はやし浩司(ひろし)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 29日(No.496)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
お休みします。
また12月号で、がんばります。
今月も、マガジンをお読みくださり、
ありがとうございました。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●子どもの非行
大分県K市に住んでいる母親から、こんな相談が届いた。
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息子(中2)について、相談します。
小学5、6年ごろから、学校へは行かず、そのまま市内の
たまり場で、友だちと過ごすことが多くなりました。
そのつどきびしく説教したりしましたが、効果はありませんでした。
中学に入ってからは、さらにひどくなり、私や担任の先生に、
暴言を吐いたり、暴力をふるうようになりました。
こんなことをつづけていると、私のほうが、参っていまいそうです。
週末になると、そのままどこかへ行き、寝泊りしています。
家には、ときどき、悪友を連れてきます。
何か、よい、アドバイスをください。
現在、私は、私と息子の二人暮しです。
大分県K市、TMより(以上、要約)
++++++++++++++++++++
問題のない子どもはいないし、問題のない子育てはない。その問題も、「何とかなる」「何
とかしよう」と考えているうちに、どんどんと、深みにはまってしまう。別の方向に進ん
でしまう。そして気がついたときには、袋小路。にっちもさっちも、いかなくなってしま
う。
TMさんは、その袋小路に入っている。
非行、不登校、暴力、家庭内暴力……。加えて親子関係の断絶。TMさんは、メールの
中で、「(小学生のころ)、きびしく叱ったりしたのが、悪かった」と反省している。そして、
「こうした非行は、インフルエンザのようなものだと、(林は)言うが、本当に、そう考え
てよいか?」と。
しかしこういう相談を受けると、私は、もう一つ別の視点から、ものを考えるようにな
ってしまった。年齢のせいかもしれない。
「TMさん自身は、ともかくも、TMさんの両親は、さぞ、つらい思いをしているだろ
うな」ということ。あるいはTMさんと、両親の関係も、すでに冷え切っているのかもし
れない。ともかくも、私も、この年齢になったせいか、今度は、息子夫婦や、その孫のこ
とを心配するようになった。「何とか、夫婦仲よく暮らしてほしい。孫を、すこやかに育て
てほしい」と。
恐らく今のTMさんには、そこまで気が回らないだろう。というのは、私のばあい、息
子や娘、そしてその孫の相談も、結構、あるからである。決して、少なくない。
「娘が離婚して、孫と二人で生活している。その孫が、非行に走り、学校にも行ってい
ない。どうしたらいいか」と。
私は、TMさんの立場もさることながら、そうした祖父母の立場で、ものを考えてしま
う。つまりTMさんは、自分と息子の問題として、またその範囲でものを考えているが、
それだけでは足りないということ。またそうした視点では、この問題は、解決しないとい
うこと。
人間というのは、無数のつながりの中で、生きている。英語の表現を借りるなら、「クモ
の巣」の中で、生きている。決して、親子という1本だけの世界ではない。TMさんの息
子にしても、息子と友人、息子と担任という世界がある。
この時期の子どもは、決して、楽しいから、そうした非行を繰りかえしているのではな
い。その子どもは、その子どもなりに、苦しみ、悩んでいる。自尊心もある。プライドも
ある。できるなら、もっと正当な方法で、自己主張し、他人に認めてもらいたい。が、そ
れができない。いや、それ以上に、このタイプの子どもは、うまく人間関係を結ぶことが
できない。
だから攻撃的な姿勢になる。暴力的になる。
TMさんも、すでに気がついていると思うが、現在、母と子だけの世界ということ自体
が、子どもには、暗い影を落としている。あるいはTMさんの気がつかないところで、つ
まりそれにまつわる騒動が、子どもの心をキズつけたのかもしれない。
負い目や劣等感を覚えているのかもしれない。つまり子どもは子どもで、クモの巣に体
をからまれ、もがき苦しんでいる。
が、TMさんは、メールでみるかぎり、自分のことしか考えていない? ……というの
は言い過ぎかもしれないが、メールで知る範囲では、自分のことしか考えていないように
思う。子どもの苦しみや悲しみを、置き去りにしたまま、今に至っている(?)。
たとえば週末になると、子どもが家をあける。そのことについても、「なぜ、そうするの
か?」ということを、考えてみてほしい。もし家庭が家庭としての機能を保っているなら、
子どもは子どもなりの方法で、自分の羽を家庭の中で休める。しかしとても残念なことな
のだが、子どもは、その家庭では、羽を休めることができないでいるのではないか。
これは私の自身の経験でもある。
私は小学生のころ、毎日、真っ暗になるまで外で遊んだ。学校から帰ってくるときも、
まっすぐ家に帰ったことはなかった。
そういう自分を、今から思い出してみると、私は、明らかに帰宅拒否児だった。で、そ
の理由は、言うまでもなく、私の家には、私の居場所がなかった。家の中では、どこにい
ても、落ちつかなかった。
しかし当時は、みな、戦後の混乱期ということもあって、食べていくだけで精一杯。家
庭教育の「カ」の字もなかった。もちろん、今でいう「暖かい雰囲気」など、どこにもな
かった。
しかし今から思うと、とても残念なのは、そういう私という子どもの心を、だれも理解
してくれなかったということ。帰りが遅くなると、叱られた。叱られるだけならまだしも、
「お前を産んでやった」「育ててやった」と、それこそ耳にタコができるほど、恩を着せら
れた。
わかりやすく言えば、「あなたはダメな子」という視点で考えるのではなく、「あなたも、
つらい思いをしているのね」という視点でものを考えること。時間はかかるかもしれない
が、そういう視点をもったとき、いつか必ず、TMさんの子どもは、立ちなおる。
現に今、TMさんと同じような過去をもちながら、そして同じような親子関係をもちな
がら、すばらしい家庭を築いている人は、いくらでもいる。5万もいる。5万どころか、
10万も20万もいる。
私の知人(57歳)も、同じような問題をかかえ、毎日のように学校に呼び出されたと
いう。しかし今、その知人は、親子で、美容院を経営し、その地方では、名士にもなって
いる。子育てには、失敗はつきものだが、その失敗が転じて、その人の人格の基礎になる
ということは、この世界では、珍しくない。
一般論から言えば、今のTMさんには、理解しがたいことかもしれないが、こうしたサ
ブカルチャ(非行などの下位文化)を経験した子どもほど、あとあと、常識豊かな人間に
なることが知られている。
だからといって非行を奨励するわけではないが、悪いことばかりではない。そうした視
点をもつことも、重要だということ。
【TMさんへ】
子どもはいつか親から巣立っていきますが、その巣立ちは、いつも美しいものとはかぎ
りません。
親を罵倒しながら巣立っていく子どももは、いくらでもいます。しかし巣立ちは、巣立
ちです。メールによれば、「小遣いを渡さなかったりすると、ボコボコに殴られる」とあり
ました。たいへんだろうなと思うと同時に、どうしてそこまでこじれてしまったのかとも
考えてしまいます。
家庭内暴力ということであれば、子どもの心の病気も、疑ってみなければなりません。
この時期、子どもは、持続的に、心の緊張感を覚えるようになります。将来に対する不安
や心配、それに恐怖心などが原因です。
そういう緊張状態のところに、何かのきっかけで、不安や心配ごとが入ってくると、そ
れを解消しようと、一気に、情緒は不安定になります。そのとき、暴力的になる子ども(プ
ラス型)や、反対に、人との接触をこばんでしまう子ども(マイナス型)などに分かれま
す。
ほかにも、同情型や、依存型になる子どももいます。どのタイプにせよ、他人との信頼
関係が、うまく結べない。もっと言えば、心を開いて接することができないということに
なります。ですから、同じような心の問題をもった仲間と、(わかりあう)ということにな
ります。
ですから、頭から、「あの子は悪い」とか、「悪友」とか決めつけて考えないで、TMさ
ん自身が、その悪友と仲間にあるつもりで、いっしょに、心を開きあってみてはどうでし
ょうか。コツは、『友を責めるな、行為を責めよ』です。
相手の子どもの行為について、どこがどう悪いと言うことはあっても、決して、相手の
名前を出さないことです。たとえば「タバコを吸うのは、体によくない」とは言っても、「X
X君は、悪い子ども」とは、言ってはいけません。
子どもにとって、友は、その子ども自身の人格です。友を否定するということは、その
子どもの人格を否定することになります。もしそのとき、あなたの子どもが、あなたを取
ればよし。しかし友を取れば、その時点で、あなたとあなたの子どもの関係は、断絶しま
す。
それにあなたは、「今が、最悪」と思っているかもしれませんが、こうした問題には、さ
らに二番底、三番底があります。今、対処の仕方をまちがえると、さらに、二番底、三番
底へ落ちていくということです。
そこで重要なことは、(1)今の状態を維持しながら、(2)1年単位で様子をみる。そ
して(3)あきらめるべきことは、あきらめ、あとは、許して、忘れる、です。
いろいろご事情は、あったかと思いますが、しかしこれからは、前だけを見て進みます。
あなたも苦しいかもしれませんが、あなたの子どもは、もっと苦しんでいます。ただ、そ
の苦しみ方が、どこかゆがんでいるだけです。
私の印象では、おとなにもなりきれず、まだ子どもとして甘えたい……。そんな葛藤を
繰りかえしているのではないかと思います。
今日、子どもと顔をあわせたら、こう言ってみてください。
「あなたも苦しんでいるのね。あなたはよくがんばっているわ」と。
そういう言葉が、あなたの子どもの岩のようになった心を、溶かします。すぐにという
わけには、いきませんが、必ず、溶かします。
では、今日は、これで失礼します。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【近況・あれこれ】
●チョコレート
昨日、BW教室で、チョコレートを食べてしまった。先週、子どもたちに、「来週は、ア
イスクリームを買ってあげるよ」と約束した。しかしこの寒さ。ここ数日、急に気温がさ
がった。そこでアイスクリームを、チョコレートにかえた。
アーモンドを、粉チョコでまぶした、おいしそうなチョコレートだった。が、私は、チ
ョコレートを食べることができない。食べると、偏頭痛が起きる。が、1個だけだが、食
べてしまった。「1個くらいならいいだろう」と思った。
が、今朝、起きると、頭の右側から、後頭部にかけて、痛い! 偏頭痛である。「しまっ
た!」と思ったが、もう、どうしようもない。
今朝は、起きてから、お茶を飲んだ。ガブガブと飲んだ。幸い、軽い頭痛なので、その
うち消えるだろうと思う。思いながら、この文を書いた。
●読書
読書しない人がふえているという。昨日、そんな調査結果が、発表された。詳しい数字
は忘れたが、1か月の間に、1冊も、本を読まない人も、多いという。たしか6〜7割の
人が、読んでいないというような数字だったと思う。(いいかげんな数字で、ごめん。)
その結果を見ながら、私は、ワイフにこう言った。「しかしね、何も、本だけが読書じゃ
あ、ないしねエ……」と。
つまり、本を読まないからといって、読書をしていないということには、ならない。た
とえば今は、インターネットがある。今、この私の文章を読んでいる人だって、読書をし
ていることになる。
読書といっても、もう(紙製の)本にこだわる時代ではない。
私も、この数年、図書館へ行く回数が、めっきりと減った。以前は、毎週のように図書
館へ通ったが、少なくとも、この半年の間は、1、2度しか行っていない。雑誌などは、
書店で読んでいるし、調べものは、すべてインターネットを介して、している。
そういう時代である。
が、その読書で、その読書以上に、深刻な問題は、新聞離れ。若い人を中心に、新聞を
読まない人がふえてきた。新聞をとっていない世帯もふえてきたと聞いている。もっとも、
今の新聞は、9割がムダ。本当に読む記事など、1割もないのではないか。
しかしだからといって、新聞が不要と言っているのではない。実は、その9割の部分で、
私たちは、常識を養う。目をとおすだけでも、じゅうぶん。もし、読みたい記事しか読ま
ず、それ以外のことに関心をもたなくなってしまったら、その人は、かたよった人間にな
ってしまう(?)。
「ああ、世の中には、こんな問題もあるのか」と思うだけでも、その常識が、養われる。
常識が、修正される。実は、それが新聞の使命だと思う。
私は、この2年間、1冊も、本を出版していない。どうせ出しても、売れない。
そのかわり、電子マガジンに、力を入れてきた。ものを書くというエネルギーが、本か
ら、マガジンに移動したことになる。
そのマガジンも、もうすぐ500号になる。本離れはしかたないと思うが、どうか、私
のマガジンだけは、読んでほしい。これからも、よろしく!
●信じがたい話
友人の兄のA氏(64歳)が、シルバーの仕事をしている。仕事といっても、奉仕活動
に近い。清掃活動や、草刈りなどが、主な仕事である。
そのA氏は、こまめな人で、ときどき、近所の草刈りなども、している。しかしこのば
あいは、無料。無報酬。A氏は、「仕事がないときは、運動をかねてしています」と言って
いた。
それを知った、近所のXさん(女性、40歳くらい)が、A氏に、草刈りを頼んだ。A
氏は、それを喜んで引き受けた。が、それからがたいへんだった。
A氏は、「1日、8000円の日当がほしい」と言った。Xさんは、一度は、それに同意
した。
が、その草刈りには、2日を要した。で、A氏は、Xさんに、2日分の、1万6000
円を、請求した。が、Xさんは、こう言った。
「仕事といっても、あなたは休んでばかりいた。半日でできるような仕事を、2日もか
かってした。それにあなたは、あちこちでは、無料で草を刈っているというではないか。
うちも無料で、やってほしかった。
それにシルバーに頼めば、5000円程度ですむという。私は、1日分の5000円し
か払わない」と。
信じがたい話だが、こういう話は、よくある。ボランティアで何かの仕事をしていたら、
「もっと働け」と言われるような話である。実は、この私にも、よくある。
もう、5、6年前のことだが、ある夜、突然、1人の女性から、電話がかかってきた。
子育て相談である。で、私は、「子育て相談は、午前中にお願いします」と、それを断った。
実際、口頭で断ったのは、私ではなく、ワイフだったが、その女性は、「どうしても、林
を出せ!」と電話口の向こうで、息巻いた。
そこで私が電話に出ると、「子育て相談をするという看板を出している以上、その責任を
取ってほしい」と。(私は、そうした看板を出した覚えはないのだが……。)つまり、「ちゃ
んと相談にのれ!」と。
もちろん無料である。かつて一度だって、私は、そうした相談で、金銭を受け取ったこ
とは、ない。そういう私に、そう言って、かみついてくる!
あとでワイフが、「あなたは、カスミか何かを食べて生きている、神様のように思ってく
れているのよ」と、なぐさめてくれたが、あのとき感じた、むなさしは、今でも忘れない。
もちろん大半の人は、よい人だし、私の活動を理解し、支持してくれた。しかしその一
方で、心ない人が、こうした善意を踏み荒らしてしているのも、事実。今でも、相談のメ
ールに返事を書かなかったりすると、あれこれイヤミを言ってくる人は、多い。本当に、
多い。とても残念なことだが、ボランティア活動をする人は、そういう問題も乗り越えな
ければならない。
友人の兄は、こう言っているという。「日本の社会は、老人に冷たいね」と。
●車のホィールが、盗まれる
昨日、ショッピングセンターの駐車場に車を駐車しておいたら、私の車のホィールが盗
まれた。あとで見ると、金具で、こじあけたあとが残っていた。
かわいそうな人だ。
盗んだときは、「得をした」と思うかもしれない。が、その分だけ、その人は、人生の真
理から遠ざかる。そういう醜い心を消すためには、その数倍も、努力しなければならない。
あるいはそのまま醜悪な老後を送ることになる。
人生は、長いようで短い。そんなことで寄り道をしているヒマはない。
さっそく、T社の販売店に電話する。「明日には、届きます」とのこと。しかし値段は、
5000円! 「少し高いかな?」と思ったが、これも事故のようなもの。しかたない!
●満57歳!
満57歳になった。
この1年を振りかえって、今年の8月ごろほど、苦しい時期はなかった。体調を崩した。
風邪もひいた。それにあの暑さ。毎日、その苦しさとの戦いだった。
8月の終わりごろ、体重計にのってみたら、何と、69キロ! ふだんより、3キロも
オーバー。そこでダイエット開始。とたん、体の調子が、もどった。「ああ、よかった!」
と、そのときは、そう思った。
で、その57歳になった今、何も、変化なし。心して運動しているおかげか、その8月
以前より、体の調子は、よくなった感じがする。朝起きたときの、足の痛みも消えた。頭
重感も消えた。気分は、明るく、爽快。
人間は、何もなくても、夢と希望と目的。この三つがあれば、生きていかれる。
とりあえずの夢……オーストラリアで、1、2年、のんびりと好き勝手なことをしてみ
たい。ビクトリア州の南端にある、アポロベイという町で、絵を描いたり、エッセーを描
いたりしてみたい。
とりあえずの希望……私のホームページが、静岡県HPコンテストで、人気投票第7位
になった。中日新聞社賞もとった。私のしていることが、少しは、役にたっているようだ。
うれしかった。
とりあえずの目標……マガジンを1000号まで出すこと。三男を、無事、大学を卒業
させること。65歳までは健康で生きて、そのあと、老人ホームへ入ること。
この1年間、思想的にはかなり前に進むことができたと思う。しかしその一方で、どん
どんと、前に考えたことを忘れていく。1年前に書いた原稿を読みなおしたりすると、「去
年のほうが、頭がサエていた」と思うことがある。だからプラスマイナスを計算するなら、
ほんのわずかな進歩しかできなかった。
しかし健康も思想も、毎日、精進(しょうじん)しなければ、すぐサビつく。「完成」な
どということは、ありえない。がんばるしかない。
で、今日(10月29日)は、57歳の誕生日記念に、あとで、ハナと中田島砂丘まで、
散歩に行くつもり。記念という記念にはならないかもしれないが、ほかに思いつくことが
ない。
ワイフは、今日は、テニスクラブの活動で、一日、家にいない。
●QV−10
先日、書庫の中をさがしていると、古い、デジタルカメラが出てきた。見ると、カシオ
のQV−10だった。
日本で最初の、市販型デジタルカメラである。当時の値段で、5万円近くしたのではな
かったか。先日、ある雑誌で、このカメラのことが紹介されていた。
……ということからもわかるように、私は何でも、新しものが好き。そのときも、まっ
さきに、デジタルカメラに飛びついた。
ただ性能は、使い物にならなかった。撮影枚数が少ないし、電池はすぐなくなるし、画
像は、あらい。その上、プリンターの性能にも限界があった。同じように、当時、5万円
近くもするE社のプリンターを買ったが、はっきり言って、どうしようもなかった。
それでしばらく使ったあと、書庫入りに……。
が、今、ひょっとしたら、骨董的価値が出てきたのかもしれない。雑誌でも、ときどき
取りあげられるようになった。そう思いながら、乾いた布で、ていねいにみがいてやった。
そのカメラも、私の一部であることには、ちがいない。
●ものを書く
ものを書くというのは、まさに真剣勝負。その真剣勝負性がないと、文もうまくならな
い。またいくら書いても、意味のある文章は、書けない。
……とまあ、偉そうなことは言えない。しかし反対に、思いついたまま、軽い文章を書
いたとしても、そういう文章には、人に訴える力はない。ただのおしゃべり。ただのひと
り言。
そういう意味では、文章を書くということと、絵を描くということは、基本的な部分で、
大きくちがう。文章を書くのは、論理と分析の世界。脳みその中でも、左脳がつかさどる。
一方、絵画は、感性の世界。つまり右脳がつかさどる。
ものを書くときは、難解な数学の問題を前にしたときのような、緊張感を覚える。それ
が、私がここでいう「真剣勝負性」ということになる。
が、それでも、こうして書いた文章のうち、99%は、駄作。駄文。「これは!」という
ような文章を書くのは、めったにない。読むたびに、そのときの情景がありありと目の前
に浮かんでくるような文章となると。さらに少ない。
……とまあ、いっぱしの作家気取りのようなことを書いたが、私にとって、ものを書く
というのは、そういうことをいう。ついでながら、この文章は、駄文中の駄文。読んでく
れた人には申し訳ないが、何の意味もない。
●文化勲章に、異義あり!
今年も、文化勲章の受章たちが発表された(10月29日)。
しかし今年も、いかにも、そういう賞をもらいそうな人たちが、受賞者に選ばれた。ト
ップは、歌舞伎俳優の、N氏。それに書道家のK氏、日本画家のF氏ほか。
が、なぜ、歌舞伎俳優なのか? 生まれながらにして家元制度に守られ、生涯にわたっ
て、超特権階級を渡り歩いてきた人である。(個人的に、N氏に反感を覚えているのではな
い。誤解のないように!)
あとは、それぞれの世界で、財をなし、名誉を得て、地位を得た人ばかり……! そう
いう人たちに、その上、文化勲章?
私がその責任者なら、たとえば5人の子どもを苦労して育て、それぞれの子どもを大学
まで出した親とか、その年に、人々に生き勇気と希望を与えた人に、文化勲章を授与する。
何かしら、「文化」に対する考え方が、少しちがうように思う。一般庶民と官僚と、感覚が、
ズレているように思う。
そこで改めて、文化論。
日本で「文化」というと、「権威」の象徴としての文化でしかない。言うまでもなく、「お
上」の威光によって、一般庶民を従わせるための文化である。たとえば好き嫌いもあるの
だろうが、私は何度も見ても、あの歌舞伎は、どうしても好きになれない。退屈。つまら
ない。
……というのは、少し言い過ぎ。それはわかっている。が、その「ズレ」について、今
日、こんな話が、伝わってきた。発信人は、今度の地震で被害にあった、KJ市役所でボ
ランティア活動をしている人らしい。地元のネット通信を経由して、私のところにも届い
た。
「転送自由」ということなので、ここに掲載する。
++++++++++++++
どうか助けて下さい。OJ市役所、小学校での救援物資の配給や、炊き出し
などを手伝っていますが、現場はまだまだ混乱しているし、人出も足りていま
せん。
そんな状況下で、マスコミの取材陣が50人近く現場付近を陣取っています。
OJ市役所の正面に車を止めている為に、救援物資を運ぶトラックは遠くに止
めることしか出来ず、ボランティアの人達がせっせと現場に物資を運んでいま
すが、報道陣はそれを手伝う気配すらありません。心労と肉体的疲労が積もっ
ている被災者の方々に当然のようにマイクを向け、24時間カメラをまわし続け
る神経もさっぱり理解できません。
(中略)
今日はこのあと、OJ小学校に小泉首相が来るということで、マスコミ報道
人の数はさらにふくれあがり、「毛布の配給が出来ないので、小泉さんが帰る
まで待つように‥」という連絡が入りました。一体何の為の視察なんでしょう?
午前中にも数名の政治家さんが小学校に来ましたが、トイレはどこかとたずね
られ、仮設トイレを案内したところ、「私に仮設トイレを案内するつもりかね?」
と、言われたそうです。いったいこの国は、どうなっているんでしょう?
(中略)
〒94x−xxxx 新潟県OJ市 OJ市役所あて
++++++++++++++++++++++
とても残念な話だが、日本の文化勲章は、こういう話の延長線上にあるような気がして
ならない。
もちろんこうした否定的なものの見方が正しいとは、思わない。KJ市役所で、ボラン
ティア活動をしている人にしても、神経が高ぶっているのかもしれない。イライラしてい
るのかもしれない。
しかしこの日本に住んでいると、こうした「ズレ」をいたるところで感ずる。文化勲章
も、その一つだと私は思うのだが、みなさんは、どう考えるだろうか。
●マイナス・プラスの人間関係
まったく初対面の人を、ゼロ・レベルの人間関係とする。そのゼロ・レベルの人間関係
を基準として、良好な状態の人間関係を、プラス・レベルの人間関係という。反対に、険
悪になっている人間関係を、マイナス・レベルの人間関係という。
これをわかりやすくしたのが、下の数直線である。
(マイナス・レベル)++++(ゼロ・レベル)++++(プラス・レベル)
ゼロ・レベルから、プラス・レベルの人間関係をつくるのと、マイナス・レベルから、
ゼロ・レベルの人間関係にもどす、エネルギーは、同じということ。わかりやすい例で、
説明しよう。
まったく初対面の人と会って、話をする。親しくなる。よい人間関係をつくる。そのと
き使うエネルギーを、(+1)とする。
すでに険悪な関係になった人と会って、誤解を解いたり、その関係を修復したとする。
そのとき使うエネルギーを、(+1)とする。
単純に、こうして数字で表現するのは正しくないかもいれない。こうも、単純ではない
かもしれない。しかし、人間関係は、こうした力学の上になりたっている。よい人間関係
をつくるのも、また人間関係を修復するのも、それなりに努力と時間が必要だということ。
この考え方によると、マイナス・レベルの人間関係を、プラス・レベルの人間関係にも
ちあげるためには、(+2)のエネルギーが必要ということになる。マイナスからゼロ、そ
してさらにゼロからプラスへ、と。
そこで(+2)のエネルギーを使うということになれば、同じエネルギーで、二人の人
と、ゼロ・レベルからプラス・レベルの人間関係をつくることができるということになる。
……ということを考えていくと、「どうせエネルギーにかぎりがあるとするなら、有効に
使いたい」と思うようになる。「一度人間関係がこわれた人と、つきあうよりは、今そこに
いる人たちと、よりよい人間関係を築きたい」と思うようになる。エネルギーだけではな
い。時間にもかぎりがある。
以前、HIVに感染して、エイズを発症。余命いくばくもない若者の手記を読んだこと
がある。その若者は、こう書いていた。
「自分の人生を短く感じたとき、もうムダな人とは、ムダなつきあいはしたくないと考
えるようになった」と。
つまり人生に限界を感じたとき、人は、一つの選択を迫られる。「幅広く、いろいろな人
とつきあおう」という考え方。もう一つは、この若者のように、「ムダなつきあいはやめよ
う」という考え方。
私はまだそういう選択をする場に迫られたことはないので、どちらが正しいのか、よく
わからない。しかしその若者手記を読んだとき、「そのとおりだろうな」と思った。
その若者は、病室へいろいろな人が見舞いにくるのさえ、こばむようになった。そして
かぎられた、心の許しあえる人だけと、最後のときをすごした。それでよかったのかどう
かは、私にもわからない。しかし、その若者の生きザマは、一つのヒントにはなる。
そういう意味では、人生は、長いようで、短い。余命がいくらあるかという問題につい
ても、それは主観的なものにすぎない。10年を長いと思う人もいれば、短いと思う人も
いる。
私は、10年でも短いと思う。20年でも短いと思う。だから時間とエネルギーにかぎ
りがあるとするなら、それを有効に使いたいと思う。とくにこのごろは、できるだけ時間
を有効に使いたいと思う。
反対に、くだらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。
意味のないテレビやビデオを見たとき。つまらない人と会って話をしたときなど。同時に、
無意味に、時間を過ごした若いころを悔やむことがある。つまらない人のために、つまら
ない仕事をしたことも、そうだ。
私がまだ30歳になったころ、恩師の田丸先生は、私にこう言った。
「林君、ライフワークを始めなさい」と。ライフワークというのは、その人が死んだあ
とにも残る、業績をいう。そこで私は、「ぼくは、まだ30歳ですよ」と言うと、先生は、
こう言った。
「今からでも、早過ぎるということは、ありません」と。
それから20年以上。私は、結局は、ライフワークはできなかったし、これから先も、
できそうもない。そういう立場に立たされてみると、時間がますます貴重になる。
そう言えば、去年も、同じテーマで悩んだような気がする。しかし今年もまた、あの年
賀状の季節になった。
この年賀状という習慣をどうしたらよいのか。ここでも二つの考え方が、対立する。
「ムダなつきあいはやめろ」という考え方。もう一つは、「幅広く、多くの人と、つきあ
っておけ」という考え方。年賀状にそうした意味を考える必要はないと説く人もいる。私
のワイフなども、その一人。もっと気楽に考えたらよい、と。
もともと年賀状は、当時の国策として、国民に奨励され、そして私たちの生活の中に浸
透していった。もちろん当時の郵政省のフトコロを肥やすために、である。私が子どもの
ころには、年末になると、学校でも、まさに年賀状づくしといった感じだった。
版画づくり、年賀状づくり、など。年が明けてからは、今度は、年賀状コンクールなど。
そういう流れの中で、私たちは踊らされているだけなのかもしれない。その証拠に、若い
人たちほど、年賀状にこだわっていない。
だから「もっと気楽に考えたらよい」と。ワイフなどは、私とちがって、年賀状に、そ
れほど、こだわっていない。
話はそれたが、残りのエネルギーを、どこでどう使っていくか? 人間関係をテーマに
して、それを考えてみた。で、私の今の心境としては、もうマイナス・レベルの関係にあ
る人とは、つきあわないということ。ムダではないが、それだけのエネルギーが残ってい
るなら、そのエネルギーは、もっと別のことに使いたい。
人生を生きていくには、それなりのニヒリズムと、居なおりも、必要ということか。そ
ういう視点から、このエッセーを書いてみた。
●10月30日の山荘
孫の誠司が、カードを送ってくれた。名前のところに、ぐるぐると鉛筆で丸が描いてあ
った。何かの絵のつもりらしい。顔だけ見ていると、少年ぽくなったが、まだ2歳は2歳。
……そんなことを思いながら、今朝は、目がさめた。
朝食は、先日、掛川市の駅構内で買った、干物。それを小さな七厘(しちりん)の上で
焼いて食べた。おいしかった。
で、そのあとお茶を飲んでいると、ワイフが、横から、「ねえ、あんた、ゆうべ、聞いた?」
と。
何でも、窓の外で、動物がいる気配がしたという。このあたりには、キツネ、タヌキ、
イノシシ、ハクビシンなどがいる。もちろん犬もいるし、ネコもいる。サルもいる。何が
いても、おかしくない。
「人間じゃなかったか?」と聞くと、「人間だったかも……」と。
私も最初のころは、そうした物音が気になって、眠れなかった。が、今は、平気。
ところで、どうして七厘は、「七厘」なのか?
広辞苑で調べてみると、こうあった。「昔は、価が、七厘の炭で、料理ができたので、七
厘といった」と。つまり、炭をムダにせず、効率よく、七厘という炭の値段で料理できた
から、七厘といった、と。ナルホド! (七厘という値段については、実感がないが……。
おもしろいネーミングだと思う。)
外は、寒々とした曇天。秋の空。小雨も、時折パラついている。今日は、浜北市の奥ま
で行くことになっていたが、とりやめ。私は子どものころから、寒いのが苦手。
●されど、年賀状
で、今年も、やはり、100枚程度、年賀状を減らすことにした。こうした虚礼に、あ
まり意味を感じなくなった。
ごく親しい人、今年、世話になった人などにだけ、出すことにした。
私がこうまで、年賀状にこだわるのには、理由がある。そのように、子どものころ、洗
脳されたからである。覚えているのは、中学生くらいのときのこと、「アメリカには年賀状
がない」と知って、驚いたことである。
それまで、全世界すべての人が、年賀状を交換しているものとばかり、思っていた。
で、最近、こんなことを知った。
老人でも、ボケ始めると、異常なまでに、生活が規則正しくなることがあるという。一
日単位、週単位、月単位、それに年単位に、規則正しくなることがあるという。
毎日、決められた時間に、食事をしないと機嫌が悪くなったりする。毎月、決められた
日に、墓参りをしないと機嫌が悪くなったりする。毎年、正月に、決められたことをしな
いと、機嫌が悪くなったりする。
それだけその人の思考が、硬直化していることを示す。
で、改めて年賀状。私がなぜ、こうまで年賀状にこだわるかといえば、それだけ思考が
硬直化しているからである。もっと、フレキシブルに考えてよいのではないか。
子どもでも、思考の柔軟な子どもは、そのつど、臨機応変に、多彩な活動をする。もの
の考え方も、より自由。融通がきく。で、そういう子どもほど、あとあと、よく伸びる。
反対に頭のカタイ子どもは、伸びない。がんこになったり、かたくなになったりする。
とくに幼児のばあい、ものごとに、固着したり、執着したりするようなら、要注意。たと
えば同じ洋服でないと、外出しないとか。
そこで、もう一度、自分の脳ミソを観察してみる。
……(この間、数分)……
やはり、かなり硬直化しているようである。小回りがきかなくなった。わがままになっ
た。回顧性が強くなったし、昔のやり方に、こだわるうようになった。
そこで、考えた。
どうせ年賀状を出すなら、(今までも、そうしてきたが)、ありきたりの年賀状ではなく、
より個性的な年賀状にする。決めたぞ!
……ということで、年賀状の話は、ここまで。
今は、インターネットの時代だし、ね。もうすぐ、その年賀状が、発売になるという。
ワイフが、「何枚、注文する?」と、また聞いた。
私は、「xxx枚でいいよ」と答えた。
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以上で、350号まで、終了!
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【350号のあいさつ】
301〜350号で、A4サイズ原稿用紙(40字x36行)で、571ページになっ
た。単行本にすれば、これだけで約4〜5冊分の分量(四六判、240ページ前後の単行
本)になる。
問題は、これだけ分量が多いと、HPに掲載するのに、苦労するということ。そうでな
くても、HPには、すでにぼう大な量の原稿を収録してある。パソコンでファイルを読み
出し、編集し、それを保存するという工程だけで、5時間以上もかかってしまう!
そのため、写真を減らしたりしている。が、そうなると、殺風景なHPになってしまう。
ほかの人のHPのように、いろいろ遊びも入れてみたい。動画やビデオ、さらには音声も
入れてみたい。
が、私のプロバイダーでは、60MBまでの契約になっている。それを超えると、また
別料金。もっと安いプロバイダーもあるというが、HPやインターネットを乗りかえる
のも、楽ではない。
家族がそれぞれ、私の枝番号を使っている。
……ということだが、ともかくも、今日で、350号になった。ここまで書けたのも、
読者のみなさんの励ましがあったから。
みなさん、本当に、ありがとうございました。
時は、2004年11月30日 午後8時20分。外は雨。肌寒い風が、吹いている。
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 26日(No.495)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●母親どうしのトラブル
この世界では、母親どうしのトラブルは、日常茶飯事。日常茶飯事ということは、日常
茶飯事。言った、言わないが、裁判沙汰になることだって、珍しくない。
そうでない人には、そうでないが、この世界には、子どもの教育がすべてという、母親
がいる。明けても暮れても、考えることは、子どものことばかりという母親である。すべ
ての神経が、子どもに集中する。
だから、母親自身が、とんでもない袋小路に入って、その中で迷走し始める。が、ふつ
うは、それだけでは終わらない。そのとばっちりは、その周囲の人たちにおよぶ。
「うちの子が、学校に行きたがらないのは、あの子どものせいだ」
「先生の宿題の出し方が悪いせいで、うちの子は、漢字の成績がさがった」
「あの子にそそのかされたから、うちの子が、万引き事件に巻きこまれた」と。
さらに悪質になると、ライバル(?)の子どもの、足を引っ張るというようなことまで
する。あらぬうわさを、ことさらおおげさに騒いだりする。たとえば、さも、同情してい
るかのようなフリをして、こう言う。
「Aさんはかわいそうですね。お子さんが、今度、万引きをして、つかまったというじ
ゃあ、ありませんか。私、Aさんの親友なんです。Aさんのことを思うと、かわいそうで
なりません……」と。
つまりその母親は、こうして、Aさんの息子が起こした万引き事件を、あちこちに言い
ふらす! 顔をしかめ、ときに、泣き出しそうな声で、そう言う。このタイプの母親が、
よく使う手である。
そこで大鉄則。母親たちとのつきあいは、如水淡交! 清らかな水のように、淡々とつ
きあうのがよい。もちろん大半の母親たちには、問題はない。ないが、しかし、実際には、
その見きわめがむずかしい。どの人がそうで、どの人がそうでないか。それを知ることは、
本当にむずかしい。だから如水淡交!
できれば母親たちとのつきあいは、自分の子どもとは関係のない世界でする。他の学校
の母親とか、何かのおけいこ塾の母親とか……。正直に告白するが、私は昔から、「女性づ
くし」の世界で、仕事をしている。その女性たちを相手にして、仕事をしている。
その女性の世界の(恐ろしさ)を、私は、いやというほど、経験している。ある時期(2
0代〜30代のころ)は、女性恐怖症、母親恐怖症にもなった。(ホントだぞ!)だから親
しくなったからといっても、決して、深入りはしてはいけない。
もちろん、3年とか、5年とか、つきあってみて、それで人間関係が良好なままなら、
問題はない。その相手を知るためには、最低でも、それくらいの年月は必要である。
が、それでもトラブルが起きてしまったら……。
そのときは、ただひたすら、(1)穴にこもって、(2)時の流れに、身を任す。同時に
(3)負けるが勝ちと心得る。
ほかの世界のことならともかくも、一番、大切なことは、子ども自身が、楽しく、わだ
かまりなく、学校へ通うということ。だから親のほうが、1歩、2歩と、引きさがる。ど
うせくだらない世界のくだらない事件(失礼!)ではないか。そう考えて、カリカリしな
いこと。
もしそんなヒマがあったら、世界(国際情勢)や、宇宙の問題(環境問題)に、関心を
もてばよい。そういう形で、エネルギーを消耗する。この種のトラブルのこわいところは、
そういう相手と接すると、こちらまで、その世界に、引きずりこまれてしまうということ。
そしていつの間にか、同じレベルにまで、落ちてしまうということ。
母親が、子育てに介入するのは、子どもが、小学3、4年生ごろまで。それ以後は、今
度は、父親に、子育てを任す。子どもにとって、母親は絶対的な存在かもしれないが、し
かしそこには、限界がある。母親では、(狩のし方)は、教えられない。
子どもどうしのトラブルは、その(狩)の世界で起こること。母親としては、つらくて、
きびしい時代に入るが、その(狩)を感じたら、その世界から、いさぎよく引きさがるし
か、ない。
【補記】
このまま行けば、やがて日朝戦争ということにもなり、みなさんの子どもの頭の上に、
核兵器が落ちてくるかもしれない。さらにこのまま行けば、地球の気温は、10度、20
度とあがり、人類というより、すべての生物が滅亡するかもしれない。
そういうさしせまった問題が、そこまで来ている。どうか、世の母親たちよ、目を開い
て、外の世界を見てほしい! ……と書いても、こうしたトラブルの解決法には、結びつ
かないが……。
●ギルフォードの立体知能モデル
ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。196
7年のことだった。
私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集
部員が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。
それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い
衝撃を受けた。
そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。そ
れらはすぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『な
かよし学習』という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。
ギルフォードの「立体知能モデル」。
今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡
散的思考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けてい
るが、具体性が、ほとんどなかった。
今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、
知能因子を、このように分けた意義は大きい。
というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サー
ストンの「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜん
としていた。
それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!
で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQと
いう言葉も生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つま
り因子と言えない因子も考えられるようになった。
たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野
だけではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右
脳教育という言葉がもてはやされているが、それもその一つ。
今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書
くことができない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無
理なのかもしれない。
人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、1
0万個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。
その数は、10の9乗〜10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思
考の可能性を、ワクの中で考えることのほうが、おかしい。
ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。
(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●息子や娘の結婚
息子や、娘の結婚について。結婚というより、その結婚相手について。最初、息子や娘
に、その相手を紹介されたとき、親は、何というか、絶壁に立たされたかのような、孤立
感を覚える。
これは、私だけの感覚か。
最初に聞きたいのは、通俗的な言い方だが、どんな家庭環境に生まれ育ったかというこ
と。……ではないか?
「まとも」という言い方は、あまり好きではないが、こと、結婚ということになると、
保守的になる。「まともな家庭環境」という言葉が、自然な形で、口から出てくる。
もちろん結婚というのは、当人たちの問題だし、その段階で、あれこれ口を出しても、
意味がない。
そこで、あえて聞かない。聞いたところで、どうにかなる問題ではないし、かえって取
り越し苦労をすることにもなりかえない。当人たちが、幸福になれば、それでよい。
で、親は、そういうとき、(1)相手の家族構成、(2)相手の親たちの仕事、(3)生ま
れ育った環境が、気になる。どんな教育を受けたかということで、(4)学歴も気になる。
が、何よりも気になるのは、(5)その相手の性格、である。
おだやかで、やさしい性格ならよい。情緒や、精神的に安定していれば、なおさら、よ
い。すなおな心であれば、さらによい。
……と、相手ばかりに求めてはいけない。それはよくわかっているが、どうしても、そ
れを求めてしまう。
ただ、これは私の実感だが、女性も、25歳をすぎると、急に、いろいろなクセが身に
つくものか? 18〜25歳までは、画用紙にたとえるなら、白紙。しかし25歳をすぎ
ると、いろいろな模様が、そこに現れるようになる。
つまり計算高くなったり、攻略的になったりする。だからというわけではないが、どう
せ結婚するなら、それまでの時期に、電撃的な衝撃をたがいに受けて、結婚するのがよい。
映画『タイタニック』の中の、ジャックとローズのように、である。
●結婚式(PART2)
数日前、結婚式について、エッセーを書いた。それについて、何人かの人たちから、コ
メントが届いている。
「おかしい」「考えさせられた」と。1人、結婚式場で働いていたことがあるという女性
からは、こんなものも……。
「結婚式場って、儲かるのですよ。何でも、追加料金で、すみますから」と。
で、昨日、オーストラリアの友人の長男が、その結婚式をした。日本円で、総額、40
万円程度とのこと。それでも、豪華なほうだという。写真を、HTML版のほうに、添付。
二男も、数年前、アメリカで結婚式をしたが、総額で、30万円程度。貸衣装などに、
10万円。教会(チャペル)と牧師さんへの費用が、10万円。そのあとの飲み食いパー
ティに、10万円程度。計、総額で、30万円弱。
もう一度、数日前に書いた原稿を、ここに載せておく。
++++++++++++++++++
●結婚式に、350万円プラス150万円!
知人の息子が結婚式をあげた。市内のホテルであげた。費用は、350万円プラス15
0万円!
これでも安いほうだそうだ。
知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思っていたら、
それは基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、
ちがっていた。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。
日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でや
めれば、それですむ。
あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくの
ムダづかい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれな
いが、世間に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。
大切なのは、2人だ。中身だ。
……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こ
うした結婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人
が、にわかクリスチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろ
ん牧師もニセモノ。
ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩
ってくれる人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。
私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今
に見る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいという
のなら、自分たちで稼いで、自分たちですればよい。
どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!
知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、
3万円から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」
と。
……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、
数え切れないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の
女性の両親が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにが
んばっても、角が立つ。
妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世
術の一つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)
++++++++++++++++
【追記】
結婚式場では、「○○家」「△△家」と、書くならわしになっている。私は、あれを見る
たびに、「結婚式って、何だろう?」と考えてしまう。
昔の武家なら、それなりの意味もあるのだろう。そこらの町民や農民が、武家のマネを
して、どうなる? どうする? こんな伝統や文化、本当に、それが日本人の伝統や文化
なのだろうか。守らなければならないような、伝統や文化なのだろうか。
アメリカ人の友人に、こう聞いたことがある。「どうして、アメリカには、日本のような、
結婚式のような結婚式がないのか?」と。アメリカでは、結婚する2人が、自分たちで、
ほとんどを準備する。
すると、その女性(30歳)は、こう言った。
「カルフォニア州の大都市なんかへ行くと、そういうビジネスもあるようだけど、アメ
リカには、定着しないでしょうね」と。
そして結婚式と言えば、お決まりの、ヨイショ。ただ騒々しいだけの、ヨイショ。新郎、
新婦の友人たちが集まって、ギャーギャーと、騒ぐだけ。安物のバラエティ番組風。「祝う」
という意味が、ちがうのではないのか?
いろいろ考えさせられる。
ちなみに、私たち夫婦は、その結婚式をしていない。貯金が、当時、10万円しかなか
った。それでワイフに、「結婚式をしたいか。それとも、このお金で、香港へ行きたいか」
と聞いたら、「香港へ行きたい」と。それで、おしまい。
毎月、収入の半分を、実家へ仕送りしている身分だった。どうして、親のスネをかじる
ことなど、できただろうか。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●読んで、びっくり!
いろいろな日記サービスがある。毎日の日記を、そこへ書きこむと、ホームページとし
て、紹介される。
で、ある日記サイトにヒット……。
が、驚いたのなんのって、その日記では、自分の子どもの成績のことばかり! 毎日、
その成績のことしか書いてない!
子どもは、小学6年生。男児。
が、何日か分、読んでいるうちに、気がついた。わかった。一般の読者は、ごまかせて
も、私はごまかせない。
どこかの、全国規模の、ある大手進学塾の、隠れサイトだった!
ところどころに、●●進学塾の名前が出てくる。「今日は、勉太(息子名)を、●●塾へ
連れていった。特別に、参観させてもらった……」などというふうに書いてある。ふつう
なら、こういうところには、塾名など、書かない。
「1クラス8人だ。それでも先生は、たいへんそう。こういうキメのこまかい指導は、
学校では無理だろうな」とか、書いてある。ナルホド!
で、ずっと、過去の日記を読んでいくと、ところどころ、●●進学塾のところが、MO
NTA進学塾(仮名)と実名になっていたりする。つまりわざと、ミスで、実名を書いて
しまったかのように見せかけている。
姑息(こそく)!
こういう手法は、どこかのカルト教団が好んで使う。しかしあの、だれでも知っている
MONTA進学塾まで! ……といっても、確証があるわけではない。本当に、どこかの
父親が、日記として書いているのかもしれない。その可能性が、ないとは言えない。
しかしもしそうなら、毎日、毎日、息子の成績だけを、こうまで書くだろうかというこ
とになる。しかも学校の成績ではない。●●進学塾の模試の成績や、何とか検定試験の成
績。さらにその勉強ぶりなど。そのままは、引用できないので、まねをして紹介すると、
こんなぐあいである。
「10月xx日
今日は、勉太を、●●進学塾へ、連れていった。玄関先に、緊急報告。見ると、英検4
級の合格者の名前が書いてあった。小6で、合格者が、8人もいたのには、驚いた。10
人、受験して、8人というのは、すごい。
次回は、勉太も受験することになっている。担任に相談すると、『単語ブックを、80%、
こなしてくれ』とのこと。さっそく、今夜から、特訓することに。勉太も、目標ができて、
やる気満々といったところか。
10月xx日
●●進学塾のすばらしいところは、教材を、各学年、4種類ずつ用意していること。子
どもの能力にあわせて、そうしているらしい。
学校で言えば、教科書を、4種類、用意しているようなものだ。キメのこまかい指導に、
感謝。1クラス10人までの少人数だし、こちらも、親として、いろいろ注文をつけるこ
ともできる。
今日は、特別に、授業を参観させてもらった。講師は、全員、国立大学を出て、教員免
許をもっているという。安心した」と。
なかなか、やるね!
しかし、これがどこかのカルト教団となると、さらに手がこんでくる。まったくふつう
の、タウン誌を装っていることもある。が、カルトの「カ」の字も感じさせない。
が、とこどき、「幸福になるためのチャンス。特別講話の会」などという案内が入ったり
する。あるいは「市価の90%引き、バザー開催」とか、など。そういう機会をとおして、
信者を獲得しようとする。
本当に、この世界、油断もスキもあったものではない……と思う。
●10時10分
10時10分。
これをどう読むか。
「ジュー時、ジュッ分」?
それとも
「ジュー時、ジッ分」?
正解は、「ジュー時ジッ分」(小2)だそうだ。
このことは、私が30歳のこと、話題になった。ある出版社で、教材を作っているとき、
その教材用に何かのショートエッセーを頼まれた。そのとき、これについて書いた。
私は、正しくは、「ジュッ分」だと思った。しかしNHKのアナウンサーたちは、「ジッ
分」と言っているように聞こえた。(ときどき、「ジュッ分」と言っているように聞こえる
こともあったが……。)
そこでNHKのアナウンサー室に問いあわせると、わざわざハガキで、返事をくれた。
いわく、「NHKでは、ジッ分と読むように統一しています」と。
それからほぼ25年。今では、「ジッ分」と読むのが、正解(?)ということになった。
国語のテストにも、そういう問題が出たりする。
しかし私個人としては、「ジュッ分」のほうが、正しいと思うのだが……。いまだに、ど
ういうわけか、こだわっている。
●すべて、事後報告
三男がオーストラリアから帰ってきた。そして数日が、たった。そしてこう言った。
「スカイダイビングもした。ついでにバンジージャンプもしたよ」と。
すべて事後報告。
「前もってパパに言えば、どうせ反対されたから……」と。
私「……!」
●ワイフ
このところ、妙に、ワイフが、やさしい(?)。何か、あるぞ(?)。
私が「お前、やさしくなったね」と言うと、「私は、昔から、やさしいわよ」と。
何か、たくらんでいるにちがいない。何だろう?
一般的には、(やさしい)というのは、相手に気をつかうことをいう。もともとやさしい
人もいるが、そういう人は別として、やさしくなったということは、気をつかい始めたと
いうこと。
このところ、私のほうが、何かにつけてピリピリしているせいかもしれない。気をつけ
(付記)
そうそう、男も女も、不倫を始めると、その初期段階では、妻や夫に、やさしくなると
いう。不倫でなくても、恋心をいだくと、そうなるそうだ。それを悟られないように、自
分の心にカバーするためである。
●もうすぐ57歳だ!
私は、もうすぐ57歳だ! 誕生日だ!
