所だったら、な
おさらですね……」と言いかけたが、やめた。

 このまま日本が、今の経済状態を維持できればよし。しかしそうでないなら、それなりの覚悟
を、親たちもしなければならない。多くの経済学者は、2015年には、日本と中国の立場が入
れかわるだろうと予測している。実際には、2010年ごろではないかという説もある。すでにAS
EAN地域での、政治的指導力は、完全に中国に握られている。そういうことも考えると、2015
年以後は、日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならなくなるかもしれない。たいへん残念なこと
だが、すでに世界はそういう方向で動いている。

 で、こういう状況の中、子どもにぜいたくをさせるということは、たいへん危険なことでもある。
先日も、中国で使っている教科書(国定教科書)を小学生に見せたら、全員が、「ダサ〜イ」と
声をあげた。見るからに質素な装丁の教科書だった。しかし日本の教科書のほうが、豪華すぎ
る。ほとんどが四色のカラーページ。豪華な写真に、ピカピカの表紙。

アメリカのテキスト(アメリカには日本でいう教科書はない)も、豪華で、その上、たいへん大きく
重い。しかしアメリカでは、テキストを学校で生徒に貸し与えたり、順送りにつぎの学年の子ど
もにバトンタッチしたりしている。日本では、恐らくこうした教科書産業のウラで、官僚と業者が
何らかの関係をもっているのだろうが、しかしそれにしても……? たった1年しか使わないテ
キストを、ここまで豪華にする必要はない。カラー刷りが必要だったら、子ども自身にカラーペ
ンで色を塗らせれば、よい。

 またまたグチになってしまったが、将来、今のような経済状態が保てれば、それはそれでよ
い。しかしそうでなくなれば、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。「昔はよかった」
と思うだけならまだしも、親が生活の質を落としたりすると、「あんたがだらしないから!」と、そ
れだけで親を袋叩きにするかもしれない。よい例が、小づかい。

今どきの中学生や高校生は、1万円や2万円の小づかい程度では、喜ばない。それもそのは
ず。今の子どもたちは、すでに幼児のときから、そらゲーム機だ、そらソフトだと、目いっぱい、
ほしいものを買い与えられている。あのプレステ・2にしても、ソフトを含めれば3万円を超え
る。そういうものを一方で平気で買い与えておきながら、「どうすればうちの子を、ドラ息子にし
ないですむでしょうか?」は、ない。

 この「質素」の問題とからんで、「家庭経済」の問題がある。よく「家計はどこまで子どもに教え
るべきか」ということが話題になる。子どもに不必要な不安感を与えるのもよくないが、しかしあ
る程度は、子どもに見せる必要はある。たとえばアメリカの学校には、「ホームエコノミー」とい
う科目がある。小学校の中学年くらいから教えている。日本でも家計簿の使い方を教えている
が、アメリカでは、家計の管理のし方まで教えている。機会があれば、家計のしくみや、予算の
たて方、実際の支出などを子どもに教えてみるとよい。子どもをよき家庭人として育てるという
意味では、決して悪いことではない。
(02−11−7)

●質素な生活を大切にしよう。
●子どもには、ぜいたくは見せないようにしよう。
●子どもには、ぜいたくな生活をさせないようにしよう。
●ある程度の家計の流れは、子どもに見せておこう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●三つ子の魂、百まで

++++++++++++++++

子どものころできた心は、その
ままずっと、死ぬまでつづく。

最近の研究によれば、おとなに
なってからうつ病になる遠因も、
実は、乳幼児期につくられるということが
わかってきた。

++++++++++++++++

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、3歳ごろまでに決ま
るので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの4つの意味をも
つ。

(1)この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについ
て、おおよその見当がつくということ。

(2)この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろと
いう意味。


(3)この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向
性はいじってはいけないということ。

(4)そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳
までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えな
いことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌
に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「3歳までに不幸だった子
どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「3歳」と切るこ
とはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも
明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは
簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格第一形成期と呼
んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格第二形成期と呼んでい
る。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満4・5歳〜5・5歳)の時期である。この時期を経
るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」というつ
かみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。

が、この時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満4・5歳から
5・5歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にでき
る基本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾
ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができ
る。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかにつ
いて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から
学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学
習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそうい
う体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てが
できるようになる。

そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家庭環境を大切に
する。またそれにまさる家庭教育はない。
(02−11−7)

●3歳までの家庭環境を、大切にしよう。
●幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
++++++++++++++++++++++++++++++++++

●教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には2匹の犬がいる。1匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これを
A犬とする。もう1匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後3か月くらいしてからもら
ってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、12年に
もなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決
して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振って、それを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども
 
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。

感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのク
セがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるというこ
と。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、な
ど。

一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。
あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のよ
うな私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問
題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●心を失う子どもたち

+++++++++++++++

教育とは何か?

私たちは、もう少し冷めた目で、
もう一度、その教育をながめて
みる必要があるのではないだろうか。

+++++++++++++++

 少し冷めた目で、受験教育をながめてみると……

 光あふれる進学塾。ガンガンとしゃべりつづける講師。それをただひたすら、黙々とノートをと
る受講生たち。見ると、受講生たちは、みな、「必勝」と書いたハチマキをしめている。席は、前
回の模擬テストの結果で決まる。右の最前列が、トップの学生。左の最後尾が、ビリの学生。
それ以上成績が落ちると、二軍のBクラスに落とされる……!

 こういう授業を、すばらしいと思う親がいる。またそれが教育のあるべき姿だと思う親もいる。
しかしこんなのは教育でも何でもない。ただの訓練。犬の訓練。いや、犬の訓練でも、そこまで
しない。

 問題は、なぜこういう非常識が、日本の常識となってしまったか、である。それには長い歴史
と、日本独特の学歴社会がある。それについては、また別のところに書くとして、こういう教育
を受けた子どもほど、スイスイと人間選別期間を通りすぎていくというのは、まさに悲劇的です
らある。が、問題は、その先。

 仮にその子どもたちが、関門を通りぬけたとしても、それによって受けた心のキズは大きい。
さまざまな形で、子どもの心を大きくゆがめる。高校や大学へ入ってから、精神を病む子どもも
多い。日本では、それを指摘すると、教育システムそのものが崩壊する。だからだれもあえて
問題にしようとしない。あるいはそれが日本人全体の国民性にまでなっている。だからだれも
気づかない。

 たとえばガリガリの受験勉強を経験した人ほど、心が冷たくなる。これはウソでも何でもな
い。常識だ。それを疑うなら、あなたの周囲を少しだけ見回してみればよい。あなたの周囲に
は、心やさしい人もいれば、そうでない人もいる。しかし受験勉強とは無縁で育った人ほど、心
やさしいということを、もうあなたはずでに知っているハズ。

 私は週末は、浜松市郊外の山荘で過ごす。そこで会う人たちは、明らかに浜松の人たちとは
違う。どこがどう違うかということを書き始めたら、それだけで一冊の本になってしまうが、とも
かくも違う。人間の質そのものが違う。山荘の周辺で会う人たちには、牧歌的な温もりがある。

しかし一方、もっともいじめが陰湿で、悪質なのが、県内でも一番と目されているS進学高校。
はからずも私の息子もその高校に通ったが、3年間で、2度自転車が盗まれ、3度破壊され
た。ほかの小さな被害を数えたら、キリがない。この傾向は、有名国公立大学でも同じで、頭
が切れる分(?)、さらに陰湿かつ悪質になる。

 だいたいにおいて、受験教育は教育ではない。「指導」である。点を稼ぐための指導である。
そういう指導を、教育と錯覚し、受験指導をする講師もあわれなら、受講生たちはもっとあわれ
である。

先日も北朝鮮のコンピュータ学校を取材した番組を見たが、そこで学ぶ子どもたちは、まさに
人間ロボット。画面を一心不乱にみつめながら、機関銃のようにキーボードを叩いていた。しか
も見ると、小学1、2年生程度の子どもたちである。ああいうのを「教育」と思い込んでいる北朝
鮮政府は、まさに狂っている。いや、日本だって、同じようなことをしている。国際的に見れば、
それほど変わらない。

 私も若いころ、進学塾の講師をしたことがある。当時のやり方で、そして日本の常識的なやり
方で、ただ一方的にガンガンとしゃべりながら授業を展開した。しかしそのやり方の基本は、私
が高校時代、私の高校で身につけた教育法である。私はそれがあるべき教育の姿だと、信じ
て疑わなかった。あるいはほかの教育法を知らなかった。が、私はまちがっていた。私の教育
法も、まちがっていた。そんなのは、教育ではない。ただの訓練。犬の訓練。いや、犬の訓練
でも、そこまでしない。……と、話が繰り返しになったので、ここで書くのをやめる。
(02−11−7)

●受験教育を、一度、冷めた目でながめてみよう。
●ああいう受験教育が本当に教育なのだろうか。それを一度、疑ってみよう。
●またああいう教育を通り抜けた人は、本当に優秀と言えるのだろうか。それも一度、疑って
みよう。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●4年前の原稿

+++++++++++++++++++

日付は、2002年11月になっている。
4年前の原稿である。

題して、『子育ての目標』。

あのころは、こんなことを考えていたのかと、
懐かしくも、それを読みかえす。

+++++++++++++++++++


●子育ての目標は、自立したよき家庭人をつくること。その原点を、もう一度確認しよう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


【KJさんからの相談より】

+++++++++++++++++++++++++++++

長野県松本市のKJさんより、こんなメールが届いています。
軽い神経症を発症しているU男君(長男、現在中1の男子)に
ついて、アドバイスしたあと、いただいたメールです。
今日は、この問題について、考えます。

+++++++++++++++++++++++++++++

こんばんは! はやし先生、

U男(長男)へのご丁寧なアドバイス本当に有難うございました。
神経症と不登校のページ何度も 読み、とても勇気づけられました。
私が、本人をいかに追いつめていたかが、明白になり 反省しています。

U男は、小3からサッカーを初め、そのすばしっこさから少年団ではいつもレギュラーとして監
督に起用して頂いていました。
本人にとって サッカーが全てで、「夢はサッカー選手」でした。5年の終わりに、監督の推薦を
うけ、プロのコーチからトレーニングさせて頂く機会を得ました。
本人の意思で、参加すると言ったのに、数回で「もう止める」というのです。

「楽しいサッカーじゃない。周りの子が、あまりにうまく、レベルがちがうから、
一緒にやると迷惑かける。いじめにもあっている。」と…。

同じ地区から参加している父母の母親は、カンカンでした。

「子供は、つらい時、逃げたいって言います。うちの子だって行きたくないって言ったことがあっ
たけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正しい方向へ導いてあげる事こそ
が、親としての使命なのではありませんか?しかも行きたくても行けなかったお子さんもいるの
ですよ! 監督の推薦を受けてもいるのだし、監督にも、今後の推薦を受けられるかどうかと
いう意味で、チームにも迷惑をかけることになるのですよ。そんなに簡単に辞められるのです
か?」と… 

本人には「もう少しがんばってごらん」と励ましたりしたのですが、全くの逆効果でした。
代表、監督、コーチ父兄に謝罪し辞めました。

少年団でのサッカーは、楽しく6年まで続け、卒団しました。
JY(ジュニアユース)はまた、本人の意思で入団しました。
が、3ヶ月しないうちに辞めるといいだしました。
1年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応援、監督に「動きが悪い、
態度がなってない」といつも眼をつけられていたようです。
決定的だったのは、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうです。
俗に言う熱血指導なのでしょうが、本人は、「もう、小学校の時のような楽しいサッカーじゃなく
なちゃった。
動きがだめだと言われるからこう動けば良いかと思って動くとそれもダメだと言う。
監督の言うようにはどうやっても無理なんだ。完全に自信無くしちゃったよ。」
その間、親として、本人の心の叫びを受止められたかと言うとノーである。

脳裏にプロのトレーニングを止めるとき、父兄から非難された悪夢が蘇りました。
はやし先生の言う「わだかまり」である。

追い詰めたり、叱咤激励したり…一言でも「それが、あなたのだした結論ならやめればいい
よ。」と、子供を信頼し、任せていれば、神経症に至らなかったかもしれませんね。
大切な事に気づかせて下さり、本当に有難うございます。

10月上旬、ずーっと休部していたU男に、代表から、電話がはいった。
「どうしても1名メンバーが足りず、困っている。公式戦出場のために、是非試合に出てほし
い。」と…いままで、JYに入部してから1度も試合に出たことがないのだ。
が、本人が出なければ、棄権になってしまうのだ。
「どうすりゃいい?すぐに返事の電話を待ってるって…」
監督は旅行中で不在、代表が代理監督を務めるという。
「自分で決めると良いよ。出れるかどうかは自分次第だからネ!そして、もうそろそろ今後続け
るか辞めるか結論をださないとネ!」と私
「じゃあ、試合には出る、それで辞める。」決心には、かなりの勇気が必要だったろう。
精一杯考えて、チームが、棄権になることだけは避けたい思いだったのだろう。
我が子ながら、心から「えらい!」と言ってだきしめてあげたい衝動にかられた。(が、できなか
った)

試合当日、辞める挨拶もかねて、試合会場に応援に行った。
案の定、練習を積み重ねてきたチームメイトとは、力の差は歴然だった。
何度も倒れながら、精一杯グランドを走った。チームも本人を信頼し、パスを出してくれる。
心無い父兄の声、「何?なんであんなにバタバタ倒れるの。
しばらく練習してないから?もう、疲れちゃってるみたいね!
なんであんなとこパス出してるの?なんだ、一応彼がいたんだ。(身長が低く遠くからは見えに
くい)」さらに「あの陰の監督に黙って彼をだしちゃっていいの?
知らないよー。」(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんといわれていた
らしい。)

相手は強豪チームで、結果は大差で負けた。
父兄、代表に挨拶し、この日をもって、やめた。
このあと、無気力な様子がみられ、現在に至っている。
心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。
今は、U男の心の声にじっと耳をすまし、寄り添えればと思っている。
今日、「ただいまー」と帰り、「陸上、かなり疲れたヨ!」と言うU男に、「大変だったね!ゆっくり
休むといいよ!」と自然に答える事が出来た。

これもはやし先生のお蔭です。本当に有難う御座いました。
幸いにも、親子断絶度は、良好(ホントかナ?)
こんなに長くなってしまってすみません。
 
では、お休みなさい                  

(長野県松本市・KJより) 

+++++++++++++++++++++++++++

失敗と挫折 

●私のばあい

 もう一〇年になるだろうか。私はワイフと、テニスクラブに通うようになった。で、最初のうち
は、それなりに結構自由に、楽しむことができた。しかしそのうち、コーチが、あれこれ言い始
めた。「腕の曲げ方が悪い」「腰のひねり方が悪い」と。とたん、私はやる気をなくした。「何も、
私はウィンブルドンで出るつもりは、ないのだ!」と、言いそうになったが、やめた。同時に、そ
のテニスクラブも、やめた。

 私はもともと「球」を相手にするスポーツが、苦手。大嫌い。原因は、わかっている。小学6年
生のときだったか、いつか、野球をしていて、デッドボールを当てられたからだ。それまでは軟
式ボールを使っていたが、そのときは硬式ボールだった。まるで石をぶつけられたかのような
衝撃だった。それでボールがこわくなってしまった。それで「球」が苦手になってしまった。

 一度、こういう形で挫折(ざせつ)すると、(「挫折」というほど大げさなものではないかもしれな
いが……)、この時期、それを修復するのは、容易ではない。「この時期」、つまり少年少女期
は、あっという間にすぎてしまう。何とかしようと思っているうちに、一年、二年とたってしまう。私
も高校を卒業するまで、結局は、あの野球だけは、好きになれなかった。

●正しい道?

 子どもは、当然のことながら、未経験。そのときは何もわからず、あれこれとやりたがる。親
が「ピアノ教室へ行ってみる?」と聞いたりすると、「うん、やりたい」と言ってみたりする。しかし
この時点で、子どもの約束など、本気にしてはいけない。しばらくして子どもが、「もうやめたい」
と言ったりすると、親は、「あんたがちゃんと、約束したからでしょ」と言ったりするが、それは酷
というもの。あるいは中には、「一度始めたことを、途中でやめるなんて、これから先、心配だ」
と考える親もいる。しかしそんなに大げさに考えてはいけない。

 このU男君のケースもそれにあたる。U男君の親に向かって、「うちの子だって行きたくないっ
て言ったことがあったけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正しい方向へ導
いてあげる事こそが、親としての使命なのではありませんか?」と言った人がいる。私は子ども
を教えさせてもらうようになって、もう30年以上になるが、親に向かって、このように言ったこと
は、ただの一度もない。とても、言えない。だいたいにおいて、いまだにその「正しい道」すらわ
からない。多分、U男君の親に向かって、そう言った人は、すばらしい人格者なのだろう。私に
は、とてもまねできない。

 たかがサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか。どうしてもっと「楽しむ」ということ
をしないのか。あえて言うなら、サッカーは、手段であって、目的ではない。サッカーをとおして、
温かい人間関係をつくれれば、それでいいではないか。またそういう人間関係におけるドラマ
のほうこそ、大切なのだ。私にもこんな経験がある。

●息子のサッカー教室

 息子の1人も、しばらくサッカークラブに通った。そのクラブの監督は、ある楽器メーカーのサ
ッカー部のキャプテンもしたことがある人だという。そこで話を聞くと、「ボランティアでしている
から、無料だ」と。私はこの言葉に感動した。「無料で、子どもを指導する」というのだ。私は私
をはるかに超えた、すばらしい人格者を思い浮かべた。また最初は、そういう目でその人物を
見ていた。が、そのうち、様子がおかしいのに気づいた。

 その人物をA氏ならA氏としておこう。そのA氏の目的は、ただ一つ。「勝つ」ことだけ。一応型
どおりの指導はするが、素質がないとわかると、その子どもには、見向きもしない。実のところ
私の息子も、その1人だったが、結局は、そのクラブに1年以上通ったが、最後まで、1度も公
式の試合には出させてもらえなかった。

あとで話を聞くと、「あの監督は、盆暮れに、ある程度の現金をもっていかないとダメ」と聞かさ
れた。しかもそれも10万円単位だという。「10万円!」と驚いていると、「月謝だってそれくらい
でしょ! 毎週日曜日に、それくらい世話になっているのだから」と。そういう監督に、子どもの
「教育」を期待した私が、バカだった。

U男君の母親も、「1年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応援、監
督に『動きが悪い、態度がなってない』といつも眼をつけられていたようです。決定的だったの
は、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうです」と書いている。もち
ろんこういう否定的な見方ばかりしていてはいけない。中にはすばらしい監督やコーチがいて、
すばらしい指導をしている人もいる。またそういうクラブで、鍛えられ、すばらしい子どもになっ
た例も多い。

しかしその一方で、キズつき、挫折して子どもも多いのも事実。私の経験では、こうした経験が
効を奏して、「よかった」「すばらしかった」という思いで、クラブを去っていくのは、全体の、3〜
4割程度ではないか。それと同じくらいの子どもが、「もうこりごり」という思いをもちながら、クラ
ブを去っている。

●日本人の結果論

 日本では、チベット密教の影響からか、「結果」を大切にする。「結果こそ、すべて」というわけ
である。「死に際の様子で、その人の一生が評価される」と教える宗教団体もある。しかし結果
はあとからついてくるもの。たとえその結果が悪くても、その人の人生がまちがっていたという
ことにはならない。

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「いろいろやってみました
が、すべてがムダでした」と。「音楽教室にも、算数教室にも、体操教室にも、進学塾にも入れ
ましたが、ムダでした」と。もしこんな論理がまかりとおるなら、その人が、最後に交通事故か何
かで、悲惨な死に方をしたら、すべてがムダだったということになってしまう。しかしそんなこと
はありえない。大切なのは、そのプロセスなのだ。その中身なのだ。

 が、実際には、日本人の体質としてしみついた「結果重視論」を、是正するのは、簡単なこと
ではない。ものの視点や考え方が、親から子どもへと、無意識のまま、代々と受け継がれてい
る。英語にも『終わりよければ、すべてよし』という格言がないわけではない。しかしものの見方
が、日本人とはかなり違う。

つぎのエッセーは、中日新聞に掲載してもらった記事である。話を先に進めるまえに、それをこ
こに転載する。内容がここに書いたことと少し重複するが、許してほしい。

+++++++++++++++++++++++++

●子育てプロセス論

 クルーザーに乗って、海に出る。ないだ海だ。しばらく遊んだあと、デッキの椅子に座って、ビ
ールを飲む。そういうときオーストラリア人は、ふとこう言う。「ヒロシ、ジスイズ・ザ・ライフ(これ
が人生だ)」と。日本人ならこういうとき、「私は幸せだ」と言いそうだが、彼らはこういうときは、
「ハッピー」という言葉は使わない。

 私はここで「ライフ」を「人生」と訳したが、ライフにはもう一つの意味がある。「生命」という意
味である。つまり欧米人は人生イコール、生命と考え、その生命感がもっとも充実したときを、
人生という。何でもないような言葉だが、こうした見方、つまり人生と生命を一体化したものの
考え方は、彼らの生きざまに、大きな影響を与えている。

 少し前だが、こんなことをさかんに言う人がいた。「キリストは、最期は、はりつけになった。そ
の死にざまが、彼の人生を象徴している。つまりキリスト教がまちがっているという証拠だ」と。
ある仏教系の宗教団体に属している信者だった。しかし本当にそうか。この私とて、明日、交
通事故か何かで、無惨な死に方をするかもしれない。しかし交通事故などというものは、偶然と
確率の問題だ。私がそういう死に方をしたところで、私の生き方がまちがっていたということに
はならない。

 ここで私は一人の信者の意見を書いたが、多くの日本人は、密教的なものの考え方の影響
を受けているから、結果を重視する。先の信者も、「死にぎわの様子で、その人の人生がわか
る」と言っていた。つまり少し飛躍するが、人生と生命を分けて考える。あるいは人生の評価と
生命の評価を、別々にする。教育の場で、それを考えてみよう。

 ある母親は、結果として自分の息子が、C大学へしか入れなかったことについて、「私は教育
に失敗しました」と言った。「いろいろやってはみましたが、みんな無駄でした」とも。あるいは他
人の子どもについて、こう言った人もいた。「あの親は子どもが小さいときから教育熱心だった
が、たいしたことなかったね」と。

 そうではない。結果はあくまでも結果。大切なのは、そのプロセスだ。つまりその人が、いか
に「今」という人生の中で、自分を光り輝かせて生きているかということ、それが大切なのだ。子
どもについて言えば、その子どもが「今」という時を、いかに生き生きと生きているかというこ
と。結果はあとからついてくるもの。たとえ結果が不満足なものであったとしても、それまでして
きたことが、否定されるものではない。

このケースで考えるなら、A大学であろうがC大学であろうが、そんなことで子どもの評価は決
まらない。仮にC大学であっても、彼がそれまでの人生を無駄にしたことにはならない。むしろ
勉強しかしない、勉強しかできない、勉強だけの生活をしてきた子どものほうが、よっぽど人生
を無駄にしている。たとえそれでA大学に進学できた、としてもだ。

 人生の評価は、「今」という時の中で、いかに光り輝いて、自分の人生を充実させるかによっ
て決まる。繰り返すが、結果(東洋的な思想でいう、人生の結論)は、あくまでも結果。あとから
ついてくるもの。そんなものは、気にしてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++

同じような立場で、もう一つ書いたのが、つぎのエッセー
である。これも中日新聞に掲載してもらったものである。

+++++++++++++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。い
つまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会
へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしま
う。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて
疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論の
ある人もいるかもしれない。

しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であっ
て、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一
杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同
じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども
時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常
会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その
違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……
と、私は心配する。

+++++++++++++++++++++++++++

●KJさんへ 

 このKJさんのメールに話をもどす。一つ気になるのは、KJさん自身の視点の中に、子ども
がいないこと。親意識が強すぎるというか、子どもの友として、子どもの横をいっしょに歩くとい
う姿勢が、あまり感じられない(失礼!)。KJさん自身も、「その間、親として、本人の心の叫び
を受止められたかと言うとノーである」と書いている。

 この時点で忘れてはいけないことは、すでに子どもは、「学校」という大きなワクにしばられて
いるということ。その上、その学校の外で、ギューギューとしぼられたらたまらない。これはたと
えて言うなら、会社員が仕事の外で、また別の仕事をもつようなもの。私が先に書いた、「たか
がサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか」という意味は、ここにある。将来、Jリー
グへと思うなら話は別だが、そうでなければ、クラブはクラブとして、楽しめばよい。才能のある
子どもは、そういう状態でも伸びるし、ない子どもは、いくらしぼっても、伸びない。こんな話もあ
る。

 数か月前に、あるテレビ局が、アメリカのあるリトルリーグ(少年野球クラブ)を取材していた。
そのリトルリーグは、どこで試合しても、負けるだけ。勝ったためしがない。しかし監督も、コー
チも、選手も、そして親も、いっこうに気にしていない。それもそのはず。そのクラブのメンバー
は、身体のどこかに障害をもった子どもたちばかりである。しかも監督は、障害がひどくて、自
信をなくし始めたような子どもほど、選手として前に出す。そしてその子どもが、たまにヒットらし
きものを打つと、みんなが小躍りして喜ぶ。相手のチームの監督も、コーチも、そして選手たち
も、小躍りして、いっしょに喜ぶ。どうして日本よ、どうして日本人よ、こうしたやさしさをもてな
い! どうしてもたないのか! バカヤロー!

 結局、その違いがどこからくるかと言えば、まさに生きザマの違いということになる。結果を重
要視する日本人。プロセスや中身を大切にする欧米人。この違いは大きい。そしてそれが、長
野県の松本市という小さな町にまで、影響している。U男君のプレーを見た、ほかの父母につ
いて、KJさんは、つぎのように書いている。

「心無い父母の声、『何?なんであんなにバタバタ倒れるの。しばらく練習してないから? も
う、疲れちゃってるみたいね! なんであんなとこパス出してるの? なんだ、一応彼がいたん
だ。(身長が低く遠くからは見えにくい)』と。さらに『あの陰の監督に黙って彼をだしちゃってい
いの? 知らないよー』と。(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんとい
われていたらしい。)」と。

 U男君のプレーをみながら、ほかの親たちは、笑うどころか、「陰の監督に内緒で出していい
の?」と言ったというのだ。監督だけではない。それを見守る親たちも。「勝つこと」イコール、結
果しか考えていない。が、最後にKJさんは、こう結んでいる。

 「心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。今は、U男の心の声にじっ
と耳をすまし、寄り添えればと思っている。今日、『ただいまー』と帰り、『陸上、かなり疲れた
ヨ!』と言うU男に、『大変だったね!ゆっくり休むといいよ!』と自然に答える事が出来た」と。

 おめでとう! KJさん。あなたはすばらしいお母さんになりましたね。おめでとう!
(02−11−8)

●教育のレベルは、いかに弱者にやさしい教育かで決まる。またそういう視点をふみはずし
て、教育のレベルを語ることはできない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


【日本人の結果主義】

+++++++++++++++++

日本人は、どうして結果ばかり追い求めるのか。
ビジネスの世界では、それはそれでしかたのないことかも
しれないが、こと子育ての場では、大切なのは
結果ではなく、そこに至るプロセス。

+++++++++++++++++

●結果主義

 あの世があるという前提で生きると、死に際は、まさにあの世への入り口ということになる。チ
ベット密教で、死に際の様子を重視するのは、こういうところに理由がある。そのため、チベット
密教の流れをくむ日本の仏教では、たとえばキリスト教を批判するとき、決まってもちだすの
が、キリストの十字架への張りつけである。「キリストは、最期はあのような、無惨な死に方をし
た。それがキリスト教はまちがっているという証拠だ」と。私も学生のころ、地元の寺の僧侶
に、そう聞かされたことがある。

 どちらが正しいかということを、ここで論じても意味がない。また私には、それを判断する力は
ない。しかしこうした大乗仏教的な思想、つまり結果主義は、私たちの生活のあらゆる部分に
影響を与えている。もちろん教育にも、そして子育てにも、である。

●ある母親の例

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「すべてがムダでした」と。
「いろいろな教室に通わせました。家庭教師もつけました。高額な教材も買いました。しかしム
ダでした」と。親がこうした心境になる背景には、ここに書いたような、結果主義がある。ほかに
も、例がある。その一つが、「産んでもらいました」「育ててもらいました」という、日本人独特
の、「もらいました」論である。少し飛躍した感じがしないでもないが、こういうことだ。

 「今、私がいるのは、親に産んでもらい、育ててもらったからだ」と言う人がいる。日本人には
たいへんなじみのある言い方で、大半の人は、「そのとおり」と思っている。しかしこの考え方
は、あくまでも結果論にもとづいた考え方でしかない。実のところ、私も子どものときから、いつ
も父や母に、そう言われて育った。「お前を、産んでやった」「育ててやった」と。耳にタコができ
るほど、そう聞かされた。で、ある日、こう反発した。私が中学生くらいのときではなかったかと
思う。「いつ産んでくれと、頼んだ!」と。それを言うと、母は激怒して、「親に向かって、何てこと
言う!」と、私に大声で叫んだ。

 そこで親は、子どもを育てる過程でも、「教室へかよわせてやった」「家庭教師をつけてやっ
た」「高額な教材を買ってやった」と考える。実際、私なども、ことあるごとに、親に「お前には、
学費で、○百万円もかけたからな」と言われた。この段階で、子どもも、「教室へ通わさせても
らいました」「家庭教師とつけてもらいました」「高額な教材を買ってもらいました」と思えば、た
がいの関係は、うまくいく。しかし今の子どもたちはそうは、思わない。その思わないところか
ら、断絶が始まる。話が脱線したが、親子の断絶にも、この結果主義が関係している。

 もともと子どもをもうけるかもうけないかを決めるのは、親の意思ではないのか。しかも子ども
をつくるといっても、私たちが直接組み立てるわけではない。男の立場でいうなら、セックスをし
て、射精すれば、それでこと足りる。少なくとも、私はそれ以上のことはしなかった。女の立場で
も、妊娠中はたしかに苦しいが、しかしそれとて生まれてくる子どもに頼まれたからそうしてい
るのではなく、むしろ生まれてくる子どもが楽しみだから、そうしている。子どもは、まさに夫婦
の愛の結晶ということになる。

 それがあるときから、一転して、親は、子どもに向かって、「産んでやった」という。この親の変
化は、いつどのようにして生まれるのか。いや、もしその女性が、いやいや、それこそあと継ぎ
か何かのために、不本意ながら子どもをもうけたというのであれば、こうした考え方もあるかも
しれない。しかしそうでなければ、つまり望んで、自分の意思で子どもをもうければ、もともとこう
いう発想は生まれない。子どもが生まれてきたことについて、「ありがとう」と言うことはあって
も、「産んでやった」とは、決して思わない。

●親がいるから子どもがいる

 そこでさらに考えを推し進めていくと、この問題は、「親がいるから子どもがいる」という考え方
と、「生まれてみたら、親がいた」という考え方の、どちらかに集約されるのがわかる。親の立
場から、一方的に子どもを、「自分のモノ」と見る考え方と、子どもの側から見て、子どもの世界
を中心に、親を認識するという考え方といってもよい。日本では伝統的に、前者の考え方をす
る。で、こうした考え方も、つまるところ、結果主義的な見方ということもできる。さらに念をおす
と、こういうことになる。

 親がいるから、子どもがいる。だから子どもにとって、親は絶対。そういう意味で子どもは、服
従的であればあるほど、できのよい子どもということになる。日本独得の親孝行論も、こういう
流れの中で生まれた。美化された。つまりこの時点で、「子どもがいる」のは、「親のおかげ」、
つまり「親がいる結果、子どもがいる」と考える。そして自分自身も、先祖がいるから、その結
果、自分もいると考える。このタイプの人が、好んで、「先祖、先祖」と言うのは、そのためであ
る。

 こうして日本人の結果主義は、ありとあらゆる部分に入り込んでいる。そしてそれが日本の
社会をつくるバックボーン(背骨)になっている。で、あなたはどうか。簡単なテストをしてみよ
う。

(A派)
●子どもは親に服従的であるべき。親に向かって、「バカ!」などと言うことは許さない。
●先祖があっての私。その私あっての子ども。先祖を敬うのは、家庭生活の基本。
●親孝行は家庭教育の要。親は、デンとした威厳があることこそ、大切。

(B派)
○子どもといっても、未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけば、対等の人間。
○子どもは子どもで、自分の納得する人生を、自分なりに思う存分、羽ばたけばよい。
○親子でも尊敬しあう関係こそ、理想的。たがいに大切にするという姿勢があればよい。

 さてあなたはA派に近いだろうか、それともB派に近いだろうか。それを少しだけ、自問してみ
てほしい。
(02−11−8)

(注意)私のマガジンを読む人で、A派の人はほとんどいないと思う。マガジンというのはそうい
うもので、フィーリングが合わなければ容赦なく、解約される。だからこのマガジンを読む人は、
私のフィーリング、つまりB派だと思う。しかしこの問題は、生きザマの根幹にかかわる問題だ
から、頭からA派ならA派を否定すると、それこそたいへんなことになる。たとえば先祖を大切
にしている人に向かって、その先祖を否定すると、それはそのままその人自身を否定すること
になる。じゅうぶん注意してほしい。

 私のばあい、周囲にA派の人はいくらでもいるが、そういう人だとわかった段階で、その人に
合わせるようにしている。この問題は、ここにも書いたように、生きザマの根幹にかかわる問題
だから、多少争ったところで、それでどうにかなる問題ではない。相手を説得できるということも
ない。大切なことは、相手の考え方を認め、そして相手の立場で、ものを考えてやること。A派
の人もB派の人も、仲よく共存すること。それが大切である。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1721)

●今朝(12月8日・雑感)

+++++++++++++++++

ぼんやりと、あれこれ、頭の中に
浮かんできたことを、書きとめる。

深く考えない。いつものように、
あちことを調べながら書くというの
も、今朝は、めんどうに感ずる。

ただの雑感。

+++++++++++++++++

●健康

 昨日(7日)は、自宅から教室まで、歩いてみた。風のない、どんよりと曇った日だった。途
中、佐鳴湖で何枚か、写真を撮った。

 が、ふと前を見ると、一人の男性(75歳くらい)が、妻らしき女性に先導されて、歩いていた。
昔、子ども会か何かで、世話になった人である。会釈したみたが、反応はなかった。加えて、歩
き方も、ふつうではない。

 「脳梗塞かな?」と思ったが、私は、そのまま視線をはずした。女性とは面識はない。その女
性は、どこか、けげんそうな顔で、私を見つめていた。

 いやな気分だ。いやな病気だ。脳梗塞になると、人間が人間でなくなってしまう。それに、「治
る」ということはない。「私も気をつけよう」と思うが、何を、どう気をつけたらよいのか。みな、私
以上に、健康には気をつかっている。が、それでも、脳梗塞になる人は、なる。私だけが例外と
いうことは、ありえない。


●談合

 「談合は悪」と決めてかかる人は、多い。しかし効率的な部分も、ないわけではない。(だから
といって、談合を容認しているわけではない。誤解のないように!)もしすべての公共事業を、
厳密に、入札制度だけでしていたら、自治体の行政機能は、どうなるか。それだけでマヒしてし
まうだろう。「談合」という言葉に抵抗があるなら、「共同入札」と言いかえてもよい。

 大きな仕事もあれば、小さな仕事もある。

 悪いのは、そういう談合に群がって私腹を肥やす、役人たちである。業者たちである。そうい
う役人や業者に対しては、厳罰主義で臨むのがよい。あるいは公共事業を担当する部署を、
完全に透明化し、民間の監視が行き届くようにすればよい。

 そうすれば、談合は減るだろうし、その分だけ、税金の無駄づかいは少なくなる。


●金大中

 韓国の金大中、前大統領が、さかんにアメリカを非難している。「米朝、直接交渉をしろ」と。

 あの人も、自国の立場が、まったくわかっていない。K国が核兵器をもてば、いちばん困るの
は韓国のはずである。反対に、どうしてアメリカが、韓国の平和と安全に、責任をもたねばなら
ないのか。K国の核兵器開発阻止に、責任をもたねばならないのか。

 そんなに直接交渉とやらをしたかったら、自分ですればよい。自分で、K国の核兵器開発を、
阻止すればよい。

 今、韓国がすべきことは、アメリカに頭をさげて、お願いすることである。アメリカに協力する
ことである。

 太陽政策にせよ、包容政策にせよ、完全に、行き詰っている。与党U党の支持率が、一桁台
(8%前後)というのが、その証拠である。(たったの8%だぞ!)


●韓国のバブル経済

 その韓国では、今、(1)ウォン高、(2)住宅地、住宅の価格高騰、(3)金利の高止まりがつ
づいている。わかりやすく言えば、日本のバブル経済期、そっくり!

 ただひとつだけ大きくちがうのは、日本では、バブル経済崩壊とともに、銀行が巨額の不良
債権をかかえることになったが、韓国では、このままバブル経済崩壊ともなれば、個人が巨額
の負債をかかえることになるだろうということ。すでにその兆候が、現れ始めている。

 で、どうせ崩壊するなら、早ければ早いほどよい。つまりその分だけ被害が少なくてすむ。さ
てさて、この先、どうなることやら! 私は、07年のうちには、韓国のバブル経済は崩壊するの
ではないかと思っている。


●体罰

 学校の先生たちが萎縮している。学校教育そのものが、マヒしているところさえある。いじ
め、体罰とつづいて、今度は自殺問題。その前には、学級崩壊があった。

 そのたびに、マスコミや親たちは、容赦なく、学校を攻撃する。しかし、学校を攻撃しても、何
も、問題は解決しない。それがわからなければ、自分の立場で、ものを考えてみることだ。

 たった1人か2人の息子や娘をもてあましている親が、30人前後も、1人の教師に押しつけ
て、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。

 母親にしても、約50%が、自分の子どもに体罰を加えているのがわかっている。親子でも、
会話のない家庭となると、ゴマンんとある。ほとんどが、そうではないのか。

 体罰はともかくも、ある程度のバツ、あるいは、ある程度の威圧は、教育には、欠かせない。
たとえば私の教室でも、最近、ヨーヨーの遊び方を教えているが、中には、あのヨーヨーを、ビ
ュンビュンと振りまわして遊ぶ子どもがいる。

 そういう子どもに向かって、「そういうことはしないでください」と、やさしく言っても、効果はな
い。だから、いきおい、大声で、怒鳴りつけることになる。それでも言うことを聞かなければ、つ
かまえて、尻を叩くしかない。そのことでほかの子どもがケガでもしたら、どうなる?

 教師と生徒、それに親との間に信頼関係があれば、体罰も、許されるべきである。そういう意
味では、今、問題になっているのは、体罰ではない。今、問題になっているのは、信頼関係が
崩壊していることである。

 その信頼関係だが、(作るもの)であって、(向こうからやってくるもの)ではない。学校を批判
する前に、親たちにも、やるべきことが山のようにあるのではないのか。


●何でも先取りでやる

 したいこと、しなければならないこと、それに楽しいことは、何でも、先取りでやる。それが私
のモットーにもなっている。決して、明日に回さない。来週に回さない。

 ……ということで、今日の夜から、日曜日の夜まで、予定がぎっしりと詰まっている。

 がんばります!

 では、今朝の雑感は、おしまい! GOOD MORNING!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1721)

●硫黄島(いおうとう)

++++++++++++++++

昨夜遅く、クリント・イーストウッド
監督の、『父親たちの星条旗』を見てきた。

家に帰ってきたのが、深夜の12時少し前。

風邪気味で、鼻水をたらしながらの
映画鑑賞ということになった。

++++++++++++++++

 クリント・イーストウッド、つまり、「Clint Eastwood」の文字を並び替えると、「Old West 
Action」となる。つまりクリント・イーストウッドという名前は、アナグラム(文字の並び替え)でで
きた名前、ということだそうだ(ウィキペディア百科事典)。

 それはともかくも、私は『ローハイド』(テレビ映画)時代から、彼のファンだが、今回の『父親
たちの星条旗』を見て、ますますクリント・イーストウッドが好きになった。この映画は、アメリカ
側から見た硫黄島と、日本側から見た硫黄島の2部作になっているそうだ。日本側から見た硫
黄島の、『硫黄島からの手紙』は、早くも2006年度最優秀賞作品に選ばれている。アカデミー
賞受賞の可能性は、高い!

 それにしても、すごいというか、迫力のある映画だった。いろいろ考えさせられたが、頭の中
は、まだ混乱している。が、あえて言うなら、こういうことになる。つまり『父親たちの星条旗』を
通して、クリント・イーストウッドは、「ヒーロー(英雄)とは何か」、それを私たちに繰りかえし、問
いかけている、と。

 ヒーローは、作られ、そして、用がなくなれば、容赦なく、捨てられる。……私は、心のどこか
で、ふと、サッカー選手たちのことを思い浮かべた。勝てば官軍だが、負ければ、反対にボロク
ソに叩かれる。先のワールドカップの試合でも、予選落ちしたこともあって、成田空港で選手た
ちを出迎えた男性サポーターは、ほとんどいなかったという。

 わかりやすく言うと、ヒーローになるかどうかは、あくまでも結果。本人の問題ではない。また
その結果には、ほとんど意味はない。大切なのは、そこに至るプロセス。あくまでも「私は私」。
どこまでいっても、「私は私」。

 そしてその一方で、つまり、この映画は、ヒーローとは何かを問うことによって、同時に、「戦
争とは何か」を、私たちに問いかけている。私といっしょに映画を見にいったワイフは、はから
ずも、端的にこう言った。「戦争で死んでいった若い人たちがかわいそうね」と。

 この映画は、そういう映画である。

 2部作目の、『硫黄島からの手紙』(日本側から見た硫黄島)は、今日(12月9日)、劇場で封
切りになる。

 私は、絶対、この映画を見に行くぞ!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

【金持ちも、楽じゃない(?)】(保護と依存の関係)

++++++++++++++++

R氏は、今年、65歳になる。
H市内で、30年ほど前、
内科医院を開業した。

リッチと言えば、リッチだが、
しかしそういう人にはそういう人なりの
苦労というものがある。

++++++++++++++++

●R氏(内科医のケース)

 友人のR氏が、それまで書庫として使っていた離れの家を、改築した。そのお祝いもかねて、
今日の午後、ワイフと2人で行ってきた。R氏は、S市の総合病院で勤務医をしたあと、30年
ほど前、H市で、内科医院を開業した。現在も現役。

 R氏の妻(68歳)も、内科医だったが、いろいろあって、10年ほど前に引退。今は、悠々自
適な老後生活(?)……ということになるのだが、会って話を聞いてみると、どうもそうでもない
らしい。苦労話の連続。

 R氏には、上から、兄、兄、姉、兄の4人の兄弟がいる。R氏は、5番目の末っ子ということに
なる。その兄弟たちを、医院を開業して以来、ずっと、金銭面で、R氏がめんどうをみていると
いう。

 具体的に話すと、こういうことになる。

 長男の兄……3人の子どもがいる。しかし生活が苦しいということで、R氏は、2人の息子の
学費を負担した。受験費用まで出したという。

 二男の兄……結婚せず、ひとり住まい。職を転々とし、そのつど、お金がなくなると、今でも、
R氏のところへ、生活費を無心に来るという。

 姉……R氏を頼って、実家のあった東北から、現在、H氏に移り住んでいる。2人の子どもが
いるが、夫に先だたれ、R氏は、毎月、10万円前後の援助しているという。

 三男の兄……子どもは1人だが、現在は、年金暮らし。この兄も、ときどきR氏のところへや
ってきては、小遣いをせびるという。

 が、それだけではない。R氏は、実家の生活もめんどうをみなければならなかった。父親は1
5年ほど前に他界したが、そのあと、R氏は、母親のめんどうもみることになった。毎月の仕送
りのほか、実家の建てなおし費用、さらには法事、冠婚葬祭の費用なども、R氏がすべて、負
担した。「盆と暮れには、2つの寺に、供養を送金していました」と。

 で、その母親だが、最後は、R氏の家で過ごした。ふつうの母親ではなかったという。気位だ
けは、やたらと高く、死ぬまでR氏の妻を、「女中か、さもなければ、召使いのように扱ってい
た」(R氏の妻談)とのこと。

たとえば果物でジュースを作らせるときも、母親の目の前で、ジュースを作らせたという。「何が
入っているかわからないものは、飲まない」と、母親は言ったという。そのためR氏の妻は、わ
ざわざ寝床の横に、果物やジューサーをもってきて、そこでジュースを作ったという。

 R氏は、こう言う。「私が一家のめんどうをみてきたようなものです。しかし現在に至るまで、そ
れが当たり前になってしまっていて、だれも、感謝してくれたことがありません」と。

 たとえば長男の2人の息子たちの学費を、R氏は負担したが、その2人の息子たちからは、
一度とて、礼状が届いたことはないという。「兄は、私がお金を出したということすら、自分の息
子たちには話していないのではないでしょうか」と言った。

●貧者の論理

 この世界には、貧者の論理というものがある。たとえば富者と貧者がいたとする。その(差)
がさほどないときは、保護、依存の関係は、生まれにくい。しかしその(差)がある程度大きく、
目立つようになると、そこに保護、依存の関係が生まれる。

 が、一度、その関係ができると、それが当たり前の関係として、ひとり歩きを始める。保護さ
れるほうは、「依存するのが当たり前」と考える。保護する側も、「保護するのが当たり前」と考
える。

 感謝されるのは、最初の一時だけ。つまりこうして富者は、貧者の生活全般のめんどうをみ
るようになる。現在のR氏が、そういう状態にある。

 私が、「どうしてそこまで責任を負うのですか」と聞くと、R氏の妻は、笑いながら、こう言った。
「一家心中でもされたら困りますから」と。一家心中でもされると、「R家」の名前に、キズがつく
というのだ。しかしその言葉は、R氏の兄や姉たちから出たものと考えてよい。言葉巧みに、そ
ういう言い方をしながら、R氏を脅迫しているらしい(?)。多分、こう言って、R氏に泣きついて
いるのだろう。

 「このままでは、一家心中しなければならない。助けてほしい」と。

 では、なぜ、感謝しないのか?

 ここにも書いたように、その(差)が、許容範囲にある間は、対等意識を、たがいにもつ。自尊
心も、そこから生まれる。しかしその(差)が、許容範囲を超えると、突然、対等意識は崩壊し、
自尊心は、ねたみに変わる。「お前だけがいい生活するのは、おかしい」と。

 このことは、国際関係をみればわかる。毎年、日本は、数兆円というお金を、世界にバラまい
ている。しかしそういう日本に対して、感謝している国は、ほとんど、ない。実にバカげた話だ
が、それが現実と考えてよい。

●保護と依存

 子育ての世界では、保護と依存の関係ができやすい。ある夫婦は、結婚と同時に、親に家を
新築してもらっている。が、それだけではない。現在、上の子どもが6歳になったが、毎月、5〜
10万円のお金を、親たちから援助してもらっている。

 こういうケースは、現在、決して、珍しくない。

 では、なぜ、そういう関係ができるかだが、親自身も依存心が強いからと考えてよい。つま
り、親自身が依存心が強いため、子どもの依存心に甘くなる。たとえばこんなケースがある。

 俗に言う「甘えん坊」という子どもがいる。何かにつけ依存心が強く、親に対して、「ママ〜、マ
マ〜」と甘えたりする。ミルクがこぼれても、自分で拭くということはしない。「こぼれたア!」と言
うだけで、その場で、じっとしている。

 こういうケースのばあい、親にそれを指摘しても、ほとんど意味がない。親自身が依存心が
強く、ベタベタと親に甘える子どもほど、(かわいい子)イコール、(できのよい子)と考える。だ
からこのタイプの親は、臆面もなく、こう言う。

 「私は子どもを愛しています。子どものためなら、どんな犠牲も、いといません」と。

 つまり子どもに尽くす(?)ことを、このタイプの親は、生きがいにしている。だから子どものも
つ依存性を問題にしても、意味がない。

●再びR氏のケース

 若いころ、華僑を父親にもつ友人(マレーシアン中国人)が、こう言った。「華僑は、ぜったい
に、金持ちであることを、見せびらかさない」と。

 だから家でも、玄関口は、実に質素。鉄格子のシャッターがあるだけ。が、しかしほんんの数
メートル、廊下を歩いて、ドアを開けてみると、ビックリ! そこは大理石でできた、大御殿!

 同じような家を、台湾でも見たことがある。だから華僑は、安易に、人を自分の家の中には入
れない。華僑は華僑どうしが集まり、たがいに同じレベルで、富を共有する。

 つまり彼らは、人間がもつ(ねたみ)の恐ろしさを、身をもって知っている。ときには、それが
暴動の引き金を引くこともある。

 同じように、R氏の兄弟たちも、R氏の豪勢な生活ぶりを見るたびに、その(ねたみ)を覚えた
らしい。が、一度、そういう感情をもってしまうと、今度は、「相手から奪えるものは、奪え」という
心境に変化する(?)。

 そこは人間の欲望が渦を巻く世界。ふつうの世界ではない。よい例が、遺産相続。兄弟、姉
妹の間で、血みどろの争奪戦を繰りかえしているケースとなると、それこそゴマンとある。

 結局は、R氏がもつ親分肌というか、面倒見のよさが、兄弟たちに、依存心をもたせてしまっ
たということではないだろうか。最初は、わずかな額だったかもしれない。「私が払うよ」という気
前のよさが、やがて、爆発的にふくらんでしまった。

 R氏とR氏の奥さんの話を聞いているうちに、私も、気が重くなってしまった。R氏の奥さん
は、こう言った。「金銭的な負担感というよりは、社会的負担感に苦しみました」と。つまり相手
がそれなりに喜んだり、感謝してくれるなら、お金を出すということについて、負担感は覚えな
い。しかしそれがないと、今度は、「医者だから」という立場だけで、お金を出さねばならない。
その重圧感は、相当なものだ、と。

 私も額こそちがうが、同じような経験を、22、3歳のときからしている。私も、収入の約半分
を、実家へ仕送りしていた。当初は、喜んでそれをしていたが、やがて、それは義務感へと変
化し、社会的重圧感となっていった。

だから結論として、ここで言えることは、人間関係というのは、いつも整理しながら、明るくさっ
ぱりとした状態にしておくということ。とくにここでいう、保護、依存の関係には、注意したほうが
よい。

 一度、その関係ができたら最後、その関係は、ぜったいに、しぼむことはない。死ぬまでつづ
く。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 保護
 依存 保護と依存の関係 子どもの依存性 子供の依存心)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(12月11日)

+++++++++++

どうも、風邪ぽい。
気分が悪い。
集中力がつづかない。

+++++++++++

●ホテル・グxxx

 去年、K市の郊外に、大きなホテルができた。名前は、「ホテル・グxxx」。何かおかしいなと
は思っていたが、昨日、看板を見て、ビックリ!

 そこには英語で、「Hotel Gxxxx」とあった。まさかと思って、すぐ電子手帳(私の携帯電話に
は、電子手帳の機能がついている)を使って調べてみると、こうあった。

 「gxxxx……死、墓、墓穴」と。

 もうひとつ同じ「gxxxx」には、「重大な、危険な」という意味もあるが、こちらは、形容詞。それ
にしても、「Hotel Gxxxx」とは! 

 同じような名前だが、全国のあちこちに行くと、「何とか、ターミナル・ホテル」というのがある。
「ターミナル」というのは、「終着駅の」という意味だが、「ターミナル・ホテル」となると、病気でも
末期の人が泊まる、「終末ホテル」(?)という意味になる。あるアメリカ人はこう言った。「私
は、ぜったいにそういう名前のホテルにだけには、泊まらない」と。

 さらに最近、ある中学校の校長が退職した。その慰労会ということなのだろう。招待状をもら
って、これまた私は、ビックリ! そこには、「○○先生、メモーリアル・パーティ」とあった。

 「メモーリアル・パーティ」というと、死んだ人に対してする追悼式を意味する。それにしても、
まだ生きている人に対して、「メモーリアル・パーティ」とは!

 ついでにもうひとつ。

 先週、あるカナダ人と、いっしょに食事をした。そのときのこと。そのカナダ人が、こんな話を
してくれた。

 「日本へ来て、いちばん驚いたのは、日本人が、みな、覚せい剤を飲んでいることを知ったこ
とだ」と。

 覚せい剤のことを、英語では、「Acid(アッシド)」という。が、日本では、「乳酸飲料」のこと
を、「Acid Milk」と書く。そのカナダ人は、それを、「覚せい剤入りミルク」と誤解した。

 
●実話?

 私はいろいろな親や子どもの話を書く。自分のことを書くときは、本当のことを書くが、他人の
ことを書くときは、いくつかの話を混ぜたり、架空の人物をつくりあげて書く。ほかの先生から聞
いた話を、自分の経験のようにして書くこともある。もちろんその反対のこともある。

 ウソと言えばウソだが、そんなことは、この世界では常識。他人のことで、もし本当のことを書
いたら、それこそ、たいへんなことになる。その人であることを臭わせただけで、名誉毀損(き
そん)で訴えられるかもしれない。

 が、ときどき、それでも、からんでくる人がいる。「私のことを書いた」と。

 しかし私は、現在の生徒やその親については、ぜったいに批評や批判はしない。その原則だ
けは、しっかりと守っている。もしそれでも、「私のこと?」と思う人がいたとしたら、それはまさし
く偶然の一致ということになる。

 そこでいちばん困るのが、「転載しないでほしい。引用も厳禁」という注意書きのついたメール
をもらうこと。

 私は、そういうメールに対しては、返事を書かない。その前に読まない。記憶のどこかに残る
だけで、あとでまずいことになる。コピーしたりして、記録に残すのは、さらに、まずい。そのま
ま、サッと削除する。忘れる。

 コンピュータの中には、ぜったいに、記録に残してまずいものは、残さない。どこでどう情報が
漏れるかということよりも、自分がどこでどう記録したかを、忘れてしまうからである。何といっ
ても、コンピュータの中には、ぼう大な量の情報がつまっている。あとで読みかえしたとき、その
ときのいきさつを、忘れてしまう。それがこわい。

 ただ反対に、あまりにもウソっぽい話のばあいは、「これは実話です」と、断りを入れることは
ある。しかし私の書く文章では、めったにそういうことはない。

 そういえば、2年ほど前、それまで2000人以上も読者がいた電子マガジンが、突然、廃刊
になったことがある。あとで理由を聞くと、何かのことで、ある飲食店を批判したのが理由だと
いう。その飲食店の店主が、「お前の書いた記事で、客が減った。どうしてくれる」と、かみつい
てきたからだという。

 それでその人は、電子マガジンを廃刊にしてしまった。この世界では、よくある話である。


●ワード・エクセル・パワーポイント(MSオフィイス)

 コンピュータで、文章を書くというと、MS社オフィス、つまりワードやエクセルが定番だが、し
かし、今度、日本のKingsoft社から、機能的にも、ワードやエクセルにまさるとも劣らないソフ
トが、発売になる。

 定価は、何と、ワードやエクセルの10分の1以下! ダウンロード版で、4980円。しかもパ
ワーポイントと同等の能力をもつ、プリゼンテーション・ソフトつき。

 現在、そのベータ版(発売前の無料版)が、公開されている。

 で、さっそく、私もダウンロードして、試してみた。使い勝手は、ワードとエクセルとまったく同
じ。

 驚いた。と、同時に、うれしかった。だいたいにおいて、MSオフィスのばあい、もっとも安価な
(Personal Edition)でさえ、4〜5万円もする。おかしい! 今では、6〜8万円も出せば、ふつう
のパソコンが買える。ワードやエクセルをつけただけで、それが10〜12万円もなる。

 ちなみに、キングソフト社のOffice 2007のベータ版は、

 http://www.kingsoft.jp/office/

 で、入手できる。

 ほかに、

 現在発売中のワープロ・計算機ソフトとしては、StarSuite8、一太郎、ATOK2006、WZ Ed
itor 5.0などがある(Yomiuri PC 1月号)。

 さらに今度、グーグルでも、ワープロソフトが、無料配布されるという話もある。

 がんばれ、日本! 

 ……しかしこれで、店頭に並ぶ、N社やF社のパソコンは、ますます売れなくなることだろう。
N社やF社は、MSオフィスを、パソコンとセット販売している。つまりその分だけ、ぐんと割高!


●マスコミよ、恥を知れ!

 12月9日、1人の中学生が、自宅のあるマンションから飛び降りて、死んだ。遺書には、「ぜ
ったい生まれ変わってやる。ほんとうにごめん」とあったという(読売新聞)。

 「生まれ変わる?」……だれが、こんなバカげた話を、中学生という子どもに信じこませた?

 あのね、こうした生まれ変わるだなんのと、バカな話は、子どもの前では、してはいけない
の! 霊だとか、霊魂だとか、わけのわからない話を、子どもの前では、してはいけないの! 
占いも、まじないも、そうだ!

 どうして、そんな常識が、わからない! 「生きる」ということは、どこまでも現実的なこと。現
実と空想を混濁させるような話は、子どもの前では、してはいけないの。

 あの世があるのか、ないのか、実のところ私にもわからない。しかし「ある」と証明されたわけ
でもないものを前提に生きるのも、バカげている。いわんや、生まれ変わることを信じて、自分
の命を断つとは!

 アホなテレビ番組を見ればよい。そこには、いかにもそれらしいオバチャンが、バカなことば
かりしゃべっている。娯楽番組の範囲にあるならまだしも、大のおとなが、オバチャンの作り話
を本気にして、涙ぐんだり、ハイハイと真剣な顔をして、うなずいたりしている。

 そういうのを見て、子どもは、アホな作り話を信じてしまう。純真な子どもほど、そうだ。今度
自殺した中学生は、その犠牲者の1人と言ってもよい。

 恥を知れ、マスコミ! その責任の一端は、そういう番組を、無分別にたれ流す、君たちにあ
る! 少しはその少年の遺族の身になって、ものを考えろ!


●衰退する浜松

 少し前、衰退するこの浜松市について書いた。それについて、何人かの人たちから、コメント
が寄せられた。

 「Y社のばあい、自動車工場だけではなく、開発部門も、別の都市に移された」
 「ふつうラッシュアワーというと、朝は、都市に向かい、夕方は郊外に向かうもの。だがこの浜
松市では、それが反対になっている。朝のラッシュアワー時には、みな、郊外(隣接する町)に
向かって、車を走らせている」
 「中心部のデパートが、経営困難な状況になっている」などなど。

 暗い話ばかり。

 さらに「賃金の安い外国人労働者たちが、解雇され、困っている。またそういう人たちの中か
ら、犯罪に走る人たちがふえている」という話まで。

 いったい、市長以下、市の議員たちは、この10年間、何をしていたというのか!

 「音楽の町」だの、「花と緑の町」だのと、浮かれた話ばかりしているうちに、浜松市は、こうな
ってしまった。あるいはそういう浮かれた話で、自分たちの失政を、カモフラージュしていたとで
もいうのか。

 S自動車やH自動車の社長を責める発言も、あった。「もう少し、利益を浜松に還元すべき
だ」「自分たちが生まれ育った浜松市のことを考えてほしい」と。

 しかし自動車会社は、あくまでも「会社」。浜松というより、日本、日本というより、世界を相手
に仕事をしている。そういう自動車会社の住みにくい環境をつくった責任は、この浜松市にあ
る。

 考えてみれば、あの豊田佐吉も、浜松市ではないが、浜松市に隣接する湖西市出身であ
る。その豊田佐吉の流れをくむトヨタ自動車は、愛知県の豊田市にある。聞くところによると、
「ここ(浜松市)では工場をつくらない」と言って、この浜松市から出ていったという。

 それにしても、この浜松市が、こんなひどい状態になっているとは、私も知らなかった。ホン
ト!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1722)

●フランス在住のSRさんより

+++++++++++++++++

フランス在住のSRさんより、近況が
届いています。

フランスの子育て事情が、よくわかって
たいへん興味深いです。

+++++++++++++++++

はやし先生

おはようございます。
本当にご無沙汰してします。
パソコンを入れ、先生のマガジンがきていると
一番最初に読み、子育てはもちろん、浜松の今、世界の今を
日本語で知ることができ、本当に感謝しています。

まずは近況です。
長男、Kは5歳半になり、大好きな自転車から、マウンテンバイクのサークルに
入り、もう2年になります。地方のレースにもでるようになり、
毎週、土曜日に、1時間ほど、練習をしています。

その間、弟のMは自転車であそび、夫が毎週付き添ってくれ、
親子共々楽しくやっています。

Kのクラブの主催の大会では、親がケーキを家で作ってきて、
それを売ったり、その場所でフライドポテト、バーバキューでソーセージを
焼いたりして、クラブの資金にあてています。

先日はクリスマス会があって、レースの表彰式をしたり、
ボランティアを沢山してくれた人に、プレゼントを渡したり
本当に楽しく過ごすことができました。

ちなみに1年のクラブの登録料金は、25ユーロ(約3750円)です。
ライセンスが、20ユーロ(3000円)です。

今年から友人が開いている道場で、柔道も始めました。
日本人の女性が柔道を教えていて、今年60歳です。
そこでは日本語を使うこともでき、楽しく通っています。

Mは3歳になりました。

幼稚園2年目です。歌を覚えたり、毎日葉っぱをひろってきたりして、
どこへいっても遊びを見つけてきます。

人前にでると少し恥ずかしがり屋なのですが
外で走ったり、プールが大好きで、プールへ行くと、すぐ飛び込みをします。
料理の手伝いも喜んでやってくれます。

幼稚園の(味覚週間)では果物のケーキをつくって、みんなで味見をしたそうです。
私も一口もらいました。おいしかったです。

Kのクラスでは、パンを作ったそうです。
誕生日には、誕生日月の子がお菓子をクラスで作ることになっています。

私の方は昨年から、こちらに住んでいる外国人協会に登録して、
改めてフランス語の発音とか朗読を勉強しています。

そこで知り合った子は生き生きとしている人ばかりで、本当に刺激になります。
フランスでは住み込みのベビーシッターを一年間お願いしている人も多く、
(それを「オーペア」 というのですが)、
旅費は自分もちですが、子供の世話をするかわりに、
滞在費、おこずかい、食事を与えられ、フランス語を、
週に10時間学ぶことができる権利が
あたえられます。世界中から、人がきています。

大学を一年間休学してくる人もいて、みんな必死です。
コスタリカ、カナダ、ロシア、スペイン、ブラジル、ポルトガルなどの人たちがいます。

去年知り合った、カナダとロシアの子は、我が国にいると奨学金で援助してもらえない 
からと、フランスの旅行関係の高校に入学し奨学金を得て、今2人で生活をしています。

他の国にいって奨学金をもらって勉強!、とは日本では考えられませんね。
その2人というのは、19歳と2 1歳の女の子です。

若い子が多い中、みんなお茶を飲んでいたりすると、
フランスや世界の情勢の話になったり、将来は国際関係で働きたいとか、
いろんな言葉を習得したいとか、みんなあつく語りだします。みんなすごい!

今、コスタリカの子が日本語を学びたいというので、スペイン語との交換授業を
9月から始めています。

コスタリカは永世中立国なので軍も知らないし、なんと日本人が沢山住んでいるそう 
です。

彼女もオーペアで4人の子供の世話をしています。幼稚園、学校の送り迎え
宿題・・・。まだまだいろんな国で勉強したいと言っています。

私もすごく刺激を受けます。
友人のフランス人女性も日本語を習いたいというとことで、
週に一回我が家にきている のですが、
彼女は57歳。あと3年で定年になるから、それからは日本を旅行したいと
言っています。

とっても人間的に素敵な彼女です。

実はその間、一人の日本人(女性)が、近く知人(日系人)の家に遊びにきたのですが、
その人は、毎朝、1時間ぐらいかけて化粧、身だしなみをしていたそうです。
それに、上げ膳、据え膳でうれしい!、と言っていたそうです。
それに「会話も幼稚だった」とか。それを聞いて、ちょっとショックでした。

日本人の知り合いが私の家にきたときも、
老後は誰にみてもらうかという話ばかりをしていました。

こちらでは、そういう話はしませんよと、私が言ったら、その人は、
私はフランス人より子供にはお金をかけてきているから、当たり前とのことだと、
言っていました。
ちなみに、その女性は59歳でした。

本当、世の中にはいろんな人がいますね。

長い文になってしまい、スイマセンでした。
奥さまにもくれぐれも、よろしくお伝えください。
寒くなってきました。お体にお気をつけください。

フランスのSRより


【はやし浩司よりSRさんへ】

拝復

 こちらでは、子育てが終わるころになると、みな、老後の心配をし始めます。その話ばかりで
す。イヤですね。だれに老後のめんどうをみてもらうか、それも、よく話題になります。

 (老後はひとりで暮らすと考えている人もふえてきましたが、都会から離れ、田舎のほうへいく
と、今でも、そういう会話をする人は、たいへん多いです。)

 もっとも、親たちは、「私たち親のめんどうをみろ」とは、言いません。もっと、巧みな言い方を
します。

 たとえば、「Aさんとこの息子は立派だ。今度、親をハワイへ連れていったそうだ」「Bさんとこ
の娘はすばらしい。今度、親のために離れを新築してやったそうだ」と。そういう、何というか、
回りくどい言い方をしながら、ジワジワと子どもの首をしめます。

 あるいは「私は、お前がいるから心配していない」などと言う親もいます。あとはお決まりの、
「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」という、あの言葉です。親の恩の押し
売りです。

 私も、耳にタコができるほど、この種の話を聞かされて育ちました。イヤですね。本当にイヤ
ですね。子離れできない親の、あわれな(おねだりブルース)のようなものと考えてよいのでしょ
うか。

 オーペアの話は聞いていましたが、今回、改めて、納得しました。

 日本という国は、独創的なことを、独自にはできない国かもしれませんね。他国のまねばかり
している。つまり独創性を許さないというか、認めないというか……。お役人たちは、失敗する
のを、何よりも恐れるのですね。だから安全な道ばかりを選ぼうとする。

私も生活ということを考えなくてもいいなら、フランスに行きたいです。年齢に関係なく学べると
いうところが、いいですね。

 ……私たちが求めてきた「豊かさ」とは、何なのでしょうか。SRさんのメールを読んでいると、
それも考えさせられました。「豊かさ」の感覚そのものが、ちがいますね。

ほら、日本では、足の踏み場もないほど、電気製品がころがっているのが、豊かな生活という
ことになっているでしょ。あるいは電線がクモの巣のように張りめぐらされている狭い路地を、
ベンツやBMWで走りまわるのが、豊かな生活ということになっているでしょ。(……これは、少
し言いすぎかな? このところ、何を考えても、否定的になります。ごめんなさい。)

 どこか、おかしいですね。

 ……とまあ、いろいろ考えました。メール、ありがとうございました。


【SRさんから、はやし浩司へ、追伸】

はやし先生

おはようございます。
返事が遅くなってしまって本当に申し訳ありません。
転載の件、もちろんどうぞ!
役にたてるのなら、(文才ないのですが)
いつでも、どこでも?これからも特に一言なくても使ってくださってOKです。

この週末は、フランスではテレトンといって
日本言う愛は地球を救うのチャリティー週末でした。
日本とは違うと感じたのは、みんな市民が参加という形です。
スーパーにいくとボランティアの人が袋をくれ
スーパーの中で寄付する物(例えばパスタ、缶詰、シリアルなど)
を購入して、出口にかごがあるのでその中に入れます。
その品物は食べ物に困っている、家族、施設にまわります。

幼稚園では一斉にテレトンマラソン大会があり
 参加費として(募金ということで)お金を払い
次男、3歳は2分。長男5歳は5分構内をを走り
そのあと、おやつタイム。

土曜日は長男はマウンテンバイクで参加費をはらい
合同練習。そしておやつ。

主人はオートバイのチャリティツーリングで5ユーロの参加費で
30kmのコースに参加。
友人はクレープを焼き(ブルターニュはクレープを朝食、おやつとして食べます)
材料は学校、寄付で小麦粉200kg牛乳400Lで生地を作り
金曜日の午前中から土曜日の夜中まで、交代で焼いて販売12枚4ユーロ(約600 円)
クレープを焼く機械は全部で15台。男の人も女の人も、すごいチームワークで和気 
あいあいでした。

その横で、手作りの販売があり、ヨガ教室、ストレッチング教室があり
みんな自分の好きな分野で参加して、寄付をして楽しんでいる姿は
生き生きしていると思いました。

残念ながら、天候は雨が降ったりしていまひとつでしたが
夜、隣の人と一緒に食事をして報告会?をしました。
 
フラワーパークの写真HPで見させて、頂きます。
楽しみです。

来年の夏は日本へ行く予定なので、子どもたちにも見せようと思っています。
ブレストは横須加市と姉妹都市で、来年は横須加開講100周年ということで
ブレストからはコーラス隊20人、市の人も日本へ行く予定なのです。
ちなみに横須加の港を建設したのは、たくさんのブルターニュ人なのです。
おもしろいですね。

身体にお気をつけください。

SRより

【はやし浩司より、SRさんへ】

 メール転載の件、快諾してくださり、ありがとうございました。これからもよろしくお願いしま
す。

 私の息子(三男)も、オーストラリアに留学しているとき、病院の寄付金集めのために、自転
車レースに参加しました。最初は、何のことかよくわかりませんでしたが、参加費が、そのまま
病院の寄付金になるのだそうです。

 そういうイベントを、町や村の人たちが、総出でするところがおもしろいですね。つまり、向こう
の人たちは、「税金は、オレたちが払っている」「だから、行政側は、税金を正しく使え」と考えて
いるわけです。だから税金の使われ方に、シビアですね。

 フランス人も、同じように考えていると思います。

 一方、日本は、甘い。本当に、甘い。「お金は、お上からいただくものだ」という意識が、いま
だに根強く残っています。いわゆる「補助金行政」というのです。

 私も36年前、オーストラリアに渡り、その(意識)のちがいを、はっきりと見せつけられまし
た。「日本が民主主義国家だなんて、とんでもないまちがい」と、同時に、思い知らされました。
私の研究テーマは、「日本とオーストラリアの法意識のちがい」でした。私が受けたショックは、
大きかったです。

 ご存知のように、このあたりでは、県知事も、市長も、国会議員も、みな、元官僚。中央から、
派遣されてきた人ばかりです。

 KSという女性議員にいたっては、まさに党利党略のために中央から派遣されてきた国会議
員そのものと言ってもよいです。ある雑誌に、こう書いてありました。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(雑誌「諸君」・05年11月号・P8
7)と。

 「この辺の田舎者」というのは、私たちのことをいいます。KSという国会議員が、選挙中、ど
こかの会場で土下座したという話は、うわさで聞いていましたが、(私の選挙区ですから)、しか
し陰で、こんなことを言っていたとは知りませんでした。倉田真由美という漫画家が、雑誌の中
で、そう暴露しています。

 イヤですね。こういう連中に、私たちは、いいように操られている。

 もっとも、私のようなものがいくら叫んでも、犬の遠吠え。わかっています。KSという国会議員
は、再選され、また中央へもどっていくのでしょう。今度は安倍総理大臣と仲よく握手している
ポスターが、あちこちに並び始めました。そういうのを見るたびに、なんとも表現のしようのない
虚しさを感じます。

 では、また。今日の私は、どこか暗いです。風邪のせいかな?


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●「KS」という名前の国会議員

+++++++++++++++++++++++

KS氏は、私の選挙区から選出された、
国会議員である。

ふつうは、こうしたエッセーでは、実名を伏せる
ことにしているが、ここでは、あえて、実名で
書かせてもらう。

雑誌「諸君」の中に、こんな記事があった。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」(KS談)と!

++++++++++++++++++++++

 06年の8月。先の衆議院議員選挙(05年8月)が終わって、ちょうど1年になる。同じ自民党
の城内実氏を僅差で破って、衆議院議員になった。それがKS氏である。城内実氏は、郵政民
営化に反対して、K首相の反感をくらった。

 つまりKS氏は、城内実氏をたたき落とすために、中央から送り込まれた、刺客ということに
なる。KS氏は、財務省主計局主計官(防衛担当)を退官し、静岡県7区から立候補した。

 私が住む、この選挙区で、である。

 そのKS氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書いている。

 『……KSさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪ではない、媚(こ
び)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務省キャリア」という自
意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土下座なんてしたら、この辺の
田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、自分が客
観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もはやお手上
げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イ
チコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田真由美氏
に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 KS氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話は、当時、私も
耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎
者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした発言はな
い。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないかとは疑ってい
たが、KS氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは何か?
 あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私はKS氏を許さない。KS氏は、まさに選挙のために
地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだけ利用しておきながら、
その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、KS氏が、この1年間、この地元に帰ってきて、何
かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞いてみたが、ワイフも、「知
らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、KS氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言えば、自己の名聞
名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、まかり通
ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。もち
ろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをくぐりぬけて、
国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の代表なのか?

 そののちKS氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話題をふりまい
ている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元の利益につながった
という話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知らない。

 KS氏のポスターを、ここに紹介しておく。06年8月に、街角で見かけたポスターである。いま
でもあちこちに、張ってある。みなさんは、このポスターを見て、どう思うだろうか。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1723)

【今朝・雑感】

+++++++++++++++++

のどが痛い。
鼻水が出る。
背筋が、ゾクゾクする。

ひどくはないが、そんな日々が、
ここ数日、つづいている。

外は、真冬空。小雨も降っている。

私は、コタツに入ったまま、うたた寝。

+++++++++++++++++

●水橋晋(みずはし・しん)氏

 15、6年ほど前、学研に水橋晋氏という編集長が、学研の幼児局にいた。詩人としても、よく
知られた人で、いろいろとお世話になった。「なぜなぜ子ども学習百科辞典」(学研)では、あと
がきを書かせてもらった。一度だけだが、静岡県の三島にある温泉へ、いっしょに行ったことも
ある。

 その水橋晋氏が、去る06年の11月に、突然、小脳出血で亡くなったという。享年73歳だっ
たという。温厚な、とてもやさしい人だった。

 今、その水橋晋氏のことをあれこれ思い出している。詩集を出すたびに、サイン入りの本を
私に送ってくれた。全部で、5、6冊になっただろうか。私には、恩人の1人である。

 ただ私には、水橋晋氏の詩を理解できるだけの能力はなかった。批評を求められるたびに、
いつも戸惑ったのを覚えている。何か気のきいたことを言わねばという気持ちだけが先走り、
結局は何も言えなかった。

 そうそう、こんな会話をしたことがある。私が、「死ぬのはこわくないですか?」と聞いたときの
こと。水橋晋氏は、カラカラと笑いながら、「こわくありません」と。水橋晋氏という人は、そういう
人だった。

 学研を退職してからは、年賀状の交換程度のつきあいになってしまった。一度、会いたいと
思いつつ、こういうことになってしまった。ご冥福をお祈り申し上げます。


●命

 私にとっての「命」とは、肉体的な命をいうのではない。

 私にとっての「命」とは、私が書いた文章が、いつまで残るか。その残ることを、「命」という。

 たとえば今、こうして文章を書いている。もちろんこんな文章など、長くは残らない。せいぜい
1週間か、2週間。あるいは数日かもしれない。つまり今の私の「命」は、その程度。

 ほかに私のHPには、ぼう大な量の文章が収録してある。しかしその「命」も、それほど、長く
はない。HPといっても、「金の切れ目が縁の切れ目」。現在、2つの有料サービスを通して、H
Pをインターネットに載せている。

 1年ずつの更新制だから、私が死ねば、遅くとも1年以内には、HPそのものが削除される。
つまり私の「命」は、その時点で、終わる。

 だからやはり、文章を残すには、「本」ということになる。しかしその本といっても、よほどの本
でないかぎり、「命」は、短い。たいていはほこりをかぶった段階で、そのままゴミ箱行き。

 こうして100冊の本が消え、新たに1000冊の本が生まれる。その1000冊の本が消え、新
たに1万冊の本が生まれる。

 私の「命」といっても、せいぜい、その程度。だから最近では、死んだあとのことについては、
考えないようにしている。なるようにしかならない。それを決めるのは、もう、「私」ではない。


●みなさんも、ご注意!

 先ほど、いくつかの育児サイトをのぞいてみた。その中のひとつに、「ESxxxx」(シングルママ
の育児サイト)というのがあった。「どこかの母親が開いているサイトだな」と思ってクリックして
みると、すかさず、私のパソコンが警告音を発した。

 ポップアップされた警告文を読むと、「レジストリーの変更を求めています。あなたが意図しな
いものであれば、ブロックしてください」と。

 そのサイトには、何か、マルウェア(悪意のあるプログラム)が仕込んであったようだ。幸いに
も、私のパソコンは、それを水際で食い止めることができた。が、それにしても……!

