はやし浩司(ひろし)

2004・5
はやし浩司
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2004年 5月号
 はやし浩司

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.QQ ∩ ∩ QQ
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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 31日(No.416)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page051.html

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★★★「はやし浩司のホームページ」の、パスワード(ナンバー)は、9・9・5★★★
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(1)子育てポイント***********************UPTO455

●笑い話

 小学2年生のA子さんが、こう言った。「私、きのう、ペロペロチーを食べた」と。私に
は、「ペロペロチンチン」と聞こえた。ゾッとして、「何だってエ?」と聞きかえすと、「ペ
ロペロチー、サラダよ」と。
 
 イタリア料理に、ペペロンチーノというサラダ料理が、ある。どうやらそれを聞きまち
がえたらしい。

 また、今日は、こんなことも。

 やはり小学2年生のG君が、私の机のところにきて、小さな声で、こう言った。

 「先生、ぼくのチンチンね、さわっていると、長くのびるよ」と。

 で、私が、「あのね、そういう話は、ぼくではなくて、君のママに言いなさい」と話すと、
「だって、ぼくのママ、チンチンの話をすると、怒るもん」と。

私「だったら、ぼくにも、そんな話をしてはだめだ」
子「先生のは、のびるの?」
私「あのね、そういう話は、みんなの前でしてはいけないの」
子「ぼくのは、どうしてのびるの?」
私「だから、そういう話は、ママとしなさい」と。

 あるいは、一人の男の子(年中児)が、何かの拍子に、こう言った。「ぼく、ドクター・
エロを見た!」と。

 私の聞きまちがいかと思って、数度、聞きなおしてみた。が、何度も「ドクター・エロ」
と言う。どうやらその子どもは、新幹線の診断車の、「ドクター・イエロー」とまちがえて、
そう発音していることがわかった。しかしそれにしてもドキッとした。

 ときとして、子どもは、とんでもない言葉を使う。あるいは、おとなの私ですら、はっ
とするようなことを言うことがある。

 つい先日も、年長児の男の子が、私にこう言った。私が、「その積み木を使って、家をつ
くってごらん」と話しかけたときのこと。その子どもは、すかさず、こう言った。「ぼくは、
人に言われて、何かをするのは、いやだ!」と。

 幼児教育をして30年になるが、はじめて聞いた言葉である。で、この話を、家に帰っ
てからワイフに話すと、ワイフもかなり感心した。「へえ、年長児でも、そんなこと言う子
がいるのねえ」と。

 私の印象では、その子の兄の言い方をまねしただけではないかと思う。3歳年上の兄が
いる。それはともかくも、私もその言葉に、感心した。

【追記】

 私も、学生時代、深刻なまちがいをしたことがある。

 郷里のG県では、「すわりなさい」「すわる」というのを、方言で、「おちゃんこしなさい」
「おちゃんこ」と言う。この静岡県でも、そう言う。

 しかし、だ。石川県の金沢市では、それがとんでもない意味になる。どう(とんでもな
い意味)かは、金沢市の人なら、みな知っている。つまり女性器のヒワイ語である。

 あろうことか、私は、その言葉を、みなの前で使ってしまった。一人の女の子(小学生)
が、どこかの広い場所で、走り回っていたので、私は、こう言ってしまった。「そこの女の
子、どうか、おちゃんこしてください!」と。

 そのあとのことは、みなさんの想像に任せる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●教育の自由化は世界の流れ(日本の教育は遅れている!)(自由から生まれる活力)

 以前このコラムで、「日本の教育制度は三〇年は遅れた。意識は五〇年は遅れた」と書い
た。それについて「憶測でものを書いてもらっては、困る。根拠を示してほしい」と言っ
てきた人がいた。それについて……。
 
ドイツでは、小中学校は午前中で終る。午後一時には、子どもたちは学校から解放され
て、それぞれのクラブに通う。スポーツクラブ、音楽クラブ、芸術クラブ、語学クラブ
など。カナダでは、午後三時半まで子どもたちは学校に拘束されるが、それ以後は、や
はり子どもたちはクラブに通う(バンクーバー)。

オーストラリアやニュージーランドも、そうだ。さらにアメリカでは、ホームスクール、
チャータースクール、さらにはバウチャ(学校券)スクールなど、学校の設立そのもの
が自由化されている。

日本で誰かが塾を開くのと同じくらい気軽に、その意思のある人が学校を設立している。
つまり教育の自由化は世界の流れであり、その「自由さ」が、教育をダイナミックなも
のにしている。

 が、この程度で驚いてはいけない。アメリカでは大学の場合、入学後の学部変更は自由。
自由というより、日本でいう学部の概念そのものがない。

目的とする学位(これをメジャーという)に応じて、必要な講座を一講座ずつ「買う」。
こうして二年間で、四回メジャーを変えた学生がいる。四年間で六回メジャーを変えた
学生がいる。教える教官も必死なら、学ぶ学生も必死だ。さらにアメリカでは、大学の
転籍すら自由。公立、私立の区別はない。

日本で言えば、早稲田大学で二年間過ごした学生が、三年目から静岡大学で学ぶような
ことができる。しかも入学金だの何だの、そういうめんどうな手続きなしに、即日に転
籍できる。まだある。こうした単位の交換が、国際間でもなされている。外国の大学へ
留学した場合、そこで得た単位も有効に認められる。

日本でも少しずつだが、実験的にこうした制度を取り入れる大学がふえてきた。が、あ
くまでも「実験的」。
 
……というようなことは、文部科学省の視学官あたりもみんな知っている。しかし教育
を自由化するということは、即、自分たちの立場をあやうくすることになる。権限を弱
め、管轄を縮小することは、そのまま自分たちの不利益につながる。

旧文部省だけでも、いわゆる天下り先として機能する外郭団体が、一八〇〇団体もある。
その数は全省庁の中でもダントツに多い。こうした団体が日本の教育をがんじがらめに
している。

一方、日本人は日本人で、国への依存心がきわめて強い。子どもに何か問題があると、
何でもかんでも、「学校で……」と考える。さらに隷属意識もある。

いまだかって、親のほうから学校に向かって、たとえば、「うちの学校では中国語を教え
てみてほしい」というような要望を出した話など、聞いたことがない。上から言われる
まま、何の疑問もなく受け入れてしまっている。そしてそういうのが教育だと、思い込
んでいる。思い込まされている。

 ここに書いたアメリカの大学制度は、すでに三〇年前から常識だった。さらに日本人の
教育意識となると、戦前のままと言っても過言ではない。五〇年前に私がもっていた「学
校観」と、今の若い親たちがもっている「学校観」は、それほど違わない。「五〇年」とい
う数字はそこから書いた。これで納得してもらえただろうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●性教育の原点(男も胎内では女だった)(偏見や誤解、差別からの解放)

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でも特に印象に残ってい
るのが、ベッテルグレン女史という女性だった。

スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。「フ
リーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にま
つわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「特に女性であるからという理由
だけで、不利益を受けてはならない」と。

それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国に
なった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダン
ナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらし
ないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうわサ」と。

話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペー
パーすら取り替えたことがないという。私が、「紙がないときはどうするのですか?」と
聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 日本女性会議の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ六〇%前後いると
いう(二〇〇〇年)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳以上の男性について
言うなら、ほとんどの男性が家事をしていないのでは……? 

この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。
男ばかりの責任ではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこ
んなところへ来るもんじゃない」と叱られた。

女性自らが、こうした偏見に手を貸していた。が、その偏見も今、急速に音をたてて崩
れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査では、二〇代、三〇代の若い夫婦につ
いてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%にまでふえて
いる。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

 実は私は、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は
……」というものの考え方を日常的にしていた。洗濯や料理など、したことがない。

たとえば私が小学生のころには、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べ
ば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊ん
だ思い出がまったく、ない。

が、その後、いろいろな経験で、私がまちがっていたことを思い知らされた。が、決定
的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。つまり人間は、男も女も、母親
の胎内では一度、皆、女だという事実だ。

つまりある時期までは人間は皆、女で、発育の過程でその女から分離する形で、男は男
になっていく、と。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知ら
なかったのですか?」と笑った。

正確には、「妊娠数か月までは男女の区別はなく、それ以後、胎児は男女にそれぞれ分化
する」※ということらしい。女房は「あなたは単純ね」と笑うが、そうかもしれない。
以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえ
ると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」
「女らしく」という考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

(2)今日の特集  **************************

●一事が万事

 昔から、『一事が万事』という。

 人間の脳みそは、それほど器用には、できていない。今日は悪人で、明日は善人という
わけにはいかない。あるいはAさんに対しては善人で、Bさんに対しては悪人というわけ
にはいかない。

 若いころなら、気力もあるから、そのときどきで、自分をごまかすということもできる。
そのときに応じて、善人を演じてみせたりすることはできる。しかし年をとると、その気
力が薄れてくる。ありのままの自分が、そのまま外に出てきてしまう。

 そういうわけで、善人は、どこでも善人。悪人は、どこでも悪人。まさに一事が万事と
いうことになる。

 今日も、ワイフと車で走っているとき、横から、信号を無視して一台の車が飛び出して
きた。角がコンビニの駐車場になっていた。その車は、その駐車場をななめに横切って、
私たちの車のすぐうしろに、ついた。

 「ずるい」と感じたが、今度はその車は、猛スピードで、私たちを追い越していった。
ワイフは、「よっぽど急いでいるのね」と言ったが、その道路は、追い越し禁止になってい
た。

 音もすごかった。マフラーをはずしているらしく、バリバリ……と。が、それだけでは
なかった。

 運転している男は、(あとで、外国人風の男とわかったが)、窓から火がついたままのタ
バコを、外へ捨てた。ワイフは、「火がついている!」と言った。タバコは、道路で、パッ
と火花を飛ばした。

 まさに一事が万事という感じの男だった。最後に、交差点を左に曲がって、同じように
猛スピードで走り去っていった。

私「ああいう人は、生活のあらゆる場面で、ああなんだよな」
ワイフ「そうよね」と。

 だから私たちが、もし善人であろうとするなら、今のこの瞬間から、そして今、してい
ることから、自分の行動に注意する。人が見ているとか、見ていないとか、そういうこと
は関係ない。

 またどんなささいなことでも、そこに自分の「善意」を貫く。そういう姿勢が、やがて、
積み重なり、私たちの人格となっていく。

 まさに日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが、年となり、やがてその人の人格
となっていく。

 私がいう『一事が万事』というのは、そういう意味である。


(3)心を考える  **************************

日本人の隷属性

●K国の美談

 こんな話を読んだ。詳しい内容は、忘れたが、おおむね、こんな話だ。

 K国のある高官の妻が、病気になった。金XXに忠実な男だった。その話を聞いた金X
Xが、その高官にこう言った。

 「私の病院へ、あなたの妻を連れてきなさい。特別にみてもらえるよう、はからってあ
げる」と。

 医療事情の悪いK国にあっても、高級幹部だけは、特別あつかい。その中でも、金XX
だけは、さらに超特別あつかい。金XXの健康管理をする、「長寿研究所(病院)」には、
金XXのためだけに、何と2000人近い、ドクターが待機していると言われている。

 その話を聞いた高官は、涙を流して喜び、金XXに対して、さらなる忠誠を誓ったとい
う。この話は、K国では、将軍様の美談としてもてはやされている。

●おかしい?

 この話は、どこかおかしい? 今回、K国のR市で列車爆発事故があったが、R市の医
療事情は、「劣悪」(国際赤十字の係官)だそうだ。そういう国にあって、金XXや高級幹
部だけは、最新の医療技術を使った特別の治療を受けられるという。

 まず、ここがおかしい。

 しかしその高官は、妻が、特別なあつかいを受けることについて、「涙を流して喜んだ」
という。

 こうした隷属性は、日本人にも、よく観察される。

 たとえばこの日本では、公務員だけは、あらゆる面で、特別なあつかいを受けている。
どう特別かということは、今さら言うまでもない。そういう「あつかい」が、今では、「矛
盾」となって露呈しつつある。

 そういう矛盾を見たとき、日本人の多くは、「おかしい」、だから「それを改めよう」と
は思わない。そう思う前に、「あわよくば、私も」とか、「せめて、私の息子や娘も」と考
える。そして自分の夫や妻が公務員であることを喜び、ついで自分の息子や娘を公務員に
しようと考える。

 これが私がいう、「隷属性」である。

●長くつづいた圧制

 日本人の、こうした独特の隷属性は、たとえば「長いものには巻かれろ」式のものの考
え方となって、反映されている。「お上(かみ)には、さからわない」という意識も、強い。
だから目の前に、不公平や、不公正を見せつけられても、それがおかしいと思う前に、「自
分もその恩恵に、あやかりたい」と思う。そう思って、不公平や、不公正を、容認してし
まう。

 K国の高官の話は、まさにそれにあたる。

 しかしやはり、おかしいものは、おかしい。そういうおかしいものに出会ったら、その
時点で、「おかしい」と声をあげる。それが民主主義の原点であり、その声なくして、民主
主義は、ありえない。

 ただとても残念なことは、たしかにこの日本は、民主主義国家ということになっている。
しかしそれはある意味で、「形」だけ。私たちの意識の中には、いまだに、あの封建時代、
さらには、それにつづく官僚主義国家の亡霊が、しっかりと住みついている。

 まず、そういう意識に気がつくこと。そしてそれを改めていくこと。それをしないで、
日本の民主主義は、完成しない。

 K国では、徹底した洗脳教育のもと。K国の人たちは、生まれると同時から、骨のズイ
まで、魂を抜かれる。そしてその結果、「おかしい?」と思う心まで、奪われてしまう。つ
まりは、その結果が、今の私たち日本人の意識ということになる。

 皮肉なことに、本当に皮肉なことに、今のK国の人たちを見ていると、日本人の私たち
が何であるのか、また何であったのか、それがよくわかる。この問題は、決して、他国の
問題ではないのである。

●ついでに……

 K国での爆発事故に関して、各国の救援体制が整いつつある(4・29)。しかし肝心の
K国は、自分の国の惨状を見せようとしない。その結果、「外貨稼ぎのために、被害者の子
どもたちを利用している」(ドイツ人医師のフォラツェン氏)という声すら、聞こえてくる。

「北朝鮮は再び人間の生命には関心がないことを立証した。火傷で苦しんでいる子ども
たちが外貨稼ぎのための人質になっている」(同氏)と。

 おまけに昨日(4・28)、アメリカのワシントン・ポスト紙は、「K国は、核兵器を8
個、すでに開発済みである」という情報を、リークした。別の情報によれば、「北朝鮮が否
定している 高濃縮ウラン計画によって、2007年までにさらに6個の核兵器を製造でき
る」(中日新聞)とも。

 もちろんこれらの核兵器は、「日本向け」(K国高官)のもの。やがてK国は、アメリカ
との間に相互不可侵条約を結んだあと、これらの核兵器で日本を脅しながら、金をまきあ
げる魂胆と考えてよい。そのためK国にしても、そうは簡単に、核兵器を手放すことはな
いだろう。

 となると、日本にとって、一番好ましい図式は、金XX体制の崩壊だが、しかし韓国が、
それを望んでいない。今の韓国は、そういう意味では、安保闘争の嵐が吹き荒れた、19
70年前後の日本に似ている。どこか方向音痴? 現実感そのものを、喪失している?

 そのためか、米韓関係は、その裏で、急速に悪化している。すでに38度線という最前
線から、アメリカ軍は、撤退を完了している。つい先日、アメリカ兵が守っていた、最後
の歩哨所も、アメリカは、韓国軍に移譲した。米韓関係の崩壊は、もはや時間の問題とみ
てよい。

 まさに今、日本は、国際外交の正念場を迎えつつある。

 K国の核兵器を、どうするか? 中国はまったく、アテにならない。韓国にしても、今
のN政権は、表向きはともかくも、内部では、核兵器を容認している。「K国が核兵器をも
てば、統一後、韓国にも有利に働く」と主張した高官がいた。ロシアもアテにならない。

 日本にとっての唯一の友人は、アメリカ。しかしそのアメリカも、仮にブッシュ政権が
倒れるようなことになると、あとは、どうなるかわからない。つぎの民主党の大統領は、「日
本とK国の問題は、日本の問題」と、逃げてしまうかもしれない。

 そうなったとき、日本は、どうする? 今度は、日本は、あのK国と、K国の核兵器と、
単独で立ち向かわねばならない。悲しいかな、それが今の日本が置かれた、まさに「現実
的な立場」なのである。
(040429)

(4)今を考える☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

●ガリガリの勉強

 日本人の悪しき誤解というか、多くの日本人は、「勉強というのは、ガリガリするものだ」
と思っている。……ということを、気づかされたのは、台湾から来ていた子ども(小1)
を教えたときのことだった。その子どもの母親は、台湾人だった。父親は、日本人だった。

 その母親は、何かにつけて、過激(?)だった。

 私は子どもを教えるとき、子どもを楽しませることを、何よりも大切にしている。1時
間勉強らしきことをして、30分、勉強すればよい。あるいは10分でもよい。ほかの時
間は、パズルやゲームを楽しむ。「勉強は楽しい」という思いが、やがて子どもを前向きに
伸ばしていく。

 が、その母親は、そうではなかった。私がゲームらしきことをするたびに、顔をしかめ
た。自分の子どもが、少しでも気をゆるめたりすると、やはり顔をしかめた。そしてこん
な事件が起きた。

 あるとき、20問くらいの計算問題をしたことがある。そのとき、その子どもが、2、
3番目にできた。で、見ると、1、2問はちがっていたが、私は大きな丸をつけて、「よく
できたね」とほめてあげた。

 が、母親には、それが納得できなかったらしい。レッスンが終わって、たまたま駐車場
へ行くと、そこでその母親は、子どもをはげしく叱っていた。

 「どうして、もっと早くできないの!」
 「この答、ちがっているでしょ!」
 「こんな簡単な問題ができないの!」と。

 そして私を見つけると、こう言った。

 「この答、ちがう。どうして丸、つけるか?」
 「うちの子、9+8の問題ができない。どうしてか? 中国では、みんな、できるある
ね」と。

 そこで私が、「一生懸命やったから、丸をつけました。繰りあがりのある足し算は、日本
では、もう少し、先でやることになっています」と。

 すると母親は、突然激怒して、こう言った。「みんな、遊んでばかりいる。どうしてあれ
が、勉強かア!」と。

多分、その母親は、高校受験をひかえた子どもが、黙々とするような勉強を、「勉強」と
思っているらしかった。しかしそんな勉強など、小学生に期待するほうがおかしい。ま
たそんなことを無理に強要すれば、子どもを勉強嫌いにしてしまう。この時期、一度、
勉強嫌いにしてしまうと、あとがない。

 ……と、その母親の悪口を書いてしまったが、実は、この話は、フィクション。いくつ
かの経験をまぜて、この話をつくった。しかしこういう例は、多い。本当に多い。昔なが
らの勉強観を、そのまま今の子どもに押しつけようとする。もう10年以上も前のことだ
が、実際に、こんなことがあった。

 ある日、その子ども(年中児)の祖母から、電話がかかってきた。そしてこう言った。

 「先生、どうしてうちの孫の書いた字に、丸なんか、つけるのですかア! 書き順や、
書き方がめちゃめちゃでしょ。ハネもありません!」と。

 私が「一生懸命、本人が書いたから、丸をつけました」と答えると、さらに「最初に、
しっかりと教えなければ、クセがついて、あとでなおすのに苦労します。いいかげんな丸
はつけないでほしい!」と。

 この話は実際にあった話。しかも10年くらい前までは、毎年、何例かあった。

 こういう親や、祖父母に出会うと、息苦しささえ覚える。息がつまる。もっと正直に言
えば、そういう親の子どもは、教えたくない。私のしていることが、子どもを責める道具
になっている!

 ガリガリの勉強をするかどうかは、その子ども自身が決めること。私ではない。親でも
ない。あくまでも本人である。私たちがせいぜいできることと言えば、その一歩手前まで、
子どもをひっぱってくこと。しかしそこが限界。

 イギリスの教育格言にも、こんなのがある。『馬を水場までつれていくことはできる。し
かし馬に水を飲ますことはできない』と。水を飲むかどうかを、最終的に決めるのは、あ
くまでも、子ども自身ということになる。


●昔の偉人

 ときどき夢の中に、昔の偉人が出てくる。最初にそれを経験したのは、東洋医学の本を
書いていたときのこと。毎日、毎晩、私は一冊の本を書くために、悪戦苦闘していた。そ
のときのこと。

 話せば長くなるが、漢方の神様と言われた、扁鵲(へんじゃく)という中国の伝説上の
医家が、夢の中によく出てきた。一時は、私にその扁鵲※が乗り移ったかのように感じた
ことがある。

 もちろん、これは私の、ただ単なる思い過ごしである。深い潜在意識の中で、私の無意
識が勝手につくりあげた幻覚である。

 それ以後も、よく昔の偉人が、夢の中に出てくる。が、おもしろいことに、その扁鵲を
のぞいて、めったに、同じ人は出てこないということ。

 最近では、芥川竜之介や、森鴎外が出てきたことがある。日本人にかぎらない。つい先
日は、何と、あのブッシュ大統領が出てきた。夢の内容は忘れてしまったが、何かの話を
したのは、記憶のどこかに残っている。

 こういった夢は、いわば、脳みその遊びのようなもの。深い意味もないし、またその意
味を考えても、ムダ。自分が霊能者と信じているような人だったら、あれこれもっともら
しい意味を考えるのだろう。が、残念ながら、私は「霊」などというものは、信じていな
い。まったく信じていない。

 だいたいにおいて、私の夢に出てくる偉人というのは、いつも、かつてどこかで見た顔
ばかり。芥川竜之介にしても、夢の中の竜之介は、いつかどこかで見た竜之介の写真のま
ま。森鴎外も、そうだ。つまりそういうイメージが、脳の中のどこかに残っていて、それ
がそのまま夢に出てくる。

 もし芥川竜之介の、うしろ姿とか、上から見た姿が出てくるというのであれば、「霊」の
させるわざかもしれないが、そういうことはない。

 ……そうして考えてみると、扁鵲の夢は、不思議な夢ということになる。扁鵲の写真な
どあるはずもない。簡単なイラストを見たことがあるだけ。しかし夢の中の扁鵲は、たし
かに人間の扁鵲だった。それに中国語を話していた!

 しかしこれも多分、頭の中で、私がいくつかのイメージを合成してつくったものだろう。
詳しくは覚えていないが、理屈で考えれば、そういうことになる。

(※扁鵲・へんじゃく……紀元前500年ごろの、中国の伝説上の医家。ハリ治療の神様
と言われている。不思議な超能力をもっていて、人間の体を透視することができたという。
司馬遷の『扁鵲伝』にも搭乗する。)


●犬のクッキー

 犬のクッキーが、いよいよボケてきた。年齢は、17歳になる。目はほとんど見えない。
耳もほとんど聞こえない。歩くときは、いつもヨボヨボしている。ほとんど一日中、眠っ
ている。

 困ったのは、大小便を、チビチビと垂れ流すこと。庭のいたるところで、それをする。
目に下には、多分悪性のものだと思うが、大きなコブまでできた。病院へ連れて行こうか
とも思ったが、17歳という年齢もあり、あきらめた。なおる見込みはない。

 そのクッキーを見ていると、ペットを飼うことの重大さを、改めて思い知らされる。ペ
ットといっても、17年もいっしょにいると、家族のようになる。私はともかくも、ワイ
フや息子たちには、そうだ。

 数年前、10年ほど生きた文鳥が死んだときも、そうだった。何とも言えない、悲しみ
が襲った。そして自分たちの年齢を考えながら、「もう文鳥を飼うのをやめよう」と、たが
いに言いあった。そのときまで、私は高校2年のときから、欠かさず、文鳥を飼っていた。
一羽が死ぬと、つぎの文鳥を買ってきて、またヒナから育てた。

 ただ犬は、庭の中で、放し飼いにしている。犬小屋も、庭のすみにある。そこでふと、
こんなことを考えた。

 「家の中で飼っていたら、今ごろは、たいへんだろうな」と。家のあちこちで、大小便
を、垂れ流されたら、困る。「そのときは、どうするだろう?」とも。

 ワイフは、「静かに死なせてあげよう」と言う。私もそう思う。ペットを飼ったものの責
任というか、最後の最後まで、見届けなければならない。それは常識だが、問題は、どの
程度まで、人間の責任かということ。

 人によっては、入院させる人もいる。手術を受けさせる人もいる。まさか殺す人はいな
いと思うが、しかし欧米では、ペットがそういう状態になると、安楽死させるという。そ
こで子どもたちに聞いてみた。

「君たちの家で、犬を飼っている人はいるか?」と聞くと、何人かの子ども(小4)が、
手をあげた。

 「犬を飼っていて、病気になったら、どうする?」と聞くと、「病院へ行くよ」と。そこ
で「年をとって、死ぬときはどうする?」と聞くと、「まだ生きている」「朝、死んでいた」
などと言う子どもがいた。

 一人、「家の中で飼っていたけど、年をとったので、家の外で飼っている」と言う子ども
がいた。「なるほどなあ……」と思いつつ、再び、クッキーのことを考えた。

 かわいそうな犬だ。私の家へ来たときから、今にいたるまで、私たち人間に、心を許し
たことがない。もともと保健所で処分される寸前の犬だった。それを私たちが、もらい受
けてきた。

 人間にたとえるなら、育児拒否、冷淡、無視を経験している。その上、放棄、虐待。私
たちがもらいに行くまで、鳥かごのような小さなオリに、2週間も入れられていた。心に
大きなキズを負っている。今でも、私たちが見ていると、エサを食べない。愛想はよいが、
番犬にはならない。だれにでも、シッポを振って、コビを売る。たった一匹、友だちの犬
がいたが、この4、5年、会っていない。

 死期は近いように思うが、私には、何ともしようがない。今朝も見ると、朝日の陽光を
浴びながら、庭のすみで、静かに眠っていた。そっと静かにしておいてやる以外、私たち
には、何もできない。

 朝食を食べているとき、そのクッキーを見ながら、「クッキーとハナが死んだら、もうペ
ットを飼うのは、やめよう」と、ワイフが言った。私は、それに同意した。


●債権回収

 おかしなハガキが届いた。「金を払え。さもなければ、お前の財産を差し押さえる」とい
う内容のもの。

 よく読むと、要するに、「お前はスケベサイトを見たが、その料金が未払いになっている。
そこで一両日中に、電話をしろ。さもなければ、債権回収機構にこの債権を回し、強制執
行をする」というもの。

 住所は、どこかのマンションの一室らしい。「債権の金額は、電話をしたら教える」とあ
る。あとの欄は、バーコードが、もっともらしく印刷してある。

 私の専門は、民事訴訟法。この私をだませるわけがない。バカめ!

 債権を回収するためには、いくつもの手続きを経る。仮執行宣言つきの支払命令を裁判
所経由で発行し、一定期間を経て、それをもとに、強制執行の手続きをとる。が、それで
も簡単に、強制執行できるわけではない。

 それにこうした手続きは、相手方に対しては、内容証明つきの郵便で、送付することに
なっている。一枚のハガキですむような話ではない。もしそんなことができたとしたら、
日本の法秩序は、崩壊する。

 それにしても、こうした悪質なサギが、今、多すぎる。それだけ、ワルが多いというこ
とか。で、その対処方法としては、無視するのが一番よい。へたに電話でもしようものな
ら、今度は、電話番号が相手にわかってしまい、何をされるか、わかったものではない。

(相手は、私の電話番号を知りたいがため、「電話しろ」と書いている!)

 こうしたあやしげな相手は、無視。ただひたすら、無視。それでも何か言ってくるよう
であれば、どこかの苦情処理センターに通報すればよい。まあ、それにしても、手の込ん
だハガキである。「これは、今、横行している、インチキ請求ではない」とまで、書いてあ
る。印刷代だって、バカにならないだろうに……。ご苦労様!

 そうそう、最近、こんなこともあった。

 私の家には、Y社製の太陽光温水器がとりつけてある。その温水器について、数年前、
定期点検と言いながら、二人の男がやってきた。

 あたかもその会社から派遣されてきたようなフリをして、お金をとる業者は、あとを断
たない。あれこれ話をしていると、その中の一人が、こう言った。

 「本当に、いやな世の中ですね。私たち、まじめに仕事をしているものは、本当に迷惑
しています。インチキな業者が多いですから……」と。

 つまり自分たちは正真正銘の正社員というわけである。身分証明書も見せた。
 
 で、「?」と思いながらも、点検をしてもらうと、「取り付け口のパッキングを交換した
ほうがいいです」と。言われるまま、交換してもらうと、2万5000円。

 たいした作業ではない。30分足らずですんだ。

 が、最近、またやってきた。今度は、「屋根の上の温水器は、地震対策上、好ましくない
ので、すえかえてください」と。

 そこで数年前の定期点検にやってきた二人の男の話をすると、「わが社は、そういうこと
はしていません」と。私が「その男たちは身分証明書を見せた」と話すと、「そんな身分証
明書は、ニセモノです」と。

 私「定期点検はしていないのですか?」
 男「していません。そう言って、わが社の名前を使って、勝手に工事をしているものが
います。どうか注意してください」
 私「あなたたちは、だいじょうぶですか?」
 男「私たちは、Y社の社員です。名刺を置いておきますから、電話して確かめてくださ
い。今度、県のほうの指導で、屋根の上の温水器を、別の安全な場所に、すえかえるよう
に言われています」と。

 ますますわけがわからなくなってしまった。が、私の家の温水器は、屋根の上といって
も、駐車場の屋根の上。地震対策上、問題はない。それを話すと、「そうですね。では、結
構です」と言って、立ち去っていった。

 で、そのあとすぐに名刺にあった会社に電話をすると、「現在、この電話番号は、使われ
ていません」と。そこでY社の電話番号を調べて、電話をすると、担当者がこう言った。「う
ちでは、そういう社員は派遣していません。どうか気をつけてください」と。


●どうか、私のアドレスを消去してください

 今日(4・29)、ウィルスの猛攻撃を受けている。数分おきに、同じアドレスから、N
ET−SKYウィルス(W32/Netsky・D−mm)が、6個ずつ、たばになって
送られてくる。

 幸いなことに、プロバイダー(サーバー)で、二重のウィルスチェックサービスを受け
ているので、パソコンに侵入することはない。ただそのたびに、プロバイダーから、「ウィ
ルスを検知しました」という連絡が入る。これがたてつづけに、つぎからつぎへと、「削除
ずみ、アイテム」に放りこまれる。

 しかしそれにしても、しつこい。

 パソコンショップの友人に連絡すると、こう教えてくれた。

(6)だれかのパソコンに、ウィルスが入った。
(7)そのだれかが、それに気づいていない。
(8)そのだれかは、インターネットを常時接続している。
(9)かつそのだれかは、数分おきに、送受信を自動でするよう設定している。
(10)そのウィルスは、手当たり次第にアドレスを盗んで、ウィルス入りのメールを、あ
ちこちにバラまいている、と。

 そのだれかのパソコンの中に、どうやら私のアドレスがあるらしい。それで私のところ
へ、ウィルス入りのメールを、雨あられのように送ってくる。

 こうして考えてみると、他人のアドレスを、自分のパソコンの中に残しておくのも、考
えものである。もし私のパソコンにウィルスが入ったら、みんなに迷惑をかけることにな
ってしまう。

 さっそく、このところ連絡をとっていない人たちのアドレスを、削除する。いや、その
前に数えたら、その数が、300近くにもなっていた。返信すると同時に、相手のアドレ
スを保存することになっていた。

 で、削除、また削除。こうして、40〜50くらいにまで、軽量化することができた。

 そこでみなさんにも、お願い。もしみなさんのアドレスの中に、私のアドレスがあれば、
どうか消しておいてほしい。これは万が一のための防衛策である。

 で、これからのこととして、今まで、メールアドレスを公開してきたが、これからは、
できるだけ非公開とする。掲示板も私書箱も、同様にできるだけ非公開にする。さらに私
のホームページも、できるだけ非公開にする。

 考えてみれば、今まで、私は、あまりにも無防備すぎた。今回のウィルス攻撃は、その
ことを私に教えてくれた。

 しかし、それにしても、しつこい。いつになったら、その人は、自分のパソコンの中に
ウィルスが侵入していることに気づくのだろうか。パソコンショップのその友人は、こう
言った。「それまであきらめるしかないですね」と。
(040430)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 28日(No.415)
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(1)子育てポイント**************************

●人それぞれの性癖(私の性癖、あなたの性癖)(性癖は思春期に決まる?)

 私の知人の中には、五〇歳にもなろうかというのに、女性をとっかえひっかえ、浮気し
ている男がいる。奥さんが気の毒だと思うのだが、表面的には、仲のよい夫婦だ。

「トラブルはないのか」と聞くと、「ない」と。彼のようなプロ(?)になると、最初か
らそういうトラブルも計算済みで、行動する。……らしい。それにしても、ものすごい
エネルギーである。が、そんな彼が、まったく理解できないかというと、そうではない。
私にもこんな性癖がある。

 私は今から二五年くらい前に、コモドール社の「PET」というパソコンを買った。そ
の前に、TK・BSというNECのマシーンを買ったが、これはパソコンと言えるような
ものではなかった。

そのPETは、当時の金額で三四万円。おそらく世界で最初のパソコンではなかったか。
浜松にも一台あるかないかというような時代で、東京の出版社がわざわざ見にくるほど
だった。

あのビル・ゲーツ(マイクロソフト社の会長)も、同じ機種を使っていたそうだ。それ
はともかくも、以来、パソコンだけはとっかえひっかえ、今でも私のデスクのまわりで
は、一〇台のパソコンが稼動している。(一〇台だぞ!)

 私がパソコンを好きになったのには、二つの理由がある。私は中学二年のときに、タイ
プライターを買ってもらった。以来、キーボードを見ると、ゾクゾクとする。それにもう
一つ。

中学三年のときに、夏休みの工作で、「二次曲線描き機」なるものを作った。これはX軸
のハンドルを回すと、Y軸がそれにあわせて加速度的に動き、画面にはった縦糸と横糸
の交点においたビーズ玉が、二次曲線的に動くというものだった。

しかしこれは何度やっても失敗。そのとき感じた挫折感は大きかった。が、その二次曲
線を、PETはいとも簡単に描いてみせてくれた。画面上にポツポツと点を描きながら、
その点が二次曲線になっていくのを、私は何時間も見とれた。

 その私だが、枕もとには、パソコン雑誌やカタログが山のようになっている。寝る前に
は必ず読んでいる。読んでいると、いつの間にか眠ってしまう。

で、次々と最新の機種を買いながら、また新しいのがほしくなる。先日も女房に、「もう
いいかげんにしたら!」と叱られたほどだ。そこで私はふとあの知人を思い浮かべる。
私にとってはパソコンだが、知人にとっては、「女性」なのだ。大きな違いがあるようで、
それほどない。私は彼を笑うが、考えてみれば、私だって同じようなものだ。

 ……と考えて、教育論。子どもの方向性は、つけようとしてつけられるものではない。
しかしつくときは、決定的と言えるほど、強烈につく。そしてその方向性が、その子ども
の性癖を運命づける。

しかもその時期というのは、「性癖」という言葉からも推察されるように、性にめざめる
思春期と言ってよい。そう断言するのは危険なことかもしれないが、幼児期や少年期で
はない。青年期を過ぎてからでもない。そのころ、だ。

私の場合、小学六年生のころ、英語に興味をもった。続いてタイプライターへと進み、
それが基礎にあって、パソコンへと進んだ。

人それぞれだと思うが、多分、今の「あなた」もそういうふうにしてできたに違いない。
一度あなたの性癖をさぐってみたらおもしろい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●現実感をなくす子ども(ホテルで七五三の披露宴)(ぜいたくに慣れた子どもたち)

 一〇万円のお金が残ったとき、私は女房に聞いた。「このお金で香港へ行きたいか。それ
とも結婚式をしたいか」と。すると女房は、小さな声でこう言った。「香港へ行きたい……」
と。

当時の私はほとんど毎週のように、台北や香港へ行っていた。いくつかの会社の翻訳や
通訳、それに貿易の仕事を手伝っていた。その仕事の一つに、女房を連れて行くことに
した。そんなわけで私たちは結婚式をしていない。……そのお金がなかった。

 それから三三年あまり、二〇〇〇年のある昼。テレビを見ていたら、こんなシーンが飛
び込んできた。

何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルでする親がいるという。豪華な披露宴
に、豪華な食事と引き出物。費用は一人あたり、二万円から三万円だという。見るとま
だあどけない子どもが、これまた豪華な衣装を身にまとい、結婚式の新郎新婦よろしく、
皆の前であいさつをしていた。私と女房は、それを見ながら、言葉を失った。

 その私たち。何かをやり残した思いで、新婚時代を終えた。若いころ女房はよく、「一度
でいいから、花嫁衣裳を着てみたい」とこぼした。そこでちょうど私が三〇歳になったと
き、あるいは四〇歳になったとき、披露宴だけはしようという話がもちあがった。

しかしそのつど、父や身内の死と重なって、流れてしまった。さすがに四〇歳も半ばも
過ぎ、髪の毛に白髪が混じるようになると、女房も結婚式のことは言わなくなった。

 ぜいたくに慣れれば慣れるほど、子どもは「現実感」をなくす。お金や物は、天から降
ってくるものだと思うようになる。子ども自身が将来、おとなになってからも、それだけ
の生活を維持できればよい。が、そうでなければ、結局は苦労するのは、子ども自身では
ないのか。

いや、親だって苦労する。今では、成人式の費用は、たいてい親が出す。女性の晴れ着
の場合、貸衣装でそろえても、一五万円から二〇万円。上限はない。さらに社会人にな
ったときの新居の費用、結婚式の費用すらも、親が負担する。

七五三の祝宴ですら、ホテルで豪華に催すご時世である。どうしてそのときになって、
「自分の費用は自分で払え」と、子どもに言えるだろうか。が、それだけではすまない。

現実感をなくした子どもは、「親の苦労」というものがどういうものか、わからなくなる。
感謝もしない。「してもらって当然」と考える。ささいなことだが、ある母親が、「あん
たは誰のおかげで、ピアノが弾けるようになったと思うの! お母さんが毎週、高い月
謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ!」と言ったときのこと。高
校生になったその娘はこう言った。

「私がいつ、あんたにそんなことしてくれと頼んだ!」と。そうなる。

 人は人それぞれだが、ここから先は、私と女房の会話をそのまま書く。私が七五三の様
子を見てあきれていると、女房はこう言った。「何かおかしいわ」と。こうも言った。「私
なら、あんな披露宴、招待されても行かないわ」と。

私は私でこう言った。「幼児のときから、あんなにぜいたくに育てれば、苦労するのは子
どもだ」と。「子どもを大切にするということは、子どもを王様にすることではない。金
をかけて、楽をさせることではない。親としてやるべきことが違う」と。

しかしこれは、結婚式ができなかった私たち夫婦の、ひがみかもしれない。私と女房は
その報道を見ながら、何度もため息をついた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【今週の幼児教室】

 今週は、「声を出す」をテーマに指導した。
 まず大声を出させる。思いっきり、大声を出させる。幼児の指導は、すべて、ここから
始まる。

 私は、子どもたちに声を出させるために、いくつかの(口おばけ)を使う。画用紙で作
った、口の形の模型である。これを動かして声を出させていると、子どもたちは、つられ
て声を出すようになる。

 いくつかのコツがある。

 少し声を出したら、すかさずほめる。「いい声だ」「すばらしい声だ」と。それに、笑い
をまぜる。

 これを繰りかえしていると、やがて、子どもたちは、大声でしゃべるようになる。

 子どもの世界では、伸ばすのはたいへん。しかしおさえるのは、簡単。「大きな声を出さ
せる」のは、たいへん。「小さな声にする」のは、簡単。

 が、声を出そうとしない子どもも、いる。年中児で、10人中、2〜3人はいる。いろ
いろな理由と原因がある。心の問題が、からんでいることもある。

 しかしそういう子どもでも、ゲラゲラと笑わせることで、心を開放させると、「なおる」。
数か月単位の時間がかかることもあるが、やがて声を出すようになる。私たちの世界では、
「なおす」という言葉は、安易に使えない。それ以前の問題として、その子どもを診断し
たり、診断名をつけることは、タブー中のタブー。

 自閉症児にしても、かん黙児にしても、わかっていても、それを親に告げることはでき
ない。あくまでも知らぬフリをして、指導する。

 しかしいつも笑わせていると、ふとしたきっかけで、それが「なおって」しまうことが
ある。声を出せなかった子どもが、声を出す。声を出せる子どもにしてみれば、何でもな
いことかもしれないが、それはたいへんなこと、である。

 昔、こんなことがあった。

 幼稚園で働いているころのこと。いつものように、園庭で、運動の指導をしていると、
廊下に並んだ先生たち数人が、私たちのほうを見ながら、「あの子が、しゃべっている!」
「しゃべっている!」と叫んでいるではないか。

 見ると、S君(年長児)だった。このことはあとから聞いたことだが、S君は、入園して
からというもの、幼稚園では一言も話さなかった。しかしどういうわけか、私の前ではし
ゃべった。

 私は運動の指導をするときも、それができるようにしようなどとは、考えたことがない。
まず、子どもを楽しませる。ついでに笑わせる。子どもといっしょになって、ヘマをして
みせる。それを繰りかえす。

で、私は気がつかなかったが、つまりS君がそういう子どもということには気づかなか
ったが、S君は、私の前では、しゃべった!

子どもを笑わせるということには、そういう不思議な力がある。どういう脳の作用によ
るものかは知らないが、そういう力がある。

 英語の教育格言にも、『楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ』というのがある。英語では、
「Happy learners learn best」という。これはまさに子どもを指導するときの、大原
則ということになる。

【追記】

 ただし一つだけ、この方法には、限界がある。

 もともと多動性のある子どもや、多弁性のある子ども、さらにイメージが脳の中で乱舞
する子どものばあい、この指導法は、あまり適さない。

 子どもによっては、ノリまくって、教室の秩序を乱してしまうことがある。ばあいによ
っては、破壊する。

 この指導方法は、どこか内閉している子ども、萎縮したり、自閉している子どもに、効
果がある。自信をなくした子どもや、勉強嫌いの子どもには、とくに適している。おおざ
っぱな言い方をすれば、そういうことになる。


●英語教育の限界

 私は、1972年の終わりには、幼児向けの英語教室を開いた。このH市でも、私が最
初だった。

 そして80年ごろには、毎年、英語検定試験で、コンスタントに合格者を出すまでにな
った。

 ある年は、3級合格者(小4、1人)、4級合格者(小3、3人)を出したこともある。
もともと10人足らずの小さな教室だった。それに当時は、小学3年生の4級合格者は、
全国でも10人いるかいないかという時代だった。あるとき私は、こう思った。

 「全国の合格者の3分の1は、うちの生徒だ」と。これは決して、ウソではない。誇張
でもない。

 しかしそのうち、限界を感ずるようになった。

 子どもに英語を教えることで、一番苦労するのは、どうすれば、そこに見える(カベ)
を破ることができるかということ。

 子どもに英語を教えていると、最初のころは、伸びる。が、やがて、(覚える量)と、(忘
れる量)が、ほぼ同じになる。こういう状態になると、いくら教えても、子どもは、伸び
ない。同じことを最初から、繰りかえすこともある。

 これが、私がいう(カベ)である。

 そこで学習量をふやしたり、時間数をふやしたりする。しかし相手は、子ども。子ども
自身がそれを望んでいればよいが、そうでないときには、かえって子どもの、負担になっ
てしまう。無理をすれば、勉強をいやがるようになる。

 そこで受験勉強では、たとえば目標の進学校をもたせたり、おどしたり、叱ったりする。
しかし子どものばあいは、そうはいかない。どこか、腫(は)れもに触れるような、教え
方になる。

 それにもう一つ。

 教え方を誤ると、どこか暗記の学習のようになってしまう。まさにオウムがえしの暗記。
そこで私はある時期、毎週、いろいろな国の人を呼んできて、その国の話をしてもらった
り、言葉を教えてもらったりしたことがある。

 が、親たちは、それをあまり喜ばなかった。まだ旧態依然の「勉強観」の残っている時
代だった。そうした指導を、親たちは、「遊び」と考えた。この世界では、親の意向に反し
ては、仕事はできない。

 そのうち、外人講師が、このH市にも、どんと現れるようになった。今から17、8年
くらい前のことではなかったか。当時の親たちは、「講師が外人」というだけで、その教室
に飛びついていった。と、同時に、私の英語教室は、そのまま閉鎖状態に追いこまれた。

 私は今でも、細々と、本当に細々と、英語を教えている。月曜日の一時間だけで、生徒
数は、5人。しかしこの子どもたちが、すばらしい。性格もよいが、伸びやかで、明るい。
一時間の間、笑ってばかりいる。

 しかし、ここが重要なのだ。

 いつか子どもたちは、別の機会に、べつの場所で、英語に触れることがあるだろう。そ
ういうとき、「英語」と聞いただけで、その楽しさが、心の中に充満する。つまりそういう
思い出が、そのとき子どもたちを前向きに引っぱっていく。

 私が今、すべきことは、そういう「思い出」を、できるだけたくさんつくってあげるこ
と。

英語の指導を、ほぼ30年以上もしてきた私の、それが今、ここで言える結論のような
ものではないかと思う。


(2)今日の特集  **************************

●孤独と安

 孤独さんと、不安さん。いつも、あなたは、私のそばにいる。

 ああ。それとも私は、もう敗北を認めるときにきているのか?
 戦うことをやめて、あなたを受け入れる時期にきているのか?

 こんにちは、孤独さん。
 こんにちは、不安さん。

 また、おいでになりましたね。
 あなたのおかげで、私は、いつも自分を振りかえる。
 そして、そこに本当の私を発見する。

 ビクビクしながら、恐れながら、かろうじて生きていくのは、
 もうたくさん。もうこりごり。もういやだ。

 しかしね、孤独さん。そして不安さん。
そう、あなたがやってくるたびに、私は、
 何が大切で、何が大切でないかを、知る。

 私は、もう、あと何十年も生かしてほしいとは願わない。
 しかしたった一年でもよい。一か月でもよい。
 これが私だという、そんな人生を、思う存分、私は生きてみたい。
 何のために生きてきたのか、それがわかる人生を、生きてみたい。

 孤独さん、不安さん、あなたが、それを私に、教えてくれる。

+++++++++++++++++

●孤独と不安 

 私は、今まで、孤独や不安というのは、戦うべきものと考えてきた。しかし、どうあが
いたところで、この孤独や不安とは、戦えない。戦えるはずもない。

 それは人間が、この宇宙で、知性や理性とひきかえに与えられた、原罪のようなもので
はないか。

 今夜も、NHKのニュースを見終わったあと、バラエティ番組の一つを見た。見たとい
うより、たまたま見てしまった。

その中で、二人の若い女性と、一人の男性が、「ふった」「ふられた」「取った」「取られ
た」の、愛憎劇を展開していた。

 私はその男女を見ながら、「人間も、サルみたいだなあ」とか、反対に、「サルと人間は、
どこがちがうのだろう」と考えた。

 ただ一つだけ、うらやましく思ったのは、その男女が、孤独や不安とは、無縁の世界に
住んでいるように見えたこと。そうした軽薄な愛憎劇を繰りかえしながら、その愛憎劇に、
自分たちの人生のすべてをかけていたこと。

 まさにアホのような男性。どこからどう見ても、アホのような男性。一片の知性も、理
性も感じさせなかった。そんな男性を取りあって、二人の女性が、「友情を裏切った」「裏
切っていない」と、やりあう。

 「バカだなあ」と思うと同時に、そこまでバカになりきれる、その男女が、うらやまし
かった。

 いやいや、「うらやましく思った」というのは、まちがい。もしここに神様がいて、私に、
もう一度、青春時代にもどしてやるといっても、そんなアホな男女にもどるくらいなら、
お断り。今のまま、年をとって、死んだほうが、ずっとよい。

 くだらない人生だったら、何百回生きたところで、そして何百年生きたところで、同じ。
……というのは、言い過ぎ。それはわかっている。今の今でさえ、懸命に生きようとして
いる人はいくらでもいる。

 それにどんな人にも、それぞれ、生きる目的や意義がある。そしてそうした目的や意義
は、その人自身が決めること。他人の私が、とやかく言ってはいけない。

 ここでも、私はその若い男女をさして、「アホだなあ」と思った。しかしその私が、若い
ころどうだったかというと、それほどちがわなかったような気がする。私も、いつもその
バカなことをしていた。そうした男女を、笑う資格など、どこにもない。

 若さの特権。それは、自分たちの老後が見えないこと。孤独や不安があるとしても、そ
の孤独や不安は、質的に、私たちのもつそれとは異なる。しかし、もし、人間に、孤独や
不安がなかったら、人間は、いつまでたっても、生きている喜びを知ることはないだろう。

 孤独や不安は、いやなものだ。が、戦って、戦えるような相手ではない。大切なことは、
その孤独や不安と、どううまくつきあうかということ。あるいはそれを避けながら、どう
うまく生きるかということ。

 今朝、それを発見した。

+++++++++++++++++++++

 これに関連して、
 以前、こんな原稿を書きました。
 二作、添付します。

+++++++++++++++++++++

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。

薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きてい
るだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りか、ランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。

「静かに考えることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何
も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。

「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そうい
う女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いて
いる。

「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。

私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代とい
うのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しなが
ら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
三〇〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけ。そういう時代だった。
そんなある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。

「ここでの一日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。

決してオーバーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。
そういう時期というのは、今、振りかえっても、私にとっては、たいへん密度の濃い時
代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せない。が、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という、内面
世界の問題。

他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、
落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくま
でも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることに
なる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を
生きることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一
年の人生と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生き
ることができる。

極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに
死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、
悔いはないということ。

私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場
になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつ
も七〜八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、
小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女たちのみ。

男たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通っ
て仕事に行くが、いまだかって、男たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがな
い。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだ
な」と思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」
と思う部分は、「私もそうしていたい」と思う部分だ。

しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」
と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだ
けなら、それは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。
そういう人生だったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を
生きたくらいの価値にしかならない。

しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができる。仮
に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の
長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間を
ムダにしていることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな
私でも、つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。

いわんや、七〇歳や八〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにあ
る。いや、本当のところ、その「山」があるのかないのかということもわからない。が、
あるらしいということだけはわかる。

いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれ
からもそれが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信は
ないが、できるだけ先へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少
ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で
考えられなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは
思わない。ボケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私
はもう真理に近づくことはできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今
の私がこう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつ
づけたい。だから空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしという
ふうにして過ごす人生だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)

+++++++++++++++++++

【追記】

 この2作の原稿を書いて、1年半になる。今、読みなおしてみると、「そうだな」という
部分と、「そうばかりは言えないな」という部分があることを知る。

 順に考えてみる。

 一番気になったのは、「二倍の人生を生きたから、密度が濃くなる」という部分。論理的
に考えればそうだが、しかしだからといって、その分、自分の人生が長くなったと感ずる
ことはないだろうということ。

 やはり1年は、1年。10年は、10年。時の流れは、だれにでも平等にやってくる。

 ここにも書いたように、その原稿を書いてから、1年半になる。そういう私が、この1
年半の間、密度の濃い人生を送ったかというと、それはない。その実感が、ほとんどない。

 相も変らず、だらしない人生を送ってきたような感じがする。何かをしてきたようで、
「何かをした」という実感が、ない。

 なぜだろう。なぜか。

 方法がまちがっていたのだろうか。生き方がおかしかったのだろうか。それとも私の考
え方のどこかに、問題があったのだろうか。

 この原稿の中で、空き地で遊ぶ老人たちのことを、きびしく批判した。

 しかし考えてみれば、それが私の人生のゴールでもないのか。毎日、仲間と雑談をしな
がら、のんびりと暮らす。どうしてそれが悪いことなのか、と。あるいはひょっとしたら、
そうした老人たちとて、本当にそれを望んで、そうしているのではないのかもしれない。
もっと別のことを、したいのかもしれない。

 が、できない。だれにも相手にされない。体力もない。気力も弱い。だからしかたない
から、そういうところで、自分の時間を浪費しているのかもしれない。

 いろいろ考える。が、どれも、シャボン玉のように、現れては、はじけて消える。

 私の考え方には、どこか欠陥があるのかもしれない。このつづきは、もう少し、時間を
おいて、考えてみたい。


●無益な人生

 私は、何のために生きてきたのか?
 何のために、五十数年も生きてきたのか?
 身のまわりの、ほんの小さな問題すら、
 解決できないでいる。

 いまだに、名誉を求め、地位を求め、
 肩書きを求め、財産を求めて、右往左往している?

 私の人生は、どこにある。どこにあった?
 孤独と、不安。いつも、それが私の心から離れない。

 健康のこと。仕事のこと。家族のこと。
 日本のこと。世界のこと。そして地球のこと。

 私はただ、ひたすら、自分の人生をムダにしてきただけ?
 ただひたすら、そのときを、ごまかして生きてきただけ?

 足は地につかず。時は、一瞬たりとも、つかめない。
 享楽と、刹那(せつな)の喜びに身をまかす。
 その繰りかえし。その連続。今日は昨日と同じ。
 そして明日は、今日と同じ……。

 そんな人生に、どんな意味があるというのか。
 そんな人生を、あと何十年、繰りかえしたからといって、
 それが、どうだというのか。

(はやし浩司 孤独論 不安論 孤独 不安)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(156)

●皮膚がん

 昨年の夏ごろから、風呂で頭を洗っているとき、ときどきガリッと、指にひかかるとこ
ろが、髪の毛の中にできた。

 痛くも、かゆくもない。指先でさわってみると、何かの傷口のようだった。さらにさわ
ってみると、どこか痛かゆい。それで、また何となく、ガリガリと、その部分を洗ってい
た。

 で、それからほぼ、一年。今でも、その傷口らしきものがある。大きさは変わらない。
しかしこういう(モノ)は、一度気になりだすと、どんどんと気になる。「もしや……」と
いう思いが、心をふさぐ。

 皮膚がん。こういう地球環境だから、今、その種のがんが、ふえているという。紫外線、
放射線などなど。私が子どものころには、「日焼けコンテスト」というようなものがあって、
まっくろに日焼けすることが奨励された。

 今から考えると、とんでもないコンテストである。そのせいかどうかは知らないが、私
の大学の同窓生には、脳腫瘍になったのが、2人もいる。90人中の2人だから、少なく
はない。

 ワイフに見てもらうと、「黒いわね。腫れているわね。かたいわね」と。

 ワイフは、昔から、バカ正直。「何ともないわよ」とか、そういう安心させるようなこと
は言わない。とたん、ゾーッ。

 がんが、なぜこわいか? それは自分であって、自分でないからではないか。成人病に
せよ、けがにせよ、そこには、自分の「意志」がからむ。そのため、自分の「意志」で、
戦うことができる。

 しかしがんは、そうではない。勝手に私の体の中に住みついて、勝手に私の体を破壊す
る。

 昼ごろ、明るい太陽光のもとで、ワイフにみてもらう。ワイフは、大きな虫眼鏡をもっ
てきて、「何ともないわよ」と。

 今さら、遅い!

 カガミを二枚操作して、その傷口を自分で見る。大きさは、米粒くらい。色は赤茶色。
周囲はやや黒い。懸命にがんの三大特徴を頭の中で、反復する。

 出血。不定形な形。増殖。

 出血はないようだ。形は丸い。去年から、さほど大きくなったとは思えない。そう自分
に言ってきかせる。しかしその不安感は、どうしようもない。

 で、仕事をしているときは、その傷口のことは忘れた。が、仕事が終わって、家に帰る
と、再び、あの不安。足元をすくわれるような不安。とたん、心臓の鼓動が高まる。

 「もし、がんだったら、どうしよう?」と声をかけると、ワイフは、また、「何でもない
わよ」と。

 足にできたがんだったら、足ごと切り取るという方法がある。しかし頭では、頭を切り
落とすというわけにはいかない。それに仮にがんだとしたら、ここ数年はがんばれるが、
それ以後は、どうなるかわからない。長い闘病生活に入ることになるかもしれない。

 仕事はどうする? 収入はどうなる? ……いろいろ考えていると、頭の中は、パニッ
ク状態。

 夜、床についてから、真っ暗な天井を見あげながら、また考える。アドレナリンの分泌
が始まったようだ。心臓がドキドキし、呼吸が荒くなる。頭はさえる一方。時計をみると、
11時半。床についてから、1時間も、そうしていたことになる。

 一度、起きる。野菜ジュースを飲む。「私が70歳とか、80歳なら、あきらめもつくか
もしれない。あだ56歳ではないか。どうやってあきらめればいいのだ」と、そんなこと
まで考える。

 翌朝も、同じようだった。起きてから時計を見ると、8時を過ぎていた。

ワイフ「眠れたの?」
私「あんまり……」
ワイフ「心配だったら、T先生にみてもらう?」
私「そうしようか……」と。

 朝食は、食べなかった。食欲がなかった。書斎へ入って、ぼんやりと何冊かの本に目を
通す。頭に入らない。

 メールで届いたいくつかの相談に、回答を書く。一人は、福岡市のAさんからのもの。
子どものかん黙症についてだった。もう一つは、東京のBさんからのもの。不登校に関す
るものだった。

 返事を書きながら、「みんな、がんばっているんだなあ」と、そんなことを思う。しかし
どこか事務的。回答を書きながらも、心が入らない。

 時計を見ると、8時30分。いつも行くT医院は、8時30分からだ。内科医院という
ことになっているが、T医師は、何でもよく知っている。私は、内科のことはもちろん、
ありとあらゆる種類の病気の相談にのってもらっている。

 居間におりていって、ワイフに「行こうか?」と声をかけると、「ウン」と。だまってそ
のまま従ってくれた。

 外は、久しぶりの雨。はげしい雨が、庭をたたきつけていた。駐車場へ走った。ワイフ
が、それにつづいた。

私「皮膚がんだったら、やっかいだね」
ワイフ「何でもないわよ」
私「頭の中に、ホクロはできないよ」
ワイフ「できるわよ。どこにだって、できるわよ」と。

 T医院へ行く道すがら、意味のない会話がつづく。

 で、その結果……?

