はやし浩司(ひろし)

2005・1
はやし浩司
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2005年 1月号
 はやし浩司


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 31日(No.523)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(おわび)

 正月休みのため、あまり原稿が書けませんでした。以前、書いた原稿を、送ります。
 二度目になる方は、どうか、許してください。(1月3日記)

+++++++++++++++++++++

●音読と黙読は違う

 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。

たとえば算数の文章題。読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、
など。あちこちの数字を集めて、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてう
ちの子は、問題をよく読まないのでしょう」とか、「そそっかしくて困ります」とか言う
が、ことはそんな簡単なことではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、
一度自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつ
かさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理
解する。つまり右脳がそれをつかさどる。

音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読
では文を読むことができない。そんなわけで子どもが文字をある程度読むことができる
ようになったら、黙読の練習をさせるとよい。

方法は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。ある研究団体の調査によれば、黙
読にすると、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちることが」わかってい
る(国立国語研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、
あえて音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と
言って、問題を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかっ
た!」と言って、問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こう
する。

問題そのものを、別の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くこと
によって、文字の内容を「音」ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間は
かかるが、黙読が苦手な子どもには、もっとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもち
ろんのこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみて
はいけない。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●計算力は早数えで

 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみせ
てほしい。

早く数えることができる子どもは、五秒前後の間に、二〇回前後の音を数えることがで
きる。そうでない子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どうしても
遅くなる。

 そこで子どもが一〜三〇前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよ
い。最初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン…
…」になり、さらに「イ、ニ、サ……」となる。

さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、ピッ……」と、信号にかえて数えることがで
きるようになる。これを数の信号化という。こうなると、五秒足らずの間に、二〇個く
らいのものを、瞬時に数えることができるようになる。そしてこの力が、やがて、計算
力の基礎となる。たとえば、「3+2」というとき、頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、
ピッ、ピッで、5」と計算するなど。

 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うち
の子は計算が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習を
してみるとよい。ただし一言。

 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数
の力があるということにはならない。たとえば小学一年生でも、神業にように早く、難し
い足し算や引き算をする子どもがいる。

親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪いというのではない)、それは少し待
ってほしい。計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単なことではな
い。子どもというのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得を
した、損をした」という日常的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、
子どもをして、算数ができる子どもにする。そういう日常的な経験も忘れないように!
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●はだし教育を大切に

 以前、動きがたいへんすばやい子ども(年長男児)がいた。ドッチボールをしても、い
つも最後まで残っていた。そこで母親に秘訣を聞くと、こう話してくれた。「乳幼児期は、
ほとんど、はだしで過ごしました。雨の日でもはだしだったので、近所の人に白い目で見
られたこともあります」と。その子どもは二歳になるときには、うしろ向きにスキップし
て走ることができたそうだ。

 子どもの敏捷(びんしょう)さを養うには、はだしがよい。子どもというのは足の裏か
らの刺激を受けて、その敏捷性を養う。反対に分厚い底の靴に、分厚い靴下をはいて、ど
うして敏捷性を養うことができるというのか。

一つの目安として、階段をおりる様子を観察してみればよい。敏捷な子どもは、スタス
タとリズミカルに階段をおりることができる。そうでない子どもは、手すりにつかまっ
て一段ずつ、恐る恐るおりる。階段をリズムカルにおりられない子どもは、年中児で一
〇人に一人はいる。

あるいは傾いた土地や、川原の石ころの間を歩かせてみればよい。敏捷な子どもは、ピ
ョンピョンと平気で飛び跳ねるようにして歩くことができる。そうでない子どもはそう
でない。もしあなたの子どもの敏捷性が心配なら、今日からでも遅くないから、はだし
にするとよい。あるいはよくころぶ(※)とか、動作がどこか遅いというようなときも、
はだしにするとよい。

(分厚い靴や分厚い靴下をはきなれた子どもは、はだしをいやがるが、そうであるなら
なおさら、はだしにしてみる。)

 この敏捷性はあらゆる運動の基本になる。言い換えると、もともと敏捷さがあまりない
子どもに、あれこれ運動をさせてもあまり上達は望めない。(はやし浩司のサイト:
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(※……ころびやすい子どものばあい、敏捷性だけでは説明がつかないときもある。そう
いうときは歩く様子をまうしろから観察してみる。X脚になって足が互いにからむようで
あれば、一度小児科のドクターに相談してみるとよい。)
 
【付記】

 この私の意見に対して、こう反論してきた人がいた。

 「アメリカ人は、生まれたときから、クツをはく。しかしみな、足が速い。クツをはか
せるから、運動能力が落ちるというのは、あんたの迷信だ」と。

 かわいそうな人である。私は、どこにも、「足が速くなる」とは、書いていない。「敏捷
性がよくなる」、つまり、「動きが機敏になる」と書いている。どうか、誤解のないように!

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●文字の前に運筆練習を

 文字を書くようになったら、(あるいはその少し前から)、子どもには運筆練習をさせる
とよい。

一時期、幼児教育の世界では、ぬり絵を嫌う時期もあったが、今改めてぬり絵のよい点
が見なおされている。子どもはぬり絵をすることで、運筆能力を発達させる。ためしに
あなたの子どもに丸(○)を描かせてみるとよい。

運筆能力の発達した子どもは、きれいな(スムーズな)丸を描く。そうでない子どもは
多角形に近い、ぎこちない丸を描く。言うまでもなく、文字は複雑な曲線が組み合わさ
ってできている。その曲線を描く力が、運筆能力ということになる。

またぬり絵でも、運筆能力の発達している子どもは、小さな四角や形を、縦線、横線、
あるいは曲線をうまく使ってぬりつぶすことができる。そうでない子どもは、横線なら
横線だけで、無造作なぬり方をする。

 ところでクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは、親指、人差し指、それ
に中指ではさむようにしてもつ。鉛筆は、中指の横腹に鉛筆を置き、親指と人差し指で支
えてもつ。鉛筆をもつようになったら、一度、正しい(?)もち方を練習するとよい。

(とくに正しいもち方というのはないが、あまり変則的なもち方をしていると、長く使
ったとき、手がどうしても疲れやすくなる。)ちなみに年長児で約五〇%が鉛筆を正しく
(?)もつことができる。残りの三〇%はクレヨンをもつようにして鉛筆をもつ。残り
の二〇%は、それぞれたいへん変則的な方法で鉛筆をもつ。

 さらに一言。一度あなた自身が鉛筆をもって線を描いてみてほしい。そのとき指や手、
さらには腕がどのように変化するかを観察してみてほしい。たとえば横線は手首の運動だ
けで描くことができる。しかし縦線は、指と手が複雑に連動しあってはじめて描くことが
できる。さらに曲線は、もっと複雑な動きが必要となる。何でもないことのように思う人
もいるかもしれないが、幼児にとって曲線や円を描くことはたいへんな作業なのだ。

 「どうもうちの子は文字がへただ」と感じたら、紙と鉛筆をいつも子どものそばに置い
てあげ、自由に絵を描かせるようにするとよい。ぬり絵が効果的なことは、ここに書いた
とおりである。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●頭をよくする方法

 もう一五年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」という雑誌に、こんな論文が
載った。「ガムをかむと頭がよくなる」と。この世界ではもっとも権威ある雑誌である。で、
その話を母親たちの席で話すと、「では……」と言って、それを実行する人が何人か出た。

で、その結果だが、たとえばN君は、数年のうちに本当に頭がよくなってしまった。I
君もそうだった。これらの子どもは、年中児のときからかみ始め、小学一、二年になる
ころには、はっきりとわかるほどその効果が表れてきた。N君もI君も、幼稚園児のと
きは、ほとんど目立たない子どもだった。どこかボーッとしていて、反応も鈍かった。
が、小学二年生のころには、一〇人中、一、二番を争うほど、積極的な子どもになって
いた。
 
で、それからもこの方法を、私は何一〇人(あるいはそれ以上)もの子どもに試してき
たが、とくに次のような子どもに効果がある。どこか知恵の発育が遅れがちで、ぼんや
りしているタイプの子ども。集中力がなく、とくに学習になると、ぼんやりとしてしま
う子どもなど。

 ガムをかむことによって、あごの運動が脳神経によい刺激を与えるらしい。が、それだ
けではない。この時期まだ昼寝グセが残っている子どもは多い。子どもによっては、昼ご
ろになると、急速に集中力をなくしてしまい、ぼんやりとしてしまうことがある。が、ガ
ムをかむことによって、それをなおすことができる。五、六歳になってもまだ昼寝グセが
残っているようなら、一度ガムをかませてみるとよい。

 なおガムといっても、菓子ガムは避ける。また一つのガムを最低でも三〇分はかむよう
に指導する。とっかえひっかえガムをかむ子どもがいるが、今度は甘味料のとり過ぎを心
配しなければならない。息を大きく吸い込んだようなとき、大きなガムをのどにひっかけ
てしまうようなこともある。走ったり、騒いでいるようなときにはガムをかませないなど
の指導も大切である。

もちろんかんだガムは、紙に包んでゴミ箱に入れるというマナーも守らせるようにした
い。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●子どもに子どもの育て方を

 子どもに子どもの育て方、つまりあなたから見れば孫の育て方を教えるのが子育て。「あ
なたがおとなになり親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふ
うに子どもを叱るのですよ」と。つまり子どもに子育ての見本を見せる。見せるだけでは
足りない。しっかりと体にしみこませておく。

 数年前だが、厚生省が発表した報告書に、こんなのがあった。「子育ては本能ではなく、
学習である」と。

つまり人間というのは(ほかの高度な動物もそうだが)、自分が親に育てられたという経
験があってはじめて、自分が親になったとき子育てができる。たとえば一般論として、
人工飼育された動物は、自分では子育てができない。人間はなおさらで、つまり子育て
というのは、本能でできるのではなく、「学習」によってできるようになる。が、それだ
けではない。

もしあなたがあなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っている
なら(当然だが……)、今あなたはここで、心豊かで温かい家庭とはどういうものかを子
どもに見せておかねばならない。あるいはそういう環境で子どもを包んであげる。さら
に「父親とはこういうものです」「母親とはこういうものだ」と、その見本を見せておく。
そういう経験が体にしみこんでいて子どもははじめて、自分が親になったとき、自然な
形で子育てができるようになる。

 そこで問題はあなた自身はどうだったかということ。あなたは心豊かで温かい家庭で育
てられただろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、一度あなたの子育
てを見なおしてみたほうがよい。あなたの子育てはどこかぎこちないはずである。

たとえば極端に甘い親、極端にきびしい親、あるいは家庭をかえりみない親というのは、
たいてい不幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい。つまりしっかりとした「親像」
が入っていない。が、問題はそのことではなく、そのぎこちなさが、親子関係をゆがめ、
さらにそのぎこちなさを次の世代に伝えてしまうこともある。しかしあなた自身がその
「過去」に気づくだけで、それを防ぐことができる。

まずいのはその「過去」に気づくことなく、それにいつまでも振り回されること。そし
てそのぎこちなさを次の世代に伝えてしまうことである。(はやし浩司のサイト:
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●教えるより好きにさせる

 子どもに何かを教えるときは、「教えよう」という気持ちはおさえて、「好きにさせる」
ことを考えてする。あるいは「覚えたか」ではなく、「楽しんだか」を考えてする。

これを動機づけというが、その動機づけがうまくいくと、あとは子ども自身の力で伸び
る。要はそういう力をどのように引き出すかということ。たとえば文字学習についても、
文字そのものを教える前に、文字は楽しい、おもしろいということを子どもにわからせ
る。

まずいのは、たとえばトメ、ハネ、ハライ、さらには書き順や書体にこだわり、子ども
から学習意欲を奪ってしまうこと。私も少し前、テニススクールに通ったが、そこのコ
ーチは、スタイルばかりにこだわっていた。(私はストレス解消のため、思いっきりボー
ルを叩きたかっただけだが……。)おかげで私はすぐやる気をなくしてしまった。

 つぎに大切なことは、動機づけをしたら、あとは時の流れを待つ。イギリスの格言にも、
「馬を水場へ連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というのがある。
最終的に「する、しない」は、子ども自身が決めるということ。

……と書くと、「それでは遅れてしまう。まにあわない」という人がいる。しかしそれが、
子どもの能力。よく親は「うちの子はやればできるはず」と言うが、「やる、やらない」
も能力のうち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思い、あきらめ
る。このあきらめが親子の間に風をとおす。親があせればあせるほど、その分だけ、子
どもの伸びは鈍化する。いわんや子どもを前にしてイライラしたら、子どもの勉強から
は手を引く。

 好きにさせるということは、子どもに楽しませること。また幼児期や小学校の低学年時
には、あまり勉強を意識せず、「三〇分すわって、それらしきことを五分もすればじょうで
き」と思うこと。またワークにしてもドリルにしても、半分はお絵かきになってもよい。
勉強といっても、何も作法があるわけではない。床に寝そべってするのもよし、ソファに
座ってするのもよし。そのうち子ども自身がもっとも能率のよい方法をさがしだす。そう
いうおおらかさが子どもを伸ばす。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●笑えば伸びる

 子どもの心を開放させるもっとも効果的な方法は、笑わせること。何かおもしろいこと
があったとき、大声でゲラゲラ笑うことができる子どもに、心のゆがんだ子どもはまずい
ない。

しかし今、大声で笑えない子どもがふえている。年中児で一〇人のうち、一〜二人はい
る。皆が笑っているようなときでも、顔をそむけてクックッと苦しそうに笑うなど。親
の威圧的な過干渉、息の抜けない過関心が日常化すると、子どもの心は萎縮する。

 「ゆがむ」ということは、その子どもであって、その子どもでない部分があることをい
う。たとえば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えるうちは、静かで穏やかな様子を見
せるが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあげて、親のあ
とを追いかけたりする。

そういう子どもを観察してみると、その子ども自身の「意思」というよりは、もっと別
の「力」によってそう動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであ
って、その子どもでない部分」ということになる。そういう子どもの心を表す言葉とし
ては、日本語にはつぎのようなものがある。ねたむ、ひねくれる、つっぱる、いじける、
こだわる、すねるなど。そういった症状が見られたら、子どもの心はどこかゆがんでい
るとみてよい。

 私は幼児を教えるようになってもう三〇年になる。そういう経験の中で、私はいつも子
どもを笑わせることに心がけている。

だいたい一回の学習で、五〇分ほど教えるが、その五〇分間、ずっと笑わせつづけると
いうこともある。とくに心のどこかに何らかのキズをもっている子どもにはこの方法は、
たいへん有効である。軽い情緒障害なら、数か月でその症状が消えることも多い。が、
それだけではない。

子どもは笑うことにより、ものごとを前向きにとらえようとする。学習の動機づけには、
たいへんよい。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」というのがある。「楽
しかった」という思いが、子どもを伸ばす原動力になる。(はやし浩司のサイト:
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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●家族のきずな「弱くなっている」84%

 読売新聞社が実施した、「家族」に関する全国世論調査(面接方式)が、公表された(0
50102)。それによると、「今、大切なものとして『家族』と答えた人が。9割にのぼ
ったものの、家族のきずなやまとまりが『弱くなってきている』と思う人は、84%に達
した」というのだ。

 読売新聞は、「家族への信頼が根強い反面、家族の多様化や社会環境の劣悪化の中で、

族のあり方に不安を抱く人が増えているようだ」と分析している。

 1985年にも、同様の調査が行われたというが、それとくらべても、47%より、3
6ポイント減で、家族のきずなが弱くなってきていると見る人が大幅にふえているという。

 家族のきずなが弱くなっていると思う要因(複数回答)については、

親の権威の低下……44%、が最も多かった。
少年犯罪の増加、離婚の増加、1人暮らし世帯の増加……いずれも40%だった。

 最近の家族関係の問題点を聞いたところ、「子供のしつけをきちんとできなくなってきて
いる」と思う人が87%に達したという。

また、「家族のまとめ役になる人がいなくなってきている」と思う人は70%、「家族の
中で、お年寄りを大事にしなくなってきている」と感じる人は64%を占めたという。

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざと
いうとき、家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大き
く上回った。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親
と子供だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

++++++++++++++++++++++++

 もう少しわかりやすく言うと、日本人の90%が、「家族」が大切だと感じている反面、
その家族のあり方に不安をいだいているということになる。家族意識が高くなったが、そ
れをどう形にするか、その一歩手前で、日本人の多くが、とまどっているということにな
る。

 言いかえると、日本人は、今まで、あまりにも、「家族」を、ないがしろにしすぎてきた、
ということになる。たとえば私が学生時代のころは、あらゆる面において、仕事が第一。「家
族か、仕事か」と問われれば、だれしも迷わず、「仕事」と答えていた。

 問題は、ここにも書いたように、では、どうやってその家族を大切にするか、である。
が、残念なことに、私たちの頭の中には、その方法が、インプットされていない。家族を
大切にする生活がどのようなものであるかということさえ、本当のところ、何もわかって
いない。

 ただ単に、毎日を享楽的に生きればよいということでもない。子どもに楽をさせるとい
うことでもない。みながみな、ほしいものを手に入れれば、それでよいということでもな
い。

 家族を大切にするということは、たがいに助けあい、励ましあい、教えあい、守りあい、
支えあうことをいう。もっと言えば、一人ひとりが、一個の人間として、たがいに尊重し
あい、認めあうことをいう。

 ここで読売新聞は、「親の権威」という言葉を使っている。しかし、これこそ、まさに時
代錯誤。親の権威が弱くなったから、家族がバラバラになったのではない。またそれがな
いから、不安になっているのでもない。

 権威で家族をまとめる時代は、もうとっくの昔に終わった。しかしその権威にかわるも
のが、まだ育っていない。そういう意味では、日本人が今もち始めている家族意識は、未
発達の段階にあるとみてよい。

 この問題は、これからも考えていきたい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1月31日号

 この原稿を書いているのは、1月2日。本来なら、とっくの昔に、1月31日号(マガ
ジン)の発行予約を入れていなければならない。しかし、この1週間、あれこれと本当に
忙しかった。原稿を書くヒマがなかった。それで今、あわてて、1月31日号の原稿を書
いている。

 どうしたものか?  

 ……というのも、内容の浅い原稿など、いくら書いても、意味がない。読んでくれる人
に、申しわけない。そうそうおまけに、このところ、頭の働きが鈍くなったように思う。
何を考えても、「どうでもいいや」という、どこか投げやりの気持ちばかりが、先に立つ。

 で、今夜も、いくつか相談のメールが届いている。それをテーマにして、いろいろ考え
てみたい。


●テーマ

 その前に……。

相談としていただいたメールを、そのまま引用することはできない。転載するにしても、
相手の方の了解が必要である。しかしこれが結構、たいへん。めんどう(失礼!)。約8
割くらいの方は、「転載してもよい」と了解してくれる。しかし残りの人は、転載を断っ
てくる。

 (だからといって、転載を許可してくれない人を、責めているのではない。どうか、誤
解のないように。)

 そこで私は、いただいた相談内容にそって、つまりそれをテーマにして、原稿を書く。
それが、私がいうところの「テーマ」である。たとえば子どもの奇行(そのほとんどは、
心身症による諸症状)についての相談があったとする。そういうときは、心身症をテーマ
にして、原稿を書く。その原稿の中で、その人の問題について、それとなく触れる。

 が、それでも、怒ってくる人がいる。少し前だが、「他人の不幸をダシにした」と抗議し
てきた人がいた。私は、ただ平身低頭、あやまるしかなかった。そういうことも、たまに
ある。

 だからこのところ、読者のみなさんからいただいた相談については、テーマとして、取
りあげることが多くなった。どうか、ご了解の上、許してほしい。


●雑学

 近くのコンビニで、おもしろい本を買った。『お客に言えない、お店のカラクリ』(青春
出版社)という本である。値段は、コンビニ価格の、500円。安い!

 本の宣伝もかねるので、多少の引用は、許してもらえると思う。(もちろん私と青春出版
社とは、関係ない。あるとすれば、昔、私の友人のM氏が、その出版社から出している、
『ビッグ・ツゥモロー』という雑誌の、編集長をしていた。それだけ。)

★機内食には使えない食材……イモ。ガスの心配があるからそうだ。
★ホテルの客室の冷蔵庫に水を置かない理由……愉快犯による毒物混入を防ぐため。
★不景気のときほどよくなる福袋の中身……福袋で、在庫処分するため。
★フランス料理に煮込み料理が多いわけ……いつも熱い料理が出せるから。
★乗る飛行機でちがう命の値段……日本の航空会社は、補償金の限度額を撤廃している。
つまり乗るなら、日本の航空会社の飛行機、などなど。

 「なるほど」と笑ったり、「そう言えば、そうだったのか」と、納得してみたり……。一
つだけ、そのまま転載したい記事があった。これも、その本の宣伝のためと、許してほし
い。(私が買った本は、いつもベストセラーになるぞ!)

【子どもが生まれるともらえる給付金】(同書、151頁)

(1)出産育児一時金

 健康保険から支給される。
 子ども1人あたり、30万円。
 妊娠4か月を過ぎていれば、流産、死産でも支給される。

(2)出産手当金

 勤めている女性が、妊娠、出産で仕事を休み、給料をもらえなかったときに支給される。
 退職しても、6か月以内に出産すれば、支給の対象になる。
 そのときは、金額は、日給の6割。

(3)育児休業給付金

 男女を問わず、育児休業をとっている間に、給料がまったく支払われないか、休業前の
8割にダウンしたときは、「育児休業基本給付金」が支給される。
支給金額は、休業前の給料の3割。

(4)児童手当

 義務教育就学以前の子どもを養育している人に支給。所得制限がある。
 第1子、第2子は、それぞれ月額5000円。
 第3子以後は、月額1万円。

(はやし浩司 児童手当 育児休業給付金 出産手当金)

【付記】

 その「お店のカラクリ」という本を読んでいて、一つ、思い当たることがあった。

 実は、私の住んでいる地域には、30年ほど前から、大きなショッピングセンターがあ
る。その店の名前を、「JJ」としておく。

 この一店舗だけでも、このあたりの商圏をじゅうぶんにカバーできるほど。大きい。そ
のため地元の商店街は、この30年間で、ほとんどが姿を消した。2、3キロ離れたとこ
ろにあるライバル店の「NG」も、今や風前のともし火。

 しかし、である。今年になって、その「JJ」をさらに上回る、超大型店の、「JJ2」
ができた。都会のデパートを、3、4個くっつけたほど、大きなショッピングセンターで
ある。「東海第一」と言われるほど、大きい。

 その「JJ」と、「JJ2」は、距離にして、2キロも離れていない。

 そこで素人の私は、「?」と思った。同じ地域に、2つの巨大ショッピングセンター! 常
識で考えれば、おかしなことである。共倒れの危険性がある。

 しかしその「お店のカラクリ」を読むと、どうも、そうでなないようだ。

 こういうことだ。

 「JJ」は、昔からある大型ショッピングセンター。が、もしその近くに、他の系列の
「YY」ができたらどうなるか? たがいに価格競争を始め、それこそ共倒れになってし
まう。

 そこで、(実際に、そうであるかどうかは、知らないが)、「JJ」は、他の系列のショッ
ピングセンターの参入を防ぐために、あえて、自分の系列の「JJ2」を並べた。つまり
こうすれば、この地域の商圏を、完全に自分の支配下に置くことができる。

 一度、支配下におけば、あとは自由に、価格の設定ができる。競争相手(ライバル)が
いないのだから、これは当然である。(そういえば、「JJ」での価格が、全体に上昇した
ような感じがするぞ! これは私の気のせいか?)

 事実、「JJ」は、「JJ2」を開店するにあたって、他の系列の「IT」と、出店権を
取りあって、競ったという。その結果、「JJ」が勝って、「JJ2」を開店した。

 ここに書いたことはすべて、風聞と、私の憶測によるものだが、こうして考えていくと、
「ナルホド!」と合点がいくことが多い。

 しかし同時に、この浜松市は、本当に市民のことを考えているのだろうか、という疑問
もわいてくる。

 その「JJ」と「JJ2」の話は別として、一つの地域が、一つの系列のショッピング
センターの支配下におかれるのは、まずいのでは? 地域の住民たちが、かえって高価な
ものを買わせられることになる。ほかに店がなければ、そうなる。

 やはり同一地域には、別系列のショッピングセンターを置き、たがいに競争させたほう
がよい。「JJ」と、「IT」が、たがいに競争したほうがよい。そのほうが、私たち住民
にとっては、便利である。

 ……というようなことまでは、その本には、書いてない。しかし私はその本を読んでい
て、そんなことを考えた。みなさんは、私の意見を、どう思うだろうか。


●兄の介護

 私の家に来たころは、ワイフと私の、2人がかり、しかも24時間体制での介護が必要
だった。

 が、その兄も、ここでの生活に少しずつなれ、短い間なら、留守番までしてくれるよう
になった。まあ、いろいろあるが、ここはがんばるしかない。

 しかし世の中には、心ない人もいるものだ。一人の知人からの年賀状には、こういう添
え書きがしてあった。「これで○○さん(私の実姉)も、楽になってよかったですね」と。
私が兄を引き取ったから、姉が楽になったというのだ。

 私は、その年賀状を、こなごなにして、破って捨てた。ただの野次馬のクセに!

 ……そう言えば、昔、こんなことを言う人がいた。

 「何がいやかといって、あなたは親孝行の娘だねと言われることぐらい、いやなことは
ない。私は何も、好きでこのんで、親孝行をしているのではない。見るにみかねて、そう
しているだけ。親孝行の娘だと言われると、何だか、それを請求されているみたいで、い
やだ」と。

 その女性(60歳くらい)は、義母(90歳くらい)の介護をしていた。

 どうであるにせよ、つまりその人に同情するにせよ、ほめるにせよ、あるいは批判する
にせよ、とにかく他人の家庭の問題には、干渉しないこと。それはこの世界を生きる、大
原則のように、思う。


●あと3枚

 1月31日号のマガジンを、発行しなければならない。(今日は1月3日。)

 しかし何とか、17枚(A4サイズ、1600字/1枚)までは書いた。毎回、最低で
も20枚と決めている。で、あと3枚。

 刻々と、時間だけは過ぎていく。このあと、年賀状の返事を書いて、夕食の準備もしな
ければならない。休日は、できるだけ台所に立つようにしている。

 このところ正月ボケと運動不足、それに刺激不足。やはり子育て論というのは、子ども
を見ていて、書けるもの。見ていないと、書けない。この1週間、子どもの顔すら見てい
ない。

 そこで改めて、子ども(生徒)たちから届いた年賀状を見る。どの年賀状も、手書きで、
一生懸命、書いてある。返事を出さないわけには、いかない。さあ、どうしようか……。

 ……と考えているとき、ふと頭の中を横切ったことがある。保護と依存の問題である。
それについて、書いてみる。

+++++++++++++++++

この世の中には、(世話をする人)と、(世話をされる人)がいる。

 むずかしく言えば、保護と依存の関係ということになる。保護する立場の人は、何かに
つけて、保護を前提として考えてしまう。依存性のある人は、いつもだれかに頼ろうとす
る。

 こうした関係が長くつづくと、やがてそれが当たり前になってしまう。保護する人も、
依存する人も、そうであることにさえ気がつかなくなってしまう。

 こんな例で考えてみよう。

 「ある橋の上に、少し頭のおかしい男がいた。若い女性を見ると、襲いかかって、レイ
プする。

 で、ある夜、その橋を、1人の若い男と、1人の若い女性が通りかかった。2人は、恋
人どうしだった。

 それを見た、少し頭のおかしい男が若い女性に襲いかかった。女性は、その男につかま
った。が、そばにいた、その恋人の男性は、それを見て、逃げてしまった。女性は、その
少し頭のおかしい男に、レイプされてしまった」

 この話を読んで、あなたはどう思うだろうか。多分というより、きっとあなたはこう思
うにちがいない。「その恋人の男性は、何て、情けないヤツだ。命をかけてでも、その女性
を守るべきだった」と。

 だれが悪いかと聞かれれば、あなたは、「若い恋人の男性だ」と答える。

 たしかにそうかもしれない。その若い男性は、恋人を助けるべきだった。(実際には、逃
げるような男性はいないと思う。)が、こういうケースでは、その少し頭のおかしい男性は、
問題にならない。若い男性ばかりが、問題になる。

 しかし本当に悪いのは、だれか? 

 似たような問題を出すと、子どもたちなら、「その少し頭のおかしい男」と答える。

 実は、その通りである。本当に悪いのは、その頭のおかしい男である。女性を襲い、レ
イプした、その男である。逃げた男性ではない。

 こうした問題では、無意識のうちに、私たちは、その人の保護と依存の関係を前提にし
てものを考えてしまう。恋人なのだから、相手の女性を保護すべきだった、と。そして頭
のおかしい男のことを忘れてしまい、問題の本質から、目をそらしてしまう。

 保護と依存には、そういう問題も含まれる。もう少し、この問題を、つっこんで考えて
みよう。

 たとえば実際に、こんな事件があった。

 ある県のある地方で、まれにみる集中豪雨が起きた。そのためその地域の人たちは、洪
水に見舞われてしまった。で、その洪水について、その地域の人たちは、「洪水が起きたの
は、市の行政の怠慢が原因である」と考えた。町の町長を訴えた。

 それまでにいきさつがいろいろあったのかもしれない。しかしざっとこの話を聞いたと
き、私は「?」と思った(失礼!)。町長はそこまで責任を負わねばならないのかと思った
が、それと同時に、その地域の住民たちは、そこまで町に依存してよいものか、と。

 このケースでも、目立つのは、その地域の人たちの依存性である。恐らくその依存性が
あることすら、その地域の人たちは、気づいていないのではないか。「町は、住民を保護す
べきである」という考え方が、半ば常識化してしまい、その結果として、自分たちの依存
性に気がつかなくなってしまった?

 そう決めてかかるのは、たいへん失礼なことかもしれない。ここにも書いたように、マ
スコミの報道だけではうかがい知ることができない、それまでの、長い、別の事情があっ
たのかもしれない。

 ……と話が複雑になってしまったが、このことは、実は、親子関係についても、言える。

 今、子どもの学費を捻出するために、それこそ爪の灯をともすようにして、家計を切り
つめて生活している親は多い。2つも3つも、パートの仕事をかけもちしている人だって
いる。

 こういうケースでも、親子の間にあるのは、保護と依存の関係と言ってもよい。親は徹
底的に子どもを保護し、子どもは、これまた徹底的に親に依存する。つまり私が言いたい
のは、こうした保護と依存の関係は、一度できると、それにすら気づかなくなるというこ
と、それが当然という前提で、ものごとを考えてしまう。

 そこで私は、自分の身のまわりを考えてみる。そしてその身のまわりには、(世話をする
人)と、(世話をされる人)がいるのを知る。その関係は、いつも一方的なもので、世話を
する人は、いつもだれかを世話している。世話をされる人は、いつもだれかに世話をされ
ている。

 大切なことは、世話をする人も、世話をしすぎて、相手に依存心をもたせないことであ
る。これは、実は、子育ての奥義(おうぎ)と言ってもよいのでは……。

 ……ということで、3枚の原稿を書いた。どこかいいかげんな原稿なので、ここまで読
んでくれた人には、心から感謝したい。これで1月31日号を発行できる。

【お願い】

 みなさんの周辺で、この私のマガジンに興味をもってくださいそうな人がいたら、どう
か、このマガジンの話をしてあげてください。よろしくお願いします。私はあえて、読者
のみなさんに、依存します。

                            はやし浩司

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○       
.        =∞=  // (奇数月用)12
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 28日(No.522)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものストレス

 心と病気は、密接に関連している。そのよい例が、心身症である。

 心が恒常的にストレスを受けると、体は、さまざまな反応を示す。子どもによく見られ
る代表的なものとして、胃潰瘍などの消化性潰瘍(かいよう)、摂食障害(過食、拒食症、
食欲不振症)、過敏性腸症候群、夜驚症、円形脱毛症などがある。
 
 こうした心身症は、大きく、(1)社会的、心理的ストレスが原因による、現実心身症と、
(2)親の冷淡、無視、拒否的育児姿勢などが原因による、性格心身症に分けて考える。
福井県に住んでいるAさん(母親)から、こんな相談があった。

 Aさんの兄夫婦の子ども(10歳男児)についての、相談である。

 「兄嫁が、人前ではおだやかなのですが、子どもを愛せないタイプの女性です。プライ
ドが強く、自分の思いどおりに子どもが行動しないと、子どもを叱ります。そのため、子
どもは、ハキがなく。いつもオドオドしています。子どもなのに、もう何度も、胃潰瘍(か
いよう)を起こして、病院の世話になっています」と。

 こういうケースでは、生活環境を変えるのが、一番、よい。しかしそれは同時に、子ど
もを親から引き離すことを意味する。しかし目立った虐待でもあれば話は別だが、そうで
なければ、実際には、むずかしい。

 で、つぎの方法としては、母親に、ことの重大さを理解してもらい、心身症について知
ってもらうことである。しかしAさんのメールによれば、「兄嫁は、『この子は、生まれつ
きそうで、私のせいではない』と言っています」とのこと。罪の意識そのものが、ない。

 こういうケースは、多い。親自身が、自分勝手でわがまま。自己中心的で独善的。「うち
の子どものことは、私が一番よく知っている」「私のしていることが一番正しい」と信じき
っている。他人の話を聞かない。言うなれば、自己愛者。完ぺき主義で、他人からの批判
を許さない。

 Aさんがそれとなくその兄嫁に、「もう少し子どものしたいようにさせてあげたら」と言
ったこともあるという。しかしとたん、その兄嫁は、Aさんを避けるようになったという。
そればかりか、ことあるごとに、Aさんを嫌うようになったという。

 しかしこうなると、もう処置なし! こうした母親は、やがて底なしの悪循環に入り、
行き着くところまで、行く。が、そこで気がつけば、まだ、よいほう。たいていは、そう
いう状態になっても、気がつかない。

 最近では、その兄嫁は、こう言っているという。「私は、この子を置いては、先に死ねま
せん」と。ちょっと聞くと、子ども思いのよい母親に見えるかもしれないが、その実、子
どもの人格など、みじんも考えていない。そうなる。

 世にいろいろな親はいるが、では、そういう親にならないためには、どうするか? 方
法は、簡単! 私のマガジンを読むこと! その一語に尽きる!
(はやし浩司 心身症 神経症 現実心身症 性格心身症)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●自分勝手な親

 いつも親の悪口を書くが、決して、親の悪口を書いているのではない。私が親の悪口を
書くのは、私たちという親は、子どもに対してそうであってはいけないということ。そう
いう意味をこめて、そう書く。

私やあなたの親を批判しているのではない。私やあなたが、親として、どうあるべきか
について、いつも書く。親であるということは、それだけでも、きびしいこと。そのき
びしさを自覚することが、よい親子関係、ひいては、よい家族をつくる前提となる。

 たとえば、こんなことを言う親がいたとしよう。あなたは、この親を、どう思うだろう
か。

 「私は、親孝行のいい息子と、親思いのいい娘をもって、幸せだ。私ほど、幸せな親は、
いない」と。

 この日本では、よく聞かれる言葉である。ひょっとしたら、あなたも、日常的に、そう
言われているかもしれない。しかし、もう一度、この言葉を、よく読んでみてほしい。そ
の親は、「孝行息子をもって、幸せだ」と言っている。

 で、この言葉をよく読むと、実は、この親は、自分のことしか考えていないのが、わか
る。自分を中心に据えて、そこから子どもを見ている。そのために、子どもがどれだけ苦
労しているか、あるいは苦労をさせられているかについては、考えていない。

 さらに、親のためなら、子どもは犠牲になって当然と考えているフシも感じられる。つ
まりは、この親は、自分勝手な親ということになる。

 もっとも戦前までの教育を受け、古典的な忠孝論が骨のズイまでしみこんだ人は、こう
したものの考え方をしやすい。たいていは親・絶対教の信者で、「親があっての子ども」と
考える。だから子どもが親のために犠牲になるのは、当然と考える。あるいは犠牲になっ
ていること自体に気がつかない。

 「私は親孝行の息子(娘)をもって、幸せだ」と言う親は、ふつうこのタイプの親と考
えてよい。

 そこで問題は、もしあなたの親が、そうであったら、どうするか。

 私もいろいろなケースに当たってきたが、結論から先に言えば、あきらめて、適当にあ
しらってつきあうしかないということ。この問題は、親自身の生きザマの問題に関係して
いる。カルト的ですらある。実際、こうした忠孝論を柱にして活動している、教育団体(?)
も少なくない。つまりそれを否定しても、意味はないということ。

 否定して引き起こす混乱を考えるなら、妥協してつきあうほうが、よほど楽。摩擦(ま
さつ)も少なくてすむ。

 が、しかしあなたはそうであってはいけない。もしあなたが日常的に、あなたの子ども
に、「私はいい息子(娘)をもって幸せだ」と言っているようなら、ここに書いたことを参
考に、一度、自分自身をみつめなおしてみてほしい。あなたは自分勝手な親ではないか、
とである。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●不安の構造

 不安の構造の原点にあるのが、母親の喪失感であると説いたのは、あのフロイトである。
つまり母親を失うことに対する不安が原型となって、その人の不安感をつくるというわけ
である。

 つまり喪失感と不安感は、いわばペアの関係にあると考えてよい。私たちは、つねに(失
うこと)に対して、ある種の不安感を覚える。

 財産や名誉、地位にかぎらず、友人や家族などの人間関係。それに健康や命、など。そ
ういうものをなくす段階で、そのつど、私たちは大きな不安感を覚える。

 もちろんその不安感には、強弱がある。個人差がある。同じような状況なのに、いつも
不安感に襲われる人もいれば、平気な人もいる。たとえば病気についても、何か、それま
でになかった症状を経験したりすると、極度の不安状態になる人がいる。心気症というの
が、それである。

 が、平気な人もいる。私のワイフなどは、その平気な人のほうに属する。「がんになって
も、なおせばいいのよ」と、平然と言ってのける。

 そのちがい、つまりこうした個人差は、いつごろ、どのようにして生まれるのか?