……と書いても、あまりうれしくない。今まで、無事、生きてこられたことについては、
感謝している。だれに感謝しているというわけではないが、感謝している。が、しかし、
歳をとるというのは、いやなことだ。
いやいや、歳は関係ない。何歳になっても、私は私。しかしどんどんと、ものの考え方
が、先細りになっていくのは、いやだ。と、同時に、今年もまた、悔恨。「何もできなかっ
た」という悔恨。それがいやだ。
ワイフはときどき、こう言う。「これから先、何があるかわからないけど、今まで、無事
にやってきたんだから、私たちは、幸福だったのよ」と。
こういう世界で、「無事」というのは、ほんとうに、ありがたいこと。「ありがたい」と
いうのは、もともと「あり・がたし」(=なかなか、ありえない)という意味だそうだ。そ
れが転じて、「Thank you」という意味になったという。
ありがたい! ……と思いながら、もうすぐ57歳になる。
●衝動的行動
突発的に、衝動的な行動を繰りかえす子どもは、少なくない。
10人に、1人はいる。
突然、だれかの耳のそばで、大声をあげておどかしたり、あるいは突然、カバンを、思
いっきり振り回したりするなど。イス引きなども、それにあたる。
力加減をしないのが特徴。
衝動的であるため、そこに、子どもの意思を感じない。だから、叱っても意味がない。
考えるとか、考えないとかいうレベルの話ではない。本人は、何も考えないまま、きわめ
て、突発的に、かつ衝動的に行動する。そんな感じの行動を、小刻みに繰りかえす。
私の印象では、その瞬間、子どもの目から生彩が消え、死んだ魚の目のように、動きを
止める。不気味になる。何も考えていない子どもの目になるように思う。
このタイプの子どものこわいところは、相手に、ケガをさせたりすること。そのため、
相手の子どもの耳の鼓膜を破るという事件が、起きることもある。
こうした衝動的な行動を繰りかえす子どもを観察してみると、日常的に、多動性が見ら
れるということ。それに注意力も散漫。どこかADHD児にも似ているが、しかしふだん
の生活の中では、そこまで症状は顕著ではない。活発で、どこかチャカチャカした子ども
といった程度の印象でしかない。
原因としては、いろいろ考えられている。最近では、脳の微細障害説、テレビゲーム説
などもある。
実は私も、ときどき、このタイプの子どもに、ケガをさせられることがある。警戒して
いても、ふと、油断したようなときに、それをされる。私ならともかくも、ほかの子ども
にケガをさせることもある。
あまり表では問題にならないが、しかし、深刻な問題の一つであることにはちがいない。
●報道の自由度、42位
パリ発10月26日の時事通信によれば、日本の報道自由度は、昨年と比べわずかにラ
ンクアップしたものの、先進7カ国中最低の42位だったという。報道の自由の擁護を
目指す国際団体、「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は、世界167カ国の報道の
自由度の順位を発表した。
最上位は、デンマークやアイルランドなど北欧を中心とする欧州8カ国。最下位はラ
ンクづけ発表当初から3年連続で、北朝鮮だったという。
日本では、一応、報道の自由が確保されているかのように見えるが、国際的にみれば、
どうも、そうではないということのようだ。
くだらないゴシップ記事のような報道については、たしかに、自由はある。何を書いて
もよいという、つまりは無責任な姿勢はある。しかし報道の自由といっても、あくまでも、
そのレベル。
日本の外で、よく問題にされるのが、皇室報道。さらには官僚批判。私も、いろいろな
テーマについてものを書くが、こうしたテーマでものを書くときは、いつもどこかで、何
かしらの(息苦しさ)を覚える。
この(息苦しさ)こそが、日本の報道の自由の限界ということになる。日本は、世界に
名だたる、官僚主義国家。日本の中だけに住んでいる人には、それがわからない?
あのK国が最下位だったということについては、異論はない。しかしあのK国の人たち
は、自分たちではそうは思っていない。「外の世界のほうが狂っている」と思っている。そ
の国の人がもっている、国民意識というのは、そういうもの。
しかしそれにしても、42位とは! この数字には、いろいろ考えさせられる。
●ボランティア精神・段階論
何らかのボランティア活動を始めると、ふつうでは経験しない、心の変化を感ずる。そ
の変化を段階的に考えてみた。
【第一段階・とまどい】
たいていは、何らかのきっかけでボランティア活動を始める。だれかの指導によること
もある。仕事や趣味の延長で始めることもある。
「何となくしている」と言った感じで、始まることが多い。同時に、やり始めたころは、
他人の目が気になる。少し油断をすると、「してやっている」「してあげている」という思
いにとりつかれる。
【第二段階・快感】
他人が喜ぶのを想像することは、楽しい。実際、喜ぶかどうかは、別にして、想像する
だけで、楽しい。
しかしそういう思いをしたことがない人には、それはわからない。あるいはなかなかこ
の第二段階まで、くることができない。
が、一度、どこかでそれを経験すると、別のボランティア活動をしても、意外と簡単に、
この段階まで、くることができる。思考プロセスが、できあがっているためと考えられる。
【第三段階・葛藤】
しばらくつづけていると、「何のために?」「どうして?」という疑問がわいてくる。み
ながみな、活動を正当に評価してくれるわけではない。
草を好意で刈っていたら、そこへ見知らぬ他人がやってきて、「もっときれいに刈れ」と
言われるようなことは、この世界ではよくある。
その相手も、何らかのボランティア活動をしていたというのなら、まだ納得できるが、
そうでない人のほうが、多い。そういう人たちの、心ない言動で、キズついたりする。
【第四段階・無我】
意識しないまま、つまりボランティア活動をしているという意識がないまま、自然な形
で、そうした活動ができるようになる。
何も考えず、何も求めず、何もキズつかず、無私の状態で、それができるようになる。
それ自体が、生活の一部になる。
以上、私の憶測も含めて、段階論を書いてみた。私自身、何か大きなボランティア活動
をしているわけではない。あえて言えば、電話相談、講演会、子育て相談などが、そうし
た活動の一部ということになる。
ただ講演会というと、多額の報酬を想像する人も多いと思うが、それは中央で活躍する
有名人の話。
いかに少ない額かは、近くのPTAの役員の人たちに聞いてみるとよい。もし金額のこ
とを考えるなら、講演会の講師を務める人など、いないだろう。私は、講演を、ボランテ
ィア活動の一つと考えながら、している。
電話相談や子育て相談は、もちろん無料である。
しかしそうした活動についても、あれこれ文句を言ってくる人がいる。ときどき、やり
きれなくなるときがある。
理由の一つとして、こうしたボランティア活動そのものが、日本の社会に定着していな
いこと。つぎに、それをしている人が、まだまだ少数派であること。ボランティア活動を
している人を、お人好しのバカと見る風潮さえある。
こうした日本人の意識を変えないかぎり、日本人全体は、成長しないと、私は思う。
しかし、ボランティア活動には、その活動を超えた、何かがある。たとえて言うなら、
ボランティア活動をしていない人は、小さな画用紙の中で、絵を描いているようなもの。
が、ボランティア活動をしている人は、その画用紙をかぎりなく大きくすることができる。
このことは、あなたの近所に住む、高齢者たちを見ればわかる。
自分のことしかしない。自分のことしかできない。自分勝手でわがままな高齢者を見て
いると、その(小ささ)に驚くことがある。
一方、地元の世話役などになり、無私で活動している高齢者を見ると、反対にその(大
きさ)に驚くことがある。私がここでいう「画用紙」というのは、そういう意味である。
●からむ人、からんでくる人
どんな世界にも、どんなことでも、ささいなことを理由に、からむ人、からんでくる人
がいる。
先日、ある小学校の教頭が、こんな話をしてくれた。
その学校で、ある教師が、学年便りを出した。毎月1回発行しているものである。その
中で、その教師が、こう書いた。「子どもを、すこやかに育てましょう」と。
しかし1人の母親が、それにかみついた! 「すこやかな子どもとは、何だ!」と。
たまたまその母親の子どもが、学校でいじめ(?)にあい、不登校を繰りかえしていた。
その母親は、自分の子どものことを意識して、その教師が書いたのだと、思いこんでしま
ったらしい。
「うちの子を、すこやかな子どもでないと書いた」と、である。
もちろん、その母親がそう思ったのは、その母親の被害妄想であった。その教師は、ほ
とんど何も考えないで、つまりその子どものことなど、まったく意識しないで、そう書い
た。が、その母親の怒りは、収まらなかった。
校長室へやってきて、こう怒鳴ったという。
「この学校では、うちの子のような子どもを、どう考えているのか」「うちの子を、すこ
やかでないとは、失礼だ」「だいたいすこやかな子どもというのは、どういう子どもを言う
のか」と。
私も、こういう仕事をし、こういう原稿を書いているので、よくからまれる。しかし今
は、ある一定の割合で、そういう母親というか、女性がいるという前提で、つきあってい
る。いちいち気にしていたら、仕事そのものが、できなくなる。
ただこの話を、その教頭から聞いたとき、こう思った。「その子どもが不登校を繰りかえ
しているのは、友だちのいじめが原因ではなく、ひょっとしたら、その母親自身が原因で
はないか」「家庭という場が、子どもにとって、心の休まる場所として、機能していないの
ではないか」と。
もう少し母親自身に、心の余裕がないと、子どもだって、気が休まらない(?)。それが
原因で、親子関係がぎくしゃくしている(?)。……そんな感じがした。
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 24日(No.494)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●自分の子どもの心を読む
「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と言う親ほど、本当のところ、子ども
の心がわかっていない。
反対に、「うちの子のことがよくわからない」と言う親ほど、本当のところ、子どもの心
が、よくわかっている。
心というのは、おとなであれ、子どもであれ、そんなに簡単にわかるものではない。「よ
く知っている」と言う親ほど、知ろうと、努力しない。だから、ますます子どもの心を見
失う。
反対に、「よくわからない」と言う親ほど、子どもに謙虚になる。子どもの心に耳を傾け
る。だから子どもの心が、読める。
まずいのは、親の判断だけで、子どもの心を決めつけてしまうこと。こうした決めつけ
が習慣化すると、子どもは自分の意思を自分で表現できなくなってしまう。もちろんその
時点で、親子の間に、深刻なキレツが入ることになる。
子どもの心を見失う親の特徴としては、つぎのようなものがある。
(1)独断性
子どもに対してというより、日常生活全般にわたって、独断性が強い。がんこで、人の
話を聞かない。他人に何か言われると、その何倍も、反論したりする。
(2)狭小性
自分の世界が、小さい。限られた人たちと、限られた範囲でしか、交際しない。当然、
人の好き嫌いがはげしい。
(3)偏見性
独得の価値観をもっていることが多い。「A高校の出身者には、いい人はいない」とか、
など。ものの考え方が、極端であったり、どこか偏屈であったりする。
(4)無学性
人間の脳ミソというのは、常に刺激していかないと、刺激を止めたときから、退化し始
める。それは健康に似ている。運動をやめたときから、体の調子は、悪いほうに向かう。
このタイプの人は、そういう意味での、刺激を嫌う。勉強しない。本も読まない。それ
以上に、考えない。知的な意味で、進歩がない。
(5)過干渉性
子どもの価値観まで、親が決めてしまう。私が子どもに向かって、「楽しかった?」と聞
いても、親が、すぐその会話に割りこんでくる。「楽しかったでしょ。だったら、楽しかっ
たと言いなさい!」と。
(6)威圧性
威圧的な育児姿勢は、百害あって一利なしと覚えておくとよい。悪玉親意識の強い人、
権威主義的傾向の強い人、親風を吹かす人、家父長意識の強い人は、その子どもに対する
育児姿勢が、どうしても威圧的になりやすい。
そしてあとは、お決まりの言葉。「うちの子のことは、私は一番よく知っている」と。そ
して長い時間をかけて、親子の間に、大きなミゾをつくる。
あなたも、もし、「うちの子のことは、私が一番よく知っている」と思っているなら、本
当にそうか、一度だけ、自問してみるとよい。
【おわび】
このところ、毎日、多くの方からメールをいただきます。加えて、10月。さらに月末。
みなさんのメールに目をとおすだけで、精一杯という日々がつづいています。
さらにインターネットの限界というか、私のボケの始まりというか、一度に数人の方と、
メールを交換していると、だれがどの人だったか、わからなくなってしまいます。心理学
でいう、個人化というか、逆・個人化ができなくなっています。
一度、どこかでお会いしたことがあるとか、お声を聞いたことがあるというのであれば、
こういうこともないのでしょうが、まさに頭の中は、大混乱。さらに、私のばあい、みな
さんからいただいたメールを保存するにあたって、内容を変えたり、住所、名前を、置き
かえたりしています。これは後日の、万が一のための措置です。
だからよけいに、だれがどの人だったか、わからなくなってしまいます。
そんなわけで、返事を書くのも、おっくうになってしまいます。どうか、私の勝手と、
限界を、お許しください。いろいろ不愉快な思いをしている方も多いと思いますが、重ね
てお許しくださいますよう、お願い申しあげます。
●人格の完成
人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。
これは常識だが、これら3つには、同時進行性がある。
共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲
望と戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人
間関係を築くか。
これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。
自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くこ
とができない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自
己中心的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、
自分勝手でわがままになる、など。
これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、
決定する。
が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。
その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしそ
の人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その
人の人格の完成度は、きわめて低いとみてよい。
これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係な
い。
つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の
管理が含まれる。性欲、食欲、所有欲など。
こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人
もいる。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれ
ぬ精神的事情が、その背景にあって、そうなる。
だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、
そう見る向きもあるが……。)
3つ目に、社会性。
人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人
らしさ)が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。
いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の
完成度は、問題にならない。
たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばら
しい才能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することも
ない。同業の人との、交流もない。
で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そ
ういう人を、評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)
言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくか
ということが、重要だということ。
いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、
良好な人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力
目標がある。
がんばりましょう! がんばるしかない!
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●幻惑からの脱出
テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。
レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」
レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ〜」
東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いてい
る。その少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所
も転々と、かえているらしい。
レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア〜」と。
「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛
をともなう。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる
束縛感には、相当なものがある。
たとえば親子という関係で考えてみよう。
いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれし
も考えるところが、「家族自我群」というところになる。
しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こん
な例がある。
ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が
必要になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、
大企業のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを
待っていた。
息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費
を渡していた。
多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」
というような会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。
ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、
遊びまわっていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。
そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車
まで買い与えていた。
これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが
苦しむことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れな
い。もちろん親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子
であるため、絆(きずな)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、
人格否定、自己否定にまで進んでしまう。
ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこ
と、近所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。
反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に
出ることができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分
は人間として、失格者だ」と、苦しんでいる。
家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。
が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところ
まで行くと、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、
この幻惑から、のがれることはできない。
冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。こ
れからは、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないよう
な会話かもしれないが、実際には、こういう親子もいる。
少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」
その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもある
ような、ごくふつうのサラリーマン家庭だという。
そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。
レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たち
のことは、ほうっておいてください」と。
こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるに
せよ、「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、
無数のというか、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、
行きつくところまで、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。
「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。
どこかで殺人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻
惑から逃れることはできない。
が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いとい
うこと。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。
母親は、今年、80歳を超えた。
その女性が、こう言った。
「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、
何も、親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。
本当は、あんな母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だ
なんてほめられると、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。
あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、
かなり深い理解力のある人と考えてよい。
もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦し
んでいるなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは
割り切って、つきあう。それしかない。
この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。
で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。
「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同
じような幻惑に苦しむことがあるのではないか、と。
いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そ
そのとき、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。
ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれ
ができないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」
と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」
と。
幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。し
かしそれは、どこか東洋的。どこか日本的。
あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻
惑から解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親
自身が、子どもに親離れができるように、仕向けてあげる。
こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、
ベタベタの親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それ
を強要してはいけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれ
ば、それは子どもの問題。子どもの勝手。
世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面
に作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かと
いうと、そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自
我群というものがどういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように
思う。
先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるの
ね。何があったのかしら?」と。
【付記】
心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、
重圧感をいう。
この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものであ
る。
ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、
父親が、息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰っ
たのですが……」と。
そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前
は、人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。
以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたこと
で、心に大きなキズを負った。
しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そうい
うことをするな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばり
つける人が、よく用いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その
女性にこう言った。
「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言います
よ。『また、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。
この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、
扱い方がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。
だから、適当に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう
人たちに抵抗しても、意味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるよ
うな問題ではない。
ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子ど
もが、いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。
いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。
「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。
親孝行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。
家の心配? バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きてい
きなさい」と。
こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことに
なる。
親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の
愛というものではないだろうか。
【付記2】
家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。こ
のタイプの親は、独特の言い方をする。
わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、
それ。「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」と
か。
さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、
出してやった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労し
ている姿を、「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。
が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。
一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫
(その母親の長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。
その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当た
らなければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。
息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか…
…というようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私
という)親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。
中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!
「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になる
のを楽しみに見ていてやる!」と。
もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、
例外とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、
他山の石となる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。
それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!
【付記3】
毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというよ
り、家族の問題についてのも、多い。
そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともあ
る。「家族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。
東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。
「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。
息子がいますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。
H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」と
いうことか。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。
私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけな
い。親は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるという
ことは、それくらい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●もう一人の私
情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。
わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、
本当の自分がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自
分でない自分が生まれてくる。
こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないこ
とかもしれないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師
ということになる。
心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言
われているうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作っ
てしまう。
たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、こと
さら、嫌ってみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくってし
まう人がいる。
まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をか
ぶりながら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこや
かに笑いながら、その人と応対する。
実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともと
そういうもの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、た
いへんなことになってしまう。
たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれ
ば、その質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなものでは
ないか。あるいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、
外科医が、焼肉を嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、ウ
ナギの蒲焼き屋のおやじが、ウナ丼を食べないのに、似ている?
しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに
幼児の世界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとって
の幼児教育というのは、そういうものである。
ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であ
るということ。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの
世界でいう人間関係というのは、育たない。
話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30
歳くらいのことではなかったか。
自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがってい
たからだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているよ
うに感じたこともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコリ
と笑って、別のことを言う。毎日が、その連続だった。
しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに
頭の中で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、
おまけに偏頭痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。
だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。
が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私
は、まさに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人
格者の教師を、である。
しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、
それに近かったのでは……。
そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)は、
とても外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を出すた
めに、別の意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。
今も、その過程の途中にあるということになる。
で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早
く別れたいと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙に
善人ぶって、自分を飾っている。
どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!
……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、み
なさんは、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?
●除草剤
今日は、曇天で、少し不安だったが、山荘のまわりに、除草剤をまいた。「不安だった」
というのは、少し、小雨が降っていたこと。雨が降れば、除草剤は、そのままムダになっ
てしまう。
その除草剤、数年前までは、1本、2000円近くもした。今は、ほぼ同じものが、2
50円弱で、買える。が、安いから、それでよいというものでもない。除草剤は、土壌を
荒らす。環境を汚染する。が、ここ数年、その除草剤に頼ることが多くなった。
雑草を放置しておくわけにはいかない。さりとて、草刈り機を回すだけの時間がない。
そこで、やはり除草剤ということになる。「いいのかなあ?」と迷いつつ、今日は、3本も
まいた。
●昼ごはん
山荘での食事は、いつも質素。また、そのほうが、おいしい。
で、今日のメニューは、うどんの煮込みと、山菜ご飯。全部で、つまり2人分で、60
0円弱で、あげた。
もちろん料理は、私がした。山荘では、私が炊事をする。……ことになっている。
あとは音楽を聞いて、ひたすら昼寝。そのせいか、夕方、体重をはかったら、64・5
キロ!
またまた1キロも、ふえていた。ダイエットしているときは、リバウンドが、こわい。
細胞がすべて、乾いた砂漠のようになっている。ほんのわずかな栄養分でも、ドンドン
と吸収されてしまう!
しかたないので、夕ご飯は、焼きソバ、半人前。そうそう、あとは、キーウィを3、4
個。明日の朝は、どうなっていることやら?
そういえば、Hさんという、お母さんが、数日前、私を見て、こう言った。「先生、おや
せになりましたわね。若くなった感じですよ」と。
うれしかった。焼きソバを食べながら、ふと、そんなことを思い出した。しかしこの話
は、ワイフには、内緒!
●離婚
ワイフがこう言った。
「女っていうのはね、離婚するときは、夫に体にちょっと触れられただけでも、気分が
悪くなるものよ」と。
そこですかさず私が、ワイフの太ももに触ると、ワイフは、さっと、体をよけた。
私「ははあ、ぼくに触られるのが、いやなんだ?」
ワイフ「ちがうわよ。くすぐったいからよ」
私「ちがう、ちがう、今のはいやがっているみたいだった」
ワイフ「ちがうってば」と。
私の立場は、きわめてあぶないようだ。明日あたり、離婚を申し出られるかもしれない
(10月24日)。
●新潟の地震
きのうの夜、新潟県で、大地震が起きた。決して、人ごとではない。「今度は、静岡県だ」
と、このあたりの人は、みな、そう言っている。
今のところ、不気味な静けさを保ってはいるが……。
それにしても、台風、洪水、そして地震と、日本は、災難つづき。今度、K国の金XX
が、「呪術のろい軍団」を編成した? K国中から、超能力者を集めて、アメリカや日本に、
災害が起きるように、のろいをかけている?
……というのは、冗談だが、今度の台風24号の動きを見ていると、そんな感じすらす
る。今年は、もう10個も台風が、日本に上陸している。その上、さらに、24号(10
月25日)。
南方の海上、はるか遠くにあったので、「やれやれ」と思っていたら、そこで急カーブ。
とんでもない急カーブ。どうしても日本へ来なくてはいけないといった、動き方だ。気
象庁が発表した、予想図を見たとき、思わず、「ウッソー」と叫んでしまった。
そんな話を食事のときすると、長男は、ヘラヘラと笑っていた。
そのK国だが、食糧がいよいよ窮してきたようだ。今のままだと、来年の春には、90
年来、最悪の状態になるという。現在、首都のP市においてですら、白米1キロの値段が、
1000ウオン近くまで、値上がりしているという(朝鮮N報)。一般労働者の平均賃金は、
2500ウオンというから、1か月の給料で、たった2・5キロしか買えないことになる。
ところで、ここ10年近く、K国の農産物が不作なのは、地上オゾンの増加によるもの
だという説がある。ある大学の教授が、こっそりと、私に、そう話してくれた。「原因は、
中国からの工場ばい煙。そのため、K国の農産物の収穫が、5〜10%前後、減っている。
多分、K国は、その事実に、まだ気がついていないのではないでしょうか」と。
K国だけではない。「風の流れで、沖縄も影響を受けている」とも。
今こそ、世界が力をあわせて、地球環境の問題と戦わねばならない。本来なら、6か国
協議など、やっているばあいではない。そんなヒマはない。これでは、目の前に巨大な猛
獣がいるのに、それには背を向けて、ネズミ退治をしているようなもの。
みんな、仲よくしたいね! ホント! もうやめようよ。こんなバカげた言い争いは!
●キーウィの収穫
今年も、庭のキーウィの収穫をした。ダンボール箱で、1・8杯分ほど、収穫できた。
もう、25年になる古い木だが、まだ実をつける。元気な木だと思う。
そのキーウィだが、ここ10年ほどは、野鳥や、ハクビシン、カラス、それにアライグ
マのエサになっていた。それにサルも! 本当だぞ!
しかし今年は、ほぼ10年ぶりに、人間様の私たちが、先に、収穫した。おかげでこの
ところ、毎日、食卓に、キーウィが並ぶ。
●これからS町で講演。
これからS町のS小学校で、講演をすることになっている。JR東海でK駅まで。そこ
から車で、S町まで。片道、約2時間。
今日は天気もよさそうだ。美しい景色をたくさんカメラに収めてくるつもり。楽しみだ。
で、講演に行くときは、電車が一番よい。まず渋滞その他で、遅刻することがない。そ
れに疲れない。さらに、万が一、電車が遅れたばあいには、そちらに責任を転嫁すること
ができる。
といっても、私のばあい、それもいやだから、1、2本、前の電車に乗ることにしてい
る。昨年だが、そのおかげであやうくセーフという、事件があった。愛知県のT市での講
演会でのこと。私の乗ったつぎの電車に、人が飛び込み、その電車が止まってしまった。
私が会場へ着いたときには、てんやわんやの大騒ぎ。そこへ私が時間どおり、ひょっこ
り現われたものだから、みな、びっくり! 「どうかしましたか?」と私のほうが、聞い
たほどだった。
今日も、1、2本、前の電車に乗って、K駅でブラブラするつもり。その写真は、近く、
またマガジン(HTML版)のほうで、紹介。乞う、ご期待!
では、元気で、行ってきます!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 22日(No.493)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●少人数校の問題
よく少人数校が問題になる。昨日、講演をしたT小学校のI校長も、それを話題にした。
そのT小学校のI校長は、こう言った。「親は、よく少人数校を問題にします。中学にな
って、大規模な学校へ進学したときに、困ることはないのかとです。しかし、そういう問
題は、入学時のときだけです。子どもたちは、すぐ新しい環境になれます」と。
この日本で、小規模校や大規模校が問題になること自体、おかしい。総じてみれば、日
本の学校は、どこも、大規模校。国際的な水準でみれば、そうなる。
オーストラリアの学校と比較するのもヤボなことだが、オーストラリアには、「無線学校
(エアースクール)」というのもある。小学3年生ごろまでは、家庭で、無線で勉強する。
スクーリングも、週に1回程度。しかも集まって、10名前後。
で、そういうところの子どもたちが、どこかおかしいかといえば、そういうことはない。
むしろ、人間関係が濃密で、その分だけ、人とのつながりを大切にする。私自身が、それ
を友人の家で、体験している。
一方、すさまじいのが、東南アジアの国々の学校。昔、香港で、中学生らしき子どもた
ちがゾロゾロとビルの中へ入っていくのを見たことがある。日本の都会にあるような、ビ
ルである。
「何ごとか?」と思って見ると、それが中学校だった。もちろん校庭など、ない。「どこ
にあるか?」と聞くと、「運動は、屋上でする」とのこと。
そういう学校とくらべると、日本の学校は、恵まれている。
……というようなことを総合すると、私の結論は、ただ一つ。小規模校であるからとい
って、問題は、何もない。ただし、1クラス10人以下になると、子どもたちのもつエネ
ルギーが、消沈してしまうのではないか? 私の経験では、1クラス12〜15人。1人
の教師が、ほどよく把握できる。この人数だと、問題のある子どもの出現率も、だいたい
1クラス1人程度におさえられる。
●心のキズ
子どもは、キズまるけになりながら、成長する。親としては、つらいところだが、そこ
は、ぐっとがまんするしかない。
わかりやすい例で、説明しよう。
インターネットという怪物がある。
このインターネットがもたらした世界は、それまでの人類が、経験しなかった世界であ
る。つまりこと、インターネットを前にしたときの心理は、おとなでも、その状態は、幼
児のそれと同じと考えてよい。
で、インターネットで、メールを交換するようになると、やがて気になるのは、迷惑メ
ール。どこでどう調べたのか、こちらのアドレスに、意味もないメールを、送り届けてく
る。
そのとき、私たちは、言いようのない不快感を覚える。そこでその相手に、文句を言っ
たり、配信を止めるように言ったりする。
すると、中には、反対に、かみついてくる人がいる。あるいはかえって、迷惑メールが
ふえたりする。こちらのアドレスが、どこかで売買されるためである。
こうして私の心にキズがつく。
もちろん迷惑メールだけではない。ウィルス入りメール、インチキメール、詐欺メール
など。いろいろある。
しかしそれも一巡すると、つまり、なれてくると、今度は、平気で削除することができ
るようになる。削除といっても、当初は、「どうしてこんな作業をしなければならないのか」
と思ったりする。が、やがて、そういう、つまりかすかに残った怒りも消える。
さらに、それが進むと、「インターネットというのは、そういうもの」という、あきらめ
というよりは、割り切りができるようになる。
こうして無数のキズがつくうちに、やがてインターネットの使い方がわかってくる。
子どもの成長過程を見ていると、これと同じような現象がよく起きるのがわかる。最初
は、ささいなことで、(あくまでも、おとなの私から見た判断だが……)、子どもは悩んだ
り、苦しんだりする。もちろんそのとき、心にキズがつくこともある。
しかしそういったキズが無数にふえてくると、どれがキズで、どれがキズでないか、わ
からなくなる。そしてその結果として、その子どもは、たくましい子どもに、成長してい
く。
心のキズとは、そういうもの。親としては、つらいところだが、子どもの心にキズがつ
くことを恐れてはいけない。
しかし、これは子どもだけの問題ではない。
以前、ある小学校で、こんな事件が起きた。
小学1年生になったばかりの子どもが、学校の帰り道に、小学2年生の子どもたちに、
何かのことでからかわれた。石も投げられた。
それを聞いた、その小学1年生の子どもをもつ母親が、学校に抗議に行った。その母親
は、それを「いじめ」と、とらえた。「うちの子が、学校から帰ってくるとき、上級生にい
じめられている。何とか、してほしい」と。
しかしそれに答えて、担任の教師が、「学校としては、帰宅途中のことまでは、管理でき
ません」と答えた。当然である。
しかしその母親は、納得しなかった。今度は、校長室まで行き、校長に、直接、抗議し
た……。
こういう事件は、多い。本当に、多い。親自身に、キズに対する免疫力がない。そのた
め、ささいな問題を、ことさら大げさにとらえては、騒ぐ。
しかしそんな親でも、そういう形で、無数の経験をするうち、今度は、親として成長す
る。そのうち、その程度のトラブルなど、何でもないと知る。繰りかえすが、心のキズと
いうのは、そういうもの。
むしろまずいのは、無菌状態のまま、そのキズを経験しないで、体だけが大きくなるこ
と。そのため、この社会で生きていくための、社会性そのものが、身につかなくなってし
まう。そうなれば、その犠牲者は、結局は、その子ども自身ということになる。
そこで……
子どもの心にキズがついたときは、親は、まず一歩、引きさがる。そして子どもの横に
立ち、子どもの立場で、そのキズを考える。「学校へ行って、文句を言ってやる」と考える
のではなく、子どもに向かって、「つらかったのね」「よくがんばったわね」と、やさしく
話しかけてやる。
こういう親の姿勢が、その子どもを、たくましい子どもに育てる。
●子どもや孫とのつきあい
老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?
内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつ
きあいについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。
(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。
日本人 …… 43・5%
アメリカ人 …… 8・7%
スウェーデン人…… 5・0%
(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。
日本人 …… 41・8%
アメリカ人 …… 66・2%
スウェーデン人……64・6%
日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調
査結果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはな
らず、(2)かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。
こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなっ
たとも考えられる。
「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。
そうそう、こんな話もある。
このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先
日も、実家へ帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母
親は、みなに抱きかかえられるようにして歩いたという。
「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。
しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになっ
た。母親に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。
で、電車で、駅をおりて、ビックリ!
何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ!
「まるで別人かと思うような歩き方でした」と。
が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、
「しまった!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。
その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、
あわれな母親を演じていたというわけである。
こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、
半ば無意識のうちにも、そうする。
しかし、みながみなではない。
反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」と
いう思いから、そうする。
どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?
私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほう
だから、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれで
よいとは思わない。
ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少
し脱線したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子どものやる気】
●外発的動機づけ
無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があ
っても、あくまでも一時的。
このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引
き出す方法を、外発的動機づけという。
子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き
出さねばならない。
このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。
子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イ
ギリスの格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』
というのがある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。
……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。
子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、
何かのことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちにな
る。
しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親
の私が、子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。
こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すこ
とができるかということになる。
大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロー
ルしているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよ
い信号を受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モル
ヒネ様の物質を放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大
脳からのほどよい信号こそが、子どものやる気を決めるというわけである。
この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何ら
かの心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。
その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」
「できたア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、
いつも子どもが感じるように指導する。
方法として、つぎのことに注意したらよい。
●成功率(達成率)は50%
子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたの
では、子どもも楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、
その目安は、50%。その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そし
ていつも、何かのレッスンの終わりには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらし
い」と言って、ほめて仕あげる。
●無理、強制
無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上
の効果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。
ばあいによっては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわ
けで、『伸びたバネは、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、
プラスマイナス・ゼロになるということ。
●条件、比較
「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というの
が条件。「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で
一番だったのよ」というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気
を奪うだけではなく、子どもの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方す
らできなくなってしまう。子どもの問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよ
い。(内発的動機づけ)
●方向性は図書館で
どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れ
ていき、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってく
る。それがその子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポ
ーツに強い関心をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、
子どもを指導し、伸ばす。(役割形成)
●神経症(心身症)に注意
心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるように
なる。「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知ら
れた例としては、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などが
ある。日常的に、抑圧感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうし
た症状が見られたら、(親は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子
育てのあり方を猛省する。
●負担は、少しずつ減らす
子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、す
べて取り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端
な変化は、かえって症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、
2か月をかけて減らすのがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうする
ことによって、あとあと、子どもの立ちなおりが、用意になる。
●荷おろし症候群
何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や
大学に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボー
ッとしているだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、
10〜15%の子どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少
なく、人に言われていやいや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。
●回復は1年単位
一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほ
うだが……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。そ
の無理が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどう
か?」「去年とくらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変
化に、決して、一喜一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。
●前向きの暗示を大切に
子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくな
る」「来年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気
を引き起こす。ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。そ
の秘訣は、母親にあった。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、
お兄ちゃんの服が着られるようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」とい
う思いが、子どもを前にひっぱっていく。
●未来をおどさない
今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになること
に、ある種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感
を覚えることもある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切
そうにそれをもっているなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未
来を脅さない。
●子どもを伸ばす、三種の神器
子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。
(はやし浩司 外発的動機付け 外発的動機づけ 内発的動機付け 内発的動機づけ)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●浮気性
インターネットをしていると、つぎつぎと、新しいサービスが始まる。電子マガジンサ
ービスやネットタウンサービス、それに携帯電話HPサービスなど。これらは、古いほう
だが、それだけではない。今度は、F社から、「F・ネットワーク」というのが、始まった。
いわゆる仲間づくりのためのサービスと考えると、わかりやすい。
おもしろそうだったので、入会してみた。
で、この世界、日進月歩というか、新しいサービスだけに、使いやすい。画面も見やす
い。それでついつい、「Fネットワーク」に、ハマってしまった!
しかし我が身は、一つ。パソコンに向える時間にも、限りがある。そこで一つのサービ
スに熱中し始めると、別のサービスが、おろそかになる。
こうしておろそかになったものに、チャットがある。今は、ほとんど、していない。つ
ぎに掲示板もおろそかになってきた。今は、かろうじて、電子マガジンを発行しているが、
会員数がふえない日がつづいたりすると、とたんに、やる気をなくす。
仕事としてしていれば、そういうこともないのだろうが、もちろん仕事ではない。サー
ビスというより、ボランティア。ボランティアというより、脳ミソのジョギング。何とか、
1000号までは、つづけたい。
こうして考えてみると、私は、かなりの浮気性である。一つのことに夢中になり、それ
が一巡すると、つぎのものへと興味の対象が、移動していく。
ホームページにしても、今は、新しく、「はやし浩司の書斎」というのを、つくっている。
もうすぐ、みなさんの目の届くところに置くつもりだが、今は、それが楽しい。
ただ問題がある。
それぞれのサービスを通して、それぞれの世界の人たちと知りあい(?)になる。それ
はそれで楽しいことだが、やがてどの人がどの人だったのか、わからなくなってしまう。
それにせっかく一つのサービスで知りあった人でも、そのサービスから遠ざかると、その
まま、疎遠になってしまう。
人間関係が希薄になったというか、なりつつある。もともと顔を見たこともない人たち
だし、声も聞いたことがない人たちである。だから忘れるのも早い。とくにこのところ、
初老性のボケもあるのか、よけいに早く忘れる。数週間も間をおいたりすると、「そんな人、
いたかな?」(失礼!)と思ってしまう。
こうしたインターネットがもつ欠陥を克服するためには、どうしたらよいのか。いろい
ろ考えるが、妙案が浮かばない。というのも、これは私だけの問題ではないからだ。相手
の人にとっても、立場は同じ。私は忘れたくなくても、相手の人は、私のことなど、すぐ
忘れる。
そこで今は、こう割りきっている。
相手の人も、私のことなど、すぐ忘れるだろう。だから、はじめから、何も期待しない、
と。考えてみれば、さみしい世界。ホント!
【補記】
しかし、もう、電子マガジンの時代は、終わったのかもしれない。ある時期、つまりマ
ガジンの全盛期には、どのマガジンも、爆発的に、読者をふやすことができたという。が、
私がマガジンを発行したのは、その時期が過ぎて、下火になったころ。
が、このところ、ますます下火になってきたのではないか?
こうまでいろいろなサービスが出まわってくると、マガジンを出す意味が、どんどんと
薄れてくる。私自身も、ときどき、何かしらムダなことをしている気持ちに襲われる。
大きな流れとしては、発行者と読者との、相互コミュニケーション型のサービスの方に
人気が移りつつあるのではないか? またそういう方向に進んでいるのではないか?
あくまでもそう思うだけだが……。
「マガジン」という以上、もう少し、雑誌型のマガジンにしてもよいのではないか。読
み物あり、コラムあり、と。今のやり方は、どちらかというと、報告書を、読者のみなさ
んに、ただ一方的に送りつけているだけ。そんな感じがする。
今日もまた、「これでいいのかなあ?」と疑問のまま、マガジンの発行予約を入れる。
……そうそう、もう一つ、問題点が浮かんできた。
以前は、朝起きるとすぐに、パソコンにスイッチを入れ、ほとんどそのまま原稿を書き
始めることができた。
しかし今は、あちこちのサイトをチェックしたり、あるいは書いた原稿を、あちこちの
サイトに転送したりする手間に、かなりの時間をとられるようになってしまった。実際に
は、朝起きてから、原稿を書き始めるまでに、何だかんだと、1時間ほど、時間がとられ
てしまう。
これはかなりの時間のロスと考えてよい。
そんなわけで、やはり、どこか一本に、活動の本拠地を、しぼらねばならない。浮気ば
かりしていると、それこそ、わけがわからなくなってしまう。
そういうことで、1000号までは、電子マガジンに、精力を傾けることにした。改め
て、今、そう、自分に言ってきかせた。
●足の指で、鉄棒にぶらさがる(?)
私のワイフの得意技(わざ)は、足技。
とくに、足の親指と第2指の、握力(?)が強い。その握力について、昔、ワイフがこ
う言った。
「私、子どものころ、足の指で、鉄棒にぶらさがったことがある」と。
しかし、本当に、そんなことができるのか? そこで昨夜、ふとその話を思い出して、
ワイフに、こう聞いた。「なあ、お前、あの話は、本当か?」と。
するとワイフは、「もう忘れた……」と。
私「忘れたって、お前が言ったんだよ」
ワ「だから、覚えていない」
私「じゃあ、あの話は、ウソか?」
ワ「そんな話を、したかしら?」と。
そしてそのあと、こう言った。「あんたに話すと、何でも、マガジンに書かれてしまうか
ら、いや。本当のことは話さない」と。
私は、かなり信用をなくしているらしい。
で、そのワイフ。私のマガジンの熱心な読者(?)。その理由を、先日、たずねると、こ
う言った。
「別に読みたくないけど、私のことをあれこれ書いているのが気になるから、読んでい
るだけ」と。ナーンダ。そういうことだったのか! ……とそのときは、少しがっかりし
た。
で、今日もまたワイフのことを書いてしまった。ますますこれで、信用をなくすことだ
ろう。
●惰性
ほとんどの人は、ひょっとしたら、あなたや私も、毎日を惰性で生きている。今日は、
昨日と同じ。そして明日も、今日も同じ、と。この惰性のこわいところは、いくつか、あ
る。
○退化
ほとんどの人は、年齢をとればとるほど、経験が豊かになり、その分、人格も高邁にな
ると考える。しかし、これは誤解。幻想。
記憶が薄れるというだけではない。以前はできたことが、できなくなることだって、珍
しくない。英語の単語だって、どんどんと忘れていく。とくに30代や、40代のころ覚
えた単語ほど、そうだ。
感受性も、弱くなる。思考力も、弱くなる。もちろん、記憶力も、弱くなる。つまりす
ごし方をまちがえると、能力だけではなく、人格そのものも退化する。はっきり言えば、
愚かになる。もっとはっきり言えば、バカになる。
○露呈化
若いころは、演技力がある。その演技力をつづける気力がある。だから、自分を飾った
り、よい人間に見せようとすることができる。自分をごまかすこともできる。
しかし年齢をとると、その気力が弱くなる。と、同時に、それまで隠してきた、「地」が、
表に現れるようになる。その「地」が、よいものであれば問題はないが、そうでないと、
そうでない。見苦しい部分が、容赦なく、外に出てくる。
実際、自分をごまかして生きるというのは、たいへんなこと。神経をつかう。疲れる。
だから、年齢をとると、それができなくなる。それはどこか、持病に似ている。若いとき
は、持病があっても、体力でそれをカバーすることができる。しかしその体力がなくなる
と、持病が、どんと、表に出てくる。
○固定化
人間の感性にせよ、理性にせよ、いつも、刺激を与えながら、みがいていかないと、す
ぐサビつく。融通がきかなくなり、その範囲だけで、ものを考えるようになる。
これを固定化という。
この固定化に老化現象が加わると、いわゆるガンコになる。一つのことがらに固執し、
相手の意見に耳を貸さなくなる。自分だけの価値観で、ものを判断するようになる。「私は
正しい」と思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切りつける。
脳ミソの健康も、肉体の健康とよく似ている。毎日、鍛錬(たんれん)してこそ、その
健康は、維持できる。
○狭小化
年齢をとればとるほど、住む世界が小さくなる。自ら、小さくすることもある。人間関
係も、かぎられてくる。こうした流れの中で、保守主義、利己主義が生まれる。さらに人
によっては、ニヒリズムが生まれる。
「どうせ、命は長くない。あとのことは知らない」という、あのニヒリズムである。が、
一度、このニヒリズムの世界に入ると、あとは、ころげ落ちるように、悪循環の底なしの、
ドロ沼に落ちてしまう。孤独地獄というドロ沼である。
あなたのまわりにも、自分のことしかしない、かわいそうな老人がいるのではないか。
サンプルには、ことかかない。
では、どうするか……ということではなく、実は、これは私の問題である。しかも切実
な問題である。
私は、どんどん、そのバカになっている。ボロも出しつつある。しかも、住む世界が、
どんどんと小さくなってきている。毎日が、孤独との戦いであるといってもよい。だから
この話は、ここまで。
しかしね、みなさん。私がなぜ、こうまでゆがんだ人間になったかといえば、やはり、
あの戦争が悪いのですよ。私たちは、まさに、あの戦後のドサクサの中で、生まれ、育っ
た。家庭教育の「カ」の字もなかった。あの時代は、そういう時代でした。親たちも、食
べていくだけで、精一杯。だから私のような人間が生まれてしまった……。この年齢にな
ると、それがよくわかります。
だから、戦争は、してはいけない。その後遺症は、何世代にもわってつづく。だから、
戦争は、してはいけない。……と思っています。
●コンフリクト(葛藤)
二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コ
ンフリクト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。
コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。
たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。
このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。
反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。
このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。
また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。
正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。
……というような話は、心理学の本にも書いてある。
では、実際には、どうか?
たとえば私は、最近、こんな経験をした。
ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。
が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。
お金のために体を売る、あの娼婦である。
そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。
あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。
それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。
ほかにも、いろいろある。
たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。
本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。
そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。
自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。
そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。
そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。
【補記】
ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。
ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。
で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。
すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。
このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。
しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。
もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。
【最近の話題から】
●厚労省・社保庁、監修料は約10億円
厚労省・社保庁が、監修料として受け取った、その総額は、過去5年間で、職員のべ1
475人に対し、およそ9億8800万円であることがわかったという(0410月)。
監修料は、個人に支払われたという。
10億円を、1500人で割ると、一人当たり、約66万円ということになる。
しかしこんなおかしな話は、ない。
あなたが今、自費出版の本をどこかの出版社に頼んだとする。そのとき、できあがった
原稿を見て、あなたが出版社から、監修料という名目で、お金を受け取るようなもの。
しかも66万円、とは!
仮に原稿のチェックをするにしても、それは仕事の範囲ではないのか? どうもよくわ
からない。
もちろんその監修料なるものは、もともと、私たちが納める年金の積み立て金。それが
回りまわって、監修料になる。
まあ、社保庁のみなさん、やりたい放題のことを、していますね。ホント!
●アメリカ大統領選挙
もうすぐ、アメリカの大統領選挙。ブッシュ氏か、ケリー氏か?
私の予想では、ブッシュ大統領が再選されると思うが、どたん場で、何か、事件でも起
きれば、ケリー氏が、大統領になると思う。ブッシュ氏の立場は、決して、磐石(ばんじ
ゃく)ではない。
仮にブッシュ氏が負けるようなことがあれば、世界のテロリストたちは、そしてもちろ
んK国の金XXも、「私たちの勝利だ」と、小躍(おど)りして喜ぶにちがいない。だから
といって、戦争を望むわけではないが、一方で、繁栄する国があれば、それをねたんで戦
争をしかける国がある。
日本が、繁栄しているという事実を忘れて、「戦争、反対!」を叫んでも、意味はない。
それはたとえて言うなら、車で山の中を走りながら、「自然保護」や「環境保護」を訴える
ようなもの。「豊かな国と、貧しい国があるのは、当たり前」「何もしなければ、相手も、
何もしてこないはず」と考えるのは、あまりにも、甘い。
平和というのは、そのために積極的に戦うという意思があって、はじめて守れる。一見、
おかしな論理に聞こえるかもしれないが、平和を守るための戦争というのも、ありえる。「戦
争はいやだ」と、ただ逃げてまわるのは、平和主義者でも何でもない。ただの卑怯(ひき
ょう)という。
ただブッシュ大統領は、性急すぎた。あのとき、つまりイラクへ侵攻するとき、一歩手
前で、アメリカは軍を止めるべきだった。核査察がすんだら、そのまま引きあげるべきだ
った。事実、私は、そういう内容のエッセーを当時、書いていた。
しかしイラク戦争を起こしてしまった。そうなった以上、日本は、できるかぎり、アメ
リカに協力するしかない。よく「アメリカはずるい」と言う人がいる。しかし日本は、そ
のずるいアメリカの上にのって、戦後の繁栄を築いた。原油が、そのよい例である。日本
は、アメリカが築いた石油戦略の上にうまくのって、今、中東から原油を輸入している。
そんなわけで、豊かな生活を一方でしながら、反米を唱えるのもどうかと、私は、思う。
……という、この私の意見は、少し、右翼的かな?
(041023)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 19日(No.492)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●フリをする母親
昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッ
シャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというの
は、現実にいた男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばか
りしていたという。
その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で
病院へ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミ
ュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。
このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン
症候群」と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)
に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい
嫁)を、演じていた人がいた。
その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたっ
た一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長
女(当時50歳くらい)だった。
そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当
然のことながら、その長女を、嫌った。
さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる
女性(当時60歳くらい)もいた。
虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、
子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見
せるなど。
「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。
実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面と
いうより、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。
もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そう
でないのか、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子ど
ものほうが萎縮してしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、
だれか他人に訴える気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判する
ことさえできない。
虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)
+++++++++++++++++
●豊かな表情
今週のBWでは、表情のレッスンをした。「表情」と聞いて、驚く人もいるかもしれない。
しかし豊かな表情は、子どもというより、人間の財産でもある。うれしいときは、うれ
しそうな顔をする。悲しいときは、悲しそうな顔をする。それが自然な形で、できる子ど
もやおとなのことを、「すなおな人」という。
レッスンを進めていくと、やがて子どもたちは、のりまくってくる。興奮状態になる。
が、それこそがレッスンの、目的。
私「お父さんが、仕事から帰ってきました。みなさんは、どうしますか?」
子どもたち「ワーイ!」
私「そんな言い方では、ダメだ。もっと、大声で、心の底から、声を出して、喜びなさい」
子どもたち、大きな声で、「ワーイ!」
私「そんな声ではダメだ。それではお葬式みたいだよ」
子どもたち、さらに大きな声で、「お帰り〜イ! お父さん、ワーイ!!!」と。
心がゆがんでくると、ここでいう(すなおさ)が消えてくる。すねたり、ひねくれたり、
いじけたり、つっぱったりするようになる。そうなると、表情も、暗くなったり、不自然
になったりする。
で、今。表情の乏しい子どもが、ふえている。表情のまったくない子どもも、珍しくな
い。
表情が豊かになってくると、心の微妙な変化も、顔に出てくるようになる。まさに表情
は、子どもの財産ということになる。
子どもの表情をつくるコツは、一に根気、二に根気。豊かな親の愛情で子どもを包み、
子どもを怒鳴ったり、威圧したりしない。ただひたすら、忍従の心をもって、根気よく育
てる。
ある子ども(2歳)は、このところ、野菜を嫌うようになった。「食べたくない」という
ような様子で、30分以上も、がんばるのだそうだ。
が、両親は、もっと、気が長い。「1時間かけて、食べさせています」とのこと。こうし
た気長さが、子どもの表情を、豊かにする。
●Public Commitment
ダイエットするときは、「私はダイエットする」と、みなに宣言するとよい。こうした宣
言を、心理学の世界でも、「パブリック・コミットメント」という。
つまりそう宣言することによって、自らそういう状況をつくりだそうという心理が、増
大する。そのため、たとえばダイエットにしても、それが成功する確率が、ぐんと高くな
る。
このことは、子どもの教育にも、応用できる。
一方的に教師が、何かを説明して、「では、〜〜しましょう」と終わるのではなく、子ど
もを前に立たせ、その子ども自身に、自らすべきことを宣言させる。「私は〜〜します」と。
そうすることで、子どもは、ここでいうパブリック・コミットメントをすることになる。
わかりやすく言えば、このパブリック・コミットメントは、その人を、自ら追いこむ、
原動力となる。
で、私などは、もともと意思の弱い人間だから、いつも、こうしたパブリック・コミッ
トメントをしながら、自分の方向性を立てなおしている。また、そうしないと、うまくい
かない。
「明日は、自転車で、20キロ走るぞ」
「来月までに、5キロ、減量するぞ」
「今日は、朝食は、キャベツだけにするぞ」と。
そう言えば、私は今、毎日マガジンの原稿を書いているが、これは言うなれば、パブリ
ック・コミットメントなのかもしれない。原稿のところどころで、いつも、何かを宣言し
ている。そしてその宣言に応じて、自分のあり方を決めている。
ただし条件がある。
子どもに応用するにしても、無理強いはいけない。それに匿名でしてはいけない。陰で
コソコソ隠れてものを言うのは、ここでいうパブリック・コミットメントではない。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【新しい教育の提言】
●新しい日本の流れ
日本の教育は、今、知識偏重の詰めこみ教育から、議論をしながら考える教育へと、そ
の転換期にあるとみてよい。
今までは、(追いつき、追い越せ)教育でよかったが、これからは、もう、そういう教育
は、通用しない。それはもう、だれの目にも、明らかである。
と書いても、私に、何か、具体的な方法論があるわけではない。私は、こういうとき、
つまり、自分がどこか袋小路に入ったのを感じたようなときは、ネットサーフィンをしな
がら、あちこちで世界の賢者たちの言葉を読むことにしている。
世界の賢者たちの言葉を、あちこちから拾って、訳をつけてみた。
+++++++++++++
★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインスタイン)
★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these
gave only life, those the art of living well. - Aristotle
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を
与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリ
ストテレス)
★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice
amazed everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive
reality, and modern physicists considered it unnecessary to think. I knew
better; what amazed me was that these children knew it, too. - Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、み
なを驚かせた。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。
そして近代の物理学者は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚
かせたことは、これらの子どもたちも、それを知っていたということを、よりよく
知っていた」(A・ランド)
★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that
the past has anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S.
Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か
神秘的であるからということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができ
ないからである」(C・S・ルイス)
★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom.
There are many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still
the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。
いろいろな種類の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさ
にその道である」(C・サガン)
★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理
解する」(孔子)
★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to
saying something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない
何かを語るよりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)
★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah,
THAT is to have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd
Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識
として、教育されるべきことである」(F・L・ライト)
★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself.
- Galileo Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つ
けるのを、助けることができるだけである」(G・ガリレイ)
★What office is there which involves more responsibility, which requires more
qualifications, and which ought, therefore, to be more honourable, than that
of teaching? - Harriet Martineau
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、
ほかのどこにあるだろうか」(H・Martineau)
★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)
★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their
wisdom, but leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しな
いもの。しかし本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」
(K・ギブラン)
★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the
way down. - Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼
を開発する」(K・Vonnegut)
★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect.
- Leonardo Da Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・
ダビンチ)
★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them.
- Madeleine L'Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん
危険なことである」(M・L'Engle)
★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)
★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time
that nothing that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられな
いということも、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)
★You must train the children to their studies in a playful manner, and without
any air of constraint, with the further object of discerning more readily the
natural bent of their respective characters. - Plato
「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な
雰囲気ではなく、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、
そうしなければならない」(プラト)
★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I
am his pupil. - Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生
徒である」(R・W・エマーソン)
★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr
and executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret
experience, or we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo
Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人に
も、王にも、殉教者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によっ
て、こうした人たちのイメージを、私たちの密かな経験として、現実味をもたせる
ことができる。読書をしなけば、何も見ることはないだろうし、何も学ぶことはな
いだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマーソン)
★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and
then you have the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそ
れをつぎつぎと、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)
★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent
Van Gogh
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」
(V・V・ゴッフォ)
【考察】
●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真
の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語
るよりも、沈黙をふつう、好む」という言葉である。
わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟
知している。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選
ぶ」と。私は天才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。
私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も
言わない。たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。
「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」
と。
30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから
説明したらよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。
火花がバチバチと飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア〜?」と言ったまま、おし
黙ってしまった。
私自身は、先祖を否定したようなことは、一度もないのだが……。(念のため。)
●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、
翼を開発する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。そ
れはともかくも、これは私の持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立
たされて、はじめて生まれる」と書いた。
少し前だが、ある教育審議会のメンバーをしたこともあるF氏から、相談を受けた。「学
校教育に蔓延(まんえん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。
それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。
こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほし
い。
学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が20%増しという理由も、
そこにある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者
とは、待遇や職場環境が、基本的に違う。
たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦してい
る。経営のボーダーラインといわれている、200人(園児数)を割っている幼稚園は、
いくらでもある。もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎ
るほどの財力を蓄えている。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料
の上、いつリストラされるかと、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生
たちに課している幼稚園もある。(ほとんどの幼稚園が、そうではないか?)
だから毎年、10月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児
のいる家を、1軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつか
っている。しかも、その先は、まさに絶壁!
こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張
感が生まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思
うなら、こうした緊張感を、人為的につくるしかない。
残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。
学校の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、
飛び降りている間に生まれる。
●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。
なぜなら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与
えるから」という言葉。
この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、
「教師」と訳すべきかで、意味がまるで変わってくる。
「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の
親となる」と解釈できる。
一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。ど
ちらが正しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。
一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育
の目標は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)
も、かつてこう教えてくれた。
「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生
きていくことができるように、それを教え伝えることだ」と。
つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実
用的であってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、
すぐれた体系をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるい
は将来、学者になる子どもは、いったい何%、いるというのか。
英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた
体系をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなこと
は、30年前に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」
という言葉が聞かれるようになったが、それにしても、30年とは!
要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、
子どもに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。
+++++++++++++++++++
【新しい教育】
教育を考えるときは、当然のことながら、年齢別、学年別に考えなければならないこと
は、言うまでもない。
その中でも、とくに幼児教育の重要性については、私は、たびたび書いてきた。
それはともかくも、今度は、子ども自身がもつ、方向性にあわせた教育を考えなければ
ならない。
将来、すぐれた研究者になるための教育もあれば、その研究を利用した分野で活躍する
人材を育てるための教育もある。どちらが正しいとか、有用とかいうのではない。どちら
かの立場で、一方的に、相手に押しつけるのは、正しくないということ。
そこで登場するのが、「教育の多様性の問題」である。アメリカの小学校を例にあげて考
えてみよう。
●アメリカの小学校
アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、そ
の「楽しさ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。
たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ル
イザ・E・ペリット小学校。児童数370名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、
遊具があったりする。
アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。
まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決
めることができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「た
いへんゆるやかなものです」と笑った。
もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と
小学一年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳
児(年中児)を教えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかる
が、その分、学校券(バウチャ)などによって、親は補助されている。
驚いたのは4歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書室で
の教育を重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、子どもの読
書指導にあたっていた。
授業は、1クラス16名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大
学から派遣されたインターンの学生の3人であたっている。アメリカというと、とかく荒
れた学校だけが日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。
周辺の学校もいくつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導
をしていた。
教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科
書の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、そ
れは民間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的
事実については検定してはならない」(南豪州)ということになっている。
アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータース
クール、さらには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化
が、問題になっている部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナ
ミックなものにしている。
ドイツでは、中学生にしても、たいていは午前中だけで授業を終え、そのまま、それぞ
れのクラブに通っている。
運動クラブだけではない。科学クラブもあれば、それぞれの趣味に合わせたクラブもあ
る。そしてそうした費用は、「チャイルドマネー」と呼ばれている補助金によって、まかな
われている。
【後書き】
内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二
〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。
もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅
れた。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世
界はどこまで進んでいることやら!
日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低く
はない」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数
の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。
「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大
学西村和雄氏)(※2)だそうだ。
あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL
(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジア
で日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)
だそうだ。
オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。し
かし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの一人。ちなみにア
メリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸
謙二氏指摘)。
「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、
この日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政
である。私はその改革について、つぎのように提案する。
(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。
が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不
公平である。
この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといって
よいほど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不
公平社会の温床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に
帰す。今の状態で教育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、ま
たぞろ復活することになる。
ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじ
めて「改革」と言うにふさわしい。
(※1)
国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中
学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以
下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、
台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメ
リカ、マレーシア、と。
この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教
育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメ
ントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶとい
うメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。
ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」
と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で
勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、
テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。
で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を
公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結
果だそうだ。
この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、
小学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から
六六・五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛
け算の混合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五
七・五%に低下している(同じ問題で調査)、と。
いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判
した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑
いようがない。
同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、
二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答
えた子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあ
るのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。
少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」と
いうのは、もはや幻想でしかない。
+++++++++++++++++++++
(※2)
京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであった
という。
調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学など
を研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点
満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学
の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとっ
たという。)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(343)
●The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることをやめないことだ」(A・アインスタイン)
「考える教育」が、重要なことは言うまでもない。しかし「考える」という概念ほど、
これまた抽象的で、わかりにくい概念もない。
そこでアインシュタインの言葉。
The important thing is not to stop questioning.
アインシュタインは、こう言っている。「重要なことは、問うことをやめないことである」
と。
つまり子どもに向かって、「考えなさい」と言っても、あまり意味はない。しかし子ども
が何かのことで問うことにたいして、その問うことを、励まし、伸ばすことはできる。「ほ
ほう、それはおもしろい質問だね」「なかなか鋭いね」と。
たったそれだけのことで、子どもを、より深く、考える子どもに誘導することができる。
つまり「より考える子どもにしたい」と考えたら、「より質問を繰りかえす子どもにするこ
と」を考えればよい。
むずかしいことではない。
子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえす時
期にさしかかる。乳幼児の思考的特徴(自己中心性、物活論、人工論など)からの脱却を、
はかる。そしてその結果として、子どもは、より分析的なものの考え方や、より論理的な
ものの考え方をすることができるようになる。
この時期というのは、乳幼児から、少年、少女期への移行期にもあたる。
この時期をうまくとらえれば、その「問う」という行為を、じょうずに引き出すことが
できる。が、そうでなければ、そうでない。
私としては、その重要性というか、幼児教育の重要性が理解してもらえなくて、歯がゆ
くてならない。はっきり言えば、そのあとの、小中高、それに大学教育など、そのころで
きた方向性の、燃えカスのようなもの。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、
しかし、一度、この時期にできた方向性が、その子どもの将来を、決定づける。またこの
時期にできた方向性は、一度できると、それ以後、なかなか変えることはできない。
昨今、小学校教育の場でも、「より考える深く子ども」が、大きなテーマになっている。
「総合的な学習」というのも、そういう視点から、取り入れられたものである。それはそ
れとして評価されなければならないが、もっと大切なことは、その(方向性づくり)であ
る。
そのために、(問う)という姿勢を伸ばす。テーマは何でもよい。どんなささいなことで
もよい。
日本では、「わかったか? では、つぎ」が、教育の基本になっている。しかしアメリカ
では、「君は、どう思う?」「それはすばらしい」が基本になっている(T先生、指摘)。そ
ういう部分から、つまりもっとベーシックな部分から、教育というより、子育てのあり方
そのものを考えなおす。
それが結局は、日本の教育を変えていく、原動力になる。
【付録】
●ついでに、A・アインシュタインの語録を、集めてみた。(イギリス「Quote Ca
che」より)
It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.
(私は頭がきれるのではない。私はただ、その問題に、より長くかかわっているだ
けだ。)
The physicist's greatest tool is his wastebasket.
(物理学者のもっともすばらしい道具は、ごみ箱である。)
There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle.
The other is as though everything is a miracle.
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこに
もないと思う生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)
It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie
which is being systematically repeated. I do not believe in a personal God and
I have never denied this but have expressed it clearly. If something is in me
which can be called religious then it is the unbounded admiration for the
structure of the world so far as our science can reveal it.
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図
的に繰り返されてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、こ
のことを否定したことは一度もない。それについては、ここではっきりしておきた
い。もし私の中に、宗教的なものがあるとするなら、それは、科学が明らかにした
部分について、世界の構造について、無限の崇拝の念でしかない。
We should take care not to make the intellect our god. It has, of course,
powerful muscles, but no personality.
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、
筋肉はあるが、人間性はない。
Fantasie ist wichtiger als Wissen.
If my theory of relativity is proven succesful, Germany will claim me as German
and France will declare that I am a citizen of the world. If my theory should
prove to be untrue, then France will say that I am a German, and Germany will
say that I am a Jew.
もし私の相対性理論が正しいと証明されるなら、ドイツ人とフランス人たちは、私
が世界市民であると宣言することについて、文句を言うだろう。もし私の理論がま
ちがっていると証明されるなら、フランスは私をドイツ人と呼び、ドイツは、私を
ユダヤ人と呼ぶだろう。
Any fool can make things bigger, more complex, and more violent. It takes a
touch of genius--and a lot of courage--to move in the opposite direction.
バカが、ものごとを、誇大し、複雑にし、暴力的にする。その反対方向にものごと
を進めるためには、転載的なひらめきと、勇気が必要である。
Great spirits have always encountered violent opposition from mediocre minds.
偉大な精神というのは、いつも二流の精神からの猛烈な抵抗に出会うもの。
The human mind is not capable of grasping the Universe. We are like a little
child entereing a huge library. The walls are covered to the ceilings with books
in many different tongues. The child knows that someone must have written these
books. It does not know who or how. It does not understand the languages in
which they are written. But the child notes a definite plan in the arrangement
of books--a mysterious order which it does not comprehend, but only dimly
suspects.
人間というのは、宇宙の構造を把握することはできない。それは小さな子どもが、
巨大な図書館に入ったようなもの。壁には、床から天井まで、異なった言語で書か
れた本でおおわれている。子どもは、だれかがこれらの本を書いたことはわかる。
しかしだれが、どうやって書いたかまでは、わからない。それらが書かれた言語も
理解できない。しかし子どもは、本の並び方の中に、一定の秩序があることに気が
つく。つまり、神秘的な秩序だ。はっきりとわかるわけではないが、おぼろげなが
ら、疑うことはできる。
The important thing is not to stop questioning.
重要なことは、問うことをやめないことだ。
Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts.
ほとんどの人は、自分の心で見て、聞くことができない。
The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service.
戦争のない世界をつくるパイオニアたちは、軍務を拒否する若者たちだ。
Reality is merely an illusion, albeit a very persistant one
現実は、ただの幻想でしかない。が、研究は、とても忍耐を必要とするものだ。
It is not enough for a handful of experts to attempt the solution of a problem,
to solve it and then to apply it. The restriction of knowledge to an elite group
destroys the spirit of society and leads to its intellectual impoverishment.
一つの問題を解決し、それを応用するためには、一握りのエキスパートだけでは、
じゅうぶんではない。一つのエリート集団に、知識を制限することは、社会の精神
を破壊し、社会を、知的な貧困へと導くことになる。
A country cannot simultaneously prepare and prevent war.
一つの国というのは、戦争を同時に、準備し、避けることはできない。
I am enough of an artist to draw freely upon my imagination. Imagination is
more important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the
world.
私はイマジネーションによって、自由に絵を描く画家と言ってもよい。イマジネー
ションは、知識よりも重要である。知識には、限界がある。イマジネーションは、
世界をかけ回る。
True art is characterized by an irresistible urge in the creative artist.
真の芸術は、想像的な芸術家による、抵抗しがたい欲求によって、特徴づけられる
ものである。
The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source
of all true art and science.
私たちが経験できるもっとも美しいものは、神秘である。それはすべての芸術と化
学の源泉である。
I do not believe in the immortality of the individual, and I consider ethics
to be an exclusively human concern without any superhuman authority behind it.
私は人間の不死を信じない。そして私は、その背後に超人的な権威のない、倫理こ
そが、人間唯一の関心ごとであると考える。
Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I'm not
sure about the former.
たった二つのものだけが、永遠である。この宇宙と、人間の愚かさである。そして
私は、その前者である宇宙については、あまりよく知らない。
Life is a mystery, not a problem to be solved
人生(生命)は、神秘である。それは解かれねばならない問題ではない。
Nothing will benefit human health and increase the chances for survival of life
on Earth as much as the evolution to a vegetarian diet.
菜食主義ほど、人間の健康に恩恵をもたらし、命の存続をふやすものはない。
Creativity is contagious. Pass it on.
創造力は、伝染しやすい。ままにさせておけ。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●自己否定
仕事がなくなるという恐怖は、相当なもの。とくに、「男は仕事だけしていれば、一人前」
とか、「オレは家族を食わせてやっている」と、日ごろ言っている男性にとっては、そうで
ある。
「仕事」が、その人のステータスになっている。だからその仕事を失うということは、
その人の価値が否定されることに等しい。
が、こういう時代である。私のような中高年への、世間の風当たりは、きびしい。数年
前だが、大学の同窓会に出てみた。が、公務員や自営業をのぞいて、民間企業に就職した
仲間たちは、ほぼ全員が、リストラされ、別の会社に就職していた。
そういう時代である。
もちろん公務員や自営業とて、例外ではない。定年退職や、それに病気がある。事故も
ある。そういうとき、同じように、「自己否定」という恐怖を味わう。
それはすさまじいほどの衝撃である。若いときなら、やりなおしがきく。しかし50歳
もすぎると、そうはいかない。やりなおすという発想そのものが、消える。が、それだけ
ではない。プラス、生活の不安が、どっと襲ってくる。とくに自営業のばあいは、失業イ
コール、無収入となる。
だから……。
仕事は、大切なものだが、同時に、その仕事がなくなったときの自分を考えておくこと
も、重要なことである。別の仕事を用意するということではない。仕事がなくなったとき
の心構えというか、そういうものを、考えておく。あるいは、老後の生きがいというもの
を、積極的に用意しておく。
それは、老後の貯金のようなものかもしれない。
……と書くのは、実は、自分のため。自分に言って聞かせるため。と、同時に、実は、
私は過去において、何度も、その自己否定の恐怖を味わっている。毎日が、その連続とい
ってもよい。私がしているような仕事のばあいは、一度に、その恐怖がやってくるという
ことはない。そのかわり、その恐怖が、分散してやってくる。が、だからといって、恐怖
感が小さいということはない。ときには、その分散した恐怖が、波のように集まって、襲
ってくることもある。
いつということは、書けないが、毎日、床の上で、天井を見あげながら、どうしようか
と、思案に暮れたこともある。息子の寝顔を横で見ながら、涙をこぼしたこともある。
しかし今、私には、かろうじてだが、仕事がある。毎朝、起きると、やることが決まっ
ている。生きがいも、ある。健康も、まあまあ。で、ふと、こう思う。
「できるだけ、こういう状態を、大切に、長くつづけよう」と。それは、薄い氷の上を、
恐る恐る歩くようなもの。決して、おおげさな言い方ではない。そうした実感は、年々、
強くなっている。
で、今は、もう、大きな目標は、ない。目的も、ない。現状維持ができれば、御(おん)
の字。健康でいられるだけでも、感謝しなければならない。そういう立場である。
その私のこと。もしいつか、自己否定するようなことがあれば、私はもう生きていない
だろうと思う。自己否定イコール、死と考えている。多分というより、まちがいなく、私
は自己否定の恐怖感には、耐えられないだろうと思う。
【補記】
こうした困苦は、だれにでも起こりうるものだが、だれかがそうなったら、静かな、そ
して暖かい無視が、一番、よい。
いらぬお節介は、タブー。いわんや興味本位、個人的な好奇心で、その人の不幸を、の
ぞいてはいけない。
が、世の中には、無神経な人が多いのも、事実。ある日、いきなり電話がかかってきて、
「林君、今のような仕事は、やめて、もう少し、まともな仕事をしてはどうかね? 今の
仕事じゃあ、老後が心配だろう」などと言ってくる。(ホントだぞ!)
もちろんその人から、相談があれば、別。そのときは、親身になって、相談にのってあ
げる。
が、おかしなもので、自分が苦労しているときほど、その人の真価がわかる。私も何度
か、そういう波を越えて、(つきあう人)と、(つきあってもムダな人)を、よりわけてき
た。言うまでもなく、ムダな人と、ムダなつきあいをするのは、それ自体が、時間のムダ
である。
●痴呆症の人
日本のどこかで、世界の痴呆症の研究者が集まって、その研究会議が開かれた。その会
議の冒頭、一人の男性が、スピーチをした。彼自身も、痴呆症の一人だった。
が、何よりも、私の関心をひいたのは、その男性が、47歳という若さで発症し、現在、
57歳であるということ。私も、もうすぐ、その57歳になる。
で、その男性は、「自分であって自分でない恐怖」について、語っていた。「自分であっ
て、自分でなくなる恐怖」だったかもしれない。実は、その恐怖については、私も経験し
ている。脳ミソが、私の意思とは関係なく、勝手に動きまわる恐怖である。
私は、それを、チョコレートを食べ過ぎたときに、経験している。ちょうど2月のバレ
ンタインデーのときのことで、そのころは、毎日、パクパクと、幾箱も、チョコレートを
食べていた。
私はもともとチョコレートを食べられる体質ではない。その私が食べたのだから、脳ミ
ソが、大混乱してしまった。そのときのこと。「自分」はそこにいるのだが、別の脳ミソが、
てんでバラバラなことを、勝手に考えるようになってしまった。
幸いにも翌朝、症状は消えていたのでよかったが、その恐怖感は、相当なものである。
多分、その男性も、同じような恐怖を、日常的に経験しているのだろう。話を聞いている
とき、あのころの恐怖感が、そのまま、もどってきた。
そして、57歳という年齢!
いろいろ考えさせられた。アルツハイマー型痴呆症の研究会議ということだから、多分、
その男性もその病気なのだろう。その男性は、「痴呆症になっても、人格や感情はある」と
いうようなことを言っていたが、私はその言葉に、感動した。人間の生きる美しさという
か、尊さを、彼の言葉の中に感じた。
と、同時に、「では、自分は、何ができるか」と、そんなことまで考えてしまった。今、
健康であることをよいことに、何もしないでいることは、すまされない。健康な人は、健
康な人として、そうした病気をかかえて戦っている人の分まで、がんばらなくてはいけな
い。脳ミソだって、そうである。
健康な脳ミソをもっている人は、そうでない脳ミソをかかえて戦っている人の分まで、
がんばらなくてはいけない。健康な人には、そういう義務がある。義務だ。健康であるこ
とをよいことに、それを自分のためだけに使ってはいけない。
理由は、簡単。
そうした人たちの姿は、明日の、私やあなたの姿だからである。例外は、ない。一人の
例外も、ない。みな、そうなる。
同年齢の男性であるだけに、どういうわけか、強烈に、ものすごく強烈に、その男性の
スピーチが印象に残った。
●援助交際
援助交際というと、中年の男と、若い女性との交際を想像する人が、ほとんどだと思う。
しかしその反対の交際もある。中年の女性と、若い男性との交際との交際もある。決して、
少なくない。
後者のケースは、あまり表ざたにはならない。問題にも、話題にもならない。しかし深
刻さという点では、大きな差は、ない。
ある男子高校生は、どういうきっかけかは知らないが、40歳前後の女性と、現在、そ
の援助交際をしている。ときどき会って、小遣いをもらっている。
女性のほうは、レストラン経営者。離婚歴がある。夕方、待ちあわせ場所まで、車で来
て、そのままその高校生とラブホテルへ。数時間すごしたあと、自宅近くまで送り届けて
いる。
その高校生は、親の前では、「部活で遅くなった」と言い訳をしているらしい。
そのせいもあって、その高校生の成績は、急降下。勉強どころではない。当然である。
いや、それ以上に、そんなに簡単にお金が手に入るようになると、勤勉意欲そのものが、
おかしくなる。1回、デートすれば、数万円から、ときには、10万円。そんな大金が、
簡単に手に入る。
世の中、しょせん、男と女の世界。その男と女が、無数のドラマを繰り広げる。しかし、
その中には、(そうであってもよい部分)と、(そうであってはいけない部分)がある。ど
こでどう線を引くかだが、その線を引くのが、その人の道徳であり、倫理ということにな
る。
今でも、ごくふつうの高校生ですら、コンドームをもち歩く時代になった。へたに性道
徳を説こうものなら、「ダサい」とはねのけられてしまう。しかしこれでよいはずはない。
たとえば、エイズにしても、この日本では、その感染者が、ふえている。
推定でも、現在、若者を中心に、1万2000人以上の感染者がいるとされる(04年)。
2010年には、5万人になると、予想されている。さらに2015年には、……! こ
のまま何も手を打たなければ、あなたの子どもが、その感染者になる可能性は、きわめて
高い。
今の社会は、あまりにも欲望優先型。「だからどうなの?」という部分がないまま、みな
がみな、その欲望に溺れてしまっている。その結果が、「今」である。
では、どうするか?
……ということについては、何度も、書いてきた。そこでここでは、その先というか、
それを防ぐための一つの方法というか、親の心構えについて、書いておきたい。
いつか、そういう状態になることを、心のどこかでシミュレーションしておくというこ
と。それを心理学の世界でも、「認知的構え」という。あらかじめ心の訓練をしておくと、
その場になっても、あわてなくてすむ。
(1)あなたの子どもが、中学生になったとき、性的な遊びをするようになった。
(2)あなたの子どもが、高校生になったとき、援助交際をするようになった。
(3)あなたの子どもが、大学生になったとき、HIVの感染者だとわかった。
そういうとき、あなたは、どのようにそれに反応し、対処するだろうか。それを頭の中
で、シミュレーションしておく。
が、それだけではない。このシミュレーションには、もう一つの重要な、意味がある。
こうして頭の中で、シミュレーションすることによって、その問題点というか、「では、
どうしたよいか」、そこまでわかるようになる。
具体的に、考えてみよう。
たとえば台風が来たときのことを、想像してみよう。大きな台風で、今あなたの家のま
わりで、ゴーゴーと吹き荒れている。
停電にもなった。下水溝の水が、あふれだした。雨漏りもしている……。そこであなた
は、懐中電灯と取りだし、雨がっぱを着て、外に出る。風で飛んでいきそうなものに、重
石をのせて、雨漏りするところを補修し始める。
そういったことを頭の中で想像することによって、それをそのまま予防にも、利用する
ことができる。どこを、どうすればよいかが、わかってくる。
そういう意味でも、子育てで失敗しやすい親というのは、「うちの子にかぎって……」と
か、「まさか……」と考えて、問題から逃げてしまう。そして何か問題が子どもに起きるた
びに、狼狽(ろうばい)し、混乱する。
ということで、援助交際についての話は、おしまい。今でも、「そんな話は、私や私の息
子には関係ない」と思っているなら、あなたもすでに、「失敗」の泥沼に、半分、足をつっ
こんでいると考えてよい。
【補記】
常日ごろから、あなたのまわりで起きる問題について、「私ならこうするだろう……」「私
なら、こうなるだろう……」と考えておくことは、とても大切なことである。
ただし、興味本位ではいけない。ただの野次馬でもいけない。その人の立場になって、
その人の心になりきって、考える。理由がある。
一つの問題を、他人の視点で考えていると、どうしても否定的な側面ばかりが、先に出
てくる。「ここが、悪い」「そこが、悪い」と。
否定的なものの見方というのは、それ自体が、たいへん狭いものの見方と考えてよい。「あ
れが悪い」「それが悪い」などということは、だれにでもできる。たとえばたまたま、ここ
で私は、エイズの問題をとりあげた。その問題についても、「エイズになったのは、なった
人が悪い」「自業自得だ」「なった人が、自分で責任を取ればよい」などと考えていたので
は、何も問題は解決しない。しないばかりか、かえって、問題の本質から、自分を遠ざけ
てしまう。
大切なことは、その中から、何かを生み出すことである。そのためにも、一度、相手の
心の中に、自分を置かねばならない。そこを原点として、ものを考える。
エイズになった人の話を聞いたとき、「さぞかし、その両親はつらいだろうな」「私なら、
とても耐えられないだろうな」と、そういう視点で考える。
すると、それまで見えてこなかったものまで、見えてくるようになる。ついで、「どうし
たらよいか」「こうすればよいのではないか」ということまで、考えられるようになる。
実は、これはものごとを評論するときの、真髄でもある。それについては、また別の機
会に書くとして、こうした評論のし方は、私自身の長い経験から生まれたものである。一
つの参考になれば、うれしい。
●リバウンド
ダイエットのあとにやってくる恐怖が、リバウンド。
そのリバウンドを、今、経験している。
まず、猛烈な空腹感。ときどき、波打ち際に打ち寄せる波のように、襲ってくる。ドド
ーン、ドドーン、とだ。
が、このとき、じっと、それに耐えていると、空腹感そのものは、どこかへ消えたよう
な状態になる。それはそれでよいのだが、そういう状態でも、一度、何かを食べ始めると、
まるで猛獣が目をさましたかのように、また空腹感が襲ってくる。
そして何を食べても、おいしい。とにかく、おいしい。体中に、その栄養分がムダなく、
しみわたっていくような感じになる。
そしてそのとき、それほど食べたという実感はないのだが、1キロ、2キロと、体重が
ふえていく……。
が、ここでいくつかの問題が起きる。
ダイエットしていると、いくら栄養バランスに気をつけていても、体の抵抗力が落ちて
くる。私のばあい、粘膜の抵抗力が弱ってくる。夏場だと、結膜炎になったり、扁桃腺炎
になったりする。
当然、風邪もひきやすくなる。(今が、そうだが……。)
そうなると、「少し食べて、薬をのもう」ということになる。こうした状態を繰りかえし
ている間に、もとの体重に逆もどり。
そこで、私は、「今が正念場」と考えるようにしている。暇をみつけては、運動にでかけ
たり、散歩にでかけたりしている。ちなみに、おとといまで、体重は、63・5キロだっ
たが、今朝起きて、はかってみたら、64・5キロになっていた。
昨日、風邪気味で、ほんの少しだけ、それまでよりも食事の量をふやしただけなのだが、
結果は、このとおり。はっきりと現れてしまった。1日で、1キロ! この分だと、一週
間で、もとの体重!
リバウンドって、本当にこわい!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 17日(No.491)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●子どもの論理性
Tさんという母親から、「水量の問題を、一度、テーマで取りあげてほしい」という依頼
をもらった。
「水量の問題は、あちこちの入試問題でも使われていますから……」と。
水量の問題は、子どもの論理性を知るためにはよい。あちこちの入試問題としても、よ
く取りあげられている。学習テーマとしても、おもしろい。水量の変化を考えさせること
によって、(変化)→(保持)→(判断)を、学習する。
もともとはピアジェが取りあげた問題という説もあるが、それは定かではない。しかし、
おおむね、こんな問題である。
【例題1】
一つの透明なビーカー(A)に、色水が入っている。
そのビーカーの色水を、子どもたちに見せながら、「この色水を、こちらのビーカー(B)
に入れたら、どうなりますか。それをみなさんの前にある、紙のビーカーの上に、色をぬ
ってどうなるか、見せてください」と。
ビーカー(A)は、口径が太く、ビーカー(B)は、口径が細い。
紙の上には、空のビーカー(B)の絵が描いてある。子どもたちは、どうなるかを考え
ながら、空のビーカー(B)に、クレヨンなどで、色を塗る。
口径の太いビーカーから、細いビーカーに色水を移すわけだから、当然、水面の高さは
高くなる。そうした変化が、絵の上で表現されていれば、よしとする。
【例題2】
いろいろな口径のビーカー(A)(B)(C)が置いてあり、それぞれに、色水が、同じ
高さまで入っている。
それらのビーカーを見せながら、「どのビーカーの水が、一番、多いですか」「一番、少
ないですか」と質問する。
水面の高さが同じときは、口径の太いビーカーほど、色水がたくさん入っていることに
なる。
【例題3、応用】
口径の太い筒と、口径の細い筒に、それぞれ、同じ幅で、ヒモが巻いてある。その筒を
子どもに見せながら、「ヒモは、どちらが長いですか?」と質問する。
満4・5歳から、満5・5歳にかけて、子どもの論理性は、飛躍的に進歩する。この時
期は、ちょうど、乳幼児期から少年、少女期への移行期にも重なる。子どもには、何ごと
につけても、ものごとを、理屈で考える傾向が見られるようになる。
この時期、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえしながら、子どもは、その論理性を身に
つける。この時期、子どもの、そうした質問に、まわりの人たちが、ていねいに答えてあ
げることは、とても重要なことである。
しかし、つぎのような会話はまずい。
子「どうして、雨が降るの?」
母「神様が、そうしたからよ」
子「どうして、夜になると、暗くなるの?」
母「神様が、そうしたからよ」と。
さらに……
子「どうしてテレビは、映るの?」
母「映るから、テレビというのよ。映らないのは、テレビとは言わないでしょう」と。
以前、「なぜなぜ子ども学習百科」(学研)の後書きに、私が書いたエピソードである。
●接種理論
初対面での印象が、いかに大切なものであるか。それについて、今さら、書くまでもな
い。
幼児のばあいは、とくにそうで、そのときその幼児がもった第一印象で、そのあとのそ
の子どもの、伸び方が、まったくちがうということは、よくある。
よい例として、集団恐怖症、対人恐怖症、さらには、かん黙症などがある。
こうした症状は、はじめて保育園なり、幼稚園へつれていったその日をきっかけとして、
発症することが多い。そして一度、発症すると、無理をすればするほど、逆効果。かえっ
て症状をこじらせてしまう。
幼児の心は、そういう意味では、きわめてデリケートにできている。親や教師は、「集団
生活になれていないだけ」とか、「しばらく集団生活をすれば、なおるはず」と、安易に考
えるが、そんな簡単な問題ではない。
集団のもつ威圧力というか、恐怖感というのは、相当なもの。私もよく経験している。
今でも、ときどき仕事などで東京へ行く機会があるが、あの東京駅の雑踏には、いまだに
なれることができない。自分の歩くスピードで歩くことすら、許されない。おまけにあの
ラッシュアワー!
私は昔、M物産という会社に勤めていたが、その会社をやめる直接のきっかけになった
のが、あのラッシュアワーである。
私は、毎朝、H電鉄の満員電車で、伊丹から、塚本へ出て、大阪の中ノ島にある会社に
通勤した。たまたまオーストラリアから帰ってきたばかりで、どうにもこうにも、あのラ
ッシュアワーには、がまんならなかった。それはもう、男どうしが、顔をすりあわせるよ
うな混雑ぶりだった。
もちろん、子どもにもよるが、つまり集団の中にすぐ溶けこめる子どももいるし、そう
でない子どももいるが、あくまでもその子どもの視点で、ものを考えること。
たとえば入園する前には、あらかじめ、その場所を見学させたり、子どもに見せておい
たりするとよい。そのとき、あらかじめ、集団に対する、心構えを話しておく。いわば病
気の予防接種のように、子どもの心の中に、免疫力をつけておく。こうしておくと、子ど
もは、いきなり集団を見せつけられたときよりは、そのショックをやわらげることができ
る。
こうした一連の心理作用は、「接種理論」という理論で、説明される。
また子どもが悪い印象をもったときも、大人の一方的な意見を押しつけてはいけない。
「そうだよね」「あなたの気持ちよくわかる」「お母さんも、そう思う」と、子どもの立場
で、子どもの心になりきって、考える。
(はやし浩司 接種理論)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子どもの受験】
●受験は気楽に!
受験シーズンが近づいてきた。
その受験についても、同じようなことが言える。子どもの受験で大切なのは、「受験は楽
しい」という印象づくりを、しっかりとしておくこと。
「今度、○○小学校で、お勉強するのよ。お弁当つくってあげるから、いっしょに行こ
うね」と。
まちがっても、「受験」のもつ重圧的な恐怖感を、子どもにもたせてはいけない。中には、
「子どもに、それだけの覚悟と決意をもたせるため」と考えて、毎朝、「合格します」と、
三唱させている親がいる。
しかしこうした行為は、子どもに不要な緊張感をもたせてしまう。もう少し大きくなれ
ば、そうした緊張感を自分でコントロールすることができるようになるが、この年齢の子
どもには、まだ無理。
試験会場のどこかで、何かのことで、つまずいたようなとき、それがきっかけで、緊張
感が一気に爆発するというようなことはよくある。
こうなると、もう試験どころではなくなってしまう。ワーワーと泣きながら、親が待つ
控え室へ帰ってくるということにもなりかねない。
●子どもの受験(1)
まず、子どもの能力を、正確に知る。すべては、ここから始まる。
ほとんどの親は、「無理をしてでも、その学校へ押しこめてしまえば、あとは何とか、ト
コロ天方式で、伸びてくれるはず」と考えやすい。
しかし、それはまったくの誤解。それが言えるのは、高校や大学でのこと。こと小学校
では、そうはいかない。能力以上の学校に入ってしまったため、毎日、苦しみながら学校
へ通っている子どもは、少なくない。
ある小学校の校長は、こう言った。「大切なのは、子どもの笑顔です」と。小学4、5年
生になって、学校の授業についていきなくなった子どもがいた。そのとき、その校長は、
やんわりと、転校を勧めたが、親は、ガンとしてそれを拒否したという。その学校には、
特別支援教室のような教室がまだなかった。
笑顔が大切。私も、そう思う。またそれがすべてだと思う。
だから受験するにしても、子どもの能力と相談しながら、決める。「まあ、うちの子は、
放っておいても、何とか、みなについていけるだろう」と思えるようなら、心配はない。
しかし無理だろうなと感じたら、受験など、やめたほうがよい。
ほとんどの親は、子どもを伸ばすことしか考えていない。それは当然だが、しかし、そ
の一方で、子どもの伸びる芽をつんでしまうこともある。それについては、考えていない
……というより、気づいていない。
たとえば、受験が近づくと、強制的に子どもにワークブックなどをさせる親がいる。「ど
うして、こんなのができないの!」と。
子どもは涙をポロポロ出しながら、そのワークブックをする……。
しかしこうした無理が、いかに、子どものやる気をそいでいることか! 一時的な効果
はあっても、あくまでも一時的。長い目で見れば、かえって逆効果。……というような例
は、本当に多い。
●受験のつまずきが、トラウマに!
子どもが、受験でつまずくと、それはそのままその子どものトラウマ(心的外傷)にな
る。
しかしそのキズをつけるのは、子ども自身では、ない。親である。中には、子どもが受
験で失敗したりすると、半狂乱になる親がいる。寝こんでしまったり、幼稚園へ行くのを
止めてしまったりする。
「恥ずかしい」「みじめ」と。そういう親の姿を見て、子どもは、それを心のキズとする。
しかしこの時期、こうしたキズを子どもの心につけるのは、決定的に、まずい。
以後、子どもはそれを、(心のわだかまり)としてしまう。そして何かにつけ、自信喪失
の原因としてしまう。自ら、「ダメ人間」のレッテルを張ってしまうこともある。
ある中学生(女子)は、いつもこう言っていた。「どうせ、私はS小学校の入学試験で、
落ちたもんね」と。
その中学生は、「ここ一番!」というときになると、決まって、そう言っていた。そうな
る。
そんなわけで子どもの受験は、淡々と。合格したときのことを考えて指導するのではな
く、不合格になったときのことを考えて、準備する。
仮に不合格になっても、まったく子どもには、その緊張感を伝えてはいけない。なごや
かな雰囲気で、やりすごす。そういった配慮をするのは、子どもを受験戦争に巻きこむ親
が守らねばならない、最低限のマナーである。
●親の質問から
多くの親は、私にこう聞く。「うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。
私は、こう答える。(1)「まあ、うちの子は、放っておいても、何とかやっていくだろ
う」という自信があり、(2)通学の不便さがそれほどないなら、受験したらよい、と。
一度、中央までバスで行き、そこからまた乗り換えて、1時間……というのは、子どもに
とっては、負担が大きすぎる。私の印象では、その1時間が、限度だと思う。
つぎにかりに不合格でも、それであなたの子どもが、ダメというわけではない。小学校
の教師は、小学生については、よく知っている。それは事実だが、幼児のことは知らない。
中には、小学生も幼児も同じと考える人がいるかもしれないが、小学生と幼児は、まった
くちがう。
どうちがうかということを書き始めたら、キリがないが、ちがうものは、ちがう。だか
ら、小学校の入試で失敗したからといって、重大事と考えてはいけない。
それよりも大切なことは、(子どもらしい子ども)にしておくこと。伸びやかで、明るく、
すこやかで、好奇心が旺盛で、生活力がある……。忍耐力があれば、さらによい。そうい
う子どもがダメというのなら、そんな学校は、こちらから、蹴とばしてやればよい。それ
くらいの気構えは、必要である。
あなたの子どもを守るのは、あなたしかいない。そういう前提で、子どもも教育を考え
る。
なお、一言。
子どもを競走馬にしたてて、子どもの受験に狂奔する親というのは、一見、教育熱心で、
子ども思いの親に見えるかもしれない。しかしそういった親は、子どもを真に愛している
のではない。真に愛しているから、そうしているのではない。
自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだけ。あるいは
自分の果たせなかった夢や希望を達成させるための、ロボットとして利用しているだけ。
よくて、見栄、メンツのために利用しているだけ。
それはたとえて言うなら、ストーカーが自分勝手な思いこみで、相手を追いかけまわす
のに似ている。相手、つまり子どもの能力や迷惑など、何も考えていない。子どもの心の
ことなど、何も考えていない。
もしそんなに「受験」が大切なものなら、自分で勉強して、何かの試験にチャレンジし
てみればよい。親のそういう姿を見て、子どもも、伸びる。
少し過激な意見を書いたが、ともすれば暴走しがちな受験戦争に、どこかでくさびを打
たないと、あなたもやがてすぐ、その魔力にとりつかれてしまう。そして結果として、親
子関係を破壊し、子どもの能力をつぶしてしまう。
そうなってからでは、すべてが、遅い! 今、そうして失敗している親が、あまりにも
多い。多すぎる。「うちにかぎって……」などと思っている親ほど、あぶない。
【受験一口メモ】
●受験は淡々と
子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格に
なったときのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子ど
もは生涯にわたって、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗
というもの。だから受験は、不合格のときを考えながら、準備する。
●比較しない
情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。
できれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人と
する。「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、か
なり精神的にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状
態に……ということにも、なりかねない。
●「入試」「合格・不合格」は、禁句
子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口に
するのは、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立
ては、必要である。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょ
うね」とか。またそういう雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よ
い。
●入試内容に迎合しない
たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球
根の名前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし
大切なことは、物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。
わからなかったら、すなおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういう
すなおさを、試しているのである。
●子どもらしい子ども
子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、
生活力があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。
ねたむ、いじける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子ども
を目指し、それでダメだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それ
くらいの気構えは、親には必要である。
●デマにご用心
受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親し
くなっておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデ
マを増幅させる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こうい
うのを心理学の世界でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不
安状態であればあるほど、その錯誤が大きくなることが知られている。
(はやし浩司 受験の心得 気構え)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●秋
はからずも、客人が来て、今夜は週末でもないのに、山荘に来て、一泊することに。着
いたの、夜の9時ごろ。途中、山荘近くの弁当屋に寄って、翌日の朝食用の弁当を買う。
山荘に着くと、秋らしい、かわいた冷たい風が、やさしく吹いていた。
私たちは庭にイスを出し、そこでしばし、話しこむ。ゆるやかな時の流れ。あたりは静
まりかえって、音もない。いや、つい先ほどまで、秋の虫が鳴いていたが、どこかもう、
元気がなかった。
客人は、今、風呂に入っている。ここへ来るまでは、「風呂はいいです」なんて、言って
いたのに、この山荘に着いたとたん、「入りたい」と。
この山荘には、人をそんな気持ちにさせる。
そうそう、先ほど、レモンをかご一杯、収穫してきた。包丁で切ると、さわやかな香り
が、部屋中に漂った。それをかぎながら、客人に見せると、客人は、喜んだ。「今夜の風呂
は、レモン風呂」と。
私はレモンをこまかく、輪切りにすると、それをタオルに包んで、ヒモで閉じた。そし
て客人が風呂に入る前に、それをバスタブに置いた。私自身も、レモンが、これほどまで
に、よい香りをするとは、知らなかった。
時は、10月。薄曇の天空は、町の明かりを受けて、白く光っている。この「時」を、
客人と分けもつことができることが、私には、うれしい。
●古いパソコンを掃除
息子が、新しいパソコンを買った。で、そのおさがりというか、古いパソコンが、手に
入った。
で、今日は、今朝から、そのパソコンの掃除。が、見て、驚いた。キーボードのキーの
まわりに、白いカビが生えている!
さっそく、洗剤で、清掃。そして電源を入れて、リカバリー(再セットアップ)。新品、
ピカピカの状態にして、私が使う。
OSは、WINDOWのME。少し古いが、何とか、使えそう。ワイフには、私のお
さがりを、やるつもり。こうして我が家には、いつの間にか、弱肉強食の主従関係ができ
てしまった。
そうそう、ホームページコンテストでは、グランプリ賞を取って、賞品のパソコンを手
に入れるつもりだった。しかし、だめだった。ビリ賞に近い、下のほうの賞だった。賞品
といっても、たぶん、電子辞書とか電卓とか、そういったものだろう。
●今朝は、寒かった
ダイエットしているせいか、このところ、寒さが、身にこたえるようになった。寒い。
とにかく寒い。
昨夜は、息子氏が、ガールフレンドをつれてきた。みんなでいっしょに、食事をした。
笑顔のすてきな、かわいい子だった。それに明るいというか、すなおというか。何を話し
かけても、ケタケタと笑いこけていた。
メニューは、湯豆腐。「こんなジジババ臭い料理で、ごめんね」と、何度もあやまりなが
ら、食べる。
湯豆腐では、活力は、出ない。元気もでない。
で、おかげで、今朝は、私もワイフも、軽い頭痛。どこかへ出かける予定だったが、も
う少し、たがいの様子を見てからにする。風邪をひいたか? 残念!
●FC2NETWORKに加入
FC2NETWORKに、勧められるまま、加入してみた。無料の、何というか、イン
ターネット・サークル。
興味のある人は、
http://network.fc2.com/login.php
まで。
楽天の日記サービスに似ているが、友人を定めて、たがいに日記を読みあうという性格
のものらしい。よくわからないが……。
で、今日までに、3日分、日記を書いてみた。結構、使いやすそうだ。しかしこれ以上、
手を広げても、たいへんになるだけ。しばらく様子をみてみよう。
●明日、三男が帰ってくる
明日、三男が、オーストラリアから帰ってくる。
が、ガールフレンドが空港で出迎えるとかで、名古屋で、一泊。まっすぐ、ここへは帰
ってこないつもりらしい。勝手にしたらよい。
で、私とワイフは、三男の部屋掃除。これから三男のベッドを、別の部屋に移すつもり。
ついでに部屋の掃除も。いろいろ家事が、たいへん。
では、今日は、忙しいので、ここまで。外は寒々とした、曇天。いやだナ〜。
●買い物
夕方、ワイフとハナ(犬)と、散歩をかねて、Eストアまでで買い物。距離は、片道、
1キロくらいか。
うちのハナは、トロトロと歩くような犬ではない。またそういう散歩のさせたかたは、
あまりさせていない。そのため、やたらとグイグイと、ヒモを引っ張る。
「しつけの悪い犬ね」と、ワイフは、散歩のたびに、そう言う。そしてそのたびに、「主
人が主人だからね」と、私は答える。
のどかな昼下がり。秋の風。ところどころで立ち止まって、写真をとる。
●アジテーター
静かな群集(会衆)が、アジテーター(扇動者)によって、攻撃的な群衆、つまりモッ
ブに変わることはよく知られている。「モッブ」というのは、「mobile(風などで簡
単に動くの意)」という単語を短くしたもの。
こうしたアジテーターは、教育の場でも、よく経験する。
ふだんは静かに勉強しているのだが、何かのことで、別の子どもが、先生に反発したと
する。そのとき、それを横で見ていて、「やれ、やれ!」「もってと、やれ!」と、たきつ
けたり、けしかけたりする。このたきつけたり、けしかけたりする子どもを、アジテータ
ーという。
とたん、教室は、パニック状態になる。
そこで指導する側の私としては、先の子どもをさておいて、そのアジテーターを、集中
的に、おさえにかかる。それをしないと、さらに別のアジテーターが出てきて、混乱に拍
車をかける。
こうしたアジテーターは、実は、社会秩序を破壊するという意味で、たいへん危険な存
在と考えてよい。短絡的な思考、直感的な判断、感情的な言動など。ときには、それが暴
動につながることもある。
で、そのアジテーターになりやすいタイプは、決まっている。ちょっとしたことで、興
奮しやすく、感情的になりやすい。思考力が、それだけ浅いというのも、その特徴の一つ。
さらにその原因としては、何らかの欲求不満やわだかまり、こだわりをもっていることが
多い。
このタイプの子どもは、何らかのきっかけがあると、感情や行動のコントロールができ
なくなり、ほかの子どもたちを巻きこむようにして、興奮状態になる。
近年、「キレる子ども」が問題になっているが、同じレベルで、「アジテーターになりや
すい子ども」も、問題とすべきではないだろうか。
私のばあい、そのアジテーターの子どもに対しては、容赦なく、つまりその子どもが扇
動する以上に、大声で、きびしく叱ることにしている。そういう形で、「扇動することは悪
いことだ」ということを、力をもって、教えることにしている。
こうしたアジテーターに扇動されると、一般社会では、群衆は、ここに書いたような、
モッブになる。そしてそのモッブは、暴力的になったり、略奪的になったりする。暴徒と
なって、商店街を襲う。そんな群集を想像してみればよい。
なおこのモッブは、ふつう、心理学の世界では、(1)攻撃的になるタイプ、(2)略奪
的になるタイプ、(3)ヤジを飛ばすだけのタイプなどに分類されて考えられている。
(はやし浩司 モッブ mob アジテーター 扇動 扇動者)
●ふえる熟年離婚
厚生省大臣官房統計情報・人口動態統計課の「人口動態調査」によると、昭和25年か
ら平成7年までの間に、離婚率は、4・6倍になったという。
その中でも、結婚生活20年以上の熟年夫婦の離婚率は、3・5%から、16・9%に
まで上昇しているという。17%といえば、ほぼ5組に1組ということになる!
