はやし浩司(ひろし)

2004・6
はやし浩司
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2004年 6月号
 はやし浩司


2004年6月用(6・30=429号、UPTO 485)
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 2日(No.417)
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(1)子育てポイント**************************

●笑い話

 小学2年生のA子さんが、こう言った。「私、きのう、ペロペロチーを食べた」と。私に
は、「ペロペロチンチン」と聞こえた。ゾッとして、「何だってエ?」と聞きかえすと、「ペ
ロペロチー、サラダよ」と。
 
 イタリア料理に、ペペロンチーノというサラダ料理が、ある。どうやらそれを聞きまち
がえたらしい。

 また、今日は、こんなことも。

 やはり小学2年生のG君が、私の机のところにきて、小さな声で、こう言った。

 「先生、ぼくのチンチンね、さわっていると、長くのびるよ」と。

 で、私が、「あのね、そういう話は、ぼくではなくて、君のママに言いなさい」と話すと、
「だって、ぼくのママ、チンチンの話をすると、怒るもん」と。

私「だったら、ぼくにも、そんな話をしてはだめだ」
子「先生のは、のびるの?」
私「あのね、そういう話は、みんなの前でしてはいけないの」
子「ぼくのは、どうしてのびるの?」
私「だから、そういう話は、ママとしなさい」と。

 あるいは、一人の男の子(年中児)が、何かの拍子に、こう言った。「ぼく、ドクター・
エロを見た!」と。

 私の聞きまちがいかと思って、数度、聞きなおしてみた。が、何度も「ドクター・エロ」
と言う。どうやらその子どもは、新幹線の診断車の、「ドクター・イエロー」とまちがえて、
そう発音していることがわかった。しかしそれにしてもドキッとした。

 ときとして、子どもは、とんでもない言葉を使う。あるいは、おとなの私ですら、はっ
とするようなことを言うことがある。

 つい先日も、年長児の男の子が、私にこう言った。私が、「その積み木を使って、家をつ
くってごらん」と話しかけたときのこと。その子どもは、すかさず、こう言った。「ぼくは、
人に言われて、何かをするのは、いやだ!」と。

 幼児教育をして30年になるが、はじめて聞いた言葉である。で、この話を、家に帰っ
てからワイフに話すと、ワイフもかなり感心した。「へえ、年長児でも、そんなこと言う子
がいるのねえ」と。

 私の印象では、その子の兄の言い方をまねしただけではないかと思う。3歳年上の兄が
いる。それはともかくも、私もその言葉に、感心した。

【追記】

 私も、学生時代、深刻なまちがいをしたことがある。

 郷里のG県では、「すわりなさい」「すわる」というのを、方言で、「おちゃんこしなさい」
「おちゃんこ」と言う。この静岡県でも、そう言う。

 しかし、だ。石川県の金沢市では、それがとんでもない意味になる。どう(とんでもな
い意味)かは、金沢市の人なら、みな知っている。つまり女性器のヒワイ語である。

 あろうことか、私は、その言葉を、みなの前で使ってしまった。一人の女の子(小学生)
が、どこかの広い場所で、走り回っていたので、私は、こう言ってしまった。「そこの女の
子、どうか、おちゃんこしてください!」と。

 そのあとのことは、みなさんの想像に任せる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子育てのすばらしさ(生きる意味)(子をもって知る至上の愛)

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。

その一つが、至上の愛を教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境
をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったと
いう。

こうした「自分の命すら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめ
て知る。

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自
分の中に父がいる」という思いである。

私は夜行列車の窓に映る自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似てい
たからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるの
を知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこ
に死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形ばかりではない。ものの考え方
や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」
と思って生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れ
のようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育て
をしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流
れのようなものだ。

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何物でもない。
死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不
条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、い
つも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。

すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。
しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どもので
きの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛
することの深さ」を教えられる。

いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。
が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神
の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それ
が孤独な心をいやしてくれる。

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子ど
もを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きる
ことにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。

それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、
自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもというのは、ただの
子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教え
てくれる。

いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝えてくれる。
つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、ま
さに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身
も神や仏からの使者だと知る。

そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしい
ことはない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●壮絶な受験戦争(子どもは不登校児に)

 U君は小学校の低学年児のころは、学級委員をこなすなど、ごくふつうの子どもだった。
まじめで、成績もそこそこによかった。

が、このことがかえって、母親の判断を狂わせた。母親は「うちの子は、やればできる
はず」「こんなはずは、ない」「まだ、何とかなる」を繰り返し、A君に無理な学習を強
いた。

 子ども(中学生)は一日約一〇時間の学校生活をする。たいへんな重労働である。しか
も今、約四〇%の子どもが塾通いをしている(中一生・静岡県「私塾界」誌)。その上さら
に、家庭学習である。

U君の母親も、コピー機まで用意して、毎日U君の勉強に備えた。U君が夜遅く塾から
帰ってくると、母親は一定のワークをさせ、そしてそれを採点していた。が、やがてU
君は、オーバーヒート。しかしU君の母親は、それを許さなかった。


 そしていよいよ受験。進学指導の先生は、B高校を勧めたが、U君の母親は、最上位校
のA高を希望して譲らなかった。「私はどこの高校でもいいと思っているのですが、何とか
息子の夢をかなえさせてあげてください」と、先生に泣きついた。が、結果は不合格。U
君はすべり止めに受けた、C私立高校へ通うようになった。

 しかしこういうケースでは、深刻な後遺症は、そのあとに起きる。互いに緊張している
間は、その「芽」に気づかない。また私のような立場の者がアドバイスしても無駄。結局、
行きつくところまで、行くしかない。

U君は、一年間は何とか通ったものの、やがて高校へ行かなくなってしまった。母親は
「特別進学クラスから普通クラスに移されたことが原因」「先生が息子の気持ちを聞いて
くれないからだ」と、涙ながらに訴えたが、それはあくまでも表向きの言い逃れ。それ
以前から、U君は、まったくやる気をなくしていた。

 賢明な人は、ふつうの価値に、それをなくす前に気づく。愚かな人は、その価値をなく
してから気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさもまた、しかり。

が、さらに愚かな人は、また同じ失敗を繰り返す。U君の母親は、U君が高校を中退す
る、しないの話になっても、まだ特別進学クラスにこだわっていた。しかもU君だけで
はない。まったく同じコースをたどって、U君の弟のK君までもが、高校受験に失敗。
そして同じように断続的だったものの、学校へ行かなくなってしまった。

が、それで悲劇は終わったわけではない。U君もK君も家には寄りつかなくなり、今は、
母親の実家で寝泊りしている。

 こういうケースは、あなたの周囲にも、一つや二つはある。ひょっとしたら、あなた自
身の家庭がそうであるかもしれない。学歴信仰の人は、いくらでもいるし、U君の母親の
ように、うつ病気質、あるいは神経症の人も何割かいる。

さらにそこそこにはできるが、しかしそれほどでもない子どもをかかえている親は、半
数はいる。これら三つのファクター、つまり(信仰、気質、子どもの能力)をかけ合わ
せると、何割かの親子が、このU君親子のようになる危険性がある。

 教育というのは、失敗してからでは遅い。しかし失敗しなければ気づかない。果たして
あなたは大丈夫か?

(2)今日の特集  **************************

●子どもをよい子にする、三大鉄則

 子どもを、よい子にする、三大鉄則。

【1】親子の信頼関係
【2】子どもの生活力
【3】善なる心の育成

 親子の信頼関係は、母子関係の中ではぐくまれる。母子の間の(さらけ出し)(受け入れ)
が基本となり、その上で、信頼関係が築かれる。

 子どもの生活力は、子どもを使うこと。日常生活の中で、使って使って、使いまくるこ
と。そういう(生活)を通して、身につく。

 善なる心の育成は、つまりは親がその見本を見せる。しかし見せるだけでは足りない。
親自身が、それを実践し、その中に、子どもを巻きこんでいく。

++++++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から、【1】'2】【3】に
関するものを、いくつか選んでみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++

【1】信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、
子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、
ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用して
いく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の
基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなば
あい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役
目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよ
い。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、もの
すごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、
適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言
う人がいる。A氏(六〇歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありまし
た」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそ
う言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建
主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があった
からにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるというこ
とは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラ
フラしていて、どうして子どもが育つかということになる。

++++++++++++++++++

【2】子どもの心

 「家庭教育」というと、「知識教育」だけを考える人は、多い。ほとんどが、そうではな
いか。しかしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、「情操教育」である。わ
かりやすく言えば、「心を育てる教育」ということ。

 ……と、書くと、「そんなのは、何でもないこと」と思う人は多い。が、それはとんでも
ない誤解である。今、生まれても泣かない子ども(サイレント・ベービー)や、表情のな
い子どもが、ふえている。年中児で、約二〇%の子どもが、大声で笑うことができない。
感情が乏しい子どもとなると、何割かがそうであるというほど、多い。

 そこでつぎのようなポイントをみて、あなたの子どもの「心」が、正しく発達している
かどうか、判断してみてほしい。

●すなおな感情……うれしいときには、うれしく思う。悲しいときには悲しく思う。たと
えばペットが死んだようなとき、悲しく思う、など。こうしたすなおな感情が消えると、
うれしいはずと思うようなときでも、反応を示さなかったり、悲しいはずだと思うような
ときでも、悲しまなかったりする。以前、父親の葬式のとき、葬式に来た人と、楽しそう
にはしゃいでいた子ども(小一男児)がいた。

●すなおな感情表現……こうした感情の動きにあわせて、こまやかな表情ができる。うれ
しいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。そうした
微妙な表情が、だれの目にもわかるほど、すなおに表情で表現する。それができないと、
仮面をかぶったりするようになる。さらにひどくなると、親が見ても、何を考えているか
わからない子どもになる。

●豊かな表情……つぎに、その感情表現が豊かであるかどうかということ。たとえば父親
が仕事から帰ってきたようなとき、「ワーイ!」と歓声をあげて、父親に抱きつくなど。た
だしギャーギャーと大声を出して騒ぐなど、必要以上に興奮するというのは、豊かな表情
とは言わない。今、その表情の乏しい子どもがふえている。

●ゆがみのない心……ひねくれる、つっぱる、いじける、すねる、ひがむなどの、いわゆ
る「心のゆがみ」がないことをいう。心がゆがむ、そのほとんどの原因は、愛情問題と考
えてよい。幼児のばあい、とくに注意しなければならないのが、「嫉妬(しっと)」。たとえ
ば下の子どもが生まれたようなとき、上の子どもの心のケアをしっかりとすること。「あな
たはお兄(姉)ちゃんでしょ」式の押しつけは、してはいけない。

●大きくて、明るい声……心の伸びやかさは、そのまま声の調子となって、外に表れる。
大きい声で、ハリがあり、腹に力を入れ、息をしっかりと出し、口を大きく動かして話が
できれば、よし。幼稚園や保育園、あるいは学校から帰ってきたようなとき、明るい声で、
「ただいま!」と言えるようであれば、問題ない。

●自分を飾らない心……正直な心をということになる。子どものばあい、とくに注意した
のが、いい子ぶること。「お母さんが、料理をしています。あなたはどうしますか?」など
と質問すると、ふだんは、ほとんど手伝いなどしていないにもかかわらず、「手伝います」
などと、心にもないことを言う。しかし、そういう姿勢は、子どもの姿としては、決して
望ましいことではない。イヤだったら、正直に、「イヤ!」とはっきり言う。そういう姿勢
を大切にする。伸ばす。

●迎合しない姿勢……へつらう、こびを売る、相手に取り入るなど。この時期、愛想がよ
いとか、あるいは愛想がよすぎるというのは、決して望ましいことではない。愛想のよい
子どもは、それだけ自分の心をごまかしていることになる。こういう姿勢が定着すると、
やがて心が二面性をもつようになる。まわりの人からみても、いわゆる何を考えているか、
わかりにくくなる。

●心を開く……心を開いている子どもは、親切にしたり、やさしくしたりすると、その親
切ややさしさが、そのままスーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。そう
でない子どもは、そうでない。そういった親切ややさしさが、はねかえされるような感じ
になる。ふつう子どもは、抱いてみるとそれがわかる。心を開いている子どもは、抱いた
人に対して、体の力を抜き、身を任せる。そうでない子どもは、抱く側の印象としては、
体をこわばらせるため、何かしら丸太を抱いているような感じになる。

●年齢にふさわしい人格……その年齢に比して、子どもっぽい(幼稚っぽい)というのは、
好ましいことではない。人格の「核」形成の遅れた子どもは、その分、子どもぽいしぐさ
や様子が残る。全体の中で比較して判断するが、親の溺愛や過干渉が日常化すると、人格
の核形成が遅れる。

●考える姿勢……何かテーマを出したとき、ペラペラと調子よく答えるのは、決して望ま
しい姿ではない。多くの人は、「知識」と、「思考」を混同している。とくにこの日本では、
昔から、物知りの子どもほど、頭のよい子と評価する傾向が強い。しかし知識が多いから
といって、頭のよい子ということにはならない。頭のよい子というのは、深く考えて、新
しい考えに、自分でたどりつくことができる子どもをいう。子どもが何か考えるしぐさを
見せたら、静かにそれを見守るようにして、それをさらに伸ばす。

●受容的な態度……何か新しい考えを示したとき、すなおにそれを受け入れる姿勢を見せ
ればよし。そうでなく、かたくなに、それを拒否したり、がんこに否定するようであば、
注意する。とくにこの時期、カラにこもり、がんこになる様子を見せたら、注意する。頭
から叱るのではなく、子どもの立場で、心をほぐすように、話して聞かせるのがよい。

●融通がきく思考……いつまでも伸びつづける子どもは、それだけ頭がやわらかい。臨機
応変に、ものごとに対処したり、つぎつぎと新しい考えを生み出す。たとえば親どうしが
会話をしていても、まわりのものから、新しい遊びを発明したりするなど。そうでない子
どもは、「退屈〜ウ」「早く帰ろう〜ウ」とか言って、親を困らすことが多い。

●自然な動作……心がゆがみ、それが恒常化すると、動作そのものが、どこかぎこちなく
なる。さらに言動がおかしくなることもある。動作が緩慢になったり、不自然な反応を示
すこともある。

●強い意志……意味もなく、かたくなに固執するのを、がんこという。しかしそれなりの
理由や目的があり、それに従って自分の行動を律することを、「根性」という。子どもにそ
の根性を感じたら、そっとしておく。根性は、いろいろな意味で、子ども自身を伸ばす。

●忍耐力……好きなことをいつまでもしているのは、忍耐力とは言わない。たとえばテレ
ビゲームならテレビゲームなど。幼児教育においては、忍耐力というのは、「いやなことを
する力」のことを言う。ためしに台所のシンクにたまった、生ゴミを子どもに始末させて
みてほしい。風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハイ」と言って、平気
でできれば、かなり忍耐力のある子どもということになる。

●親像……ぬいぐるみを与えてみれば、子どもの中に、親像が育っているかどうかを、判
断できる。もしそのとき、さもいとおしそうに、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せるよう
であれば、親像が育っているとみる。そうでない子どもは、無関心であったり、反対に足
で蹴ったりする。ちなみに、約80%の幼児は、「ぬいぐるみ、大好き」と答え、残りの約
20%の子どもは、無関心であったり、足で蹴っ飛ばしたりする。当然のことながら、親
の良質な愛情に恵まれた子どもほど、心が温かくなり、ここでいう親像が育つ。

+++++++++++++++++

【3】不誠実な男

 六月に、クーラーを設置した。そのとき、Tという男がやってきた。見るからに不誠実
そうな男だった。心の中というより、体中、ゴミだらけといった感じの男だった。

 で、ものすごい、ひどい工事。配管のパテは、まったく詰めてなかった。土台のネジは、
八本必要だったのに、四本のみ。強くドリルで締めすぎたためか、ネジ山はつぶれ、ネジ
はきいていなかった。

 また外壁をはう配管は、上から下まで、何と六センチ前後、横にズレていた。まだある。
クーラーを設置するとき、乱暴に扱ったため、クロスの壁がかなりこすれて、削れていた。

 一事が万事。最近になって、クーラーの室外機が、ゴミ取り専用のマンホールの真上に
あることがわかった。しかも、一台のクーラーは、どうやら家の筋交(すじか)いを、ま
ともにぶち抜いているらしい(これは未確認)。

 配管の費用は、四メートルまでは、無料ということだったが、請求書は、七メートル。
実際に測ってみたら、六メートル弱しかなかった。つまり一メートル分、過剰請求!……
などなど。

 ズルい人間は、年齢とともに、あらゆる面でズルくなる。一つだけということはない。
全体に、そうなる。まさに日々の積み重ねが、人格となるというわけである。

 このTという男は、改めて、私に大きな教訓を与えてくれた。

 善人も悪人も、それほど大きな違いはない。ほんの小さな、日々の積み重ねが、善人を
善人にする。悪人を悪人にする。その小さなことというのは、決してむずかしいことでは
ない。ウソをつかないとか、約束を守るとか、あるいは人に迷惑をかけないとか、そうい
うことである。

 そして日々の積み重ねが、やがてその人の人格をつくる。いや、日々というより、この
瞬間、瞬間の積み重ねといってよい。「今」のこの瞬間である。

 それは最初は、「勇気がいる」と言えるほど、覚悟が必要。しかし思い切って、近所の道
路に散っているゴミを拾ってみる。思い切って、倒れた自転車を起こしてやってみる。最
初は、どこか、「やってやっている」という思いにかられるかもしれない。が、やがてそれ
が自然にできるようになったとき、その積み重ねが、その人の人格となる。

 そのTという男は、どんな人生を歩んできたのか。年齢は私と同じくらいか。恐らく、
日々の生活の中で、ズルいことばかりしているのだろう。が、それ以上に彼にとって不幸
なことは、もうこの年齢になると、軌道修正はできないということ。そういうズルい生き
方が、体質として、彼の中にしみこんでしまっている。だから、「一事が、万事」。

 で、また考えてみる。私はどうなのか、と。

 私はもともとそのTという男に、負けないくらい、ズルい男だった(?)。生まれ故郷の
言葉では、「こすい子ども」だった(?)。戦後の混乱期に生まれた子どもは、みな、多か
れ少なかれ、そうだった。

 今でも、そうした体質が、たしかに残っている。ときどき、そういう自分と、戦わねば
ならない。とくに困るのが、サイフを拾ったとき。一応、持ち主や、交番に届けるが、そ
のとき、「もらっちゃえ」と叫んでいる自分が、どこかにいるのを知る。だから今では、サ
イフを拾うのも、こわい。だから、それらしきものが落ちていても、できるだけ目を閉じ
て、通り過ぎるようにしている。

 そしてここからが子育て論ということになる。

 私たちは親として、教師として、子どもの前に立つ。そのとき大切なことは、親や教師
の心は、そのまま、長い時間をかけて、そっくりそのまま子どもに伝わってしまうという
こと。親子、あるいは教育というのは、そういうもので、そこに親子であること、教育の
すばらしさがあると同時に、きびしさがある。

 そう、昔、息子たちと歩いているとき、そのサイフを拾ったことがある。私たちは、み
んなで、そのサイフの持ち主に届けた。そういった積み重ねが、子どもの心をつくる。お
かげで、というか、私の三人の息子たちは、みな、バカ正直と言えるほど、バカ正直な子
どもたちになってくれた。今、ふと、「よかった……」と思った。


(3)心を考える  **************************

●ガリガリの勉強

 日本人の悪しき誤解というか、多くの日本人は、「勉強というのは、ガリガリするものだ」
と思っている。……ということを、気づかされたのは、台湾から来ていた子ども(小1)
を教えたときのことだった。その子どもの母親は、台湾人だった。父親は、日本人だった。

 その母親は、何かにつけて、過激(?)だった。

 私は子どもを教えるとき、子どもを楽しませることを、何よりも大切にしている。1時
間勉強らしきことをして、30分、勉強すればよい。あるいは10分でもよい。ほかの時
間は、パズルやゲームを楽しむ。「勉強は楽しい」という思いが、やがて子どもを前向きに
伸ばしていく。

 が、その母親は、そうではなかった。私がゲームらしきことをするたびに、顔をしかめ
た。自分の子どもが、少しでも気をゆるめたりすると、やはり顔をしかめた。そしてこん
な事件が起きた。

 あるとき、20問くらいの計算問題をしたことがある。そのとき、その子どもが、2、
3番目にできた。で、見ると、1、2問はちがっていたが、私は大きな丸をつけて、「よく
できたね」とほめてあげた。

 が、母親には、それが納得できなかったらしい。レッスンが終わって、たまたま駐車場
へ行くと、そこでその母親は、子どもをはげしく叱っていた。

 「どうして、もっと早くできないの!」
 「この答、ちがっているでしょ!」
 「こんな簡単な問題ができないの!」と。

 そして私を見つけると、こう言った。

 「この答、ちがう。どうして丸、つけるか?」
 「うちの子、9+8の問題ができない。どうしてか? 中国では、みんな、できるある
ね」と。

 そこで私が、「一生懸命やったから、丸をつけました。繰りあがりのある足し算は、日本
では、もう少し、先でやることになっています」と。

 すると母親は、突然激怒して、こう言った。「みんな、遊んでばかりいる。どうしてあれ
が、勉強かア!」と。

多分、その母親は、高校受験をひかえた子どもが、黙々とするような勉強を、「勉強」と
思っているらしかった。しかしそんな勉強など、小学生に期待するほうがおかしい。ま
たそんなことを無理に強要すれば、子どもを勉強嫌いにしてしまう。この時期、一度、
勉強嫌いにしてしまうと、あとがない。

 ……と、その母親の悪口を書いてしまったが、実は、この話は、フィクション。いくつ
かの経験をまぜて、この話をつくった。しかしこういう例は、多い。本当に多い。昔なが
らの勉強観を、そのまま今の子どもに押しつけようとする。もう10年以上も前のことだ
が、実際に、こんなことがあった。

 ある日、その子ども(年中児)の祖母から、電話がかかってきた。そしてこう言った。

 「先生、どうしてうちの孫の書いた字に、丸なんか、つけるのですかア! 書き順や、
書き方がめちゃめちゃでしょ。ハネもありません!」と。

 私が「一生懸命、本人が書いたから、丸をつけました」と答えると、さらに「最初に、
しっかりと教えなければ、クセがついて、あとでなおすのに苦労します。いいかげんな丸
はつけないでほしい!」と。

 この話は実際にあった話。しかも10年くらい前までは、毎年、何例かあった。

 こういう親や、祖父母に出会うと、息苦しささえ覚える。息がつまる。もっと正直に言
えば、そういう親の子どもは、教えたくない。私のしていることが、子どもを責める道具
になっている!

 ガリガリの勉強をするかどうかは、その子ども自身が決めること。私ではない。親でも
ない。あくまでも本人である。私たちがせいぜいできることと言えば、その一歩手前まで、
子どもをひっぱってくこと。しかしそこが限界。

 イギリスの教育格言にも、こんなのがある。『馬を水場までつれていくことはできる。し
かし馬に水を飲ますことはできない』と。水を飲むかどうかを、最終的に決めるのは、あ
くまでも、子ども自身ということになる。


●昔の偉人

 ときどき夢の中に、昔の偉人が出てくる。最初にそれを経験したのは、東洋医学の本を
書いていたときのこと。毎日、毎晩、私は一冊の本を書くために、悪戦苦闘していた。そ
のときのこと。

 話せば長くなるが、漢方の神様と言われた、扁鵲(へんじゃく)という中国の伝説上の
医家が、夢の中によく出てきた。一時は、私にその扁鵲※が乗り移ったかのように感じた
ことがある。

 もちろん、これは私の、ただ単なる思い過ごしである。深い潜在意識の中で、私の無意
識が勝手につくりあげた幻覚である。

 それ以後も、よく昔の偉人が、夢の中に出てくる。が、おもしろいことに、その扁鵲を
のぞいて、めったに、同じ人は出てこないということ。

 最近では、芥川竜之介や、森鴎外が出てきたことがある。日本人にかぎらない。つい先
日は、何と、あのブッシュ大統領が出てきた。夢の内容は忘れてしまったが、何かの話を
したのは、記憶のどこかに残っている。

 こういった夢は、いわば、脳みその遊びのようなもの。深い意味もないし、またその意
味を考えても、ムダ。自分が霊能者と信じているような人だったら、あれこれもっともら
しい意味を考えるのだろう。が、残念ながら、私は「霊」などというものは、信じていな
い。まったく信じていない。

 だいたいにおいて、私の夢に出てくる偉人というのは、いつも、かつてどこかで見た顔
ばかり。芥川竜之介にしても、夢の中の竜之介は、いつかどこかで見た竜之介の写真のま
ま。森鴎外も、そうだ。つまりそういうイメージが、脳の中のどこかに残っていて、それ
がそのまま夢に出てくる。

 もし芥川竜之介の、うしろ姿とか、上から見た姿が出てくるというのであれば、「霊」の
させるわざかもしれないが、そういうことはない。

 ……そうして考えてみると、扁鵲の夢は、不思議な夢ということになる。扁鵲の写真な
どあるはずもない。簡単なイラストを見たことがあるだけ。しかし夢の中の扁鵲は、たし
かに人間の扁鵲だった。それに中国語を話していた!

 しかしこれも多分、頭の中で、私がいくつかのイメージを合成してつくったものだろう。
詳しくは覚えていないが、理屈で考えれば、そういうことになる。

(※扁鵲・へんじゃく……紀元前500年ごろの、中国の伝説上の医家。ハリ治療の神様
と言われている。不思議な超能力をもっていて、人間の体を透視することができたという。
司馬遷の『扁鵲伝』にも搭乗する。)


●犬のクッキー

 犬のクッキーが、いよいよボケてきた。年齢は、17歳になる。目はほとんど見えない。
耳もほとんど聞こえない。歩くときは、いつもヨボヨボしている。ほとんど一日中、眠っ
ている。

 困ったのは、大小便を、チビチビと垂れ流すこと。庭のいたるところで、それをする。
目に下には、多分悪性のものだと思うが、大きなコブまでできた。病院へ連れて行こうか
とも思ったが、17歳という年齢もあり、あきらめた。なおる見込みはない。

 そのクッキーを見ていると、ペットを飼うことの重大さを、改めて思い知らされる。ペ
ットといっても、17年もいっしょにいると、家族のようになる。私はともかくも、ワイ
フや息子たちには、そうだ。

 数年前、10年ほど生きた文鳥が死んだときも、そうだった。何とも言えない、悲しみ
が襲った。そして自分たちの年齢を考えながら、「もう文鳥を飼うのをやめよう」と、たが
いに言いあった。そのときまで、私は高校2年のときから、欠かさず、文鳥を飼っていた。
一羽が死ぬと、つぎの文鳥を買ってきて、またヒナから育てた。

 ただ犬は、庭の中で、放し飼いにしている。犬小屋も、庭のすみにある。そこでふと、
こんなことを考えた。

 「家の中で飼っていたら、今ごろは、たいへんだろうな」と。家のあちこちで、大小便
を、垂れ流されたら、困る。「そのときは、どうするだろう?」とも。

 ワイフは、「静かに死なせてあげよう」と言う。私もそう思う。ペットを飼ったものの責
任というか、最後の最後まで、見届けなければならない。それは常識だが、問題は、どの
程度まで、人間の責任かということ。

 人によっては、入院させる人もいる。手術を受けさせる人もいる。まさか殺す人はいな
いと思うが、しかし欧米では、ペットがそういう状態になると、安楽死させるという。そ
こで子どもたちに聞いてみた。

「君たちの家で、犬を飼っている人はいるか?」と聞くと、何人かの子ども(小4)が、
手をあげた。

 「犬を飼っていて、病気になったら、どうする?」と聞くと、「病院へ行くよ」と。そこ
で「年をとって、死ぬときはどうする?」と聞くと、「まだ生きている」「朝、死んでいた」
などと言う子どもがいた。

 一人、「家の中で飼っていたけど、年をとったので、家の外で飼っている」と言う子ども
がいた。「なるほどなあ……」と思いつつ、再び、クッキーのことを考えた。

 かわいそうな犬だ。私の家へ来たときから、今にいたるまで、私たち人間に、心を許し
たことがない。もともと保健所で処分される寸前の犬だった。それを私たちが、もらい受
けてきた。

 人間にたとえるなら、育児拒否、冷淡、無視を経験している。その上、放棄、虐待。私
たちがもらいに行くまで、鳥かごのような小さなオリに、2週間も入れられていた。心に
大きなキズを負っている。今でも、私たちが見ていると、エサを食べない。愛想はよいが、
番犬にはならない。だれにでも、シッポを振って、コビを売る。たった一匹、友だちの犬
がいたが、この4、5年、会っていない。

 死期は近いように思うが、私には、何ともしようがない。今朝も見ると、朝日の陽光を
浴びながら、庭のすみで、静かに眠っていた。そっと静かにしておいてやる以外、私たち
には、何もできない。

 朝食を食べているとき、そのクッキーを見ながら、「クッキーとハナが死んだら、もうペ
ットを飼うのは、やめよう」と、ワイフが言った。私は、それに同意した。


●債権回収

 おかしなハガキが届いた。「金を払え。さもなければ、お前の財産を差し押さえる」とい
う内容のもの。

 よく読むと、要するに、「お前はスケベサイトを見たが、その料金が未払いになっている。
そこで一両日中に、電話をしろ。さもなければ、債権回収機構にこの債権を回し、強制執
行をする」というもの。

 住所は、どこかのマンションの一室らしい。「債権の金額は、電話をしたら教える」とあ
る。あとの欄は、バーコードが、もっともらしく印刷してある。

 私の専門は、民事訴訟法。この私をだませるわけがない。バカめ!

 債権を回収するためには、いくつもの手続きを経る。仮執行宣言つきの支払命令を裁判
所経由で発行し、一定期間を経て、それをもとに、強制執行の手続きをとる。が、それで
も簡単に、強制執行できるわけではない。

 それにこうした手続きは、相手方に対しては、内容証明つきの郵便で、送付することに
なっている。一枚のハガキですむような話ではない。もしそんなことができたとしたら、
日本の法秩序は、崩壊する。

 それにしても、こうした悪質なサギが、今、多すぎる。それだけ、ワルが多いというこ
とか。で、その対処方法としては、無視するのが一番よい。へたに電話でもしようものな
ら、今度は、電話番号が相手にわかってしまい、何をされるか、わかったものではない。

(相手は、私の電話番号を知りたいがため、「電話しろ」と書いている!)

 こうしたあやしげな相手は、無視。ただひたすら、無視。それでも何か言ってくるよう
であれば、どこかの苦情処理センターに通報すればよい。まあ、それにしても、手の込ん
だハガキである。「これは、今、横行している、インチキ請求ではない」とまで、書いてあ
る。印刷代だって、バカにならないだろうに……。ご苦労様!

 そうそう、最近、こんなこともあった。

 私の家には、Y社製の太陽光温水器がとりつけてある。その温水器について、数年前、
定期点検と言いながら、二人の男がやってきた。

 あたかもその会社から派遣されてきたようなフリをして、お金をとる業者は、あとを断
たない。あれこれ話をしていると、その中の一人が、こう言った。

 「本当に、いやな世の中ですね。私たち、まじめに仕事をしているものは、本当に迷惑
しています。インチキな業者が多いですから……」と。

 つまり自分たちは正真正銘の正社員というわけである。身分証明書も見せた。
 
 で、「?」と思いながらも、点検をしてもらうと、「取り付け口のパッキングを交換した
ほうがいいです」と。言われるまま、交換してもらうと、2万5000円。

 たいした作業ではない。30分足らずですんだ。

 が、最近、またやってきた。今度は、「屋根の上の温水器は、地震対策上、好ましくない
ので、すえかえてください」と。

 そこで数年前の定期点検にやってきた二人の男の話をすると、「わが社は、そういうこと
はしていません」と。私が「その男たちは身分証明書を見せた」と話すと、「そんな身分証
明書は、ニセモノです」と。

 私「定期点検はしていないのですか?」
 男「していません。そう言って、わが社の名前を使って、勝手に工事をしているものが
います。どうか注意してください」
 私「あなたたちは、だいじょうぶですか?」
 男「私たちは、Y社の社員です。名刺を置いておきますから、電話して確かめてくださ
い。今度、県のほうの指導で、屋根の上の温水器を、別の安全な場所に、すえかえるよう
に言われています」と。

 ますますわけがわからなくなってしまった。が、私の家の温水器は、屋根の上といって
も、駐車場の屋根の上。地震対策上、問題はない。それを話すと、「そうですね。では、結
構です」と言って、立ち去っていった。

 で、そのあとすぐに名刺にあった会社に電話をすると、「現在、この電話番号は、使われ
ていません」と。そこでY社の電話番号を調べて、電話をすると、担当者がこう言った。「う
ちでは、そういう社員は派遣していません。どうか気をつけてください」と。


●一事が万事

 昔から、『一事が万事』という。

 人間の脳みそは、それほど器用には、できていない。今日は悪人で、明日は善人という
わけにはいかない。あるいはAさんに対しては善人で、Bさんに対しては悪人というわけ
にはいかない。

 若いころなら、気力もあるから、そのときどきで、自分をごまかすということもできる。
そのときに応じて、善人を演じてみせたりすることはできる。しかし年をとると、その気
力が薄れてくる。ありのままの自分が、そのまま外に出てきてしまう。

 そういうわけで、善人は、どこでも善人。悪人は、どこでも悪人。まさに一事が万事と
いうことになる。

 今日も、ワイフと車で走っているとき、横から、信号を無視して一台の車が飛び出して
きた。角がコンビニの駐車場になっていた。その車は、その駐車場をななめに横切って、
私たちの車のすぐうしろに、ついた。

 「ずるい」と感じたが、今度はその車は、猛スピードで、私たちを追い越していった。
ワイフは、「よっぽど急いでいるのね」と言ったが、その道路は、追い越し禁止になってい
た。

 音もすごかった。マフラーをはずしているらしく、バリバリ……と。が、それだけでは
なかった。

 運転している男は、(あとで、外国人風の男とわかったが)、窓から火がついたままのタ
バコを、外へ捨てた。ワイフは、「火がついている!」と言った。タバコは、道路で、パッ
と火花を飛ばした。

 まさに一事が万事という感じの男だった。最後に、交差点を左に曲がって、同じように
猛スピードで走り去っていった。

私「ああいう人は、生活のあらゆる場面で、ああなんだよな」
ワイフ「そうよね」と。

 だから私たちが、もし善人であろうとするなら、今のこの瞬間から、そして今、してい
ることから、自分の行動に注意する。人が見ているとか、見ていないとか、そういうこと
は関係ない。

 またどんなささいなことでも、そこに自分の「善意」を貫く。そういう姿勢が、やがて、
積み重なり、私たちの人格となっていく。

 まさに日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが、年となり、やがてその人の人格
となっていく。

 私がいう『一事が万事』というのは、そういう意味である。


●どうか、私のアドレスを消去してください

 今日(4・29)、ウィルスの猛攻撃を受けている。数分おきに、同じアドレスから、N
ET−SKYウィルス(W32/Netsky・D−mm)が、6個ずつ、たばになって
送られてくる。

 幸いなことに、プロバイダー(サーバー)で、二重のウィルスチェックサービスを受け
ているので、パソコンに侵入することはない。ただそのたびに、プロバイダーから、「ウィ
ルスを検知しました」という連絡が入る。これがたてつづけに、つぎからつぎへと、「削除
ずみ、アイテム」に放りこまれる。

 しかしそれにしても、しつこい。

 パソコンショップの友人に連絡すると、こう教えてくれた。

(1)だれかのパソコンに、ウィルスが入った。
(2)そのだれかが、それに気づいていない。
(3)そのだれかは、インターネットを常時接続している。
(4)かつそのだれかは、数分おきに、送受信を自動でするよう設定している。
(5)そのウィルスは、手当たり次第にアドレスを盗んで、ウィルス入りのメールを、あ
ちこちにバラまいている、と。

 そのだれかのパソコンの中に、どうやら私のアドレスがあるらしい。それで私のところ
へ、ウィルス入りのメールを、雨あられのように送ってくる。

 こうして考えてみると、他人のアドレスを、自分のパソコンの中に残しておくのも、考
えものである。もし私のパソコンにウィルスが入ったら、みんなに迷惑をかけることにな
ってしまう。

 さっそく、このところ連絡をとっていない人たちのアドレスを、削除する。いや、その
前に数えたら、その数が、300近くにもなっていた。返信すると同時に、相手のアドレ
スを保存することになっていた。

 で、削除、また削除。こうして、40〜50くらいにまで、軽量化することができた。

 そこでみなさんにも、お願い。もしみなさんのアドレスの中に、私のアドレスがあれば、
どうか消しておいてほしい。これは万が一のための防衛策である。

 で、これからのこととして、今まで、メールアドレスを公開してきたが、これからは、
できるだけ非公開とする。掲示板も私書箱も、同様にできるだけ非公開にする。さらに私
のホームページも、できるだけ非公開にする。

 考えてみれば、今まで、私は、あまりにも無防備すぎた。今回のウィルス攻撃は、その
ことを私に教えてくれた。

 しかし、それにしても、しつこい。いつになったら、その人は、自分のパソコンの中に
ウィルスが侵入していることに気づくのだろうか。パソコンショップのその友人は、こう
言った。「それまであきらめるしかないですね」と。
(040430)

(4)今を考える  **************************

日本人の隷属性

●K国の美談

 こんな話を読んだ。詳しい内容は、忘れたが、おおむね、こんな話だ。

 K国のある高官の妻が、病気になった。金XXに忠実な男だった。その話を聞いた金X
Xが、その高官にこう言った。

 「私の病院へ、あなたの妻を連れてきなさい。特別にみてもらえるよう、はからってあ
げる」と。

 医療事情の悪いK国にあっても、高級幹部だけは、特別あつかい。その中でも、金XX
だけは、さらに超特別あつかい。金XXの健康管理をする、「長寿研究所(病院)」には、
金XXのためだけに、何と2000人近い、ドクターが待機していると言われている。

 その話を聞いた高官は、涙を流して喜び、金XXに対して、さらなる忠誠を誓ったとい
う。この話は、K国では、将軍様の美談としてもてはやされている。

●おかしい?

 この話は、どこかおかしい? 今回、K国のR市で列車爆発事故があったが、R市の医
療事情は、「劣悪」(国際赤十字の係官)だそうだ。そういう国にあって、金XXや高級幹
部だけは、最新の医療技術を使った特別の治療を受けられるという。

 まず、ここがおかしい。

 しかしその高官は、妻が、特別なあつかいを受けることについて、「涙を流して喜んだ」
という。

 こうした隷属性は、日本人にも、よく観察される。

 たとえばこの日本では、公務員だけは、あらゆる面で、特別なあつかいを受けている。
どう特別かということは、今さら言うまでもない。そういう「あつかい」が、今では、「矛
盾」となって露呈しつつある。

 そういう矛盾を見たとき、日本人の多くは、「おかしい」、だから「それを改めよう」と
は思わない。そう思う前に、「あわよくば、私も」とか、「せめて、私の息子や娘も」と考
える。そして自分の夫や妻が公務員であることを喜び、ついで自分の息子や娘を公務員に
しようと考える。

 これが私がいう、「隷属性」である。

●長くつづいた圧制

 日本人の、こうした独特の隷属性は、たとえば「長いものには巻かれろ」式のものの考
え方となって、反映されている。「お上(かみ)には、さからわない」という意識も、強い。
だから目の前に、不公平や、不公正を見せつけられても、それがおかしいと思う前に、「自
分もその恩恵に、あやかりたい」と思う。そう思って、不公平や、不公正を、容認してし
まう。

 K国の高官の話は、まさにそれにあたる。

 しかしやはり、おかしいものは、おかしい。そういうおかしいものに出会ったら、その
時点で、「おかしい」と声をあげる。それが民主主義の原点であり、その声なくして、民主
主義は、ありえない。

 ただとても残念なことは、たしかにこの日本は、民主主義国家ということになっている。
しかしそれはある意味で、「形」だけ。私たちの意識の中には、いまだに、あの封建時代、
さらには、それにつづく官僚主義国家の亡霊が、しっかりと住みついている。

 まず、そういう意識に気がつくこと。そしてそれを改めていくこと。それをしないで、
日本の民主主義は、完成しない。

 K国では、徹底した洗脳教育のもと。K国の人たちは、生まれると同時から、骨のズイ
まで、魂を抜かれる。そしてその結果、「おかしい?」と思う心まで、奪われてしまう。つ
まりは、その結果が、今の私たち日本人の意識ということになる。

 皮肉なことに、本当に皮肉なことに、今のK国の人たちを見ていると、日本人の私たち
が何であるのか、また何であったのか、それがよくわかる。この問題は、決して、他国の
問題ではないのである。

●ついでに……

 K国での爆発事故に関して、各国の救援体制が整いつつある(4・29)。しかし肝心の
K国は、自分の国の惨状を見せようとしない。その結果、「外貨稼ぎのために、被害者の子
どもたちを利用している」(ドイツ人医師のフォラツェン氏)という声すら、聞こえてくる。

「北朝鮮は再び人間の生命には関心がないことを立証した。火傷で苦しんでいる子ども
たちが外貨稼ぎのための人質になっている」(同氏)と。

 おまけに昨日(4・28)、アメリカのワシントン・ポスト紙は、「K国は、核兵器を8
個、すでに開発済みである」という情報を、リークした。別の情報によれば、「北朝鮮が否
定している 高濃縮ウラン計画によって、2007年までにさらに6個の核兵器を製造でき
る」(中日新聞)とも。

 もちろんこれらの核兵器は、「日本向け」(K国高官)のもの。やがてK国は、アメリカ
との間に相互不可侵条約を結んだあと、これらの核兵器で日本を脅しながら、金をまきあ
げる魂胆と考えてよい。そのためK国にしても、そうは簡単に、核兵器を手放すことはな
いだろう。

 となると、日本にとって、一番好ましい図式は、金XX体制の崩壊だが、しかし韓国が、
それを望んでいない。今の韓国は、そういう意味では、安保闘争の嵐が吹き荒れた、19
70年前後の日本に似ている。どこか方向音痴? 現実感そのものを、喪失している?

 そのためか、米韓関係は、その裏で、急速に悪化している。すでに38度線という最前
線から、アメリカ軍は、撤退を完了している。つい先日、アメリカ兵が守っていた、最後
の歩哨所も、アメリカは、韓国軍に移譲した。米韓関係の崩壊は、もはや時間の問題とみ
てよい。

 まさに今、日本は、国際外交の正念場を迎えつつある。

 K国の核兵器を、どうするか? 中国はまったく、アテにならない。韓国にしても、今
のN政権は、表向きはともかくも、内部では、核兵器を容認している。「K国が核兵器をも
てば、統一後、韓国にも有利に働く」と主張した高官がいた。ロシアもアテにならない。

 日本にとっての唯一の友人は、アメリカ。しかしそのアメリカも、仮にブッシュ政権が
倒れるようなことになると、あとは、どうなるかわからない。つぎの民主党の大統領は、「日
本とK国の問題は、日本の問題」と、逃げてしまうかもしれない。

 そうなったとき、日本は、どうする? 今度は、日本は、あのK国と、K国の核兵器と、
単独で立ち向かわねばならない。悲しいかな、それが今の日本が置かれた、まさに「現実
的な立場」なのである。
(040429)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●三男の苦闘

 オーストラリアへ着いた直後は、「もう、日本へ、帰りたい」と言っていた、三男。「勉
強は、きつい」と言っていた、三男。

 オーストラリア人の友人に相談すると、「そのうち、友だちができれば、変るよ」と。

 オーストラリアの語学校は、アメリカにくらべて、厳格。宿題も多く、できが悪いと、
容赦なく、落第させられる。それは前から感じていたが、こうまできびしいとは……!

 語学校のレベルは、きわめて初級のレベル1から、大学入学許可にあたる、レベル6ま
である。三男は、いきなりレベル5のクラスに入れられた。

 「レベルを落としてもらえよ」と私が言うと、「ボニー(学長)が、許してくれないよ」
と。ボニーさんは、私の友人のいとこにあたる。いろいろ便宜をはかってくれているよう
だ。

 で、それから5週間。三男の様子が、変ってきた。「パパ、結構、オーストラリアって、
楽しいね」と、言い出した。「この分なら、一年くらいは、いられそうだよ」と。

 昨日は、ホームステイ先の人に、グライダー場までつれていってもらったらしい。「ほと
んどひとりで、操縦できた」と喜んでいた。

 で、その成績表が、FAXで届いた。三男が成績を送ってくるときは、よくできたとき
だ。昔からそうで、悪い成績は、絶対に、私に見せない。

【私から、三男へ】

FAXを受け取った。
よくがんばった。すばらしい。
「できない」と言っていたから、よほどひどいと思ったが
  これならオーストラリアの大学でさえ入れそうだね。

  尊敬するよ

  お金はだいじょうぶか。
  ではね。

  KIMさんによろしく。


【三男より、私へ】

うん。なんだかんだ、いい点数取れてしまった。

 送ったのはコミュニケーションの最後のテストで、トータルでは81%だったよ。
他の科目はまだ結果もらってないけど、多分75%前後だと思う。
 また結果、来たら送るね。


【私から、三男へ】

自分の能力を信じなさい。
「私はできる」と思いなさい。
  お前は、幼児のときから一級の
  能力をもっていた。

  ところで、ぼくの頭に、小さな腫瘍ができた。
  皮膚がんかもしれないと思って、
  先週、病院で検査をしてもらった。

  で、心配しなくてもいいというのが
  結論だった。

  今日の夕方見たら、消えていた。

  しかしね、いやな気分だった。

  お前も、無意味な日焼けは避けるように。
  とくに飛行機は、高々度を飛ぶから
  太陽の放射線をもろに受ける。

  だからできるだけ、防御したほうがよい。

  そのうち、放射能防御服でも着て操縦桿を
  握るようになるのかもよ……。

  しかし、地方の小さな空港で、遊覧飛行を
  するパイロットの仕事も、すばらしいね。

  夢があって……。

  先のことは、あとで考えればいいが……、

  いいか、E(三男)、
  幸福というのは、つまりぼくたちが求める幸福というのは、
  そんなに遠くにあるのではないよ。

  お前のすぐそばにあって、お前に見つけてもらうのを、
  静かに待っているんだよ。

  オーストラリア人なら、それを知っているはず。
  そういうのをよく見てくるといい。
そういうのを学んでくるんだよ。

  国際線のパイロットが上で、民間のチャーター機の機長は
  下という、くだらない考え方はしないようにね。

日本人のいやなところは、どうしてもそういう視点で
人を見るというところ。

しかしこれほど、愚かな人間の見方もない。


【三男より、私へ】

国際線が上で、それ以外は下だなんて考えてないさ。

ウィルピーナパウンドへ行ったとき、遊覧飛行したんだけど、
そこで働いてたパイロットは、朝、どっからともなく飛んできて、
ほったて小屋で準備して、自分でガソリン入れて、ガイドまで全部たった一人でやってた。

そういうの見てて、ほんとにすごいパイロットとは、こういう人のことを言うんだなぁと
思った。

もしJALに就職できなかったら、浜名湖遊覧飛行でもやるよ。

ではまた!


【追伸】

 その三男のホームステイ先の女性が、こんな詩を送ってきてくれた。

 その女性は、退職するまで、ずっと、高校の英語の教師をしていたという。その詩を、
そのままここに掲載する。


++++++++++++++++

A musical night
Guitar and two friends singing
Such a joy to hear

Music and laughter
Living just for the moment
Nothing else needed

We three happily
Comfortably together
The music joins us

A flying lesson
Some curry rice yum yum
Then we have music

Hiroshi's young son
Has been so very much fun
Well done, Hiroshi

音楽の夕べ
ギターの調べと、二人の友
何と楽しいひとときよ

音楽と笑い
この瞬間に生きる
ほかに何が必要なのか

私たち3人は、
ここちよくいっしょ
それに音楽が入る

飛行訓練
おししいカレーライス
それに音楽

ヒロシの若い息子は
そんなにも楽しい。
じょうずに育てたね、ヒロシ!

+++++++++++++++++++++++++++++

Dear Ms Ingrid Kxxxxx


My wife and I would like to appreciate your warm hospitality and thank you very much 
for what you have done to my son.

At first especially immediately after he arrived at Adelaide, he said, "Dad, this is not the 
place where I can stay for one year, for there is nothing!". He has been a town boy and 
he has been such a boy who seeks a kind of stimulations every time.

As you may know. I have three sons and one of them is a country boy who hate city-life. 
But As for Eiichi he is such a boy who don't like country life. Isn't it funny to know this 
though I have given them the same education in their childhood days?

私の妻と私は、あなたの息子への暖かいもてなしに感謝しています。

当初、アデレードへ着いたとき、息子は、「とても、こんなところには、一年もいられない
よ。何もないよ」と言っていました。彼は、もともと都会型人間です。そして子どものと
きから、いつも何かの刺激を求めていました。

ご存知のように、私には、3人の息子がいます。その中の一人は、カントリーボーイで、
都会生活を嫌っています。しかし英市は、都会型です。同じように育てても、こうまでち
がうとは、おもしろいですね。
Now he says, "Dad, people are wonderful here and I have been enjoying my life now.", 
which has made my wife and me very happy. You see the most beautiful present given 
by sons is just know that they are happy.

さて、今、彼が言うには、「人々はすばらしい。生活を楽しんでいる」と。その言葉は、私
の妻と私を、たいへん幸福にします。息子たちからの最高のプレゼントは何かと言われれ
ば、息子たちが幸福だということを知ることですね。

Thank you very much for the haiku, a kind of Japanese poem. I shall put it in my 
web-site very soon. Thank you again.

There is one problem about him. He has his own credit card (Master Card), but at this 
moment he cannot withdraw the cash since he set down a limitation of withdrawal (
Sorry I don't know a proper English word for this case) and I am sure he has given you 
and Kim unnecessary troubles. I said to him several times that I would send the 
money through a bank but he said just "OK". It is really against our house -policy to 
borrow money or things from anyone. As for me I have never borrowed any money in 
these 30 years long.

俳句をありがとう。私はその俳句を、近く、私のホームページに載せておきます。

彼について、問題があります。彼はクレジットカードの限度額を設定してしまいました。
そのため、現在、カードからお金を引き出せない状態にあります。みなさんにご迷惑をお
かけしていると思いますが、どうかお許しください。

人からお金を借りるというのは、私の家の家訓に反します。私自身も、この30年間、人
からお金を借りたことがありません。

Sorry about this, and also my wife and I thank you very much for this matter.

どうも申し訳ないと思っています。私の妻と私は、このことについて、たいへん感謝して
います。

Eiichi, my son is a very happy boy and has been so since when he was a very young boy. 
He is a very honest and bright boy I am sure. You may trust him and we hope you do so.

英市は、たいへん明るい子どもです。彼は正直で、聡明です。どうか彼を信頼してやって
ください。

Thank you very much again and we hope you have now a wonderful Sunday!

ありがとうございます。今日は、あなたにとって、すばらしい日曜日であることを望んで
います。

  Akiko and Hiroshi

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 4日(No.418)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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(1)子育てポイント**************************

●スポイルされる子どもたち(忍耐力のない子ども)

 アメリカ人の友人が、「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされている」と言う。
わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。

そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えて
くれた。

 「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけな
い。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」な
どなど。つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対にアメリカでホームステイをして
きた高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるよ
うな高校生ですら、家事だけは手伝っていた」と。

 日本人は、子どもを使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解して
いるようなところがある。だから生活感がない。「水はどこからくるか」と聞くと、年長児
たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持っていっ
てくれる」と。あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、
「お父さんがいるから、いい」と答えたりする。

 こんな話をある講演会で話したら、一人の母親がこう質問してきた。「何をやらせればい
いのですか」と。話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの三〇分ですんでしまう。買物とい
っても、食材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。料理のときも、台所の周囲でうろう
ろされると、かえって迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレ
ビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビ
キビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなた
の子どもが見つけたとする。そのときさっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、そ
れでよし。しかしそ知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育の
あり方をかなり反省したほうがよい。

 よく誤解されるが、子どもの忍耐力は、「いやなことをする力」をいう。台所の生ゴミを
手で始末できるとか、寒い夜に隣へ回覧版を届けることができるとか。一日中サッカーを
しているから、忍耐力があるということにはならない。その子どもは好きなことをしてい
るだけである。

その忍耐力がないと、子どもは学習面でも伸び悩む。勉強するということには、どうし
ても苦痛がともなう。その苦痛が乗り越えられないからだ。またそれ以前の問題として、
生活力が身につかない。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小六女子)がいた。話を聞く
と、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子
どもにしないためにも、子どもは使って使って、使いまくる。子どもが二〜四歳のとき
が勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

(2)今日の特集  **************************

【人格の完成度】

●強者のジコチュー、弱者のジコチュー

 その人の人格の完成度は、利己から、利他への移動度で測る。わかりやすく言えば、い
かに、他人への同調性、同情性、協調性、共鳴性、和合性などができるかによって、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 いいかえると、自分勝手で、ジコチューな人は、それだけものの考え方が、利己的で、
人格の完成度が低いということになる。

 ……というようなことは、何度も書いてきた。そこでここでは、その先について、考え
てみたい。

●学歴と人格の完成度

 当然のことながら、学歴と、人格の完成度は、一致しない。……しないというより、関
係ない。

 ここにも書いたように、人格の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって、知
る。他人の悲しみや苦しみを理解し、その他人の立場になって、同情したり、共鳴したり
できるかによって、知る。それが自然な形で、できる人を、人格の完成度の高い人という。

 たとえばガムシャラに、勉強をして、よい大学に入ったとか、同じくガムシャラに、仕
事をして、社会的な名声や地位を得たからといって、その人の人格の完成度は高いという
ことにはならない。

 むしろ、実際には、その逆のことが多い。

 多くの親は、そして教育にたずさわる人は、「勉強ができる子どもイコール、人格的にも
すぐれた子ども」と考えやすい。しかしこれはまったくの、誤解。ウソ。偏見。幻想。

●二種類のジコチュー

 自分のことしか考えられないという人は、多い。自分勝手で、わがまま。世間では、こ
ういうタイプの人を、やや軽蔑の念をこめて、「ジコチュー(自己中心的な人)」という。

 このジコチューにも、二種類、ある。強者のジコチューと、弱者のジコチューである。

 先に書いた、自分のことだけを考えて成功したような人は、強者のジコチューというこ
とになる。これに対して、弱者のジコチューというのもある。

 先日、ある女性(年齢、不詳)から、突然、電話がかかってきた。「講演会を聞いたもの
です」とだけしか、その女性は、言わなかった。

 が、電話を受け取ると、ただ一方的に話すのみ。

「うちの子が勉強しません」
「受験が迫っています」
「夫が、私を叱ります」
「私は子どものころ、勉強ができなくて、よく母に叱られました」と。

 で、あれこれひと通り話すと、あいさつも何もないまま、プツンと電話を切ってしまう。

 そして、翌日も、同じような電話をかけてくる。そして同じような内容の繰りかえし。

 要するにその女性は、「何とかしてくれ」「何とかしてほしい」と言っている。たいへん
依存心の強い人ということになる。そして一見、子どもの将来を心配しているようなフリ
をしている。が、その実、自分のことしか考えていない。

 私の迷惑など、計算外といったふう。こういうジコチューを、弱者のジコチューという。

●弱者のジコチュー

 昔から、困った人があがく姿を、「藁(わら)にもすがる」という。つまりその時点で、
その困った人は、ここでいう弱者のジコチューになる。

 生活が行きづまった人。
 大病をわずらった人。
 大きな問題をかかえた人。
 経済的に追いつめられた人、ほか。

 このタイプの人は、当然のことながら、自分のことしか考えない。……考えられない。
自分のことを考えるだけで、精一杯。他人のことや、他人の立場や心情を考える余裕など、
ない。

 先日も、ある学校の先生(中学2年担任)のところに、一人の母親から、電話がかかっ
てきたという。時計を見ると、夜中の1時。「うちの娘が家出をしてしまいましたア。いっ
しょに、さがしてくださア〜い!」と。

 その先生は、「時間外のことは知らない」と言いたかったが、断るわけにもいかなかった。
夜が明けるまで、その母親といっしょに、その子どもをさがしたという。

 その母親にしてみれば、自分の娘のことを心配するだけで、精一杯。先生の都合や、迷
惑など、考える余裕すらなかったということになる。

●ジコチュー診断

 いかにすれば、「利己」から、「利他」へ、脱却できるか? 自分自身を転換できるか?
子育ての場では、それは教育や指導によるものということになる。が、これは子どもだけ
の問題ではない。おとなや親の問題ということにもなる。

 そこで大切なのは、その人自身の努力である。

 まず、自分が、ジコチューであることに気づく。強者のジコチューであるにせよ、弱者
のジコチューであるにせよ、それに気づく。すべてはここからはじまる。

 が、多くのばあい、つまりほとんどの人は、自分が自己中心的でありながら、それに気
づかない。そこでまず、自己診断テスト。

( )他人と会話をしていても、いつも自分のことばかり話す傾向が強い。
( )他人の不幸話や、失敗話を聞くと、優越感を覚えたり、ときに楽しく思う。
( )自分が損をするようなことは、しない。犠牲になることも好まない。
( )無料奉仕、ボランティア活動、町内の仕事など、ほとんど、したことがない。
( )自分の権利を主張することが多く、侵害されると、猛烈に反発する。
( )友人が少なく、人との交流も、ほとんどしない。いつも孤独で、さみしい。

 ここに書いたようなことがいくつか当てはまれば、かなりのジコチューとみてよい。

●ジコチューを知る

 ジコチューの問題は、これはあらゆる心の問題と共通しているが、それに気づけば、そ
のほとんどが解決したとみる。

 その気づく方法の一つとして、他人を観察してみるという方法もある。

 幸いなことに、私は、毎日、多くの子どもたちに接している。親たちにも接している。
そういう環境の中で、「この子どもは、ジコチューだな」「この親は、ジコチューだ」と気
づくことが多い。

 概して言えば、子どもの受験勉強に狂奔する親というのは、ジコチューとみてよい。自
分のことしか、考えていない。自分の子どものことしか、考えていない。そしてその結果
として、受験競争を勝ち抜いた子どもほど、ジコチューになりやすい。

受験競争というのは、もともとそういうものだが、しかしつまり、子どもの受験勉強に
狂奔する親というのは、それだけ人格の完成度が低い人ということになる。

 そういう視点でみていくと、あなたのまわりにも、ジコチューな人と、そうでない人が
いるのがわかるはず。電話で話しても、一方的に自分のことばかり話すだけ。他人の苦労
話や不幸な話を聞いても、型どおりの返事だけ。心に響かない……。

●演技としての同情

 話は少し脱線するが、人間は、経験をつむことによって、人格者を演ずることができる
ようになる。一つの例が、ニュース番組の中の、ニュースキャスターたちである。

 悲しい事故の報道をしながら、どこか暗くて、つらい表情をしてみせる。「犠牲者は、病
院で手当てを受けていますが、中には、重症の方もいるようです……」と。

 しかしつぎの瞬間、今度は、ニュースが変わると、同時に、がらりと明るい表情になり、
「では、今夜のプロ野球の結果です。あのM選手が、満塁ホームランを打ちました!」と
話す。

 人間の心はそれほど、器用にできていない。わずか数分(あるいは数秒)のうちに、悲
しい気持ちが楽しい気持ちになったり、あるいはその反対になったりすることなど、あり
えない。つまりニュースキャスターたちは、そのつど、ニュースの内容に応じて、演技し
ているだけということになる。

 こうした演技は、日常的に経験する。が、それだけではない。

 演技を重ねていると、それが仮面になり、さらにその人の中に、別の人格を形成するこ
とがある。心理学では、こうした現象を、「反動形成」という。

 たとえば「私は教師だ」「聖職者だ」と自分に言ってきかせていると、いつの間にか、自
分の中に、(私でない私)をつくりあげてしまう。それにふさわしい人間になろうと思って
いるうちに、自分の中に、架空の自分をつくりあげてしまう。

 しかし仮面は仮面。一見、人格者風の人間にはなるが、もちろん、ホンモノではない。

 利己から利他へ移行するためには、その人自身が、苦労を重ね、悲しみや苦しみを経験
しなければならない。私の恩師のT先生は、それを、「心のポケット」と呼んだ。

●心のポケット

 相手に同調するにせよ、同情するにせよ、それができるようになるためには、自分自身
も、同じような経験をしていなければならない。

 たとえば自分の子どもを、交通事故か何かでなくした人がいたとする。その人は、深い
悲しみを味わうわけだが、その悲しみは、その経験のない人には、理解できない。同じよ
うな経験をした人だけが、その人の悲しみを理解できる。

 一つの悲しみや苦しみを経験すると、同じような悲しみや苦しみをもった他人の心を、
理解できるようになる。

 これを「心のポケット」という。

 この心のポケットの多い人、深い人、そういう人ほど、他人の悲しみや苦しみを、自分
のものとして、受け入れることができる。

 が、だれしも、こうした悲しみや苦しみを、経験するわけではない。ほとんどの人は、
できるだけそれを避けようとする。悩みや苦労もなく、平和に、のんびりと暮らしたいと
願っている。

 となると、ここで一つの矛盾が生まれる。

●矛盾

 わかりやすく言えば、人は、悲しみや苦しみを経験してはじめて、他人に悲しみや苦し
みを理解できるようになる。そしてその同情性や、同調性が、自分を利己から利他へと導
く。

 その利他が大きくなればなるほど、人格の完成度が高くなる。

 しかし、その一方で、人間は、悲しみや苦しみを、避けたいと思っている。またそのた
めに努力している。

 ということは、生活が豊かになり、生活の質が高くなればなるほど、悲しみや苦しみを
経験することがすくなくなる。そしてそれと同時に、人格の完成度は低くなるということ
になる。

 もっとわかりやすく言えば、苦労が多ければ多いほど、人格の完成度が高くなるという
ことだが、苦労を望んで求める人などいない。あるいは苦労をした人が、すべて人格者に
なるというわけではない。中には、むしろ邪悪な人になっていくケースもある。

 こうした矛盾を、どう考えたらよいのか。それに心のポケットといっても、不幸には、
定型がない。まさに千差万別。「同じような苦労」といっても、それはどこか似ているとい
うだけで、苦労の内容は、みなちがう。

 この問題については、また別の機会に考えてみる。今は、「矛盾」とだけにしておく。が、
ヒントがないわけではない。

●愛と慈悲

 キリスト教には、「愛」という言葉がある。仏教には、「慈悲」という言葉がある。

 その愛にせよ、慈悲にせよ、その中身といえば、突きつめれば、結局は、いかにすれば
相手の立場で、悲しみや苦しみを共有できるかによって、決まる。他人への同調性、同情
性、協調性、共鳴性、和合性こそが、まさに愛であり、慈悲ということになる。

 言いかえると、キリスト教にせよ、仏教にせよ、こういった宗教は、愛や慈悲という言
葉を使って、その人の人格の完成をもとめているということになる。

 こうした宗教では、自らは、悲しみや苦しみを経験することなく、人の心の中に、心の
ポケットをつくろうとする。私自身は、信仰者ではないから、それ以上のことはわからな
い。

 そこで改めて、私なりのやり方を、考えてみる。私のばあい、宗教にその方法を求める
というのは、最後の最後にしたい。

●ジコチューとの戦い

 そこで考えてみると、自分のジコチューと戦うためには、いくつかの方法があることが
わかる。

 最初に思いつくのは、自己犠牲と、周囲への貢献。無料奉仕活動や、ボランティア活動
がそれにあたる。とくに、悲しみや苦しみを背負った人の立場で、ものを考え、行動する。
そしてその悲しみや、苦しみを、自分のものとして共有する。

 ……といっても、もちろん、それは簡単なことではない。このこと自体が、生きること
のテーマそのものといってもよい。

 が、それだけでは足りない。

 精神の完成のためには、毎日の、たえまない研鑽(けんさん)が必要である。いつも前
向きに戦っていく。自分をみがいていく。

 というのも、精神の完成度は、立ち止まったとたん、その時点から後退し始める。それ
は流れる水のようなものではないか。よだんだとたん、水は腐り始める。「私は完成された
人間だ」と思ったとたん、愚劣な人間になっていく人は、少なくない。

 そのためには、いつも考える。考えて考えて、前に進む。そうすることによって、脳の
中を流れる水を、腐らせないですむ。釈迦は、そういう姿勢を、『精進(しょうじん)』と
いう言葉を使って説明した。

 そう言えば、キリスト教にも、(ゴール)という言葉はない。「10年、教会に通ったか
ら、もうあなたは教会には、こなくていい」というような話は、聞いたことがない。信者
は、それこそ死ぬまで、たとえば日曜日には、教会へ通ったりする。

 キリスト教でも、やはり毎日の研鑽を、信者に教えているのかもしれない。(こんな軽率
な意見を書くと、その道の専門家の人に、叱られるかもしれないが……。)

●人生の目標 

 こうして考えていくと、どこまで「利他」を達成できるかが、人生の目標ということに
なる。ひょっとしたら、私たちが生きている意味や、目的も、そのあたりにあるのかもし
れない。

(とうとう、シッポをつかんだぞ!)

 かなり不謹慎な言い方をしたが、今、私は、心の中で、そう叫んだ。「私たちはなぜ、今、
ここに生きているのか」「生きる目的は何なのか」「何を求めて生きているのか」という、
人間がかかえる最大の課題についての(シッポ)である。

 私は、その(シッポ)をつかんだような気がする。

 もちろんまだ、その(シッポ)をつかんだだけというだけで、その方法もよくわかって
いない。それにそれを実践するというのは、まったくの別の問題。

 さらにその先には、何があるか、私にも、皆目見当もつかない。またそういう状態にな
ったとき、私の心境や思想がどうなるか、それもわからない。しかし方向性だけは見えた
ような気がする。

 とりあえずは、日々の生活の中で、「利己」から「利他」への転換を、少しずつ始める。
今は、それしかない。

 何とも中途半端なエッセーになってしまった。先ほど、このエッセーを読みかえしてみ
たが、文章も稚拙で、矛盾だらけ。マガジンに掲載するのをやめようかとも思ったが、こ
の数日間、ほとんど原稿を書いていないということもあって、あえて掲載してみることに
した。

 改めて、つまり少し時間をおいて、この問題については、考えてみたい。

 なおこのあとに、以前書いた原稿を3作(中日新聞発表済み)を添付すいておく。参考
にしてほしい。

++++++++++++++++++++

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。


++++++++++++++++++++

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を
教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命
はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命す
ら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自
分の中に父がいる」という思いである。

私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似て
いたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影がある
のを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこ
に死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や
感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と
思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中
に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は
知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、い
わば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもな
い。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死
は不条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。

いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる
神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子
育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さ
を見せつけられるたびに、「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者
や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人
にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、
たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやし
てくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子ど
もを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きる
ことにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その
人の問題意識の深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子ど
もというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そ
して生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未
来永劫にわたって、伝えてくれる。

つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、ま
さに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身
も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられるこ
とぐらい、子育てですばらしいことはない。

+++++++++++++++++++++

●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝ら
に、自由を得さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのとき
こそ、あなたは自由になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たと
えば「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだ
わるほど、体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかとい
えば、それは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由
をうばう。この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になる
ことはできない。はっきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば
無一文の人は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ち
ゃんと戸締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりす
ると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれ
と同じように考えることはできないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしま
えば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」
と「自由」を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言って
いる。言いかえると、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらに
もっと言えば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすれ
ばよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について
書いた原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもな
い。「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあら
ゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を
手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の
恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな
経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしにな
っている。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグ
イと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、
さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するが
ゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉
がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私
は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やもの
を、許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文
無しの人は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おい
でになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができ
れば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達
することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つ
の目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

+++++++++++++++++

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方があ
る。一つは、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を
深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を
離れて、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはず
もない。そういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認める
ことである。私たちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎな
い。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的に
もっている、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私
の……」という意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」な
ど。「私の子ども」もそれに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に
向かった意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この
己は、だれにも奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なも
のだが、「己の世界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「…
…しれない」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、
真理の謎を解くカギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろも
ろの賢者が残してくれた地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたよう
なものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、
わからない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大
きい。残念なことに、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善
を行え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)
と。彼の言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それ
ほどまちがってはいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えて
みたい。
(02−12−15)

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」
(釈迦「大般涅槃経」)。
(040505)

(3)心を考える  **************************

●二男のエッセーから(4・24、2004)

この世の中には不思議なことが沢山ある。

例えば、なぜ公衆トイレは、男女に分かれているのか。

別に裸になるわけではないし、個室があるのだから、どうして男女に分ける必要がある
のか。

もし用足し以外の理由で、男女別のプライベートな個室が必要になるのだったら、男/女
で分けるのではなくて、用足し/プライベートという二つの機能を分けた空間を、それぞ
れ作ればいいと思う。 

 他の例えとしては、僕が思うには、最近の女性の水着は女性用の下着とほとんど同じな
のに、どうしてだれも下着だけ着て泳ぎに行く人はいないのだろうか。

よく週末に高校生の女の子らが水着を着て、クラブかなにかの資金集めに町の真ん中で
洗車のサービスをしたりしているけれど、どうしてあれは恥ずかしくないのだろうか? 
僕は小さいころから、これが不思議でならない。 

 ところで昨日、昼食を終えて会社に帰ってきたときに、会社の社長のC・Mと駐車場で
すれ違った。会ったことがなかったのでそのまま、すどうりしてきてしまったが、後で
彼が家のビルに来ていたことを知って、一言挨拶したかったな、とがっかりした。


【はやし浩司から二男へ】

 人間がつくりあげた文化というのは、こまかい(約束ごと)の集まりだよ。無数の(約
束ごこと)が、それぞれ複雑にからんで、文化をつくる。

 「有機的」といういい方は、どこかあいまいな言い方だが、しかし「生きている」とい
う意味で、文化は有機的にからんでいる。だから一面だけを見て、つまりそれが矛盾して
いるからといって、それを否定してはいけない。

 トイレを例にあげて、考えてみよう。

 お前は、男女別のトイレしか知らないが、オーストラリアの列車では、おとな用と子ど
も用に分かれている。足の長さが問題になるからね。

 それから日本では、公衆トイレのドアは、みな、閉まっている。しかしアメリカでは、
使用していないトイレは、開けておく慣わしになっている。

 少し前まで、イギリスでもオーストラリアでも、公衆トイレには、ドアはなかった。通
路を歩くと、みなが用を足している姿が、外から丸見えだった。

 この日本でも、トイレができたのは、江戸時代も、終わりになってからではないのかな。
平安時代には、天皇ですらも、廊下から庭先に向けて、小便をしていた。女性たちは、部
屋の中に置かれた、(おまる)の中で、それをしていた。

 ぼくが子どものころでさえね、女性は、服(着物)を上にまくって、立ったままお尻を
便器のほうに向けて、小便をしていたよ。そういう光景をよく見たし、何ら違和感もなか
った。

 しかし無数の(約束ごと)が集合化してくると、そこに文化が生まれる。あるいはそれ
がときには、それが偏見になったり、誤解を生んだりする。セックスという言葉は、肉体
的なちがいをさす言葉だが、ジェンダーというのは、そういった文化的な背景から生まれ
たちがいを意味する言葉だよ。

 そういうジェンダー(文化的性差)も、生まれた。

 それが正しいとか、正しくないとかいう判断は、こういうケースのばあい、ほとんど、
意味がない。男性がするネクタイにせよ、女性がはくスカートにせよ、「それはおかしい」
と思うのは、その人の勝手かもしれないが、否定してはいけない。

 もちろん個人的な立場で、それを批判するのは自由だけどね……。

 というのも、こうした文化というのは、ここにも書いたように、それぞれが、たがいに
複雑に、かつ有機的にからんでいる。そしてその結果として、今、ぼくたちがここに見る
文化というものをつくりあげた。

 一つを否定すると、つまりは、別の多くの面で、さらに大きな問題が起きてくる。たと
えば、「公衆トイレの男女別はおかしい」と主張して、お前が、女性トイレに入ったとする
と、どうなるか。その結果は、お前にだって、想像できると思うよ。アメリカだったら、
銃で射殺されるかもしれない……。

 とくにトイレの問題は、そこに「男」と「女」という問題がからんでくる。この問題は、
人間の種族保存本能とからんでくるだけに、やっかいな問題といってもよい。もしそこま
で否定してしまうと、結婚という制度そのものまで、おかしくなってしまう。

 子どもにせよ、「他人の子どもも、自分の子どもも、子どもは子ども。人類の共通の財産」
などと考えられなくもないが、そこまで自分の魂を、昇華する(もちあげる)ことができ
るようになるまでには、まだまだ時間がかかる。

 同じように、「男も女も、同じ。同じ、トイレを使えばいい」と考えられるようになるま
でには、まだまだ時間もかかる。あらゆるジェンダーにまつわる問題が解決されてからの
ことだろうと、ぼくは、思う。

 しかしね、ぼくは最近、こうした不完全で、矛盾だらけの文化に、どこか愛着を感ずる
ようになってきたよ。おもしろいというか、楽しいというか。

 たとえば映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいたからこそ、おもしろ
い映画になった。もしあの映画の中に、ジャックとローズがいなければ、あの映画は、た
だの、本当にただの、船の沈没映画でしかなかった。ちがうだろうか。

 つまりね、そのジャックとローズが、「男」と「女」というわけ。そしてその先に、公衆
トイレがあるというわけ。

 高校生が、アルバイトで、車を洗う。水着を着ている。お前は、それをおかしいと思う。
ぼくも、同じような疑問をもつことは多い。たとえば下着のシャツでホテルの中を歩くこ
とはできない。しかしそのシャツに色をつけ、ガラを描き、Tシャツとしたとたん、ホテ
ルの中を歩くことができる。

 同じ、シャツなのにね。

 つまりこれが、ぼくがいう、(無数の約束ごと)の一つというわけ。

 もちろんだからといって、こうした(約束ごと)は、普遍的なものでもなければ、絶対
的なものではない。時代とともに、変りえるものだし、どんどん変っても、少しもおかし
くない。国によっても、ちがう。お前が言うように、「用足し/プライベートという二つの機
能を分けた空間」にしてもよい。

 お前が、建築家なら、そういう提案をして、世に問うてみればよい。あとの判断は、大
衆に任せるしかないけどね。

 しかしね、ぼくには、こんな苦い経験がある。

 あるときね、男子トイレの大便ボックスに入っていたときのことだよ。ぼくが、金沢大
学で学生だったときのことだよ。

 そのボックスは、隣の女子用トイレと共同になっていた。つまりその一つだけが、女子
用トイレに食いこむ形で、そこにあった。

 そのボックスにかがんでいるとね、その前のボックスに、一人の女子学生が入ってきた。
トイレの壁の下のほうに、数センチ程度のすきまがあった。

 ぼくは、音を出すのはまずいと感じて、そのまま静かにしていた。何となく、遠慮した
のだと思う。

 ところがだよ、その女子学生は、うしろのボックスにぼくがいるとも知らず、ブリブリ
ブー、グシャグシャと、大便をし始めた。

 その臭いことと言ったらなかった。猛烈な悪臭が、壁の下のすき間から、容赦なく、ぼ
くのボックスのほうに流れこんできた。ものすごい悪臭だった!

