はやし浩司(ひろし)

2004・3
はやし浩司
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2004年 3月号
 はやし浩司


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月 31日(No.380)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
【まぐまぐ読者の方へ】今回は、HTML版は、お休みします。

(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

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(1)子育てポイント**************************

【雑感・あれこれ】

●きわどい話

 幼児を教えていると、ときとして、きわどい話が出てくる。親たちが参観していなけれ
ば、それほど気にすることもないのだが、しかし私の教室は、例外なく、公開している。

 昔、年中児のクラスで、「君の、一番好きなものは、何ですか?」と聞いたときのこと。
S君(彼の名前は、忘れない)が、勢いよく手をあげながら、こう言った。「オンナ!」と。

 私は、自分の耳を疑った。だからもう一度、聞いた。「何だってエ?」と。するとS君は、
臆面(おくめん)もなく、また、「オンナ!」と。

 多分、父親が、口グセのようにそう言っていたのではないか。S君は、それをまねた?

 あるいは、こんなことも。

 一人の女の子(年中児)が、勝手にペラペラと、となりの子に話し始めた。

 「昨日の夜、パパとママが、裸で、レスリングしてた」と。

 そういう話になったら、すかさず私はストップをかける。

 私自身の失敗もある。

 カタカナを、書いて、どちらのカタカナが多いか、それを子どもたちに当てさせる。た
とえば「ア」と「イ」を、それぞれ、4個、5個と書いて、「どちらが多いかな?」と。

 で、順にやっていくと、あるとき、「チ」と「ツ」になった。とたん、子どもたちが、「チ」
「ツ」「チ」「ツ」と言い出した。

 こういう言葉には、本当に冷や汗をかく。

 ほかに似たような話だが、「リスが、クリを食べました」というような話には、一瞬、ド
キッとする。カードを何枚か見せて、話作りをするようなときである。反対に読めば、「ク
リ」と「リス」になる。

 さらに英語を教えているとき、「6」を、「セックス」と読む子どもがいる。そこで私は、
息をたくさん吐き出して、「シィークス」と教えるのだが、息をたくさん出させると、日本
人のばあい、どうしても、「セックス」になってしまう。

 こういうのは、本当に困る。

 まあ、そういうときは、とぼけてレッスンを進めるにかぎる。参観に来ているのは、圧
倒的に母親が多い。

 最近でも、こんなことがあった。小学六年生の男の子が、教室へ来て、いきなり、「先生、
今度、フランスのコンドームが、なくなるんだってねえ」と。

 ギョッとしていると、どうやら、その男の子は、「コンコルド」のことを、「コンドーム」
と、まちがえていることがわかった。

私「あのね、あれは、コンコルドって言うんだよ」
子「コンコルドかあ……ハハハ」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親像

 子育てが、どこかぎこちない。どこか不自然。子どもに甘い。子どもにきびしい。子ど
もに冷淡。子どもが好きになれない。子育てがわずらわしい。子育てがわからない……。

 このタイプの親は、不幸にして不幸な家庭に育ち、いわゆる親像がじゅうぶんに入って
いない人とみる。つまりその親像がないため、「自然な形での子育て」ができない。「いい
家庭をつくろう」「いい親でいよう」という気負いが強く、そのため親も疲れるが、子ども
も疲れる。そしてその結果、子育てで失敗しやすい。

 しかし問題は、不幸にして不幸な家庭に育ったことではない。満足な家庭で育った人の
ほうが少ない。問題は、そういう過去に気づかず、その過去にひきずられるまま、同じ失
敗を繰り返すこと。たとえば暴力がある。

子どもに暴力をふるう人というのは、自分自身も親から暴力を受けたケースが多い。こ
れを世代連鎖とか世代伝播(でんぱ)という。そういう意味で、子育てというのは、親
から子どもへと代々、繰り返される。

 そこで大切なことは、こうした自分の子育てのどこかに何か問題を感じたら、その原因
を自分の中にさがしてみること。何かあるはずである。ある母親は、自分が中学生になる
ころから、自分の母親を否定しつづけてきた。父親も「いやらしい」とか、「汚い」とか言
って遠ざけてきた。

また別の母親は、まだ三歳のときに母親と死別し、父親だけの手で育てられてきた。そ
ういう過去が、その母親をして、今の母親をつくった。このタイプの母親は決まってこ
う言う。「子育てのし方がわかりません」と。

 が、自分の過去に気づくと、その段階で、失敗が止まる。自分自身を客観的に見つめる
ことがでるようになるからだ。実は私自身も、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った。気
負いが強いか弱いかと言われれば、ここに書いたように、気負いばかりが強く、子育てを
しながらも、いつも心のどこかに戸惑いを感じていた。

しかしいつか自分自身の過去を知ることにより、自分をコントロールできるようになっ
た。「ああ、今、私は子どもに心を許していないぞ」「ああ、今の自分は子どもを受け入
れていないぞ」と。

「簡単になおる」という問題ではないが、あとは時間が解決してくれる。繰り返すが、
まずいのは、そういう自分自身の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされるこ
とである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●家庭は心いやす場所

 子どもの世界は、(1)家庭を中心とする第一世界、(2)園や学校を中心とする第二世
界、そして(3)友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、
ゲームの世界を中心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)

第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家
庭は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなけれ
ばならない。

その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第
三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。その結果、子どもは独特の症状を示
すようになる。それらを段階的に示すと、つぎのようになる。(あくまでも一つの目安と
して……。)
(第一段階)親のいないところで体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ
身を隠す。会話が減り、親からみて、「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対
に「グズグズしてはっきりしない」とかいうような様子になる。

(第二段階)帰宅拒否(意識的なものというよりは、無意識に拒否するようになる。たと
えば園や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をするなど)、外出、徘徊がふえる。
心はいつも緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒したりする。あるいは反対に
自分の部屋に引きこもるような様子を見せる。

(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをで
きるだけもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、そ
の目的にかなったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外
泊、など。

 最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症の
ほか、子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親が
ますます無理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速
度的に症状が重くなる。

 要はこうならないように、(1)家庭は心をいやす場であることを大切にし、(2)子ど
も自身の「逃げ場」を大切にする。

ここでい逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになるが、その子ども部
屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はその逃げ場へは
入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけない。子
どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの
心を守る。

(2)今日の特集  **************************

●カナダにお住まいの、Kさんからのメール

 カナダに住んでいる、Kさん(女性、32歳)から、こんなメールをもらった。いろい
ろと考えさせられるメールだった。今夜は、このメールをテーマに、いろいろ考えてみた
い。

 Kさんは、10年ほど前、日本へ旅行にやってきた、カナダ人の男性と結婚。現在、夫
とともにモントリオール校外に住んでいる。現在、娘さんが、二人(上が7歳、下が4歳)
いる。

 Kさんの夫は、日本でいう老人ホームのようなところで、介護士をしている。

【Kさんからのメール】++++++++++++++

 いろいろご心配をおかけしました。
 母は、くも膜下出血でした。応急処置が、よかったのか、一命をとりとめました。
 ありがとうございました。

 母が倒れたと聞いた、その2日後に、飛行機のチケットが取れましたので、藤枝のほう
へ、(カナダから)、帰ってきました。
夫の仕事のこともありましたから、二人の娘も連れてきました。

しかし病院へかけつけてみると、父と姉が、はげしく言い争っていました。
病院の治療費、保険、それに父の借金のことなどが、原因のようでした。
で、その日は、父とはあまり話をしないで、家にもどりました。

翌日、朝、姉から電話がありました。
そしていきなり、「父さんは、K子(=Kさんのこと)に、一目会わせたら、母さんは死
んでもいいと言っている。私も楽にさせてあげたい」と。

 私は、この言葉に驚きました。それが四年ぶりにあった、姉の言う言葉でしょうか。
 実の娘が、「死んでもいい」と、言うのです。

 で、そのあともたいへんでした。病院のほうから、「二週間後に、治療費の、43万円を
払ってほしい」と言われました。「そんなお金は、ない」と私が言うと、姉が、「あんたは、
今まで親のめんどうをみてこなかったから、それくらい払うべき」と言うのです。

 モントリオールにいる夫に電話すると、夫も、驚いていました。
 「日本では、そんなにお金がかかるのか」と、です。

 結局、母の治療費の大部分は、保険でカバーされることがわかりました。

 で、こうしてバタバタしている間に、一週間が過ぎてしまいました。二人の娘のうち、
下の子の花粉症がひどくなったので、一度、カナダへ帰ることにしました。

 で、帰るとき、姉の嫁ぎ先(栃木県のF町)へ、姉にあいさつに行きました。
 そこでのことです。

 姉の義理の父親が、私の顔を見るやいなや、こう言いました。

 「この親不孝者。親が、死ぬかもしれないというときに、お前は、病院を離れて、家で
寝ていたというじゃないか。

 お前は、だれに育ててもらったと思っているのか。そういうときは、お前は、死んでも
かまわないから、命がけで、母親の看病をすべきだ。

 カナダで、のうのうと暮らしている自分が、恥ずかしくないのか!」と。

 私は、その言葉を聞いて、涙がポロポロと出てきました。

 今も、母は、藤枝市のF中央病院で、呼吸器をとりつけたまま、昏睡状態です。脳にた
まった血は、うまく取れたのですが、意識は、まだもどりません。

 カナダを離れることもできませんし、さりとて、日本へ戻っても、することがありませ
ん。
 父も、私とは、口をききたくないようです。今の夫と結婚するについても、母は、納得
してくれましたが、父は、猛反対でした。

 一度、「お前は、親を捨てた」「オレも、お前を捨てた」と言われたこともあります。

 私たちの家族は、そんな家族です。

こんなこと書いても、何ら、問題は解決しませんが、気が楽になりました。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

+++++++++++++【以上、Kさんからのメール】

 このメールの内容を、車の中でワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「それじゃ、子どもは、まるで、親のモノあつかいね」と。

 そう、私も、そう思う。たしかに私も、三人の息子を、育てたが、「育ててやった」とい
う意識は、ほとんど、ない。むしろ、人生を楽しませてもらった。感謝しこそすれ、息子
たちに、私に感謝しろと思ったことはない。

 まったく「ない」とは言わないが、しかしそれを口にしたら、おしまい。……と思って
いる。

 私とワイフは、息子たちを、望んで産んだ。しかし産んだ以上は、育てるのは、親の義
務ではないのか。どこまでいっても、親の義務。私はワイフに、こう言った。

 「栃木の義理の父親ね、卑怯だと思う。そういうふうに、自分の実娘でもない人向って、
『親不孝者!』と怒鳴るのは、おかしい。いえね、そういうふうに、怒鳴りながら、自分
では、正論を言っているつもりなんだろうね。

 そしてね、そういう言葉の裏で、嫁、つまりKさんの姉に、『お前は、オレには、そうい
うことをするなよ』って、言っているんだよ。昔風の親が、よく使う手だよ。

 ぼくの知っている女性(75歳くらい)は、いつも、息子や娘たちに、いつもこう言っ
ているよ。

 『Aさんとこの息子は、偉いもんじゃ。今度、母親を、沖縄へ連れていってやったそう
だ』『Bさんとこの息子は、ひどいもんじゃ。親のめんどうをみるのがいやで、親を、老人
ホームへ追いやったそうだ』と。

 つまりそういう間接的な言い方をしてね、『お前も、ワシを、温泉へ連れて行け』『お前
は、ワシを老人ホームへ入れるな』と言っているんだね。

 卑怯な言い方だよ」と。

ワ「Kさんという娘さん自身の、幸福は、どうなるのかしら」
私「いろいろな考え方があると思うけど、ぼくが、その親なら、娘のKさんに、こう言う
だろうね。『カナダから、わざわざ来なくてもいい。来られるときに来ればいい。心配する
な』と」
ワ「私も、そうよ。……でも、日本では、親の死に目に会わない子どもは、親不孝者とい
うことになっているでしょう」

私「ぼくは、かまわないよ。死ぬとき、お前だけがいてさえくれればね。ほかの人たちは、
うるさいだけ」
ワ「私もかまわないわ。でも、できたら、息子たちにだけは会いたいわ」
私「だから、今のうちに、うんと会っておけばいい。どうせ死ぬときは、わからないよ」

ワ「そうよ。わからないわよ。その栃木の義理の父親ね、いやな人ね。自分の娘でもない、
嫁の妹に、そんなふうに言うなんて!」
私「きっと、権威主義的な人なんだよ。何も考えず、過去を繰りかえしているだけ。ノー
ブレインの人だよ。今でも、そういう人は、多いよ」
ワ「まだまだ、日本人も、後進国的ね」

私「そうだよ。世界的に見ると、日本人のしていることは、アフリカの原住民のしている
ことと、そうはちがわないよ。少なくとも、世界の人は、日本人をそういう目で見ている。
それがわからないところが、日本人の悲劇だね」
ワ「でも、Kさん、その言葉でキズついたと思うわ」
私「かわいそうだね。ぼくなら、『何も心配しなくてもいい。お母さんの心は、もう安らか
だよ。葬式ということになってもたいへんだから、日本へはこなくてもいいよ。こちらで、
しっかりとしておくから』と言ってあげるよ」

ワ「私も、そう思うわ。カナダからだと、20時間は、かかるしね」
私「たいへんだよ。大切なのは、今、生きている人が、心穏やかに、安らかに生活するこ
とだ。死んでいく人は、そういう人の幸福を、じゃましてはいけない」
ワ「たとえ、親でも?」
私「そうだよ。ぼくは、子どもに心配をかけたくない。負担もかけたくない。最後の最後
までね……」

ワ「でも、あなたの葬式は、どうするの?」
私「だれも、来なくても、かまわない。本当に、かまわない。お前だけがいればね。静か
に、だれにも知られずに、死にたい。通夜(つや)もいらない。あんな儀式、ムダだと思
う。葬式なんて、もっとムダだと思う。大切なことは、それまで、『今』を懸命に生きるこ
とだよ」
ワ「私が先に、死んだら……?」

私「ぼくが、ひとりで葬式をしてあげるよ。それとも、みんなに来てほしいかい?」
ワ「そうね、息子たちだけは、来られたら来てほしいわ」
私「わかった。一応、声はかけてみるよ。あとの判断は、息子たちに任せればいい」
ワ「そうね。無理を強いないでね。S(アメリカに住む二男)は、遠いし。いつかヒマな
とき、来てくれればいいわ」
私「そういうふうに言っておくよ」と。

 話をもとに戻すが、子どもは、決して、親のモノではない。

 どうして日本人よ、そんな簡単なことがわからないのか。子どもといっても、一人の人
格をもった人間だ。決して、モノと、見てはいけない。

 いつか日本人の意識が変って、親が、子どもを一人の人間としてみるときがきたら、こ
の日本も、やっと一人前の国になる。私たちが今、親としてすべきことは、そういう日本
をめざして、一歩でも、二歩でも、前に向って歩くこと。

【Kさんへ】

 今度、日本へ来て、大きなカルチャーショックを受けられたみたいですね。
 でもね、振り向かなくてもいいですよ。栃木の義理の父親の言っていることのほうが、
おかしいのです。まちがっているのです。

 そういうノーブレインな人がいるかぎり、日本は、よくなりません。日本は、まだ、あ
の江戸時代という、封建時代の亡霊を、色濃く、引きずっているのです。

 過去の因習をもちだす人は、何も考えない、ノーブレインな人という意味です。「過去が
正しい」という前提でものを言うから、話になりません。一見、正論に見えますが、正論
でも何でもないのです。ただの亡霊です。

 そういう亡霊とは、私のような人間が戦います。あなたはあなたで、前向きに生きてい
けばいいのです。

 今どき、「親孝行」だの、「親不孝」だの、そんなこと言っているほうが、おかしいので
す。それとも、そんな単語が、英語やフランス語にありますか? 

 だいたい「孝行論」を説くのは、子どもをもった、おとなたちです。おかしいですね。
自分の子どもに向かって、「自分を大切にしろ」と教えるのですから……。

 もちろん子どもが、自分で考えて、そうするなら、話は別です。しかしね、Kさん、親
子というのは、ひとつのワクにすぎません。親子といえども、そこは純然たる、一対一の
人間関係です。

 もともと強い立場にいる親が、もともと弱い立場にいる子どもに向かって、「産んでやっ
た」「育ててやった」と、恩を着せるほうが、おかしいのです。日本人は、いつになったら、

 あなたはじゅうぶん、娘として、義務を果たしました。今は、お母さんは、意識がない
ので、何とも言いませんが、きっと、私と同じことを考えていると思いますよ。

 「もう苦しまなくてもいいのよ」って、そう言っていると思いますよ。

 だからKさん、勇気を出して、前に進んでください。応援します。

 栃木のお父さんね、あんな人は、無視しなさい。化石のような人ですから。それからお
姉さんの件ですが、あまり気にしないように。お母さんが倒れて、きっと気が動転してい
たのだと思います。

 仮に関係がおかしくなっても、しかたないでしょう。イギリスの格言にも、『二人の人に、
いい顔はできない』というのがありますね。

 しかたないことです。人生を長く生きれば生きるほど、味方になる人もいれば、敵にな
る人もいるのです。私は、あなたの味方になります。ですから、こんなちっぽけな島国の
ことなど気にせず、二人の娘さんを、カナダ人として、たくましく育てることだけを考え
てください。

 どうか、がんばってください。またメールをください。
(040305)(はやし浩司 家族論 原S)

【付記】

 自分の子どもを育てながら、「私は、子どもの犠牲になっている」と感ずる、親は、少な
くない。

 理由は、いろいろある。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、な
ど。古い因習を引きずっていることもある。昔は、子どもを、家の財産と考えた。

 日本の親がよく口にする、「産んでやった」「育ててやった」という言葉は、そういうと
ころから生まれる。

 で、さらにそれが進むと、「大学を出してやった」という言葉にもなる。

 たしかに今、子どもを大学へ送ると、かなりの負担が、親にのしかかってくる。そのた
め、ほとんどの家庭では、まさに爪に灯をともすようにして、家計を切りつめ、子どもの
学費を送る。

 そのとき、親子関係が、それなりに円満なものであれば、親も、苦労を喜びにかえるこ
とができる。しかしそうでないときに、そうでない。

 中には、親のメンツのために、子どもを大学へ送るケースもある。こういうとき子ども
は子どもで、「(親がうるさいから)、大学へ行ってやる」などと言う。

 実際、そういうケースを、私は、知っている。

 アメリカなどでは、この点、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけれ
ばならないほど、少ない。奨学金を得るか、さもなければ、自ら借金をしながら、大学へ
通う。

 そういうシステムが、完成している。

 で、Kさんのケースでは、Kさんの父親は、Kさんに向って、「親を捨てた」と言う。カ
ナダ人と結婚して、カナダに住むようになったことを、「捨てた」と。

 しかし、今、そういう時代ではない。「日本だ」「カナダだ」と言っているほうがおかし
い。もっともKさんの父親が言っている「捨てた」という意味は、「親のめんどうをみる範
囲から、離れた」という意味と考えてよい。「自分のめんどうをみてくれない。だから捨て
た」と。

 子ども自身の幸福を考えたら、絶対に出てこない言葉である。だいたい、これほど島国
的な言葉も、ない。またそんなことを言われたら、一番、キズつくのは、Kさん自身であ
る。

 人間というのは、もともと孤独な存在だ。しかしその人間は、結婚し、子どもをもうけ
ることで、その孤独を忘れることができる。

 しかし孤独が消えるわけではない。「忘れることができる」だけ。やがて子どもたちが巣
立つころ、再び、その孤独が、そこに見えるようになる。そのとき、その孤独に、しっか
りと耐えるのも、まさに親の役目ということになる。

 決して、子どもが、その孤独をもたらすのではない。子どもに向かって、「お前は、親を
捨てた」という暴言を吐く親は、その事実に気がついていない。

 そう、昔、まだ息子たちが小さかったころのこと。仕事の帰りに町で、おもちゃを買っ
て帰るのが、私の日課になっていた。

 そんなとき、自転車のカゴの中で揺れるおもちゃの箱を身ながら、どれほど、家路を急
いだことか。

 家へ帰ると、息子たちがみな、「パパ、お帰り!」と、飛びついてきた。

 私は、息子たちのおかげで、自分の人生を、本当に楽しむことができた。教えられたこ
とも多い。教えたことよりも、教えられたことのほうが、多いのでは……?

 今、その子育てを、ほとんど終えたが、そういう自分の過去を振りかえってみて、私は、
息子たちのために、犠牲になったという思いは、ミジンもない。

 むしろ、息子たちのおかげで、生きることに張りあいが生まれた。生きがいも生まれた。
もし息子たちがいなかったら、私は、こうまでがんばらなかっただろうと思う。その生き
る原動力さえ、私は息子たちからもらった。

 現に今。私は56歳。体力的にも、限界に近づきつつある。しかし三男が大学を卒業す
るまで、まだ三年もある。その三年について、「どんなことをしてでも、あと三年はがんば
るぞ」という思いで、ふんばっている。毎日、健康を維持するために、運動にでかけるの
も、そのためだ。

 そういう力も、結局は、息子たちが、くれた。もし私とワイフだけなら、きっと今ごろ
は、何をするでもなし、しないでもなし。そこらの年金生活者と同じような、意味のない
人生を繰りかえしているだろうと思う。

 こう書きながらも、この日本には、Kさんの姉の、その義理の父親(栃木の父親)のよ
うな人もいる。Kさんの父親のような人すら、いる。また、それなりにうまくいっている
親子も、少なくない。(それが悪いと言っているのではない。誤解のないように!)

 それは事実だし、そういう人たちの意識を変えることは、容易ではない。あるいは不可
能かもしれない。

 が、今、この日本は、大きく変わろうとしている。フランス革命のような派手な革命で
はないが、しかし今、それに匹敵するような、意識革命が、日本人の心の奥で、深く静か
に、進行している。

 こうした流れを、『サイレント革命』と呼んでいる人もいる。日本人の意識が、あらゆる
面で、大きく変わりつつある。

 家族の意識、夫婦の意識、親子の意識、結婚の意識、親戚の意識、「家」に対する意識、
職業意識などなど。すべてが、変りつつある。

 もうこの流れを止めることは、だれにもできない。

 さあ、あなたも、あなたの子どもに、こう言ってみよう。

 「私は、あなたの友だちよ。いっしょに、人生を楽しみましょう!」と。

 たったそれだけのことが、あなたの中に巣くっている、古い意識を、こなごなに破壊す
る。そしてあなたの意識が、ちょうどドミノ倒しのドミノのように、日本の中に残ってい
る封建時代の亡霊たちを、こなごなに破壊する。

 話がどこかバラバラになってしまったが、犠牲心があるということ自体、あなたの子育
ては、どこかおかしいということになる。その「おかしさ」に、できるだけ、早く気づく
こと。それはあなたの子どものためというよりは、あなた自身、豊かな老後のためである。

(3)心を考える  **************************

●ピグマリオン効果

 昔、キプロス島に、ピグマリオンという若い王子がいた。その王子は、彫刻家で、やが
て一人の美しい女性像を彫りあげる。

 が、ピグマリオンは、その像のあまりの美しさに、心を奪われ、やがてその像に恋をす
るようになる。

 その熱心さにほだされ、天から見ていた神が、その像に命を吹きこむ。やがてピグマリ
オンと、その人間となった女性は結婚し、子どもをもうける。

 何ごとも、熱心に思い願えば、やがてかなうということを、この物語は教えているが、
それから、『ピグマリオン効果』という言葉が生まれた。

 子どもの世界でも、『子どもは信ずれば伸びる』という大鉄則がある。「あなたはすばら
しい子」と親が、心底思っていると、その子どもは、必ず、すばらしい子どもになる。

 ただし本心でそう思うこと。ウソではいけない。ウソだと、それがバレたとき、その子
どもはかえってキズつき、自ら伸びる芽をつんでしまう。

 こういうことは、教育の現場では、よくある。

 初対面のとき、「この子は、むずかしそうな子だな」と思うと、その子どもは、やがて伸
び悩む。それだけではない。長い時間をかけて、私を嫌うようになる。

 反対に、「この子は、いい子だな」と思うと、その子どもは、やがて伸び始める。表情も、
明るくなる。

 だから私は初対面のときから、「この子は、いい子だ」と、自分に言って聞かせるように
している。それは子どものためというより、自分の職場を楽しくするためでもある。

 そういうふうに思って子どもに接していると、一年後、二年後には、たいへん伸びやか
で、明るい子どもになる。

●受験指導

 受験指導の一番いやなことは、生徒との間に、豊かな人間関係が、できないこと。子ど
も自身も、求めて来ているからではないからだ。

 たとえば英語を教える。そのとき、子どもは英語の楽しみを味わう前に、「テストの点は
何点だった?」と、親に言われる。それはたとえて言うなら、旅をしながら、その旅の風
景を楽しむ前に、進んだ距離を問われるようなものである。

 よく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入るというのは、目的でも何でもない。
「入ってどうする」という部分がないまま、子どもたちは、受験競争へとかりたてられて
いく。

 しかもその高校や、大学は、「入れる高校」「入れる大学」「入れる学部」という視点で、
選んでいく。もともと目的がないから、大学へ入っても、勉強しない。そんな珍現象が、
この日本で起きている。

 どうして日本の親たちは、こんなことがわからないのかと思うときがある(失礼!)。

 目的というのは、自分の志向性にそったゴールをいう。子どもの志向性を知り、その志
向性をうまく伸ばしていく。それが教育である。

 今でも、勉強しかしない。勉強しかできない。よい点数を取ることだけが趣味になって
いるような、どこか「?」な受験生は、いくらでもいる。もちろんこういう受験生ほど、
今の受験体制の中では、有利。もちろん大半は、すばらしい受験生たちである。しかし全
部が全部、そうだというわけではない。

 こうした受験生が悪いとは思わないが、しかし本当にそのままでよいとは、だれも思っ
ていない。つまりそういった疑問と戦うのも、受験指導の一つになっている。

 一部の人が、エリート意識をもつのは、その人の勝手だが、しかしその人がエリート意
識をふりかざせばかざすほど、そうでない人たちが、不必要に、小さくならなければなら
ない。

 エリート意識をもっている人も、学歴コンプレックスをもっている人も、一度、自分の
心の中を、しっかりとのぞいてみてほしい。「あなたは幻想に溺れていないか」、あるいは
「幻想にだまされていないか」と。


●コンプレックス

 日本で、「コンプレックス」というと、「劣等感」のことと思う人が多い。しかし英語で
は、劣等感というのは、正確には、「inferior complex(劣等性コンプレ
ックス)」という。

 もともと「コンプレックス」というのは、「自分では、どうにも抑制できない心的反応」
(心理学辞典)のことをいう。

 マザーコンプレックス、エディプス・コンプレックス、カイン・コンプレックス、ロリ
ータ・コンプレックスなどが、よく知られている。

 よく誤解されるので、ここで改めて、念を押しておきたい。

(4)今を考える  **************************

●YOM(Young Old Men)

 老人にもなりきれず、その手前で、どこか不完全燃焼のまま。さりとて、もう青春時代
は、はるか、かなた。

 そういう世代を、YOM世代(若き老人世代)という。つまり私の年代層の人たちをい
う。

 このYOMの特徴をあげれば、キリがない。子育てという面においては、子どもたちが
巣立ちをした状態。まだお金はかかるが、親子の接触は、ほとんど、ない。

 人生は、完成期にきているはずなのに、その実感は、あまりない。何かをやり残したよ
うでいて、それでいて、まだ何かできるのではという期待も捨てきれない。

 体力的には、今までごまかしてきた持病が、どんと吹きだしてくる。無理ができない。
疲れもぬけない。体力に、自信がもてない。そういう状態になる。先日も、大学の同窓会
に出てみたが、三人に一人が、がんなどの大病を経験していたのには、驚いた。

 性的には、まだまだと思っていても、若いときのように、「いつも」というわけにはいか
ない。そのタイミングをつかむのがむずかしい。そのタイミングをはずすと、とたんに性
的な興味を失う。

 仕事は、職種にもよるのだろうが、無理ができない分だけ、下向きになる。とくに私の
ような自営業は、そうだ。だから何かと、落ちこみやすくなる。この年齢というのは、う
つ病になりやすい。私も、その予備軍の一人?

 さてさてそのYOM世代。その一方で、若い人たちを見ると、「これではいけない」と思
う。「もう少し、がんばってやろうか」という気持ちも、そこから生まれる。ただ、かわい
そうなのは、上(親)に取られ、下(子ども)に取られるという、まさに「両取られ」の
世代であること。

 私の年代というのは、親に貢ぐのが当たり前だった。しかし子どもたちは、私という親
には、貢がない。今では、結婚式の費用から、新居の費用まで、親が出す時代である。

 我ながら、YOM世代は、本当にかわいそうな世代だと思う。ホント!

 加えて、夫婦関係も、おかしくなる。もっとも私の世代になると、夫婦も、つぎのよう
なパターンに分かれる。

(1)円満夫婦
(2)仮面夫婦
(3)家庭内別居夫婦
(4)離婚寸前夫婦
(5)妥協夫婦
(6)あきらめ夫婦
(7)友だち夫婦、など。

 それまでの結婚生活の総決算が、この時期、どんとやってくる。そのまま離婚してしま
う人も、少なくない。それもたいていは、妻のほうから、離婚の請求があるという。(私も
あぶない?)

 ある妻(55歳)は、夫(60歳)にこう叫んだという。「私の人生は何だったのよ。私
の人生を、返して!」と。妻に対して権威主義的で、仕事一筋だった夫ほど、あぶないら
しい。

 では、どうしたらよいのか。どうすべきなのか。

 YOMの研究は、今、始まったばかり。何しろ、この「YMO」という言葉は、私が考
えた。(こんなことを、自慢するほうも、どうかしているが……。)これから先、じっくり
と、腰を落ちつけて、考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●QUIZ

【Q1】

 A子さんと、B子さんは、同じお母さんから、同じ日に生まれた。今年の3月1日に、
二人とも、満6歳になる。それにA子さんと、B子さんは、顔がそっくりである。他人が
見ても、区別が、つかない。しかし私が、お母さんに、「双子(ふたご)ですか?」と聞く
と、お母さんは、笑いながら、こう言った。「いいえ、双子ではありません」と。A子さん
と、B子さんは、双子ではないという。こんなことがあるのだろうか。

【Q2】

 A君とB君は、兄弟である。A君の名前は、サトシ。10歳。B君の名前も、サトシ。
5歳。ところが、である。私が母親に、「どうして、二人とも、同じ名前なのですか?」と
聞くと、母親は、こう言った。「????????」と。

 母親は、何と言ったのだろうか。

(Q1、生徒たちから、聞いた問題。Q2は、オーストラリアの友人から、聞いた問題。)

************
この答は、この少し先に
書いておきます。
************

こうした問題は、一定の固定観念にしばられると、何がなんだか、わけがわからなくな
ってしまう。頭をぐんと、やわらかくして、考えなければならない。

 Q1の問題は、最初、子どもたちから聞かれたとき、私は、「生まれた年がちがうのだろ
う」「お父さんがちがうのだろう」「年齢がちがうのだろう」と、聞いた。が、子どもたち
は、そのつど、「ちがわないよ」と答えた。

 で、ますますわからなくなってしまった。「同じお母さんから生まれたの?」と聞くと、
「うん、そうだよ」と。しかし、双子ではないという。どう考えたらよいのか?

 (Q2)の問題は、オーストラリアの友人から、聞いた話をもとに、私が、作った。

 何でも、その家には三人の息子がいるという。三人とも、しかし「エドワード」という
名前だという。

 そこである人が、「不便ではありませんか」と聞くと、その母親は、こう言った。

 「いいえ、便利です。『エドワード、助けて』と言うと、三人が、みな、いっしょに助け
てくれます」と。

 そこでその人が、「では、三人を、別々に呼ぶときはどうするのですか」と聞くと、その
母親は、こう言ったという。

 「父親が、みな、ちがいますから、セカンド・ネームで呼びます。長男が、エドワード・
ランダン、二男が、エドワード・ウィルソン、三男が、エドワード・ジャクソンです。で
すから長男だけを呼びたいときは、『ランダン、こっちへ来て』と言います」と。

 ここまで書いたら、Q1の答が、わかってしまうが……。


●3月31日号

 この原稿は、マガジンの3月31日号に掲載する予定です。昨日、3月29日号の配信
予約をすませたところです。ちょうど、約1か月先まで、原稿の配信予約をすませたこと
になります。

 何となく、本格的になってきたぞ、という感じです。

 そこで読者の方に、お願い。

XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

(1)どうか、こういうマガジンの興味をもってくださいそうな方に、このマガジンのこ
とを話していただけませんか?

(2)現在、有料マガジンをまぐまぐ社のほうから、発行しています。月額の料金は、2

00円です。もしよろしかったら、どうか、そちらで、マガジンをご購読ください。

(3)まぐまぐプレミア版のほうでは、そのつど、HTML版(写真つき、カラー版)を、
提供しています。

(4)BW教室の生徒さんを募集しています。4月からの新年中児、新年長児のみなさん
に来ていただければ、うれしいです。新小1〜3の方も、ご希望であれば、お声をかけて
ください。

(5)賛助会への協力をお願いしています。マガシンの運営費として、協力していただけ
るようなら、よろしくお願いします。子育て相談など、何かと便宜をはからせていただき
ます。

XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

 こうしたみなさんのご協力を得て、マガジンを発行しています。よろしくご理解の上、
ご協力くださいますよう、お願い申しあげます。

 で、まぐまぐプレミア版を発行して、一か月(本当は、一週間)になります。やっと、
落ちついてきたといったふうです。つまり以前のリズムにもどった感じです。「有料」とい
うことで、最初は、かなり緊張しましたが、私にとっては、よい経験になりました。

 今しばらくは、Eマガのほうも、同じように発行していくつもりでいますが、5月ごろ
から、Eマガのほうは、簡略版にさせていただければと思います。(あくまでも予定です。
そのときの精神的負担をみながら、考えさせてください。)

 BIGLOBE社の(メルマガ)のほうは、3月から、ときどき(随時)発行というこ
とにさせていただいています。もし末永く読んでくださるということであれば、まぐまぐ
プレミア版の購読を、お願いします。こちらのほうは、最優先で、発行していきます。

 以上、お願いすることばかりですみません。これからも、今までどおりに、マガジンを
発行していくつもりです。分量が多すぎるという苦情は、よくいただきますが、そのうち
私も元気がなくなれば、減ってくるものと、思います。今しばらく、がまんをお願いしま
す。

 そういえば、今朝(3月5日)、あの長嶋茂雄元ジャイアンツ監督(ミスター・ジャイア
ンツ)が脳卒中で倒れたというニュースが飛びこんできました。私が子どものころ、私に
とっては、あこがれのヒーローであっただけに、ショックでした。ああいう人には、いつ
までもがんばってほしいと願っています。

 みなさんも、どうか、お体を大切に。

**************************

【Q1の答】

 A子さんと、B子さんは、三つ子のうちの二人であった。だから「双子(ふたご)」では
ない。(論理的には、四つ子でも、五つ子でもよい。)



【Q2の答】

 母親は、サトシという名前の子どもを連れて、サトシという名前の子どもをもった男性
と再婚した。

 ほかにもいろいろ考えられる。

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.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 29日(No.379)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page051.html

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(1)子育てポイント**************************

●アメリカ人の子ども観

 国民性のちがいなのか? アメリカでは、「恥ずかしがり屋」の子どもを、問題児ととら
える。英語では、「ナーバス(nervous)」「シャイ(shy)」という。

 「日本では、恥ずかしがるのは、美徳(virtue)だ」と話すと、そのアメリカ人
の先生(小学校)は、かなり驚いていた。国がちがうと、子どもの見方も、大きくちがう
ようだ。

 そのためか、アメリカでは、ワーワーと自己主張する子どもほど、(できのよい子ども)
ととらえる。反対に、静かで、謙遜する子どもを、(できの悪い子ども)ととらえる。

 もちろん教育にも、大きな影響を与えている。

 アメリカでは、いつも先生が生徒に、「どう思う?」「それはすばらしい」と言って、授
業を進める。日本では、「わかったか?」「ではつぎ!」と言って、授業を進める。

 「教育」と言っても、中身は、まるでちがう。そういうことも考えて、子どもの教育を
考える。(もちろんそれぞれに、一長一短があるが……。)


●右は妹、左はぼく!

 母親は、男児の育児にとまどう?

 ある母親からだが、こんな相談があった。

 小学五年生の男の子だが、「いまだに、私のおっぱいに、さわりたがります」と。

 妹は、4歳。

 そこで母親は、「右が妹、左がお兄ちゃん」と決めているそうだ。私はその相談を受けた
とき、その母親の胸を、まじまじと見てしまった。

 「どうして?」と聞いたら、何を勘違いしたのか、その母親は、左の胸を前に突きだし
ながら、こう言った。「左のほうが、ほら、少し大きいでしょう!」と。

 そのあたりの年齢になると、母親も、やや羞恥心をなくすようだ。胸の豊満な母親だっ
たので、ハハハと笑いながら、内心では、その子ども(兄)が、うらやましく思った。そ
してこう思った。

 「私だって、男だぞ!」と。

 もうこの年齢になると、私を「男」と見てくれる母親はいない。自分でも、それがよく
わかる。まあ、あきらめるか! 

私は56歳。ヤング・オールド・マンだ! 略して、YOM。(私がつくった、新語)

【YOMの特徴】

 老人にもなりきれず、しかし青春にも決別できない、中途半端な年代層。ときどき、老
人になった自分を知り、ときどき、それに反抗してみる。

 ちょうど中間反抗期の子どもの心理的変化に似ている。ときどき、おとなぶってみたり、
反対に幼児がえりを起こしてみる。どっちつかずの不安定な年齢。

 YOMについては、あとで、もう少し、掘りさげて考えてみることにする。おもしろそ
うなテーマだ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●考えることを放棄する子どもたち

 「考える力」は、能力ではなく、習慣である。

もちろん「考える深さ」は、その人の能力によるところが大きい。が、しかし能力があ
るから考える力があるとか、能力がないから考える力がないということにはならない。
もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはいる。おとなでも考
える力のないおとなはいる。

 こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と
聞いたときのこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもっ
てきて、「ええと、三個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、
私をじっとにらんでこう言った。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中
に、まさに「考える力」を見た。

 一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これま
た軽薄なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。

一見考えてものをしゃべっているかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていな
い。脳の、きわめて表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して、それを口に
しているだけ。まれに気のきいたことを言うこともあるが、それはたまたま暗記してい
るだけ。あるいは他人の言ったことを受け売りしているだけ。

そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみればわかる。目つきそのもの
が、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからといって、そういうタ
レントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言っているのでも
ない。)

 そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもな
おざりにされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 

日本では伝統的に、「できるようにすること」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先
生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進める。(アメリカでは、「君はどう思
う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)

親は親で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(ア
メリカでは、「先生によく質問するのですよ」と言う。)その結果、もの知りで、先生が
教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評価する。そしてそう
いう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。

しかしこんなのは教育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした
指導を教育と思い込んでしまったところにある。

 大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考え
る子ども」を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教
育ということになる。またそうでなければならない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもを一人の人間としてみる

 子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いと
なってあらわれる。

 子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強
くなり、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、
親の愛と誤解する。子どもの人格を無視する。ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言
っていた。

「おばあちゃんが、このお菓子を買ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、
パパやママには内緒だよ」と。あるいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こ
う電話していた女性もいた。「遊びにおいでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買っ
てあげるから」と。
 
子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認
めること。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。
そういう視点で、子どもをみる。育てる。

 こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令
と服従の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的に
なった分だけ、子どもの自立は遅れる。また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。
日本的に言えば、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。が、それだけではない。

子どもを子どもあつかいすればするほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこ
ういう子だ」というつかみどころのことを、「核」というが、そのつかみどころ.がわかり
にくくなる。教える側からすると、「何を考えているかわからない子」という感じになる。
そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくなる。

わかりやすく言えば、おとなになりきれないまま、おとなになる。このことはたとえば
同年齢の高校生をくらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高
校生は、まるでおとなと子どもほどの違いがある。

 昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかって
きた。「別格」と言えば、聞こえはよいが実際には、人格を否定してきた。女性は戦後、そ
の地位を確立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで終わるわけ
ではない。

こうして子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親になる。そして今
度は自分が受けた子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまでも世
代連鎖はつづく……。

 この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。
もっと言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれで
よいし、そうであってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。

日本型の子育て観は、決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自
立させるという意味では、いろいろと問題がある。それがわかってほしかった。

(2)今日の特集  **************************

【家族論】

●家族の限界

 家族には、家族としての機能がある。助けあい、認めあい、励ましあい、教えあい、守
りあうという役割である。

しかしその家族は、同時に、個人の自立を、はばむことがある(心理学者のレイン、ク
ーパーほか)。

最近では、(近代的自我)という言葉が使われる。未来志向型の個人の確立をいう。その
近代的自我の確立に、ときとして、家族は、足かせになるという(レイン、クーパー)。

 そのレインやクーパーは、人間には、二つの志向性があるという。(個人志向)と(共同
体志向)である。

 (個人志向)というのは、「だれにもじゃまされず、自分の道を進みたい」という、志向
性をいう。

 (共同体志向)というのは、どこかの共同体に属し、その共同体とともに、運命を共有
したいという、志向性をいう。日本では、家族。さらには、親戚、近所づきあいが、その
共同体ということになる。

 私やあなたという、一人の人間をみたばあい、こうした志向性が、混在しているのがわ
かる。人に干渉されるのを嫌う反面、他人には、干渉しようとする。その反対に、無視さ
れるのを嫌う反面、他人の行動を、無視しようとする。

●孤独論

 こうした心理的反応の根幹にあるのが、「孤独」である。

 個人志向が強ければ、人は、孤独を感ずる。だから共同体とかかわりをもとうとする。
反面、共同体志向が強ければ、孤独はいやされるが、あれこれ干渉されて、それをうるさ
く感ずる。

 こうした孤独感は、どこからくるのか?

 それは恐らく、人間が魚であった時代から、始まっているのではないか? ……という
のも、かなり飛躍した考え方に見えるかもしれないが、魚の群れを見ていたとき、私は、
そう思ったことがある。

 あの魚は、たいてい、群れをつくって行動する。つまり「群れ」をつくることで、自分
たちの安全性を確保する。だからそれぞれの魚にとって、群れをはずれて行動することな
ど、考えられない。その(群れ意識)の根底にあったのが、(群れからはずれる恐怖)、つ
まり孤独ということになる。その(恐怖感)が、(孤独)のもつ恐怖感の原点になった?

 もちろん人間と魚はちがう。しかしその人間は、遠い昔、魚から、進化した。現に、胎
児は、母親の胎内で、一度は、魚に似た形になる。人間の心の中に、(魚的意識)が残って
いたところで、何も、おかしくはない。

 もっとつきつめていくと、知的動物としての人間は、(個人志向)を求める。しかし原始
的動物としての人間は、(共同体志向)を求める。このハザマで、人間は、右往左往する。
さらにつきつめていくと、知的動物としての、自我の確立を、レインやクーパーのいう、(近
代的自我)の確立と呼んでもよいのではないか。

 ただ、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。

●家族意識

 欧米と日本とでは、「家族」に対する意識が、かなりちがう。さらに欧米と日本とでは、
「親戚」「近所」に対する意識が、かなりちがう。また欧米と言っても、広い。また日本と
いっても、都会と田舎では、まるで別世界のように、ちがう。

 だからいっしょくたにして考えることはできない。が、レインやクーパーは、「家族が、
近代的自我の確立に障害になる」と言ったが、この日本では、その家族に、親戚や近所を
含めてもよいのでは。

 実際、農村部に住んでみると、息苦しいまでの重圧感を覚えることがある。人間関係が、
たがいにクモ巣のようにからんでいて、たがいにたがいを、密接に、かつ濃密に干渉しあ
っている。話は、少し、それるが、こんな例がある。

 私の友人が、岐阜県のS町のはずれに、小さな酒屋を開いた。それまで都会に住んでい
たが、田舎暮らしにあこがれ、そこに家族ともども、移住した。

 が、一年たっても、ほとんど客はこなかった。ときどき街道を通る人が、買い物をする
程度だった。値段を安くし、さらにおまけまでつけたが、それでもダメだった。

 一年もたったころ、やっと、その理由がわかった。

 そのS町には、もう一軒、酒屋があった。昔からの酒屋で、その酒屋は、その村の有力
者が経営していた。つまりほかの村人たちは、その有力者に遠慮して、友人の酒屋では買
い物をしなかった。

 この例で、友人がもった意識、つまり(都会から脱出して、田舎暮らしをしてみたい)
という意識が、ここでいう(近代的自我)ということになる。しかしその(近代的自我)
をはばんだのが、村という共同体のもつ、(共同体意識)ということになる。

 村の人たちは、自分たちの(共同体志向)を優先させるため、その友人の(近代的自我)
を、はばんだということになる。

 こうした現象は、家族の中でも、起こりえる。それが冒頭に書いた、「近代的自我の確立
に、ときとして、家族は、足かせになる」という意味である。

 つまり私たちは、子どもを育てながら、「育てる」ことばかりを考えるあまり、私たちと
いう親が、子どもの自我の確立を、はばむことがあるということ。過干渉もそうだが、ほ
かに、過関心、過保護、溺愛、過剰期待などもある。

●親自身の問題

 しかしそれ以上に、深刻に考えなければならないのは、親自身が、自我の確立ができて
いないばあいである。そういう親に向かって、「子どもの自我を尊重しなさい」と言っても、
ムダである。そもそもそれを理解するだけの、「下地」ができていない。

 はからずも、私は、最近、こんな経験をした。

 姉との電話の中で、姉が、「頭数をそろえるために、義理のいとこの息子の結婚式にかり
だされた」と言ったときのこと。私は、「どうしてそんなムダなことをするのか?」と、思
わず言ってしまった。

 しかしその義理のいとこ氏にとっては、それが彼の価値観であり、その価値観は、さら
に奥深い、彼自身のカルト的信仰と結びついている。だからそういう義理のいとこ氏に向
って、「ムダですよ」と言っても、意味がない。親が親だから、今度は、その先の義理のい
とこの息子氏に向って、「見栄を張るのは、やめなさい」と言っても、さらに意味がない。

 意識というのは、そういうもの。もっとわかりやすく言えば、子どもの自立論を説く前
に、親自身が、自立していなければならないということ。もっとわかりやすく言えば、近
代的自我の確立ができていない親に向かって、「あなたの子どもの自我を確立させましょ
う」と言っても、ムダ。まったくの、ムダ。

 そもそも日本人というのは、慣れあい社会の中で、相互に依存しながら、生きている。
もちろんすべてが悪いばかりではない。そういった慣れあいが、独特の温もりをつくって
いるのも事実。

 しかしその一方で、そうした慣れあい社会が、レインやクーパーのいう、(近代的自我)
の確立をはばんでいるのも事実である。それがよいのか悪いのか。あとは、それぞれの人
が判断すればよいということになる。

●止められない「流れ」

 ただ、これだけは言える。

 今、日本は、そして日本人は、国際化の波にもまれながら、レインやクーパーの言う、(金
内的自我)の確立をめざして、一歩、前に踏み出そうとしている。そしてその流れは、若
い人たちから始まり、もうその流れを変えることはできないということ。

 私の二男は、こう言った。「パパ、ぼくは、ありのままのぼくで行くよ。それをみんなに
見てもらうよ」と。

 二男が出身校の、地元の中学校での講演会で、講師として招かれたときのことである。
二男は穴のあいたTシャツに、ヨレヨレのジーパン姿だった。見るに見かねて、私が「も
う少し、マシな服を着ていけ。人前に立つのだから……」と言ったときのことだった。

 これからは、こういう若者がふえてくる。もっともっと、ふえてくる。そういう流れは、
もう、私やあなたに、止めることはできない。
(040304)(はやし浩司 近代的自我 レイン クーパー 家族論 個人志向 共
同体志向 孤独 孤独論 孤独の原点 原R)

【異論・反論】

 この私の意見に対して、ある人(女性、50歳くらい)に話すと、その女性は、こう言
った。

 「群れと、共同体とは、ちがうのでないかしら?」「都会には、人がたくさんいるけど、
孤独を感ずる人は、感ずるのでは?」と。

 ナルホド! 鋭い! 忘れていた!

発達心理学の世界でも、「群れ」と、「共同体」は、分けて考える。「群れ」には、相互意
識がない。「共同体」は、人間の、複雑にからみあった相互意識が、ある。

 私は、この原稿を書きながら、「魚の群れ(=相互意識がない)」と、「共同体(=相互意
識)」を、混同している。これは致命的なミスである。

 しかし「孤独感」の原点といえば、「孤独にまつわる恐怖感」をいう。そしてその「恐怖
感」は、人間が魚だった時代から、もっていたのではないかという点については、まちが
いないと思う。

 この原稿の中にも書いたように、人間も、母親の胎内の中では、一度は、魚だった。つ
まり「群れ」から離れるということは、そのまま「死」を意味した。つまり、それが孤独
から感ずる、恐怖感の原点であるように思う。

 なお、子どもの世界では、「群れ」と「共同体」は、分けて考える。ただ子どもどうしが
集まっているのは、「共同体」とは言わない。だから子どもを、群れの中に入れただけでは、
集団教育には、ならない。これについては、また別のところで考えてみたい。

(3)心を考える  **************************

●改心

 ふと、今、思い出した。

 昔、子どものころ見た、チャンパラ映画の中で、「改心」という言葉がよく使われたのを、
思い出した。

 とんでもない極悪人が、あるとき、ふとしたことがきっかけで、心を入れかえ、それ以
後は、別人のように、善人になったりすることをいう。

 子どもながらに、「心というのは、そういうものかなあ」と思ったことがある。

 しかしそれからほぼ、半世紀。私は、そういうふうに、改心した人を見たことがない。
人間の心というのは、いわば体にしみついた「シミ」のようなもので、そう簡単には、変
えられない。

何らかの方法で、ごまかすことはできても、それは化粧のようなもの。しかし、化粧は、
化粧。何らかのきっかけで、すぐボロが出る。もしそんなことが簡単にできるなら、精
神科の医師などいらないということになる。

 私だって、「心の質」は、それほど、よくない。もともと小ズルイ男で、小心者。(私と
つきあう人は、そういう意味で、用心したほうがよい。ホント!)

 そういう私が、かろうじて「私」なのは、私には、ドン底経験があるからだ。

 幼稚園講師になって、すべてをなくしたと感じたとき、私は死ぬことさえ、考えた。毎
晩、「浩司、死んではダメだ」と、自分に言って聞かせた。

 そのときのこと。私は、人間は、ドン底を経験すると、二種類に分かれることを学んだ。
そのまま悪人になっていく人間と、善人になっていく人間である。私はあのドン底経験の
あと、自分でもおかしいと思うほど、まじめになった。

 タバコもやめたが、女遊びもやめた。ウソをつくのも、約束を破るのも、ごまかすのも
やめた。何もかもやめた。やめて、ただひたすら、まじめ(?)に生きるようになった。

 そんな私だが、しかし、では、私の質が変ったかというと、そういうことはない。ただ
ごまかしているだけ。自分でも、それがよくわかる。ふと油断すると、もともとの私が、
すぐ顔を出す。

 今は、そういう私と戦っているだけ。押さえこんでいるだけ。だから、やはり、「改心」
などということは、ないと思う。

チャンパラ映画の中では、よく使われたテーマだが、ああいうことは、ありえない。そ
れが、この半世紀を生きて私が知った、結論である。

(4)今を考える  **************************

●T社のレポーターのレベルは、この程度?

 T者のインターネットnewsを見ていて、思わず笑ってしまった。

 何でも中国沿岸部の水位が、一年前とくらべて、平均で、60ミリ前後上昇していると
いう。上海沿岸では、66ミリ前後も、上昇しているという。

 それはそうだろう。しかしそのあとの報道が、「?」。

 インターネットニュース(テレビで報道されたものと同じ)では、1960年代に撮影
された写真と、現在の様子を比較しながら、レポーターがこう言っていた。

 「60年代にとられた写真では、この建物のこの窓は、歩道を歩く人の、はるか頭の上
にありました。しかし今は、頭の下にあります。これを見ると、上海の地盤沈下を、実感
することができます」と。

 バカめ!

 窓の位置がさがったように見えるのは、それだけ、上に上にと、道路を塗りかためたた
め。こんなことは、道路工事の経験がある人なら、だれでも知っている常識。

 ふつう道路の舗装工事をするときは、旧面を削り、その上に、新しい舗装工事をする。
それをしないと、道路だけが、どんどんと高くなってしまう。ちなみに、ローマのコロセ
ウムの前の通りの道は、ローマ時代よりも、3メートルも高いという。しかしそれは地盤
沈下や海面上昇によるものではなく、道路を上に上にと、塗りかためたからにほかならな
い。

 映像で見ても、60年代の歩道と、現在の歩道は、どうもちがうような感じがする。(同
じ歩道なら、そうした比較をしても、意味があるが……。)

 それに地下水のくみあげによる地盤沈下は、全体として起こるもの。建物だけが、極端
に沈下するということは、ありえない。建物だけが沈むということもないわけではないが、
そのときは、その前に建物が傾いたり、壁が割れたりする。

 T社のインターネットnewsはいつも見ているニュースだが、私は、これには笑った。
(失礼!)

 それにしても、1年で、60ミリとは! 6センチである。このまま進めば、50年で、
3メートル! 中国の平野部の大半が、水没することになる。

 今、予想より、はるかに早いピッチで、地球の温暖化が進んでいるようだ。ゾーッ!
(しかし中国の調査報告も、あまりアテにならないし……。失礼!)


●解約できなア〜い!

 どこでどう申しこんだのか知らないが、G社のコマーシャル・マガジンが、頻繁に届く。
コマーシャルをクリックすると、ポイントがたまるというマガジンである。

 それがうるさい。そこで購読の解約!
 
手続きに従って、そのG社のトップページへ。が、どこにも解約コーナーがない! マ
ガジンをよく読むと、(トップページ)→(サービス)→(購読)→(解約)へ進んでく
れとある。

 で、やっとのことで、そのページにたどりつくと、IDと、パスワードの入力を求めら
れる。しかしそんなもの、登録した覚えはない?

 そこでまず仮のIDを発行してもらう。つぎにまた、元の画面にもどって、今度は、そ
のIDを打ちこんだあと、パスワードを発行してもらう。この手間が、たいへん。

 で、やっとのことで、解約ページに。が、ここでも、「これから先、いっさい、サービス
を受けられなくなります」「今まで稼いだポイントが、ゼロになります」「今後2か月は、
再登録ができなくなります」という警告文。無視してクリックすると、さらに、「あなただ
けに特典があります。どうかもう一度、解約の考えなおしをお願いします」と。

 ……今、この手のマガジンが、ふえている。会社名も、まぎらわしい。G社というのも、
よく見ると、検索エンジンの「GG社」をまねた名前であることがわかる。

そう言えば、前にもひっかかった。その会社の名前は、「松下K産業」。私はてっきり「パ
ナソニック社の松下産業」だと思っていた。(当時は、パナソニック社のパソコンをメイ
ンに使っていた。)

 その「松下K社」のときも、最終的には、その会社まで電話して、購読を解約してもら
った。

 みなさんも、くれぐれも、お気をつけください。ちなみに、私のマガジンは、どれも、
末尾のアドレスをクリックして、みなさんのEメールアドレスを、入力すれば解約できる
ことになっています。どうか、ご安心ください。


●都会の中の、田舎人

 都会に住んでいるから、都会的なものの考え方をするようになるというのは、ウソ。幻
想。

 都会に住んでいる人でも、田舎の人以上に、田舎の人はいくらでもいる。都会に住んで
いても、世間的なメンツや見栄にこだわり、過去の風習や、封建時代の亡霊にこだわって
いる人は、いくらでもいる。

 意外と、よく見られるのは、転勤に転勤を重ねてきたサラリーマンの人たち。

このタイプの人たちは、その都会に同化する前に、つまり転勤で同化できない分だけ、
田舎に自分のルーツ(根)をおく。そのため、かえって田舎的なものの考え方を、心の
中で、増幅させてしまう。

 さみしい孤独な都会生活が、かえってその人をして、そうさせるとも考えられる。

 反対に、田舎に住んでいても、都会的な人は、いくらでもいる。私の知人の中には、そ
の村の水利問題にからんで、行政訴訟を起こしている女性もいる。「おいしい飲み水を、子
どもたちに残したい」というのが、その理由である。

 が、その女性のばあい、本当の敵は、トンネル工事をしている行政(村)ではない。彼
女の夫や、近所の人たちである。そういう人たちが、つまりは、(ことなかれ主義)から、
その女性の行動に、ブレーキをかけている。都会的といえば、そういう女性の生きザマの
ほうが、よほど、都会的である。

 要するに、どこに住んでいようが、それは生きザマの問題ということ。それを決めるの
は、環境ではなく、その人自身がもつ問題意識ということになる。


●風習

 日本には、まだ、おかしな風習が、あちこちにはびこっている。姉がこんなことを言っ
た。

 「去年の秋に、大阪に住む、義理のいとこの息子の結婚式に行ってきた」と。

「義理のいとこの息子の結婚式!」 ……私が驚いていると、「うちは、本家スジだから、
出なければいけないのね」とも。

 「本家スジ!」 今でも、そういう言葉を使う人がいる。決して少なくない。その人に
とって本家にあたる家筋のことを、「本家スジ」という。

私「江戸時代でもないでしょう?」
姉「そうは、いかないのよ。このあたりでは……」
私「姉さんも、たいへんだね」
姉「親戚の少ない人だったから……」と。

 昔は、「家あっての個人」ということになっていた。その人の身分は、その「家」で決ま
った。それはわかる。しかしそうした風習を、何も疑うことなく、繰りかえすことは、本
当に正しいことなのか。必要なことなのか。

 姉は「頭数(あたまかず)をそろえるために、出るのよ」と言っていたが、そういうの
を、見栄という。しかし、そんなところで見栄を張って、どうするのか?