実は、私の知人の中にも、今、離婚の危機に立たされている人が、何人かいる。しかし
そういう人たちと会って話をしてみると、どこまでが冗談で、どこから先が、真剣なのか、
わからなくなってしまう。そのわからなさこそが、この熟年離婚の特徴の一つかもしれな
い。
知人「もう、5年も、セックスレスだよ」
私「本当かあ!」
知人「寝室も別々だよ」
私「本当かあ!」
知人「だからさ、オレにも、愛人がいてさ」
私「本当かあ!」
知人「家内も、今ごろは、どこかの大学生と、飲み歩いているよ」
私「本当かあ!」と。
そんな調子で、会話がかみあわなくなってしまう。が、それでいて、その奥さんからは、
こまめに礼状が届いたり、電話がかかってきたりする。離婚の雰囲気など、どこにも感じ
させない(?)。
で、それを話題にする私のほうも、疲れた。私の実感では、「離婚する」「離婚する」
と、騒ぐ人ほど、離婚しない。本当に離婚する人は、静かに、だれにも悟られずに、離婚
する……ということか。
その熟年離婚には、大きな特徴がある。今までの経験をまとめてみると、こうなる。
(1)夫の知らないところで、妻側が、先に離婚の決意をかためてしまう。
(2)それまでは表面的には、従順で、家庭的な妻であることが多い。
(3)夫の職業は、ほとんどが会社勤めのサラリーマン。会社人間であることが多い。
(4)夫は、まじめタイプ。むしろ、家庭思い。家族思い。家庭サービスもしている。
(5)共通の趣味や、目的がない。休日などは、バラバラの行動をすることが多い。
(6)妻側から離婚を申し出られると、夫は、「どうして?」と、ろうばいしてしまう。
(7)子どもの結婚など、子育てが終わったときなどに、離婚しやすい。
ほかにもいろいろあるが、実は、私たち夫婦も、あぶない。しかし私のように、「あぶ
ない」「あぶない」と思っている夫婦は、離婚しない。それを知っているから、「多分、
だいじょうぶだろう」と、自分では、そう思っている。
そこでこうした熟年離婚を防ぐには、どうしたらよいかということになる。が、それと
て、つまり、「防ぐ」という発想とて、一方的に、夫側の勝手にすぎない。夫としては、
離婚されたら困るかもしれない。しかし一方の当事者である、妻側は困らない。離婚を望
んでいる。
だから「防ぐ」という発想そのものが、夫側のものでしかない。妻側にすれば、「どう
すれば、離婚できるか」。さらには、「どうすれば、夫の束縛から解放されて、自分らし
い人生を、もう一度、生きることができるか」ということが、問題なのだ。
事実、熟年離婚する妻たちは、こう言っている。「残りの人生だけでも、私らしい生き
方を、してみたい」と。だから、「防ぐ」という発想そのものが、そぐわない。そういう
妻たちにとっては、かえって迷惑になる。
そこで、これはあくまでも夫側の立場の意見だが、熟年離婚を防ぐためには、とにかく
『協同意識』をもつしかないのではないかということ。共通の目的が無理なら、趣味でも
よい。たがいに、たがいの心の補完をしあうような活動をしなければいけない。土日にな
ると、夫は、ひとりで魚釣り。妻は、テニス仲間と旅行……というのでは、あぶないとい
うこと。
で、私たち夫婦も、その熟年離婚の予備軍のようなものだから、偉そうなことは言えな
い。しかし最近、私は、こう思う。
夫は、夫で、妻の生きがいを、いっしょにさがし、育ててやる。それが熟年離婚を防ぐ、
最大の方法ではないか、と。「私は夫だ。お前らを食わせてやっている」という発想では、
熟年離婚されても、文句は言えない。
そう言えば、離婚の危機にある(?)と思われている、冒頭にあげた知人たちは、どの
人も、どこか権威主義的。夫意識が強すぎるのでは? 「男は仕事だけしていれば、一人
前」「それでじゅうぶん」「妻は家庭に入って、家事をすればよい」と、日常的に、そん
なふうに考えているような感じがする。つまり、そういう発想をする夫ほど、あぶないの
では?
今夜もワイフに、「おい、今じゃあ、5組に1組が熟年離婚する時代だそうだよ。20
年間も結婚生活をしていてね……」と話すと、ワイフは、どこか感慨深げ。「じゃあ、私
たちも……」と言いそうな雰囲気だった。うちも、あぶないなア〜。
【補記】
どうせ17%も、熟年離婚するなら、そういう熟年離婚を、積極的に考えなおしてみた
ら、どうだろうか。夫婦も、いつまでも「結婚」というワクにとらわれないで、自由に、
自分たちの時間を楽しむとか……。そういう発想で、たがいの関係を、もう一度、つくり
なおす。
もっと言えば、「結婚」という概念を、一度解体した上で、つくりなおす。こういう時代
になったのだから、いつまでも、旧態依然の結婚観にしがみついているほうが、おかしい
のかも?
●世界の中の日本人
こんな話がある。その女性(日本人女性)は、外国人と結婚した。外国人といっても、
アフリカ系の黒人だった。
その結婚について、女性の両親は、猛烈に反対した。が、その反対を阿智を押し切って、
その女性は結婚。そのあと、その両親は、「近所に恥ずかしい」という理由で、その女性を、
勘当(かんどう)してしまった。その女性をAさんとしておく。
もう一人、同じく、外国人と結婚した女性(日本人女性)がいた。その両親は、ことあ
るごとに、「うちの娘は、外交官と結婚した」と自慢していた。が、外交官といっても、や
はりアフリカ系のある国の外交官、つまり黒人だった。その女性を、Bさんとしておく。
この二つは、実際、私の身近で見聞きした話である。
こんな調査結果がある。
少し古い資料だが、「日本人の他国人に対する重要度」という調査結果である(1967
年、我妻、米山氏調査)。
それによると、日本人が、好感をもっている国から、順に並べると、つぎのようであっ
たという。
(親友になってもよい他国人)
イギリス人
アメリカ人
フランス人
ドイツ人
インド人
イタリア人
(結婚してもよい他国人)
イギリス人
ドイツ人
アメリカ人
フランス人
ともに、朝鮮民族、黒人は、最下位だった。
同じ、黒人の男性と結婚したが、Aさんは、親から勘当されてしまった。が、Bさんは、
自慢の娘になった。「何といっても、外交官」である。日本人は、「外交官」という言葉に、
弱い。独特の魅力を感ずる。長くつづいた、官僚制度と、島国意識の結果と考えてよい。
なぜだろう?
いや、理由など、改めてここに書くまでもない。そういった意識は、私もあなたも、み
な、共通して、もっている。と、同時に、外国の人たちも、もっている。人種偏見という
か、人種差別意識というのは、どこの国へ行ってもある。どこの国の人ももっている。
で、私たち日本人に対してはどうかというと、これまた根強いものがある。皮肉なこと
に、同じような調査を、イギリスやドイツ、アメリカでしたら、恐らく、日本人は、中国
人や朝鮮民族よりも、下位になるのでは?
「日本人は、世界に名だたる、大和民族。すぐれた民族」と思いたい気持ちは、よくわ
かるが、しかし世界の人は、そうは見ていない。骨相学というのもあって、その骨相学に
よっても、世界で、一番貧相な民族は、この日本人ということになっている。
長く島国に住んで、他民族と血の交流をしてこなかったのが、理由とされている。いや、
だからといって、日本人が劣っていると言っているのではない。
私が言いたいのは、そもそも、こうした民族差別というか、人種差別いうのは、くだら
ないということ。まちがっているということ。相手が黒人であろうが、なかろうが、白人
であろうが、なかろうが、そういったことで、その相手を判断してはいけないということ。
もしそれを許すなら、反対に、日本人が、それをされても、文句を言えないということ
になる。
私の二男は、よりによって、白人の女性と結婚してしまった。しかも有色人種への根強
い偏見の残っている、アメリカの中南部で、である。私は二男のフィアンセ(当時)とメ
ールを交換するようになって、最初に、このことを率直に問いただした。
「あなたは、日本人の男性と結婚しようとしている。あなたは、二男を、愛しているの
か。それでよいのか?」と。
すると、フィアンセは、すかさず、「Yes,I DO love him.」と書いて
きた。もう反対する余地など、なかった。と、同時に、「よく、相手の両親が許してくれた
ものだ」と、感心した。
その二男は、嫁の家族にも暖かく、迎えられている。毎月のように行き来している。が、
もし今、相手の両親が、「アジア人と結婚した娘など、勘当だ」「会いたくない」などと言
ったとしたら、どうだろうか。悲しい思いをするのは、二男だけではない。
いや、私とて、本音を言えば、二男には、日本人の女性と結婚してほしかった。アメリ
カ人の女性は、何からなにまで、ちがう。ちがいすぎる。人種偏見はないとしても、結婚
となると、話は別。そういう思いはあった。
で、先のAさんだが、実家には、そんなわけで帰っていないという。日本へ夫を連れて
きても、この浜松市あたりですごして、そのまま、またアフリカへもどってしまうという。
Bさんにしても、実は、その両親は、「黒人」ということは、伏せている。ただ「外国の
外交官」とだけ話している。その気持ちは、よ〜く、わかる。このエッセーを読んでいる、
あなたも、その気持ちは、よ〜く、わかるはず。
まだまだ日本は、精神的には発展途上国だと思うのは、そんなわけで、私だけではある
まい。……というようなことを、2人の女性の話を聞きながら、考えた。
+++おまけ+++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●神になれない人間、人間になれない神
今朝、山荘で、不思議な夢を見た。
夢の中で、それが夢とわかるときがある。今朝見た夢も、そんな夢だった。が、しかし
最初は、わからなかった。
最初は、私は、どこかの警察官たちに追われていた。私は、危険分子ということだった。
間一髪で、その警察の襲撃をまぬがれた。どこか、ハリウッド映画の1シーンのようだっ
た。
で、逃げながら、「どうして、この私が逃げなければならないのか?」と思った。そのと
きだった。私は、それが夢だと知った。自分が夢を見ていることを知った。「これは、夢な
んだ」と。
しかし今朝の夢は、いつもとちがっていた。ふつうなら、つまりいつもなら、そう気が
ついたとたん、目がさめてしまう。しかし私は、そのまま、夢を見つづけた。ときどき、
夢であることを忘れることもあったが、しかし私は、自分で見ている夢を、ほぼ、自由に
操ることができた。
こうなると、自分で映画を監督しているようなもの。好き勝手なことができる。
空を飛びたいと思えば、飛ぶこともできる。行きたいところがあれば、そこへ行くこと
もできる。スーパーマンのようなパワーも、手にすることができる。
しかし夢の中の私は、私のままだった。どこか風采のあがらない、ヨボヨボした感じの
男だった。
私は、まず、孫の誠司に会った。その横で、二男が、三人のアメリカ人に囲まれて、英
会話の特訓を受けていた。
つぎに気がつくと、巨大な廃墟のあとを、5、6人の男たちといっしょに、歩いていた。
石の門や、建物が、無惨にも破壊され、粉々になっていた。その廃墟をしばらく進むと、
大きな門が現れた。
私についてきた男たちは、その門のところで、立ち止まってしまった。見ると、門のと
ころに、最初に私を追いかけてきた、警察官たちが、その指揮官らしき男といっしょに、
立っていた。身長が2メートルもあるかと思われるような大男たちである。
私は、こう言った。「私は、この世界のクリエーター(創造主)だ。君たちだって、私の
思考がつくりあげた、幻想だ」と。
するとその前をたちはだかる警察官たちは、笑った。「お前は、頭がおかしい。だからこ
そ、私たちにとっては、危険分子なのだ」と。
私はかまわず、前に進んだ。そして一人の大男の頭の上に手を置くと、その手を一気に、
下へ。とたん、その大男は、提灯のように縮んでしまった。それを見て、警察官たちは、
そのままどこかへ消えてしまった。
私はかまわず、前に歩いた。
門の前は、大理石でできた、広大な広場になっていた。そしてその向こうは、野菜畑に
なっていた。直径が1メートルもあろうかと思われるような、巨大なキャベツが、何列に
もなって、そこに並んでできていた。大きなキャベツだった。
私は、「私は神だ」と実感した。たしかに、その世界では、私は、神だった。そこに見え
るもの、聞こえるもの、それらはすべて私がつくりあげたものだ。そしてそれらをすべて、
私は自由に操ることができる。
つぎのシーンでは、私は、ひとりで映画館にいた。古い、映画を見ていた。しかし私は、
その映画の中にも、入ることができた。
またつぎのシーンでは、どこかへ行くために、バス停でバスを待っているところだった。
その気になれば、バスなんかに乗らなくても、そのまま空を飛ぶこともできた。しかし、
飛ばなかった。
おかしなことだが、そのとき考えたのは、携帯電話で、ワイフに迎えに来てもらうこと、
だった。しかし実際には、バスに乗った。
どこか静かな森の中を、バスは走っているようだった。乗客は、みな、病人だった。苦
しそうな表情をしていた。ふと、「治してやろうかな」と思ったが、それはしなかった。自
信がまだ、なかった。
そしてまた前のシーンにもどった。つまり、私は、5、6人の男たちといっしょに、ど
こかの長い廊下を歩いていた。私は、その中の一人の男に、こう聞いた。
「ぼくは、今、夢を見ている。君たちも含めて、この世界は、みな、ぼくがつくったも
のだ。つまり、この世界では、ぼくは、神だ」と。
男たち「あなたが、私たちをつくったというのは、信じがたい」
私「私は、今すぐにでも、君たちも含めて、この世界を消すこともできる」
男たち「あなたは、私たちの神か」
私「そうだ。……そこで君たちに聞きたい。今、ぼくは、夢の世界にいる。どうすれば、
もとの現実の世界にもどることができるか」と。
すると、一人の男が、半ば冗談ぽく、こう言った。「この世界で、もう一度、眠ればよい。
そうすれば、起きたとき、現実の世界にもどることができる」と。
私はそのとき、それを言葉では否定したが、別の心で、それを「なるほど」と納得して
いた。
で、気がつくと、また私は、あの映画館の中にいた。ひとりで、映画を見ていた。座席
に座っているというよりは、ふとんの中で、横になっていた。体がだるかった。「もう、家
に帰らなければ」という思いもあったが、体が、動かなかった。
で、携帯電話に手をかけたところで、意識がもうろうとしてきた。私は、おかしなこと
に、本当におかしなことに、夢の中で、また眠ってしまった。
そして……。目がさめた。気がついたときには、私は現実の世界にもどっていた。ゆっ
くりと起きあがると、台所のほうへ。ワイフがそこに立っていた。「おはよう」と言いなが
ら、ワイフを抱いた。
ワイフ「どうしたの?」
私「不思議な夢を見た……」と。
ワイフ「どんな夢?」
私「私たち人間は、神の世界に入れないと苦しんでいる。しかしその神だって、今、人間
の世界に入れないと、同じように苦しんでいる」と。
私には、神の苦しみがどこか、わかったような気がした。そんな不思議な夢だった。
(041019)
【人間になれない神、神になれない人間】
この世界に、絶対という絶対を超えた、「超絶対の存在」というのは、あるのか? 多く
の人は、それを「神」と呼ぶ。
私には、わからない。わからないから、今は、「ない」と思う。
そこで何かの信仰者の人たちに聞く。「本当に、神はいるのか?」と。
するとみな、こう答える。「あなたも、私たちといっしょに、信仰してみなさい。そうす
れば、あなたはそこに神を感ずることができますよ」と。
しかしもし神が、全知全能なら、今すぐに、ここに現れることだって、できるはず。何
でもない。しかしここに現れない。現れることができない。だから、神は、全知全能では
ない。つまり神はいないのでは? ……という議論は、昔からなされる議論である。
つまり神といえども、人間の世界に、おりてくることができない。
一方、人間は人間で、多くの人たちは、神になろうと、あがきもがき、そして苦しんで
いる。しかし人間は、人間であるという壁を、どうしても超えることができない。
あのミケランジェロの『天地創造』(バチカン美術館)の絵の中では、創造神と、人間の
アダムが、手をのばしあう場面が描かれている。しかしその両者の手は、あと一歩のとこ
ろで、触れあうことはない。
「それが神と人間の限界状況を象徴している」と説く人もいる。
たしかに、これは限界だ。
今朝、私が見た夢の中には、そんなテーマが隠されているように思う。そんな、私の中
の、心の奥深いところ、潜在意識の中で考えていたことが、夢という形で、現れたのだと
思う。
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 15日(No.490)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【今週のBW】
今週は、カレンダーの学習をした。「きのう」「きょう」「あす」の概念を、教えた。
年中児では、ここまで。年長児になると、「おととい」「あさって」まで理解できるよう
になる。
ついで、「日、月、火……」の曜日。さらに「1日(ついたち)、2日(ふつか)、3日(み
っか)……」とつなげる。
私「これはカーレンジャーです」
子どもたち「カーレンジャーではない。カレンダーだ」と。
いつものお決まりのギャグを飛ばす。
が、あるクラスでは、その予定が、まったく狂ってしまった。一人の母親と、レッスン
の前に、トラブったからだ。調子が出なかった。そう、こういう仕事は、毎回が、真剣勝
負。手を抜かない。手を抜けない。
ところで教材用に使おうとしたカレンダーは、どういうわけか、月曜日から始まってい
た。(現在、主流は、日曜日から始まっている。)
しかし月曜日から始まっているカレンダーほど、使いにくいものはない。頭の中が、混
乱してしまう。一度、印刷機で印刷したが、そんなわけで、その教材は、ボツ。
ところで、私が子どものころは、曜日は、月曜日から始まっていた。たしかカレンダー
もみな、そうなっていたのではなかったか。月、火、水……ときて、最後に、日曜日だっ
た。それが今では、日曜日から始まって、月、火、水……となる。
どうしてだろう……と、ふと、そんなことを考えながら、レッスンを終わった。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【子育て・あれこれ】
●(本当の子ども)と(ニセの子ども)
どんな子どもにも、一人の子どもの中に、(本当の子ども)と、(ニセの子ども)がいる。
同居している。
(本当の子ども)というのは、本来のその子どもをいう。しかしこの(本当の子ども)
は、成長過程の中で、さまざまな自分を演出するようになる。わかりやすく言えば、仮面
をかぶったり、自分をかざったりするようになる。これが(ニセの子ども)ということに
なる。
よく知られた例に、反動形成がある。
「あんたは、お兄ちゃんだから……」と言われつづけるうちに、自ら、兄らしく振る舞
うようになる。そして本来は、弟や妹への嫉妬もあり、弟や妹を憎んでいるはずなのに、
わざと弟思い、妹思いの、(ニセの自分)を演ずるようになったりすることがある。
幼児教育の世界でも、「すなおな子ども」というときは、(心の状態)と、(表情や言動)
が一致している子どもをいう。ところが何らかの原因で、この二つが、不一致を起こすこ
とがある。
ひがむ、つっぱる、いじける、ねたむ、すねる、ひねくれる、など。
これらの現象は、(本当の自分)と、(ニセの自分)との間をつなぐ、いわばブリッジ(橋)
のようなものだと思えばよい。子どもは二つの自分に、ブリッジをかけることで、自分を
調整しようとする。
これを私は、勝手に、「ブリッジ理論」と呼んでいる。
で、このブリッジは、ある程度の川幅には耐えることができる。しかしその川幅が、極
端に広くなってしまうようなことがあると、ブリッジは耐えられなくなる。崩壊する。
こうなると、(本当の私)と、(ニセの私)は、遊離するようになる。
よく知られた例としては、かん黙症の子どもや、自閉症の子どもがいる。いわゆる「何
を考えているかわからない子ども」ということになる。あるいは、怒っているはずなのに、
ニヤニヤ笑ってみせたりする子どももいる。心が遊離したために起こる現象と考えると、
わかりやすい。
……という話は、子どもの世界での話だが、おとなとて、例外ではない。おとなは、子
どもの(なりの果て)である。こうした子ども時代の心のキズを、そのまま背負っている
人も、少なくない。
そこで改めて、「自分さがし」ということになる。
あなたは、本当に、本当のあなただろうか? あなたはニセのあなたを、あなたと思い
こんではいないだろうか? もしニセのあなたを、本当のあなただと思いこんでいるとし
たら、いつ、どのような形で、あなたは、そういうニセのあなたになったのだろうか。
……というふうに考えていくと、子どもの問題は、結局は、自分の問題だということに
気がつく。
私も、あるとき、子どもたちを見ながら、「私という人間は、ニセだらけ」と気がついた
ことがある。そう、本当に、ニセだらけ!
そこで私はあるときから、本当の自分をさらけ出すことを決めた。あるがままの自分を、
あるがままに表現する。言いたいことを言い、したいことをする。そうすることを決めた。
とくに(子どもにものを教える)という立場の人間は、その反動形成から、ニセの自分
を演ずることが多い。自分をことさら飾ってみるたりする。そういう(私)をやめた。
とたん、気持ちがよいほど、心が軽くなったのを覚えている。すがすがしい風が、心の
中を吹きぬけたのを、感じた。
そこでこれはあなたの問題として考えてみてほしい。
どんな人でも、多かれ少なかれ、(本当の私)と、(ニセの私)の二面性がある。ない人
はいない。それが悪いというのではない。人間は同時に、社会的動物である。仕事や、他
人との交際において、ニセの私を演ずることは多い。それはしかたのないことだが、しか
しあなたの夫(妻)や、子どもに対しては、そうであってはいけない。
あなたはあるがままの、本当のあなたをさらけ出していく。つまりは、それが夫婦であ
るにせよ、親子であるにせよ、信頼関係を築く、基盤となる。それがなければ、信頼関係
など結びようもない。
さて、あなたは、今、(本当のあなた)だろうか。一度、自問してみると、おもしろいの
では?
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ありのままの自分
(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、そ
の人は、心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。
よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがっ
たりすると、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させら
れ、毎晩その男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精
神状態になる。
遊離する理由は、いくつかある。
(1)理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(2)そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(3)自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(4)いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(5)自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)
こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康の
ためには、たいへん危険なことでもある。
そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ
近いほど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶ
るようになったら、お・し・ま・い。
だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分
をさらけ出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、
生活のリズムそのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。
しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気が
つくのがむずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分
でなかったことを知る。それまでは、わからない。
私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが
巻きついている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサ
リの一本、一本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分
が見えてくるのは、そのあとである。
●役割混乱
役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなっ
てくる。これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。
私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それ
がわかっていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)
自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。
自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰に
なり、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって
何も話せなくなってしまったこともある。
私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行く
だけ。勉強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思
うのは、当時、心のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが
起きて、日本中が、こなごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり
否定的になっていたようである。
しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校
生は、同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。
本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に
入るころから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子
ども自身がもてるように、指導する。
私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そ
のため大学にしても、工学部建築学科を考えていた。
その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、
「拡散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。
そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこ
かの大学の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を
生きることがでいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊
びが大好きだった。そういう仕事でもよかった。
今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失
敗だけは、してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子ども
が、「〜〜になりたい」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、
いい。すばらしい仕事だ。その仕事は、君にピッタリだ」と。
そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、
自分の進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立するこ
とができる。
●自意識過剰
自意識が過剰の人は、少なくない。
だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みな
が、自分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。
このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、す
なおにさらけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。
この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。
しかし自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、
好ましいということになる。
自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」
を意識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入っ
てしまう。
そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係して
いるのが、わかる。
「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だか
ら私は絶対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさら
に肥大化し、その返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。
自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、
自意識過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。
むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきた
すようになる。こんなことがあった。
A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君
が混乱状態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B
君の顔は、どこかひきつっていた。
そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたり
がり屋で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。
そこで自己診断。
つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。
( )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
( )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
( )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
( )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
の期待に答える義務がある。
( )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
まちがっている。
( )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
( )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
がある。
ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人
とみてよい。
反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることが
できる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけ
たとする。
その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そ
うね」と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的
に、自意識の過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立
することになる。あとは、この悪循環。
自意識も、ほどほどに……ということになる。
(はやし浩司 自意識 自意識過剰)
●自己概念
「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。
この自己概念は、正確であればあるほどよい。
しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。
一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。
こんなことがあった。
ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。
「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。
つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。
事実、その通りだから、反論のしようがない。
で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。
ここで自己概念という言葉が、出てくる。
私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。
しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。
みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。
……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。
その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。
その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。
(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。
しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。
たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。
もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。
あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。
ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)
●自分を知る
自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。
同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。
この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。
(他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)
問題は、ここでいう(盲点)である。
しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)
このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。
幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。
しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。
が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。
その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。
そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。
子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気
がついていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がつ
いていないときは、指導のし方そのものが、ない。
親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。
こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。
言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。
自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。
(注※)
(自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。
そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。
が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。
一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になることが多い。
(はやし浩司 ジョーハリー理論 ジョンハリ理論)
●さらば、もう一人の『私』
自意識が過剰すぎると、(本当の自分)と、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、
遊離し始める。そのときどきにおいて、別々の自分に苦しむ。
そこで自意識過剰ぎみの人の多くは、自分の中の、二重人格性に苦しむことが多い。と
きどき、「本当の自分はどちらなのか」、それが、わからなくなる。
実は、私がそうだった。
私も、自分の中の二重人格性に苦しんだ。苦しむだけならともかくも、その二つが、私
の中で、よく衝突した。
私の中には、たしかに(本当の私)がいる。ずぼらで、いいかげんで、無責任。ぐうた
らで、鈍感で、自分勝手。その上、わがまま。まさにいいことなしの「私」である。
そういう私をを、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、否定する。だからよけいに、
衝突した。
しかしあるときから、自分の中で、(本当の自分)を、すなおに表現するようにした。「私
は私」と、居なおるようにした。
「父親だから……」「夫だから……」という気負いを、はずした。ついでに、肩書きも、
はずした。ありのままの私を、そのつど、そのまま表現するようにした。だから一時期は、
人にこう言われたこともある。
「君は、教育者を名乗っているが、とても教育者らしからぬね」と。
が、そこが私の原点だった。私は、そこから出発した。
で、今だが、最近、やっと私は、もう一人の「私」と、決別することができた。そのこ
とだが、実は、こんなことがあった。
そのもう一人の「私」が、私に、何と、あいさつをして、私の中から、出て行ったのだ!
「長い間、お世話になりました」と。
そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「それは、『お世話になりました』
ではなく、『ご迷惑をおかけしました』でしょう」と。
実は、この2人の「私」が、私の中で衝突するたびに、私は、かなり精神的に不安にな
った。そしてそのトバッチリは、ワイフに向った。ワイフは、そういう私をよく知ってい
る。だから、「長い間、ご迷惑をおかけしましたのほうが、正しい」と。
さあ、あなたも、気負いをはずしてみよう!
あなたは、どこまでいっても、あなただ。
そう思ったとたん、あなたも、言いようのない解放感を味わうはず。あとは、そこを原
点として、前に進めばよい。
心を解き放て。体はあとからついてくる(英語の表現)。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●向精神薬
何らかの精神的な病気をもっていて、薬(向精神薬)を服用している子どもがふえてい
る。そんな一人の母親から、「だいじょうぶでしょうか?」という相談をもらった。
もちろん私には、それについて答える権利はない。その立場にも、ない。
しかし私の経験では、「できるだけ、薬の世話にはならないほうがよい」とだけは、言え
る。こうした向精神薬は、それがきいている間よりも、その服用をやめたときの、反作用
がこわい。
もちろん副作用があるときもある。しかもこの種の薬には、悪性症候群を引き起こすも
のが多い。悪性症候群というのは、投与中に起こる、重い病態を総称していう。発熱、発
刊、頻脈など。
相手が子どものばあい、ドクターも、それなりに、きわめて弱い薬を使うといわれてい
る。もし不安なら、ドクターに直接、相談してみるのがよい。
なお今の診療システムの中では、精神科のドクターにしても、薬を処方しないことには、
金銭的な収入が入らないしくみになっている。だからどうしても、(治療)イコール(薬の
投与)ということになる。そういう事情も、どこかで知っておくとよい。
●児童相談所
このところ児童相談所の役割が、クローズアップされてきている。しかし、今ひとつ、
その活動がよく見えてこない……?
その児童相談所には、大きく分けて、4つの部門がある。実際には、こうして窓口が分
かれているわけではないので、「相談したいことがあります」という言い方で、窓口で話し
てみるとよい。
(1)養育相談(養育が困難なばあい)
(2)育児相談(非行問題など)
(3)障害相談(子どもに何らかの障害があるとき)
(4)育成相談(不登校、家庭でのしつけ問題など)
こうした問題が起きたら、迷わず、児童相談所に相談してみるとよい。決して、ひとり
で悩まないこと。苦しまないこと。
【10月14日の朝に……】
●パソコントラブル
ウイルスソフトの期限が切れたので、新しいパッケージを買ってきて、インストール。
が、そのあと、あちこちがおかしくなってしまった。
あああ……という話は、さておき、本当にパソコンという怪物は、やっかいなもの。一
度トラブルと、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。あちこちへ電話をかける
こと、数回。(この電話が、どこも、なかなかつながらない!)
それぞれの会社のHPを見ても、私のトラブルの解決につながるような、手順は載って
いない!
……ということで、今朝は、2時間も、そのため時間をムダにしてしまった!
●ハナ
庭へ出るたびに、犬のハナが、いつもよりはげしく(?)、じゃれてくる。ワイフが、「き
っと生理よ」と。
メス犬の心理は、私にはわからない。が、ワイフなら、わかるらしい(?)。
散歩に連れていきたかったが、今朝は、パソコンがトラブって、2時間もムダにした。
だから、散歩はなし。しかし秋の、のどかな一日。もったいなあと思いつつ、部屋にこも
って、原稿を書く。
あとで、運動に行こう!
●自転車
自転車に乗っている人たちを見て、気がついたこと。それはたいていの人は、ムチムチ
というか、ボテボテというか、太った人が、意外と、多いということ。もちろんスポーツ
選手のような人は、別である。
なぜだろう?
体のトレーニングを考えて、自転車に乗っている様子なのに……。
一つには、こうした人たちは、ときどきしか乗っていないのではないかということ。運
動不足を感じたとき、ふと、乗ってみるとか……。そんな感じで乗っているのではないか
ということ。
ジョギングするのも、めんどう。さりとて、スイミングクラブへ入るのも、おっくう。
それで、自転車に乗る……?
しかし自転車というのは、乗りつづけなければ、効果はない。ときどき乗るようでは、
かえって体がなまってしまうのではないか。乗ったあとは、たしかに運動になる。爽快に
なる。食欲も増進する。それでかえって太ってしまう?
それから余計なことだが、自転車にのるときは、全身を使うようにするとよい。足だけ
で、ヨイショ、ヨイショとこいでも、あまり運動にならない。体をひねるようにして、腕
でハンドルを引いてこぐとよい。
●結婚式に、300万円プラス100万円!
知人の息子が結婚式をあげた。市内のホテルであげた。費用は、350万円プラス15
0万円!
これでも安いほうだそうだ。
知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったら、それ
は基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、ちが
っていた。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。
日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でや
めれば、それですむ。
あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくの
ムダづかい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれな
いが、世間に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。
大切なのは、2人だ。中身だ。
……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こ
うした結婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人
が、にわかクリスチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろ
ん牧師もニセモノ。
ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩
ってくれる人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。
私もそう思う。日本人独特の、家意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今に
見る、日本式結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいというのな
ら、自分たちで稼いで、自分たちですればよい。
どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!
知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、
3万円から、5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」
と。
……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、
数え切れないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の
女性の両親が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにが
んばっても、角が立つ。
妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世
術の一つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)
●貧弱なウンチ
ダイエットをしていると、ウンチまで、やせ細る。そのことを、昼食のとき、ワイフに
話し始めると、すかさずワイフが、「やめてヨッ! そんな話! 今、食事中でしょう!」
と。
私「だからさ、そのウンチがね……」
ワイフ「やめてったらア!」
私「でも、どうしても話したい」
ワイフ「いい。あんたの話は、どうせ決まっているから」
私「だからさあ……」
ワイフ「聞きたくない」
私「ダイエットしているとね、ウンチまでね……」
ワイフ「やめてよっ!」と。
私はこうしてワイフをからかうのが、大好き。おもしろい。ワイフは、ああいうカタブ
ツ人間だから、余計におもしろい。
このように、人間には、自分の知っている秘密を暴露したいという欲求がある。こうい
うのを排泄欲という。フロイトが、肛門期と名づけた、それである。で、その秘密だが、
……xxxxxxxxxx、xxxxxxx、xxxxxxxxx。xxxxxxxxx
xx、xxxxx、xxxxxxxxxxxxx、xxxxxxxxxxxx、だそうだ。
以上、あまりにもえげつない話なので、これで、ごめん。
●免許証の更新
今日(10・13)、警察署へ行って、免許証の更新をしてきた。そこでおもしろいこと
に気がついた。
受けつけで手続きをすませると、最初に、更新料金を徴収される。そのとき、同時に、
交通安全協会費というのを、やんわりと請求される。「やんわりと」だ。
この交通安全協会費(年額400円、5年分で2000円)は、強制ではない。払いた
くなければ、払わなくてもよい。
その様子を見ていたときのこと。窓口の女性の表情が、払う人に対してと、払わない人
に対してとでは、かなり露骨に変化するのだ。
その女性が、交通安全協会費を請求する。そのとき、気前よく支払いに応じた人には、
その女性は、そのまま笑顔を絶やさない。しかしそれを断ったりすると、ムッとした表情
になる。態度そのものが、ぞんざいになる。
私は、その様子を見て、「この女性は、すばらしい女性だ」と思った。そのことを横にい
たワイフに話すと、「どうして?」と。
私「いいか、その女性は、公務員だ。免許証を更新にきた人が、協力費を払っても、払わ
なくても、自分の給料には、関係ないはず。だったら、協力費を払っても、払わなくても、
同じこと。
しかしあの女性は、払う人には、笑顔を、払わない人には、一瞬、ムッとして見せる。
ぼくは、自分の職業にああまで、心をこめて仕事をしている公務員を、見たことがない」
ワイフ「だからね、あなた、あの窓口には、いちばん笑顔の美しい女性を置いているのよ。
美人に、『いかがいたしますか?』と言われば、みんな断れないでしょう?」
私「そうだな。ぼくは、断ってみようか。どんな表情をするか、楽しみだな」
ワイフ「そうね、私、あの女性が、どんな顔をするか、よく見てみるわ」と。
やがて私の整理番号が呼ばれた。そして前の人たちと同じように、「更新料は、xx00
円です。で、協力費はいかがしましょうか。年額400円です」と告げられた。
私「で、いくらですか?」
女性「400円です」
私「400円ですか?」
女性「5年分で、2000円です」
私「断ります」と。
そのときその女性は、私にも、ムッとした表情をして見せた。露骨な変化だった。書類
の置き方も、どこか投げやり的な感じがした。
席にもどると、すかさずワイフが、「やっぱり、態度が変わったわねエ」と。
私「だろ……。そうなんだよな。あの女性は、明らかに、警察署の収入を考えている。あ
あいう職業意識をもっている人は、こういう世界では、珍しいよ」
ワイフ「私は、そうは思わないは……」
私「どういうこと?」
ワイフ「きっとノルマになっているのよ。野球の打率みたいにね。Aさんのときは、承諾
率、56%。Bさんのときは、74%。だからBさんの勝ち。Bさんのボーナスは、10%
アップとか……。きっと、そうなっているのよ」
私「そうかもしれないな」と。
もちろん内部のことは、私にはわからない。そうであるかもしれないし、そうでないか
もしれない。しかし、さすが、ワイフ。女性の心理を読むのが、ス・ル・ド・イ。
どちらにせよ、私は、今年はじめて、あの交通安全協会費というのを、断った。このS
県でも、警察署ぐるみの、裏金づくり事件が発生している。それに、どうも、あのお金の
使われ方が、よくわからない。あくまでも聞いた話だが、道路わきに立てる安全標識にし
ても、一本、百数十万円もの費用がかかっているそうだ(週刊誌などの記事)。
一本、百数十万円だぞ!
そういう標識が、私の家の周辺だけでも、数本。道路ごとに、やはり数本ずつ立ってい
る。ほとんど、車など、通らないのに道路なのに! それもほとんど意味のない標識ばか
り。「シルバーゾーン」「歩行者優先」「いたわりゾーン」とか。まわりは雑草のはえる荒地
ばかりなのに、「駐車禁止」の標識や、「一旦停車」の標識も立っている。(明日にでも、写
真をとってこよう※。)
……という反発心が心のどこかにあったから、すんなりと支払いを断ることができた。
心のどこかに、「払っておけばよかったな」という思いもあったが……。
帰りに、警察署の近くのレストランにより、そこで食事をした。予算は、2000円。
結構、おいしい料理を食べることができた。
注※……今、調べてきたら、うちの角だけでも、バックミラーも含めて、9本も立ってい
た。9本だぞ! 証拠の写真は、HTML版のほうで紹介。それにしても、多すぎる! こ
ういう標識1本が、120〜30万円とか。ざっと計算しても、この写真にある分だけで、
1000万円以上! ゾーッ!)
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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 12日(No.489)
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【1】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子どもの問題あれこれ】
●心の開放
親子のキレツが深まると、子どもは、親に対して、無言を守るようになる。そのため親
子の間に、ピリピリとした緊張感が走るようになる。
ある母親は、こう言った。「先生、どうか、先生のほうから、息子(小4)に、説教して
やってください。私が言うと、すぐ喧嘩になってしまいます」と。
あるいは、中学の進路指導の先生のところに、母親がやってきて、こう言ったという。「息
子が、うちでは、いっさい、受験の話をしません。A高校にするか、B高校にするか、何
も話してくれません。いったい、どうなっているのか、先生、どうか、教えてください」
と。
こうした状態、つまり子どもが無言を守るようになるのは、その子どもが、無意識のう
ちにも、葛藤やそれに伴う感情エネルギーを、抑圧している状態とみる。こうした状態を、
心理学の世界でも、「抑圧」と呼ぶ。
その抑圧を発散させる方法としては、いろいろある。
その一つが、「アート・セラピー」である。絵画療法とか、芸術療法とか、呼ばれている。
●絵画療法
●造形療法
●音楽療法
●箱庭療法
●心理劇療法、など。
人間には、内にこもったものを、何らかの形で吐き出したいという欲求がある。フロイ
トの「肛門期説」を、あげるまでもない。「人間は、体内(精神内)にたまった老廃物(秘
密や欲求不満)を、外に排出したいという欲求がある」という。
昔の人も、「もの言わぬは腹ふくるる業(わざ)」と言った。わかりやすく言えば、心の
中に、何かをおしとどめておくことは、それ自体、苦痛なことであるということになる。
こうした考え方は、やがて、「欲求段階説」を唱えた、A・H・マスローたちによって、
完成される。つまり「人はだれでも、自己表現の欲求をもつ」と。
そこで無言を守る子どもには、特別な指導が必要ということになる。ここにあげた、ア
ート・セラピーも、それにあたる。これもわかりやすく言えば、「童心にかえって、遊ぶ」
ということである。方法は、何でもよい。
が、私のばあい、つまり私の教室のばあい、「大声を出させる」というのを、一つの方法
としている。一部のかん黙症の子どもや、アスペルガー症候群の子ども、さらに回避性障
害のある子どもには、向かない。
しかし、この「大声を出させる」という方法で、子どもたちの抑圧感を、解放させるこ
とができる。大声を一度出させるだけで、子どもたちの表情が、見ちがえるほど、明るく
なる。
さらに一歩進んで、「大声で笑わせる」という方法もある。
で、数週間ごとに、何らかの方法で、教室のムードをもりあげたあと、(実際には、レッ
スンの冒頭で)、大声を出させるように指導している。
少し話がそれたが、無言を守っている子どもに向かって、「話しなさい」「ものを言いな
さい」と言っても、ムリである。すでにそういう関係になってしまっているなら、なおさ
らである。その時点で、人間関係は、かなりこじれている。
そこで、ここであげた、アート・セラピーということになる。むずかしいことではない。
「童心にかえって、いっしょに遊ぶ」。方法は、何でもよい。
……ということは、もしあなたが子どもとの間に、何かのキレツを感じたら、「私は親だ」
という親意識は、捨てて、子どもといっしょに、遊べばよい。カードゲームでも、テレビ
ゲームでも、何でもよい。
子どもはやがて、あなたに対して、口を開くようになる。
●ホスピタリズム
生後直後から、親(とくに母親)の手を離れ、施設(乳児院、孤児院、養護施設、保育
所)などに預けられた子どもに、独特の特徴が見られることがある。そうした特徴を、総
称して、「ホスピタリズム」という。
ホスピタリズムの特徴としては、おおきく分けて、つぎの10項目あるとされる(渋谷
昌三「心理学用語がわかる本」かんき出版より)。
(1)身体発育の不良
(2)知能の発育の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃくなど)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向
要するに、新生児、乳幼児には、母親の濃密な愛情と世話が必要ということ。いろいろ
事情が許さないときもあるだろうが、できるだけ、子どもは、母親が、自分の手で育てた
ほうがよい。その期間は、WHOも提言しているように、最低でも、満2歳までが、よい。
このホスピタリズムは、この世界では常識的な常識だが、そういうホスピタリズムとい
う十字架というか、心の深いキズを負った子ども自身は、どうなるのか。またどうすれば
よいのかという問題がある。
【N君、12歳の例】
N君が、生まれたとき、すでに両親の関係は冷え切っていた。かろうじて家族のワクだ
けが残っているような状態だった。
そのほかにもいろいろ事情があって、N君は、生後直後から、祖父母に預けられた。し
かし祖父母は、ほとんど毎日、24時間、近くの保育所へ、N君を預けた。祖父母にも、
孫の世話をみるだけの、財力も、生活力もなかった。
N君のそんな生活は、N君が、4、5歳になるまでつづいた。そのころN君の両親は、
離婚。N君は、父親のほうに引き取られた。
そのN君に私が感じた最初の印象は、(1)表情がなかったということ。N君が6歳のと
きのことだった。無表情というか、能面のようですら、あった。ツルッとした顔立ちをし
ていたが、目と口以外は、ほとんど動かさなかった。
そのN君に、こんなことがあった。
あるとき、N君が、みんなで絵を描くとき、隣の子どものクレヨンを、わざと、下へ落
して、散らかしてしまった。そこで私が、N君を立たせ、強く叱った。N君は、だまって、
私の小言を聞いていた。
が、そのときのこと。ふと気がつくと、何と、そのN君が、表情をまったく変えないま
ま、涙をこぼしているではないか。スーッと細い涙が、頬を伝って落ちていた。私は、そ
れを見て、驚いた。父親から、N君の不幸な生い立ちを聞いたのは、そのあとのことだっ
た。
N君のことで、つぎに気になったのは、(2)幼稚性の持続と、(3)自己管理力のなさ
であった。
6歳児らしい子どもらしさが、なかった。どこかコセコセしていた。幼児ぽいというよ
り、幼稚な感じがした。年齢に換算することはできないが、その年齢にふさわしい、人格
の完成が見られなかった。
またこんなこともあった。何かの教材の入った箱を渡したときのこと。N君は、それを
受け取ると、バリバリと箱を破って、中身のものを、取り出してしまった。私はその前に
何度も、「箱は、まだあけてはいけません」と、注意したのだが……。
私の印象では、ホスピタリズムといっても、その子どもの置かれた環境などにより、症
状にも個人差があるということ。また親の育児拒否、冷淡、無視といっても、程度の問題
もある。さらに、そのあとの不幸な家庭環境が、さまざまな影響を、子どもに与えること
もある。
ここにあげた10項目は、あくまでも一つの目安でしかない。
で、そのN君だが、そのときさまざまな、心身症、神経症による症状を示した。お決ま
りの、チックや吃音(どもり)など。何かにつけて、極度の不安状態になることもあった。
強く叱られると、オドオドしたり、反対に、やさしくされると、赤ちゃんのような声を出
して、その人に甘えたりした。わざと同情を求めるような、しぐさも、よくした。
一見、静かで、あつかいやすく見えたが、根気がつづかず、好奇心も弱かった。あきっ
ぽく、それでいて、短気だった。
そうしたN君だったが、本当の問題は、父親にあった。無理解と、無頓着。その前に、
問題の本質を知るだけの、知力をもちあわせていなかった。
たとえばN君は、ウソをよくついた。そのウソに対して、父親は、いつも大声を出して、
怒鳴っていた。ときに、手も出した。そのためN君は、父親の前で、ますます萎縮した。
現在、そのN君は、30歳になるという。人づてに聞いた話によると、家業のxx屋で、
店番をしているという。店番といっても、ただ座っているだけ。父親に言われるまま、言
われることしか、できないという。
N君の例を見るまでもなく、心に大きなキズをもった子どもは、不幸である。自分で自
分をコントロールする力さえもっていない。その前に、自分の姿を客観的にとらえる力さ
えもっていない。心のキズをもちながら、そのキズが何であるかさえわからない。
キズに操られるまま、それが自分と思いこんでいるだけ。N君について言うなら、恐ら
くというより、ほぼまちがいなく、その状態は、死ぬまでつづく。
が、こうした問題は、決して、N君だけの問題ではない。私たちも、どの人も例外なく、
何らかの心のキズを負っている。
ただ程度の差はある。またキズの深さも、人それぞれちがう。しかしそのキズに気づく
ことがないまま、日々の生活の中で、それに振りまわされている人は、多い。そういう自
分の中にあって、自分を裏からコントロールする部分を、私は、(私であって、私でない部
分)と呼んでいる。
が、さらに問題はつづく……。
こうした(私であって、私でない部分)は、そのまま子育ての世界に、反映される。言
うまでもなく、子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまりほとん
どの人は、自分の意思と思想によって子育てをしていると思っている。しかし実際には、
自分が受けた子育てを、繰りかえしているにすぎない。もっとはっきり言えば、ほとんど
の人は、ほとんどのばあい、(私であって、私でない部分)に操られながら、子育てをして
いる。
で、その(私であって、私でない部分)が、それなりに好ましいものであれば、それで
よい。しかし好ましくない部分もある。それが自分の子育てに、大きな影響を与える。
あなたの中の、あなたであってあなたでない部分の中に、このホスピタリズムがないか
どうか、一度、あなたの心の中をさぐってみるとよい。
(041012)
(はやし浩司 ホスピタリズム 施設児 特徴)
●あるマザコン息子
知人(群馬県K町在住・男性)の住んでいる近所に、「これまたどうしようもない、絵に
描いたような、マザコン息子」(知人の言葉)がいるという。
年齢は、45歳になるという。
柔和で、やさしく、ハキがない。45歳になるというのに、母親の言うなり。何かある
たびに、「母ちゃん、母ちゃん」とすり寄っていくという。結婚して、高校生になる息子が
いる。が、いまだに。会社から受け取る給料は、そのまま母親に渡しているというから、
ふつうではない。
言い忘れたが、その息子氏家族は、両親と同居している。
が、問題は、そのことではない。そういう男性がいるなら、いるでかまわない。またそ
れなりに、みなが、ハッピーなら、それでかまわない。
問題は、その息子氏の母親である。今年、70歳くらいになるのではないか。その母親
が、ことあるごとに、その息子氏をほめるというのである。
「私の息子は、すばらしい息子だ。こんないい息子をもって、私は幸福だ。私の息子は、
世界一、すばらしい息子だ」と。
で、その話を聞くたびに、その知人は、「?」と思うという。その知人のスタンダード(基
準)と、まったくかみあわないからだという。
知人「ああいう男を、すばらしい息子という、母親の気持ちが理解できない」
私「マザコンというのは、双方向性がありますから……」
知「何ですか、その双方向性というのは?」
私「いい息子、いい母親という、ベタベタの親子関係をつくるのが、ふつうです」
知「同じ男としてみると、気持ち悪いですよ。ナヨナヨしていて」
私「マザコンと外見は、あまり関係ありません。マザコンというのは、あくまでも、精神
面のあり方を言います。ヤクザっぽい人でも、マザコンの人は、いくらでもいます。多分、
マザコンに、母親の過干渉か過関心か、何かが加わって、ナヨナヨしたのでは、ないでし
ょうか」
知「母親に、魂まで、抜かれてしまっている感じです」
私「昔の人は、親に従順で、親の言うことを、ハイハイと聞く子どもほど、いい子と評価
しましたから」
知「林さんが言う、親・絶対教ですね」
私「はあ、そうです。もうそれはカルトの世界ですから、どうしようも、ありません。で、
奥さんですが、よくそんなダンナに、その奥さんが、がまんしてますね?」
知「そうなんですよ。そこなんですよ。嫁、姑戦争と言いますが、壮絶な戦争を繰りかえ
しています。奥さんは、長男が高校を卒業したら、離婚すると言っているそうですが……」
と。
こういう例は、多い。あなたの周辺にも、一つや二つ、似たような話は、あるかもしれ
ない。
しかし今、その予備軍というか、このタイプの男児がふえているようにも、感ずる。強
力な母子関係。本来なら、父親がその間に割って入らなければならないのだが、その父親
の影が薄い。そのため、母子関係が是正されないまま、子どもが、そのままマザコンにな
っていく!
