はやし浩司(ひろし)

2004・10
はやし浩司
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2004年 10月号
 はやし浩司



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 29日(No.482)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page064.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●お金儲けごっこ

 今週のBWは、「仕事」をテーマにした。

 「お母さんが、病気になると、どんなことで困りますか?」
 「お父さんが、病気になると、どんなことで困りますか?」と。

 つづいて、家の手伝いについて話しあう。「どんなことをしていますか?」「どんなこと
をしなければなりませんか?」と。

 中に、一人、二人、「まったく手伝いをしていない」という子どもがいた。私はわざと怒
ったフリをして、「そういう子どもは、前へ出てきなさい! おしおきをしてやる!」と。

 こうして雰囲気をもりあげたあと、BW恒例の、「お金もうけごっこ」をした。

【方法】

 まず、子どもたちに、20円(1円と5円と10円硬貨)を渡す。おととしまで、紙の
お金を使っていたが、去年から本物の硬貨を使うようにした。

 つぎに、折り紙を何種類か用意する。「これは小さいから、3円。これは5円。これは1
0円」と。

 まず子どもたちに、折り紙を買わせる。子どもたちは、お金をもって、その紙を私のと
ころに買いにくる。(子どもは、お金を払う)→(私は、折り紙をわたし、必要なら、おつ
りを渡す)と。

 つぎに子どもたちに、その折り紙に、絵を描かせたり、折り紙をさせたりする。絵や折
り紙が完成したら、再び、私のところにもってこさせる。私は、「いい仕事してますねえ」
とか何とか言って、ほめ、その絵や折り紙を買ってあげる。

 「君の絵は、すばらしい。15円で買ってあげよう」
 「この折り紙は、あまりよくない。7円だね」とか。

 こうして子どもたちは、(紙を買う)→(仕事をする)→(作品を売る)→(お金をもう
ける)を、繰りかえす。

 最後に、いくらになったかを計算する。もちろん一番、たくさんになった子どもが、一
番、がんばったことになる。

 みなに、貯金箱を渡して、そのお金を、貯金箱に入れさせる。「この貯金箱をいっぱいに
するんだよ」と声をかけて、レッスンは、おしまい。

 こうした(お金儲けごっこ)をすることに、少なからず抵抗感を覚える親もいると思う。
だから一応、その遊びに入る前、簡単に説明だけはしておく。

 「日本は、自由貿易体制の中で、資本主義社会を形成しています。少しは、そういう社
会になれさせておくのも、大切なことだと思います」と。

 今まで、それに反論してきた親は、ひとりもいない。念のため……。

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●動機づけの四悪

 子どもを勉強を遠ざける四悪に、無理、強制、比較、それに条件がある。能力を超えた
学習を押しつけることを無理。時間や量を決め、それを押しつけることを強制。無理や強
制が日常化すれば、子どもが勉強嫌いになって当然。さらに……。

 「A君はもうひらがな書けるのよ」とか、「お兄ちゃんはあなたの年齢のときには、算数
は一〇〇点ばかりだったのよ」というのを、比較という。この比較は一度クセになると、
あらゆる面でするようになるから注意する。勉強嫌いになるだけならまだしも、子どもか
ら「私は私」というものの考え方をうばう。

 日本人は本当に他人の目をよく気にする。長くつづいた封建時代の名残(なごり)とも
言える。他人と違ったことをすることができない。あるいは自分と違ったことをする人を、
排斥する。そして幸福感も相対的なもので、「隣の人よりいい生活だから、幸せ」「隣の人
より悪い生活だから、不幸」というような考え方をする。ここでいう「比較」というのは、
そういう日本人独特のものの考え方と深く結びついている。

 つぎに「条件」。「成績があがったら、自転車を買ってあげる」「一〇〇点をとったら、お
小遣いを一〇〇〇円あげる」など、何かの条件をつけて子どもを釣るのを、条件という。

この条件も、一度クセになると、習慣になるから注意する。が、それだけではすまない。
条件が日常化すると、子どもから「勉強は自分のためにするもの」という意識をうばう。
そして子どもが小さいうちはまだしも、この条件はやがてエスカレートし、中学生にな
ると、バイク。さらに大学生になると、自動車となる。そうなればなったで、苦労する
のはあたな自身だ。

実際、今、親に感謝しながら高校に通っている高校生はいない。大学生でも少ない。中
には、「親がうるさいから大学へ行ってやる」と豪語する高校生すらいる。そうなる。

 子どものほうから何か条件をつけてくることもあるかもしれないが、そういうときは、
「あなたのためでしょ」とはねのける。こういう毅然(きぜん)とした態度が、結局は子
ども自立させる。

 ともかくも無理、強制、比較、それに条件は子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい
方法だが、それだけに弊害も大きい。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi
/)

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子どもは人の父

 イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌っている。

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
 私が子どものころも、そうだった。
 人となった、今もそうだ。
 願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
 子どもは人の父。
 自然の恵みを受けて、それぞれに日が
 そうであることを、私は願う。

 原詩は、「The Child is Father of the Man」となっている。私はその「Man」の訳に苦し
んだ。

ここでは、ほかの訳者と同じように、「人」と訳したが、どうもしっくりこない。「おと
な」、あるいは「人格者」と訳すこともできる。つまりワーズワースがこの詩の中で言わ
んとしていることは、子ども時代がその人の原点であるということ。いくらおとなにな
っても、その子ども時代の美しい心や純粋な心を忘れてはいけないということ。

もっと言えば、人はおとなになるにつれて、知識や経験はたしかに豊富になるが、とも
すればそれと引き換えに、子ども時代に覚えた感動を踏みにじってしまう。ワーズワー
スは、そうであってはいけない、と。

 私はこの詩に出会ってからというもの、この詩をずっと子育て評論の座右の銘としてい
る。そしてそのつど、ふとどこかで袋小路に入りそうになったとき、この詩を思い出して、
自分を取り戻すようにしている。たしかに子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではな
い。自尊心もあれば、嫉妬心もある。むしろ人はおとなになればなるほど、悪賢く、そし
て醜くなっていく。そのため失うものも多い。

 「子ども的」であることは、何ら恥ずべきことではない。子ども的であるということは、
それ自体すばらしいことなのだ。あなたも一度、空の虹を見ながら、童心に返って、「わ
ーっ」と大声をあげて感動してみたらどうだろう。遠慮することはない。「わーっ」とだ。
あなたも子どものころを純粋さを、心のどこかに感ずるはずだ。

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【子育て・一口メモ】

●子どもは下から見る

子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。
今、ここに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の
人は、こう言った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ている
と、人間の欲望には、際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。
しかし生きているという原点から見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育て
も、また同じ。


●失敗にめげず、前に進む

「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉
を残している。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前
に進むことである』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、
そっとそう言ってみてほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、
前に進むことですよ」と。


●すばらしいと言え、親の仕事

親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下
はない。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、い
まだに、職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけで
はない。生き生きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安
心感が、子どもの心を豊かに育てる。


●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身
の安全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、
親は、そこを神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たい
ていは子ども部屋ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、
今度は、「家出」ということにもなりかねない。


●代償的過保護に注意

過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、そ
れがない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保
護という。いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子ど
もの受験競争に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子ども
のことなど、まったく考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすような
もの。私は「ストーカー的愛」と呼んでいる。


●同居は出産前に

夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、
出産前からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくな
ってからの同居は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖
父母が、子どもの教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、
控えめに。それが同居を成功させる、秘訣のようである。


●無能な親ほど、規則を好む

イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。
『無能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限
に。また規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。
たとえば門限にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規
則を破ったから、お前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。


●プレゼントは、買ったものはダメ

できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族
どうしのプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。
戦後の高度成長期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレ
ゼントということになっている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキ
ズナを深めたかったら、心のこもったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったもの
は、ダメ」と。


●子育ては、質素に

子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、
そういうぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまう
と、子どもは、あともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになって
からも維持できればよし。そうでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということに
なる。


●ズル休みも、ゆとりのうち

子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのため
というわけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。
その一つの方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に
行く。平日に行けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放
感を味わうはず。「そんなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●子どもの依存性

 依存性の強い親は、自分の子どもが依存性をもつことに、どうしても甘くなりやすい。
つまり自分自身がそうであるため、子どもの依存性に、気がつかない。気がつかないまま、
ベタベタと親に甘える子どもイコール、かわいい子、イコール、いい子と誤解してしまう。

 だからふつう、依存性の強い子どもをもつ親に、その依存性を指摘しても、意味がない。
子どもの依存性のほとんどは、親自身の依存性に起因するからである。さらにそれまでに、
たがいに依存関係ができてしまっているから、たがいを切り離すのは、容易なことではな
い。

 いろいろな例がある。

【K君、年中男児】

 「あと片づけをしようね」と促しても、ただ立っているだけ。「片づける」という意味そ
のものが、わからない。そこであれこれ、ジェスチャで教えるのだが、それもわからない。
が、しばらく指示を繰りかえしていると、そのうち、メソメソ泣き出してしまった。恐ら
く家では、そういうふうにメソメソすれば、みんなが、助けてくれるのだろう。

【E君、小学3年男児】

 ワークをしているとき、こう聞いた。「まちがえたら、どうするの?」と。そこで私が、
「まちがえたら、消してやりなおせばいい」と。すると今度は、「きれいに消すの?」と。
そこで「そうだよ」と言うと、「どこを消せばいいの?」と。こうした意味のない押し問答
が、いつまでもつづく。

【U君、中学生男子】

 何かをしたいとき、「〜〜したい」とは言わない。いつも遠まわしな言い方をする。たと
えば空腹なときも、「おなかがすいたけどオ……」と言うなど。わざと、皆の前で、フラフ
ラと歩いてみせることもあった。そこでまわりの人が「どうしたの?」と声をかけると、
わざとらしく腹を押さえてみせるなど。

 たまたま思い出すまま、3人の子どもについて書いてみたが、みな男児や男子である。
そういう意味では、原因は、母子関係にあるとみてよい。つまり乳幼児期の母子関係が是
正されないまま、体だけが大きくなった考えられる。

 が、本当の原因はといえば、母親自身の精神的な欠陥、もしくは、母親自身の情緒的な
未熟性があるとみてよい。そうした欠陥や、未熟性を補うために、母親は、無意識のうち
にも、子どもを利用してしまう。

 ある母親は、こう言った。私が、「もう少し、子ども(年長男児)と距離をおいたほうが
いいですよ」と言ったときのことである。その子どもは、幼稚園の下駄箱のところで、母
親にクツをはかせてもらっていた。

 「いえ、先生、私は、こうしてこの子のめんどうをみられると思うだけで、うれしいの
です」と。

 そしてことあるごとに幼稚園へやってきては、園庭のはしのほうから、子どもの様子を
うかがっていた。そういう意味では、過保護児にせよ、でき愛児にせよ、独得の依存性を
もつことがわかっている。特徴を並べると、こうなる。

(1)意思決定ができない。
(2)優柔不断。つかみどころがない。
(3)良好な人間関係が結べない。
(4)他人に対して服従的になったり、同情をかうような態度を見せる。
(5)約束や目標が守れない。規則が守れない。いいかげん。
(6)道徳心が薄く、倫理観がない。不和随行的になりやすい。
(7)無責任というより、責任感そのものが、欠ける。
(8)幼稚性、幼児性の持続。年齢に比して、人格の核形成が遅れる。

 まさによいことなしの状態ということになる。子どもの依存性というのは、そういうも
のだが、最大の問題は、最初に書いたように、親自身にその自覚がないこと。中には、ベ
タベタの依存関係をつづけながら、「最近、うちの子は、私の言うことを聞かなくなりまし
た」と、泣きながら訴えてきた母親すらいた。

 加えて、日本の社会全体が、依存型社会ということもある。責任を追及しあうよりは、
ものごとを、ナーナーですまそうとする傾向が強い。子どもの世界でも、自立心が旺盛な
子どもほど、嫌う傾向もある。

 こうした(ちがい)が、顕著に現われるのは、外国の高校生と日本の高校生を見くらべ
たときである。日本の高校生は、カナダの高校生やフランスの高校生とくらべてみると、
全体として、たいへん幼稚な感じがする。これは私の意見というより、国際的な常識でも
ある。すべてが依存性の問題とは言えないが、しかし依存性が強ければ強いほど、幼稚性、
幼児性が残る。年齢に比して、幼い感じになる。

 ついでながら、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保
護を、代償的過保護という。

 ふつう過保護というときは、その基本に親の愛情がある。しかし代償的過保護には、そ
れがない。つまりは自分勝手でわがままな過保護ということになる。

 で、こういう代償的過保護でも、親は、「子どもはかわいい」「私は子どもを愛していま
す」と言う。それはそうかもしれないが、その姿は、どこか、ストーカーに似ている。相
手の気持ちなど、お構いなしに、相手を追いかけまわす、ストーカーである。そのため私
は、「ストーカー的過保護」と呼んでいる。

 この代償的過保護は、依存性の強い親によく見られる。


+++++++++++++++++++++++++++


●依存型社会

 少し前、大雨で道路が冠水したことについて、市を相手に行政訴訟を起こした人がいる。
「冠水したのは、行政の怠慢が原因」と。G市でのことである。

 さらに少し前、長くつづいた雨不足で、水道水が止まってしまったときもそうだ。60
日近く、その地方では、雨が降らなかった。それについても、市を相手に行政訴訟を起こ
した人がいる。「水道が止まったのは、行政の怠慢が原因」と。F市でのことである。

 内情はもう少し複雑かもしれない。それぞれに私の知らない事情があるのかもしれない。
しかし、「?」である。

 実は私も、国を相手に、訴訟を起こそうとしている。「このところの温暖化は、行政の怠
慢が原因」と。……というのは、ウソ。

 こんな子ども(小4男児)がいた。

 ある日曜日の午後、その子どもから電話がかかってきた。いわく、「退屈。することがな
い」と。そこで「お父さんは?」と聞くと、「仕事……」と。さらに「お母さんは?」と聞
くと、「お店で仕事……」と。

 その子どもの家は、店を経営していた。店は、少し離れたところにあった。が、私はこ
う言った。「だったら、あなた、お店へ行って、お母さんを手伝いなさいよ」と。

 「依存性」という言葉がある。その依存性の強い子どもは、何かにつけて、だれかに依
存しようとする。さらにその依存性が日常化すると、依存していること自体を忘れてしま
う。それが当たり前になってしまう。

 この話を、先日、母親たちとの懇談会の席で話すと、一人の母親が、こう言った。「実は、
うちの母親がそうなんです」と。

 「うちの母親は、今年60歳になりますが、娘の私たちには、何もしてくれません。が、
毎日のように世話に行かないと、機嫌が悪いのです。『客が来て、今日は行けない』などと
言おうものなら、『いい、いい、来なくていい。何も心配しなくてもいい。母さんは、冷蔵
庫にあるものを食べるから、心配しなくてもいい』と、実にイヤミな言い方をするのです」
と。

 子どもが親に依存するケースも多いが、親が子どもに依存するケースも、多い。おまけ
に、ひがんで、すねて、つっぱって……。あるいは今にも死にそうな弱々しい言い方で、
同情をかうこともある。

 人格の完成度は、さまざまな尺度で、知ることができる。他者との共鳴性、自己統制力、
自己認知力、それに他者との良好な人間関係など。そしてその一つが、自立度である。つ
まり依存性が強いということは、それだけ、人格の完成度が低いということを示す。

 さて冒頭の話だが、たまたまG市の市長と直接話す機会があったので、「信じられないほ
どの依存性ですね」と言うと、「そうですねえ……」と。その市長は、苦笑いしていた。

 アメリカは訴訟社会だが、こと、天災については、行政側を訴えるということは、めっ
たにしない。国は、自分たちでつくるものと意識が強いからである。

 一方、この日本では、奈良時代の昔から、中央集権国家。官僚主義国家。だから天災に
ついても、「行政の怠慢」ということになる(?)。つまりアメリカ人と、日本人とでは、
民主主義に対する考え方が、基本的な部分で、ちがう。

 もちろん行政側が何かまちがったことをすれば、どんどんと訴えたらよい。それはそれ
だが、しかし、天災で被害をこうむったからといって、それを行政側の責任にするのは、
どうかと思う。

 たとえば先の、F市での水不足のときのこと。たまたまその前後、私とワイフは、山荘
の水道工事で、四苦八苦していた。山荘の水は、500メートルくらい離れたところにあ
る水源から、パイプで引いていた。その工事である。

 ツルハシで穴を掘り、パイプをうめる。山の土は、土というより、岩石に近い。5メー
トルも掘ったら、ヘトヘトになってしまう。もともと、「水」というのは、そういうもので
ある。だから町の自宅に帰って、水道の蛇口をひねったとき、水が出るのを見て、驚いた
ことがある。「どうしてこんなに簡単に水が出るのだろう?」と。

 私はそのニュースをテレビで見たとき、「何を甘ったれたことを言っている!」と、思わ
ず、つぶやいてしまった。

 日本という社会は、国際的にみても、依存型社会である。みながみなに、依存しあいな
がら、生きている。それが悪いというのではない。その依存性が、形を変えて、ぬくもり
のある、やさしい社会を作っているのも事実である。

 しかし一歩、日本の外に出れば、この依存性は、通用しない。それについては、また別
の機会に話すとして、こんなエピソードがある。

 中学1年生の英語の教科書では、道の聞き方が、テーマになっている。

「図書館へは、どう行けばいいですか?」
「三本目の角を、左に曲がってください」と。

 しかし実際には、アメリカなどでは、見知らぬ人に道を聞くなどということは、ありえ
ない。都会だけではなく、地方の田舎でも、である。

 私たちも一度、道に迷ってしまったことがある。どこかのレストランへ行く途中の、こ
とである。そこで私が、運転していた友人に、「あの人に道を聞いたら?」と提案すると、
その友人は、「ノー」と。はっきりと、断られてしまった。

 つまり相手の人が、おびえるから、そういうことはしない、と。つまり見知らぬ人に道
を聞くのも、危険だが、聞かれるほうも、聞かれて、困るというのだ。だから、「ノー」と。

 「アメリカでは、通行人に道を聞くことをしないのか?」と聞くと、その友人は、けげ
んそうな顔をするのみ。そういう習慣そのものがないといったふうだった。

 しかしそれが世界の常識である。それがよいか悪いかは別にして……。
 

++++++++++++++++++++++++++

●悲しき、子どもの心理

 親は、「C高校へ入れたい」と言う。「できればB高校へ」とも。しかし子どもには、そ
の力はない。D高校どころか、E高校、あるいはF高校でも、ムリ。

 そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。

 もう27、8年ほど前のことである。私は、進学塾の塾長に頼まれて、その子ども(中
3男子)の家庭教師をしていた。その子どもの親が、そうだった。

 今で言う、LD児(学習障害児)だったかもしれない。ただ、どういうわけか、学校の
テストだけは、そこそこによくできた。その理由は、あとでわかった。その子どもは、カ
ンニングだけは、天才的にうまかった。

 私は、塾長と親と、そして子どもの板ばさみにあってしまった。教えても教えても、ち
ょうどザルで水をすくうような状態だった。その一方で、塾長からは、「成果を出してほし
い」。親からは、「何とかC高校へ」と。毎日のように、つつかれた。

 そこで私は、あるとき、模擬試験をしてみた。当時はまだ、そういう模擬試験が、進学
塾でも、定例化されていなかった。私は、過去問(過去に出題された入試問題集)を手に
入れると、時間をはかりながら、その子どもに、それをさせた。

 結果は、わかっていた。数学にしても、1番の簡単な計算問題すら、まちがえていた。
点数にすれば、100点満点中、5〜10点程度だっただろうか。

 私は、その成績をその子どもに見せながら、こう言った。

 「この成績では、C高校は無理だと思う。一度、君のほうから、お母さんにそう言って
みたらどうだろうか。君の力は、君自身が一番よく知っているはず。『ぼくは、C高校は無
理だと思う』と、正直に言えばいい」と。

 しかしその子どもは、そのことを親には言わなかった。そのあとも、たびたび、子ども
に、それを話すように言ったが、言わなかった。そのかわり、学校のテストなどでは、「そ
んなはずはない!」と思われるような、よい成績をとってきたりした。

 ……というようなケースを、私は、そのあとも、たびたび経験している。こういうケー
スは、多い。全体のうち、何割かが、そうであると言ってもよい。

 なぜだろうか? どうして子どもは、自分の(実力)について、正直に、親に話さない
のだろうか?

 ……と思っていたら、その前後に、こんな話を聞いた。

 ある夫なのだが、会社をクビになった。しかしそのことを妻に話すことができなかった。
そのため、クビになってからも、毎朝、出勤するようなフリをして、外出。あとはパチン
コをしたり、魚釣りをしたりして、一日を過ごしていた。

 その話を聞いて、「自分の力を正直に言わない子どもの心理と同じだ」と、そのとき、そ
う思った。

 実際、私も、似たような心理になることがよくある。何かの失敗をしたりしたようなと
きだ。ワイフになかなか話せない。切り出すこともできない。悶々とした心理状態である。

 このことを車の中で、私のワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「わかるわ、その子
どもの気持ち」と。

私「親に話せと言ってもムリなんだよね」
ワ「話せば、自分の立場がなくなるからね」
私「そうなんだ。『ぼくは、やればできるはず』と思わせておくことで、自分の立場をつく
ることができる。それ以上に、その子どものプライドの問題もあるだろうしね……」と。

 これも悲しき子どもの心理かもしれない。子どもは子どもで、懸命に親の期待にこたえ
ようとしているのかもしれない。

 で、先の中学生のことだが、その中学生は、市内でもナンバー2と言われる、難関校の
B高校を受験した。一か八かの勝負というよりは、もともとムリな受験だった。結果は、
もちろん不合格。あとで塾長はこう言った。

 「親との話しあいで、どうせC高校でもムリなら、B高校をということになった。親と
しては、B高校を受験しました。B高校を受験しましたが、落ちて、私立のF高校※へ入
りましたということにして、形だけでも、世間体をとりつくろいたかったんだろうね」と。

 しかしこれは悲しき親の心理ということになる。どこまでも、どこまでも悲しい親の心
理ということになる。

【注※】このS県では、当時は、高校受験が、受験競争の関門になっていた。また公立の
ほうが、私立より、レベルが高いということになっていた。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●プリンターが作動しない

 WINDOW・SP2を導入した。が、画面コントロールができなくなってしまった。
さっそくF社の指示にしたがい、修正プログラムをダウンロード。インストール。

 しかし今度は、C社の複合プリンターが、動かなくなってしまった。で、C社に相談。
結論は、「SP2には、対応していません。毎回、手動で、MSサービスを、開始するしか
ありません」とのこと。

 が、これが結構、不便。やっとのことで、プリンターを作動させても、途中で止まって
しまう。

 新しいプリンターを買うしかないようだ……。まだ1年半しか使っていないのに!


●デジタルカメラが、上位機種に!

 C社のデジタルカメラを買った。しかし調子が悪い。そこで販売店へもっていくと、「初
期不良と考えられますので、新品と交換します」とのこと。

 で、「そういうことなら、あと2万円出しますから、新製品の上位機種と交換してくれま
すか」ともちかけると、これが何と、すんなりと、OK!

 そこで手に入れたのが、C社の、9月末発売の、新製品カメラ。名前をあえて公表しよ
う。カシオ、EX−S100だ!

 実は、このカメラが、今、たいへん気に入っている。いつも持ち運びながら、「これは」
と思ったところで、シャッターを切っている。楽しい。おもしろい。ハハハ。

【補記】
 
 ワイフが言うには、「これが誕生日プレゼントよ」だってさ。まあ、今年は、これでがま
んするしかない。


●韓国の報道

 韓国系の報道機関(C日報、T日報)の報道記事を読んでいると、K国についての論調
が、日本の報道機関による記事と、微妙にというか、かなりちがうのがわかる。

 C日報などは、K国について、いわゆる(ご機嫌取り記事)ばかり、流している。この
数日間の記事を並べてみよう。

北朝鮮の秋夕
北、第1回武道大会で優勝
金XX氏死亡55周年
国際武道大会開幕

 そして今日の記事は、「北のメデイアも秋夕特番」(9・29)と。

 K国を刺激したくないという意図が、見え見え。それはわかるが、その一方で、何かあ
ると、「韓国は関係ない」「日本やアメリカが、勝手に騒いでいる」という論調に、すりか
わる。さらに最近では、「主敵はアメリカ。北は同胞」とまで言い出している。「K国より、
アメリカのほうが、敵」というわけである。

 韓国には韓国の立場があるのだろう。今回の、韓国による核開発疑惑についても、韓国
の報道各社は、「問題はないはず」と、ほとんど報道していない。

 で、私には、ますます韓国が、わからなくなってしまった。私がアメリカ軍なら、韓国
からさっさと出て行く。ついでに、この日本からもさっさと出て行く。日本はともかくも、
こうまで嫌われてまで、韓国を守らなければならない理由など、アメリカにはない。

 アメリカが韓国を守ったところで、利益は、ほとんど、ない。

 ちなみに今日の報道によれば、アメリカ人の多くが、「日本や韓国から、兵をひきあげる
べきだ」と考えていることがわかった。

 在日米軍は不要……39%
 K国の韓国侵攻、中国の台湾侵攻時に、アメリカ軍による介入反対……61%
(アメリカ・シンクタンク「シカゴ外交関係評議会」調査。7月6〜12日に、一般のア
メリカ国民1195人、指導層の450人を対象に調査) 

【補記】

 韓国の人たちが、K国との共和制を敷き、共産化(?)を望むなら、それはそれで構わ
ない。日本の問題ではない。

 しかし仮に、韓国とK国が、そうした形でも統一されれば、日本は、すぐ隣に、極東で
も最強の軍隊をもった反日国家をもつことになる。ふつうの反日感情ではない。しかもそ
の向こうには、中国がいる。核兵器まで、もっている!

 そうなったとき、日本は、どうする? さあ、どうする?




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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 27日(No.481)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゆがんだ自然観

 もう三〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシ
ンのよう」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小
さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子ども
も多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれ
が入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや
世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部
に過ぎなかった。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」
(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さ
らには一七四〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎です
ら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考
え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本
の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や
農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分
けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部で
しかないという事実の再認識である。

さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解
を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少
なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にし
ましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。(はやし浩司のサ
イト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++++++++++++++++++

●机は平机

 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月
で、約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。

いろいろな附属品ついいる棚は、一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくま
でも一時的。棚式の机は長く使っていると、圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを
勉強から遠ざける。

あなたも一度、カベに机を向けて置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫
感がどういうものか、理解できる。そんなわけで机は買うとしても、長い目で見て、平
机が好ましい。あるいはこの時期、まだ机はいらない。

 まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型に
はまりやすい民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。小学校の
低学年児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もしそう
であれば、それでよい。

この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」という思いを子どもがも
つようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。

 子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもが
それをそのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に
移して食べるようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉
強嫌いの遠因になることもある。

 よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにあ
る。どんな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子ど
もがそのまま机に向かって休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強
が中断する。勉強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休
むためにある。が、それでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。

 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察し
てみる。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって
勉強部屋にする。あなたの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。

 ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなけ
れば失敗する。


++++++++++++++++++++++++

【子育て・あれこれ】

【子育て一口メモ(2)】

●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉
親意識である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親
の責任をはたそう」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに
対して怒鳴り散らすのが、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は
絶対と考えるのを、「親・絶対教」という。


●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(で
きる・できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子ど
もを見る。たとえまちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってし
たようなら、「よくやったわね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子ども
をつぶす。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づち
を打ったり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、す
ばらしい人よ」と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその
先生に従わなくなる。これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題が
あるなら、子どもとは関係のない世界で、処理する。

●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。
その楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの
機嫌をとったり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。
私も幼児にものを教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、
ありもしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼
閣に住まわせてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、
こうした妄想をもちやすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますま
すウソがうまくなる。子どもがウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、てい
ねいに、それをつぶす。そして言うべきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵
でも、音楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニ
メの主人公のキャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。
食べ物にしても、母親が作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいし
いと言う。こういう環境で育つと、人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外か
らの見栄えばかり気にする子どもがふえているので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、
子どもがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、
そればかりをほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。
「頭がいい」とほめすぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよ
く考えて、慎重に!


●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どもも
また、前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きていると
いう状態では、子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をも
たない子どもは、悪の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見
本を、親が見せることをいう。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみ
る。そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤
解する。子どもがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはず
と考えたりする。が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間とし
て、き然と生きる。子どもは、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、
それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親
は見せたくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売り
してはいけない。つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」
「お前を大きくするために、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子
関係を、破壊する。


●親孝行を美徳にしない

日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。
私たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度
は、子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。
もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。
しかし親孝行は美徳でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけな
い。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人
を、「偉い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リス
ペクティド・マン」という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンと
いうときは、地位や、名誉には関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あな
たの子どもには、「偉い人になれ」と言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求
めて、虹の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。や
がてドロシーは、真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大
切」と考える人が、80〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後
でしかなかったから、これはまさにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信を
もって、子どもには、こう言おう。「この世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、
自ら立ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わ
せて行動し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただけ
なのだが……。)子どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と
言ってやろう。迷信は、まさに合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、
ものごとを合理的に考える力を失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」
を学び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行
為。決して遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのもの
を、粗末にするようになるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と
位置づけているかと言えば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にする
ためである。生き物の死は、厳粛に。どこまでも厳粛に。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【みなさんからのご質問から……】

*********************************

たまたまI小学校(静岡市)と、W小学校(浜松市)のみなさんから、
講演に先立ち、相談の手紙をもらった。「子どもを叱る」というテーマ
で、共通していたので、それについて、ここで考えてみたい。

*********************************

Q:子ども(小1)を叱るとき、どうしても感情的になってしまう。プレッシャーをかけ
ない叱り方、子どもがぐずり、わめき、切れているときの対応の仕方を教えてほしい。ま
たがまんすることを教えるには、どうすればいいか。(I小学校、1年生の子どもをもつ、
母親より)

Q:長男はおっとりしているが、その下の長女(小5)は、勝気で気が強い。いつも母親
の私と大喧嘩になってしまう。たがいに好きなのに、です。そういうとき喧嘩をしない方
法は、ありますか。たとえば娘は、最後に謝るとき、「私も謝るから、ママも謝ってよ」な
どと言います。そういうとき、どうしたらいいでしょうか。(I小学校、5年生の女児をも
つ母親より)

Q:子どもの叱り方がわかりません。あまりきびしく言うと、子どもに嫌われてしまうの
ではないかと、心配です。何か、いい方法はありませんか。(W小学校、1年生の子どもを
もつ母親より)

++++++++++

A:子育ては、考えてするものではありません。その人が過去に受けた子育てを、再現す
る形でするものです。ですから、ほとんどの親は、こう言います。「ついその場になると、
カッとなってしまって……」と。子育てというのは、そういうものです。もっと言えば、
子育ては本能ではなく、学習によるものです。

子どもへの対処の基本は、『子どもに、子育てのし方を教える』です。いつかあなたの子
どもも、親になります。そして今、あなたがしている子育てを再現する形で、子育てを
します。ですから心のどこかで、「私が、そのし方を教えてあげる」「見本を見せてあげ
る」と思えば、よいのです。

心の中で、ワンクッションおくため、ともすればとげとげしくなる子育てを、それで防
ぐことができます。もし今、あなたが感情的になっていれば、あなたの子どももまた、
いつか親になったとき、その子ども(あなたの孫)に対して、感情的になるということ。
あなたの目の前で、あなたの子どもがあなたの孫を、カッとなって、叱り飛ばすように
なるかもしれません。それでもよければ、今のままの子育てをつづければよいでしょう。

コツは、いくつかあります。

(1)子どもの横を、友として歩く
(2)悪玉親意識(親風を吹かすこと)をやめる
(3)気負いを捨てる
(4)言うべきことは言いながらも、あとは、時間を待つ
(5)叱り方の見本を見せるつもりで、子どもを叱る、です

 W小学校のお母さんは、子どもに嫌われることを心配しています。しかしこれは本末転
倒というべきではないでしょうか。話せば長くなりますが、これは親自身(その母親自身)
がもつ、子どもへの依存性の変形とみます。つまり子どもに依存したいという(甘え)が、
「嫌われては困る」という意識に変化したと考えます。はっきり言えば、そのお母さん自
身の精神的な未熟性によるものです(失礼!)。

 お母さん自身が、精神的に成長しないと、子どももまた成長できなくなってしまいます。
「子どもなんかに、嫌われても、かまわない」というき然とした態度が、子育てには必要
です。そのためにも、親は親で、いつまでも前向きに生きていく。

 むしろ、親のほうが、子どもに向かって、親離れができるように、しむけます。そして
その結果として、親もまた、子離れしていきます。その時期は、子どもの自己意識が急速
に発達し始める、小学3、4年生ごろと考えます。いつまでも、ベタベタした関係をつづ
けるほうが、おかしい……。そういう前提で、親子のあり方を、もう一度、反省してみて
ください。

 ただ誤解してはいけないのは、だからといって、友だち親子が悪いというのではありま
せん。親子関係もつきつめれば、一対一の人間関係です。そのとき、親子が、親と子とい
う上下意識のある関係から離れて、友だち関係になることもあります。それはそれで、す
ばらしいことです。そういう親子関係を、めざしてください。

 一般論から言えば、「子どもの機嫌をうかがう」というのは、すでに親子関係が、危険な
状態に入ったことを示しています。たがいの信頼関係が、かなりぐらついているとみます。
このままいけば、やがて親子のキレツから断絶へと進むかもしれません。どうか、ご注意
ください。

 言うまでもなく、親子の信頼関係(親子だけにかぎりませんが……)は、たがいの(さ
らけ出し)と、(受け入れ)という基盤の上に成りたちます。たがいに遠慮したり、飾った
り、虚栄を張ったり、そしてここでいう機嫌をとったり、コビを売ったりという関係では、
そもそもたがいの信頼関係は、成りたたないということです。

 まだまにあいますから、そのお母さんも、勇気を出して、言いたいことを言えばよいの
です。嫌われて困るのは、子どものほうです。そしてお母さんは、お母さんで、正義を貫
く。そういう姿勢を見て、子どもは、あなたを尊敬し、自分の生きザマを身につけます。
今、すぐにはそれがわからないかもしれませんが、やがてわかるようになります。「ぼくの
母は、すばらしかった」と、です。

 さらにいつも、親子喧嘩が絶えないというのであれば、あなた自身の中に潜む、(わだか
まり)をさぐってみます。不本意な結婚であったとか、不本意な妊娠であったとか。結婚
当初の生活苦や、嫁姑問題などが、そのわだかまりになることもあります。

 この問題は、そのわだかまりに気づくだけで、よいのです。あとは、時間が解決してく
れます。ほとんどの人は、そのわだかまりに気づくこともなく、心の裏からそのわだかま
りに振りまわされます。操られます。そしていつも、同じ失敗を繰りかえします。

 さらに……。あなた自身の子どもへの愛情も、疑ってみてください。「私は、真に子ども
を愛しているか」とです。

 するとほとんどの親は、「私は、愛している」と言います。しかし本当のところは、自分
のために、そして自分の子どもを、自分の思いどおりにしたいだけではないでしょうか。
自分の心のすき間を埋めるためにです(失礼!)。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔して
いる親です。「子どものため」と言いながら、まったく子どものことなど、考えていない。

 しかしこれは真の愛ではないですね。真の愛は、無条件、無償の愛です。もっとわかり
やすく言えば、『許して、忘れる』。その度量の深さによって、親の愛の深さも決まるとい
うことです。

 昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこ
う言いました。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では「Forgive and Forget」といい
ます。

この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せます。同じように「フ
ォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せますね。しかし何を与えるために許し、
何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたよ
うに思います。が、ある日。その意味がわかりました。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのことです。この言葉が頭を横切った。「ど
うしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではない
か。許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛
を得るために忘れろ」ということになります。そしてその深さ、つまりどこまで子ども
を許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まるということです。もちろん許して忘れると
いうことは、子どもに好き勝手なことをさせろということではありません。子どもの言
いなりになるということでもありません。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるというこ
と。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、
その問題を自分のものとして認めるということをいいます。

 「子どもを叱る」という話から、とんでもない方向に脱線したような気がしますが、そ
んなことも心のどこかで考えながら、「叱る」というテーマを考えてくださると、子どもへ
の接し方もまた、変わってくるのではないでしょうか。

 最後に子どもを叱るときには、一度、子どもの目の中に、自分を置いてみるとよいです
よ。頭の中で想像してみるのです。「今、私という親は、子どもには、どんなふうに見えて
いるか」とです。たいていのお母さんは、その醜さに、驚かれることと思います。
(はやし浩司 子どもを叱る)
(040928)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●女性の「美」

女性がもっとも美しくなるのは、20歳を過ぎてから、35歳前後の間ではないか。こ
の時期、女性は、それまでの年齢とは、まったく別人のようになる。そしてとても悲し
いことだが、この時期をすぎると、今度はこれまた、まったく別人のようになる。

 私の通勤路に、小さな電気店がある。私が、その道を通るようになる前からあったから、
昔からの電気店である。

 で、私がその電気店の前を通るようになってからしばらくのこと。その店のダンナが結
婚した。ダンナの年齢はそのとき、40歳くらいではなかったか。私が29歳のときであ
る。

 が、驚いたのなんのと言って、その奥さんの美しさはなかった。背は高く、スラリと伸
びた足。今でいう小顔。美人というレベルを超えて、清楚な気品をたたえた、まるでモデ
ルのような人だった。色は白く、明るい太陽の光りの下では、さらに輝いて見えた。

 私はよくワイフにこう言った。「あのダンナ、かなり年齢が違うようだけど、よくもまあ、
あんな美しい女性と結婚できもんだね」と。

 それは私のひがみだった。いや、嫉妬だったかもしれない。以来、私は、その電気店の
前を通るたびに、店の中をのぞいた。

 が、私にとっても、30年も前の話である。記憶はあまり残っていない。ただ一度だけ、
何かを買いにその店に入ったことがある。店の番は、ふだんは、その女性がしていた。が、
その日にかぎって、その女性がいなかった。私はたいへんがっかりした。そのがっかりし
た思いだけは、よく覚えている。

 で、5年がたち、10年がたった。ときどき、つまり数か月に1度くらい、道路でみか
けた。美しさはそのままだったが、見かけるたびに、どこか生活に追われている感じがす
るようになった。このころから、個人の電気店は、経営がきびしくなった。大型の電気店
に、押されるようになった。

 そのうちダンナの姿は見えなくなった。が、その女性の姿も、見かけなくなった。ダン
ナは、どこか別の職場で働くようになったのかもしれない。と、同時に、私は、その女性
のことを忘れた。その店の前を通っても、中をのぞくということはなかった。

 しかし、である。私は、今日、10年ぶりか、15年ぶりか、それはよくわからないが、
その女性を見かけた。いつものように店の前を自転車で通りぬけようとしたとき、その女
性が目の前に立っていた。バッタリと出くわしたような感じだった。この30年でも、そ
れほどまでに、至近距離で、その女性を見たことはなかった。

 驚いた。もちらん相手の女性は、私の秘めた心の中など、知るはずもない。私のほうを
瞬間見たあと、すぐ視線をはずした。しかし私は、その女性から目を離すことができなか
った。

 相変わらず整った顔立ちをしていた。スタイルは、昔のままだった。しかし顔だけは、
浅黒くなり、無数のシミが、それを覆っていた。年齢は、45歳くらいというところか。「あ
あ」と思った、その瞬間、私は、その女性の向こうに、何とも言われない、悲哀感を覚え
た。悲哀感だ。

 時は、容赦なく、人間を変えていく。そして女性から、美しさを、奪っていく。時の流
れの無常というべきか、あるいは無情というべきか……。その女性にすればいらぬ節介か
もしれない。しかし私は、その悲哀感をどうすることもできなかった。

 そのことを仕事が終わってから、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「そう言えば、
昔、あなたはそんなことを言っていたわね。あの人のこと?」と。

私「そうなんだ。あの人だよ。美しい人だったよ」
ワ「……」
私「でも今日見たら、すっかり、おばちゃんになっていた……」
ワ「きっと、生活で、苦労をしたのね」
私「うん、ぼくもそう思う」と。

 女性というのは、生活で苦労をすると、とたんに老ける。私の意見というよりは、みな
が、そう言う。生活に追われるうちに、心の余裕をなくすためかもしれない。あるいは、
そういう苦労が、ホルモンのバランスを崩すためかもしれない。よくわからないが、たし
かに、そうだ。

 いや、だからといって、その女性が、苦労をしたと言っているのではない。だれしも平
等に、老ける。その女性だけが、特別に老けたというわけではない。ただここで書けるこ
とは、みなが、それぞれの方法で、歳をとっていくということ。私も、あなたも。彼も彼
女も。そして彼らも、みなだ。例外はない。

私が感じた悲哀感の理由は、そんなところにあるのかもしれない。

★A good husband makes a good wife.(よい夫は、よい妻をつくる。)(イギリスの格言)。
ただし同時に、A good wife. makes a good husband(よい妻は、よい夫をつくる)という
格言もあるので、注意。

【追記】

街を歩く。
とぼとぼと歩く。
しかしそこは、若者の世界。
私の知っている世界とは、異質の世界。
「私にも、ああいう時代があったはず」と、懸命に思う。
しかし、その思いも、やがて、街の雑踏の中に消えていく。

私は生きた。
懸命に、生きた。
しかしその前にあるのは、老後。
生きてきたはずなのに、その実感がない。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と、ふと、立ち止まる。
しかし、いくら問いかけても、その向こうに見えるのは、乾いた砂漠のみ。

老人は、笑う。
私の愚かさを笑う。
しかし私にはわからない。
何を、どう生きたらいいのか、わからない。
「お前も、やがて私と同じになる」と、その老人は言う。
しかし、その私は、懸命に虚勢を張って、ただひたすら前に歩くだけ。

 
●脳ミソの容量

 人間の脳みそは、コップのようなものかもしれない。容量にかぎりがありということ。
だから新しい情報が頭の中に入れば入るほど、その分だけ、古い情報を忘れていく。私の
ばあい、人の名前で、それをよく経験する。

 新しい生徒の名前は、比較的はやく覚える。しかし覚えたとたん、去っていった生徒の
名前を忘れてしまう。半年もすると、よほど印象に残った子どもは別として、大半の子ど
もの名前を忘れてしまう。

 情報だけではない。経験も、そうだ。よい例が、プロ野球の試合。

 10年前も、20年前も、今日の「今」と同じように、野球の試合はあった。しかし記
憶に残る試合は、ほとんどない。が、それでも今、人々はプロ野球の試合を見て、喜んだ
り、がっかりしたりする。

 実のところ、その場の娯楽にはなるが、しかしそうした経験が積み重ねられて、何かの
成果につながるということは、まずない。

 新しい経験が脳ミソの中に入ると同時に、古い経験が押し出されるように、どこかへ消
えていく。あとはこの繰りかえし。

 そこで容量にかぎりがあるとするなら、そこへ入れる情報や経験は、より良質のもので
あったほうがよい。ムダな情報、俗悪な経験が入れば入るほど、その人は、その分だけ良
質な情報や経験を入れることができなくなる。

 そこで私たちは、日常生活の中で、自ら、より良質な情報や経験をよりわけなければな
らない。「これはすばらしい」「これはつまらない」と。そしてより良質な情報や経験はし
ながらも、そうでないのは、捨てていく。捨てていくというよりは、最初から脳みその中
に、入れないようにする。

 そうでなくても、歳をとると、脳みその容量そのものが小さくなっていく。若いときは、
1リットルとかそれくらいあった容量が、50歳をすぎるころには、半分の5デシリット
ルになったりする。実感としては、それくらいになる。

 だからますます、脳みその中に、どんな情報や経験を入れるかが、重要になってくる。
つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがあるが、それは
そういう理由による。

 人間関係についても同じ。ムダな人と、ムダなつきあいをしているヒマは、もうない。
……とまあ、そういうふうに考える。

 ということで、またまたあのバラエティ番組。いつもヤリ玉にあげるので、よくマガジ
ン読者の方から、「先生は、よほど、あのバラエティ番組が嫌いのようですね」というメー
ルをもらう。

 しかし私だって、ときどき、見る。若いときは、テレビのワイドショーの企画も書いて
いたこともある。NET(現在の朝日放送)のアフタヌンショーとか、日テレの11PM
の企画を書いていた。とても自慢できるような過去ではないが、ともかくも、仕事として、
それをしていた。

 が、あのバラエティ番組などは、いくら見ても、頭に残らない。身につかない。頭の体
操にもならない。それもそのはず。そのレベルの人間たちが、ギャーギャーと騒いでいる
だけ。どうでもよい情報を、右から左へ流しているだけ。むしろ見れば見るほど、自分自
身が俗化していくのがわかる。

 だから私のばあい、あくまでも私のばあいだが、このところ情報を、選択するようにな
った。「これはくだらない情報だから、無視しよう」「これは、大切な情報だから、しっか
りと吸収しておこう」と。

 しかしこうした操作は、歳をとればとるほど、重要になってくる。もちろん残りの人生
を、より有意義に生きるためである。

★A fool at forty is a fool indeed.(40歳を過ぎてからの愚か者は、本物の愚か者。)(イギ
リスの格言)


●子どもと接することのすばらしさ

 昨日、ある母親とこんな話をした。

 私が、「子どもたちと接していると、二つの得をします」と話したときのこと。その母親
は、すかさず、「何ですか?」と。

 まず、子どもたちに接していると、心が洗われる。そういう意味では、子どもの心は純
粋。けがれていない。常識のかたまり。

 反対に、子どもたちと接していない人たちをみると、それがわかる。そういう人たちは、
どこか偏屈。おかしい。心がゆがんでいる。

 だから子どもたちと接していると、常に自分の考え方が、修正される。訂正される。

 つぎに、これは同業の人たちが、よく言うことだが、子どもたちと接していると、その
活力をもらうことができる。こちらが、いくら落ちこんでいても、子どもたちは、それを
許してくれない。実際、「先生!」と声をかけてくれたとたん、気が、パッと晴れる。

 で、もう一つ、つけ加えるなら、こういうこともある。

 私のばあい、子どもたちや親たちを通して、無数の人生を、疑似体験している。それぞ
れの子どもの世界に、こっそりと侵入することもあるし、親の世界に、こっそりと侵入す
ることもある。

 その子どもや、親になりきって、そのときどきにおいて、別の人生を楽しむ。

 もともと私は、空想力が豊かな人間なので、そうして侵入するのは、むずかしいことで
はない。もっとも、母親の世界に入ることは、めったにない。母親と接したときは、相手
の夫の世界に入る。「私は、今、この女性の夫だぞ」と。

 実は、冒頭に書いた、その母親と話していたときもそうだ。すてきな母親だったので、
ふと、その母親の夫の世界に侵入してみた。

 しかし、この三番目の話はしなかった。あまりにも、不謹慎な内容だったので……。ハ
ハハ!
(040929)


●K国で、何が起こっているのだ!

 このところ、K国から伝わってきているニュースを、まとめると、つぎのようになる。

(事実1)K国は、中国国境沿いに、金XX直轄の最強部隊を、配置し終えた(9月)。
(事実2)K国は、6か国協議をボイコットした。
(事実3)日朝実務者会議は、ほとんど成果がないまま終わった。
(事実4)金XXは、6か国協議開催を迫る中国高官の説得に応じなかった。
(事実5)K国は、このままでは、今年の冬から来年の春にかけて、大飢饉におちいる。
(事実6)K国の原油は、今年の冬、枯渇する。
(事実7)にもかかわらず、中国からの1万トンの原油提供を蹴った。
(事実6)K国の政権抗争が、水面下で激化している。
(事実9)時期後継者と思われる、金正Xが、北京に姿を現した。
(事実10)金XXの精神状態が、きわめて不安定と推測される。
(事実11)金XXは、中国訪問をドタキャンした。
(事実12)K国の経済状態は、すでに破綻している
(事実13)ブッシュ再選は、ほぼ確実。アメリカはK国に対して、ますます強硬になる。

 以上の事実に加えて、

(事実14)K国は、K国全土で、ミサイル発射準備の兆候を見せている。
(事実15)アメリカ・北太平洋空軍司令官ヘスター氏が、重大懸念を発表。
     (2004年9月26日、午後7時33分)

 これらの事実を、どう読むか。どうまとめるか。

 読み方はいろいろあるのだろうが、ここまでくると、私には、もう理解不能。私には、
金XXが、何を考えているか、まったく理解できない。


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【Eマガ読者のみなさんへ】(このお知らせは、去る9月27日に配信したものです。)

●●●臨時・緊急連絡号●●●

 おはようございます。いつもマガジンをご購読くださり、ありがとうございます。

ただ今、時刻は、9月27日(月曜日)の午前8時になるところです。

 9月27日号の配信が、いつもより遅れたことを、お許しください。
配信元(スタンド)であるEマガ社の何かのトラブルが原因で、そうなったのだ
と考えています。

 で、そのため、先ほど(7時ごろ)、Eマガ、9月27日号は手動で、
配信させていただきました。

目下、Eマガ社に、その原因などを、問いあわせている最中です。

+++++++++++++++++

マガジンは、毎号、午前0時に配信されるように、設定しています。

また現在、10月25日号まで、とどこおりなく、配信予約を入れてあります。

 が、もし万が一、Eマガの配信などが、停止するようなことがあれば、そのつど
私のホームページ・トップの下のほうの「お知らせ・ブリテンボード」で、
報告しますので、何かあれば、どうか、そちらをご覧になってください。

 Eマガにかわる配信方法としては、メルマガ(無料版)、まぐプレ(有料版)を、
別に用意しています。

 詳しくは、また追って連絡いたしますが、万が一、Eマガ社からの配信が不可能になっ
たばあい、みなさんへの連絡方法が、ほかにありませんので、あらかじめ、こうして事情
をお伝えしておくことにしました。

【はやし浩司のHP】
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 こちらのHPのトップ下の「お知らせ」もしくは、「マガジン購読コーナー」を
何かあれば、ご覧ください。そちらのほうで、詳しく、事情をお知らせします。

 このまま何ごともなければ、Eマガは、今までどおり、Eマガ社のほうから、
みなさんのお手元に届くはずです。

 毎週、月・水・金の週3回発行のペースは、今のところ、しっかりと守っています
ので、どうか、ご安心ください。

●●●臨時・緊急連絡号●●●

 これからも、マガジンのご購読を、よろしくお願いします。

 お騒がせしました。

 では、今日は、これで失礼します。

             2004年9月27日 午前8時  はやし浩司


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
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.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        いつも購読、ありがとうございます!
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 25日(No.480)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page062.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●英語人

 年長児の子どもに、私のHPを見せると、目ざとく、私の孫(誠司)の写真を見つけて、
こう言った。

子「この子は、だれ?」
私「先生の孫だよ」
子「フ〜ン、英語人みたい」
私「何、その、英語人というのは?」

子「英語を話す人だよ」
私「なるほど。英語を話すから、英語人かア?」
子「そうだよ」と。

 「英語人」という言葉は、はじめて聞いた。その子どもが使い出したのか、それとも、
だれかのマネなのかは知らない。しかしおもしろい言い方だ。

 あとでそのことを、別の母親に話すと、「そうですねえ。ガイジンと言うよりは、親しみ
があっていいかもしれませんね」と言って、ケラケラと笑った。


●子どもが育てる

 よく「育自」という言葉をつかって、「子育ては自分育て」と言う人がいる。まちがって
はいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、いやおうなし
に育てられる。

ある父親は、体の弱い息子(中一)と毎朝近くの湖の周囲をランニングした。また別の
母親は、子どもと毎週図書館通いをした。その父親や、母親はこう言った。「自分のため
だけなら、そこまではしなかった」と。

とくにできの悪い子(失礼!)をもった親ほど、子どもに育てられる。子育てというの
はそういうものだが、こんな例もある。

 自分の子ども(二歳男児)が、重い病気にかかり、生死の境目をさまよったとき、その
母親は、「自分の命はどうなってもよいから、息子の命を救ってほしい」と、自分の心の中
で祈りつづけたという。こうしたことはあってはならないことだが、しかし自分の命すら
も惜しくないという深い愛は、人は子どもをもってはじめて知る。

 親が子どもを育てるというのは、とんでもない誤解。子どもが親を育てる。はじめて子
どもを園へ連れてくるような母親は、たしかに若くてきれいだが、どこかツンツンとして
いて、中身がない(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつもし
ない。しかしそんな親でも、子育てで苦労をしながら、野を越え、山を越え、そして谷を
越えるうちに、しだいに姿勢が低くなる。人間的な丸みができてくる。

 子どもに育てられることを恐れてはいけない。またそれが恥ずかしいことだと思う必要
もない。むしろ実際には、子どもに教えを請うつもりで、子どもに接するとよい。子ども
は未熟だとか、未完成だとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。むしろ子ども
の世界のほうにこそ、真理が隠されていることがある。

私も自分の子育て論でわからないところがあると、子どもの世界へ入って、そこで考え
るようにしている。それだけではない。子どもと接していると、何が大切で何が大切で
ないか、それを教えられることがある。あるいは忘れかけていた感動や生きる力を教え
られることもある。

 子どもが親を育てる……。もっともそれがわかるようになるのは、子育ても終わるころ
になってからだが、あなたも一度そういう謙虚な気持ちで、あなたの子どもと接してみて
はどうだろうか。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもは社会の縮図

 おとなの世界に四割の善と四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善と四割の
悪がある。子どもの世界はまさにおとなの社会の縮図。

おとなの世界をよくしないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、それはおとな
の身勝手。もっと言えば、ムダ。子どもの世界をよくしようと考えたら、おとなの世界
をよくする。

たとえばいじめにしても、非行にしても、おとなたちの世界にもそれがあるのに、どう
して子どもに向かって、それをやめろと言えるのか。子どもしてもはじめて読んだカタ
カナが、「ソープ」であったり「ホテル」であったりする(「クレヨンしんちゃん」)。

 ただ悪があるから、悪いというのでもない。もし人間がすべて、天使のようになってし
まったら、この世界、何とつまらないものになってしまうことか。善と悪のハバがあるか
ら、この世界はおもしろい。無数のドラマもそこから生まれる。旧約聖書に関して、こん
な説話が残っている。

ノアが、神にこう聞いたときのこと。「神よ、どうして人間を滅ぼそうとしているのか。
(滅ぼすくらいなら)、最初から完全な人間をつくればよかった」と。それに対して神は、
「(人間に)希望を与えるため」と。つまり人間は悪いこともするが、一方努力によって、
神のような人間にもなれる。「それが希望だ」と。

 私も若いころは、子どもの世界をよくしようとがんばったこともある。しかし四〇歳に
なり、五〇歳になると、どんどんそういう気持ちは薄れた。薄れて、その反対に、結局は
問題の根源はおとなの世界にあることを知った。

「犠牲」という言い方はあまり好きではないが、子どもたちこそ、その犠牲者に過ぎな
い。我欲と貪欲のウズに巻き込まれ、子どもたちにしっかりとしたビジョンを示せない
私たちおとなのほうにこそ、その責任がある。

たとえば援助交際にしても、子どもたちにそれをやめろという前に、どうしておとなた
ちが、おとなに向かって、それをやめろと言わないのか。あなたの友人や仲間が若い女
の子と援助交際していても、みんな、見て見ぬフリをしている!

 子どもの世界を見るときは、まずおとなの世界を見る。何か問題が起きたら、「自分な
らできるか」「自分はどうか」と自問してみる。そしてここが重要だが、自分にできない
ことは、子どもに求めないこと。期待しないこと。

「子どもの世界は社会の縮図」というのは、そういう意味である。


●子どもは、親のまま

 車の窓から、ポイと、ゴミを捨てた母親がいた。うしろの席では、2人の子どもたち(6
歳くらいの男児と、2歳くらいの女児)が、それを見ていた。

 ビデオショップの前。横の駐車場は、ガラあきなのに、その父親は、車をショップの玄
関ワキに横づけ。そのまま小学生らしい男の子をつれて、店の中に入っていった。

 信号はもう、赤。一呼吸置いて、その車はまだ余裕があると判断したのか、さらに加速
して、交差点を左折。キーンというタイヤのきしむ音。見ると横の助手席では、中学生ら
しい男子が、あごをひいて、ふんばっていた。

 ……こういう例は、多い。まさに日常茶飯事。しかし私は、あえてこう問う。こういう
親たちは、いったい、子どもを、どう教育しようとしているのか、と。つまりこういうこ
とを親たちが一方で平気でしておきながら、「約束を守れ」「規則を守れ」「悪いことをする
な」は、ない。子どもたちは、そういう親の姿を脳裏に焼きつけながら、やがておとなに
なる。そして親と同じことを繰りかえすようになる。

 子どもの世界には、『一事が万事』という大鉄則がある。一事のことで小ずるい子どもは、
あらゆる面で小ずるい。それはちょうど、ドミノ倒しのドミノのよう。

 人間の脳は、それほど器用にはできていない。そのつど善と悪を、使い分けるなどとい
うことはできない。善人ぶることは、だれにでもできる。しかしそれをつづけていると、
やがて疲れる。ボロが出る。

 しかし心配は、無用。『一事が万事』である。反対に、今のこの瞬間から、身のまわりの
ほんのささいなことでよいから、その善をつらぬく。

 ウソをつかない。約束を守る。規則に従う、など。子どもが見ているとか見ていないと
か、そういうことは、あまり考えなくてもよい。考える必要はない。あとは日々の生活の
中で、それを繰りかえす。

 あとはドミノ倒しのドミノのように、あなたは善人へと変身する。そしてそれを見て、
あなたの子どもも、これまた善人になる。

 そのときはじめてあなたは、自分の子どもに向かって、堂々とこう言うことができる。

 「学校の勉強を、しっかりとしなさい!」と。


●成功確率と達成感

 ある日、6年生になったFさんが、「先生、これ!」と言って、算数の新しいワークブッ
クを見せてくれた。見ると、超・難解な入試問題集だった。

 「どこで手に入れたの?」と聞くと、「お母さんが、知りあいの進学塾の先生からもらっ
てきた」と。

私「こんなの無理だよ」
F「お母さんが、毎日、2ページ、やれって……」
私「でも、一問解くのに、30分はかかるよ」
F「だから、教えてほしい」と。

 Fさんの能力では、不可能と思われる問題が、ぎっしり。2ページで、15、6問はあ
った。

 私はレッスンが終わると、Fさんの母親に電話をした。こうした難解なワークブックを
かかえると、そこで勉強が止まってしまう。にっちもさっちも、進まなくなってしまう。

 幸いFさんのお母さんは、すぐわかってくれた。「やはり無理ですか?」「はあ、ぼくは
そう思います」と。

 子どもの学習指導で大切なのは、(達成感)。「ヤッター」「やりとげた!」という思いが、
子どもを前向きに伸ばす。

 そこで出てくる言葉が、「成功率」である。

 子どもが何かの課題にとりかかったとする。そのとき、成功率を、50%50%にする
のがコツ(J・W・アトキンソン)。2回トライして、1回くらい成功するのがよい。いつ
も簡単に成功するのも(100%)、いつもまったくできないのも(0%)、子どもの学習
指導では、好ましくない。50%50%、である。

 ワークブックでいえば、2問のうち、1問くらいは自分の力でできる。しかしもう1問
は、なかなか解けない。そういうのがよい。

 子どもに何かを教えるときも、ほどほどに指導した段階で、あとは子ども自身の力でで
きるようにしむける。半分くらいは助けてあげて、残りの半分くらいは、子ども自身にさ
せる。やりすぎ、手取り足取り教育は、一見、親切な指導に見えるが、かえって子どもの
ために、ならない。

 さらに相手が幼児のばあいは、(できる・できない)は、あまり評価しないほうがよい。
(がんばった・がんばらない)という視点で、子どもを評価する。たとえば何かのワーク
ブックをしても、子どもががんばってしたような雰囲気であれば、大きな丸をつけて、そ
れをほめる。「よくやったね!」と。

 こまかいミスや、解答のしかたがまちがっていたというようなことは、不問にする。こ
の時期、こまかいことをあれこれ言うと、子ども自身もまた、神経質になってしまう。子
どもの学習指導は、『まじめ7割、いいかげんさ3割』と覚えておくとよい。

 ワークブックについていうなら、7割があっていればよし。3割が、お絵かきになって
もよしとする。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。
(はやし浩司 達成感 成功率 子どもを伸ばす アトキンソン)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【無条件の愛】

●「やってあげている」という意識からの解放

 どんな行動にも、得(メリット)と損(デメリット)の二面性がある。得ばかりをする
ことはない。損ばかりをするということもない。しかしときに、行動はからまわりをして、
自分が損ばかりしているように感ずることがある。

 お人よしのアホか、バカか?

