はやし浩司(ひろし)

2004・7
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2004年 7月号
 はやし浩司


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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 30日(No.443)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●カルタ

 今週は、カルタを買ってきた。今は、日本語ブーム。そのせいもある。

 テーブルの上にカルタを並べて、子どもたちに競(きそ)わせる。最初は、「そんなのつまんないか
ら、しない」と言っていた子どもでも、そのうち、夢中になってやり始める。カルタには、伝統的な
おもしろさがあるようだ。

 実は。10年ほど前には、そのカルタをよくやった。「ことわざカルタ」「ドラエもんカルタ」など。
数種類をもっていた。

 私自身も、ある雑誌社の依頼を受けて、何種類か、制作したことがある。「クイズカルタ」「格言カ
ルタ「なぞなぞカルタ」など。遠い昔の話で、私というより、別の私が作ったような気がする。

 その「ドラエもんカルタ」だが、毎回、そのカルタをほしそうに見つめていた子ども(小2男児)
がいた。ドラエもんの大ファンだった。

 そこで1、2週間ほど、そのカルタを使ったあと、つまり片づけるとき、ふとその子どもにこう聞
いた。「このカルタ、ほしいか?」と。

 するとその子どもは、飛びあがって、喜んだ。「本当に、もらっていいの?」と。

 私が、そのカルタをあげると、その子どもはまるで宝物か何かを手に入れたかのように、はしゃぎ
ながら教室を出て行った。

 で、そのカルタをしながら、その子どものことを思い出していた。しかし、そのあげたときのこと
を思い出していたのではない。そのあと、こんなことがあった。

 それから半年くらいたったときのことだっただろうか。私がそのカルタのことを思い出して、その
子どもに、こう聞いてみた。

「あの、ドラエもんカルタ、まだしている?」と。

 するとその子どもは、ハッと我にかえったような様子をしてみせ、「ううん。していない……」と。

 そこでさらに、「じゃあ、そのカルタは、どうなったの?」と聞くと、「ママが、どこかへ片づけた」
と。

私「家で、カルタをしなかったの?」
子「しない」
私「一度も……?」
子「一度も……」と。

 私はその子どもの話を聞きながら、「そういうものかな?」「そういうものだろう」と思った。自分
のものになったとたん、興味をなくすということはよくある。私も、子どものころ、同じような経験
をしたことがある。

 当時、野球盤ゲームというのが、はやった。広い盤の上で、鉄の玉をはじき、それを小さなバット
で打って、遊ぶというゲームである。

 私はそのゲームを友だちの家で遊んでからというもの、ほしくてほしくて、たまらなくなった。

 で、ある日、とうとう買ってもらった。が、とたん、興味をなくした。「何だ、こんなつまらないも
のだったのか」と思ったことだけは、よく覚えている。

 そういうものである。

 カルタにせよ、野球盤ゲームにせよ、みなでやるからおもしろい。楽しい。ひとりでやったところ
で、何もおもしろくない。ことわざカルタにせよ、ことわざについて書いた本よりも、つまらない。

 反対に、一見つまらなく見える遊びでも、みなでし始めると、楽しくなることがある。まさにカル
タがそうだ。

 毎週、私の教室では、何かの遊びを用意する。今週は、カルタ。今のところ、子どもたちは、夢中
になって遊んでくれている。今日も見ていたら、だれが文を読みあげるかで、子どもたちが大騒ぎし
ていた。「ぼくが、やる!」「私が、やる!」と。




【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親子の確執

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北海道に住む、Mさん(女性)という方から、
メールをもらいました。

母親との葛藤(かっとう)に苦しんでいると
いうのです。

母親にしてみれば、納得できない結婚をした
ということで、「お前は、家の中をめちゃめち
ゃにした」と言われているというのです。

Mさんの母親は、人一倍、世間体を気にする
人のようです。

++++++++++++++++++++

【Mさんへ……】

 メール、ありがとうございました。

 内容が内容だけに、転載の許可はいただけそうもありませんでしたので、このような形で、返事を
書きます。どうか、お許しください。

 目下、1000号まで電子マガジンを発行するという目標を立てています。1000号ですよ。今、
約450号ですから、あと550号です。

 毎回、A4サイズの原稿で、20枚前後を目標にして書いています。それを週3回です。

 で、個人的に返事を書きたいと思いつつ、時間がなくて、どうしてもこのような形、つまり半分、
マガジン用にという形になってしまいます。Mサさんのメールを、利用しているようで、つらいです
が、どうか、お許しください。

 Mさんが、「私は人に自分の知識を伝えることが好きです。生徒たちに今まで考えたことのなかった
ことを考えさせるのが好きです。『あ、だからか!』と、論理がまとまったときの感動を、生徒たちが
自分で発見するのを見るとうれしくなります」と書いておられる部分。

 このことは、メールの内容とは直接関係ありませんが、読んでいて、一番、心がひかれました。

 私も、こうして文章を書きながら、そのどこかで、新しい事実を発見したりすると、心底、うれし
くなります。広い荒野で、小さな宝石を見つけたような気分です。(実際に、宝石を見つけたことはあ
りませんが……。)

 もっとも私のばあいは、自分で発見して、自分で喜んでいるだけですが……。(笑い)

 で、本題ですが、今、現在進行形の形で、Mさんが過去に経験なさったような経験をしている親子
は、多いですよ。ステレオタイプ(典型的)な事例としては、こんな形です。これはMさんのケース
ではありません。よくあるタイプを、まとめたものです。

 母親の問題として……

(1)不本意な夫との、不本意な結婚。加えてどこか不本意な出産。
(2)どこか犠牲的な結婚生活。子育てをしながら、被害者意識をもちやすい。
(3)世間体を気にする。見栄っ張りで、虚栄心が強く、プライドが高い。
(4)その反面、そうした妻の望みを満足させることができない夫。
(5)できのよい息子、あるいは娘。仮面をかぶる息子、あるいは娘。
(6)子どもの教育に、没頭する。生きがいをそこに求める。
(7)情緒的欠陥、精神的未熟性がみられる。子どもを溺愛する。
(8)強度の自己中心性がみられ、精神の完成度が、低い。
(9)親の思いどおりにならない子ども。親子関係にキレツが入り、断絶する。

 愛と憎は、両面感情です。愛が転じて、憎しみに変ることは、よくありますが、親子とて例外では
ありません。

 Mさんには信じられない話かもしれませんが、(私も、この話を聞いたときは、耳を疑ったほどです
が)、結婚して家を出た娘に、「お前を、私が死んだあとも、墓の中から、呪い殺してやる」と、実の
娘を脅迫している母親だっています。

 まあ、親にもいろいろあるということです。が、どうしても日本人は、「親」というものに対して、
幻想をいだきやすいですね。昨日、「親・絶対教」という原稿を少しまとめましたが、半ばカルト的に、
親を絶対視する傾向が強い。

 そういう親・絶対教の中で、親は子どもに対して、甘え、子どもはそれに服従する。あるいは子ど
もが親に反発することもありますが、今度は、世間から、「親不孝者」とののしられる。あるいは、自
責の念から、自己否定をしてしまう。

 このタイプの親子は、親子でも、一対一の人間関係で決まるということが、どうしても理解できな
いのです。

 Mさんのばあいも、Mさんのお母さんは、どこか権威主義的ですね。それに住んでいる世界が、と
ても小さいように思います。わがままで、独断的(?)。子どもの立場で、子どもに同調して考えるこ
とができないという意味では、自己中心的なのかもしれません。

 しかしね、今のMさんと、Mさんのお母さんとでは、住んでいる世界の広さがちがいます。もうお
気づきかと思いますが、今のMさんが住んでおられる世界から、Mさんのお母さんを見ると、まるで、
井戸の中のカxxのように見えませんか? (失礼!)

 Mさん自身も、「親だから……」という幻想をもって、親を見てしまっている。しかしね、特別な努
力や進歩がないかぎり、親という人間も、30〜40歳前後で、成長が止まるものです。

 もちろん個人差もあります。その人の努力もあります。しかし幻想をもつのは正しくありません。
中には、むしろそのあたりの年齢を境にして、退化していく人もいます。

 ある男性(50歳くらい)は、少し前、こう言いました。「まるで、赤ん坊のように私に甘え、依存
してくる母親を見ると、ときに怒れたこともありましたが、母とて、ただの女なんだと思ったとたん、
『母』という虚像が崩れました」と。

 私の印象では、つまりいただいたメールを読むかぎり、とっくの昔に、Mさんは、Mさんの母親を
超えていまっています。恐らく、今のMさんのお母さんには、Mさんのことなど、理解できないでし
ょう。

 高い山からは、低い山がよく見える。しかし低い山からは、高い山がわからない。それとよく似た
現象が、心の世界でもよく起きます。人間的に一歩、先に出ると、愚かな人がよくわかります。しか
し愚かな人には、賢い人がわかりません。そもそもそれを理解するだけの知力がないからです。

 いえね、先日も、幼児の前で、「3足す5は……」と、電卓をたたいてみせたら、真顔で私に向って、
「あんた、それでも先生!」と怒った子どもがいましたよ。幼児の特徴の一つは、こうした自己中心
性です。

 もう少しすると、もっとはっきりと、母親の実像というか、そういうものが見えてきます。そうな
ると、もう怒りを通りこして、あわれみさえ覚えるようになります。私の印象では、あと一歩だと思
います。

 どちらにせよ、つまりこれから先、あなたの母親と反目するにせよ、しないにせよ、中途半端な心
理状態というのは、長つづきしません。心理学の世界にも、『フリップ・フロップ理論』というのがあ
ります。人間はどちらかに転ばないと、落ちつかないという理論です。中途半端だと、緊張感から解
放されません。

 Mさんの立場でいうなら、(1)決別してしまうか、(2)さもなければ、あわれな親を受け入れる
かの、択一にやがて迫られるということです。

 ただここで注意しなければならないのは、同時に、私たちもいつか、子どもに、一人の人間として
評価されるときがやってくるということです。そのとき、子どものそういう評価に耐えられるように
なっておかねばならないということです。

 親というのは、そういう意味で、きびしいものです。決して、「親」という座に安住してはいけませ
ん。そのために、日々に精進。ただひたすら精進。精進、あるのみです。

 Mさんのような方に、たいへん失礼なことを書いたかもしれませんが、どうかお許しください。M
さんのメールを読みながら、私もいくつか重要な発見をしました。とても参考になりました。それに
ついては、また別のところで、別の形で、報告してみたいと思っています。

 ありがとうございました。

+++++++++++++++++++++++

以下、少し、原稿をまとめてみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

+++++++++++++++++++++++

●親との葛藤

親との確執(かくしつ)で、苦しんでいる息子や、娘は、多い。親子という関係であるがゆえに、
その確執も、深い。大きい。

 刑法の世界にも、「尊属殺」(親殺し罪)というのがある。親を殺したりすると、一般の殺人よりも、
刑がワンランク、重くなる。

 しかしあるとき、私の刑法の教授が、こう言った。

 「親を殺すというのは、よほどのことがあるからだ。それゆえに、刑を重くするのは、かえってお
かしい」と。

 そういう意見もある。他人なら、蹴とばして、「はい、さようなら!」と別れることができる。しか
し親子では、それができない。親が悩むというよりは、関係が一度、こじれると、息子や娘のほうが、
悩む。悶々と、悩む。

 今朝、北海道に住む、Mさんという女性から、こんなメールをもらった。Mさんが、母親からみて、
不本意な結婚をしたため、Mさんの母親は、Mさんに、こう言っているという。

 「お前が着ている洋服代、お前にかけた学費、お前が食べた食費など、すべて返せ!」と。

 Mさんは、大学を出たあと、フリーターの男性と結婚した。そんなわけで生活費のほとんどは、M
さんが、稼いでいる。それがMさんの母親には、納得できないのかもしれない。

●確執

こうした親子の確執は、ここにも書いたように、親子であるという、特殊な関係であるがため、長
くつづく。一生、つづく人も、珍しくない。ある男性(60歳くらい)は、枯れの母親が死んだ夜、
こう言った。

 「やっと、母の重圧から、解放されました」と。

 また別の男性(60歳くらい)も、こう言った。「親の世話なんて、こりごり。葬式の間も、何で、
こんなことをしなければならないのかと、そればかりを考えていた。本当は、バンザーイと叫びたか
ったのに、みなの前では、悲しそうな顔をしてみせねばならなかった」と。

 一方、親は親で、子どもに対して、復讐心を燃やす親もいる。「復讐心」だ。

 「あんたを、のろってやる!」「地獄へ落ちるのを楽しみにしてやる!」とか、実の娘に言いつづけ
ている母親がいる。息子から容赦なく、生活費を取りあげている母親もいる。

 もちろん大半は、実際には、約半数程度だが、よい親であり、よい息子や娘である。しかしそうい
う幸運な人たちが、自分たちを基準にして、「親とは、こういうもの」「息子や娘とは、こういうもの」
と、そうでない人たちに、自分たちの基準を押しつけるのは、正しくない。

 親にも、いろいろある。もちろん息子や娘にも、いろいろある。

 だから『親だから……』『子どもだから……』という、『ダカラ論』だけで、ものごとを考えてはい
けない。決めつけてはいけない。

 親子といえども、そこは、一対一の人間関係である。もちろん、親子関係が良好であるに越したこ
とはない。何よりも、それがよい。しかしこじれてしまったら……。切るに切れない関係であるがゆ
えに、その苦しみも、倍加する。

●親の責任論

親子の関係が、おかしくなったら、それは親の責任と考える。

 たいていは、親側に、精神的未熟性、情緒的な欠陥、さらには、人格的な未完成性があるとみてよ
い。

 ただ悲劇的なのは、そうした問題に、親自身が気づいていないこと。このタイプの親にかぎって、「私
はすばらしい親」と思いこんでいる。そうした傲慢(ごうまん)性というか、盲目性が、親子の間に
キレツを入れ、それが断絶へと、長い時間をかけて、つながっていく。

 しかし子どものほうは、その罪悪感で悩む。心理学でいうところの、「家族自我群」(ボーエン)の
呪縛の中で、もがく、苦しむ。そればかりではない。

 こうした親の一連の否定的態度によって、「幻惑」(クーパー)さえもつことがある。自らにダメ人
間のレッテルを張ってしまう。さらには、自らを、「人間として、失格」という烙印を押してしまう。
(こうした一連の作用を、クーパーは、「幻惑作用」と呼んだ。)

 わかりやすく言えば、親が、親側の問題を棚にあげ、一方的に、子どもを責める。子どもの非をと
らえ、それを非難する。しかしもともとの原因は、親にある。理由は、簡単である。

 親子は、決して、対等ではない。そういう関係からスタートする。肉体的にも、精神的にも、当初、
子どもは、親にはかなわない。親は、当初から、子どもに対して、優越的な立場に立ち、一方、子ど
もは、隷属的な立場に置かれる。

 そもそも親子関係がおかしくなるというのは、親の責任である。子どもの側が、クーパーが言うと
ころの、「幻惑作用」に苦しむということ自体、おかしいのである。

 こんな例がある。

●母の裏切り

Y氏は、今年60歳をこえた。しかし今でも、母の葬儀に出なかったことを、悔やんでいる。親戚
にも非難され、何かにつけて、のけ者にされている。「親不孝者!」「恩知らず!」「お前など、村八
分!」と。

 しかしY氏には、人には言えない苦しみがあった。Y氏は、父親の子どもではなかった。母と祖父
(つまり父親の父親)との間に、できた子どもだった。

 Y氏は、こう言った。

 「私が母と父との間にできた子どもでないことは、ある日、いとこたちの顔と見比べていて気がつ
きました。私の顔にだけ、祖父の面影が強く残っている反面、祖母の面影が、どこにもないのです。

 そこで血液型を調べてみて、私には、祖母の血が流れていないことを知りました。

 実はそのこと、つまり母と祖父の不倫関係を、父は知っていたのではないかと思います。父は、よ
く酒を飲んで、私の目の前で母をなぐったりしていましたが、その父が、それらしいことを叫んでい
たのを、記憶のどこかで覚えています」と。

 Y氏は、30歳をすぎるころから、母をうらむようになったという。そしてY氏が、50歳くらい
のときに、Y氏の母親は、死んだ。(父親は、Y氏が25歳くらいのときに、脳梗塞で死んでいる。)

 Y氏は、当時、どうしても母を許せなかったという。だから葬儀には出なかった。

 「私が葬儀に出なかったのは、それだけが理由ではありません。私と母の関係は、積もりつもった
原因で、すでにそのとき、こなごなに破壊されていました」と。

●親子関係の修復

親子関係の修復は、容易なことではない。結論から先に言えば、親側がまず先に、折れるしかない。
しかし親側が先に折れたところで、息子や娘が、それに応ずるかどうかは、これまた、別の問題。
修復するにしても、親子が越えなければならないハードルは、いくつもある。そしてどれも、高い。

 しかし方法がないわけではない。

 距離をおく。時間をおく。親の立場、子どもの立場、それぞれを別に考えてみる。

【親の立場】

 要するに子どもなど、相手にしないこと。今ある関係をみながら、「子育てに失敗した」とか、そう
いうふうに、思わないこと。

 子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものではない。ほとんどが、本当にそうだが、そのほとんど
が、たがいにののしりあいながら、子どもは、親から巣立っていく。

昔の東映映画のように、「お父様、お母様、私をこれまで育ててくださって、ありがとうございまし
た」と、深々と頭をさげて、巣立っていく子どもなど、いない。またそういう子どもを、期待しな
いこと。

 親は親で、前向きに、自分の人生を生きる。残り少ない人生だ。自分のために生きる。

【子どもの立場】

 まず自分自身を、クーパーが言う、『幻惑作用』から、解放すること。今そうであるからと言って、
それはあなたの責任ではない。100%、親の責任である。仮にあなたが、(できそこないの息子や娘)
であるとしても、そういう息子や娘にしたのは、親である。あなたでは、ない。

 罪の意識など、クソ食らえ!

 そういうあなたであるとして、親戚や近所の人に、白い目で見られたとしても、気にすることはな
い。もし気になるようなら、それは親子の問題というよりは、あなた自身の内部に潜む、ベタベタの
人間関係が原因であるとみてよい。もっとはっきり言えば、依存性の問題。

 ボーエンの説く(家族自我群)からの脱却は、容易ではない。もともと日本人は、「家」意識が強く、
欧米と比較しても、この(家族自我群)による結束力が強い。農村によっては、一つの村全体が、こ
うした(自我群)を形成しているところもある。日本でいう、「ムラ社会」というのは、それをさす。

 一方、その(家族自我群)に、身を寄せることは、楽なことである。ベタベタの人間関係をつくり、
たがいに甘えながら生きていく。連帯感ももてる。その中では、孤独感もいやされる。

 つまりあなたの悩みというのは、つきつめれば、そういう(家族自我群)との戦いということにな
る。もっと言えば、個人として、あなたを確立するか否かという問題まで、進む。それができる人は、
これから先も、たくましくひとりで、生きていけばよい。それができない人は、(家族自我群)の中に
身をおき、ある意味で、楽な生活を送ればよい。

+++++++++++++++++++++++

【改めてMさんへ……】

 Mさんは、となりのK国のことを書いておられましたが、あのK国は、一つの国全体として、きわ
めて人格の完成度が低い国とみてよいようですね。

 世間体や、見栄、メンツばかりを気にしている。

 最近はやたらと「同胞」という言葉を使います。これも家族にたとえるなら、「同族意識」というこ
とになります。個人化(=社会的、人間的な自立)の遅れた人が、よく使う言葉です。つまりそうい
う面でも、精神の完成度の低い国とみます。

 加えて虚栄心も強い。国民のほとんどが飢えているのに、「先軍政治の大勝利」(6月29日)と報
道しています。本当に困った国です。世界中を核兵器でおどし、「大勝利」とは!

 K国を見ていると、いろいろ考えさせられます。ホント!

 では、今日は、これで失礼します。長いメールになってすみませんでした。これからもよろしくお
願いします。よき友を得たようで、喜んでいます。+うれしいです。
(はやし浩司 クーパー ボーエン 家族自我群 個人化 幻惑 幻惑作用

【追記】

 あなたも親として、子どもには、過剰期待をしないこと。子育てに夢をもつことは、大切なことだ
が、それを子どもに求めたり、強要してはいけない。

 中には、自分が果たせなかった夢を、子どもに求める親がいる。さらには、こんなことを子どもに
言った親もいた。

 「パパは、学歴がなくて、苦労しているのよ。あなたはパパのようには、ならないでね」と。

 子育てを生きがいにすること自体は、まちがっていない。しかしそこには、一定の限界がある。自
分の生きる目的や、意義まで、そこに放りこんではいけない。心のどこかで、「私は私」「子どもは子
ども」という一線を引かないと、ここでいうMさんの母親のようになる。

 自分の思いどおりにいかなくなった息子や娘を、「裏切り者」ととらえるようになる。「親の苦労を
裏切って、好き勝手なことをしている!」と。

 この問題については、もう少し、あとに考えてみたい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が……」と
いう。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から離れ
て、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個人化その
ものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立する
かも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているかを気に
する。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にする。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタイプ
の子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落ちて
いるのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、臆面もな
く、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったのか」
と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほしい
と思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にした
生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私は私」と
いう生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、国立
大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋など)
を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラックだ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象を
もつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわざと
らしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めているのに、
何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考えて、
自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待らしい。
……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればかり
か、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していない別
の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだった。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人の
視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自分でな
い行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、よく
ある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけない。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよう
に思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他人の
視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。他
人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にしてい
る人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より悪
い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみせた
りする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導さ
れてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさ
んは、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこういう
ことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今まで、
この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏せ字
にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、ち
がうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大きいの
ではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を気
にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するようになる
かもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S君
の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

 (このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●楽天日記

 ここ2か月ほど、欠かさず、楽天日記のほうで、日記を書いている。

 気楽に書いている。思いついたまま、書いている。そのせいか、正直言って、楽しい。それに読者
からの反応も、早い。この世界は、まさに日進月歩。めまぐるしく、環境が変化していく。

 私の印象では、あくまでも私のマガジンだけかもしれないが、電子マガジンの世界は、そろそろ頭
打ちの状態になりつつあるように思う。Eマガのばあい、上位100番までのマガジンについてだが、
発行部数をみても、それほど、毎日、ふえているわけではない。どのマガジンも、ふえても、1日、
1〜2人とか、その程度である。

 楽天日記のほうは、今度、トラックバックという機能もついた。だれかの日記を読んだあと、すぐ
その場で、その相手に返事を書いたりすることができる。(私の立場では、感想や意見を、その場でも
らうことができる。)それにだれかの日記を、毎日、マガジンのように購読することもできる。

 私のばあい、趣味が、周期的に変化する。若いころから、ずっとそうだった。一つのことを、ある
程度やりつくすと、今度はまったく別の趣味へと、変化していく。

 そうした傾向は、インターネットの時代になっても、変わらない。今は、マガジンに熱中している
が、本当のところ、いつまでつづくか、わからない。あきたというよりは、ほかのことに興味をひか
れつつある。その一つが、楽天日記である。

 興味のある人は、一度、私の「楽天日記」を読んでほしい。私のホームページのトップページから、
そのコーナーへ進んでもらえる。

 そうそう昨日、「100MBまで無料」という、無料ホームページサービスを、見つけた。「F社」
という会社である。しかもコマーシャルは、各ページの末尾、1行だけ。

 さっそく申し込んで、自分のホームページを開く。しかしいろいろあって、最終的に自分のホーム
ページを確認するまでに、7時間もかかってしまった。夕方始めて、作業が終了したのが、真夜中。
おかげで、今日は、睡眠不足。

 しかし楽しかった。「ああでもない」「こうでもない」と、あれこれ考えているときが、一番、楽し
い。


●K町K小学校での講演

 講演というより、講話。100人前後の人が集まってくれた。

 K町といえば、このあたりでは、茶どころとして知られている。緑豊かな、落ちついた静かな町で
ある。

 講演は、その小学校の音楽室であった。教頭のF先生が、会場まで案内してくれた。

 体のコンディションは、あまりよくなかった。このところ、睡眠不足がつづいている。昨日も、4
時間ほどしか眠っていない。電車で行く途中、「脳梗塞か何かで、倒れたらどうしようか」と考えた。
だから、つまりそれが心配だったから、駅で、お茶のボトルを買って、ガブガブと飲んだ。

 効果があるかどうかは知らないが、水分をたくさんとると、気分的に、何となく、血がサラサラに
なったような感じがする。私はもともと低血圧症。夏場は、いつも水分を補給していないと、すぐ頭
がぼんやりとしてくる。

 今ごろの季節だと、昼間だけで、約3〜4リットルの水を飲む。

 演題は、「子育て4次元論」。時間は1時間40分。ゆっくりと話ができた。が、終わってから、大
失態。

 まあ、今は、話す気にもなれないので、また別の機会に……。私は、逃げるようにして、会場をあ
とにした。

 まあ、いろいろあります。

 それにしても、よい町だった。学校も、よい学校だった。牧歌的なぬくもりを感ずることができた。
周囲を、ほどよい高さの山々に囲まれ、タクシーを降り立ったとき、「いいところだなあ」と思った。
そしてその思いは、K町から離れるまでつづいた。

 しかし自分で話をしていて、自分で感動する講師がいるだろうか。涙をこぼしてしまう講師がいる
だろうか。

 やはり睡眠不足がたたったらしい。精神力が、どこかもろくなっていた。一瞬、必死で涙をこらえ
たが、だめだった。

 そうそう音楽室をあとにするとき、一人だけ、最前列にすわっている母親が目に入った。その母親
も、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。私としては、そんな話をするつもりは、まったくなかった
のだが……。

 あああ。まさに大失態。K町のみなさん、ごめんなさい。今度また機会があれば、そのときは楽し
い話をします。


●経済誌

 電車に乗ることがあった。それで駅で、経済雑誌を買った。「E」という雑誌だった。私は、経済雑
誌をよく買う。

 今月号の特集は、U銀行。深いつきあいはないが、いろいろな支払いで使っている。それでそれが
気になって、買った。

 アメリカなどでは、銀行の倒産、合併、新設は、当たり前。行くたびに、銀行の名前が変わってい
たりする。それに市中の本店は別として、どこの銀行も、質素。ふつうの家のような感じの銀行も多
い。

 が、この日本では、銀行は、どこも立派。あたかも、そうでなければならないといったふうに、立
派。

 が、こうしたムダが、いかにムダか、いつもそのU銀行へ行くたびに思い知らされる。分厚いジュ
ータンに、豪華な事務機器。もちろん一年中、冷暖房完備。経営危機が叫ばれてから、もう10年以
上になる。

 そこで02年1月、旧TK銀行と旧SW銀行が合併。今のU銀行が生まれた。事実上の1+1=1
の半倒産である。が、見た目には、まったく変化なし。

 行員の給料も、旧TK銀行時代とくらべて、50万円、減っただけ。(35歳、平均年収は、950
万円。旧TK銀行時代は、1000万円。週刊「F」誌調べ。)

 「ああ、がんばっているんだなあ」と思ってみたり、「どうしてこうまで見栄を張るのかあ」と思っ
てみたりする。

 が、今度こそ、そのU銀行も、正念場を迎えている。経営陣も、先日、総退陣した。巨額の不良債
権をかかえて、にっちもさっちも行かなくなってしまったらしい。多分、こういうとき気のきいた評
論家なら、こう言うだろう。

 「地元の経済を支えるU銀行だから、地元経済のためにもがんばってほしい」と。

 しかし私には、そういう気持ちが、まったく起きてこない。またそういうおじょうずを言うのも、
いやになった。U銀行の行員たちは、今でも法外な給料(35歳で、950万円)を手にしている。
そういうところへ、数千億円以上もの公的資金を注入する。つまり税金である。

 財務省は、ことあるごとに「銀行がつぶれると、たいへん」と言うが、本当にそうだろうか。現に
アメリカでは、銀行の倒産、新設はここにも書いたように、日常茶飯事。それでアメリカ人が困った
という話は、聞いたことがない。

 「預金者保護」というのは、ウソ。本当のねらいは、銀行救済。もっと言えば、財務省(旧大蔵省)
の役人の、責任隠し。責任のがれ。天下り先としての銀行の、そのあと始末。

 旧大蔵省は、N銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円という税金を投入した。行員が20
00人足らずだったから、一人あたり、20億円ということになる。20億円だぞ!

 やがてN銀行は倒産したが、その前に、主だった銀行員は、それをさかのぼる、5、6年前から、
満額の退職金を手にして、それぞれの子会社に、天下りしていた。もちろん今でも、満額の年金を手
にしている。

 私は同じ日本人だが、こういうことが平気でできる日本人が、信じられない。まったく信じられな
い。本当に預金者保護というなら、預金者の預金だけを保護すればよい。どうして銀行の借金まで、
税金で払わなければならないのか。どうして行員の生活保障までしなければならないのか。

 デパートのSの倒産劇を見るまでもなく、Sに、別の会社の借金をどんどんつけかえて、最後は、
そのSをつぶす。こうしたインチキをしながら、だれも、その責任をとらない。担当者がだれである
かすらも、よくわからない。

 官僚という組織は、権限にしがみつき、管轄以外のことは何もしない。仮に失敗しても、絶対に自
分には責任がおよばないように、いつも、何かお膳立てしながら前に進む。そしてあとは、情報。自
分たちのつかんだ情報は、簡単には外に出さない。つごうのよい情報だけを流して、あとは隠す。

 日本が、民主主義国家だと、だれが言った?

 日本は、奈良時代の昔から、官僚主義国家。今も官僚主義国家。仮面民主主義型官僚主義国家。こ
の政治体制が変わるまでに、日本はまだこれから100年は、時代をムダにする。200年かもしれ
ない。

 話が脱線したが、U銀行の記事を読みながら、電車の中で、私は、そんなことを考えた。

 なお、「仮面民主主義型、官僚主義国家」という言葉は、私が考えた。日本の政治体制を表現するの
に、なかなかよい言い方だと思う。


●浮動票の王様

 近く参議院議員選挙がある。この原稿がマガジンになるころには、その結果は、出ていることと思
う。(マガジンは、今のところ、ちょうど一か月前に、配信予約を入れることにしている。)

 数日前、K首相が、この浜松市へやってきた。だれかの応援演説のためである。それを見た人が、
こんな話をしてくれた。

若い女の子たちが、「Jちゃん!」「Jちゃん!」と、かん高い歓声をあげて、さかんに携帯電話で
写真をとっていた、と。

 まあ、若い女の子たちが何をしようと、それはその人たちの勝手だが、内心では、「どうしてこうま
で幼稚なのだろう」と思った。(これは、私のひがみか?)

 で、私は、浮動票の王様。私が動くところ、いつも、その政党が大躍進する。今回は、X党に入れ
ることに決めた。

 選挙の争点は、年金問題だという。もともとあんな年金、アテにしていないから、どうということ
はない。が、しかし、あまりにも不公平。官僚たちは、まさにやりたい放題。その結果が今だが、こ
れから先、日本は、どうなることやら……?

 と、言っても、私にとっての最大の関心ごとは、やはり、「日本の平和」。平和あっての、年金問題
である。先の6か国協議で、K国の核問題解決のための道筋ができたとはいえ、まだ目が離せない。

 K国が、日本にとって、きわめて危険な国であるという事実は、まったく変っていない。


●カミナリ

 今朝(6・30)、近くにカミナリが落ちた。瞬間、パソコンの画面が、消えた。と、同時に、イン
ターネットがつながらなくなった。

 こういうときは、もう一度、電源を入れなおせばよい。パソコンもそうだが、モデムやルーターの
電源も、一度、コンセントを抜いて、また差しこむ。

 が、今朝は、それでもうまくいかなかった。そこでパソコンに電源を入れた状態で、USB端子か
ら、機器を一度抜き、また差しこんでみた。とたん、インターネットがつながった。

 鉄則……カミナリが近くで鳴り始めたら、パソコン、ルーターなどの電源は、抜いておくとよい。
パソコンなど電子機器は、カミナリに、弱い。


●朝鮮N報

 興味があって、ここ一年ほど、毎日のように、朝鮮N報のウエブサイトを、のぞいている。韓国の
新聞社のサイトである。日本でいえば、韓国の朝日新聞というところか。

 日本の報道と読みくらべていると、微妙なちがいに、よく気づく。たとえば先の6か国協議につい
ても、日本の新聞やマスコミは、「日米韓が、結束して……」「一致団結」などという言葉をよく使っ
たが、朝鮮N報のサイトには、そんな言葉は、一度も出てこなかった。

 「韓日会談、韓米会談を、個別にした」とか、そんなような表現である。

 またこのところ、朝鮮N報は、いったいどこの国の報道機関かと思うほど、K国をもちあげる報道
ばかりしている。

 ちなみに、今朝のニュースは、「中国の経済訪問団、P市を訪問」「南北将軍級実務者会談、宣伝物
除去確認」などのほか、「北の有名カメラ監督が、映画デビュー」(6・30)など。

 そしておもしろいのは、経済記事。

 何かにつけて、韓国の人たちは、自分たちの経済的地位を、数字で表現するのが、好きなようだ。

 「○○製造分野では、中国を抜いて、1位」
 「△△では、今年10%の成長で、日本についで2位」
 「S社、xx市場で、アジアトップに」
「韓国経済、経済成長率、東アジアでビリ」と。

 韓国の受験競争のはげしさは、日本の比ではない。そういう土壌があるせいかだろうと思うが、国全体が、
受験競争をしている感じ。

 それにしても理解できないのは、韓国は、アメリカや日本が苦労に苦労を重ねて敷いてきた、自由貿易主義
体制の上で、経済的繁栄を謳歌しているのに、反日はともかくも、反米とは! 韓国の政治は、どこか現実離
れしている。(あるいはK国に、どこか似ている?)
 
 まあ、どうぞ、ご勝手に……というのが、私の本音。


●8月から……

 今日で、7月号は、おしまい。

 苦しい1か月でした。が、何とか、無事、1か月がんばりました。

 で、7月30日号も、A4サイズ用紙で、ちょうど20枚になりました。ギリギリの20枚です。(毎
回、20枚以上と決めていますので……。)

 このところ、頭のサエがなくなったというか、ボケが始まったというか、あれこれ考えるのが、少
しおっくうになってきました。

 加えて、「マガジンを出して、どうなるのか?」という迷いもありました。が、今月も、いろいろな
方から、励ましていただきました。ありがとうございました。

 まあ、明日から8月号の原稿を書きますが、あまり気負わないで、これからは気楽に書いていこう
と思っています。

 これからも、よろしくお願いします。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 30日(No.442)
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【7月いっぱい、簡略版になります。どうかお許しください。】
  7月23日号、7月26日号、7月28日号、7月30日号
  につきましては、HTML版は、お休みします。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 28日(No.441)
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【1】日々雑感

●コーラス部

 ウィーン少年合唱団が主演する映画、『野ばら』を見たのが、きっかけだった。コロリと合唱が好き
になり、中学に入学すると、私は、そのままコーラス部に入った。

 楽譜のガの字も読めない、ただの自転車屋の息子がコーラス部へ入った! 今から思い出すと、め
ちゃめちゃな時代だった。ホント。

 で、そのせいか、合唱といっても、たいした曲は歌わなかった。(当時は、たいした曲だと思ってい
たが……)。「コロラドの月」とか、「ともし火」とか、そういう簡単なものばかりだった。そういう歌
を歌いながら、恥ずかしげもなく、コンクールに出たり、県大会に出場したり……。

 しかし合唱そのものは、好きだった。テレビで、そういった番組があると、欠かさず、見ていた。

 そうそう、中学3年になるとき、佐藤H君という小柄な男の子が、コーラス部に入ってきた。のち
の野口五郎という歌手になった、その歌手の兄貴である。

 ボーイソプラノを歌っていたが、ほれぼれするような美しい声をしていた。

 高校へ入っても、コーラス部をつづけたかったが、クラブそのものがなかった。そこで中学時代の
仲間を集めて……ということになったが、最初は、男子は、私一人だけ。毎日、仲間をふやすために、
校内を勧誘して回った。

 で、やっと見つけたのが、これまた楽譜のガの字も読めない、男だった。で、やがてコーラス部は、
空中分解。ときどきヒマなときに、音楽室で5、6人で、歌っていた。その程度。

 大学へ入ると、そのうっぷんを晴らすために、入学と同時に、大学の合唱団へ。何とか入部テスト
に合格して、それから2年間、つづけた。

 驚いたのは、「教育学部の姉ちゃん」たち。(私たちは、そう呼んでいた。)楽譜を渡された瞬間から、
それを目で読んで、すぐ合唱に入った。私たち法科の学生は、ピアノで何度も弾いてもらい、それを
耳で覚えてから合唱に入った。

 もともと大学の合唱団は、どこかアカデミックなクラブだった。もう一つ、「歌う会」という、気楽
なコーラス部もあったが、こちらは左翼系。その種の歌ばかり、歌っていた。一方、私たちは、ヘン
デルとか、バッハとか、何とか組曲とか、そういう上品な曲ばかりを歌っていた。

 一応、コンサートも開いたし、演奏旅行もした。が、そのうち、私がみなに、迷惑ばかりかけてい
ることを知り、だんだん遠ざかっていった。「お前はヘタだから、やめてしまえ」という声までは聞か
なかったが、そういうような雰囲気だった。ハイ。

 以来、心に小さなキズを負い、そのまま合唱からは遠ざかっていった。自信もなくした。大学を出
てからは、一度もステージには立っていない。ワイフには、ときどき偉そうなことを言って自慢する
ことがあるが、本当は、やっかいものだった。……と思う。

 バリトンを担当していたが、いつも最前列。合唱では、ヘタくそなヤツほど、前に立たされる。う
しろからの声を聞いて、自分の声を合わせるためである。そうそう、「お前は、大きな声を出すな。口
を動かしていればいい」というようなことを言われたことがある。つまり私は、やっかいものだった。

 甘くも、ホロにがさの残る思い出である。私にとっては……。


●山荘から

 「朝は、晴れていた」とワイフは言った。しかし私が起きたときは、すでに曇っていた。時計を見
ると、午前、9時。よく眠った。

 それから軽く朝食をとって、風呂へ。

 風呂からは、あたりの山々が一望できる。どこか蒸し暑さを感じさせるが、やや強い風が、間断な
く吹く。その風にあたっていると、気持ちよい。

 で、今は、鳥たちの合唱の季節。

 チョット・コイ、チョット・コイ……と鳴くのは、コジュケイ。
 トーキョートッキョ・キョカキョク……と鳴くのは、ホトトギス。
 ケーン、ケーンと鳴くのは、キジ。
 ほかに、コガラ、ウグイスなどなど。ヤマガラもときどき、くる。木の先でチチチと鳴くのは、何
と言う名前の鳥だったか……? 文鳥によく似た鳥。

 朝、まだ明けきらぬうちから、いっせいに鳴き始める。そうそう、カラスも。

 今年は、ビワは、一個しか収穫できなかった。あとはすべてカラスのエサ。「来週は収穫できる」と
思って、その翌週に来たときには、もう一個もなかった!

 三男が、風呂から出たあと、庭のイスにすわって、ぼんやりと、山を見ていた。「あいつは、どうし
たのかな?」とワイフに聞くと、「失恋したみたい」と。

 しばらく音楽を聞く。パソコンのキーボードを叩く。

 のどかな一日。今日は、日曜日。何回も、ウーロン茶の入ったペットボトルを、がぶ飲みにする。


●熱帯魚

 熱帯魚を飼うようになって、もう20年近くになる。

 一応、素人(しろうと)だが、どういうわけか、どの魚も、長生きをする。不注意で、殺したよう
なことは一度もない。

 が、寿命というものがある。数年単位で、魚が減る。で、そういうときは、近くの熱帯魚店へ行っ
て、新しい魚を買ってくる。

 この熱帯魚。いつもながら、頭のよさには、驚かされる。多くの人は、(多分?)、魚だから、頭が
悪いと思っている。しかしそれはまちがい。

 先週も、新しく、ネオンテトラ、コッピー以下、数種類の魚を、30匹近く、買ってきた。どの魚
も、10ミリに満たない、小さな魚たちである。

 その魚が、1、2回の餌づけだけで、私の顔や、エサを与えるタイミングを、覚えてしまった!

 私が水槽に近づくだけで、エサを入れるところに、サーッと集まってくるのである。私も、そのつ
ど、「エサだよ」とか、「ごはんだよ」とか言って、声をかけるようにしている。今度は、その声にも
反応して、やはり集まってくるようになった。

 脳ミソの大きさと言えば、見た感じでも、1ミリの数分の1もない? しばし魚の頭に見とれる。「こ
んな小さな脳ミソの、どこにそんな知恵があるのだろう?」と。

 数年前だったか、私は、ハチの頭のよさにも、驚かされたことがある。話せば長くなるが、驚くべ
き能力である。それを知ったときも、「人間だけが、頭がいいと考えるのは、まちがい」と思った。

 考えてみれば、魚だって、この地球上で、数億年単位で生きている。それくらいの知恵があっても、
不思議ではない。またそういう知恵があったからこそ、それだけ長い期間を、生きのびることができ
た。

 そう思いながら、朝の朝食。おかずは、干した小魚。それを箸でつまみながら、ワイフにふと、こ
う言う。

 「この魚たちも、海の中で、一生懸命生きていたのにね」と。


●乳幼児の心理

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的特
徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。
……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理を
いう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずること
で、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと
考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さしな
がら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、説明され
る。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しか
しばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることが
ある。

 今朝のY新聞(6月28日)の朝刊を読むと、まだあのA教祖に帰依している信者がいるという。
あの忌まわしい地下鉄サリン事件をひき起こした、あのA教祖である。

 私はその記事を読みながら、ふと、こう考えた。

 「この人たちの心理は、乳幼児期のままだな」と。


●Mさんへ

 今でも、世間体だけで生きている人は、少なくありません。近くの家で、こんな事件がありました。

 ある知人の家に、夜中に、隣に住む老人(80歳くらい、男性)から、電話がかかってきました。「家
の中で倒れたから、助けてほしい」と。

 知人がかけつけてみると、その老人は、玄関先まではってきたらしく、そこで倒れていました。そ
こで知人が、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけると、「それだけはやめくれ。あんたたちが、
病院へ連れていってくれないか?」と。

 その老人は、「救急車を呼ぶことを、恥ずかしい」と言うのですね。

 そうした心情を、私には理解できませんが、あとから知人に話を聞くと、こう話してくれました。

 「その老人は、いつも、病気やケガになった人を、バチが当たった、ザマーミロと笑うようなタイ
プの人です。それで自分のこととなると、隠そうという意思が働くのではないでしょうか。だれもそ
の老人のことなど、気にしていないのですが……」と。

 話は大きくそれますが、隣のK国。今、日本はそのK国の核兵器開発問題で、頭を悩ませています
が、今年も、食糧不足。推定で100万トンも不足するそうです(韓国・国情院。需要量は640万
トン。K国生産量が、425万トン。援助が約100万トン)。

 そのK国の配給事情が、数か月前、写真でレポートされました。その写真を見て、私は驚きました。
配給を受ける幼児たちが、みな、一張羅(いっちょうら)の服を着て、頬に、あきらかに紅とわかる、
化粧をほどこしていたからです。「ここまで、神経を使うか!」とです。

 こうした世間体を気にする人の特徴としては、

(1)人格の中の、核形成(コア・アイデンテティ)の遅れ(未完成さ)
(2)日本独特の文化的後遺症

 の2つを、とりあえず、私は考えます。

(1)のことは、子どもたちの成育過程をながめているとわかります。

 (自分をさらけ出せない)→(相手に受け入れられるか不安)ということから、(私らしさ)(=ア
イデンテティ)を形成する前に、相手の目を通した自分をつくりあげていきます。

 「こうすれば、親にほめられる」「こうすれば、先生に認められる」「こうすれば、友だちに尊敬さ
れ、居心地がよくなる」と。俗に仮面をかぶる状態になります。(ひどいばあいには、人格の遊離、分
裂が観察されることもあります。)

 もともとは、基本的には、良好な人間関係が結べない人とみてよいのでは、ないでしょうか。

 (2)の日本独特の文化的後遺症というのは、まさに封建時代の亡霊のことをいいます。

 私の親類でも、そのほとんどが、「親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちる」とか言って、何ごとにつ
け、親を絶対視する傾向があります。それはもう信仰と言うより、カルト(英語では、Sect)に
近いものです。

 こういうケースがあります。

 J氏(42歳)は、母親(70歳)の依頼で、母親の兄(J氏の伯父、母親の実家)の山林を、8
00万円で購入しました。母親の兄の家計を助けるためでした。たまたま兄の長女が結婚する前で、
何かとたいへんだったということもありました。

 しかしその山林は、当時の相場でも、100万円にもならないような山林でした。地元の森林組合
の人の話では、50万円でもいい値段だったということでした。

 そのことを知ったJ氏が、母親に何度も抗議をしました。「お母さんが、買ってやってくれと頼んだ
から買ってやったが、とんでもない値段だ。お母さんのほうから、伯父に文句を言ってくれ」と。

 しかしそうしたJ氏の抗議を、J氏の母親は、ことごとく黙殺してしまいました。

 ふつうなら……という言い方が通用しないのが、カルトであるというゆえんですが、ふつうなら、
J氏の母親は、自分の兄(J氏の伯父)に、文句を言ったはずです。

 「どうして、息子に、そんな高い値段で買わせたのか!」とです。

 しかしJ氏の母親にしてみれば、実家は絶対。自分の息子が犠牲になっても、実家に向って文句を
言うことはできません。つまり、このタイプの人たちは、そういうものの考え方をするようですね。

 この私たち常人に理解できない部分が、大きな摩擦を生み出します。ついで葛藤を生み、それがト
ラブルの原因となります。

子どものころ、私の父は、ある倫理研究団体の信者でした。その団体は、まさに「忠孝」を最善の
美徳と説くような団体でした。私も、よくその会合に連れていかれました。そして耳にタコができ
るほど、「親は絶対だ」「どんな親でも、子は従うべき」という説法を聞かされました。

(今から思うと、まことにもって、親にはつごうのよい団体だったということになります。そのた
めに、私はいつも連れていかれたのかもしれません。もともとどこか親不孝のできそこないのよう
なところがありましたから。ハハハ)

 私の郷里には、少し離れたところですが、かの有名な『養老の滝』というのもあって、いつもその
話を聞かされました。ご存知ですか? あの話?

 孝行息子の念がかなって、滝の水が、酒に変ったという、あの話です。

 で、こうしたカルトを信奉していても、それなりに親子関係がうまくいけば、問題はないのですが、
問題は、そうでないときに起こります。

 第一に、そのカルト抜きがたいへん。これは一般のカルト信仰と似ています。カルトにハマった信
者を、そのカルト教団から離れさせるのは、容易ではありません。本人から、そのカルトを抜くのは、
さらにたいへんです。

 つぎに、抜いたら抜いたで、今度は、その人は、ハシゴをはずされたような状態になってしまいま
す。同じような現象は、カルト教団から離れた信者にも、よく見られます。思考の中に空白部分がで
きてしまいます。信仰をやめた人が、よく無気力状態から虚脱状態になってしまうというのは、そう
いう理由によるものです。

 三つ目に、中途半端な抜き方をすると、自責の念から、深い罪悪感を覚える人もいます。さらに自
ら、ダメ人間のレッテルを張ってしまい、人間失格と思いこんでしまう人もいます。「ぼくは、親の死
に目にも会えなかった。だからぼくは、失格だ」と。

 この問題は、それくらい根が深いということです。ただ単なる、マザコンとか、そういう問題とは、
まったく異質のものです。

 本来なら、親自身が、子どもをそういう状態に追いこまないように、子どもをして、じょうずに親
離れできるようにしむけなければならないのですが、その時点で、親は、自分の老後の利益を優先さ
せてしまうのですね。

 日本には、少し前まで、老人福祉という言葉すら、ありませんでした。そういう社会的な不整備も
あります。『老いては子に従え』式に、子どもに老後のめんどうをみてもらうのが、当たり前になって
いました。

 Mさんのおかれた状況、立場、そして今のMさんのお気持ちが、たいへんよく理解できます。私も
Mさんと同じような家庭環境に育ちました。

 しかしこの問題だけは、世代ごとに、世代の中で消していくしかないように思います。それぞれの
人が、それがカルトであれ、何であれ、それでハッピーなら、私たちはそれについてとやかく言う必
要はないし、また言ってはなりません。

 「そうだね」「そうだね」と、理解してやることこそ、まあ、思いやりというものではないでしょう
か。へたに反論したりすれば、かえって不要な波風をたてるだけです。実は、私は、子どものころか
ら、それを知っていました。

 ただ自分はそうであっても、自分の息子たちにだけは、そうは思わせたくありません。だから、こ
うした悪習というか、因縁は、私の代で断ち切りたいと思っています。だからいつも私の息子たちに
は、こう言って、子育てをしてきました。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、お前たちの好きなことをして、生きてみろ。世界は
広い。思い切って、この世界をはばたいてみろ。親孝行なんて、アホなことは考えなくてもいい。家
の心配もしなくてもいい。あとのことは、私たちで何とかするから!」と。

 (そのせいか、三男は大学を中退。今度はパイロットになるための大学へ転校してしました。本気
で、空を飛ぶようです。喜んでよいのか、悲しんでよいのか……。)

 で、おとといも、その三男とワイフで食事に行ってきました。そのとき、足が痛くて、本当は、ど
こかヨボヨボと歩きたかったのですが、息子がいたこともあり、つまりそういうみじめな歩き方を見
せたくなかったものですから、わざとはりきって、歩いてみせました。

 親心というのは、そういうものですね。どこか切なく、どこかわびしく、どこかさみしい。

 メール、ありがとうございました。
 長い返事になってすみませんでした。またよろしかったら、事情をお知らせください。

はやし浩司


【2】今日の特集(親・絶対教)

【親・絶対教】

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「親は絶対」と思っている人は、多いですね。
これを私は、勝手に、親・絶対教と呼んでいます。
どこかカルト的だから、宗教になぞらえました。

今夜は、それについて考えてみます。

まだ、未完成な原稿ですが、これから先、この原稿を
土台にして、親のあり方を考えていきたいと
思っています。

          6月27日

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●親が絶対!

 あなたは、親に産んでもらったのです。
 その恩は、忘れてはいけません。
 親があったからこそ、今、あなたがいるのです。

 産んでもらっただけではなく、育ててもらいました。
 学校にも通わせてもらいました。
 言葉が話せるようになったのも、あなたの親のおかげです。

 親の恩は、山より高く、海よりも深いものです。
 その恩を決して忘れてはいけません。
 親は、あなたにとって、絶対的な存在なのです。

 ……というのが、親・絶対教の考え方の基本になっている。

●カルト

 親・絶対教というのは、根が深い。親から子へと、代々と引き継がれている。しかも、その人が乳
幼児のときから、徹底的に、叩きこまれている。叩きこまれるというより、脳の奥深くに、しみこま
されている。青年期になってから、何かの宗教に走るのとは、わけがちがう。

 そもそも「基底」そのものものが、ちがう。

 子どもは、母親の胎内で、10か月近く宿る。生まれたあとも、母親の乳を得て、成長する。何も
しなくても、つまり放っておいても、子どもは、親・絶対教にハマりやすい。あるいはほんの少しの
指導で、子どもは、そのまま親・絶対教の信者となっていく。

 が、親・絶対教には、もともと根拠などない。「産んでやった」という言葉を口にする親は多い。し
かしそれはあくまでも結果でしかない。生まれる予定の子どもが、幽霊か何かの姿で、親の前に出て
きて、「私を産んでくれ」と頼んだというのなら、話は別。しかしそういうことはありえない。

 少し話が飛躍してしまったが、親・絶対教の基底には、「親がいたから、子どもが生まれた」という
概念がある。親あっての、子どもということになる。その概念が基礎になって、親は子どもに向かっ
て、「産んでやった」「育ててやった」と言うようになる。

 それを受けて子どもは、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言うようになる。「恩」
「孝行」という概念も、そこから生まれる。

●親は、絶対!

 親・絶対教の信者たちは、子どもが親にさからうことを許さない。口答えなど、もってのほか。親
自身が、子どもは、親のために犠牲になって当然、と考える。そして自分のために犠牲になっている、
あるいは献身的につくす子どもをみながら、「親孝行のいい息子(娘)」と、それを誇る。

 いろいろな例がある。

 父親が、脳内出血で倒れた夜、九州に住んでいたKさん(女性、その父親の長女)は、神奈川県の
実家の近くにある病院まで、電車でかけつけた。

 で、夜の9時ごろ、完全看護ということもあり、またほかにとくにすることもなかったので、Kさ
んは、実家に帰って、その夜は、そこで泊まった。

 が、それについて、妹の義理の父親(義理の父親だぞ!)が、激怒した。あとで、Kさんにこう言
ったという。「娘なら、その夜は、寝ずの看病をすべきだ。自分が死んでも、病院にとどまって、父親
の容態を心配するのが、娘の務めではないのか!」と。

 この言葉に、Kさんは、ひどく傷ついた。そして数か月たった今も、その言葉に苦しんでいる。

 もう一つ、こんな例がある。一人娘が、嫁いで家を出たことについて、その母親は、「娘は、親を捨
てた」「家をメチャメチャにした」と騒いだという。「こんなことでは、近所の人たちに恥ずかしくて、
外も歩けない」と。

 そうした親の心情は、常人には、理解できない。その理解できないところが、どこかカルト的であ
る。親・絶対教には、そういう側面がある。

●子が先か、親が先か

 親・絶対教では、「親あっての、子ども」と考える。

 これに対して、実存主義的な立場では、つぎのように考える。

 「私は生まれた」「生まれてみたら、そこに親がいた」「私がいるから、親を認識できる」と。あく
までも「私」という視点を中心にして、親をみる。
 
 親を見る方向が、まったく逆。だから、ものの考え方も、180度、変ってくる。

 たとえば今度は、自分の子どもをみるばあいでも、親・絶対教の人たちは、「産んでやった」「育て
てやった」と言う。しかし実存主義的な考え方をする人は、「お前のおかげで、人生を楽しく過ごすこ
とができた」「有意義に過ごすことができた」というふうに、考える。子育てそのものを、自分のため
ととらえる。

 こうしたちがいは、結局は、親が先か、子どもが先かという議論に集約される。さらにもう少し言
うなら、「産んでやった」と言う親は、心のどこかに、ある種の犠牲心をともなう?

たとえばNさんは、どこか不本意な結婚をした。俗にいう「腹いせ婚」というのかもしれない。好
きな男性がほかにいたが、その男性が結婚してしまった。それで、今の夫と、結婚した。

そして、今の子どもが生まれた。その子どもどこか不本意な子どもだった。生まれたときから、何
かにつけて発育が遅れた。Nさんには、当然のことながら、子育てが重荷だった。子どもを好きに
なれなかった。

そのNさんは、そんなわけで、子どもには、いつも、「産んでやった」「育ててやった」と言うよう
になった。その背景にあるのは、「私が、子どものために犠牲になってやった」という思いである。

 しかし親にとっても、子どもにとっても、それほど、不幸な関係はない。……と、私はそう思うが、
ここで一つのカベにぶつかる。

 親が、親・絶対教の信者であり、その子どももまた、親・絶対教であれば、その親子関係は、それ
なりにうまくいくということ。子どもに犠牲を求めて平気な親と、親のために平気で犠牲になる子ど
も。こうした関係でも、親子関係は、それなりにうまくいく。

 問題は、たとえば結婚などにより、そういう親子関係をもつ、夫なり、妻の間に、他人が入ってく
るばあいである。

●夫婦のキレツ

 ある男性(55歳)は、こう言った。「私には、10歳、年上の姉がいます。しかしその姉は、はや
し先生が言うところの、親・絶対教の信者なのですね。父は今でも、元気で生きていますが、父の批
判をしただけで、狂ったように、反論します。『お父さんの悪口を言う人は、たとえ弟でも許さない』
とです」と。

 兄弟ならまだしも、夫婦でも、こうした問題をかかえている人は多い。

 よくある例は、夫が、親・絶対教で、妻が、そうでないケース。ある女性(40歳くらい)は、昔、
こう言った。

 「私が夫の母親(義理の母親)と少しでも対立しようものなら、私の夫は、私に向って、こう言い
ます。『ぼくの母とうまくできないようなら、お前のほうが、この家を出て行け』とです。妻の私より、
母のほうが大切だというのですね」と。

 今でこそ少なくなったが、少し前まで、農家に嫁いだ嫁というのは、嫁というより、家政婦に近い
ものであった。ある女性(70歳くらい)は、こう言った。

 「私なんか、今の家に嫁いできたときは、召使いのようなものでした。夫の姉たちにすら、あごで
使われました」と。

●親・絶対教の特徴

 親・絶対教の人たちが決まってもちだすのが、「先祖」という言葉である。そしてそれがそのまま、
先祖崇拝につながっていく。親、つまり親の親、さらにその親は、絶対という考え方が、積もりにつ
もって、「先祖崇拝」へと進む。

 先祖あっての子孫と考えるわけである。どこか、アメリカのインディアン的? アフリカの土着民
的? 