 ……と言うのも、ヤボなこと。「私はカルトとは無縁」と思っている人でも、カルト的風
習に、どっぷりとつかっている人は、いくらでもいる。そうしたカルト的風習は、こうし
た冠婚葬祭に、とくに色濃く現れる。

 要は、無視するか。さもなければ、妥協するか。その二つに一つである。しかしいつか
だれかが、こうした風習にブレーキをかけないと、それはいつまでもつづくことになる。

 そのあと、私とワイフは、こんな会話をした。

私「ぼくらは、気にしないね」
ワ「大切なのは、本人。本人の幸福よ。こちら側の親戚が、たったひとりでも、私は構わ
ないわ」
私「ぼくも、構わない。それで相手が、ぼくらのことをおかしく思うようなら、思わせて
おけばいい。あくまでも本人どうしの問題だからね」と。

 いつだったか、二男がアメリカから帰国したとき、地元の中学校で、講演会に、講師と
して、招かれたことがある。そのとき、二男は、穴のあいたTシャツに、よれよれのズボ
ンをはいて行った。

 私が、「もう少し、マシな服を着ていけよ」と声をかけると、「ぼくは、ありのままの自
分で行くよ」と。そういう二男の姿を見たとき、私は、父親として、率直に言って、うれ
しかった。二男は、私をはるかに超えた、(おとな)に成長していた。
 
 いろいろな考え方がある。それもわかる。しかし日本人に、何が欠けているかといえば、
自分で考えて、自分で行動する力ではないだろうか。私は姉との会話の中で、そんなこと
を感じた。

【補足】

 家族には家族としての機能がある。助けあい、認めあい、励ましあい、教えあい、守り
あうという役割である。しかしその家族は、同時に、個人の自立を、はばむことがある(心
理学者のレイン、クーパーほか)。

 最近では、(近代的自我)という言葉が使われる。未来志向型の個人の確立をいう。その
近代的自我の確立に、ときとして、家族は、足かせになるという(レイン、クーパー)。

 こうした親戚づきあいというのは、一見温もりのある社会だが、その弊害も、また大き
い。つまりは、そうした依存型社会にどっぷりと、つかることにより、たがいの自我の確
立を、監視し、干渉し、かつ押さえこんでしまう。言うまでもなく、この日本では、親戚
というのが、その個人にとっては、巨大な家族として、機能する。

 この問題は、大きな問題なので、テーマとして、別のところで考えてみたい。
(040304)(はやし浩司 近代的自我)


●「育児書なんて、いらない」(ギョッ!)

よほど、ひねくれているのか、不勉強な人なのかは、知らない。しかしあちこちの電子
マガジンを調べていると、この種のタイトルのマガジンに、よく出会う。

 「育児書なんて、いらない」「育児論は、役にたたない」と。中には「育児論には、だま
されないぞ」(M社・仮題)というタイトルのマガジンもあった。(ゾーッ!)

つまり私のような育児アドバイザーの意見など、価値がない、と。

 若者の中には、おとなの意見に、アレルギー(拒否)反応を示す人がいる。まったく耳
を傾けようとしないばかりか、何かを言っても、それを即座に否定してしまう。こういう
のを拒否的態度という。脳の機能の変調説が、有力である。心の抑圧状態が長くつづくと、
そういう反応を示すようになる。

かわいそうな若者たちだ。どこか心がひねくれている。そういうマガジンを出している
人は、そういう若者と、同じ? あるいは、ちがわない?

 このことは、反対の立場で考えてみるとわかる。

 そういったマガジンを書く人は、いったい、何人の子どもを見てきたというのだろうか。
一人か、二人。多くても、三人? そういう人にかぎって、「子育てをしたのは、自分の子
どもだけ」という人が多い。つまり「自分の子どもに合わなかったから、育児家の書いた、
育児書は役にたたない」と。

 たしかに私たちの書く育児論には、限界がある。はっきり言えば、子どもの数だけ、育
児論がある。

 しかしそういう育児論を、集約し、一つの「論」として、まとめあげていく。それが、
私たちの仕事である。「不完全であるから、ダメだ」というのは、あまりにも短絡的な意見
でしかない。

 それとも、あなたは、たった一人の子ども(あるいは多くて、数人)しか、子どもを育
てたことがのない人の育児論に、耳を傾けるだろうか。参考にはなるが、それを「すべて」
と思うのは、あまりにも危険である。

 あまりにも自己中心的。被害妄想的。私は、そう感じた。

 あとは、みなさんの判断ということになる。私は、そういう人たちものみこんで、前に
進むしかない。がんばろう。がんばります!

【注】
だからといって、そういう人の書いた育児論が、まちがっているというのではない。た
だものごとには、もう少し謙虚であってほしい。

 もちろん育児家の中には、(私も含めて?)、とんでもないことを言ったり、したりする
人がいる。それは事実。

数年前のことだが、不登校の子どもや、その親に向かって、怒鳴り散らして、「なおす」
という、どこか(?)な女性がいた。もう10年以上になるが、心の病んだ子どもを、
ヨットから突き落として、それを「なおす」という、どこか(?)な男性もいた。

 だから反省すべきところは反省しなければならない。が、これだけはわかってほしい。

 こうしたどこか(?)な育児論を展開する人ほど、マスコミ受けがよいということ。怒
鳴って不登校をなおすという女性も、ヨットから突き落としてなおすという男性も、当初、
テレビ番組などで、派手に紹介されていた。

反対に、まともであればあるほど、マスコミの関心をひくことは少ない。子育てという
のはそういうもの。教育論というのは、そういうもの。もともと地味な世界である。

 私としては、それがわかってもらえなくて、歯がゆくてしかたないのだが……。

(この原稿は、ボツにしようかと、最後まで、迷いましたが、マガジンに掲載することに
しました。かなりきわどい内容の原稿であることには、ちがいないようです。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●情報を買う

 オーストラリアの友人が、こんな話をしてくれた。

 「インターネットで、ほしい情報を買っている」と。

 「買う」というのは、画面上で、ほしい情報をクリックすると、その情報を、相手が届
けてくれることをいう。たとえばニュースの一覧表の中から、読みたい記事をクリックす
る。すると、その情報だけが、新聞のようにモニターに表示されるという。

 「一つ、5セントだよ」と笑っていた。日本円になおすと、4円くらい。だから毎日、
10個くらいニュースを読んで、40円ということになる。

 「日本人は、情報は買わないよ。モノは買うけどね」と私。

 そう、昔から、日本人の情報に対する感覚は、欧米人とちがう。日本人にとって、情報、
つまりソフトウエアは、買うものではなく、ただで奪うもの。ただであげたり、もらった
りするもの。私が若いころでさえ、そうだった。

 へたに、「知りたければ、お金を出しな」などと言おうものなら、それだけで軽蔑された。
今でも、こうした傾向は強く残っている。

 正直に言うと、この傾向は、女性ほど、強い。モノには、惜しみなくお金を使う女性で
も、情報には、お金を払わない。感覚の構造が、男性とはちがうようだ。欧米人とは、さ
らに、ちがうようだ。

 ある新聞社の文化センターで、子育てのカウンセリングをしている男性(40歳)が、
こう言った。

 「一応、一回のカウンセリングは、30分以内でと、お願いしているのですが、その3
0分ではすみません。中には、2時間とか3時間とか、ねばる人がいます。しかしそうい
う人でも、帰るときは、『はい、さようなら』です」と。

 小児科医院の医師も、同じようなことを言っていた。「カウンセリングまでしていたら、
お金になりません」と。そこでその小児科医院では、心理療法士をおいて、その仕事をさ
せているという。30分の相談で、5000〜8000円が、相場だという。

私「日本でも、そういうサービスを始めたところがある」
オ「オーストラリアでは、それがふつうだよ」
私「日本ではね、本屋でも、立ち読みをして情報を得るというのが、ふつうになっている」
オ「オーストラリアでも、立ち読みをしている人はいる。でも、雑誌(マガジン)だけだ
よ。本は、読めないようにカバーがしてある」と。

 日本では、本は、特殊なルートで、特殊な方法で販売されている。「返本制度」(売れな
い本は、返本する)というのもそうだし、「再販禁止制度」(中古の本を安く売るのは禁止)
というのもそうだ。だから日本では、立ち読みが自由に(?)できる。

 だからこうした傾向が、結局は、日本人全体の文化のレベルを、さげることになる。お
金を払わないから、情報の価値が、あがらない。質も、あがらない。

 しかしそのうち、日本も、オーストラリアのようになるだろう。読みたい情報だけをク
リックして、お金を払う……。今は、その黎明(れいめい)期ということになる。
(040301)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 26日(No.378)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page050.html

(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

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(1)子育てポイント**************************

●子どもを笑わせる

 昨日は、どのクラスも、子どもたちを笑わせるだけ、笑わせてやった。おもしろかった。
子どもというのは、そういうもの。一度、笑いグセがつくと、私が咳をしただけでも、ゲ
ラゲラ笑う。

 この「笑う」という行為には、不思議な力がある。未知の力といってもよい。私は、こ
の30年以上の幼児教育の中で、それを繰りかえし、繰りかえし、実感している。

 「なおす」という言葉は使えないが、ゲラゲラと、腹をかかえて笑わせるだけでも、た
いていの情緒障害はなおってしまう。子どもたちも笑うことにより、心を開くから、それ
だけ学習効果も、高い。が、それだけではない。

 笑うことにより、前向きな姿勢が生まれてくる。私はこの方法で、子どもを勉強好きに
し、また勉強嫌いの子どもを、なおしている。

 (「なおす」という言葉を、私は、親の前では使ったことがない。「直す」「治す」の二つ
の意味がある。念のため!)

 昨日も、D君という、勉強が苦手な子ども(小1男児)がいた。数か月前に、BW教室
(私の教室)にやってきたが、とくに引き算が、苦手だった。引き算というだけで、拒否
反応を示していた。

 で、子どもというのは、一度、そうなると、その心を溶かすのは、容易ではない。が、
昨日は、本当に笑わせた。参観にきていた母親ですら、ゲラゲラと笑い、居場所がなくな
って、外へ出て行ったほどである。

 そのあとのことである。私がサラリと、引き算の問題を出すと、そのD君が、それを喜
んでしているではないか!

 私は、これには驚いた。つまり「笑う」という行為には、そういう効果もある。つまり
かたまった心を溶かす。

 『笑えば、伸びる』……それが、私の教育の「柱」になっている。しかしそれができる
のも、私と親たちの間に、太いパイプができているからに、ほかならない。つまり信頼関
係がある。(ふつうの学校だったら、それだけでクビが飛ぶようなジョークを言いあってい
るぞ!)

 私は、過去30年以上、教室を公開している。いつも、親たちに見てもらっている。そ
ういう前提があるから、こうした笑いが許される。

 子どもというのは、引っ張っては、ダメ。押しても、ダメ。子ども自身がもつ力を、子
ども自身が前向きに伸ばすように、指導する。すべては、そこから始まり、そこで終わる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●攻撃的に生きる人、防衛的に生きる人

 ほぼ三〇年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏
から、その三〇年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。会話そのものがかみあわ
ない。話が表面的な部分で流れていくといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。

 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休み
は、晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチン
コでは半日で五万円くらい稼ぐときもある」そうだ。

しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今のS氏をつくった。(つくったと
言えるものは何もないが……失礼!)

 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「や
りたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つ
まらない」と言う子どもがいる。

フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間の方
向性を決めるのだ、と。たとえば……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口に
する)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来
に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善
悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言
葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、
占いや手相にこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行
動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」とい
う、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、
前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じ
になる。何を考えているか分からない子どもといった感じになる。

 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。
私だってできる。しかし二〇年、三〇年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわ
かるようになる。それが「結果」として表れてくるからだ。

先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないかもしれないが)、今のS氏は、こ
の三〇年間の生きざまの結果でしかない。攻撃的に生きる人と、防衛的に生きる人とで
は、自ずと結果はちがってくる。

 帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてく
ださい」と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。

+++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る
漢方診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。

 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力

 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな
部分がそれぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成している
というのだ(伊藤正男氏)。たとえば……。

 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する

 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別
される古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の
思考作用をコントロールしているというのだ。

まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すのは危険だが、しかしこの発
想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけると、つぎのように
なる。

 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、
情報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。

これは漢方でいう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを
満足に思ったり、不満足に思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃
体ということになる。

もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決
めるのが、帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。
日本語でも「思慮深い人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、
ものごとを深く考える人のことをいう。が、考えろといっても、考えられるものではな
いし、考えるといっても、方向性が大切である。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働
きによって、やがて「智」へとつながっていくというわけである。 

 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活
動の一部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動
(漢方では「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。

(2)今日の特集  **************************

子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)
きたい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を
選びたい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカ
ラー志向が強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に
人気があり、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公
務員試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を
受けるための予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろ
ん退職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保
されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5
年間勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつう
の自衛官ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、
その人個人を責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市
役所の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、
公務員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本
では、今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけなら
まだしも、公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管
理されることを意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおい
て、ほかにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しか
し本当に、そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなの
か。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、
今一度、「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員
の子どもが、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがあ
る』と答えた。日本と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもに
は、それがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れ
る学部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハ
ッパをかけても、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのであ
る。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。
そういう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たい
へん便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始め
ている。現状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、
いざ知らず、今は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものでは
ないということ。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年に
なってから勉強するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づける
ことによって、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、
「勉強しなさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育
制度の欠陥である。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使わ
れるようになった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい
身分を手に入れる」という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、
あなたたちも勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。
なのに、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を
使った。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時
代に温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けた
かったにちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教
科書や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、
士族や華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生の
うち、約75〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、
派遣されていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、
あなた自身が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜
松市の市長も、そして国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまち
がっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半
の日本人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのでは
ないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、
つくづくと、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト
信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっている
と、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制
度をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それ
がわかる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別し
た。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、
県令(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学
歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校
が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だった
し、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。
日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何か
につけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日
常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係
なく、職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっ
ちもいかないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後
閉鎖論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいると
いうことになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、
この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子ど
もたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多
くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あな
たの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、
自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻
先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子ども
は年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうこと
になる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解さ
れるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるか
に多い。どれくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらに
はもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教
えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子ども
というのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しか
しむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大
半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てる
というのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以
上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはって
いく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行
士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言っ
た。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別の
ところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろう
か。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいる
だろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民) 
++++++++++++++++++++++

日本人と民主主義

●騒音

 日本人ほど、騒音に無頓着な民族はいない? 私が住むこの地域は、一応、第二種住宅
地域ということになっているが、早朝から深夜まで、その騒音が絶えない……。

 まず朝、五時五五分、きっちりとその時刻に、裏の隣人が、雨戸を開ける。ふつうの開
け方ではない。いっせいに、勢いよく、ガラガラ、ガラガラと開ける。ここに住むように
なってから、二五年間、私たち夫婦は、春夏秋冬、一度、その音で目をさまされる。

 少し時間がたつと、このところ、隣の空き地が、下水道工事の集結場になっていて、工
事の男たちがやってきて、あれこれ作業を始める。

昨日は、あの削岩機で、バリバリと何かを削っていた。ものすごい音だった。窓をしめ
ても、家中のカベがガタガタ揺れる感じだった。で、そのころになると、前の隣人が、
趣味の宝石の研磨を始める。歯科医院で歯を削られるような音だ。しかもその研摩を、
プレハブの小屋の中でするから、ちょうど全体として、ギターの箱のような共鳴作用を
引き起こす。ものすごい音だ。その騒音がガリガリ、ガリガリと、終日、断続的につづ
く。

 もちろん道路を走る車の騒音も聞こえる。五〇メートルくらい離れたところが、大通り
になっていて、そこをひっきりなしに、車が走る。ふつうの車はそれほど気にならないが、
暴走族が乗るような改造車だと、それこそバスンバスンと腹に響くような低周波振動が響
いてくる。

そうそう道路をはさんで西隣のアパートに、最近一人の学生が入ったらしい。その友人
らしき男が、ときおり、その種の車でやってくる。これもけっこう、うるさい。

 が、それだけではない。断続的に、物干し竿売りや、ワラビ餅売りがやってくる。これ
がスピーカーの音量を最大限にして、あの声を流す。ほかに粗大ゴミ回収業者、オートバ
イ回収業者など。もっともこれは日中の一時期だから、そのときをやり過ごせば、何とか
なる。

 私は部屋にこもって、こうして文書を書くのが仕事(?)のようになっているから、こ
うした騒音は、つらい。いやいや、最近は、夜中だって、騒音(?)が消えることはない。
数軒前の隣人の飼い犬がこのところ、急にボケだして、一晩中、グニャーグニャーと、お
かしなうめき声をあげている。

それがちょうどさかりのついた雄ネコのような声に聞こえる。私の家はともかくも、近
所の人たちは、さぞかし眠られない毎日を過ごしていることだろう。

●騒音の精神的ルーツ

 そこで私は考える。こうした日本人独特の無頓さは、いったいどこから生まれるのか、
と。公共精神ということになると、少なくとも、このあたりの人たちは、自分のテリトリ
ーの範囲のことは大切にするが、しかし一歩、その範囲を離れると、何もしない。

たとえば私がここに住むようになって、この二五年間、近所の空き地のゴミ拾いをして
いるのは、私だけ。このあたりは元公務員の人たちが、優雅な年金生活をしている。し
かしそういう人たちがゴミ拾いしているのを、私は見たことがない。そういう意味では、
みんな、自分勝手。この勝手さは、いったいどこからくるのか?

 アメリカやオーストラリアと比較するのもヤボなことだが、欧米では、その地域の景観
すら、地域住民がたがいに守りあっている。その地域全体の家の形のみならず、屋根や家
の色まで統一しているところも少なくない。

自分の家だけ芝生を伸び放題にしておくことなど、言語道断。オーストラリアでも、そ
うだ。ある日、友人がこう言った。

「(土地の値段は安いので)、いくらでも土地は買えるが、しかし管理がたいへんだから、
適当な広さがあればいい」と。

自治体ぐるみで看板の設置を規制しているところも多い。あるいは看板の色を規制して
いるところも多い。先日、アメリカから帰ってきた二男ですら、クモの巣のように空を
おおう電線を見て、こうこぼした。「アメリカでは考えられない」と。いわんや、騒音を
や! 基本的なところで、考え方がまったく違う。

 日本人に公共心がないのは、日本の社会制度にもよる。明治以来、あるいはそれ以前か
ら、「教育」と言えば、「もの言わぬ従順な民づくり」が、基本になっている。

日本は奈良時代の昔から、現在にいたるまで、カンペキな官僚主義国家である。今の今
でも、日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。ウソだと思うなら、一度、
外国に住んでみることだ。日本でいう民主主義は、彼らがいう民主主義とは、まったく
異質なものであることがわかる。

この日本では、「国あっての民」と考える。国民(この「国民」という漢字すら、それを
表しているが……)、は、国の道具でしかない。

一方、欧米では、フランス革命以来、「民あっての国」と考える。この違いは大きい。た
とえばこんなことがある。

 南オーストラリア州にある友人の家へ遊びに行ったときのこと。ボーダータウンという
小さな田舎町だが、その町を案内しながら、友人がいちいちこう説明してくれた。

「ヒロシ、あの道路整備に、税金を一二〇〇万ドル使った。しかし経済効果は、七〇〇
〇万ドルしかない。税金のムダづかいだ。いいか、ヒロシ、それだけの税金を使うなら、
穀物倉庫を作り変えたほうがいい。経済効果は、二倍以上になる」と。

こうした会話を、私はこの日本で聞いたことがない。いや、反対に、あってもなくても
よいような高速道路ばかりつくり、一方、住民は、「作ってもらった」「作ってもらった」
と喜ぶ。こうした日本人の意識が、一八〇度ひっくりかえるためには、この日本では、
まだ五〇年はかかる。あるいはもっとかかる。

●そろそろ意識を変えるべきとき?

 さて騒音の話。かく言う私も、こうした騒音に耐えて、二五年になる。あるいは子ども
のころから、「生活」というのは、そういうものだと思い込まされている。しかし、もうそ
ろそろ、日本人も意識を変えるべきときにきているのではないか。

 「社会は私たちがつくるのだ」「国は私たちがつくるのだ」という意識である。もうひと
つ、ついでに言わせてもらうなら、「教育は私たちがつくるのだ」という意識もある。

何でもかんでも、一方的に国から与えられるだけというのでは、あまりにもさみしいの
ではないか。あまりにも受け身すぎるのではないか。日本人が周辺の騒音に無頓着なの
も、そのひとつということになる。教科書も制度も、中身も。そんな国は、民主主義国
家ではない。またそんな国では、民主主義など、育たない。ちがうだろうか?
(040303)(はやし浩司 日本人の意識 騒音意識 民主主義)

(3)心を考える  **************************

●正直

 京都府にある、A農産F農場(養鶏場)で、鳥インフルエンザが発生した。同時に、大
量のニワトリが、死んだ。

 その農場では、そのときすでに数千羽のニワトリが、不審な死に方をしていたにもかか
わらず、それをあえて無視して、ニワトリを出荷しつづけたという※。そのため、その二
週間後には、鳥インフルエンザウィルスは、ほぼ西日本全域に広がってしまった(3月2
日朝刊※)。

 当の責任者は、「まさか鳥インフルエンザだとは思わなかった」「静かに眠るように死ん
でいったので、おかしいなとは思っていたが……」などと、テレビの報道記者に答えてい
る。

 しかし同じころ、つまりその養鶏場で、ニワトリが不審な死に方をしていたころ、私の
地元の小学校でも、鳥インフルエンザの話は、子どもたちでさえ知っていた。学校で飼っ
ていたニワトリが死んだだけで、学校は、そのニワトリを、保険所へ届けていた。いわん
や、養鶏場のプロが、そんなことを知らぬはずはない。「おかしいな?」ではすまされない
話なのである。

 ……という話を、書くのがここでの目的ではない。

 人間の正直さは、どこまで期待できるかという問題である。朝食をとりながら、ワイフ
と、それについて話しあった。

私「もしぼくだったら、正直に届け出ただろうか?」
ワ「いつ?」
私「最初にニワトリが死に始め、鳥インフルエンザにかかっているかもしれないと思った
ときだ」
ワ「むずかしいところね」と。

 新聞の報道によれば、「通報の遅れが、被害を拡大させた」(Y新聞)ということらしい。
そして農水省の次官も、「(通報が遅れたのが)残念でならない」とコメントを出している。
さらに京都府の知事は、「被害について、県のほうで補償することになっているが、しかし
(補償するのは)考えざるをえない」と述べている。

 「不正直もはなはだしい」ということになるが、本当に、そうか?

 はっきり言えば、日本人は、子どものころから、そういう訓練を受けていない。アメリ
カの親などは、子どもに、「正直でありなさい(Be honest.)」と、日常的によく
言う。しかしこの日本では、そうでない。むしろ「ずるいことをしてでも、うまく、すり
抜けたほうが勝ち」というような教え方をする。そのさえたるものが、受験競争である。

 それはさておき、今でも『正直者は、バカをみる』という格言が、この日本では、堂々
とまかりとおっている。『ウソも方便』という言葉さえある。「人を法に導くためには、ウ
ソも許される」と。どこかの宗教団体の長ですらも、「ウソも100ぺんつけば、本当にな
る」などと言っている。

 これらのことからもわかるように、世界的にみても、日本人ほど、不誠実な民族は、そ
うはいない。ほかにも、たとえば、日本人独特の、「本音(ほんね)と建て前論」がある。

 つまり口で言っていること(=建て前)と、腹の中(=本音)は、ちがう。またそうい
う本音と建て前を、日本人は、うまく使い分ける。だから反対に、アメリカ人やオースト
ラリア人と接したりすると、「どうしてこの人たちは、こうまで、ものごとにストレートな
のだろう」と思う。

 つまりそう「思う」部分だけ、日本人は、正直でないということになる。

 誤解がないように言っておくが、「建て前」とういうのは、「ウソ」ということ。とくに
政治の世界には、この種のウソが多い。

 本音は「銀行救済」なのだが、建て前は、「預金者保護」。本音は「官僚政治の是正」な
のだが、建て前は、「構造改革」などなど。言葉のマジックをうまく使いながら、たくみに
国民をだます。

 が、その原因を掘りさげていくと、戦後の日本の金権体質がある。もともと金儲けの原
点は、「だましあい」である。とくに商人の世界では、そうである。そういう「だましあい」
が、集合して、金権体質になった。(……というのは、少し乱暴な意見に聞こえるかもしれ
ないが、大きくみれば、そういうことになる。)

 というのも、この話になると、私より古い世代の人は、みなこう言う。「戦前の日本人の
ほうが、まだ正直でしたよ」と。「正直というより、「純朴」だった? どちらにせよ、ま
だ温もりを感じた。

 私が子どものころは、相手をだますにしても、どこかで手加減をした。が、今は、それ
がない。だますときは、徹底的に、相手をだます。それこそ、相手を、丸裸にするまでだ
ます。

 つまり「マネー」万能主義の中で、日本人は、その「心」を見失ったというのだ。

 いろいろ意見はあるだろが、もしあなたなら、どうしただろうか。飼育していたニワト
リが何千羽も死んだ。行政側に報告すれば、処分される。鳥インフルエンザではないかと
いう疑いはある。しかしはっきりしているわけではない。今なら、売り逃げられる。うま
く売り逃げれば、損失をかなりカバーできる。そんなとき、あなたなら、どうしただろう
か。

 正直に、行政側に報告しただろうか。それとも、だまってごまかしただろうか。

 こうした一連の心理状態は、交差点で赤信号になったときに似ている。左右の車はまだ
動き出していない。しかし今なら、走りぬけることができる、と。それともあなたは、交
差点で、信号を、しっかりと守っているというのだろうか。

 もしそうなら、あなたは多分、F農場のような立場におかれても、行政側に報告したか
もしれない。報告するとはかぎらないが、報告する可能性は高い。

しかし赤信号でも、「走れるうちは走れ」と、その信号を無視するようなら、あなたは1
00%、行政側に報告などしないだろう。あなたは、もともとそういう人だ。

つまりこれが、私が前から言っている、『一事が万事論』である。

 日々の行いが月となり、月々の行いが年となる。そしてその年が重なって、その人の人
格となる。そしてそれが集合されて、民族性になり、さらに人間性になる。

 その日々の行いは、「今」というこの瞬間の過ごし方で決まる。

私「ぼくなら、F農場の責任者のように、だまっていたかもしれない。もともと、そんな
正直な人間ではない」
ワ「でも、やはり正直に報告すべきよ」
私「わかっている。だからぼくは、できるだけ、そういう状況に、自分を追いこまないよ
うにしている」と。

 おかしな話だが、私は、道路を自転車で走っているときも、サイフらしきもの(あくま
でも、……らしきもの)が落ちていても、拾わないで、そのまま走り去ることにしている。
拾うことにより、そのあと迷う自分がこわいからだ。正直に交番へ届ければ、それですむ
ことかもしれない。が、それもめんどうなことだ。

 だからそのまま見て見ぬフリをして、走り去る。「あれは、ただのゴミだった」と。

 だから私は、F農場の責任者を、それほど責める気にはなれない。責める側に立って、
さも善人ぶるのは簡単なことだが、私には、それができない。「とんだ災難だったなあ」「か
わいそうに……」と、同情するのが、精一杯。

それが私の本音ということになる。
(040302)(はやし浩司 正直)

※……「同農場は2月20日から鶏の大量死が始まっていたのに、府に届けず、25、2
6日には生きた鶏計約1万5000羽を兵庫県の食肉加工会社処理場に出荷、感染の拡
大につながり、強い批判を浴びていた」(中日新聞)


「当初、行政側が把握していた情報は、結果的にどれも誤りでした。実際にはA農産の養
鶏場から大量死が発覚した後の、先月25日と26日に、あわせておよそ1万羽の生きた
ニワトリが兵庫県八千代町の鳥肉加工業者「AB」に出荷されていました。
 
 「AB」で加工された1万羽は、京都、兵庫、島根など14の業者に出荷され、ほとん
どは返品されたり、業者が廃棄しましたが、少なくとも150キロの肉がスーパーや飲食
店などに、卸されていました」(TBS inews)と。

●『金によってもたらされた忠実さは、金によって裏切られる』(セネカ「アガメムノン」)

【追記】

 正直に対する、国民の意識は、国によって、かなりちがう。オーストラリアでは、親は、いつも
子ど
もに向かって、「正直でいなさい」と言っている。うるさいほど、それを言っている。

 しかしこの日本で、私は、親が子どもにそう言っているのを、聞いたことがない。「あと片づけ
しなさ
い」とか、「静かにしなさい」というのは、よく聞くが……。

 これは「誠実さ」に対する感覚が、国によってちがうためと考えてよい。

(4)今を考える  **************************

●これも時代?

 息子たちの学生生活は、私たちの学生生活と、質的に、大きくちがう。時代が変ったの
だから、それは当然。それはわかる。しかしそういう息子たちの学生生活をみていると、「で
は、わたしの学生生活は何だったのか?」と、そこまで考えさせられる。

 たとえば今、三男が、たまたま家に帰ってきている。しかし一日中、のんびりとしてい
ることは、めったにない。つぎからつぎへと、友だちに会いにいく。そしてたいていその
まま、一、二日、帰ってこない。

 そして昨日は、関西方面へ行くと言い残して、旅行に行ってしまった。私の家まで、彼
の友人が、迎えにきてくれた。

 行動力と行動半径、そのものが、ちがう。それに豊かになった。私が学生だったころに
は、金沢から新潟まで遊びにいくだけでも、たいへんだった。とくに私は毎月、下宿代し
か送ってもらえなかった。生活費や、遊興費は、自分で稼がねばならなかった。だから旅
行など、めったにしたことがなかった。

 貧弱と言えば、貧弱だが、しかし、時代が変っただけで、こうまで質的に、学生生活ま
でもが、変るものなのか。三男の交遊関係をみていると、私のそれよりも、10倍、ある
いは、それ以上に広い。

 私がワイフに、「あいつは、少しは、親の苦労がわかっているのかね?」と聞くと、「わ
かっているわよ」とは、言う。しかし本当のところは、どうか?

 私などは、毎月の下宿代を送ってもらうだけで、母に、ああでもない、こうでもないと、
恩着せがましいことを言われた。うるさいほど、言われた。最後には、「大学を出してやっ
た」「お前には、ずいぶんと金を使った」と、言われた。だから私は、息子たちには、そう
いうことを言ったことがない。

 そう、親にも二種類ある。

 自分がいやな思いをしたから、子どもたちには、同じ思いをさせたくないと考える親。
もうひとつは、自分がいやな思いをした分だけ、それを今度は、自分の子どもに求める親。

 私は前者のタイプの親だと思う。しかし今になってみると、ふと、心のどこかで、「それ
でよかったのか?」と思うことがある。いつか恩師のT教授は、こう言った。「林君の考え
方は、現実的ではない」と。自分の老後のことを考えると、そういう迷いが、起きないわ
けではない。

 しかし私は、自分の息子たちが、幸福そうなら、それでよい。私は、息子たちに、不要
な心配はかけたくない。めんどうは、さらに、かけたくない。子どもたちは子どもたちで、
自分の人生を、まっとうすればよい。私は私で、自分の老後は、自分で考える。すでに老
人ホームへ入ることも、具体的に考え始めている。


●日本、大ピンチ!

 ブッシュ大統領の旗色が、ぐんと悪くなってきた。それにかわって、今度の中間選挙で
は、民主党のケリー上院議員が、大統領になりそうな気配になってきた。そのケリー氏だ
が、この前(2月末)、対立候補のエドワーズ氏との討論会の席で、こう答えている。

「そのときの国際情勢を総合的に考えて判断する」と。

「日本が、危険な状態になったら(=K国に攻撃されたら)、どうするか?」という質問
に対して、である。

 ブッシュ大統領は大統領になったとき、こう答えていた。「日本などの同盟国が攻撃され
たら、ただちにアメリカは、報復攻撃をする」と。

 このブッシュ大統領の言葉と比較してみるとわかるが、ケリー氏は、「日本など、アメリ
カ人の血を流してまで、守らない」と言っているに等しい。ケリー氏は、「アメリカ軍の配
置も考える(=日本からアメリカ軍の撤退も考える)」とも、言っている。アメリカとして
は、当然の意見である。

 たとえば今の今、ハイチで政変が起きている(3月2日)。アメリカは、アメリカ軍を派
遣したが、日本は、何もしない。何もしようとしない。そういう日本を、どうしてアメリ
カが守らなければならないのか。

 一方、日本と韓国の間には、大きなすきま風が吹き始めている。もともと反米親北をか
かげて大統領の座についたノ政権だから、当然といえば、当然。ノ大統領は、将来的には、
K国と、共和制国家の樹立をもくろんでいるとさえ言われている。

 そうなれば、アメリカ軍は、韓国から撤退する。同時に、韓国は、中国の経済圏に編入
される。もともと朝鮮族と呼ばれる民族は、中国とのかかわりが、きわめて深い。

 そうなったとき、では、この日本は、どうしたらよいのか。どうなるのか。

 日本のすぐ横に、強大な軍事国家ができることになる。しかも日本に対する敵意は、ふ
つうではない。K国は、かねてより、「日本という国は、この世に存在してはいけない国だ」
などと、繰りかえし、主張している。何かの、ちょっとしたきっかけで、大戦争になる可
能性は、きわめて高い。

 そうなったとき、日本は、日本人は、「私たちは平和を守ります」などと、のんきなこと
を言っておれるだろうか。

 国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。どこまでも、どこまでも、現実的
でなければならない。観念論や理想論では、子どもたちの未来は、守れないということ。
それだけは、はっきりと肝に銘じて、今の国際情勢を考えなければならない。

 では、どうするか?

 日本が今、第一に考えなければならないのは、韓国や中国との、関係修復である。その
ためにも、K首相のY神社参詣はもちろんのこと、軍国主義を容認するような発言は、極
力、ひかえてほしい。日本人は、「そんなことをするのは、日本人の勝手」と、思うかもし
れないが、韓国や中国の人にとっては、そうではない。そうでないということを、日本人
は、しっかりと認識しなければならない。

 つぎにアメリカとの同盟関係である。

 今の日本には、友と呼べるのは、アメリカだけ。そればかりか、K国の核開発を、止め
られるのは、アメリカしかいない。中国やロシアではない。アメリカである。K国の高官
は、アメリカの高官に対して、「核兵器開発は、日本に対してのもの。(アメリカではない)」
と、はっきりと明言している。

 日本人は、こうした現実を、はたして本当に認識しているのだろうか。

 ただ幸いなことに、今のK国は、満足に戦争もできないほどまでに、疲弊しきっている。
食糧もなければ、エネルギーもない。今年に入ってから、K国北部では、20日間も、停
電したままだったという(朝鮮日報)。

 おまけに、経済は破綻状態。当然、人心も乱れ、世相も混乱している。日本としては、
そういう形で、K国を、自然死させるのが、一番望ましい。それもできるだけ早く。それ
もできるだけ短期間に。長引けば長引くほど、K国の国民そのものが、苦しむ。

 韓国は、K国の暴発を極度に心配しているようだが、もうそろそろ、K国は、その暴発
する力さえ、なくす。私たち日本人は、それをじっと、待つしかない。苦しい戦いだが、
すでに戦争は、始まっている。

【追記】
 
 平和主義には、二種類ある。「いざとなったら戦争も辞さない」という平和主義。もう一
つは、「殺されても、文句は言いません」という平和主義。ただ戦争するのがいやだからと
言って、逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。そういうのは、ただの卑怯(ひき
ょう)という。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●パソコンが2台もふえた!

 三男が、Y大学を中退して、今度、オーストラリアへ行くことになった。(一応、休学届
けを出したので、休学ということにはなっているが……。)そのため、その荷物を、横浜か
ら、もって帰ってきた。

 その中には、シャープ社製のパソコンと、DEL社製のパソコン、2台が含まれていた。
入学当時、シャープのパソコンを買ってやったのだが、やがてすぐ、「使いものにならない」
と言いだした。それでしかたないので、昨年の春、DEL社製の、巨大な(私には巨大に
見える)パソコンを買ってやった。

 しかし二つとも、オーストラリアへもって行くことはできない。

 DEL社製のパソコンは、たしかに、すごい。まだ性能を調べていないので、よくわか
らないが、ハードディスクだけでも、120Gはある。もちろん高性能なグラフィックボ
ードも、搭載ずみ。今までできなかった、フライトシミュレーターのゲームも、バンバン
できそう。

 喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。これで我が家のパソコンは、自宅だけでも、
6台になってしまった。教室と事務所に置いてあるのを入れると、9台。さらに山荘にも
1台あるので、ナ、何と、10台!

 いくらなんでも、これではパソコンだらけ。体は一つしかないというのに! いや、た
くさんあるということが、悪いというのではない。こんなにたくさんあると、新しいパソ
コンが買えなくなる。ワイフが、お金を出してくれない。「また、買うのオ〜」と。

 春休みになったら、どう使うか、また考えよう。

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.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 24日(No.377)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page049.html

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(1)子育てポイント**************************

●今週のBW教室

 今週は、いろいろなゲームを用意した。先週は、粘土遊びを用意したが、これは失敗だ
った。

 粘土は、こまかい粒となって、床に散る。床には、ジュータンが敷いてある。すぐ掃除
をすればよいが、その粘土を、子どもたちがスリッパで、踏みつける。

 あとの掃除がたいへんだった。幸いにも、もともと小麦粉でできた粘土だったから、よ
かった。油性の粘土だったら、そうはいかない。毎日、洗剤をつけたスポンジで、床を洗
った。

 子どもにしても、しばらく遊んでいると、手がベタベタになる。だからレッスンの前に、
濡れたタオルで手をふいてあげたり、あるいは手を洗ってあげたり……。ドタバタしてい
る間に、時間だけが過ぎていった。

 だから今週は、ゲームにした。

 プラスチックのグラスを、積み重ねていくというゲームなど。「こんなもので、子どもは
遊ぶのかな?」と思っていたが、結構、子どもたちは、楽しそうだった。

 要するに、「私」の好みだけで、子どもの心を判断してはいけないということ。私は男だ
し、それにおとなだ。だから子どものことは、子どもに聞く。それが一番。

 しかし子どもは何も言わない。そこであれこれ「環境」をつくってあげて、その反応を
みるしかない。

 で、一人、Kさんという小学二年生の女の子が、実にきれいにグラスを積みあげた。色
の配色も考えていた。一段ごとに、色をかえ、さらにそれに模様を入れた。これも一つの
才能である。

 「あなたはデザイナーだね」と声をかけると、Kさんは、うれしそうに笑った。

 ……といっても、つまり私は男だが、子どものころは、女の子の遊びも、こっそりと隠
れてした。リリアンという、編んでヒモをつくる遊びがあった。結構、得意だった。ほか
に人形遊びもした。ままごとも、嫌いではなかった。

 ただ当時は、女の子の遊びをすると、みなに、「女たらし」と、バカにされた。(私も、
バカにしたが……。)しかし「女たらし」と呼ばれることぐらい、不名誉なことはなかった。
だからあくまでも、「隠れて」だ。

 そういう意味で、「男の子遊び」「女の子の遊び」と、分けて考えるのは、正しくない。
男の子でも、女の子の遊びをすればよいし、その反対でも、かまわない。

 ただし一言。「遊び」にも、男女差があるという説がある。たとえばアンドロゲンという
副腎皮質ホルモンがある。このホルモンが多く分泌されると、女の子でも、おてんばにな
ることが知られている。

たとえば出生前に、母親の胎内で、先天性副腎過形成になると、アンドロゲンが、多量
に分泌されるようになる。すると女の子でも、男の子が好んで遊ぶような、自動車とか、
飛行機などのおもちゃで遊ぶようになるという(新井康允氏)。

 そういうことはあるが、しかしやはり、男も、女も関係ない……というのが、私の考え
である。子育ては、あくまでも自然体で。「男だから……」「女だから……」と、『ダカラ論』
で、子どもをしばるのは、最小限にしたい。
(はやし浩司 おてんば アンドロゲン 副腎皮質ホルモン 遊びの男女差)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●知識と思考は別

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをな
す』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に
出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」
と。
 
この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話とし
て外に取り出しているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラ
ペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはなら
ない。算数ができるということにはならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には
考えることを他人に任せてしまう人がいる。

あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者
の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C
先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『わ
れ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まち
がっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしてい
るの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の
中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、
その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカ
ルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだ
とは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。
かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。

もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知
識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなこと
をする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教
育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本の教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み
教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の
本山教育である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的
な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくり
が基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていな
い。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界
の非常識。

ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。
自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウ
とうけん」・九八年)と警告している。

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっ
ているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせ
て、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、
本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が
痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのた
め考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考
えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるというこ
ともある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。
また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテ
ーニュ(フランスの哲学者、一五三三〜九二)も、「『考える』という言葉を聞くが、私
は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。

ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

(2)今日の特集  **************************

●愛

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昨夜、ワイフと、ふとんの中で、
こんな会話をした。

「愛にも、いろいろあるね」と。

たとえば溺愛ママと呼ばれる人の中には、、
自分の息子が初恋でもしたりすると、
半狂乱になる人がいる。

溺愛は、愛ではない。自分勝手で、
わがままな愛……。それはわかるが、
では、溺愛ママは、なぜ子どもを溺愛するのか?

そこでもう一度、愛について、
考えなおしてみる。
================

 以前、自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親がいた。ある
いは嫁いで出た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親がいた。その母親は、娘に、
「お前をのろい殺してやる」と言っていた。

 そしてこんなこともあった。

 ある夏の日のことだった。一人の母親が、私のところに来て、こう言った。「息子が恋を
しました。何としてもやめさせてほしい。今は、高校受験をひかえた大切なときですから」
と。

 相手の女性は、五、六歳年上の女性だという。本屋で店員をしていた。

 で、私が「恋の問題だけは、私でも、どうにもなりません」と言うと、その母親は、バ
ッグの中からその女性の写真を何枚か出し、こう泣き叫んだ。「こんな女ですよ!」「こん
な女のどこがいいのですか!」と。

 それはまさに嫉妬に狂う、女の姿だった!

+++++++++++++++++++

 「愛」にも三種類、ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。

 さらに、心理学者のリーは、人間がもちうる恋愛感情を、つぎの六つに分けた。

(1)エロス……肉感的な愛。女性の乳房や、男性の男根に強い性欲を覚える。
(2)ストーゲイ……異性との友情的な愛。
(3)アガペ……絶対的な献身を誓う愛。命すらも捧げる愛。
(4)ルダス……遊びとしての愛。ゲーム感覚で、恋愛を楽しむ。
(5)マニア……愛がすべてになってしまう。はげしい嫉妬や恋慕をいだくことが多い。
(6)プラグマ……実利的な目的をもって、損得の計算をしながら、異性とつきあう愛。

 これは異性間の恋愛感情だが、親子の間の愛も、同じように分類することができる。

(1)エロス……息子や娘を、異性として意識する。肉欲的な感情を、自分の子どもに覚
える。
(2)ストーゲイ……自分の子どもと、友情関係をもつ。子どもというより、対等の人間
として、子どもをみる。
(3)アガペ……子どものためなら、すべてを捧げる愛。命すらも惜しくないと感ずるこ
とが多い。
(4)ルダス……子育てをしながら、毎日、子どもと人生を楽しむといったふう。いっし
ょに料理をしたり、ドライブに行ったりする。
(5)マニア……子どもを自分の支配下におき、自分から離れていくのを許さない。
(6)プラグマ……家計を助ける。あるいは老後のめんどうをみてくれる存在として、子
どもを位置づける。

 これは私が思いつくまま考えた愛なので、正しくないかもしれない。しかしこうして親
が子どもに感ずる愛を分類することによって、自分が子どもに対して、どんな愛をいだい
ているかを、知ることができる。

 ふとんの中で、ワイフが、こう言った。

ワ「私は、息子たちに恋人ができたときでも、嫉妬しなかったわ」
私「あたりまえだ。しかしぼくたちに娘がいて、その娘に恋人ができたら、ぼくは、どう
だっただろうね」
ワ「あなたのことだから、嫉妬したと思うわ」
私「そうだな……」

ワ「愛があるから、嫉妬するの?」
私「いろいろな愛があるからね。親の世界にも、代償的愛というのがある。いわば愛もど
きの愛ということになる。自分の子どもを、自分の支配下において、自分の思いどおりに
したいという愛をいう。子どもの受験勉強に狂奔している親というのは、たいていこの種
類の親と考えていい。代償的愛というのは、もともと身勝手なものだよ」

ワ「じゃあ、どういうのが、真の愛なのかしら?」
私「親子の愛というのは、実感しにくいものだよ。しかし子どもが、大きな病気になった
り、事故にあったときなどに、それがわかる」
ワ「ふつうのときは?」
私「要するに、どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるか。その度量の深さこそ
が、愛の深さということになるよ」

ワ「じゃあ、私が、あなたに、『私にほかに好きな人ができました。離婚してください』と
言ったら、どうなるのかしら?」
私「『お前の幸福のためなら、ぼくは、引きさがるよ』というのが、真の愛ということにな
るのかな。ぼくには、できないけど……」
ワ「そりゃあ、そうでしょう。そうすると、夫婦の愛と、親子の愛は、ちがうのかしら?」

私「ぼくの印象では、人間の脳は、それほど器用にできていないと思う。だから愛を使い
分けることはできないはず。同じと考えていいと思う」
ワ「じゃあ、夫婦の間でも、溺愛夫婦というのが、いるのかしら?」
私「いると思うよ。たがいにベタベタの夫婦がね」
ワ「でも、そういう夫婦は、真に愛しあっていることにはならないわね」

私「その可能性は、高い。たがいにたがいの心のすき間を埋めるために、愛しあっている
だけかもしれない」
ワ「そういう夫婦のときは、どちらか一方が、不倫でもしたら、たいへんなことになるわ
ね」
私「そうかもね……」と。

 実のところ、私は、本当にワイフを愛しているかどうかということになると、あまり自
信がない。だからときどき、ワイフにこう聞くときがある。

 「お前は、ぼくのために犠牲になっているだけではないのか?」「無理をするなよ」と。
するとワイフは、いつもこう答える。「私は、家族のみんなが、それぞれ幸せなら、それで
いいの」と。

 いつかそういうワイフを見て、二男が、こう言った。「ママの生き方はすばらしい」と。
しかし私には、そういう犠牲心というのは、あまりない。リーの分類法によれば、私がも
っている愛は、マニア(嫉妬しやすい愛)と、プラグマ(実利的な愛)を合わせたような
ものかもしれない。

 日本的に言えば、独占欲の強い、自分勝手な愛ということになる。

 そこで育児論。

 本能的な愛については、さておき、ほとんどの親は、代償的愛をもって、真の愛と誤解
している。つまりは、薄っぺらい愛なのだが、問題は、いつ、その「薄っぺらさ」に、気
がつくかということ。

 自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親。あるいは嫁いで出
た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親。

 こうした母親は、そういう意味では、実に薄っぺらい。しかしこうした母親にかぎって、
「私は息子を愛している」「娘を愛している」と公言して、はばからない。

 あのマザーテレサは、こう書いている。

●We can do no great things; only small things with great love.
(偉大なことなど、できませんよ。ただ偉大な愛をもって、小さなことができるだけ。)
 
●I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more 
hurt, only more love. 
(それがあなたをキズつけるまで、人を愛するとね、もう痛みはなくなるものよ。ただよ
り深い愛が残るだけ。皮肉なパラドックスね。)

 恋人であるにせよ、夫婦であるにせよ、そして親子であるにせよ、真の愛というのは、
そういうものかもしれない。

 子どもの受験勉強で、カリカリしているお父さん、お母さん。少しだけ立ち止まって、
今、本当にあなたは、自分の息子や娘を、愛しているのか、それを考えてみてほしい。

 ひょっとしたら、あなたはただ、自分が感じている不安や心配を、息子や娘にぶつけて
いるだけかもしれない。しかしそれは、もちろん、ここでいう真の愛ではない。

 ……ということで、「愛」についての話は、ここまで。問題は、あとは、それをどう実行
していくかということ。それがむずかしい。ホント!

+++++++++++++++++

●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(040229)(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)


【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたと
きが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わが
まま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

(3)心を考える  **************************

●その人のパーソナリティ

 フロイトは、その人のパーソナリティを決める要素として、つぎの三つのものをあげた。

 (自我)、(超自我)、それに(エス)。

 わかりやすく言うと、(合理的パーソナリティ)、(道徳的パーソナリティ)、(破滅的パ
ーソナリティ)ということになる。

 その人のパーソナリティは、これら三つのうち、どれが強くて、どれが弱いかで決まる。
またそのときどきに、どのように変化するかで決まる。(……と、フロイトは、言う。)

 たとえば(合理的パーソナリティ=自我)の強い人は、ものごとを、合理的に判断して、
そのつど状況に応じて、的確に行動する。

 (道徳的パーソナリティ=超自我)の強い人は、道徳的観念、倫理的抑制感が強く、い
つもその道徳や倫理にのっとった行動をする。

 (破滅的パーソナリティ=エス)の強い人は、わがままで、エゴイスト。ものの考え方
が幼稚で、退行的。約束や目標が守れない。

 たとえば車で走っていたとき、信号にさしかかったとする。そのとき、黄信号になった
とする。車が道路を渡るころには、信号が赤になるタイミングである。そういうとき……。

 (自我)の強い人は、まず、左右の道路を見る。そして車がいないことを確かめて、「赤
になってもだいじょうぶだ」と判断して、そのまま道路をわたる。

 (超自我)の強い人は、黄信号になったとき、ブレーキを踏む。「ルールは守るべき」と、
無意識のうちにも、判断するからである。

 (エス)の強い人は、左右を見て、そこに車がいないときは、赤信号でも、道路をわた
ろうとする。

 こうした三つのパーソナリティのうち、どの部分が、ほかの部分よりも優勢であるかに
よって、その人のパーソナリティが決まるという。

 で、私のばあいは、もともと、フロイトがいう(エス)が強い人間ではないかと思う。
しかしそういう私を、(自我)や、(超自我)が、コントロールしているといったふう。と
きどき、無理をする。

 たとえば自転車に乗っていて、信号が、赤になりかけていたとする。そのとき、左右に
車がないと、思わず、そのままわたってしまおうかという衝動にかられる。

 本当の私は、そのまま道路をわたりたいはずなのに、そこで無理をする。「それをしたら、
私は、おしまい」と。つまり歯止めがなくなる。一度、崩れると、どこまでも崩れていく。
そんな感じがして、その場に止まる。

 だから私は見た目には、フロイトがいう、(超自我の強い人)ということになる。しかし、
本当の私は……。そういう問題もある。

 こうした性格分類は、いろいろな学者がしている。ほかによく知られているのは、オル
ポートの人格特性論、ギルフォードの性格検査などがある。
(はやし浩司 自我 超自我 エス)


●ギルフォードの性格検査

 そのギルフォードの性格検査で思い出した。ギルフォードは、その人の性格を、抑うつ
症、回帰性傾向、劣等性、神経質など、13の項目に分類している。

 その中には、ほかに、客観性の欠如、協調性の欠如、思考的外向性などもある。これら
三つは、とくに私にあてはまるものである。

 (客観性の欠如)というのは、わかりやすく言えば、自己中心的な考え方をし、自分の
価値観だけで、他人を判断することをいう。

 たとえばだれかが私に親切にしてくれたとする。そのとき、私はすなおにそれを喜ぶ前
に、その理由や意図を考えてしまう。そして自分がそうであるからという理由だけで、相
手もそうであると判断してしまう。

 (協調性の欠如)というのは、要するに、他人を信じないことをいう。友人や、配偶者、
さらには自分の子どもまでも信じない。

 これは深刻な問題である。やがてすぐ私も老人になり、介護が必要な人間になる。そう
なったとき、他人を信じられないというのは、致命的な欠陥になる可能性がある。私は、
そういう老人を、何人か知っている。「私はそうなりたくない」「ああは、ならない」と思
っても、性格(パーソナリティ)というのは、そうは簡単には、変えられない。

 (思考的外向性)というのは、いつも何かのことで、外に向って考えていることをいう。

 私は、いつも何かを考えていないと落ちつかない。……というより、いつも何かを考え
ている。それはそれでよいのだが、そのうち、頭が、パンパンにつまってくる。たとえて
言うなら、頭の中にゴミがたまるようなもの。それを吐きださないと、苦しくさえなる。

 そこでそれをこうして文章などにして、吐きだす。

 こういう性格に反対あるのが、(のんきさ)ということになる。この(のんきさ)も、ギ
ルフォードは、性格特性の一つにあげている。

 (のんきさ)の強い人は、あまり考えない。深く考えない。私に欠けるのは、この(の
んきさ)かもしれない。

 このギルフォードの性格検査法を、日本式に改良したのが、谷田部ギヅフォード人格検
査法である。

 参考までに、インターネットで、情報を検索してみた。
(はやし浩司 ギルフォード 性格検査 人格検査)

+++++++++++++++

YーG性格検査(矢田部・ギルフォード性格検査)

D(抑うつ性)
C(回帰性傾向)
I(劣等感)
N(神経質)
O(客観性欠如)、
CO(協調性欠如)
AG(愛想が悪い)
G(一般的活動性)
R(のんきさ)
T(思考的外交)
A(支配性)
S(社会的外交)

これら以上の12の尺度ごとに10の質問がされ、「はい」「わからない」「いいえ」の三者
択一で答える。結果として(1)平均型、(2)不安定積極型、(3)安定消極型、(4)安
定積極型、(5)不安定消極型の5つの性格類型を導きだす。(堀尾英範「私の保健学」よ
り)

(4)今を考える  **************************

●結婚

 してはいけない結婚に、つぎのような結婚がある。たまたま今朝、ワイフと、そんな話
が出たので、自分なりにまとめてみた。

(1)妊娠結婚(できちゃった婚)……妊娠したから結婚する。
(2)犠牲結婚……「私一人ががまんすれば……」と言って結婚する。
(3)同情結婚……「あの人は、一人では生きていかれないから」と、同情して結婚する。
(4)衝動結婚……「結婚でもしてみるか」と、いわば思いつきで結婚する。
(5)見栄結婚……派手な結婚式などをして、自分の力を誇示するために結婚する。
(6)代用結婚……好きな人を忘れるために結婚する。
(7)妥協結婚……「年齢も年齢だから……」と言って、結婚する。
(8)復讐結婚……好きだった男(女)に、復讐するために結婚する。
(9)穴埋め結婚……自分の心のすき間(孤独)をうめるために、結婚する。
(10)家督結婚……世継ぎ、跡取りを求めて結婚する。
(11)政略結婚……別の意図、目的があって、結婚する。
(12)マザコン結婚……母親の世話をするための家政婦として、妻を利用する。

 こうした結婚を、一組の男女がするのは、その男女の勝手。うまくいかなければ、離婚
すればよい。何も「結婚」とか、「離婚」とかいうワクに、とらわれることはない。

 しかし問題は、その結果、子どもが生まれたばあい。こうした無責任な結婚姿勢は、そ
のまま子育てに反映される。そしてその影響は、確実に、子どもに現れる。

 『子はかすがい』とは言うが、子どもがいてもいなくても、離婚する人は離婚する。し
かし誤解してはいけないのは、離婚が、悪いのではない。離婚にいたる、家庭騒動が悪い。
その騒動が子どもの心に、深刻な影響を与える。

 そんなわけで、離婚するにしても、「明るく、さわやかに」!

 結婚相手というのは、最初の印象で、決まるのではないか? その相手に、電撃的な衝
撃を感ずる。その衝撃が、やがて結婚という形に発展する。映画『タイタニック』の中の、
ジャックとローズが、そうだった。

 あとはその衝撃を信じて、結婚すればよい……と書くのは、危険なことだが、結婚とい
うのは、そういうもの。深く考えずに結婚するのも、また考えすぎて結婚するのも、よく
ない。

 もっとも、ここにあげたような結婚をしたからといって、不幸になるというわけではな
い。多かれ少なかれ、ほとんどの人は、ここに書いたような結婚のうちの、どれかをして
いる。ジャックとローズが感じたような衝撃を覚えて、結婚する人は、マレ?

 そういう意味では、結婚は、ゴールではなく、スタートにすぎない。いろいろな賢人が、
結婚について書き残している。

 あのソクラテスは、かなり不幸な結婚をしたらしい。『結婚すべきか、いなか。どちらに
せよ、汝は、後悔することになろう』(卓談)と。ほかにも無数にある。『悪妻をもたば、
汝、哲学者とならん』とも、どこかに、書いている。(自分は、哲学者なのに!)

●『よい結婚というものが、きわめて少ないことは、それがいかに貴重で、偉大なもので
あるかという証拠である』(モテーニュ「随想録」)

●『男は退屈から結婚する。女は、物好きから結婚する。そしてともに失望する』(ワイル
ド「何でもない女」)

●『三週間、たがいに研究しあい、三か月間愛しあい、三か年間喧嘩をし、三十年間がま
んしあう。そして子どもたちがまた、同じことをし始める』(テーヌ「トマ・グランドルジ
ェの生活と意見」)(以上、明治書院「世界名言辞典」より)

 全体としてみると、否定的な意見のほうが多いのでは……。もともと結婚というのは、
そういうものかもしれない。つまり、幻想をいだかないこと。

 結婚する前は、たがいにしっかりと見つめあう。しかし結婚したら、たがいに遠くの前
だけを見て、友として、いっしょに歩く。

 ……これが、夫婦を、長くつづけるためのコツではないか。

私たち夫婦も、喧嘩をするたびに、「離婚してやる」「別れましょう」と言いあっている。
あまり偉そうなことは言えない。まあ、たがいに過大な期待はしないこと。「10年後も、
20年後も、今のまま」と、そんなふうに、割り切って生きるのがよいのでは……。
(040228)(はやし浩司 結婚 離婚 結婚観)

【追記】

 私たち夫婦も、周期的に夫婦喧嘩をしている。このところ周期はやや長くなったが、(倦
怠期)→(不平不満期)→(忍従期)→(爆発期=夫婦喧嘩)→(冷却期)→(円満期)
→(倦怠期)というサイクルを繰りかえしている。

 おもしろいのは、そうしたサイクルが、ちゃんとあること。そしてそのときどきにおい
て、「今は、倦怠期だな」「今は、円満期だな」とわかること。

 そういう意味では、夫婦喧嘩というのは、いわば退屈しのぎのようなもの。夫婦も喧嘩
をしなくなったら、おしまい。もともと結婚というのは、そういうもの?

●『幸福な結婚というのは、婚約のときから死ぬときまで、決して退屈しない、永い会話
のようなもの』(モロア「幸福な結婚」)と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●第100号

 1月21日に、「最前線の子育て論」の第1作を書き始めて、今日で、100作目。今日
は、ちょうど2月最後の2月29日。1月21日から2月29日。約40日で、100作、
原稿を書いたことになる。

 A4サイズの原稿用紙(40字x36行)で、約450枚の分量である。単行本にすれ
ば、約3〜4冊分ということになる。(ふつう、A4サイズで、120枚程度もあれば、1
冊の本になる。)

 そのほとんどが、ダ作だが、中には、「もっと掘りさげて書いてみたい」と思う原稿もあ
る。新しい発見も、いくつか、した。しかし何よりもよかったのは、こうして毎日、原稿
を書くことで、生活に、メリハリができたこと。

 たいていは、朝早く起きて、原稿を書き始める。その時間が、3〜4時間。だいたいそ
の間に、15枚前後、書く。

 で、それがすむと、朝食。そして仮眠。たいていは1〜2時間で、また起きる。そのあ
と、マガジンの編集をしたり、配信予約を入れたりする。これに毎日、1時間程度、かか
る。

 中には、熱心に読んでくれる読者もいる。それはわかっている。が、しかし私は、もう
アテにしていない(失礼!)。アテにすれば、自分が悲しくなる。私は、私のために書く。
あと何年、こんなことがつづけられるか、私にはわからない。しかしそれまで書く。

 悲しくなる……? そう、悲しくなる。だからといって、そういう読者の方を怒ってい
るのではない。責めているのでもない。しかしこの一週間だけでも、こんなメールが届い
た。

 「久しぶりに、マガジンを読んでみました」
 「今回は、じっくりと、最初から最後まで、マガジンに目を通してみました」
 「1か月もパソコンを開かないでいたら、先生のマガジンが、山のようになってしまし
た」などなど。

 みなさん、私を励ますつもりで、そう書いてくださるのだろう。決して悪気があって、
そう書いているのではない。それは、わかる。しかし私は、そのつど、あの悲しさと戦わ
ねばならない。

 だかもう、アテにしない。そう、心に決めた。読んでくれる人がいても、いなくても、
私は書く。私は、私のために書く。

 それはちょうど、ひとりでするジョギングのようなものかもしれない。私は、ただひた
すら、前に向って走る。ギャラリーがいても、いなくても、私には、関係ない。あとの判
断は、あとの人に任せればよい。それを読む人に任せればよい。

 私の目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことである。

 ……とつぶやきながら、自分をなぐさめる。(それとも、これは、私のグチか?)