 その女子学生は、それから用を足して、出て行った。ぼくは、そのとき、「あんな臭いの
をするのは、どんなヤツだ」と思って、急いで、自分の用を足し、外へ出てみた。

 ぼくは、その女子学生を見て、ア然としたね。

 急いで廊下に出てみると、その女子学生はすました表情で、廊下を向こうに歩いていく
ところだった。

 で、なぜ唖然としたかって……? ははは。実は、その女子学生は、ぼくが好意をもっ
ていた、文学部のMさんだったからだよ。英文科の学生でね。ぼくが、デートを申し込む、
寸前の女性だった。

 いいかな、ここが文化なんだよ。ぼくは、その日以来、そのMさんには、別の印象をも
ってしまった。顔を見るたびに、あの悪臭を思い出し、どうしてもそれ以上のアクション
を起こすことができなくなってしまった。

 やっぱりね、公衆トイレは、男女別々のほうがいいよ。わかるかな、この気持ち。

 しかし問題意識をもつことは、とても重要だよ。またお前のエッセーに、あれこれコメ
ントをつけてみるよ。

 そうそう社長には、あいさつをしたほうがいいよ。下から見ると、雲の上の人に見える
かもしれないが、上から見ると、そういうふうに見られるのが、いやなものだよ。そうい
う気持は、今のお前にはわからないかもしれないけど……。

 「ハロー、いつもお世話になっています」くらいは、言えばいいのさ。

 ではね。こちらは、明日から、凧祭り。にぎやかになるよ。

 Have a nice day!


●連休(5月3日)

 この4月29日から始まった大型連休中、海外へでかける人は、40万人もいるそうだ。
成田空港や関西新空港は、ラッシュアワー並みの混雑とか。

 私たちは、毎年そうだが、こうした連休中は、家の中で、じっと静かにしている。どこ
へ行っても混雑しているし、それにすべてのものの値段が、割高。そういえば、連休とい
うのは、私のとっては、嵐のようなものかもしれない。

 私の家から、30分足らずのところでは、「花博」が開かれている。開会してから、もう
1か月以上になるというのに、私たち夫婦は、まだ行っていない。「いつでも行ける」とい
う思いがあるからかもしれない。

 いや、「人ごみ」と、「花を見る」という行為は、どこか矛盾するのでは……? 今年で、
山荘ライフも、18年目に入った。いらぬお節介かもしれないが、本当に花を楽しみたい
と思うなら、野や山を、静かに歩いてみたほうがよいのでは……。

 しかし一応、浜松人だから、一度は、花博には行かねばならないと思っている。が、ど
うにもこうにも、あの人ごみだけは、好きになれない。ゾロゾロと人が歩いているのを見
ただけで、頭痛が起きることもある。さてさて、どうしようか?

 連日、地方のテレビ局では、「今日は、入場者が4万人でした」「今日は、今までで、最
高の5万人でした」「50万人を達成しました」「連休中に、100万人、達成したい」な
どと、数字ばかりを報道している。

 どこか進学塾の合格発表のようで、不愉快。もともと「心」など入っていないから、「数」
ばかりを、気にする?

 その連休、今日は、5月3日。時刻は御前7時を回ったところ。空は曇り。天気予報で
は、雨が降るかもしれないという。

 そのせいか、今朝の私の頭は、休眠状態。どこかぼんやりとしていて、うまく働かない。
こういう無意味な文章ばかりが、頭の中に浮かんでくる。が、休んでいるわけにはいかな
い。10時の電車で、友人が遊びにくることになっている。その前に部屋の掃除をし、少
し買い物をして、駅まで迎えにいかねばならない。

 もうそろそろワイフが、起きてくるころだ。みなさん、おはようございます! これか
ら居間でお茶でも飲んで、頭をスッキリとさせてくる。


(4)今を考える  **************************

●Fさん(栃木県)からの相談

 Fさん(二児の母親)は、現在、実の父母と同居している。夫は、サラリーマン。

 Fさんの実父母、とくに実父は、たいへん封建的な人と思われる。Fさんは、子どもの
ころから、その父親によくたたかれたり、殴られたりした。何かのことで、口答えすると、
「親に向かって何だ、その口のきき方は!」と。

 Fさんは、そういう親が、いやだった。だから自分が親になったときは、そういう親だ
けにはなりたくないと思っていた。

 が、現在、Fさんは、今、自分が受けた子育てと同じことを、自分の子どもに繰りかえ
しているという。子育てをしていてイライラすると、つい子どもを怒鳴ったり、たたいた
りする。そこで夫にこう言われた。

 「お前のしていることは、お前の父親が、お前にしたことと同じだ」と。

 Fさんは、「どうしたらいいか」と悩んでいる。

+++++++++++++++++

【Fさんへ】

 親は、自分が受けた子育てを、無意識のうちにも、繰りかえします。これを「世代伝播」
とか、「世代連鎖」といいます。

 子育ては本能ではなく、学習によるものだからです。しかもその学習したものは、脳の
奥深く、しっかりと刻みこまれます。表層の意識で、そもそもコントロールできるような
ものではないということです。

 だから今、Fさんが、自分が受けた子育てを、あなたの子どもに繰りかえしているから
といって、何ら不思議はありません。しかも皮肉なことに、あなたが「いやだった」と思
ったことほど、繰りかえします。子育てというのは、もともと、そういうものです。

 しかし問題は、そういう問題があることではなく、(だれにだって、そういう問題はあり
ます)、そういう問題があることに気づかず、その問題に、振り回されることです。そして
同じ失敗を繰りかえすことです。

 あなたの父親だって、恐らく、そのまた父親(あなたの祖父)から、そういう子育てを
受けているはずです。それをあなたの父親は、あなたに繰りかえした。そして今、あなた
はそれをあなたの子どもに繰りかえしている……。子育てというのは、もともとそういう
ものです。

 そこで大切なことは、まずあなた自身が、(それ)に気づくことです。まずいのは、それ
に気づかないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。そしてつぎに、あなたの子どもに、
それを伝えてしまうことです。

 あなたの子どもも、いつか親になったとき、あなたが今、あなたの子どもにしているこ
とと同じことを、繰りかえすようになります。子育てというのは、もともとそういうもの
です。

 ただひとつ、Fさんのメールを読んでいて、こんなことに気づきました。

 こうして「世代伝播」を受けた部分と、Fさん自身の育児疲れからくる、育児ノイロー
ゼ的な部分が、今のFさんの中に、混在しているのではないかということです。

 この二つの問題は、どうか分けて考えてみてください。

 実父母の同居からくるストレス、下の子どもの問題からくるストレス、仕事のことや、
夫との問題など。いろいろあると思います。

 つまりこうした問題は問題として、自分の心の中で、より分ける必要があります。子ど
もをたたくからといって、すべて、「世代伝播」の問題と考えないほうがよいかもしれませ
ん。現実に、日本人のばあい、約50%の母親が、子どもに体罰を加えています。うち7
0%は、虐待に近い行為をしていることも、わかっています。

 で、その「世代伝播」の部分については、すでにFさんは、問題のほとんどを解決なさ
っていると思います。この問題は、それに気づけば、それでよいのです。あとは時間が解
決してくれます。つまりFさんは、すでに、自分の過去に気づき、「世代伝播」に気づき、
なおかつ、「それではいけない」と気づいています。

 あとはそういう自分を信じて、そして「時」のもつ不思議な力を信じて、前向きに子育
てをしていけばよいでしょう。ここにも書いたように、あとは「時間」が解決してくれま
す。


●17キロを歩く

 いろいろ事情と、いきさつがあって、今日(5・1)、何と、17キロも歩いた。あとで
ニュースで聞いたら、今日は、気温も、27度もあったという。道理で暑かった。

 最初の3分の1くらいの距離は、意気揚々と歩いた。気持ちよかった。しかし途中で、
二度ほど、ダウンしかけた。しかしこういう日にかぎって、お金はなし。ワイフも、家に
いない。おまけに携帯電話もなし。

 しかたないので、歯をくいしばって、本当に、歯をくいしばって、17キロを、歩いた。
(直線距離で17キロだが、実際には、20キロ近くもあったのでは……?)

 汗はそれほど出なかった。しかしその分、脱水状態になった? 自動販売機を通りすぎ
るたびに、「あああ」と思った。

 が、こういうとき、寺というのは、ありがたい。途中、大きな寺に入って、水を飲む。
少し休む。昔の人も、多分、こうした寺で、水を求め、体を休めたにちがいない。

 こんなことがあった。

 小さなガムをかんでいたが、途中で、そのガムをかむのが、苦痛になった。口から、水
分がどんどん蒸発していくように感じた。それで手の中に出したのだが、今度は、手の熱
で、ベトベトになってしまった。

 指先で何度も丸めなおしたが、そのガムをどうしようかと、あれこれ悩んだ。道路へ捨
てるのは、簡単だが、もしそれをすれば、この30年間守ってきた規範が、破れる。私は
少なくとも、この30年間、ゴミを道路へ捨てたことがない。

 しかたないので、道端の草をちぎって、それにガムを包んだ。しかし17キロである。
気温は27度。日ざしも強い。どこか気が遠くなる。

 で、人間というのはおかしなもので、……というより、そういうふうになるのが自然な
のかもしれないが、疲労感がひどくなると、同時に、倫理感が薄れる? 「めんどうだか
ら、捨ててしまえ」という気分が強くなる。

 が、私はがんばった。ゴミ箱が見つかるまで、そのガムを手に握って歩いた。が、今ど
き、ゴミ箱などおいてある家はない。1キロ、2キロ、3キロと歩くが、ない。寺の中に
もなかった。

 やっと公民館までたどりついたときのこと。我が家から3、4キロのところだった。そ
の横に、自動販売機があり、その横に、ゴミ箱があった!

 私はそのゴミ箱に、草で包んだガムを捨てた。ほっとした。「30年間守ってきた規範を
破らなくてよかった」と思った。

 それから今度は、家まで、歩数を数え始めた。左手で、10歩単位。右手で、100歩
単位で数えた。つまり10歩くと、左手の指を一本曲げ、それが100歩になると、右手
の指を一本曲げた。

 こうして歩いてみると、1000歩など、あっという間だ。2、3キロで1000歩に
なる計算になる。ということは、今日、私は、2〜3万歩、歩いたことになる。しっかり
と計算したわけではないが、そういうことになる。(計算は、不正確!)

 家に帰ると、そのまま夕方まで、ふとんの上に。しかし体中が、熱くほてって、よく眠
れなかった。私は、歩いたせいだと思ったが、本当は、気温が高かったせいだ。そのこと
は、あとでニュースを見て知った。

 夕方ワイフが帰宅。「今日は、○○町から、ここまで歩いたよ」と言うと、驚いていた。

 よい運動になったが、明日は、どうなることやら。多分、足が痛くて、起きあがれない
かも……? 













.  mQQQm
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.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 7日(No.419)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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どこかで宣伝していただいているのか、メルマガの読者の方が、このところも
ふえつづけています。ありがたいことですが、一方で、申し訳なく思っています。

 Eマガのほうは、以前と同じように、月・水・金と、週3回、発行しています。

**********************

今回は、『世にも不思議な留学記』の
マガジン未発表の部分を、次回と2回に分けて、
一挙に公開します。

一部は、『はやし浩司の世界』(Eマガ)
で公開しました。

なお写真などは、「はやし浩司のHP」の
トップページから、ご覧いただけます。

どうか、おいでください。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html

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世にも不思議な留学記(後半・4作分)

++++++++++++++++++++++++++

ローンの新年【28】 

●ローンという避暑地

 グレート・オーシャン街道という道がある。第一次大戦のあと、退役軍人たちが戦勝を
記念して作った道だ。この街道がジーロンから、ローンという避暑地を通って、南オース
トラリア州まで続く。

友人のデニスの別荘は、そのローンの手前、車で半時間ほどのところにある。

私は日本へ帰国するまでの二ヶ月間、この別荘で残りの日々を過ごした。と言っても、
ずっとその別荘にいたわけではない。ここを拠点に、メルボルンの間を往復したり、ア
デレードまで足をのばしたりした。

そうでないときは、ローンの町で、終日泳いだり、映画を見たりして時間をつぶした。
そのローン。毎年大晦日には、数千人の若者が集まるという。そして新年の合図ととも
に、その若者たちが乱痴気(らんちき)騒ぎをするという。

私たちも大晦日には、ローンへ行くことにした。友だちの中には「行かないほうがよい」
とアドバイスしてくれた者もいた。が、そう言われれば言われるほど、好奇心がわいた。

 その日の午後。つまり一二月三一日は、よく晴れわたった暑い日だった。午後少しまで
泳いで、一度デニスの別荘まで戻った。そこで早い夕食をすますと、再びローンへ向かっ
た。

あたりの様子は一変していた。あれほど閑散としていたローンの町が、若い男女であふ
れかえっていたのだ。砂浜で野外映画の準備をしているグループ。かたまって騒いでい
るグループ。ギターを演奏しているグループなど。

大半はその間を行き来しながら、ビールを飲んだり、何かを食べていた。そう、砂浜の
中央には巨大なトランポリが置いてあり、それで遊んでいる若者もいた。ふと見ると、
デニスがホテルの壁をよじ登っているではないか。二階の窓から数人の女の子に声をか
けられ、その気になってしまったらしい。

私は何度か呼びとめたが、私を無視して、そのまま部屋の中に消えてしまった。私は一
人だけになってしまった。知り合いもいなかった。しかたないので、そのままデニスが
戻ってくるのを待った。こういうとき白人というのは、実に冷たい。徹底して、「私は私、
お前はお前」という考え方をする。

夜がふけると、あちこちで花火がなった。それに合わせて、歓声また歓声。さらに夜が
ふけると、ローンの町は、もう足の踏み場もないほどになった。デニスが戻ってきたの
は、そのころだった。そしてあのカウントダウンが始まった。

●そして皆……!

 「テン、ナイン、エイト……」。そして「ワン、ゼロ」となったところで、一斉に声が宙
を舞った。「ハッピーニューイヤー!」と。

とたんまわりにいた若者たちが、一斉に衣服を脱ぎ始めたのだ。衣服といっても、簡単
な水着の者が多い。そういう者たちが、そのまま身につけているものを脱いだ。裸だ。
皆、素っ裸だ。男も女も、ない。皆、だ。

異様な雰囲気になった。興奮のあまり、ビール瓶や空き缶を商店めがけて投げつけるも
のもいる。ガチャンガチャンと、何かが割れる音がひっきりなしに聞こえてくる。花火
も最高潮に達した。私は再度デニスと別れて、というより恐怖心に襲われて、ローンの
はずれにある小さな橋のところまで逃げて行った。

私はガタガタと震えていた。いくら見ても、アジア人らしき人間は、私一人しかいない。
いつ袋叩きにあってもおかしくない雰囲気だった。途中騎馬警官が何人か来たが、その
警官までもが、皆と一緒になって新年を祝っている。取り締まろうという気持さえない
ようだ。

こうして私は一九七一年の一月一日を迎えた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


ベトナム戦争【29】

●徴兵はクジ引きで

 徴兵は、クジ引きで決まった。そのクジで決まった誕生日の若者が徴兵され、そしてベ
トナムへ行った。学生とて、例外ではない。

が、そこは陽気なオーストラリア人。南ベトナムとオーストラリアを往復しながら、ち
ゃっかりと金を稼いでいるのもいた。とくに人気商品だったのが、日本製のステレオデ
ッキ。それにカメラ。サイゴンで買ったときの値段の数倍で、メルボルンで売れた。兵
士が持ちこむものには、原則として関税がかけられなかった。

 そんな中、クリスという男がベトナムから戻ってきた。こう言った。

「戦場から帰ってくると、みんなサイゴンで女を買うんだ」「女を買う?」「そうだ。そし
てね、みんな、一晩中、女の乳首を吸っているんだ」「セックスはしないのか?」「とても、
する気にはなれないよ。ただ吸うだけ」「吸ってどうするんだ?」「気を休めるのさ」と。
 
●オーストラリア人のベトナム戦争

 ベトナム戦争。日本でみるベトナム戦争と、オーストラリアでみるベトナム戦争は、ま
るで違っていた。緊張感だけではない。だれもが口では、「ムダな戦争」とは言っていたが、
一方で、「自由と正義を守るのは、ぼくたちの義務」と言っていた。

そういう会話の中で、とくに気になったのは、「無関心」という単語。オーストラリアで
は「政治に無関心」ということは、それだけでも非難の対象になった。地方の田舎町へ
行ったときのことだが、小さな子どもですら、「あの橋には、○○万ドルも税金を使った」
「この図書館には、○○万ドル使った」と話していた。彼らがいう民主主義というのは、
そういう意識の延長線上にあった。

 「日本はなぜ兵士を送らないのか?」「日本は憲法で禁じられている」「しかしこれはア
ジアの問題だろ。君たちの問題ではないか!」「……」と。毎日のように私は議論を吹っか
けられた。

私が、いくら、ただの留学生だと言っても、彼らは容赦しなかった。ときには数人でや
ってきて、怒鳴り散らされたこともある。彼らにしてみれば、私が「日本」なのだ。も
っとも彼らがそうする背景には、「いつ戦場へ送り出されるかわからない」といった恐怖
感があった。日本人の私とは真剣さが違った。

●日本は変わったか?

 それから三四年。世界も変わったが、日本も変わった。しかしその後、日本がアジアを
受け入れるようになったかどうかということになると、それは疑わしい。

先日もテレビ討論会で、一人のアフリカ人が、小学生(六年生くらい)に向かって、「君
たちはアジア人だろ!」と言ったときのこと。その小学生は、こう言った。

「違う。ぼくは日本人だ」と。そこで再び、「君たちの肌は黄色いだろ!」と言うと、「黄
色ではない。肌色だ!」と。

こうした国際感覚のズレは、まだ残っている。三五年前は、もっとすごかった。日本人
で、自分がアジア人だと思っている人は、まずいなかった。半ば嘲笑的に、「黄色い白人」
と呼ばれていたが、日本人は、それをむしろ誇りに思っていた? しかしアジア人はア
ジア人。この事実を受け入れないかぎり、日本はいつまでたっても、アジアの一員には
なれない。

 話はそれたが、ベトナム戦争についても、彼らの論理は明快だ。クリスと会った夜、私
は日記にこう書いた。

「戦争に行く勇気のあるものだけが、平和を口にすることができるという。戦争に行く
のがこわいから、戦争に反対するというのは、この国では許されない。もっと言えば、
この国では、兵士となって戦争を経験したものだけが、平和を口にすることができる。

そうでないものが平和を唱えると、卑怯者と思われる。戦争と平和は、紙でいえば、表
と裏の関係らしい。平和を守るために戦争するという、一見、矛盾した論理が、この国
では常識になっている。そんなわけで私は、クリスに、ベトナム戦争反対とは、どうし
ても言えなかった」と。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


不思議に思ったのが不思議【30】

●豊かな生活

 金沢では下宿生活だった。ほとんどの家では、まだボットン便所。私が二年間いた下宿
でも、隣との境は、薄いベニア板一枚だけ。そういう生活が、当時は標準的だった。

 が、ハウスは違った。洗濯室、乾燥ルーム、シャワールーム、それに音楽室やテニスコ
ートもあった。もちろん全室床暖房。今ではこんな設備は、そこらの学生会館にもあるが、
当時はそうでなかった。

私はその生活水準の落差に、がく然とした。が、それだけではない。掃除、ワックスが
け、シーツの取り替えは、すべてメイドがしてくれた。その上、ほとんど毎回、夕食に
は牛肉料理がテーブルの上に並んだ

 こうした豊かな生活を見せつけられると、人は、二つの感情をもつ。あこがれとねたみ。
「私もこういう生活をしてみたい」という思いと、「どうしてこんな生活ができるのか」と
いう思い。その二つが心の中で、激しくぶつかりあう。

今でこそ日本でも見なれた光景だが、私はオーストラリア人たちが、オレンジを、袋単
位で買っているのを見て驚いたことがある。八個とか一〇個とか、まとめて買うのであ
る。

……といっても、こんな話をしても、今の若い人には、理解できないだろう。しかし忘
れてはならないのは、日本も、たった三五年前には、そうであったということ。遠い昔
ではない。ほんの一世代前だ。いや、落差の中でショックを受けていたのは、日本人の
私だけではなかった。東南アジアからの留学生もまた、別の形でその落差を感じていた。

●周囲文化が育っていない?

 ある日、マレーシア人のタン君が興奮した様子で、私の部屋に飛び込んできた。「ヒロシ、
君は、マツダの新型車を見たか。すごい車だ」と。言われるまま、道路へ飛び出すと、そ
こには「サバンナ」という名前の車が駐車してあった。

ダッシュボードが、飛行機のコックピットのような形をしていた。それを見ながらタン
君は、こう言った。「ヒロシ、同じアジア人がこういうものを作れると思うと、ぼくは誇
らしい。いいか、ヒロシ、白人がアジア人の作った車に乗っているんだ」と。

 ただそういう落差になじめず、留学半ばで強制送還される学生も、少なくなかった。コ
ロンボ計画で来ていたマラウィのK君は、部屋に引きこもってしまい、数週間で送還され
てしまった。

日本人とて例外ではない。三〇名ほどの英語教師が、日本の夏休みを利用して、三か月
の研修にやってきた。しかしそのうち一〇人ほどが、その三か月の研修すらまっとうで
きず、帰国してしまった。

「言葉が通じないため、ノイローゼになってしまったから」と、領事のI氏が話してく
れた。が、言葉だけの問題でもなかったようだ。日本には、外国に渡る人を精神的に支
える周囲文化が、まだ育っていなかった?

私もオーストラリアに渡るとき、こう言われた。「君は日本を代表してオーストラリアへ
行くのだ。日本人として恥ずかしくないよう、立派な研究成果を出してきてほしい」と。
それはものすごい重圧感だった。

●不思議さがわからない

 だから今、「不思議な留学記」と書きながら、その不思議さが何であるかわからなくなっ
てきている。当時はあれほど強烈な落差を感じたにもかかわらず、今、こうして思い出し
てみると、その落差がはっきりしない。

水洗便所でない家庭はほとんどないし、冷暖房も当たり前。牛肉など、その気になれば、
毎日だって食べられる。オレンジにしても、一個単位で買う人など、まずいない。

車のダッシュボードにしても、今ではその形が、標準。それに今では、高校生が修学旅
行でオーストラリアに行く時代になった。何もかも変わったが、ここまで日本が変わる
と、当時、だれが予想しただろうか。

まさに不思議に思った私のほうが、不思議ということになる。そういう意味でも、私が
経験した留学生活は、まさに「世にも不思議な留学記」ということになる。
 
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


カレッジライフ【31】

●ハリーポッターの世界

 最近、私は『ハリーポッター』という映画を見た。しかしあの映画ほど、ハウスでの生
活を思い起こさせる映画はない。ハウスも全寮制で、各フロアには、教官がいっしょに寝
泊りしていた。

食事のときや講義を受けるときは、正装の上に、ローブと呼ばれるガウンをまとった。
映画の中でもときどき食事風景が出てくるが、雰囲気もまったくあの通り。教官やシニ
アの学生が席に着くハイテーブルと、学生たちが席に着くローテーブルに分かれていた。
たとえば夕食はこうして始まる。

●ハウスの夕食

 まず学生たちは、コモンルームに集まる。コモンルームというのは、談話室。そこで待
っていると、午後六時半きっかりに合図のチャイムが鳴る。それに合わせて、学生たちが
食堂に入り、ローテーブルの前で立って待つ。その途中で、円筒形に巻いた、ナプキンを
棚から取り出してもっていく。

ナプキンは、定期的に洗濯される。そうしてしばらく待っていると、シニアのコモンル
ームから、寮長(ウォードン)を最後尾に、シニアの学生と教官たちが、ぞろぞろと入
ってくる。そして寮長が座るのを見届けてから、学生たちも席に着く。

 食事の前のあいさつは当番制になっている。一人の学生がハイテーブルの隅に立ち、こ
う言う。「これらすべての良きものに、感謝の念をささげ、このハウスに恵みのあらんこと
を」「アーメン」と。

すると一斉に食器を回す音がし、片側の柱のかげから、給仕たちが食事を運び始める。
会話は自由だが、大声で話したり、笑ったりするのは禁止。もしその途中でベルが鳴っ
たら、絶対的な静粛が求められる。

たいてい寮長からの連絡事項が告げられる。「明日は、○○国○○大使が晩餐にくるから、
遅刻は許さない」とかなど。一度、その話の途中で、不用意にスプーンで食器をたたい
てしまった学生がいた。その学生は、その場で退室させられた。つまりその夜は食事抜
き。

 食事は、毎回例外なく、フルコース。スープに始まる前菜、メイン料理、それに付随す
る数品の料理のあと、デザート。「ディナー」と呼ばれる晩餐会では、さらに数品ふえる。
ワインも並ぶ。ワインは、賓客と乾杯するために配られる。だいたい一時間ほどをかけて、
夕食を終える。ディナーのときは、賓客のスピーチもあったりして、終わる時間は、まち
まち。時には九時を過ぎることもあった。

そして皆が終わると、入ってきたときとは、まったく逆に、まず寮長以下、ハイテーブ
ルの教官たちが席を立ち、食堂から出る。それを見届け、学生たちも食堂を出て、コモ
ンルームに移る。そこには、コーヒー、紅茶、ワインなどが用意してある。食事のあと
は自由行動で、コモンルームへ行かないまま、自分の部屋に戻る学生もいた。

●夢のような生活

 寮長はディミック氏だった。イギリスきっての超大物諜報部員だったという。(もう亡く
なっているので、暴露しても構わないと思う。)これはずっとあとになってのことだが、彼
はその後、その功績が認められて、「サー」の称号を受けたそうだ。

いつかだれだったか、ジェームズボンドは、彼がモデルだったと言ったが、そんなわけ
でありえない話ではない。ただ映画のボンドとは違い、ディミック氏は映画監督のヒッ
チコックを連想させる、太った大柄な人物だった。

 こうした厳格なカレッジライフを嫌う学生も少なくなかった。とくに私がいたインター
ナショナルハウスは厳格だったということだが、それは私が帰国してから友人に聞いて知
ったこと。私自身は、厳格であるかないかということより、恵まれた環境を楽しんでいた。
当時の寮費だけでも、留学生のばあい、月額約二〇万円(一ドル四〇〇円)。日本の大卒の
初任給がやっと五万円を超えた時代である。私には夢のような生活だった。

(次号につづく)

【2】近況・あれこれ**************************

●S幼稚園での講演

 今日、浜松市の東にある、S幼稚園で講演をさせてもらった。S幼稚園では、二度目で
ある。

 テーマは、「子育て診断・ママ診断」。二度目ということで、各論を話させてもらった。

 園長が、たいへんサバサバした方で、フィーリングがあうというか、おかげで気持ちよ
く講演をすることができた。

 で、帰りに、通りにある回転寿司屋で、寿司を食べた。講演に行く前から、「ようし、今
日は、寿司を食べるぞ」と心に誓った。

 どうして食べ物にこだわるかって? 私は講演の前には、食事をしないことにしている。
血圧が低いせいか、食べ物が胃袋に入ると、とたんに眠くなってしまう。そんな状態では、
講演はできない。

 だから講演をする前から、講演したあとに食べるものを、あれこれいろいろ考える。ま
たそれが楽しみで、講演をする。「講演が終わったら、寿司を食べるぞ」と。

 一度、家に帰ったが、そこでものすごい睡魔に襲われた。しかし仮眠している時間はな
い。そのまま自転車で、仕事に。

 そうそう今度、新しい自転車を買った。2万9000円。B社製の、自転車。まだ乗り
なれていないので、どこか乗りにくいところもあるが、そのうちなれるだろう。

 ……などなど、くだらない話は、ここまで。明日は土曜日! 思いっきり、遊ぶぞ!


●浜名湖花博

 よかった。楽しかった。……それが率直な感想。

 この種の博覧会にありがちな、荒っぽさが、なかった。すみずみまで、キメのこまかな
気くばりが、感じられた。

 当初、つまり会場に入るまで、私は、「人ごみの中で、花など見て、楽しめるものか」と
思った。花というのは、静かな環境で、つまり自然の中で見てこそ、その美しさがわかる。

 が、意外だった。本当に意外だった。主催者が、まさにやる気でやった博覧会。つくる
気でつくった博覧会。それが「浜名湖花博」。……と、私は、そう感じた。

 会場をあちこち回るうち、うれしくなった。私とワイフは、いつしか子どものようには
しゃぎながら、会場のあちこちを回った。

 入場料は、2900円(当日券)。そんなわけで、入場券を買ったときは、「高いな……」
と思ったが、少し歩き始めたとたん、「安いな……」という思いに変った。

 立体映画も見た。球体映画も見た。野外演奏会も楽しんだ。世界の庭あり、墓あり……。

 以前、つくば博に行ったことがあるが、あの博覧会は、最悪。お金だけは、ふんだんに
かけてあったが、見るところがなかった。つまり「心」が入っていなかった。

 しかし浜名湖花博には、「心」が入っていた。それがよくわかった。

 もっともこの浜松市は、フラワーパーク、フルーツパークなどで、実績をつんでいる。
その上での、花博である。「私も行ってみよう」と思っている人は、じゅうぶん、期待して
行ってよい。

 ……とほめてばかりいてはいけないので、苦言も。

 食べ物の料金が高すぎる! ソフトクリームが、一個、300円とか、500円。あと
の食べ物の料金も、それ並。各国のみやげもの屋も並んでいたが、どれもぞっとするほど、
高かった。

 それに展示、即売コーナーで、写真(カメラ付携帯電話)をとっていたら、60歳くら
いの店員(女性)が、「写真をとらないでください」と言った。「?」と思いながらも、そ
れに従ったが、その「?」は、会場を出るまで、心に残った。
(040508)


●独善と我流

 子育てでいちばん、こわいのは、独善と我流。「私がいちばん、正しい」「私の子どもの
ことは、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、実は、子育てで失敗しやすい。

 理由がある。

 子どもたちを包む世界は、今、急速に多様化し、変化しつつある。その多様性や変化を、
知りつくした親など、ぜったいにいない。たいていの親は、一世代前、あるいは数世代前
の子育てを踏襲(とうしゅう)し、それを繰りかえしている。

 で、独善的な親や、我流を強引に子どもに押しつける親は、自分の価値観の中だけで子
育てをする。

 その価値観を子どもが、受け入れることは、まずない。やがて親子の間にキレツが入り、
それが断絶へと進む。仮に子どもが受け入れたとしても、子どもは、今度は、ハキのない、
ひ弱な子どもになってしまう。

 そういう状態を、私たちの世界では、「失敗」という。

 こうした失敗を防ぐためには、親自身が、いつも前向きに生きていかねばならない。新
しい世界に目を向け、それに挑戦していかねばならない。新しい情報を手に入れ、自分を
変えると同時に、それを自分の中で、消化していかねばならない。

 もしそれがいやだというのなら、子育てを放棄し、教育を放棄することだ。無責任な親
に徹することだ。「あなたはあなたで、勝手に生きていきなさい。私は知りません」と。

 そういう子育てを、私たちの世界では、「放任」という。親の過干渉、過関心で、子ども
をダメにするよりは、ずっと、よい。

 その独善と我流を防ぐ、もっともよい方法は、風通しをよくすること。いつもいろいろ
な会合に出て、いろいろな人に会うこと。そして自分や自分の子育てを、客観的にみるこ
と。まずいのは、自分だけの価値観の世界に閉じこもること。こういうのを「カプセル化」
という。

 子育ては、一度カプセル化すると、何につけても、極端になりやすい。過保護にしても、
過干渉にしても、極端な過保護や過干渉になってしまう。そして気がついたときには、袋
小路に入るどころか、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

 が、その段階でも、親はそれに気づかない。「あの子は、生まれつきああです」「あの子
の問題は、生まれつきのもので」と言ったりする。

 その独善と我流を防ぐためには、さらにどうするか? それには「はやし浩司のマガジ
ン」を読むのが、よい。(これはコマーシャル。)


●失礼な若者たち

 ある日、突然、こんなメールが届く。

 「私は、保育士をめざす学生です。あちこちホームページを見ていたら、はやしさんの
ホームページに行き当たりました。つきまして、『ママ診断』など、いくつかの原稿を、私
の卒論に引用させていただきたいのですが、よろしく。神奈川県K市、三浦」と。

 それだけ。それ以上の住所もない。名前も名字だけ!

 こうした依頼は、原則として、断ることにしている。(当然ではないか!)だいたいにお
いて、「ママ診断など」と、「……など」と書いてあるところが恐ろしい。へたに承諾すれ
ば、それを拡大解釈することによって、私のホームページすべてを、自由に、引用できる
ことになる。

【学生諸君へ!】

 引用の許可を求めるときは、(1)自分の住所と名前くらい、明記しなさい。(2)引用
か所と、引用目的を明記しなさい。(3)引用先の内容を、もっと明確にしなさい。商用目
的に使われたら、困るでしょう。(4)それに、他人にものを頼むときは、もう少し、てい
ねいな文章を書きなさい。

 こんなことは、研究者の間では常識。しかしそんな常識もない学生に、自分の大切な原
稿を引用(=利用)されたのでは、たまらない。

 それにしても、いくらインターネットの時代になったとはいえ、こうも安易に、原稿が、
引用されたり、転載されてよいものか。私は、こう返事を書いた。

 「引用、転載は、明確にお断りします。もし無断で引用、転載されたばあいには、すみ
やかに法的措置を取らせていただきますので、あらかじめご承知おきください」と。

 なぜ私が、引用、転載を断るか……。その理由を書いてやろうと思ったが、やめた。相
手の学生は、私という人間を、どうせその程度の人間にしか見ていない。もし私に地位や
肩書きがあれば、その学生もそんな失礼なメールなど、よこさなかったはず。

 それがよくわかったから、理由を書くのをやめた。しかしそれにしても、今、この種の
失礼なメールが、多すぎる。いやだね。ホント!


●友人のホームページ

 昨年の終わり、友人が、自分のホームページを開いた。あれこれその方法を、私に開き
方を聞いてきたので、簡単な試作品を作って、送ってやった。それには、私が買っただけ
で使っていなかった、ホームページ作成用のソフトも、つけてやった。

 その友人は、最近、「ホームページづくりが、私の生きがいになりつつある」と、メール
で書いてきた。うれしかった。本当にうれしかった。

 で、さらに最近、「もっと、私のホームページをみんなに読んでもらうには、どうしたら
いいか」と聞いてきた。その気持ちは、よくわかった。私もそうだった。

 で、方法はいくつかある。最初にやるべきことは、グーグル、ヤフーなどのサーチ会社
に、自分のホームページを登録することである。インフォシーク社などは、有料だが、登
録サービスを、代行してくれる。

 ……と、ここまでは、以前にも書いた。

 そこで私は、ふと、本当にふとだが、私のマガジンでその友人のホームページを紹介し
てやろうかと思った。中には、その友人のホームページを見る人もいるかもしれない。が、
しかし言うなれば、どこかインチキな方法。一時的には、読者がふえても、あくまでも一
時的。

 マガジンにせよ、ホームページにせよ、コツコツと、少しずつ読者がふえていくところ
に、楽しさがある。喜びがある。生きがいもそこから生まれる。しかも自分でそれをして
はじめて、その生きがいを自分のものにすることができる。

 中には、ずるいマガジンがあって、「購読してくれた人の中から、抽選で100人に、総
額100万円の賞品をあげます」と、歌うものもある。(こうした手法は、この資本主義社
会では、当たり前のことかもしれないが……。)

 しかし私はそういう方法は、やはりずるいと思う。思うから、その友人のホームページ
を紹介するのを、やめた。

 しかし実際、マガジンにせよ、ホームページにせよ、読者がふえるというのは、大きな
励みになる。あまり気にしてはいけないとは思うが、やはり気になる。たとえばこの2週
間、大型連休中ということもあって、マガジンの読者は、ほとんどふえなかった。

 そのせいかどうかは知らないが、毎朝、パソコンに向っても、原稿を書く気が、ほとん
ど起きなかった。脳ミソが空転するだけで、考えがまとまらなかった。しかし今朝(5・
7)、久しぶりに、読者が3人、ふえた。とたん、ムラムラと、書く気がわいてきた。

 ものを書くというのは、そういうものか。サッカー選手が、よく、「応援してくれた、サ
ポーターのみなさんのおかげです」と言うのに、似ている。サポーターあってのサッカー。
読者のみなさんあっての、もの書きである。私である。

 一度、その友人の了解を求めた上で、近く、その友人のホームページを紹介するかもし
れない。どうか、そのときは、みなさん、こぞって、アクセスしてやってほしい。


●30年、一世代

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。ちょうど
30年で、一世代を繰りかえすことから、そういう字を使うようになったという。

 たとえば30年後、あなたの子どもは、あなたの年齢になり、あなたの子どもと同じ年
齢の子どもをもつようになる。反対に30年前には、あなたの両親が、今のあなたの年齢
で、あなたは今のあなたの子どもの年齢だった……。

 しかし私は、この30年という数字を、別の意味で、とらえている。

 私もこの浜松市に住むようになって、今年で、33年になる。ちょうど一世代分、この
町で生きたことになる。先日もそのことについて、ワイフと、こんな話をした。

 「この30年間で、ぼくたちのまわりは、すっかり変ったね」と。

 そう、この30年間で、大きく変わった。小さな店を経営していた商店主が、全国規模
の大会社の社長になったというようなケースがある一方で、浜松市でも一、二を争ってい
た資産家が、落ちぶれて、見る影もなくなってしまったというようなケースもある。

 まさに栄枯盛衰。仏教的無常観を借りるなら、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
※』(平家物語)ということになる。

 で、そういう世間を見ながら、かろうじてふんばっている我が身を知り、「こんな自分も、
いつまでつづくのか?」と、ふと、思う。

 ただ、だからといって、生きていることが、虚しいとか、そういうことを言っているの
ではない。成功した人がどうとか、失敗した人がどうとか言っているのではない。人は、
人それぞれだし、私は私だ。

 が、30年も生きてみると、世の移り変わりというものが、実感として、自分の心の中
でわかるようになる。そしてふと立ち止まったようなとき、「あのときの、あの人は何だっ
たのかなあ」と、思う。

 しかしそれは、そのまま私自身の未来の姿でもある。いつかだれかが、ふと、私のこと
を思い出しながら、「はやし浩司って、何だったのかなあ」と思うかもしれない。何もかも
あいまいな世界だが、はっきりしていることもある。

それは、つぎの30年後には、私はこの世から消えていなくなっているということ。ワ
イフの父親も、もう死んでいるし、私の父親も死んでいる。それと同じになる。

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。

 今、つくずくと、「なるほどなア」と思う。

++++++++++++++++

※祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂(つい)には滅びぬ
偏に風の前の塵(ちり)に同じ

+++++++++++++++

【追記】

 仏教的無常観……つまり、何をしてもムダ、何をしても意味がない、という無常観は、
正しくない。当時は、そういう世相であったかもしれないが、それをそのまま受け入れる
と、たいへんなことになる。まさに(生きること)を、否定してしまうことになりかねな
い。

 私はこのことを、中学生のときに、感じたことがある。

 私は、中学生のころ、自分で空を飛んでみたかった。それ以前からそうだったが、毎日、
どうすれば、自分で空を飛べるか、そればかりを考えていた。

 小学4年生くらいのときには、板を切って、翼(はね)を作ったこともある。で、あれ
これいろいろ実験を繰りかえしていた。一度は、それを背中につけて、一階の屋根の上か
ら、飛び降りたこともある。

……というより、そんなわけで、中学生になるころには、飛行機が飛ぶ原理を、ほぼ完
ぺきに近いほど、知りつくしていた。

 そんな中、一人、たいへん冷めた男がいた。いつも私がすることを、遠巻きにして、ニ
ヤニヤと笑って見ているような男だった。今、ここで具体的にどんなことがあったかを、
書くことはできない。よく覚えていない。しかしその冷めた目つきだけは、今でも忘れな
い。

 軽蔑の眼(まなこ)というか、いつもそういう眼で、私を見ていた。

 つまり自分では、何もしないで、他人のすることを、あれこれ、批判、批評ばかりして
いた。「そんなことしても、ムダだ」とか、「意味がない」とか。

 仏教的無常観というのは、それに似ている。仏教的無常観を信ずる人は、その人の勝手
だが、しかしだからといって、この世の中で、懸命に生きている人を否定するための道具
に、それを使ってはいけない。

 先日も、こんなことを言った人(男性、60歳くらい)がいた。

 「林君、どうせ有名になっても、意味はないよね。死んで10年もすれば、たいてい忘
れられる。総理大臣だって、そうだ。今の若い人は、30年前の総理大臣の名前すら、覚
えていないだろ」と。

 たしかにそうだが、しかしだからといって、懸命に生きること、それを否定しては、い
けない。ちなみにその人は、どこからどう見ても、ただの平凡な男だった。

 仏教的無常観をもつ人は、どこか、独特の優越感を覚えることが多い。「冷めた考え方」
というのは、そういう考え方をいう。

 失敗してもようではないか。つまずいてもよいではないか。有名になれなくてもよいで
はないか。大切なことは、その人が、いかに充実した人生を、満足に送ることができるか、
だ。

 仏教にも、いろいろな側面がある。しかし私は、仏教がもつ、(あるいは宗教全般がそう
かもしれないが)、現世逃避的なものの考え方には、どうしても、ついていけない。ここで
いう仏教的無常観も、その一つである。

 私なら、平家物語を、こう書く。

++++++++++++++++++

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
夢と希望の、明るい音色。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
我らが目的は、失敗にめげず、前に進むこと
懸命に生きる、人の美しさ
未来に向かって、ひたすら生きる
その命、人から人へと、永遠につづく
そこに、人が生きる意味がある。価値がある。


【3】時事問題**************************

【かたい話でごめんなさい】

++++++++++++++++++++++++

このところ、どうも、国際問題が、気にかかる。
若いころから、興味があった。それもあるが、
これは私の趣味(?)のようなものかも?

こういうマガジンでは、政治の話は、タブーと
いうことになっている。しかしどうしても、いろ
いろと考えてしまう。

++++++++++++++++++++++++

●イラクのアメリカ

 東京のコンサルティング会社のM氏から、マガジンが届く。いわく、「アメリカは、イラ
クで墓穴を掘っている……」と。

 長引く内戦状態。高まる反米感情。加えて、このところ、アメリカ兵によるイラク人へ
の虐待問題が、明るみになってきた(5・5)。アメリカは今まさに、あの忌まわしいベト
ナム戦争と同じように、ドロ沼に足を踏み入れようとしている。

 それはわかる。しかし私は、どうしても、「墓穴」という言葉を使えない。理由はいくつ
か、ある。

 結果的に、イラクで、大量破壊兵器は発見されなかったが、しかしその大量破壊兵器を、
まがりなりにも、押さえこんできたのは、アメリカである。EUやロシアではない。この
状態は、この日本を含む極東についても、同じである。

 北朝鮮の大量破壊兵器開発を、今まさに、まがりなりにも押さえこんでいるのは、アメ
リカである。中国やロシアではない。日本でもない。

 もしアメリカがずるいとか、卑怯(ひきょう)だというのなら、そのアメリカの上にの
って、好き勝手なことをしているのは、この日本ではないのか。日本は、その中東に、原
油の80%〜90%を依存している。

 もっとわかりやすく言えば、戦後、アメリカが築きあげてきた、(自由主義貿易体制)の
上で、経済的繁栄を謳歌(おうか)してきたのは、この日本である。それを忘れてはいけ
ない。

 仮に「墓穴」ということになれば、それはそのまま日本の「墓穴」ということになる。
仮にアメリカが、「私はもう知りません。イラクも、北朝鮮も、どうぞご勝手に」と言い出
したとしたら、そのとき、世界は、日本は、どうするつもりなのか。


●平和ボケ

 名前は出せないが、先日、経済界のトップクラスの人(59歳・男性)が、こんなこと
を言った。

 「韓国の人たちが何を考えているのか、まったく理解できない。反米なのは、よくわか
るが、どうして反米なのか。韓国の独立を守るため、アメリカ兵は、3万人以上も死んで
いる。現に今も、3万人以上ものアメリカ兵が、北朝鮮との国境を守っている」と。

 日本にも、そういう時代があった。60年安保、70年安保の時代がそうだった。仮に、
もし、その当時、日本にアメリカ軍が駐留していなかったら、日本は、スターリン・ソ連、
毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・北朝鮮に、繰りかえし、侵略されていただろう。

 日本は、そういう報復をされてもしかたないことを、戦前、してしまった!

 「今の韓国は、日本の60年代、70年代に似ていますね。どこか独善的になってしま
い、自分たちの置かれた立場が、よくわかっていませんね」と私がいうと、その男性は、「ま
ったくその通りです」と言って、笑った。

 が、今、極東の状況は、大きく変わりつつある。

 その第一。韓国から、アメリカ軍の撤退。つぎに沖縄からの、アメリカ軍の撤退。

 その沖縄については、こんな裏話が、伝わってきている。

 今年(04)のはじめ、パウエル国務長官が、日本を訪問(2・22〜23)したとき
のこと。そのときパウエル国務長官は、日本ではアメリカ軍は、歓迎されていると思って
いたらしい。自分も歓迎されると思っていたらしい。だから、沖縄を先に訪問した。

 が、それに対して、沖縄のI知事は、歓迎どころか、いきなり、「アメリカは、沖縄から
出て行け!」と言ってしまった。これに対して、パウエル国務長官は、不愉快を通りこし
て、激怒した。「日本を守ってやっているのは、このアメリカではないか!」と。

(このI知事の言動は、知事としては、まったくふさわしくない行為といってもよい。
一知事の立場でありながら、日本国政府を通りこして、アメリカ政府に抗議した。

沖縄の置かれた複雑な立場も理解できないわけではないが、10年一律のごとく、反米、
反日を唱えつづけるのも、どうかと思う。不満があるなら、日本政府に対してすればよ
い。アメリカではない。I知事は、ただの県知事ではないのか。)

 そのあとK外務大臣は、懸命にパウエル国務長官をなだめたというが、ときすでに遅し。
表向きは、「沖縄の負担軽減」(日米外相会談の詳報)という言葉を使っているが、アメリ
カは、沖縄からの撤退を、さっさと決めてしまった。「われわれは、望まれない地域には、
兵を置かない」と。

 「日本は、平和を愛する民族です」などと言うのは、その人の勝手。しかしわけのわか
らない国が生まれて、その日本を攻めてきたとき、日本はどうするのか。そのときでも、
日本は、「平和を守ります」などと、のんきなことを言っておられるのだろうか。

 かつての日本が、その(わけのわからない国)だった。それを忘れてはいけない。


●アメリカ人

 中国には、中国人がいる。ロシアには、ロシア人がいる。ヨーロッパには、ヨーロッパ
人がいる。しかしアメリカには、アメリカ人は、いない。

 そんなことは、アメリカを旅行してみれば、すぐわかること。アメリカ合衆国の正式統
計によれば、人種構成は、つぎのようになっている(04)。

白人                 ……77%
黒人                 ……11%
アジア系が               ……4%
アメリカとアラスカの原住民族が   ……1・5% 
ハワイなどの太平洋諸島原住民族が  ……0・3%
その他   4%

 南部のテキサス州などに行ってみると、約40%が、ヒスパニックと呼ばれる人たちで
ある。まさに「アメリカは人種のるつぼ」といった感じがする。もちろんその中には、日
系人も、多数含まれている。

 この人種の多様性こそが、アメリカの特徴であると同時に、世界戦略の原動力となって
いる。

 そんなわけで、よく「アメリカ人は……」と言う人の意見を聞いたりすると、私は、ふ
と、こう思ってしまう。

 「どういう人をさして、アメリカ人と言うのか……?」と。それは「日本人は……」と
言うときの日本人とは、まるで異質のものである。「中国人は……」と言うときの中国人と
は、まるで異質のものである。

 私の二男のワイフは、アメリカ人だが、スペイン人、イギリス人、フランス人などなど
の血が流れているという。遠くは、アメリカインディアンの血もまざっているという。そ
んなわけで、私の孫はアメリカ人だが、私という日本人の孫でもある。

 いつか世界も、人種単位、国単位でものを考えるおかしさに、気づくときがやってくる
だろう。民族単位、宗教単位でものを考えるおかしさに、気づくときがやってくるだろう。
つまりそのときこそ、世界がひとつになるときであり、平和になるときである。

 今すぐは無理だとしても、私たちが、100年後、500年後に目ざすべき世界は、そ
ういう世界をいう。

 アメリカという国は、今まさに、その国内で、それを実験している国ということになる。
いろいろと問題の多い国かもしれないが、アメリカという国を、そういう目で見ることも
必要ではないのか。
(はやし浩司 アメリカ 人種)


●くだらない意地

 この5月の大型連休の間、約40万人もの旅行客が、海外へでかけた。40万人、であ
る!

 そういう時代なのに、あのK国は、拉致被害者の家族を、日本へ返さないと、まだがん
ばっている? その数、たったの10人足らず。電話をかけさせたり、手紙のやりとりく
らい、自由にさせてくれたらよいと思うのだが、それすらもさせてくれない。

 むずかしい話ではない。連休の間、日本人が海外旅行するように、そういう被害者を、
日本へ旅行させればよい。「まあ、日本へ行きたかったら、行ってきなさい」と。

 一方、在日朝鮮人の人たちは、あのM号という船で、日本とK国の間を、自由に(?)
行ったりきたりしている。しかもそのたびに、船の中、外で、K国の旗を振り、踊りまで
踊っている。少し前までは、拡声器で、大音響の音楽まで流していた。

 K国の中でそういうことをするのなら、まだしも、日本の港で、そういうことをする。
日本人の神経を逆なでするようなことを、よくするものだと思う。

 これはたとえて言うなら、葬式か何かで、うちひしがれている家族の前で、楽しそうに
祝杯をあげるようなものではないか。しかも加害者が被害者の目の前で、それをするから、
たまらない。「拉致被害者を返せ!」と叫ぶ、抗議集団。その波止場のビルの屋上で、旗を
振り、歌を歌う在日朝鮮人の人たち。私には、こうした光景が、どうにもこうにも、理解
できない。

 それとも私の感覚が、おかしいのか?

 ついでに……。
 
この原稿を書いている今日、たまたまK国の首都のピョンヤンで、韓国とK国の、南北
閣僚級の会談が開かれている。「将官(星)級の会談」を迫る韓国。「米韓軍事演習の中
止」を求めるK国。

 米韓軍事演習の中止は、そのまま米韓同盟の崩壊を意味する。韓国が、それをのむはず
はない。のんだとたん、米軍は、韓国から撤退する。

 が、どうして韓国は、将官(星)級の会談を求めるのか。会談くらい何でもないと、考
えがちだが、それは正しくない。そのウラには、もう少し、複雑な事情が隠されている。

 東シナ海での軍事衝突を避けるためというのが、韓国側の言い分である。なぜばら、言
いかえると、東シナ海は、K国が韓国に戦争をしかけることができる、ゆいいつの場所だ
からである。

 東シナ海には、二本の境界線がある。国連側(韓国側)の引いた境界線と、K国側の引
いた境界線である。ともに、自分の引いた境界線こそが正当であると、ゆずらない。いつ
かK国が韓国に戦争をしかけるとしたら、この東シナ海しかない。

 韓国も、それを熟知している。だからこそ、つまり戦争を避けたいからこそ、韓国はK
国に、将官(星)級会談を求めている。K国側にしてみれば、将官(星)級会談を認める
ことは、韓国への戦争カードを失うことになる。

 簡単なシミュレーションをしてみよう。

 XX年Y月Z日。午前3時。K国のカニ漁船が、韓国側のいう国境を越えて、操業する。
それに対して韓国側が、国境侵犯で、警備艇を派遣。K国の漁船を見つけて、威嚇射撃。

 これに反発して、K国側の哨戒(しょうかい)艇出動。反撃。双方に死者が出る。そこ
で韓国側、同じく哨戒艇派遣。銃撃戦。K国側、航空機を出して、反撃。韓国側も反撃。

 こうして第二次朝鮮戦争、勃発。2万門もの、K国側の長距離砲が、いっせいにうなり
をあげる。その砲弾は、雨あられのように、韓国のソウルの町に降りそそぐ。

 国境があいまいということは、そのどちらにとっても、相手側に戦争の口実を与えてし
まう。「お前のほうが、先に攻撃してきたではないか!」と。

 韓国側が主張する、将官(星)級会談には、それを防ぐという役目がある。

 では、K国は、南北会談で、何を求めているのかということになる。

 ズバリ言えば、援助。それ以外、何もない。仮にK国が、韓国人の出入りを認めれば、
K国は、そのまま崩壊する。「開放すれば、金XX政権は、3日、もたないだろう」という
のが、大方の見方である。

 ……話をもどす。

 それにしても、どうしてこうまでK国は、ヒネクレているのかと思う。私が金XXなら、
さっさと、拉致被害者の家族を返す。一時、ごうごうたる非難がわき起こるかもしれない
が、それはし方ないこと。時間がくれば、やがて落ちつく。

 決してむずかしい話ではない。日本のばあい、この連休だけで、約40万人もの旅行客
が、海外へでかけた。日本にとっては、「今」は、そういう時代である。

「たった」という言い方は、こういうケースではしてはいけないのかもしれないが、し
かしたったの10人ではないか。金XXよ、もしあなたにも温かい血が流れているなら、
拉致被害者の家族を、日本へ、返したらよい。いつまでも、くだらない意地を張って、
あなたはいったい、どうするつもりなのか。

【追記】

 5月7日現在、南北の将官級会談は、実現することになった。「会談を開いたら、穀物、
40万トンを支援する」と韓国側は、かねてから言っていた。

 また拉致被害者家族の、日本への帰国については、中国が強力な指導力を発揮したよう
だ。このところ、急速に事態が動き出している。(よかった!)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

いつもマガジンを購読してくださり、ありがとうございます。
これからも、末永く、よろしくお願いします。

はやし浩司は、ただひたすら、1000号(今回で419号)を
めざします。

あとのことは、考えていません。
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 9日(No.420)
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http://bwhayashi.cool.ne.jp/page062.html

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(1)子育てポイント**************************

●飼い犬考察(「自分」発見のために)※

 私は二匹の犬を飼っている。一匹は保健所で処分される寸前のものを、もらってきた犬。
これをA犬とする。もう一匹は、親の愛をたっぷり受け、愛情豊かな家庭で生まれた犬。
これをB犬とする。これらA犬とB犬は、まったく性格が違う。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、
一二年(04年現在は一七年)にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところ
では、餌を食べない。

愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものな
ら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬には
ならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らんぷりして、そ
のまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。

おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしそ
の割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が
入ってこようものなら、けたたましく吠える。
 
人間も犬と同じと言ったらいいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらいいのか、同
じようなことが人間の子どもにも観察される。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳
しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、その後、なかなか変わらないと
いうこと。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、冷淡を経験した犬だ。心に大きなキズ
を負っている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った。一見、愛想は悪いが、
人間に心を許している。だから、そういうことができる。つまり人間を信頼している。
幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。

 人間も成長とともに、自分のことがよくわかってくると、自分という人間が、遠い昔に
できあがったということがわかる。高校生や中学生のときではない。もっと前だ。小学生
のときでもない。

しかし四、五歳を境に急激に記憶が薄れていく。ちょうどモヤのかかった闇に吸い込ま
れていくように、記憶が薄れていく。つまりそれから以前は、はっきりしない。「自分」
という人間は、どうやらそのあたりで完成したようだ、と。

「だから幼児教育は重要だ」と、ここで書けば、私が犬の話を持ちだした意図が、見え
見えになってしまう。事実、その通りだと思うが、しかしあまりにもはっきりとそう書
くと、この世の中、反発を買う。「三つ子の魂、百まで」と書くだけでも、抗議が殺到す
る。だからどう書いたらいいのか、わからないが、そういうことだ。

 ただ人間の場合、経験や知識で、自分の姿を客観的に見ることができる。そして自分の
努力で、自分自身を変えることができる。私はそういう可能性まで、否定しているのでは
ない。

どんな人も幼児期の暗い思い出の一つや二つは背負っている。完ぺきな家庭で愛情豊か
に育った人のほうが、少ない。そういうことも考えながら、あなた自分自身の心の中を
旅してみてほしい。きっと新しい「あなた」を発見ができると思う。

(2)今日の特集  **************************

意識の変化、そして自己否定【32】

●いい学校論

 「日本では進学率の高い学校ほど、いい学校だ」と言うと、デニスは笑った。そこで私
が「では、オーストラリアではどういう学校をいい学校というのか」と聞くと、こう話し
てくれた。

 メルボルンの南に、ジーロンという町がある。昔は羊毛の輸出港として栄えた町である。
その町の郊外に、ジーロングラマースクールがある。チャールズ皇太子も一年間学んだこ
とのある、由緒ある全寮制の小中高一貫校である。

デニスも、そこで一二年間過ごしている。「あの学校では、生徒ひとりひとりに合わせて、
カリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳の得意な子どもは、毎日水泳ができるよう
に。木工が得意な子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をいい学校と
いう」と。

 意識は国によって違う。それから生まれる常識も、国によって違う。だから当然のこと
ながら、価値観も違う。今でこそ、こうした違いに耳を傾ける人もふえてきたが、三五年
前は、そうではなかった。

「入学試験はないのか?」と聞くと、「早い者勝ち」と。ふつうそのあたりの親は、子ど
もの出生届を出すのと同時に、入学願書を出す慣わしになっている。「子どもに何か、障
害があるときはどうする?」と聞くと、「どうしてだめなのか。そんなことは関係ない」
と。

 ただオーストラリア人に学歴意識がないかといえば、それはウソだ。ある日、バララー
トという町へ行ったときのこと。開拓時代の面影が色濃く残っている町である。私は郵便
局へ立ち寄って、切手を買った。

最初、職員は、ムッとするほど横柄な態度だった。が、そのうち会話の途中で、「私はメ
ルボルン大学ロースクールの研究生だ」と言うと、とたんに態度が急変したのを覚えて
いる。それがおもしろいほどの変わりようだったので、「ああ、この国でも学歴が通用す
るのだな」と、そのときはそう思った。

●心の空白

 話はそれたが、自分の意識を変えるのは、容易なことではない。たとえば私は、はじめ
のころは、「国立のメルボルン大学が上で、私立のモナーシュ大学は、その下で……」と考
えていた。

日本人は何かにつけて、上下意識をもつ。その上下意識の中で、ものの価値を判断する。
私がそういう意識と決別することができるようになったのは、ほぼ一年も過ぎてからで
はなかったか。こんなことがあった。

 オーストラリアのABC放送局に就職が決まった友人がいた。ABC放送局といえば、
日本のNHKにあたる。そこで私が「すごいじゃないか。おめでとう!※」と言うと、逆
に質問されてしまった。

「どうして君は、ぼくにおめでとうと言うのか?」と。会話がまるでかみあわなかった。
つまり日本でいう、大企業意識というのは、彼らには、まったくなかった。

 こうした意識の変化は、私自身の価値観を大きく変えた。私は帰国後、M物産という会
社に就職することになっていた。入社を一年、延期してもらっていた。

が、帰国が近くなってくると、M物産に入社するという「誇り」そのものが消えていた。
意識の変化というような生やさしいものではなかった。怖ろしいほどの衝撃だった。そ
れまでの意識を否定するということは、それまでの生きザマを否定することを意味する。
それだけではない。それまでの意識が崩壊するのはし方ないとしても、今度はそれにか
わる意識を作らねばならない。心の空白ができてしまう。が、その空白を埋めるのも、
簡単なことではない。

「君たちにとって、いい仕事って、どんな仕事だ?」と聞くと、デニスはこう言った。「家
に近くて、給料がいいこと」と。「それだけか?」と聞くと、「それだけだ」と。「本当に
それだけか?」とまた聞くと、少し間をおいて、「ほかに何がある?」と。

(※……ただし英語で「おめでとう(コングラチュレーション)」と言うと、「運がよかっ
たね」という意味も含まれる。それであのとき、友人が私に食ってかかってきたのかもし
れない。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

今回は、前回につづき、『世にも不思議な留学記』の
マガジン未発表の部分を、一挙に公開します。

一部は、『はやし浩司の世界』(Eマガ)
で公開しました。

なお写真などは、「はやし浩司のHP」の
トップページから、ご覧いただけます。

どうか、おいでください。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


豊かな生活、そして帰国【33】

●モーニングコール

 「ヒロ〜シ、ヒロ〜シ」と、朝になると、隣の別荘(ビーチハウス)のジュリーがやっ
てきて、私を呼んだ。すると横にいたデニスが、私をからかって、「ヒロシ、モーニングコ
ールだ」と。

 道路の向こうからは、一日中、潮騒の音が聞こえる。目を開けると、まばゆいばかりの
光線。さわやかなそよ風。描きかけた油絵が、部屋のすみに立っている。

日本がここまで豊かになるとは、当時、だれが予想しただろうか。私は「日本がオース
トラリアの生活水準に達するには、五〇年はかかる。あるいは永遠に不可能」とさえ思
っていた。

前の晩も、デニスの父親が、自宅でピーター・オトゥール主演の『アラビヤのロレンス』
を見せてくれた。まだビデオなどない時代で、フィルムは、仲間の映写技師から借りた
ものだという。自宅に大型の映写機があること自体、私には信じられなかった。

寝室を出ると、食卓には、盛りつけられたパンや果物。戸棚には、何種類ものドイツ製
のビール。それにワインと酒。壁を飾る、アボリジニーの壁画。デニスの姉が、何日も
かけて描きあげたものだという。そして週末は、こうして海のそばの別荘で過ごす……。
そのどのひとつをとっても、当時の日本にはないものばかりだった。

「デニス、ぼくは、やはり日本へ帰るよ」
「こちらで就職しないのか?」
「週給五五ドル※だという。高卒の給料だ」
「しかし君は、学位をもっている」
「日本の学位は、オーストラリアでは認められない」
「認められない?」
「話してみたけど、ダメだった……」

 私はその数日前に受けた面接試験の話を、デニスに話した。日本にも支社があるという
会社だったが、あとで担当者が、「その給料なら雇う」と電話で知らせてきた。

●日本へ帰る

 私は日本にいる親や、別れたN子のことを考えていた。いや、それ以上に、日本のこと
を考えていた。オーストラリアから見ると、どうしようもないほど小さな島国だが、しか
し私の国だ。このところメルボルンの町の中を歩いていても、どこかフワフワと足が浮い
たような状態になる。

みなは親切だが、しかしその親切は、ある一定の限度まで。私はアジア人だ。背が低く、
肌の黄色いアジア人だ。それから生まれる違和感は、どうしようもなかった。

 しばらくすると、またジュリーが呼んだ。「ヒロ〜シ」と。するとデニスがこう言った。
「ヒロシ、気をつけろ。彼女はまだ中学生だ」と。「わかっている」と私。週末になるとジ
ュリーの一家もこうして別荘にやってくる。いつしか私とも知りあいになり、何度か夕食
もごちそうになった。

が、もし、その私が、仮にいつか、たとえばオーストラリアの女性と恋仲になり、結婚
……ということになったら、多分、その女性の両親の態度は、急変するに違いない。ジ
ュリーにかぎらず、オーストラリア人の家族とつきあうときは、どんなことでも、私は
その一歩手前で止めなければならない。客人の立場で、その立場を守っている間は、歓
迎される。それを超えたら、排斥される。

 デニスとビーチに出ると、ジュリーがそこに立っていた。私は何枚か、ジュリーの写真
をとった。その一枚が、これである。

その後、デニスの別荘は山火事(ブッシュファイア)で燃えた。ジュリーの別荘も燃え
て、その後、音信はない。本名は、ジュリー・ピーターズ。今、彼女は、四五歳前後に
なっているはずである。きっとすばらしい人生を送っていることと思う。オーストラリ
アの青い空のように、抜けるほど明るく、陽気な女の子だった。
(※当時のレートは、一ドルが四〇〇円。日本の大卒の初任給は、五〜六万円だった。) 


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


ビートルズの歌で終わった青春時代【34】

●行くも最後という時代だった

 行くのも最後、帰るのも最後という時代だった。往復の旅費だけで、四〇万円以上。ま
だまだ日本は貧しかった。メルボルンを飛び立つときは、本当にさびしかった。

そしてそのさびしさは、フィリッピンのマニラに到着してからも消えなかった。夜、リ
ザ−ル公園を歩いていると、六、七人の学生がギタ−を弾いていた。私がぼんやりと見
ていると、「何か、曲を弾いてあげようか」と声をかけてくれた。私は「ビ−トルズのア
ンド・アイ・ラブ・ハ−を」と頼んだ。私はその曲を聞きながら、あふれる涙をどうす
ることもできなかった。

 私には一人のガ−ルフレンドがいた。ジリアン・マックグレゴーという名前の女の子だ
ったが、「ウソつきジル」というあだ名で呼ばれていた。が、私にはいつも誠実だった。

映画「トラトラトラ」を二人で見に行ったときも、彼女だけが日本の味方をしてくれた。
映画館の中で、アメリカの飛行機が落ちるたびに、拍手喝采をしてくれた。あの国では、
静かに映画を見ている観客などいない。

そのジルに私が帰国を告げたとき、彼女はこう言った。「ヒロシ! 私は白血病よ。その
私を置いていくの!」と。私はそれがウソだと思った。……思ってしまった。だから私
は天井に、飲みかけていたコ−ヒ−のカップを投げつけ、「ウソつき! どうして君は、
ぼくにまでウソをつくんだ!」と叫んだ。

 夜、ハウスの友だちの部屋にいると、デニスという、今でも無二の親友だが、その彼が
私を迎えにきてくれた。そのデニス君とジルは幼なじみで、互いの両親も懇意にしていた。

「それは本当だよ。だからぼくは君に言っただろ。ジルとはつきあってはダメだ。後悔
することになる、と。しかしね、ジルが君にその話をしたということは、ジルは君を愛
しているんだよ」と。彼女の病気は、彼女と彼らの両親だけが知っている秘密だった。

私はジ−ロンという、メルボルンの南にある町まで行く途中、星空を見ながら泣いた。
オーストラリアの星空は、日本のそれよりも何倍も広い。地平線からすぐ星が輝いてい
る。私はただただ、それに圧倒されて泣いた。

●こうして私の青春時代は終った……

 こうして私の留学時代は終わった。同時に、私の青春時代も終わった。そしてその時代
を駆け抜けたとき、私の人生観も一八〇度変わっていた。私はあの国で、「自由」を見たし、
それが今でも私の生活の基本になっている。

私がその後、M物産という会社をやめて、幼稚園教師になったとき、どの人も私を笑っ
た。気が狂ったとうわさする人もいた。母に相談すると、母まで「あんたは道を誤った」
と、電話口のむこうで泣き崩れてしまった。

ただデニス君だけは、「すばらしい選択だ」と喜んでくれた。以後、幼児教育をして、二
八年になる。はたしてその選択が正しかったのかどうか……?