 そういうとき、どうやって、そういう自分と戦うか。つまり自分が、そのお人よしなこ
とをしていると感じたとき、そういう自分と、どう戦うか。 

 しかし実際のところ、そういう自分と戦うのは、疲れる。どんな行動にも、損得の、計
算勘定はつきもの。だが、いちいちそんなことを考えて行動するのは、疲れる。とくに、
親子、夫婦、家族の間では、そうだ。

 そこで「無条件」という言葉が生まれる。

 無条件であるからこそ、親子であり、夫婦であり、家族なのだ、と。

 が、これとて、実は、簡単なことではない。今でも、「産んでやった」「育ててやった」「大
学まで出してやった」と、言葉にして言う親がいる。「嫁をもらった」「女房を食わせてや
っている」「家族のめんどうみてやっている」と、言葉にして言う夫がいる。

 これを(やってあげている意識)と私は呼んでいるが、その中身といえば、犠牲心。さ
らに言えば、信頼関係の欠落である。が、本当にかわいそうなのは、その人自身である。
家族に対してですら心を開けない。その住む世界は、孤独でさみしい。

 Xさん(60歳)という母親を考えてみよう。架空の女性である。

 Xさんは、どこか不本意な結婚をした。親同士が決めた見合いをして、しばらくのちに、
結婚をした。結婚当初から、夫の両親と同居した。

 最初は、それなりにうまくいった。Xさんは、働き者で、よく夫に仕え、夫の両親に仕
えた。家族のために犠牲になることが、よき妻の努め、よき嫁の努めと思っていた。

 が、夫の両親が、時を同じくして、つぎつぎと他界。さらに時を同じくして、夫が勤め
る会社の倒産。そのときXさんには、2人の子ども(一男一女)がいたが、ここで大きく、
思惑が狂う。財産家の夫と思って結婚したが、夫の両親が残した財産は、ほとんどなかっ
た。

 本来なら、ここで生活のレベルを、夫の生活力に応じて、落とさなければならなかった。
しかしXさんは、それをしなかった。しないばかりか、見栄と虚栄を守った。

 たまたま長男のできがよかったこともある。Xさんは、長男の教育に没頭するようにな
った。もともと勝気で、自己中心的な人だった。長男には、過酷ともいえるほどの、勉強
を強いた。そのころになると、子どもたちの学費はもちろんのこと、生活費のほとんどを、
実家の両親に頼るようになっていた。

 ここで注意しなければならないのは、Xさんは、本当に子どもの心を考えてそうしてい
たのではないということ。長男は、小学5年まで、地元のサッカークラブに属していたが、
6年になると同時に、やめさせられた。進学教室へ入るためである。

 こうした一見、愛に見えるが愛でない愛を、代償的愛という。いわば、愛もどきの愛。
もともと愛というのは、無条件の同一性をいう。しかしXさんが、子どもに注いだ情熱は、
自分の心のすきまを埋めるためのものでしかなかった。

 わかりやすく言うと、自分の不安や心配を解消するための道具として、長男を利用した。

 が、長男は、それによく耐えた。が、長男が、大学へ入るころから、異変が起きた。長
男が、何かにつけて、Xさんから遠ざかろうとした。大学も、地元の大学ではなく、遠く
離れたK市にある大学を卒業し、横浜市にある会社に入社した。

 Xさんは、それに猛烈に反対した。……というようなことを繰りかえしたが、結局は、
それから10年後。長男は、母親が住む地元から離れ、横浜で結婚し、そこで生活を始め
た。

 それについて、Xさんは、こう言う。

 「親なんて、さみしいもんですわ。息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。大学ま
で出してやったのに、このザマです。子どもなんて、育てるものじゃ、ないですね」と。

 何でも、その長男が結婚した夜、Xさんは、長男の前では、慈悲深い母親を演じながら
も、あちこちに電話をかけ、「悔しい」「悔しい」と、涙声で訴えたという。

 私が知っているいくつかの例を重ねて、Xさんという母親を考えてみた。しかしこうい
う例は多い。ほとんどの母親が、多かれ少なかれ、Xさんのようであるかもしれない。子
育てはいつも楽しいばかりとは、かぎらない。苦労も多い。そしてその苦労をした分だけ、
親は、心のどこかで犠牲心を覚える。

 そのときだ。そのとき、親は、自分の中の損得勘定と戦わねばならない。いくら無条件
といっても、条件つきの無条件である。

 この私とて、一方で偉そうなことを言いながらも、息子たちに向って、こう言いたくな
ったことも、何度かある。「お前たちは、だれのおかげで、生きていかれるのか、わかって
いるか!」と。

 しかしそれを口にしたら、おしまい。親として、おしまい。私のばあいは、そう自分に
言い聞かせながら、口を閉じた。

 しかし、だ。せめて、親子の間、夫婦の間、家族の間くらいでは、無条件で生きてみた
いもの。この世の中、損得勘定が、あまりにも多すぎる。本来なら……というより、人間
は、その何10万年もの歴史の中で、そのほとんどの時間を、無条件で生きてきた。

 今のように、あらゆることに損得勘定がはびこるようになったのは、ここ100年とか、
200年。長くても、1000年ではないのか。そのために、人間は、生きることの代償
として、ムダな努力をしなければならなくなった。

 さてあなたは今、どんな計算をしながら、子育てをしているだろうか。夫婦生活をし、
家族を支えているだろうか。

 さあ、あなたも、勇気を出して、そのアホか、バカになってみよう。勇気を出して、だ。
もし今、あなたが、「やってあげている」意識があるなら、なおさらだ。あなたは、きっと
その向こうに、今まで忘れていた、何かを見出すはず。心が軽くなるはず。

【補足】

 若いころ、少し調べたことがあるが、今のように日本人が、損得勘定をするようになっ
たのは、江戸時代中期以後ではないかと思っている。このころ、貨幣が一般社会にも流通
するようになった。

 それまでにも貨幣はあるにはあったが、物々交換が主体。貨幣は、別の目的で使われて
いた。

 私が子どものころとくらべても、今という時代は、変わった。私が子どものころには、
まだ盆暮れ払いというのがあった。「支払いは、盆と年末に」という意味である。

 私の父などは、のんきなもので、客を待たせながら、別の客と平気で、将棋をさしてい
た。当時は、そういうのどかな、どこか牧歌的なにおいのする時代だった。

 今では、教育そのものが、自動販売機化している。ファーストフード化している。そし
てそういう風潮が、容赦なく、家庭にも入りこみつつある。

 それがわからなければ、一度、あなたも、勇気を出して、ここでいうアホか、バカにな
ってみればよい。反対に、そうでない人たちが、今度は、そのアホかバカに見えてくるは
ず。

++++++++++++++++++++++++

●自己愛は、孤独地獄への片道切符

自分の心のスキマを埋めるために、結婚し、子どもをもうける人は、少なくない。夫や
妻ですら、自分のさみしさを埋めるための道具でしかない。自分の子どもでさえ、そうだ。

 家族も何のためにあるかといえば、あくまでも、自分のため。仕事のため。自分の不安
や心配を解消するため。あるいは自分のはたせなかった夢や目的のために、夫や妻、子ど
もを利用することもある。

 が、最大の悲劇は、そうでありながら、本人自身がそれに気づいていないこと。夫や妻
に心を許していない分だけ、孤独。さみしい。被害意識も強く、「どうして自分だけが、こ
うまで犠牲にならなくてはいけないのか」と考えやすい。

 それはあえて言うなら、ストーカーが感ずる、(愛?)に似ている。自分勝手な愛。わが
ままな愛。いわば愛もどきの愛を、愛と誤解しているだけ。

 夫や妻が自分の思いどおりにならないといっては嘆き、悲しむ。自分は自分で、自分の
ことを理解してくれない夫や妻、それに子どもを恨む。まさに、それは自己愛の世界。大
切なのは、自分だけ。自分こそが、世界の中心にいる。そう錯覚する。そしてすべてを、
自分を中心に考える。

 もしあなたが今、そうなら、解決方法は、簡単。一度、夫や妻、子どもの心の中に自分
を置いてみる。そしてその視点から、つまり夫や妻、子どもの目を通して、自分が、どう
見えるかを、想像してみる。

 そのとき、できるだけ、夫や妻、あるいは子どもの近くにいて、目を閉じ、自分の姿を
カガミに映すかのように、想像してみるとよい。

 それでよい。それを繰りかえす。するとやがて、あなたは、夫や妻、子どもの立場でも
のを考えることができるようになる。

 自己愛は、まさに孤独地獄への片道切符。しかしそんな切符など大切にしていても、意
味はない。今すぐ、捨てたほうがよい。

【あなたの自己愛診断】

 該当するところに、○をつけてみてほしい。いくつか当てはまれば、あなたは自己愛者
とみてよい。

( )自分の仕事が大切。家族がそのため犠牲になるのは、当然と考える傾向が強い。
( )その一方で、いつも夫(妻)や家族の犠牲になっているような気がする。
( )夫や妻、家族は、自分の思いどおりにならないと、気がすまない。落ちつかない。
( )自分はいつも命令する立場で、家族の中に、命令・服従の関係ができているよう。
( )どちらかといえば、勝気で、わがまま。嫉妬しやすく、負けるのがいや。
( )家族のだれかが、自分に恥をかかせるのを許さない。いつも自分が最高と思う。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●観光案内

 浜松市に住むようになって、36年になる。で、この36年間、この浜松市で、いろい
ろな店で、いろいろなものを食べた。が、私の行動半径というか、行動パターンは、だい
たい、いつも決まっている。そういう私が、浜松の観光案内(?)をするというのも、少
し、どうかと思う。が、一言……。

 F市のMさんから、「浜松では、何がおいしいか」という質問をもらった。で、一応、考
えてみた。

 浜松市では、物価は、高い。少し前、九州地方を旅行したが、おおむね、九州地方の、
1・5倍から2倍。同じ静岡県の中でも、ここ浜松市では、何でも、1〜2割は高い。全
国規模のチェーン店は別として、だいたい、目安としては、つぎのようなもの。

 ふつうの和風レストランで……
 
 サシミ定食……安いところで、1200円。ふつうは、1400〜1600円
 ザルソバ ……700〜800円前後

 「お薦め」というか、この36年間で、いつも行くレストランが決まってしまった。と
きどき浮気をして、ほかの店にも行くが、長つづきしない。それでまた決まった店にもど
る。そういう店を、実名入りで紹介。

★串とも……市内中心部、肴(さかな)町にある、串かつ屋。ほぼ毎週通うようになって、
もう20年近くになる。その店ほど、おいしい串かつを食べさせてくれるところを、私は
知らない。1200円の「特選定食」、1000円の「野菜定食」が、気楽で、おすすめ。
私は、いつも食べている。

★みやひろ……同じく中心部、有楽街にある、ラーメン屋。安くて、おいしい。あきない。
舌がなれてしまったというか、ほかの店のラーメンが、口に合わなくなってしまった。し
かし昔から浜松に住んでいる人も、「宮ひろのラーメンが、一番おいしい」と言っている。
中華ラーメンが、450円だったかな。その中華ラーメンが、お薦め。

★広島お好み焼き「寅さん」……モール街、マツビシの路地を入ったところ。サーラビル
の隣の二階にある、焼きそば屋。私はいつも、焼きそば入り、お好み焼きを食べている。

★あつみ……その広島焼きの店と、ちょうど道路(モール街)をはさんで、反対側にある。
昔からある、浜松老舗(しにせ)のうなぎ屋。私個人では、あまり行かないが、遠くから
客が来たようなときには、この店に連れて行くことにしている。みな、喜んでくれる。

★???(店名不明)……ザザ中央館地下にある、日本ソバ屋。ワイフとぶらっとでかけ
たようなとき、よく立ち寄る。どれもおいしいが、私はいつも、天ざるを食べている。ワ
イフは、いつも山菜そば(温)を食べている。この店は、数年前にできたばかり。

★サンマルコ……駅前、遠鉄百貨店地下にある、カレーライス屋。自分でもよくカレーラ
イスを作るが、サンマルコの味が一つの基準になっている。いつもワイフと、「このカレー
ライスは、サンマルコみたいだね」とか言って、食べている。この店のおかげで、私は、
カレーライスが、好きになった。

★回転寿司……私は、一滴も、アルコールを飲めない。そういうこともあって、安心して
食べられる寿司といえば、回転寿司ということになる。(専門店の寿司には、ミリンとか、
酒が入っている? 食べると、二日酔いが起きることが多い。)回転寿司には、週1回程度、
行っている。ほかに、近くにある、五味八珍(店名)、サイゼリヤ、幸楽苑など。

 こうして書いてみたが、自分の行動半径が、意外と狭いのには、驚いた。さらにいつも
行っているはずなのに、店名をしっかり思い出せないのにも、驚いた。「宮広」だったのか、
「宮ひろ」だったのか、あるいは、「みやひろ」だったのか。どうしても思い出せない。

 この原稿をマガジンに載せるまでには、街を歩いて、もう一度、調べてみるつもり。ほ
かにもおいしいところはあるが、先にも書いたように、1、2度は行ってはみるが、どう
いうわけか、長つづきしない。どうしてだろう? おもしろい現象だと思う。

【補記】

 よく「老人になると、物忘れがひどくなる」という。しかしこれはどうも、まちがって
いるようだ。老人になると、「忘れやすく」のではなく、その前に、「記憶にとどめる力」
が弱くなる。その結果として、物忘れがひどくなるのではないか。

 ものごとは、(記銘)→(保持)→(想起)という、三つのプロセスを経て、記憶に残る。
老人になると、このうちの、最初の(記銘力)が弱くなる。その結果として、物忘れがひ
どくなるのではないか。

 昨日も、ワイフとこんな話をした。私が何かにつけて忘れっぽくなったことを、ワイフ
が指摘した。私は、こう言った。

 「いえね、こうまでつぎからつぎへと、いろいろな情報が飛びこんでくると、それを頭
の中で整理するだけで、精一杯。人の名前も、どんどんと忘れていくよ。いや、その前に、
記憶にとどめようという気力そのものが弱くなる」と。

 小学校で講演をさせてもらっても、たいていどこでも、5、6人の人と名刺交換をする。
校長、教頭、担当の先生、それにPTAの役員の方など。そのときは、懸命に相手の方の
名前を覚えたつもりなのだが、すぐ忘れてしまう。映像としての顔は、忘れないが、名前
は、すぐ忘れてしまう。

 そう、これは私の脳ミソの特性のようなものかもしれない。映像として頭に入った情報
は、かなりしっかりと記憶に残る。しかし耳から音声で入った情報は、残らない。あるい
は、その部分の脳ミソが、すでに老化しているためかもしれない。

【補記2】

 私にとってレストランというのは、あくまでも、空腹感を満たすだけの場所でしかない
ようだ。どこもおいしいと言えばおいしいが、本当のおいしさは、レストランでは、味わ
えない。

 だれにもじゃまされず、気の許せる人だけと、のんびりと、好きな料理をして、好きな
ものを食べる。そういうときは、本当においしいと思う。だから「どこの店がおいしいで
すか?」と聞かれると、困ってしまう。

 値段が安ければ、それでよいというものでもないし……。値段を考えなければ、料亭や
割烹などがある。しかし私は、めったに、そういうところへは行かない。そういう立場に
はないし、そういう交際もしていない。

 やはり山荘で、ぼんやりと、遠くの山々を見ながら、時間を気にせず、ポツリポツリと、
何かをつまみながら食べる料理が、私には、一番、合っている。おいしい。


●バラエティ番組

今夜も、テレビでは、バラエティ番組が、花盛り。

 娯楽としての意味はあるのだろうが、それ以上の意味はない。ムダな情報、すぐ忘れて
しまう情報、どうでもよい情報。こうして人々は、古い情報を、どんどんと忘れ、そのか
わり、今度はそこへ、新しい情報を注入する。

 そのサエたるものが、プロ野球であり、相撲。10年前、20年前と同じことを繰りか
えしながら、繰りかえしていることにすら気づかない。選手も、そして観客も。

 「だからどうなの?」という部分がないまま、情報を手に入れる。それが悪いというの
ではない。大切なことは、一つの情報を手に入れたら、その情報を、自分の中で消化し、
つぎのステージにまで、それを高める。

 その操作をしないと、ここに書いたように、いくら新しい情報を手に入れても、その分
だけ、古い情報を忘れていくだけ。つまりいつまでたっても、その人に、進歩はない。が、
それこそ、時間のムダ。人生のムダ。命のムダ。

 利口になるということと、賢くなるということは、質的に意味がちがう。別。バラエテ
ィ番組を見ていれば、たしかに利口にはなるが、決して賢くはならない。少なくとも、あ
あした番組で軽妙なギャグをとばすお笑いタレント以上には、賢くはならない。

ああした番組をかいま見ながら、私は、ときどき、こう思う。

「最先端の技術と、最新の機器を使いながら、どうしてああまで愚劣な番組しか作れな
いのだろう」と。あるいは「若者といっても、もう少し、マシな若者がいるだろうに、
どうしてああまでサルのような若者しか、番組に出てこないのだろう」と。

 これが文化というものなのだろうか。それとも、日本人が、今、質的に変化しつつある
のだろうか。あるいは、私が、ジジ臭くなりすぎてしまったというのだろうか。

 しかし、だ。私の知っている幼児のほうが、ああしたお笑いタレントより、ずっと賢い。
どうしてそういう幼児を、もっと、すなおに育てていかないのか。そういう幼児でも、お
となの世界に触れるようになると、どんどんと俗化していく。そして結果として、ああし
た番組を、おもしろいと言うようになってしまう。

 今では、小学生を集めて、小さなパーティを開いても、みなが、意味もなくギャーギャ
ーと騒ぐだけ。どこからどう見ても、テレビのバラエティ番組が、一つの基準になってい
るとしか思えない。

 さあ、みなさん、自分で考える子どもを育てよう。自分で考えて、自分で行動して、自
分で責任をとれる子どもを育てよう。……ということで、バラエティ番組の批評は、おし
まい。批評するのも、疲れた。


********************************

【マガジン読者の皆さんから……】

 マガジン読者の方から、いくつかうれしいお便りが届いています。

+++++++++++++++++

毎回とても楽しみに購読させていただいております。
それでは飽き足らず、HPは隅々まで内容をしっかり
と自分なりに受けとめながら、何度も読み、自分にと
って重要だと思う言葉は、専用の手帳に書きとめて、
家事の合間に読み返しています。

私も、小1と年少の男の子の子育て、真っ最中ですが、
日々子供たちにいろんなことを教わり、つまずきなが
らがんばっています。これからも楽しみにしています。
頑張ってください!!(東京都・FWさん)

【FWさんへ】

うれしかったです。
 メールの転載、よろしくご了解ください。
 10月25日号に、載せさせていただきます。
 よろしいでしょうか?

 なぜ、私が、電子マガジンを発行しているかといえば、FWさんのような読者の方がいら
っしゃるからです。100人に1人かもしれないし、1000人に1人かもしれない。で
も、「書いていてよかった」と思うのは、FWさんのような方からのメールを読んだときで
す。これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。


●デジ子ちゃん

 私は今、C社のデジタルカメラが、たいへん気に入っている。何かあると、すぐ取り出
し、それで写真をとっている。

 が、どこかおかしい?

 明るい空などをモニターにうつしてみると、左、3分の1ほどに、帯状の赤いモヤがか
かる。できあがった写真も、パソコン上で見ると、どこか、左のほうが暗い?

 そこで買った店にもっていくと、しばらく奥のほうで調べたあと、こう言った。「初期不
良のようですから、新品と交換します」と。多分、奥のほうで、私に聞こえないように、
メーカーと電話で相談したにちがいない。

 「落したり、ぶつけたりはしていないぞ」と言いかけたが、やめた。

 で、近く、新品と交換してもらえることになった。それについてワイフに言うと、「自動
車のリコールみたいなものかもね」と。

 せっかく、愛着がわき始めていたのに!

 ところで、私は、電子製品には、すべて愛称をつけることにしている。たとえばそのデ
シタルカメラは、「デジ子」。ワイフには、「デジ子ちゃん、どこへ行ったか、知らない?」
などと言う。

 ほかに、

 シャープのパソコンは、シャー子、
 フジツのパソコンは、フジ子、
 パナソニックのパソコンは、パナ子、
 東芝のパソコンは、トシ子など。

 すべて女性の名前をつける、ならわしになっている。で、そのデジ子だが、最初、私が
そう呼ぶと、ワイフいわく。「デジ子? へんな名前。もう少しマシな名前はつけられない
の」と。

 しかし私は、「デジ子ちゃん」と、「チャン」づけで呼んでいる……。小さいカメラなの
で、チャンづけが、よく似あう。しかしこれはビョーキか? そうビョーキだ。そう言え
ば、数日前、ワイフと、こんな会話をした。

ワイフ「最近、フジ子ばかりを相手にしているみたいけど、ほかのパソコンは、焼きもち
をやかないの?」
私「そうだな。今日あたり、パナ子も少し相手にしてやるか。このところ、さわってあげ
ていないからな」と。

 まあ、ビョーキというより、これは生活のスパイスのようなもの。深い意味はない。


●みなさんからのご意見より

 マガジンのほうで、アンケート調査をしたら、たくさんの方(10人ほど)から、返事
が届いた。

 ほとんどが、励ましの内容だった。うれしかった。もちろん、批判的な意見もあった。

 「政治の話は、あまり読みたくない」「日本人は……という言い方は、不愉快」「量が多
すぎる」「公務員批判を、ひかえてほしい」「無料マガジンと有料マガジンが、同じという
のは、おかしい」「以前載せた原稿は、載せないでほしい」ほか。

 じゅうぶん反省している。

10月号からは、政治的な話はひかえるようにした。公務員批判も、やめている。読者
のみなさんを、不愉快にするのは、私の本意ではない。避けたい。読者あっての、マガ
ジン。迎合主義と批判されようが、私としては、読者の方の気持ちを、最優先に考え、
大切にしたい。

 ただ「量が多い」という意見をくれた読者の方には、こう返事を書いた。

 「今しばらく、がまんしてください。そのうち、元気がなくなれば、自然と量も減って
くると思います。今は、書けるだけ、書いておきたいのです。よろしくお願いします」と。

 読者の数を気にしてはいけないとはわかっているが、しかし毎回、一人、二人と読者が
ふえていくのは、本当にうれしい。励みなる。

**********************

みなさんの周辺で、このマガジンがお役にたてそう
な人はいませんか。もしいらっしゃるようなら、こ
のマガジンのことを話していただけませんか。
よろしくお願いします。

**********************

●子どもの善悪について……

 いつか、『子どもは社会の縮図』(中日新聞発表済み)を、書いた。それについて、最近
は、『子どもは、親のまま』という原稿を書いた。その『子どもは、親のまま』について。


●島田の蓬莱橋(ほうらいばし)

 9月25日、土曜日。どこか蒸し暑さの残る午後、島田(静岡県島田市のこと)にある、
蓬莱橋へ行ってきた。大井川にかかる、世界一、長い木造の橋だそうだ。

 行ってみると、本当に長い! 驚いた! 話には聞いていたが、これほどまでに長いと
は思わなかった!

 全長、約900メートル(897・4メートル)。ゆっくり往復して、1時間ほど。川が
美しく、気分は、最高! (写真などは、HPのほうで、紹介。スライドショーのコーナ
ーで紹介。)

 で、その蓬莱橋。高所恐怖症の私には、結構、恐ろしい橋だった。橋の中央ばかりを、
そろそろと歩いた。ときどき、橋のハシにそっと立ち、下をのぞく。美しい川。美しい川
原。

 その橋ができたのは、1979年、明治12年だそうだ。「江戸時代からあったと思った」
と私が言うと、「江戸時代には、橋をかけるのは禁止されていたのよ」と、ワイフ。そうだ
った!

 ときどき、「私なら、こんなふうに橋を設計するのに」と考えたりした。しかし当時は、
防腐剤もなかっただろうし……、と思いながら、欄干(らんかん)を見ると、ところどこ
ろ木が腐っていた。そしてその上に、赤い、危険を示すテープが張ってあった。それを見
て、私は、さらに、ゾーッ。

 しかし、楽しかった! ホント!

 橋のたもとにある茶屋で、ソバを食べる。そしてそのままその近くにある、Aショッピ
ングセンターへ。「歩いて帰る?」とワイフは言ったが、タクシーで、そのまま島田駅まで
帰る。

 浜松駅から、電車で45分くらい。料金は、片道820円。島田駅から、タクシーで、
5、6分の距離。お近くの人は、ぜひ、どうぞ!


●体重が、65キロに!

 68・5キロ! そこであわてて、ダイエット。で、今朝は、65キロになっていた。
1か月で、約3・5キロの減量に成功!

 おかげで体が、ウソのように軽くなった。朝起きたときの、あの足の痛みも消えた。気
分も、爽快! よかった!

 ワイフが、こう言った。「あんたの体は、不思議な体ね。食べたら食べた分だけ太り、減
らしたら減らした分だけ、やせるのね」と。

 ついでにこう言った。「あんたが、ダイエットしている間は、私も助かるわ」と。

 ダイエットするときは、私は家では、キャベツしか食べない。あとは、ダイエット食。
つまりワイフは、料理から解放される。それで「助かるわ」と。

 そのダイエットの話をしながら、「こうしてダイエットできるのも、60歳までだろうね。
それ以上の年齢になると、ダイエットそのものが、むずかしくなる」と。

 つまりダイエットをしようと考えたら、減食だけではいけない。運動もしなければなら
ない。減食だけでダイエットをしようとすると、体の抵抗力を弱めてしまう。が、60歳
をすぎていると、太っている人には、その運動もままならない。義姉などは、いきなりジ
ョギングをしたため、かえってひざを痛めてしまった。

 だから遅くても、55歳くらいまでには、体をつくっておかねばならない。そのころま
でに、適正体重x0・9くらいの体重にしておく。

 で、私の体重は、BM標準体重計算法によれば、

65÷1・66÷1・66=23・6、ということになる。

この計算式でいくと、私は24ということになり、一応、ギリギリの適正体重というこ
とになる。

が、私の適正体重は、55〜60キロ前後。まだまだ道は、遠い。がんばろう。

++++++++++++++++++++

【適正体重計算……BM標準体重計算法】

   BM=(体重)÷(身長)÷(身長)   

     40以上   ……肥満(4度)
     35〜40  ……肥満(3度)
     30〜35  ……肥満(2度)
     25〜30  ……肥満(1度)
     18・5〜25……正常値
      〜18・5以下……やせ

 (注、身長はメートル単位。私は166センチだから、1・66となる。)

++++++++++++++++++++

 しかし肥満は、健康の大敵。よいことは何もない。……しかし、秋だなあ。何を食べても
おいしい。今夜も空腹感と戦いながら、床につく。がんばります! がんばりましょう!
(040925)


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よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // (偶数月用)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 22日(No.479)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page061.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室より……】

●ピンボール・ゲーム

 教室では、先週から、ピンポンを始めた。しかしテーブル一つでは、2人〜4人しか、
できない。そこで今度は、テーブルを少し傾け、その上に、積み木を並べた。

 これでピンボール・ゲームができるようになった。ボールには、ピンポン玉を、そのま
ま使った。

 が、これが大当たり!

 子どもたちは歓声こそあげないが、夢中になり始めた。その静かな興奮は、そのままこ
ちらに伝わってくる。

 反応がちがった。「今日は、ここまでにしておこうね」などと私が言うと、「もっとした
い」「もっとさせろ」と言う。中には、帰るとき、「うちでもしよう」と言う子どももいた。

 そこで数日前から、紙でポケットをつくり、そこへ入ったら、アメ一個とか、チョコボ
ール一箱を渡すようにした。

 要するに、パチンコである。(英語では、「パチンコ」のことを、「ピンボール・ゲーム」
という。)

 内心では、「いいのかなあ?」と迷いつつ、子どもたちの熱気に負けてしまった。「パチ
ンコ依存症の芽をつくっているのではないか?」と。こうした射倖心(しゃこうしん=ま
ぐれ当たりの利益を求める気持ち)をあおるのは、幼児教育の世界では、できるだけ避け
たい。

 あとでそのことが心配だったので、ワイフに相談すると、「子どもは、みんな好きよ」と。
「私も子どものころ、板にクギを打って、自分で作って遊んだわ」と。

 それで納得。私も、実は、好きだった。ある時期は、その遊びに夢中になった。最初に
パチンコがあったのではなく、そういう遊びが、パチンコへと発展した。

 しかし幼児教育のおもしろいところは、こんなところにもある。

 つまり幼児と、我を忘れて遊んでいると、そのまま人間の原点にかえっていくようなお
もしろさである。そのときも、そうだった。

 「ハイ、はずれ!」などと言うと、さもがっかりして肩をガクリとさせる子どももいれ
ば、「ハイ、当たり!」などと言うと、飛びあがって喜ぶ子どももいる。そういうすなおな
反応を見ているだけでも、心が洗われる。

 そうそう、ついでながら、ここに書いたような、つまり「いいのかなあ?」という迷い
がなかったわけではないが、横で見ていた母親たちも、だれかのボールが、ポケットに入
ったりするたびに、パチパチと手をたたいて喜んでいた。それを見たとき、その迷いは、「ま
あ、いいかな?」という思いに、かわった。

 HTML版のほうでは、その写真を紹介しておきます。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子育てはリズム

 子育てはリズム。しかもそのリズムは、あなたが子どもを妊娠したときから始まる。そ
してそのリズムは、よほどのことがない限り、一生つづく!

 胎教だ何だと、おなかの赤ちゃんに英語やクラシックの音楽のカセットテープを聞かせ
る母親もいれば、赤ちゃんのことはまったく気にせず、マイペースで自分の仕事をつづけ
る母親もいる。

 赤ちゃんが泣く前に、時間がきたからといってミルクビンを赤ちゃんの口につっこむ母
親もいれば、赤ちゃんが泣いてからもしばらくミルクをあげない母親もいる。

 子どもが望む前に、勝手に英語教室に入会届けを出す母親もいれば、子どもが「行きた
い」と言っても、なかなか動かない母親もいる。やめるときも、母親が決め、勝手にやめ
る母親もいれば、そのつど子どもに「どうするの?」と、子どもの意思を確かめながら行
動する母親もいる。

 一事が万事。こうしたリズムは一度できると、姿や形こそ変わるが、そのリズムそのも
のは変わることはない。ある日一人の母親が私のところにきてこう言った。「先生、うちの
子はああいう子でしょ。だから夏休みの間、洋上スクールに入れようと思うのですが、ど
うでしょうか」と。そこで私が「本人は行きたがっているのですか」と聞くと、「いえね、
それが行きたがらないので困っているのです」と。

 親が三拍子で子どもが四拍子では、うまくいくはずもない。そして子どもが親のリズム
に合わせることができない以上、親が子どものリズムに合わせるしかない。でないと、や
がてあなたは子どもと、こんな会話をするようになる。

 母親「あんたはだれのおかげでピアノが弾けるようになったか、それがわかっているの! 
お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアの教室へ連れていってあげたからでしょ!」、子「だ
れがそんなことしてくれと、いつあんたに頼んだア!」と。

こういう会話をしたくなかったら、今日からでも遅くないから、子どものリズムに合わ
せる。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもは気分屋

 子どもの最大の弱点は、未経験で知識に乏しいということ。それは当然だが、そのため
あと先のこともわからないまま、そのときの気分で親と約束をしてしまうこがある。

よくある例が、子どもが水泳教室へ入りたいというから、親が水泳教室へ入れたような
ばあい。やがて子どもはそのハードな練習にいやになり、「行きたくない」と言ったとす
る。

こういうとき親は子どもに、「ちゃんと約束したから行きなさい」と子どもに、それを強
要したりする。あるいは「子どものときから、こんないいかげんなことでは、うちの子
はダメになる」と思い込んで、さらに無理に無理を重ね、水泳教室へ通わせたりする。
しかし……。

 子育てはまじめ八割、いいかげんさ二割。子どもに完ぺきさを求めても意味はないし、
へたに求めると、子どもからかえって伸びる芽をつんでしまう。ある程度は押しても、そ
れで動かないときは、親のほうが引く。「そんなに行きたくないなら、いいわ」と。まずい
のは、子どもをとことん追いつめるような行為。

子どもは行き場をなくし、それが原因となって情緒が不安定になったり、精神的におか
しくなったりする。(反対に粗放化する子どももいる。)

 いいかげんであることが悪いのではない。子どもはこの「いいかげんさ」の中で、羽を
のばす。心を休める。よくあるのが、「そういういいかげんなことで、子どもはいいかげん
な人間になりませんか」という相談。しかし心配は無用。子どものまじめさや、それに対
するいいかげんさは、もっと別のところで決まる。

このことについては、ほかで説明するが、それよりも、親の完ぺき主義のほうが、はる
かに弊害が大きい。いいかげんな親か、完ぺき主義の親か、どちらがいいかと聞かれれ
ば、子どもにとっては、いいかげんな親のほうがはるかによい。しかしいいかげんばか
りでも困る。

だから「子育てはまじめ八割、いいかげんさ二割」。それくらいの割合がよい。要するに
子どもは気分屋。子どもの約束など、真に受けないこと。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子育て、一口メモ】

東京都日野市にお住まいの、FWさん(母親)は、私のHPから
重要なところを、専用の手帳に書き抜いて利用してくださってい
るとか。うれしかった。

で、たまたま携帯電話用HPを開いたところでもあり、子育ての
ポイントを、メモ風にまとめてみました。どうかご家庭でお役だ
てください。

これらは(もちろん)すべてはやし浩司のオリジナルです。ご家庭
で使ってくださる以外の目的では、使用なさらないでください。


************************************

【お知らせ】

今度、携帯電話からも、携帯電話用ホームページを
利用していただけるようにしました。
ぜひ、ご活用ください。
アドレスは、つぎのようです。

http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/bwhayashi/

************************

●父親(母親)の悪口は、言わない

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判し
たりすると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父
親の間に、三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができ
ると、子どもは、親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その
逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋
ということになる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定にな
る。だから子どもが逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。


●心は、ぬいぐるみで……

年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子ども
が、約80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、
中には、キックしてくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをも
っている子どもは、約80%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかど
うかは、ぬいぐるみを抱かせてみるとわかる。


●国語教育は、言葉から

子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたと
き、「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親が
していて、どうして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどう
でも、「バスがきます。あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子
をかぶっていますか」と話す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。


●計算力は、早数えで……

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イ
チ、ニ、サン……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。
さらに手をパンパンとたたいてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を
信号化する。たとえば「2足す3」も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の
信号化という。この力が、計算力の基礎となる。


●子どもは使う

使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから
生まれる。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、あ
なたの子どもに、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ〜イ」と言
って、喜んで片づけるようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということ
になる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。


●やさしさは苦労から

ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほ
しい。そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そう
でなく、テレビやゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよ
い。今は、(かわいい子)かもしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、
自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから
生まれる。


●釣りザオを買ってやるより……

イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」というの
がある。子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっ
しょに釣りに行け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜
んでいるはず。感謝しているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。し
かしこれは幻想。むしろ逆効果。


●100倍論

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のもの
でも、100倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはい
けない。一度、お金で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、1
0倍、100倍とエスカレートしていく。高校生や大学生になるころには、1000円や
1万円では、満足しなくなる。子どもが幼児のときから、慎重に!


●子どもは、信じて伸ばす

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、
あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、
いい人だと思っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでな
ければそうでない。子どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを
伸ばしたいと思うなら、まず自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、
大鉄則である。


●強化の原理

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくな
る」「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来
に不安をいだかせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバー
して、「ほら、やっぱり、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。


●叱るときの原則

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高
さをあわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっ
かりと見つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせ
ても意味はない。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというよ
うな様子を見せる子どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。


●仮面に注意

絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前
で、そうであればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしてい
るようであれば、親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見
て、「何を考えているかわからない」というのであれば、さらに要注意。


●根性・がんこ・わがまま

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりと
げるというのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。
理由もなく、自分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。
その根性は、励まして伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではな
いので、その理由と原因をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。


●アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るため
に、アルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。そ
れもそのはず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアル
バムには、楽しい思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするため
にも、アルバムを、部屋の中央に置いてみるとよい。


●名前を大切に

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことあるご
とに言う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてそ
の自尊心が、何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たと
えば子どもの名前が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところ
に張ったりする。そういう親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。


●子どもの体で考える

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、
5本、飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小
食なのかしら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。


●CA、MGの多い食生活を!

イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにしたか
ったら、CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心と
した献立にする。こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。
いわゆるレトルト食品、インスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合
して、リン酸カルシウムとして、CAは、対外へ排出されてしまう。


●親の仕事はすばらしいと言う

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それ
だけではない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいる
はず。そういうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。
あるいは「私の仕事はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。ま
ちがっても、暗い印象をもたせてはいけない。


●はだし教育を大切に

将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、
足の裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性
は、あらゆる運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうして
それで敏捷性のある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできな
い子どもがふえている。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも
多い。どうか、ご注意!


●自己中心性は、精神的未熟さの証拠

相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」
(サロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そう
でない人を、低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそうい
う人ほど、人格の完成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自
己中心性と戦い、子どもに、その見本を見せるようにする。


●役割形成を大切に

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。
「いっしょに、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょう
ね」と言ってあげる。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつ
くっていく。これを「個性化」という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、
希望、そして生きる目的へとつながっていく。


●暖かい無視

自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、
過関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向
を感じたら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同
時に『ほどよい親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。
とくに子どもがスキンシップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。


●父親の二大役割

母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、ま
た子どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさび
を打ち込み、是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教える
のも、重要な役割。昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、
父親の役割ということになる。


●欠点は、ほめる

子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなか
ったとしても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるよう
になったわね」と言うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声
で言えるようになったわね」と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ば
すときに、よく使う手である。


●負けるが、勝ち

ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。
これは父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだ
ろう。言いたいこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なこ
とは、子どもが、楽しく、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そ
のときから人間関係は、スムーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこ
じれる。


●ベッドタイム・ゲームを大切に

子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。
これをベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗す
ると、子どもは眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定
になったりする。いきなりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なこと
をしてはいけない。子どもの側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。


●エビでタイを釣る

「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、
10人のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対
して恐怖心をもっているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、
一度、文字嫌いにしてしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いて
も、それをほめる。読んであげる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エ
ビでタイを釣る』の要領である。


●子どもは、人の父

空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。

(ワーズワース・イギリスの詩人)


●冷蔵庫をカラにする

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。
そのとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と
思ったら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセを
なおす。子どもの小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。
そういう買い物グセが、習慣になっている。それを改める。


●正しい発音で……

世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなも
のではないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるの
は、甘い。子どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に
先立って、音の分離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。その
とき、手をパンパンと叩きながら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。


●よい先生は、1、2歳、年上の子ども

子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。
そういう子どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるよ
うにするとよい。「無理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意
味。あなたの子どもは、その子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。


●ぬり絵のすすめ

手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、き
れいな丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなた
の子どもが、多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。
小さなマスなどを、縦線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。


●ガムをかませる

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭が
よくなる」という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話す
と、「では」と言って、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5
年後。その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガム
の効用を確認している。この方法は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに
効果的である。

●マンネリは大敵

変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばあ
る母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、
教育評論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤
族の子どもは、頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激に
なっているからと考えられる。


●本は抱きながら読む

子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであ
げるとよい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。
こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆ
る学習の基本となる。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、
学校教育の基本にすえている。


●何でも握らせる

子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。
その感触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない
子どもがふえている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよ
い子どもほど、ものを手にとって調べる傾向が強い。


●才能は見つけるもの

子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのとき
には、風呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚の
ように泳ぎ出した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長し
た。また別の男の子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコン
を買ってあげると、小学3年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるよ
うにまでなった。子どもの才能を見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。


●「してくれ」言葉に注意

日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほ
かに、「たいくつウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」
など。老人でも、若い人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」
というような言い方をする。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こ
んなところにもある。


●人格の完成度は、共鳴性でみる

他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこ
とを、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その
反対側にいる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人
格の完成度は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみ
てほしい。そのときあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフ
リをしているようなら、人格の完成度は、低いとみる。


●平等は、不平等

下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみ
れば、「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の
子は、欲求不満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこ
ともある。それまでしなかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子
に対して攻撃的になることもある。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までの
ことをする。平等は、不平等と覚えておくとよい。


●イライラゲームは、禁物

ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。
動きが速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間
は、禁物。以前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。
そうなれば、すでに(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。
「ゲーム機器は、パパのもの。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのも
よい。遊ばせるにしても、時間と場所を、きちんと決める。


●おもちゃは、一つ

あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておく
とよい。「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切
にする。子どもは、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようにな
る。


●何でも半分

子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、
もう片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。
これは子どもを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうず
にできるようになったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものため
にならない。


●核(コア)攻撃はしない

子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダ
メ人間よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうし
た(核)攻撃が日常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現われてくる。
子どもを責めるとしても、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身
の力では、どうにもならないことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃と
いうことになる。


●引き金を引かない

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親とい
うことになる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子ど
もを指導する。たとえば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、
だれでも、そうなる。たった一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二
役の、ひとり言をいうようになってしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほ
ど、穏やかで、心静かな環境を大切にする。


●二番底、三番底に注意

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうと
する。しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たと
えば門限を破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二
番底)、さらには家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起
きたら、それ以上、状況を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。


●あきらめは、悟りの境地

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもと
いうのは、不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こ
んなはずはない」とがんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。
そこは、おおらかで、実にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。
そういうときは、思い切って、あきらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあ
ける。


●許して、忘れる

英語では、『FOR・GIVE(許す)& FOR・GET(忘れる)』という。この単語
をよく見ると、(何かを与えるために、許し、何かを得るために、忘れる)とも読める。何
を、か? 言うまでもなく、「愛」である。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を
越える。それはまさしく、「許して忘れる」の連続。その度量の深さによって、親の愛の深
さが決まる。カベにぶつかったら、この言葉を思い出してみてほしい。あなたも、その先
に、一筋の光明を見るはずである。


●自らに由らせる

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由らせる」。だから自由というのは、自分で考
えさせる。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手な
ことを、子どもにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親
の過保護は、子どもから、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をう
ばう。子育ての目標は、子どもを自立させること。それを忘れてはいけない。


●旅は、歩く

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に
足がつかない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように
心がけるとよい。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きなが
ら、見る景色のほうが、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則
でもある。いかにして、そのときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうこと
も考えながら、旅に出たら、ゆっくりと歩いてみるとよい。


●指示は、具体的に

「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言って
も、ほとんど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にも
っていってあげてね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話を
したか、あとでママに話してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせると
よい。

●休息を求めて、疲れる

イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもな
っている格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学
するため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き
方になる。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねな
い。


●子どもの横を歩く

親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どもの
うしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと
保護者は得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子ど
もの手を引きながら、「早く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わ
せて、ゆっくりと歩いてみるとよい。それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、
見えてくるはず。


************************************

●ケータイHP

 F社から、無料「ケータイHP」の、勧誘があった。さっそく、チャレンジしてみる。

 で、簡単にできた。携帯電話で見られる、私のHPである。

 携帯電話をもっている人は、一度、つぎのアドレスに、携帯電話からアクセスしてみて
ほしい。(パソコンからもできますので、パソコンからも、アクセスしてみてください。)

 http://k.fc2.com/cgi-bin/hp.cgi/bwhayashi/

 で、さっそく、自分でも、自分の携帯電話からアクセスしてみる。ついでに、D社(携
帯電話会社の支店)に立ち寄って、料金がいくらくらいかかるかを、聞いてみる。

 「250文字程度でしたら、0・3円くらい」とのこと。いいかげんな数字で、申しわ
けないが、要するに、パラパラとあちこちを見ると、10円程度は、かかるということ。(も
ちろん私のところに、お金が入るわけではない。通話料金として、お金がかかるというこ
と。)

 が、1ページ、250文字までと決まっている。長々とした原稿を載せるわけにはいか
ない。内容は、簡単、明瞭に。

 しかし楽しかった。うまく利用すれば、もっと有益なことにも、使えるのでは……。今
は、思い浮かばないが……。

 F社の「ケータイHP」は、無料だが、3か月以上ほったらかしにしておくと、抹消さ
れてしまうという。だから3か月以内に、更新を重ねなければならない。がんばろう!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●ビデオ

 最近『シービスケット』(競馬の物語)と、『コールドマウンテイン』(南北戦争時の悲恋)
の、2作を、ビデオで見た。共に★4つ。よかった!


●小さな旅

 おとといは、ワイフと、フラリ旅。駅で、目的地を決めるという旅にでかけた。最初は、
富士宮市まで行って、焼きそばを食べようという話だったが、旅費が結構かかるとわかっ
て、急きょ、豊橋へ。その豊橋から、豊川へ。

 ひどい雨が降っていたが、ものともせず!

 豊川と言えば、豊川稲荷神社。神社というか、寺。JRの豊川駅から、徒歩で、5分程
度。巨大な神社だった。帰りに、宝物館を見て、門前町で食事。みやげに、稲荷寿司と、
きしめん(生)を買った。

 浜松駅からJRで豊橋まで、35分。豊橋から豊川まで、15分。

門前町がにぎわっているので、みやげを買ったり、食事をするだけでも、楽しいのでは
……? 境内、向って右奥にある、「奥の院」が、おもしろい。見落とさないで、回ると
よい。キツネの置物が、無数に並べてある。

 宝物館の入館料は、おとな一人、400円。当日とった写真の一部は、ホームページ、「ス
ライドショー」に収録。興味のある人は、見てほしい。


●カメラ

 C社の小型デジタルカメラ。かなり性能がよいようだ。気にいった。小さいので、いつ
も首にかけていられる。好きなときに、写真をとれる。

 今まではデジタルカメラを使っていた。しかし画質が、どうも暗い。悪い。

 電子マガジンのほうで、どんどんと紹介していく。乞う、ご期待!


●新カルト

 昼のワイドショーを見ていたら、カルト(?)と思われる、ある団体を紹介していた。

 「カルトでは?」と思ったのは、私だけだが、いや、ワイフも、「カルトぽいわね」と言
ったが、どうして、こうまでつぎからつぎへと、あやしげな集団が生まれるのか?

 武道と書道を主体にした団体だが、さかんに「宇宙の大真理」という言葉を口にしてい
た。

 カルトの特徴の一つは、権威づけ。釈迦やキリスト、さらには宇宙と、直接関係あるよ
うな教え方をする。あとは信者を洗脳するための、お決まりの瞑想(めいそう)、修行……
などなど。

 もっと、みんな、自分で考えようよ。考えて、自分で判断しようよ。


●思考

 その「考えること」で思い出したが、考えることには、ある種の苦痛がともなう。その
ことは、子どもたちを教えていると、わかる。

 「自分で考えてみてごらん」と促すと、ポロポロと涙をこぼす子どもがいる。拒否反応
かとも思うのだが、雰囲気的にも、どうもそれとはちがうようだ。

 考えることが、苦痛なのである。

 考えることが好きな子どもがいる一方で、考えることが嫌いな子どももいる。どこでど
う、またどうして、そのように分かれるのか。一度、あとで考えてみたい。(原稿は、電子
マガジンのほうで……。)

 たしかに考えることには、ある種の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い朝
に、ジョギングにでかけるような苦痛だ。しかしなぜ、私たちは、それでもジョギングに
行くのか?

 走っているときの、爽快感(そうかいかん)が、たまらないからである。そのあとの爽
快感が、たまらないからである。

 どうやって子どもに、その爽快感を覚えさせるか。これは教育の一つの、テーマにもな
る大きな問題。

新しいテーマ、ゲット! これについても、あとで考えてみたい。(この原稿も、電子マ
ガジンのほうで……。)


●カルト(2)

 カルトと戦うためには、自分の中の常識をみがく。

 ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、常識をみがく。ふつうの仕事をし
て、ふつうの人と会って、ふつうの食事をして、音楽を聞いて、趣味を楽しんで……。

 修行をしなければ、真理に達することができないとか、そんなことを主張する団体は、
まずカルトと疑ってみてよい。彼らがいうような真理が、そうも、あちこちにころがって
いるはずがない。

 真理が真理あるためには、普遍性と、時代超越性が必要である。普遍性というのは、だ
れがどう見ても、「そうだ」と納得できる部分をいう。「時代超越性」というのは、時代を
超えた、超越性をいう。100年とか500年とか。1000年でもよい。そういう時代
を乗りこえてはじめて、真理は真理として認定される。

 この狭い、極東の島国、日本に、何10万団体もの宗教法人があり、今の今も、「我こそ
は!」というような宗教団体が、つぎからつぎへと名乗りをあげている。それぞれの人は、
真剣なのだろうが、そういうふうに生まれること自体、異常なのである。

 で、こんな話がインドには伝わっている。釈迦が話した、説話という説もある。

 あるバラモンの修行僧が、100年かけてやっと、徒歩で川を渡れるようになった。そ
の修行僧は、大願達成を、喜んだ。

 そしてある日、得意げに徒歩で川を渡っていると、そこへ舟をこいで一人の男がやって
きた。そしてそのバラモンの修行僧を見て、こう言った。

 「そんなに川を渡りたければ、舟に乗ればいい。そんなことのために、お前は、100
年も時間をムダにしたのか! バカヤロー」と。

 私たちも、ふと油断をすると、そのバカなことを平気で繰りかえしてしまう。気がつか
ないまま、繰りかえしてしまう。そして結果的に、時間をムダにしてしまう。みなさんも、
くれぐれも、ご注意!


●プロ野球のスト

 プロ野球の選手たちが、ストライキを決行した。それはそれだが、テレビで意見を述べ
るファンたちを見ていて、一つ、気づいたことがある。

 世の中には、いろいろな依存症がある。ひどくなると、うつ病に似た症状を示すことも
あるという。「依存うつ」という病気である。

 よく知られた例に、パチンコ依存症とかアルコール依存症というのがある。携帯電話依
存症というのも、最近、生まれた。

 で、ファンの人たちの言っていることを聞いていると、「?」と思った。どこか病的な感
じがしたからだ。ファンの人たちは、テレビのインタビューに答えて、こう言った。「プロ
野球の試合を見ないと、落ちつきません」「イライラします」「ストになってはじめて、野
球というものが、どういうものかわかりました。私にとっては、野球は命です」と。

 「ファン」と言えば、まだ聞こえはよいが、その実態は、野球ゲーム依存症ではないの
か。

 こんなことを書くと、ファンの人たちの、袋叩きにあうかもしれない。が、インタビュ
ーを聞いているとき、そんな感じがした。

しかし、だ。たかが、ボールの試合。もともと生きる、死ぬのという次元の話ではない。
あくまでもゲームである。興行である。心のどこかで、そういう一線を引かないと、そ
の依存症になってしまう。

 言うまでもなく、何かの依存症になると、本当の自分がどこにいるか、わからなくなっ
てしまう。自分が自分でなくなってしまう。ノーブレインな状態になりながら、それすら、
わからなくなってしまう。それがこわい。

【補記】

 プロ野球は、興行である。わかりやすく言えば、金もうけのための「見世物」である。
スポーツはスポーツだが、見世物になったスポーツである。もし勝敗を決めるだけなら、
高校野球のように、一回だけのトーナメント制で、じゅうぶんである。

 だからプロ野球が、つまらないと言っているのではない。余興は、余興。娯楽は、娯楽。
本でいえば、まわりの余白。それがあるから、文章も読みやすくなる。

 しかしそれでは、お金にならない。そこで何とか、ファンの関心をひきながら、それを
金もうけにつなげなければならない。そこで今に見る、勝率によるリーグ戦となった。最
後は、セパ優勝者との対戦による、優勝戦となった。

 つまり、ファンは、興行主(球団)の策略に、うまくあやつられているだけ。

 だからプロ野球を楽しむのは、その人の勝手だが、どこかで一線を引かないと、結局は、
いいように、あやつられてしまう。あやつられながら、あやつられていることすら、わか
らなくなってしまう。

 それはちょうど、カルト教団の信者に似ている。教団幹部たちにいいようにあやつられ
ながら、あやつられているという意識すら、ない。正義だ、善だ、絶対的な真理だとおだ
てられて、まさに人間ロボットとなって、利用されてしまう。

 私も、イチロー選手やマツイ選手の活躍が、気になる。日本のプロ野球にしても、私は、
一応、子どものころから、読売ジャイアンツと、中日ドラゴンズのファンである。(両方と
も好きだが、どちらかと言えば、ジャイアンツ。地元の岐阜県では、少数派だったが……。)

 しかし熱中するのは、その試合のときだけ。だから反対に、狂ったように熱狂するファ
ンを見たりすると、「どうしてああまで夢中になれるのか?」と、かえってそちらのほうを、
不思議に思ってしまう。

 何か、あるのだろうか? それとも何もないのだろうか?

 もう少しじっくりと、野球ファンの様子を、観察してみることにする。

**************************

【最近の話題より……】

●理想の女性?

 「Y」という、雑誌を購入。私たちの年代層をねらった雑誌。それを読みながら、ワイ
フが、こう言った。

「男って、死ぬまで、理想の女性を追い求めるって、ホント?」と。

 雑誌を横取りしてみると、それには、こうあった。ある舞台監督と女優との対談だった。

K(監督)「男っていうのはね、死ぬまで、理想のマドンナ(聖母)を、追い求めるものな
んですよね。女性には、それがありませんか?」
S(女優)「女性には、ないと思います」と。

 私は、それを読んで、すかさずワイフにこう言った。

「理想の女性を追い求めるという姿勢は、マザコンの特徴の一つだよ」と。

 つまりマザコン性の強い男性ほど、頭の中で、理想の女性を夢想する。つまり究極まで
自分を愛してくれる女性を、だ。わかりやすく言えば、自分の母親の代用してくれる女性
を追い求める。

 言うまでもなく、このタイプの男性は、無意識のうちにも、「母親」から、自分を切り離
すことができない。

 だから一般論として、つまり心理学の常識として、マザコン性の強い男性ほど、現実の
女性を愛することができない。そのため、浮気率が高くなる。女性から女性へと、渡り歩
く傾向が強くなる。当然のことながら、離婚率も高くなる。

 実際、このタイプの男性と、結婚生活をつづける妻は、たいへん! ……と思う。この
ことは、反対の立場で考えてみると、わかる。

 もしあなたの妻が、何かにつけて、あなたに、理想の「男」を、求めたとしたら、あな
たはどうするだろうか。たくましくて、包容力があって、生活力もある。おまけにハンサ
ムで、かっこいい。どんなことをしても、許してくれる。さいごのさいごまで、あなたの
めんどうをみてくれる……と。

 多分、あなたは、こう言うだろう。「やめてくれ! オレは、ふつうの人間だ!」と。

 対談した女優が、「女性には、ないと思います」と答えたのは、しごく当然のことである。

私「この監督は、自分が、マザコンであることに気づいていないね」
ワイフ「でも、何かと、話題作を発表しているわよ」
私「だから、こういう雑誌で、対談しているんだろ」
ワ「そうね」と

 理想の女性などというのは、いない。いるはずもない。だから追い求めるだけ、ムダ。
追い求められる女性のほうだって、疲れる。その監督は、若くして、母親をなくしている。
だからよけいに、母親の代用をしてくれる女性を、心の中で追い求めているのかもしれな
い。

私「ある男性はね、会社で昇進したりするとね、奥さんに電話をする前に、実家の母親に
電話をしていたそうだよ」
ワイフ「マザコンね」
私「そうだよ。しかしね、本人は、そうは思っていない。自分は、親思いの、孝行息子と
思いこんでいた」
ワ「奥さんも、たいへんね」

私「そこでこのタイプの男ほど、自分の母親を美化する。『ぼくの母は、ぼくが、そうする
にふさわしい人だ』とね」
ワ「自分の母親が、理想の女性というわけね」
私「そう。究極の愛で自分を包んでくれる、理想の女性というわけだよ」
ワ「でも、そうして、男は、マザコンになるの?」

私「女性にも、マザコン性の強い人はいるよ。でも、やはり男性に多い。理由は、結論を
先に言えば、父親不在だからだよ」
ワ「父親の存在感がないということ?」
私「そう。子どもは、だれしも、母親との絶対的な関係の中で、生まれ育つ。それが悪い
というのではない。それは人間の成長には、必要不可欠なものだ」
ワ「が、そのままになってしまったというわけ」

私「そうなんだよ。そこで、その絶対的な関係を、是正するのが、父親の役目ということ
になる。が、その父親の存在感がない。だから、濃密な母子関係のまま、おとなになって
しまう」
ワ「でもね、もし、その父親が、マザコンだったら、どうするの」
私「ハハハ、それは問題だア。どうするんだろ。困った問題だね」と。

 しかし、こうまで堂々と、自分のマザコン性を主張する人がいるとは! もちろん本人
は、それに気づいていない。対談の内容は、要するに、その監督は、舞台芸術をとおして、
理想の女性を追い求めているということだそうだが……。

 しかし……?