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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月 22日(No.376)
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(1)子育てポイント**************************

●純粋な心

 私は、ごく最近まで、気がつかなかった。しかし子どもに、これほどまでの力があった
とは!

 子どもには、おとなの心を洗う力がある。子どもと接しながら、心を開いていると、そ
のままスーッと、こちらの心が、晴れ晴れしてくるのがわかる。そのとたん、こちらが感
じている邪悪な心が、吹き飛んでしまう。

 その力は、恐らく、どんな高徳な聖職者がもっている力よりも、神聖で、強力ではない
のか……? ウソだと思うなら、あなたも一度、童心にかえって、子どもたちと遊んでみ
るとよい。たったそれだけのことで、あなたは、あなたが忘れかけていた何かを、思い出
すはず。

 そのとき、一つのコツがある。

 決して自分を、子どもたちに対して、「上」だとか、「親」だとか、思ってはいけない。
友として、対等の立場に立つ。あなたが優越感を覚えたとたん、子どもは、そのまま心を
閉ざしてしまう。そうなれば、いくらいっしょに遊んでも、子どもはあなたに対して、心
を開くことはない。開くことがなければ、あなたの心が、洗われることもない。

 ところで私には、こんな不思議なことが起きている。

 どこかで子どもに会ったとする。そういうとき、その子どもが、私を見て、にっこり笑
ったり、手をふったりするのである。もちろん見知らぬ子どもである。
 
 たとえば私が自転車に乗っていて、車とすれちがったとする。そのとき後部座席かどこ
かに子どもが座っていたとする。その子どもと視線があうと、その子どもが、私に向って
手をふる。

 子どもというのは、みな、そうするものだとばかり思っていた。が、ワイフに聞くと、「ふ
つう、子どもは、そんなこと、しないわよ」と。

 私はもともと心を開くことが苦手な男である。しかし相手が子どもだと、自然な形で、
心を開くことができる。こういう仕事を、34年近くもしてきた。そのせいだと思う。目
と目があった瞬間に、子どものほうが、それがわかるのではないか。

 そして最近、わかったことは、つぎのこと。

 子どもと接したあと、ふつうのおとなのと話したりすると、その人の心のにごりが、よ
くわかる。当然と言えば当然ということになるが、その「ちがい」がわかるということは、
そのとき、私の心が、子どもたちによって洗われていたということになる。

 よく誤解されるが、(本当によく誤解されるが)、子どもぽいということは、決して恥ず
べきことではない。また子どもぽいということは、未熟で幼稚という意味ではない。

 子どもぽいというのは、心が純粋で、清純であるという意味である。人は、おとなにな
るにつれて、知識や経験を身につけるが、同時に、子どもらしい純粋で、清純な心をなく
す。子どもに接していると、それを取りもどすことができる。

 さあ、あなたも勇気を出して、童心にかえってみよう。子どもと心を開いて、遊んでみ
よう。

 さあ、あなたも勇気を出して、子どもに心を開いてみよう。かっこうつけたり、威張っ
たりしてはいけない。

 そのあと、あなたも、私がここで言っている意味が、わかるはず。
 
【追記】

 今週は、お遊びとして、粘土で、ケーキづくりをした。子どもたちと、いろいろなケー
キを作った。ワイワイと騒ぎながら作っていると、我を忘れてしまう。(実際には、参観に
きている母親たちの視線を意識するため、途中でやめてしまう。サボっているように思わ
れるのは、つらい。)

 しかし驚いたのは、こんなのを作った子ども(小一男児)がいたこと。

 その子どもは、緑と青い粘土で、細い紐(ひも)状のものを作った。何をするのかと思
って見ていると、おもちゃの包丁で、それをななめにきざみ始めた。「それは何?」と聞く
と、「ネギ!」と。

 つぎに黄色い粘土を、幾重にも重ねて、小さなボール状のものを作った。そしてそれも、
同じようにおもちゃの包丁で、切り始めた。「それは?」と聞くと、「タマネギ!」と。


 こうしていくつか食材を用意したあと、それをおもちゃの皿に盛りつけ始めた。

 黄色で、細い紐のようなものもある。そこでさらに、「それは何?」と聞くと、「先生、
これはね、からしマヨネーズだよ」と。

 さいごに(それ)ができあがったので、「何ができたの?」と声をかけると、「冷やし中
華」と答えた。

 それを見て、ほかの子どもたちが、「おいしそう」と言って笑った。私も、「食べられそ
う」と言って笑った。

 子どもの純粋さに触れるというのは、そういうことをいう。

【追記2】

 ここまで書いてワイフの読んで聞かせると、ワイフがこう言った。

 「あんた、同年代の男の人と、会話をしたくないの?」と。

 そこでハタと私は考えこんでしまった。
 
 私は、女性や子どもと話すのは得意だ。それに好きだ。しかし男性は、苦手。講演でも、
女性が多いときは、のりまくって話をすることができる。しかし男性が多いと、とたんに
緊張してしまう。

 何年か前、市内のRクラブで講演をさせてもらったことがある。聴衆は、全員、男性だ
った。そのときのこと。講演ではめったに、あがったことのない私だったが、そのときだ
けは、あがってしまった。

 自分でも何を話しているかわからない状態で、講演が終わってしまった。

 私「ぼくは、酒を飲めないから……」
 ワ「それがどうしたの?」
 私「だから、男たちとは、心を開いて、話しあうことができないよ」
 ワ「お酒なんか、関係ないでしょ」と。

 考えてみれば、これは私の欠陥かもしれない。だから私がここに書いたことが、絶対に
正しいとは思わない。……ということも、少しは考えなければいけないのか。しかし今さ
ら、酒を飲めるようになれと言われても……。さてさて、どうしたものか?

(2)今日の特集  **************************

【読者の方より……】

 今週も、たくさんの方より、メールをいただきました。ありがとうございました。その
中から、一つを選んで、ここでテーマとして考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++

●ハキのない子ども

 「ハキのない子どもです。どうしたらいいですか」(埼玉県Yさん)という相談があった。

 しかしハキのあるなしは、教育でどうこうなる問題ではない。また家庭のしつけで、ど
うこうなる問題でもない。

 むしろ学校も、家庭も、何もしないほうが、よい。そのほうが、子どもは、ハキのある
子どもになる。へたにあれこれするから、子どもは、自信をなくし、ハキのない子どもに
なる。とくに注意したのが、母子関係。

 母子関係は、心身の発育のためには、きわめて重要な役割を担(にな)う。それは事実
だが、ある時期を過ぎると、その母子関係が、かえって子どもにとっては、弊害となるこ
とがある。そのため母親が、子どもの自立を、はばんでしまう。

 ハキがない原因の多くは、親の過干渉、過保護、過関心と考えてよい。過剰期待や過負
担が、子どもの自我をつぶしてしまうこともある。

そしてここがこわいところだが、一度つぶれた自我は、簡単には、もとにもどらない。
少年少女期(学童期)につぶれたりすると、その子どもは、ほぼ一生、ナヨナヨした子
どものままになる。

 発達心理学の世界では、「動機づけ」「自我の同一性」「強化の原理」などという言葉を使
って、子どものやる気を説く。で、そのやる気のカギをにぎるのが、「私は私」という自我
である。

自我の強い子どもは、ハキがあるということになる。自我が弱い子どもは、そうでない
ということになる。では、どうするか?

わかりやすく言えば、(あるがままの子どもを認め、子ども自身がもつ、力を引き出す)
ということ。人間には、もともとそういう力が宿っている。

 しかし実際には、ここにも書いたように、一度自我はつぶれると、その回復は容易では
ない。それこそ一年単位の根気が必要である。「去年とくらべてどうだ?」「おととしとく
らべてどうだ?」というような見方をする。

 あせったところで、どうにもならない。またこうした問題が起きると、親は、「子どもを
なおそう」と考える。しかしなおすべきは、親自身である。この視点をもたないと、それ
こそそのナヨナヨとした状態は、一生の間、つづくことになる。ご用心!

+++++++++++++++++++++++++

【参考】

子どもの自我がつぶれるとき

●フロイトの自我論 

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。
 
自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にす
る)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来
に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善
悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という
言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、
まじないや占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な
行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、
など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、
つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びてい
く。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えて
いるかわからない子どもといった感じになる。

●自我は引き出す

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視
点から考える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもと
いうのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に
子どもを当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さら
には恐怖(暴力や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。

そしてここが重要だが自我は一度つぶれると、以後、修復するのがたいへん難しい。た
とえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その影響は一生続く。とくに乳幼児から満
四〜五歳にかけての時期が重要である。

●要は子どもを信ずる

 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。
その過程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。


こうした本質は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わっ
たと思うほうがおかしい。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引
き出していくかということ。子育ての原点はここにある。

++++++++++++++++++++
 
●マイナスのストローク(弱化の原理)

 記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を
描かせようとしたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。
積み木遊びをしたが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせよ
うとしたが、『歌いたくない』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、
一見おだやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。とき
にビリビリとそれを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」という
のは、A君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私
はそれを母親に説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸
口すらわからないということ。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大
きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は…
…?」と相談しつつ、私の説明をロクに聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱る。「もっ
と、しっかりしなさい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしい
わ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。
そしてその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識と
いうのは、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識
と言ったのは、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。そ
れについて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個
人的無意識である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世
界に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印さ
れた記憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される
意思によるものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやす
く言えば、この個人的無意識が、その個人を、裏から操る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子ども
は、東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、
いつも「子どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。
ある程度の設計図をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれ
を子どもに、押しつけてはいけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子ど
もに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害す
る。自我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期
に、自我の発達が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何を
しても自信がもてず、逃げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。
ここでいうA君が、まさに、そういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言
葉を使って、つぎのような説明している。

 「条件づけには、強化(きょうか)の原理と、弱化(じゃくか)の原理がある」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働
きかけ)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという
原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」
と言ってほめたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはま
すます歌を歌いたがるようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスの
ストロークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになると
いう原理をいう。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言
って、けなしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌
を歌わなくなってしまう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとな
って作用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の
世界に蓄積され、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりに
たっぷりと受けているから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけ
て、逃げ腰になってしまったのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らか
に母親が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わね
ばならないのかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力を
することは当然としても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前
に、母親の理解がなければ、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさ
いとか言っていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「はあ、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たい
ていは、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言
葉を払いのけてしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う
母親さえいる。「あんたは、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいです」と。つ
まり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子
どもの母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれ
にブレーキをかけてしまう。この仕事というのは、報われることより、裏切られることの
ほうが、はるかに多い。いやな思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした
記憶が、私を裏から操っている? 「質問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きく
することもない」「言われたことだけをしていればいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子ど
もは、常にプラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、
伸ばす。とくに乳幼児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(040228)(はやし浩司 強化の原理 弱化の原理 自我論 ハキのない子ども 
スキナー オペラント)

(3)心を考える  **************************

●別れ

 2月末。進学塾へ移っていく子どもが、何人か、私の教室を去っていった。私は、それ
を「卒業」と思って、見送る。さみしい瞬間だが、私は、もう、なれた。

 そういうとき、親はともかくも、子どものほうが不安そうな表情をする。それがわかる
から、私は、子どもには、こう言う。「心配しなくてもいいよ。君は、どこへ行っても、ち
ゃんとできるからね。また戻ってきたくなったら、いつでも戻っておいでよ」と。

 そんなわけで、今でも、私の教室をやめたあとも、ときどき、私の教室にやってくる子
どもがいる。だまって入ってきて、しばらく遊んだあと、また、だまって帰っていく。

 ただ、親に、こう言われるのは、つらい。「今度、○×進学塾に入ることにしました。そ
ちらでうまくいかなかったら、また先生、そのときは、よろしくお願いしますね」と。

 私は、神様でも、仏様でもない。そういうときは、率直に、断ることにしている。「申し
訳ありませんが、うちは、そういうことはしていませんので」と。

 25年ほど前のことだが、こんな事件があった。

 毎日、学校の帰るとき、私の教室の窓の外に立って、私の教室の中をのぞいている子ど
も(小3)がいた。そこである日、その子どもにこう言った。「もし、この教室に入りたい
のだったら、お母さんに頼んでみてあげるよ」と。

 その子どもは、うれしそうだった。そして私に、名前と電話番号を教えてくれた。が、
電話をすると、母親は、いきなり、私にこう怒鳴った。

 「勝手に、うちの子を、塾なんかに誘わないでほしい!」と。

 あとで聞いたら、父親も、母親も、中学校で教師をしていた。私が子どもを、直接勧誘
したのは、そのときが、はじめてで、そして最後だった。

 ただその子どものばあいは、もう一つ大きな事件が重なった。たまたまその子どもの裏
に住む子どもが、私の教室の生徒になった。で、その母親から聞いた話は、意外なものだ
った。

 その子どもは、つまり「塾なんかに誘わないでほしい」と叫んだ母親の子どもだが、そ
の子どもは、そのあと、中学校へ入るころから、はげしい家庭内暴力を繰りかえすように
なったという。

「家中のガラスというガラスは、すべてはずした。父親も母親も、廊下などは、這って
いかないと、許してもらえなかった。母親は、そのため中学校を退職した」と。

 家庭内暴力にもいろいろあるが、相当な家庭内暴力だったようだ。ときどき、真夜中で
も、近所中に響き渡るような、子どもの叫び声が聞こえてきたという。私は、その話を聞
いて、そのときは、「どうしてあんな静かだった子どもが!」と、驚いた。

 子育てで成功する親と、失敗する親。それははっきりしている。

 子育てで成功する親は、いつも、子どもの心に耳を傾けている。そうでない親は、「子ど
ものことは私が一番よく知っている」と、いつも、子どもの心を、親が決めてしまう。

しかし、私の仕事は、親というスポンサーあっての、仕事。親の意向に逆らうことはで
きない。親が「やめる」と言えば、それに従うしかない。いくら内心で、「ここをやめた
ら、たいへんなことになるのに……」と思っていても、それは言えない。

だから子どもには、こう言う。「またいつでも、戻ってきたくなったら、戻っておいでよ」
と。

それは、本当にさみしい瞬間だが、私は、もうなれた。

【小さな一言が子どもの心を開く】

 今日からでも遅くないから、何かあるたびに、子どもに向かって、「あなたはどう思う
の?」を口ぐせにしてみるとよい。

 この一言が、長い時間をかけて、子どもの心を開く。子どもを、考える子どもにする。


(4)今を考える  **************************

●自転車のパンク

 ある自転車屋の前を通ったら、その張り紙には、こう書いてあった。

 「よそで買った自転車は、パンクの修理はいたしません」と。

 つまりその自転車屋で買った自転車でないと、パンクの修理はしない、と。

 ワイフが最初にそれを見つけて、「あら、いやだ」と言った。「意地悪ね」と。

しかし私には、その自転車屋の気持が、痛いほど、よくわかった。昔、私の父は、逆に、
店先にこう書いていた。

 「よそで買った自転車でも、パンクの修理をいたします」と。

 今、自転車は、大型スーパーでも、売られるようになった。値段は、1万円というのも
ある。40年前の価格よりも、安い。そのため、ほんの一部の自転車屋をのぞいて、ほと
んどの自転車屋は、軒並み、店を閉めた。

 その結果が、「パンクの修理は、いたしません」(文句があるなら、アフターサービスの
できる、うちで買え!)である。

 自転車屋の言い分はこうだ。

 「パンク修理だけでは、やっていけない。自転車も買ってほしい。パンク修理は、あく
までもアフターサービスの一部」と。

 本来ならパンクの修理費を、あげればよいのだが、しかしこの世界には、「組合」という
ものがあって、それもままならない。修理代の金額は、その組合の取り決めで、決まって
いる。

私「自転車屋というのは、いろいろな職業の中でも、下に見られているからね」
ワ「そうではないわよ。自転車は、必需品よ」
私「手が油でよごれる仕事というのは、昔から、そう見られている」
ワ「……」と。

 しかしそういう張り紙を出すようになったら、その店もおしまい。やがて来るべき客も、
来なくなる。心の狭さを感ずるからだ。

 もっとも私の父は、逆の張り紙をした。それは、それだけ経営が苦しかったからだ。そ
れに当時は、まだ、客にも、律義(りちぎ)なところが残っていた。「パンクは、買った店
でなおしてもらう」と、客のほうが、そう考えていた。

 たとえば私の子どものころには、自転車屋にも縄張りがあった。よく父が、「あそこの町
内は、○○自転車屋さんの縄張りだから……」と言っていたのを覚えている。

 しかし今、そういう人が本来的にもつ(やさしさ)が、消えてしまった。大型店は容赦
なく中小の店を食いつぶし、それまで民衆が、長い時間をかけてつくりあげた慣習を、ぶ
ちこわしてしまった。道徳まで、ぶちこわしてしまった。

 その結果が、その張り紙である。一見、「?」と思う張り紙だが、その自転車屋の、精一
杯の抵抗運動のようにも見える。どうせ勝ち目のない、はかない抵抗だが、私には、そう
見える。

 がんばれ、自転車屋さん! 客がよそで買った自転車のパンクなんか、ぜったいに、修
理するなよ!


●花粉うつ

 今、私の心は、ふさいでいる。不平、不満だらけ。むしゃくしゃする。理由は、いくら
でもある。今は、そういうとき。

 時刻は、3時15分前。もうすぐ年中児の子どもたちがやってくる。ワイワイと騒ぎな
がら、やってくる。

 子どもたちが、私の心を洗ってくれるはず。本当は、こういうときは、ひとりで静かに
していたい。仕事はしたくない。で、ここで自分の心の変化を観察してみる。

 今までの経験では、子どもの顔を見たとたん、パッと気が晴れるはず。

 最初にM君がきた。心静かな子どもだ。さっそくプレイテーブルで、粘土遊びを始めた。
しばらくして今度は、Sさんがやってきた。活発な女の子で、粘土を見つけると、さっそ
く飛びついてきた。

 つぎにKさん、もう一人、Uさん……。
 こうしていつの間か、私は、ざわめきの中に引きこまれていく。そして自分を忘れる。

 しかし今日は、どういうわけか、あまり心が晴れない。どうしてだろう。花粉症が少し
始まったせいかもしれない。昨夜、少しくしゃみが出た。熱はないが、どこか寒気がする。

 ふつうなら、こういう状態になると、生徒たちといっしょになって、ワイワイと騒ぎだ
すのだが……。

 (この間、約1時間……)

 やっと今、静かになったところ。最後に残っていた子どもも、母親にうながされて、帰
っていった。イギリスの格言に、『子どもは見るもの。聞くものではない』というのが、あ
る。子どもは見ている間は、かわいいものだが、しかし聞くものではない。うるさい。

 幼児教育をするものは、まず、幼児のうるささに耐えること。それができない人は、幼
児教育には向いていない。

 ……しかしこれも、そのときのコンディションによる。今日のように、どこか調子が悪
いときは、子どもの声が、ガンガンと頭の中にひびく。やはり、花粉症が少し始まったよ
うだ。

 この10年、症状は消えたが、ただ花粉が飛散し始める最初の1週間程度は、まだ症状
が出る。その1週間が、結構、つらい。

 この時期の過ごし方。まず内科医院で、花粉注射を受ける。つぎにシソの葉エキスとい
うジュースを飲む。こうして1週間ほど養生すると、そのまま花粉症の症状は消える。…
…はず。

【私のうつ】

 毎年、春先になると、私はこうしてうつ状態になる。ちょうど花粉の飛散時期と重なる
ので、「花粉うつ」と、私は呼んでいる。

 以前は、鼻づまり、悪寒、くしゃみ、咳などの症状が出た。ひどいときは、顔が赤くな
るほど、熱も出た。それが20年以上もつづいたから、心のほうは、それを覚えていて、
その習慣を繰りかえしているのかもしれない。つまり精神も、花粉症になるということ。
それが「うつ」というわけである。

 こういうときは、何をしても、また何を考えても、暗くなる。気分が晴れない。何を考
えても、悪い方へ、悪い方へと考えてしまう。どこか頭も重い。ああ、いやだ。この季節
よ、早く去れ!

●第二回、六か国協議

 今日は、2月28日。(このマガジンが配信されるのは、3月22日号の予定)

 その2月28日、北京で行われた、K国の核をめぐる六か国協議は、ほとんど成果らし
い成果もなく、終了した。懸案は、すべて先送り。喜んでいいのか悪いのか。まったくの
私の予想どおりだった。

 韓国には韓国の立場もあるのだろうが、ことごとくアメリカに反発している。そのため
米韓関係は、今、崩壊の瀬戸際に立っている(アメリカ政府高官)。

一方、K国は、「核兵器開発は日本に対してのもの。アメリカではない」と、かねてより
発言している。またアメリカは、核兵器が、中東のテロリストたちに渡るのを、何より
も恐れている。

 その中心にいる、K国は、狂っている。少なくとも、まともではない。

 ああ、日本は、どうしたらよいのか。仮に日朝戦争ということになれば、韓国すら、統
一旗をあげて、K国に加担するだろう。アメリカだって、そうは簡単には助けてくれない。
中国やロシアなど、まったく、アテにならない。

だからやはり、日本としては、国際世論に働きかけていくしかない。具体的には、国連
安保理への提訴である。もっともこの点については、アメリカと、意見が一致している。
「話しあいの時期は、もう過ぎた。残るは、国連による制裁」と。

 ゆいいつの望みは、K国が、自己崩壊すること。しかしそうなれば、今度は、韓国が困
る。だから土壇場になると、いつも韓国が、なんだかんだと、K国を助ける。

仮に国連による制裁ということになっても、韓国は、それに応じないだろう。しかしそ
れがまた、日本やアメリカとの間に、キレツを入れる原因になっている。

日本としては、ここは『さわらぬ神に、たたりなし』。あんなK国と戦争をしてもつまら
ない。正義をつらぬかねばならないような相手ではない。はっきり言えば、国のXX(禁
止用語)。だからノラリクラリと、自己崩壊するのを待つのがよい。

3月に入れば、K国では、600万人分の食糧配給が停止するという(WFP)。しかし
その一方で、ピョンヤンの食糧倉庫には、日本から送られた米などが、手つかずのまま、
山積みになっているという(脱北者の証言)。だから食糧援助をしても、意味がない。


●メルマガ(BIGLOBE版)の読者の方へ

 2月末に、BIGLOBE版のメルマガを、随時発行にすると、読者の方々に連絡した。
「Eマガ、もしくはまぐまぐプレミアへの移動をお願いします」と。

 しかし、一時的には、読者の数は減ったものの、またふえ始めた。その連絡以後、新規
に登録した人たちではないかと思う。

 以前にも、一度、こういうことがあった。多分、メルマガのほうはメルマガのほうで、
私のマガジンを宣伝していてくれるのだろう。

 そんなわけで、つまり新規に登録してくれた読者の方を、がっかりさせたくないから、
またメルマガを、以前のように配信している。

 (ただEマガは、一か月先まで。まぐまぐプレミアは、45日先まで配信予約できるが、
メルマガは、たったの一週間。そのため同時に配信予約を入れることができない。

 またバックナンバーについては、Eマガは、数か月過去の分まで、保持していてくれる。
しかしメルマガは、過去数回分しか保持してくれない。

 ほかにEマガは、毎回、A4サイズの原稿用紙で、20〜30枚分を配信してくれる。
Eマガ社が特別に、そうしてくれている。が、メルマガは、それにくらべて、配信容量が
少ない。だからたいていいつも、2回に分けて配信しなければならない。

 マガジンスタンドによって、サービスが、かなり違う。)

 メルマガ(BIGLOBE版)を、購読してくださっている読者の方は、できるだけ、
Eマガもしくは、まぐまぐプレミアのほうへ、ご移動ください。よろしくお願いします。

【今後、ご自分でマガジンを発行してみようと考えている方へ……】

●マガジンスタンド(マガジンを発行する会社)の選択は、慎重に!

 私は、ほとんどこの世界を知らないまま、マガジンを発行し始めました。ですから私の
選択が正しかったとは思っていません。

 サービスの内容は、各社ちがいます。

 私が利用しているのは、Eマガ、メルマガ、まぐまぐ社の三社です。それぞれに特徴が
あり、サービスの内容が違います。

 ですから、ご自身でマガジンを発行しようと考えている人は、自分のマガジンの性質に
あったマガジンスタンドを選ぶことが、大切です。

 Eマガ社は、私のマガジンのように原稿量が多いマガジンに適しています。それに過去
100回分近く、バックナンバーを保持しておいてくれるのも、助かります。

 配信の方法は、ウソのように簡単です。

 ワープロで書いた原稿を、そのまま張りつけて、「送信」ボタンをクリックするだけ。文
章を保存する程度の手間だけで、できます。(本当に驚きですね!)

 みなさんも、ぜひマガジンを発行してみてください。おもしろいですよ。
(040228)

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月 19日(No.375)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行) 
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page047.html

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(1)子育てポイント**************************

●心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない
間に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、
夫婦関係は崩壊する。

価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。実際、妻に向かって「お
前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れても、「K先生、K先
生」と言い出したからだ。夫(四一歳)はこう言う。

「ふだんはいい女房だと思うのですが、基本的なところではわかりあえません。人生論
や哲学的な話になると、『何を言ってるの』というような態度をして、私を無視します」
と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特
徴がある。排他性(他の思想を否定する)、情報の遮断性(他の思想を遮断する)、組織信
仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、迷信性(外から見ると?と思うようなことを信
ずる)、利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。巨大視化
(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学者
もいる。

 信仰のし方としては、催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、反復性(皆がよっ
てたかって同じことを口にする)、隔離性(ほかの世界から隔離する)、布教の義務化(布
教すればするほど利益があると教える)、献金の奨励(結局は金儲け?)、妄想性と攻撃性
(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)など。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとるこ
とがある。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、
毒ガスや毒薬を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわ
かると主張した団体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を
否定しても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定して
はいけないということ。

みな、それぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それに
ついては謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、ま
た言ってはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、
その人の悲しみや苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても
意味はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考え
てはじめて、この問題は解決する。「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊され
た」と言う人もいるが、妻が入信したとき、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみ
る。そんなわけで夫が信仰に反対すればするほど、夫婦関係はさらに崩壊する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●後手、後手の日本の教育改革

 約六〇%の中学生は、「勉強で苦労するくらいなら、部活を一生懸命して、推薦で高校へ
入ったほうが楽」と考えている。また同じく約六〇%の中学生は、「進学校へ入ると勉強で
しぼられるので、進学校ではない高校に入り、のんびりと好きなことをしたい」と考えて
いる。(静岡県では高校入試が、入試選抜の要になっている。これらの数字は、中学校の校
長たちのほぼ一致した見方と考えてよい。)

 こうした傾向は進学高校でもみられる。以前は勉強がよくでき、テストの点が高い子ど
もほど、周囲のものに尊敬され、クラスのリーダーになった。が、今は、ちがう。

ある日私が中間層にいる子どもたちに、「君たちもがんばって、(そういう成績優秀な連
中を)負かしてみろ」と言ったときのこと。全員(七人)がこう言った。「ぼくらはあん
なヘンなヤツとはちがう」と。勉強がよくできる子どもを、「ヘンなヤツ」というのだ。

 夢があるとかないとかいうことになれば、今の中高校生たちは、本当に夢がない。また
別の日、中学生たち(七人)に、「君たちもがんばって宇宙飛行士になってみろ。宇宙飛行
士のMさんも、そう言っているぞ」と言うと、とたん、みながこう言った。「どうせ、なれ
ないもんネ〜」と。

 こうした現実を、一体今の親たちは、どれだけ知っているだろうか。いや、すでに親た
ち自身も同じように考えているのかもしれない。こうした傾向はすでに二〇年以上も前か
らみられたことであり、今に始まったことではない。

ひょっとしたら中学生や高校生をもつ親の何割かも、ここにあげた中高校生のように考
えているかもしれない。「どうせ勉強なんかしてもムダ」とか、「勉強ができたところで、
それがどうなのか」と。さらに今の親たちの世代は、長渕剛や尾崎豊の世代。「学校」に
対するアレルギー反応が強い世代とみてよい。「学校」と聞いただけで、拒絶反応を示す
親はいくらでもいる。

 問題は、なぜ日本がこうなってしまったかということよりも、こうした変化に、日本の
教育が対応しきれていないということ。いまだに旧態依然の教育制度と教育観を背負った
まま、それを親や子どもたちに押しつけようとしている。「改革」といっても、マイナーチ
ェンジばかり。とても抜本的とはいいがたいものばかり。すべてが後手、後手に回って、
教育そのものがあたふたとしているといった感じになっている。

 こうした問題に対処するには、私は教育の自由化しかない。たとえば基礎的な学習は学
校で、それ以外の学習はクラブで、というように分業する。学校は午前中で終わり、午後
はそれぞれの子どもはクラブに通う。学校内部にクラブがあっても、かまわない。先生が
クラブの指導をしても、かまわない。各種スポーツクラブのほか、釣りクラブ、演劇クラ
ブなど、さまざまなクラブが考えられる。月謝はドイツ並みに、一〇〇〇円程度にする。
方法はいくらでもある。

(2)今日の特集  **************************

●父親の役割

 ある雑誌を読んでいたら、ある評論家が、父親の役割について、書いていた。かなりト
ンチンカンなことを書いていた。

 ……と批評することは、簡単なこと。どうトンチンカンかということについては、ここ
には書けない。しかしかなりトンチンカンだった。「へえ?」と、私は、へんに感心してし
まった。その評論家は、「今こそ、父親の威厳が大切」というようなことを説いていた。

 たしかにそういう面もある。が、そうした対症療法的な「父親論」では、問題の本質を、
見失ってしまうのではないだろうか。もちろん、実際の子育てでは、役にたたない。「威厳
とは何か」「どうすればその威厳を保てるのか」「そもそも威厳のない父親に、威厳をもて
といっても無理ではないのか」と、そこまで論じて、はじめて役にたつ。

 とくに私など、まさに威厳のない父親の代表格のようなものだから、そう言われると、
ハタと困ってしまう。本当に、困ってしまう。私など、息子たちの前では、いつもヘラヘ
ラとしている。いつもバカにされている。

 そんなとき、別の読者から、母子家庭の問題点についての質問があった。それで、ここ
では、父親の役割について考えてみる。

+++++++++++++++++

【父親の役割】

●母子関係の是正

 母子関係は、絶対的なものである。それは母親が、妊娠、出産、授乳(育児)という、
子どもの「命」にかかわる部分を、分担するためである。

 同じ親でも、母親と父親は、そういう意味においても、決して平等ではない。はっきり
言えば、父親がいなくても、子どもは生まれ、育つ。

 が、ここでいくつかの問題が生まれる。

 その第一は、精神の発育には、父親の存在が、不可欠であるということ。それには、つ
ぎの二つの意味が含まれる。

(1)父親像の移植
(2)母子関係の是正

 人間は、社会的な動物である。そしてその「社会」は、「家族」という、無数の共同体が
集合して、成りたっている。世界のあちこちには、大家族制度や、かつてのヒッピー族が
経験した、集団家族制度のような家族形態をとっているところもある。

しかしこの日本では、一人の父親と、一人の母親が結婚して、家族を構成する。それが
家族の基本であると同時に、子育ての基本となっている。(だからといって、そうである
べきと言っているのではない。誤解のないように!)

 そうした家族形態の中における、父親の役割を、子どもに教える。「父親というのは、こ
ういうもの」「父親というのは、こうあるべき」と。これが父親像の移植である。子どもは、
父親に育てられたという経験があってはじめて、その父親像を、自分のものとすることが
できる。

 しかしこれに加えて、もう一つ、重要な役割がある。それが、(2)の母子関係の是正で
ある。

 このことは、離婚家庭や、父親不在家庭の子どもをみれば、わかる。

 父親像がない状態で育った子どもは、母子関係がどうしてもその分、濃密になり、母親
の影響を大きく受けやすい。そのためマザーコンプレックスをもちやすいことは、すでに
あちこちで指摘されているとおりである。

 子どもは、その成長過程において、母子関係から離脱し、社会性を身につける。これを
「個人化」という。その個人化が、遅れる。あるいは未発達なまま、おとなになる。三〇
歳を過ぎても、四〇歳を過ぎても、さらに五〇歳をすぎても、母親なしでは、生きられな
い状態を、自ら、つくりだす。

 六〇歳をすぎても、「お母さん」「お母さん」と、甘えている男性など、いくらでもいる。

 しかしこうした依存性は、決して、一方的なものではない。

 ふつう子どもが、依存性をもつと、子どもの側だけが問題になる。しかし実際には、子
どもの依存性を許す、甘い環境が、その子どもの周辺にあると考える。もっとはっきり言
えば、母親自身が、依存性が強いことが多い。

だから母親自身が、子どもの依存性を見落としてしまう。あるいは子どもに、自分がも
っている依存性と同じものを、もたせてしまう。

たとえば依存性の強い母親は、親にベタネタ甘える子どもイコール、かわいい子イコー
ル、よい子、としてしまう。反対に、親に反抗したり、自立心が旺盛な子どもを、「親不
孝者」と、排斥してしまう。

 こうしてベタベタに甘い、母子関係が、生まれる。

 そのベタベタになりがちな母子関係を制限し、修復するのが、父親の役目ということに
なる。

 具体的には、(1)行動に制限を教える。(2)社会的人間としての、父親の役割を教え
る。

 たとえば溺愛ママと呼ばれる母親がいる。

 このタイプの母親は、母親と子どもの間にカベがない。だから子どもが何かの不祥事を
起こしたりすると、自らが責任をかぶることにより、子どもの責任をあいまいにしてしま
う。

 子ども(中3男子)が、万引き事件を引き起こして補導されたとき、一夜にして、あち
こちをかけずりまわり、事件そのものをもみ消してしまった母親がいた。

 つまりそういうことをしながら、子どもの精神的な発育を、母親自身が、むしろ、はば
んでしまう。

 こうした母親の行動にブレーキをかけるのが、父親の役目ということになる。もともと
父子関係は、「精液一しずく」の関係にすぎない。しかしこうした父親のもちうる客観性こ
そが、父親像の特徴ということにもなる。

 つぎに(2)社会的人間としての、父親の役割だが、これは、現代の社会構造と、深く
結びついている。たとえば少し前まで、この日本では、「男は仕事」という言葉が、よく使
われた。「男が仕事をし、女が家庭を守る」と。(だからといって、こうした考え方を、私
が肯定しているわけではない。誤解のないように!)

 こうした「男」と「女」のちがいは、さまざまな形で、社会の中に組みこまれている。
そのちがいを、教えていくのも、実は、父親の役割ということになる。

 父親は、決して、母親にかわることはできない。またかわる必要もない。母親には母親
の、そして父親には父親の限界がある。その限界をたがいに、補いあうのが、父親の役目
であり、母親の役目ということになる。

 その役割を混乱させると、子育てそのものが、混乱する。

 よくあるケースは、(1)父親の母親化。(2)母親の父親化。(3)それに父親の不在(疑
似母子家庭)である。こういう家庭では、子育てそのものが、混乱しやすい。

 父親の母親化というのは、父親自身が、女性化していることをいう。子どもを、溺愛マ
マよろしく、息子や娘を溺愛する父親は、決して珍しくない。

 つぎに母親の父親化も、ある。このばあい、その影響は、子どもに強く現れる。本来な
ら、母子関係ではぐくまれねばならない、基本的な信頼関係(絶対的なさらけ出しと、絶
対的な受け入れ)が、結べなくなる。その結果、子どもの情緒、精神の発育に、深刻かつ
重大な影響を与える。

 一般的に言えば、母親が父親化すれば、子どもは、愛情飢餓の状態になり、心の開けな
い子どもになる。

 さらに父親の職業などで、疑似母子家庭と呼ばれるようなケースになることもある。夫
の長期にわたる、単身赴任が、その一例である。

だからといって、母子家庭が悪いと言っているのではない。ただこうした問題があると
いうのは、事実であり、そういう事実があるということを知るだけでも、母親は、自分
の子育てを、軌道修正できる。母子家庭が本来的にもつ問題を、克服することができる。

 まずいのは、こうした問題を知ることもなく、母子関係だけに溺れてしまうケースであ
る。この原稿は、そういう目的のために書いたのであって、決して、母子家庭には問題が
あると書いたのではない。どうか、誤解のないようにしてほしい。
(040225)(はやし浩司 父親役割 母子家庭 問題 エディプス コンプレック
ス)

【追記】

 母子家庭でなくても、母親が、日常的に父親を否定したり、バカにしたりすると、ここ
でいう父親像のない子どもになることがある。

 このタイプの子どもは、言動に節制がなくなったり、常識ハズレになったりしやすい。
あるいはマザコンになりやすい。

 マザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、ことさら親
(とくに母親)を、美化するところにある。「私の母親は、偉大でした」「世のカサになれ
と、教えてくれました」と。そして親を批判したりする人物がいると、それに猛烈に反発
したりする。

 こうしたマザコン性から子どもを救い出し、父親像をインプットしていくのが、実は、
父親の役目ということになる。これを心理学の世界では、「個人化」という。もともと個人
化というのは、家族どうしの依存性から脱却することを言う。つまりわかりやすく言えば、
「自立化」のこと。

 マザコンタイプの人は、その個人化が遅れる。ベタベタとよりそう関係を、かえって美
化することもある。親は、「親孝行のいい息子」と思いこみ、一方、子どもは、「やさしく、
すばらしい親」と思いこむ。

 簡単に言えば、父親の役目は、子どもを母親から切り離し、子どもを自立させていくこ
と。

 もちろんその過程で、子どもの側にも、さまざまな葛藤(かっとう)が起きることがあ
る。エディプスコンプレックス※も、その一つということになる。

 が、最近の問題として、父親自身が、じゅうぶんな父親像をもっていないことがあげら
れる。父親自身が、「父親」を知らないケースである。

 さらに父親自身が、マザコンタイプであったりして、ベタベタになっている母子関係を
見ながら、それに気がつかないということもある。あるいはさらに、父親自身が、母親の
役割にとってかわろうとするケースもある。

 溺愛パパの誕生というわけである。

 このように、現代の親子関係は、今、混沌(こんとん)としている。しかし今こそ、改
めて、父親の役割とは何か、母親の役割とは何か。それを冷静に判断してみる必要はある
のではないだろうか。でないと、これから先、日本人のそれは、ますますわけのわからな
い親子関係になってしまう。

 ここに書いたことが、あなたの親子関係をわかりやすいものにすれば、うれしい。

++++++++++++++++++++

※エディプス・コンプレックス……

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の
内容は、つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨ
カスタとの間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に
拾われ、王子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けん
かする。が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバ
イの王となり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実
父を殺し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目
をつぶし、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげ
られ、「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓
吾著「フロイト思想のキーワード」(講談社現代新書))。

つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレッ
クスの支配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を
欲するあまり、ライバルとして父親を憎むようになるという。(女児が、父親を欲して、
母親をライバル視するということも、これに含まれる。)

 この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのこ
とに疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。母
親からの異常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてな
くなることが多い。

 で、私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックス
は、この日本ではそのまま当てはめて考えることはできない。

その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。その第二。文化
がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といってもよいが)
が、かぎりなく進む。現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父
親、母親の、輪郭(りんかく)そのものが、ぼやけてくる。

つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱にな
ってくる。現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめ
るのは女児」という、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世
代からみると、逆転)が、当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相
互の依存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学
者がいるが、まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親
の境目が、いろいろな意味において、明確ではない。

少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にして
も、ばあいによっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」
ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも
嫉妬(しっと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と
思っている人も多いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。

 また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、
いわゆる「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。
そういう「ハズ論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。

 ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかとい
うと、そうでもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私
にもこんな記憶がある。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、
淡い恋心をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それから
の記憶はないが、つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行った
ときのこと。川のそばの、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中に
はたしか、白いソファが置いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。

常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」
嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝動にかられた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思
う。あえて言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬する
という、まあ、ゆがんだ嫉妬心だ。

そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚え
ている。「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そう
いう意味では、私にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないと
きがある。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そう
いうこともあるという程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかも
しれない。

(3)心を考える  **************************

●原始心理

 「原始心理」という言葉は、私が考えた。

 人間も、もとを正せば、原始生物。もし心理というものがあるとすれば、その生物の時
代から、あったはず。

 そこで私は、人間の心理の基本になっている原動力を、(1)生殖本能と、(2)食欲本
能とした。ともに生存には、不可欠な本能である。この二つを合わせて、生存本能とする。

 この生存本能には、二つの方向性がある。攻撃性と、防御性である。

 私はこのことを、庭をはう、ミミズを観察していて発見した。

 ある秋の午後のことであった。庭の砂利道になっているところを、大きな、体長20セ
ンチくらいのミミズがはっていた。

 ミミズでも、大きくネグラをかえるときは、地表面をはっていく。そのときのこと。私
がいたずらで、ミミズの頭をつついてやると、とたんミミズは、防御モードになり、頭を
すくめた。

 このときのミミズの心理を分析すると、ミミズは、生きるために、ネグラをかえようと
した。これはいわば攻撃的な生存本能ということになる。しかしミミズにしてみれば、実
の無防備な移動である。あたりには、野鳥がいっぱい住んでいて、いつ外敵に襲われるか
もしれない。

 で、私が頭をつついた。そのときミミズは、頭を引っこめた。つまりここに書いたよう
に、防御モードになった。

 こうした行動の背景で、ミミズの脳の中で、いろいろな心理が働いたにちがいない。そ
れが私がいう、原始心理である。つまり人間の心理も基本的には、このミミズの心理と同
じと考えてよい。

 そういう原始心理が基本にあって、さまざまなバリエーションが、それから生まれた。
行動が複雑になればなるほど、その心理的作用も、複雑になった。しかし言いかえると、
人間の心理も、集約し、統合していくと、やがてこうした原始心理に集約、統合されてい
く。その可能性は、きわめて高い。

 端的に言えば、人間の心理は、(生存本能)を中心として、攻撃性心理と、防御性心理と
いう、きわめて単純な構造で、できあがっている。図式化すると、つぎのようになる。

      (攻撃性心理)←【生存本能】→(防御性心理)

 このことは、幼児、さらには乳幼児の心理を観察していると、よくわかる。

 たとえばおなかがすけば、赤ちゃんは、ミルクを求めて、泣く。それはつまりは、生存
するために、攻撃性のある心理が、脳の中で、作用したためと考えられる。

 ほかにもいろいろ書きたいことはあるが、このつづきは、また別の機会に。

 しかしこういうふうに、まだだれも考えたことのないテーマで、自分の考えを書くこと
は、実に楽しい。「新発見」というほど、大げさなものではないかもしれないが、それに近
い。
(はやし浩司 原始心理 原始的心理 攻撃性心理 防御性心理)


●Cエッグ

 このところ、Cエッグ(まわりを卵形のチョコでくるんだ、カプセルに入った、おもち
ゃ)に、ハマっている。

 中に、飛行機の模型が入っている。一応、組み立て式になっているが、数分もあれば、
組み立てられる。こまかい部分まで、ていねいに塗装されている。それに値段が安い。コ
ンビニで、145円で売られている。

 私は何かを買うついでに、つい、そのCエッグまで買ってしまう。おかげで、私のまわ
りには、その飛行機のおもちゃだらけになってしまった。

 よく知られた実験に、スキナーという人がした実験に、「条件行動に関する実験」がある。

 ラットを箱の中に閉じこめる。そのとき、ラットが、あるレバーに触れると、エサが出
るようしておく。

 やがてラットは、箱の中で動きまわるうちに、偶然そのレバーに触れるようになり、エ
サを手にいれるようになる。ラットは、レバーを動かすことで、エサを手に入れることが
できることを学ぶ。これを「学習(オペラント条件づけ)」という。

 ラットは、エサを手に入れることを、学習したことになる。学習して身につけた能力だ
から、「条件反射反応」とは、区別される。

 で、そのあと、そのラットは、連続してレバーに触れるようになる。これを「連続強化」
という。ラットは、常にレバーに触れ、常にエサを手に入れようとする。

 ここまでは、よく知られた実験である。

 私はスキナーの、「条件行動に関する実験」を、そのCエッグを買いながら、思い出した。

 私はコンビニで何かを買うとき、ある日偶然、そのCエッグを見つけた。最初は、「どう
せ子どものおもちゃだから」という思いで、その中の一つを買った。ここにも書いたよう
に値段も、安かった。「粗悪品でも、値段が値段だから……」と。

 しかし買ってみたら、意外と、よくできていた。つまりここで、私は、箱の中のラット
と同じように、「学習」したことになる。

 そこでコンビニへ行くたびに、Cエッグを買うようになった。これはいわば、……とい
うより、まさに「連続強化」ということになる。「今度は、どんな飛行機が出るだろう」と
いう期待が、それに拍車をかけた。

 が、そのうち、同じ飛行機が出るようになったり、反対に、ほしい飛行機がなかなかで
ないことがわかってきた。が、こうなると、つぎつぎと、Cエッグを買い求めるようにな
る。こうした心の作用を、心理学の世界では、「連続強化」に対して、「部分強化」という。
「今度こそ……」という思いが、その原動力になる。

 こうした心理は、たとえばパチンコ依存症の人がもっている心理と共通する心理で、決
して、好ましいものではない。

 そこで私は、自分の心理を観察すると同時に、自分の行動に制限を加えるようになった。
そのままハマってしまえば、パチンコ依存症と同じようになってしまう。が、一度身につ
いた、オペラント条件づけは、簡単には消えない。つい油断すると、ほとんど無意識のう
ちに、Cエッグをいくつかカゴの中に入れてしまう。

 では、どうすればよいのか?

 私はつぎにこんな実験をしてみた。

 こうしてできた飛行機を、つぎつぎと、生徒たちに与えてみた。心の中では、「もったい
ない」と思った。つまり「損をした」という強烈な喪失感を、自分の心に与えてみた。

 こうした手法は、子育ての場では、よく用いる方法である。

 たとえば買い物グセという、「クセ」がある。「買ってはいけない」と思っているのに、
ついつい買ってしまうという、あれである。そういうときは、そのものを、思い切って、
捨ててみる。つまり「捨てる」という強烈な喪失感が、その買い物グセを、是正する。

 子どもの食生活がゆがんでいるときには、この方法を、母親たちにすすめている。たと
えば肥満状態の子どもがいる。しかしその原因はといえば、母親のゆがんだ買い物習慣に
あることが多い。

 で、その結果だが、どうだろう。つぎにコンビニへ行ってみると、Cエッグに手をのば
す瞬間、別の心が、「お金のムダだからやめよう」というブレーキが働くではないか。

 私はそのブレーキを、自分の心の中で、はっきりと自覚した。とたん、そのオペラント
条件づけを、消すことができた。

 しかしあのCエッグは、よくできている。中身もさることながら、こうした人間の心理
を、実にうまく利用している。聞くところによると、Cエッグの販売個数は、すでに一億
個を超えたという(NHKテレビ)。

 私がハマったように、ハマっている人が、それだけ多いということになる。
(はやし浩司 条件反射 オペラント 条件付け 条件づけ)

(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●まじめ

 このところワイフが、さかんに、こんなことを言う。「あんたのマガジンは、まじめすぎ
る」「あんたのマガジンを読む人は、ごくかぎられた、まじめな人だけ」と。つまり「今の
ままでは、読者は、ふえない」と。

 しかし、今、自分の人生を、まじめに考える人が、少なくなった。未来を展望すること
も、過去を懐古することもない。健康だって、どこかいいかげん。ヘビースモーカーの友
人がいたので、「体によくないよ」と声をかけると、こう言った。

 「人間、死ぬときは、死ぬよ。まあ、いいじゃないか」と。

 半分は、じょうだんなのだろう。あるいはみな、今を生きるだけで、精一杯ということ
か。この不況下、明日を考える余裕すらなくしつつある?

 が、そんなことを言っていても、しかたない。読者あっての、マガジン。このまじめさ
を、打破するためには、どうしたらよいのかと、考える。

 文体を変えようか。話題を広げようか。それとも、もっと赤裸々な自分を、語ってみよ
うか。

 いろいろ考えるが、どうも、よい考えが、浮かばない。


●ふまじめ

 小学六年生の生徒たちに聞いた。「ふまじめになるためには、どうしたらいいか?」と聞
いたら、こう言った。

 「へんなことをする」
 「常識ハズレなことをする」
 「言われたことをしない」
 「はしゃげばいい」
 「ふざければいい」

 そこで「どんなことが、へんなことか?」と聞くと、U君が、こう言った。「先生が、い
つもやってるじゃん」と。

 そう、私は、決してまじめな教師ではない。おかまのマネをしたり、暴力団のマネをし
たりする。いろいろな虫を食べたフリをして、ふざけることも多い。私の文章からは、想
像もできないかもしれないが、私は、子どもを笑わすことについては、天才的な能力があ
る。(ホントだぞ!)

 今日も、年長児のクラスでこんなことがあった。

 Sさんが、レッスンの途中で、トイレに立った。トイレは、一度、廊下に出た、その先
にある。私は、残った子どもたちに、こう言った。

 「Sさんが帰ってきたら、みんなで、『お帰り!』と言って、手をたたいてあげよう。何
しろ一週間ぶりのトイレだから……」と。

子「一年ぶりって?」
私「一年じゃ、ない。一週間ぶりだ」
子「フ〜ン、一週間ぶりかア?」
私「そうだよ。体重が、2キロは、減ってるよ」と。

 そこへSさんが、もどってきた。とたん、みなが、うれしそうに、手をたたいた。叫ん
だ。「お帰り!」「お帰り!」と。

 うれしそうに、Sさんは、笑った。ほかの子どもたちも笑った。

子どもたち「一年ぶりだね、Sさん!」
S「何がア……?」
私「一年じゃない。一週間ぶりだ」
S「そう、一週間ぶりよ」
子どもたち「おめでとう!」「おめでとう!」

 Sさんも、子どもたちも、何も意味はわかっていない。その場の雰囲気だけで、うれし
そうに、笑った。私も笑った。

 こういうのを、(ふざけ)という。私は、いつもいつも、まじめに考えているわけではな
い。だから、決して、おもしろくない人間では、ないのだが……。


●会社人間

 その人が、その会社をやめたあと、どれだけの人が、彼の友人として、残るだろうか。
それについて、私の姉は、こう言った。「ほとんど残らないよ」と。姉は今年、62歳にな
る。

 たとえばある会社で、かなりの地位にいた人がいるとする。当然、その人のまわりには、
ペコペコと頭をさげる人が集まってくる。しかしみなが、頭をペコペコとさげるのは、そ
の人が、それだけすばらしい人だからではない。その人のもつ、地位や肩書きに対して、
頭をさげるにすぎない。

 こうした現実を、「会社人間」と呼ばれている人たちは、いったい、どれだけ認識してい
るだろうか。

 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、そのあとにやってくる。

 私の知人の中にも、定年退職してからも、退職前の地位や肩書きをぶらさげて、いばっ
ている人がたくさんいる。本当は、「ただの人」(ただの人であることが、悪いというので
はない。みな、ただの人である)にすぎないのだが、そのただの人であることが、わかっ
ていない。

 もっともいばる相手が、仕事上、その人と関係のあった人に対してなら、まだ話もわか
る。近所の人や、親戚の人、さらには、中学時代や高校時代の人に対して、いばる。だか
ら話が、おかしくなる。

 だからますます人は去っていく。が、それでも、このタイプの人には、その現実が理解
できない。

 そんなわけで、仮に会社人間となっても、そうであるときから、地位や肩書きなど、無
視すること。「何のために仕事をし、何のために収入を得るか」、その原点を、いつも踏み
はずさないこと。

 そして定年退職したら、過去のそうした亡霊と、いち早く、手を切る。そうした世界か
ら、足を洗う。

私「しかし、それもさみしい人生だね」
姉「みんな、仕事だけで、つきあっているだけよ」
私「仕事では、友情は育たないと考えていいのかな」
姉「どうしても損得計算が、先にたつからね」と。

 よく似た人に、昔、こんな人がいた。

 いつも、札束を見せびらかし、「オレは、先週、三日間で、200万円もうけた」「50
0万円もうけた」と。

 その人は、「だからオレは、すばらしいだろう」と言いたかったのだろう。しかしそう思
うのは、その人の勝手。しかし、だれも、その人のことを、すばらしい人などとは、思わ
ない。(いくらかでも、おこぼれを、くれるのなら、話は別だが……。)

 会社人間にも、それによく似た面がある。その会社の中で、いばるのなら、まだ許され
る。しかし一歩、会社を離れたら、会社のことなど忘れたらよい。あるいは地位や肩書き
など、忘れたらよい。

 それは結局は、その人自身のためである。

【付記】

 しかし会社人間として、一生を捧げた人にとっては、退職前の地位や肩書きは、その人
の「人格」そのもの。それを頭から否定すると、その人は、それに猛反発する。だからこ
ういう話は、ここだけの話。

つまりそういう人に向って、「つまらない人生でしたね」と、決して言ってはならない。
言う必要もない。その人は、その人として、そっとしておいてあげるのも、思いやりと
いうことになる。

 とくに現在、50代、60代の、戦後の経済高度成長期にがんばってきた人には、この
タイプの人が多いので、注意する。

【付記2】

 この話を、教室へ参観に来ていた母親たちに話すと、一人の母親が、こう言った。「私の
義父がそうです。困っています」と。

 その義父は、今年68歳。元銀行員。現役のときは、15年間ほど、あちこちの支店で、
支店長をしていたという。が、いばっているだけで、家事などを、まったくしないという。

 「ものの考え方が、権威主義的です。いばるのは義父の勝手ですが、だれにも相手にさ
れません。みな、遠巻きにしているだけで、近寄ってこないのですね。しかし本人は、そ
れは自分の威厳のせいだと思いこんでいるのです。

 今でも散歩から帰ってくると、義母に向って、『おい、お茶! メシは、まだか!』です
よ。信じられますか? まるで、マンガの世界です」と。


●今日(2・23)は、A教祖の判決の日
 
 今日は、あの地下鉄サリン事件を引き起こした、元O教団、A教祖の判決の日である。
もちろん極刑が予想される。が、それにしても、判決までに、10年近くもかかるとは。
これでもふつうの裁判よりは、急いだほうだという。

 今度の裁判で、批判されるべきは、弁護団。まるで重箱の隅(すみ)をほじるような、
ノロノロ審理を繰りかえした。どうでもよい枝葉末節にこだわり、検察側に、そのつど、
ああでもない、こうでもないと、いちゃもんをつけた。何度も、月刊誌や週刊誌で、問題
になった。

 それで10年!

 本来なら、ああした教団は、解散させるべきだった。しかし当時、妙に人権派の弁護士
が何人かがんばって、それをさせなかった。その結果、今でもあのO教団は、名前を変え
て活動している。マスコミの報道によれば、相変わらず、A教祖を信奉しているという。

 が、何よりも心配されるのは、そのA教祖が、死刑になったあとのこと。あるいはその
当日でもよい。多くの信者による、あと追い自殺が予想される。そういうことも考えるな
ら、やはりあのとき、徹底的に解散させるべきだった。


●書斎

 私は、主に、自分の書斎で、原稿を書く。しかしときどき、気分転換のために、居間に
おりていって原稿を書く。言い忘れたが、私の書斎は、二階の一部屋。居間は、一階にあ
る。

 が、本当のところ、一番思考力が活発になるのは、実際、子どもの姿を見ているとき。
おかしなもので、土日になると、かえって何も書けなくなる。ものを書くときは、日常的
な刺激がないと、どうも、だめなようだ。

 つまり、その刺激を求めるために、居間へ行く。そこには、ワイフがいる。

 そう、ワイフは、貴重な情報源。あれこれ雑誌や新聞を読んで、それを私に話してくれ
る。私はそれを聞いて、興味をもった記事について、今度は、自分で調べる。

 私がこうしてものを書くとき、一番気を使うのは、私は道の中央にいるだろうかという
こと。それに、まっすぐ前に向って進んでいるだろうかということ。

 その点、ワイフは、たいへん貴重な存在である。常識豊かな女性だと思う。情緒も安定
している。私とちがって、ものの考え方が、楽天的。

しかしそれ以上に、私にとって貴重な存在は、実は、生徒という子どもたちである。

 よく政治家が、自分の宣伝ポスターなどに、子どもを使うことがある。今度のアメリカ
の大統領の予備選挙でも、あちこちに子どもたちが登場する。それはつまり、(子ども)が、
常識の象徴であるからにほかならない。

 しかし私は、そういう(飾り)としてではなく、毎日、その(子ども)に囲まれて生活
をしている。これは、ものを書く上において、とても重要なことだと思う。

 その一。子どもの心は、よごれていない。その二。子どもは、私のゆがみに、敏感に反
応する。その三。子どもは、いつも私に、(原点)を教えてくれる。

 (原点)というのは、私が何であるかということ。少し前だが、私が「今度、講演で東
京へ行くよ」と話したときのこと。その女子中学生は、驚いた顔をして、こう言った。「ど
うして、あんたなんかがア〜?」と。つまり「どうして私のような男が、東京まで行って、
講演をするのか」と。

 子どもたちは、そういう原点を、いつも私に教えてくれる。あるいはそういう原点に、
いつも私を、引きもどしてくれる。

 もし私が、大先生か何かになって、豪邸の奥に引っこんでしまったら、私はもう教育論
は書けないのではないかと思っている。実際、そういう評論家は多い。そういう人の教育
論は、空理空論というか、どこか現実離れしている。
 
 そろそろ、居間へ行って、新しい情報を頭に入れてこなければならない。そう思いなが
ら、この原稿を書いた。
(040227)

●みなさんも、童心にかえって、子どもたちといっしょに遊んでみたら? 子どもを教え
るのではなく、子どもたちに教えられるつもりで、そうしてみたら? 子育てが、ずっと、
楽しくなりますよ!

(5)世にも不思議な留学記 **************************

王子、皇太子の中で【27】

●VIPとして

夏休みが近づくと、王子や皇太子たちは、つぎつぎと母国へ帰っていった。もともと彼
らは、勉強に来たのではない。研究に来たのでもない。目的はよくわからないが、いわ
ゆるハクづけ。

ある国の王子の履歴書(公式の紹介パンフ)を見せてもらったことがある。当時は、海
外へ旅行するだけでも、その国では重大事であったらしい。それには旅行の内容まで書
いてあった。「○○年X月、イギリスを親善訪問」とか。

 一方、オーストラリア政府は、こうしたVIPを手厚く接待することにより、親豪派の
人間にしようとしていた。そういうおもわくは、随所に見えた。いわば、先行投資のよう
なもの。一〇年先、二〇年先には、大きな利益となって帰ってくる。

私のばあいも、ライオンズクラブのメンバーが二人つき、そのつど交互にあちこちを案
内してくれたり、食事に誘ってくれたりした。おかげで生まれてはじめて、競馬なるも
のも見た。生まれてはじめて、ゴルフコースにも立った。生まれてはじめて、フランス
料理も食べた。

●帝王学の違い?