そこは母親にとっても、またひょっとしたら、子どもにとっても、居心地のよい世界か
もしれない。しかし正常か、そうでないかということになれば、決して、正常な世界では
ない。かりに、日本中の男性がそうなったら、この日本はどうなるか? それを少しだけ
頭の中で、想像してみればよい。あなたも、ソッとするはず。
●子どもに盲従する親
品川不二郎という研究家が、親子関係を、つぎの10のパターンに分類した。
(1)消極的拒否(放任)型
(2)積極的拒否(虐待)型
(3)厳格型
(4)期待型
(5)干渉型
(6)不安型
(7)でき愛型
(8)盲従型
(9)矛盾型
(10)不一致型
もちろん、これらの複合型というのもある。厳格な親でありながら、その一方で、あれ
これ過度に子どもに干渉するなど。
が、この中でも、私は、とくに、(8)の盲従型に興味をもった。親子の関係が逆転し、
親のほうが、子どもに盲従するタイプである。今、このタイプの親子関係の人が、多い。
実感としては、ふえているように思う。
もちろん程度の差もあるのだろうが、もし、つぎの項目に、いくつか当てはまるようで
あれば、あなたは盲従型の親と判断してよい。
( )子どもの機嫌をそこねたくないと思うことが多い。
( )子どもに嫌われたくない。できれば、好かれたいと願っている。
( )親として、いつも何らかの形で、優越性を示したいと思っている。
( )子どもがほしいと言ったものは、できるだけそろえてあげている。
( )何か言うと、反対に叱られそうで、こわい。だから何も言えない。
( )子どもに、いつも遠慮しながら生活しているようなところがある。
私の知りあいにも、あきらかに、この盲従型の母親がいる。その母親が、私にこう言っ
た。
「あまりき子どもにきびしくすると、こういう時代ですから、子どもが何をするかわか
りませんので……」と。
図式的には、(親の子どもへの依存性)が姿を変えて、(子どもに甘くなる)。その(甘さ)
が、長い時間をかけて、積もりに積もって、親は子どもに対して、服従的になる。
そのため、自分が服従型の親だと気づいても、それを改めるのは、たいへんむずかしい。
生活のすべてのリズムが、そうなっているからである。さらに、それがすでに、母親や子
どもの人生観になっていることもある。
では、どうすればよいか。
皮肉なことに、子どもに嫌われまいとすればするほど、親は、子どもに嫌われる。親の
心にスキができるからである。
一方、「嫌いたければ、どうぞ」「私は、お前に嫌われても、一向にかまわない」と、堂々
としている親のほうが、子どもに尊敬される。好かれる。
そのために、親は、子どもの前では、一貫性をもたねばならない。よくても悪くても、
この一貫性があれば、子どもはやがて、親の考え方に、自分を合わせるようになる。が、
子どもの機嫌をとる親には、この一貫性がない。子どもに嫌われることを恐れるあまり、
そのつど、子どもの言いなりになってしまう。子どもは、こうした親の心のスキをつく。
だから結論を先に言えば、子どもに盲従する親からは、まともな子どもは、生まれない。
よくてドラ息子、ドラ娘。やがて手がつけられなくなる。
その「一貫性」について、以前、こんな原稿を書いた。
++++++++++++++++
●一貫性
たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。
たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、答えてあげること。
こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。
その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。
この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。
子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第三世界という。
子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用して
いくことができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、
第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後
の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。
が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあ
い、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。
乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。
つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意す
るのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなこと
に注意したらよい。
●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。
++++++++++++++++++
しかし、親は決して、盲従したくて、子どもに盲従しているのではない。最初は、ほん
の少しだけ、方向性が狂うだけ。ほんの少しだ。
それが長い年月を経て、気がついてみたら、子どもに盲従していたということになる。
だからこの問題は、つまり、子どもへの盲従を避けようと考えるなら、できるだけ早い
段階で、それに気づき、方向転換することだ。
ほとんどのばあい、親自身の、子どもへの依存心が背景にあると考えてよい。「老後のめ
んどうは、子どもにみてもらわねばならない」「子どもに生活のめんどうをみてもらいたい」
という思いが、そのまま親の弱みになる。子どもは、その弱みを、逆手にとって、親に命
令したりするようになる。
15年ほど前だが、忘れ物をしたとき、電話で、親に、「さっさともってこい!」と命令
していた中学女子がいた。そうなる。
(はやし浩司 盲従する親 盲従 本末転倒 一貫性 子育ての一貫性)
●役割混乱
子どもは、成長するとともに、自分らしさを、つくりあげていく。
わかりやすい例としては、「男の子らしさ」「女の子らしさ」がある。
服装、ものの考え方、言い方など。つまりこうして自分のまわりに、男の子としての役
割、女の子としての役割を形成していく。これを「役割形成」という。
こうした「役割」を感じたら、その役割にそって、親は、子どもを伸ばしていく。これ
が子どもを伸ばすコツということになる。
子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「あら、そうね。すてきな仕
事ね」と。ついで、「じゃあ、今度、お庭をお花でいっぱいにしようね」などと言ってやる
のもよい。
こうして子どもは、身のまわりに、「お花屋さんらしさ」をつくっていく。自然と、植物
に関する本がふえていったりする。
しかしこの役割が、混乱することがある。
私のばあいだが、私は、高校2年の終わりまで、ずっと、継続的に、大工になるのが夢
だった。それがやがて、工学部志望となり、建築学科志望となった。しかし高校3年にな
るとき、担任に、強引に、文学部コースへと、変えられてしまった。当時は、そういう時
代だった。
ここで私は、たいへんな混乱状態になってしまった。工学部から、文学部への大転身で
ある!
当時の、つまり高校3年生当時の写真を見ると、私は、どの顔も、暗く沈んでいる。心
理状態も最悪だった。もし神様がいて、「お前を、若いころにもどしてやる」と言っても、
私は、あの高校3年生だけは、断る。私にとっては、それくらい、いやな時代だった。
この役割混乱について、ある講演会で、話をさせてもらった。それについて、そのあと、
ある一人の男性が、こう聞いた。「役割混乱って、どういう心理状態でしょうかね?」と。
私は、とっさの思いつきで、こう答えた。
「いやな男性と、いやいや結婚して、毎日、その男性と、肌をこすりあわせているよう
な心理状態でしょうね」と。
そう答えたあと、たいへん的をえた説明だと、自分では、そう思った。
もしあなたなら、そういう結婚をしたら、どう思うだろうか。それでも、そういう状態
を克服して、何とか相手とうまくやっていこうと思うだろうか。それとも……。
役割混乱というのは、そういう状態をいう。決して、軽く考えてはいけない。
ただし一言。よく「有名大学へ……」「有名高校へ……」と、子どもを追い立てている親
がいる。
しかし有名大学や有名高校へ子どもを入れたからといって、その子どもの役割が確立す
るわけではない。
もう10年ほど前だろうか、こんなことがあった。
2人の女子高校生が、私の家に遊びに来て、こう言った。
「先生、私たち今度、SS大学に行くことになりました」と。
関東地方では、かなり有名な大学である。そこで私が、「いいところへ入るね。で、学部
は……?」と聞くと、すこしためらった様子で、「国際カンケイ学部……」と。
そこでさらに、「何、その国際カンケイ学部って? 何を勉強するの?」と聞くと、二人
とも、「私たちにも、わかんない……」と。
大学へ入っても、何を勉強するか、わからないというのだ!
しかしその姿は、私自身の姿でもあった。私は高校を卒業すると、K大学の法学部(法
学科)に入った。しかしそこで役割混乱が収まったわけではない。そのあと、大学を卒業
したあと、商社へ入社したときも、役割混乱は、そのままだった。
まさに(いやな女房と、いやいや結婚したような状態)だった。
つまり(本当に私が進みたいコース)と、(現実に進みつつあるコース)の間には、大き
なへだたりがあった。このへだたりが、私の精神状態を、かなり不安定にした。やがて、
私は、幼稚園で、自分の生きる道をみつけたが、その道とて、決して、楽な道ではなかっ
た。
……ということで、子どもの役割形成と、役割混乱を、決して、安易に考えてはいけな
い。私自身が、その恐ろしさを、いやというほど、経験している。
【追記】
それまでキャリアを生かして仕事をしていた女性が、結婚と同時に、その仕事をやめ、
家庭に入る。いくら納得した結婚であっても、そのときその女性が受ける、挫折感という
か、中断感というのは、相当なものである。
今、家庭に入り、それなりに幸福そうに見える女性でも、不完全燃焼のまま、悶々とし
ている女性は、多い。
こうした女性も、ある意味で、役割混乱を起こしているのではないか。あるいはその心
理状態に近いのではないか。今、ふと、そう思った。
(はやし浩司 役割混乱 役割形成)
【2】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ドライな母親たち
数日前、市内で、水泳教室(スイミングスクール)の講師をしている、N先生(32歳・
女性)が、こんな話をしてくれた。
その水泳教室では、1クラス15人にならないと、経営がなりたたないという。しかし
この業界も、少子化の荒波をもろに受けている。
新聞の折り込み広告を出しても、夏場でも、1クラス5〜10人が集まれば、よいほう
だそうだ。しかしレッスン時間をあけておくわけにもいかない。最初は、その5〜10人
程度でスタートする。
しかし、だ。今年は、過当競争ということも重なって、5月にでさえ、4人しか集まら
なかった。しかも6歳児ばかりの、4人! 指導員は、その先生を含めて、もう一人。と
もに、若いころは、国体選手として選ばれたこともあるという。輝かしいキャリアをもっ
ている。
月謝は、週2回のレッスンで、8500円プラス消費税。
苦しい経営がつづいた。が、何とかしのいで、7月になって、ある日のこと。やっと生
徒も、10人になった。一人の母親が、その先生に、こう言ったという。
「何人まで、生徒をふやす、おつもりなのですか?」と。
顔満面に、明らかに不快感を表していたという。つまり、「これ以上、生徒をふやしても
らっては、困る」と。
で、その先生は、あれこれ説明したのだが、今度は、別の母親が、こう言ったという。
「8月は、1日から17日まで、休ませていただきます。ついては、月謝を半額にして
ほしい」と。
その先生は、すっかりやる気をなくし始めていた。が、それだけでは、終わらなかった。
9月のはじめに、スクールの先生たちの集まる、地区大会があった。それでその先生も
含めて、そのスクールの先生たちが、その大会に出ることになった。臨時休講である。が、
それについても、「勝手に休むのだから、補講するなり、月謝をその分、返してほしい」と。
その先生は、私に、こう言った。
「最近の母親たちは、ドライというか、こまかいですね」と。
その先生は、9月は1回分、休講するから、正味40分のレッスンを、ギリギリの50
分に延ばして、対応していたという。「それでも、そう言うのですから、本当にやる気をな
くします」と。
こうした現状は、スイミングスクールだけに、かぎらない。似たようなことは、保育園
でも、幼稚園でも、さらに学校でも、起きている。教育というより、子育てそのものが、
自動販売機化している。
そうそう、そのN先生は、近く、そのスイミングスクールを退職するそうである。私が、
「あなたから聞いた話を、記事にしていいですか?」と聞くと、「どうぞ、どうぞ、どんど
ん書いてください」とのこと。その声は、意外に、明るかった。
【私の体験から……】
私の教室のばあい、その特殊性から、生徒の公募はしていない。ほとんどが、口コミか
紹介による生徒である。したがって、ここに書いたような、つまりスイミングスクールの
先生が経験したようなことは、ほとんど起きない。
やはりこういった仕事は、父母との間の信頼関係がないと、できない。まずその信頼関
係をつくる。決して、その関係に甘えていてはいけないが、すべては、ここから始まる。
そのためにも、安易な生徒募集は、しない。
たいへんなのは、学校の先生たちだと思う。私たちの世界では、万が一、その信頼関係
が崩壊すれば、父母や子どもたちと、そのまま別れることができる。しかし学校の先生た
ちには、それができない。
一度、父母との関係がこじれると、そこはまさに、生き地獄! 「手紙一通、電話一本
が届いただけで、体の震えが始まった」とは、ある先生の言葉。そういう世界である。さ
さいな言葉がきっかけで、任期途中で、転校させられる先生も、少なくない。
ときどき学校選択制の問題が、話題になるが、そんなわけで、選択制は、父母のためだ
けではない。実は、先生にとっても、よいことなのである。「もし、どうしても、この学校
が気にいらなければ、どこかよその学校へ行かれてはどうですか」と、それを、最後の切
り札として、使うこともできる(?)。
●さぐり
あるとき、一人の見知らぬ女性から、電話がかかってくる。名前だけ、「D子というもの
です」と言った。
そして何ごとかと思って聞いていると、私の教室の生徒の、X君(年長児)についての
ことだった。
D「私、Xさんの親友なんです。私、Xさんが、かわいそうでなりません。(どこか涙声。)
Xさんの息子さんのX君、○○症(やや重度の情緒障害児)だそうですね。私、Xさんの
ことが、心配でなりません。本当のところは、どうなんでしょうか。Xさんの息子さんは、
○○症なんでしょうか?」と。
バカめ!
見知らぬ人に、そんなこと答えるわけがない。だいたい、私には、診断権はない。それ
に軽々にそんなことを言えば、それこそXさんの名誉を傷つけることになる。さらに、そ
のDという女性は、電話機の向こうで、録音機をしかけているかもしれない。私のそのと
きの返事一つで、私の教育者としての生命が、ふっとんでしまうことだって、ありうる!
私が、「そういう質問には、いっさいお答えできません」と言うと、「(Xさんの息子さん
が)、そうでないなら、そうでないと否定もできないのですか?」と。
不愉快だったので、「失礼します」と電話を切った。が、その直後、また電話。「あんな
電話の切り方は、ないでしょう! 失礼ではありませんか! 私は、Xさんのことを心配
して、電話をかけたのです!」と。
どこまでも、からんでくるつもりらしい。
……というようなことは、この世界では、ときどきある。生徒の進学先や、受験先を聞
いてくるのもある。さらに、私の教室の経営状態を聞いてくるのもある。同業者のさぐり
などは、まさに日常茶飯事。直接、教室へ、見学のフリをして、スパイにくる人もいる。
何の目的があるのか。ないのか。意図は何なのか。それは私にはわからない。しかしこ
の世界、油断もスキも、あったものではない。と、同時に、みんなもっと、前向きに、人
のことなどかまわずに生きたらよいと思う。
【最近の話題から】
●リンゴの木の下に子犬?
私も、若いころ、東洋医学の勉強をした。本も何冊か、書いた。「東洋医学・基礎編」(学
研)、「東洋医学・経穴編」(学研)ほか。
「東洋医学・経穴編」には、7年という年月を費やした。7年だぞ! また「東洋医学・
基礎編」は、今でも、全国の医学部、鍼灸学校で、教科書として使われている。本当だぞ!
そういう立場で、つぎの記事を読んだときには、笑った。ジョークだと思った。
隣のK国では、今、金XXが、世界に類を見ないほどの、独裁国家をつくっている。そ
の父親の金NNについての記事だが、こんなのがあった(ヤフー海外トピックス・10・
12)。
今度、韓国で、『金NNの長寿健康法』という本が出版された。著者は、98年に脱北し
た、ソク・ヨンファン(40歳)という人だそうだ。
彼は、K国のP市医科大学を卒業し、漢方医として生計をたてていたという。そして金
NN長寿研究所で、研究員をしていたこともあるという。
その書いた本の内容が、おもしろい。いわく、
「K国の故金NN主席は、生前に自分のために特別開発された最高級リンゴを、よく食べ
ていた。別名『タンパク質リンゴ』だ。冬に黄色の子犬をリンゴの根付近に埋め、春には
そこにカエルを埋めて、木の養分にして裁培するためこの名前が付けられた。
彼が使っていた寝具は、スズメのあごの下の毛だけを使用して、特別製作されたものだ。
寝具の製作に、70万羽のスズメが必要だったという。
彼の別荘のベッドには、体の各部位が当たる個所ごとに薬剤が使用されており、枕には
32種類の漢方薬が使われていた。
17歳から20代前半の美人女性で構成された『喜び組』の任務は、金NNを笑わせる
ことだった。彼が行くところには、常に喜び組の2、3人が同行し、子どもっぽいしぐ
さをしたり甘えたりしていたという。 これは、1回笑うたびに、脳細胞が活性化する効
果があると、研究所が勧めたためだ」と。
喜び組の話は、ともかくも、私が興味をもったのは、「たんぱく質りんご」だ。「冬に、
黄色い子犬をリンゴの根付近に埋め、さらには春には、カエルを埋めた」という。そして
できあがったのが、「タンパク質りんご」!
さらに、金NNの寝具をつくるために、70万羽のスズメが犠牲になった!
こういう話を聞くと、庭先で、毎年冬から春にかけて、スズメにエサを与えている私が、
バカに思えてくる。
さらに、「体の各部位が当たる個所ごとに薬剤が使用されており、枕には32種類の漢方
薬が使われていた」とある。
漢方というのは、科学である。方剤論もあり、治療論もある。そういったものが、きわ
めて精密に体系化されている。よく漢方(東洋医学)と、民間療法を混同する人がいるが、
漢方と民間療法は、まったく異質のものである。
で、リンゴの木の下に、子犬を埋めたり、カエルを埋めたりするのは、恐らくK国に伝
わる、民間療法的な知識を応用したものなのだろう。私には、よくわからないが、しかし
私は、こうした栽培法なり、健康法に、「?」マークを、100個くらい、つけたい。
はっきり言えば、今、私の脳細胞が、バチバチとショートしている。
ちょうど、私が東洋医学に興味をもち始めていたころ、「K国の研究家が、経絡(けい
らく)を、発見した」という、ビッグニュースが全世界をかけめぐった。経絡というのは、
経穴(つぼ)と経穴(ツボ)をつなぐ、観念的な経路をいう。経絡を「電車の線路」にた
とえる人もいるが、線路のように、そこに「線」があるわけではない。
結局、その学者が発見した、経絡というのは、神経組織の見まちがいであったことが、
わかった。
32、3年ほど前のことだが、私はそのときですら、「K国の研究家は、神経組織も知
らないのか」と驚いた。と、同時に、K国の研究を、まったく信用しなくなってしまった。
その後遺症が、今でも、残っている。
しかしこういうことを、本気で研究しているとは? またこういうことを、本気で実践
しているとは?
死んだ犬ならともかくも、生きた犬なら、かわいそうだと思う。K国では、ささいな問
題なのかもしれないが……。
●何でも反対は、どうか?
「そういう考え方もあるのかなあ?」とも考えた。しかし、私には、どうしても、つい
ていけない。
10月11日、アメリカ海軍のイージス艦レイクエリー(9、516トン)が11日、
新潟県の新潟東港に入港した。アメリカ海軍は「乗組員の休養と物資の補給が目的」とし
ていて、12日に出港する予定だという(新聞報道ほか)。
アメリカ海軍はミサイル防衛(MD)の一環として、北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に備
えてイージス艦を日本海に配備しており、新潟初入港もその関連とみられる。イージス
艦の新潟入港は初めて。
それに対して、新潟県HW運動センターや社M党新潟県連などのメンバーが、新潟東港
で抗議集会を開催。漁船に横断幕を掲げて、入港反対を訴えた。テレビでも、岸壁の上
に並び、シュプレヒコールしている姿が、大きく報道された(NHK)。
あの拉致事件について、一貫して、「K国による、拉致はない」「拉致事件は、日本政府
のデッチあげ」と、当時、主張していたのは、社会党(現在の社M党)ではなかったのか。
私は、その抗議の模様をテレビで見ながら、改めて、平和とは何か、考えさせられた。
今、まさに、K国は、国際世論に背を向けて、核兵器やミサイルを開発しつづけている。
もちろんそのターゲットは、日本である。アメリカや韓国ではない。日本である。いくら
K国でも、本気でアメリカを相手にしたら、どうなるか。それくらいのことは、わかって
いる。事実、かねてより、K国高官たちは、一貫して、核兵器開発は、日本に向けのもの
だと、ことあるごとに明言している。
何も、イージス艦を歓迎せよとまでは言っていない。しかし反対運動をする理由が、私
には、どうしてもよくわからない。
以前、あるテレビ局のニュースキャスターは、こう言った。日本でも、左翼系のテレビ
局として知られている、A放送局の、あのK氏である。アメリカがK国に、核兵器の開発
の放棄を迫ったことについて、いわく、「アメリカは、自分で核兵器をもっていて、どうし
てK国に、核兵器の開発をやめろと言えるのですかねえ……」と。
いつだったか忘れたが、私はちゃんと、聞いた。
つまりK氏は、「核兵器をもっているアメリカに、他国の核兵器開発をやめろと言う資格
はない」と。
この意見を聞いたとき、私の頭の中では、脳ミソがバチバチとショートした。なぜ、バ
チバチとショートしたかは、ここにもう、書くまでもない。
K国は、すでに、7〜8個の核兵器をもっているという。それが、公式な意見である。
もしそれらの核兵器が、日本に対して使われないまでも、外国のテロリストたちの手に渡
ったら、どうなるか。そのときでも、社M党の人たちは、「平和」を叫んでいるのだろうか。
この現実検証能力のなさ。それが社M党衰退の、一番の理由だと、私は思うのだが……。
その新潟県といえば、いちばん、拉致事件で被害にあった県である。それについて、政治
的に温厚な私のワイフでさえ、「K国に、ひどいめにあっている県なのにねえ……」と言っ
た。
相手がまともな国なら、まともな平和論や、反戦運動も、通用する。しかし、そうでな
いから、今、あれこれと問題になっているのである。
私たちが今、考えなければならないことは、平和ではなく、東京都のど真ん中で、核兵
器を爆発させないことなのである。平和を口にするのは、そのあとでよい。
****************************
●HPの入賞
私のHPが、2004年度、静岡県のホームページコンテストで、入賞した!
11月11日に、表彰式があるという。それまで、入賞のことは、外部には、漏らさな
いようにとのこと。この原稿が配信されるのは、11月12日である。ギリギリ、セーフ
ということか。
(この原稿を書いている今日は、10月13日。)
マガジンをとおして、コンテストへの投票をお願いしたところ、いっぺんに、30票近
く、票がふえた。感謝、感謝、感謝。
が、残念ながら、賞品として、パソコンをもらえるような賞ではなく、協賛団体からの
表彰。「中日新聞賞」ということらしい。多分、賞品といっても、サイフとか、何かの小物
とか、そんなものだと思う。
同じモノを書く新聞社からの表彰ということで、私にとっては、たいへん名誉なことで
ある。
率直に、書こう。
私は、自分のHPを開設したときから、「賞」などというものは、まったく考えていなか
った。遠い雲の上の話というよりは、もともと、そういう発想そのものがなかった。
その私が「賞」を意識したのは、単純な動機からである。つまり、パソコンがほしかっ
た。ここ2年間、新しいパソコンを買っていない。2台、買ったが、それらは、息子たち
のためだった。
で、賞を意識した。「取れる」とは思っていなかったが、しかし同時に、「私のHPのよ
さのわからないようなコンテストなど、意味はない」と思っていた。外見のハデさはない
が、私のHPは、中身がちがう。
が、おかげで、賞を取ることができた。
********************
みなさんへ、
ありがとうございました!
投票数では、2400以上のHPの中で、
人気投票、第6位(8月31日)にラン
クされました。
ありがとうございました。
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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 10日(No.487)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【子育て・一口メモ(3)】
●ふつうこそ、最善
ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。
「もっと……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでし
まう。よい例が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負
担もある。賢い親は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、
それをなくしてから気づく。
●限界を知る
子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもとい
うのは不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、
やればできるはず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こん
なもの」「よくがんばっている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、
親がそばにいるだけで、萎縮してしまう子どもも、少なくない。
●ほどよい親
子どもには、いつも、ほどよい親であること。あるいは「求めてきたときが、与えどき」
と覚えておくとよい。とくに、子どもが何らかの(愛の確認行為)をしてきたときは、す
かさず、いとわず。ていねいに、それに応じてあげる。ベタベタの親子関係がよくないこ
とは、言うまでもない。
●子どもの世界は、社会の縮図
子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子
どもの世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子ども
の世界にも、4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同
時に、社会にも目を向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」
であったり、「セックス」であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、
そこから始まる。
●よき家庭人
日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米で
は、伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。
そのため学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリ
カ)などを教える。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされてい
る。どこか戦後直後の日本を思い出させる言葉である。
●読書は、教育の要(かなめ)
アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもあ
る。つまり、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができ
るが、ライブラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師
は、毎週、その子どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見
なおされてきている。読書は、教育の要である。
●教師言葉に注意
教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられ
たら、額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師
言葉を使う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが
……」「私の指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、ま
だその力を出し切っていませんね」というような言い方をする。
●先取り教育は、幼児教育ではない
幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入
学準備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教
えたりするのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児
期には幼児期で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決
まる。その方向性を決めるのが、幼児教育である。
●でき愛は、愛にあらず
でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマ
をうめるための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる
「愛?」とよく似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。
「子どものことを心配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するため
の道具として、子どもを利用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、
かえって子どもの自立をじゃましてしまう。
●悪玉家族意識
家族のもつの重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特
の束縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその
家族が、自立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自
責の念から、自己否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な
論理で、子どもをしばってはいけない。
●伸びたバネは、ちぢむ
受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓
など。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)
は、一事的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。「伸
びたバネはちぢむ」と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れてい
くことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、
もう一度、考えてみてほしい。
●「利他」度でわかる、人格の完成度
あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「マ
マ、もってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲーム
などに夢中になっていれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子ども
の人格(おとなも!)、いかに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息
子は、それだけ人格の完成度の低い子どもとみる。勉強のできるできないは、関係ない。
●見栄、体裁、世間体
私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子
どもの姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「と
なりの人より、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしている
から、私は不幸」と、総体的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受け
る。子どもの学歴について、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。
あなたは自分の人生を、自分のものとして、生きているか、と。
●私を知る
子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが
親から学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかってい
るのですが、ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自
身の中の「私」を知ること。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロンも
こう言っている。「汝自身を、知れ」と。哲学の究極の目標にも、なっている。
++++++++++++++++++++
●依存性
ぼんやりと、秋の薄日を感じながら、「依存性」について、考える。「その人の依存性は、
どうすればわかるか?」と。
そこで一つの診断基準を考えてみた。
(してもらうことのほうが多い)+++++++++++(してあげることのほうが多い)
(ものをもらうほうが、多い)++++++++++++++(ものをあげるほうが多い)
(世間に期待することのほうが多い)+++(世間など、あてにしないことのほうが多い)
依存性といっても、さらに内容をつきつめていくと、複雑に分かれる。夫婦の間で、相
互に依存性が強くても、社会的には、独立心が旺盛な人もいる。もちろん、その反対の人
もいる。
だから一概には、どうと言えないが、この診断基準で、どちらかといえば、左寄りとい
う人は、それだけ依存性が強い人とみる。
人は、こうしてたがいに依存しあって生きていくものだが、ときに、(提供側)と、(享
受側)の関係が、はっきりとできてしまうことがある。
つまりどちらか一方は、いつも、提供する側。そしてもう一方は、いつも、それを受け
取る側という関係である。長い時間をかけて、少しずつそういう関係ができ、気がついた
ときには、それが固定化していることが多い。
親子の間、夫婦の間でできることが多いが、中には、親自身が子どもに、一方的に依存
するというケースもある。さらに兄弟の間も、それができることがある。
ある男性(45歳)はこう言った。「ぼくの兄は、ケチで、何をしても、自分でお金を払
ったことがありません。割り勘という考え方もしません。家族ぐるみで、食事に行っても、
その料金を支払うのは、いつもぼくです。子どものときから、そうです。そういう関係が
できてしまったのですね」と。
こうした依存性は、幼児期から身につくものである。教室でも、何かにつけて、私に頼
ってくる子どもがいる。そういうとき私は、「自分で考えなさい」というような言い方で、
突き放す。
一見、冷たい指導法に見えるが、そのほうが、子どものためにはよい。(反対に、親の受
けは、よくないが……。)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●Y市のNさんよりメール
Y市に住んでいる、Nさんより、母親(実母)についての相談があった。
Nさんは、現在、31歳。2児の母親。
Nさんの母親(実母)は、プライドの高い人で、人から、何か指摘されたりすると、カ
ッとなりやすい人のようである。そしていつも、夫(Nさんの実父)の顔色をうかがって、
生活しているようなところがあるという。
Nさんにとって、Nさんの生まれ育った家庭は、とても「暖かい家庭」とは言えなかっ
たようである。一度、Nさんが家出をしたとき、こんなことがあったという。Nさんが、
高校生のときのことである。
Nさんの母親は、Nさんを迎えにきたとき、Nさんに、「私がかわりに家出をするから、
あなたはもどってきなさい」と言ったという。その一件で、Nさんは、母親との信頼関係
が、崩れたように感じたという。
「私は恵まれた家庭に育っていない。しかし自分の子どもたちには、家族の温もりを教
えてあげたい」「幸福な気持ちで、生きてほしい」「どうしたらいいか」「また、両親に、も
っと自分たちのことを気づいてほしい。どうしたらいいか」と。
【Nさんへ……】
エッセー形式で、返事を書いてごめんなさい。Nさんのかかえておられる問題は、広く、
つまりあちこちの家庭で起きている問題です。そういう意味で、エッセー形式にしました。
どうか、ご理解ください。
【家族自我群からの解放】
「家族意識」には、善玉意識と悪玉意識がある。これについては、すでにたびたび書い
てきた。
「家族だから、みんなで助けあって生きていこう」というのが、善玉家族意識。「家族と
して、お前には勝手な行動は許さない」と、家族同士をしばりあげるのを、悪玉家族意識
という。
この悪玉家族意識には、二面性がある。(ほかの家族をしばる意識)と、(自分自身がし
ばられる意識)である。
「お前は、長男だから、家を守るべき」「お前は、息子なのだから、親のめんどうをみる
べき」と、子どもをしばりあげていく。これが(ほかの家族をしばる意識)ということに
なる。
一方、子どもは子どもで、「私は長男だから、家をまもらなければならない」「息子だか
ら、親のめんどうをみなければならない」と、自分自身をしばりあげていく。これが、(自
分自身がしばられる意識)である。
問題は、後者である。
それなりに良好な親子関係ができていれば、自分で自分をしばりあげていく意識も、そ
れなりに、良好な親子関係をつくる上においては、プラス面に作用する。しかしひとたび、
その親子関係がくずれたとき、今度は、その意識が、その人を、大きな足かせとなって、
苦しめる。
ばあいによっては、自己否定にまで進む。
ある男性は、実母の葬儀に出なかった。いろいろ事情はあったのだが、そのため、それ
以後、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまった。
「私は親を捨てた、失格者だ」と。
その男性の住む地方では、そういう人のことを、「親捨て」と呼ぶ。そして一度、「親捨
て」のレッテルを張られると、親戚はもちろんのこと、近所の人からも、白い目で見られ
るようになる。
こうした束縛性を、心理学の世界でも、「家族自我群」と呼ぶ。そうでない人、つまり良
好な親子関係にある人には、なかなか理解しにくい意識かもしれない。しかしその意識は、
まさにカルト。家族自我群に背を向けた人は、ちょうど、それまで熱心な信者だった人が、
その信仰に背を向けたときのような心理状態になる。
ふつうの不安状態ではない。ばあいによっては、狂乱状態になる。
家族としての束縛性は、それほどまでに濃厚なものだということ。絶対的なものだとい
うこと。親自身も、そして子ども自身も、代々、生まれながらにして、徹底的に、脳ミソ
の中枢部にたたきこまれる。
こうした意識を総称して、私は「親・絶対教」と呼んでいる。日本人のほとんどが、多
かれ少なかれ、この親・絶対教の信者と考えてよい。そのため、親自身が、「私は親だから、
子どもたちに大切にされるべき」と考えることもある。子どもが何かを、口答えしただけ
で、「何だ、親に向かって!」と、子どもに怒鳴り散らす親もいる。
私がいう、悪玉親意識というのが、それである。
ずいぶんと、回り道をしたが、Nさんの両親は、こうした悪玉家族意識、そして悪玉親
意識をもっているのではないかと、思われる。わかりやすく言えば、依存型人間。精神的
に未熟なまま、おとなになった親ということになるのかもしれない。Nさん自身も、メー
ルの中で、こう書いている。
「(母も)、そろそろ自分の人生を生きることを選んで欲しいと、心から願っています」
と。
Nさんの母親は、いまだに子離れができず、悶々としている。そしてそれが、かえって
Nさんへの心理的負担となっているらしい。
実際、親離れできない子どもをかかえるのも、たいへんだが、子離れできない親をかか
えるのも、たいへんである。「もう、私のことをかまわず、親は親で、自分の道を見つけて、
自分で生きてほしい」と願っている、子どもは、いくらでもいる。
【親であるという幻想】
どこかのカルト教団では、教祖の髪の毛を煎じて飲んでいるという。その教祖のもつ霊
力を、自分のものにするためだそうだ。
しかし、そういう例は、少なくない。考えてみれば、おかしなことだが、実は、親・絶
対教にも、似たようなところがある。
……という話はさておき、(というのも、すでに何度も触れてきたので)、私も、すでに
56歳。その年齢になった人間の一人として、こんなことが言える。
「親という言葉のもつ、幻惑から、自分を解放しなさい」と。
子どもから見ると、親は絶対的な存在かもしれない。が、その親自身は、たいしたこと
がないということ。そのことは、自分がその年齢の親になってみて、よくわかる。
多分、20代、30代の人から見ると、56歳の私は、年配者で、それなりの経験者で、
かつそれなりの人格者だと思うかもしれない。しかしそれは、幻想。ウソ。
ざっと私のまわりを見ても、50歳をすぎて、40代のときより、進歩した人など、一
人もいない。人間というのは、むしろある時期を境に、退化するものらしい。惰性で生き
るうち、その範囲の生活的な技術は身につけるかもしれない。が、知性にせよ、理性にせ
よ、そして道徳観にせよ、倫理観にせよ、むしろ自ら、退化させてしまう。
わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、くだらない人間になる人のほうが、多いと
いうこと。それはまさに健康や体力と似ている。よほどの訓練をしないと、現状維持すら、
むずかしい。
これは現実である。まちがいのない現実である。
しかし親に対する幻想をもつ人は、その幻想に、幻惑される。「そんなはずはない」「親
だから……」と。
Nさんも、どうやら、そうした幻惑に苦しんでいるようである。
だから、私は、こう言いたい。「Nさん、あなたの母親は、くだらない人です。冷静にそ
れを見抜きなさい。親だからといって、遠慮することは、ない」と。
ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Nさんの母親をどうこうと言っている
のではない。親・絶対教の人にこう書くと、かえって猛烈に反発する。以前、同じような
ことを書いたとき、こう言ってきた人がいた。
「いくら何でも、他人のあなたに私の母のことを、そこまで悪く言われる筋あいはない」
と。
私が言いたいのは、親といっても、その前に一人の人間であるということ。そういう視
点から、親を見て、自分を見たらよいということ。親であるという幻惑から、まず、自分
を解放する。
この問題を解決するためには、それが第一歩となるということ。
【親のことは、親に任せる】
Nさんのかかえるような問題では、子どもとしてできることには、かぎりがある。私の
経験では、親自身に、特別な学習能力があるなら話は別だが、それがないなら、いくら説
得しても、ムダだということ。
そもそも、それを理解できるだけの、能力的なキャパシティ(容量)がない。おまけに
脳細胞そのものが、サビついてしまっている。ボケの始まった人も、少なくない。
さらにたいていの親(親というより、親の世代の年配者)は、毎日を惰性で生きている。
進歩などというのは、望みようもない。
そういう親に向かって、「あなたの人生観はまちがっている」と告げても意味はないし、
仮にそれを親が理解したとしたら、今度は、親自身が、自己否定という地獄の苦しみを味
わうことになる。
つまり、そっとしておいてあげることこそ、重要。カルトを信仰している、信者だと思
えばよい。その人が、その人なりに、ハッピーなら、それはそれでよい。私たちがあえて、
その家の中に、あがりこみ、「あなたの信仰はまちがっている」などと言う必要はない。ま
た言ってはならない。
この世界では、そうした無配慮な行為を、「はしごをはずす行為」という。「あなたはま
ちがっている」と言うなら、それにかわる、(心のよりどころ)を用意してあげねばならな
い。そのよりどころを用意しないまま、はしごをはずしてはいけない。
要するに、Nさん自身が、親自身に幻想をいだき、その幻惑の中で、もがいている。家
族自我群という束縛から、解放されたいと願いつつ、その束縛というクサリで体をしめつ
け、苦しんでいる。
だから、Nさん自身が、まず、その幻想を捨てること。「どうせ、くだらない人間よ」「私
が本気で相手にしなければならない人間ではない」と。
「親だから、こんなはずはない」と思えば思うほど、Nさん自身が、そのクサリにから
まれてしまう。私は、それを心配する。
ある男性(50歳くらい)は、私にこう言った。
「私の父親は、権威主義で、いつもいばっていました。『自分は、すばらしい人間だ』『私
は、みなから、尊敬されるべきだ』とです。しかし過去をあれこれさぐってみても、父が、
他人のために何かをしたということは何もないのですね。それこそ近所の草刈り一つ、し
たことがない。それを知ったとき、父に対する、幻想が消えました」と。
あえて言うなら、Nさんの母親は、どこか自己愛的な女性ということになる。かわいい
のは自分だけ。そういう自分だけの世界で、生きている。批判されるのを嫌う人というの
は、たいてい自己愛者とみてよい。自己愛者の特徴の一つにもなっている。
幼児的な自己中心性が肥大化すると、人は、自己愛の世界に溺れるようになる。Nさん
のメールを読んでいたとき、そんな感じがした。
【お子さんたちのこと】
Nさんは、子どもへの影響を心配している。「子どもたちに、幸福な家庭を見せてあげた
い」と。
心配は無用。
Nさんの子どもたちは、Nさんの子どもたちへの愛情の中から、自分たちの進むべき道
を見つけていく。つまりそうして子どもたちの将来を心配するNさんの愛情こそが、大切
ということ。
たしかに子どもというのは、自分の置かれた環境を再現する形で、おとなになってから、
子育てをする。しかしそれは、決して、物理的な環境だけではない。
もちろん問題がないわけではない。しかしどれも克服できる問題ばかり。現に今、Nさ
んは、私にメールをくれることで、真剣に子どもたちのことを考えている。
こういう姿勢があるかぎり、子どもたちは、必ず、自分の進むべき道を自分で見つける。
大切なのは、「形」ではなく、「自分で納得できる人生」である。
だから子どもたちに対する愛情だけは、見失わないように。
【改めてNさんへ……】
以上、大急ぎで返事を書きました。あちこち何かしら言い足りないところもありますが、
参考にしていただければ、うれしいです。
Nさんの問題をテーマにしてしまいましたが、どうか、ご了解の上、お許しください。
11月10日号を今夜配信しなければならないのですが、この数日、ほとんど原稿を書い
ていません。
それで11月10日号の原稿とかねて、返事を書かせてもらいました。お許しください。
では、今夜は、これで失礼します。未推敲のまま原稿を送ります。よろしくお願いしま
す。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●心にキズをもった子ども
【大阪府T市在住の母親より】
幼稚園で不登園になって以来、小学校に 入学してから今まで 毎日 学校でつき添っ
て登校しています。
最近 「ぼくは、死んだほうがいいんだ。」「お母さんは、僕が嫌いなんだ。」「どうせ何
をやってもうまくできない」と、毎日言います。
幼稚園に行かなくなったときに 私が、死にたいほど辛く 本人にもかなりひどいこと
を言ってしまったのを、思い出しているのかも知れません。最近になって、アスペルガ
−症候群だといわれました。
子供に 自己に自信をつけてあげるには、どのように接してあげれば、いいでしょう?
毎日 楽しく生活できるようにと 思っているのですが、毎日 あまりにもしつこく言
われ 私も いらいらしてしまいます。
(大阪府T市、CFより)
+++++++++++++++++
アスペルガー症候群については、たびたび書いてきたので、ここでは、簡単に説明だけ
しておく。
自閉症的な症状を示しながら、知的な発達障害の見られない子どもが見せる症候群を、
アスペルガー症候群という。ふつう自閉症というときは、言語能力などの分野で、知的発
達障害をともなくことが多い。が、アスペルガー児には、そういった発達障害は、見られ
ない。むしろ、数学や算数の分野などで、特異な能力を見せることが多い。
正確には、自閉症の中でも、正常レベルに近い子どもを、「高機能自閉症児」という。そ
の中でも、さらに正常に近い子どもを、「アスペルガー児」という。高機能自閉症児と、ア
スペルガー障害児をまとめて、「高機能広汎性発達障害児」と呼ぶ。
しかし名前だけはぎょうぎょうしいが、要するに、対人関係に問題がある子どもという
だけで、それ以上に問題はない。「個性」と位置づける研究者も多いし、実際、教育現場で
は、そういう方向で、指導をしている。
++++++++++++++++
この相談のばあい、その子どもが、アスペルガー児であるかどうかは、不随的な問題と
考えてよい。アスペルガー児だから、「死んだほうがいい」という言葉を口にするわけでは
ない。ただ、対人関係の調整が、きわめて苦手な子どもなので、ささいなことで、キズつ
きやすいということ。
で、気になるのは、母親自身が、「私が、死にたいほど辛く、本人にもかなりひどいこと
を言ってしまったのを、思い出しているのかも知れません」と告白している部分である。
恐らくそういった接し方を、その母親は、一度とか、二度とかではなく、ごく日常的に、
態度をとおして、していたのかもしれない。
そのため、子どもの心は、キズついた。アスペルガー児であるというなら、なおさら、
デリケートな心をもっていた。子どもの年齢は書いてないので、よくわからないが、低学
年児であるなら、この言葉は、痛々しい。
【CFさんへ……】
CFさんも、当時は、いろいろ混乱していたのだと思います。子どもの様子が、少し変
わっているということで、いろいろ悩んだのだと思います。そして、(ひどいこと)を口に
してしまった。
この問題は、CFさんの子どもが、アスペルガー児であるとかないとかいうこととは、
一度、切り離して考えてみたほうが、よいのでははいないかと思います。そして過去の失
敗は、いまさら、悔やんでもしかたのないこと。
問題は、これから先、どうするか、ですね。
幸いなことに、CFさんは、今、そういう自分を深く、後悔しています。そして自分や
あなたの子どもを、冷静に見つめています。ここがとても重要な点です。というのも、世
の中には、そういう子どもをもちながら、その子どもの心を知らないまま、子どもを叱り
つづける親も多いからです。
ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、自分を改めようとする前に、「子どもを
なおそう」と考えます。しかしこれほど、身勝手な考え方はありません。
実のところ、私自身も、「アスペルガー症候群」という言葉を、ほんの5年前にさえ知り
ませんでした。当時、ある母親から、子育て相談会の席で相談され、そういう症状がある
ことを知りました。今から思うと、それがアスペルガー症候群でした。
(この名称が一般的になったのは、ここ数年のことではないでしょうか。私の勉強不足
かもしれません。
対人関係が結べず、その子どもの母親も、深刻に悩んでいました。「完ぺき主義で、だれ
かにまちがいを指摘されたりすると、錯乱状態になる」と。
で、その子どもは、小学3年生になるまで、私は指導しました。その子どもについては、
また別の機会に詳しく書くとして、そんなわけで、私は、「死にたいほどつらく思い、子ど
もにひどいことを言った」あなたを、責めることができません。
で、その結果、あなたの子どもの心は、ひどくキズついてしまったというわけです。
ただ、一つ、誤解してはいけないのは、こうした対人関係がうまく結べない子どものば
あい、ときとして、相手に同情を求めながら、相手の心を試すということは、よくあるこ
とということです。
「死」という言葉にしても、言葉として、そう言うかもしれませんが、あまり本気にし
てもいけません。「死ぬ」「死ぬ」と言って、死んだ子どもはいません。子どもが死を選ぶ
のは、あくまでも、何かのことで行きづまった、その結果です。……といっても、やはり
痛々しい言葉ですね。本来なら、絶対、子どもには口にしてほしくない言葉です。
こういうケースでは、まさにあなたの親としての、愛の資質が試されます。どんなこと
があっても、「許して、忘れる」です。あとは、暖かい無視を繰りかえし、子どもが、何か
のスキンシップや愛情表現を求めてきたら、すかさず、いとわず、ていねいにそれに答え
てあげるということです。
あとは、時の流れに任せましょう。コツは、そういったテーマや問題には、触れないこ
とです。うまく、聞き流すことです。「暖かい無視」という言葉がありますが、私も好きな
言葉です。うまく、応用してみてください。
ただとても残念なことですが、一度ついた心のキズは、簡単には消えません。忘れるこ
とはできますが、消えません。
しかしだれしも、そうしたキズを無数にもちながら、つまりキズまるけになりながら、
成長し、生きていくものです。ですから、CFさんの子どもが、こうしたキズをもってい
るとしても、それはそれとして、前向きに生きていくしかありません。
コツは、その問題にふれないように。話題にしないように。あまり気にしないように。
なお、こんな指導法もありますから、参考にしてください。
ある中学生の男子ですが、何かにつけて、ゆううつな話題をもちかけてきます。……き
ました。
たとえば、こうです。
「ぼく、今度のテストで、悪い点を取るような気がする」
「高校へ入っても、また勉強するなんて、いやだ」
「昨日、友だちが、ぼくを無視した」と。
最初のうちは、その中学生に相談に、そのつどあれこれ答えていましたが、そのうち、
私のほうもいやになり(本音!)、やがて、こう答えるようにしました。すぐ、話題を、切
りかえるのです。
その子どもが憂うつそうな顔をして、話しかけてきたら、すかさず、「ほほう、君は、い
い趣味しているねえ。このサイフ、かっこいいね。もらったの? 買ったの?」と。
あるいは、「もうすぐ運動会だね。君は、何に出場するの? 子どものころから、君は、
走るのは速かったんだろ?」と。
つまりその瞬間、瞬間に、明るい話題に、こちらからもちこんでいきます。この方法は、
たいへん効果的ですから、ぜひ、CFさんのご家庭でも、応用してみてください。
なお、いただきましたメールですが、マガジン用に、転載することを、どうかお許しく
ださい。不都合な点があれば、改めます。どうか、至急、ご連絡ください。勝手なお願い
ですみません。
(はやし浩司 高機能自閉症児 アスペルガー アスペルガー症候群 子どもの心 子供
キズ)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【近ごろ、あれ・これ】
●悪口を言いあう夫婦
知りあいに、今年、ともに75歳になる老夫婦がいる。見た目には、仲のよい夫婦であ
る。……で、あった。
しかしこのところ、様子が変わってきた。どこか、おかしい。
たがいに、悪口ばかり、言いあっている。もっとも、悪口を言うのは、もっぱら、妻の
ほう。まさに、不平、不満だらけ。
妻のほうが、少し、ボケてきたのかもしれない。たとえば、こうだ。
「夫が、何でも、ものをしまうクセがあって困る。手紙も、裁縫箱も、みんなしまって
しまう。そのため、どこにそれがあるか、わからなくなってしまう」と。本当は、どうや
ら妻のほうが、自分でしまって、しまい忘れてしまっているようだ。
それに対して、夫のほうは、「女房は、毎日、ガミガミ言ってばかりいる。いっしょにい
るのが、つらい」と。
あとは、「食事のあと片づけが、悪い」「風呂の湯を出しっぱなしにする」「おかしな食べ
物ばかり、買ってくる」などなど。
老齢期にはいって、急速に仲が悪くなる夫婦は、少なくない。それまでがまんして支え
てきたたがいの関係が、そのあたりで、一気に崩壊する。理由は、いろいろある。
若いときは、それなりに気力があって、自分の心を押し殺して生活することができる。
たがいに、そらなりの不満があっても、それをごまかして生活をすることができる。
が、その気力が、弱くなる? そのため、それまで隠していた内面が、外に現れる?…
…そういう例は多い。
しかしその夫婦は、そのまま私たち夫婦の老後の姿でもある。今は何とか、たがいへの
不満を、ごまかしながら生きている。が、もう少し歳をとると、そうはいかなくなるので
は?
もっとも、悪口を言いあうだけなら、それほど問題はない。しかし狭い家の中で、そう
いう相手と、毎日顔をつきあわせていると、人生観そのものにまで、影響を与えるように
なる。事実、その夫婦のばあい、とくに、妻のほうの顔が、このところ会うたびに、醜悪
になってきている。
では、どうするか?