(マザーコンプレックス)いわゆるマザコン。成人した男性が、母親との間に、依存関係
を保ち続け、そのことに疑問や葛藤を感じていない状態。このような男性は、母親からの
過剰な愛情によって、青年期に達成されるべき、同年代の異性との交友関係をもつために
必要な人格の確立ができなかったと考えられる(深堀元文「心理学のすべて」)。

(教訓)母親は、子育てをする。それは当然だが、子どもがある年齢に達したら、子ども
のほうが、親離れするように、仕向けなければならない。あるいは父親が、母子関係に割
って入り、その関係を是正しなければならない。「ある年齢」というのは、多少個人差はあ
るが、年齢的には、満8歳前後をいう。


●貯蓄ゼロ

 2人以上の世帯で、貯蓄ゼロの世帯が、22・1%もあるという(04年・金融広報中
央委員会「家計の金融資産に関する世論調査」)。

 単身世帯にしても、「貯蓄がない世帯」が、35・1%もあるという。

 で、「貯蓄がある」と答えた2人以上の世帯については、平均金融資産は、1242万円
(中央値で、810万円)だそうだ(全国、10080世帯について調査。回収率は、4
4・8%)。

 わかりやすく言えば、5世帯に1世帯は貯蓄ゼロ。残りの4世帯の人は、平均して80
0万円前後の貯蓄をもっている。さらにその中の1、2世帯は、1000万円をはるかに
超える貯蓄をもっているということ。

 「いくら貯蓄があっても、それ以上の借金をかかえている人は、どうするんだろう?」
と考えるのは、私だけか。借金がなければ、貯蓄ゼロでも、まだよいほうかもしれない。
これについて、昔、出版社に勤める友人と、こんな会話をしたことがある。

 当時、その友人は、手取り20万円くらいの給料を手にしていた。それについて、私が、
「ぼくら自由業は、その2倍の40万円くらいはないと、やっていかれない」と。

 理由を聞かれたので、こう答えた「ぼくらには、明日の保証がない。病気か事故で倒れ
れば、万事休す。もちろん退職金も、年金もない。そういう不安がある以上、ギリギリの
生活をするわけにはいかない」と。

 と言っても、そのとき私が、40万円も稼いでいたわけではない。あくまでも努力目標
として、そう言った。

 が、それ以上に深刻な問題は、自由業は、借金ができないということ。信用力、ゼロ。
30代のころは、クレジットカード会社ですら、申しこむと、「残念ながら、審査の結果、
今回は……」と、断ってきた。

パソコン通信(今のインターネットの前身)の決済のためにカードが必要だったので、
申しこんだ。そこで私は、それまでにも、借金をしたことはなかったが、それ以上に、
意地になって、借金をするのをやめた。

 しかし率直に……。何も好き好んで、貯蓄ゼロというわけではないのだろう。「貯金をし
たくても、できない」というのが、実情かもしれない。が、それにしても、そういう人た
ちは、いつも、別の不安と戦わねばならない。言うなれば、毎日が、背水の陣である。

 若いときはそれでもよいが、ある程度、年齢が高くなると、そうはいかない。頼りたく
ても、頼れる相手すら、いない。ちょっとしたつまずきが、そのまま命取りになる。

 考えてみれば、何ともさみしい世界。世の中。欧米のように、教会が中心になってする
互助会のようなものもない。人間と人間の関係が、ますます、希薄になっていくのを感ず
る。「これでいいのかなあ?」と思いつつ、世の中だけが、別の方向へと、どんどんと行っ
てしまう。

 何とも言いようのない無力感。そんな無力感を、その「世論調査」の結果を見ながら、
覚えた。


●問題の大小

 このところ、プロ野球球団の再編問題で、日本中が大騒ぎ! スト決行か、回避で、そ
のつど、新聞の号外が配られている。

 ファンの人たちも、そのたびに、狂ったように悲しんだり、横混んだり……!

 しかし、こんなことが、本当に、そんな重大な問題なのだろうか。ここ数日のニュース
だけを見ても、「日本中を核兵器で火の海にする」(9月23日、K国・労働党機関紙・「労
働新聞」)とか、「K国、ノドン発射準備か」(読売新聞)とか、ある。

 さらに大きな問題は、地球の温暖化。2050年には、この日本も、東南アジア並みの
気候になるという。が、そこで温暖化が、止まるわけではない。その先も、どんどんと温
暖化は進む。

また地球温暖化は、気温だけの問題ではない。現に今年など、日本も、台風の猛攻撃を
受けている。しかも、今までとは、台風のコースまで変わってしまった!

 だからこそ、娯楽としてのプロ野球……と考える人もいるかもしれない。事実、マリナ
ーズのイチロー選手が、ヒットを重ねるたびに、便秘のウxxが、ドドッと、出るような
快感を覚える。(私は便秘症ではないぞ。念のため。)

 私は、こうした錯覚は、人間の脳そのものがもつ、特有の欠陥ではないかと思い始めて
いる。頭の中で、問題の軽重が、正しく認識されない。このことは、子育てで悩んでいる、
母親たちを見ているとわかる。

 たとえばAさん(母親)は、子どもの小食(好き嫌い)で悩んでいる。Bさんは、子ども
の不登校で悩んでいる。Cさんは、子どもの遺伝子病で悩んでいる。

 問題の大きさからすれば、小食の問題など、不登校の問題とくらべれば、何でもない。
さらに不登校の問題など、遺伝子病の問題とくらべれば、何でもない。

 しかし悩み方に軽重は、ない。Aさんは、Aさんで。Bさんは、Bさんで。そしてCさ
んは、Cさんで、それぞれが、同じくらい深刻に悩んでいる。「悩みのレベル」という意味
では、みな、同じである。

 つまり、私は、それが「脳そのものがもつ、特有の欠陥ではないか」と。

 実も、私自身も、この問題をかかえている。

 同時に、何かの問題が、二つ、三つと起きたりすると、どれが重大な問題で、どれが軽
い問題なのか、わからなくなってしまう。頭の中がパニック状態になってしまう。

 そしてそういうとき、さらに別の問題が入ってくると、ますますわけがわからなくなっ
てしまう。小さな問題でも、それだけで頭の中が、いっぱいになってしまう。

 この点、私のワイフなどは、ものごとを客観的に判断する目をもっている。何かのこと
で相談をもちかけると、「そんな問題、なんでないから忘れたら」とか言ってくれたりする。
あるいは、「まず、そちらの問題を解決するのが先ね。この問題は、何とかなるわ」とか言
ってくれたりする。

 ……ということで、今、日本中が、そのパニック状態なのかもしれない。何が重大な問
題で、何がそうでないかが、わからなくなってしまっている(?)。

 たしかにプロ野球球団の再編問題は、大きな問題かもしれない。しかしこうまで、日本
中が、ひっくりかえってまで大騒ぎするほどの問題ではない。

 それがわからなければ、東京に、K国の核ミサイルがぶちこまれたときのことを、想像
してみればよい。そのとき、はたして、「東京ドームで、野球が見られない」と嘆く人はい
るだろうか。



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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●640人!

 HIVに新しく感染した人の数が、昨年(03年)、640人に達したという(厚生労働
省エイズ動向委員会)。新しい発症者、つまり新しくエイズ患者になった人は、336人(同)。

 640人というのは、総感染者数ではない。「03年度に、新しく感染した人」という意
味である。過去の累計数でもない。

 そこでもう一度、おさらいをしておこう。

HIV……ヒト免疫不全ウィルスのこと。エイズ発症の原因となる、ウィルスをいう。H
IVに感染したからといって、すぐ発症するわけではない。

エイズ……後天性免疫不全症候群のこと。HIVに感染し、免疫力が低下することによっ
て、発症する病気の総称。

 このエイズのこわいのは、その人自身が、被害者であると同時に、加害者であるという
こと。HIVに感染して数週間後から、平均して10年間近く、他人にウィルスをまき散
らすということ。

 自分も知らないうちに、ウィルスを撒き散らすということになる。

 こうして人から人へと、爆発的に感染していく。そんなわけで、「たった640人か」な
どとは、思っていけない。こんな数字は、まさに氷山の一角。今後、HIV感染者は、こ
の日本でも、二次曲線的にふえると予想されている。

 感染源のほとんどは、性行為。血液感染(麻薬や覚せい剤などの回し打ち)もあるとい
うが、それは特別な世界での話。そこでコンドームの着用が、何よりも大切ということに
なる。

 もうここまで性が解放されてしまった以上、今さら、性の道徳など説いても意味はない。
へたに純潔論を口にすると、冗談と思われてしまう。そこで性欲も、食欲と同じように、
同じレベルで、考える。またそのレベルまで割り切らないと、子どもたちの指導そのもの
ができない。

 30年前には、(30年前だぞ!)、スウェーデンには、セックスの実技を講座にしてい
る大学があった。その場で教官が、一組の男女を選んで、マットの上で、セックスをさせ
ていた。そしてそれを見ながら、教官がああでもない、こうでもないと指導をする。学生
たちは、それに対して、これまたああでもない、こうでもないと意見を述べる。

 今でも信じたい話だが、30年前には、もっと信じがたかった。で、その話をした、E・
ベッテルグレン女史(スウェーデン性教育協会会長)に、「本当に、そんな講義があるので
すか?」と聞くと、「どうしてあってはだめなのか?」と、逆に質問されてしまった。

 日本も、やがてすぐ、そういう時代になる。私も、56年間、この日本に生きてみたが、
結論は、「しょせん、性(セックス)なんて、無」である。昔、今東光という作家がいたが、
その今東光の病室を見舞ったとき、今東光が、私に、そう話してくれた。

 その無のために、命を落すのは、バカげている。ちなみに、今、小学校でも、性教育が、
なされている。ズバリ、解剖図などを使って、性行為そのものを教えているところもある。
賛否両論もあるだろうが、ここはこうした性教育を支持するしかない。

【補足】

 エイズが発症するまでの潜伏期間を、平均10年とすると、03年度に発症した336
人は、10年前に感染した人ということになる。

 この336人が、この10年間、セックスレスでおとなしくしていたとは、とても考え
られない。また新しい感染者といっても、全員を検査したわけではない。私がここで「氷
山の一角」と書いたのには、そういう理由がある。

 このままでは、20年を待たずして、(つまりみなさんの子どもがおとなになるころには)、
感染者数が、1万人とか、2万人になることが考えられる。そういう近未来を想定しなが
ら、「今」を考えたほうがよい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの体で考える

 体重一五キロの子どもがかん缶ジュース一本飲むということは、体重六〇キロの人が同
じ缶ジュースを四本飲むのに等しい。

いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中がガボガボ
になってしまう。

しかし無頓着な人は、子どもに平気で缶ジュースを一本与えたりする。ソフトクリーム
もそうだ。横からみると、子どもの顔よりも大きなソフトクリームを子どもに与えてい
る人がいる。

それがいかに多い量かは、一度あなたの顔よりも大きなソフトクリームを特別に注文し
てみればよい。そういうものを一方で子どもに与えておいて、「うちの子は小食で困りま
す」は、ない。(ちなみに約半数の親が、子どもの小食で悩んでいる。好き嫌いがはげし
い。食が少ない。ノロノロ食べるなど。)

 私は職業がら、そういう親子を見ると、つい口を出したくなる。先日もファミリーレス
トランで、アイスフロートのジュースを飲んでいる子ども(年長児)を見かけたので、に
こやかに笑いながらだったが、「そんなにたくさん飲まないほうがいいよ」と声をかけてし
まった。が、それを聞いた母親はこう叫んだ。「いらんこと、言わんでください!」と。い
らぬお節介というわけだ。(確かに、そうだ!)

 ほかにスナック菓子、かき氷しかり。世界を歩いてみても、日本ほどお菓子の発達(?)
した国は少ない。

もっとも味についていえば、アメリカ人のほうが、日本人よりはるかに甘党で、健康に
害があるとかないとかいうことになれば、日本ではそれほど心配しなくてもよいのかも
しれない。

しかし一時的に甘い食品(精製された白砂糖が多い食品)を大量に摂取すると、インス
リンが大量に分泌され、それが脳間伝達物質であるセロトニンの分泌を促し、脳に変調
をきたすことが知られている。そしてそのため、脳の抑制命令が阻害され、子どもは突
発的に興奮しやすくなったりするという。

もう二〇年ほど前に、アメリカで問題になったことだが、もしあなたの子どもが日常的
に興奮しやすく、突発的に暴れたり、ヒステリー状態になることが目立つようだったら、
一度砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては、たった一週間砂糖断ちしただけで、
別人のように静かになるということはよくある。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの耳は長い

 イギリスの格言に『子どもの耳は長い』というのがある。もともとの意味は、子どもと
いうのは、耳がよい。親の会話などでも、聞いていないようで聞いてしまう。だから子ど
もの近くでは、めったな話を軽率にしてはいけないという意味だが、私ははじめてこの格
言を知ったとき、別の意味に考えた。

 子どもというのは、親が説教しても、その説教の内容が理解できるようになるまでに時
間がかかる。

たとえば子どもが母親のサイフからお金を盗んで使ったとする。そういうとき親は、そ
れが悪いことだと子どもに教えるが、子どもがそれが悪いことだと本当に理解するよう
になるまでには、しばらく時間がかかる。

親があせって早く理解させようとしてもムダ。強く叱ったり怒ったりすれば、一応しお
らしい顔で、反省しているかのような様子を見せることもあるが、わかっていてそうし
ているのではない。こわいからそうしているだけ。

叱られじょうずな子どもほど、叱られ方がうまい。このタイプの子どもは、叱る割には
効果はない。親は言うべきことを繰り返し言いながらも、あとはそれが子どもの脳に届
くまで、待つ。ただひたすら待つ。そういう意味で、『子どもの耳は長い』と。

 子どもを指導するというのは、まさに根気との勝負。イライラしたら負け。怒ったり、
怒鳴ったりしたら負け。子どもが親のリズムに合わせることができない以上、親が子ども
のリズムに合わせるしかない。親と子どもは平等ではあっても、決して対等ではない。

親は絶対的な「強者」であるのに対して、子どもは絶対的な「弱者」。強者は弱者に対
して、どこまでも謙虚でなければならない。それに親が絶対的に正義ということも、あ
りえないのだ。

……とまあ、少し難しい話になってしまったが、要するに、「しょせん相手は子ども」
というおおらかさが、子どもを伸ばす。善悪の判断もそれで身につく。まずいのは一方
的に、ガンガンと親の価値観を子どもに押しつけるような行為。子どもは自分で考える
力そのものをなくしてしまう。そうなると、子どもはますます常識ハズレになり、もっ
と大きな失敗を繰り返すようになる。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●岩手県Eさん(父親)からの相談

****************************

小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。

3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。

4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。

そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。

病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。

が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。

「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。

つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)

*******************************

【学校へのこだわり】

 Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、Eさんと
Eさんの妻が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなこ
とが、詳しく書いてあった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものだったらしい。

 その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこま
で学校にこだわったか、である。

 こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のな
いように!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子ど
もが学校へ行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。

 そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。

 この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言っ
たら、そのあと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。
が、実際には、そうはいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例
を、何十例も経験している。

 Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえ
ば、Eさんからのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校
→午前中学校、帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっ
ていましたが、10月からまた体調不良を訴えいけなくなりました」(原文)とある。

 この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかっ
たのだろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんな
に無理をしなくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。

 率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、E
さんの相談を一読して、最初に、それを強く感じた。

 ……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれ
ば、そう考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉
は使いたくないが)、失敗したというわけではない。

 が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信
仰、学校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られて
きた意識である。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへ
ん!

 ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。
つまりこの無理が、子どもの心を、ゆがめる。

 ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのも
のではないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継い
でしまう。

 その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、
子どもが、それを受け継いでしまう。

 だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校
なんか、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケ
ースで、子どもにそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。

 「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」
と。

【心の緊張状態】

 「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやす
い言葉もない。

 情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が
不安定になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。

 心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。

 そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解
消しようと、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒
が不安定になるのは、あくまでも結果でしかない。

 子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安
定になることが多い。

 ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、
ときにギャーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたことも
あるという。その女の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっ
ていた。

 そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の
緊張感がとれないか、である。

 原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみて
よい。他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交
際できない。それが心の緊張状態をつくりだす。

 だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択
する。

(1)攻撃型(他人に乱暴になる)
(2)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(3)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(4)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(5)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(6)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(7)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)

 最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交
際が、それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集
団の中で、仮面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。

 だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集
団になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかに
そういうケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。

 無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的
な指導になどによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、
少なくない。幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉
症と自閉傾向を混同しないように……。)

 では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の
中では、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞い
たりする。またいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。

 たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。
その時点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。

 が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。
心がつかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがってい
るはずなのに、ニヤニヤ笑うなど。

 原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。

【母子関係の不全】

 絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、
築かれる。

 「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、
許される」という安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。

 が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否
的な育児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対し
てさらけ出しができないときもある。

 たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースの
ばあい、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的
に子育てで、失敗しやすくなる。

 あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なこ
とだが、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにす
ら、気がつかない人も多い。

 中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ
出せない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みな
から、へんに思われるのではないか」と。

 言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母
親との関係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、そ
の人の人間関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。

 子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、
さらには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。

【対人障害】

 怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、
子どものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。

 で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうとい
うこと。私など、まさに恐怖症のかたまり。

 子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどく
なったのは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に
乗れなくなってしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症に
なる。

 数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにし
ても、あやうく、だ。

 そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走って
くるように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。

 人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっ
ていても、コントロールできない。それがつらい。

 だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子ども
の目線で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。

 で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間
関係が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわし
くなる。人の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。

 それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。
そのため、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛
や肩こり、不眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。

 心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。
ふつうは、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的
症状(髪いじり、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じた
ら、この心身症を疑ってみるとよい。

 で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえ
ばここでいうような学校恐怖症などとなって現れる。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にして
ほしい。

【学歴信仰】

 「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている
人は、多い。

 しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というの
は、その時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあな
たがもっている意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話
も、その一つ。

 私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだ
が、戦時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と
問いかけていたあるテレビ局のレポーターがいた。

 子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう
意識は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころ
ではないはず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。

 世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、
カリキュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」
などない。

 学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホーム
スクーラーも、200万人もいる。

 一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。
今では、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますこ
とが多いのに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめん
どうをみろ」はない。

 話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。
私が、「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくて
も……」などと私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。

 私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に
旅行すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときた
いてい、幼稚園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、
「そういうことをすると、遅れます」「困ります」と。

 しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」とい
うのは、どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というの
か。だったら、その「コース」とは、何か?

 つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の
子どもが不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック
状態になる。そしてそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。

【あくまでも子どもの目線で】

 決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、
Eさんを責めているのでもない。

 ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることが
できない。

 数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのこと
で、学校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りた
いと言います。何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 それに答えて、私は、こう返事を書いた。

 「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。

 こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて
午後まで……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知
っている。つまり親の希望や欲望には、際限がない!

 つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りも
どすため」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不
登校! 『元の木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。

 こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、
三番底へと落ちていく。

 そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎ
らず、子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、
あるいは一年単位で、様子をみる」である。

【許して忘れる】

 子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の
問題では、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。

 ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なこと
をさせるということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が
起きたら、それを自分のこととして、受け入れることをいう。

 たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。
一見、楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感
から解放されることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。

 そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」など
と言う。しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。

 それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。
子どもの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。

 もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだ
ね」「お前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。
できれば、「お父さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることで
ある。

 こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親
だから何とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のた
めに犠牲になっている親を見ることぐらい、つらいことはない。

 ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたもの
の、ほとんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。

 「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいこと
はなかった」と。

 その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあ
と、少しずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看
護ヘルパーの資格をとるため、専門学校へ通っている。

 だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負
ってやる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそう
いう前向きな姿を、子どもに見せていく。

 そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題
にも、よい方向に作用する。

【Eさんへ……】

 書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しか
し子の問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あく
までもここに書いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。

 あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに
何かを教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。

 あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、そ
の向こうにある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。

 今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つ
には、あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。
本気で愛しながらも、決して、本気で相手にしてはいけません。

 「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前
からは離れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあ
なたの子どもの心をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。

 すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避け
られているかもわかりますよ。

 親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは
嫌ってはいけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進
むしか、ありません。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、10
00に1つ、子どもの中に(やさしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それと
も、Eさんは、子どもに何を求めていますか。

 子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようと
か、いい親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさん
と、子どもの関係においてはそうです。

 あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』
です。

 が、心配は、無用。

 子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何
を学ぶかはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「よ
うし、お前はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。

 あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えて
いるより、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ
程度には考えているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見える
かもしれませんが……。)

 そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何
をしてほしいか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおり
にすればよいのです。

 「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいの
です。

 大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求め
てきたときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。

 最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの
家庭で、心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察す
ると、長期の引きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれて
くるということはできませんか。

 家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりとい
う雰囲気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、
つまり、いつか子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係
を築くことができます。

 引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう
大らかさを感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、こ
れは本当です。

 また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になった
りしないことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方
法は、ありません。

 で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。
いつかあなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。

 「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。

 その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!

 また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなた
の子ども自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほ
しくない」と言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてくだ
さい。

 そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えてい
ます。あるいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。

 またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、
ずっとさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカ
ラ論」だけで、です。

 そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。

 なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、
こちらで勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許
可をいただければ、うれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 なお、数年前に書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに添付します。どうか、参考
にしてください。

++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あ
るいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なか
らずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。人というのは、
上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだとい
う意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではな
い。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにす
る。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことを
し、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、
その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から
見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。以前にも、どこかに書いた
ように、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット
(忘れる)は、「得る・ため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子ども
に愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリ
カ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉
は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。

大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子
育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そ
して一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親に
はそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をして
きた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけ
ない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受ける
たびに、私は頭をかかえてしまう。


●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親
子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけ
なければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂
だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親
は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉
で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに
苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、
じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、い
つもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は
手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はも
うこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り
道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜
びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。(*浜松市青葉幼稚園元園長)
(はやし浩司 不登校 不登校児 許して忘れる)
(040921)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新しい発見を求めて……】

●青春時代の灯台

 オーストラリアにいる、三男が、風邪をこじらせ、倒れた。「急に、フワフワとして、そ
のまま気を失った」と。

 それでイングリッドさん(ホームステイ先の女性)が、救急車を呼んだ。

 我が家で、人生始まって以来の、救急車となった。が、私とワイフは、そのことを、三
男が、病院から帰ってきてから知った。

私「で、今は、もうだいじょうぶか?」
三男「だいじょうぶだよ」
私「心細くないか?」
三男「ううん。みんないい人だったよ」と。

 話を聞くと、こうだった。

 病院へ運ばれた三男は、そのまま救急室へ。そこでペニシュリンを打ってもらったらし
い。あとは、何かの点滴を受けた。で、数時間後には、気分がよくなり、歩くことができ
るようになった、と。

 「ドクターも看護婦さんも親切だったけど、ボランティアの女性が二人もついて、あれ
これめんどうをみてくれた」と。

 私はいろいろ話を聞いて、ほっと、胸をなでおろした。しかし、同時に驚いた。

 オーストラリアの医療制度は進んでいるとは聞いていたが、ここまで進んでいるとは! 
つまり中身が、すごい。日本にも、ヘルパーとかボランティアがいるが、ここまではしな
い。しかも相手は、外国人の大学生!

私「お金は? 保険は使ったか?」
三男「ううん。メディバンク(学生保険)に入っていたから、全部、ただだった」と。

 メディバンクというのは、向こうの大学に入学したとき、強制的に加入させせられる、
学生用の保険のことをいう。年額、数千円足らずのそのメディバンクが、カバーしてくれ
たという。ただだったという。三男は、ほかにAXXの総合保険にも入っている。

 もう10年前になるだろうか。オーストラリアの一人当たりの国民総生産高が、シンガ
ポールのそれに抜かれたとき、そのことを、オーストラリアの友人に話すと、その友人は、
こう言った。

 「ヒロシ、それがどうした?」と。

 生活の質、つまり生活水準などというのは、お金では計算できない。私は三男からその
話を聞きながら、同じように、医療水準などというのも、お金では計算できないと知った。
三男もそれを言いながら、「オーストラリアはいいところだね」と。三男も、すでに、オー
ストラリア大好き人間になったようだ。

 もうすぐ帰国するが、その前に、オーストラリアを、旅行してくると言った。それに答
えて私は、こう言った。

 「青春時代というのは、そのまま人生の灯台になるよ。
  これから先、お前が生きていく間、お前の足元を照らしてくれるよ。
  だから、思いっきり、すばらしい思い出を作っておくといいよ。
  これから先、苦しいこと、悲しいこと、つらいこともあるだろう。
  そういうとき、その灯台が、お前の足元を照らしてくれる。
  ふと、まちがった道に入りそうになることもある。
  そういうとき、その灯台が、お前を、そこで踏みとどまらせてくれる。
  青春時代の灯台というのは、そういうものだよ。
  思う存分、お前の青春時代を生きたらいい。
  旅行費用は、プレゼントするよ。必要な額を、メールで知らせない」と。

 つづいて、イングリッドさんが、電話に出た。しばらく礼を言いつづけた。イングリッ
ドさんは、そのときの状況や、病院での様子をあれこれ話してくれた。

 私は、その明るい声の中に、34年前に感じた、あのぬくもりを感じた。

 Advance Australia! We love you!

【国家としての完成度】

 国家としての完成度は、他国の人たちへの、やさしさで決まる。これは、個人のばあい
と、同様である。いうまでもなく、個人としての人格の完成度は、その人がいかに利他的
であるかで、知ることができる。

 もう25、6年前になるだろうか。当時、どこかの公的団体が、こんなアンケート調査
をした。

 日本に留学した外国の学生たちへのアンケート調査である。その結果、ほぼ100%が、
「(帰国するときには)、日本が嫌いになった」「もう、二度と、日本へは来たくない」と、
答えていたのを覚えている。

 劣悪な生活環境。劣悪なもてなし。理由はいろいろある。しかし当時、それぞれの国か
らやってくる留学生たちは、その国の超エリートたちであった。それなりの夢や希望をも
って、やってきた。

 そういう留学生たちが、1年、2年と日本で生活するうちに、日本が嫌いになってしま
う……。

 当時の日本には、とくにアジア系留学生には、冷たかった。どう冷たかったかというこ
とは、日本人なら、みな、知っているはず。

 それから10年、20年、30年……。今、当時の留学生たちが、それぞれの国で、そ
の国のリーダーとして活躍している。それを考えると、実のところ、背筋がぞっとする。
日本という国は、まだまだだと思う。

 私も留学生だったが、現地へ着くと同時に、ライオンズクラブのメンバーが、世話人と
して、二人ついてくれた。あちこちへ旅行に連れていってくれた。ゴルフや競馬に連れて
いってくれたこともある。もちろんすべて、無料。ボランティア活動である。

 だから……、というわけではないが、私は、オーストラリアが大好き人間になってしま
った。今でも、「オーストラリア」という言葉を聞くだけで、胸の中に熱いものが、よみが
えってくる。

 私は、それが国家としての完成度だと思う。

 どういうふうにして、2人のボランテォアが三男についてくれたかは知らないが、その
話を聞いて、ほっとすると同時に、私は、ますますオーストラリアが好きになった。


●K国の最強部隊?

 K国が、中国との国境沿いに、K国の最強部隊を配置したという。金XX直轄の、海軍
陸戦部隊だという。そのことを、中国の新華社通信は、つぎのように伝える。

「K国は、最近、最強の戦闘能力を持つ海軍陸戦部隊を国境地帯に配置し、脱北者の取
り締まりを強化している」(「国際先駆導報」9・16)と。

 考えてみれば、これはおかしなことだ。「脱北者を取り締まるために、K国は最強の軍隊
を配置した」というのだ。脱北者といえば、まさに着の身着のまま。武器をもって、脱北
する人など、いない。

 そういう脱北者である。なぜか?

 理由は、二つ考えられる。

 一つは、表面上の友好関係は別として、中国とK国の関係は、内部的には、かなり悪化
しているということ。その中国も、国境沿いに、15万以上の、正規軍を配置している※。
この8月には、中国人民解放軍が、K国の北で、渡河訓練 を行ったという報道もある(産
経新聞)。

 もう一つの理由は、K国が、そうでもしなければ、脱北者を防げない状態になっている
ということ。すでにK国自体は、崩壊状態になっている? 韓国への脱北者は、8月末ま
でで、今年は、1399人もいるという。この数は、03年度の1281人をすでに超え
ている(韓国の統一外交通商委員会)。

 以下は私の憶測だが、中国はK国に対して、強力な軍事的圧力を加えつつあるのではな
いかということ。「言うことを聞かなければ、軍事行動も辞さない」と。

 これに対して、金XXは、軍事力で対抗しようとしている。短気で向こう見ずの男だか
ら、それはありえる。つまり、ともに、脱北者対策は、口実にすぎない。

 日本にとって、最良のシナリオは、中国の圧力で、つまりは、自然死の状態で、金XX
独裁政権が崩壊すること。そしてそのあと、米中韓が協力して、K国に、民主的な新政権
を樹立すること。

 こうすれば、日本は、戦争をしないですむ。極東に、平和がやってくる。日本もそれ相
当の経済援助を覚悟しなければならないが、それは当然のことである。

※……中国側は、吉林省の国境地帯で、無線操作の監視モニターを約1キロおきに設置し、
24時間体制で不審者をチェック。発見すれば、5―10分以内に兵士が現場に急行できる
という(ヤフー)。


●高齢者、2500万人時代!

 もうすぐ高齢者が、2500万人に達するという(厚生労働省04・09)。

 2500万人と言われても実感がないが、要するに、こころにもそこにも、私のような
老人が、ごろごろするようになるということ。

 で、その老人にもいろいろある。大きく分けて、利己型と利他型。

 利己型というのは、結局は、自分のことしかしない、セルフィシュな老人群をいう。大
半が、そうであると言ってもよい。

 利他型というのは、地域の仕事や活動を、積極的にしている老人群をいう。ボランティ
ア活動や自治会の仕事で、走り回っている。

 どちらがよいか悪いかという議論は、ほとんど意味がない。私自身は、利己型の老人群
には、まったくといってよいほど、価値を認めない。が、本当にかわいそうなのは、本人
たち自身ではないのか。

 毎日、庭いじりをしているだけ。息子や娘もいるが、ほとんど、家には寄りつかない。
夫婦の会話も、これまたほとんど、ない。いくら長生きをしたからといって、そういう人
生に、どういう意味があるのか。

 一方、私の近所に、すでに腰がまがってしまった老人(女性)がいる。年齢は、90歳
くらいである。昨日も見ると、ハサミで(ハサミだぞ!)、一本、一本、雑草を切っていた。

 この女性は、もう20年近く、近くの中学校周辺の草刈りをひとりでしている。そうい
う老人を見ると、頭がさがる。本当にさがる。しかし私は、そういう老人の中に、人間が
生きる美しさを感ずる。すばらしさを感ずる。

 そこであなたの周辺の老人をながめてみてほしい。あなた自身の両親でもよい。

 そういう老人をながめてみたとき、あなたは、そういう老人をどう評価するだろうか。
つまり人生の大先輩としての老人を、である。

 私は、一つの基準として、この利己型と利他型があると思う。「思う」というのは、まだ
そう言い切る自信はないということ。私自身も、その老後を前にして、利己型の世界で、
あがき、もがいている。偉そうなことは、言えない。

 しかしこれだけは言える。

 これからは、私たちは、老人として、社会の中でごろごろする存在になる。そのとき、
若い人たちに、尊敬される老人をめざさないと、結局は、自分で自分の立場を否定するこ
とになってしまうということ。一昔前には、「粗大ゴミ」という言葉がはやった。その粗大
ゴミになってしまうということ。

 そうなれば、どうなるか……? 社会のやっかい者として、嫌われるようになってしま
うかもしれない。2500万人という数字には、そういう意味も、含まれる。

 が、本当の恐怖は、そのことではない。利己的に生きれば生きるほど、その人自身が、
無間の孤独地獄を背負うことになる。クリスマス・キャロルのスクルージー※に、その例
を見るまでもない。それこそ、まさに本当の恐怖ということになる。

 そうならないためには、私たちは、今から、何をすべきか。どうしたらよいのか。それ
を考えるのも、老後の問題ということになる。

※(クリスマス・キャロル)……チャールズ・ディケンズの代表作。舞台はロンドン。と
きは、クリスマス・イブ。ケチで、利己的なスクルージーのところに、7年前に死んだ協
同経営者のマーレーが、亡霊となって現れる。そして……。


●心の混乱

 自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。長男、
長女のときは、とくにそうだ。

 それについては、何度も書いてきた。

 問題は、なぜそうなのか。さらに、それを防ぐには、どうしたらよいかということ。

 実は、こうした心の混乱には、いつも二面性がある。

 自分の子どもが、一つのコースからはずれるとわかったときの恐怖感は、相当なもので
ある。言葉では表現しがたい。それはわかる。が、なぜ、そうまで恐怖感を覚えるかとい
えば、そこに、それまでの自分自身の生きザマが、そこに集約されるからである。

 私たちは、無意識のまま、心のどこかでコースからはずれていく人を、さげすみ、排斥
する。あるいは、自分とはちがった生き方をする人を、認めない。認めないというよりは、
許さない。これは人間という動物が、動物としてもっている本能のようなものかもしれな
い。

 だから、自分にせよ、自分の子どもにせよ、そのコースからはずれ始めると、言いよう
のない恐怖感を覚える。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 学歴をことさら気にする人というのは、学歴コンプレックスをもっている人は別として、
その人自身がその学歴にぶらさがって生きているか、反対に、学歴のない人を、さんざん
笑ったり、軽蔑しているかの、どちらかとみてよい。笑ったり、軽蔑したりしているから、
今度は、逆の立場に立たされたとき、その人は、その何倍も、苦しむ。

 同じように、なぜ、人は、コースからはずれるのを、こうまで恐れるかと言えば、無意
識であるにせよ、そのコースからはずれる人を、心のどこかで、笑ったり、軽蔑したりし
ているからである。

 では、どうするか?

 要するに、人の不幸を笑ってはいけないということ。笑った分だけ、いや、その何倍も、
今度は自分が同じ立場に立たされたとき、苦しむ。

 だから私はあえて、言う。あなた自身は、どうか、と。

 何か、問題のある子どもや親を、あなたは、笑ったり、軽蔑したりは、していないか、
と。もし、そうなら、そういう考え方は、今すぐ、改めたほうがよい。でないと、いつか、
今度は、あなた自身やあなたの子どもの問題として、その何倍も、苦しむことになる。

 こんなことを言う親がいた。

 「ADHD児なんて、教室から追い出せばいいのです。みんなの迷惑になるだけです」
と。

 もう15年ほど前になるだろうか。S県のある小学校で、車椅子に乗った身体障害児に
対して、その入学に反対する集会が開かれたこともある。(ホントだぞ!) 理由は、「そ
ういう子どもが入学してくると、子どもたちの学習に、さしさわりが出るから」だった。

 また私にこう言った、経営者がいた。

 「何だかんだといっても、この世界は、弱肉強食の世界です。力のある人がいい生活を
するのは、当然のことです。力のない人は、それなりの生活をするのも、これまた、当然
のことです」と。

 さらに面と向って、私にこう言った人もいる。私が「幼稚園で働いています」と言った
ことに対して、だ。

 「君は、学生運動か何かをしていて、どうせ、ロクな仕事にありつけなかったんだろう」
と。

 「幼稚園で働くのは、ロクな仕事ではない」と。

 言いたければ、そう言うがよい。思いたければ、そう思うがよい。しかしそう言ったり、
思ったりすればするほど、今度は、自分が逆の立場に立たされたとき、その何倍も苦しむ
ことになる。

 ある母親は、毎晩、中学3年生の娘と、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を繰
りかえしていた。なぜか? 実は、その母親自身が、いつも、他人を、その出身高校で判
断していたからである。「あの人は、S高校出身なんですってねえ」「あの人は、D高校し
か出ていないんですってねえ」と。自分自身も、市内でも、ナンバーワンといわれる、S
高校の卒業生だったこともある。

 だから自分の娘の学力がそこまでないとわかったとたん、その母親は、パニック状態! 
他人を笑ったり、軽蔑した分だけ、自分で自分のクビをしめたことになる。

 こうした心の混乱をふせぐためには、日ごろから、自分より弱者に暖かくする。新約聖
書の中にも、『慈悲深い人は、祝福される。なぜなら、彼らは、慈悲を与えられるだろう
(Blessed are the merciful, for they will be shown mercy)』(Matthew 5-9)というの
がある。

 この一文を逆に読むと、(私のようなものが解釈することは、おそれおおいことだが)、「日
ごろから、他人にやさしくしている人ほど、自分が逆に、その人の立場に立たされたとき、
その苦しみから救われる」ということになる。

 自分の子どもがコースからはずれていくことを心配している人は、一度、自分自身も、
コースからはずれていく人を、心のどこかで、笑い、軽蔑していないかを反省してみると
よい。

【補記】

 あるとき、ある大手の出版社に勤める友人が、私にこう言った。「林さん、ぼくらはね、
林さんのような生き方を認めるわけには、いかないんですよ」と。

 私が、「大手の出版社は、権威主義的すぎる。もっと、人の中身を見て雑誌をつくらない
と、やがて大衆から見放される」と言ったときのこと。

 「でもね、林さん。もしぼくらが林さんのような生き方を認めてしまうと、ではぼくた
ちの生き方は何だったのかというところまで、いってしまうのです。つまりね、ぼくらの
世界では、林さんのような人は、敗北者で、失敗者なんです。また、そうでなければ、な
らないのです。

 おかしなもので、林さんのような生き方をしている人が失敗すると、『やっぱり、そうだ
ったんだ。ぼくらの生き方は、これでいいんだ』と、へんに納得できるんですよ。だから
内心では、『あの林は、今に、失敗するぞ』『今に、失敗するぞ』と、楽しみにも似た、期
待感をもつわけです。

 しかしね、林さんのような人が成功したりするのをみるのが、こわいんですよ。自分の
生きザマを、否定されるように感じてしまうのですね。ぼくらは、組織の人間、会社人間
ですから……」と。

 コースに乗っている人が、なぜ、そのコースからはずれることを恐れるかと言えば、い
つもそのコースの外にいる人を、否定しているからではないのか。だから自分はともかく
も、自分の子どもがそのコースからはずれそうになると、狂乱状態になる。

 親たちは、子どもが不登校を起こしたりすると、「うちの子は、このままダメになってし
まう」と言うが、本当のところは、子どものことなど、何も心配していない。自分の生き
ザマが、否定されるのがこわいのだ。

 子どものことを本当に心配するなら、子どもの心の問題を考える。最初から最後まで、
子どもの心の問題だけを考える。それでよい。それがすべて。本来なら、親は、そうある
べきなのだが……。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 18日(No.477)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子育ては楽しむ

 子育ては本来、楽しいもの。楽しくなかったら、どこかおかしいと思ってよい。実際に
は約七二%の母親が、「子どものことでイライラする」(日本女子社会教育会・平成七年)
と答えているが……。ただこういうことは言える。子育てを楽しんでいる親の子どもは、
表情が生き生きとして、明るいということ。そうでない親の子どもは、そうでない。

 子育てを楽しむ秘訣、それは子どもの世界に自分も入ること。相手が子どもだからとい
って、幼稚だとか、愚かだとか考えてはいけない。子どもは未経験で知識はなく、未熟な
面はあるが、しかしおとなが考えているよりはるかにその世界は純粋で美しい。人間の「原
点」がそこにあると言っても過言ではない。いろいろなことがあった。

 幼稚園で一人、両手を下へおろしたまま走っている子ども(年長児)がいた。そこで私
が「手を振って走れ!」と号令をかけると、何を思ったかその子どもは、「先生、バイバー
イ、先生、バイバーイ」と言って走り出した。

あるいは子どもたち(年長児)に、「春になると木に芽が出てきます」と話したときのこ
と。何人かの子どもたちが、「こわい、こわい」と言い出した。「芽」を「目」と誤解し
たためだ。子どもといっても、心はおとな。私の子ども観を変えた事件に、こんなこと
があった。

 一人静かな女の子(年長児)がいた。いつもはほとんど発言しなかったが、その日は違
っていた。たまたまその女の子の母親が授業参観に来ていた。何か質問すると、「ハーイ」
と言って元気よく手をあげた。そこで私が少しおおげさにほめて、みんなに手を叩かせた。
するとその女の子はポロポロと涙をこぼし始めた。私はてっきりうれし泣きと思ったが、
それにしても合点がいかない。そこで授業が終わったあと、「どうして泣いたの?」と聞く
と、その女の子はこう言った。

「私がほめられたから、ママが喜んでいると思った。ママが喜んでいると思ったら、涙
が出てきちゃった」と。その女の子は、母親の気持ちになって涙をこぼしていたのだ!

 子どもの世界はあなたが思っているよりはるかに広い。それに気づくか気づかないかは、
つまるところあなたの姿勢による。あなたも一度、まさに童心に返って、子どもとともに
その世界を楽しんでみたらどうだろうか。子育てもぐんと楽しくなる。そしてそれに合わ
せてあなたの子どもの表情も明るくなる。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国語力を豊かにするために

 「ほら、カバン! ハンカチは! バス、バス……、ほら、帽子!」と、こんな話し方
をしていて、子どもに国語力が育つはずがない。

こういうときは、たとえめんどうでも、「あなたはカバンをもちます。ハンカチはもって
いますか。もうすぐバスが来ますから、急いでしたくをしなさい。帽子を忘れないでく
ださい」と。こうした会話環境があってはじめて、子どもは国語力を身につけることが
できる。が、こんな方法もある。

 一人、バツグンの国語力のある子ども(年長女児)がいた。作文力をみたら、小学四〜
五年生程度の力があったのではないか。紙芝居を渡しても、その場でスラスラと物語をつ
くってみせた。そこで母親にその秘訣を聞くと、こう話したくれた。

 母親の趣味はドライブ。そこでほとんど毎日、それもその子どもが乳幼児のときからド
ライブに連れていったのだが、そのとき母親は、自分の声で吹き込んだ物語のテープを聞
かせつづけたという。物語は、子ども向けのものから、もう少し年齢の大きい子ども向け
のものまで、いろいろあったという。

 確かにこの方法は効果的である。別の母親は、芥川竜之介の難解な小説(「高瀬舟」)を
吹き込んだカセットテープをその子ども(小一)に、毎晩眠る前に聞かせた。数か月もす
ると、その子どもはその物語をソラで言えるようになったという。

 この方法にはいくつかのコツがある。やはり一番よいのは、母親の声で録音したテープ。
物語は何でもよいが、読んで聞かせる目的なら、二〜四年レベルの高いものでも構わない。
大きな書店へ行くと、学校の教科書を売っている。そういうところで、いろいろな教科書
を手に入れて読んであげるとよい。値段も安いし、内容もよく吟味されている。

また国語に限らず、社会や理科、あるいは道徳の教科書でもよい。子どもが興味をもっ
ていることなら一番よいが、あまりこだわらなくてもよい。

 さて冒頭の話だが、子どもの国語力の基本は、あくまでも親、なかんずく母親の国語力
による。あなたも子どもの前では、正しい日本語で話してみてほしい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

*******************
【失敗する子育て・子育てで失敗する親】
*******************

子育てで、子育てに失敗する親たち

*******************

 この話は、フィクションです。登場するのは、T君の母親とT君という、架空の親と子
どもです。今まで私の前を通り過ぎた無数の親や子どもたちの中から、(典型的な例)をあ
げ、子育てで、子育てに失敗する親について、考えてみます。

 この話が、みなさんが、もう一度、自分の子育てをみつめなおすきっかけになれば、う
れしいです。繰りかえしますが、この話は、フィクション、つまり小説です。「私」という
一人称を用いて書いていますが、決して、私のことを書いているわけではありません。ま
た登場人物も、実在する親と子どもではありません。そういうことを念頭に置いて、お読
みください。

*******************

【1】

 子どもの学習で、重要なことは、子ども自身が、達成感を味わうようにすること。「ヤッ
ター!」という思い、それが子どもを前向きに伸ばす。心理学の世界でも、これを「強化
の原理」という。

 たとえば小学1年生に、20問の足し算の問題を出したとする。繰りあがりのない、答
が10までの問題である。

 この時期、まだ指を使って計算する子どもは、少なくない。T君(小1)もそうだった。
能力的には、上位にいたが、計算だけは、どういうわけか、苦手だった。私は、問題用紙
のはしに丸を描いて、計算するように指導した。

 T君は、懸命にそれをした。ほかの子どもたちより、2倍ほど、時間がかかった。

 で、T君は、やっとのことで、そのプリントをやり終え、私のところにもってきた。そ
れを見て、私は大きな丸をつけた。「できたね。よくやったね!」と。

 20問のうち、4、5問は、まちがっていた。しかしまちがっていたといっても、誤差
の範囲。が、それよりも重要なことは、T君に、自信をもたせること。私がT君をほめる
と、T君は、うれしそうに笑った。それを見て、「ほら、この前より、ずっとはやくできる
ようになったじゃないか」と、私は、またほめた。

 が、その日のレッスンが終わって、一息ついたときのこと。T君の母親が、そのプリン
トをもって、私の教室へやってきた。そしてどこか緊張した口調で、こう言った。

 「先生、この答、ちがっていますよ!」と。
 
 私はすかさず、「一生懸命やってくれましたから、丸をつけてあげました」と答えた。

母「まちがっているのに、丸をつけるのですか?」
私「答には、あまり、こだわらないほうが、いいと思うのですが……」
母「ちゃんと、しっかりみてくださらないと、困ります」
私「はあ、今度から、そうします。ごめんなさい」
母「あとで、息子には、やりなおしをさせておきます」
私「……」と。

 しばらくすると、T君が、半べそをかきながら、私のところにもどってきた。「これ……」
と言ったから見ると、先のプリントを手にしていた。「やりなおしたの?」と私が聞くと、
「うん」と。

 駐車場にとめた、車の中でしたらしい。字が乱れていた。

私「よくやったね。さっきは、ぼくがまちがえた。まちがっているのに、丸をつけて、ご
めんね」
T「うん」と。

 そのあと、廊下のほうから、T君の母親が、T君を叱る声が聞こえてきた。「どうして、
こんな簡単な問題ができないの! ちゃんとやっているの!」と。私は、廊下へおどり出
た。母親とT君は、まだそこにいた。

母「私は、1年生のとき、こんな問題なら、簡単にできました。どうしてTはできないの
でしょう」
私「できないということではありません。数を信号化して、それをすぐ頭の中で、数える
ことができないだけです。わかりやすく言えば、指を使って計算するというクセが、身に
ついてしまったからです。少し訓練すれば、もう少しはやく計算ができるようになります」
母「私は、小学1年生のときには、6足す7の問題もできました」
私「くりあがりのある足し算は、2学期に入ってから、学習します」と。

 T君の母親は、さも不満そうな顔をしていた。そしてそのまま、T君の手を引いて、駐
車場のほうへと歩いていってしまった。

【2】

 子どもを自分の思いどおりにしたいと考え、自分の管理化におくことを、心理学の世界
でも、「代償的過保護」という。一見、過保護に見えるが、過保護ではない。

 ふつう過保護というときには、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保
護には、それがない。たとえば子どもの受験競争に狂奔する親がいる。この世界では、珍
しくない。このタイプの親は、「子どものため」という言葉を、よく口にする。が、本当の
ところは、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 もっと言えば、自分の不安や心配を解消するために、自分の子どもを利用する。あるい
は子どもを、自分の果たせなかった夢を果たす、道具に使う。それが代償的過保護という
ことになる。

 が、T君のばあいは、もう少し、複雑な事情が、それにからんでいた。

 T君の祖父は、静浜市でも、有名な医師だった。医師会の会長も、何期か務めたことが
ある。財産家でもあった。

 しかしT君の父親は、そのときですら、実家の援助と仕送りを受けて、生計を立ててい
た。定職をもっていなかった。つまりT君の母親は、夫と結婚したというよりは、夫の父
親(T君の祖父)の財産を当てにして、結婚したようなところがあった。

 いや、当初は、二人の間にも、恋愛感情があったのかもしれない。しかしT君の母親は、
やがて夫との結婚生活に幻滅。夫との離婚を何度も考えるようになった。が、それもまま
ならぬとわかるようになると、今度は、一転、夫の父親の財産に目をつけるようになった。

 だからT君の母親の口ぐせは、いつも同じ。「Tを、医者にします。どうか、手を貸して
ください」と。それを受けて、T君はT君で、「ぼくは、おとなになったら、おじいちゃん
のようなお医者さんになる」と言っていた。

 そのためT君の母親は、過激とまで言えるほど、T君の教育に、のめりこんでいった。

【3】

 子育ては、それ自体が、重労働である。どう重労働であるかは、それをしてみないとわ
からない。

 しかしその重労働も、夫婦の愛情がしっかりしていれば、乗りきることができる。子ど
もは、まさに(愛の結晶)ということになる。

 が、その基盤が、ゆらいだとき、その重労働は、苦痛へと変身する。そしてその苦痛は、
長い時間をかけて、母親の心をむしばむ。ストレスはさらにつぎのストレスを生む。そし
てそれが幾重にも折り重なって、いわゆる私たちがいう、「育児ノイローゼ」へと発展する。

 うつ病である。

 今、こうして育児の過負担から、育児ノイローゼになっていく母親は多い。症状は、お
決まりの抑うつ感から、情緒不安、不眠、慢性的な頭重感や頭痛などなど。

 T君の母親の様子が、どこかおかしくなり始めたのは、T君が、3歳くらいのときから
だった。ささいなトラブルで、隣人を大声で罵倒したかと思うと、その翌日には、手製の
編み物をもって、あやまりに行ったりした。

 その隣人は、こう言った。「とても、ものをもらえるような雰囲気ではありませんでした
ので、そのまま帰ってもらいました」と。

 しかしその抑圧感が、母親の範囲で収まっていれば、まだ問題はない。T君の母親は、
ことあるごとに、T君を、大声で怒鳴ったり、叱ったりしていた。

 が、T君は、母親にくらべて、精神的にはきわめてタフな子どもだったようだ。ふつう
なら、(私の経験の範囲なら)、そのため内閉したり、精神的に萎縮したとしても、おかし
くなかった。親の情緒不安ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。が、T君は内閉
することもなく、表面的には、それなりに明るい子どもとして育った。

【4】

 そのT君が、母親に反抗し始めたのは、T君が、小学3年生になるころのことだった。
最初、T君の母親から、電話がかかってきた。「家で、遊んでばかりいて、勉強をしません」
と。

 が、その数日後、私が教室へ入ろうとすると、入り口のところに、T君の母親が立って
いた。オロオロした様子で、こう言った。

 「先生、Tが、私と口をきいてくれなくなりました。学校の様子を聞いても、何も話し
てくれません。先生のほうから、もっと学校の様子を離すように、指導してください」と。

 が、そのころになると、私も、T君の母親とは、一線を引くようになっていた。

 T君の母親は、どこかつかみどころのない人だった。そういう印象をもち始めていた。
気分の移り変わりがはげしいというか、何を考えているか、わからなかった。昨日通りで
会って、明るくあいさつを交わしたはずなのに、その翌日の今日には、指導のし方がおか
しいと、教室へ怒鳴りこんでくるなど。そんな感じだった。

 夜中の1時すぎに、「相談がある」といって、電話がかかってきたこともある。あるいは、
「昨日は、長い電話をして、ごめんなさい」と、ほとんど意味のない電話がかかってきた
こともある。

 私はT君の母親をなだめるだけで、精一杯だった。

私「もうそろそろ子どもも、親離れを始めますから……。どこの子どもも、そんなもので
すよ」
T君の母親「そうですか……。どこも、そうですかア……」と。

 それは痛々しいほどの狼狽(ろうばい)ぶりだった。


【5】限界

 子育てというのは、自分で失敗してみるまで、それが失敗だったと気づくことは、まず、
ない。失敗してみて、はじめて、親は、それが失敗だったと気づく。

 これは子育てにまつわる、宿命のようなものかもしれない。それには、いくつかの理由
がある。

 その一つが、内政不干渉の大原則。

 たとえばレストランの中で、母子二人の、親子連れの横にすわったとする。母は、ハン
バーグを食べ、子どもが、ソフトクリームを食べていたとする。子どもといっても、まだ
4歳前後。食べているソフトクリームは、子どもの顔より、大きい。

 体重10キロもない子どもが、ソフトクリームを一個食べるということは、体重50キ
ロの母親が、同じソフトクリームを5個、食べる量に等しい。

 おとなでも、5個は、食べられない。仮に、5個も食べれば、どうなるか……? しか
しそういう光景を見たとしても、それについて、私やあなたは、とやかく言うことはでき
ない。

 これが内政不干渉の大原則である。

 つぎに、仮にそれがわかっていたとしても、「もし、まちがっていたら……」という迷い
は、いつも、つきまとう。

 明らかに、つっぱり症状を示し始めた子どもがいたとしても、それは一時的なものかも
しれない。あるいは、それ以上、症状が進まないかもしれない。生意気になったとしても、
ある時期、子どもは、みな、生意気になる。生意気になりながら、おとなになる。

 T君もそうだった。

 小学3年の終わりには、ますます生意気になった。こんなことがあった。

 帰りぎわ、私が、T君に、戸棚の整理を頼んだ。みなが使った道具類が、散乱していた。
すると、T君は、即座に、「どうして、ぼくがしなけりゃあ、いかんよ〜」と。それに強く
反発した。そこで、私は、「君が、一番近くにいるからだ」とか、「ほかの人には、ほかの
仕事を頼むから」と説明した。

 本当のところは、そのT君が、一番乱暴に、道具類を使っていたからだ。だから私は、
T君にそれをさせたかった。

 が、T君は、最後まで不機嫌な顔のまま。道具類を片づけながら、「ぼくがすれば、いい
んでしょ、ぼくが」と、何度も吐き捨てた。

【6】

 しかし内政不干渉というのは、口実かもしれない。本当のことを言えば、親にそれだけ
の自覚があれば、子どもの指導は、まだ可能。が、その自覚のない親には、いくら説明し
ても、ムダ。ムダであるばかりか、かえって、私の言ったことに反発してしまう。

 T君の母親は、何かにつけて、T君を大声で怒鳴りつけた。その声が、家の外まで聞こ
えてくることもあったという。

 そこで見るに見かねた、祖母(父親の実母)が、あるとき、T君の母親をたしなめた。「子
どもは、大声を出して育てては、いけない」と。

 するとT君の母親は、その場で、T君を呼びつけ、「T! お母さんが、いつ、あんたは
怒鳴ったア!」と。「怒鳴ったことなどないわよね。だったら、おばあちゃんに、ちゃんと、
そう言いなさい!」とも。

 すでにそのときT君の母親は、T君に向かって怒鳴っていた。が、T君の母親には、そ
の自覚は、まったくなかった。つまりそういう言い方が、T君の母親には、ごくふつうの
言い方だった。

 これは一例だが、子育てというのは、一事が万事。T君の母親は、あらゆる面で、そう
した子育てをしていた。頭ごなしの、命令口調。それ以外の子育てができないというより、
知らなかった。というのも、どんな母親でも、自分が受けた子育てしか知らない。それが
悪いというのではない。もともと、子育てというのは、そういうもの。

 だから、無意識であるにせよ、(まったくの無意識状態と言ったほうが、正確かもしれな
いが)、親というのは、よきにつけ、悪しきにつけ、自分が受けた子育てを繰りかえす。

 T君の母親も、そうだった。

【7】

 九州の北部という土地柄もある。そのあたりでは、そうでない地域の人には信じられな
いほど、親意識が強い。いまだに家長制度が、色濃く残っている。

 たとえば娘でも、一度嫁いで家を出れば、他人。まったくの、他人。実家へもどるとき
も、シーツを持参するという。「父親はもちろんのこと、母親にですら、反発することなど、
考えられません」と、T君の母親は、言った。T君の母親は、その九州北部のS県の出身
だった。

 だからそういった家長制度に、心のどこかに反発しながらも、その一方で、T君の母親
は、T君が、反発したり、口答えすることを許さなかった。ことあるごとに、「親に向かっ
て、何てこと言うの!」が、口グセになっていた。

 T君は、母親に、表面的には、従順に従っていた。が、もう一つ、大きな問題があった。

 先にも書いたように、T君の父親には、生活力がなかった。柔和でおだやかな人だった
が、ハキがなかった。仕事といっても、短期間のアルバイトを繰りかえすだけ。店員にな
ったり、配達業を手伝ったり。工事現場の旗振りの仕事をしたこともある。

 そういう父親を、T君の母親は、ことあるごとに、けなした。

 「お父さんは、稼ぎがないからね」
 「お父さんは、だらしない人よ」と。

 こういう関係は、決定的に、まずい。心理学の世界でも、「三角関係」と呼ぶ。父親と母
親が、バラバラになってしまい、子どもとの間に三角関係ができてしまうことをいう。

 子どもが小さいうちならまだしも、子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、両親
のスキをねらって行動するようになる。具体的には、どちらの親の言うこともきかなくな
る。親をバカにするようになる。

 子どもの側からみると、ちょうど、凧糸の切れた、凧のようになる。ハンドルのない、
自動車のようになる。その傾向が、T君にも見られるようになった。

【8】

 親子の断絶は、最初は、小さなキレツで始まる。そのキレツが始まったところで、本来、
親はそれに気づき、手を打たなければならない。しかし、ほとんどの親は、こう考える。

 「まだ、何とかなる」「うちの子にかぎって、そんなはずはない」と。

 しかし一度、キレツが入ると、あとは竹を割ったように、そのキレツは大きくなる。パ
リッと、だ。

 こんな事件があった。

 T君が4年生になったまもなくのころ。T君の母親が、買ったばかりの新車を、自動販
売機にぶつけてしまった。自損事故である。私は、その事故のことを、T君の母親から、
直接聞いて知っていた。

 で、その数日後のこと。私はT君と会ったので、こう切り出した。

私「お母さん、事故、起こしたんだってね?」
T(ふてくされた様子で)、「知らね〜よ」
私「けがはなかったの?」
T[知らね〜よ、って]
私「知らないって、お母さんがけがをしたら、たいへんだよ。心配しないのか?」
T(さらにふてくされた様子で)、「知らねえって、ば」と。

 子どもというのは、その人に対する印象をそのまま表現することがある。もう30年近
くも前のことだが、こんなことがあった。

 年中児の子どもたちに、父親の絵を描かせていたときのこと。一人、父親の顔を描いた
とたん、クレヨンで、その顔を真っ黒にぬりつぶしてしまう子どもがいた。そこでその紙
をとりあげ、新しい紙を渡し、もう一度描かせた。が、結果は、同じ。また、父親の顔を
書いたとたん、黒く、ぬりつぶしてしまった!