 私たち日本人は、王子だ、皇太子だというと、特別の目で見る。そういうふうに洗脳さ
れている。しかしオーストラリア人は、違う。イギリスにも王室はあるが、それでも違う。
少なくとも「おそれ多い」という見方はしない。

このことは反対に、イスラム教国からやってきた留学生を見ればわかる。王子や皇太子
を前にすると、「おそれ多い」というよりは、まさに王と奴隷の関係になる。頭をさげた
まま、視線すら合わせようとしない。その極端さが、ときには、こっけいに見えるとき
もある(失礼!)。

 で、こうした王子や皇太子には、二つのタイプがある。いつかオーストラリア人のR君
がそう言っていた。ひとつは、そういう立場を嫌い、フレンドリーになるタイプ。もうひ
とつは、オーストラリア人にも頭をさげるように迫るタイプ。アジア系は概して前者。ア
ラブ系は概して後者、と。

しかしこれは民族の違いというよりは、それまでにどんな教育を受けたかの違いによる
ものではないか。いわゆる帝王学というのである。たとえば同じ王子でも、M国のD君
は、ハウスの外ではまったく目立たない、ふつうのズボンをはいて歩いていた。かたや
S国のM君は、必ずスリーピースのスーツを身につけ、いつも取り巻きを数人連れて歩
いていた。(あとでその国の護衛官だったと知ったが、当時は、友人だと思っていた。)

●王族たちの苦しみ

 私は複雑な心境にあった。「皇室は絶対」という意識。「身分差別はくだらない」という
意識。この二つがそのつど同時に現れては消え、私を迷わせた。

私も子どものとき、「天皇」と言っただけで、父親に殴られたことがある。「陛下と言
え!」と。だから今でも、つまり五六歳になった今でも、こうして皇室について書くと
きは、ツンとした緊張感が走る。が、それと同時に、なぜ王子や皇太子が存在するのか
という疑問もないわけではない。ただこういうことは言える。

どんな帝王学を身につけたかの違いにもよるが、「王子や皇太子がそれを望んでいるか」
という問題である。私たち庶民は、ワーワーとたたえれば、王子や皇太子は喜ぶハズと
いう「ハズ論」でものを考える。しかしそのハズ論が、かえって王子や皇太子を苦しめ
ることもある。

それは想像を絶する苦痛と言ってもよい。言いたいことも言えない。したいこともでき
ない。一瞬一秒ですら、人の目から逃れることができない……。本人だけではない。ま
わりの人も、決して本心を見せない。そこはまさに仮面と虚偽の世界。私はいつしかこ
う思うようになった。

「王子や皇太子にならなくて、よかった」と。これは負け惜しみでも何でもない。一人
の人間がもつ「自由」には、あらゆる身分や立場を超え、それでもあまりあるほどの価
値がある。「王子か、自由か」と問われれば、私は迷わず自由をとる。

私はガランとしたハウスの食堂で、ひとりで食事をしながら、そんなことを考えていた。

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 17日(No.374)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page046.html

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(1)子育てポイント**************************

●日本の常識、世界の標準?
 
 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。

見慣れたシーンだが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。
向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を
過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 仮に男どうしで、魚釣りに行けば、同性愛者とまちがえられるかもしれない。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。
しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。

「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」
ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家
族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。

もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものな
ら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道の
プロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを
学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ
系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発
言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。

日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュ
ケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と
地ほどの開きがある。

私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明した
ら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オー
ストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●家族のつながりを守る法

二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務
省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。

「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専
念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪わ
れた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京
から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざま
な苦痛を受けた」と。単身赴任は、六年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。

仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。今でも妻に
向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。

「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答える
と、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような
判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えてい
ない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何
をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言
った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに
答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、ア
メリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜ん
で」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。

軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積も
りに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、
日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。


(2)今日の特集  **************************


●善玉家族意識、悪玉家族意識

 家族意識にも、善玉と、悪玉がある。(善玉親意識と、悪玉親意識については、前に書い
た。)

 家族のメンバーそれぞれに対して、人間として尊重しようとする意識を、善玉家族意識
という。

 反対に、「○○家」と、「家(け)」をつけて自分の家をことさら誇ってみたり、「代々…
…」とか何とか言って、その「形」にこだわるのを、悪玉家族意識という。

 これは極端な例だが、こんなケースを考えてみよう。

 その家には、代々とつづく家業があったとする。父親の代で、十代目になったとする。
が、大きな問題が起きた。一人息子のX君が、「家業をつぎたくない。ぼくは別の道を行く」
と言い出したのである。

 このとき、親、なかんずく父親は、「家」と、「息子の意思」のどちらを、尊重するだろ
うか。父親は、大きな選択を迫られることになる。

 つまりこのとき、X君の意思を尊重し、X君の夢や希望をかなえてやろう……そういう
意味で、家族の心を大切にするのが、善玉家族意識ということになる。

 一方、「家業」を重要視し、「家を守るのは、お前の役目だ」と、X君に迫るのを、悪玉
家族意識という。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情があって、必ずしもどちらが正しいとか、まちが
っているとかは言えない。しかし家族意識にも、二種類あるということ。とくに私たち日
本人は、江戸時代の昔から、「家」については、特別な関心と、イデオロギー(特定の考え
方の型)をもっている。

 中には、個人よりも、「家」を大切にする人もいる。……というより、少なくない。それ
は多分に宗教的なもので、その人自身の心のよりどころになっている。だからそのタイプ
の人に、「家制度」を否定するような発言をすると、猛烈に反発する。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。「家」によって、その人の身分が決まった
江戸時代なら、いざ知らず。今は、もうそんなバカげた時代ではない。またそういう時代
であってはいけない。そういう過去の愚劣な風習をひきずること自体、まちがっている。

 ……という私も、学生時代までは、かなり古風な考え方をしていた。その私が、ショッ
クを受けた経験に、こんなことがある。

 オーストラリアでの留学生活を終えて、日本に帰ってきてからしばらくのこと。メルボ
ルンの校外に住んでいたR君から、こんな手紙をもらった。彼は少し収入がふえると、つ
ぎつぎと、新しい家に移り住み、そのつど、住所を変えていた。「今度の住所は、ここだ。
これが三番目の家だ」と。

 それからも彼はたびたび家をかえたが、そのときですら、「R君は、まるでヤドカニみた
いだ」と、私は思った。

 そのことを知ったとき、それまでの私の感覚にはないことであっただけに、私は、ショ
ックを受けた。「オーストラリア人にとって、家というのは、そういうものなのか」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、どうして私がショックを受けたか、理解できな
いだろうと思う。当時の、私の周辺に住んでいる人の中には、私の祖父母、父母含めてだ
が、だいたいにおいて、収入に応じて家をかえるという発想をする人は、いなかった。私
のばあいも、そういうことを考えたことすら、なかった。

 しかもR君のばあいは、より環境のよいところを求めて、そうしていた。15年ほど前、
最後に遊びに行ったときは、居間から海が一望できる、小高い丘の上の家に住んでいた。
つまり彼らにしてみれば、「家」は、ただの「箱」にすぎない。

 そう、「家」など、ただの「箱」なのである。ケーキや、お菓子の入っている箱と、どこ
もちがわない。ちがうと思うのは、ただの観念。子どもが手にする、ゲームの世界の観念
と同じ。どこもちがわない。

 さらに日本人のばあい、自分の依存性をごまかすために、「家」を利用することもある。
田舎のほうへ行くと、いまだに、「本屋」「新屋」「本家」「分家」という言葉も聞かれる。
私が最初に「?」と思った事件に、こんなのがある。

 幼稚園で教え始めたころのこと。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちは本家(ほんや)なんです。息子には、それなりの学校に入ってもらわないと、
親戚の人たちに顔向けができないのです」と。

 私はまだ20代の前半。そのときですら私は、こう言った記憶がある。「そんなこと気に
してはだめです。お子さん中心に考えなくては……」と。

 このように今でも、封建時代の亡霊は、さまざまな形に姿を変えて、私たちの生活の中
に入りこんでいる。ここでいう悪玉家族意識もその一つだが、とくに冠婚葬祭の世界には、
色濃く、残っている。前にも書いたが、たとえば結婚式についても、個人の結婚というよ
りは、家どうしの結婚という色彩が強い。

 それはそれとして、子どもの発達段階を調べていくと、子どもはある時期から、親離れ
を始める。そして「家庭」というワクから飛び出し、自立の道を歩むようになる。それを
発達心理学の世界では、「個人化」※という。

 それにたとえて言うと、日本人は、全体として、まだその個人化のできない、未熟な民
族ということになる。その一つの証拠が、ここでいう悪玉家族意識ということになる。

※個人化……子どもがその成長過程において、家族全体をまとめる「家族自我群」から抜
※け出て、ひとり立ちしようとする。そのプロセスを、「個人化」という(心理学者、ボ
※ーエン)。
(040225)(はやし浩司 個人化 悪玉家族意識 善玉家族意識 冠婚葬祭)

【追記】

 この年齢になると、それぞれの人の生きザマが、さらに鮮明になる。たとえば私には、
60人近い、いとこがいるが、そういういとこだけをくらべても、「家」や「親戚づきあい」
にこだわる人もいれば、まったくそうでない人もいる。

 で、問題は、こだわる人たちである。

 こだわるのは、その人の勝手だが、そういう自分の価値観を、何ら疑うことなく、一方
的に、そうでない人たちにまで、押しつけてくる。問答無用のばあいも、多い。「当然、君
は、そうすべきだ」というような言い方をする。

 一方、それに防戦する人たちは、(私も含めてだが)、それにかわる心の武器をもってい
ない。だからそういうふうに非難されながら、「自分の考え方はおかしいのかな」と、自ら
を否定してしまう。

 それはたとえて言うなら、何ら武器をもたないで、強力な武器をもった敵と戦うような
ものである。彼らは、「伝統」「風習」という武器をもっている。

 これも子どもの世界にたとえてみると、よくわかる。

 子どもは、その年齢になると、身体的に成長すると同時に、精神的にも成長する。身体
的成長を、「外面化」というのに対して、精神的成長を、「内面化」という。

 日本人は、子どもを「家族」(=悪玉家族意識)というワクでしばることにより、この内
面化をはばんでしまうことが多い。あるいは中には、内面化すること自体を許さない親も
いる。親に少し反発しただけで、「親に向かって、何だ、その口のきき方は!」と。

 このとき、子どもの側に、それだけの思想的武器があればよいが、その点、親には太刀
打ちできない。親には、経験も、知識もある。しかし子どもには、ない。

 そこで子どもは、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。そしてそれが、内面化
を、さらにはばんでしまう。

 これと同じように、家や親戚づきあいにこだわる人によって否定された、武器持たぬか
弱き人たちは、この日本では、小さくならざるをえなくなる。

 「家は大切にすべきものだ」「親戚づきあいは、大切にすべきものだ」と、容赦なく、迫
ってくる。(本当は、そう迫ってくる人にしても、自分でそう考えて、そうしているのでは
ない。たいていの人は、過去の伝統や風習を繰りかえしているだけ。つまりノーブレイン
(脳なし)。)

 そこでそう迫られた人たちは、自らにダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 しかし、もう心配は、無用。

 今、私のように、過去の封建時代を清算しようと、立ちあがる人たちが、ふえている。
いろいろな統計的な数字を見ても、もうこの流れを変えることはできない。その結果が、
ここに書いた、「鮮明なちがい」ということになる。

(3)心を考える  **************************

●Depression 

 どうして人は、ときとして、落ちこむのか。
 どうして人は、ときとして、希望をなくし、自信をなくすのか。
 どうして人は、ときとして、前途を悲観し、絶望するのか。

 何もかも、むなしい。何かも、いやになる。生きて、息をすることさえ、めんどうにな
る。わずらわしいと言えば、人間関係ほど、わずらわしいものは、ない。同じ人間なのに
……。その人間がいなければ、もっとさみしいはずなのに……。どうして人は、その関係
に、悩み、苦しむのか。

 この世の中は、いやなことばかり。国際情勢も不安だし、日本の経済もおかしい。おま
けに地球の温暖化。この先、10年後は、どうなるんだろう。100年後は、どうなるん
だろう。私、個人のことについて言えば、今年、私は、どうなるんだろう。来年、私は、
どうなるんだろう。

 私のことなら、まだよい。しかし私の息子たちや、その孫は、どうなるんだろう。

 考えれば考えるほど、ゆううつになるだけ。心が重くなるだけ。何も問題はないはずの
に、しかしまわりは、問題だらけ。とにかく健康だけはと思ってみても、その健康も、ど
うもあてにならない。

 自分が、かぎりなく小さく見える。自分のしていることが、かぎりなく小さく見える。
何かしら、ムダなことを、懸命にしているだけ。そんな感じすらする。私は本当に、道の
真ん中にいるのだろうか。私は本当に、まっすぐ前に向って、歩いているのだろうか。

 まわりは、真っ暗。その上、地図もない。こんな世界を、私は、どうやって歩いていっ
たらよいのだ。

 弱音を吐いたら、私の負け。しかしそういう私自身が、今にも崩れそうになる。いや、
もう本当のところ、崩れてしまっている。この心の中を、スースーと通りぬける風が、そ
の証拠。この空虚感が、その証拠。

 だれかが、こうささやく。「浩司、もうやめろ。お前ごときが考えて、どうなる。だれが
お前を相手にするか。だれも、お前なんか、相手にしない。世の中を見ろ。すべてがお前
の手の届かないところで、動いている。なのに、どうしてお前は、ひとりで、いきがって
いるのか」と。

 私は、もう、とっくの昔に、負けを認めた。仮にこの先、いくらがんばっても、小さな
丘一つ、登れない。目の前には、巨大な山脈が連なっているというのに……。時間もない。
能力もない。気力や知力も、このところ、どんどんと薄れている。

 今夜、コタツの中で、思わず、私はワイフの手を握った。そうしたところで、どうにも
ならないことは、よくわかっている。何も、問題は、解決しない。しかし、今の私に、そ
うすること以外、何か、救いを求める方法があるのか。

 ワイフはこう言う。「健康なんだから、それでいいじゃない」と。「あなたはもう、やれ
るだけのことをしたんだから、いいじゃない」と。

 このさみしさは、いったい、どこからくるのか。懸命に生きながら、生きていることそ
のものが、つらい。この無力感。この虚脱感。

 「明日になれば、また日は昇るよね」と私。「そうよ」とワイフ。こういうときは、早め
に寝たほうがよい。今日もいろいろあった。疲れた。多分、そのせいだろう。今夜の私は、
たしかに落ちこんでいる。

 みなさん。今夜は、これで失礼します。おやすみなさい!
(040225)

【翌朝……】

 音はない。遠くでカラスが鳴いた。しかしそれも、すぐ消えた。
 目を開くと、うっすらと白い光。カーテンのふちから、朝日がもれている。
 穏やかな朝。静かな朝。

 心のざわめきはない。心をふさいでいた、重石(おもし)もない。
 軽やかな朝。すがすがしい朝。ふと思い出すと、時計の音だけが、
 どこか乾いた空気を、やさしく揺るがす。

 その音に耳をすます。そう、今朝、私は、二男の夢を見た。
 私のために、コーヒーをたててくれるという。
 古いコーヒーミルをもってきて、それをクルクルと回していた。

 「ぼくはコーヒーを飲まないよ」と言いかけたが、やめた。
 やめて、二男を、両手で、右の肩にのせた。二男は、私の頭に手を回した。
 小さな二男だった。年齢は、5歳くらいだっただろうか。3歳くらいだっただろうか。

 不思議と、二男の肌のぬくもりを感じた。その二男が、こう言った。
 「ぼく、今度、大学へ入るよ」と。それに答えて、私は、こう言った。
 「大学はね、もっと、もっと、大きくなってから入るんだよ」と。

 二男のぬくもりが消えたとき、目が覚めた。朝だった。暗い朝だった。
 私はどこかひんやりする空気に顔をさらしながら、頭の下で手を組んだ。
 「やっぱり、朝は来たんだ」と思った。思って、そのまま時間が過ぎるのを待った。

 みなさん、おはようございます。今日も、元気で、がんばりましょう!
 私たちの目的は、成功することではないのです。ころんでも、ころんでも、
 ただひたすらめげないで、前に進むことです、……ね(スティーブンソン)。
 とにかく、朝は、必ずやってくるのです。がんばりましょう!
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●性の厳粛さ

 男性は、射精した直後。女性は、クライマックスを感じた直後、「死」を体験する。それ
はまさに「生」の絶頂期から、まっさかさまに、「死」の淵(ふち)へと転落する瞬間と言
ってもよい。

 あらゆる動物は、この一瞬のために、すべてをかける。中には、その直後、あえて死を
選ぶ動物もいる。「生きること」、それはすべて、「生」を、つぎの世代に伝えることを目的
とする。「性」イコール、「生」である。

 もっとも人間は、その「性」を、快楽、つまりエロスの道具としてしまった。それ自体
は悪いことではないが、しかし同時に、「性」のもつ厳粛さを、忘れてしまった。もし、あ
の魚のサケが、生まれ故郷の源流へもどることなく、その途中の海で、適当にパートナー
を見つけて、性を楽しむようになったら、どうなる? サケは、そのまま絶滅することに
なる。

 もちろん人間とサケは、ちがう。それはわかる。しかし人間も、過去何十万年もの間の、
そのほとんどを、そのサケとはほとんどちがわない生活をしてきた。そうした人間は、「性」
から、「エロス」を分離し、さらに「エロス」をもって、それが「性」であると、誤解して
しまった。

 諸悪の根源は、すべてここから始まった。

 たとえば避妊や中絶が、今ほど、一般的でなかった時代には、とくに女性は、妊娠に慎
重になった。そして当然のことながら、性に慎重になった。そのため男女の関係を、もっ
と厳粛なものととらえた。

 しかし今、その歯止めが、なくなってしまった。安易な避妊や中絶が、エロスだけを、
性からよりわけてしまった。そしてそのエロスの追求だけが、「性の解放」と、誤解される
ようになってしまった。

 その結果が、今の状態ということになる。

 ……だからどうしたらよいのかということについては、私は、わからない。また「性」
をどう考えるべきかということについては、私は、わからない。しかし、これだけは言え
る。

 性を安易に考えるものは、生きることそのものを、安易に考えることになる。性を厳粛
に考えるものは、生きることそのものを、大切に考えることになる。そういう意味で、決
して、性を、安易に考えてはいけない。性の快楽を、安易にむさぼってはいけない。

 生きることが、いつも厳粛であるように、性もまた、いつも厳粛でなければならない。
(040224)(はやし浩司 エロス 性)

(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●親戚コンプレックス

 いきなり親戚づきあいを、押しつけてくる。問答無用。「それがあるべき、親戚の姿」と
言わんばかりの姿勢で、迫ってくる。

 そういう人は、日本の文化と伝統を盾(たて)に取っているから、強い。自分で考えて、
そうしているのではない。たいていは、ほとんど、何も考えていない。考えないまま、過
去を踏襲(とうしゅう)している。

 和歌山県に住んでいるKさんは、今、そうした親戚づきあいに苦しんでいる。Kさんの
実家では、冠婚葬祭に合わせて、法事を、ことさら派手にするらしい。それでKさんは、
そういうことを、もっと質素にしたいと考えている。お金の問題ではない。

 その地域では、何かにつけて、遠い親戚の人まで、呼ぶならわしになっているという。「甥
(おい)や姪(めい)はもちろんのこと、いとこ、さらには、はとこまで呼ぶのです」と。

 呼ぶのは、まだよいとしても、そんなわけで、Kさんは、年に、5、6回は、何だかん
だと顔を出さねばならない。言い忘れたが、Kさんの実家は、遠く、山口県にあるという。
そのたびに、旅費だけでも、数万円。保育園で保育士をして、家計を助けているKさんに
とっては、決して楽な出費ではない。

 で、今度は、いとこの息子の結婚式があるという。「いとこの息子の結婚式にまで、出な
ければいけないのですか?」と聞くと、「私の家が本家で、父が今、体をこわして伏せてい
るからです」と。その結婚式が、今度、下関市であるという。

 「私の息子と娘の結婚式は、こっそりと、しました。山口県から、わざわざ皆さんに来
てもらうのは悪いと思いましたから……」と。

 一方、こうした文化と伝統に対して、それに抵抗する人たちは、抵抗するだけの武器、
つまり理論をもっていない。いわば裸のまま、敵の攻撃にさらされることになる。弱いと
いうか、最初から、勝ち目がない。へたにさからえば、親戚中から、仲間はずれにされて
しまう。

 「親戚といっても、たがいに詮索し、干渉しあうだけで、助けあうということは、ほと
んどしません。一度、母に、『口を出すくらいなら、お金を出してもらったら』と言ったほ
どです。母も、いろいろな場面で苦しみました。

 たとえば親戚が、盆暮れに集まると、母は、まさに家政婦でした。あるいはそれ以下だ
ったかもしれません。おまけに父には、愛人がいて、ある期間、家にはほとんど、お金を
入れなかったこともあります」とも。

 親戚づきあいには、そういう問題もある。

 で、最後にKさんは、こう結んでいる。「私の息子と娘には、そういう苦痛を与えたくあ
りません。親戚は大切なものですが、しかしそれにしばられるのは、正しくないと思いま
す。それよりも、近くに住む友人を、これからは大切にしていきたいです」と。

 旧態依然の家制度。それから派生する、意味のない親戚づきあい。こういうものが、ま
だこの日本には、色濃く残っている。そういうものとどう戦っていくか。そのためにも、
武器として、どのようにして理論をもつか。それもこれからの大きな課題の一つだと、私
は、思う。
(040225)(はやし浩司 親戚づきあい)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老齢期の性格特性

 老人になると、それまでの生きザマや性格が、だれの目からも、より鮮明にわかるよう
になる。老人といっても、その性格的な特性は、決して、一様ではない。が、おおまかに
分類すると、つぎのようになる。

あくまでも健康で、それなりに生活が保障されている老人を念頭に、分類してみた。

(1)攻撃型……「今の若いものは!」式の攻撃を、いつもしかける。「私は正しい」「世
の中の人間は、私を認めない。バカばかりだ」と。

 この攻撃型は、他人に向けられるのが一般的だが、自分に向けられることもある。この
タイプは、「自虐型」ということになる。猛烈に自分を痛めつけながら、自分の過去を清算
しようとする。

 十年ほど前になくなった人だが、晩年は、ある宗教団体の攻撃に執念を燃やしていた。
「私の人生を返せ」と。その人は、若いとき、その宗教団体の活動のために、その人生の
大半を「ムダにした」(その人の言葉)。

 あるいは古いしきたりにこだわり、「先祖を大切にしないものは、亡びる」などと、さか
んに言っている人もいた。子どもや孫を、いつも「下」に置こうとする。もともと封建主
義的な考え方をする、悪玉親意識の強い人が、そうなりやすい。


(2)依存型……だれかに依存することだけを、考えて、自分の老後を組みたてる。たい
ていは、自分の息子や娘であることが多い。

 このタイプの人は、息子や娘が、経済的に苦しくても、あまりそういうことは考えない。
もともと自己中心的なものの考え方をする人に、多い。「親の老後のめんどうをみるのは、
子の努め」というような考え方をする。

 息子から、平然と(本当に「平然と」)、金品をまきあげていた母親が、以前、いた。


(3)同情型……このタイプの老人は、独特の言い方をする。子どもに向かって、「お母さ
んも、年をとったからねえ……(だから何とかしろ!)」と。相手に同情させながら、自分
の立場を確保する。ことさら老人ぶってみたり、体の不調を訴えたりする。

 自分の組みせる相手だと、ネコなで声の、弱々しい言い方をする。

 子「お母さん、生活はだいじょうぶなのか?」
 母「いいんだよ、いいんだよ、心配しなくても。母さんは、毎日、近所の人がくれる、
イモを食っているからねえ」と。

 もともと恩着せがましい子育てをする人が、そうなりやすい。

 母「徹夜して、手袋編んでやったよ。赤ぎれがひどいときは、ミソを塗りこんでいるよ」
と。


(4)服従型……子どもや自分の世話をしてくれる人に徹底して、服従するタイプ。自分
の意思や考え方を、そのまま押し殺してしまう。もともとノーブレインの人(=思考力の
ない人)が、そうなりやすい。


(5)悔恨型……「オレは、何をしてきたのだ」「私の人生は、失敗の連続だった」と、悔
やみながら、生きるタイプ。仕事の失敗、リストラ、会社の倒産など、大きな挫折感を覚
えたあとに、そうなることが多い。

 生きザマ全体が、どこかうつ病的。


(6)抵抗型……70歳を過ぎても、ミニスカートをはいてみたり、顔中を真っ白けに化
粧してみせたりする。髪の毛も、いつも真っ黒に染めていないと、気がすまない。

 若いころ、「美人だ」などと騒がれた人が、そうなりやすい? いつまでも過去の亡霊に
しがみつく。

 男性だと、定年前の職歴や肩書きに、固執する。会社が倒産して、なくなってしまって
いても、そういう現実を、受け入れようとしない。

 そして自分の価値(?)を認めないものに対しては、容赦なく、攻撃を加える。精神的
に未熟な人がそうなりやすい。


(7)理想型……理想型は、私にも、よくわからない。理想的な老人というものが、よく
わからないせいかもしれない。

 しかしこれからのテーマであることだけは、まちがいないようだ。


 以上、老人の性格特性を、7つのパターンに分けてみた。もちろんこれらの複合型とい
うのもある。同情型と依存型が並存するケースは、よく見られる。攻撃型と悔恨型も、そ
うだ。

 あるいは同じ老人でも、ときとばあいによっては、攻撃型になったり、同情型になった
りする。

 しかしこうした傾向は、実は、40歳くらいから、はっきりしてくる。そして50歳を
過ぎるころには、方向性がしっかりと見え、さらに60歳を過ぎると、定着する。

 そこで大切なことは、自分の方向性をしっかりと見きわめ、老後において、自分がどう
あるべきかを、若いときから考えることである。

 このところ、幼児教育をずっとしてきたせいか、老人の心理にも興味をもつようになっ
た。幼児と老人。多くの点で、共通点が見られるのは、実におもしろいことだ。
(040225)(老人 性格特性 性格 特性 老後のパターン)

【私の理想の老後】

 私にとって、理想の老後とは何か……。毎日好きな思索ができて、健康で、生活の心配
がない老後。頭のボケがない、老後。

 死ぬときは、心臓発作か何かで、「朝起きてみたら、死んでいた」と、人が言うような死
に方をしたい。だれにも心配をかけたくない。めんどうもかけたくない。静かに死にたい。
葬式など、いらない。葬儀など、しないでほしい。

 お別れ会のようなものは、気が向いたらしてほしい。期待はしていない。またしないか
らといって、化けて出るようなことは、絶対にしない。あえて言えば、フトンの上で死に
たい。

 「〜〜回忌」などという儀式は、まったく不要。

 もしできれば、ワイフより先に死にたい。息子や孫たちが、ふつうの生活をしているの
を見届けてから死にたい。

 あとは、ほんの数センチでも、数ミリでも、社会に貢献してから死にたい。死んでから
も貢献できれば、そんなすばらしいことはない。

 死んだあとのことは考えていない。ワイフや息子たちに任す。墓地も墓碑もいらない。
遺灰は、一部を、山荘周辺に。一部を、太平洋に。一部を、あのメルボルンのパークビル
の公園に、まいてほしい。

ただできれば、こうして私が書いたものが、何年か、何十年か先に、だれかが読んでく
れればと思っている。文章は、まさに私の「命」。もし死後の世界があるとするなら、私
にとっては、人の心の中をいう。私が死んだあと、私の文章を読んで、はやし浩司を思
いやってくれる人がいれば、それが死後の世界ということになる。

 そう、原稿の管理だけは、だれかに頼んでおこうと思う。(一応著作権というのがあるの
で、無断で、転載、引用は、絶対に許しませんぞ! 私も心が狭いのかなあ? 私は過去
において、ただの一度も、盗作や盗作に類することはしたことがないぞ。当たり前のこと
だが……。それが私のプライドだア!)

 人と争うこともなく、日々を平穏、無事に最後まで生きる。私にとっての「理想型の老
後」というのは、そういう老後をいう。

(有料マガジンを発行することで、少しお金がたまったら、私は、第一に、最新型のパソ
コンを買うつもり。そのパソコンを使って、バンバンと原稿を書きます。良質の情報を、
ドンドンと提供します。みなさん、どうか、有料マガジンを、購読してくださア〜い!)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●行き着くところまで、行く

 子育ては、頭で考えてするものではない。また考えたところで、そのとおりできるもの
でもない。ある母親は、こう言った。「頭の中ではわかっていても、いざ、その場になると、
つい、カーッとして……」と。

 子育ては、そういう意味で、条件反射のかたまりのようなもの。脳のCPU(中央演算
装置)がからむ問題であるだけに、よほどのことがないかぎり、コントロールすること自
体、むずかしい。

 その結果として、子育てというのは、行き着くところまで、行く。それは子育てがもつ、
宿命のようなもの。たとえば、子育てというのは、一度、悪循環の環(わ)の中に入ると、
途中で止まるということは、まず、ない。

 たいていの親は、そういう状態になりながらも、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」
「うちの子にかぎって」と、無理をする。とくに子どもの心がからんだ問題では、そうで
ある。

 もう十数年も前のことだが、こんなことがあった。

 D君という中学一年生になったばかりの男子がいた。まじめな子どもで、学校の成績も
それほど、悪くなかった。が、その子どもが中学一年生になると同時に、彼の生活環境は、
ガラリと変った。

 週三日制の進学塾へ通うになり、家庭教師も二人ついた(その中の一人が、私)。土日は、
父親の特訓を受けた。それに加えて、D君は、サッカー部に入部した。

 そのD君が、おかしくなり始めたのは、夏休み前からだった。D君は、数か月先の学力
テストを心配し始めた。

 私が、「そんな先のテストのことは、心配してはだめだ」と言うと、D君は、こう言った。

 「先生、ぼくは、がんばっている。だから今度のテストで悪い点を取ると、ぼくは自信
をなくしてしまう。ぼくは、それがこわい」と。

 D君は、彼の中に住む、もうひとりのD君の影におびえていた。

 実際、D君のスケジュールは、過酷なものだった。朝は、朝練習。そして夏場になると、
サッカーの練習は、毎日、暗くなるまでつづいた。その上での、進学塾であり、家庭教師
である。D君は、私と対峙して座っていても、いつもコックリ、コックリと、居眠りばか
りしていた。

 で、案の定というか、予想通りというか、2学期に入ってからあった、学力テストは、
さんたんたる結果で終わった。そして私が心配していたように、そのテストをきっかけに、
D君は、無気力状態になってしまった。「燃え尽きた」と私は、感じた。

 で、私は、ある夜、母親に家に来てもらった。D君の様子を説明したあと、私は、こう
言った。

 「勉強は、もうあきらめたほうがいい。このままだと、さらに勉強しなくなる」と。

 すると母親は、「今、ここで勉強をやめたら、あの子の将来は、真っ暗になる」と、がん
ばった。「何とか、あきらめないで、家庭教師をつづけてほしい」と。

 D君は、それからも私のところへやってきた。そのころ、ちょうど大学受験の生徒が一
人いたので、その生徒といっしょに、勉強させた。私がときどき席をたったようなとき、
その高校生が、D君をあれこれ励ましてくれていたようだ。(そういうふうに私が頼んだこ
ともある。)

 が、その高校生ですら、私にこう言った。「先生、D君の様子がおかしいから、やはりお
母さんに言ったほうがいいよ」と。

 私はドクターでないので、診断名をつけることは許されない。しかしだれがみても、D
君は、うつ状態にあった。精神科へ行けば、うつ病と診断されただろう。

 無気力、無感動、無反応の状態がつづいた。数分おきに、ため息ばかりついていた。私
が話しかけても、ていねいな言葉がかえってくるだけで、つかみどころがなかった。

 冬になって、再び、母親に来てもらった。私は、家庭教師をおりるつもりでいた。が、
母親は、半ば泣きながら、それに反対した。「あの子にとって、先生だけが、ゆいいつの救
いなのです。どうか、やめないでください」と。

 私は、そのとき、母親に、神経症(心身症)のテストを受けてもらった。私が独自に考
案した、心理テストである。そのテストで、母親は、異常なまでの高得点をとった。平均
点が、4〜5点。しかしその母親の得点は、20点を超えた。母親自身の心も病んでいた。
が、母親は、その結果をみながらも、まだことの重大さに気づいていなかった。

 そのD君が、ある日突然、学校へ行かなくなってしまったのは、それから数か月後のこ
とだった。

 ……というようなケースは、本当に多い。何割かの親子がそうでないかと思えるほど、
多い。あるいはそれ以上? どの親も、自分で失敗してみるまで、それが失敗だったと気
づかない。中には、失敗してからも、その失敗を認めない親もいる。「学校が悪い」「先生
が悪い」「友だちが悪い」と。

 だから私の出番ということになるが、実際のところ、私のような立場のものが、あれこ
れ意見を言っても、それを真に受けてくれる親は、まず、いない。子育てには、その親の
人格や人生観すべてがからんでくる。私に意見に耳を傾けるということは、そうした人格
や人生観すべての軌道修正をすることを意味する。

 たとえば学歴信仰をしている人に向かって、「勉強よりも大切なものがあります」と説い
たところで、意味はない。子育てには、そういう宿命が、いつもついて回る。

 それがここでいう「行き着くところまで、行く」という意味である。
 
 少し前、「太陽さん」「マリソルさん」という方と、チャットをしていたとき、この話が
出たので、少し考えてみた。
(040224)


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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 15日(No.373)
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(1)子育てポイント**************************875

●新しい英語学習(?)

 これは私が考案した、英語学習の方法。英語のワードオーダー(語順)で、話をする。
子どもにそのワードオーダーを理解させる方法としては、すぐれていると思う。

 たとえば今日、教室で、子どもたちに、つぎの日本語を、読んできかせた。

「むかし、むかし、浦島太郎、いた。太郎、歩いた、そば、海岸。
 こどもたち、いじめていた、かめ。
 太郎、言った、に、子どもたち。するな、いじめる、かめ。
 子どもたち、やめた、いじめる、かめ。

 ある日、太郎、釣っていた、魚。
 そこへ、かめ、来た。かめ、言った、に、太郎。
 太郎、乗れ、私の、背中。太郎、のった、背中、の、かめ。
 
 太郎、来た、へ、竜宮城。乙姫様、迎えた、太郎。
 太郎、食べた、たくさんの、ごちそう。太郎、見た、踊り、の、タイやヒラメ。
 太郎、過ごした、たのしいとき」と。

 こうした言い方を少し教えると、子どもたちも、すぐまねをして、こう言った。

 「私、好き、ママ。私、嫌い、先生」と。

 ときどき、「英語では、そういう言い方をするんだよ」とか、あるいは、「(私)(する)
(テニス)を、正しい日本語にしてごらん」などと言って、指導する。

 あなたも、簡単な言い方のものを、子どもにしてみせるとよい。「英語では、こういう言
い方をするのよ」と、前もって、説明しておくとよい。

 「私、つくる、夕食。パパ、帰る、から、会社。みんな、食べる、夕食、いっしょに」
と。

 少し練習すると、結構、スラスラと言えるようになる。ためしてみてほしい。


●親しみのもてる子ども

 こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのま
ま、スーッと心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、
一般に、「親しみのもてる子ども」という。

一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感ずる子どももい
る。ものの考え方が、ひねくれていたりする。

私「今日は、いい天気だね」
子「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」
私「雲があっても、いい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気ではない」と。

 親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうか
ということ。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の
交流が、互いの親近感をます。そうでなければそうでない。
 
そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、
親しみのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと
思っているだろうか。こんなチェックテストを用意してみた。

(1)あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したく
ないことについては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。

(2)あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求め
てきたり、甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。

(3)あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもが
なごやかな言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。

 この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているとい
うことになる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方
を反省する。「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピ
リピリと子どもを監視する過関心など。

さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに対して心を開いていないばあいがある。
子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険な状
態であるとみてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうを
つけるなどの様子があれば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子
どもに心を開かないで、どうして子どもに心を開けということができるのか。

 子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考
えているかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしている
だけで、はっきりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。も
しそうなればなったで、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを
考えるときには、そういう問題も含まれる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●被害妄想(心配過剰)

 こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。

「Aさん(三二歳女性)が、子ども(四歳)と道路を歩いていたときのこと。うしろか
らきた自転車に、その子どもがはねられてしまった。子どもはひどく頭を打ち、救急車
がくるまで意識がなかった。

幸いけがは少なくてすんだが、やがて深刻な後遺症があらわれた。子どもから集中力が
なくなり、こまかい作業ができなくなってしまった。事故のとき、脳のある部分が酸欠
状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、その事故から五、六年になるが、
その状態はほとんどかわっていない」と。

 こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。

(1)他人の話は他人の話として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。
(2)「自分の子どもでなくてよかった」と思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」
と、あれこれ考えるタイプ。

ふつうは(「ふつう」はという言い方は、適切でないかもしれないが)、(1)のように考
える。しかし心配性の人は、(2)のように考える。考えながら、その心配を、かぎりな
く広げていく。「歩道といっても安全ではない」「うちの子もフラフラと歩くタイプだか
ら心配だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」など。

 もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていない
かを反省する。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのも
のをゆがめることが多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。

ある母親は、子ども(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘
れた。そこで心配になり、そのクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に
多くあたると、おとなになってから皮膚ガンになるから」と。

また別の母親は、息子(小六)が修学旅行に行っている間、心配で一睡もできなかった
という。「どうして?」と私が聞くと、「あの子が皆にいじめられているのではないかと
心配でなりませんでした」と。

 もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄
想性が他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。

ある母親は、自分の息子(中一)が不登校児になったのは、同級生のB男のせいだと思
い込んでいた。そこで毎晩のようにB男の母親に電話をしていた。いや、電話といって
も、ふつうの電話ではない。夜中の二時とか三時。しかもその電話が、ときには一時間
とか二時間も続いたという。

 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパ
ターンで考えるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれ
に気づき、そこでブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたが(2)の
ように考える傾向があれば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかけ
る。

(2)今日の特集  **************************

●親不孝を悔やむ人

 「私は、親不孝者でした」と、悔やんでいる人は多い。「親にさんざん苦労をかけながら、
その恩がえしができなかった」と。

 日本では、ことさら親孝行がもてはやされる。親孝行を売り物にしている倫理研究団体
も、いくつかある。その中には、何十万人という会員を集めているのもある。

 そういう風潮の中で、多くの日本人は、親孝行を美徳とし、その一方で、親孝行をしな
い者(?)を、「人間のクズ」と、排斥する。

 それが日本の文化だから、私は、それを受け入れるしかない。まただからといって、私
は、親孝行を否定しているのではない。

 ただこうした風潮の中で、親孝行ができなかった人、あるいは親孝行をしなかった人が、
自分で自分を責めるケースも、少なくない。さらにそれが進んで、自分を否定してしまう
人もいる。自分で自分のことを、人間のクズと思いこんでしまう。

 子どもの世界でも、これに似た現象がよく起きる。

 たとえばある子どもが、親に、小さいころから、「いい大学へ入りなさい」「いい大学へ
入らなければ、いい生活ができない」と、さんざん言われつづけたとする。そういう子ど
もが、そのままその(いい大学)は入れれば、問題はない。

 しかしその(いい大学)は入れなかったとしたら、その子どもは、どうなるのか? そ
の子どもは挫折感から、自らにダメ人間というレッテルを張ってしまう。

 こういう状態になると、子どもは、現実に適合できなくなり、「現実検証能力」を失うと
言われている。自信喪失から自己嫌悪におちいることもある。わかりやすく言えば、ハキ
のない、ナヨナヨとした人生観をもつようになってしまう。

 私も、幼稚園で働くと母に告げたとき、母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れ
てしまった。私は、母の声を聞いたとき、どん底にたたき落とされたように感じた。たい
へんなことをしてしまったと感じた。実際には、それから十年以上、私は、外の世界で、
自分の職業を隠した。

 私たちは、ともすれば、子どもに向かって、「こうあるべきだ」と、言いがちである。し
かしそういう言葉の裏で、子どもに、別の負担を課してしまうことがある。そしてその負
担を感じて、こども自身が、自らを追いこんでしまう。冒頭に書いた、親孝行もその一つ
ということになる。

 つまり子育てを、ある一定のワクの中で考えると、どうしても、そのワクを子どもに押
しつけようとする。そしてその結果、そのワクが、子ども自身を押しつぶしてしまうこと
がある。しかもたいていは、そういうふうにしながらも、親自身に、その自覚がない。

 ……ということで、いきなり結論。

 こうした押しつけは、慎重に。それから一言。いくらあなたの子どもが、親不孝の息子
や娘であっても、その息子や娘が苦しむようなことだけは、避けたい。そのためにも、親
は、いつも、無条件の愛をつらぬく。見かえりを求めない。そういうサバサバした生き方
が、子どもの未来を、明るくする。つまりそういう未来を用意してあげるのも、親の務め
ということになる。

 子どもが、「私は親不孝者」と、自ら苦しむような状況だけは、つくってはいけない。
(040223)

+++++++++++++++++++
以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を
書きました。
+++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あ
るいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なか
らずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、
上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだとい
う意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではな
い。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにす
る。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことを
し、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、
その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から
見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたよ
うに、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘
れる)は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を
得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉
を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意
味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を
歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるご
とに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。
ささいなことに悩んでは、身を焦がす。

先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リト
ミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どう
したらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。

「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そ
んな親子がふえている。

いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生
きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか
願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくな
り、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言っ
たまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉
で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに
苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。

「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何
を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐
えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子ど
ものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰
ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは
古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜
びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。(*浜松市青葉幼稚園元園長)


(3)心を考える  **************************

●心のバランス感覚

駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から
二人の女子高校生が割りこんできた。

 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。

 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。
するとその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。

 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていまし
たが……」
 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。

 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。

 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、
10メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。

 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変
化に気づいた。

 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意
見を戦わせた。

 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」とい
う私。この二人の私が、対立した。

 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれな
い。だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と
怒っている私、。この二人の私が、対立した。

 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだ
な。学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)
な分だけ、いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。

 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言っ
た。そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行
動を決めた。

 こういう現象は、私だけのものなのか。

 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例
としては、本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、う
まく使い分ける。

 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こ
うした精神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、そ
れだけで二重人格を疑われるかもしれない。

 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。

 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のような
ものだった。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、
「無視しろ」という私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスを
とっていたことになる。

 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけて
いたかもしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたか
もしれない。

 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、
正義感もあって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職
業がら、無視できる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできな
かった。

 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに
対立している状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思
う。

もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経
(抑制命令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくな
い。

 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心
の状態を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断す
る感覚を、私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた
人を、常識豊かな人といい、そうでない人を、そうでないという。

 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)

※交感神経……心臓の働きを促進し、胃腸の運動や胃液分泌を抑制し、血管の促進、汗の
分泌の促進などの機能を営む、自律神経。(日本語大辞典)

(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●孫の誠司

 おかしなもので、毎日誠司の顔を、写真でだが、見ていると、誠司の顔が、日本人の顔
に見えてくるようになった。

 はじめて誠司の写真を見た人は、みな、「ハーフの顔ですね」という。しかし私には、そ
うは見えない。

 もっとも生まれた直後の写真では、たいしかに目は青かった。しかしつぎの写真からは、
濃い茶色になっていた。恩師のT先生に、「DNAが狂ったのかもしれません」という添え
書きをつけて、誠司の写真を送ると、その先生までもが、「思わず笑いました」と、返事を
よこした。

 あの先生は、本当に、いつも、口が悪い。

 私には、かわいい顔に見えるが、そう思うのは、私だけかもしれない。どこのジジババ
様も、「孫は、かわいい」と言う。私も、その一人。

 もう少し、どこか私に似ていれば、それなりにまた別の考え方もできるのだろうが、し
かしまったく、似ていない。T先生も、「似ても似つかぬ……」と書いてきた。しかし本当
のことを言うと、誠司は、このところ、少しずつ、私に似てきたと思う。

 そう思うのは、私だけだが……。

 これは誇張でも何でもない。本心から、そう思うので、こう書く。誠司の顔は、どこか
らどう見ても、日本人の顔である。白人の顔とは、まったくちがう。

 ここまで書いたあと、ワイフに聞いたら、「そういえば、誠司、だんだん、あなたに似て
きたわね」と。まあ、どちらでもよいが……。


●性欲

 性欲には、二面性がある。

 「生」と「死」である。

 つまりセックスをすることで、あらゆる動物は、子孫を後世に残そうとする。それが「生」。
しかし同時に、その役目が終わったとき、あらゆる動物は、そのまま「死」に向う。実際、
交尾を終えたあと、死ぬ動物は、少なくない。魚のサケなどは、よい例だ。

 人間も、基本的には、それらの動物と、同じ。性欲に応じて、人間もセックスをする。
このとき、人間は、(あらゆる動物もそうだろうが)、「生」をも乗りこえるだけの快感を覚
える。つまり「もう死んでもいい」と言えるほどの快感である。

 これを「クライマックス」という。

 そのクライマックスの瞬間というのは、まさに「生」と「死」を同時に感ずる瞬間とい
ってもよい。とくに、女性にとっては、そうかもしれない。またそれがあるからこそ、女
性は、それにつづく、長くてつらい妊娠、出産、育児という難業を受け入れることができ
る。

 反対に、それがなければ、人類は、とっくの昔に、絶滅していたことになる。

 そう言えば、あのサケという魚は、海を回遊したあと、自分たちが生まれた源流にもど
り、そこで交尾して、その生涯を終えるという。

 恐らくサケたちが感ずる、交尾によるクライマックスは、「もう死んでもいい」と言える
ほど、強烈で、濃密なものにちがいない。気のせいかもしれないが、カメラでとらえたサ
ケのオスやメスの目からは、涙さえ流れいる? (川の中で涙など流すのかという疑問も
あるが……。)

 基本的には、人間の性欲も、それに準じて、考えてよい。


●異常気象

 オーストラリアの友人のB君から、こんなメールが届いた。何でも南オーストラリア州
のアデレード近郊で、気温が45度を超えたという。それで町の人たちが、総出で、ブッ
シュファイア(山火事)の警戒にあたったという。

 あのあたりでひとたびブッシュファイアが起こると、小さいのでも、関東平野全体ほど
の規模で、燃え広がる。大きいのだと、州全体にまたがって、燃え広がる。スケールがち
がう。

 が、そのメールをくれた夜、「やっと雨が降った」(2月22日)と。

 しかしそれにしても、45度なんて、メチャメチャ。同じ日、東京でも、気温が21度
まであがった。2月というのに、5月中旬の気温である。いったい、地球の気温は、どう
なってしまったのか。

 ……というような回りくどい言い方は、やめよう。地球の温暖化は確実に進行している。
そしてその速度は、予測をはるかに超えたものになっているらしい。2100年までに、
地球の平均気温は、四、五度あがるということになっているが、今では、だれもそんな数
字を、信じない。

 仮にその数字でも、日本のように中緯度帯にある国々では、気温が、さらにあがるとい
う。そのころになると、この日本でも、真冬でも、夏日がつづくようになるかもしれない。

 しかし、こう書くと、世界の人に叱られそうだが、日本は、ラッキーな国である。四方
を海に囲まれ、列島の中央には、高い山脈がつらなる。世界で、もっとも温暖化の影響を
受けない国ということになれば、この日本をおいて、ほかにない。

 局地的に渇水は起こるかもしれないが、日本全体が砂漠化するということは、考えにく
い。

 世界中が砂漠化しても、日本だけは、生き残る……。日本人だけは、生き残る……。私
やあなたの子どもだけは、生き残る……。

 ここまでを中学生たちに読んで聞かせたら、T君がこう言った。

「でも、南極の氷が溶けるんでしょう。そうなったら、どうなるの?」と。

 たしかに海面は上昇する。今の予測では、2100年までに、1メートルくらい上昇す
ると言われている。もちろん日本の平野部のほとんどは、それで水没する。しかしここに
も書いたように、日本には、山がある。その山を、うまく利用すればよい。

 ……ということで、この話はやめよう。書けば書くほど、気が重くなる。まあ、そのた
めに科学がある。人間の英知がある。いろいろな解決方法も考えられている。地球の大気
圏の外側を、亜硫酸ガスでおおうという方法もあるそうだ。つまり地球にカサをかける。
そうして直射日光を避ける。

 私は、そういう人間の英知を信ずる。しかし45度とはねえ……。


●スランプ

 この一週間で、「まぐまぐプレミア」用の原稿、6日分、つまり2週間分を書き終えた。
(毎週、月・水・金発行)。

 とたん、そのあと、スランプ状態になってしまった。「やっと書いた」という思いと同時
に、「こんなことしていて、何になるのだろうか」という、思い。その「何になるのだろか」
という思いが、支配的になってしまった。

 やはり無料のまま、マガジンを発行すべきだったのか。損得を考えたとたん、心がにご
ったように感じた。そしてそれが、今、大きな迷いになりつつある。

 で、こういうときというのは、何を書いても、むなしい。悶々とした、つかみどころの
ないテーマだけが、つぎつぎと現れては消える。ワイフは、そういう私の気持を察してか、
さかんに、「旅行に行こう」と、誘いをかけている。

 そう言えば、軽い頭痛がする。風邪をひいたのかもしれない。体が、だるい。コタツに
入っていても、背中に、悪寒を覚える。ゾクゾクする。スランプ状態になったのは、風邪
のせいかもしれない。

 しかしこういう状態になると、自分のしていることが、ますます小さく思えてくる。そ
してなさけなくなる。

 多分、一眠りすれば、また心も回復するだろう。頭が、少し疲れたせいだと思う。この
ところ、毎日、五、六時間は、パソコンに向っていた。明日は、ワイフと、久しぶりに、
近くのイタリアンレストランで、ステーキでも食べよう。

 私は、負けないぞ!