 フロイトは、それは、出産期にあると、説く。つまり出産と同時に、母親から分離する、
その瞬間にある、と。ナルホドと思う部分もあるし、「しかしその時期は、期間的に考えて、
もう少し長いのではないか」と思う部分もある。

 要するに、満ち足りた愛情に包まれ、心豊かな乳幼児期に恵まれれば、こうした不安感
を軽減できるということ。それは母子の間で結ばれる、「基本的信頼関係」とも、関連して
いる。つまりこの時期の、心の安定感が、その子どもの心の安定性を、生涯にわたって支
配する。そういうふうに、考えることもできる。

 言うまでもなく、心の安定性は、情緒の安定性ともつながる。言いかえると、情緒の安
定性は、その乳幼児期までに決まるということになる。だからこの時期の母子関係は重要
であると書けば、どこか見えすいた結論になるが、しかし、事実は、その通りだと思う。

 子どもの心がつくられるのは、まさにこの時期、つまり出産直後から、数か月、あるい
は1、2年の間である。
(はやし浩司 不安 不安の構造 喪失感 心の安定性)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●自分で考える

 生きるということは、考えること。自分の頭で、自分で考えること。大勢に流されるま
ま生きるのは、生きるということにはならない。

 昔、こんなことがあった。この話は前にも書いたが、こんな話だ。

ある中学生(男子)に、こう聞いたことがある。「道路で、5000円札を拾った。君な
ら、そのお金をどうするか?」と。

 するとその中学生は、シャーシャーというか、ヌケヌケというか、こう言った。「交番へ
届けます」と。

 そこで私は、叱った。「ウソをつくな。自分を飾るな。お前は、その5000円が、ほし
くないのか?」と。

 するとその中学生は、一瞬キョトンとした顔をして見せたあと、私にこう言った。「じゃ
あ、先生、そのお金は、どうすればいいのですか?」と。

 そこで私はこう言った。「ほしかったら、もらっておけ。それが人間だろ!」と。

中学生「そんなことしたら、落とした人が、かわいそうです」
私「かわいそう? どうしてそんな気持ちが、お前にわかるんだ。お前は、お金を落とし
たことがあるのか?」
中学生「ないです。でも、拾ったお金は、交番へ届けます」
私「いいか、それは幼稚園児の答だ。その拾ったお金で、好きなものを買えばよい。しか
しそこで重要なことは、そのあと、あと味の悪さを、しっかりと自覚することだ」と。

 そのあと味の悪さが、それからのその人の行動の規範になる。いやな思いをする。そし
てつぎにお金を拾ったとき、そのお金を、交番に届けてみる。すると、今度は、以前とは
反対に、すがすがしい気分になる。

なぜ、あと味が悪かったり、反対に、すがすがしい気分になるか。それを考えながら、
自分を追求していく。「なぜ」「どうして」と。それが「考える」ということになる、と。

 私は、それをその中学生に説明した。

 「いいか、お前は、そういう答を言えば、私が喜ぶとでも思っていたんだろう。しかし
ぼくは喜ばない。そんな答は、聞きあきた。大切なことは、自分で考えることだ。悩むこ
とだ。そして自分の生きザマを、自分で見つけることだ」と。

 自分で考える……。一見簡単なようで、実は、たいへんむずかしい。いや、考えるのが
むずかしいというより、考える習慣そのものが、ない。ないまま、日々の生活に流されて
いる。さらに多くの人は、ただ単なる情報の交換を、「思考」と誤解している。しかし「知
識」は決して、「思考」ではない。もの知りだからといって、その人の思考が深いというこ
とにはならない。

 人間が、なぜ人間であるかといえば、考えるからである。考えて、自分で判断するから
である。その力があるからである。そんなわけで、私は、「生きる」ことの根幹に、「思考」
を置く。わかりやすく言えば、「人間は、考えるから、人間なのである」と。

(付記)

 恐らく考える習慣のない人には、考えるということがどういうことか、わからないと思
う。しかし考える習慣のある人には、(だからといって、私がそうであると言っているので
はない。誤解のないように!)、考えない人が、よくわかる。「ああ、この人は、ものごと
をよく考える人だな」「この人は、あまり考えない人だな」と。

 と、同時に、ものごとを深く考えない人は、どこか、薄っぺらく見える(失礼!)。知識
や情報が、脳ミソの表層部分をかすめているだけといった感じになる。ペラペラとよくし
ゃべったりするが、中身がない。そういった感じになる。

 しかしそういうふうになるということは、その人にとっても、とても損なことのように
思う。が、そう思うのは、はたして私だけだろうか。つまり私には、その人が、せっかく
の人生(時間)を、ムダにしているようにしか思えないのだが……。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●UFO

 久しぶりに、UFOについての討論番組を見た(12月31日夜)。存在を肯定する人と、
否定する人が、交互に意見を述べていた。述べていたというより、感情的になって騒いで
いた。ともにそのレベルの人たちだったので、番組自体も、そのレベルのものだった。

 UFOは別として、この宇宙で、人間だけが知的生物であると考えるのは、この地球で、
人間だけが生物であると考えるのと同じくらい、バカげている。人間だけが、この地球で、
ゆいいつの生物でないのと同じように、人間だけが、この宇宙で、ゆいいつの知的生物で
はない。

 ただ、だからといって、宇宙のどこかに住む、人間以外の別の知的生物が地球にやって
きていると言うのではない。仮にこの1万年の間に、宇宙人が、地球へ100回やってき
たとしても、100年に一度の割合になる。人間と遭遇する確率は、きわめて低い。

あるいはひょっとしたら、人間そのものが、どこかの知的生物によって改良された生物
かもしれない。実際、そういう説を唱える科学者もいる。

 ほかにも可能性は、いろいろ考えられる。

 で、UFOだが、もう何度も書いたが、私とワイフは、そのUFOを目撃している。長
さが数キロはあったと思われる。巨大なブーメラン型のUFOであった。それについては、
以前に何度も書いたので、ここでは省略する。

 しかし、UFOが、そのほかの超常現象(たとえば幽霊や霊)と、同じレベルで論じら
れているのは、とても残念なことである。全体の印象としては、私たち人間は、もう少し、
宇宙に対して、謙虚であるべきではないかということ。この宇宙には、私たちが知ってい
ることよりも、知らないことのほうが、はるかに多い。

 で、その討論番組だが、否定派は、ただ一方的に、相手を否定するのみ。相手の意見に
耳を傾けるという謙虚さがまるでなかった。また肯定派は、「?」と思われるような意見を
述べるだけ。これでは討論にはならない。

 この宇宙には、不可解なことが多すぎる。宇宙でなくても、この地球や、月でもよい。
たとえば私のパソコンの中には、月の南極にある、二つのクレーターの写真が収録されて
いる。アメリカのNASAが撮影したものだが、この二つのクレーターは、真円形をして
いる。しかも直径は、数%以下の誤差で同じである。(光の影で、測定しにくいところもあ
るが……。)

 火山の噴火でできたにせよ、隕石の衝突でできたにせよ、自然界で、こんなことが偶然
に起こりうるものなのだろうか……?

 だからといって、宇宙人の存在に証明にはならない。UFOの存在の証明にもならない。
ただ私たちは、もう少し、私たちを取り巻く宇宙に対して、謙虚であるべきではないかと
いうこと。UFOの存在を信ずるか信じないかは、そのつぎの問題である。

(楽天HPのほうで、写真を収録)
http://plaza.rakuten.co.jp/hhayashi/diary/200501020000/


●話題

 A氏(50歳・架空の人物)と話していると、暗い話ばかり。B氏(50歳・架空の人物)
と話していると、明るい話ばかり。どちらが楽しいか? こんな質問、するまでもない。

 そのA氏、いわく、

「交通事故で、3人、死んだ」
「あの家の人は、今、病院に入っている」
「私は、子どものころ、よく父親に叩かれた」と。

 そのB氏、いわく、

「あの店の焼きそばは、おいしい」
「子どもころ、よくアケビを取って食べた」
「あの家のおやじは、冗談ばかり言っていた」と。

 だからA氏と話していると、雰囲気が暗くなる。暗くなるというより、別れたあと、ど
うも気分が晴れない。

 が、B氏と話していると、雰囲気が明るくなる。別れるのが惜しい。また会いたくなる。
気分も軽くなる。

 ……というのは、常識だが、問題は、なぜ、A氏は暗い話をし、B氏は明るい話をする
か、である。

 この問題は、実は、その人の脳ミソの機能にも関連している。暗い話題ばかり考えるか
ら、うつ状態になるのか。それともうつ状態になるから、暗い話をするようになるのか。
それはよくわからないが、会話には、その人の心の状態が、そのまま反映される。

 暗い話題ばかり好んでするようなら、その人の心の状態は、かなりの、うつの状態にあ
ると考えてよい。つまりビョーキ。

 そこで私自身はどうかと、考えてみる。

 一つの方法として、1年前とか、2年前に書いた日記を読んでみるというのがある。で、
そういう視点で、自分の書いた日記を読みなおしてみると、そのときは気がつかなかった
が、全体として、暗い話題をつづけて書いている時期があったり、反対に、明るい話題を
つづけて書いている時期があったりしているのがわかる。

 私の精神状態も、少しずつ、変化しているようである。それがわかる。

 そこで今、私は、こんなことに気をつけ始めている。

 書いているテーマはもちろんのことだが、全体として、私の書いていることが、読者の
方に悪い印象を与えていないかということ。印象というより、読んでくれている人の気分
を、悪くしていないかということ。

 せっかく読んでもらうのだから、読者の方に、朗らかな気分になってもらいたい。……
ということで、冒頭に書いた、A氏とB氏の問題は、私自身の問題であることに気がつい
た。

 気をつけます!!!
(050102)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ジョーク

 04年の終わりに、外国の友人たちから、たくさんのクリスマス・カードをもらった。
その中でも、最高に傑作(?)だったのは、こんなのだ。オーストラリアの友人のR君が、
くれた。

 サンタクロースが、どこかの家の煙突に腰をかけて、ウンチをしているというもの。サ
ンタクロースは、ズボンを足首までさげていた。

 友人いわく、「ぼくの人生で、最悪のカードだ」と。そのサンタクロースの横顔が、その
友人のそれにそっくりだったので、笑った。腹をかかえて笑った。

 で、私は、こう返事を書いた。

 「オーストラリアのサンタクロースは、ラッキーだ。日本でそんなことをすれば、C&
B(チンチンとボール)は、凍りついてしまうだろう。ついでに、Sxxx(ウンチ)も。
オーストラリアだからこそ、こういうことができる」と。

 しかしそれにしても、愉快なクリスマス・カードだった。


●節介を焼く

 他人の不幸にズケズケと入りこんできては、何かと節介を焼く。叔父風、叔母風を吹か
す。そういう人は、多い。

 しかしそれぞれの家庭には、言うに言われぬ事情というものがある。そういう事情も知
らないまま、いくら親戚でも、他人の家庭事情に節介など、焼いてはいけない。

 N県S町に住む、DBさんから、こんなメールが届いた(1月2日)。

 「今年は、正月にS町の実家に帰りましたが、親戚のだれも、私に会ってくれませんで
した。叔父や叔母だけではなく、いとこにさえ白い目で見られました」と。

 話せば長くなるが、DBさんには、DBさんの事情がある。その事情が、こじれにこじ
れて、そうなった。そのDBさん、いわく。「その中でも中心核にいる叔父のX氏が、私を
村八分にしています。私が、母、つまり叔父の姉を、粗末にしたと言うのです」と。

 その叔父は、DBさんを、「親不孝者!」と、呼んでいるそうである。それにも理由はい
ろいろある。そしてDBさんには、DBさんの事情があった。DBさんは、こう言う。

 「どうせ言っても理解してもらえそうにないし、言ったところで、どうにもなりません。
私も、もう疲れました。いつもいやな思いで、S町から帰ってきます」と。

 いろいろあるようだ。で、このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「その人の家庭問題には、たとえ親戚でも、とやかく言ってはいけないわよ。それは常
識よ。相手のほうから相談があれば、話は別だけど……」と。

 私も、同感である。まったく同感である。その人にかわって、その人の問題を背負うな
らまだしも、そうでないないなら、節介を焼いてはいけない。口を出すことくらいなら、
だれにでもできる。そうした行為は、最小限にすべきである。あるいは、してはならない。

 私はDBさんに、返事を書いた。

 「イギリスの格言に、『2人の人に、(同時に)いい顔はできない』というのがあります。
狭い世界に住んでいる人など、気にしないこと。相手にしないこと。気にしたとたん、あ
なたも、その狭い世界に迷いこむことになります。

 あなたの叔父がどんな人か知りませんが、どうしようもないほど、レベルの低い人です。
脳ミソにカビが生えているかもしれません。だから相手にしないこと」と。

 口を出すくらいなら、金(マネー)を出せ!
 口を出すくらいなら、重荷を、肩がわりしろ!
 何を偉そうに! バカヤロー!

 DBさんにかわって、私が、そう叫んでやった。ホーッ。


●ドイツ軍と精神病院

昔、ドイツ軍が、ある村にやってきた。
しかしそこは焼け野原。住民は、避難して、だれもいなかった。
が、丘の上の精神病院だけは、別。無傷のまま残っていた。患者も残っていた。

ドイツ軍は、その精神病院を駐屯地にして、そこに滞在することにした。
院長室を司令室にかえ、病室をそのまま、兵舎にかえた。
そのときからドイツ軍と、精神病院の患者との奇妙な共同生活が始まった。

銃を向けても、一向に気にしない患者たち。花をつんできては、銃口にさしこんだりした。
兵隊が怒って、患者を殴っても、その患者はうれしそうに笑っているだけ。
患者たちは自分たちで料理をしていたが、虫の入ったスープを平気で、飲んでいた。

緊張でピリピリしているドイツ軍。平和でのどかな、精神病院の患者たち。
数か月もすると、兵隊と患者たちの間に、奇妙な共存関係が生まれるようになった。
何人かの兵隊たちは、患者の世話をするようになった。いっしょに生活するものもいた。

が、そのとき、ドイツ軍の兵隊たちに移動命令がおりた。前線への移動命令である。
兵隊たちは、その村を離れることになった。しかし、その命令に従わない兵隊が出てきた。
命令を拒否して、そのまま精神病院へ入院する兵隊も、出てきた。

……これは、私が若いころ見た、あるヨーロッパ映画のあらすじである。題名は忘れた。
しかし今でも、その映画のことは、よく覚えている。

その映画は、最初は、ドイツ軍の視点で始まる。そしてその時点では、精神病院の患者た
ちが、たいへん奇異に見える。が、映画が進んでいくうちに、やがてどちらが正常で、ど
ちらが正常でないかが、わからなくなってしまった。人を殺しあう兵隊が正常なのか、そ
れとも争いをまったく知らない患者たちが正常なのか、と。

そしていよいよクライマックス。ドイツ軍たちは、その精神病院を離れることになる。が、
そこときは、私たちの視点は、患者のほうに移っていた。と、同時に、むしろ兵隊たちの
ほうが、正常でないように思えてきた。

見ていて、何とも不思議な映画だった。映画を見ているうちに、意識が、180度、変わ
ってしまった。正常であると思ったほうが、正常でなくなり、正常でないと思ったほうが、
正常になった。そんなふうに変化した。

……どうして今、その映画のことを思い出したのか、よくわからない。わからないが、思
い出したので、ここに書きとめておくことにした。

(この映画の題名を知っている人はいませんか? 古い、1960年代の映画だと思いま
す。白黒の、それほど、長い映画ではありませんでした。もう一度、見てみたいです。)


●悪魔

悪魔よ、あんたは、相手をまちがえた。
私にとりつこうとしても、ムダ。
私は、あんたなんか、相手にしない。

いくら私をあんたの世界に引きこもうとしても、
あなたをあざ笑い、あんたをはねとばす。
バカめ、アホめ、あんたは、くだらない悪魔。
だれがあんたなんかの、思いどおりになるものか!


●不幸

不幸は、それを不幸と思ったとき、不幸になる。
不幸は、それを笑い飛ばしたとき、姿を消す。

過去を悔やむな。未来をなげくな。
あるのは、今という、楽しい現実だけ。

運命は、それを恐れたとき悪魔に変身し、
それを笑ったとき、神に変身する。


●大晦日(おおみそか)

2004年も、今日で、おしまい。その今日は2004年12月31日。
古いカレンダーを、壁から取りはずし、新しいカレンダーをしばし、見やる。
新しいカレンダーは、どこか、見にくい。デザインも悪い。字体も古臭い。
そんなわけで、2005年が、どこか暗く沈んで見える。
あとでもう少し、明るいカレンダーに取りかえよう。


●死者、12万人

スマトラ沖地震の津波で、約12万人の人がなくなったという。しかしこの数字は、12
月30日のもの。犠牲者は、まだふえる可能性があるという。史上最大の、自然災害であ
る。

が、12万人と聞いても、ピンとこない。あまりにも現実離れしている。実感が、まるで
ない。「12万人かア?」と思ってみたり、「12万人も!」と驚いたりしてみせる。

インターネット時代になって、数字だけがいつも、ひとり歩きするようになってしまった。
メガとかギガとか……、そんな数字もある。そのため、数字に鈍感になってしまった?

最初、「死者が1万人」と聞いて驚いた。つぎに「3万人」と聞いて驚いた。それが6万人
になり、10万人になった。今は、12万人! ますますわけがわからなくなってしまっ
た。

ただ昨夜、ワイフと食事をしながら、心のどこかで申し訳ない気持ちになった。「ぼくたち
だけ、こんな平和な生活をしていて、悪いみたいだね」と声をかけると、ワイフも、感慨
深そうに、だまって下を向いて口を動かしていた。

ふつうであることの価値は、それをなくしたときに、わかる。今は、その(ふつうである
こと)の価値を確かめるとき。その(ふつうであること)を大切にして、生きたい。

(付記)

今回の、スマトラ沖大地震で、ショックだったのは、まさに地上の楽園で、それが起きた
ということ。実は、私は、若いころから、いつも、すっと、心のどこかでこう願っていた。

「いつか、遊んで暮らせるだけのお金を手に入れたら、海のきれいな南海の孤島で、のん
びりと暮らしてみたい」と。

その南海の孤島に住んでいた人たちは、それこそ、村ごと全滅したところもあるという。「ふ
むう……」と考えたところで、つぎの言葉が、どうしても出てこない。


●オーストラリアの友人が、やってくる

 2005年のX月に、オーストラリアの友人がやってくる。友人一行と言ってもよい。
X月の終わりに、京都で行われる、国際医学総会に出席するためである。

 今朝、電話があった。いわく、「みんな、オーストラリアでも超一級のドクターたちだか
ら、ヒロシ、病気があるなら、みんなタダでなおしてあげるよ」と。

 が、残念ながら(?)、私には、これといった病気がない。「あるとすれば、頭の病気だ」
と答えると、その友人は、笑っていた。

私「山荘を開放してあげるから、自由に使えよ」
友「ありがとう」と。

 こういうときオーストラリア人というのは、本当にストレート。そう言った以上、私が
全責任を負うことになる。それを承知の上で、私は、そう言った。

 学会は、5日間。そのあと、愛知万博に見たいと言っていた。浜松に滞在するのは、そ
の前後ということになる。楽しみだ。これで今年の、一つの目標ができた。

 今回は来ないが、もう1人の友人のM・A君は、現在、オーストラリア医師会の副会長
をしている。学生時代、いっしょに、オーストラリア大陸を横断したことがある。その友
人は来るのだろうか? 今、ふと、そんなことを考えた。

 (しかしケタ違いの金持ちの一行を接待するというのも、気が引ける。神経をつかう。
今、そんな不安感が心の中を横切った。私は、ありのままの自分でいくつもりが……。虚
勢を張ったところで、どうせ、勝ち目はない。)


●サジを投げる

 12月31日、こんなビッグ・ニュースが飛びこんできた。

 アメリカが、2000年に採択された、「核拡散防止条約(NPT)」を、05年の5月
に、反故(ほご)にするかもしれないというのだ。共同通信は、つぎのように伝える。

「2000年の再検討会議で採択された核軍縮措置を、5月にニューヨークで5年ぶり
に開かれるNPT再検討会議で、死文化させる狙(ねら)いであることがわかった」と。

 とうとうくるところまできてしまった! ……というのが、私の実感。共同通信は、「重
大な岐路」と位置づけている。当然である。わかりやすく説明しよう。

 アメリカなどの核保有国は、自分たちの核軍縮を進めると同時に、非保有国の核兵器の
獲得を禁ずる条約に署名した。つまり「アメリカなどの核保有国は、核兵器を減らします。
そのかわり、核をもっていない国が、核兵器をもつことを、力をあわせて阻止します」と。
以来、35年。

 ところがご存知のように、K国のように、堂々と核兵器をもつ国が現われてしまった。
本来なら、隣国の中国が率先して、K国の核兵器製造を抑制しなければならない。が、そ
の肝心の中国は、K国の肩をもって、ノラリクラリ。もう一つの隣国の韓国ですら、「K国
が核兵器をもつのには、一理ある」とまで、言い出した。

 こうした事情は、イランにも共通している。パキスタンやインドにも、共通している。
せっかくすばらしい条約をつくりながら、だれも守ろうとしない。すべてアメリカ任せと
いった感じ!

 そういうアメリカの立場で言えば、「もう、オレの知ったことか! みんな勝手にやれ!」
ということになる。その気持ち、ヨ〜ク、わかる。

 が、ここで今一度、冷静に考えてみようではないか。

 もしアメリカが、その核拡散防止条約(NPT)から抜けたら、世界は、どうなるか?

 K国は、核兵器をどんどんと生産するだろう。中国も、韓国も、それを座視するのみ。
今までの6か国協議の流れをみれば、それがわかる。で、その韓国では、ますます反米ム
ードが高まっている。さらに、ノ政権は、戦前の被植民地時代をとりあげて、反日ムード
をかきたてている。戦前の親日協力者を、今ごろになって洗い出している。

 その韓国は、アメリカに協力しようとしないばかりか、「核問題は、ワレワレが解決して
みせる」「アメリカに勝手なことはさせない」(ノ政権)とまで、言い出している。

 私がブッシュ大統領なら、こう言うだろう。「もう、バカくさくて、つきあっておれない。
あとのことは、知ったことか!」と。

 ……ということで、とうとうアメリカは、サジを投げた! それが、冒頭にあげた、共
同通信の報道である。

 たしかにアメリカのやり方は、強引すぎる。今度のイラク戦争でも、それがわかる。で、
何もしない世界の傍観者たちは、「アメリカが悪い」「イラクから手を引け」「アメリカはま
ちがっている」と、まさに言いたい放題。

 ならば聞くが、もしアメリカがサジを投げ、世界のリーダーであることをやめたら、世
界は、どうなるのか。アメリカのかわりをだれがするのか。国連にしても、おかしな平等
主義に支配されて、問題が起きるたびに、小田原評定(実行力のともなわない相談)を繰
りかえすのみ。

 身近な例では、もしアメリカが韓国や日本から手を引いたら、だれがK国の核兵器開発
を止めることができるのか。中国か? ノー。ロシアか? ノー。フランスやドイツか? 
ノー。あるいは国連か? ノーノー。

 アメリカは、年末になって中国に特使を送った。「もういいかげんに、アメリカに協力し
たらどうだ!」と。が、中国は、やはりノラリクラリ……。

 さて、繰りかえしになるが、もし核拡散防止条約(NPT)が、反故になったら、世界
は、どうなるか。

 K国は、バンバンザイ! そのワキで、日本も韓国も、K国の核開発を抑える大義名分
を失う。残るは中国だが、K国が、中国の言うことなど、はたして聞くかどうか?

 そのあと、K国は、ゆっくりとこの日本を、おどしにかかる。「金を出せ。さもなければ、
東京に核兵器をぶちこむぞ」と。

 そこで私は、あえて言いたい。韓国のノ大統領に言いたい。「もう少し現実を見てほしい」
と。金大中政権のときも強く感じたが、ノ大統領になってから、ますますそれを強く感ず
るようになった。ノ大統領の国際政治は、素人の私でもわかるほど、ピントがズレている。
ホント!

 政治、なかんずく国際政治は、徹底した現実主義で考えること。「現実」がすべて。そこ
を原点にして、考えること。いらぬ節介かもしれないが……。

【補記】

 韓国のノ大統領は、どうしてああまでマイナス思考なのか、私は理解できない。過去の
暗い部分ばかりを、ほじくり出して、それを基本にものを考えている。そんな感じがする。
が、今、重要なことは、そこに巨大な危機が迫っているということ。K国の核兵器という
危機である。

 一方で反米を唱え、その一方で、アメリカ軍の撤退を裏切りと位置づける。さらにその
また一方で親北を唱え、K国の核兵器を容認する姿勢をたびたび見せている。そういう政
治姿勢が、私には、どうしても理解できない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●2005年1月1日

昨夜、兄を、入浴させる。
体を洗ってやっていると、「おじいちゃんに、洗ってもらったことがある」と言った。
おじいちゃんというのは、私たちの祖父である。

私「おじいちゃんに洗ってもらったことがあるの?」
兄「銭湯で洗ってもらった……」
私「子どものころのことだろ?」
兄「そう、子どものころ」と。

私の兄は、かわいそうな運命をもった人だ。いつかそれについて書くことがあると思うが、
今は、書けない。何度も、私が兄を引き取ると申し出たが、母が放さなかった。が、その
母も、88歳。いよいよ体が弱くなった。それで私のところに、来た。

しかし、世間というのは、冷たいもの。そういう兄を、バカと呼び、追いかけまわし、あ
げくのはてには、頭を殴った人もいたという。いまだにこの日本では、(ふつうでない人)
を差別する風潮が残っている。

私「明日は新年だから、体をきれいにしておこうね」
兄「うん、明日は新年だから、体をきれいにしておくよ」
私「ときどき、こうしてよく洗わないと、体が臭くなるよ」
兄「臭くなるよ」と。

心のやさしい兄。落ちついているときは、ニコニコ笑って、歌謡曲ばかり口ずさんでいる。
風呂から出ると、気分がよくなったのか、その歌謡曲を歌いだした。

「♪……学園広場に咲いた花を……」と。舟木一夫の「学園広場」である。私も、いっし
ょに、歌った。


●1月1日

 今朝は、7時半ごろ起きた。よく眠った。気分はそう快。昨日(12月31日)は、雨
が降っていたので、あきらめていたが、庭の先を見ると、まっ白な朝の陽光! いく筋も
の光の束をつくって、木々の間で揺れていた!

 すばらしい晴天である。上の方を見ると、澄んだ水色の空がそこにあった。

 居間におりていくと、ワイフがいて、長男がいた。「おめでとう」と言いあって、それで
新年のあいさつは、おしまい。そうそう、昨日の夕方、三男が、東京から帰ってきた。み
んなで、年越しソバを食べた。そのせいか、食欲は、ゼロ。

 例年だと、山荘で新年を迎えることになっている。が、今年はいろいろ事情があって、
浜松市の自宅で年越し。外出も、ままならない。が、私は、こうしてパソコンを相手に文
を書いていればよい。それで時間はつぶせる。プラス、楽しい。

 そう言えば、この1週間、ほとんど原稿を書いていない。電子マガジンも、何かと遅れ
がち。今日あたりは、2月2日号を発行予約しなければならないのだが、まだ、1月28
日号も、31日号も出していない。(マガジンは、いつも1か月前に、発行予約を入れるこ
とにしている。この先、どうなることやら……?)

 しかし私には、夫という役目もある。ワイフをひとりにしておくわけにもいかない。朝
食のとき、「あとで買い物に行こうか?」と声をかけると、「うん」と言った。一応、約束
したことは守らねばならない。

 しかし……。新型パソコンの購入は、3月まで延期することにした。このところ、何か
と、大型の出費が重なった。不要不急品は、どうしても、あと回しになる。しかたない…
…。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 26日(No.521)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●無知・無理解

 心の病気と無縁な人は、少なくない。(うらやましい!)幸運な人である。しかしそうい
う人は、心の病気がどういうものか、理解できない。当然と言えば当然だが、そのとき、
自分がそうであるからという理由だけで、相手の病気を考えてしまうことがある。それが
かえって、相手の病気をこじらせてしまう。

 わかりやすい例で説明しよう。

 子どもの世界には、学校恐怖症というのがある。対人恐怖症や、集団恐怖症がこじれて、
そうなる。不登校の原因の一つとされる。(詳しくは、「はやし浩司 学校恐怖症」で。)

 前兆期、パニック期を経て、不登校期へ突入する。

 たいていの親は、自分の子どもが不登校児になったりすると、その初期の段階(パニッ
ク期)で、狂乱状態になる。不安と心配、それらが混然一体となって、親を襲う。それは
よく理解できる。が、このとき重要なのは、心の病気というのは、短くて半年単位、ある
いは1年単位で、推移するということ。それを忘れてはいけない。学校恐怖症にしても、
うつ病に準じて考える。

 が、心の病気になった人は、それが理解できない。「気はもちようだ」と安易に考える傾
向が強い。だから子どもに少しでも変化が見られたりすると、そこで無理をする。数年前
だが、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの子が学校へ行かなくなりましたア!」と電話があった。それまで
のいきさつを聞くと、どうやら学校恐怖症である。

 そこで私は、「最低でも3か月、何も言ってはいけない。子どものしたいように、させな
さい」とアドバイスした。が、母親にしてみれば、1か月でも長い。1週間でも長い。そ
の1週間もすると、電話がかかってきた。

 「今日、学校へ連れていってみましたが、ダメでした。階段の踊り場で、大の字になっ
て、泣き叫んで、抵抗しました」と。

 つまりこうして症状は、どんどんとこじれていく。数か月ですんだかもしれない不登校
が、半年とか、1年にのびていく。

 もっとも、こうした私のアドバイスに耳を傾けてくれる親は、まだよいほう。中には、
まったく耳を貸さない親もいる。あるいは、自ら、耳を閉ざしてしまう。ある小学校の校
長が、こんな話をしてくれた。

 「それとなく子育て教室を用意するのですが、聞きにきてほしい親ほど、来てくれませ
ん」と。

 親が無知であり、無理解なのは、しかたないとしても、その影響は、確実に、子どもに
およぶ。子どもが被害者になることもある。かん黙症の子どもを、「声を出しなさい!」と
叱りつづけていた母親がいた。多動性のある子どもを、ヒモで柱にしばりつけていた母親
もいた。気うつ症になっているにもかかわらず、無理な勉強を強いていた父親もいた。

 無知、無理解は、それ自体が、「悪」である。これからの子育ては、そういう前提で考え
たらよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●劣等感

 (本来の自分)と、(こうでありたいと思う自分)。この二つがかけ離れたとき、そこか
ら劣等感が生まれる。

 ふつう劣等感というと、どこかマイナスのイメージが強い。しかし劣等感は、悪いばか
りではない。その劣等感がバネになって、その人を伸ばすこともある(ユング理論)。

 たとえば体格の小さな男の子が、空手を練習して強くなろうと思ったりするなどが、そ
れ。容姿のあまりよくない女の子が、猛烈に勉強して、よい成績を取ろうとすることもあ
る。

 このように劣等感を何らかの方法で解消しようとすることを、「解消」もしくは、「補償」
という。

 この解消方法には、いろいろある。私のばあいを例をあげて考えてみたい。

 私は高校2年生のとき、生まれてはじめて、女の子とデートした。当時としては、私は
かなり積極的な学生のほうだったと思う。そのときのこと。私は、初夏の暑いときだった
が、学生服の下に、セーターを着こんで、デートにでかけた。何かの本で、「胸の厚い男性
は、女性にモテる」と読んだのが、その理由だった。

 このとき私は、自分の胸が薄く、貧弱であったことを知っていた。それが(本来の私)
である。

 が、胸の厚い男になりたかった。それがここでいう(こうでありたいと思う自分)とい
うことになる。

 私は自分の胸に(抑圧感)を覚えた。それが劣等感になった。そしてその劣等感を解消
するために、学生服の下に、セーターを着た。

 つぎに私がよく覚えているのは、デートしながら、歌を歌ってやったことだ。私は中学
時代から、コーラス部にいた。私は、体格の貧弱さを、別の能力で、彼女にアピールした
ことになる。もっとも、歌を歌ったときは、そうした意識はなかったと思う。ただ彼女を
楽しませるためだっただけかもしれない。

 ともかくも、これも解消方法の一つということになる。

 こうして考えてみると、劣等感の解消方法には、二つあることがわかる。(1)直接的に
解消する方法(直接的解消法)と、(2)代償的に解消する方法(代償的解消法)である。
セーターを着たのは、ここでいう直接的解消法ということになる。また歌を歌ったのは、
ここでいう代償的解消法ということになる。

 どんな人にも、劣等感はある。ない人は、ない。問題は、その劣等感があるとかないと
かいうことではなく、その劣等感とどう戦うかである。

 そこで私はさらに、その方法を、(1)外面をとりつくろう外面的解消法と、(2)内面
をとりつくろう内面的解消法に分けて考える。

 たとえば鼻の低い女性がそれを解消するため、整形手術をほどこすのが、外面的解消法。
知性や理性をみがいて、内側から自らを光らせることによって、劣等感を克服(カバー)
するのが、内面的解消法ということになる。

 それぞれの人の深刻さの問題もあるから、一概には、どうということはできない。しか
し外面的解消法に頼りすぎると、自分が自分でなくなってしまうという危険性がある。自
分を虚飾や虚栄で飾ったりするようになる。

 これ以上のことは、私にはわからない。しかし子どもたちを指導するときは、それが直
接的解消法であるにせよ、代償的解消法であるにせよ、できるだけ内面的解消法であれば
あるほど、よいということになる。

 私はそのため、こと、子どもの世界では、一芸論を、訴えている。「その子どもの一芸が、
その子どもを側面から支える」と。

(はやし浩司 劣等感 補償 克服 劣等感の克服)

 以前に書いた原稿だが、その一芸論を紹介する。

++++++++++++++++++++++++

●一芸論

子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、
T君は、スケートで、それぞれ、自分を光らせていた。中に「勉強、一本!」という子ど
ももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるよ
うに、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子どもには一芸
をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その子どもの
身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなっ
てしまった。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、
一〇年後。ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほう
が先生より、お金を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失
敗する。Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。
そこで母親が、「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさ
んは水泳ですぐれた才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長し
た。S君(年長児)もそうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これ
は何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげ
ることを勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学
三年生のころには、ベーシック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターする
までになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをや
めさせる」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成
績は、もっとさがる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいと
か、カードをたくさん集めているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。
「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味であ
る。そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりと
かける。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野
に関しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだ
けは絶対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、
五歳ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするか
を静かに観察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらし
い才能が隠されていることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つで
ある。  

++++++++++++++++++

つぎの2作も、参考になると思いますので
ぜひ、読んでみてください。

++++++++++++++++++

●自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだと
か、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住
む、Dさんからのものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、
絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につなが
る。青春期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反
復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配し
なくてもよい。

が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり
警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言え
ない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもな
りかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた
対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまな心理
的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもし
れないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理
学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しよ
うとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的にな
ったら、あるいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようにな
る。そして結果として、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。

よくあるのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつく
るケース。たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌わ
れる」などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身
を守るための、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自
己嫌悪(否定)から受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私
は自分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になる
ケースもある。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、
五、六時間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわか
り、別居、離婚の騒動になってしまった。

Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分が
つくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなり
に勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテス
トの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔
和な表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめ
ているだけ。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、
「こんなことでは○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母
親には、その常識がなかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそ
れがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私
は、ダメだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなって
しまった。「高校へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをし
ればいい」と、私が言っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親
は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。
言いかえると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、
絶望感、不安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症によ
る症状そのものということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意
する。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそ
うと考えないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な
問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推
移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題につい
ては、(1)今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。(2)今の状態
が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いた
ように、(3)一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え
方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。
満たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、
みなはスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときであ
る。

本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が
加わり、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌
子(けんし)」(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪
に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一
様ではない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子
どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二
年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見
えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。

たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好き
なことをすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得ら
れる家庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。
その度量の深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一
芸をもたせる)、環境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。

で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄
的な行動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほ
うがよい。とくに身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児の
ころ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく
接したことなど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜
ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神
奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。

えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子ど
もをなおそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。
親がいくらプラスのストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、
繰りかえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子ども
に、広く見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身
も、どこかで経験しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、
子どもには、こう言ってみるとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」
と。こうした、やさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。
(はやし浩司 自我意識の否定 自己嫌悪 自己矛盾 劣等感 自己否定 自信喪失 挫
折感 絶望感 不安心理)


●劣等生、バンザーイ!

 S市教育委員会のK氏と話す。K氏は今、小規模校のある中学校に、養護学級を新設す
べきかどうかで頭を悩ませている。その相談を受けながら、私はこんな話をした。

【I君の例】

 私は少し前まで、自宅で、中学生と高校生を教えていた。八畳間の小さな教室だから、
生徒数も、せいぜい、一クラス、四〜六人。そういうクラスへ、あるときI君(中一、当
時)という子どもが入ってきた。

 しかしこの生徒は、小学生のとき、勉強ができないということでは、有名な子どもだっ
た。で、案の定というか、心配したとおり、最初は、六人で始めた教室だったが、その年
の夏休みまでに、三人、その年の終わりまでに二人、I君以外の全員が、私の教室をやめ
てしまった。「あんなI君がいる教室など、行かない」というのが、その理由だった。

 で、私は、そのI君を、中学三年の終わりまで教えた。ときどきほかの学年の子どもを
交えることはあったが、基本的には、最後まで、一人だけの教室だった。

 そのI君は、今でいう、LD児(学習障害児)。教えた先から、すべてを忘れてしまった。
たとえば英語の単語にしても、二時間かけて、五個覚えたとする。しかしつぎのレッスン
のときには、すべてを忘れていた。こんな調子だから、数学はもちろんのこと、理科、社
会も、さらにできなかった。

 で、ある日私は、とうとう怒った。I君が、中学三年生になったときのことだった。「あ
のな、大工だって、一方で家をつくっても、それをつぎからつぎへと壊されたら、もう家
なんか、つくらないぞ」と。それに答えて、I君は、ポロポロと涙をこぼした。

 こうして高校入試が近づき、I君は学校の指導をすなおに受け入れ、準養護学校のX高
校に入学した。一月になって、間もないころだった。私はそれを喜んだが、彼が入学でき
たことを喜んだのではない。I君から解放されることを喜んだ。

 しかし、だ。それからもI君は、私の教室に来た。その時刻に玄関のチャイムを、ピン
ポーンと鳴らす人がいた。見に行くと、そこにI君が、立っていた。そこで私は言った。「あ
のな、高校受験は終わったんだよ。もうぼくには、教えることはないよ。だから、ここへ
は来なくてもいいんだよ」と。

 しかし、それでもI君は、私の教室にきた。そしてたったひとりで、勉強(?)をした。
しかたないので、つまり私は、半ばあきれながら、教えた。で、結果的に、I君は、三月
の終わりまで、来た。

 そのI君は今、家業の植木業を手伝っている。よくお母さんとは、スーパーで顔をあわ
せるが、そのつど、お母さんは、I君のことをうれしそうに報告してくれる。ごく最近だ
が、結婚して、子どももできたそうだ。そのお母さんは、ある日、こう言った。「まじめだ
けが、取り柄(え)の子どもでねエ」と。

 こうした例は無数にある。で、そういう子どもたちを振りかえってみると、改めて教育
とは何かを考えさせられる。

 問題のない子どもは、教えるのは、当然のことながら、楽。しかしそういう子どもとい
うのは、ただ通りすぎていくだけで、何も残らない。教育が教育であるのは、I君のよう
な、問題のある子どもを教えるところにある。またそういう子どもほど、人生のカギに強
く、残る。ひかかる。そしてそういう子どもを教えたという思い出が、充実感となって返
ってくる。

 私は帰り際、K氏にこう言った。「今、ここで養護学級をつくり、その子どもだけをそこ
へ入れたとしても、子どもは感謝しないばかりか、学校をうらむようになるでしょうね。『自
分のため』と考える前に、『排除された』と感ずる。しかし教える側にとっても、それほど
後味の悪い教育もない。私たちと違い、経営を心配しなくてもいい公立学校なのだから、
もっと別の方法を考えたらいかがでしょうか」と。

 生きる道は、決して一つではない。コースも、一つではない。同じように、幸福になる
道も一つではない。幸福になる道は、無数にある。だから一つの道からはずれたからとい
って、悲観したり、絶望したりする必要はない。劣等生、バンザーイ! 

【追記】

 子どもには、一芸をもたせましょう。その一芸が、子どもを光らせ、伸ばします。ただ
し一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。そして見つけたら、そこに集中的に、お
金と時間をかける。その思いきりのようさが、子どもの一芸を伸ばす。
(はやし浩司 一芸論 劣等性)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●去年のしめ飾り

 まず、去年(2004年の1月末はじめ)に書いた原稿を読んでほしい。まあ、何とも、
しみったれた話だが、そこは許してほしい。

+++++++++++++++++

 毎年、どんどん小さくなっていく、鏡餅。今年は、今日まで、そこにあるのにさえ気づ
かなかった。ワイフが、その上のミカンをとりさげたとき、「ああ?」と思ったほど。

 「いつ、それを買ったの?」と聞くと、ワイフは、「これね、実は、去年の鏡餅」と。

 ギョッ!

 「去年?」
 「そう、冷蔵庫に入れておいたら、そのまま残ったの……」
 「腐ってないか?」
 「多分ね……」と。

 昔は、つまり息子たちが小さいころは、毎年、餅つきまでして、鏡餅を作った。が、今
は、スーパーで買ってきて、そなえる。そこまではわかるが、しかし去年の鏡餅を使うと
は!

 我が家も、だらしなくなったものだ。

 「だったらサ、しめ飾りも、しまって、来年も使ったら?」と私。

 このところ、しめ飾りも、結構、高額。小さなものでも、1500円前後もする。それ
に私のところでは、自宅、山荘、教室と、3か所も用意しなければならない。結構な出費
になる。

 「それはできないわ」とワイフ。
 「どうして?」
 「どうやって、しまっておくの?」
 「袋につめて、戸棚に入れておけばいい」
 「何だか、わびしいわね」
 「鏡餅は、わびしくないのか?」
 「……」と。

 若いころは、正月は、たしかに生きる節目になっていた。しかし今は、違う。新年にな
るたびに、「また、年をとったか」という思いだけがつのる。人が「おめでとう」と言う
ほど、めでたくない。

 しかしどうせ毎年同じことを繰りかえすのなら、正月に使うものだって、そのとき使っ
たあと、しまっておけばよい。そして来年、また使えばよい。おせち料理を入れる、重箱
のように……。(何ともせこい話で、すみません。)

+++++++++++++++++

 実は、今日(2004年12月30日)、つまり、上の原稿を書いてから、ちょうど、
1年、ワイフが、そのしめ飾りを、戸棚から、出してきた。

私「まさか……?」
ワイフ「そうよ」
私「でもねエ……」
ワイフ「一年、歳がもどるのよ。若くなるのよ。そう考えればいいじゃなア〜イ」と。

 こうして我が家は、1年1年と、だらしなくなっていく。ただし、鏡餅は、新しいのを
買ってくるつもり。理由は、簡単。おとといの夜、冷蔵庫の中をたしかめたが、鏡餅はな
かった。いくら何でも、おととしの鏡餅は、飾れない。

 ……と言っても油断はできない。恐る恐る、ワイフに、「鏡餅はどうするの?」と聞く
と、「あとで買ってくるわ」と。

 買うといっても、一番小さいのを、1個だけ。ハハハ。我が家の正月は、簡単なもの。
(04年12月30日記)
(はやし浩司 鏡餅 しめ飾り B原)


●年賀状

 年賀状の文面を考えていたら、ハタと、筆が止まってしまった。何ごとも気負いすぎる
のは、よくない。その気負いばかりが、先にくる。なぜか?

 理由は、いくつかある。

(1)年賀状という性質上、明るいテーマで書かねばならない。その気負い。
(2)年賀状という性質上、ハバ広い人に読んでもらえる内容にしなければならない。そ
(3)の気負い。
(4)一枚、50円。これほどまでに高価な原稿用紙はない。ムダなことは書きたくない。
(5)その気負い。

 詩を書こうと思ったが、気負いが強いと、それも頭の中に、浮かんでこない。舞台の上
でセリフを忘れてしまった俳優のような気分? 

 どうしよう?