 そのサイトの主宰者自身が、マルウェアを仕込んだのか、あるいは、その主宰者すら知らな
いうちに、だれかによってマルウェアが仕込まれたのかは、わからない。しかしそんな育児サイ
トにさえ、こういうものが仕込まれる時代になった。

 みなさんも、くれぐれも、ご用心!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●ある老夫婦の選択

+++++++++++++++++

それほど親しくはないが、近くに、
よく知っている老夫婦がいる。

ときどき野菜などを届けてくれる。
私も、どこかへ行った折など、みやげを
買ってきて、渡す。

そんなある日、突然、奥さんが、あいさつに
来た。今年、83歳になるという。

+++++++++++++++++

 その老夫婦には、1人の息子がいた。今も、元気で、名古屋市で暮らしているということだそ
うだが、「いた」と書くほうが、正確なので、そう書く。父親、つまり夫との折り合いが悪く、大学を
卒業してからというもの、一度も、老夫婦の住む実家へは帰ってきていない。少なくとも、父親
には会っていない。

 詳しくは知らない。私も、詳しくは聞かない。それぞれの家庭には、それぞれの事情というも
のがある。相手が自分から話すばあいはともかくも、こちらからあれこれ聞くべきではない。

 そんなある日、奥さんが、あいさつに来た。奥さんは、今年、83歳になる。夫は、確か、80歳
になるのではないか。いつだったか、奥さんが、「私は姉さん女房ですから」と言っていたのを
覚えている。

 「私だけ、来月から、ケアセンターに入りますから」と。

 話を聞くと、月額17〜8万円程度で、そこでは、完全看護のもと、死ぬまで世話をしてもらえ
るという。特別擁護老人施設とちがうところは、一応、健常者のみが入居できるところというこ
とだそうだ。

 「さみしくなりますね」とワイフが言うと、奥さんは、「夫は、まだこちらにいますから」と。そう言
えば、奥さんは、このところ、急に老人臭くなった。歩き方も、どこか危(あぶ)なっかしい。

 つまりその老夫婦は、たがいに80歳を過ぎて、別居という方法を選択した。理由がわからな
いわけでもない。私たちは、奥さんとは親しいが、奥さんの夫とは、ほとんど会話すらしたこと
がない。気むずかしい人で、それに神経質な人だ。

 で、これ以上のことは、ここには書けない。書けないが、私は、ふと、「そういう選択もあるの
かなあ」と思った。今の私の年齢だと、定年離婚がよく話題になる。しかしさらに年をとると、老
年別居ということになる。

 「離婚」という形にこだわる必要は、もうない。

 ワイフは、「あと少しなのに」と言ったが、健康で体が動く間は、まだよい。しかしどちらか一方
が、そうでなくなると、とたんに夫婦の形が変わってくる。ふつうなら、(こういう言葉は、あまり
適切ではないかもしれないが)、ふつうなら、どちらか一方が、他方の世話をする。

 しかしその老夫婦のばあいは、奥さんのほうが、自ら、家を出るという形で、夫に負担をかけ
まいとしたのかもしれない。あるいは、夫からの解放を望んだのかもしれない。それこそ、あと
少しという、人生の最後の、そのまた最後の場で、である。

ワ「夫婦のことはよくわからないけど、あの2人は、とっくの昔に、冷え切っていたみたね」
私「そうかもしれないね」と。

 とくに心配しているわけではないが、私は、夫のほうが、気になった。「これからどうやって生
きていくのだろう」と。完治したという話だが、10年ほど前には、胃がんの手術も受けている。
「ひとりでやっていくのだろうか?」とポツリと言うと、ワイフは、「そうみたいね」と。

 先にも書いたように、この世界には、「ふつう」という言葉は、ない。また安易に、そういう言葉
を使ってはいけない。人には、それぞれの事情がある。その事情の中で、無数の糸にからま
れながら、人は、自分の道を選択していく。

 私たちがそういう老夫婦をみても、言える言葉はただひとつ。笑いながら、「元気で、がんば
ってくださいよ」、だけ。それ以上に、あるいはそれ以外に、何を言うことができるだろうか。

 奥さんは、トボトボとゆるい坂道を下へとくだっていった。冷たい冬の風が吹いていた。しかし
見送る私たちを、一度も振り返ることはなかった。


Hiroshi Hayashi+++++++++Dec 06+++++++++++はやし浩司

●2011年

+++++++++++++++++++

今朝(12月13日)、Eマガ(無料版)の
読者が、2011人になった。

そこで2011年。

……といっても、今は、2006年。
2011年と言えば、5年後ということ
になる。

しかしこの世界では、5年などというのは、
あっという間にすぎる。その5年後に、この
文章を読み返すとき、私は、どのように感ずる
だろうか。

それが楽しみだから、ここに2011年について
書く。

+++++++++++++++++++

 仕事も生活も、基本的には、今のままだろう。私は64歳。元気で現役。

 ところで最近、とくに心がけていることがある。歩き方である。同年齢の男たちを見ながら、
「どうして、男も私の年齢になると、ガニ股で、ヨタヨタ歩くのだろう」と、思う。

 どこか体が、構造的に変化するためだろうか。あるいは足腰が弱くなるとか、そういうことと関
係があるのだろうか。私は運動不足が原因だと思っているが、しかし何も、あえてそんな歩き
方をしなくてもよい。

 さっそうと、足を前に伸ばして歩けばよい。……ということで、私はそういう歩き方をするように
心がけている。

 64歳には、今よりも、さらに運動量をふやしていると思う。ひょっとしたら、毎日、町までの距
離を、歩いて往復しているかもしれない。現在は自転車だが、このところ、歩くことが多くなっ
た。週に2、3回は、歩いている。

ワイフは、ときどき、「電動自転車にしたら?」と言うが、とんでもない。だれがあんなものに、乗
るか!

 それに64歳には、今よりももっと、旅行する回数がふえていると思う。ここ数年、毎年のよう
にその回数がふえている。だから64歳のときには、もっとふえている。

 「今できることは、今、する」「今日できることは、今日する」。それが、今の私たち夫婦の合言
葉になっている。とくに楽しいことについては、先手、先手で、するようにしている。決して、先延
ばしにしない。たとえば「来週にしようか」「再来週にしようか」と迷ったときには、今すぐ、するよ
うにしている。

 ひょっとしたら、そのころになると、毎月、海外旅行をしているかもしれない。息子がうまくパイ
ロットになってくれたら、無料で航空チケットを手に入れることができるようになる。

 (がんばってくれよ、E!)

 ほかに……。2011年になっても、文章だけは、毎日書きつづけていることと思う。文章とい
うより、私はパソコンが好きだ。ほかに今は、これといった趣味はない。高性能のパソコンが発
売になるたびに、胸がわくわくする。その感動だけは、この35年間、変わらない。だからこれ
からも、変わらないだろう。

 そうそう、昨日、仕事に出かけるとき、ワイフが、「あなたは、若いわね」と言った。

 皮ジャンに、ジーパン。それに頭にはヘッドフォン。首には赤いマフラー。そういう私の姿を見
て、ワイフは、そう言った。

 64歳になっても、私は、決して、ジジイにはならないぞ!

 
**************************

マガジン読者のみなさんへ!

マガジンの購読、ありがとうございます。
またまたやる気が出てきました。

私は、みなさんに、子育て情報をお届けします。
みなさんは、私に、生きがいをくれます。

こういうのを、ギブ&テイクというのですね!
ありがとうございます。

**************************

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●子どもの学習時間(記録用)

++++++++++++++++

小5児で、平日の学習時間は、
平均で、81・5分だそうだ。

このほど、そんな調査結果が、
ベネッセ教育研究開発センター
から公表された。

++++++++++++++++

 ベネッセ教育開発センター(進研ゼミ)が、このほど、子どもの学習時間についての調査を公
表した。以下、その結果だそうだ。


小5    90年……87・2
      96年……77・9
      01年……71・5
      06年……81・5


中2    90年……
      96年……
      01年……80・3
      06年……87・0


高2    90年……93・7
      96年……
      01年……70・6
      06年……70・5分

(調査は、今年6〜7月、都市別規模に抽出した公立小中高(普通科)、計71校、約9000人
を対象に実施されたものだという。5年ごとに、ほぼ同じ学校を選んで調査とのこと。)

 ほかに、小5児について、「2時間以上」と答えた子どもは、21%(01年)から、26%(06年)
に増加。中2児についても、33%(01年)から、38%(06年)に増加したという。

 高校生について言うなら、「約30分、ほとんどしない」は、90年には、26%だったが、06年
には、40%になったという。

 以上の結果から、つぎのようなことが言える。

(1)(塾での学習時間も含めて)、小学生、中学生の学習時間は、減少傾向から転じて、増加
傾向に向かっているということ。

(2)2時間以上勉強している子ども(小5)が、38%(06年)もいるということ。これらの子ども
が平均値を押しあげていることを考えるなら、(勉強をする子ども)と、(しない子ども)の2極化
が進んでいるということになる。

(4)高校生の学習時間が、減っているということ。「約30分、ほとんどしない」という子どもが、
40%もいるという。


 昔から『不景気になればなるほど、子どもは勉強する』という。そう言っているのは、この私だ
が、不景気になればなるほど、外で遊ぶ時間が減る。家庭の中に、ある種の緊迫感が生まれ
る。社会の不公平感が増大する。その結果、親は自分の子どもに向かって、「勉強しなさい」と
言う。だから子どもは、より勉強するようになる。

 満ち足りた生活の中では、向学心そのものも薄れる。つまり子どもの学習時間がふえたとい
うことは、それだけ、世の中、不景気(?)ということ。あるいは社会の不公平感が増大している
のかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの学習時間 子供の勉強時間 家での勉強 家での学習 学習時間調査)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1724)

●児童虐待

++++++++++++++

児童虐待の本当の問題は、
虐待そのものよりも、
子どもの心をどうケアするかに
ある。

++++++++++++++

産経新聞は、つぎのように伝える※。

「児童虐待の恐れがあるとして、全国の児童相談所が家庭への立ち入り調査が必要と判断し
た事例が、平成17年度中に207件あり、うち20件は保護者の拒否・抵抗などで執行を一時
断念していたことが12日、厚生労働省のまとめで分かった。とくにネグレクト(育児放棄や怠
慢)が疑われたケースは、身体への危害が見えにくく、立ち入りに踏み切れなくなる実態も浮
かび、厚労省は『現行法の限界』としている」と。

 この記事を読んで、5年前に私が書いた原稿(中日新聞掲載済み)を思い出した。うち2作
を、ここに添付する。

+++++++++++++++++

●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。1人の子ども(小5男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚園
の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その
子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。

 カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主
義、(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の
支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。その結果子ども
は、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫されているかのよう
に、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状を示し、さまざ
まな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親
が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の4つをあげてい
る。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの
ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習
中、1人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小2)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、
近所を走り回っていた女の子(小3)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振
るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ
ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが虐待されている
のを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。

「警察……」という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよ
いでしょう。そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

親が子育てができなくなるとき 

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母
親すらいた。

また2歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭を
経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」のない人
とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押
しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが98年の夏、一度妊娠したことがある。

が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで
きるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな
い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る
のもいるという。いわんや、人間をや。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分
でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、
猛烈な抗議が殺到する。先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような
記事を書いただけでその翌日、10本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長す
る」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」な
ど。「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。

私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚
として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響
を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事
実は事実として、冷静に見なければならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類
の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。

ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくっ
た。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつ
くった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。そういう体験があってはじめ
て、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てができるようになる。

と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、なかなか
できない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考えてほしい。

(付記)
●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(2001年春)。

これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを
見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説
明されている(報道)。しかしどうもそうではないようだ。

アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によって、
まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育というワクを超えて、子育ての情報
をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てができる本当の理由ではないのか。

(参考)
●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の5人に1人は、「子
育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答500
人・2000年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」
「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待な
し」が、61%であった。この結果からみると、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行
為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、1998年までの8
年間だけでも、約6倍強にふえていることがわかった。(2000年度には、1万7725件、前年
度の1・5倍。この10年間で16倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた6932件のうち、身体的暴行が3673件(53%)でもっ
とも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、2109件(30・4%)、差別的、攻撃的言動によ
る心理的虐待が650件など。

虐待を与える親は、実父が1910件、実母が3821件で、全体の82・7%。また虐待を受けた
のは小学生がもっとも多く、2537件。3歳から就学前までが、1867件、3歳未満が1235件
で、全体の81・3%となっている。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●ああ、悲しき子どもの心

+++++++++++++

虐待されても、さらに虐待
されても、子どもは、親の
そばがいいという。

それを私は、「悲しき子どもの
心」と呼んでいる。

+++++++++++++

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。
中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どももいる。しかし
そういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員
は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順で
静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまっている。
何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言わな
い。何もできない。

その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありながら、「お
母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけている。

先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くところによる
と、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべて、J氏の仕
事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくともこの20年間
は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なも
ので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だっ
た」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自
分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、
まさに悲劇としか言いようがない。

J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それにつ
いては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものように、「お
母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」と
いう関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本
的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばる
のは、まちがっている。

親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけ
ではない。子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子ど
もは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子ど
もの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。いや、ケダ
モノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わ
ってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虐待
 児童虐待 子どもの虐待 子供の虐待 児童相談所 悲しき子どもの心 悲しき子供の心)

注※【参考資料】(産経新聞より・2006年12月12日) 

児童虐待の恐れがあるとして、全国の児童相談所が家庭への立ち入り調査が必要と判断した
事例が、平成17年度中に207件あり、うち20件は保護者の拒否・抵抗などで執行を一時断
念していたことが12月12日、厚生労働省のまとめで分かった。とくにネグレクト(育児放棄や
怠慢)が疑われたケースは、身体への危害が見えにくく、立ち入りに踏み切れなくなる実態も
浮かび、厚労省は「現行法の限界」としている。

 厚労省によると、17年度、児童虐待防止法に基づき、児童相談所の職員が立ち入り調査に
臨んだ207件中、実際に執行できたのは187件だった。うち121件は、不測の事態に備えて
警察官が同行するなど、警察の援助を受けて実施した。実施により137件で、虐待を受けて
いた児童の一時保護を行った。

 一方、立ち入り調査を一時断念した20件の内訳は、「保護者の拒否・抵抗」が8件、「保護者
の不在」が7件、「子供の不在」3件、「家族で転出・行方不明」が2件。

 保護者の拒否・抵抗があった8件のうち5件は、警察官の援助を受けたものの、児童の安全
確認や一時保護ができずに引き揚げていた。その多くは家庭内にいる児童の生命、身体に危
害が切迫している状況を現場で判断できず、警察官職務執行法で許される立ち入りなどがで
きなかったという。

 ただ、不明の2件を除く18件は、後日の調査で児童の一時保護や安全確認ができ、虐待死
に至った事例はないという。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1725)

●N先生へ

++++++++++++++++

N先生から手紙が来た。
アスペルガー児を指導していた支援員の
人が、サジを投げてしまったという、
そんな内容の手紙だった。

++++++++++++++++

N先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。お元気で、ご活躍の様子、喜んでいます。私にとっても、は
げみになります。

 アスペルガー児の件ですが、あまりお役にたてず、すみませんでした。おっしゃるとおり、この
問題は、子ども自身がかかえる問題もさることながら、親の問題でもあります。私も、同じよう
な経験をしています。

 やっと不登校から抜け出し、学校へ通うようになると、親は、それを基準にして、さらに私たち
に、過大な相談をしてきます。「何とか給食時間まで」が、今度は、「何とか終わりの時間まで」
となるわけです。それがさらに高じると、「遅れた分を取り戻すためには、どうしたらいいか」と
なるわけです。やっと学校へ行くようになった子どもに、家庭教師をつけたりするわけです。

 少し前も実際、こんな相談もありました。子どもがなんとか、2、3時間、学校へ行くようになっ
たときのことです。行くといっても、理科室登校で、理科室にこもったままです。が、その母親
は、「何とか、午後まで、学校でがんばらせたい。どうしたらいいか」と。

 そこで私は、こう言ってやりました。「そうではなく、子どもに言うべきことは、よくがんばった
ね、です」「2、3時間で、じゅうぶん。まず子どもをほめ、子どもといっしょにそれを喜ぶことで
す」と。

 が、無理をする。この無理が、それまでの努力を水の泡にします。で、結局は、元の木阿弥。
あとはこの悪循環。症状はますますこじれ、やがて、にっちもさっちも行かなくなってしまう…
…。

 親の気持ちも理解できないわけではないのですが、この問題は、半年とか1年単位とか、も
っと長い時間的経緯をみながら、考えなくてはいけません。数週間とか、数か月とかで、どうこ
うなるという問題ではないのですね。

 アスペルガーの症状があるなら、なおさらです。

 で、支援員の方が、サジを投げてしまった、とか。私も、最近、キレる子どもを経験しました。
もう何十例も見てきたとはいえ、キレる子どもには、対処法はありません。ふつうの激怒とは、
様子がまるでちがいます。

 衝動的に錯乱状態になり、見境なく、暴力を振るいます。脳の抑制命令が、途絶えてしまった
ような状態になります。相手が小学1、2年生なら、抱き込んで抑えるということもできますが、
小学4、5年生も過ぎると、そうはいきません。

 一度は、あまりの激痛に、その場で、息もできず、うずくまってしまったこともあります。相手
は、小学5年生の女児でした。その女児に、足蹴りをされたのですが、あとで話を聞いたら、そ
の子どもは、空手道場に通っていたそうです。

 このタイプの子どもは、顔が能面のように無表情になり、目が別人のように鋭くなるのが特徴
です。顔が青ざめるのも、ふつうの激怒とちがう点です。

 大切なことは、子どもの心をそこまで追いつめてはいけないということですが、それが親には
わからない。慢性的なストレスが、ジワジワと子どもの心をゆがめます。もちろん子ども自身の
耐性の問題もあります。同じようなストレスを受けても、みながみな、キレる子どもになるという
わけではありません。

 サジを投げてしまった支援員の方の気持ちもよく理解できます。バシッと殴られたとたん、そ
れまでに積み重ねてきた思い出が、そのままどこかへ吹き飛んでしまいます。もちろんその子
どもへの愛情も、それで消えてしまいます。が、それだけではありません。そういうときというの
は、指導する側も、敗北感というか、挫折感を覚えるものです。「何とかしなければ」という気持
ちが、そのまま「何とかできたはず」という自責の念に変わります。

 それから抜け出すのも容易なことではありません。親は親で、そういう私を責めたりします。
「指導が悪いから」とか、「なぜ、もっと早く指摘してくれなかったのか」とかなど。しかしこれは、
先にも書いたように、子どもの問題ではなく、親自身の問題なのですね。親に言えば、親は、そ
の場で子どもを一方的に叱ったり、説教したりする。それがかえって症状をこじらせてしまいま
す。

 一度は、「もう、勉強はあきらめなさい」とアドバイスしたことがあります。しかしその親は、こう
言って、激怒しました。「他人の子どものことだと思って、よくも言いたいことを言うものだ!」
「あきらめろとは何だ!」と。

 しかし本音を言えば、そのとおりです。あきらめたほうがよいというより、その程度ですめばま
だよいほうだということです。が、親には、それがわからない。やがて行き着くところまで行くし
かないのです。

 これは、子育てがもつ、宿命のようなものです。だから言うべきことは言い、すべきことはす
る。しかしそこから先は、親に任すしかありません。こういうのを、ニヒリズムといいます。つまり
は、「限界」ということです。それ以上は、どうしようもありません。

 話は変わりますが、つまりこの「限界」という言葉で思い出したのですが、最近、私は、自分
の限界を強く感ずるようになりました。いろいろやってはみたものの、結局はこの程度でしかな
かったのかという限界です。

 で、また同じことをするのですが、それがつらくてなりません。仕事は仕事として、つまりは収
入のためにつづけるしかありません。しかしそれ以外の部分で、虚しさを強く感ずることが多く
なりました。

 「こんなことをしていて、何になるのだろうか」とか、「また同じことの繰り返しではないか」とで
す。よい例が、講演活動です。そのときはそのときで、それなりにみなさんは喜んでくれます
が、それはあくまでも一時的なもの。それがあとにつづいていくということはありません。もちろ
ん何かの利益につながるということもありません。1、2か月もすれば、私のことなど、すっかり
忘れてしまいます。

 ところで私も50歳をはさんで、数年間、毎日、電話相談を受けていたことがあります。毎週、
市内で、子育て相談を受けていたこともあります。しかしそのときも、同じように感じました。「こ
んなことをつづけていて、何になるのだろう」とです。親の欲望というか、希望には、際限があり
ません。少しよくなれば、「さらに……」「もっと……」と言って、相談してきます。

 で、あるとき、こう思いました。「この親は、最終的には、自分の子どもが東大の医学部にでも
入らなければ、満足しないだろうな」とです。

 それが自分でも、よくわかるようになりました。つまり、「限界」が、です。

 さらに最近では、「どうやって、この先、自分の生きがいをみつけたらいいのか」とか、「生き
がいに自分を、どうやってつなげたらいいのか」とも、考えるようになりました。そのため、落ち
込むことが多くなりました。

 教育といいながら、その底流では、親たちのドス黒い人間の欲望がウズを巻いています。教
育イコール受験、なのですね。いくら高尚な教育論を説いても、それは丘の上で、空に向かっ
てものをしゃべるようなもの。そのまま声が、どこかへ消えてしまいます。

 だから正直なところ、私はもう、教育論を親たちに説くのに、疲れました。どうでもよいといっ
た感じです。「なるようになれ」と言うのは、言い過ぎかもしれませんが、ときどき、そんな気持ち
になるのも事実です。

 自分自身が、自分に、「なるようになれ」と思っているのに、どうして他人に向かって、「そうで
あってはいけない」と話すことができるでしょうか。

 私のほうは、先生とちがって、これからしばらくは、仕事のほうは休止状態に入ります。活動
的な先生に、負けないようにがんばります。たとえばこのところ、毎週のように、ヒマがあれば、
ワイフと旅行しています。来週は、福井県のN町まで、ズワイガニを食べに行ってきます。「何
でもできることは先取りしてしよう」が、2人の合言葉になっています。

 時間が貴重です。くだらないことで時間を無駄にしたりすると、「しまった!」と思うことがしば
しばあります。だから文章だけは、毎日書いています。私にとっては、生きることとは、考えるこ
と。考えることとは、書くことです。

 ……とまあ、かっこうのいいことを書いていますが、本当のところ、自分を支えるだけで精一
杯です。今のところ、必死で自分を支えていますが、こうした気力も、いつまでつづくか、わかり
ません。

 教育のことを書いているつもりなのに、いつの間にか自分のことになってしまいました。話が
混乱してきましたので、今日はここまでにしておきます。また近く、お会いできることを楽しみに
しています。

 奥様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。ワイフが、また奥さんに会いたいと言っていま
す。いっしょに食事でも、しましょう。今度は、ぜひ、我が家のほうへおいでください。


敬具

はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1726)

【子育て・新格言】(改)

++++++++++++++++++

私の子育て論は、格言集から始まった。
今から、もう20年以上も前のことである。

以来、格言集は、何度も、書き改めた。

++++++++++++++++++

●子どもは芸術品

 母親にとって、子どもは芸術品。とくに乳幼児期から幼児期にかけての子どもは、そう思うべ
し。こんな投書が載っていた。

 郵便局で並んで待っていたときのこと。前に立っていた母親が、子どもをおんぶしていた。子
どもは母親の背中で、アイスを食べていた。そのアイスで、その人の服を汚してしまった。そこ
でその人が、「アイスで服が汚れましたが……」と母親に注意すると、その母親はこう言ったと
いう。「子どものすることだから、しかたないでしょ!」と。投書したその人は、「何ともやりきれな
い気持ちになった」と書いていた。

 私にも似たような経験がある。

 新幹線の中で走り回っている子どもたちがいたので、注意すると、いっしょにいた母親はわざ
と私に聞こえるような大声で、こう言った。「うるさい、おじさんねエ」と。以後、私はともかくも、
一時間近く、ピリピリとした雰囲気のままだった。

さらにレストランで、箸を口に入れたまま、走っている子どもがいたので、「あぶないよ」と声を
かけたことがある。どこかの子どもが、綿菓子の棒が喉に刺さって死ぬという事件が起きる、
少し前のことだった。が、その子どもの母親は、私にこう言った。「あんたの子じゃないんだか
ら、いらんこと言わないでくれ」と。すごみのある声だった。

 こうした母親は、自分の子どもが注意されると、自分の作品をけなされたかのように感ずるら
しい。芸術家が、自分の作品をけなされたような気持ち? つまり親と子の間に、カベがない。
子どもとの間に距離をおいて、子どもを客観的に見ることができない。私自身は母親になった
ことがないので、そういう心理はよくわからないが、そういうことらしい。

 こうした心理がよいとか悪いとか判断する前に、母親にはそういう心理があるという前提でつ
きあうこと。だから、母親の前で、子どもを注意したり、批判したりするときは、じゅうぶん注意
する。そのときはそうでなくても、『江戸の敵(カタキ)を、長崎で討つ』ということも、この世界で
はよくある。クワバラ、クワバラ。


●美徳の陰に欠点あり

 『美徳の陰に欠点あり』。これはイギリスの格言。美徳とまでは言わなくても、こうした例は、
子どもの世界ではよくある。たとえば「字のきれいな子どもは、書くのが遅い」など。こんなこと
があった。

 E君(小3)という子どもがいた。習字の教室で書くようなきれいな字で、いつも書いていた。そ
れはそれでよいことかもしれないが、その速度が遅い。みなが書き終わって、一服しているよう
なときでも、まだ半分も書いていない。ノロノロといったふうではないが、遅い。そこで何度もは
やく書くように言うのだが、それでも、それが精一杯。

 が、とうとう私のほうが、先に限界にきてしまった。そこでこう言った。「ていねいに書かねばな
らないときもある。そうでないときもある。ケースバイケースで、考えて書きなさい」と。とたん、E
君ははやく書くようになった。が、その字を見て、私は驚いた。まったく別人の字というか、かろ
うじて読めるという程度の悪筆だった。しかしそれがE君の「地」だった。

 ほかにも「よくしゃべる子どもは、内容が浅い」など。ペラペラとよくしゃべる子どもは、一見、
利発に見えるが、その実、しゃべっている内容が浅い。脳に飛来する情報を、そのつど加工し
て適当にしゃべっているだけといったふうになる。子どもの世界には、『軽いひとりごとは、抑え
ろ』という格言もある。子どもがペラペラと意味のないことを言いつづけたら、「口を閉じなさい」
といって、それをたしなめる。

 言葉というのは、それを積み重ねると、論理にもなるが、反対に軽い言葉は、その子ども
(人)の思考を停止させる。まさに両刃の剣。たとえば、「ほら、花」「きれい」「あそこにも花」「こ
こにも花」「これもきれい」式の言葉は、その言葉の範囲に、子ども(人)の思考を限定してしま
う。人間の思考は、もっと複雑で深い。それにはやい。が、こうした軽い言葉を口にすることで、
その言葉にとらわれ、それ以上、子ども(人)はものを考えなくなってしまう。

 その状態が進むと、いわゆる多弁性が出てくる。「多弁児」という言葉は、私が考えたが、こ
のタイプの子どもは多い。概して女の子(女性)に多い。

 これについて、こんな興味ある研究結果が報告されている。ついでにここに書いておく。

 言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)は左脳にあるが、女性のばあい、機能的MRIを使って
脳を調べると、右脳、つまり右半球のだいたい同じような場所(対照的な位置)にも、同じような
反応が現れるという。

また言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)の神経細胞の密度も、女性のほうが高いということ
もわかっている。このことから、男性よりも女性のほうが、言葉を理解するのに、有利な立場に
あるとされる。つまり女性のほうが、相手の言葉をよく理解できると同時に、おしゃべりというこ
と(「脳のしくみ」新井康允氏)。ナルホド!

 
●『人、その子の悪、知ることなし』

出典はわからないが、昔から、『人、その子の悪、知ることなし』という。つまり、親バカは、人の
常、世の常ということ。(私も、そうだが……。)

私の印象に残っている事件に、こんなのがあった。それを話す前に、子どもの虚言(いわゆる
ウソ)と、空想的虚言(妄想)は分けて考える。空想的虚言というのは。言うなれば病的なウソ
で、子ども自身がウソをつきながら、自分でウソをついているという自覚がない。Tさん(小3)と
いう女の子がそうだった。

 もっともそういう症状があるからといって、すぐ親に報告するということはしない。へたな言い
方をすると、それこそ大騒動になってしまう。また教育の世界では、「診断」はタブー。何か具体
的に問題が起き、親のほうから相談があったとき、それとなく話すという方法をとる。

 が、そのTさんが、こんな事件を起こした。ある日、私のところへやってきて、「バスの中で、教
材用の費用(本代)を落とした」と言うのだ。そこでそのときの様子を聞くと、ことこまかに説明し
始めた。「バスが急にとまった。それで体が前にフラついた。そのときカバンが半分、さかさま
になって、それで落とした」と。落とした様子を覚えているというのも、おかしい。そこで「どうして
拾わなかったの」と聞くと、「混んでいた」「前に大きなおばさんがいて、取れなかった」と。

 しかしその費用が入った袋の中にあった、アンケート用紙は、カバンの中に残っていたとい
う。これもおかしな話だ。中身のお金と封筒だけを落として、その封筒の中のアンケート用紙だ
け残った? それ以前からTさんには、理解しがたいウソが多かったので、私は思いきって事
情を、父親に電話で説明することにした。が、父親は私の話を半分も聞かないうちに、怒りだし
てしまい、こう怒鳴った。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。父親は、警察署で、刑事をして
いた。

 そこで私は謝罪するため、翌日の午後、Tさんの家に向かった。Tさんの祖母が玄関で私に
応対した。私は疑って、失礼なことを言ったことをわびた。が、そのときこのこと。私は玄関の
右奥の壁のところに、Tさんが立っているのに気づいた。私たちの会話をずっと聞いていたの
だ。私はTさんの顔を見て、ぞっとした。Tさんが、視線をそらしたまま、ニンマリと、笑ってい
た。

 そのあとしばらくして、Tさんの妹(小1)から、Tさんが、高価な人形を買って、隠しもっている
話を聞いた。値段を聞くと、そのときの費用と、一致した。が、私はそれ以上、何も言えなかっ
た。

 子どもを信ずることは、家庭教育の要(かなめ)だが、親バカになってはいけない。とくに子ど
もを指導する園や学校の先生と、子どもの話をするときは、わが子でも他人と思うこと。そうい
う姿勢が、先生の口を開く。先生にしても、一番話しにくい親というのは、子どものことになる
と、すぐカリカリと神経質になる親。つぎに「うちではふつうです」とか、「うちでは問題ありませ
ん」と反論してくる親。そういう親に出会うと、「どうぞ、ご勝手に」という心境になる。


●『火の中に、鉄を入れすぎるな』 

 『火の中に鉄を入れすぎるな』は、イギリスの教育格言。詰め込みすぎても、かえって逆効果
ということ。子どものやる気(火)は、消えてしまう。が、親にはそれがわからない。たいていの
親は、「うちの子はやればできるはず」と考える。また多少できるようになると、「もっと」とか言
い出す。

そういう親の心理が理解できないわけではないが、子どもはロボットではない。あなたと同じ人
間だ。そういう視点をふみはずすと、子どもの姿を見失う。

 やはり印象に残っている子どもに、S君(小2)がいる。S君は、能力的にはそれほど恵まれ
ていなかったが、たいへん生まじめな子どもで、学校の宿題でも何でも、言われたことをきちん
とやりこなす子どもだった。

 しかし実際のところ、このタイプの子どもほど、何か心の問題をもっていることが多い。たいて
いの親は、そういう状態をみると、「まじめないい子」と誤解するが、誤解は誤解。S君は毎日
学校から帰ってくると、1時間は書き取りの勉強をした。ときには、それが2時間にもなることが
あったという。しかし、動きざかりの子どもが、2時間も机の前にすわって、黙々と書き取りの練
習をすることのほうが、おかしい。そこで私は、何度も、「そういう勉強はやめたほうがよい」と
忠告した。

 しかし家族、とくに祖母はその言葉に耳を貸さなかった。まったく耳に入らないというよりは、
むしろ、そういう子ども(孫)を喜んでいた。「先生の指導のおかげで、ああいうう子どもになりま
した」と。「きのうは三時間も勉強してくれました」と言ったこともある。(3時間!)

 やがて小学3年になるころには、漢字練習だけではなく、算数のワークブックも、それなりの
量をこなすようになった。そうしたワークブックは、励ます意味もこめて、私が一応目を通すこと
にしている。が、そのワークブックを見て、私はさらに驚いた。たとえば計算問題なども、まちが
えたところには、別の紙がはりつけてあり、きちんとやり直してあったのだ。

 こうした家庭学習では、ほぼあっていれば、大きな丸をつけてあげるのがよい。いいかげんと
言えば、いいかげんだが、子どもはその「いいかげんな部分」で、息を抜く。羽をのばす。とくに
計算練習などは、10問やって、7〜8問できればよしとする。あとは大きな丸を描いて、ほめて
しあげる。が、その祖母にはそれがわからなかった……らしい。私がそういった丸をつけると、
そのつどやってきて、「こういういいかげんな丸をつけてもらっては困ります」と。

 こうなるとS君が、プツンするのは時間の問題だった。S君はやがて慢性的なものもらいにな
り、はげしいチック(筋肉の不規則なけいれん)が起こすようになった。眼科でみてもらうと、塾
が原因と言われた。そこで祖母は、それまで行っていた、おけいこ塾すべて(スイミング、英会
話、算数教室)を、やめた。

 こういうケースでは、一挙にすべてやめるのは、たいへんまずい。やめるとしても、少しずつ
やめるのがよい。あとあとの立ち直りができなくなってしまう。が、S君の祖母は、そういう私の
アドバイスも無視した。私としては、もうなすべきことは何もない。

 で、S君はその直後から、はげしい無気力症状ができてきた。学校から帰ってきても、ただぼ
んやりと空を見ているだけ。反応そのものまでなくなってしまった。好きだったゲームを与えて
も、上の空。もちろん漢字の学習も、計算練習もしなくなってしまった。

 S君はいわゆる、バーントアウト(燃え尽き)してしまったわけだが、そのS君がなぜ、こうまで
私の印象に残っているかといえば、それには理由がある。そういう症状が出てからしばらくした
あと、父親と母親が私のところに相談にやってきた。そしてこう言った。

 「先生、わかっていたら、どうして前もって、それを言ってくれなかったのですか!」と。私が
「こうなることは予想していました」と話したときのことだ。何ともやりきれない思いだけが、あと
に残った。「どうしてこの私が叱られなければならないのか」という思いだけが、強く残った。と、
同時に、S君のことは忘れられない子どもになった。

 S君がそういう子どもになったのは、要するに『火の中に鉄を入れすぎた』からにほかならな
い。しかし親は、「まだだいじょうぶ」「まだいける」と、どんどんと鉄を入れる。そして火が消えて
はじめて、それが失敗だと気づく。これも家庭教育のもつ、大きな落とし穴ということになる。


●子どもの会話

 ある日幼稚園の庭のすみに座っていると、横の子どもたち(年長児)が、こんな会話を始め
た。

A男「おまえ、赤ん坊はどこから生まれてくるか、知っているか?」
B男「知らないよ」
A男「だからお前は、バカだ。赤ん坊はな、ママのお尻の穴から生まれてくるんだぞ」
B男「ふうん」
A男「いいか、うんちがかたまって赤ん坊になるんだぞ」
B男「ふうん、じゃあさあ、どうして男からは赤ん坊が生まれないんだよ?」
A男「バカだなあ。男はなあ、うんちがかたまって、金玉になるんだぞ。金玉はうんちがかたまっ
たもんなんだぞ」と。

 また別の日。母親とこんな会話をした子ども(年長児)がいた。

C女「お母さん、お肉を食べると、どうなるの?」
母親「やっぱり、お肉になるんじゃ、ないかしら」
C女「野菜は、どう?」
母親「血になるのよ」
C女「でも、野菜は赤くないわ」
母親「でも、トマトは赤いでしょ」
C女「ふうん、わかった。サツマイモを食べると、そのままうんちになるのね」と。

 こんなことを話してくれた子ども(年長児)もいた。「どうしてうんちは茶色になるか、わかった」
というのだ。「どうして?」と私が聞くと、「絵の具をいろいろ混ぜると、茶色になる。うんちも、そ
れと同じだ」と。

 さらにこんなことも。ある男の子(小学3年生)が、トイレから戻ってきて、こう言った。「先生、
青と黄色を混ぜると、緑になるね」と。何のことかと思って、「どうして?」と聞くとこう言った。「ト
イレの水(消臭剤の入った青の水)と、黄色いおしっこがまざったら、緑になった!」と。

 子どもの考えることは、おもしろい。あなたも子どもたちの会話に、一度耳を傾けてみてはど
うだろうか。


●フリップ・フロップ理論

 箱がある。どちらか一方に倒れているときは、安定している。しかし中途ハンパな姿勢になる
と、フラフラとして、たいへん不安定になる。これを心理学の世界では、『フリップ・フロップ理
論』という。もともとは、有神論の人が無神論に、反対に無神論の人が有神論になるときの様
子を説明したもの。有神論の人であるにせよ、無神論の人であるにせよ、どちらか一方に倒れ
ているときは、そういう人は、たいへん静かに落ちついている。が、有神論の人が無神論にな
るとき、あるいはその反対のときは、心理状態がたいへん不安定になる。ワーワー泣き叫ん
で、それ抵抗したり、猛烈にどちらか一方を攻撃したりする。

 学歴信仰も、それに似たところがある。学歴信仰にこりかたまっている人や、反対に、まった
くそれがない人というのは、静かに落ちついている。しかしそれが移行期に入ると、たいへん不
安定になる。人間の心理というのは、そうい不安定状態には弱い。自らどちらか一方に倒れ
て、自分の心理を安定させようとする。言いかえると、不安定になったときというのは、どちらか
一方に倒れるその前兆と考えるとよい。しかもそれが短期間で、コロリと倒れる。そのため私
は、このフリップ・フロップ理論を、勝手に「コロリ理論」と呼んでいる。

 この理論は、子育ての場でも、広く応用できる。もしあなたの子どもが何かのことで、大声で
それに抵抗したり、あるいは反対にぐずぐずしているようであれば、どちらか一方に倒れる前
兆と考えてよい。そういう子どもほど、コロリと倒れると、突然、ものわかりがよくなる。

昔から「今鳴いたカラスが、もう笑った」というが、そういう現象が起きる。が、反対に、よい意味
につけ、悪い意味につけ、どっしりと静かに落ちついている子どもは、それだけ自分をもってい
ることになる。何かを説得しようとしても、なかなかうまくいかない。とくにがんこで、自分のカラ
にこもってしまったような子どもは、指導がむずかしい。


●子どもの心理

 子どもの心理を考えるとき、現象面だけを見て判断すると、その心理がつかめなくなる。よく
ある例が、引きこもり。

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安という。そういう心理状態のところに、不安や心配
が入り込むと、それを解消しようと、心理状態は一挙に不安定になる。そのひとつが、引きこも
り。

 自分の子どもが部屋に引きこもったりすると、よく親は、「気のせいだ」とか、「心はもちよう
だ」とか言って、それを安易に考える。しかし引きこもりは、あくまでも現象。無理をして、その
状態から子どもを外に出しても、元となる、情緒不安はなおらない。もう少し具体的に考えてみ
よう。

 私も精神状態が不安定になると、人に会うのがおっくうになる。人ごみへ入るのが、いやにな
る。そういうときの自分の心理を観察してみると、こうだ。

 まず人の言動が気になる。しかもささいなことが気になる。タバコを平気で道路へ捨てる人。
道路にツバを吐く人。大声であたりかまわず話す人。体臭のある人。平気で道路に駐車する
人。工事の騒音など。ふだんなら気にならないようなことが、そういうときは、やたらと気にな
る。そしてそういうことがいくつか重なると、頭の中はパニック状態になる。

 この段階で、まず自分の中のセルフコントロール機能が働きだす。どうすれば、そのパニック
を収めることができるか、それを考える。私のばあいは、外出を避けるとか、何かの気分転換
をするとかいう方法で対処する。カルシウム剤(Ca、Mg、K)が有効なことも多い。こういうこと
ができるのは、それだけ経験もあるということだが、子どもはそれができない。症状は、一挙に
悪化する。

 ある子ども(高3)はこう言った。「外に出ると、人に会うのがこわい」と。ここでいう「こわい」と
いうのは、それだけ心の緊張感が取れないことをいう。相手の言動のすべてが、自分の心を
突き刺すように感ずるらしい。だから引きこもる。心理学の世界では、これを防衛機制という。
自分を守るための心理反応と考えるとわかりやすい。

 要するにこうした現象は、風邪にたとえて言うなら、「熱」のようなもの。その熱をさまそうとし
て、子どもを水風呂につける人はいない。同じように、引きこもりだけを見て、子どもを外の世
界に引きずり出しても意味はない。あるいはそんなことをすれば、かえって逆効果。中には、そ
ういう乱暴な方法で、子どもをなおす(?)人もいるそうだが、私に言わせれば、とんでもない方
法ということになる。

昔、Tヨットスクールというのがあったが、あれもそうだ。生徒の死亡事件がつづいて、当時の
寮長は刑事訴追まで受けたというが、当然のことだ。が、この種の乱暴な治療法(?)は、今で
もあとをたたない。最近でも、子どもや親を、大声で罵倒(ばとう)しながらなおす(?)人もい
る。素人(失礼!)にはわかりやすい方法なので、そのときどきの親には受けるが、こうした方
法には、じゅうぶん警戒したほうがよい。


●はじめの一歩

 幼児教育の世界で、『はじめの一歩』というときには、つぎの二つの意味がある。ひとつは、
何でも最初に経験させることは、慎重に選べということ。もうひとつは、そのときの方向づけが、
その後の子どもの方向性に大きな影響を与えるから注意しろという意味。

 体操教室を例にとって考えてみる。

 体操教室に入れたから、体操が好きになるとはかぎらない。恐らく何割かの子どもは、かえっ
て体操を嫌いになってしまう。(そういう事実は、教室側としても隠すが……。)マット運動にして
も、鉄棒にしても、あるいは跳び箱にしても、それができたからといって、どういうこともない。で
きないからといって、これまたどういうこともない。

しかしそういうところでは、それがあたかも人間の成長には必要不可欠な要素でもあるかのよ
うに教える。親もそう錯覚する。私も中学の授業でマット運動をさせられたが、あのマット運動
ほどいやなものはなかった。そういう子どもの「思い」は、外には出てこない。

 こうした「おけいこごと」を子どもにさせるときには、子どもの方向性をじゅうぶん、見きわめる
こと。だいたいにおいて、「できないからさせる」「苦手だからさせる」という発想はまちがってい
る。子どもに何かをさせるときは、「得意な分野をさらに伸ばす」という発想で、考える。要する
に、オールマイティの子どもは求めないこと。また求めても意味はない。

 つぎにこの時期できた方向性は、当然のことながら、その子どもの一生に大きな影響を与え
るから注意する。私にも、いろいろなことがあった。たとえば私は小学3年のときに、バイオリン
教室へ通わされた。「通わされた」というのは、それだけいやだったということ。今でもレッスン
の日が、毎週水曜日の午後4時15分覚えているほどだから、それがいかにいやなものであっ
たかは、わかってもらえると思う。

ただ私のばあい、バイオリンがいやだったわけではない。あの棒がいやだった。何かをまちが
えると、講師の先生は、容赦なく私の頭や手を叩いた。それがいやだった。1年かかって、やっ
とやめさせてもらったが、その結果、私は大の音楽嫌いになってしまっていた。小学6年の終
わりまで、「オ・ン・ガ・ク」という言葉を聞いただけで、背筋がゾーッとしたのを、今でもはっきり
と覚えている。幼児教育では、こういうことは、絶対にあってはならない。

 で、子どもの方向性をつけるコツは、子どもをほめること。最初はウソでもよいから、ほめる。
「この前よりじょうずになったわね」「せんせいがほめていたよ」とか。父親や母親の前でほめる
のも効果的。この時期の子どもは、自分を客観的に評価できないから、周囲の人にほめられ
ると、その気になってしまう。そしてそれが原動力となって、子どもを前向きに伸ばす。


●「恥」の文化

 極東のアジアの小国には、世界の人が見ても、理解しがたい民族性がある。そのひとつが、
「恥」。たいていの日本人は、奈良時代の昔から、日本は文明国だと思っている。しかし日本程
度の歴史なら、アフリカの各部族ならみんな、もっている。(だからといって、日本の歴史を否定
しているのではない。傲慢になってはいけないと言っている。)

 この「恥」には、2種類ある。他人に向かう恥と、自分に向かう恥である。他人に向かう恥とい
うのは、世間を気にした生き方そのものということなる。他人の目の中で生きる人ほど、この恥
を気にする。

 もうひとつは自分に向かう恥。自分の生きザマにきびしい人。あるいは自分にきびしく生きて
いる人ほど、この恥を気にする。人が見ているとか見ていないとか、あるいは人が知っていると
か知らないとか、そういうことは関係ない。あくまでもその恥は自分に向かう。

 この2種類の恥は、たがいに相関関係がある。他人に向かう恥を意識する人ほど、自分へ
の恥に甘い。「人にバレなければよい」とか、「自分さえよければよい」とか考える。あるいは自
分をごまかしてでも、体裁をとりつくろう。

 一方、自分に向かう恥を意識する人ほど、他人を気にしない。「他人がどう思おうが、知った
ことではない。私は私だ」というような考え方をする。これらをまとめると、他人に向かう恥と、自
分に向かう恥は、いわば反比例の関係にあるということになる。同時に両方の恥をもっている
人は、まずいない。(両方ともない人というのは、いるかもしれないが……。)

 ある母親はこう言った。「私の家は、昔からの養鰻業の本家です。息子にはそれなりの大学
へ入ってもらわねば、恥ずかしいです」と。幼稚園を選ぶときにも、それがある。「B幼稚園では
恥ずかしい。S幼稚園でなければ」と。(幼稚園は幼稚園でそういう親の意識をよく知っている
から、それとなくうちは「S」幼稚園ですと、親ににおわす幼稚園もある。)

 こうした傾向は都会より、当然のことながら、農村地域のほうが強い。今でも身なりや、成
績、進学校などなど。家柄や格式、評判や財産にこだわる人は、少なくない。子どもでもいる。

ある中学生(2年男子)は、ことあるごとに自分の家をいうのに、「D家は……」と、「家(け)」を
つけていた。そこで私が「そんな言い方、よせ」と言うと、こう言った。「うちの先祖は、昔は○○
藩の家老だった」と。(私はこういうところが、「理解しがたい民族性」と言っているのだ。)

 さらにこんなことを言った高校生もいた。ある夏の日に私の家に遊びにきて、「先生、D大学
と、M大学は、どちらがかっこうがいいですかね。結婚式の披露宴でのこともありますから」と。
まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを気にしていた!

 他人に向かう恥を気にし始めると、生きザマそのものが卑屈になる。へんな小細工をしたり、
見栄をはったり。さらには体裁だけを整えたりする。しかしそういう生き方をすればするほど、
結局は自分の人生をムダにすることになる。もちろん「恥」がすべて悪いわけではない。自分に
向かう恥は、むしろ大切にしたい。しかしこれには大きな前提がある。

それを恥じるだけの、哲学なり生きザマ、さらには確固たる信念が必要だということ。それがな
いと、恥じるべき対象そのものがないということになる。言いかえると、哲学や生きザマ、確固
たる信念のない人は、自分に恥じることはない。さらに言いかえると、自分に恥じる人は、哲学
や生きザマ、確固たる信念がある人ということになる。「自分に恥じる」と言っても、そうは簡単
なことではない。


●バツはお尻

 子どもに体罰を加えるとしても、決して「頭」にしてはならない。「バツはお尻」と決めておく。頭
は人体の中で、もっとも重要な部分であり、人格そのものも、この頭に宿る。で、こうした体罰
は、一度習慣になると、すぐ手が頭に向かうということになりかねないので、気をつける。その
ためにも、もし今、あなたが頭に向けて体罰を繰り返しているなら、「バツはお尻」と、何度も復
唱してみるとよい。あなたの心構えそのものを、訂正する。

 で、子どもたちが親からどんな体罰を受けているかを調査してみた。37人の子どもたち(小
学校の低学年児)で、約半数が体罰を受けていることがわかった。圧倒的に多いのが、「親に
叩かれる」(20人)。その方法としては、「手で頭や顔を叩く」のほか、「チビクル」「殴る」「パン
チ」「ビンタ」「キック」「ケツ叩き」「ぶっ叩き」など。「押入れに入れられる」「家からの追い出し」
という、オーソドックスなのも、まだ健在のようだ。「出て行くと言って出て行くと、たいて親がさが
しにくる」と話してくれた子どももいた。ちなみに、「出て行け」と言われたことがある子どもは、
一一人。

 つぎに多いバツが、「取りあげ」。おもちゃや本、ゲームなど。子どもが大切にしているもの
を、親が取りあげるという。1人、「お金をまきあげられる」と言った子どももいた。さらに「しばら
れる」と言った子どももいた。何でも庭や柱に、ヒモでしばられるという。その話を聞いた別の子
どもが、「ぼくは物干しにつりさげられる」と言った。これには、みな、爆笑した。

 さらに、「嫌いなトマトジュースを飲まされる」「犬小屋で寝させられる」「掃除をさせられる」「頭
の毛を短くされる」と言った子どももいた。「昔は、お灸をすえられるというのもあった」と私が言
うと、「そんなものは知らない」と。ほかに「ごはん抜き」「おいてきぼり」「ものを投げつけられる」
など。「台所のすみで、正座」というのもあった。さらに……。

 「亡くなったお父さんの仏壇の前で正座」と答えた子どももいた。何でもとても恐ろしいことだ
そうだ。その子どもの父親は、その少し前、なくなったばかりだった。私はその話を聞いて、し
んみりとしてしまった。


●子どもの健康は鼻先見る(あくまでも参考に)
 
 子どもの健康状態を簡単に知りたければ、鼻スジを見ればよい。鼻スジがツヤツヤと輝いて
いれば、体力もあり、健康とみる。反対に、鼻スジから鼻先にかけて、どんよりとしてくれば、体
力が落ち、風邪など、何かの病気の前ぶれとみる。

 ほかにも顔だけを見て診断する方法がある。

(1)額(ひたい)の横に青筋がある子ども……神経質な子ども。かんしゃく発作のある子ども。
キレやすい子どもとみる。
 
(2)両ほほの下が、青白い子ども……貧血を疑うが、そうでないときはお腹(なか)の虫を疑
う。私はそれを言い当てるのが得意で、顔を見ただけで、それがわかる。

(3)顔の色が、あちこち赤白、まばらな子ども……発熱直前の状態とみる。たとえばほおの一
部だけが赤いとか、額の右だけが赤いなど。今はそうでなくても、やがて発熱するとみる。

(4)鼻先など、先端だけが赤い……虚弱体質など。生まれつき体が弱い子どもは、体の先端
部が赤くなったりする。

(5)顔の色がくすんでいる子ども……子どもの顔色は、大勢の中で比較して見ると、判断しや
すい。気うつ症的な子どもは、生彩が消え、粉をまぶしたような感じになる。大声で笑えない、
大声を出せないなど。親の威圧的な過干渉が日常的につづくと、子どもはそうなる。黒ずん
で、生彩がないときは、慢性病を疑ってみる。

(6)くちびるの色が淡い子ども……栄養不足、好き嫌いのはげしい子どもを疑ってみる。胃腸
の弱い子どもも、くちびるの色が淡くなる。あわせて顔全体が青白いようであれば、貧血も疑っ
てみる。

 以上は、あくまでも経験的にみた健康診断法で、必ずしも正しくない。(しかし運勢占いや星
占いよりは、ずっと確実!)一度、ここに書いたことを参考にして、そういう目で、あなたの子ど
もを診断してみたら、どうだろうか。

(追記)漢方では、望診論といって、顔色や外の現れた症状をみて、その人の病状を診断する
方法がある。

私が書いた、「目で見る漢方診断」は、HPのほうに収録。興味のある方は、一度、どうぞ!


●成熟した社会

 年長児でみても、上位10%の子どもと、下位10%の子どもとでは、約1年近い能力の差が
ある。さらに4月生まれの子どもと、3月生まれの子どもとでは、約1年近い能力の差がある。
そんなわけで、同じ年長児といっても、ばあいによっては、約2年近い能力の差が生まれること
がある……ということだが、さてさて?

 しかし日本の教育の大義名分は、「平等教育」。親もこの時期、子どもの能力には、過剰なま
でに反応する。ほんのわずかでも自分の子どもの遅れを感じたりすると、それだけで大騒ぎす
る。以前、こんなことがあった。ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう
怒鳴った。

 「先生は、できる子とできない子を差別しているというではありませんか。できる子だけ集め
て、別の問題をさせたそうですね。どうしてうちの子は、その仲間に入れてもらえないのです
か」と。私が何かの調査をしたのを、その母親は誤解したらしい。そこでその内容を説明したの
だが、最後までその母親には、私の目的を理解してもらえなかった。が、私はそのとき、ふとこ
う考えた。「どうして、それが悪いことなのか」と。

 仮に私ができる子だけを集めて、何か別のことをしたところで、それは当然のことではない
か。日本の教育は平等といいながら、頂上には東大があり、その下に600以上もの大学がひ
しめきあっている。それこそピンからキリまである。高校にも中学にも序列がある。もともとでき
る子と、できない子を、同じように教えろというほうが無理なのだ。……と思ったが、やはりこの
考え方はまちがっていた。

 できる子はできない子を知り、できない子はできる子を知り、それぞれがそれぞれを認めあ
い、助けあうことこそ大切なのだ。そういう社会を成熟した社会という。「力のあるものがいい生
活をするのは当然だ」「力のないものは、それなりの生活をすればいい」というのは、一見正論
に見えるが、正論ではない。暴論以外の何ものでもない。たとえあなたの子どもが、今はでき
がよくても、その孫はどうなのか。さらにそのひ孫はどうなのか……ということを考えていくと、
自ずとその理由はわかるはず。

 その社会が成熟した社会かどうかは、どこまで弱者にやさしい社会かで決まる。経済活動に
は競争はつきものだが、しかし強者が弱者をふみにじるようになったら、その社会はおしまい。
そういう社会だけは作ってはいけない。そのためにも、私たちは子どもを、能力によって、差別
してはいけない。そしてそのためにも、できる子とできない子を分けてはいけない。子どもたち
を温かい環境で包んであげることによって、子どもたちは、そこで思いやりや同情、やさしさや
協調性を学ぶ。それこそが教育であって、知識や知恵というのは、あくまでもその副産物に過
ぎない。

 日本では「受験」、つまり人間選別が教育の柱になっている。こうした非人間的なことを、組織
的に、しかも堂々としながら、それをみじんも恥じない。そこに日本の教育の最大の欠陥が隠
されている。冒頭に、私は「上位10%」とか、「下位10%」とか書いたが、こうした考え方その
ものが、まちがっている。私はそのまちがいを、その母親に教えられた。


●のどは心のバロメーター
  
 大声を出す。大声で笑う。大声で言いたいことを言う。大声で歌う。大声で騒ぐ。何でもないよ
うなことだが、今、それができない子どもがふえている。年中児(満5歳児)で、約20%はいる。

 この「大声で……」というのは、幼児教育においては、たいへん大切なテーマである。この時
期、大声を出させるだけで、軽い情緒障害くらいなら、なおってしまう。(「治る」という言い方
は、教育の世界ではタブーなので、あえてここでは、「なおる」とする。)私も幼児を教えて30年
以上になるが、この「大声で……」を大切にしている。言いかえると、「大声で……」ができる子
どもに、心のゆがんだ子どもは、まずいない。そういう意味で、私は、『のどは、心のバロメータ
ー』という格言を考えた。

 が、反対に「大声で……」ができない子どもがいる。笑うときも、顔をそむけて苦しそうにクッ
クッと笑うなど。「大声を出してくれたら、それほど気が楽になるだろう」と思うのだが、大声で笑
わない。原因は、母親にあるとみてよい。威圧的な過干渉や過関心、神経質な子育て、暴力、
暴言が日常化すると、子どもの心は内閉する。ひどいばあいには、萎縮する。

意味のないことをボソボソと言いつづけるなど。が、そういう子どもの親にかぎって、自分のこと
がわからない。「うちの子は生まれつきそうです」とか言う。中には、かえってそういう静かな
(?)子どもを、できのよい子と思い込んでいるケースもある。こうした誤解が、ますます教育を
むずかしくする。

 ともかくもあなたの子どもが、「大声で……」を日常的にしているなら、あなたの子どもは、そ
れだけですばらしい子どもということになる。


●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強は
そうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしな
い。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。
これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中1)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になってい
る。そのため中学2年から3年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際に
は、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週3回通うほか、個人の家庭教師に週1回、勉強をみてもらってい
た。が、母親はそれでは足りないと、私にもう1日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はとり
あえず3か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていたが、
まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では開
こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、何
とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをすれ
ば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば
別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私の
ほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよ
りは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をしたり、趣味の話をしたりするな
ど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう
言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわ
ねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに1学期、2学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その
成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントアウトしてし
まうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受
験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、な
おさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは
思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしま
う。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階で失敗と気づいたからと
いって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。
それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K
君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。
が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あん
たはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言ったらどうだ。失
敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教
育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日
本の教育の悲劇がある。それはともかくも、30年以上もこの世界で生きていると、そのあと家
庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるよう
になる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが
起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は
不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いな
おす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励ま
し、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たと
えば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさ
い)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。


●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題
にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷
底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての悪循環。一度そ
の悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、つぎつ
ぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。
問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親
は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくし
て、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に
近い期待が、親を狂わす。が、あるところまでくると、限界へくる。が、このころになると、親の
ほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れそうだとわかると、「せめ
てA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうした無理が、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始ま
る。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかり
つぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間
かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。一度、こういう症状を示したら、親は子ど
もの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれがわからない。子どもを叱ったり、説教し
たりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落とす。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、
朝寝坊などなど。神経症には定型がない※。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつ
けてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて
解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する
不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達し
たとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。不登校だけではない。バーントアウ
ト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競争に遅れてしまう」と嘆くが、その程
度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにその下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、20人に1人と
も、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食
症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭
にある。が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親
はまず、いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に
原因を求め、その責任を追及する。

もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮にそうではあっても、もし家庭が「心を
休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たしているなら、ほとんどの問題は、深
刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずである。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさ
ないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしな
いことだけ」を考えて、1年単位で様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果。(だ
から悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷
底へ落とさないことだけを考えて、対処する。


●何でも握らせる
 
 人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、どちらか一方の大脳
が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって決
まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決ま
るとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手でさわりた
がる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が刺激されるの
か、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、概して言えば、さ
わりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについて、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石でできた
球を売っていた。2個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老人が使う、ボ
ケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使うのだそうだ。そして
それが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳に刺激を与え、それが知的
な意味でもよい方向に作用するということは前から知られている。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも効果
的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)そして
「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握る」「遊ぶ」「作
る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達する。もちろん指先も器用
になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子どもは、
線にそって、紙をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることができない。


●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で10年、20年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時間と
ともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。


●入試は淡々と

 入試は受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。とくに幼児の
ばあいは、そうする。

 入試でこわいのは、そのときの合否ではなく、仮に失敗したとき、その失敗が、子どもの心に
大きなキズを残すということ。こんな中学生(中2女子)がいた。「ここ一番」というときになると、
必ず決まって、腰くだけになってしまう。そこで私が「どうして?」と理由を聞くと、こう言った。「ど
うせ私はS小学校の入試で失敗いたもんね」と。その女の子は、もうとっくの昔に忘れてよいは
ずの、小学校の入試で失敗したことを気にしていた。

 こうしたキズ、つまり子ども自らが自分にダメ人間のレッテルを張ってしまうということは、本
来、あってはならないこと。そのためにも、子どもの入試は、すべることを考えて準備する。もっ
とわかりやすく言えば、淡々と迎え、淡々とすます。(もちろん合格すれば、話は別だが……。)

実際、子どもの心にキズをつけるのは、子ども自身ではなく、親である。中には、子どもが受験
に失敗したあと、数日間寝込んでしまった母親がいる。あるいはあまり協力的でなかった夫と、
喧嘩もんかになってしまい、夫婦関係そのものがおかしくなってしまった母親もいる。さらに、長
男が高校受験で失敗したとき、自殺をはかった母親もいる。子どもの受験には、親を狂わせ
る、恐ろしいほどの魔力があるようだ。

 それはさておき、子どもの入試には、つぎのことに注意するとよい。「受験」「受かる」「すべ
る」という言葉は、子どもの前では使わない。「選別される」という意識を子どもにもたせてはい
けない。ある程度の準備はしても、当日は、「遊びに行こう」程度ですます。あとはあるがままの
子どもをみてもらい、それでダメなら、こちらからその学校を蹴飛ばすような気持ちですます。
そういう思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもはその時点から、また、前向きに伸
び始める。


●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであれば、
よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。とくに何らかの心の
問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。たとえば学校恐怖症
による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然にぐずる、熟睡できず
眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」ともい
う。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タイム・
ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心をいだ
いたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気を消し
てしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのものが
不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で10時間15分。年長児で10時間である。最低でもその睡眠時間は確保す
る。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、20〜30%はいる。日中、生彩のな
い顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだか
と思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して昼寝グセのある子どもは、スー
ッと眠ってしまうので、区別できる。)


●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「先生の話をよく聞くのですよ」「友だちと仲よくす
るのですよ」と子どもに言うのは、親の気休め程度の意味しかない。そういうときは、こう言い
かえる。「幼稚園(学校)から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」
「この○○(小さなプレゼント)を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶわよ」と。

「交通事故に気をつけるのよ」と言うのもそうだ。具体性がないから、子どもには説得力がな
い。子どもに「気をつけろ」と言っても、子どもは何にどう気をつけたらよいのかわからない。そ
ういうときは今度は、寸劇法をつかう。子どもの前で、簡単な寸劇をしてみせる。私のばあい、
年に一度くらい、子ども(生徒)たちの前で、交通事故の様子をしてみせる。ダンボール箱で車
をつくり、その車にはねられ、もがき苦しむ子どもの様子をしてみせる。

コツは決して手を抜かないこと。茶化さないこと。子どもによっては、「こわい」と言って泣き出す
子どももいるが、それでも「子どもの命を守るため」と思い、手を抜かない。

 ほかに、たとえば、「あと片づけをしなさい」と言っても、子どもにはそれがわからない。そうい
うときは、「おもちゃは一つ」と言う。またそれを子どもに守らせる。子どもはつぎのおもちゃで
遊びたいため、前のおもちゃを片づけるようになる。(ただし、日本人ほど、あと片づけにうるさ
い民族はいない。欧米では、「あと始末」にはうるさいが、「あと片づけ」については、ほとんど何
も言わない。念のため。)

 これは私の教室でのことだが、私はつぎのように応用している。

 勉強中フラフラ歩いている子どもには、「パンツにウンチがついているなら歩いていていい」
「オシリにウンチがついているのか? ふいてあげようか?」と言う。

 なかなか手をあげようとしない子どもには、「ママのおっぱいを飲んでいる人は、手をあげなく
ていいよ」と言う。

 こうした言い方をするには、もちろんそれなりの雰囲気が大切である。言い方をまちがえる
と、セクハラ的になる。「それなりの雰囲気」というのは、教師と親の信頼関係と、そうしたユー
モアが理解されるようななごやかな雰囲気をいう。それがないと、とんでもない誤解を招くことが
ある。私もこんな失敗をしたことがある。

 ある日、一人の男の子(小3男児)が、勉強中、フラフラと席を離れて遊んでいた。そこで私
が、「おしりにウンチがついているなら、歩いていていいよ」と声をかけた。ふつうならそこでそ
の男に子はあわてて席につくのだが、そこでハプニングが起きた。横にいた別の男の子が、そ
の立っている男の子のおしりに顔をあてて、こう叫んだ。「先生、本当にこいつのおしり、ウンチ
臭い!」と。

 そのときはそれで終わったが、つまりその言われた子どもも、それなりに笑って終わったが、
その夜、父親から猛烈な抗議の電話が入った。「息子のウンチのことで、息子に恥をかかせる
とは、どういうことだ!」と。


●仲のよいのは、見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育
てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませ
ておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。
とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはど
んどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な
形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮
せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきた
ら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうも
のであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ
世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。
しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえ
ない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう
思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑
いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があ
って、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったと
き、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子ど
もへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるとき
は、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦
が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


●流れには従う

 世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのうちという
ことになる。

 たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ〜」(舟木一夫の「高校三年」)と
歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒業」)と歌
った。この違いは大きい。

 そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。それが
よいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約60%の子どもが、「勉強で苦労す
るから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長談話)。また日本
労働研究機構の調査(2000年)によれば、高校3年生のうちフリーター志望が、一二%もいる
という(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。「いろいろ
な仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。30年前のように、
「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。これはまさに「サイレント革
命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、
今、着実に変わろうとしている。

 ところで親子を断絶させる三要素に、(1)親子のリズムの乱れ、(2)信頼感の喪失、(3)価
値観の衝突がある。このうち(3)価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れについてい
けない親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、自分の価値観
を子どもに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを入れる。

親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。

 どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断絶して
いく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは55%もいる(「青少年白
書」平成10年)。「父親のようになりたくない」と答えた子どもは80%弱もいる。この時期、「勉
強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考えてよい。


●なくしてわかる生きる価値

 賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。健康し
かし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、中に隠
れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よさ」。それに親が
いつ気がつくかということ。

 たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どうして
うちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、もし子どもの中
に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこんな母親がいた。

 その娘(中3)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母親は毎日
ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、1年もつづくと、母親の精神
状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のところに相談にきた。「ど
うしてうちの娘は……?」と。

 しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性格もおだ
やかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校でもリーダー
で、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、それにこういう言い方
は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そういう子どもでも、親は、健康を
悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でならなかった。

 昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人間の欲望
や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っても、まだまだ
苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味だが、子育てで行きづま
りを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろというのではない。「今、ここに子ども
が生きている」という原点から見る。そういう視点から見ると、ほとんどの問題は解決する。

 あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、あな
たの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くもつ。


●名前は呼び捨て

 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。
先日も埼玉県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してくれ
た。「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで
私が「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、た
いへんなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中に
は、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。し
かし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさせ
ればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。

しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほど、生活力も身につき、忍耐力も養われる。
そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言うまでもなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労
してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「〜〜さん」とか、「〜〜ちゃん」づけで呼ぶ親を
見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。一見、子どもを大切にしているように見えるが、
どこか違うような気がする。それで子どもに問題がなければよいが、たいていは、そういう子ど
もにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしてい
る。子どもが小さいうちならまだしも、やがて親の手に負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子で
も、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあって
いる。そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則
は、子どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を
閉ざす。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」で
は、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒である。それほど深刻な問題ではない
かもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また呼び捨てでよい。


●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

(1)名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子ど
もはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」について
は、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。

(2)人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や
威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような
「核」攻撃は、タブー中のタブー。

(3)人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。
子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好まし
いものではない。

(4)自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけ
に、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。
もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。

(5)名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前は
すばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることか
ら、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、
高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を
大切にすることを学ぶ。


●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、
その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気
を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、
大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)内閉型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私
はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することができず、引き
こもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多
い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうし
た反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体
験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育
て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少しい
じめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の情
緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。

たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうし
た恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊ん
でいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の
情緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということ
を、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダというこ
とをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状
況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり
方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多
い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年より
よくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、
立ちなおりがむずかしくなる。


●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と聞くと、
右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や外からの情報
に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせ
ようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決まるというから、
あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、その先生の個性が子ど
もに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあ
るので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないというこ
と。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が「お子さんは、どう
思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論は出
たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものが
ないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの
「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなた
がこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、3日置いて出す。このタイプの母親
ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。だか3三
日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱えるとよ
い。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜい一週間
程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうもの。その
親自身の全人格がそこに反映される。
(以上10−18分まで)

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1727)

(BWより)

+++++++++++++++

子どもは、(世の男たちも)、
オッパイの話は、大好き。

たまに「嫌い」という子どもも
いるが、そう言いながら、おとな
ぶっているだけ。


+++++++++++++++

 きっかけは覚えていないが、昨日、小2の子どもたちを教えていたら、突然、おっぱいの話に
なった。

 で、私が、「おっぱいにもいろいろある。イチゴオッパイ、レーズンオッパイ、それに梅干オッ
パイ……。まだある。ストロベリーオッパイというのもある」と。

 すると子どもたちが、「先生の奥さんのは何?」と。

私「そうだなあ……。あえて言うなら、ホットケーキの上に、レーズンかな?」
子「レーズンオッパイだってエ?」「今度、奥さんに言いつけてやろう」と。

 すると、今度は子どもたちが、「ママのオッパイは……」と、勝手に言い出した。そこですかさ
ず私が、「ママの話はしてはダメ」「怒られぞ」と。

 が、子どもたちは、止まらない。

A子「私のママは、Bカップだってエ?」
B男「ぼくのママは、Aカップだってエ。ママが言っていた」と。

 するとC子が私に聞いた。「先生、オッパイって、いくつまであるの。C、それともD……?」と。

私「知らない。そういう話は、パパに聞きなさい」
子「先生の奥さんは、何カップ?」
私「知らない。今度、聞いておく」
子「私、いやだわ。あんなビロ〜ンとしたオッパイになるなんて……」
私「だって、あなたは女の子だから、もう3、4年もすると、そうなるよ」
子「ハハハ、いやだワ〜」と。

 ところで最近は、母親たちも、私に向かって、オッパイの話を平気でするようになった。「うち
の息子(小4)が、まだ私のオッパイにさわりたがります。どうしたらいいでしょうか」とか、「兄弟
で、私のオッパイを取りあっこして、喧嘩になります」とか。

 こういった話をするようになったということは、母親たちは、私を、もう「男」と見ていないという
ことになる。

 3、4年前だが、同じような話になったことがある。ある母親は、こう言った。「兄(小3)は、右
のオッパイ。弟(5歳)は、左のオッパイと決めています」と。

 で、「どうして?」と私が聞くと、その母親は、恥ずかしげもなく、両手で、両方のオッパイをも
ちあげながら、(もちろん服の上から)、「ほら、右のほうが、大きいでしょ。だからです」と。

 私だって、まだ「男」なのに……! そのときは心底、ドキッとした!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ケチな人

++++++++++++++++++

ケチと質素とは、ちがう。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を
使わない。

質素な人は、無用、無駄な、お金は使わない。
それをよくわきまえている。

++++++++++++++++++

 世の中には、「ケチ」と呼ばれる人は、ゴマンといる。長男、長女に多いのは、それだけ生活
が防衛的であることによる。わかりやすくいえば、下の子が生まれたことにより、乳幼児期の愛
情飢餓が、嫉妬(しっと)へと変化し、その嫉妬が、防衛的な生活態度に結びついたと考えると
わかりやすい。

 長男、長女ほど、「ぼくのもの」「私のもの」という意識が、強い。つまりそれだけ、心の許容範
囲が狭いということになる。

 私の兄なども、(今は、ボケてしまって、どうしようもないが)、若いころでも、私が買ってやった
ステレオセットにすら、私にさわらせなかった。私は、私が買ってやったのだから、「私のもの」
と考えた。しかし兄には、そうではなかった。

 そのときは、そういう長男、長女のもつ心理を、理解することができなかった。(今は、できる
が……。)

 こういうのを、「ケチ」という。

 で、以前、コンドームを、洗って、再使用している夫婦のことを書いた。ふつう(?)、コンドー
ムというのは、再使用しない。「質素」というふうにも、考えられなくはないが、しかしその夫婦の
ばあいは、ほかの面でも、異常なほど、ケチだった。

 たとえば夫婦の兄弟たちと飲み食いしたときでも、「私は兄だ」という、家父長意識ばかりが
やたらと強く、自分で、お金を出したことがない。出しても、10円単位までの割り勘。弟のほう
が見るにみかねて、「まあ、いいから……」と言って、全額払うことが多かった。

 ほかに、衣服でも、破れて使い物にならなくても、きちんとタンスに入れてしまっていたとか、
など。

 ケチと質素は、どこがどうちがうか。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を使わない。質素な人は、無用、無駄なお金は使わな
い。それをよくわきまえている。が、もう少し踏みこんで考えてみると、こうなる。

 物欲に毒され、お金やモノに執着する人を、「ケチ」という。物欲とは関係なく、心の豊かさを
優先して考える人を、「質素」という。

 このことは、金持ちでありながら、ケチな人と、金持ちでありながら、質素な人を見比べてみ
ると、よくわかる。

 まず、金持ちでありながら、ケチな人……妻や子どもの必要経費にすら、お金を出し渋る。兄
弟や姉妹、親類に対しはなおさらで、実際には、1円も払わない。毎日札束か預金通帳をなが
めて暮らしている。

 金持ちでありながら、質素な人……人生を、余裕をもって楽しんでいる。以前、この浜松市で
も、1、2番の長者番付に入るような人の子ども(姉妹)を、2人、教えたことがある。で、私は、
その子どもたちの持ち物を見て、驚いた。

 何と、子どもたちのもっている手提げバッグは、母親の手作りだった。しかも、バッグには、家
からBW(私の教室)までの地図が縫いこんであった。そういうのを、「質素」という。

 しかし長い人生を通してみると、ケチは、一生、ケチ。その結果、失うものも、多い。(本人
は、死ぬまで、それに気づかないだろうが……。)殺伐とした人間性は、それだけで人を遠ざけ
る。物欲に固執する姿は、だれが見ても、見苦しい。心に余裕がないから、つまり、自分の利
益になることしか考えていないから、話していても、つまらない。

 が、それ以上に、人生の(真理)そのものから、遠ざかる。言い換えると、人は損をすること
で、大きくなれる。損をすることに寛大になることで、心を豊かにすることができる。よい例が、
ボランティア活動である。

 あのボランティア活動を、進んでする人たちを見ればよい。みな、生き生きと、明るい。あの
明るさこそが、ここでいう心の豊かさということになる。

 ケチは、心の大敵と考えてよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

【改正基本法成立!】

+++++++++++++++++

教育基本法なって、私には関係ないと
あなたは思っていないか?

もし、そうなら、それはとんでもない
まちがい。

その影響は、まさに甚大!

大げさなことを言っているのではない。

よい例が、若者たちの政治的無関心。

なぜこうまで若者たちが政治に無関心に
なってしまったか。

それを決めたのが、たった3通の文部省(当時)
の通達であったことを、あなたは知っているか?

たった3通だぞ!

つまり教育基本法には、それくらいのパワーが
ある。

それがわからなければ戦前の日本を見ればよい。

あの軍国主義を先頭に立って、推し進めたのが、
ほかならぬ、文部省だった。洗脳教育というのは、
それくらい恐ろしい。

日本人は意識しないうちに、ジワジワと、
洗脳されていく。

それが教育基本法。教育の憲法ということは、
これから先、日本は、ますます戦前の日本に
近づいてくる。

はからずも、藤原M氏の書いた、「国家の品格」が、
数百万部(220万部、06年11月)も売れた
という。

1回の公開討論会に、数千万円もの予算をかけて
世論づくりする、この日本!
あなたは、何か、胡散(うさん)臭いものを、
こうした流れの中に感じないか?

まず私が、5年前に書いた原稿を読んでほしい。

5年前だぞ!

++++++++++++++++++

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Indifferent people)」というのは、それだけで軽蔑の対象にな
る。非難されることも多い。だから「あなたは無関心な人だ」と言われたりすると、その人はそ
れをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、それに猛烈に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)ということ
になっている。だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さない。関心もな
い。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。ほとんどの子どもは、「セイジ
……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。(実際、どの部分がどのようにダ
サイのか、私にはよく理解できないが……。「ダサイ」という意味すら、よく理解できない。)

●政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
●社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
●あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。今のこの日本が、そ
の結果であるといってもよい。これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。

●文部省からの3通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、3通の文部省通達である(たった3通!)。文部省が1960
年に出した「文部次官通達」(6月21日)、「高校指導要領改定」(10月15日)、それに「初等
中等局長通達」(12月24日)。

 この3通の通達で、(1)中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、(2)生徒
会活動から、政治色は一掃された。さらに(3)生徒会どうしの交流も、官製の交流会をのぞい
て、禁止された。

当時は、安保闘争の真っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなりの理由があった
が、それから40年。日本の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」に改造された。その
結果が、「ダサイ?」ということになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。どんな生活であるにせよ、一度その生活に入る
と、どんな人でも保守層に回る。そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、それである。

構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう10年以上になるが、結局は、ほとんど何も改革
されていない。このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きくなる。いや、すでに、日
本は、現在、にっちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。あとはいつ爆発し、崩壊
するかという状態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった3通の、次官、局長クラスの通達で、日本の教
育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。そしてその恐ろしさを、どうか理解してほし
い。日本の教育は、こういう形で、中央官僚の思うがままにあやつられている。

++++++++++++++++++

同じく、4年間に書いた原稿。

++++++++++++++++++

犬の遠吠え!

●どこかおかしいぞ、この日本!

H市の市役所に勤める知人のK氏(50歳課長)はこう言った。「こういう時代になってみると、
公務員になって、つくずくよかったと思います。デフレで物価も安くなり、生活も楽になりました」
「公務員に公僕意識? そんなもの、絶対にありませんよ。公僕意識など、絶対にない。私が
保証します」「公務員の数は、今の2分の1で十分。3分の1でもいいかな」と。……これが公務
員の人たちの偽らざる本音ではないのか。

●どんとやってくる老後

 子育てが終わると、どんとやってくるのが、老後。子育てで夢中の間は、それに気づかない。
「子どもたちよ、早くおとなになれ」「早く子育てから解放されたい」と思いながら、別の心で、そ
れなりに自分が年をとっていくのを納得していた。が、かくも、早く流れていくものとは……!

●1億円もかかる?

 気がついてみると、このところ体力も気力も、がくんと落ちた。集中力もつづかない。当然の
ことながら、その分、収入も減った。ときどき「このままだと、自分はどうなるのか」と考える。多
分、みじめな老後になることだろう。退職金も天下り先も、年金もない。

国民年金というのには、24歳のときから加入しているが、あんなものはアテにならない。それ
がよいとは思わないが、この日本では、公務員になったほうが、絶対、得! 何といっても、官
僚主義国家。完全終身雇用に完全年功序列。近所のU氏など、旧国鉄を満55歳で退職して
から、以来、月額32万円と少しの年金を受け取っている。それがもう26年になる。総額で、ち
ょうど一億円!! 