とにかく、(がまん)はよくない。夫婦の間では、とくにそうだ。言いたいことも言えな
い、したいこともできないというような状態なら、すでにその夫婦は、危機的な状態にあ
るとみてよい。
若いときは、どちらか一方ががまんすれば、それなりにうまくいくかもしれない。しか
しそれがやがてすぐ、ほころびる。
老齢というのは、そういう意味で、その人の真の姿を映しだす、カガミのようなものか
もしれない。しかも容赦なく、映しだす。
が、それだけではない。
昔、私の祖父は、いつも、口ぐせのように、こう言っていた。「地獄、極楽も、この世に
ある」と。
そう、その老齢期が、地獄になることもある。
私は、その老夫婦に、本当は、こう言いたかった。「もう、たがいにあきらめて、現実を
受け入れたら、どうですか。どうせ人生は短いのだから、たがいに楽しく生きたほうが、
とくです」と。
しかし人生の大先輩に、どうしてそんなことが言えるだろうか。またそう言っても、も
うそれを理解できるような人たちではない。
ただ、私は、こう思った。私たち夫婦も、その可能性はきわめて高いが、ああはなりた
くないな、と。
●台風一過
今朝、起きてみると、雲の上から、ときおり、明るい太陽の光が、もれていた。どうや
ら台風は、去ったようだ。
ただ予想していたほどの、秋晴れではなかった。
今日の予定は、これから山荘へ行って、客人を迎える。料理は、私がすることになって
いる。
そのあと、夕方までに帰ってきて、仕事。今夜中に、しあげなければならないので、そ
れをする。できればマガジン11月10日号の配信予約も入れたい。
さきほど、ホームページの更新をしたが、途中で、アップロードが止まってしまった。
一瞬、ヒヤリとしたが、二度目には、うまくできた。よかった! こういうことがあると、
本当に肝を冷やす。
昨夜は、久しぶりに、ワイフと抱きあって寝た。別に、愛しあっているからではない。
寒かったからだ。そう、今は、もう秋。この地方では、このままの状態で、やがて冬をす
ぎて、春になる。どうも、季節感が、乏しい。
とりあえず、これから食材の買い物。煮物でいこうか、焼き物でいこうか、まだ決めか
ねている。店で見ながら、ワイフに相談してみる。
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よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 8日(No.486)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●母因性萎縮児
母因性萎縮児について、少し前、記事を書いた。
この「母因性」という言葉は、私が考えた。が、反響が大きかった。何人かの読者から、
もっと、詳しく書いてほしいという意見をもらった。
それについては、またゆっくりと、日を改めて書くとして、母親が子どもの伸びる芽を
つんでしまっているというケースは、少なくない。よくある例としては、過干渉、過保護、
過関心などがある。
過剰期待や、過剰負担もよくないことは、言うまでもない。
こういう例を含めるなら、母因性内閉児、母因性心身症児、母因性無気力児、母因性粗
放児なども、考えられる。
子どもを伸ばす親というのは、「ほどよい親」である。子育てでは、何ごとにおいても、
ほどほどに!
●子どもの肥満
少し前、標準体重について書いた。
広く使われている標準体重検査法としては、BM標準体重計算法がある。しかしこれは、
(おとな用)のもの。(子ども用)には、(ローレル指数計算法)や、(カウプ指数計算法)
がある。
+++++++++++++
【おとなの適正体重計算……BM標準体重計算法】
BM=(体重kg)÷(身長m)÷(身長m)
40以上 ……肥満(4度)
35〜40 ……肥満(3度)
30〜35 ……肥満(2度)
25〜30 ……肥満(1度)
18・5〜25……正常値
〜18・5以下……やせ
(注、身長はメートル単位。身長、166センチの人は、1・66として、計算する。)
【学童期の児童の適正体重計算法】
(ローレル指数)=(実測体重kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗
この計算法で、ローレル指数が、160以上を、肥満とする。
【乳幼児の適正体重計算法】
(カウプ指数)=(実測体重g)÷(実測身長cmの2乗)×10
この計算法で、カウプ指数が、20以上を、肥満とする。
このほか、おとなの標準体重計算法として、広く、次のような計算法が、使われている。
参考までに……。
【おとなの適正体重計算法】
(肥満度)=(実測体重kg − 標準体重kg)÷(標準体重)×100
ここでいう標準体重は、男性は、(身長cm − 100)×0・9で計算
女性は、(身長cm − 100)で計算
この計算法で、20以上で、肥満とする。
+++++++++++++++++
私も、このところ、肥満は、よくないと、身をもって、体験している。肥満は、たしか
に脳に、よい影響を与えない。
思考の鋭さが消える。集中力がつづかないなど。意外に思う人もいるかもしれないが、
肥満時の時のほうが、ものの考え方が、うつ的になりやすいのではないかということ。肥
満は、精神の作用にも、影響を与える(?)。
一般的には、太っている人のほうが、どこかおおらかで、のんびりしているように見え
るかもしれない。が、どうもそうではないのではないかということ。
動きが鈍くなる分だけ、血中の老廃物がふえる? そのため、ものの考え方も、どこか
腐ってくる。……実感としては、そんな感じがする。
また、子どもの肥満は、思考力の大敵と考えてよい。満腹症状(どこか、満腹風になる
こと)が出てくると、脳に行くべき血流が、胃袋のほうへばかりいくような感じになる。
当然、その分、思考力がにぶくなる。集中力が、つづかなくなる。ぼんやりと、うつろな
目つきで、空を見つめるなど。
子どもは、やややせかげんのほうが、よい。……と、私は、そう思っている。
で、私は、9月のはじめから今日(10・08)までに、体重を、68・5から、63・
5kgに減量することに成功した。ちょうど、5kg、減らしたことになる。
体が軽くなった分だけ、運動量がふえた。昨日も、合計で、1時間半ほど、自転車で走
った。
そのせいもあって、頭の中も、軽くなった。頭重感が消えた。集中力ももどってきた。
朝起きたときの、足の痛みも消えた。体中が、サクサクと動く感じになって、気分も爽快。
朗らかになった。
なお子どもの肥満の多くは、生活習慣病と考えてよい。そういう子どもの家庭ほど、家
の中に、食べ物がごろごろしている。もし子どもの肥満が気になったら、家中から、食べ
物を捨ててみる。心を鬼にして、捨ててみる。
「もったいない」と思ったら、なおさら、捨ててみる。その「もったいない」と思う心
が、つぎからの買い物習慣を改める。
(041008)
【リバウンドの恐怖】
いかにして、空腹感と戦うか。ダイエットしているとき、当然のことながら、それが最
大の問題となる。
しかしその空腹感も、一巡すると、おかしなもので、どこかへ消えてしまう。また全体
に、胃袋が小さくなった感じがして、食事の量そのものが、少なくなる。少し食べただけ
で、おなかがいっぱいになってしまう。
が、ここで油断してはいけない。
この段階になると、何を食べても、おいしくなる。そこでふと、油断をしたようなとき、
ドッと食べてしまう。
ここで「胃袋が小さくなった感じ」と書いたが、これもまた、見せかけ。「おいしい」と
思って食べていると、つい、量が多くなってしまう。
体中の細胞そのものが、飢えた状態になっているから、ほんの少し食べただけでも、栄
養分が、ムダなく、体中に、しみわたるようになる。つまり、こうして、リバウンドが始
まる。
昨日は、講演が二つ重なったこともあり、私は、二つ目の講演が終わるまで、食事らし
い食事をとらなかった。食事をとると、眠ってしまう。
が、二つの講演が終わって、しばらくすると、猛烈な空腹感。そこでワイフと、イタリ
アレストランへ。
ここで、私は、サラダと、ピラフを食べた。一人前の量である。
とたん、食べグセがもどったというか、あれこれ、いろいろなものを食べたくなった。
家に帰ると、サバ寿司があった。それを一切れ食べた。講演のみやげにもらった、羊羹(よ
うかん)も、一切れ食べた……。
で、今朝は、どこか気分が悪い。体重計を見たら、あっという間に、昨日より、プラス
1キロ。明らかにリバウンドである。以前と比べたら、比較にならないほど、少量しか食
べていないのに、1キロ!
しかも今、空腹感がある! あのサバ寿司が、無性に食べたい!
つまり私のダイエットは、こうして第二ラウンドに入った。
ダイエットするよりも、いかにして、このリバウンドと戦うか。多くの人は、この段階
で、失敗するらしい。
さあ、がんばるぞ。……といっても、今日は、台風22号の影響で、あいにくと、雨模
様。運動ができない! 何か、別の方法を、考えるしかない。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【ADHD児】
ADHD児の特徴は、(1)不注意(注意力散漫)、(2)衝動性、(3)多動性の三つで
ある。
DSM−IVの診断基準を、わかりやすくしたのが、下の表である。ADHD児の原因
について、最近の研究では、脳の微細障害悦、もしくは、微細機能障害説が有力になっ
てきている。前頭葉の血流量が、健常児と比較して、有意に低下していることもわかっ
ている。
が、問題は、その子どもがそうであるというよりは、つまり医学的にはそうであっても、
教育的には、初期の不適切な対処の仕方により、症状がこじれてしまうところにある。
乳幼児期の、落ちつきのない言動に対して、親は、はげしい、しつけ攻撃を、試みる。
強くしかったり、ときに暴力を加えたりする。これがさらに症状を悪化させる。
つまりADHD児でも、初期診断が、重要ということになる。できるだけ早い時期にそ
れに気づき、適切に対処する。
【不注意(注意力散漫)】
つぎのような症状のうち、6つ以上、6か月以上、つづいている。
( )不注意な行動が多い。不用意にお茶をこぼしたり、道路に飛び出したりする。
( )集中力が、つづかない。ゲームをしていても、すぐあきてしまう。
( )人の話が聞けない。どこかうわの空。カルタ取りのようなゲームが、苦手。
( )親の指示に無頓着。あるいは指示を受けても、それを無視したような状態になる。
( )ものごとを順序だててすることが、苦手。行動に統一性がない。
( )ものをよくなくす。どこへ置いたか、しまったか、忘れてしまう。
( )注意力が散漫で、もの音などがすると、注意がそちらへ向いてしまう。
( )毎日、何をすべきか、忘れてしまう。
【多動性】
つぎのような症状のうち、6つ以上、6か月以上、つづいている。
( )いつもどこかそわそわしている。じっとすわっていることができない。
( )じっとすわっていることが、求められているときでも、立ってどこかへ行く。
( )病院や図書館、葬儀の席などでも、動き回ったり、騒いだりする。
( )静かに遊ぶことができない。
( )何かしら別のエンジンによって動かされるかのように、勝手に動き回る。
( )よくしゃべり、「静かに!」といくら制しても、効果がない。あっても瞬間。
【衝動性】
( )しばしば自分勝手な行動を繰りかえす。
( )人のうしろに並んで、順番を待つことができない。
( )ほかの子どものじゃまをしたり、妨害をしたりする。
(以上、DSM−IVの診断基準(医学書院)を、参考に、一般親向けに改変)
こうした症状が見られたら、ADHD児を疑い、専門医の相談を受けるとよい。各地区
の保険所、保険センターなどの、育児相談窓口で、相談する。
このタイプの子どもでも、自己意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、急速に症状
が収まってくる。それまでに症状を、不必要に、こじらせないことが、重要である。
(はやし浩司 ADHD児 DSM 診断基準)
【Mさんの例】
Mさんは、突然、「今日のママのパンティ、花柄パンティよ」と叫んだ。Mさんが、年中
児になって、はじめて、私の教室へきたときのことだった。「かわいい、かわいい、お花の
ついた、きれいなパンティ」と。
母親は、それを見て、あわてた。私も、「Mさん!」と言って、それをたしなめた。
Mさんの多動性は、きわだっていた。席についたと思うと、そのままの姿勢で、となり
の子におおいかぶされようにして、話しかけていた。が、それも中途半端な状態で、今度
は、そのまま立ちあがり、うしろの席の子どもに……。
「Mさん、すわっていようね」と声をかけても、その場だけの効果しかない。その瞬間
だけ、ハッと我にかえったような様子を見せるが、その直後には、もう別のことをしてい
た。
母親は、こう言った。
「歩き始めたころから、手に負えませんでした。体と柱をヒモでつないで、育てました。
どこへ行くか、わからなかったからです。
3歳くらいになったときのこと。土手の上から、下へ飛び降りたこともあります。幸い、
下が、草むらになっていて、けがはしませんでしたが、それを見たとき、私は、思わず、
ギャーッと声をあげてしまいました」と。
そのMさんは、天衣無縫というか、言うことなすこと、支離滅裂。「天井に、ハエ。ハエ
さん、ハエさん、今日は元気? 私は、赤い箱。箱の中には、白いリボン……」と。
突然、私の席のところまでやってきて、小声で、「センセイ……」と、甘ったるい声で話
しかけてきたかと思うと、突然、ワッと声をあげたこともある。
「どうしてそんなことをするんだ!」と叱ると、突然、しおらしい涙声になって、「ごめ
んなさい」と。
毎日が、この繰りかえし。
そういうMさんを、母親は、はげしく叱った。が、その一方で、母親は、Mさんのこと
を、「無限の可能性のある、優秀な子」と信じていた。活発な言動、強い好奇心など。たし
かにふつうの子どもとは、ちがっていた。
この段階で、母親にその知識と自覚があるなら、まだ話もできる。しかし実際問題とし
て、「優秀な子」と信じている母親に向って、「あなたの子どもには、問題があります」と
は、とても言えない。私は、いつ切り出すべきかと悩んでいた。
しかし、そんな母親でも、やがて気がつくときがやってきた。幼稚園で開かれた、遊戯
会でのことだった。
Mさんだけが舞台の前に出てきて、観客に向って、アカンベーを繰りかえしていた。ほ
かの子どもたちは、先生の手拍子に合わせて、遊戯を踊っていた。
それを見て、母親は、かなりショックを受けたようだった。そしてその足で、私のとこ
ろにやってきて、「どうしてでしょうか?」と、質問をした。
私は、母親を、別の部屋に案内し、「私の印象では、活発型遅進児の心配があります」と
告げた。今から、30年近くも前のことで、当時はまだ、ADHD児という言葉さえ、な
かった。
それを聞いて、母親は、どっと身を伏せ、その場で、泣き崩れてしまった。
●脳の微細障害説
カプランの「臨床精神医学ハンドブック」によると、ADHDを、つぎのように説明す
る(福島章著「子どもの脳があぶない」(PHP新書)を要約。)
(1)まだじゅうぶん解明されていないが、微細な神経学的欠陥が原因と考えられる。
(2)出産前後の外傷や、乳幼児期の栄養不良と関連がある。
(3)男児に多く、二卵性双生児よりも、一卵性双生児に一致率が高い。
(4)脳血流の研究からは、前頭葉の血流の低下が明らかにされている。
(5)ADHD児の20〜25%が、青年期、成人期にいたるまで、症状を示す。
(6)とくに行為障害を合併するばあいには、非行や犯罪に走りやすい。
ここで注目すべき点は、「ADHD児の20〜25%が、青年期、成人期にいたるまで、
症状を示す」という点である。言いかえると。たいはんは、それまでに、症状が、少な
くとも、わかりにくくなるということ。
ADHD児と診断されると、多くの親は、絶望的になる。しかし絶望的になる必要は、
まったくない。
ADHD児は、集団教育になじまないというだけで、その豊かな発想には、評価すべき
ものがある。最近の研究では、モーツアルト、チャーチル、それにエジソンなども、その
ADHD児であったということまでわかっている。
大切なことは、乳幼児期から少年期にかけて、無理な指導で、症状をこじらせないこと。
それが結論ということになる。
(はやし浩司 脳の微細障害 微細障害説 脳血流 前頭葉)
●よく知られた、ADHDの人たち
(McNeil Consumer & Specialty Pharmaceuticalsより転載、翻訳)
★エジソンも、チャーチルも、モーツアルトも、ADHDだった!
ADHD児というと、マイナス面ばかりが強調されるが、もちまえの集中力や、固執力、
さらには、バイタリティなどから、すぐれた能力を示す例も、少なくない。MCNEIL
社のGPでは、エジソン、チャーチル卿、モーツアルトの例をあげ、ADHDであること
が、悪いことばかりでないことを指摘している。大切なことは、いかにしてADHDを「治
す」かではなく、その「よさを、指導により引き出すか」である(はやし浩司)。
Famous People and ADHD (ADHD児でよく知られた人たち)
Although not all of the following people have been officially diagnosed with ADHD,
they have exhibited many of its signs. This list is included here to inspire those
facing similar challenges.
つぎの人たちは、公式には、ADHDであったと診断されたわけではない。しかしAD
HDの多くの症状を示していた。現在同じような問題をかかえている人のために参考に
なれば、うれしい。
●Thomas Alva Edison (トーマス・A・エジソン)is cited more than any other historical
figure for his classic ADHD behavior. As an inventor, his creative curiosity enabled
him to constantly explore new ideas. Later in life, Edison showed his tenacity in
sticking with things that caught his imagination in his many inventions.
(エジソンの多動性はよく知られている。しかし彼のねばり強さは、突出したものであっ
た。)
エジソンは、他のどんな歴史上の人物よりも、古典的ADHDの持ち主として、注目され
ている。発明者として、彼の想像的好奇心は、つぎつぎと新しいアイデアを生み出した。
晩年になって、エジソンは、多くの発明にかかりきりになるという、ねばり強さを示した。
●Sir Winston Churchill(W・チャーチル卿) was described as hyperactive and naughty
as a child, and was often sent out of the classroom to run around the schoolyard and
get rid of his extra energy. In his autobiography "My Early Life," Churchill talks
about his impulsivity and his difficult school experiences. Interestingly, once out
of school and serving in the British Army in India, Churchill read crate after crate
of history books. His high energy level, creative problem solving, and hyperfocus
as prime minister of Great Britain during WWII inspired his nation and the world.
(チャーチル自身が、回顧録で、自分のわんぱくぶりを書いている。彼はもちまえの集中
力をもって、歴史書をよみあさり、やがて英国の首相となった。)
チャーチルは、子どものころ、多動性とわんぱくで知られていた。そのためよく教室から
追い出され、そのエネルギーをへらすため、運動場を走らされた。チャーチルは、自分の
伝記、「私の子ども時代」の中で、自分の衝動的行動や、学校での困難な生活ぶりを書いて
いる。興味深いことは、彼が学校を出て、インドで軍に従事したとき、チャーチルは、歴
史書を読みあさったということ。チャーチルの高いエネルギーと、創造力豊かな問題解決
の方法、第二次大戦中の、英国軍の首相としての、並外れた集中力は、イギリスや世界を、
鼓舞した。
●Wolfgang Amadeus Mozart(W・A・モーツアルト) is known for his abilities as a brilliant
composer. During periods of hyperfocus, he could compose an opera in just a few weeks;
other times he left commissioned work to the last minute, or didn't finish it at
all. It has been said that his impulsive social behavior kept him from major court
positions and great financial reward.
(モーツアルトは、人並みはずれた集中力で、二、三週間でオペラを完成させたりした。)
モーツアルトは、すぐれた作曲家として、その能力を知られている。モーツアルトは、そ
の集中力が高揚しているときは、オペラを、ほんの数週間で完成させている。ほかのとき
は、申し付けられた仕事を、最後の瞬間までしなかったり、あるいはまったくしなかった
りした。一説によると、彼のこうした衝動的な行動が、宮廷での地位や、財政的な立場を、
苦しくした理由だと言われている。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●スズメバチの巣を退治した!
おとといの夜、駐車場の軒下にあった、スズメバチの巣を駆除した。
スリル満点、ハラハラドキドキのできごとだった。……と、書くほど、気持ちのよいも
のではなかった。どうも、あと味が悪い。しかし放置しておくわけにもいかない。スズメ
バチは、強暴だし、現に、近所でも、子どもたちが、スズメバチに襲われるという事件が
起きている。
駆除するにあたって、私は、二重、三重の防御服を着て、その上に、手製のヘルメット
をかぶった。その詳しい模様は、11月5日号のマガジンで……。
(楽天の日記には、写真を添付。上は、ヘルメットをかぶる前のもの。下は、手製のヘ
ルメットをかぶったところ。)
●アンケート調査の結果
10月のはじめ、マガジン読者の方に、アンケート調査をお願いした。
結果、111人の方より、返事があった。感謝。
うち、87人の方が、「毎回、ほぼ全部、読んでいる」とのこと。約78%の方というこ
とになる。再び、感謝。
残りの方は、「ときどき読んでいる」「必要なところだけ読んでいる」とのこと。それだ
けでも、感謝、また感謝。これからもよろしくお願いします。
●台風22号
台風22号が、この静岡県の直撃コースに入った。この10年間で、最大級の勢力をた
もった台風だという(気象庁)。
で、昨日から、我が家は厳戒態勢。
……ということで、一日が、すぎた。台風は、浜松市の南をかすめて、伊豆半島に上陸。
が、我が家は、まったく、被害はなし。風らしい風も、吹かないまま、終わってしまった。
いったい、どうなっているのだ!
たまたま客がきていて、いっしょに、ニュースを見る。しかしときおり、強い雨が降る
程度。
私「今ごろ、浜松市の南あたりですかねえ……」
客「そんな感じですねえ……」と。
それで終わってしまった。
私は、伊勢湾台風を子どものころ経験している私にとっては、実にあっけない台風だっ
た。その伊勢湾台風と比較すると、今日の台風は、台風というより、そよ風? 「よかっ
た」と思うと同時に、「昔とは、家のつくりもちがうからなあ」と。
ともかくも、よかった。ほっとした。
夕方になって、雨も風も収まった。客も帰った。台所では、ワイフが、何やら、料理を
しているふう。もうすぐ夕食のようだ。時は、10月9日、午後5時50分。
●日本の小学校
先日、ある小学校の参観授業風景を、見学させてもらった。
見ているだけで、楽しい一日だった。子どもたちの表情を見ていたら、思わず、何度も、
吹き出してしまった。先生の指導も、すばらしかった。
写真も何枚か、とった。
で、その小学校だが、アメリカの小学校とは、かなり雰囲気がちがう。(率直に!)百聞
は、一見にしかず。写真を並べてみる。(HTML版のほうで、紹介。)
全体に見ると、日本の小学校は、せまい。(しかたないね!)アメリカの小学校の、約ハ
ーフサイズとみてよい。(ここに紹介する小学校は、アメリカの小学校にしても、日本の小
学校にしても、ごくふつうの、どこにでもある、標準的な小学校である。)
こうした写真を比べてみるだけでも、日本と、アメリカの、教育に対する姿勢のちがい
が、よくわかる。
結論!
日本政府よ、ケチらないで、もっと教育予算をふやせ!……と言いたい。日本の教育は、
どこか安あがり!
道路やビルばかり、つくるのではなく、中身だ。中身に、もっとお金をかけろ!……と
言いたい。未来の日本をつくるのは、子どもたちだ。
私の意見は、過激だろうか? それとも常識的だろうか? その判断は、読者のみなさ
んに、任せたい。
●知人の自殺
Mさんという女性から、たった今、「友人が自殺した」というメールを、もらった。相当
なショックを受けられたようである。当然である。その自殺した人は、Mさんの友人。ク
ラブもいっしょにしてきた、仲間の一人である。
しかもKさんは、その自殺した人から、何度も、相談を受けている。
そういう自殺者が身近から出ると、そのまわりの人たちは、自責の念にかられる。「何と
かできなかったものか」と考えるうちに、「何もしなかった自分が悪い」となり、ついで、
「その責任は私にある」と考えるようになる。
生きていても、むなしいだけ。目的も、希望もない。明日は、今日より、悪くなる。来
年は、今年より、悪くなる。
そういう思いが、どんどんと胸の中にふくらんでいく。そして最後は、「生きていてもム
ダ」「生きていて、何になる」となる。
死にたいから死ぬのではない。生きているのがつらいから、死ぬ。
そういう意味では、生きるというのは、薄い氷の上を、恐る恐る歩くようなもの。何と
か、かろうじて、生きがいにしがみつきながら、生きている。一見、元気そうに生きては
見せても、その多くは見せかけ。虚勢。その下では、いつも不安と孤独が、「おいで、おい
で」と手招きしている。
つまりその生きがいをなくしたとき、そこで、どんと、人は、「死」を考える。
……こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。が、私も、落ちこんだようなと
き、すぐそこに「死」を感ずることがある。決して、人ごとではない。
そこで最近、私は、こう考えるようになった。
こうした状態になるのは、いわば、心の病気のようなもの、と。たしかに心の病気には
ちがいない。しかし、心の病気のばあい、その病気を客観的に判断すべき、脳ミソそのも
のが、病気になる。
肺炎のとき、熱を出せば、その熱が何であるかを、自分で判断できる。しかし脳ミソそ
のものが、病気になってしまうと、それがわからなくなってしまう。
そこで肺炎にたいしてもそうであるように、予防こそ、最善である、と。心が健康なう
ちに、そうでない状態を、しっかりと知っておく。
それが、予防の一つということにもなるが、しかしここでやっかいな問題にぶつかる。
心が病気になると、そのときの自分が本物で、むしろ健康なときの自分のほうが、おかし
く見えるときがある。どちらが本物の自分か、わからなくなる。では、どうすればよいの
かということになる。
簡単に考えれば、そういう心配のタネをつくらないということになるが、それだけでは
いけない。また、足りない。
心の病気から、自分を守るためには、そうでない価値観を、自分の心の中にあらかじめ
つくっておくしかない。心のともし火となるような、別の価値観を、である。
というのも、これはあくまでも私の経験だが、そういうふうに落ちこんだときというの
は、何をしても、また何を考えても、むなしく思える。とくに自分が自己中心的であると
きには、それが極端に現れる。すがりたくても、すがるものさえない。
そこで心が健康なときから、そのすがれるもの、つまり、「利他的な部分」を用意してお
く。わかりやすく言えば、ちょうど他人の心の中に、自分の心を貯金するように、自分を
残しておく。
決して、自分自身を、孤立させてはいけない。こうして落ちこんだときには、孤独こそ、
最大の恐怖となってその人に、襲いかかってくる。
だから他人の心の中に、自分のやさしさや、暖かさを残していく。それが愛ということ
になるのかもしれない。あるいは慈悲ということになるのかもしれない。
生きるということは、美しい思い出の上に、美しい思い出を重ね、その上で、やすらぎ
を覚えること。日々の生活の中では、なかなかむずかしいことかもしれない。きれいごと
だけでは、生きてはいかれない。しかしそういう部分を、別のところでつくっておくこと
も、生きていくためには、必要ではないだろうか。
だから自分の生活の、何分の一かでもよいから、他人のために生きる。生きてみる。そ
ういう行為をとおして、私たちは、他人の心の中に、自分の心を貯金することができる。
そしてそれが、行きづまったようなとき、あなたの足元を、ともし火として、照らしてく
れる。
私のばあい、落ちこんだようなとき、ここにも書いたように、「死」を考えることがある。
実際には、「死ぬ」ことまでは考えないが、「生きていく自信」をなくす。で、そういうと
きは、ただひたすら、目を閉じて、眠ることにしている。何も考えない。何も結論をださ
ない。
「朝のこない夜はない」とは、よく言ったもの。むかし、だれかが、そう言った。しか
し、本当に、そうだ。
その翌朝になると、その前夜までの自分が、まるでウソのように、気分が落ちつき、静
かになることがある。
そういう自分が、本当の自分と知り、そこを原点に、その日に向って、一歩、足を前に
踏み出す。
それが私の、こうしたうつ状態にたいする、対処法ということになるが、たいへん幸い
なことに、本当に幸いなことに、私の仕事は、子ども相手である。しかも幼児相手である。
いくらこちらが落ちこんでいても、子どもたちは、それを許してくれない。「先生!」と
声をかけられたとたん、それまでのうっ積した気分が、吹き飛んでしまう。
そう、子どもたちを楽しませること。それが私にとっては、他人の心の中に、自分の心
を貯金することの一つかもしれない。すべてではないが、しかし何分の一かは、私の心を、
子どもたちの心の中に、残しておく。そういう子どもたちが、私を救ってくれる。
しかし……。その自殺した女性には、夫もいるそうだ。受験期を迎えた子どもたちも、
いるそうだ。
さぞかし、つらかっただろう。月並みな言い方しかできないが、心から、お悔やみを申
しあげたい。そして一言。
Mさん、あまり気にしないで、私たちは、楽しく、朗らかに生きましょう! どうせ、
一度しかない、短い人生ですから……!
【付記】
夫婦であれ、親子であれ、たがいに、たがいの生きがいを用意してやるのは、それぞれ
の立場にいるものの義務ではないだろうか。
私は、ときどき、しかし本気でこう思うことがある。
私のワイフは、家庭に閉じこもってしまった。(本当は、私が、ワイフを家庭に閉じこめ
てしまった。)主婦という名のもとで、そして母親という名のもとで。
そこで私は、ときどき、こう考える。「私なら、ワイフの仕事が、できるか?」と。自分
の中の野心を押し殺してまで、それができるか、と。
そのとき、いつも、「私にはできないだろうな」と思う。思うから、ワイフには、申し訳
ないと思うときがある。
そこで最近は、できるだけ、ワイフにも、夢や希望を共有してもらえるようにしている。
私の仕事の一部を分担してもらうなど。つまり喜怒哀楽をともにできるようにしている。
が、しかしそれにだって、実は限界がある。だから今の私は、ワイフには、こう言うし
かない。
「何も心配しなくてもいい。最後の最後まで、お前は、ぼくが守ってあげるから」と。
ワイフは、いつも半信半疑の様子だが、私は、本気である。つまりそういう形でも、ワ
イフに安心感を与えていくしかない。それでじゅうぶんだとは思わないが、私にできるこ
といえば、せいぜい、それくらいしかない。
【補記】
今年の8月ごろ、かなり苦しい時期があった。原因は、いろいろあったが、そういうと
きというのは、原稿を書くのが、おっくうになる。パソコンを見るのさえ、いやになる。
否定的なものの考え方ばかりが、頭の中に浮かんでくる。「こんなマガジンを、出して何
になる」「だれも、読んでいない」「ムダだ」と。
実際、「もうマガジンは、廃刊にしよう」とも、考えた。
しかし仕事にせよ、マガジンにせよ、どこかにそれを喜んでくれる人がいる。何十人か、
あるいは何人かはいる……。ふと、そういう人たちの温もりを感ずる。
だから「これは本当の私ではない」と、懸命に自分に言って聞かせる。そして、とにか
く、そのときにすべきことをする。
英語では、落ちこんだような状態を、「トンネルに入った」という。しかしそれは抜け出
てはじめてわかることで、そのときは、トンネルに入っているとは思わない。何もかも、
いやになる。めんどうになる。おっくうになる。
だから今の今、再び、そういう状態になったときのために、(多分に、打算的ではあるが)、
他人の心の中に、自分の心の温もりを残しておく。その温もりが、今度は、いつか、自分
を助けてくれる。
それがここで私がいう、「心の貯金」ということになる。
最後に、私の印象では、自己中心的で、自分勝手。わがままで、自分のことしか考えな
い人ほど、落ちこんだとき、その落ちこみ方が、はげしいのではないかと思う。あくまで
も、私の印象だが……。
【さらに補記】
今、思い出したが、私のばあい、天然のハーブで構成した、精神安定剤がとてもよくき
いたように思う。市販の薬で、一箱、1200円前後で売っている。大きな薬局へ行くと、
2、3種類用意してあるので、一度、相談してみるとよい。
★Think of all the beauty that's still left in and around you and be happy! - Anne Frank
あなたのまわりにまだ残っているすべての美しいものを、思い浮かべなさい。そして幸福
になりなさい。(アンネ・フランク)
★We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the
same.
- Anne Frank
私たちはみな、幸福になりたいと思って生きている。つまり人生はみな、異なっていても、
目的は同じ。(アンネ・フランク)
●在日米軍は、不要!
在日米軍は、不要。アメリカ軍は、さっさと、日本から出て行くべき。
……というのは、日本人の私たちの意見ではない。このほど行われた、アメリカ・シン
クタンク「シカゴ外交関係評議会」による調査結果である(7月6〜12日に、一般のア
メリカ国民1195人、指導層の450人を対象に調査)。
それによると、在日米軍は不要と考えているアメリカ人が、39%もいるという。
私たち日本人は、この数字をどう読むべきか。どう読んだらよいのか。
あの韓国にしても、ノ大統領は、就任直後、アメリカに特使を送り、在韓米軍の撤退を
訴えた。
が、意外にも意外。アメリカは、すんなりと、「OK」と言ってしまった。が、これにあ
わてたのが、むしろ、ノ政権。「まあまあ、そうは言わず、アメリカ軍を、韓国に駐留させ
てくださいな」とでも、ブッシュ大統領が、言うと思っていたらしい。
が、アメリカに、韓国を防衛しなければならない理由などない。ノ大統領は、選挙運動
中、アメリカ国旗を破ってみせた。反米を旗印にかかげて、ノ大統領は、その大統領に
なった。
しかしときすでに遅し。ブッシュ政権は、「望まれないときは、その国には駐留しない」
とまで言い出した。つづけて在韓米軍の撤退を、発表してしまった。
この事情は、日本も同じ。
在日米軍が事故を起こすたびに、「米軍、出て行け」の大合唱。
在日米軍が移動を口にするたびに、「基地移転、反対」の大合唱。
私がアメリカ軍なら、この日本から、さっさと出て行く。日本のことは、日本に任せれ
ばよい。K国のミサイルが、東京に飛んでこようが、中国の軍隊が、日本を占領しようが、
アメリカには、関係ない。それは、日本とアジアの問題。こうまで嫌われて、アメリカ軍
が、日本にいる理由など、ない。冒頭にあげた、「39%」という数字は、そういう数字で
ある。
……と書いて、この話は、ここまで。この先は、あまりにも政治的な話になる。
しかしね、みなさん、こんな話もある。
数か月前、オーストラリア人のM氏からメールが届いた。いわく、「ヒロシ、もし日本が
K国に攻撃されたら、オーストラリアも参戦することになっている※」と。M氏は、長い
間、オーストラリア国防省に勤務していた経験がある。
正直言って、私は、そのメールを読んで、うれしかった。どういうわけだか、うれしか
った。しかしこう返事を書いた。「こなくてもいい。ぼくたちで、何とかするから。君たち
にも、君たちの家族がいるだろう」と。
※……オーストラリアも、韓国に駐留する、国連軍の一翼をになっている。
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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 5日(No.485)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●母因性萎縮児
小児科医院で受け付けをしている、知人の女性から、こんな話を聞いた。
何でも、その子ども(現在は、中学男子)は、幼児のころから、ある病気で、その医院
に通っているという。そして、2週間ごとに、薬を受け取りにくるという。
その子どもについて、その知人が、こんなことを話してくれた。
「ひとりで病院へくるときは、結構、元気で、表情も、明るい。薬の数を確認したり、
看護婦さんたちと、あいさつをしたりする。冗談を言って、笑いあうこともある。
しかしときどき、母親がその子どもといっしょに、来ることがある。そのときの子ども
は、まるで別人のよう。
玄関のドアを開けたときから、下を向いて、うなだれている。母親が何かを話しかけて
も、ほとんど返事をしない。
そこで母親が、その子どもに向って、『ここに座っているのよ!』『診察券は、ちゃんと、
出したの!』『あの薬も、頼んでおいてね!』と。
そのとたん、その子どもは、両手を前にさしだし、かがんだまま、うなだれてしまう。
もちろんだれとも、会話をしない。
あるとき先生(医師)が、見るに見かねて、その母親に、『子どものやりたいように、さ
せてあげなさい。そんなうるさいこと、言ってはだめです』と、諭(さと)したこともあ
るという。
ああいう母親を見ていると、いったい、母親って何だろうと、そんなことまで考えてし
まう」と。
こういう子どもを、母因性萎縮児という。教育の世界では、よく見られるタイプの子ど
もである。
子どもだけのときは、結構、活発で、ジャキシャキと行動する。しかし母親がそばにい
ると、とたんに、萎縮してしまう。母親の視線だけを気にする。何かあるたびに、母親の
ほうばかりを、見る。あるいは反対に、うなだれてしまう。
が、母親には、それがわからない。「どうして、うちの子は、ああなんでしょう。どうし
たらいいでしょう?」と相談してくる。
私は、思わず、「あなたがいないほうがいいのです」と言いそうになる。しかし、それを
言ったら、お・し・ま・い。
原因は、言わずと知れた、過干渉、過関心。そしてそれを支える、子どもへの不信感。
わだかまり。愛情不足。
いや、このタイプの母親ほど、「私は子どもを愛しています」と言う。しかし本当のとこ
ろは、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。子どもを自分の支配下において、
自分の思いどおりにしたいだけ。こういうのを、心理学の世界でも、「代償的過保護」とい
う。
今、この母因性萎縮児は、結構、多い。10〜15人に1人はいるのではないか。おか
しなことだが、母親自身が、子どもの成長を、はばんでしまっている。そしてここにも書
いたように、「うちの子は、ここが悪い。どうして……?」「うちの子は、あそこが悪い。
どうして……?」と、いつも、悩んでいる。
そうこの話も、あのイランの笑い話に似ている(イラン映画「桜桃の味」より)。
ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言った。「ドクター、私は腹を指で押さえ
ると、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、
いったい、どこが悪いのでしょうか?」と。
するとそのドクターは、こう答えた。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れて
いるだけですよ」と。
そう、子どもには、どこにも、問題はない。問題は、母親のほうにある。
しかしこの問題は、私のほうから指摘するわけには、いかない。この文章を読んだ、あ
なた自身が、自分で知るしかない。
(はやし浩司 母因性萎縮児 母原性萎縮児)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【スズメバチの巣】
●大きな巣
その朝、起きてみると、ワイフが、こう言った。「見て!」と。
ワイフが指さす方向を見ると、そこに大きなスズメバチの巣があった。ゾーッ。
ちょうど駐車場の屋根の下。それを取りかこむツタの葉が枯れ始め、それで姿を現した
らしい。
私「気がつかなかったなあ」
ワイフ「私もよ。あんなところに巣があるなんて」
大きさは、サッカーボールくらいか。それよりは、やや小さい? しかし不気味さは、
じゅうぶん。白と薄茶色のまだら模様。丸いが、どこかでこぼこしている。私は頭の中で、
巨大なガン細胞を想像した。
●抗体
一度、ハチに刺されると、体の中に、その毒に対する抗体ができるという。だから、つ
ぎにもう一度刺されると、そこで抗原抗体反応というのが起きて、ばあいによっては、死
ぬこともあるという。
私の体の中には、その抗体がある。
とくにスズメバチの毒は、猛毒。何度か刺されたことがあるが、それはノコギリで骨を
削られるような痛さである。
私が、最初、ゾーッとしたのは、「今度、刺されたら、死ぬ」と思ったためかもしれない。
あるいは、無知の恐怖からかもしれない。知らぬが仏というか、そんな身近に、命の危険
があったとは!
私はすぐ、巣の除去を考えた。
私「これは、大きい。ぼくでは、無理かもしれない」
ワ「そうね、業者に頼んだほうが、いいかもね」
●市へ、連絡
ワイフは、電話帳で、業者を調べ始めた。しかしそんな業者など、あるわけがない。私
は、市役所へ電話した。
事情を話すと、そのまま農政課へ。そしてそこから地元の、処理委託業者へ。料金を聞
くと、8000円プラス消費税とか。
「そんなのにも、消費税を取るのかな?」と思いつつ、そのまま駆除処理を依頼する。
しかし、だ。
電話を切ってから、しばらくすると、ムラムラと、私の中に、子どものころの、あの闘
志がわいてきた。
私は子どものころ、ハチの巣取りの名人(?)だった。だれかにそう認められたわけで
はないが、今から、思うと、そう思う。
●ハチの巣取り
ハチといっても、私が相手にしたのは、足長バチ。体調が、数センチほどの、細長いハ
チである。
子どものころ、そのハチの巣を取って、ハチの子を食べた。方法は、簡単。
左手に勉強で使う下敷き。右手に、長い棒をもつ。2メートルから3メートルほどの棒
である。その棒で、まずハチの巣をつつく。するとその棒にそって、ハチが、私をめがけ
て攻撃をしかけてくる。
私は左手でもった下敷きで、パシッ、パシッと、そのハチをたたき落す。
ハチがいなくなったところで、ハチの巣を、たたき落す。ハチの巣が、下へ落ちてくる。
私は、その中から、ハチの子を抜き出して、食べる。
ときどき、ハチに刺されることもあったが、足長バチの毒は、それほど強くない。たい
てい顔がはれる程度ですんだ。
言い忘れたが、私のばあい、体のどこをハチに刺されても、どういうわけか、その症状
は、顔に出る。
が、スズメバチの毒は、そんなものではない。一説によると、マムシとか、ハブの毒に
も匹敵(ひってき)するという。
●駆除を断る
ハチの巣取りは、危険だが、おもしろい。私が業者に、駆除をキャンセルしていると、
ワイフが、横から、「どうして?」と。
「自分でやる」と私。
ワ「あぶないわよ」
私「だから、やる。おもしろそうだ」
ワ「今ごろのハチは、子育てをしているから、あぶないわよ」
私「放っておくと、来年には、このあたりは、スズメバチの巣だらけになる」
私は、そのときすでに、方法を考えていた。いや、その前に、その巣の情報を集めてい
た。
出入り口は、一か所。大きさは、親指の太さほど。「あの穴から、殺虫剤を噴射すれば、
ハチどもは、イチコロのはず」と。
が、外は、あいにくの雨。決行するとしたら、晴れた夜がよい。
●服装
ズボン下を、2枚はけばよい。その上から、さらにズボンを2枚。その上に、雨がっぱ。
シャツも2枚。その上にセーター。上着。そしてさらにその上に、雨がっぱ。
問題は、顔と手。前回は、指を刺された。草刈りをしているときだった。不用意にスズ
メバチの巣がある木を、揺らしてしまった。そこに巣があるのを、知らなかった。
私は、草刈りで使うゴーグルと、マスクを用意した。頭には、タオルを2、3枚、巻き、
その上から、雨がっぱを着ることにした。が、どこか不安。それでも、ところどころに、
すきまができる。
自分の姿を、カガミに映しながら、弱点をさがす。が、やはり、顔があぶない。雨がっ
ぱは、白。顔のあいた部分は、それに比較して、どこか黒い。ハチは、黒い部分をめがけ
て攻撃してくる。
私は、頭からすっぽりとかぶる、ヘルメットをつくることにした。
●殺虫剤
近くのドラグストアへ行く。「殺虫剤はどこですか?」と聞くと、店員が、そこへ案内し
てくれた。が、種類が少ない。「これだけですか?」と聞くと、「もう、これだけです」と。
ときは、10月6日。夏も終わり、もう秋になっていた。季節が終わったということか。
私は、ハチ専用の殺虫剤を2本と、ジェット式の殺虫剤を2本、計4本を購入した。全
部で、2000円弱。
ハチ専用のは、ダブルノズルになっていて、7メートルも届くという。
私はそれぞれを、ヒモでつないで、ガムテープでとめた。ワイフが、「どうしてヒモでつ
なぐの?」と聞いた。「肩にかけるため」と。
それを聞いてワイフが、こう言った。
「あんたは、昔から、そういうことが好きねえ」と。どこか、あきれ顔だった。
そう、私は、こういうことが好き。楽しい。考えるだけでも、ぞくぞくするようなスリ
ルを感ずる。
「これは、戦争だ。殺人バチとの戦争だ」と。
●ヘルメットと手袋
ヘルメットは、厚手のダンボール紙で作った。目のところは、透明のビニールをあてた。
また口のところは、網を切って、それをあてた。
かぶってみると、首のところに大きな、すき間ができた。そこには、ゴミ袋をあてて、
それをガムテープで止めた。
私「二重、三重の防御服にする」
ワ「ハチは、頭がいいって言ったのは、あなたよ」
私「しかし、相手は、虫だ。昆虫だ。いくら頭がいいといっても、知れている」
が、最大の問題は、手。ワイフが、スキー用の厚手の手袋を、二枚、どこからかもって
きた。息子たちが、昔、スキーで使ったものだ。
私「これでいいだろうか? ハチの針は、5ミリくらいある。それが自力で、どんどんと
突き刺さってくる」
ワ「自力で?」
私「そうなんだよ。体から切り離されたあとも、ピクピクと、針自体が痙攣(けいれん)
して、体の中に入ってくる」
ワ「わあ、気味が悪いわ」
私は、軍手を2枚重ねてはめ、その上に、さらにスキー用の手袋をはめることにした。
手首のところは、ガムテープで止めればよい。
●観察
ハチの巣は、駐車場の屋根裏にあったが、私の書斎からは、窓の下に見える。私は、ハ
チの巣を観察することにした。
出入り口は、本当に一か所だけか? ほかに、緊急用の出入り口とか、そういうものは
ないか?
それをたしかめておく必要があった。
翌日の朝、つまり10月6日は、よく晴れていた。私は窓のガラスに顔をこすりつける
ようにして、ハチの動きを観察した。
それは、不思議なほど、のどかな光景だった。
まず一匹のハチが、どこからか飛んでくる。それを、入り口の中にいた別のハチが迎え
る。そのとき、たがいに、何かしら、あいさつをするようなしぐさを見せる。と、そこへ
また別のハチが飛んでくる。また、あいさつをするようなしぐさを、見せる。
すると、今度は、巣の中にいたハチが、外へ飛び出す。つづいて、もう一匹。
「私についてきなさい」
「いいでしょう」と、私には、そんなことを言いあっているように見えた。
私は、しかし、こう思った。
「おまえたちの命も、今夜、かぎり。覚悟しておけ!」と。
●邪悪な心
スズメバチの巣のことを、小学3年生のW君に話すと、W君は、こう言った。
「最近、ハチが少なくなったんだよ。ハチは、何も悪くないのだけど、毒をもっている
ため、人間に嫌われるんだよ。だから、どんどん殺されているよ」と。
そう、ハチは、決して悪い昆虫ではない。巣さえ襲わなければ、人間を攻撃してくるこ
とはない。
しかしその巣に危険がおよぶと、ハチは、自分の命を捨てて、攻撃してくる。そのため、
命を落す人もいる。
私「だけど、人間を攻撃してくることもある。ハチは、あぶないよ。知らないで巣に近づ
いて、殺される人もいる」
そう言いながら、私は、自分の中に潜む、邪悪な心を正当化しようとしていたのかもし
れない。生き物を殺すというのも、あまり気持ちのよいことではない。計画をねるだけで
も、気分が悪くなる。現に昨夜も、ふとんの中に入ってからも、そうだった。それを考え
ていたが、それだけで、私は、興奮状態になってしまった。
●決行(1)
私は巣の前に、脚立を立てた。足場にするためである。それは、前の夜にしておいた。
つぎに、書斎の窓のほうから、ライトを照らした。巣だけを、スポット的に光が当たる
ようにした。
準備は、整った。
最後のしあげとして、殺虫剤のノズルには、パイプを取りつけた。パイプは、ペットボ
トルを切って、作った。そのパイプで、出入り口をふさぎ、ハチを外に出さないためであ
る。
そうそう、分厚い手袋では、殺虫剤のレバーを、操作することができない。私は、手袋
の、人差し指の部分だけ、ハサミで切り落とした。
私「服を着たら、すぐ決行する。これじゃ、暑くてたまらない」
ワ「気をつけてよ」
私「わかっている」
●決行(2)
私は脚立に身を寄せるようにして、体を置いた。上のほうからは、ワイフが、ライトで
そこを照らす。私は、懐中電灯で、そこを照らす。
たまたまちょうどよい位置に、換気扇のフードがついていた。そこに予備の殺虫剤を置
く。懐中電灯も置く。
が、そのとき異変が! ゴーグルマスクの中が。息で、白く曇(くも)ってしまった。
外が見えない。それに息苦しい。
ハチが、穴の中から何匹か外の様子をうかがっているのがわかっていた。しかし、飛び
立つ気配は、ない。それを知って、私は、思い切って、マスクを脱いで、下へ落とした。
それを見て、またワイフが、また「だいじょうぶ? やめて、おりてきて!」と。
私は、ゴーグルもはずした。子どものころの、あの闘志が、ムラムラとわいてきた。攻
撃してきたら、その場で、たたき落せばよい。
巣を見ると、一匹だけ、巣の外で、こちらの様子をうかがっているハチがいるのがわか
った。「衛兵だな」と、私は思った。
ハチの世界では、こうして、番を決めて、巣を守る慣わしになっているらしい。
「こいつを、先に、攻撃しよう」と、私は、思った。距離は、1メートルも離れていな
い。
●決行(3)
私は2本の殺虫剤を両手にもつと、まず、別の方向に向けて、試射してみた。
うまく作動した。
そして下にいるワイフに向って、「するから、さがって」と言った。あたりは暗い。ハチ
は目が見えないはず。しかし何かのはずみに、明るいほうに向って飛んでいくかもしれな
い。
スズメバチの習性については、ほとんど、知識がなかった。頭のよい虫だということは、
経験的に知っていたが、それは別のところでの、話。こうした場面では、どうなのか。ど
う行動に出てくるのか。
私は、息を一瞬止めたあと、まず、出入り口のななめ上にいたハチに向けて、殺虫剤の
レバーを思いっきり、引いた。
強烈な噴霧だった。次の瞬間には、目の前が、まっしろになった。私はすかさず、左手
にもった、ハチ用の殺虫剤を出入り口に向けた。もう一方の殺虫剤で、巣全体を攻撃した。
すべて、あらかじめ、予定していた動作である。
私は、殺虫剤のパイプを、出入り口につっこんだ。そしてそれにかまわず、レバーを思
いっきり、引きつづけた。
10秒、20秒、30秒……。あたりは、もうもうとした白い煙に包まれた。巣のあち
こちから、殺虫剤の白い煙が、割れるようにもれ出ていた。しかし私は、容赦しなかった。
40秒、50秒、1分……。最初の殺虫剤に勢いがなくなってきた。すかさず、次の殺
虫剤にもちかえて、さらに噴霧。
●決行(4)
さらに時間がすぎた。下を見ると、ワイフがまた外に出てきて、「だいじょうぶ?」「も
うやめたら?」と。
今度ハチに刺されたら、私は死ぬかもしれない。ワイフも、それをよく知っていた。
私「だいじょうぶみたいだ。反撃は、まったく、ない」
ワ「もうそのへんにして、様子をみたら?」
私「ここで手を抜いてはいけない。徹底的にやらないと……」
私は、さらにレバーを引きつづけた。
約500ミリリットル入の殺虫剤だかから、2本で、約1リットルの液が、巣の中に入
ることになる。4本で、2リットル。巣の中は、殺虫剤の液剤で、大洪水のはず。
と、そのとき、左手の殺虫剤のノズルが、ズボリと、巣の中にめりこんでしまった。同
時に、カベがはがれて、大きな穴があいた。
見ると、10匹近いハチが、白くかたまっているではないか。が、さらによく見ると、
白く、凍っているのがわかった。殺虫剤の冷気で、凍ってしまったらしい。
●不気味な世界
つぎに私は、巣の下側に穴をあけた。カニバサミで、それをあけた。
とたん、バラバラと、ハチの死骸が、雨のように降り出した。今度は、その穴に、ノズ
ルをつっこむと、そこから殺虫剤を噴霧した。
そしてつぎに、右から。最後は、上からも……。
不思議なほど、静かな世界だった。
私は巣のカベを、バリバリとはがした。それを下から見ていて、ワイフが、「私、もっと
かたいかと思っていた」と。
感じとしては、かわいた紙でできた、ちょうちんのようだった。指でも、簡単に穴があ
く。
私は、容赦なく、カベをはがしていった。
が、そこは不気味なほど、静かな世界だった。本当に静かな、世界だった。
●巣の中
巣の中は、いく層にも分かれて、巣がつりさがっていた。
一番、上のほうの巣は、古いもので、初期に使ったものなのだろう。もう形が、半分、
くずれていた。
そしてその下に、2段、3段となって、別の巣が、つりさがっていた。
どの穴も、ぎっしりと、幼虫がつまっていた。
カベをこわすたびに、バラバラと、ハチの死骸が、下に落ちた。私は、最後は、巣を叩
き落すようにして、巣をツタの枝から話した。
ドサッと、それは下に落ちた。
何かしら、割り切れないものを、感じた。「ハチも、毒さえなければ、こんなことをされ
ないのに」とも、思った。
下へおりるとき、巣の中で、さかさまにぶらさがっていた、何匹かのハチを思い出して
いた。きっと、最後の最後まで、幼虫を守るために、そこにいたのだろう。足が、穴にか
らんでいた。
●死骸の山
翌朝、起きてみると、その下は、ハチの死骸の山だった。ざっと数えてみたが、成虫の
死骸だけでも、数百はあった。300とか、400とか、それくらいはあった。
中には、まだもがいているのもいた。
気持ちのよい光景ではなかった。それにどのハチも、小さく見えた。飛んでいるときは、
あれほど大きく見えたが、そこで死んでいるハチは、どれも体を曲げ、小さく見えた。
私はもがいているハチを何匹か集めると、最後に、一気に足で踏みつけて殺した。「楽に
してやった」というよりは、また一匹でも生き残ると、別の巣をつくってしまう。それを
先に考えた。
数年前も、近くの小学生たちが、スズメバチに襲われている。こうした住宅地では、ス
ズメバチは、やはり害虫なのだ。いてはならない虫なのだ。が、それでも、気分は、あま
りよくなかった。
やはり、業者に頼むべきだったのか。私は、ハチの巣を退治すると言いながら、それを
楽しんだだけ。そんな思いが、私の心をふさいだ。
何とも割り切れない思いだけが、そこに残った。
その朝は、食事を抜いた。食べる気が起きなかった。
【あとがき】
スズメバチにかぎらず、バチの巣は、夜、駆除するのが、よいようだ。市販の噴霧式の
殺虫剤を、全体にもうもうとふきかける要領で、駆除する。農業を営んでいる、K氏も
そう言っていた。「ハチ退治には、市販の殺虫剤が、一番効果的」と。
夜中にそっと近づいて、殺虫剤のノズルを、出入り口に押しつけるようにして、噴霧す
る。ハチ用の殺虫剤も、市販されている。私のばあい、左手に、ハチ用の殺虫剤をもち、
それで巣の中を攻撃。右手に、一般虫用の殺虫剤をもち、それで巣全体を包むようにして、
攻撃した。
ただし、駆除は、自己責任で。昼間の明るいうちは、絶対に、巣に近づいてはいけない。
これは常識!