 そうそう、ジルについて一言。私が帰国してから数カ月後。ジルは、西ドイツにいる兄
をたよってドイツへ渡り、そこでギリシャ人と結婚し、アテネ近郊の町で消息を断った。

また同じハウスにいた、あの皇太子や王族の息子たちは、今はその国の元首級の人物と
なって活躍している。テレビにも時々顔を出す。デニスは、小学校の教員をしたあと、
国防省に入り、今はモナーシュ大学の図書館で司書をしている。本が好きな男で、いつ
も「ぼくは本に囲まれて幸せだ」と言っている。

私だけは相変わらず、あの「自転車屋の息子」のままだが……。完

(長い間のご愛読、ありがとうございました。「世にも不思議な留学記」は、これで終わ
ります。バックナンバーは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/のほうで読んでいただけ
ます。どうかおいでください。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

金沢大学の学生の皆さんへ【35】

エピローグ(青春時代)  

●こわいものは、なかった

 チャンスを食い散らし、健康を食い散らし、そして時間を食い散らす。それが青春時代
というものか。そのときはわからない。わからないまま、前だけを見て突っ走る。しかし
その時代もやがて色あせ、闇の中に消えていく。

 私が人生の中で最高に輝いたのは、留学生試験に合格したときだった。金沢大学は、指
定校にはなっていなかった。しかし私は強引に受験した。二次、三次と合格し、最終は、
東京での面接試験だった。東大の学生が二人、慶応の学生が一人、それに私だった。

私だけが大学四年生で、あとは大学院生だった。確率は四分の一。で、結果は合格。そ
の知らせを電話で受けたときは、私は飛びあがって喜んだ。同時に、私の前には、一本
の道が開けた。それはまっすぐ、未来につながっていた。

留学でハクをつけ、商社マンになり、あとは出世街道をのぼりつめる……。そしてその
喜びは、日々に増幅され、北国新聞社の取材を受けたとき、頂点に達した。地方版だっ
たが、紙面の四分の一ほどをさいて、私を紹介してくれた。「金大(指定校外)の林君、
みごと留学生試験に合格」と。七〇年二月のことだった。私には、こわいものは、何も
なかった。

●ただ無我夢中だった

 今、あの時代を思い出してみると、私は私で、どこも変わっていないはずなのに、ほろ
苦さだけが、心の中に充満する。

もしあのときにもう一度戻ることができたら、私はもう少し慎重に、足場を踏みならし
ながら、前に進んだであろう。しかしそのときは、わからなかった。青春時代は、決し
て人生の出発点ではない。人生の原点。人生のすべてそのもの。

私はおぼつかない声で、その青春時代に向かって、こう呼びかける。「お前は、どこにい
る?」と。すると別の声が、「ここにいる」と答える。が、本当のところ、自分がどこに
いるかわからない……。

 いつだったか、ガールフレンドのジルと、バイクに乗っていて、転倒したことがある。
ホンダのカブだったが、ギアのチェンジのし方が日本のそれとは違っていた。それで二人
は、道路のわき道に投げ出された。

幸い芝生の上で、ケガはなかった。が、起きあがろうとすると、背中に乗ったジルが、
こう言った。「このままでいましょう」と。私は言われるまま、ジルの肌の温もりを感じ
ながら、じっと、そのままにしていた。そんなできごとが、遠い昔のできごとのような
気もするし、つい昨日のできごとのような気もする。

何がなんだかわからないまま過ぎた、私の青春時代。ただ私は懸命だった。無我夢中だ
った。その青春時代は、ボロボロだったかもしれないが、今、私の人生の中で、さん然
と光り輝いている。

●懸命に生きることの価値

 人生の目的? あのトルストイは、主人公ピエールの口を借りて、こう書いている。『(人
間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

 前回で、『世にも不思議な留学記』は終わった。実のところ、この原稿は、私がオースト
ラリアにいるときから書き始めたもの。しかし発表する機会もなく、ただ無益に、三〇年
の歳月が流れた。

しかし今、こうして再構成し、皆さんに読んでいただけたことを、心から感謝する。喜
んでいる。最後になったが、編集部の太田明氏には、心からお礼の言葉を捧げたい。太
田氏の励ましがなかったら、こうまで長く連載をつづけることはできなかった。最後に
学生のみなさんに、一言だけ、こう伝えたい。

 「懸命に生きてください。ただひたすら前に向かって、懸命に生きてください。それが
青春です」と。

(完)

(3)心を考える  **************************

●二男のメモより

+++++++++++++++++

二男のHPに掲載されているメモを、
ここに転載します。

+++++++++++++++++

こんな国(アメリカ)に来てもうかれこれ7年目になる。

僕の年からして、もう人生の3分の1程の時間をここで過ごしてきたわけだ。よく自分
でもなにやってるんだろうと思う。

慣れる、というのは実に危険なことだと思う。刑務所に長くいると、逆に社会へ戻るの
がいやになるそうだけれど、僕もそんな感じなんだろうか。もともと長居はしたくなか
ったのだけど、今は日本へ帰っても、やってけないな、っていう不安がある。 

 日本人ほど海外に出たがる人間はいないと統計が示しているけれども、ぼくはそのうち
の一人で、とにかく日本から離れたかった。なぜだろう・・。

前にも書いたような気がするけど、僕は、日本にいたとき、夜の電車にゴトゴト揺られ
ながら、真っ黒な景色と、何処までも続くネオンの光、窓越しに見える自分の顔をみる
のがとてつもなくいやだった。

果てしなくさびしくなって、北海道へ電車で一人旅したときは、とにかくこれがいやと
いうほど身にしみて分かった。きっとあの電車の蛍光灯のせいだと思う。

窓の外、隅から隅へ不気味に立ち並ぶビルの中、残業で働くサラリーマンの姿がチラッ
と見えたりして、その無機質な何かが、鳥肌が立つほどいやだった。ああ、ぼくもいつ
かああなるのかなって。 

 僕や、大勢の日本人が時々衝動的に日本から離れたいと思うのは、きっと日本中どこも
同じで、その「同じ」さが皆をウンザリさせるんだと思う。みんななにか感動するもの
に飢えていて、自分の人生をアドベンチャー豊かなものにしようと日々「一生懸命」活
動する。 

 日本人のバイタリティー、生命力、というのはほんとに、すごいと思う。どこの大学へ
行ってもかならず、超やる気満々の日本人の女の子たちが必死になっている姿が、すぐ
目につく。

大半のアメリカ人の生活ほどつまらないものはない。毎日全く同じことの繰り返し。こ
れといって新しいことに挑戦する人はまずいないし、みんな適当で、大学のフラタニテ
ィー(サークルみたいの)にしても別になにもクリエイティブなことはしない。ただ暇
つぶしに集まって、酒を飲むくらい。

とにかく、アメリカの生活は物質的で感動がない。「感動する」っていう言葉自体日本語
で訳されるような、movedっていう意味あいとは全く違う。「心に印象づけられる。」
っていう程度だと思う。 

 こんな生活にもなれてしまって、日本のあの、運動会の感覚、文化祭最終夜のあの、燃
え尽きるような感動。そういったものが懐かしく感じる。他人とのつながりが痛いほど
感じられる人間くささ、日本人くささ、というのがたいていの場合この国には存在しな
い。 

 だから、僕はここでなにやってるんだろう、とよく思う。人生を無駄にしているような
気さえする。大半のところは、この国のせいではなくて、僕自身の問題だと思う。早く
ここから脱出するべきなんだろうか? 

 こんな思いから、最近また曲をつくってみた。Hogge-Podgeのセクション(Sound Clips)
にMP3を今度乗せておきたい。よかったらチェックしてみてください。

【二男のHP】

http://dstoday.com/

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司から二男へ……】

 賢い人は、そのものの価値を、なくす前に気づくよ。愚かな人は、そのものの価値を、
なくしてから気づくよ。

 仕事? 労働? 退屈? 無意味さ? ……朝起きて、しなければならない仕事がある
というのは、それだけでも、すばらしいことだよ。その上、健康だったら、さらにすばら
しいことだよ。

 ぼくも、過去において、何度も、失業の恐怖を味わったことがある。今の生活も、基本
的には、その恐怖の上に成りたっている。

 もしぼく一人だけなら、そのまま崩れてしまったかもしれない。しかしね、ぼくには、
家族がいた。お前たちも、まだ小さかったからね。だから、歯を何度も、くいしばった。

 そうそう浜松へ来たころは、仕事がなくて、こんなことをしたこともあるよ。

 工業団地へでかけていってね、電柱に、「翻訳します」という張り紙を張って歩いたこと
もあるよ。晃子(ワイフ)と、二人で、ね。

 それで結構、仕事が舞いこんできて、当時としては、よい収入になったよ。

 「窓の外、隅から隅へ不気味に立ち並ぶビルの中、残業で働くサラリーマンの姿がチラ
ッと見えたりして、その無機質な何かが、鳥肌が立つほどいやだった」と、お前は書いて
いる。

 その気持ちは、よくわかる。ぼくも、若いとき、そう思ったことが、ある。しかしね、
仕事がない人たちから見ると、それは、とてもうらやましい光景に見えるものだよ。「どう
して、ぼくだけ、ああいうふうに、仕事ができないのだろう」とね。

 要するに、ものの見方の問題ということかな。同じ、一つのことを見ても、見方がちが
うと、それに対する考え方も、180度、変ってくるということ。で、そこで大切なのは、
賢い人の見方ということになる。

 『平凡は美徳』と、よく言うけど、日々、何ごともなく過ぎていくというのは、それ自
体、人生の目的でもあり、目標でもあるよ。もしお前が、今、今の生活の中に、その(平
凡さ)を感じたら、それをしっかりと握って、手放してはダメだよ。

 いやね、その価値は、それがなくなったときにわかるよ。

 が、それでは満足できなかったら、どうするかって?

 方法は簡単だよ。これは昔、浜松でも、一、二を争う、電気通信会社の社長が、話して
くれたことだけどね。台湾へ、通訳としていっしょに行ったときのことだよ。その社長が、
こう話してくれた。

 「まず、生活のベースをつくれ。それができたら、暴れろ」と。

 つまりね、平凡は平凡として大切にしたあと、その上で、自分のできる範囲で、好き勝
手なことをしろ、とね。わかりやすく言うと、ぼくのような自由業の人間はだよ、まず固
定給をしっかりと、どこからか手に入れる。

 それができたら、今度は、臨時収入を考えて、暴れろ、と。固定給だけの生活はつまら
ないし、しかし臨時収入だけに頼っている生活は、不安定だ。その社長は、そう教えてく
れた。

 今のお前に、この話が役立つかどうかはわからないが、しかし参考にはなると思う。た
またまお前は、作曲のことも書いているが、そうした才能を、決して眠らせてはだめだよ。
何らかの方法で、追求しなよ。

 ぼくも、ヒマがあると、いつも文を書いていた。あまりお金にはならなかったけれど、
生きがいにはなった。そういうふうに、いつか、自分を支えてくれる。

 まあ、心が疲れたら、いつでも日本へ遊びにおいで。歓迎するよ! デニーズ、誠司に
よろしくね。誠司は、どんどんと少年らしくなっている。賢そうな子どもで、安心したよ。
これから事故が多くなる年齢にさしかかるから、注意しなよ。

 ではね……。
(040511)

+++++++++++++++++++++

 二男に送りたいと思い、過去に書いた原稿の
中から、二つを選んでみた。

+++++++++++++++++++++

家族主義と幸福論 
●幸福の原点は家庭にある

ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロシーと
いう女の子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するという物語である。
こんなことがあった。 
 オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシ
ア軍に襲われたらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」と。「お
やじの故郷のスコットランドへ帰る」と言ったのもいた。

何という愛国心! 私があきれていると、一人の学生がこう言った。「ヒロシ、オースト
ラリア人が手をつないで一列に並んでもすきまができるんだよ。どうしてこの国を守れ
るか」と。  
英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで質問
を変えて、「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞くと、
皆血相を変えてこう言った。

「そのときは、命がけで戦う」と。これだけではないが、私はいつしか欧米人の考え方
の基本に、「家族」があることを知った。愛国心もそこから生まれる。

たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日本語に訳する
「愛国者」ということになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパトリ
ス、つまり「父なる大地」という語に由来する。

つまり欧米で、「ペイトリアチズム(愛国心)」というときは、「父なる土地を愛する」あ
るいは、「同胞を愛する」を意味する。その映画の中でも、国というよりは家族のために
戦う一人の父親が、テーマになっていた。 
 家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは誤解。
冒頭にあげたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そんな遠くにあるの
ではない。あなたのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを、息を潜めて待っている
…。ドロシーは長い冒険の末、それを教えられる。 
 明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事第一
主義が生まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。

発展途上の国としてやむをえなかったのかもしれないが、しかし今、多くの人がそうし
た生き方に疑問をもち始めている。九九年の終わりに中日新聞社がした調査でも、四五%
の日本人が「もっとも大切にすべきもの」として「家族」をあげた。日本人は今、確実
に変わりつつある。

+++++++++++++++++++
 運命と生きる希望 
●希望をなくしたら死ぬ?

不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦ない。
まるで運命がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)がそうだ。

会社をリストラされ、そのわすかの資金で開いた事業も、数か月で失敗。半年間ほど自
分の持ち家でがんばったが、やがて裁判所から差し押さえ。そうこうしていたら、今度
は妻が重い病気に。検査に行ったら、即入院を命じられた。

家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校を卒業すると同時に、
暴走族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無心する……。 
二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、その予備
軍の一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自殺する人の気持
ちが、痛いほどよくわかる。

昔、学生時代、友人とこんな会話をしたことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に
歩いていたときのこと。私がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語
りかけた。するとその友人はこう言った。

「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思うことは、立派な希望だよ」
と。 
Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は何も
まちがっていない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というのは、社会
という大きな歯車の中で動く。その歯車が狂うことだってある。そしてそのしわ寄せが、
Y氏のような人に集中することもある。

運命というものがあるのかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後のと
ころでふんばるかどうかということは、その人自身が決める。決して運命ではない。 
私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてきた。が、
今言えることは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事実そのものが、
希望なのだ。

私のことだが、不運が重なるたびに、その先に新しい人生があることを知る。平凡は美
徳であり、何ごともなく過ぎていくのは、それなりにすばらしいことだ。しかしそうい
う人生から学んだものは、ほとんどない。 
どうにもならない問題をかかえるたびに、私はこう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たければ来
い。お前なんかにつぶされてたまるか!」と。

生きている以上、カラ元気でも何でも、前に進むしかないのだ。


(4)今を考える  **************************

【日本の農業+教育事情】

++++++++++++++++++

横浜に住む友人のM氏が、山荘に泊まりながら、こんな話をしてくれた。
それに私見も加えながら、メモとして、ここに記録する。

M氏は、日本でも最大手の食品会社の部長という重職を経て、
今は、東京にあるT社の事業開発室の室長をしている。
東京都内に流通する果物の60%は、彼の管轄下にあるという。

+++++++++++++++++

●山荘で

 山荘の周辺は、少し前までは、豊かなミカン畑に包まれていた。しかしここ5〜10年
のあいだ、減反につづく減反で、そのミカン畑が、どんどんと姿を消した。

 理由は、この静岡県のばあい、(1)産地競争に負けた、(2)ミカンの消費量が減少し
た、(3)農業従業者が高齢化した、それに(4)外国からの輸入ミカンとの価格競争に負
けた。加えて、この静岡県の人たちには、「どうしても農業をしなければならない」という
切実感がない。

とくにこの浜松市は、農業都市というよりは、工業都市。それなりに栄えている。「農業
がだめなら、工場で働けばいい」という考え方をする。

 産地競争というのは、この静岡県は、愛媛県、熊本県との競争のことをいう。ミカンは
暖かい地方から先に、出荷される。静岡県のミカンは、季節がら、どうしても出荷が遅れ
る。遅れた分だけ、価格がさがる。だからどうしても価格競争に負ける。

 ミカンの消費量が減ったのは、それだけミカンを食べなくなったということ。「皮をむく
のがめんどう」と言う人さえいる。皮をむくことで、「手が汚れる(?)からいやだ」とい
う人さえいる。

 農業従事者の高齢化の問題もある。ミカン栽培は、基本的には、重労働。ほとんどのミ
カン畑は中間山地にある。斜面の登りおりが、高齢化した農業従事者には、きつい。

 最後に、このところ、外国からの輸入が急増している。あのオーストラリアからでさえ、
温州(うんしゅう)ミカンを輸入しているという。

 そこで、静岡県のミカン産業は、どうしたらよいのかということになる。

●外国との競争

 オーストラリアでのミカン栽培は、そもそも規模がちがう。大農園で、大規模に栽培す
る。しかも労働者は、中国人やベトナム人を使っている。もともと日本にミカンに勝ち目
はない。

 本来なら日本も、その時期には、外国人労働者を入れて、生産費用を安くすべきだった。
しかし日本の農業、なかんずく農林省のグローバル化が遅れた。遅れたばかりか、むしろ、
逆にグローバル化に背を向けた。が、それだけではない。

 現在の農業は、まさに補助金づけ。それはそれで必要な制度だったかもしれないが、こ
の半世紀で、日本の農家は、自立するきびしさを、忘れてしまった。

このあたりの農家の人たちでさえ、顔をあわせると、どうすれば補助金を手に入れるこ
とができるか、そればかりを話しあっている。

 ここでは省略するが、農家の補助金づけには、目にあまるものがある。農協(JA)と
いう機関その補助金の、たれ流し機関になっていると言っても、過言ではない。が、それ
以上に、もう一つ、深刻な問題がある。

 実は農業に従事する人たちの、レベルの問題がある。M氏は、「おおっぴらには言えない
が、しかしレベルが低すぎる」(失礼!)と。それを話す前に、こんなことがあった。

●レベルのちがい?

 私が学生で、オーストラリアにいたころ、私は、休暇になると、友人の牧場に招待され
た。そこでのこと。友人の父親は、夕食後、私たちに、チェロを演奏して聞かせてくれた。
彼の妻、つまり友人の母親は、アデレード大学の学士号を取得していた。

 私は、「農業をする人は、そのレベルの人だ」という、偏見と誤解をもっていた。だから、
この友人の両親の「質」の高さには驚いた。接客マナーは、日本の領事館の外交官より、
なめらかで、優雅だった!

 これには、本当に、驚いた!

 つまりこうした学識の高さというのが、オーストラリアの農業を支えている。が、とて
も残念なことだが、日本には、それがない。(最近、若い農業経営者の中には、質の高い人
がふえてきているが……。)

 一方、この日本では、M氏の話によれば、戦前には、大学の農学部門にも、きわめてす
ぐれた研究者がいたという。しかし戦後、経済優先の社会風潮の中で、農学部門には目も
くれず、優秀な人材ほど、ほかの部門に流れてしまった。

 このことは、大卒の就職先についても、言える。

 私が学生のころでさえ、地方に残った若者たちは、負け組と考えられていた。その中で
も、農業を継いだ若者たちは、さらに負け組と考えられていた。たいへん失礼な言い方だ
とは思うが、事実は事実。当時は、だれもが、そう考えていた。M氏は、さらにつづけて
こう言った。

 「農繁期には、中国や東南アジアから、季節労働者を呼び、仕事を手伝ってもらえばよ
い。農業を大規模化するため、産業化、工業化すればよい。

しかしそういうグローバルなものの見方や、経営的な考え方をすることができる人が、
この世界には、いない。それがこの日本の農業の、最大の問題だ」と。

●おかしな身分制度

 ところで江戸時代には、士農工商という身分制度があった。江戸時代の昔には、農業従
事者は、武士についで2番目の地位にあったという。それがどういうものであったかは、
ただ頭の中で想像するだけしかない。しかしまったく想像できないかといえば、そうでも
ない。

 私が、子どものころでさえ、「?」と思ったことがある。

私の実家は、自転車屋。士農工商の中でも、一番、下ということになる。それについて
私は、子どもながら、「どうして商人が、農家の人より下」と思ったのを覚えている。

 もちろん仕事に上下はない。あるはずもない。ないのだが、しかし私が子どものころに
は、はっきりとした意識として、それがあった。「農業をする人は、商業をする人よりも、
下」と。

 こうした社会的な偏見というか、意識の中で、日本の農業は、国際化の波に乗り遅れて
しまった。今の日本の農業は、国からそのつどカンフル注射を受けながら、かろうじて生
きながらえているといった感じになってしまった。それが実情である。

●職業観の是正 

 もう一つ、話が脱線するが、今でも、おかしな職業観をもっている人は、少なくない。
私も、そうした職業観に、いやというほど、苦しめられた。

 私が「幼稚園で働いている」と話したとき、高校時代の担任のT氏は、こう言った。「林、
お前だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。

 近所のS氏も、酒の勢いを借りて、私にこう言ったことがある。「君は、学生運動か何か
をしていて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。

 私の母でさえ、「幼稚園の先生になる」と話したとき、「浩ちゃん、あんたは道を誤った
ア」と、電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。

 そういう時代だったし、今でも、そうした亡霊は、この日本にはびこっている。いない
とは言わせない。つまりそういう亡霊が、私が子どものころには、もっと強くはびこって
いた。農業従事者を「下」に見たのは、そういう亡霊のなせるわざだった。

 が、もう、そういう時代ではない。またそういう時代であってはいけない。大卒のバリ
バリの学士が、ミカン畑を経営しても、何もおかしくない。仕事で山から帰ってきたあと、
ワイングラスを片手に、モーツアルトの曲を聞いても、何もおかしくない。

●結論

 私は、M氏の話に耳を傾けながら、これは農業だけの問題ではない。静岡県だけの問題
でもない。日本人が、広くかかえる問題であると知った。もちろん教育の問題とも、関連
している。さらにその先では、日本独特の学歴社会とも結びついている。

 が、今、日本は、大きな歴史的転機(ターニング・ポイント)を迎えつつある。それは
まさに「革命」と言ってよいほどの、転機である。

 出世主義の崩壊。権威の崩壊。それにかわって、実力主義の台頭。

 そこであなた自身は、どうか、一度、あなた自身の心に、こう問いかけてみてほしい。

 「おかしな職業による上下意識をもっていないか」と。

 もしそうなら、さらに自分自身にこう問いかけてみてほしい。

 「本当に、その意識は正しいものであり、絶対的なものか」と。その問いかけが、日本
中に広がったとき、日本は、確実に変る。
(040509)

【追記】

 その人がもつ職業観というのは、恐らく思春期までにつくられるのではないか。職業観
というよりは、職業の上下観である。

 この日本には、(上の仕事)と、(下の仕事)がある。どの仕事が(上)で、どの仕事が
(下)とは書けないが、日本人のあなたなら、それをよく知っているはず。

 こうした職業の上下観は、一度、その人の中でつくられると、それを変えるのは、容易
なことではない。心境の大きな変化がないかぎり、そのまま一生の間、つづく。

 もっともこの問題は、あくまでも個人的なものだから、その人がそれでよいと言うのな
ら、それまでのこと。しかしだからといって、その価値観を、つぎの世代に押しつけては
いけない。

 さてここでクエスチョン。

 もしあなたの子どもが、あなたが(下)と思っている仕事をしたいと言い出したら、そ
のとき、あなたは何と言うだろうか。そのことを、少しだけ、あなたの頭の中で、想像し
てみてほしい。

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 くださいますよう、お願いします。

 詳しくは、私のホームページの中に、書いておきました。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page291.html


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ふえつづけています。ありがたいことですが、一方で、申し訳なく思っています。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 11日(No.421)
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(1)子育てポイント**************************

●子育ての基本、4か条

 子育ての基本は、(1)子どもには、心を開く。(2)子どもには、誠実である。(3)ほ
どよい親を心がける。(4)温かい無視を大切にする。

 順に考えてみよう。

(1)子どもには、心を開く。

 心を開くということは、ありのままを、いつも自然に、すなおにさらけ出すということ。
ごまかしたり、隠したり、偽ったり、飾ったりしないこと。思ったことを言い、話す。遠
慮や、距離を感じたら、要注意。

 親子の信頼関係は、このたがいの(さらけ出し)と、(受け入れ)の上に、成りたつ。

 言いかえると、親には、自分をさらけ出すことについて、それだけの責任と、自覚がな
ければならない、ということになる。つまり親であるということは、それだけにきびしい。
決して「親である……」という立場に、甘えてはいけない。

 で、あなたはありのままの自分を、子どもの前でさらけ出すことについて、自信がある
だろうか。もしそうなら、それでよし。しかしそうでないなら、子どもを教育しようと考
える前に、自分を育てることを考えたらよい。

(2)子どもには、誠実である。

 「誠実」には、二つの方向性がある。(自分に対して誠実である)という、内に向う方向
性と、(子どもに対して誠実である)という、外に向う方向性である。

 子どもに対して誠実というのは、ウソをつかない。約束を守る。この二つで、こと足り
る。しかし本当にむずかしいのは、自分に対する誠実。子どもに合わせて、へつらったり、
愛想をよくしたりしない。ごまかしたり、偽ったりしない。機嫌をとったり、機嫌をうか
がったりしない。

(3)ほどよい親を心がける。

 必要なことをする。それは親として、当然のこと。親には親の、義務がある。しかしや
りすぎない。

 子育てがじょうずな親というのは、その限度をしっかりとわきまえている親をいう。イ
ギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八
七二〜一九七〇)は、こう言っている。

 「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜び
を与えられる」と。

(4)温かい無視を大切にする。

 「温かい無視」……この言葉は、どこかの野生動物保護団体の人たちが、好んで使って
いる言葉である。野生の動物は、温かい愛情で包みながら、無視しながら保護するのがよ
い、と。しかしこの言葉は、そのまま子育てについても、言える。

子育ての目標は、子どもを自立させること。すべては、ここから始まり、ここに終わる。

 まずいのは、親の過保護、過干渉、溺愛、そして過関心。こうした育児姿勢が日常化す
ると、その分だけ、子どもの自立は遅れる。それだけではない。こうした育児姿勢から、
さまざまな問題が、その弊害となって現れる。

 だから、暖かい無視。親の暖かい愛情で子どもを包みながらも、無視するところでは、
無視する。子どもにやらせるところはやらせ、知らぬ顔をする。

 たとえば、靴下をはかせるときでも、片方だけはかせて、もう一方は、自分ではかせる。
半分まではかせて、残りは、自分ではかせる、など。その間、親は知らぬ顔をして、本で
も読んでいればよい。

 私も幼児を指導するときは、見本を見せたあと、そのあと、またもとの状態にもどして、
幼児自身にやらせるようにしている。たとえばあと片づけなど。一応しまい方を見せるが、
そのあと、またもとの状態にして、子ども自身にそれをさせる。

 この4つの基本は、いわば子育ての「柱」のようなもの。子育てをしていて迷ったら、
この4つの基本、つまり4か条を思い出してほしい。

【追記】

 親も、今、いいかげんな生き方をしていると、やがて子どもの前で、ボロを出すように
なる。

 そのときあなたは、親として、それに耐えられるだろうか? 親というより、人間とし
て、それに耐えられるだろうか? 堂々と胸を張って、「まだまだ、あなたなんかに、負け
ないよ」と言えるだろうか?

 先日も、浜名湖花博(浜名湖の北で開かれている、花をテーマにした、博覧会)へ行っ
たときのこと。私たちは帰りのシャトルバスを待っていたのだが、その列の間に、堂々と
割りこんできた人たちがいた。

祖母(60歳くらい)と、それにつづく、母(35歳くらい)と、その子ども(男の子、
7歳くらい)たちであった。

 手口はこうだ。

 列をつくって並んでいるとき、ロープにそって、Uの字に向きを変えるところがあった。
そのUの字のところで、まず祖母らしき女性が、インコースをぐいと強引にまわり、私た
ちを追い抜くような形で、前に出た。

四人一列になっていたので、一度で、12人分ほど、前に出たことになる。そのとき、
そのすぐうしろにいた人は、アウトコースを大回りしていたので、それに気づかなかっ
たらしい。(私のすぐ前だったら、私は注意しただろうと思う。)

 しばらくすると、その祖母のところへ、母親らしき女性と、息子らしき子どもが、ロー
プを乗り越えて、列に加わった。その瞬間、「私たちは家族です」というような様子を、わ
ざとしてみせた。

 私はその光景を見ながら、ワイフにこう言った。

 「こうした行為は、子どもの脳ミソの中にしっかりと刻みこまれる。そしていつか、そ
の子どもが、祖母や母親のした行為を批判するようになる。祖母や母親を、軽蔑するよう
になるかもしれない」と。

 もっとも、批判したり軽蔑するようになれば、まだよいほうかもしれない。子ども自身
が、いつか同じようなことをするようになる可能性も高い。そうなれば、損をするのは、
その子ども自身だ。

 「人生は長いようで、短いし……。小ずるいことばかり繰りかえしていると、どんどん
と真理から遠ざかってしまう。しかし一度、遠ざかると、もとにもどるのは、たいへん。
つまり貴重な時間を、ムダにすることになる」と。

 私はバスの中で、ワイフに、そんなことを話した。


●見苦しい母親

 あなたにとって、母親というのは、すばらしい存在だろうか。もしそうなら、それでよ
し。また、ほとんどの人にとっては、そうであろう。

 しかしそうでない母親をもつ人も、少なくない。

 少し前、母親懇談会で、こんな話をしてくれる人(45歳、女性)がいた。

 その女性には、80歳近い母親がいるのだが、少しボケてきたこともあり、このところ、
行動が少しおかしくなってきたという。

 とくにゴミに関して、おかしな行動をするという。

 その母親は、昔からの、醤油(しょうゆ)などのビン物の販売業を営んでいるのだが、
割れたビンなどを、あちこちに捨ててくるという。

 「近くに、ハバ2メートルくらいの用水が流れているところがあるのですが、その中に、
よく捨てます。私が『お母さん、そういうところへ捨ててはダメだよ』と言うのですが、
まったく私の言うことを聞きません」と。

 が、その母親の小ずるさは、老齢になってから始まったものではない。その女性は、こ
う言った。「私の母は、若いときから、そういうことが平気でできる人でした」と。そして
こんなエピソードを話してくれた。

 「どこかのバス旅行にでかけたときのこと。みなでお弁当を食べたのですが、母は、そ
のクズ類を袋に入れて、クルクルと丸めて、近くの植木の中にぐいと押しこみました。そ
して手を抜いたときには、そのクズ類の入った袋は、消えていました。

 それは手品か魔法のようでした。今でのあのとき感じた驚きを忘れることができません」
と。

 そういう母親をもった娘は不幸だが、そういう醜態をさらけ出す、母親はもっと不幸で
ある。その人の人生そのものの総決算が、そうした(結果)に集約されてしまう。もっと
はっきり言えば、何のための人生だったのか。何のために生きてきたのか。自ら自分の人
生を否定してしまうことになる。

 が、この話は、これで終わるわけではない。

 その実家は、その女性の弟(43歳)が、あとを継いでいる。その弟まで、同じような
行為を平気でするという。

 「電車の駅まで、距離にして1キロ近くあるのですが、よく自転車を盗んで、駅から、
それに乗って帰ってきます。いつも近くのスーパーの駐車場に乗り捨てるのですね。私も、
そういう弟の姿を、何度か、みかけたことがあります」と。

 こうした小ずるさは、親から子へと、伝播(でんぱ)しやすい。ふつう親が小ずるいと、
子どもも、小ずるくなる。そしてそれが長い年月をかけて、つもりにつもって、その人の
人間性をゆがめる。

 最後にその女性は、こう言った。

 「私は母のようになりたくありません。しかしなりたくない、なりたくないと思えば思
うほど、いつかどこかで同じことをするのではないかと、自分がこわくなります。私の体
の中にも、母の体質が、しっかりとしみこんでいるのですね」と。

 だから……という書き方は、少しおかしいかもしれないが、だからあなたも、今日から、
今の、この瞬間から、生(き)まじめに生きたほうがよい。むずかしいことではない。

 ルールを守る。約束を守る。人に迷惑をかけない。ウソをつかない。そういう日々の積
み重ねが、やがて月となり、年となり、それがあなたの人格をつくる。それはあなた自身
のためであると同時に、あなたの子どものためでもある。

 そう、何が不幸かといって、見苦しい親をもった子どもほど、不幸なものはない。

++++++++++++++++++++++++++

●新学力観という、観点(役に立つ教育)※

 「地面に立てたポールを利用して、太陽の高度を調べるにはどうしたらよいか。図解し
て説明せよ」という問題がある。

文部省が実施した「新学力テスト問題」の一つだが、中学一年生での正解率は、たった
の一〇・四%(九九年)。しかしこんなことは、教育が始まる以前から、人間には常識だ
った。昔の人間は、皆、太陽の位置や影の長さで時刻を知った。今の子どもたちは、そ
んなことも知らないのかということにもなるし、裏を返せば、今の教育は一体、何を教
えているのかということにもなる。

 教育の基本は、「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝え
ること」ではないのか。そういう視点がないと、受験教育に代表されるように、教育がた
だ単なる点数稼ぎのための道具にされてしまう。

もっと言えば、教育が人間選別の道具にされてしまう。ちなみに中学生にこう聞いてみ
ればよい。「君たちは、なぜ勉強するか」と。大半の子どもたちは、こう答える。「高校
へ入るため」「大学へ入るため」と。

親にしてもしかり。勉強をしない子どもを叱るとき、「そんなことでは、いい大学へ入れ
ないぞ」と叱ることはある。しかし「将来、必要な知識が身につかないぞ」とは言わな
い。こうした教育がさらにいびつになると、幼稚園でかけ算の九九を暗記させたり、漢
字の読み書きを教えたりするようになる。

 一方、これは当然のことだが、子どもたちはその必要性を感じたとき、実に生き生きと
学習し始める。私はときどき、「お金儲けごっこ」をするが、そのときもそうだ。それはこ
うして遊ぶ。

 まず子どもたち(年長児)に、紙で作ったお金を渡す。そしてそれで折り紙を買わせる。
大小さまざまな大きさの折り紙があって、それぞれ値段が違う。子どもたちはその買った
折り紙で、いろいろなものを作る。絵を描く子どももいる。

で、それができたら、今度はこちら側(教師)が、そのできたものを買いあげてあげる。
じょうずにできたのは、高い値段で。そうでないのは、安い値段で。あとはこれを繰り
返す。ときどき、ほかの子どもが作ったものを、別の子どもに売ってあげることもある。

二〇円で買いあげたものを、四〇円で売りつけたりすると、子どもたちは「ずるい、ず
るい」と言うが、「これが資本主義の原理だ」などと、わざと難しい言葉で言ってやると、
たいてい静かになる。さらに慣れてくると、子どもたちどうしで、ものの売買をし始め
るようになる。

 こうした動機づけがあると、あとは放っておいても、子どもたちは自ら、足し算や引き
算をするようになる。多い少いの判断も、そして損得の判断もできるようになる。さらに
「労働することの喜び」もわかるようになる。

 文部省の新学力観では、「知識の獲得量ではなく、自分で考え、表現する力を重視する」
となっている。私はこれには大賛成だが、ただし一言。

こういう指導が全国一律になされるところにも、問題がある。中央官僚の一声で、全国
の先生たちが、同じように行動する。それこそまさに全体主義ではないのか。私はむし
ろそちらのほうを心配する。

(2)今日の特集  **************************

●娘の非行

 静岡県F市のKMさんから、こんな相談が届いた。

「こんにちは。はじめてメールを出します。

去年、F市での先生の講演を聞いたものです。

相談というのは、小学6年生の娘のことです。ほかに、中学3年生の兄と、小学4年生
の弟がいます。

その小学6年生の娘には、盗癖があります。部屋の中に、買い与えたものでないものが、
よくあります。たいていは小物ですが、ときどきベッドの上に、無造作に置いてあるこ
ともあります。

そこで『どこで手に入れたの!』と問いつめるのですが、ウソにウソを塗りかためるよ
うなことばかりを言います。本人が白状するまでに、1時間とか、それくらいの時間が
かかることがあります。

私といっしょに買い物に行っても、その間に、さっと万引きをしたりします。

それを知ったとき、体中からガクガクと力が抜けていくのを感じました。私はそのつど、
何度も、繰りかえし、『それは悪いこと。してはいけないこと』と言って聞かせるのです
が、まったく効果がありません。

 そのときは涙をこぼしながら、『ごめんなさい』とか、『もうしない』とか言うのですが、
しばらくすると、また同じことを繰りかえします。

 昨日も、娘の机の中を見たら、女の子がほしがるような小物が、どっさりと出てきまし
た。もう私は、どうしたらいいか、わかりません」と。

【心身症としての盗癖】

 ストレスが日常的につづくと、子どもには、さまざまな変調症状が現れる。その一つが
心身症であり、さらにその一つが、行為障害である。KMさんの子どもがもつ、盗癖も、
それに含まれる。

 万引きのほか、親のお金を盗んで使う、親の通帳から引き出して使う、家の金庫から盗
んで使うなどがある。

 行為障害の特徴は、それが「障害」と呼ばれることからもわかるように、本人自身の意
思ではコントロールできないということ。その行為をコントロールしようとする力よりも、
それをすることによって得られる快感を求める力のほうが、優勢になる。

 似たような行為障害に、ムダ買い、虚言癖、収集癖、非行、集団非行などがある。

 こうした行為障害、もしくはそれに似た行為が見られたら、鉄則はただ一つ。「今の状態
を、それ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる」(重要)。

 KMさんのケースもそうだが、こういう子どもの行為に直面すると、たいていの親は、
あわてる。そしてそのときを最悪の状態と思い、子どもをきびしく叱ったり、説教したり
する。

 しかしその状態が最悪と考えてはいけない。その下には、さらに別の底がある。これを
私は「二番底」と呼んでいる。KMさんのケースで考えるなら、今は万引き程度ですんで
いるが、この状態をこじらせると、家出、外泊、集団非行へと進んでいく可能性は、じゅ
うぶんある。

 さらに二番底の下には、三番底がある。KMさんを少しおどして恐縮だが、小学6年生
の女の子というのは、扱い方をまちがえると、さらにその三番底へ落ちていく。非行から、
不純性交、妊娠、中絶……と。

 一度、その悪循環のクサリにからまれると、「まだ前のほうがよかった……」ということ
を、繰りかえしながら、すべてが悪いほうに向い始める。

 今のKMさんには、耳を疑うような言葉かもしれないが、私は、あえてこう言いたい。

 「万引きなんて、何でもないですよ。一、二度、補導されるようなことがあるかもしれ
ませんが、そのときは、頭をさげて謝れば、それですみますよ。これは若い人の熱病のよ
うなもの。みんな経験しますよ」と。

【もっと大きな問題】

 実は、こうした子どもの行為障害の裏には、もっと大きな問題が隠されている。……と、
みる。

 KMさんのケースでは、すでに親子の間に、修復しがたいほどの、キレツが入り始めて
いる。その可能性はじゅうぶん、ある。子どもへの不信感。不安、心配。そういったもの
が、混然となって、今の子どもの症状をつくっている。

 子どもは、上下に兄弟がいる、そのまん中の子どもということになる。公式な調査によ
っても、まん中の子どもは、いつも、愛情に飢えた状態になっていることが知られている。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、本当にそうか。一度、このあたりを冷静に
考えてみてほしい。

 つぎに、KMさんは、子どもを長い時間をかけて説教するというが、その説教というの
は、子どもの将来や、子どもの心を考えた説教かどうかということを、反省してみてほし
い。ひょっとしたら、KMさんは、自分の不安や心配を、ダイレクトに子どもにぶつけて
いるだけではないのか。

 さらに疑ってみてほしいのは、KMさんと、その子どもとの相性の問題である。ひょっ
としたら。まん中の子どもが生まれたときから、何か、大きなわだかまりがあったかもし
れない。

 経済問題、夫婦問題など。何かにつけて、不安先行型、心配先行型の子育てを重ねてき
た可能性もある。もっとはっきり言えば、KMさんは、その子どもを信じてこなかった。
今も信じていない。

 私の息子たちも、みな、ワイフのサイフや、ときには金庫のカギを盗んで、金庫をあけ、
お金を使っていた。息子たちが中学生や高校生にかけてのことだった。

 しかし私は、1、2度、叱った記憶はあるが、それ以上、叱ったことがない……という
か、あとは無視。お金の管理をしっかりすることで、対処した。

 理由は、簡単。私自身も、そうして子どものころ、親のお金を盗んで使ったことがある
からだ。つまりKMさんには、どこかそういうおおらかさが欠けるように思う。あるいは、
さらにひょっとしたら、KMさんは、本物の母親を知らないのかもしれない。だから今、
娘という(女の子)の子育てに、てこずっている可能性が高い。

 KMさん、あなた自身の母親は、心豊かで、いつもあなたをおおらかに包んでいただろ
うか。あるいは反対に、あなたとあなたの母親は、いつも、断絶状態になかっただろうか。

 私がここでいう「もっと大きな問題」というのは、そういう意味である。

【では、どうするか】

 一点だけ気になるのは、詳しく書かれていないのでよくわからないが、収集癖もあるの
ではないかということ。万引きをしたり、お金を盗んで買ってくるものが、いつも同じも
のであれば、この収集癖を疑ってみたらよい。

 つまり(万引き)が主なのか、それとも、(ほしいものがあるから万引きする)が主なの
か、という点である。

 収集癖の特徴は、無意味なものを、繰りかえし買い求めたり、集めたりすること。値段
には関係なく、高価なものもあれば、安いものもある。同じものを、何十個も買い求める
ことが多い。

 もしそうなら、性格がかなり内閉、もしくは自閉し始めているとみてよい。二番底とし
ては、引きこもり、家庭内暴力が考えられる。

 どちらにせよ、「今の状態を、今以上に悪化させないことだけを考えて、半年、一年単位
で様子をみること」(重要)。

 あせってなおそうと思って、なおるものではないし、あせればあせるほど、逆効果。あ
なたの子どもは、あなたが望む方向とは別の方向に、どんどんと進んでしまう。叱るとし
ても、子どもがウソをつくまで、追いこんではいけない。ときには、あるいはほとんどの
ばあい、そのウソを信じたフリをして、その場をすます。

 それともう一つ。

 いくら疑っても、子どもの部屋へ、勝手に入ってはいけない。いわんや机の中を勝手に
見てはいけない。子どもの自尊心をキズつけることになる。小学6年生という年齢は、そ
ういう年齢である。

 子どもというのは、悪いこと(サブカルチャ)も経験しながら、成長する。悪いことを
させろというのではない。しかし大切なことは、悪いことをさせないことではなく、悪い
ことをしたら、そのつど、それを削っていくということ。

 そういう大らかさが、子どもを大きくする。

 あなたも、もう子どもなんかにかまっていないで、もう少しおおらかに生きてみたらど
うだろうか。少し過干渉、過関心になっていないかを反省してみたらよい。神経質、育児
ノイローゼになっていないかを、反省してみたらよい。
(040511)

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 いくつか、参考になりそうな原稿を張りつけておきます。

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●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、
どんなにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶもの
は、その(わずらわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人
間が、原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの
頭を、棒か何かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫ら
れる。具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活
動が高まる。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)
が、その人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サ
イトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は
「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

そこで人間は、自分の心を調整するため、(1)攻撃、(2)防衛のほか、つぎの3つの心
理的反応を示す。(3)同情(弱々しい自分をことさら強調して、同情を求めようとする)、
(4)依存(ベタベタと甘えたり、幼児ぽくして、相手の関心をひく)、(5)服従(集団
の長などに、徹底的に服従することで、居心地のよい世界をつくる)、ほか。

(1)攻撃というのは、自分の周囲に攻撃的に接することにより、居心地のよい世界をつ
くろうとするもの。具体的には、つっぱる子どもが、それに当たる。「ウッセー、テメエ、
この野郎!」と、相手に恐怖心をもたせたりする。(自虐的に、自分を攻撃するタイプもあ
る。たとえば運動を猛練習したり、ガリ勉になったりする。)

(2)防衛というのは、自分の周囲にカラをつくり、その中に閉じこもることをいう。が
んこになったり、さらには、行動が自閉的になったりする。症状がひどくなると、他人と
の接触を避けるようになったり、引きこもったり(回避性障害)、家庭内暴力に発展するこ
ともある。

大切なことは、こうした心の変化を、できるだけその前兆段階でとらえ、適切に対処する
ということ。無理をすれば、「まだ、前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、
症状は、一気に悪化する。症状としては、心身症※がある。

こうした心身症による症状がみられたら、家庭は、心をいやす場所と考えて、(1)暖かい
無視と、(2)「求めてきたときが与え時」と考えて対処する。「暖かい無視」という言葉は、
自然動物愛護団体の人が使っている言葉だが、子どもの側から見て、「監視されていない」
という状態をいう。また「求めてきたときが与え時」というのは、子どもが自分の心をい
やすために、何か親に向かって求めてきたら、それにはていねいに答えてあげることをい
う。

++++++++++++++++++++

心身症診断シート

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、心身症という。脳
の機能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。

ふつう子どもの心身症は、(1)精神面、(2)身体面、(3)行動面の三つの分野に分けて考え
る。

 精神面の心身症……精神面で起こる心身症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖
症、赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こ
わがる)、不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだり
する)、不安発作(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからない
ことを言ったり、グズグズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほ
かに感情面での心身症として、赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、か
んしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の心身症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフ
ラフラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がない
まま尿もらす)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明
の慢性的な疾患(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、
口臭、脱毛症、じんましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、
チックなど。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものい
じり、ものをなめる、手洗いグセ(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、
あがり症、失語症、無表情、無感動、涙もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的
には精神面での心身症に先だって、身体面での心身症が現われることが多い。

 行動面の心身症……心身症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われ
る。不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲
不振、過食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こ
ることが多い。生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服
装で出歩いたりするなど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収
集クセ、かみつき、緩慢行動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火
遊び、散らかし、いじわる、いじめなど。

こうして書き出したら、キリがない。要するに心と身体は、密接に関連しあっていると
いうこと。「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この心身症を疑ってみ
る。

ただし一言。こうした症状が現われたときには、子どもの立場で考える。子どもを叱っ
てはいけない。叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。心身症は、ま
すますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

+++++++++++++++++++++++

●子どもの友だち

Q このところ、うちの子が、よくない友だちと交際を始めています。
交際をやめさせたいのですが、どう接したら、いいでしょうか?(小六男)

A イギリスの教育格言に、『友を責めるな、行為を責めよ』というのがある。これは子ど
もが、よくない友だちとつきあい始めても、相手の子どもを責めてはいけない。責めると
しても、行為のどこがどう悪いかにとどめるという意味。

コツは、「○○君は、悪い子。遊んではダメ」などと、相手の名前を出さないこと。言う
としても、「乱暴な言葉を使うのは悪いこと」「夜、騒ぐと近所の人が迷惑をする」と、
行為だけにとどめる。そして子ども自身が、自分で考えて判断し、その子どもから遠ざ
かるようにしむける。

 こういうケースで、友を責めると、子どもに「親を取るか、友を取るか」の二者択一
を迫ることになる。そのとき子どもがあなたを取れば、それでよし。そうでなければ、
あなたとの間に、深刻なキレツを入れることになる。さらに友というのは、子どもの人
格そのもの。友を否定するということは、子どもの人格を否定することになる。

 またこういうケースでは、親は、そのときのその状態が最悪と思うかもしれないが、あ
つかい方をまちがえると、子どもは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった…」ということ
を繰り返しながら、さらに二番底、三番底へと落ちていく。

よくあるケースは、(門限を破る)→(親に叱られる)→(外泊するようになる)→(ま
た親に叱られる)→(家出する)→(さらに親に叱られる)→(集団非行)と。
が、それでもうまくいかなかったら…。そういうときは、思いきって引いてみる。相手
の子どもを、ほめてみる。「あの○○君、おもしろい子ね。好きよ。今度、このお菓子、
もっていってあげてね」と。

 あなたの言ったことは、あなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。それを
耳にしたとき、相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、よい子を演ずるようになる。
相手の子どもを、いわば遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも、高等技術に属す
る。あとはそれをうまく利用しながら、あなたの子どもを導く。

 なおこれはあくまでも一般論だが、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)
を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな人間になることがわかっている。
むしろこの時期、無菌状態のまま、よい子(?)で育った子どもほど、あとあと、おとな
になってから問題を起こすことが多い。

だから、親としてはつらいところかもしれないが、言うべきことは言いながらも、今の
状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる。あせりは禁物。短気を起こ
して、子どもを叱ったり、おどしたりすればするほど、子どもは、二番底、三番底へと
落ちていく。

+++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。

動物はこの逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全を確保し、そして心をいやす。人
間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあ
いには、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ
逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱っ
たりしてもいけない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわ
かると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱ら
れると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年
長児)は、犬小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上
に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」というこ
とになる。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんど
ん遠ざかっていくという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。

D君(小一)は、おさげの中に、野菜まで入れて、家出した。これに対して、目的のあ
る家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、もし目的のわから
ない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければならない。
過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家庭騒
動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で
調べる人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになる
から注意する。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにす
る。たとえ相手が幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなた
はあなた」というものの考え方を育てる。

 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持
ちものを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子ど
ものカバンの中など、のぞけるものではない。

私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があって
も、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、
いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子
どものころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。
またプライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。

それはもう、理屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけ
られるかのような不快感だ。それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをして
はいけない。たとえ親子でも、それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。
(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育てポイント
 
●叱っても、威圧しない

 『威圧で閉じる、子どもの耳』と覚えておく。威圧すれば、子どもの耳は閉じてしまい、
一度、その状態になると、あとは叱っても意味がない。

よく親や先生に叱られて、しおらしくしている子どもがいる。しかし反省しているから
そうしているのではなく、こわいから、そうしているだけ。中には、叱られじょうずな
子どもがいる。先生が何か叱りそうになると、パッと土下座して、「すみません」と、床
に頭をこすりつけるなど。多分、親の前でもそうしているのだろう。が、このタイプの
子どもほど、何も反省していない。その場をのがれたいがため、そしているだけ。

 子どもを叱るときは、恐怖心を与えてはいけない。言うべきことを淡々と言い、あとは
時間をまつ。


●「核」攻撃はしない

 子どもを叱るときでも、その子どもの人格の根幹、つまり「核」にふれるような攻撃は
してはいけない。「あなたはやっぱりダメな子ね」「あんたなんか、いないほうがよい」な
ど。

 子どもにもよるが、核に近ければ近いほど、子どもはキズつく。親は、励ましたり、自
覚させるためにそう言っているだけと思っているかもしれないが、受け止める子どものほ
うは、そうではない。私も子どものころ、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」とよく言わ
れた。しかしその言葉ほど、私を追いつめる言葉はなかった。つまりそれが私にとっては、
「核攻撃」だった。


●恐怖感は禁物

 恐怖感、とくに極度の恐怖感は、子どもの心をゆがめる。はげしい夫婦げんか、暴力、
虐待、育児拒否など。親は「たった一度」と思うかもしれないが、そのたった一度で、大
きな心のキズを負う子どもは、いくらでもいる。

 ある女の子(二歳)は、はげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役のひとりごとを
言うようになってしまった。母親は「気味が悪い」と言ったが、その女の子は、精神その
ものが、分裂してしまった。

 また別の男の子(四歳児)は、お湯をこぼしたことを、祖父にはげしく叱られた。それ
が原因で、その男の子は、自閉症を誘発してしまった。

 こうしたケースで共通しているのは、「恐怖」である。親や祖父は「叱っただけ」と思う
かもしれないが、子どもは、それを「恐怖」ととらえる。あくまでも子どもの立場で考え
る。


●引き金を引かない

 インフルエンザは、インフルエンザの菌が原因で起こる。同じように、心の病気は、シ
ョックが原因で起こる。だれでも、その条件さえ整えば、風邪をひく。同じように、どん
な子どもでも、ショックを与えると、心の病気を引き起こす。つまり心の病気にかからな
い子どもは、いない。そういう前提で、子どもの心は考える。

 先生に叱られたのが原因で、チックや夜尿症になる子どもは、いくらでもいる。迷子を
経験したあと、分離不安になってしまう子どもも多い。そんなわけで子どもに与えるショ
ックには、注意する。とくに満四・五歳前の子どもには、注意する。

 ほとんどの親は、ショックを与えながら、その与えたことにすら気づかないでいる。よ
くある例は、泣き叫ぶ子どもを無理に車に押し込め、学校へつれていくケース。親は「不
登校児になったらたいへん!」と思ってそうするが、そのたった一度のショックこそが、
子どもを本物の不登校児にしてしまう。そしてそのあと、「A君が悪い」「先生が悪い」と
言い出す。(もちろんそうでないケースも多いが……。)

 どんな子どもにも、心の問題は潜んでいる。問題のない子どもは、いない。だから引き
金は引かない。


●親の情緒不安定は、百害のもと

 何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。長い時間をかけて、子ども
にさまざまな影響を与える。もっとも、親自身が、それに気づいていれば、まだよい。大
半の親は、自分がそうであることに気がつかないまま、それを繰り返す。

 子どもの側からみて、とらえどころのない親の心は、子どもの心を、かぎりなく不安に
する。その不安がつづくと、子どもは心のよりどころをなくす。「よりどころ」というのは、
絶対的な安心感を得られる場所のこと。「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意
味。子どもは、この絶対的な安心感のある場所があってはじめて、やさしく、おだやかな
心をはぐくむことができる。

 もしあなたが自分自身の不安定さを感じたら、基本的には、子育てから遠ざかるのがよ
い。「今の私は、おかしい」と感じたら、なおさらである。これは子育ての問題というより
は、親自身の問題ということになる。 


●家庭教育は、心づくり

 子ども(幼児)にものを教えるときは、何をどう教えたかではなく、また何をどう覚え
たかではなく、何をどう楽しんだかを考えながら、する。そういう意味で、子どもの家庭
教育は、すべて、「心づくり」と考える。「楽しい」「楽しかった」という思いが、やがて子
どもを伸ばす原動力となり、子どもを前向きにひっぱっていく。

 よく子育ては、「北風と太陽」にたとえられる。北風というのは、威圧、強制、無理など
が日常化した育て方をいう。一方、太陽というのが、ここでいう「心づくり」をいう。家
庭学習では、太陽がよいに決まっている。

 こう書くと、「それではまにあいません」という親がいる。「心づくりをしていると、遅
れてしまう」と言うのである。しかしそれも子どもの「力」のうち。そういうおおらかさ
が子どもを伸ばす。子どもの学習には、ある程度の無理はつきものだが、コツは、無理を
加えるにしても、そのおおらかさを、食いつぶしてしまわないこと。ほどほどのところで、
あきらめ、ほどほどのところでやめる。

 子どもがあなたと勉強らしきことをしたあと、「ああ、楽しかった」と言えば、それでよ
し。そうでなければ、勉強のやり方そのものを、反省する。


●神経疲労に注意

 子どもは、神経疲労には、たいへんもろい。それこそ、昼間、一〇分程度神経をつかわ
せただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。五分でも、疲れる子どもは、疲れる。病院で診察
を受けただけで疲れる子ども、おけいこ塾の見学に行っただけで疲れる子ども、先生にき
つく叱られただけで疲れる子どもなど。決して、安易に考えてはいけない。

 子どもは神経疲れを起こすと、わけもなくぐずったり(マイナス型)、暴言を吐いたり、
暴れたりする(プラス型)。吐く息が臭くなったり、腹痛や下痢などを繰り返す子どももい
る。どちらにせよ、そういう形で、自分の中にたまったストレスを発散させようとする。
だからそれを悪いことと決めてかかって、子どもをおさえつけるようなことはしてはいけ
ない。

 もし子どもが神経疲れの症状を見せたら、ひとり、のんびりとくつろげるような環境を
用意する。あれこれ気をつかうのは、かえって逆効果になるので注意する。あとはスキン
シップを多くして、CA分、MG分の多い食生活に心がける。


●あきらめることを恐れない

 子どもというのは、親が何かをすれば伸びるというものではない。しかし何もしなくて
も、伸びる。しかし親があせればあせるほど、実際には、逆効果。かえって伸びる芽をつ
んでしまうこともある。しかし親には、それがわからない。「まだ何とかなる」「うちの子
はやればできるはず」と、子どもを追いたてる。で、結局、行き着くところまで、行く。
また行かないと、親も気がつかない。

 こわいのは、子どもには、二番底、三番底があるということ。たとえば進学希望校にし
ても、B中学からC中学へレベルを落としたとする。そのとき、親は、C中学へレベルを
落としたことで、子どもを責める。しかしこの状態で、子どもを責めれば、今度は、D中
学、E中学へと落ちていく。実際、こういうケースは、多い。

 が、親が、「まあ、こんなものだ」とあきらめたとたん、その時点を起点として、子ども
は伸び始める。だから、子どもの勉強では、あきらめることを恐れてはいけない。もちろ
んだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろとか、子育てを忘れろということで
はない。「あきらめる」ということは、「受け入れる」ということ。つまりその度量の広さ
こそが、親の「愛」の深さということになる。

(3)心を考える  **************************

お休みします

(4)今を考える  **************************

●一日で、35人!

 現在、電子マガジンとして、Eマガ(Eマガ社版)と、メルマガ(BIGLOBE社版)
から、2誌を発行している。

 記事の内容は、ほとんど同じだが、メルマガのほうは、1週間先までしか、発行の予約
ができない。しかも1回に配信できる分量が少ない。そのためいつも、2つに分けて配信
している。

(Eマガのほうは、一か月先まで、配信予約できる。それに配信できる分量も、メルマ
ガの2倍程度もある。それでどうしても、Eマガのほうを、優先してしまう。)

 時間にすれば、1分足らずの作業ですむが、(実際には、30秒前後)、毎回、2つに分
けて配信するというもの、長くつづけていると、めんどうに感ずる。

 それで、メルマガのほうは、ときどき、配信をサボっている。読者が、あまりふえなか
ったということもある。

 が、……である!

 04年5月9日は、私にとって、記念すべき日になった。この日、メルマガのほうは、
たった一日で、読者の数が、ナ、何と、35人もふえたのである。35人だぞ!

 こんなことは、電子マガジンを発行して2年以上になるが、はじめてのことである。

 ふつう、私のマガジンのばあい、1回発行すると、読者が2〜4人、ふえる。が、5人
ふえることは、めったにない。今までの最高記録は、7人である。

 しかしこのところ、低調。まったくの低調。Eマガについて言うなら、この1か月近く、
ほとんどふえなかった。(この1か月で、やっと10人前後。発行回数は、13、4回。)

 だから「35」という数字は、私にとっては、ありえない数字ということになる。「何が
あったのだろう?」とワイフに聞くと、「どこかで、だれかが宣伝してくれたんじゃないの
オ……?」と。

 そうかもしれない。そうでないのかもしれない。

 ただEマガのほうが、ここにも書いたように、頭打ちというか、低調になってきていた
ので、うれしかった。と、同時に、こう心に決めた。

 これからも、メルマガ(BIGLOBE社版)を、がんばって発行していくぞ、と。

【メルマガ読者のみなさんへ……】

 5月8日から、9日にかけてマガジンの購読申し込みをしてくださった皆さんへ、どう
も、ありがとうございました。本当に、うれしかったです。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
                     
【読者の方へ、お願い】

●賛助会のお願い
 いつもこのマガジンをご購読くださり、ありがとうございます。

 こうした執筆活動をつづけるにあたり、みなさまからの財政的援助が必要です。
 できれば、「まぐまぐプレミア版有料版(月額200円)をご購読くださるか、
賛助会にご入会ください。よろしくお願いします。

 もちろん今までどおり、無料版マガジンをご購読くださっても結構です。
 これからも末永く、よろしくお願いします。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page323.html

●講演会のお願い
 また今年度から、静岡県教育委員会の派遣講師に選任されました。私を公的機関の
 講師としてお招きくださるときは、県のほうから補助金が支給されます。

 みなさんの学校で、講演会の講師を考えておられるときは、どうか、一度ご検討
 くださいますよう、お願いします。

 詳しくは、私のホームページの中に、書いておきました。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page291.html


●BIGLOBE版、メルマガご購読のみなさんへ

 現在、メルマガのほうは、不定期発行になっています。定期的にご購読して
 くださる方は、どうか、Eマガ(無料・TEXT版)もしくは、
まぐまぐプレミア(有料)のほうへ、ご移動ください。

どこかで宣伝していただいているのか、メルマガの読者の方が、このところも
ふえつづけています。ありがたいことですが、一方で、申し訳なく思っています。

 Eマガのほうは、以前と同じように、月・水・金と、週3回、発行しています。

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 14日(No.422)
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http://bwhayashi.cool.ne.jp/page060.html

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(1)子育てポイント**************************

●女子中学生の会話から……

 女子中学生のKさんと、Mさんが、コソコソと何やら話しあっている。その会話の中に
出てきた単語を、ここに収録する。……と、紙に書いてメモし始めたら、ケタケタ笑いな
がら、私に、いろいろ教えてくれた。

 コクル……告白する。
 デニル……デニーズ(レストラン)に行く。
 マクル……マクドナルドに行く。
 カリパク……借りたあと、返さないで、もっていること。
 パクル……盗む。
 シュラバ……自分のまずいところを見られること。
 フタマタ……浮気のこと。二人の異性とつきあうこと。
 チクル……告げ口をする。
 パシリ……下っ端のこと。子分的な人のこと。
 アリガチ……ありえること。
 シカト……無視する。
 ラブな人……好きな人。
 A(エイ)……手を握るつぎの段階。(つぎに、B、Cへと進む。)
 マッチョ……筋肉質の人。
 
 もっとも、知らなかったのは、私だけ。若いお父さん、お母さんなら、ここに書いた程
度のことは、常識として知っているだろう。

 「私、あいつにコクられて、いやだった。だって、フタマタよ。それをXXのヤツ、チ
クってね。あとは、シュラバ。私には、ラブな人、ちゃんといるのよ。私、マッチョは嫌
い。腹筋が、8つに分かれている男なんて、サイテー。頭にきたから、デニルしてね。あ
とは、シカト……」というような、使い方をする。

 あなたも、一度、息子(娘)の前で、そういう話し方をしてみたら、どうだろう。子ど
もに尊敬されるかも……!

++++++++++++++++++++++++

●ヒトシ君(いじめ問題の陰で)

 ヒトシ君(中二)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、
いじめられていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱ
い落書きをされても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでい
ただけだよ」と言っていた。 

 そのヒトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞
で倒れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒトシ君の祖
母から聞いた話だ。

 祖父はヒトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒトシ
君がひげを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、
祖父とヒトシ君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そ
こでのこと。

帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒトシ君は、「高校
に合格しますようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わし
の病気が治るように祈らなかったか」と。そこでヒトシ君はあわてて神社へ戻り、もう
一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒトシ君(実名)」で呼ぶように
なった。とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒト
シ君のような子どももいる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大き
な財産を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そして
いつか、そのことで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そ
ういう人が、しっかりと判断する。愚かな人ばかりではない。

ヒトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内のK高校を卒業したあと、東京の
K大学へと進んでいる。ヒトシ君は、見るからに人格が違っていた。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、
いつどこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、
人はいじめられながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えると
ころでは耐える。

そうでないと、子どもがひ弱になってしまう。今はこういう時代だから、ちょっとした
悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こういう姿勢は、かえって子ど
もから自立心を奪う。

もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめは別である。しかしそれ以前の範囲なら、
一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。親や教師ができることとい
えば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあ
げることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師
にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、親や教師の務
めではないかと、私は思う。


●進学塾VS親(殺伐とした人間関係)

 進学塾の月謝は、平均して二万〜二万五〇〇〇円(月刊「私塾界」九九年)。しかしこの
額では、決してすまない。すまないことは、入塾してみると、わかる。

入会金、教材費、光熱費、模擬テスト代、特訓講座費、補講費などが、「万」単位で、次々
とのしかかってくる。しかも支払いは、銀行振り込み。大半の進学塾は、そういう支払
いをカモフラージュするためにか、「ガクヒ」という名目で引き落とす。親が通帳を見て
も、学校の「学費」なのか、塾の「学費」なのかわからないしくみになっている。まだ、
ある。

どこの進学塾も、夏休みや冬休みの特訓を、定例コースにしている。そういう連絡は前
もって小さな文字で生徒に連絡し、お金は自動的に引き落とす。親が、「特訓授業を申し
込んだつもりはない」と抗議しても、あとの祭り。「今からではキャンセルできません」
と言われる。

 こうした進学塾のやり方は、ほぼどこの塾も同じ。……とまあ、こう書くと、進学塾の
悪どさばかりが目立つが、もともと進学競争の底流では、人間のどす黒い欲望が渦巻いて
いる。「他人を蹴落としてでも……」、あるいは、「他人に蹴落とされる前に……」と親は考
えて、子どもを進学塾にやる。

進学塾はそういう親の心理を、たくみに利用して、それを金儲けにつなげる。現在ある
進学塾の現状は、親と進学塾の、醜い闘いの結果ともいえる。塾の経営者に言わせれば、
「親は信用できない」ということになるし、親に言わせれば、「塾は必要悪」ということ
になる。もともと良好な人間関係が育つ土壌など、どこにも、ない。

 一方、塾には塾の存在意義があると説く人たちもいる。塾こそ、自由教育の砦であると
説く人たちである。事実、すばらしい教育を実践している塾もあるには、ある。しかしそ
ういう塾でも、「教育」と「受験指導」のジレンマの中で、もがき苦しんでいる。

藤沢市在住の塾教師のI氏は、「塾教育は、矛盾と錯覚の連続だ」と結論づけている。矛
盾というのは、今言った、ジレンマをさす。錯覚というのは、「大切でないものを、あた
かも大切なものであると思いこんで、教えることだ」そうだ。具体的には、受験教育そ
のものをさす。

 この進学塾業界も、かつてない不況に見舞われている。少子化に不況。それにエリート
の凋落に見られる価値観の変動。それに中高一貫教育に見られる、制度の改変が急ピッチ
で進んでいる。

そういう中、したたかな進学塾は、対象学年をより低年齢化させ、週二日の授業を、週
三日にふやしたりしている。一方大学受験にまで触手をのばし始めている。金集めを、
さらに巧妙化させている。親たちは、そういう事実を知りながら、「この時期だけだから」
とあきらめる。進学塾は、さらにそれを逆手にとる。

もうそこには、「教育」という概念は、どこにもない。商売、だ。I氏はこうつなげる。
「この世界では、経験など、一片の価値もありません。親に教育論を説いても無駄です。
そもそもそういうものを塾に期待していない。生徒集めのチラシにしても、四色を使っ
たカラフルで豪華なものでないと、生徒は集まりません。子どもは子どもで、レストラ
ン感覚で迎えてあげないと、文句を言う。そういう目でしか、教育をながめていないの
ですから」と。

(2)今日の特集  **************************

【血液型考】

●血液型による性格判断

 いまだに血液型におる性格判断が、堂々と行われている。NHKの番組の中でも、一人
の女性アナウンサーが、こう言った。「私は、O型だから、もともとおっとり型人間です」
(04年5月・朝のワイドショー)と。おかしなことだ。

 私が25歳くらいのときのこと。今から、30年以上も前のことになる。私は、東京に
住む、あるドクターから、本の代筆の依頼を受けた。本の題名は、ズバリ、「血液型、性格
判断」。

 そこでそのあと、私は毎日、図書館通いを始めた。資料集めである。

 そのときのこと。私はこんなことを知った。ここから先は、当時の記憶によるもので、
不正確かもしれない。

(1)血液型性格判断は、戦後、日本のどこかの医師が、最初それを、冗談で口にした。
それに尾ひれがついて、あっという間に、日本中に広がってしまった。

 根拠など、どこにもない。統計学的な調査がされたわけでもない。冗談というより、迷
信。迷信というより、口からのでまかせ。

私は当時、こう考えた。血液は、脳に酸素を送るためのもの。しかしその人の性質や性
格は、脳細胞が決めるもの。血液の型など、関係ない、と。

 血液型といっても、100種類以上ある。ABO式血液型というのは、その中の一つに
すぎない。つまりいくら書けと言われても、理性をねじることはできない。書ける原稿と、
書けない原稿がある。私はそのドクターにこう言った。「血液型による性格判断はウソとい
うような本なら書ける。しかし血液型による、性格判断についての本は書けない」と。

 実際には、その代筆の話は、そのままうやむやになってしまった。

 で、それから30年。この日本では、血液型による性格判断は、むしろ常識のようにな
ってしまった。上はおじいちゃん、おばあちゃんから、下は、幼児まで……。

 しかし、こんなことは常識で考えればよい。

 乾電池をかえたくらいで、ラジオの音質が変わるようなことはあるだろうか。電源をか
えたくらいで、パソコンの性能が変わるようなことはあるだろうか。が、そんなことはあ
りえない。

 それと同じように、血液型で、人間の性質や性格が変わるようなことはありえない。だ
から、もうこんなバカな方法による性格判断はやめよう。私は毎日、子どもを見ている。
しかし血液型で子どもを見たことはない。また子どもの性質にせよ、性格にせよ、血液型
でちがうはずもないし、また血液型など、何の手がかりにもならない。

●反論 

 おもしろいのは、「O型の人は、顔が丸く……、A型の人は、あごがとがっていて……」
という意見もあるということ。「O」とか「A」とか、英語のアルファベットの形に似せて、
顔の形まで、決めつけている。(ウソだと思うなら、インターネットで、「血液型 性格 判
断」を検索してみればよい。)

 で、最近では、あまりにも、この血液型性格判断が、広く流布してしまったため、「そう
でなない」ということを立証するための研究(?)も、さかんになされている。(これもイ
ンターネットで検索してみれば、わかる。)

 しかし頭ごなしに否定ばかりしていてはいけないので、もう少し具体的に考えてみよう。

●当たる確率は、50%!