私が彼と同じような生活をしようと思えば、今、この段階で、1億円の貯金がなければならな
い。しかしそんな貯金、どこにある! 「ああ、私もどこかの公務員になっておけばよかった…
…」と、思うのは、敗北を認めるようなもの。だから、そう思いたくないが、この不公平感が、受
験戦争の元凶になっていることを忘れてはならない。

●結局は、私が悪い

 先週も、ワイフとこう話し合った。「こうなったら、健康しかない。幸い、ぼくたちは健康だから、
死ぬまで健康でいよう」と。健康なら、何とか働くことができる。その分、多少なりとも、収入が
見込める。「だから健康でいよう」と。

 しかしもしその健康も、あやしくなったら……? 考えるだけでも、ぞっとする。さらに仕事がな
くなったら……? ますますぞっとする。どこかの老人ホームへ入ろうと考えていたが、それす
らむずかしくなる。考えてみれば、こういう社会をつくってしまった、私が悪いのだ。公務員だけ
が、どうしてこうまで手厚く保護されるのだろう。また手厚く保護しなければならないのだろう。
公務員といっても、国家公務員や地方公務員だけではない。

●それぞれの人に責任があるわけではないが……

 よく政府は、「日本の公務員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。が、これは
ウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほか、公
団、公社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。

これらの職員の数だけでも、「日本人のうち7〜8人に1人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。
が、これですべてではない。

この日本にはほかに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施設、社
団、財団、センター、研究所、下請け機関、さらに関連団体の隠れファミリー企業がある。この
組織は全国の津々浦々、市町村の「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こ
うした外郭団体が、1800団体近くもある。

 こうした組織や団体の人は、この不況下にあっても、不況など、どこ吹く風。わが世の春を謳
歌している。が、そのためたまりにたまった、国の借金が、もうすぐ1000兆円! 1000兆円
だ! 日本人1人あたり、約6800万円! 

これは年収500万円(国の税収が50兆円)の人が、毎月25万円(赤字国債30兆円)ずつの
借金をしながら、なおかつほかに、1億円の借金をかかえていることに等しい。

年収500万円の人に、1億円の借金など、返せるわけがない。1人ひとりの公務員の方に責
任があるわけではないが、どうかどうか、心のどこかで、うしろめたさを少しは感じてほしい。こ
の日本、あまりにも不公平! 不公平すぎる!

●破産するのは確実

 ……と、ぼやいても、どうしようもない。どのみち、この日本は破産する。ここ数か月以内とい
う学者もいるが、数年以内という学者もいる。しかし遅れれば遅れるほど、借金は雪だるま式
にふえ、その被害は拡大する。今日は無事でも、明日、どうなるかわからない。本当は、あの
バブルがはじけた直後に、清算しておくべきだった。あのころならまだ日本には体力があった。

しかし今、その体力すら使い切ってしまった。愚かな、愚かな政治の結末。そういう政治家を選
んできた、愚かな、愚かな国民の結末。先日も、テレビで暴走族の若者が、こう叫んでいた。
「お前ら、おとなに偉そうなことを言う資格はあるのかよォ!」と。一人のおとなが、彼らを口汚く
ののしったときのことだ。そう、私たちおとなに、偉そうなことを言う資格はない。

 ああ、私の老後は、お先、まっ暗。このところワイフは真剣なまなざしで、「どこかの国へ、移
住しようか」と言っている。まだ夢のような話だが、それも選択肢のひとつとして、考えたほうが
よいかもしれない。考えてみれば、私は、この日本から優遇されたことは、ただの一度もない。
あるといえば、ワイフが出産したとき、市から祝い金を、そのつど10万円と少しもらっただけ
(※注)。それだけ。

このままどこかの国に移住しても、未練はない。仮に国が破産するときになっても、最後の最
後まで生き残るのが公務員。そしてそのあと再生するにしても、まっ先に息を吹き返すのも、こ
れまた公務員。構造改革(官僚政治の是正の別語)などいう言葉があるが、与党はおろか、野
党の党首もみな、元中央官僚。そういう世界で、どうして構造改革などできるというのか。

●悲しき地方根性

 さらに悲しいかな、この浜松という地方都市ですら、何でもかんでも、「中央(東京)からきた」
というだけでありがたがる。国会議員も市長も、みな、元中央官僚。日本が民主主義国家だと
思っているのは、日本人だけ。学生のころ、オーストラリアで使っているテキストでは、「日本は
官僚主義国家」となっていた。「君主(ローヤル)官僚主義国家」となっているのもあった。

当時の私はこれに猛反発したが、それから32年。日本は官僚主義国家だった。今もそうだ。
役人たち(官僚、公務員すべて)が、役人による、役人のための、役人の政治をしている。民主
主義など、隠れ蓑(みの)に過ぎない。ひとつの例を出そう。

●審議会という曲者

 役人が政治を動かしたいと考えるときは、まず諮問委員会をつくる。委員は各界の有識者と
いうことになるが、こういう委員会では、いつも人選が問題になる。どうしてその人が選ばれた
か、その基準が明確ではない。そんなわけで、たいていは、役人につごうのよいイエスマンだ
けが選ばれる。

 そういう委員会をつくり、会合を開く。しかしこの段階で、大筋の議案、討論内容は、役人が
つくる。あとは会合を数回開く。各委員の数が多ければ多いほど、それぞれの委員の発言時
間は少なくなる。しかしそれこそ役人の思うツボ。

たいていは1回の会合で、1人10分間程度の発言時間しかない。議論などできるわけがな
い。そしてそういう会合を数回開いて、委員長に結論を出させる。これを答申というが、あとは
そのお墨付きを手にして、役人たちはまさにしたい放題。

国家的事業の計画や国家的方針の変更はもちろんのこと、あなたの町の小さな事業も、すべ
てこの方式が基本で決定されている。たとえば今回の学校5日制にしても、学習要領の削減に
しても、こうした流れで決まり、文部省の課長程度が発する一枚の紙切れ通達で日本中が動
いてしまった。

●私の遠吠え

 悲観的なことばかり書いた。暗い話ばかり書いた。どうも自分の老後を考えると、こういう話
になってしまう。明るい話など、どこをつついても、出てこない。かくなる上は、やはり自分のこと
は自分で守るしかない。どうせ私がこうして騒いでも、まさに犬の遠吠え。この日本という社会
は微動だにしない。何といっても、歴史が長い。日本は奈良時代の昔から、君主官僚政治の
国。だから今日も吠える。私は吠える。このところやや元気がなくなった声をふりしぼって、吠
える。

 ワオー、ワオー、ワオー!
 もう一度、怒りをこめて、ワオー、ワオー、ワオー!
(02−8−5、はやし浩司)

注※……もろもろの行政サービスや、施設の使用など、日本人として恩恵を受けてきたことは
事実。そういう事実をふまえて、よく「お前は、それなりに国の世話になっているではないか」と
言う人がいる。

しかし日本あっての、日本人なのか。それとも日本人あっての、日本なのか。前者はまさに全
体主義を代表する考え方、後者はまさに民主主義を代表する考え方ということになる。官僚社
会には、まだこの全体主義的な発想が、色濃く残っている。

注※2……たとえば日本道路公団だけでも、OBが、709社(平均3人強)に天下りしている。
これは約2500人の90%以上。しかし実際には、そのほか隠れファミリー企業への天下りも
多く、ほぼ100%が関連企業へ天下りしているとみてよい。

これに対して、民営化推進委員会は再三、道路公団に関連会社の経営内容を示すデータの
提出をもとめているが、「公団側は完全には応じていない」(読売新聞02年8月)とのこと。

++++++++++++++++

 現在(06年12月)、日本はかろうじて国家破綻することもなく、わずかな数字だが、景気拡
大をつづけている。

 理由は、明白。本来なら国民に渡るはずのお金を、銀行(=国)が吸いあげているからであ
る。わかりやすく言えば、結局は、国民が犠牲になってしまった。先の戦争のときは、「命」が犠
牲になった。今度は、「お金」が犠牲になった。

 これから先、文科省は、「改正教育基本法」を楯に、好き勝手なことをしてくるだろう。これさ
え手に入れれば、解釈のしかたは、自由。課長程度が発する(通達)程度で、国民をどのよう
にも誘導できる。好き勝手に料理できる。

 こまかい通達を無数に出しながら、最終的には、国民を大きく動かしていく。

 なぜ今のあなたが、政治的に無関心なのか? つまりはそういうあなたに、教育によって作ら
れたからにほかならない。ここにあげた(3通の通達)は、そのほんの一例にすぎない。ここに
(教育)のこわさがある。恐ろしさがある。

++++++++++++++++

 もう、私の仕事は終わったように思う。
この5年間、私は私なりに、ものを書いてきた。
訴えてきた。しかし振りかえってみると、
私のしたことは、ただの(犬の遠吠え)に
しかすぎなかった。

 もう1作、4年前に書いた原稿を1作。

+++++++++++++++

●子どもの学力

 新学習指導要領によって、02年度から、教育内容は大幅に削減された。それについて、公
立の小中学校の教師について調査したところ、約7割が、「削減のしすぎ」と答えていることが
わかった(ベネッセ教育研究所)。

 「削減のしすぎ」と答えた小学校の教師……67・3%
             中学校の教師……71・7%

 「子どもの学力低下が起きる」と答えた小学校教師……76・0%
                   中学校教師……87・1%

 「新学習指導要領の見直しが必要」と答えた小学校教師……73・4%
                     中学校教師……82・4%

 この結果を見て、私はいくつかのことを考えた。まず、こうした新学習指導要領の変更にせ
よ、ほとんどの変更が、文部科学省の、局長、課長レベルの通達だけで、なされていること。わ
かりやすく言えば、ほんの一部の官僚たちの意向によって決定されていること。

 つぎに現実問題として、削減された直後の、02年4月には、教える私自身が、「こんなに簡
単になってよいものか?」と思ったほどである。簡単なテストをしても、皆、100点という状況だ
った。しかしそれも数か月だけのこと。やがて夏休みが終わるころになると、またもとのように、
できる子とできない子が現れ始めた。そしてほぼ1年がたってみると、新学習指導要領は何だ
ったのかという状況になっている。 

 一度のびたゴムは、もとには戻らない。この段階になって、再び、削減した内容をもとに戻す
などということは、不可能。新学習指導要領では、約3割削減されたということだが、仮に1割
復活させるというだけでも、現場は、大混乱するに違いない。それ以上に、子どもが応じないだ
ろう。

 で、3つ目の問題として、こうした混乱の責任は、だれが取るのかという問題。多分、文部官
僚のことだから、責任逃れのための諮問(しもん)機関※ぐらいは作ったかもしれない。いわゆ
る有識者による諮問機関というのである。

官僚たちは、自分たちの権威を守り、自分たちのしたいことをし、お墨付きをもらうために、こう
した諮問機関を実にたくみに利用する。東大の元教授ですら、「だいたい諮問機関のメンバー
が、どういう基準で選ばれるのか、それすらわからない」と暴露している。

 グチを言っても始まらないが、現場の教師や子ども、それに親たちこそ、えらい迷惑。毎月の
ように変わる教育方針に振り回されるだけ。見かけはともかくも、最前線に立つ教師たちは、
みんなやる気をなくしている。そういう現実が、まったくわかっていない。

 今でも小学二年で掛け算を学ぶことになっている。それはそれとして、20年前、30年前に
は、学校の教師は、残り勉強をさせてでも、子どもに掛け算の九九を暗記させていた。しかし
今は、違う。「適当」というと誤解があるが、まさに適当。「一応教えるが、覚えるか覚えないか
は、子どもたちの問題」と、どこか突き放したような教え方になってきている。(これは私の、あく
までも個人的な印象だが……。)

 だから掛け算の学習が終わると、子どもたちはそのまま九九すら、忘れてしまう。これも私の
実感だが、その直後ですら、約20%の子どもは、満足に九九すら言えないのではないか。ど
の程度を、「できない」と言うかについても、議論はあるが……。

 だから小学3年生で、割り算を学ぶことになっているが、その前に、もう一度、掛け算の九九
を復習しなければならない。しかし現実には、その時間はない。だから九九がわからない子ど
もを残したまま、割り算の学習に入っていく。つまりこんなことを繰りかえしていたら、日本の子
どもたちの学力は、ますます低下していくだけ!

 親たちは、「小学2年で掛け算を学んだから、うちの子は、掛け算はできるはず」と考える。あ
るいは「掛け算の九九を、ペラペラとソラで言えるから、掛け算はできるはず」と考える。しかし
これはまったくの誤解。子どもだって、忘れるものは忘れる。掛け算の九九にしても、数か月も
使わなければ、忘れる。

 また九九をソラで言えるからといって、掛け算をマスターしたことにはならない。中には、「2×
3」は、「2+2+2」という意味ということすら理解していない子どももいる。そういう子どもが割
り算の学習に入ったら、どうなる?

 日本の教育は、今、危機的な状況にある。が、それだけではすまない。教育のこわいところ
は、その結果が、20年後、30年後に出てくるということ。つまりその分、責任の所在がわから
なくなってしまうということ。そしてさらにこわいところは、仮に今、すばらしい教育をしたとして
も、その成果が出てくるのは、やはり20年後、30年後ということ。こうしたことを言いかえると、
「日本の未来は、今の子どもたちを見ればわかる」ということになる。

 この先はまた別の機会に書くとして、今、構造改革(官僚政治の是正)が、もっとも必要なの
は、実は文部科学省なのである。そういうことが、日本の政府も国民も、まったくわかっていな
い。一つの例をあげる。

 もう15年ほど前だろうか。世界中で、コンピュータ教育が始まった。私が印象に残っているの
は、一二年前にオーストラリアへ行ったときのこと。地方の小さな小学校を訪れたが、そこでは
何と小学3年生からコンピュータが必須だった。それからさらに数年後には、中学校での宿題
すら、フロッピーディスクで提出するのが、当たり前になっていた。

 が、日本では、実験的に数台もしくは、10台前後が、選ばれた小学校や中学校に置かれて
いただけ。「日本でもコンピュータ教育を」という声が、通産省(当時)あがったが、それに「待っ
た」をかけたのが、何と、時の文部省である。

理由は、「教員免許をもった教員がいない」と。教員がいなければ、工学部卒の学生を教員に
すればよい。……とだれしも考えるが、そういう常識が通らないのが、日本の文部行政であ
る。何をするにも、資格だの、許可だの、認可がいる。教育学部で教授を育てるのに、20年か
かる。そんなのを待っていたら、その間に、世界はどこまで進む?

 その結果、日本のコンピュータ教育は、アジアの中ですらも、最下位になってしまった。台湾
や韓国にすら、大きく差をつけられてしまった。

 ここに書いたことは、私の記憶をたどりながら書いたことなので、細部ではまちがっているか
もしれない。しかし大筋では、まちがっていない。つまりこういうこと無数に繰りかえしながら、日
本の教育は、どんどんと遅れていく。少し前に書いた、少しショッキングなエッセーを転載する。
この原稿は、C新聞に載せてもらうつもりでいたが、編集者の意向でボツになったという経緯が
ある。

+++++++++++++++

文科省の通達だけで、どんどん
誘導されていく国民。

その1例というわけでもないが、
もう1作。

これは3年前に書いた原稿。

++++++++++++++

●子どもの書き順について

 どうして日本語には、トメ、ハネ、ハライがあるのか。その上、書き順まである! 加えて、そ
れぞれの字には、微妙なカーブすら、ある! 仮にそれがあるとしても、どうしてこうまで、毛筆
時代の遺物を、かたくなに守らねばならないのか? またその必要はあるのか?

 現在、私たちが書き順(正式には「筆順」という)が、正式に(?)に定められたのは、1958
年。時の文部省が通達した、「筆順指導の手びき」による。私が11歳のときのことだが、私は
そのときのことを、よく覚えている。それまでは、教える先生によって、書き順が異なっていた。
が、その年から、「今までの書き順は、正しくありませんでした。これからはこういう書き順に統
一されました」というようなことになった。

 で、その「筆順指導の手びき」によれば、こうだ。

(1)上から下へ、筆を運ぶ。
(2)左から右へ書いていく。
(3)横画が長く、左払いが短い字では、左払いが先。その逆は横画が先。
(4)字の全体を串刺しするような縦の「│」は最後、など、八つの項目が定められた。

ところで「左」と「右」という字は、書き順が異なる。「左」は、「─」を先に書く。「右」は、「ノ」を先
に書く。この根拠となっているのが、(3)の「横画が長く、左払いが短い字では、左払いが先。
その逆は横画が先」である。しかし私などは、何度、覚えても、この書き順を忘れてしまう。しか
しそれでは生徒を指導できない。そこで自分で、「道路で左右を見るときは、横見てノー、自動
車に気をつけよう」と覚えている。つまり「左右」の「左」という字は、まず「横棒を先に書き、
「右」は、「ノ」を先に書いて、自動車に気をつける、と。(この説明がわからない人は、ここを飛
ばしてほしい。どうせくだらないことだから……。)

 しかしそれにしても、くだらない! まったくくだらない! どうして字を下から上に書いてはい
けないのか。幼児でも、はじめて字を覚えたころの子どもは、みんな下から上に書く。英語のア
ルファベットなどは、ほとんどが下から上に書く。鏡文字(左右反対の文字)や、逆さ文字がい
けないのは、わかる。しかし文字の使命は、見た目の美しさではない。中身だ。

 日本人に一番欠けているもの、それに一番必要なものは、「いいかげんさ」ではないのか。も
っとはっきり言えば、日本人は、あまりにも画一的すぎる。また画一的でありながら、それにす
ら気づいていない。尾崎豊の言葉を借りるなら、まさに「しくまれた自由」(「卒業」)の中で、そ
れを自由と思い込んでいるだけ。その一つが、ここでいう書き順である。

 もう、やめよう! こういうくだらない教育は! そしてみんなが声をあげればよいのだ。そし
ていつか、子どもたちにこう言えるようにしよう。「書き順はね、だいたい書ければいいのよ。あ
とは、あなたが好きなように書きなさい」と。そういうおおらかさが、子どもの心に風穴をあけ
る。もし、それがまちがっているというのなら、では、あなたは、つぎのテストで、いったい、何点
取れるだろうか?

【問】つぎの字の中で、「ノ」「─」の順に書く字は、どれか。

  左、右、在、原、布、成、皮

 この問題は、今年、京都市の私立R中学校の入試で出た問題である(読売新聞指摘)。もし
あなたが、この問題で、正解を答えられるなら、私は何も言わない。しかしそうでないなら、あな
たもいっしょに私と声をあげよう。

 「書き順なんか、いらない!」と。

ちなみに、この問題の正解は、「右、布、成、皮」だそうだ。ああ、くだらない。こんなこと試す中
学校なんか、私なら、こちらから願いさげ。行きたくない! 
(030401)

+++++++++++++++++

私たち日本人がもっている意識は、
決して標準的なものではない。

世界の常識でもない。

私たちは、たしかにだれかによって、
作られている。

その1つについて書いたのが、つぎの
原稿。

これは2年前に書いた原稿。

++++++++++++++++

●起立! 気をつけ! 礼! 着席!

 「起立! 気をつけ! 礼! 着席!」
 「起立! お願いします! 着席!」
 「起立! ありがとうございました! 着席!」

 学校によって多少、あいさつの仕方はちがうが、どこの学校でも、授業の前とあとには、この
ようなあいさつをしている。日本ではよく見られる、ごくあたりまえの光景である。

 しかし世界広しといえども、授業の前後に、こうしたあいさつをしている国は、台湾と韓国、そ
れに日本だけである。

 が、その韓国も、こうしたあいさつを、「日本帝国主義(植民地)時代の遺物※」として、政府
通達で、廃止することにした(04年)。残るは、台湾と、日本だけ!

 日本に住み、日本しか知らないと、そのおかしさに気づかないということは、よくある。

 もう15年以上前のことだが、アメリカにニューヨーク州から来ていた、女性の教師が、こんな
ことを話してくれた。

 何でも、「不気味だった」と。

 話を聞くと、こうだった。

 その教師が、近くのH湖へ水泳に行ったときのこと。どこかの女子高校生たちが、水泳の実
習授業に来ていたという。「その光景が、不気味だった」と。

 理由を聞くと、「みな、紺色の同じ、水着を着ていたから」と。

 私はそのときは、その女性の言っていることが、よく理解できなかった。日本では、ごくあたり
まえのことである。そこで「アメリカでは、どうだ?」と聞くと、「アメリカでは、みな、ちがった水着
を着ている」と。

 さらに今度は、同じくアメリカ人の男性教師だが、こんなことを言った人がいた。

 「朝礼が終わって、教室へ子どもたちがもどるとき、みな、並んで教室へもどってきた。それを
見たとき、ゾッとした」と。

 こうした感覚、それはある種のカルチャ・ショックと言えるものだが、この日本に住んでいる人
には、理解できない。(だからといって、日本の教育がまちがっていると言っているのではな
い。どうか、誤解のないように!)

 同じように、授業の前後の、あいさつ。韓国政府は、「権威主義的慣習」と評していたが、何
がどう権威主義的かということも、日本を一歩、離れてみないと理解できない。

 さて、日本、どうする?

 繰りかえすが、残るは、台湾と日本だけ。それでも、「必要」と感じて、こうしたあいさつを残す
か。それとも、世界の常識に合わせるか。これからの日本の教育のなりゆきを、注視したい。

※……韓国・ソウル市の教育庁は、日本の「起立」「礼」にあたる、教師へのあいさつを、廃止
する運動を始めた。
 「自由で多様な価値観を認める」という立場から、学校の教育現場から、権威主義的な慣習
を取りのぞくことを目的としている。
 韓国では、日本の植民地時代から、授業の前後には、「チャリョ(起立)」「キョンレ(敬礼)」
と、教師にあいさつをするのが、慣例になっていた。これを改め、たとえば「さわやかな朝です
ね」と、やわらかいあいさつにするという(以上、西日本夕刊)。

++++++++++++++++++

さあ、みなさん!

もっと賢くなろう!

未来の子どもたちのために!

この日本を救うのは、その(賢さ)だけ。

私たち1人ひとりが、賢くなる。

考える。

もしそれをやめたら、私たちは、まちがいなく、
戦前の日本に逆戻り!

最後に、「愛国心」について。

もう、何度も書いてきたテーマだが、
どうか私の原稿を読んでほしい。

この原稿は、06年(今年)の
はじめに書いたもの。

ここでは「基本」という言葉に抵抗を
感じたため、あえて「キホン」とした。

++++++++++++++++++

●教育キホン法改正案要旨

+++++++++++++++

今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。

それについて一言。

+++++++++++++++

 国があっての国民と考えるか、国民あっての国と考えるか……。それによって、教育キホン
法の内容は、大きく変わってくる。

 この日本では、奈良時代の昔から、「国あっての国民」と考える。国民、つまり「民」などという
ものは、言うなれば、国の財産。モノ。それとも奴隷(?)。

 本当に日本は、民主主義国家か? 民主主義国家と言えるのか? それを示す試金石が、
教育キホン法ということになる。

 が、今度閣議了承された、教育キホン法(教育キホン法改正案要旨)なるものは、相も変わ
らず、美辞麗句。抽象的文句の羅列(られつ)。官僚の作文。どこかの教授が、「ヘタクソな作
文」(中日新聞)と評していたが、まったくの同感。あのリンカーンは、ゲティスバーグ(Gettysb
urg)という南北戦争の激戦地に立って、こう言った。

AND THAT GOVERNMENT OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE AND FOR THE PEOPLE 
SHALL NOT PERISH FROM THE EARTH.(人民の、人民による、人民のための政府は、この
地上から消え去ることはない)と。

「SHALL NOT PERISH」というのは、もう少し正確には、「私は、消さない」という意味にな
るが、ともかくも、そう言った。

 これをこの日本でもじると、こうなる。

「官僚の、官僚による、官僚のための政府は、この日本から消え去ることはない」と。

 どうして国民の側に立った教育キホン法が、この日本では、生まれないのか。できないのか。
国民に向かって、「ああしろ」「こうしろ」と言うくらいなら、まず自分たちのほうが、「ああします」
「こうします」と言えばよい。

 たとえば前文には、「我々日本国民は……貢献することを願う」とあるが、いつどこで、その
我々が、そういうことを願ったのか。勝手に、そういうことを決めつけてもらっては困る。

もし書くとしたら、「子どもの教育では、自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一
丸となって、子どもたちの未来のために、それを希求します」とか何とか。自分の立場で、そう
書けばよい。

 あるいは「教育の多様性を認め、不公平社会を是正するため、個人のそれぞれの才能に応
じた教育をめざします」でもよい。

 さらに「愛国心は、世界の常識」などと、いまだに言っている政治家がいるのには、驚く。(教
育キホン法改正案要旨では、「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛
するとともに……」となっている。念のため。)

 日本では「愛国心」と訳すが、あの英語の「Patoriotism(ペイトリアチズム)」という単語にし
ても、もともとは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に
由来する。)「郷土や家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもな
っている。国ではない。郷土だ、家族だ!

 が、この日本では、そこに「国」という言葉を入れる。なぜか? その理由など、今さら、説明
するまでもない。

 そんなわけで、私は、今回の教育キホン法なるものは、チラッとしか読んでいない。

 今回の要旨では、国旗、国歌については触れていないが、それについても、あえて言うなら、
こうなる。

 愛国心に関してだが、国旗はともかくも、国歌を歌ったから愛国心があるとも、歌わなかった
ら、愛国心がないということにもならない。日本のK首相は、『君が代』の「君」は、国民のことだ
と説明したが、『君が代』の「君」は、だれが考えても、「天皇」をさす。官僚主義国家、つまり王
政国家のもとでは、天皇という「王」は、絶対的な存在かもしれないが、それをよしとしない人が
いたとしても、何も、おかしくない。

 (注)外国では、あの明治維新を、「Meiji Restoration」(明治・王政復古)」と翻訳している
ぞ。

 それは愛国心の問題ではない。主義の問題である。その主義ということになれば、たとえ国
でも、個人の主義にまで干渉することは許されない。

 が、もしそれほどまでに、愛国心を、形として表したいというのなら、K国のように、バッジ制に
すればよい。胸に、バッジをつけて、それを表す。そのほうが、ずっとわかりやすい。

 しかしこのばあいも、バッジをつけたから愛国心があるとも、バッジをつけなかったから、愛
国心がないということにもならない。

 そんなこと、いちいち役人ごときに指示されなくても、もし目の前で、他国の連中に、郷土が
荒らされ、家族が殺されれば、だれだって武器をもって立ちあがる。愛国心などというものは、
「形」の問題ではない。言葉の問題でもない。国旗や国歌の問題でもない。もちろんバッジの問
題でもない。心の問題だ。

 「国を愛しましょう」と言うくらいなら、その第一歩として、「汝の隣人を愛しましょう」と言ってみ
たらどうか。私など、その隣人すら、愛することはできない。そんな私が、どうして国という、実
体のない存在(?)を、愛することができるのか。

 バカも休み休み、言え!

 だいたい、「愛」という言葉の意味すら、わかっていないのでは?

 ……ということで、教育キホン法に対する、批評は、おしまい。ここ数日、10人近い教師や親
たちと、いろいろ話したが、教育キホン法など、話題にもならなかった! ホント!

+++++++++++++++++

愛国心について、以前書いた原稿を
ここに添付します。
(中日新聞にて発表済み。)

+++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいか
ない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。

先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小
2)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻
が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が担当している
ケースは、わずか1%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、6割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、3%(たった
の3%!)前後にとどまった。その一方で7割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求
める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。

「今の20代の男性は比較的家事に参加しているようだが、40代、50代には、リンゴの皮すら
むいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困
らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、
家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を
平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。ア
メリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米というより、世界の共通の理念にもなってい
る。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼
らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、4
0%の日本人が、「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化
である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(2001年11月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注目して
ほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 愛国
心 教育基本法 国旗 国歌)

●批判ばかりしていてはいけないので……

 私なら、つぎのような教育キホン法改正案を考える。

++++++++++++++++

(前文)

自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一丸となって、子どもたちの未来のため
に、それを希求します。

子ども個人の才能を引き出し、認め、個人のそれぞれの才能に応じた教育ができるように、教
育の多様化を認める教育環境をめざします。

不公平社会や社会的格差を是正するため、社会的不正義、不平等、不公正を容認しない教
育環境をめざします。
 
親たちが安心して子どもを教育機関に任せられるよう、教育内容の充実と、教員の資質向上
を図り、父母への教育費の負担を軽減するために、常に努力いたします。

 また政府ならびに教育機関に関与する者たちは、子どもたちの見本、手本となるように、豊
かな人間性と創造性のある文化人となるよう、まい進努力いたします。

+++++++++++++++++

 ついでながら、今回閣議決定された「教育キホン法改正案」の前文は、つぎのようになってい
る。(2006年4月27日、公表。原文のまま。)

+++++++++++++++++

 我々国民は、民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉
の向上に貢献することを願う。

 公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継
承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るた
め、この法律を制定する。

+++++++++++++++++

 以上!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
基本法 改正教育基本法 たった3通の通達 誘導される国民 作られる意識 改正教育基
本法)

【参考】(ヤフーニュースより)

 財務省原案では、「やらせ質問」が発覚した政府主催のタウンミーティング(TM)関連予算は
8900万円となり、06年度予算(3億円)の3割弱まで減額された。TMでは過剰な経費計上が
問題となっており、政府は予算を大幅削減しながら新しい開催手法の検討を進めている。
 規模を縮小して、国が負担する1回当たりの経費を06年度の4割弱の300万円に抑える一
方、テレビ会議システムを使った新たなTM開催も盛り込んだ。
 内閣府は8月の概算要求では、国民に開催テーマを選んでもらう新形式のTM開催を含め、
06年度比約4割増の4億1700万円を要望。やらせ質問などの発覚を受け、8900万円に減
額して要望を出し直していた。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1728)

●敵視政策だって?

+++++++++++++++

誇大妄想も、ここまでくると、
本当に、オメデタイ!

あのK国が、アメリカに向かって、
「敵視政策をやめろ」と。

あのね、アメリカも、そして日本も、
あんたなんか、相手にしてないの。
相手にしたくもないの。

第一、相手にならないでしょう。

核兵器を作っているから、「そういう
ことはやめなさい」と言っているだけ。

本当に、あんたは、オメデタイ!

++++++++++++++++

 K国の言っていることは、矛盾しているというより、思考そのものが、分裂している。先の6か
国協議(05)年で、核兵器を廃棄すると約束しておきながら、一向にその気配を見せない。見
せないばかりか、ミサイルの発射実験をして見せたり、核実験をして見せたりした。

 国連安保理が、制裁決議を出したのは、そのあと。それを今回の6か国協議では、「制裁解
除が先」と。

 アメリカの金融制裁については、K国が、にせ札を作り、それをマカオの銀行でマネーロンダ
リングをしたから、したもの。話のスジがちがう。前後関係があべこべ。

 アメリカの金融制裁をやめてほしかったら、にせ札作りをやめればよい。やめたという証拠を
見せればよい。

 そういうK国に対して、韓国の金前大統領は、「これ以上、K国を追いつめると、何をしでかす
か、わかったものではない」「だから追いつめてはだめだ」と。そう、あちこちで発言している。

 しかし韓国にそう思わせているのは、実は、K国の金xx。つまり韓国の金前大統領は、金xx
のワナに完全にハマってしまっている。それに仮にそうであっても、前大統領ともあろう人が、
そういうことを公(おおやけ)の場所で、発言すること自体、おかしい。

 私のような下々の庶民がそういう意見を述べるならまだしも、前大統領ともあろう人物が、そ
ういうことを言ってはいけない。国際社会が協調して制裁をしようと動いている矢先に、そういう
発言をすること自体、まちがっている。

 それがわからなければ、こんな例で考えてみればよい。

 あなたの家の近所に、どこかの暴力団が事務所を構えたとする。周辺の住民たちが、追放
運動を始めたとする。自治会も動きだした……。と、その矢先、あろうことか自治会長が、も
し、こんなことを言ったら、あなたはどう思うだろうか。

 「これ以上、あいつら暴力団を追いつめると、何をしでかすか、わかったものではない」「だか
ら追いつめてはだめだ」と。

 金前大統領の発言は、それと同じ。

 今回の6か国協議は、まさに両刃の剣。うまくいけば、K国の核開発問題は、一気に解決に
向かう。しかし失敗すれば、K国は、再度核実験をするだろう。そしてそのまま東アジアは、さら
なる緊張状態に置かれる。

 私の予想では、今回の6か国協議も、不調に終わると思う。理由は、簡単。

 K国を指導する金xxは、もう、まともではない。まともでない人物を相手にして、まともな話し
あいなどできるはずがない。先にも書いたように、思考そのものが、分裂している。

 だれにも相手にされないから、核兵器をぶらさげて、世界をおどしてみせる。その手法は、そ
こらの暴力団のやり方と、どこもちがわない。

 

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●年賀状廃止宣言(?)

+++++++++++++++++++

年賀状廃止宣言をする人がふえている。
ワイフの友人も、その1人。
「ほとんど毎日会っている人に、どうして
年賀状を出すの?」と。そう疑問に思ったのが
きっかけだという。

また別の人は、ラジオの中で、こう述べて
いる。

「これからつきあう予定のない人には、
もう年賀状は出さない」と。あのロッキード
事件のとき、主席検事を務めたH氏である。

++++++++++++++++++++

 インターネット時代になってから、年賀状がつまらなくなった、理由は、2つある。

 ひとつは、便利になりすぎたこと。今では、郵便番号を入力すれば、相手の住所まで自動的
に書き込んでくれる。電話番号を入力するだけで、住所はもちろん、名前まで、書き込んでくれ
る。図柄の面も、相手によって変えるのも、簡単である。

 そのため出す枚数は、どんどんとふえた。が、その分だけ金銭的な負担もふえた。で、あると
き、私はふと、こう思った。「何のために出しているのだろう?」と。

 もうひとつは、約70%近い人が、インターネットでメールのやり取りをしている。若い人にかぎ
れば、ほとんどの人たちが、している。

 年賀状とちがい、インターネットのほうは、動きのある画像や、音声や音楽を乗せることもで
きる。それに何といっても、無料。こういう時代に、どうして年賀状にこだわらなければならない
のか。資源の節約にもなる。

 とくに私たち団塊の世代がもっている、(年賀状意識)というのは、国策によって作られたもの
と考えてよい。私たちが小中学生のころは、年末が近づくと、学校は、年賀状一色に染まっ
た。恐らくウラで、文部省と郵政省がつるんでいたにちがいない。(これは私の邪推。)

 ともかくも、最近、年賀状に疑問をもつ人がふえてきた。パソコン時代になって一時的に急速
にふえたが、06年になって、減少に転じた(郵政省調べ)。

 そこで私も、数年前から、毎年、○百枚単位で、年賀状の枚数を減らしてきた。それにかえ
て、手描きの年賀状を描くようになった。

 が、手描きだと、枚数にかぎりがある。毎年、30〜40枚が限度。本当に出したい人だけに、
心をこめて、描く。

 で、改めて、私も、年賀状廃止宣言。07年の正月から、年賀状をくれた人には、一応、返事
を書く。(これはパソコンの印刷機能を使って描く。)で、その末尾に、その旨の一文を入れる。

 「年賀状廃止宣言……インターネット時代にかんがみ、次年度から私どもからの年賀状を廃
止させていただきます。よろしくご理解の上、ご了承ください」と。

 ここ数年、あれこれと悩みつづけた年賀状だが、これで結論が出た。すっきりした。毎年の、
あの年末の重圧感から解放されるだけでも、ありがたい!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●滋賀県・長浜の町

++++++++++++++++++

まるでおとぎの国!
あの長浜の町が、生まれ変わっていた!

通りは、若者たちで溢(あふ)れ、
店は、どの店も、活気に満ちていた!

驚いた! 楽しかった!

+++++++++++++++++

 滋賀県の長浜町といえば、以前は、さびれた田舎町だった。少なくとも、私はそういう印象を
もっていた。

 ♪秋の日暮れし頃の、しぐれの長浜の町は……と、歌にも歌われた長浜の町。

 戦国時代には秀吉の出世城もあり、また江戸時代には、北陸から琵琶湖へとつなぐ、交通
の要衝(ようしょう)としても、栄えた。しかしその後は、さびれる一方。

 ところが、である。

 久しぶりに長浜の町を訪れて、驚いた。本当に驚いた!

 あの長浜の町が、完全に生まれ変わっていた!

 平成元年には、商店街のほとんどの店がシャッターを閉め、残ったのは3軒だけだったという
(地元の人の話)。そこで中央にあった元銀行を取り壊そうという話になったとき、残った住民
たちが立ちあがった。

 第3セクター方式で、町おこしを始めた! それが今の結果である。

 町は、生き返った。若者たちで、溢れかえった。店という店は、古さをそのまま残して、若者
向きに作り変えられた。私は、通りを歩きながら、まるでおとぎの国へでも入りこんだかのよう
な錯覚を覚えた。

 楽しかった。と、同時に、感動した。店で働く若者たちが、例外なく、みな、生き生きとしてい
た。それに活気があった。個性があった。

 細い路地を入った奥にあった蔵が、そのまま喫茶店になっていた。昔の豪商の屋敷が、その
まま美術館になっていた。ごくふつうの民家が、そのままレストランになっていた。さらに家の中
にある冷暖房機すら、外観は、木造風に化粧紙を張りつけてあった。

 本気だ! 町の人たちは、本気で、長浜の町を愛していた!

 私とワイフは、その長浜の町を歩きながら、こんなことを言いあった。「今度、(アメリカに住
む)誠司たちが日本に来たら、ここへ連れてきてやろうね」「また来ようね」と。

 その町が発展するかどうかは、リピーターができるかどうかで決まる。私たちは、まちがいな
く、そのリピーターになりそう。つまりそういう観光客がふえればふえるほど、その町は発展す
る。

 こんなとき、この浜松市を批判しても意味はないが、「箱」だけを作り、高額なテナント料を取
って、町を活性化させようとしても無理。それがわからなければ、一度、市の役人たちも、長浜
の町を見てくることだ。

 大切なのは、「箱」ではない。「中身」だ。長浜の町には、その「中身」が、ぎっしりとつまってい
た! みなさんも、機会があれば、ぜひ、どうぞ! イチ押しの、楽しい、本当に楽しい町です。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●デジタル民主主義

++++++++++++++

アメリカのある雑誌社が、
「今年の人」を選んだ。

それは「あなた」。

インターネットは、「第二の
産業革命」とも呼ばれている。

あるいはそれ以上かもしれない。

インターネットは、私たちの
生活そのものを、今、根本から
変えようとしている。

それだけではない。

インターネットは、社会、ひいては
世界そのものを変えようとしている。

++++++++++++++

 インターネットの最大の魅力。それは(私)や(あなた)という個人が、(自分)をそのまま主張
できるということ。つまり情報の発信源として、そのまま(主役)になれるということ。それを称し
て、「デジタル民主主義」(タイム誌)という。

 以前は、ちがった。本を出すにも、一度は、(東京)を経由しなければならなかった。さらにバ
ブル経済がはじけて、日本がかつてない不景気に見舞われたとき、仕事そのものが、減った。
浜松市というこの地方にまで、回ってこなくなった。

 少なくなった仕事を、東京に住む人たちが奪いあった。

 が、今は、ちがう。この浜松市に住んでいても、本を出版する以上のことが、できるようになっ
た。私のばあいだけをみても、週単位で、マガジンの読者だけで、7500〜8000人。いくつか
のBLOGの読者をそれに加えると、軽く1万人を超える。

 さらに私のばあい、2〜3週間ごとに、単行本で言えば、1冊分程度の原稿を書いている。毎
月、延べにすれば、4万人以上もの人たちが、私の本を2冊以上読んでくれている計算にな
る。

 考えてみれば、これはものすごいことである。単行本といっても、初版で3000部も印刷して
もらえば、よいほう。その3000部を、数か月かけて売る。売れなければ、書店から姿を消す。
あとは在庫か、著者が印税と相殺(そうさい)して自分で購入する。

 ただ、それだけの原稿を書いているからといって、収入には結びつかない。「道楽」と呼んで
いる人もいる。それに近い。しかしインターネットのもつ力をあなどってはいけない。インターネ
ットは、今、始まったばかり。たとえて言うなら、夜明けの時刻から、みなが起きて仕事に出か
け始めるころ。

 この先、さらに大きな変化を、私たちの世界にもたらすはず。事実、インターネットを介して売
買される物品の金額は、デパートやショッピングセンターで売買される物品の金額を超え始め
ている。雑誌の世界でも、確実にインターネットに侵食され始めている。新聞の世界とて、例外
ではない。

 私も、最近は、まずインターネットでニュースを読み、そのあと、ヒマなときに、(あくまでもヒマ
なとき)、新聞で読みたい記事をさがして読んでいる。インターネットが、(主)で、新聞が(副)と
いうわけである。

 図書館にいたっては、この2、3年、ほとんど行っていない。証券会社にしても、そうだ。株と
いえば、ネット売買が、今では常識。……などなど。

 インターネットの世界そのものが、まさに第二の宇宙ということになる。そういう中、アメリカの
よく知られた雑誌(タイム誌)が、「今年の人」を選んだ。

 が、その雑誌が選んだのは、世界を動かしている政治家や著名人ではない。それは今、こう
してインターネットをしている「あなた」だそうだ。そんなことは、かなり前からわかりきったことだ
った。が、雑誌という、紙とインクでできた情報メディアが、インターネットをしている「私」や「あ
なた」を選んだ。それが、すごい。

 言うなれば、これは雑誌社の敗北宣言と考えてよい。……というのは、少し言い過ぎかもしれ
ないが、今まで、雑誌社とインターネットは、犬猿の仲にあった。少なくとも、雑誌社は、インタ
ーネットの世界を、そういう目で見ていた。新聞社も、同様である。「インターネットで流れている
情報など、どうせ、たいしたことはない」「その力もない」と。

産経新聞は、つぎのように伝えている。

「あなた=ネット利用者という認識は、興味深い。デジタル・デバイド(情報格差)問題が叫ばれ
たのが、もはや過去のことのようだ。2006年はインターネットが先進的であったり、特別であ
ったりすることがなくなった年、として記憶されるかもしれない」と。

インターネットの世界は、これから先、さらに加速度的に発達する。とどまるところを知らず、前
に進む。

 デジタル民主主義、がんばれ!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1729)

●Bツアー・旅行記

+++++++++++++++++++

地元のバス会社が運営するBツアーに
参加の方は、ヒヤリング・プロテクター
つきのヘッドフォンをもっていくとよい。

そうでないと、意味のない、しかもペチャ、
クチャとつづく、あのガイドのおしゃべり
に、あなたは悩まされることになる。
へたをすれば、せっかくの旅行も、台なし。

+++++++++++++++++++

 幼児に、たとえば「3足す2」の問題を出してみるとよい。年長児なら、数秒もたたないうちに、
答を出す。

 そこで私は、電卓をもちだし、「エ〜と、3足す2は……」と計算して見せる。それを見て、子ど
もたちは、あきれる。「先生、こんな問題もできないのオ〜?」と。

 子どもたちは真剣である。私が本当に、そんな計算をできないと思っている。つまり、少し言
葉はきついが、「愚かな人からは、利口な人が理解できない」。私は演技で、そういうバカなフリ
をしているだけなのだが、幼児には、それがわからない。

 同じような経験を、反対の立場ですることがある。

 よい例が、地元のバス会社が運営する、Bツアー。料金が安いので、月に1、2度は、利用さ
せてもらっている。が、ガイドのおしゃべりには、そのつど、うんざり。とにかくよくしゃべる。数秒
の間をおくこともなく、よくしゃべる。しゃべるだけならまだしも、内容が軽い。浅い。レベルが低
い。低すぎる。

 たとえば昼食の説明も、こうだ。

 「みなさん、昼食はグループごとにお願いします。旗について、並んでついてきてください。バ
イキングではありませんので、ごはんのおかわりは、できません。バイキングだったら、おかわ
りができますが、バイキングではありません。バイキングって、ご存知ですよね。バイキングだ
ったら、いいのですが……。だから、おかわりは、できません。でも量は多いと思いますので、
おなかいっぱい、召しあがっていただけると思います。おなかいっぱい食べると、元気になりま
すから」と。

 あるいは「N町の散策はいかがでしたか。おみやげを買いましたか。きっとたくさん買われた
ことと思います。私も、あそこの○○は、大好きです。いいですね。おみやげは、おうちの方に
買われましたか。それとも、お友だちの方に買われましたか。きっと、喜ばれると思いますよ。
旅先のおみやげをもらうと、みな、喜びますから。食べ物がいいですね。思い出になります。そ
れをいっしょに食べて、旅先の雰囲気を楽しむことができますから」と。

 こんな話を、2度、3度と繰りかえす。

 前回のときは、長野県の方まで行ったが、行きの3〜4時間はもちろん帰りのバスの中でも、
東名に入るまで、ガイドは、しゃべりっぱなしだった。全国のおみやげはどうの、名物はどうの、
と。今回も、浜名湖の砂は、白いのどうの、天気はどうの、と。

 静かに旅行を楽しみたい人も多いはず。しかし現実は、甘くない。要点だけを、手短にしゃべ
って、それで終わりにすればよいものを、チャキチャキ、キャッ、キャッとしゃべりつづける。まる
でひとり芝居。自分がタレントか何かにでもなったかのよう。しかもスピーカーの音量は、最大。
耳の奥まで、ガンガンと響く。

 それなりに内容のある話ならまだしも、先にも書いたように、「愚かな人からは、利口な人が
理解できない」。あるいはガイドからみれば、私たち乗客は、すべてバカに見えるのか?

 だからBツアーを利用するときは、ヒヤリング・プロテクターつきのヘッド・フォンをもっていくと
よい。私はそうしている。ヒヤリング・ヘッドフォンというのは、マイクを内臓していて、騒音の波
を測定。その波と逆位相の波を発生させて、騒音を消す機能のあるヘッドフォンをいう。でない
と、あの意味のないおしゃべりで、旅行そのものが台なしになることも。

 ……そうそう、おまけにBツアーでは、帰りのバスの中では、ビデオ映写が、定番になってい
る。昨日は、大阪のY興行の舞台喜劇。ああいうのを見せつけられると、笑う前に、「これが同
じ日本人か」と、自分がなさけなくなる。つまり、レベルが低すぎる。

 そう言えば、旅行先のS記念公園でも、安っぽい演歌を、大音響でガンガンと流しつづけてい
た。それを聞いて、私とワイフは、入場場所で、Uターン。勝手に、そのあたりを、2人で散歩し
て、時間をつぶした。

 で、帰りのバスの中でも、またまた定番のビデオ。がまんするにも限度というものがある。私
は、ガイドの席まで行って、顔はにこやかに、しかししっかりとこう言った。

 「あのう、申しわけありませんが、スピーカーのボリュームをもう少し、さげていただけません
か」と。

 私なりの精一杯の抗議のつもりだった。しかしボリュームは、ほとんど、さがらなかった。

 理由がある。

 ガイドの座る席は、運転手の横。そこはいわば、バスの中でも、数段下へおりた穴ぐらのよう
になっている。そこでは、スピーカーからどれほどの音が流れているか、わからない。

 一方、スピーカーは、バスの天井に、点々と、6〜8箇所もついている!

 あああ……。

 しかたないので、またひやりんぐ・プロテクターのついたヘッドフォンを装着。音楽を聴く。

 要するに、ガイドは、頭の中に飛来する情報を、口にしているだけ。つまりは、ノーブレイン
(=脳みそがない)(失礼!)。多くの人は、情報と思考を混同している。情報があるからといっ
て、思考力があるということにはならない。たとえて言うなら、幼稚園児が意味もわからないま
ま、掛け算の九九を口にするようなもの。

 ガイドの話していることも、それに近い。聞いても意味はない。聞いても、すぐ忘れる。感動す
ることなど、ぜったいに、ない。もちろん、何の参考にもならない。

 それにしても、レベルが低すぎる。英語のことわざにも、『沈黙の価値のわからないものは、
しゃべるな』というのがある。Bツアーのガイドは、沈黙の価値がどういうものか、それがわかっ
ていない。半数以上の客は、たがいにしゃべっているか、眠っているだけ。だからよけいに、ム
キになって、ガイドはしゃべる。しかしそれがいかに迷惑なものであるか、ガイドは、まず、その
あたりから、自分の愚かさを反省すべきである。

 電車に乗っても、バスに乗っても、「携帯電話はマナーモードにしてくれ」と言うではないか。な
らば言うが、ガイドのおしゃべりは、もっとひどい! しゃべるならしゃべるで、もう少し、自身の
知性をみがいてからしゃべったら、どうか?

 若い人たちは、私たち年配者を、バカと思っているかもしれない。その気持ちは、わからない
でもない。が、そうでない人間も多いということ。少なくとも今のままでは、Bツアーを利用するの
は、そのレベルの、どこかのオジチャン、オバチャン程度の人ばかりになってしまう。(現にそう
なりつつあるが……。)

 けなしてばかりいてはいけないので、Bツアーのファンとして、提案。

(1)つまらない情報はひかえて、要点だけを、しっかりと手短に話してほしい。(あるいは各座
席に、イヤフォンを置いて、聞きたい人だけが、ガイドの話を聞くようにしたらどうか。)
(2)「質問があるか」と聞き、質問がなければ、そのまま静かに黙っていてほしい。
(3)帰りのビデオといえば、「釣りバカxx」とか、「吉本K喜劇」とか、そういうレベルのものばか
り。とくに帰りは、みな、疲れている。静かに休みたい人の気持ちを、もっと大切にしてほしい。
(4)「口」よりも「体」を使って、サービスをすべし。お茶は、1日の旅行で、2度、配られることに
なっているらしい。が、必要であれば、もっと、配ってほしい。
(5)静かに考え、あれこれ思い出をたどりながら、旅行をしたい人も多いはず。そういう人の気
持ちを、もっと大切にしてほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1730)

●あるお母さんからのメール

++++++++++++++++++

親から受けた子育てが原因で、
長い間、大きな心のキズに苦しんでいた
お母さんから、こんなメールが
届いています。

読者のみなさんの力になればと、
公開してくださいとのこと。
喜んで、そうさせていただきます。

お名前を、Vさん(母親)としておきます。

Vさんは、子どものころ、親からきびしい
教育としつけを受け、それが原因で、
心に大きなキズを受けてしまいました。

Vさんは、「私がしたような経験を、ほかの
子どもたちにはしてほしくない」と言っています。

本当に、そうだと思います。

最近の研究によれば、うつ病の(種)のほとんどは、
その人の乳幼児期にあるということまで、
わかってきました。

乳児期から幼児期にかけては、
(1)心豊かで、穏やかな家庭環境、
(2)愛情豊かで、静かな親子関係、
この2つが、とくに重要かと思います。

Vさんからのメールをお読みください。

++++++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、こんばんは!

今日はレッスン前に、少しだけしたが、私がかかえる障害のお話を聞いてくださって、
ありがとうございました。

私は 先生のEマガによる「自己開示」でいえば4〜5レベルに入るほど、
まわりの人たちに、いろいろなことを話しています。

隠していなくてはならないことなど、そんなにはないし、
自分を知ってもらうことは 息子であるY男にとっても
良いことのように思ったりするからです。

先生が、私の経験を多くの人たちにお話してくださるのももちろん、歓迎です
良い例として、あるいは悪い例として、
私の経験してきたことが今、どんな風に私の人生で活かされているのか、
また、少女時代の私と同じ思いを、今まさにしている子供たちが今いるとしたら、
保護者の方に気づいていただきたいからです。

両親の教育が厳しく 過干渉で 私にとっては、長くて、辛い少女時代でした。
特に厳しかったのは母でした。しかし母だけを責めているのではありません。
母は 明治生まれの姑の前で、私たち姉妹を懸命に育て、
社会に出ても恥ずかしくない子に育てをしなくては……という使命のもとでの
思いだったわけです。

当時は今のように、相談できる機関や話を打ち明けられる相手もなく、
母も苦しんだと思います 父も相談相手にはならなかったようです。

というのも 父は自分の父親を第二次世界大戦で亡くし、
顔を見た事もないまま育ったそうです。
私は今でも、ラバウル上空を通過するときは 胸が苦しくなります。

そして実の母は 姑に父を残して 再婚して出て行ってしまったそうです。
どれほどの想像を絶する悲しみを乗り越えたでしょう。

父は曾祖母に対して異常なまでの執着心を持ち妻より子供より、曾祖母
という感じでした。

そんな生活の中で 母は私たちを厳しく育てることと、しつけることで、
自分なりのアピールをしていたのかもしれません。

また 別の観点からすると 母は私たちの子育てを、はけ口としていたかも
しれません。そのことも否定できないと思っています。

では、姉にはなぜ私のような障害が起きなかったか。

私の姉は3歳年上のキャリアウーマンですが、
何をするにも要領がよく、賢く、そして心優しく 暖かい人間で、
身内の私が言うのも恐縮ですが 尊敬しています。

母やきびしい習い事の先生がおっしゃる非道徳的な言葉ですら、
「あの人、なにいってるんだろ。私のどこまでしってるっていうの?」と
冷静な受け止め方が子供の頃からできたようです。

私はといえば、まったく正反対。

母の期待にこたえよう。今、Dropoutしてしまえば お母さんが悲しむかとか、
そんなことばかり考えていました。

生真面目で いつも良い子でいなくてはならない。いつも良い点を取らなくてはならない。
お母さんが悲しむから。クラス代表に選ばれなくてはならない。母が望むから、と。

小学校3年生のとき、サンタさんに手紙を出しました。
サンタさんの存在を信じていたころ書いた、最後の手紙だったと思います。

内容は、「お願いです プレゼントはいりません ただ習い事を全部やめさせてください」
というものでした。

サンタさんが願いをかなえてくれなかったのは、これが初めてでした。

心療内科の先生はおっしゃいました。

「あなたのお父様もお母様も 強迫性障害 の可能性がある」と。

思い当たる節はいくつもありました これは遺伝する可能性のある
障害だそうです。

今年前半は、T市にある児童心療内科まで、Y男をつれて、月に一度通っていました。
Y男のためというよりは 私が息子と、どう向きあえばよいのか、
どう育てていけばよいのか、全くわからなくなり、心は八方塞になったからです。

今思えば あの半年間の通院は 心療内科の先生に会って私がカウンセリングを受ける
私のいわば治療であったように思います。

時がたつにつれて、私は私の方法で Y男と向き合っていけばいいと思うように
なりました。

なぜなら、私はY男の母親なのだから……。

こんなシンプルな答えにたどり着くのに 随分と遠回りをしたし、
これからもしてしまうことがあるのかもしれませんが、今は 安定した気持ちで、
Y男に接しています。

父はY男がおなかにいるときに脳内出血で倒れ、現在は、右半身不随の生活をしています。
それがわかった当時は、みんな私のBabyではなく、
父の病気のことにばかり関心をもって、情緒不安定になり、
母や夫に当たったこともありました。

しかし母は立派に父のパートナーとして、父の治療に徹底的につき合っています。

ひところは東京のホテルに3か月ほど暮らして、有名な先生の治療を受けていました。
けれど回復には限度があり 今は良くも悪くもならないように、
リハビリとして、朗読や華道、陶芸など様々なことにチャレンジしています。

また 現在では障害者対応の施設も多く 年に3回ほど旅行に出かけています
障害者仲間の皆様との出会いも 両親を大きく支えてくださっていると思います

で、父もあきらかな強迫性障害者です。

強迫行為といって 鍵を閉めたか、ガスの元栓は締めたか、
冷蔵庫はちゃんとしまっているか、
出かける前もふだんの生活の中でも、あまりにもしつこいこれらの行為に
私たちは障害のことは何も知らずに、へきえきしていました。

私には強迫行為はありません。
主な症状は 不安がとめどなく押し寄せて眠れないとか、そんなことです。

朝起きてまず初めに思い浮かぶことは、
今日の予定の嫌な部分です。不安が押し寄せると、過喚起を起こしてしまう。
これではちゃんとY男を育てることができないと感じたこともあります。

03年の4月 Y男が入園した直後、お願いするのならばこの先生と決めていた
先生のところへ夢中で向かっていました。

ふら〜と先生の前にお伺いして、
私は「うつ病」だといわれるのを恐れていました。
 
そのために今まで躊躇して、治療を受ける勇気が無かったのです。
いま、抗うつ剤も飲んではいますが、今のお薬はとても私にあっていると感じ、
快適に過ごしています。もちろん体調の良悪によって効き目が違ったり、
沈んでしまうこともありますが……。

そこから抜け出すには散歩をしたり 本をむさぼり読んだり、
ひたすら英語で独り言を言ったり、大好きな音楽を聴いたり、
一心不乱にピアノを弾いたりしています。

自分の力で抜け出す術を身につけることができるようになってきました。
化学物質を使っての治療に、初めはとても抵抗がありましたが、
お薬で生活をよりよいものにすることができるのならば、
甘えて使ってもいいんだというふうに、解釈するようになりました。

ドクター曰く、「おばあちゃまが飲むような弱い薬よ。副作用もないゎ」と。
あれから約3年 いま、最高の組み合わせのお薬にめぐり合えました。

とにかく私は 私が過去に味わった苦しみも含めて、そして今があることに
心から感謝しているし、あの苦しみがなければ、
Y男に同じ思いをさせていたかもしれないと思うと、ぞっとします。

そのことに比べれば、今の状態など、なんということはありません。
どんな経験からも苦しみからも、そして喜びからも学ぶことは際限なく多く、
そしてすべての出会いと、想いと、天国の大切な存在たちに守られて、
私たちは あたたかな蜜月を(?)すごしています。

Y男の人生はY男が決めればいい。
どうしても辛くて何かをやめたくなったとき、
逃げるのでなく決断なのであれば私は応援します。
そしてまた 新しい道を探していけば きっときっと、
something wonderful+special for him に
出逢えると信じています。

来週のレッスンの頃はグアムで思い切りガムをかんでいる(?)と思うので、
おそらく2x日のレッスンを受けさせていただくと思います。
3時まで別の習い事があるので終わってから行くと、Y男が決めました。

x曜日は私の仕事納めの日で、見学には行かれないので、
これはとても良い機会ですし、母に付き添いで行ってもらうつもりでいます。

母は今は、仏様のような(?)穏やかな人間になり、
私の仕事のx曜日とy曜日には、両親そろって、Y男との夕食、
お風呂、カードゲームなど、とても楽しみにしてくれています。

こんな私ができた 一番の親孝行が、Y男なのかもしれません。

はやし先生にこんなにいろいろとお話できるのは、
Y男も私も、先生が好きだからです。

聞いていただきたいと思ったので、一方的に長いメールを送ってしまいましたが、
不要であればどうぞ聞き流してください。

でももし機会があれば、固有名詞を伏せて、こんな体験でこんな子供が育ち、
こんな母親になったと、はやし先生のお力で、
少女時代の私のような毎日が苦悩と苦痛で満ちていた生徒さんを、お母様を
開放して差し上げられるきっかけになったら、どんなに良いことだろうと思っております。

母は、いっそ本でも書いたら?、のんきなことを言っておりますが、
今の私にそんな時間がいったいどこにあるでしょうか。

さて夜もふけてまいりました
来週3年ぶりの国際線に乗るのに、全く準備ができておりません。
残ったworkも山済みで、何とか乗り切らなくては!
でも忙しいのが性分にあっているのでしょうか。

12月の私は毎日が楽しくて忙しくて、友達と会って力をもらったり、
このうえなく充実しています。

話の続きや枝葉はまだまだありますが、今宵はここまでとさせていただきます。
長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

oh! 日付が変わって、今日はY男の誕生日です
6歳だなんて! あんなに小さな赤ちゃんだったY男が、(Born on xxxx、.2000)、
今こうして育っていることを、誰よりもY男の父に感謝しています。
 
彼は本当に素晴らしい父親です。
運命が私たちを離してしまったけれど、空き箱に迷路を作ってビー玉で転がして遊んだり、
お父さんの小さい頃はこんなことをして遊んだよと話をしたり、
当たり前のことかもしれませんが、でもこんなことになってしまって今もなお、
Y男に愛情を注いでくれていることに、心から感謝しています。

それでは2x日は Y男の祖母、あのスパルタだった(笑い)私の母が、
お伺いするかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

結果として両親にはもちろん感謝しています。産んでくれたこと。育ててくれたこと。
Y男のシッターをしてくれていること。それをenjoyしてくれていること。

ps

障害のことで何かお役に立つことがあればどんなことでもお話しますので、
どうぞお声をかけてくださいませ。 

ホルモンバランスやセロトニンの分泌調整知らなかったことを多く学ぶ機会でありました。
必要な方には、詳しくお話しさせていただければ、うれしいです。

++++++++++++++

【はやし浩司より、Vさんへ】

メール、ありがとうございました。
現在、私の周囲でも、同じような問題をかかえ、悩んだり、苦しんだりしている人が、何人かい
ます。

またそういう人たちの力になってあげてください。

よろしくお願いします。

                       はやし浩司

++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ、追伸】

改めて自分の書いたメールを、先生がまとめてくださったものを読んでみると、
これを読んで ひとりでもいい、気持ちが楽になってくれる
お母様、お父様、生徒さんがいらしたら、どんなに良いことだろうと思います。

ただ、話の続きや枝葉はまだまだあると書いたように、
もっともっと様々なことが、私には起きました。
今回の公開に載せていただくことはなくても、
またの機会にでも広く知っていただければと思います。

大きくは二つの話題です

ひとつめ。

先生は 親への反抗で処理したという趣旨のことをおっしゃいましたね。
実は、私もそうでした。

反抗期、ひどかったと思います とくに習い事が辛くて辛くて、
ピークの小学校高学年の頃から中学2年生くらいまで、そうでした。

何を言っても、「ああいえばこういう」式で、
ねじ伏せられてしまうことがわかっていた私は、
母に直接、反抗するということが、あまりできませんでした。
 
仏頂面のままダイニングで家族と食事をしたり、無言のまま誰の顔をも見ず、
さっさと食事を済ませて、勉強部屋に逃げこんだりしました。

その仏頂面の私の唇を見て、母はこう言うのです
「右下の唇が少し上に上がってゆがんでいる。
不満のあるときはいつもそんな顔をする」と。

そして 相手が他人であれば 失礼なほどに 私の顔を、目ジーッと見る。
そんなことをされれば、だれだって、気分を悪くします。で、気分を悪くした私が、
「もういやだ。くそばばぁ」と言って、
勉強部屋へ逃げ隠れしたことがありました。

このときばかりは母も相当なショックだったのでしょう。
その日以降は、話題といえばそのことばかり。
何時間もかけてそれがどんなにいけないことか、
私に説教しようとするのです。しかし私はそれを知っていたからこそ、
そんな言葉を言ってしまったのです。

母が悲しむといけないから、お稽古を頑張らなくてはならない自分がいる半面、
母が悲しむことをして束縛されていることにたいして、ささやかな抵抗をしたかった。

もうこの世から消えてしまいたいとさえ思ったことも、何度もありました
「今度の期末試験の頃は私はもういないんだから、心配することないんだ」と、
そんなばかげたことも考えたこともあります。

母が悲しむだろうから、わざと悪い成績を取ってやろうと考え、
解答用紙にあえて正しくない答えを書いたり 空欄にしたりしたこともあります。
で、それを見て、母はがっかりし、こう言ったこともあります。
「私があなたの学年の頃は、クラスで何番にはいつも入っていた。
なぜあなたはできないの? できるはずでしょう? 
あなたはやればできるのだから言っているのよ」と。

「できるって誰が決めた? 誰が知ってるの? 私、どこまで頑張ればいいの?
今、交通事故で死んじゃったりしたら やりたいこと何にもできずに人生終わっちゃって
悔しいよ」と。
そんな会話が何度も繰り返されたと思います。

母への反抗心は、ある日、ふと薄いものへと変化してゆきました。
希望の高校に入学を果たし、あわただしく身支度をしていた春の朝のことです。
私のためにお弁当を作ってくれている、私よりも背の低い小さな母の背中が、
それを気づかせてくれました。

母も、私を育てるのは初めての経験だということ。
涙が溢れました。でも見つかるのも恥ずかしくて、
「コンタクトが合わなくて…」などとごまかしましたが、
「ひどいことしてごめんね、おかあさん」と、そう、あの時言いたかったのだと思います。
高校を卒業し、進学で実家を離れてからは、なおさら私と母の間の心の距離は縮まり、
一人暮らしが、私を成長させてくれたとも言えると思います。

「あなたは私の芸能マネージャーではないのだから、ぴったりとついてこないで。
誰と連絡を取っているのか、どんな友達とどんな話をしているのか、
50メートル先の自販機までジュースを買いに行くのに、
こっそりついてくるようなことをしないで。
まるで本当にジュースを買いに行くかどうか、確かめにきているみたいではないか」と、
そんな内容の、私にとっては、革命的手紙を渡したのは、
私が高校1年の夏ごろのことだったと思います。

そういうことがあって、母の過干渉も少しずつ薄れていったように思います。

さて もうひとつの話題

これは 今の世の中にも深く関わる重大な問題です。
母から束縛や過度の期待を受けてstressfulになった私がとった行動は、
恥ずかしくも クラスメイトへのいじめでした。

いじめの根源がこんなところにも潜んでいるのです。
もちろん私の心が弱かったので、そんな方向へ向かってしまったのは確かです。
しかし あれほどにまでのストレッサーがなければ、
子供の頃から転校生には進んで声をかけていた私が
あんなことはしなかったと言えると思います。

私自身もがき苦しんでいたけれど 人を苦しめることで憂さ晴らしをしようとは、
なんと愚かなことでしょう。

だから お父様、お母様、お子様がそんな風になってしまうほど
過度の干渉や期待、子供なりのプライベートへの介入をしないでほしい。

どこかで全く関係の無い誰かが、傷ついてしまう引き金になってしまう可能性があるから。
いまでも私は心を傷つけてしまったお友達のことを時折思い出し、
「ごめんね。今はどうか暖かくしあわせな毎日を送っていてほしいよ」
と思うことがあります。

ある女の子は ひどく私がいじめをしたのにもかかわらず、
私がいじめのターゲットになったときには、
惜しげもなく私に救いの手を差し伸べてくれました。

彼女は今、専門分野で世界的に活躍する立派な女性兼母になったと、
風の便りで聞きました。

彼女の成功を心からお祝いし、これからの活躍をも心からお祈りしています。

上記のいじめに関する文章は、同じ出来事を、違う言葉でしたが、あるテレビ番組の
「いじめについて考える」番組に、投稿したことがあります。

うまくまとめられたかわかりませんが以上になります。
もっと続きも枝葉もありますが、今日のところは、ここまでとします

先生、ありがとう。
私の話に耳を傾けてくださってありがとう。
私の気持ちを汲んで 皆さんにこんなできごとがあるということを、
知らせてくださって、ありがとう。

私は先生の尊敬に当たる人間ではとてもありませんよ。巨大リップサービスです
でも、生き方を認めていただけたことは、心から嬉しく思います。
ありがとうございました。

上記の文章の掲載についても、先生にお任せします

でもね先生、私、仲の良いお母様方には全く同じ話をしています。
「私、頭が弱いからね〜 薬の時間なのょ」なんて、
どこか冗談めかしながら。いえ、本当に大笑いしながら、どんどん話題にしています。

ですので、これを読んで あのVさんのことじゃないかな?、と思う
お母様は、少なくともK幼稚園のお母様ならなおさら、
5本の指でおさまるかどうかという気持ちです。アハハ。

でも今の私には、「そうなの、わたしのこと! スパルタ教育の話、
はやし先生にしちゃったぁ」と笑って答えることができます。

だから 気にしません。
誰かの心や命が、助かるのかもしれないのであれば、
どうぞはやし先生のお力で、きっかけ作りをして差し上げてほしいと思います。

ああ、2学期も明日でおしまい。明日じゃない、もう今日になってしまった!
まだまだ幼稚園児でいてほしいなぁ。
これからまた、どんな出会いがあるだろう。
小学生になったY男は どんな困難や挫折を味わうだろう。

けれど私は Y男へのバースデーカードにこう書き添えました。

「そのてでゆめをつかみなさい。
 そのあしで ゆきたいところへどこにでもいきなさい。
 そうしておとうさんのような りっぱなひとになるのよ」と。

どこか照れくさいメッセージですが、本心です

Y男の父からも、日付指定で、カードが郵便物として届きました。
誕生日の数字を Y男の好きな迷路にイラストしてあり、
おわりのところには、「おかあさんをたいせつにしなさい」とありました。

久しぶりに声を上げて泣きながら、音楽のボリュームを大にして、
車を運転しながら仕事に向かいました。
彼という人間の子供を産んだ私は、とても幸せです。

長文を読んでくださってありがとうございました。
先にも書きましたとおり掲載については先生にお任せします。

今度は 祖母から聴いた私の心にいつもある「幸せのおどんぶり、かなしみのおどんぶり」
のお話を聞いていただきたいと思っています。

長文乱文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

Vより。

+++++++++++++++


【はやし浩司より、Vさんへ】

●代償的過保護

 親の過干渉、過関心、プラス過剰期待が、子どもをいかに苦しめるものであるか。親は、「子
どものため」と思ってそうしますが、子どもにとっては、そうではないのですね。その苦しみは、
苦しんだものでないと、わからないものかもしれません。

 発達心理学の世界にも、「代償的過保護」という言葉があります。一見、過保護なのだが、ふ
つう過保護には、それがよいものかどうかは別として、その基盤に親の愛情があります。その
愛情が転じて、過保護となるわけです。が、中には、愛情のともなっていない過保護がありま
す。それが「代償的過保護」ということになります。言うなれば、過保護もどきの過保護を、「代
償的過保護」といいます。

 たとえば子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと思うのが、代償的過
保護です。そして親自身が感ずる、不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 「こんな成績で、どうするの!」「こんなことでは、A学校には、入れないでしょ!」「もっと、勉
強しなさい!」と。

 その原因はといえば、親の情緒的未熟性、精神的欠陥があげられます。親自身が、心にキ
ズをもっているケースもありますし、それ以上に多いのが、親自身が、自分の結婚生活に対し
て、何か、大きなわだかまりや不満をもっているケースです。

 わかりやすく言えば、満たされない夫婦生活に対する不満を、子どもにぶつけてしまう。自分
の果たせなかった夢や希望を、子どもに求めてしまう。明けても暮れても、考えるのは、子ども
のことばかり、と。

 しかし本当に子どもの立場になって、子どもの心を理解しているかといえば、そういうことはな
い。結局は、自分のエゴを、子どもに押しつけているだけ。よい例が、子どもの受験競争に狂
奔している母親です。(父親にも多いですが……。)

 このタイプの親は、子どもには、「あなたはやればできるはず」「こんなはずはない」「がんばり
なさい」と言いつつ、自分では、ほとんど、努力しない。いつだったか、私が、そんなタイプの母
親に、「では、お母さん、あなたが東大に入って見せればいいじゃないですか」と言ったことがあ
ります。すると、その母親は、はにかみながら、こう言いました。「私は、もう終わりましたから…
…」と。

そして、すべてのエネルギーを、子どもに向けてしまう。それが親として、あるべき姿、もっと言
えば、親の深い愛情の証(あかし)であると誤解しているからです。

●親の過剰期待

 が、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはありませ
ん。子どもは、その重圧感の中で、もがき、苦しみます。それを表現したのが、イプセンの『人
形の家』ですね。それについては、もう何度も書いてきましたので、ここでは省略します。子ども
は子どもで、まさに「人形」のような子、つまり「人形子」になってしまいます。

 「いい子」を演ずることで、自分の立場をとりつくろうとします。しかし人形は人形。どこにも、
「私」がない。だから、このタイプの子どもは、いつか、その成長段階で、自分を取りもどそうと
します。「私って、何だ!」「私は、どこにいる!」「私は、どうすればいいんだ!」と。

 それはまさに、壮絶な戦いですね。親の目からすれば、子どもが突然、変化したように見える
かもしれません。そのままはげしい家庭内暴力につながることも、少なくありません。

 (反対に、親にやりこめられてしまい、生涯にわたって、ナヨナヨとした人生観をもってしまう子
どももいます。異常なまでの依存性、異常なまでのマザコン性が、このタイプの子どもの特徴
のひとつです。中には、40歳を過ぎても、さらに50歳を過ぎても、母親の前では、ひざに抱か
れたペットのようにおとなしい男性もいます。)
 
 ……だからといって、Vさんがそうだったとか、Vさんのお母さんが、そうだったと言っているの
ではありません。ここに書いたのは、あくまでも、一般論です。

 ただ注意したいことは、2つあります。

●批判だけで終わらせてはいけない
 
ひとつは、Vさんは、自分の母親を見ながら、反面教師としてきたかもしれませんが、自分自身
も、自分の子ども、つまりY男君に対して、同じような母親になる可能性が、たいへん高いという
ことです。「私は、私の母親のような母親にはならない」と、いくらがんばっても、(あるいはがん
ばればがんばるほど)、その可能性は、たいへん高いということです。

 子育てというのは、そういう点でも、親から子へと、伝播しやすいと考えてください。今はわか
らないかもしれませんが、あとで気がついてみると、それがわかります。「私も、同じことをして
いた」と、です。どうか、ご注意ください。

●基本的信頼関係

 もうひとつは、情緒的未熟性、精神的な欠陥の問題です。(Vさんが、そうであると言っている
のではありません。誤解のないように!)

 最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のばあい、そのほとんどは、原因
は、乳幼児期の育てられ方にあるということがわかってきました。とくに注目されているのが、
乳幼児期のおける母子関係です。

 この時期に、(絶対的な安心感)を基盤とした、(基本的信頼関係)の構築に失敗した子ども
は、不安を基底とした生き方をするようになってしまうことが知られています。「基底不安」という
のがそれです。おとなになってからも、ある種の不安感が、いつもついてまわります。それがう
つ病の引き金を引くというわけです。

また、ここでいう(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)
を言います。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味です。

 つまり子どもの側からみて、「どんなことをしても、許される」という、絶対的な安心感のことを
いいます。これが(心)の基本になるということです。心理学の世界でも、こうして母子の間でで
きる信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼んでいます。

(あくまでも、「母子」です。この点においては、父親と母親は、平等ではありません。子どもの
心に決定的な影響を与えるのは、あくまでも母親です。あのフロイトも、そう言っています。)

 そのためには、子どもは、(望まれて生まれた子ども=wanted child)でなければなりませ
ん。(望まれて生まれた子ども)というのは、夫婦どうしの豊かな愛情の中で、愛情に包まれて
生まれてきた子どもという意味です。

 が、そうでないケースも、多いです。たとえば(できちゃった婚)というのがありますね。「子ども
ができてしまったから、しかたないので結婚しよう」というのが、それです。夫婦の愛情は、二の
次。だから生まれてきた子どもへの愛情は、どうしても希薄になります。

それだけですめばまだよいのですが、そのため親は親で、(とくに母親は)、子育てをしながら、
そこに犠牲心を覚えるようになる。あるいは、そのまま自分の子どもを、溺愛するようになる。

●絶対的な母子関係

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」を、口ぐせにする親は、たいていこ
のタイプの親と考えてよいです。もともと夫婦の愛情が基盤にあって生まれた子どもではない
からです。

 一方、子どもは子どもで、そういう母親でも、親であると、自分の脳みその中に、本能に近い
部分にまで刷りこみます。やはり最近の研究によれば、人間にも、鳥類(殻から出てすぐ二足
歩行する鳥類)のような、(刷りこみ=imprinting)があることがわかってきました。これを「敏
感期」と呼んでいます。

 つまり子どもは子どもで、そういう環境で育てられながらも、「産んでいただきました」「育てて
いただきました」「大学まで出していただきました」と言い出すようになります。

 つまり、親の子どもへの依存性が、そのまま、今度は、子どもの親への依存性へと変化する
わけです。

 これがここでいう「伝播」ということになります。わかりますか?

 そしてそれは、先にも書きましたように、今度は、あなたという(親)から、あなたの(子ども)へ
と伝播する可能性があるということです。そういう意味では、『子育ては本能ではなく、学習』と
いうことになります。あなたの子どもはあなたという母親を見ながら、今度は、それを自分の子
育て観としてしまう!

 では、どうするか?

●「私」をつくる3つの方法

 自分の親を反面教師とするならするで、批判ばかりでは終わってはいけないということです。
また今は、「仏様」(Vさん)のようであるからといって、過去の母親を、許してはいけないという
ことです。

 あなたはあなたで、親というより、人間として、別の人格を、自分でつくりあげなければなりま
せん。それをしないと、結局は、あなたは、自分の親のしてきたことを、そっくりそのまま、今度
は、自分の子どもに繰りかえしてしまうということになりかねません。
 
そのために、方法はいくつかありますが、ひとつは、すでにVさん自身がなさっているように、
(1)過去を冷静にみながら、(2)自己開示をしていくということです。わかりやすく言えば、自分
を、どんどんとさらけ出していくということです。そしてその上で、(3)「私はこういう人間だ」とい
う(私)をつくりあげていくということです。

 いろいろ事情はあったのでしょうが、またほとんどの若い母親はそうであると言っても過言で
はありませんが、あなたの母親は、そういう点では、情緒的には、たいへん未熟なまま、あなた
という子どもを産んでしまったということになります。(だからといって、あなたの母親を責めてい
るのではありません。誤解のないように!)