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 12日(No.372)
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http://bwhayashi.cool.ne.jp/page044.html
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(1)子育てポイント**************************

●わだかまり論

 ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しか
し実際には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約二〇万倍※もの潜在意識に
よって「動かされている」。こんなことがあった。

 J君(小三)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜日
にいっしょに釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんかが
始まってしまうのです。

風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、まず息子がワーツと泣き
声をあげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』という声が聞こえてくるの
です」と。

 そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪
いことをしていないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞
くと、父親は父親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J
君が人をバカにしたような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」
と。

 あれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑談して
いると、J君の父親はこんなことを言い出した。

「そう言えば、私は中学生のとき、いじめにあっていた。そのいじめのグループの中心
にいた男の目つきが、あの目つきだった」と。J君の父親は、J君が流し目で父親を見
たとき、(それはJ君のクセでもあったのだが)、J君の父親は、無意識のうちにも自分
をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中に感じていた。そしてそれがこれまた無意
識のうちに、父親を激怒させていた。

こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。
わだかまりにせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあ
やつる。

子育てもまさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると思い
込んでいるが、結局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。問題は繰り返
すことではなく、その中でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの形で、子育
てに悪い影響を与えることである。が、これも本当の問題ではない。

だれだって、無数のわだかまりをかかえている。わだかまりのない人など、いない。そ
こで本当の問題は、そういうわだかまりがあることに気づかず、そのわだかまりに振り
まわされるまま、同じ失敗を繰り返すことである。

 そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じよ
うに失敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。
何かあるはずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間
がかかるが、それで問題は解決する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの表情

 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。

事実そのとおりで、表情豊かな親の子どもは、やはり表情が豊かだ。うれしいときには、
うれしそうな顔をする。悲しいときには悲しそうな顔をする。(ただし親が無表情だから
といって、子どもも無表情になるとはかぎらない。)しかしこの「表情」には、いろいろ
な問題が隠されている。

 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、
全体の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。

程度の問題もあり、一概に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割とい
う数字は、ほぼ的確ではないかと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなと
きでも、表情を変えない。うれしいときも悲しいときも、無表情のまま行動する、など。
 
原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。そのことはテレビを
じっと見入っている幼児を観察すればわかる。おもしろがっているはずだというときで
も、またこわがっているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。

保育園や幼稚園へ入ってからもそうで、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反
応を示さない。あたかもテレビでも見ているかのような感じで先生の方をじっと見てい
る。

このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が弱く、母音だけで言葉を話すなどの特徴
もある。「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」というような話し方をする。

こうした症状が見られたら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見ていましたね」
と言うことがある。親は親で、「どうしてそんなことがわかるのですか?」と驚くが、タ
ネを明かせば、何でもない。が、この問題はそれほど深刻に考える必要はない。やがて
園や学校生活になれてくると、表情もそれなりに豊かになってくる。

 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊
離である。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無
表情のままである、など。

心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れることが多い。たとえばか
ん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたまま、心の中ではまった
く別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離が現れたら、かなり深刻
な問題として、子どもの心を考える。

とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いや
だったら「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみ
やすい子どもをすなおな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということ
になる。

(2)今日の特集  **************************

●ギャング集団(エイジ)

 満5歳から6歳にかけて、子どもは、幼児期から、少年少女期へと移行する。急に生意
気になり、親にも口答えするようになる。

親「新聞をもってきて」
子「自分のことは、自分でしな」と。

 それまではどちらかというと、友だちを特定せず、だれとでも遊べた子どもでも、少年
少女期へ入ると、気のあった、仲間を選ぶようになる。そしてその仲間と、好んで遊ぶよ
うになる。

 特定の集団をつくって遊ぶことから、この時代を、心理学の世界では「ギャング集団」、
あるいは「ギャングエイジ」と呼ぶ。

 子どもは、この時代を通して、社会のルールを身につける。統率、反抗、離反、規律、
友情、差別などなど。いわゆるおとな社会に入るための、その基礎を、この時代に、身に
つけると考えると、わかりやすい。

 多くの親たちは、子どもの教育は、学校という場で、教師対子どもの関係で、身につく
ものだと誤解している。しかしそれ以上に重要なものを、子どもは、学校の外で、学ぶ。

 『人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ』を書いたのはフルグラムだが、こうした実
感は、学校を卒業し、人生も晩年になると、わかるようになる。

 私のばあいも、学校からの帰り道、友だちと遊んだ経験や、毎日真っ暗になるまで、寺
の境内で遊んだ経験が、今の私の基礎になっている。もっとも、それがわかるようになっ
たのは、(そうでない子ども)に出会ってからである。

 中には、親の異常なまでの過保護のもと、ギャング集団を、ほとんど経験しないで、育
てられる子どもがいる。このタイプの子どもは、社会性がほとんど身についていないから、
ときとして、とんでもないことを、しでかす。してよいことと、悪いことの区別もつかな
い。

 友だちの誕生日プレゼントにと、腐った酒かすを箱に入れて送った子ども(小3)や、
解剖したカエルの死骸を、女の子の筆入れに入れた子ども(小4)などがいた。

 この子どもは、そういうことをすれば、かえって仲間に嫌われるということさえわから
ない。

 またこの時期、よく仲間はずれや、いじめが問題になる。決して仲間はずれや、いじめ
を肯定するわけではないが、そういうことを経験することによって、子どもは、その一方
で、集団の中における、ルールを学ぶ。

 親としてはつらいところだが、しかし目を閉じるところは、しっかりと閉じないと、か
えって子どもを、ダメにしてしまうことも、あるということ。

 さらに最近では、テレビゲームや、パソコンゲームの発達とともに、仲間と遊ばない子
どもが、ふえている。これについてはまた別のところで書くことにして、つまり、ギャン
グ集団をとおして、子どもは、おとなになるための社会性の基礎を身につけるということ。

 それについて以前、書いたのが、つぎの原稿である。

++++++++++++++++++++

●遊びが子どもの仕事

 「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当た
らずとも、はずれてもいない。

「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの
大きさがある。オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているとこ
ろもある。日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しな
いほうがよい。

また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学
校の教室の外で身につける。実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。今でいう帰宅
拒否の症状もあったのかもしれない。それはそれとして、私はその寺で多くのことを学ん
だ。けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。性教育もそこで学んだ。

……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。自分という人間がどういう人間であるかもよくわか
らなかった。いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみ
なかった。しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。縄張りもあったし、いがみ
あいもあった。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と
完全に隔離されていたということ。

たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。山ででくわし
たら最後。石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。相手をつかまえればリン
チもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。あいさつをして笑いあうような相手では
ないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。目と目であいさつぐらいはした。つまり寺
の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場
の外で争っても意味がない。つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのう
ちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。子どもどうしの上下関係があった。けんかの強い
子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。そして私たちはそれに従った。親分、
子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出
さなかった。

仲間意識もあった。仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりし
た。しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。だか
ら今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代
とそれを結びつけて、簡単に理解することができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっ
ただろう。だから私の立場で言えば、こういうことになる。「私は人生で必要な知識と経
験はすべて寺の境内で学んだ」と。

+++++++++++++++++++

●ギャング集団

 子どもは、集団をとおして、社会のルール、秩序を学ぶ。人間関係の、基本もそこで学
ぶ。そういう意味では、集団を組むというのは、悪いことではない。が、この日本では、「集
団教育」という言葉が、まちがって使われている。

 よくある例としては、子どもが園や学校へ行くのをいやがったりすると、先生が、「集団
教育に遅れます」と言うこと。

このばあい、先生が言う「集団教育」というのは、子どもを集団の中において、従順な
子どもにすることをいう。日本の教育は伝統的に、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本
になっている。その「民づくり」をすること、つまり管理しやすい子どもにすることが、
集団教育であると、先生も、そして親も誤解している。

 しかし本来、集団教育というのは、もっと自発的なものである。また自発的なものでな
ければならない。

たとえば自分が、友だちとの約束破ったとき。ルールを破って、だれかが、ずるいこと
をしたとき。友だちどうしがけんかをしたとき。何かものを取りあったとき。友だちが、
がんばって、何かのことでほめられたとき。あるいは大きな仕事を、みなで力をあわせ
てするとき、など。

そういう自発的な活動をとおして、社会の一員としての、基本的なマナーや常識を学ん
でいくのが、集団教育である。極端な言い方をすれば、園や学校など行かなくても、集
団教育は可能なのである。それが、ロバート・フルグラムがいう、「砂場」なのである。
もともと「遅れる」とか、「遅れない」とかいう言葉で表現される問題ではない。

 だから言いかえると、園や学校へ行っているから、集団教育ができるということにはな
らない。行っていても、集団教育されない子どもは、いくらでもいる。集団から孤立し、
自分勝手で、わがまま。他人とのつながりを、ほとんど、もたない。こうした傾向は、子
どもたちの遊び方にも、現れている。

 たとえば砂場を見ても、どこかおかしい? たとえば砂場で遊んでいる子どもを見ても、
みなが、黙々と、勝手に自分のものをつくっている。私たちが子どものときには、考えら
れなかった光景である。

 私たちが子どものときには、すぐその場で、ボス、子分の関係ができ、そのボスの命令
で、バケツで水を運んだり、力をあわせてスコップで穴を掘ったりした。そして砂場で何
かをするにしても、今よりはスケールの大きなものを作った。が、今の子どもたちには、
それがない。

 こうした問題について書いたのが、つぎの原稿である。なおこの原稿は、P社の雑誌に
発表する予定でいたが、P社のほうから、ほかの原稿にしてほしいと言われたので、ボツ
になった経緯がある。理由はよくわからないが……。今までここに書いたことと、内容的
に少しダブルところもあるが、許してほしい。

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●養殖される子どもたち

 岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた
一人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏で
ある。「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。

原因というより理由は、養殖。この二〇年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代
に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年
三〜四月に、長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユ
を生んだ。しかしこれはアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも
起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句
も言えない。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘
れても、「私の分がない」と言えない。

これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、たき火がメラメ
ラと急に燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。小さ
な虫が机の上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半が
そうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。
そういう形で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、と
っくの昔に人間は絶滅していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなく
なってきている。核家族化に不自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。

カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立するこ
とをいう。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さな
い。カルト教団の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。
そのためものの考え方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。
子ども同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの
遊ぶ風景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場
でも、それぞれが勝手なことをして遊んでいる。

私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そのボスの許可なしでは、砂
場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほかの子どもたちは、そ
のボスの命令に従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮にそういう縄
張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い出した。

 平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。
理想的な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなく
なる。人間たちの残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいの
か。それがアユの本来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。

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 総じて言えば、今の子どもたちは、管理されすぎ。たとえば少し前、『砂場の守護霊』と
いう言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、そ
の背後で、守護霊よろしく、子どもたちを監視する親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけな
い。たとえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁
したりするなど。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってし
まう。せっかく「砂場」という恵まれた環境(?)の中にありながら、その環境をつぶし
てしまう。

 が、問題は、それで終わるわけではない。それについては、別の機会に考えてみる。

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 最後に、ピアジエは、小学校の低学年期には、「子どもは幼児期から脱し、論理的な思考
をするようになる」。高学年期には、「子どもは、抽象的なことについても、思考するよう
になる」と説明している。

 「論理的」というのは、A=B、B=C、だから、A=Cという考え方ができることを
いう。たとえば「犬は、卵をうまない。人間も、卵を生まない。だから犬と、人間は、仲
間だ」というように考えるなど。

 また「抽象的」というのは、「心の平和とは何か」「暖かい家庭とは、どんな家庭をいう
のか」「友情とは何か」というテーマについて、自分なりの考えを、説明できることをいう。


 私の印象では、ピアジエの時代よりも、現代は、数年、子どもの発達が早まっているの
ではないかと思う。(天下のピアジエを、批判するのも、勇気のいることだが……。)ここ
でいうギャング集団についても、幼稚園の年長児期には、すでにその「形」が見ることが
できる。

 当然のことながら、このギャング集団の時期になると、子どもは、急速に、親離れを始
める。女の子だと、早い子どもでは、小学3、4年生ごろには、初潮を迎え、父親といっ
しょに風呂に入ったりするのをいやがるようになる。

 この時期、子どもは、ときに幼児になり、ときにおとなのまねをしてみたりと、心が揺
れ動く。そういう意味で、精神的には、不安定な時期と考えてよい。
(040223)(ギャングエイジ ギャング集団 フルグラム ピアジェ ピアジエ)

(3)心を考える  **************************

●こわい絵をかく子ども

 メールで、「うちの子(小5男児)は、がいこつや、死人など、いつもぞっとする絵ばか
りをかきます。どうしたらよいでしょうか」という質問をもらった(大阪府・SEさん)。

 心理学の世界には、「投影法」と呼ばれる、心理テスト法がある。何かの絵をかかせて、
その絵を手がかりに、内面に隠された心理をさぐるという方法である。

 で、SEさんの相談によれば、子どもは、見た目には、おとなしく、静かな子どもだと
いう。しかしその子どものかくものは、「いつも、ぞっとするほど不気味な絵だ」と。

こうした絵をかく子どもは、ふつう、つぎの二つのケースに分けて考える。

 ひとつは、潜在的な願望を表している。言葉には表現されないが、絵で表現することに
よって、自分の内面世界を、外に出すケース。これを「絵画的非言語的表出」と呼ぶ人も
いる。(これを「前者のケース」という。)

 もう一つは、そうして表現することによって、内面にたまった欲求不満を、解消しよう
とするケース。これはいわば、実際にそうなるのを、その前に、絵で表現することによっ
て、発散させるための行為と考えるとわかりやすい。心の防衛機制とも言えるもので、子
どもは、心の中にたまった欲求不満を、絵をかくことによって、発散させようとする。(こ
れを「後者のケース」という。)

 SEさんのケースでは、「見た目には、おとなしく、静かな子どもだ」という。

 私は、ここでいう後者のケースではないかと思う。(圧倒的に、後者のケースが多いこと
もある。)

 以前、お父さんの顔をかかせていたときのこと。あるところまでかくと、突然、そのお
父さんの顔を、真っ黒に塗りつぶしてしまった男の子(年中児)がいた。

 あとでお母さんにその理由を聞くと、何でもその前日の夜、父親が、蒸発してしまった
とのこと。その蒸発にいたる、はげしい家庭内騒動が、その男の子の心をゆがめたらしい。

 後者のケースであれば、子どもの心を日常的に抑圧しているものが、何であるかをさぐ
る必要がある。過負担、親の過関心や過干渉など。しかし環境を改めたからといって、症
状がすぐ消えるわけではない。私の経験では、平均して、3年から5年(あるいはそれ以
上)、尾を引くと考えてよい。

 中には、それが趣味として、定着してしまうケースも少なくない。マンガやアニメでも、
そうした不気味なものを好んで求めたりする。

 心が変調していることは事実。安易に考えてもいけないが、しかしそれほど、深刻に考
える必要もない。最近の子どもたちには、多かれ少なかれ、こうした不気味なものを好む
傾向がみられる。

 前者のケースについては、私も、ほんの数例しか経験がないので、何とも言えない。投
影法の絵画テストで、ときどき発見されるというような話は聞いたことがある。何かのふ
つうでない犯罪を引き起こした子どもが、そういう絵をかいていたという話も聞いたこと
がある。

 しかし前者のばあいは、「絵」の範囲には、とどまらないと考えてよい。ふつう、何らか
の随伴症状をともなう。

 私が経験した例では、こんな例がある。

 ある日、子ども(年長男児)の服のポケットを見ると、そのポケットの上に、きれいに
ビーズ玉が並んでいた。が、それはよく見ると、ビーズ玉ではなかった。コオロギの頭だ
った。

 その子どもは、コオロギをつかまえると、まずそのコオロギに、ポケットの上のフチを、
かませる。かんだところで、体をひねって、体をちぎっていた。

 私は、心底、ゾーッとした。その男の子も、絵といえば、その種の、ゾーッとするよう
な絵ばかりをかいていた。

 あの淳君殺害事件を起こした、少年Aも、あの大事件を引き起こす前に、ネコを殺して
いたという報告もある。決して安易に考えてはいけないが、しかしそういうケースは、ま
れ。まずあなたの子どもには、ないと考えてよい。
(ぞっとする絵・こわい絵・子どもの絵) 


●離婚の危機

 離婚する夫婦には、一定のパターンがあるという。湯沢雍彦という学者は、つぎのよう
な兆候が見られたら、離婚の危機がせまっていると考えてよいと書いている。

(1)夫婦の間に共通の目的が焼失し、それぞれの目的が、(もう一方に)優先する。
(2)すべての共同的な努力が止まる。
(3)相手へのサービスが、控えられる。
(4)ほかの社会集団に対する家族の位置づけが変ってくる。

 よく「離婚する夫婦は、会話がない」という。会話、つまりコミュニケーションの欠如
が見られたら、赤信号と考えてよい。

 しかし私は、その前の段階として、信頼関係の崩壊をあげる。

 信頼関係は、いうまでもなく、(完全なさらけ出し)と、(完全な受け入れ)という基盤
の上に構築される。仮に会話がなくても、また湯沢氏がいうように、共通の目的がなくて
も、その信頼関係があれば、離婚にはいたらないのではないか。

 湯沢氏があげた(1)〜(4)の状態にある夫婦など、いくらでもいる。ほとんどのサ
ラリーマン家庭では、そうではないのか。

 言いかえると、夫婦であることで、もっとも重要な要素は、この信頼関係である。さら
に言いかえると、たがいに(完全なさらけ出し)と、(完全な受け入れ)をしているなら、
かなりの離婚はふせげるはず……ということになる。

 そのためにも、あなたがもし妻なら、今日からでも遅くないから、夫の前で、自分をも
っとさらけ出してみるとよい。

 飾らない。偽らない。機嫌をとらない。へつらわない。ただひたすら自分を、ありのま
ま、正直に表現してみる。それが仮に、夫婦喧嘩という衝突に発展するとしても、それが
そのまま離婚につながるということは、絶対に、ない。

 いやだったら、「いや」と言えばよい。したいことがあったら、「したい」と言えばよい。
そういう(さらけ出し)を、徹底的にする。一時的には、夫も、当惑し、抵抗するかもし
れない。が、反対に夫の立場で、夫もそうであるべきということが、やがて夫にも、わか
るはず。そして夫は、夫で、あなたに対して、(さらけ出し)をしてくる。

 こうして夫婦の信頼関係の基盤をつくる。

 そんなわけで、湯沢氏にならって、私が、離婚の危機を、四か条にまとめると、こうな
る。

(1)夫(妻)の前で、言いたいことも言えない。したいこともできない。
(2)夫(妻)の前で、ウソを言ったり、自分をごまかしたりする。
(3)夫(妻)に対して、話していないことや、話せないことが多い。
(4)夫(妻)に対して、遠慮することもある。心を開けない。

 さて、あなたのばあいは、どうだろうか。

 しかしよくよく考えてみると、この「離婚」の問題は、そのまま、「親子断絶」の問題と、
同じということに気づく。立場はちがっても、夫婦も、親子も、人間関係という観点では、
同じということになる。

 おもしろいテーマなので、また別のところで、ゆっくりと考えてみたい。
(040222)

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●家族コンプレックス

 昨夜(2・22)、民放テレビを見ていたら、親離れする子どもの心理について、報道し
ていた。断絶した親子を、どうすれば、またもとの状態に戻せるか、と。

 「もとの状態」というのは、「幼児のころのように、いっしょにプールで水遊びしたよう
な状態」(ある父親の言葉)をいうのだそうだ。そういう風景をとったビデオを見ながら、
一人の父親は、ポツリと、こう言う。

「あのころの娘は、どこへ行ったのでしょうかねエ……」と。(多分、ディレクターかだ
れかに、そう言うようにしむけられたのだろうが……。)

 子どもが親離れをする。……しかしそれはある意味で、当然の結末である。テレビ局側
の報道姿勢も、コメンテイターも、「そうであってはいけない」という大前提で、この問題
を論じていた。が、しかし、どうして、そうであってはいけないのか。

 子どもは思春期が近づくと、「家族」というワクから離れて、「自分」というものを確立
するようになる。これを心理学では、『個人化』と呼んでいる。

 この個人化は、人間の成長には、必要不可欠なものであり、この個人化がうまくできな
いと、精神的に未熟な、ナヨナヨとしたおとなになってしまう。つまり「家族」というワ
ク、あるいは足かせが、ときとして、この個人化を、阻害してしまうことがある。

 私の知人の中には、50歳をすぎても、親戚づきあいを第一に考えている人がいる。何
かにつけて、「親戚」「親戚」と、「親戚」という言葉を、口にする。そうした生きザマが、
まちがっているとは思わないが、そうした心理状態は、広い意味で、マザーコンプレック
ス(マザコン)の人がもつ心理状態に似ている。

 そのマザコンという言葉をもじるなら、「家族」や「親戚」というワクの中から出られな
いでいる状態は、「ファミリー・コンプレックス(家族コンプレックス)」、あるいは、「親
戚コンプレックス」ということになる。(注、この二つの名前は、私がつけた。)

 徹底した依存関係を、家族どうし、あるいは親戚どうしの間に求めようとする。

 しかしこうした依存性は、当然のことながら、その人の精神的自立を阻害する。その結
果、ここに書いたように、精神的に未熟な人間になる。

 一般論から言えば、マザコンタイプの人ほど、親戚づきあいを、重要視する。「依存性」
という部分では、心理状態が共通するからである。

息子や娘のために、遠い親戚にまで声をかけ、派手な結婚式をしたがる、など。盆暮れ
の実家の墓参りを、最重要のこころがけと位置づけることもある。

 もっとも、その人が自分だけでそうするのは構わない。が、このタイプの人にかぎって、
そうでない人を、徹底的に非難する。自己中心性が強く、「自分は正しい」と思う、その返
す刀で、「あんたは、まちがっている」「人間として、失格だ」と言う。

 その報道番組でも、そうした表現が、ずいしょに見られた。一人、「親に向かって……」
というようなことを言っている、父親もいた。いまどき、「?」な表現である。

 家族は、大切だが、しかしその家族が、子どもの自立の足かせになってはいけない。そ
れは子どもにとっては、母親は絶対的なものではあるが、同時に、子どもを、マザコンに
してはいけないという論理に似ている。

 が、問題は、それだけに終わらない。

 この日本では、そういう形であるにせよ、親に反発する子どもを、「悪」と決めてかかる
風潮が強い。「できそこない」とか、「非行」とかいうレッテルを張ることもある。

 その結果、子どもは、その罪悪感を覚えるようになり、生涯にわたって、心のキズ、あ
るいは負い目としてしまうことがある。

 そんなわけで、「家族」や「親戚」は、大切にしなければならないものだが、だからとい
って、それを子どもに押しつけてはいけない。こうした問題では、親は、子どもから一歩
退いて考える。そういう姿勢が、子どもの成長をうながすことになる。
(040223)(個人化 家族コンプレックス 親戚コンプレックス 親類コンプレッ
クス)

++++++++++++++++++++

【追記(1)】

 この原稿を書いているとき、では、どういう人が、(たくましい人)であり、どういう人
が、(未熟な人)であるかということを考えた。

 たくましい人というのは、イメージとしては、荒野を野宿しながら、ひとりで生きてい
くような人をいう。

 未熟な人というのは、いつも何かに依存しながら生きていく人をいう。名誉や地位、肩
書きや財産など。過去の学歴や、職歴にぶらさがって生きていく人も、それに含まれる。
さらに、父親や母親をことさら美化して、それに依存する人。親戚づきあいを第一に考え
て、親戚に依存する人も、それに含まれる。

 未熟な人というのは、何かにつけてものや人に依存しやすいので、このタイプの人は、
たいていこれらすべてのものに、同時に、依存しながら生きていることが多い。

 両親や、親戚づきあいは、当然のことながら、それなりに大切にしなければならないも
のである。しかしことさらそれを強調する人というのは、自分の依存性(=精神的な欠陥)
をごまかすために、強調することが多い。

 あなたの周囲にも、このタイプの人は、必ずいるので、観察してみるとおもしろいので
は……。

【追記(2)】

 子どもは親から、生まれる。しかし子どもは子どもであって、決して、親のモノではな
い。だからその子どもが、親の思いどおりにならないからといって、親は、それを嘆く必
要はない。いわんや、子どもを責めてはいけない。

 依存性の強い親ほど、子どもの依存心に甘くなる一方、自分は、自分で、今度は、子ど
もに依存しようとする。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と。

 そして親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子として、そ
の依存性を、見すごしてしまう。

 こうした日本人独特の依存性は、まさに日本という島国に生まれた土着性のようなもの。
日本人の体質の中に、しっかりとしみこんでいるので、それに気づく人は少ない。

 どこかのだれかが、涙ながらに、「私は母に産んでいただきました。女手一つで育ててい
ただきました」などと話したりすると、「?」と思う前に、それを美談として、安易にもて

はやしてしまう。

 ここに書いた、家族コンプレックス、親戚コンプレックスも、同じように考えてよい。

(4)今を考える  **************************

●愛知万博の起工式

 愛知万博(EXPO 2005)の起工式に招待された。私以外は、そうそうたるメン
バーで、出席するのも、気が引ける。(私は、人選ミスで選ばれた。ホント!)

 解剖学者の養老氏とか、テレビキャスターの草野氏、それにアーティストの藤井氏など。
宇宙学者の松井氏もいるし、哲学者の山折氏もいる。いつも「どうして私が?」と思いつ
つ、顔を出す。

私「どうしようか?」
ワイフ「いいじゃん、出れば」
私「しかし、場違いだよ」
ワ「いいじゃん、一応、選ばれたんだから……」と。

 ……この問題は、あまり考えたくない。考えれば考えるほど、自分がなさけなくなる。
ホント。旅費も日当も出ることだから、行ってみるか……とは、思っている。

3月24日(水曜日)。朝10時から。そちらのテレビでは、大々的に報道されると思う
ので、気がついた人は、テレビを見てほしい。

 いつも藤井フミヤ氏の横(アイオウエ順なので、私がいつも彼の横に座る)に、ひげを
はやして、しょぼくれて座っているのが、私。

ああ、私も一度でいいから、若い女性たちに、キャーキャーと騒がれてみたい! ホン
ト!


●とうとう怒鳴る

 午後になって、ワイフが、風邪で(?)、倒れる。はげしい頭痛。吐き気。それに悪寒。
最初はコタツの中で丸くなっていたが、そのうち、自分でパジャマに着替えた。かなり重
症らしい。

 ワイフは、昔から、がまん強い。めったなことで、弱音をはかない。

 そんなとき、あの(焼きいも屋)が来た。時計を見ると、6時50分。あたりま真っ暗。

 「焼きイモ〜、イモ! 早くこないと、行っちゃうヨ〜」と。

 愛知県なまりの、ひどい日本語だ。「イモ」も、「イメ」と聞こえる。私は、元合唱団。
こういう発音には、うるさい。

 が、あろうことか、その焼きいも屋、うちのすぐ東隣の空き地に、車を止めた。そして
ボリュームいっぱいの、大音響!

 私はまさか私の家の横の空き地に止めているとは、知らなかった。だから「そのうち、
どこかへ行くだろう」と思っていた。が、大音響は、そのままつづいた。

 私は左の耳の聴力を、完全になくしている。だから音の方向も、そして動きもわからな
い。

 「この近くを、ぐるぐる回っているのだろう」と思った。しかしそれにしても、長い。
5分、10分……。あのわけのわからない日本語が、ガンガンと書斎に、容赦なく流れこ
んでくる。

 私は、ワイフが、頭痛で寝ているのを、そのとき思い出した。とたん、イスからはね起
きた。起きて、窓をあけて見ると、なんと、焼きいも屋が、目の下に! うしろのドアを
大きくあけて、赤いちょうちんをぶらさげていた。

 私は大声で叫んだ。

 「ウ・ル・サ〜イ!」

 瞬間、男と視線があった。男は、パッとスピーカーを切った。同時に、また私は叫んだ。
「ボリュームを、さげたらどうだア!」と。

 何ともいやな雰囲気だった。相手も、さぞかし、不愉快に思ったことだろう。彼らだっ
て、生活がかかっている。それはわかる。が、怒鳴るほうだって、同じくらい、不愉快な
もの。

 窓をしめて、イスに座ると、不快感がました。「もっと、別の言い方をすればよかった」
と。

 たとえばにこやかな表情を浮かべながら、「すみません。今夜は暖かいですね。しかし、
ひとつお願いがあるのですが。実は、ワイフが、風邪で休んでいますので、少しボリュー
ムをさげていただけませんでしょうか」とか、何とか。

 私もいきなり叫ぶつもりはなかったが、目の下にそれがあるのを見たとき、思わず、カ
ーッとなってしまった。まさかそこにいるとは、思わなかった。

 胸のざわつきを抑えながら、ワイフの枕元に行くと、ワイフは、こう言った。「うるさか
ったわね」と。

私「ぼくが、叫んだの、聞こえた?」
ワ「近所中に、聞こえたわよ」
私「うるさかったからね」
ワ「あの人たちも仕事だから……」
私「それはわかるけど、だからといって、みんなに迷惑をかけていいということではない
よ」

ワ「田舎のほうでは、みんながまんするそうよ」
私「もう、ぼくは、がまんしないよ。うるさかったら、うるさいと言うよ」
ワ「暴力団の人だったら、あとで仕返しにくるかもしれないわ」
私「すぐ警察に電話するよ」と。

 そのとき、かなり遠くで、再び、あの声が聞こえだした。妙に甘たるい、妙に鼻にかけ
た、あの声だ。

 焼きイモ〜、イモ! 早くこないと、行っちゃうヨ〜!

 私はそれに合わせて、こう叫んだ。「早く、行きたければ、行け!」と。


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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 10日(No.371)
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(1)子育てポイント**************************

●年齢

 子ども(年長児)たちに聞いた。
 「先生(=私)は、何歳に見えるかな?」と。

 するとA君が、「40歳!」と。

私「ほう、そうかね。ぼくは、40歳に見えるかね?」
A「ううん、でもよく見ると、80歳」
私「80歳! ハ、ハ、ハチジュ〜?」
A「わからない……」と。

私「じゃあ、君たちのお父さんは、何歳?」
子どもたち「知イ〜らない」
私「お母さんは?」
子「……言ってはダメって……」

私「じゃあ、知っているの?」
子「うん……」
私「じゃあ、聞かない」
子「34歳!」と。

 子どもというのは、親が「言ってはダメ」と言うことほど、よく覚え、そして人に話す。

私「君たちのお父さんと、先生(=私)は、どちらがかっこいい?」
子どもたち「パパ!」「パパ!」
私「先生は……?」
子「ゼンゼン……。ジジ臭い」

私「そう、先生は、じいさんなんだア?」
子「そう。先生は、おじいさん。ママが、先生も、じいさんになったねって、言ってたよ」
私「ホント?」
子「そう、先生も、じいさんになったよって……。ママが、先生には、言ってはダメって、言ってた
よ」と。
 
+++++++++++++++++++++++

●心を開く(2)

 心を開くということは、相手に対しては自分のあるがままをさらけだすこと。一方、相
手に対しては、相手のすべてを受け入れるということ。

少しきわどい話になって恐縮だが、『おなら』がある。ふつう自分のおならは、気になら
ない。小学生に聞いても、全員が例外なく、「自分のは、いいにおいだ」と言う。あのソ
クラテスも、そう言っている。「自分のクソは、いい臭い」と。しかし問題は、自分以外
の人のおならだ。

 もちろん見知らぬ人のおならは、不愉快だ。いかに相手が美人であり、美男子であって
も、それは関係ない。

しかしそれが親や兄弟のとなると、多少、感じ方が変わってくる。さらに親しい友人や、
尊敬する人になると変ってくる。

昔、恩師のM先生(女性)がこう話してくれた。「私は女学生のとき、好きな先生がいた。
好きで好きでたまらなかった。が、その先生がある日、私のノートを上からのぞいたと
き、ポタリと鼻くそを私の机の上の落した。私はその鼻くそを見たとき、どういうわけ
かうれしくてならなかった」と。相手を受け入れるということは、そういうことをいう?

 そこで今度は家族について。あなたは自分の夫や妻、さらには子どもをどこまで受け入
れているだろうか。またまた『おなら』の話で恐縮なのだが、あなたはあなたの夫や妻が
おならを出したとき、それをどこまで受け入れることができるだろうか。自分のおならの
ように、「いいにおい」と思うだろうか。それとも他人のおならのように、不愉快だろうか。

実のところ、私も女房のおならが許せるようになったのは、結婚してから二〇年近くも
たってからだ。自分のにおいのように感ずることができるようになったのは、ごく最近
になってからだ。

女房はめったに私の前ではしないが、眠ってしまったあと、ふとんの中でそれを出す。
で、若いころはふとんの中でそれされると、鼻先だけふとんの中から外へ出し、口で息
をしたり、ときには窓を開け放って、ガスを追い出したりしていた。今も「平気」とま
ではいかないが、「またやったな」という思いながらも、そのまま眠ることができる。

 問題はあなたと子ども、である。あなたは子どものすべてを受け入れているだろうか。
こういうとき「べき」という言い方はしたくないが、しかしこれだけは言える。

親に受け入れてもらえない子どもほど、不幸な子どもはいないということ。言いかえる
と、親にすら心を開いてもらえない子どもは、自分自身も心を開くことができなくなる。
そういう意味で、子どもは心の冷たい子どもになる。

もう少し正確には、自分の心を防衛するようになり、そのためさまざまな「ゆがみ」を
見せるようになる。ひがむ、いじける、ねたむ、すねるなど。心のすなおさそのものが、
消える。へんに愛想がよくなることもある。

そういう意味で、もしあなたがあなたの子どもに心を閉じているなら、それは「あるべ
き」親の姿勢ではない。「努力して」というほど簡単な問題ではないかもしれないが、し
かしあなたの子どものためにも努力する。

 方法としては、まず子どもを友として受け入れる。つぎにあとは「許して忘れる」。これ
を日常的に繰り返す。時間はかかるが、やがてあなたは心を開くことができるようになる。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(355)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●女性は家の家具?

 いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、
驚きでしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている
人が、二割近くもいる。

たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(二〇〇〇)によると、「掃除、洗濯、炊事
の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上。「夫も家事や育児を平等
に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる。が、その反面、「反対だ」と答えた
女性も二三・三%もいる。

 ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事
を負担することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家
事を平等に負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしてい
ればそれでいい」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってく
る。

今の日本の現状は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいこと
に居なおりすぎている。中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家
庭の中でデーンと座っていればいい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけでは
ないが、その仕事第一主義におぼれるあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人
も多い。

 ……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演の
あと、私にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)
が言うと、家族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくして
いてくれなければ、困るのです」と。

男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができますか」
とも。私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、
こうも言った。「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きに
きているのです。むずかしい話よりも、ハハハと笑えるような話をしてください。それ
でいいのです」と。

 これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ三〇歳そこそこの男性。今
の日本の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認め
ていない。

その男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼自身の考え方
のほうが、よっぽど後進国的だ。

それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をも
つ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」(一
九九八年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しか
いない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている
(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答え
た妻も、五二・五%もいた。当然だ。

(2)今日の特集  **************************

【父親論】

 父親の役割は、二つ、ある。(1)母子関係の是正と、(2)行動の限界設定である。こ
れは私の意見というより、子育ての常識。

●母子関係の是正

 母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それについては、何度も書いてきた。

 しかし父親と子どもの関係は、「精液一しずくの関係」にすぎない。もともと母子関係と、
父子関係は平等ではない。

 その子ども(人間)のもつ、「基本的信頼関係」は、母子の間で、はぐくまれる。父子の
間ではない。そういう意味で、子育ての初期の段階では、子どもにとっては、母親の存在
は絶対的なものである。この時期、母親が何らかの理由で不在状態になると、子どもには、
決定的とも言えるほど、重大な影響を与える。情緒、精神面のみならず、子どもの生命に
も影響を与えることさえある。

 内乱や戦争などで、乳児院に預けられた赤ちゃんの死亡率が、きわめて高いということ
は、以前から指摘されている。

 では、父親の役割は、何か。

 父親の役割は、実は、こうした母子関係を調整することにある。母子関係は、ここにも
書いたように、絶対的なものである。しかしその「絶対性」に溺れてしまうと、今度は、
逆に、子どもにさまざまな弊害が生まれてくる。マザーコンプレックスが、その一つであ
る。

 一般論から言うと、父親不在の家庭で育った子どもほど、母親を絶対視するあまり、マ
ザーコンプレックス、俗にいう、マザコンになりやすい。40歳を過ぎても、50歳をす
ぎても、「ママ」「ママ」と言う。

 ある男性は、会社などで昇進や昇給があると、妻に話す前に、母親に電話をして、それ
を報告していたという。また別の男性(50歳)は、せとものの卸し業を営んでいたが、
収入は一度、妻ではなく、すべて母親(80歳)に手渡していたという。

 また、ある男性(53歳)は、「母の手一つで育てられました」と、いつも人に話してい
る。一度講演会で、涙声で、母に対する恩を語っているのを聞いたことがある。

 その男性は、その母と、自分の妻が家庭内で対立したとき、離婚という形で、妻を追い
だしたと聞いている。しかし自分の中の、マザコン性には、気づいていないようだ。

 常識で考えれば、おかしな関係だが、マザコンタイプの人には、それがわからない。そ
うすることが、子どもの務めと考えている。

 そしてマザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、母親
をことさら、美化すること。「私の母は偉大でした」と。そしてあげくの果てには、「産ん
でいただきました」「育てていただきました」「女手一つで、育てていただきました」と言
いだす。

 マザコンタイプの男性は、(圧倒的に男性が多いが、女性でも、少なくない)、親の悪口
や、批判を許さない。少し批判しただけで、猛烈に反発する。依存性が強い分だけ、どこ
かのカルト教団の信者のような反応を示す。(もともとカルト教団の信者の心理状態は、マ
ザコンタイプの子どもの心理と、共通している。徹底した隷属性と、徹底した偶像化。妄
信的に、その価値を信じこむ。)

 そこで父親の登場!

 こうした母子関係を、父親は、調整する。もっとわかりやすく言えば、母子関係の絶対
性に、クサビを入れていく。

 ここに母子関係と、父子関係の基本的なちがいが、ある。つまり母子関係は、子どもの
成長とともに、解消されねばならない。一方、父子関係は、子どもの成長とともに、つく
りあげていかねばならない。つまり、それが父親の役割ということになる。

 ……という話は、子育ての世界では、常識なのだが、しかし問題は、父親自身が、マザ
コンタイプであるとき。

 こういうケースでは、父親自身が、父親の役割を、見失ってしまう。いつまでも母親に
ベタベタと甘える自分の子どもをみながら、それをよしとしてしまう。そしてなお悪いこ
とに、それを代々と繰りかえしてしまう。

 問題は、そうした異常性に、母親や父親が、いつ、どのような形で、気づくかというこ
と。

 しかしこの問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題であるだけに、特別な事情がな
いかぎり、それに気づく母親や父親は、まずいない。(この原稿を読んだ方は、気づくと思
うが……。)

 そこで一つの方法として、私がここに書いたことを念頭に入れて、あなたの周囲の人た
ちを、見回してみてほしい。よく知っている親類の人とか、友人がよい。このタイプの人
が、何人かは、必ずいるはずである。(あるいは、ひょっとしたら、あなたや、あなたの夫
がそうであるかもしれない。)

 そういう人たちを比較しながら、自分の姿をさぐってみる。たとえば父親不在の家庭で
育った子どもほど、マザコン性をもちやすい。そういうことを手がかりに、自分の姿をさ
ぐってみる。

 
●行動の限界設定

 もう一つ、父親の大きな役割は、子どもの行動に、限界を設定すること。わかりやすく
言えば、行動規範を示し、いかに生きるべきか、その道徳的、倫理的規範を示すこと。さ
らにわかりやすく言えば、「しつけ」をすること。

 しかし、これはむずかしいことではない。

 こうした基本的なしつけは、ごく日常的な、ごく基本的なことから始まる。そして、こ
こが重要だが、すべてはそれで始まり、それで終わる。

 ウソをつかない。
 人と誠実に接する。
 約束やルールは守る。
 自分に正直に生きる。

 さらに一歩進んで……

 家族は大切にする。
 家族は守りあう。
 家族は教えあう。
 家族はいたわり、励ましあう。

 さらに一歩進んで……

 自分の生きザマをつらぬく。
 
 こうした生きザマを、ごくふつうの家庭人として、ごくふつうの生活の中で、見せてい
く。見せるだけでは足りない。しみこませておく。そしてそれに子どもが反したような行
動をしたとき、父親は、それに制限を加えていく。

 こうした日々の生きザマが、週となり、月となり、そして年となったとき、その子ども
の人格となる。

 その基礎をつくっていくのが、父親の役目ということになる。

 一見簡単そうに見えるが、簡単でないことは、父親ならだれしも知っている。こうした
父親像というのは、代々、受けつがれるもの。その父親が作るものではないからである。

 そういう意味で父親から受ける影響は、無視できない。たとえばこんなことがある。

 私には、三人の息子がいる。年齢は、それぞれ、ちょうど三年ずつ、離れている。

 そういう三人の息子を比較すると、それぞれが、私のある時期の「私」を、忠実に受け
ついでいるのがわかる。(もちろん息子たち自身は、そうは思っていないが……。)

 一番特徴的なのは、それぞれの息子たちが、年長児から小学二、三年生にかけて私が熱
中した趣味を、受け継いでいるということ。

 長男がそのころには、私は、模型飛行機やエアーガン、その種のものばかりで遊んでい
た。だから、長男は、こまかいものを、コツコツと作るのが趣味になってしまった。

 二男のときは、パソコン。三男のときは、山荘作り。今、それぞれが、その流れをくむ
趣味をもっている。父親が子どもに与える影響というのは、そういうものと考えてよい。
みながみな、そうということでもないだろうが、大きな影響を与えるのは、事実のようだ。

 まあ、もしあなたがあなたの子どもを、よい人間に育てたいと思っているなら、(当然だ
が……)、まず、自分の身のまわりの、ごく簡単なことから、身を律したらよい。「あとで
……」とか、「明日から……」というのではない。今、この瞬間から、すぐに、である。

 この瞬間からすぐに、

 ウソをつかない。
 人と誠実に接する。
 約束やルールは守る。
 自分に正直に生きる。

 たったこれだけのことだが、何年かたって、あるいは何十年かたって、今のこの時を振
りかえってみると、この時が、子育ての大きな転機になっていたことを知るはず。

 ただし……。私は生まれが生まれだから、こういうことは、あえて努力しないと、でき
ない。ふと油断すると、ウソをついたり、自分を偽ったりする。へつらったり、相手の機
嫌をとったりする。そういう自分から早く決別したいと思うが、それが、なかなかむずか
しい。

 がんばろう! がんばりましょう! 父親の役割というのは、そういうもの。
(父親の役割・行動の限界設定)
(040222)

(3)心を考える  **************************

【読者の皆さんからの質問に答えて……】

 毎週、たくさんの方から、質問や相談をいただきます。手紙やメールの内容を、直接引
用することはできませんので、ここではテーマとして、皆さんの質問や、相談を考えて見
ます。それぞれのお立場で、参考にしていただければうれしいです。

++++++++++++++++++++++

●子どもは、母親が育てる

 時間が許すかぎり、子どもは、母親が育てる。これは、子育ての大原則である。「父親で
はだめか?」という議論もあるが、母親がいるなら、母親が育てる。

 たとえば生後6か月ほどまで母親が育て、そのあと、何らかの事情で、母親から切り離
された子どもがいる。生後6か月というと、(顔見知り、後追い)が始まる時期でもある。

 この時期、母親と切り離された子どもは、「周囲との接触を拒否する。睡眠障害。体重減
少。緩慢動作などの症状を示す」(スピッツ)ということがわかっている。

 さらに切り離しが、3か月以上におよぶと、「外界からの刺激に反応しなくなる」(同ス
ピッツ)そうだ。

 この時期の母子関係が、いかに重要かが、これでわかる。

 そこで「保育園はどうか?」という問題がある。今では、職業をもつ女性が多くなり、
中には、生後まもなくから、子どもを、保育園や保育所へ預けるケースが目立つ。

 結論から言えば、最低でも、生後2年間は、母親が主体となって、子どもを育てる(W
HO)。保育園や保育所へ子どもを預けるのは、できるだけ最小限にしながら、同時に、子
どもの心のケアをしっかりとする。

 ポイントは、子どもの側からみて、親の愛情に不安をいだかせないようにすること。つ
まり絶対的な安心感を与えるようなくふうをする。「絶対的」というのは、「疑いを、まっ
たくいだかない」という意味である。

 会ったときに、ぐいと抱くとか、あるいは子どもがスキンシップを求めてきたら、それ
にていねいに応じてあげる、など。

 この時期、母子関係が不安定になると、子どもは、「不安」を基底としたものの考え方を
するようになる。生涯にわたって、精神状態が不安定になることもある。

 子どもの心というのは、親(とくに母親)の絶対的な愛情に包まれて、はじめて豊かに
はぐくまれる。「どんなことをしても守られる」「どんなことをしても許される」という安
心感が、子どもの心を伸ばす。


●基底不安

 「何をしていても、不安だ」「だれとあっても、心配でならない」「たまの休みになって
も、考えるのは、仕事のことばかり」……という人は、少なくない。

 すべての生きザマの基底に、不安がある。こういう不安感を、「基底不安」という。その
原因は、乳幼児期の、母子関係の不全と考えてよい(フロイト理論による)。

 乳幼児期に、母子の間で、絶対的な信頼関係を結べなかった子どもは、精神的なより所
を失う。その結果として、不安を基底とした、生きザマを身につけてしまう。

 もっとも、母子といっても、「子」に原因があるわけではない。「母親」のほうに原因が
あると考えてよい。

 無視、冷淡、拒否的態度、暴力、虐待など。あるいは母親自身が、心を開けないケース
もある。子どもの側から見て、安心して、自分をさらけ出すことができないという不安感
が、そのまま、ここでいう基底不安の原因になる。

 ウンチをしても、オシッコをしても、わがままを言っても、すべて許されるという安心
感が、子どもの心をはぐくむ。仮に親が子どもを叱るときでも、それがある一定のワクの
中に収まっていれば、問題は、ない。(ワクを超えて、子どもに恐怖感や絶望感を与えるよ
うな叱り方は、タブー。)

 言うまでもなく、母子の信頼関係は、(完全なさらけ出し)と、(完全な受け入れ)が基
本となって、その上に築かれる。


●赤ちゃんでも目が見える

 ついでに、生後直後の赤ちゃんは、目が見えないと言われていた。しかしそれは誤解で
ある。一説によると、生後10分ほどで、赤ちゃんは、目でものを見る能力を身につける
という。そしておとなの私たちが想像する以上に、濃密に、まわりの情報を、記憶してい
るという。

 見たものだけではない。五感を通して入ってくる、あるとあらゆる情報を、である。

 こうして赤ちゃんは、つぎに自分が親になったとき、赤ちゃんにどう接すればよいかを
学んでいく。言いかえると、この時期、人間の手を離れて育てられた子どもは、将来、自
分では子育てができないと考えてよい。

 それだけではない。

 野生児(生後まもなくから、人間の手を離れて、野生で育てられた子ども)は、言語能
力のみならず、人間らしい感情すら、失ってしまうという。インドやフランスで見つかっ
た野生児が、そうだった。

 そんなわけで、新生児や乳幼児に記憶がないというのは、ウソ。

 記憶は、記銘(脳にきざまれる)→保持(その記憶を保つ)→想起(思いだす)という
メカニズムを経て、外に取り出すことができる。新生児や幼児の記憶は、想起できないと
いうだけで、脳にしっかりと、きざまれている。

 この時期の子育ては、「人間の基本を作っている」と考え、もっと、慎重にしたらよい。


●空の巣症候群

 子どもが巣立ったあと、心の中にポッカリと穴があいてしまい、うつ症状を訴える人が
いる。こうした状態から生まれる、一連の症状を、「空の巣症候群」という。

 うつ病の一形態ということになっている。

 それまで子育てを生きがいにし、懸命に子育てをしてきた人ほど、なりやすい。

 症状としては、言いようのない不安感、恐怖感、抑うつ状態、不眠、頭痛、早朝覚醒、
便秘、下痢など。感情の起伏がはげしくなったり、反対に鈍化するなど。

 その前の段階として、(拒絶)→(抵抗)→(落ち込み)という経過をたどることが多い。
ある母親は、自分の息子(中三)が初恋をしただけで、狂乱状態になった。そしてその息
子の通う塾の先生に頼んで、息子と彼女を引き離そうとした。これはここでいう(拒絶)
と(抵抗)の段階と考えてよい。

 その時期が一巡すると、その無力感から、ここでいう「空の巣症候群」を示すようにな
る。

 子育ては子どもを自立させることが目標だが、同時に、自分自身をも自立させることを
忘れてはならない。


●山荘にて……

 2月X日。H町での講演会のあと、この山荘に回る。途中、Xというレストランで食事
をする。おいしかったが、量が少なかった。山荘へつくやいなや、雑炊と作って食べる。
が、今度は、食べ過ぎ。とたん、眠くなる。

 居間の座椅子にすわったまま、居眠り。まさに「居眠り」。途中、太陽の光線を熱く感じ
て、目をさます。気持よかった。

 何か夢を見ていたよう。しかし今、どうしてもその内容を思い出せない。

 私にとって、夢は、いわば短編の映画のよう。ときどき、夢そのものを楽しむ。夢が見
たくて、わざと居眠りすることもある。

が、がんばって体を起こす。一度、ワイフをさがして、再び、居間へ。ワイフは、コタ
ツに入って、テレビを見ていた。

雨戸を半分しめて、太陽の光線を、さえぎる。外は、すっかり春の陽気。春霞(がすみ)
なのか。風にそよぐ木々の葉が、どこか白っぽい。さあ、これからが、山荘ライフ、本
番!

 とりあえずしなければならないこと。

(1)屋根の上の枯れた木の枝を取り除くこと。
(2)トイレのタンクの清掃。
(3)西側斜面の草刈り。

 いろいろある。そうそう庭にたまった枯れ枝の始末もしなければならない。毎年今ごろ
は、杉の木の枯れた枝が、あたり一面に落ちてくる。それにもちろん枯れた葉も。今年は
まだ、一度もしていない。つまり、清掃を、一度もしていないということ。私も、なまけ
ものになったものだ。「今度やろう」「今度やろう」と思いつつ、もう2月も終わり。

 来週は、絶対にやるぞ! ……そう、心に誓って、帰りじたくを、始める。時刻は、4
時を少し回ったところ。

 そうそう山荘の電話をどうしようかと、迷っている。ほとんど使っていない。それに今
は、携帯電話をもっている。

 ワイフに相談すると、「基本料金だけの1600円程度」とのこと。

 ついでに必要経費を計算してみる。

電気代は、月に2000〜3000円。ガス代も、月に2000〜3000円。水道は、
Kさん(地主)に毎月2000円を、謝礼で払っている。そんなわけで、電話代を入れ
て、ちょうど、1万円弱。

今日のようにレストランで食事をすると、結構、お金がかかるが、今日は、特別。山荘
で自炊すれば、一回の食事代は、質素な家庭料理と同じくらい。私たちは、400〜5
00円の弁当を、二人で分けて食べている。つまり全体としてみると、かえって安あが
りになるのでは。休みになるたびに、「どこへ行こうか」と、迷う必要もない。

 こうした生活様式は、私が、オーストラリア留学時代に学んだもの。向こうの人たちは、
そのほとんどが、別荘をもっている。週日は街の中で仕事をし、週末は、別荘で過ごす。
それがかれらの標準的な生活様式になっている。

「別荘」というと、ぜいたく品のように思う人が多いと思うが、そんなにぜいたくな家
ではない。質素な建物が多い。ただ環境は、すばらしい。海が一望できるような海沿い
に、それがあったりする。私も学生時代、それを見ながら、「いつかぼくも……」と思っ
た。その結果が、今の山荘ライフである。

 で、改めて考えてみた。

 都市で働く人は、最低限の生活ができるだけのマンションかどこかに住む。もちろん交
通の便などが、よいところがよい。

 そして週末は、郊外の別荘で生活をする。

 私の知っている人の中には、すでに何人か、そういう生活を実行している人がいる。中
には、奥さんと子どもを、ニュージーランドに住ませ、自分は、毎週、日本とニュージー
ランドの間を往復している人もいる。「航空運賃を入れても、そのほうが、日本で生活する
よりも、安くできます」と、その人は言っていた。

(ただしこの話を聞いたときは、1ドルが40円程度のころ。今は、1ドルが80円く
らいになってしまったから、かなり事情が変わったかもしれない。)

 子どもが小さいうちに、こうした二重生活を始めるのがコツ。子どもが中学生くらいに
なると、もう山荘には、興味をもたなくなる。

 反対に子どもが小さいうちは、それこそバンガローでも、子どもたちには天国。一つだ
けアドバイスするとしたら、こんなことがある。

 土地や古家を郊外に求めるときは、いざとなったら、すぐ売れるような物件をさがすこ
と。そうでないと、結局は、お金を失うことになる。つまり「売りやすい土地や古家を買
う」ということ。いらぬおせっかいかもしれないが……。


●『エデンの彼方へ』を見る

 アメリカがもっとも栄えた、アメリカンドリームの時代。1960年代、後半。幸福の
絶頂にあると見える夫婦に、深刻な危機が、ある日突然、訪れる。

 夫が、同性愛に目覚める。それを知った妻は、その乾いた心といやそうと、黒人の庭師
と親しくなる。そしてお決まりの誤解と偏見。

 しかし夫婦はやがて破局を迎える。夫は、愛人(男性)との同居を決める。妻は、ます
ます黒人男性に、ひかれていく。

 実にスローテンポの、どこかかったるいホームドラマ風のビデオ。私の評価は、★★(五
つ星が、満点。)ワイフの具合がよくないので、ホットケーキを焼きながら、見るともなし、
見ないともなしという状態で見た。

 二男に、いつか、こう聞いたことがある。「(アメリカの)C市では、人種差別はないの
か?」と。

 すると二男は、いともあっさりと、「あるよ」と言った。

 アジア人は、その黒人より、下に見られている。少なくとも、人種偏見主義者は、そう
位置づけている。

 ビデオの内容より、むしろそんなことを、別の頭で考えながら、見る。

 「マジソン郡の橋みたいね」とワイフは言ったが、『マジソン郡の橋』のような、わかり
やすい感動は、覚えなかった。その『マジソンの橋』は、★★★★★。

私「このあと、アメリカは、ベトナム戦争を経験する。そのベトナム戦争でつまずいたあ
と、ヒッピー運動にみる、文化の大変革が始まる。同時にアメリカンドリームの時代は、
終えんする」と。

 あまりにもリッチな、あまりにも、どこか現実離れした、そんな世界でのできごと。ア
メリカらしい風景を楽しみながら、「どこもよく似た町だな」と思いながら見る。それだけ。
見終わったあとの感想は、★一つ。(少しきびしいかな。ワイフの評価は、★★。)

 何となく、時間をムダにした感じ……。


●親戚づきあい

 三重県に住む、KM氏(53歳)から、こんな相談があった。

 「もう15年以上も、音信のなかった従兄(いとこ)から、突然、電話。『息子が結婚す
るから、結婚式に出てほしい』と。

 15年前に、親族の遺産トラブルが原因で、私のほうは、縁を切ったつもりですが、そ
の従兄は、私の気持を、理解していないようです。あるいはとぼけているだけなのかもし
れません。

 私は親戚づきあいにこだわっていません。またその息子さんにも、会ったこともありま
せん。しかし従兄は、どこか古風な人で、そういうことにこだわるタイプです。

 先生なら、こういうときどうしますか?」と。

 いまだに、結婚式を、(家)と(家)の結婚式と考えている人は、多いですね。本来、結
婚式というのは、一人の花婿と一人の花嫁のためにするものです。それを祝うのが、両親
であり、家族ということになります。

 しかしこれも一つの価値観にすぎません。相手の人には、相手の価値観があります。こ
ちらは、「ムダ」と思っていても、相手は、そうは思っていません。これはいわば、宗教戦
争のようなものです。脳のCPU(中央演算装置)がからんでいるだけに、ことは簡単で
はありません。

 大切なことは、あなたがどこまで妥協するか。妥協できるかという問題ですね。くだら
ないと思えば、欠席すればよいでしょう。さらにくだらないと思えば、相手をのんだうえ
で、出席すればよいでしょう。もともと、深刻に考えねばならない問題でも、ないようで
す。

 はっきり言えば、どうでもよい問題です。

 しかし出席したくない気持も、私には、よく理解できます。そのあたりの微妙な気持が
私にはよくわかりませんので、これ以上のことは、ここに書くことはできません。

 今、若い人たちを中心に、考え方が二極化しているようです。こうした結婚式は必要だ
と考える人。必要ないと考える人です。本来なら、そうしたあり方は、結婚する当人たち
が決めればよいわけです。

 しかし私の実感としては、「式」には、親族のジジババ族が、顔を出してもよいと思うの
ですが、あの「披露宴」にまで出席するのは、必要ないと思います。ジジババ族は、飾り
にもなりません。若い人たちにとっても、ジジババ族は、かえっていないほうが、よいの
ではないでしょうか。

 結婚式に出るたびに、そう思います。

 あえて言うなら、日本人は、ムラ社会が好きなんですね。みんながみんなに依存しあい
ながら、仲よく生きていく。長いものには巻かれ、出る釘はたたきながら、みんなで、い
っしょに橋を渡る。そうすればこわくない。「和」をもって尊しとなす。そんな生きザマで
す。

 言いかえると、あなたが言う「古風な人」というのは、そういう依存型社会を肯定する
人たちのことを言います。だからこの際ですから、その従兄氏が、どのような考え方をし
ているか、観察してみるのも、おもしろいのではないでしょうか。「相手をのむ」というこ
とには、そういう意味も含まれます。

 恐らく相手の従兄の方は、あなたとの和解を望んでいるのではなく、結婚式でのハク付
というか、自分を飾るために、あなたに声をかけたのでしょう。見栄や世間体を重視する
人は、家族や親類を、平気で利用しますから。とくに権威主義的なものの考え方をする人
は、そうです。

 私の意見としては、「親戚づきあい」にこだわるのではなく、もっと、自分の正直に生き
たらよいと思います。いえ、あなたが、ではなく、日本人全体が、です。日本人は、とも
すれば、自分をねじまげてでも、親戚づきあいを優先します。

 それがよいのか、悪いのか? この問題は、日本の文化そのものにかかわる問題なので、
あとは、個々別々に考えて判断するしかないかもしれませんね。

 まったく回答になっていません。ごめんなさい。ただ言えることは、今、あなたの生き
ザマが、問われているということ、です。(少し大げさかな?)何かの結論が出たら、また
教えてください。
(040222)


●東京のMSさんより

 東京都にお住まいの、MSさんより、こんなメールが届きました。掲載の了解をいただ
きましたので、紹介させていただきます。

++++++++++++++++++++

ここのところ、「異常な負けず嫌い」「ひとりっこの育て方」を、たて続けにマガジンで
取りあげていただきありがとうございました。

両方に共通して言えることは、「笑って、許して、忘れる、そして子どもを使う」ですね。
10歳くらいまで、やり過ごすことにしました。

私の力がここのところぬけてきたのが通じたようで、娘も「かたまった」としても、5
分くらいで気持ちを泣きながら話してくれるようになりました。

私のほうで、「ママは、あなたが悪い子しちゃっても、許して忘れるママになるよ」と宣
言もしました。以前の私からは想像できなかったようで、娘も一週間くらい、信じてく
れませんでした。

何回か、実現するうち、少しずつ、伝わりはじめたかも。先生がマガジンで「年単位で
 ファミリスと有料マガジン、申し込みました。

これからはやし先生ワールドが、どんどん我が家に浸透すると思うと、日々の生活が前
向きに、明るくなってきます。

 私の夢は先生の講演会を聞きに行くことです。

では先生、お仕事やマガジンの発行でお忙しいとは思いますがお体お大切に。

                         東京都MSより

++++++++++++++++++++

【MSさんへ……】

 責任重大ですね。これからも体と脳ミソの健康にじゅうぶん注意しながら、がんばりま
す。ホント! MSさんからメールを、いただいて、またまたズシリと、大きな宿題を与
えられたような感じです。

 もともと私は、偉そうなことを言うくせに、気が小さいのです。もしMSさんに、まち
がったことを言ってしまったら、どうしようかと、正直なところ、それを考えたら、心が
重くなりました。

 ここで「脳ミソの健康」という言葉を使いましたが、本当にそうですね。

 この脳ミソというのは、すぐ病気になってしまいます。自分が病気になるのは、かまわ
ないのですが、それでまちがったことを言ってしまったら、たいへんです。あとで、その
脳ミソの病気について書いてみます。

 いえね、以前、私の所属する寺に、何だかんだと、顔を出していたときのこと。そこへ、
ですね。それはそれは、ものすごい形相の女性が、ときどき来ていました。私が40歳く
らいで、その女性は45歳くらいでした。

 その女性にキリッとにらまれると、あたりがシーンと静まりかえってしまうのです。で、
その女性がですね。ときどき、わけのわからないことを口にするのです。

 「仏の道は、天道の分かれ道……」とか、何とかね。

 私は、正直に告白しますが、その女性のことを、たいへんな人だと思ってしまいました。
高徳で、ひょっとしたら仏の……?、ともです。で、その女性が口にする言葉を、あれこ
れ考えてみたのですが、やはりよく意味がわかりませんでした。

 しかしそれは私の不勉強が理由だと思っていました。

 が、ある日のこと。その寺の僧侶に、恐る恐る、「あの女性は、どういう人ですか?」と
聞いてみました。

 そしたら僧侶が、こう話してくれました。「林さん、あの女性は、相手にしてはダメだ。
あの女性はね、近くの精神病院からときどき勝手に抜け出して、この寺に来ているのです」
と。

 脳ミソの健康というのは、そういうことを言います。たいへんきわどい話なので、これ
以上のことは書けませんが、要するに、そういうことです。

 脳ミソの健康を守るためには、ごくふつうの人として、ふつうの生活をすることが大切
です。音楽を聞いたり、散歩したり、人と話したり、できれば若い人や、子どもたちと接
する。

 そういうふうに、ごくふつうの人として生きることで、脳ミソの健康は保たれます。

 おかしな人とは、つきあわない……ということも、大切です。……と言っても、おかし
な人と、そうでない人を見分けるのも、むずかしいですね……。

 私のばあい、自分の常識を信じます。そのために、いつも自分の常識をみがきます。本
を読んだり、ビデオを見たり……。恩師のT先生は、「いつもトップクラスの人とつきあえ」
と言っています。

 しかし私には、そういう環境がありません。(T先生のばあい、天皇陛下自身ともお知り
あいで、私など、とてもまねできません。ホント!)