 しかし本当のことを言えば、それは先祖のためというよりは、自分自身のためである。自分という
親自身を絶対化するために、また絶対化してほしいがために、親・絶対教の信者たちは、先祖という
言葉をよく使う。

 ある男性(60歳くらい)は、いつも息子や息子の嫁たちに向って、こう言っている。「今の若いも
のたちは、先祖を粗末にする!」と。

 その男性がいうところの先祖というのは、結局は、自分自身のことをいう。まさか「自分を大切に
しろ」とは、言えない。だから、少し的をはずして、「先祖」という言葉を使う。

 こうした例は、このH市でも見られる。21世紀にもなった今。しかも人口が60万人もいる、大
都市でも、である。

中には、先祖崇拝を、教育理念の根幹に置いている評論家もいる。さらにこれは本当にあった話だ
が、(こうして断らねばならないほど、ありえない話に思われるかもしれないが……)、こんなこと
があった。

 ある日の午後、一人の女性が、私の教室に飛びこんできて、こう叫んだ。「あんたは、先祖を粗末に
しているようだが、そういう教育者は、教育者と失格である。あちこちで講演活動をしているようだ
が、即刻、そういった活動をやめなさい」と。

 まだ30歳そこそこの女性だったから、私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。彼女もまた、親・
絶対教の信者であった。

 しかしこうした言い方は、どこか卑怯(失礼!)ではないのか。

 数年前、ある寺で、説法を聞いたときのこと、終わりがけに、その寺の住職が私たちのこう言った。

 「お志(こころざし)のある方は、どうか仏様を供養(くよう)してください」と。その寺では、「供
養」というのは、「お布施」つまり、マネーのことをいう。まさか「自分に金を出せ」とは言えない。
だから、(自分)を、(仏様)に、(お金)を、(供養)に置きかえて、そう言う。

 親・絶対教の信者たちが、息子や娘に向って、「お前たちのかわりにご先祖様を祭ってやるからな」
と言いつつ、金を取る言い方に、よく似ている。

 実際、ある母親は、息子の財産を横取りして、使いこんでしまった。それについてその息子が、泣
きながら抗議すると、その母親は、こう言い放ったという。

 「親が、先祖を守るため、自分の息子の金を使って。何が悪い!」と。

 世の中には、そういう親もいる。

●親・絶対教信者との戦い

 「戦い」といっても、その戦いは、やめたほうがよい。それはまさしく、カルト教団の信者との戦
いに似ている。親・絶対教が、その人の哲学的信条になっていることが多く、戦うといっても容易で
はない。

 それこそ、10年単位の戦いということになる。

 先にも書いたように、親・絶対教の信者であっても、それなりにハッピーな人たちに向って、「あな
たはおかしい」とか、「まちがっている」などと言っても、意味はない。

 人、それぞれ。

 それに仮に、戦ったとしても、結局は、その人からハシゴをはずすことで終わってしまう。「あなた
はまちがっている」と言う以上は、それにかわる新しい思想を用意してやらねばならない。ハシゴだ
けはずして、あとは知りませんでは、通らない。

 しかしその新しい思想を用意してやるのは、簡単なことではない。その人に、それだけの学習意欲
があれば、まだ話は別だが、そうでないときは、そうでない。時間もかかる。

 だから、そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてあげるのも、私たちの役目とい
うことになる。

たとえば、私の生まれ故郷には、親・絶対教の信者たちが多い。そのほかの考え方ができない……
というより、そのほかの考え方をしたことがない人たちばかりである。そういう世界で、私一人だ
けが反目しても、意味はない。へたに反目すれば、反対に、私のほうがはじき飛ばされてしまう。

 まさにカルト。その団結力には、ものすごいものがある。

 つまり、この問題は、冒頭にも書いたように、それくらい、「根」が深い。

 で、この文章を読んでいるあなたはともかくも、あなたの夫(妻)や、親(義理の親)たちが、親・
絶対教であるときも、今、しばらくは、それに同調するしかない。私が言う「10年単位の戦い」と
いうのは、そういう意味である。

●自分の子どもに対して……

 参考になるかどうかはわからないが、私は、自分の子どもたちを育てながら、「産んでやった」とか、
「育ててやった」とか、そういうふうに考えたことは一度もない。いや、ときどき、子どもたちが生
意気な態度を見せたとき、そういうふうに、ふと思うことはある。

 しかし少なくとも、子どもたちに向かって、言葉として、それを言ったことはない。

 「お前たちのおかげで、人生が楽しかったよ」と言うことはある。「つらいときも、がんばることが
できたよ」と言うことはある。「お前たちのために、80歳まで、がんばってみるよ」と言うことはあ
る。しかし、そこまで。

 子どもたちがまだ幼いころ、私は毎日、何かのおもちゃを買って帰るのが、日課になっていた。そ
ういうとき、自転車のカゴの中の箱や袋を見ながら、どれだけ家路を急いだことか。

 そして家に帰ると、3人の子どもたちが、「パパ、お帰り!」と叫んで、玄関まで走ってきてくれた。
飛びついてきてくれた。

 それに今でも、子どもたちがいなければ、私は、こうまで、がんばらなかったと思う。寒い夜も、
なぜ自転車に乗って体を鍛えるかといえば、子どもたちがいるからにほかならない。

 そういう子どもたちに向かって、どうして「育ててやった」という言葉が出てくるのか? 私はむ
しろ逆で、子どもたちに感謝しこそすれ、恩を着せるなどということは、ありえない。

 今も、たまたま三男が、オーストラリアから帰ってきている。そういう三男が、夜、昼となく、ダ
ラダラと体を休めているのを見ると、「これでいいのだ」と思う。

 私たち夫婦が、親としてなすべきことは、そういう場所を用意することでしかない。「疲れたら、い
つでも家にもどっておいで。家にもどって、羽を休めなよ」と。

 そして子どもたちの前では、カラ元気をふりしぼって、明るく振るまって見せる。

●対等の人間関係をめざして

 親であるという、『デアル論』に決して、甘えてはいけない。

 親であるということは、それ自体、たいへんきびしいことである。そのきびしさを忘れたら、親は
親でなくなってしまう。

 いつかあなたという親も、子どもに、人間として評価されるときがやってくる。対等の人間として、
だ。

 そういうときのために、あなたはあなたで、自分をみがかねばならない。みがいて、子どもの前で、
それを示すことができるようにしておかなければならない。

 結論から先に言えば、そういう意味でも、親・絶対教の信者たちは、どこか、ずるい。「親は絶対で
ある」という考え方を、子どもに押しつけて、自分は、その努力から逃げてしまう。自ら成長するこ
とを、避けてしまう。

 昔、私のオーストラリアの友人は、こう言った。

 「ヒロシ、親には三つの役目がある。一つは、子どもの前を歩く。ガイドとして。もう一つは、子
どものうしろを歩く。保護者(プロテクター)として。そしてもう一つは、子どもの横を歩く。子ど
もの友として」と。

 親・絶対教の親たちは、この中の一番目と二番目は得意。しかし三番目がとくに、苦手。友として、
子どもの横に立つことができない。だから子どもの心をつかめない。そして多くのばあい、よき親子
関係をつくるのに、失敗する。

 そうならないためにも、親・絶対教というのは、害こそあれ、よいことは、何もない。

【追記】

 親・絶対教の信者というのは、それだけ自己中心的なものの見方をする人と考えてよい。子どもを
自分の(モノ)というふうに、とらえる。そういう意味では、精神の完成度の低い人とみる。

 たとえば乳幼児は、自己中心的なものの考え方をすることが、よく知られている。そして不思議な
ことがあったり、自分には理解できないことがあったりすると、すべて親のせいにする。

 こうした乳幼児特有の心理状態を、「幼児の人工論」という。

 子どもは親によって作られるという考え方は、まさにその人工論の延長線上にあると考えてよい。
つまり親・絶対教の人たちは、こうした幼稚な自己中心性を残したまま、おとなになったと考えられ
る。

 そこでこう考えたらどうだろうか。

 子どもといっても、私という人間を超えた、大きな生命の流れの中で、生まれる、と。

 私もあるとき、自分の子どもの手先を見つめながら、「この子どもたちは、私をこえた、もっと大き
な生命の流れの中で、作られた」と感じたことがある。

 「親が子どもをつくるとは言うが、私には、指一本、つくったという自覚がない」と。

 私がしたことと言えば、ワイフとセックスをして、その一しずくを、ワイフの体内に射精しただけ
である。ワイフにしても、自分の意思を超えた、はるかに大きな力によって、子どもを宿し、そして
出産した。

 そういうことを考えていくと、「親が子どもを作る」などという話は、どこかへ吹っ飛んでしまう。

 たしかに子どもは、あなたという親から生まれる。しかし生まれると同時に、子どもといえでも、
一人の独立した人間である。現実には、なかなかそう思うのも簡単なことではないが、しかし心のど
こかでいつも、そういうものの考えた方をすることは、大切なことではないのか。

【補足】

 だからといって、親を粗末にしてよいとか、大切にしなくてよいと言っているのではない。どうか、
誤解しないでほしい。

 私がここで言いたいのは、あなたがあなたの親に対して、どう思うおうとも、それはあなたの勝手
ということ。あなたが親・絶対教の信者であっても、まったくかまわない。

 重要なことは、あなたがあなたの子どもに、その親・絶対教を押しつけてはいけないこと。強要し
てはいけないこと。私は、それが結論として、言いたかった。
(はやし浩司 親絶対教 親は絶対 乳幼児の人工論 人工論)

+++++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いたことがあります。
内容が少しダブりますが、どうか、参考に
してください。

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●かわいい子、かわいがる

 日本語で、「子どもをかわいがる」と言うときは、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽を
させること」を意味する。

一方、日本語で「かわいい子ども」と言うときは、「親にベタベタと甘える子ども」を意味する。反
対に親を親とも思わないような子どもを、「かわいげのない子ども」と言う。地方によっては、独立
心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 この「かわいい」という単語を、英語の中にさがしてみたが、それにあたる単語すらない。あえて
言うなら、「チャーミング」「キュート」ということになるが、これは「容姿がかわいい」という意味
であって、ここでいう日本語の「かわいい」とは、ニュアンスが違う。もっともこんなことは、調べ
るまでもない。「かわいがる」にせよ、「かわいい」にせよ、日本という風土の中で生まれた、日本独
特の言葉と考えてよい。

 ところでこんな母親(七六歳)がいるという。横浜市に住む読者から届いたものだが、内容を、ま
とめると、こうなる。

 その男性(四三歳)は、その母親(七六歳)に溺愛されて育ったという。だからある時期までは、
ベタベタの親子関係で、それなりにうまくいっていた。が、いつしか不協和音が目立つようになった。
きっかけは、結婚だったという。

 その男性が自分でフィアンセを見つけ、結婚を宣言したときのこと。もちろん母親に報告したのだ
が、その母親は、息子の結婚の話を聞いて、「くやしくて、くやしくて、その夜は泣き明かした」(男
性の伯父の言葉)そうだ。

そしてことあるごとに、「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました」「親なんて、さみしいもので
すわ」「息子なんて、育てるもんじゃない」と言い始めたという。

 それでもその男性は、ことあるごとに、母親を大切にした。が、やがて自分のマザコン性に気づく
ときがやってきた。と、いうより、一つの事件が起きた。いきさつはともかくも、そのときその男性
は、「母親を取るか、妻を取るか」という、択一に迫られた。

結果、その男性は、妻を取ったのだが、母親は、とたんその男性を、面と向かって、ののしり始め
たというのだ。「親を粗末にする子どもは、地獄へ落ちるからな」とか、「親の悪口を言う息子とは、
縁を切るからな」とか。その前には、「あんな嫁、離婚してしまえ」と、何度も電話がかかってきた
という。

 その母親が、口グセのように使っていた言葉が、「かわいがる」であった。その男性に対しては、「あ
れだけかわいがってやったのに、恩知らず」と。「かわいい」という言葉は、そういうふうにも使われ
る。

 その男性は、こう言う。

「私はたしかに溺愛されました。しかし母が言う『かわいがってやった』というのは、そういう意
味です。しかし結局は、それは母自身の自己満足のためではなかったかと思うのです。

たとえば今でも、『孫はかわいい』とよく言いますが、その実、私の子どものためには、ただの一度
も遊戯会にも、遠足にも来てくれたことがありません。母にしてみれば、『おばあちゃん、おばあち
ゃん』と子どもたちが甘えるときだけ、かわいいのです。

たとえば長男は、あまり母(=祖母)が好きではないようです。あまり母には、甘えません。だか
ら母は、長男のことを、何かにつけて、よく批判します。私の子どもに対する母の態度を見ている
と、『ああ、私も、同じようにされたのだな』ということが、よくわかります」と。

 さて、あなたは、「かわいい子ども」という言葉を聞いたとき、そこにどんな子どもを思い浮かべる
だろうか。子どもらしいしぐさのある子どもだろうか。表情が、愛くるしい子どもだろうか。それと
も、親にベタベタと甘える子どもだろうか。一度だけ、自問してみるとよい。
(02−12−30)

●独立の気力な者は、人に依頼して悪事をなすことあり。(福沢諭吉「学問のすゝめ」)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親意
識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だから、
子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強いほど、(子
どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクしてくる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられたと
いう経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子育てが
できる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい親
であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い親、反
対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育った親ほど、そ
の親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれぞれ
の立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。その「懸命さ」
を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼な言
い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節がある。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことにも、耳
を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。

子どもが親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけてし
まう。ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだから」
という、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、またど
んな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、混乱期
というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。

一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけとい
うケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時代
でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世代が勝っ
たためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしながら、子どもの
声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私は親
だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、「どこ
まで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かしたり、悪玉
親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然体で考えれば
よい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。


【3】評論

●K国の食糧事情

 カトリック系の民間救援団体「カリタス香港」のカーティー・ジェルウェガー国際合作本部長(50)
は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の最近の食糧・医療事情を「憂慮すべき水準」と警告した(「朝
鮮日報」紙、6月25日号)。

 そして、ジュルエェルガー氏は、「K国の子どもの身長は、韓国の子どもの身長より、20センチも
低い」と報告している。

 いわく、「慢性の栄養失調状態が改善されない。5歳以下の子供の40%以上が栄養失調状態だ。7
歳の北朝鮮子供の平均身長が105センチだ。同年代の韓国の子供は125センチだ。体重も南北の
子供の間では10キロ以上も差がある。身体の欠陥は精神的欠陥へとつながり、次世代に悪影響を与
えることになるだろう」と。

 ちなみに、日本の子どもたちの平均身長と体重は、つぎのようになっている。

 満5歳児      109・9cm   19・2kg
  6歳児      115・8     21・7
  7歳児      121・6     24・4
  8歳児      127・4     27・7
            (1999年度・学校保健統計)

 日本の子どもと比較すると、K国の子どもたちの平均身長は、満7歳児で、満5歳児程度というこ
とになる。

 さらに今年(04年)は、食糧事情が悪化するという。「5年前ほどはひどくないが、10月前の収
穫期に、危機的な状況になる」とも。

 こういう現実を前にして、ピョンヤンの指導者たちは、いったい、何を考えているのか? 今、と
りあえず必要なのは、核兵器でも、ミサイルでもない。食糧なのだ!

 自分たちの悪政の失敗を棚にあげて、「アメリカが悪い」だの、「日本が悪い」だの、まさに言いた
い放題。おまけに今度は、核実験! ミサイル発射実験!

 だれもK国なんか、攻めはしない。頼まれてもいない。

 韓国の国情院も、つぎのように報告している。

 「国家情報院(国情院)が7日発表したところによると、北朝鮮は、昨年、必要とされる穀物の7
0%しか生産できず、今年も食糧難が続くものとみられる。
  国情院は『食糧需給の実態』との資料で、北朝鮮の穀物生産量が425万トンで、正常な供給(成
人基準1日700グラム)が行われる場合、214万トン(需要量は639万トン)が不足するだろ
うとの見方を示した。国情院が、自主的に調べた情報に基づいて、北朝鮮の食糧実態を発表したのは
異例なこと」(同、6月26日)

 その不足分の214万トンのうち、韓国、中国、日本などが、昨年並みの100万トンを援助。そ
れでも、約100万トンが不足することになる。

 それにしても、身長差が、20センチとは! 

 私はいつか、日本とK国の国交が正常化されたら、イの一番に、K国を訪問してみたい。そして子
どもたちの状況を、つぶさに調査してみたい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 26日(No.440)
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【7月いっぱい、電子マガジンは、簡略版になります。どうかお許しください。】
  7月23日号、7月26日号、7月28日号、7月30日号
  につきましては、HTML版は、お休みします。

●8月からのマガジンは、どうするか、今のところ、未定です。
追って、連絡します。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

【特集・子どもの学習机】


●子ども机の配置

近所のRさん(母親)が、二人の息子(小学生)のために、家の内装を変えた。たまたまRさんと
通りで会うと、Rさんは、うれしそうに、「見てください」と言った。それで、ほんの5、6分程度
だったが、部屋の中を、見せてもらった。

 今まで壁で二つに分かれていた部屋を、大きな一つの部屋にした。そして中央に、ソファ、一つの
学習机は、壁に向って、もう一つの学習机は、窓に向っておいてあった。が、二つとも、前に高い棚
のある、閉鎖式の学習机。せっかくの窓も、半分以上、その棚で隠れてしまっていた。

 私は、「これでは子どもは、勉強嫌いになる」と思ったが、何も言わなかった。説明するにも、時間
がない。どこからどう説明しようかと考えているうちに、時間がきてしまった。「仕事がありますから」
と、その場を去った。

【ポイント1】

 学習机は、勉強するためのものではない。休むためのものである。

 子どもが勉強をしていて疲れたとき、そのまま休めるような机がよい。休めない机だと、子どもは、
その場を離れる。つまりその瞬間、勉強は中断する。一度、中断した勉強は、なかなもとに、もどら
ない。

【ポイント2】

 机は、スミから、部屋の中央、出入り口のドアが見える位置に配置する。

【ポイント3】

 机の前に棚のある閉鎖式の机は、一時的に子どもをひきつける効果はあるが、長つづきしない。そ
の圧迫感が、長い時間をかけて、子どもを勉強嫌いにする。

 子どもの学習机は、広くて、何もない、開放式の机にする。

【ポイント4】

 意外と盲点なのが、イス。イスは、広くてゆったりとした、ヒジかけのあるものを選ぶ。

【ポイント5】

 机の前にはできるだけ広い空間を用意する。本棚など、圧迫感のあるものは、背中側に配置する。
窓は、座った位置からみて、左側にあるように配置するのがよい(右利き児のばあい。)

 学習机を安易に考えてはいけない。長い時間をかけて、子どもを勉強嫌いにする可能性(危険性)
がある。

 ……というようなことは、実は、もう何度も、あちこちで書いてきた。Rさんの子どもの部屋を見
たときも、あああと思っただけで、声が出なかった。「何度説明しても、新しい母親は、同じような失
敗を繰りかえすのだあ」と、心のどこかで思った。

++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を、そのまま転載する。

あちこちの雑誌や、本に書いた原稿を、
そのまま転載します。内容的にダブる部分
もありますが、お許しください。

これはあなたの子どもを勉強嫌いにしない
ためです。

++++++++++++++++++

●机は、購入後三か月で、物置台

 子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。

 どんな勉強でもしばらくすると、疲れる。問題はその疲れたとき。そのとき、そのまま机に座って
休めればよし。そうでなければ、子どもは机から離れる……イコール、そこで勉強は中断する。

一度、中断した勉強は、なかなかもとに戻らない。そこで机を選ぶときは、そのまま休める机であ
るかどうかを考えながら、選ぶ。

最近では前に棚のある、棚式の学習机が主流だ。しかしこのタイプの机は、機能的にはできている
が、圧迫感があって、長く使っていると抑うつ感が生まれる。へたをすれば、勉強嫌いの遠因とも
なりうる。

実際、私が調査したところ、この棚式の机は、購入後三か月で、約八〇%強が物置台になっている
ことがわかった(小学一年生、三〇名について調査)。

 そこであなたの子どもと学習机の相性を調べてみよう。方法は次のようにする。まず子どもが好き
そうな食べものを用意する。そしてそれをそれとなく、子どもの机の上に置いてみる。そのとき子ど
もがそのまま机に座って、それを食べればよし。しかし子どもがそれを机から別の場所へ移して食べ
るようであれば、相性はかなり悪いとみる。

 あるいはあなたの子どもが学校から帰ってきたとき、最初にどこに座り、体を休めるかを観察して
みる。そのとき子どもが、自分の机に座って体を休めるようであれば、その机との相性は、きわめて
よいとみる。

結論から先に言えば、学習机のポイントは、

(1)平机であること。
(2)机の前にはできるだけ広い空間を用意すること。
(3)棚など、圧迫感のあるものは、背部に置くこと。
(4)机に座った位置から、ドアが見えるように配置すること。
背中側にドアがあると、心理的に落ち着かない。
(5)窓の位置も重要である。窓は机に座った位置から、向かって左側にあるとよい。これは採光の
ため(約一〇〇名について調査)。

 しかしもっと重要なのが、実は、椅子である。机を選ぶときは、椅子の座りごごちをみること。椅
子は座る部分が平らで、かためのもの。窮屈なものより、広めなものがよい。腕を休めることができ
るひじかけがあれば、なおよい。

ふかぶかとした、やわらかい椅子は、一見座りごこちがよさそうにみえるが、実際には疲れやすい
ことがわかっている。

また、わざと前かがみになって学習する椅子がある。椅子自体が、前へ傾くようになっている。し
かしあの椅子は、学習中は能率があがるものの、座った状態で休むことができない。つまり、そこ
で学習が中断する。

なお小学校の低学年児についてみると、大半の子どもは、台所のテーブルなどを利用して勉強して
いる。子どもというのは、無意識のうちにも、一番居ごこちのよい場所を選んで、勉強する。

もしそうであれば、テーブルを積極的に学習机にしてみるという手もある。子どもは進んで、勉強
するようになるかもしれない。少なくとも勉強は学習机でするものという考え方は、この時期には
当てはまらない。

 要するに、ものには相性というものがある。その相性が悪いと、長い時間をかけて、子どもをマイ
ナスの方向に引っぱってしまう。子どもの学習環境を考えるときは、機能ではなく、その相性をみな
がら判断する。

+++++++++++++++++++++++

●机は平机

 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月で、約八〇%
の子どもが机を、物置にしていることがわかった。

いろいろな附属品ついいる棚は、一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくまでも一時的。
棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざける。

あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどうい
うものか、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。あるい
はこの時期、まだ机はいらない。

 まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型にはまりやす
い民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。

小学校の低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もしそう
であれば、それでよい。この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」という思い
を子どもがもつようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。

 子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそれをその
まま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に移して食べるようであ
れば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強嫌いの遠因になることもある。

 よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。どんな
勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子どもがそのまま机に向か
って休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断する。

勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにある。が、そ
れでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。

 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察してみる。た
いては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって勉強部屋にする。あな
たの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなければ失敗す
る。

++++++++++++++++++++++

●勉強部屋は開放感がポイント

 以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。結果、ドアから一番離れ
た、一番うしろの窓側の席ということがわかった。

子どもというのは無意識のうちにも、居心地のよい場所を求める。その席からは、入り口と図書室
全体が見渡せた。このことから、子ども部屋について、つぎのようなことに注意するとよい。

(1)机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えればなおよい。
ドアが背中側にあると、落ち着かない。
棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。

(2)光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置く方法もあ
るが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。

(3)机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、物入れな
どを用意する。


 多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が生じ、それ
が子どもを勉強嫌いにすることもある。

 また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあるとよい。フワ
フワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって疲れる。また座ると前
に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかしそのイスでは、休む
ことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れてしまう。一度中断した勉
強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためではなく、休むためにある。それを
忘れてはならない。

 子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を求めるよう
になる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。それ以前については、ケー
スバイケースで考える。

+++++++++++++++++++++

●机は休む場所

学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると疲
れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことができれば、
よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、なかなかも
とに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の上に
置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もしその食べ
物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分の好きなことを、
何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているということになる。相性の悪い
机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使っていると
圧迫感が生まれる。日本人は机を暗い壁に向けて置く習性があるが、このばあいも、長く使っている
と圧迫感が生まれる。数か月程度なら問題ないかもしれないが、一年二年となると、弊害が現れてくる。

で、その棚式の机だが、もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがある。
結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわかった。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかもしれな
いが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。

あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用し
て勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。
親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一
緒にやろうか?」と話しかけるなど。これを動機づけというが、こうした動機づけをこの時期は大
切にする。
 
++++++++++++++++++

●学習机 Q 子どもの好きなおやつを、そっと子どもの学習机の上に置いてみてください。

あるいは何か、子どもの興味をひくようなものでもよいです。
するとあなたの子どもは……
 (1)そのものを、ほかの場所へ移して、食べたり遊んだりする。
 (2)机の上は物置きになることが多く、いつも雑然としている。
(3)そのまま自分の机の前に座り、それを食べたり、それで遊んだりする。

A よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。

どんな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたとき。子どもがそのまま机
に向かって休むことができればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断する。
勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにある。
 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月で、約八
〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。いろいろな附属品がついた机は、一時的に
子どもの関心を引くことはできるが、あくまでも一時的。

棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざける。あな
たも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどういうも
のか、わかるはず。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。あるいは小
学校の低学年児には、机はまだいらない。
(1)や(2)のようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強
嫌いの遠因になることもある。ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはう
まくいく。そうでなければ失敗する。(正解(3)) +++++++++++++++++++++++

●机は休む場所と考えろ!

子どもが学習机から離れるとき

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると疲
れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことができれば、
よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、なかなかもと
に戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の上に
置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もしその食べ
物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分の好きなことを、
何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているということになる。相性の悪い
机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使っていると
圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがある。結果、
棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわかった。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるかもしれな
いが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低
学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強して
いる。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあ
いを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」
と話しかけるなど。

●学習机を置くポイント

 学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 
(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
(3)座った位置からドアが見えるようにする。
(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。
(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
(6)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強で
きないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ちつかな
いことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひじかけがあ
ると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、どうしても体が
前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがるかもしれ
ないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休
めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。たいてい
は台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうところを勉強
場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大切に
する。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子どもは何かにつ
け、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこともある。

++++++++++++++++++++

 今回は、しつこく、子どもの学習机についての記事をまとめてみた。今では、「小学校入学」という
と、迷わず、家具屋で、子どもの学習机を購入するのが、当たり前になってしまった。

 しかしそれがいかに、おかしなことであるか、それを少しでも理解してもらえれば、うれしい。「勉
強というのは、机に向ってするもの」という、日本独特の固定観念が、その背景にあるものと思われ
る。

 それがまちがっているとは思わないが、もう少し、子どもの視点(原点)に立ちかえって、学習机
を考えてみる必要があるのではないだろうか。

 それがわからなければ、これらの原稿のどこかにも書いたが、あなたも一度、壁に向って自分の机
を置き、本でも何でも読んでみることだ。あなたは10分もしないうちに、本を読むのをやめてしま
うだろう。

 私は、本や雑誌を読むときは、いつも、ソファの上に寝転んで読む。多分、あなたもそうではない
か。そういう視点から、子どもの学習机はどうあるべきか、もう一度、考えなおしてみてほしい。
(はやし浩司 子どもの学習机 子供の学習机 部屋の配置 子ども部屋 子供部屋)
(040626)

【追記】

 子どもは無意識のうちにも、不快な場所を避けようとする。そういう心理を無視して、「ここで勉
強しなさい」と親が、子どもを強要したらどうなるか? 結果は、明らかである。くれぐれも、中止
してほしい。


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【日々・雑感】

●感情的知能(EQ)

 知能指数をIQというのに対して、感情的知能指数を、EQという(サロベイ)。

 知能指数は、その子どもの、知的能力の優劣を表す。これに対して、感情的知能指数は、その子ど
もの、社会適応能力を表す。最近の研究では、……というより常識として、頭のよい子どもイコール、
社会に適応できる子どもとは、かぎらない。

わかりやすく言うと、IQと、EQは、まったく別。もう少し、内容を詳しくみてみよう。

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 EQは、実際のペーパーテストでは、測定できない。あくまでもその子どもがもつ、全体的な雰囲
気で判断する。

 しかしこれは子どもの問題というより、子どもをもつ、親の問題である。「子どもを……」と考えた
ら、「私はどうか?」と考える。「私は、どうだったか?」でもよい。

 そこで私の自己判定。


(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。

 私には二面性があると思う。いつも他人に合わせて、へつらったり、機嫌をとったりする反面、協
調性がなく、ちょっとしたことで、反目しやすい。

(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。

 人前では、統制力があり、自分をコントロールすることができる。あるいは無理にコントロールし
てしまう。もう少し、自分をすなおにさらけ出せたらと、よく思う。

(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。

 これについても、二面性がある。ときに楽観的になりすぎる反面、もともと不安神経症(基底不安)
型人間。気分が落ちこんでいたりすると、ものごとを、悪いほうへ悪いほうへと考えてしまう。取り
こし苦労をしやすい。

(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。

 ときとして猛進型。そういうときになると、まわりの様子がわからなくなる。と、同じに、自分を
客観的に見られなくなる。ときとばあいによって、異なる。

(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。

 むしろ環境のほうを、自分に合わせようとする。無理をする。思考力は、若いころにくらべて、柔
軟性をなくしたように思う。がんこになった。保守的になった。

(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 それはあると思うが、本来、私は、短気で、あきっぽい性格。いつもそういう自分と戦いながら、
無理に無理を重ねている感じ。そういう意味でも、私は、いつも自分をごまかして生きていると思う。

 以上、こうして自分の姿をながめてみると、私は優柔不断で不安定、かつ一貫性がないことがわか
る。二重人格性もある。だから、私はこういう人間だというふうに、はっきりと判定することができ
ない。

 わかりやすく言うと、(本物の私)と、(社会で表面的に生きている私)とは、別人であるというこ
と。

 本物の私は、ズボラで、小心者。怠け者で、小ズルイ。スケベで、わがまま。それでいて、負けず
嫌い。めんどうなことが、嫌い。わずらわしいことも嫌い。

 そういう私が、精一杯、自分をごまかして、生きている。「そうであってはいけない」と思いながら、
別の人格を演じている。外の職場という世界だけではなく、内の家庭という世界でもそうなのかもし
れない。

 だから私のような生き方をしているものは、疲れる。どこにいても、疲れる。本来なら、どこかの
橋の下で、だれにも会わずに、ぼんやりと過ごすのが一番、私の性(しょう)に合っているのかもし
れない。

 しかしそれでは、この世の中では、生きていかれない。そこで私は、別の私をつくりあげたとも考
えられる。一見まじめなのは、反動形成(反動として、別の人格をつくりあげること)によるものか
もしれない。

 ……とまあ、自分のことだから、少し、きびしく判定してみた。

 こうしたEQ判定は、欧米の学校では、伝統的になされている。学力だけでは、よい瀬席はとれな
い。大学の選抜試験にしても、学力の成績以上に、担当教師による、人物評価がものをいう。

 日本も、やがてそういう方向に沿って、これからの「生徒評価」も変わってくると思う。たとえば、
「学力、189点/250。EQ点202点/250。合計391点/500」と。現在でも、大学
入試に関しては、センター試験(学力試験)と、つづく個別大学での面接試験(人物評価)がなされ
ているが、だれも、これでじゅうぶんだとは、思っていない。
 
 教育というのは、子どもの何を教育する場なのか、改めて考えなおしてみる必要がある。
(はやし浩司 感情的知能 感情的知能指数 子どもの社会的適応能力 EQ Emotional 
Quality)


【はやし浩司の性教育】

●チンチンの進化論的、雑学

 数十万年という気が遠くなるほどの進化の過程を経て、人間は、ここまで進化した。ムダなものは、
何一つない。一見、ムダに見えるもことでも、よく考えると、ちゃんと理由がある。男のチンチンと
て例外ではない。

(1)なぜチンチンは、ホースなのか?

 小便をするためにホースが必要という考え方は、まちがっている。現に女性には、ホースがない。
ホースがなくても、小便はできる。

 チンチンが、ホースになっているのは、生殖のためである。精子を、女性の膣の奥深くに、届ける
ためである。

(2)では、チンチンは、どうして長くなったのか?

 胎児は、骨盤に囲まれた、人体でももっとも安全な場所に、宿る。その場所は、女性の体の奥深く
にある。チンチンは、そこまで精子を送り届けねばならない。だから長くなった。

(3)チンチンが、短かったら、どうなるのか?

 反対に、子宮口が、出口近くにあったら、どうなるか? それをかんがえてみればよい。事故で妊
娠してしまう危険性がある。

たとえばどこかの男が、岩場で射精したとする。(人間は、太古の昔には、魚だった。それを忘れて
はならない。)

それを知らず、女性が、その上に座ったとしたら、どうなるか? 岩場に残った精子が、女性の体
内に侵入してしまう。そういう危険性が、大きくなる。

 だから子宮口は、ある程度、人体の奥深くにする必要があった。

(1)どうして勃起しないと、長くならないのか?

 チンチンのような付帯物は、コンパクトであればあるほど、よい。もともとなくても、困らないも
のである。あんなのをブラブラと、ぶらさげているというのも、おかしなことだ。

 が、それではここにも書いたように、生殖には、役だたない。そこで必要なときだけ、長く、大き
くするということにした。それが勃起である。

 かたくなるについても、意味がある。

 反対に、いつも長く、かたくしたら、どうなるか? 男性ならみな、知っているが、そうなったら、
歩くことすら、ままならなくなってしまう。

 もう一つの意味は、やはり女性の膣を、分け入るという目的がある。不要な精子は、入り口でシャ
ットアウトしなければならない。そのため、女性の膣は、ふだんは、閉まっている。やわらかいチン
チンでは、その扉を分け入ることはできない。

 そこでチンチンは、必要なときだけ、長く、かたくなるようになった。

(5)チンチンは、どうして太いのか?

 そのとき、女性は、男性より、はるかに強い快感を覚える。男性が感ずる快感は、射精時の一瞬だ
が、女性はそうでない。それこそ身も心も溶かすほどの快感を覚える。

 それにつづく、妊娠、出産、育児の苦労を思えば、当然である。つまりその快感は、こうした苦労
を乗り越えさせるだけにじゅうぶんなほどの、快感である。またそうでなくてはならない。

 もしその快感がなかったら、女性は、セックスなどしなくなるだろう。つまりその時点で、人間は
絶滅する。

 そこでチンチンだが、細くては、女性に刺激を与えることができない。しかし太いと、ふだん、使
っていないときには、じゃまになる。

 そこで勃起と同時に、長く、かたく、そして太くなるようにした。

 で、その太さだが、もともと膣は、新生児を通過させるには、じゅうぶんなほど、広くする必要が
ある。本来なら、膣も、細く、コンパクトなほうがよい。しかしそれでは、新生児が通過することが
できなくなってしまう。

 ある程度の広さが必要である。

 この膣のある程度の広さに合致するため、つまり、ちょうどほどよい太さになるよう、チンチンの
太さが決まった。もちろんこれも、長い進化の過程における、その結果である。

(6)どうしてチンチンや、膣は、ウンチの出口近くにあるのか?

 もしチンチンが、腹の上や、背中にあったら、どうなるかということを、反対に考えてみればよい。

 生殖は、人間の種族保全のためには、最重要事だが、しかし生活の場では、一部でしかない。

 毎日、男性が勃起し、女性がアヘアヘとあえいでいたのでは、生活そのものが、成りたたなくなっ
てしまう。そこで私たちがあまり使わないものは、部屋のスミに置くように、生殖器を、体のスミに
追いやった。

(7)小便と、精子の出口が同じとういうのも、不合理ではないのか?

 先にも書いたように、ホースは、もともと、生殖用のもの。そのホースを、小便側が、勝手に利用
しているだけ。たとえて言うなら、電柱を、有線放送のケーブルが勝手に、借用するようなもの。

 もし小便口が別に、そのあたりにあったとすると、小便をするたびに、ホースをどかさねばならな
い。じゃまになる。

 そこで共用することにした。

(8)なぜ女性は、「男」を選ぶのか?

 基本的には、男性も、「女」を選ぶ。しかし血気盛んなころは、射精そのものを目的とする。だから
男性は、あまり女を選ばない。

 一方、女性は、そうはいかない。先にも書いたように、そのあと、妊娠、出産、育児という重労働
が待っている。

 で、なぜ女性は「男」を選ぶかといえば、より優秀な子孫を、後世に残すためである。これは人間
も、ほかの動物と、まったく変わらない。

(9)女性が「男」を選ぶ基準はあるのか?

 かなりフレキシブルなものと考えてよい。

 もし女性や、男性の好みが単一化すると、その時点で、人間は、絶滅することになる。あるいは戦
争になるかもしれない。

 たとえば、ある学校に、たった一人のすばらしい「男」と、たった一人のすばらしい「女」がいた
とする。

 恋愛が成立するのは、その男と女の、一組だけということになる。あとの全員は、それを指をくわ
えて見ているだけ。……となると、次世代の子どもは、その一組のカップルだけが残すことができる
ということになる。しかし、これではまずい。

 そこで進化の過程で、人間の好みに、柔軟性をもたせることにした。

 細い女性が好きな男もいれば、太った女性が好きな男もいる。またその好みは、年齢とともに変化
することもある。そういう柔軟性である。

(10)ついでに、どうしてウンチは臭いのか?

 人間が、原始生物だったころのことを、想像してみればよい。

 もしウンチがよい臭いで、おいしそうに見えたら、人間は、ほかの食べ物といっしょに、ウンチま
で食べてしまっていただろう。

 そうなると、伝染病などは、一気に広がってしまう。

 そこでウンチには、強烈な臭いをつけた。そしてそれを嫌うようにした。

 しかし自分のウンチやオナラまで嫌ってしまうと、人間は、自己嫌悪におちいってしまう。そこで、
自分のウンチやオナラについては、「いい臭い」と感ずるようにした。あのソクラテスも、そう書き残
している。『自分のウンチは、いい臭い』と。

 で、相手を心底好きになると、その相手のウンチやオナラまで、よい臭い(匂い)に感ずるように
なる。つまり、そこまで相手を、自分の中に、受け入れることを意味する。また、それを、「LOVE」
という。

 ……以上、はやし浩司の性教育。

 ときどき、高校生たちに、こんな話をする。コツは、淡々と、決して、ニヤつかないで、事実だけ
を話すこと。そういうときだけ、今の生徒は、目を輝かせて、私の話を聞く。ホント!


●叔父風、叔母風

 親風どころか、叔父風、叔母風を吹かす人がいる。

 福井県O町に住んでいるX氏(45歳)から、こんなメールが、届いた。

 「私の住む地域は、古臭いところです。
  はやし先生は、よく親風を問題にしますが、
  このあたりでは、親どころか、親の兄弟たちまで、
  甥や姪の家の中にまで、ズカズカと入り込んできて、
  遠慮なく、干渉してきます。

  先日は、『お前は、ちゃんと、親父を大切にしているか?』と
  言ってきました。

  あるいは、『KK(=私の父親)は、心配ないな。
  お前のような、親孝行のいい息子をもっているからな』
  と言いました。

  どこか、いつも、イヤミに聞こえます。

  こんなことは、私の地域だけでしょうか。
  それとも全国的なことなのでしょうか」と。

 マガジンへの掲載を許してもらえなかったので、私のほうで少し内容を要約、改変した。

 まあ、全体としてみれば、親風を吹かす人(=悪玉親意識をもっている人)は、それ自体が、基本
的な人生観になっているため、あらゆる方面で、権威主義的なものの考え方をする。

 それがときに、叔父風、叔母風にもなる。自分の息子や娘どころか、甥や姪まで、自分のモノ(配
下)のように、扱う。もともと上下意識が強く、「親は絶対」「家は絶対」「先祖は絶対」というような
考え方をする。

 このタイプの人は、それ以外の考え方ができないので、説得してもムダ。こうした権威主義的なも
のの考え方を否定するということは、その人の人生を否定することに等しい。だから、どんな言い方
をしても、猛烈に反発する。

 だから適当にあしらいながら、つきあうしかない。

 しかし私も、親風までは考えたことはあるが、叔父風、叔母風までは考えたことがなかった。なる
ほど!
(はやし浩司 親風 叔父風 叔母風)


●「長男だから……」という『ダカラ論』

 カナダ在住の女性(日本人。夫はカナダ人)が、以前、こう書いてきた。

 「日本では、いまだに、長男だから……と、ダカラ論だけでものを考える人がいるのには、驚きま
した」と。

 一方、フランスに住んでいる女性からは、こんなメールが届いた。

 「夫の母親(フランス人)の家に遊びに行くと、夫の母親が、私たちに、『私の家を買ってくれない?』
と言います」と。

 日本では、あまり聞かれない言い方なので、新鮮な感じがした。実の母親が、実の息子夫婦に、「(私
も歳をとったから、町の中のアパートに引っ越したい。ついては)、私の家を買ってくれない?」と言
うというのだ。

 親が、息子夫婦に、家を売るというのである。「あげる」とか、「渡す」ではなく、「売る」と言って
いる、と。

 何でもないことのようだが、ここに日本と欧米の親子観のちがいが、集約されているように思う。
つまりこういう発想は、日本人にはない。

 むしろ日本では、逆に考える。どう逆に考えるかは、ここで改めて説明するまでもない。

 が、問題は、その先。

 今の今でも、「長男だから」という、意味のない『ダカラ論』にしばられて、悶々とした人生を送っ
ている人は、少なくない。人生のほとんどを「家」にしばられたままの人である。

 親子関係がそれなりにうまくいき、それなりに生活の保障された「家」なら、まだ納得できる。

 しかし親子関係は、メチャメチャ。その上、それほどの家でもない(失礼!)。そういう家にしばら
れ、長男だからという『ダカラ論』にしばられている人の、欲求不満は、相当なものである。

 友人のY氏(56歳)もそうだ。両親は、H市の郊外に、畑をもっていた。家の横には、8世帯分
のアパートも所有していた。父親は、Y氏が35歳くらいのとき、他界。最近、母親が死んだので、
自由になったとはいえ、心が晴れない。

 そのY氏は、会うたび、いつもこう言う。

 「ぼくも、林君のように、若いときは、外国を飛びまわりたかった」と。

 Y氏がもつ不完全燃焼感は、恐らくY氏でないとわからないだろう。そこで私が、「じゃあ、土地と
家を売って、今、したいことをすればいいじゃない。まだ人生は長いから……」と言うと、Y氏は、
こう言った。

 「それができれば、文句はないよ。土地を売るといえば、叔父や叔母が黙っていないよ。親の墓守
りをしなければ、土地と家は、すべて返せと言われるよ」と。

 そういうY氏のような例もある。事情は、それぞれ、複雑なようだ。

 私自身も、若いころは、何度も、外国への移住を考えた。しかしそのつど、母に泣きつかれ、それ
を断念したという経験がある。Y氏ほどではないが、その不完全燃焼感が、ないわけではない。

 しかし江戸時代ではあるまいし……。21世紀にもなった今、「家」だとか、「長男」だとか言って
いるほうがおかしい。いつになったら、日本人は、そのおかしさに気づくのか。

 ……というのは、言い過ぎかもしれない。ただ現在は、日本も大きな過渡期すぎ、つぎの新しい時
代に入りつつあるときと言える。こうした過去の亡霊にこだわっている人は、地方に住む、古い世代
にかぎられてきている。私の姉が嫁いだ家も、昔からの農家だが、姉夫婦は、こう言っている。

 「息子や娘には、自分の人生があるから、自分の人生を生きればいい」と。

 そういう考え方が、今、日本の主流になりつつある。


●6か国協議

 今日、6月24日(木)、中国の北京で、K国の核問題を話しあうための、6か国協議が開かれてい
る。

 「核開発をやめてほしかったら、金をよこせ」と、すごむK国。
 「凍結を宣言したら、エネルギーを支援する」と、なだめる韓国とロシア。
 「核開発をすべて開示したら、国際的な支援に加わる」と、約束する日本。そしてアメリカ。
 
 さあ、どうなる?

 「核開発の放棄など、金XXがするはずがない」という前提に立つなら、結果は、火を見るより、
明らか。核兵器あってのK国。核兵器がなければ、ただの貧乏国。金XXだって、それくらいは知っ
ている。

 しかし今、K国に、現金を渡せばどうなるか。K国は、ロシアと中国に多額の借金を返したあと、
残った金で、またせっこらせっこらと、武器を買いつづける。日本もアメリカも、そんなことは百も
承知である。つまり、今、K国に、現金を渡すわけにはいかない。

 あの金XXは、絶対に、信用してはいけない。また信用できるような指導者ではない。自国民でさ
え平気でだますような指導者である。日本やアメリカをだますことなど、朝飯前。

 そこで、アメリカの腹は、もう決まっている。K国に適当に、アメをしゃぶらせておきながら、1
1月の大統領選挙まで、時間を稼ぐ。その間に、韓国の動向を見極めた上で、K国の核問題を、安保
理に付託する。

 日本も、表面的には、K国をなだめるだろうが、進む方向は、アメリカと同じ。

 問題は、韓国だが、すでに米韓関係は崩壊しているとみてよい。もともと反米をかかげて当選した、
ノムヒョン氏である。当然と言えば当然。アメリカは、韓国から撤退する。アメリカにしても、「嫌わ
れてまで、命をかけて、韓国を守ることもない」というのが、本音。

 日本も似たようなもの。沖縄をはじめ、日本全土で、アメリカ軍が移動するたびに、猛烈な基地反
対運動が起きる。アメリカ人にしてみれば、「日本を守ってやっているのに、どうしてこうまで嫌われ
るのか」となる。

 これから先、アメリカは、自国の国益を再優先にして、K国の核問題をとらえるにちがいない。そ
してそのために、最善の方法は、国連安保理を利用して、K国の核兵器開発を押さえることである。

 その結果、K国が暴発して、韓国へ戦争をしかけようが、日本にミサイルを撃ちこもうが、「知った
ことか!」となる。日本はともかくも、韓国は、自分でまいた種。今さら、アメリカに向かって、「韓
国に残ってください」とは、とても頼めまい。悲しいかな、今は、そういう状況である。

 明日になれば、6か国協議のゆくえは、もっとはっきりしてくるだろう。が、多分、私がここで書
いたとおりになると思う。どういうわけか、ことK国に関しては、私の予想は、はずれたことがない。
(ホントだぞ!)


●眠りそこなう

 フトンの中で、ちょうどウトウトし始めたところで、ハナが、ほえた。だれかが、駐車場のほうか
ら庭へ入ろうとしたらしい。

 それで目が覚めてしまった。

 眠ろうと思って、目を閉じたが、頭は、さえるばかり。そこでしかたないので、起きあがって、台
所まできて、ジュースを一杯。時計を見ると、午前0時半!

 明日はH幼稚園で講演というのに、これでは困る。

 「1時まで起きていて、マガジンの発行を見届けてから、また寝よう」と、心に決める。その間、
することもないので、こうして、この原稿を書く。

 今日も、無事、終わった。忙しい一日だったが、かえってそのほうが、私には、よいかもしれない。
夕方ワイフが、息子を連れて、教室へやってきた。そのまま、旅行会社で、息子の航空券の予約をす
ますと、市内のレストランへ。みなで食事。

 そしてあわただしく、また夜の仕事。

 今夜は、中学生を5人、教える。底抜けに明るい子どもたちで、ちょっとしたことで、キャッキャ
ッと笑いこける。途中、幽霊の話になる。この季節の定番である。子どもたちは、こわいくせに、あ
れこれ聞きたがる。私も、幽霊の話が得意。

 「時は、寛永5年。6月24日のことでした。場所は、江戸、八丁堀の、横筋を入った、小さな路
地……」というような調子で。しみじみと語り始める。

 で、その話が終わったところで、私がふと、「ぼくとじゃんけんをして勝ったら、アイスクリームを
買ってきてあげる」ともらすと、それがそのまま約束になってしまった。

Kさん「本当に?」
私「本当だよ」
Kさん「じゃんけんに買ったら、アイスクリームね」と。

 そこで5人を代表して、Kさんとじゃんけん。

私「ぼくは、チョキを出すよ」
Kさん「どういうこと?」
私「ひとりごとだから、気にしないで……」
Kさん「信用していいの?」
私「それはあなたの問題だろ。じゃあ、じゃんけんするよ」と。

 そして私が「ジャンケン、ポン」と、チョキを出すと、Kさんも、チョキ。

私「だから、ぼくは、チョキを出すって言ったじゃないか」
Kさん「本当に、チョキを出すとは、思わなかった……」
私「君は、ぼくを信用してないね。もうつきあって、10年になるじゃないか」
Kさん「先生は、そう言って、パーを出すと思った。だから私は、チョキを出した」と。

 最初から、こういう結果になることはわかっていた。

私「今度は、ぼくはパーを出すよ」
Kさん「ホント?」
私「何も言わないよ。ひとりごとだよ。気にしないで……」
Kさん「ちゃんと、パーを出してよ」
私「それじゃあ、じゃんけんにならないよ」と。

そのとき横にいた、Hさんが、こう言った。

「あのね、Kさん、林先生を信用してはダメよ。林先生は、裏をかくからね。裏の裏をかくという
こともあるからね。気をつけなよ」と。

そこで再び、じゃんけん。私はすなおに、パーを出した。Kさんは、チョキ!

Kさん「ヤッター!」
私「やられたア!」と。

私はHさんの言葉に、まんまと乗せられた。Hさんにそう言われたとたん、私はムキになった。そ
れでそのままパーを出してしまった。Hさんがそう言わなければ、私は、グーを出していただろう。

で、私は、子どもたちを教室に残して、コンビニまで自転車でアイスクリームを買いに走る。

 途中、ふと、「何で、こんなことをしているのか?」と思ったが、迷ったのは一瞬だけ。これが私の
仕事。人生は、楽しむにかぎる。だいたい、子どもというのは、ギスギスとしぼっても、伸びない。
少したるんだと感じたら、思い切って、手綱(たづな)をゆるめてみる。するとそのあと、また、生
き生きと学習をし始める。この手綱さばきこそが、「指導」ということになる。

 さてさて時刻は、そろそろ午前1時。マガジンの6月25日号が発行される時刻だ。目もジョボジ
ョボしてきたので、ここで今日の日記は、おしまい。

 心地よい疲れが、気持ちよい。全国のみなさん、おやすみなさい!
(04年6月24日、本当は25日、午前1時。)


●親離れ

 子どもはある年齢に達すると、親離れを始める。

 そのとき、子どもをして、じょうずに親離れをさせるのも、親の勤めということになる。

 私も、生徒たちのほとんどを、幼稚園の年中児から教える。数は少ないが、中には、高校3年生ま
で教室に通ってくれる子どももいる。(現在は、中学3年生までにしている。このところ体力的な限界
を感ずることが多くなった。)

 そういう生徒たちを教えながら、一番気を使うのは、私に対して、依存心をもたせないようにする
こと。これは年中児でも、中学3年生でも、同じ。

 基本的には、(1)勉強することを楽しませる。(2)わからないところだけを教えるという姿勢を
大切にしている。一見、冷たい教え方イコール、サービスの悪い教室に見えるかもしれないが、その
ほうが、子どものためになる。

 (反対に、塾という立場で言うなら、依存心をもたせたほうが、経営は安定する。しかしこれは邪
道。病院にたとえて言うなら、対処療法だけをして、薬ばかりのませるようなもの。患者の病気が長
引けば長引くほど、病院としては、もうかる。少し、意味がちがうかもしれないが……。)

 親もそうで、子どもに依存心をもたせればもたせるほど、親子関係は、一見、安定する。親にして
も、居心地は悪くない。しかしそれでは、子どもは自立できなくなってしまう。

 親としては、つらくて、さみしい瞬間かもしれないが、子どもの人生は子どもに、一度はすべてを
手渡してこそ、親は、親としての務めを果たしたことになる。決して、「親である」という『デアル論』
の中で、子どもの人生をしばってはいけない。

 そこで教えるときは、たとえばある時期がきたら、「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強した
ほうがまし」と思わせるように、生徒をしむける。親もそうで、子どもがある時期に達したら、バカ
な親のフリをしながら、子どもの自立をうながす。「こんな親はアテにならない。そろそろ自分で生き
たほうがよい」と。

 親離れ、子離れの問題には、こんな問題も含まれている。この問題については、これから先、もう
少し深く考えてみたい。

 今、ここで言えることは、繰りかえしになるが、子どもがじょうずに親離れができるように、子ど
もを指導するのも、親の努めということ。
(はやし浩司 親離れ 子離れ)



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よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 23日(No.439)
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【7月いっぱい、電子マガジンは、簡略版になります。どうかお許しください。】
  7月23日号、7月26日号、7月28日号、7月30日号
  につきましては、HTML版は、とりあえず、お休みします。

●8月からのマガジンについては、どうするかは、今のところ未定です。
  できるだけ、今までどおり発行したいと考えていますが、また改めて
  連絡いたします。

++++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【特集・家族を考える】
 
●ある読者の方から……

楽天日記の読者の方(ANさん)から、こんなメールをもらった。

++++++++++++++++++

日本では母親を大切にすると、「マザコン」と言われます。
それは"悪"である、と。
私はアメリカしか知りませんが、(しかもアーカンソーでは、子供はみないくつになっても母親を大切
にしています。

でも同じことを日本ですれば、「気持ち悪いマザコン男」と言われます。
この差は何なのか、何の違いがこうさせるのか、よく考えるのですが、私には結論がみつかりません。

はやしさんはご存知ですか???

ちなみに、私は「日本人は……」「日本では……」という表現が嫌いです。
すべてひとまとめにするのはおかしい、と。
でもこれに関してだけは、思ってしまいます。

全然、議題がそれましたね。すいません。(^^;
私も"ある母親"になる可能性はあるのかもしれないなぁ、と思いまして。
長文ですいませんでした。
読んでくれて、ありがとうございました! (6月22日0時17分)

+++++++++++++++++

AN様へ

 メール、ありがとうございました。

 少し考えてみました。

 一つは、「大切にする」ことと、「マザコン」は、まったく別のことです。このあたりに、大きな誤
解があるように思います。

 それについて、一言、説明しておきたいと思いましたので、ここに書いておきます。どこか論文調
で、きつい言い方に聞こえるかもしれませんが、お許しください。

 決してAN様に腹をたてているとか、AN様のメールを不愉快に思っているとか、そういうことで
はありません。

 「なるほどな」と思いつつ、読ませていただきました。私は、こう見えても、結構、すなおな面が
あるのです。ハイ!

 以下、私の意見です。参考にしてください。

+++++++++++++++++

 マザーコンプレックス。略して、「マザコン」という。マザコンは、基本的には、「親を大切にする」
という概念とは、まったく異質のものである。

 母親への強度の依存性を特徴として、その母親が、本来的にもつ母性的呪縛から、解放されない状
態を、マザーコンプレックスという。

 子どもは、その成長とともに、肉体的発育のみならず、精神的発育を完成する。これを発達心理学
の世界でも、「内面化」という。その過程の中で、子どもは、「家族」というワク(これを「家族自我
群」という)をこえて、自立、独立していく。これを心理学の世界では、「個人化」という。

 わかりやすく言えば、その子どもの基本的信頼関係をつくるためには、母親の存在は絶対であり、
そういう意味では、母子関係は、父子関係とはちがう、独自性をもつ。

 しかしその絶対性が強すぎると、子どもは、その絶対性に押しつぶされてしまうことがある。わか
りやすく言えば、ひとり立ち(個人化)できない、ひ弱な子どもになってしまうということ。

 こうした母子関係を調整するのが、父親の役目ということになる。それについては、何度も書いて
きたので、ここでは省略する。

 で、こうして母親が本来的にもつ母性的呪縛から、解放されない子どもが、生まれる。その代表的
な言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という言葉である。(それに答えて、子どもは「産んでい
ただきました」「育てていただきました」と言う。)

 こうした呪縛は、一方で、独立しようとする子どもに、大きなブレーキとして働く。それだけでは
ない。親に孝行できない自分に対して、罪悪感をもつこともある。たとえば「親不孝者」という烙印
(らくいん)を押された子どもは、生涯、「私は、人間として失格者だ」と思うことによって、あらゆ
る面で、自分はダメ人間と思いこんでしまう。

 母親の葬式に出られなかったというだけで、一日とて晴れることもなく、悶々と過ごしている男性
すらいる。

 母子関係というのは、それほどまでに重大な関係なのである。

 俗にマザコンというと、冬彦さん(テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』の主人公)を思い
浮かべる。典型的なサンプルとしては、わかりやすいが、しかし、マザーコンプレックスというのは、
あくまでも内面世界の問題である。

 さて、「日本では、母親を大切にすると、マザコンと呼ばれる」という意見について、この方は、大
きな誤解をしている。

 「大切にする」ということと、ここでいうマザコンとは、まったく異質のものであり、別のもので
ある。

 話せばあまりにも長くなるので、つまり遠い距離を感ずるので、簡単に言えば、こうなる。

 親子関係といえども、つきつめれば、一対一の人間関係で決まるということ。子どもがどう思うか
は別にして、親は、親子であるという、『デアル関係』に甘えてはいけないということ。子どもが親を
大切にするかどうかは、それはあくまでも、子どもの問題。親が反対に、子どもに向かって、「親を大
切にしなさい」と求めるのは、そもそも方向性が、逆だということ。

 親が子育てをする目的は、ただ一つ。子どもを、自立させること。そういう意味で、母性本能に溺
れてしまうと、ベタベタの親子関係をつくり、よって、子どもの自立(これを「内的促し」という)
を、阻害してしまうことが多い。それについて、私は、注意しなさいと言っている。

 最後に、アメリカと言っても、広い。面積だけを見ても、アジア全土を含めたほど、広い。カルフ
ォニア州だけでも、日本ほどある。テキサス州にいたっては、日本の2倍の広さがある。

 もちろん全世界の人種が集まっている。その中には、アジア系もいる。そういうアメリカの中でも、
中南部地方では、この方が指摘しているように、大家族主義というか、伝統的に、家族意識がきわめ
て強い。

 しかしその家族は、同じ家族主義といっても、日本の家族主義とは、異質のものである。それとも、
この方は、アメリカで、親が子どもに向かって、「親に向かって、何よ!」という、あのあまりにも日
本的な、どこまでも日本的な言葉を耳にしたことがあるとでもいうのだろうか。

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」という言葉でもよい。そんな言葉を言
っている、アメリカ人を、見たり聞いたりしたことがあるだろうか。

 私が「日本は……」「日本人は……」というときは、こういう意識のちがいを説明するときに使う。
決して、日本人が劣っているという意味で使っているのではない。

 もちろん日本には、日本のよさがある。一方、アメリカには、アメリカの問題がある。さらにこの
日本の中でも、都会に住む日本人と、地方の農村地帯に住む日本人は、ものの考え方もちがう。生活
環境そのものも、ちがう。「日本は……」「日本人は……」という意見を書くときは、当然のことなが
ら、慎重でなければならない。

 これについては、私も、反省している。この方が指摘したとおりである。

 最後に、私は何も、親を含めて、人を大切にすることまで、否定しているのではない。親であれ、
だれであれ、「大切にしたい」と思えば、その人を大切にすればよい。また親を大切にするからといっ
て、マザコンというわけではない。

 どうか、どうか、誤解のないように!