 子どもから見れば、どんな母親でも、絶対的に見えるかもしれません。が、それは幻想でしか
ないということです。ここに書いた、(刷りこみ)によってできた幻想でしかないということです。

 それもそのはず。子どもは、母親の胎内で育ち、生まれてからも、母親の乳を受けて、大きく
なります。子どもにとっては、母親は(命)そのものということになります。しかし幻想は幻想。心
理学の世界では、そうした幻想から生まれる、もろもろの束縛感を、「幻惑」と呼んでいます。

 で、私もあるとき、ふと、気がつきました。自分の母親に対してです。「何だ、ただの女ではな
いか」とです。私も、「産んでやった」「育ててやった」という言葉を、それこそ、耳にタコができる
ほど、聞かされて育ちました。だからある日、こう叫びました。私が高校2年生のときのことだっ
たと思います。

 「いつ、オレが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

 それが私の反抗の第一歩でした。で、今の私は、今の私になった。もしあのとき反抗していな
ければ、ズルズルと、マザコンタイプの子どものままに終わっただろうと思います。(もっとも、
それで家族自我群がもつ重圧感から、解放されたというわけではありませんが……。)

●Vさんへ、

 ……とまあ、Vさんに関係のないことばかりを書いてしまいました。Vさんからのメールを読ん
でいるうちに、あれこれ思いついたので、そのまま文にした感じです。ですから、どうか、仮にお
気にさわるような部分があったとしても、お許しください。

 子育てを考えるということは、そのまま自分を考えることになりますね。自分を知ることもあり
ます。私も多くの子どもたちに接しながら、毎日、それこそいつも、「私って何だろう」「人間って
何だろう」と、そんなことばかりを考えています。

 以上、何かの参考になれば、うれしいです。また原稿ができまたら、送ってください。いっしょ
に、(自己開示)を楽しみましょう! どうせたった一度しかない人生ですから、ね。何も、それ
に誰にも、遠慮することなんか、ない。

 だって、そうでしょ。私も、Vさんも、「私」である前に、1人の人間なのですから……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族
自我群 幻惑 過干渉 過関心 代償的過保護 自己開示 はやし浩司 親の過干渉 過干
渉児)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1731)

●今朝・あれこれ

+++++++++++++++++

冬の楽しみは、電気毛布で暖まった
ふとんの中へ、体をもぐらせて眠ること。

ワイフは、「お風呂の中みたい」と言う。
私は、「温泉に入ったみたい」と言う。

しかし、問題が、ないわけではない。

+++++++++++++++++

 冬の楽しみは、電気毛布で、熱いくらいに暖まったふとの中へ、体をもぐらせて眠ること。コツ
があって、ここにも書いたように、「熱いくらいに」にする。ふとんにもぐると同時に、電源を切
る。

 ワイフは、「お風呂の中みたい」と言う。私は、「温泉に入ったみたい」という。

 そしてそのまま、しばらく雑談をしたあと、眠る。が、それにもコツがある。ワイフが横を向い
て眠ると、それがちょうど、倒した椅子のようになる。私はその椅子にこしかけるようにして、体
を曲げる。それが飛行機の操縦席に座っているようで、気分がよい。

 が、いくつか問題がある。最初はそれでよいとしても、私はそのままの姿勢では眠られない。
体を伸ばして、大の字になって眠る。かつ、どういうわけか、私は、肩を出して眠るくせがある。
若いときから、そうしている。冬の寒い日でも、そうしている。

 だから5〜10分もそういう姿勢をつづけたあと、つまり眠りに落ちる寸前に、体を大きく動か
して、体を上に向ける。肩をふとんの外に出す。同時に、ワイフは、椅子の形をやめ、私と同じ
ように、体を上に向ける。

 毎晩、これが儀式のようにもなっているので、ワイフは、それについては文句は言わない。私
も文句は言わない。しかし……。

私「なあ、お前、昨晩のような臭いおならは、出すなよ。ぼくは、あれで目が覚めた」
ワ「2度目のおならは、あなたのよ」
私「ちがうよ。2回とも、お前のだ」
ワ「どうしてそんなことわかるの?」
私「においが、ちがう。お前のは強烈だ」

ワ「同じものを食べているから、ちがわないわよ」
私「あのなア、同じものを食べていても、腸内の発酵状態によってちがうのよ」
ワ「どうちがうのよ。私は、毎日、しているわよ」
私「毎日でも、お前のは、押し出しの毎日」
ワ「何よ、それ?」
私「いつも一週間前のが、押し出されて出てくるだけ。それだけ古いウンチということ」

ワ「あなたのはどうなの?」
私「ぼくのは、新鮮だよ。たいてい1日か2日前のが出てくる」
ワ「そういうのは、新鮮とは言わないわよ。下痢じゃないの?」
私「つまりそれだけ、腸の活動が、活発ということ」と。

 若いころは、ワイフが、おならをすると、足で蹴飛ばして、ワイフをふとんの外に押し出してい
た。それが歳とともに、やがて慣れ(?)、今は、ふとんを大きくはたいたあとは、口だけふとん
の外に出して眠るようになった。そのとき毛布で首のあたりを、マフラーのように巻く。ふとんの
中の臭気を、ふとんの中に閉じこめるためである。

 しかし今は、冬。ここで夫婦喧嘩でもすれば、寒い思いをするのは、この私。冬の寒さか、ワ
イフのおならかと問われれば、ワイフのおならのほうが、まだよい。まあ、ここは、ワイフのおな
らをがまんするしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの睡眠

+++++++++++++++

確たる調査をしたわけではないが、
きわめて聡明な子どもには、
ひとつの大きな共通点がある。

+++++++++++++++

 昨日も、2人の小学生(6年、女児)と、こんな話をした。話をしたというより、いつの間にか、
睡眠の話になった。

 2人とも、小学生なのに、高校入試の国語の問題を、80〜100点を取るほどの力がある。
きわめて恵まれた子どもたちである。その2人が、こう言った。

 「私は、ちょうど8時間眠っている」「私も、それくらい」と。

 しかも、だ。眠ったと同時に、朝を迎えるという。

私「夢は見ないのか?」
子「見ない」
私「ぜんぜん?」
子「眠ったと思ったら、いつも朝になっている」
私「途中で、おしっことか、そういうことで目を覚ますことはないのか」
子「ないわよ。カミナリくらいかな。カミナリが落ちたようなとき、目を覚ます」と。

 私も、子どものころ、そういう経験をしたことがある。瞬間に眠ってしまい、目を覚ましたら、そ
のまま朝になっていたという経験である。私は、そのとき、その間の時間が消えてしまったかの
ように感じた。私が、小学4、5年生のときのことではなかったか。

 その話をすると。2人の小学生は、「私は、毎日、そう」「私も」と。

 それを聞きながら、睡眠と能力は、関連しているのではないかと思った。つまりきわめて聡明
な子どもというのは、しっかりと睡眠をとっている。確たる調査をしたわけではないが、私はそう
いう印象をもっている。

 反対に、何か情緒的、あるいは精神的な問題をかかえている子どもは、この睡眠時間が、大
きく乱れる。能力的な問題をかかえている子どもも、そうである。慢性的な睡眠不足状態がつ
づけば、当然、その影響は現れてくる。

 だから……というわけでもないが、睡眠は規則正しく、小学6年生でも、しっかりと8時間前後
はとったほうがよいということになる。とくに幼児期からの、しつけが大切である。

 それについて書いた原稿を、ここに添付する。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++

●睡眠不足の子ども

 睡眠不足の子どもがふえている。日中、うつろな目つきで、ぼんやりしている。突発的にキャ
ーキャーと声をあげて、興奮することはあっても、すぐスーッと潮が引くように元気がなくなって
しまう。

顔色もどんより曇っていて、生彩がない。睡眠不足がどの程度、知能の発育に影響を与える
かということについては、定説がない。ないが、集中力が続かないため、当然、学習効果は著
しく低下する。ちなみに睡眠時間(眠ってから目を覚ますまで)は、年中児で平均10時間15
分。年長児で10時間。小学生になると、睡眠時間は急速に短くなる。

 原因の大半は不規則な生活習慣。「今日は土曜日だからいいだろう」と考えて、週に一度で
も夜ふかしをすると、睡眠時間も不安定になる。

ある女の子(年長児)は、おばあさんに育てられていた。夜もおとな並に遅くまで起きていて、朝
は朝で、おばあさんと一緒に起きていた。つまりそれが原因で睡眠不足になってしまった。また
別の子ども(年長児)は、アレルギー性疾患が原因で熟睡できなかった。腹の中のギョウ虫が
原因で睡眠不足になったケースもある。

で、睡眠不足を指摘すると、たいていの親は、「では今夜から早く寝させます」などと言うが、そ
んな簡単なことではない。早く寝させれば寝させた分だけ、子どもは早く目を覚ましてしまう。体
内時計が、そうなっているからである。

そんなわけで、『睡眠不足、なおすに半年』と心得ること。生活習慣というのは、そういうもの
で、一度できあがると、改めるのがたいへん難しい。

 なお子どもというのは、寝る前にいつも同じ行為を繰りかえすという習性がある。これを欧米
では、「ベッド・タイム・ゲーム」(「就眠儀式」)と呼んで、たいへん大切にしている。

子どもはこの時間を通して、「昼間の現実の世界」から、「夜の闇の世界」へ戻るために、心を
整える。このしつけが悪いと、子どもは、なかなか寝つかなくなり、それが原因で睡眠不足にな
ることがある。

まずいのは子どもを寝室へ閉じ込め、いきなり電器を消してしまうような行為。こういう乱暴なこ
とが日常化すると、子どもは眠ることに恐怖心をもつようになり、床へつくことを拒否するように
なる。ひどいばあいには、情緒が不安定になることもある。

毎晩夜ふかしをしたり、理由もないのにぐずったりする、というのであれば、このベッドタイムゲ
ームのしつけの失敗を疑ってみる。そこで教訓。

 子どもを寝つかせるときは、ベッドタイムゲームを習慣化する。軽く添い寝をしてあげる。本を
読んであげる。やさしく語りかけてあげる、など。

コツは、同じようなことを毎晩繰りかえすようにすること。つぎにぬいぐるみを置いてあげるな
ど、子どもをさみしがらせないようにする。それに興奮させないことも大切だ。年少であればあ
るほど、静かで穏やかな環境を用意する。できれば夕食後は、テレビやゲームは避ける。

なおこの睡眠不足と昼寝グセは、よく混同されるが、昼寝グセの残っている子どもは、その時
刻になると、パタリと眠ってしまうから区別できる。もし満5歳を過ぎても昼寝グセが残っている
ようならば、その時間の間、ガムをかませるなどの方法で対処する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の睡眠 睡眠儀式 ベッドタイムゲーム 睡眠時間 睡眠不足)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心を病む教師

+++++++++++++++++

2005年度にうつ病などの精神疾患
で休職した公立小中高の教職員の数は、
前年度比で、619人ふえ、過去最多
の4178人にのぼったことが、
12月15日、文部科学省の調査で
わかった。

+++++++++++++++++

6年前に、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●受験競争の魔力

 受験競争に巻き込まれれば巻き込まれるほど、子どもはもちろんのこと、親もその住む世界
を小さくする。この世界では、勝った負けたは当たり前。取るか取られるか、蹴落とすか蹴落と
されるか……。

教育とは名ばかり。その底流では、ドス黒い人間の欲望がはげしくウズを巻いている。ある母
親は受験どころか、子ども(中学生)がテスト週間を迎えるたびに病院通いをしていた。

いわく「テスト中は、お粥しかのどを通りません」と。子どもの受験競争が高じて、親どうしがい
がみあう例となると、まさに日常茶飯事。幼稚園という世界でも、珍しくない。現に今、言ったの
言わないのがこじれて、裁判ザタになっているケースすらある(小学校)。さらに息子(中3)が
高校受験に失敗したあと、自殺をはかった母親だっている!

 こうした狂騒は部外者が見ると、バカげているとわかるが、当の本人たちはそうでない。それ
はまさしく命がけ、血みどろの戦い。もっともこうした戦いが親の世界だけでとどまっているなら
まだしも、子どもの世界まで巻き込んでしまう。さらに学校という教育の世界まで巻き込んでし
まう。

この受験競争だけが原因とは言えないが、そのため心を病む教師はあとを断たない。東京都
の調べによると、東京都に在籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93
年度から四年間は毎年210人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さら
に98年度は355人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、96年度は休職者が4171人で、
精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ
状態が約半数をしめていたという。

 何だかんだといっても、受験が教育の柱になっている。もしこの日本から、受験という柱を抜
いたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら崩壊する。問題はなぜ受験が教育の柱にな
っているかだが、それについては別のところで考えるとして、結論から先に言えば、受験が子
どもや親を大きくする要素などどこにもない。仮にそれに打ち勝ったとしても、「何とかうまくやっ
た」というあと味の悪さが残るだけ。

受験競争は決して教育ではない。そういう前提で、一歩退いてつきあう。そういう冷静さがあな
たの心を守り、あなたの子どもの心を守る。

++++++++++++++++

 文科省は、心を病む教師がふえた理由として、「多忙や保護者、同僚との人間関係など、職
場の環境が年々きびしくなっていることが背景と考えられる」(中日新聞)としている。

 調査結果によると、病気による休職者は、前年比709人増の、7017人。このうち精神性疾
患による休職者は、13年連続で、前年度より17%ふえた。病気休職者全体に対する割合
も、1996年度の37%から60%にふえている。

 が、私の印象では、こうした数字は、まさに氷山の一角。実際の数、つまり、内緒で通院、治
療を繰りかえしている教師まで含めると、少なくとも、この5倍はいるとみてよい。もちろん程度
の差もある。

 まさに教師受難の時代というわけだが、「職場の環境がきびしくなった」というよりは、教育制
度そのものが、制度的限界に近づきつつあるとみるのが正しいのではないのか。教育とは名
ばかり。雑事、雑事の連続で、教育どころではないというのが、教師たちの本音ではないの
か。その煩雑(はんざつ)さは、おそらく教育に携わったものでなければ、わからない。30人の
子どもがいれば、30人分の問題がある。私塾なら、最終的には、「やめろ!」「やめる!」とい
う別れ方ができるが、公立学校では、それもできない。

 教師たちは、袋小路の奥の奥まで追いつめられる。その結果が、「4178人」という数字であ
る。

 しかしあえて言うなら、まだ公立学校の教師は恵まれている。そういう状態になっても、職場と
収入は、確保されている。安心して治療に専念できる。仮に退職勧告が出されたとしても、無
視すればよい。通院証明さえあれば、5年でも、10年でも、少なくとも収入だけは確保される。

 今、教師の仕事はたいへんだと、私も思う。思うが、そんなわけで、私は、あまり同情しない。
学校の先生たちと話していると、みな、そのきびしさを訴える。しかしそういう話を聞きながら、
私はいつも、こう思う。「私のほうが、ずっと、きびしい」「民間企業に働く労働者のほうが、もっ
ときびしい」と。

 そこでもし、こうした問題を本気で解決しようとするなら、学校制度そのものを変革させるしか
ない。教師を雑務から解放させ、教育だけに専念できるような制度を用意する。欧米では、とっ
くの昔にそうしているのだから、この日本だけができないということはないはず。

 何でもかんでも引き受けてしまうから、教師にそのシワ寄せが集まる。そういう制度そのもの
が、限界にきているとみてよいのではないだろうか。

+++++++++++++++++

ついでに6年前の
同じころに書いた原稿を、
もう1作。

+++++++++++++++++

●10%のニヒリズム

 テレビの人気ドラマに「三年B組金八先生」というのがある。まさに熱血漢教師のドラマだが、
実際にはああいう教師はいない。それはちょうどアクションドラマの中で、暴力団と刑事がピス
トルでバンバンと撃ちあうようなものだ。ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。

仮に金八先生のような教師がいたとすると、その教師はあっという間に、身も心もボロボロにさ
れる。第一、この世界には内政不干渉の原則というのがある。いくら問題が家庭におよんで
も、教師は家庭問題までクビをつっこんではいけない。またその権利もなければ義務もない。
つっこんだらつこんだで、たいへんなことになる。おおやけどをする。私にもいろいろな経験が
ある。

 私はある時期、毎日のように母親教室を開いていた。が、それがよくなかった。ある朝まだ床
の中で眠っていると、一人の男がいきなり飛び込んできて、こう叫んだ。「うちの女房が妊娠し
た。どうしてくれる!」と。

寝耳に水とはまさにこのこと。私が驚いていると、その様子から察したのか、その男はこう言っ
た。「すまんすまん。カマだった」と。話を聞くと、その男の妻がその前夜から家出をしたという。
そこでその男は、妻がよく口にしていた私のところへ逃げてきたと思ったらしい。

その妻というのは、私の母親教室の熱心な受講生だった。以来私は、毎日の母親教室を、週
一回に減らした。同時に、子どもの子育ての問題以外、「私は関係ない」という姿勢を貫くよう
にした。

 こうしたトラブルは、本当に多い。毎年少しずつ賢くなったつもりだが、つい油断をすると、同
じような失敗を繰り返かえす。そこで10%のニヒリズムということになる。昔、どこかの教師が
懇談会の席でそう教えてくれた。

「どんなに教育に没頭しても、100%、全力投球してはいけない。最後の10%は自分のため
にとっておく。裏切られてもキズつかないようにするためだ」と。

実際、この世界、報われることよりも、裏切られることのほうが多い。10%のニヒリズムは、そ
のための処世術である。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●韓国のあせり

++++++++++++++++

何かにつけ、「日本」「日本」と、
小うるさい韓国。

それもそのはず。

日本は韓国なしでもやっていかれる。
しかし韓国は、日本なしでは
やっていかれない。

どうしてそういう韓国が、反日
なのか?

++++++++++++++++

 ここ数日の韓国紙を読んでいると、韓国のバブル経済がプチプチとはじけ始めたような感じ
がする。韓国で言う、「急売り」、つまり、住宅、土地などの不動産が、突然、売りに出されるよ
うなケースがふえている。

 韓国の東亜N報は、「住宅保証金も下落傾向…住宅価格のバブル弾けるか」と題して、つぎ
のように伝えている(12月21日)。

 「不動産専門家らはこのような貸し出し規制が最近、住宅価格が跳ね上がった地域で、バブ
ルが徐々にはじける現象につながるか注目している。 
ソウル蘆原区上渓洞(ノウォング・サンゲンドン)一帯には、借り家難が深刻だった今年の秋に
比べて、1000万〜2000万ウォン下げた借り家の物件がたくさん出ている。 
上渓洞のH公認関係者は、『今年9、10月賃貸をするか、貸し出しをうけて無理に住宅を購入
した人々が、残金を用意するために住宅保証金を下げている』とし、『一部の団地では急売り
の物件も出ている』と話した」(原文のまま)と。

 つまりこの秋から、冬にかけて、急速に、住宅事情が変化しているというわけである。しかし
「変化」というような、なまやさしいものではない。銀行が住宅担保の貸し出しを、突然引き締め
にかかったことによる。その状況は、日本のあのバブル期末期の様子に、酷似している!

 そんな中、韓国の現代経済研究所は、こんな悲観的な調査結果を公表した(12月19日)。
「韓国と日本の経済格差は埋まらず、日本に追いつくのは不可能」と。

それによれば、「このところ日本経済は52カ月以上続く過去最長の景気回復を記録している
一方、韓国経済は通貨危機以降、新たな活力を得られず、今後格差はさらに広がるだろう」と
のこと。 

 一時は、一人当たりの国内総生産(GDP)の格差は、3万330ドル(約358万円)で最高値
を記録(95年)。その後は去年の1万9047ドル(約225万円)まで縮まった。が、日本の経済
回復が続けば、格差はさらに広がるという。

 同報告書は、つぎのように伝える。

「韓国の限界は(模倣型技術戦略)にあると指摘する。物まね戦略で成長してきたため、技術
力育成がおろそかになったという意味だ。81年から04年までの韓国の技術貿易赤字は、31
5億ドル(約3兆7160億円)に達するが、日本は同期間で515億ドル(約6兆760億円)の黒
字だった。技術力が育っていないため、中核部品や材料を日本から輸入し製品を作る。この
ため、韓国の輸出が増えれば増えるほど、対日貿易赤字も大きくなるというパラドックスが続
く。

 その上、生産性の格差も広がっている。韓国と日本の労働生産性格差は、95年に1時間当
たり29・3ドル(約3460円)だったが、2000年には29・5ドル(約3480円)になり、05年に
は29・9ドル(約3530円)になった。 

 こうした状況を覆す戦略を立てるべき立場にある政府の競争力も、日本の方が上昇してい
る。スイス国際経営開発院(IMD)が発表した国家競争力ランキングによれば、政府の効率性
は韓国は下落(02年26位→06年47位)した一方、日本は改善(28位→15位)している。現
代経済研究院のユ・ビョンギュ経済本部長は『日本に追いつこうという姿勢から脱却しなけれ
ばならない』と話している」と。

 思い知ったか、韓国! ……というのは言い過ぎかもしれないが、逆の立場なら、韓国はもっ
と口汚く、日本をののしっているにちがいない。

 現に、韓国にも、日本の小林Y氏(マンガ家兼評論家)のような過激な意見を売り物にする、
ライターがいる。朝鮮N報の駐日記者氏、である。彼はつぎのようなコラムを書いて、現代経済
研究所の意見に、まっこうから反論している。そのまま紹介する。

「韓国の現代経済研究院が『韓国は日本を追い越せない』という報告書を発表した。また『追い
越すためには日本をまねてはならない』という提言も行った。その前提となる論理に従えば、こ
うした指摘はほとんどが的を得ている。だが、もしその論理が逆だとしたら、結論も解決法も間
違っていることになる。つまり韓国は日本を追い越すことはできるし、追い越すためには日本を
まねなければならないということだ。 

 まず日本に追いつけないという結論はおかしい。日本は昨年から人口が減り始めた。韓国は
このまま行っても2018年までは人口が増加する。 

 また日本は来年から大学進学志望者の数が定員を下回るほどの(高齢者大国)となり、保護
者の教育熱も下がってきている。だが韓国人は、昔牛を売ったように、今では家を売って江南
で賃貸暮らしをすることもいとわないほどに教育熱が高い。 

 さらに、経済の勢いを示す潜在成長率も、日本は2%台を推移している。一方韓国はいくら落
ちたと騒ごうとも、その倍に当たる4〜5%だ。つまり潜在力も、意欲も韓国の方が上なのだ。そ
れにもかかわらず『日本にはやはり勝てない』と音を上げるのは、第三者から見てもおかしなこ
とだろう。 

 58カ月にも及んだ日本の景気回復傾向が、低迷する韓国経済の現状と対照的であることは
現代経済研究院が報告した通りだ。実際に芳しくない状況が何年間も繰りかえされれば、意欲
に満ちた人でも沈んでしまうのは当然だ。 

 それなら潜在力も、意欲も韓国に及ばない日本が、なぜ調子を上げているのだろうか。それ
なりに事情に精通している人なら誰でも知っているこの理由を明確に示すことができていたな
ら、現代経済研究院の出す結論も変わっていたかもしれない。 

 日本が善戦しているのは、「頼りになる政府」があるからだ。日本政府が経済活動における
意欲や成果を支える役割をうまく果たしたのだ。 

(中略)

 韓国が日本を追い越すことは可能だ。同じリングの上で戦うのに、図太く意欲にあふれた方
が勝って当然ではないのか。ただし勝つためには、日本が成功したシステムをまねた上で、そ
れよりはるかに良いシステムを作らなければならない。もちろんこれは政府の役目だ。そのた
めには政府が変化するか、でなければ国民が政府を変えるのだ」と。

 結構なご意見だが、大前提として、日本がどうのこうのと言うこと自体、韓国は自ら、敗北を
認めていることになる。日本では、こうした論法で、韓国を論ずることは、まず、ない。

 この日本に、韓国に追いつかれ、追い越されることを心配している人は、いったい、どこにい
るだろうか。韓国といえば、国をあげて、まるで受験競争をしているような国である。仮に追い
越されたところで、今の日本人なら、「どうぞ、ご勝手に」と言うにちがいない。(豊かさ)の基準
そのものが、この日本では変化しつつある。

 が、かといって、日本とて、手をこまねいているわけではない。反日国家の強大化を見過ごし
ているわけではない。小泉政権時代に始まった、「打倒、韓国!」の経済政策は、このところあ
ちこちで実を結びつつある。もう少しすれば、その結果は、より明白なものになるだろう。

 ともかくも、「日本ごときに負けるはずがない」という日本蔑視意識。それを基盤とした、傲慢
(ごうまん)な民族意識がなくならないかぎり、日本は、韓国を受けいれることはできない。その
ことだけは、韓国も、よく知るべきである。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

++++++++++++++++

昨日、あるレストランへ入ったら、
4歳くらいの子どもが、祖母らしき
女性と並んで、あの大きなソフト
クリームを食べていた。

それを見て、いつもそうだが、
私は、ゾッとした。

++++++++++++++++

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、4本
飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。

アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリームを1個子どもに食べさせ
ておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に
与えると、その血糖値をさげようとインスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さ
らに血中に残ったインスリンが、必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、
スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」として、25年ほど前に
話題になったことがある。日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほ
か)。そこでもしあなたの子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。
効果がなくて、ダメもと。一周間も続けると、子どものによってはウソのように静かに落ち着く。

 話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」「食
事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。

で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨て
る。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事
の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識
のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)
(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム、カリウム分の多い食生活にこころがける。具体的には海産物
中心の献立に切り替える。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●常識は静かに引き出す

+++++++++++++++

静かに考える。そういう時間と
場所を子どもに提供する。

これは家庭教育の中でも、とくに
大切な一部分である。

+++++++++++++++

 ものごとを静かに考え、正しい判断をくだし、その判断に従って行動する力のことを、「バラン
ス感覚」という。このバランス感覚がないと、子どもはかたよった考え方や、極端なものの考え
方をするようになる。

たとえば「この地球上の人間は、核兵器か何かで、半分くらいは死ねばいい」と言った男子高
校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になり、黒い喪服を着てみたい」と言った女
子高校生がいた。そういうようなものの考え方をするようになる。

 このバランス感覚を別の言葉で言いかえると、「豊かな常識」ということになる。この常識とい
うのは、だれにも平等に備わっているかのようにみえるが、そうではない。常識のない人はいく
らでもいる。しかも幼児期にすでにそれが決まる。

そこで「教育!」ということになるが、実際には子どもに教えるのはたいへんむずかしい。い
や、教えて教えられるものではない。親としてせいぜいできることがあるとすれば、常識を奪わ
ないということ。威圧的な過干渉、権威主義的な押しつけ、神経質な過関心が日常化すると、
子どもはいわゆる常識ハズレの子どもになる。

昔、一生懸命粘土をコンセントに詰めて遊んでいた子ども(年長男児)がいた。先生のコップに
殺虫剤を入れた子ども(中学男子)がいた。バケツに絵の具を溶かして、それを二階のベラン
ダから下を歩く子どもにかけていた子ども(年長男児)などがいた。ふつう子どものいたずらと
いうと、どこかほのぼのとした子どもらしさを感ずるが、それがない。常識というブレーキがか
からないためと考える。

 一般に子どもがドラ息子化すると、子どもからこのバランス感覚が消える。子どもというのは
きびしさとやさしさが、ほどよく調和した環境の中で、心をはぐくむ。が、たとえば父親が極端に
きびしく、母親が極端に甘いとか、あるいはガミガミときびしい反面、結局は子どもの言いなり
になってしまうような甘い環境が続くと、子どもはドラ息子化する。症状としては、自分勝手でわ
がまま、約束や目標が守れない、依存心が強い割に無責任になるなど。

 常識力を養うためには、子どもには自分で考える時間を、たっぷりとあげる。「あなたはどう
思うの?」「あなたはどうしたいの?」と聞きながら、子どもが何かを答えるまでじっと待つ。そう
いう姿勢が子どもを常識豊かな子どもにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(12月22日)

++++++++++++++++

寒いが、ここ数日は、それでもいつもより
暖かい日がつづいている。

昨日は、3単位も運動をした。
1単位は、40分。

おかげで体の調子はよいが、太ももが、
痛い。だるい。少し無理をしたかな?

++++++++++++++++

●夢、希望、そして目的

 子どもを伸ばす3種の神器、それが(夢)(希望)、そして(目的)である。が、しかし何も、これ
は子どもの世界だけの話ではない。おとなも、そして老人も、生きるためには、夢と希望、そし
て目的が必要である。

 近所に、温厚な老人(男性)が住んでいた。心臓が悪くて、何度も入退院を繰りかえしてい
た。心臓のバイパス手術も、受けたことがある。

 その老人が、数年前、亡くなった。たしか、83歳ではなかったか? それはともかくも、数日
前、その男性の奥さんを見て、驚いた。あまりの変わりように、ギョッとするほど、驚いた。

 男性が生きている間は、「健康のため」ということで、1キロ先にあるスーパーまで毎日、歩い
て通っていた。ひざが悪いということで、毎日、近くの整形外科医医院にも通っていた。通りで
も、よく見かけた。

 しかし数日前にその奥さんを見ると、奥さんは、別人のように太ってしまっていた。ふつうの太
り方ではない。あごの先と、胸がそのままつながってしまったかのような太り方である。体はも
ちろん、数倍に、ふくれあがっていた。

 あいさつをしようと思ったが、のどで声は止まってしまった。奥さんは、私に気がつかないま
ま、そのまま玄関の中へ入ってしまった。奥さんは、夫を亡くしたあと、運動をしなくなってしまっ
たらしい。それを見て、私は、「明日はわが身」と、大きくため息をついた。

 私は、そのあと、こう思った。

 夫が心臓の病気と闘っている間は、奥さんは、それをバネとして、自分の健康管理を大切に
していた。しかし夫が亡くなってしまって、そのバネをなくしてしまった。生きる張りあいをなくして
しまった。しかしそんな奥さんに向かって、「奥さん、それではいけない」と、だれが言うことがで
きるだろうか。

 老人にも、生きるためには、夢と希望、それに目的が必要である。どんな小さな夢と希望でも
よい。そこから目標が生まれ、生きる活力へとつながっていく。たぶん、その奥さんは、夫が生
きている間は、「私がしっかりしなければ」と思って、がんばっていたにちがいない。しかし夫が
なくなり、そのバネをなくしてしまった。

 とたん、運動をやめ、整形外科医院に通うのも、やめてしまった。何かの心の病気を患った
のかもしれない。太るといっても、ふつうの太り方ではない。しかもここ1、2年のことである。

 そこで改めて、自分のこことして考える。「私は、死ぬまで、夢と希望、それに目的をもって生
きることができるか」と。あるいは、「どうすれば、死ぬまで、夢と希望、それに目的をもつことが
できるか」と。

 しかしこれは、たいへんなことだと思う。現に今ですら、それがむずかしい。ときどき、何のた
めに生きているか、わからないときがある。そんな私が、どうやって、20年後、30年後に、夢
と希望、そして目的をもちつづけることができるというのか。

 方法があるとすれば、今から、その準備をしておくということ。夢や希望にしても、それらは決
して向こうからやってくるものではない。自分の努力で、つくりあげていくもの。しかもそれには、
10年単位の時間が必要である。何かのボランティア活動を始めたから、それがそのまま、明
日からの夢や希望につながるということは、ありえない。

 夢や希望を、いったい、どこに求めたらよいのか。あの奥さんの姿を思い浮かべながら、今
朝は、いちばんに、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●6か国協議

++++++++++++++++

私の予想通り、K国の核開発問題を
話しあう6か国協議は、何ら進展を
見ることもなく、今日、終了しそうである。

すでにアメリカ側の経済専門委員は、
北京を去っている。

+++++++++++++++++

 K国の金xxは、まともではない。核兵器を、あたかも本尊のように、信奉している。つまり核
兵器は、彼の(力)のシンボルにもなっている。

 そんな核兵器を、金xxが、簡単に手放すわけがない。まず。これがすべての前提。今回も、
K国側は、マカオのBDA銀行の金融制裁措置を問題にしているが、それは核兵器開発をつづ
けるための口実にすぎない。

 金額を見れば、わかる。BDA銀行で凍結されている金額は、たったの2400万ドル。もしK
国が、核兵器を放棄すれば、毎月5億ドル近い援助額がK国に流れこむことになる。(毎月だ
ぞ!)

 つまりK国は、ささいな金額にこだわり、その数百倍(年間)もの援助を、フイにしたことにな
る。この常識で考えられない行為そのものが、金xxがまともでないという証拠ということになる。

 この先、アメリカ側は、そして日本側も、K国に対する制裁措置を強化することになる。一方、
K国は、再度、核実験をしてみせるだろう。この極東地域は、さらなる緊張状態に置かれる。
が、それでいちばん困るのが、韓国と中国。

 仮にK国崩壊!、ということにでもなれば、韓国と中国は、大混乱。もうここまでくると、日本
の知ったことではない。今まで、K国をさんざん助けてきたのは、韓国と中国。BDA銀行で凍
結されている2400万ドルのうち、1200万ドルは、韓国のH財閥から、K国に渡されたものだ
という。

 先の南北首脳会談では、5億ドルものお金が、韓国側からK国側に流れている。わかりやす
く言えば、あの南北会談は、韓国側が、金で買った会談。それに応じて、金前大統領は、ノー
ベル平和賞まで受賞している。

一時は、そのうちの一部ではないかと疑われたが、BDA銀行の1200万ドルは、それとはまっ
たく別のお金であったという。

 いったい、いくらの現金を、闇にまぎれて、韓国はK国に支払っているのか。

 こういう事実をつきつけられても、ひとりノー天気なのは、韓国の金前大統領と、N大統領。

 N大統領は、今回の6か国協議に先立って、12月9日、ニュージーランドで、「北朝鮮んを追
い込むことはむしろ危険だ」と発言した上で、こう述べている。

 「6か国協議で必ず(北朝鮮が)核兵器を放棄する方向へすすむだろう」と。そしてそれを見
越して、早々と、K国援助を決めてしまった。

 金前大統領も、同じころ、「米国が最近になって北朝鮮と対話を始めているが、これだけでも
大いに勇気づけられる現象だといえる。北朝鮮はいつまでも核を保有しているわけにはいかな
いだろう」(12月7日)と述べている。

 いまさら、「太陽政策はまちがっていました」とも、「融和政策はまちがっていました」とも言え
ない。苦しい胸の内は、よくわかる。しかし国際政治というのは、どこまでも現実的でなければ
ならない。現実を基盤においた、現実主義で考える。これが大原則。

 皮肉なことに、K国のもと高官であった、F氏の言葉のほうが、よっぽど、現実的である。朝鮮
N報からの記事をそのまま引用する。

+++++++++++++++

●「親北・反米勢力は、核兵器よりも危険」

「ファン・ジャンヨプ・元K国労働党秘書は、12月20日、ソウル市内の明知大学で開催された、
「北朝鮮人権・民主化過程での大学生の役割」をテーマとしたワークショップで、「核兵器よりも
危険なのは親北反米勢力」と主張した。 

 北朝鮮人権青年学生連帯の主催で開催された講演で、同氏は、「金xx政権を除去しなけれ
ばK国の問題は解決できない。金xxが信じているのは二つだ。一つは中国との同盟。もう一つ
は韓国の親北反米勢力」と語った。 

 同氏は「親北勢力が韓国政府を親北反米政権に変えてしまい、K国が彼らに連邦制を宣布
させ、米国の干渉を受けずに、赤化統一を実現しようとしている」と主張した。また「分別のない
人間が政権をとることを防がなければならない。金xxとは協力してはならない。南北首脳会談
を語る者ではなく、公明正大な人物を選ばなければならない」と述べた。 

 同氏は「来年が重要だ。大統領選挙でまずは親北反米勢力を抑えて政権を取り戻し、民主
主義を強化しなければならない」と語った。

+++++++++++++++

 日本とて、今のこの状態で、K国に戦後補償費なるものを支払ったら、それこそたいへんなこ
とになる。いったん支払えば、際限なく、K国は日本に要求してくることだろう。

 6か国協議は不調に終わったが、日本にとっては、今のところ、それがもっとも望ましいシナ
リオということになる。金xx政権を崩壊させる。あるいは自然死させる。それが日本にとって
は、今のところ、それがもっとも望ましい。拉致問題も、それで解決する。

 金xxの健康状態は、現在、きわめて悪い。金xx政権の崩壊は、近い。あせらなくても、K国
は、近い将来、必ず崩壊する。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1732)

【日韓・経済戦争】

++++++++++++++++++

日本のA新聞社が、竹島(韓国名、独島)に
セスナ機を飛ばしたとき、韓国政府は、戦闘機で
もって、それを迎えた。(戦闘機だぞ!)

日本が国連安保理理事国入りを表明したときも、
そうだ。
韓国政府は、世界中に特使まで送り、(特使だぞ!)、
それに反対すると同時に、裏工作まで繰りかえした。
あろうことか、「日本人にその資質はない」とまで、
言い切った。

さらに日本側が拉致問題で韓国側に協力を
要請したとき、韓国側は、それを拒否した。

何が、「東海」だ!
韓国から見れば、たしかに東の海だが、
日本から見れば、北海だ。

韓国は、これまた世界中に特使まで送り、
「日本海」という呼称を、「東海」という
呼称に変えようとしている。

N政権になってから、「反日」「反日」の
大合唱! 戦前、日本軍に協力したという
理由だけで、今になって、その遺族から
財産を没収したりもしている。

そこで日本側からの反撃が始まった。
「経済戦争」という反撃である。

+++++++++++++++++

 ノーブレイン(脳みそなし)のオバチャンたちが、韓国の男優たちにうつつを抜かすのも結構。
しかしその間の1、2年、水面下では、日本と韓国の間で、熾烈(しれつ)きわまりない経済戦
争が繰りかえされている。それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。

 しかし、2006年末の今、その結果が、現実のものとして、つまり数字の上で、明らかになり
つつある。わかりやすく言えば、韓国では、バブル経済がはじけ始めている。このアジアで「反
日」を旗印にあげれば、どうなるか? 順に数字を拾ってみよう。

●ふえる個人負債額

 韓国銀行と民間経済研究所の分析によると、06年の9月末現在、韓国の家計の金融負債
は過去最大の558兆ウォン(約71兆円)に達したという。日本の人口で計算しなおすと、4倍
の280兆円! (日本の人口は、韓国の人口の約3倍。)

これだけでも、韓国では、1世帯当たり3500万ウォン(約445万円)の借金を抱えているとい
うことになる。そのため1世帯当たりの年間返済利子負担額だけでも、300万ウォン(約38万
円)に迫ることになる。ついで、家計負債の規模は昨年1年間で10・4%増加。一方、同じ期間
の国民所得は2・2%の増加にとどまっているという。

 わかりやすく言えば、日本のバブル経済は、銀行主導で始まり、それが終わると銀行は巨額
の不良債権をかかえることになった。が、韓国では、(銀行)ではなく、(個人)が、潜在的不良
債権をかかえているということになる。

 深刻さという点では、(銀行)であっても、(個人)であっても、差はない。言うまでもなく、個人
破産がふえればふえるほど、それはそのまま銀行の不良債権と化す。

 事実、韓国では、今年(06年)に入り、10月までに個人破産を申請した者は10万人に迫っ
ている。昨年1年間の申請者(3万8800人)の2倍を超える数である。さらに「事実上破産状
態にありながら、まだ破産申請をしていない潜在破産者(79万世帯、韓国銀行推定値)を加え
ると、19世帯のうち1世帯が「破産状態」にあるものと推定される」とのこと(同、報告書)。

●悪化する就職状況

 就職状況も悪化している。朝鮮N報のコラムによれば、「今年(06年)に入り、失業保険の新
規申請者が前年比で10%程度増加、60万人を突破する見とおしである」という。さらに「今年
の4年制大学卒業者のうち正規雇用された者は、2人中1人にも満たない。来年の雇用はさら
に厳しくなる展望だ」という。

 一部の国策企業(=政府の手厚い補助金をたっぷりと吸い込んでいる企業)の、一見華々し
い活躍はさておき、韓国経済は、現在、悪化の一途をたどっている。

 4年生の大学を卒業しても、2人に1人しか就職できないというのは、かなり深刻な状況と考
えてよい。もしこんなことが日本で起きたら、日本はどうなるか? それをほんの少し、頭の中
で想像してみればよい。

●あがる税金

 が、それだけではない。朝鮮N報は、さらにこうつづける。

「所得が減少する一方、税金・保険料など家計の公的負担は毎年増加している。来年(07年)
の1人当たりの勤労所得税の負担額は、206万ウォン(約26万円)となり、今年(188万ウォ
ン)より18万ウォン(9・6%)増える見通し」と。

さらにつづく。

「そのうえ、来年には健康保険料も平均6・5%、引き上げられる。政府は過去5年間、勤労者
の健康保険料を2倍以上引き上げており、物価上昇率(16・5%)の6倍以上負担が増えた。
これにより健康保険料を滞納する世帯が急増し、滞納世帯は200万世帯(05年末基準)に迫
っている」とも。 

 わかりやすく言えば、韓国の経済政策は、ツギハギだらけ。もう少しきつい言い方をすれば、
行き当たりばったり。たった1週間で、経済政策が変更になったり、取り消された例も、数多
い。

 で、現在はどうかというと、バブル経済を沈静化させるために、金利をあげることもできず、さ
りとて、景気を刺激するために、さげることもできず、韓国経済そのものが、巨大なジレンマに
陥っている。

 このままでは、……というより、その兆候はすでに見え始めているが、韓国経済は、奈落の
底へと落ちていく。日本経済のような底力、つまりは、それまでに蓄積した技術力や投資外資
がない分だけ、一度、そうなったら最後、どこまでも落ちていく。

 もちろん日本経済も影響を受けるが、韓国がなくても、日本はやっていける。日本には、台湾
がある。中国がある。さらにインドがある。現に今、日本は台湾、インドに巨額の投資を繰りか
えし、台湾やインド、さらには中国に、日本の代理戦争をさせている。その効果は、IC産業を中
心に、確実に現れ始めている。(これについては、少し前に書いたので、ここでは省略。)

 半面、この日本は、どうか?

12月21日の財務省の発表によれば、日本の11月の貿易黒字幅が、前年比54・1%増の9
159億円だったことがわかった。 

 輸出は前年同期比12・1%増の、6兆6318億円、輸入は同7・5%増の、5兆7159億円。 

韓国は、06年12月、「韓国の年間輸出額が、はじめて3000億ドルを突破した」(朝鮮N報)と
はしゃいでいる。が、いつまでつづくことやら? その分だけ、輸入額も多い。07年度中には、
貿易収支は、赤字に転落すると、予想されている。

 ちなみに、現在のところ、各国の輸出額は、こうなっている。

日本の輸出額(05年)   ……5944億ドル (貿易収支……  800億ドル)
 韓国の輸出額(06年)   ……3260億ドル (貿易収支……  160億ドル)
 ドイツの輸出額(05年)  ……9699億ドル (貿易収支…… 1961億ドル)

 がんばれ、日本! これはサッカーの試合とは、わけがちがう。日本の浮沈問題がからむ、
重要な試合である。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1733)

【今日・あれこれ】(子どもの心について)

++++++++++++++++++

昨日、6か国協議は、何ら話しあいらしき
話しあいもないまま、終わってしまった。

K国は、金融制裁を口実に、核問題の話しあいを避けた。
そのK国。来年(07年)も、穀物を中心として、
100万トンの食糧が不足すると見こまれている(WFP)。

そのK国が、こう言った。

「(アメリカが)敵視政策を転換しないかぎり、
核開発をつづける」と。

自分の国を、一人前の「敵」と位置づけて
いるところが、おかしい。笑える。

アインシュタインが言った、
「誇張された民族主義(exaggerated
nationalism)」がどういうもので
あるかを知りたかったら、K国を見ればよい。
韓国を見ればよい。ついでに日本の右翼団体を見ればよい。

ほとんどの戦争は、誇張された民族主義が
原因で、始まる。

……という問題はさておき、今日は、子どもの
心について考えてみたい。

+++++++++++++++++++

●こわれる子どもの心

 子どもの心がこわれる? ……とは、何? 疑問に思う人も多いと思う。「どういうことだ?」
と。

 しかしこの問題だけは、そういった視点で子どもを見たことがない人には、理解できないだろ
う。「私だからこそわかる」と書けば、「何だ、そんなことか!」で終わってしまう。が、こわれるも
のは、こわれる。そしてここがこわいところだが、一度こわれた心は、ぜったいに、もとには、も
どらない。

 あなたは幼児の、あの天にも抜けるような、朗らかで明るい心を知っているだろうか。子ども
というのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、みな、そうなる。

 しかしその心も、受験期を迎えるようになると、急速に変化する。子どもによっては、どこかの
受験塾の夏期講習を受けただけで、別人のようになることもある。小学生であれば、なおさら
である。

 その時期を境に、子どもの心は、冷たく、合理的になる。ぬくもりを失い、ものの考え方が、つ
っけんどんになる。やさしさが消え、底が浅くなる。あたかも、心の一部が欠けたような状態に
なる。わかりやすく言えば、こちらが暖かい気持ちで接しても、それがそのままはね返されてし
まう。そんな感じになる。

 そういう子どもの変化を見ながら、ほとんどの親たちは、「うちの子もやっと、心構えができま
した」と喜んで見せる。「受験に対する自覚が生まれました」とも。

 が、これはとんでもない誤解である。仮にそれで受験がうまくいったとしても、その後遺症は、
そのあと、生涯にわたってつづく。言いかえると、その後遺症をひきずっている人には、それが
わからない。たとえて言うなら、メガネのようなもの。長く使っていると、メガネをかけていること
すら、忘れてしまう。

 もっとはっきり言えば、心の欠けた人からは、心の欠けた人が理解できない。心の欠けた親
からは、心の欠けた子どもが理解できない。それに気づくこともない。そういう例は、多い。

 若いころ、まだ幼稚園で働いていたときのことだが、こんなことがあった。私がその子ども(年
長男児)の問題点を、母親に相談しようとしたときのこと。自分勝手でわがまま。自分さえよけ
れば、それでよいという態度ばかりが、目立った。が、その母親は、私にこう言った。

 「あんたは、だまって、息子の勉強だけをみていてくれればいい。(いらぬことを言うな!)」
と。

 母親自身が、心の冷たい人だった。そういう母親に、子どもの問題点を指摘しても、意味が
ない。その母親は、自分の心を基準に、ものを考える。自分の子どもを見る。

 心の欠けた子どもには、つぎのような特徴がある。

(1)やさしさが通じない。……ふつう子どもというのは、こちらがやさしくしてやると、そのやさし
さが、スーッと子どもの心の中にしみこんでいくのがわかる。が、心の欠けた子どもにはsろえ
がない。それをそのまま、はね返してしまう。

(2)おだやかさが消える。……心に余裕がなくなり、いつもピリピリした状態になる。昔風の言
い方をすれば、まろやかさが消える。ものの考え方が合理的で、打算的。こちらがやさしくして
やっても、すかさず、損か得かという基準だけで、それを判断する。

(3)自己中心性が強くなる。……自分勝手でわがままになる。相手の立場でものを考えること
ができない。「自分さえよければ、それでいい」という考え方をする。かつて、こう言った高校生
がいた。「文化祭の委員なんかやるヤツは、バカだ。それだけ受験勉強の勉強ができなくなる」
と。

(4)人間味が消える。……動物のぬいぐるみを見ても、それを平気で足で蹴飛ばしたりする。
弱いものいじめを平気でする。暴言がふえる。相手がいやがることを、平気で口にしたりする。
「勉強ができない子どもは、バカ」という考え方をし、常に自分の優位性を保とうとする。

 ざっと思いついたまま書いてみたので、正確ではない。それにこうした心の(ゆがみ)は、受
験勉強だけで生ずるものではない。親の慢性的な過干渉、過関心が原因で生ずることもある。
しかしこれだけは忘れてはいけない。

 これから思春期という、つまり、心ができるその時期に、「受験勉強」という魔物の中に子ども
を放りこんで、それでその子どもが無事ですむと考えるほうがおかしい。イギリスの格言にも、
『抑圧は悪魔を作る』というのがある。

 慢性的な抑圧感が蓄積されると、子どもでなくても、心は、悪魔化する。心というのは、そうい
う意味で、たいへんデリケートにできている。たとえて言うなら、薄いガラスでできた箱のような
もの。こわすのは、簡単。本当に、簡単。

 この日本では、受験勉強を避けて通れないものかもしれないが、(心)まで失って、何が受験
勉強かということになる。が、それだけではすまない。心を失った子どもは、多少ばかりの財産
と名誉、地位と引きかえに、生涯、死ぬまで、孤独の世界でもがき、苦しむことになる。損か得
かということになれば、よほど、そちらのほうが損ということになる。

 私が中日新聞にはじめて書いたコラムを、いくつか紹介する。これを読んでもらえば、(心の
欠けた子ども)というのが、どういう子どもであるか、あなたにも、わかってもらえるはず。

++++++++++++++

●ゆがむ子どもの心

 イギリスの諺に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。心の抑圧状態が続くと、ものの考え
方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子どもの心にあてはまる諺はない。

きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、
まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも
他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつう
の子どもだった。

が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。何とそこには、血が飛び散ってもがき
苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。しかも
描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。ほかに首のない
死体や爆弾など。原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノ
ルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり
出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事
件は、現場ではいくらでもある。その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件
があった。1人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺して
しまったというのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。ネコやウサギをお
もしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。

ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火を
つけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。そういう
症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干渉が原
因でないとは、もっと言えない。

子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。いじめや家庭内暴
力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなた
の周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生き
ている人ほど、心が温かいということを、あなたは知っている。

子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方
で、子どもの心をゆがめる。それを忘れてはならない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●指示は具体的に

 具体性のない指示には、意味がない。たとえば「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をよ
く聞くのですよ」と言うのは、それを言う側の、気休め程度の意味しかない。「交通事故に気を
つけるのですよ」と言うのも、そうだ。そういうときは、こう言う。

友だちと仲よくしてほしかったら、「この○○を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶ
わ」と。先生の話をよく聞いてほしかったら、「今日、学校から帰ってきたら、先生がどんな話を
したか、あとで話してね」と言うなど。

交通事故については、一度、事故の様子を演技してみせるとよい。(自動車が走ってくる)→
(子どもが飛び出す)→(自動車が子どもをはねる)→(子どもがもがき苦しむ)と。迫真の演技
であればあるほど、よい。気の弱い子どもだと泣き出してしまうかもしれないが、子どもの命を
守るためだと思い、決して手を抜かないこと。茶化さないこと。こんな子どもがいた。

 その子どもは、母親が何度注意しても、近くの小川で遊んでいた。そこである日母親が、トイ
レの排水がどこをどう通って、その小川にどう流れていくかを、歩きながら順に追って見せた。
以後、その子どもは、その小川で遊ばなくなった。要するに子どもに与える指示には、具体性
をもたせろということ。この方法は、次のようにも応用できる。

 たとえば自尊心。「自分を大切にしなさい」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、
「名前を大切にしようね」と教える。さらに具体的には、新聞でも雑誌でも、子どもの名前の出
ているものは、最大限尊重する。切りぬいて、高いところに張りつけたり、アルバムにしまった
りする。皆の前で、ほめるのもよい。そしてそのつど、「あなたの名前はいい名前だ」「すばらし
い名前だ」と言う。子どもは自分の名前を大切にすることによって、自分自身を大切にすること
を学ぶ。それが自尊心につながる。

 たとえばやさしさ。「人に親切にしようね」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、そ
のつど、「こうするとパパが喜ぶよね」「これを分けてあげると、○○(妹)が喜ぶわね」と、相手
を喜ばすことを教える。また結局はそれが自分にとっても、楽しいことであることを教える。やさ
しい人というのは、それが自然な形でできる人のことをいう。

 たとえば命の尊さ。「命を大切にしようね」と言っても、やはり意味がない。子どもに命の尊さ
を教えようとするなら、どんな生きものであれ、その「死」をていねいに弔うこと。子ども自身が、
さみしさや悲しみを味わうようにしむける。たとえばあなたのペットが死んだとする。そのときあ
なたがその死骸を、紙袋か何かに包んで、ポイと捨てるようなことをすると、あなたの子どもは
「命」というのは、そういうものだと思うようになる。そして命、さらには生きていることそのもの
を、粗末にするようになる。

どんな宗教でも、死をていねいに弔う。それは死を弔いながら、その反射的効果として、生きて
いることを再確認するためではないか。そういうことも考えながら、死はどこまでも厳粛に。なお
死への恐怖心(地獄論やバチ論など)をもたせて、命の尊さを教える人もいるが、これは教育
の世界では邪道。幼児や年少の子どもには、決してしてはならない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●バラバラになる親子

 Aさんは会社のリストラで職をなくした。企業診断士の資格をもっていたので、市内のマンショ
ンを借りてコンサルタント事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまってしま
った。しかしそれが悲劇の始まりだった。

 まず大学1年生になったばかりの長女が、Aさんを責めた。「大学だけは出してもらう。あんた
に責任をとってもらう」と。次に二女もそれに加わり、「お父さんが勝手なことばかりしているか
ら、こうなったのだ」と。

本来ならここで母親が間に入って、父と娘たちの調整をしなければならないのだが、その母親
まで、「生活ができない」と言って、家を飛び出してしまった。

家族といっても、一度歯車が狂うと、どこまでも狂う。狂ってバラバラになってしまう。Aさんはこ
う言った。「妻の家出のことで助けを求めたとき、長女に『自業自得でしょ』と言われました。そ
のときは背筋が凍る思いがしました」と。

 Aさんは何とか親戚中からお金をかき集めて、長女の学費を工面した。が、そういう苦労など
どこ吹く風。長女は妻が身を寄せている三重県の実家へは帰るものの、Aさんのところには寄
りつかなくなってしまった。仕送りが遅れたりすると、長女から矢の催促が届くという。

 こう書くとAさんをだらしない男のように思う人もいるかもしれないが、ごくふつうの、しかも典
型的なまじめ型人間。日本人の何割かが、彼のような人物といってもよい。人一倍家族思い
で、また家族のためならどんな苦労もいとわない。Aさんはこう言う。「朝早く仕事にでかけ、い
つも帰るのは真夜中。家族はそれで満足してくれていると思っていました。しかし妻も娘たち
も、自分とはまったく違ったとらえ方をしていたのですね」と。

 そのAさんは今は、二女の進学問題で悩んでいる。「お金がないから……」と言いかけると、
次女は「今ごろそういうことを言われても困る」と。「そういう話は前もって言ってもらわなければ
困る」とも。

 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け』というのがあ
る。親というのは、子どもに何かものを買ってあげることで、親としての義務を果たしたかのよう
に思うかもしれない。が、それでは子どもの心をつかむことはできない。子どもの心をつかみた
かったら、「釣りに行け」と。

何でもないことのようだが、親子の意識のズレはこうして始まる。「してあげた」と思う親。それ
を「当たり前」と思う子ども。そしてそのズレが無数に積み重なって、Aさんのようになる。いつ
か気がついてみたら、家族の心がバラバラになっていた、と。ついでに一言。

 私たち戦後の団塊世代は、あのひもじさを知っている。だから子どもたちには、そのひもじい
思いをさせたくないとがんばってきた。結果、今の子どもたちは、「ひもじい」という言葉の意味
そのものすら知らない。しかしそれが今、あちこちの家庭で裏目に出ようとしている。Aさんの
家庭もそんな家庭だが、皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。親がこの逃げ場を平気で
侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいには、家出ということにもなり
かねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げ
たら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけ
ない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかる
と、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱られると、トイレに
逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中に入
って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかってい
くという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。

D君(小1)は、おさげの中に、野菜まで入れて、家出した。これに対して、目的のある家出は、
必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、もし目的のわからない家出を繰り返
すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければならない。過干渉、過関心、威圧
的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が
幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの
考え方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちもの
を検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバンの
中など、のぞけるものではない。私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことが
ない。たとえ許可があっても、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、
ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それを
してはいけない。子どもの尊厳を守るために。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。

あなたの子どもがあなたを取ればよし。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな
亀裂が入ることになる。友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友
を捨てろというのは、子どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責め
るほど、あなたの子どもは窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへ
んまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。

そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相
手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つ
まりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育て
の中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。

自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思
うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先
進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもの心をゆがめるな!

子どもの心が破壊されるとき
 
●バッタをトカゲのエサに

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカゲをつか
まえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、
トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が
凍りつくのを覚えた。

よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを
口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の
頭だった。

また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さな
トカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカ
ゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

●心が壊れる子どもたち

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。

要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。
さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することも
ある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。

「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のことをいう。これ
がないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。昔、こう言った高校生
がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれ
ば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊か
な家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もや
さしくなる。

●無関心、無感動は要注意

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。

よく誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」がある
からではない。非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままス
ーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができ
ない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

●心の修復は、4、5歳までに

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。

子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読める。
子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子どもは、おとなが見て
も、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、4、5歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心の
冷たい子 子供の心 心を育てる家庭教育 子どもの心理 子供の心理)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●12月24日

++++++++++++++++++++

今日は、クリスマスイブ。どうということは
ない日だが、朝になって、ワイフが、小さな
ツリーを飾り始めた。

ついでにその奥から、去年使った、しめ飾りが
出てきた。

それを見て、ワイフは、ウォーと声をあげて、
こう言った。

「ヘヘヘ、去年のが出てきた!」と。

数日前、近くのショッピングセンターで2つ
しめ飾りを買ったばかり。

「こちらのほうが大きいので、これを使う」と、
まあ、ワイフは、勝手なことを言っている。

私はどちらでもよい。

去年使った、大きなしめ飾りにするか?
それとも、今年買った、小さなしめ飾りにするか?

+++++++++++++++++++

●プレゼント

 クリスマスの楽しみは、何と言っても、プレゼント。……と言っても、この10年以上、プレゼン
トは、自分たちで決めている。ワイフは、私に「何がほしい?」と聞き、私はワイフに、「何がほし
い?」と聞く。たがいに、それを買ってきて、交換することにしている。

 しかし去年は、シャツと手袋ではなかったか? よく覚えていないが……。


●N先生

 昨日、K市に住んでいるN先生と電話で話す。正月には、奥さんと、スペインへ行ってくると
か。うらやましい。

 私も行きたい。行きたいが、今しばらくは、国内旅行でがまん。が、その国内旅行も、行きに
くくなった。

 先日、いつも使っている、地元のバス旅行会社が運営するBツアーの悪口を、BLOGに書い
た。ついでに、同じ原稿を、Bツアー会社にも送っておいた。陰でコソコソと悪口を言うのは、私
のやり方ではない。

 悪口といっても、ガイドのおしゃべりがひどすぎると書いただけだが……。

 それに対して、すかさず、Bツアーの担当者から、わび(?)のメールが入った。「(私の)連絡
先を教えてほしい」と、それには書き添えてあった。

 まあ、こうした批判は、控えめに。さっそく、BLOGに書いた原稿は削除することにした。私の
義理の兄も、Bツアーの事務所に長く勤めていた。縁は、深い。

 Bツアーのみなさん、これからも、よろしく。……と言っても、しばらくは、もう利用しない。あの
うるさいガイドのひとりしゃべりには、コリゴリ。


●韓国のおバカ大統領

 またまたあのおバカ大統領が、おバカな発言をした。それがまたまた、韓国内で、問題になっ
ている。

 おバカ大統領が、自国の軍を批判して、こう言った。

 「軍の高官たちは今まで何をしたというのですか。自分たちの国、軍隊のための作戦統制権
をまともなものにできなかったくせに、私が国防長官だ! 参謀総長だ!、と星をつけて威張っ
ただけじゃないですか」

「アメリカにすがって、アメリカのズボンにつかまって、『お兄さん! お兄さんの力だけが頼りで
す』と言うことだけが、独立国家の国民の安全保障の意識ですか」(News−i)と。

 仮に軍部を批判するとしても、こういう批判のし方はない。その軍部を指導、指揮するのは、
大統領自身ではないのか。

 ……と書いても、何も、韓国のことを心配しているのではない。今の韓国から、アメリカ軍が
消えたら、たちまち韓国は、K国の餌食(えじき)になるだけ。戦争とまではいかないにしても、
K国の核兵器におびえながら、K国の言いなりになるだけ。もちろん外資は、いっせいに、韓国
から引きあげる。

 N大統領は、就任直後、「K国の核兵器開発は、われわれが解決してみせる」と大見得を切
った。しかしその結果はどうだったのか。

 ついでながら、韓国の人たちは、日本をどう見ているか、朝鮮N報の社説(4月27日)の一部
を、ここに紹介しよう。

 「小泉首相はこのように日本国内の実績に支えられて、韓国など見下している様子だ。彼は
強い米国と手を握っていれば、中国などは恐れることもないと思っているようだ。今うまく行って
いるからと傍若無人に振る舞うのは、小人のやからがすることだ。すでに小泉式のごう慢ふそ
んな外交はアジアで日本を孤立させているではないか。 

 日本が国境を接して隣り合っている国は韓国と中国だけだ。その両隣国に受け入れられな
いのに、国際社会においてどうして指導的役割を夢見られようものか。日本が死に物狂いで追
いすがっている米国でも、アジアで排斥されている。日本が気まずくなる日が来るだろう。それ
ほど遠くない時期に、小泉首相の'おかしな考え'に惑わされ、正気を失ったのを日本が後悔す
る時があるだろう」(原文のまま)と。

 (小人)とか、(やから)とか、(死に物狂い)とか、まさに言いたい放題。韓国を代表する新聞
社の、これが社説である。

 もし日本のY新聞やA新聞が、同じような言葉を使って、韓国を批判したら、韓国の人たち
は、どう反応するだろうか。戦後、アメリカと日本が、血と汗で築きあげた自由主義貿易圏内
で、繁栄を謳歌しながら、反米、反日を唱える韓国。韓国自身が、まずその愚かさを知るべき
ではないのか。

 この国にあって、この大統領。私には、そうとしか思えないのだが……。

 ちなみにいちばん最近の世論調査によると、N大統領の支持率は、5%台にまで落ちこんだ
そうだ。このおバカ発言をする前までは、10%前後を推移していた。


●K国の核実験

 この原稿がEマガジンに載るころには、K国は、2度目の核実験をしているかもしれない。(今
日は、06年12月24日)。

 しかしそのK国の核兵器開発を抑えられる国は、もう、ない。中国やロシアは、もとよりアテに
ならない。韓国にいたっては、「K国がわが国を攻撃するはずはない」(N大統領)と述べてい
る。内心では、K国の核兵器を容認している。事実、N大統領は、K国が核兵器をもちたがるこ
とについて、「一理ある」とまで公言している。

 もちろん、日本にも、その力はない。

 最後の頼みの綱は、アメリカだが、先の中間選挙で敗北して以来、ブッシュ大統領は、何か
につけ弱気になってしまった。わかりやすく言えば、サジを投げかけている。

 もしK国が、核兵器と、それを運搬するミサイルをもったとするなら、(すでにそうなりつつある
が……)、日本は、そのときから、K国の核攻撃の脅威にさらされることになる。K国は、日本
に対して、言いたい放題、したい放題のことをしてくるだろう。

 日本よ、日本人よ、その覚悟はあるのか? その自覚はあるのか? ヨン様とか、イー様と
か、ノーブレインなオバチャンたちが現(うつつ)を抜かしている間に、日本はこうなってしまっ
た。


●ともかくもクリスマスイブ

 ともかくも、今日はクリスマスイブ。暗い話は忘れて、ここは楽しく生きよう。明るく生きよう。

 メリークリスマス!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●ボケ兄、行状記

+++++++++++++++

昨夜も、姉と、2時間ほど、電話で
話した。

現在、私の兄は、グループホームに
入っている。ボケたといっても、部分的に
頭のよいところもあるらしい。

ホームの人たちに、あれこれ迷惑を
かけているらしい。

「そのうち、追い出されるかも」と、
姉は言う。

「そのときは、そのときで、考えよう」と
私は言う。

+++++++++++++++

 兄は、子どもの頃から、人にバカにされても、ヘラヘラと笑っていたという。姉はそう言った。
つまり、兄は、すでにそのころから、自我の崩壊が始まっていたのかもしれない。私がちょうど
30歳のとき、つまり今からほぼ30年前にも、こんなことがあった。

 高校の同窓会の日のことである。朝起きて、同窓会に行こうと戸棚を見ると、そこにあったジ
ョニ黒(ジョニーウォーカ・ブラックという名前のウィスキー)の栓が抜いてあった。しかも数セン
チ、量が減っていた。

 私が、担任だった先生への、みやげにと思って、外国で買ってきたものである。

 兄のしわざとすぐわかったので、兄に、「どうして飲んだ!」と怒ると、兄は、何ら悪びれる様
子もなく、ヘラヘラと笑いながら、「ちょっと、飲んでみたかっただけや」と答えた。私の兄という
のは、子どものころから、そういう兄だった。

 今でもあのとき感じた、じれったさというか、歯がゆさを忘れない。ふつうなら、バカヤローと
叫んで、弁償させるのだが、相手が、そういう兄では、それもできない。もちろん喧嘩にもなら
ない。

 原因は、つまり、兄がそうなった原因は、母の、異常なまでの過干渉と過関心。それに代償
的過保護である。兄は、子どものころから、自分で考えて、自分で行動するということが、でき
なかった。

 が、加齢とともに、それにボケが加わった。アルツハイマー病ではないが、前頭前野の管理
能力が、極端に低下している。最近では、自分のしていることを、客観的に判断する能力さえ
ないようである。つまり自分勝手で、わがまま。他人との協調性は、ゼロ。

 おやつの時間でも、みなでいっしょに並んで食べることになっているそうだが、兄は、自分だ
けさっさと食べて、そのまま自分の部屋にもどってしまうという。姉は、「ホームを追い出される
のは、時間の問題」と言っている。そういう話を聞きながら、私は、「そのときは、そのときで考
えよう」と言う。

 先のことを、今から悩んでもしかたない。どうせ、この問題は、なるようにしかならない。あの
兄が、いまさら、正常にもどる(?)などということは、ありえない。

 ……もちろんグループホームといっても、無料ではない。入居費だけでも、月々、12〜3万
円もかかる。プラス、病院への治療代、小遣いなどなど。「ふつうの大学生並の生活費がかか
る」とよく言われるが、それくらいは、かかる。そういう負担が、この先、10年とか、20年もつづ
く。

 そのグループホームを追い出されたら、今度は、擁護施設ということになるが、そこでは入居
費は、もっと高くなる。それを考えると気が重くなるが、しかし私は、そんな(甘ちゃん)ではな
い。子どものときから、いつも、「やられたら、やりかえす」を、モットーにして生きている。

 つまりそういう兄をバネにして、さらにがんばる。今までも、そうしてきた。これからも、そうす
る。まだまだ、はやし浩司は、元気なのだア!


●年賀状

 昨夜、コタツの中で、年賀状を書いた。図柄は、ヒヤシンス。水彩えのぐを使って、描いた。

 宛名などは、ペンを使って書いたが、改めて自分のヘタクソな字に、驚く。このところ、手書き
で文字を書くという機会が、ほとんどない。だから余計にヘタクソになった。自分でもそれがよく
わかっている。

 「字というのは、書かないと、ヘタクソになるものだなあ」と私が言うと、ワイフは、私の書いた
字を見ながら、「本当に、そうね」と言って笑った。

 しかしもうこうなったら、居直るしかない。私は、年賀状のあいている部分に、こう書いた。

 「めったに手で字を書くこともないので、こんなにヘタクソになってしまいました。来年は、もっ
とヘタクソになります」と。

 あるがままの自分をさらけ出して生きる。字がヘタクソになるのも、そのひとつ。しかたのない
ことだ。

 そうそう、ヘタクソになるだけならまだしも、字そのものも忘れてしまう。ワープロからパソコン
へ。文を書くといっても、キーボードを叩いて書く時代になった。私のばあい、それがもう15年
以上もつづいている。

 「いいのかなあ?」と内心では思いながら、今日も、こうしてキーボードを叩いている。


●バスガイドのおしゃべり

++++++++++++++++++++

少し前、バスガイドのおしゃべりについて、
書いた。

ガイドにもよるが、運悪く、おしゃべりの
ガイドに当たると、旅行そのものが、台なしに
なることもある。

しかし意味のないおしゃべりが、どういうもので
あるかを知りたかったら、バスガイドの
おしゃべりを聞けばよい。

++++++++++++++++++++

 少し前のことだが、長野県のほうへ旅行をしたときのこと。そのときもガイドのおしゃべりに
は、閉口した。とにかく、よくしゃべる。ペチャペチャ、キャッキャッ……と。

 それが数秒の間を置くこともなく、つづく。しかもスピーカーの音量は最大。脳みその奥まで、
あの甲高い声が、ギャンギャンと響く。

 ガイドといっても、こんな話である。

 「全国のみやげで、人気ナンバー・テンは、○○県の△△です。……9位は、〜〜です。……
8位は、〜〜です」と。

 それが終わると、今度は、「全国で売りあげナンバー・テンの名物は、○○県の△△です。…
…9位は、〜〜です。……8位は、〜〜です」と。

 話している内容が、実に浅い。「浅い」というのは、「奥行きがない」ということ。もしそのとき私
が、「では、そのみやげは、どんなお菓子ですか」とでも質問したら、どうなるのだろうか。その
ガイドは、その菓子の味まで、説明できるのだろうか。あるいは、「どういう基準で、人気度を調
べたのか」とでも質問したら、どうなるのだろうか。その根拠について、ガイドは、説明できるの
だろうか。

 きっとそのガイドは、「わかりません」「知りません」と答えるだろう。つまり、それを私は、「浅
い」という。

 わかりやすく言えば、そのガイドは、大脳の表層部に飛来する情報を、そのまま音声に変え
ているだけ。あるいは、小さなメモでも見ながら、話していたのかもしれない。もともとどうでもよ
い情報である。

 聞いても、すぐ忘れる。何も、参考にならない。

 そこで改めて、情報と思考について、考える。

 たとえば近くのH湖で遊覧船に乗ると、スピーカーからガンガンと音楽が流れてくる。そしてそ
の合い間、合い間に、録音された声で、観光ガイドが始まる。「右に見えますのが、○○山。手
前、左手に見えますのが、△△島……」と。

 日本の観光名所ではよく見られる、ごくありふれた光景だが、あれほど、無駄な情報というも
のはない。「だから、どうなの?」「それがどうしたの?」という部分がどこにもない。

 私がしたいことは、(あくまでも、これは私だけかもしれないが)、静かに、かつのんびりと、そ
の時間を楽しく過ごすこと。しかしどういうわけか、この日本では、それができない。どこへ行っ
ても、騒音、また騒音。静かに考える時間もない。また相手に、静かに考えさせる余裕すら与
えない。

 バスのガイドにしても、間(ま)をおくと、客に失礼とでも思っているフシがある。だからしゃべ
る。数秒の間をおくことなく、しゃべる。それも、10分とか20分とかなら、まだがまんもできる。
しかしそれが3時間とか、4時間もつづく。

 ところで最近、姉がこんなことを話してくれた。頭のボケかけた私の兄についてだが、一日
中、テレビをかけっぱなしにしているという。で、テレビを見ているかといえば、見ていない、と。

 姉は「ただかけっぱなしにしているだけなのね。スイッチを切ったりすると、すぐ自分でスイッ
チを入れてしまう」と。

 自ら考えることができない人は、その一方で、いつも何らかの情報に接していないと、落ちつ
かないものらしい。それがたれ流しであっても、だ。言いかえると、「考える」ということは、もっと
能動的なもの。難解な数学の問題を、汗を流しながら解くようなものと考えてよい。

 それがないと、ただの情報の受け売りにすぎない。冒頭に書いた、バスガイドが口にするガイ
ドが、それである。何も考えない人には、ガイドの話も、それなりにヒマつぶしになるかもしれな
い。しかしそうでない人には、ただの騒音。ばあいによっては、苦痛。

 たとえば難解な数学の問題を解いているとき、だれかが横でテレビにスイッチを入れたとした
らどうだろうか。そういう状況を思い浮かべてみればよい。

 バスガイドの、あの意味のないおしゃべりを思い出しながら、改めて、情報と思考について考
えてみた。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

●韓国のおバカ大統領

+++++++++++++++++

最初は、だれしも「?」と思った。
しかしその「?」は、やがて増幅し、
増大し、今では韓国中が、その話題で
騒然となっている。

韓国のN大統領がなした演説が、
である。

++++++++++++++++

韓国のN大統領は、12月21日、民主平和統一常任委員350人を前にして、70分以上にわ
たって熱弁を振るった。(予定では、20分。)「何かにとりつかれたかのように全身を震わせ、
両手をポケットにつっこんでは抜き、時にはこぶしを握り、時には演壇をたたきまでした」(朝鮮
N報)と。

 N大統領は、こう述べたとされる。朝鮮N報は、つぎのように概説する。

 「大統領は70分間にわたって国民をこきおろし、先達たちをあざ笑い、軍をばかにして、大
韓民国の歴史を侮辱し、自らが任命した前首相に責任をなすりつけ、同盟国に言いがかりを
つけ、新聞を愚弄(ぐろう)した。国民や歴代の指導者、韓国軍、大韓民国や同盟国、新聞が、
つぎつぎと大統領の独善主義の犠牲となった。この無差別攻撃から無傷でいられたのは、N
大統領から『常識がある』と評価された北朝鮮の金xx総書記しかいなかった」と。

順に、N大統領が言った言葉を拾ってみよう。

★「米国のズボンのすそにしがみついて、そのお尻の後に隠れ、僕は兄さんをどこまでも信じ
るよ」

★「(アメリカが)もう帰りますと言ったから、韓国民は発作を起こした」

★「米軍の2個師団が外れたら、みな死んでしまうかのように恐れおののいた」

★「四六時中安保問題について騒ぎ立てて欲しい(と韓国民は言っている)」

★「(軍人たちは)胸章をつけてやれ国防長官だ、参謀総長だと偉そうに振る舞ってきた」

★「(軍人たちは)職務を放棄しているも同然だ。恥を知るべきだ」

★「その大金(国防費)でモチでも買い食いしたのか」

★「数百人、数千人を弾圧し、殺した国、それが韓国だ」

★「(アメリカという)同盟国がイカサマ賭博を仕組んで、自分を手なずけようとした」

★「(韓国民は私に対して)、これを機に揺さぶりをかけてやれ。この馬の骨め(と思っている)」
などなど。

 直後に行われた世論調査によると、N大統領の支持率は、それまでの10%台から、5%台
に落ちこんでしまったという。当然である。

 以前から、おバカ発言が目立ったが、ここにきて、これに極まれりといった感じになった。個
人として言ってよいことと、公人として言ってよいことの、区別さえつかなくなっている。こんな大
統領が、これから先、1年2か月も、隣国の大統領かと思うと、ぞっとする。へたをすると、K国
の金xxと組んで、何をしでかすかわかったものではない。

 日本政府に忠告。

 日韓首脳会談が予定されているそうだが、支持率5%という事実をよく知ったうえで、N大統
領に会うこと。日本は、決して彼の人気取りの道具に利用されてはいけない。あるいはN大統
領が、この4年間、日本に対してどんなことをしてきたかを熟知した上で、会うこと。

 できれば会わないほうが、よい。今度は、日本が無視する番である。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1734)

●今朝は暖かい

+++++++++++++++

12月26日。今朝は暖かい。
見ると、外は小雨。

数日前、南オーストラリア州に住む
友人と電話で話した。あちらでは
気温44度を記録したそうだ。

おまけに干ばつ。暑い日には、
川のあるところまで行き、ボートに
乗るのだそうだ。

それにしても、気温44度とは!

風呂でも、42度が限界。
私には想像もつかない暑さだ。

それを知ると、今日の小雨が
ありがたく思える。

++++++++++++++

 今年も、無事、終われそう。いろいろあったが、何とか、無事に、終われそう。とくに大きなこ
とはしなかったが、無事ということは、無事。軽い風邪以外、家族、みな、病気らしい病気をす
ることもなかった。

 平凡を感じたら、現状維持。平凡にまさる美徳はない。欲もほどほどに。「まあ、こんなもの」
という割りきりが、人生に道を切り開く。

 ワイフが少し前、こう言った。「50歳を過ぎると、人の心がよくわかるようになる」と。それまで
見えなかった人の心が、よくわかるようになる。そういう意味で、そう言った。

 それは事実で、自分にとって、どの人が大切で、どの人がそうでないかが、よくわかるように
なる。と、同時に、自分が相手にとって、大切な人かどうかも、よくわかるようになる。

 だから、自分にとって大切な人を大切にするというよりは、自分が相手にとって大切でないと
感じたときは、いさぎよく、その人の前から去る。何ごとにつけ、偽善は、よくない。力になれな
い人の前で、善人ぶるのは、さらによくない。

 それはたとえて言うなら、女性の心をもてあそぶようなもの。幼い子どもの心を、だますような
もの。

 しかしそう考えていくと、自分のまわりの人間関係が、どんどんと小さくなっていくのがわか
る。100人から10人へ。10人から数人へ……。

 来年は、どんな年になるのだろう。同年齢の人たちは、みな、定年を迎える。だからといっ
て、私まで定年を迎えることはない。私は私。ただこのところ、少し、自信をなくしつつある。言
うなれば、さびれた商店街の一角で、商売を構える商店主のような気分。

 何とかやっていかれるだろうとは思うが、その先が、よく見えない。やはりここは、現状維持。
それができるだけでも、御(おん)の字。そのときがきたら、そのとき。そのときは、いさぎよく、
負けを認めればよい。

 それまでは、がんばろう。

 ……とまあ、何となく暗い話になってしまったが、誤解しないでほしい。私の心は、意外とサバ
サバとしている。今までこうして無事、やってこられたというだけでも、ありがたい。そう思ってい
る。感謝している。

 とりあえず、来年も、今までどおりのことをするだけ。健康に留意し、仕事に全力投球。結果
は、いつもあとからついてくる。何かあったら、そのときは、そのとき。そのとき考えればよい。
この日本だけでも、1億2000万人もの人たちが、ぞれぞれの道を歩んでいる。私にだけ道が
ないということもない。

 何とかなるさ!、と自分に言い聞かせたところで、今朝の雑感は、おしまい。

 おはようございます!