 やはり、いつもの私のとり越し苦労だった。T医師は、私の頭をしばらく見たあと、「何
でもないと思います」と。棚から、皮膚病の図鑑のようなものを見せ、「林さん、あんたの
は、これに近いです。何でもありません」と。

 たまたまその医院へ来ていた別のドクターも、途中で加わり、「ははあ、これね、石鹸で
もつけてよく洗えば、なおりますよ」と。ドクターらしからぬことを、言う。

 とたん、胸のつかえが、スーッとおりて、そのまま消えた。

 待合室に出ると、ワイフがそこにいた。「何でもないって……」と私が言うと、「ほら、
ごらん」と。そう答えて、ワイフも笑った。

 「これであと10年は生きられる」と私。そう言いながら、医院を去った。

++++++++++++++++++++

【心気症】

 病気がやたらと気になる症状を、心気症という。「検査や診断で、異常が認められないと
医師が告げても、必要以上に、違和変調にこだわり、重大な病気を心配すること」(鈴木淳
三氏)をいう。神経症の一つとされる。

 この心気症は、被害妄想と、深くからんでいる。病気のことだけを考えるのではなく、
その病気を中心に、四方八方に、いろいろ考えてしまう。「仕事はどうなる」「家族はどう
なる」「治療費はどうする」と。さらに「葬式はどうしたらいい」「親類への連絡はどうし
たらいい」とまで。

 こうして頭の中は、パニック状態になる。深刻な問題が、怒涛(どとう)のように、押
し寄せてくる。問題が、一つや二つではないから、解決方法が見つからない。仮に一つの
問題が解決しても、つぎからつぎへと、問題がやってくる。

 もちろん死への恐怖心もある。この世から消えてなくなるというのは、恐怖そのもので
ある。心が平静なときは、そうした恐怖も、理性の中で処理できるが、不安になっている
と、それもできない。

 どういう脳みその作用によるものかは知らないが、不安になると、理性の働きが、ぐん
と鈍くなる。弱くなる。たとえば日ごろは、神や仏にすがることはしたくないと思ってい
ても、そういう状態になると、神や仏を信じてこなかった自分が、くやまれる。「今から信
じたのでは、遅いし……」とも。

 その病気で死ぬ確率が、仮に10%だったとする。すると、自分がその10%の中に、
落ちこんでいくように感ずる。ものごとを悪いほうに、悪いほうに考えていく。

 あとは急速な生理的な変化。アドレナリンの分泌が始まる。心臓の動機、発汗、食欲不
振、息切れなどなど。

 もちろん心理的にも大きな影響が現れる。深い絶望感と、焦燥感(あせり)。そして怒り。
「自分は何をしてきたのだろう」という悔恨の念などなど。ふつうの不安神経症とちがう
点は、そこに生死の問題がからむこと。そのため、心気症で味わう絶望感は、絶対的な絶
望感といってもよい。つまり救いようがない絶望感ということ。

 しかしこうした心気症は、個人差がきわめて大きい。私のワイフなんか、「がんになった
ら、なおせばいいのよ」と平然としている。その平然さは、恐らく自分ががんになっても
変わらないと思う。要するに、私は気が小さく、ワイフは、気が大きいということ?

 が、いつか、私も、大病を宣告されるときがやってくる。必ず、やってくる。それは絶
対に避けられない。となると、いつ宣告されても、動じないだけの自分をつくっておかね
ばならない。

 それは可能なのか。あるいはそのために、今、私は何をしたらよいのか。実のところ、
皆目、見当もつかない。ただここで言えることは、そういうときになっても、悔いのない
ような生き方を、今、この時点でしておくということ。

 絶対的な絶望感の中では、悔恨の念のほど、苦しいものはない。

 ついでに神経症としては、つぎのようなものがある(鈴木淳三氏)。

(1)パニック障害をともなう、不安神経症(妄想から、嘔吐、めまい、冷や汗、呼吸困
難、不安発作をともなう。)
(2)恐怖症(危険でないのに、説明のつかない恐怖感を覚える。)
(3)強迫神経症(自分の意思に反して、何かの考えが浮かんだり、そうせざるをえない
感覚にとらわれる。)
(4)心気症(重大な病気と思いこんで、悶々とする。)
(5)ヒステリー(目が見えなくなったり、声が出なくなったりする。臓器の機能不全を
起こしたり、両手両足のマヒなど。)
(6)離人神経症(自分が自分でない感じがして、外界の存在さえも疑う。)
(7)抑うつ神経症(罪の意識、自殺願望、食欲低下など。軽いうつ状態になる。)

 私には、これら(1)から(7)まで、「そういうこともあるなあ」と思えるほど、よく
理解できる。軽重のちがいはあるのだろうが、日常的に、よく経験する。

 精神病と神経症のちがいは、精神病の多くは、病識(自分が病気であるという意識)が、
ないこと。神経症の多くは、病識があること。自分でも、「おかしい」とわかること。

 ワイフは、「あなたは、がんノイローゼよ」と言う。そうかもしれない。そうでないかも
しれない。ともかくも、私のばあいも、そういうとき、「私は、おかしい」とわかる。だか
らもう一人の私が、懸命に、それを否定しようとする。こうした葛藤が、やがてはげしく
なり、頭の中は、パニック状態になる。「前にもあったではないか」「何でもないよ」「お前
は、心配性だなあ」と。

 みなさんには、そういう経験はないだろうか?
(はやし浩司 心気症 病気 神経症 がんノイローゼ 不安神経症 強迫神経症)
(040427)


(3)心を考える  **************************

●仙台市にお住まいの、YDさん(母親、34歳)より

 仙台市にお住まいの、YDさんより、こんな相談をいただきました。少し考えてみます。

++++++++++++++

私の今、抱えている育児の悩みです。
二女(MK)のことです。

二女は、幼稚園にこの4月、年少児として、入園しました。
が、園の生活に、まったく馴染めないのです。

まあ、そのうちになれるだろう・・・という感じではないのはということは、
こどもの様子を見ていて、すぐ分かりました。

まったくしゃべらず、笑わず、返事さえ・・・
飲まず食わずで、そのうちに寝てしまうそうです。
(昼寝の習慣はここ1年位ありませんでした。)

園を出ると、みるみる元気のでる、いつもの二女です。

先生方も最初は、「そのうちなれますよ。」とおっしゃっていましたが、
今朝は、「どうしていいか分からない」と言っていました。

彼女にとって幼稚園は、ストレスでしかないのではと・・。
あの小さな体で孤独に耐えているかと思うと、苦しくなります。

普段の性格は非常に元気、明るくイタズラっ子、
人見知りは少し激しいかと思います。

このまま園に通わせながら、時が経てば、
慣れるものであれば、私も少し辛いですが、行かせたいところです。

そのうち慣れるという問題でないのであれば、
すぐにでも辞めさせてラクにしてあげたいと思っています。

アドバイスをお願いします。ちなみに、上に小2の女の子。下に2歳の
男の子がいます。

++++++++++++++

 一番、気になるのは、「まあ、そのうちになれるだろう・・・という感じではないのはと
いうことは、こどもの様子を見ていてすぐ分かりました。まったくしゃべらず、笑わず、
返事さえ・・・。飲まず食わずで、そのうちに寝てしまうそうです」というところです。

 これだけでは様子がよくわかりませんが、先生でさえ、「どうしていいか分からない」と
言っておられるところから判断すると、(かん黙症)が、疑われます。園を離れて、家の中
では、「非常に元気、明るくイタズラっ子」というところも、そうです。

 一度、お近くの保健所、もしくは保険センターで、育児相談を受けてみられてはどうで
しょうか。

 こうした問題は、まず、一番心配な問題から、順に、消去法で解決していきます。(かん
黙症)でなければ、(集団恐怖症)(学校恐怖症)(対人恐怖症)……と。さらには(母子分
離不安)(赤ちゃんがえり)(心身症)……と、です。

 少なくとも、YDさんが考えておられるように、ただ単なるストレスだけの問題ではな
いように思います。

 本来なら、お母さんがそばについてあげて、慎重に、ただひたすら慎重に、薄いガラス
箱を扱うかのように、少しずつ、集団に慣れさせるのがよいです。この時期の子どもは、
約3分の1が、強引な指導や無理な指導になじめず、それぞれ、独特の症状を示します。

 母親から離れることができない。集団を拒否する。なじめない。かたまる。無言を守る。
がんこになる。かたくなになる、など。こうした症状は、この時期、ごく当たり前の症状
で、それほど心配しなくてもよいです。それこそ先生がおっしゃったように、「そのうち慣
れる問題」です。

 さらにYDさんのばあい、下に2歳の男の子がいるということで、(赤ちゃんがえり)が
こじれたことによる、情緒不安症状も考えられます。どこかで親に対して、はげしい欲求
不安を感じたのかもしれません。

 この時期にかぎらず、子どもの心は、本当にデリケートです。とくに親の愛情問題がか
らんだときは、そうです。決して、安易に考えてはいけません。つまりそれだけ、ていね
いに、かつ慎重に考えてください。

 いただいたメールの範囲、また私の立場では、これ以上のことは、何も言えませんが、
以上のことを参考に、ドクター、園の先生などと、つまり直接、お嬢さんを見てくれる人
と相談しながら、YDさんが、最終的に判断なさるのがよいかと思います。

 あまりお力になれなくてすみません。なお、いただいたメールを、小生のマガジンに使
わせていただきたいので、よろしくお願いします。不都合な点があれば、至急お知らせく
ださい。訂正いたします。

 メール、ありがとうございました。


(4)今を考える  **************************

●反戦主義

 憎しみや、悲しみを、武器にかえてはいけない。
 憎しみや、悲しみがあれば、それを思想にかえる。心にかえる。

 怒りや、うらみを、喧嘩にかえてはいけない。
 怒りや、うらみがあれば、それを思想にかえる。心にかえる。

 相手にぶつかるな。自分にぶつかれ。
 相手に求めるな、自分に求めろ。
 憎しみや、悲しみは、つぎの憎しみや、悲しみを呼ぶだけ。
 怒りや、うらみは、つぎの怒りや、うらみを呼ぶだけ。

 憎しみや、悲しみを感じたら、考えろ。考えて、文にせよ。
 怒りや、うらみを感じたら、考えろ。考えて、文にせよ。

 相手にすべき敵は、その相手ではない。
 相手にすべき敵は、私たち自身。私たちの中の、私たち自身。
 私たちの敵は、そこにいる敵ではない。
 私たちの敵は、争いそのもの。喧嘩そのもの。
 私たちの敵は、戦争そのもの。

 もし私たちに、私たちを守る最大のシールドがあるとするなら、
 それは、私たちがつくりあげた、思想そのもの。
 その思想が、私を守り、あなたを守る。

 思想が、あなたの憎しみや、悲しみに勝ったとき、
 思想が、あなたの怒りや、うらみに勝ったとき、
 あなたの心の中に、かすかなあわれみが生まれる。
 そのかすかなあわれみが、かぎりなくあなたを大きくする。
そしてかぎりなく、相手を小さくする。

 そのときあなたは、こう知るだろう。
 何て、バカな敵を相手にしていたのだろう、と。
 と、同時に、あなたは、憎しみや、悲しみや、
 そして、怒りや、うらみから、解放される。


●K国での爆発事件(2)

 4月22日に、K国R市で起きた、列車爆発事件には、謎が多い。

 4月27日(今日)、現場の写真などがやっと公表されるようになった。一応、「事故」
ということになっている。死者も、160人程度ということになっている。しかし現場に
居合わせた華僑たちは、「笑わせるな」(「朝鮮日報」)と語ったという。

 160人程度のはずがないというのである。

 そんな最中、首都P市では、恒例の軍事パレードが行われたという。ふつうなら……と
いう言い方は、K国についてはできないが、ふつうなら、軍事パレードどころではないは
ず。テレビの報道によれば、P市の市民たちには爆発事故のことは知らされていないとい
う。そのせいか、パレードでフォークダンスを楽しむ男女は、底抜けに明るい表情をして
いた。

 最大の謎は、ここである。

 なぜ、こういう時期に、金XXは、軍事パレードを強行したか。

 実は、パレードをしなければならない、内部事情があったからではないのか。

 金XXは、4月の中旬、中国を訪問している。そしてその帰りに、R市を列車で通過し
ている。公式の報道によれば、爆発事故の9時間前に通過していることになっている。し
かし実際には、そうではなく、爆発事故の30分前に通過していたという説がある。

 金XXは、爆発事故の1時間前に、中国の国境近くで目撃されている。さらに朝鮮日報
の報道によると、となりのS駅で、1時間ほど、S市の高官と会談をしているという。

 となると、まさに爆発事故は、金XXがR市を通過するときに起きたということになる。
つまり、今回の事故は、事故ではなく、事件。金XXをねらったテロ事件の可能性が、ぐ
んと高くなる。

 そこであの爆発事故(事件でもよい)のあと、K国は、必死になって、事故そのものを
もみ消そうとした。3日後から、国際赤十字の係官が現地を訪れているが、「死傷者が見当
たらない」と報告している。

 その2日間で、K国は、死傷者たちをきれいに片づけてしまった(?)。驚くべき、行動
力である。

 同じく朝鮮日報によると、その爆発事故の直後から、R市の市民たちは、外出と移動な
どを禁止されたという。同時に、徹底した反政府分子の取り締まりが始まったという。

 こういう最中、4月25日、軍事パレードの日がやってきた。

 さあ、あなたなら、軍事パレードを中止するだろうか。それとも、強行するだろうか。
金XXの立場で考えてみてほしい。

 あの爆発事故が、ただ単なる事故なら、パレードを中止する。そして救援活動をしなが
ら、国の長としての度量を、国内に誇示する。

 しかしあの爆発事故が、金XXをねらったテロだとするなら、あなたはパレードを中止
するだろうか。もし中止すれば、テロに屈したことになる。だから軍事パレードを強行す
るしかない。

 言いかえると、軍事パレードを強行したということ自体、あの爆発事故が、ただの事故
ではないことを示す。

 これはあくまでも私の憶測である。しかし国際情勢も、自分がもつ常識を手がかりにす
ると、すんなりと理解できるときがある。この事件も、そうだ。

 追々、この爆発事故は、真相が解明されることだろう。この記事がマガジンに載るのは、
5月の終わり。そのころには、何らかの結論が出ているかもしれない。そのとき、ここに
私が書いたことが正しかったのか、まちがっていたのか、それがわかるはず。

 そのときのために、こうして今、私の憶測を、記録しておく。いよいよ金XX、危うし!
(2004年4月27日)

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  //       4−2
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 26日(No.414)
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(1)子育てポイント**************************

●教育のおもしろさ(施設児的な私自身)

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。

たとえば、私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のも
のをもらってきた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てら
れた。生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 A犬は育児拒否を経験した犬。誰にでも愛想がよく、シッポを振る。番犬にはならない。
忠誠心も弱く、裏の戸が少しでもあいていようものなら、すぐ遊びに行ってしまう。

一方B犬は親の愛も人間の愛も、たっぷりと受けている。態度は大きく、ふてぶてしい。
見知らぬ人が近づくと、ワンワンとほえる。忠誠心も強い。

……と書いて、実は人間の子どもも同じ。たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生
後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が
原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、
知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に
合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明る
く快活。が、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは
「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

 実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われる
が、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、
自分をごまかす。茶化す。

つまり私は、かなり不幸な乳幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そう
だと言えば、そうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。

……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。子どもを分析していくと、自分の姿が
見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったかが、わかってく
る。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそ
のまま私自身の問題であることに気がついた。

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、育
児拒否、親の暴力に虐待、親との死別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう
不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。

たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしま
う。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あ
なたの子どもへと伝えてしまう。

心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播(でんぱ)しやすい。が、
しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私の場合も、ゆがん
だ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることがで
きるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」
「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。

そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこ
に教育の本当のおもしろさがある。

+++++++++++++++++++++

●神や仏は、教師だったのか?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーの
おもちゃが、ほしくてほしくてならなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。

そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で祈るというのもおかしな話だ
が、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無神論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣
は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできご
とがあった。

ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で「サダコ(禎子)」(『原爆の子
の像』のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は一行
読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むこともできなかった。

そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を
必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、
何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってし
まった。

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のよ
うな人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たります
ように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなことでいちいち手をわずらわす神
や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占い
には、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという。

あの『ドラえもん』の中には、どこでも電話というのが登場する。今からたった二五年
前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だってもっている。奇跡といえば、
よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは
……? 

人間の知性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれた
が、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめているので、「何をしてい
るのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あの
ビルを吹っ飛ばすことができる」と。

 私はときどきこう思う。キリストにせよ、釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。さ
らに自分が神や仏の気持ちが理解できることがある。

たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私
は、「自分でしなさい」とはねのける。「○○大学へ入学させてください」と言ってきた
ときもそうだ。

いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものため
にならない。それはまさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーでは
なく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思った。

(2)今日の特集  **************************

お休みします!

(3)心を考える  **************************

  お休みします!

(4)今を考える  ************************** 

【近況・あれこれ】

●「防犯xxx」(P社製)を買う

 今度、P社から、「防犯XXX」というソフトが発売になった。

 以前、雑誌で紹介されていたこともあり、迷わず、購入。

 これは防犯用のソフトで、インターネット用カメラと接続して使う。たとえばだれかが
部屋に入ってきたりすると、自動的に動きを感知して、それを記録する。あるいは必要な
ら、インターネットを通して、どこかへその画像を、転送する。

 数年前だが、あるパソコンソフトメーカーの社長と、昼食をともにしたことがある。そ
のときその社長が、どんなソフトが求められているかというようなことを、私に聞いた。

 私は、こう言った。

 「これからは、どの家にも、使わないパソコンがゴロゴロするようになる。そういう使
っていないパソコンを利用して、防犯装置を考えたらいい」と。

 私がそのとき考えた防犯装置は、こんなものだ。

 たとえばいろいろな端末機を接続できるようにする。窓の開閉や、人の動きや会話など。
そういった変化を、その端末機が感知する。記憶する。あるいはインターネットを通して、
その情報を転送する。

 もちろんこれは私の思いつき。その社長は、おもしろそうに私の話を聞いてくれた。

 で、それから数年。今回「防犯XXX」を発売したのは、P社。もともとは、アメリカ
製のソフトを、日本語版にしたものらしい。だから、私がアイディアを出した社長の会社
とは、関係ない。

 しかしいつか、心の中で想像したソフトと、出会うのは、楽しい。うれしい。だから迷
わず、購入した。

 もっとも、購入したからといって、すぐ使うわけではない。本当のところ、あまり必要
もない。こうしたソフトは、いわば「おとなのおもちゃ」のようなもの。しばらく遊んで、
それで楽しければ、それでじゅうぶん。満足。私自身は、ボケ防止のためと思っている。

 そうそう、頭脳というのは、肉体と同じで、使わないと、どんどんとサビついていくそ
うだ。こうしたソフトの購入は、そのための経費。値段は、4800円。1000円の割
引チケットがあったので、3800円。それでボケが防止できるなら、安いものだ。

が、ワイフが「何に使うの?」と。

 「あのね、これがあると、たとえば留守のとき、誰かが無断へ家の中や庭へ入ってきた
とき、それをカメラでパチパチと、とってくれるの」と。

 するとワイフが、珍しく、するどいことを言った。「でもね、パソコンも盗まれたらどう
するの?」と。

 ナルホド! そこまでは考えなかった。しかしこの「防犯xxx」は、とった写真を、
即座にインターネットで、転送してくれる。それに今どき、古いパソコンを盗んでいく、
バカな泥棒はいない。そう言って説明すると、ワイフも、感心していた。

 「すごく頭がいいのね」と。

 我が家は、一見、ボロ家だが、中身は、超ハイテク。ハハハ!


●スライド・ショー

 今度ホームページに、新しくスライド・ショー・コーナーをもうけた。

 私のホームページのトップページ、右上に、そのコーナーがある。興味のある人は、ど
うか見てほしい。

 見たい写真の上でクリックすると、写真が、どんどん、スライド方式で、変化していく。
何かしらすごいテクニックを使っているように思う人もいるかもしれないが、このテクニ
ックは、ホームページの制作ソフトの付録でついていたもの。(私は、「N・2003」を
使っている。)

 しかし写真というのは、メモリーをものすごく消費する。写真を、100枚くらい載せ
ると、1〜1・5MBくらいは、消費する。

 今は、合計で、160MB分まで、ホームページで使えるようになっているが、実際に
は、そんなに使えない。一つのサーバーで、現在、48MBのホームページを制作してい
るが、ソフトのたちあげ(30分)から、更新(15分)、それに保存(3時間15分)が
終わるまでに、たっぷりと4時間はかかる。

 とくにソフトの保存に時間がかかる。現在、3時間と15分!

 だから実際には、50MB前後が限度。

 しかしおもしろい。楽しい。そのため4月は、カメラをもって、あちこちを歩いた。繰
り返しになって恐縮だが、興味のある方は、どうか見てほしい。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 さて、5月は、何に挑戦してみようか? 今、パソコン雑誌をながめているところ。


●M社の危機

 自動車会社のM社が、倒産の危機に立たされている。従業員数が、数万人というから、
日本経済にとっては、たいへんな問題である。

 そのM社。実は、私にも、こんないやな思い出がある。

 以前、ワイフは、そのM社製の、「MJ」という車に乗っていた。燃費がよいということ
で、その車にした。新車で買った。

 が、家にもってきてもらったときから、車輪の内側がさびていた。「?」と思ったが、「車
というのは、そういうものです」という説明を受けて、何となく納得した。

 しかしそれ以後、故障つづき。最初に、窓の開閉ができなくなった。つぎに、その開閉
をするレバーがはずれてしまった。アンテナも簡単に折れてしまった。燃費がよいという
ことだったが、そういうこともなかった。

 で、何となくだましだまし乗っていたが、最後に、こんな事件が起きた。

 いつものように、ある大きな坂をおりて、四つ角にさしかかったときのこと。突然、ワ
イフが、「ハンドルがきかない!」と叫んだ。横にすわっていた私が、ハンドルをもつと、
何かにカチンとひかかったような感じで、びくとも動かない。

 ワイフは、とっさの判断で、ゆっくりとスピードを落として、そのままカーブをしなが
ら、前進。反対側の歩道に乗りあげた。

 恐ろしかった。ハンドルがきかない車が、かくも恐ろしいものだったとは、そのときま
で知らなかった。

 で、そのあと、何とか、ハンドルは動くようになったので、そのまま家へ。そしてその
翌朝一番に、M社の販売店へ。その朝のうちに、その車を売ってしまった。

 M社の店員は、「そんなはずはありません」「何かの運転ミスではないですか」の一点張
り。話にならなかった。

 それから約10年後。M社の車の欠陥が、つぎつぎと暴露され始めた。そしてその中に
は、ハンドルがきかなかったことが原因ではないかと疑われるような死傷事故も、数多く
含まれていることを知った。

記憶は確かではないが、同じような故障が、当時、30〜40件近く報告されていたの
ではなかったか。私とワイフはそのニュースを聞いたとき、「やっぱりねエ」と、言いあ
ったのを覚えている。恐らく、こうした報告は、氷山の一角。M社は、そうした報告を、
隠しつづけた。

 で、今回の危機。

 私とワイフは、そのニュースを見ながら、再び、「やっぱりねエ」「やっぱりしかたない
ねエ」と。

 私たちは、M社の車が好きだった。デザインがよかった。しかし、その事件以来、M社
の車には、見向きもしなくなった。そればかりではない。ことあるごとに、「M社の車はや
めたほうがいい」と、みなに話した。

 その結果が、今の危機だと思う。もしあの事件が、東名高速道路かどこかを走っていた
ときに起きたとしたら……。私たちは確実に死んでいた。それを思うと、今回のM社の危
機は、起こるべきして起きた危機だと思う。M社の従業員の人たちには、お気の毒だが、
経営者が悪かった……。


●9490日の人生

日本人の平均寿命を、83歳(男性)とすると、私はあと26年、生きられることにな
る。私は、現在、56歳。

その26年に、365日をかけると、9490日という数字が出てくる。あくまでも、
運がよければという話だが、つまりこの計算によれば、私は、あと9390日、生きら
れるということになる。

 この数字には、いろいろな意味が含まれる。

 話が、ぐんと現実的になるが、一日、1万円で生きるとして、9490万円。「9490
万円も!」と、驚いてみたり、「うん、それだけでいいのか?」と、考えこんでみたりする。

 驚くのは、「どうやって、そんなお金を稼いだらいいのか」という思いがあるから。また、
「それだけでいいの?」と考えこむのは、世の中には、数十億とか、数百億とかいう資産
がある人もいるということ。つづいて、「そんなにあって、どうするのかなあ?」と思った
りする。

 つぎにこの9490日という数字を知ると、「それだけしかないのか?」という思いと、
「まだ、そんなにあるの!」という思いが、複雑に交錯する。

 もっとも、その9490日のうち、後半部は、生きているだけで精一杯という状態にな
るかもしれない。病気にもなるだろうし、頭もボケてくるだろう……。収入も、ぐんと減
る。体力も弱くなり、活動も、鈍ってくる。

 一番不安なのは、失業と、それにたとえばワイフが先に死んだりするようなこと。そう
いう意味では、あまり長生きしたくない。ワイフより、長い生きしたくない。

 そういう視点で、ざっと計算してみると、私の人生は、よいところ、あと3〜5000
日? 問題は、その3〜5000日を、どう生きるか、だ。

 まあ、あとになってやり残したことを後悔しないように、今、がんばるしかない。今日
できることは、今日する。今できることは、今、する。懸命にする。そのあとのことは、
あとに任せればよい。それしかない。

 そう言えば、今日、山荘へ行く途中で、K氏に会った。山荘の石垣を、5年もかけて、
組んでくれた人である。

 が、一度、数年前に、脳梗塞で倒れた。で、また最近、再び倒れた。見ると、左半身を
かばうように、力なく通りを歩いていた。「こんにちは!」と、車から声をかけたが、その
あとの言葉がつづかなかった。

 K氏は、顔つきまで変っていた。かつての精悍(せいかん)さは、もうなかった。顔中
の筋肉が、下へたれさがっているかのように見えた。

 人は、ある時期を頂点にして、あとはその坂をころげ落ちるようにして、年をとってい
く。ただそのときは、気がつかない。自分が頂点にいるときというのは、その状態が、い
つまでもつづくと思う。

 が、やはりころげ落ちていく。「こんなはずはない」「まだ、何とかなる」と思ううちに
ころげ落ちていく。懸命に生きようとがんばればがんばるほど、皮肉なことに、ころげ落
ちていく。

 9490日。

 それは私にとっては、どんな人生になるのだろうか。常識的な見方をすれば、まさに下
り坂の人生にちがいない。これから登り坂を歩くことなど、期待していない。それに登り
坂を登りたいとも思わない。そのチャンスも、もうないだろう。

 ただ願わくは、ずっとこのまま、死ぬまで、自分の道を歩いてみたい。目の前に広がる
草をかきわけながら、一歩ずつ、前に歩いてみたい。その先に何があるかわからない。あ
るいは何もないかもしれない。しかし歩ける間に、歩いてみたい。

 この数年、体力はもちろんのこと、知力や気力が、自分でもわかるほど、衰えてきた。
以前のような好奇心も、もうない。生きザマが、どこかうしろ向きになってきた。保守的
になってきた。「これではいけない」と思うのだが、こればかりは、どうしようもない。

 で、結局は、この繰りかえしになる。「私は、今を、懸命に生きるしかない」と。「あと
あと悔いの残る人生だけは、すごしたくない」と。

 マガジンの読者の中には、私と同年代の人はいるのだろうか。いつもメールをくれる人
は、私より20〜30歳も若い人たちばかり。だからこんなジジ臭い話は、不愉快かもし
れない。ここまで。

 しかし、はやし浩司は、負けない。負けないぞ!

 明日も懸命に生きてやる。負けるものか! ……と力んだところで、今夜は、おやすみ
なさい!

【追記】

この4月は、遊んだぞ!

 富幕山(とんまくざん)にも登ったし、三岳山(みたけざん)、竜が獅山(りゅうがしざ
ん)にも登った。浜名湖の遊覧船にも乗ったし、浜北市や豊橋市にも遊びに行った。佐鳴
湖畔や浜名湖畔も、散策した。藤枝の蓮華寺湖にも行ってきた。浜北市の園芸センターに
も行ったし、森林公園にも行ってきた。

 明日は、4月25日。日曜日。朝起きたら、またどこかへ遊びに行くつもり。ハハハ。
遊んで、遊んで、遊びまくってやる!

【追記】

 昨夜(4・24)、オリンピック予選ということで、日本対北朝鮮の、女子サッカーを見
た。結果は、3−0で、日本の勝ち。よかった。どういうわけか、胸の中がスーッとした。

 しかしそれにしても、北朝鮮の選手がしたミスは、かわいそう。そのミスが、オウンゴ
ールとなり、日本は1点を得点。あの1点で、試合の流れは変ってしまった? 北朝鮮側
のサポーターたちの元気も、そのときを境に、急になくなったように思う。

 あの選手は、北朝鮮へ帰ったら、処刑されるかも。処刑されないまでも、収容所送り? 
それを思うと、かわいそう。

 で、これからワイフと、豊田町の藤棚を見に行くつもり。天気は、あいにくと小寒い、
曇り空。

 でかける前というのは、いつも、「今日はやめようか」と思う。しかし行動をし始めると、
そのまま止まらない。勝手に足が動き出す。そして帰ってくるころには、「今日は、楽しか
ったね」となる。人間の心なんて、いいかげんなものだ。
(040425)


●熊野(ゆや)の長藤(豊田町)

 4月25日は、豊田町にあるという、熊野(ゆや)の長藤を見に行ってきた。「長藤」と
いうのは、長い花をつける藤という意味である。

 浜松駅から10分ほど。料金は、おとな190円(片道)。豊田駅からは、シャトルバス
が運行されていた。料金は、片道100円。

 おりて100メートル近く歩くと、その長藤のある寺に着いた。「熊野」と書いて、「ゆ
や」と読む。当日は日曜日ということもあって、身動きもままにならないほど、混雑して
いた。藤の花を見るというよりは、人ごみを見るために行ったようなもの。

 藤棚のまわりを10分ほど歩いたあと、そそくさと、岐路につく。が、そのとき、昔懐
かしい、チンドン屋!

 リーダー格の男の口上(こうじょう)を聞いているうちに、私の子どものころを思い出
した。私は、チンドン屋がくると、いつまでもそのあとについて、歩いていた。そんな思
い出が、ふと、脳裏をかすめた。

 まあ、しかし、思ったより……というか、期待していたより、ずっと小さな寺だった。
藤の花を見ながら、俳句でも……という心境には、とてもなれなかった。

 (写真は、私のホームページの、「お楽しみスライドショー」に収録。興味のある人は、
そちらを見てほしい。)

『人ごみに、まぎれてなごむ 孤独かな』(はやし浩司)


●賛助会へのお礼

 今年も、3人の人から、賛助会への協力があった。金沢のTさん。長野県のUさん。そ
れに愛知県のYさん。ありがとうございました。この場を借りて、お礼申しあげます。

 もっとも、だれに頼まれるわけでもなく、自分でこうして勝手にマガジンを発行してい
るわけだから、賛助会というのも、おかしい。読んでくれる人がいるというだけでも、感
謝しなければならない。

 しかし目的がないわけではない。

 現在、賛助会の積み立て金が、3万円と少しになった。(一円も、まだ使っていない!)
このお金が、14、5万円になったら、新しいパソコンを買うつもり。先はまだ遠いが、
がんばる。

 今、ほしいのは、F社製の、PEN4(ペンチアム4という意味)、120G(ギガ)と
いうマシーン。インターネットで値段を調べたら、28万円だって! もっとも、お金が
たまるころには、さらに性能のよいパソコンが売りに出されていることだろう。

 今年は、今のパソコンでがまんするしかない。ちなみに今、この原稿を書いているパソ
コンは、F社のFMV。17インチワイド画面のもの。いろいろなパソコンを使ってみた
が、やはりF社のパソコンが、もっとも、性能が安定しているように思う。ただ、キーボ
ードが、どこかたよりない。これはノートパソコンのことだが……。

 私のパソコン評……。

 N社……。いろいろクセがあって、使いにくい。昨年、ノートを一台買ったが、故障つ
づき。窓口に相談すると、修正プログラムをダウンロードしてほしいとのこと。で、その
あとは、快調に動くようになった。しかし私のワイフのようなユーザーだったら、「ダウン
ロードしてくれ」と言われただけで、パニック状態になってしまうはず。

 T社……。T社のノートパソコンは、2台使ってみたが、どうも、かわいげがない。事
務機器という感じ。いくら使っても、愛着がわかない。パソコンは、ただ単なる事務機器
ではない。電気製品でもない。T社は、そういう基本的なことがわかっていないようだ。

 P社……。1台買ったが、「P社のノートパソコンは、やめたほうがよい」というのが、
率直な意見。私が買ったのは、CDユニットが、着脱できる「L・NOTE」というもの。
が、買ってから半年くらいの間、我が家と修理工場を、3往復もした。

 意外とすばらしいのは、ソーテックのパソコン。最近、三男に買ってやったが、あそこ
まですばらしいとは期待していなかった。値段も安いが、性能もよい。今度、ノートパソ
コンを買うとしたら、ソーテックと決めている。(実名を出して、すみません。これは宣伝
です。)

 S社のパソコンと、M社のパソコンは、使ったことがないので、わからない。本当は、
S社のパソコンもほしい。しかしS社のパソコンは、どこか排他的。一度S社のパソコン
にしたら、周辺機器など、S社のものばかりでそろえなければならない。そういう感じが
する。(「そういうことはありません」と、パソコンショップの店員さんは、言うが……。)

 だからときどき迷ったが、結局は、S社のパソコンは、買ったことがない。M社のパソ
コンは、どうもパッとしない。はじめから、選択肢の中に、入っていない。

 ……ということで、賛助会の話から、大きく脱線。賛助会のほうを、みなさん、どうか
よろしく!


●K国の爆発事故

 K国のR市というところで、きわめて大規模な爆発事故が起きた。半径500メートル
の範囲の民家が、爆風などで全壊したというから、ただごとではない。

 悲惨だったのは、近くの小学校が直撃されたこと。死者の大半は、その学校に通う子ど
もたちだったという。韓国系のメディアの「朝鮮日報」は、「下校の準備をしているところ
を、襲われた」と報じている。

 原因は、これから追々解明されていくだろう。今のところ事故説が有力だが、テロ説も
流れているという。同じく「朝鮮日報」は、「現在、北朝鮮当局が龍川、新義州一帯に対し
一般人の出入りを統制するなど、反政府勢力の摘発および逮捕作業を展開していると伝え
られている。今回の爆発事故とかかわりがあるようだ」と伝えている。

 単なる事故なら、こうした措置は必要ないはず? 香港の「星島日報」は「24日、金
正日総書記が乗車した専用列車が龍川駅を通過した時間は、事故の発生する9時間前では
なく30分前だ」と報道している。

 何がなんだか、さっぱりわけがわからない国、それが今のK国である。つまり金XXが、
R市を通り過ぎたのは、9時間前ではなく、30分前だというのだ。もしそうなら、がぜ
ん、金XXの暗殺をねらったテロの可能性が高くなる。

 一見、一枚岩に見えるK国だが、内部は、どうやらガタガタのようだ。

●あらゆる力をもつものは、すべてを恐れる。(コルネイユ「シナー四幕二場」)
●羊が何匹いるかは、狼(おおかみ)には、関係なし。(ヴェルギリウス「農耕詩」)
●独裁とは、一為政者が、その権力を人々の利益のためではなく、彼自身の個人的な目的
のために、彼自身の利益、彼自身の欲望のために用いることである。(ロック「市民政治
論」)


 『あらゆる力をもつものは、すべてを恐れる』……これからも金XXは、毎日、何かに
おびえ、ビクビクしながら暮らさなければならないのだろうか。

 その点、私なんか、本当に気が楽で、よいと思う。もともと何もないから、失うものも
ない。この自由感覚こそ、私の最大かつ最高の財産である。

【追記】

 この事件(事故ではなく、事件)に関して、韓国日報は、つぎのように追加報道してい
る(4・25)。

「金正日総書記が北京に出発した19日、龍川郡の国家保衛部の前で『打倒』と書かれ
た不穏な反政府文書が発見され騒動となり、龍川現地ではこれを巡り、『誰かがテロを起
こしたはず』という噂が拡散している。  
 
 また、別の消息筋は、『そのため金総書記が帰路に龍川駅に寄らず、新義州から車で平壤
(ピョンヤン)に移動したという話も聞いた』と話した」と。

 この事件は、ますます謎めいてきた。そんな感じがする。
 

●ホームページの宣伝

 自分でホームページを作っている人も多いだろうと思う。神奈川県に住む、K氏より、
「どうすれば、もっと多くの人に自分のホームページを見てもらえるか」という質問をも
らった。

 一つの方法として、グーグル、ヤフーなどの各検索エンジン会社に、自分のサイトを登
録するという方法がある。

+++++++++++++++++++++

【Kさんへ】

メール、ありがとうございました。

いつもマガジンのご購読、ありがとうございます。

ご質問の件ですが、いわゆるホームページの宣伝と
いうことになります。

方法は、たくさんあります。

(1)まず、この世界には、7〜8つの検索エンジン会社
というのがあります。

よく知られているのが、ヤフー、グーグル、インフォシーク、
BIGLOBEなどです。

それぞれの検索エンジン会社に、自分のサイトを登録します。

方法は簡単です。

たとえばインフォシーク社の場合ですが、

http://www.infoseek.co.jp/Topic/14/189

をクリックしてみてください。
一番下のところに、作業バーがあります。
そこに「サイト登録」というコーナーがあります。

このサイト登録で、Kさんのホームページを
登録します。

こうすれば、インフォシークで、たとえば「K」を
検索すると、KさんのHP(ホームページ)に、ヒット
できるようになります。

ヤフーで登録するとよいのですが、審査基準が
きびしいので、なかなか登録してくれません。

同じようにして、BIGLOBE、GOOGLEなども
登録します。

お金を出せば(1〜2万円程度)、すべての検索エンジン会社に
代理登録してくれる会社もあります。

つぎはBIGLOBE社のサイト登録コーナーです。

http://search.biglobe.ne.jp/

この一番下にも、「サイト登録コーナー」があります。

ここでKさんのサイトを登録します。

このとき、つぎのようなコツがあります。

登録するとき、検索キーワードを入力するところがあります。

そこへは、「神奈川県 H市 K 花作りなどなど」
相手が検索しそうなキーワードを、できるだけたくさん入力
しておきます。

こうすると、たとえばだれかが、「神奈川県 K」などと
キーワード検索すると、Kさんのホームページがヒットできるように
なります。

グーグルは、一番人気のある検索エンジンです。

http://www.google.co.jp/intl/ja/about.html

ここをクリックすると、右の上から三番目に、やはり
サイト登録があります。

ここで登録します。

有料で代理登録してくれるところもありますが、
インチキ臭いのも多いので、慎重になさってください。

(というのも、こうして
自分でやればタダですが、そういうのでお金を
とるわけです。ご注意!)

こうして検索エンジンに、自分のサイトを登録していきます。
こうすると、より広く、KさんのHPが、紹介されることになります。

これをHPデビューといいます。つまりHPをいよいよ世間に
公開するということです。

なお、ヤフーのサイト登録はここです(↓)

http://add.yahoo.co.jp/docs/include.html

しかしヤフーは、ここにも書いたように、
審査基準がたいへんきびしく、
まず登録してくれないものと思ってください。
大企業とか、各種研究機関とか、そういうところで
ないと無理なようです。

しかし、やってみる価値はあります。

こうしてこまめに、自分のサイトを、あちこちの
検索エンジン会社に登録していきます。

ここに紹介したのは、日本を代表する会社ばかりですので
安心して登録してください。

以上が、検索エンジン会社への登録です。
なおインフォシーク社は、有料(1万円前後)で、代理登録
してくれるサービスもしています。

一度、検討してみられたら、どうでしょうか。

今日は、これで失礼します。

++++++++++++++++++++

【マガジン読者のみなさんへ】

 実のところ、私は、自分のホームページを広く公開していることについて、心のどこか
で迷っている。

 この世界では、原稿の盗用は日常茶飯事。それにすべてが、無料、無料、すべて無料。
中には、心ない読者もいる。悪意をもった読者もいる。無料なのはよいのだが、そういう
読者をどうするかという問題がある。

 そんなわけで、多くの人に読んでもらえるのはうれしいが、しかし、このところ、「それ
ではまずいのでは……」と思い始めている。

 そこで、この5月の中旬から、ホームページの一部を、非公開にすることにした。が、
ご心配なく。マガジン読者の方は、これからも私のホームページを今までどおり、読んで
もらえるようにした。

 今までのトップページから、(ENTER)→(9・9・5)のパスワードを入れて、先
に進んでほしい。会員専用のトップページが現れる。もし何度も私のサイトへきてもらえ
るようなら、そのページを「お気に入り」に登録してほしい。
(040426)



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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Planned & edited, and all copyrights are reserved by Hiroshi Hayashi
          ***@****
                     
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================





.  mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  //            3−3
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年5月 24日(No.413)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)

http://bwhayashi.cool.ne.jp/page048.html

(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)
★★★「はやし浩司のホームページ」の、パスワード(ナンバー)は、9・9・5★★★
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
(1)子育てポイント**************************

●心が壊れる子ども(無関心、無表情は要注意) 

+++++++++++++++

子どもの心が、こわれている!

問題は、どうしてそれを防ぐか。
それについて考えてみた。

+++++++++++++++

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。

「一年生のT君が、ヘビをつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君
が、生きているバッタをつかまえてきて、ヘビにエサとして与えた。私はそれを見て、
ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にも
こんな経験がある。

もう二〇年近くも前のことだが、一人の園児(年長男児)の上着のポケットを見ると、
きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、よく見ると、そ
れは虫の頭だった。

その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチをかませる。かんだところで、
体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。
小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカ
ゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子ども
はトカゲを足で踏んで、殺してしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情
不足)、過干渉(何でも親が決めてしまう)、過関心(息が抜けない)など。

威圧的(ガミガミ)な家庭環境や、権威主義的(問答無用の押しつけ)な子育てが、原
因となることもある。要するに、子どもの側から見て、「精神的に不安定な家庭環境」が、
その背景にあるとみる。不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子ど
もの心を破壊する。言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、
ほっとするような温もりのある子どもになる。心もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、ヘビに驚いたのではない。ヘビを飼っていることに驚いたのでも
ない。A先生は、生きているバッタをエサにしたことに驚いた。A先生はこう言った。「そ
ういう残酷なことが、平気でできるということが信じられません」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)、無感
動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)。情意(喜怒哀楽の情)の動きも平坦になる。

よく誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」
があるからではない。非行に対して、抵抗力がないからである。悪友に誘われたりする
と、そのままスーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それに
ブレーキをかけることができない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみ
てほしい。

子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲーム
や、銃や戦争。さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育
のあり方をかなり反省したらよい。

子どものばあい、「好きな絵を描いてごらん」と言って紙と鉛筆を渡すと、心の中が読め
る。心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵を描く。ただし、
小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへんむずかしい。子どもの
心をつくるのは、四、五歳くらいまでが勝負だ。

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●疑わしきは、罰する【第2回目、前号につづく】(高層住宅は危険?)

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高層住宅は、本当に安全なのか?
それについて考えてみた。

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 前回、『疑わしきは、罰する』で、高層住宅について書いた。私はこの中で、東海大学医
学部地域保健学教室の逢坂文夫氏の研究論文を引用した。そして「妊婦の流産率は、一〇
階以上では、三九%(一〜五階では五〜七%)」などと書いた。

このコラムは大きな反響を呼んだ。「事実か?」という問い合わせも、いくつかあった。
が、前々回のコラムを発表するにあたって、情報の一部を入手したあと、私は逢坂氏、
北村両氏に直接手紙を書いて、内容を確認している。

両氏は、わざわざ論文(「保健の科学」94−36別刷)を送り届けてくれた。その上で、前々
回のコラムを発表した。一人、「いいかげんなことを書いてもらっては困る」と言ってき
た読者もいるが、私は決していいかげんなことを書いていない!

 高層住宅が危険な住宅であるという資料は、山のようにある。

たとえば平均死亡年齢についても、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造
住宅の住人の平均死亡年齢は六六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている
(島根大学中尾哲也氏・「日本木材学会」平成七年報告書)。

さらにコンクリート住宅そのものがもつ問題点を指摘する研究者もいる。マウスの実験
だが、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二〇日後の生存率は、八五・一%。
しかしコンクリート製ゲージのばあいは、たったの六・九%(静岡大学農学部水野秀夫氏
ほか)。

ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生殖器がより軽い、成長が遅いなどと
いうことも指摘されている。さらに高層住宅にいる幼児は、体温が三六度以下の子ども
が多いなど。

こうした事実があるにもかかわらず、国は誰に遠慮しているのか、まったく対策をとろ
うとしない。「環境」ということを考えても、高層住宅は、決して好ましい建築物とは言
えない。オーストラリアのメルボルンでは、すでに三〇年も前に、大きな社会問題にな
っていた。

 私は『疑わしきは、罰する』と言っているのである。そしてそれが子どもたちの世界を
守る、一つの方法だと言っているのである。こんな話も紹介しよう。

私は二八歳のとき、国際産婦人科学会の通訳として、南米のアルゼンチンへ行ったこと
がある。そこでのこと。ある夜、日本を代表する産婦人科のドクターがこんなことを話
してくれた。

「新生児の奇形がふえている。原因はタバコだ。しかし証明できない」(京都大N教授)
と。動物実験では確認できても、人間では人体実験することができない。だから最後の
一歩のところで、確証がとれない、と。

当時、日本では、上も下も、「タバコ無害キャンペーン」を展開していた。全国の主要な
駅前では、専売公社の職員たちがパネルを並べて、「タバコには害はありません」と叫ん
でいた。今から思うと、何と、おぞましいキャンペーンであったことか! 

 ここから先は、参考にする、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。そ
れでも見晴らしがよい高層階のほうがよいと思えば、それはそれで、その人の勝手だ。私
がとやかく言う問題ではない。ただ一言。

私が書いたことが気に入らないからといって、私を個人攻撃をしても、意味はない。い
くら私の口にフタをしようとしても、それはできない。ただこういうことは言える。あ
なたや子どもの健康を守るのは、あなた自身であって、国ではないということ。こうい
う問題では、国は、まったくあてにならない。


(2)今日の特集  **************************

●高層住宅と子どもの心

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高層住宅について、もう少し。専門的な
立場で考えてみた。

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●すさまじい反響

X月X日、中日新聞の「子どもの世界」で、「疑わしきは罰する」を書いた。その中で、
私は東海大学地域保健学の逢坂文夫氏の論文を引用して、「妊婦の流産率は、六階以上で
は二四%。一〇階以上では、三九%(一〜五階では、五〜七%)。流、死産率は、六階以
上では、二一%(全体では八%)」などと書いた。

わかりやすく言うと、高層住宅の六階以上に住む妊婦のうち、四人に一人が流産し、五
人に一人が流、死産しているということになる。さらに一〇階以上では、約二人に一人が、
流産していることになる。驚くべき調査結果といってよい。

これについて、それまで経験したことがないほど、読者からすさまじい反響があった。
「事実か?」という問い合わせが多かったが、中には「いいかげんなことを書いてもら
っては困る」というのもあった。私の記事が、かえって高層住宅、日本でいう高層マン
ションに住む人たちの不安をかきたてるというのだ。

●原稿を書いた経緯

 そこで今回、「疑わしきは罰する」を書くに至った、経緯をここに説明する。

まず高層住宅のもつ危険性については、すでに三〇年以上も前から、欧米では広く議論
されていることである。私がメルボルンにいたときすでに、メルボルンでは高層住宅が
問題になっていた。これはあいまいな記憶によるものだが、高層住宅の住人ほど自殺者
が多いというのもあった。

一方、この日本でも散発的にではあるが、そのつど指摘されている。そこで私はインタ
ーネットを使って、「高層住宅→心理的影響」という名目で検索してみた。結果、無数の
情報を手に入れることができた。その中でも特に目を引いたのは、A社の情報コーナー
であった。

しかしこのA社は、どこか宗教団体的な雰囲気がしたので、私はその中に出ている「事
実」と「出典先」だけを取りだし、独自の立場で調べた。結果、今回、その原稿を書く
にあたって、次の四人の研究者、教授、元教授と連絡を直接とることに成功した。連絡
は手紙によるものであり、うち三人(北村、逢坂、中尾氏)は直接、手紙で返事をくれ
た。それには元となる論文も同封されていた。一人(水野氏)は、電話で連絡をとった。

 国立精神神経センター、北村俊則氏
 東海大学医学部地域保健学、逢坂文夫氏
 鳥取大学総合理工学部教授、中尾哲也
 静岡大学名誉教授、水野秀夫氏の四氏である。

 私はこの「子どもの世界」を書くにあたって、実名を使うときは、その人物と事前に連
絡をとり、実名の使用について許可を得るようにしている。そして許可を得たときだけ、
実名を使い、そうでないときは、必要に応じて、アルファベットによるイニシャルを使う
ようにしている。こうした研究者から論文を直接手に入れた後、数値を自分で確認し、な
おかつ、私の元原稿のコピーをこれらの研究者に送った。そのあと、「疑わしきは罰する」
を新聞紙上で発表した。

●危険な高層住宅?

 逢坂文夫氏は、横浜市の三保健所管内における四か月健診を受けた母親(第一子のみを
出生した母親)、1615人(回収率、54%)について調査した。結果は次のようなもの
であったという。

 流産割合(全体) …… 7.7%
     一戸建て …… 8.2%
     集合住宅(1〜2階) …… 6.9%
     集合住宅(3〜5階) …… 5.6%
     集合住宅(6〜9階) ……18.8% 
     集合住宅(10階以上)……38.9%

 これらの調査結果でわかることは、集合住宅といっても、1〜5階では、一戸建てに住
む妊婦よりも、流産率は低いことがわかる。しかし6階以上になると、流産率は極端に高
くなる。また帝王切開術を必要とするような異常分娩についても、ほぼ同じような結果が
出ている。

一戸建て、14.9%に対して、六階以上では、27%など。これについて、逢坂氏は
次のようにコメントしている。

「(高層階に住む妊婦ほど)妊婦の運動不足に伴い、出生体重値の増加がみられ、その結
果が異常分娩に関与するものと推察される」と。

ただし「流産」といっても、その内容はさまざまであり、また高層住宅の住人といって
も、居住年数、妊娠経験(初産か否か)、居住空間の広さなど、その居住形態はさまざま
である。その居住形態によっても、影響は違う。逢坂氏はこの点についても、詳細な調
査を行っているが、ここでは割愛する。興味のある方は、「保健の科学」第36巻199
4別冊781頁以下をご覧になってほしい。

●子どもの心理との関連性

 「子どもの世界」の中で、私は、「母親ですらこれだけの影響を受けるのだから、いわん
や子どもをや」と書いた。もちろん集合住宅であることから子どもが直接影響を受けるこ
とも考えられるが、母親が影響を受け、その副次的影響として、子どもが影響を受けるこ
とも考えられる。

どちらにせよ、あくまでも「考えられる」という範囲で、私は「疑わしきは罰する」と
書いた。逢坂氏の論文で、私が着目したのはこの点である。逢坂氏は、流、死産の原因
の一つとして、「母親の神経症的傾向割合」をあげ、それについても調査している。

 神経症的傾向割合 全体     …… 7.5%
     一戸建て        …… 5.3%
     集合住宅(1〜2階) …… 10.2%
     集合住宅(3〜5階) ……  8.8%
     集合住宅(6階以上) …… 13.2%

 この結果から、神経症による症状が、高層住宅の6階以上では、一戸建て住宅に住む母
親より、約2.6倍。平均より約2倍多いことがわかる。この事実を補足する調査結果と
して、逢坂氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。
たとえば一戸建て女性の喫煙率、9.0%。集合住宅の1〜2階、11.4%。3〜5階、
10.9%。6階以上、17.6%。

 つまりこれらの調査結果を総合すると、高層住宅の高層階(特に6階以上)に住む母親
は、より神経症による症状を訴え、その症状をまぎらわすため、より喫煙に頼る傾向が強
いということになる。母親ですらそうなのだから、「いわんや子どもをや」ということにな
る。

●好ましい木造住宅?

 住環境と人間の心理の関係については、多くの研究者が、その調査結果を発表している。
コンクリート住宅と木造住宅について、静岡大学の水野名誉教授は、マウスを使って興味
深い実験をしている。

水野氏の調査によれば、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二〇日の生
存率は、85.1%。しかしコンクリートゲージで育てたばあいは、たったの6.9%
ということだそうだ。水野氏は、気温条件など、さまざまな環境下で実験を繰り返した
ということだが、「あいにくとその論文は手元にはない」とのことだった。

 ただこの調査結果をもって、コンクリート住宅が、人間の住環境としてふさわしくない
とは断言できない。マウスと人間とでは、生活習慣そのものが違う。電話で私が、「マウス
はものをかじるという習性があるが、ものをかじれないという強度のストレスが、生存率
に影響しているのではないか」と言うと、水野氏は、「それについては知らない」と言った。

また私の原稿について、水野氏は、「私はコンクリート住宅と木造住宅の住環境について
は調査はしたが、だからといって高層住宅が危険だとまでは言っていない」と言った。
水野氏の言うとおりである。

●中尾哲也氏の研究から

 住環境について、鳥取大学の中尾哲也教授は詳しい調査をしている。(ここでは割愛する。)
 

(3)心を考える  **************************

●生きることを考える

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食べなければ、損なのか?
食べたら、損なのか?
食べ放題の店で、料理を食べながら、
私は、そんなことを考えた。

しかしこの問題は、「生きる」ことにも
関連している。

残り少ない人生を、どう生きるか。
私はそんなことまで考えた。

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●貪欲さ

 今日(4・21)、東名高速道路のインター近くにできた、「ED」というレストランへ
行った。食べ放題の店である。平日のランチは、999円(税込み)!