 そこで頭の中に飛来するのは、ありきたりの、つまり当たり障りのない文章、文面。…
…となると、年賀状など、書いても意味がない? 虚礼、儀礼、虚飾、きれいごと、仮面。

 「そうでありたくない」という気持ちが、ますます、気を重くする。本当のことを言え
ば、新年など、めでたくも、何ともない。歳はとりたくないし、まあ、来年(2005年)
も、現状維持ができれば、御の字。2005年が、今年よりよくなるなどということは、
もとから期待していない。(少し、暗いかな?)

 まあ、しかし、これも、世の習慣。世界の人が、「ハッピー・ニュー・イヤー!」と祝っ
ている最中、自分だけ、それに背を向けるというのも、どうか?

 で、年賀状を書くことにした。今まで、こうして健康で、無事、生きてこられたことに
感謝して……。今日は、とうとう12月30日になってしまった! ワイフは「どうせ遅
れたんだから、正月でもいいんじゃナ〜イ?」とのんきなことを言っている。それにして
も、どうして私は、こうまで年賀状にこだわるのか。これも初老性のうつの症状の一つな
のか?

【補記】

 年末になると、「喪中により、新年のあいさつは、ご辞退申しあげます」とか何とかとい
う、ハガキが届く。

 世にムダなものは多いが、あのハガキほど、ムダなものはない。バカげた慣習のナンバ
ーワンと言ってもよい。

 出したくなかったら、出さなくてよい。出したかったら、出せばよい。年賀状というの
は、そういうもの。そこまで気をつかわなくてもよい。気をつかうほうが、おかしい。た
かがハガキではないか。

 たとえば今、私のワイフが死んだら、私はもう生きている希望をなくすだろう。悲しみ
にくれて、他人のことなど、考えないだろう。いわんや、年賀状の心配など、絶対にしな
い。喪中の最中に年賀状がきたからといって、失敬などとは、絶対に思わない。

 中には、親や義理の親が死んで、せいせいしている人もいるはず。「バンザーイ!」と叫
んでいる人だって、いるはず。それをしおらしく、「喪中により……」とは!

 ……というのは、言いすぎかもしれないが、人間は、もっと自然体で生きればよい。そ
のときどきの自分の気持ちに、すなおになって生きればよい。それがまちがっていると言
うなら、そういうことを言う人のほうが、まちがっている。

 今回も、「この人からは、喪中の知らせが届いているから、年賀状は出せないわね」とか
何とか、横からワイフが、あれこれ言う。正直言って、うるさい。どうしてこんなことに
まで気を使って、年賀状を出さねばならないのか。たかが儀礼のハガキのために……!

 ところで悩みに悩みぬいた年賀状だが、書き始めたら、3時間ですんでしまった。

 ナーンダ、と思っている。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●冗談? ジョーク?

 K国の国営放送提供の科学番組(?)なるものを見た(12・27)。たいへん、おもし
ろかった。その番組の中でのこと。

 「髪の毛の長い人は、バカになる。それは脳ミソに行き渡るべき栄養素が、髪の毛のほ
うに回ってしまうからである」

 「K国のP市周辺には、太古の昔、ブドウを食べて暮らしていた原人が住んでいた。そ
の原人が進化して、現在のK国人になった」

 「大麻の種には、良質の油がある。その油を抽出するために、K国は、大麻の栽培を奨
励している」などなど。

 番組の内容を思い出しながら書いているので、不正確だが、しかし私はこの番組を見な
がら、思わず、吹きだしてしまった(失礼!)。「これは冗談か、それともジョークか」と。
(冗談もジョークも同じようなものだが……。)

 しかしあの国には、国営放送局しかないはず。それに意見を述べている人たちも、見た
感じは、大まじめ。日本のバラエティ番組に感ずるような、あのいいかげんさは、感じら
れなかった(?)。とくに髪の毛の長い人は、バカになるという意見には、笑った。「じゃ
あ、女性は、みんなバカなのかねえ?」と。

 あまりにも幼稚な知的レベル。うわさには聞いていたが、ここまで低レベルとは!!

 ……と考えたが、こうした幼稚性は、この日本にも、ないわけではない。「髪の毛の長い
人はバカになる」という説は、「血液型による性格判定」の話に通ずる。「原人」の話は、「藤
Kの、石器ねつ造」の話に通ずる。また「大麻の種から油」の話は、少し飛躍するが、そ
の反対側にある化学万能主義につながる。環境ホルモンにくらべれば、大麻の油など、何
でもない。さらに最近の占いブームなどを見ていると、K国の科学性(2)を、笑うこと
はとてもできない。

で、その中でもよい例が、超能力をテーマにした番組。

 ときどき超能力犯罪捜査官というのが、テレビに出てくる。アメリカのFxx捜査官と
か何とか、もっともらしい肩書きをもっている人もいる。失踪者や事件に巻きこまれた人
のもちものなどを見て、その人がどこにいるかを当てたりする。まことしやかに、地図を
描いて見せたり、事件の概要を説明したりする。

 私もときどき見て、トリックを見破ってやろうと考えるが、今のところ、見破ることが
できない。実に巧みというか、うまいというか?

 そういう番組を見ていると、「髪の毛の長い人は、バカになる」という番組のほうが、ず
っとわかりやすい。罪がない。プラス、もしろい。子どもたちですら、ハハハと笑ってす
ますことができる。

 で、そうした超能力者(?)たちの能力だが、私が見たところ、1人とて、最後までき
ちんと失踪者を発見した人や、事件を解決した人はいない。話せば長くなるので、ここで
は省略するが、最後はいつも、「?」のまま終わる。当然である。

 もしそんなことで、失踪者の居場所や事件の概要がわかるようなら、私たちが今ここで
生きていること自体、意味がなくなってしまう。そうした番組を見る私たちに必要なこと
は、そういうあやしげな超能力に驚くことではなく、そのウラを検証することである。つ
まり、それが科学である。理性である。知性である。

 ……こういうことを書くと、猛反発が起きるかもしれない。すでにそうした超能力を信
じている人は多い。宗教教団のような団体を作って活動している人もいる。もちろん宗教
団体もある。

 私にはこれ以上のことはわからないが、K国の科学番組を見て、ハハハと笑うことなら、
だれにだってできる。しかしもっと重要なことは、他人を笑ったら、自分の中にもそれが
ないか、それを疑ってみることである。

 先日も、「アメリカ人の大学生のほとんどは、日本がどこにあるかさえ知らない」と笑っ
ていた人がいた。ならば聞くが、日本人の大学生で、ブルネイ・ダルサラーム国がどこに
あるか知っている大学生は、いったい、何%いるのか……ということになる。日本の三重
県ほどの小さな国だが、日本のすぐ近くにある。日本とのつながりも、深い。

 K国のその番組は、実に楽しい番組だった。久々に声を出して笑った。が、そのあと、
その番組には、いろいろと考えさせられた。昔からこの日本でも、こう言うではないか。『人
のフリみて、我がフリ直せ』と。ナルホド!

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●運命について

 私やあなたには、無数の糸がからんでいる。国という糸、社会という糸、地域や家族と
いう糸、親類や友人という糸、環境という糸、能力や知能という糸、そして最後に、「人間
という糸」。

 私たちはいくらもがいても、その糸からすべて解放されるということはない。ないばか
りか、いつの間にか、その糸の中で、自分の進む道がつくられていく。もし運命というも
のがあるとすれば、その糸が決める道が、運命ということになる。

 私は、そういう意味では、運命を否定しない。が、いくらそういう運命があったとして
も、その運命と戦って生きていくところに、その人の生きる意味がある。価値がある。そ
してそこから無数のドラマが生まれる。

 さらに言えば、最後の最後のところで、ふんばる。そこに人間の生きる尊さがある。美
しさがある。

 仮に逆境に包まれたとしても、その運命をのろうことはない。運命を避けたり、嫌った
りすることもない。

 運命は笑って受け入れる。楽しんで受け入れる。「喜んで」というわけにはいかないかも
しれないが、悲しむ必要はない。運命は、そこにあって、いつもあなたに何かを教える。
教えるために、そこにある。ムダな運命はない。ムダにする必要はない。

 だれしも平和でのどかな生活を望む。しかしそういう生活からは、何も生まれない。感
動も生まれない。トンネルを抜けて、日の明るさがわかるように、きびしい冬を経験して、
春の暖かさがわかるように、苦しみや悲しみがあって、(だれも、それを望むわけではない
が)、幸福の意味がわかる。が、それだけではない。

 神は愛といった。仏は慈悲といった。そうした人間が求める究極の真理にしても、逆境
の中でこそ、人は、それを知ることができる。

 ときとして運命は、過酷な試練をあなたに強いる。つぎからつぎへと、そして容赦なく
強いる。糸にたとえるなら、振りきっても、振りきっても、糸のほうから、からんでくる。
が、その運命から逃れることはできない。逃れようとすればするほど、向こうからからん
でくる。運命というのはそういうもの。

 だったら、どうするか。

 運命を乗り越える最大の武器は、現実主義。徹底した現実主義。あるがままを受け入れ
て、そこを原点として、前向きに考えていく。うらんだり、後悔しても、意味はない。逃
避したり、ごまかしても、意味はない。将来を悲観したり、心配しても、意味はない。運
命に向かって、まっすぐに向かっていく。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 24日(No.520)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今週のBWから】

●「大好き!」

 Nさん(女子中学生)が、今月で、BWをやめることになった。いつも、車で、片道4
0分ほどかけて、通ってきてくれた。しかし高校受験が近づいた。それでやめることにな
った。

 今夜、授業が終わると、近くの喫茶店へでかけた。みなとお別れ会をすることにした。

 いつものように、キャーキャーワイワイ、はしゃいでいた。私は、そういうときは、い
つも脇役。

 で、帰るときになって、みなが、「プリクラを撮りたい」と言った。「記念に、プリクラ
を撮ろう」と。私は同意した。「お金は出してあげるよ」と言うと、みな、「うれしい」と
言った。

 私は、当然、撮影からはずされるものと思っていた。いつもそうだったし、私は、写真
を撮られるのが好きではない。

「ぼくは、外で待っているよ」と言うと、Nさんが、「先生と、撮りたい……」と言った。

私「ホント?」
N「ホントよ。先生がいなければ、意味ないじゃん」と。

 で、私もみなと撮った。ブースの中では、うしろに立った。

 こうしてプリクラ写真を撮るのは、何年ぶりだろう……と、そんなことを考えていた。

 で、撮影が終わると、みなは、反対側のブースに入っていった。「何をしているのかな」
と思って、のぞいてみると、そこは落書きコーナーだった。撮った写真を、いろいろと加
工するブースだった。

 私は、外で待った。相変わらす、キャッキャッと甲高い声をあげて騒いでいた。その声
だけが、外に漏れていた。その間、10分くらい。やがて写真ができてきた。

 4枚1組の写真だった。見ると、その一枚に、「林、大好き!」と書いてあった。冗談だ
ろうと思ったが、久しぶりに、ポッと心の中が、温まるのを感じた。うれしかった。

 帰るとき、Nさんと、手をつないで歩いた。「今夜は最後だから、手をつないで歩こうか」
と声をかけると、「うん」と言った。

私「手をつなぐと、幼稚園児と歩いているみたいだね」
N「私、つないでもらったことはないわよ」
私「そうだね。はじめてだね」
N「そうよ、はじめてよ」と。

 そしてその手をもちかえて、握手した。「元気でね」「うん」と。それで別れた。

 夜、家に帰ってパソコンを開くと、プリクラで撮った写真が、転送されていた。Nさん
が、携帯電話を使って送ってくれたらしい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【貧しい心】

 韓国の朝鮮N報の、12月23日号に、こんな記事が載っていた。少しぎこちない日本
語だったので、私のほうで、内容を変えないで、書き改めてみた。

++++++++++++++++++

●汽車に乗って、90時間(朝鮮N報の記事より)

検問がこれといった問題なく終わると、ブフンは緊張をほぐすためか、30元で携帯用
のビデオ受像機を借りた。そしてそれを、何時間もベッドで香港映画をじっと見入って
いた。ウンミもイヤホンでウォークマンの音楽を聴いていた。ブフンのお母さんとウン
ミは、一日中車内にいながらも、化粧をするなどして、身なりに気をつかっていた。 
 
 ウンミはいつもヒール高いブーツを履いていた。彼らは、中国の女性たちよりもおしゃ
れに見える。4〜7年、延吉で生活している間、大金は稼げなかったものの、K国で手
に入れることができなかったものに対する欲が強く、「カネを稼がなければならない」と
いう思いが強いように見えた。 
 
 出発から6日目。体をぶつけ合う旅が長くつづいたせいか、一行の間の警戒心も大分解
けてきた。ブフンのお母さんとウンミはいつの間にか、「姉さん」、「妹」と呼びあう関係
になっていた。ブフンはウンミを「姉さん」、取材班の私たちを「おじさん」と呼んだ。 
 
 瀋陽では私たち取材班を信頼できず、アジトに連れて行くことさえ拒んでいたパクさん
も、大分心を開いてくれるようになっていた。はじめは、どこへ向かうかも教えてくれ
ず、一方的に切符を渡されたが、今は、次の行く先くらいはあらかじめ教えてくれよう
になっていた。 
 
 11月30日夜、中国雲南省の昆明を離れ、東南アジア国家の国境を向かっていた脱北
者6人は、無駄足を踏み、三日後(12月3日)に昆明に戻ってきた。東南アジア国家の政
治情勢が不安なこともあって、従来の、トゥリハナ宣教会が利用していたルートが塞が
れたためだ。 
 
 この時からガイドたちは、新しいルートを探すため、国境地帯をさ迷い歩いた。脱北者
たちは昆明で、みすぼらしいアパートを6か月間借り、隠れていなければならなかった。 
 
 幸い、2週間後に「アジト」を脱することはできたが、いつまでつづくかわからない「も
ぐら生活」に、脱北者の心身は疲れきってしまっていたようだ。

 脱北者の焦燥は、突然の食事に対する不満で現われた。昆明に到着した 3日夜、ガイド
は脱北者一行をレストランへと案内した。すると、脱北者たちは一斉にカバンからコチュ
ジャンを取り出すと、漢族の従業員に、「きゅうりは売っていませんか? 買って来てもら
えませんか?」と問い詰めるように聞いた。 
 
 すでに10日以上も脂っこい中国料理を食べてきたのだから、理解もできたが、これは、
「できるだけ目立ってはならない」という、行動守則第1号に反する行動だった。 
 
 これにまして、ソンオクは注文した料理の量が少なすぎるとし、「これで一体いくらもら
っているのか」と、従業員に神経質に話しかけていた。 
 
 これに対し、ガイドは断固とした態度で警告した。「観光に来たのではない。皆さんは公
安に検問されれば、すべてが終わってしまうということを忘れないでください。1回の食事
にきゅうりがないと従業員に問いただして、どうしようというのですか?」 
 
 ガイドは、「1回目の越境が失敗に終わり、心理的に心細いのはわかる。それでも、自分
の運命のかかった問題なのに、あんな小さな不便さえも我慢できないのを見ると、やりき
れない思いがする」と、記者に密かに話した。 
 
 脱北者の中で最も年は若いが、リーダー役を果たしていたブフンもついに爆発した。新
しいルートを探して出たガイドが3日経った7日になっても連絡がなかったからだ。ブフ
ンのほうから先に電話をかけ、ガイドに対して怒りをあらわにした。 
 
 「よくもそんなことができますね、私たちのことが心配にならないんですか?」 
 
 いつも他人に対して「先生」と敬語を使って話していた態度は、そのときは、跡形もな
かった。 (つづく)
 
朝鮮N報・探査報道チーム 

+++++++++++++++++++

●心の貧しさ

 レストランで、コチジャンを取り出し、従業員に、「きゅうりを買ってきてくれ」と頼む、
脱北者たち。さらに料理の量が少ないと、従業員に迫る脱北者たち。そうしたあさましい
姿を見ながら、朝鮮N報の記者たちは、ガイドの言葉として、「やりきれない」と書いてい
る。

 私たちは、K国を絶対的な「悪」とみたてた上で、(実際、K国の独裁者を擁護する人は
いないと思うが……)、脱北者たちを、あわれな弱き善人ととらえやすい。またそういう先
入観だけで、脱北者を位置づけて考えてしまう。

 しかし漏れ伝わってくる情報を集合すると、どうもそうではないのではないか?

 あまりの貧しさからか、脱北者たちは、心までむしばまれてしまっている。道徳観や倫
理観も、私たちのそれとは、どこかズレている。そんな感じがする。いつだったか、イギ
リスの法学者が、「貧困による公害」という言葉を使った。「極度の貧困状態が長くつづく
と、その人の人間性まで、破壊される」と。そういった状態になっているのかもしれない。

 こうした例は、多い。にわかには信じがたい話だが、K国のヤミ市場では、人肉まで売
買されているという。さらに脱北者の中には、脱北するとき、倒れた人の人肉を食べなら
が、飢えをしのいだ人もいるという。

 もちろん大半の脱北者たちは、やむにやまれず、そうしているにちがいない。中には、
高い道徳観や倫理観をもった人もいるはず。だれが好きこのんで、イバラの道を歩くもの
か。言葉や文化が、そのまま通ずる環境のほうが、貧しくても、居心地はずっとよい。

 こうした脱北者たちに対して、中国政府は、いまだにきびしい姿勢をとりつづけている。
それに呼応するかのように、韓国政府も、脱北者に、きびしい姿勢をとり始めている。そ
の背景には、脱北者たちの、こうした心の実情があるからではないかと思われる。

●私たちの問題

 私は朝鮮N報のこの記事を読んだとき、「私ならどうだろうか?」と、すぐ考えた。脱北
者と同じような過去と経歴をもったとしたら、はたして「私は、そんなことはしないと言
い切ることができるだろうか」と。

 私のばあいは、戦後のあの貧しい時代を生きている。さらに不幸なことに、私のばあい、
家庭教育も崩壊していた。今のK国とはちがうとはいえ、共通点も少なくないように思う。

 マネー絶対教も、その一つ。私自身も、マネーへの渇望感は、かなりあったように思う。
小学3、4年生のころではなかったか。「お金を、もっとどんどんと印刷すればいい」と、
考えたのをよく覚えている。「お金を、どんどん印刷して、みんなに配ればいい」と。

 私のばあい、マネーへの執着心は、かなり強かったと思う。

 ただ日本のばあい、戦後の貧困期は、それほど長くなかったし、その前後の、それなり
の繁栄が、日本人の心を、かろうじて支えた。事実、同年齢の仲間のほとんどは、私と同
じような時代を生きながらも、高い品性と知性を保っている。

 しかし私は、今から思うと、心の貧しい少年だったと思う。(わんぱく)+(がき)+(小
ずるい)。それら三つを兼ねそなえていた。たとえて言うなら、北海道選出の、元国会議員
に、鈴木M男。あの男を思い浮かべてみてほしい。先ごろ、収賄罪で、有罪判決を受けた
が、あの男を見ていると、昔の私を思い出す。

もし、あのころの私が、あのまま、おとなになっていたら、そして政治家になっていた
ら、私は、あの鈴木M男とそっくりの男になっていただろうと思う。

 だからおかしなことだが、表面的には、あの鈴木M男を非難しながらも、非難しきれな
いもどかしさを、心のどこかで、覚える。あるいは自分の中の醜い面を、彼によってえぐ
り出されているかのよう感ずることもある。

 そんなわけで、私は、実のところ、どうも自分に自信がもてない。同じような状況下に
おかれれば、恐らく私も、「きゅうりを買ってきてほしい」「料理の量が少ない」と、騒ぐ
かもしれない。

 ……ということで、少し話はそれたが、貧困には、さまざまな問題がともなう。その一
つが、ここにあげた、心の貧しさということになる。

 ついでに一言。

 文化とは何かと聞かれると、なかなかそれに答えることができない。しかし心の貧しさ
という問題に直面すると、その反射的効果として、文化のもつ重要性が浮かびあがってく
る。朝鮮N報の記事を読んで、改めて、私は、それを考えさせられた。
(041224)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●年賀状

 まだ、書いてない! 今日は、12月24日だ! クリスマス・イブだ!

 今では、パソコンを使って、簡単に書く。しかしそれでも書いてない! 「今日こそは!」
と毎日思いながら、もう1週間以上になる。

 おかしなものだ。

 私は追いつめられるのがいやで、何でも先に先にしようとする。しかしその限界を超え
て、追いつめられ始めると、今度は、急速にやる気をなくす。つまり、だらしなくなる。
これは私のどういう性格によるものか。

 年賀状といっても、今は、本当に楽になった。以前は、ワイフと2人で、1週間がかり
で、少しずつ書いていた。が、今は、パソコンで書く。作業は、はるかに楽になったはず。
その気になれば、半日ですむ。それがどうも、気が進まない。

 忙しいというより、このところ、どうも季節感が薄れてきたように思う。数日前には、
正月料理らしきものを、もう食べた。数の子とか、昆布巻き、とか。初詣の先取りも、す
ませた。そのため、「正月だから、何をしよう」という意欲が、あまり、起きない。

 (本当は、いけないのかなあ……? ワイフが、「正月は、混雑するから、今のうちにし
ておきましょう」と言うから、先週、法多山へ参拝してきた。何でも、すいているうちに、
早めにしておこうというのが、ワイフの発想らしい。)

 どうしてだろう? どうしてかな? しかし今日あたり書かないと、元旦には、届かな
いという。……わかっているが、何かと、ほかの仕事を優先させてしまう。年賀状が、あ
と回しになってしまう。

 私はもともと怠け者。それはよくわかっている。そういう自分がいやだから、たとえば
こうしたマガジン(日記)などは、しっかりと書くようにしている。だから多分、ほとん
どの読者の方は、「はやし浩司は、こまめな男だ」と思っているかもしれない。しかし、本
当の私は、怠け者。

 年賀状の季節になると、それがよくわかる。

 が、人間というのは、勝手なもの。そういう私のくせに、元旦に、年賀状をもらうのを
楽しみにしている。書くのは、めんどうだが、もらうのは、うれしいというわけである。

 しかし、本当に、もう書かないといけない。これから居間へ行って、ワイフに相談して
くる。ワイフは、「年賀状なんて、やめたら」というタイプの女性。先日も、「私の友だち
には、出してない人、いくらでもいるわ」と話していた。

 いったい、どういう連中と、つきあっているのだろう……?

 まあ、これも習慣だから、つづけるしかない。今日こそは、書くぞ! 今、ここで急に
年賀状を出すのをやめたら、「あの林も、とうとうくたばったか」と、思われにちがいない。

 だから、今日こそ、絶対に、書く。書くぞ!

 (こういうのを、パブリック・コミットメントという。みなに宣言することによって、
決意をかためる。ふるいたたせる。が、これも考えもの。パブリック・コミットメントを
すると、自分をさらに追いこむことになる。私のばあい、ますます、やる気をなくす。ハ
ハハ)


●運命論

 ある哲学者は、こう言った。『幸福な家庭は、みな、よく似ている。しかし不幸な家庭は、
みな、ちがう。一つとて、同じものはない』と。どこかの哲学者だが、名前は忘れた。

 その不幸な家庭。両親は、その女性が3歳のときに、離婚。原因は、父親の酒乱と借金。
が、そのあとまもなく、父親は、自殺。その女性が23歳になったとき、実の兄(当時、
30歳)も自宅に放火、そして自殺。言い忘れたが、その女性が叔母のところに引き取ら
れたのが、彼女が、6歳のとき。しかし叔母の夫(叔父)に、性的虐待を受け、今度は、
別の叔母の家に預けられた。彼女が10歳のときのことだった。

 現在は、浜松市の東にあるT町という町に住んでいる。この話は、控えめに書いたが、
事実である。今は、無数の心のキズと戦いながらも、その女性は、2人の子どもをもち、
幸福な家庭を築いている。

 私は「運命」を否定しない。その人とは関係のないところで、無数の糸がからんで、そ
の人の人生を決めてしまうということは、よくある。それを「運命」というなら、運命は、
ある。

 しかも不幸がつづくときには、不幸は、その人に、つぎつぎとのしかかってくる。容赦
なく、のしかかってくる。いくらそれを払いのけようとしてしても、その人の力には、限
界がある。不安と心配。それらがこん然一体となって、その人を襲う。

 しかしいくら運命があったとしても、最後の最後で、ふんばるのは、その人。そのふん
ばるところに、人が生きる美しさがある。生きる意味がある。

 今、絶望の渕に立たされて、その運命と戦っている人は、五万といる。五万どころか、
五〇万、五〇〇万といる。世界という規模でみれば、反対に「私は幸福だ」と自信をもっ
て言える人のほうが、はるかに少ない。

 だから大切なことは、決して、「私だけ」と、思わないこと。「私だけが不幸だ」と、思
わないこと。みなが、みな、そうだ。そしてつぎに大切なことは、不幸は不幸として、そ
れを笑い飛ばしながら、生きていくということ。運命に負けてはいけない。負ける必要も
ない。

 悪いことばかりではない。

 運命に向かってふんばればふんばるほど、その人は、より真理に近づく。不幸は、それ
自体は、ありがたくないものだが、しかし、その人に、真理への道を教えてくれる。何が
大切で、何が大切でないか。そしてなぜ、私たちはここにいて、なぜ生きているか。それ
を教えてくれる。

 さあ、恐れるものはない。

 あなたも勇気を出して、自分の運命と戦ってみよう。前に向かって一歩、踏み出してみ
よう。明るく、さわやかに! クヨクヨしないで、生きてみよう。

 冒頭にあげた女性だが、たびたび私に手紙をくれた。その手紙の中に、こんなことが書
いてあった。

 「私の家庭づくりは、ぎこちないものです。しかし私は、幸福というものがどういうも
のか、よく知っています。私はその幸福を、毎日、かみしめながら生きています」と。
(はやし浩司 運命論 幸福論 S原)


●つづく自爆テロ

イラクからの報道によると、いずれもイスラム教シーア派の聖地の、同国中部の都市カ
ルバラとナジャフで、12月19日、相次いで自動車爆弾による自爆テロがあったとい
う。市民ら少なくとも62人が犠牲になったという。

また、首都バグダッドでは、車で移動中の独立選挙管理委員会の職員3人が、武装勢力
に射殺される事件があったという。米軍や暫定政権と敵対する勢力が、来月1月30日
の国民議会選挙の阻止をねらい、テロ攻勢を強めている可能性が高いという(中日新聞)。

 「自爆」ということからもわかるように、これはもはや政治闘争ではない。宗教闘争で
ある。政治闘争では、自爆攻撃まではしない。「政治」というのは、どこまでも現実的なも
の。「生きている」という現実の上に、政治は成りたつ。

しかしそこに宗教がからむと、「命がけ」になる。えてして、宗教の世界では、「命」は、
非現実的なものとして考えられるからである。ときに、現実そのものが、否定されるこ
ともある。「自爆」にしても、常識的に考えれば、「死んで何になる」ということになる
が、そんな論理すら、通らなくなる。

 イスラム教のことは、よく知らない。知らないが、しかしこの問題は、イスラム教だけ
の問題でもないような気がする。この日本の中でも、「命がけの信仰」を教える宗教団体は、
いくらでもある。またそういう「滅私的な信仰」を、美化する風潮も、根強く残っている。
現に、ハマりすぎて、犯罪的行動に走る狂信的な信者も、多い。

 ところで最近のイラクでは、若い女性や、青年。さらには、少年まで、自爆攻撃に加わ
るようになったという。そのほうが、みなが、油断しやすいからだという。が、バカげて
いる。実にバカげている。それこそ、死んで、何になる?

 テレビの報道などによると、その指導者は、少年たちに、「死んでも、まったく今と同じ
世界が、そこにある」と教えているという。が、もしそうなら、自爆など、する必要がな
い。いや、それ以上に、そこらの指導者ごときに、なぜ、そんなことがわかるのか。

 信仰は、現実の私を支えるために、するもの。だから信仰はしても、決して、現実の世
界から遊離してはいけない。遊離したとたん、その人は、自分を見失う。ワイフの友人(4
5歳女性)に、こんな人がいる。

 その友人を、Aさんとしておく。そのAさんは、ちょうど1年前に、ある総合病院で、
乳がんの疑いがあると、診断された。元気な人だったから、それだけショックも大きかっ
たのだろう。絶望感に打ちひしがれていたとき、たまたま、ふらりと、近くにあった、「○
○信仰教団」という名前の教団に立ち寄った。霊力パワーで病気をなおすと知られている、
あの教団である。軽い気持ちだった。

 教団の指導者は親切な人だった。Aさんを祭壇へあげると、何やら祈ってくれた。そし
て何やら儀式をしてくれた。

 が、である。その利益(?)があったのか、つぎに精密検査を受けてみると、Aさんの
しこりは消えていた。Aさんは、喜んだ。と、同時に、自分の命を救ってくれたのは、そ
の教団のおかげと、かたく信ずるようになってしまった。

 それから1年になるが、今では、Aさんは、その教団の熱心な信者である。が、同時進
行の形で、今、大きな問題をかかえている。Aさんの夫が、Aさんの信仰に反対している
というのだ。そしてそれが、今、離婚問題にまで発展しているという。

ワイフが、Aさんの気持ちを詳しく聞くと、Aさんは、こう言ったという。「もし、ここ
でこの信仰をやめたら、バチが当たって、今度こそ、私は本当に乳がんで死んでしまう」
「夫を取るか、信仰を取るかと聞かれれば、私は、信仰を取るしかない」と。

 自爆攻撃をして、命を捨てろと教える教団。信仰によって、命が救われたと教える教団。
一見、正反対のことをしているようにみえるが、現実をもてあそぶという意味では、共通
している。イスラム教にしても、病気を治す(?)こともあるだろう。同じように考えて
いくと、Aさんが信仰する教団にしても、いつなんどき、Aさんに向って、「命を捨てろ」
と迫ってくるかもしれない。

 今のイラクの現状を見ていると、アメリカという(現実)と、反アメリカという(非現
実)の戦いのようにも見える。(現実)のない世界で、懸命に(現実)をつくろうとするア
メリカ。(現実のない世界)で、(現実)を破壊することだけが目的の、ゲリラ。もともと、
どこかでかみあう戦争ではない。アメリカにしても、「何のための戦争か」ということにな
るし、ゲリラ側にしても、これまた同じ、「何のための戦争か」ということになる。

 今のイラクの情勢を見ていて、何とも言えない、不毛感(=虚脱感)を覚えるのは、は
たして私だけであろうか。

【補記】

 何ともわかりにくい文章を書いてしまったようだ。

 簡単に言えば、今のイラクでは、アメリカ側の戦争と、ゲリラ側の戦争が、まったく、
かみあっていないということ。民主主義をそれほど望んでいない人たちに、民主主義を一
方的に押しつけようとするアメリカ。目的もなく、ただ破壊に破壊を重ねる、狂信的なゲ
リラ側。

 私は、それをこの文章の中で、(現実)対(非現実)の戦争と位置づけた。あえてヌカに
クギを打とうとするアメリカ。夢の世界に住んで、現実を見失ってしまったゲリラ側。そ
の間で、双方の命だけが、無意味にどんどんと失われていく。

 私は、そこに、今回の戦争の、不毛感を覚える。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ある離婚(2)

 とうとうというか、ついに、A氏の妻は、子ども(年長男児)を連れて、家を出てしま
った。11月のはじめのことだった。

 原因は、性格の不一致。浮気でも、借金苦でもない。夫の暴力でもない。性格の不一致。

いつだったか、A氏の妻は、私にこう言った。「(今の)夫とは、合いません」と。その
言葉を、私は、「顔を見るのものいやだ」というふうに解釈した。

 で、そのときの様子だが、私が、A氏に聞いたところでは、A氏の妻は、家財道具を片
づけたあと、大掃除をしてから、家を出ていったという。実は、ここが、私の理解のでき
ない点であった。「離婚を覚悟して、家を出ていくような人が、掃除などしていくだろう
か?」と。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「女っていうのはね、身辺をきれい
にしてから、家を出ていくものよ」と。

 私なら、「あとのことは知ったことか!」というふうにして、家を出る。掃除など、もち
ろんしない。「いや、ひょっとしたら、奥さんは、また戻ってくるつもりかもよ。だから掃
除をしていったんだよ」と、私が言うと、ワイフは、「そうかしら?」と答えた。

 どちらなのだろう? A氏が言った話を思い出しながら、私は懸命に、A氏の妻を理解
しようとした。きれいに掃除までしていったというのは、離婚を覚悟したためなのか。そ
れとも、また戻ってくるためなのか。

 もちろん、それまでのいきさつも、ある。突発的な離婚劇なら、私が言うように、「あと
のことは知ったことか!」というような様子で、家を出るかもしれない。しかし長い時間
をかけての離婚劇なら、きれいに掃除をしてから、家を出る(?)。A氏夫妻のばあい、そ
れまでのいきさつが、長かったということか?

 「そういうものかねえ?」「そういうものよ……」という、意味のない会話がつづく。

 私たち夫婦も、けんかをするたびに、「離婚してやる!」「離婚しましょ!」という話に
なる。しかし「家を出る」という発想は、たがいに、ない。「財産をきちんと二人で分けて
……」というところまでは話は進むが、いつもそこまで。そのうちたがいにめんどうにな
って、離婚の話は、忘れてしまう。

私「ぼくなら、やはり、掃除など、しないよ」
ワイフ「私なら、掃除をしてから、出ていくわ」
私「そこが、男と女のちがいかねエ?」
ワイフ「自分の思い出を、すべて消すためということもあるわよ……」と。

 A氏の妻は、すべての未練を断ちきって、家を出た。それは自分のシミのようなものを、
すべて消し去るためのものだったのか。掃除をしたのはそのため? あとあと迷うことが
ないように、そうしたとも考えられる。もしそうなら、まさに覚悟の家出ということにな
る。

私「やっぱり、離婚しかないのかねエ?」
ワイフ「そうかもよ」
私「A氏もつらいだろうね。挫折感もあるだろうし……」
ワイフ「子どもの問題や、養育費の問題もあるわよ」と。

 こういう話は、話せば話すほど、暗くなる。が、かといって、部外者の私には、どうす
ることもできない。できることと言えば、暖かく、無視すること。それだけ。


●妻と息子を取りあう、母親

 Bさんは、ひとり息子のX氏をでき愛した。それはわかる。そのため、X氏は、マザコ
ン息子になってしまった。それもわかる。

 しかしあるときから、X氏は、母親のBさんに、反旗ひるがえすようになった。母親の
Bさんのでき愛に耐えられなくなったからである。が、ことあるごとに、Bさんは、息子
のX氏に、離婚を勧めた。「あんな女、家から追い出しなさいよ」と。

 1人の男性をめぐって、嫁、姑(しゅうとめ)のはげしい戦争が始まった。よくあるタイ
プの戦争である。

 最終的には、X氏は、母親を取るか、妻を取るかの択一に追いつめられた。そして結果
として、妻を取った。が、これが当然、Bさんの逆鱗(げきりん)に触れた。が、そのあ
とBさんが取った、態度が、これまた意外なものだった。

 Bさん(55歳)は、X氏(30歳)の前では、今にも死にそうな、弱々しい母親を演
ずるようになった。ときどきX氏に電話をかけてきては、あれこれ泣き言を並べた。X氏
は、こう言う。

 「今にも、死にそうな声で、腰が痛いとか、足が痛いとか言うのですね。そこであわて
てかけつけてみると、電話のことなど忘れてしまったかのように、元気に動き回っている
のです」と。

 もともと子どもをでき愛するタイプの母親というのは、心のどこかに、すき間、つまり
情緒的な未熟性があるとみてよい。そのすき間を埋めるために、子どもをでき愛する。

 が、そのでき愛が、崩壊したとき、そこで大きな悲劇が生まれる。子どもが母親に、反
旗をひるがえしたようなときである。母親は、子どもとの関係を取り戻そうとする。その
ときBさんのように、子どもに同情を求めるのを、同情型という。

(ほかに、子どもに攻撃的になる攻撃型、子どもに依存する依存型、子どもに隷属的に
なる、服従型などがある。)

 X氏は、こう言う。「母が、まるで私の恋人のように、嫉妬して見せるのですね。私の前
で、スネて見せたり、甘えて見せたり。しかしそういう母を見ると、ゾッとします」と。

 この段階で、BさんとX氏の間の人間関係が良好なら、まだ救われる。しかしX氏は、
こう言う。「まるで執拗(しつよう)なストーカーに、追いかけまわされているような気分
です」と。

 未熟なまま、母親になる女性。そして子育てをしながらも、進歩しない女性。自分の心
のすき間(=情緒的欠陥)を補うために子どもをでき愛する女性。じょうずに子離れでき
ない女性。そうしたいくつかのファクター(要素)が重なると、ここでいうBさんのよう
になる。

 母親も、母親という地位と立場に、決して、甘えてはいけない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●愚かさ

宇宙という広大な空間の一点に、視点を置く。
その視点から見る、地球の何と、小さいことよ。

その地球の歴史の一点に、視点を置く。
その視点から見る、現在の何と、短いことよ。 

そんな「今」というときに、日本だの、中国だの、
アメリカだの、ロシアだのと言っている愚かさよ。

私の問題、あなたの問題、彼や彼女の問題と言っている、
その愚かさよ。人間よ、どうして私たちはかくも愚かなのか。

急がずとも、やがて私たちは、つぎの瞬間には、
あとかたもなく消え、永遠の虚無の闇のかなたに消える。

なのに、私だの、あなただの、彼だの、彼女だの、と。
人間よ、いつになったら、その愚かさに気がつくのか。


●目的、希望、夢

書いても書いても、先が見えない。
見えたと思ったら、その先はさらに先にのびる。

だれが読んでくれるのか。はたまただれも、読んでいないのか。
ただわからないまま、闇の中を手さぐりで、前に進む。

目的、希望、そして夢?