(追記)今朝の新聞によると、イーオン(株)が、定年を今までの60歳から65歳に延ばしたそう
だ。とてもすばらしいことだ。60歳といっても、まだまだ働きざかり。自分がその年齢に近づい
てみて、それがわかった。

 私の近所には、55歳で定年退職をし、そのあと、どうということはない、つまらない人生(失
礼!)を送っている人は、いくらでもいる。そういう人たちの人生を見ていると、それが理想の
人生とは、私には、とても、思えない。

 川の水は流れるから、川の水。中国でも、『流水は腐らず』という。私はいつまでも流れる川
の中で、泳ぎたい。よどんだ池の中で、顔だけ出してアップアップして生きるような人生だけ
は、ごめん。そんな人生を生きていると、心まで腐る。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1735)

●まぐまぐプレミア読者拡大キャンペーン

+++++++++++++++++

07年1月1日から、新しくまぐまぐプレミアプレ
(電子マガジン・有料版・月額300円)の読者に
なってくれた人で、希望してくれる人に、小生の書
いた本を、1冊贈呈することにした。

現在、無料マガジンを読んでくれている人で、「そ
ろそろ……」と考えている人は、どうか、まぐまぐ
プレミアの購読を!、と願っている。

+++++++++++++++++

 まぐまぐプレミアはいかがですか?

 現在、電子マガジンは、無料版(Eマガ2誌・メルマガ1誌)の計3誌を発行している。そのほ
か、有料版のまぐまぐプレミア(月額300円)を発行している。

 当然のことながら、私としては、有料版のまぐまぐプレミアを読んでほしい。が、インターネット
の世界では、(情報)は、かぎりなくタダに近い。お金を出してまで、読んでみようという人は、少
ない。電子マガジンとて例外ではない。

 それに私のマガジンのばあい、最初から、お金儲けは考えていない。もともとパソコンは好き
だった。それに毎日ものを書くことによって、いろいろな世界をかいま見ることができる。勉強
になる。脳みその刺激になる。

 本を書くという手もあるが、これからはインターネットの時代。本といっても、売れなければ、
それでおしまい。最近では、初版で、よくて3000部、あるいはそれ以下というのが常識。大手
の出版社でも、20〜30年前には、初版で1万2000部〜1万5000部というのがふつだった
が、それが最近では、6000〜8000部にまでさがっている。

 しかも印税は、売れた本の部数に応じて支払われるようになってきている。さらに大手の出
版社でも、印税の支払いは、半年後とか1年後。

 で、売れなければ、「在庫を整理したいので」とか何とか言われて、結局は、印税と相殺され
たり、著者自らが、買い取るということになる。加えて、一部のベストセラー本は別として、出版
界は不況のドン底。

 私が20〜30代のころは、それでも1冊出せば、30〜40万円の印税を手にすることができ
た。が、今では、それも、夢物語。

 ……ということで、インターネットの時代。「デジタル民主主義」と位置づけられることからもわ
かるように、インターネットが世界を動かすようになりつつある。新聞でも、テレビでもない。イン
ターネットである。

 まだその(力)は弱いが、インターネットは、無限の可能性を秘めている。たとえば最近、私は
スカイプ(スカイプアウト)を利用して、テレビ電話なるものを始めた。こういうことが、まったくの
無料でできるところがすごい! ご存知のようにYouTubeでは、動画をやはり無料で、配信で
きるようになった。

 この先、インターネットの世界は、さらに進化する。そこはまさに、映画『マトリックス』の世界。
現実の世界より、さらに広大な世界が、そこに広がっている。しかも情報が、瞬時、瞬時に飛
び交っている。

 問題は、そうした情報を、どうやって、お金に換えていくかである。現在は、オークションに代
表されるように、モノの売買が主流になっている。しかしオーストラリアでは、どこかのニュース
サイトでニュースを読むときでも、ワンクリック=5セント(4円)が常識になってきている。日本
も、やがてそうなるだろう。

 話がどんどんと脱線してしまったが、私としては、読者のみなさんに、まぐまぐプレミア(有料
版)を読んでほしい。しかしただ「読んでほしい」と願っても、読んでもらえるものではない。そこ
で「読者拡大キャンペーン」を始めた。

 もしよろしかったら、どうか、どうか、まぐまぐプレミア(有料版)を、購読してほしい。月額300
円。よろしく、よろしく、お願いします。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●BW生の募集

++++++++++++++++

またまたその季節になった。
BW教室では、毎年、2〜3月期に、
BW教室の生徒を募集している。

小さな個人塾だから、毎週1〜2人という
ペースで入会してもらっている。

現在、年中児、年長児のみなさん、
4月から新年中児、新小1児の
みなさんは、どうぞ、一度、
見学においでください。

BW教室の子どもたちの、あの
底抜けの明るさを、ぜひ、みなさんの
体で感じてみてほしい。

BW教室は、子どもを伸ばします!
ホント!

++++++++++++++++

【連絡方法】

★どなたかの紹介のある方

 現在のBW生、BWのOBからの紹介があるばあいは、そのまま見学してもらっています。電
話、452−8039まで伝言を残してくだされば、見学日を案内いたします。

★外部の方(紹介のない方)

 2月〜3月期に、説明会をもちます。一度、
 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 →
 「右下のBW案内」に目を通していただければ、うれしいです。BW教室がどんな教室か、わ
かっていただけます。

 その上で、BW教室への見学を、お申し込みください。(申し込み方法などは、HPのほうに書
いてあります。)それをいただいたら、私のほうから、都合のよい日時を、お知らせしたします。

 なお、見学などは、入会目的をした方だけに、していただいています。お子さんのいらっしゃら
ない方、同業の方のスパイ見学などは、かたく、お断りしています。(この世界では、そういう方
も、多いものですから……。)

 あとは、お任せください。「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」です。子どものあの純真な心を大切に、
明るく伸びやかな子どもにします。

 なお、よく誤解されますが、BW教室では、(できる)(できない)は、問題にしていません。たと
えば文字についても、「文字は楽しい」ということは教えますが、(文字が書ける)(書けない)
は、いっさい、問題にしていません。どうか、誤解のないように!

+++++++++++++++++

現在、募集中のみなさんは、

現在、幼稚園・保育園の年中児、年長児のみなさん
4月から新年中児、新年長児のみなさん
4月から新小1児のみなさん、です。

月謝などは、HPの「BW案内」のほうで、ご覧ください。入会申し込みなども、そちらでできるよ
うになっています。

++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1736)

【教育再生会議・中間報告原案】

++++++++++++++++++

06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

++++++++++++++++++

 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のような
もの。

(1)ゆとり教育の見直し
(2)教員免許更新制
(3)学校の第三者評価制度
(4)教育委員会改革
(5)大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。
(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、
検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教
師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ
個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。
あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるな
どいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。

 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生
に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー
先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できる
ようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教
育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園である
かどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あち
こちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。し
かも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教
育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成
だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然
とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣
のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだ
いにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今
度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基
本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化
性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生か
すことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふ
やせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好き
なだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることがで
きる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、イン
ドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ド
ラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++

【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式
を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家
庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は
世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(L
IFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることが
できる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習
クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001
年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1
万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最
長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低
い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任
をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから
電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話す
と、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではど
ういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工
ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試
験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書
を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めること
ができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システ
ムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきで
はないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
 
++++++++++++++++++

 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学
だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生
かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にい
たっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこ
ぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化してい
る。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思え
ば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。ま
たそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から
支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう
少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、
それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1737)

●対人恐怖症

+++++++++++++++++++++

ある母親から、掲示板のほうに、こんな相談
があった。

明らかに、分離不安がこじれた対人恐怖症に
よるものと思われる子どもについてである。

+++++++++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、初めまして。HP拝見させて頂きまして、こちらの掲示板の存在を知りました。

実は今私にはある悩みがあるのですが、その解決策になる情報がないものかとインターネット
にて探しておりましたところ、こちらにたどりついたわけなのです。

そうしてはやし先生のご意見等を拝見いたしまして、ぜひ、はやし先生にご相談にのって頂き
ければと思い、書き込みさせて頂きました。

前置きが長くなってしまい申し訳ありません。以下、長文・乱文で大変失礼致しますが、お目に
かけて頂ければ幸いです。

私には、今月末で2歳になる息子が1人おります。

息子は、会ったことのない人や、会ったことがありましても回数の少ない人と会った場合は人
見知りをします。女の人にはあまりそうでもないのですが、男の人は少し苦手なようで、私の後
ろに隠れたり、時には泣いたり。しかし平気な時もありますし、少し時間がたてば慣れて一緒に
遊んだりします。

私の目から見て(素人判断で恐縮なのですが)比較的、人見知りが酷い方だとは思わないので
す。しかし一つ気になることがあるのです。

私の主人の両親が、毎月に1、2回息子に会いに来てくれたり、私達の方から主人の両親の
いる実家へ遊びに行ったりするのですが、息子は主人の両親に会う度、決まって泣くのです。
特に主人の実家へ行った時などは、車から降ろした途端泣きだします。

私や主人の友人宅へ遊びに行った時は、玄関先で泣きはしますが、抱っこをして部屋の中へ
入りしばらくすれば、慣れてくるのか泣き止むのです。ところが主人の実家だと、いつまでも泣
いて私や主人にしがみつき、一人で歩き回ったりするまでに、とにかく時間がかかります。です
から最近主人の実家に行った時には、まず、家の周りを少し散歩してから中に入るようにして
いるのですが、あまり効果は無いようで、家に入ればまた泣き出します。

悩みというのは、その息子の両親に対する態度なのです。

最近どうもそのことが気にかかるようになり、そういえば息子は初対面の人と会ってもこんなに
ひどくなくことはないな、と感じるようになってきたのです。そして今までに何かこう、似たような
ことはあっただろうかと思い返してみたところ、息子が予防接種や、風邪を引いたときにお世
話になる病院の医師の顔を見て必ず泣き出す…。この時の反応が唯一近いと思われます。

もしも息子の中で医師に対して、『この人は注射という痛いことをする人だから、怖いし、嫌』と
いう思いを持って泣き出すのであれば、主人の両親に対しても何か泣く理由があるのではと思
ったのです。そうして思い当る節が出てきたのです。

主人の両親にしてみれば、息子は初孫で本当に本当に可愛くて可愛くて仕方ない様子です。
ところがあまりにも可愛すぎるのか、息子が泣いているのに無理やり抱っこし続けたり、お義
父さんとお義母さんの間で、息子を抱くために取り合いになることもありました。息子が生まれ
てまだ1か月の時も、私や主人や私の実母以外の人が抱くと泣くのですが、主人の義母は泣
いている息子をいつまでも抱っこし続けた結果、主人の両親が帰った後も、息子には4時間も
延々と泣き続けられました。

先日も主人の両親が私達の家に遊びにこられて、泣く息子を無理やり外に連れ出し、散歩に
連れて行こうとしたことがありました。しかし息子があまりにもひどく泣くものですから(泣きすぎ
てむせるくらいです)私がとりあえず落ち着かせるために一度抱っこをしようとしたのですが、
結局泣き続ける息子に構わず、主人の両親は息子を連れて散歩に行ってしまいました。

1時間程して帰ってきた息子は、ケロッとしていたので、その時はあまり気にもとめなかったの
ですが、先程申し上げた「思い当たる節」というのは、主人の両親のこういう『強引』なところ
が、もしかしたら息子は嫌で泣くのではないかということなのです。しかし当のお義父さんとお義
母さんは「まだ私達の顔を覚えてないから泣くのね」といった具合いで、息子が泣くのは顔を覚
えていないための人見知りが原因だと思っているようです。確かに私にも、どちらが正しいの
かはハッキリと分かりません。ですから息子の気持ちや考えを分かってやれない事が口惜しく
て歯痒くてならないのです。

主人の両親は更に「慣れさせるためには、泣いてでも強引に3人だけで(主人の両親と私の息
子)だけで出かけないと駄目だな、そうしないといつまでたっても慣れないから泣くんだよ」と言
っていたのですが、そういうものなのでしょうか? 私にすれば、そんな強引なことをしなくても
少しずつ慣らしていけばいいのでは…と思うのですが、これは過保護な考えでしょうか?最近、
主人の両親に会う息子がなんだか可哀相に思えてならないのです。

はやし先生、どうかご意見をお聞かせ願えませんでしょうか?もしも主人の両親の考え方が間
違いでなく正しいのであれば私も安心して子供をみてもらうのですが…。

私のような悩みは小さいことでしょうし、もっと大きな悩みを抱えた方のお気持ちを考えれば、
こんな相談をもちかけて申し訳なくも思うのですが、どうにも不安でたまりません。
はやし先生もご多忙かとは思いますが、どうぞ宜しくお願い致します

【はやし浩司よりYさんへ】

 お子さんには、何ら問題はありません。ただの対人恐怖症です。2歳ということですから、人
見知りの時期が少し延び、分離不安へとつながり、それがこじれたケースと考えるとわかりや
すいでしょう。

 恐怖症については、このあと、別の原稿を添付しておきます。

 ただ恐怖症については、理由も原因もさまざまであり、どれがそうであるか、特定することは
できません。また特定しても意味はありません。

 子どもの世界でよく知られた恐怖症としては、高所恐怖症、閉所恐怖症、お面恐怖症(お面
をかぶった人をこわがる)、先端恐怖症(とがったものをこわがる)、人形恐怖症(大きな人形
をこわがる)などなどがあります。

 一度何かのことで恐怖症を覚えると、さまざまに形を変えて、それが出てきます。私も、子ど
ものころ、閉所恐怖症でした。(今も、そうです。)で、飛行機事故に遭遇してから、今度は、飛
行機恐怖症になりました。そういうものです。

 こうした恐怖症をなおす方法はありません。またなおそうと思わないこと。大切なことは、そう
いう場面からできるだけ、子どもを遠ざけることです。もっとわかりやすく言えば、忘れさせるこ
と。

 あとは自己意識が育つまで、時期を待ちます。自己意識が育ってくれば、自分で自分をコント
ロールできるようになります。

 Yさんのお子さんは、ここにも書いたように、何でもない対人恐怖症です。子どもの世界では、
珍しくも何ともありません。ただ子どもの心理は複雑です。もう少し大きくなってから、「メガネが
こわかった」「ひげがこわかった」「男の人がこわかった」と、理由を言うことがあります。が、そ
れはあくまでも、あとになってから、わかることです。

 Yさんのお子さんは、何かにおおきなこだわりをもち、そうなったと考えるべきです。無理に、
いやがるのに慣れさせようとしても、かえって心がこじれるだけです。ご両親には悪いですが、
そのあたりをよく理解してもらい、強引なやり方、乱暴なやり方をひかえてもらうようにしてはど
うでしょうか。
 
 あまりぐずりがひどいようであれば、心の緊張感をとるためにも、カルシウム、マグネシウ
ム、カリウムの豊富な海産物を中心とした献立に切り替えてみてください。それで症状は、かな
り落ちついてくるはずです。(同時に、甘い食べ物は控えてください。)

 あくまでも子どもの立場で、子どもの視線でものを考えることです。子どもにしてみれば、両親
の前に立つと、あなたが数百人もいる会場の演壇に立たされているのと同じ心理状態になる
のです。

++++++++++++++++

●子どもの恐怖症

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして文
を書いているのが、不思議なくらいだ。

が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ
違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じたのだ。私は少し走っては自転車から
おり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった…。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」というド
ラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出した。これは単
なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐怖症だ
が、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかによって、ふつう、次の三つに分
けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度の
警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力
が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、はじめて行ったような場所
でも、我が物顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、
顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(不登校)などの
症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗れな
い(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、暗いトイレが
こわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、今でもトンネルなどに
入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑惑
症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけに死を極端
にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、しかっても
意味がない。一般に「心」の問題は、1年単位、2年単位で考える。子どもの立場で、子どもの
視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブー。無理をすればするほ
ど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。

いわば心が風邪をひいたと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。症
状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私の場合も、その事故から数日間は、車の速度
が五十キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とは分かっ
ていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。が、少しずつ自分をスピード
に慣れさせ、何度も何度も自分に、「こわくない」と言いきかせることで、克服することができ
た。

いや、今でも時々、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状態になってしまう。恐怖症と
いうのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの
恐怖症に対処する。

++++++++++++++++

●分離不安について

子どもの情緒不安

 子どもの発達をみるときは、次の四分野をみる。(1)情緒の安定度、(2)精神の完成度、
(3)知能の発達度、それに(4)運動能力。

そのうちの情緒の安定度は、体力的に疲れたと思われるときに観察して、判断する。たとえば
運動会や遠足から帰ってきたようなとき。そういうときでも、不安定症状(ぐずる、ふさぎ込む、
ピリピリする、イライラするなどの精神的動揺)がなければ、情緒の安定した子どもとみる。

あるいは子どもは寝起きをみる。毎朝、不機嫌なら不機嫌でもよい。寝起きの様子が安定して
いれば、情緒の安定した子どもとみる。子どもは2〜4歳の第一反抗期、思春期の第二反抗
期に、特に動揺しやすいということがわかっている。経験的には、乳幼児期から少年少女期へ
の移行期(4〜5歳)、および小学2年から4年ぐらいにかけても、不安定になることがわかって
いる。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。

 情緒が不安定な子どもは、心が絶えず緊張状態にあるのが知られている。外見にだまされ
てはいけない。柔和な笑みを浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているということは、
よくある。このタイプの子どもは、気を許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目
を気にする。よい子ぶることもある。

そういう状態の中に、不安や心配が入り込むと、それを解消しようと一挙に緊張感が高まり、
情緒が不安定になる。症状としては、攻撃的、暴力的になるプラス型。周囲に溶け込めず、引
きこもったり、怠学、不登校を繰り返したりするマイナス型に分けて考える。プラス型は、ささい
なことでカッとなることが多い。

さらに症状が進むと、集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴える
ようになったりする。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多
い。たとえば親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒動、家庭
不和、恐怖体験など。

ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾向
(親と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(3歳男児)は、母親が入院
している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見えないと混乱状態になる)
になってしまった。

 子どもの情緒が不安定になると、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原因の
第一は、家庭環境にあると考え、反省する。子どもの側から見て、息が抜けないような環境な
ど。子どもの心に負担になっているもの、心を束縛しているようなものがあれば、取り除く。

いちばんよい方法は、家庭の中に、誰にも干渉されないような場所と時間を用意すること。あ
れこれ親が気をつかうこと(過関心)は、かえって逆効果。子どもが情緒不安症状を示したら、
スキンシップを大切にし、温かい語りかけを大切にする。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえ
って子どもの情緒を不安定にする。

なお一般的には、情緒不安は、神経症の原因となることが多い。たとえば、夜驚(やきょう)、
夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チック症、爪かみ、物かみ、疑
惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖
症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。症状は千差万別で、定
型がない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 分離
不安 恐怖症 子供の心理 情緒不安)

+++++++++++++++

●子どもの分離不安

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラム
ニストのものだが、いわく、「うちの娘(むすめ)(3歳児)をはじめて幼稚園へ連れていったとき
のこと。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さ
に感動した」と。

とんでもない! 

ほかにも詳しくあれこれ症状が書かれていたが、それを読むと、それは、「別れをつらがって泣
く子どもの姿」ではない。分離不安の症状そのものだった。

 分離不安症。親の姿が見えなくなると、混乱して泣き叫んだり暴れたりする。大声をあげて泣
き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイナス型)
に分けて考える。

私はこのほかに、ひとりで行動ができなくなってしまうタイプ(孤立恐怖)にも分けて考えている
が、それはともかくも、このタイプの子どもは多い。4〜6歳児についていうなら、15〜20人に
1人くらいの割合で経験する。親がそばにいるうちは、静かに落ち着いているが、親の姿が見
えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけたりする。

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病
気で入院したことや、置き去りや迷子を経験して、分離不安になった子どももいた。

さらには育児拒否、虐待、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子どもの側
からみて、「捨てられるのではないか」という被害妄想が、分離不安の原因と考えるとわかりや
すい。

無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集
団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいる。無理をすればかえって症
状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば、しばらくは混乱状態になるものの、
やがて静かに収まることが多い。

しかしそれで症状が消えるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた心は、そんなに簡
単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し繰り返し症状が現われる。

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに
説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子
を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったりしているのがわか
る。「いいかげんにしなさい!」とか、「私はもう行きますからね」とか。こういう親子のリズムの
乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます被害妄想をもつようになる。

 分離不安は4〜5歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここにも書いたよう
に、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。

ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が予定より遅くなっただけで、言いようのない不安
感に襲われます」と。姿や形を変えて、おとなになってからも症状が現われることがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 分離
不安 子供の分離不安 後追い人見知り 人見知り)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※ 

最前線の子育て論byはやし浩司(1738)

●ある女性からの書き込み

+++++++++++++++++

私の掲示板に、こんな書き込みがあった。
このところ、外国に住む方たちにも、
HPやマガジンが読んでもらえるように
なった。

考えてみれば、これは、ものすごいことだと
思う。

+++++++++++++++++

メルマガを読ませていただき、はやし先生のお考えがうかがえ、大変ためになっております。一
言お礼したく、こうして書いています。メールにしようか迷いましたが、一個人が直接メールでは
失礼かと思い、掲示板に書き込むことにしました。

私は海外に住んでおり、夫は外国人です。

息子は多分、何かの心の問題をもっていると思います。確定診断は受けていません。彼の抱
えている問題はとても大きく、これから思春期に入り、どうしてサポートできるか、これから不安
です。

学校は普通校で、私立のこちらでは国で1、2の有名校です。その選択も彼に良かったのか、
迷うところです。つまり、彼は何の勉強も、予習も復習も、試験勉強もしないのですが、成績が
ものすごく良いのです。

とくに算数は文章題が得意です。英語も、Logic系がずば抜けてできます。しかし非常に怠け者
で、また友達がいないし、できません。社会性を見たら幼稚園児くらいなのです。

こちらでは近所では、子どもが遊ぶこともなく、彼の性格からしても友だちを作ることが難しいと
思います。パニック障害も癇癪発作もあります。学校もエリート校で詰め込みなので、なお悪い
気もします。

主人はこちらで弁護士をしています。主人の父も弁護士で、裁判官から最高裁まで行きまし
た。こう言っては申し訳ないけれど、親からの多少遺伝もあると思っています。

お礼のつもりが長くなりました。相談のつもりで書いたのではありません。メルマガのお礼で
す。親しみやすい文章でついお礼したくなりました。これからも頑張ってつづけてください。

【書き込みをしてくださった、Nさんへ】

 インターネット時代になって、すばらしいと思うことがいくつかあります。そのうちのひとつが、
国境がなくなったということです。こうしてNさんのような方から(書き込み)をいただくと、いまだ
に、「ヘエ〜」と感心してしまいます。

 若いころはアマチュア無線に挑戦したこともあります。しかし今にしてみれば、「アマチュア無
線って、何だったのだろう」とさえ思ってしまいます。また最近は、スカイプを使って、テレビ電話
を楽しんでいます。そういうことが、無料でできるところがすごいですね。

 これから先、この世界は、どこまで進歩していくのでしょうか? 先の先まで、見届けることが
できない自分が、残念でなりません。

 自分のことばかり書いてすみません。Nさんが、どこの国に住んでおられるか、私は知りませ
んが、私には想像もつかないような苦労が、いろいろおありかと思います。昔、同じカレッジに
いた、モーリシャスの皇太子が、オーストラリア人のガールフレンドに恋をして、そのまま結婚し
てしまいました。

 私たちはその皇太子をみなで、祝福しました。私が開いた日本祭には、2人で来てくれまし
た。Nさんの書き込みを読んで、その友人のことを思い出していました。今ごろは、その友人
は、モーリシャスで、王様か何かになっているはずです。

 Nさんは、多分、私たちが見ている世界とは、ちがった世界を見ておられるのでしょうね。私
には、想像もつきません。また何か、教えていただけるようなことがあれば、どうか、話してくだ
さい。

 子どものころ、SF小説を読んでワクワクした気持ちを、今でも忘れません。不謹慎かも知れ
ませんが、そんな気持ちを、心のどこかで感じています。

 書き込み、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●BW教室から

+++++++++++++++++

このところ、忘年会つづき。
昨夜は、生徒たち9人を連れて、
近くのM・ハンバーガーショップへ行った。

そこでのできごと。

+++++++++++++++++

 「忘年会」と称して、生徒たち(小3〜5年)を、近くのハンバーガーショップへ連れていった。
子どもたちはみな、ワイワイと喜んだ。

 で、かなり前のことだが、あるところで、BWのOBたちと、こんな会話をしたことがある。私
が、「BWで勉強したことで、どんなことを覚えている?」と聞いたときのこと。みな、「何も、覚え
ていない……」と。

 が、そういうOBたちでも、みなでラーメンを食べに行った話とか、そういうことは、よく覚えて
いる。私のしている仕事というのは、所詮、その程度。

 で、そんなこともあって、ここ10年ほどは、年末などに、子どもたちを、近くの食堂やレストラ
ンへ連れていくことにしている。昨夜は、それが、ハンバーガーショップになった。そこでのでき
ごと。

 ショップの一角に、子どもたちがテーブルをつなげて、自分たちの座る席をつくった。私は、
子どもたちの注文を聞きながら、頭の中に、それをたたきこんでいた。

 と、そのとき、2人の女性が、ショップへ入ってきた。1人は、BWのOBである。今年24、5歳
になる、美しい女性である。幼児から小学2、3年生のころまで、教えたことがある。私たちは、
たがいに、軽い会釈を交わした。その2人は、私たちの席の、隣の席にすわった。

 私たちは私たちで、勝手にパーティを始めた。子どもたちは、ハンバーガーをおいしそうに食
べた。

私「なあ、君たち、ぼくは、女性にもてるんだよ」
子「うそ〜オ! 気持ち悪い! 先生は、もてないよ」
私「そんなことないよ。ぼくが声をかけると、どんな女性でも、ぼくと握手してくれるよ」
子「ああ、気持ち悪い! 先生と握手する女性なんか、いないよ」
私「もし、握手したら、どうする?」

子「いない。ぜったいに、いない」
私「じゃあ、そこにいる女性。あの女性と握手してみようか」
子「やめときな。嫌われるから」「ヘンタイと思われるよ」「気持ち悪〜い」
私「そんなこと、ないよ」と。

 そこで私はおもむろに立ちあがり、先ほど会ったBWのOBの女性の肩を軽くたたいた。そし
てこう言った。

 「握手してくれませんか?」と。

 するとその女性は、ニコニコと笑いながら、手を出してくれた。私は、そのままその女性と握
手した。

 それを見て、子どもたちは、びっくり。沈黙。しばし食べる手を休めて、ポカ〜ン。

私「ほらね。ちゃんと、握手してくれただろ。先生は、女性にもてるんだよ」
子「……」
私「君たちだけだよ、気持ち悪いなんて言うのは」
子「……先生がア……本当に、握手したア……」と。

 すると子どもたちが、「じゃあさあ、先生、もう一人のあの人と、握手してみなよ」「今度は、断
られるよ」と。

 私はそちらを見ると、軽く会釈して、手を出した。その女性も、すなおに、手を出してくれた。

 そしてこう言った。

私「今度、デートしてくれますか?」
女「いつでも、いいですよ」と。

 多分、その女性たちは、その間に、私のことをあれこれ話していたにちがいない。私たちの
会話も聞いていたにちがいない。それで私に呼吸を合わせてくれた。が、それを聞いて、子ど
もたち、またまた仰天! まるで魔法か何かを見たかのように、目をまん丸にして驚いていた。

私「ぼくは、どんな女性にも、もてるんだよ。デートを申し込めば、だれだって、OKしてくれるよ」
子「……」
私「わかったね。君たちは、まだ子どもだから、ぼくの価値がわからないだけ。もう少し、おとな
になれば、ぼくの価値がわかるようになるよ」
子「……」と。

 しかし刺激が強すぎたかな? 帰りの道、男子たちだけには、秘密を打ち明けた。「あのね、
あの女性は、昔、BWにいた人たちだよ」と。それを聞いて、男子たちは、「なーんだ」と言って
笑った。

 教室へ帰ると、迎えの親たちの車が道路に並んでいた。それを見て、急いで、私たちは教室
へ飛び込んだ。

 忘年会の1コマでした!


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1739)

【今日・あれこれ】(12月29日)

+++++++++++++++++

年末は、いそがしい。
何かにつけて、いそがしい。

朝から、バタバタしている感じ。
で、アタフタとしているうちに、もう夕方。

原稿を書く時間など、どこにもない。
が、それでも……、ということで、
今日の雑感。

時刻は、3時30分。みなと、遅い昼食を
終え、ほっと一息ついたところ。

+++++++++++++++++

●心のポケット

 心のポケットのない人に、心の相談をしても、ムダ。まったくの、ムダ。心のポケットのない人
に、相談しても、あなたがかかえている問題は、何ら解決しない。

 たとえば今、あなたが嫁・姑(しゅうとめ)の問題で悩んでいたとする。そういうときは、同じよう
に嫁・姑の問題に悩んだことがある人に相談する。その人には、嫁・姑の問題についての、(心
のポケット)があることになる。

 ……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、深刻な問題であればあるほど、そうである。

 たとえば今、あなたが、家族のことで、何か深刻な問題をかかえていたとする。不平、不満も
ある。グチも言いたい。ストレスもたまっている。将来のことを考えると、暗くなる。心をふさぐ。

 そういうとき、あなたはだれかにその問題について、相談しようとする。しかしここで大切なこ
とは、まず、相手を選ぶこと。相手を選ばないまま、相談をすると、何ら解決に結びつかないば
かりか、かえって、問題をこじらせてしまう。

 その選ぶ基準のひとつが、ここでいう(心のポケット)ということになる。その人には、あなたが
かかえている問題を理解するだけの、心のポケットがあるかどうかということ。つまり今、あな
たが悩んでいる問題と同じような問題をかかえ、かつて悩んだことがあるかどうかということ。
それがあれば、よし。そうでなければ、その人に相談するのは、やめたほうがよい。

 世の中には、(同情じょうず)という人がいる。わかりやすく言えば、(口のうまい人)ということ
になる。そういう人は、あなたがかかえる深刻な問題を、酒の肴(さかな)にかえてしまう。ゴシ
ップのネタにしてしまう。

 さらに世の中には、他人の不幸話を、楽しむ人がいる。さも同情するフリをしながら、あなた
に近づき、あなたから情報を得る。そしてその話を、これまた同情するフリをしながら、他人に
話す。

 『渡る世間は、鬼ばかり』とまではいかないにしても、心のポケットのない人には、あなたのも
つ苦しみや悲しみなど、理解できない。理解できない分だけ、軽く考える。

 ……個々まで書いて、イギリスの格言を思い出した。『航海のし方は、難破したことがある人
に聞け』というのが、それである。

 この格言には2つの意味がある。

 ひとつは、ここにも書いたように、何か悩みごとや心配ごとがあるときには、同じようなポケッ
トのある人に相談せよという意味。

 もうひとつは、心のポケットのない人が、何かのことで悩んだり、苦しんだりしている人に、あ
れこれとものを言ってはいけないという意味。とくに家族の問題、家庭の問題については、そう
である。

+++++++++++++++

以前、私の本に書いた原稿の
一部を、ここに紹介します。

+++++++++++++++

●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で10年、20年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時間と
ともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。

++++++++++++++++

●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけ
ているのではという思いが、自分を小さくする。

よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そう
いう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実
際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさら
されるのは、つらい。

それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに
自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわ
けで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育て
をとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員は、地位や
肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電
話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたしま
す」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは
言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態
度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといって
もよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。

実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いて
いった子どもの話など、ほとんど役にたたない。が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方
的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組みたてようとする。

たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。すべったと
き、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということは考えない。こ
の日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは
自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。

聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろ
う」(Matthew5-9)と。

この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」というこ
とになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。そういう
視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●許して忘れる

++++++++++++++++

許して忘れる。

子育ては、いつもこの言葉に行き着く。

++++++++++++++++

 私たちは、どこまで人を許し、そして忘れるべきなのか。

 許すというのは、(フォ・ギブ)、与えるためとも訳せる。忘れるというのは、(フォ・ゲッツ)、得
るためとも訳せる。つまり許して忘れるは、「人に愛を与えるために許し、人から愛を得るため
に忘れる」となる。

総じて見れば、人の関係は、(許す人、許される人)の関係で成り立っている。たとえばあなた
には、許してもらいたい人がいる。許してもらえたら、どんなに気が楽になることか。一方、あな
たには許すことができる人がいる。許してあげれば、どんなにその人は喜ぶことか。

 しかし問題は。どこまで人を許し、そして忘れるか、だ。卑俗な言い方をすれば、『仏の顔も三
度』という。『地蔵の顔も三度』ともいう。たがいに三度くらいなら、許したり、忘れたりすることが
できる。しかし四度目となると、そうはいかない。またその必要はあるのか。

 こうして考えていくと、自分にある種の限界があるのがわかる。「そこまではできるが、そこか
ら先はできない」という限界である。私は実のところ、人と接するとき、いつもその限界で迷う。
苦しむというほど、おおげさなものではないが、しかし迷う。「許して忘れてあげようか」と思いつ
つ、「どうして私がそこまでしなければならないのか」というように迷う。

私はもともとお人好しタイプの人間だから、何でも頼まれれば、本気でしてしまう。ときにはしす
ぎることもある。どこかでブレーキをかけないと、自分のための時間がなくなってしまう。今でこ
そ、ワイフもあきらめて言わなくなったが、少し前まで、いつもこう言っていた。「人の心配もい
いけど、来月の家計も心配してよ」と。

 この原稿を書いている今も、同じような問題をかかえている。その母親(34歳)はたいへん情
緒が不安定な人で、何かを相談してきては、そのついでに、無理なことを言っては、私を困ら
せる。そこで私がやんわりと断ったりすると、最後はどういうわけだか、興奮状態になってしま
う。そしていつも何らかの罵声をあびせかけて、電話を切る。が、数日もすると、また電話をか
けてきて、「先日はすみませんでした」と。

 こういうことが、二度、三度と重なると、電話に出るのも、おっくうになる。その母親が私に電
話をかけてくるのは、私に何かの救いを求めているからだ。混乱する精神状態を鎮(しず)め
たいからだ。それはわかる。しかしどうして、この私が、他人であるその母親に、何も悪いこと
をしていないのに、怒鳴られなければならないのか。

ワイフは割と合理的に考える女性だから、「放っておきなさいよ」「無視すればいいのよ」「相手
にしなければいいのよ」と言うが、私にはそれができない。クールに生きるということは、それだ
けで私にとっては、敗北でしかない。

 「修行」という言葉がある。宗派によっては、何時間も読経をしたり、過酷な行をして、心身を
鍛えるところもあるそうだ。私自身も若いころ、好奇心からオーストラリアの友人と、一週間ほ
ど、禅の道場に通ったことがある。が、どうも自分の体質に合わなかった。瞑想(めいそう)に
ふけるということだったが、つぎからつぎへと、卑猥(ひわい)なことばかりが頭に浮かんでき
て、とても瞑想などできなかった。

しかし本当の修行は、こうして生きていく、日々の生活の中で、ごく日常的になされるものでは
ないのか。無理をして自分の心や体を痛めつけたところで、そんなことで、どうして真理に達す
ることができるというのか。真理に到達する「思想」は、自らが考えることで、得ることができる。
それとも滝に打たれ、炎の上を歩けば、数学の問題が解けるようになるというのか。ホーキン
グの説く、宇宙の構造論が理解できるようになるというのか。

 もし私がその母親を、この段階で、許して忘れることができるなら、私はつぎのステップの、つ
まりはさらに高い(?)境地に達することができるかもしれない。それもわかっている。しかしや
はりブレーキが働いてしまう。心のどこかで、「ヒロシ、神や仏のまねごとをして、それがどうな
のか」と、だれかが言っているようにも聞こえる。だから迷う。私はその母親を許して忘れるべ
きなのか、と。その母親は明らかに心の病にかかっている。本来なら私のところではなく、どこ
か心の病院へ行ったほうがよいと思うのだが……。

 あああ、何とも重苦しい気持ちになってきた。ため息ばかりでる。このあたりで気分を転換し
なければならない。これから本屋へでも行って、パソコンの本をながめてくるつもり。もうこの母
親のことは、考えない。考えたくない。……あああ、だから私は凡人なのだ。いつまでたっても、
凡人なのだ。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1740)

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

++++++++++++++++

同じ時間なのに、それを濃く生きる
人と、そうでない人がいる。

濃く生きている人は、
1日を1年のように長く生きることが
できる。

そうでない人は、1年を1日のように
生きる。

++++++++++++++++

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、30年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよう
に30年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から帰っ
てくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。

「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、80歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835〜1910)も、こう書いている。

「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭
したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたし
かに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口300
万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私1人だけという時代だった。

そんなある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの1
日は、金沢で学生だったときの1年のように長く感ずる」と。

決してオーバーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう
時期というのは、今、振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということ
になる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き
方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を生き
ることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと1年の人生と宣
告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生きることができる。

極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すと
も可なり』と。

朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないということ。私がこ
こに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっ
ている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも7〜8人の老
人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿
をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と
思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、
「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人にな
っても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、そ
れは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だ
ったら、10年生きても、20年生きても、へたをすれば、たった1日を生きたくらいの価値にしか
ならない。

しかし「濃い人生」を送れば、1日を、ほかの人の何倍も長く生きることができる。仮に密度を1
0倍にすれば、たった1年を、10年分にして生きることができる。人生の長さというのは、「時
間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダに
していることか、ということになる。私は今、59歳になったところだが、そんな私でも、つまらな
いことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、70歳や80歳の
老人たちをや! 

私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その「山」があるのかないの
かということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつも一つの山を越える
と、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそれが繰り返されるだろう。

で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先へ進んでみたい。そ
のために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えら
れなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボ
ケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくこと
はできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私が
こう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だ
から空き地に集まって、1日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生
だけは、絶対に、送りたくない」と。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●よい人・いやな人

+++++++++++++

歳をとればとるほど、
つきあう人を選択するようになる。

(私も、選択されているが……。)

残された人生には、かぎりがある。
つまらない人たちと、ムダな話をして、
時間を費やすヒマは、もうない。

人生は、すでに秒読み段階に
入っている。

+++++++++++++

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心のどこかで
覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温めるといっても、
もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっと早く知りあいになって
おけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ60歳です」と言っていた
が、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、私は、どう
いうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの人だった。短い時間
だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あな
たを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思っているなら、Aさんも
あなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんをいやな人と思っているな
ら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係というのはそういうもので、長い
時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別の講
演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待っている間、自分
でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな気配りをしながら、
それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。時間にすれば30分ほどの
時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにごまかし
てつきあうこともできる。が、半年、1年となると、そうはいかない。ここにも書いたように、心は
カガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すようになる。

もしあなたがB先生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの子どもを
介して、あなたのことを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたがいの心の相乗効果
が、よりよい人間関係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずかしくな
い」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「うちの親はすば
らしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つまり、もしあなたが「うちの
子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきことは、ただ一つ。自分の心をつくり
なおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつくりなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今からで
も遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっとよくなったわ」
「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよい。ウソでもよいから、
それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、それが自然な形で言えるようにな
ったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になっている。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわりには、
よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来的にもってい
る「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人のまわりを、明るく、過ご
しやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と言った言葉
の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかっている。心
はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、とてもMさ
んのようにはなれない。

私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩司って、こんな程度の男
だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわかる。過去を悔やむわけ
ではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早く、つまりもっと若いとき
にそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔することはないだろうと思う。

私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づかなかった。そ
ういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1741)

●ある相談から

+++++++++++++++++

掲示板に、つぎのような相談があった。

相談してきた人(女性・母親)は、3人の子どもを連れて、
現在、離婚中。実家で、実の両親と6人で暮らしている。

そういう生活の中で、お金が盗まれるといいう事件が
つづいている。相談してきた人は、そのため、親子の
信頼関係に強い不安感を覚えている。

この先、両親と別居しようか、それとも、
子どもたちだけ、独立させようか……。

++++++++++++++++

【MTさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、はじめまして。偶然こちらのHPに出会い、まさに今直面していることを相
談したく、こうして書き込みさせていただきました。

私は8年前に3人の息子を連れ離婚し、現在私の両親と6人で暮らしています。
長男はもうすぐ22歳になり、朝はやくから夜遅くまで、よく働く真面目な子です。
自分の夢をかなえるために、現在アルバイトをしています。

次男はもうすぐ20歳で、昼から夜中まで、水商売のような仕事に就いています。
が、私や両親が時々昼の仕事につくように言うのがうっとおしいのか、帰ってこない夜も
あります。

ただ、最近は私がほっておくほうになり、とりあえずちゃんと家には帰ってきます。

三男は中学1年から2年間不登校の末、現在は高校2年生で学校に通っています。
私は、離婚前からずっと正社員で、別れた夫とは、現在は、ほとんど連絡はない状態です。

問題がおこったのは今年の春くらいからです。両親や私の財布や封筒にいれておいた現金
が何度かなくなることがありました。お金の管理をしっかりする一方で、息子たちにその
事実を伝え、もし誰かが取っているならちゃんと言ってほしい、困ったことがあったら相
談にのると話しました。けれど結局だれかがわからず、その後も、盗みは、続きました。

ある時、ちょっとしたスキにお金を取られた父を、母が怒っているのを見て、これはいけ
ない。これ以上両親に迷惑をかけたくないと思い、私が子供をつれて家をでることに決め
ました。

ところが長男は、弟たちを信じ、大人たちの勘違いだと思っていて、それなら子供3人で
家を借りて暮らすからと言い出しました。

祖父母とは、生活の時間帯などが違うことなども、いろいろ考えてのことだと思います。
家賃などは長男次男が負担し、三男には自分で自分のことはするようにさせるといい、
私には年老いた両親の傍にいるようにと言いました。

三男はアルバイトもせず、私の傍にいる限り自立できないから、兄二人はそれが一番いい
と思っているようで、三男もそれを了承しました。

私も、子供たちだけで一度やらせてみて、見守るという形でしばらく様子をみようと決め
ました。

それが、昨日、長男のお金がなくなるということが起きたのです。長男はとてもショックを受けた
ようです。

全ての気力をなくしてしまったようで、長男は、疑いながら一緒に暮らせないといいだし
ました。

移り住む家のほうは、長男がいろいろ探し、そろそろ決めようかと思っていた矢先のでき
ごとでした。

長男は三男がしたと思っているようで、ただ、私と両親は、お金を盗んでいるのが、次男
か三男かわかりません。

私は、長男には、現実を受けいれる(弟が取ったということ)しかない。けれど、
何より長男がしたいようにしていいから、長男だからと引き受けようとしなくていいから、
一人で暮らしたいならそれでいいからと伝えました。

が、長男は、どうしていいかわからないと、相当参っているようです。

次男ももうすぐ20歳になり、一人で生きていけるはずだとわかっているのですが、
私は、お金を取っているのは次男では??と思うときもあり、賭けマージャンなどで
負けが込んでいるのでは?、とか、誰かにいいように利用されてお金が必要なのでは?、
と考えたりします。

何分仕事がら、二男に対しては、私がいろいろ妄想を膨らませては心配してしまいます。
そんな自分がまた情けないです。

一時は、ほんとうに盗癖が直らず、人様のものに手をつけるようになったらなったで、
その時の覚悟をしようと思ったこともあります。
けれど証拠がない上に、「出て行け」とも言えない私がいます。
また、それだけの経済力は、今の次男にはありません。

そして、三男はまだ未成年であり、私が三男と別の家で暮らそうかとも思ったり、
私自身、どうすることが一番いいのか、考えあぐねています。

なくなったお金はすでに総額で20万くらいにはなっていると思います。

先生が以前書かれていたように、「許して忘れる」ことがいいのでしょうか。
けれど、その渦に両親を巻き込みたくはありません。

また、三男だけは、別れた夫と連絡を時々とっていて、家を出る話になった時、
父親に一緒にくらしてもいいか?、と聞き、父親のほうからOKをもらいましたが、結局
は、父親を選びませんでした。

夫は定職にはついていず、その日暮らしのような生活をしています。一度少しだけ暮らし
て、嫌な目にあった次男が反対したという経緯もあります。

こうなってしまった原因は私にもあることは、重々承知ですが、これから先、
どうすることが息子たちにとって一番よいのか…。

ご助言をいただけたら有難いです。よろしくお願いします。

【はやし浩司より、MTさんへ】

 こうした家族の問題は、(流れ)を見極め、その(流れ)がわかったら、静かに、その(流
れ)に身を任すのが、最善です。

 その途中で、あれこれ、悩んだり苦しんだりしますが、その(流れ)を無理に変えよう
と思えば思うほど、悩みや苦しみが倍加します。

 水が低いところを求めて自然に流れていくように、こうした問題は、やがて落ち着くと
ころに落ち着きます。そのときになれば、あたかも何ごともなかったかのように、自然に
解決します。

 で、(盗み)の問題ですが、これは若者、とくに、思春期前後の子どもにとっては、流行
性の熱病のようなものです。行為障害としての盗癖もありますが、そういうケースは、ま
れです。率直に告白しますが、私の息子たちも、しました。

 で、問題は、盗んだお金を何に使っているか、です。そのあたりを、もう少し詳しく観
察してみる必要があります。自分の蒐集癖のためであれば、神経症を疑います。小児うつ
病の子どもが、ある特定のものに異常にこだわることは、よく知られています。もしそう
であれば、心療内科のドクターに、一度、相談してみるのも、ひとつの方法かもしれませ
ん。頭ごなしに、「悪いこと」と決めつけ、子どもをしかっても意味は、ありません。心の
病気だからです。

 ともかくも、今、あなたの家族は、長男を中心に、大きく動き出そうとしています。私
があなたなら、長男を全幅に信頼して、相談して、これから進むべき道を決めます。あな
たの元夫でもなく、両親でもなく、あなたの長男です。

 掲示板の記事を読むかぎり、あなたの長男は、すばらしい青年です。自信をもってくだ
さい。自慢にしてください。

 で、この問題は、『許して忘れる』などというほど、大げさな問題ではありません。これ
から先、もっともっと大きな問題にぶつかったときに、思い出してほしい言葉です。今の
あなたにはまだわからないかもしれませんが、今、あなたがかかえている問題は、何でも
ない問題です。どこの家庭も、現在、みな、同じような問題をかかえています。

 外からは、わからないだけです。

 むしろ、家族がみな、それぞれ、家族のことを考え、思いやり、そして道に迷いながら
も、ひとつになろうとしている。そのすばらしさを、あなた自身が、実感することです。
私の印象では、すでにあなたの家族がかかえる問題は、長いトンネルを抜け、あと一歩で、
出口というところのような感じがします。

 ですから、ここは今しばらく、静かに、時の(流れ)の中に、身を置いてみては、どう
でしょうか。今日、やるべきことは、やる。懸命にやる。しかしそこまで。明日はかなら
ずやってきます。その明日は、今日より、確実によい日になっています。

 けっして、あせらないこと。今こそ、母親としての存在感を、あなたが示すべきときで
す。「なるようになるわよ」「何も心配しなくていいのよ」と、あなたが子どもたちに安心
感を示します。その安心感が、子どもたちの心をまっすぐ伸ばします。

 今どき、「水商売」などという言葉を使うと、笑われますよ。偏見です。立派な職業です。
あなたが言うべきことは、こうです。「あなたがどんな仕事をしても、私は、あなたを信じ
ていますからね。堂々と自分の道を進みなさい」です。そういう世界(サブカルチャ)を
かいま見た人のほうが、後々、ずっと常識的で、良識豊かな人になりますよ。

 今、ここで親子の信頼関係を切ってしまうと、二男は、本当に、糸の切れた凧のように
なってしまうでしょう。ここが正念場です。

 あなたの子どもたちは、とくに長男、二男は、すでに立派な青年です。あなたより、ひ
ょっとしたら、おとなです。それを信じて、あとは(流れ)に身を任せなさい。子どもた
ちが、あなたの両手を引っ張りながら、あなたを導いてくれるでしょう。すばらしい子ど
もたちですよ!!!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●ワイフとの雑談(1月2日)

++++++++++++++++++

「今夜は、お前との雑談を、そのまま、
原稿にしてみようと思う」と、私は言った。

それを聞いて、ワイフは、「フ〜ン」と
言った。

テーブルの上のせんべいをポリポリと口に入れながら、
つづけて、「まだ、夕飯を食べてないわ」と、答えた。

++++++++++++++++++

●高尚な話

 「どうせ原稿にするのだから、高尚な話にしなければいけない」とクギを刺した。する
と、ふだんはおしゃべりのワイフが黙った。「何でも書いてしまうからね」と、私。

 ワイフの趣味は、ビデオ鑑賞。今も、横で、袋の中から何本ものビデオを取り出して、
箱の表装をながめている。近くのビデオショップで、1本、100円で買ってきたもの。

ワ「夜、見るのは、こわいのはだめ」
私「そうだね。……そう言えば、ポンプの回数が少なくなったみたいだ」
ワ「そうね」と。

 水道ポンプが、ときおり、勝手に音をたててうなる。どこかで水圧が漏れているためら
しい。おととい長男と2人で修理した。いくつかボルトがゆるんでいたので、それを締め
なおした。回数は減ったが、しかしまったくなくなったわけではない。

 ワイフが、『イワン雷帝』というロシア映画を取り出した。古いビデオである。1944
年の作品だという。骨董的価値がありそうなビデオである。前巻と後巻の2部作。テレビ
に映してみると、白黒。画面も、小刻みに動く。どこか見にくい。

私「ロシア語ではね、NとかRが左右反対のカガミ文字になっているんだよ」
ワ「どうして?」
私「一説によると、ヨーロッパで文字を学んだロシア人が、途中で、雨か何かで、紙を濡
らしてしまったそうだ。それで文字を裏から書き写して、左右が逆になった……」
ワ「うそみたい……」
私「うそだと思うよ。ロシア人をバカにした話だ。イギリス人が好きそうな話だね」と。

 『イワン雷帝』は、イワンが帝王に即位するシーンから始まる。私はそれをチラチラと
見ながら、キーボードをたたく。

 時の権力者たちは、みな、同じようなことを口にする。

 「……この帝王は、ロシアを永遠に、輝かす。……永遠につづく。神のご加護とともに。
幾年も、幾年も……」と。

 おごそかな儀式と、荘厳な合唱。「イワン帝王、バンザイ」「皇后陛下、バンザイ」と。

 それに応えて、イワン雷帝は、貴族政治を廃止し、専制政治を宣言する。

●権力

 権力には、恐ろしいほどの魔力がある。……らしい。私は権力とは無縁の人間だが、権
力者がもつ権力というものがどういうものであるかは、よく知っている。何度か、かいま
見たことがある。そこでは、まわりの人たちは、みな、ロボットのように働く。

 加えて日本には、いまだに、儒教文化に影響された上下意識が強く残っている。私も若
いころは、その世界の「長」と名がつく人に出会ったりすると、よく、足がすくんでしま
った。相手は相手で、そういう私たちの心理を、逆によく知っている。

 つまり権力者は、いつも、どうすれば自分がそれらしく見えるか、それを気にしている。
またそのように見えるように、自分をつくる。大物らしく振舞ったり、さも人間味豊かな
人物のフリをしたりする。しかし人間の中身というのは、それほど、ちがわない。

 権力者たちは、それを見抜かれるのを、何よりも、恐れる。そして自分に従順なものに
対しては、ことさら寛大に振る舞い、自分を否定するものに対しては、容赦なく攻撃的に
出たりする。

 私はもともと、こういったタイプの映画は、好きではない。楽しむ前に、バカ臭さを覚
えてしまう。「生まれた穴がちがうだけ」(「フィガロの結婚」)で、帝王は帝王になり、庶
民は庶民になる。未熟な政治体制のもとでは、国をまとめるためには、帝王のもつ絶対的
権力が必要かもしれない。専制であれ、独裁であれ、それがないと国がバラバラになって
しまう。

 しかし庶民、つまり民が利口になれば、それに反比例して、絶対的権力は、色を失う。
イワン雷帝は、こう叫ぶ。「馬を走らせるには、手綱が必要」「黄帝の威光がなければ、国
を治めることはできない」と。それが「外国から独立する、方法である」と。

 一理あるが、全理ではない。

●イワン雷帝

ワ「ヘタクソな演技ね」
私「当時としては、すばらしい作品だったはずだよ」
ワ「わざとらしく、舞台で見る時代劇みたい」「化粧も、おおげさ。自然さがないわ」
私「白黒映画だから、しかたないよ。フィルムの性能もよくなかったみたいだね」
ワ「ミュージカルなのかしら?」
私「そんな感じのビデオだね」と。

 イワン雷帝は、帝王に即位すると同時に、カザンという国との戦争を宣言する。歴史は
繰り返すというが、いつの世も、戦争だけは、絶えない。権力はそのままパワーを意味す
る。パワーは、つまるところ、「戦い」を意味する。そのパワーが国の外に向かったとき、
戦争になる。

 勝手にやりたければやるがよい。しかし犠牲になるのは、いつも民衆である。名もない
民衆である。

 むずかしい話になってしまったが、要するに(権力)などというものは、人間が作りあ
げた幻想でしかない。子どもたちがするカードゲームと、同じ。どこもちがわない。強い
カードをもった子どもは、それだけで自分が強くなったように思う。

 同じように人は、権力を手にしたとたん、自分が強くなったように感ずる。中には、自
分を、神か仏の生まれ変わりと錯覚する人もいる。

 そういう意味では、子どもの世界と、おとなの世界は、1本のヒモでつながっている。
実際には、その境目は、ない。そのことは、幼児から、高校3年生まで、連続して教えて
みると、わかる。

 眠くなるようなビデオ。「ほかのにしようか?」とワイフに声をかけると、ワイフは、す
なおに「うん」と言って、それに従った。

●私の貧乏性

 ところで、こうした休暇になるといつもそうなのだが、私は、どんどんと自信をなくし
ていく。「このまま私は、ダメになってしまうのではないか」とさえ思うこともある。以前
は「貧乏性」と呼ばれたが、正確には、「基底不安」という。世間では、「不安神経症」と
もいう。原因は、私の幼児期にある。それがそのまま私の心の中に居座ってしまった。

 他人を信じられないならまだしも、自分自身をも信じられない。ワイフは、「いつものあ
なたの性癖よ」と笑う。たしかに、そうだ。そういう意味では、私は、働いていたほうが、
気が楽。そのほうが、自分を忘れられる。

 しかしいつになったら、安楽な心を取り戻すことができるのか。自分だけなら、まだ何
とかなる。しかし子どもや、さらに孫のことまで考えると、気が休まらない。

 いつまでも健康で、今の仕事がつづけられたらと思う。しかしこのところ、それについ
ても自信がなくなってきた。自分でも、今、健康なのか、どうか、よくわからないときが
ある。どこといって悪いところはないのだが、かろうじて、健康……というにすぎない。

 そのため運動だけは、しっかりとしている。しかし運動が好きだから、そうしているの
ではない。病気になるのが、こわいからそうしているだけ。

 ワイフが、『100万回のウィンク』というビデオにかえた。1998年の作品だから、
まあ、新しいほうかもしれない。これも100円で買ってきたもの。主演は、ドリー・バ
リモアという女性だが、私は知らない。ワイフは、『E・T』に出ていた女の子ではないか
と言った。

●合法的な殺人

 今日は、何と、焼肉を食べた。めったに食べないメニューである。本当は、ラーメンを
食べようと思って出かけたが、満員だった。それでその近くの焼肉店に入った。が、今日
は正月2日ということで、ランチメニューはなし。

 たいした料理ではなかったが、それでも、あとで見たら、2人分で、2500円も請求
された。

 ……で、ビデオの話。

 ビデオは、妻と、息子たちが結託して、父親を殺すというところから、始まる。息子た
ちは軍用ヘリで父親を追いかけまわす。そのため父親は心臓発作を起こして、そのまま死
ぬ。夫を失った妻は、悲しい未亡人を演ずる。

 喜劇とも悲劇とも、わけのわからないビデオ……。

 ……という話は、多い。「長年つれそった夫婦だから、仲がいい」とは、かぎらない。中
には、憎しみあっている夫婦もいる。最近、ワイフが、そんな話を、友人から仕入れてき
た。こんな話だ。

 その家には、今年80歳になる舅(しゅうと・義理の父親)がいる。が、その舅。この
ところ認知症も加わり、わがままの言い放題。したい放題。自分で便をもらしながら、そ
の友人(主婦、45歳)に、あと始末をさせるという。「そこも、拭け」「ここも臭いから、
拭け」と。

 しかもそれを足を使って、指示するという。

 そこでその友人は、最近は、舅の欲しがる食べものを、何でも買い与えているという。「と
くに好物なのが、肉。だから、毎日、肉を食べさせている」と。そしてワイフにこう言っ
たという。

 「少し前までは、食べ物に、あれこれ気をつかってやったけど、今はもう、やめた。ど
うでもいいといった感じ。心筋梗塞でも何でもいいから、早くそういう病気で、死んでく
れればいい」と。

 少し話の内容を変えた。ワイフの友人に迷惑がかかってはいけない。しかしこれに似た
話は、多い。「それって、殺人じゃないの?」と言うと、ワイフは、ケラケラと笑った。が、
笑い話ですませない。どこか少し、アブナイ話である。(女性は、こわいぞ!)

 そう言えば、私のワイフも、食後には、かならずといってよいほど、甘いデザートを出
す。ひょっとしたら、内心では、私に早く死んでほしいと願っているのかもしれない。ゾ
ーッ!

ワ「介護って、それくらいたいへんなのね」
私「わかっている」
ワ「年老いた親が死んだりすると、遺族は、それなりにさみしそうな顔をしてみせるけど、
本当はそれを喜んでいる遺族も多いはずよ」
私「そうかもね。介護疲れが理由で、自殺を考える人もいるくらいだから」と。

●粗大ゴミ

 私の友人に、Mさん(女性・40歳)がいた。そのMさんも、義理の父親の介護で苦し
んだ。軽い認知症のほか、重い腎臓病をわずらっていた。そのため、脳性の混濁症状が出
ていた。夜中でも、大声で、Mさんを呼びつけ、介護させていたという。

 その上、夫の兄弟姉妹たちがそのつどやってきては、「ちゃんとめんどうをみてほしい」
と苦言を並べたという。Mさんは、1年で数キロずつやせていった。老人の介護というの
は、それくらい、たいへんなこと。

 もちろん死ぬまで、良好な親子関係をつづけている人も多い。たとえば私には、オース
トラリア人の友人が何人かいる。が、どの友人も、良好な親子関係を保っている。親や親
で、子は子で、それぞれがたがいに干渉しないように、うまくやっている。その中の1人
は、現在、アルツハイマー病をかかえた父親をもっている。

 オーストラリアでは、養護施設そのものが充実している。費用もほとんどかからない。
親自身も、子どもたちには迷惑をかけたくないという、強い意思をもっている。子どもた
ちも、そうした親の意思をよく知っている。知っているというより、親から子へと、その
意思が、代々、遺伝のように伝わっている。

 その年齢になると、親自身が、自ら老人施設に入る。子どもは子どもで、それを静かに
見守る。そういう意味では、日本は、遅れている。介護制度も、やっと今、始まったばか
り。意識が変わるまでには、まだまだ長い時間がかかる。

 が、この問題は、そのまま私たちの近未来の問題ということになる。人は例外なく歳を
とる。老いる。

私「このままでは、老人たちは、粗大ゴミになってしまうね」
ワ「うん」
私「日本に、それだけの国力があればいいけど、その力も弱くなってきた」
ワ「うん」
私「老人は、早く死んでくれという時代が、もうそこまで来ているような気がする」
ワ「そうね」と。

 定年を65歳まで延ばした会社もあるというが、私は、働けるなら、70歳でもよいの
ではないかと思っている。働ける人が、みな、70歳まで働けば、今、問題になっている
少子化の問題も解決する。そうすれば、若い世代の人たちに、粗大ゴミと言われなくてす
む。

●まあ、こんなもの

 しばらくビデオを見て、時間をつぶす。ほんの少し前、それが終わった。ワイフは、台
所へ洗い物を運んでいる。私は、再び、パソコンに向かう。このところめったに使わなく
なったパソコンだが、P社製の、レッツ・ノートである。キータッチの感触が、たまらな
く気持ちよい。たとえて言うなら、やわらかい女性の肌のよう。パチパチと文字を打って
いるだけで、気持ちよくなる。

 しかしこのパソコンとのつきあいも、8年目に入る。私はどんな電気製品でも、買った
ときの日付を、どこかに書き残すことにしている。それを見ると、1999年12月20
日とある。性能はあまりよくないが、ワープロとして使うには、じゅうぶんである。これ
からも、ずっと使うつもり。

 ワイフに、先に休むように言ったが、「もう少し起きている……」と。時計を見ると、午
後11時10分。私は昼寝をした。正月の2日だというのに、今日もさえない1日だった。

 そうそう、その昼寝をしたとき、初夢を見た。おかしな初夢だった。扇風機が空を飛ん
でいく夢だった。そしてその扇風機が、木造の船の底をつきやぶり、その船が沈没すると
いう夢だった。

 扇風機が空を飛ぶはずがない。頭の中で、ヘリコプターと、扇風機が、ごちゃごちゃに
なった。それで、そういう夢を見たらしい。その夢のことを話すと、ワイフは笑った。も
う少し、何か意味のある夢だったら、よかったのに。

 あとは、電子マガジンの編集を少しした。それから庭掃除。

 そんなことをぼんやりと思い出しながら、「今年は、何をしたい?」とワイフに聞く。ワ
イフは、けげんそうな顔をして、「今年?」と。

 私は、もう自分のためにしたいことは、あまりない。やりたいことは、みんなやってき
た。自分の人生に悔いはない。きびしい人生だったが、もともと人生というのは、そうい
うもの。原始の時代から、あらゆる動物は、こうしたきびしい環境の中で、生きてきた。
それを前提とするなら、つまりきびしいのが当たり前と考えるなら、今の生活は、楽すぎ
るほど、楽。ぜいたくは言えない。

私「まあ、みんな、こんな感じで人生を終わるんじゃないかな」
ワ「まあね、そう大差ないもんね」
私「成功者も、失敗者も、紙一重。本当は、どこもちがわない。ちがうように見えるだけ」
ワ「それに相対的なものだし……」
私「江戸時代には、寿命は45歳くらいだったそうだ。それを思えば、ぼくらはとっくの
昔に死んでいてもおかしくない」
ワ「ふ〜ん」と。

●2007年

 ともかくも、今年も始まった。2007年。とくに抱負はないが、今までどおり、がん
ばって生きていくしかない。やれることは、みんなやる。明日に回さない。今日できるこ
とは、今日、する。

 あれこれ悩んでも、しかたない。何も解決しない。どんな問題でも、そのときがくれば、
なるように、なる。こちらの事情も知らず、私のことを悪く言っている人もいるにはいる。
しかしそういう人たちは、相手にしない。

 イギリスの格言にも、『2人の人には、いい顔はできない』というのがある。どうであれ、
人生の折り返し点は、とっくの昔に過ぎた。今さら、ジタバタしても、始まらない。健康
がつづくかぎり、それをありがたいことと思い、その命を、みなに返していけばよい。だ
れがどう思おうが、私の知ったことではない。私が死ねば、この宇宙もろとも、私は消え
てなくなる。どうせ、それまでの人生。

私「ぼくたちを守ってくれる神様も仏様もいないからね」
ワ「そうね。今ごろから信じても、相手にされないでしょうしね」
私「神様に向かって、……仏様でもいいけど、今まで信じていなくて、すみませんでした
と謝っても、ダメだろうか」
ワ「そんなに甘くないわよ」
私「そうだろうね。……わかっている」と。

 ……ということで、今夜は、これでおしまい。友人の奥さんが、昨年の暮れに亡くなっ
た。それを聞いて以来、この数日、気分が落ち込んでしまった。今も、その状態がつづい
ている。専門家がこの文を読んだら、「はやし浩司は、うつ病だな」と思うかもしれない。
が、ありのままの自分を、こうして記録しておくことにする。うつ病だろうがなんだろう
が、これが今の私なのだから……。

 では、おやすみ! ワイフは、コタツの横で、あごに手をかけて、眠っている。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(1月10日)

++++++++++++++++++

寒い朝だ。起きるとすぐ、ストーブに
電源を入れる。

それから着替え。

つづいて母の部屋に入り、カーテンを
あけ、電気をつける。ストーブに電源を
入れる。

部屋がじゅうぶん暖まったら、母の
おむつ替え。ポータブルトイレの清掃。

そのころになると、朝食の用意ができているので、
それを母の部屋に運ぶ。

老人の介護といっても、なんでもない。
あまりにも、なんでもないので、
かえって拍子抜け。今は、そんな感じ……。

この先のことは、わからないが……。

+++++++++++++++++++

 老人の介護が、たいへんか、たいへんでないかは、心の持ち方による。いやいや介護す
れば、それから受ける重圧感は、何十倍にもなる。が、気楽にやれば、なんでもない。本
当になんでもない。

 今日は、ワイフがテニスに出かける日。私は、こう言った。「母がいるからといって、
生活のパターンを変える必要はない。そんなことをしてはいけない。お前は、いつもどお
り、テニスに行けばいい」と。

 で、私は、発見した。

 介護が負担になるかどうかは、披介護者の態度と姿勢で決まる、と。もっと言えば、た
がいに心が通いあえば、介護も、なんでもない。むしろ楽しい。「今度は、山へ連れてい
ってやろう」とか、「海へ連れていってやろう」とか、そんなふうに考える。

 介護を必要とする老人というのは、いわば、体の大きな赤ん坊のようなもの。問題は、
便のしまつ。しかしこれも、1、2日も世話をすれば、なれる。私だって、(あなただっ
て)、便をもらして、下着を汚すことはある。それと同じに考えればよい。いや、いちい
ち考える必要もない。淡々と、ノーブレインの状態で、やればよい。

 私のばあいは、定時ごとに、母をベッドの横に立たせ、うむを言わせず、おむつを取り
替えるようにしている。「ハイ、立って」「ここにつかまって」「足をあげて」と。

 そのときコツがある。便をもらしたことを、決して、責めたり、叱ったりしてはいけな
い。おむつを取り替えたら、「ほら、気持ちよくなっただろ」と言って、それですます。

 いろいろ、改良点を考える。

(1)ポータブルトイレにも、簡単なシャワーをつけるとよい。
(2)ポータブルトイレには、ひじかけがついているが、たての棒がとりつけられると
よい。(老人のばあい、体を立たせるとき、腕を伸ばして立つよりも、高いところにつか
まって、腕を縮めるほうが、楽なようである。)
(3)介護用製品にしても、足腰が弱った老人用、上半身が弱った老人用などなどと、
きめこまかく、機能を分けたものを開発するとよい。
(4)介護用ポータブルトイレは、もっと重量感のあるものにするとよい。老人のばあ
い、軽すぎると、動いたり、ひっくり返ったりしてしまう。(定位置から移動するもので
はないし、軽ければそれでよいというものでもない。)

 最大のケアは、老人を孤独にしないこと。老人といっても、(私もその仲間だが)、ま
ったくふつうの人間。頭の活動が弱くなったというだけで、20代〜50代の人と、どこ
もちがわない。

 私のばあいは、母が来るのに先立って、部屋の様子を、実家の母の部屋そっくりに、つ
くりかえた。実家にあった写真や置き物を、そのまま並べた。アルバムも5、6冊もって
きて、枕もとに置いた。

 時期的に寒いころでもあり、暖房には気をつかった。老人というのは、寒さに弱い。体
の新陳代謝がそれだけ衰えているからである。……などなど。

 これから先、私自身の老後も考えて、介護制度について、どんどんと評論を書いていき
たい。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●読者がふえた!

++++++++++++++++++

この10日間、原稿をほとんど、
書かなかった。

書く意欲が、それ以前の、5〜10%
以下にまで、低下してしまった。

書斎に座るのもおっくうになってしまった。
だから今は、こうして居間のコタツに座って、
原稿を書いている。

電子マガジンを、どうしようか?
……やめようか?
……つづけようか?

……と思い悩んでいたら、今朝、読者が4人も
ふえた(Eマガ)。

とたん、申し訳ない気持ちが、心の中に
充満した。新しく会員になってくれた人は、
それなりに期待しているにちがいない。

で、この原稿を書き始めた。

何とか、2月2日(金)号のマガジンは
出せそうである。

とりあえず、2月2日号を出すことにした。

それにしても、正直に告白するが、
少し、疲れた! 1000号までの道は、
まだ、遠い! ああああ!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●大晦日(おおみそか)

++++++++++++++++

今日は、12月31日。大晦日。
2006年も、今日で、おしまい。

昨日は、何かと忙しかった。一日中、
バタバタしていた感じ。ただ、
風が強かったので、焚き火はできな
かった。

そのため、庭には、枯れ葉が山の
ようになっている。

何とか今日中に、それを片づけたい。

++++++++++++++++

●「親絶対教」をまとめる

 今まで書いてきた原稿の中から、「親絶対教」に関するものを、抜き出す。「親は絶対」
という考え方を、親絶対教という。カルトそのものだから、「親絶対教」という。私がつけ
た名前である。

 10作ほどを抜き出してみたが、それだけでも、A4原稿用紙(3500字)で、13
0枚近くにもなった。単行本にするには、じゅうぶんな量である。この4〜5年、電子マ
ガジン1本でがんばってきたが、07年は、再び、出版のほうでがんばってみようと思う。

 恩師の田丸先生の娘婿の藤原氏が、『国家の品格』という本で、大当たりを当てた。ジャ
ンボ宝くじを、20本くらい、つづけて当てたようなもの。私には、とてもまねできない
が、本のおもしろさは、そこにある。

 「親絶対教」……21世紀の今も、家族がもつ自我群(呪縛感)の中で、もがき苦しん
でいる人は多い。「親である……」「子である……」という立場だけで、子をしばり、親を
しばる。自らをしばる。

 親子関係も良好であれば、たがいにそれなりに救われる。しかし親子関係も、つきつめ
れば、1対1の人間関係。壊れるときには、壊れる。世の中には、親をだます子もいるが、
子をだます親もいる。が、(親子)という関係だけは、残る。その(関係)が、たがいを苦
しめる。

 が、それはふつうの(苦しみ)ではない。それはまさに魂を引き裂くような苦しみとい
ってもよい。だから心理学の世界でも、それを「幻惑」という。「実体のない苦しみ」とい
う意味で、「幻惑」という。が、問題は、なぜそこまで親子(とくに子ども)は、苦しむの
か。その理由のひとつとして、最近の研究によれば、人間にも、鳥類に似た(刷りこみ)
があることがわかってきた。

 つまり親子の関係は、本能に近い部分にまで、深く刷りこまれている。だからそれから
自分を解き放つことは容易なことではない。ある男性(当時45歳)は、実母の葬式に出
なかったことを、いまだに悔やんでいる。その人にはその人なりの、人には言えない、深
い事情があって、そうした。が、今でも、自らを「ダメ人間」と思いこんでいる。「私は失
格人間」と言ったこともある。

 一方、まわりの人たちは、自らがもつ親絶対教に気づくこともなく、その男性を責める。
「恥知らず」「恩知らず」と。その男性は、親戚のみならず、近隣に人たちの間ですら、「親
捨て」と呼ばれ、村八分の状態にあるという。実際には、以来20年近くになるが、郷里
のM県M市には、一度も帰っていないという。

 「そんなに気にしなくてもいいのに」と、私が言うと、その男性は、こう言った。「それ
は事情を知らない人たちの言うことです」と。

 親は、親風を吹かす。「産んでやった」「育ててやった」と、子どもに恩を着せる。子ど
もは子どもで、「産んでいただきました」「育てていただきました」と、恩を着せられる。
つまりこうして日本独特の、依存関係が生まれる。ベタベタの人間関係が生まれる。

 言いかえると、親絶対教から決別するということは、とりもなおさず、人間としてのひ
とり立ちを意味する。それはけわしくも、きびしい道のりである。ある男性は、自分の中
から(親)を抜くため、10か月近くも、はげしく悶絶した。毎晩、床につくころになる
と、体がほてって眠られなかったという。それについては詳しく私の本の中で書くつもり
でいる。

 「親絶対教」は、まさにカルトである。地方によっては、その地域全体が、そのカルト
教団のかたまりのようなところさえある。そういうところで、親絶対教を否定したら、ど
うなるか。へたをすれば、それはそのまま自己否定へとつながってしまう。先に書いた男
性の例をあげるまでもない。

 私はそれについて、自分の意見を、世に発表してみたい。「乞う、ご期待!」と書きたい
ところだが、出版界は、今、たいへんきびしい状況にある。出版までの道は、遠い。しか
しここで立ち止まっているわけにはいかない。とにかくやってみよう。やってみるしかな
い。

 がんばります! よろしくお願いします!
(06年12月31日記)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●懸命に生きる

 うらみつらみも、あるだろう。憎く思ったり、嫌うこともあるだろう。
 しかしそれ以上に、人生は、短い。今のこのときさえも、つかの間。
 やがてすぐ、闇に消えてなくなる。あなたは死に、そしてこの世から消える。

 その短い人生を、自分で汚しながら生きてよいものか。失ったものを、 
 嘆き悲しみながら生きてよいものか。

 もしあなたに財産があるとするなら、それはあなたが、今ここにいて、
 懸命に生きているということ。それにまさる財産は、ない。どこにもない。
 だからある賢人は、こう言った。『生きていること自体が、奇跡だ』と。

 今夜も、ワイフとこんな会話をした。「懸命に生きれば、それでいい」と。

 仕事が行きづまったら、そのときは、そのとき。今もっている財産を売ればよい。
 それは敗北でも、何でもない。恥ずかしく思わなければならないことでもない。
 そんなあなたを、他人が、「負け犬」と笑ったら、笑わせておけばいい。
 この世界には、勝ち組も、負け組もいない。もっと言えば、善人も悪人もいない。

 勝ち組と負け組は、紙一重。善人と悪人も紙一重。ほんのわずかな違いが、進む道を
 へだてる。勝ち組はあっという間に負け組になり、善人も悪に染まれば、そのまま
 悪人になる。

 大切なことは、今というこの時を、懸命に生きること。その生きるところから、
 ドラマが生まれる。そのドラマに価値がある。人間の生活を、うるおい豊かなもの
 にする。
 
 さあ、あなたも、勇気を出して、ありとあらゆるものを、許してしまおう。
 この世界には、『負けるが勝ち』という言葉さえ、ある。
つっぱたり、気を張ることはない。肩の力を抜いて、負けを認めればよい。

 安穏の世界は、そこにある。そしてそれこそが、私たちの求める世界。
 私たちが目指してやまない、人生の目的地。

そう、私たちが求める真理などというものは、そんな遠くにあるものではない。
あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、ただひたすら
静かに、息をひそめて待っている。

さあ、あなたも、今日を懸命に生きてみよう。それでよい。それがすべて。
結果なんか、気にすることはない。どんな結果であれ、そのときはそのとき。
またそのときから、懸命にいきればよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●抱負(2)

+++++++++++++++

2007年になって、もう9日目。
しかし書いた原稿は、20枚足らず。

マガジン1号分にも、なっていない。
本来なら、今ごろは、2月9日号用の
原稿を書いていなければならない。

「2月号は、休もうか……」と、ふと、
思う。しかし有料版のマガジン(まぐプレ)は、
そういうわけには、いかない。

書くしかない。つづけるしかない。

ここでへこたれたら、私はおしまい。

がんばろう。がんばるぞ!

+++++++++++++++

 2007年になって、いくつか心に決めたことがある。その1。他人を悪く言うのは、
やめた。ねたむのも、やめた。失敗を他人のせいにするのも、やめた。人をうらんだり、
憎んだりするのもやめた。

 自信はないが、ともかくも、そう心に決めた。

 どうせみな、50年もすれば、この世から消えてなくなる。100年もすれば、この世
から消えてなくなる。そんな他人が、私をどう思おうが、私の知ったことではない。また
そんな他人など、相手にしてもしかたない。

 私は私で、最後の最後まで懸命に生きる。生きられるところまで、生きる。そのあとの
ことは、知らない。わからない。今がすべての始まり。今がすべての終わり。

 10年か。それとも20年か。運がよければ、30年か。

 私に残された時間は、あまりにも短い。少ない。そんな時間を、くだらないことで、無
駄にすることはできない。人生に道があるなら、私はただひたすら、まっすぐな道だけを
歩く。回り道をしているヒマなど、もうない。

 ズルイことを考えるのは、もうやめた。悪いことを考えるのも、やめた。喧嘩もしない。
争いもしない。不愉快に思うこと自体、私にとっては、回り道でしかない。しかし回り道
をすればするほど、時間の浪費。人生の浪費。

 若いころは、『時は金なり』と言った。しかし今は、『時そのものが、金(ゴールド)』。

 だれに感謝すべきなのか、私はわからない。が、私が今、こうして健康でいられるだけ
でも、ありがたい。生きていられるだけでも、ありがたい。コタツに入って、パソコンの
キーボードを叩けるだけでも、ありがたい。

 そばには、新聞を読んでいる長男がいる。鼻歌を歌っているワイフがいる。のどかな時
間。おだやかな時間。こうした時間にまさる幸福が、どこにあるというのだろうか。今、
私がすべきことは、こうした瞬間を、そのつどかみしめながら、自分のものにすること。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ

+++++++++++++++++

Kさんより、メールが入った。
ときどき、マガジンのほうに、原稿を
転載させてもらっている。

正月休みに、グアムへ行って
こられたとか。

グアムへ行かれる前、お子さん(R男君)に
「グアムでは、ガムを食べるんだよ」と、
冗談を言ってしまいました。

+++++++++++++++++

【Kさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、こんにちは!