 大きな店で、座席数は、数百はある。私とワイフは、店員さんに案内されて、奥のほう
の禁煙席についた。そして、内心で「食べるぞ!」と思いながら、料理の並ぶカウンター
に向った。

 料理は、寿司、焼肉のほか、中華料理、サラダ、ケーキなど。スパゲッティも、ラーメ
ンも、カレーライスもある。それにイカ、ホタテなどの海鮮料理。どれも食べ放題。料理
の前に立ったとたん、私は、「安い!」と、感じた。「料金が安い」という意味である。

 私は、寿司を、5〜6個。それにサラダと、小さなケーキを選んだ。ふだんの昼食なら、
この程度で、満腹になる。回転寿司屋の寿司を食べることもあるが、たいてい5皿で、腹
はいっぱいになる。

 先にテーブルについて待っていると、ワイフも、同じようなものを選んでもってきた。

私「999円なんて、安いね」
ワイフ「ホント。そんな値段でやっていかれるのかしら」
私「ぼくたちは量が少ないけど、高校生たちがやってきたら、赤字だよ」
ワイフ「そうねえ……。高校生は、たくさん食べるからね」と。

 土日でも、1450円という。ふつう食べ放題の店というのは、料理の質は、あまりよ
くない。しかしそのEDという店は、そうでない。私たちは食べなかったが、肉も、ちゃ
んとした肉を使っている。

 私が、「20年前のぼくだったら、むしゃむしゃと、肉を食べただろうね」と言うと、ワ
イフも、「あのころのあなたは、たくさん食べたからね」と。

 が、こうした食べ放題の店に入ると、心のどこかに、「たくさん食べなければ損」という、
いやしい根性が生まれる。しかし考えてみれば、これはおかしな根性だ。

 「たくさん食べなければ損」というのは、金銭上の問題である。しかし健康上の問題を
考えるなら、ほどほどのところで、やめたほうがよい。たくさん食べたところで、よいこ
とは何もない。コレステロール値があがるだけ。病気になるだけ。

 しかし人間というのは、おかしなものだ。ふつうなら、つまりふだんの昼食なら、ある
程度のところでやめるのだが、やはり、「もっと食べておこう」という心理が、どうしても
働いてしまう。「まだ、999円分も食べていないぞ」とか、そんなふうに考えてしまう。

 そこで私は席を立って、今度は、サラダをどっさりともってきた。「サラダなら、太らな
いから……」と。多分、ワイフも同じように思ったらしい。私が席にもどると、自分でも、
何かを取りに行った。

 いろいろなことを考えた。

 「世界には、食べるものがなくて困っている国もあるのに……」とか、「この飽食は何
か!」とか。

 そんなとき、一人、丸々と太った女性が、目についた。私のななめうしろの席に、すわ
っていた。あごと胸がそのままつながり、腹に、大きな袋をぶらさげているような感じの
女性だった。年齢は、30歳くらいだった。黒いTシャツを着ていたが、そのTシャツが
今にもはじけて、破れそうな感じがした。

 その女性は、わき目もふらず、いや、ときどき、チラチラと周囲の人たちに視線をなげ
かけながら、まさに一心不乱に食べつづけていた。

 ものすごい食欲である。「食欲」というよりは、胃の中に、食べ物を押しこんでいるとい
ったふう。かきこんでいるといったふう。私が見ていたとき、ちょうどショートケーキ、
3、4個を食べていたが、一個を丸ごと口に入れ、パクパクとそのままのみこんでいた。

 再び、私は、同じことを考えた。「食べなければ損なのか。それとも食べれば損なのか」
と。

 食べ物は、モノとはちがう。いくら安いからといっても、たくさん食べれば、体をこわ
す。しかしその女性は、明かに、「食べなければ損」と考えている様子だった。

 一度、ワイフに、「あの女性を見ろ」と、目で合図を送った。同時に、あきれた表情をし
てみせた。ワイフも、同じように感じたらしい。フーッとため息をついたあと、視線を下
に落した。

●おしん

 人は生きるために、食べる。それはわかる。そして食べるために、働く。それもわかる。
が、ここで大きな問題にぶつかる。

 生きるために働く人間が、いつの間にか、働くために生きるようになる。一つの例をあ
げて、考えてみよう。

 今から20年ほど前、NHKの朝の連続ドラマに、『おしん』という番組があった。たい
へんな人気で、ほぼ日本中の人たちが、その番組を見た。決して、大げさな言い方ではな
い。まさに国民的番組と言ってよいほどの番組だった。

(おしん……1983〜4年にかけて、NHKの朝の連続ドラマとして、放映された。平
均視聴率は、52・6%。最高視聴率は、62・9%。テレビ視聴率調べサイト調査)

 そのおしんは、最初、生きるために働く。懸命に働く。が、いつしか、そのまま今度は、
働くために生きるようになる。自分の店をどんどん大きくする。あちこちに支店を出す。
さらに商売を大きく、広げる。

 そのおしんは、5年ほど前に倒産した、Yジャパンの社長の、W氏の母親のKさんが、
モデルだったという。

 もしおしんが、生きるために働くのであれば、ああまで商売を広げる必要はなかった。
一度、近所の商店主たちが、おしんの店に抗議に押し寄せるシーンがあった。大量仕入れ
による、安売り攻勢。おしんの店の周辺の商店は、つぎつぎとつぶれていった。ドラマ『お
しん』は、貧しい女性の物語から、いつしかサクセス・ストリーへと変貌していった。

 私が、当時、その番組を見ていて、不思議に思ったのは、その番組のことではない。私
の実家も、近くに大型のショッピングセンターができてからというもの、斜陽の一途。い
つ店を閉めてもおかしくないという状態に追いこまれた。

 しかし、である。私の母も、『おしん』の大ファン。その時刻になると、テレビの前にす
わって、おしんの活躍ぶりに、一喜一憂していた。ときに、涙までこぼしていた。で、あ
る日、私は母にこう言ったのを覚えている。

 「どうしてあんな、おしんを応援するのか? うちも、ああいう人の食いものになって、
苦労しているんだろ?」と。すると母は、こう言った。「あのショッピングセンターと、お
しんは、関係ない」と。

 こうしたオメデタサは、日本人独得のものと言ってもよい。長くつづいた封建時代、そ
してそれにつづく官僚政治の中で、骨のズイまで、魂を抜かれている。自分の置かれた世
界を、上から客観的に見ることができない。心のどこかで「おかしい」と思っても、自ら、
それを否定してしまう。そして別の心で、「あわよくば、自分も……」と思ってしまう。

 話をもどすが、おしんは、あるときまでは、生きるために働いた。しかしそのあるとき、
自分にブレーキをかけなかった。かけないまま、さらにその先まで、突っ走ってしまった。
つまり、貪欲(どんよく)になった。

●貪欲(どんよく)

 食べ放題のレストランで見たあの女性と、『おしん』の中のおしんは、よく似ている。

 生きるために食べる。それが原点であるにもかかわらず、食べなければ損とばかり、食
べ物を口の中にかきこむ女性。

生きるために働く。それが原点であるにもかかわらず、稼がなければ損とばかり、どん
どんと稼ぎつづけるおしん。

 共通点は、その貪欲さである。が、この問題は、そのまま私自身の問題といってもよい。
「私は貪欲でないか?」と問われたとき、自信をもって、「ノー」と言うことは、私にはで
きない。現に、そのレストランでは、いつもの二倍程度の量の食事を食べてしまった。

 さらに、私は今、ただわけもわからず、こうして毎日、原稿を書きつづけている。「懸命
に生きている」といえば、まだ聞こえはよいが、その中身といえば、「貪欲さ」そのものと
いってもよい。それに今、こうしておしんを批判したが、もし私にも、そういうチャンス
があれば、おしんと同じことをしていたかもしれない。お金は、嫌いではない。

 となると、人間の貪欲さとは何か? それがよいことなのか、悪いことなのかという判
断はさておき、そもそも貪欲さとは、何なのか?

 つづきを書く前に、ヤオハンジャパンのW氏について、数年前、こんな原稿を書いたこ
とがある。それをそのまま掲載する。内容は、一部ダブルが、許してほしい。

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「おしん」と「マトリックス」

●私の実家は閉店状態に……

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身
を起こし、全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語であ
る。

九七年に約二〇〇〇億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の
母親のカツさんがモデルだとされている。それはともかくも、一時期、日本中が「おし
ん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、おめでたいというか、その一人だった。ちょ
うどそのころ、私の実家の近くに系列の大型スーパーができ、私の実家は小さな自転車
屋だったが、そのためその影響をモロに受けた。はっきり言えば、閉店状態に追い込ま
れた。

●生きるために働くが原点

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、
「働く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になっ
てしまった。それはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。

生きることが本来、母体(マトリックス)であるはずなのに、働くという仮想現実の世
界のほうを、母体だと錯覚してしまう。一つの例が単身赴任という制度だ。

もう三〇年も前のことだが、メルボルン大学の法学院で当時の副学部長だったブレナン
教授が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期出張)という制度があるそうだが、
法的規制は何もないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生まで
もが、「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と騒いだ。教育の世界とて例外ではない。

●たまごっちというゲーム

あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の
生き物(?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。私が「何も死んで
いないのだよ」と説明しても、このタイプの子どもにはわからない。

一度私がそのゲームを貸してもらい、操作を誤ってそのたまごっちを殺して(?)しま
ったことがある。そのときもそうだ。そのときも子ども(小三女児)も、「先生が殺した!」
とやはり泣き出してしまった。いや、子どもだけではない。

当時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているので
はない。マジメだ。本気だ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養している女
性(二〇歳くらい)もいた(NHK「電脳の果て」九七年一二月二八日放送)。

●たかがゲームと言えるか?

常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人
もいる。しかし本当にそうか? その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」と
がんばったカルト教団が現れた。

この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電
子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む
信者は、どこが違うのか。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるい
はどこが違うというのか。仮想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始め
る。

●仮想現実の世界

さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きて
いる人はいくらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や
名誉、肩書きを得たとしても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということ
は、もっと別のこと。生きる価値というのは、もっと別のことである。

地位や名誉、肩書きはあとからついてくるもの。ついてこなくてもかまわない。そうい
うものをまっ先に求めたら、その人は見苦しくなる。

●そんな必要があったのか

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要は
なかった。その息子のW氏にしても、全盛期には世界一六カ国、グループで年商五〇〇
〇億円もの売り上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さん
の管轄だから自転車は売らない」などと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。
仮にその町内で自転車が売れたりすると、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。
相手の自転車屋に気をつかったためである。

しかしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方
は、まさにめちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まる
でブルドーザーで地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。

●私の父は負け組み?

晩年の父は二、三日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実
の世界の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準
で人を判断することのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性というこ
とを考えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だったが、W氏にまさること
はあっても、劣ることは何もない。

おしんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼の
ように富と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるよう
になった。

●進学塾の商魂

 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功
者というのは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。

これも一つの例だが、二〇〇二年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生
した。公立の学校である。その説明会には、定員の約六〇倍もの親や子どもが集まった。
そして入学試験は約六倍という狭き門になった。親たちのフィーバーぶりは、ふつうで
はなかった。ヒステリー状態になる親も続出した。

で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、そ
のための特別講座の説明会を開いた(二〇〇二年二月)。入試が終わってから一か月もた
っていなかった。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。

私も進学塾の世界はかいま見ているから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみ
でそうした講座を開くようになったかがよくわかる。わかるが、そのS進学塾のしてい
ることはもう「生きるために働く」というレベルを超えている。あるいはそうまでして、
彼らはお金がほしいのだろうか。

現代でいうところの成功者というのは、そういうことが平気でできる人のことを言うも
だろうが、そうだとするなら「成功」とは何かということになってしまう。あの「おし
ん」の中でも、おしんの店の安売り攻勢にネをあげた周囲の商店街の人たちが、抗議に
押しかけるというシーンがあった。

●自分を見失う人たち

 お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというの
か。生きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。
自分を見失う。

日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。しかしそのW氏のサ
クセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたことか。私の父も
その一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の関係者
は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

●仮想現実の世界にハマる人たち

 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある
政治家が土建業者から一〇〇〇万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈
った業者は、その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈っ
たに過ぎない。しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふ
さわしい人間だから贈ってもらったと思う。

政治家だけではない。こうした例は身近にもある。たとえばA氏が取り引き先の会社の
B氏を接待したとする。A氏が接待するのは、B氏という人に対してではなく、B氏の
会社に対してである。が、B氏にはそれがわからない。B氏自身も仮想現実の世界に住
んでいるから、その世界での評価イコール、自分の評価と錯覚する。

しかし仮想現実は仮想現実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろう
か。たぶんA氏はB氏など相手にしないだろう。こうした例は私たちの身の回りにはい
くらでもある。

●子育ての世界も同じ

 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育
ての本分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。

子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を育てる前に、受験だの進学だの、有名高
校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわっている。ある母親はこう言った。「そ
うは言っても現実ですから……」と。つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるか
ら、人間性の教育などと言っているヒマはない、と。

しかしそれこそまさに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そ
ちらのほうを「現実」と錯覚してしまう。が、それだけならまだしも、そういう仮想現
実の世界にハマることによって、大切なものを大切でないと思い込み、大切でないもの
を大切と思い込んでしまう。そして結果として、親子関係を破壊し、子どもの人間性ま
で破壊してしまう。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

●人間的な感動の消えた世界

 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたと
きのこと。私が中学一年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自
転車という意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語
を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。

が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語のテストを持ち帰ったりすると、親
はこう言う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? クラスで何番くらいだった
の? これではA高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い月謝を払って、英
語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親すらいる。

こういう親の教育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼
関係、さらには親のきずなまでこなごなに破壊する。

 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会が
あり、そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための
武器として子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」
になってしまっている。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入
れ替わってしまっている!

●休息を求めて疲れる

 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも
未来のために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中
学校や高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。

こうした生き方、つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の
人生をムダにすることになる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』とい
うのがある。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろ
うとがんばっているうちに、疲れてしまう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生
も終わっていた」と。

●あなた自身はどうか 

 こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生き
ざまを知ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。

 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。

あなたが今、二週間という休暇を与えられたとする。そのとき、(1)休暇は休暇として。
そのときを楽しむことができる。(2)休みが数日もつづくと、かえって落ち着かなくな
る。休暇中も、休暇が終わってからの仕事のことばかり考える。

あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちのどちらだろうか。あなたの子ども
の学校が、三日間、休みになったとする。そのとき、(1)子どもは子どもで、休みは思
う存分、遊べばよい。(2)子どもが休みに休むのは、その休みが終わったあと、またし
っかり勉強するためだ。

(1)のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、
その本質は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために
犠牲にする。だから未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえ
て生きることができない。

●日本人の結果主義

 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。た
とえば仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。

実際に、「死に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。この結果
主義もつきつめれば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といってもよい。日
本人が仏教を取り入れたときから、日本人は「今」を生きることを放棄したと考えても
おかしくない。

●なぜ今、しないのか?

 こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてその
パターンに入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。
脳のCPU(中央演算装置)が狂っているからである。

たとえば私の知人にこんな人がいる。何でもその人はもうすぐ定年退職を迎えるという
のだが、その人の夢は、ひとりで、四国八八か所を巡礼して回ることだそうだ。私はそ
の話を女房から聞いたとき、即座にこう思った。「ならば、なぜ、今しないのか」と。

●「未来」のために「今」を犠牲にする

 その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるい
はその人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性の
ほうが大きい。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こ
う」とか、「旅行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。
抑圧された緊張感の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。

 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」と
いう感覚すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠
牲になって当然と考える。

●今を生きる

 こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアム
ズ主演の映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指
導中心の学校教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。
あるのは、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた
思い出に過ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。

だったら大切なことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの
「時」を生きることではないのか。未来などというものは、あくまでもその結果として
やってくる。

●再起をかけるW氏

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。
これまたおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついてい
る。

ふつうの人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。いや、
実際にはそれに気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生きてい
る人はいくらでもいる。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこう言っ
た。

「君は幼稚園の教師をしているというが、どうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕
事につけなかったのだろう」と。

彼は退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクで
ない仕事もない。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によっ
て、人を判断する。稼いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。

●リチャード・マクドナルド

マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、
リチャード・マクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、一九五五年に
レストランの権利を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡してい
る。(リチャード・マクドナルド氏は、九八年の七月に満八九歳で他界。)

そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利を)売り渡して損をしたと思いませ
んか」と聞いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えている。

 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオ
フィスで、弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農
業を営みながら)、のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナル
ド氏は生きる本分を忘れなかった人ということになる。

●残る職業による身分制度

私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、
あんたは道をまちがえたア!」と言って、泣き崩れてしまった。

当時の世相からすれば、母が言ったことは、きわめて常識的な意見だった。しかし私は
道をまちがえたわけではない。私は自分のしたいこと、自分の本分とすることをした。

一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」というだけで、何でもかんでも
ありがたがる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下する一方、そういう人間を
必要以上にあがめる。

今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高校、中学の教師と続き、小学校の教師は最
下位。さらに幼稚園の教師は番外、と。こうした派序列は、何かの会議に出てみるとわ
かる。

一度、ある出版社の主宰する座談会に出たことがあるが、担当者の態度が、私と私の横
に座った教授とでは、まるで違ったのには驚いた。私に向っては、なれなれしく「林さ
ん……」と言いながら、振り向いたその顔で、教授にはペコペコする。こうした風潮は、
出版界や報道関係では、とくに強い。

●マスコミの世界

実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・二
〇〇五)の懇談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが…
…?」と、思わず口をすべらせた新聞社の記者(四〇歳くらい)がいた。

私には、「どうしてあんたなんかが……」と聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮
想現実の世界に住んでいる。人間を見るという視点そのものがない。私のような地位や
肩書きのない人間を、いつもそういう目で見ている。自分も自分の世界をそういう目で
しか見ていない。だからそう言った。が、このタイプの人たちは、まさに働くために生
きているようなもの。そういう形で自分の人生をムダにしながら、ムダにしているとさ
え気づかない。

●人間を見る教育を

 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には
関東地域の中高一貫校、約六〇校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒
業後の進学大学校名を明記している。

中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあるが、それが実に偽善ぽい。それら
の案内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何かのようですらある。
子どもを育てるというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界に押し込め
ようとしているような印象すら受ける。

●仮想現実の世界に気づく

 ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一
度自分のまわりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節
介かもしれないが、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言
うなら、子どもたちのためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話
がある。

 先日、六〇歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉
の夫の友人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけ
が人生のような人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。

+++++++++++++++++++

●再び、貪欲(どんよく)

 ここにも書いたように、私だって、お金は嫌いではない。あれば、あるほど、よい。お
金がなければ、幸福にはなれない。そういう現実を、いやというほど思い知らされている。

 しかしあまりあるお金が、その人を幸福にするかといえば、それはない。くりかえすと、
『お金がなければ、人は不幸になる。しかしお金があっても、幸福になれるとは、かぎら
ない』ということになる。

 そのお金と、食事を、ここで並べて考えてみた。

 食べるものがなければ、人は、死ぬ。しかしたくさん食べれば、長生きできるというこ
とはない。かえって病気になる。早く死ぬ。おいしいものを食べれば、それなりに楽しい。
一つ口に入れながら、別の心で、「もう一つ、食べたい」と思う。そういうことは、よくあ
る。

 性欲もそうだ。私だって、いつも、いろいろな女性とのセックスを、夢想する。「教育に
たずさわっている者だから、そういうことは考えないはず」と思ってもらっては困る。教
師は、決して、聖人ではない。そのため教職は、決して、聖職ではない。

 今まで、無数の教師をみてきたが、これは確たる結論である。

 が、こうした欲望というのは、溺れてよいことは、何もない。むさぼることによって、
自分を見失ってしまう。が、どこからどこまでが、「適切な世界」で、その先が、「貪欲の
世界」なのかということになると、その判断がむずかしい。

 たとえその限界がわかったとしても、今度は、自分にブレーキをかけなければならない。
それもまたむずかしい。おいしいものを見れば、つい食べたくなる。その上、いくら食べ
ても、値段は同じということになれば、なおさらだ。

 お金だってそうだ。あればあるほど、よい生活ができる。大きな車に乗って、大きな家
に住むことができる。それこそ人間の欲望には、際限がない。

 が、やはり、どこかで自分にブレーキをかける。かけながら、ほどほどのところで、納
得し、あきらめる。そして自分なりの、充足感というか、幸福感を求める。

 それについても、以前、こんな原稿を書いた。これは私の持論の一つである、「家族主義」
について書いたもの。少しここでのテーマからは、脱線するが、許してほしい。

私は「私たちが求める究極の幸福というのは、そんなに遠くにあるのではない。私たち
の身のまわりで、私たちに見つけてもらうのを、静かに待っている」ということを訴え
たくて、この原稿を書いた(小生の本『子育てストレスが、子どもをつぶす』で、発表
済み

+++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言う
と、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。

あるいは自分の子どもの学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼み
に行くというケースも多い。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と
考える。

が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの
親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな相談があった。

何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているという
のだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日
本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリ
カでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。

オーストラリアでもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにさ
れてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも
「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割
近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が
担当しているケースは、わずか一%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%
(たったの三%!)前後にとどまった。

その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考え
ていることもわかったという。
内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。

「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リン
ゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。
男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日
新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、
それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐
れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。

言いかえると、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っ
ていない。たいていの日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないで
いる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』とい
うのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向
こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを
知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本にな
っている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの
映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオッ
ト」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パト
リオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。
家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわっ
て、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきている
のではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観
すべきことばかりではない。

九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日
本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%
になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、
日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよ
う」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言
が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育
委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だ
という(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」
という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つま
り日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異
質なものであることに注意してほしい。

+++++++++++++++++++++

●終わりに……

 こうした人間が、「性(さが)」としてもつ貪欲さ。それと戦うためには、いくつかの方
法がある。

 一つは、自分なりの健康論をもつ。自分なりの価値観や幸福観を確立する。健康論はと
もかくも、価値観や幸福観は、こうした貪欲さと戦うための、強力な武器となる。「本当に
大切なものは何か」「どうすれば本当の幸福を自分のものにすることができるか」と。

 それをいつも考えながら、追求していく。その結果として、自分の貪欲さに、ブレーキ
をかけることができる。

……しかし、ここで私は、ハタと、こんなことに気づいた。同じようなテーマを最前面
にかかげて活動している、宗教教団がある。10年ほど前には、いろいろ問題を起こし、
話題になった。名前も、ズバリ『幸福のK』。つまりここから先のことを書くと、私も、
彼らと同じことをすることになる?

 だいたいにおいて、自分でさえ、本当に大切なものが何かわかっていないのに、それを
他人に向って、とやかく言うほうがおかしい。幸福も同じ。

 だからここから先は、私たちそれぞれ、一人ひとりの問題ということになる。私は私で、
自分の欲望と戦う。あなたはあなたで、自分の欲望と戦う。そして私は私で、自分なりの
価値観や幸福観を確立する。あなたはあなたで、自分なりの価値観や幸福観を確立する。
どこまでいっても、これは個人的な問題ということになる。

 で、最後に一言。

 私は、その「ED」という食べ放題の店から出るとき、ワイフに、こう言った。「もう、
この店には、ニ度と来たくないね」と。

 私はその店の中で食事をしている間、ずっと、自分の中に隠れていた醜悪な「私」を、
見せつけられているように感じた。「食べなければ損」と考えて食べる。それはまさに醜悪
な私そのものだった。それにもう一つ。

 あの黒いTシャツの女性だが、とても食事を楽しんでいるようには見えなかった。欲望
に命令されるまま、その人自身の意思というよりは、別の意思によって、動かされている
ように感じた。

 その姿は、まさに、畜舎でエサを一心不乱に食べる、あの家畜そのものだった。だから
私は、ワイフに再びこう言った。

 「値段は安いけど、もうここへは来たくないね。一度で、こりごり」と。ワイフも、同
じような印象をもったらしい。どこか暗い表情をしながら、「私も、いやだわ」と。

 料金は安ければ安いほどよい。しかし、私も、あと何年生きられるかわからない。平均
寿命で計算すると、あと26年。日数にすると、26x365=9490日。

 その中でも、病気の心配をしなくて、食事をとれる日は、どれだけだろうか。9490
日というが、私には、貴重な9490日だ。「まだ、9490日もある」と考える人もいる
かもしれないが、私には、そうは思えない。

その一日一日を、見苦しい生き方で、ムダにしたくない。食事だって、そうだ。家畜が
エサをむさぼるような食事だけは、もうたくさん。ごめん。したくない。
(040422)


(4)今を考える  **************************

【インターネット・あれこれ】

●パスワードは、「9」「9」「5」

 5月末から、ホームページの一部を、非公開にした。トップページから、パスワード「9」
「9」「5」で、今までのトップページに進んでもらえるようにした。

 こうすることで、今まで遠慮して公表できなかったページも、読者のみなさんに、読ん
でもらえるようになった。

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 の最上段に、「ENTER」コーナーを、新設した。ここをクリックすると、つづいて、
パスワードの入力画面になる。ここで「995」を入力してほしい。興味のある方は、ど
うぞ。


●「9」「9」「5」の意味

 「995」には、特別の意味はない。たいていの人は、自分のパスワードを決めるとき、
生年月日や、電話番号、住所などを、利用するという。しかしこうしたパスワードは、悪
意をもった人の手にかかると、あっという間に解読されてしまう。

 注意したいのは、メールアドレス。メールアドレスの「zzzz@xxx.xx.xx」
の「zzzz」部分。この部分とパスワードの共用、もしくは類似したパスワードを使う
人が多い。

たとえば私が知っている人のメールアドレスは、「akiko610@xxx」。その人
のパスワードは、「akiko610」。これではまるで、パスワードを公開しているよ
うなもの。だから本来なら、メールアドレスも、非公開にしたほうがよい。あるいは、
絶対に、メールアドレスとパスワードを、同じにしてはいけない。

 「995」は、こうして決めた。

 まずパスワードの解読は、だれしも「1」から始める。それで最後の「9」にした。

 つぎにだれしも、2つ目のパスワードは、異なった数字と思う。だからつづけて「9」
にした。

 三つ目は、まん中の「5」にした。「1」と「9」のまん中の数字である。

 以上、勝手な推測と偏見で、「995」にした。このパスワードは、随時、変更していく
つもり。

●実名

 この世界では、だれかのことを書くにしても、その人の実名を記載してはいけない。よ
ほどの公人、もしくは、有名人なら、話は別だが、それ以外の人については、実名を記載
してはいけない。使うとしても、伏せ字にする。とくにその人に対して、批判めいた文章
を残すときは、記載してはいけない。

 私もときどき、K国の金XXのことを、批判して書く。私は政治家でも、政治評論かで
もない。そんな私にでさえ、ハングル文字で書かれた、脅迫文のようなものが届いたこと
がある。注意するに、こしたことはない。

 ホームページやマガジンでは、もちろんのこと、メールのやり取りの中でも、実名は書
かないほうがよい。掲示板や、チャットでも、そうだ。どこでだれが読んでいるかわから
ない。どこへ転送されるかも、わからない。そしてそれが原因で、思わぬトラブルに巻き
こまれることがある。(私は、幸いなことに、まだそういうことは一度もないが……。)

 インターネット上では、実名は、決して書かないと、心に決めておくとよい。


●相手は、相手の心の状態で、文を読む

 インターネットのこわいところは、文の中に、感情を織り込めないこと。たとえばこち
らが軽い気持ちで、「あんたも、バカね」と書いたとする。ほとんど冗談のつもりで書いた
とする。

 しかし相手は、相手の心情で、その文を読む。そしてそのとき、たまたま相手の人の虫
の居所が悪かったりすると、「バカとは何だ!」となる。

 こうした誤解を避けるためにも、相手を批判したり、批評したりするメールは、出さな
いようにする。もしそういうことを言いたいのであれば、電話で話す。直接会って話す。

 そういう意味では、「文」というのは、こわい。何年もかけてつくりあげた人間関係を、
一夜にして破壊するということも、ないわけではない。私も、ずいぶんと前の話だが、こ
んな経験をした。

 その女性は、何度かメールを交換したあと、こんなことを書いてきた。

 「先生も、なかなか言うねエ」と。

 私は、この文を読んで、ハタと考えこんでしまった。「この女性は、私をバカにしている
のか。それとも、親しさの表れとして、そう言っているのか」と。

 で、この文を、さまざまな角度から、読みなおしてみた。

(1)相手の女性が、私の指導者であるとき……たとえば恩師の先生がそう言ったとする。
すると、それほど、気にならない。むしろ、「先生、生意気なことを言ってすみませ
ん」となる。

(2)相手の女性が、私に敵意を抱いているとき……たとえば論争相手など。そういう人
から、「なかなか言うねエ」と言われれば、頭にカチンとくる。「何、生意気言ってるんだ!」
となる。

(3)相手の女性に、好意をもっているとき。相手の女性も、私に好意をもっているのが、
わかっているとき……恋人とか、愛人とかいうのであれば、多分、私は、ハハハと笑って
すますだろう。

(4)相手が、私より「下」と、私が感じているとき……内心では愚かな人だと、私が判
断しているような人から、「なかなか言うねエ」と言われれば、「あんたなんかに、何がわ
かるんだ」と思いつつ、やはり無視する。二度と返事を書かない。

 しかし実際には、その女性は、若い女性だった。だからその女性との間に、ものすごい
距離感を覚えた。まるで幼児に、子育ての真髄(しんずい)を話すような距離感である。
だから、無視した。が、どういうわけか、そのあと、不快感だけが、ペタリと胸に張りつ
いてしまった。

 理由がわからなかった。(今でも、よくわからないが……。)

 結局は、そうした思いというのは、相手の心情がわからないことによる。もし直接会っ
て話をしていれば、そういうことは、なかったかもしれない。その場の雰囲気で、相手の
心情を読むことができる。

 が、「文」では、それができない。つまり今度は、こちらの心情で、その文を読んでしま
う。そしてそこから、無数の妄想が生まれ、それが頭の中を混乱させる。

 で、そのあと何度かまたメールを交換するうち、誤解は解けた。今でも、ときどき、メ
ールを交換している。が、しかしあの段階で、もう少し、その女性を誤解していたら、私
は、怒って、絶交してしまっていたかもしれない。

 そこでこれは、あくまでも、自分自身に対する教訓だが、こう言って聞かせるようにし
ている。

 インターネットでメールを交換するときは、絶対に、相手を批判したり、批評したりす
るような内容は書かない、と。書くとしても、相手のよい面だけをみて、相手をほめるよ
うなことを書く。仮に、批評したり、批判するときでも、きわめて慎重に、かつ、相手に
誤解を与えないように、書く。

 しかしこれはインターネットを楽しむためには、とても重要なことだと思う。


●インターネットは、クールに!

 この世界では、ほんのささいな油断が、大事故につながるということが、よくある。ウ
ィルスである。

 だから「?」なメールは、即、削除。また削除。何も考えず、即、削除。「だれからだろ
う?」「ひょっとしたら?」という、へたな好奇心は、もたないほうがよい。心を鬼にして、
削除する。

 先日も書いたが、最近では、ウィルス入りのメールも巧妙化している。サーバー(プロ
バイダー)からの、連絡を装ってくるのもある。(実は、今朝も届いた。メールを送信して
もいないのに、「あて先不明」のメールが返送されてきた。こういうのは、絶対に、あやし
い!)

 こうしたメールは、即、「送信者禁止処理」にする。つぎからのメールは、着信と同時に、
ゴミ箱送り。こうすれば、失敗(ミス)を防げる。

 ほかにも私は、いろいろ気をつけている。

(1)サーバー(プロバイダー)のウィルス・チェック・サービスを受けている。
(2)パソコンを使い分けている。(メール用、ワープロ用、HP用など)
(3)それぞれのパソコンで、独自にウィルス・チェックをしている。
(4)無線ルーターをつけ、通信を暗号化している。

 重要な保存文書は、そのつど、CDに保存している。最終的には、いつでもリカバリー
ができる態勢を整えている。

 と言っても、メールアドレスもHPも公開しているため、ウィルスの攻撃を、私はよく
受ける。多いときは、一日に、10件近く受けるときがある。しかしこうした防御策のお
かげか、ここ3、4年は、ウィルスの感染を防いでいる。

(3、4年前に、一度、息子が、不注意で、あるメールのプロパティを開いてしまった。
それで感染してしまったことがある。「プロパティを開く程度なら、感染しない」と、息
子は誤解していた。あやしげなメールのプロパティなど、絶対にのぞいてはいけない。)

 さらに最近では、本文をプレビュー画面に表示しただけで、感染するというウィルスも
あるとか……! だから件名(Re:)だけ読んで、あやしげなメールは、やはり即、削
除するのがよい。繰りかえすが、心を鬼にして、そうする。


●マガジン

 私のマガジンについて、「量が多すぎる」という苦情がよく届く。さらに最近では、「む
ずかしすぎる」という苦情も、届くようになった。

 反省! ただただ反省!

 そこでどうしたらよいかを、考える。

 一つの方法としては、それぞれのエッセーの前に、簡単なあらすじをつけるというのが
ある。昔、『リーダーズ・ダイジェスト』という雑誌が、この手法を使っていた。さっそく
だが、しばらく、この方法を応用してみる。

 それに自分でもわかっているが、最近は、実用的な記事が少なくなった。

 こうしたマガジンでは、実用的なものほど、好まれるようだ。たとえば実用的な記事を
たくさん載せると、つづく号で、読者がふえる。しかしそうでないときは、ふえない。そ
れがはっきりと、数字となって、はね返ってくる。

 読者のみなさんも、忙しいのだ。何かの役にたつ記事ならよいが、私のエッセーなど、
お呼びではない。よくわかっている。

 だから次号からは、もっと実用的な内容の記事を多くしたい。本当にいつも、私のマガ
ジンを購読してくださり、ありがとうございます。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.  mQQQm
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.QQ ∩ ∩ QQ
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.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年5月 21日(No.412)
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(1)子育てポイント**************************

●疑わしきは、罰する(ふえる排尿異常)(紫外線対策を早急に)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼
稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。
六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがま
んしてしまう。

反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最
近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもという
のは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布
のオムツは、一度排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という
感覚が、子どもの排尿、排便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌九
八年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮した
ためだ。

根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はい
ない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。わかってはいるが、はっきりと
は言えないというようなことである。その一つが住環境。

子どもには、高層住宅よりも、土のにおいのする一戸建ての家のほうが好ましいことは、
言うまでもない。実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんなデ
ータがある。

たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二四%(一〜五階は六〜七%)、帝王切開など
の異常分娩率は、二七%(一戸建ての居住者は一五%)、妊娠関連うつ病(マタニティブ
ルー)になる女性は、一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター、北村俊則氏)
など。子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境から心理的な影響を受ける。が、
もっと深刻な話もある。

 日本では昔から、真っ黒に日焼けした顔は、健康のシンボルとされてきた。今でも子ど
もの日焼けについて、何らかの対策をこうじている学校は、ほとんどない。無頓着といえ
ば、無頓着。無頓着過ぎる。

オゾン層のオゾンが、一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚がんの発生率
は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。

実際、オーストラリアでは、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死
亡件数が、毎年一〇%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫
外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。
オーストラリアの友人は、こう言った。「何もしていないだって? 日本も早急に、対
策をこうずるべきだ」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%
も減少している(NHK「地球法廷」)。

 そこでどうだろう。私たちの住む地域だけでも、子どもたちに紫外線防止用の帽子とか、
サングラスの着用を試してみたら。害が具体的に出始めてからでは、手遅れ。法律の世界
では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰する」。子
どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●引く文化・押す文化

 日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、
向こう側に払って、机の上に残す。

考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそ
うするようになる。ほかにも日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、
相手のほうに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。

日本では引きながら切る。欧米では押しながら切る。これを称して、日本の文化は「引
く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。たとえば「庭」。日本では、庭
をつくるとき、視点を家の中に置く。

つまり家の中に美しさを、引きこむようにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かっ
て庭をつくる。わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないよ
うなことだが、こうした文化は、教育にも大きな影響を与えている。

 日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大
切にする。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。日本人はデ
ィベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたない。
いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風をたてるよ
りも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。

つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界が
そうだ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。
文部省が「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボラン
ティア活動。いつもすべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるという
ことは、まず、ない。

そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それ
から生まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の
封建時代が残したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。

 ……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放さ
せるか、だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け
継いだ明治、大正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。

歴史は歴史だからそれなりに正当に評価しなければならない。しかし決して美化したり、
茶化したり、歪曲してはならない。たとえば二〇〇〇年のはじめ、NHKの大河ドラマ
にかこつけて、この静岡県で、『葵三代、徳川博』なるものが催された。たいへんなにぎ
わいだったと聞いているが、しかしそういう形で、あの封建時代を美化するのはたいへ
ん危険なことである。

あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げ
られ、苦しんだか、それを忘れてはならない。

一方、徳川家康についても、その後、三〇〇年という年月をかけて、つごうの悪い事実
は繰り返し抹消された。私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果で
しかない。つまりこうしたことを繰り返している間は、私たちはあのマイナスの遺産か
ら抜け出ることはない。

(2)今日の特集  **************************

【日本人論】

●復古主義

 当然と言えば、当然だが、ある文芸作家(MS氏、雑誌「B」)が、こう言った。「学校
での、国語教育の時間をふやせ」と。「最近の子どもたちは、ロクに満足な作文も書けない」
と。

 しかしこの論法は、おかしい。その第一。何でもかんでも、問題があれば、「すぐ学校で」
という発想。授業時間をふやせば、それで子どもたちの作文力が向上するというものでも
あるまい。

 こうした考え方は、学校万能主義、学校神話の信奉者が、好んでする発想である。

 つぎに、最近の子どもたちの国語力が低下しているのは、子どもたちを包む環境が大き
く、変化したから。国語(日本語)そのものが、質的に変化している。テレビや携帯電話。
さらにはパソコンの影響も大きい。加えて日本語そのものがもつ、欠陥もある。この日本
では、わずか100年前に書かれた文章ですら、辞書や翻訳なしでは、読むことができな
い。

 三つ目に、言葉というのは、民衆が決めるもの。一部の学者や、そこらの作家が、決め
るものではない。もっとわかりやすく言えば、成り行きに任せるしかない。

 で、私は、その文芸作家の人が書いた原稿を改めて、読みなおしてみた。が、「作家」と
いうには、お粗末な文章。くどくて、しかも読みづらい。「こんな文章でも、作家なの?」
というような文章である。

 ということで、では、どうすればよいのか。

 私は、子どもの国語力は、親の会話能力によって決まると、かねてより、主張してきた。
それについて書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二五年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣ってい
ると思われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこ
がどう違うかを調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校
ジャン」というような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」とな
る。たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だっ
た?」と聞くと、その子どもはこう言った。

「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」
と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウ
ン」だけで会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどう
だったの?」、娘「まあまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(2)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみた
が、どの子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を
習う外国人のようにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごら
ん」、子「山ア……、上にイ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそ
のことを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホン
トにモウ、ダメネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる
 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。
毎日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し
方をしていて、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持って
いますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まっ
てこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞い
ているからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それ
こそ立て板に水のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を
音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、そ
の音を自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文
字を「形」として認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも
使う部分が違う。そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をす
るとよい。具体的には「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわか
ってもらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だ
と思っている人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五
四歳)はこう言った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そ
ういう意味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかって
ほしかった。

+++++++++++++++++++++

 もう一つ、つけ加えるなら、こうも言える。

 その文芸家は、「最近の子どもの国語力の低下は、文部科学省と日教組がグルになって、
『ゆとり教育』をしたのが原因」(同・雑誌)と書いている。

 もしそうなら、自分自身は、明治時代に文体で、あるいは江戸時代や平安時代の文体で、
文章を書けばよい。自分自身も、大きな流れの中で、昭和の文体で、文章を書いている。
明治の文豪たちが、その文芸家の書いた文章を読んだら、きっと、同じことを言うにちが
いない。

 「最近の文芸家たちの文章は、なっていない!」と。

 たしかに最近の子どもたちが使う日本語は、メチャメチャ。しかしそう思うのは、「私」
であって、「子どもたち」ではない。子どもたちにとっては、子どもたちの使う日本語のほ
うが、使い勝手がよいのだ。

 私たち旧世代の価値観を、一方的に押しつけても意味はない。なぜなら、私たち旧世代
は、やがて、先に死ぬ。戦っても、勝ち目はない。

 で、これからの日本語は、さらに短文化する。漢字も少なくなる。感覚的な表現が、ふ
えてくる。新語、造語も多くなる。たとえば、こうなる。

++++++++++++++++

 困るよな。言葉。押しつけられても。
 ジジ臭い文書。読みたくないよな。
 わかりやすく書けよ。でないと、読まない。
 文芸家の価値観。それは文芸家のもの。
 その気持ち、わかるけど。
 でもさ、日本語、みんなのものだし。
 上の人が決めても、意味ないよな。
 学校での国語の時間、ふやしても、
 変らないよ。
 だいたい、本なんて、読まないもん。

++++++++++++++++

 日本語というのは、もともと今のモンゴルあたりがルーツだという。そのあたりで生ま
れた言語が、朝鮮半島を経て、日本に入ってきた。入ってきたというより、日本に渡って
きた朝鮮民族とともに、日本にもたらされた。そのためモンゴル語、朝鮮語、それに日本
語は、たいへんよく似ている。

 たとえば朝鮮語で、「私は、はやし浩司です」は、「ナヌ(私)エ(は)、はやし浩司イム
ニダ(です)」となる。「は」も「です」も、音こそちがえ、語法は同じである。

 そこへ中国語が入ってきた。漢字である。今、私たちが使っている、ひらがなにせよ、
カタカナにせよ、その漢字の簡略版にすぎない。

 だから日本語という日本語は、もともと、ないに等しい。悲しいかな、これが事実であ
り、それゆえに、日本語という日本語に、それほど、こだわる必要はない。自由に使って、
自由に改良して、自由に話せばよい。「日本語は、こうでなければならない」と考えるほう
が、おかしい。

 ただ残念なのは、そうした変化の流れの中で、やがてすぐ、私がこうして今書いている
文章ですら、理解されなくなるだろうということ。100年後の人たちでさえ、私の文章
を読むとき、辞書を使うようになるかもしれない。つまり、私の文章の「命」は、この先、
10年とか、20年程度しかないということ。

 考えてみれば、これほど、さみしいことはない。(もっとも、100年後まで残さなけれ
ばならないような文章でもないから、私はかまわないが……。)

 つぎの世代の人たちが、私の文章を読み、その上で、ものを考え、また新しい文章を書
いてくれればよい。つまりこうして、何らかの形で、私の思想のかげろうのようなものが、
つぎの世代に伝わっていけばよい。

 私が今、こうして書いている文章だって、私を取り巻く多くの人たちから受けついだ、
「かげろう」のかたまりのようなものではないか。だからあまり、ぜいたくは言わない。
大切なことは、文章ではなく、中身。中身ではなく、つぎの世代の人たちが、私たちの経
験や知識を踏み台にして、よりよい人生をい送ること。

 言うまでもなく、文章は、そのための一手段でしかない。

 しかし、まあ、あえて言うなら、子どもの国語力を伸ばしたかったら、そしてその基礎
をつくりたかったら、親、とくに母親が、子どもの前では、正しい日本語で話すこと。「ほ
らほら、カバン!」ではなく、「あなたはカバンをもっていますか」と。そういう会話が、
子どもの国語力の基礎となるということ。
(はやし浩司 子どもの国語力 国語 会話能力)

+++++++++++++++++

以前、こんなことを書きました。

+++++++++++++++++

日本の教科書検定

●まちがってはいない。しかしすべてでもない。
オーストラリアにも、教科書の検定らしきものはある。しかしそれは民間団体によるも
ので、強制力はない。しかもその範囲は、暴力描写と性描写の二つの方面だけ。特に「歴
史」については、検定してはならないことになっている(南豪州)。

 私は1967年、ユネスコの交換学生として、韓国に渡った。プサン港へ着いたときに
は、ブラスバンドで迎えられたが、歓迎されたのは、その日一日だけ。あとはどこへ行っ
ても、日本攻撃の矢面に立たされた。

私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏であったこともある。韓国を代表する歴史
学者である。

私はやがて、「日本の教科書はまちがってはいない。しかしすべてを教えていない」と実
感した。たとえば金氏は、こんなことを話してくれた。

「奈良は、韓国から見て、奈落の果てにある都市という意味で、奈良となった。昔は奈
落と書いて、『ナラ』と発音した」と。今でも韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味
する。もし氏の言うことが正しいとするなら、日本の古都は、韓国人によって創建され
た都市ということになる。

 もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし一歩、日本
を出ると、この種の話はゴロゴロしている。

事実、欧米では、「東洋学」と言えば、中国を意味し、その一部に韓国学があり、そのま
た一部に日本学がある。そして全体として、東洋史として教えられている。(フランスな
どでは、日本語学科は、朝鮮学部の中の一つに組みこまれている。)

 さらに、日本語では、「I」のことを、「ボク」という。「YOU」のことを、「キミ」と
いう。

 これについても、もともとは、「朴氏朝鮮」の「朴(ボク)」、「金氏朝鮮」の「金(キミ)」
が、ルーツだという説もある。日本へ渡ってきた朝鮮民族が、「私は、ボク氏だ」「あなた
は、キミ氏か」と言っている間に、「ぼく」「きみ」という言葉が生まれたという。

 話は変わるが、小学生たちにこんな調査をしてみた。「日本人は、アジア人か、それとも
欧米人か」と聞いたときのこと。大半の子どもが、「中間」「アジア人に近い、欧米人」と
答えた。

中には「欧米人」と答えたのもいた。しかし「アジア人」と答えた子どもは一人もいな
かった(約五〇名について調査)。先日もテレビの討論番組を見ていたら、こんなシーン
があった。

アフリカの留学生が、「君たちはアジア人だ」と言ったときのこと。一人の小学生が、「ぼ
くたちはアジア人ではない。日本人だ!」と。

そこでそのアフリカ人が、「君たちの肌は黄色ではないか」とたたきかけると、その小学
生はこう言った。「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ!」と。

二〇〇一年の春も、日本の教科書について、アジア各国から非難の声があがった。韓国
からは特使まで来た。いろいろいきさつはあるが、日本が日本史にこだわっている限り、
日本が島国意識から抜け出ることはない。

+++++++++++++++++

もう一作、こんな原稿を書いたことも
あります。上の原稿と一部、ダブりますが
お許しください。

+++++++++++++++++

人間の誇りとは……

●私はユネスコの交換学生だった

 一九六七年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡っ
た。日韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎え
られた。が、歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面
に立たされた。

私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学
者である。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、し
かしすべてを教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話
してくれた。

●奈良は韓国人が建てた?

 「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈
落の果てにある国」という意味で、「奈良」になった、と。

昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。

現在の今でも、韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。もちろんこれは一つの説
に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言えば、日本史が日本
史にこだわっている限り、日本史はいつまでたっても、世界の、あるいはアジアの異端
児でしかない。

日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本史を見る必要があるのでは
ないのか。ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。
またオーストラリアでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさ
し、日本はその一部でしかない。

●藤木Sの捏造事件

 一方こんなこともある。藤木Sという、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼
が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。
しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしま
った人たちがいるというから、これまたすごい。

たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(一
九九九年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業
の社長や国会議員をしている。

その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国
人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。

当時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかり
に、日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

●常識と非常識

 私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見、金素雲氏が話してくれた奈良の話
と、この捏造事件はまったく異質のように見える。

奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもない風説に過ぎない。いや、一度、私が
金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでし
ょう」と笑ったのを思えている。

しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎない。これに対して、石器捏造事件の
ほうは、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石器」という証拠が出てきたのだか
ら、これはたまらない。事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体
がある。

が、よく考えてみると、これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金
素雲氏の話してくれたことは、日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日
本でしか通用しない世界の非常識。世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常
識にしがみつく態度も、基本的には同じとみてよい。

●お前は日本人のくせに!

 ……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。
事実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。

しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれ
れば、私は一〇〇%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本
という国土、文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。

このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意
識は、ゆがんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのも
のをゆがめる。これは危険な思想といってもよい。

仮に百歩譲って、「日本民族は、誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なく
とも中国の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代
から五五〇〇年もの歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、そ
の中国からきたものだ。

その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人
を「下」に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義と
いうのは、もともとそういうレベルのものでしかない。

●驚天動地の発見!

 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。こ
れは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。

たとえば二〇〇二年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆ
かり」という言葉を使った。「天皇家と韓国は、歴史的に関係がある」という意味で、天
皇は、そう言った。これに対して韓国の金大統領(当時)は、「勇気ある発言」(報道)
とたたえた(一月)。

さらに同じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良
県明日香村でなされた。明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)
の絵が見つかったというのだ。詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、
こう書いている。

「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四
神、十二支の時と方角という貴人に使われる『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」
とコメントを寄せている。

これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百
済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と
解釈したらどうなるか。弓削皇子は、天武天皇の皇子である。もっと言えば、天武天皇
自身が、百済王族の一族ということになる。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」と
いう大見出しを載せた。

●人間を原点に

 話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚
かない。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。

先日愛知万博の会議に出たとき、東大の松井孝典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙
から見たら、地球には人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(二
〇〇〇年一月一六日、東京)と。

これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じこと
が言える。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、
笑いものになるだけだ。いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」と
か言っても、笑いものになるだけ。

日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおか
しい。私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるか
らということではなく、人間であることによる。

もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」ことによる。松井
教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。

●非常識と常識

 いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日
がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いているこ
とが正しいと証明されるだろう。そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。

「なぜ日本の考古学者は、藤木Sの捏造という非常識にしがみついたのか。なぜ日本の
歴史学者は、東洋史という常識に背を向けたのか」と。

繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついている。
(2002・1・23)

++++++++++++++++++++

 この原稿は、私がちょうど2年前に書いたもの。今、読みかえしてみると、「かなり過激
なことを書いたな」と思わないわけでもない。

 しかしものごとは、常識で考えるべきではないのか。世界の歴史学者は、みな、こう言
っている。「日本が、日本史にこだわっているかぎり、日本は、いつまでたっても、アジア
の孤児でしかないだろう。日本も、日本史を、東洋史の中の一部としてみるべきではない
のか」と。

 日本や、日本人だけが、特別な民族だと思いたいという気持はよくわかる。世界の、ど
の民族だって、多かれ、少なかれ、そう思っている。しかしそういう思いにこだわればこ
だわるほど、日本や日本人は、世界の孤児になってしまう。

 それでよいのか。それとも、それとも、それではよくないのか。程度の問題もあるかも
しれない。だから白黒はっきりする必要もないかもしれない。

「まあ、そういう意見もあるのか」程度にとらえてもらってもよい。私自身、それほど、
深刻にこの問題を考えているわけではない。あとは、読者のみなさんの判断ということ
になる。
(はやし浩司 日本人 日本語 民族)
(040421)


(3)心を考える  **************************

●受験競争の弊害

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場
で、他人の心情でものを考えられるかということ。つまり他人への、協調性、共鳴性、同
調性、調和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それ
だけ精神の完成度が、低いということになる。さらに言いかえると、このあたりを正確に
知ることにより、その人の精神の完成度を知ることができる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。しかしこ
れは遺伝子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。
が、ここでいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばん
でしまう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面
化の自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。この受験競争は、どこまでも個人的
なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。子どもにかぎらず、利己的であ
ればあるほど、当然、「利他」から離れる。そしてその結果として、その子どもの内面化が
遅れる。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そうい
う側面がある。ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受
験競争をする子どももいるのはいる。しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれて
いる。『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を
導く』など。それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自
己正当化しているだけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に
高邁な人たちかというと、それは疑わしい。疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知
っている。こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。
親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたた
きこまれている。それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方を
することができない。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的。
迎合的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。
いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。
今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、
どこか心が冷たい。いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうで
ないと、都会では、生きていかれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。しかしこうした印象をもつ
のは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。避けてはとお
れないこと。それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊
してしまう。しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうで
ないとのとでは、大きな違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほ
しい。


●「私は私」という意識
 
東京の小学校の男性教諭が、中学3年の男子生徒に現金をわたし、わいせつな行為をし
たとして警視庁に逮捕された(TBS・iNEWS)。

児童買春の疑いで逮捕されたのは、東京・杉並区の小学校に勤務するNM容疑者(32)。
NM容疑者は 去年10月、新宿公園で知り合った当時15歳の中学3年の男子生徒を渋
谷区のまんが喫茶に誘い、現金1万円を渡して下半身を触るなどの、わいせつな行為を
した疑いがもたれているという。
 
 NM容疑者は小学5年生のクラスを受け持ち、教育熱心な先生という評判だった。
 
 大学で性教育についての卒業論文を書いたのをきっかけに、男性に興味を持つようにな
ったという成田容疑者。新宿公園のことはインターネットで 知ったという。
 
  一方、「新宿公園で待っていれば、買ってくれる人が声をかけてくる」。男子生徒はイ
ンターネットでこうした書き込みを見て、小づかいほしさに新宿公園に行っていたとい
う。
 
 「一人でご飯とか食べていると、声はかけられますね。『暇なら一緒にどこか行かない?』
とか、『ホテル行かない?』とか」(公園の近所の男性)
 
 NM容疑者と男子生徒のわいせつ行為は、去年の8月以降5回に及び、NM容疑者はわ
いせつ行為をデジタルカメラで撮影し、ディスクに保存していたという。
 
 NM容疑者は「男子生徒には申しわけないことをした。教え子に顔向けができない」と
供述しているが、警視庁は、別の男子高校生らともわいせつ行為をしていたとみて、捜
査しているという。(以上、TBS・iNEWSより)

 この事件で、私は、同性愛について、語るつもりはない。教師のハレンチ行為について、
語るつもりもない。

 こうしたおとなの行為で、キズつくのは、子ども。それはそれとして、私はこの事件を
知ったとき、「意識のズレというのは、こういうものか」と、思い知らされた。

 その男性教師は、中学生の男子に対して、お金を渡して、ワイセツ行為をしたという。
どういう方法で、どういうことをしたかについては書いてないが、おおよその見当はつく。
しかし、その男子高校生は、男性教師とは、「同性」である。私が、どうにもこうにも、理
解できないところは、ここである。

 私は、同じ「男」の中でも、「濃い男」である。この言い方は、私が発明した言い方だが、
男にもいろいろある。同性にまったく興味を示さない男もいれば、同性に興味を示す男も
いる。同性にはまったく興味を示さない男を、「濃い男」という。同性に興味を示す男を、
「薄い男」という。要するに、私は、「男にはまったく興味のない男」。

 そういう私から見ると、男子の下半身など、見たくもない。さわりたくもない。まった
く興味がない。その男性教師は、デジタルカメラで、撮影したというが、私のばあい、「ど
うして?」と思うだけで、つぎの言葉が出てこない。

 一方、私は女性には、興味がある。あるものはあるのであって、どうしようもない。最
近でこそ元気がなくなってきたが、しかし今でも、ないわけではない。女性の体は、この
年齢になっても、魅力的に見える。すばらしい。

 問題は、ここである。

 その男性教師にしてみれば、男子生徒の下半身は、私にとっての女性の体と同じくらい、
魅力的に見えるらしいということ。私が女性の裸体を見たとき、ムラムラと感ずるような
情欲を、その男性教師は、男子中学生の下半身を見たときに感じたらしい。「らしい」とい
うところまではわかるが、そこまで。その先が、理解できない。どうしてか? どうして
こんなちがいが生まれるのか?

 言いかえると、私がもっている意識にしても、一つ立場がちがえば、180度変化する
ことだって、考えられる。その意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもな
い。正常か、正常でないかという判断すら、できなくなる。

 考えてみれば、男のばあい、射精する前と、射精するあととでは、女性、とくに女性の
体に対する思いは、まったくちがう。射精する前は、女性の体を、狂おしいほどに、いと
おしく思う。しかし射精したとたん、「どうしてこんなものに興味をもったのだろう」と思
う。

 こうして考えていくと、意識とは何か。ますますわからなくなる。

 そこで先の男性教師の話。その男性教師は、男子中学生のそれを、デジタルカメラで撮
影したという。実は、私は、ここでもわからない。もしそれほどまでに見たかったら、自
分のそれを、カガミか何かに映して見ればよいのではないのか、と。

 あのフロイトは、私たち人間の行動の原点には、「性的エネルギー」があると説いた。つ
まりその性的エネルギーが、さまざまなバリエーションをもって、私たちの生活のあらゆ
る部分に作用している、と。男性のスポーツ選手が、スポーツでがんばるのも、女性が化
粧をするのも、心の奥深いところで、その性的エネルギーの命令を受けているからである。

 となると、今、私がもっている意識のほとんどは、「?」となってしまう。男性教師は、
教職を棒に振るという危険までおかして、(実際、棒に振ってしまったが……)、男子中学
生のそれをデジタルカメラに収めた。それは、ものすごいエネルギーと言ってもよい。

 で、そういうエネルギーが私にもないかというと、実は、ある。こうして毎日、パソコ
ンを相手に原稿を書いているのも、心の奥深いところで、何かしらの性的エネルギーの命
令を受けているためかもしれない。

 事実、男性の読者から、感想文をもらうより、女性の読者から、感想文をもらうほうが、
うれしい。これは隠しようがない、事実である。が、その意識も、ここに書いたように、
絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。何かのきっかけで、180度、変る
ことだって、ありえる。

 ……と考えていくと、ますますわからなくなってしまう。意識とは何か、と。あるいは、
私は、私でない、もっと深遠なる意識によって、動かされているだけかもしれない。もっ
と言えば、「私は私」と思っているのは、表面的な「私」でしかなくて、「私」でないかも
しれない。その男性教師だって、そうだ。

 恐らく、「私は、男子中学生のそれが見たい」と思って、デジタルカメラで、写真をとっ
た。そのときその男性教師は、「私は私」と思って、そうしたにちがいない。しかし本当の
ところは、その男性教師の意思というよりは、その男性教師の中の、性的エネルギーに命
令されて、行動しただけかもしれない?

 話が繰りかえしになってきたので、この話は、ここまで。私は、このハレンチ事件をイ
ンターネットで知ったとき、意識とは何か。それを改めて考えさせられた。ホント!
(はやし浩司 意識 意思 性的エネルギー)

【追記】
 私たちは、「私は私」と思って行動している。しかしその「私」が、私ではなく、心の奥
底に潜む、別の「私」に命令されているとしたら……。

 たとえば若い女性が、化粧をして、ミニスカートをはいたとする。そのときその若い女
性は、自分の意思で、自分で考えてそうしていると思うかもしれない。

 しかし実際には、その女性は、さらに心の奥底に潜む、「性的エネルギー」の命令に従っ
て、そうしているだけかもしれない。ただ自分では、それに気づかないだけ。

 こうした例は、多い。つまり私たちが、「自分の意思」と思っていることでも、そうでは
ないことも多いということ。そういう意味で、「意識」とは何か、それをつきつめていくと、
わけがわからなくなる。


(4)今を考える  **************************

●見苦しい老人たち

 こんな話を聞いた。

 Aさん(50歳)のグループは、ボランティア活動として、炊事が満足にできない老人
たちのために、昼の弁当を届けている。

 料金は、一食、500円。それを、老人たちに、毎日、配達している。利益など、まっ
たくない。配達の労費を考えるなら、赤字。

 そのAさんが、毎日、弁当を届けている人に、Xさん(83歳)と、Xさんの妹(76
歳)がいる。Xさんと、Xさんの妹は、いろいろな理由があって、今は、同居している。

 が、Xさんと、Xさんの妹は、毎日のように、「私の弁当の残りを食べた」「いや、食べ
ていない」「どこへやった?」「知らない」と、喧嘩ばかりをしているという。

 言い忘れたが、その500円の料金(二人分で1000円)は、Xさんの息子(53歳)
が、負担している。

 Aさんは、こう言う。「本当に、見苦しいですね」と。「ただで食べているんだから、文
句を言ってはいけないと思うのです。でも、そういう感謝の念は、まったくないみたいで
すね」とも。

 この話をワイフにすると、ワイフも、こう言った。「もう先が長くないのだから、穏やか
に生きることはできないのかしら?」と。

 しかしそういう状態になればなるほど、老人によっては、我欲が強く現れるようになる。
理由は私にもわからないが、そうなる。巨億の資産をもちながら、わずかな土地の権利の
ことで、裁判で争っている老人がいる。近所の人が、車を道路に一時的にとめるたびに、
警察に電話をかけて、パトカーを呼んでいる老人もいる。

ワイフ「歳をとればとるほど、その人の地が表に出てくるということかしら?」
私「ぼくも、そう思う。自分の中の悪い面を隠そうという意欲や気力が弱くなってくる。
だから、悪い面ばかりが外に出てくるようになる」
ワ「死ねば、すべてをなくすということが、わからないのかしら?」
私「そういう老人は、そうは思っていない。死後の世界を、しっかりと信じている」と。

 この一例だけではないが、老人が、人生の先輩だとか、経験者だとかいうのは、まちが
い。ウソ。幻想。もちろん大半の老人は、すばらしい人たちである。しかし老人になれば
なるほど、Xさんや、Xさんの妹のように、むしろ見苦しくなっていく人も、少なくない。

 もっとも、それは本人たちの問題だから、部外者の私たちが、とやかく言う必要はない。
本人がそれでよいのなら、それでよい。

 しかし人生も晩年になって、弁当の残りを取りあって争うなどということが、本当にあ
るべき老後なのかどうかということになると、だれも、そうは思わない。だれだって、静
かで、穏やかで、心豊かな晩年を送りたいと思うはず。死が近づけば、なおさらそうだ。

 で、そのちがいは、どこにあるかというと、私は、(前向きに生きる人)と、(そうでな
い人)のちがいではないかと思う。「思う」というだけで、確信はないが、そう思う。これ
は老人にかぎらないことだが、人は、うしろ向きに生き始めたとたん、その生きザマは、
見苦しくなる。

 わずかな財産にこだわったり、過去の名誉や地位にぶらさがり、それをいばって見せた
りするなど。

 それに生きザマがうしろ向きになったとたん、その時点から、時間ばかりを浪費するよ
うになる。はっきり言えば、いくら長生きしても、ムダ……という状態になる(失礼!)。
「明日は、今日よりも悪くなる」ということを繰りかえしながら、不幸に向かって、まっ
しぐらに進んでいく。

 で、Aさんは、ある日、見るに見かねて、Xさんにこう言ったという。「また明日、お弁
当を届けてあげますから、どうか喧嘩をしないでください」と。するとそれに答えて、X
さんは、つぎつぎと、Xさんの妹の悪口を言い始めたという。

 「でも、私が何も言わなかったら、K(=Xさんの妹)は、私の分まで、食べてしまう」
「残ったのを捨ててしまう」「この前も、冷蔵庫にしまっておいたおかずを、自分で食べて
しまった」「妹は、太りすぎだということがわかっていない」「胃が痛いと言って、夜中に
泣かれるのは、困る」と。

 あまりにも低劣な話なので、Aさんは、思わず、耳をふさいでしまったという。そして
私には、こう言った。「歳をとっても、ああはなりたくないです」と。

 最近、「じょうずに歳をとる」という言葉を、あちこちで耳にする。最初、その言葉を聞
いたときは、私にはその意味が、よくわからなかった。が、このところ、少しずつだが、
私にもわかるようになってきた。と、同時に、それがこれからの私にとっては、重要なテ
ーマになるだろうということを知った。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【アメリカに住む、二男より……】

●人質となった、日本人

日本人3人の誘拐のニュースをずっと見てきたのだが、「どうして?」と思うことが多々あ
る。特に、政府の対応の仕方、3人の親族の対応の仕方にはどうしても理解ができない。「自
業自得」という言葉や、考え方自体理解に苦しむのだけれど、どうしてみんな大きなもの
の見方ができないのだろうか? 