目的は、1000号までつづけること。
希望は、毎日、読者がふえること。
しかし夢は……? その夢が見えない。

ふとワイフに、「ぼくの夢は何かな?」と聞く。
ワイフは、「いつか、あなたの原稿の価値が認められるときが、必ずくるわよ」と、答える。

それが私の夢か。しかしワイフは、こうつづける。
「あなたが生きている間は、無理かもしれないわね。いつかよ」と。

気だるい無気力感。ぼんやりとした頭。
マガジンの読者数を調べると、久々に、3人、ふえていた。

その数字を見て、ポッと頭の中に、灯がともったように感じた。

小さな小さな希望かもしれないが、その希望に自分を託して、
前に進むしかない。今は、それしかない。
夢は、そのうち、あとからできてくるだろう。
(041222記)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●「M」という宗教団体

 私が「M」という宗教団体に、最初に興味をもったのは、ほかならない、学生時代の友
人(女性)が、その信者になったからである。

 どこか過激(pushing)な宗教団体で、その団体は、輸血を拒否することで、よく知られ
ている。そこで、ある日、その教団の「日本の本部」に電話をかけて、そのことを確かめ
てみた。

 電話はあちこちに回されたが、そのあと、幹部と呼ばれる人から、こういう返事をもら
った。「私どもは、一度だって、信者の方に輸血を拒否するよう指導した覚えはありません。
しかし熱心な信者なら、信仰上の確信から、自ら、輸血を拒否するでしょう」と。

 何とも、巧みな、責任逃れな言い方である。

 そうした輸血を拒否したため、90年代に入ってから、このH市でも、患者が死亡して
しまうという事件が起きている。さらに、その団体では、ほかの団体との交流を禁止して
いる。(多分、本部の人たちは、「禁止はしていない。熱心な信者なら……」という言い方
をするだろうが……。)

 そのためその友人は、同窓会には、一度も顔を出していない。いないばかりか、ある日、
同窓生全員に、聖書なる分厚い本を送り届けてきた。

 私にとっては、何とも悲しいできごとであった。それまではその女性に、ほのかな恋心
を感じていたが、それを知ったとき、その女性が、私の手の届かない、はるか遠くに行っ
てしまったように感じた。と、同時に、慕情は消えた。

 人はそれぞれの方法で、幸福への道をさがす。幸福というゴールは一つかもしれないが、
道は無数にある。またその道は、千差万別。

 だからこうした過激な宗教団体に入信したからといって、その人を責めても意味はない。
また責める必要もない。大切なのは、それぞれの立場で、その人を、そっとしておいてや
ることである。

 ただ「M」という宗教団体が問題なのは、その過激性ゆえに、家庭崩壊という問題を、
あちこちで引き起こしているということ。たいていは、ある日突然、夫の知らないところ
で、妻が入信してしまうというケースである。その深刻さは、部外者には、想像もつかな
い。「妻を返せ!」「家族を返せ!」と、悲痛な叫び声をあげている夫は、その団体のまわ
りだけでも、推定、4万人はいるとされる(「M」、A新社)。

 で、その友人の夫は、どうだったのだろうか。……ということを考えていくと、「私でな
くてよかった」と、思ってしまう。……というところから、その友人への慕情が消えた。
いくら私でも、そしていくら熱烈な恋愛をしたからといっても、それを乗りこえて、そう
した女性を愛しつづけることは、不可能であっただろうと思う。

 今、15年ぶりに、再び、カルト関係の本を読み始めている。一度は、足を洗った世界
だが、しかしどうしても無視できない事情が、このところ生まれてきた。これから先、こ
の問題について、少しずつ、考えていきたい。

(補記)

 大切なことは、日ごろから、自分の常識力をみがいておくこと。
 ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、その中で、常識力をみがいておく
こと。

 音楽を聞き、旅行をし、本を読み、スポーツや運動を楽しみながら、みがいておくこと。

 奇をてらった修行をしなければ真理に到達できないとか、ほかの人たちとの接触を禁ず
るようなことを教えているというのであれば、そもそも、その教えはまちがっている。

 それがわからなければ、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。彼らはいつも、自然の中
で、自然に生きている。人間もまた、そうであるべきであって、そうであることをまちが
っているというのなら、そう言うほうが、まちがっている。

 この常識力が、あなたを、こうしたカルトから、守る。いらぬ節介かもしれないが……。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●暖かい愛情

 子どものころ、母親の虐待に苦しんだ女性がいた。虐待といっても、言葉の暴力。その
女性は、母親に、「お前なんか、生まれそこないだ」「親不孝者だ」「産んだのが、まちがい
だった」と、いつもののしられていた。

 一時はそのため、その女性は、情緒がきわめて不安定なこともあったそうだ。回避性障
害や、引きこもりなどを経験している。20歳くらいのときは、過食症と拒食症を繰りか
えしたこともある。

 が、その女性は、結婚。子どもが3人できた。2人の息子、1人の娘。その女性は、心
に大きなキズをもっている。それは当然だが、しかしその女性は、今でも、献身的に親の
世話をしている。

 で、最近、こんな話を聞いた。その女性は、今年、35歳くらい。母親は60歳くらい。
ときどき実家へ帰って、母親の世話をしているという。寝食の世話はもちろんのこと、い
っしょに入浴して、背中を流してあげたり、髪の毛を染めるのを手伝ってあげているとい
う。

 が、相変わらず、母親は、その女性に、きびしい言葉をなげかけているという。いっし
ょにいると、その女性を奴隷のように使っているという。しかしその女性は、こう言って
いる。「もう、なれました。母の言葉は、右から左へと、耳の中を抜けていきます」と。

 あなたには、この女性のすばらしさが、わかるだろうか。娘のほうが、親を、許し、忘
れ、そして受け入れている。

 
●生徒の書き初(ぞ)め

 年末(04年)になって、Y市のある中学校で、こんな事件が起きた。

 女子生徒の一人が、書き初めで、相Dみつをの言葉を書いた。女性中学生は、「花はただ
さく ただひたすらに」と書いた。それについて国語の教師が、「それはやくざの言葉だ」
とからかった。

 そのためその女子中学生は、友だちに「やくざ」と呼ばれるようになり、卒業文集に顔
に切り傷のある似顔絵を描かれたという。そこでその女子生徒と家族が、精神的苦痛を受
けたということで、Y市を訴えた。それを受けて、Y地裁は、12月25日(04年)ま
でに、25万円の支払いを命じた(岐阜新聞)。

 事件の内容は、ともかくも、そしてどういうつもりで、その教師がそう言ったかは、わ
からないが、家族が、訴訟にまで踏み切った背景には、何かもっと深刻な事情があったの
かもしれない。それまでにも、いろいろと確執(かくしつ)があったのかもしれない。し
かし、教師と親の間に、もう少し信頼関係があれば、こういう事件は、起きなかったもの
と思われる。

 信頼関係……教育は、この信頼関係の上に成りたつ。この信頼関係がなければ、教育そ
のものが、成りたたない。崩壊する。ここにあげた事件は、その一例ということになる。
こうした仮定は、当事者の方たちにはたいへん失礼かとは思うが、信頼関係があれば、「や
くざ」と言われても、冗談ですんだ事件だっただろうと思われる。

 こういう事例は、少なくない。

 私はいくら注意しても、私の言うことを聞かないで、席から離れて遊ぶ子どもというの
は、いる。そこで私は、「パンツにウンチがついている子どもは、立っていていい」などと、
からかったりする。

 しかしこういう(からかい)というのは、ときには必要。「座ってなさい」「席から離れ
てはだめ」などと、子どもに命令したりするのは、できるだけ、避けたい。私も、一度、
大失敗をしたことがある。

 あるとき、ある子ども(小3男児)にそう言ったことがある。が、そこでハプニングが
起きた。ふつうなら、その子どもがあわてて席に座って、それですむはずだった。しかし
そのとき、隣の席にすわっていた別の子どもが、その子どもの尻に顔をあてた。そしてこ
う叫んだ。「先生、本当に、こいつの尻、臭い!」と。

 その夜、その子どもの父親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのウン
チのことで、みなの前で恥をかかせるとは、なにごとか!」と。

 父親の気持ちも、よく理解できた。私は、ただひたすら、あやまるしかなかった。

 そんなわけで、こうした(からかい)をするには、ここにも書いたように、教師と親の
間に、信頼関係が大前提となる。それがないまま、(からかい)をすると、それはとんでも
ないことになる。私も、こうした経験を、いくつかしている。

 だからもちろん、こうした(からかい)は、新しい生徒にはしない。できない。すると
しても、3か月とか、半年の間、親にじっくりと参観を、してもらってからにする。

 で、冒頭の事件だが、その教師は、ほんの冗談のつもりでそう言ったのかもしれない。
あるいはそうでなかったのかもしれない。詳しくはわからないが、残念な事件であること
にはちがいない。

 こうした事件では、訴えるほうも、訴えられるほうも、とことん神経を、すり減らす。
裁判に負ければなおさら、勝っても、残るのはあと味の悪さだけ。子どもにしても、自分
の中学時代を、暗く、重くするだけ。もう少し、別の方法がなかったものかと思う。考え
れば考えるほど、残念な事件であることには、ちがいない。

 
●最後に乗りきる力

 不幸というのは、やってくるときには、やってくる。しかも、たてつづけに、やってく
る。容赦、ない。「これでもか」「これでもか」と、やってくる。

 20年ほど前だったが、こんなことがあった。おおよその話は、つぎのようである。

 その女性の息子(3歳児)が、ある障害児とわかった。悲嘆に暮れていると、夫が、不
倫。相手の女性の家に、入りびたりになってしまった。離婚を考えていたら、その矢先、
突然、その女性の実の母親が急死。その女性は、こう言った。

 「もう、何がなんだか、わけがわからなくなってしまいました」と。

 こういう逆境にあったとき、その人を救うものは、何か。それには、いくつか、ある。
が、最高にその人を救うものと言えば、他人の心のやさしさではないか。「愛」というほど、
おおげさなものでなくてもよい。ほんの小さな、(やさしさ)である。その(やさしさ)に
触れたとき、その人は、その中に、永遠のやすらぎを覚える。

 が、そうでないケースも多い。

 中には、そうした不幸を、ゴシップの話題にして楽しむ人も多い。心の貧しい人たちで
ある。あえて他人の不幸な話を、ことさらおもしろおかしく話したりする。『他人の不幸ほ
ど、おもしろい話はない』と言った人さえいる。

 しかしこれだけはしっかりと覚えておいたほうがよい。他人の不幸を笑えば笑うほど、
今度はいつか、自分がその立場に立たされたとき、その何十倍、何百倍も、その不幸に苦
しむことになる。

 が、その反対に、不幸にある人にやさしくした人は、自分がその立場に立たされたとき、
……どうなるか? それは私にはわからない。ただキリスト教の聖書には、こうある。『慈
悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう』(Matthew5−9)と。

 私は、それは正しいと思う。まだその境地に達していないから、偉そうなことは言えな
いが、正しいと思う。常識で考えても、まちがっているはずがない。

 私たちを最後の最後で、支えてくれる力。それは、(やさしさ)ではないか。……今は、
「そう思う」としか書けないが、そう思う。自分に対するやさしや、他人に対するやさし
さ、他人が見せてくれるやさしさ。まだまだわからない部分も多いが、今の私は、それを
信じている。……信じていたい。


●老人介護

 要介護老人や要支援老人にもいろいろ、ある。痴呆老人、病弱老人など。しかし徘徊(は
いかい)や、反社会的行為(放火、窃盗、狂暴)をともなう要介護老人(要介護4〜5)
をかかえた家族の苦痛は、たいへんなものである。言葉では、表現できない。

 「24時間、目が離せない」
 「近所から、迷惑がられる」
 「疲れる」と。
 
 改善する見こみがないときは、その苦痛は倍化される。日に日に、症状は悪化するのみ。
ときに絶望的にすらなることもあるという。もちろん人間的なコミュニケーションは、な
い。

 ある女性はこう言った。「こんなことは言ってはならないのかもしれないが、ある朝、様
子を見にいったら、死んでいたというふうになってくれていたら、うれしい」と。

 こういう話を聞くと、「明日は、わが身」と、私は思う。と、同時に、自分がそういう状
態になったら、遺書をしっかりと書いたあと、静かに死にたいと思う。家族に迷惑をかけ
たくない。ある朝、静かに死んでいるというのも、悪くない。

 が、そのとき、脳ミソの中枢部が冒(おか)されていたら、どうなるか。そういう判断
能力も、なくなるということになる。そういう意味で、痴呆というのは、こわい。恐ろし
い。自分が自分でなくなってしまう。

 そういう問題は、どう解決したらよいのか。


●虐待

 数日前、N町のあるところで、親に虐待され、心に大きなキズをもった子どもと、1時
間ほど、話しあう機会があった。中学2年生の男子だった。私はその子どもを保護してい
る相談員の横にすわった。

 始終、おどおどした様子。ビクビクした様子。視線は定まらず、目は不安そうに、キョ
ロキョロと動いていた。声も元気がなく、うつ状態で、表情は暗く、沈んでいた。

 私は対峙し、黙ったまま、その子どもの話を聞いた。

「ママが、パパと、けんかする……」
「夕食のとき、お茶をこぼした……」
「ぼくは、悪い子……」と。ポソポソというより、ブツブツとものを言う感じ。一方的に、
同じ話を繰りかえすだけで、意味は、よくわからない。

 が、親の悪口は、まったく言わなかった。「でも、お母さんが、君にひどいことをするん
じゃないの?」と言うと、「ううん、ぼくが悪い子だった。ぼくはちゃんといい子になるか
ら、家に返して」と。ときどき、「うちに帰りたい」と泣いた。

 悲しき子どもの心である。虐待されても、虐待されても、母親のところがよいと言う。
保護されているにもかかわらず、「自分が悪いことをしたから、つかまった」というふうに
考えているようでもある。相談員のY氏に聞くと、Y氏はこう言った。

 「事情を聞こうと、母親のところへ行ったのですが、母親は、まったくふつうの母親と
いった感じなのですね。子どもを虐待しているといった様子が、まったくないのですね。
穏やかで、親切で、人当たりが、ものすごくいいのです。接していると、キツネにつまま
れたような気分になります。『本当にこの母親が、子どもを虐待しているのだろうか』とさ
え、思うこともあります。ただ多弁で、あれこれと、どこか、言い訳がましいことは、口
にしますが……」と。

 これは虐待する親の特徴かもしれない。虐待をしているという意識そのものがない。な
いばかりか、自分では、ふつうの親と思っていることが多い。そして人前では、むしろ、
すばらしくよくできた親を演ずることが多い。そしてその母親も、こう言ったという。

 「うちの子を、いつ返してくれますか」「私がちゃんと、めんどうをみますから」と。

 子どもを虐待する親は、多い。本当に多い。概して言えば、親意識が強く、子どもをモ
ノか、財産のように考えている。そしてさらに言えば、もちろん子どもに対する愛情の欠
落。代償的愛をもって、「愛」と誤解している。さらに言えば、情緒的未熟性、精神的欠陥
性が、見られることが多い。

 ところで最近私は、よくこう思う。

 虐待は、親から子へと世代連鎖しやすいというが、実はそうではないのではないのか、
と。子どものころ虐待を受けた親は、心に大きなキズを負う。その結果として、つまりそ
のキズを、今度は自分が子どもをもったとき、それを再現する。だから結果として、連鎖
しているように見えるようになるのではないか、と。

 親の虐待を受けながらも、おとなになってから、よい親になった例もある。親に虐待さ
れたからといって、必ずしも、虐待パパや虐待ママになるというわけではない。このタイ
プの人は、虐待を受けながらも、それを心のキズとしなかったと考えられる。

【注】

 子どもは、「家へ帰りたい」「ママのところにもどりたい」と言う。しかこうした親への
強度な依存性は、子どもの心の中にしっかりとしみ込んだ、(自我群)によるもの。わかり
やすく言えば、脳の中に刻まれた、(すり込み)によるもの。

 だから「そういう言葉に、まどわされてはいけない」(その指導員の言葉)ということだ
そうだ。まどわされて子どもを家に返したりすると、反対に親に逆説得されてしまうとい
う。あるいは親に、「児童相談所は、こわいところ」と、脅されるケースもあるという。

 虐待されているかどうかは、あくまでも、子どもの精神状態をみて、判断するというこ
とになる。


●ウイルス対策

 YOMIURI・PC(05年2月号)に、こんな記事があった。

 「ウイルス退治、常識を捨てろ」(24ページ)と。

 そして「ウイルスとの縁切りは、捨てよ、使うな、更新せよ」と。方法としては、つぎ
のようにある。

(1)知らない人からのメールは、覇気。
(2)ファイル交換ソフトは、使わない。
(3)ウイルス対策ソフトは最新状態に、と。

 私も、見知らぬ人からのメールは、すべて、即、削除を心がけている。これは常識。あ
とはプロバイダーでのウイルスチェック、ウイルス対策ソフトを併用している。が、(2)
番目の、「ファイル交換ソフトは使わない」というのが、よくわからない。説明文には、こ
うある。

 「WinnyやWinMXなどのファイル交換、共有ソフトで、ウイルスが広がりつつ
ある。ファイル交換、共有ソフトは、絶対に使わないこと」と。

 さらに「人気のあるファイルに、ウイルスをしのばせておき、ダウンロードして実行し
た相手に、感染させる」と。

 あまりよくわからないが(ごめん!)、要するに、インターネットで、安易にファイルを
ダウンロードしてはいけないということか? 私も以前から、何となくあぶないと感じて
いたので、つまり無料で、ファイルをダウンロードできるということに疑問を感じていた
ので、一度も、それをしたことがない。

 その記事を読んで、「やはりそうだったか」と思ってみたりする。この世界、ますます複
雑、かつ巧妙化してきている。注意しよう。

(読者のみなさんへ)

 質問、メールなどは、はやし浩司のHPのトップページから、必ず、「フォーム」を経由
して送ってください。またメールも、件名のところに、必ず、ご住所、お名前をお書きく
ださい。かかる表示のないメールは、プレビュー画面に表示することなく、即、削除させ
ていただいています。これは私や、みなさんのパソコンの健康を守るための措置です。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 21日(No.519)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●プレゼント

 私がしているような仕事をしていると、そのつど、何か、子どもにプレゼントを渡さな
ければならないときがある。そういうとき、もう30年以上もしているとはいえ、プレゼ
ントを何にするか、いまだに、よく迷う。「誕生日には、これ」「お別れには、これ」と決
めておけばよいという人もいるが、私のばあい、それができない。

 今日も、父親の転勤で、アメリカへ渡る子どもがいた。2年半、お世話になった。で、
やはり、プレゼントを何にするかで、迷った。

 モノにこだわると、どうしても、高価なものを考えてしまう。戦後育ちの貧しさという
か、より高価なものであればあるほど、子どもは、喜ぶはずと考えてしまう。が、それは
まちがっている。自分でもそれがよくわかっている。が、そういう発想を自分の中から消
すのは、容易ではない。

 で、今日も、近くのショッピングセンターへ行った。この前、ドイツへ転勤していった
子どもには、世界地図をあげた。その少しあとに東京へ転勤していった子どもには、日本
地図をあげた。ほかの子どもたちに、それぞれ、地図の中に、添え書きを書いてもらった。

 しかしつづけて地図というのも、よくない。たまたまクリスマスが近いので、特大のク
リスマス・カードを買った。それと、小さなチョコレートが入った袋。やはりほかの子ど
もたちに、添え書きを書いてもらうことにした。

 モノで子どもの心を操るのは、よくない。しかし今の子どもたちは、モノの値段をよく
知っている。こちらの心を、そのモノの価値で、判断する。高価なものであれば、喜ぶ。
安価なものだと、「何だ、こんなもの」というような顔をしてみせる。

 そこで私としては、モノをそのまま渡すことは、できるだけ避けている。添え書きをす
るのは、そのため。そうそう、このところ、コンビニで買った、小さなプラモデルを子ど
もに渡すことが多くなった。コンビニへ行ったついでに、プラモデルを買う。それを組み
立てる。しばらく自分で楽しんだあと、それを子どもたちにプレゼントする。これがなか
なか好評である。

 今日も(12・22)、家で割り算を練習してきた子どもがいた。先週は、できないと言
って、涙を浮かべていた子どもである。そのときは、みなが帰ったあと、10分ほど、別
に教えた。中途ハンパなまま終わってしまった。が、今日、私に会うと、「うちで、お母さ
んに教えてもらった」と。うれしそうだった。

 私は、ポッと心の中が、暖まるのを感じた。だから、みなの前で、その子どもをほめた。
ほめたあと、「何がほしい?」と聞いた。

 ……ということで、プレゼントの話は、おしまい。大切なことは、そのつど、心をこめ
ること。問題は、何をどうあげるかではなく、どう心をこめるか、である。一つのヒント
になると思うが、こんなことがあった。

10年間つきあったアメリカ人の友人だが、彼は、アメリカへ帰るとき、小さな石ころ
を私にくれた。(石ころだぞ!)

 最初、私は、ムッと思ったがが、その石ころには、表に、靴の絵、そして裏には、こう
書いてあった。

 ONE STEP AT EACH TIME!、と。

 つまり、「一度に一歩だよ」と。その友人は、10年間、私とつきあって、そう感じたの
だろう。その思いを、その石ころに書いてくれた。心をこめるというのは、そういうこと
をいう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【子育て一口メモ】

●自己意識を育てる

乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切な
ことは、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。
たとえばADHD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態にな
る。しかし子どもの自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするように
なる。そして見た目には、症状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そし
て一度、こじれると、その分だけ、立ちなおりが遅れる。


●まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点で
は、子どもは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎
縮してしまったようなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」
と言う。そして子どもに向かっては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」
と叱る。しかし原因は、親自身にある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


●「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさ
ず、「やってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期
待ほど、子どもを苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽を
つんでしまう。そこで子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TA
KE IT EASY!(気を楽にしてね)」と。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●友だちとなじめない子ども

 集団生活に入ると、心のどこかで緊張感を覚える。心が開けない。何かあると、スネた
り、ひがんだり、いじけたりする。ときに、ツッパルこともある。ジクジクといつまでも、
ささいなことにこだわったり、悩んだりする。

 そのため、集団の中にいると、精神疲労を起こしやすい。また心はいつも緊張状態にあ
るため、ささいなことで、カッと切れたり、怒ったりしやすい。情緒も、そのため不安定。

 そこでこのタイプの子どもは、外の世界では、仮面をかぶることで、自分を守ろうとす
る。いい子ぶったり、無理に相手に合わせようとする。友だちに何かいやなことをされて
も、すなおに反応することができない。ブランコを横取りされても、すぐあけ渡してしま
う、など。

しかしそのため、たとえば園や学校の先生には、「いい子だが、何を考えているかわから
ない」といったタイプの子どもになる。

 集団の中で、よく見られる様子としては、つぎのようなことがある。

(1)いつも、ひとりで、ポツンと静かにしている。
(2)集団の中では、おとなしく、何かにがまんしているといったふう。
(3)表情がとぼしく、喜怒哀楽の情を押し殺してしまう。
(4)大声ではしゃいだり、笑ったりすることができない。

 自分の子どもがそうであると、たいていの親は、「なおそう」と考える。しかし、ある特
定の集団の中で、一度、そういう症状が出ると、なおすのは、容易ではない。それが、そ
の子どもの行動パターンとして、定着してしまうからである。

 が、よく観察すると、そういうタイプの子どもでも、別の環境の中では、まるで別人の
ように振る舞うことがある。たとえば学校の教室の中では、借りてきたネコの子のように
おとなしくても、休み時間に友だちとサッカーをするときは、元気な様子を見せる、など。

 そこでもしあなたの子どもが、ここでいう集団になじめない子ども(?)と疑われるよ
うなときは、それをなおそうと考えるのではなく、その場面では、そういうものだとあき
らめた上で、別の場面で、別の子どもを発見するように心がける。「何とかしよう」「これ
ではだめだ」と思えば思うほど、子どもの症状は、こじれる。

 なお、「うちの子は、集団になじめない」と、親はよく簡単に言うが、その根は深い。乳
幼児期の母子関係に起因することもある。あるいは、集団恐怖症、対人恐怖症などの、恐
怖症が、その背景にあることもある。さらに、かん黙傾向や自閉傾向(自閉症ではない)
などが、あることもある。

 中には、乱暴な人がいて、「なれていないだけ」と考えて、無理をする人がいる。そして
いやがる子どもを、何かの運動サークルや、集団キャンプに参加させたりする。しかしこ
うした無理は、ここにも書いたように、かえって症状を、こじらせる。

 富山県に住んでいる、YBさんから、こんな相談のメールが、届いている。少しタイプ
がちがうかもしれないが、ここでいっしょに、考えてみたい。

++++++++++++++++++

娘(9歳)のことで、相談します。下に6歳の弟がいます。

学校があまり楽しめないようで、以前は、行き帰りも最初はみんなと一緒に行っていた
のですが、今では一人で通うようになっていて、とにかく早く学校に着きたいみたいで、
起きてすぐ支度をして大急ぎで出かけていきます。

家に帰ってきても友達と遊ぶこともなく、絵を描いたりパソコンで遊んだりしてすごし
ているようです。家では楽しそうに過ごしているのですが、2学期の自分でつけた通知
表では、友達もいないと書いていて、2学期も楽しくなかったと書いていました。

先生は、学校で何かを始めるときは、ひとりでいることはなく、グループに入っている
ということなのですが、自分では、何かまわりから取り残されているような感覚がある
みたいで、何かの拍子にこの感情が爆発して、よく泣きます。

この間も、教室で嫌な思いをしたらしく、いたたまれなったようで、授業中こっそり教
室を抜け出して一人で泣いていたこともありました。先生が慰めてくれても、自分はみ
んなに受け入れられていないと言い張っていたようです。

先生が言うには、学習能力が高く精神年齢が大人で、先のことまで考えてしまうのでは
ということなのですが、人間関係にこれからもすごく本人が苦労しそうで、親として今
何をしてあげるのがいいのか、教えていただきたいと思います。

+++++++++++++++++++

 こうしたケースでは、子どもに向かって、「もっと……」とか、「ダメでしょう」的な押
しつけは、禁物。かえって子どもを、袋小路に追いやってしまうことになる。この状態で、
子どもを責めると、子どもは、現実の自分に自信を失い、自己嫌悪からさらに、自己否定
へと進んでしまうこともある。

 大切なことは、子どもの立場になって、「あなたはよくがんばっている」と、子どもの心
を理解してあげること。「無理をすることはないわよ」と、下から支えてあげること。

 気うつ状態が長くつづき、神経症(心身症)による症状がほかに見られるようになった
ら、要注意。さらに症状をこじらせると、学校恐怖症から、学校へ登校しなくなることも
考えられる。

 YBさんの子どもは、学校から帰ってくると、絵を描いたり、パソコンで遊んでいると
いうことなので、そういう方法で、自分を取りもどしているのかもしれない。それが悪い
ことと決めてかかるのではなく、そっとしておいてあげることこそ、大切である。

 なお、子ども自身が、「私は受け入れてもらえない」と言うのは、その遠因に、母子関係
の不全を疑ってみる。母親が、(父親のケースもあるが)、無意識のうちにも、子どもの役
割を混乱させていないかを反省してみる。あるいは、もう一つ原因として、「姉」というこ
とで、安易なダカラ論をぶつけていることも、考えられる。

 よくあるケースは、(YBさんが、そうだと言うのではない)、親が、勝手な設計図を用
意し、その設計図に、無理に子どもを当てはめるような行為。子どもは(本来の自分)と、
(親が求める自分)の間に、ギャップを感ずるようになり、自分に自信をなくす。いつも
自分がしていることについて、まちがっているのではないかという不安感を覚えるように
なる。

 親側に、子どもへの不信感、心配があれば、当然、それを除去する。(この不信感も、乳
幼児期に起因することが多く、根が深い。)「あなたはお姉さんだから」というダカラ論は、
避ける。

 YBさんは、「何をしてあげればいいのか」と悩んでいる。しかし今、大切なことは、な
おそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考える。この種の
問題には、二番底、さらには三番底がある。

 無理をすれば、「まだ以前のほうが症状は軽かった」ということを繰りかえしながら、症
状は、さらに悪化する。9歳という年齢は、ちょうど親離れをする時期にかかっている。
妙におとなびてみたり、反対に、ときに赤ちゃんぽくなってみせたりする時期である。

 恐らくこの子どもの情緒が不安定になったのは、下の弟が生まれてからではないかと推
察される。赤ちゃんがえりによる症状があったのかもしれない。あるいは、姉であるとい
う自負心から、どこかで別の自分を演ずるようになったのかもしれない。これを発達心理
学の世界では、「反動形成」という。みなから、「姉だから」「姉だから」と言われているう
ちに、その姉像にそった、反対の自分をつくりあげてしまうことをいう。

 原因は、いろいろ考えられるが、もし思い当たることがあれば、反省する。

 そこで結論ということになるが、つぎのことに注意してみたらよいと思う。あくまでも
参考的意見として、利用してほしい。

(1)スキンシップを濃厚にする。下の弟中心の育児姿勢から、もう一度、姉中心の育児
姿勢にかえてみる。

(2)「がんばれ」式の励まし、「ダメでしょう」式の否定や、おどしは、タブー。「あな
たはよくがんばっているのよ」「無理をしなくていいのよ」「お母さんも、集団で遊ぶのは
身が手だった」と、子どもの立場でものを考える。

(3)学校恐怖症による不登校を警戒する。神経症による症状(腹痛、頭痛など)が見ら
れたら、要注意。適当に学校を休ませたりして、気を楽にさせる。

(4)学校以外の場で、子どもが自分の心を開放し、自分をさらけ出せる場所を用意する。
趣味のサークルや、クラブなど。子どものしたがっていることに、耳を傾けること。無理
な押しつけは、意味がないばかりか、かえって症状をこじらせる。

 先生も言っているように、どこかおとなびていて、ふつうの子どもよりも、先に先にと
ものを考えるところもあると思われる。(そういう印象を先生がもっているということが、
重要。)

 YBさんの子どもがそのように見えるというところに、YBさんの子どもの問題が集約
されているように思う。つまり、YBさんの子どもは、無理をしている。仮面をかぶって
いるのかもしれない。しかしもちろん、それはその子どもの本当の姿ではない。

 といっても、この年齢になると、子どもの様子を変えるのは、容易ではない。恐らく、
半年単位、一年単位の忍耐が必要かと思われる。しかし全体として考えても、集団行動や
集団内活動が苦手な子どもはいくらでもいる。得意、不得意があって、当たり前。

 だからこの段階では、やはりあきらめるべきところはあきらめ、別の方面で、子どもの
興味や関心を引き出すことが重要。オールマイティな人間をめざさないこと。それともY
Bさん、あなた自身は、集団行動が得意だろうか? ……だっただろうか? そういう視
点で考えなおしてみるとよい。

 以上、とりあえず考えてみたが、つづきは、マガジン(無料版)1月中旬号で、書いて
みる。

【YBさんへ】

 メール、ありがとうございました。私からの返事は以上ですが、いただきましたメール
のマガジンへの転載など、よろしくご許可くださいますようお願いします。

 ふつごうな点があれば、改めますので、至急、ご連絡ください。

 私が想像するYBさんのお子さんは、すばらしい子どもです。懸命にいつも、何かと戦
っている子どもです。ただどこかで無理をしている。だから一見、おとなびて見えるかも
しれませんが、本当は、弟が甘えるように、あなたに甘えたいのかもしれません。

 一度、ぐいと抱いてあげてみてください。とくに子どものほうから、それを求めてきた
ら、そうします。そしてそのとき、こう言ってあげてみてください。「あなたは、よくがん
ばっているわ」と。そのやさしさが、子どもの心を溶かします。

 そうそう、大切なことを言い忘れました。
 
 子どもを伸ばす最大のコツは、不得意分野には、目を閉じて、得意分野をさがして、伸
ばす、です。だれにも、得意、不得意がありますから、ね。

 では、今日は、これで失礼します。

 はやし浩司
(はやし浩司 心を開かない子ども 集団行動が苦手な子供 集団行動が苦手な子ども 
集団で静かな子ども 子供 子供の神経疲労 子どもの神経疲労 集団になじめない子ど
も 集団になじめない子供 集団生活が苦手な子供)
 
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●代理ミュンヒハウゼン症候群(補足)

 子どもを虐待しながら、他人の目の前では、すばらしい母親を演ずる。そんなタイプの
虐待が、ふえている。

たとえば子どもを虐待して、ケガをさせたとする。そして子どもが、病院へ入院したと
する。そういうとき、子どもの付き添い人として、子どものそばから片時も離れず、子
どもの世話をしてみせたりする。

 子どもの背中をさすってみたり、足をマッサージしてあげてみせるなど。子どもは子ど
もで、母親の姿に、半ばおびえ、そうかといって母親に反旗をひるがえすこともできない。

 こうした虐待を、総称して、代理ミュンヒハウゼン症候群という。(詳しくは、「はやし
浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群」で検索のこと。)

 この話を、ある会でしたら、実際、そうした虐待を目撃したことがあるという人が現わ
れた。

 その人を、Aさんとしておく。Aさんは、45歳くらい。女性である。

 そのAさんの住むマンションの隣人が、自分の子ども(中2男子)を虐待しているとい
う。ときどき、はげしい罵声が聞こえてくるという。ふつうの罵声ではない。まるでヤク
ザどうしのけんかのような罵声だという。

 で、その子どもは、中学生にもなるのだが、ハキがなく、おとなしい。いつもオドオド
した様子で、自閉傾向も見られるという。

 その女性が、こう言った。

 「ふだんは、つまり私たちの前では、すばらしい母親を演ずるのですね。演ずるという
より、どちらが本当の母親なのか、わからなくなります。ですから、ほとんどの人は、そ
の母親を、すばらしい母親だと思っているようです。

 しかも不思議なのは、自分の虐待で、子どもが萎縮しているのに、その意識がまるでな
いということ。『私はふつうの母親だ』と思いこんでいるみたいです。その上、『私ほど、
息子を愛している親はいない』というようなことまで口にします。

 会って話をしていると、何だか、キツネにだまされたみたいな雰囲気になります」と。

 子どもを虐待しながら、その実感をもっていない親は多い。肉体的な虐待はともかくも、
言葉による虐待については、とくにそうである。「お前なんか、早く死んでしまえ」「ロク
でなし」と、いつも子どもを虐待しながら、それを虐待だと思ってもいない。もちろん罪
の意識など、みじんも、ない。

 少し前、代理ミュンヒハウゼン症候群について書いたので、その補足として、この原稿
を書いた。
(はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン症候群 事例 補足 子どもの虐待 子供の虐待)

++++++++++++++++++++

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッ
シャーという学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというの
は、現実にいた男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばか
りしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で
病院などへ連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代
理ミュンヒハウゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン
症候群」と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)
に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい
嫁)を、演じていた人がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたっ
た一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長
女(当時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当
然のことながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる
女性(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、
子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見
せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面と
いうより、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そう
でないのか、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子ど
ものほうが萎縮してしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、
だれか他人に訴える気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判する
ことさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親意識

 親にも、いろいろあるようだ。今朝、横浜市の友人のK氏(57歳・男性)と、電話で、
1時間ほど、話した。彼が生まれ育った群馬県のX町というところは、今でも、家父長意
識が色濃く残っているところだという。

 そこで、親意識を、悪玉と善玉に分けてみた。

(悪玉・親意識)

 「産んでやった」「育ててやった」という意識が強い。親は絶対で、親に反抗することを、
親が許さない。「親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちる」などと言って、日常的に、脅され
る。

 子どもが巣立ったあとも、子どもは、親のめんどうをみるべきという考え方が強い。盆
や、暮れの帰省は、絶対にしなければならない。それをしないと、「先祖(親)捨て」のレ
ッテルを張られる。

 子どもは、人間というより、親のモノ、財産。

(善玉・親意識)

 子どもは子どもでも、子どもというより、友だち意識が強い。いつも仲よしといった感
じ。子どもといっしょに、もう一度、別の人生を楽しむといったふう。

 子どもが巣立つときは、「あなたの人生は、あなたのものだから、自由にしなさい」と、
子どもの背中をたたくことができる。親は親で、子育てからの解放感を覚える。

 子どもに対しては献身的だが、しかし見返りは求めない。その意識すらない。いつも「子
どもには迷惑をかけたくない」と思っている。

 先に進む前に、以前書いた原稿を紹介する。

+++++++++++++++++++++

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子
どもを自分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。

その悪玉親意識にも、これまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは
依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分
の価値観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしよ
うとする。子どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をす
る。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもを
その「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなって
いるため、たいていは無意識のうちに、そうすることが多い。

親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらい
ました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ
姿」という)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子ども
の歓心を買いながら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。

「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子ど
もにするのが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに
気に入られようとするのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、
先生の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それ
もここでいう後者ということになる。

 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようにな
る。それは当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。
はたしてあなたの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分
析してみると、おもしろいのでは……。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++

 悪玉親意識が強いと、親子の間には、命令・服従の関係が、生まれやすい。親は、子ど
もに、徹底した服従を求める。

 このとき、子どもは、二つのうちの、どちらかの選択に迫られる。親に従順になる。あ
るいは、親に反抗する。

 さらに、この段階で、親は、親としての権威を持ちだすことが多い。(親・絶対教)の根
幹にあるのは、この権威である。理由など、ない。根拠も、ない。あるとすれば、子ども
に対する本能的な依存性※ということになる。

 が、その権威が通じなくなったとき、たとえば親自身が、その権威を維持できなくなっ
たとき、親は、つぎの4つのパターンのどれかをとることになる。

(1)攻撃型……子どもに向かって、暴力的に服従を強いる。
(2)同情型……わざと弱々しい親を演じてみせる。
(3)依存型……ベタベタと子どもに依存する。甘える。よい親を演ずる。
(4)服従型……「老いては子に従え」を口ぐせにし、子どもに服従する。

 これら4つのパターンの複合型というのもある。あるいはそのときどきに変化するとい
うタイプもある。

 X町のK氏は、こう言う。

 「私の親などは、死ぬまで、私から、お金をむしり取りましたよ。容赦なかったですよ。
とくに冠婚葬祭は、派手で、そのつど、5〜50万円程度のお金を、要求してきました」「そ
のため、若いころは、そのつど、貯金通帳は、カラになりました。私の人生は、まるで親
のためにあったようなものですよ」と。

 K氏のばあいは、それでも、また親子関係が良好だったから、救われる。が、そうでな
いと、それから生まれるストレスは、想像を絶するものになる。子どもは、家族自我群と
いう、重いクサリにからまれて、悶絶する。

 が、そんなK氏だが、K氏の母親は、死ぬまで、近所の人にこう言っていたという。

 「息子なんて、育てるもんじゃないですね。どうせその年になれば、みんな、親を捨て
てどこかへ行ってしまいますよ。親なんて、さみしいもんですわ」「息子は、横浜の嫁に取
られてしまいました」と。

 K氏の母親は、ここでいう同情・依存型の親意識をもっていたことになる。

 結局は、悪玉親意識の強い親というのは、自立できない、精神的に未熟な親ということ
になる。

【注※……本能的な依存性】
 
 ある種の鳥類は、生後直後に、「刷り込み(インプリンティング)」をすることが知られ
ている(ローレンツ)。

 人間も、生後まもなくから数か月にかけて、同じような刷り込みをすることが最近の研
究でわかってきた。この時期を、「敏感期」という。

 この敏感期に、子どもは、親に対して、特定の、かつ濃密な本能的な感情をもつように
なる。私は、親・絶対教の根幹に、この(刷り込み)があるのではないかと推察している。
(はやし浩司 敏感期 ロレンツ ローレンツ 刷り込み インプリンティング)

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●どうしようもない夫

 Aさん(45歳・女性)の夫は、大のギャンブル好き。借金ばかりしている。酒も飲む。
暴力も、振るう。そんな夫だが、Aさんは、別れることもできず、夫のそばにいる。めん
どうをみている。昼間はスーパーで働き、夜は、宅配会社の仕分けの仕事をしている。

 ふつうなら、Aさんは、夫に愛想をつかして、別れてもよいはず。まわりの人たちも、
Aさんに、「早く別れなさい」と勧める。

 しかしAさんは、別れない。Aさんは、こう言う。「私がいなければ、あの人は生きてい
けない」「あの人には、私が必要」と。

 そういえば、同じようなシーンを、昔、何かのヤクザ映画で見たことがある。チャンパ
ラ映画の定番にもなっていた。どこまでも献身的な妻。それに甘えて、ますます自分勝手
な振るまいを繰りかえす夫。

 こういうのを、心理学の世界では、「共存依存」という。

 つまりそういうふうにして、夫と共存すること自体が、その妻の生きがいになっている。
もしそういう夫と別れたら、その妻は、自分を証明するものを、失ってしまう。まわりか
ら、「かわいそうだ」「いい嫁だ」と言われることが、その妻にとっては、生きがいになっ
ている。

 一方、夫は夫で、精神的に妻を虐待すればするほど、妻が、自分に依存してくるのを、
知っている。だから、ますます自分勝手な振るまいを繰りかえすようになる。

 しかしこんな人間関係は、異常である。ゆがんでいる。

 栃木県に住んでいるBさんから、こんな相談があった。ここでいうAさんというのは、
そのBさんの姉である。

 「どうしたらいいか?」と。

 こういうケースのばあい、まず、本人自身に、その異常さを理解してもらうのが、一番
よい。そしてパチンコ依存症(男性に多い)や、買い物依存症(女性に多い)と同じよう
な、依存症の一つであることを、わかってもらう。

 こうした共存依存に陥ると、(1)自分のことが客観的に判断できなくなる、(2)自分
が何を望んでいるか、それを表現できなくなる、(3)自分が自分でなくなり、(夫の)人
形のようになってしまうなどの、障害が現れるようになる。

 方法としては、一度、夫と離れて暮らしてみるのがよい。たがいに冷却期間を置くわけ
だが、実際には、これがむずかしい。無理に離れさせたりすると、禁断症状のような症状
が、たがいに出てくることがある。だから結局は、またモトのサヤに収まってしまう。

 こういうケースでは、たがいに「好きだ」とか、「愛している」とか言うものだが、本当
のところは、それは愛でも何でもない。たがいに依存しあっているだけ。が、それすらも
本人たちには、わかっていない。

 もともとどちらか一方に、心の空白部分があるために、そうなると考える。だから、こ
とは簡単ではない。また簡単には解決しない。ふつうは、そういう状態のまま、双方が、
その人生を終えることが多い。

 Aさんも45歳ということだから、私の印象では、そのままの状態で、これからもいく
だろうと思う。妹のBさんにとっては、つらいことかもしれないが、Bさんにできることに
も限界がある。
(はやし浩司 共存依存 依存うつ)

【付記】
 夫婦の問題は、どこまでいっても、夫婦の問題。他人がとやかく言っても、始まらない。
どうしようもない。親や兄弟でも、そこには限界がある。本人たちが、「それでいい」と言
うなら、あとは、暖かく無視するしかない。何かあって、助けを求めてきたら、そのとき
は、相談にのる。しかし、そのときまで、待つしかない。

 この種の問題は、きわめてデリケート。へたに干渉すれば、その時点で、人間関係は終
わる。干渉するにしても、慎重に。控えめに。相談されたことだけを、その範囲で、てい
ねいに、いっしょに考えてあげるのがコツである。


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●老齢期のボケ

 老人イコール、ボケるということではない。

 頭の働きにもいろいろある。たとえばJ・L・ホーンという学者らは、知能を、(1)流
動性知能と、(2)結晶性知能に分けて考えている。

 わかりやすく言えば、柔軟な思考力で、新しい問題を考えていく力を、流動性知能とい
う。

 反対に、今までの経験の上に、より高度の知的能力や知識を身につけていく力を、結晶
性知能という。

 年齢とともに、流動性知能は減退すると言われているが、結晶性知能は、50代、60
代になっても、伸びつづけると言われている。(結晶性知能にしても、本当は減退するので
はなく、より必要としなくなるから、結果として減退すると説く人もいる。)

 つまり頭は、使えば使うほど、伸びつづける。使わないから、そこで伸びが停滞する。
ボケる。

 そこでまわりの老人たちを観察してみる。

 が、とても残念なことに、老齢期に入ってからも、頭を使いつづけている老人というの
は、意外と少ない。新しいことにチャレンジしている老人となると、さらに少ない。

 しかしこれではいけない。私の恩師のT教授は、最近、「第三の人生」という言葉を使い
始めている。老齢期を第二の人生というなら、90歳を過ぎたてからの人生を、第三の人
生と。私は、そういう意気込みこそが、大切ではないかと、思っている。つまりそういう
意気込みこそが、人生を最後まで楽しく生きるコツではないか、と。

 思考能力というのは、健康力と同じで、いつも前向きに戦ってこそ、維持できる。立ち
止まったとたん、その瞬間から、思考能力にせよ、健康力にせよ、それらは減退する。

 だから結論は、こうなる。

 老齢期になるから、頭がボケるのではない。それだけの努力をしないから、ボケる、と。

 世の中の多くの人は、「老人は頭が悪い」と、あまりにも安易に決めつけすぎているので
はないか。

【付記】

 たしかに鈍くなった面も、ないわけではない。若いころなら、一、二度見ただけで覚え
られたような単語や言葉でも、なかなか頭に残らなくなった。それに、すぐ忘れてしまう。

さらに体力と思考力が、密接にシンクロナイズ(同調)されるようになり、肉体的に疲
れているようなときには、集中力そのものが、長くつづかない。長い文章を書いている
と、途中でふと、自分が何を書いているか、わからなくなることさえある。

 そういう変化は、たしかにある。しかしそれはあくまでも、程度の問題。それなりの努
力で、克服できる。だから私は、まだこの問題を、あまり深刻には、考えていない。
(はやし浩司 流動性知能 結晶性知能 J・L・ホーン 老人のボケ)

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●生活に追われる夫

 先月(11月末)、ある男性から、つぎのような相談が寄せられた。(住所、氏名は不明。)

 この10年来の不況で、毎年、どんどんと残業手当がカットされている。そのため、生
活が苦しくなっている。いくら稼いでも、妻からは、「お金が足りない」と小言を言われる。
子どもは、4歳。この先のことを考えると、不安でならない、と。

 収入が減れば、生活の質を落す……というのは、常識かもしれないが、質を落すといっ
ても、口で言うほど、簡単なことではない。一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜいた
くが、当たり前になってしまう。「給料が10%カットされたから、今日から食費も10%
カット」というわけには、いかない。結局は、追いつめられて、やがては、にっちもさっ
ちもいかなくなる。

 本来なら、そうならないように、またそういうこともあるかもしれないという前提で、
目一杯の生活はしない。たとえば給料が、手取りで25万円だとするなら、20万円以内
の生活をする。その給料が20万円にさがったなら、15万円以内の生活をする。

 ……といっても、これも簡単なことではない。わかっていても、ついつい無理をしてし
まう。「来月、何とかすればいいや」と考えて、25万円の収入しかないのに、30万円、
40万円の生活をしてしまう。

 その男性が、そうだというのではない。しかしその男性がかかえているような問題は、
今、広く、ほとんどの男性が共通して、かかえている問題と言ってもよい。むしろ「20
年前、30年前の生活のほうが、心にゆとりがあった」と考えている人のほうが多いのに
は、驚かされる。

 たとえば、内閣官房審議室が1959年に行った調査によれば、「生活に満足している」
と「まあまあ満足している」をあわせると、66%もいたという。

 しかしそれから45年後の、2004年。「満足している」「まあまあ満足している」は、
59・8%にさがったという(内閣府)。45年前とくらべると、6%も減っているのがわ
かる。

 これを文明の皮肉と言わずして、何と言う。

 今の人たちは、当時の私たちとはくらべものにならないほど、ぜいたくな生活をしてい
る。豊かになった。楽になった。が、それでも、「豊かになった」と感じている人は、減っ
ている。考えてみれば、おかしなことではないか。

 しかし私はこの相談を読んだとき、やはり夫の立場で考えてしまうというか、妻の態度
にも、問題があるように感じた。「お金が足りない」と夫を責める妻。それを苦にする夫。
妻に、もう少し別の言い方ができないものか、と。

が、だからといって、妻を一方的に責めることもできない。家計のやりくりをしながら、
四苦八苦している妻の姿も、私には見える。

 今、公的な発表とは裏腹に、民間企業に勤めるサラリーマンたちの生活は、確実にきび
しさをましつつある。残業カット、給料の減額などは、まだよいほう。給料が減らされた
上、夜中までの残業がふえている企業は、いくらでもある。近くに住むある男性(38歳)
は、会社から「文句があるなら、やめてもらう」と、脅されている。もちろんその男性の
ばあいも、今年の冬も、ボーナスは、なし!