グアム、楽しかったです。
ガムはかまなかったけれど、海とプールで、親子そろって、日焼けしました。
オーストラリア、ハワイしか行ったことのない私は、
グアムのような、いかにも南の島という島にあこがれていました。
おかげで、満喫できました。

意外と日本語が通じないということに、驚きました。
せっかくアメリカに行くというのに、英語を話せないジャン!、と思っていたのですが、
あちこちで、特にクレームは、英語が通じて嬉しかったです。

私は日ごろから、怒りの感情をあらわにするということは少ない人間と、
自分では思っていますが、
タクシーに関することであまりにも怒ってしまいました。
頂点に達すると人はこんなにも能力を発揮するのかとおもうほど、
ドライバーの方に、苦言を呈しました。

同席していた日本人の方が驚いて 私が日本人であることを疑い、
「あなたは本当に日本人か?」と、
何度も聞かれたことが面白かったです。 アハハ!
でも タクシーでは危ない目に会うと怖いので、ほどほどにしておきました。

こんな明るい話題から入ってしまったけれど、
心にひっかかっていることがあります。

LUCYさんのこと わたしもご冥福をお祈りさせてください。
先生がどんな思いでいらっしゃるだろうかと、私も泣きながら、
Lucy Good bye の動画を見せていただきました。

アンドレギャニオンの『巡り合い』は、いいですね とても好きな曲です。
3月のお嬢さんのweddingには、BW教室はオヤスミでいいですから、
たっぷりお祝いをお伝えしていらしてください。

私の義理の母に、いつだったか、「悲しいときはどうして乗り越えるの」
と、聞いたことがあります。すると、義理の母は、
「C'est la vie(それが人生よ)」と教えてくれました。

今は、私が天国に言ったら会おうね、そうして一緒に過ごした。
時間よりも、もっとたくさんの時間を、一緒におしゃべりしてすごしましょうね、
という気持ちでいます。

グアムから、年賀状を出す用意をしたつもりでしたが、
ちっ!、ご住所を書き写したものを忘れてしまいました。
何て凡ミス! ばかめ!

R男は小学生になっても、BWを続けることを楽しみにしています。
彼が習い事にこんなに熱心になったのは、初めてです。
ほんとうにありがとうございます。

私は、これからも20日30日の5%off のお店に、足しげく通って、
あらゆる割引手段やスタンプ、ポイントを利用し、
節約ママに徹し、
つかいたいときには どっっっっか〜〜〜〜ん、と、
使えるように、enjoyしながらがんばります。

今年の目標は
もっともっと勉強して、
もっと英語の能力を高くすること。
できれば、数年前あきらめてしまった、手話にも再トライしたいなぁ。

R男の今年の目標は、
鉄棒がもっと上手にできるようになること
だそうです。^m^

こんな親子ですが、
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

2006年、はやし浩司先生にお会いできたことに、
心からの感謝の気持ちをこめて。

Kより。

【はやし浩司より、Kさんへ】

 前回、「メールは、無断で転載していい」ということでしたので、転載させていただきま
す。ありがとうございます。

 私は、若いころから、休みになると、何もしなくなってしまうタイプの人間です。学生
時代も、テスト期間中は、「試験が終わったら、映画を見よう」「旅行に行こう」と、そん
なことばかり、考えていました。が、試験が終わったとたん、意欲は消滅し、ぼんやりと、
休みを過ごしたのを覚えています。

 この正月休みも、そうでした。したのは、大掃除くらいかな?

 ストレスにも2種類あるのだそうです。善玉ストレスと悪玉ストレスです。善玉ストレ
スは、生きるパワーを生み出します。そういう意味では、やはり仕事をしているときの自
分のほうが、楽しいです。緊張感があるからです。緊張感が抜けると、今のような状態に、
なってしまいます。

 ただ無益に時間をつぶすだけ、という状態です。

 だから早く、子どもたち(生徒たち)の顔が見たいです。仕事がしたいです。子どもた
ちといっしょに、ワイワイと騒ぎたいです。おかしな話に聞こえるかもしれませんが、私
にとっては、職場そのものが、ストレス解消の場になっています。

 ……といっても、休みも、明日1日だけ。少しさみしい気もしますが、しなければなら
ないことは、山のようにあります。明日も朝から、てんてこ舞いです。

 いつもメールを、ありがとうございます。楽しいです。子どもたちのエネルギーにも驚
かされますが、若いお母さんたちのエネルギーにも、驚かされます。Kさんは、とくに、
少し不謹慎な言葉かもしれませんが、ピチピチママといった感じですね。

 今度会ったら、そのエネルギーを、少し分けてもらいますよ。私は、見た目には、ジジ
イですが、心意気だけは、結構、若いです。まだまだKさんにも、負けませんよ! 私は、
ヤング・オールドマンです。

 で、3月にメルボルンへ行ってきます。チケットは取れました。カンタス、キャッセイ、
シンガポール航空の中から、シンガポール航空を選びました。中部国際空港→シンガポー
ル→メルボルンへと飛びます。

 向こうでは2泊するだけの、まさにトンボ帰りの旅行です。またおみやげ話をたくさん、
もって帰りますね。どうか、お楽しみに!

 ルーシーさんのビデオを見てくださったとか、ありがとうございました。これからもよ
ろしくお願いします。

 そうそう私は、子どものころ、鉄棒だけが、苦手でした。逆上がりができなくて、苦労
しました。小学3年生になって、やっとできたという状態でした。なかなかコツがつかめ
ませんでした。

 ともかくも、2007年も始まりました。これからもよろしくお願いします。エネルギ
ーを分けてください。

 では、少し遅れましたが、Happy New Year!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

【母の介護】

++++++++++++++++++

本当のところ、まだ、自信はない。
それは今日、始まったばかり。

しかし、やるしかない。
やらなければならない。

++++++++++++++++++

●美濃の町

 美濃の町は、すっかり変わっていた。私が子どものころの町というよりは、明治、大正
生まれの人たちが、「私が子どものころの町のよう」と言うような町に、変わっていた。

 通りからは電柱が消え、それにかわって、それぞれの軒先には、行灯(あんどん)がつ
りさげられていた。ちょうど夕方を過ぎたころで、それに淡い橙色の灯がともっていた。

 私は雪で足を取られないよう、注意しながら、ワイフと美濃の町の中へと向かった。宿
泊していた、川沿いの緑風荘という旅館を出ると、井掘り沿いの道を歩いた。トンネルを
抜け、しばらく進むと、昔、市役所があったところに出た。今は、文化センターと名前を
変えていた。

 成人式を済ませたばかりの男女が1組、何やら深刻な顔をして、土台の上に座っていた。
近くにパトカーが2台、止まっていた。

●独特の文化

 美濃の町は、独特の文化をもった町である。昔は、和紙の産地として知られた町である。
「美濃和紙」という言葉は、この町から生まれた。

 全体的には名古屋の経済圏にありながら、大阪商人の経済圏に入っていた。方言は名古
屋よりだが、商売の仕方は、大阪的。このあたりでは、値段など、あってないようなもの。
正札(しょうふだ)通りの値段でものを買う人はいない。……いなかった。少なくとも私
が子どものころは、そうだった。

 町のあちこちに、美濃和紙を使った行灯(あんどん)が飾られていた。和紙のもつ、独
特の美しさ。やさしさ。和紙というよりは、薄い、木々の皮膚といった感じのほうが正確
かもしれない。人間の手でつくられながらも、その心は、人間というよりは、自然のほう
に、はるかに近い。

●散歩

 私たちは、そこから、南へと、ゆるい坂をのぼり、そして左に折れた。このあたりの土
地は、路地の路地まで、よく知っている。私が通った小学校は、南東に。そして私の住ん
でいた家は、北西にあった。私は毎日、この町を縦断しながら、学校へ通った。

 が、行きはともかくも、学校からの帰り道で、道草を食わない日はなかった。毎日、遠
回りをして変えるのが、日課と言うよりは、当たり前になっていた。ワイフに、「この道は
……」と、そのつど、路地の説明をした。人がやっと1人歩けるかどうかというような細
い路地である。

 私はそういう路地をのぞきながら、子どものころ、そこを歩いた記憶を懸命にたどった。

 で、私たちは、町を遠巻きにするように、常盤町(ときわちょう)と呼ばれる町内のほ
うへと向かった。伯父の住んでいた家があったところである。その伯父の住んでいた家と、
歌手の野口五郎氏の生家とは、10メートルも離れていない。

 今はだれも住んでいないらしい。2階の窓枠が、半分壊れたまま、外にはみ出していた。

 「ここが野口五郎さんの家だよ」とワイフに言うと、ワイフは、感慨深そうに、その家
をじっと見つめていた。

●故郷

 美濃の町は、都会の町とちがって、動きがほとんどない。家々の表札を見ても、名字だ
けは、昔のまま。昔、鷲見(すみ)君という友人の住んでいた家には、「鷲見」という表札
がかかっていた。平田君という友人の住んでいた家には、「平田」という表札がかかってい
た。古川君という友人の住んでいた家には、「古川」という表札がかかっていた。

 このあたりでは、新しい人たちが外から移り住んでくるということは、めったにない。
私が子どものころには、美濃和紙の産地としてまだ栄えていた。そのころには、岐阜や名
古屋からやってきた商人たちが、新しい店を開いたこともある。しかし今は、ない。

 どこの町でもそうだが、基幹となる産業がすたれてくると、それまでの蓄積を生かして、
観光の町として、生き残りをはかる。美濃の町とて、例外ではない。しかし観光の町にし
ては、やや力不足?

 格式というか、気位の高い家が多く、若者に向かって頭をさげるような器用さがない。
中に、つまりまばらに、和紙で作った民芸品を売っている店もあるが、観光客を呼び込む
ためには、イマイチといった感じ。一角でもよいから、それが凝集していなければならな
い。博物館でもよい。が、観光化が中途半端な分だけ、みごとなほどまでに、明治、大正
時代の面影を、色濃く残している。

 中年を過ぎた人たちにとっては、たまらないほどの魅力を感じさせる町といってもよい。
静かに、散策するには、もってこいの町である。

●私の母

 私と私の母の間には、いろいろあった。いろいろありすぎて、ここには書ききれない。
その結果、私と私の母の間には、大きなキレツが入ってしまった。とくに、この10年は、
会話といっても、会話にならなかった。私は母をうらみ、そういう私を、母はうらんだ。
たがいに、まるで他人行儀。うわっつらな挨拶(あいさつ)に、うわっつらなきれいごと。
しかしもう、そんなことはどうでもよい。

 母は、母で、自分の人生を生きた。懸命に生きた。私の時代の生き方とは、大きくちが
った生き方だったかもしれないが、ともかくも懸命に生きた。もう、それでじゅうぶん。
もう、たくさん。

 そこに年老いた母がいる。歩くことも、ままならない。だれかが介護をしなければ、生
きていくことができない。それが私の目の前にある、現実。私がすべきことは、その現実
を受けいれること。過去ではない。

私「もう、これ以上、怨念を引きずって生きるのも疲れた」
ワ「あなたは、じゅうぶん、苦しんだわ。ほかの人ができないことをしたのよ」
私「うん、でももう、たくさん。この苦しみから、解放されたい」
ワ「そうね……。あなたはほかの人ができなかったことを、したのよ」
私「……ありがとう」と。

 私の横にいて、私の苦しみを、ワイフは、すべて見てきた。私の悲しみは、そのままワ
イフの悲しみでもあった。そのワイフの悲しみにも、私は、決着をつけなければならない。
そのときが、やってきた。

●雪

 その朝から降った雪は、5〜6センチほど、積もっていた。私とワイフは、たがいに手
をとりあいながら、慎重に歩いた。雪道で足をすべらすと、後頭部からステンところぶ。
私は、金沢で学生時代を過ごしたこともあり、そのこわさをよく知っている。ワイフは、
それを知らない。

 「ここが海部(かいふ)元首相の奥さんの生家だ」と言って、小さな薬局を指差した。
奥さんと姉が友だちだったということもあった。私は、その弟とよく遊んだ。と言っても、
私が小学生のころの話。今となっては、顔さえよく思い出せない。

 で、そこからまた緑風荘に向かって、Uサーン。あたりはすっかり暗くなっていた。私
のデジタルカメラでも、写真が取れなくなっていた。

 「帰ろうか」
 「うん」と。

 靴の中にまで、雪水がしみ込んでいるのが、よくわかった。

●義理の兄

 明日は、90歳をすぎた母を浜松へ連れてくる。母はいやがるだろが、姉の介護も限界
にきている。義理の兄が、はじめて、弱音を吐いた。「もう、無理だ……」と。

 私は、こういうとき、まず情報を集める。近くのグループホーム、ケアセンター、さら
に精神病院、養護施設と、近くの施設をいくつか回った。ついでに、同じく老母の介護で
苦労をした、義理の兄の家も回った。

 が、最大の助けになったのは、義理の兄だった。その義理の兄が、介護用具一式を、私
たちに貸してくれた。介護用ベッド、無線式の呼び鈴、それにポータブルトイレなど。そ
ればかりか、介護の会などの紹介までしてくれた。昨年、義理の兄の母はなくなったが、
そのあとも、介護の会では、指導者として活躍している。

 そういう話を聞くうちに、「これなら私にもできる」という自信をもった。

 やさしい人は、かならず、いる。そしてこの道は、だれしも通る道。多くの先人たちが、
みな、経験している。私ひとりが、決して、その道を経験するわけではない。加えて、私
自身も、やがて、その老人になる。

●母の部屋

 母を迎えるため、私たちは、自分の寝室をあけた。かわりに、三男の使っていた部屋を、
私たちの寝室にした。その掃除を、昨日、した。ゴミというか、雑貨が、ダンボールに、
15、6箱も出てきた。それまでは三男の物置部屋になっていた。

 母の部屋になるところには、介護用のベッドを置き、ポータブルトイレを用意した。仏
壇を置き、その前には、ソファーを置いた。母は、たいへん信心深い。信心というよりは、
迷信深い。

 できるだけ、部屋の様子を、実家の居間の様子に近づけた。

 幸いというか、私の家は、郊外にある。庭も、じゅうぶん、広い。介護での最大の問題
は、便の始末だという。2方が窓になっている。うち一方は、掃きだしの窓になっている。
汚れ物は、そのまま庭へ出せばよい。そこでは、イヌのハナが放し飼いになっている。わ
かりやすく言えば、庭中が、イヌのハナのトイレ。その上に、人間のクソが重なったとこ
ろで、どうということはない。

 私の家というのは、そういう家である。もちろん、便の始末は、日課になっているが…
…。

●覚悟

 翌8日も、朝から雲っていた。私は食事をしながら、もう一度、覚悟を決めた。と、そ
のとき、子どものころの自分を思い出した。

 私は、売られた喧嘩は、かならず買った。相手が多人数でも、私より年上でも、さらに
私より強くても、買った。それが私のやり方だった。

 心の中で、ジクジクと思い悩むのが苦手。ビクビクするのは、もっといや。そんな状態
が、何日もつづいたりすると、気がヘンになる。だから、自分のほうから、体当たりして
いく。

 その体当たりするときに、覚悟を決める。「よし、やる!」と。あとは、それにしたがっ
て、前に向かって足を一歩、踏み出す。

 が、それを知ってか知らずか、ワイフは、朝食をとりながら、旅館の仲居さんと雑談。「毎
年、こんなふうに雪が降るのですか」「いいえ、珍しいです」と。私には、それがつまらな
い雑音に聞こえた。

 私は、ワイフに注意を与えた。「こういうとき、そういうどうでもいいような会話はしな
いでほしい」と。それを聞いて、ワイフは、悲しそうな顔をした。

●緑風荘

 話は前後するが、私は、朝風呂を浴びた。大浴場には、ほかに2人の男たちがいた。同
窓会で、緑風荘に泊まっているのだという。男の1人が、私に聞いた。「どこから?」と。

 私は、「浜松からです」と答えた。すかさず、男が、「ほう、浜松ですか」と言った。私
は、「まずい」と思った。ウソをつくつもりはなかったが、相手の話だけが、どんどんと先
に進んでいってしまう。

男「同窓会でね」
私「そうですか」
男「浜松とは、また遠いところからおいでになりましたね」
私「はあ……。K村に住む、姉に会うためにやってきました」
男「ああ、K村ですか? ここから車で、15分くらいかな……」と。

 美濃町には、美濃町弁という独特の方言がある。たとえば「そうですか?」というとき
は、「そうかなも?」と言う。そういう方言が、一言でも混じれば、私がこの町の出身とい
うことがバレてしまう。

 相手の男たちは、私がよそ者という前提で、あれこれと美濃の町についての説明をして
くれた。「この川が長良川です」「昔は、ここでも鵜飼がなされていました」と。すべて私
が知っている話しばかりである。が、私は、「はあ……」「そうですか……」とだけしか、
言えなかった。

●姉の家

 朝食を終えると、K村に向かって、車を走らせた。道の両側には、かき寄せられた雪が、
小さな土手のようになって、連なっていた。途中、何枚かの写真をとった。寒々とした、
冬景色だった。

私「こういうところに住みたいか?」
ワ「私は、いやだわ」
私「そうだろうね。ぼくも、いやだ」
ワ「どこも、かしこも、暗いわね」
私「こんな日でも、浜松は、快晴ということだ」と。

 姉の家は、小さな路地を入ったところにあった。車を止めると、呼び鈴を押した。姉が
玄関へやってきた。「こんなに早く来るとは、思っていなかった」と。

 つづいて私は、母のいる部屋に入った。4畳半の部屋だった。ベッドを中心に、あれこ
れと物が、ぎっしりと入っていた。

 姉は、早口で、母の世話のし方を、私に教えた。それを横で聞いていて、母は、何度も、
「今日は、行かない」と言った。私たちは、それを無視した。

●浜松へ

 私は、母の未練が残らないようにと、母を車に乗せると、姉の家を離れた。その村から
逃げるように、そうした。
 
 うらみ、つらみは、もう忘れた。すべてを許し、すべてを受けいれた。うしろの座席に
座った母を見ると、窓の外をしっかりと見ていた。母にとっては、これは見納めになるか
もしれない。私以上に、母はそれをよく知っていたはず。私は、自分の心を閉じた。

 静かなドライブだった。連休中というのに、すれちがう車もほとんどなく、予定より、
1、2時間、早く浜松に着いた。

 私は家に車を寄せると、長男を呼んだ。それを聞いて、長男が、荷物の運び出しを手伝
ってくれた。

 私は、母を抱いて、昨日作ったばかりのベッドの上に、母を置いた。母は、そのまま体
から力を抜いた。

 「疲れたか?」と私。「少しな……」と母。

 姉も言っていたが、頭は、少しもボケていない。名前もわかる。簡単な計算もできる。
冗談もわかる。

 仏壇の中央に、実家から持ち帰った布袋様(ほていさま)の人形を置くと、それを見て
母は、笑いながら、こう言った。

 「だれが、あんなワルをした?」と。

 私は、「布袋様が、勝手にここに来た」と言って、笑った。

●おむつ 

 車で帰るとき、サービスエリアのトイレで、母のおむつを替えた。小便と大便がまざっ
ていた。はじめは目を閉じて替えようとした。しかしすぐ、目を開いて、それをした。

 ワイフが、「私がしようか」と言ったが、私は、断った。そのかわり、おむつの反対側を、
ワイフにもってもらった。

 家に着いて、もう一度、食事のあとに、おむつを替えた。姉は、1日に、5回から7回、
おむつを替えてやってほしいと私に言った。私は頭の中で、2〜3時間ごとに替えればよ
いと、計算した。

 そのつどワイフが、「私がする」と言ったが、私のほうが、先に席を立った。「これは私
の仕事」と思った。

 母は、私が子どものころ、私の便のしまつをしてくれた。今度は、私が、それをする番
だ。

 臭い? ……当然、臭い。いや? ……当然、いや。しかしそれも通り過ぎると、便も、
ただのドロ。土。もともとは、店に並んでいた、野菜や肉。どうして汚いのか? 何度も
そう言って、自分に言い聞かせる。

●その夜

 「おむつを替えてやろうか?」と声をかけると、母は、「濡れていないから、いい」と答
えた。「本当か?」と聞きなおすと、「本当や」と。

 しばらく、横に立って、母を見る。母は、弱々しい声でこう言った。「いっしょに、寝て
くれるか?」と。私は、一瞬、ためらった。が、「まだ、眠くない」と答えた。答えながら、
母に、ふとんをかけてやった。

私「寒くないか?」
母「寒くない」と。

 電気ストーブは、つけたままにした。天井の電気を消すと、私は、部屋を出た。

 居間には、ワイフがいた。ひとりでビデオを見ていた。黙ってワイフの横に座ると、ワ
イフが、「どうだった?」と。私は、母が言ったことを、ワイフに話した。

 ワイフは、「いっしょに、寝てあげたら」と。

 私はそれを聞いて、また母の部屋にもどった。そして母の眠るベッドの横に、体を置い
た。

私「いっしょに、寝てやるよ」
母「お前が子どものころは、よくいっしょに、寝たな」
私「うん」と。

 私は、母の白髪をやさしくさすった。母は、そのとき、はじめて、目を閉じた。

母「孫は、何人になった?」
私「2人になった」
母「SHの子か?」
私「SOの子や」
母「かわいい子やな」
私「うん……」

母「ここからは、海は近いか」
私「うん、近い」
母「海が見たいな」
私「うん。元気になったら、ぼくが海へ連れていってやるよ。それまでに、ちゃんと、歩
けるようにするんだよ」
母「ああ」と。

私「さみしいか?」
母「さみしくないよ。……もう、お前も寝るのか」
私「ううん、まだだよ」
母「いい奥さんだな。奥さんのところへ、もどってやれ」
私「いいのか?」
母「もう、いい。ありがと」と。

 入れ歯が、口に合わないらしい。言葉がもつれる。しかしそれは私が子どものころ、毎
晩耳にした、母の声。私はそのまま、母の白髪を、何度もさする。母は眠ったように、動
かない。

 静かな時。穏やかな時。安らいだ時。

「ぼくが、母さんのおむつを取り替えてやるからね。もう何も心配しなくてもいいよ」
と。

 「もう、ぼくは、母さんを見放さないよ。死ぬまで見放さないよ。だから安心していい
よ。わかった? ぼくが、そばについててあげるよ」と。

 しかし母は、何も答えなかった。眠ったフリをしているのか、それとも本当に眠ってし
まったのか。私には、わからなかった。

 私は、ゆっくりと体を離すと、ベッドから、体を起こした。そして母の寝室から、足音
を残さないように、廊下に出た。熱い涙が、幾筋も、頬を伝って、下に落ちた。
 
(07年1月8日)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●運命

 運命を感じたら、つっぱらないで、それを受けいれよう。
 悪魔は、それを恐れたとき、キバをむいて、あなたに向かってくる。
 しかし同じ悪魔でも、あなたがそれを笑えば、悪魔はしっぽをまいて、
 あなたから、逃げていく。

 気を楽に、心を開いて、あなたは、すなおな気持ちで、友に語りかけよう。
 「愛しているよ」と。「好きだよ」と。「いっしょにいたいよ」と。

 憎んだり、いがみあったり、ののしりあったり、そんなことは、もうやめよう。
 大切なことは、つかの間の人生を、私のものとして、生きること。
 私が私であれば、それでいい。それ以上、人は何を望むことができるのだろうか。

 許して、忘れよう。いやなことは、そのまま水に流そう。だれが善人で、
 だれが悪人なのか、そんなことは考えるのは、もうやめよう。

 どんな人でも、それぞれの重荷を背負って、懸命に生きている。
 苦しみや、悲しみにじっと耐えながら、生きている。
 でも、もうがんばらなくてもいい。気を張らなくてもいい。

 あなたがすべきことは、肩の荷をおろし、心を開いて、
そこにあるものを受けいれること。そして明るく笑うこと。

だれにも、無数の糸がからんでいる。がんじがらめに、あなたを包んでいる。
それを「運命」というのなら、運命は、だれにもある。
が、もがけばもがくほど、運命は、あなたを苦しめる。痛めつける。

だったら、運命は、前向きに受けいれよう。そこにある私の人生を、
あるがままに受けいれよう。たいしたことはできなくても、
そんなことは気にすることはない。

あなたはあなたの人生を、懸命に生きる。結果など、気にしてはいけない。
今いるあなたが、すべてのはじまりであり、そして終わり。
それに結果などというものは、かならずあとからついてくるもの。
しかしそれがどんな結果であれ、それが私の人生なら、それでいい。

「これが私の人生」と実感できれば、それでいい。
あるいはそれ以上に、私たちは、何を望むことができるというのか。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●人のやさしさ

 人は、他人のやさしさに触れて、善人になるものか。
 無私の愛ともいう。無条件の愛ともいう。
 人を許し、人に許される。そこは、損得のない世界。

 もともと生きることに、損も得も、あるはずがない。
 時の流れは、みな、平等。つかの間の、このかぎりある
 人生の中で、何を得だといい、何を損だというのか。

 何もよいことのない人生だったけれど、今まで健康で、
 家族みんな、仲よく暮らせたこと。それにまさる幸福が、
 いったい、どこにあるというのだろうか。

 願わくば、この健康が、今年1年もつづかんことを。
 願わくば、この平和が、今年1年もつづかんことを。
 願わくば、この心のぬくもりが、今年1年もつづかんことを。

 そう願いながら、ゆっくりと、しかし慎重に、足を一歩、
前に踏み出す。今年も始まった。その下は、薄い氷のようなものだが、
みんなで力をあわせれば、何とかなる。渡って歩ける。

 人の悪口を言うのは、もうやめよう。人をねたむのも、もうやめよう。
 私が進むべき道は、まっすぐ前だけを見て、まっすぐ前に進むこと。
 心、豊かに、心をほがらかに、まっすぐ前に進むこと。

 それが新しき年、2007年の、私の抱負。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1742)

●キレる子ども(読者の方より)

++++++++++++++++++++

キレる子どもについて、読者の方より
コメントが、掲示板のほうに、届けられました。

それをそのまま、紹介させていただきます。

コメント、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++

今回、はやし先生のメルマガに切れる子どもについてのお話が出ましたので、その事に関し
て、少し書かせて頂きたいと思いました。

一口に切れる子どもと言っても原因は1つではないと思います。勿論、そういう意味でメルマガ
を書いたのではないかもしれませんし、切れる子の一因として書かれたのかもしれませんが、
そういう風に読み取れる部分がなかったので、付け加えさせて頂きたいと思います。

また、はやし先生の書かれている砂糖が原因説は、実際うちの息子がそうで、息子に関しては
砂糖を断ってから、癇癪などの数はぐっと減りました。砂糖に関する詳しい説明は知りません
でしたが、色々試すうちに出た結論です。

しかし主人の義姉などはそんな話は馬鹿げていると鼻で笑っていて、実は英語で書かれた説
明があったら欲しいと思っています。もしありましたら教えて頂きたいと思います。

私は家の息子に関してのみしか書けませんが、高機能自閉症やアスペルガー症候群(AS)で
癇癪になる場合、うちの息子もそうなのですが、その理由はかなり明確です。

私自身もその理由が始めからわかっていたわけではなく、彼が小一の終わり頃にインターネッ
トの検索で見つけて症状が似ていたので、今も確定診断は受けていませんが、ほぼそうだと思
っています。

自閉症という日本語訳がおかしいので、ひきこもりのようなイメージを持つ方も多いのですが、
実際には人がとても恋しい子どもです。しかしそれに必要な社会性が育っていません。育って
いないというか、全く別の物の捉え方をするのです。

そういう意味では定型の人から見たら異星人と言ってもいいくらいです。北欧の方では同じ発
達障害の子ども達を集めた学校に入れる場所もあると聞きました。それは感じ方が同じ方が
摩擦が少ないからだと思います。

癇癪の理由が明確であるとは言え、癇癪が起こってしまうとそれを止める事はかなり難しく、は
やし先生の書かれているような症状で切れてしまいます。

しかし、物を壊す、人に危害を加えるのは絶対に許してはいけない行為です。それは教師に対
しても同じです。癇癪の最中に解決しようとしても実際にはその言葉が引き金になって癇癪が
ひどくなる場合もあります。

一番良いのは癇癪が静まるまでは別の場所(壊す物や自傷行為の出来ない場所、外などでも
良い)で、癇癪のスイッチがオフになるまでいてもらう事です。そして話は気持が落ち着いてか
ら聞くようにします。

言っても駄目と思われるかもしれませんが、息子は小3の時ゲームでずるしたと言われて切れ
て、友達の顔に大きな傷を与えまし。その時、ガイダンスの先生にも呼ばれ、アシスタント・プリ
ンシパルにも呼ばれ、暴力や傷害は禁止されているから、怒ってもそのような場合は退学にな
ると説明されました。それ以来切れても学校では抑えて暴力はしません。(息子は自分の気持
を表現出来ないので友達に言われた事でレッテルを貼られたような気持ちになるようです)

数年前ですが、アスペルガーと警視庁で、犯行後に診断された子で、高速バスでバスジャック
をして塾講師を殺した子がいました。そして長崎で4歳の子を誘拐して、鋏で下腹部を傷つけ、
泣かれたからと駐車場から突き落とした子がいました。

後者の方は学校で成績が良いという以外の情報はありませんが、前者の方は母親が看護師
で、癇癪がひどいので何度も精神科に入院させており、子どもはそれを恨みに思っていたとい
うことです。精神科でも正しい診断はなされなかったのです。親が一番気が付くべき位置にい
ますが、実際現状では気づかない場合も多いのではないでしょうか。それは普通の切れる子と
同じに考えると不公平だと思います。

ASの場合、原因がはっきりわかるので、子どもが冷静になったら話しを聞くと、気持の整理が
出来ていればその理由を話してくれます。ASのお子さんは、突然の変化に対応するのが大変
に難しいのです。だから毎日同じパターンで進めばいいのですが、運動会、公園で大勢と一緒
に遊ぶ場合も説明がなければ、どう動いていいかもわからず、いつも不安で一杯なのです。

普通の子が気にもせずに適当に出来てしまう事が適当に出来ません。勉強を自分の力でやり
たいと思っていたのに突然許可なしに手伝われても癇癪になったりします。彼に関しては全て
「今手伝ってもいい?」などと、疑問形で聞かなければなりません。

時間に関しても「ご飯は何時だからその時には呼ぶからね。でも数分ずれる事もあるからぴっ
たりじゃないからね」と話し、言葉を文字通り受け取るので、「This report is killing me」と学校の
友達が言った、嘘つきだ、と帰りの車で泣いて怒ったりもします。

そしてSpectrumというだけあって症状は一律ではありません。1から100の症状のどの部分が
現れるかは人によって違います。ただ共通して言えるのは、他人の気持を察したり、共感する
気持ちを持つのが非常に困難で、しかし自分の気持ちには非常に敏感。言葉のニュアンスを
つかむ事が苦手で言葉通りに受け取る傾向があります。パターンが崩れたりすると癇癪になっ
たりもします。

長くなるのでこれ以上書きませんが、子どもは一人ひとり違います。性格も違います。ASだけ
でなく、もっと個性という意味でも大きな意味で子どもの心を捉えていきたいと、私も日々勉強
中です。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 キレ
る子ども 切れる子供 かんしゃく 癇癪 癇癪発作)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

【一口アドバイス】

●子育ては工夫

 子育ては工夫に始まって、工夫に終わる。わかりやすく言えば、知恵比べ。この知恵比べに
よって、子どもは、伸びる。が、それだけではない。何か問題が起きたときも、同じ。家庭環境
は千差万別。状態も状況も、みなちがう。子どもについて言うなら、性格も性質も、みなちがう。
能力もちがう。そんなわけで、「子育ては知恵くらべ」と心得る。この知恵比べが、前向きにでき
る人を、賢い親という。


●内政不干渉

 たとえ親類でも、兄弟でも、内政については、干渉しない。相手が相談をもちかけてきたとき
は別として、こちらからあれこれアドバイスしたり、口を出したりしてはいけない。相手を説教す
るなどということは、タブー中のタブー。ばあいによっては、それだけで、人間関係は、破壊され
る。それぞれの家庭には、人には言うに言われぬ事情というものがある。その事情も知らない
で、つまり自分の頭の中だけで考えてものを言うのは、たいへん危険なことである。


●受験についての話は、タブー

 「受験家族は、病人家族」と心得るべし。受験生をもつ親に向かって、「どこを受験するの?」
「合格したの?」と聞くことは、病人に向かって、「病名は何?」「寿命はどれくらい?」と聞くのと
同じくらい、失礼なこと。相手のほうから話題にするばあいは、べつとして、そうでなければ、そ
れについて触れるのは、タブー。出身校、学歴についても、同じ。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

【BWきょうしつより】

●子どもたちの悩み

+++++++++++

正月の、ある教室。
欠席者も、多い。
そんなわけで、
何となく、雑談会に
なってしまった。

+++++++++++

 Aさん(小5・女児)が、こう聞いた。「今度、(学校の)クラブをやめたくなった。そういうときは、
(学校の)先生に何と言えばいい?」と。

 私は、すかさず、こう答えた。

私「正直に、自分の気持ちを話せばいい」
A「正直に言ったら、(学校の)先生は怒る」
私「怒っても、しかたないよ。でも、こういうときは、ウソは言ってはいけない」
A「先生が、怒っても?」
私「そうだよ。人と人の関係は、正直に。それが最善だよ」

A「……」
私「いつか、君だって、この教室(BW)をやめるときがくる。そういうときでもね、ぼくは、正直に
言ってほしい。そのほうが、ぼくは、うれしい。いちばんつらいのはね、ウソを言われることだ。
本当か、ウソかは、すぐわかるものだよ」
A「自分勝手な理由でも、正直に言うの?」
私「そうだよ。それでいい」と。

 ついで、恋愛の話もした。「相手の人が好きになったら、好きと言えばいい。嫌いになったら、
嫌いになったと言えばいい。ほかに好きな人ができたら、ほかに好きな人ができたと言えばい
い。そのとき、相手はそれでキズつくかもしれないけど、ウソはいけない。ウソは、相手を、もっ
と深くキズつけるよ」と。

 それを聞いて、まわりの子どもたちは、みな笑った。「かわいそう〜」「悲劇だ!」と。が、一
度、笑いグセがつくと、止まらない。子どもたちの世界というのは、そういうもの。

 ついで、こんな話になった。

私「いつか、ぼくが介護老人になって、病院へ入ったとする。そのとき、君は、医者になってい
て、ぼくを見たとする。君は、ぼくを見て、きっと、こう言うよ。『あなたは、あの林浩司? 私は、
あなたのおかげで……』」と。

 そこで言葉がつまった。するとすかさず、横にいた、B君(小4男児)が、こう言った。

B「ヤブ医者になってしまった!」と。

 それを聞いて、全員が爆笑した。ゲラゲラと笑った、。私も笑った。大声で笑った。言われたA
さんも、笑った。

 Aさんは、ドクターになりたいと言っている。きっとすばらしいドクターになることだろう。受験生
にありがちな、トゲトゲしさが、まるでない。

 さあ、今年も始まった! がんばろう!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1743)

●母の介護記

+++++++++++++++

母の介護をするようになって、
もう5日目になる。

昨日は、近くのデイ・サービス・センターへ
体験入会に連れていってみた。

みなは、粘土でイノシシを作って
いたが、母だけは、ぬり絵。

ただひとり、ボーッとした様子で
座っていた。

+++++++++++++++

 母の介護をするようになって、もう5日目になる。しかし介護が、こんなにも楽だとは思ってい
なかった。姉から聞いていた話とは、大違い! 初日は、何かと忙しかったが、2日目には、母
は、そのまま私たちの生活の中に溶け込んでしまった。

 もちろん世話はかかる。しかしそれとて、子どもの世話よりは、はるかに楽。

 で、昨日は、デイ・サービスの体験をさせるため、近くのセンターへ連れていってみた。ひとり
で家の中にポツンと置いておくのは、よくない。母は、もともと社交的な女性である。元気なとき
は、ほとんど毎日、クラブだの何なのと、出歩いていた。

 半時間ほどしてから、様子を見るために、ワイフと2人で、センターまで、でかけてみた。ほか
の老人たちはみな、粘土細工をしていたが、母だけは、ぬり絵をしていた。しかし鉛筆をもつで
もなく、ただぼんやりとした。「こんなバカなことができるか」といった、雰囲気だった。

 母は、最近まで、気丈夫だった。もう少し若いころは、気が強く、プライドも高かった。近所で
は、「お姫様」と呼ばれていた時期もある。

 母の気持ちがよくわかった。その前の夜、ワイフに、ふとこう漏らしたという。「私は、ここで死
ぬのかね?」と。母は、母なりに、何かを覚悟したらしい。

 で、そのあと、つまり、センターを出たあと、私たちは近くのDIYショップへ出かけていき、いろ
いろな材料を買い込んできた。手すりを作るためである。私の家へ来るまで、歩行練習をほと
んどしていなかったらしい。

 介護用品の中には、既製の手すりもあるが、サイズが合わない。豪華なのはよいが、日本の
住宅には、合わない。手すりも、老人の特性に合わせて、きめこまかく作るのがよい。たとえば
私の母のばあいは、腕を押す力は弱いが、腕を引く力は強い。だから手すりも、やや高い位置
につけてやると、自分で起きあがることができる。

 その母は、予定より、1時間も早く帰ってきた。初日ということもあって、疲れてしまったらし
い。私はできたばかりの手すりを母に見せた。「これで歩く練習をするといい」「歩けるようにな
ったら、海を見に連れていってやるから」と。母は、手すりを、じっと見ていた。

 ところで、この10年で、母は大きく変わった。10年前には、私に向かってでさえ、平気で、怒
鳴りつけていた。気が強いというか、負けず嫌い。「子どもが親のめんどうをみるのは、あたり
まえ」というような考え方をしていた。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」
が、母の口ぐせだった。

 その母が、昨日、こんなことを言った。よごれたおむつを替え、おしりを拭いてやっていたとき
のこと。私が、「お前は、ぼくが子どものころ、ぼくのおむつを替えてくれたからな」と言うと、「当
たり前のことをしただけや」と。

 母の口から、そんな言葉が出てくるとは、夢にも思わなかった。「親として、当然のことをした
まで」と。10年前の母なら、ぜったいにそんなことを言わなかっただろう。

 で、その夜のこと。定時のおむつ替えのために母の部屋に入ると、母は、ひとりで、黙々と、
歩行訓練をしていた。私が作った手すりに手をかけながら、右へ足を運んだり、左へ足を運ん
だりしていた。

 「母ちゃん、ちゃんと、歩けるようになったじゃないか!」と声をかけると、母は、だまってそれ
にうなずいた。

 「練習すれば、もっと歩けるようになる」「歩けるようになったら、海を見に行こう」と。

 そこへワイフもやってきて、母が手すりの片方の端に手が届くたびに、パチパチと手を叩いて
みせた。私も叩いた。

 「介護」という名前にだまされてはいけない。「介護」というと、「一方的な世話」という意味で終
わってしまう。が、それではいけない。

母は、そこにいる。1人の人間として、そこにいる。この私に何かを教えるために、そこにいる。
それが何であるかは、まだ、私にはわからない。わからないが、母は、この私に何かを教える
ために、そこにいる。

90歳をすぎても、なおかつ、まだ生きたいという、ものすごい情念。その情念は、いったい、母
のどこから、どのようにして生まれるてくるのか。私は母のうしろ姿を見ながら、しばらくそれを
考えていた。(つづく)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●キレる子ども(補足)
 
++++++++++++++++++

少し前、キレる子どもについて、
掲示板のほうに、書き込みがあった。

たいへん貴重な意見で、参考になった。

私なりの意見もまじえながら、
もう一度、いただいた意見を、
考えなおしてみたい。

+++++++++++++++++++

 少し前、キレる子どもについて、ある母親から、掲示板のほうに、書き込みがあった。たいへ
ん貴重な意見で。参考になった。私なりの意見もまじえながら、もう一度、いただいた意見を、
ここで考えなおしてみたい。

 まず、書き込みの記事を、そのままここに紹介する。

+++++++++++++++++++

今回、はやし先生のメルマガに切れる子どもについてのお話が出ましたので、その事に関し
て、少し書かせて頂きたいと思いました。

一口に切れる子どもと言っても原因は1つではないと思います。勿論、そういう意味でメルマガ
を書いたのではないかもしれませんし、切れる子の一因として書かれたのかもしれませんが、
そういう風に読み取れる部分がなかったので、付け加えさせて頂きたいと思います。

また、はやし先生の書かれている砂糖が原因説は、実際うちの息子がそうで、息子に関しては
砂糖を断ってから、癇癪などの数はぐっと減りました。砂糖に関する詳しい説明は知りません
でしたが、色々試すうちに出た結論です。

しかし主人の義姉などはそんな話は馬鹿げていると鼻で笑っていて、実は英語で書かれた説
明があったら欲しいと思っています。もしありましたら教えて頂きたいと思います。

私は家の息子に関してのみしか書けませんが、高機能自閉症やアスペルガー症候群(AS)で
癇癪になる場合、うちの息子もそうなのですが、その理由はかなり明確です。

私自身もその理由が始めからわかっていたわけではなく、彼が小一の終わり頃にインターネッ
トの検索で見つけて症状が似ていたので、今も確定診断は受けていませんが、ほぼそうだと思
っています。

自閉症という日本語訳がおかしいので、ひきこもりのようなイメージを持つ方も多いのですが、
実際には人がとても恋しい子どもです。しかしそれに必要な社会性が育っていません。育って
いないというか、全く別の物の捉え方をするのです。

そういう意味では定型の人から見たら異星人と言ってもいいくらいです。北欧の方では同じ発
達障害の子ども達を集めた学校に入れる場所もあると聞きました。それは感じ方が同じ方で、
摩擦が少ないからだと思います。

癇癪の理由が明確であるとは言え、癇癪が起こってしまうとそれを止める事はかなり難しく、は
やし先生の書かれているような症状で切れてしまいます。

しかし、物を壊す、人に危害を加えるのは絶対に許してはいけない行為です。それは教師に対
しても同じです。癇癪の最中に解決しようとしても実際にはその言葉が引き金になって癇癪が
ひどくなる場合もあります。

一番良いのは癇癪が静まるまでは別の場所(壊す物や自傷行為の出来ない場所、外などでも
良い)で、癇癪のスイッチがオフになるまでいてもらう事です。そして話は気持が落ち着いてか
ら聞くようにします。

言っても駄目と思われるかもしれませんが、息子は小3の時ゲームでずるしたと言われて切れ
て、友達の顔に大きな傷を与えまし。その時、ガイダンスの先生にも呼ばれ、アシスタント・プリ
ンシパルにも呼ばれ、暴力や傷害は禁止されているから、怒ってもそのような場合は退学にな
ると説明されました。それ以来切れても学校では抑えて暴力はしません。(息子は自分の気持
を表現出来ないので友達に言われた事でレッテルを貼られたような気持ちになるようです)

数年前ですが、アスペルガーと警視庁で、犯行後に診断された子で、高速バスでバスジャック
をして塾講師を殺した子がいました。そして長崎で4歳の子を誘拐して、鋏で下腹部を傷つけ、
泣かれたからと駐車場から突き落とした子がいました。

後者の方は学校で成績が良いという以外の情報はありませんが、前者の方は母親が看護師
で、癇癪がひどいので何度も精神科に入院させており、子どもはそれを恨みに思っていたとい
うことです。精神科でも正しい診断はなされなかったのです。親が一番気が付くべき位置にい
ますが、実際現状では気づかない場合も多いのではないでしょうか。それは普通の切れる子と
同じに考えると不公平だと思います。

ASの場合、原因がはっきりわかるので、子どもが冷静になったら話しを聞くと、気持の整理が
出来ていればその理由を話してくれます。ASのお子さんは、突然の変化に対応するのが大変
に難しいのです。だから毎日同じパターンで進めばいいのですが、運動会、公園で大勢と一緒
に遊ぶ場合も説明がなければ、どう動いていいかもわからず、いつも不安で一杯なのです。

普通の子が気にもせずに適当に出来てしまう事が適当に出来ません。勉強を自分の力でやり
たいと思っていたのに突然許可なしに手伝われても癇癪になったりします。彼に関しては全て
「今手伝ってもいい?」などと、疑問形で聞かなければなりません。

時間に関しても「ご飯は何時だからその時には呼ぶからね。でも数分ずれる事もあるからぴっ
たりじゃないからね」と話し、言葉を文字通り受け取るので、「This report is killing me」と学校の
友達が言った、嘘つきだ、と帰りの車で泣いて怒ったりもします。

そしてSpectrumというだけあって症状は一律ではありません。1から100の症状のどの部分が
現れるかは人によって違います。ただ共通して言えるのは、他人の気持を察したり、共感する
気持ちを持つのが非常に困難で、しかし自分の気持ちには非常に敏感。言葉のニュアンスを
つかむ事が苦手で言葉通りに受け取る傾向があります。パターンが崩れたりすると癇癪になっ
たりもします。

長くなるのでこれ以上書きませんが、子どもは一人ひとり違います。性格も違います。ASだけ
でなく、もっと個性という意味でも大きな意味で子どもの心を捉えていきたいと、私も日々勉強
中です。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 キレ
る子ども 切れる子供 かんしゃく 癇癪 癇癪発作 アスペルガー)

++++++++++++++++++++

 以前、アスペルガー障害について書いた
ことがある。

 その原稿を、もう一度、ここに掲載する。

+++++++++++++++++++++

【アスペルガー障害】

++++++++++++++++++++

症状から、明らかに「アスペルガー障害」と
思われる子どもについての相談があった。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、GN先生へ】

GN先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。相談のあった子どもを、以下、T君(男児)として
おきます。

 私はドクターではありませんので、子どもを診断することはできませんが、症状からす
ると、T君は、アスペルガー障害(アスペルガー症候群)と、活発型自閉症の複合したタ
イプと考えてよいのではないでしょうか。それが基本にあって、不適切な家庭環境と指導
で、症状がこじれてしまっている。私は、そう判断しました。

 以下、アスペルガーついて、いくつかの文献から、資料をあげてみます。

+++++++++++++

●文献より

【臨床心理学・稲富正治・日本文芸社】

 自閉性障害の中でも、言葉や、記憶の発達に遅れがないケースを、「アスペルガー障害」
と呼ぶ。

 対人関係の障害と興味や活動が限定されているという点が、特徴である。

 高機能自閉症とともに、高機能広汎性発達障害に含まれる。

 圧倒的に男児に多く、知能は平均以上であるものの、コミュニケーションがうまく取れ
なかったり、不器用であるため、孤立しやすくなる。

 計算や文字、地図など限定されたものに対して、異常なほどの関心を示し、その中で独
創性を発揮する人もいる。が、自分が守っている範囲に、他人が侵入してきたり、乱され
たりすることに対して、著しく、攻撃的になる。

 原因は、中枢神経の障害であると言われているが、まだ解明されたわけではない。遺伝
の要素も強く、パーソナリティ障害や情緒障害と診断されるケースもあるため、診断には
最新の注意が必要。

 最近では、対人関係のトラブルをどのように解決するかを意識的にトレーニングする、
行動療法などの治療法がある。


【発達心理学・山下富美代・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、言語発達に遅れがみられないほか、知能も高い水準を維持してい
るといわれる。しかし自閉症と同様に、相互的な対人関係の障害がみられること、ある特
定のものに対する関心の程度が高すぎることなどが特徴である。

 また自閉症とともに、男の子に多い障害でもあり、医学的な治癒は難しいとされている。

 特徴としては、(1)正常な対人関係をもつことは困難、(2)特定のものに対する、こだわり、
興味の偏(かたよ)りがみられる。(3)言語障害はみられない。


【心理学用語・渋谷昌三・かんき出版】

 ……ウィングは、自閉症には、3つの特徴があると説明している。

(1)社会性の問題

 自分の体験と他人の体験が重なりあわない。(他人がさっと顔色を変え、怒った表情をすれ
ば、自分が悪いことをその人に言ったのではないかと思うが、自閉症の人は、こうした他人の
感情を推し量るのが、非常に苦手。)

(2)コミュニケーションの問題

 言葉の遅れから、双方のコミュニケーションが、うまくとれない。(声の大きさや、イントネーシ
ョンの調整が苦手、自分の意見を言うとき、どのように言うべきかを迷う。)

(3)想像力の遅れ

 1つの対象に、異常なほど興味を示す。特定の儀式にこだわる。

 これらの特徴のうち、コミュニケーションの障害が、非常に軽いものを、「アスペルガー症候
群」と呼ぶ。軽い遅れというのは、冗談が通じにくい、比喩を使った表現が理解しにくいことをい
う。

 すなわち、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが目立たず、知的には正常だが、生
まれつき社会性の障害と、こだわり行動をもっている自閉症を指す。


【臨床心理学・松原達哉・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、乳児期後半から特徴が出始め、6〜7歳に顕著になる。ほとんど
男児のみにみられる障害である。

 言語的な発達には遅滞はないが、言葉は単調で、抑揚がないという特徴がある。言語や
容貌に子どもらしさがなく、コミュニケーションがとれず、集団の中では孤立することが
多い。

 特定の対象、数字・文字・地図・貨幣などに興味を示し、独創性もあり、知能は平均以
上と推定される。しかし自己の領域を侵されると、パニックを起こし、攻撃的になる。ま
た、多くの全体的な知能は正常だが、著しく、不器用であることが多い。

 青年期から成人期へ、症状が持続する傾向が強いが、統合失調症(精神分裂病)の診断
基準は満たさないので、成人後も、精神分裂病にはならないといわれている。

 治療法は、その子どもの特性を理解し、それに合った、治療・教育をすれば、じゅうぶ
ん社会に適応できるようになる。大切なことは、病態に対する周辺の理解であり、治療に
おいても、社会福祉的な領域が重要になる。

 ……アスペルガー症状は、自閉症と類似しており、自閉症の軽度の例にもみえるため、
それぞれの診断は困難である。

症状の例として、本人のやっていることを中断させると、突然、怒り出すなどがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アスペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガー症)

++++++++++++++++ 

●親自身の問題

 こうした事例で、まず注意しなくてはいけないのは、親自身が、すべてを話しているか
どうかということです。つまりほとんどの親は、自分に都合の悪いこと、たとえば不適切
な対処法で、子どもの症状を、かえってこじらせてしまったようなことについては、話し
ません。

 無意識のうちに、こじらせてしまうというケースもありますが……。

 T君について言えば、乳幼児期から多動性があったということですが、この段階で、母
親が、かなりきびしく叱ったり、怒ったり、あるいは体罰としての暴力を振るったことも、
じゅうぶん、考えられます。

 T君にみられる、一連の不安症状、さらには、基本的な不信関係は、そういうところか
ら発生したと考えられます。母親からの報告内容にしても、まるで他人ごとのような観察
記録といった感じで、私はそれを読ませてもらったとき、「?」と思いました。あたかも、
「うちの子は、生まれつきそうで、それは、私の責任ではない」と言わんばかりの内容で
すね。

 で、私の経験を話します。

●私の経験より

【U君(小3児)のケース】

 U君を最初に預かったのは、まだ、「アスペルガー症候群」という言葉が、ほとんど知られてい
ないころでした。1990年代の中ごろです。(1944年に、オーストリアの小児科医のアスペル
ガーが、その名前の由来とされていますが、日本でこの名称が使われ始めたのは、90年代に
入ってからです。)

 最初、自閉症かなと思いましたが、知的能力の遅れはなく、言語障害も、みられません
でした。が、いくつかのきわだった特徴がみられました。

(1)ほかの子どもと仲間になれない

 そのあと、U君が小学校を卒業するまで、私が週2回指導しましたが、最後の最後まで、
結局は、友だちができませんでした。いつも集団から1歩、退いているといった感じで、
軽い回避性障害もありました。集団の中へ入ると、心身が緊張状態になってしまうからで
す。

(2)ずば抜けた算数の力

 計算力はもちろん、算数全般について、ずば抜けた能力を示しました。知的能力は、平
均児より高かったのですが、最後まで、乱筆には、悩まされました。文字を書かせても、
メチャメチャでした。こうした不器用さは、アスペルガー障害の子どもに、共通していま
す。こまかい作業が苦手で、それをさせると、混乱状態から、突然、キレた状態になるこ
ともあります。

(3)極端な自己閉鎖性

 U君のばあいは、まちがいを指摘しただけで、突然、キレて、激怒することもありまし
た。(軽いばあいは、顔をひきつらせて、大粒の涙だけを流す、など。)たとえば計算問題など
で、まちがいを見つけ、「やりなおしなさい」と指示しただけで、キレてしまう、など。

(キレないときもありましたが、あとでノートを見ると、エンピツで、きわめて乱暴に、
それを塗りつぶしてあったりしました。)

 こうした特徴を総合すると、U君には、心の持続的な緊張感、特別なものへのこだわり、
自己閉鎖性があったことになります。

 幸いなことに、U君のケースでは、母親が、たいへん穏やかで、心のやさしい人でした。
ですからそれ以上、心がゆがむということは、U君のばあいは、ありませんでした。私は、
当時は、「U君は、ほかの子どもとはちがう」と判断し、U君はU君として、指導しました。

●治療は考えない

 こういうケースで重要なのは、アスペルガー症候群にかぎらず、子どもの心の問題に関
することは、「治そう」とか、「直そう」と思わないことです。

 「あるがままを認め」、「現在の状態を、今より悪くしないことだけを考えながら」、「半年、ある
いは1年単位で、様子をみる」です。

 で、相談をいただきましたT君にケースですが、全体に、周囲の人たちが、「治そう」とか、「直
そう」とか、そういう視点でしかT君をみていないのが、気になります。「少しよくなれば、すぐ無
理をする」。その結果、症状を再発させたり、悪化させたりしている。あとは、その繰りかえし。
そんな感じがします。

 U君のケースのほか、兄と弟でアスペルガー障害のケースなど、「アスペルガー」という言葉
がポピュラーになってから、(2000年以後ですが……)、私は、4例ほど、子どもを指導してき
ました。

 (最近は、体力の限界を感ずることが多く、指導を断るケースが、多くなりました。)

 その結果ですが、アスペルガー障害そのものの(治癒)は、たいへんむずかしいという
ことです。そのかわり、小学3、4年生ごろから、自己意識が急速に育ってきますから、
それを利用し、子ども自らに自己管理させることで、見た目には、症状を落ち着かせると
いうことはできます。

 子ども自身が、自分で自分を管理できるように、指導していくわけです。

 しかしこれも、1年単位の根気と、努力が必要です。とくに指導する側は、その生意気
な態度のため、カッとなることもあります。たとえばU君のばあいでも、私がまちがいを
指摘しただけで、私に向かってものを投げつけてきたことがあります。あるいは、ぞんざ
いな態度で、「ウルセー」と、言い返してきたこともあります。

 そういうとき、ふと、その子どもが、アスペルガー障害であることを忘れ、「何だ、その態度
は!」と叱ってしまうこともありました。「根気が必要だ」というのは、そういう意味です。

 先生からいただいた報告の中に、担任の教師が、かなり乱暴な指導をしたという記録が
書いてありますが、それもその一例と考えてよいのではないでしょうか。記録だけを読む
と、担任の教師が悪いように思われますが、このタイプの子どもの指導のむずかしさは、
ここにあります。

子どもがキレた状態になったとき、きわめて生意気な様子をしてみせるからです。ふつ
うの態度ではありません。おとなを、なめ切ったような態度です。

●親側の問題

 で、先にも書きましたが、現在、T君と母親の関係についても、考えなければなりませ
ん。親というのは、こういうケースでは、自分に都合の悪いことは、話しません。そうい
う母親がよく使う言葉が、先にも書きましたが、「生まれつき」という言葉です。

 「うちの子は、生まれつき、こうです」と。

 子どもの症状を悪化させながら、その意識も、自覚もない。もっとも、だからといって、
親を責めてもいけません。親は親で、そのときどきにおいて、懸命に子育てをしているか
らです。懸命にしている中で、客観的に自分を見る目を失ってしまう。よい例が、不登校
児です。

 子どもが「学校へ行きたくない」などとでも言おうなら、その時点で、たいていの親は
パニック状態になり、子どもを、はげしく叱ったり、暴力的に学校へ行かせようとします。
この無理が、症状を悪化させてしまいます。

 たった一度の一撃でも、子どもの心が大きくゆがむということは、珍しくありません。

 で、その時点で、親が冷静になり、「そうね。どうして行きたくないのかな? 気分が悪けれ
ば、無理をしなくていいのよ」と親が言ってやれば、不登校は不登校でも、それほど長期化しな
くてすんだかもしれません。そういうケースも、私は、やはり何十例と経験してきました。

●年単位の観察を

 先生からいただいた報告書を読むかぎり、親も、担任の教師も、みな、少しせっかちす
ぎるのではないかと思います。先にも書きましたが、この問題だけは、1年単位、2年単
位で、症状の推移をみていかなければなりません。

 「先月より今月はよくなった」ということは、本来、ありえないのです。ですから週単
位、月単位の変化を記録しても、意味はありません。またそうした変化に一喜一憂したと
ころで、これまた意味がありません。もう少し、長いスパンで、ものを考える必要があり
ます。

 簡単に言えば、現在のT君を、あるがままに認め、そういう子どもであるということに
納得し、(もっとわかりやすく言えば、あきらめて)、対処するしかありません。T君は、
給食におおきなわだかまりをもっているようですが、そういう子どもと、先に認めてしま
うのです。

 それを何とか、食べさせようと、みなが無理をする。それが症状をして、一進一退の状
態にしてしまう。あるいはときに、もとの木阿弥にしてしまう。

 ……といっても、年齢的に、小4ということですから、症状は、すでにこじれにこじれ
てしまっていると考えられます。本来なら、乳幼児期にそれに気づき、その時点で、親が
それに納得し、指導を開始するのが望ましいのですが、報告書を読むかぎり、そういった
記録がありません。

 ご指摘のように、T君の親は、学校側の指導法ばかりを問題にしているようですね。し
かし、これでは、いけない。本来なら、専門のドクターに、しっかりとした診断名をくだ
してもらい、そうであると親自身が納得しなければなりません。

 で、指導する側の私たちとしては、「知って、知らぬフリ」をして指導するわけです。私が指導
してきた子どもたちにしても、現在、指導している子どもたちにしても、私は、「知らぬフリ」をし
て、指導してきました。今もそうしています。もちろん私のほうから、診断名をくだすということ
は、絶対に、ありえません。またしてはなりません。

 が、親のほうから、たとえば「アスペルガー」という言葉が出てきたときは、話は別で
す。そのときはそのときで、「アスペルガー」という言葉を前面に出し、指導します。しかしそれ
までは、知らぬフリ、です。

 ただ「そうでない」という判断はくだすことがあります。自閉症の子どもではないかと
心配してきた親に対して、「自閉症ではないと思います」というように、です。そういうことは、し
ばしばあります。

●親の無知

 で、やはり、ここは親に、それをわかってもらうという方法をとるしかありません。し
かしこれも、むずかしいですね。

 最近でも、明らかにADHD児の子ども(小5)がいました。で、それとなく親に聞い
てみたのですが、親は、まったく自分の子どもがそうであることさえ疑っていないのを知
り、がく然としたことがあります。「うちの子は、活発な面はあるが、ふつうだ」と。

 つまり親の無知、無理解をどう克服するかという問題も、生まれてきます。アスペルガ
ー障害であれば、なおさらでしょう。幼児教育の世界でも、この言葉がポピュラーになっ
たのは、ここ5、6年のことですから……。

 以上、私の独断で、T君を判断してしまいましたが、まちがっていることもじゅうぶん、
考えられます。一番よいのは、私自身が、T君を直接観察してみることです。また機会が
あれば、そっと遠くから観察してみてもよいです。ご一考ください。

 あまりよい返事になっていませんが、さらに最近の研究では、環境ホルモンによる脳の
微細障害説を唱える学者もいます。アスペルガー障害にかぎらず、このところ、どこか「?」
な子どもがふえているのは、そのためだ、と。

 あくまでも、参考的意見として、お読みいただければうれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 長々とすみませでした。相談いただいたことをたいへん光栄に思い、感謝しています。
ありがとうございました。


敬具


                                はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アスペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガーの子ども)

+++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 乳児期から幼児期に見られる、かんしゃく発作というのは、一般的には、家庭教育の失敗と
みます。「失敗」というのは、私の言葉ではなく、心理学の用語辞典などに出てくる言葉です。

 一方、「キレる」というのは、瞬間的な精神錯乱状態をいいます。前回、私が書いたのは、そ
れについて、です。

 また、自閉症の子どもや、アスペルガー障害の子どもが、やはり突発的に錯乱状態になるこ
とは、よく知られています。

 そこで重要なのは、同じ「キレる」という症状であっても、その中身は、まったく違うということで
す。「キレるから、アスペルガー」というのは、「熱があるから風邪」というのと同じくらい、まちが
っています。どうか、誤解のないようにお願いします。

 で、高機能広汎性発達障害、つまり自閉症、あるいはアスペルガー障害についてですが、私
が経験したZ君、(彼は、医療機関で、「広汎性発達障害児」と診断された)について、症状を、
記憶をたどりながら、ここに書いてみたいと思います。

(1)良好な人間関係ができない

 そのときZ君は、24歳くらいになっていましたが、友人と呼べる友人は、いませんでした。中
学校を出ると、家事を手伝うようになりましたが、それがかえってまずかったのかもしれませ
ん。

 親が無知、無学、無教養で、子どもの心理というものを、まるで理解しようともしませんでし
た。「気はもちよう」と、あれこれ無理をしたのが、症状をこじらせてしまったようです。

 医療機関で、「発達障害」という名前を告げられたときも、「病気がどんどんと、発達的に進行
していく病気」と、親は考えていたようです。「心の発達段階で障害があった」という意味なので
すが……。

(2)異常なこだわり

 Z君は、音楽のCDを集めていました。小遣いが手に入ると、そのほとんどを、CDの購入に
あてていました。そのため、部屋の中は、CDでびっしりといった状態でした。しかも、それら
が、1ミリの狂いもなく、書庫に納められていたといいます。

 1人、妹がいたのですが、その妹が、こっそりと1、2枚のCDを動かしただけでも、Z君にはそ
れがわかり、そのあと、Z君は、パニック状態になってしまったそうです。そのため「だれも、Zの
CDにはさわることができなかった」(母親の言葉)とのこと。

 ところがある日。何かのことで激怒した父親が、そのCDを、ダンボール箱に詰め替えてしま
ったことがありました。常識では考えられない行為ですが、残念ながら先にも書いたように、父
親には、それを理解するだけの教養がありませんでした。

 直後から、Z君は、精神に異常をきたし、たとえば玄関先で小便をしたり、家の中の紙やカー
テンにライターで火をつけたりするようになったそうです。

(3)変化に対する攻撃性

 Z君の家は、広い大通りに面していて、その前には歩道がありました。ときどき、この歩道
に、車を駐車する人がいました。

 Z君は、それがたいへん気になったようです。車が駐車されるたびに、そのクルマに、マジッ
クで落書きをしたり、ナンバーを、手でひっぱって、ゆがめてしまったそうです。

 で、それを母親が強く叱ったりすると、ときにそのまま家を飛び出してしまい、数時間から半
日あまり、近所をブラブラしていたそうです。母親は「ライターでどこかの家に火をつけては困
る」と、そのたびに、あちこちをさがしました。

 自分の部屋の中のものについてはなおさらで、ペン1本、紙1枚が動いていても、Z君は不機
嫌になったそうです。

 が、それでも思うようにならなかったりすると、突発的に暴れて、テレビを壊したり、ステレオ
セットを投げつけたりしたこともありました。

(4)自傷行為

 1〜2メートルの高いところから、両手を広げたまま、飛び降りたり、走っている車の前で、突
然倒れてみせるなどの行為も目立ちました。

 あるいは意味もなく、前頭を壁にガンガンとぶつけて血を流したこともあります。その瞬間に
なると、Z君は、何をするかわからないといった状態になるのだそうです。

 ただ心のどこかでは一線を引いているようで、そういう行為をしながらも、「死ぬ」というところ
までは考えていなかったようです。

 で、このZ君のケースで悲劇的なことは、先にも書いたように、両親に、それを理解するだけ
の知性がなかったことです。何度か私は、インターネット上から拾った記事をプリントアウトし
て、両親に渡したことがあります。が、両親は、それに目を通すこともしませんでした。

 両親は、Z君の症状に、一方的におびえるだけ。私のところに相談があったときも、Z君を預
ける施設がないかというものでした。「とても、うちでは、めんどうをみきれないから」と。Z君に
対する愛情そのものが、すでに消えてしまっていたようです。そんな印象をもちました。そうそ
う、こんなことも言いました。「うちに置いておくと、恥ずかしいから、先生のところで預かってく
れないか」と。

 つまりこうした無知と無理解が、Z君の症状を、より悪化させたと考えられます。もし両親に、
その知識があり、初期の段階で適切に対処していれば、症状はもっと軽くてすんだはずです。

 父親がCDをダンボール箱につめるという事件が起きたときも、私が父親に、「それはまずか
った」と言うと、父親は、平然とこう答えました。

 「CDといっても、聞くのは、せいぜい、100枚くらい。ほかのは飾ってあるだけだから、私がし
まって、どうして悪い!」と。

 こうして考えると、広汎性発達障害にかぎらず、子どもの障害は、子どもの問題というより
は、親の問題ということになります。少なくとも、私は、いつもそう考えて、子どもを指導していま
した。

 以上ですが、本当にたいへん参考になる意見をいただき、感謝しています。より多くの方に、
参考にしてもらえると思います。ありがとうございました。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 広汎
性発達障害 アスペルガー 自閉症)

++++++++++++++++

ついでながら、キレる子どもの問題
について書いた原稿を、ここに再掲載
しておきます。

キレる子どもと、広汎性発達障害の
子どもとは、まったく別の視点から
考えるのが正しいようです。

++++++++++++++++

【特集・キレる子ども】

●キレる子ども 

++++++++++++++++++

キレる子どもについては、たびたび、
取りあげてきた。

その「キレる」という行為だが、通常の
「激怒」とは、いくつかの点で、異なる。

++++++++++++++++++

 子どもでも怒る。激怒することはある。しかし「キレる」という行為とは、明確に、区別される。
「キレる」という行為には、つぎのような特徴がある。

(1)突発的に錯乱状態になる。
(2)暴力行為に、見境がなくなる。
(3)脳の抑制命令が、欠落する。
(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。
(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 順に考えてみる。

(1)突発的に錯乱状態になる。

 キレる子どもの特徴は、突発的に錯乱状態になること。その少し前から、ピリピリとした緊張
状態がつづくことがあるが、暴れ出すときは、突発的である。瞬間、人格の変化を感じたと思っ
たとたん、「コノヤロー」と金切り声をあげて、相手に飛びかかっていったりする。

(2)暴力行為に、見境がなくなる。

 キレる子どものする暴力には、見境がない。ふつうの暴力には、(手かげん)というものがあ
る。しかしキレる子どものする暴力には、その(手かげん)がない。全力をこめて、相手を殴っ
たり、蹴ったりする。

(3)脳の抑制命令が、欠落する。

 言動が、まるでカミソリでものをスパスパと切ったようになる。動きが直線的になり、なめらか
さが消える。脳の抑制命令が欠落したような状態になる。当然、言葉もはげしいものになる。

(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。

 その瞬間、子どもの顔を観察すると、顔色は青ざめ、目つきが別人のように鋭く、冷めたもの
になっているのがわかる。憎しみや怒りを表現しながら相手に殴りかかるというよりは、無表情
のまま。ときに、そのあまりにもすごんだ顔を見て、ゾッとすることさえある。

(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 キレるとき、その理由が、よくわからない。A君(小3男児)は、順番を待って並んでいるとき、
突然、キレて暴れ出した。近くにあった机や椅子を、ギャーッという叫び声とともに、手当たり次
第、足で蹴って倒した。

 B子さん(小5女児)は、私が「こんにちは」と声をかけて肩をたたいたその瞬間、突然、キレ
た。私に向かって、「このヘンタイ野郎!」と言って、私の腹に足蹴りを入れてきた。ものすごい
足蹴りである。私は、その場で、息もできなくなり、しばらくうずくまってしまった。

 C君(小4男児)は、問題を解いているとき、私がそれを手助けしてやろうと声をかけたとた
ん、キレた。「テメエ、ウッセー!」と叫んで、そばにあったワークブックで、私の頭を、つづけざ
まに、狂ったように叩きつづけた。

 こういうケースのばあい、私ができることと言えば、男児のばあいは、抱きかかえ、子どもを
抑えることでしかない。しかし相手が女児のばあいだと、それもできない。両手でまるく、自分
の頭をおおうことでしかない。子どもの世界では、おとなの私のほうが、やり返すなどというの
は、タブー。(当然だが……。)

 こうした子どもを観察してみると、先にも書いたように、脳の抑制命令そのものが、欠落した
ような状態になっていることがわかる。脳の機能そのものが、異常に亢進し、狂ったような状態
になる。

 原因のほとんどは、慢性的なストレス、日常的な緊張感、抑圧感の蓄積と考えてよい。それ
が脳間伝達物質の過剰分泌を促し、瞬間的に脳の機能が異常に亢進するためと考えられる。

 さらにその原因はといえば、脳の微細障害説などもあるが、家庭環境も、大きく作用している
ことは否定できない。

 子どもがこういう症状を示したら、親は、家庭環境を猛省しなければならない。が、こういう子
どもにかぎって、親の前では、むしろ静かでいい子ぶっていることが多い。つまりそのはけ口
を、弱い人や、やさしい人に向ける。

 だからたいていのばあい、私がそれを指摘しても、親は、その深刻さを理解しようとする前
に、子どもを叱ったり、さらに子どもを抑えつけようとしたりする。これがますます症状をこじら
る。あとは、この悪循環。最後は、行き着くところまで行く。それまで気がつかない。

 対処法としては、過剰行動児に準ずる。

++++++++++++++++++++++++

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。

つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令
を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう20年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこうだ。

たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に分泌
され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大学の
大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。

リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしま
う。一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カル
シウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消
えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足して
くると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさ
せたりする。

 ここに書いたのはあくまでも1つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を1本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。

体重15キロの子どもに缶ジュースを1本与えるということは、体重60キロのおとなが、同じ缶
ジュースを4本飲むのに等しい。おとなでも4本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボ
ガボになってしまう。もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂
糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうよう
な弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。

その地方ではどこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水
代わりに牛乳を飲んでいた。


Hiroshi Hayashi+++++++++Dec 06+++++++++++はやし浩司

【補足】

++++++++++++

キレる子どもについて、
私の経験から……

++++++++++++

 突発的に、きわめて衝動的に暴力を振るう子どもというのは、たしかにいる。私は、大きく、
つぎの3つのタイプに分けて考えている。

(1)ピリピリ型(いつも神経がピリピリしているタイプ、頭のキレる子どもに多い)
(2)むっつり型(何を考えているかわからないタイプ。ふだんは静かで、穏やか)
(3)ゲーム型(目的もわからないまま、ゲーム感覚で、とんでもないことをする。)

 ピリピリ型というのは、ふだんから、神経が過敏状態になっていて、静かな落ち着きが見られ
ないタイプをいう。頭の回転が速く、その分、学習面で、優秀な成績を示す。ささいなことで、突
発的に衝動的な行動に出る。

【Kさん(小6女児)】

 私が、いつもKさんが座る席でお茶を飲んでいたときのこと。休み時間でのことである。突
然、Kさんがうしろからやってきて、笑い声で、「やあ、先生!」と声をかけてきた。私が、「ああ」
と答えたその瞬間、もっていたバッグで、思いっきり、頭を側面から叩いてきた。

 メガネはふっとび、私は、イスからころげ落ちた。

【Tさん(小5女児)】

 私が別の子ども(小5女児)と、何かのことでふざけて冗談を言いあっていたときのこと。Tさ
んが、私に何かを話しかけてきた。無視したわけではないのだが、そのまま別の子を、笑いあ
っていた、そのとき。もっていた大型のワークブックで、私の頭を上からバシッと叩いてきた。衝
撃で、メガネは下に落ち、鼻の横を1センチほど、切った。

 むっつり型というのは、ふだんは、何を考えているかわからないタイプの子どもをいう。印象
に残っている子どもに、R子(小6)がいた。4年前に書いた原稿だが、それをそのまま紹介す
る。

++++++++++++++++

●不自然さは要注意

 子どもの動作や、言動で、どこか不自然さを感じたら、要注意。反応や歩き方、さらにはしぐ
さなど。「ふつう、子どもなら、こうするだろうな」と思うとき、子どもによっては、そうでない反応
を示すことがある。最近、経験した例をいくつかあげてみる。

【S子の例】

教室へ入ってくるやいなや、突然大声で、「先生、先週、ここにシャープペンシルは落ちていま
せんでしたか!」と。「気がつかなかった」と答えると、大げさなジェスチャでその女の子(小5)
は、あたりをさがし始めた。

しばらくすると、「先生、今日は、筆箱を忘れました」と。そこで私が、「忘れたら忘れたで、最初
からそう言えばいいのに」とたしなめると、さらに大きな声で、「そんなことはありません!」と。
そして授業中も、どうも納得できないというような様子で、ときおり、あたりをさがすマネをしてみ
せる。私が「もういいから、忘れなさい」と言うと、「いえ、たしかにここに置きました!」と。

【A君の例】

A君(小3男児)が、連絡ノートを忘れた。そこでまだ教室に残っていたB君(小三男児)にそれ
を渡して、「まだA君はそのあたりにいるはずだから、急いでもっていってあげて!」と叫んだ。

が、B君はおもむろに腰をあげ、のんびりと自分のものを片づけたあと、ノソノソと歩き出した。
それではまにあわない。そこで私が「いいから、走って!」と促すと、こちらをうらめしそうな顔を
して見るのみ。そしてゆっくりと教室の外に消えた。

【R子の例】

R子(小6)が教室に入ってきたので、いつものように肩をポンとたたいて、「こんにちは」と言っ
たときのこと。何を思ったからR子は、いきなり私の腹に足蹴りをしてきた。「この、ヘンタイ野
郎!」と。ふつうの蹴りではない。R子は空手道場に通っていた。私はしばらく息もできない状
態で、その場にうずくまってしまった。そのときR子の顔を見ると、ぞっとするような冷たい目を
していた。

こうした「ふつうでない様子」を見たら、それを手がかりに、子どもの心の問題をさぐってみる。
何かあるはずである。が、このとき大切なことは、そうした症状だけをみて、子どもを叱ったり、
注意してはいけないということ。何か原因があるはずである。だからそれをさぐる。

たとえばシャープペンシルをさがした女の子は、異常とも言えるような親の過関心で心をゆが
めていた。B君は、いわゆる緩慢行動を示した。精神そのものが萎縮している子どもによく見ら
れる症状である。また私を足蹴りにした女の子は、そのころ両親は離婚、母親には、愛人と再
婚話をしている最中だった、など。

 一方、心がまっすぐ伸びている子どもは、行動や言動が自然である。「すなお」という言い方
のほうがふさわしい。こちらの予想どおりに反応し、そして行動する。心を開いているから、や
さしくしてあげたり、親切にしてあげると、そのやさしさや親切が、スーッと子どもの心にしみて
いくのがわかる。そしてうれしそうにニコニコと笑ったりする。

「おいで」と手を広げてあげると、そのままこちらの胸に飛び込んでくる。そこであなたの子ども
を観察してみてほしい。何人か子どもが集まっているようなところで観察するとわかりやすい。
もしあなたの子どもの行動や言動が自然であればよい。しかしどこか不自然であれば、あなた
の子育てのし方そのものを反省してみる。子どもではない。あなた自身の、だ。
(02−10−20)

++++++++++++++++

 この中に書いたR子については、そのとき受けた暴力がふつうではなかったため、とくに印象
に残っている。へたをすれば内臓が破裂していたかもしれない。それほど強烈な蹴りであっ
た。

 このR子については、そのあと母親とゆっくり話す機会があったので、そのことを報告すると、
母親はこう言った。

 当時R子の両親は離婚を前提とした別居状態であった。父親には愛人がいて、家に帰らない
日も多かったという。母親は「それが原因ではないでしょうか」と言った。

 もう1人印象に残っている子どもに、T君(小3・男児)がいた。

 ある日、子どもたちの解いた問題を順に採点しているときのこと。あと1、2人でT君というとき
になったそのとき、突然、T君が、「ギャーッ」と動物的な声を張りあげて、暴れ出した。

 あまりにも突発的で、制止する間はなかった。近くにあった机をもちあげると、それを、となり
の机に向かって投げた。私はT君にとびかかって、T君を床に押し倒し、上から自分の体重で、
T君を押さえた。

 あとで見たら、T君の解答用紙は、ほとんど白紙だった。

 また3番目のゲーム型についても、印象に残っている子どもに、F君(小4・男児)がいた。つ
ぎの原稿に出てくる、(2)の、(バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども)というの
が、その子どもである。

 この原稿は、「乱暴な子ども」というテーマで書いたもので、話が少し脱線するかもしれない
が、許してほしい。

+++++++++++++++++

●乱暴な子ども

乱暴な子どもといっても、一様ではない。いろいろなタイプがある。かなりおおざっぱな分け方
で、正確ではないが、思いついたままあげてみると……。

(1)家庭不和など、愛情問題が原因で荒れる子ども……いわゆる欲求不満型で、乱暴のし方
が、陰湿で、相手に対して容赦しないのが特徴。先生に叱られても、口をきっと結んだまま、涙
を見せないなど。どこかに心のゆがみを感ずることが多い。自ら乱暴をしながら、相手の心を
確かめるようなこともする。ふつう嫉妬がからむと、乱暴のし方が、陰湿かつ長期化する。

(2)バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども……このタイプの子どもは、ときとし
て、常識をはずれた乱暴をする。たとえば先生のコップに、殺虫剤を入れたり、イスの上に、シ
ャープペンシルを立てたりする、など。(知らないで座ったら、おおけがをする。)相手の子ども
がイスに座ろうとしたとき、さっとイスを引き、相手の子どもにおおけがをさせた子どももいた。
してよいことと、悪いことの判断ができないために、そうなる。もともと遅進傾向がある子ども
に、よく見られる。

(3)小心タイプの子ども……よく観察すると、乱暴される前に、自ら乱暴するという傾向がみら
れる。しかったりすると、おおげさに泣いたり、あやまったりする。ひとりでは乱暴できず、だれ
かの尻馬に乗って、乱暴する。乱暴することを、楽しんでいるような雰囲気になる。どこか小ず
るい感じがするのが特徴。

(4)情緒不安定型の子ども……突発的に、大声を出し、我を忘れて乱暴する。まさにキレる状
態になる。すごんだ目つき、鋭い目つきになるのが特徴。一度興奮状態になると、手がつから
れなくなる。ふだんは、どちらかというと、おとなしく、目立たない。

このタイプの子どもは、その直前に、異様な興奮状態になることが多い。直前といっても、ほん
の瞬間的で、おさえるとしても、そのときしかない。心の緊張感がとれないため、ふだんからど
こかピリピリとした印象を与えることが多い。

(5)乱暴であることが、日常化している子ども……日ごろから、キックやパンチをしながら、遊
んでいる。あいさつがわりに乱暴したりする。そのためほかの子どもには、こわがられ、嫌われ
る。

 乱暴な子どもについて考えてみたが、たいていは複合的に現れるため、どのタイプの子ども
であるかを特定するのはむずかしい。また特定してもあまり意味はない。そのときどきに、「乱
暴は悪いこと」「乱暴してはいけない」ことを、子どもによく言って聞かせるしかない。力でおさえ
ようとしても、たいてい失敗する。とくに突発的に錯乱(さくらん)状態になって暴れる子どものば
あいは、しかっても意味はない。私のばあいは、相手が年少であれば、抱き込むようにしてそ
れをおさえる。しばらくその状態を保つと、やがて静かになる。

【S君、小2のケース】

 ささいなことでキレやすく、一度キレると、手や足のほうが、先に出てくるというタイプ。能力的
には、とくに問題はないが、どこかかたよっている感じはする。算数は得意だが、漢字がまった
く書けない、など。

 そのS君は、学校でも、何かにつけて問題を起こした。突発的に暴れて、イスを友だちに投げ
つけたこともある。あるいはキックをして、友だちの前歯を折ってしまったこともある。ときに自
虐的に、机をひどくたたいて、自分で手にけがをすることもあった。私も何度か、S君がキレる
様子を見たことがあるが、目つきが異常にすごむのがわかった。無表情になり、顔つきそのも
のが変わった。

 そういうS君を、乳幼児のときから、母親は、ひどくしかった。しばしば体罰を加えることもあっ
たという。しかしそのため、しかられることに免疫性ができてしまい、先生がふつうにしかったく
らいでは効果がなかった。そこで先生がさらに語気を荒げて、強くしかると、そのときだけは、
それなりにしおらしく、「ごめん」と言ったりした。

 今、S君のように、原因や理由がわからないまま、突発的に錯乱状態になって暴れる子ども
がふえている。脳の微細障害が原因だとする研究者もいる。「まだ生まれる前に、母親から胎
盤をとおして、胎児の体の中に侵入した微量の化学物質が脳の発達に変化をもたらし、その
人の生涯の性格や行動を決めてしまうのではないか」(福島章氏「子どもの脳が危ない」PHP
新書)と。

じゅうぶん考えなければならない説である。

++++++++++++++++++++

 さらに私も、一度、こんな経験をしている。記録によれば、03年とあるから、もうそれから3年
になる。しかしそのとき受けたキズは、今でも、目の上に、しっかりと残っている。私は、あやうく
失明するところだった。

 そのとき書いた原稿をそのまま紹介する。

++++++++++++++++++++

●メガネ

 このところ朝起きると、どこかモノがかすんで見える。白内障か?、と思ったが、原因は、メガ
ネの汚れだった。もうこのメガネも、買って10年になる。硬質ガラスでできているというが、表
面は、すり傷だらけ。そろそろ買い替えの時期がきたようだ。

 私がメガネをかけるようになったのは、中学1、2年のころではなかったか。周囲にメガネを
かけている人が多く、私のばあい、メガネをかけるのに、それほど抵抗はなかった。以来、40
年以上、メガネをかけている。

 メガネを嫌う人も多いが、もしメガネをかけていなければ、私は、3度、失明していただろうと
思う。1度は、山の中へタラの芽を取りに入ったときのこと。バシッとタラの木が、私のメガネを
たたいた。タラの芽を取ろうと、木を引き寄せたときのことだった。あとで見ると、メガネの上と
下に、大きな切り傷ができていた。

 もう1度は、バイクで運転していたときのこと。S湖のまわりを猛スピードで走っていたら、これ
またバシッと、メガネに何か当たった。見ると、コガネ虫だった。コガネ虫がメガネに当たり、メ
ガネの上で飛び散っていた。

 さらにもう1度は、こんな事件だった。中学2年生のM君と対峙して、数学を教えていたときの
こと。私が目を閉じたまま、うつらうつらと、M君の話を聞いていた。そのときだ。何を考えた
か、M君が、シャープペンシルを、私の顔と机の間に立てた。私はそれを知らず、そのまま頭
を下へ振った。とたん激痛!