残虐な犯罪者からやっと開放された3人に、「世界を百回って謝れ」などというのはどうい
うことなんだろうか? 「世界に感謝させます。」とはどうことなんだろうか? 世界がい
ったい何をしたのだろうか?

彼らが解放されたのは「世界」でも小泉のおかげでもなんでもない。イスラム教リーダー
が、誘拐した犯罪者を説得できたから開放されたのではないのだろうか? 

自分の身を危険にさらして自由社会のために貢献しようとしたのは彼ら3人や、自衛隊、
世界各国の民間、軍人、などイラクにいる僕たち民主主義的国家の人間なんじゃないのか?

そんなことは全く無視して、「自業自得」とは何なのか? 今のところテロリストが日本を
攻撃していないから、テロリストを怒らせるようなことはするな、という魂胆なんだと思
うけれど、これが暴走族や暴力団がいまだに日本に公然と存在する理由だと思う。 

「どうしたらとりあえず自分の身の危険を守れるか。」という発想はやめて、「何をするの
が正しいのか?」という考え方をするべきだと思う。テロリストなんてのを暴力団と同じ
ように、野放しにして、「自分にさえ危害を加えなければいいや。」なんて認めてしまった
ら、やがては世界全体が重苦しく、不自由で、結局は自分の生活の質が低下することにな
る。

スペインの列車爆破事件で殺された300人には、「テロリストが人を殺すのはあたりま
えでしょう。馬鹿なスペイン人、自業自得、お気の毒様。」といっているのと同じだ。 

「世界中を混乱に導いた」(親族)のはテロリストの方じゃないのか? 外国人はイラクか
ら出て行け!といっているのはイラク人ではなくて、イラク人にまぎれて存在する一部の
イスラム教原理主義者や、テロリストたちがいっていることであって、大半のイラク人は
イラクに平和と繁栄のために努力している人たちを歓迎していることを忘れるべきではな
い。 

3人は誰にも謝る必要はないし、世界のおかげでもない。3人に意志があるのならこのま
まイラクに残って、正しいと信じる活動をやり遂げるように、心から切望する。
(林 宗市記)

++++++++++++++++++

【二男へ】

 かなり情報不足のようだね。

 彼らは、正しいことをしたのではないよ。「独善的なボランティ活動」(Y新聞)をした
だけだよ。

 日本政府は、14〜6回にわたって、渡航自粛の勧告を出しているよ。それを無視して、
ヨルダンからイラクに入った。おかげで、日本は、えらい迷惑をすることになってしまっ
た。

 人質の家族からは、「イラクから自衛隊を撤退させろ」と怒鳴られるしまつ。本当かどう
かは知らないが、外務省の役人たちは、「寝食を忘れて救出活動をした」そうだ。かかった
費用が、20億〜30億円程度だったという話も、伝わってきている(週刊「S」)。

 最初は、ぼくたちも、人質の心配をした。しかしね、時間がたつと、「どうもそうではな
いのではないのか」という考え方に変ってきた。ある国会議員は、「遊泳禁止の旗が出てい
る海で、泳ぐようなもの」と表現していたが、そんな感じがしてきた。

 だから今(4・21)は、「自己責任」という言葉が、さかんに使われている。この人質
の問題は、K国による拉致(らち)事件とは、まったく異質のものだよ。それに人質とな
った一人の青年は、アメリカ軍による劣化ウラン弾を糾弾するため、その証拠集めに、イ
ラクへ入ったということらしい(週刊「S」)。アラビア語はもちろん、英語も、満足に話
せなかったという話も、漏れ伝わってきている。

 彼らの行動は、カルト教団に走った、狂信的な若者の姿に、どこか似ていると、思わな
いか。つまり、これがおおかたの日本人の思いだと思うよ。

 もう二人、同じ時期、日本人のカメラマンが人質になったよ。その中の一人は、こう言
った。

 「ひどいめには、あわなかった。最初、車から引き出されるとき、相手のイラク人が、『ア
イ・アム。ソーリー』(すまん)と言った」と。

 お前にはわかると思うが、これはつくり話だよ。こんなとき、英語では、絶対に、「アイ・
アム・ソーリー」とは、言わないよね。エレベーターに乗るとき、中にいる人に、「アイ・
アム・ソーリー」と言う人は、いないだろ。それと同じだね。つまり、完全なジャパニー
ズ・イングリッシュ!

(ぼくも、一度、英語で失敗したことがある。日本では、どこかの店に入っていくとき、
「ごめんください」と言うだろ。だからあるとき、オーストラリアの店に入るとき、「ア
イ・アム・ソーリー!」と言いながら、入ってしまった。頭の中で、日本語を直訳した
んだね。

 そしたらその店の人が、おかしな顔をして、「君は、私たちに、どんな悪いことをしたの
か?」って、言ったよ。)

 今回の事件は、どこかスッキリしない。全体としてみれば、無謀で、思慮のない若者た
ちが、ひとりよがりな独善で引き起こした事件のように思う。「甘い」というよりは、「世
界をなめている」といった感じ。一人の若者は、こう言ったという。

 「イラクのために活動しているのだから、人質になるとは思っていなかった」と。

 今は、日本の自衛隊が、命がけで、復興支援活動をしている。そういう人たちの思いも
理解するなら、こうした独善的な思想にかぶれた若者は、イラクへは行くべきではないよ。
たぶん、ほとんどの日本人も、ぼくと、同じ意見だと思うよ。今日、何冊か、週刊誌を買
って、送っておくよ。

パパより 
 
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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
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. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 19日(No.411)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page046.html

(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

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(1)子育てポイント**************************

●フリーハンドの人生(子どもの人生は子どものもの)

 「あなたの人生は、あなたのものだから、思う存分、自分の人生を生きなさい。家の心
配はしなくていい。親の心配はしなくていい。親孝行なんて考えなくていい」と。一度は
フリーハンドの形で子どもに子どもの人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たし
たことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担をかけるのも、期待する
のも、いけない。もちろん子どもが自分で考え、その後、家のことを心配したり、親に
孝行をするというのであれば、それは子どもの勝手。あくまでも子どもの問題。

 NHKテレビを見ていたら、日本を代表する演歌歌手のI氏が、切々と、しかも涙をこ
ぼしながら、自分の母親について語っていた(二〇〇〇年夏)。I氏はこう言った。

「私の母は、貧しい生活の中、懸命に私を育ててくれた。私はその母に恩返しをしたい
一心で歌手になった」と。

私はI氏の話を聞くうちに、I氏の母親が本当にすばらしい母親なのかどうか、わから
なくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、親として、そこまで思わせてしまってよ
いものか。そこまで追い込んでしまってよいものか。もちろんI氏は、「私の母は、すば
らしい母だ」と言っていたが……。

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかり
やすく言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そして無意
識のうちにも、子どもにそれを負担に思わせてしまう。あるいは「産んでやった」「育てて
やった」と、親の恩を押し売りしてしまう。

その一例が、『かあさんの歌』だ。「♪かあさんは夜なべをして、手袋編んでくれた……」
という、あの歌である。こうした恩着せがましい歌、お涙ちょうだい式の歌が、すばら
しい歌になっているところに、日本式の子育ての問題点がある。

親は子育てをするが、その子育ては、あくまでも自分のためにしているにすぎない。し
かも子育ての目標は、子どもを自立させること。子どもを勝手に産んでおいて、「♪おと
うは土間でわら打ち仕事、お前もがんばれよ」は、ない。

言うとしたら、たとえそうであっても、「♪おとうは居間で俳句づくり、お前は心配する
な」だ。……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言うの
に、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。

そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。
私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人
は、いるにはいる。

 子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。
一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。

私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければなら
ない。親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではな
い。あなたの親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。
が、これからの考え方ではない。あくまでもフリーハンド、である。

ある母親は息子にこう言った。「たった一度しかない人生だから、思う存分、羽をのばし
て空を飛びなさい。私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」
と。

子育ての基本は、ここにある。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●一〇%のニヒリズム

 教師の世界には一〇%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭して
も、最後の一〇%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズ
タズタにされてしまう。

たとえばドラマに『三年B組、金八先生』というのがある。武田鉄也氏が演ずる金八先
生は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。それはちょうど刑事
ドラマの中で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうようなものだ。ドラマと
してはおもしろいが、現実にはありえない。

 教育といいながら、この世界は、人間のあらゆる欲望が渦を巻いている。昔、こんなこ
とがあった。

私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、私にあいさつを
したのに気づかなかった。三〇歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完全になくして
いる。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うち
の娘の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。私がその子どものあいさつを無視したと
いうのだ。そこでどうすればよいのかと聞くと、「明日、娘をお前の前に連れていくから、
娘の前で頭をさげてあやまれ」と。

大半の親はそうでなくても、中にはこういう親もいる。だからこの一〇%のニヒリズム
は、捨てることができない。が、このニヒリズムには、もう一つの意味がある。

 一人の男の子(年中児)が、ある日私のところにやってきた。会うと、か細い声で、「ぼ
くの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで喜んでいるようだっ
たが、私には痛々しかった。

四歳の子どもが、そんなあいさつをするものではない。またさせてはならない。しばら
く子どものしたいようにさせながら、様子を見ると、明らかに過干渉が、子どもの精神
を萎縮させているのがわかった。全体にオドオドした感じで、子どもらしい覇気がない。
動作も不自然で、ぎこちない。

こういうケースの場合は、しばらく子どものしたいようにさせ、子どもらしい自然さを
取り戻すようにするのがよい。が、母親にはそれが不満だった。私は母親が何をどう考
えているかがよくわかった。子どもが何かをするたびに、鋭い、人を刺すような視線を
子どもに注いだ。授業が終ると、その母親は子どもの手を引っ張るようにして、教室か
ら出ていった。

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、
それは私のすべきことではない。

いや、こういう仕事を三〇年もしていると、予言者のように子どもの将来が、よくわか
る。やがてその親子は断絶。子どもは神経症、情緒不安、さらには何らかの精神障害を
かかえるようになる。

子どものことが何もわかっていない。子どもの心も無視。独善と過信の中で、「子どもの
ことは、私が一番よく知っている」と思い込んでいる。その上、過干渉と過関心。この
タイプの親は、「子どもを愛している」とは言うが、その実、愛というものがわかってい
ない。子どもを受け入れていない。つまりそれは愛もどきの愛。自分勝手で、自分のた
めに子どもを利用しているだけ。

……つまりそこまで私にはわかっていても、黙って見送るしかない。それはまさしくニ
ヒリズムということになる。

(2)今日の特集  **************************

●武士道

トム・クルーズの『ラスト・サムライ』がヒットしたこともある。NHKの『新撰組』
もそうだ。そのせいか、今、日本は、武士道一色といってもよい。お茶の水女子大教授
の、FM氏などは、「日本が誇るべき民族精神である」(「文言春秋」04・05)などと、
賞賛している。

 しかし武士道とは、いったい何なのか。たとえば今、話題の、『新撰組』。

 あの新撰組が、京都の町に現れたとき、京都の町は、恐怖のどん底に叩き落された。新
撰組は、我がもの顔に刀を振り回し、自分たちの意に沿わない者を容赦なく殺していった。

そういう連中が、いかに恐ろしい存在であったは、数年前に佐賀県で起きた『バス・ハ
イジャック事件』を思い出してみればわかる。あのときは、刃渡り40センチ足らずの
包丁をもった少年に、日本中が震えた。

 そこで武士道。

 江戸時代には、士農工商という、明確な身分制度がしかれていた。この身分制度でいう、
「士」が、武士ということになる。つまりは、刀をもった、為政者。日本人全体としてみ
れば、数パーセントに満たない人たちであった。

 大半の日本人は、その武士の圧制、暴力の影におびえながら、細々と生活をしていた。
つまり江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、暗黒かつ恐怖政治
の時代であった。私たちがいう武士とは、そういう時代の「武士」であったことを、忘れ
てはならない。

 こんな話を、15年ほど前、山村に住む90歳(当時)くらいの女性に聞いた。

 明治時代の終わりごろ。江戸時代が終わって、20〜30年近くもたっていたというが、
そのときですら、まだ、旧武士たちは士族と呼ばれ、刀をさして歩いていたという。

 その人が歩いてくると、遠くからカチャカチャと、鞘(さや)が、当たる音がしたとい
う。すると、皆は、道の脇により、頭を地面にこすりつけるようにして、ひざまづいたと
いう。

 「私が子どものころはそうだったよ」と、その女性は笑っていたが、武士道には、そう
いう側面がある。

 私たち日本人は、こういう話を聞くと、自分の視点を、武士の目の中に置いて、考えが
ちである。「頭をさげた平民」ではなく、「頭をさげさせた武士」の目を通して、日本を見
る。

 これは日本人独特の、オメデタさと考えてよい(失礼!)。今でも、つまり2004年の
今でも、「私の先祖は、旧M藩の家老でした」「私の先祖は、官軍の指揮官でした」などと、
自慢する人は多い。残りのほとんどの先祖は、町民や農民であったことについては、目を
つぶる。

 「私の先祖は、武家だった」と主張するのは、その人の勝手。またそれを誇りに思うの
も、その人の勝手。しかしそれがどうしたというのか? あるいは、そんなことは、そも
そも、誇るべきことなのか。

 江戸時代が終わって、140年近くもたったいるのに、いまだに、そういうことを言う
というのは、つまりは、それくらい、あの江戸時代という時代が、恐怖政治の時代であっ
たということを意味する。民衆は、骨のズイまで、魂を抜かれた。一つの例をあげよう。

+++++++++++++++++

●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所とい
うことだが、それほど大きさを感じさせない関所である。

江戸時代という時代のスケールがそのまま反映されていると考えてよいが、驚くのは、
その「きびしさ」。

関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわかる。つかまれば死
罪だが、その関所破りを助けたもの、さらには、その家族も同程度の罪が科せられた。

新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、
そこでさらにはりつけに処せられたという記録も残っている。移動の自由がいかにきび
しく制限されていたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いた
ことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その
中の随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんで
いた」というような記述があったことである。

当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事はいっさいなかった。私と
女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまった。「江戸時代が自
由な時代だったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それを
きゅうくつとは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あの北朝鮮の人たちだ
って、「私たちは自由だ」(報道)と言っている。あの人たちはあの人たちで、「自分たちの
国は民主主義国家だ」と主張している。(北朝鮮の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)

現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコ
メント)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことで
ある。

私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかというこ
と。新居の関所はその象徴ということになる。たまたま館員の人に説明を受けたが、「番
頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町だけが舟渡しを許された」とか、どこ
か誇らしげであったのが気になる。

関所がそれくらい身分の高い人(?)によって守られ、新居町が特権にあずかっていた
ということだが、批判の対象にこそなれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そう
いう意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関
所をとおして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じ
てみるとよい。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して
美化してはいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所
の中には、これまた美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のよう
に美しかった。

私がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。

++++++++++++++++++++

もう一つ、こんなエッセーを書いたことがある。
(中日新聞、投稿済み)

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「偉い」を廃語にしよう
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言
う。よく似たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間が
ある。

日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あま
り偉い人とは言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしな
い。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。

中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打ちこわし、……関所を廃
止して、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝国書院版)と。
これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚すら覚える。
しかし……?    

実際のところ、それから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒
かつ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極
貧の生活を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。

由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その
刑は関係者はもちろんのこと、親類縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)
安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と書いてい
る。

家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の悪い事実
は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結
果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。

「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人をめざす出世
主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだしも、政治
にそれが利用されると、とんでもないことになる。

少し前、幼稚園児を前にして、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらいた。そうい
う意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。

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●武士道とは

 武士道を信奉する人たちのバイブルとなっているのが、新瀬戸稲造が書いた、『武士道』
(明治32年)である。新瀬戸稲造といえば、5000円札の肖像画にもなっているから、
知らない人はいない。明治時代の終わりごろ活躍した人物で、ほかにも『随想録』(明治4
0年)に書いたりしている。

 もともとは、幕末の南部藩(岩手県)の武士の子弟として生まれ、札幌農学校を卒業し
たあと、アメリカにも留学している。

 その武士道でもっとも重んじるのが、「名誉」ということになる。新瀬戸稲造も、『武士
道』の中で、こう書いている。

 「武士は、命よりも高価であると考えられることが起きれば、極度の平静と迅速をもっ
て、命をすてる」と。

 要するに、名誉のためには、死をも覚悟せよ、と。

 新瀬戸稲造が、いつの時代の武士を念頭に置いたのかはしらないが、幕末の武士たちは、
堕落し放題。権威と権力の座に安住し、その中身と言えば、完全にサラリーマン化してい
た。サラリーマン化が悪いと言っているのではない。「名誉のために、死をも覚悟した」と
いうのは、あまりにも大げさ。

 もっともこの心は、やがて日本の軍国主義の精神的根幹にもなっていった。「死して虜囚
(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」とういう、あれである。しかしその言葉の
裏で、いかに多くの日本人が、犠牲になったことか。あるいはいかに多くの外国人が、犠
牲になったことか。

 もっとも愛国主義が最初にあり、それから生まれた名誉のために死ぬというのであれば、
まだ納得できる。正義、あるいは、自由や平等のために死ぬというのであれば、まだ納得
できる。しかし武士道でいう『名誉』とは、まさに主君もしくは、「家」に対する、忠誠心
をいった。

 ほかにも、武士道には、「義」「勇」「仁」という三つの柱があり、さらに「礼節」「誠実」
「名誉」「忠義」「孝行」「克己」の、人が守るべき、徳目として、並べられている。「名誉」
それに、それから生まれる「恥」の概念も、こうした徳目から、生まれた。

 もちろんある側面においては、武士道は魅力的であり、それなりに納得できる部分もあ
る。しかし武士道が、封建時代というあの時代の「負の遺産」を支えたもの事実。「影の部
分」と言ってもよい。もっとわかりやすく言えば、武士道がもつ「負の側面」に目を閉じ
たまま、武士道を、一方的に礼さんするのは、たいへん危険なことでもある。

 たとえばここでいう「義」「仁」にしても、つきつめれば、「仁義の世界」。つまり、現代
風に言えば、ヤクザの世界ということになる。

 また、名誉についても、『武士は食わねど、高楊枝(ようじ)』(武士というのは、食べる
ものがなくて空腹でも、満腹のフリをして、名誉を守った)という、諺(ことわざ)も、
ある。

 果たしてそういうメンツや見栄にこだわることも、武士道なのだろうか。武士道を礼さ
んする人は、武士道を知らなければ、「人の正義」はないようなことを言う。しかしこの私
などは、武士道とはまったく無縁。しかしそんな私でも、礼節もあれば、名誉もある。誠
実、忠義、孝行、克己についても、自分なりに考えている。

 たしかに、今の世相は、混乱している。それはわかる。しかしそれは当然のことではな
いか。

 日本は、江戸時代という封建主義時代。明治、大正、昭和という軍国主義時代。そして
戦後の官僚主義時代。こういった時代を、それぞれ経験しながら、そのつど、過去の清算
をしてこなかった。反省もしなかった。

 だから、今の若い人たちを中心に、「わけのわからない世界」になってきた。

 それはわかるが、で、こうした世相に対する考え方は、二つある。

 一つは、過去にもどるという考え方。よくても悪くても、そこには、一つの「主義」が
ある。最近もてはやされている武士道も、その一つかもしれない。

 もう一つは、新しい主義を、創造していくという考え方。当然のことながら、私は、こ
の後者の考え方を、支持する。またそのために、こうしてモノを書いている。それについ
ては、これからも追々書いていくが、ともかくも、今の段階では、そういうことになる。

 最後に、忘れてならないのは、私の先祖も、あなたの先祖も、その武士階級にしいたげ
られた、町民や農民であったこと。もし仮に今でもあの封建時代がつづいていたとしたら、
私やあなたも、今でも、ほぼまちがいなく、町民や農民であるということ。

 そういう私やあなたが、武士のまねごとをして、どうなるというのか? 武士でもない
私やあなたが、武士道を説いて、どうなるのか。そのあたりを、じっくりと考えなおして
みてほしい。

今でこそ、偉人としてたたえるが、新瀬戸稲造にしても、武士という特権階級に生まれ
育った人物である。アメリカから帰ってきたあとも、京都帝国大学教授、第一高等学校
校長、東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任している。まさにエリー
ト中のエリート。時の権力や権威をほしいままに手に入れた人物である。その事実を、
忘れてはならない。
(はやし浩司 武士道 新瀬戸 義 勇 仁 仁義の世界 仁義)

【恥・名誉論】

 懸命に生きる。それがすべて。
 恥なんて、考えるな。そんなもの、クソ食らえ!
 あなたは、あなた。どこまでいっても、
 あなたは、あなた。

 懸命に生きる。それがすべて、
 名誉なんて、考えるな。そんなもの、クソ食らえ!
 あなたは、あなた。どこまでいっても、
 あなたは、あなた。

 恥や名誉があるとするなら、
 それは、自分に対してのもの。
 懸命に生きなかったことを恥じろ。
 懸命に生きたことを、名誉に思え。

 これからに私たちは、そういう生き方をしよう。
(040418)

【追記】

 現在の今でも、こうした武士道の片鱗(へんりん)は、ヤクザの世界に見ることができ
る。そこは、まさに仁義の世界。

 ここにも書いたように、武士道の世界にも、それなりのよさもある。それは否定しない。
しかし同時に、あの封建時代がもっていた、負の側面にも、目を向けねばならない。武士
がいう、武士道とやらの陰で、いかに多くの民衆が、しいたげられたことか。恐怖におの
のいたことか。一部の特権階級を守るために、犠牲になったことか。

 決して、武士道を、無批判なまま美化してはいけない。それが私の考えである。

(3)心を考える  **************************

●高齢者の虐待

 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の
介護サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったとい
う(03年11月〜04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待
があったということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。
 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。
夫が虐待するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いとい
うことになる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

(1)殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2)ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3)食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4)財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。こうし
た虐待は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。最近の若者のう
ち、「将来親のめんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理府、内閣府
の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。今の若者たちほど、恵まれた環境の中
で育っている世代はいない。飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。
本来なら、親に感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだっ
たの」「こんなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う。(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそ
う言うのだが……。)子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。しかしその家は、決して安住と、やすらぎ
の場ではない。心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。こ
れはもう、立派な虐待と考えてよい。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信を
いだいている。それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。子どもの心は、その受験期をさ
かいに、急速に親から離れていく。しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。あなたの周辺には、心の暖か
い人もいれば、そうでない人もいる。概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でい
た人ほど、今、心の暖かい人であることを、あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生
まで、連続して教えたことがある。そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心が
その受験期にまたがって、大きく変化するのを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、
ドライで、合理的になる。はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」
というような考え方を、平気でするようになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言
えない。つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と
言うだろうか。……言うことができるだろうか。あなた自身の老後も念頭に置きながら、
もう少し長い目で、あなたの子育てをみてみてほしい。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

++++++++++++++++++++++

少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

++++++++++++++++++++++

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほ
ど、子どもの心にあてはまる諺はない。きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえ
た過負担が続くと、子どものものの考え方は、まさに悪魔的になる。こんな子ども(小
四男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、い
つも他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、
ごくふつうの子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」
とか、「殺」とかいう文字もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこ
からは血がタラタラと流れていた。ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、二時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその
日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの
中から引きずり出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような
残虐事件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。一人の子ども(小
二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったというのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大き
な問題になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学
生)もいた。牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もい
た。ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つ
かまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつ
けて、殺してしまった子ども(小三男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなく
し、いわゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担
や過干渉が原因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を
何らかの形で発散させようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによっ
て説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく
知られている。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲には、心が温か
い人もいれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、
心が温かいということを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつける
のはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。そ
れを忘れてはならない。
(040419)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。それは事実だが、破壊された子ども、あ
るいはそのままおとなになった(おとな)が、それに気づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。本当の問題は、「では、なぜ、親
たちは、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。学歴のある人は、とことん得
をし、そうでない人は、とことん損をした。こうした不公平を、親たちは、自分たちの日
常生活を通して、いやというほど、思い知らされている。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。意識を変え、制
度を変え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。おかしいことは、「お
かしい」と言う。そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日
本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。しかしこれだけは
言える。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、
遅いということ。そのとき、気づいたのでは、遅いということ。今ここで、心豊かな親子
関係とは、どんな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよう。
(040420)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老人百様

 ほとんどの老人たちは、美しく老いる。そういう老人たちを見ながら、「私もああなりた
い」「ああいうふうに余生を送りたい」と思う。

 しかし中には、そうでない老人もいる。

 巨億の資産をもちながら、一方で、ささいな土地の権利を争っている老人がいる。ある
いは近所に人が、道路に車を駐車しただけで、それを写真にとって、警察へ送っている老
人もいる。ささいな見栄やメンツにこだわって、世間体ばかり気にしている老人もいる。
みな、80歳を過ぎた老人たちである。

 そういう老人たちを見ると、「生きるということはどういうことなのか」と、そこまで考
えさせられる。「残り少ない人生を、どう考えているのだろうか」とか、「死ぬことで、宇
宙もろとも、すべてをなくす人が、なぜそんなことをするのだろうか」とか、いろいろ考
えさせられる。私には、そういった老人たちが、どうにもこうにも、理解できない。

 「残り少ない人生だから、もう妥協したくない」と考えるのだろうか。あるいは老人に
なればなるほど、ますますガンコになるのだろうか。

 今夜もワイフと、そんなことを話しあう。

ワイフ「近所の、Hさんね、夫婦で歩いているところを見たことがないわ」
私「そう言えば、そうだな。二人とも、今年、80歳になるんじゃないかな?」
ワ「そういう夫婦もいるのね」

 Hさん夫婦は、この近くに住んで、もう25年になる。退職する前は、ずっと共働きだ
った。それはわかるが、その25年の間、夫婦で買い物でも何でも、いっしょに歩いてい
るところを、私たちは見たことがない。

私「そうだな……。そう言えば、見たことないなア……。昔の人は、みな、そうだったみ
たい……」
ワ「でも、そんな夫婦生活、私なら、耐えられないわ」
私「しかし、夫婦には、形はないからね。どんな夫婦でも、夫婦だよ。自分たちのスタン
ダード(基準)を、押しつけてはいけないよ」と。

 実際には、そういう夫婦もいる。

 少し話が脱線したが、老後になればなるほど、その生きザマも先鋭化する。極端になる。
そういうことはある。もっとも、それまでにボケれば、それまで。

 では、どうするか。

 釈迦も『精進(しょうじん)』という言葉を使った。つまり死ぬまで、とにかく前向きに
生きるということ。立ち止まってはいけない。休んでもいけない。いつも考え、そして行
動する。そういう生きザマそのものに中に、生きる意味がある。

 こうした、つまりあまり手本にならない老人たちの特徴といえば、いろいろある。まず、
(1)世間とのかかわりが、少ない。どこか家の中に引きこもり、好き勝手なことをして
いるといったふう。近所の清掃活動すら、しない。

 つぎに(2)5年単位、10年単位でみたとき、進歩や変化がない。どこか、生きザマ
そのものが、停滞している。ものの考え方や行動が、保守的。「私は完成された人間」とい
うような、おごりすら、感ずる。何かにつけて、過去の栄光や肩書きをひけらかす。

 もう一つは、(3)「何とかなる」式の、生き方をしているということ。全体としてみる
と、不幸に向って、まっしぐらに進んでいるのに、1年先はおろか、自分の明日すら、見
ようとしていないこと。生きザマが、どこか無責任。

 私たちはいつも、前に向って、何かに挑戦していく。開拓していく。戦っていく。新し
いことを学び、そして知る。まさに「精進」ということになるが、心豊かな老後は、そう
いう生きザマの中から生まれてくる。

 老人がおちいりやすい罪悪に、10個ある。

(停滞)……今日は、昨日と同じ。明日も、今日と同じ。
(復古)……何でも過去がよかったと言う。
(固執)……がんこになる。他人の意見に耳を傾けなくなる。
(孤立)……他人との関わりをもたない。
(依存)……だれかに依存しようとする。そのために画策する。
(服従)……「老いては、子に従え」式の生きザマを正当化する。
(保守)……過去を繰りかえそうとする。
(怠惰)……ことさら体の不調を理由に、だらしなくなる。
(反復)……同じことを繰りかえす。
(失望)……夢や希望をもたない。未来への展望をもたない。

 老化は、だれにもやってくる。例外はない。しかし忘れてならないのは、人は、50歳
を過ぎると、自分の「老い」を感ずるようになる。しかしそれから先、老後は、何と、3
5年近くもあるということ。(35年だぞ!)

 その老後は、あなたの少年少女期と、青年時代を加えたりよりも、長いということ。そ
の長い期間を、どう過ごすか。どう生きるか。これはだれにとっても、きわめて重要な問
題である。
(はやし浩司 老人 老人問題)

【追記】

 昔、若いころ、私は東京のG社という出版社で、雑誌の編集を手伝っていた。そのとき
世話になったのが、S氏という編集長だった。

 S氏は、G社を退職したあと、G社の子会社の出版社の社長を勤めた。が、その直後、「洗
面器いっぱいの血を吐いて」(S氏)倒れた。

 がんである。

 手術で、何とか一命をとりとめたが、それからのS氏の生きザマがすごかった。そのと
きすでに55歳を超えていたが、運転免許を取り、車を買った。で、これはあとから奥さ
んに聞いた話だが、S氏は、一年間に、何と10万キロ以上も日本中を走り回ったという。

 北海道のハシから、九州のハシまで、約2000キロだから、その50倍ということに
なる。

 S氏が、何を思い、何を考えて、そうしたのか、私は知らない。しかしその「10万キ
ロ」という数字に、私はS氏の生きることに対する執念のようなものを感じた。

(4)今を考える  **************************

●風R亭

 私とワイフは、山荘に名前をつけた。「風R亭」という名前である。どこか料亭風の名前
である。いや、本当は、「風R庵」もしくは、「風R荘」としようとも考えたが、どういう
わけか、「風R亭」とした。「庵」は、寺の名前みたい。「荘」は、老人ホームみたい。それ
で「亭」にした。それに「亭」のほうが、どこかやさしい。

 で、世の中には、おもしろいもので、同じ名前のレストランというか、料亭が、たくさ
んある。今朝も、インターネットで検索してみたのだが、何と、250件近くもヒットし
た。「同じように考える人もいるんだなあ」と、ヘンに驚いた。

 で、その「風R亭」。実は、その名前のレストランが、この近くにもある。以前から、そ
のレストランの前を通るたびに、「いつか、ここで食事をしよう」と考えていた。が、とう
とうその日がやってきた。

 朝起きると、ワイフが、こう言った。「今日は、浜名湖で船に乗ってみない? 帰りにあ
の風Rというレストランで、食事してみない?」と。

 私は、すぐ返事した。「いいよ」と。

 実は、私には、秘めた目的があった。私の山荘と同じ名前のレストランだから、マッチ
や小物など、そういったもので、同じ名前が印刷されたものがあるはず。パンフレットで
もよい。それをもらって帰る、と。

 が、そのレストランは、行ってみると、どこかパッとしないレストランだった。座敷は
あったが、「土日は、座敷の部屋は使えません」とのこと。しかたないので、手前のテーブ
ル席へ。サービスもあまりよくない。

 まわりを見渡しても、もらって帰るようなものもない。横を見ると、「風R」と印刷され
た、ナプキンがあるだけ。私はそのナプキンを、何枚か取ると、ワイフに渡した。

私「これ、山荘に飾っておこうか」
ワ「……」と。

 ワイフは、どこか不満顔。明らかに私の行為を、批判しているような目つきである。

私「山荘に客が来たら。出してあげればいい」
ワ「どこかで盗んできたのが、まるわかりよ」
私「盗んできたわけではないよ」
ワ「同じようなものよ」
私「それも、そうだな」
ワ「それに、浜松の人だったら、このレストランの名前を、みんな、知っているわ」
私「それも、そうだな」と。

 結局、そのナプキンは、家に帰ってから、ゴミ箱に捨てた。どうも、気分が重かった。
それにそんなナプキンでもてなされても、客人が喜ぶはずがない。私が「やっぱり捨てる
よ」と言うと、ワイフは、うれしそうに笑った。それで捨てた。


●安楽死

 犬のクッキーが、17歳になった。たいへんな高齢である。人間にたとえると、9倍し
て、153歳! (犬の年齢は、9倍するという。)

 目も、ほとんど見えない。耳も聞こえない。ウンチは、庭のいたるところで、少量ずつ、
する。歩くのがやっという感じで、一日の大半は、眠ってばかりいる。

 その話をすると、オーストラリアの友人も、アメリカ人の友人も、「ヒロシ、安楽死をさ
せてやれ」と言う。

 彼ら牧畜民族は、すぐそういう発想で、ものを考える。私たち日本人とは、かなりちが
う。

 昔、オーストラリアの友人の牧場で休暇を過ごしていたときのこと。何の気になしに、
散歩をしながら家の裏手にある林の中に入っていった。が、そこで私は、ゾーッとしたま
ま、足が立ちすくんでしまった。

 見ると、死んだ子羊が、木にぶらさげてあった。皮をはがれ、ところどころ、肉がむき
出しになっていた。その子羊は、その家族の食用の子羊だった。

 つまり彼らは、そういうことが平気でできる。だから、発想がちがう。家畜を殺すとい
うことについて、特別の罪悪感は、ない。もう一人のアメリカ人の友人も、馬を飼ってい
るが、けがなどで歩けなくなると、殺すという。しかも銃で、ズドンと。

 「日本人は、そんなことできないよ」と言うと、ワイフは、「でも、殺してあげたほうが、
結局は、その犬にとっても、幸福なのかもね」と。恐ろしいことを考える。残念ながら、
私には、そういう発想はない。

 「犬だって、自然に死ぬのがいいよ。あわてて殺さなくても、そのときがきたら、静か
に死ぬよ。点滴や手術までして、生かしてやろうとは、ぼくも思わないけど……」と。

 考えてみれば、彼ら白人は、ブタの丸焼きを平気で食べる。私も一度、それを見たこと
があるが、見たとたん、食欲が、どこかへ吹っ飛んでしまった。気味が悪かった。その話
をすると、ワイフは、こう言った。

 「白人って、目のついた魚を食べることができないでしょ。それと同じじゃ、ない?」
と。そうかもしれない。そうでないかもしれない。つまり、意識というのは、それぞれ、
みな、ちがうということ。日本人だけの意識で、ものを考えてはいけない。反対に、白人
だけの意識だけで、ものを考えてはいけない。

 その人がもっている意識などというのは、あくまでも、その人だけのもの。そういう前
提で考える。

 しかし私のばあいは、そのときがきたら、安楽死でもかまわない。私自身は、最後の最
後まで生きたいと思うが、へたに長生きをすれば、家族のみんなに、迷惑をかけてしまう。
そういう長生きだけは、したくない。

 だから……。とってつけたような結論になるが、今、精一杯、懸命に生きていく。その
とき、後悔しなくてもよいように……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

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お元気ですか?

子育て・月末会をもちたいと思っています。
以前は、毎週、そののち、毎月開いていましたが、
久しぶりに、というより、5、6年ぶりに再開して
みることにしました。

もし、よろしかったら、おいでください。

以下のように、ご案内申しあげます。

++++++++++++++++++++++

【子育て・月末会】

●みなさんの問題や、お子さんの問題を、いっしょに考えさせて
  いただきます。合わせて、最前線の育児論を!

         5月31日(月曜日)
         6月30日(水曜日)
(以後、毎月、月末、予定。土日、祭日に重なるときは、その前日。)

  場所……浜松市伝馬町311 TKビル3階、BW教室
  日時……10:00〜11:30AM
  費用……2回分、2000円、当日払い可能(2回分、まとめてお願いします。)

 申し込みは、前々日までに、電話053−452−8039まで、伝言を
 残してください。必ず、あなた様の電話番号を、お残しください。

 最小人数、5人。4人以下のときは、キャンセルし、当日までに、みなさんに
 連絡します。(希望者が5人以上になった、4月末から、もちます。)

 なお7月以降は、みなさんの動向を見ながら、決めさせてください。
 勝手なお願いですみません。

 BW教室への地図などは、下のアドレスをクリックしてください。(静岡新聞社
 公式ガイドブックより)

 またBW教室には、駐車場がありませんので、車でおいでの方は、
 どうか、近くの駐車場(有料)へ、車を駐車してください。

(BW教室)


 では、多数の、ご参加をお待ちしています。

 なお定員は、12人に限らせていただきます。ご了承ください。

【内容】できるだけ、みなさんのご質問にお答えするという方法で、
進めていきたいと考えています。

はやし浩司



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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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. **++ ※))
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. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.         ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 17日(No.410)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page045.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

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(1)子育てポイント**************************

●子どものバツ(「出て行け」は、ほうび)

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメ
リカでは、「部屋から出るな」と言う。

もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家から出て行く。「出
て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、
仲間どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)
が、そのよい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人
里離れたへき地でも、平気で暮らす。

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつ
ながっている。

日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみれ
ばバツなのだ。

集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書
いている。「皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき」と。
つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

一方、日本では昔から、「長いものには巻かれろ」言う。「皆で渡ればこわくない」とも
言う。そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはず
れるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何物でもない。

 この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を
強要された。農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿
者となり、社会から排斥された。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。
しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感
じなくなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。

「ローマへ来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で
来る日本人。年配者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにもあらわ
れている。日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリー
ター志望が、一二%もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職
業意識も変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分にあわない仕事はしない」
「有名になりたい」など。

三〇年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。
これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革
命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろ
うか。それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだ
ろうか。ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

++++++++++++++++++++++

●教育者の美談にご注意!

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。あ
るタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやってき
て、「あなたのもっているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼくはそのペン
で勉強をして、この国を救う人間になりたい」と。

しかしこの話はおかしい。「国を救う」という高邁な精神をもっている子どもが、だいた
いにおいて、物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れても、インクの補充などは
どうするのか。「だから日本人は豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレン
トは言いたかったのだろう。が、こんな事実もある。

一五年ほど前のこと。K県の私塾連盟の有志が、トラック一杯の学用品を、スリラン
カに送った。で、その二年後、その文房具がどう使われているか、二人の教師が見に
行った。が、それらの文房具はほとんど手つかずのまま、倉庫にしまわれていた。理
由を聞くと、その学校の先生はこう言ったという。

「父親の一日の給料よりも高価なノートや鉛筆を、どうして子どもに渡せますか」と。
「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。

似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もお
かしい。私がその場にいた親なら、「私はいいから、お前たちだけで食べろ」と言った
だろう。人間には、生きる誇りというものがある。その誇りを捨てたら、親もおしま
い。またこんな話も。

 運動会でのこと。これから一〇〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)
が、A君にこう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママ
に叱られるから」と。が、わざと負ければ、かえってB君のためにならないA君はと考え
て、途中から本気で走ってB君を追い抜いた……と。

ある著名な教育者が、ある雑誌の巻頭で披露した話だが、この話は、視点そのものがお
かしい。その教育者は、二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教え
たことのある人ならすぐわかるが、こういう高度な(?)思考能力は、小学二年生には、
まだない。仮にあったとしても、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたとい
うのだろうか。さらに、こんな話も……。

 ある教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。生徒たち(一年生)が、「先生の顔
はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因
は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出てい
た。

そこでその教師は、三〇分ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そ
して授業に再び臨んだ、と。その教師は、「私はそういうことまでして、心を大切にして
教えた」と書いていたが、この話もおかしい。

その三〇分間だが、子どもたちは何をしていたというのだろうか。その教師は子どもた
ちを教室に残したまま、一人であぜ道を歩いたということだが……。

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注
意したらよい。私の経験からでも、こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身
のない教育者ほど、こうした美しい話で、自分の説話を飾りたがる。

(2)今日の特集  **************************

●日米関係

 数日前の世論調査(Y新聞・04・04月)を見ると、日本国憲法改正に賛成している
人が、50%近くもいることがわかった。

 賛成であるにせよ、反対であるにせよ、どちらにせよ、つまり、常識的に考えても、今
の憲法は、いろいろな意味で、現実にそぐわなくなってきている。そういう意味では、今
の憲法あまりにも、理想的すぎる? もう少し、広い視野で、憲法を考えてみよう。

 日本は、敗戦の日まで、世界に向けて、さんざん戦争をしかけていた。当時のナチス・
ドイツに並んで、もっとも好戦的な国だった。

 しかしアメリカ軍に、こっぴどく叩かれて、敗戦。とたんに、日本は、平和国家(?)
に変身した。まさに180度の大変身である。が、そのとたん、平和国家? 「もう、戦
争はしません」と、世界に向けて宣言した。

 日本は、それでよいとしても、日本を取り囲む、まわりの国は、それをよしとしなかっ
た。とくにスターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・朝鮮などなど。こ
ういった国々は、当然のことながら、日本への報復を考えた。今も、考えている。

 が、戦後の日本の平和を守ったのは、平和憲法ではない。(そういうふうに主張している
人も、多いが……。)

日本の平和を守ったのは、皮肉なことに、日本に駐留する、アメリカ軍である。このア
メリカ軍がいるため、ほかの国々は、日本に対して手も足も出せなかった。もし、アメ
リカ軍が駐留していなかったら、あのドイツのように、日本は、今ごろは、こなごなに
解体されていたことだろう。

 この点について、「今の平和憲法が、戦後の日本の平和を守った」と考える人がいる。し
かしいくら、日本が「もう戦争はしません」と宣言したところで、向こうから戦争をしか
けてきたら、どうするのか。そのときでも、日本は、「戦争はしません」と、のんきなこと
を言っていられるだろうか。

 日本を攻撃しようとする国にとっては、日本の平和憲法は、ただの紙切れでしかない。
むしろそれがあるほういが、つごうがよい。その国は、日本に対して、やりたい放題のこ
とができる。日本は、反撃することさえできない。

 一方、今のアメリカには、日本は、なくてはならない国である。膨大な貿易赤字で暴落
しそうなドルを、懸命に買い支えているのが、この日本だからである。もし日本が、アメ
リカのドルを買い支えなかったら、今のアメリカは、そのまま奈落の底に落ちていく。

 日本は、貿易でせっこらせっこらと稼いで、そのお金で、アメリカのドルを買い支えて
いる。言うなれば、日本は、アメリカにとっては、大切な金庫番ということになる。その
ため日本のことを、「アメリカの第51番目の州である」とヤユする人もいる。不愉快な言
い方だが、しかし、現実を見るかぎり、それほど、まちがっていない。

 で、今、日本は、K国問題をかかえ、戦後最大の危機に直面している。そのK国は、「日
本向け」と称して、核兵器を増産している。パキスタンのカーン博士は、「3個の核爆弾を
見た」と、証言している。

が、日本の味方は、アメリカをのぞいて、だれもいない。仮に日朝戦争ということにな
れば、韓国はもちろんのこと、中国も、ロシアも、K国に加担するだろう。日本が、今、
置かれている立場は、それほどまでにきびしい。

 で、こういう状態のとき、どこのどの国が、K国の無謀な野心にブレーキをかけてくれ
るのか。かけることができるのか。……ということになると、やはりアメリカしかいない。
悲しいかな、今の日本は、アメリカに頭をさげざるしかないのである。

 政治は、どこまでも「現実」の問題である。とくに国際政治は、そうである。日本だけ
が、「私たちは戦争をしません」と叫んだところで、意味はない。

この極東においてさえ、徴兵制がない国は、日本だけ。「いい子にしていれば、外国が攻
めてくることはないはず」と考えるのは、あまりにも甘い。甘いことは、実は、私たち
日本人が、一番、よく知っている。

かつての日本は、そういう甘い考え方をしている国々を、つぎつぎと占領していった。
(だからといって、徴兵制に賛成しているのではない。どうか誤解のないように!)

 しかしもう戦後、60年近くになる。日本もいつまでも、自分たちの過去に恥じて、小
さくなっている必要は、ない。言うべきことを言い、すべきことをする。多少の火の粉を
かぶるかもしれないが、それはしかたのないことである。

 平和主義には、二つある。「殺されても文句を言いません」という平和主義。「いざとな
ったら、平和を守るために、戦うことも辞さない」という平和主義。私自身は、「いざとな
ったら、平和を守るために、戦うことも辞さない」という平和主義を支持する。

 平和というのは、前向きに戦ってこそ、守ることができる。「戦争はいやです」と、逃げ
回るのは、平和主義でも何でもない。ただの臆病(おくびょう)という。卑怯(ひきょう)
という。

 憲法改正。右翼思想的に考えれば、天皇中心の国家づくりということになる。それにそ
って、憲法第9条を改正する。憲法改正に賛成する人たちの意見は、おおむね、そのよう
な方向にそっていると考えてよい。

 ……ということで、この話は、ここまで。どうも私は、「天皇制」についての話は苦手。
子どものころから、「天皇!」と呼び捨てにしただけで、父親に、なぐられた。伯父にも、
なぐられた。そういう経験がある。だから今でも、この問題を論ずるときは、心のどこか
でツンとした緊張感を覚える。


●人質、3人、無事、救出!

 4月15日。イラクの武装グループに捕らわれていた、日本人3人が、無事解放された。
その日の夜9時ごろのことだった。

 「よかった」と思うと同時に、何かしら、割り切れないものを感じた。当初、人質とな
った家族は、テレビ画面に向って、こう叫んでいた。

「私たちを見捨てないでください」
「助けてください」と。それはわかる。しかし一人の男性(人質の家族)は、こう言っ
た。

 「政府は、全力で救出すると言った。だったら即時、自衛隊をイラクから撤退させろ。
それもしないで、何が全力だ!」(テレビ報道)と。その中の一家族は、バリバリのK党一
家だったという(週刊S誌)。

 しかしこれは、いくらなんでも、少し、言い過ぎではないのか。人質の安否を心配する
とはいえ、3人は、度重なる渡航自粛勧告を無視して、イラクに入った人たちである。「ア
ラビヤ語はおろか、英語も、満足に話せないような人たち」と書いている週刊誌もあった。

 そのせいか、マスコミの反応は、きわめて冷ややか。「よかった」と書きながら、どこか
で「自己責任」を追及しているような論調である。ある国会議員は、こう言った。「遊泳禁
止の旗の立っているところで、泳いで溺れたようなもの」(Y新聞)と。私の心情も、それ
に近い。

 率直に言えば、「甘い」の一言。こんな話もある。

 オーストラリアの友人が、こんなことを書いてきた。

 「ときどき、日本の若者が、自転車で、オーストラリアを横断するとか、一周するとか
言ってやってくる。ヒロシ、君の力で、そういう無謀なことをやめるように、日本の若者
たちに言ってくれないか」と。

 その友人は、向こうで、ロータリークラブの理事などをしている。そしてそういう救出
要請の連絡が入るたびに、みなで救出に駆りだされるという。迷惑するという※。

 「それに、紫外線情報が出されている最中に、炎天下で自転車に乗っている。クレージ
ー(狂っている)」とも。オーストラリアでは、紫外線による皮膚がんの患者が、毎年10%
前後の勢いでふえている。

 冒険したい気持ちも、わかる。野心もあるだろう。しかしどこか、ピントがズレている。
人質となった一人の若者は、劣化ウラン弾の取材のために、イラクに渡ったという。もう
一人の女性は、まずしい子どもたちの教育のために、イラクに渡ったという。

戦争が始まる前から、そういう活動をしていたという実績があるなら、まだ話はわかる。
が、どこか、戦争にこじつけたような活動? 一見、理由があるようで、ない。私には、
「?」な行為としか、思えない(失礼!)。

 今朝(16日)、あちこちのテレビを見たが、家族の人たちは、さかんに「ありがとうご
ざいました」「よかったです」とは言っていた。しかしまだ私は、「みなさんに、ご迷惑と
心配をかけて、すみませんでした」という声を聞いていない(4・15日夜現在)。

 考えてみれば、これもおかしなことだと思うのだが……。

【追記】3人は、チャーター機(チャーター機!)で、ドバイへ向ったあと、政府専用機
で、A外務副大臣といっしょに帰国するという。しかしその費用は、だれが負担するのか。
また日本政府は、そこまでしなければならないのか。ただただ疑問。

 また3人のうち、女性のTさんと、写真家のK氏は、記者団の質問に答えて、「これから
も活動をつづけます」と明言したという。Tさんは、こうも言った。「どうしてもイラクが
嫌いになれません」と。

これに対して、小泉首相が怒った。「みんな、寝食を忘れて救出活動をした。自覚してほ
しい」と。私も同じ意見。その言葉を聞いて、私も、「もう、いいかげんにしろ!」と、
思わずつぶやいたが、それが、おおかたの日本人の気持ちではないのか。

(※)自転車で走っている間に、途中で動けなくなったり、自転車が故障したりするケー
ス。病気になって倒れるケースもあるという。さらにじゅうぶんな準備もしないでやって
くるというケースもあるという。紫外線などにより、外出自粛令が出ているようなときで
も、日本の若者たちだけは、平気で自転車に乗っているという。友人は、それを「クレー
ジー」という。

 
●年金、この不公平!