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●パソコンと体の健康論
パソコンという機械は、サクサクとうまく動いているときは、その状態を守りながら、
使う。へたな冒険主義は、禁物。命取りになる。
が、それでも、スケベ心というか、新しいOSや、ソフトが発表されるたびに、触手が
動く。今回の、SP2も、そうだ。
「セキュリティが強化されます」という歌い文句につられて、導入。しかしそのため、
画面表示がおかしくなるは、動作がにぶくなるわ。おまけにプリンターまで、反応しなく
なるわ……。
が、ここでやめたら、おもしろくない。パソコン歴、30年が泣く! 私は、その1週
間後、さらに挑戦!
一度、XPの「復元」機能をつかって、復元。もとにもどした状態で、あちこちの窓口
に相談。
パソコンのメーカーのF社は、「あらかじめ、修正モジュールを、ダウンロードし、イン
ストールしておいてほしい」という。その指示に従う。
プリンターのメーカーのC社は、「対策方法がわかれば、連絡しますから、しばらく待っ
ていてほしい」と言う。何とか、解決方法は見つかった。
で、再び、SP2を導入。ドキドキ、ハラハラ……。
……とまあ、いろいろあった。おかげで、今は、たいへん快調にパソコンもプリンター
も動作している。前よりも快調になった感じ! よかった! 気持ちいい!
……と考えて、健康も、パソコンと同じと、今、思っている。
実は、この7、8月ごろ、私の体調は、かなりおかしかった。気温が高かったせいもあ
る。夏風邪も、断続的に、ひいた。毎日、自分の体を支えるだけで、精一杯。
私は、すっかり自信をなくした。あちこちの友人に電話をかけると、みな、「元気だよ」
と。「本当に、元気か?」と聞きなおすと、再び、「元気だよ」と。私は、そういう言葉が
信じられなかった。
この状態は、9月に入っても、変わらなかった。おまけに頭も重かった。集中力もつづ
かなかった。「脳の中に、腫瘍か何かできているのではないか」とさえ、思ってしまった。
「まだ56歳なのに、どうやって、これから10年も、20年も生きたらいいのだ」と。
が、やがてすぐ、原因は、太りすぎとわかった。そのころになると、体重が、68〜6
9キロ前後になっていた。夏前より、軽く2キロは、オーバーしていた。
早速、ダイエット。徹底的にダイエット。毎日食卓には、キャベツを中心とした、サラ
ダだけ。あとは、栄養補給剤。
おかげで、今朝は、63キロ台になっていた。1か月で、5キロの減量である。とたん、
体が、ウソのように軽くなった。頭重感も消えた。朝起きたときの、足の裏の痛みも消え
た。それに集中力も、もどってきた。
が、何よりもうれしいのは、気分が爽快になったこと。朗らかになったこと。
あとは、この状態を、保つだけ。余計なことはしない。無理をしない。現状維持。それ
が一番。
……ということで、今、パソコンと体が、頭の中で、妙にダブっている。あるいは同じ?
パソコンも、体も、そこそこに、サクサク動作するなら、無理をしてはいけない。そっ
と、静かに、ていねいにあつかいながら、その状態を守る。
以上、私のパソコンと体の健康論でした!
【追記】
このところの雨つづきで、運動不足。
しかたないので、おととい(10・4)は、家中、大掃除。ワイフが、洗面所と日本間。
その間に、私が、残りの3部屋と、階段、廊下を、掃除した。2対4で、私の勝ち!
30分もしていると、ジンワリと心地よい汗が、にじみ出てきた。気持ちよかった。そ
の汗を感じながら、さらに1時間ほど。
季節はずれの大掃除をした感じ。「正月前でも、こんな掃除はしなかった」と、自分で、
そう思った。
で、きのうも、またまた雨。
「せっかく、体がサクサクと動くようになったのに……」ということで、昨夜は、ドシ
ャ降りの雨の中を、約7キロ、1時間で歩いた。教室から、自宅まで、である。
結構、早足で歩いた。途中、同じように歩いている人を、何人か、追い抜いた。
ワイフは、「無理をしないで」「途中で、たいへんだったら、電話してね。迎えに行くか
ら」と、言った。しかし途中でへこたれたら、はやし浩司の名前が泣く。
おかげで今朝(10・6)は、快調。朝、目をさますと、体中の細胞が、心臓の鼓動に
合わせて、サワサワと風をとおしているような感じだった。
で、そのまま起きて、体重計に。結果は、63・5キロ。パジャマを脱げば、63キロ
になっているはず。そう思いながら、内心で、「ヤッター!」と。
で、今朝は、昨日までとはうって変わって、秋晴れの快晴日。これから朝食を軽くとっ
て、ハナ(犬)と、海まで、散歩に行くつもり。
●Yさん(母親、35歳)からの相談
Yさんは、おとなになりきれないといって、悩んでいる。「母親なのに、私は、子どもの
ようです。髪の毛をいじっていないと、落ちつきません。子どもの髪いじりと同じです。
それにものをかむクセもあります」と。
こうした性癖は、だれにでもある。
私の知人には、こんな男性がいる。ある大手の貿易商社で、役員をしている。その彼が、
少し前、こんなことを話してくれた。
「ぼくは、太った女性が好きだ。関取のような太った女性がいい。そういう女性の尻で、
思いっきり顔を踏みつけられると、言いようのない快感に襲われる」と。
その彼の奥さんは、ガリガリにやせている。そのあたりが、私には理解できないところ
が、性癖というのは、そういうもの。
女性とて、例外ではない。ある雑誌に、若妻のこんな告白記事が載っていた。いわく、「私
は毎晩、夫のペニスを口に含んでいないと、眠ることができません。だから毎晩、そうし
ています」と。
ワイフにその話をすると、「そんな記事、ウソよ」と。私も、「?」と思うが、決して、
ありえない話ではない。
つまり、性癖などというものは、人、それぞれということ。標準もないし、基準もない。
自分がそうであるからといって、他人もそうであると思ってはいけない。反対に、自分が
そうでないからといって、他人もそうでないと思ってはいけない。
大切なことは、それぞれの性癖を、認めあうということ。とくに夫婦の間では、そうだ。
指をしゃぶりかたかったら、しゃぶればよい。どうしてそれが悪いことなのか。
タオルの切れ端をもっていたかったら、もっていればよい。どうしてそれが悪いことな
のか。
……しかし、こういうのは、困る。どこかの経済学者だが、女子高校生の下着を、手鏡
で見ていて、逮捕されたという。その少し前だが、ビデオで盗撮していて逮捕された、お
笑いタレントもいる。
私も男だから、そういうことをする男性の心理がわからないわけでもない。しかし、同
じ性癖でも、だれかを不愉快にさせるような性癖では、困る。
……と、考えて、では、相手が妻(夫)なら、どこまで許されるかという問題もある。
私のワイフは、「いくら妻でも、すべてに応ずる義務はない」と言う。考えてみれば、そ
のとおりで、そこには、限界がある。まあ、結論から先に言えば、そこは愛情の問題。
愛する女性(男性)の性癖は、どれもかわいいが、嫌いな女性(男性)の性癖は、どれ
も不気味。気持ち悪い。そういうもの。
(041003)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 3日(No.484)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●心を開く(自己開示の問題)
子どものばあい、(心の開いた子)か、(心の閉じた子)かは、簡単に見分けがつく。
子どものばあい、とくに年長児、年中児のばあいは、何かのことで、ほめてみるとわか
る。「じょうずだね」とか何とか言って、頭をなでてみる。
そのとき、(心の開いた子)は、すなおにそれを喜ぶ。そしてそのとき、私が感じている
(やさしさ)が、そのままスーッと、子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。
反対に(心の閉じた子)は、その瞬間、ピリッとした緊張感が走る。ときには、拒絶感
すら覚える。様子がぎこちなくなることもある。私が感じている(やさしさ)が、そのま
まはねかえされてしまう。
(心の閉じた子)は、独特の反応を示す。いじける、ひがむ、つっぱる、すねる、ひが
む、など。教える側の心が、子どもの心にたどりつくまでに、いくつもの障害にぶつかる
ような感じになる。
で、(教える)という立場で、子どもの心を開かせるのは、それほど、むずかしいことで
はない。
楽しませる。ほめる。笑わせる。が、最大のコツは、その子ども自身の心の中に、入っ
てものを考えることである。子どもの視点で、私自身を見つめてみる。すると自然と、そ
の子どもの心になって、その子どもに、語りかけるような口調になる。
このことは、家庭教育でも、すぐ応用ができる。あなたの子が、あなたに心を開いてい
るなら、それでよし。もしそうでないなら、一度、子どもの心の中に、自分を置いてみる
とよい。
……と、同時に、ではあなた自身は、どうかという視点で、考えてみることも大切であ
あなたの両親、夫(妻)、友人、そして子ども。そういった人たちに対して、あなたは、
心を開いているだろうか。
だれかが何かのことで、あなたにやさしくしてくれたようなとき、その(やさしさ)を、
スーッと、そのままあなたは、受けいれているだろうか。もしそうなら、それでよし。も
しそうでないなら、なぜあなたがそうなのかを、静かに一度、自分を見つめてみるとよい。
言うまでもなく、心が閉じていると、結局は、さみしい思いをするのは、あなた自身だ
からである。
●無防備な心
「心を開く」ということは、同時に、無防備になることを意味する。このことは、私の
ワイフが、指摘した。「他人を信じすぎると、サギにひかかりやすくなるんじゃ、なア〜い?」
と。
そういう危険性は、大きい。
だから当然、私たちは、心を開く相手を、選ばねばならない。いつも、心の中で、「この
人には、心を開いていいか」「どの程度まで、開いていいか」と。
心理学の世界でも、こうした自己開示には、段階をもうけている。親しくなればなるほ
ど、当然のことながら、自分の秘密を開示することになる。
その自己開示について、少し前、まとめた原稿を添付する。
+++++++++++++++++
●自己開示
自分のことを話すという行為は、相手と親しくなりたいという意思表示にほかならない。
これを「自己開示」という。その自己開示の程度によって、相手があなたとどの程度、親
しくなりたがっているかが、わかる。
(1)自分の弱点の開示(私は計算が苦手)
(2)自分の失敗の開示(私はケースを割ってしまった)
(3)自分の欠点の開示(私は怒りっぽい人間だ)
(4)自分の家族の開示(私の母は、おもしろい人だ)
(5)自分の体のことの開示(私は、足が短いことを気にしている)
(6)自分の心の問題の開示(私は、よく、うつ状態になる)
(7)自分の犯罪的事実の開示(二年前に、万引きをしたことがある)
この表からもわかるいように、(1)の軽微な自己開示から、(7)の重大な自己開示ま
で、段階がある。相手があなたに、どの程度まで自己開示しているかを知れば、あなた
とどの程度まで親しくなりたがっているかがわかる。
もしあなたと交際している相手が、自分の体の問題点や、病気、さらには心の問題につ
いて話したとするなら、その相手は、あなたとかなり親しくなりたいと願っていると考
えてよい。
子どもの心も、この自己開示を利用すると、ぐんとつかみやすくなる。コツは、よき聞
き役になること。「そうだね」「そうのとおり」と、前向きなリアクション(反応)を示し
てやる。批判したり、否定するのは、最小限に抑える。
反対に、子どもがどの程度まで自己開示するかで、子どもの心の中をのぞくことができ
る。ときどきレッスンの途中で、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と話し始める子ど
も(幼児)がいる。私はそういうとき、「そんな話はみんなの前で、してはいけないよ」と
たしなめることにしている。
それはそれとして、子どもがそういう話をしたいと思う背景には、私と親しくなりたい
という願望が隠されているとみる。が、こんな失敗をしたこともある。
あるとき、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と言い出した子ども(年中男児)がい
た。「何だ?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「寝るとき、裸で、レスリン
グしていたよ」と。とたん、参観していた親たちが、ドッと笑った。
さてあなたは、だれに対して、どのレベルまでの自己開示をしているだろうか。それを
知ると、あなたの心の中の潜在意識をさぐることができる。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●嫌われる老人
これから先、この日本は、超高齢者社会を迎える。はっきり言えば、老人だらけの国に
なる。しかしこれは、これからその老人になる私たちにとっては、深刻な問題である。
理由の第一。
社会にとって、老人が、「お荷物」になるということ。「粗大ゴミ」という言葉を使う人
もいる。
医療費や社会生活費の増大など、若い人たちのへの負担は、ますます大きくなる。もう
すでに今、パンク(破産)状態だと言う人もいる。そのうち、「医療費がしっかり払えない
ようなら、あなたはもう用なしですから、早く死んでください」と言われるようになるか
もしれない。
理由の第二。
日本型、家族社会の崩壊。昔は、二世代、三世代同居住宅がふつうであった。若い人が
老人の世話をするというシステムが、まだ機能していた。
しかし今、そのシステムは、崩壊した。それはしかたないとしても、それにかわる受け
皿整備が、遅れてしまった。これからは、ひとり暮らしの老人が、ますますふえる。その
分だけ、孤独な老人がふえる。
こうした超高齢社会を前にして、私たちは、どうすればよいのか。
要するに、若い人たちに、嫌われず、役にたつ老人になるということ。つきつめれば、
そこへ結論が飛ぶ。
そこでまわりの老人たちを観察してみる。あなたのまわりの老人たちでもよい。すると、
いろいろなタイプに、分類できるのがわかる。
(1)趣味、道楽型(毎日、道楽ざんまいで日を過ごす)
(2)引きこもり型(ほとんど社交せず、とじこもる)
(3)旅行、社交型(外出が多く、旅行ばかりしている)
(4)家族、孫育て型(家庭に入り、孫育てに没頭する)
(5)仕事、現役型(生涯、現役人間。仕事ばかりする)
(6)奉仕、献身型(他人のために奉仕活動をする)
(7)病弱、闘病型(病気ばかりしている。その繰りかえし)
(8)無益、無害型(いるのかいないのかわからない状態)
(9)権威、威圧型(過去の肩書きや役職をカサに着て、いばる)
(10)孤独、孤立型(ひとり暮しをする。友人もいない)
ざっと思いつくまま、あげてみたが、もちろん複合型もある。状況や相手に応じて、変
わるということもある。
しかし重要なことは、老人は老人として、その存在感をもたねばならない。人生の先輩
として、また経験者として、つぎの世代の人たちに、道を示せるようでなければならない。
が、悲しいかな、事実は、逆である。この日本では、老人は、ないがしろにされている。
で、その責任はといえば、むしろ、老人自身にある。老人になるまでに、それなりの準備
と努力をしていない。決して、老後の資金だけの問題ではない。その結果として、この日
本では、年々、老人の影は、ますます薄くなってきている。
++++++++++
【例1】
A氏は、今年、75歳。健康である。公団を退職してから、20年になる。妻も準公務
員をしていて、やはり退職してから、15年になる。
そのA氏についていえば、どこか偏屈なところはあるが、性格は温厚。知的で、もの知
り。長い間、どこか別々の生活をしてきたということもあり、夫婦仲は、それほど、よく
ない。しかし他人の目から見ると、ごくふつうの夫婦。
A氏の趣味は、盆栽。庭から、二階の物干し台まで、盆栽が、ぎっしりと並んでいる。
妻の趣味は、刺繍(ししゅう)と料理。二人の子どもがいたが、すでに独立。都会で、結
婚して生活している。
そんなわけで、A氏夫婦は、けっしてぜいたくな生活ではないが、そこそこに、優雅な
生活を楽しんでいる。毎月のように、旅行会の旅行に参加し、年に、2、3度は、海外旅
行にもでかけている。
【例2】
B氏は、55歳まで、中規模の工場に勤めていた。そのあと、家業の農業を引き継ぎ、
今にいたっている。現在、79歳。
若いころから、町の世話役として活躍。今は、祭の屋台の新造に情熱を注いでいる。屋
台といっても、新造すると、1500万円もかかる。地元の自治会長を歴任し、このとこ
ろ、毎晩のように、金策のため、あちこちを動きまわっている。
通りで会うたびに、「今夜は、A地区の寄りあいがあってねエ」と、酒の入った赤い顔で、
私にあいさつをしてくれる。
【例3】
C氏は、市役所を退職するとまもなく、軽い心筋梗塞で倒れた。幸い、そのあとのバイ
パス手術が成功した。で、それからもう27年。が、健康というわけではない。
「私の体は、病気のデパートみたいです」と言って、C氏は笑う。現在、83歳。
年齢も年齢だが、このところ、数か月に一度は、救急車の世話になっている。軽い脳梗
塞も併発して、言葉もままならないような状態がつづいている。
趣味は、とくにない。山を歩きながら、山草を集めたりしている。あとは、毎日、こま
ごまとした家事のみ。もともと器用な人で、電気器具をなおしたり、家具を自分でつくっ
たりしている。
+++++++++++
以上、A氏、B氏、C氏の3人を考えてみた。もちろんみな、架空の人物である。私が、
勝手に想像した。
しかしこれら3氏は、恵まれた人たちである。じゅうぶんな退職金と、じゅうぶんな年
金を手にしている。が、老人が、みな、この3氏のようであるとは、かぎらない。そうい
うことは別にして、好かれる老人は、B氏であり、そうでない老人は、A氏やC氏という
ことになる。
実際、「好かれる老人」のナンバーワンは、健康であること。どんなアンケート調査をし
ても、そういう結果が、出てくる。が、実際には、それだけでは足りない。この世界では、
「人に迷惑をかけないから、いい老人」ということにはならない。また、それだけに甘え
てはいけない。
そこでさらに、老人のもつ問題点を整理してみる。
(1)依存性(だれかに頼ろうとする)
(2)閉鎖性(自分のカラにこもる)
(3)隠遁(いんとん)性(世捨て人になる)
(4)独断性(人の意見に耳を傾けない)
(5)権威主義(老人は偉いという意識が強い)
(6)絶対意識(親・絶対教の信者である)
(7)懐古主義(何でも、過去がよかったと口にする)
(8)否定主義(「今の若いものは……」と若い世代を否定する)
(9)虚無主義(何ごとにも無関心。世の不幸を笑う)
ほかにも老人特有の自己中心性もある。しかしこうした自己中心性は、若いときからの
引きずっているだけで、老人になったからといって、自己中心性が現れるわけではない。
もちろんボケによる、症状もそれに加わる。アルツハイマー型のボケになると、がんこ
になったり、融通がきかなくなったりする。無関心になったり、繊細さがなくなり、他人
に対して、鈍感になったりする。
こうした状態になるのを覚悟するなら、生きザマは、二つに一つしかない。
「我、関せず」と、(嫌われる・嫌われない)などを考えずに生きるか、あるいは、周囲
の人たちに好かれるように生きるか、である。
が、実は、もう一つの生きザマがある。
「だからどうなの?」と自分に問いかけながら、生きる、生きザマである。つまり自分
自身に、いつも、生きる理由を問いかけながら、生きる。
つまり、好かれる老人は、いつも「だからどうなの」という部分が、はっきりしている。
そうでない老人は、そうでない。ただ無益に、長生きをしているだけ。しかしそういう人
生に、どういう意味があるというのか。そういう人が、長生きをしたところで、それが、
どうだというのか。
今年死んでも、来年死んでも、同じ。ただ生ているだけ……という人生には、意味がな
い(?)。生きる以上は、そこに何らかの意味がなければならない。
その生きる「意味」がここでいう、「だからどうなの」という部分になる。
最後に、私の義父(ワイフの父親)について書く。
義父は、戦時中は、ラバウル島にいた。3000人いた部隊だったが、生きて帰ってき
たのは、たったの300人! そういう戦争を経験している。
その義父は、生きている間中、「オレは、一度、死んで、命をもらった」が、口ぐせだっ
た。が、その義父が、胃がんになった。
病院へ行くときは、すでに手遅れ。最期を予期していたのかもしれない。身辺の整理を
静かにしてから、家を出た。
そして私たちが見舞いに行くと、いつも、ベッドの上で正座をして、座っていた。義父
は、ただの一度も、弱音も、泣き言も言わなかった。「さみしい」とも、「つらい」とも、
言わなかった。最後の最後まで、そのままの様子だった。
で、いよいよ最期の日。手術は、転移がひどいということで、開腹はしたが、そのまま
また縫いなおされてしまった。
私はいろいろな人の死を見てきたが、私の義父ほど、堂々たる最期を見たことがない。
最期の最期は、みなの見ている前で、自分で延命器具を手ではずした。そしてそのまま静
かな眠りについた。
私たちは、つまりあとに残されたものたちは、そういう生きザマの中から、何かを学ぶ。
義父は、それをしっかりと、私たちの脳裏に焼きつけてくれたが、それが、あるべき、私
たちの老後の姿ではないかと、私は、思う。義父は、老後を生きるとき、「だからどうなの?」
という部分を、いつも、大切にしていた。
このテーマは、これから先、自分の問題として、ゆっくりと考えてみたい。
【補記】
おいしいものを食べる……だから、どうなの?
すばらしい車に乗る……だから、どうなの?
楽しい思いをする……だから、どうなの?
長生きをする……だから、どうなの? それがどうしたというの?
老人たちよ、元気なら、まだ体が動かせるなら、そしてじゅうぶんな知力があるなら、
みんなに、その「命」を還元しようではないか。つぎの世代の人たちのために、何かをし、
何かを残していこうではないか。
ただ優雅な隠居生活をしていてはいけない。
趣味三昧(ざんまい)の生活をしていてはいけない。
そうでないと、本当に私たちは、その「粗大ゴミ」になってしまう! あるいは結局は、
そうすることが、老人自身のためにもなる。生きがいにもなる。
知人のI氏(神奈川県F市在住)は、いつもこう言っている。「その年齢をすぎたら、自
分の人生を、つぎの世代を生きる人たちに、還元(かんげん)しなければいけません」と。
私はこの「還元」という言葉が好きである。決して、自分の「命」を、自分だけのモノ
と、思ってはいけない。
●だから、どうなの?
「だから、どうなの?」という部分がないまま、戦後、日本は、日本人は、ただがむし
ゃらに生きてきた。マネーを追い求めてきた。それがまちがっていたというのではない。
そのおかげで、今に見る、この日本ができた。
恩師のT先生は、いつも口グセのように、こう言っている。「日本は、いい国じゃあ、あ
りませんか」と。私が何か、日本について批判めいたことを口にしたときだ。
しかし、今、多くの日本人は、それではいけないと思い始めている。たしかに生活は豊
かになった。が、しかし、何か、ものたりない。そのものたりなさの理由は、何か、と。
今日の朝、私は、老人問題について、考えた。その中で、こう書いた。
たしかに日本人は、長寿になった。しかし、だから、それがどうなの?、と。
これはたいへん危険な意見でもある。「命」の否定にもつながりかねない。へたをすれば、
老人不要論にまでいってしまう。
さらに(だから、どうなの)論を、どんどんと拡大していくと、生きていること自体の
否定にもつながりかねない。事実、うつ病か何かになって、自殺を試みる人は、「生きて
いて、何になる?」というふうに考えるという。
それは、わかる。しかしその一方で、「だから、どうなの?」を考えないまま、突っ走る
のも、これまた危険なことである。欲望が欲望を呼びさまし、それこそ際限がなくなっ
てしまう。収拾がつかなくなってしまう。
一つの例をあげて、考えてみよう。
たとえばあなたは、今、一食、数万円もする料理を注文したとする。とてもおいしい料
理だ。珍しい食材に、特殊な調理法。それを料理した、コックは、全国大会でも、入賞
するほどの腕前をもっている。
あなたはその料理を食べた。おいしいと満足した。が、ここでクエスチョン。
だから、それがどうなの?
せっかくすばらしい料理を食べたのだから、その分、何かがなければならない。この広
い世界には、満足に食べ物も手に入れることができる、苦しんでいる人が、何億もいる。
その「何か」がないまま、ただ「おいしかった」では、すまされない。あるいは、それで
すませて、本当に、よいのだろうか?
この段階で、「ああ、おいしかった」ですませてしまうと、今度は、あなたは、さらに高
級な料理を求めて、さまよい歩くかもしれない。その結果、肥満、そして成人病(ギョッ!)。
「命」というのは、実は、私のものであって、私のものではない。ウソだと思うなら、
あなたの手指をじっと、ながめてみることだ。あなたは、その手指を自分のものだと思っ
ているかもしれないが、あなたが、その手指を作ったわけではない。
あなたの「命」は、あなたを超えた、はるかに大きな(流れ)の中で、過去から未来へ
と流れている。あなたはその一部、その一瞬を、みなと共有しているにすぎない。
「だから、それがどうなの?」と考えることで、あなたは、その命の流れの中で、立ち
止まることができる。あなたよいうより、あなたの中に流れる、人間という命の欲望に、
ブレーキをかけることができる。
本来、動物の行動には、すべてムダがないはず。昆虫でも、魚でも、鳥でも……。彼ら
の行動のすべてには、「だから……」という部分が、はっきりしている。
私たち人間も、そういう原点に、一度、立ちかえってみる必要がある。
……とまあ、むずかしい話を書いてしまったが、あなたも、ためしに、何かをしたら、「だ
から、どうなの?」「それが、どうしたの?」と、自分に、問いかけてみてほしい。その時
点で、ものの考え方が一変するかもしれない。
おいしいものを食べた……だから、どうなの?
すばらしい車を買った……だから、どうなの?
旅行に行って、温泉に入った……だから、どうなの?
(041007)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【近況・あれこれ】
●10月3日
今日は朝から、あいにくの雨。はげしい雨。
山荘のある村でも、村祭が予定されていたが、それも、流れた。毎年、行われる航空自
衛隊浜松基地の航空フェスタも、この雨では、「?」。
さえない日曜日。山荘で、ワイフとビデオを見て、軽い朝食。そのあと、自宅へ……。
自宅に帰ってからは、BS放送で、イチローを声援。結果は、今日は1安打。これでヒ
ット数が260本になった。
そのあと台所にもどり、料理。メニューは、ハヤシライス。私のつくるハヤシライスは、
一品! 何と言っても、「はやし」ライス。玉ねぎを細く切って、パリパリになるまで炒
めて、そこへタイ製のチリソースを少し。あとはニンニクをみじん切りにして、混ぜる。
あとは、……。
ところで幼児クラスの子どもたちは、みな、「ハヤシライスは、私がつくった料理」と思
っている。
昨日もたまたま年長児たちに、「君たちは、ハヤシライスは好きか?」と聞くと、こう答
えた。「ハヤシライスは好きだけど、はやし先生は、キ・ラ・イ!」と。
私とワイフがハヤシライスを食べていると、そこへ長男。「食べるか?」と、声をかける
と、「もう食べたからいい」と。
のどかな午後。昼食後は、私は、パソコンの前にすわったまま、居眠り。つい先ほど、
目をさましたところ。何か夢を見ていたはずなのだが、どうしても、思い出せない。
何だったかな……?
この数か月、悪夢を見なくなった。精神状態が、落ちついてきたせいかもしれない。が、
そのかわり、意味のない、のどかな夢を見ることが多くなった。たった今見た夢も、どこ
かの露天の前で、並んで立っている夢だった。
何かを買おうとしていたのかもしれないし、ただぼんやりと、行列をながめていただけ
なのかもしれない。よくわからないが、そんなような夢だった。
+++++++++++++++++
●人を選ぶ
友人だ、仲間だと思っていた人に、裏切られるということは、よくある。
私も、若いころは、新しい本を出版するたびに、ある人に、それを贈っていたことがあ
る。当然、その人は、喜んでいてくれると思っていた。口のうまい人だったということも
ある。
が、その人が、私の本のあちこちから、ささいな記述を抜きだし、あろうことか、その
該当する人のところへ、その本をもっていき、「あの、林が、あなたのことを、こんなふう
に書いている」と、告げ口をしているのを、知った。
私が、愚かだった。
その一件が私の耳に入ってからというもの、私は、その人に本を贈るのをやめた。当然
である。そしてしばらくしてから、交際を断った。これまた当然である。
しかしその人は、私がなぜそうしたのか、わからなかったようだ。それからも、相も変
わらず、親しげに手紙をくれたり、電話をしてきたりした。
……と、その人の悪口を書くのが、ここでの目的ではない。
私も、実は、ほかのだれかに対して、同じようなことをしているかもしれない。自分で、
気がつかないだけかもしれない。つまりこの世界には、こうした人間どうしの(しがらみ)
(わだかまり)が、無数にからみあっている。
こういう世界で、心を開きあうということは、容易なことではない。心を開くためには、
まずその相手を知らねばならない。しかし知るためには、何年も、何年もかかる。
そこで私のばあいは、あくまでも、私のばあいだが、最初から、「裏切られても、もとも
とよ」という思いで、その人とつきあうようにしている。とくに教育の世界では、そうで
ある。最初から、期待などしていない。無償というわけではないが、いちいち気にしてい
たら、仕事そのものが、できなくなる。
加えて、最近は、こんなふうにも、思うようになった。
「どうせ、長くても、あと20年。10年もすれば、頭も、ボケる。どうにでも、思い
たければ、思え」と。
つまり居直りの構えである。私のことを悪く言う人がいても、私はもう、構わない、と。
こうした考え方が生まれたのも、やはり年齢のせいかもしれない。年齢が進めば進むほ
ど、その先の人生がしぼんでくる、。考え方も、それに合わせて、変わってくる。
ただし一言。一度、私を裏切ったことがある人とは、私は、二度とつきあわない。「許す」
とか、「許さない」とかいうレベルの話ではない。私には、そういう人たちとの関係を修
復するだけの、時間もエネルギーも、もうない。もしそんな時間や、エネルギーがあれ
ば、私はもっとほかのことに使いたい。
●未練の燃焼
日々の生活には失敗はつきもの。しかしその失敗でも、未練が残る失敗ほど、つらいも
のはない。「あのとき、ああすればよかった」「こうすればよかった」と。
そこで私たちは、そのつど、自分を完全燃焼させながら生きる。何かのことでつまずい
ても、後悔しないようにするためである。
実は、長い目で見た、人の一生も、また同じ。
やがて私の人生は、終わる。10年後か、20年後か。あるいは明日かもしれない。そ
のとき大切なことは、その時点で、未練を燃焼させておくこと。「悔いのない人生」という
言葉がある。その「悔い」が残らないようにしておく。
そのために、今という今を、懸命に生きる。生きて、生きて、生きぬく。
が、それでもだめだとしたら……。そのとき、私は、未練をふっきることができる。「こ
んな世界に、未練はない。アバヨ」と。そういうサバサバした気持で、この世を去ること
ができる。また、そうでありたい。
実際、もう私は、この世界に、未練をなくしつつある。どうしてそうなのかということ
については、書く気力も、あまりない。それにかわって、「もう、どうにでもなれ」という
思いが強くなってきた。
少し前だが、こんなことがあった。コンビニの駐車場を、自転車で横切ろうとしたとき
のこと。一台の車が、私の真横で、急停止した。ものすごい音がした。私は、あやうくは
ね飛ばされるところだった。
見ると、若い男女だった。どこかチャラチャラした、そのレベルの男女だった。自転車
の向きをなおしながら、その男の顔を見ると、その男は、私に、「バーカ」と言った。声は
聞こえなかったが、口の動きで、それがわかった。
女のほうは、私から視線をはずし、ニヤニヤと笑っていた。
恐らくその男女には、私は、うらぶれた初老の男に見えたのだろう。それはわかる。が、
同時に、私はこう思った。「どうして私は、こういう若い男女のために、日本の未来を心配
しなければならないのか」と。
そのときまで、私は自転車をこぎながら、いつものように、あれこれ考えていた。
つまらない話だが、そういうことが積み重なって、「もう、どうにでもなれ」という思い
が生まれる。しかし……これは、ニヒリズムか? ニヒリズムだとするなら、それをもっ
て、未練を解消したということにはならない?
やはりそれでも、私は、それを乗り越えて、自分を燃焼させなくてはならない。燃やし
て、燃やして、燃やしつくす。
それが行き着いたとき、私は、多分、人生の未練から解放されるかもしれない。この世
の中、すべてのものに対して、「アバヨ!」と、笑って別れを告げることができるかもしれ
ない。
●愚劣な人々
とても残念なことだが、愚劣な人というのは、いるにはいる。ここ数日だけでも、こん
なことがあった。
ワイフと、車で街に向っていたときのこと。小雨が降っていた。うしろから、救急車が
やってきた。私たちは、当然のように、左側の路肩に車を寄せ、そこで車を止めた。
すぐ救急車が、私たちの車を追い抜いていった。が、である。みなが、そうしているこ
とをよいことに、私たちの車を、うしろから追い抜いていった大型のバンがいた。
しかも、だ。さすがのワイフも、これにはあきれたが、そのバンは、スピードをゆるめ
ることなく、一度、外側車線に車をだしたあと、何と、その救急車を、追い抜いていった!
「何よ、あの車! 信じられない!」と。
で、そのあと、私たちは、最近できた、ラーメン屋の駐車場に入った。日曜日というこ
とで、駐車場はいっぱいだった。ただ一か所だけ、あいているところがあったが、そこは、
障害者用の駐車場だった。車椅子のマークが、ペンキで描いてあった。
しかたないので、私たちは、通路のところで、駐車場があくのを、待った。
が、そのときも、である。うしろからやってきた。大型の乗用車が、私たちの横を通り
抜けると、一瞬、迷ったような雰囲気はあったが、そのまま、障害者用の駐車場へ……!
見ると、60歳代の夫婦と、孫らしき小学生が一人、乗っていた。もちろん障害者では
ない。元気そうに車のドアをしめると、3人は、そのままラーメン屋へと、飛びこんでい
った。
私があきれ、つづいて、ワイフもあきれた。そして「こんな店、やめよう」と私が言う
と、ワイフも、「ウン」と言って、それに従ってくれた。
こういう光景を見せつけられると、最初に、(怒り)、つぎに(あきらめ)、そして三番目
に、(虚しさ)を覚える。「どうせ虚しくなるだけ」と思って、(怒り)と(あきらめ)を、
スキップすることもある。いちいち、こんなことで腹を立てていたら、この世の中では、
生きていかれない。
そういう意味では、自分勝手で、わがままな人が多すぎる。自分のことしか、考えてい
ない。しかしそういう人を見せつけられると、ときとして、人は、まじめに生きていくの
が、バカらしく思えてくる。
が、だからといって、自分の生きザマを放棄することは、敗北を認めることになる。敗
北だけではない。自分の人生を否定することにも、なりかねない。
そこで残された選択は、ただ一つ。そういう人たちを、容赦なく、私たちの身のまわり
から、排斥していく。はっきり言えば、つきあわないということ。無視して、遠ざける。
ああ、これもニヒリズムか? しかし、それ以外に、どんな方法があるというのか。そ
ういった人たちを見せつけられたときに感ずる、あの不愉快さと戦う方法が、ほかにある
というのか。
……ということで、私は、今、自分の身辺を、急速に整理し始めている。当然のことな
がら、それには、善人と悪人をより分けるという作業が、含まれる。しかし、これはむず
かしい。
どういう人が悪人と言うことはできても、どういう人が善人かと言うことは、できない。
そこで私は、こう自分に言ってきかせる。
『悪人のエサになってはいけない』と。
この言葉は、昔、恩師の松下哲子先生(故、幼稚園理事長)が、口ぐせのように言って
いた言葉である。
自分が善人になることはできないかもしれない。善人を育てることはできないかもしれ
ない。しかし、悪人を育ててはいけない。悪人のエサになってはいけない、と。
何とも消極的な正義論だが、今の私には、この程度しか考えられない。
●善人の基準
善なる価値を、どこに求めるか? どこに基準をおくか? 善人・悪人の判断も、それ
で、大きく、変わってくる。
たとえば昔、私の知人の中に、こんな人がいた。そのとき50歳くらいだったが、高度
成長期の波にのり、ふつうでない財産を、つくりあげた。
その人が、私のところへやってきて、こう言った。「林君、ぼくは、先月、1000万円
も稼いだよ」と。そして金ピカピカの時計や、分厚いサイフを見せびらかした。
その人は、さかんに、自分の力を誇示し、「だから、私はすばらしい」「君たちも、私を
すばらしいと思え」というようなことを言った。
しかし、だれも、そんな人をすばらしい人とは、思わない。ただのバカである。
……という話は、わかりやすい。しかし私たちは、日常的に、程度の差こそはあるが、
同じようなバカなことをしている。
もともと価値のないものに、しがみつき、その中で、善悪を判断している。そしてその
中で、善人と悪人を区別している。そういうことは、よくある。
で、私は、その「基準」について、最近、こう考える。
「その人は、今、いかに他人に、尽くしているか?」と。
たとえば私の姉は、ボランティアのヘルパーとして、暇さえあれば、近所の老人の世話
をして回っている。そういう姿を見ると、本当に、頭がさがる。で、私がそれを姉に言う
ト、姉は、こう言った。
「浩ちゃん、もっとすごい人がいるわよ」と。
姉の話によれば、20歳の後半の男性だというが、その人は、寝たきり老人の入浴の世
話をしているという。ウンチや小便を、素手で始末しているという。
間接的だが、私はその男性の話を聞いたとき、その男性に、神々しさのようなものさえ
感じた。私など、その男性の足元にさえ、はるかにおよばない。
つまり善人・悪人の基準は、いかにその人が、利他的であり、その一方で、利己的であ
るかによる。
よく誤解されるが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしない
から、善人というわけでもない。自分の中の悪と戦ってこそ、その人は、はじめて善人の
門をくぐることができる。
このばあい、「利己」は、その悪と考えてよい。
このことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。
子どもというのは、小学2、3年を境にして、急速に自己中心性から、自分を脱却して
いく。これを心理学の世界でも、内面化という。
しかしみながみな、利己から脱却していくわけではない。内面化を完成させるわけでは
ない。それができないまま、つまりは未熟な精神状態のまま、思春期を迎える子どもも、
少なくない。むしろ、勉強だけがよくできて、受験勉強をスイスイとくぐりぬけていく子
どもほど、利己的であすら、ある。
また利己的でないと、受験勉強に勝ち抜くことができなという面も、ある。いちいち他
人のことを気にしていたら、自分のほうが、蹴落とされてしまう。
で、このタイプの子どもは、「勉強さえできれば、一人前」「勉強ができないヤツは、ア
ホだ」という、独特の価値観をもつ。そして私が、何かの仕事を頼んだりすると、「どうし
て、ぼくが、しなければいかんのかア!」などと反発したりする。
が、その一方で、心のやさしい子どももいる。思い荷物をもち運んでいたりすると、す
かさずやってきて、「先生、いっしょに、もってあげる!」と。
この(いっしょに、もってあげる)という心が、その子どもを成長させる。長い時間を
かけて、その子どもを、善人に育てる。
●荷物をいっしょにもつ
私たちがいくら利他的であるといっても、その相手が、だれでもよいというわけではな
い。、その「相手」を選ぶ必要がある。いくら利他的であるといっても、銀行強盗の手伝い
をする人はいない。暴力団の手先となって、暴力を助ける人もいない。
ここでいう「相手」とは、重い荷物をもって、懸命に生きている人ということになる。
さらに言えば、その相手の人が、「利他の人」でなければならない。他人の欲望を満足する
のを手伝うのは、決して、利他ではない。
このことも、子どもたちの世界を見ていると、わかる。
教える側も、生身の人間である。そういう人間として、(教えたい子)と、(教えたくな
い子)がいる。もっと言えば、いっしょに接していて、(ほっと心のなごむ子)と、(どこ
かピリピリする子)がいる。
当然のことながら、(ほっとなごむ子)を教えていると、楽しい。教えやすい。
同じように、おとなになった今、それがそのまま(つきあいたい人)と、(つきあいたく
ない人)の、基準にもなっている。
そこで考えてみると、(つきあいたい人)というのは、どこか無償的、献身的。が、(つ
きあいたくない人)というのは、どこか功利的、打算的。
ここにも書いたように、いくら「利他」といっても、その人の欲望を満足させるのを手
伝うのは、利他ではない。
たとえば子どもの世界には、受験勉強がある。
子どもたちはいろいろな夢や希望をもって、受験勉強をしている。しかしその中身とい
うか、本音を言えば、(自己の欲望)の追求でしかない。「ぼくは、将来、医者になって、
病気の人を治したい」と言う子どもも、いるにはいる。
しかし本当に、そんな崇高な理念をもっているかどうかといえば、それは疑わしい。子
どもたちの世界も、そしてそれを包む、親たちの世界も、もっと、毒々しい。
で、そういう受験勉強に手を貸すのは、決して、「利他」ではない。
ここにも書いたように、「利他」が「利他」であるためには、助けるべきその「相手」の
人も、同じく、利他でなければならない。
話がわかりにくくなってきたので、もう少し、かみくだいて考えてみよう。
今、ここに、一人の女性がいる。彼女は、毎日のように、近所を回り、雑草を刈ってい
る。つまりその女性は、「利他」の心で、そうしている。
そういう女性を利するように考えるのは、利他である。その「相手」の人も、また、利
他の心で行動している。
……ということで、一度、利他の心にめざめると、その心は、静かな水面に落ちた石の
輪のように、周囲へ広がっていく。利他が利他を呼ぶというか、利他の人たちは利他の人
たちどうしが、集まり始める。
と、同時に、自己中心的な利己主義の人がどう人か、それがよくわかるようになる。と、
同時に、そういう人を、遠ざけるようになる。
「つきあっても、ムダ」「時間のムダ」と考えるようになる。
●時間のムダ
人生は、長いようで、短い。短いようで、長い。が、やはり、長いようで、短い。英語
の表現方法に、『まばたきする間に、子どもはおとなになる』というのがある。(Children grow
up and leave in the blink of an eye. )
子どもの、成長だけではない。まさに、その(まばたき)のうちに、人生は、過ぎる。
私は、ときどき、「時」というのは、何ものにもまさる財宝のように思うことがある。そ
れはだれにとっても、そうだろうと思う。しかし問題は、その「時」を、どう使うか、だ。
たとえば最近、何かのことで、時間をムダにしたりすると、私は、そのあと、「しまった!」
と思うことが多くなった。とくに最近は、「マガジンを1000号まで出す」が、私の目標
になっている。
つまらないことで、1時間もムダにしたりすると、「ああ、1時間もあれば、原稿の10
枚くらいは、書けたのに……」と。(マガジンでは、約20枚を、1回分の分量に決めてい
る。)
人との交際についても、同じである。さらに仕事についても、同じである。
先日も、ある出版社から、久しぶりに、仕事が舞いこんできた。内容は、老人のボケ検
査に、幼児の知能検査法が利用できないものか。できるなら、その検査法について、書い
てほしいというものだった。
最初は、おもしろく感じたので、二つ返事で、「やりましょう」と答えた。しかしいざ、
やり出してみると、まったくおもしろくない。「こんなことをして、何になる?」という思
いだけが、つのった。
それについて、ワイフに、「もう少し若いときだったら、夢中になってしたかもしれない
のにね」と言うと、ワイフも、「そうねエ。今さら老人問題なんてねエ……」と。
だから、時間をそまつにしている人を見かけたりすると、「もったいな」と思う。それは
たとえて言うなら、ごちそうを、食い散らしている人を見るときの印象に似ている。「生き
たくても、生きられない人は、多いのに……」とも。
が、ここでも、ここに書いた問題に、ぶつかってしまう。問題は、その「時」を、どう
使うか、である。「時は、貴重だ。それはわかる。では、その時を、どう使えばいいのか」
と。
つまりは、目標ということになるのか。この問題をつきつめていくと、「私たちは、なぜ、
ここに生きているか」という問題までいってしまう。さらに、「なぜ、私たちは今、ここに
存在するのか」という問題まで、いってしまう。
キリスト教の世界では、「神のような人間」ということになるのかもしれないし、仏教の
世界では、「悟りを開いた人」ということになるのかもしれない。
しかし私は、どうも、それが目標ではないような気がする。「気がする」と、今は、この
程度のことしか書けないが、私は、「神のような人間」にせよ、「悟りを開いた人」にせよ、
そんなのは、本人もしくは、まわりの人の、思いこみにすぎないのではないかと思う。
話が大きく脱線したが、「時」をどう使うか? この限りある「時」をどう使うか? つ
まりは、それを考えること自体が、「生きる目標」のような気がする。
人生は、長いようで、短い。短いようで、長い。が、やはり、長いようで、短い。今
のあなたが、あっという間に、今のあなたになったように、そのあっという間に、あなた
の人生も、終わる。
話がもとにもどってしまった。ああああ……。今の私は、とにかく、1000号までマ
ガジンを出してみる。そのあとのことは、考えていない。あまり考えたくない。その先に、
何かあるだろう。いや、何もないかもしれない。あるいは、時間のムダかもしれない。そ
んな不安は、あるが、しかし、今は、前に進むしかない。
(何ともまとまりのない原稿になってしまった。ボツにしようかと迷ったが、このままで
……。ごめん!)