 あとで理由を聞くと、母親は、こう言った。

 「あの前の夜、はげしい夫婦げんかをして、夫は、家を飛び出してしまいました」と。
そのとき、その母親は、「蒸発」という言葉を使った。当時、流行していた言葉である。「突
然の家出」のことを、「蒸発」と言った。

 T君もそうだった。ふつうは……、こういうケースでは、「ふつう」という言い方は、慎
重にしなければならないが、ふつうは、母親が事故を起こせば、子どもは、それについて
心配する。

 しかしT君は、その様子を見せなかった。見せないばかりか、私から視線をはずした。
どこか心がゆがみ始めた子どもがよく見せる、「横視現象」である。

【9】

 心がゆがみ始めると、子どもは、さまざまな、しかし独特の症状を見せるようになる。
原因は、欲求不満と考えてよい。あるいは欲求不満に準じて、考える。症状としては、な
げやりで横柄な態度。肩をいからせて歩く、乱暴な言葉など。

 心はいつも緊張状態にあるため、ささいなことで激怒しやすくなる。被害妄想性と過剰
行動性を示すことも多い。俗にいう、キレやすい状態になる。精神医学の世界では、突発
的なさく乱状態のことを、「キレル」という。

 そのほか生活態度としては、目標や目的が守れない、退廃的になりやすいなど。その場
だけの享楽的な楽しみを求めるようになる。

 T君が見せた、横視現象も、その一つに当たる。自分の心を見すかれないようにするた
め、無意識のうちにも、相手から視線をはずす。

 しかしこの段階でも、外の世界では、ふんばる子どもがいる。家の中では荒れても、外
の世界では、それを見せない子どもである。仮面をかぶるのがよいわけではないが、しか
し外の世界でも、その「荒れ」を見せるようになったら、症状は、かなり重いとみる。

 私は、T君を傍(はた)から観察した。どこか乱暴な様子は見せるが、それは私だから
わかること。素人が見たら、ごくふつうの、どこにでもいる、明るい活発な子どもに見え
たかもしれない。

 私が、最初に迷ったのは、このときである。「母親に、それを告げるべきか、どうか」と。

 しかしこういうケースでは、母親に話して、それでうまくいくのは、10に1つもない。
ほとんどの母親は、二番底、三番底の恐怖を知らない。今の状態を最悪と考えて、その時
点で、子どもを何とかしようとする。その無理が、子どもの症状をこじらせる。

 よくある例が、子どもの門限破り。

 ふつう子どもが門限を最初に破ったりすると、親は、そのとき、子どもをきつく叱る。
で、しばらくは、子どもも、おとなしくしているが、また門限を破る。すると親は、さら
に強く叱る。

 しかしこれをしばらく繰りかえしていると、子どもは、外泊。さらには、家出、集団非
行へと進んでいく。二番底、三番底へと落ちていくわけである。

 が、最近では、さらにその底がある。妊娠、中絶などは、まだよいほう。すでに中学生
でも、深刻な性病になるケースすら、ある。

【10】

 小学5年生になるころには、T君は、だれの目にも、荒れた子どもに見えるようになっ
た。行動も、大胆になってきた。友だちを殴ったり、蹴ったりすることもあった。バス停
のイスをほうりなげて、防風用の塀をこわしてしまったこともある。T君の母親は、その
たびに、学校へ呼び出された。

 もうこうなると、打つ手は、ほとんどない。T君にしてみれば、先生にせよ、友だちに
せよ、みながこわがることのほうが、居心地がよい。そんなわけで、(みなに嫌われる)→
(行動がますます粗放化する)の悪循環の中で、T君の行動は、さらに大胆になっていっ
た。

 学校をサボル。授業を妨害する。仲間と、ゲームセンターにいりびたりになり、ときに、
外泊もする。もちろん、勉強どころではない。T君の母親は、こう言った。

 「もう、こわくて、私からは、何も言えません。どうか先生のほうから、説教してくだ
さい」と。そのときT君の身長は、すでに、母親をこえていた。

 が、ここにも書いたように、私とて、無力でしかない。「もうこれ以上、症状を悪くしな
いように、それだけを考えて、あきらめるべきところは、あきらめなさい」と。

 事実、その時点で、T君を放り出すようなことをすれば、今度は、「犯罪行為」に走るよ
うになるかもしれない。その可能性は、じゅうぶん、あった。

 で、T君は、こうして小学校を卒業し、一応、中学校へと進学した。同時に、私のとこ
ろからも去った。

++++++++++++++++++++

 ここで架空の親子、T君と、その母親について、書いた。しかし、こういう失敗例は、
多い。本当に多い。親子の歯車がどこかで狂い、かみあわなくなる。そしてあとは、お決
まりの断絶。

 しかしT君がまだ幼児のころ、T君がやがてそうなると、T君の母親は、想像できただ
ろうか? 答は、ノーである。T君の母親は、T君を医者にすると言っていた。T君も、
医者になると言っていた。

 しかしその夢は、T君が中学生になるころには、完全にうちくだかれてしまった。母親
はこう言った。「何とか、中学校だけでも、しっかりと出てほしい」と。今では、「人様に
迷惑さえかけなければ、それでいいです」「どこかで大きな事件が起きるたびに、つぎはう
ちの子ではないかと、ハラハラしています」とも。

 T君のような例のほか、ほかにも失敗例は、多い。無理な学習が、子どもを無気力にし
てしまった例。さらには、子どもの心までゆがめてしまった例など。しかしこうした失敗
で共通しているのは、最初から、親が、子どもの心を見失ってしまっていること。子ども
の心を見ようともしない。

 「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」という過信と誤解のもと、自分流
の子育てを、子どもに押しつけてしまう。

 が、相手は、生身の人間。あなたや私と、どこもちがわない、同じ人間。「やらせればで
きる」と考えるのは、あなたの勝手かもしれないが、一度でよいから、子どもの立場で、
子どもの視線で、考えてみたらよい。

 そういう謙虚な姿勢が、子どもの心を開く。こうした失敗を防ぐ。それについては、マ
ガジンのほうで、追々書いていきたい。
(040917)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ハリケーン、「アイバン」

 超大型のハリケーンが、目下、アメリカの南部を襲っているという。名前を、「アイバン」
というそうだ。

 そこで私は、「アイバン」と、どう書くかを調べてみた。

 アメリカのあちこちのニュースサイトを開いてみる。が、なかなか見つからない。検索
したくても、しようが、ない。スペルがわからない。そのスペルを検索するときは、どう
すればいいのだ!

 eyebanか、Ibanか……?

 ……と思っていたら、わかった。

 「Ivan」と書くのだそうだ。ロシア式の読み方では、「イワン」?

 日本では、「イバン」と読みそうである。よく知られたアーティストに、「エンヤ」がい
る。日本の外では、「イーニャ」と読む。

 昔、こんなことがあった。

 オーストラリアのビジネスマンが私をたずねてきて、「ケイトウという会社へ、連れてい
ってくれ」と。

 「そんな会社は聞いたことがない。知らない」と答えると、「そんなはずはない。日本で
も最大級の建設機械メーカーだ」と。

 スペルを書いてもらったら、「KATO」、つまり、「カトウ」とわかった。

 同じように、「日立(HITACHI)」は、オーストラリアでは、「ハイタッチ」と呼ば
れていた。(今も、そうだと聞いている。)

 それにしても、巨大なハリケーンだ。映画に、『パーフェクトストーム』というのがあっ
た。その映画を思い出しながら、どうか、息子たちの住むアーカンソー州へ向わねばよい
と、毎日、心配している。


●意識のズレ

 中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレている」という。しかし日
本に住んで、日本の中だけで、ものを考えていると、それがわからない。

 しかし方法がないわけではない。日本に住んでいても、その(ズレ)を知ることができ
る。

 今回の一連の、韓国の核実験を見れば、それがわかる。韓国の人たちは、「それはただ単
なる実験だった」「核兵器を作るつもりはなかった」「一部の学者がしたことで、政府は関
係ない」などと主張している。

 しかしこうした一連の実験が、日本人の私たちに、いかに大きな衝撃と、不信感を招い
たことか。ついでに不安感も! 事実、毎日、日本の新聞は、このニュースを伝えている。
が、その一方で、韓国の新聞は、ほとんど無視。今日も、朝鮮日報のHPをのぞいてみた
が、そのことについては、一言も触れていない。

 つまり、これが私がいう(ズレ)である。

 しかしこの(ズレ)を軽くみてはいけない。この(ズレ)が、えてして、そのまま戦争
につながることがある。現に今、K国による核実験は、すでに時間の問題とされる。「オク
トーバー・サプライズ」という言葉さえある。「この10月に、K国は、核実験をする」と
いう意味である。

 もしK国が、核爆発の実験をすれば、周辺国に、いかに大きな衝撃を与えることか。恐
らく、K国の人たちには、それがわからないのではないか。と、同時に、これは、私たち
日本人の問題でもある。

 冒頭にも書いたように、中国の人や、韓国の人は、よく「日本人の歴史認識は、ズレて
いる」と言う。しかし肝心の私たち日本人には、それがわからない。しかしここは、やは
り、謙虚に、どうして彼らがそう言うのか、静かに耳を傾けてみる必要がある。

 事実、日本は、先の侵略戦争で、周辺の国々に、たいへんな迷惑をかけた。日本人も3
00万人死んでいるが、その日本人は、同じく、300万人もの外国人を殺している。そ
うした事実を忘れて、「日本人が日本で、何をしようが、日本人の勝手」という論理は、悲
しいかな、この日本の外では通用しない。

 今回、韓国の人たちは、内緒で、つまり秘密裏で、核実験を繰りかえしていた。いくら
「核兵器はつくるつもりはなかった」と言っても、それを信ずる日本人は、いない。つま
り、これもその(ズレ)の中に含まれる。

 とくに韓国がその核実験を繰りかえしていた時期というのは、日本が莫大な戦後補償(実
際には、「経済援助」という名目でなされたが……)を、していたころである。言うまでも
なく、その実験の目的は、日本に対して、核兵器を使うためである。K国や中国ではない。
日本、である。

 はっきり言おう。

 日本も、かなり本腰を入れて、この問題には対処しなければいけない。今までのように、
「アメリカが何とかしてくれるだろう」とか、あるいは、「いい子でいれば、世界は日本に
対して、何もしないだろう」と考えるのは、あまりにも甘い。あくまでも実験にすぎなか
ったという、韓国の言い分を鵜のみにするのは、あまりにも甘い。
 
 では、どうするか?

 平和を守るためには、いつも相手の立場で、相手が平和を守れるためにはどうするかを
考える。その結果として、自分の国に、平和がもたらされる。もっとわかりやすく言えば、
相手の(ズレ)の中で、平和を考える。

 日本が、過去に何をしたか。どんな脅威を与えたか。日本が今、何をしているか。どん
な脅威を与えているか。日本が、将来、何をするか。どんな脅威を与えるだろうか。そう
いうことを、相手の立場になって考える。

 つまりは、平和教育というのは、反省の教育と言ってもよい。そういう視点で、ものを
考えることができるようになったとき、もっと言えば、相手の立場で、相手の平和を考え
ることができるようになったとき、日本は、真の平和を、自分のものにすることができる。

 今回の意識の(ズレ)は、まさに、そのことを、私たちに教えてくれる。

あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合し
た世界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。


●韓国の脱北者

 朝鮮日報社(韓国)の調査によれば、K国から脱北はしたものの、韓国社会に同化でき
ず、「アメリカ、カナダ、オーストラリアに移住したい」と考えている、脱北者が、69%
もいるという(04年9月。脱北者、100人を対象)。

 現在の生活に不満……40%と。

 さらに衝撃的なのは、「合法的にK国に帰れる機会があればどうするか」という質問に、
33%が、「帰ることもできる」と答えていること。

 つまり「K国に、帰れるようなら、帰ってもいい」と。

 ……実は、このあたりが、私には、どうしても理解できない。K国といえば、徹底した
反米教育をしている国。その国で教育を受けた人たちが、K国がいやで、韓国へ逃げてき
た。同じ朝鮮語を話す、自由な(?)国、韓国へ、である。

 が、その韓国に、同化できない。同化できないということは、わかる。しかしそのあと、
どうして、アメリカなのか? しかも69%! 69%という数字は、ほとんどとまでは
いかないにしても、ほぼ大半とみてよい数字である。

 韓国社会には、何があるのだろう。反対に、何が欠けているのだろう。そう言えば、先
月も、その韓国からさらにアメリカに亡命した、元K国脱北者がいた。元K国政府高官だ
ったという。

 この数字から推理すると、韓国という国は、意外と、自由のない国ということにもなる
し、反対に、K国という国は、意外と、自由な国ということにもなる。静かで、おとなし
くしていれば、それなりに住みやすい(?)国なのかもしれない。

 それにしても、いろいろ考えさせられる調査結果である。

 ついでながら、昨日(9・16)の時事通信によれば、K国は、中国との国境沿いに、
K国最強の軍団を配置したという。一応、表面的には、脱北者を防ぐためということにな
っているそうだが……?

【北京16日時事】中国国営新華社通信の発行する国際問題紙・国際先駆導報は、16日、
K国との国境でK国脱出者らに対する警備に当たる中国部隊の活動を伝えたルポを掲載。
この中で、K国側は最高軍事指導機関「国防委員会」の直接指揮下にある最強部隊を、南
北軍事境界線(38度線)付近から、この地域に配転し、国境警備を強化していると報じ
た。

【杉野目晴貞先生のこと】

 昔、北海道大学に、杉野目晴貞という教授がいた。私がUESCOの交換学生で、韓国
へ行ったとき(1967年)、世話人にもなってくれた人である。

 私と韓国とのつきあいは、そのときから始まる。

 で、その杉野目先生は、やがて、田丸謙二先生の恩師であることもわかった。一度、田
丸先生と連名で、杉野目先生に手紙を出したことがある(1970年)。

 しかしその当時、杉野目先生は、体調を崩されているとかで、返事は、こなかった。そ
れまでは、何かにつけて、こまめに私の手紙に、返事をくれた。年賀状も交換していた。

 たまたま先週、何10年ぶりかに、その杉野目先生のことを、楽天日記に書いた。それ
で古いアルバムをさがしてみたら、100枚近い当時の写真がみつかった。

 この写真は、杉野目先生と、38度線上にある板門店(ハンムンジョン)行ったときの
ものである。長いテーブルの前にすわって、国連軍のガイドの説明を聞いているところ。

 右が杉野目先生。左が私。満20歳になる少し前の写真である。

 杉野目先生が話してくれたことは多い。しかし故人でもあるので、それについては、こ
こには書けない。日本にとって、きわめて重要な、そしてすぐれた化学者であったという。
先日、北大出身の友人に、杉野目先生のことを話したら、「北大では、杉野目先生のことを
知らない人はいない。杉野目財団というのもあるよ」とのこと。

 「ヘエ〜」と言ったきり、つぎの言葉が出てこなかった。いっしょに、韓国中を旅した
のが、ウソのようでもある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

**************************

F市に住んでいる、Mさん(母親)から、子どものおけいこ
ごとについて、相談があった。

子どもは、「行きたくない」と言う。しかしMさんは、「こ
こでやめさせたら、中途半端で終わってしまう。人間的に
だめになるのでは?」と、悩んでいる。

「どうしたらいいか?」と。

**************************

【Mさんへ……】

世界の人たちをみると、
みんな、もっと気楽なんですよ。

生きザマそのものが……。

ヨーロッパ人なんか、平気で
長期のバカンスを楽しんだりしています。

オーストラリア人も、です。

休暇で日本へ来ている間も、仕事のことなど、
まったく考えていない。目一杯、休暇を楽しんでいます。

日本人だけが、くそまじめ。本当にくそまじめ。

たかが子どものおけいこごと。そんなことにまで、
「やめたら、人間的にだめになる」などと、
おおげさに考えてしまう。

このくそまじめさは、一体、どこからくるのでしょうか?

私は、それが教育だと思うのです。

先日も、K市のある小学校に行ったら、
そこの校長が、こう悩んでしました。

「このあたりは、ブラジル人が多いです。
ある日突然、学校へ子どもをつれてきて、
教えてくれと言ったりします。

しかしやめるときも、簡単。
ある日突然、学校へこなくなる。

そこで聞いていみると、転勤しました、と。
実に簡単なのですね。

教える側としては、やりきれないのですが……」と。

こんなところにも、日本人とブラジル人の
ちがいがあるようです。

人生を楽しもうとする、ブラジル人。
くそまじめになって、仕事を優先させる日本人。

そしてそれがそのまま、子育てに反映されている!

あなたも、もっと、体のクサリを解いて、
自由に、気楽に考えたらいいのです。

もちろんまじめに生きるべきところは、まじめに
生きる。しかしそれはこういった問題とは
別問題です。

たかがおけいこごと。子どものおけいこごと。

もちろん楽しみ方にも、いろいろあると思います。
お金をかけて、遊園地へ……という発想ではなく、
別の方法です。

ぼくなんか、万年、失業者、プロのフリーター
ですから、定職意識は、ほとんどありません。

少し、生きザマがちがうようですね。

しかしね、あなたの生きザマは、決して国際的な
標準ではありませんよ。

実に日本的。

先日も、最近リストラされた友人がこういいました。

「ぼくは、一社懸命(一生懸命をもじったもの)で
がんばってきた。

しかし林君は、20代のとき、三井物産をけっとばして
出た。林君は、すでにそのころ、会社勤め(=くそまじめ)
がばからしいと、気がついていたのか?」と。

ぼくは、胸をはって、こう言いました。

YES!、と。

ぼくが、オーストラリアの留学時代に学んだものと言えば、
その「自由」です。

さあ、あなたも肩の力を抜いて!
くそまじめなんか、つまらないですよ。

何を、そうまでおびえているのですか?
何を、そうまで守らなければならないと考えているのですか。
気楽に、気楽に!

今、大きな落雷がありました。
パソコンの電源を切らねばなりません。

++++++++++++++++++++++

追記

やはり、停電になりました。
あやうくセーフでした。

で、今は、電源も回復。

改めて、この問題について、考えてみます。

実はね、国民性というのも、個人の精神状態が集合
されて決まるのですね。

子どもの世界には、(おとなもそうですが……)、
「基底不安」という言葉があります。

この基底不安型タイプの子どもは、何をしても不安。
休みになっても、その休みを楽しむのではなく、
休みながら、明日のことを心配する。

原因は、乳幼児期の母子関係にあるとされています。

で、実は、日本という国全体をみたときも、
同じことが言えるのですね。

日本という国には、日本人が安心してよりかかれる、
精神的バックボーンが、ないのです。

一応仏教というのもありますが、どこか儀式的?
活動している教団にしても、どこかカルト的?
組織信仰が主体で、「個人」が、どこか置き去りに
なっている?

そこで戦後の日本は、「マネー崇拝」へと走った。

ぼくは、日本人が、なぜこうまで基底不安型の
国民性をもってしまったかといえば、こうした背景が
あるのではないかと思います。

(組織信仰をしている人も、結局は、その基底不安
が背景にあって、そうしている?
何かに追いたてられるかのように布教活動を
しているのも、その一つ。)

仕事をしていないと、不安なのですね。

こうした基底不安は、とくにぼくのような
団塊の世代は、強くもっています。

学生時代にしても、何かに追いたてられるようにして、
いつも、(未来)のために、(現在)を犠牲に
することばかりを、強いられてきた。

友人がいう、「一社懸命」という発想は、そういう
ところから生まれたのですね。

もちろん女性とて、そして子どもたちとて、例外では
ありません。それが日本人の国民性だからです。

話は変りますが、尾崎豊の『卒業』、ご存知ですよね。

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」というあの歌です。

最初は、「とんでもない歌だ」と思いましたが、
私はすぐ、その歌が、大好きになりました。
ミイラ取りが、ミイラになったような感じです。

みんな、日本人は、「しくまれた自由」を、自由と
思いこんでいただけかもしれません。

今も、そうです。

「子どもは自由に育てる」と言いながら、その
自由の意味が、本当のところは、わかっていない?

自由というのは、「自らに由る」という意味です。

自分で考えさせ、行動させ、そして責任をとらせる。
それが自由です。

が、「あんたは、音楽教室へ行きなさい」と子どもを、
音楽教室へ入れる。

そしてそれを子どもがいやがると、「このままでは
子どもはだめになってしまう」と、悩む。
「あんたが行くと言ったから、行くんでしょ。
途中で投げだすなんて、どういうこと!」と、子どもを責める。

どこにも自由がないのが、わかりますか?

実は、ぼくも、あなたも、そういう国の中で、
生まれ、育っているのです。

こういう自分をがんじがらめにしているクサリを
解くのは、容易なことではないでしょうね。

まず、そのクサリに気づかねばなりません。
つぎに気づいたら、自分の生きザマそのものを
変えねばなりません。

変えるだけならともかくも、自分を取りかこむ、
周囲の人たちとも戦わねばなりません。
何といっても、この日本では、自由に生きる人は、
マイナーな存在ですから……。

今朝も、「フリーターは、生涯賃金で2億円の差」
(週刊「Y」)という見出しが目に飛びこみました。

つまり、フリーターは、損だ、と。

雑誌社という、組織にいる人の意見としては、
そういうふうに言わざるをえないのだろうと思います。

自由に生きる人間を認めたら、自己否定の世界に
陥ってしまいますから……。

しかし、何が、損で、何が、得なんでしょうかね?

今、日本人は、オーストラリア人の約2倍の給料を
手にしています。
で、その日本人が、それだけ、得をしているかと
いうと、どうも、そうではないような気がします。

何かしら、無駄なものばかり買って、
無駄なことばかりしているような気がします。

そして大切でないものを、大切だと思いこんでいる。
そして大切なものを、大切でないとそまつにしている。

Mさんの、今の悩みには、そんな日本人全体が
かかえる、国民性がすべて集約されているように
思います。

幼児期は、もっと気楽に考えてあげてください。

幼稚園にしても、保育園にしても、
そして、おけいこごとにしても、
どこかのレストランにでも行くように、
もっと、気楽に考えればよいのです。

学校も、です。

子どもが不登校を起こしたりすると、
日本の親たちは、たいてい、狂乱状態になりますね。
そういう民族は、世界広しといえども、
日本人くらいなものですよ。

「明日は、幼稚園をサボって、ママと、
動物園へ行ってこようか?」と、あなたも、
勇気を出して、言ってみてください。

「♪この支配からの、卒業〜」です。
(040918)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 15日(No.476)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子育ての「時」は急がない

 時の流れは不思議なものだ。そのときは遅々として進まないようにみえる時の流れも、
過ぎ去ってみると、あっという間のできごとのようになる。子育てはとくにそうで、大き
くなった自分の子どもをみると、乳幼児のころの子どもが本当にあったのかと思うことさ
えある。

もちろん子育ては苦労の連続。苦労のない子育てはないし、そのときどきにおいては、
うんざりすることも多い。しかしそういう時のほうが、思い出の中であとあと光り輝く
から、これまた不思議である。

 昔、ロビン・ウィリアムズが主演した映画に、『今を生きる』というのがあった。「今と
いう時を、偽らずに生きよう」と教える高校教師。一方、進学指導中心の学校側。この二
つのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、ひょっとしたら日本人に、一番欠けている生き方
ではないのか。

ほとんどの親は幼児期は小学校入学のため、小学校は中学校入学のため、中学や高校は
大学入試のため、と考えている。子どもも、それを受け入れてしまう。こうしたいつも
未来のために「今」を犠牲にする生き方は、一度身につくと、それがその人の一生の生
き方になってしまう。

社会へ出てからも、先へ進むことばかり考えて、今をみない。結果として、人生も終わ
るときになってはじめて、「私は何をしてきたのだろう」と気がつく。実際、そういう人
は多い。英語には『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞に
もなっているような格言だが、やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた、と。

 大切なのは、「今」というときを、いかに前向きに、輝いて生きるか、だ。もし未来や結
果というものがあるとするなら、それはあとからついてくるもの。地位や肩書きや名誉に
してもそうだ。まっさきにそれを追い求めたら、生き方が見苦しくなるだけ。子どももし
かり。

幼児期にはうんと幼児らしく、少年少女期には、うんと少年や少女らしく生きることの
ほうが重要。親の立場でいうなら、子どもと「今」という時を、いかに共有するかとい
うこと。そのためにも、子育ての「時」は急がない。今は今で、じっくりと子育てをす
る。

そしてそれが結局は、親子の思い出を深くし、親子のきずなを深めることになる。

+++++++++++++++++++++

●子育ては子離れ

 子育てを考えたら、その一方で同時に、子離れを考える。「育ててやろう」と考えたら、
その一方で同時に、「どうやって手を抜くか」を考える。そのバランスよさが子どもを自立
させる。こんなことがあった。

 帰りのしたくの時間になっても、D君(年中児)はそのまま立っているだけ。机の上の
ものをしまうようにと指示するのだが、「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そ
こであれこれ手振り身振りでそれを示すと、D君はそのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。多分そうすれば、家ではだれかが助けてくれるのだろう。

が、運の悪いことに、その日はたまたま母親がD君を迎えにきていた。D君の泣き声を
聞くと教室へ飛び込んできて、私にこう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」
と。

 このタイプの親は、子どもの世話をするのを生きがいにしている。あるいは手をかける
ことが、親の愛の証(あかし)と誤解している。しかし親が子どもに手をかければかける
ほど、子どもはひ弱になる。俗にいう「温室育ち」になり、「外に出すとすぐ風邪をひく」。

特徴としては、(1)人格の「核」形成が遅れる。ふつう子どもというのは、その年齢に
なるとその年齢にふさわしい「つかみどころ」ができてくる。しかしそのつかみどころ
がなく、教える側からすると、どういう子どもなのかわかりにくい。

(2)依存心が強くなる。何かにつけて人に頼るようになる。自分で判断して、自分で
行動をとれなくなる。先日も新聞の投書欄で、「就職先がないのは、社会の責任だ」と書
いていた大学生がいた。そういうものの考え方をするようになる。

(3)精神的にもろくなる。ちょっとしたことでキズついたり、いじけたり、くじけた
りしやすくなる。

(4)全体に柔和でやさしく、「いい子」という印象を与えるが、同時に子どもから本
来人間がもっているはずの野生臭が消える。

 人間の世界を生き抜くためには、ある程度のたくましさが必要である。たとえばモチま
きのとき、ぼんやりと突っ立っていては、モチは拾えない。生きていくときも、そうだ。
そのたくましさを、どうやって子どもに身につけさせるかも、子育てでは重要なポイント
となる。もしあなたの子どもが、先のD君のようであるなら、つぎのような格言が役にた
つ。

「何でも半分」……子どもにしてあげることは、何でも半分にして、それですます。靴
下でも片方だけはかせて、もう片方は自分ではかせる。あるいは服でも途中まで着させ
て、あとは子どもに任す、など。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【最近の話題から……】

●幼小・一貫校

 幼稚園と小学校を、一貫させる。「幼小・一貫校」の出現である。

 しかし幼小・一貫校は、アメリカなどでは、珍しくない。4歳児で入学、小学3年で卒
業という小学校は、いくらでもある。

 利点は、多い。……というより、小学1年生から始まる小学校教育には、問題点が多い。
今では、学級崩壊は、あたりまえ。「学校だから、子どもたちが、先生の話を静かに聞いて
いるだろう」と考えるのは、もはや幻想以外の何ものでもない。

 ある母親はこう言った。「一年生、最初の参観日ということで、かなり期待して行きまし
たが、クラスは、最初から最後まで騒然としていました。一応音楽の授業ということにな
っていましたが、まるでプロレスの授業でした」と。

 教師の指導能力の問題というよりは、子どもたちの「質」が変わってきた。こうした「荒
れ」を、「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。しかしこの問題は、もう15年以上前からあるが、
それ以後改善されたという話は、伝わってこない。

 そこで幼稚園と小学校を連携させる。文部科学省は、こうした流れを受け、(1)幼稚園
と小学校の、一貫カリキュラム、(2)幼稚園と小学校教員の合同研修、(3)双方の免許
取得の弾力化などを、めざすことになった。

 わかりやすく言えば、小学校の幼稚園化ということか。隣のK市では、公立小学校の教
員を、私立幼稚園へ派遣し、そこで教員に幼児教育の研修をさせている。「総合的な学習の
ヒントを得るため」ということだそうだ。

 私は、幼小・一貫校に、大賛成である。反対に、なぜ幼稚園と小学校を分けるのか。分
けなければならないのか。その理由がわからない。

 ただ問題点もないわけではない。幼小・一貫校というと、中には、「早取り教育」と誤解
する人も多いということ。小学校でする学習を、幼稚園でするようになると誤解する人も
いる。幼小・一貫校が、受験競争とからむと、たいへんなことになる。そうでなくても、
少子化の流れを受けて、母親たちの世界が以前にもまして、過熱している。

 このあたりをどうするか? 中央教育審議会も、その審議に入ったという(04年6月)。
(はやし浩司 幼小 一貫校 幼小・一貫校)


●携帯電話VS統計学

 携帯電話が、子どもたちの世界を、変えてしまった! 今では、高校生の95%以上が、
携帯電話をもち、反対にもっていない子どものほうが、「変わり者」と呼ばれるようになっ
てしまった!

 それについて、こんな興味深い調査結果(?)がある。

 警察庁の調査によると、「携帯電話の所持率について、非行少年は、72%。一般少年は、
57%」と。つまり「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い(?)」と。

 02年、「青少年問題研究会」(YM委員長)による調査結果だという。

 それによると、

 ★携帯電話の所持率……検挙されたことのある少年 ……72%
            検挙されたことのない少年 ……57%

            高校生については、差がない……90%

 この調査結果をふまえて、「検挙されたことのある非行少年のほうが、検挙されたことの
ない一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」(朝日新聞)と。

 しかしこの論法は、おかしいのでは……?

 私も、となりのK市で、高校生たちに直接聞いて調べたことがあるが、数年前ですら、
所持率は、90〜95%くらいだった。「君たちのクラスは何人?」「携帯電話をもってい
ない友だちは、何人?」という調査方法で、調べた。

 ここでいう「少年」という範囲が、あいまいである。ふつう警察庁が「少年」というと
きには、中学生、高校生をいう。もちろん女子も含まれる。

 この調査結果を見ると、あたかも、携帯電話をよく使う子どもほど、非行に走りやすい
というような印象をもちやすい。しかし、よくよく考えてみると、おかしい?

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 「ナイフによる殺傷事件を起こした子どもを調べてみたら、100%が、ナイフを所持
していた。一般少年の所持率は、10%だった」と。

 さらに「非行少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」と。

 こんなことは、当たり前のことで、あえて調査をするまでもない。以前、ある大学の
教授が、こんな調査結果を発表したことがある。

 「情緒障害児を調べたら、72%が、塾通いをしていた。情緒障害の原因は、塾通いで
ある」と。

 当時、中学生の70%前後は、塾に通っていた。その教授は、その地方でも最大都市の
S市で、それを調査したという。「72%」という数字は、当たり前の数字である。これな
ども、「非行少年を調べてみたら、女子の非行率は、50%だった」というのと同じ論法である。

 もちろん私も、携帯電話には、いろいろ問題があると思う。しかし、非行と携帯電話を
直接結びつけるのは、ありにも短絡的ではないのか。

 もう少し視点を変えて考えてみよう。

 仮に、こんな調査結果が出たとしたよう。

★コンビニの利用率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%

★深夜番組の視聴率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%
 
★運転免許の取得率……検挙されたことのある少年 ……72%
           検挙されたことのない少年 ……57%

 こうした結果をふまえて、「コンビニをよく利用する子どもほど、非行に走りやすい。深
夜番組をよく見る子どもほど、非行に走りやすい。運転免許をもっている子どもほど、非
行に走りやすい」と。

 警察庁がした調査は、何となく、先に、「携帯電話は悪い」という先入観があって、その
上で、それを非行と結びつけたような感じがしないでもない。

 あえて言うなら、問題は、「出会い系サイト」と呼ばれる、サイトである。これが非行の
温床になっている。が、その出会い系サイトにアクセスするためには、携帯電話は必需品
である。その結果として、「非行少年ほど、携帯電話への依存率が高い」ということになっ
たのではないのか?

 あるいは仲間と非行をするについても、陰で、コソコソと連絡をとりあわねばならない。
親の前で、堂々と電話で連絡をとりあうということはできない。そういう点では、携帯電
話は、便利な道具である。

 殺傷事件を起こすためには、ナイフは、必需品である。同じように、出会い系サイトへ
アクセスするためには、携帯電話は必需品である。コソコソと連絡をとりあうには、携帯
電話は必需品である。

その結果として、(あくまでも結果として)、「検挙されたことのある非行少年のほうが、
検挙されたことのない一般少年より、携帯電話の所持率や、使用頻度が高かった」とい
うことになった。

 ……というのは、少し、ひねくれた見方かもしれない。ここは、すなおに、「携帯電話に
は、いろいろ問題点がある。携帯電話は、子どもにはよくない」と考えたほうが、よいの
かもしれない。どうも私には、こうした統計結果を見ると、すぐ疑ってみるクセがある。
それがよくない?

 なぜか? 理由の一つは、学生時代に学んだ、統計学がある。統計学のM教授は、いつ
もこう言っていた。
 
 「統計で表される数字は、いつも疑え!」「統計的な数字に、あやつられるな!」と。

 その精神は、今でも、生きている。そのため、ここでも、少し、その数字をひねくって
考えてみた。

【追記】

 こういう調査結果が発表されると、多くの母親たちは、こう誤解する。「うちの子は、携
帯電話ばかりいじっている。非行の始まりか?」と。

 殺傷事件を起こした子どもの、100%がナイフをもっていたからといって、逆に、「ナ
イフをもっているからといって、殺傷事件を起こす」ということではない。

 こうした調査結果は、そういう誤解を生みやすい。それに今さら、「携帯電話に依存する
のをやめなさい」と、子どもを説得しても、意味はない。もちろん病的な携帯電話依存症
(=依存うつ)は、別である。それについては、またほかで考えてみたい。


●ハレンチ教師

 数日前、ある中学校の男性教師(48歳)が、わいせつ誘拐罪で、逮捕された。小学生
の男子児童を、誘拐、そしてわいせつ行為を働いたという。

それについて、数人の母親たちに、「実はね、あの先生ね、うちの二男の担任教師でした。
それも2年間もね」と言うと、すかさずみな、「どんな先生でした?」と。

 で、「私が知るかぎり、悪い先生だったとも思えません」と答えると、さらに心配そうな
顔をして、「どうしましょう?」「どうしたらいいでしょう?」と。

私「しかし、同性愛者とは知りませんでした。うちの息子も、遊びにいって、家にとめて
もらったこともありますから」
母「無事でした?」
私「……無事だったと思います。そういう話は聞いていませんから……」
母「あぶなかったですね」
私「まあ、そう言われてみれば、そうですね……」と。

 私も結構、スケベなほうだが、子どもに手を出すことなど、思いもつかない。自分の生
徒にしても、教室の外で、会ったことなど、一度もない。(「会った」という生徒がいたら、
名乗り出てほしい。即刻、このHPを、閉じる。マガジンを廃止する。)

 理由の一つは、やはり、一度は、私のほうから、その親たちに、頭をさげるためではな
いか。「子どもを預かる」というよりは、「教えさせてもらう」という意識で、子どもを迎
える。その意識が、最初から、私と子どもたちの間に、一線を引く。

 が、私は、むしろ、その「48歳」という年齢のほうに興味をもった。世間一般の常識
からいえば、48歳というのは、人生の円熟期。道理も分別も、わきまえた年齢というこ
とになる。その48歳の男性教師が、そういうことをした!

 何があったのか?

 で、自分の48歳のころを、懸命に思い起こしてみる。

 48歳という年齢は、青春とも決別できず、それでいて、老人とも言えない年齢。どこ
か、モヤモヤとした年齢。しかもそれまで、無限に見えてきた未来が、急速にしぼみ始め
る。自分の限界が、形となって、そこに見えてくる。

 性的な視点でみると、まだその元気は残っているが、もうそろそろ女性に、相手にして
もらえない年齢ということになる。しかしその男性教師のばあいは、同性愛者? 同性愛
が悪というのではないが、私には、どうにもこうにも、理解できない。まったく、理解で
きない。

 その傾向が、ほんの少しでも私にあれば、話は別だが、まったくないのだから、しかた
ない。(私が同性愛者なら、もうとっくの昔に、こういうマガジンの中で、それを告白して
いると思う。私のことだから……。)

 だから、わいせつ行為といっても、男児を相手に、何をするのか。私には、その目的さ
え、理解できない。が、その男児を、女児におきかえてみると、私にも理解できる。「なる
ほど」という部分が、突然、大きくなる。

 で、私は、48歳のころ、女児にそういう感情をいだいたことがあるだろうか?

 たしかに私は、スケベだから、そういう感情をもったことがあるかもしれない。なかっ
たとは、言わない。しかし(銀行強盗を頭の中で夢想する)ことと、(実際に、その強盗を
実行する)ことの間には、越えがたい距離がある。

 同じように、仮にスケベ心があったとしても、実際に、女児をわいせつ誘拐するという
ところまでは、いかない。それを実行するには、ものすごいエネルギーが必要である。フ
ロイトが言う、「リピドー(性的エネルギー)」というのが、それだ。

 そうそう、ただこういうふうに、思ったことはある。

 「浮気(不倫)を経験するなら、今しかないぞ」と。「あと、数年もすれば、だれにも相
手にされなくなるぞ」と。それはどこか、あせりに似た気持ちかもしれない。人生に、別
れを告げるような気持ち。どこか、切なく、ものわびしい。

 そう言えば、あのころは、美空ひばりの、『♪悲しい酒』ばかり歌っていた。ああいう歌
が、じんと胸に響いた。しかし、だ。あの歌とて、いつも、車の中で、ワイフと歌ってい
た!

 最後に、別れぎわ、母親たちにこう言った。

 「ああいう教師は、例外ですから、気にしないことです」と。

 そう、気にしないこと。あとのことは警察に任せて、私たちは前に進むしかない。


●異論、反論

 主婦向け投稿誌「W」の編集長の、T氏(女性)が、今度、本を出版した。題して『母
と子のxxxx』(仮称・K出版社)。

 その中で、T氏は、こう結論づけている。「子どものいいなりになる育児は、結局は、こ
らえ性のない子どもをつくる」と。

 その結論は正しいとしても、T氏は、その一つの理由として、「ゼロ歳児における母親の
異常な手のかけすぎ」をあげる。

 たとえばフランスでは、約44・9%の母親が、子どもが生まれたときから、母子は、
別々の部屋で寝ているが、日本では、約5・9%にすぎない(「日仏女性資料センター、9
0年」などの事実をあげる。

 そして、「子どもが赤ちゃんのとき、抱いてばかりいた母親の子どもほど、こらえ性のな
い子どもになる」と。

 私は新生児から乳児については、よく知らない。しかしこのT氏の説は、どこかおかし
い。私自身の孫のこともある。

 孫の誠司は、やや早産で生まれたこともあり、夜泣きがひどかった。生後まもなくから、
目をさましているときは、いつも泣いていた。嫁が、アメリカ人だったこともあり、いわ
ゆるアメリカ流に、生まれたときからベッドを分けた。

 4、5か月くらいしてからのこと。私のワイフが、二男に、孫を間にはさんで、川の字
になって寝るようにすすめた。アメリカでは、めずらしい育て方である。が、とたん、夜
泣きは、ウソのように消えた。

 もちろん手のかけすぎは、よくない。それは幼児教育の世界でも常識。しかし「求めて
きたときが、与えどき」というのは、事実。子どもが、何かのスキンシップを求めてきた
ら、すかさず、ていねいに答えてあげる。子どもを体で包んであげたり、キスをしてあげ
る。ぐいと力を入れて抱くのがコツ。

 しばらくすると、子どものほうが安心し、体を離そうとする。そのときは、そのまま体
を離す。

 こうしたスキンシップの量には、個人差がきわめて大きい。そのときの子どもの精神状
態もある。子ども自身の情緒の安定度の問題もある。1回に何分間、1日に何回抱けばよ
いと、単純に決められるような問題ではない。あくまでも子どもを見ながら、判断する。

 だから「フランスではこうだから……」という短絡的な思考で、「では、日本でも、こう
あるべきだ」という発想は、必ずしも正しくないのでは(?)。

 なお、こらえ性(おもしろい言い方だと思うが……)、つまり忍耐力は、もっと別の角度
から論じられるべきではないか。ある時期には、子どもは、濃密な母子関係を必要とする。
心理学でいう、基本的信頼関係も、そういうところから築かれる。

 そういう時期に、愛情飢餓、親の拒否的姿勢と、子どもに誤解されるような行為は、決
して好ましいことではない。あえて言うなら、T氏は、親のでき愛と母子の密着性の問題
を、どこか混同しているのではないかとも思う。

 たいへん生意気な意見かもしれないが、一つの反論意見として……。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あやしげなメール(?)

 このところ、あやしげなメールが、つづく。それも、実に、思わせぶり。

 アドレスを公開しているため、こうしたメールは、防ぎようがない。が、それにしても
……!?

 件名:ごめんなさい。どうか、許してください。
 件名:私の話を聞いてくださったら、15万円、お支払いします。
 件名:お元気ですか? 一度、会いたいですね。

 こうしたメールのほとんどは、未承諾広告か、もしくはスパムメール。中には、ウィル
スや、スパイウエア入りのメールもある。安易な好奇心は、禁物。そのまま命取りになる。

 先日も、親しい友人から、「photos」という件名のメールが届いた。「?」と思い
ながら、削除。そして折りかえし、(返信ではなく)、「大切な写真だったら、もう一度、送
ってほしい」とメールを書いた。(こうしたメールが届いても、そのまま「返信」で、返事
を書いてはいけない。返事には、アドレス帳に登録してある、アドレスを使うこと。)

 その慎重さが、よかった! 私もMydoom(件名:Photos)ウィルスに、あ
やうく侵入されるところだった!

 そこで今、私へのメールには、件名のところに、住所と名前を書いてもらうことにして
いる。とくに、見知らぬ人には、そうしてもらっている。私としては当然のことだと思う
のだが、これが、あまり評判がよくない。

1年ほど前だが、「何をお高くとまっているの!」というメールをもらったこともある。
私が、「住所と名前を書いてほしい。でないと、返事は書きません」と返事を出したこと
について、である。

 が、やはり、ここは、心を鬼にするしかない。鬼にして、「?」なメールは、容赦なく、
削除。また削除。しつこいばあいには、そのまま、フィルター処理。これは私のパソコン
の健康を守るためであると同時に、みなさんに迷惑をかけないためでもある。

 で、今朝も、インターネットをたちあげると、その種のメールが、1通。件名が「あり
がとう。とってもすてきでした」とある。

 アドレスを見ても、心当たりがない。「?」を、頭の中で、数回繰りかえしたあと、一度、
フロッピーディスクに保存。そのフロッピーディスクを、ウィルス・スキャン。幸い、異
常はみつからなかったが、そのまま削除。開いて読むまでもない。

 だから、再度、ここで徹底することにした。自分の心構えを、だ。

(1)件名のところに、住所、名前のないメールは、絶対に開かないぞ。
(2)あやしげな件名のメールは、即、削除。ぜったいに、スケベ心をもたないぞ。
(3)削除したあとは、そのメールのことは、即、忘れるぞ。

 それにしても、まあ、このところ、ますます手のこんだメールが多くなった。何の目的
で、そういうメールを送り届けてくるのか、私にはわからないが、それにしても、まあ…
…?

 みなさんも、どうか、お気をつけください。あやしいと思ったら、即、削除ですよ! い
らぬお節介かもしれませんが……。


●デジタルカメラを買う

 とうとう、カメラを買ったぞ!

 機種は、C社の小さなカメラ。「ExiXXX」という機種。200万画素しかないが、
もって遊ぶには、ちょうどよい。インターネットで使うには、じゅうぶん。

 値段は、ケースも入れて、29800円! 64メガのフラッシュメモリを、サービス
で、つけてくれた。

 ワイフに、「ありがとう。お礼に、お前のヌードをとってやるからね」と言うと、大きな
声で、「コケコッコー!」と。「結構(NO)という意味らしい。

 さあて、これから、このカメラで、あちこちをとってくる。まずためしに、家のまわり。
あいにくと曇り空だが、写真をとるには、かえって、よいそうだ。光が分散して、写真が、
美しくなる。


●東海地方最大のショッピングセンター

 2か月ほど前、浜松市の西の郊外に、これまた度肝を抜かれるほど、巨大なショッピン
グセンターができた。畑の中にこつ然と……というほど、大げさではないが、それに近い。
駅前のデパートを、3〜4つ、あわせたほどの巨大さである。

 で、その2か月が過ぎて、はじめて、昨夜、ワイフと、そのセヨッピングセンターに行
ってみた。

私「大きいとは聞いていたけど、ここまで大きいとは!」と私。
ワイフ「ホント!」と。

 出るのは、「フーッ」というため息と、「ヘーッ」という驚きだけ。各種レストランだけ
でも、JR名古屋駅の構内の食堂の数より、はるかに多い。それに広くて、豪勢! 立派! 
気取っている! もちろん値段は、すべて大都会並み。

 周囲に、それだけの商圏があれば、まだ納得できる。しかしその「畑」をはさんで、西
側には、人口1万4000人弱のY町。東側に、浜松の郊外。半径数キロという範囲でみ
ても、全体でも、4〜5万人もいないのでは?

 冒険というより、無謀! 私は、そう感じた。いくつかのカフェをのぞいてみたが、場
ちがいとも思える、年配の女性たちが、少しかっこうをつけて、ピザを食べたり、コーヒ
ーを飲んでいたりした。

 が、平日の夜ということもあって、店も、通路も、ガラガラ。「土日は、混んでいるそう
よ」と、ワイフは何度も言ったが、それにしても……!

私「いくらショッピングセンターといっても、消費ばかりしているわけには、いかないし
ね」
ワ「フーッ」
私「まあ、時間の問題だろうね」
ワ「フーッ」と。

 あとはパソコンショップをのぞいて、それから、雑貨食品屋へ。いくつかのレトルト食
品と、韓国製のインスタントラーメンを買った。全部で、1800円。

 帰るとき、私の評論家(批評家)魂が、ムラムラとわき起こった。

(1)緑がまったくない!……巨大なビルだけ。
(2)息抜き空間が、まったくない!……太陽や風を直接感ずるような空間がない。
(3)休憩場所がない!……レストランなどはあるが、当然、すべて有料!
(4)値段が高い!……こうした郊外に住む人間で、平日、1200〜1800円もの食
(5)事代を払う層が、いったい、何%いるというのか?

 すばらしいというより、超すばらしいショッピングセンターだが、このあたりに住む人
間の日常感覚からは、あまりにもかけ離れている。食料品をあつかうスーパーも2階にあ
るが、そこへ行くまでには、途中エスカレーターに乗ったりして、数百メートル以上も歩
かねばならない。

 レストランにしても、案内板でみると、40店舗ほど入っているが、こうしたレストラ
ンは、客足が少なくなると、とたんにサービスが悪くなる。みすぼらしくなる。そしてシ
ョッピングセンター全体の雰囲気を悪くする。

 一軒が閉店すると、ドミノ倒しのように、バタバタと閉店がつづく。客を呼びやすい反
面、下り坂になったときには、かえって客を遠のけてしまう。

 はっきり言おう。このあたりは、まだ田舎。通りの風景も、台湾や韓国の郊外の風景と、
それほどちがわない。

 そんなところに、アメリカのウォールマートでさえ、小型店に見えるような巨大なショ
ッピングセンターを作って、どうする? 店内を歩くだけでも。疲れてしまう。少なくと
も、私のような年齢の人間が来るような場所ではない。

 ……とまあ、否定的なことばかり書いたが、しかし、このさみしさ(?)は、いったい
どこからくるのか?

 昔、私が住む町内に、大きな自動車部品工場があった。従業員は、数百名はいたと思う。
しかしその工場も、私がここに住むようになって、閉鎖になった。倒産したといううわさ
も聞いた。10年ほど、前のことである。

 で、その跡地に、しばらくしてから、今度は、これまた超大型の、ビデオショップがで
きた。このあたりでも最大級のビデオショップだという。

 私はそこでビデオを借りるたびに、「いいのかなあ?」と思っている。今も、そう思って
いる。私の年代というのは、おかしなもので、工場が立ち並ぶのは、うれしい。しかし、
大型のショッピングセンターが、立ち並ぶのは、うれしくない。

 みんな、働くことを忘れて、お金を使うことばかり、考えている? 私が感ずるさみし
さというのは、どうやら、そのあたりから生じてくるようだ。

(追伸)

 否定的なことばかり書いて、ごめんなさい! ただ、少しだけ、日本の将来を心配して
いるのです。


●韓国VS日本

 韓国が、核兵器開発をしていた! この数日、日本のマスコミは、この問題を大きくと
りあげている。

 が、肝心の韓国はというと、まったくの無視。そればかりか、「騒いでいるのは、日本の
マスコミだけ」(担当元科学者)とか、「何も問題はない」と、つっぱねている。さらに「日
本だって、やりたい放題のことをしているではないか」とも、

 日本は、世界に例を見ないほど、IAEAの核査察を、常時受けいれている。しかもI
AEAの資金の、巨額出資国。その額は、アメリカについで、ナンバー2である。

 韓国の核兵器開発は、明らかに、日本への裏切り行為である。背信行為である。しかも
今、日本は、世界は、何のために、6か国協議をしているのか! 

 韓国が核兵器をもつということは、日本に、それがどのような脅威を与えることになる
か、それがわからないのか? 「日本は、アメリカの核のカサのもとにある。核兵器をも
っているのと同じ」(朝鮮日報)という論法は、韓国が口にする言葉ではない。

 が、ここ数日、朝鮮日報のHPは、そのことについては、一言も触れていない。こうい
った状態で、つぎの6か国協議など、どうして開けるのか。事実、K国は、9月開催を、
ボイコットしてしまった。

 それにしても、理解できないのが、韓国。まったく理解できない。左翼政権だというこ
とは、私でもわかるが、ここまで左傾化していたとは! 「朝鮮動乱は、韓国側がしかけ
た」「大韓航空機を爆破した、金xxは韓国人だった」などというのは、まだよいほう。

「主敵は北朝鮮ではなく米国」という論調。北朝鮮スパイや武装ゲリラまでを民主化功
労者とたたえるにいたっては、「?」マークを、10個くらい並べたい。

 こんな状況では、アメリカ軍は、韓国から出て行くしかない。当然ではないか。「主敵」
とまでこきおろされて、韓国を守らなければならない理由など、どこにもない。韓国が、
金XXの独裁政権下にはいろうが、はいらまいが、もう日本の知ったことではない。

 どうぞ、ご勝手に!

【補記】

 日本と韓国の間を行き来している、実業家の友人(日本人・大手食品会社室長)も、こ
う言った。

 「林君、ぼくも、韓国が何を考えているか、理解できないよ。戦前はともかくも、戦後、
日本とアメリカが築きあげた、自由貿易体制の中で、韓国も自由と繁栄を謳歌している。
その日本やアメリカに対して、反日、反米の、のろしをあげている。

 今のN政権は、ゆくゆくは、K国と共和制をしき、中国の経済圏に入ることをもくろん
でいる。日本は、それを知ってか知らずか、韓国は日本の仲間だという幻想にしがみつい
ている。

 しかしね、林君。仮にもし日朝戦争ということになれば、韓国は、100%、K国を支
援するよ。日本人も、そういう現実を、少しは認識すべきだろうね」と。

【補記2】

 「平和」「平和」と叫ぶのは、結構なこと。しかし日本の近くに、わけのわからない国が
生まれて、この日本を攻めてきたら、どうする?

 現に今、隣のK国は、日本向けに、せっこらせっこらと、核兵器を作っている。しかも、
「経済制裁をしたら、宣戦布告とみなす」と、勝手なことを言っている。

 その一方で、拉致被害者の家族の人たちは、「圧力だ」「制裁だ」と息巻いている。この
ままいけば、戦争である。単純に考えれば、そうなる。

 「日本が何もしなければ、相手は攻めてこないはず」と考えるのは、あまりにも甘い。
甘いことは、日本人なら、みな、よく知っているはず。戦前の日本は、そういう甘い考え
方をしている国々を、どんどんと戦争をしかけ、侵略していった。

 こういう現実の中で、日本は、日本人は、いったい、どうやって、日本の平和を守るべ
きなのか。

 現に今、そのK国の野望をおさえてくれるのは、アメリカしかいない。中国でもロシア
でもない。遠く離れた、ドイツでもイギリスでもない。韓国の核開発にしても、悲しいか
な、今の日本は、まったく無力! 韓国は、日本など、相手にしていない!

 が、在日米軍が、移動を決めるたびに、この日本では、「アメリカ軍は出て行け!」の大
合唱。沖縄は別としても、このS県でもそうだ。しかし、今、アメリカがこの日本から、
手を引いたら、日本は、どうなる? 手を引かないまでも、米朝間で、相互不可侵条約の
ようなものが結ばれた、日本は、どうなる? 

 民主党のケリー候補は、少し前まで、「米朝間で、2国間交渉をする」「(日本などの)同
盟国がK国に攻撃されたときは、そのときの状況をみて、判断する」と言っていた。

 ブッシュ大統領が、「日本がK国に攻撃されたら、ただちに反撃する」と言ってくれたの
とは、大ちがいである。

 何度も繰りかえすが、東京のど真ん中で、核兵器が爆発してからでは、遅いのである。

 ……こうした私の意見に対して、「林は、親米的すぎる」と言う人もいる。私のワイフで
すら、そう言っている。

 事実、そのとおりだから、反論のしようがない。嫁も息子も、そして孫もアメリカ人と
いう立場で、どうしてこの私が、反米的になれる? ただ私の親米は、そんなレベルの低
いものではない。仮に、孫が、「日本をK国から守るために、アジアまできて、K国と戦う」
と言ったら、私は、こう言うだろう。

 「来なくていい。日本のことは、ぼくらで、何とかするから」と。


●大爆発は、なかった?

 9月9日の、K国北部の大爆発は、なかった?

 すべてが、韓国の報道機関の(思いこみ)と、(早トチリ)で始まった?

 結局、ダムの発破作業を、大爆発と誤解したらしい。もちろん、直径3〜4キロのきの
こ雲など、なかった。

 が、さすがにバツが悪いのか、今朝(9・16)の朝鮮N報のHPを見ると、こうある。

「北の大規模爆発、世界各国が五里霧中の報道」と。

 つまり、「今回の大爆発事故について、世界各国は、何がなんだかわからないまま報道し
た」と。誤報の責任は、韓国の報道機関にあるのではなく、世界の報道機関にある、と。

 そして記事の内容が、おもしろい。こうある。

 「韓国の聯合ニュースが12日、両江道地域で大規模なきのこ雲が観測されたと初めて報
道したあと、外信は様々な推測だけを報じた。 
 
 米のCNNは初日、『衛星に捕らえられた北朝鮮上空のきのこ雲は、核爆発によるもので
はない』とし、『この雲は山火事による可能性がある』と報じた。ワシントン・ポスト紙は
電子版で、『ミサイル関連の事故である可能性がある』との見方を示した。 
 
 ロイター通信や英BBC、フランスのル・モンド紙とル・フィガロ紙などは爆発観測の事
実だけを伝え、『北朝鮮はまだ、どんな事実も明らかにしていない』と報じた」と。

 あたかも、「世界の報道機関のほうが、おかしい」という書き方である。自分たちの、(思
いこみ)と、(早トチリ)は、完全に棚にあげている?

 さらに、数日前の、朝鮮N報には、こうある。

 「爆発事件に関して、アメリカは、情報をもっているはずなのに、アメリカが情報を提
供してくれない」と。つまり詳しい情報を提供しない、アメリカは、おかしい、と。さら
に、「韓米の情報交換に問題がある」(朝鮮N報)とまで、言い切った!

 情報を出そうにも、出せなかった。そんな情報など、アメリカ側には、なかったからだ。
思いこみと早トチリだけではなく、今度は、「情報を提供しない」と、アメリカを責めた。
その結果、「大爆発など、なかった」「世界が勝手に騒いだだけ」と。

 実に、人騒がせな、ニュースだった! ホント! 
(040917)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 13日(No.475)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ラジオ

 昨日(9月11日)、地元のローカルラジオ局で、25分ほど、子育てについて、話させ
てもらった。それについて、その前日、年長児の子どもたちに話すと、子どもたちは、こ
う言った。

子「何チャンネルに出るの?」
私「だから、テレビじゃないの。ラジオだよ」
子「何時から?」
私「6時、少しすぎ」
子「じゃあ、ママといっしょに、見る!」
私「だからさ、見るんじゃなくて、聞くの」と。

 最近の子どもたちは、テレビとラジオの区別がつかない? それについてワイフに話す
と、「最近の子どもたちは、ラジオを聞かないからではないかしら?」と。

 子どもたちを包む情報文化は、それだけ多様化している。少し前までは、テレビとラジ
オしかなかった。が、今は、インターネットをはじめとして、携帯電話もある。そしてそ
れぞれが、ますます複雑化している。

 ラジオを知らない子どもがいても、不思議ではない。しかし……?