 ですからやはり、本を読んだりするしかありません。しかしね、MSさん。実は、もっ
とすばらしい先生がいるのですね。すぐそばに……。

 それが子どもたちです。

 私たちはともすれば、「たかが子どもではないか……」と思いがちですが、それはとんで
もない誤解です。

 人間が本来的にもつ、心の純粋さ、美しさは、実は、子ども自身がもっているのですね。
私たちはおとなになるにつれて、知識や経験をもちますが、同時に、もっと大切なものを
なくしていきます。そのなくしたものを教えてくれるのが、子どもたちということになり
ます。

 あとはそれに謙虚に耳を傾ければよいということになります。

 「あとで脳ミソの病気について書く」と書きながら、脳ミソの病気について、書いてし
まいました。

 最後に、私の好きな詩を、MSさんに送ります。

 ワーズワースという詩人が書いた詩です。
 なおつぎの原稿は、以前、中日新聞に掲載してもらった記事です。
+++++++++++++++++++++

●子どもは、人の父

イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌っている。

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。原文では、「The
 Child is Father of the Man. 」となっている。

この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。

ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。詩
の流れからすると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「その人の人格は、子
ども時代に形成される」と解釈したが、これには二つの意味が含まれる。

一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、
人はいくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。

誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だ
が、決して、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、
純粋で、豊かである。しかも美しい。

人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。知識や経験という雑
音の中で、俗化し、自分を見失っていく。私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな
事件がある。

 ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、と
てもていねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ご
くろうさん」と書き添えた。

が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はて
っきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうして泣
くのかな?」と聞きなおすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、
ごくろうっていう名前じゃ、ない。たくろう、ってんだ」と。

 もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。も
し人が子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。
ワーズワースは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、
子どものころの感動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。

「子どもは人の父」と。

私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているよ
うに思う。
(040220)

(4)今を考える  **************************

●疑問

 都会に住む子どものばあい、その学年になると、三つや四つの受験は、当たり前。高校
生ではない。中学生でもない。小学生である。

 まだ社会のしくみもよくわからない小学生が、三つも四つも、中学入試を経験する。中
には、五つとか六つとか……そういう子どももいる。

 それでどこかの学校に合格できればよいが、できなかったら、どうする? 親はそれで、
「うちの子は、勉強に向いていない」と、あきらめるだろうか。

 しかし実際には、そうして子どもを受験勉強にかりたてた親ほど、あきらめない。「まだ
何とかなる」「つぎがある」、無理に無理を重ねる。

 しかし少しは、子どもの立場で考えてみたらよい。

 その時点で子どもの心は、ボロボロ。そういった状態になりながらも、なおかつ、親か
ら、「勉強をつづけなさい」と、言われたら、いったい、子どもは、どうすればよいのだ。

 身近でも、中学入試に失敗した子どもがいる。二つの入試で失敗したあと、戦意喪失。
やる気をなくしたのは当然だとしても、このところ、心が荒れ始めた。家の中だけならと
もかくも、そうした「荒れ」が、外の世界でも出てくるようになると、心配。子どもの心
は、一挙に荒廃する。非行に走るようになるのは、もう時間の問題。

 子どもを受験させるのは、親の勝手だが、しかし、失敗したあとのことも、少しは考え
てほしい。

 以前、こんな中学生がいた。ここ一番、というときになると、決まって、それを避けて
しまうのである。自信がないというか、逃げ腰というか。

 そこで私がある日、こう聞いた。「どうしてがんばらないのか?」と。するとその女の子
は、こう言った。「どうせ私、S小学校の入試で落ちたもん」と。

 その女の子は、その六、七年前に小学入試で失敗したことを、そのときもまだ、気にし
ていた。そういう後遺症も残る。

 子どもの勉強をみるとき、親は、子どもの成績しかみないが、もっと大切なことは、子
どものもつ限界を知ることである。あなたがごくふつうの人(失礼!)であるように、子
どもも、またごくふつうの子どもである。

 あなたに限界があるように、子どもにも、限界がある。

 ふつうであることが悪いのではない。ふつうであることは、すばらしいことである。そ
ういう視点で、もう一度、あなたの子どもを、ながめてみる。

 ずいぶん前の話だが、こんなこともあった。

 その子どもは、四歳から五歳にかけて、かなり深刻な心の問題をかかえた。で、それが
何とか収まり、幼稚園へもふつうどおりに通うようになった。ふつうなら(……こういう
いい方は適切ではないのかもしれないが……)、小学入試どころではなかったはずだった。

 しかしその子どもが回復したとたん、(本当は完全に回復したのではなかったが……)、
親は今度は、小学入試に狂奔し始めた。私はそのときほど、「親」が、わからなくなったと
きはない。

 「親って、そういうものかなあ」と思ってみたり、「どうしてそういう心理になれるのか
なあ」と思ってみたりした。あるいは、「子どもが病気になったことで、この親は、いった
い、何を学んだのか」と。日本の受験制度は、それ以上に、親の心を狂わせるということ
か。

 もともとその「力」のない子どもに、はじめから不合格がわかっている試験を受けさせ
ることほど、酷なことはない。

 そういう意味でも、子どもの勉強をみるときは、どう伸ばすかということに合わせて、
子どもの限界を知る。あとは、それを受け入れ、謙虚に、それに従う。それは子どもの受
験戦争をみるときの、鉄則でもある。

【付記】

 私は、だからといって、受験勉強を否定しているのではない。大切なことは、子ども自
らが、前向きに勉強するようにもっていくこと。そしてその結果として、子どもが「がん
ばる」と言ったら、それはそれとして、つまり親として、応援する。それは当然のことで
はないか。

 私も、三男が、今のY大学を中退して、M航空大学を受験すると言いだしたとき、こう
言った。「受験するならするで、きちんと予備校へ通え」と。

 三男は、学費も高いこともあって、最初は、それをこばんだ。「自分で勉強するからいい」
と。学費は、半年で、40万円ほどだった。私にも、決して楽な額ではなかった。

 しかし心のどこかで、それは親の義務のように感じた。子どもが前に進むと言ったら、
その前の雑草は、取り除いてやる。しかし子どもが望みもしないのに、雑草を取り除いて
やり、そちらへ進めと、子どもに命令するのは、まちがっている。

 小学受験はもちろんのこと、中学受験くらいのことで、子どもたちがワイワイと話題に
しているのを見たりすると、私は、「これでいいのかなあ?」と思う。まるでゲームの世界
のよう。異常な世界なのだが、その異常さがわからないほど、今の日本の子育ては狂って
いる。

 いつか、その狂いに、日本人が気がつくときが、やってくればよいのだが……。
(040221)

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    どうか、みなさん、お元気で!
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. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.         ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 8日(No.370)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page042.html
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子どもは、人の父

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

(イギリスの詩人・ワーズワース)

(1)子育てポイント**************************
子どもとの笑い

 いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。

☆ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。そこで私が「先
生(私)を好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思ったか、腕組
みをして私をにらみつけた。

「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「どうして手をあげないの?」と
聞くと、「だって、私、先生が好きなんだもん」と。マレにですが、私も子どもに好かれ
ることがあるのです。

☆私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。全部で何匹ですか?」と聞
くと、皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。そこで私が電卓を取り出して、「ええと、
三足す二で……」と電卓を叩いていたら、一人の子どもがこう言った。「あんた、それ
でも本当に先生?」と。

☆指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。そこで私が、「どうせ指をしゃぶるなら、
もっとかっこよくしゃぶりなよ。おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言って、少し
ばかりキザなしゃぶり方(指を横から、顔をななめにしてしゃぶる)を教えてやった。す
るとその子は、本当にそういうしゃぶり方をするようになった。私は少しからかってやっ
ただけなのだが……。

☆私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。あるとき私に「ジジ
イー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。「もっと悪い
言葉を教えてやろうか。しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いいな」と。子ども
たちは「使わない、使わない」と約束したので、こう言ってやった。「ビダンシ」と。それ
からというもの、子どもたちは私を見ると、「ビダンシ、ビダンシ」と呼ぶようになった。


☆算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四男
児)が、「三角関係!」と。ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二人で、女
が一人の関係だよ」と。すると別の子どもが、「違うよオ〜、女が二人で、男が一人だよオ
〜」と。とたん、教室が収拾がつかなくなってしまった。私が、「今どきの子どもは、何を
考えているんだ!」と叱ると、こんな歌を歌い始めた。「♪今どき娘は、一日五食、朝昼三
時、夕食深夜……」と。「何だ、その歌は」と聞くと、「先生、こんな歌も知らないのオ〜、
遅れてるウ〜」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしい
ときはうれしいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をその
ままぶつけることができる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。

 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳くらい)がいきなり私にこう聞
いた。「林君、君のワイフは、君の前で『へ(おなら)』を出すかね?」と。驚いて私が、「う
ちの女房はそういうことはしないです……」とあわてて答えると、そばにいた人たちまで
一斉に、「そりゃあ、かわいそうだ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。

 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。
子どもが悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使え
ないほどまでに、子どもを追いつめてはいけない。

一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に心を開いているのだ」と、それ
を許す余裕が必要である。子どもの側からみて、「自分はどんなことをしても、またどん
なことを言っても許されるのだ」という絶対的な安心感が、子どもの心を豊かにする。
 
そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを
受け止める「開いた心」がないと、かよいあわないということ。子どもが心を開いたら、
同じように親のほうも心を開く。それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなもの
だ。どちらか一方が、心の窓を閉じていたのでは、心を通いあわせることはできない。
R氏(四五歳)はこう言う。

「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言います。親のメンツにこだわって、あれこ
れ世間体をとりつくろいます。私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもそ
の本音が母の心のカベにぶつかって、そこではね返されてしまいます。私もさみしいで
すが、母もかわいそうな人です」と。

 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。
そして同じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めている
かということ。

もしあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソを
ついたり、さらには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた
自身のことを反省する。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、
相手の心をそのまま受け入れなければならない。またそれでこそ、親子であり、家族と
いうことになる。

 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまり
ぼくの前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えて
こう言った。「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だ
と思うわ」と。まあ、世の中にはいろいろな考え方がある。

(2)今日の特集  **************************

【虐待】

●虐待にもいろいろ

 一般論として、子どもに虐待を繰りかえす親は、自分自身も、虐待を受けた経験がある
といわれている。約50%が、そうであるといわれている。

 その虐待は、暴力だけにかぎらない。

 大きく、この(1)暴力的虐待のほか、(2)栄養的虐待、(3)性的虐待、(4)感情的
虐待に、分けられる。暴力的虐待は、肉体的虐待、言葉の虐待、精神的虐待に分けられる。

 順に考えてみよう。

(1)肉体的虐待……私の調査でも、約50%の親が、何らかの形で、子どもに肉体的な
暴力をバツ(体罰)として与えていることがわかっている。そしてそのうち、70%の親
(全体では35%の親)が、虐待に近い暴力を加えているのがわかっている。

 日本人は、昔から、子どもへの体罰に甘い国民と言われている。

 「日本人の親で、『(子どもへの)体罰は必要である』と答えている親は、70%。一方
アメリカ人の親で、『体罰は必要である』と答えている親は、10%にすぎない」(村山貞
夫)という調査結果もある。

 体罰はしかたないとしても、たとえば『体罰は尻』ときめておくとよい。いかなるばあ
いも、頭に対して、体罰を加えてはいけない。
 
(1−2)言葉の虐待……「あなたはダメな子」式の、人格の「核」に触れるような言葉
を、日常的に子どもにあびせかけることをいう。

 「あなたはバカだ」
 「あなたなんか、何をしてもダメだ」
 「あんたなんか、死んでしまえばいい」など。

 子どもの心は、親がつくる。そして子どもは、長い時間をかけて、親の口グセどおりの
子どもになる。親が「うちの子はグズで……」と思っていると、その子どもは、やがてそ
の通りの子どもになる。

 しかし言葉の暴力がこわいのは、その子どもの人格の中枢部まで破壊すること。ある男
性(60歳)は、いまだに「お母さんが怒るから」「お母さんが怒るから」と、母親の影に
おびえている。そうなる。

(1−3)精神的虐待……異常な恐怖体験、過酷な試練などを、子どもに与えることをい
う。

 ふつうは、無意識のうちに、子どもに与えることが多い。たとえば子どもの前で、はげ
しい夫婦喧嘩をして見せるなど。

 子どもの側からみて、恐怖感、心配、焦燥感、絶望感を与えるものが、ここでいう精神
的虐待ということになる。

 子どもの心というのは、絶対的安心感があって、その上で、はじめてはぐくまれる。そ
の基盤そのものが、ゆらぐことをいう。

(2)栄養的虐待……食事を与えないなどの虐待をいう。私自身、このタイプの虐待児に
ついて接した経験がほとんどないので、ここでのコメントは、割愛する。

(3)性的虐待……今まで、具体的な事例を見聞きしたことがないので、ここでは割愛す
る。

(4)感情的虐待……親の不安定な情緒が与える影響が、虐待といえるほどまでに、高じ
た状態をいう。かんしゃくに任せて、子どもを怒鳴りつけるなど。

 『親の情緒不安、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。少し前だが、こんな事例
があった。

 その母親は、交通事故をきっかけに、精神状態がきわめて不安定になってしまった。し
かし悪いときには、悪いことが重なる。その直後に、実父の他界、実兄の経営する会社の
倒産と、不幸なできごとが、たてつづけに、つづいてしまった。

 その母親は、「交通事故の後遺症だ」とは言ったが、ありとあらゆる体の不調を訴えるよ
うになった。そしてほとんど毎日のように病院通いをするようになった。

 その母親のばあいは、とくに息子(小2)を虐待したということはなかった。しかしや
がて子どもは、その不安からか、学校でも、オドオドするようになってしまった。先生に
ちょっと注意されただけで、腹痛を訴えたり、ときには、みなの見ているところで、バタ
ンと倒れてみせたりした。

 このように精神に重大な影響を与える行為を、虐待という。暴力的虐待も、暴力を通し
て、子どもの精神に重大な影響を与えるから、虐待という。

 この虐待がつづくと、子どもの精神は、発露する場所を失い、内閉したり、ゆがんだり
する。そしてそれが心のキズ(トラウマ)となって、生涯にわたって、その子どもを苦し
めることもある。
(040220)

++++++++++++++++++++

以前、つぎのような原稿を書きましたので
送ります。(中日新聞投稿済み)

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●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で
幼稚園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震
わせていました」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかな
かったのだろう。その子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。
 
カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完
ぺき主義、(3)代償的過保護。ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来
の過保護ではなく、子どもを自分の支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴ
に基づいた過保護をいう。

その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに
強迫されているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールがで
きない)などの症状を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の
子でした。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分
その男の子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもって
いる。(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっ
ている。(4)親が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、
の四つをあげている。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。
I氏のケースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、
殺す寸前までのことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心に
も深いキズを負う。学習中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動
物のようなうめき声をあげて、近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほう
がよい。教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単
ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してや
る」と脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断
で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるとい
う認識を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつ
か私はこのコラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。

子どもが虐待されているのを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」
という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよい
でしょう。そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。

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【付録】

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有
効回答五〇〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどき
ある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、
「虐待なし」が、六一%であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年ま
での八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七
七二五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。

虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実母が三八二一件で、全体の八二・七%。また
虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三七件。三歳から就学前までが、一八六
七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%となっている。

(3)心を考える  **************************

●頭のよい子ども

 頭がよい子どもというのは、たしかにいる。しかしそういう子どもは、ズバ抜けて、頭
がよい。ふつうの頭ではない。「ズバ抜けて」だ。

 それはそのとおりだが、しかし問題は、それにつづく子どもたちである。頭はよい。し
かしズバ抜けてというほどではない。成績はよいが、しかしそれは、努力によるところが
大きい。そういう子どもたちである。

 よく能力平等論を説く人がいる。「人間のもつ能力は、平等である」と。「それぞれの子
どもには、それぞれ特有の能力が、総じて、平等にある」と。

 それもそのとおりだが、しかしこと、受験勉強という世界においては、平等ではない。
たとえば数学にせよ、英語にせよ、頭のよい子どもは、努力というものをほとんどしなく
ても、スイスイと理解し、受験競争を、通り抜けていく。

 一方、そうでない子どもは、いくら努力をしても、学校の勉強についていくだけで、精
一杯。実際には、ついていくことさえできない。

 このときも、問題は、ここに書いたように、ほどほどに頭はよいが、それほどでも……
という子どもたちである。親がそれに早く気づけばよいが、そうでないと、過剰期待や過
負担から、このタイプの子どもは、すぐオーバーヒートしてしまう。

 もっとも、オーバーヒートする程度なら、それほど問題はないが、その過程で、その子
どもは、もがき、苦しむ。そのため、ときには、情緒や、精神に、深刻な影響を与えるこ
ともある。もしそうなれば、それこそ、家庭教育の大失敗というもの。

 そこであなたの子どもについてだが、あなたの子どもは、つぎのどちらのタイプだろう
か。

(1)たびたび学校の先生でさえ舌を巻くほど、鋭い切れを示す。学校の勉強にしても、
簡単すぎて、話にならないといったふう。幼いときから、「できて当たり前」と、周囲の人
たちにも、一目置かれていた。

(2)学校の成績は、悪くない。いつもコツコツと努力をしているようだ。勉強は嫌いで
はなさそうだが、教えてもらったことは、そこそこにできる。しかし教科書から少し離れ
た問題だと、歯がたたない。

 (1)と(2)のどちらに近いだろうか。もし(1)のほうなら、別の方法で、子ども
を伸ばす。(2)のほうなら、親の過剰期待、過負担を、ひかえめにする。……というふう
に、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に、指導法を決めてかかるのは、正しくないかもしれ
ない。

 しかし(2)のタイプの子どもほど、家庭教育で失敗しやすいのも、事実。

 一般論として、親が最初からあきらめているケース。子どもが親を超えて、はるかに優
秀であるばあい。この二つのケースについては、失敗は、ほとんどない。失敗するのは、
子どもが、その中間にいるときである。

 要は子どもの実力を、どのあたりで見定めるかである。言うまでもなく、正確であれば
あるほどよいが、しかしどこかに「無理」を感じたら、早目に手を引いたらよい。無理を
重ねれば重ねるほど、その反動として、失敗したとき、その被害も大きくなる。
(040219)

【追記】

 しかし実際には、親は、行きつくところまで行かないと、気がつかない。よくあるケー
スは、「まだ、何とかなる」「うちの子は、やればできるはず」「せめてもうワンランク上の
学校を……」と、無理を重ねるケース。

 親の期待が高い位置にある分だけ、親は満足しない。だから子どもには、知らず知らず
のうちに、「あなたはダメな子」式の、マイナスの働きかけを、かけてしまう。そしてその
結果として、親自身が、子どもが伸びる芽を摘んでしまう。

 こういう失敗は、今、本当に多い。少子化の時代になって、かえってこの種の失敗がふ
えたのではないか。警告の意味もこめて、この原稿を書いた。

(4)今を考える  **************************

●なまけのメカニズム

 こうしてぼんやりと、コタツの中に入っていると、身も溶かすような眠気が、時おり、
襲ってくる。そのまま夢の中に、吸いこまれるような眠気である。

 このとき、脳の中では、どういう現象が起きているのだろうか。感じとしては、セック
スが終わって、ほっと一息ついたとき感ずる、あの甘美な陶酔感に似ている。それほど、
ちがわない。脳の構造は、一見単純に見えて、複雑。複雑に見えて、単純。意外と、陶酔
感をつかさどる中枢は、一つなのかもしれない。

 このままコタツの中でうたた寝をしてしまえば、私は、なまけ者ということになってし
まう。

 そこで改めて、実験。この状態のとき、無理に体を起こして、居間まで行って、何かの
家事をしたらどうなるか……?


 と、言っても、この陶酔感を切り離すのは、容易なことではない。それはセックスをし
ている最中に、仕事の電話が入るようなもの。しかし脳の中枢には、快感を起こすメカニ
ズムはあるが、不快感を起こすメカニズムはないはず。

 が、それでは、実験にならない。

(この間、20分ほど。居間まで行ったら、ワイフが、ちょうど朝ごはんを出すところだ
った。新聞を読んで、朝ごはんを食べてきた。)

 本来なら、ここで不快感を起こすメカニズムが働いて、私は不快になっていなければな
らない。しかし、その不快感がない。……ということは、やはり、人間の脳の中には、不
快感を起こすメカニズムはないということになる。

 むしろ今、居間まで行って、新聞を読み、食事をしたことで、頭の中がスッキリとして
いる。気持ちがよいということはないが、とくに悪いということもない。

 そこでこんなふうに考えられる。

 陶酔感に溺れた状態を、「なまけ」という、と。

 ……ここまで書いて、ふと、頭の中で、こんなことを考えた。かなり飛躍した話になる
が、許してほしい。

 ラジコン飛行機を飛ばすときは、基本的には、3チャンネルで、操縦する。まずエンジ
ンの出力を決める。そのために1チャンネル。つぎに方向を決めるエルロンを操作する。
これが2チャンネル。つぎに飛行機の上下を決めるエレベーターを操作する。これが3チ
ャンネル。

 ところが子どものおもちゃでは、2チャンネルで、操縦するものがある。プロペラの回
転数を変えることによって、飛行機の上下を決める。これが1チャンネル。つぎに飛行機
の方向を決めるラダーを操作する。これが2チャンネル。

 が、何と、私が学生のころは、何と、ラジコンの飛行機を、1チャンネルで操縦してい
た。

 ボタンを、カチと1回押すと、右旋回。カチカチと2回押すと、左旋回。エンジンは、
成りゆきまかせ。上下も成りゆきまかせ。当時は、いかに風に乗せてうまく飛行機を飛ば
すか……というのが、ラジコン飛行機の操縦法だった。

 このラジコンの話と、陶酔感の話は、実は、関係がある。

 本来、人間の感情をコントロールするためには、二つの作用がなければならない。快感
と不快感である。

 しかし人間の脳は、快感を覚えるメカニズムはあるが、不快感を覚えるメカニズムはな
い。人間の脳は、快感のみによって、不快感も表現しなければならない。そこで人間の脳
は考えた。どうしたらよいか、と。

 私がコタツの中で、身も溶かすような陶酔感を覚えたとき、その陶酔感を切り離すのは、
容易なことではなかった。その「容易でない」と思うことで、脳は、不快感を表現しよう
とした。つまり「意思の弱さ」を利用した。

 陶酔感を覚えている状態は、脳の中で、モルヒネ様の物質が放出されている状態をいう。
それはここにも書いたように、気(け)だるいほど、甘美な陶酔感である。

 そこへ意思の力が、介入してくる。「この甘美な陶酔感は、ニセモノである。だから早く、
目をさませ」と。

 しかしこのとき、意思の強さは、それほど強くない。計算されている。あるいはこの甘
美な感覚は、意思そのものの力を弱くする。だからふつうの意思では、コントロールでき
ない。そのため人は、そのまま陶酔感に溺れてしまう。

 そこで最後の意思をふりしぼって、その陶酔感から逃れようとする。と、そのとき、相
対的に、逃れること自体が、不快に思われるようになる。それこそセックスをしていて、
これからクライマックスというときに、横で赤ん坊が泣き出すようなものである。

 つまり本来は、まったく不快でも何でもない。しかし快感が、同時に、相対的に不快感
を生み出す。ラジコンで言えば、たった1チャンネルで、2チャンネル分の操作をするの
と同じということになる。(この論法には、少し無理があるかな?)

 その証拠に、この陶酔感からさめ、居間で食事をしてきた私は、本来なら、不快感を覚
えなければならないはずなのに、実際には、何とも、ない。むしろ、さわやか。つまりこ
の状態というのは、快感がなくなったというだけで、まさにふつうの状態ということにな
る。

 そこで私は、いくつかの教訓を得た。

(1)なまけというのは、基本的には、陶酔感によって起こる。
(2)その陶酔感は、意思の力よりもつ力よりも強い。あるいは意思よりも優勢。
(3)陶酔感から離れるのは、容易ではない。そしてその離れるとき、相対的な不快感を
覚える。しかしそれは脳の中に、不快感を起こすメカニズムが働くからではなく、あくま
でも相対的なもの。
(4)陶酔感からさめれば、またもとの状態にもどる。
(5)意思の強さは、どれだけ、その陶酔感に対して、コントロール能力があるかで決ま
る。
 
 こうして考えていくと、子どもの指導にも応用できる。よく「うちの子は、家の中では
だらしない」とか、「勉強しないで、ゴロゴロしている」、だから「どうしたらいいか」と
いう相談をもらう。

 こうした子どもの状態というのは、何かのことで、疲れた心をいやすために、脳が自ら
脳の中でモルヒネ様の物質を放出し、脳をいやしている状態ということになる。

 だらしないとか、ゴロゴロしているというのは、あくまでもその結果にすぎない。

 そこで親が、子どもに、何かを命令したとする。「勉強しなさい」「宿題をしなさい」と。
すると、子どもは、それに反発する。しかしそれは、不快だからではなく、その陶酔感か
らさめることに対する抵抗から、そうする。それが反発という形になって、外に現れる。

 だからどうしたらよいのかということについては、また別のところで考えることにして、
「なまけ」のメカニズムは、こうして説明される。
(040220)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●コンピテンス(相互交渉能力)

 子どもというのは、何かの作業が終わったようなとき、「センセー!」と言って、それを、
先生のところにもってくる。

 こうした働きかけの原動力となる能力を、心理学の世界では、「コンピテンス」(W・H・
ホワイト)と呼ぶ。日本語では、「相互交渉能力」という。

 つまり子どもは、そういう形で、自分を主張し、自分の存在感を、まわりに訴えようと
する。環境とのかかわりと求めようとする。が、それだけではない。

 子どもが「センセー!」と言ってもってきたとき、たとえば先生が、それを無視したり
すると、その子どもは、とたんにやる気をなくす。

 あまりむずかしい心理ではないので、「なるほど」と思う人も多いかと思う。つまり子ど
もは、先生に認めてもらうことイコール、まわりの環境に働きかけることで、自ら、やる
気を引き出す。「環境を動かした」という自信が、つぎの行動の原動力となる。こうした達
成感を、「自己効力感」という。

 もう少しわかりやすい例で説明してみよう。

 最近、私の友人が、電子マガジンの発行をやめてしまった。読者の数が、150人前後
になったところで、伸びが止まってしまったからだという。「書いても、書いても、読者が
ふえないと知ったとき、急に、やる気をなくした」と。

 その友人は、マガジンを発行することで、まわりの環境に働きかけた。しかしその環境
が、その友人を認めなかった。だからその友人は、やる気をなくした。

 では、子どものやる気を引き出すには、どうすればよいか。もう答は、出たようなもの。
子どもが、まわりの環境に何らかの働きかけをしてきたら、すかさず、それにていねいに
答えてあげる。

 たとえば子どもが、何か新しいことを発見したり、何か新しいことができるようになっ
たようなときは、すかさず、それをほめてあげる。「ママ〜、見てエ〜!」と言ってきたよ
うなときは、それにていねいに応じてあげる。「あら、じょうずにできるようになったわね」
と。

 教室では、生徒が、「センセ〜!」と言ってきたようなときが、それにあたる。

 そのとき大切なことは、先生が、「これはすごいね」「前よりもじょうずになったね」「あ
なたは、もっとじょうずになるよ」と前向きにほめてやること。たったそれだけのことだ
が、そうした行為が、子どもからやる気を引き出す。

 そしてさらに、W・H・ホワイトによれば、こうしたコンピテンスは、実は、赤ちゃん
にもあるという。赤ちゃんは手足をバタつかせ、懸命になって親に向かって、何かを訴え
ようとすることがある。そういうとき、赤ちゃんのそうした行動に、親が、適切に反応し
てあげると、子どもは、(やる気のある子ども)になる、と。

 決して、むずかしいことではない。

 『求めてきたとき、訴えてきたときが、与えどき』と覚えておくとよい。

 親側から、あえて、つまりわざとらしく、ほめたりする必要はない。子どもが、「見て!」
「見て!」と言ってきたようなとき。赤ちゃんで言えば、少しぐずって、おっぱいを求め
るようなしぐさを見せたようなとき、すかさず、親がそれに答えてあげる。

 言うまでもなく、子どもが、「見て!」「見て!」ともってきたとき、「何だ、これ!」「も
っと、じょうずにできるでしょ」式の、マイナスの反応を示すことは、タブー中のタブー。
絶対にしてはいけない。


●読者の方より……

 今日(19日)、Mさんという方から、掲示板に書き込みがあった。そしてそれには、「先
生の文章は、いつもより力強く感じた」とあった。

 そういう批評をもらうと、私は、もう一度、自分の書いた文章を、最初から最後まで読
みなおす。

 実際のところ、こういう批評が、一番、うれしい。

 ものを書く人間は、書いたものを読んでもらうことで、生きがいを覚える。つまりこう
した批評は、私の文章をじっくりと読んでくれた人だけが、できる。Mさんは、「20分か
かりました」と書いている。「20分も、読んでもらえた」と思うだけで、さらにうれしさ
がます。

 Mさん、ありがとう!

 しかし先週は、別の読者の方から、「このところ、元気がないですね。落ちこんでおられ
る様子が、よくわかります」というのを、もらった。たしかにそのときは、落ちこんでい
た。

 それについて直接書かなくても、マガジン全体として、そういう印象を、そのつど読者
の方に与えるようだ。気をつけよう。


●最終講義

 Y大のNN氏という教授(紫綬褒章受賞)が、その大学で、最終講義をするという。恩
師のT教授(日本学士院賞受賞)の弟子だそうだ。

 で、T教授が、その最終講義の前に、あいさつをすることになった。たまたま私の息子
が、そのY大の学生だったから、「お前も、最終講義を聞いてこい」と言ったら、「春休み
で、講義はないヨ〜」と。

 バカなことを言っている。「最終講義」というのは、退官に先立って、その教授が、その
大学で、最後にする講義のことをいう。

 で、そのことを、T教授に話すと、「ぜひ、(あなたの息子に)会いたいから、来るよう
に。そのあとの懇親会に招待したい」と。

 願ってもないチャンスだ。東大だけでも、T教授の弟子が、現在、8人も、教授をして
いるという。またNN氏というのは、あのゾルゲ事件で逮捕された、NN氏の娘である。

私「世界のトップクラスの知性に触れるということは、とても重要なことだ。会ってこい」
息子「時間があればね……」
私「お前には、その価値がわからないのか。万難を排して行け!」
息子「行けたら、行くよオ〜」と。

 私の息子のような息子を、バカ息子という。「知性」というものが、どういうものか、そ
の価値が、まるでわかっていない。


●最高の知性

ノーベル賞受賞者たちが、ときおり世界からやってきて、いっしょに寝泊りした。それ
があのメルボルン大学の、インターナショナルハウスだった。

 もっとも、当時は、(今も基本的には同じだが……)、ノーベル章受賞者というのは、世
界中にゴロゴロしていて、それほど、珍しくなかった。アメリカだけでも、200人を超
える。ヨーロッパ全体では、もっと、多い。メルボルン大学にせよ、アデレード大学にせ
よ、それぞれ7〜10人の受賞者がいた。

 日本人がなかなかその賞を取れなかったのは、言葉の問題と、それに国際的な政治力の
問題があったからだという。当時、だれからか、そういう話を聞いたことがある。

 しかし慣れというのは、恐ろしいものだ。私はそういう人たちと、毎日のように接しな
がら、それが特別なことだとは、まったく思わなかった。

 そんな中、たまたまローマ会議から帰ってくる途中、ハウスに寄っていった科学者がい
た。ローマ会議というのは、世界のトップクラスの科学者たちが、それぞれの分野につい
て話しあう会議である。

 その科学者の名前は忘れたが、何でもその会議には、公開するための公開会議と、そう
でない秘密会議があるというような話をしてくれた。そして実は、その秘密会議のほうが、
重要だ、と。
 
 いろいろな話を聞いた覚えがあるが、その一つに、食糧問題があった。「このままでは、
あと20年で、世界の食糧は、枯渇(こかつ)する」と。

 当時、日本にも、そして世界にも、食糧は豊富にあるように見えた。だから私はその話
を聞いたとき、「まさか!」と思った。しかし現実には、それから10年後には、世界中で
食糧問題が大きなテーマとなった。さらに現実には、今、それから34年になるが、「枯渇
すること」は、なかった。

 しかし今から思うと、あれが「知性」だったのかな、と思う。「人類は……」「地球は…
…」と、20年後、100年後に、自分の視点を置いて考える。さまざまなデータを集め
て、そして一つの未来像を作りあげていく。そしてその未来像を変えるようなことまです
る。

 そう言えば、その科学者も、こう言っていた。「研究(STUDY)ほど、すばらしい職
業はない」と。

 残念ながら、私は、今、そういった知性とは無縁の生活をしている。ある意味で、知性
など、あまり必要のない生活といってもよい。しかし「知性」のもつすばらしさだけは、
よく知っている。

 知性は、まさに神の世界に入るための切符のようなもの。遺伝子工学にみるまでもなく、
それが正しいかどうかという議論はさておき、今では、生命そのものまでつくりだすこと
ができる。

そのローマ会議からの帰り道に寄った科学者も、見るからに神々しい人だった。もの静
かな人だったが、キラリと光る、鋭い目つきをしていた。で、おかしなもので、名前は
忘れたが、その人の部屋に入ると、壁にこんな紙が張りつけてあったことだけは、よく
覚えている。

 「To Smokers, Smoke, considering other people's health and convenience」と。「喫
煙者たちよ、他人の健康と、快適さを考慮に入れて、タバコを吸え」と。

 当時はまだ、禁煙が、今ほどうるさくは叫ばれていなかった。くだらないことだが、今、
ふと、そんなことを思い出した。

 で、もう一度、息子にメールを送った。「万難を排して、NN教授の最終講義を聞くよう
に」と。


●愚劣な人々

 こうした知性とは、対照的な位置にいるのが、愚劣な人々である。こんなメールをくれ
た女性(埼玉県在住)がいた。

 「私の息子は、地域のサッカークラブに入っています。そのクラブの、監督のマナーの
悪さには、困っています」と。

 その女性が言うには、その監督は、道路に痰を吐く、ゴミを捨てる、タバコの吸殻を捨
てる、さらに身障者用の駐車場に、平気で車を止めるなどの行為をするという。「目にあま
る行為が多すぎる」と。

 その監督は、年齢は60歳くらいだという。

 しかしこういうケースでは、その監督に、それを注意しても、意味はないということ。
それは人間そのものがもつ、「質」のようなもの。まさに一事が万事。そうしたマナーの悪
さは、生活のあらゆる場面におよぶ。

 だから一部だけを見て、それを注意しても、意味はない。

 私もときどき、そのタイプの人に出会う。先日も、そのタイプの人に、車で、送り迎え
をしてもらった。

 その人は、車内でタバコを吸っていたが、灰は、窓の外に捨てていた。また吸殻は、指
先で丸めて小さくたあと、窓の外に、やはり捨てていた。

 私が、気がつかないとでも思っていたのだろうか。しかしそういう行為は、目立つ。窓
の外で、吸殻を指先で丸めている様子まで、腕の動きでわかった。

 で、そういうとき、私は、そういう行為を無視する。注意する必要はない。また注意し
たところで、どうこうなる問題ではない。ただ、私のばあい、そういうレベルの低い人(失
礼!)とは、それを最後に、できるだけ、つきあわないようにしている。

 『バカなことをする人を、バカというのよ。(頭じゃないのよ)』(フォレスト・ガンプ)
と。

 こういう愚劣な人が無数に集まって、環境を悪くし、人間社会を破壊する。大切なこと
は、一人ひとりの人が、心して、良心の声に耳を傾けるということ。マナーを守ることも、
その一つ。そういう力が集合され、大きくなったとき、人間がかかえるあらゆる問題は、
自然に解決する。
(040219)


【今朝、気づいたこと】(2月20日)

●初版荒らし

 ときどき書店で、定期購読雑誌が新発売になる。そういった雑誌は、たいてい第1号は、
記念価格ということで、値段が安い。ふだんは980円の雑誌でも、第1号だけは、25
0円とか、350円で売りに出される。

 私はどういうわけか、そういった第1号だけは、買うようにしている。(あるいは買わさ
れているのかもしれないが……。)

 昨夜もいろいろなのを4冊ほど買った。日本の歴史や、花に関するものだった。全部で
1000円と少し。(安い!)

 アメリカに住んでいる二男に送るためである。

 以前は、いろいろな食べ物を送っていたが、今年に入ってから急にきびしくなった。テ
ロを警戒するためだという。あらかじめインターネットで登録しておかないと、食品類は、
送れなくなってしまった。

 それで本とか、孫へのおもちゃが多くなった。

 私のような人間を、「初版荒らし」というらしい。もともと初版しか買う意思がなくて、
初版を買う人間をいう。出版社としては、「どうかためしに買ってみてください」というこ
とで、第1号を安くしている。つまり私のような客は、最初から、お呼びではない。

 しかしインターネットの時代になったせいか、このところ、豪華な写真刷りの雑誌がふ
えたように思う。

 情報は、インターネットで、格安に手に入る。そこで雑誌社は、インターネットでは手
に入りにくい、豪華な写真雑誌に手をつけ始めた。私は、そんな印象をもった。

 しかし……だ。これも、はかない抵抗のように思う。

 私が出版社で仕事を手伝っていたころには、1ページを編集制作するだけでも、何日も
かかった。写真にしても、カメラでとって、それを一枚ずつ、編集して、張りつけなけれ
ばならなかった。

 文字も、一字ずつ、ポイントを指定して、写植屋に指示しなければならなかった。それ
が今では、つまり、こうした一連の作業が、インターネット上では、瞬時にできる。

 しかもペーパーレス。紙をいっさい、使わない。その上、読者に届くのが早い。それこ
そまさに、瞬時!

 インターネットにもいろいろ問題点はある。しかしそうした問題は、やがてすぐ解決さ
れるだろう。そればかりか、インターネットで配信する情報には、動く映像や、音楽、B
GMも、挿入できる。

 出版社も、あの手この手といろいろ考えているのだろう。その結果が、ここに書いた、
豪華な写真雑誌ということになる? 私にはよくわからないが……。


●老人と自己中心性

 老人になればなるほど、行動範囲が狭くなる。それは当然だ。運動量そのものが、減っ
てくる。

 しかしそのとき、同時に、老人は、自分の住む、精神的世界まで、狭くしてしまう。限
られた人と、限られた交際をし、限られたことしかしなくなる。それもある意味で、当然
だ。

 こうした環境的変化は、しかたのないとしても、こうした変化から、老人特有の、脳の
老化もあいまって、いろいろな症状が現れてくる。その一つが、自己中心性である。

 老人になればなるほど、自分が住んでいるところが、世界の中心と考えるようになる。
こうした傾向は、若い人でもないわけではないが、老人になると、それが極端になる。

 ある女性(65歳くらい)は、その村から出て行った人を、「出て行った人」と呼んでい
た。「出て行った人」というのは、その村では、「落伍者」という意味である。

 そこで知人が、「町の中に家を建て、村から出たのなら、出世ではないか」と、その女性
に説明したのだが、その女性には、それが理解できなかったという。その女性にしてみれ
ば、「村が世界の中心」ということになる。

 そこでさらにこの自己中心性が進むと、老人は、自分のことしかしなくなる。

 私もこの住宅団地に住んで、27年目になるが、いつも「?」と思うことが、一つ、あ
る。

 このあたりは、元公務員という人たちの年金生活者が、多い。それほどぜいたくな生活
をしているようにも見えないが、しかし、それなりにリッチな生活をしている。どの人も、
平均して、月額30〜35万円の年金を受け取っている。

 それはそれだが、そういう人たちだから、それなりに社会に何かを還元しているかとい
えば、そうではない。事実として話すが、私は、この20年以上、そういう人たちが、道
路わきのゴミを拾ったとか、草を刈ったとか、そういう姿を、ただの一度も、見かけたこ
とがない。(だからといって、そういう人たちを非難しているのではない。誤解のないよう
に!)

 退職後も仕事をしている人もいるが、大半は、そのまま優雅な、趣味三昧(ざんまい)。
一度、その中の一人に、「いい身分ですね……」と話しかけたことがある。が、その人は、
こう言った。「私ら、働いて国に納めた分を、返してもらっているだけです」と。

 税金ということをいうなら、私のような自営業のほうが、ずっと、たくさん払っている
のだが……。

 こうした自己中心性も、やはり老化のなせるわざなのか。もちろん中には、老人になっ
ても、すばらしい活動をしている人もいる。子ども会で、子どもの指導をしたり、公民館
のスポーツクラブで、スポーツの指導をしたり。

 私のワイフが通っているテニスクラブの「先生」などは、50歳を過ぎてからテニスを
始めた人だが、退職後はずっと、テニスのコーチをしている。84歳になった今でも現役
で、そのクラブで、その先生の名前をつけた、「〜〜杯」というものまで、もっている。

 さらに80歳を過ぎてからなお、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいる女性もい
た。

 そういうすばらしい老人がいる一方で、そうでない老人もいるということ。そのちがい
は、いったい、どこから生まれるのか。つまりそれがわかれば、老人特有の自己中心性と
戦う方法が、見つかるかもしれない。

 そこで趣味三昧のX氏(70歳)と、活動的なY氏(70歳)を比較してみる。

【X氏、元公務員】

★人との交際をほとんどしない。人の出入りが、ほとんどない。
★退職前の肩書きを、いまだに引きずっている。威張っている。
★趣味のハバが限られている。毎日、まったく同じことを繰りかえしている。


【Y氏、元会社員】
 
☆いつも何かの会合に出ては、酒を飲んでいる。家を訪れても、ほとんど家にいない。
☆だれに対しても低姿勢で、どこかヘラヘラしているが、親しみがもちやすい。
☆これといって、決まった趣味もなく、多芸多才。自治会の仕事が生きがいのよう。


この中で、ポイントは、「人との交流」である。自己中心的だから、交流をしないのか。
あるいは交流をしないから、自己中心的になるのか。それはわからないが、結果として
みると、「人との交流」が、どうやらそのカギを握っているような気がする。

 ……といっても、この先を書くのは、ここではひかえたい。ここまで考えたこと基礎に、
しばらく、あちこちで話を聞いたり、本を読んだりして、もう少し情報を集めてみること
にする。

 その上で、いつか、この先を書いてみたい。


●電話相談

 たいへん申しわけありませんが、電話による相談は、このところ、お断りすることにし
ています。

 電話だと、あっという間に、短くても一時間は過ぎてしまいます。それに、電話による
相談には、昼夜がありません。深夜だったり、あるいは早朝だったりします。そのたびに、
時間調整が、狂ってしまいます。

 「10時に、マガジンの発信予約を入れて、それで今日の仕事は終了」と考えていると
ころに、電話がかかってきたりします。

 実は、今朝もありました。女性からのものでした。ありのままを書きます。

女(いきなり)「以前、相談をしたものです。で、また相談に乗っていただきたいと思いま
したので……」
私「どちら様ですか」
女「……名前を言わなければなりませんか。以前は、名前を言わなくても、相談にのって
いただきましたが……」
私「はあ、しかし、お名前だけでも……。どちら様でしたか?」
女(口ごもったあと)「鈴木です」
私「どんなことですか?」

 相談内容は、その女性自身のことでした。で、30分ほど話を聞いたあと、

私「私は、子どものことはよくわかりますが、おとなのことはよくわかりません。もしそ
ういう心の問題で悩んでおられるなら、精神科のドクターに相談なさってはいかがでしょ
うか」
女「それがいやだから、今、先生に、こう相談しているのです」
私「しかし私には、何も指導できません。あなたが子どもなら、こうしなさいとか、ああ
しなさいとか言うことはできますが……」

 こういう電話では、電話を切るタイミングを見つけるのがたいへんです。私が切りたく
ても、相手の女性が、それを許してくれません。それでそのあと、また20分ほど。

 で、やっとのことで、電話が終わりました。

 力になれなかったという思いが、心をふさぎます。しかし私のできることには限界があ
ります。子どもの話ならともかくも、おとなの女性についての情報は、ほとんどもってい
ません。それに私の立場では、診断名をつけることはできません。いわんや治療行為らし
きことを口にするのは、絶対、禁止です。

 が、それから二時間ほど。遅れた、マガジンの発信予約を入れて、ほっとしていると、
そこへまた電話。

女「小学5年生の娘のことで、相談したいのですが」
私(聞き覚えのある声だったので……)「先ほど、電話をくださった方ではありませんか?」
女「……いえ、しませんでした」

 妙に明るい声だったが、先ほどの声と、よく似ていました。

私「どちら様ですか?」
女(一瞬、とまどった様子で……)「加藤といいます」
私「小学5年生の方ですね……。どんなことでお悩みですか?」
女「実は、夜も、トイレへこわいから、行けないと泣くのです」

 こうした相談では、ふつうなら私は名前など聞きません。聞いても本名を言う人は、ま
ずいないからです。相手の人が、自分から言うばあいは、別ですが……。

私「どちらの方ですか……?」
女(また口ごもりながら……)「SS町のものです」
私「先ほど、電話をくださった方ですね」
女「はあ、実は、そうなんです」

 その女性の苦しみは、よくわかります。偽名を使ったり、ウソをつきたい気持ちもよく
わかります。しかしそういう相談を受けることによって、私は、もっとキズつくのです。
相手の人は、懸命にウソをつきながら、何かのヒントを得ようとします。

 それはその人の勝手ですが、そのウソを真に受けて、こちらはこちらでまじめに、その
相談にのります。しかしそれがウソだとわかったら、私は、どう対処したらよいのでしょ
うか。名前はともかくも、相談内容まで! 先ほど、1時間ほど受けた相談は、いったい、
何だったというのでしょうか。

 ……というような怒りを感じていたら、相手の方の相談にのることができません。相手
の方も必死なのです。必死だから、そういうウソをつくのです。

 しかしそのあとの電話は、何がなんだか、さっぱりわけのわからない電話になってしま
いました。押し問答でもないし、そうかといって、私が意見を言う場面も、ほとんどあり
ませんでした。

 相手の女性は、ほとんど一方的に、自分の苦しみや悲しみを訴えるだけです。

 ……じつは、こうしてまた1時間ほど、時間が過ぎてしまいました。

 そんなわけで、これからはもっと、厳格に、電話によるご相談は、お断りすることにし
ました。もちろん、BW関係の方や、お顔やお名前を知っている人は、別です。そういう
かたは、今までどおり、何かあれば、どうか、お電話をください。
お待ちしています。

 以上、グチのような、エッセーで、どうもすみませんでした。
そう、少しだけ、グチってみたかったのです。どうか、お許しください。こういう現実
も、一方にあるということを、少しだけわかってもらいたかったのです。
(040220)

(5)付録【世にも不思議な留学記】*******************

たった一匹のネズミを求めて【26】

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレ−ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこで
いつも一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場
で、彼の牧場だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。

ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、
おびただしい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹
いるかいないかという程度。

しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し
草の間を出入りしているのもいた。あのパイドパイパ−の物語に出てくるネズミは、一
列に並んで、皆、一方向を向いているが、そういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そ
んなことをすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。

農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。こういうときのために、オーストラリアでは州
による手厚い保障制度が発達している。そこで私たちはネズミ退治をすることにした。
方法は、こうだ。

まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置い
ておく。こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポ
トンポトンと、水の中に落ちた。が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミ
の死骸をスコップで、それこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかった。

 が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人
に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かっ
たかのどちらかだ」と。伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、
即座には信じられなかった。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。

ネズミには、どれも個性があった。そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々
と掘り返してみた。が、ネズミはおろか、その死骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよ
さそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。ネズミたちは、ある「力」
によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テ−マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、
戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテ−マだった。

が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義
は、心理学や社会学では説明できなかった。そんな中、このネズミの事件は、私に大き
な衝撃を与えた。そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するの
ではないかと考えるようになった。

わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。最近でもクロ−ン技術で生まれた
二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動をすることが知られている。
そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……で
きた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身の
ことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくち
がった生き方をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方
角に歩いてみる。私は、あえて、それになってやろう」と。日本ではちょうどそのころ、
三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 5日(No.369)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page041.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)
●3月7日(日)午後2:00〜3:30
遠鉄ブライトタウン上島販売センター(遠鉄遠州病院駅前)で講演会をもちます。
先着50人にイチゴタルト、10名様に本のプレゼントがあります。おいでくだ
さい! 参加自由、駐車場有りです。
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(1)子育てポイント**************************

【今週の教室から……】

●歌で覚える

 私の教室では、算数のポイントを、歌で覚えるようにしている。こうして作った、歌が、
50番近くまである。その中のいくつかを、紹介する。

(1)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと…
…)
 イッ・キュウ
 ニイ・ハチ
 サン・ナナ
 ヨン・ロク
 ゴー・ゴー
 ロク・ヨン
 ナナ・サン
 ハチ・ニ
 キュ・イチ

(1−9,2−8,3−7……)と、(あわせて10の数)を、掛け算の九九のように暗記
させてしまう。これは繰り上がりのある足し算、繰り下がりのある引き算では、必須の知
識である。

(2)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと…
…)
 足し算、ワー(和)
 引き算、サー(差)
 掛け算、セキセキ(積)
 割り算、ショー(商)

足し算の答を、「和」、引き算の答を、「差」という……ということを教えるときに使う。

(3)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと…
…)
 掛け算、割り算、先にやる、
 かっこの中を、先にやる

計算の約束を教えるときに、この歌を教える。体をくねらせて踊るのがミソ。子どもたち
は結構、楽しそうに踊ってくれる。

(4)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと…
…)
 0度、180度、90度
 (パチンと手をたたいて)
 ぐるっと回って、360度

分度器の勉強をするときに、この歌を歌う。「0度」「180度」「90度」……と言いなが
ら、両手でそれを表現しながら、踊る。

(5)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと…
…)
45、45、90度
30、60、90度

これは三角定規の角度を教えるときに使う歌。この歌を歌うときも、手と腕で、その形を
表現しながら踊る。

 こうしてこの34年間に、50番近い歌を作った。中には、すでに全国で歌われている
歌もある。

学年が進むにつれて、子どもたちは歌わなくなる。そういうときは、「君たち、童心にか
えって、歌いなさい!」と指示する。それでも歌わないときは、「お母さんのおっぱいを
飲んでいる人は、歌わなくていい」などと、からかってやる。とたん、みな、元気に歌
いだす。

 何ごとも、楽しく学ぶのが一番。……ですね。
(040219)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親子の断絶の三要素、(2)価値観の衝突

 日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識のうちにも依存
性をもたせ、それが子育ての基本であると考えている。

たとえばこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、
よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、昔から「鬼っ子」
として嫌う。

言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場にある。子どもの依存性が強くなれば
なるほど、子どもの自立は遅れる。が、この日本では、「依存すること」そのものが、子
育ての一つの価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番組があった。

数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながらに、
母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東
京へ出て、歌手になりました」と。

I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と言っていた。私はそ
の話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親はすばらし
い人だなと思った。

しかし一〇分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き起こってくるのを感じ
た。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。

ひょっとしたらI氏の母親は、I氏を育てながら、「産んでやった」「育ててやった」と、
I氏を無意識のうちにも追いつめたのかもしれない。そういう例は多い。たとえば窪田
聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』というのがある。あの歌の歌詞ほど、あ
る意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はない?

 で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるので
はなく、子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」がある
と考える。

「子どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。

そしてこういう「甘さ」は、そのまま子育てに反映される。子どもをかわいがるという
ことは、子どもによい思いをさせることだ。子どもを大切にするということは、子ども
に苦労させないことだと考えている人は多い。

先日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った六〇歳くらいの女性が、五歳ぐ
らいの孫にこう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子ど
もを子ども扱いすることが、子どもを愛することだと誤解している人は多い。

 そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。
日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、
今の若い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、一九%に
過ぎない(総理府、平成九年調査)。

どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつけても、今の若い
人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観の衝突へ
と進む。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親子の断絶の三要素、(3)信頼関係の喪失

 子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受
け入れるということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知って
いる。

さらに子どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさ
らにむずかしい。

 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。
子どもは長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子ども
の心はカガミのようなものだ。

イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」とい
うのがある。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、
あなたのことを「いい人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はい
い子だ」と思っていると、子どもも「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうで
なければそうでない。

 昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさ
せるは日常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、
その子どもが床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸して
いた。

私はすかさずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言
った。それから数日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレ
ヨンを貸していた子だろ。いい子だなあ」と。

それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけると、その
ワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ〜!」と言って手を振ったりした。

 子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、
自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質
を利用して、子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思
っているなら、今日からその心をつくりかえる。方法は簡単だ

最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を繰り返す。子どもに向かっては、「あ
なたはすばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返す。これを数か月、あるい
は半年とつづける。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言えるようになったとき、
あなたの子どもはその「いい子」になっている。

(2)今日の特集  **************************

善と悪(2)

●良心の声

 おかしいことは、おかしいと思う。たったそれだけのことが、あなたの中の良心を育て
る。あとはその良心に従って、行動すればよい。

 善人と悪人のちがいは、その良心の大きさによって決まる。良心が比較的大きな人を、
善人といい、比較的小さな人を、悪人という。つまり善人にも、悪人的な要素はあり、悪
人には、善人的な要素がある。

 純粋な善人というのは、いない。一方、純粋な悪人というのは、いない。あるいはどん
な善人でも、またどんな悪人でも、その時と場合において、悪人になったり、善人になっ
たりする。

 そのことは、子どもを見ているとわかる。

 昔、どうしようもないほど、ワルの子ども(小五男児)がいた。母親は、毎週のように
学校に呼びだされていた。その子どものことで、私と母親が話しあっているときのこと。

私はその子どもが近くにいることも意識して、「○○君は、乱暴な子どもに見えるかもし
れませんが、本当は心のやさしい子どもです。おとなになると、大物になる子どもだか
ら、今はがまんしましょう」と言った。

 で、その数日後のこと。その子どもが、いつもより30分も早く、教室へ来た。「どうし
たの?」と聞くと、「先生、肩もんでやるよ。先生、肩こりしないか?」と。

 心理学では、こういうのを「好意の返報性」という。子どもというのは、自分を信じて
くれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。反対に、そうでない人の前では、そ
うでない。おとなの私たちですら、自分を疑っている人の前へ行くと、自分の邪悪な部分
を、自然な形で、出してしまうことがある。言わなくてもいいようなことを言ってしまっ
たり、してはいけないようなことまで、してしまう。

 この私だって、かなり無理をして善人ぶっている。が、一皮むけば……。あまりむいた
ことがないのでよくわからないが、しかしだれかが私を善人だと言ったら、私は、吹きだ
してしまうだろう。私は、悪人ではないが、しかし決して、善人ではない。

 そこで大切なことは、どんな人にも二面性があるということ。まずそのことを知る。つ
ぎに大切なことは、善人である自分を育て、悪人である自分を、否定すること。そのため
に、いつも、自分の良心の声に耳を傾ける。

 ……と言っても、何が善なのかは、実のところわかりにくい。が、何が悪なのかは、わ
かりやすい。そこで冒頭の話。「おかしいことは、おかしいと思う」。たったそれだけのこ
とだが、それがあなたの中の良心を育てる。

 (そういう意味でも、善と悪は、決して平等ではない。善人ぶることなら、だれにでも
できる。暴力団の親分にだってできる。しかし自分の中から、「悪」を消すことは、容易な
ことではない。

 『悪と善は、神の右手と左手である』という有名な言葉を残したのは、ベイリー(「フェ
スタス」)だが、そんな単純なものではないということ。)

++++++++++++++++++++++

この善と悪について、以前書いた原稿を、
手なおしして掲載します。

++++++++++++++++++++++

善と悪(1)

●神の右手と左手

 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であると、言
われている。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存
在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。トルストイが、『善をなすには、努力が
必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要』(『読書の輪』)と書いた
理由が、私には、よくわかる。

もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとす
るのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこの
ことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえば道路に、一〇〇〇円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいな
い。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の
中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが、道徳なの
だ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と
思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そ
ういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交
差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何で
もないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もと
もと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーに
しても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギー
を使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無
視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。

はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、
どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思
う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわせてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。

それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、
説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだ
らだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に
従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。

よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないか
ら善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人に
なれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そ
のものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子
どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間に
なる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。

どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」と
いう問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考
えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個
人的な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わ
ず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のこと
も、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。

日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえる
のか。

 私は収賄罪(しゅうわいざい)で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるとき
がある。その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に
置かれたら、どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があ
るのか、と。

刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで
律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人
をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界
で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。

しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということには
ならない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

++++++++++++++++++++
【付録】

 あまり関係ないかもしれませんが、この
原稿を書いているとき、以前、書いた、「尾崎豊の
卒業論」を思い出しました。ついでにここに掲載
しておきます。

 この原稿は、私は好きなのですが、新聞社の方
には、嫌われました。読んでいただければ、その
理由がわかると、思います。

++++++++++++++++++++

●尾崎豊の「卒業」論(中日新聞発表済み)

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』
の中で、こう歌った。

「♪……チャイム鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきかを考えていた」
と。

「人間は自由だ」と、いくら叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実
にコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしま
う。尾崎は、それを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。し
かし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことす
ら許されない。

ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢を
かなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎
はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩い
た」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パ
ツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張
しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというの
か。

そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よく
まじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなと
の争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャス
ターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身
につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに貧しい人たちへの寄金を訴
える。

こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そ
こで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方
法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、
打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超
えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中
に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。

この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきでは
ないのか。

+++++++++++++++++++++

【結論】

 何が正しくて、何がまちがっているのか。つきつめて考えていくと、ますますわからな
くなります。

 正しいことをしているようで、まちがっていることをしていることがあります。まちが
ったことをしたと思っていても、それが結果として、正しかったということもあります。

 そこで人間は、「考える」という行動に出ます。言いかえると、考えることによって、人
は、自分の中の良心に近づくことができます。つまり、良心イコール、知性。知性イコー
ル、真理ということになります。

 私にはまだよくわかりませんが、この良心を、知性によって追求することによって、人
は真理に到達できるのではないでしょうか。

 かなり飛躍した論法なので、「?」と思われる方も多いと思いますが、このつづきは、ま
た別の機会に考えてみたいと思います。
(040219)

(3)心を考える  **************************

●子どもの役割を認めてあげよう

 それぞれの子どもには、それぞれの役割がある。自然にできる方向性といってもよい。
その役割を、親は、もっとすなおに認めてあげよう。

 よく誤解されるが、「いい高校へ……」「いい大学へ……」というのは、役割ではない。
それは目的ももたないで、どこかの観光地へ行くようなもの。行ったとたん、何をしてよ
いのかわからず、子どもは、役割混乱を引き起こす。

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき大切なのは、子ど
もの夢や希望に沿った言葉で、その子どもの未来を包んであげるということ。

 「そうね、花屋さんって、すてきね。おうちをお花で飾ったら、きっと、きれいね」と。

 そして子どもといっしょに、図書館へ行って花の図鑑を調べたり、あるいは実際に、花
を栽培したりする。そういう行為が、子どもの役割を、強化する。これを心理学の世界で
は、「役割形成」という。

 つまり子どもの中に、一定の方向性ができる。その方向性が、ここでいう役割というこ
とになる。

 が、親は、この役割形成を、平気でふみにじってしまう。子どもがせっかく、「お花屋さ
んになりたい」と言っても、子どものたわごとのように思ってしまう。そして子どもの夢
や希望をじゅうぶん聞くこともなく、「あんたも、明日から英語教室へ行くのよ!」「何よ、
この算数の点数は!」と言ってしまう。

 一般論として、役割が混乱すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。心にすき
間ができるから、誘惑にも弱くなる。いわゆる精神が、宙ぶらりんの状態になると考える
と、わかりやすい。

 そこで「いい高校」「いい大学」ということになる。

 もう何年か前のことだが、夏休みが終わるころ、私の家に、二人の女子高校生が遊びに
きた。そしてこう言った。

 「先生、私、今度、○○大学の、国際関係学部に入ることにしました」と。

 ○○大学というのは、比較的名前が、よく知られた私立の大学である。で、私が、「そう、
よかったね。……ところで、その国際カンケイ学部って、何? 何を勉強するの?」と聞
くと、その女子高校生は、こう言った。

 「私にも、わかんない……」と。

 こういう状態で、その子どもは大学へ入ったあと、何を勉強するというのだろうか。つ
まりその時点で、その子どもは、役割混乱を起こすことになる。それはたとえて言うなら、
あなたがある日突然、男装(女装でもよいが……)して、電車の運転手になれと言われる
ようなものである。

 ……というのは、少し極端だが、こうした混乱が起きると、心の中は、スキだらけにな
る。ちょっとした誘惑にも、すぐ負けてしまう。もちろん方向性など最初からないから、
大学へ入ったあとも、勉強など、しない。

 子どもの役割を認めることの大切さが、これでわかってもらえたと思う。子どもが「お
花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね。じゃあ、今度、H湖で、花博覧
会があるから行きましょうね」と話しかけてあげる。

 そういう前向きな働きかけをすることによって、子どもは、自分でその役割を強化して
いく。そしてそれがいつか、理学部への進学とつながり、遺伝子工学の研究へとつながっ
ていくかもしれない。 

 子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(040219)

【追記】

●こうした役割形成は、何も、大学へ進学することだけで達成されるものではない。大学
●へ進学しないからといって、達成されないものでもない。それぞれの道で、それぞれが
●役割形成をする。

 昔は、(いい大学)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意識が、そ
れを支えた。

 大学を卒業したあとも、(いい会社)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エ
リート意識が、それを支えた。

 しかしいまどき、エリート意識をふりかざしても、意味はない。まったく、ない。今は、
もう、そういう時代ではない。

 今、子どもたちを包む、社会的価値観が大きく変動している。まさにサイレント革命と
いうに、ふさわしい。そういうことも念頭に置きながら、子どもの役割形成を考えるとよ
い。

 まずいのは、親の価値観を、一方的に、子どもに押しつけること。子どもは役割混乱
を起こし、わけのわからない子どもになってしまう。

●誘惑に強い子どもにする。……それはこの誘惑の多い社会を生きるために、子どもに鎧
(よろい)を着せることを意味する。

 この鎧を着た子どもは、多少の誘惑があっても、それをはね返してしまう。「私は、遺伝
子工学の勉強をするために、大学へ入った。だから、遊んでいるヒマはない。その道に向
かって、まっすぐ進みます」と。

 そういう子どもにするためにも、子どもが小さいときから、役割形成をしっかりとして
おく。

 ここにも書いたように、「何のために大学へ入ったのか」「何を勉強したいのかわからな
い」という状態では、誘惑に弱くなって、当たり前。もともと勉強する目的などないのだ
から、それは当然のことではないか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●死の恐怖

死に際して、生の尊さがわかるのは、ごく自然なことではないのか。そんなことは、今、
健康な人でも、少し想像力を働かせば、わかること。

(重い病気をもっている方には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、このエ
ッセーのテーマではないので、許してほしい。)

それはそれだが、しかしその死に際して、常人の常識では、理解できないことが、とき
どき起こる。こんな事例がある。

 A氏とB氏は、長い間、はげしい隣人戦争を繰りかえした。今も繰りかえしている。も
っともしかけてくるのは、いつもB氏。これはA氏の話だから、そのまま信ずるわけには
いかない。しかし、A氏は、こう言った。

 「やられましたね。車のタイヤには、穴をあけられるわ、クーラーのカバーは、割られ
るわ、あげくの果てには、植木鉢を、カベにぶつけられるわ……。いろいろありました。
うちへ来る客が、隣の玄関横に、車を止めただけで、パトカーまで呼びつけられました」
と。

 ここまでの話なら、よくある。隣人どうし、仲がよいケースは、意外と少ない。うちの
近所だけをみても、仲がよいのは、三軒に一軒くらい? 程度の差もある。

 しかし昨年、そのB氏が、がんで入院した。春に手術をして、秋にもう一度、入院した。
今は、抗がん剤のせいか、「エビをゆでたような赤い顔」(B氏談)をしているという。

 が、そのB氏。A氏へのいやがらせが、それで終わったかというと、そうではない。ま
すますはげしくなったという。

 ……実は、ここが私には、理解できないところである。B氏は、何度も死の恐怖を味わ
ったはず。がんで手術するということは、そういうことだ。毎日抗がん剤をのむというの
は、そういうことだ。

 が、「相変わらず、いやがらせをつづけている」と。

 私なら……という言い方は、たいへん危険な言い方になるかもしれないが、もう、そう
いうくだらないことはしない。そんなことをしているヒマはない。もっと、別の考え方を
するだろう……と思う。自信はないが……。あるいは死の恐怖を味わうと、ますますそう
いうことを、執拗(しつよう)にするようになるのだろうか。

 その上、A氏の話によると、B氏は、年金生活者。奥さんも元気で、その奥さんは、莫
大な遺産を相続している。何一つ、不自由ない生活をしている。

 ゆいいつ考えられるのは、B氏からみれば、健康なA氏が、ねたましいのではないかと
いうこと。被害妄想の強い人だったら、自分を、隣人が、「ザマー見ろ!」と笑っていると
思うかもしれない。

 ともかくも、私にはB氏の心理状態が、理解できない。

私「病院で、夜寝られないからといって、看護婦さんの詰め所の前で、座って眠っている
人の話を聞いたことがある」
ワイフ「死ぬということは、さみしいことなのね」
私「そういう話なら、わかる。しかしその一方で、ますます我欲にとりつかれる人もいる」
ワ「そうね。そこがわからないところね」
私「死ぬ間際になって、土地の取りあいで、裁判を起こした人さえいる」と。

 まだまだ私には、わからないことが山のようにある。今度、B氏に会って、ゆっくりと
話を聞いてみたい。
(040219)

(4)今を考える  **************************

【雑感・あれこれ】

●風船

 この二週間、教室では、風船づくりを楽しんだ。早く来た子どもたちのために、風船を
用意した。が、それが思わぬ結果に……。

 一応、ポンプで風船を、ふくらませるのだが、そのポンプが、かたい。ギコギコ、シュ
ーシュー、ギコギコ、シューシューと。

 毎日、何十個と作っているうちに、最初は、筋肉痛。そのうち腕の腱を痛めて、鈍痛に
合わせて、腕が動かなくなってしまった。

 しかし子どもたちは、許してくれない。「もっと作れ」「もっと作れ」と、せがんでくる。
しかたないので作るのだが、腕がそのたびに、ますます痛くなる。ああ〜!