+++++++++++++++++++++

AN様へ

 メール、ありがとうございました! おおいに反省すべき点は、反省し、これからの執筆活動に役
立てさせていただきたいと思います。

 なお、いただきましたメールですが、小生発行のマガジン、7月23日号(予定)に、掲載させて
いただいてよいでしょうか。よろしくご理解の上、ご了解ください。お願いします。

 私も、あのConway(アーカンソー州)に住む人たちの生き方を見ていると、あくまでも、息
子夫婦の過ごし方を見ての話ですが、「たがいの家族を大切にしているなあ」と思っています。

 しかしおもしろいと思うのは、それぞれが独立精神が強くて、80歳を過ぎた、祖父母にしても、
息子や娘と、決して同居しないということです。(そういう発想そのものが、ないように感じます。)

 嫁の母方の祖母にしても、いよいよ動けなくなり、嫁の両親の家の近くに引っ越してきましたが、
それでも、かなり離れたところに部屋を借りて住んでいます。父方の祖父母は、リトルロック(州都)
に住んでいます。

 こうした老後の過ごし方は、オーストラリアでも、一般的に見られます。年をとったら、都会のマ
ンション(アパート)に移り、さらに動けなくなったら、老人ホームへ入るという生き方です。

 日本でも、こうした生き方をする老人がふえてきたように思いますが、基本的な部分で、「家族」に
対する考え方がちがうのも、事実です。

 これからもその「事実」を追求し、この日本の社会を、より住みやすく、わかりやすいものにする
ためにも、がんばってものを書いていきたいと思います。また何かご意見をいただけるようでしたら、
ご指摘ください。

 では、今日は、これで失礼します。重ねて、ご意見に感謝します。

                             はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++

【フランス在住のRNさんより……】

 フランスの事情について、フランスに住んでおられる、Rさんから、
 こんなメールが、届きました。

 参考になると思いますので、許可を得て、掲載します。

++++++++++++++++++++++++++

今、はやしさんの楽天日記の、今日の文を読んで少し思ったことがあったので
ちょっと、フランスでは……参考になればと思って、メールしました。

こちら、私が住んでいるブルターニュ地方も、家族のつながりを大切にしている人が
多いです。

夫のADも、実家の日曜大工、芝刈り、畑を耕したりなにか問題があると
10km先の両親のところに行きます。

義母と夫の行動は、とっても似ているんですよね。
母を大切にするのと、マザコンは本当に違うと思います。

とくに両親を大切にすると言うことに関して。
夫の両親は、いつまでも私たちだけで生活していきたいと
言っていますし、あまり動けなくなったら、町が管理している家に住んでもいいわ!
と言っているぐらいです。

そしたら、あなたたちこの家を、買わない? ハハハ、なんて話ができるぐらいです。

前回、日本に帰ったときに父になにかあったら
母は自分の分だけでも仕事をして、自分で生活していきたい、ということでしたが
姉をはじめ、親戚は、長男のところ(東京)に行ってみてもらうのがいいと。
それが普通だ、と何かにつけて、長男、長男……。

「日本人は……」と、私もこの言葉を使いたくないのですが、
このときばかりは驚きました。
年老いたら、だれに、めんどうをみてもらうかの話ばかり!

フランスでは、こんな言い方、聞いたことがありません。

数か月、叔父が入院しましたが、あんなところに押し込められてと言う感じです。
老人ホームには、悪いイメージがあるようです。

私からしてみれば、長期治療のこともあるし、病院のおかげで母も働けるし
医療設備が発達していて、本当に感謝しているのですが……。
まわりから見ている人は、家で看護するのが当たり前と考えているような感じがします。

看護にしても、家でするにが、当たり前、だそうです。

保険が行き届いたフランスと比べてしまうからでしょうか。
日本とフランスとでは、親子の関係の違いを感じます。

長くなってすいません。

             フランス  RNより

+++++++++++++++++++++++

【RNさんへ……】

 さっそくのメール、ありがとうございました。

 私も、欧米と日本の家族観のちがいには、しばしば驚かされています。

 これからの日本は、ますます少子高齢化、都市型生活が進みますから、必然的に欧米型にならざる
をえないと思います。住環境も貧弱だし……。

 老人ホームに対する悪いイメージは、60歳以上の人が、強くもっているようです。40歳代の人、
50歳代の人にも、多く、みられます。どこかで、そういう悪いイメージをもってしまったのでしょ
うね。「施設」というだけで、拒絶反応を示す人も少なくありません。

 歳をとったら、どこかでひとりで暮らす。息子や娘には、できるだけめんどうをかけたくない。…
…というふうに考えるか、歳をとったら、身内に囲まれて、甘えて暮らしたい。……というふうに考
えるか、そのちがいかもしれません。

 実はね、この問題は、子育て全般にも関連してくるのです。

 こうした日本独特の依存型社会というか、もちつもたれつの甘えの世界というか、それがこれまた
日本独特の子育て観をつくりあげているのです。

 親は、無意識のうちにも、どこかで自分の老後を想定しながら、子育てをする。子どもの独立、自
立を願うよりも、自分の支配下において、子どもを、自分の思いどおりに動かそうとする。

 「ママ……」「ママ……」と甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とするわけです。

 そのために、親は、子どもに嫌われるようなことを避ける。反対に、歓心をかったり、機嫌をとっ
たりする。ばあいによっては、子どもにコビを売ったり、さらには、弱々しい親を演じてみせたり、
恩を着せたりする。

 もっとも、日本に住んで、外国から日本を見たことがない人には、それがわかりません。それが日
本の風土や、文化になっているからです。へたに批判をしようものなら、(今の私のように)、猛反発
をくらうだけです。

 もう何十人もいましたよ。

 「君の意見は、現実的ではない」「欧米といっても広いだろ」という意見から、「それでもお前は、
日本人か!」「そんなに日本に文句があるなら、オーストラリアでも行けばいいだろ」というのまで。

 「日本のよさまで否定するな」とか、「親孝行を否定するのは、日本人として、失格」とか言ってき
た人までいます。「先祖を粗末にするヤツは、教育者としてふさわしくない。即刻、講演活動をやめろ」
と怒鳴りこんできた女性まで、いました。

 RNさんには信じられないような話かもしれませんが、すべて事実で、むしろ控えめに書いている
ほどです。

 しかしだれかが、声をあげないと、日本はいつまでもこのまま。みなも気がつかないだろうし、日
本も変らないだろうと思います。そのためにずっと書きつづけていますが、正直に告白して、このと
ころ、少し、疲れてきました。

 「もう、どうにでもなれ」という思いも、生まれてきました。

 最後に、楽天の掲示板まで読んでくださって、ありがとうございました。このところマガジンも低
調で、8月号からどうしようかと悩んだり、迷ったりしています。またフランスの事情など、レポー
トしてくだされば、うれしいです。

 今日は、これで失礼します。日本は、台風一過、昨日は、暑いですが、クリアな空を楽しむことが
できました。今日は、幾分暑さがやわらぎ、過ごしやすくなりました。

 メール、転載の件、よろしくご了解ください。7月23日号で使わせてください。

                            はやし浩司

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●悪玉家族意識VS善玉家族意識

 いまだに江戸時代の、名家意識をひきずっている人は少なくない。封建時代には、「家」がすべてで
あった。身分も、仕事も、そして人間としての価値も、それで決まった。

 こうした封建時代の亡霊に根ざした家族意識を、悪玉家族意識という。

 悪玉家族意識のものでは、家族一人ひとりは、すべて、「家」のモノでしかない。

 一方、家族の人権を、一人ずつていねいに尊重しようとする動きも、このところ、急速に大きくな
ってきている。これを善玉家族意識という。「家」というものがあるとするなら、あくまでも、その結
果でしかない。

 今から思えば、笑い話のようなことかもしれないが、こんなことがあった。

 35年前、オーストラリアに渡ったときのこと。私は、向こうの人たちが、自由に、土地を移動し、
ついでに家を住みかえているのを知って、驚いたことがある。

 土地や家に、ほとんど執着心をもっていないのである。お金ができたら、より環境のよい、より広
い家に移る。老後になって、維持がたいへんになったら、売って、アパート(フラット)に移る。そ
ういうことを、早い人で、数年単位で繰り返していた。

 これは私には、大きな驚きだった。つまり彼らのそうした生きザマは、それまでの私には、まった
くない感覚であった。

 どちらがよいとか、悪いとかいうことではない。「家」あっての家族と考えるか、「家族」あっての
家と考えるかのちがいである。しかし、ただこれだけは言える。

 今、悪玉家族意識は、音をたてて崩壊しつつある。地方の農村地域に行くと、まだ残っているとこ
ろもあるが、それも、いつまでつづくかわからない。私の姉ですら、農家に嫁いでいったが、こう言
っている。

 「浩ちゃん、大切なのは、みんなが幸せになることよ」と。

 「家」を守ったところで、その家族が幸福になるわけではない。むしろ、その重圧感で、何が本当
に大切かを見失ってしまっている人のほうが多いのでは? だから、私は、あえて「悪玉」と呼ぶ。

 この悪玉家族意識は、総じて、だれの心の中にも、残っている。結婚式にしても、「家」と「家」の
結合という意識が残っている。花婿、花嫁という個人ではなく、「家」である。そういう悪玉家族意識
が一掃されたとき、私は、この日本の家庭にも、本物の個人主義イコール、民主主義がやってくると
思う。道は遠いが、がんばろう!


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たまたま今日(6・23)、カナダにお住まいの方から
こんなメールが入った。いっしょに、考えてみたい。

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●家族自我群というクサリ

 今、Sさんは苦しんでいる。悩んでいる。事情は、こうだ。

 Sさんの母親は、数か月前、脳梗塞で倒れた。以来、意識が弱くなった。話しかければ、多少の反
応はあるという。しかしもう、家族の顔を見分けることもできない。

 そのSさんは、今、カナダのモントリオールに住んでいる。小学生と幼稚園へ通う、二人の子ども
もいる。簡単に往復できる距離ではない。

 しかし、Sさんが苦しんでいるのは、そのことではない。ときどき日本に住む、兄夫婦や、妹に電
話をするのだが、いつも冷たくあしらわれてしまうという。

 「妹に電話をしても、『あんたなんか、もう家族ではない』というようなことまで言われます。母の
容態を聞くのですが、『あんたなんかに、話す義務はない』とか、「あんたなんかに、聞く権利はない」
とまで言われます」と。

 「私は、決して母のことをどうでもいいなんて思っているのではありません。そればかりか、一日
とて、心の晴れる日はありません。また遠いところに住んでいることを理由にして、日本へ帰らない
というのではありません。私には私の家族があり、いろいろと事情があるのです」とも。

 姉夫婦にせよ、妹にせよ、Sさんは、親の反対を押し切って、カナダ人と結婚して、親を捨てた娘」
というふうに考えられているのかもしれない。どこか化石のような考え方だが、今でも、そういうふ
うに考える人は少なくない。

 子どもは、親のそばにいて、親の老後のめんどうをみるべきという考え方である。

 話は少し専門的になるが、「家族」には、家族としての呪縛(じゅばく)がある。これを心理学の世
界では、「家族自我群」という。

 子どもは、成長とともに、この家族自我群からの脱却をめざす。これを個人化という。つまり家族
という束縛から離れて、一人の人間として、自立しようとする。

 が、こうした自立への方向性を、親自身がはばんでしまうことがある。自立そのものを許さない親
も、少なくない。タイプとしては、つぎの4つに分けられる。

(1)攻撃型(子どもに、親を捨てるとは何ごとかと、迫るタイプ。)
(2)同情型(弱々しい親をことさら演じながら、あなたなしでは生きていかれないと訴えるタイプ。)
(3)依存型(生活面で、どっぷりと子どもに依存してしまうタイプ。)
(4)服従型(子どもに服従することにより、その見返りに保護を求めるタイプ。)

 これら4つのタイプの親に共通するのは、親自身の精神的未熟性、情緒的欠陥性、さらに日本独特
の、子どもをモノと考える所有意識である。もちろん文化的背景もある。こうした要素が複雑にから
んで、結果として、子どもの自立をはばんでしまう。

 が、問題は、さらにつづく。

 子どもが自立したばあい、こうした子どもを親は、(そしてそうした親の考え方に同調する周囲の人
たちは)、「できそこない」というレッテルを張ってしまう。

 このレッテルが、子どもの側からみると、今度は、罪悪感となってはねかえってくる。「私はできそ
こないの子だ」と。この罪悪感が、ちょうど、真綿でクビをしめるように、ジワジワとその人を苦し
める。

 それはふつうの苦しみではない。家族自我群というのは、それほどまでに根が深く、心の奥底まで
その根は伸びている。一生の間、「私はダメな人間」と、思いこんでしまう人さえいる。

 本来なら、こうした苦しみを子どもに与えないため、親は、ある時期がきたら、じょうずに子離れ
をし、子どもには、親離れをしむける。「あなたはあなたの人生を生きなさいよ。私は私の人生を生き
ますからね」と。

 こうした親の、本来のやさしさが、子どもの心を救う。

 で、Sさんの話に戻る。

 Sさんは、今、二重の苦しみを味わっている。一つは、母親を心配する子どもとしての苦しみ。も
う一つは、母親のめんどうをみられないという罪悪感。本来なら、こういう状態に子どもを追いこま
ないように、母親自身が、何らかの方法を講じておくべきだった。

 遺言とまではいかないにしても、言葉や、指導で、娘たちを指導しておくべきだった。しかし残念
ながら、その母親には、それだけの度量がなかった。だから今、姉夫婦や妹は、Sさんを、「できそこ
ない」と責める。「自分だけ、カナダで楽な思いをしている」「親のめんどうを、私たちに押しつけて
いる」と。

 私がその母親なら、カナダの娘に向って、こう言うだろう。

 「わざわざ、来なくてもいいよ。葬式にも来なくていいよ。いつか、気が向いて、何かのことで日
本へ来たときに、墓参りか何かしてくれればいいよ」と。

 そしてほかの二人の娘には、こう言うだろう。

 「Sを責めてはいけないよ。Sには、Sの生活があるんだから。みんな、仲よくしてよ」と。

 近くにいて、そのつど適当にめんどうをみるよりも、遠くに離れて、その罪悪感に苦しむほうが、
ずっと苦しい。つらい。

 さらにこの日本では、「子どもが親のめんどうをみるのは、当たり前」と、信じて疑わない人もいる。
信じているというより、それ以外の考え方のできない人である。そういう親をもつと、結局は、子ど
もが不幸になる。ノー天気というか、親のために犠牲になっている子どもの姿を見ながら、「うちの息
子は、親孝行のいい息子だ」と、誤解してしまう。

 それぞれの子どもには、それぞれの人生がある。長男も二男もない。そうした人生を、親のために
犠牲にさせてはいけない。家のために犠牲にさせてはいけない。もちろん子どもが自分で考えて、自
分で、そうするというのであれば、話は別。しかし親は、子どもに、それを求めてはいけない。強要
してはいけない。

 参考になるかどうかは、わからないが、私は三人の息子たちに、そういう意識をもったことは、一
度もない。今の今でも、苦労は尽きないが、もし三人の息子たちがいなければ、私は、今の今でも、
こうまでがんばらないだろうと思う。

 「まだ最低でも、3年は、がんばらなくては」という思いが、私の今のエネルギーになっている。「あ
と3年で、三男は、大学を卒業する」と。

【Sさんへ……】

 こうなると、もう意識の勝負ですね。あなたの意識を、二つも三つも、飛躍させるしかありません。
そしてその結果として、あなたの姉、妹を超えるしかありません。

 ちょうどおとなが幼児をみるように、あなたの姉や妹をみます。「何て、くだらないことを言ってい
るのよ」と、です。つまり相手にしないこと。

 今のままだと、あなた自身も、姉や妹と、同じレベルに落ちてしまい、やがてその罪悪感に苦しむ
ようになってしまいます。それほどまでに、ここにも書いたように、この問題は、心の奥深くに根ざ
しています。

 そのためにも、あなたの意識を高めます。が、それにしても、いやな姉や妹ですね(失礼!)。遠ま
わしな言い方で、結局は、あなたを苦しめている。まさに自己中心型の人たちです。つまりは、それ
だけ精神の完成度の低い人とみます。

 その意識が高まれば、あなたは姉や妹を、ずっと下のほうに見ることができるようになります。あ
われで、かわいそうな人たちに見えてくるはずです。そうなれば、あなたはここでいう家族自我群か
ら、解放されます。

 どうせ悪く思われているのだから、いいではないですか。悪く思わせておきなさい。あなたのまわ
りを見てください。この地球上には、60億人もの人たちがいるのですよ。こんな小さな国の、小さ
な心の人たちなど、相手にしないことです。

 私も、いろいろな問題をかかえています。あなたのかかえている問題より、はるかに深刻な問題で
す。

 で、ある日、こう思いました。「もう、相手にしない。悪く思いたければ、思え。勝手に、そう思え」
と。

 そう言えば、家族自我群というのは、ストーカーに似ていると思いませんか。こちらは、「もう放っ
ておいてくれ」と思っているのに、執拗にベタベタとつきまとう。逃げても逃げても、つきまとう。
相手は、勝手な思いこみだけで、私を追いかけまわす。……そんな感じがします。

 私は子どものころから、「産んでやった」「育ててやった」「食わせてやった」と、それこそ耳にタコ
ができるほど、聞かされて育てられました。また大学へ入ると、「学費を出してやった」「大学まで、
卒業させてやった」と、これまた耳にタコができるほど、聞かされて育てられました。

 結局は、その分だけ、親のめんどうをみろということだったのでしょうか。

 ここでいう「勝手な思いこみ」というのは、それを言います。

 で、私は私の長男をもったときから、心に決めました。はっきりと決めました。「私は、そういう恩
着せがましい子育てはしないぞ」と。

 しかしSさんは、生涯、その罪悪感から逃れることはできないでしょう。繰りかえしますが、この
問題は、それくらい、根が深いということです。

 だったら、どうするか?

 必要なことだけはしながら、あとは居なおる、です。今の状態では、あなたの母親は、施設に入る
のが、自分のためにも、またあなたたち姉妹のためにも、一番、よいのです。それがダメだというの
なら、それはもう、あなたの母親の、エゴです。わがままです。

そしてもしその罪悪感を覚えたら、その罪悪感に苦しむのではなく、昇華させ、そしてそれを、あ
なたの子どもたちに還元すればよいのです。

 あなたはすばらしい母親になれますよ。

 では。日本は、台風一過、気持ちのよい日が、つづいています。

                     6月23日       はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【今、考えていること】

●学習性無力感

 二度、中学受験で失敗した女の子がいた。
 一度目の合格発表のある前に、別の学校の入学試験を受けた。が、その両方とも、失敗。そこで三
度目の中学を受験することにしたが、もうそのときには、完全に戦意喪失。それまでスイスイと解け
た簡単な問題すら、できなくなってしまった。

 こういうのを、「学習性無力感」という。

 犬の実験でも、電気ショックを与えつづけると、その犬は、その場から逃げようとする気力すら、
なくすという(セリングマン)。

 何度か失敗しているうちに、「自分はダメだ」というレッテルを、自ら張ってしまう。そして本来な
らできるはずのことまで、できないと思いこんで、逃げてしまう。10年ほど前のことだが、こんな
ことがあった。

 Wさんという中学3年生の女の子がいた。

 能力的には、それほど恵まれている子どもではなかった。が、親が、それを認めなかった。親は、「何
としても、A私立女子高校へ……。それがだめなら、B私立女子高校へ……」と、Wさんを追いたて
た。

 私はある日、Wさんにこう言った。「今の力では、A高校も、B高校も、無理だと思う。だから君の
ほうから、君の力について、お母さんに正直に言ってみたらどうだろうか」と。

 が、Wさんは、決して、それを親には言わなかった。言えば言ったで、Wさんは、自分の立場をな
くしてしまう。こういうケースは、多い。つまり子どもは、親に、自分の能力のなさを、言わない。
子どもは、「やればできる」と思わせることによって、自分の立場をつくる。自分の能力を告白するこ
とは、自分の立場を失うことになる。

 で、A私立女子高校とB私立女子高校の受験に失敗。そこで今度は、C私立高校を受験することに
なったが、そのころになると、教室でもただぼんやりとしているだけ。ときどきため息をついては、
意味もなく、参考書をめくるだけになってしまった。

 今、多くの親たちは、「勉強しなさい」と、子どもを追い立てている。しかしそれでうまくいけばよ
いが、そうでないときに、子どもは、大きな挫折感を味わう。中に、無責任な教育者(?)がいて、「そ
ういう挫折感を乗りこえてこそ、子どもは、たくましく成長する」などと説いたりする。

 しかしこの時期の子どもには、まだその力はない。そのため挫折感から、そのまま無気力になって
いく子どもは、少なくない。それだけならまだしも、さらに罪悪感すら覚える子どももいる。

 子どもを信ずるということと、過剰な期待を寄せるというのは、まったく別のことである。この視
点をふみはずすと、子どもを、無気力な子どもにしてしまうことがある。くれぐれも、慎重であって
ほしい。


●孤独な人間

だれにも相手にされず、心を開いて話しあえる友もなく、生きる目的もない。
ただその日が、過ぎるのを待ち、夜になったら、どこかカビ臭いベッドの中にもぐる。

ときどきだれかに電話をしてみる。話しかけてみる。
しかしだれも、振り向いてくれない。だれも、耳を傾けてくれない。

人を愛することも知らない。愛されることも知らない。
長い人生だったが、だれか、人のために働いたことは、一度もない。

仕事がないといっては、嘆き。仕事が多過ぎるといっては、不平をもらす。
だれかに何とか、してほしい。しかしその何とかしてくれる人もいない。

神や、仏は、どこにいる? いや、家には昔からの立派な仏壇はあるにはある。
しかしそんなのはただの箱。ただの飾り。家の格式を証明するための、ただの勲章。

乾いた心を、どう癒す。襲いくるさみしさをどう、紛(まぎ)らわす。
孤独は、まさに地獄。人間が、そこに感ずる、まさにこの世の無間地獄。

++++++++++++++++++

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、三悪
と考える。これら三悪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

(2)孤独という罪
(3)嫉妬という罪
(4)性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ人
のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、何キ
ロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことがある。
そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町
の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、南
部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮か
べればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格など、
何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとるといっても、
もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコラムを
載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感で
ある。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大きくな
った。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされないのか。
あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっしょ
なら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅ
うえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。



●中年期クライシス(危機)

 若い人たちを見ていると、「いいなあ」と思うことがある。「苦労がなくて」と。しかし同時に、「い
いのかなあ?」と思うときもある。目の前に、中年の危機がすぐそこまできているのに、それに気づ
いていない?

 危機。「クライシス」という。そして中高年の男女が感ずる危機を、総称して、「中年期クライシス」
という。

 健康面(心臓疾患、高血圧症、糖尿病などの、生活習慣病)、精神面(抑うつ感、うつ病)のクライ
シス。仕事面、交遊面のクライシスなど。もちろん夫婦関係、親子関係のクライシスもある。

 こうしたクライシスが、それこそ怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。若い人は、遠い未来の
話と思うかもしれないが、そのときになってみると、あっという間に、そうなる。それがまた、中年
期クライシスのこわいところでもある。

●中年期クライシス、私のばあい

 私は、もうそろそろ中年期を過ぎて、初老期にさしかかっている。もうすぐ満57歳になる。

 まず健康面だが、このところ、ずっと、どうも心が晴れない。軽いうつ状態がつづいている。それ
に仮性うつ病というか、頭が重い。ときどき偏頭痛の前ぶれのような症状が起きる。

 仕事は楽で、ほどほどに順調だが、何かと悩みごとはつきない。ときどき「私は、もう用なしなの
か」と思うことがある。息子たちも、ほぼ、みな、巣立った。ワイフも、あまり私の存在をアテにし
ていないようだ。「あんたが死んだら、私、息子といっしょに住むわ」などと、平気で言う。

 私を心配させないためにそう言うのだろうが、どこかさみしい。

 性欲は、まだふつうだと思うが、しかしここ数年、女性が、急速に遠ざかっていくのが、自分でも
わかる。若い母親たちのばあい、(当然だが……)、もう私を「男」と見ていない。それが自分でも、
よくわかる。

 だから私も、気をつかうことが、ぐんと少なくなった。「どうせ私を男とみてくれないなら、お前た
ちを、女とみてやるかア!」と。

 しかしこの世の中、「女」あっての、「男」。女性たちに「男」にみてもらえないのは、さみしい。

 そう、中年期クライシスの特徴は、この(さみしさ)かもしれない。

 たとえばモノを買うときも、「あと○○年、もてばいい」というような考え方をする。何かにつけて、
未来的な限界を感ずる。

 あるいは今は、ワイフも私も、かろうじて健康だが、ときどき、「いつまで、もつだろうか?」と考
える。「そのときがきても、覚悟ができているだろうか?」と。そういう私の中年期クライシスをまと
めると、こうなる。

(1)健康面の不安……体力、気力の衰え。自信喪失。回復力の遅れなど。
(2)精神面の不安……落ちこむことが多くなった。うつ状態になりやすい。
(3)家族の不安……子どもたちがみな、健康で幸福になれるだろうかという心配。
(4)老後の不安……収入面、仕事面での不安。何か事故でもあれば、万事休す。
(5)責任感の増大……「私は倒れるわけにはいかない」という重圧感。

 こうしたもろもろのストレスが、心を日常的に、おしつぶす。そしてそれが、食欲不振、頭重感、
抑うつ感、不安神経症へとつながる。「心が晴れない」というのは、そういう状態をいう。

●何とかごまかして、前向きに生きる

 自分の心を冷静に、かつ客観的にみることは大切なことだが、ときとして、自分の心をだますこと
も必要なのかもしれない。

 楽しくもないのに、わざと楽しいフリをしてみせて、まわりを茶化す。おもしろくもないのに、わ
ざとおもしろいと騒いでみせて、まわりをごまかす。

 しかしそれも、疲れる。あまりひどくなると、感情が鈍麻することもあるそうだ。よく言われる、「微
笑みうつ病」というのも、それ。心はうつ状態なのに、表情だけはにこやか。いつも満足そうに、笑
っている。

 そう言えば、Mさんの奥さん(60歳くらい)も、そうかもしれない。通りであっても、いつも、
ニコニコと笑っている。が、実際、話してみると、どこか上(うわ)の空。会話が、まったくといっ
てよいほど、かみあわない。

 ただ生きていくことが、どうしてこんなにも、つらいのか……と思うことさえ、ある。ある先輩は、
ずいぶんと昔だが、つまりちょうど今の私と同年齢のときに、こう言った。

 「林君、中年をすぎたら、生活はコンパクトにしたほうがいいよ。それに人間関係は、簡素化する」
と。

 生活をコンパクト化するということは、出費を少なくするということ。60歳を過ぎたら、広い土
地に大きな家はいらない。小さな家で、じゅうぶん。

 人間関係を簡素化するということは、交際範囲を狭くし、交際する人を選ぶということ。ムダに、
広く浅く交際しても、意味はない。

 が、なかなか、その切り替えができない。「家を小さくする」といっても、実際には、難題である。
心のどこかには、「がんばれるだけ、がんばってみよう」という思いも残っている。

 交際範囲については、最近、こう思うようになった。

 親戚や知人の中には、私のことを誤解して、あれこれ悪く言っている人もいる。若いころの私だっ
たら、そういう誤解を解くために、何かと努力もしただろうが、今は、もうしない。「どうでも勝手に
思え」という、どこか投げやり的な、居なおりが、強くなった。

 どうせ、みんな、私も含めて、あと20年も生きられない。そういう思いもある。

 が、考えたところで、どうにかなる問題ではない。だから結論はいつも、同じ。

 そのときまで、前向きに生きていこう、と。生きている以上、ここで死ぬわけにはいかない。責任
を放棄するわけにもいかない。だから生きていくしかない。自分をごまかしても、偽っても、生きて
いくしかない。

 そしてそれが中年期クライシスにある私たちの、共通の思いではないだろうか、……と、今、勝手
にそう思っている。
(040619)
(はやし浩司 中年期クライシス 中年クライシス 中年期の危機)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●6月21日

 朝から、台風の影響か、空は重く、どんよりと鉛色に雲っている。時刻は、午前7時。蒸し暑くで、
扇風機をつけたところで、目が覚めた。

 今日は、午後から、K町の小学校で、講演。そのあと、市内にもどって、教室。ほかに、1、2、
しなければならない仕事がある。いそがしい一日に、なりそう。

 ところで、最前線の子育て論が、今回で、第1200号になった。1151号から1200号、つ
まり、50号分だけで、A4サイズで、約570ページ(1枚、1440字で計算)。

 ふつう単行本のばあい、A4サイズ、120〜40ページで、一冊の本になるから、この50号分
だけで、4冊分以上ということになる。1200号ということは、単純に計算すれば、約100冊分
の分量ということになる。(100冊分だぞ!)

 自分でもよく書いたものだと思う。同時に、こんなぼう大な原稿など、だれが読むだろうかとも思
う。恐る恐るワイフに、「読んでくれる人がいるだろうかねエ?」と声をかけると、「私は、読んでい
るワ」と。

 うれしかった。

 こういう読者がいるから、マガジンを発行できる。がんばって書くことができる。

 さてさて今、また雨が降り始めた。今日は、この東海地方では、多いところで500ミリの雨が予
想されるという。500ミリといえば、洪水が心配される。講演は午後からだが、はたしてどうなる
ことやら? あとでK小学校に電話をしてみよう。

 ……と、意味のない日記は、ここまで。少し、何かを考えてみたい。

【両面感情】

 何かのことで、思い入れが強ければ強いほど、それから生まれる感情は、両面性をもつことが知ら
れている。

 よく知られた例として、(愛)と、(憎しみ)がある。

 その人に対する思い入れ(愛)が強ければ強いほど、裏切られたとき、その(憎しみ)は、倍増す
る。

 こうした両面感情は、親子の間でも、よく観察される。

 ある母親は、息子を溺愛した。しかしその息子は、高校生になるころから、その母親に対して、暴
力を振るうようになった。「こんなオレに、しやがってエ!」と。

 溺愛されて育った子どもがよく見せる、症状の一つである。子どもは溺愛という重圧感から自分を
解き放つために、家庭内暴力をともなった、はげしい抵抗を繰りかえすことがある。

 で、そのとき、その母親の溺愛は、おおきく変質した。溺愛しながらも、子どもへの恐れと憎しみ
の中で、その姿を変えた。

 やがてその息子は、ひとり立ち。横浜で就職し、結婚した。その夜のこと、その母親は、あちこち
の親類に電話をかけ、「悔しい」「悔しい」と泣いた。「一人息子を、横浜の嫁に取られてしまったア」
と泣いた。

 が、その母親は、息子の前では、理解のある、よい母親を演じた。息子を憎んではいたが、決別す
るだけの勇気は、なかった。そこでその母親が、つぎにしたことは、こんなことだった。

 弱々しい、貧しい母親を演じながら、その息子からの財産(=収入)を、つぎつぎと奪っていった。
そして息子が夫婦喧嘩をするたびに、このときぞとばかり、離婚をすすめた。「あんな女、別れてしま
いなさい。ウチへもどってきなさい」と。

 その息子氏は、今、45歳になっている。今も、横浜に住んでいる。その息子氏は、私にこう言っ
た。

 「子どもの自立を問題にする人は多いですね。しかしそれと同じくらい大切なのは、親の自立です。
世間一般の人は、子どもをもったときから、親は自立したものという前提で考えますが、実は、自立
できない親も多いです。私の母がそうですが……」と。

 少し話がそれたが、この母親のケースでも、両面感情が、問題になる。子どもへの溺愛と、憎しみ。
この二つが、それぞれ姿を変えて、独特の親子関係をつくりあげたと考えられる。

 が、こういうことも言える。

 両面感情というのは、それをもつこと自体、精神の未完成性を意味する。そしてそれは、精神の発
達とともに、克服できるものとされる。この母親のケースでいうなら、その母親は、きわめて精神の
未完成な人とみてよい。

 あなたはは子どもを愛している。それはそうだが、それはそれとして、その愛には、両面性がある
かないか。それを一度、心の中で、反省してみるとよい。

 親が子どもの感ずる愛は、まさに無私の愛、無条件の愛。両面性があるということ自体、それは真
の愛ではない。つまりは、あなたの、親としての未熟性を意味する。
(はやし浩司 両面感情 無私の愛 無条件の愛)
(040621)


●父の日

 先日、ワイフが、「明日は、父の日ね」と言った。それで私が、「じゃあ、ブラジャー買ってあげよ
うか。ウルトラ・ソフトというのもあるよ」と。

ワイフ「どうして、ブラジャーなの?」
私「乳(ちち)の日だア」
ワイフ「バカみたい……」
私「じゃあ、パンツでもいい。やわらかい素材の……」
ワイフ「何、それ?」
私「だって、チンチの日だろ」と。

 最後に、「何をプレゼントしてくるの?」と聞いたら、「あなたは、夫で、父じゃないでしょ」だっ
てさ。

 同じようなものだと思うのだが……。

 長男も、たまたま家にいる三男も、何も祝ってくれなかった。父の日の翌日、アメリカに住む二男
から、電話があっただけ。「何か、用か?」と聞くと、「今日は、父の日だから」と。アメリカは、何
でも、日本より、半日、遅れている。ハハハ。

 何ともさみしい父の日でした!

 (私のように、何も祝ってもらえない人も多いはず。だったら、勝手にこういう日を、決めるな! 
かえってさみしい思いをする人だって、多いぞ。)


●電子マガジンをどうしようか?

 このところ、パソコンに向うと、どうも気が重くなる。迷いがあるからだと思う。「どうしようか?」
と考えているうちに、30分とか、それくらいの時間が、過ぎてしまう。
 
 朝、起きたとき、「マガジンは、7月いっぱいで、休止しようか」と思う。が、パソコンを開くと、
読者が1人、ふえていた。うれしいと同時に、「申し訳ないな」と思う。そしておもむろに、キーボー
ドをたたき始める。こんな毎日の、繰りかえし。

 がんばろう。がんばるしかない。今が、一番、苦しいとき。目標まで、あと500号! 私は、自
分のために書いている。だれのためでもない。自分のためだ。

 ワイフは、「もっと量を少なくしたら……」と、いつも言う。しかし私は、毎回、A4サイズ用紙(1
500字程度)で、20枚程度を目標にしている。それ以下の枚数にしたら、意味がない。10枚で
も、マガジン。5枚でも、マガジン。3枚でも、マガジン。たった1枚でも、マガジンはマガジンに
なってしまう!

 だから20枚は、書く。……そう思って、今調べてみると、やっと12枚。以前なら、半日でそれ
くらいは書いた。今は、一日かかる。あと8枚。8枚書いて、7月23日号にする。がんばろう。

(意味のない原稿を書いて、すみません。いつも「量が多すぎる」という苦情をいただきます。その

【追記】

 先日、子育て相談の受け付けを、お断りしますという連絡をしたら、その相談件数が、ガクリと減
った。実際には、今日(23日)は、ゼロ。相談を受けても、その返事すら書けない。それで受け付
けを断ることにした。(ごめん!)

 ……こうして私は、どんどんと、現役から遠ざかっていく。幼児教室にしても、一日、1クラスが
限度。2クラスもすると、そのままバテてしまう。つまりそれくらい重労働に感ずるようになってし
まった。

 いろいろ悩んでおられる方には、申しわけないが、あとにつづく若い後輩たちに、がんばってもら
うことにする。ただ差別するように申しわけないが、友人、知人、賛助会員、BW関係者の方からの
相談は、今までどおり、受け付けている。どうか遠慮なく、相談してほしい。まだ完全に、引退した
わけではないので……。

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読者のみなさんへ

結局、A4サイズ、26枚分の原稿をお届けすることになりました。
がんばって書きました。今朝は、そのため4時に起きました。
ハハハ。←これは、勝利の笑い声です。(6・23)

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 21日(No.438)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page047.html

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(1)子育てポイント**************************

●チック症の子ども

 チックと呼ばれる、よく知られた症状がある。幼児の一〇人に一人ぐらいの割合で経験
する。

「筋肉の習慣性れん縮」とも呼ばれ、筋肉の無目的な運動のことをいう。子どもの意思
とは無関係に起こる。時と場所を選ばないのが特徴で、これをチックの不随意性という。

たいていは首から上に症状が出る。首をギクギクと動かす、目をまばたきさせる、眼球
をクルクル動かす、咳払いをする。のどをウッウッとうならせるなど。つばを吐く、つ
ばをそでにこすりつけるというのもある。上体をグイグイと動かしたり、さらにひどく
なると全身がけいれん状態になり、呼吸困難におちいることもある。稀に数種類のチッ
クを、同時に発症することもある。

七〜八歳をピークとして発症するが、おかしな行動をするなと感じたら、このチックを
疑ってみる。症状は千差万別で、そのためたいていの親は、それを「変なクセ」と誤解
する。しかしチックはクセではない。だから注意をしたり、叱っても意味がない。ない
ばかりか、親が神経質になればなるほど、症状はひどくなる。

 ……というようなことは、私たちの世界では常識中の常識なのだが、どんな親も、親に
なったときから、すべてを一から始める。チックを知らないからといって、恥じることは
ない。

ただ子育てには謙虚であってほしい。あなたは何でも知っているつもりかもしれないが、
知らないことのほうが多い。こんな子ども(年長女児)がいた。その子どもは、母親が
何度注意をしても、つばを服のそでにこすりつけていた。そのため、服のそでは、唾液
でベタベタ。

そこで私はその母親に、「チックです」と告げたが、母親は私の言うことなど信じなかっ
た。病院へ連れていき、脳波検査をした上、脳のCTスキャンまでとって調べた。異常
など見つかるはずはない。そのあともう一度、私に相談があった。親というのはそれぞ
れ、こうして回り道をしながら、一つずつ賢くなっていく。

 原因は神経質な子育て。親の拘束的かつ権威主義的な過干渉、あるいは親の完璧主義な
どがある。子どもの側からみて息が抜けない環境が、子どもの心をふさぐ。一般的には一
人っ子に多いとされるのは、それだけ親の関心が子どもに集中するため。しかもその原因
のほとんどは、親自身にある。が、それも親にはわからない。完璧であることを、理想的
な親の姿であると誤解している人もいる。あるいは「自分はふつうだ」と思い込んでいる。
その思い込みが強ければ強いほど、人の話に耳を傾けない。が、それで悲劇は終わらない。

チックはいわば、黄信号。その症状が進むと、神経症。さらには情緒障害、さらにひど
くなると、精神障害にすらなりかねない。が、子どもの心の問題は、より悪くなってか
ら、前の症状が軽かったことに気づく。親はそのときの症状だけをみて、子どもをなお
そうとするが、そういう無理が、かえって症状を悪化させる。そしてあとは底無しの悪
循環。

 チックについて言うなら、仮に親が猛省したとしても、症状だけはそれ以後も残ること
が多い。場合によっては数年、あるいはもっと長く続く。クセとして定着してしまうから
である。おとなでもチック症状をみせる人は、いくらでもいる。心というのは一度キズが
つくと、なかなかなおらない。そういう前提で、この問題は考える。

+++++++++++++++++++++

●子育てをゆがめる親意識

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲
れる。それだけではない。

親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。上下意識のある関係、つま
り命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係は生まれない。ある母親は、
子ども(小一)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向かって何てこと言うの!」と。
本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、親子は平等だと言うが、こうい
うときはどうしたらよいのか」と。

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。たとえ相手が幼児で
も、そうする。こんなシーンがあった。

あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこと。たまたまその女優が、
小さな女の子(五歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女の子がフラッシュ
に驚いて、母親の陰に隠れた。そのときのことである。母親は、女の子に懸命に笑顔で
話しかけながら、そのままあとずさりして、家の中に消えてしまった。私はそのシーン
を見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」と考えた。あるいはあなたな
ら、こういうときどうするだろうか。

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視
点に立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせ
るときでも、「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。もし
あなた(妻)が、夫から、「お前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われたら、
あなたはそれに従うだろうか。そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき
夫が、「夫に向かって何てこと言うのだ!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。
相手の視点に立って見るということは、そういうことをいう。

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。
あるいは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子ども
の側からみてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そう
でない子どももいる。

私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分は偉いと思っているらしいが、
誰もそんなふうには思っていない。人を尊敬するとかしなとかいうことは、もっと別の
ところで決まる。子どもに「バカ」と言われても、気にしないことだ。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにして
いる。「私はバカではない。失礼なこと言うな。バカではない。大バカだ。まちがえるな」
と。子どもの口が悪いのは、あたり前。奨励せよというわけではないが、それが言えな
いほどまでに、子どもを押さえつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。この
ユーモアが、親の度量の広さの見せどころということになる。

 そうそうあのアメリカ人のケースだが、日本人なら多分、こう言うに違いない。「何をし
ているの。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとしなさい」と。こうした押しつけ
が、親子の間にミゾを作る。そしてそのミゾが、やがて親子断絶へとつながる。

(2)今日の特集  **************************

●愛媛県のFさんより

 愛媛県のFさんより、こんな相談が届いた。

 『息子は、中学1年生。全寮制の中高一貫高に通っている。
 しかし自分から、黙々と勉強する様子はない。週末に家に帰ってきても、家の中でゴロ
ゴロしているだけ。

 私は、親として、将来は安定した仕事についてほしいと願っている。そのためにも大学
受験だけは、しっかりと受けてほしいと願っている。

 先生(はやし浩司)のHPを読むと、親がうるさく言えば言うほど、子どもは勉強しな
くなるとか。さらに、今より、悪い状態に追いこんでしまうこともあるとか。

 そのあたりは、よく理解できた。しかし今、ここで教育の方針を変更すると、息子は、
かえって、勉強しなくなってしまうのではないかと心配。親の教育方針を変更することに
よって、子どもが、混乱することはないのか。

 何か、よいアドバイスがほしい」と。

【Fさんへ……】

 子どもが受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に襲われる。
無意識のうちにも、自分の受験時代を心の中で、再現するためである。 

 そして明治時代からつくりあげられた学歴意識、さらには、それ以前からあった職業に
よる身分差別意識が、あるからである。

 子育てというのは、そういうもの。さらにそれにまつわる意識というのは、そういうも
の。代々、親から子へと、無意識のうちに伝えられる。

 多分、Fさんは、「勉強というのは、ガリガリとするもの」という先入観をもっている。
メールの中で、「私は、親に言われなくても、勉強した。どうしてうちの子は、ガミガミ言
わないと、勉強しないのか」と書いていた。

 Fさんは、どこか戦前的な教育観をもっているように見える。古いタイプの教育観であ
る。

 否定的なことばかり書いたが、Fさんの子どもは、全寮制の学校に通っている。そして
たまの週末、家に帰ってくる。そんなとき、つまり心と体を休めるために帰ってきたとき、
親から、また、「勉強しなさい」と言われたら、子どもはどうなるのか?

 恐らくFさんは、不安神経症の持ち主? せっかくの休みに、家族とどこかへ旅行に出
かけても、その旅行を楽しむ前に、旅行から帰ったあとの仕事を心配するようなタイプ? 
いつも「今」を、未来のために犠牲にするタイプかもしれない。

 こういうケースで、まず親がすべきことは、いつも子どもを、暖かく、家の中に迎えて
やること。おいしい料理を作って、待っていてあげること。心と体を休める場所を、用意
しておいてあげること。

 そしてそれ以上に大切なことは、「今」というこの一瞬、一秒を、親子の絆(きずな)を
確かめあって生きること。その重要性とくらべたら、大学受験など、Fさんが出す、腸内
ガス(失礼!)のようなもの。何でもない。

 基本的に、Fさんは、自分の子どもを信じていない。「何をしても心配だ」という、どこ
か心配先行型の子育てをしている。不安先行型かもしれない。そしてその原因はといえば、
Fさん自身の、貧弱な幼少時代にある。

 心豊かな家庭環境で、親の愛情をたっぷりと受けて育ったとは、とても思えない(失礼!)。
子どもを、全幅に信頼できない。いつも何か不安だ。……という人は、そういう過去を、
まず疑ってみる。

 たとえば、Fさんは、「私は親に言われなくても、勉強した」と書いている。一見、すば
らしい子どもに見えるかもしれないが、実は、内心で、そう追い立てられていただけでは
ないのか。あるいは、自分の攻撃性を勉強に向け、自分にとって居心地のよう世界をつく
ろうとしていただけではないのか。

 「勉強が楽しい」という子どもも、中にはいる。しかし本当に、勉強を楽しんでしてい
るかどうかということになると、疑わしい。とくに受験勉強は、そうである。

 実は、このことを、私は、最近、三男を見ていて、発見した。

 三男は、遊ぶときには、目一杯、遊ぶ。Y大学という大学にいたときも、家に帰ってく
るときは、参考書一冊、もってこない。教科書一冊、もってこない。

 で、私はある日、恐る恐る聞いた。「宿題のようなものは、ないのか?」と。

 すると三男は笑ってこう言った。「そんなの、向こう(大学)でするよ」と。

 三男の生きザマは、私には欠ける生きザマだったので、私はそれをたいへん新鮮に感じ
た。そしてこう思った。「ぼくも、見習わなければ」と。

 子どもを信ずることは、むずかしい。本当に、むずかしい。しかし親の信頼感をしっか
りと感じている子どもは、決して、道を踏みはずさない。ときにフラつくことはあるかも
しれないが、しかしそのまま、また、まっすぐ前を向いて歩き出す。

 大切なことは、そのときどきにおいて、動じないこと。「お母さんは、あなたを信じてい
ますからね」という姿勢だけを、徹底的に貫くこと。そういう思いが子どもに伝わったと
き、子どもは、自分で自分を軌道修正するようになる。

 Fさんが言う、「安定した仕事」というのは、どういう仕事を言うのか。それがわからな
いわけでもないが、しかしそんな仕事を、子どもに求めても無理。時代も変った。子ども
たちの意識も変った。その先、子どもがどんな道に進もうとも、その選択は、子どもに任
せるしかない。

 そして子どもが、どんな選択をしても、親がすべきことはただひとつ。子どもを最後の
最後まで、信ずるということ。

 ある子どもは、進学高校を中退し、どこかの劇団に入団した。今は、いろいろなアトラ
クション・ショーで、ぬいぐるみを着て踊っている。当初、親は、「絶望するほど苦しんだ」
(母親の弁)が、今は、楽しそうにこう言う。「あの子は幸せそうに踊っているのを見ると、
私まで、ウキウキしてきます」と。

 そんなわけで、Fさんの相談は、一見、子育ての相談のように見える。しかし実際には、
Fさん自身の心の問題と考えてよい。

 なぜ、もっと、自分の子どもを信ずることができないのか? ……すべての問題は、こ
こに集中する。

++++++++++++++++++

子どもたちへ

思う存分、この広い世界を、飛んでみなさい
青い空、白い雲、そして緑の大地
あなたは風を切って、この空を飛ぶのです。

新しい世界を見て、新しい友だちに会い、
恋をして、結婚して、家族をもって、
そして自分の人生を歩んでいくのです。

そしていつか、心と体が疲れたら、
いつでも、もどってきなさい。
大きな鳥が、古い巣で、羽を休めるように、
あなたも、羽を休めるために、もどってきなさい。

いつでも、あなたの家の窓は開いていますよ。
いつでも、テーブルの上には、暖かいスープがありますよ。
あなたは、静かに目を閉じて、子どものころのように、
ソファに、身を沈めれば、それでいいのです。

++++++++++++++++++

Fさんへ

あなたの子どもは、とっくの昔に、
古い巣箱を飛び立っていますよ。

もうあなたの思い知らぬ世界を、
飛び回っていますよ。

大切なことは、しっかりと
子離れすること。

古い親意識など、もう捨てなさい。
捨てて、あなたはあなたで、
最後の自分の人生を生きなさい。
輝かせなさい。

あなたにすべきことがあるなら、
子どもを信じ、いつ子どもが
もどってきてもよいように、
窓をあけ、部屋を掃除し、
そしてテーブルの上に、暖かい
スープを用意しておくことです。

子どもの人生は、子どもに任す。
もうその時代に入っています。

+++++++++++++++++++

 一言つけ加えるなら、母親主導型の、母親だけの子育てほど、危険なものはないという
こと。子どもは、母性本能のとりこになってしまい、その分、自立できなくなってしまう。

 極端なばあいには、ナヨナヨとした人生観、強度の依存性をもつ。現実検証能力の喪失
(常識はずれになりやすいということ)、精神の未発達を引き起こすこともある。ふつう、
自己中心的なものの考え方をもつようになる。いわゆるマザコンタイプの子どもになると
考えると、わかりやすい。

 こうして考えてみると、Fさんの子どもの問題というよりは、どこか子離れできない、
Fさん自身の問題ということになるのかもしれない。

 仮に将来、子どもが、自らコースを離れ、Fさんからみて、不安定な職業についたから
といっても、Fさんがすべきことはただ一つ。最後の最後まで、自分の子どもを信ずる、
ということ。

 「あなたは、あなたが正しいと思う道を進みなさい。お母さんは、あなたを信じ、あな
たを支持しますからね」と。

 最後にもう一言。

 Fさんは、教育方針を転換するのではない。今までの方針の上に、新しい方針を載せる
だけ。親とて、年齢や経験を積み重ねて、賢くなる。より賢くなるということは、方針転
換でも何でもない。

 Fさん、あなた自身も、自信をもって、子どもといっしょに、前に進みなさい!
(040620)

(追記)この原稿は、小生発行のマガジン、7月21号に掲載します。どうかよろしくご
了解ください。


(3)心を考える  **************************

●ADHD児

 ADHD児の最大の特徴は、「抑えがきかない」ということ。つよく叱っても、効果は、
一時的。まさに一時的。数分もたたないうちに、また騒いだり、大声をあげたり、動き回
ったりする。(数分でも、長いほう。子どもによっては、叱った直後から、騒いだりする。)

 言いかえると、どんな方法であるにせよ、抑えがきけば、ADHD児でないとみてよい。
抑えがきくということは、指導が可能ということ。たとえば先週は、騒がしかったが、今
週は、まあまあ静かだったというのは、ADHD児ではない。

 ADHD児は、数年単位で症状が変化する。1か月や1年くらいで、その様子が、大き
く変化するということは、ありえない。

 もちろん症状に軽重はあるし、男児と女児では、その症状も、微妙に違う。男児は行動
として騒々しく、女児は、それに比較して、言動として騒々しい。

 栃木県のA市にお住まいの、SAさん(母親)から、「うちの子(小3男児)は、ADH
D児ではないか?」という相談をもらった。

 そこでここでは、もう少し先の問題を考えてみたい。

 ふつうADHD児というと、親側、あるいは指導する教師側の立場でしか、ものを考え
ない。しかしそれと同じくらい大切なのは、子どもの立場でものを考えることである。

 親や教師は、「静かにしなさい」と、子どもを叱る。しかし子どもの側からみて、静かに
していること自体、きわめて苦痛なのである。いや、その前に、自分が騒々しいという自
覚すら、ない。

 ある中学生は、こう言った。私が「君は、幼稚園児や小学校の低学年児だったころ、う
るさくて、みんなに迷惑をかけたが、覚えているか?」と聞いたときのこと。「ううん。ぼ
くは、何も悪いことはしていなかった。みんなが、ぼくを目の敵にして、いじめた」と。

 自分を知ることはむずかしい。とくに、このタイプの子どもは、そうである。騒々しく
し、みなに迷惑(?)をかけながらも、自分には、その自覚は、ない。だいたい、自分が
騒々しいなどとは、思っていない。

 中学1年の女子がいた。ADHD児だったが、本人はもちろんのこと、親も、そうは思
っていなかった。

 しかしその子どもは、うるさかった。よくしゃべるというようなものではなかった。つ
ぎからつぎへと、話題を変え、よくしゃべった。その子どもが教室へ入ってきただけで、
雰囲気が一変した。

私「これから10分間だけ、何もしゃべらないでよ」
女「10分間だけでいいの?」
私「そうだ。10分間だけ」
女「そんなの簡単じゃん」
私「だったら、口を閉じてごらん」

女「私、口を閉じることができないもんね」
私「口を閉じてごらん」
女「息ができないもん」
私「できるよ。鼻から息をすればいい」
女「口から息をする人と、鼻から息をする人と、二種類あるのよ」

私「いいから、少し黙っていてくれない?」
女「苦しい」
私「苦しくてもがまんして……」
女「できないわよ。そんなこと」
私「しゃべるな!」と。

 こんな意味のない会話が、いつまでもつづく。相手にしていると、こちら側の気がヘン
になってしまう。が、それ以上に、このタイプの子どもにとっては、静かにしているだけ
で、苦痛なのだ。

 実際、ここに書いた中学生の女子でも、数週間にわたって強く制止したが、それが原因
で、どこか気うつ症的な症状を示すようになってしまった。このタイプの子どもに向かっ
て、「静かにしなさい!」と叫ぶことは、その子どもの体に、クサリをまくようなもの。親
や、教師側の勝手な判断だけで、そうしてはいけない。

 SAさんの子どもは、メールによれば、ときどきでも、別人のように静かに作業をする
こともあるという。そういう症状であるなら、ADHD児ではないとみてよい。何か別の
原因による、別の症状と考えてよい。

 たとえば最近、多くなったのが、脳の情報が乱舞する子ども。つぎつぎと、突飛もない
ことを口にしたり、それをもとに騒いだりする。

乳幼児期においてテレビを見すぎたとか、テレビゲームをしすぎたことが原因という説
が、急速にクローズアップされてきている。右脳を過度に刺激しすぎたために、そうな
ると考えると、わかりやすい。

 ほかに環境ホルモンによる、脳の微細障害説などもある。決して、一つの原因で、そう
なるわけではない。「騒々しいから、ADHD児」と、あまり短絡的に子どもをみないほう
がよい。

【SAさんへ……】

 私の立場では、「ADHD児の心配はある」という診断はくだせませんが、「ADHD児
の心配はない」という診断はくだせます。

 以下の症状から、私はADHD児ではないと思います。

(1)能力的には、むしろすぐれている。好奇心が旺盛で、活動的。
(2)いたずらに、子どもらしさがみられ、突飛性がみられないこと。
(3)そのときの気分によって、乗り気になり、静かに作業ができること。
(4)ときどき本を夢中になって読むこと。

 それ以上のことは、お子さんを見ていないので、何とも言えません。以上が、私の考え
です。参考にしていただければ、うれしく思います。

 なお参考までに、アメリカ内科医学会の発表した、ADHD児の診断基準を、私の翻訳
をそえて、送っておきます。

(メールの転載、不許可ということですので、以上、メールを要約させていただきました。
よろしくご了解ください。)


●子どもへの暴力

 「つい、カーッとなってしまって……」と、Kさん(母親)は言う。

 「子どもへの暴力は、悪いことだとわかっているが、そのときになると、つい」と。

 子どもへ何らかの体罰を与えている母親は、全体の50%。その中でも虐待に近い、は
げしい暴力を加えている母親は、70%近く、いる(筆者、調査)。

 つまり全体の約35%は、子どもに対して、虐待に近い暴力をふるっている。

 厚生労働省の調べによっても、1992年には、1370件にすぎなかった、「児童虐待
に関する相談件数」が、2001年には、24790件にまで急増している。虐待がふえ
たというよりは、それだけ関心が大きくなったということか。

 こうした子どもへ虐待を繰りかえす母親のうち、約半数は、自分自身も、子どものころ、
親から虐待を受けたことがわかっている。これを「世代連鎖」という。

 こうした育児習慣(?)は、親から子へと、代々、伝播(でんぱ)しやすい。

 で、こうした母親の特徴は、つぎのようである。

(1)ふだんは、よい親でいようという意識が強い。
(2)虐待は、瞬間的なできごととして、起こる。
何か、特別のキーワードなどが、きっかけになることが多い。
(3)その瞬間は、子どもを心底、憎み、嫌う。
(4)虐待したあと、はげしい自責の念にとらわれ、悩んだり苦しんだりする。

 ここで「キーワード」という言葉を使ったが、このタイプの母親は、子どものあるかぎ
られた言葉や動作、しぐさに、過敏に反応することがわかっている。

 これはある父親の例だが、子どもがその父親を、流し目で見たとたん、カッとなって、
子どもを罵倒(ばとう)していた。「親に向って、何だ、その目つきは!」と。

 こうした虐待(虐待といっても、肉体的暴力だけではないが……)を、周期的に繰りか
えしているようなら、心の中のわだかまり(固着)をさぐってみる。

 何か、あるはずである。

 この父親のばあいは、中学時代、仲間のグループにいじめにあっていた。そのグループ
の中のリーダー格の男子が、そういう目つきで、いつもその父親をシカト(無視)してい
た。

 その父親は、無意識のうちにも、そういう目つきを、子どもの目つきの中に感じていた。

 ほかに、望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、家庭不和、経済苦
などなど。そういったわだかまりが、心の奥底から、つまり裏から、親を操る。

 が、それが何であるかに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。そのためにも、ど
うしてそういう行為を繰りかえすのか、また子どものある特定の部分に過敏に反応するの
かを、冷静に判断してみる。

 なお、虐待といっても、ここにあげた肉体的暴力のほか、(1)言葉の虐待、(2)食事
面での虐待、(3)性的虐待などがある。これらも、肉体的虐待と同じように考えて、対処
する。
(以上、福岡県のKさんの質問に答えて……。)


(4)今を考える  **************************

●「楽天」日記

 最初は、「どうかな?」と思って始めた、「楽天日記」。このところ、マガジン用の原稿を
サボっている分だけ、毎日、その日記を書いている。

 楽天日記というのは、「楽天株式会社」(日本最大の通販ショップ)が、無料で提供して
いる、日記専用のサービスをいう。最近では、さらにトラックバックという機能もついた。
だれかの日記を読んで、「おもしろい」と思ったら、その場で、感想を書いて、それを相手
に伝えることもできる。

 また楽天メンバー同士なら、自分の日記を読んでくれた人に、すぐ礼状を書いたり、メ
ールを書いたりすることができる。その楽天日記で、先日、アクセス数が、1万件を超え
た。

 早い!