++++++++++++++++++

●育児ノイローゼに注意

 子育てをしていて育児ノイローゼになる人は多い。圧倒的に母親に多いが、父親がノイ
ローゼになることも、珍しくはない。

精神的な打撃によって起こる心的障害のことをノイローゼというが、精神病というほど
重くはない。ないが、対処のし方をまちがえると、深刻な結果を招くことがある。次の
ような症状が続いたら、育児ノイローゼを疑ってみる。

生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の
低下)、
精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、風呂に熱湯を入れても、
それに気づかなかったり
(注意力欠陥障害)、ムダ買いや目的のない外出を繰り返す
(行為障害)、ささいなことで極度の不安状態になる
(不安障害)、同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコン
トロールができなくなる(感情障害)、他人との接触を嫌う
(回避性障害)、
過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。また必要以上に自分を責めたり、
罪悪感をもつこともある(妄想性)。

もっとも育児ノイローゼになっても、本人がそれに気づくことはまずない。脳のCPU
(中央演算部分)が変調するため、本人はそういう状態になりながらも、「自分ではふつ
う」と思い込む。あるいは他人に「異常」を指摘されたりすると、反対に過度の罪悪感
に襲われ、かえって深く落ち込んでしまうこともある。

そこで重要なのが、夫ということになるが、その夫の協力が得られないことが多い。
で、もしここに書いたような症状のうち、いくつかに思い当たることがあれば、「今の
状態はふつうではない」という前提で、自分のまわりを見なおす必要がある。できれ
ば子育てそのものから離れる。

でないと、(こういうことを書くと、ますます症状がひどくなってしまうかもしれない
が)、子どもに影響が出てくる。そんなわけで、もし症状がひどいようであれば、一度、
精神科のドクターに相談してみる。

+++++++++++++++++++++

●心を通訳しない

 英語にはときどき、ハッと思うような表現がある。たとえば「トランスレイト(通訳)」
という言葉。相手の心を、「こうだろう」と思って代弁すると、「君の判断で通訳しないで
くれ」と言われる。が、日本では、甘い。親が子どもの心を決めてしまうことも、珍しく
ない。

 母「先日は、息子(年長児)が、いろいろお世話になりました。息子も『楽しかった』
と喜んでいます」と。しかし肝心の息子は、そ知らぬ顔でプイと遠くを見ている……。

 さらに程度が進むと、こんな会話をするようになる。

私、子ども(年長児)に向かって、「この前の日曜日は、どこへ行ったのかな?」、
母、会話に割り込んできて、「おばあちゃんちへ行ったでしょ。ね、そうでしょ」、
私、再び子子どもに向かって、「楽しかったかな?」、
母、再び会話に割り込んできて、「楽しかったでしょ。そうでしょ! どうしてあんたは自
分で楽しかったと言えないの!」と。

 典型的な過干渉ママの会話だが、こうした会話は親子断絶の第一歩とみてよい。「子ども
のことは私が一番よく知っていると」と思い込む親。「親は何も私のことをわかってくれな
い」と思う子ども。いや、子どもが小さいうちは、まだよい。子どもが親に合わせるが、
少し大きくなると、そうはいかない。

子「うるさい!」、
親「何よ、親に向かって!」となる。

 子どもの人格を認めるということは、子どもの心を大切にするということ。心を大切に
するということは、常に子どもの心を確かめるということ。自分がそう思うからといって、
子どももそう思うと考えるのは、まちがい。まったくのまちがい。そういう前提で、子ど
もの心を確かめる。

よくあるケースは、おけいこごとなど、親が勝手に決めてしまうケース。「来週から、ピ
アノ教室へ行きますからね」と。やめるときもそうだ。子どもの心を確かめることもな
く、「来月から別の教室へ行きます。今、行っているところは、今月でおしまい」と。

 子どもの心は通訳しない。これは正常な親子関係を築くための鉄則の一つと考えてよい。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教育基本法改正案

 教育基本法の改正が、あちこちで、論じられている。その中の一つ、自民党と民主党の
超党派議員がつくる、『教育基本法改正促進委員会』の席で、冒頭、民主党のN村S吾議員
は、こう言っている(04年2月)。

 「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげ
た人があって、今、ここに祖国があるということを、子どもたちに教える。これに尽きる」

 「お国のために命を投げ出すことをいとわない機構、つまり国民の軍隊が、明確に意識
されなければならない。この中で国民教育が復活していく」(夕刊フジ)と。

 「お国のため」とはねえ……? それはともかくも、このN村氏の発言は、どこからど
う考えても、おかしい。

 どこかの独裁者がつくる全体主義国家は別として、国というのは、そこに住む人たちが、
文化や伝統を共有しながらつくりあげる、集合的組織をいう。わかりやすく言えば、国あ
っての民ではない。民あっての国である。

 N村氏の視点は、私とは、まったく逆! N村氏は、国あっての民と考えているようだ。
もっと言えば、民は、為政者の財産にすぎない?

 戦前の日本のように、そして現在のK国のように、その頂点にいる人が、その国民に向
って、「我が臣民」と言うような国が、本当に、国なのか? 国と言えるのか? そう言え
ば、少し前まで、イギリスのエリザベス女王も、イギリス国民を呼ぶとき、「My peo
ple(私の民たち)」と呼んでいた。

 その民が、自分の国をさして、「私の国」と呼ぶのは、かまわない。しかし為政者が、そ
の民に向って、「私の民」と呼ぶのは、おかしい。もう少しわかりやすい例では、ある学校
の生徒たちが、自分の通う学校を、「私の学校」と呼ぶのは、かまわない。しかしその学校
の校長が、生徒たちを、「私の生徒たち」と呼ぶのは、おかしい。

ちなみに、今、アメリカでは大統領選挙たけなわ。しかしブッシュにせよ、ケリーにせ
よ、アメリカ国民に向って、「My people」などと言っているのを、聞いたこと
がない。

 発想のちがいというよりは、そういった意識そのものが、ない。それが民主主義である。

 が、N村氏の心配していることもよくわかる。しかし私たちは、何も、そこらの政治家
に言われなくても、そのときがきたら、ちゃんと、戦う。目の前で、家族や仲間が殺され
るようなことがあれば、ちゃんと戦う。

 そのためにも、政治家たちは、まず、その手本なり、見本を見せてほしい。命がけで、「お
国」のためやらのために戦っている姿を見せてほしい。

 が、現実は、逆。

 1億円もヤミ献金を受け取りながら、「忘れました」「覚えていません」と、責任のがれ
をしている政治家がいる。そういう政治家を見ると、私たち国民は、「何〜だ」と思ってし
まう。いざとなったら、イの一番に、敵前から逃げ出す。そんな政治家が、「国のために死
ね」と言ったとしても、はたして国民は、それに従うだろうか。

 こうした流れを受けて、すでに学校の教育現場では、『心のノート』の発行、愛国心の三
段階評価、さらには、東京都のように、日の丸、君が代の強制など、いわゆる国家主義が、
猛烈な勢いで進んでいる。

 わかりやすく言えば、「お国のために命を投げ出しても構わない」(N村議員)、もの言わ
ぬ従順な民づくりが、すでに始まっているということ。N村議員といえば、銃撃事件を引
き起こした、日本刀剣の会から、顧問として政治献金を受け取っていた議員である。

 なるほどと思うと同時に、これでいいのかなあと思う。

++++++++++++++++++++

愛国心教育について

●郷土愛と言い換えたら●民主主義を守ろう

「愛国心は世界の常識」(政府首脳)という。しかし本当にそうか?

 英語で「愛国心」というのは、「ペイトリアチズム」という。ラテン語の「パトリオス(父
なる大地)」に由来する。つまりペイトリアチズムというのは、「父なる大地を愛する」と
いう意味である。私にはこんな経験がある。

 ある日、オーストラリアの友人たちと話していたときのこと。私が「もしインドネシア
軍が君たちの国(カントリー)を攻めてきたら、どうする」と聞いた。オーストラリアで
は、インドネシアが仮想敵国になっている。が、皆はこう言った。

「逃げる」と。「祖父の故郷のスコットランドに帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 
私が驚いていると、こう言った。

「ヒロシ、どうやってこの広い国を守れるのか」と。英語でカントリーというときは、「国」
というより、「郷土」という土地をいう。そこで質問を変えて、「では君たちの家族がイ
ンドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞いた。すると皆は血相を変えて、こう言っ
た。「そのときは容赦しない。徹底的に戦う」と。

 一方この日本では、愛国心というと、そこに「国」という文字を入れる。国というのは、
えてして「体制」を意味する。つまり同じ愛国心といっても、欧米でいう愛国心と、日本
でいう愛国心は、意味が違う。内容が違う。

 たとえばこの私。私は日本人を愛している。日本の文化を愛している。この日本という
大地を愛している。しかしそのことと、「体制を愛する」というのは、別問題である。体制
というのは、未完成で、しかも流動的。そも「愛する」とか「愛さない」とかいう対象に
はならない。愛国心という言葉が、体制擁護の方便となることもある。左翼系の人が、愛
国心という言葉にアレルギー反応を示すのは、そのためだ。

 そこでどうだろう。愛国心という言葉を、「愛人心」「愛土心」と言い換えてみたら。「郷
土愛」「愛郷心」でもよい。そうであれば問題はない。私も納得できる。右翼の人も、左翼
の人も、それに反対する人はいまい。子どもたちにも胸を張って、堂々とこう言うことも
できる。

「私たちの仲間の日本人を愛しましょう」「私たちが育ててきた日本の文化を愛しましょ
う」「緑豊かで、美しい日本の大地を愛しましょう」と。

その結果として、現在の民主主義体制があるというのなら、それはそれとして守り育て
ていかねばならない。当然のことだ。
(はやし浩司 愛国心 愛郷心 郷土愛 教育基本法 改正案)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●一事が万事

 小ずるい人は、何ごとにつけて、どんな場面でも、小ずるい。まさに一事が万事。

 人間というのは、そういう意味では、それほど器用にできていない。ある場面で、聖人
になり、また別の場面では、悪人になりということは、できない。若いときは、そのとき
どきにおいて、自分をごまかすこともできる。が、年をとると、気力が弱くなる。おっく
うになる。

 そんなわけで、年をとればとるほど、その人の「地」が、表に出てくる。

 しかし、心配は、無用!

 この一事が万事を、逆に利用すればよい。たった今、この瞬間から、あなたは善人にな
る。身近のささいなことでよい。ウソをつかないとか、約束を守るとか、規則を守るとか
……。そういうささいな心がけが、ちょうどドミノ倒しのドミノのように、あなたの心を
作りかえる。


●弱者、自転車

 車の運転の仕方を見ていると、その人の人間性がわかるときがある。

ためしに、赤信号になってからも、猛スピードで、交差点を横切る人の顔を見てみれば
よい。

 ためしに、ウィンドウをさげて、ゴミやたばこの吸殻を外へ捨てる人の顔を見てみれば
よい。

 ためしに、駐車場でもない場所に、平気で車をとめて用をたしている人の顔を見てみれ
ばよい。

 まちがいなく、そういうことを平気でできる人は、それなりの低劣な顔をしている!(失
礼とは、書かないぞ!)

 さらに自転車に乗っているものの立場から……。

 自転車は、道路では、弱者である。歩行者に対しては、乱暴者ということになっている
が、車にくらべたら、かわいいもの。

 その自転車に乗っていると、さらにその人の人間性がわかるときがある。

 高級な外車に乗っている人でも、強引に自転車をのけものにして走り去る人もいれば、
やさしく道を譲ってくれる人もいる。軽自動車に乗っている人でも、強引に自転車をのけ
ものにして走り去る人もいれば、やさしく道を譲ってくれる人もいる。

 どこでどうして、そういう人間性に分かれるのか。私にはわからない。しかし弱者を、
のけものにして走り去る人は、それなりの人だということ。フロイトが言う、エスの人か? 
道徳観や倫理観など、それなりに浅い人とみてよい。

 人生は、長いようで短い。その短い人生を、短く感ずるようになったとき、そういうエ
スの人は、さらにその人生を短く感ずるにちがいない。

 人生で何が一番恐ろしいかと言えば、その過去を、後悔すること。いつかそういうエス
の人は、自分の人生を後悔することになる。「私の人生は、何だったのか」と。

 そういう意味では、かわいそうな人ということになる。もっとも、その人が、そういう
自分に気づけば、の話だが……。ひょっとしたら、その人は、そういう自分の愚かさに気
がつくこともないまま、その人生を終えることになるのかもしれない。


●死の恐怖

 なぜ、死ぬのがこわいか?

 それについては、以前にも書いた。

 私たちがなぜ死ぬのをこわがるかと言えば、それは喪失の恐怖だけではない。自分の死
を悲しんでくれる人がいないから。あるいは、仮にあの世があるとするなら、あの世で、
自分を待っていてくれる人がいないから。

 そのことを車の中でワイフに話すと、ワイフは、すかさずこう言った。「あら、あの世っ
て、あるの?」と。

 遺伝子の中には、いろいろなプログラムが、組みこまれている。脳ミソの活動について
も、そうである。その年齢や時期がくると、アクティブになるプログラムがある。思春期
の恋愛感情に、その例をみるまでもない。

 人間も、ある年齢に達すると、過去を回顧することが多くなる。この回顧を重ねるよう
になると、回帰という現象が、脳ミソの中で起こる。自分の過去の記憶が、脳の中に幾重
にも蓄積され、全体としてそれが脳にしみついたモヤのようになる。そしてそれが、「霊気」
を帯びたものとして、認識されるようになる。

 つまり、より、霊的なものの存在を、信じやすくなるということ。簡単に言えば、ただ
単なる(思い過ごし)。そういった(思い過ごし)から、「あの世論」は生まれるが、本当
のところは、私にも、わからない。

私「年をとると、あの世を信じたくなるものさ」
ワイフ「信ずることができれば、少しは、死ぬのがこわくなくなるからね」
私「そうは、単純ではないかもしれない。しかしそれに近い……」と。

 で、あの世があるという前提での話だが、自分が死んだとき、だれもあの世でだれも待
っていてくれないというのも、さみしい。つまりそれも、「死ぬのがこわい」という理由の
一つかもしれない。

ワイフ「臨死体験というのもあるわ」
私「脳ミソの中には、そういう特別な部分もあるみたいだ」
ワ「どういうこと?」
私「いよいよ死が近づくと、苦痛や不安を解消させ、その人に幻覚を見せる、特別なプロ
グラムがアクティブになるそうだ。前頭葉と後頭葉の境目あたりに、それがあると説く学
者もいる」

ワ「どんな幻覚?」
私「何でも、美しい川とか、無数の花が咲いているような美しい光景らしい。健康な人で
も、その部分に電気的な刺激を与えると、幻覚を見るそうだ。それが、臨死体験をした人
が見る光景に似ているという」
ワ「しかし、そんな研究は、あまり進んでほしくないわ」
私「そうだね。そういう部分は、そっとしておいてほしい。ぼくも、死ぬときは、あの世
を信じて、死にたい」と。

 そのとき、私は、別の心で、ふとこんなことを思った。

 「私が死んだとき、私の父は、その三途の川岸の向こうで、私を待っていてくれるだろ
うか?」と。が、どうもそれは、期待できそうもない。私は、そういう意味では、心のさ
みしい人生しか、送ってこなかった。

 ……あの世は、あるだろうか? それともないのだろうか? 私は、今のところ、「ない」
という前提で生きている。あるとも、ないともわからないものを、アテにして、私は生き
ることはできない。

 それはいつも言うように、宝くじのようなもの。宝くじの当選をアテにして、家を買う
ことはできない。同じように、あるかないかわからないものをアテにして、「今」を考える
ことはできない。

 あの世は、死んでからのお楽しみ。あれば、儲けもの。今は、「ない」という前提で、懸
命に生きる。宝くじの当選金にしても、それをどう使うかは、当選してから考えればよい。
同じように、あの世のことは、あの世へ行ってから、考えればよい。

★As a well−spent day brings you happy sl
eep, so a life well spent brings happy d
eath。
(充実した日を過ごした夜は、幸福に眠られる。同じように、充実した人生を送ったもの
だけが、幸福な死を迎えられる。)(レオナルド・ダ・ビンチ)


●ワイフの回顧性

 このところ、ワイフの回顧性が、強くなったように思う。同窓会つづきだし、その同窓
会で再会した友人と、遊びに行くことが多くなった。今日も、高校時代の友人のIさんと、
山荘へ、弁当を食べに行った。

 いよいよワイフも、バー様の仲間入りということ。ハハハ。

★Time is the coin of your life. It is on
ly the coin you have、and only you can de
termine how it will be spent. Be careful 
lest you let other people spend it for y
ou. 
(時というのは、あなたの人生のコインのようなもの。あなたがもっているたった一枚の
コインだから、どう使うか、注意深くしたらよい。とくに、そのコインを、あなたのため
に、他人に使わせてはいけない。)(C・サンバーグ)


●誕生日のプレゼント

 もうすぐ私の誕生日。毎年、何かの電子製品を、プレゼントしてもらう。数年前までは、
毎年、豪勢に、新しいパソコンを買ってもらっていた。

 言い忘れたが、我が家では、私のすべての収入は、ワイフが管理している。一度、すべ
てを渡し、その中から、食費など、そのつど、ワイフからもらっている。だから自分の稼
いだお金でありながら、「もらう」という発想になる。

 考えてみれば、これはおかしなことだ。そうだ、おかしい!

 しかし今さら、現在のシステムを変えることもできない。すべてが、そのシステムの上
で動いている。息子たちですら、「ママからお金をもらう」とは言うが、「パパからお金を
もらう」とは、言わない。そういう意味では、我が家は、母系家族か?

 それはともかくも、今年は、プレゼントを、何にするか。今、直接ほしいのは、デジタ
ルカメラ。それに、携帯端末。S社のザウルスがよい。

 その私も、今度の誕生日で、満57歳になる。その「57」という数字を頭の中で反復
しながら、よくもまあ、今まで、無事に生きてこられたものだと思う。ホント! 江戸時
代なら、とっくの昔に死んでいるはず。何でも江戸時代には、日本人の平均寿命は、38
歳前後だったという。(38歳だぞ!)

  縄文時代         ……14・5歳
  室町〜江戸時代      ……38歳
  明治・大正時代      ……39・5歳
  1935年(昭和のはじめ)……48歳
  1947年(私の生まれ年)……52歳
  1965年        ……70・3歳
  1999年        ……80・5歳
          (朝日新聞・後藤眞氏発表)

 この調査結果を見てわかることは、こうまで平均寿命がのびたのは、戦後のことという
ことになる。戦争がなくなったこと。乳幼児の死亡率がさがったことなどが、その理由に
あげられる。健康なおとなだけをみても、それでも江戸時代には、平均寿命は、45歳前
後だったという。そんな話を、どこかで聞いたことがある。

 どちらにせよ、こうして考えてみると、57歳まで、何とか生きてこられたことを、感
謝しなければならない。

 さあて、あと何年、私は生きられるか? 夕方になったら、今日も、自転車で、運動に
出かけるぞ。今日の運動は、明日のため。その積み重ねがあってはじめて、私も、80歳
くらいまで、生きられるのでは……。多分?
(はやし浩司 平均寿命 江戸時代)

【補記】

 その運動で、こんなことを考えた。

 先週のいつだったか、体が鉛のように重く、だるく感じたときがあった。鉛というより、
力が抜けてしまって、息をするのもつらかった。

 その夜のこと。私は、町の中にある教室にいた。時刻は午後9時過ぎ。そこで私は、ワ
イフにこう電話した。

 「途中まで、がんばって走ってみる。もし途中でダウンしたら、そこまで迎えに来てほ
しい」と。

 そしていつものように、教室の外に出ると、自転車にまたがった。自分でも自信がなか
った。家までの距離は、7キロ弱。ゆるいが、途中には、ダラダラ坂がある。それに気温
は、夜だというのに、30度近くもあった。

 いつもなら、20〜30分で家に着く。しかしその夜は、「これじゃあ、1時間は、かか
るな?」と。

 しかし体というのは、おかしなものだ。自転車にまたがって、ペダルをこぎ始めたとた
ん、軽く動き始めた。30年以上、自転車通勤をつづけてきた、おかげかもしれない。そ
れに私は、もともと、意思が弱い。自分で追いつめられた状況をつくらないと、こうした
運動はしない。

 ともかくも、家まで、いつものように、25分前後で、帰ることができた。途中で、ワ
イフが心配しているといけないので、電話した。「どうも、だいじょうぶみたいだ」と。

 健康を維持するための運動にも、いろいろあるが、こうした(きびしさ)がないと、健
康は維持できないのではないか。趣味的な運動なら、たぶん、ここまで自分に、きびしい
運動はしないだろう。

 おかげで翌朝には、体調はもとにもどっていた。

★Be sure to live your life, because you 
are long time dead.
(生きていることを、しっかりと確認せよ。なぜなら、生きている時間は、短く、死んだ
あとの時間は、長いから。)(スコットランドの言い伝え)

★In an artist's life, death is perhaps n
ot the most ddifficult thing.
(一人の芸術家にとっては、死というのは、多分、それほどむずかしい問題ではない。)(ビ
ンセント・V・ゴッホ)

★運動は、継続するから、意味がある。健康法も、継続するから、意味がある。ただつぎ
の問題は、その健康を使って、どう生きるかである。生きる意味のない人生、目的のない
人生を送っている人には、健康といっても、蔵に入った、ただの宝物にすぎない。(はやし
浩司)

 
●K国の爆発事故

 9月9日、K国の建国記念日の日。K国の北部で、大きな爆発事故があったという(9
月12日、午後6時半現在)。

 情報が錯綜(さくそう)している。ミサイル爆発説。列車事故説。さらには軍需工場爆
発説など。当初、核実験かと、世界中が緊張した。私もそう思った。しかしどうやら核実
験ではなさそうだ。

 この原稿が、読者の目にとまるころには、事情も、かなりはっきりしていることだろう。
しかし今は、混沌としている。

 が、私が今、注目しているのは、その爆発事故よりも、K国を襲っているはずの大豪雨。
台風20号に刺激された、熱帯低気圧が、昨日から今朝にかけて、K国を通過した。今ご
ろK国は、大洪水に見舞われているはず。が、これで終わるわけではない。このあと、台
風20号の本体が、待っている。それがゆっくりと今、東シナ海を北上しつつある。

 今年の冬には、K国の食糧事情は、またまた大ピンチを迎える。崖っぷちに立たされ、
強い風にあおられているような状態だ。もちろんその向こうは、奈落の底。首都P市に住
む人たちは別として、かわいそうなのは、それ以外の町村に住む、一般民衆たちである。

 今度の豪雨で、田畑が被害を受ければ、食糧事情は、さらに悪くなる。

 で、その爆発事故だが、ミサイル基地にせよ、軍需工場にせよ、中国国境にそれがある
というところが、ミソ。仮に米朝戦争になっても、アメリカが攻撃しにくいところである。
そういうところで爆発事故が起きたということ自体、自業自得と言うべきか。

 どんな被害であっても、日本は、K国が助けを求めてこないかぎり、決して、復旧活動
に手を貸してはいけない。またそこまでお人好しになってはいけない。爆弾にせよ、ミサ
イルにせよ、どれも日本をターゲットにしたものだからである。

 かねてより、K国は、この9月9日に、核実験もしくは、新型ミサイル(テポドン2)
の発射実験をするのではないかと、うわさされていた。位置的には、そのテポドン1(射
程距離、2000キロ前後)、テポドン2(射程距離、4000〜6000キロ)の発射基
地のあるあたりで起きた爆発事故だという。(10月に、核実験をするのではないかという
報道もある。)

 もしそうなら、ミサイルの発射実験の失敗の可能性が、きわめて高い。ただ、爆発規模
が、あまりにも大きすぎる。ミサイルの発射事件の失敗くらいで、直径4キロにもなるキ
ノコ雲が発生するだろうか。素人の私には、これ以上のことはわからない。

 もうすぐ7時になる。NHKの定時ニュースを見るために、居間へ行く。多分、NHK
も、そのニュースを、トップで、報道するだろう。

【追記】

 NHKの定時のニュースでは、韓国KBSの報道をそのまま紹介しただけ。北京をたま
たま訪問している、K外務大臣も、「情報の収集をしているところ」と。

何とも、お粗末な情報収集。爆発が起きたのは、9日の午前11時ごろとされる。それ
から、80時間もたっている。80時間もたっているのに、これだけの情報とは! あ
るいは、その裏に何かがあるのか? ここ数日、目が離せない。


●Halloween Ideas(ハロウィーンについて)
(デニーズのホームページより)
Sage has recently turned two.  
誠司が2歳になりました。

And although I have seen traces of the "terrible two's" in him, I think that parenting 
will be a lot more fun this year, especially where holidays and events are concerned. 
「2歳児はむずかしい」と言われ、その兆候が見られますが、今年は、子育てがぐんと楽
しくなりそうです。とくに、休みなどでは。

This unusually cool weather turned my mind to this subject this afternoon.  
このところいつもになく気候も涼しくなり、そんなことを考えています。

It felt just like autumn.  
秋のようです。

Last year for Halloween, we stayed at home and handed out candy to trick-or-treaters. 
去年のハロウィーンでは、家にいて、トリック&トリーターたちに、キャンディを渡しま
した。

 Sage loved it.  
誠司は、それを楽しみました。

He'd run to the door every time the bell rang. 
誠司は、ドアのベルが鳴るたびに、ドアまで行きました。

 He'd hide behind Soichi or me and watch as the children grabbed a treat from the 
plastic pumpkin. 
誠司は、宗市や私にかげに隠れて、プラスチックのカボチャから、子どもたちが、キャン
ディをつかむのを、見ていました。

He refused to wear his dinosaur costume, but for the most part he had a blast. 
誠司は、恐竜の衣装を着るのをいやがりましたが、とても楽しかったです。

 Just answering the door made his day. 
客に応対するだけで、一日が終わりました。

This year I feel that there will be so much more that he can enjoy. 
今年は、誠司にとって、もっと楽しい日になるだろうと思います。

 But there are also so many things that he is not yet prepared for.  
が同時に、誠司には、まだ準備できていないこともたくさんあります。

He is at that unique age when he is too big to be a baby but too little to try the things he 
sees older children doing.
誠司は、赤ちゃんというには、大きすぎます。しかし大きな子どもたちがすることをする
には、小さすぎます。

 I decided Sage was too young to trick-or-treat himself, but I wanted him to experience 
more than opening a door and giving other children a treat. 
誠司は、自分で、トリック&トリートをするには、幼すぎると思いますが、誠司には、ド
アをあけて、トリートする以上のことを経験させようと思っています。

 And he knows what candy is now...
今では、キャンディがどんなものであるか、誠司も知っています。

I don't think he'd be too happy to see other children taking it. 
ほかの子どもたちが、お菓子をむしりとられるのを見るだけでは、誠司も楽しくないと思
います。

A friendly neighbor told me that there are all kinds of activities in Conway.  
親しい隣人が、Conwayには、楽しい催しものがたくさんあると、話してくれました。

The library has a carnival.  
図書館は、カーニバルを開きます。

Some of the banks have festivities. 
銀行のいくつかは、お祭りをします。

 And Wal-mart has an event called "Trunk or Treat", where games and candy-giving 
occur out of the trunks of cars.
そしてウォールマートは、「トランク&トリート」というのをします。ゲームをして、車の
トランクから、キャンディを出すという催し物です。

 I might even be able to make a costume for Sage. 
誠司のために、何か、衣装をつくってあげましょう。

 Me, Denise?  Yes, me.  
私、デニーズが、ですか? そう、私が、です。

My friend told me that I don't need a sewing machine to make a nice costume. 
私の友だちが言うには、衣装をつくるのに、ミシンはいらないと言います。

 The website www.familyfun.com has patterns for costumes that can be made by 
painting and altering sweats. 
このサイトでは、色をぬったりするだけでできる衣装を紹介しています。

 She says they look really good, and she sews EVERYTHING! Who knew I could be 
"crafty"? :)
友だちが言うには、それらはとてもよいそうです。


●S先生のこと

 昨日、K市(浜松市の隣町)の、中学校教師のS先生が、逮捕された。容疑は、小学生
の誘拐、強制ワイセツ。48歳だったという。

 その小学生は、海岸で、S先生に声をかけられ、車で連れていかれたという。S先生は、
車で連れていったことまでは認めたらしいが、ワイセツ行為については、否認していると
いう。S先生は、48歳。相手の子どもは、小学6年生。男児!

 ここであえて、私は「S先生」と呼ぶ。私の二男の中学時代の担任教師であったからで
ある。また三男の教師でもあった。二男が中学生のときは、世話になった。私もワイフも、
S先生には、感謝している。もともとは養護学校の先生だったとかで、大柄で、やさしい
先生だった。

 その先生が、誘拐、強制ワイセツ? 地元のS新聞は、つぎのように伝えている(要約)。

++++++++++++++++++

小学男児連れ回す

 浜松市内の小学六年生の男児を誘拐し、車で連れ回したとして、浜松中央署は11日、
わいせつ誘拐と強制わいせつの疑いで、K市S、K市の中学校教諭(48)を逮捕した。 

 調べでは、容疑者は11日午後4時ごろ、浜松市南西部の海岸で、友人二人と砂遊びを
していた被害者の男児に「こっちに来て」などと声をかけ、自分のワンボックス車の後部
座席に乗せて連れ回したうえ、同市内駐車場の車内で体を触るなどのわいせつ行為をした
疑い。 

 容疑者は同日午後6時25分ごろ、男児を自宅付近で解放した。男児が連れ去られた後、
一緒にいた友人二人が交番に届け出て、容疑者の車のナンバーや種類、色などを伝えた。
情報に基づき緊急配備を敷いた同署は、同市篠原町内で手配車両を発見、職務質問して逮
捕した。 

 容疑者は午後4時半ごろ、いったん男児を車から降ろしたが、立ち去ろうとする男児の
後をつけ、同5時ごろに再び車に連れ込み、わいせつ行為に及んだらしい。容疑者は同署
の調べに対し、男児を車に乗せたことは認めているが、わいせつ行為については否認して
いるという(S新聞HPより)。

+++++++++++++++++++++

 ショックを受けたのは、ワイフのほうだった。二男は、花粉症で、春先になると、決ま
って不登校を繰りかえした。その二男を理解し、いろいろかばってくれたのが、S先生だ
ったからである。

 まだ取調べ中ということで、詳しいことはわからない。ひょっとしたら、魔がさしたの
かもしれないし、反対に、ほかにも多くの余罪があるのかもしれない。県内では、教師に
よる養護学級生に対する、強制ワイセツ事件が起きたばかり。

 しかしかわいそうなのは、S先生の奥さん。子どももいたそうだ。(現在は、知らないが
……。)が、それ以上に、自分の愚行を後悔しているのは、S先生自身ではないのか。

 私にも、中学生のとき、たいへん世話になった先生がいた。英語の先生だったし、コー
ラス部の顧問もしていた。実は、その先生も、女生徒にワイセツ行為をして、逮捕されて
いる。

 あとでその話を、友人から聞いたとき、信じられないというよりは、「何で、そんなバカ
なことをした!」と思った。「これで、二度と、遊びに行くことができなくなってしまった
ではないか!」と。

 当時の私は、まだ若かったので、自分のことしか考えなかったのだと思う。先生がそう
いう事件を起こすと、自分の中の楽しかった思い出まで消さなければならない。私には、
それがつらかった。

 さて、私のこと。ハレンチ事件を起こしたS先生と私。大きくちがうようで、実は、ど
こもちがわない。そこで昨夜、寝る前、ふとんの中でワイフにこう聞いた。

私「ぼく、どこかおかしいかね?」
ワイフ「どこが……?」
私「どこか、おかしいところがあると思うか? たとえば同性愛者だとか?」
ワ「ゼンゼン……」

私「でも、いつも、お前に、おかしなことをしているよ」
ワ「そう言えば、そうね」
私「だろ……。だったら、『あんたも、気をつけなよ』とか、何とか、ぼくに言ったほうが
いいよ」
ワ「何を気をつけるの?」

私「ぼくが、おかしなことをしないように……」
ワ「したければ、すればいいじゃない。何か、したいの? 私になら、いいわよ」
私「別にないけど……。今は……。もう、そんな元気はない」
ワ「だったら、それでいいじゃない……」と。

 二男(アメリカ在住)と、三男(オーストラリア在住)には、この話を伝えないでおこ
うと思ったが、やはり、一応、話しておくことにした。ショックは受けるだろうが、その
ショックから、何かを学ぶかもしれない。

【追伸】

 アメリカに住む、二男に、そのことを伝えると、すぐメールで返事が来た。いわく、「ぼ
くとA君で遊びに行ったとき、一晩、とめてもらったことがある。そのときも、海へ、連
れていってくれた」と。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 11日(No.474)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●家庭教育

 アメリカなどへ行くと、大学の書店ですら、「一般教育」の書籍コーナーと、「家庭教育」
の書籍コーナーが、ほぼ、半々になっている。

 しかしこの日本では、「家庭教育」の書籍コーナーは、たいへん小さい。

 たとえば浜松市内に、Y書店という、県下でも、最大級の書店がある。

 その書店でも、二階に一般教育の書籍コーナーがある。子ども向けの学習参考書や、問
題集は、3階。しかし家庭教育の書籍コーナーは、一階の右奥すみ。幅一間たらずの本箱
におさめられている。

 つまりそれだけ、家庭教育がなおざりにされているということ。軽く見られているとい
うこと。学校に、「子育て」のすべてが、押しつけられているということ。ここに日本の教
育というか、子育ての特殊性がある。

 こういう状況の中で、子どもをもつ親たちが、今、悲鳴をあげている。家庭の中で、つ
ぎからつぎへと起きてくる子育ての問題を、どこへどう相談したらよいのかさえ、わから
ないでいる。

 そこで児童相談所……ということになるが、その児童相談所の中にもうけられている「子
供よろず相談所」にしても、すでに手一杯。

 そういう中、この6月(04年)、「児童福祉法改正案」が、年金問題のとばっちりを受
けて、先送りされてしまった。

 この児童福祉法改正案は、現在、児童相談所が中心となっている「育児相談」の主体を、
市町村に移動し、急増する相談の受け皿を、そこでしてもらおうという趣旨のものである。

 もちろん問題がないわけではない。受け皿となる市町村にしても、その態勢をつくらな
ければならない。人件費だけでも、相当なものになる。こうした育児相談は、電話相談に
しても、平均30分〜1時間はかかる。しかも1度や2度で、すむことは、まずない。

 もちろん専門家の育成も、重要課題である。しかしこの問題は、すでにもう放置できな
いほど、大きな問題になりつつある。厚生労働省は、この秋には、国会で、児童福祉法改
正案を成立させたいとしているが、仮に成立したとしても、来年4月の施行にまにあうか
どうか、わからない。相談員の育成、研修など、それをどうするか、市町村がかかえる課
題は、多い。

【はやし浩司の経験から……】

 私も数年前まで、子どもをもつ親から、子育て相談を受けていた。そのため、毎日、午
前中のほとんどが、それでつぶれた。

 もちろん、すべて無料。心のどこかで、ときどき、「どうして私がこんなことを、無料で
しているのだろう」と思ったことがある。が、こうした子育て相談を、有料化することは、
できない。

たとえば親の話を聞いているうち、その子どもが明らかにADHD児とわかっていても、
それを口にすることはできない。有料化して、それを口にすれば、それは即、診断行為
となってしまう。(それが許されるのは、日本のばあい、医療機関のみ。)

 あくまでも、「私の意見を参考にしてください」という立場で、相談に答えるしかなかっ
た。

 また実際、こうした子育て相談で、名字くらいまでならいう人はいても、名前を言う人
は、まずいない。住所までいう人は、10人に1人もいない。名前ですら、偽名であるこ
とも多い。こちらも事情が事情だから、聞かない。

 一応、午前中だけということで、相談を受けていたが、午前中だけですむことは、ない。
ばあいによっては、土日、さらには、夜10時すぎに電話がかかってくることもあった。

 こうした子育て相談が、ふつうの相談とちがう点は、子育ては、その親にとっては、連
続的なものであるということ。今日、相談して、今日、問題が解決するということは、あ
りえない。同じ親から、数か月にわたって、毎週、電話がかかってくるということも、珍
しくない。

 そこで相談を受ける側としては、病院で用意するようなカルテのようなものを、作って
対処する必要がある。つまり、そういうキメのこまかい、指導が必要だということ。これ
から先、市町村が、「子供よろず相談」を引き受けるにしても、そういった覚悟が必要であ
る。

 さらに子育て相談といっても、その親自身の人生観、哲学、育児観など、すべてがそこ
にからんでくる。私のばあいも、子育て相談を受けながら、その親の人生相談にのってい
るかのような錯覚にとらわれたことが、何度もある。

 簡単に子育て相談とはいうが、それなりの経験者でないと、この仕事は、務まらない。
(はやし浩司 育児相談 子育て相談 児童福祉法改正案)


●親孝行を美徳にしない

 日本では「親孝行」が、当たり前になっている。しかしそういう常識(?)の陰で、人
知れず、それに苦しんでいる人は多い。

親を前にすると体中が緊張する(34歳女性)、実家へ帰るのが苦痛(30歳女性)など。

しかし世の中には、親をだます子どもがいるが、子どもをだます親もいる。Tさん(7
0歳)がそうだ。Tさんは息子(45歳)がもっている土地の権利書を言葉巧みに取り
あげて、それを他人に転売してしまった。

権利関係が複雑な土地だったこともあるが、その息子はこう言う。「親でなかったら、訴
えているところです」と。が、当のTさんには、罪の意識がまったくない。間に入った
人がそれとなく息子の気持ちを伝えると、Tさんはこう言った。「親が息子の財産をつか
って何が悪い。私が息子たちにかわって、先祖や家を守ってやっているのだ」と。

 親孝行するかしないかは、あくまでも子どもの問題。もっと言えば、一対一の人間関係
が基本。「親が上で、子は下」という関係では、そもそも良好な人間関係など育たない。親
子はあくまでも平等だ。その基本なくして、親孝行はありえない。

言いかえると、親は、子どもを「モノ」とか、「所有物」として考えるのではなく、一人
の「人間」として認める。すべてはここから始まる。つまり親は子どもを育てながら、
自らも「尊敬される親」にならなければならない。子どもが親を孝行するかしないかは、
あくまでもその「結果」でしかない。

さらに言いかえると、子どもが親を軽蔑し、親孝行を考えなくなったとしても、その責
任は子どもにはない。そういう親子関係しか作れなかった親自身にある。きびしいこと
を言うようだが、親になるということは、それくらいたいへんなことでもある。

 親孝行を子どもに求める親というのは、それだけで、依存心の強い親とみる。「甘えてい
る」と言ってもよい。そういう親からは、自立した子どもは生まれない。

前にも書いたが、依存心というのは、あくまでも相互的なものである。そんなわけで子
どもを自立させたかったら、親自身も子どもから自立する。またそのほうが、結局は子
どもから尊敬される親になる。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/) 

【補足】

 この原稿を書いて、もう10年になる。

 が、だからといって、「親を粗末にしろ」とか、「親孝行はしなくてよい」とか、そんな
ことを言っているのではない。

 私は、この原稿を、あくまでも、親の立場で書いた。つまり、親の立場として、自分の
子どもに向って、親孝行を強要したり、それを求めてはいけないということ。あくまでも、
親としての心がまえのひとつとして書いた。どうか誤解のないようにしてほしい。


++++++++++++++++++++++

●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこ
じれて、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともか
くも、間に子どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、
まともな人とは限らない(失礼!)。

情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらには、アルツハイマ
ーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に1人はいる。このタイプ
の人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまとも
でない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。
相手が先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」
とか何とか言えばよい。

あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも頭
をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところ
に集まる。しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも
悪いですから……」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、
負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっている
ようでわからないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。
すべてではないことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに
相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、
よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつ
きあいの大鉄則と考えてよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●長男、二男の問題

+++++++++++++++++++++++

茨城県M市にお住まいの、Tさん(母親)から、
長男(7歳)、二男(6歳)の問題について、
質問がありました。

+++++++++++++++++++++++

【Tさんより、はやし浩司へ】

いつもマガジンを拝見させていただいております。
毎日の生活の中で、ハッと振り返る良い時間をもてることに感謝しています。

二人の、男兄弟について質問します。

長男は比較的育てやすく、情緒も安定しており、今までは特に問題はなかったのですが、
最近次男のほうが、上の子に対してライバル心を持つようになりました。

もともと下の子の方が運動神経もいいこともあり、二人の興味対象である野球で、下の子
のほうが上手になってきました。

それにつれて、勉強のほうも、私が長男に教えていますと、傍から見ていて同じように覚
えていくので、今では2桁の足し算引き算、および掛け算もいえるようになってきました。

年齢が1歳と少ししか違わないこともあり、長男は最近プライドを傷つけられたのか、下
の子をずいぶんといじめるようになり、また「自分は生きていても仕方がない」などとい
うようなことを言うようになり心配しています。

なるべく長男が自信を回復するようなことをするように仕向けていますが、なかなかうま
くいきません。勉強も運動も次男の方が上手になるという話は良く聞きますので、(例えば
プロ野球の選手は次男が多いなど)、林先生のところではどのように対処されているのかお
伺いしたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

++++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Tさんへ】

 一見、この問題は、兄弟の間の確執のようにみえます。しかし問題の本質は、(親)を間
にはさんだ、三角関係にあるとみます。

 長男の心の中に、一度、視点を置いてみると、それがわかります。

 長男は、弟に対して、自分が劣っていることを、問題にしているのではありません。長
男は、親のTさんや、父親の関心が、弟のほうに向いていることを、問題にしているので
す。あるいは自分より、弟のほうに、関心がうつるのを心配しているのです。

 恐らく、下の弟が生まれたときから、何らかのわだかまりが、長男のほうに生じたと思
われます。その時点から、自分への愛情(手間)は、半分になった。しかもことあるごと
に、「お兄ちゃんだから……」という「ダカラ論」を、押しつけられた。

 こうして長男のほうに、大きな欲求不満が蓄積するようになったと考えられます。Tさ
んは、「育てやすかった」と言っていますが、それはそれだけ、長男のほうが、自分の立場
を守るために、「いい子」ぶっていただけとも考えられます。

 ものわかりがよい、よい兄を演じていた。親に好かれるために、です。その可能性は、
じゅうぶん、あります。

 が、その弟のほうが、何かにつけて、優秀ということになってきた……。兄の長男の立
場としては、ただごとならぬ状態になってきたわけです。

 こういうケースのばあい、子ども(長男)は、ふつう、つぎの4つのパターンのどれか
を、選択します。

(1)親や弟に対して、攻撃的になる。
(2)親に対して、同情を求めるようになる。
(3)親に対して、依存的、服従的になる。
(4)内閉したり、親を拒絶したりするようになる。

 長男が、「自分は生きていても仕方がない」と言うのは、そう言いながら、親に同情を求
めたり、親の反応をうかがっているものと考えてよいようです。こうした(ぐずり)は、
すでに、下の子どもが生まれた、2歳前後からあったはずです。

 もう少し深く、長男の心の中に、視点を置いて考えてみましょう。

 あなたの夫が、あなたよりすてきな愛人を、家の中に連れてきたら、あなたはどうする
でしょうか。少し極端な感じがしないでもないですが、長男の置かれた状況としては、そ
れほどちがわないはずです。

 その愛人は、あなたより、若い。美しい。料理もうまい。……そういうとき、あなたな
ら、どうするでしょうか。嫉妬もせず、平穏に、その愛人と同居できるでしょうか。あな
たの夫が、「お前も、愛人も、平等にかわいがってやる」と言ったとき、あなたは、それに
納得するでしょうか。

あなたは「子どもは、家族だ」「兄弟だ」「同じ親子だ」と言うかもしれませんが、それ
はおとなの論理にすぎないということです。

 本来なら、長男は、弟を、蹴とばして、外へ追い出したい。しかしそれができない。そ
れをすれば、自分の立場がなくなってしまう。

 つまりこの問題の奥には、そうした長男の複雑な、つまりはゆがんだ心理があるという
ことです。

 そこで対処のし方としては、もう一度、全面的に、長男へのスキンシップ、暖かい愛情
を取りもどします。7歳という年齢から、赤ちゃんがえりはないと思いますが、それに似
た、幼児がえりは、あるかもしれません。何かにつけて、わけのわからないことを言って
ぐずるようなら、添い寝、手つなぎ、一緒の入浴などを、子どもが求めてきたら、ていね
いに応じてあげます。

 (1)暖かい無視と、(2)ほどよい親に心がけます。

 「ほどよい親」というのは、「求めてきたときが、与えどき」ということです。長男が、
スキンシップを求めるようなしぐさを見せたら、ていねいに、こまめにそれに応じてあげ
ます。数分間程度、ぐいと抱くだけでも、効果的です。

 決して、「お兄ちゃんだから……」と、ダカラ論で、長男を、突き放してはいけません。
子どもに上下をつけないで、同じ子どもとして扱います。そしてこの際、弟さんには、少
しがまんしてもらいます。ここで長男の心をいじけさせると、ひがみやすくなる(依存型)、
いじけやすくなる(同情型)、つっぱりやすくなる(攻撃型)などの症状が出てくるように
なります。(すでに出ているようですが……。)

 能力的な劣等感は、従って、弟が原因ではありません。それをわからせる、家庭の雰囲
気というか、親の態度、姿勢にあります。どこかで、「お兄ちゃんのクセに……」とか、「弟
に負けるなんて……」という雰囲気があるのではありませんか? もしそうなら、これは
やはり、長男の心の問題ではなく、親の育児姿勢の問題ということになります。

 というのも、これから先、この種の劣等感(反対に優越感も)は、いつも子どもの心を
襲います。たまたま今は、兄弟という関係の中で、起きているだけです。親としてはつら
いところですが、「あなたはよくがんばっている」式に、子どもの立場で、それをなぐさめ
てあげるしかありません。

 で、こうしたプロセスを経て、子どもはやさしく、かつたくましくなっていきます。今
の段階では、まず、あなた自身が、兄弟の上下意識をもたないこと。(そういう意味では、
あなたは、かなり、上下意識の強い親かもしれません。)

 そういう上下意識を無意識のうちに感じながら、上の長男が、それを劣等感にしてしま
います。そしてその一方で、弟が、ライバル意識から、兄への優越感。さらには、兄をバ
カにする……というふうに転化してしまったら、それこそ家庭教育の失敗ということにな
ります。

 いろいろなことが考えられますが、しかし全体としてみると、実によくある問題であり、
かつ、何でもない問題の部類に属する問題です。しかも、弟さんの立場で考えるなら、ど
こかぜいたくな悩みということになるかもしれません。

 ですから、あまり深刻に考えないで、ここに書いたことを参考に、対処してみてくださ
い。で、それで兄弟の仲が悪くなっても、しかたのないこと。(これもよくあるケースです。)

 また兄が、弟をいじめたり、嫌ったりするのも、これまたしかたのないこと。(これもよ
くあるケースです。)

 完ぺきな兄弟関係を、求めないこと。このあたりは、もう成りゆきに任せるしかないと
思います。子どもというより、ある2、3年もすると、あなたの子どもたちも、親離れを
始め、自己意識も育ち、一人の人間として、自立していきます。親として、介入できるこ
とにも、限界があるということです。こういうケースでは、長男のよき相談相手、アドバ
イザーとして、親が一歩退く。それが結局は、子離れということになります。

 だからとりあえずの方法としては、兄・弟という上下意識を、まず、とりのぞき、二人
の子どもを、「友」として位置づけてみては、どうでしょうか。(まあ、年齢的に、少しむ
ずかしいかもしれませんが……。やや、手遅れ的な部分も、あるということです。)

 そのあとの人間関係は、二人の子どもに任せます。あなたの周辺にも、仲のよい兄弟お
いれば、そうでない兄弟もいるはずです。どうなるかは、もう、子どもたち自身が決める
ことだということです。(それとも、あなた自身は、あなたの兄弟と、仲がよく、今でも、
良好な人間関係を保っていますか?)

 この問題は、そういう視点からも、考えます。

 最後に、自信を回復させる方法としては、一芸論などがあります。「はやし浩司 一芸論」
で検索してくださると、どこかでヒットするはずです。Tさんのケースでは、長男には、
二男とは別の一芸をもたせたほうがよいかもしれませんね。

+++++++++++++++++

参考までに……

+++++++++++++++++

●「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、
T君は、スケートで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつま
ずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……と
いうだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支え
る。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなっ
てしまった。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、
一〇年後。ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほう
が先生より、お金を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失
敗する。Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。
そこで母親が、「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさ
んは水泳ですぐれた才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長し
た。S君(年長児)もそうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これ
は何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげ
ることを勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学
三年生のころには、ベーシック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターする
までになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをや
めさせる」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成
績は、もっとさがる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいと
か、カードをたくさん集めているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。
「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかけ
る。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関
しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは
絶対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、
五歳ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするか
を静かに観察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらし
い才能が隠されていることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つで
ある。  
(はやし浩司 兄弟の確執 ライバル意識 一芸論)

【付録】

●長子は神経質?

 なお神経質な子どもに関して、こんな興味深いデータがある。東海大学医学部の逢坂文
夫氏らの調査によると、「一番上の子は、下の子よりも神経質」というのだ。

 東京都内の保育園に通う1000人の園児の母親について調べたところ、次のようなこ
とがわかったという。

 母親がわが子を神経質と認めた割合は、弟や妹をもつ長子についてがもっとも多く、4
2・7%。

これに比べて、一人っ子は、35・1%、第二子は23・7%、第三子以降は、15・
8%(母親の平均年齢は、32・6歳。園児の平均年齢は3・8歳)。「兄弟姉妹の下の
ほうになるほど、のんびり屋さんになるようだ」(中日新聞コメント)と。

 また「緊張しやすい」とされた長子の割合も、第二子の約1・5倍だったという。長子
ほど、心理的に不安定な傾向がうかがえる。これらの調査結果からわかることは、子ども
が神経質になるかどうかということは、生まれつきの性質による部分も無視できないが、
生まれてからの環境にもよる部分も大きいということである。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●秋の虫

 昨夜は、久しぶりに、山荘に泊まった。寝る前、『Talk to her』という、ス
ペイン映画を少し見る。しかし★は、1つ。アカデミー脚本賞を受賞ということで、もう
少し期待していたが、途中で、あくびが出て、ダウン。

 明け方、澄んだ虫の声で目をさます。

 澄んだ声だった。英語で言えば、クリアな声。つんと動きを止めた静寂の中で、虫の声
の大合唱。窓の近くにいるマツムシが、ひときわクリアな声で、チリチリと鳴く。その少
し離れたところで、スズムシが、それに音色を添える。

 さらに離れたところで、別の虫たちが、鳴く。その声々は、奥深しく、そしてなつかし
い。あたかも無数の虫たちが、それぞれのパートを受け持っている、オーケストラのよう。 
が、会場のスケールがちがう。この山荘では、風のない夜には、谷間の向こうの、人の会
話すら聞こえる。そんな会場で聞く、大オーケストラである。

 自宅の庭にも、秋の虫がいる。そして同じように鳴く。しかし、その声は、どこかくす
んでいる。元気がない。しかし山荘で耳にする虫の声には、透明感がある。その声だけが、
細いナイフのように、鋭く、どこまでも鋭く、闇夜をつきさす。

 私は、しばらく、その声に耳を傾ける。左耳は、聴力をなくしている。だから音に遠近
感はないはずなのに、その遠近感を覚える。

 ふと横を見ると、薄暗いライトの中で、ワイフが上を向いて眠っているのがわかった。
起こしてやろうかどうかと、ふと迷ったが、やめた。と、同時に、私は身を震わすような
森の冷気を感じて、ふとんをかぶりなおす。反対方向に体を向ける。そしてそのまま朝ま
で、眠った。




●私の人生

雷が光る。
ふと、首をすくめる。
とたん、地をゆるがす、雷鳴。

ざっと降り注ぐ、雨。
車の窓ガラスをたたきつける。
ワイパーが、せわしげに、それをぬぐう。

道路が、雨に煙る。
暗い闇が、その先を、黒で包む。
白い分離帯だけが、走馬灯のように、うしろへ流れる。

 
 私は懸命に生きているのだろうか。ふと、そんなことを考える。希望と悔恨。ふたつの
矛盾した思いが、光と影となって、私の心をふさぐ。「何かがある」という思い。そして「何
もなかった」という思い。「懸命に生きるしかない」という思い。「懸命に生きて、何にな
るのか」という思い。

 闇に吸いこまれる道を、ぼんやりとながめながら、私は、ふと、そんなことを考える。

 生きるのはつらい。しかし生きないのは、もっとつらい。なぜ生きるのかと聞かれれば、
死ぬことができないからと答える。その一方で、「あと、10年生きたところで、あるいは
20年生きたところで、どんなちがいがあるというのか」とも。

 何ができるかということよりも、結局は何もできないだろうという閉塞感。安楽になり
たいと思いつつ、安楽になったときの、自分がこわい。何も考えず、ただぼんやりと庭い
じりをする。それが目標なのか。私は、本当に、そういう生活を望んでいるのか。

 ワイフはこう言った。「あなたは、社会とかかわって生きているから、うらやましい」と。

 しかしそれにしても、わずらわしいことが多い。つぎからつぎへと、それが起きてくる。
本当の私は、それがいやでならない。そうしたわずらわしさから、身を遠ざけたい。しか
しそれから逃れることはできない。

 ワイフは、それが「社会とのかかわり」と言う。
 
 懸命に生きてみるしかない。その先に何があるのか。またないのか。それは私には、わ
からない。それはたとえて言うなら、雨の闇夜に、車を走らせるようなもの。地図すらな
い。ときどき、雷が光る。雷鳴がとどろく。しかし私は、前に進むしかない。

 理由は、簡単。それが私の選んだ人生だから、だ。それ以外に、私が今、選べる人生は、
ないから、だ。


●悲しき人

 あなたは、私に何かを訴える。
 おろおろした声で、悲しげな声で。
 しかし私は何もできない。
 何も助けることができない。
 なぜなら、この自分ですら、
私は、どうすることもできないから。


Kさん(女性、35歳)は、本当は、心のやさしい人だ。しかしときとして、感情をコ
ントロールできなくなる。思いにまかせて、言いたいことを言ってしまう。それが相手
を怒らせてしまう。

 こうして、一人、また一人と、友をなくしていく。が、そういう自分を、Kさんは、ど
うすることもできない。

 Kさんは、心に大きなキズをもっている。不幸な乳幼児期。母親の離婚と再婚。そして
少女のころ、新しい父親に性的暴行を受けている。Kさんが、中学生になる少し前のこと
だった。

 今も、2児の母親になりながら、決して、幸福とは言えない。家庭をかえりみない夫。
商売の失敗。そして借金。引きこもりを繰りかえしながら、ときどき街へ出て、ムダな買
い物をする。同じ、色違いのバッグを、5個も買ったこともある。


 あなたは言う。悲しげな声で。
 「遊びに来てほしい」「話し相手になってほしい」と。
 しかし私は、男。あなたは、女。
 それにあなたには、夫がいる。
 これ以上の関係をもつことは、私には、できない。

 願わくは、あなたにも、心安らかな日がやってくること。
 いつか、あなたの子どもたちが、あなたに笑いをもたらすこと。
 その日を信じて、どうか、どうか、今を乗りきってほしい。

 
●韓国の核問題

韓国科学技術省は9月9日、1982年4〜5月に、ソウル市内の研究用原子炉で、ミ
リグラム単位のプルトニウム抽出実験を行っていたと発表した。同国でウラン濃縮につ
づきプルトニウム抽出が判明した。

 なるほど、そういうことだったのか! 今のノ大統領が大統領に就任したとき、ノ大統
領周辺に、「K国の核開発を容認する」というような発言をした、政府高官がいた。「K国
が核兵器をもっていれば、統一後の韓国にとっても、有利になる」と。

日本にとっては、とんでもない発言だが、逆算すると、そのときすでに、韓国政府は、
自国内での核実験を知っていたことになる。

 だから、面と向って、K国を非難することができなかった? K国の核開発の容認発言
をするしかなかった?