 やったことがない運動をすると、とたんに体が故障する。これも年のせいか。

 で、この原稿を書いている今日、やっと、風船が底をつき始めた。よかった。ほっとし
た。もう風船遊びは、したくない。

 しかし来週からは、何をしようか。日曜日に、またどこかの店に行って、何かおもしろ
そうなものをさがそう。


●幼児をもつ母親対象の懇話会

 今度、E鉄道・E不動産会社のイベント会場で、懇話会の講師をすることになった。


 子どもを伸ばす、4つの鉄則という話をする。

 骨子は、(1)好奇心旺盛な子どもにする。つまりやる気のある子どもにする。……これ
は、W・H・ホワイトの「コンピテンス論」を、柱にする。

 (2)心がすなおな子どもにする。……これは、母子の基本的信頼関係について話せば
よい。(さらけ出し)と(受け入れ)の話である。私が得意とする分野である。

 (3)知的能力をのばす。……これは大脳生理学での最新の研究を柱にして、話せばよ
い。頭の良し悪しは、柔軟性で決まる。わかりやすく言えば、頭のやわらかい子どもは、
伸びる。そうでない子どもは、伸び悩む。

 (4)役割形成。……これは私の体験もまぜて、役割形成の大切さを説く。つまりこの
形成がしっかりとできている子どもは、道をふみはずさない。悪への抵抗力も、そこから
生まれる。

 若いお母さん方が中心の会ということだから、あまり専門的な話をしても、理解しても
らえないだろう。こうした懇話会では、どこでどのように笑いを入れるかが、ポイントと

 興味のある方は、ぜひ、講演会に来てほしい。

 ケーキと、本の無料プレゼントつき。(先着50人と10人)

 日時  3月7日(日曜日)  14:00〜15:30
 場所  ブライトタウン上島販売センター・モデルルーム
詳しくは……遠鉄鉄道まで。0120−388−378
(場所が、まだはっきりしていませんので、おいでの方は、
 どうか、電話で確認してください。あのあたりには、
 遠鉄不動産のマンションが、たくさんありますので……。)


●長男がまた失業!

 長男の勤める会社が、倒産の危機にあるという。それで、ということなのだろう。長男
の方が、一応退職届を出したという形になってはいるが、リストラされてしまった。

 今は、そんなわけで、長男は、職業安定所に通っている。多少の手当てが出るらしく、
悲壮感はない。のんびりと好き勝手なことをしている。

 そういう意味では、独身というのは、よいものだ。生活に対する責任感がない。切迫感
もない。(私もないが……。)もともとは身体障害者のために仕事をしたいと思って入社し
た会社だが、そんなに世間は、甘くはなかった。

 まあ、いろいろあるようだ。私が知らないところで、長男は長男なりに、悩んでいるの
かもしれない。親としては、暖かく無視するしかない。その会社に勤めているときは、毎
朝6時に起きて仕事にでかけていた。ここらあたりで、休憩するのもよいのではないか。

 どういうわけか、長男は、よい仕事に恵まれない。その会社にも、二年ほどいたが、そ
の前の会社も、この不景気で、どうかなってしまった。

 オーストラリアから日本へ帰ってきたときには、仕事がなくて、道路工事の旗振りの仕
事をしていた。それは、半年くらいしかしなかったが、私が、「もう少し楽な仕事をした
ら?」と言うと、「ぼくは、一番つらい仕事で、自分をためしてみたい」と。

 長男は、子どものときから、へんなところで、へんにがんばる。

 そのうち、自分の仕事を見つけるだろう。人生は、まだまだ長い。本当は、私の仕事を
手伝ってもらいたいが……。自分から「やりたい」と言うまで、様子を見ることにしてい
る。


●ダイヤモンドの星

 最近知ったニュースの中で、傑作(けっさく)なのは、これ。

 何と、直径4000キロもの大きさの、ダイヤモンドでできた星が見つかったというの
だ。アメリカのハーバード・スミソニアン天体物理学センターの研究者が2月17日、発
表した。

 その星というのは、地球から50光年の、ケンタウルス座にあるBPM37093。恒
星が燃えつき、冷え固まった「白色わい星」という星の一つだそうだ。

 直径4000キロだぞ! ハハハ。4000キロだ! 北海道の北端から、九州の南端
までが、約2000キロ! その2倍だ!

 宇宙のすることは、さすがスケールが、でっかい。で、私はまたまた考えさせられた。
では、今、地球人がもっているダイヤモンドの指輪は、何か、と。

 ものの価値というのは、そういうもの。今でこそ安くなったが、私が学生のころは、ダ
イヤモンドといえば、あらゆる「価値」の中で、王者の中の王だった。涙の一しずくのよ
うなダイヤモンドでさえ、当時は、100万円以上もした。(サイズ、色、キズなどで、ダ
イヤモンドの価値は決まるが……。)

 それが4000キロとは! 想像するだけで、楽しい。

 言いかえると、今、私たちは、ひょっとしたら、価値があるものを、価値がないと思い
こまされているだけかもしれない。反対に、価値のないものを、価値があると思いこまさ
れているだけかもしれない。 

 もともと人間が作り出した価値などというのは、幻想と錯覚のかたまりのようなもの。
子どもが楽しむカードゲームと、どこもちがわない。ほんの少し見方をかえただけで、そ
の価値が一転するということは、よくある。

 昔、ある寺で、信者たちが白い手袋をはめて、彼らがいうところの「仏様」の世話をし
ているのを見たことがある。それはそれは、ぎょうぎょうしい儀式だった。「仏様」の近く
にいる信者たちは、みな、白いマスクまでしていた。息をふきかけないため、ということ
だった。

 信者でない私には、「?」が、10個くらい並ぶような儀式だったが、当の信者たちは、
みな、真剣そのもの。ピンと張りつめた緊張感すら、感じた。(だからといって、そういう
宗教的儀式を否定しているのではない。どうか誤解のないように!)

 ダイヤモンドに価値がないというのではない。ただダイヤモンドを散りばめた王冠をか
ぶった王者が、それなりに威張ってみせたりすることには、意味がないということ。いわ
んやダイヤモンドの指輪をしただけで、幸福感に包まれるというのであれば、その幸福感
は、エセということ。

 何といっても、4000キロだぞ! ハハハ。

 これは生涯、ダイヤモンドとは、ほとんど無縁で過ごした、私のひがみのようなもの。
ハハハ。直径、4000キロだア! 

(5)付録【世にも不思議な留学記】*******************

日本の常識、世界の常識【25】

●珍問答

 私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。中には、「空手
を教えてくれ」「ハラキリ(切腹)の作法を教えてくれ」というのもあった。

あるいは「弾丸列車(新幹線)は、時速一五〇マイルで走るというが本当か」「日本では、
競馬の馬は、コースを、オーストラリアとは逆に回る。なぜだ」と。

さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあった。話を聞くと、「カ
ルピス」という飲料を誤解したためとわかった。カウは、「牛」、ピスは、ズバリ、「小便」
という意味である。

●忠臣蔵論

 が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、四、五人の学生が私を囲
んで、こう聞いた。「忠臣蔵を説明してほしい」と。いわく、「浅野が吉良に切りつけた。
浅野が悪い。そこで浅野は逮捕、投獄、そして切腹。ここまではわかる。しかしなぜ、浅
野の部下が、吉良に復讐をしたのか」と。

加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。それに死刑
を宣告したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府に
抗議すればよい。また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。ど
うしてボスに責任を追及しないのか、と。

 私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本
人は、水戸黄門に頭をさげるのか。水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるの
か」と。私が、「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。

 イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになって
いる。たとえばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。体中を鉄板でお
おい、たった一人で、総督府の役人と戦った男である。イギリスにも、ロビン・フッドや、
ウィリアム・ウォレスという人物がいた。

●日本の単身赴任

 法学部でもこんなことが話題になった。ロースクールの一室で、みながお茶を飲んでい
るときのこと。ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。

「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)
という制度があるが、法的な規制はないのかね?」と。そこで私が「何もない」と答え
ると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と叫
んだ。

 日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでい
るかぎり、絶対にわからない。が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が
日本へ帰ってきてからのことである。

●泣き崩れた母

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのと
きすでにM物産を退職し、教師になっていたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイ
と泣き崩れてしまった。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは
道を誤ったア〜」と。

だからといって、母を責めているわけではない。母は母で、当時の常識に従って、そう
言っただけだ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支えてくれると思っていた。が、
その一言で、私はすっかり自信をなくし、それから三〇歳を過ぎるまで、私は、外の世
界では、幼稚園の教師をしていることを隠した。一方、中の世界では、留学していたこ
とを隠した。どちらにせよ、話したら話したで、みな、「どうして?」と首をかしげてし
まった。

 が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、
ほかならぬ、オーストラリアの友人たちである。みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらし
い仕事だ」と。その励ましがなかったら、今の私はなかったと思う。
 

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                       {※}※※ /
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                      **/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye
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                            ○ 〜〜〜○
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    どうか、みなさん、お元気で!
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. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 3月 3日(No.368)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page040.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)
●3月7日(日)午後2:00〜3:30
遠鉄ブライトタウン上島販売センター(遠鉄遠州病院駅前)で講演会をもちます。
先着50人にイチゴタルト、10名様に本のプレゼントがあります。おいでくだ
さい! 参加自由、駐車場有りです。
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(1)子育てポイント**************************

●断絶とは

 「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないな
どがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。

家族には助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという五つの機能があ
るが、断絶状態になると、家族がその機能を果たさなくなる。

親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触
即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は
親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こう
いう状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子
どもはそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。

 しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認め
あわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五
五%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少
年白書』平成一〇年)。

もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論し
たり、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と
叫ぶ親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以
外の何ものでもなかった。

江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に
送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威に
しがみついている人は少なくない。

 日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たと
えば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」
を誇る親は少ない。

中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子ども
の受験競争に狂奔する親すらいる。価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外
見よりも中身こそ、大切にすべきではないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断
絶」という状態は、まさに家庭教育の大失敗ととらえてよい。

言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうことこそ
が、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべてマイナーな問題と
いうことになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えてはいけない。
(はやし浩司のサイト 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親子の断絶の三要素、(1)リズムの乱れ

 親子を断絶させる三つの要素に、(1)リズムの乱れ、(2)価値観の衝突、それに(3)
相互不信がある。

 まず(1)リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親
が子どもを妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おな
かにカセットレコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる

さらに子どもが生まれると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、
ミルク瓶を無理やり子どもの口に押し込む親がいる。「もうすぐ三時間五〇分……おか
しいわ。どうしてうちの子、泣かないのかしら……。もう四時間なのに……」と。

 そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語
教室」「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番
よく知っている」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』
で子どもの心を考える。

「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。

このタイプの母親は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活してい
る母親は、子どもの横か、うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立
ち、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩く。あるいはこんな会話をする。

 私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母
親、会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だ
ったらそう言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、
母親、また割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言
いなさい」と。

 いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。
そしてそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノが
ひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、
ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあ
んたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。

つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相
談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通
信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいで
しょうか」と。

こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と
言うようになる。子どもは、それを知っている。(次号へつづく)

(2)今日の特集  **************************

●溺愛論

 溺愛は、「愛」ではない。溺愛は、つまりは、自分の心のすき間を埋めるために、子ども
を利用する、親の身勝手な愛。その愛の中身は、ストーカー行為を繰りかえす、あのスト
ーカーの愛(?)に似る。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことを、「悔しい、悔しい」
と嘆いていた。「横浜の嫁に、息子を取られた」とも言った。

 こうした溺愛は、親自身は、気づかない。むしろ「私は子どもを深く愛している」と錯
覚する。この心理も、ストーカーの心理と似る。相手は迷惑しているのだが、迷惑してい
ることにすら、気づかない。

 こうして溺愛された子どもは、溺愛児になる。それについては、たびたび書いてきたの
で、ここでは、その先を書く。

 溺愛された子ども自身が、その溺愛に気づくことがある。「ぼくは、母に溺愛された」と。
しかしそのとき、その子どもが、母親に感謝するということは、ない。その反対である。
ある男性(45歳くらい)は、こう言った。

 「自分が母親のおもちゃであったことに、あるとき、気づきました。そのとき以来、7
0歳をすぎても、子離れできない母親を見ると、ぞっとします」と。何でもその母親は、
いまだに「○○ちゃん、○○ちゃん」と、その男性に、甘えてくるという。

 もう一つ、溺愛が愛でないという、その証拠になるような話がある。

 ある母親は、自分の息子を溺愛する一方、その息子が、自分から離れていくのを、絶対
に許さなかった。息子の進学する高校ですら勝手に決めてしまい、さらに自分から離れて
住むことを許さなかった。

 その息子氏(現在50歳くらい)は、こう言う。

 「母の言い方は、実にたくみなんですね。たとえばこういう言い方をします。

 たとえば近所に、遠く離れて住むようになった息子がいたとしますね。そういう息子に
ついて、わざと私に聞こえるようなところで、こう言うのです。

 『あの息子は、親不孝者だ。親を捨てて、遠くに住んでいる。ああいう息子は、地獄へ
落ちる。今に、その結果が出る。ああいう息子は、世間の笑いものだ』と。

 つまり母は、そう言いながら、その一方で、『お前は、そういうことをするなよ』と私を、
脅(おど)しているのですね」と。

 もっとも、その溺愛に気づく人は、まだよいほうだ。大半の人は、親に溺愛されたこと
にすら気づかない。気づかないまま、それを「親の深い愛」と誤解する。

 こうしてマザコンタイプの子どもが生まれる。

 信じられないような話かもしれないが、70歳の母親と、いまでも手をつないで寝てい
る息子(40歳くらい)がいる。(ホントだぞ!)

 このマザコンタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するために、ことさら、親
を美化したりする。「私の母は、毎晩、夜なべして、私を育ててくれました」「私の母は、
世の人の傘になれよと教えてくれました」と。

 このタイプの人にとっては、親は、まさに絶対。だれかが親を批判しただけで、猛然と、
それに反発する。またそうすることが、子どもの務めと誤解する。

 溺愛は、決して、愛ではない。真の愛は、子どもをどこまで、「許して忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。しかしそれは、同時に、さみしくも、つらい愛である。

 決して子どもを、自分のなぐさみものに、利用してはいけない。
(040217)

+++++++++++++++++++

●「先生、私、異常でしょうか?」・溺愛ママの溺愛児

 「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。

「娘(年中児)が、病気で休んでくれると、私、うれしいのです。私のそばにいてくれ
ると思うだけで、うれしいのです。主人なんか、いてもいなくても、どちらでもいいよ
うな気がします」と。私はそれに答えて、こう言った。「異常です」と。

 今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親
は自分の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、
泣き明かしたという。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見
ると、いとおしくて、ほおずりしたくなります」と。

 親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみ
る。

そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子ど
もに恵まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の
死や事故がきっかけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。

そして本来、夫や家庭、他人や社会に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。
その溺愛ママの典型的な会話。

先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばに
いるわよねエ。そうよねエ〜」と。

 親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気
がない。幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、
生活習慣がだらしなくなる)が見られることが多い。

満足げにおっとりしているが、人格の核形成が遅れる。ここでいう「核」というのは、
つかみどころをいう。輪郭といってもよい。子どもは年長児の中ごろから、少年少女期
へと移行するが、溺愛児には、そのときになっても、「この子はこういう子だ」という輪
郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくなる。ちょうどひざに抱かれたペットのよう
だから、私は「ペット児」と呼んでいる。

 このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになる
ケース。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、
ママ」と言って、母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。

もう一つは、その反動からか、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。ふつうの
反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年少女期へ
の移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だからたい
ていの親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。どうして、
こんな子どもになってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。

 子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。
しかしそれはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、
何もない。

(3)心を考える  **************************

●勉強が楽しい

 小学校の高学年児で、「勉強が楽しい」と思っている子どもは、約20%(グラフより)
にすぎない。

 このほど、地元のI小学校での、調査結果が公表された(04年02月)。それによると、
勉強が楽しいと答えた子どもは、4年、5年、6年生では、20%しかいない。(小1で、
40%)。

 私はその数字もさることながら、こうした調査結果を公表した、I小学校の校長に、敬
意を表したい。まさに勇気ある行為である。

 少し前までなら、「学校の恥」と、こうした結果は、公表されなかった。しかしI小学校
の校長は、あえてこうした結果を公表し、世間に、問題の「根」の深さ、そして深刻さを
訴えた。

 ほかにもいくつかの調査結果が、公表されている。

 「先生が楽しい」と答えた子ども……小1で、約32%(グラフより)
                  小6で、約13%(グラフより)

 わかりやすく言えば、学年を経るごとに、子どもたちは勉強嫌いになり、先生嫌いにな
るということ。しかし「勉強が楽しい」という子どもが、たったの20%とは!

 で、この20%という数字と、符合する事実がいくつかある。

 「中学生で、勉強している子どもは、約20%とみる」
 「中学生で、勉強していない子どもは、約60%とみる」
 「中学生で、約60%の子どもは、勉強ではなく、部活動でがんばって、推薦で高校へ
入りたいと考えている」
 「高校生で、本格的に受験勉強している子どもは、10〜20%程度である」
 「高校生で、家でまったく勉強していない子どもは、約40%はいる」など。

 これらの数字は、今までに、あちこちの学校の校長と話していたときに出てきた数字で
ある。正確な調査結果ではないが、おおむね、これらの数字は正しいとみてよい。

 つまり子どもの勉強に対する方向性は、小学6年生ぐらいまでには決まるということ。
そしてそれが最終的には、大学受験にまでつづくということ。そういう意味では、この年
齢までの(動機づけ)が、その子どもの一生を左右すると考えてよい。

 しかし……。

 私の教室では、子どもたちに、「勉強は楽しい」という意識を、徹底的に植えつける。実
際、年長児の終わりで、ほぼ100%の子どもが、「勉強、大好き!」と答える。

 これはウソでも、誇張でもない。このマガジンの読者の中には、教室の多くの父母がい
るから、ウソは、書けない。

 つまりここまでは、うまく、いく。しかし子どもたちが、学校へ入り、三年生、四年生
となっていくと、私の教室でも、とたんに、勉強嫌いの子どもがふえてくる。

 一見、学校の責任のように思う人も多いかもしれないが、原因は、家庭教育の失敗にあ
る。もっと言えば、原因は、母親や父親にある。つまり親の欲やあせりが、子どものやる
気を容赦なくつぶしていく。

 よい例が、進学塾だ。私の教室でも、小学三年生になるころから、みな、進学塾へ移っ
ていく。(何も、それに反対しているのではない。念のため!)それはそれでかまわないが、
そうした親の安易な判断が、同時に、子どもから、やる気を奪っていく。

 たしかに上位20〜30%の子どもにとっては、それなりの効果がある。それは認める。
しかし問題は、それにつづく子どもたちである。その子どもたちの心が、無残にも破壊さ
れていく。

 「何よ、この成績は!」「もっと、勉強しなさい!」「A君が、5番だって! あの子に
負けて、悔しくないの!」と。

 ご存知のように、進学塾では、容赦なく、点数で子どもを評価する。それがすべてと言
ってもよい。教育理念の「リ」の字すら、ない。あるいは塾長自らが、学歴信仰の亡者。(そ
う断言してよい。)

 そしてその結果が、「勉強が楽しい」と答えた子どもが、20%という数字である。

 せっかくI小学校の校長が、勇気をもって公表したのだから、私たちは、その勇気に答
えなければならない。そして問題の「根」を理解し、私たちの家庭教育に、それを生かし
ていかねばならない。

 多分、あなた自身も、子どものころ、勉強でいやな思いをしたはず。ユーウツな思いを
したはず。そこで少しだけそんな時代を思い出してみてほしい。つまりそういう時代が、
今のあなたにとって、本当に役にたっているか、と。あなたの中で、光り輝いているか、
と。

 だからといって、私は何も勉強を否定しているのではない。ただどうせしなければなら
ないものなら、楽しくしたほうがよいということ。そのほうが、子どもも、伸びる。いや
いやでは、子どもも、じゅうぶん能力を発揮できない。それだけのこと。
(040217)

(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●あのパソコンが……

 ほぼ半年ぶりに、近所の奥さんが、助けを求めてきた。「パソコンが動かなア〜い」と。

 見にいくと、あのパソコンは、そのまま。PEN4つきの、ものすごく性能のよいパソ
コン。……だった。しかし昨日見ると、それほどでも……という感じになっていた。この
世界、まさに日進月歩。

 「プリンターがこわれた」「文字がおかしい」「ワードが使えない」など、会うとあれこ
れ言いだした。

 プリンターを調べると、ドライバーが、こわれているのがわかった。文字がおかしいと
いうのは、(ひらがな変換)になっていた。ワードが使えないというのは、ショートカット
が消えていた。どれも初歩的なミスである。

 驚いたのは、今まで書いた文章が、ファイル形式で、そのままデスクトップに並んでい
たこと。それがズラリと、ところ狭しと並んでいた。「奥さん、こんなところに保存しては
だめだ」と言いかけたが、やめた。

 私が「ドライバーがこわれている……」ともらすと、奥さんは、すかさず保証書を見せ
た。「じゃあ、電気屋さんにきてもらう」と。

私「これは保証書の問題ではなく、パソコンの使い方の問題だから……」
奥「でも、こわれているんでしょう?」
私「いや、デバイスマネージャーで、ドライバーを更新すればすぐなおります」
奥「すぐですかア?」
私「すぐといっても、5分ほど、かかりますよ」と。

 以前、「ドライバーの入ったCDディスクがありますか?」と聞いたら、その奥さん、本
物のドラーバーをもってきた! 本物の、ネジ回しのドライバーだぞ!

 あれこれ設定をしなおしていると、「林さんは、神様みたい」と、さかんに言った。しか
しそう言われて、悪い気はしない。しかしこういうのを、『宝の持ち腐(ぐさ)れ』、とい
う。心の中で、何度も、「もったいないなア〜」と思った。

 設定しなおしながら、こんなことを思った。

 ずいぶんと前の話だが、私も、私のパソコンをなおしてくれる人を、神様のように思っ
たことがある。で、その人が、私のパソコンをなおしながら、こう聞いた。

 「林さんは、たとえばこうした修理をしてくれる人に、いくらなら払いますか。いえ、
私に払えと言うのではありません。いくらくらいなら、払ってもいいとお考えですか?」
と。

 そこで私は、こう言った。「状況にもよりますが、せっぱつまっていたら、一万円でも払
うでしょうね。まあ、一回、5000円程度かな」と。

 しばらくするとその人は、その販売会社をやめ、H市内で、パソコンの救急病院を始め
た。「電話一本で、24時間、おうかがいします」というのが、その会社のキャッチフレー
ズだった。で、それからさらに数年。その人の会社は、今では、あちこちに支店をもつま
での会社になった。

 あれこれなおしてあげて、時計を見ると、一時間はすぎていた。帰ろうとすると、奥さ
んは、「お茶も出さないで……」と、あやまった。あやまりながら、こう言った。「また何
かあれば、助けてくださいね」と。

 私は、「ハア〜」と言っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。


●口のうまい人

 世の中には、口のうまい人というのが、いる。大阪商人系の人は、たいていそう。つま
り、口をうまく使って、商売をする。「あら、ダンナさん、今日は、いい服を着てらっしゃ
いますねえ。似あいますよ」とか何とか。

 しかし相手をほめるだけではない。従兄(いとこ)から、こんな話を聞いた。

 何でもその従兄の義母が、その口のうまい人だというのだ。従兄は、「天才的にうまい」
と言ったが、たとえば……。

 いつも従兄には、こういうと言う。「Xさんとこの息子は、薄情なもんや。親のめんどう
をみるのがいやだと言って、親を、老人ホームへ入れたそうや」と。

 つまりその義母は、そう言いながら、従兄に、「あんたは、私にそういうことをするなよ」
と。

 また、今度、従兄が、義母のために、庭先に、八畳間の離れの部屋を増築した。で、そ
の離れが完成した。予定よりも一か月も早く、完成した。それで、お金の工面(くめん)
に苦労していると、義母が、横から、「悪いが、カーテンだけは、私に買わせてほしい」と。

 つまり「カーテン代しか、払わないぞ」と。

 従兄はこう言って、笑った。「ぼくは、ただ、工事が早く終わったので、まだお金の用意
ができていないと言っただけなのですがね」と。

 一事が万事。口のうまい人は、あらゆる面で、うまい。それがその人の、生きる処世術
のようにもなっている。しかしそのうまさは、一度、見抜かれると、急速に、神通力を失
う。

 私も、その大阪商人の流れをくむ人間の一人である。若いころだが、そんなわけで、「林
さんは、口がうまいね」と、ある人にたしなめられたことがある。以来、私は、努めて、
そういった言い方をひかえている。

 しかし人間の心にしみついた「質」は、そう簡単には消えない。油断すると、つい、そ
ういったことを、口にしてしまう。

が、悪いばかりではない。そういう「質」があるから、反対に、口のうまい人を、すぐ
見抜ける。「ああ、この人は、本心で、そう言っているのではないぞ」と。

 まあ、結論から先に言えば、口のうまいのは、商売で使うのは構わないが、ふつうの人
間関係では、避けたほうがよい。信用をなくす。人から相手にされなくなる。


●考えることの大切さ

 学生時代のことだが、こんなことがあった。

 伊豆半島を、ひとり旅していたときのこと。その日は、午後早くに、堂ヶ島の民宿に着
いた。

 で、私は着くとすぐ、散歩に出た。海岸線に沿って、岩の上を歩き始めた。そのときの
こと。

 しばらく歩いて行くと、黒い岩の向こうに、赤い岩の山が見えた。私は立ち止まって、
「?」と考えた。

 岩の種類が違うのだろうか。
 岩が、海面から飛び出したのだろうか。
 どうしてあのあたりの岩だけが色が違うのだろうか、と。

 私は近くまで、恐る恐る、歩いていった。そして赤い岩の前までくると、その中の石こ
ろの一つを手に取ってみた。そしてしばし、それをながめていた。と、そのとき、突然、
目の前に、ドドーッと、上から赤い岩のかたまりが落ちてきた。

 見あげると、上の通りから、ダンプが、土砂を海を捨てるところだった。私はとっさの
判断で、身をひるがえし、数歩、うしろへジャンプした。

 私やあやうく一命を落すところだった。しかもその土砂の下敷きになるところだった。
もしあのとき、「?」と思わないで、そのまま歩きつづけていたら、まちがいなくそうなっ
ていた。

 人の運命は、無数の偶然が折り重なって、決まる。しかしそのときでも、もし「考える」
という習慣が身についていたら、その運命を、自分の力で変えることができるかもしれな
い。その日のできごとは、それを確信させるのに、じゅうぶんなできごとだった。

 ……こう書きながら、今でもあの日のことを思うと、ゾーッとする。恐らく私は、行方
不明のまま、処理されただろう。あれだけの土砂だから、姿形なく、その土砂の下敷きに
なっていたはず。それに今の時代とは、ちがう。たいした捜索もしないまま、事件は処理
されていたはず。

 考えるということは、そういうことをいう。だから私は、生徒たちにこう言う。「考える
人間になれ。どんなことでもいい。それが運命を変えることだって、ある」と。

 あまりよい例ではないかもしれないが、私がそう思うようになった、その一つのきっか
けが、あの日のできごとだった。


●講演

 みなさんの小中学校で、PTA主催の教育講演会を考えておれらませんか? もしそう
なら、どうか、私を講師として、呼んでください。(今度、補助金対象になる、対象講師に
指名されました。)

静岡県教育委員会の出版文化会を通してくださると、県のほうから、出文教育講演会講
師紹介あっせん事業の一環として、補助金が支給されますので、格安で、(こんなことを
自分で言うのもおかしいですが……)、私を利用していただけます。

 詳しくは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page291.html

 浜松市は、東海道の宿場町から発展した工業都市ですが、意外と意外。日本の中でも、
比較的保守的な地域として知られています。少し前ですが、近くのある町で講演をしたら、
「あなたは、みな(=大半が農家の若い母親)が、ハハハと笑うような話をしてくれれば
いい。嫁さんに自立をうながすような話はしないでくれ」と言った、某団体の課長がいま
した。(これは控えめに書いていますが、本当の話です!)

 「今どき……」というのが、私の実感です。こうした「古さ」は、年齢とともに、より
鮮明にわかるようになりました。みなさん、こうした「古さ」と、もっと正面から、正々
堂々と戦っていきましょう!


●チャット

 昨夜(2月16日)、チャットルームで、チャットしました。(←どこか奇異な感じがす
る日本語ですね。)一年前に、サニーさんとして以来、はじめてのチャットでした。

 長野県のTさんや、東京、埼玉の方、それに地元浜松市の方と……。少年のように、ワ
クワク・ドキドキ……。太陽さん、長ぐつさん、低脂肪牛乳さん、それにマリソルさん、
みなさん、どうもありがとうございました。

 実のところこの一年間、(一回だけ忘れたことがありますが……)、毎週、みなさんのご
来訪をお待ちしていました。で、はじめてのチャット!

 読者の方と、直接話ができるなんて、本ではできない、まさにインターネットの利点で
すね。本のばあいは、本の中に、読者カード(ハガキ)を入れるのですが、S出版社の編
集長(文庫本担当)が、いつか、こう話してくれたことがあります。

 「ハガキが返ってくるのは、1000冊に1枚とみています」と。

 つまり1万部発行して、10枚ということだそうです。その数字とくらべると、信じら
れないほどの反応(?)です。

 どうかみなさんも、ご自由に時間を決めて、おいでください。私は毎週月曜日、午後1
0時SHARPに、のぞくようにしています。

+++++++++++++++++

チャットルームの中で話した、「ハンゲコウボク湯」についてですが、昨日の朝(2月16
日)、T先生から、こんなメールが届きました。

 「(DNAの修復作用があると言い出したのは)、東大の元薬学部長(学士院賞受賞者)
の、M氏です。現在84歳ですが、元気です。テニス仲間は、みんなのんでいます。手術
を受け、あと2年と言われていた人でも、5年たちますが、今でもピンピンしています。
のむ量は、舌の先で溶かしてのむので、毎晩、耳掻き一杯程度でよいそうです。私は2回
のんでいます」(要約)とのこと。

 T先生は、日本化学会元会長。T先生も日本学士院賞を受賞しています。
 あとは、みなさんのご判断にお任せします。


●まぐまぐ・プレミア版

 どうも、緊張してしまいます。今までは、どこか無責任な書き方だったように思うので
すが、「有料」という言葉に、ズシリとした重みを感じます。どうしてでしょう……?

 心のどこかで、気負ってしまうのですね。「読者の方の期待に答えなくては……」とか、
「いいことを書かなくては……」と。

 そのうち慣れるとは思いますが、今は、まだ緊張のうち。この原稿は、3月1日号か、
3日号に掲載する予定です。まぐまぐ・プレミア版は、45日先の分まで、配信予約でき
ます。ですから、3月1日までに、できれば2週間分の原稿を書いておきたいです。

 有料であるだけに、たとえば配信をしないでおいたりすると、ペナルティーが科せられ
ます。(こわいですね……。)もともと法科出身なものですから、こういうことには、敏感
に反応してしまいます。


●3月7日の講演会

 3月7日(日曜日)に、遠鉄不動産主催の講演会をもちます。場所は、新浜松駅前の「ブ
ライトタウン・上島販売センター」です。

【GOOD NEWS!】

 先着、50人様に、ホテルコンコルド特製の「イチゴタルト」、10人様に、小生の本が、
無料贈呈されます。

 いろいろな講演会をしてきましたが、こうしたおみやげつきの講演会は、はじめてです。
当日は、参加自由(無料+駐車場あり)ですから、どなたでも、おいでになれます。お近
くの人は、どうか+ぜひ、おいでください。

 詳しくは、当日もしくは、その前日に、新聞に折り込み広告が入るとのこと。

     時間は、午後2:00〜3:30です。
     場所は、上島販売センター(遠州病院駅前下車)
     演題は「あなたの子どもを伸ばしてみませんか?」
(子どもの方向性を決める四つの秘訣)
詳しくは、また追って、連絡します。



●浜松市の予算

 浜松市が新年度の予算を発表した。総額、約1800億円。土木費が、約15%削減さ
れ、その分、民生費(5%増)、公債費(2%増)などが、提示されている(04年2月)。

 土木費については、削減されたといっても、全体の21%。約362億円を占める。少
し前まで、25%前後を推移していたから、多少、改善されたとみてよい。それにしても、
だれが見ても、ムダな工事が多すぎる。ホント!

 15年ほど前だが、私の家の北側にある、O団地の大規模造成工事が始まったときのこ
と。その中の何本かの道路が現れたり、消えたり……。そこで市役所で働く友人に、それ
となく問い合わせると、その友人は、こう教えてくれた。

 「ああ、あれね、土木工事を業者に、工事を、平等にやらせるためですよ」と。

 つまり土木業者に仕事をつくるための工事だった、と。ほかに何かの事情があったのか
もしれない。しかしこうした工事は、日本全国のいたるところで、目につく。

 ご存知のように、どこの国へ行っても、土木工事は、質素。日本ほど、ド派手な国はな
い。数年前だが、オーストラリアの友人に、「日本では、土木建設費に、約25%の予算を
使っている」と話したら、心底、驚いていた。

 先進国の平均は、10〜15%前後とみてよい。(計算方法によっても、かなりちがうが
……。)

 これに対して、「日本では、建設コストが、他の先進国にくらべて、1・3〜1・4倍は
高いから」(建設省報告)と説明する。「高い」からではなく、「わざと高くしている」から
では、ないのか。

 民家は、ボロ家。公共施設は、超豪華。あとは、ひ孫の代まで、莫大な維持費。こんな
ことを繰りかえしていたら、日本は、本当にダメになる!

ついでながら、日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツ
に少ない(ユネスコ調べ)。

欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本
はこの10年間、毎年4・5%前後で推移している。

大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負
担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。
4兆円だぞ! 行員2000人足らずの銀行だったから、行員一人あたり、20億円と
いう計算になる。20億円だぞ! それだけのお金があれば、全国200万人の大学生
に、一人当たり200万円ずつの奨学金を渡せる!
(040217)

(5)付録・おまけ **************************

●ガム(短編小説)

 寒い夜だった。冷たい風が、頬を切った。人通りは、少ない。数人の男たちと、少し前
すれちがった。みな、酒でも飲んだのか、赤い顔をしていた。大声で、何やら言いあって
いた。が、それだけだった。ほかに歩いている人はいなかった。

 私は自転車のペダルをこいだ。こぎながら、舌の先で、ガムをまるめた。小さなガムだ
った。それを奥歯で、かんだ。

 冷気が口の中に入った。ガムが、かたくなった。縮んだような感じがした。私は、ペダ
ルをこぎながら、ガムをかんだ。ゆるいが、しばらくダラダラ坂がつづく。その坂を、少
しだけ、力を入れてこいだ。

 二年前、同じようにしてガムをかんでいたら、虫歯の詰め物が、はずれてしまった。ガ
ムをかみながら、ふと、それを思い出した。それで三万円! 治療費が、三万円! ガム
をかむ力をゆるめた。ガムは、ますますかたくなった。ガムをかむ力を抜いた。

 「道路へ捨ててはだめだ」と、自分に言って聞かせた。強い誘惑を感じた。通りには、
だれもいない。あたりは、暗い。やがて今度は、くだり坂。ペダルに足をのせたまま、全
身で、冬の風を受ける。

 気がつくとガムは、ガムというより、かたいゴムのようになっていた。私は、走りなが
ら、道のそばのゴミ箱をさがした。自動販売機の空き缶入れが見えた。不要乾電池を入れ
る、カゴも見えた。しかし通りすぎた。

 ガムを包む、紙をもっていなかった。私は、相変わらず舌の先で、ガムをころがしてい
た。ころがしながら、ときどき力を入れて、自転車をこいだ。

 そう、私は、この三〇年間、ガムのみならず、ゴミを道路へ捨てたことはない。何度か、
そういう場面はあったが、しなかった。「一度が二度、二度が三度……」。やがて歯止めが
なくなる。それが私にもわかっていた。

 自転車は、やがて、広い歩道へ出た。横には、できたばかりの大通りがつづく。その歩
道へ自転車をのりあげる、私はいくぶんか、スピードを落した。あとはゆっくりと走れば
いい。そう考えた。

 このあたりまでくると、冷気も気持ちよい。シャツの一番したから、さわやかな汗が、
遠慮がちにじみ出てくるのがわかる。私は、ガムを冷気にあてた。もうそのころになると、
ガムというよりは、小石だった。かんでも味がない。かむと、ゴチリと歯にあたった。

 「捨てようか」と思った。しかしすかさず、「家までもっていこう」と。あとはその繰り
かえし。「どうして自転車に乗る前に捨てなかったのか」とも。しかし自転車を、ガムをわ
ざわざ捨てるために止めるのも、気が引けた。

 やがて二つ目の信号を渡ったときのこと。うしろから一人の女性がを追いぬいた。若い
女性だった。髪の毛が、風に乗って、大きくゆらいでいた。私は、その女性の、尻を見た。
サドルに埋もれて、ムチッとした肉が、外にはみ出ていた。私は、その尻を見ながら、ペ
ダルに思わず力を入れた。

 オスざるは、メスざるの尻を見て、発情するという。一説によると、赤い尻であればあ
るほど、よいらしい。オスざるにもてるらしい。それも、しわくちゃのほうが、もてると
か。ふと、頭の中で、そんな話を思い出した。

 しばらく私は、うしろをついて走った。しかしその女性の自転車は、折りたたみ式の自
転車だった。スピードは出ない。軽くこいだだけで、今にも追いぬきそうになる。それに
私は、もう30年以上も自転車に乗っている。最近でこそ負けるようになったが、少し前
まで、高校生と競争しても、負けなかった。そんな自負心もあった。

 しばらく走って、四つ目の信号にさしかかったときのこと。信号が赤になっていた。が、
その女性は、信号を無視して、道を横切った。「信号無視だ」と思いながらも、私は自転車
を止めた。そしてそのまま信号が変わるのをまった。

 女性は数百メートルくらい先を走っていた。反対側から走ってくる車のライトで、その
姿がときどき見えなくなった。信号が青になったとき、私は、どういうわけか、猛烈な勢
いでペダルをこぎだした。「どういうわけか?」……実のところ、理由など、書く必要はな
い。私は、その女性の尻が、また見たくなった。

 体を立たせ、両腕でハンドルを引きつけ、ペダルを全身の体重をかけて押す。そして今
度は思いっきり、ハンドルを、手前に引き寄せる。こういうのを英語では、ダッシュとい
うう。私はそのダッシュを、リズミカルに繰りかえした。

 みるみるうちに、距離がせばまった。やがてその女性の姿をとらえ、またあの尻もきれ
いに見えるようになった。派手な花模様の、がらパンツをはいていた。先ほどは気がつか
なかったが、よく見ると、赤、青のモザイク模様だった。

 私はスピードを落したが、しかしそのままその女性を追いぬいてしまった。その瞬間、
その女性は、私を警戒したような様子を見せた。私は、そ知らぬ顔をして、前に出た。顔
を見たかったが、がまんした。きっと、美しい女性にちがいない。

 こういうとき、振りかえるのは、タブー(?) あらぬ下心を疑われる。それに私は昔
から、こういうシチュエーションに弱い。不器用というか、センスがないというか……。
私はそれまでの勢いで、どんどんと前に出た。……出てしまった。

 やがて大きな交差点にさしかかった。その向こうは、大きなショッピングセンターにな
っている。が、そういうときほど、信号は青。私は、何食わぬ顔で、道を横切った。が、
そこで信号は、黄色。そして赤に……。そのときはじめてうしろを振りかえった。が、そ
の女性の姿は消えていた。「しまった!」と思った。

 とたん、それまでがまんしていた息が、堰(せき)を切ったかのように、はげしく肺か
ら吹き出した。ハーハーと。とたん、あろうことか、あのガムが、その息にまざって、外
に! ポロリというより、プイといった感じだった。再び、「しまった!」と思った。

 私は、この30年間守り抜いた何かを、その瞬間、なくしたような気がした。善なる心
か。はたまた道徳か。それとも倫理か。

 もどって拾うことも考えたが、足だけは、勝手に動きつづけた。戻ったところで、この
暗闇では、どこにあるかさえもわからないだろう。そんな言い分けを、自分に言って聞か
せた。しかし気分はよくなかった。気まずい思いが、胸をふさいだ。

 何といっても、あの女性が悪い。私を誘惑した。そのおかげで、私は、ガムを、道路に
捨てるハメに! 

 家に帰ってワイフに、「今夜は、ガムを道路に捨ててしまった」と、ポツリと告げると、
ワイフは、夕食を用意する手を休めずに、「あら、どうして? あなたが?」と。

 しかし私は、理由を話せなかった。だからそのまま夕刊の中に顔をうずめて、遅い夕食
に箸をつけた。そしてしばらくして、こう言った。

 「いつでも道徳を破壊するのは、人間の欲望だ」と。

 何ともさまになった結論だった。そう思いながら、口を閉じて、夕食をかんだ。
(040217)

【追記】

短編小説に挑戦してみました。意味のない小説ですが、そのときの状況が、みなさんの頭
の中に浮かんでくれば、うれしいです。これから先、ときどき書いてみようと思っていま
す。

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.         ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月1日創刊号(No.367)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page038.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

●【マグマグ有料マガジン、創刊のごあいさつ】

 創刊号から、マグマグ版「子育て最前線の育児論BYはやし浩司」を、ご購読くださり、
ありがとうございます。みなさんを、私の一生の友として、皆さんのご家庭での子育てを、
側面から支援することを、ここに約束します。(大げさではなく、本気です。)

 このマグマグ版には、私自身の子育て論の集大成として、私の知識とノウハウ、それに
私がしてきた経験の、すべて注ぎます。どうかご期待ください。これから先、長いおつき
あいになると思いますが、どうか、末永く、ご購読くださいますよう、お願いします。

 今まで、無料版をご愛読くださっていた方も多いと思いますが、この有料版のほうは、
「有料である」という点で、それから受ける私の緊張感は、まるでちがいます。

 たとえば発行予定日に、マガジンを発行しなかったりすると、このマガジンは、登録が
取り消されたりします。ほかにも、いろいろペナルティーがあります。が、それだけでは
ありません。

「有料」という言葉の重みというか、それからくる責任感を、私はズシリと感じていま
す。今までも、決していいかげんなことを書いてきた覚えはありませんが、しかし今ま
で以上に、いいかげんなことは書けないという思いにかられています。こうした重みを、
何らかの形で、マガジンの中に反映できればと願っています。

なお、有料マガジンは、休祭日をのぞいた、毎週月、水、金曜日に配信します。毎回、
できるだけHTML版をそえるつもりでいます。写真やイラストも、そちらで楽しんで
いただけるようになっています。

 これから先、よろしくお願いします。

                            はやし浩司

【追記】

 マグマグ・プレミアム(有料版)は、今までのマガジンとは、何かと勝手がちがうため、
しばらくの間、何かと、失敗があるかもしれません。

 どうかご理解の上、そういう失敗があっても、お許しください。少しずつ、改善し
てまいります。

+++++++++++++++++

★マガジンの基本的な構成★

●子育てポイント
●今日の特集
●世にも不思議な留学記(HTML版のみ)
●心を考える
●今を考える

HTML版のほうでは、そのつど、あちこちでとってきた写真や
孫の誠司(現在満1歳と6か月)の写真などを、載せます。どう
か、お楽しみに!

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
3月7日(日)午後2:00〜3:30
遠鉄ブライトタウン上島販売センター(遠鉄遠州病院駅前)で講演会をもちます。
先着50人にイチゴタルト、10名様に本のプレゼントがあります。おいでくだ
さい! 参加自由、駐車場有りです。
(1)子育てポイント**************************

【今週のBW教室から】

私「3人に、2個ずつ、ミカンをあげました。全部で、ミカンは、いくつかな?」
A君(年長児)「6個!」
B君(年長児)「6個!」

私「A君、君は、すばらしい!」
B君「オレだ、オレだ。オレの方が先だ!」
私「そういうのを、オレオレ詐欺って、言うんだよ」と。

私「3個ずつ、あげると、全部で、いくつかな……?」
C子(年長児)「ハーイ」
私「C子さん!」
C子「……1、2、3、4、5、6……」
私「何だ? まだ答がわかっていなかったの? 答がわかってから手をあげなさい。そう
いうのを空手形って、言うんだ!」と。

私「じゃあ、2人に、3個ずつあげると、全部でいくつかな……? D君、君、元気ない
ねエ。どうしたの?」
D君(年長児)「……ママがいない……」
私「あのね、君はまだ若いから、青春時代を思い出して、元気を出してごらん」
D君「セイシュン・ジダイって?」
私「すべてが輝いている、あのすばらしいときだよ。君にだって、そういう時代があった
んだろ?」
D君「うん、わかった……」と。

私「4人に2個ずつわけると、全部でいくつかな……?」
Eさん「……7個!」
私「正解。すばらしい!」
ほかの子どもたち「先生、8個だよ。8個!」
私「いいの。7個で。Eさんが、7個だというなら、それでいいじゃない」
ほかの子どもたち「でも、8個だ!」
私「いいよねえエ〜、Eさん、7個で……」
Eさん「ううん、やっぱり、8個……」
私、ムッとしてみせて、「……君は、ぼくを裏切るのか?」と。

 こうしたテンポを崩さず、リズミカルにレッスンを進める。10〜20分もつづけてい
ると、やがて子どもたちは、興奮状態になる。しかしそれこそ、私のねらい。

 この時期は、何かを教えこむのではなく、子どもの頭を熱くすることを大切にしながら、
レッスンを進める。今まで使ったことがない脳の神経細胞を、どんどんと刺激していく。
その結果として、子どもの思考能力は、高まる。柔軟性をもつようになる。そしてさらに
その結果として、子どもの頭はよくなる。

 レッスンが終わったとき、参観の母親たちに、そっと、こう言う。「子どもの頭に手をお

いてみてください」と。どの親も、その熱さに、驚く。「子どもの頭が、こんなに熱くなる
なんて!」と。
(040216)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。
今でいう、アルコール依存症だったのか? 三〜四日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れ
た。大声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事
をすべて、ひっくり返したこともある。

私と六歳年上の姉は、そのたびに二階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、
こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのよ
うに、一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響
を与える。が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そ
のキズに振り回されることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、
夜がこわくて、ひとりで寝られない。あるいはG県の実家へ帰るのが、今でも苦痛でな
らない。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。

しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。もう少し若いころは、そういう
自分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、五〇歳も過ぎるこ
ろになると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなの
か」ということがわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」
と、そんなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果
たしていなかった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。

だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとん
の中で寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけ
ではない。母に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。
つまりそういう「過去」が、今の私をつくった。
 
よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を
受ける。が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残
る。ただこういうことは言える。

心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。
さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたを
めくるようにして、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思
う。しかし父は、先にも書いたように、三〜四日ごとに酒を飲んで暴れた。だから五四
歳になった今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。

「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣く
ことがある。五四歳になった今でも、だ。心のキズというのは、そういうものだ。決し
て安易に考えてはいけない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
●「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の経営者(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責
している場面があった。

三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その経営者が、
「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに
言葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタ
ラタラと流すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。

 私はその経営者の、そういう言い方は卑怯だと思う。強い立場のものが、一方的に弱い
立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするなら、
子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。

親子も、つきつめれば一対一の人間関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、
親子の縁でも切れるときには切れる。切れないと思っているのは、親だけで、また親は
その幻想の上に安住してしまい、子どもの心を見失うケースはいくらでもある。

仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれのおかげでメシを食っていかれるか、
それがわかっているか」と言うのと同じ。たしかにそうかもしれないが、夫がそれを口
にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに言葉を教えるのは、
親として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」と
いう言い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まっ
たく別のニュアンスになってしまう。

少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間としてみる。
それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育てをす
ることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるお
い豊かなものになる。

私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という
意識はほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言
うことはあっても、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。
そういう気持ちはどこにもないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。
親として、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の
息子たちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても
終わりに近づくと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなって
くる。いわんや、「親孝行」とは? 

自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そんなヒマが
あったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、
その重圧感で苦しんだからだ。
 
私はそんなわけで、先の経営者の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするよう
な嫌悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。

(2)今日の特集  **************************

●ドラ息子について……

 こんな相談があった(掲示板より)。

+++++++++++++++++++++

先生の「ドラ息子」の記事を読みました。
私の息子(小3)も、ドラ息子だと思います。

決められたこと、目標など、何度言ってもやりません。
決められたことは、簡単なことで、たとえば、
学校の手紙を見せるとか、そういうことです。

それで怒ったり、説教をしたり、一緒に考えたり・・・
この半年間、ずっと戦ってきましたが、まったくダメです。

親が強い態度に出ると、一応聞くふりをしますが、約束を、すぐに破ります。
ですが、学校の先生の話はよく聞き、約束なども守ります。

主人は、「そういうときは、相手にしなければいい」と言いますが、
怒られたときの週末は、部屋にこもって、出てこないときもあり、
食事も取らず、お風呂にも入らず、そのまま過ごすこともあります。

それを外で、「ご飯を食べさせてもらえない」と言って、
近所の人にお菓子をもらったり、
落ちている物を、拾って食べたりするので、困っています。

先生、どうしたらよいのでしょう?

+++++++++++++++++++++++

 子どもには、大きく分けて、三つの世界がある。「家庭」を中心とする、第一社会。「学
校」を中心とする、第二社会。それに「友人」を中心とする、第三社会。

 子どもは、これら三つの社会で、自分を使い分ける。とくに、小学三年生という年齢は
、子どもが、親離れを始める時期でもある。たとえば女児でも、それまでは父親といっし
ょに風呂へ入っていたのが、このころになると、急速に、それをいやがるようになる。

第二、第三社会の比重が大きくなるにつれて、家庭の役割も、相対的に小さくなり、同
時に、家庭の役割も変ってくる。

 それまでは家庭は、しつけや教育の場であったのが、この時期になると、家庭は、「憩い
の場」「安らぎの場」と、変ってくる。子どもは、外の世界で疲れた体や心を、家庭の中で、
いやすようになる。

 「学校のことを話さなくなった」というのは、この時期の子どもの変化としては、よく
あることである。

 で、相談の件。

 「ドラ息子かどうか」は、心をみて、判断する。

 ドラ息子症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。(興味のある
人は、私のHPのトップページより、「タイプ別育て方」に進んでほしい。)

 その中でもとくに注意しなければならないのは、心の変化である。たとえば、●他人の
心の動きに鈍感になる(ほかの子どもが悲しんでいても、理解できない)、●他人の心を平
気で、キズつける(「バカ」とか、「アホ」とか、暴言を吐く)、●自己中心的なものの考え
方が、支配的になる(自分以外の人間には、価値がないと思う)など。

 目標が守れない、規則が守れないというのは、広く「退行症状」として考えられている。
もちろんドラ息子にも見られる症状だが、その退行症状があるからといって、ドラ息子と
いうことにはならない。

 (「ドラ息子」というのは、俗に、そう言うだけで、必ずしも、明確な定義があるわけで
はない。要するにわがままで、自分勝手、それに自己中心的な子どものことをいう。)

 この相談の方の子どもがそうであるかないかという話は別として、仮に自分の子どもが
ドラ息子であるとしても、それは子どもの責任ではない。親の責任である。わかりやすく
言えば、家庭教育の失敗が原因。

 そういう失敗の原因を自分に向けることなく、「子どもが悪い」「子どもをなおそう」
「どうしたらいい」と悩んでも、こういうケースでは、ほとんど、意味がない。改めるべ
きは、子どもではなく、家庭教育そのもののあり方である。

 で、母親は、こう言っている。「……ですが、学校の先生の話はよく聞き、約束なども守
ります」と。

 であるとするなら、それほど、問題はないのではないのか。どこの世の中に、今どき、
父親や母親が作った規則や目標を、従順に守る子どもなど、どこにいるだろうか。もしそ
うなら、この世の中、すべてみな、優等生……ということになってしまう!