 血液型によって性格判断ができるためには、つぎの二方向性がなければならない。

(1)血液型による性格分類
(2)性格による血液型判定

 つまり。まず血液型によって、どのような性格をもつかが、分類されなければならない。
たとえば、A型の人は、きちょうめん。B型の人は、ずぼら。O型の人は、おおらか。A
B型の人は、神経質とか。

 つぎに、今度は反対に、その人の性格を見ながら、その人の血液型が特定できねばなら
ない。「あなたは、きちょうめんだから、A型」「あなたはずぼらだから、B型」と。

 この二方向性が一致したとき、はじめて、「血液型による性格判断は正しい」と実証され
たことになる。

 そこでまず、(1)血液型による性格分類だが、そもそも「性格」とは何か、その定義が
むずかしい。

 つぎに、血液型による性格の分類、つまりこれを心理学の世界では、ステレオタイプ化
というが、それがむずかしい。「オーストラリア人は、陽気」「パキスタン人は、押しが強
い」というのが、それにあたる。

さらに「きちょうめんとは何か」「ずぼらとは何か」と、それぞれの性格についての、定
義もされなければならない。

 こうした性格というのは、同じ故人でも、日々の生活の中でも、めまぐるしく変化する。
そのときの疲労度や、対象物によっても変化する。もちろん接する相手によっても、変化
する。環境によっても、変化する。会社での仕事では、たいへんきちょうめんな人が、家
に帰ってからは、ずぼらになるというケースは、少なくない。

 かりにこの性格分類ができたとしても、(2)今度はその人の性格を見ながら、反対に、
その人の血液型が判定できねばならない。

 「あなたは、おおらかな性格だから、O型」「当たり!」と。

 しかしここで確率の問題がからんでくる。

 つなみに日本人の血液型は、つぎのようになっている。

 A型 ……38・1%
 B型 ……21・8%
 O型 ……30・7%
 AB型……9・4%

 つまり、「あなたはA型か、O型ね」と言えば、確率からして、約7割(68・9%)は、
当たることになる。しかし、それだけではない。人間の心には、大きな落とし穴がある。

●自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)

 だれかがあなたに向って、「あなたはO型だから、おおらかね」と言ったとする。すると
あなたは、血液型による性格判断を信ずるあまり、何かにつけて、おおらかであろうとす
る。

 つまり、だれかに言われたような性格を、自らつくりあげてしまう。そして自ら、「やは
り血液型による性格判断は正しい」と、思いこんでしまう。これを心理学の世界では、「自
己成就的予言(self-fulfilling prophecy)」という。

 わかりやすく言えば、予言の内容にそって、その内容を自ら、つくりだしてしまうこと。

 たとえばある人が、占い師に、「20XX年の7月に、あなたは交通事故にあう」と言わ
れたとする。

 そのとき、理性のある人は、「そんなバカなことがあるか」と自分に言って聞かせ、それ
を無視する。しかし中には、それができない人がいる。そして「7月に交通事故にあう」
と信ずるあまり、その7月に、自ら交通事故を起こしてしまう。こういうケースは、カル
トの世界では、よく観察される。

 よく知られた事例としては、あのO真理教による、アルマゲドン(世界終末)事件があ
る。あの教団は、「世界が終末を迎える」と信ずるあまり、自分たちで、あちこちにサリン
という猛毒をまき、その終末を演出しようとした。

 わかりやすく言えば、中には、迷信にあわせて、その迷信にそった事実を、自らつくっ
てしまう人もいるということ。そしてその自らつくった事実をもとに、さらにその迷信を
肯定してしまう。血液型による性格判断も、その一つと考えてよい。

●結論

 概して言えば、血液型による性格判断を信ずる人というのは、迷信を信じやすい人と考
えてよい。

 手相、姓名判断、占い、まじないなど。その中の一つとして、血液型による性格判断が
ある。

 しかしこうした方向性というのは、自己意識が確立し始める、小学3、4年生あたりか
らはっきりしてくる。この時期に、迷信を信じやすい子どもと、そうでない子どもに分か
れる。それまでの子どもでも、よく観察すれば、その方向性を知ることができる。

 そこで大切なことは、この時期までに、いかにして子どもの中に、論理性を育てていく
かということ。「なぜ?」「どうして?」の会話を繰りかえしながら、おかしいものは、お
かしいと思う心を育てていく。

 ここから先は、それぞれの親の判断ということになるが、少なくとも、論理的なものの
考え方を育てるためには、この時期までの子どもには、いわゆる迷信は、話さないほうが
よい。子どもがそれらしきことを口にしたときは、「そんなバカなことはない」と、きっぱ
りと言い切る。そういう姿勢が、子どもの中の方向性を、修正する。

 ただし、「夢」と、「迷信」は区別して考える。「サンタクロースがクリスマスに、プレゼ
ントをもってくる」というのは、夢。「西の空に、カラスを見たら、人が死ぬ」というのは、
迷信ということになる。

 子どもの夢は夢として、大切に考える。

【追記】

 私の父親は、M会という、どこかカルト的な教団の信者だった。一方、私の母は、今で
もそうだが、迷信のかたまりのような人だ。

 そんなわけで、私は子どものころ、ある時期までは、迷信をよく信じた。しかし今から
思うと、そういう意味では、そういう両親をもったがゆえに、かえって迷信に反発したの
かもしれない。私の父親や母親は、私にとっては、いわゆる反面教師になった?

 小学3、4年を境に、私はむしろ、そうした迷信を、ことごとく否定するようになった。
その結果が、今の私ということになる。

 よく覚えているのは、父親がメンバーになっていたM会での会合のときのこと。だれか
が、「親の因果は子にたたり……」というような話をしていた。それについて、その男が、
突然私に向って、「そこのぼうや、君は、どう思うかね?」と聞いた。

 私は、そのとき、父親につれられて、その会の末席で、座ってその話を聞いていた。私
が小学3年生か、4年生のときのことだった。

 私はとっさの判断で、「そんなバカなことはない」と、思わず口走ってしまった。

 そのあとのことはよく覚えていないが、その男が、どこか怒ったような口調で、何やら
話しつづけたことだけは、記憶のどこかに残っている。

 たしかにこの世界には、理屈だけでは、説明できないことや、理解できないことは多い。
しかしそれらは、人間の能力の限界によるものであって、決して、超自然的な力によるも
のではない。言いかえると、迷信を口にする人は、自らの能力の限界を認め、理性の敗北
を認める人といってよい。

 だから……。結論へと飛躍するが、血液型による性格判断は、もうやめよう。本来なら、
こんなことは、論ずることだけでも、時間のムダ。しかし一度は、結論を出しておきたか
った。だからここに書いた。
(040513)

【追記2】

 こんなおもしろい話を聞いた。何かのビデオ映画の中での会話だが、一人の男が、こう
言った。

 天国はあるかというテーマについて……。

 「ある宇宙飛行士が、宇宙に行ってみたが、天国はどこにもなかったと言った。それに
答えて、ある脳外科医がこう言った。『私は、ある哲学者の脳ミソを開いてみたことがある
が、思想らしきものは、どこにもなかった』と」

 つまりその宇宙飛行士は、宇宙へ出てみたが、天国はなかった。だから天国はないと言
った。

 それに答えて、「見えないから、ない」ということにはならないという意味で、脳外科医
はこう言った。

 「ある哲学者の脳ミソを開いてみたが、思想らしきものはなかった」と。つまり、「だか
らといって、その哲学者には、思想がないとは言えない。それと同じように、天国はない
とは言えない」と。

 一見、おもしろい論理だが、この話は、どこかおかしい。私も、瞬間、「なかなかうまい
こと言うな」と感心した。

 が、宇宙飛行士が、宇宙へ出てみたが、天国はなかったというのは、事実。一方、脳ミ
ソの中に、思想らしきものがなかったというのは、事実ではない。つまり事実を、事実で
ないものと対比させて、その事実をねじまげている。

 脳ミソの中には、思想がつまっている。無数の神経細胞から、それぞれこれまた無数の
シナプスがのび、それらが複雑に交叉しながら、その人の思想を形成している。もしそう
したシナプスを解読する方法が見つかれば、脳ミソを開いた段階で、その人の思想を読み
取ることができるようになるかもしれない。

 脳ミソの中には、事実として、思想がある。宇宙に天国があるかいなかという話とは、
まったく別の話なのである。

 こうした一見論理的な非論理は、日常会話の中でも、よく経験する。

 ある人が、私にこう言った。

 「林君は、霊の存在を否定するが、しかし電波はどうなのかね。テレビ電波なら、テレ
ビ電波でもいい。林君は、その電波を見ることができるかね。見ることができないだろ。
が、だからといって、電波を否定しないよね。同じように、今、見えないからといって、
霊の存在を否定してはいけないよ」と。

 この論理も、事実を、事実でないものと対比させて、その事実をねじまげている。ある
いはその反対でもよい。事実でないものを、事実と対比させて、事実でないものを、あた
かも事実であるかのように話している。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、こんなことも言える。

 「テレビ電波は、人間の目では見ることはできない。しかし存在する。同じように、人
間の運、不運も、人間の目では見ることはできないからといって、否定してはいけない」
と。

 いろいろに応用(?)できるようだ。
(040513)

●迷信は、下劣な魂の持ち主たちに可能な、ゆいいつの宗教である。(ジューベル「パンセ」)


(3)心を考える  **************************

●親がボロを出すとき

 その人の人間的な進歩は、18、9歳で、止まるのではないか。それ以後は、進歩とい
うより、雑学、雑念の世界に入る。俗化する。言いかえると、この時期までに、その人の
人間的な完成度は決まる。……と考えてよい。

 だから親の立場で考えると、子どもが18、9歳になるまでは、親は、子どもに対して、
人間的な優位性を保つことができる。経験や知識も、子どもよりは多い。

 しかし子どもがその18、9歳を過ぎると、親子の差は、急速に縮まってくる。そして
子どもが、30歳ともなると、親子の差は、ほとんどなくなる。

 ……と、こうして年齢という(数字)で、ものごとを定義づけてはいけない。もちろん
それには個人差がある。すばらしい人間性をもった親もいれば、そうでない親もいる。す
ばらしい人間性をもった子どももいれば、そうでない子どももいる。

 しかし概してみると、私がここに書いたことは、それほど、まちがっていないと思う。

 つまり、親もいつまでも、「親だから……」という、『ダカラ論』の上に安住していては
いけないということ。親は親で、18、9歳を過ぎても、さらに前向きに伸びていかねば
ならない。

 まずいのは、親自身が、人間的に低劣であるケース。不誠実で、インチキばかりしてい
る。人の目を盗んでは、小ズルイことばかりしている。計算高く、ケチ。人のために働く
ことを、損と考えている。
 
 そういう親をもった子どもは、不幸である。仮にその親を乗り越えるとしても、そうで
ない親をもつ子どもの、何倍、何十倍もの、努力をしなければならない。子どもの側にも、
親の体質が、しっかりとしみついているからである。

 実は、私も、子どものころは、本当に小ズルイ人間だった。当時は戦後の混乱期。そう
いう時代だったとはいえ、しかしそういった小ズルさは、いつの間にか、私のおかれた環
境の中で、身につけたものだと思う。

 これ以上は、親の悪口になるので、ここには書けないが、しかし、私は、子どものころ、
その場に合わせて、平気でウソをついた。ゴマかした。言い逃れた。そしてそれによって
自分の欲望を満足させても、何ら良心がとがめなかった。

 そういう私が、私自身の中の(私)に気づき、それと戦うために、いかに苦労をしたか。
苦しんだか。この56歳という年齢になっても、いまだにそれと戦っている自分を知ると、
本当にいやになる。業(ごう)の深さというか、根の深さを、今、つくづくと、思い知ら
される。

 親は、親という立場で子育てをするが、決して、親であるという立場に安住してはいけ
ない。いつかあなたの子どもも、あなたを、一人の人間として見、そして判断するときが
やってくる。早ければあなたが、40歳のときにやってくる。遅くても、あなたが50歳、
60歳のときにやってくる。

 そのときあなたが、子どもの評価に耐えられる人間になっているかどうかは、今の、あ
なた自身の生きザマによる。あなたの子どもが、あなたを乗り越えて、人間的にすぐれた
人になったとしても、あるいは、あなたの人間性を見ぬいて、あなたを軽蔑するようにな
ったとしても、あなたはそのとき、自分の愚かさを思い知らされることになる。

 ある意味で、親になることは、簡単なこと。しかし親であるということは、本当に、き
びしい。

 私もそのきびしさが、やっとわかる年齢になってきた。みなさんも、いつか、そういう
ときがくることを、念頭に置きながら、今の自分を、もう一度、見つめなおしてみたらよ
い。

【追記】

 親が子どもに残すものは、いくつかある。

 財産や、名誉や、環境や、健康など。しかしその中でも、年齢とともに、比重をまして
くるのは、「生きザマ」である。

 今、あなたが子どもの前で、どう生きているか……。その生きザマである。

 遠い昔だが、こんなことがあった。あなたは、この話を聞いて、どう思うだろうか。事
実をそのまま書くわけにはいかないので、少し内容を変えるが、大筋では、こんな話だ。

 そのときその子ども(男児)は、小学2年生だったと思う。父親は、市内で、いくつか
のショッピングセンターを経営していた。青年商工会議所でも、重要な役職についていた。

 その子どもが、ある日、こんなことを言った。

 浜名湖の北に、Pという遊園地があるが、そこへ入るとき、「いつも、ただで入っている
よ」と。

 そこで私が、「どうやって、ただで入るの?」と聞くと、その子どもはこう言った。「ほ
かの親のうしろに並んで、その親の子どもになりすまして、スーッと中へ入るんだ」と。

 すかさず私が、「そんなことをすると、お父さんやお母さんに、叱られるよ」と言うと、
その子どもは、さらにこう言った。

 「だって、お母さんが、そうしろって、言っているもん」と。

 Pという遊園地では、当時、おとな2人につき、幼児一人分の入場料は、無料だった。
彼の親自身は、別の子ども(妹、5歳)を連れて入っていたが、そういう規則を、その母
子は、うまく利用していた。

 聞くところによると、今、そのときのその子どもは、父親のあとをついで、幅広く、商
業の世界で活躍しているという。その活躍ぶりを耳にするたびに、「そういうものかなあ?」
と思ってみたり、「それでいいのかなあ?」と思ってみたりする。

 あなたなら、この話を、どう考えるだろうか。

++++++++++++++++++++

●裏切り

 100の善意も、1の裏切りで、ツユと消える。

 ……ということは、教育の世界では、よくあること。しかしそんなことでめげていたの
では、この仕事は、勤まらない。

 裏切られても、裏切られても、それを乗りこえて、前に進む。しかし、それは口で言う
ほど、簡単なことではない。

 私のばあい、そのつど、二人の自分が、心の中で対立する。一人の自分は、「無視して、
前に進め」と私に教える。

 もう一人の自分は、「もう、アホなお人好しはやめろ」と教える。

 どちらの自分が、本当の自分か、わからなくなるときがある。いや、本当のことをいう
と、収入を得るための仕事だから、そのつど、自分に妥協しているだけかもしれない。も
し収入がなければ、こんなバカな(失礼!)仕事など、しない。

 どうしてこの私が、他人の子どもの問題や、子育てのことで、悩まなければならないの
か。わかりやすく言えば、自分の収入をさておいて、他人の収入を心配しなければならな
いのか。

 そこで私のばあい、いくつかの砦(とりで)を、心の中に設定している。

 その一つ。最初から、裏切られることを、ある程度、予想しながら、教える。これを私
たちの世界では、「10%のニヒリズム」という。つまりいくら教育に全力投球しても、最
後の10%は、自分のためにとっておく。

 へたに全力投球すれば、身も心も、やがてズタズタにされてしまう。

 つぎに、裏切られたら、そのことをすぐに忘れる。いつまでも考えていると、心が腐る。
だから忘れる。が、そのとき、一つの鉄則がある。

 その人とは、二度とつきあわない。これは私のプライドのようなもの。電話がかかって
きても、無視。メールが届いても、無視。とにかく無視する。お金がほしいからといって、
仕事がほしいからといって、絶対に、へつらったりしない。やせても、枯れても、はやし
浩司は、はやし浩司!

 私を裏切った人に頭をさげるくらいなら、のたれ死んだほうがまし。

 しかしこういう仕事をしている手前、こうした裏切りは、日常茶飯事。具体的にどうこ
うという話は、ここには書けないが、しかしないわけではない。

 この世界、良心や誠意の通じない人は、いくらでもいる。それはたとえて言うなら、自
分の家から出た粗大ゴミを、トラックか何かで運んで、山の中に捨てるようなもの。そう
いう人が、ある一定の割合で、必ずいる。

 そういう人もいるという前提で、この仕事はする。それしかない。悲しいかな、それが
現実である。

【追記】

 H市の郊外の小学校で教師をしている、E先生(小1担任・女性)が、こんな話をして
くれた。

 ……うちの学校では、小学1年生については、父母の参観は、原則として、自由にして
もらっています。親たちに、「自由に学校に来て、子どもたちの様子を見てください」と話
しています。

 で、そのため、その時期になると、毎日、2〜4人の父母が、学校へ来て、1、2時間、
参観して帰っていきます。

 が、その中に、Nさんという母親がいました。最初、私は、教育熱心な、いい母親だと
思っていました。が、やがてそのNさんが、こんなことを陰で言っているのを知りました。

 「あのXさんの息子さんね、あんなにできが悪いのに、S小学校を受験したんですって
ね。身のほど知らずって、Xさんのような人を言うのね」と。

 つまりNさんは、自分の子どもの勉強ぶりを知るために参観に来ていたのではなく、他
人のプライバシー(=子どもの能力)を知るために、参観(=スパイ)に来ていたという
わけです。

 そこでそれとなくNさんに、「毎日の参観は必要ないと思います……」と、どこか遠まわ
しに話したのですが、この言葉にNさんは激怒。そのまま校長室へ行き、校長に、「この学
校の教育方針はどうなっているのですか! 参観に来ていいというから来てみれば、今度
は、来なくていいとは、どういうことですか!」と。

 で、それからは、「学校へ、自由においでください」という父母への案内は、学校として
も、自粛するようになりました、と……。

 こういうのを、私たちの世界では、「裏切り」という。

【追記】

 私の教室(BW教室)は、原則として、参観自由。公開している。

 しかし問題がないわけではない。その第一は、子どもの能力、問題が、そのまま筒抜け
になってしまうこと。

 そのため、私は独特の教え方をする。

 子どもたちを楽しませることだけを考え、子どものプライバシーが、外に出ないように
心がける。

 長い時間をかけて私がつくりあげた、独特の教え方である。

 子どもたちが笑う。つづけて親たちが笑う。そういう雰囲気の中で、子どもたちを伸ば
し、親たちをなごませる。


(4)今を考える  **************************

●離婚の危機

 50歳〜60歳は、熟年離婚の年齢。私の友人たちも、すでに何組か、離婚している。

 たいていは、奥さんのほうから、離婚をつきつけられている。しかも夫のほうにとって
は、まさに寝耳に水。「別れましょう」「どうしてだ?」となる。

 つまり、夫と妻の意識は、長い時間をかけて、かなりズレてくるようだ。たとえば仕事
に対する意識。

 男は、「仕事さえ、きちんとしていれば、男として一人前。妻や家族は、それで満足して
いるはず。感謝しているはず」と考える。

 しかしそういう男の姿勢の中で、妻は、不満をためる。長い時間をかけて、ためる。そ
してある日、妻のほうが先に決心する。「離婚」と。

 もちろん浮気が原因のこともある。たいていは、夫側の浮気がバレて、離婚となるらし
い。(妻側の浮気が、夫にバレることは、まずないそうだ。つまりそれだけ妻側は、慎重に
ことを進めるらしい……? あるいは夫のほうが、鈍感。無関心。あるいは純朴? ハハ
ハ)

 ……というほど、この問題は、単純な問題ではない。それぞれの夫婦が、それぞれの問
題や悩みをかかえて離婚する。ある友人は、ある日、突然、妻にこう言われたそうだ。

 「私の人生は、何だったのよ! 私の人生を返して!」と。

 会社人間の夫。出世だけを目標に、がむしゃらにがんばってきた夫。転勤につづく、転
勤。その夫に仕え、生涯をともにした妻。しかしある日気がついてみると、そこには、何
もなかった……?

 その一方で、私の姉は、いつもこう言っている。

 「夫婦なんてものはね、60歳を過ぎてから、その味がわかるものよ。子育てが終わっ
て、やっと自由になるのが、60歳よ。夫婦で旅行をしたり、趣味をいっしょにしたり。
好きなことができるようになるのよ。あんたも、あともう少しだから、がんばりなさい」
と。

 私個人としては、姉の言葉を信じたいが……。今朝は、朝食をいっしょに食べながら、
久しぶりに、ワイフの顔をまじまじと見た。

 
●やる気が起きない

 このところ、原稿を書くのが、おっくうなってきた。書斎のパソコンの前にすわっても、
ぼんやりと過ごす時間が多くなった。

 「どうして毎日、こんな原稿を書くのだろう」「書いて、何になるのだろう」「無料マガ
ジンなど出して、何になるのだろう」と、そんなあいまいな考えが、浮かんでは、また消
える。

 いろいろあって、少し、心が疲れているせいかもしれない。心も体力と同じで、疲れる
ときには、疲れる。東洋医学でも、そう教えている。

 「原稿を書くのは、おまえ自身のためだ」と、何度も、自分に言ってきかせる。しかし
このところ、そのエネルギーも、かなり弱くなってきた。ああ、どうしたらいいのだ!

 そろそろ無料マガジンを出すのも、限界にきつつあるようだ。どうしようか? こんな
弱音を吐いたら、読者のみなさんに、いらぬ心配をかけてしまうかもしれない。

 しかし、はやし浩司は、がんばる! 負けるものか!
(04−05−14)


●二男のメモ(二男のHPからの転載)

ビザの更新がいま普段の4倍以上の時間がかかるらしい。この秋、ぼくの条件付グリー
ンカードを無条件に更新しないといけないのだけど、専門のAttorneyに聞いたら、今ま
でどおり、執行する90日前までは、更新手続きができないらしい。 

 最近移民や外国人としてここへ働きに来ている人たちの悪夢ニュースが目立つ。何十年
もこの国で合法で働きに来ていたメキシコ人が、移民局の更新手続きに手間取って、家
族や知人をおいて国外退去になったりする例だ。こういう人たちは、いまさら「外国人」
などと呼ばれる立場ではない。

この国で生き、この国以外に生きる場所はない。たまたま法律上の身分が「外国人」だ
からといって、国外退去になるのはおかしいと思うし、この点はブッシュ大統領も認め
ている。(再選のためだろうけど。) 

 9・11以降、この国は僕たち外国人にとって住みにくい国になっているは確かだ。現
在、30%以上の科学者や技術者はみな海外国籍をもっている。アメリカ人の科学離れ
が進んでいるせいもあるが、こうした数字が、ビザの不自由な発行のもと、いま減少傾
向にあるというリポートをこの前、目にした。 

 これからはやはりインド、中国を中心とした世界になっていくのだろうか。

【はやし浩司から二男へ……】

 事情は、この日本でも同じだよ。

 日本人と結婚しても、すぐ日本国籍を取れるわけではない。法務局へ何度も、何度も足
を運んでも、それでも10年単位の時間がかかる。仮にお前たちが日本にやってきて、奥
さんや子どもが日本国籍を取ろうとしても、簡単には取れない。

 しかしね、この日本では、国籍は取れないというだけで、生活には、支障がないよ。こ
こがアメリカと日本のちがいということになるのかもしれないね。日本という国は、そう
いう意味では、外国人には、住みやすい国ということになるのかも……?

 しかしこの浜松市にも、外国人が、多くなったよ。本当に多い。裏にある団地などは、
もう何割かが、外国人というほど、外国人ばかりだよ。ほとんどは、南米からの人たちだ
が、彼らは陽気だね。

 夜な夜な、パーティを開いて、騒いでいるよ。

 ああいう人たちを見ると、日本人が本来的にもつ、(まじめさ)が、バカに見えるね。い
やになるね。「ぼくたちは、何を信じて生きてきたのか」「何を恐れて、アクセクと生きて
いるのか」と、ね。

 そう、この日本では、自由になったと思った瞬間から、社会から、はじき飛ばされてし
まう。自由イコール、風来坊の国だから……。

 しかしそういう考え方も、少しずつ、変ってきた。これからもまだ変っていくだろうね。
意外と、今の日本のほうが、アメリカよりも、開放的かもしれないよ。よくわからないけ
ど、そんな印象をもち始めている。

 ではね。バ〜イ!


●小泉首相が、K国へ行く?
 
 K国が、会談の中で、「小泉首相が、ピョンヤンまで迎えにくるなら、拉致被害者の家族
を返してやる」と言ったらしい。あちこちから、そういう情報が漏れてきている(5・1
1)。

 よくもまあ、ここまで、人の弱みにつけこめるものだ!

 話は変わるが、人間関係をうまく結べない子どもは、つぎの4つのパターンに分類でき
る。

(1)攻撃タイプ(周囲をおどしながら、自分にとって、居心地のよい世界をつくる。)
(2)同情タイプ(弱々しい自分を演じながら、同情を集めて居心地のよい世界をつくる。)
(3)服従タイプ(だれかに徹底的に服従することによって、居心地のよい世界をつくる。)
(4)依存タイプ(ベタベタと人に甘えることによって、居心地のよい世界をつくる。)

 これについては、何度も書いてきたので、ここではその先を書いてみたい。

 この中で(1)攻撃タイプの子どもというのは、いわゆる、つっぱりタイプの子どもを
頭の中に思い浮かべるとよい。

 「ウッセー、このヤロー、バカヤロー」と、周囲のものを威嚇する。威圧する。暴力を
振るったり、乱暴な行為を繰りかえしたりする。つまり周囲のものたちに、恐怖感を与え
ることによって、自分にとっては、居心地のよい世界をつくろうとする。

 だからこのタイプの子どもに向かって、「そんなことをすれば、あなたが嫌われる。あな
たが損をするんだよ」と話しても、意味はない。ムダ。その子どもにしてみれば、そのほ
うが、居心地がよいのだ。

 同じように、そうした症状が、「国」という単位で、現れることがある。それが今のK国
である。

 国内経済はメチャメチャ。しかしそれは日本の責任でもなければ、アメリカの責任でも
ない。100%、先軍政治とやらをつき進む、国内政治の失敗。金XX体制の失政。

 K国は、その失敗や失政をおおいかくすために、ありもしないアメリカの脅威をかきた
て、国内を引き締めている。一方、外の世界に向かっては、核兵器開発で、世界をおどし
ながら、援助を引き出そうとしている。

 その姿は、まさに攻撃型の子どもそのもの。もっとはっきり言えば、つっぱり少年その
もの。

 国際社会の場で、他国とのつきあいがうまく結べない。そこで世界を脅しながら、自分
にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。本当のところは、K国のような、わけの
わからない国など、だれも相手にしたくない。韓国にしても、南北統一など、今の段階で
は、とんでもない話。頼まれても、南北統一はごめん。それが韓国の本音と考えてよい。

 が、K国は、世界に相手にしてもらいたい。何とかして、相手にしてもらいたい。そこ
で核兵器ということになる。日本についていえば、拉致問題ということになる。拉致問題
をちらつかせれば、日本の政治家は、喜んで飛んでくる……。

 それが今回の、「小泉首相が来るなら……」という話になったらしい。

 しかしこの種の問題で、一国の首相が、わざわざK国へ行くというのもどうかと思う。
その前に、この種の問題で、一国の首相を呼びつけるK国も、K国だ。前から常識ハズレ
な国だとは思っていたが、ここまで常識からハズれているとは……!

 この先のことは、小泉首相が自分で考え、判断するだろう。小泉首相は、「バカバカしい」
と一蹴(いっしゅう)することもできる。「どうせまともな国ではないのだから、適当につ
きあっておけばいい」と考えて、被害者家族を迎えにいくこともできる。

 どちらにせよ、やっかいな国だ。本当にやっかいな国だ。

 ところで明日(5・12)から、K国の6か国会議ための、準備作業部会がペキンで始
まる。みんな困り果てて会議に出ようとしているのに、肝心のK国だけは、どこか一人前。
「自分の国が、それだけすばらしいから、世界が相手にしてくれている」と思いこんでい
るらしい。そのオメデタサは、今回の、「小泉首相が来れば……」という発想に、共通して
いる。……と私は思うが、みなさんは、どう考えるだろうか。

 しかしそれにしても、金XXは、どこまで心がいじけているのだろう? ホント!


●皇太子妃、M子さんの病気

 今日(5・11)、皇太子のH宮殿下が、テレビ画面に向かって、こう言った。「M子は、
疲れきっています」と。

 私はH宮殿下の勇気に、感動した。ああいった世界で、つまり宮内庁の意向を無視して、
皇族が自分の意見を述べるということは、今まで、ありえないことだった。しかしH宮殿
下は、その慣例を破った!

 すばらしい。おみごと。よく言った!

 何でも天皇家の人たちは、笑みのつくりかた、手の振り方まで、宮内庁の職員たちに指
示されているそうだ。何かの雑誌で、昔、そう読んだことがある。しかしそうした生活が、
いかに窮屈なものであるか、それを想像するのは、それほど、むずかしいことではない。

 私の経験を書く。

 ときどき、見知らぬ人に招かれて、見知らぬ土地で、講演をすることがある。たいてい
は日帰りだが、ときどき、講演先で一泊することもある。

 そういう講演先でのこと。

 いくら回数を重ねたといっても、1回、講演すると、かなり疲れる。全神経をすり減ら
す。だから講演のあとというのは、食欲そのものがまったくわいてこない。どういう生理
的作用によるものかは知らないが、私のばあいは、そうなる。

 で、その状態で、主催者の方と会食となると、さらに疲れる。あれこれ質問されると、
それこそ頭が、爆発しそうになる。反対に、意識がもうろうとしてくることもある。

 主催者の方は、そういうときあれこれ気をつかってくれる。それはわかるが、本音を言
えば、はやく宿に入って、風呂に入りたい。だれにも会いたくない。

 もちろん知りあいの人がいれば、話は別。料理を食べながら、雑談を楽しむことができ
る。しかし初対面の人ばかりだと、そうはいかない。気が抜けない分だけ、疲れる。

 で、少し前、M県のN町で、講演をさせてもらったことがある。その主催者の方が、た
いへん理解のある方で、またそうした経験も豊富な方で、私の気持ちを、よく理解してく
れた。

 「講演が終わったら、宿でひとりになりたいです」と一言、伝えると、「よくわかってい
ます」と言って、それに従ってくれた。

 おかげで私は、講演のあと、宿で、ひとり食事をしたり、温泉に入ったりして、好き勝
手なことをすることができた。しかもシーズンがはずれていたため、旅行客も少なく、心
底、のんびりとすることができた。つまり、楽しかった。

 が、しかし、もし、私が行く先々で、つぎつぎと新しい人に歓迎され、紹介されたとし
たら、私はどうなるか……。そんなことはありえないことなので、心配することもないこ
とだが、しかし、天皇家の人たちは、日常的に、そういう状況に置かれている。

 そこで私はある日、ワイフにこう言ったことがある。「ぼくだったら、ああいう生活には、
1日たりとも、耐えられないだろうね」と。

 私は今回の、皇太子妃のM子さんの病気には、そういう問題がからんでいるように思う。
もっとも、それだけが原因というわけではない。ごくふつうの生活をしている、ごくふつ
うの人だって、M子さんと、同じような病気になることはある。しかし、それでもやはり、
そういう問題がからんでいると思う。

 だいたいにおいて、今の私のように、思ったことや、考えたことを、そのまま口にした
り、書いたりすることもできない。もしM子さんが、自分のエッセーの中で、「K国の金X
X」などと書いたとしたら、それだけで、戦争になってしまうかもしれない。

 私は今回のM子さんの病気について、H宮殿下は、「M子は、疲れきっています」と言っ
た。しかしこの言葉を裏から読むと、宮内庁が、M子さんを、そこまで疲れさせたという
ことになる。宮内庁は、このH宮殿下の言葉を、真剣に受けとめ、反省すべき点は、おお
いに反省すべきである。

 昔、今の皇后陛下の父君である、正田英三郎氏※に会うたびに、正田氏は、いつも私に
こう言っていた。

 「xxxxxxxxxxxxxx」と。

 その言葉のもつ意味は、大きくて、深い。
注※……正田氏は、日豪経済委員会の委員長で、私の留学の世話人になってくれた。留学
の前後に、何度か、会って、食事をごちそうになったことがある。


●シャツを買う

 近くの衣料品店で、シャツを何枚か、買う。

 が、このところ、自分に合うシャツをさがすのが、むずかしい。私は身長166センチ。
実のところ、このところ少し猫背になってきたから、もう166センチはないかもしれな
い。165センチ……? 164センチ……?

 一方、最近の若いひとたちは、背が高くなった。高くなったというより、足がのびた。
ついでに腕ものびた。

 そのせいだろうと思うが、Mサイズのシャツを買うと、どれもそでが長すぎて、着られ
ない。そうかといって、Sサイズだと、体のほうに、合わない。

 どうしたらよいのか?

 ワイフに相談すると、Mサイズを買って、腕のところを少し切って、短くすればよい、
と。しかしシャツをそんなふうにして着る人は、いるのだろうか。

 ……と考えながら、店の中に入った。とたん、妙案!

 半そでのシャツを買えばよい。それならMサイズのままでよい。簡単なことである。ハ
ハハ。

 たまたま、というか、今日は、平年より、5、6度も気温が高かったそうだ。このこと
はあとで、家に帰ってから知ったが、迷わず、私は半そでのシャツにした。

 そう言えば、季節は、もう初夏。早いものだ。そでをどうしようかと悩んでいた自分が、
バカに思えた。

 店から出て車にもどると、さっそく、シャツを着がえてみた。どこか新品臭い、プンと
した臭いにまざって、さわやかな夏の気配をそこに感じた。今日の空は、真っ青に晴れて
いた。頭をシャツにとおしたとき、その青い空が、目の前いっぱいに広がった。気持ちよ
かった。

 Good Sumnmer Time!


●スズメ

 毎年、今ごろになると、スズメが、子連れで庭にやってくる。体の大きさは、親鳥と、
ほとんど違わない。ただどこか、小ぶり。それにクチバシの下が、白い。

 その小スズメ。羽をふるわせて、親鳥にエサをねだる。そのしぐさがかわいい。ときど
きは自分でも地面をつついてみるが、本気で食べる気はないようだ。親鳥が近くにいると、
そのそばまで行っては、羽をふるわせる。私は、しばし、時間が流れるのを忘れて、その
光景に見入る。

 庭にエサをまくようになって、何年になるだろうか? ほとんど毎週、近くのペットシ
ョップで鳥のエサを買っている。たいていはハトのエサだが、毎年、この時期は、粟玉の
エサを買うようにしている。とくに注意しているのは、正月明けから、2、3月まで。こ
の時期は、野鳥の食べるエサが、極端に少なくなる。

 が、今朝、おもしろい光景を目にした。

 スズメのばあい、2月から3月にかけて、発情期にはいる。メスが、尾羽を上に立てて、
オスを挑発するようになる。人間にたとえて言うなら、女性がお尻を出して、男性に、そ
のお尻を見せるような行為ということになる。

 で、それぞれのオス、メスが、ペアになり、交尾し、子づくりの時期へとはいっていく。
それまでは集団行動をしていたスズメも、このころになると、単独行動をするようになる。
庭でエサを食べたあと、一目散に、それぞれの巣へと、飛び去っていく。

 が、今日は、5月12日。よく晴れた水曜日。

 庭を見ていると、何組かの親鳥たちが、それぞれ小スズメを連れて、庭へやってきてい
た。その風景は、昨日と同じだったが、一羽だけ、尾羽を上に立てたメスがいた。「?」と
思ってそのメスを見ていると、何と、エサを与えているオスのそばに寄って、さかんにそ
のオスを挑発しているではないか。

 だいたいにおいて、今は、もう発情期の季節ではない。いや、スズメは、春から夏にか
けて、何度も子づくりをするというから、決してありえない行為ではない。しかし子育て
に夢中になっているオスのところに寄ってきて、挑発するとは!

 近くにワイフがいたので、「おい、見ろや!」と声をかけてみた。

私「きっと、結婚できなかったメスだよ」
ワイフ「でも、だからといって、子育てをしているオスを誘惑しようなんてエ……!」
私「でも、オスのほうは、知らぬ顔をしているよ」
ワ「当然でしょ」

私「横にいるのが、奥さんらしいけど、平気な様子だよ」
ワ「嫉妬しないのかしら?」
私「しないみたいだね。きっと、夫を信じているんだよね」
ワ「フーン」と。

 スズメの世界には、スズメの世界なりに、いろいろなドラマがあるのだろう。しょせん、
動物の世界は、オスとメスの世界。スズメとて例外ではない。人間とて例外ではない。そ
んなことを考えながら、私はその場を離れた。


●心の無知

 Mさん(63歳、女性)は息子の妻、つまり嫁の心の問題で悩んでいる。(悩んでいると
いっても、自分の立場で、悩んでいるだけだが……。)

 その妻(つまり嫁)は、先端恐怖症。先のとがったものを見ただけで、全身を言いよう
のない恐怖感を襲うという。包丁や、ナイフなど。しかし最近は、それにとどまらず、カ
ーテンや、のれんの端を見ても、気分がおかしくなるという。

 それについて、Mさんは、こう言う。

 「そんな問題は、気の問題でしょう。何でもないのです。本人が、気にしているだけで
す」と。

 そこで私が、「そんな簡単な問題ではないと思います。本人は、本当にこわがっているの
です」と言うと、「私は何でもありません」「私の知っている人、みんな、何でもありませ
ん」と。

 つまり自分や他人が、そうだからといって、息子の妻(嫁)の心の問題を、簡単に片づ
けようとしている。

 これだけ情報が豊かな時代になったとはいえ、まだ、Mさんのような無知な人は多い。
自分の(心)を中心に、他人の(心)を考えてしまう。

 そこで少し話題を変えた。

 N氏(45歳)には、少し変ったクセがある。電話魔というか、夜な夜な、見知らぬ人
に、電話をかけている。奥さんと離婚してから、少し様子がおかしくなった。

 相手は、電話帳から、ランダムに選んだ人たちである。

 何かを話すというのではない。ただ自分の置かれた境遇や、自分がもっている心配ごと
を一方的に話すだけ。その電話は、相手の人が、怒って電話を切るまでつづくという。

 そのことについて、Mさんに話すと、Mさんは、ケタケタと笑った。そこで私が、「きっ
と、N氏は、さみしいのです。だからそういう電話をするのです」と話すと、やはり、こ
う言った。

 「あのN氏が、さみしいだってエ? だってN氏のように、離婚した人はいくらでもい
るでしょう」と。

 Mさんには、心の病気というものがどういうものか、まったく理解できないようだった。
つまり心の病気というのは、そういうもの。理解できない人には、まったく理解できない。
そういう前提で、心の問題について人と話すときは、考える必要があるということ。

 もっとも、嫁や、他人の話ならまだよい。子どもの心の問題ですら、まったく理解でき
ない親は、少なくない。何か子どもに問題が起きたとしても、「そんなのは気のせいよ」と、
片づけてしまう親もいる。

 そういう親は、困る。本当に困る。Mさんと話していて、そんなことを感じた。


●今朝のニュース

 朝、起きると、まず、パソコンの電源を入れる。IE(インターネット・エクスプロラ
ー)を開いて、世界のニュースを見る。

 それが私の一日のはじまりである。

 いくつかのヘッドラインが目に飛びこんできた。

 イラク人虐待、年金問題、フィリッピンのアロヨ大統領の再選確実、そしてエイズ問題。

 アメリカ軍、イギリス軍によるイラク人虐待問題が、日増しに大きくなってきている。
中には、イラク人を、意味もなく射殺した例も含まれているようだ。どうやらこのあたり
が分岐点で、このままこの問題が大きくなるようであれば、アメリカ軍に対する信頼は崩
壊し、ついで権威も崩壊する。同時に、ブッシュ大統領の再選も、ツユと消える。

 今朝のニュースによれば、あの橋本元首相も、計2年5か月もの間、国民年金を納めて
いなかったという。どの代議士も、うっかりしていたと弁解しているが、この問題は、年
金制度がもつ構造的問題と考えてよい。公務員たちの年金だけ、特別あつかいしすぎた。
その結果、年金制度そのものが、複雑になりすぎてしまった。さらにその結果が、今であ
る。やはり年金制度は、一元化すべきである。官僚や公務員の人たちは、猛反対するだろ
うが……。

 フィリッピンでは、映画俳優が、政治家になるらしい。今のアロヨ大統領の前の大統領
もそうだった。今度の選挙で、アロヨ大統領と選挙で戦った、フェルナンド・ポー・ジュ
ニア氏(64)も、そうだ。

 日本も似たようなものだから、偉そうなことは言えないが、それにしても、レベルが低
い(?)。映画の中で、いくら正義の使者を演じたとしても、それは演技。ウソ。インチキ。
そういうものに踊らされて、大統領候補にするとは! 

 最後にエイズ問題。

 「世界保健機関(WHO)は11日、2004年版の「世界保健報告」を発表し、25
年前には未知の病だったエイズウイルス(HIV)による死者が、累計で2000万人を
超えたことを明らかにした」という(中日インターネット新聞)。

 報告にもあるように、これは「現在は危機的な瞬間」(WHO)ということになる。

 さらに記事によると、「現在の感染者は3400万人から4600万人と推計され、03
年には300万人が死亡、500万人が新たに感染者となった。途上国には治療を受けな
ければ近い将来、死亡するとみられる感染者が600万人いるが、03年末までに治療を
受けたのは40万人にすぎないという」と。

 簡単な数式を作って計算してみたところ、毎年、200〜300万人ずつ感染者がふえ
るとすると、10年後には、感染者はほぼ1億。死者の累計は、5000万人となる。

 さらにその10年後には、感染者は、3億。死者の累計は、1億5000万人となる。

 この日本とて、例外ではない。このままのハイペースで、感染者がふえると、10年後
には、感染者は若者を中心に、15万人になるという※。

 エイズがこわいのは、エイズそのものもさることながら、その治療費が高額なこと。近
くのIセンターに勤めるY医師(感染症の権威)は、こう話してくれた。「ふつうのサラリ
ーマンの給料では、とても払いきれない額です」と。

 昨年書いた、原稿を、参考までに、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

※エイズ感染者が、若者を中心に、もうすぐ2万人!

「国内のエイズ感染者の数は、3年後の2006年には、2万2000人になる。発症
した患者は、5000人に達する」と。

厚生労働省の研究班の報告である。班長の橋本氏は、「国内のHIV感染者は、欧米に比
べて急激に伸びている。危機感をもって対策を強化すべきだ」と。

最近の高校生や大学生のおおかたの意見は、「エイズはこわくない」になりつつある。「感
染しても、発症しない」「薬で抑えることができる」などと言う子どももいる。

 しかしエイズのこわさは、病気そのものもさることながら、それだけではない。浜松市
内のIセンターで感染症の治療にあたっているY医師は、こう話してくれた。「エイズのこ
わさは、実は治療費の問題にあります」と。治療費が、高額だというのだ。

「どれくらいですか?」と聞くと、「ふつうのサラリーマンの給料では、とても払いきれ
ない額です」とのこと。それを生涯にわたって、払いつづけねばならない。

 しかし2006年で、エイズ感染者がとまるわけではない。このままいけば、2015
〜20年には、何と、15万人になるという推計もある。15万人! 決して他人の問題
ではない。これはあなたの子どもの問題である。

 こうした問題を防ぐ唯一の方法は、あなたの子どもを、自ら考える子どもにすること。
何が大切で、そうでないか、それを静かに考える子どもにすること。そして子ども自身を、
常識豊かな子どもにすること。倫理だの道徳だの、あるいは宗教だの、そういうものを、
頭から、押しつけはいけない。

……そのために、私の、はやし浩司のマガジンを読むこと……というのは、自己宣伝過
ぎるが、本当にそう思う。

【追記】

 15万人という数字を、決して、あなどってはいけない。若者を中心に考えるなら、2
0歳から30歳までを、1000万人として、何と、100人に1人か2人ということに
なる。

 あなたの子どもだけが無事という保証は、もうどこにもない。

 享楽的で、ハレンチなテレビ文化に、もっと、私たちは、正面から、反旗をひるがえす
べきときにきているのではないだろうか。

 昨日も、こんなニュースが、新聞に載っていた。

 ある給湯器メーカーのテレビコマーシャルだったというが、こういうものだ。

 母子がいっしょに風呂に入っている。そこへ夫が、同僚(男性)といっしょに風呂に入
ってきて、騒動になるというコマーシャル。

 「風呂が人と人のコミュニケーションの場になる」というのが、制作者の意図だったら
しいが、今、テレビ文化は、ここまで狂っている。

 数年前だが、こんなコマーシャルもあった。ある缶コーヒーメーカー(U社)のコマー
シャルだったが、こういうものだ。

 一人の若い女性が、防犯カメラの前で、いろいろなポーズをとって、缶コーヒーを飲む。
その様子を中年の男が、どこかスケベそうな顔をして、画面上で見ている。

 問題は、そのあと。

 その女性は、飲んだ空き缶を、カメラの上に置いて、そのまま立ち去る……。

 こうしたコマーシャルが制作されるときには、会議に会議が重ねられる。メーカーとプ
ロダクション側との打ちあわせや了解が、相互にかわされる。30秒足らずのコマーシャ
ルに、会社の命運をかけることも珍しくない。

 そういうプロセスを経ても、まだこういうコマーシャルができるということは、体質そ
のものが、腐っていることを示す。だれ一人、その過程で、異議を唱えなかったのだろう
か?

 母子が風呂に入っているとき、そこへ他人の男が入ってくるという、無神経さ。男どう
しが裸に入って風呂に入ってくるという、異常さ。何からなにまで、おかしい。

 さらに、空き缶は空き缶専用のゴミ箱に入れる。当然のマナーではないか。もっとも、
そこらのできそこないの若者なら、平気で、そのあたりに置いて、その場を立ち去るのだ
ろうが……。

【追記2】

 子どもに関する問題が起きると、学校教育万能主義者たちは、「学校で教育を!」と言う。

 しかし学校教育は、もうパンク状態。何からなにまで、学校に押しつけるという姿勢は、
もうやめよう。すでに限界を超えている。

 こうした問題は、まず家庭の中で考え、そして親が自ら、子どもを指導する。 

【追記3】

 テレビ文化の低劣化について、よく視聴率の問題が、取りざたされる。しかし本当の理
由と原因は、番組を制作するプロデューサーと、その下請けで働く、プロダクションにあ
る。

 レベルが低いというより、その忙しさを見ていると、「この人たちには、考える時間があ
るのだろうか?」という疑問が、先に立つ。私の印象としては、彼らには、考える時間も
なければ、その習慣もない。もっとはっきり言えば、ノーブレインの状態。

 そういう人たちが、その場の思いつきだけで、番組を制作し、そのまま全国に垂れ流し
ていく。私たち視聴者も、その恐ろしさに、もうそろそろ気づくべきときにきているので
はないだろうか。

 情報と思考。この二つは、分けて考えたらよい。

 情報、つまり知恵や知識が多いからといって、その人は賢い人ということにはならない。
もの知りで、ペラペラと調子よいことを言うからといって、その人が、賢いということに
はならない。

 賢い人というのは、自分で考え、自分で判断する人のことをいう。倫理や道徳、さらに
は哲学を自分で創造していく人のことをいう。

 子育てでは、そういう子どもをめざそう。

●われ思う。ゆえにわれあり。(デカルト「方法序説」)
●思考が人間の偉大さをなす。(パスカル「パンセ」)


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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 16日(No.423)
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http://bwhayashi.cool.ne.jp/page058.html

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(1)子育てポイント**************************

●大才、中才、小才(学歴を誇るは小才)

 あのバーナード・ショー(イギリスの劇作家・評論家、一八五六〜一九五一)は、かつ
てこう言った。『中才は肩書によって現われ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す』
と。

これをもじって、『中才は肩書を大切にし、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書をほしが
る』と言った人もいる。それはともかくもこの名言の「肩書」を、「学歴」に置きかえて
読むと、まさに教育格言となる。『中才は学歴によって現われ、大才は学歴を邪魔にし、
小才は学歴を汚す』と。

 事実、本当に学力のある子どもは、「ぼくは設計士になる」とか、「私は医者になる」と
か言う。目的をもって勉強する。学歴が話題になることは、まずない。

親も、子どもにその将来を任せている。しかし学力がやや心配な子どもは、「C大学とD
大学のどちらがよいでしょうか」というような言い方をする。親は「何とか、C大学へ
入ってほしい」と言う。さらに学力がない子どもは、「どこの大学なら入れるでしょうか」
と言う。親は親で、「どこでもいいから、大学ぐらい出てくれないと……」と言う。

 しかし現実には、この日本では学歴がものを言う。ある大手の出版社が、小学生向きに
出した月刊教材のパンフを見て、私は驚いた。

何とそのパンフの裏には、大学教授の肩書きと名前が、一〇〜一二名も連ねてあった。
私は「よくもまあ、ここまで飾ったものだ!」と、思わず絶句してしまった。名前を連
ねる教授も、教授だ。そこでもう一つの格言。

『中程度の教材は肩書によって現われ、すばらしい教材は肩書を邪魔にし、つまらない
教材は肩書を汚す』と。だいたいにおいて、「○×大学教A授監修」とか、「○×大学B
教授指導」とかいう飾りのある教材は、ここでいうつまらない教材と見る。つまらない
から、そういうタレント教授をつかまえてきては、肩書を借りる。

出版社のほしいのは肩書き。本当にその教授が監修や指導をしたのならまだしも、ほと
んどは教材という商品が完成したあと、出版社がその教授にお伺いをたて、肩書きと名
前を載せる。それが日本では慣例になっている。良心的な教授ほど、そういうふうに肩
書や名前が使われることを、よしとしない。

が、中には学生に外国の文献を翻訳させ、少し改変しただけで本を出している教授がい
る。他人に本を書かせている教授すらいる。日本でも有名な教授だ。つい最近も、私が
書いた原稿について、「○×大学のH名誉教授の名前でなら、君の原稿を本にしてもいい」
と言ってきた出版社があった。その出版社では、こうした出版形方式が常識になっている。

 話が脱線したが、さらにこの名言を読みかえてみると、次のようになる。『中才の人はそ
の人を学歴で判断し、大才の人はその人の学歴を無視し、小才の人はその人の学歴に恐れ
る』と。まだできる。『中才の親は子どもの学歴に満足し、大才の親は子どもの学歴を無視
し、小才の親は子どもの学歴をいばる』とも。

 何とも辛らつなことばかり書いたが、どうか気分を悪くしないでほしい。こういうこと
を得意になって書く私は、まさに小才。大才ではない。バーナード・ショーは口の悪い人
だったと聞いている。そのショーの言い方を、少しだけまねてみた。

(2)今日の特集  **************************

【教育現場では……】

●どこまでが、園の責任?
 
 園内で起きた事故については、保育園や幼稚園の責任である。それはわかる。が、その
範囲は、どこまでか?

 バスの送迎がある。このバスの送迎では、子どもを、バスに乗せたときから、そしてバ
スからおろしたときまでが、園の責任ということになる。

 が、そうは、簡単ではない。

 待ちあわせ場所に、園児がいないときは、先生は、その子どもを待っていなければなら
ない。ばあいによっては、家まで迎えに行かねばならない。

 反対に、バスから子どもをおろしたところに親がいなければ、親が来るまで、そこで待
っていなければならない。何でもないことのように思う人がいるかもしれないが、それが
けっこう、重労働。神経もつかう。それに常習の人は、いつも決まっている。

 さらに、こんなこともある。

 今、ふえているのが、帰宅拒否の子どもたち。バスで帰る時刻になると、どこかへ身を
隠してしまう。そこで先生たちが手分けをしてさがす。が、簡単には見つからない。

 で、最後は、親を呼んで、「何とかしてほしい」と懇願するが、そういう親にかぎって、
どこかいいかげん。無責任。無関心。

 幼児教育といいながら、「教育」どころではない。それが今の、保育園や幼稚園の実情と
考えてよい。

 この状態は、学校教育でも、同じ。みながみな、きちんとした家庭(こういう言い方は、
あまり好きではないが……)の子どもというわけではない。中には、「離婚」「騒動」「崩壊」
「放棄」という問題をかかえた家庭もある。ある生活指導の教師(女性、K小学校)は、
こう言った。

 「生活指導の先生は、それこそ死ぬの生きるのという問題をかかえて、毎晩帰宅するの
は、夜の10時です。授業中だけが、体を休めるときです」と。夜中に、家出した子ども
をさがすため、駆りだされることもあるという。

 で、こういうケースも含めて、どこまでが、学校の責任ということになるのか。あるい
は、どこから先が、学校の責任ではないということになるのか。

 私はカナダのように、子どもたちが一歩でも、教室を離れたら、(学校ではない。教室だ)、
それはもう教師の責任ではないという制度を、確立すべきときにきていると思う。それは
ちょうど、日本の医療制度に似ている。患者が診察室を一歩離れたら、それはもうドクタ
ーの責任ではない。

 今の日本の制度のように、何からなにまで、学校……というのは、どう考えてもおかし
い。

 ちなみに、欧米では、子どもたちが教室を移動しながら、授業を受けるシステムになっ
ている。だからそれぞれの教室が、先生の部屋であり、教室ということになる。日本のよ
うに職員室などというものは、ない。

 さらに中学校でも、授業と授業の間の休み時間は、5分前後しかない(オーストラリア、
ニュージーランド、カナダ、アメリカほか)。「日本では、10分もある」と話すと、ニュ
ージーランドからの留学生(大学生)は、「本当ですか?」と驚いていた。

 時間をムダにしないためというよりは、子どもどうしのトラブルを、さけるためにそう
しているらしい。時間がない分だけ、子どもたちはあわただしく、教室を移動しなければ
ならない。


●親たちの依存性

 学校教育に対して、ほとんどの親は、信仰に近い幻想をいだいている。学校神話とはよ
く言ったものだ。

 それはわかるが、その幻想が、かえって親たちの自立心を奪ってしまっている。何か問
題が起こるたびに、「学校で何とかしてほしい」と考える。

 英語教育は学校で……。性教育は学校で……。交通教育やエイズ教育は学校で……。し
つけや道徳は学校で……。人間教育は学校で……。その上、個性を伸ばせ、才能を伸ばせ
……、と。

 学校教育で効果があることといえば、集団教育と専門教育。この二つだけ。あとの教育
は、本来、家庭でしたほうがよい。また家庭ですべきことは多い。

 どうしてこんなわかりきったことが、日本の親たちには、わからないのか? 幼稚園や
保育園でさえ、子どもが「行きたくない」などと言おうものなら、「そら、不登校だ」と、
親たちは、おおあわてする。

 幼稚園や保育園など、行きたくなければ行かなくてもよい。どうしてこんなわかりきっ
たことが、日本の親たちには、わからないのか?

 まだある。

 たいていの親は、園や学校の先生を、神様か何かのように思っている。こんな事件が、
実際にあった。

 先日、私に抗議のメールをくれた人がいた。愛知県I市のTさん(女性)という人だっ
た。Tさんは、メールでこう書いてきた。

 「あなた(=私のこと)は、学校の先生を擁護ばかりしているが、こんなひどい教師が
いることも忘れないでほしい」と。いわく……。

 「うちの子ども(小2男児)が、学校帰りに、ある子どもにいじめられた。ズボンにド
ロをかけられた。そのことについて、私が、学校の先生に、抗議に行くと、その先生は、『放
課後のことまでは、目が届かない』と言った。

 そしてあろうことか、その翌日、その先生は、みなの前で、『T君のズボンにドロをかけ
たのはだれだ!』と公言してしまった。

 おかげでうちの子が、いじめにあっているのが、みなにわかってしまった。

 そこでさらに校長先生のところに行くと、その校長先生までが、『放課後のことまで責任
をとれと言われても困る』と。こういう無責任な学校もあることを、忘れないでほしい」
と。

 そこで私も、Tさんに、「やはりこのケースでは、学校の先生や校長先生の言い分のほう
が、正しいと思う」と書くと、返事でこう書いてきた。

 「あなたのような無責任な評論家がいることが、私には信じられない」と。

 この話は、後日談がある。

 その少しあと、近くのK小学校で講演をさせてもらった。で、その学校の校長にこの話
をすると、その校長も、こう言った。

 「教室で、T君をいじめたのはだれか聞いた先生の措置は、適切な行為だと私も思う。
そういうばあい、私でも、そう聞いたでしょう」と。

 反対の立場で考えてみよう。こういうケースで、先生が、放課後のことまで神経を張り
めぐらすのは、不可能と言ってもよい。現場では、つぎからつぎへと、問題が起きてくる。
「T君をいじめたのはだれだ」と聞くことすらできないというのであれば、子どもの指導
は、もうできない。

 それにこのTさんは、学校の対応を批判しながら、その一方で、学校に対して、ぬぐい
がたいほどの依存心をもっているのがわかる。「何とかしてくれるのが、学校」と考えてい
る。つまりTさん自身が、学校に対して、信仰に近い幻想をもっている。

 しかしそれでは問題は解決しない。だいたい常識で考えてみればよい。たいていの親は、
たった1人か2人の子どものことで、四苦八苦している。そういう子どもを、30人も押
しつけて、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。

 まず、親自身が、その自覚をもつこと。「子どもを育てるのは私」という自覚である。そ
してその上で、学校でしてもらうこと。学校でできること。学校でしなければならないこ
とを、分けて考える。

 過剰な依存心は、過剰な期待をうみ、それがここに書いたTさんのような親を、つくる。

 ついでに言うなら、子どもというのは、キズだらけになりながら、成長する。親として
はつらいところだが、そのつらさに耐えるのも、親の役目ということになる。

私が子どものころには、こうしたトラブルは、まさに日常茶飯事だった。しかしそれは
あくまでも、子どもの世界でのこと。親や先生が、顔や口を出すことは、まず、なかっ
た。

 
●情報は、ただ

教育の世界には、「情報は、ただ」という考え方が、いまだに根強く残っている。学校の
先生に相談したり、質問したりするのは、ただと考えている人は、多い。

 たしかにそうかもしれないが、ある程度の礼儀、ある程度の節度というのは、やはり必
要ではないのか。

 今は、もうやめたので、私のことを書く。

 去年(03)の春まで、私は、ほぼ10年にわたって、電話による相談を受けていた。
口コミで、広がり、最後のころは、毎日のように電話がかかってきた。そしてそのため、
日によっては、午前中のほとんどが、それでつぶれてしまった。

 もちろん夕食時も、夜中も、おかまいなし。電話による相談というのは、そういうもの。

 ワイフは、「居留守を使えばいい」とよく言ったが、ウソをつくのは、もっといやだった。

 で、そういう相談で、名前を言う人は、ほとんどいなかった。住所を口にする人は、さ
らにいなかった。内容が内容だから、私もあえて聞かなかった。

 だからといって、今、そうした活動がムダだったと思っているのではない。私自身のた
めにも、勉強になった。

 しかし中には、礼儀もなければ、節度もない人もいた。ごく一部の人だったかもしれな
いが、いるには、いた。

たとえば毎日、ほぼ2週間にわたって、1、2時間の長電話をかけてきた人もいた。最
後に、「忙しいから、今日はごめんなさい」と電話を切ろうとすると、「ちゃんと最後ま
で責任を取れ」と怒鳴られたこともある。

 そういう世界である。

 そしてそれが今は、インターネットになった。ただインターネットは、電話とちがい、
私のほうで、時間をコントロールできる。だから電話のようなことはないが、しかし、似
たようなケースは、ないわけではない。

 返事が、たった数日遅れただけで、怒ってきた人がいる。
 自分で辞書を調べれば、簡単にわかるようなことを、毎日のように聞いてきた人もいる。
 私のマガジンの趣旨と目的を説明してほしいと言ってきた人もいる。
 「お前の教育観はおかしい」と言ってきた人や、「親孝行を否定するとは何ごとか」「ウ
ソを書くな」とか言ってきた人もいる。

 そういう人たちに感ずるのは、ここに書いた、「情報はただ」という意識である。別に、
それでお金がほしいというのではない。請求しているのでもない。ただ頭から、「相談に答
えるのは、あなたの役目」というような言い方をされると、心のどこかで反発してしまう。
(これは私の人間性の限界のようなものかもしれない……。)

 そういう意味で、ある程度の礼儀、ある程度の節度というのは、やはり必要だと、私は
思う。

 たとえばメールで、だれかに相談するについても、自分の名前や住所くらい、明記する
のは、当たり前のことではないだろうか。私は、だれかに相談するときは、いつもそうし
ている。

 ……と書いて、やはり問題が問題だから、しかたないのかなと思う。子育てや子どもの
ことというのは、高度にプライベートな問題である。だから私の立場では、「できるだけ…
…」という言い方しかできない。

 いや、私はともかくも、学校の先生に何かを相談するときは、心のどこかで、ある程度
の礼儀、ある程度の節度を心得るべきだと、私は、思う。できれば時間外や、先生の自宅
への電話、日曜日などの電話は、ひかえるべきではないのか。

それとも私が書いていることは、まちがっているだろうか? 本当のところは、よくわ
からない。
 
 ただ最近の私の心境としては、こうしてみなさんの役に立てれば、それでよいのではな
いかということ。どうせあと何十年も生きられるわけではないし、頭の働きだって、その
うち、ダメになる。ボケる。

 今、こうしてまあまあ健康で、ものを考えられるだけでも、喜ばねばならない。そうい
うふうに考えれば、相手の人が、名前や住所を言わないことなど、何でもない。

ハハハと、ここは笑ってごまかそう。


●閉鎖性

 学校というより、学校の先生たちは、どこか閉鎖的? こんな話を聞いた。

 今、どこの学校でもそうだが、ある学年のあるクラスだけが、特別の授業をするのは、
禁止になっている。「禁止」である。

 そのクラスだけが、特別の授業をすれば、相対的に、ほかのクラスの授業レベルがさが
る(?)。平等を原則とする学校教育にあっては、これはまずい(?)。

 同じように、ある学年だけ、あるいはある学校だけが、特別の授業をすることも、事実
上、禁止されている。

 さらに総合的な学習においても、どこか、ことなかれ主義がはびこっているという。つ
まりそれだけめんどうなため、どうしても、「下にならえ!」式の雰囲気になってしまうと
いう。

 新しいことを先進的にやっていくというのは、それだけたいへんなことかもしれない。

 で、こんなこともある。

 その総合的な学習で、講師を、外部の人に頼むことも、事実上、不可能だという。たと
えばある学校が、自分たちのホームページをつくろうとした。

 それについて、たまたま生徒の親の中に、ソフトウエア会社の社長がいた。そこでその
担任の先生が、その社長に頼もうとしたら、校長がこう言ったという。

 「そんなこともできないのかとバカにされるから、頼んではいけない。学校には、20
人以上の教師がいるのに、そんなこともできないのかと言われる」と。「それに、外の世界
で、『学校の仕事をしたと、宣伝に使われては困る』」と。

 学校の先生たちは、「外の世界」という言葉を使う。おかしな言葉だが、いまだにそうい
う言葉を使う先生は、少なくない。

 しかしこうした閉鎖性があるかぎり、学校教育に、外の世界の風が通ることはない。こ
れも学校教育がかかえる問題の一つと、考えてよい。
(040514)


●こわれる子どもの心

もう少し、その常識について、考えてみる。

このH市は、子どもの受験という意味では、無風地帯だった。「受験競争」があるとして
も、中学二年から、三年にかけてであった。早い人(子ども)でも、中学一年からだっ
た。

 しかし数年前、市内の進学高校のひとつが、中高一貫校になってから、その様子は、一
変した。当初、競争倍率は、六〇倍近くになった。とたん、雰囲気が変わった。

 受験競争が、低学年化した。小学五年前後から、親たちは、受験競争を意識するように
なった。それまで主に小学五、六年から生徒を集めていた大手、中堅の進学塾が、のきな
み小学三年から、生徒を募集するようになった。

 それだけではない。

 市内の私立中学校、さらに以前からあった、S附属小学校への受験競争が、激化した。
具体的には、競争倍率が、少子化の流れとは逆行して、高くなった。

 こうした受験競争の低年齢化で、子どもたちの様子も、一変した。本当に一変した。と、
同時に、親たちの様子も一変した。(本当は、親たちが変わったから、子どもが変ったのか
もしれないが、私には、先に、子どもが変ったように見える。)

 難解なワークブックをかかえる子どもが、ふえた。勢いづいた進学塾は、東京の私立中
学校の入試問題をもってきて、子どもの指導をするようになった。とたん、親たちは、パ
ニック状態!

 もともとできるはずもない問題集である。そういうものをかかえて、子どもも、親も、「そ
れが受験勉強だ」と思いこむようになった。私のところへも、別の進学塾の問題集をもっ
てきて、「先生のところで、指導してほしい」と言ってきた、親がいた。さらに、どこかの
進学塾で、テストを受けたらしい。その結果、「成績が悪かった。何とかしてほしい」と言
ってきた親もいた。

 常識で考えれば、とんでもない非常識なのだが、親には、それがわからない。パニック
状態というのは、そういう状態をいう。

 本当に、おかしな世界になってしまった。

 親は気がついていないかもしれないが、小学生のうちから、受験競争で、子どもを追え
ば、どうなるか? 心のかわいた、冷たい子どもになってしまう! 親にしてみれば、「い
い学校へ入ってくれさえすれば……」と思う。その気持ちはわからないでもない。これだ
け保護格差というか、不公平が蔓延(まんえん)した国になると、学歴のもつ意味は大き
い。

 遠い昔だが、爪先で、ポンと月謝袋をはじいて、「おい、先生、あんたのほしいのは、こ
れだろ!」と、私に月謝を渡した高校生がいた。

 彼は市内でも、一番という進学校に通う子どもだった。彼にしても、中学生になったば
かりのころは、まだ心の暖かい子どもだった。楽しい子どもだった。しかし二年、三年と
受験勉強を経験するうちに、子どもも、そういう子どもになる。

 日本の教育水準は、高い? ……とんでもない! 学力の低下は著しい。しかしそれ以
上に、日本人は、心の教育を忘れてしまった。それはちょうど、友情や、愛情の大切さを
説く前に、援助交際の仕方を教えてしまうようなもの。一件、華々しい社会だが、その下
では、人間のドス黒い欲望が、ウズを巻いている!

 ……今さら、こんなことを私が言ってもはじまらない。今の日本は、そういう子どもや、
そういう子どもたちがおとなになった人の上に、成りたっている。先日も、ある経営者が、
同乗したタクシーの中で、こう言った。「弱肉強食は、当たり前でしょ。力のあるものが、
それなりにいい生活をする。やる気のないものは、貧乏になればいいのです」と。

 彼は、大都市の中心部で、コンピュータのソフト会社を経営している。しかし私たちが
求めている社会は、本当に、そういう社会なのか。そうであってよいのか。最後に、こん
な話も。

 東京都のM市に住む、友人がこんな話をしてくれた。

 何でもある母親が、小学生の息子を、公園へ連れていったという。そしてその公園で、
寝泊りするホームレスの人たちを見せながら、こう言ったという。

 「あんたも、しっかり勉強しなければ、ああいう人たちになるのよ」と。

 その友人は、笑い話のひとつとして、その話をしたが、この話を笑って聞ける人は、今、
この日本に、いったいどれだけいるだろうか。

(3)心を考える  **************************

●固定観念

 その人がもっている、意識、常識(コモンセンス)、価値観などというものは、恐らく思
春期から青年期にかけて、つくりあげられるものではないか。

 あのアインスタインも、同じようなことを言っている。

 『常識とは、その人が18歳までに作った考え方』と。

 こうした(つくりあげられた意識、常識、価値観)は、それ自体、便利なものである。
まとめて固定観念というが、それはたとえて言うなら、電車が走るレールのようなもの。
そのレールの上に乗っていれば、少なくとも、道に迷うことはない。

 しかしそれと引きかえに、つまりレールの上を走ることによって、もっと別の意識や、
常識、価値観があることを見落としてしまう。そしてときには、そのレールに乗って、と
んでもない世界に入ってしまう。

 そこでアインスタインは、さらにこう言った。

『自分の目でものを見ることができる人は、ほとんど、いない。自分の心で聞
くことができる人も、ほとんど、いない(Few are those who can see with their 
own eyes and hear with their own hearts.)』と。

 つまり私たちは、日常的に、自分の目で見て、耳でものを聞いていると思っているかも
しれないが、それは思いこみにすぎない。本当のところは、何もわかっていない、と。

 が、ここで二つの問題にぶつかる。

 一つは、そうしたレールの上に乗った意識、常識、価値観を、どうやって自分で気づく
かということ。

 もう一つは、レールからはずれるのはよいとしても、どうやって、別のレールを自分で
用意するかということ。

 どちらにしても、たいへんな問題である。

 少し前、こんな原稿を書いた。改めて、この問題について考えてみたい。

++++++++++++++++++

●常識

 幼稚園児に絵を描かせる。すると、たいていの子どもは、赤い色か、オレンジ色の太陽
を描く。

私「太陽は、本当に赤いの?」
子「そうだよ」
私「本当に、そう? 見たことある?」
子「あるよ。赤だよ」と。

 年長児のほとんどは、赤い太陽を描く。年中児だと、少し乱れるが、たいてい赤い太陽
を描く。ここ五〜六年、白い太陽や、黄色い太陽を描く子どもがふえてきた。しかしそれ
でも、大半の子どもは、赤い太陽を描く。

 そこで小学二年生の子どもたちと、こんな会話をしてみた。

私「太陽は、赤いと、小さい子たちが言うけど、君たちは、どう思う?」
子「いいんじゃ、ない……」
私「でも、本当は、赤くないよ」
子「赤いよ。ぼく、見たことがあるよ」

私「本当に赤かったの?」
子「赤だよ」
私「アメリカでは、黄色だよ。中国では、白色だよ」
子(みんな)「ウソーッ!」と。

 「白」は、もともと、太陽を表す「日」という漢字から生まれた。だから中国では、「太
陽は白い」ということになっている。

 ……つまり、こうして子どもたちの常識、きわめて日本的な常識が作られていく。そし
てその常識は、一度、作られると、変えるのは、容易ではない。

私「白い太陽じゃ、おかしいの?」
子「おかしいよ。白い太陽なんて……」
私「でも、一度、白い太陽を描いてみてごらん」
子「やっぱり、おかしいよ」と。

 私がもっている常識。あなたがもっている常識。私が、その常識を、はじめて意識して
疑ったのは、オーストラリアに留学したときだ。

 最初に案内された部屋は、ベッドが北向き(頭が北を向いていたという意味で北向き)
に置いてあった。

 私は、日本でも、とくに迷信深い家で、生まれ育った。母が、そうだった。だからふと
んを敷いても、枕を北側に置いただけで、母に叱られた。「死に枕だ!」と。

 そういう私がまず、ベッドを見て、驚いた。もっともすぐ、オーストラリアでは、南と
北が、日本の感覚とは逆、と気がついた。向こうでは、北が暖かいということになってい
る。が、今でもあのとき感じたショックを忘れない。

 あるいは、こんなことも。あるとき、イギリス人の家庭に食事に誘われたときのこと。
テーブルに塩をこぼしたが、「不吉なこと」と、その場で言われてしまった。その人は、そ
の塩を、右手でつまむと、左の肩越しに、うしろへ捨てていた。「日本では、神聖な象徴と
して、塩をまくことがあるのですが……」と、その人に言うと、その人は、仰天したよう
な顔をして、驚いた。

 さらにメルボルンのボタニカル・ガーデン(植物園)では、トイレの柵がわりに、竹が
植えられていた。日本では神聖な木ということになっているのに! 