 日本としては、ここは冷静に、推移を見守るしかない。しかし韓国は、これから先、ど
んな顔をして、6か国協議に出てくるのだろうか。アメリカは、どうやって、K国を追い
つめることができるだろうか。そして日本は、どうやって韓国と肩を組むことができるだ
ろうか。

 そうでなくても、韓国は、K国寄り。

 今、韓国からは、外資(円、ドル)が、どんどんと逃避している。わかりやすく言えば、
韓国人が、韓国ウオンを、円やドルにかえて、外国へ避難させている。それをおさえるの
に、韓国政府は、やっきになっているが、こんなバカげた、つまりは現実離れした国際政
治をしているようでは、当然のことである。

 さらに、この8月には、さらに物価の上昇と内需不振が重なったことから、消費心理が
通貨危機当時よりも冷え込んだという(朝鮮日報)。そしてその消費者期待指数は、4か
月連続の下落。通貨危機当時の98年11月より、さらに消費者心理が悪くなっていると
いう(同)。 

 それでも韓国は、反日、反米を表にかかげ、親北政策とやらで、K国のご機嫌取り(ニ
ューズウィーク誌)をとりつづけている。ノ大統領も、もう少し現実を見たらどうなのか。

【補記】

 韓国やK国が、核兵器をもつことが、どういうことなのか、私たちももう少し真剣に考
える必要がある。韓国やK国が、核兵器をもてば、極東アジアにおける軍事バランスは、
完全に崩壊する。

 そうなったとき、日本は、戦後というより、日本の歴史の中で、最大の危機を迎えるこ
とになる。

【補記2】

 1967年、私は、UNESCOの交換学生で、韓国に行った。そのとき世話人となり、
同行してくれたのが、当時北海道大学の名誉教授をしていた、杉野目晴貞先生だった。日
本化学会の会長もしていた。

 その先生と旅行をしているときのこと、こんなことがあった。

 プサンから、ハイウンダイ(海雲台)まで、バスで旅行していたときのこと。私たちは
KCIAの人たちに護衛されていた。

 途中、そのバスが、故障してしまった。そのときのこと。KCIAの人たちは、たまた
ま反対方向からやってきた乗り合いバスを止め、その乗客を全員、おろしてしまった。そ
してそのバスを、私たちのバスにしてしまった。

 いくら強権時代とはいえ、このあまりにも強引なやり方に、私たちは、言葉を失ってし
まった。

 そのあと、ハイウンダイのホテルに案内されたが、何かしら気まずい思いだけは、ずっ
と残った。

 韓国という国は、そういう国だったし、今もその延長線上にある。日本と同じ、開かれ
た民主主義国家だと思っていると、それは誤解のもと。今でも、あの当時の強権的政治風
土は、あちこちに残っている。その一つが、ノ大統領による、反北運動の弾圧である。

 今、韓国では、反金XX、反北的な色彩の濃い出版物ですら、発禁処分になっている。
韓国を考えるときは、そういう現実も、頭に入れておかねばならない。

 日本のノー天気なおばちゃんたちが、「ヨン様」「ヨン様」と騒いでいるのを見ると、「こ
れでいいのかなあ」と思うのは、はたして私だけだろうか?
(はやし浩司 杉野目晴貞 先生)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 8日(No.473)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●父親と風呂に入る娘

 三重県のKさん(母親)から、メール。「中学生にもなった娘が、いまだに父親といっし
ょに風呂に入っています。だいじょうぶでしょうか?」と。

 そこでインターネットを使って調べてみる。

 それにしても便利になったものだ。昔なら、1日がかりの調査が、瞬時にできる。しか
も図書館へ行く必要がない。どこかへ電話をかける必要もない。

 日記を配信してもらっている、楽天での調査結果をヒットした。

 それによると、

 360人の父親のうち、11%が、娘をもちながら、「いっしょに風呂に入ったことはな
い」と答えている一方、「娘が12歳以上になった今も、いっしょに入っている」と答えた
人が、13%もいることがわかった(インフォシーク社調査、04年5月)。

 この調査によると、50歳以上の父親は、娘と入ったことがないと答える一方、若い父
親ほど、娘が大きくなっていっしょに入る傾向が大きいことがわかった。

 ちなみに、
 
  7歳以上〜10歳未満……38%
  5歳以上〜 7歳未満……20%
 10歳以上〜12歳未満……17%
 12歳以上      ……4%、だそうだ。

 つまり中学生の女子のうち、約100人のうち、4人は、父親といっしょに風呂に入っ
ていることになる。三重県のKさん、安心しましたか?

 ただ近親相姦とか、そういう問題もないわけではない。私のところにも、よく、「娘のこ
ろ、父親に性的虐待を受けました」というメールが届く。

 しかしいっしょに風呂に入る間がらでは、問題はないのでは……。私もかなりスケベな
ほうだが、自分の教え子には、まったく色気を感じない。(本当に感じない。)

それは、おそらく幼児のときからの生徒だからではないのか。ただ誤解を招くといけな
いので、女児(女子)のばあいは、頭と手以外は、触れたことがない。

 これはこの世界に入るとき、当時の幼稚園の園長に、きびしく言われたからである。「ど
んなことがあっても、女の子を抱いたり、さわったりしてはいけない!」と。その教えは、
今でも、しっかりと守っている。

【補注】

 男児のばあいは、私は平気で、抱いたりすることができる。「先生は、チューイ(注意)
はしないぞ。チューをするぞ」と、男児を追いかけまわすこともある。

 実際、チューをしたことも何度かある。が、誤解しないでほしいのは、横で母親が参観
しているとき、その母親の了解を求めた上で、そうしている。

私「お母さん、A君にチューしますよ」
母「いいです、いいです。してあげてください」
私「さあ、チューするぞ、チューするぞ」
子「やれるもんなら、やってみろ!」と。

 ふざけて遊びながら、子どもの心をほぐすことも、時には必要。しかしときどき、私は、
こう思う。

 「もし、学校の先生がこんなことをしたら、一回で、クビが吹っ飛ぶだろうな」と。

 信頼関係というのは、そういうもの。それに甘えてはいけないが、私の教室には、その
信頼関係が、充満している。ホント!

++++++++++++++++++++


●夢のない子どもたち

 ロシア・北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠事件は、小学生たちにも、強い
衝撃を与えた。

 どの小学生も、顔をあわせると、その話を始める(9月6日)。「みんな殺された」「裸に
された」「爆弾で吹っ飛ばされた」と。

 こういう話は、決して好ましいものではない。やがて子どもたちの心を、ボディブロー
のように、むしばみ始める。おとなたちのへの不信感、未来への不安感となって、はねか
えってくる。

 そこで私は、「そんな事件は例外だよ」「この日本では、ありえないよ」と、必死になっ
て、それを打ち消す。が、焼け石に水!

 そうでなくても、子どもたちから、夢が消えつつある。「明日は、きっといいことがある」
と思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども
学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。

 子どもだから、明日という未来に向かって、夢や希望をいだきながら生きているという
のは、もはや幻想でしかない。

 が、否定的なことばかりを言っていてはいけない。

 私たちは、親として、子どもの夢や希望を前向きにとらえていく。これを発達心理学の
世界でも、役割形成という。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そ
うね、すてきな仕事ね」と言ってあげる。

「明日は庭に、花を植えてあげましょうね」「今度、テーブルを花で飾ってあげましょうね」
と。

 こういう前向きなストローク(強化)が、子どもに夢をもたせる。そしてそれが子ども
をさらに前向きに、ひっぱっていく。

 つまりは、子どもたちに夢をもたせるのは、親の役目ということになる。決してむずか
しいことではない。が、実際には、世の親たちは、子どもの夢を破壊しながら、それに気
づいていない。

 「あなたも、Mさんのような宇宙飛行士になるのよ」「でも、今の成績では無理ね」「も
っと勉強しなければ、S中学校へは入れないわよ」と。

 こうして子どもたちは、役割混乱を起こす。心理的にも、情緒的にも、きわめて不安定
な状態になる。その役割混乱の深刻さについては、たびたび書いてきたので、ここでは省
略する。

 子どもたちから夢が消えたのは、あくまでも、その結果でしかない。今度のベスランで
起きた学校占拠事件は、さらに、それに拍車をかけた?


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●学習意欲の低下
 
 子どもたちの学習意欲が、低下しているという。

 ベネッセ未来教育センターの調査によると、

 子どもの学力が低下していると思うか……かなりそう思う。(6・2%)
                      やや思う。(47・0%)

 子どもの学習意欲が低下していると思うか……かなりそう思う。(16・3%)
                      ややそう思う。(51・1%)

 家庭の教育力が低下していると思うか……かなりそう思う。(50・5%)
                    ややそう思う。(40・8%)

 この調査は、全国の市区町村の、3225人の教育長を対象になされた(03年9月〜
10月)。

 この調査結果からわかることは、全国の教育長は、「家庭の教育力については、91%近
くが、低下していると思い、67%が、子どもの学習意欲が低下している」と思っている
ということ。

 このことは、私も実感している。が、考えてみれば、これはおかしなことだ。

 少子化の流れの中で、出生率は、1・29にまでさがっている。一人の女性が、生涯に
産む子どもの数が、1・29人(2003年度、厚生労働省)だという。

 子どもの数が減った分だけ、それだけ子どもの教育に対する密度が濃くなるはず。また
それだけ、ていねいになるはず。が、現実は、その逆である。なぜか?

 これはあくまでも私の実感だが、今、家庭教育は二極化が進んでいると思う。ていねい
で、ますます密度が濃くなる家庭がある一方で、放任で、ますます無責任な家庭がふえて
いるということ。たとえばどこの学校に講演に行っても、必要以上に教育に熱心な親が話
題になる一方で、家庭崩壊、育児崩壊の家庭が、話題になる。

 ある学校の校長は、こう話してくれた。

 「熱心は、熱心なのですが、どこかピントがずれている親が多いのも、事実です」と。
たとえばささいな問題を、針小棒大に考えて、結局は、大局を見失ってしまうと。

 「たとえば茶髪の子どもがいたとしますね。それで茶髪は好ましくないと、親に伝える
と、『個人の自由だ』『個性だ』と、反論してきます。そこで何度か、その親と面談して、
説得にかかるのですが、中には、まったく応じてくれない親もいます。

さらに、子どもどうしのちょっとしたけんかを、そら、いじめと騒いだり、先生のちょ
っとした言葉の言葉尻をつかまえて、教師の言葉としては、不適切だとか……。実際に、
こういうことを繰りかえしていると、現場の教師は萎縮してしまいます」と。

 今、現場の先生たちは、本当に悲鳴をあげている。通常の学力指導のほか、本来なら家
庭で親がすべき家庭教育まで、押しつけられている。ベネッセ未来教育センターのした調
査結果の裏には、こんな事実が隠されている。
(はやし浩司 学力 子どもの学力 学力低下)


【3】【近況・あれこれ】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●モデムがおかしい?

 このところ、ADSLが、断線することが多くなった。プロバイダーの不調かと思った
が、あちこちへ電話をかけてみると、どうやらモデムのほうに、原因があることがわかっ
てきた。T電話会社の管轄である。

 さっそく、新しいモデムを送ってもらうことにした。が、ふと、言いようのない不安感。

 以前、電話回線からADSLに切り替えたときの悪夢が、どんと襲ってきた。簡単には
ことは運ばない。あのときも、ああでもない、こうでもないと、四苦八苦している間に、
数日がたってしまった。

 「簡単に交換できますか?」と聞くと、「マニュアルどおりにしてくだされば……」と。

 この「マニュアルどおり」という言葉が、くせもの。しかし、交換するしかない。今日
当たり、そのモデムが、送り届けられてくるはず。それにしても何かしら、いやな予感!

 (もし、楽天日記の配信が止まるようなことがあれば、ADSLの調整ミスと、思って
ください。)


【追記】

●無線ルーターの故障だった!

 未知なるものの故障ほど、不気味なものはない。その「故障」を前にすると、ときに、
絶望感すら、覚える。

 昨日が、そうだった。

 このところ、ときおり、インターネットがつながらなくなることが、つづいた。最初は、
プロバイダー(サーバー)の不調かと思った。しかしそれにしても、回数が多い。

 そこでプロバイダーに電話をしてみると、「そういうことはありません。モデムの故障で
はないですか」と。

 そこでモデムを管轄している、T電気会社へ。で、さっそく、モデムを、新品と、交換
してもらうことにした。そしてそれが昨日届いて、交換……。

 で、案の定というか、その設定がたいへん! マニュアルだけでも、20〜30ページ
近くもある。で、やっとのことで、その設定を終えた。が、ナ、何と、つながらない!

 で、またプロバイダーのほうに電話をすると、「簡易設定を説明した、青い用紙があるは
ずです。それに設定は、フロッピーディスクがあるはずですから、それでしてください」
と。

 高まる不安感と戦いながら、あちこちをさがすと、たしかにその簡易設定用の説明用紙
と、フロッピーディスクが出てきた。が、その設定をしたパソコンには、フロッピーディ
スクドライブがついてない。

 しかたないので、別のパソコンで、再設定をしようと思ったが、先に設定したデータが、
そのまま残っている。が、削除というか、クリア(初期化)の仕方までは、書いてない。

 ……とまあ、こうしてプロバイダーに電話すること、4、5回。

 で、やっとのことで、モデムと直接ケーブルでつないだパソコンでは、インターネット
がつながるようになった。が、ほかのパソコンは、反応なし。

 見ると、無線ルーターが、不規則な点滅を、こきざみに繰りかえしている!

 私はこの無線ルーターをつかって、あちこちのパソコンとつないでいた。つまり、故障
の原因は、プロバイダーでも、モデムでもなかった! 無線ルーターだった! あああ!

 しかしこの無線ルーターの設定もたいへん。前回、設定したときは、それだけで数日も
かかってしまった。……とまあ、いろいろあった。

 何という絶望感! 虚脱感! 

 そこで私が出した結論。

 モデムから、HUBへつなぎ、そのHUBからは、各パソコンへは、ケーブルでつなぐ。
無線ルーターは、もう使わない。

 で、夜になって、やっと、以前と同じように、インターネットをつなげることができる
ようになった。それにしても、またまた冷や汗をかいた。ホント!

 やっとつながってから、私は、インターネットをしているワイフに、こう言った。

 「少しは、ぼくの苦労に、感謝してよ」と。


++++++++++++++++++++++

●幼児

 幼児といっても、2、3歳児と、4、5歳児は、まったく別人種と考えてよい。さらに
0〜2歳児と、2、3歳児は、まったく別人種と考えてよい。

 私は、4〜6歳児のことなら、よく知っているが、0〜4歳児のこととなると、まった
くと言ってよいほど、わからない。本で読んだり、今の仕事の延長として、常識的なこと
を知っているにすぎない。

 そういう前提で考えるなら、幼稚園の3歳児入園には、いろいろと問題がある。「今まで
は4歳児入園だったが、今度から3歳児入園にします」と、つまりそうは、簡単にはいか
ないということ。

 たとえば3歳児のばあい、保育園などでは、排便のしつけが、大きな問題になる。「排便」
である。

 もともと「教育」を売り物にする幼稚園が、「排便」である。こうした矛盾というか、現
場のとまどいは、どこの幼稚園にもある。

 今度、政府は、構造改革特区に、幼稚園の3歳児入園を認めることにした(03年度よ
り)。構造改革特区として認められたのは、長野県の一部、岩手県の一部、佐賀県の一部、
山口県の一部である。が、現場の先生たちの評判は、よくない。

 その理由の一つが、ここにあげた、排便のしつけ、など。「まだ最低限の生活習慣が身に
ついておらず、指導に手が回らない」(文部科学省)ということらしい。幼児を知らない人
は、2、3歳児も、4、5歳児も、幼児は幼児。同じと考えるかもしれないが、冒頭にも
書いたように、まったく別人種と考えたほうがよい。

 さらに4、5歳児と、小学生は、まったく別人種。どこがどうちがうかと書き始めたら
キリがないが、「小学校の先生だから、幼児のことぐらい知っているだろう」とか、その反
対に、「幼稚園の先生だから、小学生のことを知っているだろう」と考えるのは、まったく
の誤解。誤解というより、幻想。

 このあたりにも、私は、幼児教育に対する無知と偏見が、蔓延(まんえん)していると
思う。その重要性から考えたら、幼児教育は、中学、高校の教育よりはるかに重要。奥が
深い。子どもが進むべき方向性のことを考えたら、この時期にすべてが決まる。

 中学、高校、さらには大学の教育などというのは、まさに幼児教育の燃えカスのような
もの。これが35年以上、満4、5歳児から、高校3年生までみてきた私の、偽らざる実
感である。

 (私としては、それがわかってもらえなくて、歯がゆくてならないのだが……。)

 こうした幼稚園の入園時期の緩和は、定員割れしている幼稚園の救済策と考えてよい。
少子化で、園児が少なくなった。だから3歳児入園というわけである。

 04年度からは、鳥取県の一部など、全国の18地域でも、緩和されることになった。


●熟睡できぬ恐怖

 このところ、私の最大の悩みは、睡眠調整がうまくできないこと。ちょっとしたことで、
この睡眠規則が、乱れてしまう。そして一度乱れると、あとは乱れっぱなし。もとにもど
すのに苦労する。

 たとえば病院で出してもらった、睡眠導入剤がある。俗にいう、睡眠薬である。この睡
眠薬にも、いろいろあるらしい。

 のむと、眠くなる薬。明け方まで、ぐっすりと眠れる薬。さらに長時間、眠れる薬など。

 私のばあい、明け方までぐっすりと眠れる薬ということらしいが、丸々1錠ものむと、
あとがたいへん。いつもなら、6、7時間で目が覚めるが、それをのむと、9、10時間
も眠ってしまう。

 しかも明け方から目を覚ますまでの間、幻覚症状が現われる。夢か現実か、わけがわか
らなくなってしまう。(自分でもおもしろいと思うのは、目を覚ます夢を見ること。目を覚
まして、起きて、朝食を食べるのだが、それが夢だったりする。)

 そこでその1錠を、ナイフで、5分の1から、10分の1ほどに、割って、舌の先で溶
かしてのむ。が、それでも、眠りすぎてしまう。が、そのあとまた別の問題が起きる。

 翌日は、一日中、神経がピリピリする。さらにその反動というか、つぎの夜、床につい
ても、眠れなくなってしまう。体のほうが、勝手に、「昨日はよく眠ったから……」と、判
断してしまうためではないか。(多分?)そう思って、自分をなぐさめる。「足して2で割
ればいい……」などと、考えることもある。

 だから結局は、その薬の世話になることは、めったにない。

 そういう私をよく知っているから、たとえば何かのアレルギー症状で、夜、熟睡できな
い子どもの話を聞いたりすると、胸がつまる。本当に、つまる。何というか、生きている
のもかわいそうという感じにすら、なる。

 私自身も、20代のはじめから、50歳になるころまで、あの花粉症で苦しんだ。2月
の終わりから、5月の連休まで、例外なしの、毎年、である。あの苦しみは、花粉症にな
った人でないと、わからないだろう。一時は、沖縄への移住すら、考えた。沖縄には、杉
の木がないと言われている。

 50歳になる少し前、どういうわけか、ウソのように花粉症は消えたが、今度は、睡眠
障害(?)である。ワイフは、「夜遅くまで、原稿を書いているからよ」とよく、言う。そ
れも理由の一つかもしれない。

 しかし私のばあい、こうして頭の中のモヤモヤを、文章にしてたたき出さないと、かえ
って寝つかれなくなってしまう。だから、書く。

 で、そのアレルギー症状だが、相変わらず、患者がふえているという。

 厚生労働省の「2003年保健福祉動向調査」によると、アレルギー症状に苦しんでい
る人が、国民全体の3人に1人もいるという。

 アレルギーのような症状あり……35・9%(うち、14・7%は、診断あり)
 アレルギーのような症状なし……59・1%

 その中でも、大都市に住む子どもの患者が、ふえているという。原因は、いろいろ考え
られている。環境汚染、住環境の特殊性など。しかしこれらの子どもの多くが、睡眠障害
で苦しんでいることを忘れてはならない。

 私のよく知っている子どもに、N君(小3男児)という子どもがいる。そのN君は、ぜ
ん息で苦しんでいる。睡眠不足と、服薬で、いつもボーッと青白い顔をしている。そうい
うN君を見るたびに、本当に胸がつまる。「苦しいか?」と声をかけると、一応、にっこり
と笑って見せるが、それは私自身の姿でもある。

 少し話が飛躍するかもしれないが、文明というのは、生活をたしかに便利にはした。し
かしその一方で、何かしら同時に、もっと大きなものを犠牲にしたような気がする。その
一つが、ここで考える「静かで、豊かな眠り」である。

さて、実は、今朝も、午前4時に目を覚ましてしまった。このところ、一連の地震が起
きている。今朝は、それが直接の理由だが、しかしそれだけではない。

 で、いつも不思議に思うのは、私のワイフには、睡眠障害がないということ。ふとんの
中に入ったら、すぐ熟睡。しかも朝まで、ほとんど目を覚まさない。ときどき、「夜中に目
を覚ました」と言うことはあるが、私のように起きてしまうことは、ない。

 性格のちがいというよりは、脳ミソの構造そのものが、ちがうように思う。

ああ、それにしても、一晩でよいから、朝まで、ぐっすりと、何ものにもじゃまされず、
熟睡してみたい。……と言いつつ、これからまたふとんの中にもぐるつもり。一応、合
計で、7、8時間になるよう、毎日、睡眠時間を調整している。
(040909)

【補記】
 こうした早朝覚醒は、初老性のうつ病の一症状と言う人もいる。そうかもしれない。男
性にも更年期というのがあって、そのうつ病になる人が多いという。今度、それについて、
調べて原稿を書いてみたい。今朝は、このまままた眠る。

【補記2】
 こうした私の生活の反動というか、ワイフのとの日常的な会話は、まさにダジャレの連
続。ワイフと会話をしていると、どうしても、まじめに考えることができない。

 昨夜も、近くのドラグストアに散歩しながら、こんな会話をした。

ワイフ「散歩するときは、大きく手を振って歩くといいそうよ」
私「いいよ、ぼくは、いつもチンチンを振って歩いているから」
ワ「どうやって、振るのよ?」
私(チンチンを振ってあるく様子を見せながら)「お前は、おっぱいを振って歩くといいよ」
ワ「振れるほど、大きくはないわよ。あんたのチンチンだって、振るほどもないでしょ」

私「そんなことないよ。ちゃんと振れるよ」
ワ「フニャ・チンだから?」
私(ますます大きくチンチンを振って歩く様子を見せながら)、「あのね、チンチンは、膨
張率で、性能が決まるんだぞ。ふだんは、フニャ・チンでいいの。悔しかったら、お前の
オッパイを、膨張させてみろ」

ワ「そんなこと、できないわよ」
私「フニャ・パイのくせに」
ワ「フニャ・パイじゃ、ないわよ。まだプリプリしてるわよ」
私「いいか、こうしてオッパイというのは、振るんだ」
(私、おっぱいを振る様子をして見せる……。)
ワ「あんたは、本当にMr・ビーンね。Mr・ビーン、そっくり!」と。


●私の就眠儀式(ベッドタイムゲーム)

 子どもは、毎晩、同じ儀式を繰りかえして、就眠するということは、よく知られている。
同じように、おとなでも、毎晩、同じ儀式を繰りかえして、就眠する人は多い。

 私のばあいは、まず、床について、飛行機の雑誌に目をとおす。それから飛行機の模型
をいじったあと、電子製品やパソコンのカタログを読む。軽い雑誌を読むこともある。

 そのあと、電気を消して、ワイフと、10〜30分、その日にあったことを話す。長い
ときは、1時間ほど話す。たいていその間に、どちらか一方が、眠ってしまう。

 で、実は、私には、おもしろい空想癖がある。

 私は眠られない夜は、いつも、こんなことを考えて眠る。今回、はじめて公開する。

(宇宙船の設計を頼まれた?)

 私は、人類を救済するための、宇宙船の設計を頼まれた。……という前提で、その宇宙
船の空想を始める。そして毎晩、少しずつ、その宇宙船のパーツを、頭の中で空想する。

 考えてみれば、もう数年にわたって、それをしているので、かなりの部分まで、完成(?)
している。たとえば昨夜は、緊急脱出ポッド(小型宇宙船)の設計をした。おとといは、
着陸ギアの改良をした。その前は、ええと、たしか、新型のエレベーター装置。

 ……毎晩、そんなふうにして、頭の中で、宇宙船の空想を繰りかえす。そしていつの間
にか、眠ってしまう。

 ところでその宇宙船だが、直径が、20キロ近くもある、円盤型。この地上と同じ、住
空間がある。一つの宇宙船には、約10万人の人が定住することができる。全体としては、
その住空間のほか、食糧生産工場、研究施設、観測施設、管理施設などに分かれている。

 実にたわいもない空想だが、ほどよい眠りを誘うには、ちょうどよい。よく「ヒツジが
一匹……、ヒツジが二匹……」と数えるとよいと言う人もいるが、私には、効果がない。
かえって頭がさえてしまうことがある。


●「あの人が生きていれば……」

 昨日、ワイフと、X氏(56歳男性)の話をする。ワイフもそのX氏のことを、よく知
っている。

 そのX氏、ことあるごとに、「Aさんが生きていれば……」「Bさんが生きていれば……」
を、口ぐせにする。

 X氏にしてみれば、何でもない会話だが、私がワイフに、ふと、「ぼくは、ああいう言い
方をしたことがないよね」と言うと、「そう言えば、Xさんは、いつも、そういう言い方を
するわね」と。

 たとえばX氏の周囲で、何か問題が起きたとする。すると、X氏は、「あのCさんが、こ
ういうとき生きていれば、何とかしてくれるのだがね」と。

 X氏の発想が正しいとか、まちがっているとか、そういうことを言っているのではない。
私にはない発想なので、それで、話題になった。

私「ぼくは、死んだ人のことは、思い出としてはするけど、『今、生きていれば……』とい
うふうには、ほとんど、考えたことがないよ」
ワイフ「私も、ないわ」
私「どうしてだろう?」
ワ「どうしてかしら?」と。

 先祖崇拝意識の強い人は、そういう発想をするのではないか。いつもものの考え方が、
過去へと向いている。復古主義というか、回顧性が強いというか……。

私「そう言えば、Xさんの家には、先祖代々の家系図が、かかげてあるよ」
ワ「昔は、武家か何かだったの?」
私「ちがうと思う。Xさんの祖父は、農家から出た人だと聞いている」
ワ「じゃあ、どうして家系図なんか、あるの?」
私「まあ、Xさんは、そういう意味で、先祖を大切にする人なんだろうね」と。

 一般論から言えば、その人の依存性は、その人に応じて、ある特定の方向性をもつ。財
産や家柄、学歴や過去など。名誉や地位に依存する人もいる。知人の中には、80歳をす
ぎたというのに、いまだに現役時代の肩書きをひきずって生きている人もいる。

 その中でも、自分の両親、祖父母をとおして、先祖に依存する人も、少なくない。「私」
という生きる基盤を、そこに求める。「ご先祖様がいるから、今の私があるのだ」と。私が
言う、『親・絶対教』も、そこから生まれる。そしてそれが転じて、マザコンになったり、
先祖コンプレックスになったりする。

 しかし本人は、それでかまわないが、そういう家庭へ嫁いだ、妻なり、嫁は、苦労する。
価値観が一致すればそれでよいが、そうでないケースのほうが多い。親・絶対教の人は、
妻にせよ、嫁にせよ、その家の(道具)くらいにしか考えない。

 実際、現在の妻と結婚するにあたって、「ぼくの母親のめんどうをみること」を条件にし
た男性がいる。さらに自分の母親と妻が、対立したとき、妻に向って、「オレの母とうまく
やっていかれないようなら、この家を出て行け」と言った、男性すらいる。

 どこか本末が転倒しているのだが、このタイプの人には、それがわからない。

私「先祖を大切にする人は、結局は、自分自身を、息子や娘たちに、大切にしてもらいた
いから、無意識のうちに、そうしているのではないだろうか」
ワ「親を大切にする姿を、わざと自分の息子や娘に見せつけながら、『お前たちも、私にこ
うするのだぞ』とね」
私「それはあると思うよ。そしてその発想が、『産んでやった』『育ててやった』というあ
の独特のものの言い方になるんじゃないだろうか」と。

 私自身は、「自分が死んだら、おしまい」と考える。だからすでに死んだ人のことは、ア
テにしない。それは、たとえはあまりよくないかもしれないが、落としてなくしたサイフ
のようなものではないか。

 落としてなくしたサイフのことなど、あれこれ考えても、しかたない。同じように、死
んでいなくなった人のことを、あれこれ考えても、しかたない。

 大切なことは、「今」というこの時を、それぞれの人が、懸命に生きること。結果は、あ
とから必ず、ついてくる。ほうっておいても、明日は、必ず、やってくる。それがわから
なければ、反対の立場で、つまりあなたが死んで、その先祖になったときのことを想像し
てみればよい。

 あなたのことをいつまでも思って、「先祖様」と、するよってくる息子や娘、さらに孫た
ちを見ながら、あなたはそれでよいと思うだろうか。それとも、こう言うだろうか。

 「さあ、息子や娘たちよ、それに孫たちよ、私のようなくだらない人間は相手にしない
で、前向きに、この世を生きていきなさい。まだまだこの世には、お前たちの、わからな
いこと、知らないことが山のようにある。それに向って、前向きに生きていきなさい」と。

 ここから先は、その人の生きザマの問題になってくるから、私がとやかく言うことでは
ない。しかしあなたの周囲にも、冒頭に書いた、X氏のような人が、一人や二人は、いる
はず。そういう人たちが、日ごろ、どのような人生観をもって生きているか、それを知る
ことは、決して、ムダではないと思う。
(040910)


●内側論

 ある女性(H市、KYさん)から、こんなメールをもらった。

「……少し考えてみました。
私は内側を向いて生活しています。
内側とは自分自身それから主人、子供側ということです。
例えばPCも夜はある程度で閉店、家族一緒に
お風呂・夕食をするために、18:00以降の予定は入れないとか。

ある意味では、すごく自己中心的だと思いますが
我が家では、いつしか定着した日常です。

この内側向きの積み重ねが今です。
悪くないです。」と。

私も、考えた。とくにこの中の「内側」という言葉に、心がひかれた。

 KYさんが言う「内側」というのとは、「家庭を守り、家族を大切にする」という意味で
ある。その中で、KYさんは、たとえば「午後6時以後は、予定を入れない……」などと、
書いている。

 こうした家族どうしの取り決めは、家族を守るためには、とても重要なことかもしれな
い。で、私のばあいを考えてみた。英語でも、「ハウス・ルール」という。たとえば前にも
取りあげたが、「クリスマスにせよ、誕生日にせよ、家族どうしのプレゼントは、買ったも
のはだめ」というのも、それにあたる。

 ほかに、土日は、仕事の予定を入れないとか、夕食はいっしょに食べるとか、いろいろ
あった。「あった」というのは、息子たちがまだ小さかったときのことをいう。今は、とっ
くの昔に崩壊している。また、一応、私の家もそう決めてはいたというだけで、しかし必
ずしも、守っていたわけではない。

【ハウス・ルール】

第一条総則

 家族は、守りあい、助けあい、教えあい、いたわりあい、いっしょに住む。家族が困っ
たときには、力を貸し、知恵をだしあう。

第二条、約束

 家族は、家族どうしでした約束の実現に向けて、最大限努力する。ウソをつかない、自
分を飾らない、そして自分の心を偽らない。

第三条、尊重

 家族の上下意識をなくし、たがいの命令はしない。干渉はしない。子ども部屋や机の中
はのぞかない。たがいの悪口は、言わない。

 ほかにもいろいろあるが、こうしたルールを、しっかりとつくっておくことは、大切な
ことではないか。

 さて、KYさんについて。

 私のワイフも、よく似たところがある。ときどき、「お前には、やりたいことがないのか?」
と聞くと、ワイフは、「みんなが幸福なら、それでいい」などと答える。これは私のワイフ
のばあいだが、ワイフは、名誉や地位には、まったくと言ってよいほど、関心がない。若
いころからテニスをしているが、まったく上達しない。

 そこである日、「どうせ練習するなら、ウインブルドンにでも出る覚悟でしたら? ミセ
ス・シニア杯というのもあるのでは?」と言うと、やはり、「私はみんなと楽しくやれば、
それでいい」と。

 すべてを先回りで、悟っているとか、そんな雰囲気である。多分、KYさんも、そうか
もしれない。

 その点、男というのは、バカなところがある。私も含めてだが、価値のあるものを粗末
にし、一方、それほど価値のないものに、執着する。あとは、その繰りかえし。何のこと
はない、私たちが求めている幸福というのは、すぐそばにある。すぐそばにあって、私た
ちに見つけてもらうのを、息をひそめて、静かに待っている……。

 何気ない言葉だが、私は、KYさんのメールを読んで、心を少し洗われたような気分に
なった。忘れかかっていた何かを、ふと思い起こされたような気分である。

 KYさん、ありがとう! 私ももう一度、内側を見つめなおしてみます!


●文字の誤解

 インターネット時代になって、文字による誤解が、問題になっている。会話とちがって、
文字には、独特の雰囲気がある。わかりやすく言えば、文字は、それを読む、読む人側の
心理状態で、読む。

 たとえばあなたがAさんに対して、あまりよい印象をもっていなかったとする。そうい
うAさんからメールが届く。

 内容は、こうだ。

 「せっかくだけど、今度の同窓会、やめるわ。気分を悪くしないでね。じゃあ、バ〜イ!」
と。

 あなたは、このメールを、礼儀を知らない、失礼なメールだと思う。そしてこう憤慨(ふ
んがい)する。「いやなヤツ!」と。つまりその時点で、Aさんに対する印象を、さらに悪
くする。

 こういう例は、多い。本当に多い。だから、私のばあい、返事を書くのも、おっくうに
なる。ていねいに書くのもめんどうだし、さりとて、簡潔な返事を書けば、このAさんの
ように、私を誤解するかもしれない。

 さらに携帯電話の延長のようなメールも、多い。会話そのままというようなメールであ
る。こうなると、さらに誤解が多くなる。

 私はすでに旧世代の人間かもしれない。しかし住所や名前のわからない人に返事を書い
ていると、言いようのない不安感に襲われる。だから実際には、返事を書かない。(若い人
は、その点、平気なのかもしれない。今度、みんなに聞いてみようと思っている。)

 情報のやりとりが、それだけ気楽になってきているということか。だからこそ、やはり、
それだけ、誤解が多くなるということ。だからこそ、ますます慎重にならざるをえないと
いうことになる。

 さらに文字情報の限界というか、何人かの人と同時に交信していると、頭の中で混乱し、
区別がつかなくなることがある。

 たとえば「bbb-ccc」という名前の人から、メールが届く。そしてその人に何かと、不愉
快な思いをさせられたとする。(実際には、私の誤解によるものだと思うが……。)

 つぎに今度は、「bcbc-bbb」という人からメールが届いたとする。どこか雰囲気が似てい
る(?)。そう思っただけで、その人への印象が決まってしまう。

 さらに困るのが、子育て相談。北海道のXさんの相談に答えているとき、九州のYさん
から相談のメールが入る。同時に相談に返事を書いていると、何がなんだか、わけがわか
らなくなってしまう。

 で、それで終わればよいのだが、数日後、Xさんから、「先日の件で……」とあると、さ
あ、たいへん! さらに「あの件で……」とか、「あれからあのことは……」とあると、さ
らにたいへん! もう、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。

 どこかで顔を見たとか、会話をしたとかいうことがあれば、頭の中で、その人のイメー
ジをつくることができる。つくりながら、返事を書き、そのまま頭の中を整理することが
できる。しかしインターネットでは、それができない。だから余計に混乱する。

 こうした誤解が、事件につながることもあるという。(こわいぞ!)どこかの小学校で起
きた、児童による殺傷事件の背景にも、インターネットがあったと言う人もいる。決して、
この問題は、安易に考えてはいけない。

 さて、みなさんは、こうした問題を、どう処理しているだろうか。それとも、この問題
は、ボケが始まった、私の個人的な問題なのだろうか。(ゾーッ!)何かよい方法はないも
のかと、あれこれ考えている。

【補記】

 あちこちの「相談サイト」などをのぞいてみたが、「相談」を受けつけているサイトは、
今のところ見つかっていない。たいていはそれぞれが掲示板に書きこんで、それにだれか
が返事を書くというシステムになっているよう。

 やはり、私のようなサイトで、相談を受けつけることには、いろいろ問題があるという
ことか。今後の活動については、要検討課題。

 みなさんも、もし、何かの相談があれば、できれば掲示板のほうに書きこんでください。
よろしく、お願いします。

【補記2】

 以前、電話相談を受けつけていたときも、同じような経験をした。そのためある時期、
午前中のほとんどが、それでつぶれてしまった。大半の方は、私のこうした活動を好意的
に理解してくれた。

 しかし中には、時間をかまわず電話してくる人がいた。名字くらいはみなさん、話して
くれたが、ほとんどの人は、名前を言わない。住所まで言う人は、ほとんどいない。こち
らも、事情が事情だから、聞かない。中には、明らかに偽名という人もいた。

 そこで電話相談は、午前中のみとしたが、それを知らない人は、土日とか、真夜中に、
電話をかけてきた。

 そこで心を鬼にして、03年の4月1日からは、すべての電話相談を断ることにした。
そのかわり、今度は、インターネットでの相談に、力を入れることにした。が、今度は別
の問題が起きてきた。ここに書いた問題は、その一つである。

 やがて、テレビ電話のようになり、相手の顔や、子どもの様子をみながら、たがいに連
絡を取れるようになるのかもしれない。そうなれば、文字情報がもつ限界というカベを破
ることができるかもしれない。今は、その過渡期ということか。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 6日(No.472)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●授業料

 長引く不況のせいか、「私立より公立」と考えている親が、ふえているという。しかし実
態は、どうなっているのか? 

 そこでインターネットを使って、どうか、調べてみた。まず、学費についてだが、文部
科学省の2002年度の調査によると、つぎのようになっている。

 公立中学校の年間平均授業料は、 43万7000円。
 私立中学校の年間平均授業料は、123万2000円、だそうだ。

 この数字を見るかぎり、私立中学校の年間平均授業料は、公立中学校の約3倍というこ
とになる。決して、安い額ではない。月平均になおすと、私立中学校では、10万円とい
うことになる。が、実際には、これではすまない。すまないことは、親なら、だれでも知
っている。

 さらに調べてみると、実際には、私立を希望する親がふえているという(日能研)。

 2004年度の首都圏の私立中学校受験率は、14・8%。この数字は、15年前にく
らべると、5%もふえているという(横浜市で調査)。「私立のほうが、よりよい授業を受
けられそう」ということだそうだが、実際には、公立中学校の教育力の低下が理由の第一
と考えてよい。

 こういった数字を並べてみると、日本の親たちは、「私立は、学費が高いから、できるだ
け公立を。しかし子どもの将来を考えると、やはり私立を」と考えているのがわかる。し
かしそれは、そのまま、親たちの迷いととらえてよい。

 しかしそれにしても、本当に、この日本では、子育てに、お金がかかる。私は、この問
題を、すでに20年以上も前から取りあげているが、一向に改まる気配がない。政治の貧
困というか、無責任というか……。このままでは、日本の少子化は、ますます進む。進ま
ざるを、えない。

 だれがこんな国で、子どもを育てたいと思う? ほんの少しだけ、ものごとは、冷静に
考えてみろ!

【補記】

 出生率(合計特殊出生率)が、1・29人になった。が、それ以上に、実は問題になっ
ているのが、女性の「第1子出生年齢」。第1子をもうける女性の平均年齢が、年々、高く
なっている。

 1950年代……平均24・4歳
 1970年代……平均25・6歳
 1990年代……平均27・0歳
 2003年 ……平均28・6歳(厚生労働省・人口動態統計)

 たった半世紀で、約4・2歳も、遅くなってきている。経済的理由、晩婚など、いろい
ろ理由はあるのだろう。しかしその分だけ、つまりより高齢化する分だけ、第2子が産み
づらくなる。少子化の背景には、こんな問題も隠されている。
(はやし浩司 少子化 晩婚 出生率)



●もの知りの子どもより、深く考える子どもを!

 心の抵抗力は、「考える力」によって、決まる。その抵抗力が、子ども自身を、守る。

 たとえばインターネットや、携帯電話を使った、「出会い系サイト」というのがある。凶
悪犯罪の温床にもなっている(04年度、「青少年白書」)。

 こうした出会い系サイトは、もはやコントロール不能状態にあるとみてよい。それはた
とえて言うなら、性病のようなもの。もう、この日本には、出会い系サイトにしても、性
病にしても、それらからのがれる場所は、ない。方法も、ない。

 そこで最後の砦(とりで)は、子ども自身の「力」ということになる。「抵抗力」と言っ
てもよい。つまりは、子ども自身を、「自ら考える子ども」にするしかない。 

 が、いまだに幼児教育というと、知育教育と考えている人が多い。知識を身につけさせ
ることが、幼児教育というわけである。英会話を覚えさせ、掛け算の九九を暗記させる。
それが幼児教育、と。

 決してムダだとは思わないが、しかしそれだけでよいとは、だれも思っていない。とく
にこれからの日本では、そうだ。

 で、どうしたらよいのか? 子どもを自ら考える子どもにするのは、どうしたらよいの
か?

 方法は、もう一つしかない。親自身が、自ら考える姿勢を、子どもに見せることである。
そういう環境で、子どもを包む。親が、意味もないバラエティ番組を見てゲラゲラと笑っ
ていて、どうして子どもを考える人間に育てることができるだろうか。

 ちなみに、「子どもに見せたくない番組」(PTA全国協議会調査)としては、つぎのよ
うな番組があげられている。

 ロンドンxxx(テレビ朝日系)
 水xx!(フジテレビ系)
 クレヨンxxちゃん(テレビ朝日系)
 めちゃ2xxxxッ(フジテレビ系)などがある。

 こういう番組を、あなたの子どもが好んで見ているようなら、あなたの子どもに将来は
ない(失礼!)。


++++++++++++++++++++++++++


●子どもの世界を守るために……

 性にめざめるころ、そのまま性の世界にのめりこんでしまう女の子と、そうでない女の
子がいるのがわかる。

 どちらがよいとか、悪いとか、そんなことを言っているのではない。

 ただ、現代という時代においては、子どもたちを取り巻く環境が、ますます劣化してい
るということ。売春や援助交際は、すでに日常化している。「出会い」と呼ばれる、フリー
セックスも、今では珍しくも、何ともない。

 が、問題は、性病。その中でも、エイズの問題がある。

 「まさか……」「うちの子にかぎって……」と思っているうちに、自分の娘が、そのエイ
ズに感染する。それはもう、病気という病気ではない。十字架という、十字架ではない。
もしあなたが、「うちの娘や、息子は、そういう病気とは無縁」と思っているなら、その考
えは、甘い。改めたほうがよい。

 2015年までには、この日本でも、エイズ感染者は、若者を中心に、数万人以上にな
ると、予測されている。が、それで止まるわけではない。さらに感染者数は、ふえる。発
症者もふえる。そして死亡者も、ふえる。

 そこであなたは、「学校で……」「教育で……」と考えるだろう。しかしこの問題だけは、
学校や教育では、どうにもならない。はっきり言えば、学校や教育の、その外の世界の問
題である。性にめざめる子どもを、おさえる方法など、ない。それは道徳や倫理を超えた
世界の問題である。

 が、対処方法はないわけではない。

 子どもは、自ら、考える子どもにする。以前、こんな子ども(小3女子)がいた。

 たまたまバス停で、出会った。そばに、自動販売機があった。そこでその女の子に、「缶
ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その女の子は、こう言った。

 「いいです。今、ジュースを飲んだら、お母さんがつくってくれた、夕食を食べること
ができなくなります」と。

 少ないが、そういう子どももいる。また、私たちは、自分の子どもを、そういう子ども
にしなければならない。

 コツは、ただ一つ。欲望に耐えられる子どもにする、こと。

 が、現実は逆である。

 子どもが生まれると、親はもちろんのこと、親類縁者たちが集まってきて、「蝶よ、花よ」
と、子どもに手をかける。お金をかける。時間をかける。

 目一杯、子どもの欲望を満足させてしまう。こうした安易な子育て観が、子どもをして、
欲望に対して、抵抗力のない子どもにしてしまう。性にめざめるころ、その性にのめりこ
んでしまう子どもというのは、そういう子どもをいう。

 これは私のあくまでも印象だが、小学5、6年生を境に、いわゆる「飛んでしまう女の
子」には、それ以前に、ある一定の特徴がある。

 その第一は、どこか派手になる。第二に、妙におとなびていて、それでいて、おとなを
なめるような言動が見られるようになる。第三に、それなりに「女」としての魅力を、自
ら、意識している。

 概して言えば、頭がよいほうに属する。あるいは何かにつけてませていて、物知り。ど
こか、チャカチャカしている。ファッションにも敏感。そんな感じである。

 このタイプの子どもは、小学5、6年生になると、急速におとなびてくる。目つきまで、
変わってくる。以前だが、私にこんなことを言った女の子(中学2年生)がいた。

 「先生は、まじめエ?」と。そこで私が、「まじめだよ」と答えると、「何、言ってるの。
子どもがいるくせに」と。

 そのときは、その意味がわからなかった。しかししばらくしてから、その意味がわかっ
た。その女の子は、「先生は、セックスをしているのか?」という意味で、私にそう聞いた。
その女の子のいう、「まじめ」というのは、そういう意味だった。

 で、その女の子も、いつも携帯電話を片手に、男遊びを繰りかえしていた。が、ここで
大きな問題にぶつかる。そういう事実を、親に伝えるべきかどうかという問題である。

 この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。私の仕事は、親から委託された仕事
を、委託された範囲でする。それ以外のことは、相談や、質問があるまで、しない。また
してはならない。親に伝えれば、伝えた段階で、私と生徒の信頼関係は、そのまま崩壊す
る。

 それに確たる証拠があるわけではない。遊んでいるらしいというのは、あくまでも、カ
ンである。目つきとか、あやしげな言い方、そういうもので、それがわかる。その女の子
も、筆箱の中に、金製の飾りをもっていた。多分、どこかの男に買ってもらったものだろ
う。

 私が、それを指でつまみながら、「これは、何だ?」と声をかけると、「ウフン〜。いい
じゃア〜ン……」と。なまめかしい声だった。

 が、こういうケースでも、つまり性にめざめたとしても、それはそれ。おとなになるた
めに、だれしも経験する、「春」である。関門である。中学生だから早いとか、高校生だか
ら遅いとかいう判断をしている間に、そういう子どもも、あっという間に、おとなになる。
おとなの仲間入りをする。

 が、エイズは、そうではない。そうはいかない。体の中に、時限爆弾をかかえるような
ものである。しかも感染という方法で、まわりの人たちを、どんどんと不幸にしていく。

 S市内のある中学校で、一人の女の子がエイズに感染しているとわかったときのこと。
その話は、生徒から生徒へと、またたく間に、広がってしまった。もちろん親たちにも。

 とたん、その学校は、パニック状態。その女の子が、その学校の男子生徒の何人かとも、
関係していたからである。さらにこれは、アメリカのある州立大学での話だが、その大学
のフットボ−ルクラブの学生、60人について調べたところ、何と、15人もの学生に陽
性反応が出たという。

 15人といえば、25%である。いくらエイズ大国とはいえ、これには、大学当局も驚
いた。そしてそのあと、その大学は、その対策に追われ、とても授業どころではなくなっ
てしまったという。

 そういう現実が、この日本でも、もう目の前に迫っている。

 では、どうするか?

 私たち一人一人の親が、賢くなるしかない。その賢さで、子どもを包むしかない。もっ
とわかりやすく言えば、自ら考え、行動し、責任をとる子どもにする。その見本を、日常
生活の中で、私たち親が示す。

 子どもの世界を守るためには、もう、それしかない。

 そうそう、こんな話も、もれ伝わってきている。

 そのS市で、エイズになった中学生の親だが、娘がエイズとわかったとき、近くの神社
へ行き、(オハライ)なるものをしてもらったという。そしてその神社の神主の指示に従い、
神棚の位置をかえ、子ども部屋には、別の大きな神棚を置いたという。

 この話からも、その親が、いかに狼狽(ろうばい)し、理性を失ったかがわかる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自己愛者

 自己愛が肥大化するから、自己中心的になるのか。それとも、自己中心性がきわまるか
ら、自己愛者になるのか。

 どちらにせよ、自己愛者は、生活のあらゆる面で、ものの考え方が、自己中心的になる。
が、ここで重要なことは、自己愛者自身が、自分がそうであっても、それに気づくことは
まず、ないということ。

 このことは、自己中心的な人を見ればわかる。自己中心的でありながら、その人が、そ
れに気づくことは、まずない。自分が自己中心的であるということは、その人が、自己中
心的でなくなったときはじめて、わかる。

 生きザマというのは、そういうもの。脳のCPUに関係しているから、自分の生きザマ
を客観的に知るということ自体、たいへんむずかしい。

 その自己愛の特徴として、ここであげる(1)異常なまでの自己中心性のほか、(2)他
人を信じない完ぺき主義、(3)他人の批判を許さない。批判されると、極度の緊張状態に
置かれるなどがある。

 こうした現象は、子どもの世界では、顕著に現れる。というのも、子どもというのは、
成長とともに、自己中心性から、利他的思考へと、自分を転換させる。(自己中心的なまま、
おとなになる子どもも、少なくないが……。)

 総じてみれば、幼児は、すべて自己愛者である。その幼児が、成長とともに、その自己
愛から、他人の立場でものを考えることができるようになる。

 こんなことがあった。

 幼児から、小学生にかけて、かなりはげしい多動性を示した子どもがいた。幼稚園でも、
そして小学校に入学してからも、毎日のように問題を引き起こした。

 しかしそんな子どもでも、小学3、4年生を境に、少しずつだが、落ちつきを見せるよ
うになった。自己意識で、自分をコントロールできるようになったからである。

 その子どもが、中学3年生になり、いよいよ卒業ということになったときのこと。私は
恐る恐る、その子どもにこう聞いてみた。

 「君は、小さいころ、先生や友だちに、かなり迷惑をかけたが、それを覚えているか?」
と。

 するとその子どもは、ケロリとした表情で、こう答えた。

 「ううん、ぼくは何も悪いことをしてないよ。先生も、みんな、ぼくが何も悪くないの
に、毎日、目のカタキにして、ぼくばかりを怒った」と。

 その子どもは、自分のことが何もわかっていなかった。私はその子どもを見ながら、改
めて、自分を知ることの難しさを、思い知らされた。恐らく、その子どもは、おとなにな
っても、自分が多動性のある子どもだったと気づくことはないだろう。教職の道に入り、
ADHD児についての研究者になっても、自分に気づくことはないだろう、と。

 自分を知るということは、そういうことをいう。

 ところで、話は、ぐんとそれるが、ブルース・ウィリス主演の映画に、『シックス・セン
ス』という映画がある。自分はすでに死んでいるのに、自分が死んでいるということに、
最後まで気がつかないという、あの映画である。

 あの映画では、最後に、ブルース・ウィリス演ずる、小児科医のマルコム・クロウは、
実は自分自身が幽霊であったことを知る。私はあの映画を見たとき、そういった衝撃とい
うのは、日常の生活の中では、よくあることではないかと知った。

 たとえばあのソクラテスは、『無知の知』という、有名な言葉を残している。「自分は無
知であるということを知る」という意味である。それなども、その一つである。

 あるとき自分がより高度な知恵を手に入れたとき、それまでの自分が、いかに無知であ
ったかを思い知らされる。あるいは、ある男性は、こう言った。「マザコンというのは、他
人のこととばかり思っていましたが、自分がそのマザコンだったと知ったときは、強いシ
ョックを受けました」と。そういうことは、よくある。

 同じように、自己中心的な生き方をしていた人が、ある日、何かのきっかけで、その自
分の自己中心性を思い知らされることがある。とたん、それまでの自分の生きザマが、つ
まらないものであったかを知る。

 これなども、どこかあの『シックス・センス』に似ている。……という意味で、あの映
画をとりあげてみた。

 実は最初にも書いたように、自己愛者は、自分がその自己愛者であることに、気づくこ
とはまず、ない。自分が、自己愛から離れてみて、それまでの自分が、自己愛者であった
ことに、はじめて気づく。

 そこで自己診断ということになるが、つぎの点で、いくつか自分に当てはまることがあ
るなら、あなたは、その自己愛者と思ってよい。

( )完ぺき主義で、他人に仕事を任せられない。
( )何でもかんでも、自分の思いどおりにならないと気がすまない(完ぺき主義)
( )この世界では、当然のことながら、「私」が一番、大切。
( )自分がいちばん正しい。ふだんの会話も、命令口調が多い。
( )まわりが自分を認めないときは、逆恨みしたり、不平不満をもちやすい。
( )他人に批判されたり、批評されるのを好まない。
( )他人に批評されたりすると、狼狽したり、混乱状態になる(自己の無謬性)。
( )独断性が強く、わがまま、自分勝手、自己中心的(自己中心性)。
( )孤独で、さみしがりや。友人が少なく、他人に気を許せない。
( )他人に心を許すことができない。そのためどうしても、ウソが多くなる。
( )ときとして常識ハズレ、過激な行動にでやすい(社会性の欠落)。
( )自分を飾り、仮面をかぶることが多い。よい人に見せる。
( )そのため他人と交際すると、必要以上に神経疲労を起こしやすい。

 こうした自己愛が自分に見られたら、利己から利他への転換をはかる。他人の心の中へ
一度、自分を置き、その状態から、その人の目を通して、あなた自身をみつめてみる。そ
の訓練を繰りかえす。

 これを繰りかえしていると、自分から自分が離れ、相手の立場になって、ものごとを考
えられるようになる。と、同時に、自己愛から、自分を解放させることができる。

 自己愛そのものは、孤独な生き方である。そして自己愛者の多くは、自己愛的に行きな
がら、それが「私らしい生き方」と、誤解している。しかし自己愛は、決して、個性的な
生き方ではない。もちろん望ましい生き方ではない。

 自己愛者が孤独なのは、いわば自業自得。しかし同じように、その周囲の人も、孤独に
なる。親子や夫婦でありながら、心の通わない状態がつづく。私の印象では、自己愛者の
親ほど、子どもと断絶しやすい。あるいは夫か妻か、どちらか一方が自己愛者であると、
離婚しやすい。統計的な数字があるわけではないが、実感として、そう思っている。

 実際問題として、自己愛者の人というのは、つきあうのに苦労する。一見、愛想がよく、
ひとづきあいもそれなりにうまい。しかし心は、閉じたまま。本人も疲れるが、その緊張
感を感じたとき、つきあう側も、疲れる。

 ただここにも書いたように、自己愛者が、自分が自己愛的であることに気づくことは、
まずない。自分が自己愛的であるかどうかは、自分自身が、利己から利他へ、転換できた
ときに、はじめてわかる。

 もしあなたが、ここでいう自己愛者であるなら、私が書いたことを参考に、自分の姿を
客観的に知るのもよいだろう。あの『シックス・センス』の中でブルース・ウィリスが覚
えたような衝撃(?)を、あなたも経験するのではないだろうか
(はやし浩司 自己愛者 自己愛 シックス・センス ブルース・ウィリス)

 【ある自己愛者】

 自己愛者の最大の特徴は、その自己中心性である。自分のことしかしない。自分のこと
しか考えない。自分にとって利益のあることは、仮面をかぶってでも、それをする。しか
し自分が損をすることは、まったくしない。

 ときに他人に対して献身的に行動することはあるが、それ自体も、どこかで自分の利益
を誘導するため。自分のことをよい人だと思っている人の間では、すこぶるよい人を演ず
る。しかしその一方で、自分のことを批判する人や、批評する人を許さない。ときに、徹
底的に、その人を攻撃したり、排斥したりする。

 自己愛者は、自分をよく見せるために、細心の注意を払う。仮面をかぶることも多いし、
当然、ウソも多い。だから他人に気を許せない。気を抜かない。どこかピンとした緊張感
が走る。この緊張感が、まわりの人を、息苦しくする。

 が、自己愛者は、孤独。さみしがりや。他人との良好な人間関係を築くことができない。
そのため、神経疲労を起こしやすい。他人と少しまじわっただけで、神経をすり減らす。
偏頭痛などを訴える。他人に対して心を開けない分だけ、集団行動が苦手。

 その一方で、気を許した人の間では、わがまま、独断、命令口調が多くなる。その人を
自分の思いどおりに動かそうとする。そのため、完ぺき主義に陥りやすい。

 S氏(60歳)が、そういう人だった。今は、もうなくなってしまったが、自分のこと
しかしない、自分勝手で、わがままな人だった。奥さんや子どもにすら、自分の心を開く
ことはなかった。どこか権威主義で、家父長意識が強かった。死ぬまぎわまで、「葬式だけ
は、しっかりとしてくれよ」が、口ぐせだった。

 が、実際には、S氏の葬儀ほど、静かで、ものわびしいものはなかった(知人の弁)。通
夜に訪れた人も、ほとんどいなかった。たぶん、S氏には、それがわかっていたのではな
いか。自己愛者というのは、そういう人のことをいう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●ワイフのケガ

 ワイフが、テニスのボレーの練習をしていたときのこと。左目にボールをまともに受け、
そのため、左目の内側付け根あたりが、赤黒くはれた。

 「今日は、そんな顔で買い物に行くの?」と聞くと、「サングラスをかけていくからいい」
と。

 そういうことを、まったく気にしないのが、ワイフ。ふつうなら、「恥ずかしい」とか、
何とか、考えるのに……。仕方ないので、近くの薬局で、眼帯を買ってきてやった。「これ
をして行きな」と言うと、「片目じゃ、かえって見にくいから」と。しかし、しぶしぶ、し
たがってくれた。

 で、案の定というか、近所に住む友人に、こういわれたと言う。

 「ダンナに、奥さん、殴っちゃあ、だめって、言っときな」と。

 それを聞いて、私はワイフにこう言った。

 「あのなあ、ほっぺたに、これは、ボレーを受けそこねてできたアザですとでも、書い
ておけよ」と。

だから、眼帯を買ってきてやったのに……。だれだって、夫婦喧嘩でできたアザだと思
うに決まっている……。


●美容院

 最近は、床屋へ行っても、美容院へ行っても、自動髪の毛洗い機というのがあって、そ
れで髪の毛を洗ってくれる。

 便利な機械らしいが、ああいうので洗ってもらうと、かえって頭中が、かゆくなる。ボ
ソボソジャージャーと、何というか、洗っているのか、洗っていないのかわからないまま、
終わってしまう。

 そのあと美容師の人が、「かゆいところはありませんか?」と。思わず、「全部、かゆい」
と言いそうになるが、それは言わない。「いえ、ありません」と。


●体重

 このところ、どうも体が重いと思っていたら、体重が、68キロを超えていた。いつも
より、2〜3キロ、オーバー。あわててダイエット開始! 2〜3キロといえば、ペット
ボトル一本分。

 そこで朝は、パン一切れ程度。昼は、ざるそば程度。夕食は、ダイエット食。おかげで、
数日で、適正の66キロ前後に復帰。しかしそのせいか、体が、だるくなってしまった。

 食事のあと、総合ミン剤と、カルシウム剤、それにビタミンCを、大量にのんだ。とく
に理由があるわけではない。食卓の上に、いつも置いてあるから、それをのんだ。

 で、今日になってやっと、少し体が軽くなった。……と自分で、そう思いこんでいるだ
けかもしれない。しかし夏のダイエットは、たいへん。そうでなくても、健康管理がむず
かしい。


●明日は休み

 「明日は休みだから、どこかへ行こう」と、ワイフが言った。「どこがいい?」と聞くと、
「伊豆のねえ……」と言い出した。

 「伊豆は遠すぎるよ。行くだけで疲れてしまうよ」と私。

 で、今夜は、いつもより早く寝た。時刻は、9時。ワイフは、「こんなに早く寝るなんて
……」と、ぶつぶつ言っていった。が、床に入るとすぐ、もうイビキ。

 肝心の私は、眠りそこねてしまった。1時間ほどゴロゴロしていて、結局は、起きてし
まった。一度、眠りそこねると、なかなか寝つかれない。

 しかたないので、そのまま書斎へ。そしてこうして今、パソコンのキーボードをたたい
ている。


●脱北者の人たち

 またまた北京の日本人学校に、29人もの脱北者が、かけこんできたという。全員、韓
国行きを希望しているという。

(韓国側の報道によれば、「韓国行きを要求」とある(朝鮮日報)。報道姿勢にも、微妙
なちがいがあるようだ。)

 これに対して、K国は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と、赤十字国際委員
会に書簡を送り、脱北者の韓国亡命を阻止するよう措置を求めたという(8・4)。

 つまりアメリカや韓国が、そそのかしているから、みな、脱北するのだ、と。ものは考
えようだが、ここまで事実認識がずれていると、理解に苦しむ。ホント!