 気になる点もないわけではない。

・部屋にこもって、出てこないことがある。
・食事も取らず、お風呂にも入らず、そのまま過ごすこともある。
・外で、「ご飯を食べさせてもらえない」と言う。
・近所の人にお菓子をもらう。
・落ちている物を、拾って食べたりする。

 どこか強圧的な家庭環境の中で、子ども自身が、常識をなくしているのではないかと思
われる。自分で考えて、自分で行動するという雰囲気にも、欠けるのでは? とくに、「落
ちているものを、拾って食べる」という点が、気になる。(私は、道路に落ちているものを
食べるというふうに、解釈したが……。)

 子どもへの接し方が、過干渉になっていないかを、反省する。そしてもしそうなら、一
度、子どものリズムに合わせた生活習慣にする。(と言っても、これはたいへんむずかしい。
生活のリズムというのはそういうもので、簡単には変えられない。)

 全体として受ける印象では、この母親は、たいへん親意識(親風を吹かしやすいという
意味で、悪玉親意識)が強いように思われる。自分自身も、そういう家庭環境で育ってき
たからと考えてよい。

 結論としては、この中で、父親が言っている言葉が正解だと思う。(情報量が少ないので、
何とも言えないが……。)

 「そういうときは、相手にしなければいい」。

 へたに相手にするから、子どものほうも、ムキになる。子どもの世界には、こんな鉄則
もある。『男の子のことは、父親に任せ』と。母親にとって、男児は、異性である。その異
性であるという戸まどいが、ときとして、親子関係をギクシャクさせる。

 私は、そのギクシャクした様子を、この母親の家庭に感じる。いくつか参考になりそう
な原稿を、添付しておく。
(040213)

++++++++++++++++++

親子の断絶が始まるとき 

●最初は小さな亀裂

最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限っ
て……」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音は
やがて大きくなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようにな
りたくない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。

が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、
目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、
子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの
大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに
感謝されているはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察して
みてほしい。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気に
しないで、体を休めているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好と
みてよい。

しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこ
かへ逃げて行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の
多くが、心が休まる場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに
(3)ふとんの中だそうだ(学外研・九八年報告)。

●断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。(1)権威主義、(2)相互不信、それに(3)リ
ズムの乱れ。


権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」
と考える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾け
ない。「子どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」と
いう過信のもと、自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自
分に都合のよいところしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方
、子どもは子どもで親の前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心
は離れる。

相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心
配だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のよ
うなものだ。イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを
思う』というのがある。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、
あなたの子どもも、あなたを「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、
親子の間を密にする。が、そうでなければ、そうでなくなる。

リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、
思い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩い
ている姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、あなたが、子どもの横か、うしろに立
ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐ
いと引きながら歩いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、や
がて断絶……ということにもなりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」
と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、
それを叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そう
だ。

子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、
できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子ど
もと、こんな会話をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるように
なったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ
連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

●リズム論

子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、
子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれ
ば、それは騒音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続く
ということ。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきに
ミルクを与えることになっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほし
がる前に、哺乳ビンを子どもの口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、
子どもが泣くまでミルクを与えない親もいる。

たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前
に英語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っ
ても、なかなか行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続
く。子どもがおとなになってからも、だ。

ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。
また別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。ど
こかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからん
でいるため、変えるのは容易ではない。

●子どものうしろを歩く

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日から
でも遅くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決
して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼ
くに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子
の断絶を防ぐ。

※……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を
尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」
の問に、「はい」と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、
七八・八%、「母親のようになりたくない」は、七一・五%であった。

この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた五五%

の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、
では残りの約四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。この中
には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか
「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、
どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(参考)
●親子の断絶診断テスト 

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育て
を診断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、
子どもの心の中を知るのが、このテスト。

あなたは子どものことについて…。

★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。
★一、二人くらいなら何となく知っている(2点)。
★ほとんど知らない(3点)。


学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。

★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休めているる(0)。
★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。
★親のいるところをいやがるようだ(2)。
★親のいないところを求める。親の姿が見えると、その場を逃げる(3)。


「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは……。

★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどう臭そうな表情をしたり、うるさがる(1)。
★いやがらないが、ほとんど話してくれない(2)。
★即座に、回答を拒否し、無視したり、「うるさい!」とはねのける(3)。


何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。

★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。
★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
★親のほうが遠慮し、恐る恐る……といった感じになる(2)。
★拒否されるのがわかっているから、とても頼めない(3)。


休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。
そのときあなたの子どもは…。

★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。
★「行きたくない」と、たいてい拒否される(2)。
★家族旅行など、問題外といった雰囲気だ(3)。


15〜12点…目下、断絶状態
11〜 9点…危険な状態
8〜 6点…平均的
5〜 0点…良好な関係

++++++++++++++++++++++++

●ドラ息子症候群

 英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう
例は、教育の世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、
ない。あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハ
キハキしないのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子という
のがいる。M君(小三)は、そんなタイプの子どもだった。

 口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にか
なわないと、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼に
とっては、あってないようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているような
ところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」
と。そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼ
くはならない。バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資
格などない」とか。こうも言った。

「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地主
で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えるこ
とそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「も
っとほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこと
もあった。

受験を控えた中三のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されて
しまったのである。悪質な万引きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響す
るから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消
してしまった。そして彼が高校二年生になったある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそ
う呼んでいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」
と。そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、
私からその万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
 

とたん私は彼に飛びかかっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、
M君の母親は、私を狂ったように責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)「ああ、
これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。

が、M君の父親が、私を救ってくれた。うなだれて床に正座している私のところへきて、
父親はこう言った。「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。
本当にありがとう」と。


(3)心を考える  **************************

●ある相談から……

静岡市に住んでいる、MMさんから、長女(小1)について、こんな相談があった。

+++++++++++

「家の外と、中では、まるで別人のように、様子がちがいます。

 学校などでは、優等生で、何も問題がないと、先生にもよく言われます。しかし家の中
では、がんこで、わがままで、生活態度も横柄です。

 何か、私が注意したり、叱ったりすると、最後の最後まで、ああでもない、こうでもな
いと、さからいます。私はうちの子は、ひねくれています。先のことを考えると、心配で
なりません。どうしたらいいでしょうか。

 ちなみに、うちには、ほかに、2歳年下の弟と、4歳年下の妹の、二人の子どもがいま
す」(以上要約)と。

++++++++++++

 ほかにもいろいろ症状が書かれていた。

 で、文面から判断すると、長女(Aさんとする)は、下の子どもが生まれたことにより、
慢性的な欲求不満に陥ったものと思われる。それが原因で、心をゆがめたものと思われる。


 対処法としては、「子どもの欲求不満」に準じて、考える。私のHPの、「タイプ別」を
参照してほしい。

 実際、かなり強度のひねくれ症状が出ているが、これはここに書いた、慢性的な欲求不
満が原因と考えてよい。このタイプの子どもは、まさに(ああ言えば、こう言う)式の反
抗をする。

母、娘が、茶碗を割ったことについて、「気をつけてよ!」
娘、すかさず、「こんなところに、ママが茶碗を、置いておくから、いけないのよ!」と。

 下の子どもが生まれると、上の子どもは、嫉妬から、さまざまな形で、心をゆがめやす
い。これについても、同じくHPの「タイプ別」→(赤ちゃんがえり)を、参照してほし
い。

 嫉妬は、きわめて原始的な感情であるだけに、それをいじると、子どもの心は、ゆがむ。
Aさんも、母親の気づかないところで、かなり心をゆがめた。

 で、その欲求不満のはけ口として、Aさんは、仮面をかぶるようになったと考えられる。
一般論として、人との交わりがうまくできない子どもは、攻撃型、同情型、依存型、内閉
型のどれかのパターンを、とることがわかっている。

 Aさんも、そのうちのどれかのパターンをとっているものと思われる。文面から察する
と、家の中では、攻撃型。家の外では、同情型のような気がする。外の世界では、無理に
よい子ぶって、関心を集めようとする。(あくまでもいただいたメールの範囲内での判断だ
が……。)

 で、母親の相談だが、「先が、心配だ」と。

 このタイプの子どもは、外の世界でいい子ぶる、つまり無理をする分だけ、家の中では、
荒れやすい。暴力行為に出るプラス型と、グズグズ、ネチネチするマイナス型に分けて考
える。

 Aさんは、プラス型かもしれないが、つまり子どもは、こうして心のバランスをとる。

 そこでつぎのように、するとよい。

(1)「ああ、うちの子は、外の世界でがんばっている。だから家の中では、心と体を休め
ている」と理解してあげること。多少、ぞんざいな態度や、横柄な態度をしても、大目に
見る。

(2)「求めてきたときが与えどき」と考えて、子どもが、スキンシップ(甘えたり、体の
接触)を求めてきたようなときは、こまめに、ていねいに、濃厚に、子どもが満足するま
で、それを与えること。

(3)CA,MGの多い食品、たとえば海産物を主体とした食生活にこころがける。とく
に緊張性の、情緒不安症状がみられたらそうする。どこかピリピリしているとか、ささい
なことで、カーッとなるようなときに、効果的である。

 残念ながら、この時期、こうした方向性を一度見せると、子どもの心は、そのまま一生、
つづく。ひとつの性格として、定着してしまうからである。

 しかし文面から察すると、外の世界ではがんばっているようなので、それほど、心配し
なくてもよいのでは……。むしろ、そういうよい面をほめ、それを伸ばすようにしたらよ
い。(外の世界でも、荒れるようであれば、心配だが……。)

 ポイントは、今より症状を悪化させないことだけを、考える。そして一年単位で、様子
をみる。あせってなおる問題ではない。また叱ったり、説教しても、意味はない。「根」は、
深い。

 一つ心配なのは、親子関係が、かなりぎくしゃくしているように感じたこと。たがいに
不信感をもち始めているような雰囲気である。

 今が、その正念場と考えてよい。このまま親子が断絶していくか。それとも、親子関係
を修復するか。

もし悩んだり、行きづまったら、「許して忘れる」の言葉を、念じてみてほしい。それだ
けで、ずいぶんと心が軽くなるはずである。
(040215)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【心の洗濯・さわやかに生きる】

●他人の生活をのぞかない

 他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。それはその他人のため
というよりは、あなた自身のためである。

 少し話がそれるが、こんな事件が身近であった。

 10年ほど前だろうか、近所に住むA氏(40歳、当時)から、こんな相談があった。
何でも、そのA氏の自宅の東側に住むB氏(50歳、当時)が、A氏の家の中を、いつも
のぞいているというのだ。それでA氏の妻が、気味悪がって、不眠症になってしまった、
と。

 そこでA氏が、B氏に、「そういうことは、やめてほしい」と注意すると、B氏は、猛然
とそれに反発して、こう言ったという。

 「お前こそ、オレの家をのぞいているではないか。オレのウチは、そのため、すべての
窓ガラスを、型ガラスにかえたんだぞ!」と。

 A氏には、まったく身に覚えのない話だった。つまりB氏は、いつもA氏の家の中をの
ぞいていた。それでB氏は、自分もA氏にのぞかれていると思ったらしい。これに似た話
は、よくある。

 たとえば他人の私生活を気にする人は、同時に、自分が世間からどう見られているかを
気にする。つまり他人の生活をのぞく人は、のぞいた分だけ、今度は、自分の生活がのぞ
かれているのではないかと恐れる。あるいはそういった被害妄想を、もちやすい。冒頭に
あげたB氏が、そういう人だった。

 だから他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。気にすればする
ほど、今度は、あなたが、自分の子どものことで、他人の目を気にするようになる。

 25年ほど前のことだが、いつも娘(高校生)を、車で送り迎えしていた母親がいた。「近
所の人に、娘の制服を見られるのが、恥ずかしかったから」というのが、その理由らしい。
あるいは、(これはホントの話だぞ……)、駅で制服を着替えてから、学校に通っていた子
どもさえいた。

 世間の目を気にする人は、そこまで気にする。

 私は私。他人は他人。そのためにも、まずあなた自身の心をつくりかえる。つまり他人
の生活は、のぞかない。それは、このどろどろした世界を、さわやかに生きるための鉄則
でもある。


●家庭問題には、かかわらない
 
 こういう仕事をしていると、ときどき、横ヤリが入ることがある。つい先日も、ある女
性(60歳くらい)から、こんな電話が入った。

 「うちの嫁(=生徒の母親)が、孫(=私の生徒)をつれて、実家へ帰ってしまった。
ついては、あなた(=私)のほうで、何とか、孫だけでも、取りかえしたい。ついては協
力してもらえないか」と。

 その生徒は、私のところへ、何も変わりなく、通っていた。その女性(=祖母)は、そ
の機会をとらえて、孫(=生徒)を、取りかえそうと考えていた。

 こういうケースでは、私は、いつもはっきりと断ることにしている。「私は、母親(=嫁)
から委託を受けて仕事をしています。その母親を、裏切ることはできません」と。

 しかし問題は、そのあとだ。こうした電話があったことを、その母親に告げるべきかど
うかで迷う。

 で、私のばあい、こうした電話は、そのまま無視することにしている。いつしか、そう
いう処世術を身につけてしまった。まさに『さわらぬ神にたたりなし』である。

 へたに介入すると、やがて抜き差しならない状態になる。実際、こじれた人間関係ほど、
わずらわしいものはない。また介入したところで、どうにもならない。それぞれの家庭に
は、言葉に言いつくせない問題が、「クモの巣」(=英語の表現)のようにからんでいる。

 相手から相談があれば、話は別だが、これも、さわやかに生きるための鉄則である。


●人の悪口は、自分で止める

 母親どうしのトラブルは、日常茶飯事。「言った」「言わない」が、こじれて、裁判ざた
になることもある。

 で、私の耳にも、そういった話が、容赦なく、飛びこんでくる。しかしそういうときの
鉄則は、ただ一つ。『ただ聞くだけ。そしてその話は、絶対に、人には、伝えない』

 たとえばAさんが、こう言ったとする。

 「あのBさんね、祖母の老齢年金を、とりあげているそうよ。そしてそのお金を、自分
の息子の塾代にあてているんですって」と。

 こういう話は、聞くだけで、絶対に人に伝えてはいけない。あなたのところで止めて、
そのまま消す。そして忘れる。相づちを打ってもいけない。

だいたいにおいて、そういう話が飛びこんでくるということは、あなた自身も、そのレ
ベルの人ということになる。だから、よけいに、相手にしてはいけない。

 ……と、偉そうなことを書いてしまったが、実は、私も無数の失敗をしている。たとえ
ば以前、こんなエッセー(中日新聞投稿済み)を書いたことがある。

+++++++++++++++++++++++

●父母との交際は慎重に

 教育の世界では、たった一言が大問題になるということがよくある。こんな事件が、あ
る小学校であった。

その学校の先生が一人の母親に、「子どもを塾へ四つもやっているバカな親がいる」と、
ふと口をすべらせてしまった。その先生は、「バカ」という言葉を使ってしまったのだが、
今どき、四つぐらいの塾なら、珍しくない。英語教室に水泳教室、ソロバン塾に学習塾な
ど。

そこでそれぞれの親が、自分のことを言われたと思い、教育委員会を巻き込んだ大騒動
へと発展してしまった。結局その先生は、任期の途中で転校せざるをえなくなってしまっ
た。が、実は私にも、これに似たような経験がある。

 母親たちが五月の連休中に、子どもたちを連れてディズニーランドへ行ってきた。それ
はそれですんだのだが、そのあと一人の母親に会ったとき、私が、「あなたは行きましたか」
と聞いた。するとその母親は、「行きませんでした」と。

そこで私は(連休中は混雑していて、たいへんだっただろう)という思いを込めて、「そ
れは賢明でしたね」と言ってしまった。が、この話は、一晩のうちにすべての母親に伝わ
ってしまった。

しかもどこかで話がねじ曲げられ、「五月の連休中にディズニーランドへ子どもを連れ
ていったヤツはバカだと、あのはやしが笑っていた」ということになってしまった。数日
後、ものすごい剣幕の母親たちの一団が、私のところへやってきた。「バカとは何よ! あ
やまりなさい!」と。

 母親同士のトラブルとなると、日常茶飯事。「言った、言わない」の大喧嘩になることも
珍しくない。そしてこの世界、一度こじれると、とことんこじれる。現に今、市内のある
小学校で、母親同士のトラブルが裁判ざたになっているケースがある。

 そこで教訓。父母との交際は、水のように淡々とすべし。できれば事務的に。できれば
必要最小限に。そしてここが大切だが、先生やほかの父母の悪口は言わない。聞かない。
そして相づちも打たない。相づちを打てば打ったで、今度はあなたが言った言葉として、
ほかの人に伝わってしまう。「あの林さんも、そう言っていましたよ」と。

 教育と言いながら、その水面下では、醜い人間のドラマが飛び交っている。しかも間に
「子ども」がいるため、互いに容赦しない。それこそ血みどろかつ、命がけの闘いを繰り
広げる。

一〇人のうち九人がまともでも、一人はまともでない人がいる。このまともでない人が、
めんどうを大きくする。が、それでもそういう人との交際を避けて通れないとしたら……。
そのときはこうする。

 イギリスの格言に、『相手は自分が相手を思うように、あなたのことを思う』というのが
ある。つまりあなたが相手を「よい人だ」と思っていると、相手もあなたのことを「よい
人だ」と思うようになる。反対に「いやな人だ」と思っていると、相手も「いやな人だ」
と思うようになる。

だから子どもがからんだ教育の世界では、いつも先生や父母を「よい人だ」と思うよう
にする。相手のよい面だけを見て、そしてそれをほめるようにする。

要するにこの世界では、敵を作らないこと。何度も繰り返すが、ほかの世界のことなら
ともかく、子どもが間にからんでいるだけに、そこは慎重に考えて行動する。

++++++++++++++++++++++++

 英語にも、『同じ羽の鳥は、いっしょに集まる』という格言がある。私は、どこか低劣な
話が耳に入ってきたときには、相手は、私もその低劣な人間とみているのだなと思うよう
にしている。

 相手から見れば、私も低劣に見える。だからそういう低劣な話を、私にするのだ、と。

 しかし実際には、幼児相手の仕事をしていると、いつも低劣に見られる? 先日もいき
なり電話がかかってきて、こんなことを言う母親がいた。

 「おたく、幼児教室? あら、そう。今、うちの子を、クモンへ入れるか、あんたんど
こへ入れるか、迷っているんだけど、どっちがいいかなア?と、思って……」と。

 私はそれに答えて、「はあ、うちは、一〇問(ジューモン)教えますので……」と。

 この答え方は、昔、仲間のI先生が教えてくれた言い方である。(クモンと、ジュウーモ
ンのちがいですが、わかりますか?)

 いかにして、この世界で、さわやかに生きるか。これはとても重要なテーマのように思
う。いつもそれを心のどこかで考えていないと、あっという間に、泥沼に巻きこまれてし
まう。

それを避けるためのいくつかの鉄則を書いてみたが、これらの鉄則は、そのまま母親ど
うしの人間関係にも、応用できるのでは。ぜひ、応用してみてほしい。
(040216)

(4)今を考える  **************************

●お人好(よ)しVS.自分勝手 

 お人好しの人から見れば、自分勝手な人が、バカに見える。しかし自分勝手な人から見
れば、お人好し人は、バカに見える。

 ……実は、これは私の中の二人の自分についてで、ある。

 私の中には、二人の人間がいる。お人よしの私と、自分勝手な私である。そしてその二
人の人間が、私の中で、交互に、揺れ動く……。

 どちらの私がよいかということになれば、当然、お人好しの私のほうが、よいに決まっ
ている。しかしそのお人好しの私は、いつも人に裏切られ、キズつく。で、そういう自分
を、もう一人の自分勝手な私が見て、「そら、見ろ!」と笑う。

 こういうとき私は、どこに着陸点を見つけたらよいのか。

 お人好しをつづけるのも、実際、疲れる。私のばあい、かなり努力をしないと、できな
い。もともと私という人間は、素性があまりよくない。

 たとえば近所のゴミを拾うとき。電話で、子育ての相談を受けるとき。何かの支援団体
の集会に出るとき、など。心のどこかで、かすかだが、自分に対する怒りを感ずる。「どう
して、お前が、こんなことをしているんだ!」「そなければならいんだ!」と。

 もっともそのお人好しの私が、それなりに報われるなら、まだ救われる。しかし実際に
は、報われるケースなど、十に一つもない。百に一つもあれば、まだよいほうかもしれな
い。逆に、世の中には、お人好しの人たちを、たくみに利用して、自分の利益につなげて
いく人がいる。

 そこでますますガードをかたくする。とたん、また自分勝手な私が顔を出す。今度は、「ザ
マー、見ろ!」と。

 しかしここで私は、気がついた。これは私の中の、善と悪の戦いではないか、と。お人
好しの私を、善とするなら、自分勝手な私は、悪ということになる。その自分勝手な私は、
どこまでも冷徹で、合理的。ものごとを、何でも、損得の計算にからめてしまう。

 で、ワイフに相談すると、ワイフは、こう言った。「お人好しで、いいんじゃなア〜い」
と。「最初から、期待しなければいいのよ。期待するから、裏切られたとか、キズつけられ
たとか、そういうふうに言うようになるのよ。お人好しを、つらぬけばア〜」と。

 ワイフの答は、いつも明快で単純。単純すぎるところが気になる。世の中、そんな単純
ではない。甘くない。

私「お人好しだけでは生きていけないよ。お金を稼ぐためには、どこかで自分勝手になら
ないといけない」
ワ「いいじゃない? それで……。そのうち、みんなわかてくれるわよ」と。

 そこで私はわかった。実は、これは私の問題ではなく、みんなの問題だ、と。つまりこ
ういうこと。

 どこかにお人好しの人がいたとする。大切なことは、そういう人を守り育てていくこと
だ、と。つまりその人を、裏切ったり、さらには、キズつけたりしてはいけない。つまり
そういう人を大切にすることが、即、自分の中の善なる心を守ることになる。

 あなたのまわりにも、お人好しの人はいるはず。裏切られても、裏切られても、意に介
せず、人のために働いている人が、いるはず。そういう人を大切にする。

 実のところ、私の義理の兄に、そういう人がいる。若いときから、人に頼まれると、い
やと言えない性分らしい。そのため、繰りかえし、繰りかえし、人にだまされている。一
時は、友人の身元保証人になり、全財産を失ったこともある。

 しかし今、その義理の兄は、神々しいほどの人格者になっている。すばらしい人という
のは、そういう人のことをいう。

 お人好しであるにせよ、自分勝手であるにせよ、どうせこの世で生きている時間は、短
い。そのときどきでは、時間を、結構、長く感ずるが、終わってみると、まさに一瞬。昨
夜見た、夢のよう。

 ならば、善にしがみついて生きるほうが、得策。回り道をしない分だけ、人生を有意義
に生きることができる。それを実践するのは、なかなかむずかしいことかもしれないが、
しかし生きる目標にかかげて、何ら、遜色(そんしょく)はない。「私は、お人好しで生き
るぞ!」と。

 ……と書きながらも、心のどこかで、むなしさを覚えるのは、やはり、この世の中がそ
れだけ、狂っているということか。とても残念なことだが……。
(040216)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【後記】
創刊号はいかかでしたか?
すこしかたくなりましたが、お許しください。
次回からは、もう少し、調子が出てくるものと思われます。
落ちついたら、また『世にも不思議な留学記(後編)』を送ります。
いましばらくお待ちください。
孫の誠司の写真などは、HTML版のほうで紹介しています。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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Planned & edited, and all copyrights are reserved by Hiroshi Hayashi
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.                      ※*… /mQQQm
.                     **/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月1日・特別付録
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●まぐまぐプレミアの読者のみなさんへ

 以前、書いた、「Touch your Heart」(心に触れる)という原稿を、特
別にお送りします。

 親子の「心」について、書いたものです。みなさんの心を、少しでも暖かくすることが
できれば、うれしいです。

 なおこれらの原稿は、中日新聞で発表してきたエッセーの中から、とくに反響の大きか
ったものです。マガジンのほうでは、以前、掲載したものばかりですが、改めて(?)お
読みくだされば、うれしいです。

              
                            はやし浩司

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Touch your Heart byはやし浩司(1)

子どもの巣立ち

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男
が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教
えてくれた。

「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないた
め、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。
いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子
たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去
っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたとき
のこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわから
なかった。

が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房
が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とか
けめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があ
ろうとは! 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違う
と、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってく
ださいよ」と声をかけたくなる。

レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの
息子たちも、ああだったなあ」と。問題のない子どもというのは、いない。だから楽な
子育てというのも、ない。

それぞれが皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わっ
てみると、その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子
育てで苦労しているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽く
なるはずだ。 



Touch your Heart byはやし浩司(2)

真の自由を子どもに教えられるとき 

●真の自由を手に入れる方法はあるのか? 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は
自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそ
れは可能なのか……? その方法はあるのか……?

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の
恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな
経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグ
イと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のとき
は、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するが
ゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉
がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私
は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなけれ
ば、死をこわがる理由などない。

一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、
おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれが
できれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地
に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。



Touch your Heart byはやし浩司(3)

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。

たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもた
ちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私
たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていること
は、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだ
けいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」
と。それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結
果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを
見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。

『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言う
なら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、
子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命
に生きる、その生きざまでしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をし
ていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そう
いうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生
からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。



Touch your Heart byはやし浩司(4)

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を
教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命
はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命す
ら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。
「自分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、
そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見て
いると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこ
に死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や
感じ方もそうだ。

私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。
しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れ
のようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育て
をしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流
れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもな
い。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死
は不条理なり」とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにい
て、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私に
はそれができない。

しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どもので
きの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛
することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に
施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子ど
もに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、
子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子ど
もを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きる
ことにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。

それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、
自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもというのは、ただの
子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教え
てくれる。

いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。
つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、ま
さに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身
も神や仏からの使者だと知る。

そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしい
ことはない。



Touch your Heart byはやし浩司(5)

家族のきずな

●ルービン報道官の退任 

二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務
省のスポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけ
に、退任を決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪わ
れた」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京
から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざま
な苦痛を受けた」と。単身赴任は、六年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのた
めにゆがめられた部分も多い。

今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくら
でもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日
本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、
周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような
判決を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えてい
ない」と。つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何
をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言
った。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに
答えてルービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、ア
メリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜ん
で」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。

軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積も
りに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、
日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。



Touch your Heart byはやし浩司(6)

子育てのトゲが心に刺さるとき

●三男からのハガキ 
 富士山頂からハガキが届いた。見ると三男からのものだった。登頂した日付と時刻に続
いて、こう書いてあった。「一三年ぶりに雪辱を果たしました。今、どうしてあのとき泣き
続けたか、その理由がわかりました」と。
 一三年前、私たち家族は富士登山を試みた。私と女房、一三歳の長男、一〇歳の二男、
それに七歳の三男だった。が、九合目を過ぎ、九・五号目まで来たところで、そこから見
あげると、山頂が絶壁の向こうに見えた。

そこで私は、多分そのとき三男にこう言ったと思う。「お前には無理だから、ここに残っ
ていろ」と。女房と三男を山小屋に残して、私たちは頂上をめざした。つまりその間中、
三男はよほど悔しかったのだろう、山小屋で泣き続けていたという。

●三男はずっと泣いていた!
 三男はそのあと、高校時代には山岳部に入り、部長を務め、全国大会にまで出場してい
る。今の彼にしてみれば富士山など、そこらの山を登るくらい簡単なことらしい。その日
も、大学の教授たちとグループを作って登山しているということだった。

女房が朝、新聞を見ながら、「きっとE君はご来光をおがめたわ」と喜んでいた。が、私
はその三男のハガキを見て、胸がしめつけられた。あのとき私は、三男の気持ちを確か
めなかった。

私たちが登山していく姿を見ながら、三男はどんな思いでいたのか。そう、振り返った
とき、三男が女房のズボンに顔をうずめて泣いていたのは覚えている。しかしそのまま
泣き続けていたとは!

●後悔は心のトゲ
 「後悔」という言葉がある。それは心に刺さったトゲのようなものだ。しかしそのトゲ
にも、刺さっていることに気づかないトゲもある。私はこの一三年間、三男がそんな気持
ちでいたことを知る由もなかった。

何という不覚! 

私はどうして三男にもっと耳を傾けてやらなかったのか。何でもないようなトゲだが、
子育ても終わってみると、そんなトゲが心を突き刺す。私はやはりあのとき、時間はか
かっても、そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべきだった。重苦しい気持ちで女
房にそれを伝えると、女房はこう言って笑った。

「だって、あれは、E君が足が痛いと言ったからでしょ」と。「Eが、痛いと言ったのか?」
「そう、E君が痛いから歩けないと泣いたのよ。それで私も残ったのよ」「じゃあ、ぼく
が登頂をやめろと言ったわけではないのか?」「そうよ」と。とたん、心の中をスーッと
風が通り抜けるのを感じた。軽い風だった。

さっそくそのあと、三男にメールを出した。「登頂、おめでとう。よかったね」と。

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このつづき、(7)〜(15)は、来週の月曜日3月8日にお届けします。
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月1日・特別付録
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●まぐまぐプレミアの読者のみなさんへ

 以前、書いた、「Touch your Heart」(心に触れる)という原稿を、特
別にお送りします。今回は、前回(3月1日号につづく、後編ということになります。

 親子の「心」について、書いたものです。みなさんの心を、少しでも暖かくすることが
できれば、うれしいです。

 なおこれらの原稿は、中日新聞で発表してきたエッセーの中から、とくに反響の大きか
ったものです。マガジンのほうでは、以前、掲載したものばかりですが、改めて(?)お
読みくだされば、うれしいです。

              
                              はやし浩司
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Touch your Heart byはやし浩司(7)

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに
幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではない
が、その充実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。
どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋を
したが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際
を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある
田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏
訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。
忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受
性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もま
た、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の
中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のよう
な状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。H
さんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。

が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手に
してくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、
こんな話をしてくれた。

「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから
今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということ
だった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だ
った。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そうい
うものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がい
たが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手
伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさ
んは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、
あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のよ
うなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、そ
れが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、
アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでま
た風は吹き始める。人生は動き始める。



Touch your Heart byはやし浩司(8)

自由が育てる常識 

 魚は陸の上にあがらない。鳥は水の中にもぐらない。そんなことをすれば、死んでしま
うことを、魚も鳥も知っているからだ。そういうのを常識という。

 人間も同じ。数十万年という気が遠くなるほどの年月をかけて、人間はその常識を身に
つけた。その常識を知ることは、そんなに難しいことではない。自分の心に静かに耳を傾
けてみればよい。それでわかる。たとえば人に対する思いやりや、やさしさは、ここちよ
い響きとなって心にかえってくる。しかし人を裏切ったり、ウソをついたりすることは、
不快な響きとなって心にかえってくる。

 子どもの教育では、まずその常識を大切にする。知識や経験で、確かに子どもは利口に
はなるが、しかしそういう子どもを賢い子どもとは、決して言わない。賢い子どもという
のは、常識をよくわきまえている子どもということになる。

映画『フォレスト・ガンプ』の中で、ガンプの母親はこう言っている。「バカなことを
する人を、バカと言うのよ。(頭じゃないのよ)」と。その賢い子どもにするには、子
どもを「自由」にする。

 自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。無責任な放任を自由とい
うのではない。

つまり子ども自らが、自分の人生を選択し、その人生に責任をもち、自分の力で生きて
いくということ。しかし自らに由りながら生きるということは、たいへん孤独なことで
もある。頼れるのは自分だけという、きびしい世界でもある。

言いかえるなら、自由に生きるということは、その孤独やきびしさに耐えること、とい
うことになる。子どもについて言うなら、その孤独やきびしさに耐えることができる子
どもにするということ。もっとわかりやすく言えば、生活の中で、子ども自身が一人で
静かに自分を見つめることができるような、そんな時間を大切にする。

 が、今の日本では、その時間がない。学校や幼稚園はまさに、「人間だらけ」。英語の
表現を借りるなら、「イワシの缶詰」。自宅へ帰っても、寝るまでガンガンとテレビがか
かっている。あるいはテレビゲームの騒音が断えない。友だちの数にしても、それこそ掃
いて捨てるほどいる。自分の時間をもちたくても、もつことすらできない。

だから自分を静かに見つめるなどということは、夢のまた夢。親たちも、利口な子ども
イコール、賢い子どもと誤解し、子どもに勉強を強いる。こういう環境の中で、子ども
はますます常識はずれの子どもになっていく。人間としてよいことと、悪いことの区別
すらできなくなってしまう。あるいは悪いことをしながらも、悪いことをしているとい
う意識そのものが薄い。だからどんどん深みにはまってしまう。

 子どもが一人で静かに考えて、自分で結論を出したら、たとえそれが親の意思に反する
ものであっても、子どもの人生は子どもに任せる。たとえ相手が幼児であっても、これは
同じ。そういう姿勢が、子どもの心を守る。そしてそれが子どもを自由人に育て、その中
から、心豊かな常識をもった人間が生まれてくる。


Touch your Heart byはやし浩司(9)

子育てプロセス論

 クルーザーに乗って、海に出る。ないだ海だ。しばらく遊んだあと、デッキの椅子に座
って、ビールを飲む。そういうときオーストラリア人は、ふとこう言う。「ヒロシ、ジスイ
ズ・ザ・ライフ(これが人生だ)」と。日本人ならこういうとき、「私は幸せだ」と言いそ
うだが、彼らはこういうときは、「ハッピー」という言葉は使わない。

 私はここで「ライフ」を「人生」と訳したが、ライフにはもう一つの意味がある。「生命」
という意味である。つまり欧米人は人生イコール、生命と考え、その生命感がもっとも充
実したときを、人生という。何でもないような言葉だが、こうした見方、つまり人生と生
命を一体化したものの考え方は、彼らの生きざまに、大きな影響を与えている。
 
少し前だが、こんなことをさかんに言う人がいた。「キリストは、最期は、はりつけにな
った。その死にざまが、彼の人生を象徴している。つまりキリスト教がまちがっている
という証拠だ」と。ある仏教系の宗教団体に属している信者だった。しかし本当にそう
か。

この私とて、明日、交通事故か何かで、無惨な死に方をするかもしれない。しかし交通
事故などというものは、偶然と確率の問題だ。私がそういう死に方をしたところで、私
の生き方がまちがっていたということにはならない。

 ここで私は一人の信者の意見を書いたが、多くの日本人は、密教的なものの考え方の影
響を受けているから、結果を重視する。先の信者も、「死にぎわの様子で、その人の人生が
わかる」と言っていた。つまり少し飛躍するが、人生と生命を分けて考える。あるいは人
生の評価と生命の評価を、別々にする。教育の場で、それを考えてみよう。

 ある母親は、結果として自分の息子が、C大学へしか入れなかったことについて、「私は
教育に失敗しました」と言った。「いろいろやってはみましたが、みんな無駄でした」とも。
あるいは他人の子どもについて、こう言った人もいた。「あの親は子どもが小さいときから
教育熱心だったが、たいしたことなかったね」と。

 そうではない。結果はあくまでも結果。大切なのは、そのプロセスだ。つまりその人が、
いかに「今」という人生の中で、自分を光り輝かせて生きているかということ、それが大
切なのだ。子どもについて言えば、その子どもが「今」という時を、いかに生き生きと生
きているかということ。結果はあとからついてくるもの。

たとえ結果が不満足なものであったとしても、それまでしてきたことが、否定されるも
のではない。このケースで考えるなら、A大学であろうがC大学であろうが、そんなこ
とで子どもの評価は決まらない。仮にC大学であっても、彼がそれまでの人生を無駄に
したことにはならない。むしろ勉強しかしない、勉強しかできない、勉強だけの生活を
してきた子どものほうが、よっぽど人生を無駄にしている。たとえそれでA大学に進学
できた、としてもだ。

 人生の評価は、「今」という時の中で、いかに光り輝いて、自分の人生を充実させるかに
よって決まる。繰り返すが、結果(東洋的な思想でいう、人生の結論)は、あくまでも結
果。あとからついてくるもの。そんなものは、気にしてはいけない。



Touch your Heart byはやし浩司(10)

子どもは人の父

 イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌っている。

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。

原文では、「The Child is Father of the Man. 」となっている。この中の「Man」の
訳に、私は悩んだ。ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュア
ンスが合わない。詩の流れからすると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「そ
の人の人格は、子ども時代に形成される」と解釈したが、これには二つの意味が含まれ
る。

一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、
人はいくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。

誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だ
が、決して、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、
純粋で、豊かである。しかも美しい。人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして
醜くなっていく。知識や経験という雑音の中で、俗化し、自分を見失っていく。私を幼
児教育のとりこにした事件に、こんな事件がある。

 ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、と
てもていねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ご
くろうさん」と書き添えた。

が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はて
っきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうしたの
かな?」と聞きなおすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、ご
くろうっていう名前じゃ、ない。たくろう、ってんだ」と。

 もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。も
し人が子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。
ワーズワースは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、
子どものころの感動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。

「子どもは人の父」と。私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべ
てが、凝縮されているように思う。



Touch your Heart byはやし浩司(11)

許して忘れる

 人とのトラブルで私が何かを悩んでいると、オーストラリアの友人は、いつも私にこう
言った。

「ヒロシ、許して忘れろ。OK?」と。

英語では「Forgive and Forget」と言う。聖書の中の言葉らしいが、それはともかく、私
は長い間、この言葉のもつ意味を、心のどこかで考え続けていたように思う。「フォ・ギ
ブ(許す)」は、「与える・ため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、
「得る・ため」とも訳せる。「では何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」
と。

 ある日のこと。自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。ふとこの言葉が、私の
頭の中を横切った。「許して忘れる」と。「どうしようもないではないか。どう転んだとこ
ろで、お前の子どもはお前の子どもではないか。誰の責任でもない、お前自身の責任では
ないか」と。とたん、私はその「何」が、何であるかがわかった。

 あなたのまわりには、あなたに許してもらいたい人が、たくさんいる。あなたが許して
やれば、喜ぶ人たちだ。一方、あなたには、許してもらいたい人が、たくさんいる。その
人に許してもらえれば、あなたの心が軽くなる人たちだ。

つまり人間関係というのは、総じてみれば、(許す人)と(許される人)の関係で成り立
っている。

そこでもし、互いが互いを許し、そしてそれぞれのいやなことを忘れることができたら、
この世の中は何とすばらしい世の中になることか。……と言っても、私のような凡人に
は、そこまでできない。できないが、自分の子どもに対してなら、できる。

私はいつしか、できの悪い息子たちのことで何か思い悩むたびに、この言葉を心の中で
念ずるようになった。「許して忘れる」と。つまりその「何」についてだが、私はこう解
釈した。「人に愛を与えるために許し、人から愛を得るために忘れる」と。子どもについ
て言えば、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」と。

これは私の勝手な解釈によるものだが、しかし子どもを愛するということは、そういう
ことではないだろうか。そしてその度量、言いかえると、どこまで子どもを許し、そし
てどこまで忘れることができるかによって、親の愛の深さが決まる……。

 もちろん「許して忘れる」といっても、子どもを甘やかせということではない。子ども
に好き勝手なことをさせろということでもない。ここでいう「許して忘れる」は、いかに
あなたの子どもができが悪く、またあなたの子どもに問題があるとしても、それをあなた
自身のこととして、受け入れてしまえということ。

「たとえ我が子でも許せない」とか、「まだ何とかなるはずだ」と、あなたが考えている
間は、あなたに安穏たる日々はやってこない。一方、あなたの子どももまた、心を開か
ない。しかしあなたが子どもを許し、そして忘れてしまえば、あなたの子どもも救われ
るが、あなたも救われる。

 何だかこみいった話をしてしまったようだが、子育てをしていて袋小路に入ってしまっ
たら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」と。それだけで、あなたはその
先に、出口の光を見いだすはずだ。



Touch your Heart byはやし浩司(12)

今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもな
っている格言である。

「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は
何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはい
けません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人が
いる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大
学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、
ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自
分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう
生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽にな
ったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、
一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の
位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。
しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現
実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だ
け。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではな
いのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そ
ういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、
大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生き
る」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するとい
っても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではな
いか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったも
のを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親た
ちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では
「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいい
のよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本
的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味が
わからないのではないか……と、私は心配する。



Touch your Heart byはやし浩司(13)

父のうしろ姿

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私
の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。二、三日おきに近所の酒
屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。そんなわけで私には、
つらい毎日だった。

プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から帰ってくるときも、家が近づくと、
あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を飲んでフラフラと通りを
歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も五二歳。一人、二人と息子を送り出し、今は三男が、高校三年生になった。の
んきな子どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを二〇人も呼んで、パーティ
を開くという。「がんばろう会だ」という。

土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。片づけながら、ふと三男
にこう聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。すると
三男は、「どうして?」と聞いた。

理由など言っても、三男には理解できないだろう。私には私なりのわだかまりがある。
私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友だちの家に行っても、
いつも肩身の狭い思いをしていた。「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は
何と答えればよいのだ。父が壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよ
いのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が三〇歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母です
ら、どこか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが
奇異な感じがした。

が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。四〇歳を過ぎるころになると、その
当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。商売べたの父。いや、父だっ
て必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよりも安いものも
あります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。「よそ
で買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたこ
ともある。

しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった。叔
父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしか
ったのだろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だ
からうしろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついて
みたら、うしろには誰もいない。そんなことも多い。

ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日
は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台
に向かって、黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が
感じている孤独など、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だ
ろう。いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。「パパ、
ありがとう」と。そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。



Touch your Heart byはやし浩司(14)

あきらめは悟りの境地

 子育てをしていると、「もうダメだ」と、絶望するときがしばしばある。あって当たり前。
子育てというのは、そういうもの。親はそういう絶望感をそのつど味わいながら、つまり
一つずつ山を乗り越えながら、次の親になっていく。

そういう意味で、日常的なトラブルなど、何でもない。進学問題や不登校、引きこもり
にしても、その山を乗り越えてみると、何でもない。重い神経症や情緒障害にしても、
やはり何でもない。山というのはそういうもの。要は、どのようにして、その山を乗り
越えるかということ。

 少し話はそれるが、子どもが山をころげ落ちるとき(?)というのは、次々と悪いこと
が重なって落ちる。

自閉傾向のある子ども(年中女児)がいた。その症状がやっとよくなりかけたときのこ
と。その子どもはヘルニアの手術を受けることになった。医師が無理に親から引き離し
たため、それが大きなショックとなってしまった。その子どもは目的もなく、徘徊する
ようになってしまった。が、その直後、今度は同居していた祖母が急死。葬儀のドタバ
タで、症状がまた悪化。その母親はこう言った。「もう何がなんだか、わけがわからなく
なってしまいました」と。

 山を乗り越えるときは、誰しも、一度は極度の緊張状態になる。それも恐ろしいほどの
重圧感である。混乱状態といってもよい。

冒頭にあげた絶望感というのがそれだが、そういう状態が一巡すると、……と言うより、
限界状況を越えると、親はあきらめの境地に達する。それは不思議なほど、おおらかで、
広い世界。すべてを受け入れ、すべてを許す世界。その世界へ入ると、それまでの問題
が、「何だ、こんなことだったのか」と思えてくる。ほとんどの人が経験する、子どもの
進学問題でそれを考えてみよう。

 多かれ少なかれ日本人は皆、学歴信仰の信者。だからどの人も、子どもの進学問題には
かなり神経質になる。江戸時代以来の職業による身分意識も、残っている。人間や仕事に
上下などあるはずもないのに、その呪縛から逃れることができない。だから自分の子ども
が下位層(?)へ入っていくというのは、あるいは入っていくかもしれないというのは、
親にとっては恐怖以外の何ものでもない。

だからたいていの親は、子どもの進学問題に狂奔する。「進学塾のこうこうとした明かり
を見ただけで、足元からすくわれるような不安感を覚えます」と言った母親がいた。「息
子(中三)のテスト週間になると、お粥しかのどを通りません」と言った母親もいた。
私の知っている人の中には、息子が高校受験に失敗したあと、自殺を図った母親だって
いる!

 が、それもやがて終わる。具体的には、入試も終わり、子どもの「形」が決まったとこ
ろで終わる。終わったところで、親はしばらくすると、ものすごく静かな世界を迎える。
それはまさに「悟りの境地」。つまり親は、山を越え、さらに高い境地に達したことを意味
する。

そしてその境地から過去を振り返ると、それまでの自分がいかに小さく、狭い世界で右
往左往していたかがわかる。あとはこの繰り返し。苦しんでは山を登り、また苦しんで
は山を登る。それを繰り返しながら、親は、真の親になる。



Touch your Heart byはやし浩司(15)

脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘
病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使
えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここ
から出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの
近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を
折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあ
った。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。

しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々
に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持
ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病
気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何に
なりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカ
ーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができな
くなる』と言いました」と。

そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞い
て、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、
人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は
一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じ
た。

この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが
多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっ
と言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がため
に(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を
読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、
一磨君の両親と心がつながる。

もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、
ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、
私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きること
ができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そ
して仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言い
ながら、その瞬間はあまりにも短かった。

そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きていることを確かめた
い。それが一磨君への何よりの供養になる。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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+++++++++++++マガジン見本号++++++++++++++++

【みなさんへ】

 このマガジンは、現在、子育て財前線でがんばっておられる
若いお母さんや、お父さんのための育児マガジンです。

 みなさんの子育ての中で、お役にたてる記事や情報を、お届け
していきます。

 内容は、おおまかに分けて、育児ポイント、エッセー、特集、
それに、雑感です。

 このマガジンのセールスポイントは、私自身の経験ということ
になります。

 私は過去34年近く、幼児教育をしてきました。しかもいつも
最前線で、それをしてきました。そういう経験を、みなさんに
このマガジンをとおして、お伝えできればと願っています。

 どうか、ご購読ください。よろしくお願いします。

 なお、ご心配な方は、「はやし浩司のHP」へ、一度、おいでに
なってみてください。そちらで詳しく自己紹介などをしています。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

です。

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(以下、マガジンの見本です) 


.  mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.         ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年3月X日・マガジン見本
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子どもは、人の父

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

(イギリスの詩人・ワーズワース)

 訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。原文では、「The
 Child is Father of the Man. 」となっている。

この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。

ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。詩
の流れからすると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「その人の人格は、子
ども時代に形成される」と解釈したが、これには二つの意味が含まれる。

一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、
人はいくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。

誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だ
が、決して、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、
純粋で、豊かである。しかも美しい。

人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。知識や経験という雑
音の中で、俗化し、自分を見失っていく。私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな
事件がある。

 ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、と
てもていねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ご
くろうさん」と書き添えた。

が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はて
っきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうして泣
くのかな?」と聞きなおすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、
ごくろうっていう名前じゃ、ない。たくろう、ってんだ」と。

 もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。も
し人が子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。
ワーズワースは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、
子どものころの感動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。

「子どもは人の父」と。

私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているよ
うに思う。



(1)子育てポイント**************************

●子どもとの笑い

 いつも深刻な話ばかりなので……。最近経験した楽しい話(?)をいくつか……。

☆ときどきまったく手をあげようとしない子ども(年中女児)がいる。そこで私が「先
生(私)を好きな子は、手をあげなくていい」と言ったら、その子は何を思ったか、腕組
みをして私をにらみつけた。

「セクハラか?」と思わず後悔したが、そのあと私が「どうして手をあげないの?」と
聞くと、「だって、私、先生が好きだもん」と。マレにですが、私も子どもに好かれ
ることがあるのです。

☆私が「三匹の魚がいました。そこへまた二匹魚がきました。全部で何匹ですか?」と聞
くと、皆(年長児)が、「五匹!」と答えた。そこで私が電卓を取り出して、「ええと、
三足す二で……」と電卓を叩いていたら、一人の子どもがこう言った。「あんた、それ
でも本当に先生?」と。

☆指をしゃぶっている子ども(年中児)がいた。そこで私が、「どうせ指をしゃぶるなら、
もっとかっこよくしゃぶりなよ。おとなのしゃぶり方を教えてあげるよ」と言って、少し
ばかりキザなしゃぶり方(指を横から、顔をななめにしてしゃぶる)を教えてやった。す
るとその子は、本当にそういうしゃぶり方をするようになった。私は少しからかってやっ
ただけなのだが……。

☆私のニックネームは……? 「美男子」「好男子」「長足の二枚目」。あるとき私に「ジジ
イー」「アホ」と言う子ども(年長児たち)がいたので、こう話してやった。「もっと悪い
言葉を教えてやろうか。しかし先生や、お父さんに使ってはダメだ。いいな」と。子ども
たちは「使わない、使わない」と約束したので、こう言ってやった。「ビダンシ」と。それ
からというもの、子どもたちは私を見ると、「ビダンシ、ビダンシ」と呼ぶようになった。


☆算数を教えながら、「○と△の関係は何ですか?」と聞いたら、一人の子ども(小四男
児)が、「三角関係!」と。ドキッとして、「何だ、それは?」と聞くと、「男が二人で、女
が一人の関係だよ」と。すると別の子どもが、「違うよオ〜、女が二人で、男が一人だよオ
〜」と。とたん、教室が収拾がつかなくなってしまった。私が、「今どきの子どもは、何を
考えているんだ!」と叱ると、こんな歌を歌い始めた。「♪今どき娘は、一日五食、朝昼三
時、夕食深夜……」と。「何だ、その歌は」と聞くと、「先生、こんな歌も知らないのオ〜、
遅れてるウ〜」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●心を開く

 何でも言いたいことを言い、したいことをする。悲しいときは悲しいと言う、うれしい
ときはうれしいと言う。泣きたいときは、思いっきり泣くことができる。自分の心をその
ままぶつけることができる。そういう状態を、「心が開いている状態」という。

 昔、ある文士たちが集まる集会で、一人の男性(七〇歳くらい)がいきなり私にこう聞
いた。「林君、君のワイフは、君の前で『へ(おなら)』を出すかね?」と。驚いて私が、「う
ちの女房はそういうことはしないです……」とあわてて答えると、そばにいた人たちまで
一斉に、「そりゃあ、かわいそうだ。君の奥さんはかわいそうだ」と言った。

 子どもでも、親に向かって、「クソじじい」とか、「お前はバカだ」と言う子どもがいる。
子どもが悪い言葉を使うのを容認せよというわけではないが、しかしそういう言葉が使え
ないほどまでに、子どもを追いつめてはいけない。

一応はたしなめながらも、一方で、「うちの子どもは私に心を開いているのだ」と、それ
を許す余裕が必要である。子どもの側からみて、「自分はどんなことをしても、またどん
なことを言っても許されるのだ」という絶対的な安心感が、子どもの心を豊かにする。
 
そこで大切なことは、心というのは、相手に対して「開く心」と、もう一方で、それを
受け止める「開いた心」がないと、かよいあわないということ。子どもが心を開いたら、
同じように親のほうも心を開く。それはちょうどまさに「開いた心の窓」のようなもの
だ。どちらか一方が、心の窓を閉じていたのでは、心を通いあわせることはできない。
R氏(四五歳)はこう言う。

「私の母(六五歳)は、今でも私にウソを言います。親のメンツにこだわって、あれこ
れ世間体をとりつくろいます。私はいつも本音でぶつかろうとするのですが、いつもそ
の本音が母の心のカベにぶつかって、そこではね返されてしまいます。私もさみしいで
すが、母もかわいそうな人です」と。

 そこで問題なのは、あなたの子どもはあなたに対して、心を開いているかということ。
そして同じように、あなたはあなたの子どものそういう心を、心を開いて受け止めている
かということ。

もしあなたの子どもがあなたの前で、よい子ぶったり、あるいは心を隠したり、ウソを
ついたり、さらには仮面をかぶっているようなら、子どもを責めるのではなく、あなた
自身のことを反省する。相手の心を開こうと考えるなら、まずあなた自身が心を開いて、
相手の心をそのまま受け入れなければならない。またそれでこそ、親子であり、家族と
いうことになる。

 さてその文士の集まりから帰った夜、私は恐る恐る女房にこう言った。「おまえはあまり
ぼくの前でおならを出さないけど、出していいよ」と。が、数日後、女房はそれに答えて
こう言った。「それは心を開いているとかいないとかいう問題ではなく、たしなみの問題だ
と思うわ」と。まあ、世の中にはいろいろな考え方がある。



(2)今日の特集  **************************

【虐待】

●虐待にもいろいろ

 一般論として、子どもに虐待を繰りかえす親は、自分自身も、虐待を受けた経験がある
といわれている。約50%が、そうであるといわれている。

 その虐待は、暴力だけにかぎらない。

 大きく、この(1)暴力的虐待のほか、(2)栄養的虐待、(3)性的虐待、(4)感情的
虐待に、分けられる。暴力的虐待は、肉体的虐待、言葉の虐待、精神的虐待に分けられる。

 順に考えてみよう。

(1)肉体的虐待……私の調査でも、約50%の親が、何らかの形で、子どもに肉体的な
暴力をバツ(体罰)として与えていることがわかっている。そしてそのうち、70%の親
(全体では35%の親)が、虐待に近い暴力を加えているのがわかっている。

 日本人は、昔から、子どもへの体罰に甘い国民と言われている。

 「日本人の親で、『(子どもへの)体罰は必要である』と答えている親は、70%。一方
アメリカ人の親で、『体罰は必要である』と答えている親は、10%にすぎない」(村山貞
夫)という調査結果もある。

 体罰はしかたないとしても、たとえば『体罰は尻』ときめておくとよい。いかなるばあ
いも、頭に対して、体罰を加えてはいけない。
 
(1−2)言葉の虐待……「あなたはダメな子」式の、人格の「核」に触れるような言葉
を、日常的に子どもにあびせかけることをいう。

 「あなたはバカだ」
 「あなたなんか、何をしてもダメだ」
 「あんたなんか、死んでしまえばいい」など。

 子どもの心は、親がつくる。そして子どもは、長い時間をかけて、親の口グセどおりの
子どもになる。親が「うちの子はグズで……」と思っていると、その子どもは、やがてそ
の通りの子どもになる。

 しかし言葉の暴力がこわいのは、その子どもの人格の中枢部まで破壊すること。ある男
性(60歳)は、いまだに「お母さんが怒るから」「お母さんが怒るから」と、母親の影に
おびえている。そうなる。

(1−3)精神的虐待……異常な恐怖体験、過酷な試練などを、子どもに与えることをい
う。

 ふつうは、無意識のうちに、子どもに与えることが多い。たとえば子どもの前で、はげ
しい夫婦喧嘩をして見せるなど。

 子どもの側からみて、恐怖感、心配、焦燥感、絶望感を与えるものが、ここでいう精神
的虐待ということになる。

 子どもの心というのは、絶対的安心感があって、その上で、はじめてはぐくまれる。そ
の基盤そのものが、ゆらぐことをいう。

(2)栄養的虐待……食事を与えないなどの虐待をいう。私自身、このタイプの虐待児に
ついて接した経験がほとんどないので、ここでのコメントは、割愛する。

(3)性的虐待……今まで、具体的な事例を見聞きしたことがないので、ここでは割愛す
る。

(4)感情的虐待……親の不安定な情緒が与える影響が、虐待といえるほどまでに、高じ
た状態をいう。かんしゃくに任せて、子どもを怒鳴りつけるなど。

 『親の情緒不安、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。少し前だが、こんな事例
があった。

 その母親は、交通事故をきっかけに、精神状態がきわめて不安定になってしまった。し
かし悪いときには、悪いことが重なる。その直後に、実父の他界、実兄の経営する会社の
倒産と、不幸なできごとが、たてつづけに、つづいてしまった。

 その母親は、「交通事故の後遺症だ」とは言ったが、ありとあらゆる体の不調を訴えるよ
うになった。そしてほとんど毎日のように病院通いをするようになった。

 その母親のばあいは、とくに息子(小2)を虐待したということはなかった。しかしや
がて子どもは、その不安からか、学校でも、オドオドするようになってしまった。先生に
ちょっと注意されただけで、腹痛を訴えたり、ときには、みなの見ているところで、バタ
ンと倒れてみせたりした。

 このように精神に重大な影響を与える行為を、虐待という。暴力的虐待も、暴力を通し
て、子どもの精神に重大な影響を与えるから、虐待という。

 この虐待がつづくと、子どもの精神は、発露する場所を失い、内閉したり、ゆがんだり
する。そしてそれが心のキズ(トラウマ)となって、生涯にわたって、その子どもを苦し
めることもある。
(040220)

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以前、つぎのような原稿を書きましたので
送ります。(中日新聞投稿済み)

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●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で
幼稚園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震
わせていました」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかな
かったのだろう。その子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。
 
カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完
ぺき主義、(3)代償的過保護。ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来
の過保護ではなく、子どもを自分の支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴ
に基づいた過保護をいう。

その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに
強迫されているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールがで
きない)などの症状を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の
子でした。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分
その男の子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもって
いる。(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっ
ている。(4)親が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、
の四つをあげている。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。
I氏のケースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、
殺す寸前までのことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心に
も深いキズを負う。学習中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動
物のようなうめき声をあげて、近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほう
がよい。教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単
ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してや
る」と脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断
で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるとい
う認識を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつ
か私はこのコラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。

子どもが虐待されているのを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」
という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよい
でしょう。そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこと。

+++++++++++++++++++
【付録】

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有
効回答五〇〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどき
ある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、
「虐待なし」が、六一%であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年ま
での八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七
七二五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。

虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実母が三八二一件で、全体の八二・七%。また
虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三七件。三歳から就学前までが、一八六
七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%となっている。

(3)************************************

Touch your Heart byはやし浩司(1)

子どもの巣立ち

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男
が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教
えてくれた。

「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないた
め、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。
いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子
たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去
っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたとき
のこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわから
なかった。

が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房
が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とか
けめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があ
ろうとは! 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違う
と、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってく
ださいよ」と声をかけたくなる。

レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの
息子たちも、ああだったなあ」と。問題のない子どもというのは、いない。だから楽な
子育てというのも、ない。

それぞれが皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わっ
てみると、その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子
育てで苦労しているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽く
なるはずだ。 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Touch your Heart byはやし浩司(2)

真の自由を子どもに教えられるとき 

●真の自由を手に入れる方法はあるのか? 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は
自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそ
れは可能なのか……? その方法はあるのか……?

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の
恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな
経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグ
イと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のとき
は、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するが
ゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉
がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私
は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなけれ
ば、死をこわがる理由などない。

一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、
おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれが
できれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地
に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Touch your Heart byはやし浩司(3)

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。

たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもた
ちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私
たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていること
は、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだ
けいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」
と。それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結
果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを
見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。

『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言う
なら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、
子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命
に生きる、その生きざまでしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をし
ていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そう
いうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生
からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

Touch your Heart byはやし浩司(4)

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を
教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命
はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命す
ら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。
「自分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、
そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見て
いると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこ
に死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や
感じ方もそうだ。

私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。
しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れ
のようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育て
をしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流
れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもな
い。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死
は不条理なり」とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにい
て、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私に
はそれができない。

しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どもので
きの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛
することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に
施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子ど
もに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、
子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子ど
もを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きる
ことにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。

それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、
自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもというのは、ただの
子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教え
てくれる。

いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。
つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、ま
さに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身
も神や仏からの使者だと知る。

そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしい
ことはない。


(4)今を考える  **************************

●疑問

 都会に住む子どものばあい、その学年になると、三つや四つの受験は、当たり前。高校
生ではない。中学生でもない。小学生である。

 まだ社会のしくみもよくわからない小学生が、三つも四つも、中学入試を経験する。中
には、五つとか六つとか……そういう子どももいる。

 それでどこかの学校に合格できればよいが、できなかったら、どうする? 親はそれで、
「うちの子は、勉強に向いていない」と、あきらめるだろうか。

 しかし実際には、そうして子どもを受験勉強にかりたてた親ほど、あきらめない。「まだ
何とかなる」「つぎがある」、無理に無理を重ねる。

 しかし少しは、子どもの立場で考えてみたらよい。

 その時点で子どもの心は、ボロボロ。そういった状態になりながらも、なおかつ、親か
ら、「勉強をつづけなさい」と、言われたら、いったい、子どもは、どうすればよいのだ。

 身近でも、中学入試に失敗した子どもがいる。二つの入試で失敗したあと、戦意喪失。
やる気をなくしたのは当然だとしても、このところ、心が荒れ始めた。家の中だけならと
もかくも、そうした「荒れ」が、外の世界でも出てくるようになると、心配。子どもの心
は、一挙に荒廃する。非行に走るようになるのは、もう時間の問題。

 子どもを受験させるのは、親の勝手だが、しかし、失敗したあとのことも、少しは考え
てほしい。

 以前、こんな中学生がいた。ここ一番、というときになると、決まって、それを避けて
しまうのである。自信がないというか、逃げ腰というか。

 そこで私がある日、こう聞いた。「どうしてがんばらないのか?」と。するとその女の子
は、こう言った。「どうせ私、S小学校の入試で落ちたもん」と。

 その女の子は、その六、七年前に小学入試で失敗したことを、そのときもまだ、気にし
ていた。そういう後遺症も残る。

 子どもの勉強をみるとき、親は、子どもの成績しかみないが、もっと大切なことは、子
どものもつ限界を知ることである。あなたがごくふつうの人(失礼!)であるように、子
どもも、またごくふつうの子どもである。

 あなたに限界があるように、子どもにも、限界がある。

 ふつうであることが悪いのではない。ふつうであることは、すばらしいことである。そ
ういう視点で、もう一度、あなたの子どもを、ながめてみる。

 ずいぶん前の話だが、こんなこともあった。

 その子どもは、四歳から五歳にかけて、かなり深刻な心の問題をかかえた。で、それが
何とか収まり、幼稚園へもふつうどおりに通うようになった。ふつうなら(……こういう
いい方は適切ではないのかもしれないが……)、小学入試どころではなかったはずだった。

 しかしその子どもが回復したとたん、(本当は完全に回復したのではなかったが……)、
親は今度は、小学入試に狂奔し始めた。私はそのときほど、「親」が、わからなくなったと
きはない。

 「親って、そういうものかなあ」と思ってみたり、「どうしてそういう心理になれるのか
なあ」と思ってみたりした。あるいは、「子どもが病気になったことで、この親は、いった
い、何を学んだのか」と。日本の受験制度は、それ以上に、親の心を狂わせるということ
か。

 もともとその「力」のない子どもに、はじめから不合格がわかっている試験を受けさせ
ることほど、酷なことはない。

 そういう意味でも、子どもの勉強をみるときは、どう伸ばすかということに合わせて、
子どもの限界を知る。あとは、それを受け入れ、謙虚に、それに従う。それは子どもの受
験戦争をみるときの、鉄則でもある。

【付記】

 私は、だからといって、受験勉強を否定しているのではない。大切なことは、子ども自
らが、前向きに勉強するようにもっていくこと。そしてその結果として、子どもが「がん
ばる」と言ったら、それはそれとして、つまり親として、応援する。それは当然のことで
はないか。

 私も、三男が、今のY大学を中退して、M航空大学を受験すると言いだしたとき、こう
言った。「受験するならするで、きちんと予備校へ通え」と。

 三男は、学費も高いこともあって、最初は、それをこばんだ。「自分で勉強するからいい」
と。学費は、半年で、40万円ほどだった。私にも、決して楽な額ではなかった。

 しかし心のどこかで、それは親の義務のように感じた。子どもが前に進むと言ったら、
その前の雑草は、取り除いてやる。しかし子どもが望みもしないのに、雑草を取り除いて
やり、そちらへ進めと、子どもに命令するのは、まちがっている。

 小学受験はもちろんのこと、中学受験くらいのことで、子どもたちがワイワイと話題に
しているのを見たりすると、私は、「これでいいのかなあ?」と思う。まるでゲームの世界
のよう。異常な世界なのだが、その異常さがわからないほど、今の日本の子育ては狂って
いる。

 いつか、その狂いに、日本人が気がつくときが、やってくればよいのだが……。
(040221)

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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    どうか、みなさん、お元気で!
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はやし浩司(ひろし)