 興味のある方は、はやし浩司のサイト(HP)のトップページから、「楽天日記」へと進
んでほしい。こちらは、できるだけむずかしい話はやめ、気楽な話題を、イージィな日本
語で書いている。


●子育て相談について

 現在、外部の方からの子育て相談を、お断りしています。ごめんなさい。

 このところ、子育て相談が、たいへん多くなっています。ホームページの読者の方から
の相談、マガジンの読者の方からの相談、それにあわせて、飛び込みの方からの相談など。
多いときで、1日、5〜10件近くもあります。

 ほかに私書箱への書き込み、掲示板への書き込みなどなど。

 せっかく相談をいただいても、その返事すら書くことができません。かえって読者の方
を不愉快にしてしまうのではないかということで、それでお断りすることにしました。

よく、「どうして返事をもらえないのか!」という、お叱りのメールをいただきますが、
だからといって、いいかげんなことは書けません。

どうか、当方の事情もご理解の上、勝手を、お許しください。

 もちろん、友人、知人(私がお名前と、住所を知っている方)、賛助会のメンバーの方、
BW教室関係の方からの相談については、できるだけ時間を見つけて、返事を書きます。
お約束します。どうか遠慮なく、相談してください。

 なおいただきました相談については、直接返事を書くことができないときは、テーマと
して、マガジンのほうで、そのつど、とりあげさせていただきます。


●憎しみあう、老夫婦

 X氏は、83歳。妻のYさんは、85歳。

 この二人は、結婚して、もう60年近くになる。ともに、それほど、頭もボケてはいな
い。それに生活は、X氏の年金と、息子と娘の仕送りで、何とか成りたっている。

 が、この夫婦、仲が悪い。本当に悪い。顔さえ合わせれば、朝からいがみあい。けんか。
悪口を言いあったり、ののしりあったりしている。

 昔から、『仲のいい夫婦ほど、よく喧嘩する』というが、そういうタイプの喧嘩ではない。
たとえばこんな喧嘩。

 X氏が、近くのスーパーで、サラダを買ってくる。それを見て、Yさんが、「こんなもの、
買ってきやがってエ!」と、そのサラダを、床に投げつける。

 Yさんが、座椅子の上で、うたた寝をしていると、それを見てX氏が、「気持ち悪いから、
あっちで寝ろ!」と、足で、座椅子ごと、Yさんを蹴とばす。

 X氏がたまに料理を作れば、Yさんが文句を言う。「まずい」「食えない」と言う。

Yさんが、少し体を休めていると、今度は、X氏が、「怠け者!」と言って、罵声を浴び
せかける。

X氏が、食器を洗えば、Yさんが、「洗い方が足りない」と言って、自分で洗いなおす。
ときに食器を投げつけて、割ることもある。

Yさんが、何度か、聞きなおすと、(Yさんは、このところ、耳が聞こえなくなった)、
X氏が、「このクソババア! 何度言ったらわかる!」と、怒鳴る。

 毎日が、この繰りかえしだそうだ。

 そのX氏とYさんを、ボランティアで介護しているKさん(60歳、女性)は、こう言
った。

 「ともに、もう残りの人生も少ないのにね」と。

 あるいは残り少ないからこそ、たがいに妥協できなくなってしまったのかもしれない。

 しかし問題は、なぜ、X氏とYさんは、それほどまでに仲が悪いかということ。そのヒ
ントとして、ときどきYさんは、こう叫ぶそうだ。「私の人生を返してヨ!」と。それに答
えてX氏も、こう叫ぶそうだ。「オレの稼ぎで生きてきたクセに、何を生意気言うかア!」
と。

 長い人生を、たがいに、がまんしながら、生きてきたのかもしれない。悶々と、晴れな
い気分を隠しながら、生きてきたのかもしれない。そういう不平、不満が、人生の晩年に
なって、爆発している?

 が、離婚するとか、別れるとか、そういうところまでは、話は進まない。……らしい。
いくら仲が悪くても、あるところでは、たがいにたがいを必要としている。

 X氏の年金で、Yさんも生活している。一方、X氏は、まったく家事、炊事ができない。
洗濯すら、できない。しない。

 こういう話を聞くと、わだかまり(心理学の世界では「固着」という)の、恐ろしさを、
改めて、思い知らされる。X氏とYさんのケースでも、結婚当初から、何かのわだかまり
があったのかもしれない。

 不本意な結婚、不平、不満だらけの生活などなど。そういったものに、たがいに耐えな
がら、ここでいう大きな(わだかまり)をつくった。そしてそれが今、爆発しつつある。

 これはあくまでも私の推理でしかない。が、それほどまちがっていはいないと思う。

 そこで教訓。

 家族の中では、たがいにがまんして生きるようなことは、やめよう。言いたいことを言
い、したいことをしよう。たがいにすべてをさらけ出し、すべてを受け入れよう。豊かな
老後のために。

 ……と書いて、私は、ハタと自信がなくなった。あああ。考えてみれば、これは、私自
身の問題でもある。ひょっとしたら、X氏は、私の未来の私かもしれない。Yさんは、未
来の私のワイフかもしれない。

 今、そんな大きな不安が、心の中を横切った。


●リアルな夢 

 何年かに一度とか、もっと少ないかもしれないが、私は、ときどき、総天然色で、リア
ルな夢を見る。覚えているのは、私が、29歳のときのこと。昼寝をしていて、その起き
がけに見た。

 夢を見ながら、それが夢であると、はっきりとわかった。しかしあまりにもリアルだっ
たので、その夢を見ながら、「夢なのに、現実と変らないな」などと思ったりした。登場人
物の顔や姿が、それこそ毛穴までしっかりと見えるほど、リアルに見えた。

 夢の内容は、今でもよく覚えているが、その話は、またいつか。

 で、昨日も見た。やはり昼寝をしていて、その起きがけに見た。内容については、今、
ここでは書けない。が、やはりリアルだった。

 時間にすれば、数分以下? 映画風に言えば、ワンカットの1シーンだけ。(夢の時間ほ
ど、あてにならないものはない。数秒という短い時間の間に、半日分の夢を見ることもあ
る。) 

 これは脳のどういう作用によるものか。また何が影響して、そういう夢を見るのか。ど
ういう精神状態のときに、そういう夢を見るのか。

 あれこれ考えてみるが、昨日は、それほど、ほかの日と、ちがったところはなかった。
食べたものも、とくに変ったものはなかった。私のばあい、チョコレートをたくさん食べ
ると、おかしな幻覚症状が現れる。これはチョコレートの糖分が、インスリンの過剰分泌
をうながし、それが脳間伝達物質のセロトニンの過剰分泌をうながすためと考えられる。

 しかし昨日は、それもなかった。つまりチョコレートを食べていない。

 人間の脳は、睡眠中も、活発に活動をつづけている。眠っていると思う部分は、ほんの
一部だけ。だから人間が夢を見るというのは、ごく自然な現象であって、とくにどうとい
うことはないはず。しかしあれほどまでにリアルな夢を見ると、自分の脳ミソを疑ってし
まう。

 ゆいいつ考えられるのは、この2日ほど、ほとんど、原稿を書いていないこと。私のば
あい、いつも何かを書いていないと、すぐ頭の中がモヤモヤしてきてしまう。そのモヤモ
ヤを吐き出さないと、不愉快でたまらない。だから原稿を書く。

 しかし、このところ、原稿を書くのが、どうもおっくうになってきた。一応マガジン用
に書いているが、マガジンの読者数が、まったくふえない。書いても書いても、ふえない。
マガジンの発行を、このあたりで休止して、その分のエネルギーを、ほかの方面へ移行し
ようかと迷っている。

中には、熱心に読んでくれる読者もいるかもしれない。「そういう人のために……」とは、
思うが、その元気がつづかない。つまりその迷いが、おっくうになる原因だが、そのた
め、頭の中は、マンパン状態!

 これはたとえて言うなら、若い男が、その機会もなく、精液を、精巣にためるようなも
のか。何らかの方法で、射精しないと、性欲で体中が、マンパンになってしまう。考える
ことは、女性とのセックスのことばかり。

 そういう状態になると、夢に出てくるのは、女性の裸体ばかり。そういうとき若い男は
夢精をする。精子を外へ、吐き出す。今の私の頭の中は、それと同じと考えてよい。

 やはりモヤモヤを、吐き出さなければならない。しかしこういう状態になると、どこか
ら手をつけてよいのか、わからなくなってしまう。書きたいことは山のようにあるのに、
それぞれが複雑にからみあってしまう。2日間もサボっていると、そういう状態になる。

つまりそれが、昨日見た、あのリアルな夢の原因ではないかと思う。


●台風6号

 巨大な台風が、日本めざして、今、北上中。気象庁の予報によれば、21日の午前9時
ごろには、九州へ上陸するかもしれないという。(今は、19日の午前9時。)

 風速25メートル以上の暴風域だけでも、九州から四国まで、すっぽりと入ってしまう
大きさ。15メートルの暴風域ともなると、九州から本州すべてがすっぽりと入ってしま
う大きさ。並みの台風ではなさそうだ。

 この原稿がマガジンに載るころには、すでに結果は出ていると思うが、その被害が心配
される。こんなこと書くと、韓国やK国の人は怒るかもしれないが、九州をそれて、そち
らのほうへ行ってくれればと願っている。

 ……これも、この10年以上つづく、異常気象のせいか? 私が子どものころにも、台
風は発生したが、日本を襲うような台風がくるのは、夏休みが過ぎてからだった。が、今
は、6月? 昨年は冷夏だったが、今年は、猛暑が予想されるという。そういえば、先月
も、記録破りつづきの、暑い日がつづいた。ここ静岡県西部でも、5月末だというのに、
気温が30度を超えた! 地域によっては、35度を超えたところもあった。

 この先、地球は、いったい、どうなってしまうのか? そして私たちは、それに対して、
どうしたらよいのか?

 一つのサンプルが、実は、あの火星である。

 昔、あの火星には、水や空気も豊富にあり、地球によく似た環境があったという。生物
の痕跡(こんせき)すらも、指摘されている。

 その火星が、今に見る砂漠の星になってしまった。私のようなド素人が、うろ覚えの知
識で、いいかげんなことを書くのは許されない。それはわかるが、その火星は、この地球
の未来図だと説く科学者も、多い。

 つまり私たちが今、経験している地球温暖化、それと並行して起こる異常気象は……。

 ……こういった、深刻な話はやめよう。しかし6月に、巨大台風とは? 海も熱くなっ
ているらしい。熱くなったから、その分、台風も、巨大化するらしい。

 たった今、つまり、この原稿を書いているとき、「♪しゃぼんだま」のチャイムにのせて、
古紙回収業のトラックが、家の前を通り過ぎた。のどかな土曜日である。今のところ、風
はさわやか。そよ風。空も水色に、よく晴れている。「嵐の前の静けさ」とは、よく言った
もの。「本当に、台風がくるのかな?」という雰囲気である。しかし、油断は、できない。
これから私とワイフは、山荘へ行き、台風の準備をしてくる。

 机やイスをかたづけ、フェンスを倒す。
 山荘のまわりの小物を、家の中に入れる。
 雨戸をしっかりと閉めてくる。

 では、みなさん、おはようございます! よい週末をお迎えください。


●情報と思考

ものをよく知っているからといって、賢い子どもということにはならない。が、この日
本では、ものをよく知っている子どもイコール、頭のよい子ども。さらに、頭のよい子
どもイコール、人格的にもすぐれた子どもということになっている。

 とんでもない誤解である。

 ……というような話は、以前にも書いたので、ここではもう一歩、話を進める。

 先日、スペインに在住している、Iさんという方から、メールをもらった。そしてその
中で、Iさんは、こう教えてくれた。

 「娘(中学生)の社会の勉強では、今、フランス革命について学習しています。(日本と
ちがって)、こちらでは、一つのテーマについて、徹底的に学習するのが、社会科の学習の
ようです」(要約)と。

 私は、このメールを読んで、考えさせられた。

 日本では、広く、浅く、ざっと学習する。それが教育の大きな流れになっている。とく
に歴史の学習では、年表を中心に、その流れを学習する。

942〜1027年 ……摂関政治期
1028〜1106年……平忠常の乱、前9年・後9年の役
1107〜1160年……保元・平治の乱、などなど。

 しかしその一方で、「一つのテーマについて、徹底して学習する」という学習法もある。
それがスペインに在住している、Iさんの娘が経験している学習法である。

 どちらがすぐれているかという議論は、あまり意味がない。しかしより考える子どもを
育てるという意味では、スペインでの学習法がすぐれていることは、言うまでもない。

 フランス革命に至る経緯。その経過。まわりの文化的変化、意識の変化などなど。さら
に民主主義とは何か、平等とは何か、自由とは何か、など。

 それぞれの分野を、掘りさげて考える。

 私はそれを知ったとき、「日本も、もっとこうした教育法を取り入れるべきだ」と思った。
とくに歴史の学習では、そうである。この日本では、歴史といえば、暗記科目ということ
になっている。私自身も、学生時代、明けても暮れても、暗記につづく暗記ばかりしてい
た。

 しかしそれから40年。「ああいうくだらない教育を、くだらないとも思わず、よくもし
たものだ」と、思う。ときどき、そういう学習をさせた、学校や教師をうらむこともある。
何も役にたっていない。そもそもテストが終われば、そのまま忘れてしまうような知識に、
どれほどの価値があるというのか。

 私たちがなぜ、歴史を学ぶかといえば、先人たちの知識や経験を、「今」や「未来」に利
用するためである。つまりそうした視点の欠けた歴史教育など、いくらしてもムダ。無意
味。無価値。

 では、どうするか。

 私は、一つのテーマでよいから、それを掘りさげて学習するという方法も、取り入れる
べきではないかと思う。たとえば明治維新なら、明治維新でよい。それを半年とか、1年
をかけて、みなで学習する。資料を集めて、議論する。

 そういう学習法である。

 いわゆる(もの知りの子ども)を育てるのではなく、(より深く考えられる子ども)を育
てる。そういう視点に立って、もう一度、社会科の学習を考えなおしてみる。

 話は変るが、私は、もともと理科系の思考性をもっていた。そういう意味でも、理科は
好きな科目だった。

 そういう私だが、高校時代を振りかえってみたとき、思い出に残っているのは、化学の
授業について言えば、何もない。ただ一つ、鮮明な記憶として残っているのに、こんなこ
とがある。

 ある日、化学の先生が、私を化学の実験室へ連れて行ってくれて、こう言った。「分子の
膜を作ってみないか」と。

 今となってみると、それがどういう実験であったかは、よく覚えていない。その実験と
いうのは、何かの溶液の上に、別の何かの液体を一滴落すと、瞬間、その液体がパッと溶
液の表面の上に広がって、分子一個分の膜を張るというものだった。覚えているといって
も、その程度のことである。

 もちろんこれは教科書にはない実験であった。

 私は、その分子一個分の膜というのに驚いた。厚さは、それこそ分子一個分しかない。
私は、それがどういう実験であったかは別として、あのとき感じた、新鮮な驚きを、今で
も、忘れることができない。

 そう、20年、30年を経て、心に残る教育というのは、そういうものをいう。

 知識偏重の教育の弊害が指摘されるようになって、もう30年になる。私が学生のころ
でさえ、それが問題になっていた。が、今でも、その流れは、大きくは変わっていない。
その証拠にというか、私は、スペインに在住している、Iさんという方からメールをもら
ったとき、「そうなんだ。そうだったんだ」と、思った。

 みなさんは、どうだろうか? スペインの歴史教育のし方を、どう思うだろうか?


●インチキ(詐欺)広告

 今朝、新聞に、こんな折り込み広告が入っていた。どこかの大病院のものである。

++++++++++

大成果宣言! 大実績宣言!

 診断のクオリティーと治療実績(昨年度)は、E病院が、NO.1

 胃がん完全治癒者  100人
 大腸がん完全治癒者  61人
 乳がん完全治癒者   96人
 子宮がん完全治癒者  93人
 肺がん完全治癒者   65人

 H市、がん完全治癒者のうち、13・5%が、E病院の患者。

+++++++++

 しかしこの広告は、おかしい。そんなことは、高校生でもわかる。中学生でもわかる。
胃がん完全治癒者(発病から5年以上生存者)が、100人いたからといっても、それは
そのまま、実績とはならない。

 実績というのは、胃がん患者のうち、何%が、完全治癒したかで決まる。仮に、胃がん
患者が、200人だったとすれば、治癒率は、50%ということになる。1000人だっ
たとするなら、10%ということになる。

 全体の患者数も公表してはじめて、こうした数字は、意味をもつ。

 ……実は、このチラシは、今朝、新聞に入っていた、どこかの進学塾のチラシである。
そのチラシのおかしさをわかりやすくするために、進学塾を、病院に置きかえてみた。

 仮にS高校への合格者が100人となっていても、不合格者が何人いたかをみて、はじ
めて、それが実績となる。チラシを、サッとしか見ないような、単純な親(失礼!)なら、
この程度の統計的マジックでだませる。が、私をだますことはできない。

 統計的マジック……まさにマジックだが、もしだれかがこう言ったら、あなたはどう思
うか。

 「うつ病患者を調べたら、50%が女性だった。だから女性は、うつ病になりやすい」と。

 あなたはきっと、「バカめ」と思うにちがいない。人間の50%は、その女性なのだ。

 同じように、S高校の合格者が、100人いたからといって、それをそのまま鵜呑みに
してはいけない。どこにもそれは書いてないが、チラシは、「夏期講座」「模擬試験」「塾生」
を募集するものであった。

 つまり、その100人というのは、昨年、夏期講座を受けた生徒、模擬試験を受けた生
徒、さらにE進学塾へ通った生徒すべての中の、100人ということになる。恐らく、そ
の合計は、200人か、300人になるのでは……? 全体では、数千人規模になるはず。

 また、不合格になった生徒や、1ランクさげて、結果として、その1ランクさげた高校
に合格した子どもについては、一言も触れられていない。あとで名簿を照合してみて、結
果として、「合格していた」というにすぎない。

 それにこうしたチラシが、道義上、許されてよいものかという問題がある。病気と受験
は、どこかで似ている。病人がいると、その家は暗くなる。同じように、受験生がいると、
その家は、暗くなる。つまりは、人の弱みにつけこんで、こうした詐欺的なチラシを出し
てよいものかという問題である。

 合格した子どもはともかくも、不合格になり、心を痛めた子どもも、多いはず。そうい
う子どもの存在を無視して、「大成果」「大実績」と、大きな文字でチラシを飾る。この無
神経さ。いくら金もうけといっても、ここまで許されてよいものか。

 それがわからなければ、進学塾を病院に置きかえて、考えてみればよい。そのために、
あえて冒頭で、それを書いてみた。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 19日(No.437)
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(1)子育てポイント**************************

●巨大なおなら

 年長児たちを教えているときのこと。近くの道路で、工事が始まった。その音と振動が、
壁を震わせて、教室中に、ブリブリブリと響いた。

 すかさずA君が、こう言った。「おならの音みたい!」と。

 それを見て、私は、こう言った。「ほう、君のおならは、こんなすごい音なの?」と。が、
A君は、こう言った。

 「ううん、ぼくじゃない。ママのオ!」と。

 横の席では、母親たちがみな、参観していた。私は反対側に顔をそらし、顔を半分、手
で隠した。とても、母親たちのほうを見ることができなかった。A君の母親は、背も高く、
とても美しい人だった。

 で、今週のレッスンは、「色」。色の常識について、学習した。

 途中、色のついたセロファンを渡し、それを子どもたちに見せ、「赤と、青で、何色にな
るかな?」と。子どもたちは、それに答えて、「ムラサキ!」と。

 あとは、白黒の線だけで描いた、「春」「夏」「秋」「冬」の絵を渡し、それに色を塗らせ
た。

 色使いになれている子どもは、自然な感じで色を塗る。そうでない子どもは、そうでな
い。中に、色覚障害の子どもいる。見て見ぬフリをして、その場はやりすごす。

 こういうケースでも、「どうしてうちの子は、葉っぱを茶色に塗るのでしょうか?」とい
う親からの質問がないかぎり、こちらからそれを指摘することは、ない。また指摘しては
ならない。

 私がすべきことは、子どもたちを楽しませること。すべては、ここから始まり、ここに
終わる。子どもたちが笑い、親たちが笑えば、それでよい。


●ニックネーム

 ところで私のニックネームは、「ビ・ダン・シ(美男子)」「コウ・ダン・シ(好男子)」「ニ
マイメ(二枚目)」「チョウソク・ノ・コウダンシ(長足の好男子)」。

 いつだったか、私のことを、「ジジイ」とか、「クソジジイ」とか呼んでいた子どもがい
た。それで「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と言うと、子どもたちが「教えて」「教
えて」と言った。

 それで「ビ・ダン・シ」と教えてやった。

 以来、子どもたちは、私のことを「ビ・ダン・シ」と呼ぶようになった。あとの言葉も
同じように教えた。

 が、ある日、一人の子ども(小1)がこう言った。

 「パパに、聞いたら、『ビダンシ』って、いい意味だってエ。かっこいい人のことを、ビ
ダンシって、言うんだってエ」と。

 そこで私は、こう言った。

 「それはね、君のお父さんが、そういう言葉を使ってほしくないから、そういうウソを
言っているんだよ」と。

 子どもは、どちらを信じてよいかわからないような様子をしてみせたが、しかしその子
どもは、今でも、私をうれしそうに、「ビダンシ!」「ビダンシ!」と呼んでいる。

 私は、そのつど、怒ったフリをして、子どもにこう言う。

 「そういう悪い言葉を使ってはダメだア!」と。

+++++++++++++++++++++

●エビで鯛を釣る

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、め
ちゃめちゃだ。ちゃんと見てほしい」と。

私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したときのことである。あるいは
ときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そこで私は同じ
ように、丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっているのに、どうし
て丸をつけるのか」と。

 日本人ほど、「形」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。
しかしオーストラリアでは、スペルがまちがっていることぐらいなら、先生は何も言わな
い。壁に貼られた作品を見ても、まちがいだらけ。

そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生(小三担当)は、こう話してく
れた。「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはないのです。発音が違え
ば、スペルもちがう。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉は、ルール
(文法やスペル)ではなく、中身です」と。

 今、小学校で英語教育が始まっている。その会議が10年ほど前、H市であった。その
会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じよ
うにWは四画と決まりました」と。

こういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろくない。つまらない。子ども
たちは作文を書く楽しみを覚える前に、文字嫌いになってしまう。小学校の高学年児で、
作文が好きな子どもは、五人に一人もいない。大嫌いという子どもは、一〇人のうち、
三人はいる。

日本のアニメやコミックは、世界一だと言われている。しかしその背景に、子どもたち
の文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。このワープロの時代にハネや
ハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばならない理由が、一体ど
こにあるのか。形と個性は、正反対の位置にある。形に押し込めれば押し込めるほど、
子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、
それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは書く楽しみを覚える。

オーストラリアでは、戦後まもなくからタイプの授業を取り入れ、今はそれがコンピュ
ータの授業に変わった。すでに一五年以上も前から、しかも小学三年生から、それをし
ている。中学でも高校でも、子どもたちは宿題を、フロッピーディスクで提出している。

こういう時代がもう来ているのに、何がハネだ。ハライだ。トメだ! 冒頭に書いたワ
ークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵描きになったとしても、
よいではないか。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それ
については、また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。これは幼児教育の大原則。昔から
こう言う。「エビで鯛を釣る」と。しかし愚かな人は鯛を釣る前に、エビを食べてしまう。
こまかいこと(エビ)を言って、子どもの意欲(鯛)を、そいでしまう。

+++++++++++++++++++

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることは難しい。「信じたい」という思いと、「もしかしたら……」という思
いの中で、親は絶えず迷う。子育てはまさに、その迷いとの闘い。が、その迷いにも、一
定のパターンがあるのがわかる。そこでテスト。

あなたの子ども(小学生)が、寝る直前になって、「学校の宿題がやってない」と言った
とする。そのとき、あなたは……。(1)「明日、学校で先生に叱られてきなさい」と言
って、そのまま寝させる。(2)子どもと一緒に、宿題を片づけてあげる。睡眠時間が多
少短くなることはしかたないと思う。

 そのパターンは、子どもが生まれたとき、あるいは子どもを妊娠したときから始まる。
たとえば子どもに四時間おきにミルクを与えることになっていたとする。そのとき、子ど
もが泣いてほしがるまで、ミルクを与えない親もいれば、時間がきたら、ほしがらなくて
もミルクを与える親もいる。子どもがもう少し大きくなると、こんなこともある。

子どもが「したい」と言うまで動かない親もいる。反対に何でもかんでも子どもが望む
前に、親のほうから用意してあげる親もいる。「ほら英語教室よ」「ほら体操教師よ」と。

 一度こういうパターンができると、あとは一事が万事。それ自体が生活のリズムになっ
てしまう。こんなこともあった。ある母親からの相談だが、いわく「うちの子(小三男児)
を、夏休みの間、洋上スクールに入れようと思うのですが、どうでしょうか」と。

そこで私が、「本人は行きたがっているのですか」と聞くと、「それが、行きたがらない
ので困っているのです」と。またこんなことも。やはり母親からのものだが、その母親
の息子(高三)が、受験期だというのに、ビデオを借りてきて見ているというのだ。母
親は「心配でならない」と言っていたが、心配するほうがおかしい。おかしいが、一度
そのパターンにハマってしまってしまうと、それがわからなくなる。

 さて冒頭のテスト。(1)を選んだ人は、子ども信頼型の親ということになる。「うちの
子は立派だ」「うちの子はすぐれている」という思いが、親をしてそういう親にする。

一方(2)を選んだ人は、心配先行型の親とういうことになる。「何をしても、うちの子
は心配だ」という思いが、親をしてそういう親にする。当然、その影響は子どもに出て
くる。信頼型の親の子どもは、伸び伸びとしている。表情もハツラツとしている。行動
力も好奇心も旺盛で、何ごとにつけて積極的だ。

しかし心配先行型の親の子どもは、それにふさわしい子どもになる。長い時間をかけて
そうなる。親は、「生まれつきそうだ」と言うが、生まれつきそういう目で見ていたのは、
親自身なのだ。それに気がついていない。では、どうするか。

 もし心配先行型の親なら、あなた自身の心を作り変える。一つの方法として、「あなたは
いい子」を口ぐせにする。子どもの顔を見たら、そう言う。そしてそれを数ヶ月、あるい
はそれ以上の間、続ける。最初はどこかぎこちない感じがするかもしれないが、あなたが
それを自然に言えるようになったとき、同時に、あなたの子どもは、その「いい子」にな
っている。

子どもを「いい子」にしたかったら、まず子どもを信ずる。たいへん難しいことだが、
それをしないで、あなたは自分の子どもを伸ばすことはできない。


(2)今日の特集  **************************

●自己同一性(アイデンティティ)

 若いお母さんでも、「アイデンティティ」という言葉を口にする時代になった。すごいこ
とだと、私は思う。「みんな、勉強しているんだな」と思う。

 そこでもう一度、そのアイデンティティについて、考えてみたい。日本では、「自己同一
性」と訳されている。

【アイデンティティ】

 もともとは、エリクソンが提唱した、精神分析概念をいう。他人とはちがう、本当の自
分、あるいは「自分らしさ」をいう。

 アイデンティティの確立した人は、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚があ
るという(「日本語大辞典」)。そしてその結果、「ある特定の対象や集団との間で、是認さ
れた役割と連帯感がもてる」(同)ようになるという。

 順にかみくだいて、考えてみよう。

(1)自己の単一性

 わかりやすさ……簡単に言えば、そういうことになる。「わかりやすい」というのは、「こ
の子は、こういう子だ」という、つかみどころをいう。教える立場でいうなら、「こういう
ことをすれば、この子は喜ぶだろうな」というふうに、予測のたてやすい子どもというこ
とになる。

(2)連続性

 いつも同じ調子であること。気分にムラがなく、性格や気質が安定している。感情が変
化することがあっても、「なぜそうなるのか」「なぜそうなったのか」ということが、わか
りやすい。突然、わけのわからないことをする……ということがないことをいう。

(3)不変性

 いわゆるシンのしっかりした子ども、ということになる。自分の意見をもち、その意見
に従って、行動する。フラつきがなく、目標に向ってがんばることができる。約束も、し
っかりと守る。

(4)独自性

 日本的に言えば、個性のこと。集団の中にいても、その子どもらしさが、光ることをい
う。他人と協調しながらも、いつも「私」をもっている。独自性のない子どもは、どこか
軟弱。その場、その場で、他人に迎合したり、同調したりする。

 こうしてアイデンティティの問題を考えていくと、いつも、「では、私はどうか?」とい
う問題に行きつく。

 実のところ、この私は、そのアイデンティティが、軟弱な人間といってよい。ときどき、
自分にさえ、自分がどこにいるかわからなくなることがある。犬にたとえていうなら、だ
れにでもシッポを振る。そんな人間である。

 そういう私だから、若いころは、集団とのかかわりが、苦手だった。いや、表面的には
社交的で、だれとでもうまく交際した。愛想もよく、口もじょうずだった。だから私が、「実
は、本当のことを言うと、ぼくは、集団が苦手だ」などと言うと、みんな、「ウソつけ」と
か、「そんなはずはないだろ」とか、言ったりした。

 しかし本当の私は、そうではなかった。自分をさらけ出せない分だけ、集団の中では疲
れた。エリクソンが唱えるところの、単一性、独自性に欠けた。

 なぜ、私がそうなったかといえば、理由はいろいろ考えられる。しかし自分の記憶をい
くらたどっても、満5、6歳を境に、それ以前は闇に包まれてしまう。自分を客観的に見
ることができない。そんなわけで、あくまでもこれは私の推察によるものだが、私は、き
わめて精神的に貧しい乳幼児期から幼児期を過ごしたのではないかと思う。

 で、こうしたアイデンティティは、いつも集団とのかかわりの中で、評価される。いく
らアイデンティティがあっても、集団とうまくかかわれないというのであれば、それはア
イデンティティとは言わない。「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割と連帯感
がもてる」ということが、重要になってくる。

 つまりは、個人と集団との調和が、エリクソンの説く、アイデンティティということに
なる。「私がすべて。私以外は、みな、無価値」と考えるのは、アイデンティティでもなん
でもない。ただの独善という。

 そのアイデンティティを、子どもの中に育てるためには、どうするか?

【アイデンティティを育てる】

 アイデンティティをどう育てるか……というよりも、どうすれば、アイデンティティを、
つぶさないですむかと考えるほうが、実際的である。

 というのも、このアイデンティティは、自然な状態では、どの子どもも、みな、平等に
もっている。それが、親の過干渉、過関心、溺愛、過保護、さらには育児放棄、否定的な
育児姿勢の中で、つぶされてしまう。そういうケースは、少なくない。

 たとえば否定的な育児姿勢を考えてみよう。

 A子さん(年中女児)が、「私は、おとなになったら、花屋さんになりたい」と言ったと
する。そのとき大切なことは、「そうね、花屋さんって、すてきな仕事ね」と、親はそれを
前向きにとらえてあげる。

 そういう育児姿勢の中で、子どもは、自分の役割を、前向きに形成していくことができ
る。自分で花の本を読んだり、種を育ててみたりする。

 が、このとき親が、「花屋さんなんて、ダメ」「あなたは算数教室と英語教室に行くのよ」
と、それを否定したとする。(否定するつもりはなくても、否定することがあるので注意す
る。)

 すると子どもは、自分の意思に自信がもてなくなり、ばあいによっては、自己否定した
り、さらに罪悪感をもつようになる。役割混乱から、情緒不安定になることもある。

 よくある例は、親が、子どもの進路を勝手に変えてしまうようなケース。「成績がさがっ
たから、サッカークラブをやめなさい」とか、「受験が近づいたから、バスケットクラブを
やめなさい」とか言うのが、それ。子どもによっては、あたかも山が崩れるかのように、
人格そのものを、崩壊させてしまうことがある。

 が、実際のところ、否定的な育児姿勢といっても、それは日常的なものである。そして
さらにその背景はといえば、親の子どもへの不信感がある。「うちの子は、何をしてもだめ」
という不信感が、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることが多い。

 そしてそれは、言葉によるというよりは、あくまでも「親の姿勢」によるところが大き
い。たとえば、こんな会話。

親「そのお弁当箱を洗っておいてよ。いいこと、しっかり洗うのよ。どうせあなたのこと
だから、いいかげんな洗い方をするのでしょうけど……」

親「やっぱり、いいかげんな洗い方ね。もう一度、洗いなさい。あれだけしっかり洗いな
さいと言ったのに、どうして、しっかりと洗えないの。ほら、まだごはんの食べカスが残
っているでしょ」

親「あんたみたいな子はね、ずるいから、いつか悪いことをして、警察につかまるかもし
れないわよ。そうなったとき、お母さんの言っている意味が、はじめてわかるのよ」と。

 過干渉にしても、過関心にしても、同じように考えてよい。子どもへの不信感が、子ど
もへの過干渉になったり、過関心になったりする。ここでいう否定的な育児姿勢になるこ
ともある。

【いつも前向きに……】

 エリクソンは、こう説く。

 赤ん坊がおなかをすかして泣いたとき、すかさず母親が乳を与えたとする。すると子ど
もは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 あるいは赤ん坊がおむつをぬらして、同じように泣いたとする。母親はそれを見て、お
むつをかえたとする。すると子どもは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 こうした一連の行動をとおして、赤ん坊は、自分が求められていることを知る。「自信」
という言葉が適切かどうかは知らないが、子どもは自分に自信をもつようになる。「安心
感」と言いかえてもよい。この自信や安心感が、「核(コア)」を形成する。

 エリクソンは、それをそのまま、「コア・アイデンティティ」と呼んだ。

 が、反対に、赤ん坊が泣いたとき、それをそのつど、否定したらどうなるだろうか。赤
ん坊がおなかをすかして泣いたとき、無視したり、冷淡にあしらったりする。あるいは、「待
っていなさい!」と叱って、あとまわしにしたりする。

 そうなると、子どもは、自分のしていることに自信がもてなくなる。不安になる。「私は
まちがったことをしているのではないか」と思う。この状態が、子どもから、(私らしさ)
をうばっていく。

 が、それだけではすまない。

 このコア・アイデンティティは、まさにその人の核(コア)になる。子どもというのは、
この核をふくらませる形で、年齢とともに成長していく。もっとわかりやすく言えば、母
子関係を、やがて、たとえば、先生との関係、友人との関係へと、応用していく。

 が、最初の段階で、つまり母子との関係で、核(コア)づくりに失敗した子どもは、た
とえば、先生との関係、友人との関係で、良好な人間関係を結べなくなる。ここでいうア
イデンティティも、同じように考えてよい。

 もうおわかりかと思う。

 子どものアイデンティティを育てるためには、いつも子どもを前向きにほめていく。と
くに乳幼児期は、「子どもを、こうしよう」「ああしよう」と考えるのではなく、ありのま
まを認めながら、「それでいいのだ」と教えていく。

 この時期は、多少、うぬぼれ気味、自信過剰気味のほうが、あとあとその子どもは、伸
びる。「ぼくは、すばらしい人間だ」「私は、何でもできる」と。そういう思いが、ここで
いうアイデンティティを明確にする。そしてそれが、その子どもを、さらに前向きに伸ば
していく。

 最後に私のばあいだが、私は、30歳をすぎるころから、自分さがしを始めたように思
う。それまでの私は、私が何であるか、どこにいるか、何を望んでいるかさえ、よくわか
らなかった。

 が、40歳をすぎるころからは、そのつど、居なおるようになった。たとえば私は、あ
のパーティが苦手だった。酒を飲めないこともある。大声で騒ぎながら、意味もないゲー
ムをしたり、歌を歌ったりする……。苦手というより、苦痛だった。

 だからそのころから、そういったパーティに出るのをやめるようにした。「私は私だ」と。

 それまでの自分は、みなに嫌われたくない。好かれたい。そういう思いを優先させ、が
まんしていた。が、そのがまんをするのを、やめた。

 この傾向は50歳をすぎてから、さらに強くなった。「私は、もっと私らしく生きるぞ」
と思うようになった。が、だからといって、自分のアイデンティティを確立したわけでは
ない。今でも、ふと油断すると、自分がどこにいるかわからなくなるときがある。

 そういう意味で、この問題は、まさに10年単位の問題と考えてよい。もしこの文章を
読んでいるあなたが、同じような問題をかかえているとしたら、10年単位で考えたらよ
いということ。決して、1年や2年で解決する問題ではない。

 ここでいうアイデンティティの問題には、そういう問題も、含まれるということ。

(はやし浩司 アイデンティティ アイデンティティー 自己同一性 コア コアアイデ
ンティティ コア・アイデンティティ エリクソン)
(040615)

【追記】

 今、ふと思ったが、私の年代の人間には、私のようにヘラヘラと、やたらと愛想がよく、
だれにでもシッポを振る人間が多いのでは……?

 戦後の貧しい時期に育児を経験したためかもしれないが、ひょっとしたら、あのギュー
ギューのつめられた、寿司詰め教育にも、その原因があるのではないか、と。

 私の時代には、50人クラスが当たり前だった。中学校のときは、1クラス55人だっ
た。

 いつも先生が、何かをガンガンと叫んでばかりいたような気がする。考えてみれば、そ
れもそうで、先生もたいへんだったなあと思うと同時に、ああいう世界では、そもそもア
イデンティティをもつことすら、許されなかったのではないか。

 あくまでも、今、ふとそう思ったというだけのことだが、近く、この問題についても考
えてみたい。


(3)心を考える  **************************

●際限

 A君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子は、学校
の宿題をしません。私が『やったの?』と聞くと、『やった』と言って、ウソをつきます。
どうしたらいいでしょうか」と。

 私はA君の母親と、10分ほど、話をした。

 A君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、B君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、う
ちの子は、ときどき、学校をずる休みします。『頭が痛い』とか、『おなかが痛い』などと
言ってウソをつきます。そこで病院へつれていくのですが、いつも何ともありません。ど
うしたらいいでしょうか」と。

 私はB君の母親と、20分ほど、話をした。

 B君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、C君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、う
ちの子は、学校の給食を食べません。給食の時間になると、気持ち悪いと言っては、保健
室で横になっています。どうしたらいいでしょうか」と。

 私はC君の母親と、30分ほど、話をした。
 
 C君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、D君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、う
ちの子は、ときどき学校へ行くのをいやがります。先週も、朝になって突然、『学校へ行き
たくない』と言い出しました。しかたないので、車で学校まで送っていきました。校門の
ところまで、担任の先生に迎えにきてもらってはじめて、校舎の中に入っていきました。
どうしたらいいでしょうか」と。

 私はD君の母親と、40分ほど、話をした。

 D君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、E君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、う
ちの子は、給食の時間までは、何とか、勉強しますが、給食を食べると、いつもそのまま
保健室へ直行です。たいていは、1時間ほど休んで、そのまま家に帰ってきてしまいます。
どうしたらいいでしょうか」と。

 私はE君の母親と、50分ほど、話をした。

 E君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、F君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、う
ちの子は、やっと何とか、学校へ行くようになりましたが、一週間のうち、2、3日は、
休んでしまいます。家にいるときは元気そうなので、『学校へ行こうよ』と話すと、そのと
きは、『うん』などと言ったりします。しかし朝になると、『行きたくない』と言います。
どうしたらいいでしょうか」と。

 私はF君の母親と、1時間ほど、話をした。

 F君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、G君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、う
ちの子は、不登校児になって、もう3か月になります。このまま学校へ行かなくなってし
まうのではないかと、心配でなりません。どうしたらいいでしょうか」と。

 私はG君の母親と、2時間ほど、話をした。
 
 G君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 ほとんどの親は、自分の子どもに何か問題が起きると、それを(なおそう)と考える。
その気持ちはわからないでもないが、しかし無理をすれば、症状は、さらに悪化する。そ
の危険性は、いつも50%、ある。

 が、親には、それがわからない。わからないから、無理をする。無理をするから、症状
は悪化する。「まだ以前のほうが症状が軽かった」という状態を繰りかえしながら、さらに
悪化する。あとは、底なしの悪循環!

 だから、もしあなたの子どもに、何か、問題が起きたら、なおそうと考えるのではなく、
今の状態をより悪くしないことだけを考えて、半年単位で様子をみる。とくに心の問題は、
そうする。その(ゆとり)が、子どもの心の回復を早める。

 最後に一言。どこに「際限」を置くか。その置きどころによって、子どもの見方が大き
く、変わってくる。

 つまるところ、結論は、そういうことになる。


●落ちこむとき

 ここ数日間、たしかに落ちこんでいる。気分がふさいでいる。生きザマが、うしろ向き。
グチが多くなった。依存性も強くなり、ものごとを何でも悪いほうへ、悪いほうへと考え
てしまう。

 そこで今の状態を、できるだけ正確に、記録しておきたい。

 こういうときというのは、まず、何をしても、ムダなように思ってしまう。「今まで何を
してきたのだろう」「これから、どうすればいいのだろう」と。

 そういうところへ、ささいな事件がいくつか重なる。ふだんなら、その場で考えて、そ
の場で忘れる。日々のルーティーン(日常行為)を繰りかえしながら、つぎの行動に移る。
が、落ちこむと、そういう事件が、ピッタリと脳ミソに張りついてしまう。

 気になる。悩む。ついでに腐る。

 しばらくそれがつづくと、頭が重くなる。額(ひたい)に手をあてると、前頭がいつも
より熱いのがわかる。(あるいは四肢の先が冷えるのかもしれない……。)

 ものの考え方が、短気になる。結論ばかり求めるようになる。もう少し具体的に、説明
してみよう。たとえば……。

 今、R社の無料サービスを利用して、ホームページを出している。日記中心の気楽なホ
ームページである。そこへある日突然、相談の書き込みがある。

 内容は、いきなり子育て相談。その人の名前だけで、住所はない。「子どもがどうのこう
の。こういうときはどうしたらいいか?」と。

 そこで私のほうとしては、もう少し情報がほしい。それに相手が、どこのだれかわから
ないまま返事を書くというのは、不安でならない。返事を書くにしても、30分とか、1
時間はかかる。私には、貴重な1時間である。

 私は、こう書く。「ご住所を教えていただけませんか? ご住所とお名前のわからないか
たには、原則として、相談はお断りしています」と。

 すると相手から、こんなメールが届く。「何を、お高くとまってんの!」と。実際、あっ
た話である。

 そんなとき私は、「私のしていることは、この程度か」と、つくづく思い知らされる。が、
ここで終わるわけではない。

 今度は別の母親から、「うちの子が自閉症です。指導してください」と。メールにして、
15行くらい。もちろん名前だけで、住所はない。

 そこで先のメールのこともあり、返事を書きそびれていると、その数日後には、今度は、
督促のメール。

 「先日、うちの子の自閉症のことで、相談したものです。相談にのっていただけるかど
うか、返事くらいくださってもいいじゃありませんか」と。

 気分がよいときは、そのまま無視するか、少しとぼけて、別の返事を書いたりする。し
かし落ちこんでいるときは、そうはいかない。「もう子育て相談なんか、やめてしまおう」
とか、ついでに、「マガジンの発行など、やめてしまおう」とか、そんなところまで考えて
しまう。

 ひとつの例として、子育て相談のことを書いたが、職場でも、同じようなことが起きる。
一つや二つならよいが、三つ、四つと重なると、処理しきれなくなる。頭の中がパニック
状態になる。そしてしばらくすると、つまり疲れてくると、それに比例して、気分が落ち
こんでくる。

 そういうときは、たしかに短気になる。ものごとをめんどうに思うということは、短気
になるということか。

 そこでこういうときは、ワイフに相談する。ワイフは、いつも私を客観的に見ている。
いわく、

 「子育て相談を受けるのは、もうやめたら? 今どき無料で、だれもそんなこと、して
ないわよ」と。

 ワイフの意見は、いつも簡単、明瞭(めいりょう)。その簡単、明瞭すぎるところが、
かえって気になる。

 で、こういうときは、どうしたらよいか。

(1)結論は出さないこと。
(2)気分転換をはかること。
(3)趣味をすること。

 いつもの解決法である。で、今は、その(1)(2)(3)を頭の中で復唱しながら、好
き勝手なことをしている。雑誌を読んだり、模型をながめたり、熱帯魚の水槽を洗ったり。
そうそう昨夜は、ドーナツを、食べきれないほど、どっさりと買ってきた。

【読者のみなさんへ】

 ほとんどの方は、よい人ばかりです。わかっています。どうか心配なさらないでくださ
い。今の状態からすると、あと1日もすると、もとの(はやし浩司)にもどると思います。
これから朝食です。

 ただ……。このところ、多くの方から、子育て相談をいただきながら、そのほとんどに、
返事を書けない状態がつづいています。そのためかえって、相談を寄せてくださる方に、
申し訳なく思っています。

そんなわけで、子育て相談については、HPのほうから、そのコーナーを削除すること
にしました(6月18日)。

 さてさて、これから、ドーナツに、ベジマイト(オーストラリアのジャム?)をつけて、
食べてきます。

 おはようございます! 


●愛国心

 教育基本法について、自民党と公明党が、中間報告を提出した。

 「教育基本法改正に関する協議会」は、6月16日、教育基本法についての、中間報告
をまとめた。それによると、

(1)焦点の「愛国心育成」については、自公両党の主張を併記して、調整を参議院選挙
後にもちこした。

 自民党は、愛国心育成に関して、「郷土と国を愛し」と主張した。しかし創価学会を支持
母体とする公明党は、「郷土と国を大切にし」と主張した。創価学会としては、「愛」とい
う言葉を使うわけにはいかならしい。「愛」というのは、彼らが言うところの「邪宗」が使
う言葉である。

(2)宗教教育については、「宗教に対する寛容の態度が大事」などとする現行法の理念を
そのまま踏襲することになった。

 これは公明党の意向に沿ったものだという。

 そのうち日本中の子どもが、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら、授業に入るように
なるかもしれない。
(はやし浩司 教育基本法 愛国心)


●愛国心

 しかし一般庶民の一人して、私はこう思う。

 愛国心などというものは、もっと自発的なもので、国から押しつけられるものではない。
いわんや、教育で教えられるものでもない。

 たとえば現在の政治家たちをみてみよう。どの政治家も、いざ戦争となったら、イの一
番に、後方へ、真っ先に逃げるような政治家ばかりである。命がけで、国民の前に立って、
戦うような、そんな雰囲気のある政治家は、悲しいかな、一人もいない。

 私たちは、そういう雰囲気を、彼らの言動を通して、日常的に、感じ取っている。

 たとえば今度の国会でも、国民年金が一つの大きな焦点になった。しかし国会議員たち
は、みな、月額50万円〜60万円の年金を手にすることができる。

 そういう大特権を一方でしっかりと握りながら、政治家たちは、国民の負担を大きくし、
年金額を減らした。が、それだけならまだしも、与党の党首、野党の党首以下、国民年金
の保険料を払っていなかった議員が、続出!

 私たちは、そういう政治家の姿を見て、「何が、愛国心だ」と笑ってしまう。もし愛国心
とやらを人に説くなら、まず自分たちが、率先して、年金の不公平を是正してみせること
だ。

 愛国心などというものは、国が国として示す、高い理念や理想を見ながら、庶民の間か
ら、自発的に生まれてくるもの。自由、平等、正義だ。K国のような独裁国家ならいざ知
らず、自分たちは好き勝手なことを、し放題しておきながら、庶民や子どもたちに向かっ
て、「国を愛せ」は、ない。

 が、自民党のみなさん、公明党のみなさん、どうか、ご心配なく。

 私たち庶民は、何も政治家に言われなくても、そのときがきたら、ちゃんと敵と戦う。
国を愛する。国のために、死ぬ。

 ただ誤解しないでほしいのは、その戦闘で、敵に追いつめられ、最後のときを迎えると
き、私が歌うのは、『君が代』ではない。『ふるさと』だ。敵につっこんで死ぬときは、『天
皇陛下、バンザーイ!』ではない。『妻よ、息子たちよ、さようなら!』だ。

 私にとっての愛国心とは、そういうものをいう。

 どうぞ、どうぞ、ご心配なく!

++++++++++++++++++

●ふるさと


うさぎ追いし 彼の山
こぶな釣りし 彼の川
夢は今も めぐりて
忘れがたき ふるさと


如何にいます 父母
つつがなしや 友がき
雨に風に つけても
思いいずる ふるさと


志を 果たして
いつの日にか 帰らん
山は青き ふるさと
水は清き ふるさと

(作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一)


●若いころ

 若いころ、外国へ行くたびに……というか、外国に住んでいて、悲しいことやつらいこ
とがあるたびに、私は、あの『♪ふるさと』を、口ずさんだ。

 すばらしい歌だ。いろいろ意見はあるようだが、もし私が、「日本で一番すばらしい曲
は?」と聞かれれば、私はまよわず、この『♪ふるさと』をあげる。

 この歌のすばらしいところは、3拍子であること。歌い方によっては、軽快なワルツに
もなるし、少しゆっくりと6拍子で歌えば、心温まるのどかな歌にもなる。そのときどき
の心の状態に合わせて、楽しくも、またしんみりと歌うことができる。

 そう、この歌を歌いながら、私は、何度、涙を流したことか。なぐさめられ、励まされ
たことか。日本を思い、心を休めたことか。

 ほかにもすばらしい歌として、『♪赤とんぼ』をあげる人も多い。人それぞれだが、先日、
アメリカに住む二男が送ってくれたビデオ(CD)を見ていたら、こんなシーンがあった。

 アメリカ人になりきろうとがんばっている二男だが、孫の誠司に、ギターを弾きながら、
『♪ふるさと』を歌って聞かせていた。

 私はそのシーンを見たとき、あたかも自分が外国にいるような錯覚にとらわれた。そし
て昔、外国で自分が流した涙と同じものを流した。

 それは頬をも溶かすほど、熱い涙だった。

 だから改めて、言う。

自民党のみなさん、公明党のみなさん、どうか、ご心配なく。

 私たち庶民は、何も政治家に言われなくても、そのときがきたら、ちゃんと敵と戦う。
国を愛する。国のために、死ぬ。

 その覚悟は、できている!
(はやし浩司 愛国心 教育基本法 ふるさと)


●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利
他」を比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができる
かで決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和
を達成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするな
ら、いかにすれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにする
ことが、真の平和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反
省に終わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてき
た。満州の植民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人
のこの無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組
を見た。日露戦争を特集していた。その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」
「どうやってロシア艦隊を撃滅したか」という話は出てくるが、現地の人たちが、天から
降ってきたような災難の中で、いかに迷惑をしたかという話は、出てこなかった。まった
く、出てこなかった。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万
人。K国は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送
局の司会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言っ
たとしたら、どうなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽
しむことができるだろうか」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、
何十万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、
いまだに「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いっ
たい、どこからくるのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだっ
たと思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そ
もそも、そういう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、
「日本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人
さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、
文句を言わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、
文句を言わないことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点
ということになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論で
もなんでもない。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。
そして何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、
何をすべきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合し
た世界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態
を平和というか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、
それはまちがっている。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、
それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかな
い。私たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれ
かによって、つぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。そ
れが平和教育である。
(はやし浩司 平和教育 平和 平和論)


(4)今を考える  **************************

【近ごろ・あれこれ】

●睡眠障害

 このところ、毎晩、夜中に、2、3回、目がさめる。たいていは何かの夢を見ていて、
それで、目がさめる。

 あるいはさめるときに、夢を見るのかもしれない。どちらにせよ、床についてから、朝
までぐっすり……ということが、できなくなってしまった。

 どこに原因があるのか?

 自分でもわかっていることが、いくつかある。

 その一つは、床につく直前まで、原稿を書いているイコール、頭を使っている。これが
よくない。床につく前は、最低でも1、2時間は、頭を休めなければならない。それはよ
くわかっているが、原稿を書きながら、どうしても夜更かしをしてしまう……。

 つぎにこのところ、精神状態が、あまりよくない。更年期特有の症状かもしれない。初
老性のうつ病かもしれない。何かにつけて、気が滅入る。それにグチっぽくなった。

 一応、睡眠薬はもっているが、ほとんど、使ったことがない。「ほとんど」というのは、
たまに、一錠を、5分の1から、8分の1程度に、割ってのんでいる。

丸々1錠ものんだら、(一度、あるが……)、あとがたいへん。朝起きてからも、夢なの
か、現実なのか、区別がつかなくなってしまう。(医者からは、1回で2錠のむように、
言われているが……。)

 昨夜は、そんなわけで早めに床についたが、枕元で、CD(ジョン・デンバーのカント
リー・ウエスタン)を聞いて寝たのがよくなかった。途中でボリュームを落そうと考えた
が、それもめんどうで、がまんして聞いてしまった。おかでげ、夜中に、軽い頭痛。

 ワイフに、ひたいに湿布薬を張ってもらう。それに、またまた蚊の出現。いったい、ど
こから侵入してくるのだ!