 で、その脱北者たちだが、韓国へ来ても、自由主義社会への同化に、苦しむようだ。

 K国では、ものを共有する意識が強いため、脱北者たちは、「平気で近所の桃を食べたり
する」(北海道新聞)そうだ。ほかに税金とか、利益という概念が理解できない、など。韓
国の大統領が弾劾(だんがい)裁判にかけられたときには、「反乱ではないかと、(韓国に
住む脱北者たちは)、驚いていた」(北海道新聞)という。

 こうした意識のズレを知るとき、同時に、「では、私たち日本人は、だいじょうぶか」と
いう問題にぶつかる。

 たとえば「日本は、人身売買で、監視対象国になっている」(読売新聞・04年8月)と
なっているという。

 アメリカ国務省の発表によれば、「日本は、世界の女性や子どもを、性産業に従事させる
ための目的地になっている」「日本政府は、じゅうぶんな対応能力がありながらも、適切な
措置を怠っている」と。

 そういえば、10年ほど前、女子中高校生の援助交際が問題になったとき、アメリカ人
の友人も、驚いていた。「日本では、子どもの売春が、野放しになっている!」と。

 一方、家庭の女性たちも、甘い。毎週のように、そういう場所へ、酒を飲みに行くダン
ナに対して、一言も、反対しない。文句も言わない。酒を飲みながら、何をしているか、
知らないはずはないのだが、知らぬフリをしている。見て見ぬ、フリをしている。

 こういう世相の中で、日本では、今、エイズの感染者が爆発的にふえつつある。アメリ
カでも、オーストラリアでも、そしてタイでも、エイズの感染を、おさえこむことに成功
した。が、この日本では、ふえつづけている!

 日本人というのは、自分に火の粉がかぶってこないかぎり、動こうとしない。長くつづ
いたあの封建時代の圧制の後遺症によるものだが、しかしこういう意識とて、外国へ出て
みて、はじめてわかること。

 それにしても、あのK国を見ていると、いろいろと考えさせられる。何というか、とき
には日本の姿を、映しだしてくれるカガミのようにも思える。戦前の日本そのものを、あ
のK国に見るときさえある。

 徹底した鎖国主義。言論統制。大本営発表。独裁制。軍国主義などなど。朝鮮人の強制
連行という暗い歴史をひきずっているから、日本人が拉致されても、表立って、文句を言
うことすら、できない。

 そのK国だが、10月には核実験をするかもしれないという。そして今は、後継者問題
で、国内が揺れているという。さてさて、どうなることやら……。本当に、いろいろと、
考えさせられる。


●スケベな話

 ワイフが、こう言った。「若いときは、毎日、発情期のようなものだけど、年をとると、
発情期も、1か月に1回くらいになるわね。男は、どう?」と。

 男のばあいは、年をとっても、その気になれば、毎日だって、発情することができる。
ただし、その持続力が弱くなる? すぐ関心が、ほかのことにそれてしまう?

 ……と、私を基準にしてものを考えてはいけないが、発情はしても、シャボン玉のよう
に、すぐはじけてしまう。しかしこんな心理を、ワイフに説明するのもめんどうだから、
口を合わせて、「男だって、1か月に一回くらいかなア……」と。

 「ただね、このところ、男と女の区別がつかなくなってしまった」と私。

ワイフ「どういうこと?」
私「相撲取りの、あのおっぱいを見ていると、ときどき、女性のおっぱいより美しく見え
るときがあるよ」
ワ「あら、気持ち悪い」
私「だから、相撲取りも、ブラジャーをつければいい」
ワ「ますます、気持ち悪い」と。

 生物学的には、男も女も、それほど、ちがわない。性器にしても、もともとは、女体だ
った体が、アンドロゲンというホルモンの作用で、クリトリスが、ペニスになる。子宮が
おりてきて、睾丸になる。そのとき、女性の大唇陰の皮ふが、睾丸を包む、陰嚢(いんの
う)になる。

 構造的にも、つまり色にしても、感触にしても、ちがうと考えるほうがおかしい。クレ
ヨンしんちゃんがよくするように、ペニスを、内股へはさめば、見た目には、女性も男性
も区別がつかない。

 「若いときは、女性というのは、宇宙人ほど、男の自分とはちがうと感じた。しかし今
は、そうでない。同じ人間と言うより、男と女を、区別して考えるほうがおかしい」と。

 しかし、男も、女性を意識しなくなったら、おしまい。ただ私のばあい、母親という女
性たちの世界に身を置いて仕事をしているから、実のところ、それもめんどうになってき
た。恐らく今の私なら、若い女性と混浴風呂に入っても、平気で雑談ができると思う。

 「今度、どこかの温泉で、若い女性といっしょに、混浴にでも入ってみるか」と言うと、
すかさず、ワイフが、こう言った。

 「バカねえ。だからあんたは、オメデタイのヨ。相手の女性がいやがることが、どうし
てわからないの!」と。

 なるほど! そうだった! ハハハ。


●Ambitious Japan

 今、東海道新幹線(JR)の車両の横に、「Ambitious Japan」と書いて
ある。

 「Ambitious」と言えば、W・クラーク博士。明治10年、札幌農学校(現在
の北海道大学)を退任するときに、クラーク博士は、「Boys, be ambitio
us!」と言ったという。

 日本では、「少年よ、大志を抱け」と翻訳されている。

 その後、この翻訳は、正しくないという議論が、あちこちから起きた。実は、私も、そ
う思う。つまり、正しくないと思う。「ambitious」というと、「野心的な」とい
う意味。反対に、小さな世界で、こじんまりと生きている人のことを、「ambitiou
s」とは、言わない。

 そういう意味での、「ambitious」である。「大志」というと、どこか出世主義
のにおいが、プンプンとする。明治という時代は、そういう時代だったかもしれないが、
しかしアメリカ人のクラーク博士に、そういう意識があったかどうかは、疑問である。

 あえて訳すなら、「生徒たちよ、こじんまり生きないで、もっと元気を出せ」という意味
ではないのか。英語で、「ambitious」というと、どこか「他人を蹴落としてでも、
前に進め」というニュアンスを感ずる。どこか荒々しく、乱暴。

 たとえば会話でも、「He is an abitious man.」と言ったときは、
その彼をほめるというよりは、「彼はやり手」という意味で使う。

 私のpoorな英語力で、こういう解釈を加えるのは、危険なことかもしれないが、少
なくとも、「大志を抱け」という意味ではない。

 で、その新幹線。私は、「Ambitious Japan」という言葉が好きである。
この不況下。みんな、どこか元気をなくしている。自信をなくしている。

 しかしあの新幹線が、轟音とともに走りすぎるのを見るたびに、「日本も、まだまだがん
ばっているな」と思う。「捨てたものではないな」と思う。

先日も、オーストラリアの友人が、日本へ来て、新幹線が走っていることよりも、すで
にその新幹線が、35年以上も前から走っていることに、驚いていた。

 韓国の新幹線は、やっと今年になってから走った。中国は、これからである。が、日本
では、35年以上!

 「さあ、日本よ、元気だそう。まだ俺たちには、パワーがある」という意味での、「Am
bitious Japan」である。

 多分、JRのことだから、その道の英語の達人を、アドバイザーにしながら、この言葉
を考えたのだろう。けだし、正解である!

 で、一つだけ心配するのは、あの「Ambitious Japan」という英語を見
て、中には、「日本よ、大志を抱け」と翻訳する人も、いるのではないかということ。それ
については、ここで、「その訳は、まちがっている」ということを、改めて、確認しておき
たい。

 さあ、みんな、元気を出して、前に進もう! Let's be ambitious!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 4日(No.471)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●うちの子、自閉症?

 自閉症の最大の特徴は、スムーズな人間関係が、結べないこと。「机をはさんで、向かい
あった人に、ささやき声で話すかと思えば、ぎょっとするほど、近くに寄って、突然、大
声で質問したりする。人が指でさしたもののほうには、目をやらず、その人の指先を見つ
める」(京都大学・十一教授指摘)と。

 十一教授は、「基本的な、人間関係という、本能というべき部分に、問題がある」と述べ
ている。さらに最近の研究では、脳の中の、扁桃体(へんとうたい)に問題があるという
ことまで、わかってきている。つまり脳の機能障害説が有力になってきている。

 滋賀県のHさん(母親)より、「うちの子は、自閉症ではないか」という相談をもらった。

 いろいろ症状が書かれていたが、心配なら、一度、専門の機関に相談してみるとよい。
つぎのような機関がある。

 日本自閉症協会……電話(03―3232−6355)
 
 ホームページも用意されている。

 http://www.autism.or.jp/images/index1.jpg

++++++++++++++++++++++++

自閉症の診断基準について……
(日本自閉症協会・案内パンフより、転載)

●自閉性障害 (Autistic Disorder)

A.(1),(2),(3)から合計6つ(またはそれ以上)、うち少なくとも(1)から2つ、(2)と(3)
から1つずつの項目を含む。

(1)対人的相互反応における質的な障害で、以下の少なくとも2つによって明らかになる:
(a)目とめで見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、対人的相互反応を調節する多
彩な非言語性行動の使用の著明な障害。
(b)発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗。
(c)楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例:興味のあるものをみせる、
もって来る、指さす)を自発的に求めることの欠如。
(d)対人的または情緒的相互性の欠如。

(2)以下のうち少なくとも1つによって示される意志伝達の質的な障害:

(a)話し言葉の遅れまたは完全な欠如(身振りや物まねのような、代わりの意志伝達の仕方
により補おうという努力を伴わない)。
(b)十分会話のある者では、他人と会話を開始し継続する能力の著明な障害。
(c)常同的で反復的な言葉の使用または独特な言語。
(d)発達水準に相応した、変化に富んだ自発的なごっこ遊びや、社会性を持った物まね遊び
の欠如。

(3)行動、興味および活動が限定され、反復的で常同的な様式で、以下の少なくとも1つに
よって明らかになる:

(a)強度または対象において異常なほど、常同的で限定された型の、1つまたはいくつかの
興味だけに熱中すること。
(b)特定の、機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである。
(c)常同的で反復的な衒奇的運動(例えば、手や指をぱたぱたさせたり、ねじ曲げる、ま
たは複雑な全身の動き)
(d)物体の一部に持続的に熱中する。

B.3歳以前に始まる、以下の領域の少なくとも1つにおける機能の遅れまたは異常:
(1)対人的相互作用、(2)対人的意志伝達に用いられる言語、または(3)象徴的または想像的
遊び。

C.この障害はレット障害または小児期崩壊性障害ではうまく説明されない。
(DSM−IV 精神疾患の分類と診断の手引より)
(はやし浩司 自閉症 診断基準 DSM―IV)


●子ども部屋、欧米の常識VS日本の常識

 おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、ベッドとクロゼットがあるのみ。勉強机は
ない。一方、日本の子ども部屋には、学習机が置いてあるのがふつう。

 おおざっぱにみて、欧米の子ども部屋には、カギがかかるようになっている。一方、日
本の子ども部屋には、カギがない。母親が、掃除などの理由で、子ども部屋に入る姿は、
日本では、日常的な光景。

 おおざっぱにみて、欧米のほとんどの子ども部屋には、テレビは、ない。一方、日本の
子ども部屋には、テレビがある。

 ……詳しくは、北浦かほる著、「世界の子ども部屋」(井上書院発行)を、ご覧になって
いただきたい。

 「子ども部屋悪玉論もあるが、子どもがひとりきりになれる世界も必要」というのが、
北浦氏の意見である。まったく、同感である。

 私のばあいは、昔風の家に生まれ育ったということもあって、すべてが、母親の管理下
に置かれていた。高校生になって、やっと自分の部屋らしきものを与えられたが、家族の
タンスもそこにあった。人の出入りは、もちろん自由。プライバシーも、何も、あったも
のではなかった。

 そういう自分の経験から、つまり家庭の中に、自分の居場所がなかったという経験から、
私は、「子ども部屋悪玉論」には、どうしても賛成できない。言うまでもなく、子ども部屋
悪玉論を説く人たちは、「そのために、家族のコミュニケーションが希薄なる」と説く。

 しかし実際には、家族のコミュニケーションが希薄になるのは、子ども部屋の子どもが
閉じこもるからではなく、もっと、ほかの要因によるものである。たとえばプライバシー
が筒抜けだったの私のばあい、それだけ家族のコミュニケーションが、濃厚だったかとい
えば、そういうことは、決してなかった。

 なお、欧米では、(アメリカでも、EUでも)、生まれるとすぐ、自分の個室を子どもに
与えるのが、全体的な習慣になっている。

 そこで私なりの子ども部屋論について。

(1)子どもが小学生になったら、子ども部屋を与える。兄弟の相部屋は、避ける。
(2)子ども部屋には、ベッド(寝具)とクロゼットを置く。あくまでも睡眠の場所と、
位置づける。
(3)学習机は、置くとしても、平机。心身を休める机にする。低学年のうちは、学習は
台所のテーブルなどを利用する。
(4)子ども部屋は、子どもの管理に任す。掃除などでも、子どもの許可を求めてからす
る。子ども部屋は、親でも足を踏み入れることができない、神聖不可侵の空間と心得るこ
と。
(5)テレビ、ステレオなどの、娯楽機器は、置かない。娯楽機器は、家族全員が触れる
ことができるように、居間に置く。

 基本的には、そういう考え方をしながら、あとは、それぞれの家庭の事情と、子どもの
希望にそって、考えればよい。

【補記】

 私は北浦氏の本を読んで、一つ、思い当たることがあった。

 先日、知りあいの中国人が、部屋を改装した。子ども部屋を改装したと、その母親は言
っていた。

 が、見ると、大きな部屋(20畳くらい)の部屋の中央に、大きなソファと、テーブル。
二人の子どもの机は、部屋のまわりに、カベにつけて配置してあった。

 私はそれを見たとき、「これじゃあ、毎日、子どもが親に監視されているみたいだ」と思
った。しかし北浦氏の本によれば、それが標準的な中国人の子ども部屋ということになる。

 このことをあとでワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「中国では、子どもはその親
の財産という考え方をするからではないかしら」と。「少し前の、日本もそうだったわ」と
も。

 それがよいとか悪いとか言っているのではない。ただ子どもの考え方、子ども部屋の考
え方というものは、国によっても、ちがうということ。

 今、日本は、急送な欧米化のもと、子ども部屋に対する考え方も、これまた急速に欧米
化している。今は、その過渡期ということになるのかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++

●自己中心性

 ある日、突然、ある心理カウンセラーのところに、電話がかかってくる。そしていきな
り、自分の娘(中3)の相談をしてくる。「夜遊びが、ひどくなった」「よからぬ男性とつ
きあっているようだ」「学校へ行かないで、どこかへドライブに行ったりしている」「何と
かしてほしい」と。

 そこでそのカウンセラーなりに、あれこれ、相談にのる。しかし実際には、夏休みにな
ると、この種の相談が、がぜん、多くなる。そこでそのカウンセラーは、「一度、学校の先
生に相談してみたら」とアドバイスしたあと、こう言った。

 「その程度なら、がまんしなさい。ここで問題をこじらせると、さらに二番底から、三
番底に落ちていきます。家出、さらには妊娠……と進みますよ。今の状態を、これ以上悪
くしないことだけを考えて、対処してください」と。

 が、どこでどう誤解したのか、この一言が、その母親を激怒させた。「他人の子どもだと
思って、あんたも、よく言うね。心理カウンセラーの看板をかかげているなら、困った人
を助けるのは、あんたの義務でしょう。がまんしなさいとは、どういうことヨ!」と。

 そのカウンセラーは、自分の立場を説明し、あやまるしかなかった。

 しかし、だ。どうして、カウンセラーが、あやまらなければならないのか。カウンセラ
ーといっても、ほとんどボランティア。が、問題は、そのことではない。なぜ、その娘は、
夜になると、遊びに出かけるのか。みなさんなら、もうその理由は、おわかりかと思う。

 その母親は、自分のことしか考えていない。こうした自己中心性は、生活のあらゆる場
面で、共通する。そのカウンセラーに対して自己中心的であるのと同じように、娘に対し
ても、自己中心的であるにちがいない。

 人間の心は、それほど、器用にはできていない。相手によって、自分の生きザマを変え
るというようなことはできない。

 その自己中心性が、娘を遠ざけた。そんな母親と顔を合わせて、家にいても、おもしろ
くないからだ。

 実際、自己中心的な人というのは、つきあえない。表面的には、いくら愛想よく見えて
も、別の心でこちらの心を計算しているようなところがある。窮屈。退屈。それに息苦し
い。その母親も、そうだった。

 「なぜ、娘が夜遊びに行くか」という心理を、その母親は、まず考えなければならない。
同時に、その相談を受けるカウンセラーの立場も考えなければならない。その母親は、混
乱状態にある。それは、よくわかる。しかし、それをそのまま、他人であるカウンセラー
にぶつけてはいけない。

 「あなたのどうしようもない、自己中心性。それが改まらないかぎり、あなたはあなた
の娘さんの心をつかむことはできませんよ」と、そのカウンセラーは言いかけたが、やめ
たという。その母親との間に、ものすごい距離を感じたからだ。

 で、そのあと、2度ほど、その母親から、電話がかかってきた。よほど怒りが収まらな
かったとみえる。

 「他人のあんたに、がまんしろと言われた。相談をした私が、バカだった。何で、他人
のあんたに、そこまで言われなければならないのか!」と。

 この世界では、よくあるトラブルである。どうか、みなさん、心、安らかに!

【補足】

 心理学の世界には、「転移」という言葉がある。これはある人への感情が、別のだれかに
乗り移ることをいう。

 たとえば幼いころ、父親に虐待されたとする。その記憶は、それほど残らなかったにし
ても、いつかおとなになったとき、父親以外のだれかに対して、父親への憎悪感を、無意
識のうちに再現することがある。

 このケースでも、自分の娘に対する憎悪感、夫に対する不平、不満が、そのカウンセラ
ーに対して爆発したのかもしれない。感情の転移という現象が起きたわけである。日本語
にも、『八つ当たり』という言葉がある。それに近い。

 しかしこうした感情の転移が怒るということは、それだけその人の精神が、未発達であ
ることを示す。自己管理能力が弱いとみる。

 人格の完成度は、他者への共鳴性、自己管理能力、他者の良好な人間関係によって、判
断する。それができる人を、人格の完成度の高い人という、そうでない人を、低い人とい
う。


●わずらわしさとの戦い

生きているから、わずらわしいのか。わずらわしいから、生きているのか。

 どちらにせよ、できれば、そのわずらわしさから、解放されたい。しかし生きている以
上、そのわずらわしさから、解放されることはない。

 たとえば生きるためには、それだけの収入を得なければならない。しかし収入を得ると
いうことは、容易なことではない。当然のことながら、そこで、無数の人たちとの欲得と、
衝突する。

 わずらわしさは、そこから生まれる。

 しかしそれはたとえて言うなら、打ち寄せる波のようなもの。若いときは、その波もま
た楽しい。波がなければ、つまらない。あるいはあえて波を求めて、海へ入る。
 
 しかし体力や気力が弱ってくると、そうはいかない。小さな波を越えるだけでも、たい
へん。フーッとため息をもらしたりする。しりごみしたり、避けようとしたりする。波が
こわくなることもある。

 ときどき、このわずらわしさから解放されるためには、死ぬしかないのではないかと思
うことがある。「このまま静かに死ぬことができたら、どんなに気が楽になるだろう」とも。
しかしここでまた、冒頭に書いた状態にもどる。

 生きているから、わずらわしさが生まれる。しかし人間は、わずらわしいから、生きて
いるということにもなる。もし私やあなたから、そのわずらわしさを取り去ってしまった
としたら、はたして、私たちは生きていると言えるのか、ということになる。

 たとえば今日も、こうして町まで、仕事にやってきた。できれば、家のソファーの上で、
寝そべっていたい。何も考えず、ぼんやりとしていたい。本当のことを言えば、人に会う
のもいや。疲れる。しかしもしそんな生活を、何か月とか、何年もつづけたら、私はどう
なるのか。そういう生活に耐えられるのか。

 まず、体がもたない。ついで、頭がボケる。そうなっても、はたして生きていたいと、
私は思うだろうか。

 仕事は、たいへんだ。ときにつらいと思う。しかし私は、この仕事をやめるわけにはい
かない。恐らく、死ぬまで、……というより、死ぬ直前まで、今の仕事をつづけるだろう。
つまり死ぬまで、このわずらわしさから、解放されることはない。

 だったら、わずらわしさとは、うまくつきあうしかない。それはいわば、持病のような
もの。それとも与えられた運命のようなもの。どうにもならないことは、ならないことと
して、あきらめ、受け入れるしかない。

 今日も、そのわずらわしさと、私は、つきあう。つきあうしかない。それにしても、ク
ーラーのきいた寝室で、ゴロリと横になることだけが、楽しみとは! これでよいとは思
っていないが、しかし現実にそうである以上、どうしようもない。


●中学生が、エイズに!

とうとう、ここまで来たか! まさか! しかし、それにしても!

 私たちは、いつもどこかで、この不安を感じながら、生きている。「うちの子どもは、だ
いじょうぶだろうか?」「しかしまさか、うちの子にかぎって、そういうことはないだろう」
「が、油断はできない」と。

 しかしそれが現実の問題になったとき、それから受ける衝撃には、はかり知れないもの
がある。自分の問題でなくても、身近で、そういうことが起きると、それから受ける衝撃
には、はかり知れないものがある。

 S市に住む、Sさん(母親)から、電話がかかってきた。何でもSさんの中学校の女子
生徒(中学1年生)が、HIV(エイズ)検査で、陽性反応が出たというのだ。「娘も、同
じ中学校に通っているので、心配でならない」と。

 ことのいきさつは、こうだ。

 その女子生徒は、小学6年生になるころから、学校をさぼって、遊び歩くようになった。
父親は、実業家。母親の実家は、S市でも1、2を争う財産家。ともに仕事が忙しくて、
女子生徒を放任。それをよいことに、女子生徒は、毎晩、夜中の1時、2時に、帰宅。

 言い忘れたが、その女子生徒は、姉。下に3歳ちがいの弟がいる。Sさんの話によれば、
その女子生徒は、外国人の男性から、どうやらエイズをうつされたらしいという。本人自
身が、医師に、「私、エイズをうつされたかもしれない」と相談していたという。

 そこで検査。多分、その前に、何らかの症状が出ていたのだろう。その娘は、検査もか
ねて、S市の総合病院に、1か月近く、入院していたという。今から半年ほどの前のこと
である。

 風邪をひいたが、熱がさがらない。「肺炎か?」と思って病院へ行ったら、そのまま総合
病院へ。そこでエイズと診断された。……ということらしい。

 もっとも今では、対処法も確立されていて、「エイズはこわくない病気」(市内Iセンタ
ー・Y医師)とのこと。「発症さえ、おさえれば、ふつうの生活ができる。ただし、薬がど
れも高額なので、それだけは問題」とも。

 両親は、そんなわけで、ともにリッチ。とくに父親は、S市でも、有名な実業家だそう
だ。郊外に大邸宅をかまえ、外車を数台も並べているという。そういう家庭のどこにどう
いう問題があったのか? それはSさんの電話だけでは、知る由もない。しかし、中学生
が、エイズに! 時代は、もうここまできている!

 が、その子どもが、被害者かというと、どうも、そうではないようだ。さらに深刻な話
がつづく。

 その女子生徒は、その前後に、10人以上もの男性や、中高校生とも、性交渉を重ねて
いたという。相手の名前すら知らない男性も含まれているという。つまり被害者であると
同時に、加害者というわけである。

 それで、その子どもの周辺が、パニック状態になってしまった。エイズに対する偏見も、
強い。親たちが、「うちの子はだいじょうぶか?」「学校のトイレでうつされたのではない
か?」と、大騒ぎになってしまった。

 しかし、この程度は、まだ序の口かもしれない。これから先、この日本でも、HIVの
陽性反応者は、爆発的にふえると予測されている。あなたの子どもが、幼児なら、その子
どもが20代になるころには、100人に一人とか、それ以上の確率で、エイズに感染す
る可能性がある。さらにその10年後となると、もっと多くなる。

 もしあなたが、「うちの子にかぎって……」と思っているなら、それは甘い。甘いことは、
この一例をもっても、わかるはず。

 では、どうするか?

 私が繰りかえし提唱しているように、子どもは、自ら考える子どもにする。それで万全
とは言えないが、子どもの心の中に、精神的な抵抗力をつくっておく。またそういう子育
てをめざす。

 もしあなたが、こうした問題について、「だれかが何とかしてくれるだろう」「学校で教
育してくれるだろう」と考えているとしたら、それも甘い。

 今夜も、私は、ワイフとこんな会話をした。

私「子どもが幼児のころは、そのかわいさに負けて、目一杯のことをしてしまう。甘やか
すだけ甘やかしておいて、少し大きくなったら、今度は、受験勉強でしごく。こういうア
ンバランスさが、子どもの心をゆがめる」
ワ「乳幼児期の、育て方に問題があるというのね?」
私「そうだよ。いつになったら、親たちも、それに気がつくのだろうね」と。

 こういう問題は、学校の教育だけでは、どうにもならない。世の親たちよ、まずそれを
しっかりと自覚しようではないか。

【補足】

 あなたのまわりにも、ハレンチ文化が氾濫(はんらん)しているはず。そういう文化と
ひとつずつ、戦っていこう。そういう努力が、長い時間をかけて、結局は、あなたの子ど
もを守る。またそういう親の姿を見て、子どもは、精神的な抵抗力を、身につける。

 つまり親たちの何気ない、日常的な会話の中から、子どもは何かを学んでいく。しかし
それは演技ではいけない。親たち自身が、ハレンチ文化への批判力をもち、それを子ども
たちに語っていかねばならない。

 はっきり言おう。

 一方で、意味のないバラエティー番組を、ギャーギャーと笑いながら見ながら、どうし
て子どもに向かって、高い独特や倫理を語ることができるだろうか。子どもを考える子ど
もにすることができるだろうか。そのあたりから、もう一度、私たちは、家庭教育のあり
方を、考えなおそうではないか。

 先日も、ある母親から、こんな相談があった。何でも、12歳の娘が家出をしたという。
それについて母親が、それを責めると、その娘は、こう答えたという。

「ポケモンのさとしも、ハンターハンター(アニメ)のゴンたちも、10歳くらいで、旅
に出ている」と。

 こういう愚かな現実を、おとなの私たち自身が作り出していることを、忘れてはならな
い。

【補記】

 たまたまBW教室では、こんなことが起きた。

 私の自慢は、「BW教室の生徒は、交通事故にあったことがない」だった。幼児クラスで
は、ときどき、しかし徹底的に、交通事故の恐ろしさを話す。

 だからこの35年間、交通事故にあった子どもは、いない。確率からしても、ありえな
いことである。

 が、とうとう、一人、交通事故にあってしまった。どこかのスポーツクラブへ行く途中、
自転車に乗っていて、車と正面衝突してしまったという。

 自転車はクシャクシャになったが、幸い、けがは、足の捻挫(ねんざ)程度。しかしそ
の事故はともかくも、私が感じた挫折感は、大きかった。内心で感じていた、(誇り)のよ
うなものが、その話を聞いたとき、こなごなに崩れてしまった。

 しかし一人の中学生が、エイズに感染したという話を聞いたとき感じた、挫折感は、そ
んなものではなかった。家の中に、ダンプが飛びこんできたような衝撃である。とたん、
その交通事故にあった子どもの話しなど、忘れてしまった。

 こういった話でこわいのは、免疫性ができてしまうこと。

 今は強い衝撃を受けているが、やがて、ここでも、あそこでも……という状態になる。
そうなったとき、私たちは、その恐ろしさを忘れてしまう。そのためにも、今、ここでし
っかりと、心にブレーキをかけておかねばならない。

 今では、大学生や、高校生のエイズ感染は、それほど、珍しくない。が、そのうち、小
学生ですら、性行為で、感染するようになるかもしれない。そういう現実をつくらないた
めにも、今、ここでしっかりと、心にブレーキをかけておかねばならない。

 もし今、あなたが、「うちの子にかぎって……」と思っているなら、そういう考えそのも
のが、すでにつぎの現実をつくる布石になっている。それをどうか、忘れないでほしい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自分をさがして……】

 掲示板にいくつかの書き込みがあった。あとでその中の一つを、考えてみたい。

 みんな、いろいろな問題をかかえて、懸命に生きている。幸福な人は、みな、よく似て
いるが、不幸な人は、みな、ちがう。だれしも幸福になりたいと思っているのに、あれよ
あれよと思っているうちに、不幸になってしまう。

 幸福などというものは、不幸と不幸の間の、つかの間のやすらぎにすぎないのか。幸福
だと思っても、その下では、不幸が、おいで、おいでと、手招きしている。そういう意味
でも、生きるということは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。

 ちょっとした油断が、その人を、不幸のドン底に、突き落とす。

 そう、幸福を、どこかで感じたら、あとはそれにしがみついて生きていくしかない。大
切に、大切に、手で守りながら、生きていくしかない。

+++++++++++++++++++++++++++++

【掲示板より……】

【MYさんより、第1信】

はじめまして。「育児」で検索していたら偶然林さんの随筆集に行き当たり、この2〜3
日いろいろと拝読させていただきました。

現在私は2歳11ヶ月と8ヶ月の二男児の32歳の母です。(入籍していない)子ども達
の父親は、長男誕生時から別居中。現在は実家で私の両親と妹と生活をしています。

以前より、自分自身が幼少期の経験から心のケアが必要ということは感じていました。私
の父は、林さんの言う「親・絶対教」のタイプで、大変威圧的な人間です。未だにたわい
ない会話も顔を見てはできません。

その一方、母は父に服従しており、未だに「お父さんに聞いてから」「お父さんがいいと
言ったら」というタイプの女性です。

私には、幼少期の記憶はほとんどありませんが、覚えているのは、小学2年生のとき、妹
が超未熟児で生まれたのですが、(その1年前に弟が7ヶ月で死産でした)、部屋でラジ
オかカセットを聴いていたときに、音が大きかったのか、突然背後から頭を殴られ、一言
「うるさい!」と怒鳴られたこと。

それも小学校1年生か2年生の頃だったと思いますが、くわがたに指をはさまれ1時間近
く涙をこらえて我慢して、母がやってきて笑いながらm「なにやってるの? 自分でさっ
さととればいいじゃない」と言ったことくらいです。

小学校を卒業するまではいわゆる「優等生」で、成績もクラスで1番か2番でした。幼い
頃どんな子どもだったのかと聞くと、「手のかからないいい子だった」という返答です。

ですが、中学校に入学した後、まず言葉遣いが荒れました。自分のことを「俺」と言って
ほとんど男言葉で話していました。でも当時は気の合う友人がいてくれたので、学校にも
行き、勉強もしていました。成績は相変わらずよい方でした。

高校進学時は、就職も自分自身では考えたのですが、先生や親に説得されるまま学力に応
じた進学校を受験し、大した努力もせずに合格してしまいました。

高校時代はいよいよ適応できなくなり、服装も乱れ、遅刻や早退を繰り返しましたが、先
生に恵まれ、無事に3年間で卒業できました。

親との断絶はピークになり、17歳で離れに移り住み、卒業と同時に働きながら通える専
門学校に進み、家を出ました。

その後、専門学校のカリキュラムの中で半年間ヨーロッパでの海外研修に行き、卒業と同
時に東京へ就職、25歳で一旦実家へ戻りました。

高校の頃から両親を「お父さん、お母さん」と呼べなくなり、(実は今でもまだ呼べない
のですが)父親とはそこから約10年間、ほとんど会話らしい会話をしませんでした。高
校時代には本気で父を殺したいとまで思いました。

でもどこかでそういう自分に罪悪感を感じていたのも事実です。苦しみました。わかって
ほしいと思う気持ちと、親の期待に応えられない自分との間で、苦しかったのだと思いま
す。

多分セックス依存症でもあったのだと思います。年上の男性といると安心したのは、そこ
に理想の父を求めていたのかもしれません。母はサービス過剰な人ですが、そうすること
で自分の居場所を作っているのかもしれないと思うようになりました。

自分自身は本当に居場所がなくて、いつも色々な自分を演じていた気がします。本当の自
分などはじめからいないと思うくらいに。楽しいときに笑えない、だから悲しいときにも
泣けないし、感情をもてあましてしまうことが今でもよくあります。

思いを言葉にしようとすればそれだけで涙が出てしまうこともたびたびでした。おそらく
「基底不安」「情緒不安」なのですよね。

長くなってしまいましたが、「世代連鎖」は私で終わりにしたいと願っています。あまり
意地になって「理想の親」にこだわるのもよくないと思いつつ、「自然に」子どもを「子
どもらしく」育てるためのアドバイスや注意をいただけたらと思い書き込みさせていただ
きました。

子どもの父親である彼は、私と出会うずっと以前に結婚、離婚を経験していて、(年齢は
私と同じです)、女の子が二人います。彼自身、両親の離婚を14歳のときに経験してい
て、父親と弟との三人での生活をして、高校を半年ほどで中退後一人で生活をするように
なったと聞いています。

過去の話を聞いたときに、同じ悲しみを抱えているのかもしれないと思いました。この人
なら、同じ痛みを分け合えるかもしれないと思いました。

でも、私の「理想の親像」があまりにも強く、彼に押し付けすぎてしまったようで、現在
はあまり連絡を取っていません。でも、彼の痛みや苦しみを分け合いたいと思う気持ちは
変わっていません。

一度「俺には家族は無い」ともらしたことがありましたが、そういう気持ちの人はもうそ
のままなのでしょうか。変わることはないのでしょうか。息子達が「父親像」を学習する
ことなく、経験することなく「父親」にならなければいけないのは不幸なのでしょうか。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
御身体くれぐれもご自愛くださいませ。 


【MYさんより、第2信】

相変わらず、いろいろと思いをめぐらせています。
幼い頃の記憶をたどってみたり・・・32年かかって現在のわたしが
ここにいるわけですから、心を閉じた時期がいつごろなのかはっきり
わかりませんが、4、5歳と考えても27、28年間そうやって生きてきた
ことになります。

でも、それで「今」のわたしが在り、子供達に
恵まれたのですよね。その子供達が、私に感情を表現することは
自然であり、自由であり、当然のことなのだと教えてくれたような気が
しています。この子達には自分のような、感情を抑え込んでしまう。

(楽しさも嬉しさも悲しみも寂しさも愛おしさも)ような状況には、させたく
ないと強く思います。

現在の私は過去の私の結果であり、また同時に未来の自分の原因である。
結果を変えることはできないけれど、原因は自分の気持ちひとつでいかにでも
変えられる。

私達の周りで起きている事象には、かならずその理由があると考えています。
両親がわたしに上手く愛情を伝えることができなかったことも、何か彼らの
原因・理由があるのだろうと思えるようになってきました。

「許して忘れる(Forgive and Forget)」がよいのだろうと思います。
でも、「許す」ためには何を許すのかを自分自身が見つめなければ
なりません。

実は、先日父が長男の頭をはたきました。食事中に、うどんのつけつゆを
自分でおわんにいれていてこぼしてしまった時のことです。
私の中で、小学2年生のときの嫌な思い出がフラッシュバックしました。
息子は突然頭をたたかれたショックで部屋へ行き布団に突っ伏してしまいました。

私はただただ息子を抱きしめ、「大丈夫よ。じいじは、おつゆがこぼれて
びっくりしてたたいちゃっただけだから。あなたのことが嫌いでたたいたんじゃ
ないよ。」と繰り返しました。

あの日、私は父に嫌われていると思い込んだのです。そして自分は必要ない人間かも
しれないと、自分には居場所がないと思うようになっていったのです。

優等生でいることで、自分の居場所をなんとか確保しようとしていた小学校時代
だったのでしょうか。

+++++++++++++++++++++

【MYさんへ、はやし浩司より】

 このところ、自分に自信がなくなってきました。何というか、自分自身が、だれかに助
けを求めたいような気分です。「自分でさえ、救えないのに、どうして他人を救えるか」と、
です。

 生きるということは、さみしいことですね。いえね、きっかけは、中学生の女子が、H
IVで陽性(エイズ)になったという話を聞いてからです。

 最初は、「とうとう、日本もここまできたか!」と思いましたが、そのうち、その女子中
学生の両親の心の中に、自分を置いて、ものを考えるようになってしまいました。「さぞか
し、つらいだろうな」とか、「自分なら堪えられないだろうな」とか、そんなふうに考える
ようになってしまいました。

 その女子中学生も、その両親も、私とはまったく関係のない人です。しかしどういうわ
けか、そのせいで、この数日、気が滅入る一方。おかしなことに、食欲までなくなってし
まいました。

 ワイフは、「あんたは、バカねえ。日本中を、一人で背負っているみたい」と、言います。
自分でもそう思うのですが、しかし、「ぼくには、関係ない」と、どうしても割り切ること
ができません。

 こういう原稿を書いているのも、ホームページを開いたり、マガジンを出しているのも、
結局は、よりよい未来を、子どもたちのために残すためです。しかし、その未来が、どん
どんと悪いほうに向っていく……。

 無力感というか、虚脱感のようなものを、感じてしまいました。

 MYさんが、今の私を直接見たら、「どうして、こんな弱々しいジジイに、相談なんかし
たのか」と、後悔すると思います。頼りなく、どこかいいかげん。そう、私は、いいかげ
んな人間です。自分でも、それがよくわかっています。MYさんの相談を受けながら、別
の心では、わずらわしさを感じています。

 本当なら、どこか親切そうに、それらしく善人のふりをしながら、返事を書くのがよい
のでしょうが、そういう仮面をかぶるのも、疲れました。そういう意味では、私も、優等
生のふりをしているだけかもしれませんね。他人によい人間に思われようとしているだ
け?

 またそう演ずることで、自分の立場をとりつくろっているだけ? もともと人間関係が
うまく結べないタイプの人間です。私は……。

 MYさんと私の共通点は、そのあたりにあります。つまり母子関係の不全というか、基
本的信頼関係が結べないというか、他人に対して、心を開けないのですね。どこか、不安
で、どこか心配。「こんなことをすると、嫌われるのではないか」とか、「自分の価値をさ
げるのではないか」とか、そんなふうに考えてしまうのですね。

 で、私のばあいは、あるときから、自分を飾るのをやめました。ありのままの自分をさ
らけ出すことにしました。「他人が、どう思おうが、知ったことか」とです。「どうせ、残
りの人生も短いことだし、好き勝手に生きてやれ」とです。

 それで、ずいぶん、気が楽になりました。居直ったわけです。講演会でも、ときどき、「ぼ
くは悲しいことがあると、ワイフのおっぱいを口に含んで寝ます」などと、言うことがあ
ります。意外とみなさん、シーンとした雰囲気で聞いてくれます。

 それが人間なのかもしれませんね。

 そして私とMYさんのもう一つの共通点は、幸福な家庭を築こうという、気負いばかり
が強くて、それで結局は、失敗しやすいということです。子育てというのは、そして家庭
作りというのは、本能ではなく、学習によるものなのですね。親像がない人には、子育て
はできない。幸福な家庭を知らない人には、幸福な家庭を築くことができない。

 しかし、ですね。私はある日、気がつきました。MYさんの時代とはちがって、私の世
代だと、幸福な家庭で、両親の愛情に恵まれて、何一つ、不自由なく育った人のほうが少
ないのです。みんな、だれしも、大きなキズというか、十字架を背負って生きているのだ
と、です。

 で、あの戦争が悪い。本当に、悪い。この話をし始めたら、キリがありませんが、原因
は、そこへ行きます。

 で、私も、そうだった。今のMYさんも、そうだった。今も、そうかもしれない。気負
いばかりが強く、それでいて、「これでいいのか?」と不安ばかりが先に立ってしまう……。
MYさんが、セックス依存症になったのも、恐らく、裸になってすべてをさらけ出してい
るときだけ、自分でいられたからではないでしょうか。

 私も、そうだったような気がします。若いころは、セックスばかりしていました。もっ
とも、あまりもてるタイプではなかったので、それなりの苦労は、いつもしていましたが
……。

 MYさんに今、アドバイスできるとしたら、どこに自分がいるかを知り、それがわかっ
たら、ありのままの自分を、さらけ出すということです。時間はかかりますが、いつか、
必ず、できるようになります。

 今も、父親をうらみたかったら、うらめばよいのです。心のどこかで、「そうであっては
いけない」とか何とか、自分をごまかすから、疲れるのです。あなたの父が、息子をたた
いたら、その場で、「たたかないでよ」と言えばよいのです。

 その点、私はよく引き合いに出しますが、クレヨンしんちゃんの中の、母親のみさえさ
んの生き方が、参考になります。(テレビのアニメのほうではなく、コミック本のV1〜5、
6まであたりが、参考になります。)

 しかしあなたは、すでに、自分の中の「私」に気がつき始めています。若い方なのに、
すばらしいことです。私の印象では、自分を振りかえるようになるのは、特別な事情がな
いかぎり、50歳を過ぎてからではないかと思っています。

 それまでは、わからない。が、あなたはすでに、自分の過去や、自分にまつわる問題点
を、冷静に、かつ客観的に見ておられる。私は、それがすばらしいことだと言っているの
です。

 今すぐというわけにはいかないかもしれませんが、あなたは、確実に、幸福に向った道
を歩み始めています。自信をもって、前に進んだらよいと思います。幸福に向うのに、正
道も王道もありません。常識的な道というのもありません。

 あなたはあなたの道を進めばよいのです。むしろ私は、あなたの生きザマの中に、すが
すがしいものを感じます。新しい女性というか、人間の生き方というか、そういうもので
す。

 いつかあなたは、あなたの子どもに、自分の生きザマを語るときがくると思います。そ
のときのために、今は今で、懸命に生きていきましょう。いつか、語るに恥ずかしくない
人生であれば、それでよいのです。勲章やメダルなど、なくても、よいのです。

 それを理解するかしないかは、あくまでも、子ども。子どもの問題。今、あなたはひょ
っとしたら、今度は、子どもの前で、「いい親」ぶろうとしている。しかし、もうやめたら
よいのです。ありのままを見せて生きたらよいのです。

 そのかわり、別のところで、子どもにさらけ出しても、恥ずかしくない自分をつくって
いく……。その努力は、忘れてはいけません。

 長い返事になりました。先ほどから、こんな長い返事(文)は、掲示板にのるかどうか
と、そんなことを心配しています。まあ、よろしかったら、トップページから、直接、メ
ールをください。また、返事を書きます。

(約束はできませんが、努めて、書くようにします。このところ、どうも、調子がよく
ありません。集中力が、長く続かないというか……。頭がボケてきたというか……。)

 では、また。

【MYさんへ、追伸】

 「許す」というのは、相手の心の中に自分を置き、相手の立場で考え、その相手の悲し
みや苦しみを共有するということです。

 もともと「愛」ほど、つかみどころのない感情はありません。が、「許して、忘れる」こ
とイコール、愛と考えると、ずっと、わかりやすくなります。が、ここで注意しなければ
いけないことは、愛という感覚がないからといって、自分は失格だとか、そういうふうに
考える必要は、ないのです。

 私たちは、神に帰依した、クリスチャンではないのですから。

 いえ、以前、あるクリスチャンの女性と、電話で話したことがあります。クリスチャン
といっても、カルト教団と言われている教団に属していた女性ですが、やたらと、「愛」と
いう言葉を使うのには、閉口しました。

 「私は夫を愛しています」
 「娘たちを愛しています」
 「父や母を愛しています」と。

 ふつうは、そんなことは、言いませんよね。ふつうの電話ですから……。私はその女性
が、愛という言葉を口にするたびに、「?」マークを重ねました。「本当に、この女性は、
愛が何であるのか、わかっているのか?」とです。「ただ狂信的に、そういう言葉を繰り返
しているだけではないのか?」とです。

 ですから、愛の概念は、それぞれ、みなが、自分の解釈で考えればよいのです。ただ、
よく使う言葉だから、それなりに、自分の考え方をもつのは、大切なことだと思います。
別に、どこかの牧師の言うことに従う必要も、ないのですが……。

 だからよく、「私は、子どもを愛することができません」とか、そういう相談をもらうと、
「ふうん?」と思ってしまうのも、事実です。「要するに、子どもを、受け入れることがで
きないのだな」とか、そんなふうに、勝手に解釈しながら、です。

 だからすぐ、私は、「無理をしなくてもいいのに……」「好きになれなかったら、好きに
なることもないのに……」と、思ってしまいます。しかたないでしょう。この問題だけは
……。

 しかしそんな私でしたが、ある日、気がつきました。こういう仕事をしているものです
から、ある日、ある中学生(男子)と話しているとき、それに気がついたのです。

 その中学生が、私にこう言いました。

 「先生、ぼくには、すばらしい力があると思う。しかし、親も、学校の先生も、それを
認めてくれない」と、です。

 そこで私は、「自分の力を認めてもらうには、何らかの形にしなければいけない。ただ自
分で、『力がある』と思っているだけでは、足りない」と。

 その中学生は、まわりの人たちに、(してもらうこと)だけを求めていたのですね。まわ
りの人たちに、(してあげること)は、まったく考えていない……。しかしそれは、まさに
自分の姿そのものだと、気がついたのです。

 私はさみしい。だれにも、相手にされない。孤独だ。だれも、私を救ってくれない、と。

 しかし他人の気持ちになって、その他人のさみしさや、孤独を救ったことがない人が、
どうして自分のさみしさや、孤独を救ってくれと、人に言うことができるでしょうか。も
っと言えば、他人にほどこしたことがない人が、どうして他人に向って、自分にほどこし
てくれと言うことができるでしょうか。

 私の知りあいに、こんな女性(60歳くらい)がいます。

 とにかく、ケチなんですねえ。本当にケチ。「私のものは、私のもの。あなたのものも、
私のもの」と考えるようなケチなんです。で、ある日、私は、その女性が、どうしてそう
までケチなのかということに気がつきました。

 その女性は、まさに利己主義のかたまり。異常なまでの依存性もあります。いつも、ま
わりの人は、自分のために動くべきだというような、考え方をします。が、その女性自身
は、人のためには、まったく動かない。何もしないのです。

 他人のために動くということは、損だと考えている。そんな雰囲気です。

 だからその女性の口ぐせは、一つ。「さみしい」です。「親なんて、さみしいものだ」「こ
の世間なんて、さみしいものだ」「生きるというのは、さみしいものだ」と。「渡る世間は、
鬼ばかり」「他人を見たら、泥棒と思え」も、口ぐせでした。

 当然ですよね。さみしいのは……。

 つまり、私は、こう気がついたのです。「孤独というのは、向こうからやってくるもので
はない。自分でつくるものだ」とです。

 では、どうしたらよいのか? もうその答は、おわかりですね。

 相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを共有すれば
よいのです。私がよく使う、「利己から利他への転換」というのは、そういう意味です。ま
た心理学の世界でも、それができる人を、人格の完成度の高い人と言います。子どもの心
の成長過程をみるときも、同じように考えます。

 「内面化」という言葉をつかいますが、他者との共鳴性、協調性、共感性のできる子ど
もを、人格の完成度の高い子どもとみるわけです。自分勝手でわがままで、自己中心的な
子ども(おとなも!)は、それだけ、内面化の遅れた子どもとみます。

 勉強ができるとか、できなとかいうことは関係がありません。むしろ、学歴の高い人ほ
ど、その内面化が遅れる傾向があります。その理由は、もうおわかりですね。

 で、その「相手の立場で、一度、相手の心の中に自分を置いて、その悲しみや苦しみを
共有する」ということですが、これが意外と、簡単なことなのですね。ウソのように簡単! 
本当に簡単!

 ちょっとした訓練でできるようになります。

 静かに目を閉じて、相手の心の中に一度入って、その人から見える自分の姿を想像すれ
ばよいのです。最初は、「相手からは、どんなふうに見えるのだろう」と、そういうふうに
考えればよいのです。

 これを繰りかえしていると、その相手が何を考え、どう思っているかが、手に取るよう
によくわかるようになります。とたん、その人の悲しみや苦しみがわかるようになるだけ
ではなく、相手に対してもっていた、怒りや不快感などが、すべて消えてしまいます。

 長い前置きになりましたが、それが「許す」ということなのですね。

 許すといっても、相手に好き勝手なことをさせることではありません。自分ががまんし
て、不愉快な思いをすることでもありません。許すというのは、一度、相手の心の中に入
って、相手の立場で、悲しみや苦しみを共有することなのですね。

 その相手が、子どもであれ、夫(妻)であれ、そして親であれ、友人であれ、だれでも、
です。

 が、ここで重要なことは、決して、見かえりを求めないということです。無条件という
か、無我というか、そういう状態で、することです。「してあげる」とか、「してやる」と
かいう意識をもってはいけません。反対に、「してあげたのに」とか、「してやったのに」
という意識も、もってはいけません。

 どこまでも無条件です。

 その度量の広さが、あなたの心を豊かにします。そして同時に、あなたは、孤独から解
放されます。真の自由、さらに真の幸福感は、その孤独から解放されたときに、手にする
ことができます。

 ……と言っても、今の私が、それができるということではありません。私自身も、やっ
と、その糸口をつかんだというか、入り口に達したというか、そういう状態なのです。口
で言うのは簡単なことです。いつでも、そうです。

 しかし、実際、それを実行するのは、たいへんなことです。自分でも、よくわかってい
ます。が、ここであきらめるわけにはいかない。また立ち止まっているわけにも、いかな
い。前に進むしかない。

 今の私の心の状態は、そこに何かモヤモヤとしたものを感じながら、懸命にもがいてい
るという状態です。「あと一歩で、わかるのだが……」とです。「あと一歩で、今まで、追
い求めてきたものが、わかるのだが……」とです。はがゆい思いでいます。

 以上、わけのわからないことを書いたかもしれませんが、MYさんが言うように、『許し
て、忘れる』というのは、本当にすばらしい言葉です。それは事実ですから、その言葉を、
これからも大切に! 何かのことで行きづまったりしたら、この言葉を思い出してみてく
ださい。きっと、その先に、トンネルの出口を見ることができますよ。

 そうそう、あなたの父親にしても、一度、あなたの父親の立場で、その心の中に入って
みてあげてください。そうすれば、あなたの父親が、小さく、どうしようもないほど、つ
まらない人に見えてくるはずです。(だからといって、あなたの父親を軽蔑しているとか、
そういうことではなりません。あなた自身が、父親のもつ虚像というか、幻想から、解放
されるということです。

 「何だ、父も、ただのふつうの人だったんだ」とです。

 一度、試してみてください。


【MYさんより、第3信】

こんばんは。はやしさん、お返事ありがとうございました。とてもうれしいです。

でも、今ははやしさんご自身の心があまりお元気ではないようですね。お返事をいただけ
ることは大変うれしく、ありがたく思いますが、どうかご無理をされませんように。

放っておけない性分だとご自身でおっしゃっている方に対してこんな勝手なお願いはいけ
ないのかもしれませんが、私へのお返事は本当に気の向いたときだけで結構です。私はこ
うして書き込むことだけでも十分自己満足していますから。

直接メールを送ることも考えたのですが、なぜ、私が掲示板に書き込んだのか、その理由
を書いておこうと思います。

掲示板であれば、同じ悩みや不安を抱えた人、もしくは今まさに両親との関係に悩んでい
る子供達がロムして、参考になることがあるかもしれないと思ったからです。

「自分」を見つけられないということは本当に苦しいことです。生きていることの意味が
わからなくなります。自分を大切に思えない人間は、他人も大切に思えません。感情を押
し殺していると表現していますが、では本当の自分がどう感じているかさえわからないの
です。うれしいのか、楽しいのか、悲しいのか・・・。それぞれの感情がどういうことな
のかを体験していないということは哀れです。理性で判断するしかないのです。だから、
本心から笑わない、笑えない。

SEX依存症についての
>裸になってすべてをさらけ出しているときだけ、自分でいられたからではないでしょう
か。

というのは違います。SEXをしていても、快感を得ることはありませんし、どちらかといえ
ば苦痛でした。涙を流しながらしていたこともあります。身体は道具でした。寂しさをま
ぎらわすための、誰かにそばにいてもらうための道具でした。SEXさえすれば、特別扱いし
てくれる、優しくしてくれる、だからSEXをするのです。今思えば、一種の自傷行為に近
い行動だったと思います。リストカットしたこともあるくらいですから・・・。

つまり、自分自身の存在価値を自分自身が感じられないために、人より頑張り、他人の目
の中でしか自分をみられず、いつも「幸せって何だろう」と考えながら生きてきたのです。
気分が落ち込んで、マイナス思考に傾くと「自分などいなくてもよい」、「いないほうが
よい」となり、自傷行為にはしるのです。もともとは楽天的なのか、気分のよいときは「他
人を見返してやる」という気持ちの下でどんな努力も厭わず行動しています。

「いい親」を演じるのはやめるようにします。「私らしい親」が自然にできるようになれ
ばいいなと思っています。こどもの幸せを祈る気持ちには嘘偽りがないことはしっかり感
じていますから。

時間がかかっても、未来の私がすなおな人間になれるように原因を作っていこうと思いま
す。

はやしさん。少なくとも私ははやしさんに救われました。人間は自分自身のことが一番わ
からないのではないでしょうか。鏡を見なければ自分の顔が見えないように・・・。

だから、どうぞ自信をお持ちください。未熟だから未完成だから助け合って生きていくの
ではないでしょうか。「ネバー・エンディング・ストーリー」の中でも「虚無」が世界を
暗黒にしてしまうのを「勇気」と「希望」で阻止して物語は続いていきました。

わたし達人間の生命もそういうものなのではないかと思います。あきらめてしまったらそ
こで終わってしまう。誰がどう思おうと、何と言おうと、「未来の子供達のためによりよ
い世界を残す」ことは決して間違いではないのですから。最後の一人になったとしてもあ
きらめずに生き抜くことが、子ども達にしてやれる唯一のことではないでしょうか。

国内でも海外でも心の痛む事件ばかりが毎日あります。一日も早く、地球上のすべての子
ども達が安心して生活できる、「幸せ」を肌で感じられる日がやってくることを切に祈り
ながら、自分に出来ることが何なのか、問いかけながら生きていこうと思います。

本当にありがとうございました。

元気出してくださいね。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●負けることの、美しさ

 負けることには、不思議な美しさがある。その美しさは、勝ったときの美しさに、まさ
る。その美しさは、負けたものでないとわからない。

 簡単な例で考えてみよう。

 車が、細い路地に入った。そのとき、向こうから、車がやってきた。こちらのほうが、
先に路地に入っている。しかも向こうの車のすぐうしろには、車を寄せるだけのじゅうぶ
んなスペースがある。

 そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。

 当然(?)あなたは、向こうの車に、引きさがることを求める。しかし簡単には、そう
はいかない。向こうは向こうで、何かの言い分がある。そんな雰囲気である。

 そういうとき、すなおに負けてみる。こちらが、車をさげてみる。深く考える必要はな
い。プライドがキズつけられたとか、そんなふうに考える必要もない。仮にそれで相手が、
何もあいさつもせず通りすぎたとしても、気にすることはない。

 それが「負ける」ということである。

 この美しさは、反対の立場で考えてみればわかる。

 当然、こちらが引きさがらなければならないような場面を考えてみよう。

 そのとき相手が、そのまま車を引きさげたとする。あなたは相手の度量の深さに驚くだ
ろう。が、それだけではない。ふと、そのとき、自分の心のせまさを思い知らされる。そ
れが相手の「美しさ」である。

 こうした場面には、いつも、出会う。日常的に経験する。

 そういうときは、すなおに負けてみる。意地を張ったり、がんばったりする必要はない。
無理をしてもいけない。「ああ、そうですね」と、負けてみる。

 もちろん人間は、がんばるところでは、がんばる。しかしそれはあくまでも、自分に対
してのこと。あるいは社会的正義や、平等、自由に対してのこと。自分以外のものに、が
んばっても、意味がない。ささいなものにがんばっても、意味がない。ないばかりか、か
えって自分の住む世界を、小さくしてしまう。

 さあ、あなたも勇気を出して、負けてみよう。最初は、本当に勇気がいる。しかし一度
くらいなら、実験のつもりで、そうしてみる。それで気まずさが残るようなら、私の言っ
ていることがまちがっていると思えばよい。

 しかしあなたも、もし勇気を出して負けてみるなら、そのすばらしさに、気がつくはず。
昔から、『負けるが勝ち』という。負けることによって、あなたは、自分の心を広くするこ
とができる。そしてそれまで気がつかなかったものに、気がつくことができる。

 勇気を出して、あなたも、一度、負けてみよう。いろいろ悔しい思いをすることもある
かもしれない。しかしそんなときは、ハハハと笑ってすませばよい。ハハハと、だ。

【補記】

 よくそのスジの男が、「ガン(眼)をつけた」とか、「肩が当たった」とか言って、おか
しな因縁をつけて、からんでくることがある。もともとノーブレインな人間。サル同然の
人間だから、相手にしない。

 そういう男というのは、本当の勇気というものがどういうものであるかを知らない、つ
まりは、おく病な人間ということになる。そういう意味でも、真の勇気は、勝ったときに
試されるのではない。負けたときに試される。


●いつも夫婦げんかをしている人へ……

 数日前、私のマガジンへのアンケート調査の中で、「マガジンを読むようになったおかげ
で、夫婦げんかがなくなりました」と、書いてきてくれた人がいた(女性、40代、大阪
府在住)。うれしかった。思わぬところで、思わぬ効果をもたらしたようだ。

 理由は、「夫の心の中に、自分を置いて考えることができるようになったこと」だ、そう
だ。私は、どちらかというと、親子のつながりを、切らないために、そうしたらよいと書
いたのだが……。

 たしかに一度、相手の心の中に自分を置いて考えみると、怒りがしずまることがある。
相手の立場になってものを考えるから、怒りそのものが生まれてこない。

 言いかえると、相手が夫であるにせよ、子どもであるにせよ、イライラしたり、カッカ
したりするというのは、それだけ、こちら側が、自己中心的であることを意味する。自分
を中心にものを考えるから、怒りが生まれてくる。

 が、相手の心の中に自分を置くと、すぐ、「私ならどうか?」「私ならできるか?」とい
う発想に変わる。「どうして夫や子どもは、そうするのか?」ということまで、わかってく
る。

 たとえば定期テストが近いにもかかわらず、息子が、居間でゴロゴロしていたりする。
そういうときたいていの母親は、自分の不安や心配を子どもにぶつける。「勉強しなさい!」
と。

 しかしそのときでも、ふと、子どもの心の中に、自分を置いて考えてみる。「どんな気分
だろう?」「どんなふうに考えているのだろう?」「なぜゴロゴロしているのだろう?」と。
とたん、怒りが消える。不快感が消える。

 そしてそのかわり、「たいへんなのね」とか、「ごくろうさま」という、ねぎらいの言葉
が、口から出てくる。つまり結果として、親子げんかは消える。

 が、逆の意見もあった。

 「夫が、権威主義者で困ります。子どもに対して、頭ごなしにあれこれ命令したりしま
す。私は、それではいけないと、間に割って入るのですが、そのたびに、夫婦げんかにな
ってしまいます」と。

 その母親は、私のマガジンの熱心な読者ということだった。しかしこういう話を聞くと、
申しわけない気持ちになる。私のマガジンが、夫婦げんかの原因になっているように感ず
るからである。

 こういうときどこかの宗教団体なら、「そういう抵抗にもめげず、前に進みなさい。必ず、
夫は、いつかあなたの正しさに、頭をさげるでしょう」と、信者に教えるのだろう。が、
それはおかしい。

 私は、こう思う。

 子育てのことで、夫や妻と対立したら、まず、夫や妻に、妥協しなさい、と。

 子育ての問題には、その人の人格はもちろんのこと、人生観や哲学、さらには、その人
の過去や歴史が、すべてからんでくる。だからこの種の問題は、一度、対立すると、とこ
とんこじれる。こじれることの弊害を考えるなら、一時的な妥協など、何でもない。だか
ら妥協する。

 大切なことは、両親が、一枚岩となること。楽しく過ごすこと。子どもとの間で、一対
一の関係を築くこと。三角関係(心理学でいう、「三角関係」)は、決定的にまずい。

 もしあなたが賢い妻(夫)なら、そうする。というのも、仮に対立したとしても、政治
問題のような深刻な問題ではないからである。たかが、(こういう言い方は失礼な言い方に
聞こえるかもしれないが)、一家庭の問題である。

 だから、「そうね、そういう考え方もあるわ」「あなたは、あなたの考え方をつらぬけば
いいのよ」と、言って、すます。そもそも全人格をかけて戦わねばならないような問題で
はない。もしそんなエネルギーがあるなら、外の世界に向って、それを発散すればよい。
政治的な不正を怒ったり、環境破壊と戦ったらよい。

 どうか、どうか、家庭は、平和に! 安穏に! 安らかに!