 何かが、おかしい。何かが、狂っている。だいたいにおいて、税金の使われ方が、おか
しい。今朝の新聞(12・20)を見ると、O市では、市の公費を、これまでの11年間、
職員年金として、水増し流用していたという。その額、驚くなかれ、302億円! 中に
は、計400万円もの年金を受け取っていた元職員もいたという!!

 話は、どうしてもそこへ行ってしまうが、そうしたシワ寄せが、結局は、こうした男性
にのしかかってくる。まじめに働いても働いても、生活が苦しくなるだけの、一般庶民。
その一方で、わが世の春を謳歌している、お役人たち。

 こんなことをつづけていれば、日本は、本当に崩壊する。私は、もう、知らないぞ!

 ……ということで、話を戻す。

 みんなで進めよう、質素革命。車が3台あるなら、2台に減らせばよい。2台あるなら、
1台に減らせばよい。毎日の小遣いが2000円あるなら、1500円に減らせばよい。
借家に住んでいるなら、より家賃の安い借家に引っ越せばよい。

 そしてその分、心を豊かにすればよい。高級なレストランで食事をするのも、たまには
よいだろう。が、しかしそれよりもおいしいのは、海の見える丘の上で食べる、おにぎり。
そういう発想に切りかえていく。

 多分、とても失礼な言い方になるかもしれないが、その男性の妻は、そういう「心の豊
かさ」とは、あまり縁のない人かもしれない。もしそうなら、それこそ5年計画で、心の
豊かさとは何か、それを追求してみたらよいのでは……? 

【付記】

 1970年代まで繁栄を謳歌した、オーストラリア。しかしその後、オーストラリアは、
凋落(ちょうらく)の一途をたどる。オーストラリア・ドルにしても、一時は、1ドルが
40円台にまでさがる。

 一人当たりの国民所得は、日本に抜かれ、やがてシンガポールにも抜かれる。その当時
のこと。私がオーストラリアの友人に、「こういう現実をどう思う?」と手紙を書いたら、
その友人は、こう言った。

 「ヒロシ、それがどうした?」と。

 生活の豊かさなどというものは、マネーという尺度では、測ることはできない、と。

 事実、だからといって、オーストラリア人の生活の質がさがったわけではない。オース
トラリアは、オーストラリアのままだった。今も、そうだ。

 数字だけを追いかけて、「日本は……」と論じている間は、日本人に、安穏(あんのん)
たる日は、やってこない。それはちょうど、偏差値を気にしながら、テストばかり受けて
いる受験生のようなもの。

 あるいは、こんなことも言える。

 足の踏み場もないほど、電気製品や電子製品がぎっしりとつまったような生活が、本当
に豊かな生活と言えるのか、と。

 何かがおかしい? 何かがまちがっていた? あるいは何かが、足りなかった? 「お
金が足りない」と小言を言う妻の姿を思い浮かべながら、私は、そんなことを考えた。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++ 

●クリスマス

 息子たちがまだ小さいころは、毎年、クリスマスは盛大に祝った。クリスマスツリーも
飾った。ついでに、そのころ家族で、餅つきもした。臼(うす)も、買った。しかしその
息子たちも、今は、巣だってしまった。

「クリスマスと年越しだけは、家族みんなでしよう」と、あれほど、何度も約束をかわ
したのに、息子たちは、それを覚えていない? 約束といっても、私が一方的に、約束
したつもりでいただけなのかもしれない。

 そんなわけで、ここ数年は、年越しはともかくも、クリスマスは、ワイフと私だけの、
さみしいものになってしまった。息子たちは、息子たちで、ガールフレンドと、クリスマ
スを楽しんでいる。「ガールフレンドを連れてきなよ。いっしょに、パーティをしようよ」
とは言っているが、もう、今年は言わない。言っても、ムダ。彼らは彼らで、ジジババ抜
きのクリスマスを、楽しみたいようだ。

 しかしそういう休みを、本来なら、喜ばねばならないのかもしれない。自立して巣立っ
ていく子どもたちを見るのはさみしいことかもしれないが、それが子育ての最終目標。自
立しないで、いつまでも、私たちのそばにへばりついていられるのも、困る。

 私たちは、子育てから、解放されたのだ! ……といっても、三男はまだ大学生。あと
二年と少しは、がんばらなければいけない。やるしかない!

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++


【法多山へ行く】(この原稿は、HTML版のほうで、
去る12月24日に掲載したものです。)

●法多山

 朝、起きると、ワイフが、「法多山へ行こう」と言った。「法多山」は、「はったさん」と
読む。浜松市の東、車で一時間半ほどの距離のところにある。正月の初詣(はつもうで)
では、このあたりでも一、二を争うほど人を集める寺である。

 しかし私は、その寺を、「ほったさん」と読んでいた。

私「ほったさん……へ?」
ワ「ほったさんではなく、はったさんよ」
私「はったさんねえ……?」と。

 そのとき私は、ハリーポッターのことを思い浮かべていた。

 教室で、子どもたちに、「君たち、ハリー・パッターって知っている?」と聞くと、たい
ていの子どもたちは、「ハリー・パッターではないよ。ハリー・ポッターだよ」と言い返す。

 そこで私は、さらに真顔になって、「ハリー・ポッターだってエ? おかしいよ、ハリー・
パッターだよ」と。

 子どもたちがワイワイと騒ぎ始めたら、ゆっくりと、こう言う。

 「じゃあ、正しい発音を教えてあげよう。いいかな? Ha−rr−y Po―tte
r」と。

●八田山

 私はさっそく、インターネットで、地図をさがしてみた。しかし私が検索したのは、「八
田山」。ワイフが、「はったさん」と言ったので、私は、「八田山」と思ってしまった。

 が、検索しても、見知らぬ土地ばかり。「そんなはずはない」と思いつつ、検索を繰り返
す。が、やはり、「はったさん」は、見つからなかった。

私「静岡県に、ハッタサンなんて、ないよ」
ワ「そんなはずはないわよ。袋井市の近くにあるはずよ」
私「おかしいね……」
ワ「ハッタサンっていうのはね、『法』という字に、『多い』という字を書くのよ」と。

 今度は、自動車の中にあったロードマップで調べる。パソコンの電源は、落としてしま
っていた。

私「ないよ」
ワ「山のほうよ」
私「やっぱりないよ」
ワ「おかしいわねエ……」と。

 これは袋井市についてからわかったことだが、法多山は、山側ではなく、袋井市の南、
つまり海側にあった。私たちは、地図で、袋井市の北側ばかりをさがしていた。

●ドライブ

 東名高速道路の浜松西インターから、東名高速道路に入った。袋井市までは、30分も
かからなかった。インターを出るとき、ゲートの男に、「法多山はどっち?」と聞くと、馴
れた様子で、一枚のパンフレットをくれた。

私「なんだ、法多山って、海の方だった」
ワ「ホント? 私、山の方かと思っていた」
私「エコパ(袋井市にあるサッカースタジアム)の近くだよ」
ワ「そうだったの」と。

 言い忘れたが、私は、車を運転しない。ワイフと結婚してから、一度も、運転していな
い。車の運転は、すべて、ワイフに任せている。

 結婚する少し前のこと、車を車庫に入れようとして、そのとき、車をぶつけてしまった。
以来、すっかり自信をなくしてしまった。

 人間には得意、不得意がある。無理をすることはない。

 一方、ワイフは、運転中でも、決して、カッカしない。冷静そのもの。が、私は、短気。
挑戦的。かつ攻撃的。だから運転はできない。

が、そんな私だが、私は子どものころから、方向に関する感覚が、野生動物並み(多分)、
鋭い。頭の中に、伝書バトがもっているような、磁気コンパスが組み込まれてる……と
いった、感じ。

 新しい土地でも、めったに、道に迷うことはない。

 そんなわけで、私は、自分では、最高のナビゲーターだと思っている。つまりこうして
私たち夫婦は、たがいに、たがいを補っている。こういうのを、心理学でも、相補性とい
うらしい。長い時間をかけて、そうなった。

 おかげで、私たちは、生涯において、一度、追突されたことをのぞけば、事故を起こし
たことがない。

●袋井市から法多山へ

 袋井市から国道1号線へ入り、そこから右折して、法多山へ向う。ワールドカップ用に
舗装された、豪華な道路を通り抜けると、そこに法多山があった。

 駐車場に車を止める。そこからは歩いて、五分ほどで、法多山の山門に。途中の店で、
ふ菓子を買う。棒のように長くなった、菓子である。値段は、三〇〇円。

 山門をくぐると、参道がつづく。両側は、広葉樹が美しく紅葉していた。

「きれいだな」
「きれいね」と。

 何度も、同じセリフを繰り返す。

 日曜日だというのに、意外を人は、少なかった。初詣のときには、足元も見えないほど、
混雑するらしい。ワイフは、「初詣には来られないから、今日来たのよ」と言う。「初詣の
先取りだね」と、私は答える。

 一キロ近くを歩いて、奥へ。きれいな石段を登りつめると、そこに本殿があった。これ
また豪華な、鉄筋づくりの寺だった。

 私たちは型どおりの参拝をすますと、帰りの道に。心の中では、名物のダンゴを食べる
ことばかりを考えていた。

私「法多山って、ダンゴが名物なんだね」
ワ「そうよ。厄(やく)よけになるんだって」と。

 途中、中国人の若い男女のグループとすれちがった。キャッキャッと声をあげながら、
交互に写真を撮りあっていた。八、九人のグループだった。私たちはそのグループのじゃ
まをしないよう、遠巻きにして、すれちがった。

●老夫婦

 話は少しもどるが、本殿の中から、外の写真を撮っているときのこと。一組の老夫婦が、
本殿の階段を上ってくるのがわかった。二人とも、細い、きゃしゃな体つきをしていた。

 その夫婦について、歩きながら、私が、ふと、ワイフに、「あの夫婦は、いい夫婦だね」
と漏らした。ワイフも、その老夫婦を覚えていた。

ワ「年齢は、70歳くらいかしら……」
私「ううん、75歳くらいだよ」
ワ「そうね……」
私「たがいに寄り添うようにして、いい夫婦だったね」
ワ「そう、いい夫婦だったわね」と。

 夫のほうは、少し足が悪いようだった。それを妻が、うしろから支えるようにして、歩
いていた。二人とも、知性的な顔立ちをしていた。品があった。

私「どうして、参拝に来たのだろう?」
ワ「何か、あったのよ」
私「まさか、初詣の先取りではないだろうし……」
ワ「何か、特別な思いがあったのよ、きっと……」
私「そうだね」と。

 観光で来る人もいれば、何か、真剣な思いをもって来る人もいる。私たちは、そのちょ
うど、中間あたりか? ……そんなことを考えながら、ダンゴ屋へ着く。

 再びあたりを見ると、あの美しい紅葉が、どっと視界の中に飛び込んできた。相変わら
ず人は少なく、一二月というのに、春のような陽気に包まれた、のどかな一日だった。
(041219)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【近況・あれこれ】

●無気力

 話せば長くなるが、東洋医学では、精神力も、体力と同じように、「使えば、疲労する」
と教える。精神の「精」は、もともとは、地の気(=飲食物)から得られた、「精微な物質」
という意味である。栄養物にも通ずる。精力の「精」という意味にも、通ずる。

 このところ、私のその精神力が、弱くなっているのを感ずる。正義感も、弱くなった。
問題意識も、弱くなった。何かにつけ、ふと油断すると、「どうでもいい」と思うことが多
くなった。

 つい先ほども、B社から年末に発刊された、「日本のR点」という本を開いてみた。全体
で830ページもあるような、分厚い本である。ふだんなら、どこを読んでも、「私なら…
…」という「私」が出てくるのだが、今夜は、それもない。ただぼんやりと、ながめてい
るだけ。

 どうしてだろう? なぜだろう? 疲れているせいか? 肉体的に疲れていると、精神
力も弱くなるらしい?

 いやいや、あるいは、恋をした? いや、そんなことはありえないが、そう言えば、恋
をしたときの気分に似ている?

 誤解がないように言っておくが、私は、いつも、だれかに恋をしている。慕情といった
ほうが、正しいかもしれない。しかしそれは、まさに秘められた恋。浮気とか、浮気心と
か、そういう大げさなものではない。相手は、街でふと見かけた女性、テレビの中に出て
きた女性などなど。もちろん生徒の母親に、恋心を感ずることもある。

 しかし、そこでストップ。切ないといえば、切ないが、この年齢になると、その切なさ
を楽しむことができる。私にとって、女性というのは、そういうもの。恐らく、死ぬまで、
そうだろう。

 が、今夜は、ちがう。何というか、懸命に生きている自分が、どこかいとおしい。かわ
いい? しかしそれは、ナルシズム? 自己愛? それともただ感傷的になっているだ
け? よくわからないが、自分が、フワフワしている。どうも、つかみどころがない。

 「お前は何をやっているんだ」と、自分に問いかけてみたりする。「何のために生きてい
るんだ?」「今まで、何をしてきたんだ?」とも。

 やはり、私は、少し疲れているようだ。今夜も、早く寝よう。明日になれば、また気分
も晴れているはず。では、みなさん、おやすみなさい。(04−12−19日夜)

【付記】

 こういう精神状態のときというのは、無性に、何かほしいものが、ほしくなる。今は、
最新型のパソコンが、それかも。

 で、脳ミソというのは、それほど器用にできていないことが、これでわかる。精神的に
何か満たされないものを感ずるようなとき、たとえば物欲を満足させることで、それをご
まかすことができる。泣く子にアメをしゃぶらせて、黙らせるような行為が、それ。

 反対に、何か、本当にほしいものがあって、それが満たされないとき、どこか、心の中
に穴があいたような状態になる。今、感じている無気力感は、ひょっとしたら、そのあた
りから生まれているのかもしれない。

 そう言えば、今までにも、たびたびこういう状態になったことがあるが、そういうとき、
何かを、パッと買ったりすると、なおった。

 これはおもしろい発見である。この理論で考えれば、たとえば買い物依存症などに見ら
れる、「依存うつ」も、それなりにうまく説明ができる。つまり物欲への飢餓感が、回りま
わって、心をうつ状態にする……? このこのつづきは、また明日にでも、考えてみよう。

 Have a Good−night!



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 19日(No.518)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今週のBWから

 今週は、「歌」をテーマにした。
 簡単な発声練習、音階の学習のあと、その季節ということで、「お正月」の歌を歌う。

 歌を歌ってくれた子どもに、貯金箱を渡す。大小、二種類の貯金箱。「お金もちになりは
い人は、こちら」「ものすごくお金もちになりたい人はこちら」と声をかけると、全員、「大
きな貯金箱がほしい」と(12月16日)。

 そのあと、その貯金箱に、絵を描かせる。「一番、楽しかったときの絵を描こうね」と。
そしてそれが終わると、みな、私の机のところへもってきた。私は、その中にコインを入
れてあげる。10円玉とか、5円玉である。たいしたお金ではないが、子どもたちは、喜んでくれ
た。

 今日は、年中児クラス。年齢は4〜5歳。

 そのあと、また、みんなで、「お正月」の歌を歌う。

 「♪もう、いくつ寝ると、お正月……。お正月には、凧あげて……」と。

私「もっと、ニッコリ、笑って歌おうよ。いいか、みんな童心にかえって、歌うんだよ」
子どもたち「うん」と。

 幼児を伸ばす最大のコツは、子どもを楽しませること。すべては、ここへ行きつく。あ
とのことは、子どもに任せれば、よい。子どもは、子ども自身のもつ力で、伸びる。

 帰るときみな、貯金箱をガチャガチャと鳴らしながら、部屋から出て行った。

【付記】

 BW教室では、伝統的に、年末には、貯金箱を渡している。で、そのとき、いくらか(3
0〜50円)のコインを、生徒にあげている。生徒に、現金をあげるということについて、
最初は、抵抗があったが、貯金箱だけでは、貯金箱にはならない。いくらかのお金を入れ
てあげる。それが誘い水になって、子どもたちは、貯金を始める。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●依存性

子どもの依存性は、どうやってできるか。一つの例をあげて、考えてみよう。

 たとえば、子どもたちに、学校で使う教科書をもってくるように言ったとする。が、X
君(小5)は、それを忘れた。
 
 そこで私は、「来週は、もっておいでよ」と言いながら、私のもっている教科書を、X君
に貸してあげたとする。X君は、それを使って、学習する。

 が、X君は、そのつぎの週も、教科書を忘れた。「どうしてもってこなかったの?」と聞
くと、「今度は、もってくるから」と。そこで前の週と同じように、私の教科書を貸す。

 つまり、こうしてX君の心の中に、「忘れても、借りればいい」という、安易な依存性が
生まれる。これを数度繰りかえしていると、X君の心の中から、緊張感が消える。忘れる
ことが、平気になるというより、「もってこなければならない」という気持ち、そのものが
消える。

 こうした依存性というのは、だれにでもある。そしてだれしも、いつも、依存できる人
を、そのつど本能的な部分でかぎわけ、その人に依存できるとわかると、その人に依存す
るようになる。まさに「スキさえ、あれば……」という心理状態になる。

 そんなわけで、人間関係というのは、総じてみれば、無数の保護と、同じく無数の依存
の関係でできている。それが1人の人を中心に、幾重にもからんだクモの巣のようになっ
ている。そしてそのクモの巣は、別の人と、これまた幾重にもからみあっている。

 つまり同じ人でも、ある場面では、保護的になったり、また別の場面では、依存的にな
ったりする。ここにあげたX君にしても、忘れ物に対して依存的になっているのは、あく
までも教科書だけであり、そのほかの部分では、そうでない。

 たとえば私についても、仕事面では、ワイフの世話になることは、めったにない。しか
しそんな私でも、食事のこととなると、全面的にワイフに依存している。洗濯もそうだ。
だから私は、依存性がないとも言えないし、依存性があるとも言えない。

 が、この依存性のこわいところは、その依存する相手によっては、過度に依存し、その
人自身が、自立できなくなってしまうこと。とくに母子関係で、それが起こりやすい。

 ある母親は、自分の息子(小6)が、修学旅行にでかけた夜、それは1泊2日の修学旅
行だったが、夜通し、泣きつづけたという。「どうして?」と聞くと、その母親は、恥ずか
しげもなく、こう言った。「あの子は、私がいないと、何もできない子だからです」と。

 そしてそうして泣き明かしたことを、むしろ、誇っているようなところがあった。「私は
それほどまでに息子を愛している」「私こそ親のカガミだ」と。

 つまり母子の依存関係というのは、相互的なもので、子どもだけが一方的に依存性をも
つということはない。その背景には、子どもの依存性に甘い、親側の育児姿勢がある。こ
のタイプの母親は、親にベタベタと甘える子どもイコール、いい子と考える傾向が強い。

 そしてさらに、その母親自身も、そのまた親(母親の親たち)と、ベタベタの依存関係
にあることが多い。つまりこうして、依存性は、親から子へと、代々と伝播(でんぱ)し
やすい。

 そこで、どうするか?

 先のX君のケースでは、ある日を境に、いっさい、忘れ物を貸さないという方法で、対
処する。一度、子どもにショックを与える。このショックが、別の緊張感を生む。X君は、
その日、何をしたらよいかわからず、ただモジモジしながら、1時間を過ごす。

 このとき大切なのは、しかったり、こちらが感情的になってはいけないということ。淡々
とやりすごす。ここでX君の中に、恐怖心を与えてしまうと、それこそ、『泣き面(つら)
に、ハチ』ということになりかねない。

こうしてX君の中から、依存性を消していく。

 総じてみれば、日本人は、よく依存型民族と言われている。ほかの民族とくらべても、
保護、依存の関係を作りやすい。「何とかなる」という考え方が、やがて、「だれかが何と
かしてくれるだろう」という考え方に、変化しやすい。

 そんなことも、心のどこかに置きながら、子どもの依存性を考えるとよい。
(はやし浩司 子どもの依存性 子供の依存性 依存性)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●動機づけ

 子どもの学習指導は、動機づけで始まり、動機づけで終わる。あとは、子ども自身の学
習意欲を、うまく、守り育てていく。わかりやすく言えば、「学ぶことは、楽しい」と思わ
せる。「楽しかった」という思いが原動力となって、その思いが、子どもを前向きに、ひっ
ぱっていく。

 「生徒の到達度を調査する国際学会」の調査によると、「小学生の理科と中学生の数学
では平均点が、10点ほど下がったほか、「勉強が楽しい」「その科目に自信がある」と
答えた割合は、下から数えて2番目か3番目と、極めて低かった」という(04年末)。

 中学生は世界46か国、小学生は25か国が参加した学力テストの結果である。

 それについて、日本の文科省のN氏は、「なぜ勉強しないといけないのかという動機づ
けが、まずできていない。とても世界のトップレベルとは言えない状況にあるということ
は、きびしく受け止めなければいけないと思っています」と、コメントを発表している(中
日新聞)。

 ここで「動機づけ」という言葉が出てくる。

 たとえば小学4年で、角度の学習をし、つづいて分度器の使い方を学習する。教える側
としては、「角の大きさは……」というような言い方をする。

 しかしその時点で、大半の子どもたちは、ほとんど、反応を示さない。もともと、その
必要性がないからである。実感もない。子どもたちの心を代弁すると、こうなる。

 「どうして、そんなことを勉強しなければ、いけないのか?」

 そこで話題を変える。

私「先が、とがっているものにさわると、痛いよね」
子どもたち「痛いよ」
私「ここに、いろいろなヤリがあるけど、どれが一番、痛そうかな?」と。

 プリントには、いっぱい、ヤリが描いてある。先のとがったのや、そうでないのがある。
その図を見せながら、子どもに、角度の概念をわかってもらう。

 中に、たいへん微妙なヤリがある。見た目では、どちらがよりとがっているかわからな
い。子どもたちは、「こちらかな?」「いや、こちらだ」と言い出す。しかしそれこそが、
教える側のねらいどころ。

 つまりこうして子どもたちに、問題意識をもってもらう。そしてそれを動機づけにつな
げていく。

 まずいのはいきなり、「では角度を測ってみましょう」「分度器の使い方を勉強しまし
ょう」などという、乱暴な指導。子どもは、その時点で、興味を半減させてしまう。

 なお、こうした動機づけは、1、2年前にしておくとよい。たとえばここでいう「角」
にしても、小学2、3年の段階で、それとなくしておくとよい。これを私は勝手に、「種
まき」と呼んでいる。つまり頭の中に、種をまいておく。

 実際には、私は、サメの絵を子どもたちに見せる。サメの口の中には、いっぱい、とが
った歯が並んでいる。そのサメの口の中を見せながら、「どの歯が、一番、とがっている
かな?」「かまれると、痛そうかな?」と。

 つまり小学2、3年生のときに、「遊び」として、子どもたちに、種をまくつもりで、
話しておく。するとその種は、子どもたちの頭の中に残り、1、2年で、大きく成長する。

 そういう例は多い。

 ……ということで、私は私の幼児教室では、こうした無数の動機づけを、そのつど、し
ている。サメの歯が描いた教材も、その中の一つである。コツは、「教えてやろう」と構え
ないこと。子どもたちといっしょに楽しむつもりで、教えること。それにまさる動機づけ
は、ない。
(はやし浩司 動機付け どうきづけ)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●メタ・コミュニケーション

 最近、「メタ……」という言葉を、よく耳にする。「メタ・サーチ」「メタ・ミュージック」
「メタ・サイコロジー」など。

 その中に、「メタ・コミュニケーション」というのがある。この場合の「メタ」は、「高
次」と訳す。「メタ(高次)・コミュニケーション」という意味である。

 たとえばあなたが今、Aさんという人と、対峙して話したとする。そのときあなたは、
自分の心情を、(1)言葉と、(2)言葉以外の動作、表情、しぐさなどで伝えようとする。
この(2)の言葉以外の、伝達方法を、メタ(高次)・コミュニケーションという。

 たとえば、あなたがAさんからプレゼントをもらって、うれしかったとする。するとあ
なたは、Aさんに、「ありがとう」と言う。それが、言葉によるコミュニケーションだが、
同時に、あなたは、そのうれしさを、表情や動作で表現したりする。そのコミュニケーシ
ョンを、メタ・コミュニケーションという。相手のAさんは、そういうあなたを見て、あ
なたが感謝していることを知る。

 ふつう、この(1)の言葉と、(2)の言葉以外の伝達方法は、たがいにシンクロナイズ
(同調)する。「ありがとう」と言って、ニコニコ笑う。「バカヤロー」と言って、怒った
顔をする、など。

 しかしときに、この二つが、一致しないことがある。子どもの世界でも、ときどき観察
される。

 たとえばブランコを横取りされても、ニヤニヤ笑っている。先生に叱られているのに、
無表情のまま。あるいは、先生にほめられているのに、すごんだ目つきをする、など。以
前、数学の問題を解きながら、突然、ニヤニヤと笑い出した子ども(中学生女子)もいた。
「何を考えているかわからない」といった、状態になる。

 このタイプの子どもに接すると、熟練した教師でも、ある種の不気味さを感ずる。

 そこで私は、年に1度、「表情」というレッスンをもうけている。心の状態を、すなおに、
そのまま表現できるように、子どもを指導する。喜怒哀楽の情に合わせて、それに言葉や、
ジェスチャをのせていく。そして最終的には、少し大げさであるにせよ、心の状態を外に
向って開放できるようにする。

 参観している親たちから見ると、(多分)、私が遊んでいるように思うかもしれない。あ
るいは、そういう指導が、「勉強」と、どういう関係があるのかと疑問に思う人もいるかも
しれない。

 本来なら、そういう説明をした上で、「表情」の指導をしたほうがよいのかもしれないが、
時間的にも無理。それに本当のところ、若いお父さんやお母さんに、理解してもらえるか
どうか、わからない。だから、私はあくまでも、子どもだけを見て、指導する。

 話をもどすが、このメタ・コミュニケーションの重要さは、そうでない子どもに出会っ
たときに、わかる。「何を考えているかわからない」という子どもとしばらく接していると、
こちら側も、言いようのない不安感に襲われる。イライラすることもある。

この「メタ・コミュニケーション」という言葉は、もともとは、ベイトソンという学者
が、統合失調症(分裂病)の患者を観察していて、使い出したという。恐らくベイトソ
ンも、そういう患者と接していて、言いようのない不安感、あるいは恐怖感を覚えたの
ではないか。そのことからもわかるように、こうした状態、つまりメタ・コミュニケー
ションが、言葉と遊離した状態を、決して、安易に考えてはいけない。

 こうした(1)言葉と、(2)言葉以外の伝達方法が不一致を起こす原因としては、いろ
いろ考えられる。

 抑圧された家庭環境、神経質な家庭環境など。過干渉、過保護、過関心がよくないこと
は言うまでもない。さらに進んで、母子関係の不全、基本的信頼関係の不足などもある。

 何でもないことのようだが、明るい表情で、心の状態をありのままに表現する子どもは、
それだけでも、心がまっすぐに伸びていることを示す。
(はやし浩司 メタ・コミュニケーション メタコミュニケーション 高次コミュニケー
ション ベイトソン)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●深刻な相談

 電話がかかってきた。受話器を取ると、その女性は、こう言った。「助けてください」と。

 話の内容は、こうだ。

 その女性の弟夫婦が、小学3年生になる子どもを連れて、AA教団に入信してしまった
という。AA教団というのは、共同生活しながら修行するという、あの教団である。どこ
かの山奥で、それをするという。自分たちは、「宗教団体ではない※」と、たびたび公言し
ているが、カルトとみてよい。宗教的色彩が、きわめて濃厚な団体である。

 「弟は、そのため、10年ほど勤めた会社をやめてしまいました。弟の子どもも、いっ
しょに、共同生活をすることになるので、学校へは行かなくなります。どうしたらいいで
しょうか」と。

 その女性は、39歳。弟は、34歳だという。

 その人が、いわゆるカルトと呼ばれている教団に入信するのは、その人の勝手。しかし
その人が周囲に与える、混乱というか衝撃は、相当なものである。よくあるケースは、あ
る日、突然、妻が、ある教団に入信してしまうケース。息子や娘が、入信してしまうケー
スも、少なくない。

 入信した人は、「私の勝手」「信仰は個人の自由」などというが、そうはいかない。

 こんな深刻なケースもある。

 何でもその教団では、手をかざして病気を治すという。その教団を、BB教団としてお
く。

 そのBB教団に属する、熱心な信者がいた。夫婦で、信仰をしていた。で、ある日、そ
の夫婦の子ども(5歳)が、熱を出した。肺炎のような病気ではなかったか。そこでその
祖父にあたる人が、その子ども(孫)を、病院へ連れていこうとした。

 が、その夫婦は、がんとして、それを拒否した。そして一晩中、彼らがいうところの神
に祈り、手かざしをつづけた。が、その結果、その子どもは、死んでしまった。

 ふつうなら、そこでその夫婦は、その教団に疑問をもつはず。しかし、その夫婦は、ま
すますその信仰にのめりこんでいったという。

 なぜか?

 その時点で、自分たちの信仰に疑問をもつということは、同時に、自分たちの愚かな信
仰で、子どもを殺してしまったことを自ら、認めることになる。だからその夫婦にしてみ
れば、自分の信仰を疑うことなど、ぜったいにできない。だからますます自分たちの信仰
にのめりこんでいいた。

 こうしたカルト信仰では、常人には、理解しがたい、独特の論理が働く。

 しかし冒頭に書いた相談は、少し、内容がちがう。

私「弟さん夫婦が、同時に入信したわけですね」
電話の女性「そうなんです。それを何とか、やめさせたいのです」
私「夫婦は、うまくいっているのですか」
女「仲のよい夫婦です」

私「そうですか……。夫婦が、それでいいというのなら、何もできないと思います」
女「子どもがかわいそうです」
私「しかし、それもその夫婦の問題です」と。

 こういう相談では、私は無力でしかない。その上、その女性が心配しているのは、34
歳にもなった、弟夫婦のことである。

女「何とか、やめさせる方法はないでしょうか」
私「あなたはまちがっていると言うことはできます。しかし、まちがっていると言う以上、
それにかわる思想をこちらで用意してあげねばなりません。この問題だけは、ハシゴだけ
はずして、あとは勝手にしなさいというわけにはいかないのです」と。

 よく誤解されるが、信仰があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、信仰がある。

 AA教団にせよ、BB教団にせよ、その教団を否定しても、意味がない。その夫婦が、
そうした信仰に走ったのは、すでにその前提として、それを求める(心の空白部分)があ
ったからである。もっとはっきり言えば、その夫婦は、何らかの救いを求めて、その教団
に入信した。

 もう少し単純なケースでは、夫の知らないところで、妻だけが勝手に、カルト教団に入
信してしまうケースがある。夫は、一方的に妻の入信を責めるが、しかしそれ以前に、す
でに夫婦関係は、こわれていたとみる。信仰が夫婦関係をこわしたのではない。

私「弟さん夫婦が、それでハッピーなら、それでいいではないですか。お姉さんのあなた
が、とやかく言ってもしかたないでしょう」
女「しかし弟が不幸になっていくのを、見過ごすことはできません」
私「あなたはそう思うかもしれませんが、それはあくまでも弟夫婦の問題です」と。

 ……と、こんな押し問答のような会話がつづいた。そして最後に私は、こう言った。

 「どうであるにせよ、この問題は、私の専門ではありません。以前は、カルト問題にか
かわってきましたが、足を洗って、もう15年以上になります。ですから、私にできるこ
とは、残念ですが、何もありません」と。

 それでも時間にすれば40分ほど、電話で話しただろうか。その女性は、電話を切った。
どこか納得できないといった雰囲気だった。アクセントからして、関西方面の人だとわか
ったが、それ以上のことは、わからない。名前も、聞かなかった。

 私にとっても、あと味の悪い電話だった。

 受話器を置くと、そこにワイフがいたので、「どうして姉が、弟夫婦のことを心配するの
だろう?」と聞くと、ワイフはこう言った。

 「それぞれの家には、複雑な事情があるからよ。兄弟関係も、きっと、複雑なのよ」と。

※……宗教法人格を取得しているか、取得していないかのちがいだけである。宗教団体の
資格を取得するためには、たとえば、本部の特定、本尊の特定などが、要求される。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●KOKODA

 数日前、オーストラリアの友人が、本を2冊、送ってくれた。1冊は、オーストラリア
料理の本。もう1冊は、「KOKODA」(Paul Ham著)という本。パプア・ニュ
ーギニアでの、日本との戦争を書いた本である。

 (全体の趣旨としては、オーストラリア兵もそれだけ犠牲になっているから、パプア・
ニューギニアについては、オーストラリアに統治権があるとでも言いたいのかもしれな
い。)

 パプア・ニューギニアでの戦争は、日本では、あまり知られていないが、かなりの激戦
だったらしい。ところどこに日本兵の死体の写真も載っている。中には、沼地のようなと
ころで、折り重なるようにして死んでいる日本兵の写真もある。私はそれを見ながら、「た
った25年前には、そんな戦争をしていたのか……」と思った。

 「25年前」というのは、私がオーストラリアへ行った1970年からみて、25年前、
という意味である。ノー天気な私は、そんな戦争をしたことも知らないまま、オーストラ
リアへ渡った。

 その友人の父親も、そのパプア・ニューギニアで戦っている。いつだったか、その友人
の家に遊びに行ったとき、彼が戦場から持ち帰ったという、日本の銃を見せてくれたこと
がある。

 何しろ602ページもある、分厚い本なので、すぐには読めない。今度の正月休みに、
少しずつ読むつもり。友人からのメモには、こうあった。「ところどころで、日本を非難し
ているが、君を怒らせないことを願う(not offend you)」と。


●中国の潜水艦

 少し前、中国の原子力潜水艦が、日本の領海を横切るという事件が起きた。それについ
て、A国の国防省に勤めていたこともある友人が、こうメールを送ってきた。「……注意し
ろ。中国は、日本を、TESTINGしている」と。

 つまり、「中国は、日本をテストしている(試している)」と。

 「どういう意味だ?」と、すぐ返事を書いたが、その答は、まだ届いていない。

 中国側は、「あやまって日本の領海を横切った」と説明しているが、そんなことはありえ
ない。ありえないことは、常識。それはたとえて言うなら、道を歩いていて、道路沿いの
家の中を、無断で歩きぬけるようなもの。

 中国は、いろいろな場面で、日本の防衛能力を確かめているらしい。


●日本崩壊の序曲

 世界的に、ドル安傾向がつづいている。対円レートでは、1ドルが、103〜5円程度
で安定しているように見えるのは、日本の円も同時に、売られているから。つまり、ドル
安、円安の状態がつづいている。

 もっとわかりやすく言えば、アメリカと日本が、世界で、同時に売られているというこ
と。

 このことは、たとえば韓国から見てみると、よくわかる。韓国のハナ銀行では、11月
末に7億8000万ドルあった、外貨預金の残高が、12月12日現在では、5億800
0万ドルにまで減っている。たった10日あまりで、26%も減ったことになる。ほかに、
チョフン銀行でも、12%も減っている。

 「ドルも、円もあぶない。だからほかの通貨に!」ということらしい。

 天文学的数字の貿易赤字をかかえるアメリカ。同じく天文学的数字の財政赤字をかかえ
る日本。その日本は、貿易で稼いだお金で、せっこらせっこらと、相も変わらず、ドルを
買い支えている。本来なら、そうして稼いだお金は、国民に、利息として還元されねばな
らないはず。しかし、銀行の利息が、5年定期で0・06%(S銀行)とは!

 1000万円預けて、利息が、1年間で、たったの6000円だぞ! 100万円預け
て、600円だぞ! それから税金が引かれて……???

 こんなことをしていれば、アメリカはともかくも、日本の国家財政は、破綻する。いや、
その前に、増税につづく増税。今がその時期だが、個人の家計がパンクする! ……もう
パンクしている!

 こういう危機的な状況にあるにもかかわらず、いまだに、郵政や道路公団の民営化に反
対している人たちの、気が知れない。そういう人たちは、お金は、天から降ってくるもの
と思っているらしい。

 日本の国家税収が、約42兆円。国家公務員、地方公務員の人件費(給料総額)だけで、
40兆円。日本が稼いだお金のほぼ全額が、公務員の給料に消えていることになる(伊藤
惇夫氏指摘※)。こんなバカげた財政運用をしている国が、ほかに、どこにある!

 ところで、とてもおかしなことだが、いまだに、公務員たちがいったい、いくらの給料
を手にしているのか、それを正直に公表している自治体は、ひとつもない。

 が、概算方法がないわけではない。

 年間予算から、公務員一人当たりの人件費を計算すると、約1000万円という数字が
出てくる。この数字から、共済費、健康保険料などの雇用者負担分をさしひくと、約80
0万円という数字が浮かびあがってくる(伊藤惇夫氏指摘、「文芸春秋・5月号」)。

 この額は、一般民間サラリーマンの平均年収の448万円(国税庁・02年)よりも、
はるかに高い。

 さあ、どうする、日本! 1人ひとりの公務員の人に責任があるわけではないが、はっき
り言って、日本の財政運用は、メチャメチャ! 日本の国家財政は、このままでは、確実
に破綻する。

 ドル安、円安は、その序曲にすぎない。


【注※】

 国家公務員、地方公務員を合わせた、いわゆる私たちが「公務員」と呼んでいる人たち
の、人件費総額が、約40兆円に達している(伊藤惇夫氏指摘)。40兆円といえば、日本
の国家税収分にほぼ匹敵する。(日本の国家税収は、約42兆円!)