 その点、山荘はよい。山の中にあるだけに、安心して眠れる。じゃまはない。蚊もいな
い。たいていは朝まで、一眠り。……ということを考えながら、今日も始まった。がんば
ろう。みなさん、おはようございます。


●子離れ

 小学3、4年生を境に、子どもは、急速に親離れを始める。しかし徐々に、親離れする
わけではない。

 最初は、どこか遠慮がちに、生意気になってみせたり、おとなのまねをしてみせたりす
る。やがて、その比重が大きくなり、結果として、親離れをする。

 ときには、幼児にもどり、母親のおっぱいをもとめたりすることがある。が、それでい
てときには、母親が幼児あつかいをすると、それに反発してみせたりする。これを私は、「揺
りもどし」と呼んでいる。
 
 つまり子どもは、ときに幼児にもどり、ときにおとなのまねをしながら、親離れをして
いく。

 一方、親は、子どもを育てる。それは事実だが、同時にいつも、いかにすれば子離れで
きるかを考えて行動しなければならない。

 過関心、過保護、過干渉、溺愛は、子どもの自立にとって、害にこそなれ、よいことは
何もない。さらに悪いのは、神経質な子育て。

 この時期、親、とくに母親は、異常なまでに神経質になる。「異常なまでに」だ。他人の
子どもとのささいなちがいや、差に、おおげさに反応したりする。園や学校の先生の言動
を、ことさら問題にして、大騒ぎすることもある。

 いろいろな例がある。

 「うちの学校の先生は、子どもがしたテストを、丸めて、子どもに投げて返している。
人間性を無視した、許せない行為だ」

 「音楽会のとき、トイレで時間をとられ、演奏中だからという理由で、会場へ入れてく
れなかった。うちの子の演奏を見ることができなかった。あまりにもひどい」
 
「席決めのとき、好きな子どうし並んでいいと先生は言ったが、友だちのない子どもへ
の配慮に欠ける。許せない」

 「並べ方の悪かった子どもの靴を、先生は、玄関先へすべてほうりなげてしまった。感
情的な行為で、許せない」など。

 少し冷静になれば、何でもないことばかりである。しかし親には、それがわからない。

 が、これだけは覚えておくとよい。

 親が神経質になっても、よいことは何もない。子どものためにならないことは、もちろ
んのこと、その親自身を見苦しくする。さらに思い出そのものを、見苦しくする。

 子どもは親離れする。同時に親も子離れをする。そしてその親離れ、子離れは、親によ
っては、つらく、さみしいものである。そのつらさや、さみしさに耐えるのも、親の努め
ということになる。決して、子どものかわいさに溺れてはいけない。
(はやし浩司 子離れ 親離れ)



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 14日(No.435)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
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(1)子育てポイント**************************

●あと片づけとあと始末

 あと片づけとあと始末は、基本的に違う。たとえば「部屋に散らかったものを片づける」
は、あと片づけ。「使った食器をシンクへもっていき、そこで食器を洗い、ナプキンでふく」
は、あと始末。

日本人はあと片づけには、うるさいが、あと始末には甘い。これは日本人の国民性のよ
うなもの。日本人は何かにつけて、責任の所在をはっきりさせるよりも、ものごとをナ
ーナーですまそうとする。

 オーストラリア人の子育てをみても、彼らはあと片づけには、それほどうるさくない。
子ども部屋だと、散らかっているのが当たり前という状態。しかしあと始末にはうるさい。

冷蔵庫から出したものを、テーブルの上に置いておこうものなら、子どもたちは親にひ
どく叱られる。そうそう以前、こんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「ヒロシ、
日本の子どもたちは、皆、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ
息子化している」という意味だ。そこで私が「君はどんなところを見てそう言うのか」
と聞くと、こう話してくれた。

 彼はときどき日本の子どもたち(英会話教室の生徒)を、自宅にホームステイさせてい
るのだが、それについて、「食事の前に料理を手伝わない」「食後も食器を洗わない」「シャ
ワーを浴びても、アワを流さない」「朝起きても、ベッドをなおさない」「……何もしない
のだよ」と。

 あと片づけをうるさく言い過ぎると、かえって子どもにとっては居心地の悪い世界にな
ってしまう。アメリカの作家のソローも、こう言っている。「ビロードのクッションの上に
座るよりも、カボチャンの頭に座るほうが、休まる」と。しかしあと始末は別。子どもに
はどんどんとあと始末をさせる。そういう習慣が、責任感の強い子どもをつくる。

+++++++++++++++++

●子どもの横を歩く

 親には三つの役目がある。一つ目に子どもの前を歩く。子どものガイドとして。二つ目
に、子どものうしろを歩く。子どもの保護者として。そして三つ目に、子どもの横を歩く。
子どもの友として。昔、オーストラリアの友人が話してくれたことだ。

 日本人の子育てをみると、このうち一つ目と二つ目については問題はない。が、三つ目
が弱い。自分の子どもを「友」としてとらえていえる人は、少ない。あるいはそう感じて
いても、一方で昔からの「親意識(権威意識)」が強いため、どうしても子どもを「下」に
見てしまう。そこでテスト。

 あなたの子どもがあなたに向かって、「バカヤロー」と怒鳴ったとする。そのとき、あな
たは、(1)「『親に向かって、何だ!』と子どもを叱る。そういうことを言うのは許さない」、
(2)「子どものことだから口が悪いのは当たり前。相手にしない」の、どちらだろうか。
親意識の強い人ほど、(1)のように感ずるし、そうでない人ほど、(2)のように感ずる。

もちろんその中間もある。またこう書いたからといって、子どもが親に「バカヤロー」
と言うのを容認せよということでもない。むしろ問題は、子どもがそういうことを言え
ないほどまでに、親の親意識で子どもを抑え込んでしまうこと。子どもは親の前では仮
面をかぶるようになり、そのかぶった分だけ、子どもの心はあなたから離れる。

 子どもと「友」になるということは、子どもの言いなりになれということではない。子
どもを甘やかせということでもない。子どもの「友」になるということは、子どもを「下」
に見るのではなく、対等の人間としてみるということ。

たとえばアメリカでは、親子でもこんな会話をしている。父「お前は、パパに何をして
ほしい?」、子「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と。こうした謙虚な気持ちが、子ど
もの心を開く。

(2)今日の特集  **************************

【母親、三態】

●独立を許さない親

 子どもが、親から離れ、独立していくのを許さない親がいる。子育てを生きがいにして
きた、どこか溺愛タイプの父親、母親に、多い。

 最初に申し添えるなら、溺愛は、「愛」ではない。自分の心のすき間を埋めるための、自
分勝手な愛をいう。もともと情緒的に未熟な人、精神的に未完成の人が、何らかのきっか
けで、溺愛に走るケースが、多い。

 ある母親は、自分の一人娘が結婚したあと、その娘にこう言ったという。「あなたを、一
生かかって、のろい殺してやる。親を捨てるとは、どういうこと。あなたが地獄へ落ちる
のを楽しみにしている」と。

 この話は、本当にあった話である。ワイフが、その女性に会って、直接、確かめている。
そして私には、こう言った。「世の中には、いろいろな親がいるのねえ」と。

 が、その子ども自身にとっても、これは不幸なことである。

 親が、子どもを溺愛し、その結果、子どもの自立、独立を許さないのは、親の勝手。親
のエゴ。が、そのエゴにからまれ、もがき苦しむ子どもも、少なくない。

 前にも書いたことがあるが、実母の葬式に出なかったことを、いまだに悔やんでいる男
性(55歳)がいる。実母は、10年ほど前、その男性が45歳のときに、なくなってい
る。

 いろいろ人には言えない事情があるらしい。それはそれとして、問題は、なぜその男性
が、悔やむかということ。もし私がその母親なら、天国なら天国からでもよいが、その男
性にこう言うだろう。「気にしなくてもいいのよ! あなたはあなたで、幸福になってね」
と。

 子どもは、ある年齢に達すると、「家族」というワク、これを心理学の世界では、「家族
自我群」というが、そのワクから、のがれようとする。最初は、抵抗、反抗という形で、
それを表現する。ときに家族、なかんずく親を否定することもある。

 こうしたを心理学の世界では、「内的促し」という。「内的」というのは、心の世界をい
う。肉体を「外的」というのに対して、精神を「内的」という。子どもは、自立、独立す
るために、精神の完成を自ら、求めるようになる。

が、こうした子どもの行為に対して、とくにこの日本では、それを悪いことと決めてか
かる傾向が強い。親に反抗しただけで、「親に向かって、何だ!」と、怒鳴り散らす父親
や母親は、多い。「非行」というレッテルを張ることも珍しくない。

 これを「内的つぶし」という。この言葉は、私が考えたものだが、親自身が、子どもの
自立や独立を、つぶしてしまうことも、珍しくない。そしてさらにその結果として、子ど
もは、自ら、罪悪感をもつようになる。先の男性が、その一例である。

 「私は、親の葬儀にも出なかった。私は、できそこないの息子だ」と。

 子どもは、小学3、4年生をさかいに、急速に親離れを始める。生意気になり、親に口
答えするようになる。反抗もするようになる。しかしそれは、国際的な基準でみるかぎり、
ごく自然な(流れ)であり、そういう流れの中で、子どもは、自立していく。

 もちろん日本には日本の風土、文化というものがある。親子関係も、どこか特殊? い
まだに「父親に求められるのは、威厳である」と説く人も、少なくない。最近では、家庭
教育に武士道をもちだす人まで、現れた。

しかしそれらは、ほとんどのばあい、どこか不自然な子育て観といってもよい。日本の
子どもだけは特別と考えるのは、おかしい。日本式の子育てが正しくて、外国の子育て
はおかしいと考えるのは、さらにおかしい。安易にそれを受け入れれば受け入れるほど、
あなたは、(自然な形での子どもの姿)を見失う。


●子どもを支配する親

 「代償的過保護」という言葉がある。

 ふつう、過保護というときは、その背景に、親の深い愛情がある。その愛情が、転じて、
親は子どもを、保護過多、つまり過保護にする。

 が、代償的過保護には、その背景に、親の深い愛情があっても、希薄。子どもを自分の
支配下に置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護とい
う。

ただ、この代償的過保護は、見た目には、過保護と、たいへんよく似ている。区別がつ
かない。それにたいていのばあい、子どもに対して代償的過保護を繰りかえしながら、
親自身は、それを親の深い愛情と誤解している。

よくある例は、「子どもはかわいい」「かわいい」を口ぐせにしながら、その一方で、子
どもが、自立したり、独立していくことを、許さない、など。「渡る世間は鬼ばかり」と、
子どもを、ほとんど外出させなかった母親もいる。子どもといっても、30歳を過ぎた
子どもである。

 ……というような話は、前にも書いた。

 ここでは、その先を書く。

 こうした代償的過保護のもとで育つと、子どもは、当然のことながら、自立できない、
ひ弱な子どもになる。(反対に、親に猛反発する子どももいる。その割合は、7対3くらい。)

 が、それだけではない。

 子どもは、ある年齢に達すると、急速に親離れを始める。自立のための準備期間に入る。
その年齢は、小学3、4年生ごろ、満10歳前後とみる。

 これを発達心理学の世界では、「内的促し」(ボーエン)という。このころから、子ども
は、自立をめざし、内的、つまり精神面での完成をめざすようになる。

 この時期、子どもは、家族的自我群(家族としてのまとまりのある意識)から逃れ、自
分を確立していく。が、ここで誤解してはいけないのは、内的促しをするからといって、
その子どもが、家族を否定するようになるのではないということ。

 子どもは、内的促しをしながら、その一方で、家族との調和をはかる。つまりこうして
子どもは、精神的にバランスのとれた人間へと、成長していく。

 が、代償的過保護のもとで育つと、子どもは、この精神の発達を、阻害(そがい)され
ることになる。そしてその結果、自立できないばかりか、現実検証能力を失う。30歳を
すぎても、親のサイフからお金を盗んで使っていた男性がいた。親といっても、安い給料
の、サラリーマンだった。

 自分で、してよいことと、悪いことの区別がつかなくなる。自分ですべきことと、して
はいけないことの区別がつかなくなる。

 総じて言えば、代償的過保護には、親の過関心と過干渉がともなう。ある女性は、こう
言った。「母が兄を見る目つきは、いつもキリで心を突き刺すように、鋭かった」と。親自
身の精神的未熟性がその背景にあるので、問題の解決は、容易ではない。

 なお、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。明けても暮れても、頭の中は、子どもの
進学問題でいっぱい。……というような親は、ここでいう代償的過保護傾向の強い親とみ
てよい。一見、子どもの将来を心配しているようだが、その実、自分の不安や心配を、子
どもにぶつけているだけ。

 もう少し極端な例としては、ストーカーがいる。嫌われても嫌われても、その男性(女
性)をおいかけまわす。相手が迷惑していることすら、理解できない。つまり自分が置か
れた現実を理解できない。

 少し話がバラバラになってきたので、この話はここまで。

【代償的過保護・自己診断テスト】

( )いつも子どもの行動を知っていないと、落ちつかない。不安。心配。
( )いつも子どもにあれこれ指示を出し、命令している。勝手な行動を許さない。
( )子どものために、自分の人生を犠牲にしていると思うことが多い。
( )子どもの世話をやくのが、親の努めだと思う。めんどうみのよい親がよい親と思う。
( )うちの子は、外の世界では、ひとり立ちして生きていくのは無理だと思う。

 ここに書いたことが、いくつか思い当たれば、あなたは本当に子どもを愛しているか。
何か、おおきなわだかまり(固着、こだわり)をもっていないか。それを反省してみる。
それと同時に、あなた自身も、一人の人間として、ひとり立ちできているかどうかも、反
省してみるとよい。


●子どもを否定する親

 Kさん(60歳、女性)は、いつも自分の長男氏(34歳)について、「あの子は、バカ
で……」と言っていた。いろいろな母親がいるが、自分の息子を、「バカ」という親は少な
い。

 で、ある日、私がそれとなくKさんに、「そんなふうに言ってはいけない。ぼくには、そ
うは思えない」と話すと、Kさんは、こう言った。「あの子は、生まれつき、ああです」と。

 そのKさん。親類の間では、「仏様」と呼ばれていた。もう一人、1歳年下の妹がいたが、
子ども思いのよい母親と思われていた。人前では、おだやかで、やさしい母親を演じてい
た。

 しかしその長男氏は、ハキがなく、いつも何かにおびえたように、オドオドしていた。
明らかに、母親の否定的な育児姿勢が、その長男氏の自我を押しつぶしてしまっていた。

 こんなことがあった。

 そのKさんの横に、10坪くらいの空き地があった。花壇や畑になっていた。しかしそ
こを駐車場にすれば、車が4、5台、駐車できる。そこで私が、その長男氏に、貸し駐車
場にしたらよいのではと話すと、その長男氏は、こう言った。

 「そんなことを言うと、母さんに叱られる」と。

 30歳をすぎても、母親の威圧(幻惑)に、おびえていた。

私「駐車場にして貸せば、あそこだったら、毎月、10万円くらいの収入が見込める」
長「植木鉢は、どうする?」
私「横へ並べておけばいい」
長「そんなこと言ったら、母さんに叱られる」と。

 強烈な母親のイメージ。長男氏は、その呪縛の中で、もがき苦しんでいた。

 こうした否定的な育児姿勢が日常化すると、子どもは、つぎのような症状を見せるよう
になる。

(1)自信喪失
(2)判断力の低下
(3)自我の喪失
(4)現実検証能力の喪失
(5)強度な依存性(服従性)
(6)基底不安をもちやすい
(7)常識ハズレの行動
(8)萎縮性、自閉傾向など。

 Kさんは、長男に、こんな言い方をしているという。

(客が来たとき、Kさんは、長男氏に、お茶をもってくるように言った。そのときのこと)、
「早くもって来なさい。どうせ、ぐずぐずもってくるんでしょ。ぐずぐずしていると、お
客さんが、帰ってしまうでしょ」と。

(客がくれた、みやげの菓子を長男氏に渡しながら)、「菓子だよ。あんたがもらっても、
私にはくれないけど、私は、ちゃんとあんたに、あげているよ」と。

(長男氏が菓子を食べていると)、「いらないと言っているくせに、どうせ全部、食べてし
まうのでしょ。あとで腹が痛いというんじゃ、ないよ!」と。

 長女は、私にこう訴えた。「母は、いつも一言、多いのです。その一言が、兄の心をキズ
つけます。しかし母は、それに気づいていません。が、何よりも不幸なのは、そういうあ
つかいを受けながら、兄が、母のその呪縛を解き放つことができないでいることです。ベ
タベタの依存性がついてしまって、兄は、母の指示がないと、ひとりでは何もできなくな
ってしまっています」と。

 「うちの子は、何をしてもだめだ」「何をしても心配だ」と、もしあなたがそう思ってい
るなら、それはあなたの子どもの問題ではない。あなた自身の問題と考えてよい。

 あなたの中にある、わだかまりやこだわり(固着)をさぐってみたらよい。望まない結
婚であったとか、望まない子どもであったとか、など。

 こうしたわだかまりやこだわりが、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることは多い。
子どもの側からみて、何が不幸かといって、そういう親をもつことくらい、不幸なことは
ない。

 もしあなたがそうなら、まずそのわだかまりや、こだわりに気づくこと。気づくだけで
よい。少し時間がかかるが、あとは時間が解決してくれる。

 ついでに一言。

 よく「うちの子は生まれつき……」と言う親がいる。実に不愉快な、しかも卑怯な言い
方である。

 あの赤子を見て、「生まれつき……」などとわかる人は、絶対にいない。えてして、親は、
自分の育児の失敗を、「生まれつき」という言葉でごまかす。親として、絶対に口にしては
いけない言葉である。
(はやし浩司 個人化 幻惑 個人志向 共同体志向 家族自我群 現実検証能力)
(040612)


(3)心を考える  **************************

【今日の教訓】
 
It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.
私は頭がいいのではない。ただ問題があると、人より、よく考えるだけ。(A・アインスタイン)

If we had no winter, the spring would not be so pleasant; if we did not sometimes
taste of adversity, prosperity would not be so welcome.
もし冬がなければ、春の楽しさがわからない。もし逆境にをときどき経験しないなら、繁
栄はそれほど楽しいものではない。(アン・ブラドストリート)

The only way of finding the limits of the possible is by going beyond them into the
impossible.
可能性の限界を知る唯一の方法は、それを超えて、不可能の世界へ入ることだ。(アーサ
ー・C・クラーク)
 
You have undertaken to cheat me. I won't sue you, for the law is too slow. I'll ruin
you.
あなたが私をだまそうと企てても、私はあなたを訴えない。法律は、のろまだ。私はあな
たを滅ぼしてやる。(Cornelius Vanderbilt)

It is better to die on your feet than to live on your knees!
あなたのひざの上で死ぬくらいなら、あなたの足の上で死んだほうがまし。(Emiliano
Zapata)

All glory comes from daring to begin.
始めたいという強い意欲が、成功へ導く。(Eugene F. Ware)

Character cannot be developed in ease and quiet. Only through experience of trial
and suffering can the soul be strengthened, ambition inspired, and success achieved.
人格は、決して簡単に、完成されるものではない。試行と苦しみの経験のみが、あなたの
魂を強固なものにし、野心を鼓舞し、成功をもたらす。(Helen Keller)
 
Good timber does not grow with ease. The stronger the wind the stronger the trees.
よい材木は、簡単には育たない。風が強ければ強いほど、木は強くなる。(J. Willard
Marriott)

I restore myself when I'm alone.
(私は、ひとりぼっちのときだけ、自分をとりもどす。(マリリン・モンロー)

No pressure, no diamonds.
圧力なければ、ダイアモンドなし。(メアリー・ケイス)

Capitalism is like an island of wealth, surrounded by a sea of poverty.
資本主義というのは、貧困の海に囲まれた、富の島のようなものだ。(Noam Chomsky)

In skating over thin ice, our safety is in our speed.
薄い氷の上でスケートをするときは、速度が速いほど、安全だ。( Ralph Waldo Emerson)

If you go in search of honey, you must expect to encounter bees.
蜂蜜がほしいと願うなら、そこには、ハチがいる。( Thomas Szasz)
(040614)


(4)今を考える  **************************

【二男のメモより……】

この前、弟に、どうしたら誠司の父親としてふさわしい人間になれるかっていうのは、結
局誠司が僕に教えてくれるんじゃないか、って思うようなことを言ったけれど、近頃僕が
誠司に教えてあげられること、言葉にできるようなことなんてそれほど重要性がないんじ
ゃないかな、と思う。

僕が妻と接するとき、夫としてどうあるべきなのか、それは皆父がぼくの母にどうあった
かを僕の人生から学び、それを受け入れたり拒絶したりしながら僕の接し方に反映してい
るから分かるんだと思う。しかし、僕は二男として生きる意味が良く分からない。息子と
は何なのか? 父親とどう接していくものなのか? よく分からない。


ぼくの人生には祖父、祖母といった人物がほとんど存在しない。僕は父が僕の祖父と一緒
にいるのを見たことがないし、僕の父は僕に「父」や「夫」が何であるかを教えてくれた
けれども、「息子」とか「孫」が何であるのかはほとんど空白のままだ。僕は、それが僕の
息子として生きる意味の曖昧さの原因なのだろうかと思う。

義理の父(ジム)の家へ滞在するとき、ぼくはいつも彼と彼の父の関係から目が離せない。
空を飛ぶのを夢見ていた人間が、あるとき急に空を飛べるようになった感覚だろうか? 
ロイス(ジムの父)は高齢で、もうあまり身の回りのことができないのだけれど、会うと
いつも昔のリトルロックの話や、彼が太平洋戦争中に、艦船でペンキ塗りの仕事をしてい
た話などおなじみの話ばかりを繰り返す。

ジムはロイスを軽蔑しているようだけれど、好き嫌い、なんてことは僕には関係ない。僕
は彼らが「関係している」という事実そのものに学ぶべきことがあるような気がする。目
のあわせ方、話の聞きかた、食事中にお茶のお変わりを出すタイミング、そういったよう
な事の中に、「父」と「子」があって、今の僕にはいったいそれにどういう意味があるのか
言葉にはできない。けれどもそこになにか重大なものがあることは僕の血と魂から感じる。

僕は、誠司にはぜひ、僕と父との関係の中に何かを見てもらいたい。僕が誠司に僕の父に
ついて話すとき、彼に僕の表情を見て欲しい。僕が父と話をするとき、彼に僕らが何をど
う話しているのか、テレビゲームをしながらでも耳にして欲しい。つまり、僕が父と関係
している、という事実そのものが彼の人生の一部にあって欲しい。

父と祖父だけではなくて、あらゆる人と人との関係こそ、彼がこの世で学ぶ一番大切なこ
とだと思うけど、今日はそんな当たり前のことがふと頭に残った。

【宗市へ……、はやし浩司より】

 お前のエッセーを読んでいたとき、関係ないことかもしれないが、こんなことが頭の中
に浮かんだ。

 すべてを戦争の責任にすることはできないが、半世紀前の日本は、本当に貧しかったよ。
それがわからなければ、戦後の日本の、古い写真を見ればよい。

 ラムネ(国産)が、一本、5円の時代のときにね、バヤリースオレンジが、100円だ
った。それがね、店の一番奥の棚の上に、誇らしげに並べてあったよ。

 それを見ながら、ぼくは、「あんなの買う人がいるのだろうか」と思いつつ、「どんな味
か、一度、飲んでみたい」と思った。結局は、一度も飲まなかったけれどね。

 家族旅行などというのは、小学6年生までに、一度だけだよ。たったの一度だけ。しか
もね、行ったところが伊勢。ぼくらは、「お伊勢参り」と呼んでいた。

 旅館といっても、当時の旅館は、おおぜいの人との相部屋。そこで父は酒を飲んで暴れ
てしまい、夜中のうちに、岐阜のほうへ帰ってきてしまった。

 悲惨な少年期だったけれど、今から思うと、ぼくの父も、台湾で、アメリカ軍と戦い、
腹に貫通銃創を受けている。九死に一生どころか、千死に一生だね。ははは。それで心に、
深いキズを負っていた。今で言う、PTSDだね。夜中に、よくうなされて、暴れた。

 父親として、誠司の祖父として、じゅうぶんなことをしてあげられないのは、申し訳な
いと、いつも思っている。しかしこうまで時代が変るとは、このぼくでさえ、予想さえし
ていなかったよ。ホント!

 しかし、まあ、お前の祖父は、お前が生まれる前に死んでいる。祖母にしても、日本と
アメリカとでは、歴史的な背景もちがうだろう。ぼくたちが、デニーズの家族と同じこと
ができなかったからといって、あるいはしていないからといって、それはそれではしかた
ないことではないかと思っている。(弁解がましいが……。)

 まあ、お前はお前で、元気でやりなさい。いろいろさみしい少年期を送らせたことは、
悪かったと思う。まあ、その分、誠司に、心豊かな少年期を送らせるよう、がんばればよ
い。

 たった今、晃子が高校の同窓会から帰ってきた。何でもない生活に見えるかもしれない
けれど、これがぼくにとっては、きわめて大切な生活だよ。明日は英市が、オーストラリ
アから帰ってくる。たった今、「これから飛行機に乗る」という連絡が入った。

 30年前、50年前には、こんな生活は、考えられなかった。夢だった。今の生活は、
そんな夢のような生活だよ。ぼくにとってはね。そう、毎日、その気になれば、腹いっぱ
い、ごはんが食べられるだけでも、ぼくには、すばらしい生活だよ。毎週、その気になれ
ば、車で、ドライブができるだけでも、ぼくにはすばらしい生活だよ。

 幸か不幸か、(たぶん、不幸なのだろうが)、お前たちは、そういう貧しさを知らない。
その分だけ、今の価値がわからないのかもしれないね。

 いやね、25年前、自分の家を建てたとき、そこに水洗便所があるのを知ったとき、ぼ
くは、毎日、それをみがいていたよ。それまでは、どこでも、ボットン便所だったから…
…。ときどきは、そういう視点からも、日本を見て、家族を見てほしいよ。とても悲しい
ことだが、そのアメリカと日本は、60年前には、殺しあっていたんだよ。ぼくらには、
少しだけど、そのしこりは、まだ残っているよ。

 つまりお前が、アメリカ人になると言ったとき、ぼくは、そのしこりを、心の中で、つ
ぶさねばならなかった。その苦痛は、多分、お前には理解できないものだろうね。もしぼ
くの父、つまりお前の祖父が今、生きていたら、祖父は、お前たちの結婚は、絶対、認め
なかっただろうね。がんこで、生真面目な人だったからね。

 ぼくが子どものころでさえ、「天皇」と呼び捨てにしただけで、頭を殴られたよ。今のお
前から見ればおかしいと思うかもしれないけれど、しかしぼくは、ぼくの父が、なぜそう
であったかについて、今なら、父の気持ちが理解できるよ。

台湾でも、父の友人のほとんどが、アメリカ軍によって殺されている。晃子の父親は、
もっと悲惨だったよ。ラバウル島での戦闘がどういうものであったかは、お前も知って
いることと思う。

晃子の父親は、3000人の部隊の一人として、ラバウルに向かい、帰ってきたときに
は、300人もいなかったそうだ。日本へ帰ってきてからも、死んだ戦友たちに申しわ
けなくて、小さくなって生きていたそうだ。

 だから今、二つの気持ちが、ぼくの中にある。メジャーな気持ちとしては、「だから戦争
は、くだらない」という思い。もう一つは、マイナーな気持ちとして、「孫がアメリカ人と
いうのは、どういうことだ」という思い。

 すべてを戦争の責任にするわけにはいかないが、今、ぼくたちが、お前たち家族に対し
て、祖父らしいこと、祖母らしいことをできないからといって、……この話はやめよう。
グチになる。これからもがんばるよ。よき父親、よき祖父になれるように、ね。

 本当のところ、ぼくたちが見せることができなかった「家族」というものを、デニーズ
さんの家族が、お前に見せてくれていることについては、感謝している。喜んでいる。ま
あ、元気でやりなさい。

 晃子も、ぼくも、今、望むことは、いつまでもお前たちが、今のまま、幸福であること。

 ではね、バイ! また何かよいものを見つけたら、送るよ!


●山荘にて……

 今夜、つまり6月の12日、土曜日の夜、山荘へやってきた。途中、コンビニで、お弁
当を一個買った。明日の朝食用。

 ほかに「メモリータイム」(K食品)という、300円の音楽CDを1枚、買った。往年
のヒット曲を、2曲ずつ、収録したもの。これは、車の中で聞くため。

 封を切ると、ザ・ライチャス・ブラザーズの「♪アンチェインド・メロディー」が入っ
ていた。映画『ゴースト』で使われた曲である。封を切るまで、どんな曲が入っているか
わからないが、結構、よいのが入っている。

 車の中では、出かける直前まで見ていたテレビの番組について、ワイフと話しあった。
こんな番組だった。

 子どものころ生き別れた父親や母親を、さがすという番組だった。そこで登場したのが、
アメリカ人の超能力者。「FBI特別捜査官」ということだった。

 「本当かな?」「ウソだ!」と思いながら、1時間あまり、見てしまった。で、その結果
だが、その超能力者(男性、50歳くらい)は、本当に、その父親や母親の居場所を、さ
がしあててしまった!

 これには驚いた。どこにもトリックがあるようには見えなかった。その超能力者は、依
頼者の手紙の入った封筒を見ただけで、年齢を言い当てたあと、地図で描いて、その居場
所を示した。
 
 そこでテレビ局のスタッフが、その地図を手がかりに、その場所にでかけてみると、ナ、
何と、さがし求めている人が、そこにいた!!!

 ホント! 「!」を、100個くらい並べても、おかしくないような話だった。

私「トリックがあるはずだよ」
ワ「やらせということ?」
私「だろうね。あんなこと、あるはずがない」と。

 もし、その超能力者の能力が本当なら、私は、今までの常識を、180度、変えなけれ
ばならない。しかし考えてみれば、おかしな点がないわけではない。

(疑問)仮に居場所がわかったとしても、それを、まさに地図のように表現できるかとい
う問題がある。

 たとえば空中高くから地表を見るように見たとしよう。宇宙から見た、衛星写真を想像
してみればよい。そのとき、地表の無数のものの中から、道や線路、川や用水を、どうや
って区別するかということ。

地表近くで地面を見れば、細い道でも、運動場のよう広く見える。反対に飛行機が飛ぶ
高さから地表を見れば、高速道路でも、糸のようになってしまう。識別できなくなって
しまう。いわんや、細い路地をや。

 ちょうどよい高さに視点を置くというのは、結構、むずかしい。さらに空から見た地図
が頭に浮かんだとしても、たとえばどうして道の角に、円柱形の高い建物があるとか、工
事中の建物があるとか、そんなことまでわかるのだろうか。

 その超能力者は、ガラス張りの家があると言ったが、ガラス張りかどうかは、横から見
なければわからないはず。

 また人間は、大脳後頭部の視覚野に映された映像を、一次加工、二次加工して、必要な
情報だけを頭の中で、よりわけて見ている。

 もし居場所が、脳の中に、地図のように見えるというのなら、すでにその段階で、情報
が、加工されていることになる。つまり脳の中の信号の流れが、逆なのである。

 わかりやすくもう少し説明しよう。

 目から入った情報は、網膜から視神経を経て、大脳皮質部の視覚野に送られる。そこで
情報は、一次視覚野、二次視覚野、さらに三次視覚野を経て、必要な情報だけが、大脳連
合野に送られる。

 ここから先は、情報によって、どの大脳連合野が担当するかが分かれる。たとえば空間
的な関係は、頭頂葉連合野、ものの形に関する情報は、側頭連合野などが担当する。

たとえば文字は、いわゆる「パターン認識」ということになるから、常識的には、側頭
連合野の担当ということになる。ここでまず文字の形を分析し、認識する。が、それだ
けでは、まだ文字として、理解されるわけではない。さらにその段階から、その文字の
形に対応する「音」を、記憶の中から拾いだし、さらにその音をつなげて、言葉として
理解する。

画像についても、同じような処理がされる。必要な画像だけを選び、さらにそれが何で
あるかを判断しなければならない。同じ緑色のものでも、「この緑っぽいものは、畑。こ
の緑っぽいものは、山。しかしこの緑は、屋根の緑」と。その仕事をうけもつのが、大
脳の頭頂葉連合野や側頭連合野である。つまりこの段階で、画像は、二次加工、三次加
工される。

 ばくぜんとした画像(模様)が、地図とし認識されるのは、そのあとのことである。

 が、すでに地図として、さがし求める人の居場所がわかるというのであれば、加工され
た画像が、逆に、後頭部の視覚野に映しだされたことになる。となると、その情報は、ど
こからきたのかということになる。

 ゆいいつ考えられるのは、目の網膜から、視覚野までの間で、別の神経回路を経て、情
報がまぎれこんだことになる。しかしそんなことがあるだろうか。そこには、一本の神経
が、電線のように走っているだけ。

 あるいはそういう超能力者は、夢を見るようにして、地図を見るのか? それなら話は
わかるが、しかしそれでも、それまで見たことがない地図が、頭の中に浮かんでくること
は、ないはず。

 だいたいにおいて、地図というのが、クサイ。人間の能力を超えた能力をもっている人
が、実に人間クサイものを、見ている? それがたとえば「北から南へのびる断層がある。
その断層の西に水脈があり、その水脈の上に、その人がいる」というような言い方だった
ら、まだ話がわかる。それが地図とは?

 司会者のM氏にしても、並んでいるタレントにしても、ただ驚いているだけ。ギャーッ
とか、ワーッとか、意味のない歓声をあげているだけ。思考力ゼロという感じ。ほんの少
しでも、大脳生理学の知識があれば、驚き方も変わっただろうが、もともとそのレベルの
番組(失礼!)。

 「私なら、こういうふうに質問してみるのに……」「どうして、そのことを聞きたださな
いのか」などと思いながら、私は、その番組を見た。少なくとも、どのような形で地図が、
脳の中に浮かんでくるかくらいは、聞いてほしかった。

 テレビが与える影響を考えるなら、その程度の質問をするのは、当然ではないのか。

私「ぼくは、やはり、やらせだと思う」
ワ「そうよね。あんなことで、失踪した人の場所がわかるわけがないもの」
私「あのユリ・ゲラーの超能力にしても、当初は、みな、本物だと信じていた」
ワ「そうよね」と。

 山荘へ着くと、まだ6月だというのに、コオロギが、チリチリと鳴いていた。それを聞
いてワイフが、「もう秋みたい」と言った。町の中では、あれほどムシムシしていたのに、
山荘周辺の空気は、ひんやりとしていた。さわやかだった。

 しかしこちらは、現実。と、同時に、その番組のことは、忘れた。
 
【補記】

 番組の中では、3人の超能力者(男性2人、女性1人)が出ていた。最後に、イギリス
のダイアナ妃の死因について、3人とも、「殺人だと思う」というようなことを言っていた。

 「?」と思いながら、「いくら公人とはいえ、こんなふうに興味本位に、人の死をとりあ
げていいものかなあ」と思った。「数十億人もいる人間の中から一人を選び、しかもその人
の人生の一瞬をとりあげて、どうしてそんなことがわかるのかなあ?」とも。

 人間の脳みそには、無限の可能性がある。それはわかる。しかしそこまで無限の能力が
あるとは、私には、信じられない。

 が、もし(やらせ=インチキ)だとしたら、これはたいへんな問題である。テレビ局は、
日本中をペテンにかけたことになる。金銭的な実害はないかもしれないが、こうした番組
で、多くの子どもたちが、まじめに考えるのを放棄してしまうかもしれない。

 そうでなくても、今、子どもたちの間では、まじないだの、占いだの、予言だの、超能
力だの、おかしなものが、おおはやり。テレビ局もそのあたりのこと、つまり子どもに与
える影響をもう少し考えて、番組を制作してほしい。

見るからにノーブレインのタレントばかりではなく、良識のある科学者を同席させると
か。こうした番組には、そうした配慮も必要ではないのだろうか。

 番組の終わりがけに、「これらは、事実とは関係ありません……」などというテロップが
流れたが、あの程度の注意書きでは、不十分だと思う。


●オーストラリア

 オーストラリアでは、交通ルールが、ますますきびしくなった。制限速度を、たった5
キロ、オーバーしただけで、即、罰金だという。交差点でもそうだそうだ。黄信号で交差
点に入ると、どこかでカメラで監視されていて、即、罰金だという。

 今日、オーストラリアから帰ってきた三男が、そう言った。「日本では、めちゃめちゃだ
よ。赤信号でも、信号を無視して、交差点へつっこんでくる車がある」と私が話したら、
オーストラリアでは、絶対に考えられないという。

 そう言えば、去年、私の家にホームステイした、オーストラリアの友人も、そう言って
いた。「どうして日本人は、ロジカルではないのか?」と。話を聞くと、交差点でも、日本
では、停止線のところで、きちんと止めるドライバーは、いない」「どうしてか?」と。

 みやげに、タバコを一個、もってきた。もちろん吸うためではない。パッケージを私に
見せるためである。オーストラリアでは、タバコの値段が、めちゃめちゃ、高いという。
一個、8〜10オーストラリアドル(800円)くらいだそうだ。

 そのパッケージの表(横や裏ではなく、表)には、約3分の1ほどをさいて、こう書い
てある。「喫煙は、肺がんを引き起こす(Smoking causes lung ca
ncer)」と。

 そのパッケージを見ながら、日本がいかに遅れているかを、改めて思い知らされる。た
とえば喫煙率にしても、若い女性を中心に、喫煙率は、むしろふえているという。

 ちなみに、日本人の喫煙率は、つぎのようになっている(95年)。

 男性……53・8%
 女性……15・2%

 問題は、中高校生である。毎日、喫煙している子どもの割合は、つぎのようになってい
る。

 中学生男子……2・6%
 中学生女子……1・0%

 高校生男子……19・4%
 高校生女子…… 6・5%

 全体としては低下傾向にあるが、20歳代の女性については、上昇傾向にあるという。
しかし高校男子の5人に1人が、毎日、タバコを吸っているとは! 町の中を歩くと、J
Tの巨大な看板が、あちこちに立っている。偽善のかたまりのようなテレビコマーシャル
も、相変わらず流されている。

 そういうのを見ると、「日本も、まだまだだなあ」と思う。

 ついでにタバコを吸うと、肺がんだけではなく、あらゆるがんについて、死亡率が2倍
から、数十倍になることが知られている。

 お金を出して、毒を買うようなもの。どうして国は、もっとタバコを規制しないのか。

 5、6年前、同年齢の友人が、肺がんで死んだ。健康なときは、たいへんなヘビースモ
ーカーで、1日2箱も吸っていたという。

 が、その死に方が、壮絶だった。毎日、どす黒い血を、1リットル近くも吐いて、死ん
だという。そういう恐ろしさを、政府は、厚生省は、もっと国民や子どもたちに、知らせ
るべきではないのか。「因果関係がじゅうぶん証明されていない」では、すまない話なので
ある。

【偽善】

 偽善といえば、JTのコマーシャルほど、偽善なものはない。あのコマーシャルを見る
たびに、「何が、マナーだ」と笑ってしまう。まさに偽善の典型。偽善がどういうものかわ
からない人は、JTのコマーシャルを見ればよい。あれが、まさしく偽善である。

 世の中には、偽善者が実に多い。どこかのカルト教団の指導者、テレビタレント、ニュ
ースキャスター、それに政治家などなど。そう言えば、教師にも、教育評論家にもいる。(私
のことか?)

 どうすれば、その人の偽善を見抜くことができるか? おもしいテーマなので、今度、
別の機会にじっくりと考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

●偽善

 偽善者は、悪人より、タチが悪い。イギリスの格言にも、こんなのがある。『悪魔は、善
人の顔をして、あなたのところへやってくる』と。

 『悪魔は、目的のためには、聖書をも引用する』というのもある。
 『ブタを盗んで、骨を施(ほどこ)す』というのもある。

 ……と言いながら、この世の中、すべてが偽善。偽善でないものをさがすほうが、むず
かしい。あなたにしても、身のまわりに、あらゆるものが、どこかで人間の欲望と利益に
からんでいる。そのからんだところで、善は悪に変身する。

 少し前、JTのコマーシャルにこんなのがあった。

 ある男がタバコを吸おうとすると、そこへ小さな少女が通りかかる。その男は、一瞬手
を休め、その少女が通りすぎるまで、タバコを吸うのをやめる。

 あるいは美しい野原で、一人の男がタバコを吸っている。その男の近くには、灰皿が置
いてある。男は、真っ青な空の白い飛行機雲を見ながら、タバコを吸う。

 一連のJTのコマーシャルが、まさしく偽善の典型とみてよい。本当に善を訴えるなら、
「どうか、タバコを吸わないでください」「私どものタバコを買わないでください」という
ような内容のコマーシャルにすればよい。

 JTは、ブタの骨を人に与えながら、ブタを盗んだことを隠している。

 が、JTだけを責めても意味はない。先にも書いたように、私たちの言動、行動すべて
が、どこかで偽善とからんでいる。たとえば、この私。

 講演などに行くと、結構、善人ぶっている。自分でもおかしいほど、善人ぶることがあ
る。しかし本当の私は、ときどき、こう思っている。「どうして私のような人間が、こんな
ところに立っているのだろう」と。

 数日前も、ある幼稚園で講演をした。そのときのこと。あろうことか最前列に座ってい
た、二人の女性が、最初からヒソヒソと、内緒話。本人たちは、隠れてそうしているつも
りだろうが、演壇からは、それが実によく見える。目につく。

 そこで私は、その二人をにらみつけながら、語気を強くして話しつづける。が、二人は、
話をやめる気配はない。だから今度は、机を叩きながら、その二人をにらみつづける。

 多分、その二人からは、私の視線が見えないのだろう。その会場は、幼稚園とはいえ、
どこかの公立中学校の体育館のように広かった。

 こうなってくると、まさに講演は、その二人との戦いといった感じになる。私は自分の
怒りを、声の中にまぶして、その二人にぶつける。(おい、こら、ちゃんと話を聞け!)と。
その一方で、「いい子に育てる、第一の秘訣は、子どもを使うことです!」と叫ぶ。

 裏の意図をもちながら、表では、まったく別の自分を演ずる。これは偽善とは関係のな
い話かもしれないが、そういうことは、日常的に、よく経験する。そしてそれが、予期せ
ぬばしょで、偽善になったりする。

 ただ許せないのは、偽善で、金をもうけたり、名誉や地位を手にしている連中である。
とくにマスコミの世界には、この種の人間が多い。有名であることを利用して、どこかで
難民救済運動のリーダーになったり、国連の人道支援の先頭に立ったりする。

 そういった活動をする前に、つまりそこにいたるまで、何かの積み重ねがあれば話もわ
かるが、そういうのは、まったくない。もう20年ほど前のことになるだろうか。

 あるテレビタレントが、アフリカの難民救済運動のキャンペーンに現地へでかけた。そ
してそこで、難民の子どもを抱いて、写真撮影をした。が、その撮影が終わると、そのテ
レビタレントは、消毒薬で、自分の手や服を懸命にふいていたという。

 たまたまその場に居合わせた別のカメラマンが、その模様をカメラに収め、内部告発を
してしまった。その写真は、当時の週刊誌に載ったので、私のような人間でも知るところ
となった。

 たしかにアフリカのようなところで、難民の子どもを抱くのは、勇気のいることである。
それはわかるが、あとで消毒するくらいなら、最初から、子どもなど抱かないことだ。日
本へ帰ってきてから、涙ながらに、救済運動などしないことだ。

 ……と、グチを書いても始まらない。大衆を動かすためには、別のパワーが必要である。
少し前、自分では国民年金のための積立金を払っていなかった女性タレントが、国民年金
の何とかキャンペーンのポスターガールになって、問題になったことがある。

 では、その女性タレントが、偽善者だったかどうかというと、私は、そうは思わない。
その女性タレントにしてみれば、タレントとしての、演技の一つにすぎなかったのかもし
れない。

 そんなわけで、偽善かどうかを見抜くことは、むずかしい。ただ注意しなければならな
いことは、偽善者がはびこればはびこるほど、この社会は、住みにくくなるということ。

 そこでこうした偽善者にだまされないために、私たちは、どう心を防御(ぼうぎょ)し
たらよいのかということになる。

 方法としては、その人の一貫性をみるというのがある。

(1)その人の過去と現在への、連続性をみる。
(2)その人の活動と、その人の周辺をみる。

 その人が今、そうであることについては、過去からの積み重ねがあるはずである。たと
えば人知れず、難民救済運動をしてきたとか、そういう積み重ねである。有名になったあ
と、どこからの団体から、その仕事(?)をするようになったというのであれば、まず1
00%、偽善を疑ってみてよい。

 つぎに、その活動と、その人の周辺を比較してみる。日ごろは、ドイツ製の大型高級車
に乗り、超の上に超がつくような豪邸に住み、カメラの前では、質素な作業服を着て、難
民の救済を訴えるというのであれば、ます100%、偽善を疑ってみてよい。

 私が冷静な判断力をもてば、そうした偽善者は、自然と姿を消す。まずいのは、ノーブ
レインの状態で、そういう偽善者に操られるまま、操られること。結果として、悪に手を
貸すことになる。

 昔の人は、よくこう言った。「悪人のエサになるようなことだけは、するな」と。英語の
格言にも、『A liar is worse than a thief.(ウソつきは、泥棒よりタチが悪い)』という
のがある。「私は悪いことをしない」というだけでは、決して、善人にはなれない。

 善人になるためには、悪と積極的に戦わねばならない。


●K国情勢

 サミット(主要国首脳会議)が終わった。その中で、K国の核開発の放棄を重ねて求め
た、議長総括が発表された。それについて、K国は、「我が方に防御的な核抑止力をさらに
強化するための、十分な理由を与えるだけである」と反発。

 よく言うね。ホント!

 はじめっから、そのつもりだったくせに。

 一方、韓国は、どうやらK国に、金大中を特使として、送ることになりそうだ(6・1
4)。

 「K国の核問題は、ワレワレが解決する」と、大言壮語して大統領になった、ノ氏。し
かし韓国は、まったく相手にもされなかった。そればかりか、先の金大中は、K国の金X
Xに、数百億円もの、みやげ持参で会っていたという。

 アメリカは撤退するし、国内経済は、めちゃめちゃ。今さら「太陽政策はまちがってい
ました」とは、とても言えないのだろう。だから、特使?

 反日、反米もけっこうだけれど、ノ大統領も、もう少し、現実を見たらどうなのだろう
か?

 イギリスの報道機関が、先のK国リョンチョン市での爆破事件は、金XXの暗殺をねら
った暗殺未遂事件であったことを、報道した。ガムテープつきの、携帯電話の破片が見つ
かったそうだ(中日新聞)。

 そこで韓国系の新聞社のあちこちを、ネットで検索してみたが、そのニュースを伝えた
のは、一つもなかった。ガセネタ?

 今月号の月刊「現代」によれば、「暗殺未遂事件だった」そうだ。あるK国高官の話とし
て、それを伝えている。何がどうなっているか、私にはわからないが、こうした一連の動
きは、そのまま日本の平和と安全保障の問題とからんでくる。「私には関係ありません」と、
逃げているわけには、いかない。
(6月14日記)(マガジンでは、7月14日号のほうで掲載します。そのころには、情勢
が大きく変化しているかもしれません。)



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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 12日(No.434)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page043.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)

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(1)子育てポイント**************************

●家庭教育の誤解

(1)忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に
向けさせたい」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなことを
しているだけ。

子どもにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。たとえば台所の生
ゴミを手で始末するとか、風呂場の排水口にたまった毛玉を始末するとか、そういう
ことができる子どもを忍耐力のある子どもという。

(2)やさしさ……公園でブランコを横取りされたとする。そういうときニッコリと笑
いながら、そのブランコを明け渡すような子どもを、「やさしい子ども」と考えている人が
いる。しかしこれも誤解。

このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをためやすく、いろいろな問題を起こす。
子どもにとって「やさしさ」とは、いかに相手の立場になって、相手の気持ちを考えら
れるかで決まる。もっと言えば、相手が喜ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子
どもという。そのやさしい子どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがある
とパパが喜ぶわね」「これを買ってあげるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日
常的にいつもだれかを喜ばすようにしむけるとよい。

(3)まじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのでは
ない。まじめというのは、自己規範のこと。こんな子ども(小三女子)がいた。バス停で
たまたま会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう言った。「こ
れから家で夕食を食べますから、いらない。缶ジュースを飲んだら、ごはんが食べられな
くなります」と。こういう子どもを「まじめな子ども」という。

(4)すなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考え
ている人は多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、心の状態(情意)
と、顔の表情が一致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔をする。悲し
いときには悲しい顔をする、など。

情意と表情が一致しないことを、「遊離」という。子どもにとっては、たいへん望ましく
ない状態と考えてよい。たとえば自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)がいる。こ
のタイプの子どもの心は、柔和な表情をしたまま、まったく別のことを考えていたりす
る。


(5)がまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむとき
は、がまんはかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(三歳児)
がいた。子どもは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、父親はそれ
を「わがまま」と決めつけて、いつも無理に寝させていた。

がまんさせるということは、結局は子どもの言いなりにならないこと。そのためにも 親
側に、一本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう意味で、子どものがま
んの問題は、決して子どもだけの問題ではない。

+++++++++++++++++++++++

●子どもに与えるものは、一〇〇倍

 子どもの金銭感覚は、幼稚園の年長児から小学二年ぐらいにかけて完成する。

「ふえた」「減った」「トクをした」「損をした」など。お金で物欲を満たす、その満たし
方まで、この時期に覚えてしまう。

そういうわけでこの時期の金銭感覚が狂うと、あとがたいへん。そこで、子どもに買い
与えるものは、心の中で一〇〇倍するとよい。

たとえば一〇〇円のものは一万円。一〇〇〇円のものは一〇万円、と。つまり子どもが
一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものから得る満足感と同じという
こと。一〇〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一〇万円のものから得る満足感と
同じということ。

この時期に、一〇〇〇円や一万円のものをホイホイと買い与えていると、やがて子ども
が大きくなり、高校生や大学生になったとき、それこそ一〇万円のものや、一〇〇万円
のものを買い与えないと、満足しなくなる。

もしあなたにそれだけの財力があれば話は別だが、安易な気持ちで買い与えるようなこ
とは、やめたほうがよい。

 また「より高価なものを買ってあげればあげるほど、深い親の愛のあかし」と考えてい
る人がいる。戦後のあのひもじい時期を過ごした人ほど、この傾向が強い。しかしこれは
まったくの誤解。ではどうするか。

 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、魚釣りに釣れていけ』という
のがある。子どもの心をつかみたかったら、子どもにものを買い与えるより、魚釣りに行
けという意味だが、これは子育ての基本でもある。

多くの親は、「高価なものを買い与えてやったから、子どもは親に感謝しているはず」と
考える。しかし実際には、感謝などしていない。「ありがとう」とは言うが、その場だけ。
あるいはたいていのばあい、かえって逆効果。

 子どもの場合、不自由やひもじさ、さらには思いどおりにならないことが、子どもの生
活力を養う原動力となる。また子どもの心をとらえるということは、もっと別のこと。そ
ういうことも考えながら、子どもの金銭教育を考える。

(2)今日の特集  **************************

【共同体志向YS個人化】
 
●依存性と孤独

 子どもは、その年齢になると、家族から離れて、独立しようとする。これを心理学では、
「個人化」という。

 その個人化には、孤独感がともなう。いいかえると、孤独感といかにして戦うかが、個
人化の成否を決める。

 ……少し、むずかしい話で、ごめん。

 要するに、ひとり立ちすればするほど、孤独感は強くなるということ。

 一方、家族や仲間、親類の中に身を置けば、それなりに孤独感はいやされる。そこで子
どもは、(おとなもそうだが……)、家族や仲間、親類とのつながりを深めようとする。こ
れを、心理学では、「共同体志向」と呼ぶ。

 わかりやすく言えば、依存性のこと。

 個人化と共同体志向は、ちょうど、相対立する関係にある。同じように、孤独感と依存
性は、ちょうど、相対立する関係にある。

個人化を進めれば進めるほど、人は孤独感を覚える。その孤独感をいやすために、人は、
家族や仲間、親類とのつながりを求めるようになる。

 大切なことは、そのバランス。極端な個人化は、その子どもをして、どこか偏屈な人間
にする。

 一方、これまた極端な共同体志向は、ベタベタな人間関係をつくりやすい。その子ども
をして、自立できない、ひ弱な人間にする。

 もともと日本人は、欧米人とくらべたばあい、共同体志向の強い民族と言われている。
親子でも、ベタベタの人間関係をつくりながら、その温もりの中に、どっかりと身を置き、
孤独感をいやそうとする。

 またまた、むずかしい話で、ごめん。

 結論を先に言えば、子どもを自立させるということは、いかにして孤独に強い子どもに
するかということにもなる。

 今日は朝から一日、ずっと、この問題について、考えていた。つづきは、電子マガジン
のほうで……。7月12日号のマガジン(無料版)に掲載するつもり。

では、おやすみなさい。

++++++++++++++++++

●共同体志向

 共同体(仲間)の中で、「個」を押し殺して生きていくことは、それ自体は、たいへん居
心地がよいものである。ベタベタの人間関係。その中で、ベタベタに甘えながら生きてい
く……。

 こうした人間関係は、今でも、田舎のほうへ行くと、よく見られる。

 濃密な近所づきあい。濃密な親戚づきあい。濃密な親子関係など。

 しかしこうした共同体志向が強ければ強いほど、その人は、「個」の確立ができなくなる。
わかりやすく言えば、「私は私」という生き方ができなくなる。だいたいにおいて、共同体
が、それを許さない。『出るクギはたたかれる』という諺(ことわざ)は、そういうところ
から生まれた。

 こうした関係は、よくカルト教団内部で、観察される。

 世間の評判はともかくも、カルト教団内部では、信者どうしは、兄弟以上の兄弟、親子
以上の親子関係になる。親密になる。その居心地のよさこそが、カルト教団の魅力という
ことにもなる。

 しかし信者自身は、自分が「個」を犠牲にしているとは、思わない。教祖、もしくは指
導者の人間ロボットになりながらも、「自分は正しいことをしている」と思いこまされる。
「思いこまされる」というよりは、自ら、そう思いこむ。

 濃密な近所づきあい。濃密な親戚づきあい。濃密な親子関係。これを繰りかえす人にも、
同じような傾向が見られる。個性があるようで、どこにもない。みんなと同じような生き
方をしながら、そう生きることが正しい道だと思いこんでいる。

 が、それだけではない。

 共同体(仲間)とちがった生き方をする人を、「変わり者」とか言って、排斥する。相手
の立場で、相手の問題を考えようとさえしない。共同体とちがった生き方そのものを、認
めない。

 少し前、カナダに住んでいる女性の話を書いた。その女性はカナダ人と結婚して、現在
は、バンクーバー市に住んでいる。

 そういう遠方に住んでいることもあって、母親が倒れたとき、日本へ、すぐに来ること
ができなかった。が、その女性に対して、その女性の伯父にあたる人が、「この親不孝者
め!」と。カナダから帰ってきた夜、実家に泊まったことについても、「娘なら、徹夜で看
病すべきだ」と。

 つまり自分の価値観を一方的に、押しつけてくる。

 こうした傲慢さは、共同体志向の強い人の特徴でもある。背後に大きな共同体をかかえ
ているから、その分だけ、強い。ものの考え方、言い方が、どこか確信的になる。

 一方、共同体志向が弱く、「個」を中心とした生き方をしている人は、どうしても相対的
に弱い立場に立たされる。「生きていくのは、私」「私は、ひとりで生きている」という状
態に立たされる。

 日本人は、元来、この共同体志向がきわめて強い民族である。なぜそうなったかという
ことについては、いろいろ議論もあるだろう。しかし今、結果として、そうである。

 私が子どものころには、さらに強かった。

 私の父母にしても、親戚にしても、たがいに濃密な、(つまりベタベタな)人間関係をつ
くり、それが無数のクモの糸のように、複雑にからんでいた。何かにつけ、叔父、叔母が
そこにいて、それにさらに無数の縁者が、からんでいた。

 近所づきあいが、さらにその上に、からんでいた。

 こういう世界で、「個」を追求することなど、夢のまた夢。共同体志向の強い人たちは、
そこに一種、独特の世界を構成する。そしてその世界が、地球の中心であるかのような錯
覚をする。

 こうした共同体志向の強い人のものの考え方をまとめると、こうなる。

(1)自己中心性(自分が正しいと思いこむ)
(2)独尊性(自分の住む世界が、世界の中心と錯覚する)
(3)排他性(共同体にそぐわない人間を、排斥する)
(4)相互監視性(相互に、こまかく監視し、干渉する。世間体という言葉をよく使う)
(5)相互隷属性(封建的な上下意識が強く、上下関係を作りやすい)
(6)異常な依存性(他人や、共同体内部の人間に依存性をもつ)
(7)仮面性(共同体を個に優先させるため、仮面をかぶりやすい)
(8)無責任性(他人に甘く、また自分にも甘い。ナーナーの人間関係をつくる)
(9)冠婚葬祭中心型社会(ことさら冠婚葬祭を重要視する)
(10)カルト性(自分の考え方は絶対正しいと思いこむ)

 共同体志向が強ければ強いほど、共同体の利益、関係を重要視する。そのため、自ら「個」
を押し殺す。あるいは自分をだましたり、ごまかしたりする。いわゆる仮面をかぶること
が多くなり、共同体の中では、いい人ぶる。善人ぶる。波風をたてるよりは、円満な人間
関係を大切にする。

 こうした社会は、それを受け入れる人には、たいへん住み心地のよい世界である。

 それなりにまじめ(?)に生活をし、それなりに良好な関係を保っていれば、自分もよ
い人と見られる。それなりに尊敬もされる。が、最大のメリットは、その中で、生きるこ
とにまつわる、「孤独」をいやすことができる。

●個人化

 こうした共同体志向に対して、子どもは成長とともに、共同体から離れ、個人として生
きたいという願望が生まれる。これを心理学の世界でも、「個人化」という。

 家族という束縛から、自らを解放し、その影響力のおよばない、遠くへ行きたいという
願望が、それである。
 
 私も、日本の大学を卒業して、オーストラリアへ渡るとき、留学先をどこの大学にした
いかをたずねられたとき、こう答えた。「日本から一番、遠いところにある大学を望みます」
と。

 こうした感覚は私だけのものかと思っていたら、最近、私の息子が同じことを口にした
のには、驚いた。「パパ、ぼくは日本から一番遠いところにある大学で、英語の勉強したい」
と。

 個人化というときは、つぎの項目を、意味する。

(1)家族からの解放
(2)地域社会からの解放
(3)伝統、文化からの解放

 個人化するときは、当然のことながら、そのつど、自分の中の共同体志向性と戦わねば
ならない。しかしそれは、同時に、孤独との戦いを意味する。

●孤独との戦い

 孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いて
いる。この中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger
for bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself
experienced this loneliness. He came amongst his own and his own received him not,
and it hurt him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same
loneliness, the same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by.
Every human being in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the
hardest part, that's real hunger.

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物
としてのパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意
味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれ
にも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になっ
た。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独と
いう点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹と
いうことになる。

 あのアリストテレスでさえ、「世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤
独(friendless condition)は選ばないだろう(No one would choose a friendless existence
on condition of having all the other things in the world. )」と述べている。

 孤独を、安易に考えてはいけない。「生きるということは、まさに孤独の闘い」と言って
も、言い過ぎではない。と、同時に、それは個人化が、いかにけわしい道であるかを意味
する。

 もっとも若いときは、その孤独の意味すらわからない。健康で、死への恐怖もない。毎
日がスリルと興奮の連続。そんな感じですぎていく。孤独を感ずることがあるとするなら、
何かのことでつまずき、ふと立ち止まったようなときだ。

 「私は私」という生きザマを貫くことは、同時に、その孤独を背負うことを意味する。
その孤独に耐えた人だけが、「私は私」という生きザマを貫くことができる。そうでない人
は、「私は私」という生きザマを放棄し、共同体志向の中で、身をいやすことになる。

 ……というふうに、簡単には図式化できない部分もあるが、しかしこの言い方は、おお
むねまちがっていないと思う。問題は、どうすれば、「私は私」という生きザマを貫きなが
ら、それにまつわる孤独と戦うことができるかということになる。

 そのヒントとして、マザーテレサは、「愛」があると、書いている。

●ムラ意識としての、共同体志向

 敵をつくらない。あたりさわりのない人生。与えられた範囲で、静かに、仮面をかぶり
ながら生きていく。親類の中や、近隣社会で、冠婚葬祭があれば、ほどよくそれとつきあ
い、うしろ指をさされたり、嫌われることだけは、避ける。

 こうした生きザマが、いかに居心地のよいものであるかは、それを知っている人は知っ
ている。ほどほどの幸福感。ほどほどの満足感。そして充足感。何よりも、すばらしいの
は、その中にどっぷりとつかっていると、孤独感そのものが、いやされる。

 多くの日本人は、そして日本の若者たちは、個人化をめざし、その中でもがき苦しむう
ちに、やがて共同体の中に組み込まれていく。自ら、それを求めていくこともある。

 ある男性は、若いころは、きわめて個人化志向の強い人だった。そういう男性でも、ほ
ぼ10年単位で会ううちに、彼が、どんどんと変化していくのを感じた。

 丸くなったというか、穏やかになったというか……? それをこの日本では、円熟とい
う。しかしその分だけ、若いころのあの燃えるような情熱は、消えうせていた。いくら何
かを話しかけても、「敵をつくらない」という、どこか奥歯にものをはさんだような、もの
の言い方をする。

 が、それは、同時に、私という人間を警戒していることを示す。「林を味方にすれば、す
べての人を敵に回すぞ」と。

 もちろんそういうことはないのだが、共同体志向の強い人にすれば、私のような生き方
をしている人間は、要注意人間ということになる(?)。……らしい。

 私もそれがわかるから、最近は、居なおって生きている。もっとはっきり言えば、相手
にしない。「どうせ、そういう人たちには、私の生きザマなど理解できないだろう」とか、
「あの人たちは、あの人なりに、ハッピーなのだから、そっとしておいてやろう」とか、
そんなふうに考える。

 多くの人は、共同体志向と、個人化のはざまでもがき、苦しみながら、そしてその間を
行ったり来たりしながら、やがては、共同体志向を強めていくものなのか。こう決めてか
かるのは危険なことかもしれないが、そのカギを握るのが、私は、孤独だと思う。

 ずいぶんと荒っぽい意見を書いてしまったようだが、この先は、もう少し時間をおいて
考えてみたい。書いている私自身が、「そうかな?」とか、「そうとは言い切れないので
は?」と思いながら書いているのだから、どうしようもない。

 どこか無責任な意見を、どうか許してほしい。みなさんは、私の意見をどう思うだろう
か。私は、その(どう思うか)という部分が、あなたの個人化の表れだと思うのだが……。
(040610)
(はやし浩司 個人化 共同体志向 孤独 孤独論)

【追記】

 共同体志向性の強い人は、私のような生きザマを認めない。認めること自体、自分たち
の敗北を認めることになる(……らしい)。

 たとえばA氏(65歳くらい)という男性がいる。ときどき、私が書いた本や原稿を盗
み読みして、「林は、偉そうなことばかり書いている」と批評する。部分的な記述をとらえ
て、私を攻撃してくることもある。「林は、お前のことを、こんなふうに書いている」と、
別の人に、つげ口をすることもある。

 が、そのA氏自身はどうかというと、自分では、何もしない。もちろん自分の意見を発
表しない。いつも小さな穴にひっこんでいて、まわりの様子をうかがっているだけ。静か
に、穏やかに、敵をつくらないように生きることが、(完成された人間)の生き方だと思っ
ているようなところがある。

 そのA氏だが、私に、いろいろなことを言った。

 「林君、総理大臣なんかなっても、意味はないよ。30年もすれば、名前だって忘れら
れるよ」
 「人間は、ひとりでは生きていかれないよ」と。

 ことさら冠婚葬祭にはこだわっていて、「その人の人生は、その人の葬式をみればわか
る」と言ったこともある。そのせいかどうかは知らないが、私にも、こう言った。

 「林君、ぼくは、君には何も望まないが、ぼくが先に死んだら、線香の一本だけでいい
から、頼むよな」と。

 (どうして日本人は、こうまで葬式にこだわるのか? ……今、ふと、そんな疑問が生
じた。この問題は、また別のところで考えてみたい。※)

 私自身は、A氏のような生き方には興味はないし、そういう生き方がすばらしいとは思
わない。A氏は、Aさんの住んでいる地域で、それなりにハッピーな生活をしているのだ
から、私が、とやかく言う必要はない。また言ってはならない。それがわかるから、私は
相手にしない。

 が、どうして反対に、私のような生き方を認めてくれないのかということになる。私の
ことなどかまわないで、放っておいてほしいと思うのだが、いつもあれこれちょっかいを
出してくる。

 そう、A氏は、あたかも私が失敗するのを、楽しみにしているかのようなところがある。
私が失敗したとき、「それみろ!」と言うのを、どこかで心待ちにしているような雰囲気さ
えある。「林のような生き方が、うまくいくはずがない。やっぱり、林は、ああなった」と。

 ああ、いやだ! A氏よ、もう私の書く文章なんか気にしないでほしい! 