**********************
【近況・あれこれ】
●巨大なスズメバチの巣
今朝起きたら、ワイフが、興奮した様子で、こう言った。「あんた、見て!」と。
その瞬間、不吉なものを感じた。30年以上もいっしょに暮らしていると、以心伝心と
いうか、テレパシーというか、そういうもので、ワイフの心の中がわかる。
ワイフが指さす方向を見ると、巨大なスズメバチの巣。駐車場の屋根の下に、それはあ
った。
私「気がつかなかったなあ……」
ワイフ「私もよ。あんなところにあるなんて……」
大きさは、サッカーボールくらい。雨だというのに、出入り口からは、ときおり大型の
スズメハチが、出入りしている。
私「これはあぶないなあ」
ワイフ「市のほうへ連絡しましょうか?」
私「そのほうが、いいね。これだけ大きいと、ぼくの手に負えない」
ハチの巣は、太さが1センチ前後のつたの枝に、複雑にからんでいた。それがなければ、
袋をかぶせて、そのまま巣を天井から切り離すということもできるのだが……。
市へ連絡すると、農政課へ。そしてそこの担当の人が、地元の駆除業者を紹介してくれ
た。「除去には、7000円から1万円かかります」とのこと。
で、そのまま駆除業者へ。住所と名前と電話番号を伝えると、「近く、行きます」と。
改めて、ハチの巣を見るために、外に出る。あいにくと出入り口は、やや上方にあって、
下からは見えない。「あの出入り口に、殺虫剤を注入すればいいのかな?」と、勝手なこと
を考える。
私は今度、スズメバチに刺されたら、死ぬ。そういう運命にある。一度、刺されて、抗
体が体の中にできてしまった。それがなければ、自分で駆除するのだが……。
率直に言って、ハチの巣の駆除は、おもしろい。スリルがある。子どものころは、毎日
のようにしていた。中学生や高校生のころは、左手に下敷き、右手に棒という軽装で、よ
くハチの巣を取りにいった。
私をめがけて飛んでくるハチを、パンパンと、下敷きで払いながら、もう一方の手にも
った棒で、ハチの巣を、落す。落としたあとは、ハチの子を取り出して、食べる。
今から思うと、あれが私の特技だったかもしれない。一度、幼稚園の庭で園児を指導し
ているときのこと。そのスズメバチが、2匹、襲ってきた。そのときも私は、もっていた
カバンで、そのスズメバチを、パンパンと地面にたたきつけ、そのまま足で踏みつけて殺
した。
瞬間のできごとだった。とっさの判断というか、まさに瞬間のできごとだった。
それを見ていた若い女性の先生たちが、「ステキ!」と言って、手をパチパチ、たたいて
くれた。私にとって、ハチというのは、そういう虫である。
しかしその私が、業者に駆除を頼むとは……。いや、お金の問題ではない。「今度、刺さ
れたら、死ぬ」という恐怖のためだ。若いころのような機敏さは、もう、期待できない。
だから、去年、ハチに刺された。……刺されてしまった。
*****つづきは、次号で! お楽しみに!*******
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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今日から、2004年、11月! みんさん、お元気ですか?
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 04年 11月 1日(No.483)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【上の子、下の子】
下の子が生まれると、上の子は、心理的に、大きな影響を受ける。下の子の誕生がきっ
かけで、上の子の様子が変わるということは、この世界では、珍しくない。よく知られた
症状に、赤ちゃんがえりがある。
ネチネチと甘えたり、おもらしをしたりするなど。しぐさ、話し方まで、赤ちゃんぽく
なる。
この赤ちゃんがえりを、多くの親たちは、安易に考える傾向がある。上の子も、下の子
の誕生を歓迎しているはずと考えやすい。しかしこれはとんでもない誤解。
赤ちゃんがえりだけではない。その症状は、実に、さまざま。赤ちゃんがえりをマイナ
ス型とするなら、下の子に攻撃的になるプラス型もある。嫉妬がからんでいるため、下の
子を殺す寸前までのことをする。方法も、陰湿かつ、執拗。弟を逆さづりにして落したり、
チョークを食べさせたりした例がある。
しかし表立って下の子をいじめたりすれば、自分の立場がなくなる。そこで親の前では、
仮面をかぶり、いい兄、いい姉を演ずることが多い。親の目の届かないところで、下の子
をいじめたりする。
しかしこういう形でも、外の世界に症状が出てくるケースのほうが、まだ扱いやすい。
対処方法もある。が、親の過干渉、過関心、神経質な育児姿勢などにより、症状が、「内」
にこもることがある。
たいていは、心身症による症状をともなう。そしてその症状は、まさに千差万別。もの
いじり、指しゃぶり、チックなど、よく知られた症状のほか、数年前だが、慢性的な発熱
症状を訴える子ども(年長女児)もいた。気うつ的な症状を示したり、慢性的な腹痛や、
頭痛を訴える子どももいた。
「どこか様子がおかしい?」と感じたら、まずこの心身症を疑ってみる。そしてそうい
う症状が出てきたら、子育てのあり方を、猛省する。
ポイントは、二つ、ある。
一つは、「ほどよい親」であること。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよ
い。子どもがスキンシップを求めてきたら、すかさず、こまめに、ていねいに、それに答
えてあげる。拒否的な態度は、禁物。子どもというのは、その瞬間に、すべてを判断する。
「ちょっと待っててね」という何気ない一言が、子どもの心を大きくキズつけることがあ
る。
つぎに、「暖かい無視」を心がける。ベタベタの関係がよいわけではない。あれこれ気を
つかいすぎるのも、よくない。「兄だから……」「姉だから……」という、「ダカラ論」を押
しつけるのも、避ける。
またこの時期、スキンシップをふやすことについて、「抱きグセがつくのでは?」と心配
する人もいる。しかしこの際、抱きグセは、マイナーな問題と考える。対処のし方をまち
がえると、精神そのものをゆがめることがある。
この時期をさかいに、ひがみやすくなる、いじけやすくなる、くじけやすくなる子ども
もいる。繰りかえすが、決して、赤ちゃんがえりを安易に考えてはいけない。それがわか
らなければ、あなたの夫(妻)に、愛人ができたときのことを想像してみればよい。平静
でいろというほうが、無理。子どもの心理は、その状態に近い。
本来、そうならないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。上の子
が、下の子の誕生を楽しみにするようにしむける。まずいのは、ある日、突然、下の子が
生まれたというような状態にすること。
方法としては、大きくなったお腹を見せながら、「あなたの弟(妹)が、ここにいるのよ。
生まれたら、いっしょに遊んであげてね」式に、毎日、上の子に話しかけるなど。
また下の子が生まれたあとも、いきなり、50−50の愛情に分けるのではなく、上の
子に100の愛情を注ぎながら、少しずつ、下の子に、愛情を分けていく。上の子にして
みれば、「平等ということ自体が、不平等」ということになる。それを忘れてはいけない。
で、こうした症状が出たら、それが許容範囲なのかどうかを冷静に判断する。症状が軽
いようであれば、そのままの状態を保つ。しかし症状がひどいようなら、もう一度、10
0の愛情を上の子にもどしたあと、半年単位で、少しずつ、上の子から手を抜いていく。
あくまでも子どもの様子を見ながら、判断する。
++++++++++++++++++
奈良県のNさんより、赤ちゃんがえりの相談をもらった。「4歳になった娘が、口の中に
ツバをためる。チックではないか」と。下に10か月の弟がいるが、逆算すると、その
弟が生まれた前後から、ツバをためるようになったらしい。風邪をひいたようなときに
は、そのツバが、痰になることもあるという。
症状からすると、チックとみてよい。ツバを吐く、ツバを袖にこする。ツバを口の中に
ためるなど。筋肉のけいれん様の不随意運動をともなうことが多い。クックッとうなるよ
うにして、ツバを吐くなど。
とくに意味のある行為には見えないのがふつう。またテレビを見ているときなど、気が
緩んだようなときに出やすい。
こうした症状は、一度出ると、なおるまで、半年から1年単位はかかる。クセとして、
その子どもに定着してしまうことも珍しくない。だからあとは、あせらず、その時期がく
るのを待つ。
ただNさんのメールの中で、気になったのは、「上の子が、好きになれない」という部分。
何かのわだかまりが原因かもしれない。もしそうなら、一度、自分の心の中をのぞいてみ
る必要があるのでは? それについては、また別の機会に考えてみたい。
(040930)
++++++++++++++++++++++++++
●子どものやる気
「ほどよい親」という言葉がある。親は、ほどよい親であるのが、一番よい。親の、子
どもに対する意欲が強すぎるのも、反対に弱すぎるのも、よくない(D・C・マクレラン
ドほか)。
要するに、教育ママ的すぎるのも、放任ママ的すぎるのも、よくないということ。どち
らかといえば、教育ママ的すぎるよりは、放任ママ的なほうがよい。そんな研究結果も報
告されている(D・C・マクレランド)。
で、ほどよい親というのは、バートランド・ラッセルの言葉を借りるなら、「必要な訓練
はほどこすが、その限度をわきまえている親」ということになる。
そこで「必要な訓練とは何か」ということになる。そのポイントをまとめたのが、つぎ
である。
(1)子どもに任す部分は、任す。
(2)ほどよく指導し、ほどよい道を示す。
(3)子どもを信頼する。
(4)ほどほどのところで、手を引く。あきらめる。
(5)過干渉、過関心、過保護は、避ける。
(6)親は親で、自分の生きザマをつらぬく。
どれもむずかしいテーマだが、そこが子育て。そこが親の腕の見せどころということに
なる。が、その中でも、とくに注意したいのが、(4)の「ほどほどのところで、手を引く。
あきらめる」。
ほとんどの親は、子どもに限界が見え始めても、「まだ、何とかなる」「やればできるは
ず」「うちの子にかぎって」と無理をする。この無理が、子どものやる気をそいでしまう。
そういう意味では、親の希望には、際限がない。
半年近く不登校を繰りかえした子どもが、やっとのことで、学校へ通うようになったと
きのこと。その子どもの母親は、こう相談してきた。
「午前中だけで、家に帰ってきてしまいます。給食の時間になると、保健室にこもって
しまいます。何とか、給食だけでもと思っているのですが、どうしたらいいですか」と。
私は、こう言った。
「子どもには、無理をしなくてもいいと言ってあげなさい。4時間、勉強するようなら、
3時間目が終わったら、家につれて帰ってきなさい。そのとき、『今日はよくがんばったわ
ね』とほめてあげなさい。
仮に給食を食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずです。『何とか、午後の
勉強もさせたい』『終わりの会まで出席させたい』と。子どもも、それをよく知っているの
です」と。
さらに不登校がやっとなおったと思ったとたん、「それまでの遅れをとりもどすのだ」と、
子どもを進学塾へやった親もいた。しかしそんなことをすれば、元の木阿弥。つぎに症状
は、さらに悪化する。
「まあ、うちの子は、こんなものだ」「うちの子は、うちの子なりによくがんばっている」
という、あきらめが、子どもの心に風をとおす。そして不思議なことだが、そのときから
子どもは、また伸び始める。親が「こんなはずはない」とがんばっている間は、子どもは
伸びない。ばあいによっては、自ら伸びることを止めてしまう。
とくに子どもが小学生のうちは、この「意欲」だけをみながら、子どもの学習をみると
よい。できる・できないは、つぎのつぎ。やる気があればよし。そうでなければ、いくら
見かけの成績がよくても、家庭教育のあり方を、猛省する。
【やる気の判断】
何か、子どもの前で、新しいテーマを示してみてほしい。「庭に、小屋でもつくろうか」
「今度、美術館へ行ってみようか」など。そのとき、何かにつけて、「やる!」「やりたい!」
とくいついてくればよし。反対に、「いや……」「つまらない……」を繰りかえすようであ
れば、子どもの問題というよりは、家庭教育そのものに問題があるとみる。
ほとんどの親は、子どもに何か問題が起きると、子どもをなおそうとする。しかし問題
は、子どもにあるのではない。問題は、子育てのし方、もっと言えば、親自身にある。そ
れに気がつく親を、賢い親という。そうでない親を、愚かな親(失礼!)という。
あなたはひょっとしたら、無意識のまま、子どものやる気をそぐようなことはしていな
いだろうか。ここで、少しだけ、ふりかえってみてほしい。
【BW教室では……】
BW教室では、毎回、何らかの遊びを用意している。1、2週おきくらいに、遊びを変
えていくのだが、その遊びついても、毎回、目を輝かせて、飛びついてくるように指導し
ていく。
当然のことながら、「やりたい!」「やらせて!」と、飛びついてくる子どものほうが、
好ましい。そこで私は、半年単位で、子どものやる気を引き出すようにしている。
この遊びを取り入れた方法は、実際、効果的である。現実に「今」という今、私の教室
では、ひとりの例外もなく、(本当だぞ!)、消極的な子どもはいない。(毎回、母親たちが
参観しているので、こういうところで、ウソは書けない。念のため……。)
何か新しいことを提案するたびに、「やる!」「やる!」と、全員が、目を輝かせて、食
いついてくる。
そういうふに、幼児を指導していくのが、幼児教育である。漢字が書けるとか、むずか
しい計算問題ができるとか、そういう(見かけ)の力を、子どもに身につけさせるのが幼
児教育ではない。またそういう(見かけの力)にだまされてはいけない。
(041002)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【掲示板・投稿より……】
+++++++++++++++++
私のHPの掲示板に、Yさんという方の
書きこみがありました。
ここでは、Yさんがかかえる問題につい
て考えてみたいと思います。
+++++++++++++++++
【Yより、はやし浩司へ……】
はじめまして。ここ数日のあいだ、投稿しょうかどうかとずっと迷っていました。HPか
ら感じる、はやしさんの誠実なお人柄と豊富な体験から、アドバイスが頂けたらと願い、
パソコンに向かっています。
私は、今34歳で、私には、今年から小学校1年生になった、男の子が一人います。
私は、埼玉県U市にある私の実家で、実母(67歳)と、2月に単身赴任から帰ってきた
主人(41)と、4人で暮らしていたのですが、今は夫と、別居状態になっています。別
居するようになって、3ヶ月になります。
こうなった、もともとの原因は、主人の隠していたカードローンによる借金です。別居の
件は、私の方から言い出しました。
実は、私の両親は、私が中3の時に離婚しています。父は、大会社に勤務し、昔からの家
柄で、気位の高い人だったのですが、無口で、非社交的。休日は、いつもテレビを見てご
ろごろしているような人でした。
その一方、母は、明るく、意志の強い人でした。悔いのない人生を送りたいという事で、
父と離婚しました。父は、話しかけても、返事もしないというよう人で、数年間、父と母
は、1階と2階で、別れて生活していました。そういう状態がしばらくつづいたあと、つ
まり家庭内別居の末、離婚しました。
父は、自宅を養育費代わりということで、自宅を私たちに残し、そのまま、出て行きまし
た。
こう書くと何か暗い感じがしますが、明るい母のおかげで、私たちは、結構、楽しく過ご
すことができました。庭で、夜、屋台のラーメンを食べたり、母の手製のタイヤの跳び箱
を飛んだり、音楽会をしたり、童話を作りながら寝たり、美術館に行ったりなど。3歳、
年上の兄と3人で、楽しく過ごすことができました。そんな思い出もたくさんあります。
父に家から締め出されたこともありますが、そのときも、母は、近所のお風呂屋に連れて
行ってくれていってくれました。楽しく過ごせました。
ただ、一度、父が怒って2階に包丁持ってきたことがあって、私達子供が大泣きした事や、
(そのあと父は冷静になって無事終わりましたが)、気丈な母が実家に涙ながらに電話して
いた事など、、そんな事は、いまだに強く、記憶に残っています。
そんなわけで、ずっと私は、「母を悲しませないように」と、心のどこかで、無意識に思っ
ていたようです。子どもながらに、皆が笑うようなユニークな事や、夫婦仲を取り持つよ
うな事をしました。
学校にファンクラブまでできるほど、兄には友人は多かったのですが、敏感で、病気がち
で、高校を中退したり……。反抗期がきつかったせいもあります。そのこともあって、私
は、今思うと、「母に心配をかけないいい子」、「優等生で、いつまでも甘えたの末っ子」で
いることで、母親の愛情を自分のものにしていたように思います。
もともと私は勉強が好きだったので、ずっと、私は優等生でした。勉強しろと一度も言わ
れた事もなく、とくに塾に行かなくても、奨学金をもらい、小、中、高3で学年1番にな
り、東京でも有名な短大に、2番の成績で合格しました。
その後、オフィス街の中心にある大きな会社で働き、結婚。出産で辞めた後、子供が2歳
の時には、国家試験に合格し資格もとりました。ここに書いたことは、みな、事実なので
すが、いまだに自分に自信が持てず、劣等感に苦しんでいます。精神状態はずっと子供の
ままです。
自己中心的で、優柔不断で、母に精神的に依存していて、今でも母の指示がないと不安に
なります。社会に出たときには、他の人が皆、大人に見え、何を話したらよいか分からず
困ったりしました。
小学生時代に、水イボがあり、長くイジメられた事もあります。それが原因で、人から嫌
われたくないという意識がとても強くなったようです。人を避けるようにもなりました。
だれかに、理不尽な事を頼まれたときでも、イヤと強く断ることができません。
自分の子供に対して過干渉で、子供の友達が遊びに来た時も、その子が退屈しないように
と、つい、おもちゃを出したり、おやつをだしたり。うちに来なくなったら、子供の相手
がいなくなるのではとか、イジメにあうのではないかと心配で、子供の友達(6.7才)に
対しても気を使っています。そんな自分が、バカみたいに思えるときがあります。
年齢だけ高い子供が、子供を産んでしまったようなもので、産むんではなかったと後悔し
たり、子供に申し訳なくなったりします。自分の子どもに、何が良くて何が悪いのかの判
断や、人間関係の作り方など、何も教える事ができません。
私自身も、うまく言葉で説明できないので、子供がダメなことをしたときは、子どもを布
団に押さえつけたりしてしまいます。腹が立つと、親子で叩きあったり、蹴ったりしてし
あうこともあります。何か要求されて、「ダメ!」と私が言うと、泣いて大きい声を出すの
で、つい子供の言いなりになってしまったりします。「近所に聞こえるでしょう! 大きい
のに恥ずかしい!とか、「あんたなんかいないほうがいい」式の言葉や、「お母さん出て行
くからね」式の脅しを、子どもにしてしまいます。
子供のころ、そんな事された事は、自分はないのに、私は、本当に最低の母親です。おと
なの私なのに、子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり
……。
このままでは、絶対にまずいことは、わかっているのですがどうしたらよいのでしょうか?
どうしたら私自身、母から自立できるのか? 借金なんて世の中で一番大嫌いの母は、
主人と別れる事をすすめています。
子供はお父さんが帰ってくるのを待っています。私は、一人で子供を育てていく自信も、
気力も、経済力も今はありません。子供のことは、母が一番、声をかけたり、かわいがっ
てしてくれています。子供も、母のいう事なら聞きます。
主人は、パソコンおたくで、子供のままです。お忙しいのに、長くなり本当に申し訳あり
ません。
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●結論は、急がない
こうした人生の転機につながるような、重大問題については、「結論は急がない」。それ
が、大原則。つまりは、自分で、結論を誘導しないということ。
そのときがきたら、結論は、必ず、向こうからやってくる。あわてる必要はない。そし
てちょうど、低いところに水が流れていくように、自分の人生も、流れていく。
ほかのことならともかくも、こうした問題は、「命」そのものを削る。10年単位で、そ
の人の「命」を削る。だから、結論は、急がない。
●未練の燃焼
また夫婦の問題、親子の問題については、とことん、未練を燃焼させておく。中途半端
は、いけない。
そのためにも、(1)自分を冷静に見つめる。どこまでも、どこまでも、自分を冷静に、
見つめる。見栄や世間体、メンツや虚栄、それに虚飾や仮面、そういったものから自分を
解き放ち、丸裸の自分を見つめる。
つぎに(2)自分を、とことん、さらけ出す。プライドもかなぐり捨てる。へんに、が
んばってはいけない。すなおに、負けを認め、あるがままの自分をさらけ出す。抱いてほ
しかったら、「抱いてほしい」と言えばよい。好きだったら、「好きです」と言えばよい。
別れたくなかったら、「別れたくない」と言えばよい。幸福な家庭がほしかったら、「幸福
な家庭がほしい」と言えばよい。
やるだけのことは、すべてやりつくす。それでだめなら、つまりふんばっても、ふんば
りきれないようなら、それが運命。あとは、自然の流れに、身を任せればよい。
●「私」を超えた人間
私は私だが、その私は、「人間」の一人でしかない。いくらがんばっても、がんばりきれ
ないことは、だれにだって、ある。あって、当然。
だれかがあなたに向って、「あなたは、まちがっている!」と言ったとしても、そのとき、
もしあなたが自分の中に、その人間を感じたら、こう叫べばよい。「私だって、人間だ!」
「もし私がまちがっているというのなら、人間がまちがっている。私じゃ、ない!」と。
つまり、そう相手に言いかえせるまで、自分を見つめていく。とことん、自分を見つめ
ていく。
というのも、そもそも、男と女がいて、恋愛し、結婚し、子どもをもうけるということ
自体、「私」を超えた、人間のなさるわざ。私やあなたではない。人間が、そうさせる。
その人間が、あるとき、限界に達する。しかし、それは私やあなたの責任ではない。つ
まりその次元まで、自分の中の人間を確認しておく。
●「私」さがし
「私」が何であるか、本当のところ、だれも、わかっていない。愚かな人ほど、「私のこ
とは、私が一番よく知っている」などと、豪語する。しかし、「私」というのは、わからな
い。わかったと思ったとたん、さらに、わからなくなる。
すべて年齢のせいにするのは、好きではない。が、しかし歳をとればとるほど、「私」が
わからなくなるのも、事実。「私」というのは、そういうもの。
そこでスパルタの賢人、キロンは、こう言った。「汝(なんじ)自身を、知れ」と。つま
りは、それが哲学の究極の目標にも、なっている。
たとえばここに一人の中学生がいる。つっぱって、何かにつけて攻撃的で威圧的。独特
の言い方に、動物的な動作。その中学生にしても、なぜ、自分がそういうことをするのか、
本当のところは、何もわかっていない。その中学生は、その中学生を超えた、大きな「私」
に操られているだけ。そのことに、その中学生は、気づいていない。
「私」というのは、そういうもの。それくらい、「私」を知ることは、むずかしい。
●無数の(しがらみ)
相談をくれたYさんにしても、無数の(しがらみ)の中で、生きている。現在というし
がらみだけではない。過去というしがらみの中でも生きている。
Yさんが、Yさんであって、Yさんである部分と、Yさんが、Yさんであって、Yさん
でない部分。そういうものが、混然一体となって、今のYさんをつくりあげている。
たとえばYさんが優等生であったという部分についても、ひょっとしたら、Yさんは、
そういう仮面をかぶっていただけなのかもしれない。仮面をかぶることで、自分にとって
居心地のよう世界を作ろうとしていただけなのかもしれない。
さらになぜ仮面をかぶるようになったかといえば、貧弱な幼児期の家庭環境、さらには、
貧弱な母子関係があったのかもしれない。
決して失礼なことを言っているのではない。こうした問題は、その多くは、(私であって、
私でない部分)に起因している。それがわかってほしかったから、あえて「貧弱」という
言葉を使った。
繰りかえすが、「貧弱」であることが悪いというのではない。むしろ、そうでない、つま
り親の愛情に包まれ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ない。「私」をさがすときは、
そういう前提で、さがす。
●基本的信頼関係
信頼関係は、絶対的な(さらけ出し)と、(受け入れ)を基盤として、その上で結ばれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。
この関係を、最初に経験するのは、子どもの立場でいうなら、母親との関係においてで
ある。これを母子間における基本的信頼関係という。
この関係が、そのあと、その人の信頼関係の基本になる。子どもは成長するにつれて、
その関係を、先生や、友人、さらには、配偶者(夫、妻)や自分の子ども(息子、娘)へ
と広げていく。
しかし乳幼児期に、母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、
そのあと、(それに気がつかなければ)、その十字架を一生、背負うことになる。
つまりは、自分以外の人間に、心を開けなくなる。だれとも信頼関係を結べなくなる。
●心を開けない子どもたち
他人に対して心を開けない子どもは、つぎの5つのパターンのうち、どれかをとる。
(1)攻撃型(他人に対して、攻撃的になる。)
(2)自虐型(自分をいためつける。)
(3)依存型(だれかにベタベタ甘える。)
(4)服従型(特定の人に、徹底的に服従する。)
(5)同情型(相手に同情を求める。)
攻撃型というのは、他人に対して攻撃的になることで、自分にとって、居心地のよい世
界をつくろうとするタイプ。先に書いた、つっぱる子どもが、それに当たる。
自虐型というのは、その攻撃性が、自分自身に向いたタイプと思えばよい。めちゃめち
ゃな練習をして、スポーツの世界でよい成績をとる。あるいは、ガリ勉をして、よい成績
をとるなど。そういう形で、自己主張をしながら、自分の周囲に、自分にとって、居心地
のよい世界をつくろうとする。
依存型というのは、だれかにベタベタ甘えることで、自分の心のスキマを埋めようとす
るタイプ。一部の、心を許せる人に対してのみ、極端に、ベタベタする。その動作、しぐ
さは、幼稚的、赤ちゃん的になることもある。
服従型というのは、集団に中に身をおき、「上」の立場にいる人に対して、徹底した服従
を誓うもの。集団非行グループに属し、親分(ボス)に、徹底的に服従したり、どこかの
カルト教団に属して、その指導者(教祖)に、徹底的に服従したりするのが、それ。
同情型というのは、わざと弱々しい人間を演ずることで、自分の立場をつくることをい
う。みなが「どうしたの?」と心配してくれるような状態を、自分の周辺につくっていく。
そのために、自分で病気をつくったり、また体の不調をいつも訴えたりする。演技でそう
するというよりは、無意識のうちにも、もっと自分の中の奥深い部分で、それをする。だ
から、その本人にとっては、本当に頭や腹が痛かったりする。
●仮面
こうした状態は、つまりは、人と人間関係をうまくつくれないために、その人がその代
償的行為として、する。子どもの世界には、よく知られた現象として、「仮面」がある。
たとえば「ぶりっ子」と呼ばれる子どもがいる。それも、その仮面の一つ。先生やみな
の前で、いい子ぶることによって、自分をとりつくろおうとする。
このタイプの子どもは、いい子であることで、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろ
うとする。たとえば先生が、「道路にお金が落ちていたら、どうしますか?」と質問したり
する。
するとこのタイプの子どもは、自分をさらけ出す前に、「こういう答を言えば、先生はほ
めてくれるだろう」「こういう答を言えば、みなから、尊敬されるだろう」と、即座に計算
する。そしてその瞬間に、自分でない、自分を演ずる。
「交番へ届けます」と。
しかしこうした仮面をかぶることによって、一番、疲れるのは、その子ども(人)自身
ということになる。人と接することから生まれる、緊張感。その緊張感から、解放される
ことはない。だから人間関係をうまく結べない人は、集団の中では、精神疲労を起こしや
すい。集団の中では、明るく快活で、かつ社交的にふるまうことはあっても、実際には、
そういう場が苦手。たとえばパーティから帰ってきたりすると、どっと疲れてしまうなど。
そのことをわかりやすく説明したのが、ショーペンハウエルという学者である。彼は、「二
匹のヤマアラシ」を使って、それを説明した。
●マザコン
乳幼児期から少年少女期にかけて、母と子がつくる母子関係は、絶対的なものであり、
かつ重要なものである。
子どもは、母親から命を受け、さらに誕生後も、乳を受けるからである。子どもは、こ
の時期、父親がいなくても育つが、母親なしでは、一日たりといえども、ひとりで生きて
いくことはできない。
そのため母子関係は、濃密(ベタベタ)なものになりやすい。
この濃密さを調整するのが、父親の役割ということになる。父親は、この母子関係に割
って入り、母子関係を調整する。わかりやすく言えば、クサビを打ちこむ。この濃密な母
子関係を、そのまま放置すれば、子どもは、生涯にわたって、その母親の呪縛から、解き
放たれなくなってしまう。
よく知られた例に、『冬彦さん』(テレビドラマの主人公)がいる。いわゆるマザコンタ
イプの男性である。
よく誤解されるが、男性だけがマザコンになるのではない。男性と比較すれば少ないが、
女性だって、マザコンになる。このタイプの人は、男性にせよ、女性にせよ、親(とくに
母親)を絶対視することで、自分のマザコン性を正当化しようとする。「私がそれだけ母を
大切に思うのは、それだけ母が、すばらしい人だから」と。
●家族自我群
こうした母系家族の中では、「家族」は、どくとくの(まとまり)をもちやすい。母親中
心の家庭では、その分だけ、家族の関係は、濃密になる。そのため、濃密な依存関係を
つくりやすい。
本来、家族といっても、ひとりひとりの家族が、それぞれ一人の人間として、たがいの
信頼関係でなりたつ。が、その濃密さが、ときとばあいによって、そういった信頼関係
のあるなしとは、関係なく、たがいをしばりあう「束縛」として、機能するようになる。
この絶対的な束縛感を、「家族自我群」という。
しかしこの家族自我群は、子どもの成長過程においては、ある時期までは、重要かつ大
切なものである。しかしある時期を過ぎると、子どもにとっては、その成長をはばむ、大
きな足かせになることがある。
そこで子どもは、成長する過程の中で、その自我群からの独立をめざす。これを「個人
化」という。その時期は、子どもが、小学3年から4年にかけての時期とみてよい。
ちょうどこのころ、「私は私」という、自己意識が、急速に子どもの中に芽生えてくる。
ただこの段階で、誤解してはいけないのは、こうした個人化が、家族の否定を意味する
のではないということ。ここでいう「個人化」というのは、あくまでも、親が親としても
つ親意識からの解放をいう。家族というまとまりの否定ではない。いわゆる「家族主義」
とは、異質のものである。
●家族自我群
この家族自我群には、両面性がある。家族の間の人間関係が良好なときには、自我群は、
家族をうまくまとめるために、プラスの方向に機能する。その自我群を積極的に、肯定す
る考え方も、そこから生まれる。
東洋的な孝行論、忠孝論は、こうした自我群から発達したと考えられる。
が、この自我群が、負の方向に作用するときがある。
ある男性は、自分の母親の葬儀に出なかったことを、それから10年以上もたっている
のだが、いまだに苦しんでいる。いろいろ事情はあった。その男性なりの理由もあった。
しかし今、その男性は、苦しんでいる。ふつうの苦しみ方では、ない。「私はダメ人間だ」
「人間として失格者だ」と、自らにレッテルを張ってしまっている。その苦しみ方を見て
いると、どこかカルト的ですら、ある。あえて言うなら、踏み絵を踏んでしまった、キリ
スト教徒のような感じさえする。
私が「だれも、あなたを責めていないですよ」と説得しても、意味はない。つまり自我
群のもつ深大さは、想像以上に大きいということ。負の方向に作用したときには、その人
の人格をも否定してしまう。そしてその中で、その人を、とことん苦しめる。
●親捨て
今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、
親不孝者」のことを、そう呼ぶのだそうだ。
ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚
づきあいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られると
いう。現実には、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。
その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組
みこもうとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびし
く排斥することによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへ
んなことになるぞ」と、警告することができる。
が、それだけではない。
「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむこ
とになる。
●子どもの自立
子育ての究極の目標は、子どもを自立させること。それは常識だが、その自立のカギを
にぎるのは、そんなわけで、母親ということになる。わかりやすく言えば、母親が、自分
自身のもつ(限界)に気づき、その(限界)と、戦うこと。
さらに言えば、子どもがその年齢に達したら、母親自身が、子どもの自立をうながしな
がら、子ども自身が、親離れできるように仕向ける。たとえて言うなら、親鳥が、ヒナを、
巣から追い出すような行為をいう。これはただ単なる子離れとは、異質のものである。
親が子離れするのは、子どもが親離れしたあと、必然的な結果として起こるもの。
当然、父親の強力も必要となる。先にも書いたように、父親の役割は、ともすれば濃密
になりやすい母子関係に、クサビを打ちこむこと。そして、子どもを外の世界に連れ出し、
(狩りのし方)を教えること。
もっと言えば、母親が、その母性本能に溺れ、母親だけの子育てをするのは、危険なこ
とですら、ある。その危険さに、母親自身が気づく。それがここでいう(限界)というこ
とになる。
●Yさんのケース
Yさんのメールを読むと、Yさんの周辺には、さまざまな問題が、くもの巣のようにか
らんでいるのがわかる。
Yさんには、つらい話かもしれないが、順に、問題点を整理してみよう。
(1)恵まれなかった、幼少時代。貧弱な愛情問題。
(2)父親不在の家庭環境。父親像の薄い、家庭環境。
(3)濃密な親子関係。個人化の遅れ。自我群の束縛。
(4)心を開けない、家庭環境。母子関係の不全。
(5)母親への強度な依存性。マザーコンプレックス。
(6)両親の離婚。それにともなう、心の葛藤。
(7)Yさん自身の信頼関係の不足。そして仮面。
(8)不安神経症と、基底不安。基本的不信関係。
(9)夫の単身赴任。どこか心さみしい結婚生活。
(10)夫や子どもにさえ、心を開けない心の閉鎖性。
Yさんには、心の状態を正確に知ってほしかったから、あえて書き出してみた。Yさん
に与える衝撃には、はかり知れないものがある。それはわかっている。しかしこの問題だ
けは、自分が何であるか、それをまず知る必要がある。「私」を超えた、「私」を、である。
それがわからないと、いつまでも、私であって私でない部分に、振りまわされるだけとい
うことになる。
●時は心の癒(いや)し人
「私」がわかれば、あとは、時間が解決してくれる。『時は、心の癒(いや)し人』とい
う言葉は、私が考えた。すぐには、解決しない。しかし「私」が何であるかがわかれば、
あとは、はやい。
あるいは「私」が何であるかわれば、別の「私」が、それをコントロールするようにな
る。「これは本当の私だ」「これは本当の私ではないぞ」と。Yさんも、心に大きなキズを
もっている。そのキズが、今のYさんをつくりあげた。
「勉強が好きだった」と言うYさん。しかし本当のところは、勉強が好きだったという
よりは、勉強を通して、自分にとって、居心地のよい世界をつくっていただけなのかもし
れない。どこか自虐的な勉強をしながら、母の関心をひき、母の期待に答えようとした。
しかし本当にYさんは、もっと、安心して、つまりは不安なく暮らせる、安定した家庭
を求めていたのかもしれない。が、その希望は、うまく、かなわなかった。
……と、いろいろ考えられる。が、ここで重要なことは、「過去は、過去」として、明確
に割り切ること。実のところ、Yさんは、もう一つの問題をかかえている。「世代連鎖」と
いう問題である。
●世代連鎖
こうした問題は、世代連鎖しやすい。事実、Yさんの母親は、Yさんに離婚をすすめて
いる。周囲に離婚の経験のない人は、こういうケースでも、「離婚」という言葉を、安易に
口にしない。そういう発想そのものがない。一方、身近で離婚を見聞きした人はほど「離
婚」という言葉を、口にしやすくなる。
そのYさんの両親は、Yさんが、子どものときに離婚している。離婚することが悪いと
いうのではない。離婚する人には、離婚するだけの理由がある。「結婚」という形にこだわ
る必要はない。しかし問題は、その離婚にまつわる心の葛藤、家庭内の騒動、そして「心」
の崩壊である。
Yさんの子どもは、今、まさに、Yさんが少女時代に体験したのと同じ体験を、繰りか
えそうとしている。そのことにYさんは、まだ気づいていない。実のところ、Yさんが、
心を開けないなら開けないで、それは構わない。
しかしそういうYさんを母親にもち、人知れず、一番悲しみ、苦しんでいるのは、子ど
も自身である。それを忘れてはいけない。もっと言えば、Yさんの子どももまた、人に対
して心の開けない人になってしまっている可能性がある。しかも悲劇的なことに、そのこ
とに、Yさん自身が気がついていない可能性がある。
言うまでもなく、心の開いている人からは、心の開いていない人がよくわかる。しかし
心を開けない人からは、心の開いていない人がわからない。他人も、自分と同じようだと
考えてしまう。
こうして、親から子へと、心が伝わっていく心が、心として、世代を超えて伝わってし
まう。これを世代連鎖という。行為や行動が伝わるのではない。行為や行動は、あくまで
も、その結果でしかない。
【Yさんへ……】
●あなたはすべてをもっている
かなりきびしいことを書いてしまいました。どうか、冷静に読んでください。私はあな
たを怒らせるつもりも、不愉快にするつもりも、ありません。
あなたに、心の平安を取りもどしてほしいのです。安らかで、落ちついた世界です。
今、あなたはすべてをなくし、不幸のどん底にいると思っているかもしれません。しか
しこれは、たいへんな誤解です。
実は、今、あなたは、(すべてのもの)をもっているのです。やさしく、子ども思いの夫。
家庭と家族。健康。若さ。人生。やさしい母親。あなたの母親には、どこか問題はありま
すが、しかしこの日本では、平均的というより、平均以上!
あなたはすべてをもっているのです。あなた自身も、です。聡明な知恵、知識、学識、
経験、常識。すべてです。
ただ一つ、問題があるとするなら、あなたは、自分だけの世界に閉じこもってしまって
いる。あなたの夫ですら、信じていない。あなたの子どもですら、信じていない。
ここが最大の問題です。あなたは自分のことしか考えていませんが、(たしかにそういう
意味では、自己中心的ですね)、そういうあなたを妻にもち、母にもち、さみしい思いをし
ているのは、あなたの夫であり、子どもです。
●借金など、何でもない問題
はっきり言いましょう。カードローンによる借金など、大きな問題ではありません。事
業に失敗し、破産しても、夫婦で助けあいながら、懸命に生きている人は、この世界には、
五万といますよ。深刻な子どもの問題をかかえながら、懸命に生きている人は、さらに五
万といますよ。いちいちそんなことを離婚事由にしていたら、この世の中には、結婚する
人などいなくなります。
(あなたが離婚を考えていることについて、あるいはもっとほかにも、理由があるのか
もしれませんが……。夫が単身赴任をしていたという事実が、どうも心にひかかります。
どうして単身赴任など、させたのですか? あるいはその前から、夫婦関係が、おかしく
なっていたのですか? 私は単身赴任などいう制度そのものに、若いときから、猛反発し
てきました。「家族がバラバラにされて、何のための仕事か!」とです。)
それにしても、今、あなたにとって大切なことは、命を削るような転機を迎えることで
はなく、やるべきことを自分に向ってすることです。
もしあなたにまだ、いちるの望みがあるなら、そして夫に対する愛が残っているなら、
負けを認めなさい。心を開いて、負けを認めなさい。がんばる必要はありません。勇気を
出して、心を空に向って、解き放つのです。勇気を出して、です。体は、あとからついて
きます。
●もっとさらけ出して生きる
がんばってはいけません。プライドにしがみついてはいけません。ありのままを、あな
たの夫や子どもの前で、さらけ出すのです。それでダメなら、ダメでいいではないですか。
ダメで、ダメもと。
「子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……」と、
あなたは書いています。
いいじゃないですか、白目でにらみたかったら、にらめば。どうしてそれが悪いことな
のですか。
いいじゃないですか、指を吸いたかったら、吸えば。どうしてそれが悪いことなのです
か。
いいじゃないですか、バスタオルが離せなかったら、もっていれば。どうしてそれが悪
いことなのですか。
私も、神経が不安定になると、ワイフのおっぱいをずっと吸っていますよ。ある雑誌の
告白手記に書いてありましたが、毎晩、夫のペニスを吸わないと眠られない若妻だってい
るそうです。毎晩、チューチューと吸いながら、眠るのだそうです。
さらに私の知人(もちろん男性)の中には、一流企業の役員をしているのがいますが、
その彼の密かな趣味は、大きな尻をもった女性に、その尻で、顔を踏みつけられることだ
そうです。わかりますか? みな、それぞれです。
みんなそれぞれの方法で、自分の心の問題と戦っているのです。「これはいいことで、こ
れは悪いこと」と、決めてかからないこと! したいことをしなさい。言いたいことを言
いなさい。あなたの夫や子どもには、したいことをさせてあげなさし。言いたいことを、
言わせてあげなさい。他人にはできないかもしれませんが、夫婦や家族に対してならいい。
だから、夫婦であり、家族なのです。
おかしな基準をもつこと自体、Yさん、あなたには、家族像が入っていないということ
です。勝手な空想で、理想の夫婦像などつくらないこと。
●あとは、居直る
あなたはあなた。どこまでいっても、あなたはあなた。居直りなさい。仮におかしな性
癖があったとしても、(ぜんぜん、おかしくないですが……)、そんなこと気にすることは
ありません。
Yさんが、今、かかえている問題は、一見、Yさんを包む家族の問題に見えますが、ひ
ょっとしたら、Yさんがほんの少しだけ、心の向きを変えれば、すべて、解決する問題の
ように思います。ある意味で、何でもないですよ!
どこにでもある。だれしもかかえている。多かれ少なかれ、みな、です。
イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。
ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押
さえると、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。
私は、いったい、どこが悪いのでしょうか?」と。
するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨
が折れているだけですよ」と。
いいですか、あなたは今、すべてのものを持っている。(すべてのもの)です。(私は生
きている)という原点から、もう一度、自分をながめてみてください。それですべてが、
解決しますよ。
●すばらしい母親
Yさんは、若いのに、じゅうぶん、自分を冷静に見つめる視点をもっておられます。す
ばらしいことです。そこらのバカママ(失礼!)とは、中身もできもちがいます。メール
の内容から、それがわかります。
それに子どもが男児だから、よけいに戸惑っておられるのかもしれません。Yさんには、
「男像」というのが、脳の中に、インプットされていないのです。しかし、それは仕方の
ないこと。大半の母親がそうです。
方法があるとしたら、頭の中で空想することによって、あなたの子どもの中に、自分を
置いてみることです。子どもの目を通して、自分がどう見えるかを、空想してみるのです。
たとえば今、私のワイフイは、居間で、あれこれあと片づけしています。そのワイフの
視点の中に、自分を置いてみます。そうすると、ワイフの目を通した、自分が見えてきま
す。
ワイフはきっとこう思っているはずです。「何も、手伝ってくれないで、パソコンの画面
にばかり向っている」と。
こうして相手の心の中に入ることによって、あなた自身の自己中心性を、克服すること
ができます。意外と簡単ですから、一度、試してみてください。
Yさんの心をふさいでいる重石(おもし)は、相当なものです。しかしもう、あとは時
間の問題です。なぜなら、すでに、Yさんは、その重石が何であるか、気づいているから
です。
あとは、勇気を出して、自分の心を空に向って、解き放ってください。体はあとからつ
いてきます。
(041003)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【近況・あれこれ】
●近く、オーストラリアにいる息子が、日本へ帰ってくる。「遠隔操作で、大恋愛をしてい
る」と、メールで書いてきた。「新しい恋人を、今度、紹介する」とも。「日本人か?」と
聞くと、「そうだ」と。少し安心した。
●ダイエットを始めて、4週目。体が、軽くなった。現在、体重は、64キロ台。4・5
キロの減量である。減食にあわせて、毎日、自転車に1時間半ほど、乗っている。わざと
体をひねらせ、全身で汗をかくようにしている。目標は、とりあえずは、63キロ台。そ
のあたりで、一度、様子をみて、現状維持。
●台風21号は、去った。被害は、なし。よかった。講演をしたこともある、三重県のK
町では、洪水が起きたとか。死者も出た。担当をしてくれた教育委員会の人に、メールを
出そうかと迷っているうちに、一日が過ぎてしまった。ごめん!
●昨日(9・30)は、台風一過、秋晴れのさわやかな一日だった。ワイフと、近くの店
で弁当を買って、佐鳴湖畔で食べる。少し風が強かったが、おいしかった。
●今日は、ワイフは、テニスクラブへ。ワイフも、私と同じようにダイエットしているの
だが、ほとんど体重が減らない。「いつも隠れて何かを食べているんだろ?」と言うと、「そ
んなことはしていない」と。私は、ダイエットすれば、翌日から体重が減り始める。しか
しワイフは、そうではない。きっと脂肪が、細胞の奥深くまで入りこんでいるせいではな
いか。体質が、私とは、ちがうようだ。
●しかし空腹感というのは、いいかげんなものだ。寝る前にはあれほどあった空腹感が、
朝になっていると消えている。ダイエットというのは、その空腹感にいかに耐えるか……
つまり空腹感との戦いであるといってもよい。中学生の子どもにそれを話すと、「先生、リ
バウンドが楽しみ」などと、恐ろしいことを言う
●アメリカにいる孫に、幼児向けの雑誌を2冊、買ってくる。嫁さんが、「私にも役にたつ」
と書いてきてくれた。日本語を勉強しているようだ。昨日も、何冊か、本を送った。食べ
物を送ってやりたいが、今、規制がきびしい。前もって、インターネットで許可を取らな
いと、送れない。カップヌードル類は、税関で、すべて没収。
●今日から、10月。BW教室は、おかげで、どのクラスも、ほぼ満員になった。新しい
生徒を迎え、やる気、満々。プラス、体の調子ももどってきた。8月ごろは、どうなって
しまったのかと、心配かつ不安だった。今から思うと、太りすぎだったのかもしれない。
太りすぎると、脳間伝達物質の分泌が抑制されて、気分も落ちこむのかもしれない。勝手
な推測だが……。
●さて、今日は、午前中は、こうして原稿でも書くしかない。ワイフがテニスから帰って
きたら、近くの回転寿司店へ。私は4皿。ワイフも4皿。あとはショーガをモリモリ食べ
て、体脂肪を燃やしてやる。ハハハ。本当に、セコイ話です!
●SP2を導入してから、パソコンがおかしくなるは、プリンターが作動しなくなるは…
…。ともに修正モジュールをダウンロードして、実行。やっと、今朝になって解決。しか
しふと、考える。仮に何かのことで、リカバリーということになったら、すべてを、最初
からやりなおさなければならない。ゾーッ! ますますウィルス対策を強化することに!
あやしげなメールは、即、削除。それしかない。件名のところに、住所、名前のない人
からのメールは、すべて削除。容赦なく、削除。どうか、ご理解ください。
●あさっては、村の人たちに祭に招待されている。行くことにした。楽しみだ。(しかしこ
ういう予定は、公開日記には書かないほうが、よい。空き巣が、こういう日記を読みなが
ら、スキをうかがっているそうだ。しかし心配は、無用。息子が家を留守番をしてくれる
という。山荘のほうは、S警備保障会社が、常時、警備をしてくれている。念のため!)
インターネットでは、住所や電話番号は、公開してはいけない。生年月日も公開してはい
けない。多くの人は、そういうったものを利用して、パスワードを決めているからである。
ここにも書いたように、予定を書くなどということは、論外。「明日から、二泊三日で、沖
縄へ旅行」などと書くのは、空き巣に「来てください」と書くようなもの。
●ところでウィルスソフトの期限が、9月末で切れた。昨日、新しいソフトを買ってきた
ので、これから、それをインストール。ワイフのパソコンも、期限が切れた。M社のソフ
トの、2ユーザー用というのである。まずワイフのパソコンに先にインストール。安全と、
動作を確認したあと、私のパソコンに……。ハハハ。
●このところ毎日、11時から、プロ野球を見ている。昨日は、イチローは、1ヒット。
今日も応援するぞ。あと2本ヒットを打つと、歴代1位に並ぶそうだ。目が離せない!
+++++++++++++++++++++++
【今日の話題から……10月2日】
●NTTの固定電話料金が、値下げ!
今ごろ……と、あきれている。今度(05年1月)から、県外は、一律、一通話、15
円になるという!
そんなことは、10年前、20年前には、常識だった。当然、そうすべきだった! 郵
便局の手紙だって、全国一律料金。が、電話だけが、異常なまでに料金が、細分化されて
いる。しかも、高額!
アメリカでは、とうの昔から、基本料金以外は、市内通話はどこも、タダ。日本列島の
何倍も遠い距離に電話をかけても、日本の市内料金並。
この法外なまでに高額な料金のおかげで、日本のインターネット事情は、東南アジア各
国とくらべただけでも、10年は、遅れた!
今ごろ、値下げしても、遅すぎる!
●新義州地区、K国政府が開発事業を中断
K国が、K国北部、中国との国境近くに計画していた、新義州地区特別開発計画を、中
断したという(8月以後)。理由は、中国側の協力が得られないためらしい。
中国とK国の関係は、今、予想以上に、悪化している。
中国は、15万人の正規軍を、K国国境に配置。K国も、それに対抗するかのように、
38度戦にいた精鋭部隊を、中国との国境にはりつけた。
しかしそれにしても、こうまでコロコロと政策が変わったら、K国の人たちも、たまら
ないだろう。何か気に食わないことがあると、すぐ過剰反応。そのたびに、民衆だけが、
右往左往。
独裁国家というのは、独裁者の心情が、そのまま国政として反映される。この一貫性の
なさが、金XXの心情そのものと考えてよい。K国という国全体が、ヒステリー状態にな
っている?
ついでながら、今年の夏、K国の首都P市においてでさえも、スイカ1個の値段が、6
000ウオンだったという。一般勤労者の月給が、約2500ウオンというから、月給の
2か月分。(スイカ1個が、2か月分だぞ!)
中国は、今年に入ってから、中国からK国への米の輸出を、事実上、禁止している。し
かもK国ウオンの、実勢交換レートは、1アメリカドルが、1600ウオンだそうだ(中
朝国境沿いでの交換レート・朝鮮日報)。このレートで計算すると、勤労者の1か月平均給
与は、1ドル60セント。よくみて、2ドル。日本円になおすと、200円弱。
はっきり言えば、K国ウオンは、紙くずに等しい。
そこで金XXは、最後の手段として、核兵器やミサイルを持ちだした。「開発をやめてほ
しかったら、金を出せ!」と。私たち日本人にしてみれば、とんでもない論理だが、その
(とんでもなさ)さえわからないほど、K国の常識は、今、混乱している。
肝心の中国からも見放され、さあ、どうする! 金XX!
●イチローが、257号!
見たぞ、その瞬間! たった今、イチローが、257本目のヒットを打った。同時に花
火があがった。観客は、総立ちで、拍手。
涙がこぼれた。うれしかった。イチローは、ファーストベースで、帽子をとって、皆に
あいさつをしていた。
今日は外出の予定だったが、ワイフと、野球の声援をすることにした。時は、10月2
日、日本時間、午前11時45分。これからまた居間へ……。ごめん!
今日の日記は、ここでおしまい!
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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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はやし浩司(ひろし)
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