またギリシャ人は、何かあるたびに、相手にプップッと、ツバをかけていた。何でもそ
うすると、魔よけになるのだそうだ。

 その人がもっている常識などというのは、実にいいかげんなもの。もちろん私のもって
いる常識も、あなたがもっている常識も、だ。例外は、ない。大切なことは、そうした常
識を、いつも疑ってみること。決して、「絶対」と思ってはいけない。

 あのアインスタインは、こう言っている。『常識とは、その人が18歳までに作った考え
方』と。

 人が自由になる道は、決して一つではない。そしてその方法も、決して一つではない。
自由になるための一つの方法として、あなたの中にある「常識」を疑ってみる。ときには、
ぶちこわしてみる。意外と私たちは、「常識」というクサリで、体も心も、がんじがらめに
なっている。それが、それでわかる。

 その一つのヒントとして、太陽の色について、考えてみた。

【固定観念を疑う】

 人間の行動は、すべて固定観念のかたまりと思ってよい。髪型から服装まで。歩き方か
ら話し方まで。

 行動面はそれでよいとしても、問題は、精神面である。

 このことを強く感じたのは、私がある友人に、「ぼくは、自転車通勤をしている」と話し
たときのことである。彼は、F県で、公認会計士をしている。彼は、こう言った。

 「そんな恥ずかしいこと、よくできるな。ぼくら、もし自転車に乗っていたら、それだ
けで、近所の人に、バカにされてしまうよ」と。

 もちろん、私は、平気である。恥ずかしいなどと思ったことは、一度も、ない。しかし
彼の世界では、運転手つきの高級乗用車に乗ってはじめて、一人前に扱われるらしい?

 こんなこともあった。

 ガソリンスタンドを経営している、K氏と話していたときのこと。K氏は、こう言った。

 「林さんは、時間どおりの仕事をしていますが、もし今の私にそれをしろと言われたら、
私は、気が狂ってしまいますよ」と。

 K氏は、こう言った。つまり、私の仕事のように、午前X時から、午前X時Y分までと
いうような、三〇分きざみの仕事など、できない、と。つまりこまかいスケジュールにそ
った仕事は、できない、と。

 私はその話を聞きながら、「私は反対に、来るかこないかわからないような客を待って、
一日中、ぼんやりしているような仕事はできない」と思った。

 こうした私のもつ常識が、ある人と大衝突したことがある。ある雑誌社で、編集部の部
長をしている人が、私にこう言った。「林さん、私たちは、あなたのような生き方をしてい
る人を、認めるわけにはいかないのだよ。それを認めるとね、私たちは、自己否定をしな
ければならない。私たちは、何のために生きてきたのかとね」と。

 彼がこの話を言うまでには、いろいろないきさつがある。

 彼らの世界では、「人間は、ひとりでは生きていかれない」が、一つの合言葉になってい
る。組織あっての人間、というのが、彼らの常識でもある。だから彼らは、フリーターと
いう職業を認めない。フリーターがしているような仕事は、仕事と認めない。

 しかし私は、この35年間、フリーターとして生きてきた。それは彼らにとっては、驚
きであると同時に、脅威でもある。彼らにしてみれば、私という人間は、成功しないまで
も、決して、ふつうの生活をしてはならない人間なのである。

 つまり彼らは、常日ごろから、私たちのような人間を、否定しながら生きてきた。だか
ら私のような人間が、彼らの正面に立つと、今度は、彼らが自らを否定しなければならな
くなる。彼は、それを言った。

 固定観念とは、何か。考えれば考えるほど、その奥が深いのがわかる。しかしこの固定
観念というカベを破らないかぎり、私たちは、精神の自由を手に入れることはできない。
本文の中にも書いたように、私たちは、ごく日常的に、「固定観念」というクサリで、身も
心も、がんじがらめになっているからである。


+++++++++++++++++

●再び固定観念

 一度、レールの上に乗ってしまえば、あとは楽である。人生観もそれで決まる。目標も
それで決まる。人生観や目標が決まれば、あとはそれに従って生きていけばよい。

 子どもの描く絵のように、「太陽は、赤。海は、青。空は水色。顔は、肌色」と決めてお
けば、生きることもずっと楽になる。

 こうしたレールについて、自分で自分のレールを敷くばあいもある。しかしそのほとん
どは、自分で敷いたものというよりは、他人が敷いたもの。個人を超えた、大きな流れの
中で、他人が敷いたレールであることが多い。

 ある男性(52歳)は、こう言った。「ぼくは、戦後の人間としては、ごく当たり前のよ
うに、会社人間として、自分の人生を、すべて会社のために捧げてきた。しかしそういう
自分に気づいたのは、自分が、うつ病で倒れ、会社をリストラされたときだった。それま
では、気づかなかった」と。

 その男性は、戦後の高度成長期の中で、会社人間として生きるのが正しいという価値観
を身につけてしまった。しかしそれは自分でつかんだ価値観というより、そういう時代の
流れの中で、与えられた価値観ということになる。

 こうした例は、多い。仕事について、考えてみる。

(1)都会の大企業ほど、よい会社という常識
(2)企業にも、一流、二流、三流と、ランクがあるという常識
(3)男は仕事、女は家庭という常識
(4)仕事のため、出世のためには、家庭は犠牲になってもよいという常識、など。

 こうした流れの中で、とくに大きく変わったのが、公務員に対する考え方である。たと
えば私が学生のころ、つまりたった35年前には、公務員になるのは、どちらかというと
負け組。その中でも、学校の教師になるのは、さらに負け組だった。

 これは私の意識というよりは、ほとんどの学生が共通してもっていた意識である。(もち
ろんこうした事実を裏づける資料は、ない。しかしウソだと思うなら、私の年代の人に、
そう聞いてみることだ。)

 で、一度、レールの上に乗ってしまうと、そのレールから踏み出したり、レールをかえ
たりすることは、簡単なことではない。自分にとってつごうのよい意見だけを聞き、つご
うの悪い意見には、耳を傾けなくなる。

 自分にとって耳ざわりのよい意見を聞きながら、ますます自分の意見を補強する。反対
に、耳ざわりの悪い意見については、少しでも問題点があると、ことさらそれを大げさに
騒いで、否定したりする。

 こうしてますます自分の固定観念に、しがみつく。見るべきものを見なくなり、聞くべ
きものを、聞かなくなる。そこでアインスタインは、こう言った。

 『自分の目でものを見ることができる人は、ほとんど、いない。自分の心で聞くことが
できる人も、ほとんど、いない』と。

●固定観念をいつも疑う

 私たちの頭の中には、無数の固定観念がある。固定観念が悪いというのではない。そう
いった固定観念の中には、「おかしい?」と思うものある。そういった固定観念を疑ってみ
る。

 「おかしいものは、おかしい」と思う。それだけのことである。

 たまたま昨夜のことだが、ワイフとこんなことを話しあった。少し脱線するかもしれな
いが、こんなことだ。

 私は、小さな教室で、幼児を教えている。週一回、一時間だけの教室である。そんな教
室だが、子どもにとっては、フルタイムの幼稚園で受ける影響よりは、私の教室で受ける
影響のほうが、はるかに大きい。

 決して、オーバーなことを言っているのではない。私は幼稚園での幼児教育も、知りつ
くしている。その上で、そう言う。

 が、私の教室は、国や県、市からの補助は1円もない。法人格もない。だから1年間子
どもが学んだとしても、履歴には残らない。形式じみた入園式も卒園式もない。あるのは、
週一回、一時間という「中身」だけ。

 しかし世間では、私の教室のような存在を、認めない。価値も認めない。が、それでも
私は、こうした教室の意義を、自分で、はっきりと確認している。だから私は、ワイフに
こう言った。

 「世間では、形のあるものには、皆、頭をさげる。しかし形のないものには、頭をさげ
ない。これは日本人という民族が、形ばかりを見てきたためではないか」と。

 わかりやすく言えば、外見ばかりを気にして、中身を見ない。つまりこれも、私がここ
でいう固定観念の一つということになる。

ワイフ「私たちは、結婚式をしていないわ。私は、そんなもの、どうでもいいと思った」
私「そうだな。あのころは、そう思った。結婚式というのは、形にすぎない。中身を置き
去りにしたまま、形ばかりにこだわる人は多い」
ワ「しかしこの日本では、結婚式をして、婚姻届を提出してはじめて、結婚したことにな
るわ」
私「結婚が先か、婚姻届が先かという問題は、中身が先が、外見が先かという問題につな
がるよね」と。

 こうして考えてみると、固定観念を疑うということは、もう一度、自分自身を中身から
見るということになる。人間の原点にかえるというふうに、考えてもよい。ともかくも、
もう一度、自分自身を見つめなおしてみる。

 これはたいへんむずかしいことかもしれない。ほとんどの人は、「私のことは、私が一番
よく知っている」と思いこんでいる。しかしこの世界に、本当に自分のことを知っている
人など、どれだけいるというのだろうか。

 が、ヒントがないわけではない。

 私たちの心の中には、この数十万年という気が遠くなるほどの年月をかけて蓄積された
常識というものがある。

(ここでいう常識というのは、固定観念としての常識とは区別する。鳥は水にもぐらない。
魚は陸にあがらない。そんなことをすれば、死んでしまうことを、鳥や魚は知っているか
らだ。そういう常識を言う。「太陽は赤い」というのは、ここでいう常識ではない。)

その常識に耳を傾けてみればよい。もっとわかりやすく言えば、「おかしいものは、おか
しい」と思う。それだけでよい。

 おかしいものは、おかしいと思う。それを繰りかえす。その先のことは、私にもわから
ないが、しかしこれだけは言える。

 人間は、その常識のおかげで、過去、何十万年も生きてきたということ。これからもそ
の常識を大切にすれば、何十万年も生きられるということ。大切なのは、中身。決して形
ではない。それがわからなければ、野に飛ぶ鳥や、野に遊ぶ動物を見ればよい。彼らは、
結婚式など、しない。婚姻届など、出さない。

 いつもそうした原点に視点を置いて、ものを考える。それが私の身にまとわりつく固定
観念をうちくだく、ゆいいつの方法である。
(040516)


(4)今を考える  **************************

●草を刈る

 5月16日、日曜日。雨のあいまをぬって、山荘周辺の草を刈る。

 草刈り機に、混合油を注いで、思いっきり、ヒモを引く。とたん、バリバリと気持ちよ
く動き出した。

 私は草刈りは嫌いではない。草刈り機で、バッサバッサと、大きな草を切り倒している
と、爽快(そうかい)な気分になる。

 本当は草刈りを、5月の連休前にしなければならなかった。しかし客がきたり、雨だっ
たりして、その時間がとれなかった。それで今日になった。

 しかしこの時期は、注意しなければならないこともある。毒ヘビと、ハチである。

 ゴーグル(メガネ)や、長靴は、常識。厚手の作業ズボンと、長そでの、これまた厚手
の作業シャツを着る。それに手ぬぐいを首に巻く。

 作業を始める前は、どこか肌寒かったが、10分もすると、顔中から汗がヒタヒタと落
ち始めた。それに呼吸も、荒くなった。私は、下半身はじょうぶだが、上半身が弱い。あ
まり鍛えていない。

 山荘の周辺は、斜面になっていて、足場が悪い。それに雨あがりで、足がすべる。それ
を必死にこらえての作業である。さらに10分もすると、心臓が爆発しそうになった。そ
こで、休憩!

 見るとワイフが、焼却炉でゴミを燃やしていた。「それは私の仕事だ」と言いかけたが、
声が出ない。ウーロン茶を飲んで、また作業、開始。

 バリバリ、ザクザク、ガリガリ……。「ガリガリ」というのは、草刈機の歯が、石に当た
る音。ハハハ。

 作業が終わって居間にもどると、ワイフがシャツとパンツを用意してくれていた。「扇風
機がいるね」と声をかけながら、素っ裸で、扇風機に当たる。この解放感が何とも言えな
い。

 「寒いくらいだ」と私が言うと、「風邪をひくわよ」と。

 夕方、自宅にもどる。楽しい一日だった。

 そうそう今日、山荘で、映画音楽を聞いた。「ブレイブ・ハート」の音楽を作曲演奏した
人と、「タイタニック」の音楽を作曲演奏した人は、同じ人だった。「どうも似ている」と
思ってジャケットを見たら、同じ、ジェームズ何とかという人の名前になっていた。

 ところで「ブレイブ・ハート」の、あの音楽。日本の「♪与作は、……」というメロデ
ーにそっくり。いや、同じ? くだらないことだが、いつもそう思いながら、あの曲を聞
いている。


●雑誌の発行部数は、インチキ!

 雑誌には、「公称発行部数」というのがある。つまりは、その雑誌社が自分で公称する発
行部数をいう。

 しかしこの公称発行部数ほど、いいかげんなものはない。私もかつて雑誌の世界を、渡
り歩いたことがあるが、「100%、インチキ」と断言して、まちがいない。

 10万部もない月刊雑誌でも、公称発行部数を、30万部とか40万部とか、言ってい
た。

 地方のミニコミ誌ですら、数倍から、5〜10倍程度のサバを読むことも珍しくない。
あるいはミニコミ誌のばあい、年末や年始など、ときどき発行部数を、いつもより、2倍
とか3倍程度、ふやすことがある。そういう発行部数をもって、公称発行部数ということ
もある。

 なぜ、そうするか? 理由など、書くまでもない。公称発行部数が多ければ多いほど、
広告宣伝費を高く請求できる。

 こうしたインチキを見破る方法としては、印刷会社による、印刷証明書を見せてもらう
方法がある。しかし実際には、そこまで請求する人はいない。また請求しても、意味はな
い。数字など、たがいの相談で、いくらでもごまかせる。

 そこで最近、日本雑誌協会(通称「雑協」)が、従来の「公称部数」から実数に基づく年
間の「平均印刷部数」に変えることにした。この秋(04)から、実施するという。

 雑協によると、「加盟各社の平均印刷部数の公表の可否については調査中だが、約8割が
同意する見とおし」という。「平均印刷部数」は、出版社の了解が得られた雑誌についてだ
け、印刷工業会が集約し、雑協にデータを渡す。

 しかしそれにしても、今まで、野放しになりすぎていた。「おかしい」とは、私も、すで
に30年前に感じていた。それを今ごろ……?

 私が知っているミニコミ誌のばあい、10倍どころか、20倍近い、サバを読んでいた。
実際の発行部数は、毎月2000部程度。しかし公称発行部数は、3万部とか4万部にな
っていた。

 みなさんも、広告を雑誌などに載せるときは、じゅうぶん、注意したほうがよい。でな
いと、結局は、お金をドブへ捨てることになる。

【追記】

 その点、インターネットは、ごまかしがきかない。まったく、きかない。厳格というよ
り、バカ正直。マガジンの発行部数などは、1部単位まで、正確に表示される。そういう
意味では、すっきりとしていて、気持よい。
(040516)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【おまけ・短編・男のお尻】

●男のお尻

 悪夢だった。いや、悪夢の始まりだった。

 電車に乗ったとき、運よく、出入り口のそばの横の座席が一つ、あいた。よかった。そ
う思って、そちらに背を向けたとたん、横の男が、少し腰を浮かした。

 太った男だった。年齢は30歳を、少し過ぎていただろうか。が、気がついたときには
遅かった。男は、2人がけのシートの、約3分の2まではいかないが、それに近い場所を、
占領した。

 私は隣にあいた、その狭い場所に、腰を埋めた。とたん、男のお尻を、自分のお尻に感
じた。きゅうくつだった。

 こういうときはどうすべきか。私は、数度、頭の中で、思いをめぐらせた。がまんすべ
きか。それとも席を立つべきか……。

 とりあえずは、私は、自分の体を少しそらせて、足を前に出した。少し腰が楽になった。
で、その状態で横を少し見ると、男は、眠ったフリ。たしかにフリだった。

 「そんな簡単に、眠るはずはない」と、私は思った。私がすわる直前まで、その男は、
あたりをキョロキョロと見まわしていたはず。

 「きっと男は、横に女性が座るのを期待していたかもしれない。だから先に、腰を動か
して、場所を大きくとった。いや、それとも……?」と。

 私がすわろうとしたのを、感じて、意地悪したのかもしれない。「お前なんか、すわるな!」
と。

 しかし腰を少し前に出しても、男のお尻はそこに感じた。いやな気分だ。

 私は、男の中でも、「濃い男」。同性愛者的な趣味は、まったくない。二手を同性触れら
れただけでも、ぞっとする。一方、女性なら、だれでもうれしい。(多分?)

 私は、その男が、同性愛者ではないかと、つぎに思った。相手の男だって、私のお尻を
そこに感じているはず。しかし平然としている。平気なのだろうか。なぜだろう。なぜか。

 やがて私はその男のお尻が、熱くなっているのを感じた。それがズボンをとおして、伝
わってきた。そこで私は、こう思った。「こういう熱気というのは、相対的なもの。きっと
相手の男は、私のお尻を冷たく感じているはず」と。

 私は腰をさらに前に出して、お尻とお尻の接着面積を、できるだけ少なくしようとした。
が、電車が前後の揺れるたびに、男のお尻が、グイグイと、容赦なく、私のお尻に当たる。

 私は目を閉じた。そして懸命に、「これは女性のお尻だ。若い女性のお尻だ」と、自分に
言って聞かせた。「若い女性のお尻だと思えばいい。そうすれば気にならないはず」と。

が、効果はなかった。どういうわけか、それが男のお尻とわかった。もじゃもじゃと毛
の生えた、男のお尻。きっとヘソから、お尻のうしろまで、びっしりと毛が生えている
に、ちがいない。

 「男も女も、同じお尻なのに……」と私は思った。そのちがいは、何か。

 男の横顔をふと見る。私が女性なら、ぜったいに嫌いになるタイプの男だった。どこか
しまりのない、不健康な青白い肌をしていた。「こいつは、同性の私とお尻をすりあわせて
も、何も感じないのか。いや、そんなはずはない」と、また思った。

 電車は混んでいた。通路に立っている人もいた。私の目の前にも、数人、立っていた。
こういう電車で、すわる場所があるというだけでも、感謝しなければならない。それはわ
かるが、しかしこの不気味さは、いったい、どこからくるのか。

 「少し、横へ体を寄せてくれませんか」と言いかけたが、やめた。その男には、先住権
というものがある。私は、その狭いすきまに、割りこんですわった。文句を言える立場で
はない。

 男のお尻がますます熱くなった。……そう感じた。

 「私は56歳だ。この男は、私のようなジジイに興味があるのだろうか」と思った。「い
や、わからないぞ。そういう趣味の男もいるという話を聞いたことがある。この世界では、
年齢は関係ない」と。(多分?)

 しかしそれにしても、不愉快だった。正確には、不快だった。オーストラリアでもアメ
リカでも、エレベータに乗ったときなど、他人と肌を触れあう程度の状態になれば、満員
という。それ以上の人が乗りこもうとすると、待ったがかかる。その点、日本人は甘い。
平気で、肌をこすりあわせる。

 男は相変わらず、無関心な様子だった。「きっと満員電車に乗りなれているのだ」と思っ
た。「しかしそれにしても、無神経な男だ……」と、つぎに思った。

 私は決意した。今度、電車が止まったら、それを理由らしくして、席を立とう、と。

 が、そういうときにかぎって、1分という時間が長い。それに私が乗った電車は、快速
電車。止まる駅の数が少ない。

 ジリジリと男の熱いお尻を感ずる。においまで伝わってきそうな感じ。電車が揺れる。
男のお尻が、私のお尻をこする。あああ。が、そのとき、ドシンと、電車が前後にゆれた。
同時に、男のお尻が、ズシリと、私のお尻にのしかかってきた。

あああ……と思ったとき、私は思わず、立ちあがってしまった。がまんするにも、限度
がある。そしてそのはずみを借りて、通路を通って、私は、前のほうに歩きだした。

 が、運は、私を見捨てなかった。私がスタスタと前に歩こうとしたその瞬間、目の前の
一人の男が、席を立った。私は、すかさず、その席にすわった。

 私は、ほっとした。緊張していた、お尻の筋肉をゆるめた。が、おかしなことに、その
男のお尻のぬくもりは、まだそこにあった。消えなかった。

 ついでに追伸。それからもう5、6時間にもなるというのに、今、この原稿を書いてい
る最中でも、あの男のお尻の感触がまだ残っている。本当にいやな気分だ。

 ワイフにちょっと前、「男のお尻と女のお尻は、どこがちがうのかね?」と聞くと、ワイ
フはこう言った。

 「同じでしょう」と。

 しかし私にとっては、そうではない。絶対にそうではない。男のお尻は、どこまでも不
気味。しかし女のお尻は、美しい。いとおしい。

 「男のお尻は気持ち悪いけど、女のお尻は気持ち悪くないよ」と私が言うと、ワイフは、
「女のお尻なら、だれでもいいの? 80歳のおばあさんでも?」と聞いた。

 私はそれに答えてこう言った。「30歳の男よりは、80歳のおばあさんのほうが、まだ
まし」と。(多分?)

 ……こう書くからといって、私は何も同性愛を否定しているのではない。同性愛の人を
差別しているのでもない。人それぞれだし、その人たちがそれでよいのなら、私はかまわ
ない。しかしただ少なくとも私は、ここに書いたとおりの人間だということ。

 気持ち悪いものは悪いのであって、これだけは、どうしようもない。
(040515)

【追記】

 電車で、私の横にすわった男が、同性愛者だったかどうかという話は、別にして、同性
愛について、一言。

 よく同性愛の人たちが、「同性愛の権利を認めろ」と、意見を書いたりする。

 その気持はよくわかる。しかしその一方で、私のような人間もいることを忘れないでほ
しい。つまり「同性愛でない人間の権利も、同性愛の人たちは、同じように認めてほしい」
ということ。

 同性愛に偏見をもつことは、許されない。しかし世の中には、同性愛に、生理的な嫌悪
感を覚える人間もいるということ。

 それはひょっとしたら、人間が生物として根源的な部分でもっている嫌悪感かもしれな
い。もし人間社会で、同性愛者が多数派をしめるようになったら、その時点で、人類は、
絶滅することになる。

 「生存」は、生存本能となり、あらゆる生きる力の源泉になっている。食欲、性欲も、
そのバリエーションの一つにすぎない。同性愛に対する嫌悪感というのは、そういう源泉
から、発生している可能性がある。

 いやいや、やはりこれは私の偏見かもしれない。

 どうして隣にすわった人が、男性だったら、いやで、女性だったら、いいのか。理屈で
考えれば、同じ、(お尻)ではないか。

 私は、毎晩、ワイフと、お尻をこすりつけあいながら寝ている。しかしそういうワイフ
のお尻に、嫌悪感を覚えたことはない。なぜだろうか。なぜか。

 考えてみれば、これは実におかしなことだ。本当におかしなことだ。多分、性科学者な
ら、ある一定の答を用意しているかもしれない。一度、じっくりとどこかで調べてみよう
と思う。

【追記2】

 ところで私は、このところ、「楽天日記」という無料HPサービスで使って、日記を書い
ている。(興味のある人は、私のHPのトップページより、「楽天日記」を開いてほしい。)

 その楽天日記でおもしろいのは、その日記を読んでくれた人を、追跡できるということ。
実際には、読んでくれた人のアドレスが、記録として、残る。

 そこでどんな人が、私の日記を読んでくれているのか、先ほど、逆アクセスをして、相
手の方のHPを開いてみた。

★N女王さん(仮名)……風俗嬢をしながら、3人の子育てでがんばっている女性。「ど
うして風俗嬢が悪いのか」と、日記の中で書いている。
★山本カオリさん(仮名)……この数年間、セックスレス夫婦で通している、若い妻。日
記は、そのセックスレスの様子を報告したもの。
★PINK・モルモットさん(仮名)……自分のセミ・ヌード写真や下着での写真を、自
分で撮影して掲載している女性、などなど。

もちろんプロフィールを開いても、名前や住所はない。しかし今、女性たちが、こうし
て自分を、堂々と主張し始めている。私は、そこにある種のおもしろさを感ずる。一つ
昔には、考えられなかった現象である。

 そのうち、自分の住所や名前、顔写真を公表する女性も出てくるかもしれない。インタ
ーネットの時代になって、日本人の性意識が、急速に変化しつつあるのを感ずる。「変化」
というより、「革命」に近いかもしれない。

 で、私も変った? いや、変らなければならないと思っている。私がもっている意識、
常識、価値観……そういったものを、一度、洗いなおしてみよう。

 私のHPを訪れてくれた人たちのHPを見ながら、そんなことを考えた。(ただし、同性
愛だけは、ごめん!)



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.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 18日(No.424)
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(1)子育てポイント**************************

●母親からの質問

 「最近、うちの子、どうでしょう?」という質問ほど、困るものはない。そう聞かれた
ら、教師は、どう答えればよいのか。

 親は、そういう質問を、いわばあいさつがわりにしてくる。深い意味があって、聞いて
くるのではない。
 
 そこで私のばあい、すかさず、「おうちでは、どうですか?」と、聞きかえすことにして
いる。つまりそう聞きかえすことによって、その親が、どういった問題で、どの程度まで
聞きたがっているか、さぐりを入れる。

 まちがっても、質問に答えて、「はあ、自閉症の傾向があります」「ADHD児の心配が
あります」などと、言ってはいけない。それこそ、たいへんな問題になってしまう。

 同じように困るのが、きわめて漠然(ばくぜん)とした質問。

 「英語教育は必要でしょうか」「受験勉強はいつから始めたほうがいいでしょうか」など。
とっさの立ち話のようにして、それをしてくる。ほかに、こんなのもある。

 「うちの子は、算数が苦手です。どうしたらいいでしょうか」
 「足し算の計算が遅いです。はやくできるようにするには、どうしたらいいでしょうか」
と。

 が、中には、ムッとするような質問もある。

 「うちの子を、小学校へ入ったら、先生(=私)の教室か、K式算数教室のどちらかへ
入れようと思うのですが、どちらがいいですか」と。

 さらには、「体操教室で、指導の先生と相性があわないようです。どうしたらいいでしょ
うか」とか、「K式算数教室では、ふつうだと思うのですが、この教室(=私の教室)では、
どうもできがよくありません。どうしてでしょうか」というのもある。

 最近、S市で小学生を相手に、算数教室を開いている、友人から、こんな話を聞いた。
その友人は、かなり怒っていた。

 ある母親、いわく。「私は、娘に、XX教室(=友人の教室)なんかやめて、進学塾へ行
ったほうがいいと言っているのですが、娘は、どうしてもYY先生(=友人)のほうがい
いと言っています。どうしたらいいでしょうか?」と。

 この言葉には30年以上のキャリアをもつ友人でさえ、激怒した。「なんかとは何です
か! 失礼でしょう!」と言って、電話を切ったという。そしてそのあとすぐ、その子ど
もには、私の教室をやめてもらったという。

 ……少し頭が熱くなったようだ。

 しかし「現実」というのは、そういうもの。決して、美しい世界ではない。きれいな世
界でもない。もちろん完成された世界でもない。その底流では、人間の、ドロドロとした
欲望がウズを巻いている。

 実は、今日もあった。何が、どうあったかは、ここには書けない。しかし、これだけは、
ここに書ける。

 今、この世界から、礼儀というものが、なくなりつつある。携帯電話からインターネッ
トの時代になって、さらにそれが加速されたように思う。言いたいことをズケズケと、単
刀直入に話すのが、当たり前のようになってきている。

 しかし私のような、どこか旧世代の人間には、どうにもこうにも、そうした風潮につい
ていけない。リズムがあわない。実際、そういう言い方をされると、話してやろうと思っ
たことでも、のどの奥で、ひかかって、止まってしまう。

 だからあとは、笑ってすます。「そうですねえ……」「私には、よくわかりませんので…
…」「ごめんなさい……」と。こういういいかげんさも、ときとばあいには、必要なのかも
しれない。


●子どもの内面化

 いかに、どの程度まで、相手の立場に立って、ものを考えることができるか……。それ
でその子どもの人格の完成度を知ることができる。

 昨日、幼児(年長児)の作文指導をしていて、こんなことに気づいた。

+++++++++++++++

【用意するもの】

 A4大の紙と鉛筆

【導入】

 こんな話をして、子どもに聞かせる。

 「ヒロシ君が歩いていると、大きな池がありました。ヒロシ君は、その池のそばに行き
ました。いつもお母さんが、『池のそばに行ってはダメ』と言っていましたが、ヒロシ君は、
その言いつけを守りませんでした。

 ヒロシ君が、池のそばで遊んでいると、池の中から、大きなワニが出てきました。ヒロ
シ君は、あやうく、そのワニに食べられてしまうところでした。

 あぶなかった!

 そこでヒロシ君は、こんなことを考えました。あとから来た人たちが、ワニに食べられ
ないように、池のそばに、立て札を立ててあげよう、と。それを読めば、みんな、池に近
づかないようになります。

 さて、ヒロシ君は、その立て札には、何と書けばいいでしょうか。その紙に書いてくだ
さい」

【注意】

 書けない文字(ひらがななど)は、その場で教える。しかし文字だけ。
 どんな書き方をしても、黙っている。意味がわかれば、よしとする。
 書き終わるまで、何も言ってはいけない。ルールは、いっさい、無視。
 
++++++++++++++

 昨日も、12人の幼児について、立て札を書いてもらった。この時期、まだひらがなを
よく書けない子どももいる。そういうときは、子どもの求めに応じて、文字の書き方を教
える。

 で、何となく書き始めた子どもが、6人。書き方がわからず、もじもじしている子ども
が、6人。

 5分前後で、一度、子どもたちの書いたものに目を通す。

 「池に入るな」
 「ワニがいる」
 「こちらへ来るな」などと書く子どもが、多い。

 そういう文章を読みながら、「どうして池に入ってはいけないの? 理由も書いてよ」「ワ
ニがいたら、どうなの? エサをあげろということかな?」などと、問いかけをしながら、
子どもを誘導していく。

 10分ほどしたところで、一人だけ、「この池にはワニがいます。あぶないから、近寄っ
てはいけません」と書いた子どもがいた。

 作文力、表現力のある子どもということになる。が、私は、もう一つのことに気づいた。

 それが内面化、つまり精神の完成度である。

 「いかに、どの程度まで、相手の立場に立って、ものを考えることができるか」で、そ
の子どもの精神の完成度を知ることができる。

 このテスト問題は、一見、作文力の問題に見えるが、実際には、このテストを通して、
その内面化の完成度を知ることができる。この時期、まだ子どもたちは、たいへん自己中
心的なものの考え方をする。

 「おかあさん、おとうさんへ、ワニがいました」と書いた子どもがいた。「この近くへ来
るな。池がある」と書いた子どももいた。

 しかしやがて年齢とともに、そういう自己中心性から離れて、やがて相手の立場でもの
を考えることができるようになる。一度、自分の視点を相手の立場の中に置くわけである。
そして相手の視点から、ものを考えて、立て札を書く。

 (もちろん内面化が遅れたり、完成しないまま、おとなになる人も少なくないが……。)

 私はこの指導をしながら、つまりは作文指導というのは、読む側の人の立場で書くこと
を指導することだと知った。わかりやすく言えば、作文指導というのは、内面化の指導で
もある、と。

 新しい指導法、ゲット!
(はやし浩司 作文指導 内面化 幼児の作文力)
(040519)


●子どもの分離不安

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られた
コラムニストのものだが、いわく、

「うちの娘(むすめ)(三歳児)をはじめて幼稚園へ連れていったときのこと。娘ははげ
しく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さに感動し
た」と。

とんでもない! ほかにも詳しくあれこれ症状が書かれていたが、それを読むと、それ
は、「別れをつらがって泣く子どもの姿」ではない。分離不安の症状そのものだった。

 分離不安症。親の姿が見えなくなると、混乱して泣き叫んだり暴れたりする。大声をあ
げて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイ
プ(マイナス型)に分けて考える。

私はこのほかに、ひとりで行動ができなくなってしまうタイプ(孤立恐怖)にも分けて
考えているが、それはともかくも、このタイプの子どもは多い。四〜六歳児についてい
うなら、一五〜二〇人に一人くらいの割合で経験する。親がそばにいるうちは、静かに
落ち着いているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあ
げて、そのあとを追いかけたりする。

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そ
のきっかけとなった事件が、過去にあるのがわかる。

はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病気で入院したことや、置き去りや迷子を
経験して、分離不安になった子どももいた。さらには育児拒否、虐待、下の子どもが生
まれたことが引き金となった例もある。

子どもの側からみて、「捨てられるのではないか」という被害妄想が、分離不安の原因と
考えるとわかりやすい。無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。

表面的な症状だけを見て、「集団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考え
る人もいる。無理をすればかえって症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引
き離せば、しばらくは混乱状態になるものの、やがて静かに収まることが多い。

しかしそれで症状が消えるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた心は、そん
なに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し繰り返し、症状が現
われる。

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくてい
ねいに説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、
そういう親子を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり
しているのがわかる。

「いいかげんにしなさい!」とか、「私はもう行きますからね」とか。

こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます被害妄想をもつ
ようになる。

 分離不安は四〜五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここにも書い
たように、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、
夫の帰宅が予定より遅くなっただけで、言いようのない不安感に襲われます」と。姿や形
を変えて、おとなになってからも症状が現われることがある。

(2)今日の特集  **************************

お休みします。

(3)心を考える  **************************

●クッキーが死んだ

 17年間、いっしょに住んだ、犬のクッキーが、死んだ。

 昨夜、2時ごろ、ちょうどネコが泣くような声で、「ヒーヒー」と泣いた。私には、「痛
いヨ〜」と言っているように聞こえた。

 それで巣箱に、クッキーを入れて、タオルをかけてやった。その巣箱を、ワイフと二人
で、家の中に運んだ。

 ふたたび、明け方の4時ごろ泣いた。それからも少し泣いたが、声はだんだん弱くなっ
た。

 私は目をさますとき、「バッファリンをのませてよろう。エサに混ぜてやればいい」と考
えていた。が、巣箱まで行ってみると、クッキーは、口をあけて死んでいた。

 最後の最後まで、私たちに心を開くことがなかった、かわいそうな犬。それがクッキー
だった。保険所で処分される寸前の犬を、私たちがもらい受けてきた。

もう一人、その犬がほしいという女性がいた。当時、60歳をすぎた女性だった。「死ん
だ犬、そっくりなので、どうしてもほしい」と、その女性は言った。

 それについて、私が、ワイフに、「あのとき、あの女性に、クッキーをあげていれば、ク
ッキーは、もっと幸福だったかもしれないね」と言うと、ワイフは、だまっていた。

 庭のすみに、長男と、ワイフと、私の三人で、深くて大きな穴をほった。ヤギのユキが
死んだときも、文鳥やインコが死んだときも、庭先で野鳥が死んだときも、私たちは、そ
れをそうして庭先に埋めてきた。

 埋め終わると、線香を立て、みんなで合掌した。もう一匹の犬のハナも、そこにすわら
せた。

 居間に帰って、みんななでぼんやりと庭を見ていると、ハナだけが、あちこちを忙しそ
うに動きまわっていた。ワイフが、「クッキーをさがしているのね」と言った。本当に、そ
んな様子だった。

 「犬は、ぼくたちが思っているほど、バカではないよ。友だちの死もわかっているのか
もしれないよ」と、私。

 今日は、5月17日。月曜日。空には低い雲が重くたれこめ、今にも雨が降り出しそう
な気配。私は、お茶を飲み終えると、書斎に入った。そしてこの文を書いた。


●布教活動

 玄関のチャイムが鳴った。「昔、お世話になりました、Kです」と、その声は言った。「?」
と思いながら、玄関のカギをはずすと、二人の女性が立っていた。見たとたん、ピンとき
た。どこかの宗教団体の信者たちである。

 「何ですか?」と言うと、「少し、お時間をいただけませんか」と。すかさず、私が「今、
忙しいので、お断りします」と答えると、「1時間ほどでけっこうです」と。

 1時間! ギョッ!

私「ですから、忙しいのでお断りします」
女「では、明日はいかがですか?」
私「明日も、あさっても忙しいです」
女「夜はいかがですか?」
私「夜も、お断りします」と。

 こうした押し問答が、しばらくつづく。相手も、なかなか用件を言わない。私も聞かな
い。聞きたくもない。

 ……とまあ、よくあることなので、この話は、ここまで。しかしこのところ、こうした
信仰への勧誘というか、布教活動が、よく目につくようになった。カルト教団も不況なの
だろうか。信者集めに、やっきになっているといった感じ。

 しかし誤解してはいけないことがある。カルト教団があるから、信者がいるのではない。
そういう信仰を求める人たちがいるから、その結果として、カルト教団がある。だからカ
ルト教団をたたいても、意味はない。

 かえって、それを信じていた人たちを、不安にしてしまう。これをこの世界では、「ハシ
ゴをはずす」という。つまりハシゴをはずすのは、簡単なこと。はずしたあと、その信者
たちは、どうなるか。それを考えてあげなくてはならない。

 二人の女性は、穏やかな笑みを崩さなかった。さも「私たちはあなたより、人間ができ
ています」というような、顔をしていた。たしかにそうかもしれないが、しかし、どこか
不気味。つかみどころがない。得体が知れない。

 最後は、いつものように、私のほうが怒って、幕。

 「これから仕事ですから、ここで失礼します」と。が、今日は、ついでにもう一言、こ
う言った。「二度と来ないでください。あなたがたがハッピーなら、それでいいではないで
すか。私もハッピーです。ですから、もう私たちのことは、かまわないでください」と。

 あとは一方的に、玄関の戸をしめ、カギをかった。

 どうしてかわからないが、ああいう人たちと話をしていると、心臓がドキドキする。落
ちつかない。何というか、理性の通じない人たちである。一見、道理をもっているように
見えるが、その道理が通じない。そういう不快感が、私をして、そうさせるのではないか。
よくわからないが……。


●一枚の写真

 居間に一枚の写真が、飾ってある。

 ワイフと二男の写真である。ワイフが、ピンクの服を着て、そのうしろに、どこか恥ず
かしそうな顔をして、二男が立っている。体の半分くらいをワイフのうしろに隠し、顔だ
けを外に出している。

 私が一番、好きな写真である。

 写真といっても、スキャナーで、コピーし、プリントアウトしたもの。オリジナルの写
真は、二男の手元にある。そのため、つまりコピーのため、このところ、急速に色あせて
きた。今は、かろうじて、色を保っているといった感じ。

 が、今日、教室で、こんなことがあった。

 ある母親と話しているとき、そこへその母親の子ども(年長女児)がやってきた。そし
てうれしそうな顔をして、その母親のうしろに立ち、私の顔をのぞいた。

 その瞬間、つまりその光景と、あの写真がダブった。その女の子も、体の半分くらいを
母親のうしろに隠し、顔だけを外に出した。

 とたん、目頭が、ジンと熱くなった。そして大粒の涙が、ポロリと出てきた。

 涙もろくなった……。そう、このところ、何かにつけて、涙が出てくる。音楽を聞いて
も、美しい山々を見ても、涙が出てくる。年齢のせいなのだろうか。あるいは、自分を支
える気力が、弱くなったせいなのだろうか。

 ところで、その人の老人度をはかる一つのバロメーターとして、(展望性)と、(回顧性)
があるという。

 未来に向かって、前向きに考えていくのが、展望性。反対に、過去に向って、あれこれ
なつかしむのが、回顧性。私の年齢というのは、展望性が弱くなり、回顧性が強くなる。
そしてその二つが、ちょうど交差する年齢だという。

 私はその母親に、「ハハハ、うちの二男を思いだしました。同じような写真が、うちの居
間に張ってありましてね」と笑って見せた。

こうした涙は、ワイフには、見せたことがあるが、他人には、はじめてのことだった。
私はバツの悪さをごまかすため、その子どもに、こう言った。

 「今のうちにね、うんと、甘えれるだけ、甘えておきなよ」と。

 その瞬間、私は、私を超えた、命の流れのようなものを感じた。私から二男、そしてそ
の私を超えて、その母親からその子どもへ、と。私たちは、それぞれ、別の人間として生
きている。しかしその実、その裏では、私たちは、みな、その命の流れの中で、つながっ
ている……。

 その子どもは、私の言葉に答えて、うれしそうに笑った。私も笑った。母親も笑った。
そしてその笑いをとらえて、私は、こう逃げた。

 「また、今度、会おうね」と。子どもはまた笑って、そのまま母親の手を引きながら、
外へ出て行った。


●命の流れ

 ときどき、その年齢の子どもをみながら、「自分がその年齢のときは、何をしていたのだ
ろう」と思うことがある。

 小学1年生の子どもを見たとき。小学3年生の子どもを見たとき。

 しかし記憶の中の私は、遠い霧の中にいて、どうもよく見えない。そこで何かしている
はずなのに、それがよくわからない。

 しかしたしかに私にも、小学1年生のときがあった。3年生のときも、あった。で、ふ
と、現実にもどり、この子どもたちにとっても、そうなのか、と思う。

 いつかやがて、この子どもたちも、今という時代を振りかえる。そして今の私が、50
年前、40年前を思いだすように、今という時代を思いだす。しかしそれは遠い霧の中に
ある……。

 わかりやすく言えば、私は、その霧の中の人間にすぎない。いや、それが悪いというの
では、ない。こうして人は、自分の人生を生き、つぎの世代の子どもたちは、それを繰り
かえす。子どもたちは、「私は私」と思っているかもしれないが、かつての私がそうであっ
たように、もっと大きな流れの中で、おたがいの命を、繰りかえしているだけ。

 もっとわかりやすく言えば、今の子どもたちは、私の過去を生きている。そして今の私
は、子どもたちの未来を生きている。そこに私は、命の深遠さというか、個人を超えた、
大きな、命の流れのようなものを感ずる。

【追記】

 いつか私の教えた生徒が、おとなになり、私が今書いている文章を読み、自分のそのと
きの現在と、霧の中の過去を結びつけるようなことがあれば、すばらしいことだと思う。

 つまり子どもが、いつかおとなになり、私が、こうして書いている文章を読む。そのと
き、その子どもが、「林は、私たちが子どもだったときのことを書いている」と思う。つま
りその時点で、私の書いた文章が、ちょうどその子どもの現在と過去をつなげる橋のよう
に、役立つかもしれない。

 「あのときの林は、こんなことを考えていたのか!」と。

 その今は、西暦2004年5月18日。午前5時ごろ。あなたはこのとき、いつ、どこ
で何をしていただろうか。


●生きる意味

 昨夜、犬のクッキーが死んだ。そのときは、それほどさみしいとは思わなかったが、今
朝になって、クッキーの死が、ズシリと胸に響くようになった。

 晩年のクッキーは、いてもいなくても、わからないような存在だった。庭を走り回るこ
ともなかった。毎日、ほとんどの時間を、寝てすごしていた。名前を呼んでも、耳は聞こ
えない。目も見えない。

 生ゴミ用に作った穴にも、よく落ちた。そんなクッキーである。

 それについて、ワイフに、「クッキーが生きてきた目的は何だったのかね?」と聞くと、
ワイフは、こう言った。

 「クッキーはね、一度、死んでいたのよ」と。

 ワイフが話したことは、こんなことだった。

 二匹目の犬のハナが私の家にやってきたときのこと。すでにそのとき、クッキーは、毎
日、寝てばかりいた。いつ死んでもおかしくない状態だった。エサもほとんど食べなかっ
た。

 しかし子犬でハナがやってきたとき、クッキーの様子は、一変した。まさに母親になっ
て、ハナのめんどうを見始めた。

 動きも活発になった。エサも食べるようになった。そしてヒマを見つけては、ハナとじ
ゃれあうようになった。

 そのことを思い出しながら、ワイフは、「クッキーには、クッキーの仕事があったのね」
と。

 しかし、それだけではなかった。つまり、クッキーは、人間のペットとして、どこか意
味のない人生を送った。……と私は考えていた。クッキーの死の重さをどこかで感じなが
ら、今朝まで、そう考えていた。

 が、二男のホームページを見て、それがまちがっていたことを知った。二男は、自分の
ホームページの中で、こう書いている。

+++++++++++++++++

【二男より】

家のクッキー(犬)がついに死んだそうだ。悲しい、という気持ちよりも、ありがとう、
という気持ちのほうが大きい。

僕が小さいときに買われてきた子犬だったが、中学、高校とほぼ毎日のように散歩に連れ
て回った。家ではクッキーを散歩に連れて行くのは僕だけだったので、僕とクッキーは親
密な仲だったのだけれど、僕にとってクッキーはペット以上の存在だった。

親しい友人が少なかったせいもあって、クッキーはいつも僕の友達の代わりだった。学校
で嫌なことがあったときにはいつもより長い時間歩いて回った。 

K郎という近所に住む親友と夕暮れにいつも彼の犬のシェンをつれて2人、2匹で北の大
平台の開拓地へ毎日のように探検にいった。

僕の少年時代を象徴するような毎日の日課だった。時には2時間以上散歩することもあっ
た。いつも真っ暗になってから家に帰った。広い平野を歩き回ったり、まだだれも上った
ことのないような崖を上ったり、建築中の建物や橋の内部を探検したりした。 

彼と話したことや、あのころ夢中になっていたことなど忘れがたい体験が、クッキーが死
んだ今、あらためて、いかに意味のあることだったのか思い知らされるようだ。

+++++++++++++++++ 

 二男には二男の思いがあったようだ。私は、それに気づかなかった。そう言えば、二男
が心のやさしい青年になったのは、そのクッキーのおかげだったかもしれない。今から思
うと、そういう感じがする。

 私も、あなたも、そして私たちを包む、ありとあらゆる生き物も、それぞれがみな、生
きる意味と目的をもっている。生きる意味や目的のない生き物はいない。

 それに気づくかどうかということは別にして、「生きる」ということは、そういうことで
はないだろうか。

 クッキーの死を今、一度思いやりながら、改めて、自分の生きる意味と目的を考える。



(4)今を考える  **************************

●コタツの中の蚊

 5月中旬というのに、もう蚊が飛んでいる!
 
 どこからこの書斎に入ったのか? 窓はあけてない。少しあいているが、網戸になって
いる。

 ときどき、ブーンと飛んできては、どこかへ消えていく。あたりを見ても、殺虫剤はな
い。しかたないので、そのまま手で追いはらう。

 が、そうして半時間ほど。ちょうど蚊のことを忘れかけたころ、その蚊がどこにいるか、わかっ
た。

 蚊は、何と、コタツのふとんの中にいるらしい。足のあちこちがかゆくなってきた。と
きどき、足のすね毛に当たる羽の感触がわかる。

 この時期、まだ、ときどき寒いときがある。そのため、まだコタツのフトンをはずして
いない。蚊は、いつの間にか、これまたどうやって入ったかわからないが、そのフトンの
中にいるらしい。

 「かなり頭のいい蚊だ」と、私は思った。

 世間一般の人は、昆虫や動物は、頭が悪いと思っている。たしかにそうだが、人間とて、
それほど、頭がよいわけではない。知識や情報はもっているが、思考力となると、ひょっ
としたら、昆虫や動物と、そうはちがわないのでは……?

 ウソだと思うなら、一度音声だけを切って、あのテレビのバラエティ番組なるものを見
てみることだ。ああした番組に出て、ギャーギャーと意味もないことを口にして、騒いで
いる連中は、そこらのサルとは、ちがわない……というより、動物園で群れるサルより低
劣に見える。

 しかしそれんにしても、足がかゆい。この原稿を書き終えたら、何とかしようと思って
いるが、それまで、がまん。

 私は今から殺虫剤をもってきて、フトンの中に、シューシューと吹きこむつもり。蚊の
命も、それまで。今はせいぜい、私の血を楽しむがよい。必ず、仕かえししてやる!

 ちょうど、のどがかわいてきた。お茶もない。本当は、口実にすぎないが、私は一度、
居間までおりていくことにした。お茶をもってくるついでに、殺虫剤をもってくることに
した。

(この間、数分ほど……。)

 居間の棚の上に、スプレー式の殺虫剤があった。階段をのぼってくるとき、それをよく
振った。あまり量が残っていないようだが、それでじゅうぶん。

 私は、フトンの一部を上にめくると、そこへノズルをつっこんで、レバーを引いた。と
たん、シューッと殺虫剤が、フトンの中に入っていった。

 しかしこの爽快感はどうして、起こるのか? 快感に近い。私は、蚊を殺すときだけは、
容赦しない。殺しても、殺したという罪悪感が、まるでない。

 が、そうして殺虫剤を吹きこんだだけで、かゆみも消えたようになる。これはおかしな
現象だ。本当におかしな現象だ。人間の心理には、そういう作用があるのか。

つまりこの作用は、どこかの独裁者が、政敵や不穏活動家を、粛清したあとに感ずる快
感に似ているということになる。(多分?)となると、私にも、その独裁者の素質は、じ
ゅうぶん、あるということになる。

 蚊は、もう死んだだろう。

 私はやけにつるつるになった床に足をすべらすと、このエッセーのつづきを書いた。と、
そのとき、肝心のお茶をもってくるのを忘れたのを知った。あああ。


●皇太子の発言

 今、日本の皇太子は、ヨーロッパを歴訪中。そしてその前、つまり皇太子が、日本をた
つ前、皇太子は、こう言った。「雅子は、まわりの人たちから、人格を否定されるようなこ
とを言われた」と。

 そのためか、今、日本中が、大騒ぎ!

 宮内庁の官僚たちは、どうも、ことの本質がわかっていないようだ。「皇太子の真意をた
しかめてから……」と、さかんに発言している。しかしそういう(確かめる行為)そのも
のが、またまた皇太子を苦しめることになる。官僚たちは、自分の立場を守ることしか考
えていない。

 何も言わないで、だまって、反省する。どうして宮内庁の官僚たちは、そういうことが
できないのか。私たちは、だれも、一人とて、宮内庁の官僚たちの意見など求めていない。


●立ち読み

 夕食後、1時間も休みがあると、私は、そのまま本屋へ行き、かたっ端から、本を立ち
読みすることにしている。ほとんどは、雑誌。

 で、1時間もあれば、月刊雑誌だと、数冊。週刊誌だと、やはり数冊分は、読んでしま
う。これは私の特技のようなもの。以前は、「現代」「諸君」という雑誌は、毎月欠かさず
買っていた。週刊誌は、「新潮」「文春」のほか、パソコン雑誌など、毎週2、3冊は買っ
ていた。しかし今は、立ち読みが多くなった。職業がら、書籍購入費は多い。毎月、3〜
4万円は、使っている。

 今日も、その立ち読みをしてきた。

 まず、女性週刊誌。どの週刊誌も、雅子妃の記事をトップにぶつけていた。雅子妃の病
気、動向など。中には、「皇室離脱」という文字を載せている週刊誌もあったが、それには、
驚いた。マスコミも、かなり自由に天皇制の問題を論ずるようになってきたようだ。

 つぎに旅行雑誌。温泉や旅館の紹介。その旅館での料理など。「行きたいなア」と思いつ
つ、どこか心が重い。「温泉に入って、のんびりと……」という、思いは、あまり起きてこ
なかった。

 そのあと、週刊誌を何冊かと、「現代」と「諸君」をざっと読みあさった。以前は、「S
xxxO」という月刊雑誌をよく買ったが、どこか右翼的? 左翼的なのも好きではない
が、右翼的な記事は、さらに私の肌にあわない。私は、自称、リベラリスト。

 こうした立ち読みによる情報収集は、とても重要なこと。いろいろな雑誌などに目を通
すことによって、社会の動きや、その中での、自分の位置を知ることができる。そういう
私が一番、恐れるのは、偏向(へんこう)。

 昨日も、どこかの宗教団体の人たちが、私の家にやってきた。見るからに低劣、ノーブ
レイン(失礼!)な人たちだった。そういう人たちが、私に説教し始めるから、たまらな
い。怒れるよりも先に、笑えてきた。

 彼らの話を聞きながら、「どうしてこうまで、人間は、一つの世界に固執できるのだろか」
と、むしろ、そちらのほうに興味をもった。が、同時にそれは、私がもっとも気をつけな
ければならないことでもある。

 そのあと、一般書籍の販売コーナーを歩いてみた。相変わらず、新刊書が並んでいた。「売
れるのかなあ?」と思って、何冊かに目を通してみた。しかしあまり読みたい本は、なか
った。が、その中でも、一冊だけ、「彩色幕末時代の京都」という本が目にとまった。

 幕末にとられた京都の街や、その周辺の写真集である。それに淡い彩色がほどこしてあ
った。

 その写真集を見ながら、「昔は昔で、懸命に生きていた人がいたのだなあ」と、へんに感
心した。どこをどう見てそう感じたというわけではない。全体として、そう感じた。古い
家々。粗末な建物など。写真に写っている人たちは、みな素朴な表情をしていた。そうい
うものを見て、そう感じた。

 もう一冊は、こんな長〜イ、タイトルの本。「自分を幸福にするより、他人を幸福にする
ほうが、楽」(仮称)と。

 「なるほどな」と思いつつ、「本当にわかっていて、そう言っているのかな」と思った。
著者は、30代半ばの若い人のようだった。ペラペラと本をめくってみたが、軽いタッチ
の本で、あえて読みたいとは思わなかった。

 いつかある出版社の編集長が、こう言ったのを覚えている。本のタイトルは、11文字
がよい、と。「自分を幸福にするより、他人を幸福にするほうが、楽」という本では、句点
を含めると、24文字になる。そういうことを計算しながら、「少し長すぎる」と、思った。
どうでもよいことだが……。

 あとは、子ども用の知恵ワークブックを一冊購入して、その本屋を出た。

 そうそう言い忘れたが、ただで立ち読みしようなどとは、考えてはいけない。たとえ安
い本でも、一冊は買うこと。これは立ち読みするものの、エチケットのようなものではな
いか。本屋に対するエチケットというよりは、本を書いている人へのエチケットと考えた
ほうがよい。


●国民年金保険料の未納問題

 このところ(5月18日現在)、国会議員による国民年金保険料未納問題が、国会をゆる
がしている。未納していた国会議員が、つぎつぎと出てきて、釈明をしたり、役職にある
ものは、その役職を退いたりしている。

 おかしな現象だ。

 さらに言わなくてもよいのに、テレビのニュースキャスターまでもが、「私にも未納の時
期がありました」と告白して、何日か、テレビに出るのをひかえたりしている。

 こういうのを、善意の押し売りという。もっとはっきり言えば、偽善者という。

 私は善人ですということを証明(?)するために、罪にもならない罪をわざと告白して、
自分が善人であることを、ことさらおおげさに強調したりする。

 他人のことを書く前に、私自身のことを書く。

 私は20代のころから、ワイフと、「国民保険料なんか、払うな」「払います」と、いつ
もけんかばかりしていた。私のワイフは、ああいうクソまじめな性格だから、払わずには、
おられない。

 しかし私はすでにそのころから、今の国民年金は、パンクすることを知っていた。だか
らいつもこう言っていた。

 「いいか、二人で2万円も毎月払っていてもだよ、将来、それだけのお金が返ってくる
かどうかわからない。それなら今、毎月2万円ずつ、積み立てておいたほうが、よっぽど
得だよ」と。

 その結果が、今である。

 だいたいにおいて、年金を、自分で積み立てるという制度そのものが、おかしい。もし
そうなら、何のための「国」かということになる。それにこの年金制度は、不公平だらけ。
ざっとみても、役人は、民間のサラリーマンより、2倍。自営業者より、4倍は、手厚く
保護されている。

 よく政府は、「払った額の約2、3倍は、年金を多くもらえます」などと、宣伝している。
しかしこれはまっかなウソ。とんでもないウソ。

 私たち夫婦が20代のころ、二人で、2万円程度の年金を払っていた。しかし当時の2
万円と、今の2万円とでは、価値がちがう。当時は、大卒の初任給は、6万円前後。今、
仮に当時の2倍の4万円もらっても、当時の1万円の価値もない。

 現在、二人で、3万円以上も払っている。息子たちの分まで含めると、6万円以上にな
る。

 仮に将来、12万円の年金をもらっても、(数字の上では、たしかに2倍になるが)、そ
のとき、お金の価値が半分になっていたら、どうするのか。4分の1になっていたら、ど
うするのか。そうなる可能性はきわめて高い。

 役人の年金だけは、物価にスライドして、上昇する。物価が2倍になれば、2倍になる。
しかし国民年金は、額が減らされることはあっても、ふやされることは、絶対にない。

 そういう国民年金である。

 ことさら「払っています」と、いばるような性質のものではない。一方、「払っていませ
んでした」と、わざわざ告白しなければならないような性質のものではない。私は非国民
と非難されようが、あえてこう言う。

 「みんな、国民年金にだまされるな!」と。ちなみに私たち夫婦は、ワイフのそういう
性格もあって、一度たりとも欠かすことなく、この35年間、ずっと保険料を支払ってい
る。本当は払いたくないが、払っている。

 もしそのニュースキャスターが、「私は、若いころ、ハレンチ罪で罰金刑を受けたことが
あります」などと告白したというのであれば、話は別。そのニュースキャスターは、罪を
告白したことになる。

 しかしそういうことは、絶対に言わないだろう。保険料未納という、どこかどうでもよ
いような罪を告白しながら、さも自分は善人ですと売り出している。そのキャスターなど
は、年俸が1億円から2億円、あるいはそれ以上ある。もともと年金など、はした金のはした
金。

 彼が言うべきことは、こうだ。

 「私は年金など、アテにしていません。そんなはした金、もらってもしかたないでしょ
う。私は、一本の原稿を書けば、40〜60万円。一回の講演だけで、100〜150万
円もらいます。だから保険料など、払ったことはありません」と。

 みなさんも、どうか、そういう偽善者の偽善に、気づいてほしい。そういうインチキに、
気づいてほしい。つまり今の年金制度問題は、すべて、そうしたインチキの上に成りたっ
ている。

 年金の一元化など、そんなのは常識ではないか。それとも、この日本では、役人の価値
は、一般庶民よりも、4倍の価値があるとでもいうのだろうか。アハハハ。本当にアハハ
ハ。

【追記】

 昨日(5・17)のテレビ報道(NHK)によれば、今回の年金制度改革について、一
度白紙にもどして議論しなおすべきと答えた人が、66%前後もいるという。当然だ!

 で、そのニュースを見ながら、ワイフがこう言った。「あら、賛成している人も、20%
もいるのね?」と。

 その20%という人が、どういう人たちか、賢明なあなたなら、それがわかるはず。


【追記・だれが悪い?】

 こんな話がある。

 ある橋のふもとに、狂暴な暴漢が出没するようになった。夜、橋を歩いている人を襲っ
ては、お金をまきあげたり、乱暴をはたらいていた。

 そんなある夜のこと。一人の女性が、その橋を渡ることになった。その女性は、このと
ころ夫にかまってもらえず、欲求不満ぎみ。その夜も、その橋の反対側にある男の家で、
不倫をして、家に帰るところだった。

 橋のふもとに出没する暴漢のことは知っていた。そこでその女性は、不倫相手の男に、
こう頼んだ。「どうか、家まで私を送ってください」と。しかしその男は、その女性と外を
いっしょに歩いているところを、人に見られたくなかった。とくに女性の夫に見られたく
なかった。見られたら、女性の夫に殺されてしまうかもしれない。

 しかたないので、その女性は、ひとりで橋を渡って、家に帰ることにした。が、その夜
は、そこに暴漢がいた!

 女性は、その暴漢に襲われ、そして、殺されてしまった……!

 この話を読んで、あなたは、だれが一番、悪いと思うか。つまりその女性の死にたいし
て、だれが一番責任があると思うか。

 いろいろ意見はあるだろう。

 女性をかまわなくなった夫が悪いと言う人。不倫した女性が悪いと言う人。女性をエス
コートしなかった男が悪いという人。

 しかし一番、悪いのは、その女性を襲った、暴漢そのものである。単純に考えれば、そ
うなる。あとの話は、問題の中身を複雑にしているだけ。

 実際には、これに似た話は多い。ものごとの本質を考えていくと、意外とその本質は単
純というケースである。一見、複雑に見えるのは、だれかが意図的に複雑にしているから
にすぎない。

 今回の年金問題にしても、どうしてこんなことでこじれるかといえば、官僚が、自分た
ちのよいように、例外の上に、例外をつくりすぎたためである。特権の上に特権をつくり
すがいたからである。そしてそれがだれの目にも、不公平とわかるまでになってしまった。

 あとは、その不公平を、何とかごまかして守ろうとする官僚たち。そしてそれではいけ
ないとがんばる庶民たち。原因のすべては、そこにある。

 考えてみれば、単純な問題ではないか。

 本当に悪いのは、だれか。不倫をした女性でもなければ、その相手でもない。女性をか
まわなかった、夫でもない。悪いのは、暴漢である。


●ブッシュ大統領の命運

 イラクの捕虜収容所での虐待について、どうやらブッシュ大統領が、それを承認してい
たらしいという事実が明るみになってきた。

 中日新聞は、つぎのように伝える。

 「……司法省は、CIAに対し、捕虜に睡眠を与えなかったり、緊張を強いたりする尋
問を許可するとの覚書も残していたという。

また、米裁判所の権限がおよばないキューバのグアンタナモ米軍基地(租借地)に、ア
ルカイダやアフガニスタン旧政権のタリバンの捕虜を送り込むことを検討したと報じた。
 パウエル国務長官はこうした承認に反対し、大統領に『米政策の転換であり、国際社会
から非難を浴びる』と反対したが、ほとんど受け入れられなかったという」と。

 今の時点で、先のことを予想するのは危険だが、(というのも、まだ5か月もあるので)、
この事実で、ブッシュ大統領の命運は、つきたと考えてよい。今のままでは、秋の選挙で、
ブッシュ大統領が、大統領に再選されることは、もうありえない。とても残念なことだが
……。

 問題は、この日本だが、仮に民主党のケリー氏が大統領になれば、日本は、大きなうし
ろ盾を失うことになる。かねてよりケリー氏は、「米朝間で、相互不可侵条約を結んでもよ
い」と主張している。

 もし米朝間で条約が結ばれれば、それがどんな形であるにせよ、仮に日本とK国とが戦
争ということになっても、日本は単独で、K国と対峙しなければならなくなる。

 日本には、その覚悟があるのか?
 日本には、その準備ができているのか?

 アメリカ軍は、すでに韓国からの、事実上の撤退を開始している。沖縄からの撤退も、
もうスケジュールにあがっている。ケリー大統領になれば、この動きは、さらに加速され
るだろう。そうなったとき、(そうなるのは、まちがいないが……)、この日本は、どうす
るつもりなのか?

 小泉首相は、6月22日に、K国を再度訪問するという。表向きは、拉致問題の解決だ
が、その中身は、底がわからないほど、大きく、深い。世間の人たちは、「これで問題解決」
と喜んでいるが、仮に交渉でつまずくようなことにでもなれば、そのまま戦争という事態
にもなりかねない。まさに一触即発の状態と言ってもよい。

(この原稿は、6月18日号に掲載予定なので、そのころまでには、もっと輪郭が、は
っきりしてくることと思う。)

 このところ、日本外交にとっては、すべてのことが、裏目、裏目に出てくる。何をして
も、うまくいかない。それはたとえて言うなら、もがけばもがくほど、足元の砂が崩れて、
その穴の中に落ちていく感じ。

 こういうときは、時の流れに静かに身をまかせて、国際情勢の動きを静観するのがよい。
しかしそれもままならない?

 では、どう考えたらよいのか?

 日本が望むように、相手を動かすのではなく、相手が望まないような状態になるよう、
日本が世界に働きかければよい。その点、K国の外交には、学ぶべき点が多い。

 米韓関係は、今や風前のともし火。アメリカは、韓国に、イラク派兵を要請したが、あ
れこれ理由をつけて、ノラリクラリ。そこで昨日(5・17)、アメリカは、在韓米軍を、
そのままイラクへ移動することを決めた。その数、3500名以上。事実上の、韓国から
の撤退である。

 これに対して、韓国経済は、敏感に反応した。株価は急落。土日をはさんで、一日で、
6%前後の、大暴落となった。「ブラックマンデー再来か」「最近の株価暴落基調は、通貨
危機以来最大規模」と、韓国の朝鮮日報は、書いている。

 理由は、アメリカ軍の撤退というよりは、撤退にともなう、社会不安。そして外資の逃
避である。昨日は、たった一日で、3兆ウオンの外資が、韓国から逃避したという。日本
円にすれば、3000億円程度だが、韓国の経済規模にすれば、かなり大きな痛手。

 つまりこうした状態になることが、K国の望むところである。そこで今日(5・18)、
K国は、韓国に向って、矢継(つ)ぎばやに、「韓国の、イラク派兵に反対する声明」を発
表している。

 朝鮮日報は、「北朝鮮は各種の社会団体名義の談話を相次いで発表、派兵撤回を繰り返し
促している」と題して、つぎのように書いている。 
 
 「18日、朝鮮中央放送によれば、朝鮮社会民主党中央委員会は17日、スポークスマ
ン談話を通じて『南朝鮮当局がイラクに派兵するのは、全朝鮮民族と世界の平和愛好人民
の志向と念願に逆行する行為』とし、派兵撤回を要求した」と。

 つまり(韓国の派兵に反対する)→(アメリカがますます韓国から離反する)→(K国
にとって、有利)、ということになる。あのK国が、「民族の平和」を口にするところが、
どこか白々しい。
  
 実は、その点、今回の小泉首相のK国の再訪問することについて、一番、ショックを受
けたのが、韓国政府ではないか。表向きは、「大歓迎」と歌っているが、それはあくまでも
表向き。内心は、崖から、まっさかさまに、谷底に落とされたような気分と言ってもよい。

 というのも、今のノ政権は、日朝関係を、悪化させることによって、自分だけは、いい
子ぶってきた。自分の存在感を、内外にアピールしていた。つまり日本とK国の関係が悪
くなればなるほど、韓国は、K国に対して存在感をアピールできるばかりではなく、とり
あえずは、K国の攻撃的野望を、韓国から日本へ、そらすことができる。

 だからK国を援助しながら、自分だけは、いい子でいようとした。

 が、そこへ日本が割って入ってきた。援助といっても、日本がK国に考えている援助は、
規模が違う。韓国がK国に対してしているような、1億円とか、トラック30台とか、そ
んなものではない。3000億円とか、7000億円とか、その程度の規模である。

 韓国としては、「そこまでしてもらっては困る」というのが、本音ではないのか。「大歓
迎」と口ではいいながら、K国が、経済的に立ちなおるようなことになれば、それこそ韓
国にとっては、一大事!

 実は、小泉首相というよりは、小泉政権は、そのあたりまで、読んでいるのではないか
もしれない。つまりこの秋のアメリカ大統領選挙では、ブッシュ大統領が敗れる。そうな
れば、民主党のケリー氏が大統領になる。

 日本の置かれた立場は、一挙に不安定化する。

 そこで今、日朝関係を、日本主導型にしたあと、K国の攻撃的野心を、日本から韓国に
そらす。そうなれば、反米、親北主義のノ政権を、窮地に立たせることができる。つまり
もう少し、韓国をして、現実に目を向けさせることができる。

 しかしもし、それが失敗すれば……。それこそ、日本は、たいへんなことになる。
 
 ……とまあ、私のようなものが、こんなことを心配しても、はじまらない。今朝、ワイ
フも、そう言った。

 「あなたが心配しても、どうにもならないでしょう。考えるだけ、ムダよ」と。

 そう、それはわかっている。だがだからこそ、つまり私のような立場だからこそ、好き
勝手なことが書ける。一片でも地位や肩書きがあったら、こんなことは書けない。学校の
教師でも、書けない。市議会の議員ですら、書けない。

 「だから私は、自由なのだ!」と叫んだところで、この話は、おしまい。実のところ、
このところ、どうせだれにも相手にされないことが、よくわかってきた。だからこうした
国際問題について書くのが、たいへんおっくうになってきた。ホント!