 官民の年金の不公平さについては、いまさら、言うまでもない。しかし、金額だけの問
題ではない。こんな事実も指摘されている(「文藝春秋」04・5月号・伊藤惇夫氏)。

 公務員には、「転籍特権」という、特権がある。

 たとえば公務員のばあい、それを受給していた夫が死亡したようなとき、その遺族が、
ひきつづき、その年金の4分の3程度を、「遺族年金」として受給することができる。

 わかりやすく言えば、夫が死んだあとも、妻は、遺族年金を受け取ることができるとい
うこと。が、それだけではない。さらに妻が死んでも、子どもが18歳未満のときは、今
度はその子ども、もしくは、父母が、その遺族年金を受け取ることができる。

 そんなわけで、「官民格差は、死んでからも、生きている」(伊藤惇夫氏)と。

 もちろん、一般企業のサラリーマンや、自営業者には、こんな転籍特権はない。本人が
死んだら、それでおしまい! ゼロ! 遺族は、1円も、もらえない。

 だれでもおかしいと思う。おかしいと思うが、何もできない。日本には、そういうしく
みが、できあがってしまっている。官僚主義国家という「しくみ」である。

 こうしたしくみの中で、もっとも、「?」なのは、あの「審議会」という「会」。

 ほとんどの審議会は、担当の役人が、開く。方法は簡単。まず、イエスマンや、その道
のド素人だけを集める。人選に関する基準など、どこにもない。その指針もない。座長に
は、たいてい著名人を起用する。

 審議会はたいてい数回程度で終わる。重要案件でさえも、10回を超えることは、まず
ない。

 シナリオは、最初から、役人によって用意されている。たいていは、「資料」という形で、
委員に配布される。あとは、それに添って、審議していくだけ。一応、議論という形をと
るということもあるが、ほとんどのばあい、一人の委員の発言は、一回、5〜10分程度。
ふつうは議論になる前に、審議打ち切り。

 (議論になりそうな案件については、委員の数を多くする。こうして各自の発言時間を
少なくする。)

 こうした審議会に多く参加してきたことのある、M東大元教授ですら、こう言っている。
「テレビタレントやスポーツ選手ばかりを集めて、何が、審議会だ」と。もともと議論ら
しい議論ができる連中ではない。

 で、こうした審議会から出される「答申」は、抽象的であればあるほど、よい。わけの
わからないものであれば、あるほど、役人にとっては、よい。自分たちのつごうのよいよ
いに、どのようにでも解釈できる。

 で、あとは、役人たちは、その答申に従って、やりたい放題。まさにやりたい放題。

 ……これが、日本の官僚主義の基本になっている。そしてその結果が、今の日本である。
年金の官民不公平などは、氷山の一角の、そのまた一角にすぎない。

私「まさに、日本は、官僚主義国家。最終的には、『天皇』という最高権威をもちだすこと
で、民を従わせる。この図式は、奈良時代の昔から、まったく変わっていない」
ワイフ「じゃあ、この日本を変えるには、どうしたらいいの?」
私「無理だろうね。与党の党首も、野党の党首も、皆、元中央官僚。主だった県の県知事
も、副知事も、皆、元中央官僚。大都市の市長も、皆、元中央官僚。そんな日本を変える
となると、それこそフランス革命のような革命でも起こさないかぎり、無理」

ワイフ「役人の権限を小さくするとか、そういうことはできないの?」
私「それこそ、絶対に無理。国家公務員や地方公務員だけでも、今の今でさえ、ふえつづ
けている。その数、450万人。日本には、このほか、準公務員と呼ばれる人たちが、そ
の数倍は、いる」
ワイフ「給料はどうなっているの?」

私「いまだかって、地方自治体ですら、その手当て額を公表したことがない。しかし予算
から逆算すると、公務員は、一人あたり、800〜1000万円の年収(伊藤惇夫氏)と
いうことになるそうだ」
ワイフ「すごい、高額ね」
私「そうだよ。大企業でさえ、平均して、650万円程度だからね」

 ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなたも、公務員かもしれない。あなたの家族
の中に、1、2人に公務員がいるかもしれない。私は、何も、そういう一人一人の公務員
が悪いと言っているのではない。

 ただ、こんなバカな政治をつづけていたら、遅かれ早かれ、日本は、本当にダメになっ
てしまうということ。今の「あなた」は、それでとりあえずは、よいとしても、あなたの
子どもは、どうする? あなたの孫はどうする? そういう視点で、日本の未来を考えて
みてほしい。

ワイフ「公務員の人たちって、死んでからも、年金がもらえるなんて、知らなかった……」
私「そうだね。ぼくも、驚いた。そういうような、つまり、自分たちにとって、どこかつ
ごうの悪い情報は、絶対に公表しないからね……」
ワイフ「でも、ずるいわ。議会は何をしているのかしら? 日本は民主主義国家なんでし
ょ」
私「一応ね。しかし議会の議員は、もっと手厚く保護されている。いろいろな恩恵にもあ
やかっている。だから、官僚主義社会を批判できない。批判したとたん、その世界から、
はじき飛ばされてしまう」と。

 私の親しい知人のS市(50歳)は、ある都市で、ある役職のある仕事をしている。そ
のS氏が、こう言った。

 「林さん、市議会の議員たちね、自分で作文できる人は、まずいないよ。議会での質問
書も、それに対する答弁書も、みんな、ぼくたちが書いてやっているんだよ。ぼくたちに
嫌われたら、議場に立つことすらできないよ」と。

 日本のみなさんは、こういう現実を、いったい、どこまで知っているのだろうか。
(040417)


+++++++++++++++++++++++

●杉原千畝副領事のビザ発給事件

 一九四〇年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチス
の迫害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人六〇〇〇人に対して、ビザ(査証)
を発給した。

これに対して一九八五年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えら
れる勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された(郵政省発行
20世紀デザイン切手第9集より)。

 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、一一〇〇万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、ア
ウシュビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、四〇〇万人
ものユダヤ人が虐殺されたとされる。

杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたものだが、日本人は
この事件を、戦時中を飾る美談としてとらえる。郵政省発行の記念切手にもなっている
ことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとって
は偽善そのものと言ってよい。

 当時日本とドイツは、日独防共協定(一九三六年)、日独伊防共協定(三七年)を結んだ
あと、日独伊三国同盟(四〇年)を結んでいる。こうした流れからもわかるように、杉原
副領事のした行為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同
盟の協定違反の疑いすらある。

いや、だからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっているというのではない。
問題は、その先と言ったらといのか、その中味である。日本人は今になって、善人のふ
りをしているが、当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になっ
ても、その体質はほとんど変わっていない。

 もし仮にこの日本に、百万人単位の外国人不法入国者がやってくるようになったとしよ
う。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日本の経済を動かすまでになっ
たとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼びこみ、日本の人口の何割かを占めるよ
うになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし始めたとし
よう。

もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼らは日
本には同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと
払わない……。そのとき、あなたはどうする? あなた自身のこととして考えてみてほ
しい。

あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、
まさにそういう状況だった。つまり私が言いたいことは、あのゲーテやシラー、さらに
はベートーベンまで生んだドイツですら、狂った。この日本が狂わないという保証はど
こにもない。

現に二〇〇〇年の夏、東京都の石原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。
そして具体的に自衛隊を使った、総合(治安)防災訓練までしている(二〇〇〇年九月)。
石原都知事のような文化人ですら、そうなのだから、いわんや我々をや。

 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道してい
る。「日本人に『我々』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。日本が杉
原副知事をたたえるのは、あくまでも結果論。どうもすっきりしない。石原都知事の発言
は、「自分たち日本人も、外国で迫害されても文句は言いませんよ」と言っているのに等し
い。……と考えるのは、少し、考えすぎだろうか。


(3)心を考える  **************************

●私の中の二重人格性

 たとえば、通りを歩いていたとする。そのとき、だれかがカサを振りまわし、そのカサ
が、私の体にバンと当たったとする。

 これはあくまでも例である。

 そのとき、私の中で、二人の「私」が、それぞれ顔を出す。そして、こう言いあう。

A「何て、不注意なヤツだ。許さない。怒鳴り散らしてやれ!」
B「相手も、悪意があってしたのではない。黙って見すごしてやろう」と。

 こういうケースのとき、どちらの「私」が優性になるかは、そのとき次第である。気分
次第と言ってもよい。Aの私が優性になって、怒鳴り散らすときもある。Bの私が優性に
なって、そのまま笑って過ごすこともある。

 いいかげんといえば、そういうことになる。しかし、問題は、そのあとである。

 たとえばAの私のように、怒鳴り散らしたとする。しかしその直後から、私は、はげし
い自己嫌悪感に襲われる。そういうことをする、私を、もう一方の私が責める。「どうして、
お前は、もっと、ものごとを穏やかに解決できないのか!」と。

 しかし反対にBの私のように、その場をがまんして、やりすごしたとする。そのときも、
もう一人の私が、顔を出し、私を責める。「なんて、お前は、情けないヤツだ。臆病者。意
気地なし。これから先も、ことなかれ主義で、お前は生きていくのか!」と。

 こうした現象は、私だけのものか。それとも、みなに、共通して起こることなのか。ワ
イフに言わせると、そうした現象は、どうやら私だけのものらしい。ワイフは、こう言う。

 「そんなの争ってもしかたないでしょ。Bのあなたが、正しいに、決まっているでしょ」
と。

 私のワイフは、本当に気が長い。性格も、穏やか。結婚して以来、30年以上になるが、
大声で人と争っているのを、見たことがない。

 そこで私は、こういう現象。つまり私の中の、「Aの私」と、「Bの私」が争う現象を、
私の中の二重人格性がなせるわざではないかと、気づいた。たしかに私の中には、二人の
「私」がいる。

 攻撃的で、挑戦的な私。それに穏やかで、心のやさしい私。どちらか一人なら、私は、
そのつど、こうまで迷ったり、悩んだりしない。しかしいつも、中途半端(ちゅうとはん
ぱ)。そのため結局は、そのあと悶々と悩んでしまう。

 では、なぜ、私がこうした二重人格性をもってしまったかということ。はげしい気性の
私。それにおだやかで、心やさしい私。

 そこでずらりと、生徒たちを見渡してみる。生徒たちの中には、私に似た子どもがいる
のか。それともいないのか。

 あえて言うなら、かんしゃく発作のある子ども(あるいは乳幼児期にそうであった子ど
も)に、私に似た子どもがいる。ふだんは静かで、穏やか。しかし何かのことでキレると、
突然人が変わったかのように、大声を出して叫んだり、暴れたりする。

 私も、幼児のころ、記憶は確かではないが、そのかんしゃく発作があったかもしれない。
泣いたあと、その興奮から抜け出られず、よくしゃっくりをしたのを覚えている。泣いた
あと、しゃっくりが出るほどまで興奮する子どもは、それほど多くない。

 (注……私の3人の息子たちは、ワイフに似て、たいへん性格が穏やか。幼児のころか
ら、大声で泣き叫んだり、暴れたりしたのを、見たことがない。兄弟どうしで、暴力を振
るったのも、見たことがない。そのため、あとでしゃっくりが出るほど、興奮したことも
ない。

 そういう息子たちを今、思い浮かべてみると、やはり私だけが、特殊だったということ
が、わかる。)

 私の二重人格性は、どうやら、そういうところから、生まれたのかもしれない。(もちろ
ん、ほかにも、いろいろ原因は考えられるが……。)

 カーッとなって、興奮する。そして見境なく、怒鳴ったり、叫んだりする。そういう繰
りかえしの中で、Aの私ができた。しかしこのAの私は、本来の私ではない。もともとの
私は、私の息子たちのように、性格がおだやか。遺伝という視点で考えると、そうなる。)

 で、さらに問題はつづく。

 こういう二重人格性があると、ときとばあいによっては、心がバラバラになってしまう
ということ。どちらか一方なら、そういうふうにバラバラになることもないのだろう。自
分の中の二人が、葛藤することによって、わけがわからなくなってしまう。

 それがここに書いた、二人の「私」である。

 私は、今でも、そういう自分と戦っている。もちろん、やさしくて、心穏やかな私が、
本物の私であり、本来の私である。そういう自分をベースにして、もう一人の私と戦って
いる。

 考えてみれば、おかしなことではないか。50歳もすぎたというのに、いまだにそんな
ことで、戦っているとは! しかし言いかえると、こうした「私」は、実は、乳幼児期に
できたことがわかる。中学生や、小学生のときではない。もっと前である。すでに幼児の
ときには、私はそうなっていた……。

 だからいきおい、結論ということになるが、つまり子育てエッセーとしてまとめると、
こうなる。

 「子どもの興奮性は、とにかく抑えろ。子ども、なかんずく、乳幼児は、不必要に興奮
させてはならない」と。

 こうした二重人格性をもつと、苦労するのは、結局は、その子ども自身ということにな
る。どこかまとまりのないエッセーになってしまったが、この先は、また別のところで考
えてみたい。
(はやし浩司 かんしゃく発作 興奮性 二重人格性)
(040414)

【追記】かんしゃく発作は、家庭教育の失敗が原因で起こる。子どもの心を無視した一方
的な押しつけ、過干渉、威圧的な育児姿勢など。

 よくデパートや大型店で、幼い子どもが、ギャーギャーと泣きわめきながら、母親のあ
とを追いかけたり、床に寝転んだまま暴れたりするのを見かける。あれがかんしゃく発作
である。

 子どもがかんしゃく発作を起こしたら、子どもを叱るのではなく、家庭教育のあり方を、
反省する。

(4)今を考える  **************************

●英会話教師
 
 2か月ほど前、東京の英会話教室の講師(アメリカ人)が、生徒の学生(女子大生)と、
性的な関係をもって、その英会話教室を解雇されるという事件があった。

 そこでその英会話講師は、「解雇は不当だ」と、英会話教室の経営者を訴えた。「仕事が
終わってからは、何をしようと、それは、私の勝手だ」と。

 これから私の意見を書く前に、あなたなら、この事件をどう考えるか、少しだけ考えて
みてほしい。

 英会話教室の経営者の処分が正しいか。それとも、解雇された講師の言い分が、正しい
か。

 あえて私は、ここでは私の判断を書かないようにする。しかし、これから書くことは、
いわば同業者の世界では、常識である。その常識を書く。

 まず第一。日本へ来る、英会話講師というのは、一応、向こうで、その種のテストを受
けることになっている。いわば資格試験だが、資格試験と言えるほど、むずかしいもので
はない。大卒程度の学歴があれば、だれでも合格できる。「外国における、英語講師認定講
師」というような資格である。教員免許とは、まったくちがう。そういう資格試験だから、
当然のことながら、その中には、「?」のつくガイジン講師も多い。

 で、こうしたガイジン講師の世界では、「日本の女性とは、やり放題」が常識になってい
る。15年ほど前、「イエロータクシー」という言葉が使われたが、まさにイエロー(黄色
い)タクシー。「日本の女の子は、簡単に、のせてくれる」と。

 女の子だけではない。家庭の主婦だって、似たようなもの。日本で英語を教えるように
なって5年目の、ある知人の、K氏(アメリカ人、52歳)はこう言った。私が、「ガール
フレンドとは、うまくいっているのか?」と聞いたときのこと。「ヒロシ、どのガールフレ
ンドだい?」と。

 彼は、自宅のマンションで、3〜6人ずつのグループをつくって、家庭の主婦たちに英
会話を教えている。

 そのK氏が、「ぼくのことではない。ぼくも人から聞いた話だ」と断った上で、くどきの
奥義(おうぎ)を教えてくれた。

 「あいさつのとき、アメリカ流に、体を合わせて、相手の女性のほおに、軽く自分のほ
おをくっつけてみる。あるいはやはりアメリカ流に、ソファに腰かけたとき、それとなく
腰をくっつけて座ってみる。

 そのとき、何ら抵抗する様子を見せなかった女性は、1か月でモノにできる」と。
 
 こういう現実を、世の夫諸君たちは、どれほど、知っているだろうか。もっとも、そう
いう性的関係を楽しむために、英会話を学ぶ女性も多い。だから、私のような人間が、と
やかく言ってもはじまらない。男も、女も、しょせん、スケベ心は同じ。それぞれがそれ
ぞれの方法で、人生を楽しめばよい。

 それに幸いなことに(?)、日本には、道徳規範もなければ、宗教的制約もない。「エン
コー(援助交際)」という売春にしても、今では、珍しくもなんともない。今では、その先
へと進んでいる。そういう日本である。

 いわゆる不良ガイジン講師をクビにした、経営者。それはヨークわかる。しかし「何で、
そんなことで!」と、開きなおるガイジン講師。それもヨークわかる。その間には、どこ
かおかしい、どこか狂っている、日本の現代の世相がからんでいる。

 さてあなたは、どちらの言い分が、正しいと思うか。


●バカは相手にしない

 バカなことをする人を、バカという。それはわかる。しかしそのバカな人が、あなたに
対して、バカなことをしたら、どうするか。

 方法は、簡単。無視すればよい。バカを相手にすると、自分も、そのバカにまきこまれ
てしまう。そして気がついたときには、自分も、そのバカな人になってしまう。

 だから、無視。ただひたすら、無視。

 以前、自治会長に、こんな話を聞いたことがある。信じられないような話だが、事実で
ある。

 町内の一角に、農地を宅地開発した小さな団地がある。その団地には、寄り添うように
して、30軒ほどの家が並んでいる。その中の一軒の人が、夜な夜な、隣近所の家々に、
石を投げるというのである。

 理由はよくわからないが、車の駐車のし方が悪いとか、夜中に雨戸の開け閉めをしたと
か、木の枯れ葉が落ちてきたとか、そういうささいなことが理由で、そうするらしい。

 で、最初に、道路をはさんでその家の反対側にある家の人が、家を出ていってしまった。
警察にも相談したが、「証拠がない」「現行犯でないと……」ということで、話にならなか
ったという。

 つぎに、その隣人も、家を出ていってしまった。カベにペンキを塗られたり、あるいは、
生ゴミの袋を、窓にぶつけられたりしたからだ。

 実際、こういう少し頭の「?」な人が、近所にいると、本当に困る。これは別の人の話
だが、こんな話を聞いたことがある。

その人は、道路の車が、異常に気になるらしい。近所の人が、ふいの用事で、車を道路
にとめたりすると、それをいちいち写真にとって、警察に「告発」している、と。

 それにはちゃんと、「告発状」と書いてある。「法律違反だから、処罰せよ」と。

 工事のために、トラックがとまるのも、ダメ。その人は、すぐパトカーを呼ぶという。
その話をしてくれた人は、こう言った。「まともな人なら、喧嘩もしますが、どこか『?』
な人だから、相手にしたくありません」と。

 こういう「?」な人というのは、ある一定の確率で、現れる。しかし決して、少ない数
ではない。100人に一人とか、200人に一人とか……。程度の差もあるが、その程度
の軽い人まで含めると、もっと多いかもしれない。

 しかしこういうバカな人は、相手にしない。石を投げられた人も、最初のころは、本気
で、その人を相手にしてしまった。そしてそういうトラブルがこじれにこじれて、結局は、
家を出るハメに、なってしまった。

残念ながら、道理のわかる人が、道理のわからない人を相手にするときは、たいへん。
道理のわからない人よりも、はるかにエネルギーを消耗する。それにこの日本には、そ
ういう被害者を救済する手段も、方法もない。裁判で争うという方法もあるというが、
実際には、それもわずらわしい。

 そこで無視する。というのも、こういうバカな人は、必ず、自ら墓穴を掘る。ひとり芝
居をしているうちに、馬脚を現し、自分でころぶ。理由が、ある。

 人間の脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。一方で、バカなことをし
ながら、他方で、善人ぶったり、常識人ぶることはできない。できなくはないが、やがて
そのバカが優勢になる。そしてまさに一事が万事といった状態になる。そして自滅してい
く。

 バカな人は、あらゆる場面で、バカなことをするようになる。そしてすぐに、だれから
も相手にされなくなる。先の近所の人の家に向って石を投げていた人も、廃品回収業らし
き仕事をしていたが、やがて仕事に行きづまってしまったという。

 そしてお決まりの自己破産。担当した不動産屋の社長は、こう言った。「一度、自宅を売
ろうとしたのですが、権利関係がメチャメチャで、売るに売れませんでした」と。

 これらの話は、あなたには直接、関係のないことかもしれない。しかしこれだけは言え
る。

 こうしたバカな人が、生きづらい世界を用意するのも、私たちの役目だということ。あ
るいはバカな人が、自分でそのバカに気づくように仕向けていく。そのためにも、あなた
の周辺から、常識豊かな世界をつくりあげていく。そういう力が集まったとき、この日本
は、もっと住みやすい国になる。


●自営業
 
 ふつう(「ふつう」という言葉は、慎重に使わなければならないが……)、自営業という
のは、家族経営である。家族、なかんずく夫婦は、たがいに助けあって、仕事を支えあう。
しかしその自営業でありながら、まったく夫の仕事を手伝わない妻というのもいる。

 Yさん(65歳、女性)は、夫と、従業員5人の町工場を経営してきたが、手伝う仕事
と言えば、家計簿をつける程度。会社の帳簿はもちろん、結婚してから30年になるが、
ただの一度も、自分の手を油で汚したことがないという。

 Kさん(52歳、女性)もそうだ。夫は、K市の北で、司法書士の仕事をしているが、
電話番すらしたことがないという。ときどき夫が、酒の勢いを借りて、「仕事を手伝ってほ
しい」と言うのだが、「はい」と返事をするのはそのときだけ。事務所の掃除すら、夫に言
われないとしないという。

 そうでない女性には、信じられないような話かもしれないが、実際には、そういう妻も、
いる。

 こうした女性に共通するのは、どこかゆがんだ職業観。「仕事をするのは、男。女は家事
だけしていればいい」と、おかしな割り切り方をする? よくわからないが、どこか、や
はりふつうではない。

 しかし夫婦というのは、そういうものか。何10年もいっしょに住んでいると、それぞ
れが独得のパターンをつくる。一つとして同じ形はないし、それゆえに「ふつうの夫婦」
というのもない。とくに自営業の夫婦は、そうだ。

 ところで先日、NHKテレビを見ていたら、チンドン屋の夫を、半世紀以上にわたって
支えてきた妻が紹介されていた。妻自身は、俳句が趣味で、同人誌を出している。しかし
夫が仕事に出ると、自分では、そのうしろで、チラシを配って歩くという。私はその番組
を見ながら、「いい夫婦だなあ」と思った。そういう夫婦も、いる。

 ……やはり、ここで言えることは、「ふつう」というのを、無理にあてはめてはいけない
ということか。人は、みな、それぞれ? そういう前提で、夫婦を考え、家族を考え、自
営業であれば、自営業を考える。くだらないことのようだが、ふと、今、そんなことを考
えた。


●フリップ・フロップ理論
 
 ぐうたらな夫。自分勝手な子どもたち。そういうとき妻は、「もう、どうにでもなれ!」
と思う。思うが、しかし投げ出すわけにはいかない。離婚できれば、それがよい。話は簡
単。子どもを連れて、家を出ればよい。しかしそれもできない。世間体もある。見栄もあ
る。実家の両親にも心配をかけたくない。何よりも大きな問題は、経済。お金。だから、
がまんする。だから、苦しい……。

 今、こうした状態で、板ばさみになっている妻(夫)は、多い。

 しかし人間の心というのは、不安定な状態には、長くは耐えられない。そこでどちらか
一方にころんで、安定しようとする。(あきらめて現状を受け入れるか)、さもなくば(離
婚して清算するか)、そのどちらかに、ころぼうとする。

こういうのを、心理学では、『フリップ・フロップ理論』という。もともとは、有神論者
が、無神論者に。無神論者が、有神論者に変化するときの、はげしい葛藤を意味する。(フ
ラフラした状態)を、「フリップ・フロップ」という。私は、勝手に「コロリ理論」を訳
している。

 たとえばことさら大声をあげて、神の存在を説く人ほど、コロリと、無神論者になった
りする。心理的に不安定な人ほど、よく騒ぐということ。反対に、本物の有神論者や、無
神論者は、静かに、落ちついている。

が、コロリといっても、そこには、過程(プロセス)がある。その過程が、これまた苦
しい。

 総じてみれば、人間の悩みや苦しみは、その中途半端な状態から生まれる。子どもの受
験期を例にあげて、もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 受験期を迎えると、たいていの親は、狂乱状態になる。子どもが長男、長女のときは、
とくにそうだ。二人目、三人目となると、多少の余裕もできる。しかしそれでも、「多少の
余裕」にすぎない。

 このとき、ほとんどの親は、「少しでもランクの上の学校を」と思う。C中学に入学でき
そうだと、「何とかB中学に」。そのB中学に入学できそうだと、「何とかA中学に」と。

 もちろんその反対のケースも、ある。B中学があぶなくなってくると、「何とか、B中学
に」。C中学もあぶなくなってくると、「せめて、C中学に」と。

 こうしてたいていの親は、はげしい葛藤(かっとう)を経験する。しかしこうした中途
半端な状態は、親の心理を、緊張させる。その緊張状態にあるところへ、不安や心配が入
りこむと、親の心理は、一気に、不安定になる。

 が、この状態は、長くはつづかない。つづけばつづくほど、精神の消耗がはげしくなる。
それこそ、身も心も、もたない。そこで親は、どちらか一方に、ころぼうとする。いや、
実際には、ころばされる。

 やがて受験競争も終盤になってくると、子どもの方向性が見えてくる。「何とか……」
「まだ、何とかなる……」という思いが、「いろいろやっては、みたけれど、あなたは、や
っぱり、この程度だったのね」という思いに変る。

 そしてあきらめる。受け入れる。そして我が身を振りかえりながら、「考えてみれば、何
のことはない。私だって、ふつうの親だ」と思い知らされる。

 こうして親は、コロリと人がかわったように、現状に納得するようになる。だから『フ
リップ・フロップ理論』という。この理論は、私がオーストラリアにいるころ、大学の講
義で知った理論である。(そのため、日本では、まだ紹介されていないと思う。インターネ
ットで検索してみたが、この言葉のあるサイトは、見つからなかった。)

 なお、もう少し詳しくこの理論を説明しておくと、こうなる。

 ここにも書いたように、本物の有神論者や、無神論者は、静かに落ちついている。多少
のことでは、ビクともしない。動揺もしない。

 しかし中には、ワーワーと騒ぐ、有神論者や無神論者がいる。たとえばだれかが、神の
存在を否定したりすると、「君は、何てこと言う!」と、猛烈にそれに反発したりする。

 一見、強固な有神論者に見えるかもしれないが、それだけ心の中は、不安定。このタイ
プの人にかぎって、何かのきっかけで、コロリと、無神論者になったりする。

 で、この理論を応用すると、こうなる。

 子どもの受験競争で、ワーワー騒ぐ親ほど、何かのきっかけで、今度は、受験競争否定
論者になるということ。子どもの受験期が終わったりすると、「受験なんて、無意味です」
「私は、子どもに、勉強しろなんて言ったことはありません」などと、ことさら口に出し
て言うようになる。

 それが悪いというのではない。これも、親の一つの心理ということ。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月14 日(No.409)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page044.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

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【子育て・月末会】

●みなさんの問題や、お子さんの問題を、いっしょに考えさせて
  いただきます。合わせて、最前線の育児論を!

      日時、4月30日(金曜日)
         5月31日(月曜日)
         6月30日(水曜日)
(以後、毎月、月末、予定。土日、祭日に重なるときは、その前日)

  場所……浜松市伝馬町311 TKビル3階、BW教室
  日時……10:00〜11:30AM
  費用……3回分、3000円、当日払い可能(3回分、まとめてお願いします。)

 申し込みは、前々日までに、電話053−452−8039まで、伝言を
 残してください。

 最小人数、5人。4人以下のときは、キャンセルし、前日までに、みなさんに
 連絡します。(希望者が5人以上になった、4月末から、もちます。)

 なお7月以降は、みなさんの動向を見ながら、決めさせてください。
 勝手なお願いですみません。

 BW教室への地図などは、インターネットでご請求ください。
 またBW教室には、駐車場がありませんので、車でおいでの方は、
 どうか、近くの駐車場(有料)へ、車を駐車してください。

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(1)子育てポイント**************************

●スキンシップは、魔法の力

 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう二
〇年ほど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。

アメリカのある自閉症児専門施設の先生の講演だが、そのときその講師の先生は、こう
言っていた。

「うちの施設では、とにかく『抱く』という方法で、すばらしい治療成績をあげていま
す」と。

その施設の名前も先生の名前も忘れた。が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」
と思ったことが、何度かある。言い換えると、スキンシップを受けつけない子どもには、
どこかに「心の問題」があるとみてよい。

たとえば緘黙児や自閉症児などの情緒障害児は、相手に心を許さない。許さない分だけ、
抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら丸太を抱
いているような気分なる。

これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっとりと身を寄せる。さらに肉体が
融和してくると、心臓の鼓動のリズムまで同じになる。で、この話をある会場で話した
ら、そのあと、一人の男性がこう言った。「子どもも女房も同じですな」と。つまり心が
通いあっているときは、女房も抱きやすいが、そうでないときは抱きにくい、と。不謹
慎な話だが、しかし妙に言い当てている。

 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論
として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然
である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘え
る。甘えることができる。

心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中
に染み込んでいくのがわかる。これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てら
れたような子ども(施設児)や、育児拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、
他人に心を許さない。つまりその分だけ、人に甘えない。

一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人の失敗や不幸を見ると、それをこと
さら喜んだりする。人をバカにする。人の欠点を見て、それを問題にする。ものの考え
方が、全体にひねくれる。つまりそういう姿勢が、その人をして、「信じられるのは自分
だけ」と思わせるようになる。

このタイプの子どもが、異常な自尊心や嫉妬心、虚栄心をもちやすくなるのは、そのた
めである。あるいは何らかのきっかけで、ふつうでないケチになることもある。お金や
ものにやはり異常に執着したりする。

もしあなたの子どもが、あなたという親に甘えないなら、あなたの子育てのし方のどこ
かに、大きな問題があるとみてよい。今は目立たないが、やがて大きな問題になる可能
性がある。

 ……と、今回は、かたい話になってしまったが、子どもの心の問題で、何か行き詰まり
を覚えたら、子どもは抱いてみるとよい。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするよ
うなときである。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたら、抱いてみる。
しばらくは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの
情緒(心)も安定する。

+++++++++++++++

●本を好きにさせるために

 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。数時間、図書館の中で自由に
遊ばせてみればよい。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察する。

サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を見る。動物が好きな子どもは、動物の本を
見る。それがその子どもの方向性である。その方向性に、すなおに従えば、子どもは本
が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。あるいは子どもの伸びる「芽」そのもの
をつぶす。ここでいくつかのコツがある。

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一〜二年、レベルをさげる。親というのは、
どうしても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七
歳の子どもには、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもを本嫌いにす
る。

「うちの子どもはどうも……」という心配があるなら、思いきってレベルをさげる。そ
して本の選択は、子ども自身に任す。こういう親がいた。子どもに、「好きな本をもって
きなさい」と言っておきながら、子どもが何か本をもってくると、「こんな本はダメ。も
っとよい本にしなさい」と。こういう身勝手さは、子どもを本から遠ざける。

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子
どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子ども
に何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。

少しだけでもひざに抱いて、読んであげるとか。これを動機づけという。この動機づけ
のよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買
ってきた本を、袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。無理や強制がよくな
いことは、言うまでもない。

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国
語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。こういうときは、子
どもが本を読んだら、一ページごと、質問してみるとよい。

「クマさんは、どこへ行きましたか」「ウサギさんは、どんな気持ちかな」と。あるいは
本を読み終えたら、その内容について絵を描かせるとよい。理解力のある子どもは、一
枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵を描く。そうでない子どもは、ある
部分だけにこだわった絵を描く。なお読解力のある子どもは、一ページを読むごとに深
く考えたり、挿し絵を見ながら読む。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは
言うまでもない。

 最後に、作分を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこ
と。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが
子どもを文字好きにする。

が、この日本では、「形」にこだわる。こだわり過ぎる。トメ、ハネ、ハライにしても、
毛筆時代の名残を、どうしてこれほどまでに大切にしなければならないのか。書き順に
してもしかり。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。
小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う
子どもは、五人に三人はいる。悲しいことだ。

(2)今日の特集  **************************

●老人のボケ

 家族の人たちには、それがわかる。しかし一歩、離れた他人には、それがわからない。

 私の近所で、こんなことがあった。

 あるときAさん(52歳女性)のところへ、近所に住むB氏(80歳男性)から、手紙
が届いた。読むと。「お前は、うちの盆栽を盗んだ。証拠が見たかったら、来い」と。

 実際には、支離滅裂な文面だった。Aさんが見せてくれた手紙の内容は、おおむね、こ
んなようなものだった。

「盗人、盆栽、告発状
 貴殿の汚れた手、
 天はすべてお見通し。
 
 今週までに返せ。
 証拠、見せてやる。警察、
 通報済みのはず。

 貴殿の悪行、地をはう、虫。
 盆栽、返せてくだされ」

 驚いて、AさんがB氏のところへ。ところが、どこかB氏は、にこやか(??)。玄関の
チャイムを鳴らすと、明るい声で、「今、開けます」と。

 しかしAさんは、怒った。「ドロボーとは、何ですか。私がいつ、あなたの盆栽を盗みま
したか。証拠があるのですか!」と。

 が、B氏は、「証拠はない」と。あっさりと、それを認めた。が、それでもAさんの怒り
は、おさまらなかった。B氏と30分ほど、大声でやりあったという。近くにB氏の妻も
いたというが、その妻は、昔からほとんど、人前ではしゃべらない人だった。

 Aさんが、「奥さん、何とか言ってください」と促しても、B氏の妻は、ただ「ウンウン」
と、うなずいているだけ……。

 実は、こういうケースは、たいへん多い。ボケるのは、本人の勝手だが、その結果、ま
わりの人たちに、いらぬ迷惑をかけてしまう。もっとも、はっきりと、だれの目にもボケ
ているのがわかるようなボケ方なら、よい。そういうボケなら、まだわかりやすい。が、
そうでないときに、困る。

 実際、そういうボケもあるそうだ。結構、言うことなすこと、まともなくせに、どこか、
言動かおかしくなる。理屈も、一応、通っている。道理も、わかっているような様子を見
せる。しかしどこか、おかしい。

 こういうボケは、始末が悪いらしい。私も、何度か、そういう人たちにからまれたこと
がある。一見、まともで、まともでない人たちである。

 本来なら、家族の人が、こういうことを、あらかじめ近所の人に知らさなければならな
い。しかしこういうケースにかぎって、家族の人は、それを隠そうとする。だからそれを
知らない、まわりの人たちが、不愉快な思いをさせられる。ばあいによっては、キズつく。

 ところで、こんなボケ診断テストがあるそうだ。ある本で読んだが、そのまま使えない
ので、私の方で、少し改変して、類似問題を考えてみた。

【あなたのボケは、だいじょうぶ?】

 一本のつり橋がある。ところどころ、板が抜けている。一度に、2人しか渡れない。し
かも20分後には、上流から土石流が流れてきて、橋は、つぶれる。

 時刻は、夜。真夜中。星はない。あたりはまっくら。手元にあるのは、懐中電灯、一個
だけ。懐中電灯がなければ、橋を渡ることができない。

 A氏はスポーツ選手。橋を渡るのに、1分。B氏は、腰を痛めている。橋を渡るのに、
5分。C氏は、足が不自由。橋を渡るのに、8分。Dさんは、女性。高所恐怖症。橋を渡
るのに、4分かかる。

 さあ、この4人は、どうやって、橋を渡ればよいか。繰りかえすが、懐中電灯は、一個
しかない。

+++++++++++++++

 さあ、あなたはこの問題を、何分で解けただろうか。一度、読み終わった瞬間、(1)解
きかたの方向性が思い浮かべば、あなたの頭は、まだ健康。しかし(2)数回読んでも、
その解き方がわからないようであれば、あなたの頭は、かなりサビついていることを示す。

 解き方の方向性さえわかれば、あとは、その方向性に沿って、この問題を解けばよい。

【考え方】

 スポーツ選手のA氏に、懐中電灯をもって、そのつど、往復してもらう。A氏が、ポイ
ントである。

まずA氏とB氏が橋を渡る。所要時間は、5分。B氏が渡ったら、A氏が、もどる。も
どったら、A氏は、今度は、C氏と橋を渡る。これを繰りかえして、3回目に、A氏は、
Dさんと、いっしょに橋を渡る。

 計算すると、5+1+8+1+4=18(分)ということになる。この方法で、橋を渡
れば、20分以内に、4人は、無事、橋を渡ることができる。

+++++++++++++++++

 私は、こうして毎日、エッセーを書いているせいなのか、やはり「文章」が気になる。

 私が最初、B氏がAさんに出したという手紙を見たとき、「B氏は、まともな人ではない」
と、直感した。「支離滅裂」という言葉を使ったが、手紙の内容は、まさに支離滅裂!

 ふつう文章というのは、書いたあと、何度も読みかえす。とくに、こうした重要な手紙
では、そうである。

 そのとき、つまり読みかえしたとき、自分が書いた文章の中におかしなところがあれば、
それに気づくはず。その「気づく力」が、知力ということになる。言いかえると、その(お
かしさ)に気づかないというのであれば、脳ミソは、かなりサビついているとみてよい。

 今、少子高齢化の問題が、世間で騒がれている。その高齢化には、こうした問題も、含
まれている。つまりボケの問題である。そしてその「ボケ」というと、そのボケた人だけ
の問題と考えがちである。しかしそれだけでは、足りない。

今、全国で、全世界で、Aさんが直面しているような問題で、不愉快な思いをしている
人は、多いはず。決して、無視できない。

 そのB氏だが、なぜ、B氏は、B氏のようになってしまったのか?

 Aさんは、こう言う。

 「B氏は、近所づきあい、人づきあいを、まったくというほどしません。隣のCさんに
聞くと、一年のうちでも、訪問者が一人いるかいないかという程度らしいです。一人息子
は、今、結婚して、大阪に住んでいますが、数年に一度くらいしか帰ってこないとのこと。
あとは、奥さんの友人が、2、3か月に一度くらい、遊びにくる程度とのことです」と。

 人づきあいをしないから、B氏のようになるというわけでもない。ボケたから、人づき
あいをしなくなったとも考えられる。が、しかし(人づきあい)が、ボケと、どこか関連
性があるのは、事実のようである。子どもの引きこもりと同じように、今、老人の引きこ
もりも、大きな社会問題になりつつある。

 そんなわけで、少し性急な結論かもしれないが、ボケを防止するためには、他人と積極
的にかかわっていく。それはとても重要なことのように思う。(新しい発見、ゲット!)

 そこであなたのボケ予兆診断。これは、Aさんから、B氏について聞いた話をヒントに
して、まとめたもの。

【他人とのかかわり度診断】

( )この数か月、あなたの家へ、友人として、あなたをたずねてきた訪問者は、ゼロ。(セ
ールスや、御用聞きなどは、除く。)
( )この数か月、だれかの家へ、友人として、訪問したことは、ゼロ。(仕事で訪問する
のは、除く。)
( )近所や、町内の仕事など、ここ数か月から一年以上、したことがない。近所の清掃
など、奉仕活動をしたことがない。
( )属しているスポーツクラブ、地域活動、役職などは、まったくない。いつも家の中
で、ひとり、ぼんやりしていることが多い。
( )趣味は、ひとりでできるものばかり。買い物、やむをえぬ冠婚葬祭などをのぞいて、
外出することは、ほとんどない。

 ここに書いた症状に近い人は、かなり注意したほうがよい。

++++++++++++++++

 そこで私のこと。この数年間、休んでいましたが、この5月から、再び「子育て教室」
を開講することにしました。

今までは、あくまでも「子育て相談」でしたが、これからは、私の脳ミソのボケ防止の
ためです。どこか、利用させてもらうようで、悪いのですが、よろしくお願いします。

(3)心を考える  **************************

●DEPRESSION(落ちこみ)

 サウンド・オブ・ミュージクという映画の中に、「私の好きなもの(My favorite things)」
という歌がある。

 ある雷の落ちる夜、マリアが、大佐の子どもたちをなぐさめるために、子どもたちに、
ベッドの上で歌って聞かせる歌である。

「♪バラの上の雨粒、子猫のヒゲ
 ピカピカのやかんに、暖かい、手袋……」と。

 落ちこんでいるときは、楽しいこと、楽しい思い出を、頭の中にえがくのが、よい。最
初は、脳ミソが、抵抗するかもしれない。どこかすなおになれないかもしれない。しかし
しばらく、「私の好きなもの」を思い描いていると、少し時間差をおいて、気分が楽になる。

 これは心の中の、不思議な現象と考えてよい。

 で、私のばあい、何かのことで落ちこんでいたりすると、ある特定のことで、悶々と悩
んだりする。ささいなことである。まったくこちら側に非がなくても、どういうわけか、
悩んでしまう。

 食欲が減退したり、ため息が多くなる。気分が晴れず、身の置き場がないように感ずる
こともある。ときどきワイフをぐいと抱きしめてみたりするが、(あるいは、反対に抱いて
もらうのかもしれないが……)、どうも居心地がよくない。

 そういうときは、奥の手を使う。

 「私の好きなもの」を、頭の中で思い描く。

★今までで、一番、楽しかったこと。
★今までで、一番、美しいと思った場所
★今までで、一番、おいしいと思った食べ物。
★今まで、一番、自分が輝いていたときのこと。
★今、自分が、一番、したいこと。

こういうことを、順に、頭の中で、思い描いていく。すると、そのときは、すぐには気
分が晴れなくても、何かのことで、つぎの仕事や家事をしたりすると、そのあと、ふい
と心が軽くなる。

 そういう意味では、人間の心は、単純なものだ。落ちこんでいるときの(自分)から見
ると、そうでないときの自分が、信じられない。しかしそうでないときの(自分)から見
ると、落ちこんでいるときの(自分)が、信じられない。

 脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、どうしても、その時点において、そのとき
の脳の状態を基準にして、ものを考えてしまう。

 しかし落ちこんでいるときの(自分)は、病気。心の病気。ちょうど、風邪で体が熱を
出しているようなもの。その(熱)があるからといって、その熱が、永遠につづくわけで
はない。決して、そのように考えてはいけない。

 ……ということは、よくわかっているが、しかし風邪をひくときには、ひく。落ちこむ
ときには、落ちこむ。

 だから、そういうときの救済方法を、あらかじめ、こうして考えておくことは、決して、
ムダではない。その一つが、「私の好きなもの」ということになる。

 そうそう私は、映画、「サウンド・オブ・ミュージック」が、大好きだった。何度も見た。
ビデオ版もDVD版も、もっている。少し前まで、レーザーディスク版ももっていた。

音楽もすばらしかったが、私は、生まれてはじめて、日本を離れた夢のような世界に、
この映画を通して触れることができた。

 それにもう一つ、理由がある。

 あの映画の中に出てくる、長女役の女性(リーズル役、シャーミアン・カー)が、大好
きだった。この話は、だれにも話していない、私の秘密だった。(ここではじめて、秘密を
暴露する。)

 ついでにインターネットで検索すると、その映画から35年後の7人の(子どもたち)
の写真が載っていた。私はうれしくて、それをすべてコピーした。(インターネットは、本
当にすばらしい!)

 で、レーズル役のジャーミン・カーは、すっかり、私と同年代ぽく変身していた。(当然
だが……。)しかしこれは、あくまでも、余談。


●子どもの不登校

 千葉県C市にお住まいの、DEさんより、子どもの不登校についての相談があった。

++++++++++++++++++
 
幼稚園の年長の秋頃から幼稚園に行けなくなりました。体操スクールでも突然、跳び箱
が怖くなり、無理やり連れて行ったりしてしまったので、吐くようになってしまい、卒
園式だけいきました。(親が一緒だといけるようなので……。)

小学校も入学式は、普通に行きました。翌日朝になって、通学班の6年生の男の子が、
おむかえにきてくれたら、行かないと泣き出しました。主人がまだ出勤前だったので、
主人が、無理やり車で連れって行こうとしたので、私は、幼稚園の時のようにしては、
いけないと思いそれは、それは、しないでと、お願いしました。

それでも、初日から休ませては、いけないかなと思い、ランドセルも、帽子もいいから、
お母さんと一緒に学校に行こうと誘い、とにかく連れて行きました。

最初は、先生が、保健室にいたらといわれたのですが、子どもが廊下をうろうろしてい
たら、教室を見てくると言い、家に帰ってランドセルを、取りに帰ると言いだしました。
それで、そのまま教室に入っていきました。でも、ひとりでは、教室には入られず、ず
っと廊下から見ていました。

それから、毎日学校に一緒にいます。これから、ずっと、一緒について、行かなければ、
いけないのでしょうか? どうして、うちのこだけがという思いと、ついていてあげな
くては、との思いや、これが、何時までとの不安が、夜も眠れず、ご飯も食べられず、
なんとか、日々過ごしていると言う状態です。

このさき、いままでの子育てが、まちがっていたのの、どこをどのように、母親として、
自分のどこを変えていったらいいのか、わかりません。どのように、していったら、い
いでしょうか?(千葉県C市、DEさん、母親より)

+++++++++++++++++++++

 子どもの不登校については、何度も書いてきました。どうか私のサイトの、「テーマ別子
育て論」をご覧ください。トップページの中段あたりに、それがあります。その中から、「不
登校」もしくは、「学校恐怖症」を選んで、ご覧になってください。

 またヤフーもしくは、グーグルの検索機能を使って、「はやし浩司 不登校」もしくは、
「はやし浩司 学校恐怖症」を検索してみてください。いくつかの記事にヒットするはず
です。(ちなみに、自分で「はやし浩司 学校恐怖症」検索してみましたら、ヤフーで、9
件、ヒットしました。)

+++++++++++++++++++++

 決して、DEさんを責めているのではない。DEさんは、今、子どものことで、たいへ
ん苦しんでいる。悩んでいる。それはわかるが、こうした問題は、「下」から見る。

 DEさんは、今、「自分の子どもは最悪の状態」と思っている。それもわかる。しかし決
して、最悪ではない。

 DEさんという母親がいっしょだと、学校へ行くということ。また教室の中でも、すわ
っておられるということ。同じ不登校(?)でも、症状は、軽い。先生も、そのあたりの
指導については、よく心得ていると思うので、先生に任せたらよい。

 少しずつ、心をほぐしていけば、やがて今の症状は、ウソのように消える。ここはあせ
らず、あくまでも子どもの立場になって考える。「いつまでもいっしょにいてあげるわよ」
という、やさしい心が伝わったとき、あなたの子どもは、安心する。

 この問題は、その「安心感」が、第一。

 DEさんには、子どもに対して、何かしら、大きなわだかまりがあるかもしれない。そ
の(わだかまり)が姿を変えて、心配先行型、不安先行型の子育てになっていると考えら
れる。

 今も、そういう状態にあると考えてよい。子どものよい面を見るのではなく、悪い面だ
けを見て、その上に、自分の不安や心配を、塗り重ねている。そして心のどこかで、(ふつ
うの子ども)(標準的な子ども)を思い描き、その子どもに、無理に当てはめようとしてい
る。

 こうした育児姿勢では、DEさんの、悩みは、いつまでたっても消えない。解決しない。
「もっとよくなるはず……」「さらに……」と、子どもを追い立てる。そしてそのたびに、
DEさんは大きな焦燥感を覚える。

 なぜDEさんは、子どもに向かって、こう言わないのか。

「あなたはがんばっているのよ」
「今日は学校へ、よく行ったわね」
「明日も、いっしょに行ってあげるよ」
「どんなことがあっても、ママは、あなたの味方よ」
「ママが、あなたを守ってあげるからね」
「ママも、あなたと勉強ができて、楽しいわ」と。

 繰りかえすが、今の症状は、同じ不登校の中でも、きわめて軽い。大切なことは、(今の
状態)を守り、これ以上、こじらせないこと。無理をすれば、「まだ前の症状のほうが、軽
かった」ということを繰りかえして、さらに症状は、重くなる。

 子どもが半日、学校へ行けるようになったら、「無理をしなくていいのよ。2時間で、お
うちへ帰ろうね」と言ってあげればよい。給食まで食べられるようになったら、「無理をし
なくていいのよ。午前中で、おうちに帰ろうね」と言ってあげればよい。

 そういう親側の心のゆとりというか、やさしさが、子どもの心を軽くする。

 この問題は、数か月単位でみること。「数か月前とくらべて、どうだ」と。

 まだ入学して、たったの数日(4月11日現在)!、なのに、もう「それから、毎日学
校に一緒にいます。これから、ずっと、一緒について、行かなければ、いけないのでしょ
うか? どうして、うちのこだけがという思いと、ついていてあげなくては、との思いや、
これが、何時までとの不安が、夜も眠れず、ご飯も食べられず、なんとか、日々過ごして
いると言う状態です」とは!

 DEさん、少し、短気すぎませんか? 結論を急ぎすぎていませんか? あるいは妄想
ばかりふくらませていませんか?

 お子さんは、心の緊張感がとれないで苦しんでいます。

 なぜ、心の緊張感がとれないか? つまりは、DEさん、あなた自身が、心を開いてい
ないからです。つまるところ、これはあなたの子どもの問題ではなく、あなた自身の問題
ということです。わかりますか?

 かなりきびしいことを書いてしまいましたが、数か月後の今ごろは、「そんなこともあっ
たわね」で終わるはずです。そういうたがいの明るい笑顔を想像しながら、ここは、どう
か、「今」を前向きに考えてください。

 何でもない問題ですよ! 不登校なんて!
(040410)


●被害妄想

 被害妄想のウラにあるもの。それはその人自身の、弱点と考えてよい。その弱点が反映
されて、その人の被害妄想につながる。私はこれを勝手に、『バック・ミラー現象』と呼ん
でいる。

 たとえば昔から、『泥棒の家は、戸締まりが厳重』という。なぜ厳重かと言えば、自分が
泥棒をしているから。そのため他人もみな、泥棒に見える。だから自分の家の戸締まりを
厳重にする。つまり人は、自分の弱点をカバーする形で、妄想をもちやすい。もう少しわ
かりやすい例で考えてみよう。

 たとえば年がら年中、浮気ばかりしている男がいる。そういう男にかぎって、妻の浮気
を心配する。交友関係を疑う。あるいは、自分の娘の帰宅時刻が少し遅れただけで、大騒
ぎする。娘を叱る。

 こんな例もある。

 近所に、X氏という人が住んでいる。そのX氏は、新築後まもない家の窓ガラスを、す
べて不透明な型ガラスにかえた。「隣人が、自分の家をのぞくから」というのが、その理由
だった。

 しかし実際には、隣人の家々をのぞいていたのは、そのX氏自身だった。つまり自分が、
いつも、他人の家をのぞいていたから、自分ものぞかれていると思った。だから、型ガラ
スにかえた。

 こうした被害妄想の背景にあるのは、結局は、自分自身の「弱点」である。その弱点を、
ちょうどバック・ミラーに映すようにして、人は、被害妄想をもちやすい。だから私は、『バ
ック・ミラー現象』と呼んでいる。

 そこで教訓。

 何かのことで被害妄想を感じたら、それは、あなた自身の弱点でないかと疑ってみると
よい。これはあなた自身の弱点を知るためにも、有効な方法である。と、同時に、それに
気がつけば、その被害妄想から抜け出ることができる。

 以上、私が、今朝、発見したことである。ハハハ!


(4)今を考える  **************************

●大学教授が、手カガミで……

 今朝(4・12)、とんでもないニュースが、飛びこんできた。何でも、W大学の現役教
授が、手カガミで、女子高校生のスカートの中をのぞいていたというのだ。現行犯逮捕だ
という。弁解の余地はない。

 しかしこの事件は、別の意味で、考えさせられる。その教授は、NHKテレビなどでも、
経済評論家として、よく顔を出す。民放では、レギュラー番組を、数本もっている。国立
K大学の教授も、経験している。分別も、理性も、知性も、すべて兼ね備えた人物である。
もちろん地位も、名声も。

 そういう人物が、ハレンチ行為!

 それはその人物の精神的な欠陥によるものか。それとも、それほどまでに、本能という
のは、やっかいなものなのか。

 正直に告白する。

 私も、もう少し若いころは、女性のスカートの中を、のぞいて見たいと思ったことがあ
る。それは「男」にとっては、ごく自然な性欲だと思う。女性のスカートの下というのは、
男にとっては、特別な意味がある。

 しかし「想像する」ことと、「実行する」ことは、まったく、別問題である。それはたと
えて言うなら、銀行強盗に似ている。簡単にお金が手に入るなら、銀行強盗でもしてみた
い。しかし、実際に、それを行動に移すとなると、二つも三つも、つぎのステップを踏ま
ねばならない。

 同じように、女性のスカートに中を、のぞいてみたいと思っても、それを実行に移すに
は、やはり二つも、三つもステップを踏まねばならない。

 しかし、だ。さらにその教授には、前科があった。一度、同じような行為をして、逮捕
されていた。罰金刑を受けていた。この人物は、二つ、三つのステップどころか、四つも、
五つも、先へと、ステップを踏んだことになる。

 問題は、ここである。

 仮に私が罰金刑を受けるようなことをしていたら、私は、恥ずかしくて、とても、テレ
ビには、顔を出せないだろうと思う。どこかで、だれかが、私を笑っていると思うと、と
ても、できない。

 罰金刑を受けたとき、担当の警察官なり、裁判官なり、そういう人たちと、顔を合わせ
ているはずである。そういう人たちを頭の中で想像するだけでも、ゾーッとする。

 が、その人物は、堂々とテレビに出て、経済評論家として、意見を述べていた。つまり、
ここに、その人物の、精神的欠陥性がある。本来なら、「私は、それにふさわしい人間では
ありません。とてもテレビには、出られません」「教授として、ふさわしい人間ではありま
せん。学生に、ものを教える人間ではありません」と、人前に出ることを、辞退すべきで
あった。

 ともかくも、この事件には、いろいろ考えさせられる。どういうわけか、考えさせられ
る。

 が、問題は、ここで終わるわけではない。

 多分、こうしたことをしながらも、その教授は、しばらく身をひそめたあと、再び、マ
スコミに登場するにちがいない。その人物自身が、そうするというよりは、マスコミがか
つぎ出す。その人物がその程度の人物なら、日本のマスコミは、さらにそれ以下と考えて
よい。スカートの下どころか、女性を裸にしてしまうことさえ、朝飯前である。

 モラルも何も、あったものではない。ないことは、すでに、無数の場面で証明済みであ
る。

 5、6年前、イスラム教の戒律のきびしいトルコで、全裸になって、踊ったお笑いタレ
ントがいた。この事件は、国際的にも、たいへんなヒンシュクを買ったが、そのタレント
は、1、2年をおいて、またテレビに出るようになった。今でも、活躍している。むしろ
そのときの事件を、逆手にとって、利用している。日本のマスコミの世界というのは、そ
ういう世界である。

 それはさておき、東京という、関東の、一地方都市の文化が、日本中を支配している。
このおかしさに、日本人も、もうそろそろ気づいてよい時期にきているのではないだろう
か。

【追記】

 もう一つ、この事件で、こんなことに、気づいた。

 その教授は、逮捕された。そのこと自体は、その教授にとっては、きわめて不幸なこと
である。

 しかし私が驚いたのは、その教授を、かばったり、擁護したりする意見が、まったく出
てこなかったこと。W大学のある学生は、こう言った。「なさけないですね。経済は見とお
すことはできても、女の子のパンツの中は見とおせなかったのですかね」(報道)と。

 一人くらい、「あの先生の意見は、すばらしい。経済理論は、まちがっていない。今まで、
世話になりました」と言う学生がいるかと思ったが、だれもいなかった。

 その教授は、ここにも書いたように、地位と名誉を、自分のほしいがままにした。しか
しだからとって、まわりの人々は、その教授に、心まで許してはいなかった。

 このことは、あのテレビドラマの『おしん』についても言える。日本中が、『おしん』を
見ながら泣いた。しかしヤオハンジャパンが、倒産したとき、それで涙を流した人は、
まったくいなかった。ヤオハンジャパンのW社長の母親の「Kさん」が、その「おしん」
のモデルであった。

 その教授は、経済評論家として、さまざまなテレビ番組に出て、そのつど、自分の意見
を述べてきた。しかしそうした行為のむなしさというか、意味のなさを、私は、今回の試
験をとおして、まざまざと見せつけれた。


●高コレステロール

 健康診断の結果、「高コレステロール」が指摘された。血圧は、上が105、下が65。
だから、「?」と思われるような結果である。

 実は、私の母方は、皆、血圧が低い。そのせいかどうかは知らないが、伯父、伯母たち
は、みな、よく水を飲む。本当に、よく飲む。

 私も、これから夏場になると、昼間だけでも、1日、2リットルは飲む。多いときは、
3〜4リットルは飲む。

 今日(4・11)も、昼食に、近くの中華レストランで、ギョーザとライスを食べた。
その食事の間だけでも、私は、1リットル以上の水を飲んだ。ワイフが、「よく、それだけ
飲めるわね」と、驚いていた。自分にとっては、ふつうの量なのだが……。

 で、検査の前というのは、お茶や水を飲むのが、限定される。「前日の夜9時から、食べ
るな。お茶を飲むな」と指示される。それでどうしても、血が濃くなる。それでいつも高
コレステロールが指摘される。……のではないかと、自分では、勝手にそう思っている。

言うまでもなく、コレステロールの量は、血液、1デシリットル当たりの量をいう。血液
が、水分で薄くなれば、当然、コレステロール値も、低くなるのではないのか?

 もしこのあたりのことで、詳しい人がいたら、どうか教えてほしい。私のように、日ご
ろ、水分を多くとっているものは、その水分を減らすと、コレステロール値は、その分、
高くなるのではないのかということ。私は肉類は、ほとんど、食べない。サシミだったら、
毎日でもかまわないというほど、魚好き。
 
 しかし注意したほうが、よいことは確か。慢性的に高コレステロールになると、動脈硬
化が進み、心筋梗塞や、脳梗塞を引き起こすこともあるという。祖父は脳梗塞、父は心筋
梗塞で死んでいる。遺伝的には、私も、あぶない。

 で、夕食の献立は、ざるソバ。それだけ。今日から、とりあえず、食事療法をすること
にした。

 が、「腹」というのは、不思議なものだ。ある程度の空腹感を通りこしてしまうと、その
空腹感がなくなってしまう。夕食から数時間たっているが、今は、その空腹感が、ほとん
どない。つい先ほどまで、グーグーとおなかが鳴っていたのだが……。


●イラクの人質

 数日前、イラクで、日本人3人が、人質になった。今日(4・11)、その3人が解放さ
れるかもしれない。そんなニュースが、昼から、いっせいに、流されている。

 このマガジンが、みなさんの目に届くころには、その結果がわかっていると思うが、家
族の気持ちを思うと、本当につらい。私も、一度だが、似たような経験をしたことがある。

 二男が、アメリカから帰国する日、いつまで待っても、成田から連絡が入らない。もう
とっくの昔に、成田に着いていておかしくない時刻だった。

 そこで成田のD航空のカウンターに連絡すると、「夜9時以後は、問い合わせはできな
い」とのこと。そこでしかたないので、今度は、ヒューストン空港(テキサス州)へ。が、
そこでの返事は、「その方は、搭乗予定でしたが、乗客名簿にはありません」と。

 そんなはずはない!

 そこで今度は、国内便のカウンターに電話。二男は、そこで飛行機に乗り換えているは
ずである。が、国内便にも乗っていないことがわかった。二男の自宅に電話をしても、電
話がつながらない。留守番電話が応答するのみ。

 そうなると、もう頭の中は、パニック状態! そこでさらに、二男が飛行機に乗りこん
だはずのリトルロック空港(アーカンソー州)に電話。乗客名簿を調べてもらう。そして
その答も、同じ。「その方は、搭乗予定でしたが、乗客名簿にはありません」と。

 こうして電話をあちこちにかけつづけること、数時間。時刻は、真夜中の2時を過ぎて
いた。

 で、やっとのことで、リトルロックの国内線の予約カウンターと連絡がとれ、「その方は、
飛行機便を変更されました」と。つまり二男は、予定の飛行機には乗らず、一日ずらして、
その日の飛行機に乗ることがわかった。

 が、その直後、二男から電話。「パパ、日付を一日、まちがえてしまった。今日、これか
ら帰るから」と。

 アメリカと日本とでは、時差が一日ある。それで、帰国日を、一日、まちがえてしまっ
たという。実に二男らしい、ミスである。

私「で、これから○○便に乗るのか?」
二男「どうして、それを知っているの? たった今、予約したばかりだよ」
私「あのな、ぼくは、英語のプロだよ。お前の身に何かあれば、どんなことをしてでも、
助けに行くよ」と。

 少しかっこういいことを言ってしまったが、そのとき、私ははじめて、胸をなでおろし
た。

 しかしあのときのハラハラは、今でも忘れない。つまり、その何十倍も濃い、ハラハラ
を、人質となった3人の家族は、感じている。テレビ画面からは、その憔悴(しょうすい)
しきった様子が、よくわかる。

 だから私は、あえて言う。

 どんな崇高な理念があるかは知らないが、こうした不安を、家族に与える可能性がある
なら、若者たちよ、イラクへは行くな! 「死ぬ覚悟はできている」と、言うのは、君た
ちの勝手かもしれないが、親や家族は、そんなふうには、簡単に、割り切ることはできな
い。

 親孝行をしろとは言わないが、不要な心配はかけるな。病気や事故なら、しかたない。
が、そうでないなら、行くな。とくに今回のように、人質になる危険性があるようなとこ
ろへは、行くな。君たちの無謀な行動で、日本中が、そして家族が、とんでもない迷惑を
している。心配をさせられている。

 はからずも、一人の母親はこう言った。「(無事帰ってきたら)、バカって顔をひっぱた
いたあと、思いっきり、抱きしめてやりたい」と。それが親の気持だ! 日本人の気持ち
だ!