しかし、公務員だけではない。日本にはこのほか、公団、公社、政府系金融機関、電気
ガスなどの独占的営利事業団体がある。これらの職員の数だけでも、「日本人のうち7〜
8人に一人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。

が、これですべてではない。さらにこの日本には、ほかに、公務員のいわゆる天下り先
機関として機能する、協会、組合、施設、社団、財団、センター、研究所、下請け機関
がある。この組織は全国の津々浦々、市町村の「村」レベルまで完成している。あの旧
文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近くもある。

 そういう団体の職員の人件費を加えたら、国家税収より、人件費のほうが、はるかに多
くなってしまう。

 ちなみに、元公務員が手にする年金についても、その半額以上が、特別会計(借金)に
組み入れられている。わかりやすく言えば、元公務員が手にする、月額30万円前後の年
金の半額以上は、国(=私たち)が借金に借金を重ねて、払っているということになる。

 ハハハ! ……ここは笑ってごまかすしかない。ハハハ!


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●トラップ(わな)・サイト

【登録サイトにご用心!】

 BLOGやHPを公開していると、ときどき、あやしげなメールが、飛びこんでくる。「あ
なたのBLOG会員をふやします」「あなたのHPを、無料で紹介します」と。「ランキン
グ登録をしませんか」「HPを登録してください」というのもある。

 しかし、だ。

 決して、あやしげな登録サイトに、自分のBLOGやHPを、登録してはいけない。指
示にしたがって、登録サイトを開くと、住所、名前はもちろんのこと、電話番号、メール
アドレスなどを書き込むようになっている。

 たいてい「あなたのHPの紹介文を、300字以内でしてください」という、何となく、
もっともらしいボックスもある。

 が、その中でもとくに注意したいのが、「あなたのパスワードを決めてください」という
ところ。たいていの人は、いつも同じ、もしくは同じようなパスワードを使う。相手に応
じて、パシワードを使い分ける人は、少ない。しかしそれこそが、こうしたサイトのねら
い。そういう方法で、こちら側のパスワードを、盗もうとしている?

 それにしても、ワルがいるものだ。あの手この手で、他人の個人情報を手に入れようと
している! ここでいうインチキ登録サイトも、その一つ。

 もちろんほとんどは、まともな登録サイト。問題は、どこで、どうやって見分けるか、
である。

 一つの方法としては、本当に登録サイトかどうかを、自分で確かめてみること。具体的
に、ほかの人たちのBLOGやHPが、どのように紹介されているかを、見てみるとよい。
が、そういうサイトは何もなく、「ただいま準備中」「会員募集中」などという登録サイト
には、絶対に、登録してはいけない。

 以前は、そういうサイトは、見るからにインチキ臭い感じがした。文章も稚拙(ちせつ)
で、どこか「?」な感じがした。が、最近のものは、大手の登録サイトにも劣らないほど、
見栄えがよくなっている。もっともらしい会社名をつけているのもある。

 みなさんも、くれぐれも、ご用心! この世界、油断もスキも、あったものではない!

【最近の例より】

私のHPの掲示板に、つぎのような書き込みがあった。「すばらしいホームページですね。
ぜひ、私の登録サイトに登録させてください。読者が、確実にふえますよ。あなたのホ
ームページを、より多くの方に読んでいただけるよう、協力させていただきます」(04
年12月)と。

 つづいてそこには、そのサイトのホームページのアドレスが書きこんであった。

 で、そのサイトを開くと、各ジャンルごとに、こまかく項目が並べてある。「生活」とい
うジャンルには、「料理、育児、家庭、教育……」などがある。

 で、下のほうに、「新規登録の方は、こちらへ」とある。

 そこをクリックすると、登録フォームに。そしてそのフォームには、住所、氏名、年齢、
電話番号のほか、ここにも書いたように、パスワードまで、記入するようになっている。「パ
スワードは、ご自由にお決めください」とある。

 「どうしてホームページを登録するのに、パスワードが必要なのか?」と思ったところ
で、私は、そのサイトが、インチキサイトと気がついた。(自分のホームページを登録する
のに、どうしてパスワードが必要なのか! その前に、どうして、住所と名前の登録が必
要なのか!)

 ついでに、そのサイトのあちこちをクリックしてみた。ふつう、こうした登録サイトで
は、どれか、ジャンルの項目をクリックすると、ズラリと登録済みのサイトが出てくる。
しかしどのジャンルも、「ただ今、準備中」とあるのみ。ますます「????」。

 つまりそのサイトは、そうして登録した人から、個人情報を盗むためのサイトと、わか
った。(こう断言することは、今の段階では、正しくないかもしれない。しかしそれ以外の
目的が、私にはわからない。)称して、「アリ地獄サイト」。「トラップ(わな)・サイト」。
私は、勝手に、そう呼んでいる。ちょうどしかけられたトラップ(わな)のように、獲物
が、穴の中に落ちてくるのを待っているようなサイトだから、である。

 このタイプのインチキサイトは、今のところまだ大きな問題になっていない。が、その
うち、問題になるはず。みなさん、重ねて、くれぐれも、ご用心!

【付記】

 盗まれた個人情報は、さまざまな方法で、悪用されることが考えられる。インチキ請求
書、インチキ督促状など。さらにパスワードも相手に知られているから、インターネット
上で、いろいろな悪さをされることも考えられる。


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●次期パソコン

 次期パソコンの輪郭(りんかく)が見えてきた。M社の、BTO型(パーツを注文者の
ほうで、選べる)パソコンにするつもり。自作も考えたが、私には、とても無理。パーツ
の組み合わせが悪いと、暴走したり、最悪のばあいには、動かなくなることもあるという。

 それに各パーツごとの保証はあっても、全体としての保証はない。……そうだ。

 が、M社のパソコンは、すごい! カタログを、そのままコピーしてみる。

★WINDOWS XP HomeEdition SP2
★HTテクノロジ インテル Pentium4 プロセッサ 550
★デュアルチャネル DDR2 1024MB PC4300
★200GB Serial―ATA 7200回転 ハードディスク
★nVIDIA GeForce 6600/128MB PCI―Express
★ダブルレイヤー対応 16倍速DVDスーパーマルチドライブ
 
 これに19インチの液晶モニターをセットして、18万2000円前後。

 それに、もう1基、120GBのハードディスクを追加するつもり。合計で、19万5
000円!

 さあ、どうやってワイフを説得しようか。今、それを考えている。(多分、今の経済状況
では、むずかしいだろうが……?)


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●ワールド・カップ

 現在、ワールドカップの選手の子どもが、2人、私の教室に来ている。X氏とY氏の子ど
もたちである。今夜(12・16)、そのX氏も、Y氏も、対ドイツ戦に、出場していた。

 が、私は、父母はもちろんのこと、生徒たちの前では、いっさい、サッカーの話をしな
い。しないというより、できない。できなくなってしまった。それに、この数か月、サッ
カーの試合を見るのが、つらくてならない。

 いろいろな職業がある。しかしサッカーほど、職業として見ていて、つらい職業はない。
それにきびしい。もう少し、詳しく書こう。

 以前は、つまり、まったくの部外者として見ていたときは、気楽というより、実に無責
任な応援のし方をしていた。……と思う。勝って当たり前。負ければ、ヤンヤの非難。ヘ
マをすれば、「バカヤロー」の罵声。しかし今は、それができない。

 それをはっきりと自覚したのは、この夏に行われた、アジアカップのときのことだった。

 日本は、中国の北京で、その中国と決勝戦を争った。結果は、3対1で日本が勝ったが、
その試合の間中、中国人たちは、口汚い怒声を日本選手や、日本側のサポーターに浴びせ
かけた。ものを投げた。

 その試合にも、X氏は、最後まで出場していた。私は、試合よりも、その試合を観戦し
ている、X氏の奥さんや、子どもたちのことが心配でならなかった。ハラハラなんていう
ものではなかった。まさに息がつまるような思いだった。

 スタンドがテレビ画面に飛びこんでくると、その画面を食い入るように見つめた。そし
てX氏の奥さんや子どもをさがした。「だいじょうぶだろうか?」「けがはしないだろう
か?」と。

 神経をすり減らしたというような、軽いものではなかった。サッカーの試合を見ている
はずなのに、試合など、どうでも、よくなってしまった。

 だからその日を境に、よけいに、サッカーを見なくなった。はっきり言って、とても見
ていられない。そういう状態になってしまった。

 昨日も、X氏の奥さんが、子どもをつれて教室へ来ていた。しかし私は、「がんばってく
ださいね」とも、言えなかった。本来なら、そう言うべきだったのだろうが、そんな言葉
など、とても口から出てこなかった。そんなことを言えば、かえって奥さんを苦しめるだ
けだ。……と思った。それに今日は、Y氏の奥さんとも会った。そのときも、言えなかっ
た。

 いよいよ来年(05)早々から、ワールドカップの予選が、始まる。

 私は、本当に、正直に言うが、もうサッカーは、見ない。心臓によくない。しかしそれ
にしても、X氏やY氏の奥さんたちは、どんな気持ちで、サッカーの試合を見ているのだ
ろう。あるいは今の私のように、見ていないのかもしれない。

 そうそう、先週まで、教室に、大型のサッカーゲームを置いていた。生徒たちには、た
いへん好評だったが、そんなある日のこと、X氏の子どもが、たまたま私の前に立った。
私と、サッカーゲームをすることになった。

 私は、おかしな緊張感に包まれた。そう感じた瞬間、「Xさん、あなたとだけは、したく
ないなア……」と、思わず、私は、そんな言葉を、つぶやいてしまった。

そのときのこと。ふと、参観席のほうを見ると、X氏の奥さんが、ニコニコと笑ってい
た。その笑顔が、とてもさわやかだった。

 しかし……。こんなところで隠れて言うのも、おかしなことかもしれないが、Xさん、
Yさん、どうか、日本のために、がんばってください。

 心底、プラス真剣に、私も応援しています!!!!

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●自己嫌悪

 ときどき、自分のことが、たまらなくいやになることがある。「生きている価値もない。
意味もない」と思うことがある。私は、だれにも相手にされない。愛されない。必要とさ
れない。……本当はそうでないと思うが、……思いたいが、そう思うことがある。

 とぼとぼと道を歩いていると、自分がみじめになる。どんどんと小さくなって、消え入
りそうになる。あきらかに、うつ。……わかっているが、一度、そういう状態になると、
本当の私がどちらなのか、わからなくなる。

 明るくて快活なほうの私が、本当の私なのか。それとも落ちこんで、人生をはかなむほ
うの私が、本当の私なのか。

 一方からもう一方を見ると、そういう状態のときの自分が、正しく見える。もう一方は、
おかしいと思う。たとえば自分の中で、こんな会話をする。

私「今のお前のほうが、本当のお前だ。もう1人のお前は、本当のお前をごまかしている
だけだ」
私「いや、お前こそ、おかしい。脳みそが、変調している。病気だ」
私「いや、ちがう。もう1人のお前は、バカだから、現状を認識できないだけだ」
私「どちらにせよ、今のお前は、本当のお前ではないから、静かにしていたほうがいい」
と。

 歩きながら、通りすぎる人を見る。サラリーマン風の男。OL風の女。作業服を着た男。
そして高校生たち。

 みんな、平気そうな顔をして歩いている。その平気そうなところが、私には、理解でき
ない。「どうしてああまで、平気でいられるのだろうか」とか、「本当は、みな、何かの問
題をかかえているはず」とか、そんなふうに考えてしまう。
 
 ……こういうときは、どうするか?  

 答は簡単。早く床につく。よく眠る。それだけ! それではみなさん、おやすみなさい。
今夜は、もう寝ます。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 17日(No.517)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●劣等感

 「こうでありたい」と思う自分。そういう理想の自分を、(希望的自分)と呼ぶことにし
よう。しかしたいていのばあい、その(希望的自分)は、(現実の自分)とかけ離れている。
そういうケースは多い。

 この両者がかけ離れているとき、そのすき間から劣等感が生まれる(フロイト学説)。

 ただ日本語で「コンプレックス」というと、「劣等感」のことと思う人は多い。しかし「コ
ンプレックス」というのは、「複合体」「合成物」のことをいう(研究社・Approac
h英和辞典)。それが転じて、心理学の世界では、「抑えられていて、本人は意識していな
い異常な行動の原因となる感情」(同)を意味するようになった。

 コンプレックスというのは、日本語では、「こだわり」のことか。そのこだわりには、い
ろいろある。

 よく知られているのに、エディプス・コンプレックス、マザー・コンプレックス、ロリ
ータ・コンプレックスなど。カイン・コンプレックスというのもある。兄弟間の確執や、
葛藤を、そう呼ぶ。(詳しくは、私のHPを参考に!)

 たとえばここに1人の女子高校生がいる。彼女は、子どものころから、いつかすてきな
王女様のような女性になって、これまたすてきな王子様のような男性と結婚したいと願っ
ていた。

 それが彼女にとっては、(希望的自分)ということになる。

 しかし現実の彼女は、その王女様とは、かけ離れた存在だった。容姿も、あまりよくな
かった。勉強も、スポーツも苦手だった。学校でも、そのため、まったくと言ってよいほ
ど、目だたなかった。

 こうしてその女子高校生は、容姿に対して、大きな(こだわり)、つまり(コンプレック
ス)をもつようになった。

 ……というような例は、多い。多かれ少なかれ、こうしたコンプレックスは、だれしも
もっている。

 そこで大切なことは、こうしたコンプレックスを、心の中で、どう消化し、どう昇華し
ていくかということ。まずいのは、そうしたコンプレックスがあることに気づかないまま、
そのコンプレックスに、裏から操られることである。

 たとえばマザー・コンプレックスにしても、当の本人は、マザコンでありながら、それ
に気づくということは、まずない。一方で、母親を美化しながら、「私がそうであるのは、
それだけ私の母がすばらしいからだ」と、おかしな理由づけをしたりする。

 あるいは、こうしたマザー・コンプレックス(ファーザー・コンプレックス)は、親絶
対教の基盤になることもある。

 その人が、母親に大きな(こだわり)をもつのは、その人の勝手だが、そのため、いろ
いろな問題が起きて、それがやがて周囲に、影響を与えるようになることがある。

たとえばマザコンタイプの男性は、いつも、マドンナ(聖母)的な女性を追い求めるよ
うになると言われている。そのため、仮に結婚しても、自分の妻に満足で傷、夫婦関係
が、ギクシャクしやすい。浮気率も高く、離婚率も高いと言われている。

 それだけ「理想の女性を求めて、女から女へと渡り歩く傾向が強いから」である。

 そこで重要なことは、こうしたコンプレックス(こだわり)に、まず、自分で気がつく
こと。もしあなたが、何かのことで、劣等感を強く覚えるようなら、その背後に、どんな
(こだわり)があるかを知る。また、なぜ、そうなのかを知る。

 すべては、ここから始まる。

 そして、あとは、「時の流れ」に身を任す。この問題だけは、根が深い。簡単には、なお
らない。しかしそれに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。

 ただ誤解してはいけないのは、コンプレックス、イコール、「悪」ではないということ。
中には、そのコンプレックスと戦いながら、そのコンプレックスを昇華させていく人もい
る。

 芸術家や、作家、スポーツ選手などの中には、そういう人が多い。コンプレックスが一
つのバネとなって、その人を伸ばすこともある。要は、どうやって、うまくつきあうか、
である。

 さて、あなたには、どんなコンプレックス(こだわり)があるか? 一度、あなたの心
の中を、のぞいてみると、おもしろいのでは……?
(はやし浩司 コンプレックス こだわり 劣等感 マザー コンプレックス)

【補記】

 私にも、子どものころ、たくさんの(こだわり)があった。

 まず、「庭」。子どものころ、太陽の日がさしこむような庭がほしかった。そういう庭の
ある家を見ると、本当に、うらやましかった。

 つぎに「暖かい家庭」。私の家には、私の居場所すらなかった。

 また、私は、気が小さいくせに、自分より強い男と、けんかばかりしていた。それにも、
何か別のコンプレックスがかかわっていたのかもしれない。今、考えても、よくわからな
いが……。

 で、こうしたコンプレックスが転じたのだろう。私はお金ができると、すぐ庭つきの家
を買った。庭といっても、10坪足らずの庭だったが、私は、そこで、無数の野菜を作っ
た。それは、それまでのコンプレックスを、一気に、解消するためではなかったか。(もち
ろん無意識のまま、そうした。)

 つぎに「暖かい家庭作り」。しかしこれはあまり、うまくいかなかった。いつも気負いば
かりが先行して、家庭の中は、いつもギクシャクした。そういう意味では、ワイフや息子
たちには、苦労をかけた。(ごめん!)

 ほかにもいろいろなコンプレックスがある。

 つまりは、人は、そうした無数のコンプレックスをかかえながら、そしてほとんどのば
あい、無意識なまま、それに操られて生きているだけなのかもしれない。

 「私は私」と、思いこみながら……。

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【より高い人間性を求めて】(1)

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として
生きることはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・
H・マズローの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。
その現実をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それ
はそれとして、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自
由に生きていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよ
りよい人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。
新しい人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。
そこに問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよい
から、それをテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、
より親密になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法
は簡単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわり
を明るくして生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人間性というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬すること
によって、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間
性を維持することができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まっ
たときから、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、
加齢とともに、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんなことはありえ
ない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わかっ
た。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。
つまりそれまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点
である。「生」へのいとおしさというか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍
くなる。問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、
どうであるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考
えることができるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、
多いことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考
えるだろうか。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。
人間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願う
ようになる、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマ
ズローの「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

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●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生き
ることの重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこで
そういうときは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的
に生きるという意味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始
まって、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定すること
はできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人
というよりは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということにな
る。いつもその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単
に乗り越えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの
人は、悲しみ、苦しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世
で、また会える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、
底なしに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこ
にいる以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要
はない。言ってはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、
それをいちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己
概念=自分はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離して
しまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自
己概念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心
を守るためでもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、
叫べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念
(?)に反するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪
く思っている人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからとい
って、それがどうなのか? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて
生きることを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をい
う。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動
はともかくも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、が
んこになり、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミ
ソの中でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに
気づくことは、まず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、
自分の硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若い
ときから養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対
にすばらしいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったり
してはいけない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せると
いうこと。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
 

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況あれ・これ】

●平凡

 「平凡は美徳である」というのは、あるフランスの哲学者の言葉。平凡であることには、
すばらしい価値が隠されている。

 それはわかるが、このところ、何かにつけて、その平凡さを感ずる。生活そのものが、
マンネリ化してきた。そんな感じがする。

 そんなとき、ワイフのクラブ仲間の1人の、Wさんという人が、何と、アフリカ旅行を
してきたという。エジプトからケニヤを回り、ついでにイギリスに立ち寄って、日本へ帰
ってきた。

 その仲間の女性というのは、60歳を過ぎている。

 「ダンナさんの趣味が歩くことで、Wさん(仲間)は、しかたないので、毎日、いっし
ょに、10キロ近くも、あちこちを歩いたそうよ」と。

 「フウ〜ン」と、感心してみせたり、驚いたり、プラス、うらやましいと思ったり……。

 私などは、このところ、浜松市の郊外や、近くの町をウロウロしているだけ。話を聞い
ているうちに、自分が、何となく、みじめになってきた。

「ぼくらも行こうか」と言いそうになったが、やめた。そんなことを口にしたら、ワイ
フは、そのままその気になってしまう。


●次期パソコン

 毎日、雑誌やその会社のHPをながめている。

 で、今のところ、次期パソコンは、M社のデスクトップ・パソコンになりそう。

 PEN4の530。メモリーは、1024MB。ハードディスクは、160GB(もし
くは、200GB)。ほか、もろもろ。値段は、税込み、送料ともで、13万6000円。
言い忘れたが、OS(Window XP SP2)、17インチの液晶ディスプレイ付。

 これにオプションとして、もう一つ、ハードディスク、ゲーム用のグラフィックボード
を増設、それに3年間保証をつけるつもり。それで、しめて計17万5000円前後。

 しかしそれにしても、高性能! こんな高性能のパソコンなど、本当のところ、私には、
必要ない。使い道もない。こうして文章だけをたたいているなら、3、4年前の旧式パソ
コンでも、じゅうぶん。しかしどういうわけか、私は、高性能のパソコンが、ほしい。

 これはビューキ? 買い物依存症?

 数日中に結論を出さねばならない。今、注文しても、納期は、12月末になるという。
正月の休みに、楽しめなくなる。さあ、どうしよう?


●子どものけんか

 K国への経済制裁が、にわかに現実味を帯びてきた。と、同時に、それに呼応して、K
国では、反日のキャンペーンの大合唱。「従軍慰安婦がどうの、こうの」と。

 つまり、「お前たち、日本人モナー」と言いたいのだろう。「戦前、日本は、オレたちに
ひどいことをしたではないか。偉そうなことを言うな」と。

 しかしだからといって、拉致問題や、ニセ遺骨問題が、正当化されるということでもあ
るまい。それに今、K国では、何百万人という人たちが、飢餓で苦しんでいる。そういう
事実をさておいて、戦前の話も、あるまい。

 K国の経済失政は、日本の責任ではない。

 要するに、金XXは、自分の失政を、日本やアメリカの責任になすりつけているだけ。
ありもしない日本やアメリカの脅威を理由に、軍事力を強化し、独裁政権を守っているだ
け。

 日本の経済制裁が、そんなにいやなら、K国も、日本に対して、経済制裁をすればよい。
またアメリカに向って、敵視政策をやめろと言うくらいなら、自分たちも反米教育をやめ
ればよい。

 自分たちは、さんざん、好き勝手なことをしておきながら、少しでも相手に非があると、
ギャンギャンと責めまくる……。その心理的反応は、どこかのチンピラが見せる反応と同
じ。どこもちがわない。

 悲しいかな、アメリカ人は、K国など、相手にしていない。大半のアメリカ人は、K国
など、どこにあるかさえ知らない。またK国にしても、アメリカは、相手になるような国
でもない。K国も、少しは冷静に、自己認識してみたらよい。

 実に幼稚というか、あさましいというか。子どもでも、そんなけんかはしない。被害妄
想をもつのも、いいかげんにしたらどうだろう。

 さあ、日本のみなさん、あんなK国など、本気で相手にするのは、やめよう。相手にし
てはいけない。どこまでも淡々と、事務的に処理しよう。それが私たち、おとなのけんか
のやり方。

 経済制裁をする価値もない!
(04年12月14日記・この原稿をマガジンに載せるころには、国際情勢は大きく変わ
っているかもしれません。)

【付記】

 私は子どものころ、よくけんかをした。取っ組みあいのけんか程度だったら、毎日のよ
うにした。殴りあいのけんかも、よくした。けんかすることが、遊びの一つになっていた。

 しかしルールがあった。相手が年下とか、明らかに弱いときは、しなかった。もちろん
女子とはしたことがない。(カッコいいこと書いているみたいだが、本当!)

 相手が負けを認めたら、すぐやめた。仲なおりはしなかったが、勝っても負けても、そ
のけんかのことは、すぐ忘れた。

 が、その中でも、相手が、どこかヘンな、心のゆがんでいるヤツとは、絶対にけんかし
なかった。相手にしなかった。

そういうヤツとけんかすると、それこそ、ナイフが飛び出すかもしれない。けんかする
にしても、それにふさわしい男とけんかした。

 そういう(常識?)から考えても、K国と、戦争をしてはいけない。自民党のA幹事長
は、北海道で行った講演の中で、「K国は、YMさんの指でも切って、それを焼いて遺骨に
見せかけるかもしれない」(12・12)というような発言をした。

 発言内容は、「?」で、理知的とはとても言いがたいが、そういうことがあっても、おか
しくないほど、K国の(心)は、今、ゆがんでいる。だからこそ、相手にしてはいけない。

 何度も書いたが、ここは淡々と、国際世論を味方につけながら、事務的に、どこまでも
事務的に、K国をしめあげる。金XXが、音(ね)をあげるまで、しめあげる。それにま
さる拉致問題の解決法は、ない。

【付記】

 今朝(15日)のニュースによれば、何でもK国は、一連のニセ遺骨問題は、日本側の
デッチあげと言っているようだ。

 どこまで私たちを怒らせたら、気がすむのだろう。しかししょせん、そのレベルの国。
やはり、本気で相手にしないほうがよい。

 一度、制裁合戦に入ったら、この種の問題は、ドロ沼化する。日本は、あんな国といっ
しょに、心中するわけには、いかない。また心中してはならない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●詩

 ワイフと散歩しながら、詩を口にする。

 鉛色の空、幾重にも重い雲は、層をなし、
 低く、夕方の、乾いた道路を、押しつぶす。

 橙色の街路灯が、ものわびしげに、光を放ち、
 車の列は、師走の冷たい風を切って、走る。

ワイフ「それから……?」
私「ハハ、ここまで。ぼくの詩は、いつも情景描写だけで終わってしまうよ」
ワイフ「あとは、つづかないの?」
私「そう、いつもイントロだけ。それでおしまい」と。

 今まで、何人かの詩人と呼ばれる人に会ったことがある。その中の1人は、毎年のよう
に、本で新作を発表している。中央で活躍している。いろいろな賞も取っている。

 一度、三島市(静岡県)の郊外にある温泉へ、いっしょに遊びに行ったこともある。そ
の人が、そこでこんなことを教えてくれた。

 「詩というのは、言葉の結晶のようなものだよ」と。

 つまり長い文章を、どんどんと結晶化したものが、詩だ、と。言いかえると、私が書い
ているような文章というのは、ふやけたラーメンのようなもの。少なくとも、詩の世界か
らみると、そうなる。

 そうだ、今度、詩に挑戦してみよう。おもしろそうだ! ……ということで、乞う、ご
期待! 今度からパソコンではなく、メモ用紙をもって、外を歩いてみる。

●メリークリスマス

 「善」の象徴、それが「神」なのか。すべての「善」が、「神」に集約される。

 であるとするなら、「神」よ、あなたは、何と、甘美な方か。
多くの人は、あなたに身を寄せ、その「善」を共有する。

 そして今、クリスマス。あなたという「善」は、今日、この日、生まれた。

 メリークリスマス!

 ただ私には、「神」はわからない。わからないが、「善」の片鱗ならわかる。

 この世で、一番、尊きもの、それが「善」。

 「神」よ、私たちは、あなたが夢見た「善」の世界に、この日、酔いしれる。

 メリークリスマス!

 この日一日だけは、私も、敬虔(けいけん)な、クリスチャンになろう。
 ためらわずに……。


●「善」

 心の中の「善」を信じよう。「善なる響き」を信じよう。
 やさしい心、暖かい心、清純で汚れを知らない心。

 その「善」が、暗闇の中で、あなたの足元を照らす。
 道に迷ったとき、あなたに進むべき、方向を示す。

 心の中の「善」を信じよう。「善なる響き」を信じよう。
 やさしい心、暖かい心、清純で汚れを知らない心。


●「第九」

 学生時代、合唱団にいた。毎年、ベートーベンの「第九」を歌った。
 そのせいか、今でも、年末になると、第九を歌いたくなる。あるいは一度は、山荘で、
第九を聞きながら、夢中で、指揮棒を振る。

 山荘の窓をすべてあけ、その向こうに見える山々に向って、指揮棒を振る。歌う。大声
で歌う。今でも、バリトン部なら、ソラで、すべて歌える。ドイツ語だから、意味はわか
らない。何度か、教えてもらったが、それでもよくわからない。私にとっては、仏教のお
経のようなもの。イスラム教のコーランのようなもの。

 ザイツム・シュルンゲン・ミーリィオーネン。(ジャン)ディーゼン・クッスデル、ガー
チェンベルツ……。

 もちろん、私は、クリスチャンではない。ないが、その曲を聞きながら、自分の中の「絶
対的な善」に、ただひたすら身を寄せようとする。その「絶対的な善」を「神」というの
なら、神でもよい。

 ベートーベンだって、本物の神を見たわけではないだろう。ベートーベンも、その曲を
作りながら、自分の中の「絶対的な善」に身を寄せようとしたのかもしれない。つまり、
その瞬間、私とベートーベンは、一本の糸でつながり、さらに「絶対的な善」から「神」
へと、つながっていく。

 その共有性が、心地よい。気持ちよい。私は、そのとき、自分が「善なる世界」にひた
っていることを知る。自分が善人であることを知る。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●詩(2)

 詩は、言葉の結晶である。
 だとするなら、文章を、結晶化させることで、詩をつくることができるのでは……。

 これはおもしろい発想だ。
 ここで実験をしてみる。

 まず、最近書いた文章の中で、つぎのものを選んでみた。たびたび同じ原稿を掲載して、
ごめん!

++++++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。

++++++++++++++++++++++

 この原稿の文章を、詩風に並びかえ、
少し、手なおししてみた。
 それがつぎの文章である。

++++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶこと

懸命に生きるから、人は美しい。輝く。
その価値があるかないかの判断は、あとからするもの。
生きる意味や目的も、そのあとで考えるもの。
たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するか
そこに子どもたちの懸命さを感ずるから。
たかがボールのゲームと笑ってはいけない。
私たちがしている「仕事」だって、
意味があるようで、それほどない。
「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と、
そう、自信をもって言える人は、
この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、
ミュージカルの『ヘアー』を見た。
幻想的なミュージカルだった。
あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。
「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、
(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。
私もこの問題について、ずっと考えてきた。
そしてその結果というわけではないが、
トルストイの『戦争と平和』の中に、
私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、
結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、
人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。
『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。
映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、
フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。
一球一球に全神経を集中させる。
投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。
応援団は狂ったように、声援を繰りかえす。
みんな必死だ。命がけだ。
ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、
ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、
場内にこだまする。一瞬時間が止まる。
が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、
同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。
そして無数の人たちの懸命な人生が、
これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。
つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、
人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、
人生の意味はわからない。夢も希望もない。
情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、
その日その日を、無難に過ごしている人には、
人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、
子どもたちに問われたとき、
私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、
懸命に生きる、その生きざまでしかない。
あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、
菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。
見るほうも、つまらない。
そういうものはいくら繰り返しても、
ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。
高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++++++

この文章を、さらに簡略化してみる。

++++++++++++++++++++++++

●高校野球に学ぶ

懸命に生きるから、人は美しい。輝く。
その価値の判断は、あとからするもの。
生きる意味や目的も、あとで考えるもの。
たとえば高校野球。

私たちは、なぜあの高校野球に感動するかといえば、
そこに子どもたちの懸命さを感ずるから。
たかがボールのゲームと笑ってはいけない。

私たちがしている「仕事」だって、
意味があるようで、それほどない。
「私の仕事は、ボールのゲームとは違う」と、
そう、自信をもって言える人は、
この世の中に一体、どれだけいるか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、
ミュージカルの『ヘアー』を見た。
幻想的なミュージカルだった。
あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。
「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、
(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。
私もこの問題について、ずっと考えてきた。
そしてその結果というわけでもないが、
トルストイの『戦争と平和』の中に、
私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、
結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、
人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。
そのピエールはこう言う。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。
信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。
もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、
フォレストの母は、こう言っている。
『人生はチョコレートの箱のようなもの。
食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。
一球一球に全神経を集中させる。
投げるピッチャーも、バッターも真剣だ。
応援団は狂ったように、声援を繰りかえす。
みんな必死だ。命がけだ。

ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、
ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、
場内にこだまする。一瞬時間が止まる。
が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、
同時に場内を埋めつくす……。

 それが人生か。
そして無数の人たちの懸命な人生が、
これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。
つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、
人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、
人生の意味はわからない。

夢も希望もない。情熱も闘志もない。
毎日、ただ流されるまま、
その日その日を、無難に過ごしている人には、
人生の意味はわからない。

「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、
子どもたちに問われたとき、
私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、
懸命に生きる、その生きざまでしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、
菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。
見るほうも、つまらない。

そういうものはいくら繰り返しても、
ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。
高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++

だいぶ、詩らしくなってきたようだ。
おしまい!

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 14日(No.516)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】特集・人格の完成度テスト□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの人格完成度テスト】(EQ論の応用)

★湖西市WD中学校校長ならびに、先生と父母のみなさんの協力を得て、「人格完成度テス
ト」の集計結果が出ましたので、報告します。

 WD中学校のみなさん、ご協力、ありがとうごさいました。

**************************

まず、みなさんのお子さんについて、どんな様子か、採点して
みてください。これで、あなたのお子さんのおおまかな、人格
完成度を知ることができます。

**************************

(テスト方法)

 それぞれの項目について、0点〜4点までの、5段階になっています。

 0点……まったく、そうでないとき。(反対の様子であるとき。)
 4点……まったく、そのとおりであるとき。

 中間のときは、2点として、採点してください。あとで、得点を合計します。その合計
点が、あなたのお子さんの、性格ということになります。

++++++++++++++++++++

(1)協調性(共鳴性)

 ☆親が苦労したり、苦しんでいると、言わなくても、すぐ力を貸してくれる。
 ☆他人に対して、同情的で、ボランティア活動などを、喜んでする。
 ☆仲間や友人に対して、やさしい。気をつかい、相手をキズつけたりしない。

(2)自己管理能力

 ☆善悪の判断が強く、正義感が旺盛。まちがったことが嫌い。
 ☆社会のルール(交通ルールなど)や、約束や目標を、しっかりと守っている。
 ☆誘惑に強く、その場、その場で、しっかりと自分を律して行動できる。

(3)安定した人間性

 ☆勤勉で、努力家。何でも、コツコツと、がんばる。
 ☆言われたことに従順で、まちがえたときでも、すなおにそれを認める。
 ☆友人の数が多く、また交際範囲も広い。いつも仲間と仲よく遊んでいる。

(4)情緒の安定性

☆感情の起伏があまりない。いつも平常心で、安定して家族と接している。
 ☆わかりやすい性格をしている。心の中の状態が、外から、よくわかる。
 ☆落ちついた、もの静かな子どもといった印象を与える。めったに動じない。

(5)知的開放性

 ☆好奇心、生活力とも旺盛で、多芸多才。ものごとに挑戦的。
 ☆知的な遊びを好み、読書、研究、探求が好き。著作、音楽や絵画を好む。
 ☆広く政治や経済、日本や世界、さらに環境問題や宇宙の話題に興味をもっている。

 各項目(☆)の、合計点と、全体の総合計点が、あなたの子どもの得点ということにな
ります。

++++++++++++++++++++++++
 
各項目合計点……12点
 総合計点  ……60点で、集計

++++++++++++++++++++++++
**********************
この人格完成度テストについて、
HPのほうで、表など、より見やすくしておきました。
興味のある方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page253.html
まで、おいでください。
**********************

【基礎調査結果】

共鳴性自己管理能力安定した人間性情緒の安定性知的開放性
12〜13歳(男)6.937.877.076.144.71
13〜14歳(男)7.276.946.886.794.67
14〜15歳(男)77.547.387.295.46
15〜16歳(男)7.147.186.916.415.05
共鳴性自己管理能力安定した人間性情緒の安定性知的開放性
12〜13歳(女)7.838.587.757.257.17
13〜14歳(女)7.457.886.97.094.94
14〜15歳(女)7.237.86.777.235.65
15〜16歳(女)7.3987.7266.83


(男子)12〜13歳13〜14歳14〜15歳15〜16歳
共鳴性6.937.2777.14
自己管理能力7.876.947.547.18
安定した人間性7.076.887.386.91
情緒の安定性6.146.797.296.41
知的開放性4.714.675.465.05


(女子)12〜13歳13〜14歳14〜15歳15〜16歳
共鳴性7.837.457.237.39
自己管理能力8.587.887.88
安定した人間性7.756.96.777.72
情緒の安定性7.257.097.236
知的開放性7.174.945.656.83

総合点
12〜13歳(男)32.1
13〜14歳(男)32.5
14〜15歳(男)34.7
15〜16歳(男)32.7
総合点
12〜13歳(女)38.6
13〜14歳(女)34.3
14〜15歳(女)34.7
15〜16歳(女)35.9
(調査日……2004年12月 有効サンプル数 男女合計・187人)

【判断のし方】

 平均点より得点が大きければ、相対的にみて、あなたの子どもの人格の完成度は、より
高いとみます。男子中学生であれば、33点前後を、平均点とみて、判断してください。
女子であれば、35点前後を、平均点とみて、判断してください。

 しかし平均点より得点が小さければ、あなたの子どもの人格の完成度は、より低いとみ
ます。
(グラフなどは、「はやし浩司のHP」のほうに、収録しておきます。)
(はやし浩司 人格の完成度 完成度テスト 集計結果 人格テスト 人格完成度テスト 
EQテスト 人格の完成度))


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●感情的知能(EQ)

 知能指数をIQというのに対して、感情的知能指数を、EQという(サロベイ)。

 知能指数は、その子どもの、知的能力の優劣を表す。これに対して、感情的知能指数は、
その子どもの、社会適応能力を表す。最近の研究では、……というより常識として、頭の
よい子どもイコール、社会に適応できる子どもとは、かぎらない。

わかりやすく言うと、IQと、EQは、まったく別。もう少し、内容を詳しくみてみよう。

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 EQは、実際のペーパーテストでは、測定できない。あくまでもその子どもがもつ、全
体的な雰囲気で判断する。

 しかしこれは子どもの問題というより、子どもをもつ、親の問題である。「子どもを……」
と考えたら、「私はどうか?」と考える。「私は、どうだったか?」でもよい。

 そこで私の自己判定。


(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。

 私には二面性があると思う。いつも他人に合わせて、へつらったり、機嫌をとったりす
る反面、協調性がなく、ちょっとしたことで、反目しやすい。

(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。

 人前では、統制力があり、自分をコントロールすることができる。あるいは無理にコン
トロールしてしまう。もう少し、自分をすなおにさらけ出せたらと、よく思う。

(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。

 これについても、二面性がある。ときに楽観的になりすぎる反面、もともと不安神経症
(基底不安)型人間。気分が落ちこんでいたりすると、ものごとを、悪いほうへ悪いほう
へと考えてしまう。取りこし苦労をしやすい。

(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。

 ときとして猛進型。そういうときになると、まわりの様子がわからなくなる。と、同じ
に、自分を客観的に見られなくなる。ときとばあいによって、異なる。

(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。

 むしろ環境のほうを、自分に合わせようとする。無理をする。思考力は、若いころにく
らべて、柔軟性をなくしたように思う。がんこになった。保守的になった。

(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。

 それはあると思うが、本来、私は、短気で、あきっぽい性格。いつもそういう自分と戦
いながら、無理に無理を重ねている感じ。そういう意味でも、私は、いつも自分をごまか
して生きていると思う。

 以上、こうして自分の姿をながめてみると、私は優柔不断で不安定、かつ一貫性がない
ことがわかる。二重人格性もある。だから、私はこういう人間だというふうに、はっきり
と判定することができない。

 わかりやすく言うと、(本物の私)と、(社会で表面的に生きている私)とは、別人であ
るということ。

 本物の私は、ズボラで、小心者。怠け者で、小ズルイ。スケベで、わがまま。それでい
て、負けず嫌い。めんどうなことが、嫌い。わずらわしいことも嫌い。

 そういう私が、精一杯、自分をごまかして、生きている。「そうであってはいけない」と
思いながら、別の人格を演じている。外の職場という世界だけではなく、内の家庭という
世界でもそうなのかもしれない。

 だから私のような生き方をしているものは、疲れる。どこにいても、疲れる。本来なら、
どこかの橋の下で、だれにも会わずに、ぼんやりと過ごすのが一番、私の性(しょう)に
合っているのかもしれない。

 しかしそれでは、この世の中では、生きていかれない。そこで私は、別の私をつくりあ
げたとも考えられる。一見まじめなのは、反動形成(反動として、別の人格をつくりあげ
ること)によるものかもしれない。

 ……とまあ、自分のことだから、少し、きびしく判定してみた。

 こうしたEQ判定は、欧米の学校では、伝統的になされている。学力だけでは、よい瀬
席はとれない。大学の選抜試験にしても、学力の成績以上に、担当教師による、人物評価
がものをいう。

 日本も、やがてそういう方向に沿って、これからの「生徒評価」も変わってくると思う。
たとえば、「学力、189点/250。EQ点202点/250。合計391点/500」
と。現在でも、大学入試に関しては、センター試験(学力試験)と、つづく個別大学での
面接試験(人物評価)がなされているが、だれも、これでじゅうぶんだとは、思っていな
い。
 
 教育というのは、子どもの何を教育する場なのか、改めて考えなおしてみる必要がある。
(はやし浩司 感情的知能 感情的知能指数 子どもの社会的適応能力 EQ Emot
ional Quality)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【人格の完成度】

●強者のジコチュー、弱者のジコチュー

 その人の人格の完成度は、利己から、利他への移動度で測る。わかりやすく言えば、い
かに、他人への同調性、同情性、協調性、共鳴性、和合性などができるかによって、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 いいかえると、自分勝手で、ジコチューな人は、それだけものの考え方が、利己的で、
人格の完成度が低いということになる。