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 21日(No.425)
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(1)子育てポイント**************************

●考えてから書く

消しゴム中毒の子どもは、少なくない。ざっとみても、10人のうち、3〜4人はいる
(小学校の高学年児)。

 このタイプの子どもは、(考えてから、書く)のではなく、(一応、書いてみてから、考
える)といった、様子を見せる。

 そういうクセが身についてしまっている。

 だから1時間も勉強すると、机の上や下は、消しゴムのカスだらけ。山のようになるこ
ともある。

 もちろん時間のロスも大きい。テストなどのように、時間が限られている勉強では、決
定的に不利。当然のことである!

 仮に、1分間の間に、2〜3回、消しゴムを使ったとする。一回に、5秒前後使ったと
して計算すると、50分のテストの間、何と、約10〜15分間は、消しゴムを使うこと
になる。(これでも少ないほうだが……。)

 50−15=35分。つまりみなが、50分かかってするテストを、35分でしなけれ
ばならないことになる。

 こうした消しグセは、小学校へ入学する前後に身につく。そして一度、身につくと、以
後、なおすのが不可能。親や先生が見ているところでは、多少、使うのをひかえたりする
が、しかしいつも、子どもを監視しているわけにはいかない。

 だから幼児期は、原則として、消しゴムは使わせないようにする。

 が、消しゴムの弊害は、それだけではない。

 消しゴムは、子どもから(考える力)そのものを、うばう。

 そこで消しゴムをよく使う子どもを観察してみると、(考えてから書く)のではなく、一
応、適当にまず、何かを書いてみて、それを見ながら、「こうかな?」「これでいいのかな?」
とながめているのが、わかる。

 つまり考えていない。

 その証拠というわけではないが、消しグセのある子どもから、消しゴムを取りあげてみ
ると、それがわかる。ちょうど麻薬の禁断症状に似た症状を示す。イライラしたり、ソワ
ソワしたりして、勉強が、手につかないといったふうになる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

 それを知るためには、1時間程度、子どもが勉強したあとをみればよい。机の上や下が、
消しゴムのカスだらけになっていれば、ここでいう消しゴム中毒を疑ってみる。

 あるいは、こんなテスト法がある。一度、家庭で、試してみるとよい。

(小学2〜3年レベル)

 下のような問題を、紙に書いて、「四角の中には、どんな記号(+−)を書けば、いいか
な?」と聞いてみてほしい。

 5□1□3□2=5

 このとき子どもが、どんな方法で考えるかを観察してみるとよい。(考えてから書く)ク
セのある子どもは、頭の中で、あれこれ計算したあと、最後にサッと答を書く。(正解は、
(+)(−)(+)。)

 反対に、(書いてみてから考える)クセのある子どもは、適当に(+)(−)の記号を書
いてみて、それを見ながら、「ちがうかな?」「こうかな?」というようなことを、口にす
る。

 もし後者のようなら、消しゴムをできるだけ使わせないようにする。……といっても、
先にも書いたように、一度身についた消しグセをなおすのは、容易なことではない。私の
経験では、不可能とさえ思っている。

 クセというのは、そういうもの。

 だから繰りかえす。幼児期には、消しゴムは、できるだけ使わせないほうがよい。はっ
きり言えば、不要。

 もちろん手紙など、だれかに見てもらうものについては、きれいに、かつていねいに書
かねばならない。そのときは、消しゴムを、使う。しかしそれはあくまでも、例外の場合
と考えて指導する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●四割の善と四割の悪

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」
であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会に甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。

ある中学の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、その生徒を冬でもプー
ルの中に放り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしたのだろうが、で
は自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対
しては、そこまできびしいのか。

親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親
は、少ない。

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ったら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間が人間であるゆえんということになる。こ
のハバが世界を豊かで、おもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれ
る。

旧約聖書の中にも、こんな話が載っている。ノアが、「どうして人間のような不完全な生
き物を造ったのか」と神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」
と。

もし人間がすべて天子のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間はよいこともするが、悪いこともする。この善と悪の
ハバこそが、人間が人間であるゆえんということになる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの
世界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたや、
あなたの夫が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほど、それと
闘っているだろうか。

私の知人には五〇歳にもなろうというのに、テレクラ通いをしている人がいる。高校生
の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が、中年の男と援助交際
をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑ってこう言った。「うちの娘は、そ
ういうことはしないよ。うちの娘はまともだから」と。

私は、「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのだが、こういうおめでたさが積もり
積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

 善行をするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもな
い。悪と闘ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を
見る目は、大きく変わる。そして子どもの世界も変わる。


(2)今日の特集  **************************

【子どもの人権】

●電話機を横取りした母親

 「子どもの人権」と、言葉で言ってもわかりにくい。しかし、親子の場合、外から、観
察していると、(それ)がわかることがある。こんなことがあった。

 ある家に電話がかかってきた。その電話を、その家の子ども(5歳、男児)が受けた。
電話は、母親の兄、つまり伯父からのものだった。

 その子どもは、時間にすれば30秒足らずだが、伯父とあれこれ話し始めた。多分「ど
うだ? 元気か? またうちに遊びにおいでよ」「うん、わかった。今度、行くからね……」
というような会話をしていたのだと思う。

 そこでその子どもの母親が、やってきた。電話のベルの音は聞いていたが、そのとき何
かのことで、手が放せなかった。で、電話機のところへくると、息子が、だれかと話して
いるのがわかった……。

 そのときの状況を、あなたも頭の中で思い浮かべてみてほしい。あなたの子どもが、今、
だれかとどこか楽しそうに電話で話をしている。そこへあなたがやってきた。そういう状
況である。

(1)そのとき、あなたは、子どもが電話をしているのを、静かに見守るだろうか。
(2)あるいは、様子を見て、電話をかわってもらうだろうか。
(3)子どもに横から、小さな声で、「だれから?」と聞くだろうか。

 たいていの親は、(1)〜(3)の範囲での行動をする。しかし、である。その母親は、
ウムを言わせず、子どもから受話器をさっと横取りし、そのまま受話器に耳をつけた!

 そして瞬間、相手がその声から、自分の兄(=子どもの伯父)とわかると、「あら、兄さ
ん? 元気?」と。

 そのときの模様を、そのときの男性、つまり伯父は、こう言った。「突然、子どもの声か
ら、妹の声にかわったので、びっくりしました」と。

 もうおわかりのことかと思う。

(4)親によっては、強引に受話器を奪い、今度は、自分で話し始める、というのもある。

 そういう親もいる。そしてそういう親は、子どもの人権をまったく認めていないことが、
わかる。こうした行為を通して、わかる。

 ここまでひどくないにしても(失礼!)、似たようなケースは多い。

 一般的には、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する親ほど、あぶ
ない。たしかにある一面はそうかもしれないが、そういう傲慢さの中で、見失うものも、
多い。が、それだけではすまない。

 子どもの人権を無視すれば、その親自身が、いつかそのシッペ返しを受けることになる。
こうした人権、それにまつわる人権意識は、相互的なものだからである。

 あなたがいつか老人になって、立場が逆になったときのことを、少しだけ、思い浮かべ
てみればよい。そのとき、逆の立場で、あなたは子どもに、同じことをされるかもしれな
い。

 あるいは、こんなことも考えられる。

 あなたが子どもの人権を無視すれば、今度は、あなたの子どもが、あなたの孫に対して、
そうする可能性は極めて高くなる。そのとき、あなたが、つまりあなたの子どもが、あな
たの孫に対して、同じような行為をしているのを見て、「しまった!」と思っても、そのと
きは、もう遅い。

 こうした意識は、親から子へと、そのまま伝播(でんぱ)する。……しやすい。

●子どもの人権を守る

 子どもの人権を守るということは、いつも、子どもを、あなたと同じ、一人の人間とし
てみることをいう。

 たとえばあなたが、今、だれかと電話をしていたとする。そのとき、あなたの親がそこ
へやってきて、ウムを言わせず、受話器をさっと横取りしたとする。そのとき、あなたは、
それに耐えられるだろうか。つまりそういう親の行為を、あなたは許すことができるだろ
うか。

 実は、こうした人権無視の行為は、決して少なくない。日本人の親たちは、ある意味で、
日常的に、子どもの人権を無視している?

 子どもの意思や方向性などおかまいなしに、英語教室や体操教室へ入れてしまう親。反
対に、子どもの意思や先生とのつながりなど、おかまいなしに、そうした教室をやめさせ
てしまう親。

 塾からもらってきた成績表を見ながら、「こんなことでは、A中学へ入れないでしょ!」
と怒鳴る親。疲れて休んでいる子どもに向かって、「宿題をしなさい」と叱る親。

 親に反抗したとき、「この家から、出て行け」と叫ぶ親。結婚して、別居するようになっ
た子どもに向かって、「親を捨てるのか。親不孝もの!」と叱る親。

 子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と恩を着
せる親。

 親に口ごたえしただけで、「あんたは、だれのおかげでピアノがひけるようになったか、
それがわかっているの! お母さんが、高い月謝を払って、音楽教室へ連れていってやっ
たからよ」と叱る親、などなど。

 こうした親たちに共通するのは、悪玉親意識だが、その悪玉親意識の背後にあるのが、「子
どもは私のモノ」という、「モノ意識」である。つまり子どもを、一人の人間として見とめ
ていない。それが転じて、こうした行動や言葉になる。

 総じてみれば、日本の歴史を振りかえっても、日本人は、子どもの人権を認めるような
子育てをしていない。そういう土壌そのものが、ない。たいていの日本人は、ひょっとし
たら、この文章を読んでいるあなたも、それに気づいていない。

 子育てというのはそういうもので、一つの風土の中で、代々と繰りかえされる。つまり、
あなた自身も、自分が受けた子育てを、そのまま繰りかえしている。だから自分の子育て
が見えない。

 もう少し、別の角度から、この問題を考えてみよう。

●庭のスズメたち

 私は子どものころから、鳥が好きだった。鳥というより、(飛ぶもの)は、何でも好きだ
った。

 そのせいか、高校1年の終わりから、ごく最近まで、欠かすことなく、ずっと手乗り文
鳥を飼っていた。またその間にも、ハトを飼ったり、インコを飼ったりした。ハトも、一
時は、15羽前後にもなった。文鳥も、20羽くらいになった。

 しかし、そういった鳥を飼うのは、たいへんなこと。小屋も大きなものになる。エサの
量も、バカにならない。少し油断すると、エサや水を切らしてしまう。鳥を殺してしまう。

 家の中で飼うのとはちがって、外で飼うと、世話もたいへん。冬になると、ビニールを
かけてやったり、またその時期になると、小屋の中に、さらに巣箱を用意してやらねばな
らなかった。が、ハトは、ネコに。文鳥は、ヘビに、それぞれ全滅させられてしまった。

 それを機会に、ハトや文鳥を飼うのはやめた。

 そして今は、庭に、鳥のエサをまくようにしている。ハトには、ハト用のエサを。スズ
メなどの小鳥には、小鳥用のエサをまいている。

 とくに正月から2月にかけての、エサの枯渇期には、ほとんど毎日、欠かさず、エサを
まいている。それに5月前後の、子育て期にも。

 しかしときどきエサをまくのを忘れる。エサを買い忘れることもある。しかし小屋で飼
っているときとちがい、実に気楽なもの。庭へやってきて、エサがないと知ると、どこか
残念そうな雰囲気で、飛び去っていく小鳥たちを見ても、それほど、気がとがめない。

 が、(鳥)というものをみたとき、小屋の中の鳥は、どこか穏やか。静か。やさしい。し
かし庭へエサを食べにくる鳥は、どこか野生的(当然だが!)。騒々しい。たくましい。

 私は、あるとき、子育ても、それに似ていると思った。つまり、子育てにも、小屋の中
で、エサや水も与え、安全が確保された中で、子育てするような子育てがある。一方、庭
で、まあ、必要なときだけめんどうをみて、あとは、鳥たち自身のもつ生命力に任せて、
子育てするような子育てもある。

 小屋の中で育てるような子育てというのは、子どもに必要なことは、すべて親のほうで
用意してやるような子育てをいう。庭の中で育てるような子育てというのは、必要なこと
はするが、それ以上のことはしない子育てをいう。

 どちらがよいか悪いかと、そういうことではない。本来、子育てというのは、必要なこ
とはするが、それ以上のことはしない子育てをいう。小屋の中で、鳥を育てるということ
自体、不自然。まちがっている。一見、鳥にとって、住み心地のよい世界に見えるかもし
れないが、鳥自身にとってはどうかというと、それはわからない。

 つまり、私は日本型の子育ては、全体としてみると、小屋の中で育てる子育てに似てい
ると言っている。そしてそれは、結局は、子どもの人格や人権を踏みにじった子育てにな
っていると言っている。

●子どもの人権を守るということ

 何でもかんでも、子どものために、お膳立てをしてやる……というのは、一見、子ども
のためになっているようで、なっていない。子どもを大切にしているようで、していない。

 子どもを育てるということは、子どもを自立させること。それが子育ての最終目標であ
り、子育ては、子どもが自立したとき、完成する。

 そういう視点に立つなら、子どもに依存心をもたせたり、そのため、子どもを自立でき
ないひ弱な子どもにしてしまったというのであれば、まさに子育ての失敗ということにな
る。よく子どもが受験に失敗したり、非行に走ったりすると、「子育てで失敗しました」と
言う親がいる。しかしそんなのは、失敗でも何でもない。

 「子育ての失敗」という言葉は、子どもを、自立できない子どもにしたときに使う。ベ
タベタの依存性をもたせ、ひ弱な子どもにしたときに使う。

 では、どうするか、という問題になるが、その前に、どうしても考えておかねばならな
いことがある。

 それは子育てというより、あなた自身のことである。つまりあなた自身は、どういう子
育てを受けているかという問題である。

 実は、この問題は、先にも書いたように、親から子どもへと、伝播しやすい。言いかえ
ると、あなた自身が、小屋の中でエサを与えられような環境で育てられていたばあい、あ
なたは、無意識のうちにも、それを今、繰りかえしている可能性がある。

 もっと、はっきり言えば、あなた自身が、自立できない親である可能性が高いというこ
と。もしそうなら、子どもの自立など、望むべきもない。

 そんなわけで、子どもの自立は、結局は、親の自立ということになる。……といっても、
この話を書き始めたら、先が長くなってしまうので、ここまでにする。だから今は、前提
として、あなた自身が、自立した親であると考えて、話を進める。

 子どもの人権を守るということは、子どもを一人の人間として認めること。これは先に
書いたが、では一人の人間とは何かということになると、自立した人間ということになる。
一見、バラバラな話に聞こえるかもしれないが、人権を認められてはじめて、子どもは自
立することができる。一方、自立した人間というのは、人権をしっかりと認められた人間
をいう。

 そのことを、イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートラン
ド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、端的に、つぎのように言っている。

 「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜び
を与えられる」と。

 「必要なことはする。しかし限度を超えていけない」と。つまり、それが子どもの人権
を守る方法であり、同時に、子どもを自立させる方法である、と。

 日本では、「親子の縁は絶対」とか、「親子の縁は切れない」とか言って、親子関係を、
ほかの人間関係と切り離して、特別視する傾向が、たいへん強い。しかし親子といっても、
つきつめれば、純然たる人間関係で成りたっている。たまたまその子どもが、その親から
生まれたというだけにすぎない。しかも生まれてみたら、そこにその親がいたというに、
すぎない。

 きびしいことを言うようだが、親は、親であるという立場に、決して甘えてはいけない
ということ。と、同時に、子どもに向かって、「あなたは私の子どもだから」という、『ダ
カラ論』を、安易に振りまわしてはいけないということ。

 それをすればするほど、あなたは、子どもの人権を、踏みにじることになる。子どもを
自立できない、ひ弱な子どもにしてしまう。それがわからなければ、冒頭に書いた話を思
い出してみるとよい。

 あなたは、子どもが受けた電話を、さっと横取りするようなことはしていないだろうか。
子どもの人権を、踏みにじるようなことをしていないだろうか。もしそうなら、なぜそう
いうことが平気でできるのか、少しだけ、反省してみたらよい。でないと、あなたの子ど
もは、自立できない子どもになってしまう。子育てで、失敗することになってしまう。
(040520)

++++++++++++++++

以前、書いた原稿より

++++++++++++++++

●子どもを一人の人間としてみる
 
子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いと
なってあらわれる。

 子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強
くなり、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、
親の愛と誤解する。子どもの人格を無視する。

ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。「おばあちゃんが、このお菓子を買
ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、パパやママには内緒だよ」と。あ
るいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女性もいた。「遊び
においでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買ってあげるから」と。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と
認めること。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はな
い。そういう視点で、子どもをみる。育てる。

 こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令
と服従の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的に
なった分だけ、子どもの自立は遅れる。

また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言えば、子どもをドラ息子、
ドラ娘にする。が、それだけではない。

子どもを子どもあつかいすればするほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこ
ういう子だ」というつかみどろころのことを、「核」というが、そのつかみどころ.がわか
りにくくなる。教える側からすると、「何を考えているかわからない子」という感じにな
る。

そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくなる。わかりやすく言え
ば、おとなになりきれないまま、おとなになる。このことはたとえば同年齢の高校生を
くらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高校生は、まるでお
となと子どもほどの違いがある。

 昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかって
きた。「別格」と言えば、聞こえはよいが実際には、人格を否定してきた。

女性は戦後、その地位を確立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題は
ここで終わるわけではない。こうして子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとな
になり、親になる。そして今度は自分が受けた子育てと同じことを、つぎの世代で繰り
返す。こうしていつまでも世代連鎖はつづく……。

 この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。
もっと言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれで
よいし、そうであってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。

日本型の子育て観は、決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自
立させるという意味では、いろいろと問題がある。それがわかってほしかった。


(3)心を考える  **************************

お休みします。

(4)今を考える  **************************

【インターネット・あれこれ】

●アクセス・カウンター

 ほとんどのホームページには、アクセスカウンターというのがついている。それによっ
て、何人の人が、そのホームページを見たかが、わかるようになっている。

 私も自分のホームページを開いたとき、その数日後には、アクセスカウンターをつけた。

 が、最初、どのページにそれをつけるかで、悩んだ。

 ふつうは、みなさん、トップページにつける。だれかが、そのホームページを開いたと
たん、(プラス1)がカウントされる。

 しかし私は、そのアクセスカウンターを、目次のページにつけた。目次につけておけば、
ある程度、私のホームページをしっかりと見てくれた人の数だけが、カウントされる。し
かしトップページにつけておくと、さっと来て、さっと出て行ったような人までカウント
されてしまう。

 で、それから3年。毎年、ちょうど1万人前後の人が、その目次まで来てくれる。が、
今でも、ときどき、ふと迷う。

 「目次を素どおりして、あちこちを読んでくれる人もいるかもしれない」と。つまりそ
ういう人の数は、カウントされない。「やはり、トップページにつけるべきだったのか?」
と。

 ところが、である。

 最近、R社の無料ホームページ・サービスで開いているホームページだが、そのホーム
ページが、どこかのバカによって、攻撃されている。「攻撃」といっても、いたずらに近い
ものだが、そのホームページのアクセス数だけが、異常に、ふえていく。一時間に、10
〜40回とか。真夜中でも、勝手にふえていく。

 R社のホームページでは、アクセスした人を、逆追跡できるようになっている。つまり
だれが、私のホームページを見たかが、ある程度、わかるしくみになっている。

 パソコン会社のN社に問いあわせると、「そういう攻撃もあります」とのこと。つまり一
つのホームページに、繰りかえしアクセスすることによって、そのホームページの機能を、
じゃましようとするものらしい。(専門的には、よくわからないが……。)

 となると、やはりアクセスカウンターは、トップページ以外のところにつけたほうが、
よいということになる。こうした意味のないアクセスは、無視することができる。

 中には、各ページごとにアクセスカウンターをつける人もいるという。が、ここでまた
また、ハタと考えてしまう。

 たとえば私は、ここで、「毎年、1万人前後の人がアクセスしてくれる」と書いた。しか
しその「1万人」という数字に、少しも実感がともなわない。「1万人かア?」と思ってみ
たり、「1万人ねエ?」と思ってみたりする。

 やがて、こうした数字など、どうでもよいことを知った。はっきり言えば、意味がない。
「多いほどいい」という人もいるが、では、どの程度を多いというのか。どの程度を、少
ないというのか。その尺度さえない。

 テレビや新聞とは、その点、大きくちがう。アクセス数が、仮に数十万件になったとし
ても、それほど私の知名度があがるとは、思われない。またそれによる利益も、ほとんど
ない。

 現に今、アクセス数が、3万件を超えたが、利益という利益は、まったくない。質問や
相談件数は、目だって多くなったが、そういう意味では、かえって忙しくなっただけかも?

 だから当初は、毎日のようにアクセスカウンターをのぞいていたが、今は、もう見ない。
見ても、数字を頭に残さない。はっきり言えば、もうどうでもよい。

 しかし私のホームページなどに、執拗にアクセスを繰りかえして、それがどうだという
のか。今日も、どこかのバカが、バカなことをしている。ごくろうさま!

【追記】

 インターネットの世界は、もともとそういう世界であることを知った上で、つきあうし
かない。

 電子と光の世界。分子の世界ではない。私も最初は、そうしたいたずらや攻撃があるた
びに、不愉快な気分になった。相手を見つけて、たたきのめしたい気分になった。しかし
今は、無視。ただひたすら無視。

 メールについて言えば、即、削除。そして忘れる。ホームページのカウンター数につい
ては、道路を走る車の数のようなもの。ときどき見ることはあっても、その場で忘れる。
記憶に残さない。

 ウィルスについては、万全の対策を講ずるしかない。しかし今では、対策さえしっかり
としておけば、まず侵入されることはない。大切なことは、「?」なメールは、即、フィル
ター(送信者禁止処理)をかけたあと、削除。また削除。ただひたすら削除。あとは忘れ
る。


●息子たちの所在

 まず、おかしな電話がかかってくる。「○○さん(=私の息子の一人)は、いますか?」
と。

 電話の内容はそれだけ。そういうとき、私やワイフは、一応、「どちらさんですか?」と
聞く。すると相手は、また「○○さんは、いますか?」と。

 そこで私やワイフは、「今、こちらには住んでいませんけど……」と答える。が、そこで
電話は切れる。

 おかしいというより、まったくもって、不可解。目的がわからない。失礼といえば、こ
れほど、失礼な電話もない。が、なぜ、相手は、そんな電話をかけてくるのか?

 が、実は、ちゃんと、目的がある。

 それからたいてい2、3週間もすると、今度は、「債権回収機構」と名乗る、あやしげな
団体(?)から、ハガキや手紙が届く。

 「○○氏(=私の息子の一人)の、債権を回収します。つきましては、至急090−x
xxxxまで電話されたし。電話がないばあいには、貴殿の給与などを、強制的に差し押
さえます」と。

 もうおわかりのことと思う。

 先の電話は、私の息子が、実在の人物かどうか確かめるためのもの。恐らく何かの名簿
から、名前を拾っているのだろう。

 つぎに、その息子が現在、同居していないことを確かめる。同居していれば、こうした
インチキは、すぐバレる。電話で、「いますか?」と聞いてくるのは、そのためと考えてよ
い。

 が、同居していないとなれば、親は、そのハガキや手紙を読んで、あわてる。「息子が、
どこかで借金でもしたのか! たいへんだア!」と。

 が、それこそ、相手の思うツボ。あわてた親は、そのインチキ会社に電話をかける。「何
の借金ですか?」と。親がそう聞くと、たとえば、「インターネットの有料サイトにアクセ
スしたが、その料金が未払いになっている。金額は2万xxxx円。至急、YY銀行のz
zzzまで、振り込んでほしい」と答えたりする。

今どきの若者で、スケベサイトを見ていない若者はいない。この手法は、オレオレ詐欺
と、よく似ている。額も、それほど、たいしたことない。「それくらいの額なら……」と、
親も振り込んでしまう。

 しかし、である。だいたい現在の民事訴訟法では、こうした債権の回収法は、認められ
ていない。もちろん強制執行などありえない。絶対にありえない。するにしても、間に裁
判所や簡易裁判所が入って、いくつかの法的手続きを経る。

 しかしよくもまあ、こういう新手のサギを、つぎからつぎへと考える人がいるものだ。
驚くと同時に、あきれる。ホント!

 そこでみなさんへ!

 こうしたおかしなハガキや手紙が届いたら、一応、つぎのことは確かめたほうがよい。(確
かめるまでもないが……。)

( )所在地(住所)がしっかりと明記してあるか。(たいていは、マンション名か、「?」
な住所になっているはず。)
( )電話番号はどうか。(たいていは、携帯電話番号になっているはず。)
( )債権額が、具体的に、XX万円と、明記してあるか。(たいていは金額が書いてない。
電話をかけてきたら、教えると書いてある。)
( )債務となった原因(理由)が書いてあるか。(何にもとづく債務か、たいてはそれが
書いてない。これも電話をかけてきたら、教えると書いてある。)
( )代表者名が書いてあるか。(ふつうは書いてない。あっても架空名か偽名。)
( )裁判所の介入が明記してあるか。(書いてあるわけがない。裁判所からのものであれ
ば、裁判所からの配達証明付き郵便になっているはず。)

 これらの項目について当てはまれば、100%インチキと判断して、無視する。その電
話番号に電話したりしない。電話をすると、番号が相手にわかってしまい、かえってやっ
かいなことになる。

 一応証拠として、そうしたハガキや手紙は、保存しておく。あとはひたすら無視。

 そこでワイフとこう話しあった。「これから先、そういう電話がかかってきたら、『そう
いう名前の人は、うちの家族にいません』と答えることにしよう」と。どうやら、それが
正解のようである。

【追記・強制執行】

 ついでに、強制執行に至るまでには、つぎのような手続きと、過程を経る。

(1)債権者は債務者に対して、裁判所に、支払い命令書(これを「支払い命令」という)
を出してもらう。

(2)受け取った側(債務者側)は、2週間以内に、裁判所に対して、異義があれば、異
義の申し立てをする。

(3)その異義申し立てがなければ、債権者は、30日以内に、仮執行宣言を、裁判所に
出してもらう。相手方(債務者)が異義を申し立てれば、審理(裁判もしくは調停)へと
進む。

(4)この仮執行宣言をしたあと、相手方(債務者)は、さらに2週間以内に、異義があ
れば、異義の申し立てをする。

(5)異義がなければ、仮執行宣言は確定され、本裁判の判決と同じ効力をもつようにな
る。

強制執行が執行されるのは、そのあとのことである。これらの命令書は、すべて配
達証明付郵便で、かつ、裁判所を経由する。

 わかりやすく書くと、つぎのようになる。

(支払い命令)→2週間→(仮執行宣言付支払い命令)→2週間→(仮執行宣言の確定)

 個人(債権者)が相手(債務者)に対して、ハガキや手紙で、債権回収の通告状を出し、
それをもとに裁判所が、強制執行するなどということは、ありえない。

 こうした詐欺は、相手に恐怖心をもたせるということで、詐欺の中でも、悪質。そうい
う督促状は、無視して、堂々としていればよい。所在を明らかにせず、債権額も原因も明
らかにせず、かつ連絡先に携帯電話番号を使うのは、インチキ会社が、逃げ足をはやくす
るためである。

 もし弁護氏名で督促状が来たら、(そういうことはありえないが……)、地元の弁護士会
に相談するとよい。ほとんどは、偽名か無断借用。そう考えてよい。


●新聞VSインターネット

 以前、こんな人がいた。パソコンショップで働く店員で、年齢は、30歳くらいだった。
いわく、「ぼくは、新聞をとっていません」と。そこで私が「ニュースは?」と聞くと、「み
んな、インターネットで読んでいます」と。

 もう6年ほど前のことである。

 私はその話を聞いて、奇異な感じがした。「毎日、新聞を読まない」という行為そのもの
が、信じられなかった。

 しかし、である。それから6年。その私も、新聞を読む時間が、ぐんと少なくなった。
ほとんどのニュースは、インターネットで手に入れている。あとで新聞を読むこともある
が、それはとくに関心をもったニュースだけである。あのときの、あの店員ほどではない
が、しかしその店員に近づきつつある。

 私も、そのうち、新聞を読まなくなるかもしれない。

 で、インターネットの先進国のアメリカはどうかというと、新聞は、一応、健在である。
がんばっている。(あくまでも私の個人的な印象だが……。)

 しかし日本のような新聞配達システムはない。あちこちに自動販売機があり、みなは、
そこで新聞を買っている。といっても、新聞を読まない人も、多い。以前とくらべれば、
はるかの多いのでは……? 具体的な根拠はないが、そう感ずる。

 この日本でも、事情は、同じ。

 私の地元のC新聞にせよ、S新聞にせよ、ここ5、6年前から、発行部数は、頭打ちの
状態になったあと、急速に減少傾向にあると聞いている。そのうち新聞を購読する人は、
インターネットをしていない人だけという時代になるのかもしれない。

 私も、まず起きると、新聞を開く前に、まず、パソコンに電源を入れる。メールなどに
ひと通り目を通したあと、IE(インターネット・エクスプローラー)で、あちこちのニ
ュースを読む。今では、こうしたニュースを無料で提供している会社が、数多く、ある。
たしかに新聞を読まなくなった。

 いや、それ以上に、テレビを見なくなった。10年ほど前は、毎朝、1〜2時間はテレ
ビを見ていたような気もするが、今は、見ない。夜も、似たようなものだ。

 これから先、インターネットの普及で、私たちの生活は、どんどんと変っていくだろう。
ここに書いた、新聞やテレビの世界は、とくにそうだ。

 で、あえて提言するなら、こういうことになる。

 あちこちの新聞社では、生き残りをかけた、壮絶なまで読者拡大キャンペーンを展開し
ている。その気持ちはわからないでもないが、未来的に考えれば、新聞に勝ち目はない。

 森林資源のムダ。印刷のムダ。時間のムダ……とつづく。一方、インターネットは、紙
を使わない。印刷しなくてもよい。それに瞬時。

 だから「生き残ろう」と思うのではなく、つまりインターネットに対抗しようと思うの
ではなく、「インターネットでは、何ができないか」を模索したほうがよい。テレビも同じ。
その(できない部分)を、新聞やテレビが補う。分野は狭いかもしれないが、生き残るた
めには、それしかないのでは……?


●記録が残る

 インターネットの利点は、ほかにもたくさんある。

 自分でしてみて気づいたのは、まず、地域感覚がないということ。30年ほど前、ある
パソコンソフト開発会社が、北海道の札幌市で生まれた。北海道である。

 H社という会社で、今でいうカルクのハシリのようなものを開発していた。私は、それ
を買って、自分で使ってみた。当時、この浜松市でも、パソコンをもっている人は少なく、
東京の大手の出版社の編集長が、わざわざ見にきたほどである。

 が、まだ「北海道」という地域に、みなが、どこか違和感を覚えていた。「どうして北海
道の会社が?」という雰囲気だった。

 が、今は、もうない。北海道だろうが九州だろうが、インターネット上では、どこも同
じ。もちろんハンディキャップもない。「東京でなければ……」という理由は、もうない。
東京にこだわらなければならない理由も、ない。

 つぎに自分の記録を、長く残せる。

 雑誌や新聞はもちろんのこと、本にしても、それほど命は長くない。長くても数年もす
れば、忘れ去られてしまう。

 しかしインターネットでは、その気にさえなれば、自分が生きているかぎり、記録とし
て残すことができる。とくにホームページのほうでは、そうだ。

 もちろん、ぼう大な情報に埋もれてしまうということは、ある。しかし細く、長く、残
すことはできる。

 ほかにもいろいろ利点はあるが、私のばあい、とくにこの二つの利点が、魅力的である。
地方都市の浜松市に住んでいると、不便なことは多い。たとえばこの浜松市には、全国的
な出版社は、一社もない。全国的な雑誌社や新聞社もない。

 が、インターネットでは、全国に向けて、自分の意見や考えを発信できる。その気にさ
えなれば、全世界に向けてでさえ、できる。バンザーイ!

【終わりに……】

 インターネットには、いろいろ問題点もある。しかし私は、こうした問題点は、文明の
黎明期(れいめいき)によくありがちな、混乱のようなものではないかと思っている。

 やがてすぐ、こうした問題点は、解決されるだろう。そしてそれ以上に、インターネッ
トは、もっと大きな可能性を秘めている。私はその可能性のほうを、信じている。明日に
でも、ひょっとしたら、今日まで、だれも思いつかなかったようなことが、起きるかもし
れない。

 そうした未来に対して、ワクワクするか、ビクビクするかは、人それぞれだろうが、私
は、ワクワクしている。
(040519)


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 詳しくは、私のホームページの中に、書いておきました。

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 月額300円です。申し込みは、

 電話で、054−281−8870(静岡教育出版社)です。

静岡県内の方は、学校単位で、申し込みをしていただけます。
4・5月号では、ストレスについての特集記事を書かせてもらいました。

以上、お願いすることばかりで、恐縮なのですが、よろしくお願いします。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page091.html

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 現在、メルマガのほうは、不定期発行になっています。定期的にご購読して
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どこかで宣伝していただいているのか、メルマガの読者の方が、このところも
ふえつづけています。ありがたいことですが、一方で、申し訳なく思っています。

 Eマガのほうは、以前と同じように、月・水・金と、週3回、発行しています。

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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 23日(No.426)
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(1)子育てポイント**************************

●プラスのストローク
 
 子どもには、いつもプラスのストローク(前向きな賞賛、激励)を、かけていく。「あな
たはすばらしい」「どんどんすばらしくなる」「あなたはすばらしい人になる」と。

 とくに乳幼児期は、このプラスのストロークを大切にする。この時期、子どもは、やや
うぬぼれ気味のほうが、よい。「私はすばらしい」「ぼくはできる」という前向きな姿勢が、
自らを伸ばす原動力となる。

 まずいには、マイナスのストローク。「何をしても、あなたはダメね」式のマイナスのス
トロークは、子どもの伸びる芽をつんでしまう。

 しかし、では、プラスのストロークばかりでよいかというと、そうでもない。

 で、最近、ある母親から、こんな相談を受けた。

 「うちの娘(小1)のことですが、負けず嫌いで、何かのことでつまずいたりすると、
すぐメソメソ泣き出します。学校でも、算数教室でもそうです。

 勉強は、よくできるのですが、自分で『できない』と思いこむと、とたんパニック状態
になってしまいます。どうしたらいいでしょうか」と。

 このタイプの子どもは、もともと完ぺき主義の子どもとみる。そのため、乱暴な人づき
あいができない。優等生で、その上、頭もよい。が、その分、繊細(せんさい)な感覚を
もっている。

 だから何かのことで、つまずいたりすると、それを脳の中で適切に処理できず、ここで
いうようなパニック状態になる。たいていは、さめざめと声を震わせて泣く。

 で、なぜそうなるかということだが、ここでいうプラスのストロークしか知らない子ど
もほど、そうなりやすい。

 ここにも書いたように、もともと、できのよい子どもである。そのため、親も、ますま
すその子どもに、プラスのストロークをかける。「あなたはすばらしいね」と。

 こうした親の言葉や環境の中で、このタイプの子どもは、自分はどうあるべきかを学ん
でいく。またどうすれば、自分が、(いい子)でいられるかを、学んでいく。またそうする
ことが、自分の立場をよくすることも知っている。居心地も、よい。

 だから逆に、マイナスのストロークに弱い。そしてそのマイナスのストロークを、自分
の中で感じてしまう。パニック状態になる前に、「できない……」「わからない……」とい
うような、ひとり言を繰りかえす。そのあと、突然、パニック状態になる。

 では、どうするか?

 一般的には、無視するという形で、対処する。泣いても、涙を出しても、無視する。あ
程度は説得したり、なだめたりしても、そのあとは、子ども自身に任す。いわゆる暖かい
無視を繰りかえす。教える側や、親が、あわててはいけない。「だいじょうぶだよ」という、
やさしい声をかけて、すます。

 人間の社会は、完ぺきな社会とは、とても言いがたい。不完全な部分も多い。そういう
世界になれさせていくのも、親の役目。親としてはつらいところかもしれないが、親は、
ぐいとがまんする。子どもを決して、無菌状態にしてはいけない。また無菌状態が、よい
というわけではない。

 一般的に、たくましい子どもというときには、精神面でタフな子どもをいう。くじけな
い、めげない、いじけない。そういう子どもを、たくましい子どもという。子どもは、キ
ズだらけになりながら、たくましくなっていく。キズつくことを、必要以上に恐れてはい
けない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●教師言葉

 子ども(小二男児)がもらう成績表の通信欄。そこには、こうある。「運動は活発にでき
ました。授業にも集中できるようになりました。一学期は飼育係をし、友だちと協力して
動物を育て、思いやる心を学びました。二学期は学習面での飛躍が期待されます」と。

 この世界には、「教師言葉」というのがある。先生というのは、奥歯にものがはさまった
ような言い方をする。たとえば能力が遅れている子どもの親には、決して「能力が遅れて
います」とは言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。

こういうとき先生は、「お宅の子どもは、運動面はすばらしいのですが……(勉強は、さ
っぱりできない)」「私のほうでも努力してみますが……(家庭で何とかしろ)」と言う。

あるいは問題のある子どもの親に向かっては、「先生方の間でも、注目されています……
(悪い意味で目立つ)」「元気で活発なのはいいのですが……(困り果てている)」「私の
力不足です……(もうギブアップしている)」「ほかの父母からの苦情は、私にほうでお
さえておきます……(問題児だ)」などと言う。

ほかに「静かな指導になじまないようです……(指導が不可能だ)」「女の子に、もう少
し人気があってもいいのですが……(嫌われている)」「協調性に欠けるところがありま
す……(わがままで苦労している)」「ほかの面では問題はないのですが……(学習面で
は問題あり)」というのもある。

 一方、先生というのは、子どもをほめるときには、本音でほめる。先生に、「いい子です
ね」と言われたときは、すなおに喜んでよい。先生は、おせじではほめない。おせじを使
わなければならない理由そのもがない。

裏を返して言うと、もしあなたの子どもが、園や学校の先生にほめられたことがないと
いうのであれば、子どものどこかに問題がないか、それを疑ってみたほうがよい。幼児
のばあい一つの目安として、誕生パーティがある。

あなたの子どもが、ほかの子どもの誕生パーティによく招待されるならよし。そうでな
いのなら、かなりの問題のある子どもとみてよい。実際、誰を招待するかを決めるのは
親。その親は、自分の子どもや先生から耳にする、日ごろの評判を基準にして、それを
決める。

さて冒頭の通信欄だが、プロはこう読む。「運動は活発にできました……(学習面はさっぱ
りダメ)」「授業にも集中できるようになりました……(集中力がなく、問題児だ)」「一学
期は飼育係をし、友だちと協力して動物を育て……(一人では責任ある行動ができない)」
「思いやる心を学びました……(自分勝手でわがままだ)」「二学期は学習面での飛躍が期
待されます……(今は、学習のほうは、さっぱりダメ。家庭で何とかしろ)」と。

 今回は生々しい話になってしまったが、もともと教育というのは、そういうもの。親と
教師の価値観やエゴが、互いに真正面からぶつかり合う。ふつうの世界と違うのは、そこ
に「子ども」が介在すること。

だから本音と建前が、複雑に交錯する。こうした教師言葉は、そういう世界から必然的
に生まれた。ある意味でやむをえないもの。だいたいにおいて、あなたという「親」だ
って、先生の前では本音を言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになって
しまう。それをあなたは、よく知っているはずだ。

(2)今日の特集  **************************

【幸福について……】

●不幸の形

 昔、どうしようもないほど、勉強が苦手な子ども(男子)がいた。いつも成績は、最下
位。H市内でも、一番と言われた進学中学校にいたので、私は、ある日、恐る恐る、その
子どもに、こう聞いてみた。

 「君は、今の中学校へ入ったことを、後悔していないか?」と。

 すると、その子どもは、こう言った。

 「ううん、今の学校でよかった。後悔していない。楽しいよ」と。

 私は、この言葉に驚いた。しばらく自分の考えをまとめることができなかった。が、や
がて、わかった。その子どもにしてみれば、そう言うしかなかった。

 自分の幸福、不幸というのは、他人のそれと比較してみてはじめて、わかる。その子ど
もにしても、その学校しか知らない。そこでの生活しか知らない。そういう子どもに向か
って、「後悔していないか?」という質問は、そもそも、意味がない。

 話は、ぐんと変わるが、たまたま今夜、ワイフと、こんな話をした。

 「ぼくたちは、今、幸福なのか、不幸なのか、本当のところは、よくわからない。しか
し不幸な人を見ると、自分たちが幸福だと、わかる。

 たとえば今、かろうじてではあるかもしれないけれど、ぼくたちは、一応健康だ。しか
し、その実感は、あまりない。が、病気で苦しんでいる人を見ると、自分の健康のありが
たさが、よくわかる。感謝の念も、そこから生まれる」と。

 さらに、こんな話もした。

 「仮に幸福であるとしても、それがどうしたという問題もある。そういう時期が、5年
つづいても、10年つづいても、さらに100年つづいても、200年つづいても、その
人は、決して、満足しないだろう」と。

 私が言いたかったことは、こんなことだ。

 幸福感というものは、あくまでもその人、個人的なもの。幸福かどうかは、つまり、自
分が不幸になってはじめてわかること。その期間の長さではない。期間の長さでは、決ま
らない。

 たとえば毎日、おいしいごちそうを食べたとする。しかしそれが長くつづくと、それが
当たり前になってしまう。そうなると、おいしいごちそうを食べていることがわからなく
なってしまう。

 が、ある日、何らかの理由で、そのごちそうが食べられなくなったとする。とたん、そ
れまでの自分が、幸福だったことを知る。

 つまり自分が幸福であるかどうかは、自分が不幸な状態になってはじめてわかる。つま
りいつも、どこかに、自分自身を相対的に見る目をもたないと、結局は、幸福を幸福であ
ると認識できないままになってしまう。

 が、だれしも、不幸にはなりたくない。今の生活のどこかに幸福感を覚えたら、できる
だけそれを長くつづけたいと思う。

 では、どうしたらよいのか?

 ひとつの方法としては、他人の生活をのぞくという方法がある。しかしのぞくだけでは
いけない。その人の立場で、その人の気持になって、のぞいてみる。あるいは助ける。あ
るいはその不幸を共有する。

 その一つが、ボランティア活動ということになる。

 ここまでワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「私の知っている人で、自分のことしかしない人がいるわ。何かのことで動くといって
も、いつもどこかで打算、つまり損得の計算を考えているような人よ」と。

 そういう意味でも、利己的な人には、本来、幸福というものが、どういうものかわから
ない。人は、利他的になってはじめて、幸福というものが、どういうものかわかる。……
というのは、少し飛躍した考え方かもしれないが、結論としては、まちがっていない。

 さらに他人の不幸を共有することによって、自分の幸福を、実感できることもある。こ
のことは、反対の立場で考えてみればよい。

 私も、いくつかの深刻な問題をかかえている。何がどう深刻かということはさておき、
そういう問題に、ズカズカと、土足であがりこんでくる人がいる。

 さも先輩づらして。さも知ったかぶりをして。さも人生の経験者のようなフリをして…
…。何かを助けてくれるわけでもないのに、あれこれ口を出してくる。

 しかしそういう人物というのは、不愉快、きわまりない。こちらの事情や、苦しみなど、
まったく理解できない。理解しようともしない。世間一般的な常識(?)を、平気でぶつ
けてくる。押しつけてくる。

 こういう人には、自分自身の幸福もわからない。いや、むしろ他人の不幸は笑い話。酒
の肴(さかな)。自分の優越感を確認するために、他人の不幸を利用する。だから幸福な期
間が、100年つづいても、200年つづいても、それを実感できない。できないばかり
か、最後に不幸になったとき、それまでの人生、すべてを、不幸と思うようになる。

 またボランティア活動といっても、偽善的な活動ではいけない。どこかのタレントが、
その知名度にものを言わせて、どこかの貧しい国の子どもたちを救済するというのは、こ
こでいうボランティア活動ではない。「売名」のにおいを感じたら、100%、偽善者とみ
てよい。

 「私」を知ることは、本当にむずかしい。冒頭にあげた中学生にしても、「私は私」と思
っていた。そしてその「私」は、それでよいと思っていた。いかにまわりの者が、「不幸だ
ろうな」と思っても、彼には、関係ない。

 その彼が、「私」を知るためには、別のところで、別の中学生として、別の生活をしてみ
る必要がある。つまり、自分というものを、客観的に比較してみる。

 その中学生を思い出しながら、幸福とは何か、そんなことを考えた。

【補足】

 何ともわかりにくい文章を書いてしまった。私が、書きたかったことは、こうだ。

 幸福の追求と、幸福の認識は、別の問題だということ。だれしも幸福になりたいと思っ
ている。しかしその幸福には、実感がともなわない。たいていの人は、幸福を失ってはじ
めて、それまでの自分が幸福だと知る。

 だから幸福を追求するときは、同時に、その幸福を、どこかで認識しなければならない。
その一つの方法が、「利他」であると、私は書いた。

 少し前、利他的であればあるほど、その人の精神の完成度は高いということになると、
私は、書いた。

 しかし「利他」には、まだほかの意味があるようだ。それがここに書いた、「幸福の認識」
である。

 新しい思想、ゲット! やったア! ハハハ!


●幸福の形

 不幸な人は、まさに千差万別。しかも不幸の糸が、無数にからんでいて、その形さえ、
よくわからない。それに不幸な人は、何とかその不幸から逃れようと、もがく。しかしも
がけばもがくほど、足元に糸がからんで、そこから抜け出られなくなる。

 一方、幸福な人は、みな、同じ。よく似ている。どこもちがわない。

 ……となると、幸福とは何か? 不幸とは何か? ……と考えていくと、何がなんだか
わからなくなってしまう。そもそも、「幸福」「不幸」という言葉で、その人の生活を総括
することがまちがっているのか、ということになる。

 実際、幸福感ほど、実感しにくい感覚も、ない。

 よくアメリカ人の子どもが、こんな遊びをする。だれかが、「幸福とは(Happiness is)
……?」と話しかけると、つづいて、ほかの子どもたちが、てんでバラバラなことを言い
始める。

 「先のとがった、トウ・シューズ!」
 「スマイル!」
 「サンタクロースが飛ぶ、青い空!」と。

 そう、幸福感というのは、それだけつかみにくい感覚なのかもしれない。

 こういう点をとらえて、あるフランスの哲学者は、『平凡は美徳』という言葉を残した。
「平凡であること自体、幸福なのだ」と。しかし平凡だけでは、その人は、そのときの幸
福感を実感できない。

 そこでもう少し、幸福の内容を、分析してみよう。

(1)満足感(満ち足りた状態)
(2)充足感(満たされた状態)
(3)達成感(やり遂げた状態)
(4)平穏感(心、穏やかな状態)
(5)親密感(他者との心の通いあい)
(6)利他感(他人を喜ばせたという感覚)

(1)から(6)まで、思いつくままあげてみたが、それぞれが、これまた複雑にから
みあっている。

 だから幸福というのは、何か、それがますますわからなくなる。ただ、人は、不幸にな
ってはじめて、幸福というものを、実感できる。それはたとえていうなら、病気になって
はじめて健康のありがたさがわかるようなもの。死の恐怖を味わってはじめて、生きる喜
びがわかるようなもの。

 しかし、どうすれば、幸福の実感を、自分のものとすることができるのか? ……と考
えていくと、この問題は、「なぜ私たちは生きているのか」という問題に、どこかで結びつ
いているのがわかる。

 あああ、あと少しでわかりそうな気がするが、どうしても、その先がわからない……。
ということで、このつづきは、もう少し、時間をおいてから考えることにする。

 たまたま今は、日曜日。目の前の山々は、深い霧に包まれている。初夏の小雨が、煙の
ように、地面を濡らしている。時折、白いモヤが、どっと空に向かって、立ちのぼる。

 静寂のひととき。先ほどワイフがかけた、『ブレイブ・ハート』の主題曲が、静かに聞こ
えてくる。それを聞きながら、刻一刻と変化する山の景色に見とれる。

 ただ一つ、はっきりしていることがある。

 それは今、私はここに生きているということ。いろいろ問題はあるが、今の私は、幸福
だということ。

 ……このつづきは、またあとで……。

+++++++++++++++++

「平凡は美徳」という言葉で、
私の原稿を検索していたら、少し
前に書いた原稿が見つかった。
それをここに掲載する。

+++++++++++++++++

●運命と生きる希望 
不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦ない。
まるで運命がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)がそうだ。

会社をリストラされ、そのわすかの資金で開いた事業も、数か月で失敗。半年間ほど自
分の持ち家でがんばったが、やがて裁判所から差し押さえ。そうこうしていたら、今度
は妻が重い病気に。検査に行ったら、即入院を命じられた。

家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校を卒業すると同時に、
暴走族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無心する……。 
二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、その予備
軍の一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自殺する人の気持
ちが、痛いほどよくわかる。

昔、学生時代、友人とこんな会話をしたことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に
歩いていたときのこと。私がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語
りかけた。するとその友人はこう言った。

「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思うことは、立派な希望だよ」
と。 
Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は何
もまちがっていない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というのは、
社会という大きな歯車の中で動く。その歯車が狂うことだってある。そしてそのしわ
寄せが、Y氏のような人に集中することもある。

運命というものがあるのかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後の
ところでふんばるかどうかということは、その人自身が決める。決して運命ではない。 
私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてきた。が、
今言えることは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事実そのものが、
希望なのだ。

私のことだが、不運が重なるたびに、その先に新しい人生があることを知る。平凡は美
徳であり、何ごともなく過ぎていくのは、それなりにすばらしいことだ。しかしそうい
う人生から学んだものは、ほとんどない。 
どうにもならない問題をかかえるたびに、私はこう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たければ来
い。お前なんかにつぶされてたまるか!」と。

生きている以上、カラ元気でも何でも、前に進むしかないのだ。

 ドストエフスキーは、こう書いている。

Man is fond of counting his troubles but he does not count his joys. If he 
counted them up as he ought to, he would see that every lot has enough 
happiness provided for it. 

 人は、自分の不幸を数える。しかし自分の幸福は数えない。もし彼が自分の幸福を数え
るなら、どんな運命にも、それに与えられた幸福があることを知るだろう。

(F・M・ドストエフスキー)

+++++++++++++++++++++++

もちろん、平凡であることが悪いといっているので
はない。「平凡」とういうより、「ふつうである」こ
とには、すばらしい価値が隠されている。

とくに子どもについては、そうだ。

つぎの原稿は、中日新聞に載せてもらった原稿である。
この原稿は、好評だったことを記憶している。

++++++++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あ
るいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なか
らずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に
載っていた話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、
苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下
から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。

「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きる
と、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。

一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価値が
隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決
する。

 子育てというのは、つまるところ、『許して忘れる』の連続。この本のどこかに書いたよ
うに、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘
れる)は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を
得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉
を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意
味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。

大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子
育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そ
して一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこん
な相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入
れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよい
か」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++

【幸福論】

 そういう意味では、幸福論は、健康論に似ている。健康であるときは、それが当たり前
になってしまう。が、病気になったとたん、健康のありがたさが、わかる。

 同じように、幸福なときというのは、それを実感するのがむずかしい。あるいは幾多の
不幸を経て、人は、幸福というものが、どういうものかわかるようになる。

 同じように、さらに、人生についても、同様のことが言える。

 若い人たちからみれば、20年後、30年後は、永遠の先の未来かもしれない。しかし
年をとった人からみると、20年前、30年前など、つい先日のできごとにすぎない。

 そうなったとき、人生の重みというか、はたまた、はかなさというか、そういったもの
が、ズシリと胸に響く。ふと振りかえると、「あの人はもういない」「この人ももういない」
となる。

 いないだけではない。「あの人がいなくなって、もう10年になる!」「この人がいなく
なって、もう20年になる!」となる。

 死んだ人は、静かだ。本当に静かだ。

 そう思いながら、自分の未来を、思いやる。あと10年か。それとも20年か。

 そんな時間など、あっという間に過ぎてしまうだろう。

 ……となると、今、こうして生きているだけでも、感謝しなければならない。それが幸
福だというのなら、幸福とは、そういうものかもしれない。いつもすぐそばにあるのだが、
それに気づくことは、むずかしい。いや、ほんの少し油断をすれば、すぐ、どこかへ行っ
てしまう。

 問題のない人など、いない。私とて、問題だらけ。しかしそれを不幸とするかどうかは、
その人の心がまえ一つかもしれない。本来は何でもない問題なのかもしれない。が、人は、
そのしがらみの中で、もがき、苦しむ。そしてそれを不幸としてしまう?

 私にとって、最大の不幸は、やはり、「死」だと思う。こればかりは、何とも、しかたな
い。どうしようもない。

 ただ今、ここで言えるのは、そうした「死」がやってきたときでも、悔いが残らないよ
うに、精一杯、今を、懸命に生きるということ。だからとって、それで死を克服できると
は思わないが、「やるだけのことはやった」という思いだけは、そのとき、大切にしたい。

 幸福とは何か? ……何とも中途半端な結論になってしまったが、このつづきは、別の
機会にまた考えてみたい。このあたりが、どうも私の限界のように思う。
(040523)


(3)心を考える  **************************

●消しゴム人生

 「消せば、なおる」という人生観がある。少しそれとはニュアンスがちがうかもしれな
いが、昔、こんなことを言った日本の首相がいた。政界のある長老が死んだとき、「これで
わたしのこと(=過去の弱み)を知る人物が、いなくなった。(だから、私の天下だ。)」と。

 私は、この「消せば、なおる」という人生観が、好きではない。子どもを教えていて、
それを感ずることがある。

 たとえばある子どもが、懸命に、ある問題に取り組んでいたとする。で、しばらく待っ
ても、反応がない。そこで私のほうが、声をかける。「○○君、それをもってきてくれない
か?」と。

 そういうとき、それまで自分が書いた内容や答を、さっと消してしまう子どもがいる。
消したあと、それをもってくる。

私「どうして、消したの?」
子「できなかったから……」
私「でも、どこまで考えたか、先生は、それが見たいんだよ。消してしまったら、それが
わからなくなってしまうよ」
子「先生が、怒るから……」
私「そんなことで、怒らないよ」と。

 日本語には、「白紙にもどす」という言い方がある。「もう一度、スタートからやりなお
す」という意味で、そう言う。時と場合によっては、それも必要だろう。しかしこと人生
については、「白紙にもどす」ということは、ありえない。

 ……と、ここまで書いて、私は、ハタとこの先を書けなくなってしまった。「本当にそう
だろうか」という思いと、「いや、人生でも、それは可能かもしれない」という思いが、複
雑に交錯したためである。

 私は今まで、「人生については、白紙にもどすということは、ありえない」と考えていた。
それはある意味で、卑怯(ひきょう)な生き方だと思っていた。無責任な生き方をする人
ほど、自分の過去を安易に消してしまう、と。

 それに自分が残した人生など、消そうと思っても、消えるものではない。どんなめちゃ
めちゃで、ボロボロの人生であっても、それが「私」。「消す」ということは、そういう自
分を否定することになる。消すくらいなら、まだめちゃめちゃで、ボロボロの人生のほう
が、まし。

 その「消す」ことの最終的な方法が、「自殺」ということになる。もっとわかりやすく言
えば、「消せば、なおる」という人生観は、やがて、どこかで、「自殺」という考え方に結
びつく? 少し考えすぎかもしれないが、無関係とも思われない。

 そこで今、なぜ、私が、ハタとこの先を書けなくなってしまったかといえば、心のどこ
かで、自殺に対する考え方が、少し変ってきたためかもしれない。もっとも、自殺したか
らといって、人生が白紙にもどるわけではない。過去が消せるわけでもない。

(いや、過去を認識する私がいなくなるわけだから、少なくとも私については、過去は
消える?)

 軽く、消しゴムについて書くつもりだったが、話が、どんどんと複雑になってしまった。
だから、この話は、ここまで。

 ただ一言。「消せば、なおる」という人生観は、好きではないということ。どうしてかわ
からないが、好きではない。

(4)今を考える  **************************

●死後の世界

 死んだら、どうなるか? 私にもわからない。「死後の世界はある」と説く人もいるが、
私自身は、見たことがない。だから、信じない。

 死後の世界は、死んでからのお楽しみ。あればあるで、もうけもの。しかし今は、「ない」
という前提で生きている。あるかないかわからないものを前提にして、生きることはでき
ない。

 それはたとえて言うなら、宝くじのようなもの。宝くじで当たるのをアテにして、借金
をする人はいない。家を建てる人はいない。それと同じ。

 ……というところまでは、以前にも書いた。ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 理屈で考えれば、死後の世界など、あるはずもない。そのことは、脳梗塞か何かになっ
た人を見れば、わかる。脳の一部がダメージを受けて、運動能力はもちろん、人格そのも
のが変化した人さえ、いる。

 その中でも、T氏(80歳・男性)は、記憶や判断力に合わせて、方向判断、位置判断
ができなくなってしまった。自分の家の中にいても、迷子になってしまうという。

 私はそのT氏を見ているとき、では「脳ミソが、前頭葉から順に、毎日少しずつ機能を
停止したら、どうなるか」と考えたことがある。死というのは、短時間で、脳ミソが機能
を停止することを意味する。しかし、毎日少しずつだったら、どうなるか、と。

 そのときは、「私」は、少しずつ、死後の世界に入ることになる。そして最後に、脳ミソ
全体の機能が停止したとき、「私」は、死後の世界に入ることになる。

 そこでT氏のばあい、方向判断と位置判断ができなくなってしまった。つまりその部分
は、すでに死んでしまったことになる。となると、その部分は、どこへ消えてしまったの
かということになる。

 ……と考えていくと、「やはり死後の世界などない」ということになる。もっとはっきり
言えば、「ある」と思うのは、それを信じたい人たちの、思いこみにすぎない?

 「ある」と信ずれば、人は、死の恐怖から逃れることができる。「ある」と信ずれば、あ
とに残された人は、別離の孤独から逃れることができる。だからたがいに「ある」と信じ
て、支えあう。

 その死の恐怖や、別離の孤独を克服する方法がないのであれば、やはり死後の世界を信
ずるしかない。いや、方法はあるのかもしれないが、その方法を知るのは、容易なことで
はない。

 私もときどき、こう思う。「浩司、もうよせ。いくらお前ごときがあがいても、死を克服
するなどということはありえない。真の自由を、手に入れることなど、ありえない」と。

 それはわかっている。だが、今、ここであきらめるわけにはいかない。まだ元気だし、
頭も健康(?)だ。だからもう少し、がんばってみる。だから今のところ、結論は、こう
なる。

 「死後の世界はないという前提で、もう少し生きてみる。死後の世界は、あればあった
で、もうけもの。死んだときのお楽しみ」と。

【追記】

 私が死んだら、死後の世界にオキテを破って、霊界から、「霊界電子マガジン」を発行し
てやる。そのため地獄に落ちても、かまわない。そういうオキテを作るほうが、まちがっ
ている。そういう不条理と、とことん戦ってやる。

 しかし霊界マガジンは、決して、不可能ではない。

 今すぐ、私の脳ミソを、巨大なコンピュータか何かに、そっくりそのままコピーしてし
まえばよい。そうすれば、私が死んだあとも、私にかわって、そのコンピュータが、私に
かわって、ものを考え、文章を書き、そしてマガジンを発行する。

 そのマガジンは、まさに「霊界電子マガジン」ということになる。考えるだけでも、楽
しいではないか。やってみる価値は、ある。


【二男のつぶやき】

最近いろいろおもしろいことを耳にする。「君は日本人だから、野球がうまいんだろう。」
とか、「君は日本人だから、世界1バグの少ないプログラムを書くんだろう?」とかだ。
そんなことは今まで一度も聞いたことがないようなことを、よく聞かれる。 

 よく、「君は日本語がはなせるのか?」と聞かれることもある。昔は「こうやって英語が
話せることの10倍以上、上手にはなせる。」なんて返していたけど、このごろは「はな
せるつもりだけど……」なんて、頼りない答え方をしている。 

 時々、KZ宅へ夕食を共にする以外、日本語で会話をする機会がなくなってしまった。
そのせいかどうか知らないけど、このごろ自分でも何言ってるのか、分からないような
日本語を、しゃべっているような気がする。使わないと忘れる、というのは、とくに僕
にとって真実だと思う。 

 あれだけ得意だった数学や物理学も、いまや基本的なことすらほとんど忘れてしまった。
どうせ続かないとは思うけれども、このごろ大学の時の教科書を開いて、忘れてしまっ
たことを片っ端から読みあさるようにしている。

ウォルフランっていう僕の好きな数学者が運営している(のかな?)サイトへも、よく
いったりもしている。 

 でも、ぼくのアイデンティティーって、いったいどうなってしまったんだろうか? ア
ーカンソー的静岡県民? 日本人として、とかアジア人としての個性を忘れてはいけな
い、ってよく言われたけど、いったいそれってどういうことなんだろう。

ぼくは誠司に「日本人として生きる意味」なんてことを教えられるか自身がない。どう
せいつか日本に住むこともあるだろうから、その時、誠司に周りから学んでもらえばい
いのだろうか。 


【二男(宗市)へ……】

 言葉というのは、そして習慣というのは、そうは簡単には、忘れないよ。子どものころ
の記憶は、おとなになってからの、数十万倍、あるいはそれ以上の密度をもって、記憶さ
れるそうだ。(数字では表現できないれどね……。)

 いつか日本へ帰ってきたら、数分、あるいは数時間で、もとにもどれるよ。ぼくも、今、
ここで美濃町弁を話せといわれてもできないけれど、美濃へ帰ったとたん、美濃町弁にな
るよ。美濃を離れて、もう40年になるのに、ね。

 反対に、オーストラリア人の顔をみると、オーストラリア英語が、スラスラと出てくる。
これも不思議な現象だね。

 そういうものだよ。

 アイデンティティーの問題は、いろいろある。お前の言っているのは、民族的アイデン
ティティーのことだろうと思う。しかし今は、もうあまりこだわらないで、前に進んだら
いいよ。その結果、何かが生まれたら、それがお前のアイデンティティーということにな
るよ。

 ぼくも、地域社会の中で、つまりこの浜松市という異郷の土地で、かなり苦労をした。
しかしそういうとき、晃子(ワイフ)から、別のアイデンティティーをもらった。ちょう
ど今のお前のように、ね。

 で、そのうち、高校野球なんかでも、岐阜県出身のチームと、静岡県出身のチームが戦
ったりしたようなとき、いつの間にか、静岡県のチームを応援するようになった。自分で、
「ああ、ぼくは、静岡県人だ」と思うようになった。

 ぼくらは、人間。地球人。そういう視点でものを考えたらいいと思うけど、なかなかむ
ずかしいね。この問題は……。

 まあ、あまり気負わないで、気楽に考えたらいいと思う。今では、世界は、本当に狭く
なった。そのうち英市がパイロットにでもなったら、あいつの飛行機に乗せてもらおうよ。
機長の家族は、みんなただで乗せてもらえるそうだ。(本当かどうかわからないが、英市は、
そう言っている。)

 そうなれば、もっと自由に、行き来できるしね。ぼくも、英市の操縦する飛行機なら、
こわくないと思う。晃子も、そう言っている。「死んでも、本望だ」とね。ハハハ。

 誠司も、その年齢になったら、夏休みとか、そういうときに、日本へ送ってきな。めん
どうをみるよ。

 TAKE IT EASY!

 こちらは、昨日、台風が去って、晴天。気持ちよく、晴れている。

 そうそう、『世にも不思議な留学記』の総集編ができたから、また見てよ。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html

だよ。

 ぼくの青春時代、そのもの。この年齢になるとわかると思うけど、青春時代は、決して、
その人の出発点ではないよ。その人の人生のゴールだよ。今、この『留学記』を読むと、
本当に、そう思う。

 いつもすぐそこにあって、ぼくの心の中で、灯台のように、輝き、そして道を照らして
くれる。進むべき道を、教えてくれる。それが青春時代だよ。

 では、奥さんのデニーズ、誠司によろしく。誠司のクロースアップの写真を、もっと、
サイトに載せてほしい。よろしくね。

パパより

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●『世にも不思議な留学記』について

 青春時代は、人生のはじまりではない。
 青春時代は、人生の目標、そのもの。そのあとの人生は、その青春時代の燃えカスのよ
うなもの。

 人は、その青春時代の燃えカスを、一つ一つ集めながら、そのあとの人生を生きていく。
少なくとも私にとっては、あのオーストラリアでの一年間は、そういう時代だった。

 留学して、ちょうど3か月目のときだったと思う。私はある朝、ベッドの中で目をさま
したとき、「まだ3か月しかたっていないのか」と、驚いたことがある。それまでの毎日は、
一日を、日本にいたころの1年分に感じた。

 これは決して、大げさな言い方ではない。本当にそう感じた。そして同時に、「まだこん
な日々が、9か月もつづくのか」と、驚いた。うれしかった。

 青春時代は、まさに人生の灯台、そのもの。私は日本へ帰ってきてから、いくつかのど
ん底を経験した。

 しかしそのつど、私は、あの時代を思い出だすことで、誇り高く、それを乗り切ること
ができた。あの青春時代が、私の足元を照らし、行くべき道をさし示してくれた。

 今でも、ふとんの中で目を閉じると、あのころの自分に、そのままもどることができる。
あの時代は、私にとっては、遠い過去ではなく、つい昨日のこと。つい先日のこと。

 苦しいとき、悲しいとき、私は、いつも、オーストラリアのブッシュソングを口ずさむ。
とたん、胸の中に、熱いものがよみがえってくる。私にとって、あの時代は、そういう時
代である。

 私は、『世にも不思議な留学記』を、サイトに載せた。あちこち少し、編集した。写真も
載せた。

 しかし考えてみると、私は、この『留学記』を載せるために、サイトを開いた。さらに、
この『留学記』を書くために、今まで、無数の原稿を書いてきた。今から思うと、そんな
感じがする。

 私にとっては、もっとも貴重な原稿である。つまりこの『留学記』は、私の青春時代そ
のものであると同時に、私自身そのものといっても過言ではない。

 青春時代は、決して、人生のはじまりではない。私たちは青春時代から巣立ち、いつか
必ず、その青春時代へともどっていく。そんな私の心を、この原稿の中に感じとってもら
えれば、うれしい。

【番外編】

●ジル

 私のガールフレンドだったジル(本名、ジリアン)については、私は、最終回のみで、
触れた。それにはいろいろ理由がある。

今のワイフにしても、あまり聞きたくない話かもしれない。私のワイフは、私の読者の
中でも、もっとも熱心な読者の一人である。その読者を、不愉快にはさせたくない。実
際、結婚するとき、私はジルの写真を、捨てた。どこかに残っていた写真も、ワイフが、
私が知らない間に、すべて捨てた。

 そんなわけで、ジルの写真は、一枚も、残っていない。つきあったのは、留学生活の後
半の3か月の間だけだった。しかしその3か月は、私の生涯に匹敵(ひってき)するほど、
長く、そして切ない3か月だった。

 そのジルは、もうこの世には生きていない。ひょっとしたら、生きているかもしれない
が、今となっては、確かめる方法は、もうない。本文の中にも書いたように、ジルは、私
がオーストラリアを去ったあと、西ドイツの兄のところに身を寄せた。そしてそこで知り
あったギリシア人と結婚して、アテネ近郊の小さな町に渡った。

 私が知っているのは、そこまで。ときどき手紙が来たが、ある日を境に、音信は切れた。
私も、返事を書かなかった。ジルは、不知の病といわれた、白血病をかかえていた。

●出会い

 目の大きな女性だった。それによくしゃべった。しかし何よりも強く印象に残ったのは、
いつも、ノーブラだったこと。薄いシャツをとおして、胸の形や、そして乳首の形が、よ
くわかった。

 それが私のジルの第一印象だった。

 どこでどう、出会ったかは、よく覚えていない。しかし、多分、ノートンという酒場(パ
ブ)ではなかったか。ジルの部屋は、そこから歩いて10メートル足らずのところにあっ
た。

そのときジルは、デニス君のガールフレンドで、いつもデニス君のそばにいた。もしど
こかで出会ったとしたら、やはり、ノートン酒場だったということになる。ジルは、テ
ーィーチャーズ・カレッジ(教師専門学校)の学生だった。

 が、その夜のことは、よく覚えている。

 みなが何かのパーティから帰ろうとしたとき、ジルが私にこう言った。

 「ヒロシ、私の部屋にこない。私を抱いてみたいのでしょう?」と。

 私はその言葉に驚いた。その言葉というより、私の心を見抜いたような言い方に驚いた。
私はいつも、ジルの、裸に近い服装に、男として、強い衝撃を受けていた。

 ジルは、マクレゴーというスコットランド系の名前をもっていたが、実際には、強いア
イルランドなまりの英語を話す、アイルランド系の女性だった。赤毛で、ほかの白人より
も、肌が白かった。

●デニス君

 私がジルの部屋に入ると、ジルは、インドの線香に火をつけた。当時は、ヒッピー運動
がさかんだった。ジルも、その運動に同調していた。部屋の中央には、カラフルな、それ
でいて形の崩れた衣服が、ズラりとつりさげられていた。

 ソファがわりにベッドの上にすわっていると、ジルもその横にすわり、私のひざの上に
手を置いた。

 そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。

 「ヒロシ、いるのはわかっている。ぼくといっしょに帰るんだ」と。

 デニスの声だった。

 ジルが、ドアに向った。そしてドアをあけた。今となっては、どんな会話をしたかは覚
えていない。二人は、何やら大声で、怒鳴りあっていた。ときどき、デニスが、私のほう
を見て、こう言った。「ヒロシ、帰るんだ」と。

 が、最後にデニスが、外に向って、歩き出した。そのとき、ジルがこう叫んだ。「デニス、
もどって!」と。

 私にとっては、あっという間のできごとだった。私は、デニスを裏切ったバツの悪さを
感じて、その場を離れようとした。すると、ジルは、こう言った。

 「ヒロシ、私を抱きたくないの。抱いてもいいのよ。でも、一つだけ、教えて。デニス
に、新しいガールフレンドができたの?」と。

 私は、何も知らないというようなことを言って、部屋を出たと思う。実際、何も知らな
かった。

●ガールフレンド

 私には、一人、ガールフレンドがいた。ローズメアリーという名前の女性だった。

 あのオーストラリアでは、ガールフレンドがいないと、一人前にあつかわれない。行動
がきゅうくつになる。ほとんどのパーティは、「BYO」となっていた。つまり、「自分の
もの(女性、酒)は、自分でもってこい」と。「Bring Your Own」の頭文字をとって、「B
YO」という。

 そんなわけで、何かパーティがあると、急ごしらえのガールフレンドをつくる。この事
情は、女性にとっても同じで、ボーイフレンドのいない女性は、たいていすなおに、それ
に応じてくれた。

 ローズメアリーは、そのタイプのガールフレンドだった。好きとか、嫌いとか、そうい
うことは考えたことはなかった。よくデートはしたが、それはいわば、ヒマつぶしのよう
なものでしかなかった。

 そのローズメアリー、私は「ローズ」と呼んでいたが、そのローズとは比較にならない
ほど、ジルは美しかった。スラリとした体。それに人一倍、長い足をもっていた。

 そんなジルだったから、何か口実をつくって、再びジルの部屋を訪れたのは、私にとっ
ては、自然な成りゆきだったかもしれない。

 私は、上から見ても、下からみても、ぶかっこうな男だった。背も低い。足も短い。そ
の上、度の強いめがねをかけていた。女性には、もてなかった。日本でもそうだったから、
オーストラリアでは、なおさらだった。私は、オーストラリアでは、「男」と見られる男で
はなかった。

●どこかで自信をなくした?