 私は、家族の人たちが、涙ながらに無事を祈っている姿をテレビでかいま見たとき、別
の心で、そんなことを考えていた。

+++++++++++++++++++++

ついでに、以前、こんな原稿を書きました。

+++++++++++++++++++++

●不安の構造

 生きることには不安はつきものか。若いころは若いころで、自分の将来に大きな不安感
をもつ。結婚してからも、そして子どもをもってからも、この不安はつきることがない。
それはちょうど健康と病気のような関係ではないか。

健康だと思っていても、どこかに病気、あるいはそのタネのようなものがある。本当に
健康だと思える日のほうが、少ない。言いかえると、その不安があるからこそ、人はそ
の不安と戦うことで、生きる力を得る。

もしまったく不安のない状態に落とされたら、その人は生きる気力さえなくしてしまう
かもしれない。いや、不安と戦うたびに、人は強くなる。とくに子育てにおいては、そ
うだ。こんなことがあった。

 アメリカにいる二男からある日、こんなメールが英語で、届いた。「一六輪の大型トラッ
クが、ぼくの車にバックアップしてきて、ぼくの車はめちゃめちゃになってしまった(My 
car was backed-up by a 16-wheel truck.)」と。

「バックアップ」の意味を、私は「追突」ととらえた。私は大事故を想像し、すぐ電話
を入れたが、つながらない。ますます不安になり、アメリカ人の友人にも、様子を調べ
るよう依頼した。

当時ガールフレンドもいたので、そちらにも電話した。が、アメリカは真夜中のことで、
思うように連絡がとれない。気ばかりがあせって、頭の中はパニック状態になった。

 で、(アメリカの)翌朝、電話がやっとつながった。話を聞くと、「ガソリンスタンドで
停車していたら、前にいた大型トラックがバックしてきて、自分の車の前部にぶつかった」
ということだった。

「バックアップ」の意味が違っていた。私はひとまず安心したが、それ以後、どういうわ
けか、二男の運転のことでは心配にならなくなった。それまでの私は、「交通事故を起こ
すのではないか」と、毎日のように、そればかりを心配していた。が、その事件以来、そ
ういう心配をしなくなった。

ほかに以前は、二男が日本とアメリカを往復するたびに、飛行機事故を心配したが、一
度、二男が乗るべき飛行機に乗らず、しかも乗客名簿に名前がないことを知って、おお
騒ぎしたことがある。そのときも、二男はただ飛行機に乗り遅れただけということがわ
かって、安心したが、以後、二男の飛行機では心配しなくなった。……などなど。

 親というのは、子どものことで心配させられるたびに、そしてその心配を克服するたび
に、大きく成長(?)するものらしい。「あきらめる」ということかもしれない。つまりそ
ういう形で、人生の一部、一部を、子どもに手渡しながら、子離れしていく。

 さて今、私は老後のことを考えると、不安でならない。あと一〇年は戦えるとしても、
その先の設計図がまったくわからない。へたをすると、それ以後は収入さえなくなるかも
しれない。しかし、だ。そういう不安があるから、今こうして、仕事をする。懸命に仕事
をする。

安楽に暮らせる年金が手に入るとわかったら、恐らくこうまでは仕事をしないだろう。不
安であることが悪いことばかりではないようだ。


●友へ

 息子を、あちこち案内してくれて、ありがとう。ウィルペラ・パウンド(南オーストラ
リア州にある峡谷)まで、つれていってくれたとか、ありがとう。ぼくが「どんなところ
だった?」と聞いたら、息子は、こう言いました。「どんなところだったかってエ……? あ
まりにも壮大で、日本語では表現できないヨ〜」と。かなり感動したようです。ありがと
う。

 その峡谷が、フリンダーズ連峰がどんなところか知りたくて、それでインターネットで
検索してみました。が、驚きました。

 あのフリンダーズ連峰というのは、昔の君の家の近くから見えた連峰だったのですね。
連峰の先が、切り立った崖になっていました。その特徴のある崖を見たとき、「ああ、あの
山だったんだ」と思いました。

 ぼくは、君の牧場にとめてもらうたびに、近くの丘の上に立ち、その連峰の方も、よく
見ていました。そのとき、君が、「あれがフリンダーズ連峰だ」と言ったのを、遠い記憶の
中で覚えています。

 ……ぼくが、丘の上に立って、四方を見たとき、南西の方角と、南東の方角に、それぞ
れ別々の雷雲がありました。その間は、真っ青な空でした。それぞれの雷雲が、数100
キロは離れていて、その下に、チカチカと、稲妻が走るのが見えました。

 ぼくは、その景色を見たとき、オーストラリアの広大さというか、それに感動しました。
日本人は、よく「自然」という言葉を使います。「自然を大切にしよう」とです。しかしオ
ーストラリアの自然とくらべたら、日本の自然は、箱庭のようなものです。息子にも、そ
れがよくわかったことと思います。

 それはともかくも、ぼくが、三男の身になって、フリンダーズ連峰へ行ったような気分
になりました。

 また息子を、君の古い家に連れて行ってくれたとか。息子が「廃墟になっていた」と言
いました。それを聞いて、ぼくは、さみしかった。何とも表現しようがないほど、さみし
かった。

 ぼくは、君の家で、幸福な家庭というのがどういうものか、それを生まれてはじめて知
りました。君も知っているように、ぼくの少年時代は、みじめなものでした。戦後の混乱
期というだけではなく、暖かさ、まったく感じられない家庭でした。

 しかし君の家には、心底、愛しあう両親と、5人の子どもがいた。君はおかしく思うか
もしれないが、今でも、ぼくのは、その5人の声が、すべて聞こえます。もちろん君の両
親の声もです。

 いつだったか、キツネ刈りに行くとき、君のお父さんが、スコットランド民謡の『ロッ
ホ・ローモンド』を歌ってくれました。ぼくも、いっしょに、大声で歌いました。

 君の昔の家のことを思うと、ぼくはいつもあの歌を思いだします。

 そしてぼくは心の中で、「ぼくも、いつか、こういう家庭を、自分でつくるんだ」と、心
に誓いました。で、それ以後のぼくは、いつも、君の家庭を思い浮かべながら、自分の家
庭づくりに心がけてきたように思います。

 遠い昔ですが、今も、あのころのぼくが、さん然と、心の中で輝いています。

 先ほど、電話をしてみましたが、お留守のようだったので、留守番電話に伝言を入れて
おきました。で、改めて、こうして手紙を書くことにしました。

 無事、君が、ボーダータウン(南オーストラリア州の町)に帰っていることを、願いま
す。ぼくらは、もうあまり若くはないから、無理をしないほうが、よいですね。では、奥
さんや、息子さん、お嬢さんに、よろしくお伝えください。

 また近く、手紙を書きます。本当に、このたびは、ありがとう。心から感謝しています。

 ヒロシ

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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 12日(No.408)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page043.html
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(1)子育てポイント**************************

●冗談は、ほどほどに

 夏の暑い日だった。幼稚園へ着いて、麦茶を飲んでいると、子どもたちがやってきて、
こう聞いた。「先生、何を飲んでいるの?」と。

そこで私はウイウウイと酔ったフリをしながら、「これはウィスキーと言って、命の水だ
よ」と。しかしこの一言が、大問題になろうとは! 

父母の間で、「あのはやしは、授業中に酒を飲んでいる」という噂(うわさ)が、たって
しまった。私の耳に入るころには、当時の園長の耳にも入り、私はそれこそ、こっぴど
く叱られてしまった。最近でもこんなことがあった。

 年中児でも乱暴な子どもは、乱暴だ。Kさん(五歳女児)もそうだった。「おはよう」と
言いながら、その場で、私を足で蹴っ飛ばす……。そのときもそうだった。そこですかさ
ずKさんに、私はこう言った。

「ぼくは、君のような乱暴な女の子とは結婚しないからな。結婚するなら、丸山さんの
ような女の子がいい」と。たまたま最前列に座っている丸山さんが、目に入った。が、
それから一週間ほどたったときのこと。別の母親から、こんな話を聞いた。

何でも丸山さんが、私の話を真に受けてしまったというのだ。それで「私はおとなにな
ったら、はやし先生と結婚する」と言って、真剣に悩んでいる、と。で、何とかしなけ
ればならないと思っていたら、そのまた数日後のこと。

丸山さんの父親が、丸山さんを迎えにきていた。そこで私は父親をつかまえて、こう言
った。「いやあ、先日は丸山さんに、結婚すると言ってしまいましたが、あれは冗談です。
丸山さんの心をからかったみたいで、ごめんなさい」と。

私はこの道に入ってから、子どもの名前はすべて、名字で呼ぶようにしている。それが
まずかった。その夜遅く、丸山さんの父親と母親が、私の自宅へ押しかけてきた。「どう
いうことだ!」「きちんと説明してほしい!」と。父親は、私と母親が、ただならぬ関係
にあると誤解してしまった。失敗は続く。

 私はよく(虫)を食べたフリをする。(泣き虫)(怒り虫)(ジクジク虫)など。得意なの
は、(オカマ虫)に(暴力団虫)。その日も怒り虫を食べたフリをして、子どもに怒ってみ
せた。プリントを丸めて、それで子どもたちをポンポンと叩いてみせた。が、これがいけ
なかった。

やはりその夜遅く、Mさん(年長女児)の母親から電話がかかってきた。いわく、「先生
は、授業中に虫を食べているそうですね。うちの娘が、気味悪がって泣いています。そ
ういうことはやめてください。それに先生は、体罰反対ではなかったのですか。うちの
娘は、何も悪いことをしていないのに、先生に叩かれたと言っています。きちんと説明
してほしい」と。

 この事件のときは、説明するのに時間がかかったことといったらなかった。母親はいき
りたっているため、私の話を聞かない。

私「いやあ、あれは怒り虫です。ハハハ」
母「何がおかしいのですか。笑いごとではすまされないでしょう!」
私「それを食べてみせてですね……」
母「みせた?」
私「だから、それを食べたフリをしたのです」
母「フリでも、そういうことをしてもらっては困ります。あなたは頭が、少しおかしいの
ではありませんか」私「冗談です」母「冗談で通る話と、そうでない話があるでしょ」
私「……」と。
 
子どもに言う冗談には、くれぐれも気をつけましょう。(中日新聞、投稿済み)


●ぬいぐるみで育つ母性

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわか
る。しかもそれが、三〜五歳のときにわかる。

父性や母性が育っている子どもは、ぬいぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さ
もいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうまい。そうでない子ども
は、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。

中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児
の約八〇%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうち約半数が「大好き」と答え
ている。
 
オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオー
ストラリアに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。

つまり子どものときから、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物
を通して、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てるこ
とによって、父性や母性を学ぶ。

そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬や
ネコが代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐる
みを与える。やわらかい素材でできた、ぬくもりのあるものがよい。

日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれ
は偏見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。

つまり男の子がぬいぐるみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、お
かしい。男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。
ただしここでいう人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとか
ガンダムとかいうのは、ここでいう人形ではない。

 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、
これも偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。そのあらわれが、五月人
形。弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。

三〇〇年後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。
どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人はこの出世主義に、こりか
たまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、あの日本独特の男女差別意識も、
この出世主義から生まれた。

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ち着きがある。おだやかで、も
のの考え方が常識的。どこかほっとするようなぬくもりを感ずる。それもぬいぐるみを抱
かせてみればわかる。

両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スーッと
頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。
言い換えると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があって
はじめて、自分が親になったとき、子育てができる。

もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っているなら、ぬいぐるみを身近に置い
てあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親になるための練習をする。父性や
母性も、そこから引き出される。(中日新聞、投稿済み)

(2)今日の特集  **************************

●老齢によるボケ

 小便をしたあと、ズボンのチャックをあげ忘れても、ボケではない。しかし小便をする
前に、チャックをさげ忘れたら、ボケである。

 この話を、ワイフに言って聞かせると、ワイフがこう言った。

「部屋に入ったとき、ドアを閉め忘れても、ボケではない。しかし部屋に入るとき、ドア
を開け忘れたら、ボケよね」と。

 ナルホド! なかなかうまいことを言う。

 で、そのボケだが、50歳を過ぎると、がぜん、深刻な問題となってくる。そこで一つ
のバロメーターになると思うが、こんなことが言える。

 同年齢の皆が、自分と同じように愚かに見えるようであれば、ボケではない。しかし同
年齢の皆が、自分と同じように賢く見えるようであれば、ボケである。

 この時期、人によっては、急速にボケ症状が進む。話し方が、かったるくなる。反応が
鈍くなる。繊細な話ができなくなる。

 しかしそれは相対的な変化で、仮に、自分も、同じように皆とボケ始めていたら、それ
はわからない。つまり、皆が、自分と同じように賢く見える。

 哲学の世界でも、「自分を知る」ことが、一つの大きなテーマになっている。ギリシャの
哲学者、キロンも、『汝自身を知れ』という有名な言葉を残している。

 そこで自分を知るための第一歩が、「自分の愚かさを知る」ということになる。決して、
自分が正しいとか、賢明であるとか、最上であると思ってはいけない。「私はバカである」
という大前提で生きる。

当然のことながら、この世界には、私たちが知っていることより、知らないことのほう
が、はるかに多い。そこで、こんなことも言える。

 「私はボケてきた。バカだ」と思ったら、ボケではない。しかし「私は賢くなった。何
でも知っている」と思ったら、ボケである。

 要するに、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分がボケ始めたとしても、そ
れに気づくことは、まずない。だから自分の身のまわりの、相対的変化を見ながら、自分
のボケを知るしかない。

 私のばあい、こんなことが言える。

 数年前に書いた文章、さらに10年前に書いた文章を、ときどき読みかえす。そのとき、
以前書いた文章のほうが、つまらなく感じたら、私は、まだボケていない。しかし以前書
いた文章のほうが、おもしろく感じたら、私は、ボケ始めた、と。

 内容というよりは、サエや鋭さをいう。

 で、その実感だが、少し前までは、「以前は、どうしてこんなヘタクソな文章を書いたの
だろう」と思うことが、しばしばあった。しかしこのところ、それがどうやら、逆転して
きたようだ。「以前書いていた文章のほうが、おもしろい」と思うことが、ときどきある。
つまり、かなりボケが進み始めたとみてよい?

 こういう例は、ほかにもある。

 かつて名映画監督として一世を風靡(ふうび)した人に、KS氏という人がいる。私は
KS氏のつくる映画が好きだった。だから、すべてを見た。

 しかしKS氏のつくる映画は、晩年になればなるほど、つまらなくなってきた。堅苦し
くなってきたというか、「これが映画だ」という気負いばかり、強くなったように感じた。
もうそのころになると、無名時代の、あの燃えるような楽しさは、なかった。

 同じことは、作家の世界でも、よく起こる。同じように、直木賞作家に、IT氏という
人がいる。しばらく金沢市にも住んでいたことがあり、強い親しみを感じていた。

 で、そのIT氏は、もう70歳を過ぎているが、毎月のように新刊書を発売している。
で、昔は、IT氏の本は、よく買った。しかしここ10年、マンネリ化したというか、た
いてい立ち読みだけですまし、どうしても買う気が起きない。

 KS氏は、すぐれた映画監督であった。IT氏も、すぐれた作家である。それはまちが
いないが、しかし老齢には、そういう問題も含まれる。

 このところ、恩師のT先生などと、ボケについて、よく話しあう。T先生は、80歳を
過ぎているから、私より、ことは、深刻である。

 「あのM先生(学士院賞受賞者)は、このところ、奥さんの顔もわからなくなりました」
「あのS先生も、このところボケが急速に進み、テニスにも来なくなりました」と。

 しかしそれがT先生にわかるということは、T先生は、まだボケていないということに
なる。「自分もボケ始めている」と感ずるときは、まだボケていないということ。だからT
先生への返事には、こう書いた。

 「先生は、まだだいじょうぶですよ」と。

 知力も、体力と同じように、50歳を過ぎると、急速に衰えてくる。30代、40代の
若い人には、理解できないことかもしれないが、だれでもそうなる。例外はない。その一
つが、ボケということになる。


●ボケ症状

 義理の姉の母親は、今年、88歳になる。その母親が、5、6年前から、ボケ始めたと
いう。義理の姉は、「まだらボケ」と呼んでいる。実際に、そういう呼び名があるそうだ。
その日の体調に応じて、頭の働きがまあまあ、ふつうなときと、そうでないときが、まだ
らに現れる。

 困るのは、自分でモノをしまい忘れたくせに、義理の姉たちに向って、「盗んだ」「隠し
た」と騒ぐことだそうだ。その当初は、近所の人たちにも、そう言いふらされたりして、
義理の姉も、かなり苦労したようだ。

 しかしこういう例は、少なくない。

 家族内どうしでのことならまだしも、近隣の人たちと、トラブルを起こすこともある。
完全にボケてしまえば、それなりに外の人にも、判断できる。しかしそうでないと、外の
人には、それがわからない。

 最近でも、こんな話を聞いた。

 Y氏(82歳男性)の趣味は、盆栽。庭中に、盆栽を作って、ところ狭しとそれを並べ
ている。

 が、である。このところ、「近所のXが、またオレの盆栽を盗んだ」「Yが、こっそり、
盆栽をもっていった」などと、口走るようになった。

 どうやら昔もっていた盆栽を思い出しては、そう言うらしい。

 で、最初のころは、家族へのグチのようなものだったが、このところ、そのX氏や、Y
氏に、手紙を書くようになったという。「お前が、ワシの盆栽を盗んだ。返せ!」と。

 これには、X氏もY氏も、大激怒。「ドロボーと決めつけるとは、何ごとか!」と。

 こうした例は、多い。ひょっとしたら、あなたの周辺にも、こういう例は、多いはず。

 で、ボケについて調べてみると、行動面での変化をとらえて、その初期状態を知るとい
う方法が、一般的である。

( )モノをしまい忘れる。
( )電気製品が、使えなくなくなる。
( )名前が思い出せなくなる。
( )生活がだらしなくなる。
( )同じことを聞きかえしたりする。

 しかし精神面での変化については、あまり問題とされていない?

 で、あちこちのサイトを調べてみたら、老人性の痴呆症の中に、「ピック病」というのが
あるのが、わかった。聞きなれない言葉だったので、興味をもった。三宅貴夫氏の文献か
ら、症状を、列挙してみる。

( )当初は性格の変化が目立つ。几帳面な人がずぼらになり、下着が汚れても気にしな
くなったり、風呂に入るのを嫌がったりするようになる。
(  )仕事もいいかげんにしたり、約束を破っても気にしなくなることがある。しかし
一人での生活は難しくなる。
(  )病気が進行してくると物忘れや判断力の低下など、痴呆の症状が目立つようにな
る。
(  )本人は体力はあり、暴力もあり、ひととおりの理屈を言うので、対応はアルツハ
イマー病以上に難しい。(医師:三宅貴夫)

 ピック病というのは、アルツハイマー病には似ているが、脳のある部分だけがしっかり
としている病気のことか。「ひととりの理屈を言うので、対応はアルツハイマー病以上に難
しい」とある。
 
 ボケにも、いろいろあるようだ。これから先、少しずつ、老人(私)のボケについて、
書いてみたい。私のボケの進行状態を、マガジンで実況中継をするというのも、おもしろ
いかもしれない。

 「みなさん、今月は、要介護2になりました。お元気ですか?」と。ハハハ。


(3)心を考える  **************************

●自分の中の(自分)

 子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、幼児期から、少年少女期への移行期を迎
える。どこか赤ちゃんの面影を残していた子どもも、この時期を過ぎると、今度は、反対
に、少年ぽさ、少女ぽさを感じさせるようになる。

そしてそのころ、子どもは、自分の「核」をもつ。自分の中の(自分)といってもよい。
人格の「核」である。

 言いかえると、この時期に子どもの方向性は決まるということになる。そしてその方向
性は、それ以後、変えようとして、変えられるものではない。この時期を過ぎたら、その
子どもは、そういう子どもと認めた上で、子どもの未来を、その上に組み立てるしかない。

 たとえばこの時期を過ぎて、静かな子どもは、ずっと静かなままだし、運動が得意な子
どもは、ずっと得意なままで大きくなる。

 これは子どもの話だが、実は、あなた自身の中の(あなた)も、このころできたと考え
てよい。私はそのころできた、(あなた)を、「基本的性質」と呼んでいる。ひょっとした
ら、心理学の世界にも、同じような考え方があるかもしれない。

 人間は、この「基本的性質」の上に、今度は、自分の意識で、「自己的性質」(この言葉
は私が考えたもの)を作りあげる。そしてこの自己的性質が、基本性質に干渉したり、あ
るいは突発的に、基本的性質が、前面に出てきたりすることはある。

 この自己的性質を鍛錬(たんれん)することによって、見た目には、基本的性質を変え
ることは可能である。しかしそれはあくまでも、「見た目」。

 一つの例をあげて、考えてみよう。

 たとえばあなたが短気で、カッとなりやすい性質だったとしよう。そしてひとたびカッ
となると、興奮状態になり、自暴自棄になりやすい性質だったとしよう。

 そういう基本的性質は、ここにも書いたように、満5・5歳くらいまでに決まる。

 が、そういう性質は、自分や他人を不愉快にすることを、あなたは学ぶ。そこで「そう
であってはいけない」と、自分で自分をコントロールするようになる。その「そうであっ
てはいけない」「なおそう」と考える部分が、自己意識ということになる。

 いろいろな活動や、いろいろな経験をとおして、あなたは「なおそう」とする。そして
その結果、あなたは自分で自分をコントロールする術(すべ)を身につける。自分で作り
あげたこの部分が、「自己的性質」ということになる。

 で、青年期や壮年期には、この自己意識が優勢となり、あなたは、あなたの中に潜む、
邪悪な自分を抑えこむことができる。しかし、基本的性質が消えるわけではない。基本的
性質というのは、そういうもので、生涯にわたって、あなたの中の「核」として、あなた
の中に残る。

 よく「頭の中ではわかっているのですが、ついその場になると、カーッとして……」と
いう母親がいる。子育ての場で、しばしば母親が口にする言葉である。

 このカーッとしたときなどに、基本的性質が前面に出てくることがある。あるいは、自
己意識が混乱したとき、弱くなったとき、不安や心配が、自己意識をゆるがしたようなと
き、前面に出てくることがある。

 ともかくも、この基本的性質は、そんなに簡単には、なおらない。なおらないというよ
り、消えない。

 そしてやがて、自己意識が老齢とともに弱くなってくると、再び、相対的に、基本的性
質が、前面に出てくるようになる。よく老人になってから、短気になる人がいる。しかし
それは老人になったことが理由で、短気になるのではない。もともと短気な人だったとい
うことになる。

 だから一見すると、老齢になればなるほど、幼児がえり的な症状を示すことがある。精
神医学の世界でも、概して、そうとらえている。しかしそれは「かえる」のではない。基
本的性質が、自己的性質というカバーをはずして、前面に出てくると考えるのが正しいの
ではないか。

 こうした例は、多い。

 私にこのことを気づかせてくれた事例に、こんなのがある。

 A氏は68歳のときに、心筋梗塞で倒れた。幸い、症状が軽く、またその後の治療で、
畑仕事ができるほどまでに回復した。

 しかし、である。そのころから、おかしな症状が現れた。A氏は、かたときも、妻のそ
ばを離れようとしなくなったのである。

 まさに四六時中、いっしょ。A氏に言わせると、「いつなんどき、つぎの発作が起きるか
もしれない。こわくて、妻のそばを離れることができない」と言う。しかしその症状を見
ていて、私は気がついた。

 あるとき、いっしょにお茶を飲んでいたときのことである。妻が、隣の家に、何かの用
事で行こうとしたその瞬間、そのA氏が、混乱状態になってしまったのである。

 その様子は、母子分離不安で見せる、幼児の姿そのものであった。

 もちろん私はA氏の幼児期のことは知らない。しかしA氏は、父親を戦争でなくし、母
親の手だけで、育てられた人である。そのためA氏は、幼いころ、一時期、戦争もあって、
親戚の家に預けられて育った。

 そういう生育環境から、A氏が、幼児期に、母子分離不安になったとしても、おかしく
はない。

 そのA氏を見ていたとき、、私は、ここに書いた、「自己的性質」という言葉を思いつい
た。

 「人間というのは、基本的性質の上に、自己意識で、自己的性質を組みたてるだけだ」
と。

 もちろんこの意見は、私のオリジナルな意見である。しかしそう考えると、はじめて、
幼児から老人までの、心の変化を、矛盾なく、連続的に説明することができる。またその
途中に見せる、さまざまな人間の心の症状も、説明することができる。

 さてあなたは、どんな基本的性質をもっているだろうか。そしてその基本的性質の上に、
あなたはいったい、どのような自己的性質を組み立てているだろうか。一度、そういう視
点から、自分をながめてみると、おもしろいのでは……?

++++++++++++++++++++++

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基
本です。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与える
という行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなく
ても育つということになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできませ
ん。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわ
る仕事といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、
女性が男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになりま
す。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な
意味で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となり
ます。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることにな
ります。「結婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあ
るのは、やはりより優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、
こと出産に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、
子どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。
つまり「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」
と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人
だったかもしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまり
それだけ、父子関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。こ
の信頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だか
ら「基本的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自
分の住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、
分かれるということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな
人間関係を結ぶことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる
……。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間
関係を結ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」とい
う安心感が、子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、
赤ん坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、
母親は、赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さ
ない。あるいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展す
ることもあります。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、
依存型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自
分に集める)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的
な方法として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となる
こともあります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタ
ベタしあうというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということで
す。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定
なものです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありませ
ん。あるいは、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。ど
んなにがんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。
そのちがいを乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、
父親の役割がないわけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教
育、です。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性か
ら、のがれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影
響を与えてしまうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、
ともすればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくとい
うのが、父親の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、
倫理、道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決ま
り」を教えていくのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えて
いきます。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁の
し方を教えるのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはで
きません。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きて
いくこともできません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと
言っているのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありま
せん。「たがいの立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、
言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割
にとってかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、
「平等」とは言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進
出も目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』
だけでものを考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたの
も事実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、
ありません。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解する
のと、そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えて
みました。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改め
てここに書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結
ぶことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今で
は、常識です。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原
因となることもあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりま
せん。穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、
子どもを叱ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関
係」の範囲内でします。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全
幅に心を開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反
省してみてください。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他
人に対して、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょ
うか。外の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信
頼関係」を疑ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過
去があったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失
敗をすることです。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これにつ
いては、また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包ま
れ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけま
せん。大切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少
し時間はかかりますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)


(4)今を考える  **************************

●リッチな町

 私が住む、この浜松市は、リッチな町だと思う。今日も、最近開発された、近くの住宅
街の中を歩いてみた。そして驚いた。

 ある一角だが、しかしどの家も、豪華というより、超豪華。驚くほど、豪華。そういう
家々が、ずらりと並んでいる。

 浜松市は、工業の町として、栄えた町である。HONDAやSUZUKI、YAMAH
AやKAWAIなどの大企業は、みな、この町で生まれ育った。ほかにも、大企業をめざ
してがんばっている会社が、いくつかある。

 だからこうした住宅街があったところで、何ら、おかしくはない。しかしそれにしても
……! 土地は、ゆうに、150〜200坪はある。そういう土地の上に、住宅の専門誌
から飛び出たような家々ばかり。

 ワイフが、「こんなふうになっているなんて、知らなかった!」と。

 そのあたりは、昔は、佐鳴湖から抜ける、竹ヤブになっていたところである。このあた
りに住み始めたころ、よく散歩で通ったところでもある。そんなところが、今は、大邸宅
地になっている。

 帰る道すがら、通りにあった不動産屋で、土地の値段を聞く。「いくらくらいですか?」
と聞くと、「場所にもよりますが、坪、30万から40万円くらいですかね」とのこと。

 バブルのころは、坪100万円以下の土地は、なかった。ざっと計算しても、約3分の
1になったということか。それでも、高い?

 「今の土地と家を売って、ここに移り住もうか」と言うと、ワイフが、「いいわね」と。
「どこか、外国の住宅団地に入り込んだみたいだね」と言うと、「そうね」と。ワイフも、
少なからず、ショックを受けたようだ。どこか呆然(ぼうぜん)とした様子で、あたりを
見回していた。

 もっとも、このあたりは、浜松市内でも、今、最高級住宅地として売りに出されている。
地名は、「OH団地」。20年前までは、畑とヤブだけの、どうしようもない荒地だったの
だが……。


●手のこんだ、悪質メール

 メールを送信してもいないのに、「Mail delivery system」(送信者:配送システム)か
ら、「Re. Undelivered Mail returned to Sender」(件名:あて先不明で、返送)で、メー
ルが返送されてくる。偽装メールである。

 見ると、添付ファイル付!

 さっそく、OE(アウトルック・エキスプレス)の、フィルタリング機能を使って、「送
信者禁止処理」をして、そのまま削除。

 しかし軽い不安が、心を横切る。「もし、本当に、あて先不明のメールだったら、どうし
よう」「これから先、すべて削除してしまったら、本当にあて先不明のとき、それがわから
なくなってしまう」と。

 つまり「送信者禁止処理」をすると、私から出した、本当にあて先不明のメールも、そ
のまま、削除されてしまうことになる。だから、あて先不明で、メールが返送されてきて
も、それがわからなくなる心配がある。

 そこでテスト。

 「送信者禁止処理」はそのままにしておいて、わざと、あて先をまちがえたメールを、
何通か、出してみる。私のアドレスあてのメールである。アドレスの中の一文字を変えて
みたり、抜いてみたりした。

 もしこれらのメールまで、「送信者禁止処理」にひかかれば、ここで心配していることが、
本当に起こることになる。

 で、「送信」。しばらくして、今度は、「送受信」。

 すると、プロバイダーから、「あて先不明で返送」の連絡が、入った。つまりプロバイダ
ーからの返送については、正常になされたことになる。

 と、いうことは、やはり、メールも出していないのに、「あて先不明の返送連絡」という
先のメールは、偽装メールということになる。

 どこのだれが、こうした手のこんだいやがらせをしているのか知らないが、それにして
も、悪質だ。

プロバイダーのウィルスチェックサービスに、ひかからないというのは、恐らく添付フ
ァイルの中に、ウィルスを忍ばせているのだろう。あるいは、最近では、メールをプレ
ビュー画面に表示しただけで、感染するウィルスもあるという。

 私は、改めて、自分にこう言って聞かせた。

 あやしげなメールは、何も考えず、即、削除。また削除。さらにあやしげなメールは、
即、「送信者禁止処理」にして、削除。また削除、と。

 あとで冷や汗をタラタラとかくよりは、そのほうが、ずっとよい。みなさんも、こうい
う悪質メールには、くれぐれも、ご用心!

 なお、メールを送信したあとは、念のため、数秒おいて、「送受信」をもう一度、クリッ
クするようにするとよい。そうすれば、本当にあて先不明のメールであれば、その時点で、
即、返送されてくる。

 10分とか、1時間もおいて、「あて先不明」で返送されてくるようであれば、ここでい
う偽装メールと考えてよいのでは……。(まちがっているかもしれないが、疑ってみてよ
い。)

【追記1】

 パソコンは、便利だし、インターネットは、まさにこの世界を、変えつつある。第二の
産業革命に、たとえる人もいるが、あながち、まちがってはいないと思う。

 しかし今は、黎明期(れいめいき)。失敗も多い。試行錯誤もある。中には、失敗が理由
で、「もう、パソコンは、こりごり」と、投げ出してしまう人もいる。

 私も、こうして何も考えずに、あやしげなメールを削除できるようになったのは、ごく
最近のことではないか。

 私の掲示板やチャット・ルームに、いたずら書きをするバカは、あとを絶たない。いく
ら注意書きをしても、効果がない。

さらにこうした悪質、偽装メールを送りつけてくるバカも、あとを断たない。だから、
要するに無視すること。相手にしないこと。一見、利口そうな連中だが、脳ミソは、昆
虫のそれより、低劣。

 しかしいつか、こういう連中は、自分の愚かさに気づくときがあるのだろうか。時間を
ムダにしたことに、気づくときがあるのだろうか。

 生きたくても生きられない人は多い。刻々と流れる時間を、金の砂時計が落ちるように
感じている人は多い。しかしそういうバカには、それが、わからない。かわいそうな、そ
して、どこまでも、あわれな連中である。

【追記2】

 念のため調べてみたら、これは、多分「W32.Netsky.Q」という名前のウィルスというこ
とがわかった。WINDOWを、UPDATEしていないパソコンでは、メールをプレビ
ュー画面に表示しただけで、感染することもあるという。

 対策としては、(1)WINDOWをUPDATEしておく。(2)あやしげなメールは、
その場で、即削除するしかないようだ。現に、私はプロバイダー(サーバー)のウィルス
チェエクサービスに加入し、かつ、パソコンごとに、アンチウィルス対策をしているが、
それでも、こうしたメールが、届く。

 いったい、いつまで、こうした意味のないイタチごっこは、つづくのか。
(040407)


●パラグライダーに挑戦?

 I町の、R山に、パラグライダーのクラブがある。今日(4・10)、ワイフと二人で、
そこへ行ってきた。

 4月中旬というのに、初夏を思わせる陽気。全国的に、気温は、平年より4〜5度も高
かったそうだ。あとでテレビのニュースを見て、それを知った。

 山頂へ着くと、4、5人の男性が、そこにいた。空には、二機というか、二枚というか、
二つのパラグライダーが、飛んでいた。私は、無我夢中で、写真をとりつづけた。うれし
かった。

 私は、「飛ぶもの」は、みんな、好き。大好き。鳥も好きだし、飛行機も好き。模型の飛
行機も、大好き。「いつか、自分で空を飛んでみたい」と思っていた。そこで、今日は、た
だひたすら、観察。

 山頂は、ゆるやかな斜面になっていた。広さは、テニスコートの4倍くらいか。代表の、
K氏が、たいへん親切な人で、あれこれ話しかけてくれた。

「こわくないですよ」
「気持ちいいですよ」
「安全ですよ」と。

 しかしパラシュートのような飛行機で、空を飛ぶ。どこか心もとない。で、何人かが、
丘の上から離陸していくのを、見送る。そのつど、言いようのない興奮というか、感動を
覚える。それに胸の動悸。自分が飛ぶわけでもないのに、ドキドキする。

 一人、今日が初飛行という人がいた。S郡のM町から来た人だという。どこか平然とし
ている。

「こわいですか?」と声をかけると、「いいや」と、そっけない返事。「緊張してますか?」
と声をかけると、また「いいや」と。

「そんなものかなあ……」と思いつつ、写真をとりつづける。「ひょっとしたら、この人
の最後の写真になるかもしれない」と、まあ、心のどこかで、とんでもないことを思う。

 で、私はといえば、さかんに「あなたも飛びなさいよ」と声をかけられる。で、私は、「保
険に入ってから」「遺書を書いてから」と、どこか冗談で、冗談と言い切れないような冗談
を、連発する。

 しかし空を飛びたい。ワイフまで、「あなた、飛んでみたら?」と。すっかり、その気に
なっているようだ。つまり私が、近く、体験してみるとでも、思っているようだ。

私「お前こそ、飛んでみろ」
ワ「いやよ、私は。高所恐怖症だから」
私「だったら、そういうこと言うな」
ワ「あなた、飛びたいのでしょう?」
私「……うん」と。

 山の上には、1時間半ほど、いただろうか。M町からきた男性が、初飛行するというそ
の瞬間、私たちは、車で、下へおりた。下で、その男性を迎えるつもりだった。

 が、体験飛行用のパラグライダーは、いわゆる滑空専用。気流に乗って、上昇するよう
にはできていないという。わかりやすく言えば、パラシュートのようなもの。

 私たちが着陸点に着くと、その男性は、もう地面の上で、ベルトをはずしているところ
だった。

私「こわかったですか?」
男「ゼンゼン」
私「どんな感じでしたか?」
男「気持ちよかったア」と。

 そこで私は決心した。この夏には、パラグライダーに乗ってみる。死んでもよい。本望
だ。一度は、鳥のように、空を飛んでみたい。ああああ。

 今、改めて、そう決心した。

 なおこの日とった写真は、私のサイトの、「お楽しみスライド・ショー」の中に収録して
おいた。興味のある人は、見てほしい。


●毎月44万枚!

 有料マガジン「まぐまぐプレミア」を発刊して、今日で1か月になります。読者数は、
15人。

 発刊直後、Y・BB社の個人情報漏洩(ろうえい)問題が起きました。2人の読者から、
「有料マガジンを購読したいが、(個人情報の漏洩が)心配で……」というメールをいただ
きました(浜松市のOさん、仙台のSさん)。

 で、読者数は、15人。この世界も、なかなか、きびしいです。「あんたのマガジンね、
お金を出してまで読みたくないわ。量も多すぎるし……」と、私のワイフまで、そう言っ
ています。ナルホド!

 一方、無料マガジン(Eマガ、メルマガ)のほうは、今日(4・7)で、読者の数が、
1351人になりました。読者のみなさん、ありがとうございます。ときどき「どうして
マガジンを出しているのだろう」と思うときもあるのですが、みなさんのおかげで、今日
までつづけることができました。

 そのせいか、今(4・7)、有料マガジンを出して、1か月たったのですが、再び、Eマ
ガのほうに、力を入れるようになってきました。内容は、有料版とほとんど同じです。そ
んなわけで、有料版を読んでくださっている方には、どこか申しわけない気持ちになって
きました。

 もっとも有料版には、HTML版(カラー・写真つき)を、付録としてつけています。
どうかこれからも、お楽しみください。

 本当のことを言えば、みなさんにも、有料版を、購読してほしいと思っています。この
1年半、本は出版していません。そのエネルギーを、マガジンに注いできました。(どこが
泣きごとみないですね?)

何かしらムダなことをしているのかもしれないという思いは、いつもあります。あるい
は、はかない抵抗? よくわかりませんが、ここまできた以上、あとは迷わないで、前
に進むだけです。

 その先には、きっと何かがあるはず。そう信じて、前に進みます。

 しかしね、みなさん。

 1351人というのは、すごいと思います。(自分でこんなことを言ってはいけませんが
……。)毎回、A4サイズの原稿用紙で、25枚平均の分量のマガジンを、配信しています。
それで計算すると、

 25(枚)x1351(人)=約3万4000(枚)!

 つまり毎回、3万4000枚も、印刷して、配信していることになります。月に13回
発行するとして、何と、月になおすと、44万枚も配信していることになります。44万
枚ですよ!

 私は職業柄、すぐ、こういう計算をしてしまいます。テキストを毎回、印刷機で印刷し
ているからです。44万枚といえば、2500枚入りのダンボールケースで、176箱と
いうことになります。176箱ですよ!

 つまりそれだけの枚数のマガジンを、瞬時に、しかもペーパーレスで、配信しているこ
とになります。私はそれを、「すごい」と思うのです。考えてみれば、出版社で、本を出版
して、書店で売るなどということが、どこかバカげてみえるようになってきました。今は、
もうそういう時代では、ないのかもしれません。

 いろいろ考えさせられます。

 しかし正直に告白すれば、15人という数字に、少なからず、ショックを受けたのも事
実です。「私のしてきたことは、こんな程度のことだったのか」と、です。

 が、私は負けません。私の目的は、「成功することではない。失敗にめげず、前に進むこ
と」です。私はその15人の方のために、全力を尽くします。

 読者のみなさん、これからも、よろしくお願いします。読者の数が、毎回、2人、3人
……とふえていくのは、本当に大きな励みになります。みなさんのお近くで、このマガジ
ンに興味をもってくださいそうな人が、いらっしゃれば、どうかよろしくお伝えください。

 これからも、がんばって、マガジンを配信していきます。どうか、どうか、よろしくお
願いします。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
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.       m\ ▽ /m〜= ○
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.         ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 10日(No.407)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page042.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

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(1)子育てポイント**************************

●子どもの読解、理解力

 子どもの読解、理解力のテスト法として、よく知られているのに、田中ビネー知能検査
法がある。これは簡単な文章を読んで聞かせ、どこがどのようにおかしいかを、子どもに
言い当てさせるテスト法である。

 著作権の問題もあるので、ここでは、そのまま紹介することができない。そこでいくつ
か、類似した問題を、ここでは考えてみる。もしあなたの子どもが、6歳〜12歳なら、
一度、家庭で、利用してみてほしい。(ただし無断、転用、転載は禁止。)

 田中ビネー知能検査法では、7歳で、正解率は、約50%。11歳で、約95%とみる。

【テスト法】

 軽く子どもの前で問題を読み、どのような反応を示すかをみる。「あれ、おかしいよ」と
いうような反応をみせたら、「どこが?」と聞く。そのとき、子どもの言っていることが、
的を得ているようなら、正解とする。

 問題の内容を説明したり、正解を押しつけてはいけない。子どもに、テストと意識させ
ないようにするのがコツ。

++++++++++++++++

【テスト1】

 お姉さんは、今、10歳です。私より、2歳、年上です。でも、あと5年すると、私の
ほうが、年上になります。

【テスト2】

 犬のケンは、ネコのタマより、体が大きいです。ニワトリのコッコは、ネコのタマより、
体は小さいですが、犬のケンよりは、大きいです。

【テスト3】

 公園の中を、二人のおじいさんが、歩いていました。一人は、男の人でしたが、もう一
人は、女の人でした。

【テスト4】

 魚屋さんへ、お母さんといっしょに、買い物に行きました。私は、たまごを3個買いま
したが、お母さんは、何も買いませんでした。

【テスト5】

 朝起きてから、お父さんと、魚釣りに行きました。お父さんは、ラケットをもっていき
ました。ぼくは、ボールをもって行きました。

【テスト6】

 りんごが、5個ありました。そこへお兄さんがきたので、ぼくと、二人で分けました。
お兄さんが、3個。ぼくも、3個もらいました。

【テスト7】

 お母さんのお姉さんが、ぼくの家にあそびにきました。「おじさんは、何歳?」と聞くと、
お姉さんは、笑いながら、「40歳だよ」と言いました。

【テスト8】

 今日は、日曜日です。で、明日の土曜日までに、ぼくとお兄さんは、近くの図書館へ、
本を返しに行かねばなりません。


【テスト9】

 おばあさんが、杖(つえ)をもって歩いていました。右手には、買い物袋、左手には、
バッグをさげていました。

【テスト10】

 A子さんの家は、山の上にあります。私の家は、山の下にあります。私の家から、A子
さんの家へ行くときは、下り坂で楽ですが、帰りがたいへんです。

++++++++++++++++++

 このテストでは、子どもの読解、理解力を知る。もしこうしたテストで、正解率が低い
ようであれば、日常的な会話に問題がないかを、反省する。

 頭ごなしの言い方、過干渉など。子どもとの会話の中に、「なぜ」「どうして」をふやす
とよい。

【追記】

 こうした論理性のあるなしは、何も、子どもだけの問題ではない。先日も、こんなこと
を言う、女性(50歳くらい)がいた。

 「祖父は、心筋梗塞で、なくなりました。二回目の発作が起きたとき、私の手をしっか
りと握って、『あとを頼む』と言いました。そしてそのまま眠るようになくなりました」と。

 その女性は、祖父のその言葉を盾に、「祖父の残した財産は、すべて私のもの」と主張し
ていたが、その女性の言った言葉は、おかしい。

 あなたは、そのおかしさが、わかるだろうか。

 私が知るところでは、心筋梗塞という病気は、ふっつの病気ではない。「焼けひばしを、
心臓に突き刺されるような痛みを感ずる」(体験者)ということだそうだ。つまりふつうの
痛さではない。

 その心筋梗塞の発作が起きているときに、「しっかり手を握って……」ということはあり
えない? 私はそう思った。(あるいは、本当に、その祖父は、そう言ったのかもしれない
が……。)

 たまたま昨日(4・7)、小泉首相の靖国参拝が、憲法違反であるという裁判所の判断が
くだされた。靖国参拝が、宗教的行為と認定されたわけである。

 それに対して、小泉首相は、「私は、そうは思わない。これからも靖国参拝はする」と言
明している。

 靖国参拝が憲法違反であるかどうかは別として、つまり、さておいて、この小泉首相の
発言は、自ら、三権分立の大原則を否定していることになる。「私は、そうは思わない」では、
すまされない。

 このように、私たちの身のまわりには、サラッと聞くとおかしくない話でも、よく考え
てみると、「?」という話は多い。こうした能力を判定する力が、ここでいう読解、理解力
ということになる。

+++++++++++++++

●先生との信頼関係(先生の悪口はタブー)

 子どもに「内緒よ」「先生には話してはダメよ」と言うのは、「先生に話しなさい」と言
うのと同じ。子どもは先生の前では、絶対に隠しごとができない。

英語のことわざにも、『子どもは家の中のことを、町で話す』というのがある。先生は先
生で、この種の話には敏感に反応する。だいたいにおいて、子どもと親が接する時間よ
りも、先生と接する時間のほうが長い。

……だから、子どもの前では、学校の批判や先生の悪口は、タブー中のタブー。言えば
言ったで、必ずそれは先生に伝わる。それだけではない。以後、子どもは先生の指導に
従わなくなる。

 ……というようなことは、前にも書いた。今回は、その次を書く。一度、親と教師の信
頼関係が崩れると、先生自身は、急速にやる気をなくす。

一般の人は、学校の先生を、神様か牧師のように思っているかもしれない。が、先生と
て生身の人間。やる気をなくしたら、その影響は、必ず、子どもに出てくる。教育とい
うのは、手をかけようと思えば、どこまでも手をかけられる。しかし手を抜こうと思え
ば、どこまでも抜ける。これが教育のこわいところだ。が、親にはそれがわからない。

一方で先生の悪口を言いたい放題言いながら、「どうしてうちの子のめんどうを、しっか
りとみてくれないのですか!」は、ない。こんなことを言う子ども(小二男児)がいた。

「三年になっても、今の先生だったら、校長先生に言って、先生を変えてもらうって、
ママが言っていた」と。私が「どうして?」と聞くと、「だって今の先生は、教え方がヘ
タクソだもん」と。もしあなたが先生なら、こういう子どもの話をどう聞くだろうか。
それでもあなたは、怒りや悔しさを乗り越えて、教育に専念できるだろうか。

 日本では、勉強を教えるのが教育ということになってしまっている。どこかに「学歴」
を意識したものだ。が、大切なのは、人間関係だ。この人間関係こそが、真の教育なのだ。
J君は、小学生のとき、ブラスバンド部に入り、そこで指導をしてくれた先生から、大き
な影響を受けた。E君は、中学生のとき、ペットボトルで二段式のロケットを作って、市
長賞を受けた。やはりそのとき指導してくれた先生から、大きな影響を受けた。

J君は、高校生になったとき、ある電気メーカーの主催するコンクールで全国大会に出
場したし、E君は今、宇宙工学をめざして大学に通っている。もしJ君やE君が、これ
らのよい先生にめぐりあわなければ、今のJ君やE君はない。教育というのは、そうい
うものだ。では、どうするか。

 子どもの前では、「あなたの先生はすばらしい」「よい先生だ」だけを繰り返す。子ども
が悪口を言っても、「それはあなたたちが悪いからでしょう」とたしなめる。仮に先生に問
題があったとしても、それは子どもとは関係のない世界で、子どもの知らないところで処
理する。

そういう姿勢が先生に伝わったとき、先生はやる気を出す。信頼には信頼でこたえよう
とする。どんな苦労もいとわなくなる。損か得かという言い方はあまり好きではないが、
そのほうが子どもにとって得なことは、言うまでもない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの恐怖症(忘れるのが最善)

 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、
こうして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙
な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かっ
て走ってくるように感じたのだ。

私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった
……。恐怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえ
ば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きた
くない」と言う園児が続出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身
体面に影響が出ることがある。

それが恐怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによっ
て、ふつう、次の三つに分けて考える。

●対人(集団)恐怖症……子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある
程度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子ど
もや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着で、はじめて行
ったような場所でも、我が物顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を
超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗を
かく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(不登校)などの症状が現れる。

●場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに
乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、
暗いトイレがこわくて、用を足すことができなかった。それと関係あるかどうかは知らな
いが、今でも小さなトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

●そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわが
る、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。動物のお面をかぶって見せ
ただけで、ワーッと泣き出す子どもとなると、一〇人に一人はいる(年中児)。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱
っても意味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場
で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。無
理をすればするほど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば
心が風邪をひいたと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。

症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私のばあいも、その事故から数日間は、
車の速度が五〇キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせい
だ」とはわかっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。が、
少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も何度も自分に、「こわくない」と言いきかせ
ることで、克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出す
と、夜中でも興奮状態になってしまう。

恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう
前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(2)今日の特集  **************************

●意識のちがい

 タクシーの運転手が、どこかノロノロ走っている前の車を見ながら、こう言った。「俺た
ちは、道路でメシ食ってるんだ。ああいう運転は困るんだよ」と。

 一方、ある男性が、強引な走り方をするタクシーを見ながら、こう言った。「タクシーの
運転手ら、道路で仕事をさせてもらっているんだから、もっと遠慮がちに運転しろよ」と。

 同じ「運転」でも、立場がちがうと、その見方も、180度ちがう。こういう例は、少
なくない。

 たとえば先の戦争で、300万人もの日本人が死んだ。それについて、「そうして国のた
めに死んでいった人たちの死を、ムダにしてはいけない」と考える人。こういう考え方は、
右翼的思想の基本となる。

 一方、「300万人もの人たちが戦争の犠牲になった。そういう戦争を二度と起こしては
いけない」と考える人。こういう考え方は、左翼思想の基本となる。

 つまり、意識というのは、そういうもので、大きくちがうように見えるかもしれないが、
たがいに、中身は、それほど、ちがわない。

●意識の変化

 こうした意識は、絶対的なものでは、ない。その人自身の思想の変化、環境の変化によ
っても、変りうる。

 たとえば今、アメリカが、イラクで戦争をしている。昨日も、海兵隊員が、10数人、
死んだ。

 こういうニュースを聞くと、私のばあい、鮮烈な衝撃が、走るようになった。恐らく3、
4年前の私には、予想もできなかった衝撃である。

 私の二男の妻は、アメリカ人である。孫もアメリカ人である。二男も、アメリカ国籍を、
今、申請している。そのうちアメリカ人になる。

 3、4年前までの「アメリカ」「アメリカ人」と、今の「アメリカ」「アメリカ人」は、
私にとっては、明らかにちがう。

 たとえば今、世界で一番、危機的な状況にあるのは、実は、日朝関係である。「つぎの紛
争地域」として、世界の政治学者たちは、この極東地域を、あげる。

 もちろん戦争を望むものではないが、しかし仮に、日朝戦争になり、あるいは、米朝戦
争になっても、私は、孫のセイジには、このアジアまで、来てほしくない。もし戦争に来
るというなら、私は、孫のセイジに、こう言うだろう。

 「わざわざ極東まで、来なくてもいい。ぼくらのほうで、何とかするから」と。

 多分、こうした意識のちがいというのは、日本だけに住み、日本人だけの家族をもって
いる人には、理解できないかもしれない。つまり今、自分でも気がつかなかったが、私自
身の意識も、明らかに変化してきている。

●絶対的な意識はない
 
絶対的な意識というのは、ない。普遍的な意識というのも、ない。わずか130年前に
は、この日本では、「薩摩だの」「長州だの」と言っていた。「幕府」だの、「朝廷」だの
と言っていた。

 しかし時代が変った今、こうした「国」のなごりは、せいぜい高校野球に残っているく
らでしかない。「静岡県代表」「東北勢」「九州男児」などという言葉が使われる。

 わずか130年前には、日本人も、その地域のために、命までかけた。しかし今、「県」
のために、命までかける人はいない。戦争をする人はいない。

 言いかえると、今、「日本」だの、「中国」だのと言っているほうが、おかしい。いつか
やがて、あのジョン・レノンが、『イマジン』の中で歌ったように、世界は一つになる。そ
うなったとき、人間の意識は、これまた一つ上のレベルまでいくことになる。

 そこで私たちが、未来の子どもたちのためになずべきことは、この意識のレベルをあげ
ること。決して、今の意識に安住してはいけない。今の意識を絶対視してはいけない。

 ……と書くと、決まって、「君には、愛国心はないのか」と言ってくる人がいる。とんで
もない。私にも愛国心はある。

 しかしその愛国心というのは、「国」という体制を愛する愛国心ではない。郷土を愛し、
文化を愛し、子どもたちの未来を愛するという愛国心である。あえて言えば、愛郷心、愛
人心、愛日本人心ということになる。が、日本の政府は、さかんに、愛「国」心という言
葉を使う。

 しかし仮にK国が日本を攻めてくるようなことがあれば、私だって、そのK国と戦う。
しかしそれは日本の体制を守るためではない。日本の郷土を守り、家族を守り、そして子
どもたちの未来を守るためである。いくら強要されても、私には、「天皇陛下、バンザー
イ!」などと言って死ぬことはできない。できないもは、できないのであって、どうしよ
うもない。

●さあ、意識を高めよう!

 さあ、みんなで、力をあわせて、意識を高めよう。できるだけ広い視野で、高い視野で、
自分や地域や、そしてこの日本を見よう。そして考えよう。

 いつか世界の人が日本という国をみたとき、彼らが本当に尊敬するのは、私たち日本人
がもつ、広くて高い意識である。「日本や、日本人は、こんなにすばらしい国だったのか」
と。

 しかしそれは一部の、文化人や、哲学者がする仕事ではない。私たち一人ひとりの庶民
が、すべきことである。その底辺から、私たち自身の意識をもちあげる。

隣のおじさんや、おばさんが、堂々と、正解平和を口にし、人間の尊厳を口にしたとき、
日本は、そして日本人は、はじめて、世界に誇る意識をもつことになる。

 まずいのは、今の意識に安住し、それを絶対視することである。かつてアメリカのCN
Nが、「日本人に、ワレワレ意識がある間は、日本人は、決して、世界のリーダーにはなれ
ない」と酷評したことがある。その「ワレワレ意識」も、その一つかもしれない。

 耳の痛い言葉である。が、大切なことは、その「痛さ」を、さらに広くて、高い意識で、
克服することである。繰りかえすが、決して、今の意識に安住してはいけない。
(040408)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【参考1】

かつてジョン・レノンは、「イマジン」の中で、こう歌った。

♪「天国はない。国はない。宗教はない。
  貪欲さや飢えもない。殺しあうことも
  死ぬこともない……
  そんな世界を想像してみよう……」と。

少し前まで、この日本でも、薩摩だの長州だのと言っていた。
皇族だの、貴族だの、士族だのとも言っていた。
しかし今、そんなことを言う人は、だれもいない。

それと同じように、やがて、ジョン・レノンが夢見たような
世界が、やってくるだろう。今すぐには無理だとしても、
必ず、やってくるだろう。

みんなと一緒に、力をあわせて、そういう世界をめざそう。
あきらめてはいけない。立ち止まっているわけにもいかない。
大切なことは、その目標に向かって進むこと。
決して後退しないこと。

ただひたすら、その目標に向かって進むこと。

+++++++++++++++++

イマジン(訳1)

♪天国はないこと想像してみよう
その気になれば簡単なこと
ぼくたちの下には地獄はなく
頭の上にあるのは空だけ
みんなが今日のために生きていると想像してみよう。

♪国なんかないと思ってみよう
むずかしいことではない
殺しあうこともなければ、そのために死ぬこともなくない。
宗教もない
平和な人生を想像してみよう

♪財産がないことを想像してみよう
君にできるかどうかわからないけど
貪欲さや飢えの必要もなく
すべての人たちが兄弟で
みんなが全世界を分けもっていると想像してみよう

♪人はぼくを、夢見る人と言うかもしれない
けれどもぼくはひとりではない。
いつの日か、君たちもぼくに加わるだろう。
そして世界はひとつになるだろう。
(ジョン・レノン、「イマジン」より)

(注:「Imagine」を、多くの翻訳家にならって、「想像する」と訳したが、本当は「if」の
意味に近いのでは……? そういうふうに訳すと、つぎのようになる。同じ歌詞でも、訳
し方によって、そのニュアンスが、微妙に違ってくる。

イマジン(訳2)

♪もし天国がないと仮定してみよう、
そう仮定することは簡単だけどね、
足元には、地獄はないよ。
ぼくたちの上にあるのは、空だけ。
すべての人々が、「今」のために生きていると
仮定してみよう……。

♪もし国というものがないと仮定してみよう。
そう仮定することはむずかしいことではないけどね。
そうすれば、殺しあうことも、そのために死ぬこともない。
宗教もない。もし平和な生活があれば……。

♪もし所有するものがないことを仮定してみよう。
君にできるかどうかはわからないけど、
貪欲になることも、空腹になることもないよ。
人々はみんな兄弟さ、
もし世界中の人たちが、この世界を共有したらね。

♪君はぼくを、夢見る人と言うかもしれない。
しかしぼくはひとりではないよ。
いつか君たちもぼくに加わるだろうと思うよ・
そしてそのとき、世界はひとつになるだろう。

ついでながら、ジョン・レノンの「Imagine」の原詩を
ここに載せておく。あなたはこの詩をどのように訳すだろうか。

Imagine

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine life in peace…

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.

【参考2】

日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たと
えば中国や北朝鮮などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。

日本では、「愛国心」と、そこに「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ
人も、オーストラリア人も、「国」など、考えていない。たとえば英語で、愛国心は、「p
atriotism」という。この単語は、ラテン語の「patriota(英語のp
atriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patri
otism」というのは、日本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは
「父なる大地を愛する主義」という意味である。念のため、いくつかの派生語を並べてお
くので、参考にしてほしい。

●patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
●patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
●Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦
●いを記念した記念日。この戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、
「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近
い。あるいは愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、
考えていない。ここに日本人と欧米人の、大きなズレがある。


(3)心を考える  **************************

●三つの自己中心性

 自己中心性は、それ自体が、精神の未発達を意味する。(精神の完成度は、他人への同調
性、他人との協調性、他人との調和性で知ることができる。自己中心性は、その反対側に
位置する。)

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の精神の完成度は、低いとみる。

 これについては、もう何度も書いてきたので、ここでは、その先を書く。

 この自己中心性は、(1)個人としての自己中心性、(2)民族としての自己中心性、(3)
人間としての自己中心性の三つに、分かれる。

 たとえば、「私が一番、すぐれている。他人は、みな、劣っている」と思うのは、(1)
の個人としての自己中心性をいう。つぎに「大和民族は、一番、すぐれている。他の民族
は、みな、劣っている」と思うのは、(2)の民族としての自己中心性をいう。そして「人
間が宇宙の中心にいる、唯一の知的生物である」と思うのは、(3)の人間としての、自己
中心性をいう。

 この中でも、一番、わかりやすいのは、(3)の人間としての、自己中心性である。

 しかし人間は、宇宙の中の、ゴミのような星に、かろうじてへばりついて生きている、
つまりは、(カビ)のような生物にすぎない。だれだったか、少し前、(地球に張りつく、
がん細胞のようなもの)と表現した人もいる。

 (だからといって、人間がつまらない生物だと言っているのではない。誤解のないよう
に!)

 たとえば、今、私たちの視点を、宇宙へ置いてみよう。すると、ものの見方が、一変す
る。

 この広大な宇宙には、無数の銀河系がある。そしてそれぞれの銀河系には、これまた無
数の星がある。その数は、浜松市の南にある、中田島砂丘にある、砂粒の数より多いとい
われている。(実際には、その数は、わからない?)