【※補記】

 結果にこだわる生き方は、チベットの山岳密教に、色濃く残っている。日本に伝わる大
乗仏教は、釈迦仏教というより、この山岳密教の影響を強く受けている。三蔵法師は、そ
のチベットまでしか行っていない? もう少しがんばって、ガンダーラを回って、インド
まで行っていてくれたら、こういうことはなかったのに、と、私は、そう思っている。

 「今」を懸命に生きる。結果は、そのあとをついてくる。どういう死に方をしても、そ
れでその人の人生が、総括されるものではない。

 共同体志向性の強い人は、当然のことながら、(人とのつながり)を最優先する。冠婚葬
祭を重要視するのも、そのため。とくに、葬儀を大切にする。

 もちろん死者をていねいに弔うのは、その人の「生」を大切にするためにも、重要。し
かし意味もない葬儀も、少なくない。儀礼だけの葬儀も、少なくない。しかしそういう葬
儀は、かえって、死者を冒涜(ぼうとく)することになるのではないか。

 この先のことは、まだ私にも、よくわからないが……。多分、私自身はどこかの老人ホ
ームで、ひとり静かに死ぬことになるのだろう。死体は、そのままホルマリンか何かにつ
けられて、大学の死体安置室へ。

 そういう私の死にザマを知ったら、きっとあのA氏は、喜ぶだろうな。ハハハ。

(3)心を考える  **************************

●三角関係

 お母さんと、子どもの関係は絶対的なもの。

 しかしお父さんと、子どもの関係は、あくまでも(一しずく)! 精液一滴の関係。

 が、お父さんには、お父さんの役目があります。

 お母さんと子どもの、その(絶対的な関係)の修復。それに、社会性の注入です。

 お母さんだけに子育てを任せてしまうと、子どもは、ひとり立ちできない、つまりはひ
弱な子どもになってしまいます。母性本能といいうのは、それほどまでに強力で、ときに
子どもの発育には、障害となることもあるということです。

 そこで人間としての社会性を、子どもに注入していくのは、お父さんの役目ということ
になります。昔風に言えば、狩の仕方や、漁の仕方を教えるというのが、それでしょうか。
今風に言えば、社会的人間としての、生きザマを見せるということになります。

 そのためにも、お母さんは、いつもお父さんを、子育ての前面に置きます。賢いお母さ
んなら、そうします。お父さんを、子どもの前で、けなしたり、批判したりしてはいけま
せん。

 まずいのは、お父さん、お母さん、それに子どもが三角関係化することです。発達心理
学の世界でも、「三角関係化」といいます。

 子どもが、お母さんとの関係、お父さんとの関係を、別々に、つくるようになります。
とくに気をつけたいのは、父親不在型の家庭環境です。「お父さんなんか、いてもいなくて
も同じ」とか、「お父さんは、仕事ばかりで、家に、ほとんどいなかった」というような家
庭環境です。

 この三角関係化が進むと、子どもの個性化(独立心)が遅れ、ばあいによっては、親か
ら独立できなくなってしまいます。40歳、50歳をすぎても、「ママ」「ママ」と言って
いるおとなは、多いですね。そうなります。

 お母さんにはお母さんの役目があります。親子の信頼関係を教えていくのが、お母さん
の役目です。この信頼件関係が基本となって、子どもは、他人との信頼関係の結び方を学
んでいきます。

 ところで、もしあなたが、他人との信頼関係を結ぶのが苦手……というのであれば、一
度、あなた自身と、あなたの母親の関係は、どうであったかをさぐってみてください。

 この問題は、根が深いですよ。わかりますか? ホント!

 が、だからといって、むずかしく考えないでください。

 子育ての基本は、(1)子どもには心を開き、(2)子どもには、誠実に接する、です。
あと二つつけ加えるなら、(3)ほどよい親であること。(4)暖かい無視を大切にする、
です。

 ね、決して、むずかしいことではないでしょ! むすかしく考えるから、むずかしくな
るだけです。


●心を開く

 お母さんは、子どもを妊娠して、自分の体内に10か月近く子どもを宿す。子どもが生
まれてからも、乳を与える。

 こうした関係から、お母さんと子どもは、どうしても一体化しやすい。

 一体化するのが悪いのではない。子どもは、その一体化から、親子の信頼関係を学ぶ。
そしてこの信頼関係が基本となって、子どもは、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。

 この段階で、信頼関係の結び方に失敗した子どもは、不幸である。ホント!

 他人との人間関係が、どうもうまく結べないという人は、不幸にして、不幸な家庭環境
に育った人とみてよい。他人と接すると、疲れる。外の世界で、仮面をかぶる、など。心
をうまく開けない人とみてよい。

 心を開くというのは、ありのままの自分を、すなおにさらけ出しながら、相手もまた、
自分の心の中に受け入れることをいう。

 さてさて、あなたはそれをしているか? それができるか?

 心を開くことができる人は、ごく自然な形で、それができる。子どもでも、こちらが親
切にしてあげたり、やさしくしてあげると、そうした思いが、スーッと心の中に入ってい
くのがわかる。

 心の開いた子どもとみる。

 そうでない子どもは、そうでない。ひねくれたり、つっぱたり、いじけたりしやすい。

 さあ、あなたも今から、心を開いてみよう。とくに、子どもの前で、開いてみよう。そ
ういうあなたの姿をみて、あなたの子どもは、あなたに対して、心を開くことを学ぶ。


●子どもには、誠実に

 世の中には、いろいろな親がいる。「親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにな
らないものはない。また「親だから……」という『ダカラ論』を、みなに押しつけてはい
けない。

 たとえば、子どもの財産をまきあげた親。子どもを生涯、奴隷のように虐待していた親。
さらによくあるのは、よい親であるという仮面をかぶり、子どもにウソばかりついている
親などがいる。

 こうした親をもった子どもは、不幸である。K氏(45歳)の例で、考えてみよう。

 K氏が今の奥さんと結婚したとき、K氏の母親は、あちこちへ電話をかけ、「息子を、横
浜の嫁に取られてしまった」と、泣いて訴えた。それ以後も、何かあるたびに、K氏に、
離婚することをすすめた。「あんな嫁とは別れてしまえ」と。

 しかしK氏の母親は、K氏やK氏の奥さんの前では、やさしい母親を演じつづけた。そ
して弱々しい母親、貧しく質素な母親を演ずることによって、K氏から生活費を取りあげ
た。K氏は、こう言う。

 「私が『お母さん、生活費はあるか?』と聞くと、いつも母は、今にも死にそうな声で、
『心配しなくていい。母さんは、毎日、イモを食べているから……』というような言い方
をします。それでいたたまれなくて、生活費を送るのですが、ハンパな額ではありません。
叔父や叔母が死ぬたびに、香典だけで、40万円とか50万円とかを、請求してきます」
と。

 K氏に言わせると、K氏の母親は、「まさにウソのかたまり」だ、そうだ。「一つとて、
本当のことがないのです」と。

 そういうK氏の訴えに対して、「どんな親でも、親は親だから、従うべき」「子どもは、
親の悪口を言ってはいけない」という意見もある。実は、K氏の親類は、みなそう言って
いるという。

 だからK氏は、そういった話をだれにも相談できず、親類たちの重い視線を感じながら、
悶々とした毎日を送っている。

 「良好な親子関係があれば、まだ救われますが、私と母の関係は、私が結婚したときに、
すでに崩壊していました」と。

 この世の中には、誠実でない人もいるだろう。とくにビジネスの世界では、そうかもし
れない。しかしそれは家族というワクの、その外の世界でのこと。家族の中では、(中だけ
では)(中だけでも)、誠実であること。

 これは人間として守らねばならない、最後の最後の砦(とりで)ということになる。そ
の砦を壊したら、残るものは、何もない。


●子育てQ&Aコーナーの閉鎖(私のHP)

 長い間、みなさんのご質問に答えてきた、HP上の「子育てQ&Aコーナー」を、この
ままつづけるべきかどうかで、今、悩んでいます。(HP上の、Q&Aコーナーのことです。)

 みなさんからのご質問には、できるだけ時間をみつけて答えてきましたが、その一方で、
心ない人からのメールが、数多く届くのも事実です。

 この1、2週間だけでも、つぎのようなメールが届きました。ありのままを、報告しま
す。

(相談メールに、住所、名前が書いてなかったので、「ご住所と、お名前をお教えください」
と返事を書いたことについて)、「何をお高く、とまってんの!」と。

(同じく、住所、名前が書いてなかったので、「ご住所、お名前がない方からのメールには、
安全上の理由のため、返事を書かないことにしています」と返事を書いたことについて、
「おもしろい言い方ね。私もマネさせてもらおうっと」と。(このメールをくれた方は、バ
ラエティ番組によく顔を出す、有名な女性タレントだったと、あとでわかりました。)

(3、4日、返事を書くのが遅れたことについて、英語で)、「Answer enoug
h!」と。意味不明の(?)英語ですが、「ちゃんと答えろ」ということでしょうか?

(やはり3、4日、返事を書かなかったことについて)、「あなたは『また何かあれば、連
絡してください』と書いくれた。だから、メールを書いたのにどうして返事がもらえない
のか。いいかげんなことを書くな」と。

 ほかにもいろいろあります。「私の悩みを、マガジンのダシにするな」「ネタにするな」
「いっさい、マガジンへの引用、お断り」など。

 私のHPの読者の、ほとんどの方は、熱心な読者で、よき理解者だと思います。メール
の引用についても、そのつど、了解してもらえます。しかし同時に、こうしたメールが届
くののも、事実です。

 マガジンの読者の方からのご質問には、今、しばらくは、できるだけ時間をみつけて返
事を書くようにしますから、どうか、ご安心ください。それはそれとして、HPの読者の
方の質問を、どうしたらよいでしょうか?

 で、お願いがあります。

 相談のメールをくださる方は、メールの件名(Re)のところに、必ず、ご住所とお名
前をお書きください。

 また本文の中のどこかに、マガジンの読者ということを、明記してください。明記して
あれば、私も安心して、返事を書くことができます。くれぐれも、よろしくお願いします。

【追記】

 ……と書きましたが、Q&Aコーナーは、今しばらく、このままにしておきます。

 中には、先に書いたような、心ない人もいますが、ほとんどの方は、そうではありませ
ん。私は、そういう方たちに支えられて、こうして毎日、原稿を書いています。

 心ない人からのメールは、無視すればよいのです。

 しかし世の中には、いろいろな人がいるものです。インターネットの時代になって、そ
れがよくわかるようになりました。今までは、ある範囲の、特定の人とだけ交際してきた
ような感じがします。が、こういう時代になって、その範囲が、ぐんと広くなったという
わけです。
 
 それこそコンピュータウイルスを作るような、一級の犯罪者からのメール(?)も、入
ってきます。架空請求書を送りつけてくるような、詐欺師からのメールも、入ってきます。
今まで、接点すらもったことがない人たちです。

 そういうことも覚悟して、原稿を書くしかありません。つまりその覚悟がない人は、そ
もそもホームページなど、開くなということになるのでしょうか。言いかえると、ホーム
ページを開き、Q&Aコーナーを作ったということは、それを作った私の責任ということ
になります。

 これから先も、こうしたメールがは入ってくることでしょう。めげないで、がんばりま
す。どうかまた応援してください。よろしくお願いします。


(4)今を考える  **************************

●真夜中の蚊

 昨日もそうだった。そして今夜も……。

 私の寝室は、密閉性のよい部屋で、どこにも、すき間はないはず。しかしそれでも、蚊
が入ってくる。

 昨日も2匹。今夜も2匹。おかげで、昨日も午前3時ごろ、起こされた。今夜も午前3
時ごろ、起こされた。で、今、時刻は、6月11日の午前4時。この原稿を書いている。

 今朝は、午前中は、市内のA幼稚園で講演があるので、このまま起きてしまおうかと考
えている。講演は、午前9時から。

 しかしどうして私ばかりが、刺されるのか? となりで寝ているワイフは、めったに刺
されない。

 「人間を刺す蚊は、メスよ。だからオスのあなたを刺すのよ」と。

 ワイフは、そう言うが、本当のところは、わからない。私のほうが、体温は低いし、血
だって、まずそう。やはりメスの蚊は、男の血を求めるものなのか?

 が、それにしても、どこから入ってくるのか。蚊を殺虫剤で落としたあと、改めて窓を
しめなおす。

 しかし……。腹を人間の血でパンパンに大きくした蚊を、手のひらの中で、ブチュッと
つぶすことくらい、気持ちのよいものはない。何と言うか、ニューヨークジャイアンツの
松井選手が、ホームランを打ったような快感を覚える。

 私にも、かなりサディステックなところがあるのかもしれない。つぶしたとたん、手足
のかゆみが消えるから、不思議である。

 明日の夜は、寝るときから蚊取り線香をたいておこうと思っている。

 そうそう、この原稿を書き終えたら、もう一度、寝なおす予定。徹夜は、やはり、体に
よくない。
(040611)


●同窓会

 今日は、ワイフが高校の同窓会に行くという。おまけに、空は、熱帯低気圧に変ったと
いうものの、台風くずれの空模様。

 今日は、一日、部屋に閉じこもって、パソコンの相手。こういう日は、マガジン用の原
稿を、書きためるにかぎる。

 ……といっても、テーマが、浮かんでこない。まだどこか眠い。

 昨夜、こんなことがあった。

 ワイフが、「ちょっと見て」と言うから、見ると、一応、それなりのかっこうをして、ワ
イフがそこに立っていた。

私「それじゃ、だめだよ。どこか、チグハグだよ」と。

 昨日、駅前のIデパートへ行って、ワイフは、同窓会用の服を買いそろえていた。しか
しシャツ、スカート、カーディガンなど、別々に買ったため、色の組み合わせが、どこか
おかしい。

 ワイフが少し、深刻な顔をした。

私「あのね、そういうのは、まとめて買わなくては……。安物ばかりで、組み合わせても、
すぐわかるよ。まだまにあうから、Jへ行こう」と。

 ショッピングセンターは、夜11時まで営業している。時計を見ると、9時。私とワイ
フは、車にとび乗った。

私「同窓会なんだから、それなりのものを着ていかないと……」
ワ「いかにも服を着ていますというような服は、いやだわ」
私「でもさ、見ただけで、全部で、○千円とわかるような服ではだめだよ」
ワ「……」と。

 ワイフは、若いころから、見栄や世間体を、まったく気にしない。いつもサバサバと生
きている。見習う点は多いが、しかし私が知っている多くの女性とは、どこかちがう。と
きどき私は、こう思う。

 「ワイフは、おっぱいがあって、チンチンのない男だ」と。

 もっとも無難な服の買い方は、マネキンが着ている服を、上から下まで、そっくりその
まま買うこと。プロが、コーディネイトしているから、まちがいがない。あとは値段の問
題。

 こうして約一時間。服に合わせて、ついでにバッグも買った。それでしめて全部で、○
万円。家に帰ると、ワイフは、さっそく、飼ってきたばかりの服を試着。私は、それを横
目で見ながら、ビデオを見る。

 ウォルト・ディズニーの「HOLES」。★は2つ。よくわかったような、わからない映
画だった。私は、子どものころから、あまり水玉模様が好きではない。地面に無数の穴(H
OLES)が、ぼこぼこあいている景色を見たとき、どこかゾッとした。それで星は、2
つ。

 午前中はA幼稚園で講演。どこかあわただしい一日だった。
(040612)

+++++++++++++++++++++++

【近ごろ・あれこれ】

●韓国からの、アメリカ軍撤退

++++++++++++++++++++

韓国からアメリカ軍が、撤退することに
なりました。

1970年当時のこと。ソウルから、板門店まで行く
途中は、アメリカの兵隊しかいませんでした。

しかし今、大きく事情が変わりました。

++++++++++++++++++++

 6月7日。大きな衝撃が、韓国を走った。アメリカは、アメリカ軍を、1万2000人
程度、韓国から撤退すると発表した。

数週間前、アメリカが、アメリカ兵を、約3000人、韓国からイラクへ移動させると
発表しただけで、その日の韓国の株価は大暴落。外資が韓国に不安を感じて、いちはや
く、逃げ出してしまった。その額、3000億円とも5000億円とも言われている(朝
鮮日報)。が、今回は、1万2000人!

 現在アメリカ軍は、3万7000人ほど駐留しているから、3割以上が、撤退すること
になる。38度線のみならず、板門店からアメリカ兵が消えて、もう久しい。この1万2
000人は、戦闘能力のある精鋭部隊とみてよい。残りの2万5000人も、順次、撤退
ということになるのだろう。

その背景には何があったのか。何があるのか。

 現在のノ・ムヒョン大統領は、反米(+反日)をかかげ、その一方で、親北を唱えて当
選した大統領である。選挙演説中には、聴衆の前で、アメリカ国旗を破ってみせるような
ことまでしてみせた。

 そしてそのノ大統領は、当選すると同時にアメリカへ政府特使を送り、韓国からのアメ
リカ兵の撤退を願い出た。が、ここで異変が起きた。

 韓国はここで、アメリカが、韓国に、それを思いとどまるよう説得するものと考えてい
たらしい。「まあ、そんなこと言わないで、アメリカ兵を置かせてくださいよ」と。

 ところがアメリカは、その特使に、「はい、わかりました。そうします」「私たちは、望
まれない地域には、兵は置きません」と、あっさりと、そう答えた。

 しかし今の韓国から、アメリカが撤退したら、韓国は、どうなる? それこそまさに、
K国の思うツボ。ノ大統領が就任してからというもの、韓国は、こんな私にさえ、「?」「?」
「?」のつづく国際政治をつづけている。その結果が、「今」である。

 韓国と日本の間を行ったり来たりしている、友人のK君(57歳)も、「韓国が、何を考
えているか、ぼくにも、さっぱりわからない」と言っている。「アメリカが築きあげた自由
貿易体制というレールの上で、自国の経済を走らせているのに、反米とは!」と。

 その韓国。再び、経済苦にあえいでいる。小売業の売り上げは、15か月連続して減少。
個人負債額も、50兆円程度になってしまった(朝鮮日報)。日本をライバル視するのは当
然としても、日本と韓国とでは、経済基盤というか、規模がまるでちがう。アメリカあっ
ての韓国。日本あっての韓国である。

 さあて、韓国、どうする? 韓国の国防部は、こうしたアメリカの決定に対して、「撤退
には、もう少し時間をあけてほしい」と懇願したという。「出て行け」と言ったり、「出て
行くな」と言ったり……。いったい、韓国は、どうなってしまったのか。私にもさっぱり、
わからない。

【ノ大統領の密約】

 ノ大統領と、K国の金XXの間には、驚くべき密約ができているという説がある。「国家
機密」(朝鮮日報)とかで、その内容は、極秘中の極秘。しかしそれは、まさに、「驚くべ
き内容」(同)ということらしい。

 その密約については、いろいろ、憶測が飛びかっている。ノ大統領がK国訪問するとか、
ノ大統領と金XXが同伴でアメリカ合衆国訪問するとか、など(同)。

 しかし私は、もっと、「驚くべき内容」と思う。

 たとえば核開発を容認したまま、南北が共和制を敷いたのち、統一。そしてともに中国
と軍事同盟を結んだあと、中国の経済圏に入る、とか。

 一見、突飛もない考えに見えるかもしれないが、考えられなくはない。こうした発言は、
すでにノ政権の周辺から、そのつど、外部に漏れてきている。

 ゆいいつの望みは、こうした韓国の流れに対して、韓国の保守層の巻きかえしが始まっ
たということ。先週、韓国各地で、大都市での首長選挙が行われた。その結果、23地区
の首長選挙のうち、20地区で、野党のハンナラ党が圧勝した※。

日本で言えば、急進的な革新政党が政権をとり、その革新政党に対して、保守的な党が
勢力を挽回したようなものである。

 韓国の人たちも、少しは、現実を見始めたということか。

【イラク派兵、中止の動き】

 こうした中、ノ政権率いるウリ党幹部の中から、韓国軍をイラクへ派兵することについ
て、中止の動きが出ている(6月8日現在)。

 「イラクへ派兵する予定だったが、中止する」と。

 朝鮮日報は、つぎのように伝える。

 「ヨルリン・ウリ党(開かれたわが党の意/ウリ党)議員の57.6%が、『国会が議決
したイラク派兵案を撤回するか、再検討しなければならない』と考えているという調査結
果が出た。

実際に、57人の与党議員が派兵再検討のための決議案に署名しており、一部は市民団
体と組んで、派兵を原点から再検討する集いの結成を進めている」(6・8)と。

 このマガジンがみなさんの目にとまるときには、その結果がすでに出ていると思う。し
かしここで中止すれば、米韓関係は、完全に崩壊する。が、それだけではすまない。

 韓国は、国際社会から、完全に孤立する。米韓関係の崩壊は、そのまま日韓関係の崩壊
をも意味する。経済面、交流面への影響には、はかり知れないものがある。そうでなくて
も最悪の不況下。そのまま韓国の経済は、奈落の底へと落ちていく。

 こうした現実離れした政策、つまり国際公約を公然と否定するような動きは、それこそ
まさにK国の思うツボ。

 私には、ノ大統領の考えていることが、ますますわからなくなってしまった。

(内部情報によれば、ノ大統領は、イラク派兵中止をちらつかせ、アメリカ軍の撤退を
思いとどまらせようとしているという。

 しかしこの手法は、まさにK国がよく使う手法。朝鮮半島では通用する手法かもしれな
いが、国際社会、なかんずく、アメリカには通用しない。アメリカは、それを「脅し」と
とる。

 経済オンチ、国際感覚オンチが指摘されるノ大統領だが、ここまでオンチだったとは…
…! 今の状況で、アメリカを脅せば、アメリカがどう反応するか。ノ大統領は、そんな
こともわからないのだろうか。……というのが、私の率直な感想。)
 
【注※、以下、朝鮮日報の記事より転載】

今月(6月)5日に行われた地方自治団体長と地方議員の再・補欠選挙では、、ヨルリン・
ウリ党(開かれたわが党の意/ウリ党)が完敗した。

 4つの広域自治団体長選挙に負けたほか、基礎自治団体長選挙では19選挙区のうち、
忠清(チュンチョン)道の3選挙区でのみ勝利を収めた。

これは、今年4月15日の総選挙での圧勝から50日余経った今、国民が大統領と与党
につけた成績といえる。

【韓国の経済苦境】

 現在の韓国の経済危機の最大の原因は、何といっても、個人の負債額が大きすぎるとい
うこと。

 全体の家計負債を世帯数で割った1世帯あたりの家計負債は、2945万ウォンもある。
日本円になおすと、約300万円! 韓国全体でみると、約50兆円にもなる(04年)。

 この負債額が、消費マインドを冷やし、ついで、景気回復の大きな足かせになっている。

 で、今、資金のある人は、その資金をドルや円にかえて、どんどんと海外へ逃避させて
いる。先月、それに対して、韓国政府は、アミをかけ、外貨の持ちだしに制限をもうけた。

 こういう状況の中で、アメリカ軍が撤退したら、韓国は、どうなるか。韓国が、赤化す
るのはかまわないが、それは同時に、自分たちの生活レベルも、K国並に落とすことを意
味する。

 どうしてノ大統領よ、そんなことがわからないのか! 反米、反日もわかる。しかしア
メリカあっての韓国。日本あっての韓国。いつまでも60年前、50年前の怨念をひきず
っていて、それでよいのか?

+++++++++++++++++++++

●元人質が、国を提訴(?)

+++++++++++++++

助けてあげたのに、逆に訴えられる?
そんな事件が起きました。

+++++++++++++++

イラクで拘束された、WB氏が、国を提訴した。 それについて、TBSは、つぎのよう
に伝える。
 「イラクで武装勢力に身柄を拘束され、 解放されたNGOメンバー、WBさんが、国に
対して500万円の損害賠償を求める訴えを 起こしました。

 WBさんは、イラクで4日間にわたって武装勢力に身柄を拘束されましたが、武装勢力
側は、その理由として、日本の自衛隊派遣をあげたということです。
 
 このため、WBさんは、『拘束によって、肉体的・精神的な 苦痛を受けた』として、自
衛隊を派遣した国に対して、500万円の損害賠償を求めています。
 
 また、訴えの中でWBさんは、外務省から請求された帰国の際の航空運賃は、支払い義
務がないことの確認と、自衛隊のイラク派遣中止についても 求めています」(6・8)と。

 このニュースをワイフに伝えると、ワイフでさえ、「へ〜?」を何回も連発した。最後に、
「どうなっているの?」とも。拘束したイラク人を訴えるのではなく、助けた国を訴え
た!?(ギョッ!)

 こういうケースで、「国を訴える」ということは、日本人の私たち一人ひとりを訴えるこ
とに等しい。しかも理由が、メチャメチャ。犯罪者があげた理由をもとに、その原因をつ
くったのは、日本だ。だから日本政府は、その責任を、取れ、と。

 私はこのニュースを読んだとき、理屈というのは、どうにでもこねられるものだと感じ
た。WB氏は、それなりに頭のよい人なのだろう。あるいはその背景には、私たちがおよ
び知ることができない理由が、あるのかもしれない。それにしても……?

WB氏はそのあと、テレビに出てあれこれ意見を述べていたが、どこか心が閉じている
ように感じた。「助かって、よかったア!」と、どうして、もっと素直に喜ばないのか。
喜べないのか。

私なら、「こわかったですねえ」「助かってよかったア!」「もうイラクなんて、こりご
り」と、笑ってそう言うかもしれない。この提訴には、「?」マークを、10個くらい、
私は、並べたい。

 だいだいにおいて、WB氏は、渡航自粛勧告が、10数回にも渡って出ている国に、個
人の資格ででかけていったのではなかったのか。

 そこは、まさに戦争状態の国。そこで武装勢力に拘束され、人質となった。

 で、またまた日本政府は、とんでもない迷惑。人質を解放させるために、水面下では、
想像を絶する外交的交渉がなされたにちがいない。お金も使った。

 その結果、助かった。助けた日本政府は、WB氏らを、日本へ、連れて帰った。

 それについて、(1)飛行機運賃は払わない。(2)人質になったのは、日本政府が自衛
隊を派遣したからだ。その責任を取れ、と。

 世の中には、いろいろな考え方をする人がいる。それはわかるが、しかし、ここまでい
ろいろな考え方をする人がいるとは、私も、思ってもみなかった。ホント!
(040608)

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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 9日(No.433)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page042.html
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(1)子育てポイント**************************

●今日のレッスンから……

 今日は「地図」をテーマに、学習を進めた。

私「これは何ですか?」
幼児たち「チズ!」
私「何? チーズ? チーズじゃないよ。チズだよ」
幼児たち「チズ」「チズ」「チズだ!」と。

 しばらくレッスンを進めたあと、警察、病院、消防署などの話をする。

私「警察にはだれがいるの?」
幼児たち「おまわりさん!」
私「おまわりさんって、何をするの?」
幼児たち「ドロボーをつかまえる」「悪い人をこらしめる」と。

 年長児のクラスでは、もう少し、話を先に進める。

私「これは銀行だけど、銀行って、何をするところ?」と。

 すると子どもたちは、てんでバラバラなことを言い始めた。それがおもしろかった。

子「お金を取るところ」
私「お金を取ってしまうの?」
子「そう。ぼくのお年玉、全部、取られてしまった」

子「お金をくれるところ」
私「へえ、お金をくれるの?」
子「そうだよ。くれるよ。ママは、いつも銀行で、お金をもらっているよ」と。

子「夜、家にお金を置いておくと、ドロボーにとられるから、預けておくところ」
私「銀行に預けておけば、安心なの?」
子「そうだよ」と。

 この時期(年長児)で、自分の住所をしっかり言える子どもは、約半数。電話番号も、
ほぼ半数。「迷子になったとき困るから、しっかりと言えるようにしておこうね」と言うと、
みな、「ハーイ!」と言ってくれた。

 今月は、先週は、「家族」。今週は、「地図」。来週は、「善悪」……とつづく。一週たりと
も、同じレッスンをしない。それが私の教室の売り物。興味のある人は、どうぞ!

++++++++++++++++++

●知識と「考えること(思考)」は別

 たいていの親は、知識と思考を混同している。「よく知っている」ことを、「頭のよい子」
イコール、「よくできる子」と考える。しかしこれは誤解。まったくの誤解。

たとえば幼稚園児でも、掛け算の九九をペラペラと言う子どもがいる。しかしそういう
子どもを、「頭のよい子」とは言わない。「算数がよくできる子」とも言わない。

中には、全国の列車の時刻表を暗記している子どももいる。音楽の最初の一章節を聞い
ただけで、曲名をあてたり、車の一部を見ただけで、メーカーと車種をあてる子どもも
いる。しかし教育の世界では、そういうのは能力とは言わない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、こうした、どこかふつうでな
い「こだわり」をもつことが知られている。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、考えるこ
と自体を避けようとする。あるいは考えること自体から逃げようとする。

一つの例だが、夜のテレビをにぎわすバラエティ番組がある。ああいった番組の中では、
見るからに軽薄そうなタレントが、思いついたままをベラベラというより、ギャーギャ
ーと騒いでいる。彼らはほとんど、自分では何も考えていない。脳の、表層部分に飛来
する情報を、そのつど適当に加工して言葉にしているだけ。つまり頭の中はカラッポ。

 パスカルは「パンセ」の中で、『人間は考えるアシである』と書いている。この文を読ん
で、「あら、私もアシ?」と言った女子高校生がいた。

しかし先にも書いたように、「考える」ということは、もっと別のこと。たとえば私はこ
うして文章を書いているが、数時間も書いて、その中に、「思考」らしきものを見つける
のは、本当にマレなことだ。(これは多分に私の能力の限界かもしれないが……。)

つまり考えるということは、それほどたいへんなことで、決して簡単なことではない。
そんなわけで残念だが、その女子高校生は、そのアシですら、ない。彼女もまた、ただ
思いついたことをペラペラと口にしているだけ。

 多くの親は、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」と子どもに知識をつけさせることを、
教育と思い込んでいる。しかし教育とはもっと別のこと。むしろこういう教育観(?)は
子どもから「考える」という習慣をうばってしまう。私はそれを心配する。(はやし浩司の
サイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
 
++++++++++++++++++++

●いつも前向きの暗示を

 「あなたはどんどんよくなる」「あなたはさらにすばらしい子になる」という、前向きの
暗示が、子どもを伸ばす。前向きに伸びている子どもは、ものごとに積極的で攻撃的。何
か新しいことをしようかと提案すると、「やる」「やりたい」とか言って、くいついてくる。

これは家庭教育の常識だが、しかし問題は、子どもにというより、親にある。

 親自身がまず子どもを信ずること。「うちの子はすばらしい子だ」という思いが、子ども
を伸ばす。心というのはそういうもので、長い時間をかけて、相手に伝わる。言葉ではな
い。そこでテスト。

 あなたが子どもを連れて街の中を歩いていたとする。すると向こうから高校時代の同級
生が歩いてきた。そしてあなたの子どもを一度しげしげと見たあと、「(年齢は)いくつ?」
と聞いたとする。そのときあなたはどのように感ずるだろうか。

 自分の子どもに自身のある親はこういうとき、「まだ」という言葉を無意識のうちに使う。
「まだ五歳ですけど……」と。「うちの子はまだ五歳だけど、すばらしい子どもに見えるで
しょ」という気持ちからそう言う。しかし自分の子どもに自信のない親は、どこか顔をし
かめながら、「もう」という言葉を使う。「もう五歳なんですけどねえ」と。「もう五歳にな
るが、その年齢にふさわしくない」という気持ちからそう言う。

もちろんその中間ということもあるが、もしあなたが後者のようななら、あなたの心を
つくりかえたほうがよい。でないと、あなたの子どもから明るさがますます消えていく。
そうなればなったで、子育ては大失敗。ではどうするか。

 子どもというのは、一度うしろ向きになると、どこまでもうしろ向きになる。そして自
ら伸びる芽をつんでしまう。こんな子ども(中学女子)がいた。ここ一番というところに
なると、いつも、「どうせ私はダメだから」と。そこでどうしてそういうことを言うのかと、
ある日聞いてみた。すると彼女はこう言った。

「どうせ、○○小学校の入試で落ちたもんね」と。

その子どもは、もうとっくの昔に忘れてよいはずの、しかも一〇年近くも前のことを気
にしていた。こういうことは子どもの世界ではあってはならない。

 そこでどうだろう。今日からでも遅くないから、あなたもあなたの子どもに向かって、
「あなたはすばらしい子」を言うようにしてみたら……。最初はウソでもよい。しかしあ
なたがこの言葉を自然な形で言えるようになったとき、あなたの心は今とは変わっている
はずである。当然、あなたの子どもの表情も明るくなっているはずである。

【注】子どもに否定的な言動を繰りかえすと、子どもは、自己否定から、現実検証能力を
なくし、「幻惑(=判断力の喪失)」を招くようになる。

(2)今日の特集  **************************

【子どもの虚言癖】

++++++++++++++++++

兵庫県にお住まいの、HGさんより、
子どもの虚言癖についての相談があった。
子どもの虚言癖についての相談は多い。
以前のもらった相談と重ねて、この
問題を考えてみたい。

++++++++++++++++++

はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。
子供の嘘について相談します。

息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、
「自分の非を絶対に認めない」嘘です。

先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。

(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようで
はなかったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言
っていない」の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったこと
を聞いている。

(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3
枚しかなく、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持って
きたものだ」と言い張る。

そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話
がありました。

 しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると

子:「家の近所で拾った」
私:「どこで拾ったか、連れて行って」
子:「わかんない。通学路で拾った」
私:「通学路のどのあたり?」
子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」
私:「○○君は教室まで4枚、あったって」
子:「・・・」

という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲し
くなっちゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」と
は言いませんでした。

また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)と
の3人で、高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理する
おじさんから「そんなことしちゃいかん!」と一喝。

私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもや
っていない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」
と言いました)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやっ
たんだろ?」と威厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。
石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも
思いますが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中
がどうなっているのかわからなくなりそうです。

小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていま
せんでしたが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。

生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、
正直に言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応してい
ったら良いのでしょうか?

どうぞよろしくお願いします。
(兵庫県A市在住、HGより)

++++++++++++++++++

【HGさんへ】

 以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。

++++++++++++++++++

子どものウソ

Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二男)

A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障
害による虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実である
かのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症
状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状を
ともなうことが多い。

これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。

ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹
聴、自慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。

母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せな
さい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソを
つく。「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  

その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空
想的虚言という。こんなことがあった。

 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの
子の手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをす
るのですか!」と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、
「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。

イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせ
てはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその
空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだ
り、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構
の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えば
こう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴であ
る。

どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうし
て」だけを繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に
子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入ってい
く。

++++++++++++++++++++++++

 ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少
し、踏みこんで考えてみる。

 子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかと
いうこと。さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえ
ばもっとも心配なウソに、人格の分離がある。

 子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。
たとえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一
人二役(ときには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気
味が悪い」といって、相談してきた。

 このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、
まったく別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オ
ーストラリア人)がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアに
は、女王はいない」と説明すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えい
れられる」というようなことを繰りかえした。

 つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。
これを心理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そ
してそのウソを繰りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなく
なってしまう。親に虐待されながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたもの
だ」と言っていた、子ども(小学男児)がいた。

 つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。
そのためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱
状態になることが多い。

私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追
及していたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死ん
でやる!」と叫び始めた。

 で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。

 ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。
だから子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。

 しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、
なおさないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、
ますます虚構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。

 小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶が
そのころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」
をつくり始める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自
我そのものをつぶしてしまうことにも、なりかねない。

そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、
ウソをつく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソ
をついても、相手にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分
をコントロールするようになる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。

 ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私は
やはり母の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつ
くづくいやになったことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分
を偽るということは、時間をムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかな
いと心に決めた。

 で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、
私は自分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押
さえこむ気力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。
ゾーッ!

 そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談して
きた母親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、
ウソで相手をキズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気が
つくしかない。また親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方
向性をつくることでしかない。それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)

【補足】
 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。

+++++++++++++++++

子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのよ
うにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示
(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついてい
るという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、
母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソを
つく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というの
がそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態
を、空想的虚言という。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長
男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられた
と言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対では
なかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どう
してそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言っ
てもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバ
スの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげ
た。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らか
の理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、というこ
とになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バス
の中で落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っ
ていたはずの明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落と
すということは、常識では考えられなかった。そこでその落としたときの様子をたずねる
と、その女の子は無表情のまま、やはりことこまかに話をつなげた。

「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど逆さまに
なり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかし
い。落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を
聞いた。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、
落としたという金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにも
おかしなことがたびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」
と言ったときも、そのつど、どこかつじつまが合わなかった。

そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えること
にした。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分
の生徒を疑うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立ってい
るのがわかった。「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリ
と笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩
も引きさがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王
はいないよ」といくら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせ
てはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空
想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想
をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そし
て一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに
「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最
後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れ
ば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「でき
のいい子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、
教える側から見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えて
いるかわからない子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考
える。原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反
省する。とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子ども
をやってしまうことになるから注意する。

++++++++++++++++++++

【FGさんからの相談より】

 ある日学校の保健室の先生から呼び出し。小学二年生になった息子を迎えにいくと、私
に抱きついて泣きじゃくる。

 理由を聞こうとすると、保健室の先生が、「昨夜から何も食べていないとのこと。昨夜も
おなかが痛く、嘔吐もしたとのこと……」と。

 しかし息子は、元気だった。昨夜の夕食もしっかりと食べたし、嘔吐もなかった。

 こうしたウソは、息子が三歳くらいのときから始まった。このままでは、仲間からウソ
つきと呼ばれるようになるのではないかと、心配。どうしたらいいでしょうか。(神奈川県
K市在住、FGより)

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 ほかにもいくつかの事例が書いてあったが、問いただせば、ウソと本人が自覚する程度
のウソということらしい。それまでは、虚構の世界に、自らハマってしまうよう。

 このタイプの子どもは、自分にとって都合の悪いことが起こると、それを自ら、脳の中
に別の世界をつくり、自分をその中に押しこんでしまう。そしてある程度、何回もそれを
反復するうち、現実と虚構の世界の区別がつかなくなってしまう。

いわば偽の記憶(フォールスメモリー)をつくることによって、現実から逃避、もしく
は現実的な問題を回避しようとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。つま
り現実の世界で、心が不安定になるのを避けるために、その不安定さを避けるために、
自分の心を防衛するというわけである。

 原因は……、理由は……、引き金は……、ということを、今さら問題にしても意味はな
い。幼児期の子どもには、こうしたウソをつく子どもは珍しくない。ざっとみても、年長
児のうち、一〇〜二〇人に一人には、この傾向がある。やや病的かなと思われるレベルま
で進む子どもでも、私の経験では、三〇〜四〇人に一人。日常的に空想の世界にハマって
しまうようであれば、問題だが、そんなわけで、ときどき……ということであれば、つぎ
のように対処する。

(1)その場では、言うべきことを言いながらも、決して、追いつめない。子どもを窮地
に立たせれば立たせるほど、立ちなおりができなくなる。完ぺき主義の親ほど、注意する。

(2)小学三、四年生を境に、自己意識が急速に発達し、子ども自身が自分で自分をコン
トロールするようになるので、その時期を目標に、つまりそういう自己意識で自らコント
ロールできるような布石だけはしておく。ウソをつけば、友だちに嫌われるとわかれば、
またそういう経験を実際にするうちに、自分で自分をコントロールするようになる。

 子ども(幼児、小学校の低学年児)のばあい、ウソを強く叱ると、「ウソをついたこと」
を反省する前に、恐怖を覚えてしまい、つぎのとき、さらにウソの世界が拡大してしまう
ことになる。ウソは相手にしない。ウソは無視するという方法が、好ましい。しかし子ど
もが病的なウソをつくようになると、ほとんどの親はあわててしまい、「将来はどうな
る?」「このままではうちの子は……?」と、深刻にに騒ぐ。

 しかし心配無用。人間は、どこまでも社会的な動物である。その社会でもまれることに
より、また、自己意識が発達することにより、自ら自分を修復する能力をもっている。大
切なことは、この自己修復能力を、大切にすること。この相談のFGさんのケースでも、
ここ数年のうちに、子どものウソは、急速に収まっていく。要は、今、あわてて症状をこ
じらせないこと。
(はやし浩司 虚言 ウソ 嘘 空想的虚言 虚言癖 子どもの嘘 子どものウソ)

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【HGさんへ(2)】

 いただきましたメールによれば、やや病的な虚言癖があると思われます。(叱る)→(ま
すますウソがうまくなる)→(ますます強く叱る)の悪循環の中で、ウソがウソと自覚で
きる範囲を超えて、虚構の世界にまで、子どもを追いこんでしまっているような感じがし
ます。

 どこか育児姿勢が、過干渉ぎみ、もしくは過関心ぎみになっていないかを、反省してみ
てください。今の状態では、はげしく説教したり、道理をわからせようと無理をしても、
それをすればするほど、逆効果です。

 こういうときは、つまりウソとわかった段階で、無視するのが一番です。子どもに白状
させるまで、子どもを追いこんでも意味がありません。また追いこんではいけません。(あ
るいはあなた自身が、お子さんに、根強い不信感をもっているのかもしれません。あるい
はあなた自身が、子どもに心を開いていない可能性もあります。不安先行型、心配先行型
の子育てをしていませんか。頭から、ウソと決めてかかっている、など。)

 あなたはおとななのですから、そして親なのですから、一歩、退いて子どもを包むよう
にしてみる必要があります。子どもに対して、対等意識が強すぎると思います。相手は、
子どもです。未熟で未完成で、その上、未経験です。

 (それとも、あなた自身は、ウソをつかない、聖人のような人でしょうか?)

 子どもは、よくウソをつきます。そういうとき大切なことは、それを叱ることではなく、
相手にしないことです。もちろん重要なことで、ウソを言うなら、それについては叱らね
ばなりません。が、ほとんどのばあい、その段階では、すでに、症状はかなりこじれてい
るとみます。

 大切なことは、子どもの虚言癖をなおそうとしないこと。簡単には、なおりません。大
切なことは、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、数か月単位で、様子をみるこ
とです。

 まずいのは、無理になおそうとすることです。ウソをつくことを責めるのではなく、な
ぜウソをつくのか。ウソをつかねばならないのか。またそこまでなぜ、あなたが子どもを
追いつめるのか。それを謙虚に反省すべきです。

 きびしいことを書きましたが、この問題は、一見、子どもの問題のように見えますが、
実は、あなたという親の問題です。もっとはっきり言えば、あなたの育児姿勢そのものに
問題があり、そしてそれが結果として、今の状態をつくりだしているということです。

 ですから、つぎのことを守ってください。

(1)一応、冷静に、子どもの話を聞き、おかしいと思うことは言う。しかし証拠をつき
つけて叱ったり、追いつめてはいけません。
(2)言うべきことは言いながらも、あるところで、さっと引きさがります。こうした虚
言癖のある子どものばあい、とことん追いつめるのは、タブーです。
(3)あとは暖かい無視を大切に。子どものウソは、相手にしないこと。叱っても、恐ら
く今の段階では、(叱られじょうず)になっているので、意味はありません。
(4)あとは半年単位で様子をみますが、子どもの心を開放させることも忘れないように。
母子の間の信頼関係が、かなり不安定な状態にあるとみます。
(5)もう少し年齢が大きくなると、自己意識が育ってきます。その自己意識を、大切に
伸ばします。自分で考え、自分で行動する力を養います。

 以上ですが、あくまでもここに書いたことは参考意見です。学校の先生とも緊密に連絡
をとり、ていねいに対処してください。

 今が最悪の状態ではなく、この状態をさらにこじらせると、もっとやっかいな状態にな
ります。そのためにも、今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。
どうかくれぐれも、ご注意ください。
(040607)

【追伸】

 話せば長くなりますが、あなた(母親)と、子どもの間の関係についても、冷静に反省
してみてください。

 あなたはあなたの子どもを、生まれたときから、全幅に信頼していたかという問題です。
もしそうなら、それでよし。そうでなければ、あなた自身が、もっと子どもを信頼して、
心を開かなければなりません。

 ある母親は、自分の子どもが母親のサイフから、お金を盗んで使っていたことについて、
一応は叱りながらも、内心では、「だれでも一度はするものよ」と、笑ってすませたといい
ます。

 そういう(笑ってすます)ような度量は、結局は、親子の信頼関係から生まれます。あ
なたも、そういう度量がもてるように、努力してみてください。

 あんたのウソなんか、私には通用しませんよ。ハハハ、バカめ!、と。

(3)心を考える  **************************
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あなたは子どもに「勉強しなさい」と
言っていませんか?

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●子どもの挫折(ざせつ)

 子どものときから、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と教えられてきた子ども
が、そのいい大学へ入れなかったら、その子どもは、どうなるのか?

 こんな例がある。

 私の知人(東京都在住)から聞いた話だが、こんな親がいたそうだ。

 ある母親の子ども(小3男児)が、勉強をするのをいやがった。そこでその母親は、近
くの公園に、自分の子どもを連れていき、そのあたりに寝泊りするホームレスの人を見せ
ながら、こう言ったという。

 「あんたも、しっかり勉強しなければ、ああいう人になるのよ」と。

 しかしこういう言い方は、まさに両刃の剣。その母親は、子どもの自覚をうながすため
に、そう言ったのだろう。しかしもし、その子どもが、その勉強で挫折するようなことが
あったら、その子どもは、どうなるのか?

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 進学塾のパンフレットには、こうある。

 「努力すれば、報われる。栄光の道は、君の手の中にある」と。

 結構な歌い文句だが、それで目的の大学に合格できればよし。しかしそうでなかったら、
(大半の子どもは、そうなるが……)、その子どもは、どうなるのか?

 子どもの前に夢や希望をぶらさげ、その一方で、子どもに恐怖心をもたせ、子どもを自
分がもつ価値観に向けて誘導する。よく使われる手法だが、この手法は、まさに邪道。一
時的な効果はあっても、まさに一時的。それだけではない。深刻な後遺症が、そのあと残
る。

 仮にそれでうまくいったとしても、その子どもは、おかしなエリート意識をもつだけ。
人間の価値を、学歴だけで判断するようになる。もっとも、それで損をするのは、本人自
身。会社を定年退職したあとも、おかしなエリート意識にしがみつき、学歴をぶらさげて
歩いている人は、いくらでもいる。つまり、その分だけ、自分の姿を見失う。

 問題は、それで、うまくいかなかったばあいである。

 挫折感などという甘いものではない。自分を自ら否定することによって、自らに、「ダメ
人間」のレッテルを張ってしまう。自信喪失から、現実検証能力、つまり、常識力をなく
す子どもも、少なくない。もちろんその時点で、親子関係は、崩壊する。

 その点、進学塾の教師と生徒の関係は、時限的なもの。合否の結果が出た段階で、自然
に消滅する。だからここでいう「崩壊」という状態にはならない。まさに金の切れ目が、
縁の切れ目。不合格の子どもは、そのまま闇へと葬り去る一方、合格した生徒や生徒数は、
翌年の生徒集めの道具に使う。

 最初から、そういうドライな人間関係で成りたっている。

 では、どうするか。

 子どもを勉強で追いたてるのは、必要最小限に。もともと親の欲望には、際限がない。
少しできるようになれば、「もっと」「もっと」と子どもを追いたてる。「やればもっと、で
きるはず」と。

 あなたがごくふつうの人であると同じように(失礼!)、あなたの子どもも、ごくふつう
の子ども(失礼!)。ふつうであることが悪いのではない。そのふつうの価値を、まず認め
る。認めてあげる。すべては、ここからスタートする。

 子どもにその力があれば、それを伸ばす。それは当然のこと。親の義務といってもよい。
そのためには、子どもの力を知る。何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待、無
理、強制ほど、子どもを苦しめるものはない。

 ……という話は別にして、子どもの勉強をみるときは、いつも失敗したときを考えなが
ら、みる。たとえば入試にしても、ほとんどの親は、合格することだけを考えて、子ども
を追いたてる。

が、それ以上に大切なことは、不合格になったとき、どうやって子どもを支えるかとい
うこと。そのための心の準備を、親もしておくということ。

 悲しいかな、日本人というのは、弱者や敗者に対する心のケアには、たいへん無頓着な
民族である。まさに「切り捨て御免」の国である。これについては、また別のところで考
えるとして、ともかくも、親子の間では、そうであってはいけないということ。

 日本では、「がんばれ!」「がんばれ!」と、子どもを追いたてる。しかし英語には、そ
ういう言葉そのものが、ない。同じような状況のとき、英語では、「Take it ea
sy!(気を楽にしなさい!)」と言う。

 子どもを指導するときの、一つの参考にはなる。
(040608)


●切り捨て御免

 開拓時代からの伝統かもしれない。アメリカでは、教会を中心とした、互助精神が、き
わめてよく発達している。「きわめて」というのは、あくまでも日本と比較しての話だが、
二男(アメリカ在住)が少し前、こんな話をしてくれた。

 私が「もし、お前が失業したら、お前たちの生活はどうなるのか?」と聞いたときのこ
と。二男は、こう言った。「教会のみんなが助けてくれる。そのために、ぼくたちは今、そ
ういうふうに困っている人を、みんなで助けている」と。

 具体的には、生活のめんどうまでみるのだそうだ。

 弱者にどれだけやさしい社会かで、文明の高さは決まる。モノや金ではない。立派なビ
ルや道路ではない。心の豊かさで、決まる。

 が、かたやこの日本では、おかしな封建思想が、いまだに大手を振って、大道を歩いて
いる。その一つが、「切り捨て御免」。

 映画『ラストサムライ』に中で、こんなシーンがあった。

 武士たちが戦場から帰ってきたとき、村人たちは、その武士たちを、立ったまま、頭を
さげて迎えていた。しかしあれはウソ。

 明治のはじめでさえ、田舎のほうでは、農民や町民は、士族(旧武士階級)の人たちと
は、頭をあげて、視線を合わせることなど、絶対にできなかったという。

私はその話を、当時生きていた人たちから、直接聞いたことがある。「刀の鞘(さや)が、
遠くからカチャカチャと聞こえてきただけで、みんな、道端により、そこで地面に頭を
つけて通りすぎるのを待ちました」と。

 武士にたてついたら、最後。その場で、クビを切り落とされても、文句は言えない。そ
れを昔は、「切り捨て御免」といった。もっとも、江戸時代といっても、300年もつづい
た。江戸時代の終わりごろには、さすがにそういうことはなかったというが、しかし武士
階級がもつ傲慢(ごうまん)さが、消えたというわけではない。

 こう書くからといって、私は何も、武士道を否定しているのではない。しかし安易な美
化論には、はげしい嫌悪感を覚える。封建時代がどういう時代であったかという反省もな
いまま、武士道だけを一方的に美化するのは、危険なことでもある。

 たとえばここでいう「切り捨て御免」にしても、そうした精神は、日本の社会の随所に
残っている。

 私が子どものころには、まだ職業による身分差別が、色濃く残っていた。今でも広く差
別問題が議論されているが、そうした「差別」は、ごく当たり前のことだった。職業だけ
ではない。

 外国から来た人、身体に障害のある人などなど。そういう人たちは、日本の社会から排
斥されていた。が、それだけではない。事業に失敗した人、貧しい人、そういう人たちで
すら、日常的に、差別されていた。

 こうした差別意識、そしてそれにつづく、弱者、敗者への差別意識は、まさに封建時代
の負の遺産といってもよい。そしてそれが今でも、日本字独特の(冷たさ)となって、残
っている。

 もちろん子育てとて、例外ではない。

 少し話はそれるが、以前、その(冷たさ)をテーマに、こんな原稿(中日新聞投稿済み)
を書いたことがある。

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子育てには、本当にお金がかかりますね。
どうしてこんなにかかるのでしょうか?
しかたないと思う前に、ちょっとだけ
みんなで考えてみましょう。

+++++++++++++++++

●大学生の親、貧乏ざかり

 少子化? 当然だ! 