今となっては、どうでもよいことだが、私は、女性が苦手だった。中学へ入るまで、女
の子と遊んだことすら、ない。

 当時は、女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、バカにされ
た。

 この状態は、高校を卒業するまで、それほど、変らなかった。

 が、オーストラリアでは、まったくちがっていた。大学構内でも、男と女が、平気で抱
きあって、キスをしたりしていた。道路でも、カフェ、でも、

 今でこそ、ありふれた光景かもしれないが、当時、私の母校の大学でさえ、そんなこと
をしている学生は、ひとりもいなかった。本当に、いなかった。

 私は、三枚目で、人を笑わすことはじょうずだったが、それだけ。今は、結婚して、ワ
イフがいるが、そのワイフにさえ、ときどきこう聞くときがある。「どうして、お前はぼく
と結婚したのか?」と。私は、「私など、好きになる女性はいない」と思って、そう聞く。

そういう状態で、オーストラリアへ渡った。女性など、縁がない上に、縁がない。それ
がさらに、縁がなくなった。

 『留学記』の中で、N子のことを書いたが、そのN子にしても、今から思うと、N子に
してみれば、私との交際など、遊びでしかなかったのではと思う。が、私は、真剣だった。
N子が、「あなたには、ついていけない」と言ったのは、私が思うほど、N子は、私のこと
を思っていなかっただけということになる。

 私には、そういうオメデタサが、いつもある。

 が、ジルのときは、それが最初から、わかっていた。ジルのような、白人社会でも、飛
びぬけて美しい女性が、私など、好きになるわけがない。それが、最初からわかっていた。
だから心のどこかで、「遊びは、遊び」と割り切って考えていた。また遊ばれても、しかた
ないと割り切って考えていた。

●デート

 ジルとは、よくデートした。気がよくあった。しかしそれは、いつも、デニスの目を盗
んでのデートだった。(つづく……)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国歌と国旗

 どうしてこの日本では、いつも、国歌と国旗が問題になるのか。おかしなことだが、し
かし、問題になるということ自体、問題である。

 日本の国歌と国旗に対して、大きなわだかまりをもっている人がいるのは、事実。理由
はいろいろある。が、国歌はともかくも、国旗については、もう日本人も、それを受け入
れるべき時期にきているのではないのか。

 ほかに今の国旗にかわる、国旗は、考えられない。日本の国旗は、白地に赤丸。それで
よい。反対に、どうしてそれでは、いけないのか?

 問題は、国歌である。今の小泉首相は、『君が代』の「君」は、「国民をいう」と説明し
た。が、その説明には、無理がある。『君が代』でいう「君」は、まさしく天皇をいう。

 そこでもう一度、原点に立ちかえって、考えなおしてみよう。

 だれが、どうして、『君が代』を、国歌にしたのか。

 だれが、どうして、『君が代』という国歌に、反対するのか。

 しかしこうした議論をおしすすめていくと、議論そのものが、混沌(こんとん)として
くる。日本では、「愛国心」というと、どうしても、そこに「国」、つまり体制の問題がか
らんでくる。そしてその体制というのは、戦前からつづいている、天皇制の問題とからん
でくる。

 現に今、憲法改正があれこれ議論されているが、その一つの目的が、天皇を、今の「象
徴としての天皇」から、「もっと力をもった天皇」にすることだそうだ。『君が代』という
国歌に反対する人は、そのあたりに、大きくこだわっている。

 だったら、もっと、みんなが納得するような形で、合理的に問題を解決する方法を、さ
がせばよい。今のように、「君が代を認めない人は、愛国心がない人」「君が代を認める人
は、愛国心がある人」というように、ものごとと短絡的に決めて考えるのも、おかしい。

 君が代を認めない人の中にも、人一倍、日本の文化や伝統を愛している人は、いくらで
もいる。いざとなったら、みなのために敵と戦うと思っている人は、いくらでもいる。

 反対に、君が代を認めるからといって、そうでない人も、いくらでもいる。

 どちらにせよ、みなが、気持ちよく国歌を歌えないというのは、私たち日本人にとって
も、たいへん不幸なことである。『君が代』を国歌として押しつける人はともかくも、押し
つけられるほうは、つらいだろう。少数派とはいえ、そういう人たちの気持ちを無視する
こともできない。

 私は、愛郷心、愛文化心、愛日本人心というのは、もっと別のものだと思う。国旗や国
歌が、その象徴であるとしても、では、国歌を歌わないからといって、愛郷心がないとい
うことにはならない。

 反対に、国歌を歌ったからといって、愛郷心、愛文化心、愛日本人心が育つというもの
でもない。

 まわりくどい言い方だが、こんな議論を、いつまでもしていてもしかたない。議論の内
容を、整理してみよう。

(1)どうして『君が代』が、国歌でなければならないのか。
(2)どうして『君が代』が、国歌であってはいけないのか。
(3)みなが、もっと納得して、これが国歌だという国歌を決めることはできないのか。
(4)その折衷案として、第二国歌をつくるという考え方は、できないのか。

 方法は、いくらでもある。現に私がオーストラリアにいたころ、オーストラリアの国歌
は、イギリスの国歌、『ゴッド・セイブ・ザ・クィーン』だった。しかし同時に、『ウォル
チィング・マチィルダ』を第二国歌として、みなが、広くそれを歌っていた。

 しかしそのあと、オーストラリアは、国民から公募して、今の『アドバンス・オースト
ラリア』を、国歌として選んだ。

 合理的に考えるということは、そういうことをいう。

 ……と書くと、すぐそのスジの人たちは、「では、林、お前は、日本の国歌を否定するの
か!」と言う。

 となると、議論に、さらに、こんな内容を加えねばならない。

(5)どうして『君が代』に、こうまで、みなは、こだわるのか。
(6)「みなで合理的に考えよう」と提案することが、どうして『君が代』を否定するこ
とになるのか。

 たいへんデリケートな問題だとは、私も思う。思うが、神経質になりすぎるのも、よく
ない。たがいにもっと、心を開いて考えれば、この問題は、ひょっとしたら、何でもない
問題かもしれない。

 ちなみに、最近、こんな事件が起きた。TBSのiニュースは、「日の丸・君が代を批判
した、元教員宅を家宅捜索」と題して、こう伝えている。その記事を、そのまま、転載す
る。

 「警視庁は、東京都立I高校の元教員の自宅を、威力業務妨害の疑いで家宅捜索しまし
た。

 この問題は今年3月に行われたI高校の卒業式で、日の丸・君が代の厳格化を進める都
の教育委員会を批判的に伝えた雑誌記事のコピーを、出席者に配布するなどして、式の開
始が数分遅れたものです」(TBS・iニュース)と。

 つまり「卒業式を数分間、妨害した罪で、元教員の自宅を、家宅捜索した」(04・5月)
というのだ。

 少なくとも、今は、日本の国歌は、『君が代』になっている。だったら、今は、『君が代』
を国歌として歌えばよい。歌うしかない。みなが決めたことは、みなで、守る。それが民
主主義の原則。

 反対運動をするにしても、何も、卒業式という場で、それをすることはない。別の場所
で、別の方法ですればよい。言論の場で、自分の意見を言うという方法もある。だいたい
において、卒業式というのは、その目的がちがう。

 一方、そんな程度の軽罪で、元教員宅を、家宅捜索するほうも、するほうだ。何らかの
処分は必要だとしても、そこまでする必要はあるのか。また家宅捜索までして、何をさが
そうとしたのか。

 こんなことで家宅捜索がされるようなら、これからは、交通事故を起こしても、家宅捜
索されるかもしれない。その可能性がないとは、言えない。が、もしそうなれば、それこ
そ、まさに恐怖政治。

 国旗や国歌の問題がからむと、どうしてこうまで、ものごとがこじれてしまうのか。た
がいに、もっと心を開いて、オープンに議論すればよい……と、私は思うのだが……。

 TAKE IT EASY!


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  //      ・
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 25日(No.427)
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(1)子育てポイント**************************

●口グセが子どもを伸ばす※

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようとする。そうい
う性質を利用して、子どもを伸ばす。こんなことがあった。

 昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かす、けがさせる
は、日常茶飯事。それを注意する先生にも、キックしたり、カバンを投げつけたりしてい
た。担任の先生も手を焼いていた。

 が、ある日、私がふと見ると、その子どもが友だちにクレヨンを貸しているのが目にと
まった。私はすかさずその子どもをほめた。「君は、やさしい子だね」と。数日後もまた目
が合ったので、私はまたほめた。「君は、やさいしい子だね」と。その子どもはそれからも
ワルはワルのままだったが、しかしどういうわけか、私の顔を見ると、パッとそのワルを
やめた。そしてニコニコと笑いながら、「センセー」と手を振ったりした。

 しかしウソはいけない。子どもとて心はおとな。信ずるときには本気で信ずる。「あなた
はよい子だ」という念が、まっすぐ伝わったとき、その子どももまた、まっすぐ伸び始め
る。

 正直に告白する。私が幼稚園の教師になったころ、年に何人かは、私をこわがって幼稚
園へ来なくなってしまった。そういう子どもというのは、初対面のとき、私が「いやな子
ども」と思った子どもだった。つまりそういう思いが、積もり積もって、そしてそれがい
つの間にか子どもに伝わってそうなる。人間関係というのは、そういうものだ。

 イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたを思う」というのが
ある。

 つまりあなたが相手をよい人だと思っていると、相手も、あなたをよい人だと思うよう
になる。いやな人だと思っていると、相手も、あなたをいやな人だと思うようになる。一
週間や二週間なら、何とかごまかしてつきあうということもできるが、一か月、二か月と
なると、そうはいかない。いわんや半年、一年をや。

 「思い」というのは、長い時間をかけて、相手に伝わってしまう。では、どうするか。
相手が子どもなら、こちらが先に折れるしかない。私の場合は、「どうせこれから一年もつ
きあうのだから、楽しくやろう」ということで、折れるようにした。それは自分の職場を
楽しくするためにも、必要だった。

 もっともそれが自然な形でできるようになったのは、三〇歳も過ぎてからだが、それか
らは子どもたちの表情が、年々、みちがえるほど明るくなっていったのを覚えている。そ
こで家庭では、こんなことを注意したらよい。

 まず「あなたはよい子」「あなたはどんどんよくなる」「あなたはすばらしい人になる」
を口グセにする。子どもが幼児であればあるほど、そう言う。もしあなたが「うちの子は、
ダメな子」と思っているなら、なおさらそうする。最初はウソでもよい。そうして自分の
心を作りかえる。

 人間関係というのは、不思議なことに、日ごろの口グセ通りの関係になる。互いの心が
そういう方向に向いていくからだ。そして相手は相手で、あなたの期待に答えようとする。
そういう思いが、子どもを伸ばす。

 ただし、ほめるのは、やさしさと努力だけ。顔やスタイルはほめても意味がないし、そ
ういう方面ばかりに気をとられるようになる。「頭」については、ほめてよい場合とそうで
ない場合があるので、慎重にする。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●アルバムの不思議な力(成長する喜びを知る)(心をいやす働きも)

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見なが
ら、成長していく喜びを知る。それだけではない。

 子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、
父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子
どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。

 一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年
長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子ど
もは、まずいない。

 哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たい
てい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるの
は、満四・五歳前後からとみてよい。(本当は、想起できないだけで、記憶そのものは、残
っている。)

 このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それま
では、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の
日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかる
ようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。

 その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、この
アルバムには、不思議な力がある。

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバム
を見ていた。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本代わりにアルバムを
見ていた。つまりアルバムには、心をいやす作用がある。

 それもそのはずだ。悲しいときやいやなときを、写真にとって残す人は、まずいない。
アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。冒頭に書
いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。やがて父親や母親
の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。

 それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だ
が、私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母が少女時代のと
きの写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。着物を着たあどけない
母を見て、私は言葉を失ってしまった。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだっ
たと思う。

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあ
った。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んで
いた。それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最
初は、恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、ア
ルバムを見入っているのを知った。

 ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。そし
てそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をし
ているのに、私は気がついた。

 そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あな
たもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

(2)今日の特集  **************************

●子どもの依存性

 子どもの依存性、とくに、母と子の間の依存性について、母親は、それを軽く考える傾
向がある。

 たとえば子どもが、レッスンのとき、チラチラと、参観に来ている母親のほうを見たと
する。するとそのとき、母親の中には、目や手で、何かを合図する人がいる。「がんばって
ね」「よくやっているわ」と。

 そういう前向きなストロークなら、まだよい。が、中には、瞬間、目で子どもを叱った
り、不愉快な表情をしてみせる母親もいる。しかしこういう行為は、子どもの心理に、深
刻な影響を与える。

 そこで私は、母親のほうを見ないで、つまり母親のほうには、視線を向けないまま、こ
う注意する。

 「お母さん、子どもがお母さんのほうを見たら、視線をはずしてくださいよ。子どもと
目を合わせてはいけませんよ」と。

 こうした母子のパイプは、一度、できると、それを断ち切るのは容易ではない。子ども
は、いつも母親の目を気にするようになる。ほかの面でのことなら、まだしも、子どもの
(学習の動機づけ)という面では、決して、好ましいものではない。

 こうした子どもの依存性は、たとえば、こんなことでもわかる。

 赤ちゃんがえりを起こして、情緒が不安定になった子どもがいる。症状は、複雑(complex)
であることが多い。いわゆる赤ちゃんぽくなる子どものほうが、むしろ少ない。症状がこ
じれて、自閉症ぽくなったり、かん黙児ぽくなったりすることもある。

 そういう子どもでたいへん興味深いのは、その教室に、母親がいないだけで、症状が消
えるということ。母親が、何かのことで、教室を出たとたん、(子どもは、それをどこかで
感じるのだろうが……)、声を出したり、笑ったりし始める。

 が、再び、母親が教室へもどってきたとたん、以前の症状に、もどってしまう。このと
き、さらに興味深いのは、子どもが、それを見ているのではないということ。母親が出て
いったり、入ってきたりするのを、子どもは、体のどこかで感じとっている。あるいは雰
囲気でわかるのかもしれない。

 こういうケースは、この世界では、珍しくない。

 子どもにとっては、母親は、絶対的なものである。それはそのとおりだが、その(絶対
さ)が、かえって逆効果になることもある。大切なことは、母親自身が、その(絶対さ)
に気づき、自ら、ブレーキをかけていくということ。

 でないと、ここでいう依存性が、子どもについてしまう。その極端な例が、「冬彦さん(テ
レビドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主人公。マザコン)」ということになる。

 それについては、また別の機会に書くことにするが、母親も、ベタベタの母子関係に、
決して、甘えてはいけない。その一つとして、ここでいう依存性の問題がある。

 子どもが母親にもつ、依存性を、決して、安易に考えてはいけない。

【余談】

 原始的な母系社会では、こうした子どもがもつ母親へ依存性を、そのまま利用して、母
親中心型の社会を、つくりあげる。

 日本も、極東の島国の中で、独特の母系社会をつくりあげた。子どもが、「産んでいただ
きました」「育てていただきました」と言うときは、母親に対してである。決して、父親に
対してではない。

 森xxの歌う『おふくろさん』にしても、母親の歌である。同じように『オヤジさん※』
という歌があってもよさそうなものだが、そういう歌はない。久保田聡の作曲した、『か
あさんの歌』という歌にしてもそうだ。

 日本では、母親をたたえる歌は多い。しかし父親をたたえる歌は、少ない。こんなとこ
ろにも、日本型母系社会の特徴が現れているとみる。

注※……『おやじ』をテーマにした歌謡曲は、いくつかある。
   
++++++++++++++++++++

日本人がもつ依存性について、2年前に、
こんな原稿を書いた。
少し過激な意見だが、参考にしてもらえれ
ば、うれしい。

++++++++++++++++++++

野口英世の母親

●母シカの手紙

 二〇〇四年に新千円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そ
ういう人物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こん
な手紙を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつ
くるトおせてくたされ わてもねむられません」

(お前の、出世には、みな、たまげています。……(中略)……早く帰ってきてくださ
い。いつ帰ってくるか、教えてください。私は、夜も眠られません。)(一九一二年・明
治四五年・一月二三日)(福島県耶麻郡猪苗代町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を
思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開
発課パンフ)というのが、おおかたの見方である。

母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、こころぼそくありまする。どうかはやくかえっ
てくだされ……かえってくだされ」と懇願している。

 これに対して、野口英世は、一九一二年二月二二日に返事を書いている。「シカの家の窮
状や帰国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本や
アメリカを代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決することな
どを切々と書いています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)と。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、
手紙を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するも
のであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、
すぐには帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、
親が子どもに、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場
で考えてみればよい。

あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々と、家の窮状
を訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこんな手紙を
手にしたら、どうするだろうか。あなたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくな
ってしまうかもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでや
った」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んで
もらった」「育ててもらった」と、恩を着せられる。

たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。そういう子育てを評して、
あるアメリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存心をもたせること
に無頓着な民族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えて
ください。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきて
ください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未
熟な親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か
何かで伏せっていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。

事実、野口英世記念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、
いっしょに写っている母シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ち
がにじみ出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、
私も昔、学生のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。

しかし今、自分が親になってみると、この考え方は変わった。それを話す前に、自分の
ことを書いておく。

●私のこと

 だからといって、私は、親を思う子どもの心を否定するものではない。その一つが、「孝
行論」である。

 私はその「孝行」を否定するものだない。ただこの日本では、あまりにも安易に孝行論
を肯定しすぎているのではないか。そのため、「子どもが親の犠牲になるのは、当たり前」
と、みなが考える。

 その社会的重圧感は、相当なものである。

 たとえば私は二三、四歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。
今のワイフといっしょに生活するようになったころも、毎月三万円の仕送りを欠かしたこ
とがない。大卒の初任給が六〜七万円という時代だった。

が、それだけではない。母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取
っていった。長男が生まれたときも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時の
お金で二〇万円近くをもって帰った。

母にしてみれば、それは子どもとしての、当然の行為だった。(だからといって、母を責
めているのではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれに
命令されるわけでもなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が二七歳ごろのときから、
実家での法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。
土地柄、そういう行事だけは、派手にする。

たいていは近所の料亭を借りきってする。その額が、二〇〜三〇万円。そのたびに、私
は貯金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これに
ついてはまた別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感という
よりは、社会的重圧感に、いやというほど、苦しめられた。

 「子どもは親のめんどうをみるのは当たり前」「子どもは先祖を供養するのは当たり前」
「親は絶対」「親に心配かける子どもは、親不孝者」などなど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はそ
の重圧感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方を
していた。

「あそこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡
さなかった」
「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。
それは、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が
感じた重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定す
るのか」とか言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。
しかしこれは誤解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に
書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手
紙を読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、
思えない。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。
そこでもう一度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころ
よりもはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカ
は、「子どもが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思
っていたに違いない。

だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろ
う。文字の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、
理解できなかったかもしれない。

一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが親のめんどうをみるのは当
たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた手紙は、まさにそうした
板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こう
した評論のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、
その母親を批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。

現に今、その母シカをたたえる団体まで存在している。母シカを批判するということは、
そうした人たちの神経を逆なですることにもなる。だからここでは、私は結論として、
つぎのようにしか、書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、
帰ってくるな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝
行など考えなくてもいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。

それが無理なら、「元気か?」と様子を聞くだけの手紙でもよかった。あるいはあなたな
ら、どんな手紙を書くだろうか。一度母シカの気持ちになって考えてみてほしい。

【追記】(04年05月25日)

 母シカの手紙を改めて読みなおすと、「そういうものかなあ?」と思う気持ちが、起きな
いわけではない。

 しかしこの手紙は、あなた自身のマザコン度診断テストにも、使えるのではないか。

 もう一度、母シカの手紙を読んでみよう。

「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつく
るトおせてくたされ わてもねむられません」

 この手紙を読んで、(1)すばらしい母親だと思う人もいれば、(2)こんな手紙を、外
国でがんばっている息子に書くべきではないと思う人もいる。

 実は私の二男も、今、アメリカに住んでいる。アメリカで、アメリカ人の女性と結婚し
ている。こういう時代とはいえ、それでも、毎年、どんどん私とは疎遠になっていくのを
感ずる。

 が、私は、母シカが書いたような手紙は、書かない。書けない。いくら苦しくても、ま
たつらくても、最後の最後まで、私なら、こう書くだろう。

 「私のことは心配するな。みんな、元気でやっているよ」と。

 実は、最近、逆の立場で、こんなことを知った。

 二男は、高校を卒業すると同時に、アメリカへ渡った。そのときのこと。今になって、
二男はこう言う。

 「アメリカへ着いたころは、言葉もわからなく、つらくて毎日、泣いて暮らした。しか
しパパやママにそれを言うと、パパやママが、心配すると思って、話せなかった。手紙で
は、『元気でやっている』とウソを書いた」と。

 私は二男のその言葉を聞いたとき、二男には、ひどいことをしたと後悔すると同時に、
「親子というのは、そういうものだなあ」と思った。

 さて、みなさんは、どう思うだろうか。それでも母シカは、すばらしい母親だと思うだ
ろうか。それとも、私がここに書いたように、子離れできない、未熟な母親とみるだろう
か。

 当時の貧しい時代という背景もある。いろいろと事情もあったのだろう。だから今とい
う時代の中で、母シカを判断することはできない。しかし一つのテーマにはなると思う。
一度、あなたの夫(妻)と、野口英世の母シカについて、話しあってみたら、どうだろう
か。

 野口英世の母親、シカは、本当にすばらしい母親だったのかどうか、と。

(3)心を考える  **************************

●ツッパル子ども

 「ウッセー!」と言って、教室へ入るやいなや、机を足で蹴とばす。先生が、「静かにし
なさい!」と注意すると、即座に、「このヤロー、ナンカ、文句あるのかア!」と。すごん
だ言い方で、はねかえす。

 鋭い目つき、独特の歩き方。それにツッパリ児特有のしぐさ、様子。

 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、あなたがみなに、嫌われるだけだよ」「君
自身が、損をするだけだよ」と、諭(さと)しても意味はない。

 その子どもにとっては、そのほうが、居心地がよいのだ。

 一般論として、人と良好な人間関係を結べない子どもは、(1)攻撃型、(2)同情型、
(3)依存型、(4)服従型のうちの、どれかになることが知られている。

 このタイプの子どもは、他人との人間関係をうまく結べないことを、別の形で、補おう
とする。わざと病弱な様子をしてみせたり(同情型)、だれかにベタベタと甘えてみたり(依
存型)、あるいは集団の中で、一人のボスに徹底的に服従する(服従型)など。

 ツッパル子どもは、このうちの(1)の攻撃型にあてはまる。攻撃的になることにより、
周囲を威嚇(いかく)し、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

 意図的な行為というよりは、無意識。また長い時間をかけてそうなるため、本人には、
その自覚がない。

 だから、この攻撃型の子どもにしても、周囲のものたちが、「嫌われるよ」と諭しても意
味がない。おとなしく静かになればなったで、その子ども自身が、自分の居場所をなくし
てしまう。その子どもにしてみれば、自分の存在そのものを、否定することになってしま
う。

 これは子どもという個人の話だが、「国」もまた、一つの人格を形成することが知られて
いる。独裁国家と言われる国ほどそうで、国全体が、その独裁者の人格を、そのまま反映
することがある。

 たとえばとなりのK国だが、数日前(5・22)、日本の小泉首相が、再訪問して、金X
Xにこう言ったという。「核やミサイルを放棄したほうが、K国にとっては、はるかに利益
になる」と。

 つまり「核やミサイルを作って、周囲の国々をおどしても、かえってあなたが嫌われる
だけ」「あなたが損をするだけ」と。

 しかしこういう言葉は、金XXには、通じない。K国は、核やミサイルをもつことで、
自分の存在を誇示している。もし核やミサイルを放棄すれば、K国は、自分の存在そのも
のを、否定することになる。 

 では、どうするか?

 これはツッパリ児のばあいだが、ツッパリ児は、ツッパリ児で、みなの心を代弁してい
るようなところがある。ツッパルことによって、暗黙のうちにも、周囲の仲間たちの、支
持を集めている。またそれを心のどこかで感ずるから、ますますみなの前で、ツッパッて
みせる。俗に言う、「イキがる」というのは、そういう状態をいう。

 K国についても、同じ。

 K国は、今では、アジアの中でも、最貧国。経済は壊滅(かいめつ)状態。食料もエネ
ルギーもない。個人にたとえるなら、家庭崩壊もしくは破産といった状態。そういう国の
独裁者だから、心がすさんでいるとしても、おかしくない。

 で、K国はK国ながらに、精一杯、虚勢を張って生きている。朝鮮民族としての誇りも
ある。だから、「お米をください」「石油をください」と、頭をさげるわけにもいかない。
そこでK国は、核やミサイルで世界をおどしながら、それらを手に入れる……。

 核やミサイルをもっているかぎり、世界は、見た目には、頭をさげる。存在感がある。
世界から要人を、自分の国に呼びつけることもできる。まわりの国々が、ビビればビビる
ほど、自分にとっては、居心地のよい世界となる。

 それに世界の中には、超大国に不満をもっている国々は、いくらでもある。K国のこう
した姿勢を、「よし」とする国もないわけではない。K国は、そういう国々の支持を、どこ
かで感じているのかもしれない。

 で、子どもがツッパッてしまったばあいには、熱病にでもかかったと思って、その時期
を、あきらめるしかない。「暖かい無視」という言葉があるが、愛情の灯を消さないように
して、無視する。叱ったり、説教して、意味はない。今の状態を、これ以上悪くしないこ
とだけを考えながら、その時期が過ぎるのを待つ。

 こういうケースでは、親があせればあせるほど、そして何かをすればするほど、子ども
を、ますます悪い状態に追いやってしまう。だから、今の状態を、それ以上悪くしないこ
とだけを考える。あとは、子ども自身がもつ、自律心をうまく利用する。

 が、K国は、どうするか?

 何といっても、核やミサイルをもっている。いつ何どき、カーッとなって、発射ボタン
を押すかもしれない。子どもに対してのような、「暖かい無視」というやり方は、K国には、
どうやら通用しないようだ。
 
 やはりここは……。(この先のことは、恐らく小泉政権以下、外務省の人たちが考えてい
ることと、同じだと思う。)子どものツッパリとちがって、本当に、やっかいな問題。考え
るだけでも、気が重くなる。ホント!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●情報と思考

 もの知りだから、賢いということにはならない。つまり情報と思考は、まったく異質の
もの。

 が、多くの人には、それがわからない。もの知りイコール、賢いと考えている。もっと
言えば、情報量の多い人イコール、賢い人と考えている。

 たとえばここに一台のパソコンがある。そのパソコンに、一枚のメディア・カードを入
れる。容量は128MB。

 128MBといえば、文字情報に換算すれば、このカード一枚に、A4サイズの原稿で、
約8〜9万枚も記録できることになる。(1バイト1文字で計算すると、12800000
0文字。これを1500字/1枚で割ると、8万6000枚となる。)

 それだけの情報をもっているからといって、そのカードが賢いかといえば、それはない。
思考力は、ゼロ。まったくのゼロ。

 パソコンについても、同じ。一台のパソコンがもつ情報量や、その処理能力は、人間の
能力とは比較にならない。それこそ人間が1年かかってするような計算でも、瞬時に、そ
れをしてしまう。しかし思考能力があるかと言えば、やはりゼロ。まったくのゼロ。

 さて、ここに一人の子どもがいる。

 いつもペラペラと、調子のよいことをしゃべっている。たいへんなもの知りで、そのた
め、学校での成績も、悪くない。親も、「うちの子は、頭がいい」と思っている。しかし子
どものばあいも、だからといって、思考能力がすぐれているかといえば、それはない。

 その子どもがもつ情報量と、思考能力は、まったく異質のもの。いわんや、その子ども
の人間性となると、まったくの上に、さらにまったくをつけるほど、関係ない。

 が、親たちには、それがわからない。「教育」というと、もの知りな子どもにすることだ
と考えている。この日本では、もの知りな子どもほど、スイスイと受験勉強を通り抜ける
ことができる。それもあって、知識、つまり情報をいかにして身につけるかが、教育とい
うことになっている。

 実は、ここに日本の教育がかかえる、最大の欠陥がある。悲劇と言ってもよい。

 一般論として、全体主義的な国家では、ものを考える子どもを、嫌う。ものを考える子
どもは、かえってその国家にとっては、危険ですら、ある。

 そこで全体主義的な国家では、むしろ、ものを考えない、従順に体制に従う子どもをつ
くろうとする。戦前の日本が、まさにそういう国であった。

 ところが戦後、日本が、それを反省し、教育のあり方を改めたかというと、それもない。
世代から世代へと、代々、同じ教育が繰りかえされてしまった。つまりその結果が、今に
見る、日本の教育システムということになる。

 今、各学校で、もの知りから、思考力のある子どもへの教育転換が試みられている。入
試のあり方も、変ってきた。私たちはこうした流れを、支持することはあっても、決して、
後退させてはならない。
(はやし浩司 情報 知識 思考力)


(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●ワイフとの会話

 庭へ生ゴミを出しに行ったあと、ワイフが、こう言いながら、居間に入ってきた。

 「あなた、今夜の風は、ロマンチックよ」と。

 そこで一句。

 『ロマンチックよと、ワイフ、言う。
  思わず確かめる、ズボンのチャック』(はやし浩司)

 それを口にすると、ワイフが、「どういう意味よ?」と。

 「身の危険を感じたから……。思わずチャックがしまっているかどうか、確かめた」と。

 さわやかな、初夏の冷気。ワイフは、それを言ったらしい。すると、横にすわって、「私、
どこかへ、行きたいワ……」と。

私「行きたい? じゃあ、つぎの三つから、選びな」
ワイフ「何よ?」
私「トイレ、オルガスムス、人生」
ワイフ「何よ、その人生って?」
私「人生を、生きたいという意味だよ」と。

 やがて、話は、ワイフの友だちのことについて。

ワイフ「今日、Kさんを見かけたけど、脳梗塞が、一段と悪くなったみたい」
私「どうして?」
ワイフ「歩き方が、さらにヨボヨボになったわ」
私「脳梗塞って、再発するのかな?」
ワイフ「そうみたい」と。

 Kさん(男性・57歳)は、昔、子ども会の仕事をいっしょにした人である。ある朝、
起きたら、脳梗塞になっていた。何でも心臓にたまったカスが、脳の血管をつまらせたと
いうことだった。が、それからもう10年以上になる。

 脳梗塞のこわいところは、これはあくまでもKさんのケースだが、いろいろな障害に合
わせて、性格まで、変ってしまうこと。それまでは冗談好きで、人笑わせ名人だった。

 が、その脳梗塞をしてからというもの、怒りっぽく、神経質になってしまった。私に対
してでさえそうなのだから、奥さんには、もっと、そうだろう。

 私もヒマさえあれば、ワイフを笑わせてばかりいる。それが日課になってしまった。ワ
イフと会話をしていると、どうしてもまじめになれない。すべてが、ギャグになってしま
う。

私「先日ね、近所の奥さんがね、林さんの奥さん、おじいさんを連れて歩いていましたよ
って、言ってたよ」
ワイフ「おじいさん?」
私「そう。話をよく聞いたら、そのおじいさんって、ぼくのことだった……」
ワイフ「ジジイぽくなったから、きっと、見まちがえられたのね。ハハハ」

私「だから、ぼくは、こう言ってやった。
ワイフ「何て?」
私「いや、ぼくは、いつもダックスフンドを連れて散歩していますと、ね」
ワイフ「私のこと?」
私「そう。足が短いからね。ハハハ」と。

 私も脳梗塞になったら、こういう冗談が言えなくなるかもしれない。今のうちに、たく
さん言っておこう。人生は。楽しむにかぎる。

 もう一句、こんな俳句を考えた。

 『若いときは、チャックをさげ、
今はあげる、ロマンチックな夜』(はやし浩司)

【脳梗塞】

 脳梗塞というより、林家の持病は、脳内出血。祖父母も含めて、親類のほとんどは、こ
の病気で、死んでいる。父は、心筋梗塞だったが……。

 つまりみんな、血管系の病気で、死んでいるということ。

 で、私も、最近、コレステロールが気になってきた。食べ物にも、注意している。とく
に注意しているのが、肥満と便秘。肥満はともかくも、便秘と脳内出血とは、どう関係し
ているのか。多分、関係ないと思うが、私は、勝手にそう思いこんでいる。

 腹の中が、ポテポテと重ぼったいと、何となく、頭まで重くなる。

 そこで私は、毎日、アロエジュースと、生ニンニクの唐辛子漬けを、飲んだり食べたり
している。アロエジュースは、アロエのトゲを取ったものを、低脂肪ヨーグルトとミキサ
ーでつぶして飲んでいる。

 生ニンニクの唐辛子漬けは、血液をサラサラにする効果があるとか……。いつか、昼の
テレビで、そんなことを言っていた。で、ためしに食べてみたら、たしかに調子よい。そ
れで、毎日、1〜2個、食べるようになった。(においの始末に、苦労しているが……。よ
く生徒に、「先生の口は、くさい」と言われる。)

 あと、総合ビタミン剤、カルシウム剤、ビタミンC剤は、朝食のあとに。寝る前は、ハ
ンゲコウボク湯を少量、舌の上でとかしてのんでいる。これはガン予防のため。

 言い忘れたが、アロエジュースは、腸の健康にはよいように思う。昔、松下先生(世話
になった、A幼稚園の理事長)が、すすめてくれた。以来、欠かさず、のんでいる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●拉致問題のウラで……

【国際政治】

 私のような立場だからこそ、好き勝手なことが自由に言える。ホント。

 もしこの私に、一片でも、肩書きや地位があったら、あるいは公的な役職があったら、
とても、こんなことは書けない。書いたとたん、クビが飛ぶ。ハハハ。

 昨日(5・22)、日本の小泉首相が、あのK国へ行った。そして5人の、拉致被害者の
家族を、日本へ連れて帰った。

 今朝(5・23)のテレビ討論会をみていると、「時期が早すぎた」「準備不足だった」「日
本は、取られ損だ」という意見が続出した。「不明者の問題が解決していない」「小泉首相
はいいかげんだ」という意見。さらに、「(小泉首相は)バカにされただけ」という意見ま
で出た。

 しかしね、みなさん。国際政治は、表だけを見てはいけません。

 何か、あるはず。何か、ウラがあるはず。そういう視点を忘れてはいけません。

 謎の第一。なぜ、小泉首相は、こうまで、あせったのか。急いだのか。わざわざK国ま
ででかけていったのか?

 もともと右翼的な色彩の強い、小泉首相。その小泉首相が、なぜ、K国へ行ったのか?
 すべての謎は、ここに集中する。

 が、ヒントがないわけではない。

 今日(5・23)、アメリカのニューヨークタイムズは、こんな衝撃的なニュースを、世
界に向けて、発信した。

 「K国が、01年のはじめ、リビアに対して、ウラン(六フッ化ウラン)を約1・7ト
ンも、秘密裏に提供していた。その証拠を、国際原子力機関(IAEA)が発見した」と。

 もしこの情報が、事実とするなら、K国は、原爆製造に必要な原料を、リビアに輸出し
ていたことになる。どの程度精製されていたかも問題だが、ニューヨークタイムズは、「ウ
ランが北朝鮮から供給された証拠が見つかった」と報じている。

 これは、はっきり言って、とんでもないニュースである。

 K国が核兵器をもっているかもしれないという情報は、あちこちにある。しかしそれら
は、K国内部の、いわば伝聞情報、もしくは推測情報にすぎない。

 が、これは「証拠のある情報」である。

 ここにも書いたように、どの程度、精製されていたかも重要だが、もしそれが高度に精
製されたウランだったとするなら、もう、6か国協議などしても、意味はない。世界がも
っとも恐れていたことを、あのK国は、先手、先手でしていたことになる。

【急いだ小泉首相】

 恐らく、小泉首相は、この情報を、すでに知っていたのではないか。だから急いだ。急
いで、とりあえず、5人の家族を、連れて帰った。

 それはたとえて言うなら、どこかのスーパーの倒産情報を先に手に入れて、業者が、商
品の回収に走るようなもの。このことは、逆に考えてみると、わかる。

 5月22日に、小泉首相は、K国に行った。23日に、K国がリビアに、核物質を輸出
していたことが報道された。

 逆だったら、どうなるか?

 5月22日に、K国が、核物質を輸出していたことがわかったら、小泉首相は、K国へ
行っただろうか。仮に行ったとしても、「人道援助」なる、「見返り金」を払うことができ
ただろうか。

 だから小泉首相は、急いだ。急いで、とりあえず、5人を連れて帰った。いろいろ批判
もあるだろうが、小泉首相としては、「この機会を逃したら、被害者家族は帰ってこられな
い」と読んだ。

 が、実は、この小泉首相のK国際訪問のウラには、隠された意図がある。

【韓国との関係】

 ノ政権になってから、韓国は、K国の矛先を、日本に向けようとしてきた。わかりやす
く言えば、日本とK国の関係を悪化させることで、自分だけは、いい子でいようとした。

 韓国が、K国に向って、さかんに「同胞」という言葉を使う背景には、そういう意図が
ある。つまり「同胞だから、まさかソウルには、核兵器を使うようなことはしないでしょ
うね」と。

 韓国にしてみれば、仮にK国が核兵器を使うとしても、それはソウルではなく、東京で
あってほしい。

 だから日本とK国が、拉致問題でギクシャクしても、韓国は、いっさい、助け船を出さ
なかった。日本とK国が敵対すればするほど、韓国にとっては、つごうがよい。

 が、今回の小泉首相のK国際訪問は、まさに日本にしてもれば、逆転のツーベースヒッ
ト。ホームランとまではいかないが、こうした韓国の隠された意図を、こなごなにする威
力はあった。

 韓国は、表向き、今回の再訪問を、「歓迎」とか「評価する」とは言っている。が、内心
は、おだやかではないはず。小泉首相が、日朝ピョンヤン宣言の遵守をうたえばうたうほ
ど、韓国の立場は悪くなる。

ワイフ「じゃあ、どうして、日本は、ピョンヤン宣言にこだわるの?」
私「そこが、小泉外交の、うまいところだ」
ワ「……?」

私「いいか。あの中で、日本は、戦後補償をする。経済制裁はしませんと、うたっている。
しかしそれには、条件がある。ミサイルや核実験をしない、とね。いいかえると、K国が、
ミサイルや核実験をしたら、日本は、それを理由に、戦後補償をしなくてもすむ。

 あのK国が、核実験はともかくも、ミサイル実験をしないと思うかい? すでにあのピ
ョンヤン宣言のあと、何度もミサイル実験をほのめかしている。日本としては、何として
も、K国に、現金を渡すようなことだけは、したくない」と。

ワ「じゃあ、中国のねらいは、何?」
私「ズバリ、ジャパン・マネーだろうね。K国が現金をもてば、K国は、中国から、大量
の武器や弾薬を買う。今までのツケも払ってもらえるしね。しかしそれは、アメリカが許
さない」
ワ「韓国は、どうなるの?」
私「先週(5月中旬)、アメリカ軍が撤退すると発表しただけで、株価は、ブラックマンデ
ーの暴落に匹敵するほど、大暴落。おまけに、外資も、数千億ドル、韓国から逃げた。

 韓国も、そろそろ現実に気づくべきだよ。反米、親北路線もいいけれど、国際経済は、
そういう韓国を認めていない。今の韓国政治は、かつての日本の社会党政権のように、ど
こか現実離れしている」と。

【南北統一を望まない日本】

 一方、韓国とK国が平和統一すれば、それこそ、日本にとっては、たいへんなことにな
る。日本のとなりに、核兵器をもった、強大な反日国家が誕生することになる。その兵力
は、200万人。

 いくら日本の国力があるといっても、本気で攻撃されたら、ひとたまりもない。数日で、
日本は、韓国K国の連合軍に、占領される。

 しかしこんなことは、日本の政治家は、表立っては、言えない。(私のように無責任な立
場にる人間だけが、言える。私は、だれにも、相手にされていない。ハハハ)

 こういう中、アメリカ軍は、韓国からの撤退を決めこんだ。民主党のケリー大統領にな
れば、日本からも、アメリカ軍は撤退するだろう。

 ブッシュ政権の命は短い。

 となると、日本は日本で、K国との関係をつくっておかねばならない。今のブッシュ政
権とともに、心中するわけにはいかない。つまり小泉政権は、すでにポスト・ブッシュを
にらんで行動し始めたとみるべきではないのか。

 一応、表面的には、日朝ピョンヤン宣言を盾にとって、平和外交をつづける。「日本は、
K国にとって、敵ではありませんよ」というジェスチャだけは、見せておかねばならない。

 それが今回の、小泉首相のK国への再訪問ということになる。

【小泉首相の外交政策は、100点満点】

 私は、戦後、はじめて、外交らしい外交をする首相を見た。点数をつけるのは、あまり
好きではないが、私は、小泉首相の外交手腕には、100点をつける。

 実にうまい。攻略的。しかも今回は、一石二鳥どころか、三鳥に近い。

 K国の攻撃先を、うまくかわした。拉致被害者を、5人、日本に連れて帰った。K国と
の関係を、うまくつくった。少なくとも、K国は、日本に対しては、核攻撃しにくい雰囲
気をつくった。

 公明党のK代表が、「あらゆる分野で確実に前進」と評価しているが、それはあながち、
まちがってはいない。

【今後のこと】

 日本は、米25万トンのほか、10億円程度の医薬品を、K国に届ける。しかし私は、
このままスンナリと、ことが運ぶとは思っていない。

 K国は、リビアに核物質を輸出していた!

 日本にとっては、あまり大きなニュースではないかもしれないが、ブッシュ政権のもな
らず、ロシアや中国に与えた衝撃の大きさは、はかり知れない。

 アメリカは、K国の核問題を、国連の安保理に付託する方向に、これから進むだろう。
となると、当然、「国際的な制裁」ということになる。

 が、日本は、立場上、制裁するにしても、最後の最後の国になりたい。かねてより、K
国は、日本に対して、「制裁したら、宣戦布告とみなす」と発言している。もともと常識の
通らない国だから、単なるコケおどしとは、みないほうがよい。

 が、今回の、再訪問は、それに対しても、ある程度のブレーキとして働く。「日本は、ピ
ョンヤン宣言があるから、制裁できません」と、最後の最後までがんばることができる。

 本当は、制裁して、金XX体制を崩壊にもっていきたい。しかし日本は先頭には立ちた
くない。卑怯(ひきょう)と思われようが、しかし日本の東京に、核兵器が投下されるよ
りは、よい。それに日本の自衛隊には、日本を守りきるだけの力は、ない。

 だから表面的には、アメリカや他の国々に、しぶしぶと追従する形をとりながら、制裁
措置に加わるしかない。

 が、ここで一つ、大きな問題がある。

 仮にブッシュ大統領の再選があやうくなるとすると、当のブッシュ大統領が、この極東
地域に、新たなる緊張状態をつくる可能性がある。たとえばアメリカが、6か国協議を、
ボイコットすることも考えられる。

 そうなると、米朝の関係は、急速に悪化する。不要な緊張状態が、不要な戦争を引き起
こす可能性もないとは言えない。

 ともあれ、今回の小泉首相の、K国再訪問は、表だけを見て判断してはいけない。その
ウラでは、恐らくブッシュ大統領と、こんな会話があったにちがいない。

小泉「リビアへの核物質を輸出していたという件ですが、発表を、23日まで延ばしてい
ただけませんか」
ブッシュ「いいでしょう。23日まで待ちましょう」
小泉「その間に、何とか、被害者を連れて帰ります」
ブッシュ「見返りとして与えるものは、少なくしなさいよ」
小泉「はい。わかっています。食料と医薬品だけです。日本が与えなければ、韓国や中国
が与えるものばかりです」と。
(04年05月23日記)

++++++++++++++++++++++++++

●体の不調
 
 この数日、どうも体の調子がよくない。体全体が、だるく、頭も重い。ときどきソファ
に横になるが、それが楽だというふうでもない。眠たいはずなのだが、横になっても、眠
れない。

 運動は、している。食事にも気をつけている。どこといって、悪いところはない。ふだ
んより、ストレスは少ない。いろいろ原因をさがしてみるが、思い当たることがない。

 もちろん、頭の活動も、鈍くなっている。あれこれ考えてみるが、脳の表面的なところ
で、思考がそのまま、上すべりしてしまう。何かを考えようとすると、「まあ、いいじゃな
いか」という、投げやりな結論が、先に出てきてしまう。

 そう、この数日、疲れている。マガジン用の原稿を書かねばと思うのだが、その原稿を
書くのが、つらい。

 「こんなことをして何になるのか?」「書いてもムダ」「どうせ、だれも読んでいない」
と、否定的な思いが、つぎからつぎへと、わき起きてくる。一応、1000号までマガジ
ンを発行すると心に決めているが、今の状態では、1000号なんて、とても無理。50
0号が、よいところ。

 ワイフに相談すると、ワイフまでが、「500号でやめたら……」と。そう言えば、数日
前も、「量が多すぎる」「内容がむずかしい」「もっと読みやすくしてほしい」という苦情が
届いた。東京に住む、Kさんという方(女性)だった。

 どうしようか?……と考えているうちに、数時間がたってしまった。

 ここ数日、ゆっくり休んで考えなおしてみよう。明日になっても、まだ原稿を書いてい
るようなら、今しばらく、マガジンの発行はつづく。そうでなければ、しばらく休刊。そ
れにしても、ここ数日、少し、疲れた。ホント。

【陰の声】

 グダグダ言っているなら、さっさと、マガジンなんて、やめてしまえ! ハハハ。……
と思いなおして、今日もがんばりました。

 ここまで読んでくださった方には、心から感謝しています。ありがとうございました。

 これから6月25日号、第427号の発行予約を、入れます。
(040526)

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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. **++ ※))
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. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.  mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 28日(No.428)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page054.html

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(1)子育てポイント**************************

●非行に走る子ども

 よい子(?)も、そうでない子(?)も、大きな違いがあるようで、それほど大きな違
いはない。日々の生活の積み重ねで、よい子はよい子になり、そうでない子はそうでなく
なる。たとえば非行。

盗み、いじめ、暴行、喫煙、性行為、集団非行など。親が「うちの子に限って」「まさか」
と思っているうちに、子どもは非行に走るようになる。しかもある日、突然に、だ。

それはちょうど、ものが臨界状態を超えて、ある日突然、爆発するのに似ている。子ど
もというのは、少しずつなだらかに成長するのではない。階段をのぼるように、トント
ンと段階的に成長する。同じように子どもが悪くなるときも、トントンと階段をおりる
ように悪くなっていく。

が、前兆がないわけではない。その一つ。生活習慣がだらしなくなる。たとえば目標や
規則が守れない(親のサイフからお金を盗む。貯金を使ってしまう。時間にルーズにな
る)、自己中心的(ゲームに負けると怒る。わがままで自分勝手)になり、無礼、無作法
な様子(おとなをなめるような言動、暴言)が目立つようになる。

この段階で家庭騒動、家庭崩壊など、子どもを取り巻く愛情が不安定になると、症状は
一挙に悪化する。

拒否的態度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に「ウッセーエ」と拒否する。
反対に無視する)
破滅的態度(ものの考え方が短絡的、直感的になる。ものごとがなげやりになる。他人
に対する思いやりが消える。あるいは他人の心に無関心になる)
自閉的態度(外部からの働きかけに鈍感になる。無感動、無表情になる)
野獣的動作(言動が野獣的になり、肩をいからせて歩く、目つきが鋭くなる)などの症
状を示すようになる。脳の機能そのものが変調すると考えるとわかりやすい。

もっともこうした症状が「表」に出る子どもは、まだよいほうだ。中には「内」にこも
る子どもがいる。前者をプラス型というなら、後者はマイナス型ということになる。

威圧的な家庭環境、親の過干渉、過関心が日常的に続くと、子どもの心は閉塞的になり、
マイナス型になる。陰湿ないじめ、動物への虐待などを日常的に繰り返すようになる。
被害妄想をもちやすく、一方で凶悪事件を引き起こすこともある。

 要はどの段階で、どの程度、親がその前兆に気づき、子育てのあり方を反省するかとい
うこと。が、実際には、これが難しい。

このタイプの親に限って、エリート意識が強く、他人の話に耳を傾けない。あるいは反
対に、無責任で無教養。子育てそのものから逃げてしまう。盲目的な溺愛が、子どもの
変化を見落としてしまうこともある。どちらにせよ自分だけのカプセルに閉じこもり、
その中で価値観を変質させてしまう。そしてあとはお決まりの独善と独断。

私のような立場の者がアドバイスしても、無駄。「子どものことは私が一番よく知ってい
る」という確信のもと、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたには本当のことはわ
からない」と、はねのけてしまう。

本来、そうならないためにも、ほかの父母との交流を多くして、風通しをよくしなけれ
ばならないのだが、その交流もしない。しても形式的。あるいは見栄、メンツ、世間体
を優先させてしまう。あとは日々の積み重ね。子どもの非行は、あくまでもその結果で
しかない。

+++++++++++++++++++++++++

●手をかけ過ぎると

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道
具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいは物をバッグの中に押し
込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。

そういうときは片づけが終わるまで、じっと待つしかない。S君もそうだった。が、S
君はそのうちメソメソと泣き出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされて
はいけない。このタイプの子どもは、泣くことによって、その場から逃げようとする。

誰かに助けてもらおうとする。しかしたまたまその日は、S君の母親が教室の外で待っ
ていた。母親は泣き声を聞きつけてやってきた。そしてこう言った。「どうして泣かすの
ですか!」と。ていねいなだが、すご味のある声だった。

 原因は手のかけ過ぎ。S君の場合は、祖父母。それに母親の三人が、S君の世話をした。
裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいていくれ
るような環境で、S君は育った。

しかしこのタイプの母親に、手のかけ過ぎを指摘しても、意味がない。まず第一に、そ
の意識がない。子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。そしてそれ以上に、
手をかけることが、親の生きがいになっている。

「子どもから離れなさい」と言うことは、その生きがいを親から奪うことになる。それ
だけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、遠ざけてしま
う。

先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたとき、そこの園長が、こんなことを話して
くれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親は満足しないのです
よ」と。

 手をかけ過ぎると、幼児性が持続し、人格の「核」形成が遅れる。目標やルールが守れ
ないなど、溺愛児と過保護児の症状をあわせもった子どもになる。しかし溺愛児とも過保
護児とも違う。もう少し大きくなると、こんな会話をする。

私「そこはまちがっているから、やり直しなさい」
子(小四男児)「ケシで消すのですか」
私「そうだ」
子「自分で消すのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「きれいに消せばいい」
子「全部、消すのですか」
私「……」と。

もう二五年ほど前のことだが、こんなこともあった。中学生をキャンプに連れていった
ときのことだ。たき火の火が大きくなったとき、あわてて逃げてきた男子中学生がいた。
「先生、こわい」と。

私は子どものときから、ワンパク少年だったし、喧嘩をしても負けたことがない。他人
に手伝ってもらうのが、何よりもいやだったし、今でも、そうだ。そういう私にとって
は、このタイプの子どもは、苦手。好きか嫌いかと聞かれれば、どうしても好きになれ
ない。人間というより、飼いならされたペットのような印象すら受ける。で、このタイ
プの子どもは、おとなになると、どうなるか。

 たくましさや生活力がないというだけで、それほど大きな問題にはならない。親切でや
さしく、柔和でおとなしく、そして人当たりもよい。よい子と言えば、よい子。よい子の
ままおとなになる。たいていの親は「いつまでも手がかかります」とこぼしながらも、内
心ではできのよい子と思っている。

しかし私はときどきこう思う。もし日本人が皆、こういう子どものようになってしまっ
たら、日本もおしまいだろうな、と。

(2)今日の特集  **************************

【赤ちゃんがえりの裏にあるもの】

●嫉妬

 嫉妬は、原始的な感情とみてよい。人間が、まだ下等な原始的な生物であった時代から、
もっていた。

 そのことは、犬や、ネコを見ればわかる。小鳥や、ネズミを見ればわかる。

それだけに、扱い方をまちがえると、やっかい。その人の本性まで、狂わす。

 京都府に住んでいる、YRさん(母親)から、こんな相談のメールをもらった。「長女(5
歳)の、弟(3歳)いじめに、悩んでいる」と。

++++++++++++++++++++++

「姉が、プロレスのように、弟を、立っているうしろから強く押して倒す。頭をつかん
で、引き起こし、もう一度強く押して倒す。倒れている弟のおなかを、踏みつけている
んです!

先生も書かれていましたね。嫉妬している子は、殺す寸前の事まですると……。まさか、
殺そうだなんて恐ろしい気持ちはなかったと思いますが、そんなような感じでした」と。

++++++++++++++++++++++

 下の弟が生まれたとき、長女は、1歳9か月。まだ人見知り、あと追いの習慣が残る時
期である。子どもの側から見て、まだ、母親の愛情を、全幅に自分のものにしたい時期で
もあった。が、そこに、弟が、生まれた!

 メールを読むと、弟が生まれる以前から、心身症による情緒不安定症状が見られたよう
だ。そして弟が生まれる前後から、かんしゃく発作も始まった。つまりこの時期、すでに、
愛情不足による、欲求不満が始まっていたとみる。

 このとき、たいていの親は、「ちゃんと、めんどうをみていました」「ふつうの親程度の
ことはしていました」と言う。さらに「下の子が生まれてからは、平等にかわいがってい
ました」と言う。

 しかし子どもの心というのは、あくまでも子どもの視点に置いて、みなければならない。
かんしゃく発作にしても、それが起きたという、その時点で、すでに家庭教育は失敗した
とみる。(きびしい言い方だが、そう考えて、家庭教育のあり方を、猛省する。)

 さらに上の子にしてみれば、「平等」そのものが、不満なのだ。それはたとえて言うなら、
夫がある日、突然、愛人を家の中に連れてくるようなもの。「お前と、愛人と、平等にかわ
いがってやる」などと言われて、あなたは、それに納得するだろうか。

 それまで(100)あった愛情が、下の子が生まれて、(50)に減らされる……。そこ
で子どもは、それまでの親の愛情を取りもどそうと、よく知られた症状として、赤ちゃん
がえりを起こす。

 この赤ちゃんがえりについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 症状としては、ネチネチした言い方や、おもらしを始めたり、母親のおっぱいを求めた
りするようになる、マイナス型(退行型)、下の子どもに攻撃的になる、プラス型に分けて
考える。

 そのほか、心身症に似た症状(腹痛、慢性的な発熱、嘔吐)や、情緒障害(かん黙、自
閉傾向、回避性障害、食欲不振)などの症状を併発する子どももいる。

 YRさんの長女のケースでは、ここでいう攻撃型と、かなりはげしい情緒不安定症状が
混在しているように思われる。「まさか……」と、YRさんは書いているが、(その寸前ま
でのことはする)というには、常識。

 印象に残っているケースとしては、弟を逆さづりにして、頭から落としていたケース。
自転車で、下の子に、体当たりしていたケースなどがある。

 長女が、二女をいじめるというケースは、たいへん多い。昔から『年の近い姉妹は、仇
(かたき)どうし』と言うが、それも、そのひとつと考えてよい。

 この攻撃型の子どもの特徴は、(1)親の前では、むしろできのよい兄や姉を演ずるとい
うこと。(2)とっさの場面で、その内心を知ることができる。YRさんのケースでも、「私
が何かのことで、弟を叱ったりすると、姉は、手をたたいて、喜びます」と書いている。
それがここでいう(とっさの場面)ということになる。

「親に嫌われたのでは、もとも子もない」という、心理が働くためである。つまり仮面
をかぶる。さらにそれが進むと、心と表情が、遊離し始める。子どもの心理としては、
きわめて危険な状態に入ったとみる。

 こうした症状が見られたら、その程度にもよるが、もう一度、全幅(100%)の愛情
を、上の子に、もどす。もどした上で、半年単位で、少しずつ、愛情を抜いていく。(たい
ていは、すでにこの段階で、情緒はかなり不安定になっている。ささいなことで、緊張状
態になったり、興奮したりしやすくなっている。)

 心のキズは、そんなに簡単には、いやされない。

 ……というような話は、実は、表面的な話でしかない。こうした赤ちゃんがえりの裏に
は、もう一つ、深刻な問題が隠されている・

●母子間の基本的信頼関係

 全体としてみれば、子どもの赤ちゃんがえりは、起きた段階で、家庭教育は失敗したと
みる。

 この失敗を避けるためには、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。「ある日、
突然、下の子が生まれた」という状態にすると、まずい。

 が、この段階で、赤ちゃんがえりを起こす子どももいるが、そうでない子どももいる。
みながみな、赤ちゃんがえりを、起こすわけではない。重度の赤ちゃんがえりを起こす子
どもは、全体の10〜20%前後とみる。40〜50%の子どもは、多かれ少なかれ、ど
こか情緒が不安定になる。

 (注意……「情緒が不安定」というのは、心の緊張状態がとれないことをいう。ささい
なことで、泣いたりぐずったりする。カッと激怒するのも、含まれる。)

 しかしとくに上の子教育をしなくても、スンナリと弟や妹を、受けいれる子どもも、全
体の約40〜50%はいる。そのちがいは何か?

 ここで登場するのが、私が何度も書いている、(母子間の基本的信頼関係)である。

 この信頼関係がしっかりとできていれば、その後の子どもの情緒は、きわめて安定する。
そうでなければ、そうでない。

 その信頼関係は、(全幅のさらけ出し)と、(全幅の受け入れ)の上に成りたつ。わかり
やすく言えば、たがいに、全幅に心を開きあうということ。子どもの側からすれば、絶対
的な安心感ということになる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味で
ある。

 その(全幅のさらけ出し)と、(全幅の受け入れ)が、親子の間で、たがいにあってはじ
めて、基本的信頼関係が生まれる。この信頼関係は、その後の、子どもの心の発育の基本
になるという意味で、「基本的」という。

 この段階で、基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その後、人間関係がうま
く結べなくなる。他人に対して、攻撃的になったり、服従的、依存的になったりする。仮
面をかぶるのも、その一つ。

 育児拒否、冷淡、無視がよくないことは言うまでもない。さらに親側にその気がなくて
も、誤解によって、結果として、育児拒否や冷淡、無視になることもある。あくまでも子
どもが、それをどうとるかという問題である。

 生後直後から、子どもが求めてきたら、ていねいに、こまめに愛情表現を繰りかえす。
もちろんベタベタの親子関係がよいわけではない。この時期は、『求めてきたときが、与え
どき』と覚えておくとよい。

 0歳からの新生児、乳児を、大声をあげて叱ったり、怒鳴ったりするのは、もってのほ
か。しつけと称して、体罰を加えるのは、さらに、とんでもない! 子ども、なかんずく
赤ちゃんの行為には、一つとして、ムダなことはないと思う。

 何かの行為をしたら、親の判断を押しつけるのではなく、その理由や原因をさぐる。こ
うした謙虚な気持ちが、子どもの情緒を安定させる。

 たとえば子どもの夜鳴きにしても、親は、ただひたすらそれに耐える。耐えて、耐えて、
耐えぬく。まさに根くらべということになる。

 実は、この段階で、試されているのは、(親の愛情)ということになる。実は、この問題
こそが、赤ちゃんがえりの裏に隠された、深刻な問題なのである。

●試される親の愛情

 実は、私の孫(誠司、現在、満1歳9か月)は、生後まもなくから、夜泣きがひどかっ
た。ふつうの夜泣きではない。起きているときは、ほとんど、泣いていた。

 予定より、2、3週間、早く生まれたこともある。

 毎日のように嫁(アメリカ人)が、メールで助けを求めてきた。そのこともあって、二
男も嫁も、完全な睡眠不足。何しろ、4、5時間ごとに目をさまし、そのまま寝つくまで、
泣きつづけたのだから、たまらない。

 そこで嫁は、あちこちの育児相談会や、ドクターの講習会にでかけた。

 で、こうした状態が、半年近くつづいた。

 が、ある日、私のワイフが、二男と嫁に、こうアドバイスした。「日本式に、子どもを間
にはさんで、川の字になって寝たら……」と。

 アメリカでは、生後直後から、赤ん坊でも、別のところに寝さかす。ワイフは、それ以
前から、「それはいけない」と言っていた。その結果だが、つまり川の字になって寝るよう
になったとたん、夜泣きは、やんだ。

 この孫の夜泣きのことで、私は、いくつかのことに気づいた。ひとつは、二男と嫁の、
その忍耐力の強さである。孫は毎晩、泣いたが、一度だって、二男も嫁も、声を荒げたり、
叱ったりしたことはなかったという。

 孫が寝つくまで、抱いたという。もともと二男は、静かな性格の子どもだった。嫁も、
きわめて静かな性格の女性である。さらにアメリカでは、子どもに向かって大声を張りあ
げるだけでも、虐待とみなされるという。

 しかしこうした忍耐力を支えたのは、実は、二男夫婦がそれだけ忍耐強かったというこ
とだけではない。彼らの子育てを支えたのは、二男夫婦の、たがいの愛情だった。

 こういうことを親の私の立場で言うのも、おかしなことだが、私は、あそこまで愛しあ
っている夫婦を、見たことがない。食事だって、たがいに手をつなぎあって食べていた。
本当のことを言えば、二男には、日本人の女性と結婚してほしかった。しかしそういう二
人の様子を見たとき、私は、ワイフにこう言った。

 「あれでは、ダメだよ。反対したら、二男は、家を出るよ。結婚できなければ、二人は
自殺してしまうよ」と。まさにそういう雰囲気だった。

●赤ちゃんがえりの裏にあるもの

 上の子が、赤ちゃんがえりを起こしたら、まず(1)夫婦の愛情はどうだったか。(2)
母子の間の基本的信頼関係がしっかりとできているかを、疑ってみたらよい。

 この問題は、実は、根が深い。

 さらに(3)あなた自身の親子関係は、どうであったかを反省してみるとよい。

 こうした母子間の基本的信頼関係は、代々と、母から子へと、伝播(でんぱ)しやすい。
親自身が、その親との間の信頼関係ができていないと、今度は、自分の子どもに対して、
その信頼関係を結ぶことに失敗する。……しやすい。

 (心を開いて、受け入れる)というのは、そういうもの。

 もう少し、具体的に考えてみよう。

 仮に、あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育ったとしよう。家庭不和、夫婦げんか、
経済問題、親の暴力や虐待など、そういうものを日常的に経験したとしよう。

 あなた自身は、それに気づいていないかもしれないが、あなたの心は、そのため、大き
く、キズついている。が、それだけではない。あなたは、あなたの親に対して、安心して、
心を開くことができなかった。

 親に対してでさえ、心を開くことができなかったというのは、きわめて不幸な状態と考
えてよい。というのも、先にも書いたように、それが基本となって、あなたは、今度は、
だれとも心を開けなくなってしまう。

 これを「基本的信頼関係」というのに対して、心理学の世界では、「基本的不信関係」と
いう。

 子どもの世界でも、妙に愛想がよかったり、先生や仲間にへつらったりする子どもは、
そういう意味では、不幸にして、不幸な家庭に育った子どもとみてよい。(反対に、愛情豊
かな家庭に育ち、この基本的信頼関係がしっかりとできている子どもは、ドッシリと、静
かに落ちついている。)

 この基本的不信関係がこわいところは、それが母子の間だけの関係に、とどまらないこ
と。

 ここにも書いたように、先生や仲間とも信頼関係が結べなくなる。さらに、結婚してか
らも、夫や妻との間でも、結べなくなる。そしてここが最大の問題だが、自分の子どもと
の間にさえ、結べなくなる。

 そしてこの状態を、代々と繰りかえす。

●失敗の連鎖

 赤ちゃんがえりの原因に、あなた自身の親(とくに母親)との関係があるとは、断言で
きない。しかし疑ってみる必要はある。

 というのも、もしそうであれば、あなたは無意識のまま、つまり自分では気づかないま
ま、それを今、自分の子どもに対して、繰りかえしている可能性がある。そしてそれが、
結果として、子どもの側からみれば、拒否的態度、無視、冷淡となっている可能性がある。

 それが子どもの情緒を不安定にし、さらにその結果として、子どものかんしゃく発作、
さらには、ここで問題になっている赤ちゃんがえりにつながっている可能性がある。

 しかしこの問題は、気づくだけでよい。すぐになおるということはないにしても、気づ
くだけで、あとは、時間が解決してくれる。

 いつか書いたように、問題のない子どもはいない。問題のない親はいない。どんな人も、
それぞれ、何らかの問題をかかえている。

 問題は、あなた自身も、問題のある家庭に育ったということではなく、そういう問題が
あることに気づかず、その失敗を繰りかえすことである。

 ここでいう母子の間の基本的信頼関係を結ぶことに失敗した親は、今度は、自分の子ど
もとの間の信頼関係を結ぶことに失敗する。そしてその子どもが大きくなり、親となった
とき、さらにその子ども(あなたの孫)との間の信頼関係を結ぶことに失敗する。

 こうして(失敗の連鎖)は、代々と繰りかえされることになる。

【YRさんへ】

 メール、ありがとうございました。

 世間一般では、子どもの赤ちゃんがえりを、軽く考える傾向があります。しかし子ども
の心に与える影響の大きさを考えるなら、この時期、きわめて深刻な問題の一つと考えて
よいでしょう。

 そしてその「根」は、想像以上に、深い。YRさんのメールを勝手に引用して恐縮です
が、あなたもこう書いておられます。

+++++++++++++++++

「先生もお気づきかと思いますが、私は親像のない親です。私の生まれ育った家庭は、
とんでもないものでした。

見た目は、旧家(この言葉大嫌いです)の本家です。家族は、それだけを自慢みたいに
して……。とても恥ずかしいです。父はサラリーマン。母と祖母、兄と私の5人家族で
した。(実際は借金だらけの仲の悪い、殺伐とした家庭なのに!)