 シャープペンシルの先はメガネのおかげで目をそれ、眉間の下に突き刺さった。とたん、大
量の鮮血が顔面に飛び散った。もしそのときメガネをかけていなければ、シャープペンシルの
先は、まともの眼球に突き刺さっていた。そういう位置関係にあった。

 だからメガネに、私は3度、目を守られたことになる。いろいろ不便はあるが、これからもずっ
とかけつづけるつもり。

 そのメガネについての余談だが、私は、いわゆるメガネ族だから、どういうわけか、メガネを
かけている人に親しみを覚える。女性でも、メガネをかけている人のほうに魅力を感ずる。これ
はどういう心理によるものかわからないが、本当の話。

 もう一つ余談だが、あのシャープペンシルをつき立てたM君は、いわゆるお宅族と呼ばれる
子どもで、幼いときからテレビゲームばかりしていた。そのためか、ものの考え方が、どこか現
実離れしていた。恐らくシャープペンシルをつき立てたときも、ゲーム感覚ではなかったか? 
このタイプの子どもは、何かにつけて常識ハズレになりやすい。
(030216)※

++++++++++++++++++

 キレるといっても、内容はさまざま。それに応じて、原因もいろいろ考えられる。で、私のばあ
い、こうした例が、あまりにも多いため、「子どもというのは、そういうもの」という前提で、対処し
ている。

 さらにここに書いた、(ピリピリ型の子ども)にしても、親に報告しても、ほとんど意味がない。
親(とくに母親自身)も、ピリピリした感じの人が多い。私の頭を側面からバッグでたたいてきた
Kさん(小6・女児)にしても、一度、母親にそのことを報告しなければと思いつつ、結局は、そ
の機会がないまま終わってしまった。

 母親に話したら、今度はその母親がキレて、娘のKさんに暴力を振るっていたかもしれない。

 以下、参考までに、今まで書いた原稿のうち、いくつかをここに収録しておく。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【かんしゃく発作】

++++++++++++++++++++++++++

私のHPの掲示板の相談コーナーに、つぎのような相談がありました。
かんしゃく発作が、あまりにもはげしいので、どうしたらよいかというご質問です。
今回は、これについて、考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++++++++

生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、まとめて寝ない子(寝る環境
作りはいろいろと工夫しましたが無理でした)で、起きている時間は抱っこして歩きまわらない
と、グズってばかりの娘でした。

寝る子は育つと言うのに、こんなに寝なくて大丈夫なものかと病院に行ったほどでしたが、至っ
て健康で、人なつっこく男の子顔負けのやんちゃ娘に成長していきました。

好奇心旺盛で、喜怒哀楽がとてもハッキリしていて(嬉しいと興奮しすぎるほど喜ぶし、怒ると
手がつけられないほど泣き暴れます)、活発なので、やんちゃすぎて手はかかりますが、幼い
頃おとなしかった私にしてみたら、すごく張り合いがあって自慢の娘です。

でもやっぱり神経質というか、頑固すぎるところがあり、2歳になってどう扱ったらいいか分から
なくなることが増えました。魔の2歳児というほど、2歳は周りの子もみんな反抗期+何でも自
分で!、という時期なので、ある程度は仕方ないと腹をくくって毎日気長に接していました。

赤ちゃんの頃から手がかかる子だったので、今でも私にベッタリなこともあり、スキンシップは
たっぷり取れているつもりでいるのですが・・・。はやしさんのエッセイで、「わがまま」と「頑固」
の違いなどについて書かれていたを読んで、うちの娘は頑固すぎるのかなぁと思い、相談させ
ていただこうと思いました。

2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。着替えも、ちょっと手を出す
と気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張って全部脱いでしまいます。

もともと好奇心旺盛な子なので、1歳のころから自分でできることなら、何分でもつき合ってあ
げて、危険なことでない限り何にでも挑戦させてあげてきました。でもまだ2歳だからどうがん
ばっても無理なこともいっぱいあります・・・。

三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1週間で自分でこげるように
なり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真ん中でも足を踏ん張って動
かなくなってしまいます。

また、夫に似て、正義感が強く変に真面目なところがあり、公園などでは順番や物の貸し借り
のルールをすごく理解しています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもちゃを「どう
ぞ」と貸してあげられたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重なると、手がつけられ
ないほど暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。

以上に書いたようなことは、2歳児ならみんなあることだとは思うのですが、かんしゃくを起こし
たときの激しさが、ほんとにすごいんです。

今日はおもちゃの貸し借りがうまくできないことが続いて(相手の子が何が何でも自分のおもち
ゃは貸さない!と言ってすぐ泣く子でした)、お友だちも娘もお昼寝の時間になり眠たそうで機
嫌が悪かったので、お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が狂ったように泣き出
しました。

「バイバイ嫌!!」と言って、すごい勢いで走り出して、道路に何度も飛びだそうとするから、阻
止して、落ち着かせようと抱きしめてあげたら余計に泣き叫びました。すごく激しく暴れるので
何度も道路や壁に頭を打って大変でした。

パニックになると「ぎゃーー!!」と泣き叫びながら私から離れて、走って行ってしまいます。室
内など、少々走り回っても大丈夫な場所なら、ある程度落ち着くまで暴れさせてあげて、落ち着
き始めた頃にギューっと抱きしめてあげると少しずつ私に寄り添ってくれて、笑顔を見せてくれ
るます。

が、走り回れない野外だと、私が触れるたびにさらに火がついたように泣き叫んで、いつまで
たっても落ち着いてくれず、親子ともどもどろんこになりながら、1時間近く格闘しなきゃいけな
いことになります。あまりに激しいので、街行く人たちも白い目で見るというのを通り越して、ど
こか病気?にでもなったのかというぐらい怖い物を見るように心配されたりします。

1歳代の頃から、気に入らないことがあるとしょっちゅう道路に寝転がってダダをこねる子だっ
たので、それぐらいのことで人目が気になったりはしないのですが、ここまで激しいと私まで泣
きたくなります。

「どうぞ」ができたことをいくら誉めてあげても、相手が泣いていたりすると自分が悪いと思って
しまい、何度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。気は強いので、自分が今遊
びたいものを我慢して貸してあげたりすることはなく、今遊んでないものをきっちり選んで貸して
あげます。なので我慢が爆発するという感じでもないです。

こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、いつもの太陽みたいな笑顔
を見せてくれます。私にギューっと抱きついて、「お母さん、大好き〜」と言ってくれます。「イヤ
イヤ!」は思いっきり発散させた子の方が後々いい子になるって聞くので、反抗期が激しいの
はいいことなのかもしれませんが、こんな娘の性格を伸び伸びと伸ばしてあげるにはどう接し
ていけばいいのでしょうか?

うまく文章に表せたか分かりませんが、アドバイスいただけたらとても嬉しいです。よろしくお願
いします。

++++++++++++++++++++++++++++++

【YK様へ】

 かんしゃく発作にしては、かなりはげしいようですね。2歳前後であれば、ダダをこねる、がん
こになる、泣き叫ぶ程度で、しばらくすると、静かになるはずですが……。

 私の印象では、脳内で、何らかの仰天現象が起きているように思います。突発的な興奮性
と、その持続性が気になります。こういうケースで最近、よく話題になるのが、セロトニン悪玉説
です。

 脳内伝達物質にセロトニンがあり、それが過剰に分泌されると、子どもは、興奮状態になり、
過剰行動に出ることが知られれています(アメリカのミラー博士ほか)。

 その過剰分泌を引き起こすのが、たとえば、インシュリンの過剰分泌と言われています。つま
りたとえば一時的に、甘味の強い食品(精製された白砂糖の多い食品)を多量に接種すると、
インシュリンが、ドッと、分泌されます。

 血糖値はそれでさがるのですが、そのあともインシュリンが血中に残り、さらに血糖をさげま
す。こうしていわば、子どもが、低血糖の状態になるわけです。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。

まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうき
ん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのまま
の姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回る
なんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。

小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子ども
が、1クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒
ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。

ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授
業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対
する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ
 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。

そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子ど
もを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていた
のがわかる。

ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているとき
は、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児
向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲ
ームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経
験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えら
れる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。

「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や東北
など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」(中
日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学1年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、
精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ
状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係
のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。

具体的には、小学1、2年について、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県で
は40人いるクラスを、2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だと
いう。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の4教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 キレ
る子供 キレる子供 突発的に暴れる子供 暴れる子ども 子供の暴力 暴力行為 衝動的 
衝動性)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●キレる子どもの相談

++++++++++++++++

数年前、キレる子どもについて、
ある母親から、こんな相談が届いて
いる。

そのとき書いた原稿をそのまま
ここに紹介する。

++++++++++++++++

●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、四本
飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリー
ムを1個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。

一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようと
インスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、
必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、
スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」として、20年ほど前に
話題になったことがある。

日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの
子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。
一周間も続けると、子どものによってはウソのように静かに落ち着く。

  話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。
で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨て
る。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事
の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識
のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。

++++++++++++++++++++++++

以前、同じような相談を受けたことがあります。
もっと年齢の大きなお子さんについてのものでしたが……。
それについて、書いた原稿を添付します。
あくまでも参考資料の一つとして、考えてください。

++++++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。
 
娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は5歳半になる年中児で、下に3歳半の妹がいます。

小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。

真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。
 
私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。
 
そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。

心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。

また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。

泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。

その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。
自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはターレスだが、自分を知ることは難しい。
こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中2男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、
ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとそ
の子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼく
を怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものこと
ではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日1人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子
どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない子
はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行って
ほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

+++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学3、4年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も5歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満5歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。

されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃんがえり、欲求不
満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメールによると、かなり
神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配先行型の子育て
なども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎりなく、話が出てき
てしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視すること
によって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」と
いう指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナ
ス型になることもあります。

 私も幼児を35年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。

UYさんのお子さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、症状は
急速に収まってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするように
なるからです。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは
「もっとかっこよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学1年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まっていき
ます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。

それを感じると、今度は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら
……。私のばあいは、教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱った
り、威圧感を与えたり、あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導し
ます。それだけを忘れなければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に
構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学3、4年生になるころには、消えています。ウ
ソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そして、
四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださると
確信しています。もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃ
んの母親(みさえさん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一度、読
まれるといいですよ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【YK様へ(2)】

 食生活がどうなっているのか、私にはわかりませんが、まず試してみるべきことは、(1)食生
活の改善、です。

 ここにも書いたように、MG、CA、Kの多い食生活(自然海産物中心の献立)に切りかえてみ
てください。

 精製された白砂糖を多く含む食品は、避けます。(与えると意識しなくても、今では、ありとあ
らゆる食品に含まれています。幼児のばあい、2歳児でしたら、1日、10グラム前後でじゅうぶ
んです。)

 感情の起伏がはげしく、手にあまるようなら、一度、小児科を訪れてみられてはいかがでしょ
うか。以前とちがい、最近では、すぐれた薬も開発されています。(薬を使うときは、慎重にしま
すが、そのあたりのことは、よくドクターと相談して決めてください。)

 食生活の改善……徹底してするのが、コツです。アイス、ソフト、乳酸飲料などは、避けま
す。徹底してすれば、1、2週間ほどで、効果が現われてきます。

 同じようなケースを、もう一つ、思い出しました。その原稿を添付します。少し古い原稿なの
で、先に書いたことと、内容が少し異なるかもしれませんが、異なっている部分については、先
に書いたほうを、優先してください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【栄養学の分野からの考察】

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。

日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷
事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたこと
がある(九八年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、こ
の分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。

話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱してい
て、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意する
と、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動
性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興
奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなっ
た。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば
自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。こ
の過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの
子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知
っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。

そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・1
2)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる
症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそ
ういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。

この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低
血糖になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切る
ような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝
手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコン
トロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それ
がキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。

体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の
発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた
回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく
言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こし
やすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」八一年(7)号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる
問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている
白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。

私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。
が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビス
ケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状の
ようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態
になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまる
で別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で
見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。

川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与
するだけでなおる」(「マザーリング」八一年(7)号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そ
うでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体
重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲
む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガ
ボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過剰
行動児 セロトニン悪玉説 キレる子供の原因 キレる子どもの原因 切れる子供 原因 キ
レる子ども 原因 原因物質)


【キレる子供・補足】

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった18名の学者が、緊急宣言を行った。
これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであ
った。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではな
く、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応
性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。つまり環
境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。

が、これで驚いていてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の
発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を
引き起こす。

多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の
生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具
体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーン
ピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

(4)教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しか
しながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子ど
もの議論だけが先行している。ただその原因としては、

(1)親の過剰期待、そしてそれに呼応する子どもの過負担。
(2)学歴社会、そしてそれに呼応する受験競争から生まれる子ども側の過負担などが、考えら
れる。こうした過負担がストレッサーとなって、子どもの心を圧迫する。

ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。最近の子どもは、飽食とぜいたくの
中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずかな負担だけで、それを過負担と感
じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させてしまう。親の期待にせよ、学歴社会
にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度は容認されるべきものであり、こうし
た環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできない。これらを整理すると、次のようにな
る。

(1)環境の問題
(2)子どもの耐性の問題。

●終わりに……

以上のように、「キレる子ども」と言っても、その内容や原因はさまざまであり、その分野に応じ
て考える必要がある。またこうした考察をしてのみ、キレる子どもの問題を正面からとらえるこ
とができる。一番危険なのは、キレる子どもを、ただばくぜんと、もっと言えば感傷的にとらえ、
それを論ずることである。こうした問題のとらえ方は、問題の本質を見誤るばかりか、かえって
教育現場を混乱させることになりかねない。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【砂糖は白い麻薬】

++++++++++++++++++

子どもの突発的な凶暴性は、
低血糖によると考えられている。

しかし、だからといって、
甘味料(白砂糖)の多い食品を
子どもに与えろということでは
ない。

誤解のないようにしたい。

+++++++++++++++++

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。

そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養
学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取す
ると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分
泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、4月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発
的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイ
プの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君
は一日、100〜120グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで
私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。

急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることが
ある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」
と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。

U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを
問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。母
親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラム。この量はイ
チゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキー
と声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネ
シウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂
糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落
ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。

と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ
(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けて
も流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせ
ず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味を
おだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水に
よく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。

●こわいジャンク・フード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンク・フードは)疲
労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな
どの原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期
間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。
脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ
い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片
瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。

子どもの食生活を安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの食生活 子供の食生活 ジャンクフード ジャンク・フード 低血糖児 砂糖 白い麻薬)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1744)

●母の介護記(1月13日)

+++++++++++++++

心も、表から見るのと、裏から見るのとでは、
まるでちがう。

心は、いつも、表から見る。それが人生を
楽しく生きるコツ。今日、母は、それを
教えてくれた。

+++++++++++++++

 夕方、犬の散歩から帰って、母の部屋に入る。すると母がいきなり、こう言った。「どこへ行っ
ていた?」「みんな、どこかへ行ってしまったと思って、心配していた」と。

 かなりきつい言い方である。それを聞いて、私は、若いころの母を思い出した。

 思い出しながら、私は、「ごめん、ごめん、悪かった。ハナ(犬)を、散歩に連れていってやって
いたから」と言った。ベッドの下におりていた母を、そのまま立たせた。その母は、手すりにつ
かまりながら、再び、「心配していた……」と、こぼした。

 この4、5日、母のこともあり、ハナを散歩に連れて行くことが少なくなった。ハナはハナで、い
じけ始めていた。声をかけても、小屋から出てこなくなった。そこで今日は、ハナを、遠州浜ま
で、連れていってやった。往復も含めて、1時間半以上も、かかった。

 私は、母のおむつを取りかえながら、「さみしかったのか?」と聞いた。母は何も言わなかっ
た。

 で、そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「わがままが言えるようになっただけ、
私たちになじんできたのね」と。

 そう、心というのは、表から見るのと、裏から見るのとでは、まるでちがう。母は、たしかにき
つい言い方で、私を叱った。そのとき、もし私が、「叱られた」と思えば、私は、そのまま不愉快
になる。「やはり、私の母は、きつい人」ということになる。

 しかしそのとき、「母は心細かったのだ」と思えば、母に対するものの見方が、180度変わ
る。「さみしかったから、それがきつい言葉になったのだ」と。母の立場で考えれば、当然のこと
かもしれない。思うように、歩けない。フトンがずれても、自分でなおすことさえできない。

 またきつい言い方をしたことについても、それを(わがまま)ととらえれば、腹も立つ。しかしワ
イフが言うように、「それだけ自分たちになじんできた」と考えれば、腹も立たない。どうせ相手
は、老人である。まともに相手にするほうが、おかしい。言いたいように、言わせておけばよ
い。やりたいように、やらせておけばよい。

私「だからア、何か用事だったら、このボタンを押しなよ。晃子(ワイフ)が来てくれるから」
母「わかった、わかった」と。

 人の心をみるときは、どちらが表で、どちらが裏でもよいが、ともかくも、相手の立場でみる。
表面的な部分だけをみて、判断してはいけない。が、相手の立場で、相手の心をみると、もの
の見方が一変する。怒りがそのまま、笑いになる。きゅうくつな世界に、ポッカリと穴があく。

私「あのなあ、何も心配しなくていい。あんたをひとりにして、どこかへ行ってしまうことはないか
ら」
母「ありがと」と。

 老人だから、孤独に強いということは、ない。頭が少しボケてきたから、孤独を感じなくなると
いうことは、ない。そんなことは、自分自身をみればわかる。私にしても、30代のころより、精
神力が強くなったとは、思わない。むしろ、50代になってからのほうが、孤独を強く感ずるよう
になった。90歳の老人なら、なおさらかもしれない。

 ……つまり、これはそのまま老人を介護するときの、ひとつのコツと考えてよい。ちょうど私た
ちが、幼児に、「バカ!」と言われても気にしないように、老人に、「バカ!」と言われても、気に
してはいけない。カリカリするほうが、おかしい。先にも書いたように、もともと、相手にならな
い。もし老人の言うことが気になるようだったら、それだけその人の料簡(りょうけん)は、狭い
ということになる。

 あとは、老人の言うようにしてやる。「カーテンを閉めろ」と言ったら、閉めてやる。「甘いもの
が食べたい」と言ったら、甘いものを届けてやる。めんどうとか、めんどうでないとか、そんなこ
ともいちいち考えない。ハイハイと言って、それに従う。あとは忘れる。

 大切なことは、安心感を与えること。その安心感が、老人の心をおだやかにする。事実、そ
のあと、母は、そのまま安らかに目を閉じて眠ってしまった。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1745)

●今朝・あれこれ(1月15日)

+++++++++++++++++

寒い朝だ。昨夜は、寝る直前まで
パソコンと格闘。おかげで、床に
ついてから、1時間ほど、眠れな
かった。

+++++++++++++++++

●お年玉つき年賀状の当選発表

 今朝、インターネットのニュース欄をのぞいていたら、お年玉つき年賀状の当選発表があっ
た。さっそく別紙に、番号を書きとめる。

 が、どうも、居心地がよくない。ここ数年、年賀状の枚数をぐんと減らしている。それに合わせ
て、受け取る年賀状の枚数も減っている。「悪いな……」と思いつつ、返事を書かないですませ
た人も多い。そのせいか、今は、年賀状を見ると、何かしら、会いたくない知人に、会うような
気分。だから居心地が悪い。

 あとでワイフに番号を書きとめた紙を渡すつもり。それでおしまい。1等はハワイ旅行とか…
…。当たっても、行きたくない。どうせ当たらないが……。だいたい、今どき、「ハワイ旅行」とい
う発想が、チンプ。こんなことを繰りかえしているから、年賀状も、ソッポを向かれる。


+++++++++++++++

●母の介護

 ベッドからおりるだけでも、10分近くの時間がかかる。私たちが近くにいると、「手を貸してく
れ」と言う。が、私は手を貸さない。その運動もやめたら、それこそ母は、そのまま寝たきりに
なってしまう。

 で、これはちょうど2年前、兄の介護のとき気がついたことだが、こうした介護をするとき、重
要なコツがひとつ、ある。

 それは決して、自分たちの生活パターンを変えないということ。兄の介護のときは、兄の介護
で、それまでの生活パターンが完全に崩れてしまった。それはそのまま、ものすごいストレスと
なって、はね返ってきた。

 だから、今回は、最初から、「私たちは私たち」と、心に決めた。仕事も遊びも、そのまま。そ
の中に母の介護を組み込むようにした。

 今のところ、それはうまくいっている。昨日は、母を後部座席に乗せて、山荘へ行ってきた。
「母のため」というよりは、「私たちのため」。家にひとりで残しておくよりは、そのほうが安心。そ
れでそうした。

 朝、起きたら、まずポータブルトイレの始末。清掃。それから母に便をさせ、おむつを取り替
える。それがすんだら、食事を、部屋に運ぶ。ころあいを見はからって、あと片づけ。消毒。

 今日は、デイサービスがない。母は母で、自分なりのやり方で、時間をつぶすはず。あとは廊
下を通るたびに、私とワイフが、交互に母の部屋をのぞく。声をかける。3〜4時間ごとに、お
むつを取り替える。

 今のところ、下半身はともかくも、上半身がしっかりしているから、自分で体を起こすことがで
きる。たったそれだけのことだが、それだけのことでも、本当に助かる。

 ほかにも、いくつかのコツがある。

★決して叱ってはいけない

 老人は、幼児以上に、決して叱ってはいけない。床を汚しても、ベッドを汚しても、叱ってはい
けない。下着を汚すのは、当たり前と心得ること。

★ワイフにすべてをさせてはいけない

 ワイフの生活パターンを守るのは、夫の役目と心得ること。掃除、洗濯、炊事は、ワイフの役
目としても、その先は、夫がすること。たとえば食事にしても、母の分を用意するのはワイフに
頼むとしても、それを母の部屋に届けるのは、夫の役目。

★介護は、知恵比べ

 介護をしていくと、そのつど、問題が起きてくる。が、ここで重要なことは、決してあわてて、パ
ニック状態になってはいけないということ。そういう意味では、介護は、まさに知恵比べ。

たとえば汚物は、それまでは、横のゴミ箱に入れていた。が、これだと臭気が部屋の中に充満
してしまう。そこで私たちは、密閉式のゴミ箱を買ってきて、それに汚物を入れるようにした。
が、それで、問題が解決したわけではない。それでも、臭気が漏れる。だから、さらに、今度
は、消臭剤を買ってきて、その中に入れた。

 そのつど、「ああしよう」「こうしよう」と考えることは、それなりに楽しい。昨日も、近くのショッピ
ングセンターで、ワイフといろいろな介護用品を買い込んできた。うまくいくかどうかはわからな
いが、何でも試してみる価値はある。

 どうせ生きるなら、楽しく、明るく生きなければ、損。運命というのは、そういうもの。


+++++++++++++++

●嫁の英会話教室

 嫁が、スカイプを使った英会話教室を始めた。スカイプというのは、無料の、テレビ電話のこ
と。

 ところでみなさん、外人だから、英語が話せるはず……と、考えていないか? 英会話が教
えられるはず……と、考えていないか? あるいは英語で文章が書けるはず……と、考えてい
ないか?

 これはとんでもない誤解。まちがい。ウソ!

 浜松市内にも、たくさんの英会話教室がある。たくさんの外人講師が、英会話を教えている。
しかしそのほとんどが、(「ほとんど」と断言して、さしつかえないが……)、インチキ外人。ウソ
だと思うなら、英語で手紙を書かせてみればよい。満足に手紙すら書けない自称(?)外人た
ちが、英会話を教えている。

 そんな外人から英語を習って、それで本当にモノになるのか?

 だから……と書くと、手前ミソになってしまうが、講師をしてもらうなら、きちんとした教育を受
けた人にしてもらったほうがよい。

 ……ということで、今回、はじめて、嫁の学歴を公表することにした。嫁は、ヘンダーソン州立
大学の英文法学部(日本で言う文学部)を、主席で卒業している。千数百人いる学生の中で
も、トップの賞を受賞している。(嫁の学歴は、以下のページより。)

http://bwhayashi.fc2web.com/page010.html

 私も、嫁からのメールを読むたびに、そのすごさに驚いている。私にだって、その人が書いた
英語が、じょうずかへたかくらいは、わかる。

 はからずも……というか、息子と結婚して、子どもができてしまったため、キャリアの道からは
ずれてしまった。が、「英語を教えてみたい」という情熱まで、消えてしまったわけではない。

 もしみなさんの中に、「うちの子に英語を……」と考えている人がいたら、ぜひ、嫁の英会話
教室を考えてみてほしい。よろしく、よろしく、本当に、よろしく!

 うちの嫁は、そこらのインチキ外人講師とは、ちがうぞ!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●おけげで、今年も、順調!

++++++++++++++++++

休みがあけて、毎日、2時間、自転車を
こいでいる。

ほかに、ハナとの散歩。昨日は、ワイフと、
30分ほど、山の中を歩いた。

体は順調。仕事も順調。

2007年は、始まった!

++++++++++++++++++

 人間というのは、やはり働いていなければ、いけない。中国では、『流水は腐らず』という。ま
さに、そのとおり。

 心の健康は、肉体の健康があってはじめて、維持される。肉体が腐ると、心も、腐る。だか
ら、まず、肉体。その健康に、心がける。

 ただ、今は、やや太り気味。食事の量を減らしてはいるが、どうもうまくいかない。どうしてだ
ろう? ワイフは、「あなたは、体ががっしりしているからよ」と言う。つまり筋肉質だ、と。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。たしかに太ももの太さだけは、ほかの男性より
も、2倍近くもある。20代のころから、自転車通勤をつづけている。

 あとは仕事だが、まだ現役。私に命令できる人間はいない。(命令できる相手もいないが…
…。)私は自由だし、これからも、ずっと、自由。この自由だけは、大切にしたい。

 が、何よりも大切なのは、家族の明るさ。ワイフが、生き生きと仕事をしているのを見ると、
「ああ、これでいいのだ」と思う。つまり夫は、妻の前では、バカなフリをする。バカなフリをし
て、妻に優越感をもたせる。アメリカでは、『夫は、頭。妻は、首』という。「ものごとを決めるの
は夫の役目だが、夫をどちらに向かせるかは、妻の役目」と。

 ナルホド!

 私の家族の間では、上下意識は、まったく、ない。ないものはないのであって、どうしようもな
い。「夫が上で、妻が下」とか、「親が上で、子が下」とか、そんなことは、考えたこともない。「兄
が上で、弟が下」というのも、ない。息子たちは、みな、それぞれに平等に育てた。息子たち
も、たがいに、そう思っている。

が、世の中には、いまだに、江戸時代の亡霊を引きずっている人は、多い。家父長意識という
のも、それ。「上」にいる者にとっては、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の者にとって
はそうでない。そうでないばかりか、「上」の者は、「下」の者の心を見失う。見失っていることに
さえ気づかないまま、見失う。

かわいそうで、あわれな人というのは、そういう人たちのことをいう。自分で「偉い」と思っている
だけ。まわりの人たちは、「バカ」と思っている(失礼!)。

 話がそれたが、他人は、ときどき私たち夫婦を見て、「あなたたち、姉さん女房?」と聞く。ワ
イフのほうが、年上に見えるから。しかし実際には、ワイフのほうが、私よりx歳年下。私のほう
がバカな夫のフリをしているだけ。ハハハ。

 そんなわけで、ひとつだけ不安なことがある。ワイフは、私なしでも、多分生きていかれると思
うが、私は、ワイフなしでは、生きていかれない。それが自分でも、よくわかっている。だから、
私は、ワイフを大切にする。ワイフの健康に気をつかう。

 「健康に、心がける」と言っても、自分ひとりの健康だけでは、どうしようもない。夫婦は、夫
婦。2人1組で、1人の人間。

 愛しているよ、晃子! いつまでも、健康でいてくれよ! (←ワイフも、いつも、私の楽天日
記を読んでいるので、一言。オノロケですみません。!)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●16万人!

+++++++++++++++++

楽天日記の読者が、もうすぐ16万人
になる。

16万人!

すごいことだと思う。

多い日には、1日、300〜400人
もの人たちが、目を通してくれる。

+++++++++++++++++

 楽天日記の読者が、もうすぐ16万人になる。16万人!、だぞ。改めてインターネットのもつ
すごさに驚く。が、それだけではない。

 読者のみなさんへ、いらぬご忠告。

 楽天日記にかぎらず、HPにしても、開設者のほうに、ある程度、アドレスがわかるしくみにな
っている。さらにどこのだれが、いつ、どのようにしてHPにアクセスしたか、その追跡調査を、
無料でしてくれるサービスもある。そのサービスを使うと、だれが、どのページをのぞいたかは
もちろんのこと、どんなOSのパソコンを使っているかまで、わかるしくみになっている。

 さらに、あなたが住んでいる県名、地域名までわかる。今までに、何回アクセスしたかまで、
わかる。

 私の楽天日記にせよ、HPにせよ、だからといって、どうこうということはないが、「開設者には
わからないはず」と思って、他人の楽天日記をのぞいたり、HPをのぞいたりしていると、ときに
は、開設者に、あなたの心の中までのぞかれてしまう。

 インターネットのすごいところは、こんなところにも、ある。

 実は、数日前も、こんなことがあった。

 私の掲示板に不良書き込みがあった。近所の知人を装った書き込みである。いわく、「あな
たの子育て診断など、役に立たない」「あなたごときに、子育て診断などしてもらわなくて、結
構」と。

 そこで私のHPの閲覧記録を調べてみた。その書き込みがあった直前に、同じアドレスで、私
のHPをのぞいた人がいた。掲示板へたどりつくためには、一度、私のHPを経由しなければな
らない。

 私のHPは、先に書いたような追跡サービスができるようになっている。で、それを使って、プ
ロバイダー(サーバー)の住所を調べてみると、横浜近郊、三浦半島に住む女性ということまで
わかった。名前は、S・Y。(S・Yさん、あなたですぞ!)

 だからその書き込みは、そのまま削除。「近所のものです」などというウソなど、いっぺんにバ
レてしまった。

 さらに名前がある程度特定できると、今度は、グーグルなどの検索機能を使って、その人
が、あちこちに投稿している記事まで、拾い出すことができる。どこでどのような活動をしている
かまで、わかる。こうした不良投稿を繰り返す人というのは、無意識のうちにも、類似した名前
で、類似した書き込みをするものらしい。

 だから、こうした不良書き込みはしないこと。しても意味はない。インターネットのすごいところ
は、こんなところにもある。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●舞台から飛び出す

++++++++++++++++++++++

私たちの日常生活というのは、舞台の上で
毎日、同じ踊りを演じているようなもの。

やることも、考えることも、みな、同じ。
繰りかえし。へたをすれば、10年一律のごとく、
同じことを繰りかえしている。

しかしこうなると、進歩など、もう、望むべくも
ない。

++++++++++++++++++++++

 加齢とともに、思考のループ性は、ますます強くなる。思考そのものが、ループ状態になる。
同じところをクルクルと回るようになる。自分では、進歩しているつもりでいても、5年単位、10
年単位でみると、またもとに戻ってしまう。

 わかりやすく言うと、私たちの日常生活というのは、舞台の上で、毎日、同じ踊りを演じている
ようなもの。やることも考えることも、みな、同じ。繰りかえし。へたをすれば、10年1律のごと
く、同じことを繰りかえしてしまう。

しかしこうなると、進歩など、もう、望むべくもない。最近でも、私は、こんな経験をした。

 ある知人と、20年ぶりに会った。会って話をしたが、その途中で、ふと「この話は、20年前に
も聞いたことがあるぞ」と思った。つまりその知人は、20年前に私にした話と同じ話を私にし
た。

 しかしそれは私自身のことでもある。私だって、ふと油断すると、5年前、あるいは10年前に
したのと同じを話をすることがある。原稿だってそうだ。新しいテーマについて書いているつもり
でも、古い原稿の焼きなおしにすぎない……ということは、しばしば経験する。つまりその間、
私は、ほとんど進歩しなかったということになる。

 そこで大切なことは、自分が舞台で踊っているのに気がついたら、思い切って、その舞台か
ら飛び降りてみること。が、それがむずかしい。そのためには、自分が、どんな舞台の上にい
るかを、まず知らなければならない。

 が、手がかりがないわけではない。それを知るためのひとつの手がかりとして、こんな話があ
る。

 浜松市には、あちこちに「介護の会」というのがある。老人介護で苦労している人が集まっ
て、情報を交換する会である。老人介護だけではない。若くして痴呆症になってしまった人がい
る。そういう人の介護も、これまたたいへんである。

 私の義理の姉が、その介護の会で、講師をしている。義理の姉も、義母の介護で、たいへん
な苦労をした。その介護の会から帰ってきたワイフが、こう言った。

 「あなた、あなたのお母さんの介護なんか、何でもないほうよ」と。

 話を聞くと、上には上がいるもの。自分のした大便を、たんすの中にしまっている老人がいる
という。さらに大便を、畳の隙間に、埋め込んでいる老人もいるという。そういう老人と比べる
と、パンツやシーツを汚す程度の私の母などは、何でもない、と。

 これが、ここでいう「舞台の外に出てみる」ということである。その舞台の上にいると、その舞
台のことしかわからない。わからないから、そこが全世界と思って、あれこれ悩んだり迷ったり
する。

 私も母の介護をするようになって、新しい発見を繰りかえしている。少しおおげさな言い方に
聞こえるかもしれないが、「生きる」ということがどういうことか、それを学びつつある。もし母を
介護することがなかったら、絶対に知ることがなかった世界といってもよい。

 だから自分の舞台を知るためには、思い切って、それまでに経験したことがない世界に飛び
こんでみるとよい。温室の中で、ぬるま湯につかっていたのでは、自分の舞台を知ることはで
きない。

 言い忘れたが、思考がループ状態になるということは、その分だけ、自分の人生をムダにし
ているということ。加齢とともに、人は、どうしてもこのループ状態に陥りやすくなる。「明日は今
日と同じ」「来年は今年と同じ」という人生に、どれほどの意味があるというのか。……というの
は、少し言い過ぎかもしれないが、そういう人生を避けるためにも、私たちは一度、自分がどん
な舞台で踊っているかを知らねばならない。

【付記】

 老人は、ある日突然、老人になるのではない。老人は、少しずつ、徐々に老人になっていく。

 そこで我が身を振りかえってみる。私は、今は「私」だが、やがて少しずつ、その老人になっ
ていく。その境目は、どこにあるのか。どこからどこまでが、老人でなく、どこから先が、老人な
のか。

 昨日も、ある老人ケアセンターで、30分ほど、老人たちの様子を参観させてもらった。が、中
には、見るからに元気で、現在の私と、それほどちがわない老人もいることを知った。歩くとき
も、スタスタと歩き、隣の人の作業に、手を貸したりしている。

 「私とそれほどちがわない」と思うということは、私自身が、その老人になりつつあることを意
味する。

 そこでもし、この私が現在、老人になりつつあるということになるのなら、今は、「若い」と思っ
ている、若い人たちだって、実は、老人になりつつあるということになる。実際、それを思わせ
る若い人は、少なくない。

 事実、私より、5歳も若いA氏は、ピック病になってしまった。脳みそが部分的に、欠けてしま
う病気と考えるとわかりやすい。本人は、「オレは、正常だ」とがんばっているという。

 またやはり私より3歳も若いB氏は、腎臓病がこじれて、今は、2日おきに、人工透析を受け
ている。

 こういう人たちは、介護なくしては、もう生きてはいかれない。……となると、老人とは何か、
介護とは何か、それがわからなくなってしまう。つまり気がついてみたら、いつの間にか、介護
を受ける立場になっていた……。そういうふうになって、老人は、老人になっていく。

 しかし暗い話ばかりではない。

 ここ数日のことだが、私の母は、ここへ来たときより、はるかにしっかりとしてきた。おむつ
も、ほとんど濡らさなくなった。来た当初は、下痢気味で、おむつを取り替えるたびに、大便を
漏らしていた。が、それもなくなった。

 ベッドからポータブルトイレ、ポータブルトイレからソファへと、部屋中に、手製の手すりをつけ
てやったのがよかった。母は、それを頼りに、自分でベッドから起きあがり、自分でトイレを使う
ようになった。

 老人も、それなりの環境さえ整えてやれば、自立する。必ずしも、老人イコール、介護という
わけでもない。老人になるかならないかは、あくまでも、私たちの心構えひとつということにな
る。

 そんなわけで一言!

 私は決して、老人にはならないぞ。90歳になっても、100歳になっても、老人にはならない
ぞ!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

【今朝、あれこれ】

●商売と仕事(口のうまい人)

++++++++++++++++

世の中には、小銭を稼ぐのに、
きゅうきゅうとしている人がいる。

それが悪いというのではない。

しかし、「きゅうきゅう」とは、
「窮々」と書く。

「窮乏」の「窮」である。

つまり、「つまらない人」という意味。

++++++++++++++++

 私の実家は、自転車屋だった。つまり、商店街の一角の、小さな自転車屋。商店。商店とい
っても、問屋から自転車を仕入れて、それを店にやってくる客に売るだけ。あとは自転車の修
理をしたり、パンクを張ったり……。自分の実家の稼業をけなすようでつらいが、はっきり言え
ば、その程度の仕事。

 アルコール中毒になった父にさえできた仕事だから、つまりは、その程度の仕事ということに
なる。

 こうした商売では、口のうまい、へたが、売れ行きのカギを握る。口のうまい商店主の商店
は、繁盛する。そうでない商店は、衰退する。つまり、これは自転車屋にかぎらないが、多かれ
少なかれ、総じてみれば、商店街の商店主というのは、口がうまい。別の言葉を借りるなら、人
にへつらうのが、うまい。相手をその気にさせるのに、たけている。

しかし私の住む世界では、「口のうまい人」というのは、軽蔑されることはあっても、尊敬される
ことはない。「あの人は、口がうまい」と言うときは、「あの人には気をつけろ」を意味する。

 たとえば通りを歩いている人に向かっては、「今日は、ご機嫌いいですね。何かいいことで
も?」と言って、声をかける。あるいは、「奥さん、そのご洋服、趣味がいいですね」と言って、声
をかける。さらに「この自転車を、息子さんに買ってあげなさいよ。息子さん、きっと、親孝行の
いい息子さんになりますよ」と。

 私は、そういう口のうまい人を、子どものときから見て育った。先にも書いたように、私の実家
は、その商店街の一角にあった。

 しかし(へつらい)が、いかに見苦しいものであるかは、外国へ行ってみると、わかる。上には
上がいるもので、国によっては、相手にへつらうことが、日常会話のようになっているようなとこ
ろがある。反対に、オーストラリアのように、(へつらい)が、まったく通用しない国もある。

 が、悲しいかな、そういう世界だけに生まれ育った人には、それがわからない。わからないば
かりか、同じところで何十年も商売をしていると、(へつらい)に、さらに磨きがかかる。巧みに
なる。仮面をかぶる。心を偽る。

 こうして商店街の商店主たちは、小銭を稼ぐのに、窮々(きゅうきゅう)とするようになる。「窮
乏」の「窮」である。みながみな、そうであるとはかぎらないが、そのワナに陥る危険性は、大き
い。もちろん、商店街の商店主でありながら、そうでない人もいる。立派な人格者になった人も
いる。しかしやはり、そのワナに陥る危険性は、大きい。

理由の第一は、もともと商売には、高邁(こうまい)な目標がないということ。高い理念も理想
も、必要ない。あればあったで、かえってじゃまになる。そういう世界では、「金(マネー)」がす
べて。

 少なくとも、私が子どものころ見て育った世界は、そういう世界だった。

 ……といっても、そういう世界だったということは、そういう世界から抜け出てみて、はじめて
わかったこと。それまでは、それが私にとっては、(ふつうの世界)だった。仮にもし、あのまま
私があの世界にいたとするなら、そういう世界であったこと、そのものに気づかなかっただろ
う。同じように、私も、口のうまい人間になっていたことだろう。

 今でも、ときどき郷里に帰るたびに、それを強く感ずる。口のうまい人に出会ったりすると、懐
かしいと思う前に、「私も若いころは、ああだったな」と思う。心のすみで、ゾッとするような、冷
たいものを感ずる。

 そう言えば、この正月に郷里へ帰ったときのこと。通りで、中学時代の同窓生に会った。その
同窓生が私を見るなり、こう言った。「ああ、林君! 元気か! 君は、いつ見ても、若々しくて
いいね? ところで今度、中学の同窓会を考えているが、君は来てくれるか」と。

 それほど親しくしていた友人ではない。私が返答をためらっていると、こう言った。「君が来て
くれると、みな、感激するよ。君がいないと、同窓会も、灯が消えたようなものだからね」と。妙
になれなれしい、明るい言い方だった。

 多分、その同窓生は、同じセリフをみなに、言っているのだろう。それがわかったとき、私は、
そのまま、あいまいな返事をして別れた。内心では、「私は出席しないぞ」と思いながら……。

 言い忘れたが、その同窓生は、高校を卒業すると同時に、地元に残り、同じ商店街で、その
まま商売をつづけている。結構な金持ちになったといううわさである。しかし同時に、「小ズルイ
男」といううわさを耳にしたこともある。多分、毎日、小銭を稼ぐために、窮々としているのだろ
う。「窮々」というのは、同時に、「心の貧しい人」という意味にも解釈できる。

 その人はその人だが、私は、そういう人たちだけは、相手にしたくない。(多分、相手は相手
で、反対の立場で、私をそう思っているだろうが……。心理学でいう、「好意の返報性」というの
は、そういうことをいう。)

 ……といっても、私たちはみな、その(商売)をしている。いつも損得の勘定をしながら、生き
ている。何も商店街の商店主たちだけが、(商売)をしているわけではない。

 しかし(商売)と(仕事)はちがう。商売するには、それでよいとしても、仕事は、そうであっては
いけない。損得の計算をしない。その損得を超えたところに、仕事の意義がある。おもしろさが
ある。

 小銭を稼ぐのに窮々としている人には、仕事の意味は、わからないのでは?……と、私は思
う。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司


【スカイプ・英会話】

(はじめての生徒さんが、はじめてのレッスンを受けました!)

+++++++++++++++++++

スカイプ英会話教室より

はじめての生徒さんが、はじめてのレッスンを
受けました。

そのはじめての感想が、届きました。

うれしかったです。本当にうれしかったです。

+++++++++++++++++++

はやし先生、こんにちは。金曜日にBWでお世話になっておりますDIです。
おかげさまで、昨日初めてのスカイプ英会話のレッスンを受けさせて頂きまし
た。

ディニース先生の温かい雰囲気に、H男(小1)も緊張することなく、楽しく
レッスンできた様です。

英語だけで20分間会話するというのは、多分H男にとって始めての経験ですが、
集中して英語を聞くことによって耳が慣れてくるのか、
最後の方には自力で、ディニース先生の質問に答えていたのには驚きました。

パソコンの画面に出てくる教材もすばらしく、H男も驚いて見ていました。
自宅にいながらこんなに楽しく、内容の濃いレッスンを受けることが出来て、本
当にありがたく思っています。

H男も「たのしかったー!」と喜んでいました。

無事にレッスンを開始できました御報告とお礼をと思い、メールさせて頂きまし
た。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

+++++++++++++++++++

バンザーイ!

私も、ほっとしました。

DIさん、メール、ありがとうございました!

+++++++++++++++++++

スカイプ英会話は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、どうぞ!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●幼児と動機づけ

+++++++++++++++++++

幼児に、学習の動機づけをする最大のコツは、
幼児を楽しませること。

たとえば文字にしても、数にしても、
文字を教えたり、算数的なことを教えるのが、
目的ではない。

大切なことは、「文字は楽しい」「数は楽しい」という、
(思い)を、子どもの心の中につくること。

その(思い)が、動機づけとなって、子どもを
前向きに伸ばす。

++++++++++++++++++++

 幼児教育といっても、いろいろある。が、その中でも、学習への動機づけについて。

 幼児教育というと、文字、数を教えるのが幼児教育と考えている、若い母親は多い。まちがっ
てはいないが、それがすべてではない。それは幼児教育の、ほんの一部。

 数日前も、ある母親から電話がかかってきた。「タウンページで見ましたが、お宅(BW)で
は、文字や数を教えてもらえますか?」と。

 が、私はこう答えた。「文字や数は、楽しいということは、教えますが、文字や数そのものは、
教えません」と。

 その母親は、私の返答を理解できなかったのかもしれない。自分の名前も告げずに、電話を
切ってしまった。

 しかし実際に、私は、そうしている。

 文字や数の楽しさは教えるが、文字の書き方や、算数的なことは教えない。大切なことは、
幼児の心の中に、「文字は楽しい」「数は楽しい」という(思い)をつくること。その(思い)が、動
機づけとなって、子どもを伸ばす。たとえば私の教室(BW)から、家に帰って、母親に、「ママ、
カタカナを教えて!」と言えば、それでよし。それこそが、私の教室の目的ということになる。

 では、どうするか?

 方法は簡単。子どもを笑わせればよい。イギリスの格言にも、『楽しく学ぶ子どもは、よく学
ぶ』というのがある。「楽しい」という前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。

 たとえば昨日(1月16日)も、数字を使って私の顔を描いてみせた。「2」で目を描き、「6」で
鼻を描いたりした。それを見て、子どもたちは、ゲラゲラと笑った。その(笑う)という行為を通し
て、子どもたちは、「数は楽しい」ということを学ぶ。

 あとは、こうした遊びを、子どもたちの頭が冷えない程度に、繰りかえす。「冷えない程度」と
いうのは、退屈させないようにという意味。実際には、間髪を要れず、つぎつぎと、レッスンを展
開していく。

 子どもによっては、10人のうち、4〜6人だが、頭が、高熱を発したように熱くなる。これは子
どもの頭を手でさすってみればわかる。

 つまり脳みその活動が、フルパワーになる。が、こうなればしめたもの。「頭がよくなる」とは
書けないが、それに近い状態になる。子どもの脳みそを刺激することができる。

 そのあとのことは、子どもに任せればよい。子ども自身が、自分の力で伸びていく。

 ところで、よく、「BWは、週1回のレッスンしかしないが、それで効果があるか?」と聞かれ
る。で、そういうとき、私はいつも、こう断言する。「あります」と。

 たとえ週1回でも、子どもたちは、私の教室を中心に、1週間の過ごし方をきめる。毎日、B
Wの話を、家でするようになる。これはウソではない。この原稿は、BWへ子どもを通わせてい
る親たちも読んでいる。ウソは書けない。

 ダラダラと、意味のない学習を、1週間するより、瞬間的でも、濃密なレッスンを週1回するほ
うが、はるかに効果的である。だから週1回でも、効果がある。

 あとは、子どもに自信をもたせる。子どもが何をしても、また何を言っても、「よくできたね」「す
ばらしい」と言って、レッスンをしめくくる。繰りかえすが、そのあとのことは、子ども自身がもつ
(力)に任せればよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●ビスタがほしい!

+++++++++++++++

とうとう予約販売が始まった。
ビスタ搭載のパソコン!

しかし今月は、長男、三男の
学費納入で、夢は、ツユと消えた。

「あわてて買うと、失敗する」と
ワイフに負け惜しみを言いながら、
今日も、カタログをながめる。

+++++++++++++++

 現在、2か所の有料版のHPサービスで、HPを配信している。一方は、約60MB弱。もう一
方は、約70MB弱。編集、FTP送信までは、何とかスムーズにできるが、そのあと、ファイルを
保存するのに、それぞれ、約6時間、12時間もかかる。2048MBもメモリーを積んでいて、こ
のザマである。

 ハードディスク上の仮想メモリーと、ハードディスクの間で、スワップするためである。わかり
やすく言えば、2048MBでもメモリー不足になるということ。

 しかしビスタには、USBメモリーを、仮想メモリーとして使う機能があるそうだ。USBメモリー
を仮想メモリーとして使えば、理論上は、保存も、ぐんと速くなるはず。(まちがっていたら、ごめ
ん!)

 それに今では、CPU(中央演算装置)を、4つもくっつけたようなパソコンもある。「デュアル・
コア2」とかいうのだそうだ。「脳みそが4つ?」「どんなのだろう?」と、想像するだけで楽しい。

 先日、仙台市のパソコンショップで、ビスタ・ベータ版を見たが、画面が楽しい。今までのXPと
は、明らかにちがう。昔の「95」と現在の「XP」ほどの落差を感じた。

 この世界は、いったい、どこまで進むのだろう。とりあえず近未来的には、ハードディスクはな
くなるはず。現在、2MB程度のメモリーが、約7000〜8000円で売られている。それを20個
あわせれば、40MBのハードディスクと、同じ働きをさせることができる。値段は、14〜16万
円ということになるが、それが、3〜4万円程度までさがれば、ハードディスクは、この世から消
えてなくなる。

 さらに、メモリーの価格がさがれば、そのうち、400MBとか、800MBのメモリーを搭載した
パソコンが売りに出されるようになるだろう。そうなれば、私も、もっとすごいHPを開設すること
ができるようになる。10年とか、20年先の話ではない。私の予想では、5年。その5年以内に
可能になると思う。

 それまでのビスタ。それはわかっているが、あ〜あ、ほしい。……が、今月は、息子たちの学
費納入で、その夢もツユと消えた。今は。じっとがまんのとき。この、つまりジリジリとがまんして
いるときが、楽しい。手に入れたときの喜びが倍加する。

 そんなわけで、今日もカタログをながめて、おしまい。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●ある母親からのメール

++++++++++++++++++++++

小学校の雰囲気が、変わりつつある。
そんな変化を、I市(浜松市近郊の町)に住む、
Sさんという方(母親)が伝えてくれた。

++++++++++++++++++++++

本日のメルマガで、書き順についてのトピックスがありましたので
似たような話をさせて下さい。 

昨年の12月に、息子のM男の就学前検診がございました。
母親達は子供たちと離れ総合ルームにて、入学前の色々な説明を受けたのですが、
その中で、小学校の校長先生のお話がございました。

校長先生から母親達に 入学までのお願い事項が2点。

一点は鉛筆を正しく持てるようにしてくること。
これは、持ち方が悪いと書いた字が見えず、それを見ようとする結果
将来にわたって姿勢が悪くなる為とのことです。ふむふむと納得。

二点目は、少し意外でした。

それは、左利きの子供は右利きに改めるように・・とのこと。
それを強要する結果 精神的負担が大きいようなら、左利きでも良いが、
そうでなければ、改める事が子供の為であるとのご意見でした。
なぜなら、日本語は右で書くように出来ているから・・らしく・・

私は書道を目指す人だけそうであればよいと思っていますし、
もっと他に大切なことはないんですか?、と
入学前から不信感を抱いてしまったわけです。

また、I市の小学校は、どこも異様です。

体育館で話を始めるとき、どの先生もが掲げられた国旗に
向き直って、敬礼します。話し終わって向き直って、敬礼します。

私は東北育ちですが、東北ではこのような習慣はありませんし、
国旗は体育館に掲げていません。

君が代・日の丸は東京だけの問題かと思っておりましたが、
私の娘にもふりかかってきたかという感じです。

幸い子供にそれを強要することはないとのことですが。

6年間、その姿を見せられる、子供たちの心にどうつるのか・・、
平和教育はどのようになされるのか・・・、

幼稚園に帰って、うちの幼稚園のA先生にぐちをこぼしてしまいました。

今の幼稚園はとてもよいです。
派手な行事などは全くありませんが、園児の心の教育をとても大事にして
下さっていて、いつも穏やかに保育時間が過ぎ、子供たちは安定しています。

一方、その時々で世間で起こっている出来事を、
子供のレベルに合わせて教えてくれたり、世界を考える機会を与えてくれます。
ですから、子供たちは子供たちなりに戦争について考え・飢えについて考え、
自殺について考え・死・愛・家族・世界の人々について考え、
家に帰ってくるとそのことを話してくれます。

素敵な幼稚園に行っているからこそ、
この小学校に心の教育を大切にしている雰囲気を
感じ取れなかったのが不満なのかもしれません。

小学校にそんなことを求める私が、お馬鹿なのかもしれません。
こんな印象を最初に持ってしまって、この先、6年間、もやもやしそうです。


【はやし浩司よりSさんへ】

 この浜松市でも、似たような話を耳にしています。

 学校の先生というのは、校長にかぎらず、世の大勢がそうであると感じたときには、その大勢
に従わざるをえないという側面があります。つまり多数決の原理が、何よりも優先されるわけで
す。

 「君が代・日の丸」問題もそのひとつです。

 少数派になって、大勢と摩擦を起こすことを避け、多数派に身を置き、保全を求めようとしま
す。しかしこうした迎合主義は、危険な側面をもっています。戦前の全体主義を例にあげるま
でもありません。

 ただし子どもの前では、学校や先生の批判は、タブーと考えてください。子ども自身が、「もや
もや」しては困ります。先生の指導に従わくなります。私も、みなさんのお子さんを教えさせてい
ただきながら、学校や先生の批判、批評は、タブーと心得ています。

 子どもが何か、学校の先生について、批判めいたことを口にしたときには、すかさず、「それ
は君たちが悪いからだ」と、学校側の立場にたって、諭(さと)すようにしています。どうか、ご注
意ください。

 このばあいも、「校長先生がそう言ったから、あなたも、右で字を書こうね」と、家庭では、そう
指導してください。そしてどうしても、それが無理なら、直接、担任の先生に、そっとそう言うの
がよいと思います。

 「君が代・日の丸」については、私たち1人ひとりが、賢くなることで、対処しましょう。政治的
無関心は、恥ずべきことですよね。がんばりましょう!

 また、何かお気づきのことがあったら、メールをください。


++++++++++++++++++++++++++

●利き手の問題

++++++++++++++++++

利き手については、すでに何度も
原稿を書いてきた。

もう一度、それをここに再掲載したい。

++++++++++++++++++

●教育が型にはまるとき
●「ちゃんと見てほしい」

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ
チャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき
のことである。

あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そういうときも私
は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっているのに、ど
うして丸をつけるのか!」と。

●「型」にこだわる日本人

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最
近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。

私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意され
た。書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願す
ると、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほう
がよい」と。そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってし
まった。書き順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうと
しなくなってしまった。

 一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。壁に張
られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生
(小三担当)は、こう話してくれた。「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはない
のです。発音が違えば、スペルも違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉
は、ルール(文法やスペル)ではなく、中身です」と。

●「U」が二画?

 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が一〇年ほど前、この浜松市であった。その
会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じようにMとW
は四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、こ
の日本にあるとは! 

そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、二五度傾けて書けと教えられたことがある。今
から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろく
ない。つまらない。たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そ
のものを嫌いになってしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背
景に、子どもたちの文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。

だいたいこのコンピュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくな
に守らねばならない理由が、一体どこにあるのか。「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子
どもを型に押し込めようとすればするほど、子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなく
す。

●左利きと右利き

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、それで
よし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚える。

オーストラリアでは、すでに一〇年以上も前に小学三年生から。今ではほとんどの幼稚園で、
コンピュータの授業をしている。一〇年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピーデ
ィスクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生徒
が、常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメだ、
ハネだ、ハライだ! 

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし
ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、
また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

左利きにしても、人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どち
らか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生
活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三
〜四歳までに決まるが、どの説にせよ、左利きが悪いというのは、あくまでも偏見でしかない。
冷蔵庫やドアにしても、確かに右利き用にはできているが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば
何でもない。

●エビでタイを釣る

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸
命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
これは幼児教育の大原則。

昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人はタイを釣る前に、エビを食
べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ)を、そいでしまう。

(付記)
●私の意見に対する反論

 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその一つ。
それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教えておかな
いと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。

しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが
美しい」と誰が決めたのか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、
勝手に押しつけてもらっては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝
えること。「型」ばかりにこだわっていると、文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い
出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字
を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ
ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

【左利きについて】

●何でも握らせる
 
 人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、どちらか一方の
大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣に
よって決まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四
歳までに決まるとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手
でさわりたがる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が
刺激されるのか、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、
概して言えば、さわりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについ
て、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石で
できた球を売っていた。2個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老
人が使う、ボケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使う
のだそうだ。そしてそれが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳
に刺激を与え、それが知的な意味でもよい方向に作用するということは前から知られてい
る。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも
効果的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)
そして「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握
る」「遊ぶ」「作る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達す
る。もちろん指先も器用になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子ど
もは、線にそって、紙をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることが
できない。
(はやし浩司 右利き 左利き 利き手 きき手)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

【限界論】

●興味ある少女

+++++++++++++++++++++++

カンボジア北東部のラタナキリ州で、18年前に
消息を絶っていた女性(27)が、19日までに
保護されたという。

+++++++++++++++++++++++

カンボジア北東部のラタナキリ州というところで、18年前に消息を絶っていた女性(27)が、1
9日までに保護されたという。

ジャングルでの生活が長く言葉はほとんど話せず、全裸で動物のように、4本足で歩くなど、
(野生化)していたという。

女性は1989年、水牛の世話で外出したまま行方不明となっていたが、今月1月13日(07
年)、同州の村で米を盗もうとしているところを発見された。腕の古傷の位置が一致することな
どから、女性は地元の警察官(45)の娘とみられているという。

 9歳で行方不明となった少女は、18年後、野生化した「獣人」(ヤフーニュース)になっていた
というわけである。

 保護されたのは、ロチョム・プチエンさんという女性。長いジャングル生活で、人間の言葉も
ほとんど話せなくなっていた。自分の腹をたたいて空腹を伝えたり、衣服を着せてもビリビリと
引き裂いてしまう始末。起きているときは、ただ座って左右をキョロキョロ見回し、家族のすきを
見ては、衣服を脱ぎ捨て、ジャングルに戻ろうとするという。

 ロチョムさんは89年、ラタナキリ州で家畜の水牛の群れを世話するために外出したまま消息
を絶った。同州周辺では当時、子供たちが行方不明になる事件が多発。ポル・ポト派の残党
が関与しているともうわさされていたという。(以上、ヤフーニュースより)。

 この話に似た話に、「野生児」がいる。生後まもなくから、人間の手を離れ、人間以外の動物
などによって育てられた子どもをいう。よく知られた例に、インドで見つかった、オオカミ少女、
それにフランスで見つかった、ビクトールという名前の少年がいる。

 今回、カンボジアで見つかった女性の例を、これららの野生児と並べて考えてみると、人間
は、人間によって育てられてはじめて、人間になるということ。それがよくわかる。もし人間が人
間によって育てられなかったとしたら、人間は、動物と同じか、動物のままで終わってしまうとい
うこと。

 さらに今回見つかった女性のばあい、(本当のその女性が、9歳で行方不明になったとする
なら)、9歳までにつくられた(人間)そのものが、そのあとの生活で、消えてなくなってしまったと
いうことになる。9歳といえば、小学3年生である。本当に、言葉まで、ほとんど忘れてしまった
というのだろうか。

 もしこの話が事実であるとするなら、人間は、そのつど、絶え間なく人間と接し、人間どうしの
感化を受けなければ、人間を維持できないということになる。これは極端な例かもしれないが、
ひとり山の奥にこもって仙人のような生活をしていたのでは、人間は人間であることを維持でき
ないということにもなる。

 たとえば人格の完成度をみるときは、(他者との良好な人間関係)(EQ論)が、ひつとの重要
なポイントとなる。

 人間は、他者と良好な人間関係を保つことによって、人間として立場を維持することができ
る。そうでなければ、そうでない。結論を先に言えば、そういうことになる。

 が、それだけではない。

 人間といっても、そこには、(限界)がある。「私は、イノシシやタヌキのような動物とはちがう」
と思っている人でも、神のようになった人から見れば、動物たちと、それほど、ちがわない。ま
た、そう見えるだろう。

 たとえば、夜のバラエティ番組をにぎわす、お笑いタレントたちがいる。演技でそうしているの
か、それとも、本当にそうであるのかは私にはわからない。わからないが、ああいうタレントた
ちを見ていると、「あれが同じ人間か」と思う前に、自分が同じ人間であることが、情けなくな
る。

 仮にああいう世界だけで、人間が育ったとするなら、人間も、そのレベルで、成長が止まって
しまうにちがいない。それがここでいう(限界)である。つまり「私は私」と思っている人でも、そ
の(限界)の中で右往左往しているにすぎない。

 これもまたひとつの例だが、ケアセンターで、何かの作業をしている老人たちを考えてみよ
う。

 若いときには、それなりの人たちであったかもしれない。そういう老人たちが、指導員の指導
に従って、粘土細工をしたり、切り紙をしたりしている。私が見たときには、粘土細工で、イノシ
シを作っていた。

 当然と言えば、当然かもしれないが、そういうところには、本を読んだり、パソコンを叩いたり
している老人はいない。しかし考えてみれば、たいへん、おかしなことである。人間が、自ら、自
分の(限界)をさげてしまっている。わかりやすく言えば、9歳前後(?)。カンボジアで見つかっ
た女性が行方不明になった年齢レベルまで、自分たちをさげてしまっている。

 では、どうしたらよいのか? ……というより、これは私たちの年代の者にとっては、切実な
問題である。

 私自身は、私がもつ(限界)のレベルをあげたいと願っている。しかし私の周囲の人たちがみ
な、その(限界)の中で生きているとするなら、私ひとりだけが、その(限界)を超えるのは、容
易ではない。(限界)を超えようとすると、周囲の人間たちが、あたかもジャングルのようになっ
て、私の道をふさぐ。

 たとえばいつか私もケアセンターに入ったとき、「私は、イノシシ細工などしたくない」「私は、
パソコンを叩きたい」などと言ったら、どうなるのだろうか。みなは、それを許してくれるだろう
か。いや、その前に、それだけの集中力と能力を維持できるだろうか。

 私たちは、カンボジアで見つかった女性を想像しながら、「私たちは、その女性とはちがう」と
思う。しかし、実のところ、それほどちがわないのではないのか。その女性は、「自分の腹をた
たいて空腹を伝えたり、衣服を着せてもビリビリと引き裂いてしまう始末。起きているときは、た
だ座って左右をキョロキョロ見回し、家族のすきを見ては、衣服を脱ぎ捨て、ジャングルに戻ろ
うとする」(報道)という。

 様子はちがうとしても、頭のボケた私の兄なども、レベルとしては、同じようなことをしている。
自分の思いどおりにならなかったりすると、立ったまま便を漏らしてみせたり、腹が減ると、自
分だけさっさと食事をすませてしまう、など。私の家にいたときも、何かの拍子に家を飛び出
し、2メートルもある高い塀を飛び降りたりした。

 話がこみいってきたが、私たちはいつも、(限界)の中で生きているということ。ただ、みなが
みなそうであるから、その(限界)に気づかないでいるということ。カンボジアで見つかった女性
についての記事を読んだとき、私はそんなことを考えた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 獣人
 野生児 限界 限界論)

【付記】

 大切なことは、良好な人間関係を保ちつつ、よりレベルの高い人たちと、交際していくというこ
と。つまり自分がもつ(限界)のレベルをあげるということ。

 このことは、反対の経験をすると、よくわかる。

 先日も、ある女性(70歳くらい)が、私に何かを説教しようとした。見るからにレベルの低そう
な人だった。しかしよく知っている人なので、それなりに話には耳を傾けたが、あのとき感じた
不快感は、いったい、何だったのか。

 その女性は、「神や仏に悪人はいない」という論理(?)のもとで、ありとあらゆる新興宗教に
手を染めていた。それはそれでおもしろい考え方かもしれないが、その愚かさ(失礼!)が、私
には、手にとるようにわかった。

 安っぽい論理に、薄っぺらな人生観。無知、無学、無教養。そういう女性に、「ご先祖様あっ
ての、あなたでしょ」と言われたりすると、「ハア〜」と言っただけで、つぎの言葉が出てこない。

 つまりその女性は、自分ではそうは思っていないかもしれないが、すでに身を、半分、ケアセ
ンターに置いているようなもの。そういう女性が、この私を、無理やり、そういう世界に、閉じ込
めようとする。私が感じた不快感は、そういうところから生まれたのかもしれない。
 
 だから……。これからはさらに、さらに、自分をみがいていかねばならない。それがとりもなお
さず、自分がもつ(限界)を、上のレベルにもっていくということになる。

(追記)

 なおその女性は、最近、私について、こんなことを言っているそうだ。数年前、年賀状をくれ
たのだが、私は、返事を書かなかった。それについて、「(年配者である)私に、返事をくれない
のは、失礼だ。教育について論じている者にしては、あるまじき行為」と。

 私は、ただ、そういう女性を相手にしたくないだけ。ハハハ。
 

Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司 

最前線の子育て論byはやし浩司(1746)

●内政不干渉の大原則

+++++++++++++++

他人の子育てには干渉しない。
それぞれの家には、それぞれの
家の、人に言えない事情がある。

その事情を無視して、あれこれ
干渉するのは、失礼というより、
タブー。

+++++++++++++++
                
 他人の子育てには干渉しない。

この世界には、内政不干渉の大原則というのがある。つまりこの世界ほど、『言うは易く、行う
は難し』という世界は、ない。こんなことがあった。

 私の義姉の長男が、小学校入学を前に、急性のネフローゼ(腎機能障害)になり、そのため
市内の総合病院に緊急入院することになった。姉は、隣町に住んでいたから、毎日電車でこ
の町へやってきて、そこからバスで病院へ通った。週に数度しかこなかった義兄ですら、その
ため体重が四〜五キロ減ったというから、それがいかにたいへんだったかがわかる。長男は
絶対安静のまま、数か月入院した。

 で、やっとのことで、本当にやっとのことで、姉は退院を入学式に間に合わせた。「何としても
入学式までに」という思いが、天に通じた。が、はじめての参観日でのこと。担任の先生が姉を
呼びとめて、こう言った。「お宅の子は左利きです。親がちゃんと指導しなかったから、こうなっ
てしまったのです」と。

学校から帰る道すがら、姉は、「左利きぐらいが、何だ!」と、泣けて泣けてしかたなかったとい
う。

 他人の子育てに干渉して、「しつけがなっていない」とか言うのは、たいてい子育ての経験の
ない人だ。自分で子育てをしてみると、そのたいへんさがよくわかる。そしてそれがわかればわ
かるほど、口が重くなる。だいたいにおいて、思うようにならないのが子育て。あの『クレヨンし
んちゃん』の中にも、こんなシーンがある(V7巻冒頭)。

 母親のみさえが庭掃除をしていると、二人の男子高校生が通りかかる。それを見て、みさえ
が、「何よ、あのかっこう。だらしないわね。親の顔を見てみたい」と。すると今度はその高校生
たちが、こう叫ぶ。「な、何だ、こいつ……。親の顔が見てみたい」と。みさえがその方向を見る
と、しんのすけが、チンチン丸出しで歩いてくる……。

 少し話が脱線したが、人はそれぞれの思いの中で自分の子育てをする。それが正しくても正
しくなくても、その人はその人で、子どもを懸命に育てている。その懸命さを少しでも感じたら、
その人の子育てを批判してはならない。

私たちがせいぜいできることと言えば、その親の身になって、その心を軽くするようなことを言
ったり、アドバイスすることでしかない。この私とて、この三〇年間貫いている主義が、一つ、あ
る。それはいかにその子どもに問題があったとしても、親の方から聞いてくるまでは、それを指
摘しないということ。

仮に相手が、「最近、うちの子、どうでしょう」と話しかけてきても、すかさず、「おうちではどうで
すか」と聞き返すことにしている。つまりそうすることで、親が何をどの程度まで知りたがってい
るか、さぐりを入れるようにしている。一見、冷たい指導法に見えるかもしれないが、それは子
育てをしている親に対する、私の敬意の表れでもある。

 子育てには、その人の全人格が凝縮されている。ものの考え方、価値観、思想など、すべて
がそこに集中する。だから相手の子育てを批判するということは、その人自身を批判すること
に等しい。だから、内政不干渉。この言葉のもつ意味の重さを理解していただければ、幸いで
ある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 左利
き 利き手 左きき)

Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●因果応報

+++++++++++++++++

子育ては、子どもを育てることではない。
子どもに、子どもの育て方を教える。
それが子育て。

+++++++++++++++++

 仏教では、こう教える。『因果応報』と。ものごとには原因と結果があるという意味だが、これ
を教育の世界では、「世代伝播」という。

たとえば暴力に慣れた子どもは、親になると、やはり暴力的な親になりやすい。育児拒否や家
庭崩壊を経験した子どもは、親になると、家庭作りに失敗しやすい、など。

反対に、頭のよい親の子どもは、概して頭がよい。いや、これは伝播というより、遺伝によるも
のか。つまり子育てというのは、よきにつけ悪しきにつけ、世代から世代へと、伝播しやすいと
いうこと。いろいろな例がある。

 ある父親は自分の娘を抱きながら、「これでいいのか」「どの程度、抱けばいいのか」「抱きグ
セがつくのではないか」と悩んでいた。自分自身が、いろいろと事情があって、親に抱かれた経
験がなかった。あるいは別の親は、子どものささいな失敗を大げさにとらえては、子どもを殴り
飛ばしていた。

私が「何も、そこまでしなくても」と言うと、その父親は、「ワシは、まちがったことが大嫌いだ。た
とえ我が子でも、許さない」と。その父親も、不幸にして不幸な家庭に育っていた。

 もしあなたが子育てをしていて、どこかにぎこちなさや、不自然さを感じたら、あなた自身の
「親像」を疑ってみる。多分、あなたの中に、しっかりとした親像が入っていない。もっと言えば、
あなたは「親」というものが、どういうものであるか知らないまま、今、子育てをしている。子育て
は、自分の中に、「育てられた」という経験があって、はじめてできる。もう少し端的に言えば、
子育ては本能ではなく、体験によってできるようになる。

 ところで愛知県の犬山市にあるモンキーセンターには、頭のよいチンパンジーがいるという。
人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押しながら、会話をするわけだ
が、そのチンパンジーが、一九九八年の夏、妊娠した。

が、飼育係の人が心配したのは、そのことではない。「はたしてこのチンパンジーに、子育てが
できるかどうか」(中日新聞)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな
い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る
親もいるという。いわんや、人間をや。

 さて本論。それぞれの人には、それぞれの過去がある。それはそれだが、その前提として、
完ぺきな過去をもった人は少ない。言いかえれば、どんな人でも、何らかの重荷を背負って生
きている。子育てについて言えば、心やさしい両親の愛に包まれて、何の不自由もなく育った
人のほうが、稀だ。つまり、どんな人でも、それぞれの問題をかかえている。しっかりとした親
像がないからといって、自分の過去をのろってはいけない。

 そこであなた自身を振り返ってみてほしい。あなたはどんな子育てを受けただろうか。つまり
どんな親像が入っているだろうか。もしあなたの過去に「暗い部分」があったら、それはあなた
の代で断ち切る。子どもに伝えてはいけない。それを昔の人は、「因果を断つ」と言ったが、方
法は簡単。その暗い部分に気づくだけでよい。それだけで、この問題の大半は解決する。一
度、じっくりと、自分を観察してみてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親像
 因果 因果応報)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●気になる新築の家のキズ

++++++++++++++

自分の子どものことで
神経質になる母親たち。

しかしそれも度を越すと……

++++++++++++++

 新築の家のキズは、気になる。私も少し前、ノートパソコンを通販で買ったが、そのパソコン
には、最初から一本のすりキズがついていた。それがそのとき、私は気になってしかたがなか
った。

子育てもそうだ。子どもが年少であればあるほど、親は子育てに神経質になる。「英語教室の
先生はアメリカ人だが、日系二世だ。ヘンな発音が身についてしまうのでは」「こっそりと参観に
行ったら、一人で砂場で遊んでいた。いじめにあっているのでは」「授業中、隣の子と話をして
いた。集中力がないのでは」など。

それはわかるが、度を超すと、先生と親の信頼関係そのものを破壊する。いろいろなケースが
ある。

 ある幼稚園の若い先生は、電話のベルが鳴るたびに、心臓が止まる思いをしていた。また別
のある幼稚園の園長は、一人の親からの小型の封筒の手紙が届くたびに、手を震わせてい
た。こうした症状がこうじて、長期休暇をとっている先生や、精神科の医師の世話になっている
先生は多い。どこの幼稚園にも一人や二人は、必ずいる。

 親から見れば、子どもを介しての一対一の関係かもしれないが、先生から見ると、三〇名の
生徒がいれば、一対三〇。一人や二人の苦情には対処できても、それが四人、五人ともなる
と、そうはいかない。

しかも親の欲望には際限がない。できない子どもが、ふつうになったとしても、親は文句を言
う。自分自身に完ぺきさを求めるならまだしも、先生や教育に、完ぺきさを求める。そしてささ
いなことを大げさにしては、執拗に、先生を責めたてる。

ふだんは常識豊かな人でも、こと子どものこととなると、非常識になる人は多い。私もいろいろ
な経験をした。私が五月の連休中、授業を休んだことについて、「よそのクラスは月四回の指
導を受けている。私のクラスは三回だ。補講せよ」と言ってきた父親(医師)がいた。私がそれ
を断わると、その親は、「お前を詐欺罪で訴えてやる。ワシは顔が広い。お前の仕事をつぶす
ことぐらい、朝飯前だ」と。

また別の日。たまたま参観にきていた父親に、授業を手伝ってもらったことがある。しかしあと
で母親(妻)から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「よくもうちの主人に恥をかかせてくれた
わね! どうしてくれるの!」と。

ふつうの電話ではない。毎日、毎晩、しかもそれぞれの電話が、ネチネチと一時間以上も続い
た。この電話には、さすがに私の女房もネをあげた。電話のベルの音がするたびに、女房は
ワナワナと体を震わせた。

 あなたが園や学校の先生に、あれこれ苦情を言いたい気持ちはよくわかる。不平や不満も
あるだろう。しかし新築の家のキズはキズとして、あきらめることはサッとあきらめる。忘れるこ
とはサッと忘れる。子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、神経質な過関心は、思
い出を見苦しくする。あなた自身や子どもの健康にも、よくない。

よけいなことかもしれないが、子どもはキズだらけになってはじめて、たくましくなる。キズつくこ
とを恐れてはいけない。私のパソコンも、今ではキズだらけ。最初のころは毎日、そのつどカバ
ーをかけてしまっていたが、今では机の上に出しっぱなし。しかし使い勝手はぐんとよくなった。
子育ても、それと同じ。今、つくづくとそう思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 神経
質になる親たち 神経質な親)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●己こそ、己のよるべ

+++++++++++++++

自由とは、「自らに由る」ということ。
つまりは、自分のことは、自分でする。

勝手気ままに、好き勝手なことを
するのを、自由とは言わない。

+++++++++++++++

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由 己に由る)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●帰宅拒否をする子ども

+++++++++++++

不登校と同じくらい深刻な問題。

それが帰宅拒否。

今、その帰宅拒否の子どもが、
ふえている!