 太陽という星は、その中の一つにすぎない。

 で、私たちが住む、この地球は、その太陽という星の、これまたチリのような惑星に過
ぎない。

 これが現実である。疑いようもない、現実である。

 こういう現実を前にして、「人間が宇宙の中心にいる、唯一の知的生物である」と言うの
は、実にバカげている。

 で、こういう視点で、こんどは、民族としての自己中心性を考えてみる。……と、考え
るまでもなく、民族としての自己中心性は、実にバカげているのが、わかる。こんな小さ
な地球上で、大和民族だの、韓民族だの、さらには、白人だの黒人だのと言っているほう
が、おかしい。

 さらに、個人の自己中心性となると、バカげていて、話にならない。

 そこで話をもとにもどす。

 宇宙的視点から見ると、細菌とアメーバの知的レベルが、私たち人間には、同じに見え
るように、人間とサルの間には、知的レベルの差は、まったくない。人間は、「自分たちは
サルとは違う」と思っているかもしれないが、まさにそれこそ、人間が、人間としてもっ
ている自己中心性にすぎない。

 人間としての完成度は、人間が、他の動物たちと、どの程度までの同調性、協調性、調
和性をもっているかで決まる。

たとえば森に一本の道を通すときでも、どの程度まで、そこに住む、ほかの動物たちの
立場でものを考えることができるかで、その完成度が決まる。「ほかの動物たちのことは、
知ったことか!」では、人間としての完成度は、きわめて低いということになる。

 さらに話を一歩進めると、こうなる。

 私たち人間は、バカである。アホである。どうしようもないほど、未熟で、未完成であ
る。「万物の霊長類」などというのは、とんでもない、うぬぼれ。その実体は、まさに畜生。
ケダモノ。

 そういう視点で、私たちが自らを、謙虚な目で、見なおしてみる。たとえば人間として
の、欠陥、欠点、弱点、盲点、そして問題点を、洗いなおしてみる。少なくとも、私たち
人間は、(完成された動物)ではない。そういう視点で、自分を見つめてみる。

 つまりは、それこそが、人間としての自己中心性を打破するための、第一歩ということ
になる。

【追記】

 『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソク
ラテスにまつわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないということを知る
こと」を、無知の知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出
発点だと言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな
未知の分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、
こんなことも知らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなことがあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーとい
います」と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャー
ではなく、カレンダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見てい
るんだろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カ
レンダーも知らないのオ?」と。

 私はま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣
さの中に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだっ
て、無数の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そして
その状態は、庭に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのでは
ないか。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわな
い? 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわ
ないと思っている。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったと
しても、自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、
気づいていないからである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見れば
よいということ。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、
結局は、自分を知ることの第一歩ということになる。
(はやし浩司 ソクラテス 無知の知)


(4)今を考える  **************************

●交通事故

 山荘からの帰り道、交通事故を目撃した。国道から、半僧坊(はんそうぼう)へ曲がる
道のところで、細い道をふさぐように、大型トラックが停止していた。

 瞬間その前を見ると、一人の女性が、そこに倒れていた。体を、毛布のようなものでく
るまれていた。私たちは道路に立った一人の男に誘導されて、その場を離れた。

 このあたりでは、いつ起きてもおかしくない事故だった。そのトラックもそうだったか
どうかは、知らないが、このあたりの自動車は、ほとんど信号を守らない。信号が赤にな
っても、左右に車がいなければ、猛スピードで交差点を横切ったりする。アクセルを踏ん
で、交差点を強引に曲がろうとする。

 私も何度か、ヒヤリとさせられた。ヘタに信号を守ろうものなら、うしろからクラクシ
ョンを鳴らされる。追い抜かれる。そういう土地がらである。

私「浜松では、信号が青になっても、すぐ車を出してはいけない。ひと呼吸おいてから、
左右を確かめたあと、車を出す」
ワイフ「おかしなことになったわね」
私「そうだね……」と。

 立派な警察署もできた。KOBANも、つぎつぎと近代的なビルに建てなおされた。し
かし私は、この30年間、警察官が交差点に立って、車の交通指導をしている姿を見たこ
とがない。

 全国、どこでも、そうなのだろうか。それとも、この静岡県の浜松市だけなのだろうか。
ちなみに、この静岡県は、交通事故、全国ワーストワン。その静岡県の中でも、この浜松
市は、ワーストワン。

 翌朝、新聞を見ると、はねられたのは、市内のK高校に通う、高校三年生に女の子とわ
かった。新聞報道によれば、「胸を強く打ち、まもなく死亡」とあった。

 あの道路に寝ていた女性が死んだ。髪の毛が大きく乱れていたので、年配の女性かと思
ったが、高校生だった。「部活の帰りで、今日(4・7)は、始業式だった」(新聞)と。

 何とも痛ましい事故である。おかしな胸騒ぎがおさまったころ、私の心の中には、怒り
が充満し始めた。まさに起こるべきして、起きた事故。

 その事故を目撃したあと、200メートルも進むと、救急車とすれ違った。救急車は、
反対車線を走っていたが、その救急車に、道をあけたのは、私たちの車だけだった。救急
車の前を走っていた軽トラックは、まさに悠然(ゆうぜん)と、そのまま走りつづけてい
た。

 さらに5、600メートル進み、角を曲がったところでのこと。何と、警察官が、4、
5人立っているではないか。私は窓をあけ、うしろ方面を指さしながら、大声で叫んだ。

 「交通事故ですよ! 事故ですよ!」と。

 私たちは走っていたので、それだけ叫ぶのが精一杯だった。が、それらの警察官は、「わ
かってます」というようなことを言って、手を払った。私は何度もうしろを振りかえった。
しかし警察官たちは、立ち話をしたままだった。どこにも、緊張感は、なかった!

 大型トラックの運転手よ!
 軽トラックの運転手よ!
 警察官たちよ!

 女子高校生は、死んだ! わかるか、この事実の重大さが! バカヤロー!


●Sさんからの相談

 K市に住む、Sさん(女性、50歳くらい)から、こんな相談のメールが入った。

 「ほとんど、行き来はないのですが、70歳の叔父の様子が、このところ、おかしい。
叔父のめんどうをみている叔母がたいへんそうで、どうしたらいいですか」と。

 メールには、こうあった。「昔から几帳面な人とは聞いていましたが、叔父は、朝は、必
ず5時起き。それから雨戸をあけ、朝食の用意をします。どれも、5分単位で、時刻が決
まっていて、それが夏でも、冬でも、同じです」

 「驚いたのは、庭でかぶる帽子の置いてある場所すら、決まっていることです。10年
前と、まったく同じ位置なのです。それも、どこかボロボロになった帽子です。会って話
をすると、気むずかしい面はありますが、ふつうの人という感じです。どこがおかしいの
でしょうか」と。

 私は、「老人のことは、わかりません」と返事を書いた。

 しかし子どもの世界でも、同じようなことは、よくある。たとえば毎朝、同じズボンで
ないと、幼稚園へ行かないとか、その幼稚園でも、同じ席でないと、座らないとか。

 子どものばあい、こうした(がんこさ)は、あまり好ましいものではない。心のどこか
に問題のある子どもとみる。たとえば自閉傾向(自閉症ではない)を示す子どもは、もの
ごとに、ふつうでない(がんこさ)を見せることが多い。

 ふつうこうした(がんこさ)を見せたら、相手にせず、その子どもがいいようにしてや
る。説教したり、叱ったりしてはいけない。かえって症状をこじらせてしまう。

 で、その老人も、同じように考えてよいのでは……? よくわからないが、このところ、
老人も、子どもと同じと思うことが多くなった。だからといって、同一レベルで考えるこ
とはできないが、しかし共通点は多い。

 そのSさんには、こんな返事を書いた。

 「老人のことは、よくわかりません。もともとそういうタイプの人だったと考えてよい
のではないでしょうか。ただ青年期や壮年期には、自己意識で自分をコントロールしてい
ただけだと思います。

 だから外の世界では、あまり目立たなかった。

 それが定年退職して、その必要がなくなり、またもとの自分に戻ったのではないでしょ
うか。

 よくわかりません。どうしたらいいのか、またどこへ相談したらいいのかも、わかりま
せん。何しろ、私自身、そうした老人を、よく知りません。ごめんなさい」と。

 そこで、このSさんの話を参考に、あなた自身の心の中をのぞいてみるとよい。あなた
の中には、(あなた)がいる。その(あなた)は、子どものときのまま。今は、多分、壮年
期で、そうした(あなた)が、顔を出すことは、あまりない。

 しかしその(あなた)は、やがて、また、外に出てくる。年をとり、自己意識が弱くな
り、ごまかしがきかなくなると、また、外に出てくる。自分の中の(自分)というのは、
そういうもの。

 たとえば子どものころ、わがままだった人は、年をとり、自分で自分をコントロールで
きなくなると、また、わがままになる。青年期や壮年期に、そうしたわがままが見た目に
は消えるのは、その時期は、まだ自己意識が強く、そういう自分を、コントロールしてい
るからにすぎない。「わがままにしていると、人に嫌われるぞ」と。

 そういう意味でも、人間がもっている性質などというものは、そんなに簡単には変らな
い。まさに『三つ子の魂、100まで』となる。言いかえると、幼児期の(心づくり)を、
決して安易に考えてはいけない。……ということになる。


●未熟な言語、日本語

 私は、このところ、日本語に、大きな幻滅をいだき始めている。「ひょっとしたら、私た
ちは、とんでもない言語を使っているのではないか」と。

 昔、だれだったか、私にこう言った。「日本語は、すぐれた言語である」と。

 しかし、本当に、そうだろうか。たしかに「今」というこの時点においては、日本語と
いうのは、少なくとも英語よりも、微妙な表現ができるように思う。(そう思うのは、私の
英語力の限界かもしれないが……。)

 が、その一方で、私は、最近の若い人たちの書いた文章を読んでいると、大きな不安に
かられる。とくにインターネットの世界が、そうである。ときどき意味不明の言葉に接す
る。「ときどき」というよりは、「しばしば」と言ったほうが、正しいかもしれない。

 たった一世代しかちがわないのに、どうしてこんな現象が起きるのか?

 実は私も、その反対の立場で、若いころ、年配の人たちの書いた文章が、読めなかった
ことがある。「します」を、「しませう」と書いている人もいた。「考える」を、「考へる」
と書いている人もいた。そういう文章に出会うたびに、大きな違和感を覚えた。

 しかしこれは、文化の蓄積という意味では、たいへんな損失である。

 たとえば今、私たちは、明治時代や大正時代の人が書いた文章を、そのまま理解できな
い。文体そのものが変ってしまっている。さらに江戸時代の人が書いた文章となると、辞
書なしでは、理解できない。

 言いかえると、私が今、書いているこうした文章も、つぎの世代に人には、おかしな文
章に見えるかもしれないということ。さらに50年とか、100年もすると、そのときの
人たちは、私の文章を読むのに、辞書を使うようになるかもしれない。

 つまりその時点で、今、私がこうして書いている文章は、まるで外国語のように、遠く
の世界へ、追いやられることになる。もちろんその文章に含まれる、私の知識や経験も、
である。

 この点、中国語はすぐれている。ある中国人がこう言った。「私たちは、1000年前、
2000年前に書かれた中国だって、理解できる」と。「本当ですか?」と念を押すと、「本
当だ」と。

 もっとも、中国語というのは、微妙な言い回しができない言語である。「私は思う」を、
「我想」というが、日本語のように、「思うかしら」「思ってね」「思っちゃった」「思うよ
オ」などという微妙な表現ができない。(これも、私の中国語力の限界かもしれないが…
…。)

 しかし言葉というのは、現時点において、他人と思想や信条を交換するためだけのもの
ではない。時間を超えて、過去から未来へ、思想や信条を伝えるという意味も含まれる。
むしろ、こちらのほうが、重要である。

 そういうことを考えあわせると、言葉が、これほどまでに変化してよいものかと考える。
さらに方言となると、日本語ほど、これだけ狭い範囲で、方言のある言語も少ないのでは
……? 地域によっては、同じ町の中でも、その使う言葉がちがうところがある。つまり
その変化したり、ちがっている部分が、冒頭に書いた、「とんでもない言語」ということに
なる。

 そこでやがていつか、こんな操作が必要になるかもしれない。

 たとえば一度、日本語に書いた原稿を、保存するため、英語なら英語に翻訳する。ちょ
うど書いた原稿を、CDか、DVDに焼いて保存するようにである。

 そして500年後とか、1000年後に、その文章が必要なときは、その英語をもう一
度、日本語に翻訳して使う。こんなに急速に日本語が変化しているのをみると、決して笑
いごとでは、すまされないような気がする。ある意味で、これは深刻な問題である。

 ……と書いて、今の若い人たちに警告。

 どんどん日本語を変えていくのは、若い人たちの勝手かもしれないが、しかし同時に、
あなたがたが年をとったとき、反対の立場で、同じ現象が起きるということ。それだけは、
覚悟しておいたほうがよい。
(はやし浩司 日本語の限界)
(040407)

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 7日(No.406)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page041.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)
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(1)子育てポイント**************************

●幼児の発語障害

 世界広しといえども、幼児期に発音教育をしないのは、日本ぐらいなものではないか。

私が生まれ育った岐阜県の美濃地方では、「鮎(あゆ)」を、「エエ」と発音する。「よい
味」を、「エエ・エジ」と発音する。だから、「この鮎は、よい味だ」と言うときは、「こ
のエエうァ、エエ・エジやナモ」と言う。

方言が悪いというのではないが、こういう発音を日常的にしていて、それを正しい文に
書けと言われても、できるものではない。

そんなわけで私は小学生のころ、作文が大の苦手だった。子どもながらに苦労したのを、
記憶のどこかで覚えている。まだある。この日本では幼児の発音に甘く、子どもが「デ
ンチャ(電車)」と発音しても、それをかえって、「かわいい言い方」と、許してしまう。

 「発語障害」というときは、構音障害(発音、発語障害)、吃音障害(どもる)、音声障
害(ダミ声、鼻声、かすれ声)、それに発音器官に器質的な障害があるばあい(口蓋裂)な
どを総称していう。

しかし現場で「発語障害」というときは、この中の構音障害をいう。たとえば「机」を
「チュクエ」、「学校」を「ガッコ」、「バッタ」を「バタ」と言うなど。言葉の一部の音
を変えたり、ぬかしたりする。口唇、歯列、舌などの器官を総称して、構音器官という。
この構音器官に機能的な障害があると、子どもはここにあげたように独特の発音をする
ようになる。

幼児は、サ行(猿→シャル)、ザ行(ぞうり→ジョーリ)、ラ行(ロケット→ドケット)
が苦手だが、これらが正しく発音できれば、よしとする。さらに発音するとき、舌の位
置がずれると、サ行がシャ音化(魚→シャカナ)したり、同じくサ行がチャ音化(魚→
チャカナ)したりする。ほかにラ行がダ音化することもある。「ラジオ」を「ダジオ」と
言うのがそれである。満五歳を一つの目安として、それまでに正しい発音ができるよう
にする。

 以上は比較的なおしやすい構音障害だが、なおしにくいのもある。カ行をタ音化するカ
行障害(五個→ドト)などは、指導がむずかしく、なおすのに数年かかることもある。

五、六歳児についていえば、全体の五%前後にその傾向がみられる。しかしあまり神経
質に指導すると、子どもが自信をなくしたり、さらに失語症になったりするから注意す
る。

少し古い資料だが、アメリカ言語聴覚学会の報告によれば、指導が必要な構音障害児の
出現率は、三%とされる(一九五一年)。症状にも軽重があり、ふつう児との線引きもむ
ずかしいが、その傾向のある子どもまで含めると、「つ」を「チュ」と発音するケースが、
約二〇%。何らかの指導が必要と思われる幼児は、約五〜一〇%というのが、私の実感
である。

 こういう発語障害をふせぐためには、子どもが言葉を話すようになったら、息を子ども
の顔に吹きかけながら、口の動きを正確にしてみせるとよい。

幼児語(自動車→ブーブー、電車→ゴーゴー)などは、かえって発語の発達を遅らせる
ことになるので、注意する。言葉の発達そのものを遅らせることもある。ある男の子(年
長児)は、「三輪車」を「シャーシャー」、「押す」を「ドウドウ」と言っていた。だから、
「三輪車を押す」は、「シャーシャー、ドウドウ」と。

が、それでも発語障害が残ってしまったら……。各市町村の保険センター、もしくは教
育委員会に相談窓口があるので、そちらへ問い合わせてみるとよい。

+++++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」
と。

それから三〇年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわ
けではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸
福になるピエール。そのピエールはこう言う。

「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第
五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。「人生はチ
ョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬
時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様
でしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をし
ていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そう
いうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は、何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてく
れる。


(2)今日の特集  **************************

●テレビの悪影響

 こんなショッキングな報告がなされた。

「乳幼児期にテレビを多く見た子供ほど7歳の時に集中力が弱い、落ち着きがない、衝
動的などの注意欠陥障害になる危険性が大きい、との調査報告が、米小児科学会機関誌
『ペディアトリックス4月号』に掲載された。報告は、乳幼児のテレビ視聴は制限すべ
きだと警告している」(協同・中日新聞)と。

 「テレビの1日平均視聴時間は1歳で2・2時間、3歳で3・6時間。視聴時間が1時
間延びるごとに、7歳になった時に注意欠陥障害が起こる可能性は、10%高くなってい
ることが判明した」(ワシントン大学(シアトル)小児科学部のディミトリ・クリスタキ
ス博士ら。1歳と3歳の各グループ、計2623人のデータを分析)とのこと。

 これを読んだとき、まず最初に頭に思い浮かんだのは、私自身が、ほぼ4年前に書いた
原稿(中日新聞投稿済み)である。

 以前にも、何度もマガジンにとりあげた原稿だが、それをそのまま掲載する。

+++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ…
…、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、
話がポンポンと飛ぶ。

頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。
動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思う
と、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲ
ラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。
まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。

気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。
が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人に二人はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑
えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」
と答えた先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%
が、「一名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九
〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちを
たたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破
ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、
調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使
う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に
出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなっ
た」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観
の差を感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指
導が難しい」(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一
〇%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、
「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビ
やゲームをあげる。

「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家
庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家
庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。

そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタ
イプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲー
ムづけになっていたのがわかる。

ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをして
いるときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。

たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、
ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられな
くなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静か
に聞くことができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いてい
る!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃ
べる。

一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつか
さどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テ
レビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。

こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与
えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ど
も」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。

++++++++++++++++++++

 この原稿を中日新聞で発表したとき、反響は、ほとんど、なかった。つまりまったく相
手にされなかった。無視された。

もっともこの日本では、私のような、無肩書き、無権威のものが、こういうことを言っ
ても、相手にされない。そういうしくみが、もうできあがっている。

 しかしアメリカから来た情報となると、みなが、飛びつく。そしてことさら大発見でも
したかのように、驚き、騒ぐ。

が、だからといって、私がひがんでいるというのではない。もうとっくの昔に、あきら
めた。……という話は、ここまでにして、私は、改めて、こう思う。

 乳幼児には、不自然な刺激は、与えないほうがよい、と。与えるとしても、慎重にした
らよい。

 よい例が、『ポケモン事件』である。アニメのポケモンを見ていた全国の子どもたちが、
光過敏性てんかんという、わけのわからないショックを受けて倒れてしまった。

 1997年の終わりの、12月16日(火曜日)の夜のことであった。

 人気番組『ポケモン』を見ていた子どもたちが、はげしい嘔吐と、けいれんを起こして
倒れてしまった。

その日の午後までにNHKが確認したところ、埼玉県下だけでも、59人。全国で38
2人。さらに翌々日の18日には、その数は、0歳児から58歳の人まで、750人に
ふえた。気分が悪くなった人まで含めると、1万人以上!

 中には、大発作を起こした上、呼吸困難から意識不明になった子ども(5歳児、大阪)
もいた。「酸素不足により、脳障害の後遺症が残るかもしれない」(大阪府立病院)とも。

 当初は、「原因不明」とされたが、やがて解明された。

 「テレビのチラツキではないか」(テレビ東京の広報部長)ということから、光過敏性て
んかんという言葉が浮上した(はやし浩司著「ポケモン・カルト」より)。

 この一例からもわかるように、脳の反応には、まだ未知の部分が多い。未解明の部分と
いってもい。人間は、数十万年という長い年月を経て、ここまで進化してきた。しかしそ
れは自然の変化に歩調を合わせた、ゆるやかな進化だった。

 が、人間を包む環境は、ここ50年、100年、急速に変化した。人間の脳が、そうし
た変化に、不適応を起こしたからといって、何ら不思議なことではない。その一つが、こ
こでいうテレビということになる。

 私はこの34年間、幼児の変化を、間近で見てきた。その経験だけでも、子どもたちが、
大きく変化したのを感じている。三段跳びに結論を急ぐが、「乳幼児に与える刺激には、慎
重に」という結論は、そうした経験から引きだした。

 私の本音を言えば、「そら、見ろ!」ということになるのだが……。
(はやし浩司 光過敏性てんかん ポケモン事件 乱舞する脳 テレビの悪影響 ポケモ
ンカルト)
(040405)

(3)心を考える  **************************

●生きることの意味

 生きることの意味について、考えた。

 その意味は、いくつかある。それらを分類すると、こうなる。

(1)人との触れあい
(2)自然とのかかわり
(3)未来への展望性

(1)の「人との触れあい」というときの「人」には、家族、兄弟、親類、友人、社会人、
その他、もろもろのすべての人が含まれる。

 こうした人たちと、心豊かな関係を結ぶ。それが第一。

 つぎに(2)「自然とのかかわり」。この世に生きるということは、すなわち、この世と
のかかわりをいう。五感で感ずる世界、すべてをいう。「自然」という言葉を私は使ったが、
その世界というのは、私たちの体や心を包む、すべての世界をいう。

 三つ目に、(3)「未来への展望性」。私たちがなぜ生きるかといえば、私たちの経験や知
識を、つぎの時代の人たちのために、生かすことである。子育ては、その中でも、もっと
も身近な、一つの例ということになる。が、それだけでは、足りない。

 今の「私」や、「あなた」が、なぜ心豊かに生きることができるかといえば、それはすな
わち、先人たちが、その経験や知識を私たちに、残してくれたからである。

「先人」といっても、100年前、1000年前の人たちをいうが、つまり、今度は、
私たちが、それをつぎの世代のために残す。そうすることによって、つぎの世代が、さ
らに心豊かな人生を送ることができる。

 私たちは、数十万年という、まさに気が遠くなるほどの年月を経て、ここまで進化した。
しかしその進化は、ここで完成されたわけではない。言うなれば、まだその途中。あるい
はやっと、大きな山のふもとにたどりついたような状態かもしれない。

 しかし不完全で、未熟であることを、恥じることはない。大切なことは、不完全で、未
熟であることを、自ら認めることである。決して、傲慢(ごうまん)になってはいけない。
おごり高ぶってはいけない。

 私たちは、不完全で、未熟なのだ! それをすなおに認め、謙虚に反省する。そしてそ
の上で、自分のあるべき姿を、組みたてる。

 これからも人間は、うまくいけば、このあとも、何千年、何万年と生きていかれる。決
して今を、最高と思ってはいけない。頂点と思ってもいけない。さらに人間は、前へ前へ
と進む。

 しかし、この地球には、実にオメデタイ人がたくさんいる。

 まるで自分が、神や仏にでもなったかのように、ふるまう人たちである。しかしそんな
ことは、ありえない。1000年後でも、1万年後でも、ありえない。ありえないことは、
人間というより、地球、地球というより、宇宙の歴史をみればわかる。あるいは、この宇
宙の広大さをみれば、わかる。

 ……と考えていくと、生きる意味の中で、もっとも大切なのは、この三番目の「未来へ
の展望性」ということになる。

 もし私やあなたが、私だけの人生を生き、あなただけの人生を生きたとしたら、それは
ほとんど意味がない。ないことは、そういう生き方をした人をみれば、わかるはず。そう
いう生き方をして、死んだ人をみれば、わかるはず。彼らはいったい、何を残したか?

 つまりその「残す」部分に、生きる意味がある。

 悲しいかな、もっとはっきり言えば、私たちは、たとえていうなら、リレー競技で使う、
バトンに過ぎない。過去の人たちから受け取り、そしてそれを、つぎの世代の人たちに渡
していく。それ以上の意味はないし、またそれができれば、まさに御(おん)の字。じゅ
うぶん。たくさん。いや、それを超えて、私たちは、いったい、何を望むのか。何を望む
ことができるのか。

 そこで私たちが、今すべきことは、先人たちの経験や知識に、謙虚に耳を傾け、よりよ
い人間関係をつくり、よりよい環境を、身のまわりにつくることである。

 もっとも、これは100年単位、1000年単位の話である。30年とか60年とかい
う、一世代、二世代単位の話ではない。身のまわりの、ささいな変化にだまされてはいけ
ない。私たちが考えるべきことは、「100年前の日本人より、より心豊かな生活ができる
ようになったか」ということ。「1000年前の人間より、より心豊かな生活ができるよう
になったか」ということ。そういう視点で、ものを考える。

 若い人は、その年齢に達すると、いきおい、「生きる意味」を求める。私もそうだった。
多分、あなたもそうだったかもしれない。「なぜ、私は、ここにいるのか」「なぜ、私は、
生きているのか」と。

 しかしその答は、永遠に人間は、知ることはないだろう。が、もし、視点を変えて、「私
はバトンだ」と思えば、その答は、何のことはない、すぐ私やあなたのそばにあることを
知る。

 私やあなたは、今、ここにこうして生きている。少なくとも、この文章を読んでいる、
あなたは、ここにこうして生きている。もし生きる意味があるとするなら、今を懸命に生
きて、そしてそれから得られた知識や経験を、ほんの少しでもよいから、つぎの世代に伝
えることである。

 いつか、その時期はわからないが、いつか、人間が、すべて神や仏のようになる日が、
やってくる。必ず、やってくる。1万年後か、10万年後か、それはわからない。しかし
その日をめざして、私たちは、とにかく前に向って進む。進むしかない。それが「生きる
意味」ということになる。

 このつづきは、もう少し、時期をおいてから考えてみたい。
(はやし浩司 生きる意味 意義 生きる目的)

(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●うるさい女性

 電車に乗った。浜松から豊橋まで。その豊橋から、岐阜まで。もちろん、その帰りも…
…。

 しかしどの車両にも、たいてい一組、あるいは二組の女性がいて、これがまことに、騒々
しい。かしましく、ペチャクチャ、ペチャクチャと、間断なく話しつづける。

 うるさいなんていうものではない。耳障(ざわ)り。眠ることさえできない。で、その
話の内容はといえば、実にたわいもない、どうでもよいことばかり。まさに脳の表面に飛
来した情報を、そのまま口にしているだけといったふう。

 「会員がやめて、それで会員が少なくなって……どうすれば会員がふえるかって、それ
はそのときの運ね……でも、どこの着付け教室も、今たいへんでね……先生はいくらでも
いるんですが、今は着物を着る人も少なくなって……」と。

 もともと女性は、おしゃべりである。大脳生理学の分野でも、女性のばあい、大脳の右
半球にも、言語機能をつかさどる部分があることが解明されつつある。(これに対して、男
性のばあいは、左半球にしかない。だから脳血栓や脳出血で、左半球を損傷を受けたとき
でも、男性に比して、女性のほうが言語機能の回復が早いとされる。)

 また同じウエルニッケの言語中枢部分でも、女性のほうが、その部分の神経細胞の密度
が濃いこともわかっている。つまり女性は、その分、おしゃべりということになる。

 名前を出して恐縮だが、そういう会話を聞いていると、タレントの黒YT子さんのよう。
まさに「しゃべらなければ、損」「黙っていることは失礼」といったふうに、しゃべりまく
る。会話というより、ひとりごとに近い。

まあ、もっとも、しゃべるのは、その人の勝手だが、そのまわりの人が迷惑をする。女
性によっては、甲高い声で、キャッキャッとしゃべりつづける。それがときには、ノコ
ギリで、ものを切るような音にさえ聞こえることがある。

 男性にもうるさい人はいる。いないわけではない。しかし世の、女性たちよ、電車の中
では、もう少し、静かにしようよ! 携帯電話ですら、「迷惑になるから、ひかえてくれ」
とアナウンスされる。その携帯電話より、はるかに、う・る・さ・い。

 で、子どものばあい、同じように騒々しい子どもに、ADHD児がいる。男子と女子と
では、多少、症状が異なる。その女子の症状として、第一にあげられるのが、多弁性であ
る。
 
 このタイプの女子は、本当に、よくしゃべる。うるさいほどに、よくしゃべる。制止し
ても、効果は一時的。強く叱ったりすると、瞬間的に涙を出すこともあるが、しかしその
直後には、もうしゃべりだしたりする。おさえがきかない。

私「あのね、10分だけ、口を閉じていてくれない?」
女「10分ね、10分でいいの?」
私「そう、10分でいい……」
女「でも、10分って、すぐよ。それでもいいの?」

私「だから、10分でいい。静かにしていてくれない?」
女「わかった。でも、そのあと、どうなるの。しゃべってもいいの?」
私「だからね、今から、静かにしていてよ」
女「でも、聞いてほしい話があるの」

私「何?」
女「私、だまっていると、気がヘンになるの」
私「だから、お願いだから、10分だけ。わかった?」
女「どうして、10分でいいの? そのあとはいいの?」
私「……」と。

 こういう会話が、延々とつづく。これはある中学2年生の女子とした、実際の会話であ
る。
(はやし浩司 言語中枢 女性のおしゃべり 言語機能)


●夢のような美しさ

 04年4月6日、火曜日、ハナ(犬)と、佐鳴湖へ、散歩に行く。が、驚いた。本当に、
驚いた。まさに夢のような、美しさ! うっとりするような、美しさ!

 桜が満開。新緑の若葉が、水色の空にはえる。そしてその下では、青い、佐鳴湖が、春
の陽光を浴びて、静かに輝いていた。

 私は散歩していることを忘れて、携帯電話のカメラで、写真をとりつづけた。

 私は、美しい景色を見たりすると、「生きていてよかった」と思う。少しおおげさな感じ
がしないでもないが、そう思う。とくに好きなのは、黄緑色の若葉が、水色の空に映える
景色。色のコントラストが気持ちよい。今日は、その景色に、桜の淡いピンクが、色を添
えた。

 ホント!

 もし生きることに意味があるとするなら、その一つが、「景色」と言ってもよい。人は、
いつかどこかで、美しい景色に出会うために生きている。それは、「私」という人間が、こ
の世に生まれてきたという、証(あかし)ということにもなる。

 こうしたものの見方は、たとえば、キリスト教や仏教でいう、天国観や極楽観につなが
る。昔から多くの画家が、自分の空想の中で、天国や極楽を描いてきた。つまり今を生き
る最終的な目標の一つは、死んだあと、極上の世界に住むこと。そういう意味でも、私が
ここに書いていることは、それほどまちがっていないと思う。

 つまり、私たちは、いつかどこかで、美しい景色に出会うために、生きている!

 私は家に散歩から帰ると、ワイフにこう叫んだ。ワイフは、夕食のしたくをしていた。

「おい、夢みたいだったそ。夢みたいに、美しかったぞ。明日は、佐鳴湖で、お弁当を食
べよう!」と。

 そう、もし天国や極楽があるとするなら、私にとっての天国や極楽は、そういう世界を
いう。まっ白な雲の上とか、蓮(はす)の花の上とか、そういうところではない。私が今、
見た、佐鳴湖のような景色のある世界をいう。

 もちろん、この地球上のどこかには、もっと美しい世界があるだろう。私が知らないだ
けかもしれない。いや、知っているが、やはり私が日本がよい。その日本の中でも、住み
なれた、この浜松がよい。

私は、あまりぜいたくは言わない。もし天国や極楽があり、その天国や極楽が、今日見
た、佐鳴湖のようだったら、私はそういう世界へ行きたい。それでじゅうぶん。

 いや、ちょっと待て! 私は、天国や極楽へは、行けそうもない。悪いことばかりして
きた。いや、悪いことはあまりしなかったが、よいこともしなかった。ごくふつうの、平
凡な人間として、今まで生きてきた。もし私のような人間でも、天国や極楽へ行けるとな
ったら、それこそ、天国や極楽は、山手線のラッシュアワーのように混雑することになる。

 だったら、今、生きている間に、美しい景色を、脳の中に刻みつけておこう。それでよ
い。そしもし、できれば、ときどきは、夢の中で、そういう景色を再び見てみたい。ある
いは写真でもよい。死ぬ間際に、そういう世界が、脳の中をかすめたら、最高! 

 で、私は、今日、佐鳴湖でとった写真を、自分のホームページに載せることにした。(ト
ップ・ページ→はじめての方へ、ごあいさつ→春)

 ただ写真は、携帯電話のカメラでとったため、色が、よくない。ホームページに載せた
あと、自分で見てみたが、どうも、よくない。何というか、色が沈んでしまっている。残
念! 携帯電話は、S社製の「SO505i」(ドコモ)。

どうかそういうこともお含みおきの上、興味のある方は、写真を見てほしい。


●夫と妻

 夫と妻の関係といっても、絶対的なものではない。それゆえに、決して安定的なもので
もない。「夫だから……」「妻だから……」と、相手をしばっても、あまり意味はない。た
とえば浮気心。

 こんなことワイフに聞いても、絶対に本当のことを言わないだろうから、聞いたことが
ない。しかし、私のワイフだって、浮気をしたいと思ったこともあるはず。あるいは実際
に、私の知らないところで、浮気をしたことがあるかもしれない。

 ただ私が知っているのは、若いころ、しかし私と結婚したあとのことだが、俳優のN村
A夫という男に、うつつをぬかしていたこと。N村A夫がテレビに顔を出したりすると、
ワイフは、いつも目を輝かせて、画面を見つめていた。

 ずっとあとになって、つまりN村A夫が、本当は頭が、かつらをかぶっていることを知
り、幻滅してからのことだが、「私、N村A夫が、大好きだった。ああいう人に声をかけら
れたら、浮気していた」と、ワイフが、告白したことがある。

 実は、N村A夫が、かつらをかぶっているということは、私が調べて、私がワイフに話
してやったことである。嫉妬(しっと)心もあった。

 「お前の好きな、あの男な。本当は、ツルツル、ピカピカの、ハゲ頭だア!」と。

 ワイフは、かなりのショックを受けたらしい。それからしばらくは、N村A夫の話を、
まったくしなくなった。ワイフが、「ああいう人だったら、浮気してもいいと思ったことが
ある」と告白したのは、そのあとのことだった。

 だいたい、俳優なんかと、浮気などできるはずがない。また、あんなかっこいい男なん
か、そうはいない。ザマーミロ!

 かく言う私だって、いつも、心の中では、浮気している。ただ、残念ながら、相手にし
てもらえないだけ。それにその度胸もない。正直に言えば、浮気をしたことがあるとも書
けないし、浮気をしたことはないとも、書けない。その立場は、ワイフと、同じ。読者の
みなさんと、同じ。

 今、自分の文章を読んで気がついたが、もう一度、この文章を読んでほしい。私は、こ
う書いた。

 「浮気をしたことがあるとも書けないし、浮気をしたことはないとも、書けない」と。

 この文章は、よく読むと、「私は浮気をしたことがある」という意味になる。論理的に考
えると、そうなる。ゾーッ。もし浮気をしたことがないのなら、「浮気をしたことがない」
と書けば、それですむはず。

私は、どちらとも書けないという意味で書いたのだが……。「日本語というのは、おもし
ろいなあ」と、へんなところで、へんに感心している。

 それはともかくも、しかし、長い人生。いろいろなことがある。あって当然。夫婦だか
らといって、たがいに、変らぬ感情をもちつづけるなどということは、ありえない。私た
ち夫婦にしても、定期的に、「別れてやる」「別れましょう」と、喧嘩をしている。

 そういうときというのは、本当に、ワイフのことを、殺したいほど憎く感ずる。恐らく
ワイフにしても、同じだろうと思う。愛情の一かけらも、感じない。「どこかで死んでしま
えばいい」と思うことさえある。

しかし数日もすると、たいていのばあい、私のほうが白旗をあげる。「ぼくが、悪かった。
またいっしょに、寝よう」と。

私はおかしなことに、ワイフの肌のぬくもりを横に感じないと、よく眠られない。恐ろ
しい夢ばかり見る。だから私のほうが、白旗をあげる。33年も、夫婦をつづけている
と、そういうクセの一つや二つが、身についてしまう。

 いや、夫婦というのは、そういうものかもしれない。みんなどこの夫婦も、外から見る
と、うまくいっているように見える。しかしどこの夫婦も、それぞれが、いろいろな問題
をかかえて、四苦八苦している。問題のない夫婦はいない。問題をかかえていない夫婦も、
いない。

 大切なことは、たがいに、期待しすぎないこと。ほどほどのところであきらめて、納得
すること。

 あとは友として、遠くの前だけを見ながら、いっしょに歩く。しょっちゅう喧嘩ばかり
している私たちだから、偉そうなことは言えないが、それが夫婦円満のコツではないか。

 まあ、ときには、寄り道をしたり、道草をくったり、ここに書いたように、浮気心をも
つこともあるだろ。しかしそういうものがあっても、夫婦は夫婦。やっぱり同じ道を歩く。
そして気がついてみると、やっぱり夫がそこにいて、妻がそこにいる。

 夫と妻というのは、そういうものかもしれない。


●カルトの布教番組

 昨夜(4・3)、心霊写真についてのテレビ番組を見た。見たというより、チャンネルを
かえていたら、目に飛びこんできた。それで見るともなしに、しばらく見てしまった。

 実にくだらない番組だった。

 私が垣間見た部分では、ちょうど、こんな写真を取りあげていた。

 一人の女性(20歳くらい)が、どこかへ旅行に行ったときのこと。そのときとった、
スナップ写真の顔に、黒いシミが現れていた。そのシミは、鼻の、向って右側から、ほお
の右側部分にまで、広がっていた。

 それはたしかに、不気味な写真だった。

 で、いつもの、霊媒師のような女性が登場して、実にもっともらしく、こう説明してい
た。

 「これは、この女性の家の仏壇に、ほこりがたまっていることが原因で起きた現象です。
この女性の家、もしくは実家の仏壇の清掃をすれば、こうしたシミは消えます。墓参りも、
きちんとするように」(記憶に基づいて書いたので、不正確)と。

 まったくもって、「?」な回答だった。

 多分、その写真は、デジタルカメラか何かでとったものだろう。もしそうであれば、顔
に塗った化粧品に、カメラが、特殊な反応をしたことが考えられる。あるいはひょっとし
たら、その女性は、UV(紫外線)カットクリームか何かを使っていたためかもしれない。

 フィルムカメラでも、同じような反応を示すことがある。

 どちらにせよ、こうしたインチキな情報を流す前に、テレビ局側は、現場やカメラ、そ
のときの状況を検証すべきである。科学的な検証もしないまま、一方的に、霊媒師の説明
だけを、全国に報道するというのは、きわめて危険な行為といってもよい。

 現にその番組の中では、4〜5人の小学生たちが、コメンテイターとして(?)、それぞ
れの意見を述べていた。春休み中の番組ということで、子どもたちを並べたのだろうが、
そんなことは、許されるべきことではない。その子どもたちは、その番組を見て、どのよ
うな死生観をもつだろうか。それを考えたとき、私はむしろ、そちらのほうに、ゾッとし
た。

 だいたいにおいて、仏壇にほこりがたまったくらいで、死者が、(霊なら霊でもよいが)、
生きている人の顔写真に、そんな細工などしない。実に、低劣。くだらない。お粗末。バ
カげている。

(もし、そうなら、その根拠を示せ!)

 その霊媒師は、霊を尊重しているフリをしているが、その実、死者を、そして人間を、
とことんバカにしている。この文明国、日本にあって、そして21世紀にもなった、今、
こうした人間が、堂々と出てきて、こういう意見を述べること自体、私には信じられない。

 そういう人間をテレビに登場させて、意見を言わせるテレビ局側も、テレビ局側である。
まさにカルトの布教番組と言ってもよい。あるいは、どこがどうちがうというのか。

 ここではっきりと、確認しておきたい。

 この世には、心霊写真などというものは、存在しない。今では、映像技術によって、ど
んな映像でもできる。そこらの素人でもできる。それに可視光線だけが、(見える世界)で
はない。カメラやフィルムは、見えない光線にも反応する。冒頭にあげた、黒いシミなど
は、その一例と考えてよい。

 こういうアホな下地を、一方でつくるから、あのOM真理教のような、わけのわからな
い教団が、つぎからつぎへと生まれる。テレビ局側も、少しは、自分たちのしていること
に対して、もう少し責任を自覚してほしい。
(はやし浩司 心霊写真)


●YM新聞の社説

04年4月4日。YM新聞に、『靖国問題を対日カードにするな』と題して、こんな社説
が載っていた。

いわく、「一国の指導者がいつ、どのような形で、戦没者を追悼するかは、その国の伝統
や慣習に根ざす、国内問題である」

「首相は、これからも参拝を続ける意向を表明している。国内で、参拝の賛否をめぐる
議論があってもいいが、外国に干渉される筋合いのものではない」(原文のまま)と。

私はその社説を読んで、「そういうふうに考える人も、まだ多いのだな」と、へんに感心
した。

 話は変るが、今、二男は、アメリカに住んでいる。日本人はもとより、アジア人が極端
に少ない、中西部の小さな田舎町に住んでいる。その二男の親友は、韓国人のK氏である。

 また今、三男はオーストラリアに住んでいる。オーストラリア人の家庭にホームステイ
しているが、もう一人、同居人がいる。数歳年上の、やはり韓国人である。私が電話をす
るたびに、流暢(りゅうちょう)な英語で、その電話を三男に渡してくれる。

 少し心配して、しかし遠慮がちに、二男や、三男に、「韓国の人たちは、日本人のお前た
ちに意地悪しないか?」と、私が聞くと、二男も三男も、「どうして?」と言う。つづいて、
「いい人だよ」と言う。

 私は、そういう韓国の人の話を聞くと、心のどこかで「よかった」と思うと同時に、何
かしら申し訳ない気持ちにさせられる。

 日本よ、日本人よ、同じ仲間よ、もう少し、自分たちがしたことについて、謙虚に反省
しようではないか。私たちが、戦前、韓国や、中国の人たちに対して、何をしたかを、だ。
そういう反省もないまま、「外国に干渉される筋合いのものではない」というのは、少し言
いすぎではないのか。

 心理学の世界でも、人格の完成度は、内面化の完成度ではかる。そしてその内面化の完
成度は、その人の同調性や協調性ではかる。つまりいかに相手の立場になって、相手の悲
しみや苦しみが理解できるかによって、人格の完成度は決まる。

 自己中心的で、自分勝手な人は、それだけ人格の完成度は、低いということになる。自
分の立場でしか、ものを考えられない人もそうだ。

 同じように、国としての完成度も、その内面化の完成度によってはかることができる。
たしかに先の戦争で、日本人は、300万人も死んでいる。しかし同時に、その日本人は、
同じく300万人の外国人を殺している。

 そういった、日本軍に殺された人たちのことを思いやってこそ、はじめて日本は、国と
しての完成度の高い国ということになる。

 繰りかえすが、この300万人というのは、日本へやってきた外国人を殺したのではな
い。日本が外国へ行って、そこで相手の人たちを殺した。いかに弁解しようとも、あるい
はいかに正当化しようとも、この事実は、隠しようがない。むしろ、戦争で死んでいった
300万人の日本人ですらも、犠牲者だったかもしれない。一部の軍部という官僚に洗脳
され、あやつられるまま、戦場へと駆りだされていった。

 私は1968年に、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った経験がある。今でこ
そ、日韓の間には国交もあり、親交も深まったが、当時は、そうではない。行く先々で、
私たちは、日本攻撃の矢面に立たされた。

 日本軍が、韓国や中国で何をしたかって? そんなことは、向こうへ行って、自分で調
べたらよい。私は日本軍のあまりの蛮行に、私の目と耳を疑った。私はそのとき、「日本の
教科書は、ウソは書いてない。しかしスベテを書いていない」と実感した。

 今、韓国や中国の人が、さかんに「歴史認識問題」と取りあげるのは、そういうことを
いう。

 で、日本の川口外務大臣は、「(日本の小泉首相は)、戦没者の犠牲の上に日本の平和と
発展がある。戦争を二度と起こさないという願いを込めて参拝している」(同)と説明した
という。

 日本がいう戦争というのは、つまりは侵略戦争をいう。そういう戦争であれば、「二度と
起こさない」などということは、当たり前のことである。わざわざ「願う」ようなことで
はないはず。

 私は何も、靖国参拝に反対しているのではない。しかし「首相」という国家元首の立場
で参拝するというのは、問題だと言っている。その靖国神社には、A級戦犯として処刑さ
れた人たちの遺骨も祭られている。

 いうなれば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなものであ
る。……というのは、言い過ぎかもしれないが、少なくとも、韓国や中国の人たちは、そ
ういう目で、日本を見ている。

 仮に百歩ゆずって、戦前の日本の行為が正しかったとするなら、いつか、韓国や中国が、
その反対のことを日本にしたとしても、日本よ、日本人よ、文句は言わないことだ。

 今、日本は、アジアの中でも、たいへん微妙な立場にある。北朝鮮とは、まさに一触即
発の状態といってもよい。そしてその北朝鮮は、日本に対して使うためにと、毎年、5〜
6個の核兵器を製造している。

 こういう危機的な状況の中で、かえって北朝鮮の無謀な野望を正当化してしまうような
言動を繰りかえしてよいものかどうか。韓国のノ大統領ですら、「日本よ、だまっているか
らといって、いい気になるな」と発言している。

 私たちは、このノ大統領の言葉を、もう少し、真剣に聞かねばならない。

 さらに百歩譲って、戦前の日本の行為が正しかったとするなら、なぜ、今、アメリカに
対して、抵抗運動を始めないのかということにもなる。日本は、そのアメリカに、日本中
を焼け野原にされ、その上、二発も原爆を落とされている。

 私に言わせれば、日本のしていることは、まさに矛盾だらけ。この私ですら、何がなん
だか、さっぱりわけがわからない。

 最後に、小泉首相には、首相なりの思いもあるのだろう。そういう思いの中で、靖国神
社へ参拝しているのだろう。それはわかるが、しかしここは、もう少し慎重であってほし
い。今、北朝鮮の核問題で、日本は、たいへん微妙な時期にある。わかりやすく言えば、
韓国や中国の協力なしでは、この問題は、解決しない。

 こんな時期に、あえて韓国の人や中国の人の神経を、逆なでするようなことをすること
は、本当に賢明なことなのか。小泉首相も、このあたりのことをよく考えてみてほしい。
あるいはなぜ、今、彼らが、こうまで靖国参拝を問題にしているのか、それにはもう少し、
謙虚に耳を傾けてもよいのではないだろうか。

 言うまでもなく、繰りかえすが、私たち日本人は、少なくとも韓国や中国の人に対して
は、加害者であって、被害者ではないからである。

 ……しかし、YM新聞は、タカ派とは知っていたが、それにしても、ここまでタカ派と
は、思ってもみなかった。5年近く購読してきたYM新聞だが、私には、もうついていけ
ない。今月いっぱいで、購読を中止することにした。ごめん!


●愛人問題

 このエッセーが、マガジンに載るころには、かなり情勢が変っているかもしれない。し
かし数日前(4・1)、こんな事件があった。

 日本の国会議員のH氏と、元国会議員Y氏の二人が、中国で、K国の高官と接触して、
日本人の拉致(らち)問題を話しあったという。

 しかしこれに対して、「救う会」(北朝鮮による拉致被害者の支援団体)のメンバーが、
猛反発。救う会のN常任副会長は「平沢氏は『もう北朝鮮と接触しない』と言っていたの
に事前に何の相談もなく訪中した。2人は拉致問題を政治利用している」(中日新聞)と非
難した。当然である。

 話は、ぐんと生臭くなるが、そのY氏は、いわば愛人問題で、政治の世界から失脚した
人である。ほかの世界の人ならともかくも、私は、そういう政治家を信用しない。理由は
簡単。

 自分の妻でさえ、平気で裏切るような人である。国民を裏切ることなど、もっと平気な
はず。

 問題は、現役のH氏である。「救う会」の副会長も言っているように、「政治利用してい
る」のは、明白。もっとはっきり言えば、売名行為。自分の手がらにして、「逆転ホームラ
ン」(週刊誌)をねらった。……と疑われても、しかたない。

 H氏が、もともとそういう活動をしていたのなら、話はわかる。しかし「救う会」です
ら、「(H氏)は、被害者の救出運動に無関心で、かつては北朝鮮へのコメ支援に熱心な人
だった」「家族のためとは思えない抜け駆け的な行動だ」と、酷評している。

 愛人問題を中心に書くつもりが、どんどんと別の話になっていく。つまり、私が書きた
いのは、拉致問題のことではない。

 つまり人間の脳ミソは、それほど器用にはできていないということ。一方で妻や夫を平
気で裏切りながら、国民には、忠誠を尽くす。そういうことは、できないということ。む
しろ事実は、反対。

 この世界には、一事が万事という鉄則がある。誠実な人というのは、何ごとにつけても、
またどんな世界でも、誠実なもの。反対に、不誠実な人というのは、何ごとにつけても、
またどんな世界でも、誠実なもの。つまりH氏はともかくも、あんなY氏を信用するほう
が、どうかしている。

 かく言う私も、若いころ、愛人の数を自慢するような男に、お金を貸して、失敗したこ
とがある。そういう自分を今、振りかえってみたとき、「どうしてあの男の本性を、もっと
早く見抜けなかったのか」と、残念でならない。

 妻さえ平気で裏切るような男である。私のような「友人」(彼は、そう言っていた)を裏
切ることなど、平気。朝飯前。だから私も、裏切られた。

 話はあちこち飛ぶが、今回のH氏やY氏の行動は、その延長線上にある。何ともお粗末
な茶番劇としか、言いようがない。……というのが、私の実感である。
(040404)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 5月 5日(No.405)
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(1)子育てポイント**************************

●アメリカの教科書

 学校で勉強することは、実生活では役に立たない……? 