 大人3人がそれぞれ仲が悪く、ののしりあっているのをみて育ちました。父の飲酒、浮
気。いろいろありました。小学生の頃、母に頼まれ浮気相手に、「うちの父との交際をや
めてください」と、電話をさせられたこともあります。

祖父の借金を返しているとかで、母のいつもの口グセは、「うちには、お金がない」でし
た。

私たち兄弟は、もっぱら祖母の手によって育てられました。だから私たちの幼いころの
ことを母に聞いても、母は、「あまり覚えていない」と。何も教えてもらえません。

私たち兄弟は、よく母に鼻血がでるまで叩かれ、蹴られてました。宿題をしてないとプ
リントを破られたこともあります。

 毎回、マガジンを読ませていただき、たいへん力になっています。どうか私のように助
けられている読者もいることを、忘れないでください。これからも、がんばってマガジン
を出してください」と。
 
+++++++++++++++++++++

 しかしYRさんは、すでに、自分の過去を冷静に見る目をもっておられる。「私は親像の
ない親」とも書いておられる。ここが一番重要であり、大切な点です。

 つぎに大切なことは、よい親でいようと気負わないこと。さらに自分の足りなさを嘆き、
それを悪いことだと決めつけないことです。

 親が気負うと、その親はもちろんのこと、子どもも疲れます。私も、幼児を教えながら、
あるときそれに気づきました。そこで今では、気がついてみると、親たちがいる前でも、
平気で子どもを叱ったり、注意したりしています。

 たまたま昨日も、生徒(年長児)が、私の教室で、あちこちの戸だなを開けてみていた
ので、こう言ってやりました。「おい、KK(呼び捨て)、よその家の戸だなを勝手に開け
るな」と。

 するとその子どもが、「どうして、いかんよオ?」と言いかえしましたので、「あのな、
よその人のカバンだとか、バッグ、それにパンツの中は、のぞいてはいけないの。戸だな
も同じだ」と。

 親はすぐ横に立っていましたが、笑っていました。

 気負わないというのは、そういうことを言います。そのおかげというか、私は、幼児を
教えていて、体力的には疲れることがありますが、神経を使って疲れるということは、な
くなりました。「いい教師でいよう」という、そういう思いは、もうないということです。

 あなたも、あなたで、ありのままで生きていけばよいのです。(もちろん、ありのままを
さらけ出してもよいだけの、自分にならないといけませんが……。)子どもがあまり好きで
なかったら、「私は好きではない」と自分に、納得すればよいのです。その上で、親子とし
て、自分たちの関係をながめるのではなく、友として、自分たちの関係をながめます。

 長女の方の赤ちゃんがえりの遠因には、あなたの過去があることは、あなた自身がもう
お気づきのことです。つまりあなたの長女は、長女として、どこかでさみしい思いをした
のでしょう。

 そこで今、あなたが大切にすべきことは、「だから愛情をとりもどそう」と考えることで
はなく、あなた自身が、お子さんたちに、心を開くことです。ありのままのあなたを、さ
らけ出すことです。それを日本語では、「本音(ほんね)で生きる」と言います。

 そう、本音で生きます。

 ……といっても、これは簡単なことではありません。あなたがこれから先、何年もかけ
て、努力することです。あなたが自分で、「心を開けるようになった」と感ずるまでに、1
0年とか20年とか、かかるかもしれません。しかしあきらめてはいけません。

 そのために、まず、あなたがあなた自身を知る。仮面をかぶったり、よい人ぶったり、
人に好かれようなどと思っている部分があれば、それは(あなた)ではありません。本当
の(あなた)は、何であるかを知ります。

 それがわかったら、少しずつ、自分をさらけ出していきます。居直ります。あとは何年
もかけて、それを繰りかえしていきます。

 ためしに、あなたの夫や子どもに、それをしてみてはどうでしょうか。

 したいこと、してほしいこと、思っていること、率直に言えばよいのです。たとえば、
臼井氏の描いた、『クレヨンしんちゃん』を読んでみたらどうでしょうか。あの中の母親の
みさえさんは、実にすがすがしい生きかたをしています。今のあなたには、よい参考にな
ると思います。

 (ただしテレビのアニメは、参考になりません。コミック本の、v1〜10くらいまで
をお薦めします。v11〜以後は、どこか作為的で、参考にはなりません。)

 その上で、あなたの長女の問題です。

 こういうケースでは、一度、すべての愛情を、長女にもどすしかありません。とくに、「お
姉さんだから」という『ダカラ論』には、注意してください。この時期の子どもに、『ダカ
ラ論』をぶつけても意味がありません。

 「あなたも、弟が生まれて、さみしかったのね。つらかったのね」
 「あなたも、よくがんばったわね」
 「お母さんも、あなたの気持ちがよくわからなかった。ごめんね」と。

 こういう言葉が、あなたの心を溶かし、あなたの子どもの心を溶かします。下の子には、
今しばらくがまんしてもらいます。(下の子は、それを受け入れると思います。最初からそ
うなら、そうで、問題はないのです。)

 乱暴がひどいようであれば、上の子との添い寝、手つなぎ、抱っこ、いっしょの入浴な
どを濃密に繰りかえします。とくに子どものほうから求めてきたときには、ていねいに、
かついとわず、それに答えてあげます。

 たとえば「ママ……」とすり寄ってきたときは、子どもが満足するまで、ぐいと抱いて
あげます。力いっぱい抱いて、子どもに安心感を与えるようにするのがコツです。

 そういう安心感を子どもが覚えたとき、その安心感の中から、やさしさが生まれます。
そしてそのやさしさが、今度は、弟のほうに向かいます。

 あとはCA、MGの多い食生活(海産物中心の献立)に、注意を払います。それだけで
も、子どもの心は、かなり安定するはずです。

 YRさんのメールを読んでいて、ほかにも気づいたことがあります。

 私の父も、あなたに似たような経験をしています。

 もともと祖父には、好きな女性がいたようです。しかし遊んでいるうちに、私の父が生
まれてしまった。そこで祖父は、その責任をとる形で、祖母と結婚した……。

 が、祖父は、祖母のことはかまわず、毎日、その愛人の家に入り浸(びた)りになって
いたようです。そこで私の父の仕事は、つまり父が、子どものころのことですが、毎日、
その愛人宅の家まで行って、石を投げることだったそうです。

 しかしこの話を知ったころは、人に話すのも恥ずかしいような話でしたが、そのうち、
笑い話になりました。(今では、こうして平気で、自分のエッセーの中に書けるようになり
ました。笑い話として……。ハハハ)

 そういうものです。人には、それぞれ、無数のドラマがあります。そのドラマが、人間
の世界を、うるおい豊かにします。YRさん、あなたももう少し年をとると、あなたの過
去やあなた自身を、すなおに話せるようになります。そしてあなたの過去を、笑い話にす
ることができます。

 そうなったとき、あなたはだれにも心を開き、あなたの過去を清算することができます。

 あなたの子どもたちが求めている「親」は、そういう親です。たがいに、何でも話せる
親です。それともあなたの長女は、あなたにこんなことを言っているでしょうか。

 「ママ、私はさみしい。どうして弟ばかり、かわいがるの!」と。

 そういうことが言えなくて、あなたの長女は、苦しんでいるのです。そういう長女の気
持ちを、どうか、どうか、わかってあげてください。

 かなりきびしいことばかりを書きましたが、私もYRさんの言葉に、励まされました。
このところ、原稿を書くのも、おっくうになっていました。マガジンを出しても出しても、
よい反応はなし。反対に、「量が多すぎる」などと、届くのは、苦情ばかり。(ホント!)

 正直言って、そんなわけで、マガジンの発行回数を少なくしようと考えていた矢先のこ
とでした。少なくとも、とくにこの数日間、原稿を書きたいという意欲が、ほとんど起き
ませんでした。ありがとうございました。

 YRさんのような読者の方がいらっしゃることを、これからも信じて、がんばります。

 これからもいろいろ迷うことはありますが、よろしくお願いします。一応500号を目
標にがんばります。そのあと1000号に向かうかどうかは、今のところ、自信がありま
せん。(500号でやめたら、私の敗北です。ですから多分、1000号に向かうと思いま
すが……。)また500号に近くなったら、報告します。
(040529)
(はやし浩司 赤ちゃんがえり 赤ちゃん返り 子どもの嫉妬 親の気負い 乱暴な上の
の子)


(3)心を考える  **************************

【子どもの指導】

 子どもを指導するときは、当然のことながら、子どもの心理を知らなければならない。
そこで家庭でも応用できる心理操作法をいくつか、思いつくまま、あげてみる。

●服従心理

 子どもには、元来、服従心理がある。「だれかに従って、その命令どおり動いてみたい」
という心理である。

 が、これには、コツがある。

 相手を服従させるためには、「納得」が必要である。

 たとえば学校の先生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言ったと
する。そのとき、その子どもは、その場の雰囲気を感じながら、「はい」と言って、それに
従う。

 しかし見知らぬ大学生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言って
も、その子どもは、それには従わない。

 そこで子どもに何かをさせるときは、それなりのお膳立てをしなければならない。その
お膳立てが、そのときの雰囲気ということになる。

 子どもを納得させるものとして、ここでいう(1)雰囲のほか、(2)権威づけ(先生の
命令なら聞くが、そうでない人の命令には、従わない)、(3)理由づけ(合理的な理由や、
自分にとって必要なことなら従う)、(4)同調性(その人の意見に、同調するときは従う)
などがある。子どもの側からみて、納得できる状態ということになる。

 こうしたお膳立てをうまくしながら、子どもを指導する。

 しかし、すでに親の言うことを聞かないというのであれば、親自身がもつ権威は、すで
に失墜しているとみる。(権威で子どもをしばるのは、もちろんよくないが……。)

 まずい例としては、(1)親が寝そべってテレビを見ながら、「夕刊を取ってきて!」と
言う。(2)夫婦げんかばかりしている親が、子どもに向かって、「友だちと仲よくしなさ
い」と言う。(3)交通ルールなど、自分では社会的ルールを平気で破っておきながら、子
どもに向かっては、「約束を守りなさい」などと言うなど。

 親の身勝手は、親の権威を破壊する。

 ただしこうした服従心理は、年齢によって、かなり異なるし、個人差もある。ふつう自
我の発達とともに、自己意識が育ってくる。そうなると、子どもは、自分自身の中の服従
心理と戦うようになる。服従的な態度がよいというわけではない。あくまでも、子どもを
見ながら、判断する。


●動機づけ

 子どもの指導は、動機づけのよしあしで、そのあとのほとんどが決まると言ってもよい。
動機づけがうまくいくと、そのあとの、学習などが、うまくいく。しかし失敗すると、親
も子どもも、その何倍もの苦労をすることになる。

 とくに乳幼児期の動機づけは、慎重にする。この時期、一度動機づけで失敗すると、(逃
げる)→(やらない)→(ますます嫌いになる)の悪循環を繰りかえすようになる。

 たとえば本読み。

 まず、親が何度も子どもをひざに抱き、子どもに本を読んで聞かせる。そういう(温も
り)が、子どもを、本好きにする。「本は楽しい」「本はおもしろい」という思いが、子ど
もを前向きに引っ張っていく。

 まずいのは、いきなり本を与えて、「読みなさい!」と命令するような行為。「まだ読め
ないの!」「ここまで読まなければ、夕食はなし!」などという、無理、強制、条件。一時
的な効果はあっても、あくまでも一時的。

 ついでに、読書はあらゆる学習の基礎となる。「本が嫌い」というのは、あらゆる分野に
悪い影響を与える。たとえば理科、社会という科目にしても、小中学生のころは、理科的
なことが書いてある国語、社会科的なことが書いてある国語と理解すると、わかりやすい。

 乳幼児期は、本読みの動機づけを、とくに大切にする。


●手本

 自分では本を読んだこともない親が、子どもに向かって、「本を読みなさい」は、ない。
こうした身勝手は、子育てにはつきもの。

 たとえば何か大きな事件が、近くで起きたとする。どこかの子ども自身が、事件を起こ
すこともある。そういうとき、たいていの親は、「うちの子はだいじょうぶかしら?」と心
配する。事件にもいろいろあるが、この日本では、基本的にはルールさえしっかりと守っ
ていれば、事件に巻きこまれることは、まず、ない。

 そのルールだが、親が、子どもの目の前で、破るだけ破っておいて、子どもには、「守り
なさい」は、ない。

 こんな例がある。

 ある中学生が、友だちから、CDを借りた。が、しばらく、それを返さなかった。で、
それを学校の先生から連絡を受けた父親は、その中学生を、スリッパの裏で、はり倒した。

 その中学生の顔には、ちょうどスリッパの形のアザができた。

 それを見て、私がその父親に、「何もそこまでしなくても……!」と言うと、その父親は、
こう言った。「オレは、まちがったことが大嫌いだ。人からものを借りて返さないなどとい
うことは、許さない。そういうまちがった根性は、今のうちにたたきのめしてやる!」と。

 では、その父親が、そこまで自分にきびしい人だったかというと、それは疑わしい。国
産車だが、最高級の車に乗っていた。しかしタバコの灰や、吸殻は、すべて窓の外に捨て
ていた。本業は、土建業だが、業者の中では、「スルイ男」と呼ばれていた。「小ずるい男」
という意味で、そう呼ばれていた。

 最近、私は、ときどき、こんなふうに思う。

 よく赤信号になってから、交差点を猛スピードで走りぬけていく車がある。その中には、
ときどき、母親が運転し、横に子どもを乗せているケースもある。そういうのを見ると、「い
いのかなあ?」と。

 親は、多分、「これくらいのことならいいだろう」と思って、そうしているのだろう。し
かし一事は万事。そういう母親というのは、生活のあらゆる面で、そういう小ズルイこと
をしているにちがいない。で、母親は、それでいいとしても、そういう母親の姿を、日常
的に見て育った子どもは、どうなるのか? 実のところそれを考えると、ぞっとする。

 子どもに向かって、「宿題をしなさい」「勉強をしなさい」と言うくらいなら、まず、親
がそれをしてみせる。それは子育ての基本といってもよい。子どもに向かって、「人に迷惑
をかけてはいけない」「悪いことをしてはいけない」と言うくらいなら、まず、親が、ルー
ルを守ってみる。

 ……と、きびしいことを書いてしまったが、よい手本を見せるのが、子育ての基本とい
うことになる。

 ……ここまで書いたとき、もう一つ、こんな話を思い出した。

 学生時代、B君というオーストラリアの友人と、ドライブをしていたときのこと。乗っ
ていた車が、州境(ざかい)までやってきた。

 そのとき私は、パンか何かを食べていた。それをB君が見て、「ヒロシ、パンを捨てろ」
と。

 当時、オーストラリアでは、州を越えるときは、すべての食べものを、そこで捨てるこ
とになっていた。病害虫の移動を、させないためだった。そのための、巨大なゴミ箱が、
そこに置いてあった。

 私は、「いいじゃないか、パンぐらい……」というようなことを言ったと思う。しかしB
君は、一歩もゆずらなかった。「南オーストラリア州で買った食べものは、ビクトリア州へ
は、持ちこめないことになっている。ここで捨てろ!」と。

 かなりの間、押し問答がつづいた。「捨てろ!」「いいじゃないか!」と。

 私は、B君の杓子定規(しゃくしじょうぎ)なものの考え方に、あきれた。州境といっ
ても、大平原のど真中。人が立って見ているわけではない。途中で、検査されるわけでも
ない。しかしB君は、「捨てろ!」と。

 しかしそれから35年。今、B君は、私のもっとも信頼のおける友人になっている。と、
同時に、私は、B君に対しては、とくにきちんと、どんな約束でも、それを守るようにし
ている。人間関係というのは、そういうもの。

 親子関係といっても、つきつめれば、そこは純然たる人間関係。長い時間をかけて、親
子というワクを超えた関係になる。そういうことも考えながら、今のあなたのあり方を、
少しだけ反省してみるとよい。10年や20年ではない。30年、40年先には、どうな
るか、と。

 ついでながら、欧米では、子育ての基本は、「心を開いて、誠実に」(Open your heart and 
be honest.)だそうだ。何かのビデオ映画の中で、だれかがそう言っていた。子どもには、
心を開いて、誠実に接する。それがあなたの子どもを、よい子にする、と。

 何か大きな事件が起きるたびに、「心配だ」と思うなら、一度、あなた自身の子育てのあ
り方を反省してみるとよい。ふつう「心配だ」と思うということは、すでに、あなたの子
育ては、危険な状態に入っているとみてよい。

+++++++++++++++++++

 同じく30年ほど前。結婚していたにもかかわらず、女遊びばかりしている男がいた。
私を「友だち」と呼んでいたが、そのあと、私は、何度も裏切られた。お金を貸したこと
もあるが、一円も返してくれなかった。

 で、そういう男を信じた、私が愚かだった。妻でさえ裏切るような男である。私のよう
な友人(?)を裏切ることなど、何でもない。朝飯前。

 そんな男が、今から10年ほど前、また私に接近してきた。何かビジネスをいっしょに
しよう。ついては、私にも、出資をしないかというような話だった。しかし私には、なつ
かしさは、まったく起きなかった。もちろんそのビジネスは、断わった。

 オーストラリア人のB君とくらべると、その男は、私にとっては、正反対の位置にいた。
いくら誠実そうなことを言っても、私は、まったく信用しなかった。もちろん、その男と
の関係は、そのときだけ。それで、おしまい。以後、私のほうからは、その男とは、連絡
をとっていない。

 親子関係も、同じように考えてよいのではないだろうか。

【追記】

 ウソはつかない。約束は守る。たったそれだけのこと。簡単なことである。そういう日々
の積み重ねが、月となり、年となり、やがてその人の人格になる。


●同調作用
  
 人間は、太古の昔、群れをなして共同生活をしていた? この傾向が、今でも、人間の
中に残っている。それが同調作用と呼ばれる現象である。

 たとえばAさんが、「あの店の料理はおいしい」と言ったとする。それに合わせて、Bさ
んも、「そうよ」と言ったとする。するとその場にいたCさんまでもが、実際には、その店
に行ったことがないにもかかわらず、「そうみたいねえ」と、相づちを打つ。

 こうした同調作用は、子どもの世界にもある。

 以前、ポケモンが全盛期のころ、子どもたちはみな、狂ったようにポケモンの歌を歌い、
ポケモングッズを、ほしがった。私がピカチューの絵をまねて描いてみせただけで、教室
全体が異様な興奮状態になってしまったこともある。

 こうした同調作用は、まさに両刃の剣。うまく使えば、子どもを望ましい方向に導くこ
とができる。そうでなければ、そうでない。

 そこで大切なのは、そのバランスということになる。同調作用が強過ぎてもいけないし、
しかしまったくないというのも、困る。

 そこで一つのポイントは、服従性。服従的な同調性が見られたら、家庭教育のあり方を、
かなり深刻に反省する。

 一般論から言えば、自我の発達の遅れた子どもほど、自尊心が弱く、自己主張も弱い。
親の過干渉で、内閉したり、萎縮した子どももそうである。このタイプの子どもは、いわ
ゆる人の顔色を見て行動するようになる。さらにひどくなると、だれかの指示や命令がな
いと、行動しなくなる。

 が、そうでなければ、同調作用は同調作用として、適当に理解する。「みんなとうまくや
ろうね」程度のアドバイスは、悪くない。大切なことは、譲るべきところは、譲る。しか
し重要なことについては、その信念を貫くということ。

 そういうメリハリのきいた子どもにすることである。
 
【追記】

 その同調作用について、S県のSY子さん(母親)から、今朝(5・28)、こんな相談
のメールをもらった。

 「息子(5歳児)のことだが、私は私という子育てをしている。しかし隣人の女の子の
家に行くと、目移りがするほど、おもちゃがいっぱいある。

 そういうのを見て、うちの息子も、ほしいと言う。このままでは、仲間はずれにされて
しまうかもしれない。どの程度まで。親は許すべきか」と。

 こうした相談は、少なくない。「テレビゲームには、反対。しかしそのため、うちの子は、
友だちから、のけ者にされている」「うちの子どもだけ、テレビゲームをもっていない。そ
のため、いつも友だちの家に、入りびたりになっている」と。

 親として、どこまでほかの子どもたちに同調(迎合?)させたらよいかという問題であ
る。

 しかしここで注意しなければならないことは、(同調)と、(迎合)は、もともと異質の
ものであるということ。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 私はもともとかなりいいかげんな人間だから、適当にその場をごまかしながら生きるの
が、うまい。しかしだからとって、信念(あまりそういうものは、ないかもしれないが…
…)をまげてまで、相手に合わせるようなことはしない。

 この(適当につきあう部分)が、同調ということになる。しかし(自分の信念までまげ
てつきあう部分)が、迎合ということになる。

 子どもをみるばあいも、それが同調なのか、迎合なのかを見極める必要がある。

 みなが祭に行くから行く……というのは、同調である。しかしみなが、酒を飲むから、
飲むというのは、迎合である。「飲んではいけない」と思ったら、そこで自分にブレーキを
かける。

 このブレーキをかける部分が、自己規範ということになる。この自己規範を育てるのが、
家庭教育ということになる。

 そこでテレビゲーム。

 以前、子どもにテレビゲームを与えるべきかどうかで、真剣に悩んでいた祖母がいた。
さらにどんなゲームソフトを与えるべきかでも、悩んでいた。「今のままでは、うちの孫は、
のけ者になってしまう」と。その祖母は、おかしいほど、真剣に心配していた。

 しかしこうした問題は、適当に考えればよい。「これが家庭教育」と、構えるような問題
ではない。その時期がきて、予算に余裕があれば、買ってあげればよい。ムダと思うなら、
買わなければよい。

 買ってあげたから、子どもの心がゆがむとかそういうことはない。買わなかったから、
のけ者にされて、心がゆがむとか、そういうこともない。絶対にない。

 大切なことは、その子どもが、(してはいけないことをしないかどうか)(すべきことは
するかどうか)である。

 えてして、多くの親たちは、表面的な、どうでもよい問題に振りまわされる。そして本
来考えるべき、重要な問題を見落としてしまう。この子どももがもつ同調作用にも、似た
ような問題が含まれる。

【追記2】

 日本人がもつ同調作用というのは、一種独特のものがある。「みんなと渡れば、こわくな
い」とか、「長いものには、巻かれろ」とか言う。「出るクギは、たたかれる」というのも
ある。

 こうした同調作用は、若い母親には、とくに強い。子育てにまつわる不安や心配が、そ
れに拍車をかける。

 どうして、そうなのか?

 基本的には、それだけ自分がないということになる。ないから、周囲に振りまわされる。

 が、若い母親を責めても意味はない。ほとんどの親は、その準備もないまま、結婚し、
親になる。あたふたとしているうちに、数年が過ぎ、子どもも、数歳になる。自分がない
からといって、それは仕方のないことかもしれない。

 実際、この日本では、「私は私」という生きザマを貫くのは、むずかしい。自由があるよ
うで、ない。その自由は、まさに(しくまれた自由)(尾崎豊)でしかない。

 「コースに乗っていれば安心」「コースからはずれたら、心配」と、だれしも考える。S
県のSY子さんの悩みも、そのあたりから生まれている。

 では、どうするか?

 子育てをしながら、大切なことは、自分自身の生きザマを確立すること。「自分はどうあ
るべきなのか」「どう生きたらよいのか」、それを模索すること。

 「テレビゲームを買ってあげるべきかどうか」と悩むことは、一見、子どもの問題に見
えるかもしれないが、実は、それはその親自身の生きザマの問題でもある。

 「テレビゲームは、子どもの脳に悪影響を与える」という情報を手に入れたら、買わな
いこと。心を鬼にして、買わないこと。しかし「のけ者にされそうだ」と感じたら、買っ
てやること。しかしそのときでも、テレビゲームをさせる時間と場所を、子どもとよく話
しあうこと。……などなど。

 こうして親は、試行錯誤を繰りかえしながら、自分の生きザマを確立していく。つまり
こういう親の生きザマが、子どもの中に、「私は私」という自己意識を育てる。そしてそれ
が同調はしても、迎合はしないという子どもを育てる。

 テレビゲームを買ってあげればよいかどうかというような、単純な問題では、決してな
い。

 これから先、子どもは、(どんな子どもでも)、無数の問題をかかえるようになる。問題
のない子どもなど、絶対にいない。問題のない子育てなど、絶対にない。

 問題があることが、問題ではない。大切なことは、問題があるという前提で、子育てを
すること。立ち向かうこと。そういう姿勢が、あなたを育て、同時に、あなたの子どもを
育てる。

【追記3】

 ここまで書いて、先ほど、ワイフとこんなことを話しあった。

 近所に、定年退職をした老夫婦が住んでいる。近所づきあいは、まったくといってよい
ほど、ない。訪問客も、年に数人あるかないかということだそうだ(隣人談)。

 その夫婦について、ワイフが、「あの人たちは、何のために生きているのかねエ?」と。

 実は、ここではその老夫婦のことを論ずるのが目的ではない。私やあなたの生活にして
も、その老夫婦とそれほど、ちがわないということ。基本的には、同じ。

 ただ生きる目的はある。子育て真っ最中のあなたなら、子育てをすることが、その目的
ということになる。私は、ワイフにこう言った。

 「ぼくだって、家族がいると思うから、がんばる。もし家族がいなかったら、今ごろは、
ホームレスになっているか、寝こんでいるかの、どちらかだ。

昨日も、歩くだけもでも、つらかった。体が重かった。しかし『ここで負けてはダメだ』 
と歯をくしばって、自転車に乗った。運動に出かけた。家族がいるということは、そう
いうことだ。

 ただし、では家族がいて、子育てをすることが、生きる意義かというと、ぼくは、そう
は思わない。目的と、意義は、ちがう。別のもの。

 あの老夫婦には、生きる目的は、もうない。問題は、生きる意義だが、それも、ないよ
うに思う。ただ生きているだけというか、死に向って、まっしぐらに進んでいるだけ。そ
ういう人生からは、何も生まれない。

 同じように、ぼくたちも気をつけないと、あの老夫婦と同じことをしてしまう。目的と
意義を混同してはいけない」と。

 ……といっても、生きる意義を見出すことは、簡単なことではない。「私たちは何のため
に生きているか?」という問題である。

 もちろん子育てをすることが、生きる意義ではない。子育てをすることは、目的にはな
るが、しかし意義ではない。また意義にしては、いけない。それはあなた自身のこととし
て考えてみれば、わかるはず。

 あなたの親が、あなたに向って、こう言ったとしたら、あなたはそれに耐えられるだろ
うか。

 「私は、あなたを育てるために、自分の人生のすべてを賭(か)けました。私の生きる
意義は、あなたを育てることでした」と。

 多分そのとき、あなたは、きっとこう答えるにちがいない。「私のことはいいから、お父
さん、お母さん、どうか、あなたの人生を生きてください」と。

 親は子そだてをしながら、その一方で、自分の生きる意義を模索する。それも子育てに
隠された目的の一つかもしれない。
(040528)


(4)今を考える  **************************

【近況・あれこれ】

●布教活動

 今日も、やってきた。二人でやってきた。どこかの教団の信者たちである。

 最初、「久しぶりです、林さん」と、その男は言った。どこかで見たような記憶はあるが、
名前は思い出せない。ボケたと思われるのがいやだから、こちらも調子を合わせて、「はあ、
お久しぶりです」と、言いかえした。が、それがまずかった。

 突然、相手は、20年来の友人のような口調になった。

 「いえね、このあたりを回っていたら、林さんの表札が見えたものですから」
 「はあ……」と。

 横に立っていた女は、経典らしき本が入った布製のバッグを、私のほうに見えるように
かかげている。何かのおまじないを、私にかけているみたいだった。

 そのときカルト教団と、わかった。

 ……という話は別にして、私は内心で、つまり彼らの話を聞きながら、「ヒマだなあ……」
とか、「こちらは忙しいのに……」とか、思ったりした。

 自分が信じたければ信ずればよい。しかし他人に、とやかく言うのは、どうか。私の世
界では、そういうのを、いらぬ節介という。私は私で、懸命に生きている。未熟で未完成
かもしれないが、私は私だ。

 どうやって帰ってもらうか、そのきっかけをつかみかねていると、ワイフが、助け舟を
出してくれた。うしろから、「もうそろそろ時間よ」と。

 「あのう、すみませんが、これから仕事に行かねばなりませんから……」と。

 時間は多少、余裕があったが、あれこれ準備をしなければならなかった。すると女のほ
うが、こう言った。「今夜、また来ていいですか」と。

「今夜ですか?」
「1時間ほど、時間をいただければうれしいです」
「しかし私のほうは、興味ありませんから……」と。

 いろいろな教団の信者となり、こうした布教活動をしている人も多いことと思う。「自分
たちの正義や善を、世界に広めたい」という思いはわからないわけでもない。私も、同じ
ように、思っている。

 しかし最後の選択権は、その人自身に任すべきである。他人の家までおしかけていって、
布教活動をしてはいけない。それは失礼というもの。「私たちは正しい」と言うのは、その
人の勝手。

 しかしそう言うということは、「あなたはまちがっている」と言うに等しい。そういう失
敬さが、そういう人たちにはわかっていない。

 それにしても、最近、この種の勧誘が多くなった。それだけ世相が不安定になってきた
ということか。

 私の家も、そろそろこんな張り紙をしようかと考えている。

 『人、来たりて、うれしからずや。されど、神様、仏様は、お断り!』と。


●山荘にて……(5月29日)

 昼ごろになって、山々の景色に、どこか青味がかかってきた。輪郭のはっきりしない白
い雲が、その上をおおっている。

 それに先ほどまで、ホトトギスが、鳴いていたが、今は、もう鳴いていない。まるでス
ピーカーから流しているかのように、「トーキョートッキョ、キョカキョク」と、澄んだ声
で鳴いていた。

 それにかわって、今はウグイスの声。時刻は午前11時30分。さわやかな風の音。い
や、どこか湿り気を帯びてきた。午後からは雨だというが、このところ気象庁の天気予報
は、はずれっぱなし。

 30年来つきあった友人のI氏が、今度、出版社を定年退職した。私と同年齢だとばか
り思っていたが、私より4歳も年上だった。昨日から電話をしなければと思いつつ、忘れ
てしまった。

 一度、I氏と奥さんを、この山荘に呼んでやりたい。いろいろ世話になった人は多いが、
I氏は、本当に私のことを考えてくれていた。そのありがたさが、I氏が退職してみると、
よくわかる。胸にしみる。

 ……たった今、ワイフが、散歩からもどってきた。先ほどまで、「おなかがすいた」と言
っていたが、横を見ると、弁当は手つかずのまま。「何だ、食べなかったのか?」と声をか
けると、「どうかなってしまった」と。

 と、言いつつ、弁当のフタをあけ始めた。「お前が食べ出したら、すこし分けてもらおう
と考えていた」と言うと、「だって、あなたはパンを食べたでしょう」と。

 のどかな昼下がり。少し蒸し暑くなってきた。天気が崩れないうちに、除草剤をまかね
ばならない。では、山荘からのレポートは、ここまで。
(040529)


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.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 6月 30日(No.429)
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http://bwhayashi.cool.ne.jp/page053.html

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(1)子育てポイント**************************

●人間選別の手段?(皆が一〇〇点でも困る)(役に立つのが勉強)

 「浩司が英語を読めるぞ」と、私の祖父は心底喜んでみせてくれた。私がはじめて「バ
イシクル(自転車)」という英語の文字を読んでみせたときのことである。しかし、今、こ
ういう感動が、ない。

喜んでみせる前に、「点は何点だった?」と聞く。そして点が悪いと、「何だ、この点は!」
と子どもを叱る。親自身が、勉強は子どもが、子ども自身のためにするということを認
めていない。もっと言えば、勉強が、人間選別の手段になってしまっている。諸悪の根
源は、すべてここにある。

 皆が一〇〇点だと困る。差がわからないから。しかし皆が〇点だと、もっと困る。差が
わからないから。これが日本の教育の柱になっている。そうでないというのなら、なぜ中
学一年で一次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか。なぜ中学三年で二次方程式
を学ぶのか。また学ばねばならないのか。それをきちんと説明できる人はいるだろうか。

私など文科系の大学を出たこともあり、社会人になってからこのかた、二次方程式はお
ろか、一次方程式すら、日常生活で使ったことは、ただの一度もない。

こういう知識を、人間の成長に不可欠な知識と信じ込まされ、日夜苦しんでいる子ども
たちの姿を見ると、あわれにすらなる。

たとえばオーストラリアでは、中学一年レベルで、二桁かける二桁のかけ算を学習して
いる。日本ではそれを小学三年生のときに学ぶ。こういう一部の比較をもとに、「日本の
教育は進んでいる」と言う人がいる。しかしそれは正しくない。オーストラリアでは、
科目数そのものが多い。

中学一年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、インドネシア語、中国語
それに日本語の中から一科目を選択できる。美術にしても、音楽、絵画、演劇、写真な
どが、それぞれ独立した科目になっている。

キャンプも必須科目だ。環境保護や宗教の科目もある。南オーストラリア州では、もう
一〇年以上も前から、しかも小学三年生から、コンピュータの授業をしている。オース
トラリアで教授をしている友人はこう言った。

「子どもたちが学校を卒業したとき、多様な社会に適応できるようにするのが教育」と。
わかりやすく言えば、子どもたちにとって、将来、役にたつ知識を教えるのが教育だ、
と。

しかし日本にはそういう視点がない。教育者自身にもない。高校二年で、微分と三角関
数を学ぶ。高校三年で、その三角関数の微分まで学ぶ。一体こんな知識が、何の役にた
つというのか。教えている私のほうが、バカバカしくなる。しかも大学の入試問題とき
たら、それをさらに二つも三つもひねったような問題ばかり。仮に平均点があがれば、
問題はもっと難しくなるだけ。さがれば簡単になるだけ。

 日本は江戸時代の身分制度の亡霊を、いまだに引きずっている。仕事によい仕事もない。
悪い仕事もない。上下もない。あるはずがない。人間にも、そして学校にも、あるはずが
ない

にもかかわらず、日本人はそれを意識している。そしてそれを基準に、人間を選別して
いる。勉強は、まさにその選別の手段というわけである。が、しかしもう、こんな愚か
なことはやめよう。あなたや私は、今の受験制度の中で苦しんだ。それでもう十分。ど
うしてこんな制度を、次の世代に残さなければならないのか。

(2)今日の特集  **************************

●勉強をしない子ども

【K市在住の、TUさんよりの相談】

突然のメールでご迷惑をおかけします。

1年前ほど、息子の通う学校で、先生の講演を聴く機会がありました。相談に乗って頂け
ないかと思い、思い切ってメールしました。

息子は今小学2年生です。その息子の勉強の勧め方と、日々の関わり方で、少し困ってい
ます。

最近になり、宿題が増えてきました。内容も量も、1年生のときより増えてきました。ど
うも、宿題をごまかして適当にやろうとしているようです。

そのことで、先日ひどく叱ってしまいました。叱り方が感情的になってしまい、息子もか
なりショックだったようで、勉強のことになると辛くなるようです。「そんな、言いかたを
しないで!」と言います。

息子も人の話を聞けない子で、授業中でも、勝手に騒いでしまうことがあるようです。そ
のこともあり、ついきつく注意することが多いです。

このままいくと、勉強についていけなくなるのではと不安です。勉強も私が見るより、塾
へ行かせたほうがいいのではと思ってしまいます。

このままでは親子関係にも亀裂が入ってしまうのではないかと不安です。あと、人の話が
聞けない子への効果的な関わり方でアドバイスがあったら頂けないでしょうか?

+++++++++++++++++++++++

 多くの母親たちが、同じような問題をかかえ、悩んでいる。そういう意味では、典型的
な悩みの一つ(失礼!)ということになる。

 順に整理してみよう。

(1)家では、あまり勉強しない。
(2)適当にごまかすようになった。
(3)叱り方が過激になってきた。
(4)授業中の態度が、よくない。
(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。
(6)塾へ入れるのは、どうか?
(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 
●家では、あまり勉強しない。

 子どもが受験期になると、親は、言いようのない不安にかられる。

 もともと子育てというのは、そういうもの。親は、無意識なまま、自分が受けた子育て
を、そのまま繰りかえす。

 将来への不安、選別されるという恐怖。自分自身が子どものころ感じた(心)を、自分
の子どもを通して、再現する。TUさんも、子どものころ、そういう不安や恐怖を感じた。
……というよりも、そういう不安や恐怖を、TUさんの親たちから、植えつけられた。

 それが今、TUさんの心の中で、再現されつつある。そしてそれが「うちの子は、あま
り勉強しない。どうしたいいのか」という心配になって、現れてくる。

 そこでTUさんも、「なぜ、自分が、そういう不安にかられるのか?」と、自分自身に、
問いかけてみるとよい。

 理由はいくつかある。

 その第一は、日本全体がもつ、学歴社会。さらには、江戸時代からつづく、身分意識。
さらには日本人独特の、集団意識。それらが混然一体となって、「コースからはずれると、
こわい」という恐怖感をつくりあげる。

TUさんが今、感じている不安感の原点は、そこにある。

 もっともそれに自分で気づくのは、簡単なことではない。TUさんにかぎらず、こうい
った意識というのは、心の奥深いところに巣をつくっている。そのため、なかなか、姿を
現さない。姿をつかめない。

 さらに、「学校での勉強は絶対」という、学校神話もある。

 しかしならば、自分にもう一度、問いかけてみることだ。

 「どうして中学1年で、一次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」「どうして中学
2年で、二次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」と。

 あなたはこうした素朴な質問に、答えることができるだろうか。あるいはあなたの子ど
もが、あなたにそう聞いたとしたら、あなたは、何と答えるだろうか。

 アメリカでは、公立の小学校でも、学校の先生と親たちが、相談して、勝手にカリキュ
ラムまで決めている、そういう(自由)を見せつけられると、「では、日本の教育は何か?」
となる。「私たちは、どうしてこうまで学校の勉強にこだわらなければならないのか?」と
なる。

(入学する学年まで、アメリカでは、学校ごとに、自由に決めているぞ! 「うちの小
学校では、満4歳から入学させる」と、PTAが決めれば、それでもOK! アーカン
ソー州ほか。)

 TUさんは、その前提として、「学校での勉強はできなければならないもの」と思いこん
でいる。私は、それを「学校神話」と呼んでいる。

 TUさんは、(家で勉強しない)→(遅れてしまう)→(受験競争に負けてしまう)と、
心配している。TUさんの気持ちを、こう決めてかかるのは、失礼なことかもしれないが、
おおかた、まちがっていないと思う。

 そこで登場するのが、学歴社会。

 この日本では、学歴のある人は、その恩恵を、たっぷりと受けることができる。とくに、
公的な資格に保護された特権階級、官僚、公務員の世界に、それをみることができる。こ
こ10年で、エリート意識が急速に崩壊しつつあるとはいえ、なくなったわけではない。
残っている。

 そういった不公平を、親たちは、日常的に、いやというほど、見せつけられている。

 本来なら、そういった不公平があれば、それと戦わねばならないのだが、そこは、日本
人。私たちには、独特の、隷属意識がある。「おかしいから、なおそう」と思う前に、「あ
わよくば、自分も……」「せめて自分の子どもも……」と考える。

 だから日本の社会は、少しもよくならない。いつまでも繰りかえし、繰りかえし、つづ
く。

 そこで、TUさんは、「あまり勉強しない」と悩んでいる。

 しかし、本当にそうだろうか? もし仮にTUさんの息子が、学校から帰ってきて、毎
日、1時間、勉強したら、TUさんは、それで満足するだろうか。今度は、TUさんは、「せ
めて2時間……」と思うようになるかもしれない。親の欲望には、際限がない。こんな例
もある。

 先日も、「やっとうちの子が学校へ行くようになりました。しかし午前中で帰ってきてし
まいます。何とか、給食までみなと、いっしょに食べさせたいのですが、どうしたらいい
か」と相談してきた、親がいた。

 私は、それについて、こう返事を書いた。

 「午前中、2時間だけで帰ってきなさい。『3時間目。4時間目はしなくても、いいのよ』
と言ってあげなさい。そのとき、ついでに、『よくがんばったわね』と言ってあげなさい。

もしあなたの子どもが給食まで食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずで
す。『何とか、午後の勉強も受けさせたい。どうしたらいいか』と。しかしそれこそ、親
の身勝手というものです。いつまでたっても、あなたの子どもの心は休まることはない
でしょう」と。

 学校という強制キャンプで、5〜6時間もしぼられてきた子どもが、その上で、さらに
家での宿題である。それがいかに重労働であるか、それがあなたにわからないはずがない。
一度、そういう視点で、TUさん自身のこことして考えてみるとよい。つまり「私なら、
それができるか?」と。さらには、「私は、子どものころ、どうだったか?」と。

 もしそうなら、つまりTUさんが、子どものころ、勉強好きで、学校の宿題をきちんと
し、親の言いつけをハイハイと守っていたとしたら、TUさんは、今ごろは、すばらしい
学歴をもち、特権的な階級で、気楽な生活をしているはず(失礼!)。それならば、何も、
問題は、ないはず。あなたの子どもも、そうなる。

 かなり、きついことを書いたようだが、この問題はいつも、「自分ならできるか?」「自
分が子どものときは、どうだったか?」という視点で、考えてみるとよい。


●適当にごまかすようになった。

 小学校の低学年の子どもで、一日、30分前後、家で、勉強すれば、すばらしいこと。
15分でもよい。大学受験生がするような、受験勉強的な勉強を、小学2年生の子どもに
期待しても、無理。ヤボ。不可能。

 さらに子どもは、9〜10歳前後から、親離れを始める。この時期、幼児がえりを起こ
したり、反対に、おとなのまねをして見せたりしながら、子どもは、おとなになる準備を
始める。子どもあつかいをすると怒るくせに、ときどき母親のおっぱいに触れたがったり
する。これを私は、「揺りもどし現象」と、勝手に呼んでいる。

 女の子では、父親との入浴をいやがったり、裸を見られたりするのを、いやがるように
なる。男の子も、性意識に、このころ急速に芽生えようになる。

 同時に、子どもどうしの世界が、大きくふくらんでくる。それまでは、家庭を中心とし
た世界が、子どもの世界だったのが、学校を中心とした第二世界。さらに、友だちを中心
とした、第三世界へと進む。(ゲームの世界もあり、私はこれを「第四世界」と呼んでいる。)

 当然、親子の関係も、その分だけ希薄になる。

 が、親が、子離れをするようになるのは、子どもが、中学生から、高校生にかけてのこ
と。この時期、親は、「どうしたら子離れできるのか」と悩む一方で、子離れできない自分
にいらだつことも多い。TUさんの悩みも、そのあたりにある。

 子どもが適当にごまかしたら、親も、適当にだまされたフリをして、自分の心をごまか
す。

 いいかげんであることが悪いというのではない。子どもは、(おとなもそうだが)、この
いいかげな部分で、羽をのばす。羽を休める。

 まずいのは、ギスギス。『親の神経質、百害のもと』と覚えておくとよい。過関心、過干
渉も、それに含まれる。


●叱り方が過激になってきた。

 それだけ親のほうの心が、緊張状態に、置かれているということ。

 よく誤解されるが、情緒不安定な状態を、情緒不安定というのではない。心が緊張状態
にある。あるいは心から緊張状態がとれないことを、情緒不安という。

 この緊張状態の中に、不安や、心配ごとが入ると、それを解消しようと、心は一挙に不
安定になる。感情が不安定になるのは、あくまでも、その結果でしかない。

 だから第一に考えるべきことは、どうすれば、その緊張状態から、自分を解放するかと
言うこと。

 いろいろ方法はある。(1)逃避型(その問題から逃げる)、(2)受容型(あきらめる)、
(3)戦闘型(その問題と戦う)、(4)防衛型(それに対抗するための思想を高める)、な
ど。

 それぞれの方法を、バランスよく、自分の心の中で調合しながら、心の緊張感を取りの
ぞく。

 逃避するのが、悪いわけではない。たまには、子育てを忘れる。忘れて、好き勝手なこ
とをする。子どもというのは不思議なもので、親がカリカリしたからといって、伸びるも
のではない。反対に、何もしなくても、伸びる。

 つぎに「うちの子は、こんなものだ」とあきらめる。あなたがごくふつうの女性である
ように(失礼!)、あなたの子どもも、またふつうの子ども(失礼!)。

 ふつうであることが悪いわけではない。この(ふつうの価値)は、それをなくしたとき、
はじめてわかる。賢明な親は、それをなくす前に気づく。愚かな親は、それをなくしてか
ら気づく。

 つぎに大切なことは、自分の心や思想を、理論武装すること。視野を高め、教養を広く
する。夜のバラエティ番組を、夫といっしょにゲラゲラと笑って見ているような家庭では、
困る(失礼!)。

 当然のことながら、自分の心の奥で巣をつくっている、旧来型の学歴信仰、学校神話な
どとも、戦う。しかしこのばあいは、それに対抗しうるだけの、理論武装をしなければな
らない。

 コマーシャルになって恐縮だが、そのためにも、どうか、どうか、はやし浩司のマガジ
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●授業中の態度が、よくない。

 いろいろなケースが疑われる。心配なケースとしては、ADHD(集中力欠如型多動性)
の問題もある。

 しかし今、(イメージが乱舞する子ども)が、ふえているのも事実。乳幼児期に、テレビ
を見すぎた子どもほど、そうなるという研究結果もある。10年ほど前から、右脳教育と
いう言葉が、さかんに使われるようになったが、乳幼児への不自然な右脳教育は、できる
だけ慎重であったほうがよい。テレビは、その右脳ばかりを刺激する。

 ほかに、環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障害説、食生活のア
ンバランスによる脳間伝達物質の過剰分泌説なども、とりあげられている(シシリー宣言
※)。

 といっても、小学校に入学してから、それに気づいても遅い。

 この時期に大切なことは、(今の症状をよりこじらせない)ことだけを考えて対処する。
そしてその一方で、子ども自身がもつ、自己意識を、うまく育て、それを利用する。わか
りやすく言うと、自分で考えて、行動させるようにする。

 たとえばADHDにしても、小学3、4年を境にして、見た目には、急速にその症状が
落ちついてくる。子ども自身が、自分をコントロールするようになるからである。

 もし学校での騒々しさが目立ったら、こんこんと、繰りかえし、言って聞かせるのがよ
い。あとは、しばらく時間を待つ。

●勉強についていけなくなるのではと、心配。

 この不安は、だれにでもある。が、これは日本人独特の意識といってもよい。つまり、
その「根」は、深い。

 日本人は、集団からはずれるということを、極端にこわがる。恐れる。それはたとえて
言うなら、動物社会における、(群れ意識)に似ている。「みんなと同じことをしていれば
安心」というのが、それ。

 が、この(群れ意識)には、二面性がある。

 一つは、(群れからはずれたら、不安)という意識。もうひとつは、(群れからはずれる
ものを、許さない)という意識。この二つが、相互から相、重なって、日本人独特の群れ
意識をつくる。

 言いかえると、自分自身の中の群れ意識と戦うためには、(自分の確立)と同時に、(他
人の確立を許す)という意識を、自分の中に育てなければならない。

 恐らく、こうした群れ意識というのは、その中に、どっぷりとつかっている人には、わ
からない。こうした群れ意識というのは、一度、自分自身が、その群れから離れてみてわ
かる。あるいは、群れの中にいる人たちに、排斥されてみてわかる。

 少し話がおおげさになってきたが、日本人独特の、(遅れる意識)というのは、そういう
群れ意識の中から生まれている。

 そういう群れ意識を理解して上で、もう一度、あなた自身に問いかけてみてほしい。

 「学校に遅れる」「勉強に遅れる」というのは、どういう意味なのか、と。

 どうして日本人は、遅れることを、こうまでこわがるのか? どうして、遅れたら、そ
れがいけないのか? どうして、遅れてもよいと、居なおることができないのか?

 あわてて大学を出て、あわてて会社に入社して、その結果、あわてて人生を送って、そ
れでよいのだろうか?

 今までの日本人は、国策として、そういう日本人に育てられてきた。戦前の「国のため」
意識が、「社会のため」意識にすりかえられた。「社会で役だつ人」「立派な社会人」意識に
なった。その結果、いわゆる会社人間、企業人間が生まれた。私の同世代の中には、会社
の発展のために、命をかけて仕事をしてきた人は、いくらでもいる。

 それが悪いというのではない。今の日本の繁栄は、こうした人たちの努力と犠牲(失礼!)
の上に成りたっている。

 しかし、今、同時に、それではいけないという考え方も、浮かびあがってきている。T
Uさんは、恐らく、そのハザマで、もがき苦しんでいる。

●塾へ入れるのは、どうか?

 私も基本的には、その塾を経営している。塾というよりは、小さな教室である。

 で、こういう質問をもらうと、私は、どこまで自分を殺さなければならないかという問
題にぶつかる。迷う。それにつらい。そういう意味では、TUさんの質問は、少なくとも、
私には、「?」である。私は何と答えたらよいのか。

 まさか「うちの教室へおいでなさい」とも書けないし、「塾へは行かないほうがいい」と
も、書けない。

同じように、以前、電話で、こう言ってきた母親がいた。「うちの子を、K式算数教室か、
あなたの教室に入れようかと迷っていますが、どちらがいいですか」と。

 で、私はこう言ってやった。「うちは、10問出しますが、K式のほうは、9問(ク・モ
ン)しか出しませんから……」と。いつか仲間のI先生が、教えてくれた言い方である。

 それに日本人は、学校だけが、勉強の場だと思っている。しかしこれほど、島国的な発
想もない。

ドイツでも、イタリアでも、そしてカナダでも、課外授業のほうが主流になってきてい
る。アメリカでは、日本の塾のように、学校設立そのものが自由化されている。もちろ
んアメリカにも塾はある。「ラーニング・センター」と、ふつう、そう呼ばれている。さ
らにEU諸国(ヨーロッパ)では、大学の単位は、全土で、ほぼ、共通化された。

 どこの国のどこの大学で勉強しても、同じという状態になった。

 こういう事実を、いったい、どれだけの日本人が知っているのか? 文部科学省が発表
する、大本営発表だけを鵜呑みにしてはいけない。官僚たちは、権限と管轄にしがみつき、
自分たちに都合の悪い情報を、決して公開しない。

 が、ひょっとしたら、TUさんは、私を、それ以上の人間とみて、こういう質問をして
きたのかもしれない。一人の塾教師としてではなく、それを超えた人間として……?

 そうだとよいが、そういうことは、あまり期待していない。

 だから、この質問には、あえて答えない。いつか、別のところで、一つのテーマとして、
考えてみたい。

●親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 親子関係でも、こわれるときには、こわれる。しかもそれをこわすのは、子ども。しか
もその子どもは、親の生きザマを見て、こわす。

 だから親は親で、き然として生きる。それしかない。「あんたなんかに嫌われても、かま
わない」「あんたは、あんたで、勝手に生きなさい」と。

 親の側が、「こわれるのでは?」と心配すればするほど、立場が逆転する。親のほうが、
子どもの機嫌をとったり、子どもにコビを売ったりするようになる。

 しかしそれこそ、本末転倒。それについては、参考になる原稿を、このあとに添付して
おく。

 要するに、親は親。子どもは子ども。どこか溺愛タイプの母親ほど、子どもに嫌われる
のを、こわがる。しかし親に嫌われて困るのは、子ども。それを忘れてはいけない。

 つまりこの問題も、日本人独特の子育て観と深くからんでいる。

 日本人は、自分の子どもを、一人の人間としてではなく、いわばペットとして育てる(失
礼!)。そしてベタベタの依存関係をつくりながら、それを親子の太い絆(パイプ)と誤解
する。たがいに犠牲になることを、美徳と考える。

 しかし親子というのは、皮肉なもの。親というのは、子どもに嫌われないようにすれば
するほど、嫌われる。嫌われても構わないという生き方をすればするほど、かえって尊敬
される。子どもは、長い時間をかけて、親の心の裏側まで、見抜いていまう。

 それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたが尊敬できる親というのは、あなたの歓心を買い、ベタベタと機嫌をとってくる
親だろうか。それとも、「私は私」と、き然とした生き方をしている親だろうか。

 つまり親も、いつか、対等の人間として、その生きザマを、子どもに問われるときがや
ってくる。必ず、やってくる。そのとき、それに耐えられるような親になっているか、ど
うか。そういう立場になったときの視点で、ものを考えてみればよい。

 親子の関係など、気にしないこと。あるいは「こわれるもの」「こわれて当然」と考える
こと。10年後、20年後のことはわからないが、そのとき、親子の関係がこわれていな
かったら、もうけもの。そう考えて、居なおる。

 もう、子どもは小学2年生なのだから、あなたはあなたの人生を、前向きに生きればよ
い。母ではなく、妻ではなく、女ではなく、一人の人間として……。母親は、子どもを妊
娠し、出産する。そういう意味では、母親は、子どもに対しては、犠牲的な存在かもしれ
ない。しかし、母親も、一人の人間として、自分の人生まで、犠牲にしてはいけない。

●ではどうするか?

 否定的なことばかり書いていてもしかたないので、「では、どうしたらいいか」というこ
とについて考えてみる。

(1)家では、あまり勉強しない。

 この時期は、まだ「勉強は楽しい」という意識を育てる。無理、強制、条件(〜〜した
ら、小遣いをあげる)、比較(A君は、何点だったのと聞く)は、禁物。

 これから先、子どもは、過酷なまでの受験競争を経験する。そういうとき最後のキメテ
となるのが、忍耐力。

 まだこの時期は、その忍耐力を養うことを考える。まにあう。

 なお子どもの忍耐力は、(いやなことをする力)をいう。テレビゲームやサッカーを、一
日中しているからといって、忍耐力のある子どもにはならない。子どもを忍耐力のある子
どもにするには、子どもを家事の中に巻きこみながら、使う。『子どもは使えば、使うほど、
いい子』と覚えておくとよい。

 そういう力、つまり(いやなことをする力)があってはじめて、将来、あの苦しい受験
勉強を通り抜けることができるようになる。

(2)適当にごまかすようになった。

 親は、子どもを最後の最後まで、信ずる。それが親。だまされたとわかっていても、と
ぼける。そしてあとは許して、忘れる。

 仮にあなたの子どもが、あなたのサイフからお金を盗んで使っていたとしても、一応は
叱りながらも、子どもを信ずる。「だれだって、それくらいのことはする」「うちの子だっ
て、そういう経験をしながら、おとになる」と。

 そして仮にそのお金で、あなたの誕生日プレゼントを買ってきたとしても、一応、あな
たは喜んだフリをする。

 もしお金を盗まれるのがいやだったら、管理をしっかりとすればよい。そういう方法で、
対処する。

 それともTUさん、あなた自身は、どうか? あなたは何もごまかしていないか? 交
通ルールだって、しっかりと守っているか。交差点で、黄信号になったら、しっかりと車
を止めているか。ショッピングセンターでは、いつも、駐車場に車を止めているか。

 さらに友だちとの約束は、しっかりと守っているか。人に誠実か。借りたお金を、いつ
もきちんと返しているか。

 もしそうなら、それでよし。あなたの子どもの心がゆがむことは、絶対にない。が、そ
うでないなら、つまりあなた自身が、どこか小ズルイ人であるなら、それはあなたの子ど
もの問題ではない。あなた自身の問題である。

 あなたはひょっとしたら、自分のいやな面を見せつけられるようで、子どもが、ズルイ
ことをするのが許せないのとちがうだろうか(失礼!)。人間というのは、自分がもついや
な面をだれかに見せつけられると、カッとなりやすい。もしそうなら、やはり、これはあ
なた自身の問題ということになる。

(3)叱り方が過激になってきた。

 育児ノイローゼの初期症状も疑ってみる。心の緊張感をとるように、努力する。

 こうした緊張感は、あなた自身にとっても、また子どもにとっても、よくない。しかし
こうした問題は、何とかしようともがけばもがくほど、アリがアリ地獄に落ちるように、
かえって深みにはまってしまう。

 では、どうするか。

 あなたも、一人の人間として、自分の進むべき道を模索する。そうでなくても、これか
ら先、子どもの問題は、つぎからつぎへと起きてくる。だから子育てとは別に、つまり子
育てを離れた世界で、自分の生きザマを確立する。

 そのときコツがある。できるだけ、自分の中の「利他」の割合を大きくする。そしてそ
の一方で、「利己」の割合を、小さくする。「利己」が大きければ大きいほど、かえって袋
小路に入ってしまう。つまり何かの方法で、他人のために働くようにする。具体的には、
ボランティア活動がある。

 ボランティア活動をすすんでする人たちの、あの内からわきでるような神々しさ、あな
たも感じてみるとよい。それがその人の、人間的な大きさということになる。

 また、子どもの耳は、長い。(英語で『子どもの耳は長い』というときは、別の意味で使
うが……。)叱っても、その音が脳に届くまでには、時間がかかる。言うべきことは言いな
がらも、あとは、子どもの判断に任せる。

(4)授業中の態度が、よくない。

 子ども自身は、「よくない」とか、「悪い」とか、思っていない。もう少し年齢が大きく
なるのを待つ。もう少しすると、先に書いた自己意識が育ってくるので、それをうまく利
用する。

 あとは、学校の先生には、低姿勢でのぞむこと。「うちの子が、みなさんに迷惑をかけし
ているようで、すみません」と。

(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。

 現実問題として、中学一年生で、掛け算の九九が、満足にできない子どもは、全体の1
〜20%はいるとみる。

 国立の大学に通う大学院生(文科系)でも、小学校で習う、分数の足し算、引き算がで
きない学生は、30〜40%(※2)もいる。

 悲しいかな、これが日本の教育の現実である。いいかえると、今は、そういう時代だと
いうこと。オールマイティな頭でっかちの子どもより、一芸に秀でた子どものほうが、生
きやすいということ、。またこれから先、そういう時代になるということ。

 定年退職したあとも、大卒の学歴をぶらさげて生きている人は多い。しかしこれからは、
もうそういう時代ではない。

 たまたまTUさんの子どもは、小学2年生ということだから、この年齢あたりが、その
分かれ道ということになる。

 アカデミックな学習態度を身につけて、いわゆる日本の学歴社会に順応していくか、あ
るいはそれに背を向けて、サブカルチャの道を進むか。

 もし勉強に遅れが目立ってきたら(こういう言い方は、本当に不愉快だが……)、「勉強
をさせる」のではなく、あなた自身が、自分で勉強するつもりで、子どもをその雰囲気の
中に巻きこんでいく。そういう姿勢が、子どもを勉強好きにする。

(6)塾へ入れるのは、どうか?

 私の教室(BW教室)を、すすめる。一度、検討されたし。

(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安

 そういう不安があるなら、もうすでにこわれ始めている。人間関係というのは、そうい
うもの。

 よく若い男が、女に、「お前を信じているからな」と言うことがある。しかしそう言うと
いうことは、すでに相手を疑っているということになる。

 本当に相手を信じていたら、そういう言葉は出てこない。同じように、「親子関係が、こ
われるかもしれない?」と不安になっているようなら、すでにこわれ始めているとみる。

 「母親の役目はここまで。あとは父親の役目」と、割り切ることはできないのか。いつ
までも母性世界だけで、子どもを育ててはいけない。とくに、相手は、男児。それともあ
なたは、自分の子どもを、マザコンタイプの冬彦さんにしたいのか?

 今、若い男性でも、そして結婚してからの夫でも、このタイプの男が多い。多すぎる。

 結婚してからも、何か自分のことでニュースがあったりすると、妻に話す前に、実家の
母親に電話したりする。当の本人は、そうすることが、親孝行の息子と誤解している。そ
してお決まりの、美化論。親を美化することによって、自分のマザコンぶりを、正当化し
ようとする。

 「私の母は、立派な人だ。だから私が、こうして尽くすのは、当たり前。子どもの義務」
と。

 なぜこれほどまでに、この日本で、マザコンタイプの男がふえてしまったか? その原
因の一つに、TUさんが今、感じているような不安がある。そしてその不安の根源は、日
本の文化そのものに深く根ざしている。

【TUさんへ】

 かなりきびしいことを書きました。自分でも、わかっています。

 しかしこの問題は、TUさんだけの問題ではありません。広く、ほとんどの母親たちが、
共通して悩んでいる問題です。

 私の返事は、本文の中に書いておきました。しかしこれだけは忘れないでください。

 今、あなたの子どもは、あなたに考えるテーマを投げかけているのです。子育ての問題。
教育の問題。日本の社会や文化の問題など。

そこで大切なことは、こうしたテーマについて、あなた自身が考え、自らの結論を出す
ということです。

 本文の中で、「あなた自身はどうだったか」と書きましたが、それはまさしく(あなた)
自身を知るきっかけとなるはずです。

 そういう視点、つまりあなたが子どもを育てるのではない。あなたの子どもが、あなた
という人を育てるために、そこにいる。そういう視点で、子どもをみます。

 あなたが「私は親だ」と思っている間は、決してあなたの子どもは、あなたに対して心
を開くことはないでしょう。あなたに何も教えないでしょう。しかしあなたがほんの少し
だけ、子どもと対等の立場にたち、謙虚になれば、あなたの子どもは、あなたに心を開く
ことになります。

 メールを読むかぎり、あなたは、どこか権威主義的な、親意識の強い方だと思います。
もしそうならなおさら、つまらない親意識など捨てて、子どもに、こう話してみてはどう
でしょうか。

 「ママも、子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった。おもしろくないもんね」「学校の
宿題なんてね、適当にやればいいのよ。あなたは学校でがんばって、疲れているんだから、
家の中では、休めばいいのよ。ごくろうさま」と。

 あなたの子どもは、目を白黒させて驚くかもしれません。しかしそのあと、あなたの子
どもは、心を開いて、いろいろ言うでしょう。

 いいですか、親子の絆(きずな)というのは、そういうものです。心を開きあわないで、
どうして絆を太くすることができるでしょうか。

 この絆の問題については、また追々、私のマガジンのほうで書いていきます。まだマガ
ジンを購読なさってくださっておられないようなので、ぜひ、ご購読ください。いつまで、
このエネルギーがつづくかわかりませんので、早い者勝ちです。今なら、無料。お得です。
ホント!

 では、今日は、これで失礼します。メールの引用、転載など、ご了解いただければうれ
しく思います。

 なおこの原稿は、マガジンの6月30日号のほうで、掲載するつもりです。そのときま
でにまた推敲に推敲を重ねておきますので、またそちらのほうを、お読みいただければう
れしく思います。ご都合の悪い部分などあれば、至急、お知らせください。よろしくお願
いします。
(はやし浩司 子どもの勉強 子供の勉強 子どもの学習 子供の学習 勉強をしない子
ども 勉強をしない子供 家庭での勉強)

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※「シシリー宣言」

一九九五年一一月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣
言を行った。これがシシリー宣言である。

その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであった。いわく、

「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではなく、
行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適
応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。

「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自
殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動症を引き起こす。IQが低下する。人
類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶ
しかない」と。

ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内
暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)
のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、
環境ホルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、
胎児の脳に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの
発達を損傷する」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

※2学力

 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであった
という。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学など
を研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。

結果、二五点満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、
ある国立大学の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より
好成績をとったという。

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●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、
問題は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせるこ
と」「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。
またそれが親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にと
いうか、無意識のまま、してしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを
知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知
れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを
知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、
お金ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するよう
になる。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんと
う)する。たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れ
ていくこともあるだろう。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは
忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎ
てしまう。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言っ
た。

「ヒロシ、日本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているね」と。「スポイル」と
いうのは、「ドラ息子化している」という意味。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、
生活力も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解で
きるようになる。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあ
なたの子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。

しかしそれを見て見ぬフリしたり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あ
なたは家庭教育のあり方を、かなり反省したほうがよい。子どもをかわいがるというこ
とは、どういうことなのか。子どもを育てるということがどういうことなのか。それを
もう一度、原点に返って考えなおしてみたほうがよい。
(040530)

(3)心を考える  **************************

●矛盾の発見

 自分に甘い人は、他人にきびしい。それはわかるが、そういう言い方をするとき、ここ
で大きな疑問にぶつかる。

 「自分の子どもは、自分なのか。それとも他人なのか」という疑問である。

 いくつかの例で、考えてみよう。

(1)ある父親は、約5000万円という大金を積んで、息子(現在、大学生)を、私大
の医学部へ入学させた。この父親は、甘いのか。それともきびしいのか。

(2)ある母親は、息子(中3)が万引きで補導されたあと、あちこちを走りまわり、一
晩で、その事件そのものをもみ消してしまった。この母親は、甘いのか。それともきびし
いのか。

 これらのケースでは、親は、自分の子どもに、甘いということになる。デレデレに甘い。
つまり自分の息子イコール、自分と考えている。

 それはわかるが、では、つぎのようなケースでは、どうだろうか。

(2)ある母親は、自分の息子(小2)が、宿題をしなかったことについて激怒し、夜
中にふとんの中から、その子どもを引きずり出し、その子どもに宿題をさせた。子ども
は、涙を目にいっぱい浮かべながら、その宿題をした。この母親は、甘いのか。それと
もきびしいのか。

 この親は、一見、きびしい親に見える。しかしその子どもが、他人の子どもなら、そこ
まできびしくするだろうかという疑問がある。

 そこでもう一度、疑問の内容を整理してみよう。

(1)もし、自分の子どもを自分と考えるなら、この宿題をさせた母親は、たいへん自分
にきびしい親ということになる。しかし自分に対して、そこまできびしい人はいるだろう
か。

(2)もし、自分の子どもを他人の子どもと考えるなら、この宿題をさせた母親は、たい
へん他人にきびしい親ということになる。しかし他人に対して、そこまできびしい人はい
るだろうか。

 ……こうして考えていくと、親は、自分の子どもに対しては、独特の反応を示すのがわ
かる。自分であって、自分でない。他人であって、他人でないという反応である。少し話
が飛躍して、わかりにくいかもしれないが、別のケースで考えてみよう。

(3)ある子ども(中3・男子)が、進学予備校の模擬試験で、悪い成績をとってきた。
点数もさがったが、それ以上に、順位もさがった。このままでは、志望校をワンランク、
さげなければならないかもしれない。

 それを知った母親が、その子どもを、激怒した。「何よ、この点数は! こんなことでは、
A高校へは入れないでしょ! 今夜から、毎晩、3時間、勉強しなさい!」と。

 その母親は、たいへんきびしい母親ということになる。しかしそれは、子どもという、
別の自分に対してきびしいのか。それとも、子どもという、他人に対してきびしいのか。

 もちろんその母親は、自分が感じている不安や心配を、そのまま子どもにぶつけている
だけ。それはわかるが、なぜ、そういう行動に出るのか。

 それがたとえばその母親の親友なら、その母親は、そういう言い方はしないだろう。多
分、こう言うにちがいない。「あなたは、よくやったわ。がっかりしないでね。つぎでがん
ばればいいのよ」と。

 それがたとえばその母親の夫なら、その母親は、そういう言い方をしないだろう。多分、
こう言うにちがいない。「あなたは、よくやっているわ。いいのよ、それで。あとのことは、
私のほうで、何とかするから」と。

 (あるいは、ひょっとしたら、夫に対して、怒鳴り散らすかもしれない。「こんな給料で
は、生活できないわ!」と。)

 本来なら、こういうケースでは、母親は、自分の息子に対して、こう言うべきである。「成
績が悪くても、がっかりしてはだめよ。勉強だけが、人生ではないのよ。またつぎでがん
ばればいいんだから。今夜は、ゆっくりと休みなさい」と。

 なぜ、母親は、そう言わないのか。言うことができないのか。

 ……と、少し話がわかりにくくなってきた。自分でも、この先のことは、よくわからな
い。

 実は、私は、この(自分であって自分でない)、しかし(他人であって他人でない)とい
う部分こそが、親が子育ての場で引き起こす、悲喜劇の原因ではないかと思い始めている。
つまりこのあたりの親の心理を、うまく分析できれば、子育てにまつわる親の悩みや苦し
みを、解消できるのではないか、と。

 ワイフに相談すると、「親子は特殊だからね」と。

 それはわかる。しかしその特殊性とは何か。その手がかりが、このあたりにあるように
思う。自分の子どもは、自分なのか。それとも他人なのか。

 この疑問は、疑問として、いつかまた別の機会に考えてみたい。(ごめん!)


●私のクローン

 私の細胞を一個取り出し、それで、新しい人間、つまりクローン人間を作ったとする。
そのとき、そのクローン人間は、私なのか。それとも他人なのか。

 もちろんそのクローン人間は、他人である。

 ところで、以前、私の二男が、こんな話をしてくれたことがある。『スタートレック』と
いう映画の中で、たびたび(転送装置)というのが、登場する。

 人が円形の台の上に乗ると、天井から光の束が、シャワーのようにおりてくる。とたん、
その台の上の人は、別のところに転送される。

 その転送装置について、二男が、こう言った。二男が、高校生のときだった。

 「パパ、転送された人間はね、もとの人間ではないのだよ。もとの人間は、転送される
瞬間に、殺されているんだよ」と。

 もう少しかみくだいて、説明してみよう。

 あなたが台の上に乗ったとする。そして転送のスイッチを入れたとする。その瞬間、そ
の装置は、あなたという人間を、分子レベルまで、こなごなに分解する。

分解された分子は、たとえば電気的信号となり、転送先の場所に送られる。そしてその
転送先で、再び、人間として組み立てられる。

 つまり見た目には、瞬時にして、あなたは、転送されたことになる。しかし元の人間は、
転送される前に殺されたことになる。転送後のあなたは、まったく別のあなたということ
になる。

つまり転送装置というのは、(瞬時にあなたを殺し)、(瞬時にまったく別の、あなたと同
じ人間をつくる)装置ということになる。

 転送装置なる装置の機能を、ロジカル(論理的)に考えていくと、そうなる。

 ということは、3回、転送されれば、その転送された人は、元の人間のコピーの、その
またコピーのコピーということになる。

 しかし他人から見れば、そのコピーの、そのまたコピーのコピーであっても、あなたは
あなたということになる。元のあなたと顔や姿だけではなく、ものの考え方も同じ。すべ
て同じ。だから、あなたはあなたということになる。

 そこでクエスチョン。

 もしこの瞬間に、だれかが、あなたのクローン人間を、作ったとする。脳みその中の情
報は、何かにコピーして、新しいクローン人間に、すべてそのまま移植すればよい。そう
すれば、顔や姿だけではなく、性質も思想も、まったくあなたと同じになる。

 となると、そこに立っている、クローン人間は、あなたか。それともあなたではないの
かということになる。

 実は、これはSFの話ではない。親子の話である。『スタートレック』の転送装置のよう
に、瞬時というわけではないが、親子の関係は、それに似ている。あるいはあなたの子ど
もは、あなたのクローン人間ということもできる。

 となると、自分の子どもは、私なのか、それとも私でないのかという問題になる。クロ
ーン人間は、私ではないということになれば、自分の子どもだって、私ではない。つまり
他人ということになる。しかし……。

 親子の関係をいろいろつきつめていくと、おもしろいことに気づく。あまり意味がない
かもしれないが、蒸し暑い夜には、楽しい。そんなことを考えていると、やがて眠くなる。
あなたも、今夜あたり、ふとんの中で、そんなことを考えてみては、どうだろうか。

(4)今を考える  **************************

●ハナとの散歩

 蒸し暑い夕方だった。風は強く、鉛色の雲が、低く、空をおおっている。
 私は、ハナと散歩に出かけた。とたん、向かい風。坂を一気に、かけおりる。

 中田島砂丘までは、自転車で15分ほど。途中、東海道線の踏み切りを越え、
 国道一号線に出る。そこから少し西へ少し走って、左に折れる。とたん、潮風。

 時は、5月の終わり。少し前、玉ねぎの収穫をしていた畑は、今は、ジャガイモ畑。
 うねの上に、濃い緑の葉が、きれいに並んでいた。遠くで、犬のほえる声。

 松林に自転車を置き、そこからは歩く。サクサクと、やわらかい砂の感触。
 石段を登ると、目の前に広がる、丸みをおびた太平洋。それを見て、ハナを放す。

 ハナは、ポインター種。歩くことを知らない。一目散に走って、視界から消える。
 目をすえる。カラスが飛び去る。少しすると、砂丘の間から、ハナが頭を出す。

 私は、海辺まで歩いて、また戻る。初夏の生暖かい風に混ざって、冷たい海の感触。
 汗が風となって、飛び散るのがわかる。しばし、そのさわやかさに、身を任す。

 上を見あげる。雲の間に、ほんの少しだが、水色の空。が、それも見る見るうちに、
 かき消される。デジタルカメラで、あわてて写真をとる。そして海の写真も……。

 私は、砂山に座って、ハナを待つ。年のせいか、ハナは、前より疲れやすくなった?
 しばらく走っては、もどってくる。そして苦しそうに、あえぐ。舌を出してあえぐ。

 「もう、帰ろうか」と声をかける。が、ハナは、またどこかへと走り去る。私は、
 砂山に、もう一度、腰を落す。そして待つ。「気が済むまで、遊ばせよう」と。

 時は、5月の終わり。日曜日。明日は朝から、懇談会。「じゅうぶん、休んだか」と、
 自分に問う。ああ、今日も、どこか焦点のぼやけた一日を過ごしてしまった。
 ふと、ため息をつきながら、砂浜をあとにする。ハナと並んで、家路につく。
(040530)

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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