+++++++++++++

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。「幼稚園で帰る時刻になると、うちの
子は、どこかへ行ってしまうのです。それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにき
てほしいと。どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。そこで皆でさがすのですが、お
かげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。

私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、
家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。幼児の
ばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれて、当
然、家庭の役割も変わってくる。また変わらねばならない。

子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。つまり家庭
が、「やすらぎの場」でなければならない。が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、い
つもこう言っていた。「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切に
しています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』というのがある。つまり人というの
は、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるとい
うことを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡
単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関
係にある。しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこか
へ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。もう少
しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。毎日のように寄り道や回り道をしてくる。あるいは外出や外泊が多いということであれ
ば、この帰宅拒否を疑ってみる。

家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなこと
を避けるための行動をする。帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という
思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子ども
が明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということ
になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 帰宅
拒否 帰宅を拒否する子ども 寄り道 子供の寄り道)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1747)

●今朝・あれこれ(1月21日)

+++++++++++++++++++

今朝は、どんよりとした曇り空。
風は弱く、冬なのに、どこか生暖かい。

水槽の流れる水の音だけが、シンシンと
居間にひびく。

+++++++++++++++++++

●インチキ放送

 大阪にあるKテレビ放送局が、またまたインチキ番組を流した。「糸引き納豆は、ダイエット効
果がある」(「あるある大辞典2」)という番組だった。

 たまたま私も、その番組を見た。しかしその番組は、すべてインチキだったというから、すご
い! ……と同時に、静かな怒りが私の心の中に充満した。「また、やられた!」と。

 たしか番組の中では、毎日納豆を食べた人と、食べなかった人の体重を、比較していたと思
う。ともに3人ずつ出演したと思う(私の記憶)。

 結果、毎日食べた人は、3キロ前後の減量に成功。そうでない人は、変化なし、と。

 しかしこれらすべてが、やらせだったとは!

 新聞報道によれば、

(1)中性脂肪が正常値になった……実際には、測定などしていなかった。
(2)納豆を食べた人と、食べなかった人の血液比較……架空のデータ。
(3)アメリカの大学教授の意見……別の研究者の論文を発表。
(4)出演者の写真……まったく無関係の人たちの写真を発表、だそうだ(中日新聞)。

 とくに注意をひくのは、「日本の方々にも身近な食材で……」と、あたかも、その教授が述べ
たかのようなコメントを、日本語訳で流したこと。「アメリカに住む教授だから、アメリカまで、耳
に届くことはないだろう」という、制作者の思惑が、よく見てとれる。

 私もだまされたという点で、このインチキ番組を見過ごすことができない。しかもそれがインチ
キと発覚したのは、何かの偶然によるという。つまりこうしたインチキは、氷山の一角と考えて
よい。

 中日新聞は、「納豆ダイエット、ねつ造」「データ測定なし」と見出しにかかげている。しかしそ
れにしても、悪質! だからといって、これからも納豆を食べるのをやめるわけではないが、し
かしそれを食べている自分が、アホに見えてきた。

 その番組のあと、納豆を食べながら、「納豆って、ダイエット効果があるんだよ」とワイフに話
した私。そんな私に対して、だれが、どう責任を取ってくれるというのか。

(付記)

 日本人は、小ズルイね。ホント。正義なんて、子どものころから、教えていないもの。へたに
正義感を燃やしたら、受験競争そのものから、はじき飛ばされてしまう。そんな体質が、こうし
た事件に集約されている。


●32インチ、液晶テレビ

 「10万円を切ったら買おう」と心に決めていた。それが、昨日、9万4000円になった。だか
ら、買った。32インチ、液晶テレビ。

 とうとう我が家も、液晶テレビ時代! 

 日本のI社製だが、箱には、「Made in Taiwan」とあった。私も台湾、大好き。日本の新幹
線を走らせてくれた。台湾の人たちも、日本びいき。液晶テレビを買って、何となく、日台友好
に、一役買った感じ。(韓国製など、ぜったいに、買わないぞ!)

 さっそくDVDで、映画をみる。『未知との遭遇』。手元には、それしかなかった。

 で、今日は日曜日。これからビデオショップへ行って、何かよい映画を借りてくるつもり。ワイ
フは、「うちが映画館になったみたい」と、ひとり、はしゃいでいる。

 
●介護

 今日は車椅子に乗せて、母を散歩に連れていくつもりだった。しかしあいにくの曇天。それに
先ほど様子を見に行ったら、ソファに座ったまま、眠っていた。

 症状は、一進一退。

 数日前は、ベッドからひとりで起きあがり、排便ができた。おむつを濡らさなかった。しかしそ
れが今日はできない。ベッドから体を起こすこともできない。

 昨日、担当の療法士の先生に相談すると、「脳の中に問題があるようです」と。つまり三半規
管に何か、故障が起きているらしい。

 今のところ、大きな問題はない。日々、平穏、無事。こと母だけを見ていると、のんびりと、時
間が流れている。

 そうそう昨晩は、夜中の3時に、ベルがなった。ワイフと見にいくと、足が、パイプにひかかっ
て、抜けなくなっていた。それで母は、ベルを鳴らした。

 で、今朝、そのことを母に話すと、「覚えておらん」と。ボケてはいないが、記銘力は確実に衰
退しているようである。

 今年、90歳。少し前、「100歳までは、だいじょうぶだね」と母に言ったが、100歳までは無
理かもしれない。私の思いも、そのつど、一進一退する。
(1月21日)

(付記)

 そうそう今日の夕方、母のおむつを替えているときのこと、こんなことがあった。

 母は、少しでもおむつが濡れると、それをいやがり、それを外にひっぱり出してしまう。おかげ
で、パンツまで便で汚れてしまう。コストのことを話すと、おむつは、1枚40円前後。パンツは、
1枚、100円前後。合計で、140円前後。

私「あのなあ、お前、1回ごとにパンツとおむつを替えていたら、1日に、それだけでも1000円
になってしまうぞ。少しくらい便がもれても、そのままにしておけ」
母「ありがと」
私「ありがとうなんて、言わなくてもいい。わかったか?」と。

 そこでまた同じおむつをはめようとすると、片方の手で、それをひっぱって、抜こうとする。

私「抜くんじゃない。このままにしておけ」
母「ありがと」
私「うるさいなあ。そんなお上手は、言わなくていい」と。

 と、そのとき、私が母のしりのほうからおむつをあてようとしたら、プッと、母がおならを出し
た。

私「バカ! 息子の顔に、おならをかける親が、どこにいる。少しはがまんしろ」
母「ありがと」
私「だからさあ、ありがとうは、もういい。黙ってろ」と。

 毎日が、こんな調子。居間にもどると、長男とワイフがそこにいた。

私「あのなあ、ぼくね、母におならをぶっかけられた。ハハハ」
ワ「あら、それはとんだ災難ね」
私「そうだよ。おむつを、すぐ取り替えようとする。あれじゃ、いくつおむつがあっても、足りない
よ」
ワ「そうね」
私「それでさあ、ぼくね、母の尻に、消臭スプレーをブシュッとかけてやった。そしたら母ったら
ね、ヒャーッて声を出した。ハハハ」と。

 それを聞いて、長男が笑った。ワイフも笑った。

 今夜から、しばらくパソコンと連動した監視カメラを設置することにした。夜中に、どんな行動
をしているか、それを知りたかったからである。つまり、私たちの見ているところでは、母は、ベ
ッドから起きあがることさえできない(?)。しかし夜中だと、自分で起きて、用を足して、そして
またベッドに戻ることができる。

 どうしてだろう? 昔から母は、他人の目を、鋭く意識する。他人がそこにいるだけで、態度
がガラリと変わる。そういう母を、私はよく知っている。母の行動は、いろいろと謎に包まれてい
る。

 我が家は、何かにつけて、ハイテクなのだ! 介護は、まさに知恵比べ。母を知るためには、
まずその行動を観察する必要がある。

 私「動きを感知すると、自動的に録画が始まるようにしておいた。それを見れば、母が夜中に
どんな行動をしているか、わかる」と。

 それにしても、母のおならは、臭かった! ホント!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1748)

【今朝・あれこれ】

++++++++++++++

浜松のよいところ。
気候が温暖なこと。おまけに
冬場は、毎日、快晴つづき。
朝起きて、カーテンを開けたとき、
真っ青な空が、目の中に
飛び込んでくる!

そういうとき、心底、こう思う。

浜松に住んでよかった!、と。

++++++++++++++

●宮崎県のS新知事

 宮崎県で、新知事が誕生した。お笑いタレントのS氏が、その新知事になった。お笑いタレン
トと、2人の中央官僚との戦いとなった。結果、S氏が、新知事に!

 いったい、この国の民主主義は、どうなっているのか? もともと血と涙と汗で勝ち取った民
主主義ではない。簡単に言えば、戦後、アメリカから移植されたもの。だからその価値がわか
らない。

 いまだにあの封建時代を美化してやまない国である。NHKの今度の大河ドラマは、『風林火
山』だそうだ。ちょうど37年前に、同じ題名の映画が作られた。私は、その映画を、オーストラ
リアで、みた。領事館主催の映画会でのことだった。となると、日本は、この37年間に、いった
い、何を学んできたのかということになる。

 ある日、突然、中央から、有名人がやってくる。それまでの政治実績はゼロ。地元で、何かの
活動をしたという実績もゼロ。そういう有名人が、さまざまな手を使って、地元民であることをア
ピールする。パフォーマンスをしてみせる。方言を使って演説してみせたり、畑にクワを入れて
みせたりする。

 地元民は、それですっかり有頂天。

 これを民主主義への冒涜(ぼうとく)と言わずして、何と言う。民主主義に対する、一片の畏敬
(いけい)の念すらない。政治家にもなければ、選挙民にもない。


●都会コンプレックス

 この浜松にも、都会コンプレックスというのがある。「東京から来た」というだけで、何でもあり
がたがる。そんな風潮が、今でも色濃く残っている。文化というのは、すべて、東京という中央
から、地方へ流れてくるものと考えている人も少なくない。

 それもそのはず。日本は、奈良時代の昔から、中央集権国家。その中央集権意識が、骨の
ズイのズイまでしみこんでいる。それはそれでしかたないとしても、その一方で、地元の価値を
認めない。身近にすぐれた文化や人物がいたとしても、それを認めない。認めようともしない。

 一方、中央は中央で、「中央で名を売って、地方で稼げ」が、合言葉になっている。地方な
ど、彼らの視点からすれば、ただのドブ(=下水溝)。タレントの世界では、地方で稼ぐことを、
「ドブさらい」と言う。

 たとえばNHKでは、有名人でも、まったくの無名人でも、出演料は定額のx千円(30分単位)
と決まっている。そういうNHKに、タレントたちは、ときに、数百万円もかけて、出演する。つま
り、それだけの価値があると判断するから、そうする。

 端的に言えば、中央で投資した分は、地方で回収する。それが彼らの論理でもある。

 で、この都会コンプレックスは、民主主義とは、反比例の関係にある。(中央)と(民)の力関
係と言ってもよい。「国あっての民」なのか。それとも、「民あっての国」なのか。

 民主主義国家では、当然、「民あっての国」と考える。「地方あっての国」と考えてもよい。民
衆の力が、上へ、上へと凝集していき、その結果として、「国」が生まれる。

 しかし中央集権国家では、これが逆になる。「国あっての地方」「国にあっての民」となる。そし
て悲しいかな、民そのものが、「それでいい」と、それを受けいれてしまう。その結果のひとつ
が、ここでいう都会コンプレックスということになる。

 つまり民主主義への意識が弱くなればなるほど、都会コンプレックスは、強くなる。

 むずかしい話はさておき、あなたは本当に東京文化がすぐれていると思うか? 大阪文化で
もよい。そのあたりから、もう一度、私たちの身のまわりを見つめなおしてみようではないか。


●母の介護録

 今日、ビデオショップで、2本のビデオを借りてきた。『東京物語』と『二十四の瞳』。ともに19
50年代の作品である。

 そのビデオを母に見せてやった。ベッドの横に台を置き、その上に、テレビを載せた。が、私
は、そこで仕事に。

 あとで、ワイフに、「(母は)見ていたか?」と聞くと、「1時間くらいは見ていたかな」とのこと。
そのあとは、ベッドに入って、寝てしまったという。

 夜、母の部屋に行き、「ビデオを見たか?」と聞くと、「見なかった」と。

私「東京物語という映画を見ただろ?」
母「見ていない」
私「活動映画だぞ」
母「覚えておらん」
私「あのなあ、昼間にテレビを見せてやっただろ。東京物語という映画を見せてやっただろ」
母「見とらん」と。

 少しは喜ぶかと思ったが、これは失敗。ムダだったとは思わないが、しかしそれに近い。

 考えてみれば、喜ぶはずがない。たとえば私が90歳になったとする。そのとき、息子のだれ
かが、私に、石原裕次郎や美空ひばりの映画を見せてくれたとしても、私は喜ばないだろう。
『ベン・ハー』や、『サウンド・オブ・ミュージック』だったら、ひょっとしたら喜ぶかもしれないが…
…。つまり、母にすればいらぬお節介だったかもしれない。

 今度は、『君の名は』をどこかで借りてきて、見せてやろう。それでだめなら、ビデオはあきら
める。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1749)

【母の介護】

++++++++++++++++++

私の母は、何をしてやっても、またどんなばあいでも、
「ありがと」と言う。

食事を運んでやると、「ありがと」、
テーブルをセットしてやると、「ありがと」、
毛布をひざにかけてやると、「ありがと」と。

++++++++++++++++++

●卑屈な心

 もともと私の母は、きわめて依存性の強い女性である。生涯にわたって、一度とて、店に立っ
て、仕事をしたことがない。稼業は自転車屋だったが、一度とて、ドライバーを握ったことがな
い。

それが女性として、あるべき姿と信じていた。「内助の功」という言葉があるが、まさにその言葉
に徹して生きてきたような人である。

 しかし人生観という人生観を、まったく感じさせない人でもあった。生まれ育った土地柄もある
のだろう。親意識だけがやたらと強く、ついで世間体意識も強かった。見栄っ張りで、虚栄心も
強かった。強いというより、世間体の中だけで生きてきたような人だった。

 その母が、今は、「ありがと」「ありがと」だけを繰りかえす。つまり、「ありがとう」「ありがとう」
と。しかしそれで本当に感謝の念をもっているかというと、それはそうではない。口ぐせのような
もの。あるいは、それを口にすることによって、最低限の人間関係を保とうとしている。

私「あのなあ、ありがと、ありがとって、そんなお上手は、この家では言わなくていい」
母「ありがと」と。

 私は母に靴下をはかせながら、ふと、「母のもつこの卑屈さは、どこから生まれたものだろう」
と考えた。心を開いているようで、その実、心は閉じたまま。息子の私にすら、少なくとも、この
40年間、心を開いたことがない。

 私や、ワイフを、まるで他人のように思っている。その他人をうまく動かすために、「ありがと」
という言葉を、連発する。

●私と母

 私と母の間には、いろいろあった。どこの親子にも、それなりの過去はあるのかもしれない。
が、ともかくも、いろいろあった。この30年間、あるいは、40年間、私にとって、心休まる瞬間
は、1日とてなかった。40代のころは、郷里に近づくにつれて言いようのない不安感に襲われ
た。お経を唱えながら、郷里に入ったこともある。そういう毎日だった。

 が、すべてを受けいれた。許した。そして過去を忘れた。私はそこにある現実を、自分のもの
とした。

 人にはそれぞれ無数の糸がからんでいる。そしてその糸が、その人の進むべき方向を決め
る。それを人は、「運命」という。その運命を感じたら、すなおに身を任すのがよい。運命をのろ
えば、運命は悪魔へと変身して、あなたを襲う。しかし反対に笑えば、運命は、シッポを巻い
て、あなたから逃げていく。

 私は、母の卑屈さを笑った。どうであれ、つまり現在の母が、そこにいる母。うらみも、つらみ
も、忘れた。心から消した。

 その母は、今、私に何を教えようとしているのか。

 昨日も、つまらないことだが、ケアセンターの職員の人と契約をかわしているとき、こんなこと
を考えた。

●母に教ええられること

 人は子どもを育てながら、自分の過去をみる。しかし人は、親を介護しながら、自分の未来を
みる、と。

つまり親の介護をしながら、いつか自分が介護される立場になったとき、介護する側の者の気
持ちを、今、学習しているのだ、と。

 ケアセンターの人との契約書には、万が一の事故について、ことこまかく、記(しる)されてい
た。(人の命)がかかわる問題であるだけに、それは当然のことだろう。しかし私はこう言った。

 「決して、愛情がないわけではありませんが、年齢も年齢ですから、何かあっても、それなり
の覚悟はしています」と。

 つまりそうした思いは、私が反対に介護を受ける側の立場になったとき、私を介護する者た
ちの思いと考えてよい。母の(命)といっても、それはそのまま、自分の(命)を意味する。ある
年齢がきたら、私は、毎日、死を覚悟しながら生きるようになるだろう。それが事故であって
も、あるいは、だれかの不注意であっても、しかたのないこと。それまでは懸命に生きる。

そうそう私の母も、もう少し若いころは、いつもこう言っていた。「私も、便をもらすようになった
ら、おしまい。それまでに、いさぎよく死ぬ」と。しかしそんな母でも、母は母なりに、今、懸命に
生きている。

 話をもとにもどす。

●ワイフとの会話

 今の母が、母らしさをかろうじて保っているのは、母の気位の高さではないか。いまだに、自
分のことを、姫様か何かのように思っている。少し前までは、それが、私にとっては不愉快だっ
たが、今になってみると、子どもじみていて、かわいい。どうせ相手は、相手にしても意味のな
い、老人である。やりたいようにさせておけばよい。言いたいように言わせておけばよい。

 デイサービスの人たちが母を迎えにくるまで、遅い朝食を、食べた。私は、ワイフといつもの、
会話をした。

私「母は、母なりに、孤独と絶望の毎日を送ったのだろうね。それがあの『ありがと』という言葉
になったのだと思う」
ワ「卑屈な心を、昇華できなかったということ?」
私「簡単に言えば、卑屈な心が、姿を変えた。ぼくには、そう見える。『ありがと』だけ、口にして
いれば、最低限の生活は、保障される。母は、無意識のうちにも、それを口にすることによっ
て、自分の(命)を守ろうとしている」

ワ「かわいそうな人ね。でも、そういう人を、私たちは、どうすればいいのかしら」
私「そう、かわいそうな女性だ。だから、ぼくたちは、母を憐(あわ)れんでやればいい。『憐れ
み』の『憐れみ』だ。『哀れみ』ではない。マタイ伝の中にも、『人を憐れむ人は幸いなれ。なぜな
ら、あなたは人から憐れみを受けるだろう』とある」
ワ「それをあなたのお母さんは、あなたに教えているというわけ?」

私「そう。ぼくは、そう思う。どんな人でも、ぼくたちのまわりの人たちは、ぼくたちに何かを教え
ようとして、そこにいる。体に無駄な器官など、ひとつもないように、ぼくたちのまわりには、無
駄な人は、一人もいない」
ワ「でも、私は、あなたのお母さんのように、卑屈な人には、なりたくないわ」
私「そう。それで釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使った。日々の精神の鍛錬こそが、
大切だとね」

ワ「考えるということ?」
私「そうだけど、考えるだけでは足りない。ぼくは、方向性が大切だと思う。仏教にも、『輪廻彷
徨(りんね・ほうこう)』という言葉がある。考え方をまちがえると、同じところをグルグルと回って
いるだけ、ということになりかねない」
ワ「それはいやね」
私「そう、それはまさに時間の無駄。人生の無駄。そうなる。だから、そこはだれか、指導者に
導いてもらわなければならない。神とか、仏とか……。しかしぼくたちは、信じていない。自分に
頼るしかない。だから考える。考えながら、一つずつ、自分の上に自分を塗り重ねていく。それ
しかない」

ワ「できるかしら?」
私「やってみるしかない。……それにね、もし、本当に神や仏がいるとするなら、ぼくたちが望
まなくても、向こうから導いてくれると思うよ。ぼくの勝手な思いかもしれないけど……」と。

 今、まさに、私は、母というより、母の向こうに立つ(人間)に、いろいろと教えられている。毎
日が、その連続。それは新鮮な驚きと言ってもよい。母を批判しているのではない。そんなチッ
ポケな心は、もうとっくの昔に捨てた。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●カルトの洗脳

++++++++++++++++

カルトに洗脳された人たちは、
それこそ、とんでもないことを
言い出す。とんでもないことをする。
その前に、とんでもない
ことを信ずる。

以前、死んでミイラ化した人を、
「まだ生きている」とがんばった
教団がいた。

洗脳のこわさは、そこにある。
カルトのこわさは、そこにある。

++++++++++++++++

 「洗脳」といっても、何も「脳を洗う」わけではない。ふつう、洗脳というのは、つぎのような方法
を使って、なされる。

 私たちは、日常生活の中で、無数の(思い込み)をもっている。それを(ビリーフ)という。たと
えば、「納豆は体によい」「誠実であることこそが、他人とうまくつきあう方法である」「兄弟は仲
よくしたほうが、よい」などなど。

 これらのビリーフを分類していくと、たとえば(1)生活に関するもの、(2)健康に関するもの、
(3)行動に関するもの、(4)生き方に関するものなどに分けられる。(ほかにもいろいろある
が、それは問題ではない。)

 そこで洗脳する側、つまりカルト教団は、だれかをつかまえると、周辺の、どうでもよい分野
から、このビリーフを、自分たちにとって、都合のよいビリーフに置き換えるところから始める。
簡単に言えば、あたりさわりのない部分から、その人のビリーフを、つぶすところから始める。

 「納豆といっても、遺伝子操作でできた納豆は、まだ安全が確認されていません」
 「ときに、正しい生き方をすると、他人と、摩擦を引き起こすこともありますよ」
 「兄弟といっても、他人の始まりですから……」と。

 本人自身も、それほど深く考えたことがない。そういう分野から、その人のビリーフをつぶして
いく。本人が、不安ごとや心配ごとをかかえているときは、さらに効果的である。その分野を、
集中的に攻撃する。

 「夫婦の仲がうまくいかないのは、あなただけの問題ではありません。あなたがた夫婦には、
夫婦になる前からの問題があったのです」
 「あなたがずっとお金で苦労しているのは、あなたのせいではありません。人には、それぞ
れ、運、不運というものがあります」と。

 さらにほとんどのカルト教団では、本人をノーブレインの状態にするため、同じ題目や念仏を
何度も繰りかえさせる。簡単な歌を歌わせるところもある。つまりこうした状態を20〜30分も
繰りかえしていると、その人の思考は停止状態になる。

 それは心地よくも、甘美な世界である。こうした状態を、「ラポール」と呼ぶ。

 本人がそういう状態になったとき、周囲の者たちが、いっせいに、その人に向かってこう言
う。

 「A先生は、仏様です」
 「A先生は、釈迦の生まれ変わりです」
 「あなたは、選ばれた、すばらしい人です」と。

 まさに催眠状態でそう叩きこまれるから、本人は、それを信じてしまう。最初はそれに抵抗し
ようとするが、しかしそれにも限度がある。やがて周囲の人たちの言っていることを、受けいれ
てしまう。

 この段階で、「あなたはキツネだ」と吹きこまれると、本当にキツネのようにピョンピョンと座っ
たまま踊り出す人もいる。それとくらべたら、「A先生は仏様です」ということを信ずることなど、
何でもない。

 こうしてカルト教団は、無数のビリーフを、自分たちにとって都合のよいビリーフに置きかえた
あと、その人の根幹部分、つまり生きザマの分野のビリーフまで、自分たちにとって都合のよ
いビリーフに置きかえてしまう。

 これが洗脳である。

 人にもよるが、ここにも書いたように、何か大きな不安ごとや心配ごとをかかえた人ほど、短
時間に洗脳される。それだけ心に大きな穴があいているからである。

 今の今も、この洗脳は、日本中のいたるところでなされている。そして今の今も、無数のカル
トが、人知れず、闇の世界で活動し、勢力を伸ばしている。あなたやあなたの子どもが、いつそ
の犠牲者になってもおかしくない。今は、そういう状況である。

 こうしたカルトに対抗するゆいいつの手段は、私たち自身が、賢くなることでしかない。常に考
え、自分の常識とくらべて、おかしいものは、おかしいと声をあげる。その勇気でしかない。

 ますます巧妙になるカルト。「洗脳」というものがどういうものであるかを知ってほしかったか
ら、ここで思いつくまま、洗脳について書いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 洗脳
 カルト)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えること

+++++++++++++++

「考える」ことの重要性。

それこそが、人間が人間であるという
証(あかし9といってもよい。

+++++++++++++++

 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)脅
(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。

 ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、
「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ
天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)

 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗
教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判
断力すらなくす。

 もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というの
が、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそ
が、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、
である。

たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。あるい
は、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽いこと
を、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれないが、実
のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工し
て言葉にしているだけ。

「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」そのものと言ってもよい。だからた
いていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることそのものを放棄している人も、少な
くない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった田丸謙二先生も、「日本の教育の欠
陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。

 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも『パンセ』の中で、「思考こそ
が、人間の偉大さをなす」と書いている。

私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の英知は、その宗教すらも超える力をもって
いる。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし自らの足で立つところにこそ、人間が人間
であるすばらしさがある。

 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私
は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えて
いる。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の
方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。

言うまでもなく、私たちの体には、数一〇万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみ
ついている。その常識に耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間は
やがて真理にたどりつくことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの
参考意見にすぎないが……。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●好かれる子ども

++++++++++++++++

アメリカのある学者が、大学生を
対象として調べたところ、

好ましい性格、つまり人に好かれる
性格は、

(1)誠実であること、
(2)正直であること、
(3)理解力があること、だそうだ。

(アンダーソン:「性格心理学」・ナツメ社)

++++++++++++++++

 アメリカのある学者が、大学生を対象として調べたところ、好ましい性格、つまり人に好かれ
る性格は、

(1)誠実であること、
(2)正直であること、
(3)理解力があること、
(4)忠実であること、
(5)信用できること、だそうだ(アンダーソン:「性格心理学」・ナツメ社)。

 これは大学生を対象としてなされた調査だが、小中学生の間でも、ほぼ、同じとみてよい。
(もちろん、おとなの世界でも、である。)

 古い原稿だが、以前書いた原稿を、そのまま紹介する。

++++++++++++++++++

子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きる哲学

+++++++++++++++++++++++

誠実に生きる。
……それが自然な形で、できるようになったとき、
その人を、善人と、人は呼ぶ。

+++++++++++++++++++++++

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。

もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、それ
が「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよ
い。

人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決し
てむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に
問いかけてみればよい。

 人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や
倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たと
えば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな知っている。そういうのを常識という。

この常識があるから、人間は過去数一〇万もの間、生きるのびることができた。またこの常識
にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。

しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い
人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもって
いる。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、
静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 誠実
論 誠実)

 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

+++++++++++++++++

音楽を聴いて、美しいものを見て、
よき人たちと交際して、
自分にすなおに生きる。

それから生まれる心地よさこそが、
私たちがもつ、「常識」ということに
なる。

+++++++++++++++++

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。

無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで
汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」
だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余
計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店
員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みん
なが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついていた。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができなかった。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつも
りでいた。

が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」
と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だか
ら私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

++++++++++++++++++

【すばらしい人たち・2人の知人】

+++++++++++++++++

「すばらしい」と思える人に出会うのは、
それだけでもラッキーなことと考えてよい。

めったにあることではない。

+++++++++++++++++

●二人の知人

 石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K氏
という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっともす
ばらしい人を2人あげろと言われたら、私は迷わず、この2人をあげる。

この2人ほどすばらしい人を、私は知らない。この2人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうす
れば人は、そういう人になれるのか。またそういう人になるためには、私はどうすればよいの
か、それを考えさせられる。

 この2人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることながら、
だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの言
っていることが、そのままその人たち。

楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲しい話をすれば、心底、それを悲しんでく
れる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人たちということになる。

●自分をさらけ出すということ

 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさら
け出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、
心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られ
たくない、醜いものばかり。

つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだましながら生
きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の4タ
ヌキというタイトルで、4人の女性が紹介されていた。元野球監督の妻(脱税で逮捕)、元某国
大統領の第2夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で議員辞職)、演劇俳優
の女性の4人である。(「タヌキ」という言葉は、私が使ったのではない。週刊誌にそう書いてあ
った。)

4番目の演劇俳優の女性は別としても、残る3人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。昔風
の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、いかに
して他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きている。まさにそういう感じの人たちであ
る。仮にあるがままの自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくな
る。つまり化けの皮がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよい
かもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人
間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんな
わけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。

ときどき、あるがままに生きたら、どんなに気が楽になるだろうと思う。が、そう思っていても、
それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識したとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なお
って生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、
一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれな
い。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲
れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反
対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、と
きとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するから
だ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに
疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう2度としないぞ!」と宣言したことも何度かあ
る。

もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲れさ
せたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした
緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしま
う。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、
その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言
葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだ
けで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そ
のときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分にな
ろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違
っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になる
としたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。

人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。つまり
日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがてその人
の人格をつくる。日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。

しかし原点は、あくまでもその人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではな
い。中には滝に打たれて身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そうい
うことをする人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はな
い。あくまでも日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば
玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向か
って、メールを書く。

その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善良なる生き物なので
ある。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びることができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずで
ある。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということ
は、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちは
まずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の
中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。

無理をしない。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して
深追いをしない。

その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物は今
の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……

 で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、
それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をす
ると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能とし
てもつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。それは性欲や
食欲のようなものかもしれない。

本能の問題になると、どこからどこまでが自分で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人
間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、その本能
からのがれることもできる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじ
めて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。またな
らねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生
きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどう
すればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っ
ていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、そ
の誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。
そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。たがいに話しこめば話
しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えていくのがわかった。別
れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔
で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした2人の
知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その2人の知人にはたいへん失礼な言
い方になるかもしれないが、もし1人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。しかし2
人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ているのに驚い
た。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。

「なぜ、二人はこうも共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その
共通点から、ここに書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02−8−17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走す
る。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度で
は、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、
だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私
の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、か
っこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれが
わかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自
尊心はもっている? もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は
前向きな努力をする。

私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、
いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自
分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なの
か、その境目を知ることは本当にむずかしい。卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレタ
ーを書いたとする。そのばあいも、どこかからどこまでが本能で、どこから先がその男の意思
なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


++++++++++++++++++

最後に、もう1作。
日付を見ると、(03年)とある。

4年前の原稿ということになる。

++++++++++++++++++

●誠実論

 どこかの学校に講演に行ったら、その校長室に、「誠実に生きる」という、校訓がかかげてあ
った。私はその校訓を見ながら、しばし、考え込んでしまった。

 「誠実」には、ふたつの方向性がある。他人に対する誠実と、自分に対する誠実である。他人
に対する誠実は、わかりやすい。ウソをつかない。約束を守る。たいていこの二つで、こと足り
る。

 問題は、自分に対する誠実である。わかりやすく言えば、自分の心を偽らないということ。と
なると、ここに大きな問題が、立ちはだかる。自分に誠実であるためには、その大前提として、
自分自身が、それにふさわしい誠実な人間でなければならない。

 たとえば、道路に、サイフが落ちていたとする。だれも見ていない。で、サイフの中を見ると、
10万円。そのときだ。そのお金を手にしたとき、あなたは、どう考えるか。どう思うか。

 だれだって、お金はほしい。少なくとも、お金が嫌いな人はいない。私だって、嫌いではない。
そこである人が、その心に誠実(?)に従い、そのお金を自分のものにしたとする。そのとき
だ。その人は、本当に誠実な人と言えるのか。

 ここで登場するのが、道徳ということになる。「お金を落として、困っている人がいる」というこ
とがわかると、その人の気持ちになって、ブレーキが働く。「そのまま自分のものにするのは、
悪いことだ」と。

 この段階で、2つの心が、自分の中で、葛藤(かっとう)する。「ほしいから、もらってしまおう」
という気持ちと、「自分のものにしてはだめだ」という気持ちである。こういうとき、自分は、どち
らの自分に誠実であったらよいのか。

 ……これは落ちていたサイフの話だが、実は、私たちは日常茶飯事的に、こういう場面によく
立たされる。自分に誠実に生きようと思うのだが、どれが本当の自分かわからなくなってしまう
ことがある。あるいは相反した自分が、2つも3つもあって、どれに誠実であったらよいのか、
わからなくなってしまうこともある。

 そこで世界の賢者たちは、どう考えたか、耳を傾けてみよう。

 まず目についたのが、論語。そこにはこうある。いわく『君子は、本(もと)を努む。本立ちて道
生ず』と。「賢者というのは、まず根本的な道徳を求める。その道徳があってこそ、進むべき道
が決まる」と。論語によれば、誠実であるかどうかということを問題にする前に、まず基本的な
道徳を確立しなければならないということになる。道徳あっての、誠実ということか。

 論語の解釈は、たいへんむずかしい。むずかしいというより、専門に研究している学者が多
く、安易な解釈を加えると、それだけで轟々(ごうごう)の非難を受ける。もっとも私など、もとも
と相手にされていないから、そういうことはめったにないが、それでも慎重でなければならな
い。ここで私は、「道徳あっての誠実」と説いたが、そんなわけで、本当のところ自信はない。

 しかし論語がどう説いているにせよ、「道徳あっての誠実」という考え方は、正しいと思う。今
のところ「思う」としか書きようがないが、このあたりが私の限界かもしれない。つまり自分に誠
実であることは、とても大切なことだが、その前に、自分自身の道徳を確立しなければならな
い。

もし私たちが、意のおもむくまま、好き勝手なことをしていたら、それこそたいへんなことになっ
てしまう。みんなが、拾ったサイフを、自分のものにし、それで満足してしまっていたら、この世
は、まさに闇(やみ)? 言いかえると、道徳のない人には、誠実な人間はいないということにな
るのか?

 何だか、話が複雑になってきたが、私のばあい、こうしている。

 たとえばサイフにせよ、お金にせよ、そういうものを拾ったら、迷わず、一番近くの、関係のあ
りそうな人に届けることにしている。コンビニの前であれば、コンビニの店長に。駅の構内であ
れば、駅員に。迷うのもいやだし、葛藤するのは、もっといやだ。何も考えないようにしている。
どこかの店で、つり銭を多く出されたときもそうだ。迷わず、返すようにしている。

本当の私は、もう少しずるいが、そういうずるさと戦うのも、疲れた。だから、教条的に、そう決
めている。それはもちろん道徳ではない。ただ論語で説くような、高邁(こうまい)な境地に達す
るには、まだまだ時間もかかるだろう。一生、到達することはできないかもしれない。だから、
そうしている。

 子どもたちに向かって、「誠実に生きろ」と言うのは簡単なこと。しかしその中身は、深い。そ
れがわかってもらえれば、うれしい。
(03−1−11)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1750)

【今朝・あれこれ】

++++++++++++++++++

寒い朝だった。久々に、つんとした
冷気を感じた。

昨夜は、どこか風邪ぽかったので、
薬をのんで、早く、床についた。

++++++++++++++++++

●インチキ番組

 「あるある2」がしたインチキ番組への怒りは、相当なものだ。子どもたちは、みな、こう言っ
た。「パパは、怒っていた」「うちのママも、怒っていた」と。

 前にも書いたが、すべてインチキとヤラセだったというから、恐ろしい。「納豆は、ダイエット効
果がある」という番組だった。そのため、その翌日には、全国で、納豆が売り切れる店が続出
したという。

 私も、たまたまその番組を見た。翌日、朝食のとき、ワイフに、「納豆って、すごいダイエット
効果があるんだってエ」というような話をした。

 テレビが、娯楽と現実逃避のための道具になって久しい。しかしテレビがもつ影響力は、今
回の番組を例にあげるまでもない。テレビで有名になったというだけで、知事にもなれるご時世
である。私たち自身が、どこかで一線を引かないと、それこそ、私たちはテレビに操られるま
ま、操られることになる。テレビは、こわいゾ〜。


●おかしな老人

 昨日、ワイフと2人で、母がいるケアセンターへ行ってきた。書類を届けるためである。そのと
き、いつも世話になっている看護士さんが、館内を案内してくれた。

 そこで1人の老人を見かけた。年齢は、70歳を少し過ぎたくらい。いかめしい顔つきをしてい
た。

 と、そのとき、ヘルパーさんらしき女性が、その男性に、何かを話しかけた。が、その男性は
顔色ひとつ変えず、かなり威張った態度で、「わかっとる」「うるさい」と。世話をしてくれているヘ
ルパーさんに向かって、怒鳴り散らしていた。

 私が「変わった人ですね」と看護士さんに話しかけると、「あの人は、東京の慶応大学を出
て、留学経験のある人なんですよ」と話してくれた。私の素人判断だが、ピック病か何かになっ
ているような感じだった。脳の一部が破壊され、人格そのものが、ゆがんでいる。

私「それにしても、絵に描いたような威張り方ですね。昔の武士のような……」
看「そうなんですよ。ほかの人の輪にも入らず、いつもああして部屋のすみで、威張っていま
す」
私「頭はいいのですか?」
看「ある部分はそうですが、そのため、かえって、扱いにくいですね」と。

 ピック病……認知症のひとつだが、ウィキペディア百科事典には、こうある。

 「前頭葉機能の障害による反社会的行動(不作為の法規違反など)、常同行動(同じ行動を
繰りかえす)、時刻表的生活、食嗜好の変化などがみられる」と。

 アルツハイマー病とちがうところは、人格障害による人格変化が著しいということ。発症率は
アルツハイマー病の1/3〜1/10だそうだ(インターネット医科大学)。見当識はそのまま残
ることが多く、そのため、一応言うことだけは、まとも、といった風になる。

「すなわち、自制力低下(粗暴、短絡、相手の話は聞かずに一方的にしゃべる)、感情鈍麻、異
常行動(浪費、過食・異食、何でも口に入れる、収集、窃盗、徘徊、他人の家に勝手にあがる)
などがあり、人格は変わり(無欲・無関心)、感情の荒廃が高度で、特に対人的態度が特異で
ある。

たとえば、人を無視した態度、診察に対して非協力、不真面目な態度、ひねくれた態度、人を
馬鹿にした態度などで、病識はない。その他、会話中に同じ内容の言葉を繰り返す、滞続言語
(滞続言語とは、特有な反復言語で、質問の内容とは無関係に、何を聞いても同じ話を繰り返
すもので、他動的に誘発され、持続的で制止不能である)も特有である」(同)とある。

 この中でとくに注意したいのが、「病識がない」という点。「病識」というのは、「自分が病気で
あるという自覚」をいう。それがない。だから扱いにくい。家族の人たちが「病院へ行こう」と誘っ
ても、「私は病気ではない」とがんばる。

 アルツハイマー病と並んで、近年、クローズアップされてきた痴呆症のひとつである。

(1)威張った態度
(2)時刻表どおりの生活
(3)他人との接触をこばむ
(4)反社会的行動
(5)日常的に反復行動をする、というのであれば、ピック病を疑ってみる。……ということらし
い。

 こういう言い方は、たいへん不謹慎かもしれないが、(確かに不謹慎だが)、自分の未来を知
りたかったら、ケアセンターのようなところを訪問してみるとよい。あなたも、そして私も、何1
0%かの確率で、あそこにいるような老人になる。

 ……しかし病識がないというのは困る。仮に私がそのピック病になったとしたら、自分ではそ
れがわからないということになる。ただし、40〜50代に発症のピークを迎えるという。それを
過ぎれば、だいじょうぶということか。ホッ!


●6か国協議

 またまた6か国協議だ、そうだ。

 アメリカは、完全にサジを投げてしまった。今は、そんな感じがする。つまり、アメリカは、アメ
リカの国益だけを最優先。あとのことは、知ったことか、と。

 アメリカの国益……K国の核兵器問題だけ片づけば、それでよい。日本や韓国のことは、知
ったことではない、と。わかりやすく言えば、日本にとっては、最悪のシナリオに向かって、こと
が動き始めている。

 ブッシュ大統領が、中間選挙で敗北したこともある。イラク問題で、アメリカが四苦八苦してい
ることもある。アメリカにしてみれば、「どうして日本や韓国の平和と安全に責任をもたねばなら
ないのか」、ということになる。

 「反米を唱えているのは、韓国であって、日本でない」と、いくら日本が叫んでも、あのブッシュ
大統領には、その声は届かない。アメリカのワシントンから日本を見ると、日本は、ヨーロッパ
の向こうの、イラクより、さらに向こうの、極東のはずれにある。地図の上で、日本と韓国がど
こにあるかさえ知らない人も多い。いわんや、区別など、つくはずがない。

 が、これでK国の核開発問題が解決すると考えるのは、早計。いわば振り出しにもどるだけ。
K国はひとつずつ譲歩する姿勢を見せながら、つぎつぎと無理難題をふっかけてくるはず。あ
るいは法外な補償を求めてくるはず。そのたびに、日本は、それに翻弄(ほんろう)されるだ
け。

 もちろん拉致問題など、どこかへ吹き飛んでしまう。

 では、どうするか?

 ……と書いても、今の日本に、打つ手はない。あるとすれば、表向きは6か国協議の再開を
喜んでいるフリをしながら、中国をできるだけ日本の陣営に引きこむことくらいなもの。私の予
想では、K国は、核開発の凍結までは約束するだろうが、廃棄まではいかない。つまりそのあ
たりで話しあいがごちゃごちゃになり、もの別れになる。

 注目すべきは、中国やロシアではなく、韓国の動きである。中国とロシアは、すでにK国をど
う分割、管理しようかという話しあいをすでに進めている。K国がもつ地下資源を、虎視眈々
(こしたんたん)とねらっている。

 それに遅れまいと韓国が乗り出してくるはず。K国のしかけたワナに、まんまとひかかるは
ず。日本はそれを見届けたあと、ゆっくりとつぎの手を考えるしかない。
(07年1月24日)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争・最終局面

++++++++++++++

日韓経済戦争が、いよいよ最終局面を
迎えつつある。

日銀の反対を押し切って、金利引き上げを
見送った日本政府。

かたや韓国は、ウオン高に悩みつつも、
IT産業への巨大融資をつづけている。

++++++++++++++

 韓国のS電子が、半導体メモリーの生産ラインに、総額で1兆8000億ウォン(約2353億
円)程度の投資すると、1月22日に発表した。その一環として、メモリーラインに8000億ウォ
ン(約1060億円)を投じる計画という。

 目立たないニュースだが、日韓経済戦争は、いよいよ最終局面を迎えつつあるとみてよい。
日本が勝つか。それとも韓国が生き残るか。

 その韓国だが、2007年に入って、外資の逃避がますます進行している。わかりやすく言え
ば、外人投資家たちが韓国を見放し始めているということ。この10日間だけでも、韓国の株価
は、それによって下落しつづけている。正確な数字を追ってみよう。

韓国の資本収支をみると、昨年1〜11月期、外国人投資家の国内直接投資は、18億ドル
(約2180億円)と、11年ぶりの最低値を記録している。このため国際直接投資収支は41億
ドル(約4970億円)の赤字となった。また、外国人の株式・債券投資金も韓国離れが進み、間
接(ポートフォリオ)投資も、214億ドル(約2596億円)の赤字だった。

 そういう最中、日銀は、日本政府の反対に押されて、金利の引き上げを見送った。その結
果、ウォンに対する円安が進み、現在、100円=775ウォンにまで急落している。

 少し前まで、100円=800ウォンが、防衛ラインと言われていたから、それよりも25ウォン
も、ウォン高(円安)になったということになる。

 こうなると、海外で「韓国製は安い」という評価は、もう成りたたなくなる。韓国の国内では
華々しく報道されているL電子(液晶テレビメーカー)だが、そのL電子にしても、内情はよくな
い。昨年10月〜12月期には、テレビ事業の不振で年末に大規模な在庫処理を断行し、400
億ウォン(約52億円)を超える営業赤字を記録している。

 かたや日本の企業は、投資につづく、投資。今回のS電子の投資は、それに危機感を抱い
た韓国政府の後押しによるものだということは、今さら、ここに書くまでもない。G自動車、それ
にS電子。もしこれら2つの国策企業が傾くようなことがあれば、韓国はそのまま、自らの経済
基盤を失うことになる。

 が、結果は、見えている。いや、すでに見え始めている。

 朝鮮N報は、つぎのように伝えている。

++++++++++

●財政赤字

政府財政赤字はますます膨れ上がっている。昨年の管理対象収支(統合財政収支―社会保
障性基金+公的資金償還金)の赤字額は10兆ウォン(約1兆3000億円)にのぼり(財政経
済部推定)、今年の赤字幅はさらに増える見通し。 

●家計

家計の収支も急速に赤字に向かっている。昨年の家計負債が国内総生産(GDP)に占める割
合は、クレジットカード乱用が問題となった2002年の水準(64%)を超えた。昨年第4四半期
の統計が出れば、昨年のこの割合は70%近くになるものと推定される。 

さらに所得は増えていないのに借金だけ増えたため、昨年の家計貯金率は3%台前半となり、
1997年通貨危機前の6分の1程度まで落ち込んだ。 

●企業収益も悪化 

その一方で、ウォン高や金利上昇により、企業の収益性も悪化している。営業利益で利子も払
えない企業の割合は2005年第3四半期の30・2%から、昨年の第2四半期には334・6%に増
え、今年はさらに悪化するものと各民間研究所ではみている。

++++++++++

 少し前まで、「我々も、先進国首脳会議のメンバーになる資格がある」と騒いでいた韓国。し
かし今は、その声も聞かれなくなった。

 私たち日本人も、現在のN政権時代になって、日本にとって韓国がどういう国か、それがよく
わかったはず。あのバブル経済がはじけ、日本がドン底をはっていたとき、それを連日のよう
に、おもしろおかしく書きたてていた韓国。そして今は、反日、反日の大合唱。

 日韓経済戦争とはいうが、日本は、この戦争にだけは、ぜったいに、敗れてはいけない。こ
の戦争には、日本の将来そのものがかかっている。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●アメリカの小学校

++++++++++++++++

アメリカの小学校を訪問してみたとき、
まず気がつくのは、窓がないということ。

あるにはあるが、窓というよりは、
換気のための窓といった感じ。

それだけではない。

子どもたちの机の配置にしても、
黒板、もしくは、教師のほうに
向いていない。

教師は、そのつど、生徒に話しかける。
あるいはそのつど、自分のまわりに
生徒を集める。

教育の理念そのものが、基本的な
部分で、ちがう。

++++++++++++++++

 日本の学校については、今さら、ここに書くまでもない。黒板と教壇が前にあって、生徒の机
と椅子は、それに向かって配置される。

 しかしそれはあくまでも日本の学校。決して、世界の標準でもなければ、常識でもない。

 たとえばアメリカでは、生徒の机や椅子は、教師のほうを向いていない。教師は教師で、子ど
ものまわりを歩きながら、そのつど、生徒に話しかける。あるいは必要に応じて、生徒を、自分
のまわりに集める。

 が、私が最初にアメリカの小学校を見たとき、何よりも驚いたのは、窓がないこと。どの教室
も、どこか薄暗い。

 これについては、欧米人と日本人とでは、光に対する感受性がちがうという説がある。欧米
人は、明るいところが苦手、というわけである。

 さらにもうひとつ。アメリカの小学校には、日本でいうような運動場がないということ。これにも
驚いた。森の中に、そのまま小学校があったりする。では、どこで運動するか?

 私も最初、それが気になって、その小学校の校長に質問した。結果、アメリカでは、小さな体
育館のようなところで、運動することがわかった。あるいは都市部では、運動場といっても、バ
スケットコートがせいぜい1、2面ある程度。

 (オーストラリアの小学校には、日本でいうような運動場がある。しかしほとんどの小学校で
は、運動場(?)を、芝生で覆っている。)

 こうしたちがいは、いったいどこからくるのか?

 日本では、「わかりかしたか?」「ではつぎ!」の一斉授業が、常識になっている。しかしアメリ
カには、それがない。アメリカでは、「君はどう思う?」「それはすばらしい考え方だ」の問いかけ
授業が、常識になっている。つまり教育理念そのものが、基本的な部分でちがう。

 「教え、育てる」のが、日本の教育。「引き出す(educe)」のがアメリカの教育。以前は、日本
の教育をさして、「詰め込み教育」と呼んだ。

 結果、日本の子どもたちは、相対的に画一的になり、アメリカの子どもたちは、相対的に、個
性的になる。以前にも書いたが、日本では、従順で、集団の中で協調性のある子どもを、(い
い子)と評価し、アメリカでは、ワーワーと自己主張をする子どもを、(いい子)と評価する。

 その1例というわけではないが、たとえば「shy(シャイ)」という言葉がある。日本語では、「恥
ずかしがり屋」と訳す。あるアメリカの小学校の校長が、私にこう言った。「アメリカでは、シャイ
な子どもは、問題児として扱われます」と。驚いて、私が、「日本では、シャイというのは美徳と
いうことになっている」と言い返すと、その校長は、私が驚いた以上に、私の言葉に驚いた。

 日本の常識は、決して、世界の常識ではない。教室のあり方ひとつ見ても、それがわかる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アメリ
カの小学校 アメリカの学校 アメリカの教室 アメリカの教育)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●学校の個性とは

+++++++++++++++++++++

実名を出して恐縮だが、日本を代表する商社と
いえば、三井物産という会社と、三菱商事と
いう会社ということになる。

しかしこの2つの商社は、同じ商社でありながら、
社風は、まったくちがう。

+++++++++++++++++++++

 実名を出して恐縮だが、日本を代表する商社といえば、三井物産という会社と、三菱商事と
いう会社ということになる。

 しかしこの2つの商社は、同じ商社でありながら、社風は、まったくちがう。

 「個性の三井」「組織の三菱」ともいう。「縦割りの三井」「横割りの三菱」ともいう。しかしそれ
は雰囲気のことを言うのではない。組織の形態、そのものがちがう。

 たとえば三井物産では、それぞれの「課」が、単独で、事業を行う。同じ課の中でも、それぞ
れの社員が、単独で事業を推進する。

 たとえば私のばあいだが、私は、「ニット部輸出課」というところに配属された。私が配属され
た課では、愛知県の一宮市以西のニット製品を取り扱っていたが、社員ごとに、担当地域が割
り当てられる。「君は、オーストラリアと南アフリカを担当しろ」と。

 そこで私は、その担当地域にある海外支店に、見本を送り、商談をまとめ、それをハタヤと
呼ばれる織物会社に回す。ハタヤは、製品をつくり、それを三井物産指定の倉庫に納める。私
はその製品を船に載せ、目的地へ輸出する。決済をする。「縦割りの三井」というのは、そうい
う意味である。

 こうした一連の作業を、ひとりで、こなす。

 一方、三菱商事では、それが横割りになっている。見本を送る課、商談をまとめる課、発注
する課などなど。そういった課が、それぞれ、全世界を相手に、仕事をまとめてする。たとえば
見本を送る課の社員は、毎日、世界中に見本を送る。ただひたすら、見本を送る。商談をまと
める課は、あがってきた注文に応じて、ただひたすら、商談をまとめる。「横割りの三菱」という
のは、そういう意味である。

 こうしたちがいが生まれた理由は、もともと三井系は、呉服屋という「商店」が中心となって発
展した組織、という背景がある。三井系の中では、三井物産という会社が、その(柱)になって
いた。三井銀行も、もとはといえば、三井物産の子会社に過ぎなかった。

 一方、三菱系は、両替商、つまり「銀行」が中心となって発展した組織、という背景がある。つ
まり三菱商事は、あくまでも三菱銀行の子会社にすぎなかった。

 こうした(ちがい)が、三井物産という会社と、三菱商事という会社の(ちがい)をつくった。だ
から全体をざっとみると、三井物産の社員には、個性的な人物が多い。一方、三菱商事の社
員は、三井物産の社員とくらべると、どこか銀行マン的。個性的な人物が少ない。……というこ
とになる。

 だから、三井物産では、その個人が、どれだけ活躍したかが、ひとつの大きな評価の材料に
なる。わかりやすく言えば、それだけ純利益をあげたかによって、その社員は、評価される。
「課」についても、同様である。一方、三菱商事では、組織内における協調性、チームワーク
が、ひとつの大きな評価の材料になる。

 これはあくまでも私の印象だが、三井物産と三菱商事を比較してみると、つぎのようになる。

●三井物産……個人プレイが評価されるため、個人で利益をあげられないときは、その個人
は、容赦なく、切り捨てられる。課にしても、数年ごとに、利益のあがらない課は閉鎖され、反
対に、利益をあげられそうな課が誕生する。バリマリと仕事をこなす猛烈社員が、高く評価され
る。

●三菱商事……会社への忠誠心が何よりも重視され、たがいの協調性が大切にされる。「課」
どうしの連携プレーが重んじられ、そのため会社としての安定感があるが、機動力に弱い。…
…ということになる。

 しかしこれは何も、商社の話ではない。教育の世界においても、まさにこれと同じことが言え
る。つまり、「その学校では、何を大切にするか」によって、子どもの評価のし方が決まり、つい
で、子どものあり方まで決まる。

 たとえば個性を重んじる学校では、協調性が犠牲になる半面、個人としての活躍が評価の対
象となる。一方、協調性を重んじる学校では、個性が犠牲になる半面、チームあるいは、団体
としての活躍が評価の対象となる。

 日本国内では、そういったちがいは、よくわからないかもしれないが、たとえば日本の学校と
アメリカの学校という視点で比較すると、それがよくわかる。

 「同じ学校ではないか」と多くの人は考えるかもしれないが、学校の方針そのものよって、子
どものあり方まで決まる。その一例として、ここで三井物産という会社と、三菱商事という会社
を例にあげて考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学校
の個性 教育 三井物産 三菱商事)


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●やせ過ぎの女性

+++++++++++++++++

ガリガリに、しかも痛々しいほどまでに
やせすぎの若い女性が目立つ。
肌は灰色、カサカサ……。

そのほうが、美しいと錯覚している
女性も多いようだが、美しいこと
イコール、決して、セクシーという
ことではない。

このたび、やせ過ぎ女性の国際比較が、
WHOより、公表された。

+++++++++++++++++

 このたび、やせ過ぎ女性の国際比較が、WHOより、公表された。その資料をそのまま紹介
する。


「……ここで、やせ過ぎ(痩せすぎ)は、BMI(体重Kg÷身長の二乗平方メートル)が、18・5未
満と定義されている。

 一般には、食料事情もあって、所得(1人当たりGDP)の低い貧困国ではやせ過ぎ女性が多
いという傾向がある。

 とくに、パキスタン、バングラデシュといったイスラム国で、やせ過ぎ女性が多いことが目立っ
ている。これはこうした国の女性の平均寿命の対男性比が、相対的低いこととも関わりがある
と思われる。

 日本は、12・24%と39か国中、10位であるが、所得の高い国としては、異例の高さとなっ
ている点が目立っている。国民全体、あるいは女性平均の体型が世界の中でスリムである点
では、日本と共通の韓国でもやせ過ぎ女性の比率は、5・6%とそれほど高くない」と。

 まとめて言うと、日本人の中には、やせ過ぎの女性が多いということ。数字でみると、10人に
1人以上ということになる。

 実は、私も、かねてから、それを強く感じていた。と、同時に、日本の女性たちは、何かを誤
解しているのではないかと思っていた。中には、痛いいたしいほどまでにやせ過ぎの女性がい
る。筋肉がこけ、間接部の骨だけが丸く飛び出た感じになった女性も多い。気持ちは理解でき
なくもないが、こうしたスリム願望が、拒食症と結びつくことも多い。が、それだけではすまな
い。

 無理なダイエットが原因で、女性としての機能を失ってしまう女性も、ふえているということ。も
しそうなれば、何のためのダイエットかということになる。

 そこでこうした弊害を避けるために、つまり無理なダイエットで、体を壊す女性を防ぐために、
たとえばスペインのマドリード市では、「モデルのボディーマス指数(BMI=体重を身長の2乗で
割った比率)は、最低18以上」と規定し、それ未満のやせ過ぎたモデルのショー出場を禁ずる
ことにしたという(毎日新聞)。

 日本も、こうした動きに、しっかりと追従したらよい。……しかし、それにしても、12・24%と
は! 先進国の中でも、ダントツに高いこの数字を、私たちは、どう考えたらよいのか。

 ちなみに、

 日本    ……12・24%
 中国     ……8・50
 韓国     ……5・60
 アメリカ   ……3・26
 イギリス   ……3・00
 オーストラリア……1・48
 アイルランド ……1・10、だそうだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 BMI 
やせ過ぎ)

【付記】

 これは私の個人的な好みなのかもしれないが、女性の美しさは、健康的な美しさに、理知的
な美しさが加味されて決まる。ハツラツとしていて、肌が輝いている女性をいう。体型でいえ
ば、ムチッとした、女性としての肉体的特徴をもった女性をいう。細ければよいというものでは、
決して、ない。

 子どもの体型について論ずるのは、教育の世界ではタブー視されている。であるなら、なおさ
ら、おとなの世界に蔓延する誤解を、しっかりと問いただしていかねばならない。結局は、それ
が私やあなたの子どもの健康を守るということにつながっていく。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●時刻表的生活

+++++++++++++++

毎日、時刻表のように規則正しい
生活をしている人がいる。

毎朝、6時半起床。
毎朝、6時40分に、カーテンをあける。
毎朝、7時から朝食の準備を始める……、と。

規則正しい生活は、健康の要(かなめ)とは
いうが、私のように、非時刻表的な
生活をしている者からみると、それは
異常としか、思えない。

+++++++++++++++

 私の知人に、毎日、同じ時刻に同じ生活を繰り返している人がいる。毎朝、6時半に起床。夏
も、冬も、だ。その誤差は、大きくても、プラスマイナス数分以内。

 起きると、まず、部屋ごとのカーテンを開ける。その開ける順番まで、決まっている。開け方ま
で決まっている。

 そういう生活を、「時刻表的生活」という。ピック病という、認知症患者の典型的な症状のひと
つとされる。……ということを最近知って、実は、私は、ほっとした。

 私は、何を隠そう、日常的に、非時刻表的な生活をしている。起床時刻など、あってないよう
なもの。就寝時刻も、毎晩、ちがう。だいたい、9時半から12時ごろまでというだけで、決まっ
た時刻がない。そのときの気分と、様子によって、早く床についたり、しなかったりする。

 で、規則正しい生活は、健康の要(かなめ)という。それはわかっているが、私はその規則正
しい生活が、苦手。日々に、何らかの変化を感じないと、それだけで退屈してしまう。だいた
い、仕事以外のことで、時間にしばられるのが、いや。嫌い。自由気ままに生きたい。

 だから、その知人の話を聞いたときには、最初は、「おかしい?」と思う前に、尊敬の念すら
抱いてしまった。「すごい人だな」と。

 で、その知人が、ピック病なのかどうかは知らない。が、あちこちから情報を寄せ集めると、
どうやら、その疑いがあることがわかってきた。詳しいことは、ここには書けないが、その人に
ついては、「?」という印象をもち始めている。

 規則正しいといっても、限度というものがある。毎日、数分以内の誤差で、同じ生活を繰り返
すというのは、どう考えても、おかしい。ピック病は、前頭前葉の機能がそこなわれることが原
因でそうなるとされる。脳の病気を疑っても、何らおかしくない。

 ……ということで、改めて、宣言!

 今までどおり、私は、不規則を旨(むね)とする生活をつづけるぞ! ハハハ。私の前頭前葉
は、正常なのだ!


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

●合格発表

++++++++++++++++

昨日、市内のN高校中等部の
入試の合否発表があった。

しかし生涯において、これほどまでに
肝をつぶした合否発表はなかった。

++++++++++++++++

 ジリジリと時間だけが過ぎる。
 コチコチと、時計の刻む音。
 しかし電話はない。
 パソコンを何度も開くが、
 そのメールも、ない。

 ……

 昼過ぎになっても、ない。
 なんとも言えない、絶望感。
 閉塞感。
 「やっぱりダメだったのか」という思い。
 それがだんだんと重く心にのしかかる。

 合否通知は、とっくに届いているはず。
 まっさきに、それを私に知らせて
 くれるはず。

 しかし、……ない。

 自分の子どもだったら、まだ、あきらめもつく。
 しかしKさんは、ちがう。

 落ちるはずのない子ども。
 落ちてはならないはずの子ども。

 そんな思いで教室へ着くと、
 留守番電話にそれが入っていた。

 Kさんの親からのもので、
 「合格しました!」と。

 とたん、体中から、力が抜けた。
 ヘナヘナとその場に、体を沈めた。

 「よかった」と思った。
 心底、そう思った。

 そしてそのまま、折り返し、Kさんに電話。

 「おめでとう!」と。

++++++++++++++++++

 子どもの受験競争で、失敗する親というのは、たいていパターンが決まっている。子どもがも
っている勉強のリズムを、破壊してしまう。平気で、破壊してしまう。

 はっきり言おう。子どもに、勉強のリズムをつくるのは、たいへん。時間がかかる。根気も必
要。それこそ半年単位の時間がかかる。

 しかし破壊するのは簡単。が、親には、それがわからない。「5年生になったから、進学塾へ
移ります」とか何とか言って、私の教室を去っていく。子どもの意思など、まるで無視。とたん、
そのリズムは、破壊される。

 子どもには、それぞれ、子どもの能力というものがある。決して平等ではない。その能力を見
極めたら、それにすなおに、従う。「やればできるはず」と思うのではなく、「やってここまで」と思
う。その余裕が、子どもを伸ばす。

 Kさんは、夏休みの間、どこかの進学塾の夏期講習を受けた。そのとき、Kさんは、母親にこ
う言ったという。「私は私のやり方をする。林先生(=私)のところだけでじゅうぶん」と。

 つまりKさんは、その時点で、背水の陣を敷いたことになる。私は私で、Kさんの母親に、こう
言った。「任せてください」と。

 Kさんは、人格的にも、人間的にも、すぐれた子どもである。子どもというより、おとなに近い。
私をさして、「林先生は、いやし系」と言ったこともある。私は、それをよい意味にとらえた。私は
それに答えて、Kさんのために、3人だけのクラスを用意した。能力的に恵まれた子どもだけを
集めて、たがいに刺激しあう雰囲気を用意した。

 それが私のやり方だった。

 だから、Kさんには、何としても合格してほしかった。それは私自身の「力」が試される場所で
もあった。Kさんは、学校だけの勉強で、何とか、それを乗り切った。もちろん、入試内容に合
わせて準備をした。それは私の仕事である。どことどこを縫い合わせればよいか、それだけを
考えて私は指導した。

 はっきり言おう。子どもを点数でおどしたり、勉強で追いまくって指導するのは、簡単なこと。
そこらの大学生にだって、できる。しかしその子どものもつ自立性を大切にし、その子どもが自
らの意思で学習するようにしむけるのは、至難のわざ。Kさんの両親にしても、大きな賭けだっ
たにちがいない。

 いや、反対に、あちこちの塾にひっかき回されるうちに、ダメになっていく子どもは多い。世の
親たちはそれを知らない。親があたふたとするから、子どもも、それにつられて、あたふたとし
てしまう。それはたとえて言うなら、多重債務に追われて仕事をするようなもの。仕事そのもの
が、手につかなくなる。

 しかし一度、こうなると、結果は、明白。ズルズルと成績だけが、さがってしまう。おとなの世
界とちがって、やりなおしがきかない。1年は、あっという間に、過ぎてしまう。親が気がついた
ときには、子どもの受験勉強そのものが終わっている。それだけに、親は、慎重の上に、慎重
であったほうがよい。

 今年も、「6年生になったから、進学塾へも通うようにしました」「家庭教師をつけることにしま
した」という子どもがいる。しかしそういう親に対して、私は無力でしかない。「どうぞ、ご勝手に」
とまでは思わないが、遠まわしな言い方で、「どうか慎重に」とだけ伝える。子どもの受験勉強
で、親が先頭に立って、それで成功したという例は、ほとんどない。私はそういう失敗例を、うん
ざりするほど、経験してきている。

 つまり、親は、「もっと……」「さらに……」と無理をする。この無理が、かえって子どもをつぶし
てしまう。リズムを破壊してしまう。成績がさがるだけならまだしも、心までつぶしてしまう。親子
の人間関係まで、破壊してしまう。

 ともかくも、Kさん、おめでとう!

 よかった! 本当によかった! プラス、ありがとう!

+++++++++++++++

同じような原稿を以前、書いた
ことがある。

+++++++++++++++

子どもの受験勉強

●C氏の言葉

 進学塾では、(できる子ども)を求める。そういう子どものほうが、教えるのも楽だし、それに
経営的にも、メリットがある。

 一方、(できない子ども)は、教えるのもたいへん。それにそういう子どもが多ければ多いほ
ど、塾の評判はさがる。が、それだけではない。(できない子ども)ほど、動きがはげしい。少し
成績があがれば、すぐどこかへ移ってしまう。あがらなければあがらないで、すぐまたやめてし
まう。

 たとえば小学校の高学年や中学生で、すでに(できない)状態になっている子どもは、その段
階で、すでにかなり、キズついている。こじれている。学習態度も悪い。たいていは無気力にな
っている。自信をなくしていることも多い。

 さらにどこかでつまづいているから、それを補充しようとすると、このタイプの子どもほど、そ
れをバツととらえる。だからますます勉強が、できなくなる。

 さらに問題は、つづく。(できない子ども)が、多少できるようになっても、親は、「効果があっ
た」とは言わない。「当たり前」とか、「やはりうちの子は、やればできるはず」と思う。そう思っ
て、無理を重ねる。効果がなければないで、ある日、突然、フイと塾をやめていく。

 ……ここまでの話は15年近く、進学塾の講師をしたことのある、C氏(43歳)が、私に話して
くれたことである。C氏は、今、まったく別の仕事をしているが、私にこう言った。「進学指導なん
て、もうコリゴリです」と。わかる、その気持ち!

●子どもの心

 少し前、残り勉強が話題になった。ときの文部省が、音頭を取った。学力の足りない子ども
は、学校で残り勉強をさせるというものだった。しかしこうした試みは、確実に失敗する。理由
は、明白。子どもは残り勉強を、自分のためとは、とらえない。ここでいう「バツ」ととらえる。

 またこの段階で、残り勉強を教えてくれる先生には、絶対に感謝などしない。「自分のため」と
いう自覚すら、ない。

 残り勉強が、「自分のため」と理解するためには、その前提として、子ども自身が、「もっとで
きるようになりたい」という意欲がなければならない。その意欲も、また希望もない子どもに、
「あなたには、残り勉強が必要だ」と言っても、理解など、できるはずもない。喜んで勉強など、
するはずもない。

 これは進学塾についても、同じ。「うちの子は、塾に通う必要がある」と思うのは、親の勝手だ
が、子ども自身は、そうは思っていない。そういう状態で、子どもを進学塾に通わせても、効果
がない。ないばかりか、かえって、親子のパイプを、破壊してしまう。

 ある母親が、高校生になった娘に、「あんたはだれのおかげで、ピアノを弾けるようになった
と思っているの? ママが、毎週、高い月謝を払って、あんたをピアノ教室へ連れていってあげ
たからよ!」と言ったときのこと。その娘は、こう叫んだという。「いつ、だれが、あんたにそうし
てくれと頼んだア!」と。

 こうした意識のズレは、とくに子どもの受験勉強では、起こりやすい。親は、「子どものため」
と考えるかもしれないが、子どもは、そうは思わない。「いらぬおせっかい」と、とらえる。

●誤解と幻想

 この世界には、誤解と幻想がある。

 その第一。「やればできるはず」という幻想。たとえば親が、本屋へ行き、中学入試問題集を
手にしたとする。そのとき自分の子どもが、小学6年生だとすると、「うちの子に、できないはず
はない。うちの子だって、小学6年生だ」と考える。

 そこでその問題集を、買う。家で、子どもにやらせる。しかし子どもは、できない。とたん、親
は、大きな不安感に包まれる。しかしこのとき、「問題集がおかしい」とか、「自分の子どもにそ
の能力がない」とか思う親は、まずいない。ほとんどの親は、「うちの子ができないのは、やらな
いからだ」「小さいときから、勉強をしていないからだ」「やればできるはず」と思う。

 だから親は、進学塾の門をたたくとき、弁解がましく、必ず、こう言う。「今まで、あまり勉強さ
せませんでしたから……」「伸び伸びと遊ばせてきましたから……」と。

 そして家では、お決まりの親子げんか。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。

 第二に、進学塾へ行けば、安心という幻想。勉強というのは、リズムの問題。そのリズムがあ
るかないかで、できる、できないが決まる。が、親には、それがわからない。進学塾だけで足り
ないと思うと、今度は、家庭教師をつける。さらにそれでも足りないと思うと、また別の塾にも通
わせる。

 こういうことを安易に繰りかえせば、その子どものリズムは、決定的なほどまでに、破壊され
る。しかしその深刻さに、気づく親は、少ない。それはたとえて言うなら、多重債務をかかえ、い
くつかのサラ金業者に追いまくられるようなもの。あたふたしている間に、何がなんだか、わけ
がわからなくなってしまう。

●では、どうするか?

 進学塾を利用するにしても、その内容やレベルよりも、「リズム」を大切にする。よい進学塾
には、そのリズムがある。そしてそのリズムに子どもが乗ったら、そのリズムを大切にする。

 たとえば週2回のレッスンがあれば、それを。定期的な試験があれば、それを、ひとつのリズ
ムにする。こういうリズムの中で、子どもの勉強グセを作っていく。

 一方、そうでない進学塾は、リズムがバラバラ。突然思い立ったようにテストをしてみたり、思
い立ったように、むずかしいワークブックを渡したりする。あるいはやらなくてもよいようなとき
に、特別レッスンをしてみたり、それほど用もないのに、親を呼びつけたりする。

 講師の言っていることも、メチャメチャ。どこかおかしい。チグハグ。ささいなことを、ことさら大
げさに問題にしてみたり、トンチンカンなことを言ったりする。ある研究会に顔を出したときのこ
と。1人の塾教師(幼児教室の講師)は、さも自信たっぷりに、こう言った。

 「幼児の心を知りたかったら、自分でオムツをしてみればいいです。老人用のオムツがありま
すから、それをしてみればいいです。それで幼児の心がわかります」と。

 とんでもない意見だが、その人は、すごく真剣だった。

 つぎにもちろん、子どもの能力とレベルをわきまえること。よく進学塾では、「今年はXX人、S
S高校に入学しました」などと発表する。しかし同時に、それ以上の数の子どもが、受験に失敗
している。そういった事実を、客観的に見る。

 進学塾へ入って、成績を伸ばす子どももいるが、かえってさげてしまう子どももいる。むしろ、
さげる子どものほうが多い。それもそのはず。進学を目的にした塾では、できる子どもに合わ
せて授業を進める。できる子ども方が、冒頭に書いたように、経営的に大切。だから、それは
当然のことではないか。

 無理をしても意味がないばかりか、かえって逆効果だということ。……こう書くと、「ではあきら
めろということか?」と言う人がいるかもしれない。それには、私は明確に答える。「そう、あきら
めなさい」と。

 勉強にかぎらず、こうした子どもの問題には、必ず、二番底、三番底がある。「今が最低」と
親は思うかもしれないが、無理をすると、さらに二番底、三番底へと、子どもは落ちていく。だ
から「あきらめる」。

 子どもというのは、不思議なもので、親があきらめると、その時点から伸び始める。反対に、
「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と親が、がんばればがんばるほど、子どもの成績はさが
る。最後に、10年ほど前に私が経験した、M君(中3男子)のケースを書く。

●M君のケース

 M君が、私の教室にきたのは、小学6年生になってからだった。このM君のばあいは、教え
ることよりも、リズムをつくるのがたいへんだった。私がやっとのことで、リズムをつくっても、親
が介入してきて、それをことごとく破壊してしまった。

 たとえば簡単なワークブックを1日、1枚すると決めたとする。で、そういうリズムが軌道にの
るまでには、最低でも数か月はかかる。(数か月だ!)が、そのリズムができる前に、親がやっ
てきて、「このワークブックもやらせてほしい」「今度、D中学校を受験することにしたので、その
入試問題もやらせてほしい」と言ってきた。

 中学へ入ってからも、この状態は変わらなかった。私はカセットテープを聞きながら、毎日英
語を書かせるという指導を始めた。この学習とて、やはり数か月単位の、根気のいる作業が必
要である。

 が、それについても、「今度、K塾にも入ったから」とか、「ときどき親類のお兄ちゃんに勉強を
みてもらっているから」と、破壊していく。

 結局M君は、最後まで、自分のリズムをつかむことができなかった。中学3年生になるころに
は、私の教室へきても、ただ眠っているだけ。そんなとき、私を心底、失望させる事件が起き
た。

 ある日母親がやってきて、こう言った。「今度、S塾にも行かせることにした。ついては先生の
ところと時間が合わないので、今、週2回きているが、週1回にしてほしい」と。私が何と答えて
よいかわからないでいると、突然会話をはぐらかし、「アーラ、先生、センスのよいシャツを着て
らっしゃいますのねエ」と。

 私が、やっとの思いで、「もしそうなら、今日で、私の教室をやめてほしいのですが」と言うと、
その母親は、かなり驚いて様子で、こう言った。「うちの子は、楽しんできています。あなたにう
ちの子をやめさせる権利はないでしょう」と。

 M君は、親にひきずり回されているだけだった。もちろん自分のリズムなど、もっていない。
言われるまま、親に従っていた。そののち、M君が、どうなったか。今さら、ここに書くまでもな
い。しかしこうした失敗は、実に多い。何割かがそうであると言ってもよい。

 あなたも一度、あなたの子どもがどんなリズムをもっているか。あるいはもっていないか、そ
れを冷静にみてみたらよい。
(030830)

Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司※
**************以上、1750作******************







はやし浩司(ひろし)