都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7000円(九九
年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜
50万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インター
ネットも常識。……となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、
これまた常識。世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大
学生、親、貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、
さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も
税法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに
少ない。欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。
日本はこの十年間、毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわら
ず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。
それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨
学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、だれも文句を言わない。教育という
のはそういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷
属意識は、世界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)
き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている! 日
本人のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育
を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」
と考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。
こういう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集
中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年
はおくれている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところ
で、子どもを育てたくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあ
って、そう言ったのだろう。が、それからほぼ三十年。この状態はいまだに変わっていな
い。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、
孫を育てたくない」と。

 私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであ
ろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。

++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私が一番言いたかったことは、つぎの部分。

……世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべき
だ」と考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、だれも同情しな
い。こういう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところ
に集中する。

 日本人は、元来、やさしい民族かもしれない。そこまでは否定しない。しかし社会のし
くみとなると、そうではない。冷たい。とくに弱者、敗者には、冷たい。私はその(冷た
さ)こそが、まさに封建時代の負の遺産だと思う。

 そのことは、たとえば隣のK国をみればわかる。K国では、せっかく世界が食糧援助を
しても、まず幹部や軍人たちがそれを横取りしてしまうという。日本の封建時代の武士階
級も、似たようなものだった。つまり今の今でも、日本は、その(冷たさ)を、引きずっ
ている。その一つが、子育ての世界にも残っているということ。

 勝てば官軍。負ければ賊軍。そういう思想が、回りまわって、日本独特の冷たい社会を
つくった。そしてそれが、子育ての場にも、残っている……というのは、少し考えすぎだ
ろうか。

【学費は親の負担?】

 明治のはじめ、今にみる学校制度ができた。
 そのとき、上級学校(中等学校)へ進学できるのは、士族、華族、豪商の子弟など、ご
くかぎられた子どもたちだけであった。ふつうの子どもたちは、義務教育の尋常(じんじ
ょう)小学校を出るだけで、精一杯。

 その先の上級学校(高等学校、帝国大学)となると、学費も高額になった。ふつうの
の子どもでは、教科書一冊買えなかったという記録も、残っている。

 つまり時の明治政府は、旧幕府時代の身分制度を、学歴制度に置きかえて、士族、華族
の特権を守った。

 もちろん、だれの目にも教育は必要だった。それに日本が、他のアジア諸国にくらべて、
よりはやく先進国の仲間入りができたのは、日本の教育制度のおかげだった。それはだれ
も否定しない。

 しかしこうした流れの中で、つまり学歴制度が、もともと差別を目的としたものであっ
たために、「学費は親が負担すべきもの」という日本的な常識が、できあがっしまった。わ
かりやすく言えば、当時の日本、つまり明治時代においては、学費の出せる人と、そうで
ない人で、人間を選別していたということになる。

 アメリカの学生ともなると、親のスネをかじって大学へ通っている子どもなど、さがさ
なければ見つからないほど、少ない。ほとんどは奨学金を得て通っているか、あるいは自
分で借金をして通っている。

 さらに今では、(30年前もそうだったが……)、入学後の転学は自由。入学後も、転校
は自由。アメリカの学生たちは、「お金を出して、よりよい知識を買う」と意識を、はっき
りともっている。

 こうしたもろもろのちがいが、集合されて、今に見る、日本とアメリカの大きなちがい
を作った。

 
(4)今を考える  **************************

【スペイン在住のIさんより】

+++++++++++++++++++++

スペイン在住のIさんより、こんなメールが届きました。

転載許可(※承諾求め)をいただけましたので、紹介し
ます。

++++++++++++++++++++++

皆様 お元気ですか。

久しくご無沙汰しています。筆不精で、最近、メールを出していないので、

近況報告方々、メールを書いています。

Y子(娘)はYear 8(中学2年レベル)がもうすぐ終わりで、

期末試験の勉強に追われています。

科目別ですと、historyではフランス革命を勉強しています。日本語でも

難しいテーマを、英語で勉強するのですから、本人も大変です。

Englishはシェークスピアと日本でも話題になったHoles(日本名:穴)

が教科書で、毎日、宿題が結構出るので、日本の通信教育のワークまでなかなか手が回

らないので、日本に戻った時、苦労しそうです。

Y子は最近、コンピューターのマイクロソフトのメッセンジャーで友達と毎日、

チャット(英語、スペイン語、その略語が氾濫していて、

ちょっと大人には解読不能)をするのが日課でかなり、はまっています。

私は友達になったスペイン語の先生と油絵を描きながら、スペイン語を

習っています。

最近(2週間前)、ポール・マッカートニーのコンサートが近くのサッカー場で

あり、家族3人で行ってきました。久しぶりのロック・コンサートで、

盛りあがりました。幸代には初めてのロック・コンサートでしたが、クラスの友達も

大勢、見に来ていました。

ウィングス時代のJetで始まり、半分くらいはビートルズ時代の歌で、

Long and winding road や Hey.Judeなど、感激しました。

コンサートはいわゆるスペイン時間で、始まったのが夜の10時15分で終わったの

は夜中の1時過ぎでした。これはスペインでは普通です。

スペインはとにかく、日本に比べ、2〜3時間くらいすべて遅いのです。

今では我が家の夕飯もいつも9時から9時30分くらいです。

郷に入れば、郷に従えです。

早いもので、スペインに来て、もうすぐ3年になります。

6月末で幸代の学校が夏休みに入りますので、私と幸代は7月の中旬に日本に

一時帰国する予定です。

いろいろ予定があるので、会えるかどうか、わかりませんが、

時間があれば、お会いしましょう。

皆様の近況も、メールで教えてくださいね。

ではまた。

スペイン IYより

++++++++++++++++++

【IYさんへ】

●日本では……

 日本では、K国による拉致事件が、一応一段落したという感じです。まだ全面解決とい
うわけではありませんが……。

 先週、九州で、小学6年生の子どもが、同級生を殺傷するという事件が発生しました。
今、親たちの間では、この話で、もちきりです。

 スペインにも、似たような事件がありますか? 同じ事件でも、あまりにも殺伐(さつ
ばつ)としていて、つかみどころがありません。

週刊誌や新聞などの情報によると、その小学生は、映画『バトルロワイヤル』の熱心な
ファンだったとか。自分でも、それに似せた小説まで書いて、HPで紹介していたとい
います。

 ああいう映画を一方で野放しにしておいて、こういう事件が起きるたびに、「なぜ?」
「どうして?」を繰りかえす。日本人も、もうそろそろそういうおかしさに、気づくべき
ときにきているのではないでしょうか。

 私の立場では、本当に腹立たしい感じです。というのも、その映画については、公開当
初、原稿を書き、「こういうものは子どもに見せてはいけない」と、中日新聞にコラムを書
いていたりしたからです。

 当の映画監督のFY氏や、主演のBT氏らは、「戦前の言論統制と同じだ」(写真週刊誌)
と、息巻いていましたが……。

 それ以後も、この種の意味のない殺戮(さつりく)映画が、つぎつぎと、公開されてい
ます。先週も、美しいパッケージにだまされて、「Kill Bill」という映画を見て
しまいました。残虐シーンだけの、まったく意味のない映画でした。

 ああいう映画を見て育つ子どもは、いったい、どうなるのでしょうか?

●浜名湖花博へどうぞ

 暗い話はさておき、この浜松では、今、浜名湖花博という博覧会が開かれています。私
とワイフも一度行ってみましたが、思ったより……というか、主催者のきめのこまかい配
慮が随所に見られる、本当にすばらしい博覧会でした。

 たまたま来年、愛知県で、「愛・地球博」(あいち=あい・ち・きゅうはく)が開かれま
す。こちらは閣議了承された、国際博ですが、ひょっとしたら、規模こそ小さいですが、
愛知万博よりも楽しめるのではないかと思っています。

 お金をかければよいというものでもないでしょうし……。夏には夏の花が展示されると
か。浜松へお帰りの際には、ぜひ、訪れてみてください。

 ここ数日、浜松は、雨もようです。すでに梅雨入りしたとか。外から帰ってきたりする
と、家の中が、ムッとするほどカビ臭く感ずることがあります。ムシムシします。今のと
ころ気温はそれほど高くないので、扇風機だけで、何とかしのいでいます。

 日本はあいかわらず不景気ですが、そんなことをある先生に話しましたら、叱られてし
まいました。「林君は、何でも悲観的に考えすぎるよ」とです。

 いわく、(少し難解な文章ですが、そのまま引用します。)

「日本は貿易で毎年数兆円から10数兆円の黒字を出し、これまで累積した海外投資か
ら数兆円の所得収支を得〈利息〉、バブル期以降に急増した海外旅行に約5兆円を費やし
〈サービス収支の赤字〉、途上国に1兆円強の政府援助(ODA)を行ない、〈移転収支
の赤字〉、最終的に10兆円前後の黒字を再び海外投資して、海外純資産をさらに増やし
続けている国である。

現時点でも日本は世界最大の経常収支黒字国であり、EU全体に匹敵する世界最大の海
外純資産を蓄積している国である。海外純資産の累積が増大して、これより得る利息
〈所得収支〉が徐々に増え、現在では毎年7兆円にも達している。国民一人当たりで6
万円のもなる」(科学技術振興事業団・科学技術振興機構「報告書」より・2003年)
と。 

 この報告書を読んでいると、何となく、うれしくなりますね。わかりやすく言えば、日
本は国内景気はともかくも、海外では、巨大な金融国家として、利息を集めまくっている
というのです。その額、一人当たり、毎年6万円!

 利息が、6万円です。私の家族は5人ですから、30万円。……しかしそういうお金は、
いったい、どこへ消えていくのでしょうね?

 日本政府が、金融機関だけを、特別に保護している理由は、こんなところにあるのかも
しれません。ともあれ、日本の景気は上向いているということですが、私には、その実感
は、あまりありません。

 気になっているのは、先日駅前のEデパートへ行ってみたら、一つ数万円もするサイフ
が、並び始めたということです。バブル期には、Mデパート(その後、倒産)では、その
種のものが、ズラリと並んでいました。

 またこの日本では、ミニバブルというか、そういう現象が、一部の人たちの間で起き始
めているように思います。波にのった企業経営者や、一部の特権階級の人たち。それに特
殊な利権とつながり、特殊な仕事をしている人たちです。

 そういう人たちのところには、「こんなに儲けていいのだろうか」と、思うほど、お金が
集まっているようです。うらやましいかぎりですね。ホント!

●本題

 さて、本題。

 お嬢さんの生活を知って、私のまわりの子どもたちの生活と、あまりにもちがっている
ので、正直言って、驚きました。国際的というか、日本の外では、それが当たり前なので
すね。

 いろいろな言葉にまざって、いろいろな文化が飛びかう……。想像するだけでも、楽し
くなります。お嬢さんは、まちがいなく、国際人になりますね。あるいはもう立派な、国
際人!

 夜の生活というか、このあたりに住む南米の人たちも、夜な夜な、パーティを開いて騒
いでいます。先日、どこかの会場で講演をしたら、市議会議員の人が、さかんに苦情を言
っていました。「うるさくて、たまらない」とです。

 しかし「時間」に対する感覚そのものがちがうのだから、しかたないかもしれません。
が、それにしても、夜中の1時すぎまで、コンサートとは!! 私も以前、ブエノスアイ
レエス(アルゼンチンの首都)へ行ったとき、みなが、ゾロゾロと、夜中の1時、2時ま
で、通りを歩いていたのには、驚きました。日本でいう、午後7時とか、8時の感じでし
た。

 ポール・マッカートニーの「Hey Jude」は、こちらでもDVD版になって、発
売になっています。静かなソロで始まり、最後は、合唱団、オーケストラをバックに大合
唱というものです。聞いているうちに、どんどん盛りあがってきます。すばらしいですね、
あの曲は。何度聞いても、あきません。

 で、私のほうは、今度、浜松に、舟木xxという、歌手が来るので、ワイフと聞きに行
こうかどうかと迷っている最中です。私の世代には、たまらない歌手です。「死ぬまでに一
度は、聞いておかねば……」と思っています。(かなりスケールがちがうようです!)

 今は、スズメたちも子育てが一段落したときです。山へ行くと、ホトトギスが鳴いてい
ます。ビワの実もたくさんできましたが、昨日行ってみたら、カラスにきれいに食べられ
てしまっていました。今週から来週にかけては、アジサイが満開になります。日本は、そ
ういう季節です。

 もうすぐすると、ヒグラシが鳴き始めます。それが鳴くと、本格的な夏です。今年の夏
は暑くなるだろうというのが、気象庁の予報です。

 どうか、お体を大切に。今日は、これで失礼します。

 自宅の電話番号を書いておきます。もし時間があれば、連絡してください。
       44x−xxxx、です。

                         はやし浩司
【追記】

 浜松にも、たくさんの外国人が住むようになりました。一方、それ以上の数の日本人が、
海外で生活をするようになりました。

 こういう時代になってみると、「国とは何か」と、改めて考えさせられます。

 私の三男も、今、オーストラリアにいますが、同居している学生は、韓国人です。いっ
しょに旅行したりしているようです。いろいろ世話にもなっているようで、そういう関係
を知ると、「日本人」だの、「韓国人」だのと言っているほうが、おかしく思われてきます。

 世界の人は、みんな友人なのです。それはちょうど、横浜に住んでいる人も、神戸に住
んでいる人も、みんな日本人と言うのに似ています。会ったことがない人でも、これから
先、死ぬまで会うこともない人でも、日本人は日本人なのです。

 そういう中、スペインに住み、日本人学校に通い、フランスの歴史を勉強する……。私
は、率直に、それをすばらしいことだと思います。

 で、私たちも、やがて老後は、どこか外国で……と考えています。ワイフは、「元気なう
ちに決心しないといけない」とさかんに、言っています。私もそう思うのですが、なかな
かふんぎりがつきません。IYさんの話を読みながら、頭の中で、想像して楽しむのが、
精一杯というところです。

 では、またどうかメールをください。みんな、楽しみにしています。

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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 7日(No.432)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page041.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)
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(1)子育てポイント**************************

●子どもの横を歩く

 親意識の強い人は、「子どものことは私が一番よく知っている」と、何でもかんでも親が
決めてしまう。子どもの意思など、まったくの無視。

たとえばおけいこごとを始めるときも、またやめるときもそうだ。「来月から、○○音楽
教室へ行きますからね」「来月から、今の教室をやめて、△△教室へ行きますからね」と。
子どもは親の意向に振りまわされるだけ。

 こうした子育てのリズムは、親が子どもを妊娠したときから始まる。ある母親は胎教と
称して、毎日おなかの子どもに、クラッシックや英会話のテープを聞かせていた。また別
の母親は、時計とにらめっこをしながら、その時刻になると赤ちゃんがほしがらなくても、
ミルクを赤ちゃんの口につっこんでいた。さらにこんな会話をしたこともある。ある日一
人の母親が私のところにきて、こう言った。

 「先生、うちの子(小三男児)を、夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思うので
すが、どうでしょうか?」と。その子は、ハキのない子どもだった。母親はそれを気にし
ていた。そこで私が「お子さんは行きたがっているのですか?」と聞くと、「それが行きた
がらないので、困っているのです」と。こうしたリズムは、一事が万事。そこでこんなテ
スト。

 あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころ、(1)あなたは子どもの前を、子ど
もの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていただろうか。それとも(2)子どものうしろや
横に回りながら、子どものリズムで歩いていただろうか。(2)のようであれば、よし。し
かしもし(1)のようであれば、そのときから、あなたとあなたの子どものリズムは乱れ
ていたとみる。今も乱れている。そしてやがてあなたは子どもとこんな会話をするように
なる。

母「あんたは、だれのおかげでピアノを弾けるようになったか、それがわかっているの。
お母さんが毎週、高い月謝を払って、あなたを音楽教室へ連れていってあげたからよ」
子「いつ、だれが、お前にそんなことをしてくれと頼んだア!」と。

 そうならないためにも、子どもとリズムを合わせる。(子どもはあなたにリズムを合わせ
ることはできないので。)今日からでも遅くないから、子どもの横かうしろを歩く。たった
それだけのことだが、あなたはすばらしい親子関係を築くことができる。(はやし浩司のサ
イト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++

●方向性は図書館で

 子どもの方向性を知るためには、子どもを図書館へ連れていけばよい。そして数時間な
ら数時間、自由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを、
静かに観察する。

そのときその子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。たとえばサッカー
の好きな子どもは、サッカーの本を読む。乗り物や機械的なものが好きな子どもは、そ
ういう類の本を読む。この方向性をうまく利用すれば、子どもは伸びるし、それにさか
らえば、子どもは伸びない。こんな例がある。

 子どもに「好きな本を一冊買ってあげるから、選びなさい」と言っておきながら、子ど
もが何か本を選んでくると、「こんな本ではダメ。もっとおもしろいのにしなさい」と。

こうした親の身勝手さは、子どもの方向性をつぶす。それがたとえ親の意向に反したも
のであっても、「おもしろそうね。ママも読んでみたいわ」と言ってあげる。そして子ど
もの方向性を前向きに伸ばしてあげる。たとえば本は嫌いでも、ゲームの攻略本は読む
という子どもはいくらでもいる。そういうときは、ゲームの攻略本を利用して、本のお
もしろさを子どもに教えればよい。

 要するに子育てで押しつけは禁物。イギリスの格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学
ぶ」(Happy learners  learn  best.)というのがある。

子どもに何かをさせたかったら、まず楽しいということを教える。あとは子どもに任せ
ればよい。子どもは自分で伸びる。また多くの親は、「うちの子はやればできるはず」と
言う。それはそうだが、しかしやる、やらないも、「力」のうち。そういうときは「やっ
てここまで」とあきらめる。このあきらめが子どもを伸ばす。

 話はそれたが、これからはプロが伸びる時代。そのためには、子どもの一芸を大切にす
る。この一芸が子どもを側面から支え、ばあいによっては、子どもの職業となることもあ
る。そういう意味でも、子どもの方向性は大切にする。

(2)今日の特集  **************************

●夏の夜のロマン、UFO

【息子からのメール】

まず、息子(二男、アメリカ在住のメールを紹介する。

+++++++++++++++++++++

父が、月にやアポロ計画に関する不自然な点に関する情報を載せたサイトのアドレスを僕
にくれた。なかなか面白い情報だと思った。

20世紀のはじめにロウェル、ジオバー二、といった天文学者が始めて精密な火星の表面を
記録したとき、表面に見える沢山の筋は火星人が建設した巨大な運河の跡だと考えられて
いた。星の並び方に星座をみたり、月にウサギが見えるのと同じように、人間は無秩序の
中にある偶然の秩序を想像豊かに説明してきた。

僕は子供のころ、月が地球とまったく同じように自転しているのは、実に不自然だなと思
ったのを覚えている。自然ならちょっとずつずれるはずだと思ったし、月の裏が地球から
見えないのは宇宙人か誰かが微調整している結果だとも思った。

大学で物理学が専攻だったこともあって、そういった多くの「なぜ」に証拠と説明のしか
たを学んだ。(とりあえず月が地球と同じスピードで自転するのは、地球の潮汐力が共鳴現
象を起こしているから。)

この前書いたとおり、僕は分からないことがあっても、それがロマンにつながるようなこ
とはもうほとんどない。大学で、何か未知なことがあってもそれが僕が期待すること(宇
宙人が地球に来ているとか)である可能性が、どれだけ少ないかということを学んだせい
だと思う。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 二男は、UFOというものを、まったく、100%、信じていない。ときどき、UFO
の話をもちかけるが、いつもどこか、喧嘩ごしのようになってしまう。

 要するに、何を基準にして話すかだが、私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃し
ている。私たちは、まず、そこから話を始める。

 以下は、このマガジンでも、何度もとりあげた、記事(中日新聞に掲載済み)の原稿で
ある。まず、それを読んでほしい。

++++++++++++++++++++

●UFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、もう一度、ここに転載する。繰り返すが、私たちが
あの夜見たものは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」
でもない。飛び去るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込
むかのようにして消えていった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。そ
の原稿につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点に
ついては、ワイフも同意見である。

つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並んで飛んでいるのに気づいた。その
ときは、黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、しばらくすると、その窓を取
り囲むように、ブーメラン型の黒いシルエットが浮かびあがってきた。そのときは、夜
空に目が慣れてきたために、そう見えたのだと思ったが、今から思うと、空から浮かび
あがってきたのかもしれない。つぎの原稿が、その夜のことを書いたものである。

++++++++++++++++++
 
●見たぞ、UFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが1、2キロはあった。しかも私とワイフの
二人で、それを見た。見たことはまちがいないのだが、何しろ30年近くも前のことで、「ひ
ょっとしたら……」という迷いはある。が、その後、何回となくワイフと確かめあったが、
いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一
二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いも
のが、並んで飛んでいるのがわかった。

私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。そう思って、そ
の数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くとワイフも同じことをしていたという。が、
それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲む
ように、夜空よりさらに黒い、「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。

私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、そ
の物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部所に電話をかけても、「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれ
がUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のも
ので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(現在、UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのU
FOの写真を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という
番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・
ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。

私とワイフは、その中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同
じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物
と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇
宙人(多分、そうなのだろうが……)が、UFOに乗って地球へやってきても、おかしく
はない。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、
私はその人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム
を汚したくないし、第一ウソということになれば、私はワイフの信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、
「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が
疑われる」と言う人もいる。

しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、
教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分
野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊
は中国語にも翻訳されている。

そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえば
この世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私は
それについて書いてみた。

+++++++++++++++++++++

【後日談】

 この記事を新聞で発表してから、ほぼ1年後のこと。ある会場で講演を終えると、ロビ
ーに一人の男性が、この記事をもって、立っていた。市内で、鍼灸医院を経営する、B氏
という名前の男性だった。

 B氏は、こう言った。

 「私も弟と二人で、同じものを、見ました」と。

 そのあと、B氏とは、何度も会っている。そしてたがいに見たものを、何度も話しあっ
ている。そのB氏も、こう言った。「現れ方も、消え方も、とても、この世のものとは、思
われませんでした」と。

 飛行機が遠ざかって消えていくような消え方ではない。それは私たちが見たUFOもそ
うだったが、空に溶けこむようにして、消えていったという。「溶けこむように」だ。

 「飛行機だったら、遠くへ飛んでいき、だんだん見えなくなって消えていきますよね。
しかし私が見たUFOは、グニャグニャと形を崩し、そのまま夜空に溶けこむようにし
て、上昇しながら消えていきました」と。

 たしかB氏は、「粘土か、煙のようになって消えていった」というようなことを言ったと
思う。あとでワイフもこう言った。「私たちが見たUFOも、そのままの形で、消えていっ
た。星がまわりに見えたから、雲に隠れたというふうでも、なかった」と。

 大きさは、B氏も「わからなかった」と言いながら、最低でもハバが、500メートル
はあったと言った。飛行機のような小さなものではない。まさに空をおおうほど、大きか
ったという。

 で、そのあとB氏の弟は、そのショックで、人生観が180度変ってしまい、インドへ
仏教の修行にでかけてしまったという。

 で、宇宙人はいるのか、いないのか?

 私は、一つの手がかりは、月にあるのではないかと思っている。つぎの原稿は、1年と
少し前に書いた原稿である。

++++++++++++++++++++++

●謎のオニール橋

 このところ毎晩、眠る前に、「月の先住者」(ドン・ウィルソン著・たま出版)を読んで
いる。かなり前に買った本だが、それが結構、おもしろい。なかなかよく書けている。要
するに、月には、謎が多いということ。そしてその謎を集約していくと、月は、巨大なU
FOということになる、という。

 私が子どものころには、月の危難の海というところに、オニール橋というのがあった。
オニール(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニー
ル)という科学者が発見したから、「オニール橋」というようになった(一九五三年七月)。

どこかの科学博覧会に行ったら、その想像図まで展示してあった。一つの峰からつぎの
峰にまたがるような、端から橋まで、二〇キロもあるような橋だったという。

 が、そんな橋が、月の上にあること自体、おかしなことだった。しかもそんな橋が、そ
れまで発見されなかったことも、おかしなことだった。それまでに、無数の天文学者が、
望遠鏡で月をのぞいていたはずである。

 しかし、最大の謎は、その後まもなく、そのオニール橋が、その場所から消えたという
こと。なぜか。その本によれば、あくまでも、その本によればの話だが、それは巨大なU
FOだったという。(ありえる!)

 そこでインターネットを使って、オニール橋を調べてみた。ヤフーの検索エンジンを使
って、「月 オニール」で検索してみると、いくつか出てきた。結局、オニール橋は、一部
の研究者の「見まちがい」ということで、公式には処理されているようだ。(残念!)

 私自身は、信じているとかいないとかいうレベルを超えて、UFOの存在は、確信して
いる。ワイフと私は、巨大なUFOを目撃している。私たちが見たのは、幅が数キロもあ
るような巨大なものだった。だからオニール橋が、巨大なUFOだったとしても、驚かな
い。

 しかしこういうのを、私たちの世界では、「ロマン」という。つまり、「夢物語」。だから
といって、どうということもないし、また何ができるということでもない。またそれを基
盤に、何かをすることもない。ただの夢物語。

しかし心地よい夢を誘うには、この種の話が、一番。おもしろい。楽しい。それはちょ
うど、子どもたちが、かぐや姫の話を聞いて、夜の空に、ファンタジックな夢をはせる
のと同じようなものではないか。

 興味のある人は、その本を読んでみるとよい。しかしあまりハマらないように! UF
Oの情報は、インターネットで簡単に手に入るが、そのほとんどのサイトは、どこかの狂
信的なグループ(カルト)が、運営している。じゅうぶん注意されたし。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司から、息子へ……】

 大前提として、ぼくは、お前には、ウソをつかない。ウソを書くつもりはない。またウ
ソまでついて、お前を惑わすようなことはしない。したくない。それとも、ぼくは、今ま
で、お前の父親として、ウソをついたことがあるだろうか? 約束を守らなかったような
ことがあるだろうか?

 そういう前提で話す。

 お前は、すぐ否定するが、あの夜、何か得体の知れないものを、晃子(ワイフ)と見た
ものは、事実だ。翌朝一番に、自衛隊に電話をしたのも、事実だ。少しあとになって、B
氏がやってきて、「同じものを見た」と話してくれたのも、事実だ。

ウソは書かない。ウソをついても、評判を落すことはあっても、ぼくには、得になるこ
とは、何もない。

 つまりお前と、視点が180度ちがうという理由は、ここにある。ぼくたちは、「見た」
という前提で、話を始める。見ていないお前に、それを信じろというほうが、むずかしい
のかもしれないが……。

 いつかゆっくりと話す機会があったら、話したい。

 ぼくは若いころ、東洋医学の研究に没頭した。本も何冊か書いた。うち一冊は、25年
にもなるが、医学部や、鍼灸学校の教科書として、いまだに使われている。

 その研究をしていたころ、実のおかしな記述に、あちこちで出会っている。東洋医学の
原点(原書)が、人間によって書かれたのではないのではないかという疑いをもつのに、
じゅうぶんなほど、おかしな記述だ。

 それはちょうど、旧約聖書の生い立ちに似ている。いつか、それについて、お前に話し
てやろう。この事実は、恐らく、ぼくしか知らないことだし、ほかにそういう面で、研究
している人を、知らない。

 いつか死ぬまでに、お前だけには、このことを話しておきたい。また日本へ帰ってきた
ときでもよいし、もう少し、お前が、宇宙に対して、心を開いてくれてからでもよい。ほ
かのだれにも、話すつもりはない。

 こうした事実は、「ぼくが死んだら、そのままぼくとともに消えるもの」と、半分は、も
うあきらめている。いつか、文章にすることがあるかもしれないが、今のところ、ない。
どうせ、だれも信じてくれないし、東洋医学には、心底、幻滅している。

 東洋医学に幻滅したというのではない。日本の東洋医学研究のあり方に、幻滅している。
話せば長くなるが……。

 まあ、しかし、お前が言うように、これはロマンだ。先のB氏だが、そのあと、何度も
会っている。うちへも、たびたび遊びに来ている。

 しかしね、おかしなことだが、いつも会話が、途中で切れてしまう。話がつづかない。
それもそうだろう。たがいに見たのは瞬間だった。たがいにその瞬間について話すだけ。
だからどうしても、ロマンになってしまう。何か、具体的な証拠があるわけではないから
ね。

 そうそう私と晃子が見たUFOと、B氏兄弟が見たUFOは、別のものだよ。

 一度、会って、正確に見た方向を、地図を広げて確認してみたが、おもしろいことに、
ぼくたちが見たUFOは、まっすぐ、正確に西から東へ飛んできたものとわかった。

 一方、B氏兄弟が見たUFOは、これまた正確に、まっすぐ東から西へ飛んできたもの
だとわかった。見た日も、ちがっていたけどね。

 今でもときどき、晃子と寝るとき、あの夜のことを思い出す。そして「あれは何だった
のか?」「もう一度、見てみたいね」と、話している。そうして話しているうちに、いつも
眠ってしまう。

 そうそう最後に、先日送った、「惑星の謎」の写真だけど、NASAが公表する写真は、
そのほとんどが、修正済みのものばかりだよ。そういう前提で、写真を見なければいけな
いよ。どういうわけか知らないけど、ね。

 じゃあ、お前も、夜、散歩するようなことがあれば、空を見あげてみるといいよ。

 おやすみ。 そちらは、朝だね。

HAVE A NICE DAY!
(040606)

【追記】

 今夜(6・6)、ワイフとまた、そのUFOの話になった。

ワ「散歩から帰ってきたときだから、時刻は、12時前だったと思う」
私「ぼくは、12時を過ぎていたと思う。そのあと自衛隊に電話しようと思ったけど、毎
夜中じゃあ、できないと思って、しなかった」
ワ「あれは、不思議だったわ」
私「ホント!」

ワ「だけど、あんなところを、通るものなのかしら? 自衛隊の基地でも見にきたのかし
ら?」
私「理由は、わからない。観光旅行かもしれないな。そのあと、『く』の字型UFOは、あ
とこちで目撃されているよ」
ワ「窓が光っていたわ」
私「光ってはいないよ。ぼんやりとした、淡いだいだい色だった……」

ワ「私には、白っぽく見えたわ。消えかかった、蛍光灯のような感じだった。白といって
も、グレーに近かった」
私「窓だと思うけど、まん丸だった」
ワ「そう、まん丸だったわ。車のライトのように……。きちんと並んでいた。飛行機の窓
のようにね」

私「飛行機じゃ、ないよ。まったく音がしなかったよ」
ワ「そう、音がしなかった。静かだったわ」
私「飛行機だったら、わかるよ。浜松市の上空は、飛行機の航路になっている」
ワ「私は、窓を、一生懸命、数えていたわ。6個くらいまで数えたわ」
私「ぼくも、そんなものだった。見にくかったから、最初は、目をこらして一生懸命、数
えていた」

ワ「窓は、『く』の字に並んでいたわ。2個くらい、少しずれていた」
私「でも、『く』というよりは、『へ』の字に近かった。手前半分より、向こう側半分のほ
うが、長かったような気がする」
ワ「そうだわ。『く』ではなく、『へ』の字だわ」
私「だから、手前の5、6個につづいて、折れ曲がった向こう側には、ズラズラと窓が並
んでいた感じがした」
ワ「そうだったわ」と。

 そして結論は、いつも同じ。「不思議だったわ」「不思議だった」と。

 私は原稿の中で、幅が1、2キロと書いたが、本当のところは、よくわからない。夜だ
ったし、それにそれが飛んでいる高度もわからなかった。私の印象では、いつも飛んでい
る飛行機の高度を飛んでいるように見えた。

 100メートルとか、200メートルとかいうような、そんな低い高さではない。最低
でも、500メートルとか、それくらいはあったのでは……? つまりそういうところか
ら、「幅が1、2キロはあった」と書いた。

 いや、ひょっとしたら、もっと大きかったかもしれない。幅が20キロとか30キロと
か……。今、ここで断言できることは、あのジャンボジェット機とは、比較にならないほ
ど、巨大だったということ。私が見たUFOを、巨大タンカーだとするなら、ジャンボジ
ェット機は、一人乗りの釣り舟のようなもの。それくらいのちがいは、感じた。

 だから私たちが見たUFOは、絶対に飛行機などではない! 絶対に!

【追記】

 しかし世に中には、不思議なことがあるもの。私も人並みに、いろいろと不思議なでき
ごとを経験しているが、しかしあの夜以上に、不思議な経験をしたことがない。ワイフも
そう言っている。

 もしあれがUFOだとするなら、(まちがいなくUFOだが)、宇宙人は、確実にいる。
またそういう前提で、ものごとを考えるべきではないのか。

 どこに住んでいるかは知らない。どこから来たのか、またその目的が何であるかも、知
らない。しかし時折、彼らは、こうして地球を訪れて、何かをしている。私も、よく、じ
ょうだんまじりに、「観光旅行だ」と言うが、内心では、観光旅行にちがいないと思ってい
る。宇宙人の御一行様が、巨大なバスに乗って、地球へやってくる。

 「夜に観光旅行するのか?」と思う人がいるかもしれないが、彼らの視力からすれば、
夜でも、昼のように明るく見えるのかも。反対に、昼間は、明る過ぎて、目を痛めるとい
うこともある。それに太陽から降りそそぐ、紫外線や放射線を、避けているのかもしれな
い。

 いろいろ考えられる。考えられるが、地球人を基準にして、ものを考えてはいけない。
彼らのもつ知力にしても、人間より、数千年とか、数万年単位で、進化しているはず。技
術も、そうだ。私が見たUFOにしても、まるで空に溶けこむようにして、消えている。
とてもこの世の乗り物とは、思われない消え方である。

 では、なぜその宇宙人は、堂々と姿を、私たちの前に現さないのかということになる。

 理由はいくつか考えられる。

(1)宇宙人と人間の間に、あまりにも差がありすぎる。
(2)貪欲な人間に、その技術なり知識が利用されるのを恐れている。
(3)人間そのものが、彼らによって作られた。彼らの遺伝子を組み込まれている。
(4)すでに、あちこちで、人間の形をして、現れている。

 まあ、近々、姿を現すのではないかと、私は思っている。私たちが見たUFOも、その
一つということになる。

 では、眠くなったので、この話は、ここまで。またいつか……。

 以上、あの夜、私とワイフは、何かを見た。それが真実であることを、再度、ここで確
認しながら……。
(040606)
(はやし浩司 UFO)

++++++++++++++++++++

【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思
っている。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とく
らべても、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうも
ない数の神経細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明に
せよ、メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎ
ない。たった7500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったく
の暗闇に包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわ
めて大きな変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、
賢くなった(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めて
いる。それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、
生まれている。ノアの箱舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。
この話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によっ
て生まれている。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、
メソポタミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、
よく似ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわ
めてよく似た土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、
つながっている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説
によると、シュメール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河
文明にしても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文
明イコール、ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音ま
で、ほぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星か
らやってきたとされる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。
今でも、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調
べてから、こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、
時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思
いつつ、35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういっ
た類(たぐい)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、
でかける。何か、目標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちが
っているかもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、
つまりロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えている
と、いつの間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュ
メール人や、中国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)

+++++++++++++++++++++

ああ、またUFOのことを書いてしまった!
ワイフにさえ、「この話はよくない」と、クギを
刺されている。

頭のおかしな人たちと、まちがえられるからだ。
(私は、おかしいかもしれない? ゾーッ!)

冒頭に書いたように、息子にさえ、そう思われて
いる。「パパとママは、おかしいよ」と言われた
こともある。

ただとても残念なのは、UFOが、幽霊や心霊現象
などと同列におかれていることだ。いわゆるオカルト
(科学では証明できない神秘的超自然現象)の一つと
して、考えられている。

しかしUFOは、決して、オカルトではない。……と
自分では思っている。科学的に説明できるからだ。

ときどき自分でもわけがわからなくなるときがある。
そういうときは、あの夜見た、巨大なUFOを、
何度も自分の心の中で確認する。「あれは、幻想ではない」
「たしかに、見たぞ!」と。

みなさんは、どう考えるだろうか。

以上、真夏の夜の、大ロマン。おしまい!
おやすみなさい!

(3)心を考える  **************************

【親子の問題】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦
関係が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。
これを親子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あの
お父さんのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」
と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子
どもは、母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独
立したものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊
害になってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立その
ものが、できなくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子ども
は、その家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)
という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親
戚の伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その
男性を、ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、
父の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた
母を、私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩ん
でいたことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめ
ることはできない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しか
しどんな問題であるにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、
苦しんだり、悩んだりするようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、
無意識にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることが
ある。独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」と
いう。そういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とし
た。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、
さみしいもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」
と言う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろん
その母親は、それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、と
らえる。自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いを
もつ人はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、
過保護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考え
てみたい。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。
たとえばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。
英語教室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができ
る子どもイコール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという
価値観を身につけてしまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっく
りそのまま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題
にはならない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力
がどんどんと落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。
塾はもちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようにな
ってしまった。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能
力に欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をな
くすと、おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかり
やすく言うと、自分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている
(ボーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにする
こと。足並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関
係化をおし進める。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たが
いに高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つように
する。この一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができる
のか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。
だからお母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうなら
ないでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、
母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもら
う。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そし
て船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしまし
ょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があ
っても、子どもの前ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう
援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意
見があるなら、子どものいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」
と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、
子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教
育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、
こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」
と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子
どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものば
かり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にして
みるとよい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から
追い出してみるとよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれ
ば、それで親子の信頼関係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明にな
ったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつ
くる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話
しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじ
めて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。
その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。
つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの
問題として、家庭教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。


++++++++++++++++++

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつにな
ったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のも
とだけで子育てをするなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

(4)今を考える  **************************

●ワイフとの会話

 少し前、こんな話を書いた。

++++++++++++++++++

小学2年生のG君が、私の机のところにきて、小さな声で、こう言った。

 「先生、ぼくのチンチンね、さわっていると、長くのびるよ」と。

 で、私が、「あのね、そういう話は、ぼくではなくて、君のママに言いなさい」と話すと、
「だって、ぼくのママ、チンチンの話をすると、怒るもん」と。

私「だったら、ぼくにも、そんな話をしてはだめだ」
子「先生のは、のびるの?」
私「あのね、そういう話は、みんなの前でしてはいけないの」
子「ぼくのは、どうしてのびるの?」
私「だから、そういう話は、ママとしなさい」と。

++++++++++++++++++

 この話をワイフにするとき、私は、ワイフにこう言った。

 「その子どもに、『先生のは、のびるの?』と聞かれたとき、ぼくは思わず、『先生のは、
もうのびきって、シワシワだらけだ』と言いそうになった」と。

 するとワイフは、「そうよ。ちぢんでしまって、もう使いものにならないって、言えばよ
かったのよ」と。

私「そんなことないよ。使えるよ」
ワ「本当かしら?」
私「xxxxxxxxxx(省略)xxxxxxxxxxxxxxx」
ワ「……でもね、あなた、いつも、私の前でそういう話ばかりしているから、気をつけな
さいよ。子どもの前で、思わず、ポロリとそういう話をしたら、どうするの」
私「わかっている」と。

 男も、女も、50歳をすぎると、急に、色気がなくなるものです。ハイ!


●酒は害?

韓国のサムスン電子本社と各地方工場には、「焼酎1本、またはビール4本を飲む、脳神
経細胞30億個のうち10万個が、一度に破壊されます」という張り紙が、張られてい
るという(「朝鮮日報」)。

 ビール4本で、10万個! この計算によれば、ビールを12万本飲むと、脳細胞は、
すべて破壊されることになる。12万本というと、毎日約4本、100年間飲んだ量に等
しい。

 脳細胞とは、何か? 脳の神経細胞のこと? それともシナプスのこと? もし神経細
胞ということなら、30億個ではなく、100億個というのが、定説。そのあたりが、少
しあいまいだが、しかし実際、酒は、脳に、悪影響を与えるらしいということは、経験的
にもわかる。

 私の知人の中にも、かなりの酒飲みがいる。毎日、清酒1本のほか、ビールを4、5本
くらいなら、水がわりに飲んでしまう。で、そういう人たちに共通している点は、話す言
葉がはっきりしないということ。「アウ〜」とか、「エ〜」とか、そういう話し方が多い。

 が、それ以上に気になるのは、微妙な言い回しができないということ。あるいは繊細な
感覚がなることもある。話す内容そのものが、どこか大ざっぱになる。

知人「林君、ウ〜、どうかね、このところ? 君のうわさを、あまり聞かないよオ〜」
私「いろいろ調子が悪くって……」
知人「ウ〜、そうかね。ウマア、元気でいるのが、一番だよ。人間はわア〜」と。

 若いときは、それほど感じないかもしれないが、50歳をすぎると、こうした違いが、
はっきりとわかるようになる。

 しかし一企業が、社員に向って、そういう張り紙をするところが、実に韓国らしい。い
らぬお節介と、反発している社員も多いはず。何も、脳細胞に影響を与えるのは、酒だけ
ではないだろうし……。


●相談メール

 毎日、多くの方から、子育て相談についてのメールをもらう。私のHPの読者の方から
や、マガジン読者の方から、など。

 このところ多いのは、携帯電話からの相談。アドレスから、携帯電話からとわかる。

 で、携帯電話の特質というか、文面が、きわめて、簡潔。あいさつも、何もない。いき
なり、「うちの子は、こうこう、こうです。何かいいアドバイスを!」と書いてくる。その
ほとんどは、件名のところは空白になっている。名前も、名字だけ。

 返事を書きたいのだが、こちらから返信できる文字数にも、限界がある。そこで、どう
返事を書いたらよいものかと迷っているうちに、つぎのメールが、入ってくる。「昨日、メ
ールをしたものですが、返事は、どうなっていますか?」と。

 さらに迷っていると、今度は、叱りのメール。「返事をちゃんと、ください!」と。

 いくら気軽に情報が交換できるようになったとはいえ、この世界にも、やはりルールと
いうものがある。礼儀というものがある。最低でも、自分の名前くらいは、しっかりと書
いてほしいと願うのは、私だけなのか。

一方、携帯電話では、文面を短くしなければならない。それは、わかる。それにそうい
う相談をしてくる人に、悪い人はいない。みんな、子育てのことで、頭がいっぱいなの
だ。しかしそれを受け取るほうは、そういった文面を見ながら、ちがった印象をもつ。

たとえば礼儀など、ほとんど気にしない私だが、それでも、ときどき、ムッとする。い
や、ほとんどの母親は、こうしたルールと礼儀をわきまえている。しかし中には、そう
でない人がいる。そのそうでない人が、私をかぎりなく、不愉快にする。

 たった今も、一通のメールを、そのまま削除したところ。子どもの情緒不安についての
相談だった。私は、削除しながら、ふと、心のどこかで、こう思った。「母親自身が、自分
の自己中心性を改めないかぎり、子どもの問題は解決しないだろうな」と。

 
●音楽

 「日本の歌」という、唱歌集を、CDで聞く。どれも、よい歌だ。日本人の私たちの心
には、ぐっとくる。

 で、それが終わったあと、今度は、モーツアルトを聞く。とたん、メロディーの洪水?
 それまで聞いていた唱歌が、まるで幼稚に思えてくる。「一体、この落差は何か!」と。
そう思わず、つぶやいてしまう。

 だからといって、モーツアルトが上で、日本の唱歌が下とか、そんなことを言っている
のではない。むしろ私には、日本の唱歌のほうが、心にひびく。ときに、涙まで流す。し
かしふと、こう思った。

 「1つの唱歌の全小節を合わせても、モーツアルトの交響楽の1小節にもならないだろ
うな」と。

 事実、そのとおりだから、しかたない。争いようがない。

 そこで改めて考えてみる。なぜ、簡単な日本の唱歌が、私の心にひびき、メロディーの
洪水のようなモーツアルトの交響楽は、それほどまでにひびかないのか、と。つまり心の
反応というのは、どこで、どう決まるのか、と。

 日本の唱歌には、思い出がぎっしりとつまっている。どの曲を聞いても、そのつど、そ
れを聞いたときの情景が、そのまま脳裏に浮かんでくる。

 一方、モーツアルトの交響楽には、それがない。……どうやら、そのあたりに、心の反
応のちがいを説明する、カギがあるようだ。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「唱歌は、みんなでいっしょに歌え
るけど、モーツアルトは歌えないから……」と。

 なるほど、鋭い意見である。……と、感心したところで、この話は、おしまい。


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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 5日(No.431)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page040.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)
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(1)子育てポイント**************************

●親像はぬいぐるみで

 子ども(幼児から小学低学年児)に、母性や父性が育っているかどうかは、ぬいぐるみ
の人形を抱かせてみればわかる。

母性や父性が育っている子どもは、ぬいぐるみを手にすると、さもいとおしいといった
表情で、それを抱く。中には頬をすりよせてくる子どももいる。しかしそうでない子ど
もは、ぬいぐるみをみたとたん、足でキックしたりしてくる。

私が調べたところ、幼稚園の年長児で、男女を問わず、一〇人のうち八名が、ぬいぐる
みを見せるとうれしそうな顔をし、約二人弱が、反応を示さないか、あるいはキックし
たりするのがわかった。

さらに小学校の四、五年児について調べてみると、約八〇%が、「ぬいぐるみ大好き」と
答え、そのうち約半数が、ごく日常的に多くのぬいぐるみと接しているのがわかった。

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり親によって育てられた
という経験が身にしみこんでいて、今度は自分が親になったとき、子育てができるように
なる。

それを「親像」という。が、不幸にして、不幸な家庭で育てられ、この親像がしっかり
していない人がいる。しかし問題は親像がないことではない。むしろ何不自由なく、親
の温かい愛情に恵まれて育った人のほうが少ない。

問題は、その親像のないことに気づかないまま、それに引きまわされ、同じ失敗を何度
も繰り返すことである。ある父親は、私にこう相談してきた。「娘を抱いていても、どれ
だけ抱けばいいのか。どう抱けばいいのか。それがわからない」と。その父親は、彼の
父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまり彼の中には「父親像」が
なかった。

 話がそれたが、これだけは言える。ぬいぐるみを見せたとき、いとおしそうな表情を示
す子どもは、将来、やさしいパパやママになることができる。(そうでない子どもは、そう
でなくなるとは言えないが……。)

そんなわけでもし心配な点があるなら、子どもにはぬいぐるみをもたせるとよい。これ
には男女の差別はない。またあってはならない。男の子でも、ぬいぐるみで遊んでいる
子どもはいくらでもいる。


+++++++++++++++++++
 
●一芸を大切に

 子どもには一芸をもたせる。「一芸」というのは、子どもの側からすれば、「これだけは
絶対に人には負けない」というもの。周囲の側からすれば、「このことについては、あいつ
にかなうものはいない」というもの。

この一芸が子どもを伸ばす。あるいは子どもを側面から支える。中には、「勉強、一本!」
という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をこ
ろげ落ちるかのように、成績がさがる。

 一芸は、見つけるもの。この一芸は、つくろうとしてつくれるものではない。子どもの
日ごろの様子を観察していると、「これは!」というものに気がつく。それが一芸。

ある女の子(一歳)は、風呂の中でも平気で湯にもぐって遊んでいた。そこで母親がそ
の子どもを水泳教室へ入れてみたが、案の定、「水を得た魚」のように泳ぎ始めた。

また別の男の子(五歳児)は、父親が新車を購入すると、スイッチに興味をもち、「この
スイッチは何だ」と聞きつづけた。そこで私に相談があったので、パソコンを買ってあ
げることをすすめた。この子どもも予想通り、パソコンに夢中になり、やがて小学三年
生になるころには、ベーシック言語で、自分でつくったゲームで遊ぶようになった。

 ただし同じ一芸でも、ゲームがうまいとか、カードをたくさん集めるとかいうのは、こ
こでいう一芸ではない。

一芸というのは、将来に向って創造的なもの、あるいは努力と練習によって、より光る
要素のあるものをいう。そういう一芸を子どもの中に見つけたら、思い切り時間とお金
をかける。この「思い切りのよさ」が、子どもの一芸を伸ばす。

 さらにその一芸が、子どもの天職になることもある。ある男の子(高校生)は、ほとん
ど学校へ行かなかった。毎日、近くの公園でゴルフばかりしていた。しかし一〇年後、会
ってみると、彼はゴルフのプロコーチになっていた。

当時私は四〇歳前後だったが、そのときすでに、私の年収の何倍ものお金を稼いでいた。
同じように中学時代、手芸ばかりしている女の子がいた。学校ではほとんど目立たなか
ったが、今、市内の中心部で、大きなブテイックの店を構えている。一芸には、そうい
う意味も含まれる。

(2)今日の特集  **************************

●S県での、小学6年生による、傷害致死事件

 数日前、S県のある小学校で、小学6年生の女子が、同級生の子どもをカッターナイフ
で切りつけ、その子どもを殺してしまうという事件が発生した。

 たいへんショッキングな事件で、連日、マスコミは、この事件を報道しつづけている。
たまたま昨日(6・4)、隣のT町の小学校で、講演をしたが、そこでも、話題といえば、
この話ばかり。

 で、その事件を受けて、文部科学省は、全国の小中学校に対して、改めて、「命の大切さ
を教える指導」を、徹底したという。

 が、この通達は、どこか、的ハズレ(失礼!)。今回の事件は、その子どもが、命の大切
さを知らなかったから起こした事件とは、言えない。反対に、それを知っていたからとい
って、防げた事件とも、言えない。問題の「根」は、もう少し深いところにあるのではな
いか。

 私は、こう考える。

 人間のあらゆる行動は、行動命令とそれを抑制する、抑制命令の二つによって、コント
ロールされる。しかしその行動の原動力となる、人間の意思も、実は、この二つによって、
コントロールされる。

 たとえば自分にとって不愉快な場面に遭遇(そうぐう)したとき、「怒って、相手を怒鳴
ってやろう」と考える一方で、「よせよせ、そんなヤツ相手にしても、ムダ」と考えること
がある。

 「怒鳴ってやろう」と考えるのが、ここでいう行動命令ということになる。そして「よ
せよせ」と、自分をたしなめるのが、抑制命令ということになる。

 今、何らかの理由で、その抑制命令がきかない子どもがふえている。カッとなると、興
奮状態になり、突発的な行動に走ったりする。その動きが鋭いことから、まさに、「キレる」
という状態になる。

 今回のS県での事件を見ていると、(あくまでもマスコミによる報道の範囲内での話だ
が……)、犯行を犯した女子は、その抑制命令が、うまく機能しなかったのではないかと思
う。

 その原因については、これから追々、究明されていくだろう。社会不安がその背景にあ
るとも考えられるし、さらに環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障
害説を唱える学者もいる。さらに脳間伝達物質(セロトニン)の異常分泌説を唱える学者
(岩手大学、大沢教授ほか)もいる。

 昨日(6・5)の報道によれば、その少女は、何かの自己紹介で、映画『バトルロワイ
ヤル』が好きと書いていたという。ああした愚劣な暴力映画を、子どもたちの世界で野放
しにしておいた私たちにも、責任がないとは言えない。

 子どもの心を落ちつかせるためには、とりあえず、食生活に注意を払ってみたらよい。

 以前、「キレる」ことに関連して、こんな原稿を書いた。

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●躁状態における錯乱状態 

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君
は、まったく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が
突然、暴れ出した。突然というより、激変に近いものだった。

ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった机とイスを足でけって、ひっくり返
した。瞬間私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根
允文氏ほか)と位置づけられている。

躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五六〜一九二六)だが、
一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるい
はケースによっては、重複して起こることが多い。

それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声
でわめいたりする。(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは
怒りが充満した状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。
しかしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。

情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に、
不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定に
なる。

先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そうい
う緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、
一挙に情緒が不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気
を許さない。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな
表情をしながら、その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。

これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。一度こういう状態になると、「何を考
えているかわからない子ども」といった感じになる。 

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤
解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、
すなおな子どもという。

うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。
不愉快なときは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。

しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニ
コニコ笑ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に
従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。

この時期、よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。
このタイプの子どもは大きなストレスを心の中でため、ためた分だけ、別のところで心
をゆがめる。よく知られた例としては、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプ
の子どもは、外の世界では借りてきたネコの子のようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活
を何よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、
(1)濃厚なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カ
ルシウム、マグネシウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。

リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してし
まう。もちろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を
軽くすることも忘れてはならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ
(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出
し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした
上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つ
ため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で
溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

●人工的に調合するのは、不必要

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十
分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しよ
うなどということは、不必要なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加
えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしていると
いうのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いも
のへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

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3年ほど前に、こんな原稿を書いた。

東京都や、日本を代表する文化人として、東京都や
フランス政府から表彰されているBT氏を批判するのも
勇気がいることだが、しかしみなさん、もう一度、
本当にああいう人たちを、文化人と呼んでいいのか、
自分に問いかけてみよう。

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●映画『バトルロワイヤル』

暴力番組を考えるとき  

●まき散らされたゴミ

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり
一面にゴミをまき散らした……。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこ
かの島で、生徒どうしが殺しあうという映画である。

これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、一五歳未満の子どもの入場を規制した。
が、主演のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。
監督のF氏も、「戦前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しか
し本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間
団体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】一三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   一七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】一七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が一九六八年から始まっている。が、この日本では野放し。
先日もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。

子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」
母「お母さんは見ないからね」
子「ううん、ぼく、ひとりで見るから……」
母「……」と。

見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁
止のソフトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、
見境なく撃ち殺すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。
が、そのため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人
の理性と良識ということになる。

が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空洞化してい
る。言いかえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。先の
B氏のような人が、フランス政府や東京都から、日本や東京都を代表する「文化人」と
して、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。
そういうものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)
●テレビづけの子どもたち

「ファミリス」の調査によれば、小学三、四年生で四五・七%の子どもが、また小学五、
六年生で五九・三%の子どもが、それぞれ毎日二時間以上もテレビをみているという。

さらに小学三、四年生で七一%の子どもが、また小学五、六年生で八三・三%の子どもが、
それぞれ毎日一時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内一〇〇名の児童につ
いて調査・二〇〇一年)。

さらに二時間以上テレビゲームをしている子どもも、三、四年生で一九・三%、五、六年
生で四一・七%! 

これらのデータから、約六〜七割前後の子どもが、毎日三時間程度、テレビを見たり、テ
レビゲームをしていることがわかる。

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【終わりに……】

 同類の映画に、和製、アメリカ映画の『Kill Bill』がある。意味のない、ま
ったく意味のない、人を殺すだけの殺戮(さつりく)映画である。

 突発的に、キレ、突発的に、バサバサと人の首を切り落とす。手や足を切り落とす。そ
んな映画である。冒頭に、「この映画を、FK監督(バトルロワイヤルの制作監督者)に捧
げる」というような字幕が流れる。

 私も、美しいパッケージにだまされて(?)、そのビデオを借りてしまった。見てしまっ
た。

 あえて、批評しよう。

(1)子どもの前での殺戮(さつりく)

 二人の女性が、家の中で、殺しあう。そこへその中の一人の女性の娘が、学校から帰っ
てくる。で、二人は、殺しあいを停止する。実にわざとらしい演技。

 が、結局は、二人はまた殺しあう。最後に、一人の女性が、娘の母をナイフで殺す。

(2)暴力団の首を切り落とす

 一人の暴力団の親分が、新しい女親分を批判する。そういう会合の席で、突然、その女
親分が、キレて、テーブルの上におどり出たかと思うと、刀を振りまわし、その親分の首
を、ばさっと切り落とす。クビがゴロゴロと、テーブルの上で、ころがる。

(3)無駄な殺戮

 主人公が、ハットリ・ハンゾウという男に刀をつくってもらい、その刀で、暴力団と戦
う。相手は、数百人(?)。バッサバッサと、その相手を切り倒す。意味のない、まったく
意味のない殺戮、また殺戮。しかもどのシーンも、残虐(ざんぎゃく)!

 たしか舞台は、東京。季節は、夏とは言わないが、少なくとも、冬ではない。主人公の
女性がバイクに乗って、料亭へ乗りこむところまでは、冬ではない。しかし部屋を出ると、
そこは雪景色。最後は、その雪景色の日本庭園で、二人の女性が死闘を繰りかえす……。

(4)不自然な構成

 残虐シーンの連続もさることながら、ときどき、そういう殺戮を正当化するために、4
年前のシーンにもどる。途中、アニメで、ごまかす。

 「どうしてそこまで殺しあうのか?」という、疑問が、そのつど、現れては消える。構
成が、実に不自然。

 さらに、植物人間となって、病院で寝ている女性を、強姦(ごうかん)しようとするシ
ーンさえ出てくる。何とも、おぞましい発想。ぞっとするほど、おぞましい発想。人間が、
人として、最後の最後までしてはならない行為。それをつぎつぎと、見せつけられる。

 が、この映画には、『バトルロワイヤル』のように、映倫のアミはかかっていない。しか
しこんな映画を、子どもが見たら、その子どもは、どんな印象をもつだろうか。どんな死
生観をもつだろうか。

 学生時代、オーストラリアで、『風林火山』という映画を見た。日本の領事館主催の映写
会だった。

 半数が日本人だったが、残りの半数は、オーストラリア人だった。オーストラリア人の
子どもたちも、何割かいた。

 その映写会でのこと。

 サムライが、目に矢を受けて倒れるシーンがあった。その瞬間、会場に、ギャーという
悲鳴が走った。オーストラリア人の親たちは、あわてて子どもの目を押さえた。そのまま
あたりは、騒然となってしまった。映写会は、中止!