 ……というようなことは、何度も書いてきた。そこでここでは、その先について、考え
てみたい。

●学歴と人格の完成度

 当然のことながら、学歴と、人格の完成度は、一致しない。……しないというより、関
係ない。

 ここにも書いたように、人格の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって、知
る。他人の悲しみや苦しみを理解し、その他人の立場になって、同情したり、共鳴したり
できるかによって、知る。それが自然な形で、できる人を、人格の完成度の高い人という。

 たとえばガムシャラに、勉強をして、よい大学に入ったとか、同じくガムシャラに、仕
事をして、社会的な名声や地位を得たからといって、その人の人格の完成度は高いという
ことにはならない。

 むしろ、実際には、その逆のことが多い。

 多くの親は、そして教育にたずさわる人は、「勉強ができる子どもイコール、人格的にも
すぐれた子ども」と考えやすい。しかしこれはまったくの、誤解。ウソ。偏見。幻想。

●二種類のジコチュー

 自分のことしか考えられないという人は、多い。自分勝手で、わがまま。世間では、こ
ういうタイプの人を、やや軽蔑の念をこめて、「ジコチュー(自己中心的な人)」という。

 このジコチューにも、二種類、ある。強者のジコチューと、弱者のジコチューである。

 先に書いた、自分のことだけを考えて成功したような人は、強者のジコチューというこ
とになる。これに対して、弱者のジコチューというのもある。

 先日、ある女性(年齢、不詳)から、突然、電話がかかってきた。「講演会を聞いたもの
です」とだけしか、その女性は、言わなかった。

 が、電話を受け取ると、ただ一方的に話すのみ。

「うちの子が勉強しません」
「受験が迫っています」
「夫が、私を叱ります」
「私は子どものころ、勉強ができなくて、よく母に叱られました」と。

 で、あれこれひと通り話すと、あいさつも何もないまま、プツンと電話を切ってしまう。

 そして、翌日も、同じような電話をかけてくる。そして同じような内容の繰りかえし。

 要するにその女性は、「何とかしてくれ」「何とかしてほしい」と言っている。たいへん
依存心の強い人ということになる。そして一見、子どもの将来を心配しているようなフリ
をしている。が、その実、自分のことしか考えていない。

 私の迷惑など、計算外といったふう。こういうジコチューを、弱者のジコチューという。

●弱者のジコチュー

 昔から、困った人があがく姿を、「藁(わら)にもすがる」という。つまりその時点で、
その困った人は、ここでいう弱者のジコチューになる。

 生活が行きづまった人。
 大病をわずらった人。
 大きな問題をかかえた人。
 経済的に追いつめられた人、ほか。

 このタイプの人は、当然のことながら、自分のことしか考えない。……考えられない。
自分のことを考えるだけで、精一杯。他人のことや、他人の立場や心情を考える余裕など、
ない。

 先日も、ある学校の先生(中学2年担任)のところに、一人の母親から、電話がかかっ
てきたという。時計を見ると、夜中の1時。「うちの娘が家出をしてしまいましたア。いっ
しょに、さがしてくださア〜い!」と。

 その先生は、「時間外のことは知らない」と言いたかったが、断るわけにもいかなかった。
夜が明けるまで、その母親といっしょに、その子どもをさがしたという。

 その母親にしてみれば、自分の娘のことを心配するだけで、精一杯。先生の都合や、迷
惑など、考える余裕すらなかったということになる。

●ジコチュー診断

 いかにすれば、「利己」から、「利他」へ、脱却できるか? 自分自身を転換できるか?
子育ての場では、それは教育や指導によるものということになる。が、これは子どもだけ
の問題ではない。おとなや親の問題ということにもなる。

 そこで大切なのは、その人自身の努力である。

 まず、自分が、ジコチューであることに気づく。強者のジコチューであるにせよ、弱者
のジコチューであるにせよ、それに気づく。すべてはここからはじまる。

 が、多くのばあい、つまりほとんどの人は、自分が自己中心的でありながら、それに気
づかない。そこでまず、自己診断テスト。

( )他人と会話をしていても、いつも自分のことばかり話す傾向が強い。
( )他人の不幸話や、失敗話を聞くと、優越感を覚えたり、ときに楽しく思う。
( )自分が損をするようなことは、しない。犠牲になることも好まない。
( )無料奉仕、ボランティア活動、町内の仕事など、ほとんど、したことがない。
( )自分の権利を主張することが多く、侵害されると、猛烈に反発する。
( )友人が少なく、人との交流も、ほとんどしない。いつも孤独で、さみしい。

 ここに書いたようなことがいくつか当てはまれば、かなりのジコチューとみてよい。

●ジコチューを知る

 ジコチューの問題は、これはあらゆる心の問題と共通しているが、それに気づけば、そ
のほとんどが解決したとみる。

 その気づく方法の一つとして、他人を観察してみるという方法もある。

 幸いなことに、私は、毎日、多くの子どもたちに接している。親たちにも接している。
そういう環境の中で、「この子どもは、ジコチューだな」「この親は、ジコチューだ」と気
づくことが多い。

 概して言えば、子どもの受験勉強に狂奔する親というのは、ジコチューとみてよい。自
分のことしか、考えていない。自分の子どものことしか、考えていない。そしてその結果
として、受験競争を勝ち抜いた子どもほど、ジコチューになりやすい。

受験競争というのは、もともとそういうものだが、しかしつまり、子どもの受験勉強に
狂奔する親というのは、それだけ人格の完成度が低い人ということになる。

 そういう視点でみていくと、あなたのまわりにも、ジコチューな人と、そうでない人が
いるのがわかるはず。電話で話しても、一方的に自分のことばかり話すだけ。他人の苦労
話や不幸な話を聞いても、型どおりの返事だけ。心に響かない……。

●演技としての同情

 話は少し脱線するが、人間は、経験をつむことによって、人格者を演ずることができる
ようになる。一つの例が、ニュース番組の中の、ニュースキャスターたちである。

 悲しい事故の報道をしながら、どこか暗くて、つらい表情をしてみせる。「犠牲者は、病
院で手当てを受けていますが、中には、重症の方もいるようです……」と。

 しかしつぎの瞬間、今度は、ニュースが変わると、同時に、がらりと明るい表情になり、
「では、今夜のプロ野球の結果です。あのM選手が、満塁ホームランを打ちました!」と
話す。

 人間の心はそれほど、器用にできていない。わずか数分(あるいは数秒)のうちに、悲
しい気持ちが楽しい気持ちになったり、あるいはその反対になったりすることなど、あり
えない。つまりニュースキャスターたちは、そのつど、ニュースの内容に応じて、演技し
ているだけということになる。

 こうした演技は、日常的に経験する。が、それだけではない。

 演技を重ねていると、それが仮面になり、さらにその人の中に、別の人格を形成するこ
とがある。心理学では、こうした現象を、「反動形成」という。

 たとえば「私は教師だ」「聖職者だ」と自分に言ってきかせていると、いつの間にか、自
分の中に、(私でない私)をつくりあげてしまう。それにふさわしい人間になろうと思って
いるうちに、自分の中に、架空の自分をつくりあげてしまう。

 しかし仮面は仮面。一見、人格者風の人間にはなるが、もちろん、ホンモノではない。

 利己から利他へ移行するためには、その人自身が、苦労を重ね、悲しみや苦しみを経験
しなければならない。私の恩師のT先生は、それを、「心のポケット」と呼んだ。

●心のポケット

 相手に同調するにせよ、同情するにせよ、それができるようになるためには、自分自身
も、同じような経験をしていなければならない。

 たとえば自分の子どもを、交通事故か何かでなくした人がいたとする。その人は、深い
悲しみを味わうわけだが、その悲しみは、その経験のない人には、理解できない。同じよ
うな経験をした人だけが、その人の悲しみを理解できる。

 一つの悲しみや苦しみを経験すると、同じような悲しみや苦しみをもった他人の心を、
理解できるようになる。

 これを「心のポケット」という。

 この心のポケットの多い人、深い人、そういう人ほど、他人の悲しみや苦しみを、自分
のものとして、受け入れることができる。

 が、だれしも、こうした悲しみや苦しみを、経験するわけではない。ほとんどの人は、
できるだけそれを避けようとする。悩みや苦労もなく、平和に、のんびりと暮らしたいと
願っている。

 となると、ここで一つの矛盾が生まれる。

●矛盾

 わかりやすく言えば、人は、悲しみや苦しみを経験してはじめて、他人に悲しみや苦し
みを理解できるようになる。そしてその同情性や、同調性が、自分を利己から利他へと導
く。

 その利他が大きくなればなるほど、人格の完成度が高くなる。

 しかし、その一方で、人間は、悲しみや苦しみを、避けたいと思っている。またそのた
めに努力している。

 ということは、生活が豊かになり、生活の質が高くなればなるほど、悲しみや苦しみを
経験することがすくなくなる。そしてそれと同時に、人格の完成度は低くなるということ
になる。

 もっとわかりやすく言えば、苦労が多ければ多いほど、人格の完成度が高くなるという
ことだが、苦労を望んで求める人などいない。あるいは苦労をした人が、すべて人格者に
なるというわけではない。中には、むしろ邪悪な人になっていくケースもある。

 こうした矛盾を、どう考えたらよいのか。それに心のポケットといっても、不幸には、
定型がない。まさに千差万別。「同じような苦労」といっても、それはどこか似ているとい
うだけで、苦労の内容は、みなちがう。

 この問題については、また別の機会に考えてみる。今は、「矛盾」とだけにしておく。が、
ヒントがないわけではない。

●愛と慈悲

 キリスト教には、「愛」という言葉がある。仏教には、「慈悲」という言葉がある。

 その愛にせよ、慈悲にせよ、その中身といえば、突きつめれば、結局は、いかにすれば
相手の立場で、悲しみや苦しみを共有できるかによって、決まる。他人への同調性、同情
性、協調性、共鳴性、和合性こそが、まさに愛であり、慈悲ということになる。

 言いかえると、キリスト教にせよ、仏教にせよ、こういった宗教は、愛や慈悲という言
葉を使って、その人の人格の完成をもとめているということになる。

 こうした宗教では、自らは、悲しみや苦しみを経験することなく、人の心の中に、心の
ポケットをつくろうとする。私自身は、信仰者ではないから、それ以上のことはわからな
い。

 そこで改めて、私なりのやり方を、考えてみる。私のばあい、宗教にその方法を求める
というのは、最後の最後にしたい。

●ジコチューとの戦い

 そこで考えてみると、自分のジコチューと戦うためには、いくつかの方法があることが
わかる。

 最初に思いつくのは、自己犠牲と、周囲への貢献。無料奉仕活動や、ボランティア活動
がそれにあたる。とくに、悲しみや苦しみを背負った人の立場で、ものを考え、行動する。
そしてその悲しみや、苦しみを、自分のものとして共有する。

 ……といっても、もちろん、それは簡単なことではない。このこと自体が、生きること
のテーマそのものといってもよい。

 が、それだけでは足りない。

 精神の完成のためには、毎日の、たえまない研鑽(けんさん)が必要である。いつも前
向きに戦っていく。自分をみがいていく。

 というのも、精神の完成度は、立ち止まったとたん、その時点から後退し始める。それ
は流れる水のようなものではないか。よだんだとたん、水は腐り始める。「私は完成された
人間だ」と思ったとたん、愚劣な人間になっていく人は、少なくない。

 そのためには、いつも考える。考えて考えて、前に進む。そうすることによって、脳の
中を流れる水を、腐らせないですむ。釈迦は、そういう姿勢を、『精進(しょうじん)』と
いう言葉を使って説明した。

 そう言えば、キリスト教にも、(ゴール)という言葉はない。「10年、教会に通ったか
ら、もうあなたは教会には、こなくていい」というような話は、聞いたことがない。信者
は、それこそ死ぬまで、たとえば日曜日には、教会へ通ったりする。

 キリスト教でも、やはり毎日の研鑽を、信者に教えているのかもしれない。(こんな軽率
な意見を書くと、その道の専門家の人に、叱られるかもしれないが……。)

●人生の目標 

 こうして考えていくと、どこまで「利他」を達成できるかが、人生の目標ということに
なる。ひょっとしたら、私たちが生きている意味や、目的も、そのあたりにあるのかもし
れない。

(とうとう、シッポをつかんだぞ!)

 かなり不謹慎な言い方をしたが、今、私は、心の中で、そう叫んだ。「私たちはなぜ、今、
ここに生きているのか」「生きる目的は何なのか」「何を求めて生きているのか」という、
人間がかかえる最大の課題についての(シッポ)である。

 私は、その(シッポ)をつかんだような気がする。

 もちろんまだ、その(シッポ)をつかんだだけというだけで、その方法もよくわかって
いない。それにそれを実践するというのは、まったくの別の問題。

 さらにその先には、何があるか、私にも、皆目見当もつかない。またそういう状態にな
ったとき、私の心境や思想がどうなるか、それもわからない。しかし方向性だけは見えた
ような気がする。

 とりあえずは、日々の生活の中で、「利己」から「利他」への転換を、少しずつ始める。
今は、それしかない。

 何とも中途半端なエッセーになってしまった。先ほど、このエッセーを読みかえしてみ
たが、文章も稚拙で、矛盾だらけ。マガジンに掲載するのをやめようかとも思ったが、こ
の数日間、ほとんど原稿を書いていないということもあって、あえて掲載してみることに
した。

 改めて、つまり少し時間をおいて、この問題については、考えてみたい。

 なおこのあとに、以前書いた原稿を3作(中日新聞発表済み)を添付すいておく。参考
にしてほしい。

++++++++++++++++++++

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。

++++++++++++++++++++

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を
教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命
はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命す
ら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自
分の中に父がいる」という思いである。

私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似て
いたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影がある
のを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこ
に死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や
感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と
思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中
に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は
知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、い
わば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもな
い。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死
は不条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。

いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる
神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子
育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さ
を見せつけられるたびに、「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者
や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人
にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、
たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやし
てくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子ど
もを大きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きる
ことにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その
人の問題意識の深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子ど
もというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そ
して生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未
来永劫にわたって、伝えてくれる。

つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、ま
さに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身
も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられるこ
とぐらい、子育てですばらしいことはない。

+++++++++++++++++++++

●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝ら
に、自由を得さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのとき
こそ、あなたは自由になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たと
えば「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだ
わるほど、体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかとい
えば、それは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由
をうばう。この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になる
ことはできない。はっきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば
無一文の人は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ち
ゃんと戸締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりす
ると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれ
と同じように考えることはできないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしま
えば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」
と「自由」を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言って
いる。言いかえると、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらに
もっと言えば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすれ
ばよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について
書いた原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

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●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもな
い。「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあら
ゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を
手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の
恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな
経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしにな
っている。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグ
イと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、
さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するが
ゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉
がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私
は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やもの
を、許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文
無しの人は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おい
でになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができ
れば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達
することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つ
の目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

+++++++++++++++++

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方があ
る。一つは、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を
深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を
離れて、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはず
もない。そういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認める
ことである。私たちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎな
い。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的に
もっている、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私
の……」という意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」な
ど。「私の子ども」もそれに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に
向かった意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この
己は、だれにも奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なも
のだが、「己の世界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索であ
る。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「…
…しれない」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、
真理の謎を解くカギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろも
ろの賢者が残してくれた地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたよう
なものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、
わからない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大
きい。残念なことに、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善
を行え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)
と。彼の言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それ
ほどまちがってはいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えて
みたい。
(02−12−15)

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」
●(釈迦「大般涅槃経」)。
(040505)


【2】心を考える□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心を守る

 ストレスや欲求不満が長くつづくと、心は、自らを守るため、さまざまな変化を見せる。
この心を守るための心理的変化を、心理学では、「防衛機制」(フロイト)という。

 その防衛機制は、現在、13種類あるとされる(「心理学用語」(かんき出版)。

 合理化、反動形成、同一視、代償行動、逃避、退行、補償、投影、抑圧、置き換え、否
認、知性化など。

 たとえば本命のA男にふられ、結婚できなかったB子は、そのうち、A男の悪口を言う
ようになった。うっぷんを晴らすためである。「あんな男は、どうせ、ろくでなしよ」「あ
んな男と結婚していたら、私の人生は台なしになっていたはず。結婚しなくてよかった」
と。

 こうして自分の行為や言動を、正当化することを、「合理化」という。

 いつまでもジクジクしていても、しかたない。つづいて、今度は、B子は、C男に急接
近した。A男のことで穴のあいた心を埋めあわせするためである。これを「代償行為」と
いう。

 ……というような例は、多い。

 幼児教育のおもしろいところは、こうした変化を、赤裸々にというか、たいへんわかり
やすく幼児自身が、見せてくれるところにある。あるいは反対に、それまでに体験してき
たことが、心理学の用語にぴったりと当てはまることがある。

 D君(年長児)は、幼稚園では、目だたない、静かな子だった。みなからも、いじめら
れていた。で、D君は、幼稚園から家に帰るとすぐ、xxレンジャーの仮面をかぶり、マ
ントを身につけて遊ぶ。そして「エイヤッ!」とかけ声を出しながら、悪者を倒すマネを
して遊ぶ。

 D君はそうすることで、自分がヒーローになったつもりになる。これを「同一視」とい
う。ヒーローに自分を重ねあわせることで、幼稚園であったいやなことを忘れようとする。

 今、小学生や中学生の間で、占いや、まじないが、大流行。「修行すれば、超能力を手に
入れることができる」と、本気で信じている子どもも、少なくない。こうして子どもは、
現実世界のことを忘れ、自分だけの世界に閉じこもるようになる。これを「逃避」という。

 さらにE君(小6)は、このところ、いつも幼児期に読んでいたマンガの本を持ち歩い
ている。それだけならまだしも、話し方まで幼稚ぽくなってきた。私が「この本は何?」
と声をかけると、E君は、こう言った。「どうチェ、だめだと言うンデチョ、だめだと言う
ンデチョ」と。

 E君には、2歳年上の兄がいた。その兄のはげしい受験勉強を見ているうちに、E君は、
おとなになることに恐怖心をもったらしい。このように、本来成長すべき部分が、反対に、
逆行して幼稚ぽくなることを、「退行」という。

 Fさんは、容姿があまりよくなかった。背も低く、肥満気味だった。そこでFさんは、
中学生になるころから、猛勉強をするようになった。このように自分の欠点や弱点をカバ
ーするために、別の方法でそれを補うことを、「補償」という。

 イギリスの格言に、『相手は、あなたがその相手を思うように、あなたを思う』というの
がある。あなたがその人を、いい人だと思っていると、その人も、あなたのことをいい人
だと思っているもの。反対に、悪い人だと思っていると、あなたのことを悪い人だと思っ
ているもの。

 が、この状態がさらに進むと、相手の心まで、自分の心で決めてしまうことがある。そ
れが「投影」である。Gさん(中学生)は、言った。「あの子は私を嫌っている。憎んでい
る」と。しかし本当は、Gさん自身が、その相手を嫌っていた。しかし自分では、「嫌い」
とは言えない。そこで「相手が私を嫌っている」と思いこむことで、自分の心を正当化す
る。

 ……などなど。

 人間の心は、いつも(自分であって自分でない部分)にコントロールされている。

 それを防ぐには、どうしたらよいか。

 方法は、ただ一つ。自分で考える人間になること。これしかない。考えることを知らな
い人間は、そのときどきの、(自分であって自分でない部分)に、振りまわされるだけ。

 幼児を見ていると、それがよくわかる。……と少し話が脱線したところで、この話は、
おしまい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●地球温暖化

 東京に住むM君から、こんなメールが、届いた。「地球温暖化が進んでいるが、農産物に
は影響がないのか」という私の質問に対して、である。M君は、京都大学農学部出身で、
大手食品会社の役員を経て、現在は、T青果市場で室長をしている。(12月12日記)

+++++++++++++++++++++

地球温暖化の農業への影響は既に出ています。「みかん」の北限と「リンゴ」の南限
が北上しています。「みかん」の南方の産地では、収穫前の時期に寒くならないの
で、糖度が上がらず皮だけ成長を続けるので、甘味のうすい、皮がブカブカのものが
多くなっています。東南アジアの柑橘類が甘くないのは、寒い時期がないからです。
農業界は既に品種を変えるか、新しい果物に挑戦するなどの動きをしています。例え
ば、マンゴー。野菜も今年はすごい暖冬で、例年なら収穫が終わっている産地でもま
だ収穫が続いています。しかし、温暖化傾向そのものは不気味ですね。50年後、1
00年後は全くわからない。

+++++++++++++++++++++

 ミカンが甘くなるのは、ミカンが寒気にあたるためだそうだ。また今年(04年)は、
暖冬で、例年なら野菜の収穫が終わっているころなのだが、まだ収穫がつづいている、と。

 たしかに今年は、暖冬だ。11月の平均気温は、平年より2度ほど高かったという。今
日は、12月12日だが、私が子どものころと比べても、信じがたいほど、暖かい。

 (「平年」というのは、過去30年間の平均気温を、10年ごとに算出した気温を言うそ
うだ。)

 過ごしやすいのはよいことだが、10年後には、12月でも真夏日がつづくようになる
かもしれない。そのときでも、気象庁は、「今年は、平年並みです」と言うかもしれないが
……。


●一家心中

 少し前、あるところで火災事故があった。雰囲気からすると、どうやら一家心中らしい。
2階が火元なのに、階下の1階で、家族がまとまって死んでいたという。

 そこでクエスチョン!

 こんな母親がいたとする。あなたはその母親の心情に、同意するだろうか。それとも反
発するだろうか。

 Rさん(76歳、女性)は、ことあるごとに、他人に、こう言っている。Rさんは、今、
身体に障害のある娘(50歳)といっしょに、生活保護を受けながら、暮らしている。

 「私は、あの娘をこの世に残して死ぬことはできません。だから私が死ぬときは、娘も
いっしょです」と。

 そういうRさんを、「すばらしい母親だ。母親のカガミだ」と思う人もいる。反対に、「何
という親だ。娘の人生をどう考えているのだ」と思う人もいる。

一世代から二世代前の人は、「すばらしい母親」と思うかもしれない。しかし最近の若い
人たちは、そうは思わない。子どもに対する意識が、大きく変わってきた。

 で、一家心中だが、「子どもを巻き添えにして心中する」というのは、ある意味で、きわ
めて日本的な現象である。親の立場からすれば、「子どもを残しておくのは、不びん」とい
うことになる。「不びん」というのは、「不憫」と書く。「あわれなこと」という意味である
(国語大辞典)。

 しかし子どもには、子どもの人生がある。それを親の勝手だけで、その人生を奪ってし
まってよいものか? ……というのは、今では常識。改めて、ここに書くまでもない。

 しかし、だ。この世の中には、まだ、そう考えられない人が多いのには、驚く。本当に
驚く。

 息子や娘が、よい生活をしているのを、ねたむ親となると、ゴマンといる。「親より、い
い生活をしやがって!」「親を粗末にしやがって!」と。ことあるごとに、息子や娘の財産
を、むしり取っていく親すらいる。

 このタイプの親は、子育てをしながら、いつもどこかで恩着せがましい子育てをする。「産
んでやった」「育ててやった」「大学まで、出してやった」と。

 そういう親にしてみれば、子どもはモノであり、財産ということになる。そしてそれが
転じて、「親のない子は、不びん」となる。一家心中は、その延長線上にある。

 今年(04年)も、年末になってから、あちこちで心中事件が起きている。それぞれの
家族は、それぞれの思いの中で、そうするのだろう。だから、そうした人たちを、軽々し
く論ずることは許されない。

 しかしあえて言うなら、死にたいと思うのは親の勝手かもしれないが、ぜったいに子ど
もを巻き添えにしてはいけない。今では、子どもだけを保護して、養育していく社会的シ
ステムも、ちゃんとできている。だからもう少し、世間を信用して、そういうところへ子
どもを預けたらよい。

 死ぬか、死なないかを決めるのは、そのあとでよい。

 ……ということで、先のクエスチョン。あなたは、どちらのタイプの人だろうか。「娘も
いっしょに死なせる」と言う母親を、あなたは、すばらしい母親だと思うだろうか。それ
とも、「?」と思うだろうか。私は旧世代と、新世代の療法にまたがる人間だから、双方の
心情が、同時に理解できるのだが……。

さて、あなたは……?


●どこか、おかしな話

 お隣の韓国で、こんな事件が起きた。

 15歳の少年のK君(愛称、「アイリバー少年」)が、買ったばかりのMP3プレーヤー
を、学校でなくしてしまった。購入して、3日目のことだった。

 そこでK君は、そのMP3プレーヤーのメーカーを、訴えた。いわく「MP3プレーヤ
ーに位置追跡システムが搭載されていなかったのが原因だ」(朝鮮日報)と。

 そこでK君は、その訴えを、ネット上で公表すると、すぐさま賛同者が現われ、「カフ
ェ」まで登場するようになったという。

 で、その結果だが、会社側は、「補償金」ではなく、「褒賞金」を支払うことで、決着
したという。「ネット上で、だれでも気軽に話しあえる話題を提供してくれたことに対す
る、褒賞」と。

 わかりやすく言えば、K君は、自分の不注意でなくしたMP3プレーヤーについて、そ
の責任を会社に取らせたことになる。

 どこか「?」な話だが、これから先、こうした「?」な事件は、どんどんと起きてくる
にちがいない。インターネットには、まだまだ未知の部分が、多い。

(補足)この10年のインターネット革命を、イギリスの産業革命以来の、「大革命」と
とらえる人もいる。あと100年とか、200年とかたってみないとわからないが、しか
しその可能性は、きわめて高い。たしかに今、インターネットは、私たちの生活のあり方
を、根本的に変えつつある。


●YMさんのニセ遺骨問題

 YMさんのニセ遺骨問題について、国際的な動きが出てきた。アメリカ政府の公式のコ
メントにつづいて、韓国でも、市民団体(活貧団)が、金xxに対して、の公開謝罪を訴
えたという(「朝鮮日報」・12・12)。

 日本のみならず、国際社会が、怒っている!

 当然だ。こんなバカげたことを、国際社会が許すはずがない。そこで今、日本にとって
重要なことは、感情論に押し流されることなく、淡々と、ただひたすら淡々と、事務的に、
金xxを、追いつめることである。しめあげることである。

 同時に、今度のニセ遺骨問題は、K国が、いかに信用のできない国であるかを、世界に
向って証明したようなものである。いかに、レベルの低い、幼稚な国であるかを、世界に
向って証明したようなものである。

 決して、あわてて経済制裁に走ってはいけない。あわてる必要はない。ここは、慎重に。
務めて冷静に。あんな国、日本が本気で相手にしなければならないような国ではない。ま
た相手にしてはいけない。また相手にしたところで、問題は、解決しない。

 ここで今、日本が経済制裁をすれば、日本は6か国協議から脱落することになる。と、
同時に、K国に、日本攻撃の口実を与えることになる。

 日本の経済は、きわめて不安定な状態にある。もし今、ここで外資の5%、いや数%が、
日本から逃げ出すようなことがあれば、それがきっかけで日本の経済は、崩壊してしまう
かもしれない。もし、戦争ということになれば、円は大暴落。大半の外資が日本から出て
いくことになる。

 だから、冷静に。ここは冷静に! YMさんの両親は、全国を回りながら、懸命に経済
制裁を訴えている。それに呼応する動きも、あちこちで高まってきた。

 YMさんの両親の気持ちは、よくわかる。理解できる。しかし経済制裁は、もう少し、
国際社会の動きを見てからでも遅くはない。K国がニセの遺骨を遺族に渡したというニュ
ースは、今、ものすごい勢いで、世界に広がりつつある。そしてあちこちで、猛烈な怒り
を買い始めている。

 YMさん、あなたの苦しみや悲しみは、決してあなただけのものではない。日本人のみ
ならず、世界中の人が怒っている。本気で、怒っている。

 そういう善なる心を、今こそ、結集しよう。そしてそれこそが、今の拉致問題を解決す
る力になる。だから、今、日本は、あわてて経済制裁をしてはいけない。

【追記】

 今、ここで日朝戦争ということになれば、中国はもちろんのこと、韓国ですら、裏でK
国を支えることになる。そうなれば、K国を中心に、中国と韓国をかえって結束させてし
まうことになる。

 問題は、そのあとだ。そういう状況に置かれたら、アメリカはどうする? もう6か国
協議どころでは、なくなってしまう。6か国協議が崩壊することはないにしても、日本は、
経済制裁をした段階で、6か国協議からは脱落することになる。

 K国は、日本の参加を拒否するだろうし、日本にしても、参加する大義名分を失うこと
になる。

 しかしそれこそ、まさにK国の思うツボ。アメリカから日本を切り離し、その日本に武
力攻撃をしかけながら、金xx体制の温存を図る。ばあいによっては、K国は、東京都の
ど真ん中で、核実験をするかもしれない。今は、そういう状況である。

 だから、ここはみなさん、冷静になろう。務めて冷静になろう。今、重要なことは、世
界の同情を背景に、対K国に対して、アメリカ、韓国、中国との連携を深めることである。
決して、あせって、感情論に押し流されてはいけない!

 今夜(12・12)も、経済評論家のX氏は、テレビの番組の中で、こう言っていた。
X氏は、私が商社マンだったとき、隣同士のデスクで仕事をした人である。

 「日本には、経済力という武器がある。その武器を使えばいい」と。

 しかし、これはまさに、「戦争をせよ」ということではないのか。相手がそれに呼応して、
軍事力を使ってきたら、そのとき、日本は、どうするのか。

が、ぜったいに、戦争をしてはいけない。相手がまともな国なら、まだしも、K国は、
そんな国ではない。その価値もない。だから相手にしてはいけない。

相手の思うツボにはまってはいけない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【子どものころ】

****************************

むずかしい話ばかりでしたので、
私の子ども時代について、書きます。

****************************

●テレビ

 テレビをはじめて見たのは、私が、小学3年生か、4年生のときのことである。近所の
電気屋に、1台だけ入った。

 ふつう電気製品は、店頭に並ぶものだが、テレビだけは、奥の、どこか薄暗い部屋に置
いてあった。映画館のような雰囲気を出すためではなかったか。

 私たちは、ときどき、そのテレビを見せてもらった。

 が、それは同時に、たいへんなことだった。ただで見せてもらう以上、それなりの作法
が必要だった。テレビには、カーテンがかけてあったし、テレビの前では、私たちは正座
をしなければならなかった。

 祖父もよくいっしょに見に行ったが、アナウンサーが、「こんばんは」などと言ったりす
ると、ちゃんと、返事をしていた。「浩司、お前もあいさつをしろ!」と。祖父は、こう言
った。

 「こちらから見えるということは、向こうからも見えるということだ」と。

 子どもながらに、「?」と思ったが、私は、従った。

 テレビといっても、もちろん白黒。今から思うと信じられないほど、小さな画面で、映
りもよくなかった。私たちは、そのテレビで、あちゃことか、エノケンを知った。


●ゴム靴

 つぎに思い出すのは、どういうわけか、ゴム靴である。黒いゴム靴で、はいて歩くと、
ゴム独特の音がした。キュッ、キュッ、と。

 当時は、靴下をはく子どもなどいなかったので、しばらくはいていると、すぐ足の皮が
めくれた。痛かった。だから私は好きではなかった。(……と思う。よく覚えていないが…
…。)

 私が小学1年生か2年生のときのことである。


●蛍光灯

 近所の家に、蛍光灯がついたという話を聞いた。「白い電気だ」と。

 そこで、みんなで、その蛍光灯を見にいった。

 当時は、たいへん高価なものだったらしい。小学校で先生をしている人の家だった。一
番奥にあった部屋の電気で、見に行くと、わざわざそれをつけて見せてくれた。

 「さわっても熱くないよ」というようなことを言ったので、私たちは恐る恐る、手でさ
わってみた。当時は、電気というのは、熱いものというのが、常識だった。しかし蛍光灯
は熱くなかった。

 みんなで、「不思議だ」と言いあったのを覚えている。私が小学2、3年生のときのこと
である。


●潜水艦

 当時、木で作った、潜水艦の模型がはやった。私たちは毎日のように、学校から帰って
くると、その潜水艦を作りに夢中になった。

 簡単な模型だった。

 潜水艦の形をした木片の下に、ゴム動力のスクリューと、おもりをつける。甲板には、
それらしき艦橋をつける。前後に、金属製の薄いハネをつけて、それを調整して、水の中
をもぐらせて遊ぶ。

 勢いよく走ると、潜水艦は、もぐる。しかし動力がなくなると、そのまま水面に……と
いうわけにはいかないことが多かった。もぐったまま、どこかへ行ってしまうということ
も、よくあった。

 そうなると今度は、潜水艦さがしを始める。

 が、たいてい、見つからなかった。が、かわりに、だれかがなくした潜水艦を見つける
ことがあった。私たちは、それを戦利品と呼んで、自分のものにすることができた。


●遊び

 私たちは毎日、真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。暗くなって、遊べなくな
ると、今度は、道路で遊んだ。

 缶けり(隠れんぼうのこと)や、「草履(ぞうり)隠し」などが、定番だった。私たちは
「パンコ」と呼んでいたが、メンコ遊びもよくした。ほかにあのころ、野球版ゲームや、
フラフープがはやった。「ダッコちゃん」というのも、はやった。

 今から思うと、かなり危険な遊びもしていたようだ。

 当時、カン鉄砲というのがあった。火薬をつめて、パンパンと鳴らして遊ぶ。そのカン
鉄砲に、カサの柄を切ったパイプを取りつける。そしてその中に、自転車で使うベアリン
グを入れて、火薬を爆発させる。

 わかりやすく言えば、ピストル。原理的には、本物のピストルと、どこも違わない。

 そのピストルで、板や、ビンを打ち抜いて遊んだ。厚さ3〜4センチくらいの板なら、
簡単に射抜くことができた。

 やがてその遊びは、禁止された。どこかで、その遊びをしていて、失明した子どもがい
たからだ。私の友だちの中にも、手の中でピストルを暴発させてしまい、おおけがをした
のがいた。

 私は、そういうヘマはしなかった。


●川遊び

 夏になれば、毎日のように私たちは、川で泳いだ。当時は、学校にも、まだプールはな
かった。が、私たちは、たいへん幸運だった。そのことはずっとあとになってわかったこ
とだが、私たちが泳いだ川は、日本でも、ほかに例がないほど、美しい川だった。

 長良川(ながらがわ)である。

 豊かな水量。澄みきった青い水。真夏でも、冷たかった。30分も水につかっていると、
くちびるがまっさおになった。

 そう、あの川で遊んだこととなると、思い出が、まるで怒涛(どとう)のように頭の中
に浮かんでくる。どこからどのように書いたらよいのか、わからなくなる。遠い昔のよう
でもあるし、つい先日のことのようでもある。

 私にとって、夏の日の、あの長良川は、私の一部というより、すべてだった。私の夏は、
水遊びで始まり、水遊びで終わった。そう、あのころの夏は、短かった。気温が30度を
超えるのは、7月も20日前後を過ぎてから。8月15日の盆が終わると、冷たい風が、
川面(かわも)をなで始め、私たちは、もう水の中に入ることができなかった。

 私はそれでも川に行き、川を土手の上からながめた。泳げないことを、心底、うらめし
く思った。そんなやるせない気持ちだけが、どういうわけか、強く心の中に残っている。


●初恋

 初恋は、幼稚園児のときだったと聞いている。幼稚園から帰ってくるたびに、「ぼくは、
Yちゃんが好き」と言っていたという。が、肝心の私は覚えていない。

 それが初恋だとするなら、つぎに好きになったYさんは、二番目の恋人ということにな
る。背の高い、スラリとした女の子だった。私が小学3年生くらいのときだった。

 そのYさんは、中学生になるころまで好きだった。と、言っても、もちろん密かな片思
い。途中で、一度、Aさんという女の子を好きになった。私も、結構、浮気ぽいところが
あった。で、そのあとは、高校生のときの、Sさん。

 こうして思い出してみると、私は、そのつど、だれかに恋をしていた。それだけ愛情に
飢えていたのかもしれない。あるいは、ただのスケベ?

 しかし電撃に打たれるような恋をしたのは、大学4年生のとき。Nさんという名前の女
性だった。しかしあっという間にフラれた。切なくも、悲しい物語。Nさんを忘れるのに、
そのあと、10年以上もかかってしまった。

 で、再び話は子ども時代にもどるが、私が子どものころには、女の子といっしょに遊ぶ
ということは、考えられなかった。実際には、私には中学校を卒業するまで、女の子とい
っしょに遊んだ記憶そのものがない。つまり、一度も、ない。

 そのくせおかしなことだが、本当におかしなことだが、私は小学3年生になるころまで、
銭湯でも、平気で女湯のほうへ行って遊んでいた。

 そうそう、その銭湯の話だが、あるとき湯船の中に、ウンチが浮かんでいたことがある。
当時は、今のように湯が循環ろ過式になっていなかった。今でも、あのウンチのことを思
い出すと、背筋がゾッとする。

 ウンチの浮かんだ風呂。そのウンチをオケでかきわけながら、湯の中に入る……。あな
たに、そんな風呂が想像できるだろうか?


●小遣い

 正確ではないが、当時は、うどん屋でうどんを食べると、一杯、70円とか、80円で
はなかったか。私が小学2、3年生のときである。

 30円で、肉入の焼きそばが食べられた。が、私たちは、いつも、10円の焼きそばだ
った。半分の量の、5円という焼きそばもあった。

 画用紙が1枚、50銭(1円の半分)だったのをよく覚えている。ときどき50銭玉を
もって、その画用紙を買いに行った。私はそれに絵を描いて遊んだ。そしてそれが終わる
と、今度は、その画用紙で、いろいろなものを作って遊んだ。

 今でも不思議だと思うのは、卵が1個30円くらいだったこと。それから50年になる
が、かえって今のほうが安いのは、どういうわけだろう?