しかし欧米では、事情がだいぶ違うようだ。「子どもたちが将来、社会に出たとき、多様
な社会に対応できるよう、役に立つ知識を与える」(オーストラリア、M大学K教授)が、
教育の基本になっている。

百聞は一見にしかず。ここにアメリカの中学校で使われているテキスト(G社版、応用
数学)を紹介する。アメリカで、もっとも広く使われている数学のテキストと言ってよ
い。

 たとえば小数の計算。テーマは、「小切手で支払う」。ここでは小数の計算学習にからめ
ながら、小切手の使い方を具体的に教えている。

下のほうの設問にはこうある。「1、なぜ金額の数字を、ドルマークに接して書くのか。
(答、誰かに数字を書きなおされないようにするため)2、なぜ金額の文字を、できる
だけ左側に寄せて書くのか。(答、誰かに文字を書きなおされないようにするため)3、
小数点は、文字では何と書くか。(答、and)」と。

 日本では伝統的に、学究的なことを教えるのが、教育の基本になっている。たとえば中
学一年で子どもたちは、一次方程式を学ぶ。が、ぺージを追うごとに、問題が難しくなる。
つまり、ますます現実から遊離する。ちなみに最終的な計算問題は、こうなっている(K
社版、数学1)。

( を解け)

 一方、アメリカのテキストでは、一番難しくても、( )どまり(P
社版、基礎数学)。

この段階から、アメリカでは、「ビジネスの分野では……、著述の分野では……、運送の
分野では……、余暇の分野では……」と、応用のし方へと入っていく。ちなみに「余暇
の分野では……」には、こうある。

「君は、いとこから40ドルで中古のスケートを買うこともできる。公園で借りること
もできるが、スケートと安全具の借り賃は1時間あたり3ドル50セント、安全具だけ
の借り賃は1時間あたり1ドル50セント。いとこに払う40ドルで、君は、何時間、
公園でスケートを借りることができるか」(答、20時間)と。数字は、すべて現実の数
字である。

 だいたいにおいて、アメリカには「教科書」という概念そのものがない。もちろん検定
制度なるものも、ない。ついでに調べてみたが、オーストラリアにもない。

州によって多少の違いはあるが、南オーストラリア州のばあい、「性描写や暴力的表現に
ついて、州政府のチェックはあるようだ」(B小学校教師)という程度。どこかの全体主
義国家か独裁国家ならいざ知らず、この日本に検定制度があること自体、おかしい。

……というようなことを書き始めると、止まらなくなるので、ここでやめる。が、私た
ち日本人も、もうそろそろ、「文部省検定済教科書」というあの重圧感から、解放されて
もよい時期にきているのではないのか。

+++++++++++++++++

●最高の教育とは

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。皇后陛下の父君。そして
その正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本義行氏。坂本竜馬の直系のひ孫氏
と聞いていた。

私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委
員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くた
びに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。

そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞
いたことがある。正田氏はソバを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩
司の『浩』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会
えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。私が寝泊りをすることにな
ったメルボルン大学のインターナショナル・ハウスは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。
私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大
臣の息子などなど。

毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にした。
元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。ときどき
各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数か月単位で宿泊することもあった。

井口昌幸領事が、よど号ハイジャック事件で北朝鮮へ行った、山村運輸政務次官を連れ
てきたこともある。山村氏は事件のあと、休暇をとってメルボルンへ来ていた。

しかし「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生
活をしていることすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別
の生活をしていると思ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教
育だと思ったこともない。

が、一度だけ、私は、自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

 カレッジの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあ
った。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。誰
かが落としたものを、別の誰かが拾ってそこへ置いたらしい。

当時の五〇セントは、今の貨幣価値で八〇〇円くらいか。もって行こうと思えば、誰に
でもできた。しかしそのコインは、次の日も、そのまた次の日も、そこにあった。四日
後も、五日後もそこにあった。

私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そ
のときのことだ。私は「私は最高の教育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この
浜松市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園
で働いているという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。

しかしそんなときでも、私を支え、救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。私
は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だっ
たが、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの五〇セント硬貨
のおかげだった。

あの五〇セント硬貨を思い出すことで、私は、いつでも、どこでも、気高く生きること
ができた。

(2)今日の特集  **************************

●伝染するうつ病

 その人本人が、うつ病になるのは、ある意味で、その人の勝手。しかしこのうつ病には、
もう一つ、問題がある。こんな話を聞いたことがある。

 ある会社のある課の課長が、うつ病になってしまった。それはそれだが、1、2年もす
ると、その課全体の社員も、うつ病になってしまったという。課長がもつ、クラーイ雰囲
気が、社員にも移ってしまったというわけである。

 こういうことは、家庭でも、よく起こる。

 夫がうつ病になり、妻もうつ病になるケース。
 母親がうつ病になり、子どもも、うつ病になるケース。
 反対に、子どもがうつ病になり、それを看病している間に、家族もうつ病になるケース
もある。

 うつ病の症状としては、つぎのようなものがあるという(深堀元文「心理学のすべて」
より)

( )憂うつな気分
( )興味や喜びの著しい減退
( )体重や食欲の減退
( )睡眠の増減
( )行動や動作が鈍くなる
( )落ち着きがない
( )疲れやすい
( )集中できない
( )自信がない
( )自殺を考える

 こうした症状が思い当たれば、うつ病ということになるが、このほかにも、(1)仮面う
つ病や、さらに最近ふえているのに、(2)軽症うつ病というのがある。

 仮面うつ病というのは、「身体的な症状が前面に出ていて、(精神的な)うつの症状が隠
れているもの」(同)。「軽症うつ病は、うつ病より症状より症状が軽いので、こう呼ばれて
いる」(同)と。

 深堀氏は、つぎのような症状があれば、軽症うつ病を疑ってみろと書いている(同)。

( )朝起きたときに、気分が落ちこむ
( )朝いつものように新聞やテレビをみる気になれない
( )服装や身だしなみに、いつものように関心がない
( )通勤の途中で、戻りたくなる
( )同僚と話をしたくない
( )夕方になると、気分が楽になる
( )「いっそのこと消えてしまいたい」と思うことがある

 こうした心の病気は、本人にその自覚があれば、あるいはまだあるうちは、症状も軽い
と言える。しかし重症になると、その自覚そのものがなくなる。

 最近でも、私の知っている女性(38歳)が、そのうつ病になった。ここに書いたよう
な症状が、すべて当てはまった。そこで夫(43歳)が、病院へつれていこうとしたが、
その女性は、がんとして、それに応じなかったという。「私は、何ともないから、病院へは
行かない」と。

 しかしうつ病はともかくも、仮面うつ病にせよ、軽症うつ病にせよ、今では、薬で簡単
になおる時代である。深堀氏も、「薬物を中心とした治療によって、簡単に治る」(同)と
書いている。内科を訪れる患者の3分の1は、仮面うつ病によるものという説もある。

 わかりやすく言えば、うつ病は、まさに現代人がかかえる、心の風邪のようなもの。だ
れだってなりうるし、またなったからといって、罪悪感を覚えることはない。

 で、私のばあいだが、私はもともとは、うつ型人間。ストレスを受けると、そのストレ
スをうまく処理できず、よく落ちこむ。ただ幸いなことは、自分がそうなったとき、その
自覚があるということ。これを「病識」というが、その病識がある。

 さらに幸いになことに、私の仕事は、幼児と接すること。この幼児には、おとなの心を
いやすという、不思議な力がある。いくら落ちこんでいても、私のばあい、幼児と接した
とたん、あるいはその幼児と接している間は、気分が、ウソのように晴れる。

 今も、初老の、あぶない時期にあるが、むしろ職場そのものが、そんなわけで、私にと
っては、ストレス発散の場所になっている。幼児とワイワイと騒いでいるときだけ、自分
でいられる。「どうも自分はおかしい」と感じたら、子どもと、童心にかえって、ワイワイ
と遊んでみる……。これも、うつ病治療には、効果的かもしれない。……と、今、勝手に
そう考えている。

 ともかくも、うつ病は、決して、その人本人だけの問題ではすまない。(だからといって、
その人にそう言うと、ますます落ちこんでしまうので、そうは言ってはいけないが……。)
そういう問題も、あるということ。このつづきは、またの機会に!
(参考文献……深堀元文、日本実業出版社「心理学のすべて」)


●『レインマン』

 少し前、『レインマン』という映画があった。自閉症の患者を演ずる、ダスティ・ホフマ
ン(レイモンド)と、その遺産をねらう弟役を演ずる、トム・クルーズ(チャーリー)の
映画だった。よい映画だった。

しかしあの映画の中のダスティ・ホフマンが、自閉症の患者を正確に描写していたかど
うかという点については、疑問がないわけではない。

 やはり、演技は演技で、そのあたりに、私は、ひとつの限界を感じた。

 それはともかくも、最近、こんな相談をもらった。大阪府T市に住む、ある男性からの
ものである。彼の兄(50歳)が、その自閉症だという。しかしその男性は、こう言う。

「レインマンという映画の中では、兄のレイモンドは、それでもどこか、ものわかりの
よい兄ということになっていましたが、実際には、あんなものではありません」と。

 「映画の中でも、兄(ダスティ・ホフマン)は、テレビを見ると言い出し、同じテレビ
を繰りかえし見たりします。思ったとおりにならないと、パニック状態になったりします。
私の兄もそうで、変化をとくに嫌います。何でも、自分の思いどおりに、かついつもどお
りになっていないと、パニック状態になります。

 日常の生活も正確で、昼の12時きっかりに、昼食を用意していないと、それだけで、
不機嫌になったり、イラだったりします。

 部屋の中の机すら、そんなわけで、動かすことができません。本一冊、動いていても、
気がヘンになります。そんな兄ですが、一つ、深刻な問題をかかえています。それは、性
欲問題です」と。

 ときどき、その兄を、自分の家へつれてくるのだが、その兄が、その男性の妻に抱きつ
いたり、キスしようとしたりするという。

 さらに妻がひとりで風呂に入っていたりすると、わざとさがしものをしているようなフ
リをしながら、となりの脱衣所でうろついてみたり、さらには、タンスから妻の下着を引
き出して、それを手でもって、じっとながめていたりするという。

 「いくら心に障害があるとはいえ、許せることと許せないことがあります。そんなわけ
で、妻は、兄が私の家にいるときは、かた時も、私から離れようとしません。兄を、こわ
がっています。

 レインマンの中では、こういった障害をもつ人の、ある意味で、美しい部分しか描いて
いませんが、実際には、そうではないということです」と。

 男の性(さが)というか、そういうものは、「障害」とは、別の次元で、性は、その人を
支配するらしい。心が健康なら(こういういい方は不適切かもしれないが)、弟の妻には、
いくら情欲を覚えても、手を出さないもの。しかしその「心の健康」が欠けると、そうで
はなくなるということもあるということ。

 こんな例もある。

 ある男の子(当時、15歳くらい)は、今で言う、LD(学習障害児)で、知恵の発達
もかなり遅れていた。そのためいつも、どこか、ぼんやりとした様子を示していた。人前
ではおとなしく、ハキもなかった。

 しかし15歳くらいになったときのこと。こんな奇行をするようになった。道を歩いて
いて、前から女の子がやってきたりすると、突然、勃起したチンチンを出して見せたり、
ときには、女の子に背後から抱きついたりするなど。

 そこで近所の人が、その男の子の母親に、それとなく抗議をすると、その母親は狂乱状
態になって、こう叫んだという。

 「うちの子は、おつむ(頭)は弱いが、そんなことをする子どもではありません。どう
してうちの子を、そういうふうに、悪者扱いするのですかア!」と。

 その男の子は、母親の前では、まさに借りてきたネコの子のように、従順で、おとなし
かった。

 これだけではないが、私の印象では、たとえば性欲というような(本能)は、もろもろ
の障害とは、別次元で働くのではないかと思っている。もちろん、(心が健康な人)でも、
である。

 大学の教授でさえ、若い女子学生に手を出して、クビになった人はいくらでいる。学校
の先生となると、ごまんといる。人間国宝となっているような歌舞伎役者でさえ、二十歳
未満の愛人をもち、別れ際、チンチンを見せていた。

 心が健康だから、性欲が正常ということもないし、心が健康でないから、性欲がないと
いうことでもない。ただ心が健康でない分だけ、その性欲のはき出し方も、ゆがみやすい
ということ。コントロールがきかないこともある。あるいは、性欲だけが、特異に強くな
ることもある。

 精神と本能は、どこかで分けて考えたほうがよいということ。『レインマン』という映画
を思い出しながら、ふと、そんなことを考えた。
 
 ついでに一言。……こういうことを書くと、自閉症の子どもをかかえている親は、心配
するかもしれない。が、こうした(心の問題)は、大きく二つの部分に分けて考える。

 ひとつは、(基本的な問題)。もうひとつは、(こじれた問題)である。

 軽い風邪でも、こじらせると、肺炎になる。中耳炎から難聴になることもある。同じよ
うに、(心の問題)も、不適切な対処などが原因で、こじらせると、症状がひどくなり、さ
らに別の症状を示すことがある。

 自閉症にしても、最初からそれと認めた上で、適切に対処すれば、こうした(こじれた
問題)を、最小限におさえることができる。ここに書いたような、(ゆがんだ性欲)の部分
は、(こじれた問題)に属する。

 だから大切なことは、仮に子どもの心に、何か問題があったとしても、それをこじらせ
ないようにすること。よくあるのは、無理や強制、あるいは強引な方法で、子どもの心を
なおそうとするような行為。

 こういう行為が重なると、ここでいう(こじれた問題)が起きることがある。

たとえばLD(学習障害児)にしても、本当の問題は、本来の学習障害があるというこ
とではなく、それまでの無理な学習が原因で、勉強嫌いになってしまっていることが多
いということ。

 よく親は、学習障害であることだけを問題にするが、自分が、その一方で、子どもを、
勉強嫌いにしてしまっていることには、気づいていない。そういうケースは、本当に多い。

 同じくADHD児にしても、乳幼児期のうちから、日常的に叱られてばかりいるため、
親や先生の指示に対して、免疫性を身につけてしまっていることが多い。

 こうした(こじれた問題)が大きくなると、当然のことながら、そのあとの指導がむず
かしくなる。

 ほかにも、不登校児の問題がある。最初の段階で、つまりある日突然、子どもが「学校
へ行きたくない」と言った段階で、適切に対処していれば、同じ不登校でも、もっと軽く
すんだかもしれない。

 しかし一度、こうした症状を子どもが示すと、大半の親は、まさに狂乱状態になる。こ
の狂乱ぶりが、子どもの症状を、一気に悪化させる。

 ここに書いた(性欲)の問題は、あくまでも、(こじれた問題)と考えてよい。自閉症児
の子どもがみな、同じような症状を示すというわけではない。
(はやし浩司 自閉症 こじれた問題 こじれる LD児 ADHD児 こじらす)

(3)心を考える  **************************

●さらけ出し

 北海道にお住まいの、YSさんより、こんな相談をもらった。
 
「うちの子(小5男子)は、集団活動が苦手です。集団活動になれさせるには、どうした
らいいですか」と。

 「サッカークラブもいや。運動会も嫌い。遠足も行きたくないと言います」と。

++++++++++++++++++

 「さらけ出し」については、もう何度も書いてきた。そこで、ここでは、私自身の子ど
も時代について書いてみる。

 私は、家の中では、結構、わがままな子どもだったと思う。しかし外の世界では、いつ
も何かに、じっと耐えていたような感じがする。

 たとえば私は毎日、真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んでいた。そこでのこと。
私は、追いかけたり、追いかけられたりしながら、走り回るのは、好きだった。しかし、
どうしても好きになれない遊びが、一つ、あった。

 だれかが空き缶を蹴る。その空き缶が蹴られた間だけ、みなは逃げて、身を隠す。鬼(お
に)になった子どもは、隠れた仲間をさがして、「○○君、見つけ!」と言って、空き缶を
踏む。

隠れんぼうの一種だが、ほかの子どもは、スキを見て、その空き缶を蹴る。あるいは、
鬼よりも早く、空き缶のところにやってきて、空き缶を蹴る。するとそれまでに鬼につ
かまった仲間も、いっせいに、逃げることができる。

 その遊びの、名前は忘れた。しかし私は、どういうわけか、その遊びだけは、好きにな
れなかった。しかしその遊びだけ、ぬけるわけにはいかなかった。私は、その遊びになる
と、言いようのない重圧感を覚えた。こわいというより、いやだった。

 そういうとき、「ぼくは、したくない」とはっきり言えば、それなりに自分の心を軽くす
ることができたかもしれない。しかし私には、それが言えなかった。

 ……という視点で、子どもたちの世界を見ると、日常的に同じようなことが起きている
のを、知る。

 遊びにせよ、勉強にせよ、いつも何かにじっと耐えているような子どもがいる。楽しま
ないというより、こちらの用意する「輪」の中に、入ってこない。心のどこかで拒絶しな
がら、それでいて、従順に従ってしまう。

 一般的には、「心の開けない子ども」とみる。そこで何らかの方法で、その子どもが、自
分の心をさらけ出せるようにしむける。方法としては、どっと笑わせるのがよい。しかし
学年が進めば進むほど、子どもの心は、ますますかたくなになる。がんこになる。一時的
には笑っても、すぐまたもとに戻ってしまう。

 そこで私自身は、どうだったのかと考える。

 私は、もともと、他人に対して心を開くことができないタイプの子どもだった。仮面を
かぶり、愛想のよい子どもを演じてはいたが、心の中は、いつも孤独だった。

 しかしそれに気づいたのは、私が40歳を過ぎてからではなかったか。そういう自分を、
本気でなおそうと考えたのは、50歳を過ぎてからではなかったか。

 いわんや、子どもに、「みなに、心を開きなさい」「いやだったら、いやだと言えばいい」
などといっても、わかるはずがない。当時の私を思い出しても、私は私だったし、私に問
題があるなどとは、思ってもみなかった。いわんや、さらにその原因が、私と母との間の、
母子関係にあったとは、知る由もなかった。

 で、北海道のYSさんからの相談だが、こうしたケースでは、無理をすればするほど、
逆効果ということ。すでにYSさんの子どもは、小学5年生になっている。思春期も近い。
「なおそう」と考える時期は、もうとっくの昔に、終わっている。

 では、どうするか?

 私の経験で言えることは、そういう子どもであると認めた上で、その子どもにあった方
法で、これからのことを考えるしかないということ。もっとわかりやすく言えば、「うちの
子は、集団教育が苦手」と思って、あきらめる。

 多くの親は、「集団訓練の中にほうりこめば、子どももなれるはず」と考えるが、そんな
単純な問題ではない。ないということは、私自身の子ども時代を思い出してみても、わか
る。

 あえて言うなら、どこかで、子ども自身が、自分をさらけ出せるように、しむけること。
ワーッと声を出させたり、笑わせるのがよい。しかしそれも、もうこの時期になると、一
時的な効果しかない。そういう前提で、気長に考える。

 だれにでも、得意、不得意はある。子どもを伸ばすコツは、得意分野をどんどんと伸ば
し、不得意分野には目をつむる。「一つや、二つ、苦手なことがあってもいいではないか」
と、そういう大らかさが、子どもを伸ばす。


(4)今を考える  **************************

●うかつだった……!

 おとといの夜、風呂に入るとき、肉まんを食べた。私は、あんまんは好きだが、肉まん
は好きではない。そこで肉まんをふかしたあと、それに、ミルクとマーガリン、それにチ
ョコレートをつけて食べた。おいしかった!

 その味が忘れられず、昨日の朝、同じようにして肉まんを二個、食べた。ワイフが、テ
ニスにでかけていたこともある。

 が、……。

 昨日の朝、起きたときから、軽い、頭痛。「?」と思いながら、肉まんをふかし、それに
ミルクとマーガリン、それにチョコレートをつけて食べた。おいしかった!

 が、それから1、2時間後から、頭痛がはげしくなった。偏頭痛である。しかし今回は、
前兆なしの頭痛。「?」と思っているうちにも、症状がはげしくなった。

 昼ごろにはダウン。ふとんの中で、苦しんだ。しかたないので、医師からもらった薬を、
のむ。しかしほとんど効果なし。ますます「?」。

 結局、夕方まで、ふとんの中。頭のシンが割れるように痛かった。夕食はラーメンだけ。
何だかんだとしているうちに、時計を見ると、夜9時。またふとんの中へ。

 少し偏頭痛はおさまったが、薬のせいで、胃の中がムカムカする。心配してやってきた
ワイフと話しているうちに、原因がわかった。

 今回の偏頭痛には、思い当たる理由がない。平穏無事な生活をしていた。神経をつかう
こともなかった。それに春休みになって、一週間が過ぎていた。

 が、やはり、原因があった。

 「チョコレートだ」と私は、つぶやいた。ワイフもそれに応じた。「あんた、バカね。チ
ョコレートを食べたの?」と。

 私は肉まんに、たっぷりとチョコレートをつけて食べた。それがよくなかった。若いこ
ろは、「バレンタイン頭痛」に苦しんだ。ちょうどバレンタインの季節になると、きまって
偏頭痛が起きた。それでそう呼んだ。

 職業柄、その時期、女の子(女の子といっても、幼児からの子どもだが……)から、た
くさんのチョコレートをもらった。それをあまり考えないで、当時は、パクパクと食べて
いた。

 理由はよくわからないが、私はチョコレートを食べると、偏頭痛が起きる。ホント!

私「バカだな。ぼくも……」
ワ「わかっているなら、食べなければいいのに……」
私「うかつだった。本当に、うかつだった」と。

 改めて、私が食べてはいけないものを、列挙する。

(1)酒類……ビールは、コップ3分の1、飲んだだけで、三日酔い。
(2)チョコレート……アーモンドチョコ、5.6個で、偏頭痛。
(3)コーヒー……飲んだ直後に、ゲーゲーとあげてしまう。

 ほかに、とくに悪いものは、ない。しかしこの三つだけは、だめ。改めて自分に言って
きかせる。「二度と、チョコレートは、食べないぞ」と。

 それにしても、昨日は、最悪だった。そのお返しに、今日は、ワイフと、近くの山へ登
るつもり。


●不良書き込み

 Y新聞の投書欄に、不良書き込みのことが書いてあった。「ホームページの掲示板に、不
良書き込みをやめてほしい」と。

 その投書をした人は、身体障害者の福祉のためのホームページを開いているという。そ
ういうホームページの掲示板にさえ、不良書き込みをする人がいるという。しかしそうい
う書き込みをする人のことを、本物のバカという。

『バカなことをする人を、バカというのよ。頭じゃないのよ』(フォレスト・ガンプ)と。

 実のところ、私のホームページにも、その種の書き込みが、よくある。

 「コスプレ、格安販売」
 「幼い子、全裸写真」
 「若奥様の、楽しいアルバイト」
 「秘密クラブで、ちょっと息抜き」などなど。

 私は、掲示板に、TEACUP社の無料サービスを使っている。このT社のばあい、書
き込みがあると、即、メールで、その内容を知らせてくれる。で、そのつど、私は、こま
めに削除している。

 こうした不良書き込みがあったばあい、やはり、無視するのが、一番。こういったこと
をするバカは、いわば、インターネットのゴミのようなもの。そういうバカは、ある一定
の比率でいる。そういう前提で、インターネットをするしかない。

 へたに抗議したり、相手にしたりすると、かえっていやがらせがふえるという。何かの
雑誌に、そう書いてあった。つまり無視するのが、一番よい。

 と、言っても、その投書を書いた人の気持ちが、よくわかる。私も、最初のころ、そう
いう書き込みをされると、本当にイラだった。いくら「不良書き込みは、お断り」と注意
書きを書いても、意味はない。堂々と書き込んでくる。

 で、そうした私の心理を分析してみると、こうなる。

(第1期)……書き込みをした連中を、たたきのめしたい衝動にかられる。
(第2期)……イライラしながら、削除を繰りかえす。
(第3期)……あきらめの時期。「勝手にしやがれ」という心境になる。
(第4期)……淡々と削除して、その直後には忘れてしまう。

 今は、もうその(第4期)。新聞に投書してきた人は、多分、まだインターネットを始め
たばかり? まだ(第1期)の段階ではないかと思われる。ほんの少しだけ、先輩の立場
で言うと、こうなる。

 「そのうちなれますから、無視しなさい」と。

 とは言いつつも、掲示板への書き込みだけではない。私のばあい、メールアドレスを公
開していることもある。ホームページには、Q&Aコーナーももうけてある。そのため、
心ない人からのいやがらせが、あとを断たない。

 で、最近では、そういった人からのメールは、一度でも、そういうことがあったら、着
信と同時に、本文はもちろんのこと、件名ごと、削除することにしている。アウトルック・
エクスプレスには、「送信者禁止処理」という便利な機能がある。それをうまく使っている。

 この処理を使うと、直進と同時に、件名と本文を、削除できる。

 要するに、無視するのが一番。どうせ自分の名前も堂々と言えない、気が小さい人たち
である。表だっては、何もできない。だから、相手にしない。そこらにころがっている、
石の上に書かれたグラフィティ(落書き)と思えばよい。


【追記】

 今日(4・2)、ワイフと二人で、愛知県境にある(とんまく山)に登った。そのあたり
は、この地方にだけしかないという、渋川(しぶかわ)つつじの群生地として知られてい
る。

 地元の人たちがしっかりと管理していてくれるため、普段着のまま登れる山でもある。
が、その道すがら、両側は、穴ぼこだらけ。不届きな人たちが、花木を掘って盗んでいっ
た、その跡(あと)である。

 いたるところに、立て札が立っていて、それには、「山草をとらないでください」「花木
は、山に咲いていてこそ、美しいのです」「みんなで山の花を守りましょう」と書いてある。

 にもかかわらず、花木を抜いて、もっていく!

 一部の人とはいえ、こんな世界にも、そういう人がいる。つまりこういう心ない人とい
うのは、どんな世界にもいるということ。決してインターネットの世界だけのことではな
い。


●盗んだ花は、美しい?

 4月2日、土曜日。今日は、ワイフと二人で、引佐町(いなさちょう)と、愛知県の県
境にある、とんまく山(富幕山)という山に登った。(写真は、マガジンの4月号の中で紹
介。)

 標高700メートル弱の山である。途中までは、車で行ける。そこからは歩いた。山頂
まで、片道、2キロ。なだらかな山道で、5、6歳の幼児でも登れると思う。実際、道す
がら、その年齢前後の子どもたちが山頂方面から、おりてくるのを見かけた。

 春の、うららかな日で、ちょうど吹き始めた新芽の香りが、心地よかった。少し前、別
の登山で失敗したため、今日は、急がず、無理をせず、体をいたわりながら、登った。

++++++++++++++++++

とんまく山へ……浜松市から北西へ、車で30〜40分のところに、奥山高原がある。
ふもとには、半僧坊(はんそうぼう)という、禅宗の総本山がある。

その半僧坊の下から、道をどんどんと登っていくと、「奥山高原レジャーパーク」がある。
そのあたりが、標高550メートルくらいだそうだ。そのレジャーパークの中の駐車場
で車を止めて、徒歩で富幕山(とんまく山)の山頂をめざす。

初夏のハイキングコースとしては、最適の高原といってもよい。

++++++++++++++++++

 が、私たちは、大きな失敗をした。

 その失敗。途中のコンビニで弁当を買っていくつもりだった。しかし国道からはずれて、
半僧坊にいたる道中に、コンビニはなかった。

 しかたないので門前町の中にある八百屋で、弁当を調達した。が、弁当は、なかった。
さらにしかたないので、パンを二個、それにバナナを数本、ミカンの缶詰などを買った。

 何とも、ハイキングらしからぬ弁当である。この段階で、高原の頂上で、弁当を広げて
……という夢は、シャボン玉のように、はじけて消えた。

 で、奥山高原レジャーパークの駐車場に車を止めてから、歩くこと、1時間と少し。意
外と楽に、頂上に着くことができた。土曜日ということだったが、すれちがった人は、1
0人前後。自分たちのペースで、のんびりと登山を楽しむことができた。

 が、残念なこともあった。

 山道の両側には、このあたりにしか生えないという、渋川(しぶかわ)つつじが群生し
ている。そのつつじを、株ごと引き抜いていく人が、いるということ。山道に沿って、道
端は、穴ぼこだらけ。場所によっては、たがやしたばかりの畑のようになっているところ
もあった。

「木を抜かないでください」「自然の花は、自然の中でこそ、美しいのです」という立て
札が、悲しい。そのそばで、むなしく、そよ風にゆれていた。

 ハイキングコースといっても、地元の人たちによって、しっかりと管理されている。途
中には、細いが、いたるところロープが張ってある。分かれ道には、道案内の標識も立っ
ている。また頂上の休憩所には、みなが楽しめるようにと、写真集まで置いてある。

 そういうハイクングコースで、盗採する人がいるとは! 

 とても楽しい一日だったが、帰りの車の中で、ワイフとこんな会話をする。

私「盗んだ木を見て、あとで楽しいのかねエ?」
ワ「盗んだとは思っていないのよ、きっと……」
私「自然を愛する心と、その自然の中に生える木を盗むという行為は、矛盾すると思うヨ」
ワ「あのね、そういうことをする人は、そんなふうには考えないと思うワ」

私「いいか。たとえばその木を盗んできて、自分の家で、植木鉢に植えたとするよね」
ワ「……」
私「その木を見ていて、そういう人は、気分が悪くならないのかねエ?」
ワ「だから、そういうふうには、考えないってばア」

私「じゃあ、どう考えるんだ?」
ワ「自分のモノになったと、喜んでいるだけヨ」
私「やっぱり、木を愛する心と、盗むという行為は、矛盾すると思うんだけどナ」
ワ「それは人間性の問題ね。その人間性が、狂っているのよ」と。

 私が言いたかったことは、こんなことだ。

 自然に生える美しい花木があったとする。それを「美しい」と思うのは、いわば人間が
もつ、純粋な心の作用ということになる。

 一方、「盗む」という行為は、邪悪な心の作用ということになる。まずこの段階で、純粋
な心と、邪悪な心が、まっ向から対立する。

 つぎに、その花木を自分の家にもってきて、植木鉢に植えたとする。しかしその花木は、
いわば、自分の邪悪な心の象徴のようなもの。つまりその花木を見るたびに、自分の邪悪
な心を思い知らされる。「この花木は、盗んできたものだ」と。

 私なら、そんな花木など、見たくもない。どこかへ捨ててしまう。しかし多分、その盗
んできた人は、その花木を見ながら、「きれいだ」「美しい」と楽しんでいる?

 私は、それを「矛盾」と、とらえる。

私「一度、そういうことをする人に会って、話を聞いてみたい」
ワ「何て、聞くの?」
私「盗んできた花木を見て、本当に楽しめますか。罪の意識を感じませんか、とね」
ワ「聞くだけ、ヤボよ」
私「そうだな……」と。

 私にも、邪悪な心がある。ないわけではない。銀行へ行き、そこで待たされるたびに、
頭の中で、銀行襲撃のプランを練る。もちろん、頭の中で想像し、それを楽しむだけであ
る。そんな私だが、しかし自然の中に生える花木を盗むという発想は、まったくない。相
手は、まったく無防備な、植物だ。そういうものを盗んでもってくるというのは、卑怯(ひ
きょう)というもの。

 しかし何とも、心のさみしい話ではないか。……ということで、この話は、これでおし
まい。とにかく、楽しい一日だったことには、ちがいない。あまりむずかしく考えないで、
今日は、終わりたい。
(はやし浩司 富幕山 とんまく山)


●運動

 今日は、家のフェンスをなおすことにした。予算は、一万円。浜松市の北にある、「J」
という大型DIY店へ行って、材料をそろえる。

 防腐剤加工をした木材と、セメントを買って、しめて9800円。ここまではうまくい
った。が、それからがたいへんだった。セメントの袋だけで、20キログラム。それに木
材。1・8メートルの板を14枚に、丸太の支柱など。

 家へ帰ってくるころには、もうそれだけでヘトヘト。15年前には、山荘の土木工事の
ほとんどをした、私が、である。

 「体力がなくなったなあ」とこぼすと、ワイフも、「ホント。あなたも弱くなったわね」
と。

 しかたないので、1時間ほど、休息をかねて、昼寝。

 で、それから作業開始。

 フェンスの修理そのものは、2時間ほどですんだ。が、それにしても、ものすごい疲労
感。

 そこで一念発起。夕食をすますと、ハナ(犬)と、散歩に行くことにした。「こんなこと
に負けてたまるか」という思いが、私をそうさせた。

 私は自転車に乗り、ハナをひもで制御する。そして1時間ほど、近くの山坂を走り回る。
ほどよい汗が、体中からにじみ出てくるのがわかる。

 家に帰ってから、ワイフとこんな話をする。

私「やはり、自転車だと、疲れないよ」
ワ「体が、そうできているのね」
私「お前だって、テニスだといいかもしれないが、ソフトだとだめかもしれないよ」
ワ「そうね」と。

 私が疲れたのは、重い荷物を運んだから。その部分の筋肉は、使ったことがない。しか
し自転車は、疲れなかった。むしろ気持ちよかった。それは毎日、その部分の筋肉を、鍛
えているから。

 人間の体というのは、どうやら、そういうものらしい。

 脳ミソについても、同じことが言える。私のばあい、こうして文章を書くのは、苦痛で
はない。英語で文章を書くのも、それほど苦痛ではない。しかし翻訳となったとたん、も
のすごい重圧感を覚える。なぜか。

 それは恐らく、日本語から英語、英語から日本語への連絡網が、すでにサビついてしま
っているからではないか。

 50歳を過ぎると、こういう現象が、頻繁(ひんぱん)に起こるようになる。つまりそ
れだけ、柔軟性をなくすということ。これも、老化現象の一つと考えてよい。言いかえる
と、いかにして、体と脳ミソを鍛えていくかということ。それを、50歳前から始めてお
く必要がある。

 つぎの60代になったは、また考え方が変るかもしれない。それに、さらに体力が、弱
くなる。そのとき、私はどうなっているのか。あるいは今から、どうやってそれを予想し、
予防したらよいのか。

 できあがったフェンスを、道路から、ワイフと見あげながら、私は、そんなことを考え
た。
(040401)


●言論の自由

 週刊「B」が、発刊停止処分になった。元国会議員の娘の記事が問題になった。が、そ
れに対して、東京高裁は、発刊停止を、無効とした。当然である。

 言論の自由は、あらゆる権利の中でも、神聖不可侵な権利である。国民の権利として、
最大限尊重されねばならない。たかがこの程度の離婚問題で、言論の自由が制限されたら、
たまらない!

 しかしなぜ、その娘の記事が、週刊「B」に載ったか? 理由など、述べるまでもない。
それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたの周辺にも、離婚した人がいるだろう。しかしそういう人の記事が、週刊「B」
に載ることはあるだろうか? ぜったいに、ない! その娘の記事が週刊「B」に載った
のは、あの元国会議員のT氏の娘だからである。

 娘は公人か、公人でないかという議論もある。しかしその娘のことは、私でさえ、よく
知っている。母親のT氏と、よくマスコミにも、顔を出してきた。一方で、そうしてマス
コミをさんざん利用しておきながら、「私生活を暴かれた」は、ない。

 ただ私にも、言いたいことはある。

 週刊「B」側は、言論の自由を盾(たて)にとって、自分たちの正当性を主張している。
しかしこういうくだらない記事は、「言論の自由」というときの言論とは、意味がちがう。
ただのゴシップ記事。そういう記事が問題になったからといって、言論の自由が侵害され
たと騒ぐのも、どうかしている。

 週刊「B」側は、著名な文士をズラリと並べ、反論記事を掲載した。どの文士も、週刊
「B」の息のかかった、イエスマンばかりである。東京あたりで、週刊「B」に嫌われた
ら、メシを食っていかれない。

 言論の自由。

 本当に、この日本には、言論の自由はあるのかという議論から、始めねばならない。も
ちろん、くだらないことを、そのレベルで、騒いでいる間は、問題ない。元国会議員の娘
の離婚記事など、その範囲の話題でしかない。

 しかしその範囲をひとたび超えて、たとえば、天皇制の問題、国歌、国旗の問題となる
と、そうはいかない。さらに日本にはびこる宗教団体の問題。政治と宗教の問題となると、
さらにむずかしい。

 こうした問題について、率直な意見を書いたりすると、私のところでさえ、いやがらせ
の電話などがかかってくる。教室へ怒鳴り込んできた人さえいる。

 まあ、あえて言うなら、週刊「B」も、もう少し、高い視点から、日本をながめたらよ
いということ。今回の事件は、週刊「B」が、くだらないゴシップ記事を載せた。だから、
書かれた人が、待ったをかけた。それだけの事件である。

 それを仰々しく、「言論の自由が侵害された」と騒ぐことのほうが、おかしい。週刊「B」
は、たくみに問題をすりかえようとしている。しかし、そうはいかない。

 こうした軽薄なゴシップ記事を書かれた人は、ウソやまちがいがあれば、そのつど、名
誉毀損(きそん)か何かで、出版社をどんどん訴えればよい。それは正当な権利である。
決して、泣き寝入りしてはいけない。


●消費税がわからない(?)

 4月1日から、値段の表示が、消費税込みの総額表示になった。だからたとえば「10
0えん・ショップ」は、4月1日から、「105えん・ショップ」になった。

 消費税がいくらか、わかりにくくするための措置ということらしい。消費税をあげるた
めの、ワンステップと考えてもよい。

 が、問題は、このことではない。

 問題は、こうした一方的な措置が、恐らく通産省の課長クラスの通達一つで、なされた
ということ。そしてそれに、全国のスーパー、デパート、小売業界が、そのまま従ったと
いうこと。

 昨日のテレビ報道によれば、(値札の張りかえが間にあわなかった)という理由で、休業
した大型店もあったという。

 なぜだろう?

 なぜ、今ままでどおり、価格と消費税を別に表示してはいけないのだろう?
 なぜ、こうまで、通産省の指導に、厳格に従わねばならないのだろう?
 なぜ、「うちの店だけは、今までどおり、消費税は、別に表示します」と言ってはいけな
いのだろう。
 なぜ「100えん・ショップです。消費税は、別です」と言ってはいけないのだろう。

 つまりそれほどまでに、通産省の権限は、絶大なのだろうか。あるいはそういう指示に
従わないことで、何か、不都合なことが生ずるのだろうか。不利益があるのだろうか。

 まさに日本は、官僚主義国家。上から下へと、一方的に、ものごとが決められていく。
その一端を、私は、改めて垣間見たような感じがした。

 何としてでも、自分たちの失政を棚にあげて、国民をだまして、その国民から、金をま
きあげようとする官僚たち。そして何ら疑うこともなく、あやつられるまま、あやつられ
ている国民たち。

 それが今の日本の基本的な構図と考えてよい。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.         ⌒ ⌒        
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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年5月3日(No.404)
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いらっしゃれば、このマガジンのことを
話していただけませんか。

みんなで変えましょう!
日本の子育て!

(1)子育てポイント**************************

●親、貧乏盛り(少子化現象の陰で)

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人送ると、月々の仕送りだけで、毎月二七
万円(九九年東京地区私大教職員組合連合調べ)。が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に四〇〜
五〇万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インター
ネットも常識。

となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間
は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

そんなわけで昔は、『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言ったが、今は、『子ども大学
生、親、貧乏盛り』という。大学生を二人かかえたら、たいての家の家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、
さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税
法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに
少ない。欧米各国が、七〜九%(スウェーデン九・〇、カナダ八・二、アメリカ六・八)。
日本はこの一〇年間、毎年四・五%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわ
らず、対GNP比が少ないということは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、四兆円という大金を使った。
それだけのお金があれば、全国二〇〇万人の大学生に、それぞれ二〇〇万円の奨学金を
渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識
は、世界に名だたるもので、戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩き込まれてい
る。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、英雄化され、大河ドラマとして放映さ
れている! 日本のこの後進性は、一体、どこからくるのか。親は親で、教育といいな
がら、その教育を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。世間は世間で、
「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考えている。

だから隣人が、子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さ
が積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、五〇年はおくれている。その意識となると、一〇〇
年はおくれている。かつてジョン・レノンが、大麻所持で日本の税関で身柄を拘束された
とき、彼はこう叫んだ。「こんなところで、子どもを育てたくない」と。「こんなところ」
というのは、日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだ
ろうが、それからほぼ三〇年。この状態はいまだに変わっていない。

もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫
を育てたくない」と。私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれ
から生まれてくるであろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくま
でもその結果でしかない。

++++++++++++++++++++++++++++++

●依存心をつける子育て

 森進一の歌う歌に、『おふくろさん』がある。よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す
人も多い。しかし……。

 「溺愛児」というときには、二つのタイプを考える。親が子どもを溺愛して生まれる溺
愛児。それはよく知られているが、もう一つのタイプがある。親を溺愛する溺愛児という
のが、それ。簡単に言えば、親離れできない子どもということになるが、その根は深い。

Nさん(女性)は、六〇歳を過ぎても、「お母さん、お母さん」と言って、実家に入りび
たりになっている。親のめんどうをあれこれみている。親から見れば、孝行娘というこ
とになる。Nさん自身も、そう言われるのを喜んでいる。

いわく、「年老いた母の姿を見ると、つらくてなりません。もし魔法の力が私にあるなら、
母を五〇歳若くしてあげたい」と。

 話は飛ぶが、日本人ほど子どもに依存心をつけさせることに、無関心な民族はないとよ
く言われる。欧米人の子育てとどこがどう違うかを書くと、それだけで一冊の本になって
しまう。

が、あえて言えば、日本人は昔から無意識のうちにも、子どもを自分に手なずけるよう
にして子どもを育てる。それは野生の鳥をカゴの中に飼い、手なずける方法に似ている。
「親は一番大切な存在だ」とか、あるいは「親がいるから、あなたは生きていかれるの
だ」とかいうようなことを、繰り返し繰り返し子どもに教える。教えるというより、子
どもの体に染み込ませる。

そして反対に、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。
あるいは親不孝者として、排斥する。

こうして日本では、親に対してベタベタの依存心をもった子どもが生まれる。が、それ
は多分に原始的でもある。少なくとも欧米的ではない。あるいはあなたはよい歳をして、
「♪おふくろさんよ、おふくろさんよ……」と涙を流している欧米人が想像できるだろ
うか。

むしろ現実は反対で、欧米人、特にアングロサクソン系のアメリカ人は、子どもを自立
させることを、子育ての最大の目標にしている。生後まもなくから、寝室そのものまで
別にするのがふつうだ。親子という上下意識がないのはもちろんのこと、子どもが赤ん
坊のときから、「私は私、あなたはあなた」というものの考え方を徹底する。

たとえ親子でも、「私の人生は私のものだから、子どもにじゃまされたくない」と考える。
こうした親子関係がよいか悪いかについては、議論もあろうかと思う。日本人は日本人
だし、欧米人は欧米人だ。「♪いつかは世のため、人のため……」と歌う日本人のほうが、
実は私も心情的には、親近感を覚える。

しかしこれだけはここに書いておきたい。

親思いのあなた。親は絶対だと思うあなた。親の恩に報いることを、人生の最大の目標
にしているあなた。そういうあなたの「思い」は、乳幼児期に親によって作られたもの
だということ。しかもそれを作ったのは、あなたの親自身であり、その親も、日本とい
う風土の中で作られた子育て法に従っただけに過ぎないということ。

言いかえると、あなたの「思い」の中には、日本というこの国の、子育て観が脈々と流
れている。それを知るのも、子育てのおもしろさの一つかもしれない。さて、もう一度、
『おふくろさん』を歌ってみてほしい。歌の感じが前とは少し違うはずだ。

(2)今日の特集  **************************

●家の間取り

 九州に住んでおられる、FKさんより、家の間取りについての相談を受けた。「建築設計
士をしている友人から、相談を受けた。子どものしつけを考えると、家をどんな間取りに
したらいいか」と。

 基本的は、子どもが、一度は、家族全員が集まる部屋を通って、自分の部屋に行けるよ
うな間取りにすること。

 まずいのは、子どもが、家族の目が届くこともなく、(外)から、(自分の部屋)に、直
行できるような間取りにすること。極端な例としては、(そういう家は少ないと思うが)、
子ども部屋だけに、別の出入り口をつけることがある。

 そこで間取りの基本は、

 (外)→(家族全員が集まる部屋)→(子ども部屋)とすること。

 家族全員が集まる部屋というのは、居間であったり、台所であったりする。その部屋を
中心に考え、その居間や台所を通らないと、子どもが自分の子ども部屋に行けないように
する。

 私も息子たちが大きくなって、家を増築したとき、この点に気を配った。20畳程度の
居間兼台所と、その二階部分に、子ども部屋を二つ用意した。

 そのときのこと。アイデアは、二つあった。

 一つは、

 (外)→(廊下)→(階段)→(子ども部屋)という考え方。

 もう一つは、

 (外)→(廊下)→(居間兼第所)→(階段)→(子ども部屋)

 最大のポイントは、「階段をどこにつけるか」だった。廊下につければ、子どもたちは、
私たちの目にとまることなく、(外)と(子ども部屋)を、自由に行き来できる。

 しかし居間兼台所の中につければ、子どもの出入りを、いつも見ることができる。

 それで最終的には、居間兼台所の中に、階段をつけることにした。(いろいろ設計上、問
題はあったが、そうした。)

 その結果だが、それから15年以上。今から思うと、あのときの判断は正しかったと思
う。子どもたちが大きくなり、友だちをつれて出入りするときも、一度は必ず、私たちの
目の前を通らなければならなかった。

 私とワイフは、そういう動きを見ながら、子どもたちが、どんな友人と、どんなことを
しているか、かなり正確に知ることができた。

 そうでなくても、子どもが大きくなると、会話が少なくなる。交流も、減る。だからこ
そ、物理的な方法で、つまり自然な形で、親子が触れあう機会を用意するのは、とても大
切なことだと思う。

 家の間取りは、そういう意味で、重要なポイントとなる。

 そこでいくつかのポイントを、箇条書きにしてみる。

(1)子どもが子ども部屋へ行くとき、必ず、家族の前を通っていくようにする。
(2)子ども部屋は、できるだけ二階に用意する。
(3)子ども部屋は、採光がポイント。日当たりのよい部屋で、窓を大きくする。
(4)皆が集まる、居間や台所を、家の中心に置く。

 なお、子ども部屋の間取りについては、今までに書いた原稿を、ここに添付する(地元
タウン誌発表済み)。

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●子どもの部屋

 以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。

結果、ドアから一番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。

子どもというのは無意識のうちにも、居心地のよい場所を求める。その席からは、入り
口と図書室全体が見渡せた。このことから、子ども部屋について、つぎのようなことに
注意するとよい。

(1)机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えれ
ばなおよい。ドアが背中側にあると、落ち着かない。

(2)棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。


(3)光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置
く方法もあるが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。

(4)机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、
物入れなどを用意する。

 多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が
生じ、それが子どもを勉強嫌いにすることもある。

 また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあると
よい。フワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって
疲れる。

また座ると前に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。
しかしそのイスでは、休むことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子ども
は机から離れてしまう。

一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためではな
く、休むためにある。それを忘れてはならない。
 
子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を
求めるようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。そ
れ以前については、ケースバイケースで考える。

++++++++++++++++++++

ついでに、子どものプライバシーは、どのように
考えたらよいか。それについて書いたのが、つぎ
の原稿である。この原稿は、中日新聞に掲載して
もらったが、かなり反響のあった原稿である。

++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによ
って、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあ
いには、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ
逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱っ
たりしてもいけない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわ
かると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱ら
れると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年
長児)は、犬小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上
に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」というこ
とになる。

このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざか
っていくという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小一)は、おさげの
中に、野菜まで入れて、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。
が、もし目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛
省しなければならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを
反省する。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で
調べる人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになる
から注意する。

できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相
手が幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」
というものの考え方を育てる。

 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持
ちものを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子ど
ものカバンの中など、のぞけるものではない。

私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があって
も、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、
いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子
どものころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。
またプライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理
屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような
不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、
それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。
(はやし浩司 家の間取り 子ども部屋 プライバシー 子どもの尊厳 家出)
(040401)


(3)心を考える  **************************

●家庭内暴力

 子どもの家庭内暴力に悩んでいる人は多い。福岡市に住む、TEさんから、それについ
ての相談のメールをもらった。

 子どもは、高校1年生。男子。学校では、成績もよく、優等生ということになっている。
が、5歳年上の姉に、暴力を振るう。そのことが理由で、姉が、今度、アパートを借りて、
別居することになったという。

 はげしい家庭内暴力は、別として、何らかの感情のハケ口として、家庭内で、子どもが、
だれかに暴力を振るうというケースは、少なくない。たいていは母親が攻撃対象になる。
このタイプの子どもは、外の世界では、おとなしく、(いい子)であることが多い。

 つまり外の世界で、良好な人間関係を結べず、そしてさらにその結果として、慢性的な
抑うつ感がたまり、子どもは、突発的に家庭内で、暴力を振るうようになる。心理的には、
「うつ病」の一形態と考えるのが、一般的である。

 このタイプの子どもの暴力の特徴としては、(1)外の世界では、(いい子)であること
が多い。先生の指示には従順で、集団の中では、どちらかというと、おとなしい。(2)良
好な人間関係が結べず、外の世界では、仮面をかぶったり、がまんしたりすることが多い。
(3)突発的に、暴れたり、暴力を振るったりする。かんしゃく発作のように、突発的に
激怒して、叫んだり、ものを投げつけることもある。

 そんな中でも、とくに注意しなければならないのは、(4)何を考えているか、わからな
くなるということ。

 初期段階としては、感情の表現が鈍化し、一見、静かでおとなしくなる。しかしその一
方で、心がつかみにくくなり、何を考えているか、わからなくなる。喜ばせようとしても、
喜ばない。不愉快に思っているはずなのに、それを顔に出さない、など。

 このタイプの暴力には、明確な一線がある。暴力といっても、子ども自身が、心のどこ
かで限界をもうける。だから、つまりはギリギリのところまでは暴力を振るうが、その一
線を超えることはない。

 原因は、ここにも書いたように、外の世界で、良好な人間関係を結べないことと考えて
よい。そしてさらにその原因はといえば、乳幼児期の母子関係の不全とみてよい。あるい
は親(とくに母親)の溺愛、過干渉、過関心などが原因となることもある。

 「ウッセー! このヤロー。オレを、こんなオレにしやがってエ!」と、母親を足蹴り
にしていた子ども(中学男子)がいた。

 その子どものばあい、小学3、4年生くらいまでは、「静かで、おとなしい子ども」(母
親の言葉)だった。

 外の世界で、自分をあるがままに、(さらけ出す)ことができない。そのため、心は、い
つも緊張状態におかれる。仮面をかぶったり、(いい子)ぶるのは、あくまでも、その結果
と考えてよい。

 そしてその結果として、つまりは、そうしてたまりにたまった、抑圧状態を解放させる
ため、家庭内で暴力を振るうようになる。その暴れ方が、どこか狂人的であるため、家の
人は心配したり、悩んだりするが、「狂人」ではない。まずそれをしっかりと、理解する必
要がある。

 私はこのタイプの子どもに、ある種の二重人格性を感ずる。暴れていながらも、別の子
どもがどこかにいて、それをコントロールしている。そんな感じがする。だから子どもが
暴れたら、親は、もう一人の子ども(道理がわかり、すなおな子ども)に、ていねいに話
しかけるようにするとよい。

 「今は、本当のあなたではないのよ」と。

 もちろん抜本的な原因追求と、その是正も必要である。高校1年生といえば、受験にま
つわる重圧感に苦しむ年齢でもある。子どもの心の中では、不安と心配が、うずを巻いて
いる。そういうものから受けるストレスが、子どもの心をゆがめているとも考えられる。

 こうした家庭内暴力は、子ども自身の自己意識が高まれば、表面的には消える。そうい
う意味では、一過性のものだが、しかしそれでこうした問題が解決されるわけではない。

 ここにも書いたように、もともとは良好な人間関係が結べない子どもとみるため、おと
なになってからも、繰りかえし、症状が現れることがある。妻や子ども、反対に夫や子ど
もに、突発的に暴力を振るうケースも、少なくない。
 
 そこで早期発見、チェックテスト。

【家庭内暴力型子どもの早期診断テスト】

(  )学校での様子(評価)と、家の中での様子(評価)が、おおきくちがう。
(  )学校では、おとなしく、いい子。しかし家の中では、横柄、乱暴、態度が粗雑。
(  )集団教育が苦手。運動会や遠足を楽しまない。ときにいやがる。

(  )どこか母親対子どもの関係が強く、父親不在の子育てをしてきた。
(  )親の前でも、言いたいことを言ったり、したいことをしなかった。
(  )一見、がまん強い子どもに見えたが、その実、生活態度がよく乱れた。
(  )ときどき、何を考えているか、わからないときがある。感情の表現が鈍化した。

(  )カーッとなると、興奮状態になり、手がつけられないことがあった。
(  )キレた状態になると、すごみ、まるで人が変わったかのようになることがある。
(  )ときどき、沈んだり、何かのことでクヨクヨ悩んだりする。

 この質問項目のほとんどに当てはまるようなら、要注意。こうした状態に、受験勉強の
重圧、さらに思春期の不安定要素が重なると、子どもの心は一気に、緊張状態におかれる。
そしてその結果として、ここでいう家庭内暴力に走ることも少なくない。

 ……と、きわめて大雑把(ざっぱ)に考えてみたが、全体としてみると、家庭内暴力を
起こす子どもは、ほかの精神的障害(引きこもり、摂食障害、回避性障害)を示す子ども
よりも、予後がよい。適切な対処の仕方さえ守れば、短期間ですむことが多い。

 対処法については、また別のところで考えてみたい。
(はやし浩司 家庭内暴力 診断テスト 早期発見)


(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●ポール・ニューマンの「ノウバディズフール(Nobody's Fool)」を見る。

久々に、よいビデオを見た。若いころから、ポール・ニューマンが好きだった。私が世
話になった、友人の父親に似ていたこともある。名前を、キースさんと言った。5、6
年前になくなったが、本当にすばらしい人だった。

 それはともかくも、このビデオには、笑いと涙と、そして感動があふれている。好き好
きもあるので、私の好みを一方的に押しつけることは、避けたい。しかし見終わったあと
の、さわやかさが、何とも言えなかった。

 このビデオは、ポール・ニューマンの遺作になったという。そのせいか、ポール・ニュ
ーマンは、どこか元気がなかった。ブルース・ウィルスが脇役になり、ポール・ニューマ
ンの演技を光らせていた。★は五つ!


 なおこの映画の中で、おとなたちが、子どもに接するシーンが、あちこちに出てくる。
そのシーンを見ていて、こんなことを思いだした。

 私の二男も、その妻も、孫に接するとき、同じような接し方をしている。「そこまで、お
となあつかいしなくてもいいのに」と思うほど、おとなあつかいをしている。賛否両論が
あろうかと思うが、子どもの人格を守るということがどういうことか、それがわからない
人は、このビデオを見たらよい。

 たとえばポール・ニューマンが、孫を、数分間、ひとりだけ家の外に待たせるところが
ある。

 それに対して、息子が怒る。「子どもにとっての数分間は、一生に感ずるほど長いのだ」
と。

 祖父役のポール・ニューマンは、それにあやまる。そしてそのあと、孫に懐中時計を渡
す。「一分間だけ、勇気をもて。それができたら、二分間、もて」と。そしてその懐中時計
が、そのあと、一つの大役をこなす。キメのこまかさに、脱帽!

 ただ、翻訳が、いいかげん(失礼)! 会話のやりとりのおもしろさを、半減させてい
る。字幕に翻訳するのに限界があったのだろう。それはわかるが、もう少し、何とかなら
なかったものか。ときどき、字幕を見ながら、「そんなこと言ってないのになあ」とか、「ち
ょっとハズれているぞ」と思ったりした。


●宇宙のロマン

 火星にも生物がいた? ……その可能性は、きわめて高い。しかも最近、火星の大気の
中に、微量ながらも、メタンガスまで検出されたという。

 一説によると、あくまでも一説だが、かつて火星にも、人間のような知的生物がいたと
いう。そしてその生物は、今の地球上の人間のように、化石燃料(石油、石炭)を使い、
火星そのものの環境を破壊してしまたっという。

 その結果が、今の火星というわけである。

 ……となると、その知的生物は、どこへ消えてしまったのだろうか。化石燃料を使うほ
どの生物だから、その知的能力は、私たち人間のそれと、それほどちがわなかったと考え
るのが正しい。

 方法はいくつかある。つまり火星の知的生物たちが、生き残る方法は、いくつかある。

 ひとつは、地底深くに、もぐるという方法。もうひとつは、宇宙に逃げるという方法。
あるいはその二つを同時に、してもよい。

 つまりこの問題は、地球人の未来の問題と言ってもよい。

 このまま地球温暖化が進めば、やがてこの地球も、火星と同じ運命をたどることになる。
世界の学者は、西暦2100年までに、地球の気温は、平均で、4〜5度、上昇すると言
っている。

 しかしその2100年で、温暖化が停止するわけではない。そのあとも、さらに加速度
的に、気温は上昇しつづける。仮に4〜5度あがっただけでも、地球全体が、灼熱(しゃ
くねつ)地獄のようになるという。

 現に、今年の冬(オーストラリアでは夏)、あのメルボルン市ですら、気温が、40度を
超える猛暑がつづいたという。「今日は、45度になった」と、一度、友人が、メールを送
ってきてくれたことがある。

 45度!

 たった35年前には、世界一、気候が温暖な都市として知られていた、あのメルボルン
市が、である!

 が、今では、2100年までに、4〜5度なんて数字を信ずる人は、ほとんどいない。
すでにこの20年間だけで、1〜2度上昇している。

 つまり今の火星の姿は、地球の近未来の姿ということになる。そのせいか、科学者の中
には、「火星を知ることは、地球の未来を知ることである」と唱える人もいる。「火星を研
究することによって、地球の破滅的な未来を回避できるかもしれない」と。

 何ともクラーイ話になってしまったが、私は、人間の英知を信ずる。それに火星と地球
は、ちがう。大きさもちがう。地球には、広大な海がある。そう簡単に、火星のようには
ならない。

 温暖化を地球規模で止める方法も、すでにいろいろ考えられている。地球上に、亜硫酸
ガスの傘(かさ)をかけるという方法もある。大気に穴をあけて、宇宙へ熱を逃がすとい
う方法もある。さらにそれでもダメなら、地下都市の建設や、宇宙基地の建設をするとい
う方法もある。

 人間は、そう簡単には、滅びない。

 ただ、それには、一つ、大きな条件がある。

 ケータイ電話とやらをつかって、日夜、意味もない交信をしているようでは、ダメとい
うこと。意味もないバラエティ番組を、家族で、ギャーギャーと笑って見ているようでは、
ダメということ。交差点で赤信号になっても、「まだ走れる」と、突っ切っていくようでは、
ダメということ。(あまり、関係ないかな?)

 要するに、地球の環境が破壊されるか、人間の英知が、その先を行くか、その競争とい
うことになる。人間の英知が負ければ、人類は、地球のあらゆる生物もろとも、絶滅する。

 しかし人間の英知が、勝てば、この地球は、未来も、安泰ということ。今、その競争が、
始まったばかりである。

 さて、その火星にいたかもしれないという知的生物だが、私は、ひょっとしたら、彼ら
は私たち人間の遠い先祖ではないかと思っている。あくまでも、私が考える、SF(空想
科学)でしかないが、その可能性はないとは言えない。

 今夜の夕刊(3・31)によれば、火星の大気が、大きく変動したのは、数億年とか、
そういう遠い昔ではなく、ひょっとしたら、一万年単位の、それほど遠くない昔だったか
もしれないという。

 もしそうなら、その時期は、人間がサルから分かれたころの時期に重なる。火星の知的
生物が、火星から逃れてやってきて、自分たちの遺伝子を、サルに組みこんだ……?、と
いうことも、考えられる?

 あああ。私は、とんでもないことを書いている。こういう話を書くと、私の脳ミソが疑
われる。以前、ま顔で、「林君は、教育評論家を名乗っているから、そういう話はしないほ
うがいい。君の教育者としての資質が疑われる」と忠告をしてくれた人がいた。東大を出
て、ある出版社の研究部長をしていた人である。

しかしこういう話は、嫌いではない。眠られぬ夜に、よく、そういう話を、ワイフとよ
くする。フトンの中で、いつまでも時間を忘れてする。

ワイフ「宇宙人も、バカね。サルなんかに、遺伝子を入れるもんだから、こういうことに
なってしまったのよ」
私「そう、私なら、イヌか、馬に組みこんだだろうね。そのほうが、ずっと、平和的な動
物をつくることができた」
ワ「魚なら、よかったのに……。魚なら、火を使うこともなかったでしょう」

私「しかし宇宙人は、自分たちによく似た仲間がほしかったのかもしれないよ」
ワ「そうね。宇宙では、孤独でしょうし……」
私「地球上で、一番、頭がよかったのは、サルだったしね」
ワ「じゃあ、私の遺伝子を、オラウータンに組みこんだら、どうなるかしら?」

私「きっと、美人のオラウータンが、生まれると思うよ」
ワ「それはすてきね」
私「ただし、オラウータンのオスが見て、そう思うだけだよ」
ワ「あら。いやだ。それならいいわ。やはりオラウータンは、オラウータンのままで……」
と。

 火星のことを考えると、ロマンが、数限りなく、広がる。話題は、つきない。ひょっと
したら、私たち人間は、その火星人の子孫かもしれないのだ。

昨夜も、遅くまで、そんな会話をした。そしていつの間にか、おたがいに眠ってしまっ
た。いや、ワイフのほうが、先だった。私は、ワイフがイビキをかき始めたのを覚えて
いる。


●若き、女性ドライバーたち

 最近、気になるのは、若き女性ドライバーたち。はっきり言えば、運転がメチャメチャ。
大半の人はそうではないが、メチャメチャな運転をする人を見ると、たいてい若き女性ド
ライバーたちである。

 信号無視なんてものではない。完全に信号が赤になってからも、グイーンと、加速して、
交差点を横切っていく。あるいは、横道から、一旦停止もせず、大通りに飛び出してくる。
その様子は、何かしら世にうらみでもあるのかというような、走り方である。 

 昔、幼稚園で、園児に向って、こう怒鳴っていた年配の女性教師がいた。園児たちが、「バ
バー先生!」とからかったときのこと。

 「私が結婚できないのはね、男たちが、みんなバカだからよ!」と。

 おかしなことだが、そういう若き女性ドライバーを見ると、私は、あのとき、そう叫ん
だ、あの女性教師を思い出す。

私「女性というのは、今、複雑な立場にある」
知人「……?」
私「小学校の高学年くらいまでは、すべて女性上位で、ことが運ぶ」
知人「今は、そういう時代だからな」

私「ところが中学校へ入ることから、立場が逆転する。体力的にも、肉体的にも、男には、
かなわなくなる」
知人「なるほど……」
私「さらに高校から、大学へ入るころになると、そのちがいが、大きく出てくる」

知人「どうしても、この世の中、男に有利だからな」
私「そうなんだ。しかし最大の悲劇は、結婚後にやってくる」
知人「ぼくも、それを感じていた」
私「たいていの女性は、結婚と同時に、家庭の中に押しこめられてしまう。それはものす
ごい重圧感であると同時に、挫折感でもある。欲求不満から、気がヘンになる女性だって
いる」

知人「男からみれば、『何が文句あるんだ!』ということになるんだけどね」
私「それは、男側の勝手な論理だ」
知人「そこで女性の中には、悶々とした気持ちを、うらみに変える人も出てくるというわ
けか?」
私「そうなんだ。メチャメチャな運転をする若き女性ドライバーを見ていると、ぼくは、
そんなふうに感ずる……」と。

 かなり前のことだが、そんな会話をしたことがある。相手は、同じ山荘仲間のT氏とい
う人だった。

 実は、こうした「うらみ」は、私も経験している。

 私は、過去30年以上、自転車通勤をしている。健康のためには、よいことだが、しか
しその一方で、年に数回は、「あやうく……」というようなことを経験する。数年に一度は、
死んでもおかしくないというような事故を経験する。

 自転車は、道路では、まさに弱者。日陰者。車の流れの中を、チョロチョロと遠慮がち
に走らなければならない。

 そういう私だから、横断歩道を自転車で渡るとき、ふと、車に対して、ある種の敵意を
感ずることがある。「横断歩道くらい、こちらを優先させろ」と。と、そのときである。い
つもはそうではないのだが、その瞬間、自転車をこぐ私が、乱暴になることがある。

 ときに、強引に、車の前に突っ込んでいくことがある。つまり、若き女性ドライバーの
心理は、それに近いものではないか? 「車を運転するときぐらい、一人前に運転させろ」
と。

 しかしあぶないのは、あぶない。昨日も、ドライブから帰ってくるとき、交差点で、車
どうしがぶつかっていた。見ると、やはり、一方は、若き女性ドライバーだった。事情は
よくわからないが、多分、原因は、その若き女性ドライバーにあったのでは? そんな雰
囲気だった。

 そうそう、自転車で走っているとき、一番、あぶないのが、その若き女性ドライバーた
ちである。うしろから猛スピードで走ってきて、右肩をビューンとかすめていく。対向車
がやってくると、ギリギリまで車を路肩へ寄せてくる。

 ホント! 運転がメチャメチャ。

 ところで最後に一言。

 こういう私の意見に対して、ワイフもこう言う。「女は、運転がヘタだから」と。そこで
私が、「お前も、その女だろ」と言うと、ワイフは、「私は女ではない」と。私はそのつど、
「……?」と、だまってしまう。

【追記】

 私はときどき、「私のワイフは、女性の姿をした男だ」と思うときがある。ワイフもよく、
「私は子どものころ、男としか遊ばなかった」「私も、男に生まれたかった」などと、言う。
どうやら、ワイフは、母親の胎内で、男になりまちがえたようだ。これは余談。



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