●インターネットの普及

 「パソコンを使ったインターネットの利用度」は、03年度、小学校で、99・4%。
中・高校で、99・8%にもなった(文科省)。

 ほぼ、100%と、みてよい。

 しかし問題がないわけではない。ひとつは、いかに利用するかということ。もう一つは、
いかにその悪影響から、子どもを守るかということ。悪影響の中には、インターネットの
利用度が肥大化するにつれて、ほかの分野の教育が、なおざりになることも含まれる。

 インターネットは、いわば、超巨大な図書館である。その図書館が、デスクにのったと
思えばよい。それはすばらしいことだ。私自身も、インターネット時代になって、ほとん
ど図書館へ行かなくなった。

 もう一つは、メール交換である。昔は、一人単位、一日単位で動いていた、手紙による
人間関係が、それこそ、数分単位で、動くようになった。砂浜に打ち寄せる波のように、
ザザー、ザザーと、人とのつきあいが、広く、浅くなった。

 それがよいことなのか、悪いことなのか、まだ私にはよくわからない。しかし一つだけ
言えることは、あまりにもそのスピードがはやすぎて、対応しきれていないということ。
ひとつの問題が起きて、それにかまっている間に、別の問題が、つぎからつぎへと生まれ
てくる。そんな感じである。

 文科省も、つぎのように認めている。

 「教師や保護者の関心は、ITより、学力低下にある。現場の教師は、その対応に追わ
れているのが実態で、なかなか情操教育、モラル教育に力を注げないでいるのではないか」
(西日本新聞・04・6)と。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   04年 10月 1日(No.470)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●お金がたいへん!

 日本では、公的な補助金は、法人に対してはなされるが、個人に対しては、なされない。
アメリカでも、EUでも、基本的には、助成金(補助金)は、まず、子どもをもつ親に支
払われる。

 しかしこの日本では、幼稚園や保育園など、法人に対して、なされる。個人への助成金
というのは、微々たるもの。大阪府の例では、保育園児をもつ親の助成金は、3歳児をも
つ家庭のみで、しかも年額たったの2万3000円。(年額だぞ!)

 こうしたおかしな税金の使われ方に対して、だれも声をあげないのは、なぜか? だれ
しもその時期は、おかしいと思う。しかしその時期を通りすぎると、忘れてしまう。「私は
関係ない」と、つっぱねてしまう。

 かくして、約40%の若い母親たちが、「子育てにお金がかかる」と不安に思っている(大
阪府私立幼稚園連盟調査・04年)。そして少子化が進む理由として、約90%の人が、「経
済的な負担」をあげている。当然だ。

●少子化? 当然だ! 

少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均1
1万7000円(99年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだ
けではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜
50万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インター
ネットも常識。…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、こ
れまた常識。世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大
学生、親、貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、
さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も
税法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに
少ない。欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。
日本はこの10年間、毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわ
らず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。
それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200円ずつの奨学
金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育
というのはそういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」
への隷属意識は、世界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩
(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日
本人のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育
を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」
と考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こ
ういう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中
する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、五十
年はおくれている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなと
ころで、子どもを育てたくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろ
あって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わって
いない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなとこ
ろで、孫を育てたくない」と。

 私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるで
あろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしか
ない。

【もっと、賢くなろう!】

 H元首相が、日本I会から、1億円の闇献金を受けていた。1億円だぞ! が、本人は、
「覚えていない」と、しらばくれている!

 ……といっても、政治家が悪いのではない。そういう政治家を選ぶ、私たちが悪い。さ
らに言えば、私たち日本人は、民主主義がどういうものかさえ、本当のところ、よくわか
っていないのでは……?

 こうした政治にストップをかけるのは、結局は、私たち一人ひとりの、知性と理性とい
うことになる。少数の人がリーダーになるのではなく、みんなでその底辺をレベルアップ
していく。

 そのためにも、もっともっと、みんなで考えよう。考えて、賢くなろう。日本の政治を
変えていくためには、その方法しかない。日本をよくするためには、その方法しかない。

 武器は、常識。その常識をみんなでみがこう! おかしいものはおかしいと、みんなで
声をあげよう!

 おかしな政治家による、おかしな政治家のための、おかしな政治家の政府。その結果が、
今の日本の少子化ではないのか。第二東名高速道路に11兆円(11兆円だぞ。国家税収
の4分の1以上だぞ!)もかけるくらいなら、子どもをもつ親を、もっと助成しろ!

 11兆円もあれば、全国、500万人の親たちに、200万円以上もの、助成金が配れ
る。立派な公共施設は、もういい。そんなものを作れば作るほど、そのツケは、今の子ど
もたちに回るだけ。

 この私ですら、3人の息子の子育てがほとんど終わった今、こう言う。

 「子どもは、1人か2人にしなさい。3人はおよしなさい。生活費や学費がたいへんで
すよ」と。

今に見る、少子化は、あくまでも、その結果でしかない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【娘の家出】

******************************

神奈川県に在住の方から、娘の家出についての、相談があった。
子どもは、現在、13歳。

家族構成は、母親(相談者)、父親(亭主関白風の権威主義な
ところがある。)ほかに妹2人、弟1人。

(メールの掲載を許可していただけませんでした。)

******************************

【林先生へ、GSより……】

 夏休みが終わったとたん、娘が家出をしました。
 夏休みの間、門限を破ったりして、父親にはげしく
 叱られたりしたことが、理由ではないかと思います。

 家出をして、数週間になります。
 今は、どこにいるかわかりませんが、携帯電話で
 連絡をとりあっているような状態です。

 毎日が、たいへん苦しいです。
 どうしたらいいでしょうか。

 (神奈川県 Y市、GSより)

*******************

【GSさんへ、はやしより……】

 子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものではありません。親を罵倒し、けんかして、
別れていく例も、少なくありません。しかしだれしも、そんな結末を望むものではありま
せん。みんなそれぞれの夢や希望をもって、子育てを始めます。が、どこかで狂う。狂っ
て、GSさんのようになる……。

 遠因を言えば、2歳ちがいの妹が、生まれたときから始まったのかもしれません。どこ
か権威主義で、亭主関白な父親にあったのかもしれません。あるいは、どこか過干渉ぎみ
で、子どもの心を見失った、GSさん、あなた自身にあったのかもしれません。

 この際、原因はともかくも、現状として、娘さんは、家出をしてしまった。怠学から不
登校、お決まりの夜間外出、そして家出です。

 こういうケースでは、二つの方向から、ものを考えます。

 ひとつは、今の状態を最悪だと思わないこと。(GSさんは、最悪だと思っているかもし
れませんが、さらに底の下には、底があるということ。)つぎに、こういう状態を、もとに
戻そうと思わないこと。「今の状態を、これ以上悪くしないことだけ」を考えて、対処する
ということです。

 13歳ということで、大きな不安や心配を感じておられることが、よくわかります。し
かも女の子です。私の立場では、「どうしてこうまでこじらせてしまったのか」ということ
になりますが、しかし、ケースとしては、よくあることで、決して、珍しくありません。

 また症状としては、引きこもり、家庭内暴力、心の病気などとくらべても、非行は、予
後もよく、一過性の問題として、今の対処の仕方さえまちがえなければ、やがて笑い話に
なるものです。さらに決して、家出などの非行を奨励するわけではありませんが、こうし
たサブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるこ
とも、よく知られています。

 ものごとは、悪いほうへ、悪いほうへとばかり、考えないこと。一つだけ、はっきり言
えば、あなたはぜんぜん、子どもの立場で、ものを考えていないということ。どこか自己
中心的で、押しつけがましい子育てをしている。だから、子どもの心が読めない。つかめ
ない。もっと言えば、自分の心配や、不安を、子どもにぶつけているだけ。

 つまりあなたが心配すればするほど、子どもは、それを「うるさい親の干渉」ととらえ
るわけです。一方、あなたはあなたで、「私の子ども」という、「私の……」という幻想と、
「子ども」という幻想にとりつかれている。そして「まだ何とかなる」「こんなはずではな
い」「うちの子にかぎって……」と、悩んでいる。

 何が原因かと言えば、まずもって、あなたは自分の子どもを、信じていない。その理由
と原因はともかくも、今の段階で、それであなたはかまわないかもしれませんが、相手の
子どもの立場で考えてみたことがありますか。

 親にも信じてもらえない子どもの苦しみというか、はがゆさというか……。

 本来なら、家庭で、その怒りや不満を、直接、あなたにぶつけてみたいのかもしれませ
ん。しかしそれをあなたの父親が、力づくで、おさえこんでしまった(?)。下には、妹や
弟もいる……。

 そこで家出、ということになったわけです。

 一般的な方法としては、(1)まず、学校の先生に、相談する、です。事件性があれば、
警察ということになりますが、先生から校長、校長から、各種相談機関へ、話が進むはず
です。

 が、この段階で、あなたの子どもは、必ず、一度は、家に帰ってきます。問題は、その
あとです。

 あなたの子どもが、家に帰ってきたら、(1)暖かい無視と、(2)ほどよい家庭にここ
ろがけてください。「求めてきたら、与えどき」と心得ます。説教したり、叱ったり、あれ
これ指示するのは、禁物。とにかく、無視、です。

 学校へは行かないものと、あきらめてください。進学塾は、もちろんのことです。この
問題は、親があきらめたとたん、その解決の糸口が現れるものです。「あなたの好きにしな
さい」と宣言し、親は親で、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけ」を考えて対処し
ます。

 こういうケースでは、もうひとつ、深刻な問題が、現れてきます。妹と弟の問題です。

 対処の仕方をまちがえると、妹や弟たちも、同じ経過をたどることになります。理由は、
あなたの子どもにあるからでは、ないからです。あなたの子育てのリズムが、そうなって
いるからです。

 あなたの子どもが帰ってきたら、あなたは、子どもに、こう言います。「あなたも、つら
かったのね」「お母さんもあなたの気持ちがわからず、悪かった」と。あとは、ただひたす
ら、許して、忘れる。これだけを繰りかえしてください。

 あなたの子どもが、今の家庭に居場所さえ見つかれば、もう家出をする必要はないはず。
その居場所を、つくってあげます。根気のいる作業です。半年とか、1年単位の時間がか
かります。すでにあなたの子どもの心は、かなりキズつき、病んでいると思ってください。
家庭環境を改めたから、すぐなおる……という問題では、ありません。

 会話もなくなるでしょう。いたたまれないような緊張感も、漂うようになるでしょう。
はりつめた雰囲気が、家庭を重くふさぐかもしれません。

 が、それでも許して、忘れます。その度量が、いつか、あなたの子どもの心に風穴をあ
けます。そしてここにも書いたように、それがいつか、すぐ、笑い話になります。今のあ
なたにはわからないかもしれませんが、必ず、笑い話になります。それを信じて、前に進
んでください。

 今、あなたの子どもは、あなたが苦しんでいる以上に、もがき、苦しんでいます。あな
た以上に、不安で、将来を憂えています。しかしどうしようもないから、それをあえて、
別の形で、表現しているのです。一見、わがままに見えるかもしれませんが、そうするし
か方法がないのです。

 が、やがてこの時期は、すぎます。長くて2年。早ければ、明日にでも、です。幸いに
も、メールでの交信ができているということですから、その交信手段は、切らないように。
説教したり、命令がましい言い方は、避けるのが鉄則です。

 あくまでも子どもの立場に立った、メールを送ります。どんなに迷っても、腹立たしく
思っても、そこは、がまん。ただひたすら、がまん。今こそ、あなたの忍耐力と、子ども
への愛情が試されるときと、覚悟してください。お産のときの苦しみを思いだしてくださ
い。

 あのときは、肉体をこの世に産み出す苦しみでしたが、今は、心を生み出す苦しみです。
あなたがそれに耐えたとき、あなたの子どもはもちろん、あなたも、すばらしい人間に変
身できます。つまり、今度は、あなたの子どもが、あなたを育てているのです。わかりま
すか? この親子のもつ、生命の深遠さを!

 最後に。あなたの子どもは、あなたが思っている以上に、おとなです。いろいろ心配な
点があるかもしれませんが、少なくとも、今日までは、無事です。ですから必ず、明日も、
無事です。今、あなたができることは、子どもがいつもどってきてもよいように、部屋を
掃除して、窓をあけていることだけです。

 いつか、あなたの子どもは、今の時期を振りかえるときがきます。そのとき親子をつな
ぐ絆は、「母は、私を信じてくれた」「守ってくれた」「許してくれた」という思いです。ど
うか、長いスパン(時間的尺度)でも、今の問題を考えてください。

 こういう月並みな言い方で失礼かもしれませんが、こういうケースは、珍しくありませ
ん。ある意味で、どこにでもあるケースです。一部の悪い事件ばかりが目立ちますが、そ
れは例外です。

 あなたの子どもは、子どもというよりひとりの人間として、結構、しっかりと生活して
いますよ。それがわからなければ、あなた自身の13歳のときを、思い出してみてくださ
い。

 そうそうたまたま数日前ですが、N市に住んでいる中学校の先生の妻から、こんなメー
ルが入っていました。

 「夫は、今夜も、午前1時に帰ってきました。家出した生徒を、さがすために、N市の
繁華街中を歩き回ったためです」と。そのときは先生の立場だけで、その先生に同情しま
したが、今は、反対の立場に立たされ、複雑な心境です。

 とにかく、一度、担任の先生に相談なさることです。

 では、あまりよいアドバイスになっていないかもしれませんが、参考意見の一つとして、
ご利用ください。

                           はやし浩司
(はやし浩司 家出 子どもの家出)
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参考までに、以前書いた原稿を添付します。

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子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子
どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。ま
ちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てをしながら、
それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうな
しに育てられる。

たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、
どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさ
んにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころ
には、ちょうど稲穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなく
してから気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。と
くに二男は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、し
かもほとんど人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞
くと、国体の元水泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で
遊んでいるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんが
いない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。
私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。

私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、
それもできなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水
泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思い
なおすことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰
り返したときも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きてい
るだけでいい」と思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というの
は、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということ
だが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下か
ら見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決す
るから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んで
いると、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英
語では「Forgive and Forget」という。

この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フ
ォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたよう
に思う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切
った。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子ども
ではないか。許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛
を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許
し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。もちろん許して忘れるということは、子ども
に好き勝手なことをさせろということではない。子どもの言いなりになるということで
もない。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるというこ
と。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、
その問題を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生き
ている」という原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い
出してみてほしい。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●心の訓練

 「相手の心の中に入って、相手の立場でものを考える」というのは、とても大切なこと
である。このことについては、もう何度も書いた。

 そこで私は、こうした訓練を、教育の場でできないものかと考えている。言うまでもな
く、こうした訓練は、できるだけ早い時期にするとよい。子どもが、まだ、小学2年生と
か、3年生のうちに、である。もっと早い時期でもよい。

 そのころに、こうした「芽」を作っておく。あるいは方向性を作っておく。

 方法は、たがいに対峙して座らせ、たがいの心の中を言いあうといった程度のことでよ
い。一度、相手の立場に自分を置いて、ものを考えるという訓練をする。

 もちろんこうした訓練は、家庭の中でもできる。が、その前に、あなた自身が、それを
自分でしてみるとよい。ものの見方、考え方が、一変するはずである。つまり、あなた自
身が、他人の心の中に自分を置くことの(すばらしさ)を、まず実感する。

 たとえばあなたが、夫(妻)と並んで食事をしていたとする。そのとき、あなたは、頭
の中で、夫が、何をどう見ているかを想像するだけでよい。何をどう考え、どう思ってい
るかを想像するだけでよい。

 最初は、小さなとまどいがあるかもしれないが、それを過ぎると、いつでも、どこでも、
それができるようになる。そして相手の悲しみや苦しみはもちろんのこと、ときには、怒
りや不満まで、わかるようになる。

 すると、それまでは、「なぜ?」「どうして?」と思っていた、相手の心が、そのまま理
解できるようになる。たとえば今、あなたがあなたの夫(妻)のことで、どうしても理解
できない部分があったとする。あるいは、何度言っても、理解してもらえない部分があっ
たとする。

 そういうとき、まず、相手の心の中に、自分を置いてみる。そしてそこから反対に、あ
なた自身の姿をとらえてみる。すると、それまでわからなかったことが、わかるようにな
る。

 この技法は、子どもを指導するときも、たいへん効果的である。

 たとえばある子どもが、忘れ物をしたとする。もう何度も注意した。が、それでもまた
忘れ物をしたとする。

 そういうとき、指導する側にいる私としては、頭から、それを叱ったりしやすい。「忘れ
物をしてはだめだ!」と。が、そのとき、子どもの心の中に、自分を置いてみる。すると、
ものの考え方が、一変する。子どもへの接し方も、一変する。

 子ども自身は、叱られることを、恐れている。忘れ物をしたのは、意図的な行為という
よりは、うっかりしたためである。その上、このところ、何かと忙しい。暑い。風邪気味
だ。……というようなことが、わかる。

 そういう視点に一度、自分を置いてみると、もう子どもを叱れなくなる。叱れなくなる
かわりに、こんな言い方が、口から出てくる。

 「いろいろ、忙しかったんだね」「このところ暑いからね」「別に叱らないから、先生を、
こわがらなくてもいいよ」「先生だって、よく忘れ物をするんだよ」と。

 ためしに、この方法を、あなたの夫(妻)にためしてみてほしい。いつも同じようなパ
ターンで口論が始まり、夫婦げんかになるというのであれば、なおさらである。

【補記】

 昔の人は、こうして相手の心の中に自分を置き、その相手の立場でものを考えることを、
「思いやり」と呼んだ。

 すばらしい言葉である。英語になおすと、「同情(sympathy)」から、さらに「慈
悲(mercy)」。さらに「愛(love)」という言葉になる。

 相手を広く、深く、思いやることができる人を、人格の完成度の高い人という。そうで
ない人を、完成度の低い人という。

 皮肉なことに、人格の完成度の高い人からは低い人が、よくわかる。しかし低い人から
は、高い人がわからない。

(だからといって、私がその人格の高い人ということではない。誤解のないように。そ
れに、人格の完成度には、際限がない。あくまでも相対的なものである。)

このばあいも、思いやりのある人からは、思いやりのない人が、よくわかる。しかし思
いやりのない人からは、思いやりのある人がわからない。ただのお人好しか、バカに見
える。

 子どもの世界でも、似たようなことはよくある。

 ずいぶんと前だが、私にこんなことを言った、男子高校生がいた。

 「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ。受験勉強ができなくなる」と。

 こういうものの考え方をする高校生ほど、この世界では、成功者(?)になる可能性が
高い。しかし、同時に、こういう高校生ほど、やがて孤独に苦しむようになる。

 孤独がいかに恐ろしいものかは、若い人にはまだわからないかもしれない。しかし孤独
は、まさに地獄。無間の地獄。この孤独に耐えられる人は、いない。絶対に、いない。あ
のイエス・キリストも、孤独(飢え)に苦しんだ。マザーテレサが、そう言っている。

 今までに、何度もとりあげた文章だが、もう一度、ここでマザーテレサの言葉を、確認
しておきたい。

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When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger 
for bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself 
experienced this loneliness. He came amongst his own and his own received him 
not, and it hurt him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the 
same loneliness, the same having no one to be accepted by and to be loved and 
wanted by. Every human being in that case resembles Christ in his loneliness; 
and that is the hardest part, that's real hunger. 

キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物と
してのパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味し
た。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛
されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そし
てそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、
キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

 「先生、学校祭の準備委員をするようなヤツはアホだよ」と言った高校生だが、では、
それだけ勉強していたかというと、そうでもない。ヒマな時間がたっぷりとある子どもほ
ど、勉強をしない。これは、子どもの世界では、常識。

 それはさておき、ここでいう人格の完成度と、その人の学歴とは、まったく関係がない。
ビジネスの世界で成功した人が、それだけ人格の完成度が高いかというと、それもない。
むしろ、実際には、はげしい受験勉強や、ビジネスの世界を渡り歩いた人ほど、人格の完
成度は、低い(?)。

 「他人を蹴落としてでも……」という冷徹な人生観が、その人の思いやりの心を閉ざし
てしまうからである。またそういう冷徹な人生観がないと、こういった狂騒主義の社会で
は、成功(?)できない。そう決めてかかることはできないが、そういう部分も多い。子
どもの受験競争を例にあげるまでもない。

 戦後の日本の教育がおかした、最大のミスは、ここにある。……というのは、少し大げ
さに聞こえるかもしれないが、それほど、まちがっていないと思う。つまり、勉強のでき
る子どもイコール、頭がよい子イコール、人格的にもすぐれた子どもと誤解した。
 
 その誤解の上に、戦後の日本の教育が成りたっている? ……私は、どうしても、そん
な感じがしてならない。

 もちろん親や子ども、そして教師に責任があるわけではない。みんな一生懸命してきた
だけ。しかし、どこかで歯車が狂った。その結果が、「今」ということになる。

 本来、教育というのは、「思いやり」を教えることに主眼を置かねばならない。それがい
つの間には、知識教育に置きかわり、さらに、受験教育に置きかわってしまった。戦後の
日本の経済的発展は、そういう教育の上に乗っているが、しかしその弊害も無視できない。

 日本に住んでいる以上、日本の競争社会は避けて通れない。が、どこかで、ここでいう
人格の完成を、考えることは、大切なことだと思う

【物質的な繁栄】

 物質的な繁栄が、そのまま心の豊かさにつながるとは、かぎらない。いわんや人格の完
成につながるとは、かぎらない。

 昨日も、ワイフとドライブをしていたら、見るからに高級な外車(イギリスのJ車)が、
私たちの車の前を、横切っていった。めちゃめちゃな運転だった。見ると、まだ20代の
前半と思われる、若い男だった。

 「どうして、あんな若い男が、あんないい車に乗れるのかねえ?」と私が声をかけると、
ワイフも、「へえ……」と言ったきり、黙ってしまった。「きっと、親のスネをかじってい
るんだよ」と私が言うと、「そうよねえ。いくら何でも、あんな車、買えるわけがないもん
ねえ」と。

 見るからに軽薄そうな若者と、見るからにチグハグな高級車。この組みあわせが、どこ
か日本の社会全体を象徴しているかのようにも、思える。たしかに日本は、物質的には豊
かになったが、中身がついてきていない。そんな感じがする。

 もっとも、中身を豊かにするのは、これからのこと。今が、ダメだからといって、それ
が結論というわけではない。20代そこそこの若者が、高級車に乗ってはいけないと言っ
ているのでもない。ただ、物質的な繁栄のまま、終わらせてはいけないということ。

 そういう若者が、そういう高級車に乗り、どこかの景色のよいところに車を止め、音楽
を聞いたり、本を読んだりするようになれば、すばらしい。そういう若者が、人生を語り、
善と悪について論ずるようになれば、すばらしい。もしそうなれば、つまりそういう若者
が、そういうことをするようになれば、この日本も、さらにすばらしい国になる。

 その部分に、期待したい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●台風16号

 ただ今(8・30・朝10時)、台風16号が、九州を直撃中。ワイフの話だと、家の土
台だけ残して吹き飛ばされた家もあるという。(私は、朝のニュースを見ていない。)

 大型の台風だ。

 私は、この台風が日本に近づきつつあると知ったとき、その台風が、K国に向うことを
願った。「K国へ行けばいい」と。

このところK国は、ますますわけのわからないことばかり、言い出している。自分たち
は好き勝手なことを、言い放題言っておきながら、相手の言ったことについては、針小
棒大にとらえて、大騒ぎをする。

 被害妄想性と過剰行動性。今のK国を、一言で批評すると、そういうことになる。

 が、こんなことを表立って言ったら、たいへんなことになる。(すでに表立って言ってい
るが……。)しかし台風などというものは、私たちが願ったところで、そちらへ行くもので
はない。願わなくても、こちらへくることもある。

 まさにお天気!

 が、やはり私の言っていることは、おかしい。仮に台風が、K国へ行くとしても、困る
のは、弱い立場にいる一般民衆。大理石の立派な家に住んでいる人には、台風は、関係な
い。

 そのK国だが、国連環境計画(UNEP)の報告によれば、農地の劣化、森林の破壊な
どのより、食糧不足がますます深刻化しているという。干ばつ、洪水は、年中行事。首都
のP市を流れるD江にしても、汚水や工場廃水などはたれ流しで、かなり汚染されている
という。さらに都市部では、石炭を燃料にしているため、環境汚染も深刻化しているとい
う(8・27)。

 まさにいいことなしの、K国!

 で、いよいよK国は、日本に向って、言い出した。「過去を清算しろ!」(8・29)と。

 一方で、今度の9月9日には、K国は、核保有宣言をするかもしれないという。(核実験
をしてみせるという情報も流れている。)つまりは、核でおどして、日本から、金をとる。
そういう段取りのようである。

 そういう流れの中にあるから、私は、冒頭に書いたように願った。へたな経済制裁より、
台風一つがもたらす経済的損失のほうが、はるかに大きい。日本のばあい、台風に対して、
まだ抵抗力があるが、K国は、そうではない。「降れば洪水、降らなければ干ばつ」という
国である。

 が、やはり、相手の不幸を願うのは、フェアではない。事実、今、九州地方は、大被害
を受けつつある。そしてその台風16号を追いかけるように発生した、台風18号は、日
本の本州を直撃するコースに入った。

 決して、人ごとではない! やはり他人が不幸になることを願ってはいけない。そのシ
ッペがえしは、結局は、自分のところにもどってくる。

 しかしあえて一言。「台風18号よ、どうかどうか、日本を避けて、ほかへ行ってほしい」
と。どこへ行けとは言わないが、どこか、ほかへ、行ってほしい。


●論理

 国際オリンピック委員会(IOC)は8月29日、アテネ五輪の陸上男子ハンマー投げ
で優勝した、AA選手(ハンガリー)をドーピング(禁止薬物使用)違反により、失格と
し、金メダルを剥奪(はくだつ)すると発表した。


何とも不愉快な事件である。室伏K(29)という日本の選手が、銀メダルだったとい
うことだけではない。何とも往生ぎわが悪いというか、すっきりしないというか……。

 しかし最初から、AA選手の言動は、おかしかった。もし潔白なら、こうするだろうと
いうことについて、AA選手は、ことごとく、その逆の反応をしてみせた。ああでもない、
こうでもないと理由にもならない理由をつけて、検査をのがれた。そればかりか、AA選
手は、「IOCのドーピング検査は、信用できない」というようなことまで、言いだした(報
道)。

 もしドーピングをしていないのなら、何度でも、堂々と、尿検査に応ずればよい。仮に
もし、それで陽性が出たとしても、あちこちへ尿サンプルを送って、再検査してもらえば
よい。たかが「尿」である。

 AA選手は、「疑われたこと自体、不愉快だ」というようなことを言っていた(報道)。
しかしいくら不愉快でも、失格となって、金メダルを剥奪されることとくらべたら、何で
もない。むしろ身の潔白を証明してみせることこそ、AA選手のためになる。

 結局、AA選手の出した尿サンプル(検体)のうち、二本について、それぞれ別人のも
のらしいということまでわかってきた※(30日)。AA選手は、ドーピング検査で、どう
いうわけか、少なくとも、1回は、別人のものを提出したらしい。

 (だからといって、うち一本が、AA選手のものとはかぎらない。二本とも、別人のも
のである可能性が高い。)

 もしそうなら、AA選手は、なぜそんな小細工をしたかということを説明しなければな
らない。仮に陰性という結果が出たとしても、だ。

 私の推察では、こうだ。

 AA選手は、試合の前後に4回、ドーピング検査を受けたという(報道)。が、AA選手
は、それら検査すべてで、他人の尿を使った。だから今回、自分の尿をサンプルとして出
すことができなかった。もし出せば、その4回とも、自分の尿でないことが、バレてしま
う。

 これはドーピングしたかどうかという問題より、考えようによっては、深刻な問題であ
る。それでAA選手は、聴聞会にすら出席できなかった。……しなかった。

 AA選手は、金メダルを剥奪(はくだつ)された上、オリンピック競技会から追放され
た。当然である。
 
※AA選手は規律委員会の聴聞会に出席せず、ハンガリー陸連関係者が出席。IOCは理
事会終了後、アヌシュの検体は、競技前と競技後のものは、別人のものだったと発表した
(ヤフー・ニューズ)。


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●起立! 気をつけ! 礼! 着席!

 「起立! 気をつけ! 礼! 着席!」
 「起立! お願いします! 着席!」
 「起立! ありがとうございました! 着席!」

 学校によって多少、あいさつの仕方はちがうが、どこの学校でも、授業の前とあとには、
このようなあいさつをしている。日本ではよく見られる、ごくあたりまえの光景である。

 しかし世界広しといえども、授業の前後に、こうしたあいさつをしている国は、台湾と
韓国、それに日本だけである。

 が、その韓国も、こうしたあいさつを、「日本帝国主義(植民地)時代の遺物※」として、
政府通達で、廃止することにした(04年)。残るは、台湾と、日本だけ!

 日本に住み、日本しか知らないと、そのおかしさに気づかないということは、よくある。

 もう15年以上前のことだが、アメリカにニューヨーク州から来ていた、女性の教師が、
こんなことを話してくれた。

 何でも、「不気味だった」と。

 話を聞くと、こうだった。

 その教師が、近くのH湖へ水泳に行ったときのこと。どこかの女子高校生たちが、水泳
の実習授業に来ていたという。「その光景が、不気味だった」と。

 理由を聞くと、「みな、紺色の同じ、水着を着ていたから」と。

 私はそのときは、その女性の言っていることが、よく理解できなかった。日本では、ご
くあたりまえのことである。そこで「アメリカでは、どうだ?」と聞くと、「アメリカでは、
みな、ちがった水着を着ている」と。

 さらに今度は、同じくアメリカ人の男性教師だが、こんなことを言った人がいた。

 「朝礼が終わって、教室へ子どもたちがもどるとき、みな、並んで教室へもどってきた。
それを見たとき、ゾッとした」と。

 こうした感覚、それはある種のカルチャ・ショックと言えるものだが、この日本に住ん
でいる人には、理解できない。(だからといって、日本の教育がまちがっていると言ってい
るのではない。どうか、誤解のないように!)

 同じように、授業の前後の、あいさつ。韓国政府は、「権威主義的慣習」と評していたが、
何がどう権威主義的かということも、日本を一歩、離れてみないと理解できない。

 さて、日本、どうする?

 繰りかえすが、残るは、台湾と日本だけ。それでも、「必要」と感じて、こうしたあいさ
つを残すか・。それとも、世界の常識に合わせるか。これからの日本の教育のなりゆきを、
注視したい。

※……韓国・ソウル市の教育庁は、日本の「起立」「礼」にあたる、教師へのあいさつを、
廃止する運動を始めた。
 「自由で多様な価値観を認める」という立場から、学校の教育現場から、権威主義的な
慣習を取りのぞくことを目的としている。
 韓国では、日本の植民地時代から、授業の前後には、「チャリョ(起立)」「キョンレ(敬
礼)」と、教師にあいさつをするのが、慣例になっていた。これを改め、たとえば「さわや
かな朝ですね」と、やわらかいあいさつにするという(以上、西日本夕刊)。


●ハンガリー

+++++++++++++++++++++++++

ハンガリーにお住まいの、SZさんから、つぎのような
メールが届きました。転載許可をいただけましたので、
紹介します。

+++++++++++++++++++++++++

【SZより、はやし浩司へ】

メール、ありがとうございました。
皆、元気にしています。

YK子は、アメリカンスクールと日本人補習校の両方に通っています。
今は大変ですが、4月に全日制の日本人学校が開校する予定です。

英語は、かなり理解できるようになりました。話す方はまだまだですが、
先生の言っていることはわかるそうです。
YK子はとてもたくましく(先生の教え子だからでしょうか?)、英語の
環境にすんなりと入っていきました。
彼女は、分からないことが分かる喜びを、強く感じるようです。

男子ハンマー投げのことです。

夫の会社のハンガリー人たちは、AA選手の金メダル、室伏選手
の銀メダルについて、最初から一切話題にしなかったそうです。
いつもは何でも自慢したがるのに、何故だろうと夫と話していました。
ドーピングの事実を皆、知っていたのかもしれません。

ハンガリーで起こる様ざまなトラブルを考えると、AA選手のとった
行動は理解でき、納得できます。ハンガリー人は、精神的に弱く刹那
的な面があり、怠け者です。何かトラブルが起こると、なし崩し的に処
理し、解決をするために努力をしないことが多いです。

この国の歴史を紐解いていけば、もっと色々なことが分かるかもしれ
ません。


下記のメールは1年前に林先生に送るために書いたものです。
幼稚園のことを書いたので多少の参考になるかもしれないと思い
直し、今更、送ります。

+++++++++++++++++

子供たちがインターナショナル幼稚園へ通い始めました。
YK子は、新しい環境にわくわくしながら、楽しくてたまらないようです。
YK子は、もともと好奇心旺盛な子供でしたが、BW教室に1年半通っ
たことも大きいと思っています。

この幼稚園の先生方の経歴や国籍は様ざまです。

心理学を学んだ先生、幼児教育と英語教育を学んだ先生、スペイン語
と英語の先生、一家そろってダンサーで本人もバレリーナだった先生
など、幼児教育を学んだ人とは限りません。

YK子の先生は、ペルー人とフランス人&スウェーデン人の両親をも
つハンガリー人の2人です。

秋になります。ハンガリーの秋は短く、すぐに冬になるそうです。
9月になって、突然寒くなりました。

日本の幼稚園では、秋になると運動会と生活発表会が行われます。
YK子は、これらの練習が大嫌いでした。

こちらの大イベントはハロウィンですが、9月の第4週目に、
−School Sprit Week-という行事があります。

(月曜日) おもしろい(ちぐはぐな)コーディネートで登園する日
(火曜日) おもしろい頭(かつらやフェイスペインティングなど)で登園する日
(水曜日) スポーツディ
(木曜日) パジャマで登園して、ごろごろする日
(金曜日) 真っ赤で登園して、みんなで赤いものを持ち寄る日

きっと子供たちは大興奮するでしょう。子供たちが楽しんでいる様子を
想像するだけで、わくわくします。

                     SZより 


【SZさんへ、はやし浩司より】 

 メール、ありがとうございました。いただきましたメールについて、マガジンへの転載
許可を、よろしくお願いします。AA選手のドーピング事件ですが、改めて、「なるほど、
そうだったのか」と思っています。日本の読者の方にも、何かの参考になると思います。

 日本では、オリンピックも終わり、今、H元首相の、1億円受領問題、K国の核問題、
雅子妃の心の問題などなどが、大きな話題になっています。教育の世界は、このところ、
静かです。少し前、小学校児童による殺傷事件もありましたが、最近は、あまり話題にな
らなくなりました。

 全体的にみると、またまた受験競争が過熱してきたようにも、思えます。不景気も一段
落したというところでしょうか。

 それにしても、今度のオリンピックでは、日本人選手たちは、よくがんばりましたね。
この私ですら、勇気づけられました。「やれば、できるもんだ」とです。とくに水泳の世界
では、体格的なコンプレックスを感じていました。「日本人の体格では、無理だ」と、です。
それを、今度のオリンピックで、はねかえしてくれました。すばらしいことです。

 今、悩んでいるのは、「あいさつ」、です。

 私の教室でも、伝統的に、レッスンのあとには、私に向っては、「さようなら」。つづい
て参観に来ている親たちに向かっては、「ありがとうございました」と、子どもたちにあい
さつをさせています。

 しかし、それがよいのかどうかと、今、迷っています。で、昨日、4、5人の母親たち
に、「どう思いますか?」と聞いてみました。

 しかしいきなり、そんな質問をした私が、愚かでした。みなさん、「?」というような表
情でした。つまりこうしたあいさつは、日本では、ごく当たり前のことなんですね。ハン
ガリーでは、もちろんしないと思います。

 で、私のBW教室では、どうするか? こうしたあいさつは、たしかに権威主義的です。
そうそう、最近、この浜松市でも、先生による命令的口調が、おさえられています。

 「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してくれませんか」「〜〜しては、どうでしょうか」
というような言い方に、改まってきたようです。日本の教育も、今、大きく変わろうとし
ています。日本の権威主義については、私はもう10年以上も前から戦ってきました。こ
の権威主義が、日本の社会をゆがめ、つづいて、日本の社会をゆがめました。

 実に愚かな、意味のない主義です。が、なくなったわけではありません。

 いまだに、「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」「親が上、子が下」「教師が上、生徒が
下」と考えている人は、少なくありません。それにゆがんだ職業意識も、問題です。「大学
の教授が上で、幼稚園教師は下」「大企業の社員が上、個人営業は下」とです。

 日本人は、その人の中身を見ない。これも、悪しき、権威主義の弊害ではないでしょう
か。まだまだ私の戦いは、つづきます。

 今朝は、午前4時に起きました。昨日はいろいろあって、早く床についたからです。で、
いくつかのメールに返事を書いて、原稿を書いて、そして今、です。時刻は、6時を回っ
たところです。台風一過、静かな朝にもどりました。幸い、浜松地方は、被害はありませ
んでした。よかったです。

 私は子どものころ、台風が好きでした。どこかスリリングで、子どもながらに、ワクワ
クしたのを覚えています。しかしそれはだれにも話せない、私だけの秘密でした。

 しかし最近の子どもたちは、すなおですね。「台風が来るよ」と話しかけたりすると、「ヤ
ッター!」「休校になる!」と、飛びあがって喜んだりします。私たちが子どものころには、
そういうことを自由に言える雰囲気が、まだなかったように思います。

 では、今日はこれで……。これから10月1日号のマガジンの予約を入れます。

 またどうか、ハンガリーの様子を教えてください。よろしくお願いします。

                        浜松    はやし浩司


【4】おまけ*******************************

●UFO(未確認飛行物体)

☆UFOだ!

 最初、声をあげたとき、自分でも半信半疑だった。しかし私は、こう叫んだ。「UFOだ!」
と。

 それは上角、40〜35度のところにあった。長い、直線的な、青白い尾を引いていた。
その言葉に驚いて、ワイフが、車を路肩にとめた。私は、車の外に飛び出した。

 「UFOだ。UFOだ!」と。

 そう言いながらも、私は、まだ自分の目を疑っていた。色は、あとで何度も確認したが、
コバルトブルー、緑がかった、青白。美しい色だった。あやしげな色だった。信号の緑に
よく似ていたが、それ以上に、美しかった。

 気がつくと、ワイフが横に立っていた。「飛行機雲じゃないの?」と。

 何でも一度は否定してみせるのが、ワイフのくせ。「こんな時刻に、飛行機雲が見えるは
ずがないだろ」と。時刻は、時計を見たわけではなかったが、夜の9時を過ぎているはず。
飛行機雲とちがって、そのもの自体が、光っていた。

 不思議な興奮を覚えた。「見ておくんだ」「しっかりと見ておくんだ」と、私は、何度も
自分に言ってきかせた。ワイフにも、そう言った。「よく見ておこう」と。

 ちょうど台風16号が、日本に近づきつつあるときだった。まだらな雲が、幾重にも重
なって、空をおおっていた。が、まったくの曇天でもなかった。一つだけだが、明るい星
が、雲の切れ目に見えていた。その光の線は、その星のななめ左下から、下の方にのびて
いた。

私「隕石だろうか?」
ワイフ「どうして青白いの?」
私「高熱を発しているからだろ……」
ワ「大気圏内? それとも大気圏の外?」
私「きれいな直線だから、大気圏の外だろ」と。

 私は、即座に、いろいろなことを考えた。そして横にいる、ワイフにこう言った。

「もし大気圏の中なら、光り方がちがうと思う。それに飛行機雲のように、風の影響を
受けるはず。その影響を受けていない。きれいな直線だ」と。

ワイフ「隕石でも大気圏の中に入れば、燃えるよね」
私「そうだよ。燃え方がちがう」と。

 静かな時間が流れた。5分……、10分……と。私とワイフは、道路のすみに立って、
その不思議な光に見とれた。が、ときどき、その光は、厚い雲に隠れた。

私「まだ見える……」
ワイフ「まだ、見えるわ……」
私「まだ見える……」
ワ「まだ見えるわ……」と。

☆二人の高校生

 ちょうどそのとき、二人乗りの自転車が横を通り過ぎようとしていた。見ると、男子高
校生たちだった。私は、声をかけた。

私「君たち、あそこに光がみえるだろ」
高校生たち「うん、見える、見える」
私「よく見ておくんだよ。ぼくは人生を50年以上生きてきたけど、あんな不思議な光を
見るのは、はじめてだ」
高「不思議だ」「何だろう」「不思議だ」「何だろう」と。

 光はまだそこにあった。一度は雲の向こうに隠れたが、その下から、また光をのぞかせ
た。色は変わらなかった。それにきれいな、まるで定規で描いたような、きれいな直線を
していた。

 そのとき、ほんの瞬間だが、下方の先端に、やや丸みをおびた光のかたまりが見えた。
それがその光の先頭部分だったか、どうかはわからない。しかしそういうふうに見えた。
目ざとくワイフも、それを見つけて、「あれが頭じゃない?」と言った。私は、だまって、
うなずいた。

 私は自分の心の中をさぐった。不思議なものを見たとき、人間の心はどう反応するのか。
自分の理性や知性で処理できないものを見たとき、人間の心はどう反応するのか。私は、
そんなことまで考えていた。

 「よく見ておくんだ」と、私は何度も自分に言って聞かせた。が、それは決して心地よ
いものではなかった。心のどこかで不安を感じた。「もし隕石だったら、たいへんなことに
なる」「地上に落下したら、大爆発を起こすかもしれない」と。

私「隕石だったら、たいへんなことになる」
ワイフ「そんな情報は、どこからも聞いてないわ」
私「そうだよな。もし隕石なら、だれかがそれを前もって言うはずだ」
ワ「宇宙船じゃないの?」
私「ありえる。たとえばスペースシャトルが、爆発しながら飛行しているとかね」と。

 念のために繰りかえすなら、その光は、絶対に飛行機雲のようなものではなかった。ワ
イフに時刻を聞くと、すでにそのとき、夜の9時30分を過ぎていた。私たちは、その2
0分も前から、その光を目で追っていた。それにこの浜松の上空は、民間飛行機の航路の
中継点になっている。ひっきりなしに飛行機が飛び交っている。

 その飛行機雲と、見まちがえるはずがない。私はワイフに、またこう言った。「よく見て
おこう。二度と見られないかもしれないよ」と。

 私とワイフは、ぼんやりとその光に見とれていた。

ワイフ「きれいな色ね」
私「ホント。きれいだね。コバルト色だ」
ワ「昔、UFOを見たけど、あのときは、何がなんだかわからないまま終わってしまった
わ」
私「そうだ。だから今度は、しっかりと見ておこう」と。

☆バンも止まった

 すると、今度は、一台の大型のバンが横に止まった。数人の若い男女が車からおりてき
た。そして横から、「あれは、何ですかねえ」と、親しげな言い方で、話しかけてきた。

私「まさに未確認飛行物体ですね。あそこを何かが飛んでいるのは確かです」
男「さっきより、低くなりましたね」
私「あなたがたも、ずっと見ていたのですか」
男「いや、さっき、ここを通り過ぎたんです。そのとき、あなたたちが空を見ていたので、
私たちもそちらを見たのです」
私「それで、もどってきたのですか?」
男「ええ、それでここへ、もどってきました」と。

 そのバンの男女は、一度私たちの車の横を通りすぎた。そして私たちが見ている方向に、
青い光を見た。それでまたどこへもどってきたという。

私「ぼくも、あんな光を見るのははじめてです」
男「何でしょうね?」
私「わかりません。でも、さっき、写真をとっておきました」
男「うつりましかね?」
私「多分、だめでしょう。デシタルカメラですから」と。

 言い忘れたが、私はたまたまもっていたデジタルカメラで、3枚、写真をとった。フラ
ッシュが自動的についたが、とてもそんなフラッシュでとれるような光ではなかった。

 光は、最初に見たときと比べると、かなり低くなっていた。薄い雲があったが、その雲
を通り抜けるほど、強烈な、しかしあやしげで静かな光を放っていた。

私「かなり明るいですね」
男「明るいなあ」
私「雲がなかったら、まぶしいほどかもしれない」
男「そうだなあ」と。

 光は、直線的だった。先にも書いたが、定規で空に線を引いたような感じだった。とこ
ろどころ、線が途切れているように見えるのは、雲のせいだろう。雲が薄くなったような
ところから、断続的に直線的な光が、見え隠れしていた。

 どこか不安だった。得体の知れないものを見たときに感ずる、不安だった。ふと「K国
のミサイルかもしれない」と思った。「核兵器を積んだロケットだったら、どうしよう」と
も。

 何かよいものというよりは、何か不吉なもの。そんな感じがした。だいたいにおいて、
よいもののはずがない。それに30年前に、ワイフと二人で見たUFOとは、まったく異
質のものだった。私たちが、今見ているものは、ただの光。物体的な固体性を まるで感
じさせない、ただの光。そんな感じだった。目に見える動きも、なかった。

 私は何度も、「飛行機雲ではない」と、自分に言って聞かせていた。同時に、集中力が消
えそうになる自分を必死でこらえながら、その光を見つづけた。「もう、じゅうぶん見た」
「見あきた」と言いそうになる自分が、こわかった。

☆やがて、見えなくなった

 が、光の線は、どんどん低くなり、同時に、厚い雲の向こうで、弱くなった。

私「まだ、見える」
ワイフ「どこ?」
私「ほら、あの電線と電線の間だ」と。

 私たちは、少し車を移動した。一度は、わき道に入り、その光を正面にとらえながら、
前に進んだ。光は、雲の様子で、数分間隔で、強くなったり、弱くなったりした。その光
自体は、安定していた。

私「だれも、道路で見てないなんて、おかしいね」
ワイフ「ホント。どうして外に出て見ないのかしら」
私「気がつかないのかもね」
ワ「あんなはっきりした光よ。気がつかないなんて、おかしいわよ」と。

 車は引佐町(いなさちょう)の町へと入りつつあった。しかし通りは、ウソのように静
かだった。だれも、外に出て、光を見ている人はいなかった。私には、むしろそちらのほ
うが、ありえないことのように思われた。

私「みんなに、知らせようか」
ワ「だれも、気にしないのかしら」
私「おかしな感じがする」
ワ「そうね」と。

 それからもう一度だけ、雲の間に、光がかすかに見えた。それを見ながら、「あんな雲を
つっきって光っている。きっと、ものすごい光だよ」と。

 やがて車は、山々に囲まれた谷間の県道へと入った。「ひょっとしたら……?」という淡
い期待をもって、そちらの方角を見たが、目の前には、高い山があって、視界をさえぎっ
た。

ワイフ「晴れていたら、もっとしっかり見えたのにね」
私「この雲じゃあ、ねエ〜」と。

山荘へ着くと、私はすぐ、パソコンに電源を入れた。入れてすぐ、この原稿を書き始め
た。記録として、つまり記憶が新鮮なうちに書き留めておくためである。

(目撃時刻)2004年8月28日、午後9時10分ごろから、10時ごろまで。

(方角)浜松市の北、都田町から、まっすぐ西の方角。

(形状)均一的な直線。両先端が、細く、鋭かった。飛行機雲のような、ボソボソしたよ
うな感じではなく、ノートに一気に描いた直線のような感じがした。遠ざかっていったの
で、全体としては小さくなっていったようだが、それ自体の大きさは、変わらなかったと
思う。

(大きさ)距離にもよるが、空の上としても、つまり飛行機が飛ぶ高さとしても、長さは、
数キロから10キロ前後。が、もし大気圏の外とするなら、とてつもなく長いということ
になる。数百キロとか、もっと……!

(色)美しく澄んだコバルトブルー。信号の緑によく似ていた。はっきりとそれ自体が光
っているような、強い光を放っていた。ただ宇宙の外だったら、白い光は、大気圏の空気
を通り抜けるから、コバルト色(ちょうど空の色)に見えることになる。それ自体が、コ
バルト色の色を発光していたとは、断言できない。

(動き)かなり高い位置から、30分後には、かなり低い位置に移動していた。直線全体
が、そのまま移動していったというような感じ。ワイフは、「細長い蛍光灯のような感じが
した」と、あとで言った。線状の細長いUFOと、だれかが言っても否定できないような
形をしていた。近くの明るい星からは、遠ざかっていったので、それ自体の動きはあった
と考える。

(否定的見解)夜の9時〜10時に、西の空に見えたということから、かなり高い上空に
あった、何かの帯状のものが、太陽光線に反射していたとも考えられる。が、国際線の飛
行機が飛ぶ、高度1万メートルとか、そんな高さではない。その時刻に、太陽光線を反射
する高さとなると、数万メートルは必要である。現にいつもなら、その時刻になると、い
つもなら、飛行機がライトを点滅させながら、飛んでいるのがわかる。

 以上、横にすわっているワイフに誓って、ここに書いたことがすべて真実であることを、
改めて確認する。

 長く生きていると、ときどき不思議な体験をする。今夜見た、UFOは、私の人生の中
でも特筆すべきものになった。

【補足】

 映画『未知との遭遇』の中で、その地域の人たちが一か所に集まって、UFOが飛んで
くるのを待っているシーンがある。みな、どこか放心状態だった。

 私たちも、それに似た状況に置かれたわけだが、しかしはっきりとUFOと自覚してい
たわけではない。「UFOかもしれない」という、あやふやな状態で、それを見ていた。だ
から放心状態にはならなかった。

 今でもよく覚えているのは、自分のもてる知力と情報を、総動員していたこと。それは
将棋か何かをしていて、あらゆる方向から、つぎの一手を考えているときの様子に似てい
る。つぎつぎと新しい可能性を考え、「これはどうだ」「これはどうだ」と、それを確認し
ていくという作業である。

 しかし数学の問題を解くのとちがって、答があるのかどうかさえわからない。あのとき
大きな不安感を覚えたのは、そのためかもれない。どこからどうつついても、「わからない」
というカベにぶつかってしまう。そういうはがゆさも、覚えた。

 その距離についても、ワイフは、あとになって、「飛行機が飛ぶくらいの高さの、空の上」
と言うが、私は、大気圏の外だったような気がする。あるいはもっと遠くだったかもしれ
ない。その距離すら、わからない。

 二人の結論としては、線のように細長いUFOではなかったかということ。何かの光跡
だったとするなら、宇宙をゆっくりと飛ぶ隕石ということになる。となると、あのコバル
トブルーの色は、何だったのかということになる。

 とにかく不思議な光だった。考えれば考えるほど、堂々巡りになってしまう。そんな光
だった。
(040829)

【近い将来のこと】

 近い将来、宇宙に住む知的生命体が、この地球へ姿を現すことになる。それはもう時間
の問題と考えてよい。「そんなものは、いない」と言う人もいるが、私とワイフは、巨大な
UFOを、実際に、目撃している。

 このことについては、以前、何度も書いた。地元の中日新聞にも発表させてもらったこ
ともある。もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機だとか言う人がいたら、それ
は絶対にちがう。

 いるかいないかということになれば、この宇宙には、人間の知的能力をはるかに超えた、
知的生命体が、いる。あの夜見た、UFOが、その証拠である。

 では、いつ、どのような形で、それは現れるのか?

 私は、地球自体が破滅するのがはっきりわかる、その直前だと思う。破滅するとわかっ
た段階では、手遅れだし、しかしまだ破滅しないかもしれないという段階では、早すぎる。
そのギリギリのところで、現れる。

 言いかえると、まだ知的生命体が姿を現さないでいるということは、人間には、いちる
の望みがあるということになる。しかし姿を現したとなると、すでに人間というより、地
球そのものが、破滅の段階に入ったことを意味する。

 このことは、反対の立場で考えてみれば、わかる。

 あなたが、もし、宇宙に住む知的生命体だったら、どのようなときに、どのような行動
をとるだろうか。それを考えてみれば、わかる。破滅するかどうかわからない段階で、姿
を現せば、地球は、大混乱する。

 しかし破滅するとわかれば、隠れている必要は、もうない。

 ただ人間が、そのあとも生き残る価値があるかどうかということになると、同じ人間と
して、私には自信がない。人間は、あまりにも貪欲で、攻撃的である。こんな人間が、宇
宙へ飛び出したら、それこそたいへん。宇宙は、めちゃめちゃになってしまう。

 小さな隕石を取りあって、「これは竹星だ。おれたちの星だ」「いや、これはチェジュ星
だ。おれたちの星だ」と、言いあって、戦争を始めるかもしれない。もしあなたが、宇宙
に住む、知的生命体なら、どうするだろうか。そういう人間を、自分たちの世界に、暖か
く迎え入れるだろうか。

 私が宇宙に住む知的生命体なら、人間など、絶対に、自分たちの世界には迎え入れない。
それはたとえて言うなら、日光の山奥に住むサルたちを、都会の一角に住まわせるような
ものである。

 が、それでも、宇宙に住みたいというのなら、私たち自身が、それにふさわしい知的生
命体になるしかない。宇宙に住む知的生命体から見ても、「これなら、だいじょうぶ」と思
われるような生命体にならなければならない。

 私の印象では、宇宙に住む知的生命体は、そういう人間の動きを静かに監察している最
中ではないかと思っている。「やはり人間は、だめだな」という意見が大勢をしめる中、「ま
だ希望があるから、もう少し待ってやろう」という意見もある。そういう状態ではないか
と思っている。

 では、どうすれば、私たち人間も、その宇宙の知的生命体の仲間に入ることができるか。

 方法は、簡単。

 考える。ただひたすら考える。人間は考えるから人間である。だから考える。その先に
何があるか、だれにもわからない。しかし考える。人間がサルとちがうところは、人間の
ほうが、多少なりとも、より考える力があるから。同じように、宇宙の知的生命体と対抗
するためには、私たち人間は、ただひたすら考えるしかない。

 時間は、それほど、残されていないのではないか。100年とか、200年とか、そん
なに長くあるわけではない。私たちは急がねばならない。急いで、考える人間に変身しな
ければならない。

 ……とまあ、とんでもない文章を書いてしまった。「思いこみ」も、ここまで強いと、妄
想と言ってもよい。

 しかし今夜、見た、あの光のことを思い浮かべると、どうしても、ここまで考えてしま
う。それにしても不思議な光だった。

 そうそう、デジタルカメラで写真をとるとき、カバーをどこかへ落としてしまった。そ
れだけ気が動転していたからではないか。余計なことだが……。

【さらに補記】

 そのUFOを目撃してから、もう数日になる。今日は、9月1日。

 で、冷静になってみると、こういうふうにも考えられる。

 あの光跡は、大気圏外を、何かの煙を出して飛んでいた、飛行物体ではないかというこ
と。それが太陽光線をあびて、光っていた。そしてそれが空の青さを通り抜けたため、地
上からは、コバルトブルーに見えたのではないかということ。

 飛行物体というのは、たとえばロケットのようなもの。あるいはたまたまアメリカのN
ASAでは、マッハ7で飛ぶ飛行機の実験をしていたという。中国のロケットだったかも
しれない。

 いろいろほかにも、考えられる。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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