 日本では何でもない映画なのかもしれないが、オーストラリアではそうではない。そう
いう常識のちがいというか、どうすれば、日本も、そうした常識をつくることができるだ
ろうか。いろいろと考えさせられる。

 しかし……。一度、こわれた常識を取りもどすのは、容易ではない。今回のS県で起き
た、小学生による小学生の殺害事件の背景には、こうしたこわれた常識がある。それが原
因のすべてとは言わないが、関係ないとは、もっと言えない。私たちも、反省すべき点は、
おおいに反省しなければならない。

【母親たちへ……】

 子どもの心を守るのは、結局は、私たち一人ひとりの親であるということ。国でもない。
映倫でも、テレビ局でもない。私たち一人ひとりである。

 これはあくまでも、提案だが、こんなことに注意してみたら、どうだろうか。

(1)低劣番組(文化)の追放

 見るからに低劣なテレビタレントたちが、今夜も、夜の番組をにぎわしている。まずそ
の低劣性に、まず気がつこうではないか。

 一見、価値ある情報を流しているように見えるときもあるが、一度、「それを知ったから
といって、どうなのか?」という視点でながめてみてはどうだろうか。

(2)私たちの中にひそむ、隷属性に気づこう

 この浜松でも、「東京からきた」というだけで、何でもありがたがる傾向が、たいへん強
い。こうした隷属性というか、劣等感に、まず気がつこうではないか。

 私も、ああしたタレントの世界を知らないわけではない。しかし彼らは、いつも、こう
言っている。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。それが合言葉にもなっている。

 少し知名度があがると、地方へやってきては、お金を稼ぐ。

(3)「東京」という、関東地方の一地方都市文化

 日本では、東京という関東地方の一地方都市文化が、日本中の文化を牛耳(ぎゅうじ)
っている。このおかしさに、私たちは、まず気がつこうではないか。

 「中には……」という言い方はしたくない。しかしその大半は、私たちが手本としなけ
ればならないような文化ではない。低劣で低俗。日本人が本来的にもっているはずの、温
もりすら感じさせない。それに、まず気がつこうではないか。

 ただ一方的に、まさに洪水のように、東京から地方へ、巨大なマスコミのネットワーク
を通して、おかしな文化(?)が流れこんでくる。この異常性に、まず気がつこうではな
いか。

 少し頭が熱くなったが、こうした中央集権意識は、奈良時代の昔から日本人が、心の中
に、もっているもの。徹底的に、植えこまれたもの。

それを改めるのは、容易ではない。それはわかっているが、しかしこのまま何もしない
でいるというのも、これまたおかしなことではないのか。
(040605)


(3)心を考える  **************************

●ウソつきのサイン

 昔から、ウソをつく人(子ども)は、独特のジェスチャをすることが知られている。い
くつかを思いつくまま、あげてみる。

(1)視線を合わせない

 こちらに視線を合わせない。視線をそらす。反対にこちらの様子をうかがう。

(2)手や手先を、もじもじと動かす

 手先が、もじもじする。落ちつかない様子を示す。そわそわするのも、その一つ。

(3)不必要な返事を繰りかえす

 その場をのがれようと、あいまいな返事をしたり、不必要な返事をしたりする。

(4)声に元気がなく、張りがない

 自信のない様子を示し、声に元気がなくなる。声が小さくなることもある。

(5)語尾をごまかす

 語尾を、「うん」とか、「まあまあ」とか言って、ごまかす。あいまいな表現が多くなる。

 反対に、私たちが相手に好印象を与えようとするときは、ここに書いたことと逆のこと
をすればよいということになる。

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子どものウソ(中日新聞投稿済み)

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●ウソと空想的虚言

 幼児教育では、ウソをウソと自覚しながらつく虚言と、空想的虚言(妄想)は、区別し
て考える。

虚言というのは、自己防衛や自己正当化のためにつくウソだが、その様子から、それが
ウソとわかる。……わかりやすい。

母「誰かな? ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」
母「じゃあ、手を見せてごらん。手にお菓子のカスが残っているはずよ」
子「残っていない。ぼく、ちゃんとなめたから」と。

 これに対して、空想的虚言は、現実と空想の間に垣根がない。自分の頭の中に虚構の世
界をつくりあげ、それがあたかも現実のできごとであるかのように、ウソをつく。本人も
ウソをウソと自覚しない。まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつ
く。

こんなことがあった。

ある夜遅く、一人の母親から電話がかかってきた。そしていきなりこう怒鳴った。「今日、
うちの子が、腕に大きなアザを作ってきました。先生が手でつねったそうですね。どう
してそんなことをするのですか!」と。

そこで私が、「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを
言ってもらっては困ります。正直に言いなさい!」と。

 翌日、園へ行くと、園長のところに一通の手紙が届いていた。その母親が朝早く届けた
ものだ。読むと、「はやし先生が、うちの子どもに体罰を加えている。よく監視しておいて
ほしい。なお、この手紙のことは、はやし先生には内密に」と。

そこで私がその子どもをつかまえて、それとなく腕のアザのことを聞くと、こう言った。
「ママが、つねったから」と。私は何がなんだか、さっぱりわけがわからなくなってし
まった。そこでどういう状況でつねられたかを聞くと、その子どもは、こと細かに、そ
のときの様子を説明し始めた。

 英語に、『子どもが空中の楼閣を想像するのは構わないが、その楼閣に住まわせてはなら
ない』という格言がある。空想するのは自由だが、空想の世界にハマるようであれば注意
せよという意味である。

が、実際の指導で難しいのは、子どもというより、親自身にその自覚がないこと。この
タイプの子どもは、親の前や外の世界では、信じられないほど、よい子を演ずる。柔和
な笑みを絶やさず、むしろできのよい子という印象を与える。これを幼児教育の世界で
は、「仮面をかぶる」という。

教える側から見ると、心に膜がかかったかのようになり、何を考えているかわからない
子どもといった感じになる。が、親にはそれもわからない。別のケースだが、私がそれ
をある父親に指摘すると、「君は、自分の生徒を疑うのか! 何という教師だ!」と、反
対に叱られてしまった。

 原因は、強圧的(頭からガミガミ言う)、閉塞的(息が抜けない)、権威主義的(押しつ
け)な子育て。こういう環境が日常化すると、子どもは虚構の世界をつくりやすくなる。

姉妹でも同じような症状を示した子どももいたので、遺伝的な要素(?)も無視できな
い。が、原因の第一は、家庭環境にあるとみる。子どもの心を解放させることを第一に
考え、「なぜ、どうして?」の会話をやさしく繰り返しながら、ウソをていねいにつぶす。

頭から叱れば叱るほど、心は遊離し、妄想の世界に子どもを追いやることになる。



(4)今を考える  **************************

●YS−11

 今度、D社という出版社から、「世界の航空機100年物語」という雑誌が発売になった。
雑誌というよりは、おまけの金属製(ダイキャスト製)の模型のほうが主体になっている。
そんな雑誌である。

 今日は、その第二回の発売日。一回目は、イギリスとフランスが協同で開発した、コン
コルド。もちろん、それは買った。で、二回目の今日は、YS−11。戦後日本がはじめ
て開発した、国産旅客機である。

 はじめてそのYS−11に乗ったのは、八丈島から羽田までだった。私が24歳くらい
のときだった。なつかしいというより、大好きな旅客機。

機体の形は、ごくありふれたものだが、エンジンや尾翼、それにエンジン音が、独特。
ブーインというジェット音にまざって、金属的なビリビリという音。あのエンジン音が、
たまらない。ジェットエンジンでプロペラを回す、ターボプロップという方式の推進装
置を使っていた。

 朝、食事が終わると、ワイフに、「あとで本屋へ行ってみないか?」と声をかけると、そ
の雰囲気を察知して、「今度は、何?」と。

私「YS−11だよ」
ワ「何、それ?」
私「ほら、八丈島から羽田まで、乗っただろ。あれだよ」
ワ「フーン」

私「今度は、旅客機のケツーズだ」
ワ「何よ、それ?」
私「しり・―ズではなく、けつ・−ズだ」
ワ「あなたらしいわ」と。

 ワイフは、飛行機には、まったく興味がない。いつか「戦闘機はみんな、同じに見える」
と言ったことがある。いわんや、旅客機など、区別できるはずもない。

 が、今回、この旅客機シリーズを集めようと思ったのは、息子が、パイロットになると
言いだしたからである。……というのは、口実かもしれない。本当は、私がほしい。そう
いう私の気持の上に、たまたま息子の話が、乗っただけ……。

 ともかくも、これから本屋へ行って、それを買ってくる。ワイフのしたくができるまで
の、短い時間に、この日記を書いた。もうそろそろ、ワイフのしたくが終わるころ。では、
また、あとで……。


●買い物グセ

 夏場になると、がぜん多くなるのが、体をクネクネ、ダラダラさせる子ども。原因は、
いろいろある。

 クーラーなどによる、冷房のかけすぎ。睡眠不足。それに、甘いものの食べすぎ。

 この時期、どうしても、アイスやかき氷が多くなる。ジュースや、清涼飲料水などなど。
糖分のとりすぎが遠因となって、カルシウム、マグネシウム、カリウムなどの不足を引き
起こす。

 だいたいにおいて、世の母親たちよ、ものごとは、常識で考えてみようではないか。

 体重12キロの子どもに、缶ジュース一本を与えるということは、体重60キロのおと
なが、5本飲む量に等しい。それだけ多量のジュースを一方で、与えておきながら、「どう
してうちの子は、小食なのでしょうか」は、ない!

 ……というような話をすると、ほとんどの親は、自分の愚行(失礼!)に気づく。そし
て、こう言う。「では、今日から、改めます」と。

 しかし、問題は、この先。

 しばらくの間は、母親も注意する。しかし数週間から1か月、2か月もすると、また、
もとにもどってしまう。もとの食生活にもどって、また子どもに、甘い食べ物を与えてし
まう。

 思考回路がそうできているからである。つまり、この思考回路、それにもとづく行動パ
ターンを変えるのは、容易なことではない。

 買いものに行くと、また同じ、ジュースだのアイスを買い始めてしまう……。

 では、どうするか。

 こうした思考回路を変えるためには、ショックを与えなければならない。「ショック」で
ある。

 話は、かなり脱線するが、昔は、チンドン屋というのがいた。新しい店ができると、そ
この経営者がチンドン屋を雇い、そのチンドン屋が、そのあたりをぐるぐると回った。

 私たち子どもは、それがおもしろくて、いつまでも、そのチンドン屋について歩いた。

 つまりそうすることで、もちろんその店の宣伝にもなるが、そのあたりに住む人たちの、
行動パターンを変えることができる。たとえば人というのは、一度、ある店に行き始める
と、その行動パターンを変えるのは、容易なことではない。

 「お酒……」といえば、「A酒屋」と。
 「お米……」といえば、「B米屋」と。

 そこで新しくできた店は、そのあたりの人たちがもつ、そういう意識、つまり行動パタ
ーンを変えなければならない。それがチンドン屋というわけである。

 たしかにあのチンドン屋は、ショックを与えるという意味では、効果がある。派手な服
装に、派手な鳴り物。それに踊り。チンチン、ドンドンと音に合わせて、踊りながら回る。
そのあたりの人たちは、それを見て、自分の行動パターンを変える……。

 では、どうするか?

 あなたには、あなたの買い物グセがある。その買い物グセをなおすには、どうするか。

 もうおわかりかと思うが、その行動パターンを変えるためには、自らにショックを与え
ればよいということになる。ショックを与えて、自分の行動パターンを変える。

【一つの方法】

 今すぐ、冷蔵庫の中にある、甘い食品(アイス、ジュース、プリンなど)を、すべて袋
につめて、捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、心を鬼にして、捨てる。

 この「もったいない」という思いが、ショックとなって、あなたの意識、行動パターン
が変わる。

 こういうとき、「つぎから、買うのをひかえればいい」とか、「もったいないから、食べ
てしまおう」と考えてはいけない。そういうケチな根性をもつと、またすぐ、もとの買い
物グセにもどってしまう。


●フィッシング詐欺

 ある日、突然、架空の請求書が送られてくる。たいていはハガキだが、最近は、どこか
の銀行からのハガキを装ってくるものもある。印刷も、このところ高級化している。

 もちろんインターネットのメールでくることもある。

 「貴殿の債務が未払いになっているので、至急、2日以内に、連絡されたし」と。

 「2日以内」というのは、「それ以後は、逃走する」ということか。警察の手が回る前に、
逃げようという魂胆である。

 また「連絡されたし」というのは、こちらのメールアドレスを確認したり、電話番号を
知るためである。

 こういうのを、この世界では、フィシング詐欺という。魚釣りのように、善良な人を、「釣
る」ところから、そう呼ばれている。

 で、こうした詐欺にひかかる人は、約3%(週刊「A」パソコン雑誌・アメリカでの調
査)だそうだ。つまり1000通出して、約30人の人が、それにひかかるという。

 「強制執行する」とか、「財産を差し押さえる」とかあるので、事情を知らない人は、あ
わてて連絡をしてしまう。そしてあとは、先方が言うままに、お金を所定の銀行に振り込
んでしまう。

 被害額はよくわからないが、10〜30万円前後だと言われている。それ以下のときも
あるし、それ以上のときもある。

 で、こうして計算してみると、ハガキ一枚のコスト(印刷代+郵送料ほか)が、100
円かかるとして、1000通で、10万円。3%の人が、こうした詐欺にひかかるとして、
10万円x30=300万円。ワルは、差し引き、290万円を手にすることになる。

 ワルには、たまらない額らしい。1万通出せば、ナ、何と、2900万円のもうけ!

 そこで善良なる私たちは、どう自らを守ったらよいのか。

 その一。こうした請求書(督促状、催促状、支払命令書)などは、無視する。一応、保
管はしても、そのハガキに書いてある電話番号に、絶対に連絡をしてはいけない。電話を
したとたん、相手に、あなたの電話番号がわかってしまう。あなたがお金を払うまで、あ
なたに、執拗に、電話をかけてくる。

 同じように、最近、多いのが、スパムメールと呼ばれるメール。【未承認広告】というの
も、それ。

 一応、善良な会社を装っていることが多いが、本当に善良な会社なら、こうした宣伝方
法を使わない。

 で、メールを読むと、「次回から、このメールを不要な方は、xxx@xxxxx・xx
まで返信してほしい」とある。

 しかしこれも決して、返信してはいけない。相手は、あなたのはるか上をいく、ワルで
ある。そんなことで、あなたのアドレスを削除するような連中ではない。そんな誠意など、
ひとかけらも持ちあわせていない。

 へたに返信したりすると、あなたのアドレスが生きていることがわかり、さらに別のと
ころで、別のワルに利用されたりする。

 さらに最近では、差し出しアドレスをつぎつぎと変えてくるスパムメールも、登場して
いる。いくらアドレスにフィルター※をかけても、つぎつぎと同じようなメールが届く。

 要するに、こうしたメールやハガキは、無視する。最初、なれないうちは、心のどこか
に不快感が残るものだが、やがてそれも消える。大切なことは、無視して、相手にしない
こと。

 しかし本当にいやになる。どうしてこういうワルが多いのか。しかもつぎつぎと、新し
い方法を考えて、やってくる。
(※フィルター……着信と同時に、そのアドレスからのメールを削除する機能。)


●全体主義と中央集権意識

 全体主義イコール、中央集権国家と考えてよい。

 日本は、奈良時代の昔から、中央集権国家をつくってきた。この方式は、一つの「国」
として統治するには、効率的で便利だが、もちろん弊害もある。

 もっとも日本に生まれ育ち、日本の中だけで暮らしていると、それがわからない。私が
それを知ったのは、私が学生として、オーストラリアへ渡ったときのことだった。

 こんなことがあった。

 オーストラリアには、『ウオルチング・マチルダ』という、よく知られた歌がある。以前
は、第二国歌としても、歌われていた。

 その歌について、ある日、南オーストラリア州に住む友人の父親が、こう言った。

「ヒロシ、それはNSW州の歌だよ。ここでは歌わない」と。

 もともと、オーストラリアの各州は、別々の国だった。それがいつか、一つの国、つま
りオーストラリアになった。そういういきさつもあって、今でも、州ごとの独立精神は、
旺盛である。私がオーストラリアにいたころは、鉄道ですら、州によって、その線路の幅
が異なっていた。

 アメリカも事情が、似ている。

 こうした違いにふれてはじめて、日本のことがわかる。……わかるようになる。

 私も、この浜松市という、地方都市に住んで、35年になる。若いころは、ほとんどの
仕事を、東京という舞台でしていた。しかしその浜松市。東京への隷属性は、まさに特筆
すべきものがある。

 地理的には、名古屋に近いし、名古屋の経済圏にあっても、何らおかしくない。しかし
浜松の人の目は、すべて(ホント!)、東京に向いている。こんなことがあった。

 昔、近くに、幼児教室ができた。「東京の幼児教室で使っている教材を、そのまま使って
いる」というのが、うたい文句だった。派手な新聞広告。4色刷りの案内書。それについ
て、ある母親が、私のところにやってきて、こう言った。

 「あのEという幼児教室では、東京の幼児教室で使っている教材を使っているんですっ
てねえ。先生(=私)のところで、使っていただけませんか」と。

 バカめ!

 その教材(G社のMくん)を作ったのは、この私だ!

 しかもその幼児教室では、その教材の説明書に書いてある、私の名前をわざわざ、消し
て使っていた! よくあることである。

 かく言う私も、あるとき、自分の中の隷属性に気づいたことがある。隷属性というより
は、自分の限界かもしれない。

 私はある時期、毎週のように母親教室を開いていた。しかしその母親たち。雑誌や週刊
誌に書いてある記事は、信用する。しかし現場の教師たちの意見には、ほとんど耳を傾け
ない。私の意見など、まさに論外。

 当時は、まだそういう時代だった。

 で、私は気がついた。「こうした母親たちを説得するためには、中央で、意見を発表する
しかない」と。

 だから20代、30代のころは、東京を中心に、ものを書いたり、教材の制作をしたり
した。

 ……という過去を振りかえりながら、今でも、こう思う。

 中央集権的な意識をもてばもつほど、結局は、自己否定につながる。世の親たちは、そ
して日本人は、いつになったら、それに気づくのか、と。まあ、それが無理としても、も
う少し、地方がもつ価値というか、それに気づいたらよいと思う。

 読者の中には、東京に住む人も多いから、こう書くと反発する人もいるかもしれない。
しかし何も、東京だけが、日本の都市ではない。日本の文化でもない。私たちは、まず、
それに気がつくべきではないのか。


●マガジン読者

 このところ(6月上旬)、電子マガジンの読者が、ほとんどふえない。

 そろそろ、私のマガジンもあきられてきたようだ。

 そのせいか、書く意欲が、どんどん減退している。しかたのないことだ。で、それに反
比例して、楽天の日記や、友人が発行しているマガジンへの投稿がふえてきた。

 中には、熱心に読んでくれている人もいるようだ。ときどき、励ましのメールが、届く。
が、それ以上に、苦情のメールも多い。「量が多すぎる」「読みづらい」「前に読んだ原稿と
同じのは載せないでほしい」と。

 新しいマガジンを発行して、再出発をしようかとも考えている。あるいは、本を書く仕
事にもどろうかとも……。

 2年以上つづけてきたマガジンだが、どうやらこのあたりが、限界かもしれない?

 このところ、いろいろ考える。近く、自分なりの結論を出すつもり。何か、よいアイデ
アはないものか?

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.こんにちは!(″ ▽ ゛  ○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 7月 2日(No.430)
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HTML(カラー・写真)版もどうぞ! (毎週月・水・金発行)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page038.html
(↑……ここをクリックしてくださると、HTML版を、お楽しみいただけます。)
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(1)子育てポイント**************************

●過関心は百害のもと

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。

「学校の席がえをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、
(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子ども
に対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行って
くれないか」と。

その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境
が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、
むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがつ
いているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。

ある夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子ども
に恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。

その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二
年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを
知らなかった。

 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないか
ということ。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらに
こうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそ
んなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息が
つまるだろう。

教育は『まじめ七割、いいかげんさ三割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の
部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子
どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズ
まるけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれ
を自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。

へたな口出しは、かえって子どもの成長をさまたげる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、
心の問題をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。

中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに
無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理を
すればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。

しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて
気がつく。その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところ
がわかっていない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言っては
ねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを
繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出
てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその
状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗み
や、夜遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はま
ずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的
な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、
決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく
子どもいる。

しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自
身を振り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになった
だろうか。あるいはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そ
うでないなら、あまり子どもには期待しないこと。

昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれ
ないが、子育てというのは、もともとそういうもの。

(2)今日の特集  **************************

【平等とは……】

●アメリカの実情
 
 SKさん(二児の母親)から、こんなメールをもらった。改めて、「平等とは何か?」、
それを考えさせられた。

++++++++++++++++++++

日本の学校、アメリカの学校。自由と平等。いろいろとらえ方があって、
どっちがいいって簡単にはいえないことだと思います。どちらもにも
利点、不利点があるでしょうから。

私は小学3年から中学2年までアメリカはN州で
生活しました。英語ができない状態で、現地校に放りこままれ、
たくましく大きくなりました。中2で帰国する時には、日本語が
あやしくなっていました。(言語発たちの、大事な時期ですね。)

当時はレーガン大統領の時代。アメリカがいろんな意味でキラキラ
していて、夢があった頃だと思います。でも、経済的に苦しくなり
つつあって、教育費は年々カットされました。先生方がしょっちゅう
授業をボイコットをしていたのを覚えています。

先生のお話にもあったように、あちらでは、町が変われば学校の
あり方が違う。PTAが多くの権限をもち、あらゆる教育内容に
発言するんですよね。

5年間の生活で、最初の2年間を過ごした町では、あまり教育熱心な
町ではなく、ブルーカラーの人、アイリッシュがとても多いところでした。
そちらの町では、学校の予算が削られて、小学校は3年生でおわり、
4、5、6、7が middle school、8学年以降が high schoolあつかいでした。

で、途中で引越、残りの3年を過ごした町はとても教育熱心な町でした。
このRMという町には、6年生以降、8年生まで学校生活を経験
しました。

7年生からは、あらゆる科目が5段階にレベル分けをされていました。
ホームルームは一緒でも、時間割はみな、ちがっています。習う科目と
レベルが、みな、違うんです。

で、全教科レベルが高いところで学習している生徒は、目の前に
「飛び級」がちらついてくる。一番下のところに降ろされている子は
「ドロップアウト」が見えてくる。

どのクラスも、要求されている学習レベルが明確だから、「ドロップアウト」
するべき瞬間が誰の目にも明らかなんですよね。子どもにとっても。
「進級する」のも同じ。

同じ学年で、同じ English教材で学習をしていても、トップレベルのクラスで
扱う新出単語が30個ならば、下のレベルでは、20個だったりするわけです。

私が過ごしていた町では、トップレベルのクラスに入っている子たちは
特別なクラブ活動に参加していました。 Enrichmentと呼ばれたり、
Class for the gifted and talented という名称がつけられていたりしました。

こうやって、エリート意識を、小中学生の頃から植えつけて、切磋琢磨させて
いるんです。毎朝、1時間早めにきて、ディベイト、学校新聞作り、
株と経営、地元学校対抗クイズ大会の練習など、するのです。

で、これらの活動に参加しているお子さんたち、たいていのご父兄が
PTAに中心的に活動していて、学習内容、学習レベルを細かに
チェックしているのです。ご父兄も、お医者さんやら弁護士さんやら
いわゆる「エリート」のお仕事に従事されている方ばかりです。

アメリカの、そういうPTAで幅を利かせている方々というのは、
先生を巻きこんで、自分の子どもたちが、もっともいい教育が受けられる
道を歩めるようにアクションを起こしていくんですよね。

飛び級しかり、Enrichment のような活動しかり。(これはどの町の
学校にもあるシステムだと思います。規模の大小、ありますが。)

大学進学に必要なSAT(Scholastic Assessment Test、
アメリカ大学学部課程への入学適性を審査する学力診断テスト)、
あれも、何度も受ければハイスコアが確実に
見えてくるシステムのテストです。Enrichmentの活動に参加している子たちは
中学2のときから毎年のようにSATを受ける権利がもらえているのです。
そうなれば最終的にハイスコアを提出しやすいですよね。

私も、全教科、トップレベルのクラスにいれてもらっていたので、
Enrichment を通して、たくさんの面白い経験をさせてもらいました。
(校外学習など、いろんなプログラムが準備されているのです。)
私の場合は「英語が第二言語である」というところが、giftedであると
理解されていたようです。

アメリカでは喜んでドロップアウトする。ドロップアウトを受け入れる
授業編成とカリキュラムが組まれているからだと私は理解しています。
でも、もし Enrichmentのようなプログラムからはずされるとなると、
半狂乱になる親はいたと思います。とくに一度英才教育をうけた子どもたち
には、とても酷なことでしょう。

よく私の母がつぶやいていました。「個々人の能力に応じた教育の機会を
与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできるだけ感じさせないように
して、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等。」

どっちが、平等なんでしょうか? 

日本でいうところの、「コース」っていうのは、一体何ものなんでしょう。
人々が過去に歩いて作った道、のことですよね。昔からある道に
安心しているから、その上を歩くんですよね。疑いもしないで……。

学校の先生さまにお任せして、文科省のてがける教科書さえこなして
いればいい、っていう、日本の親の、甘えがあるんですよね。
日本の親は、学校現場に参加していかない。むしろ、「学校に任せて
おけばいい」と、子どもの教育を放棄していく。だから、突然の「ドロップアウト」
宣言に、半狂乱になるんだと思うんですよね。

もちろん、本当は、突然ではないのでしょうけれど。なんとなく先生と
学校と教科書(文科省)にお任せしているから、突然の通たちに
「反応」できないんですよね。

アメリカのように学校、教科書に信頼がないから、PTAが決めていく。
だからフリースクールが増えていく。そうなると団体行動、社会活動を
学ぶ機会は、ここで大幅に縮小していきます。そういう意味では、
アメリカの学校現場が、健全かどうかというのも疑わしいと思うんです。

コースから外れることへの不安。その不安が、子どもたちの学習内容に
つながっていくエネルギーに代わっていくといいと思います。学習内容
3割削減後、すこし振り子が戻ってきたように。

親と子ども、子どもと学校、先生と子ども、先生と親。
もっと信頼関係のパイプが太く、安心できるものになりますように。

++++++++++++++++++++

【SKさんへ……】

●日本とアメリカ

 去年、アメリカのS州立大学(アーカンソー州)へ行ったときのこと。何とそこには、
15歳の大学生がいました。

 アメリカでは、そこまでできるのですね。アメリカでは、珍しいことではありません。

 が、当の教授や学生たちは、みな、「かわいそうだ」と。

 その15歳の少年は、大学にはいるものの、友だちができないからだそうです。もちろ
ん勉強するだけの、学生生活(?)。一人の大学生は、こう言いました。「それぞれの年齢
で、もっとふさわしいことを楽しむべきだ」と。

 いろいろ意見は、あるようです。

 そうそうもう一人、その大学で講師をしている人の息子(12歳)ですが、学校へは行
かず、自宅で、父親と勉強している子どももいました。住所と名前を教えてもらったので、
一度会いたいと連絡をしたのですが、たがいに時間がとれなくて、そのまま私は、日本へ
帰ってきてしまいました。

 それについても、一人の大学生は、「かわいそうだ」と言いました。

 アメリカでは、学校へ行かず、自宅で勉強できるホームスクール制度というのが、発達
しています。開拓時代からの名残というか、伝統というか……。もともと広大な国なもの
ですから、「学校」に対する考え方や概念も、日本とは、かなりちがうようですね。

 現在、推定で、ホームスクーラーの数は、200万人を超えたとされています。いろい
ろと事情があって、そういう制度が発達したのでしょうが、その子どもについて、「子ども
の意思を無視してまで、学校へ行かせないというのは、かわいそうだ」と。

 STさんが、ご指摘の「平等」についての考え方には、正直言って、少なからず、ショ
ックを受けました。

 「個々人の能力に応じた教育の機会を与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできる
だけ感じさせないようにして、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等」と
いう部分です。

 もともと日本とアメリカとでは、教育の視点がちがうようですね。日本では、「国あって
の民。そのための教育」と考えるようです。

 一方、アメリカでは、あの開拓時代から、教育(子どものための学校)は、自分たちが
作るのだというふうに考えるようです。「民あっての、教育であり、国」という考え方なの
ではないでしょうか。

 さらにこの日本では、明治時代以後、いわゆる『従順でもの言わぬ民』づくりが、教育
の基本であったことも事実です。もちろん教育は、だれの目にも必要だったし、日本の社
会を変えるという意味では、重要な機能を果たしました。

 (最近になって、「現在の日本の繁栄は、そうした明治時代の人たちが築いた基礎があっ
たからだ」と主張する人がいます。しかしその途中で、日本全土が、空襲で焼け野原にな
ったことも、忘れてはなりません。

 そういう人たちは、敗戦直後、日本が焼け野原になったときは、何と言っていたのでし
ょうか。日本人は、いつも結果だけをみて、過去を判断します。仏教というより、チベッ
ト密教的な宗教観が、根底にあるからではないかと思っています。)

 だから日本では、教育は、いつも、国(上)から与えられるもの、一方、アメリカでは、
教育は、いつも、民(民衆)のほうから作りあげていくものと考えるようです。しかしこ
のちがいは、大きいですね。

 私も、アメリカでは、ごくふつうの公立小学校が、勝手に、入学学年と卒業学年を定め
ているのを知り、驚きました。「うちは満4歳児から入学させ、小学3年生で卒業させる」
と、です。「州政府から、指導はないのですか」と、私が聞くと、「一応、学習6領域につ
いての指導はある。しかしその基準は、きわめてゆるやかなものだ」(P小学校校長)との
こと。

 知れば知るほど、ウーンと、考えさせられることばかりです。

 話は変りますが、意識というのは、そういうものなのですね。日本で生まれ、日本で育
つと、いつの間にか、教育とは、学校とは、そういうものだと教えこまれてしまう。そし
て、その上で、意識というか常識まで、作られてしまう。

 立場は逆になりますが、先日もテレビを見ていたら、隣のK国の大学生たちが、こう言
っていました。

 「私たちは、自由です。平等です。今は経済的に苦しいときですが、すばらしい国に生
まれて、幸福です」と。

 本気でそう思っているのか、それとも、何かの圧力があって、そう言わせられているの
かは知りませんが、そのときも、やはり、ウーンと、考えさせられてしまいました。

 そこで、改めて平等論です。
 
●平等

 「能力の差」を認めるのが、平等なのか。「能力の差」をわかりにくくするのが、平等な
のか。

 しかしこの問題は、すべての教師が、学校という教育現場で、日夜悩んでいることでも
あるようです。

 能力があり、勉強ができる子どもについては、もっと伸ばしてやりたいと考える。しか
しその一方で、勉強が苦手で、できない子どもについては、できるだけ本人が、それを苦
しまないようにしてあげたいと考える。

 能力のある子どもについては、伸ばしてあげるのが、平等。能力のない子どもについて
は、できるだけ本人がキズつかないようにしてあげるのが、平等、と。

 具体的には、私のばあいは、能力のある子どもは、どんどんと飛び級をさせています。
本人の知的好奇心を、満足させてあげる。(決して、エリート意識をもたせるということで
はありません。中には、不必要なエリート意識をもってしまう子どもも、いるにはいます。
勉強ができない仲間をバカにしたりする、など。)

 そして勉強ができなくて苦しんでいる子どもには、復習を中心とした学習に切りかえる。
ときに励まし、ときにほめ、ときになぐさめてあげたりする。

 日本の教育法がよいとか、アメリカの教育法がよいとかいうのではないですね。教育を
支える背景そのものが、ちがいます。

 日本では、学歴が、ものをいう。最近でこそ、かなり様子が変ってきましたが、それで
もものをいいます。こうした学歴を、会社を定年退職してからも、ぶらさげていばってい
る人は、いくらでもいます。

 一方、アメリカでは、学歴というよりも、プロ根性。プロ意識。大学生でも、学歴をも
つために勉強するというよりは、その道のプロになるために勉強するという意識が強い…
…?

 昨年も、アメリカの大学を訪れた、東大のある教授が、こう言って驚いていました。

 「休み時間になると、学生たちが列をつくって、教授室の前に並ぶんですね。みな、質
問だの、相談だのを、教授にするためです。日本では見たことがない光景だけに、驚きま
した」と。

 勉強する意識というか、目的そのものがちがう。だから当然のことながら、「平等」に対
する考え方も、ちがいます。それにつけ加えるなら、平等であるから、よいということに
もならないのではないでしょうか。

 みんながリーダーになっても困るし、かたやみんなが、従属者になっても、困る。社会
をつくるためには、たがいの役割をそれぞれが自覚し、ある種の調和を保たねばならなり
ません。それにだれしも、リーダーになることを望んでいるわけではない。またリーダー
になったからといって、幸福になれるというものでもないですし……。

 ただ親の心としては、こういうことは言えます。

 自分の子どもが優秀(?)であるときには、アメリカ型の平等のほうが、よいと考える。
一方、自分の子どもがそうでない(?)ときは、日本型の平等のほうが、よいと考える。
このことは、子どもの自身にとっても、そうではないでしょうか。

 自分の能力を伸ばしきれず悶々としている子どもは、いくらでもいます。そういう子ど
もにとっては、(親にとってもそうですが)、日本の教育は矛盾だらけです。

 一方、がんばってもがんばっても、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子ど
もも、いくらでもいます。そういう子どもにとっては、(親にとってもそうですが)、日本
の教育は矛盾だらけです。

 そこそこにふつうの子ども(?)だけが、そこそこに満足する。それが日本のでいう「コ
ース」の本質ではないかと、私は思っています。もちろんその背景には、日本人独得の集
団意識、さらには、長くつづいた封建時代とそれにつづく、学歴社会があります。

 日本人は、みなとちがったことをすることを、極端に恐れます。あるいは自分自身も、
自分とちがったことをしている人を、排斥しようとしたりします。こうした意識が、コー
ス意識となっているわけです。

●これからの日本

 ご指摘のように、日本は、今、多くの問題をかかえています。なおすべきところも多い
と思います。

 アメリカも、そうです。アメリカの教育が、すべてよいわけではありません。アメリカ
はアメリカで、多くの問題をかかえています。

 しかし日本にせよ、アメリカにせよ、教育の原点は、一つです。子どものために、子ど
もの立場で、子どもの未来を考えて、組みたてる、です。そのためにどうあるべきかを考
えます。

 子どもを決して、国家の道具にしたり、国家につごうのよいように、作ってはいけない
ということです。国がどうあるべきかは、子どもたちが、将来、子どもたち自身が決める
ことです。またそういう「自由」は、最後の「砦(とりで)」として残しておいてあげる。
それが子どもを育てる私たちの責務であるように思います。

 そういう点では、今の日本の教育には、改善すべき点は、多いと思います。が、先にも
書いたように、日本に生まれ、日本で育っていると、それがわからない。が、アメリカの
教育をのぞいてみると、それがわかる。そういう意味で、SKさんからいただきました情
報は、本当に役にたちました。ありがとうございました。

 これからもよろしくご指導ください。重ねて、お礼申しあげます。
(はやし浩司 アメリカの学校 アメリカ 小学校)
(040601)


【KSさんからの追伸】

はやし先生

KSです。いろいろ、こちらも考える機会をいただいて、
また、自分の経験してきた学校生活を整理することも
できまして、感謝しております。

さて、どうぞ、マガジンに掲載してください。また
一緒に考えてくれるリーダーが、ふえてくれるのを
楽しみにしております。

【はやし浩司よりKSさんへ(2)】

 昨夜、ビデオショップの宣伝につられて、『Kxxx Bxxx』という、和製、アメリ
カ映画を見ました。

一人の若いアメリカ人女性が、自分の夫や子どもを殺されたことを復讐するため、単身、
日本へ乗りこんできて、日本刀で、バサバサとギャングを切りまくるという映画です。

 評価はいろいろあるでしょうが、私にとっては、見るに耐えないというか、ダ作の中で
も、超ダ作。何とか批評をしたいと思って、ほとんど終わりまで見ましたが、最後は、あ
きれて、カセットを取りだしてしまいました。

 突発的にキレて、相手のクビを切り落とすシーンなどもありましたが、娯楽と言うより
は、意味のない、サツバツとした殺戮(さつりく)映画。おまけに構成は、バラバラ。

 おかしな理由づけのために、4年前のシーンに、突然もどったり。冒頭の二人の女性の
格闘シーンの最中では、子どもが学校から帰ってきて、格闘は中断。そのあと、結局は、
その子どもの前で、母親をナイフで、刺し殺してしまったり……。

 まあ、はっきり言って、メチャメチャ。

 私は、その映画を見ながら、「日本の映画も、この程度なのかな」と思ってみたり、「こ
れで完全に、韓国映画、インド映画に敗れた」と思いました。あるいは、「どういう人たち
が、こんな映画をおもしろいと思って見るのかなあ?」とも。

 そう、韓国映画の充実ぶりは、すごいですね。あちこちの大学にも、演劇科があり、い
わゆるアメリカ流の(自然な演技)を、指導しています。

 かたや日本は、どうか? 一部の文化的権威者(たいていは、マスコミで売れている著
名人)が、頂点に君臨し、「これが映画です」というような映画ばかり作っている。この「K
xxx Bxxx」も、その一つかもしれません。

この映画は、まさに日本の(映画文化)を、象徴していると思いませんか。

 いまだに、日本を、外国から見ると、「奇異な国」という感じがします。「どこか、おか
しい」「どこか、ふつうでない」という感じです。外国から見ると、どうもわけがわからな
い。日本人の表情が見えてこないというか、人間性が伝わってこないというか……。

 その(おかしさ)(ふつうでなさ)に、いつ私たち日本人が気づくかということです。で
ないと、いつまでたっても、日本人は、「異質な民族」として、世界のスミに追いやられて
しまうのではないでしょうか。

 「Kxxx Bxxx」を見ていて、それを強く感じました。

【追伸】

●飛び級について

私は、私の生徒について、よく飛び級をさせる。子ども本人に、その能力があり、やる
気があり、そのとき、どんどん伸びている状態のときは、飛び級をさせる。

 今までに、小学5年生の子ども(OI君)を、高校1年生のクラスで教えたことがある。
小学4年生子ども(NK君)を、中学3年生のクラスで教えたこともある。現在の今でも、
2〜4年、飛び級している子どもは、10人近くいる。

 その飛び級をさせるとき、いつも悩むのは、その子どもの能力というより、つぎの2点
である。

(1)精神力は、じゅうぶんあるか?
(2)人格は、どうか?

 飛び級というのは、子ども自身が納得していないばあいは、してはいけない。子ども自
身が、それを望んでいれば、よし。そうでなければ、飛び級しても、長つづきしない。私
や親だけの意向で決めてはいけないということ。

 子ども自身が納得しているばあいには、それが精神力となって発揮される。

 反対に、精神力がじゅうぶんでないと、何かのことで、つまずいたようなとき、それが
挫折感となって、子どもにはねかえってくる。

 飛び級のこわいところは、ここにある。

 飛び級したあと、学力の伸びが停滞するときがある。そういうとき、教える側は、「また
もとの学年にもどしたい」と考える。しかしもどすのは、簡単ではない。親が、猛烈に反
発する。子ども自身も、大きく、キズつく。

 だから精神力がじゅうぶんでない子どもは、安易に飛び級させてはいけない。

 つぎに飛び級をさせると、中には、おかしなエリート意識をもつ子どもがいる。エリー
ト意識をもつ一方で、おかしな優越感をもつ。そしてほかの子どもをバカにしたり、軽ん
じたりする。

 そういう子どもに接すると、人間的な嫌悪感を覚える。で、私はそういう子どもの、横
柄な態度をいましめるのだが、それで自分を改める子どもは、まず、いない。そのときは、
「ごめん」とか、「わかった」とか言うが、またしばらくすると、「お前は、ぼくより年上
なのに、こんなこともできないのか! バカだなあ」などと、平気で言ったりする。

 「勉強さえできれば、優秀」と思いこんでいる子どもについては、いくら勉強がよくで
きても、そんなわけで、飛び級させることに、どうしても慎重にならざるをえない。


(3)心を考える  **************************

●やる気

 私の家の前には、小さいが、こんもりとした森がある。

 その森には、二羽のキジバトが、つがいで住んでいる。このあたりに住む、野生のキジ
バトである。

 このキジバトに、エサをやるようになって、もう20年以上になる。毎日というわけで
はないが、ときどき、エサを庭にまいていやっている。

 そのキジバトだが、平和な鳥だ。スズメやヒヨドリとも、仲がよい。ツグミや、モズと
も仲がよい。ただカラスがくると、どこかへ逃げていく。

 で、そのキジバトで、今朝、こんなことに気づいた。

 ほかのキジバトが、私の庭へやってくると、どこで見ているのか、すかさずやってきて、
その侵入者のキジバトを、追いはらう。いわゆる縄張り争いというのである。

 その縄張り争いを見ていたときのこと。

 明らかに侵入者のキジバトのほうが、力があると思われるようなときでも、その森に住
んでいる先住者のキジバトのほうが、追いだしてしまうのである。なぜか?

 つまり先住者のキジバトは、侵入者のキジバトが庭に入ってくると、本気で、それに立
ち向おうとする。一方、侵入者のキジバトは、どこか「ちょっと来てみただけ」という雰
囲気である。

 つまり追いはらうキジバトは、真剣。一方、追いはらわれるキジバトは、どこか遊び。
このちがいが、どうやら勝敗を決めるらしいということ。

 私は、それを見ながら、人間の社会も、それと同じと思った。

 つまり真剣に生きるものが、最後には勝つ。

 わかりきったことだが、キジバトの世界を見ていて、改めて、それを確認した。

 たまたま日本のサッカーの代表チームが、明日の対イギリス戦にそなえて、練習してい
る風景が、テレビで報道された。

 私はそれを見ながら、「サッカー選手たちも、こうした対外試合を通して、さらに技術が
磨かれるのだな」と思った。国際試合ともなると、選手も真剣になる。その真剣さが、さ
らに技術を磨く、と。

 心のどこかで、キジバトと、サッカーがダブった。


●行動パターン

 人間には、思考パターンというものがある。

 ある一定の思考方法を繰りかえしていると、いつしか、その思考パターンにそって、も
のを考えるようになる。

 わかりやすい例では、行動パターンがある。

 犬のハナのことだが、夏になったので、小屋の位置をかえてやった。そのときのこと。
私がハナを呼ぶと、ハナは、実におかしな歩き方をして、私のところにやってくる。

 まっすぐ私のところに走ってくればよいものを、庭のキーウィの木々の間を、「S」字型
に、くねくねと、わざと大回りをしてやってくる。

 最初は、「?」と思ったが、それまでハナの小屋は、別のところにあった。そこに小屋が
あったときは、そのコースが、最短距離だった。つまりハナは、小屋の位置がかわっても、
以前と同じ行動パターンを繰りかえして、私のところにやってきたことになる。

 一度、この思考パターンができると、それをかえるのは、容易なことではない。

 たとえば私は何か問題が起きると、すぐ文章を書いて解決しようと考える。多分、暴力
団の男は、暴力を使って解決しようとするだろう。それと同じである。

 言いかえると、私たちの脳ミソの中には、こうした思考パターンが無数に入っている。
それが悪いというのではない。それがあるから、大半の行動は、スムーズに進む。流れる。
もしそれがなかったら、そのつど、いちいち、迷わなければならない。

 が、問題は、こうした思考パターンにとらわれすぎるあまり、新しい考えを拒絶してし
まうようなケースである。脳ミソそのものが、硬直しているとみる。

 それは避けなければならない。つまりそのためにも、いつも頭を使い、柔軟にしておか
ねばならない。

 犬のハナを見ていて、今日、それに気づいた。


●遊離

 表情と心(情意)が、一致する。何でもないことのようだが、つまりそれが自然な形で
できる子どもにとっては、何でもないことのようだが、そうでない子どもには、そうでな
い。

 うれしいはずなのに、それが表情となって出てこない。悲しいはずなのに、それが表情
となって出てこない。

 心が変調し始めると、子どもは、いわゆる(何を考えているかわからない)といったタ
イプの子どもになる。教える側からすると、心がつかめなくなる。

 静かで、おとなしい。表情も、ほとんど、変えない。たいていは、どこかニンマリと笑
ったような表情になる。怒ったり、笑ったりすることもない。大声で騒いだり、意見を言
うこともない。

 かん黙症の子どもと違うところは、気が向いたようなときは、口を動かして、声らしき
ものを出すということ。たいていは蚊が鳴くような小さな声だが、まったくの無口という
わけではない。(かん黙症の子どもも、同じような表情をするときがある。)

 さらに変調すると、表情と心(情意)が、まったくチグハグになる。心理学では、これ
を「遊離」という。

 怒っているはずなのに、ニヤニヤと笑ったり、ことさら穏やかな表情をしたりする。し
かしこうなると、その心が、まったくつかめなくなる。

 能力的には、問題ないことが多い。ペーパーワークなどをさせると、ごくふつうの子ど
もとして、それができたりする。

 で、こうした遊離が起きると、その分だけ、情報を心の中で整理したり、処理したりで
きなくなる。ストレスが加わったりすると、そのストレスを処理できなくなり、そのため、
ますます心をゆがめたりする。

 M君(年長児)という子どもが、印象に残っている。

 いろいろ刺激を与えてみるが、じっと私のほうを見ているだけで、反応がない。穏やか
な顔をしているだけ。どこかニンマリと笑っているといったふう。みなが、ドッと大声で
笑うようなときでも、どこか別の心で笑っているような感じになる。クスクスと笑うよう
なことはあるが、その程度。

 しかし問題は、子どもがそうであるということもさることながら、親にその理解がない
ということ。その日も、そうだった。たまたまM君の母親が、参観にきていたが、そうい
うM君を見ると、M君の手を強引に引っ張って、そのまま教室から出ていってしまった。

 こうしたケースは、よくあることだが、M君が、とくに印象に残っているのには、理由
がある。

 あとでM君の父親から、電話がかかってきた。いわく、「お前は、うちの息子を萎縮させ
てしまった。ついては、責任をとってもらう」と。

 原因は、……というより、保育園や幼稚園へ入園したとき、それがきっかけでそうなる
ことが多い。対人恐怖症の一つと考えられる。つまりそういうふうに、自分の周囲にカラ
をつくることで、外界の世界との接触を避けようとする。

 これを心理学の世界では、「防衛機制」という。かん黙症の子どもの心理も、同じように
説明されるが、ほかに、下の子どもが生まれたことが原因で、そうなることもある。愛情
不足が欲求不満となり、それが遠因となって、ここに示したような症状を示すこともある。
家庭不和、騒動、無視、冷淡、育児拒否など。

 Sさんという女の子(小学生)は、ほとんどといってよいほど、表情がなかった。あと
で聞くと、それが原因とは断定できないが、Sさんは、生後まもなくから、保育所に預け
られて、育てられたという。

 先のM君のばあいは、母親の威圧的な育児姿勢が原因ではないかと思っている。少なく
とも、M君の母親は、愛情豊かな、心のおだやかな人ではなかった。神経質で、いつもピ
リピリしていた。

 そういう環境の中で、M君は、自分の周辺にカラをつくったのではないか。……もう1
5年以上も前のことだが、今、思い出してみると、そんな気がする。

 (子どもの心は、複雑で、こうした一面的な見方が、正しいとは思っていないが……。)

 そこであなたの子どもは、どうだろうか。表情と心(情意)は、一致しているだろうか。
あなたの前で、うれしいときは、満面にうれしそうな表情を浮かべるだろうか。言いたい
ことを言い、したいことをしているだろうか。

 もしそうなら、それでよし。

 しかしどうも、うちの子は、何を考えているかわからない……というのであれば、子ど
もを叱るのではなく、心のどこかに問題があると考えて、冷静に対処する。

【追記】(気うつ症の子ども)

 遊離というほどではないが、子どもが仮面をかぶり、そのため、その心がわかりにくく
なることがある。

 いわゆる(いい子ぶる)というのが、それ。

 学校でも、いい子でとおす。がんばる。先生にもほめられる。本人も、必要以上に、が
んばる。……がんばってしまう。

 そして結果として、お決まりのオーバーヒート。

 原因は、人間関係がうまく結べないことによる。本来なら、そのつど自分の心を解放す
るのがよい。言いたいことを言う。したいことをする。そのほうがよい。

 しかしこのタイプの子どもは、それができず、内へこもってしまう。そしてそれが気う
つ症となって、外に現れる。

 無気力、倦怠感、脱力感など。その前兆として、元気がなくなったり、食欲をなくした
りする。腹痛を訴えたり、吐く息が臭くなったり、ため息をもらすようになったりする。

 大切なことは、そういう前兆が現れた段階で、できるだけ早くそれに気づくこと。家庭
の中で、ゆるめる部分は、ゆるめる。生活態度がだらしなくなることもあり、子どもを叱
ったりする親がいるが、逆効果なことは、言うまでもない。

 このタイプの子どものこわいところは、あるところまではがんばれるだけ、がんばって
しまうということ。そしてある日、突然、プツンしてしまうこと。よく知られた(?)例
に、『あしたのジョー』がある。そうなってしまう。

 もしあなたが、自分の子どもについて、「外では無理をしている」と感じたら、家の中で
は、思いっきり、手綱(たづな)をゆるめる。コツは、子どもを暖かく無視する。
(040601)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●母親、4タイプ

 親が、子どもに感ずる愛には、3種類ある。(1)本能的な愛、(2)代償的愛、(3)真
の愛。

 本能的な愛というのは、母親が本能として感ずる愛のことをいう。たとえば赤ん坊を抱
いたとき、母親は、いたたまれないほどの、いとおしさを感ずる。それが本能的な愛。

 代償的な愛というのは、親自身の心のすきま(情緒的不安定、未熟、精神的未完成)を
埋めるために、子どもを利用することをいう。身勝手で、自己本位な愛。

 真の愛というのは、人間として子どもを愛することをいう。無条件の愛ともいう。見か
えりを求めない、献身的な愛をいう、

 本能的愛は別にして、(2)の代償的愛、(3)の真の愛のあるなしで、母親は、つぎの
4タイプに分けられる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
               |   代償的愛    |   真の愛
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)溺愛型ママ       |  ○(ある)    |  ○(ある)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(2)真の母親型ママ     |  ×(ない)    |  ○(ある)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(3)ストーカー型ママ    |  ○(ある)    |  ×(ない)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(4)フレンド型ママ     |  ×(ない)    |  ×(ない)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(1)溺愛型ママ

 溺愛型ママには、愛情がないわけではない。子どもへのあふれんばかりの愛情はある。
しかし同時に、自分の情緒的未熟性や、精神的欠陥により、その愛に溺れてしまう。そし
て子どもを自分の思いどおりにしたいという欲求に、ブレーキをかけられなくなってしま
う。

(2)真の母親型ママ

 子どもを一人の人間として見ながら、子どもを愛する。もともと人を愛することには、
強烈な孤独がともなう。その孤独に耐えるのが、真の愛ということになる。

 たとえばあなたの夫(あるいは妻)に、すばらしい愛人ができたとする。あなたの夫(妻)
は、その愛人と生活を始めたいと言い、またそのほうが夫(妻)も幸福になれると、あな
たも思う。そういうとき、あなたはあなたは、どう判断するだろうか。あなたはあなたの
夫(妻)を愛するがゆえに、あなたの夫(妻)と別れることができるだろうか。

 「あなたの本当の幸福のために、私は引きさがります。どうかその女性(男性)と、幸
福になってください」と。

 ここに書いたのは、少し極端な例かもしれないが、親子の間では、似たような状況に追
いこまれることがある。そのとき、あなたは、どうするだろうか?

(3)ストーカー型ママ

 このタイプの母親をもつと、子どもにとっては、まさに悲劇でしかない。子どもそのも
のが、母親の奴隷となってしまう。これは極端な例だが、息子が外国へ行っている間に、
息子の財産を食いつぶしてしまった母親さえいる。「親が、(先祖を守るために)、息子の貯
金を使って、何が悪い!」と。

 あるいは結婚して家を出た一人娘に対して、「地獄へ落ちろ。死んでからも、お前をのろ
ってやる」と脅迫していた母親もいる。

 これらは現実にあった話である。そうでない母親をもっている人には、信じられない話
かもしれない。が、現実には、そういう母親もいる。「母親だから、そういうことはしない
はず」と考えるのは、あまりにも、甘い。

(4)フレンド型ママ

 子どもに愛情を感じない母親は、7〜10%はいる。「どうしても、自分の子どもを好き
になれない」「弟はかわいいと思うが、兄が、好きになれない」など。だから子どもを愛せ
ないからといって、決して自分を責めてはいけない。

 「私は私」「あなたはあなた」と割りきることで、むしろサバサバとした子育てができる。
子どもを、子どもとしてみるのではなく、友としてみる。親子という関係にこだわること
はない。

 子どもにとっては決して望ましいタイプの母親とは言えない。が、かえってそういう母
親をもったがため、たくましく、自立していく子どもも多い。もちろん子どもの心のどこ
かに、(空白部分)ができることは考えられる。しかしそれは子ども自身の努力によって、
決して克服できない空白ではない。

 もしあなたが、このタイプの母親なら、「私は、まあ、こんなものだ」と割りきって、子
育てをすればよい。気負うことはない。サバサバと子育てをすればよい。
(040601)
(はやし浩司 母親4タイプ 四タイプ 代償的愛 真の愛)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(181)

●問題のない家族

 例外なく、問題の家族は、いない。金持ちも、貧乏人もない。地位や肩書きの、あるな
しも、関係ない。どんな家族も、それこそすべて、何らかの問題をかかえている。それも、
それぞれの家族にとっては、深刻な問題ばかり。

 一見、他人の家族には問題がないように見える。しかしそれは、そう見えるだけ。だれ
も、自分の家族の問題を話さない。話す必要もない。意図的に隠すことも多い。だから、
外からはわからない。見えない。

 ほとんどの人は、自分の家族の中で問題が起きたりすると、「どうして私だけが……」と
思う。自分の運命や境遇を、のろったり、うらんだりする。

 ある母親の子どもは、20歳を過ぎてから、うつ病を発症し、そのまま家の中に引きこ
もってしまった。
 
 その子どものことで、病院へ行き、その待合室で待っていたとき、その母親は、こう思
ったという。「どうして、うちの子だけが……」と。

 そう思うのは、ごく自然なこと。そこでそういうときは、まず、二つのことを頭に置く。

 一つは、問題があるという前提で、生きるということ。生きることには、問題はつきも
の。もし今、あなたが「うちには問題がない」とい思っているなら、それこそつかの間の
休息。ゆっくりと、それを楽しめばよい。

 もう一つは、仮にその問題で悩んでいるとしても、それが最悪ではないということ。さ
らにその下には、二番底、三番底がある。そしてあなたが上から落ちてくるのを、「おいで、
おいで」と言いながら、待っている。

 そういう意味で、人生というのは、薄い氷の上を、恐る恐る、歩くのに似ている。ちょ
っと油断すると、すぐ氷は割れて、私たちはその下へと落ちていく……。

 子どもの問題とて、例外ではない。子どものできがよければよいで、悪ければ悪いで、
親はそのつど、悩んだり、苦しんだりする。これは子育てのまつわる宿命のようなもの。
子育てをする以上、親は、その宿命から逃れることはできない。

 では、どうするか?

【人生は、下から見る。子どもは、下から見る】

 「下を見ろ」というのではない。下から、見る。もっと言えば、「生きている」という原
点に視点を置いてみる。「ああ、生きているではないか」と。

 その視点から見ると、ほとんどの問題は、そのまま解決する。

【すべてを、あきらめ、あとは許して、忘れる】

 「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、安穏たる日々はやってこな
い。子どもも、伸びない。しかし反対に、「まあ、うちの子は、こんなもの」と思ったとた
ん、気が楽になる。子どもの表情も、明るくなる。

 そしてここが子どもの不思議なところだが、親が、そうあきらめたとたん、子どもとい
うのは、伸び始める。

【他人の子どもに、やさしく】

 自分の子どものことで悩むというのには、実は二面性がある。一つは、自分の子どもに
問題があることを悩む。それはそのとおり。

 が、もう一つの面がある。それは「問題のある子どもを認めない」という自分自身の中
に潜む、邪悪な一面である。

 わかりやすい例で考えてみよう。

 ことさら子どもの学歴にこだわる親がいる。だから子どもの成績(でき、ふでき)に、
異常なまでに神経質になる。

 では、なぜそうなるかといえば、そういう親にかぎって、日ごろから、他人を学歴で判
断していると思ってよい。あるいは学歴のない人を、下に見ていると思ってよい。

 人というのは、自分がもつコンプレックス(劣等感)を、裏がえす形で、それに気づか
ないまま、その問題に振りまわされやすい。私がここでいう、(もう一つの面)というのは、
それをいう。

 だから、自分の子どものことで悩むのはしかたないとしても、本当にそれと戦うために
は、もう一つの面とも、戦わねばならない。「どうしてうちの子は勉強ができないのか」「こ
んなことでは、いい中学へ入れなくなってしまう」と悩んだら、同時に、自分の中に潜む、
邪悪な面とも戦う。

 が、これがむずかしい。自分の中に、そういう邪悪な一面があることに気づくだけもむ
ずかしい。

 で、どうするかといえば、日ごろから、他人や他人の子どもに、暖かくするということ。
やさしくするということ。問題のある人や子どもを理解し、そういった人たちを、自分の
中に受け入れていくということ。

 その結果として、その邪悪な一面を、自分の中から消すことができる。そしてそれがあ
なたのかかえる問題を、根本から、解決する。

【補足】

 ここに書いた話は、わかりにくい話なので、もう少し補足しておく。

 親がかかえる問題には、(表の問題)と、(裏の問題)がある。私は、このことを、ある
老人の話を聞いたときに知った。

 その老人(女性、82歳)は、そのとき体も弱くなり、介護なしでは、トイレにも行け
ないような状態になっていた。

 そこでその娘が、その老人を、自分の家に引き取ろうとした。が、その老人は、がんと
してそれを拒否した。

 「私は、どんなことがあっても、この家を出ない!」と。

 みなは、住み慣れた家だから、その老人はそう言うのだと思っていた。私も、そう思っ
ていた。が、その娘にあたる女性は、私にこう話してくれた。

 「母が、今の家を出たがらない本当の理由が、別にあるのです。実は、母は、若いとき
から、その町から出て行く人を、心底、軽蔑し、いつもあざ笑っていました。それで自分
が、今度は反対に、そうなるのを、いやがっているのです」「本当のところは、だれも、笑
ってはいないのです。つまり母は、自分がつくった妄想に、とりつかれているだけです」
と。

 こうした例は、子育ての場でも、よく経験する。それが先に書いた、学歴の話である。

 ある母親は、いつも他人を、その出身高校で判断していた。(このH市では、学歴で人を
判断する傾向が強い。)「あの人は、C高校なんですってね」「あの人は、A高校を出たのに、
あの程度の人なんですね」と。

 自分自身は、市内でもナンバー2と言われているB高校を卒業していた。

 で、自分の娘がいよいよ高校受験となったときのこと。が、娘には、その力がなかった。
だから毎晩のように、「勉強しなさい!」「ウルサイ!」の大乱闘を繰りかえしていた。

 子どものことで何か問題を感じたら、その問題もさることながら、私がここでいう(も
う一つの面)についても、考えてみるとよい。「なぜ、その問題で悩むのか」と。

 先にも書いたように、(もう一つの面)というのは、なかなか姿を現さない。しかし一度、
その正体を知れば、あとは時間が解決してくれる。

 そういう冷めた見方も、ときには、必要ということである。
(040602)
(はやし浩司 子どもの問題 家族の問題)

(4)今を考える  **************************

●佐鳴湖

 私の住んでいる地区に、佐鳴湖という湖がある。「さなるこ」と読む。

 宇宙からとった航空写真にも写るほどだから、小さくはない。縦4キロ、幅2キロの、
さつまいものような形をした湖である。

 私は、よく犬のハナをつれて、その佐鳴湖へ散歩に行く。

 水質は悪いらしいが、見た目には、美しい湖である。四季折々の変化も、すばらしい。
それにここ20年、植樹と改良工事が重ねられ、どこかの国のリゾート観光地のようにな
った。

 考えてみれば、私は、その佐鳴湖のほとりに住んで、もう27年になる。ある時期は、
毎日、佐鳴湖の南側の道路をとおって、仕事にかよっていた。これといって特徴のない湖
で、こうして佐鳴湖について書きながらも、ほかに書くことがない。

 あえて言えば、学生のボートの練習場になっているということ。昔は、この佐鳴湖でも、
魚がとれたということ。それにこの佐鳴湖から、浜名湖まで、水路をとおって、船で行け
たということ。その途中には、無数の養鰻場があった。

 そう、このあたりには、ウナギを養殖する養鰻場が、たくさんあった。学校の教科書に
も、「浜名湖のウナギ」と、よく書かれている。

 しかし実際には、今では、その姿を、ほとんど消した。このあたりで食べるウナギも、
その大半が、台湾や中国から来たものだという。もちろん佐鳴湖や浜名湖では、ウナギは
とれない。かりにとれたとしても、浜名湖のウナギはともかくも、佐鳴湖のウナギを食べ
る人はいない。

 佐鳴湖の水質は、全国でも、ワースト・ツー。霞ヶ関とワースト・ワンを争っている。
佐鳴湖の水は、「水」というより、汚水に近い。 

 しかしその地区の住人の一人として、佐鳴湖をもう一度、あえてかばう。

 佐鳴湖は、見た目には、本当に、美しい湖である。天気のよい日には、青い空をそのま
ま反射して、美しく光る。ウソではない。本当だ。

だからあなたも、街のどこかで弁当を買って、一度、その佐鳴湖のほとりで食べてみる
とよい。弁当の味が、数倍、よくなる。私のワイフも、そう言っている。

 ちなみにおすすめスポットは、佐鳴湖の西岸、中ほどの休憩所。いつもきれいに清掃さ
れていて、気持ちよい。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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はやし浩司(ひろし)