 ラムネは1本、5円だった。当時は、店先で飲んで、ビンは返すしくみになっていた。
が、ある日、駄菓子屋の棚を見ると、そこに、バヤリース・オレンジというアメリカ製の
ジュースが数本、並んでいるのを知った。そのジュースは、子どもたちの手の届かない、
高いところに、どこか誇らしげに置いてあった。

 値段は、100円だった。私たちの小遣いの1か月分である。

 それを見ながら、「あんなジュース、だれが飲むんだろ」と思ったのを、よく覚えている。
「おとなになったら、いつか、飲んでやる」と思ったのも、よく覚えている。


●食事

 当時は、今の食生活からは想像もつかないほど、質素なものを食べていた。何しろ学校
の給食が、毎日、ごちそうに見えるほどだった。

 よくて魚の煮つけと、つけもの。あるいはイモや大根を煮たものに、簡単な酢もの。た
いていそんなものばかりだった。

 寿司などは、正月と、風邪をひいて寝たときぐらいしか、食べられなかった。肉にいた
っては、食べた記憶が、ほとんど、ない。当時は、肉、とくに牛肉は、最高級の食品だっ
た。

 ときどきコロッケは食べた。ソーセージを、みんなで分けて食べた。そうそうミカンに
しても、当時は、1個売りが当たり前。今のように箱売りのミカンなど、想像もつかなか
った。

 だから今でも、ときどき、あのころの食事を思い出しながら、「今の人は、ぜいたくなも
のを食べている」と思うときがある。


●しかし……

 そういう貧しい生活だったにもかかわらず、窮乏感は、まるでなかった。ぜいたくとい
うものが、どういうものか知らなかったので、当然と言えば、当然だったかもしれない。

 このことは、当時の内閣官房審議室の調査によっても、わかる。

 1959年というから、私が12歳のときである。そのときですら、「生活に満足してい
る」と「まあまあ満足している」をあわせると、66%もいた。

 しかしそれから45年後の、2004年。内閣府の調査によると。「満足している」「ま
あまあ満足している」は、59・8%という。おかしなことだが、45年前とくらべると、
少し減っているのがわかる。

 今の人たちは、当時の私たちとはくらべものにならないほど、ぜいたくな生活をしてい
る。豊かになった。楽になった。が、それでも、減っている。考えてみれば、おかしなこ
とではないか。

 ……と考えていくと、そこに、人間の欲望の問題がからんでいることがわかる。欲望に
は際限がないとはよく言うが、その欲望は、それが満たされたとき、つぎの欲望を求めて、
さまよい歩き始める。

 今では、家の中にいて映画(ビデオ)を見るなどというのは、当たり前のことだが、私
たちが子どもときは、そうではなかった。

 映画館で見るしかなかったが、その映画館へ、なかなか入れなかった。

 そこで私たちは、映画館の壁の穴を見つけて、そこに目をこらして中の映画を見たりし
た。あるいはピンホール映画のように、穴の外に、白い紙を置いて、そこに映る映画を見
たりした。

 そういう時代だったが、不便ということはなかった。みじめさも、なかった。

 が、もしその逆だったら、どうだろうか? 「今」という時代を頂点に、どんどん生活
の質がマイナス方向に、落ちていったとしたら……。

 考えるだけでも、ゾッとする。いや、私のことではない。今の、つまりぜいたくになれ
きった若い人たちや、子どもたちのことを考えると、ゾッとする。果たして、そういう生
活に耐えられるだろうか、と。

 ……こうして考えていくと、文明とは何かということまで、考えてしまう。さらに「豊
かさ」とは何か、とまで。あるいはひょっとしたら、私たちは、それほど大切でないもの
を、大切と思いこまされているだけかもしれない。そしてその一方で、もっと大切なもの
を、見落としているだけかもしれない。

 自分の子どものころのことを書きながら、私は、そんなことを考えた。
(はやし浩司 子ども時代 子供時代 子どものころ 子供の頃)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 12日(No.515)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今週のBW

 今週(12月2週目)は、英語のレッスンをした。ABCから始めて、簡単な計算まで
……。

 私の英語教育のキャリアは、長い。1972年からだから、もう32年ということにな
る。幼児の英語教室は、この浜松市でも、私の教室が、最初だった。まだ外人がほとんど
いない時代である。そういう時代からの、英語教室である。

 当時は、小学3、4年生で、英検3級の合格をめざした。そのため一時期は、全国でも、
英検(児童英検ではない)の合格者の大半を、私のBW教室から出していた。私の黄金時
代(?)である。

 今でも英検の3級というのは、中学3年生程度の英語の力が必要である。

 レッスンの途中で、ふと、そんなことを頭の中に思いだしていた。「私が本気で英語を教
えたら、こんなものではないのだがなあ……」と。

 そう、今は、英語教育といっても、(お遊び)のようなもの。「英語を好きにさせる」こ
とだけを考えながら、指導している。わかりやすく言えば、楽しませる。それでよい。そ
れでじゅうぶん。あとのことは、親や子どもたちに任せればよい。今では、その種の英語
教室は、無数にある。私の出番は、もうない。

 しかし、一言。世の親たちは、「外人講師」というだけで、ありがたがる傾向が強い。が、
しかし外人(ネイティブ)だからといって、きちんとした英語を話せるわけではない。き
ちんとした指導ができるわけではない。ただ単なるオウム返しの暗記に終わるような英語
教育だったら、あまり意味はない。

 ……しかし、これは、私のひがみかもしれない。いや、もう少し若いころには、そうい
うひがみもあったが、とっくの昔に、忘れた。考えるのも、やめた。大切なことは、私自
身も、人生を楽しむこと。教えることを、楽しむこと。成績ばかり気にしていたあの時代
は、あまり楽しくなかった。

 だから昨日も、子どもたちといっしょに、思いっきり笑った。笑って、教えた。帰りぎ
わ、子どもたちに、「英語は好きか?」と聞くと、みな、「好き」と答えた。そしてほとん
どの子どもたちが、「私、英語教室へ通っている」と言った。

 それを聞いて、「がんばって英語を勉強するんだよ」と、私は言った。ついでに、「メリ
−クリスマス!」とも。

 そう、みなさん、メリークリスマス!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【心を病む子どもたち】

 学校恐怖症になった子どもがいた。小学2年生だった。それまでもときどき、ぐずった
りして、学校を休むことはあったが、その日の朝は、ちがった。トイレに入ったまま、出
てこなくなってしまった。

 とたん、母親は、パニック状態。実際には、狂乱状態になってしまった。「このまま不登
校児になってしまったら、どうしよう!」と。

 ……というようなことを繰りかえして、子どもは不登校児になっていく。(詳しくは、「は
やし浩司 学校恐怖症」を検索してみてほしい。)

【対処のし方】

 不登校にもいろいろある。しかし学校恐怖症による不登校のばあいは、一度症状がこじ
れたら、つぎの点を守る。

(1)最低でも、数週間から、数か月は、何も言わない。言ってはいけない。
(2)今の状態をより悪くしないことだけを考えて、数か月単位で、様子をみる。
(3)安易な原因さがしをしない。子どもが口にする理由に振りまわされない。
(4)ただひたすら忍従。がまん、根気。あとは許して、忘れる。

 「学校」という言葉は、禁句。「学校へ行こう」も禁句。もちろん「がんばれ」式の励ま
し、「こんなことで!」式のおどしは、禁物。ただひたすら、子ども自身の活動欲(森田療
法)が出てくるのを、待つ。

【森田療法】

 慈恵医科大学の森田正馬(もりた・まさたけ)が、始めた心理治療療法を、「森田療法」
という。

 森田は、人間自身がもつ自然治癒力に着目した。そしてあるがままの自分を受け入れる
ことから、その人の心の病気(神経症、恐怖症、強迫神経症、不安神経症など)を治そう
とした。

 この森田療法は広く多くの医師たちに支持され、世界に広がり、かつ現在に伝わってい
る。

(森田療法・第1期)……約1週間、患者を病室に隔離する。これを「臥じゅう期」とい
う。この間、患者は、排便、食事以外は、ただひたすら何もせず、病室に閉じこもって、
床に臥す。多くの患者は、不安感に襲われ、ときに悶絶するが、その不安を、そのまま受
け入れさせるようにする。

(森田療法・第2期)……それにつづく、3日〜7日の間、今度は、床に臥す時間を、1
日7〜8時間に制限し、患者に庭掃除などの、軽い軽作業をさせる。これを「軽作業期」
という。この期間の間、患者は、日記を書いたり、本を読んだりする。人との接触や会話
は、禁じられる。

(森田療法・第3期)……さらにそれにつづく、1〜2週間、今度は、患者に、大工仕事
や、耕作活動などの重労働をさせる。これを「重労働期」という。この時期も、人との接
触や会話は禁じられ、患者は、ただひたすらその重労働に没頭するようにしむけられる。
患者は、重労働であれば、自分の好き勝手なことができる。

(森田療法・第4期)……第3期が終わったあと、患者の様子を見ながら、社会復帰のた
めの準備をさせる。これを「生活訓練期」という。患者自身の活動欲、行動欲、意欲をう
まく利用して、会社に通わせたり、学校に通わせたりする。

 以上、(第1期)から(第4期)までに、約40〜90日をかける。

【実際例】

 不登校児の対処のし方として、森田療法を、参考にあげた。その森田療法でも、ここに
書いたように、40〜90日が標準である。(当然、それより長期間になることもある。)
が、親には、それがわからない。

 私が「数週間は、何も言ってはいけません」と言っても、その数週間が、長い。数日も
すると、親のほうから、「これでいいのでしょうか?」という電話がかかってくる。さらに
1、2週間もすると、「今日は、学校へ連れていってみました」と言ったりする。

 こうした無理が、ますます症状を悪化させる。こじらせる。本来なら数か月ですんだは
ずの不登校が、1年とか、2年とか、つづいてしまう。中には、(ほとんどがそうだが……)、
「子どものため」を口実にして、自分の不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう
親がいる。そして親子の間で、大騒動を繰りかえす。

 私は今までに、何10例(あるいは100例以上)という不登校児と接してきたが、こ
の問題だけは、「親も、行きつくところまで行かないと、気がつかない」ということ。ほと
んどの親は、「まだ、何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と、無理に
無理を重ねる。

 心の病気というのがどういうものかわかっていない。いないばかりか、「病気」という言
葉を使っただけで、「病気とは、何だ!」と、食ってかかってくる親さえいる。「うちの子
が不登校児になったのは、学校の先生が原因だ」「いじめが原因だ」と。

 そういうケースもないわけではないが、こと学校恐怖症については、恐怖症の一つと考
えて対処する。対処するにしても、数か月単位の根気が必要である。一つの参考として、
ここで「森田療法」をあげた。
(はやし浩司 森田療法 神経症 学校恐怖症 不登校 不登校児 心理療法)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●家族療法

 子どもに何か問題が起きると、親は、子どもをなおそうとする。よくある例として、チ
ックがある。首から上にかけて起こる、筋肉のけいれん様の不随意運動をいう。

 ふつうは首から上に症状が現れるが、中には、その症状が全身におよび、はげしいけい
れん状の症状をともなうこともある。そのため呼吸困難におちいったりすることもある。

 こうしたケースのばあい、その子どもを取りまく全体的な環境に原因があるみる(円環
的因果論)。子どもだけをみて、子どもだけをなおそうと考えても、無理がある。そこでそ
の子ども全体を包む、家庭のあり方そのものに、メスを入れる。

 これが家族療法である。

 というのも、仮に母親がその原因に気づいても、母親自身が、そのまた母親を包む家庭
環境の中で、どうしようもないことが多い。父親(夫)と接しているうちに、またすぐも
との自分自身にもどってしまう。つまり家族が、一つのシステムとして機能しているため、
その一部だけをなおそうとしても、意味がない。

 だから今では、大きな総合病院や大学病院などでは、子どもにこうした問題が起きると、
家族全体を一つ単位(ユニット)として考え、指導するところが多い。たとえばここにあ
げたチックにしても、母親自身が原因であることが多い。しかし母親自身は、それに気が
ついていないことが多い。

 だから子ども、母親、それに夫である父親に同席してもらい、家族全体のあり方を、も
う一度、見つめなおしてもらう。子どもに対して、母親が神経質になっていないか。神経
質になっているなら、その原因は、父親が作っていないか。父親が原因をつくっていると
すると、さらにその原因は何か。どうすればよいか、と。

 こうして家族全体のあり方を考えながら、子どもの治療をする。

 子どもに何か問題が起きたら、その原因を子どもに求めても、あまり意味はない。その
原因は、親や家庭環境にあるとみる。まず、そこから始める。子どもをなおそうと考える
のは、つぎのつぎでよい。
(はやし浩司 家族療法 円環的因果論)
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●パソコン

 次期パソコンを、どれにするかで、悩んでいる。アメリカのD社のパソコンにしようか、
それとも日本のS社のパソコンにしようか?、と。

 CPUは、ペンチアム4、3GH。これは必須。メモリーも、1GB(ギガバイト)は
ほしい。あとは、もろもろ。
 
BTO(自分で組みあわせて注文する)という方式が、一般化しているようだ。そのた
め、よけいに迷う。悩む。毎日、毎晩、あれこれとカタログを見ている。が、見ている
だけで、なかなか決まらない。

 しかし、こういうときが、一番、楽しい。買ってしまったら、おしまい。

 が、かんがえてみれば、とりあえずは、新しいパソコンは、必要ない。今のパソコンで、
じゅうぶん。それはわかっているが、これは私のビョーキのようなもの。周期的に、新製
品がほしくなる。今が、そのとき。

 新しいパソコンを買ったら、みなさんに紹介しよう。お楽しみに!


●タウン誌の廃刊

 先日、友人のメルマガが、廃刊になった。読者数が、2400人程度いたという。H市
の情報を、毎週、届けてくれていた。

 廃刊の理由が、今日、メールで届いた。いわく、「この世界は、ハイリスク・ノーリタン。
文でお金を稼ごうと考えていた、ぼくが甘かった」と。

 記事にクレームがついたことが、廃刊のきっかけだったという。「道楽でできるほど、財
政的な余裕はないから」とも。

 しかし、明日は我が身か? 


●やはり遺骨は、ニセモノ

 K国に拉致された、Yさんの遺骨の鑑定結果が、昨日(12・8)、公表された。その結
果は、ニセモノ! つまりYさんの遺骨ではなかったという。しかも週刊S週刊誌によれ
ば、「日朝実務者協議の席で、日本側代表が、夫として会った男性も、どうやらニセモノ」
らしい。

 コメントのしようがない。バカバカしいというか、K国の、あまりのレベルの低さに驚
く。

 最近では、K国から、将官級の人物が、つぎつぎと脱北しているという(中国共産党中
央党校の北朝鮮問題専門家)。そしてその数は、130人あまりだという(インターナショ
ナル・ヘラルド・トリビューン紙)。

 さらにK国の飢餓人口が2000〜02年に、全体の36%に当たる810万人に達し、
深刻化しているという報道もある(時事通信・国連食糧農業機関(FAO))。

 私は、K国の崩壊が、きわめて近いとみているが、韓国と中国は、それを望んでいない
らしい。裏で懸命に、金XX政権を支えている。

 韓国も中国も、ほんの少しでよいから、ここは反日感情をおさえてほしい。そして現実
を見てほしい。現実のK国や、金XXを見てほしい。堂々と、ニセモノの骨を、渡すよう
な国である。どうしてそんな国を支持するのか? 助けるのか?

 それにしても、お粗末! 幼稚! 愚劣!

 そんな中、ワールフドカップの一次予選の日本の対戦相手が、そのK国と決まった。や
りにくいというか、いやな予感! どうするのだろう?
(以上、04年12月9日記)


●中部国際空港・セントレア

 愛知万博が近づいた。それ呼応するかのように、中部国際空港・セントレアが、姿を現
した。関西国際空港のように、海を埋めたてて作られた空港である。

 空から見た形は、英語の「P」のようでもあるし、音符の「♪」のようでもある。ゲー
トは、「T」の字になっていて、左右に、10〜11か所、計20か所以上ある。巨大な空
港である。

 しかしそれにしても、海を埋めたてて、こんなもの、よく作ったものだ。ホント!

 私が住むH市の人たちは、「多少、便利になるかな」と言っているが、本当のところは、
よくわからない。電車で行くときは、今までのように、一度、名古屋市内まで出なければ
ならない。バスで行く方法もあるというが、それでも2時間はかかるという。

 (今までの名古屋空港(小牧市)までは、新幹線を使っても、1時間半。バスなら……
そのときの道路事情による。道路がよく渋滞するので、私はめったに、バスは利用しない。)

 同時進行の形で、静岡市の近くに、静岡空港が、今、建設されている。反対運動も根強
い。そのため県は、今度、土地を強制収用の手続きを始めることになった。ないよりは、
あったほうが便利だが、そんな論理だけで、つぎからつぎへと、こんなものばかり作って
いてよいのだろうか。そんな疑問も、ないわけではない。

 中部国際空港・セントレアにしても、維持費だけでも、これから先、たいへんだろう。
当然のことながら、その負の債務は、これから先、長く、重く、未来の日本人の上に、の
しかかる。

 どうするのだろう……? これでいいのかなあ……?、と思いつつ、その航空写真を今、
ながめている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ハイリスク・ノーリターン

 友人が、電子マガジンを廃刊した。99年に創刊したというから、5年目の挫折(ざせ
つ)ということになる。

 理由は、「ハイリスク・ノーリターンだから」と。

 つまり危険ばかりともなって、収入がない、と。

 ナルホド!

 考えてみれば、教育の世界は、総じてハイリスク・ノーリターン。私の世界の話ではな
い。「学校」という公教育の場での、話である。へたに火中のクリを拾うようなことをする
と、そのまま大ヤケドする。

 この世界には、『さわらぬ神に、たたりなし』という鉄則がある。親のほうから、何か問
題を提起されるまで、こちら側は、だまっていたほうがよい。理由が、ある。

 親も、こと子どものことになると、きわめて神経質に反応する。それはわかる。しかし
そのとき、親側に、それだけの予備知識があれば、話は別。しかしその予備知識もない親
に、専門的な問題提起をすると、それだけで親は、パニック状態になる。

 私にも、無数の苦い経験がある。

 だから勢い、わかっていても、わからないフリをして、指導する。知らぬフリをして、
指導する。そして少しずつだが、親に、問題意識をもってもらう。そして親側から、「どう
してでしょう?」という相談をもらったときはじめて、こちら側は、こちら側としての意
見を述べる。

 たとえばADHD児(集中力欠如型多動性児)についても、年中から年長児期にかけて、
症状が、より鮮明になってくる。しかしプロなら、年少児の段階で、それがわかる。しか
しこの段階でも、指導する側は、「ADHD児の疑いがあります」とは、決して言ってはい
けない。言う必要もない。言えば、それこそたいへんなことになる。

 教師には、医師がもっているような診断権は、ない。

 教師がすべきことは、クラス全体として、教育を考えていくこと。仮に、その中の個人
に問題があるとしても、全体の問題として、その個人の教育を考えていく。 

 ……ということで、私は、この「ハイリスク・ノーリターン」という言葉に、心底、ド
キッとした。

 もちろん私が発行している電子マガジンにしても、まさにハイリスク・ノーリターン。
大半の読者の方は、私のよき理解者であり、支持者である。それはよくわかっている。し
かし中には、いつも、あれこれクレームをつけてくる人がいる。そんなとき私は、「私のマ
ガジンがそんなに気に入らなければ、購読をやめればいいのに」と、思わず言いそうにな
る。

 が、それを口にしたら、おしまい。だから、私は、そういう読者を乗り越えるしかない。
また乗りこえる術(すべ)は、身につけた。しかしそのあと襲ってくる、虚しさというか、
バカらしさは、どうしようもない。

 これは私の問題と言うより、こうした電子マガジンが、広く共通してかかえる問題では
ないのか。あるいは広く、教育全体が、広く共通してかかえる問題ではないのか。

 しかしこれだけは言える。

 もし、みながみな、ハイリスク・ノーリターンを口にするようになり、ノーリターンの
活動をやめてしまったら、日本人は、それこそ、バラバラになってしまう! 教育だって、
崩壊する。もちろん電子マガジンの世界も、崩壊する。残るのは、意味のない電子マガジ
ンか、営利を目的とした、スケベマガジンだけということになる。

 だから、ここは、私も、ふんばるしかない。……と、今、思っている。それにしても、
この言葉には、ドキッとした。ホント!


●体罰とわいせつ

 03年度、児童生徒への体罰とわいせつ行為で、処分された、公立小中高校の教員は、
494人と196人。前年度(02年)よりふえ、過去最高だったという(文科省まとめ)。

 このほか、交通事故や、「入学・卒業式の国歌斉唱時に起立しない」ことが理由で処分さ
れた教員は、前年度(02年)より796人多い、4341人もいたという。

★体罰……児童や生徒の逃げ道をふさぎながら、体罰を加えるというのは、どう考えても、
フェアではない。そんな教師や学校がいやでも、子どもは、その学校に通うしかない。つ
まり、逃げ道がない。

 その点、塾などでは、体罰を加える前に、「お前なんか、出て行け!」となる。つまりそ
の子どもを追い出すことができる。子どもの側にしても、「ほかの塾へ行くからいい」とな
る。つまり、逃げ道がある。

★わいせつ行為……私も結構スケベなほうだから、「女性」に関心がないわけではない。い
つも、ある。しかし相手は、幼児。小学生や中学生にしても、幼児から教えている子ども
たち。「かわいい子だな」と思うことは、よくあるが、しかしそれ以上に「女」を感じたこ
とは、一度もない。

 私の世界では、そういう(うわさ)一つで、命取りになる。仕事ができなくなる。だか
ら、極力、そういう誤解を招くことは、避けている。

 男児はともかくも、女児については、手と頭以外は、さわったことがない。女児に近づ
くときは、無意識のうちにも、両手をポケットに入れている。

 が、中には無防備な女の子がいる。デスクに向って座っている私に、体をすりよせてく
る。そういうときは、すかさず私は、こう言うことにしている。

 「あのね、君とぼくの関係を誤解されるから、ぼくの体に、さわってはだめだよ」と。

 そういう光景を見ていて、親たちは、ニコニコ笑う。言い忘れたが、私の教室は、すべ
て公開している。そのため、いつも例外なく、2〜6人の母親たちが参観している。

 結論から先に言えば、食欲を理性の力でおさえることができないように、性欲を理性の
力でおさえることはできない。とくに若い男性のばあい、意識とはおかまいなしに、精子
はどんどんと作られていく。女性の生理と同じと考えてよい。

 だから、さらに結論から先に言えば、この問題だけは、「指導を強化する」(文科省)と
いうレベルでは、解決しない。教育システムそのものを変える必要がある。

★国歌……何度も書くが、どうして「国歌」にそれほどまでに、こだわるのか。こだわら
なければならないのか。私には、その理由が、よくわからない。

 国歌でなくても、長唄でも小唄でも、能の謡(うたい)でもよい。詩の朗読でもよい。
国歌を歌ったからといって、愛国心があるということにはならない。国家を歌わないから
といって、愛国心がないということにもならない。

 加えて、日本の「君が代」には、問題がある。ないとは言わせない。どうして主権在民
の民主主義国家で、天皇をたたえる歌が、国歌なのか。いや、こう書くからといって、何
も「君が代」に反対しているわけではない。

 それでもいいという国民が過半数を超えているなら、それはそれでいいと思う。それも
民主主義。みんなで話しあって決めたことは、みんなで従う。私も従う。

 ただ公教育の先生が、公的な立場で、個人的な実力行使をするのは、許されない。国歌
斉唱に反対するなら、公的な立場を離れ、個人的な意見として発表すべきである。それは
たとえて言うなら、子どもの親が、どんな犯罪者でも、その子どもを差別してはいけない
という論理に通ずる。

 公的な人間は、公的な人間としての立場をわきまえて行動する。私的な主義主張は、公
的な立場を離れてるす。公教育というのは、そういうものである。

 数週間前も、1億円という巨額なワイロを受け取りながら、その責任を部下におしつけ
て逃げてしまった元総理大臣がいた。「覚えていません」と。

 私はともかくも、一般の人たちや、そして子どもたちは、そういう政治家を見ながら、
そういう政治家たちが言うところの愛国心というものが、どういうものであるかを知る。
愛国心をぶちこわしているかどうかということになれば、そういう政治家のほうが、よほ
ど、ぶちこわしていることになるのではないのか。

【補記】

 「君が代を歌え」と迫る政府。それはどこかカルト的? 一方、「君が代は歌わない」と
がんばる先生たち。それもどこかカルト的?

 この話をワイフにしたら、ワイフは、こう言った。「そういうのを逆カルトというんじゃ、
ない?」と。

 おもしろいネーミングである。カルトに対して、逆カルト。ナルホド!

 似たような例は、多い。……というより、私自身も経験している。

 ある時期、私は、カルト教団と呼ばれる宗教団体に、猛烈な反発を感じた。何冊か、本
も書いた。そのときのこと。そのカルト教団については、何もかも否定、また否定。まさ
に『坊主憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い』の心境になってしまった。

 しかし、カルト教団だから、「悪」と考えてはいけない。しかしそれに気づくまでに、何
年もかかった。「悪いのは指導者であって、信者ではない」と。
 
 そのときの私の心理が、いわゆる「逆カルト」ということになる。心の余裕というか、
ゆとりをなくす。車の運転でいえば、「遊び」の部分をなくす。ものの考え方が、どこかギ
クシャクしてくる。

 私などは、もともと、どこかいいかげんな人間。だから、心の中では、「?」と思ってい
ても、そのときになったら、ちゃんと相手に合わせる。たとえば卒業式や入学式では、み
なといっしょに、大声で、国歌を歌う。歌ってすます。主義主張は、人並み以上にはある
と思うが、しかし卒業式や入学式の場で、主義主張にこだわる必要はない。たかが「歌」
ではないか。

 いくら酒は飲めないといっても、グラスを勧められたら、一応口だけはつけて、「乾杯!」
と言いかえす。それがここでいう「遊び」である。「心のゆとり」である。

 ……と書いて、私は九州の隠れキリシタンの話を思い出した。九州の日出藩(ひじはん)
の踏み絵がよく知られている。

 たとえば豊前国小倉藩の家臣、加賀山隼人は、キリシタンであったという理由で、処刑
されている。こんな話が伝わっている(「日本耶蘇教会年報」)。

 加賀山隼人の娘が、父親の隼人に、「父上、何も、裁きを受けず、大罪を犯した訳でもな
く、ただ、キリスタンなるが故の死罪、外で執行されるに及ばず。我等にとりても、此の
家が一番好都合でありませぬか」と。つまり、「ただキリスト教徒というだけで、処刑なん
て、おかしいでしょう。私たちにとって、この家の幸福が、一番、大切ではないですか」
と。

それに答えて、「ならぬ。かの救世主・耶蘇基督(キリスト)は罪なき身を以って、エル
サレムの城門外にに二人のあさましき兇徒(きょうと)の間に置かれ、公衆の面前で死
なんと欲したではないか。我もまた、公衆の面前で汚辱を受けつつ死を熱望するなり」
と。つまり、「あのイエスも、信仰を守るため、公衆の面前で処刑にあっているではない
か。私も、それを希望する」と。

 この話は、その筋の世界では、「美談」として、もてはやされている。「命がけの信仰」
として、たたえられている。しかし私は、こういう話に、どうしても、ついていけない。
信仰心と、盲目的な忠誠心を、どこかで混同しているのではないか? ……と書くと、猛
烈な反発を買いそうだが、いくら信仰をしても、自分を見失ってはいけない。命までかけ
て、信仰をしてはいけない。信仰をしながらも、自分の心にブレーキをかける。そのブレ
ーキをかける部分が「私」である。

 キリストの立場で考えてみれば、それがわかる。

 彼自身は、公衆の面前で処刑された。しかしキリストは、すべての民の原罪を背負って、
処刑された。決して、「自分の信者に、同じことをせよ」と、見本を見せたわけではない。
いつだったか、私は、「キリストも教師ではなかったか?」という文章を書いた。

 それをここに再掲載しておく。

++++++++++++++++++++++++++++

【神や仏も教育者だと思うとき】 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーの
おもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るという
のもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣
は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできご
とがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広
島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳し
ていたときのことだ。私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができ
なかった。

そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を
必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、
何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってし
まった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のよ
うな人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たります
ように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそ
んなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占い
コーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程
度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件
とは!

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五
年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、
よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは
……? 

人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれた
が、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしてい
るのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あの
ビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなること
がある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の
命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚
偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本
百科事典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱ
りわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。

要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことでは
ないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、
浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当た
り前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つま
りそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」
と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。そ
の教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、
無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(S
宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。ある
いはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすように
なった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにま
ちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈って
やることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカ
ヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は
「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏
ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神
や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問
題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教
育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなか
ったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりする
と、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生…
…」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と
突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち
子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で
努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためになら
ない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをや
めてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考
えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーでは
なく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、
今でもはっきりと覚えている。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【教師が宗教を語るとき】

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。

一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったの
は、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだ
よ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何て
ことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団
の熱心な信者だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主
人には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。
そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教え
てほしいと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明して
くれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは
「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、
それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とその
ひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫
んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家
も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うこ
とは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求
める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一
つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のド
ラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国
の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、
それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰
している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私は
そういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あ
るいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」
と逃げる。

霊魂や幽霊についても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの
無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占
い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、
一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」
ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だ
ったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++


●Happy Learners Learn Best!
(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ。……イギリスの教育格言)

【BW教室】

 「BW」は、「Brain Works(知能ワーク)」のことです。

 深い意味はありません。「頭を使う教室」という意味で、「BW教室」としました。昔、
主婦と生活社という出版社に、井上清という編集長がいました。その編集長が、「林才能教
室ではおもしろくない。もっと、別の名前をつけたほうがいいよ」と言ったので、その場
で、「BW」という名前を思いつきました。

 今から思うと、よいネーミングだったと思っています。

 以来、34年になるでしょうか(2004年現在)。私はいつも、子どもたちと、楽しく
過ごすことだけを考えて、指導してきました。ときどき、「私のほうが楽しませてもらって
いいのかなあ」と思うことさえあります。

 BW教室は、そんな教室です。

【カリキュラム】

 一年をとおして、44のテーマについて、学習を進めます。「文字、数、英語」に始まっ
て、「あいさつ、善悪、動物、植物、工作、演技、形、手作業……」など。一度とて、同じ
教育をしないという姿勢を大切にしています。

 子どもたちが、「今日は何?」と目を輝かせてくれるのを、何よりも、大切にしています。
つまりこうして子どもの知能を、多方面から刺激することにより、積極的で、好奇心が旺
盛な子どもにします。

 どのクラスも、公開しています。子どもたちの明るい笑い声と笑顔を見られたら、私が
ここに書いていることがウソでないことをわかってもらえるはずです。

 どうか、一度、見学においでください。お待ちしています。

【見学について】

 なお、現在のBW生、もしくはOBの方の紹介のある方は、電話連絡だけで、そのまま
見学していただけます。どうか、お申し込みください。それ以外の方は、お手数でも、B
W教室の資料を、請求してください。折り返し、こちらからご連絡申しあげます。

 なお、同業の方の、スパイ見学などは、かたくお断りしています。(最近は少なくなりま
したが、以前は。よくありました。いやですね、こういう見学は!)
(04年12月記)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

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BW教室の案内を始めています。
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現在の年中児、年少児、および4月から新小1になるみなさん、です。
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以下は、去る04年12月11日に、
「緊急提言」として、
楽天日記に掲載したものです。
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【緊急・提言】(K国に対して経済制裁を実施してはいけない!)

 拉致問題がこじれ、さらに、YMさんの遺骨がニセモノだったと判明した。とたん、今、
にわかに、K国への経済制裁が現実味を帯びるようになった。

 しかし、K国に対して、経済制裁を実施してはいけない! ここは、冷静に! 務めて、
冷静に! もし日本がK国に対して経済制裁すれば、それこそ、K国の思うツボ!

 まず、今、ここで日本が経済制裁を実施すれば、核問題を論ずる6か国協議から、日本
は自ら、脱落することになる。先に、K国を罰しておいて、協議も何も、ない。……そう
なる。

 つぎに、今、K国の経済は、マヒ状態にある。工場の稼働率は、20%以下と言われて
いる(東亜日報)。最近では、K国から、将官級の人物が、つぎつぎと脱北しているという
(中国共産党中央党校の北朝鮮問題専門家)。そしてその数は、130人あまりだという(イ
ンターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙)。

 さらにK国の飢餓人口は、2000〜02年に、全体の36%に当たる、810万人に
達し、深刻化しているという(時事通信・国連食糧農業機関(FAO))。さらにK国の一
般勤労者の賃金は、月額にして2ドル(200円)程度(実勢、交換レートによる)。
 
 そこで、金XXのつぎの一手は、戦争しかない。今、K国が、武力攻撃しても、ゆいい
つ大義名分が立つ国といえば、この日本しかない。多分に、つくられたうらみではあるに
せよ、日本に対する、うらみも大きい。事実、それに呼応するかのように、この年末にな
って、2005年を、K国は、「特別の年」と、大々的に位置づけ始めた。

●2005年は、「日本帝国主義の強盗的な策動により亡国的な「乙支(ウルサ)5条約」
が捏造されてから100年目。

●2005年は、屈辱的な南朝鮮・日本の『協定(日韓基本条約)』が締結されてから40
年。

●2005年は、日帝が敗亡してから、60年、と(以上、朝鮮日報)。

 みなさんは、この意味がわかるだろうか。K国は、中国や韓国の反日感情をうまく利用
しながら、日本攻撃の糸口(きっかけ)をさがしている。もしここで日本が、K国に対し
て経済制裁をすれば、K国は、それを理由に、日本に戦争をしかけてくる。

 まちがいなく、しかけてくる!

 日本にそれだけの度胸と覚悟があれば、話は別。それだけの軍事力があれば、話は別。
しかし今、ここで経済制裁を実施すれば、日本は、K国をひとりで背負うことになる。ひ
とりで相手にすることになる。

 さらに重要なことは、仮に、今、この時点で、日朝戦争ということになれば、中国はも
ちろんのこと、韓国ですら、K国の側につく。つかないまでも、陰でK国を支援すること
になる。

 が、この日本は、憲法上の制約もあり、K国に対して、直接的には、手も足も出せない! 
言いかえると、日本ほど、K国にとっては、攻撃しやすい国はない。

 だから今、ここでK国に対して、経済制裁をしてはいけない。絶対に、してはいけない。
第一、あんな国は、相手にしてはいけない。日本が本気で相手にしなければならないよう
な国ではない。

 何もかも、おかしい。狂っている。常識そのものが、ない。そういう国である。だから
世界第二の経済大国である日本は、本気で相手にしてはいけない。もしここで日本が、K
国に経済制裁を実施すれば、日本も、K国と同じレベルにまで落ちることを意味する。

 ここは、冷静に! 務めて、冷静に!

 今は、アメリカ主導であるにせよ、6か国協議を成功させることこそ、肝要である。そ
して制裁を実施するならするで、国際的なコンセンサス(同意)をとってから。それから
でも、遅くはない。国際社会と協調して、足並みをそろえる。

 もしここで日本が単独で制裁に踏みきれば、K国をとりまく6か国に、取りかえしのつ
かないキレツを入れることになる。もうそうなると、アメリカにさえ、この日本を守りき
れなくなる。

 ニセモノの遺骨を渡されて、怒り狂う日本人の心情もよく理解できる。私だって、怒っ
ている。しかし、ここは冷静に! まともな論理が通ずる国ではない。だから、まともな
国として、正面からぶつかってはいけない。またその必要は、ない。

 みんなで声をあげて、K国への経済制裁に、反対しよう。もし日本人が、真に平和を愛
する国民なら、ここでがんばろう。ぜったいに、戦争を起こしてはいけない。その口実を、
K国に与えてはいけない。

【注】自民党の拉致問題対策本部の国会議員たちはもちろんのこと、新潟県の知事ですら、
M号の入港阻止ができないかと検討に入ったという(12・10)。

しかし、たかが船一隻ではないか。私は商社マンのとき、35年前で、ただのヒラ社員
だったが、それでも、毎日のように貨物船を動かしていた。船一隻の荷物など、知れて
いる。

 日本に住む、在日朝鮮人の人たちの中にも、今回の一連の拉致問題で、心を痛めている
人も多いと聞く。同情的な人も、多いと聞く。良識的な人も、多いはず。そこで大切なこ
とは、そういう人たちにもっと協力してもらい、K国に、何らかの働きかけをしてもらう
ことだ。

 今こそ、日本人の精神的完成度が試されているときはない。さあ、私たちは、うらみを
乗り超えて、おとなになろう! あのアジアカップの決勝戦のときを、思い出そう!

 中国のサポーターたちが、日本のサポーターめがけて、ものを投げ、「殺せ、殺せ!」と
叫んだとき、日本のサポーターは、「日中友好」と書いた旗をあげて、それに答えたではな
いか。ニッコリと笑って、その旗をあげたではないか。

 それこそ、まさに、日本人の精神が、中国人の精神を超えたことを意味する。

 さあ、勇気を出して、前に進もう! 善なる世界に向って、勇気を出して、前に進もう! 
だから今は、K国に経済制裁をしてはいけない。

 私たちがすべきことは、ただひたすら淡々と、事務的に、相手を追いつめること。どこ
までも、どこまでも、事務的に、追いつめること。決して、感情的になってはいけない。
ここで感情的になれば、先にも書いたように、それこそまさに、K国の思うツボ。それを
忘れてはいけない。

++++++++++++++++++++++++++

この私の意見に賛成の人は、どうかこの記事を、
あなたの知りあいの人に送ってくれませんか。
日本の平和と、日本の子どもたちを守るために!

はやし浩司(2004年12月10日記)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

++++++++++++++++++++++++++

(補足)

 今夜(12・11)も、拉致被害者のYMさんの両親が、どこかの集会で、K国に対し
て、即刻、経済制裁を実施するように訴えていた。

 その心情を察するに、思いあまるものがある。その苦しみや悲しみはよく理解できる。
しかし相手が、(まともな国)なら、それも可能である。しかしそのK国は、そうでない。
ふつうの常識の通る国ではない。また、今は、K国は、そういう状態ではない。

 一連の拉致事件は、そのトップの金xxによって、指揮され、引き起こされたというの
が、おおかたの見方である。となると、そうは簡単には、この問題は解決しない。だから、
ここは、冷静に。務めて冷静に。決して、感情論だけで、経済制裁に走ってはいけない。

 日朝関係が険悪になればなるほど、その反射的効果として、日本は、韓国や中国を、利
するだけ。韓国は、K国の軍事的矛先を、日本に向けさせることができる。中国は、「日本」
という、アジアの(目の上のたんこぶ)をつぶすことができる。

そしてその限界を超えたとき、つまり、日本が独走してしまえば、アメリカだって、も
う日本を助けることができなくなる。決して日本だけが、単独で経済制裁に走ってはい
けない。

 ここにも書いたように、ここで経済制裁をすれば、6か国協議から、日本は自ら、脱落
することになる。が、それだけでは、すまない。

 今、もし日朝戦争が始まれば、日本の経済は崩壊し、戦後、50年かけて日本が築きあ
げてきた繁栄は、そこで崩壊する。1000兆円とも言われる、累積債務をかかえたまま、
日本は、デフォルト(国家破産)に陥るかもしれない。

 日本は、あんなK国と、心中するわけには、いかない。また心中させてはいけない。だ
から、ここは、冷静に。務めて冷静に! だから経済制裁を、今、実施してはいけない。
……それが私の意見である。

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□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 10日(No.514)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page042.html

●まぐまぐプレミア読者の方には、1月10日の配信ができませんので、1月9日に
配信します。

★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
(→をクリックして、アンケート用紙へ……)http://form1.fc2.com/form/?id=4749

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものひとり言

 「5歳の子ども(女児)のひとり言が多いです。意味のないひとり言です。どうしたら
いいですか」(滋賀県・Rさん)という相談をもらった。

 子ども(乳幼児)が発する言葉は、大きく、つぎの2つに分けて考える。

(1)自分の思考をまとめるために使う言葉。これを内言(ないげん)という。
(2)他人に、自分の考えや意思を表示するための言葉。これを外言(がいげん)という。

 たとえばクレヨンが、机の下に落ちたとき、「アッ、クレヨンが落ちた。ぼく、拾うよ」
というのが、内言。先生や、親に向かって、「落ちたから、拾って」と言うのが、外言とい
うことになる。

 こうした内言は、おとなのばあいは、口に出さないで使うが、幼児のばあい、ある時期、
それを音声として、口に出して言うことがある。一般的には4歳くらいがピークで、5、
6歳で内言は、無声化すると言われている。

 が、子どもによっては、内言の音声化が、その時期を過ぎても残ることがある。

 そこで5歳前後になってからも、無意味なひとり言が多いようであれば、「口を閉じて考
えようね」と、指導する。

 この音声化が残ると、子どものものの考え方に影響を与えることがある。子ども自身が
その言葉に左右されてしまい、瞬間的で、機敏な考え方ができなくなる。どこかまだるっ
こい、のんびりとした、ものの考え方をするようになる。

 もしRさんの子どもが、つぎのような話し方をしていたら、「口を閉じて、考えようね」
と、指導してみてほしい。

 「これからお食事。それが終わったら、私、これからお外に行こう」(行動の内言)
 「どちらの花がきれいかな。白かな、赤かな……?」(迷いの内言)
 「お花を、○○さんに、もっていくと、どうなるかな。喜ぶかな」(思考の内言)
 「風が吹いた……カーテンが揺れた……お日様が光っている……」(描写の内言)

 ピアジェは、こうした内言のうち、集団内で使うものを、「集団内独語」と呼んでいる。
他人の反応を気にしていないという点で、自己中心的なものととらえている。

 しかし実際には、言葉の発達の時期に、よく見られる現象で、内言イコール、自己中心
性の表れとは、私は思わない。

 Rさんの子どもは4歳ということだから、そろそろ、「口を閉じて考えようね」と指導す
べきころかもしれない。この時期を過ぎて、クセとして定着すると、ここにも書いたよう
に、思考力そのものが、影響を受けることがある。

 ほかにひとり言としては、つぎのようなものがある。

(1)自閉傾向のあるひとり言……こちらからの話しかけには、まったく応じない。1人
2役、3役のひとり言を言うこともある。
(2)ADHD児のひとり言……騒々しく、おさえがきかない。ひとり言というより、勝
手に、かつ一方的に、こちらに話しかけてくるといったふう。
(3)内閉児、萎縮児のひとり言……元気なく、ボソボソと、自分に話しかけるように言
う。グズグズ言うこともある。
(はやし浩司 子どもの独り言、ひとり言 外言 内言 子供の独り言 子供 独り言 
集団内独語 ピアジェ ピアジエ)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●わがまま

同じような子どもの心理的反応に、(1)わがまま、(2)自己主張、(3)がんこがある。

これらについては、たびたび書いてきた。

ここでは、その中でも、わがままについて。

 自分の思いどおりにならないと、泣いたり、わめいたりする。そして結局は、自分の思
いどおりにしてしまう。一般世界では、それを、「わがまま」という。そしてその(わがま
ま)を悪いこととして、忌み嫌う傾向が強い。しかし、本当に、そうだろうか。(わがまま
であること)は、そんなに悪いことなのだろうか。

 で、そのわがままを、もう少し掘りさげて考えてみると、(1)自己への不寛容と、(2)
他者への不寛容に分けて考えることができる。

 同じ性質の、同じエネルギーなのだが、その攻撃性が、自己に向うときと、他者に向う
ときとでは、その様相が大きく変わってくる。

 たとえば何かのコンクールで、賞を取りたいと思ったとする。そのとき、たいした努力
もしないで、「賞をよこせ!」と叫ぶのが、一般的なわがままということになる。

 そこで、その人は、その賞を取るために、自分自身に対して、何らかの働きかけを始め
る。「今の自分では、力が足りない」と考えて、自分をみがくようになるかもしれない。そ
れがここでいう自己への不寛容ということになる。

 が、そうした努力にもかかわらず、その賞がだれかに奪われてしまったとする。そこで
あなたは、その審査委員や審査のあり方に、猛然と反発する。審査員をうらんだり、対立
候補を、ねたんだりする。それがここでいう他者のへ不寛容ということになる。

 こうして考えてみると、「わがままだから、いけない」と、頭から決めつけるのは、まち
がっているということになる。大切なのは、そのエネルギーを、どこで、どのように使う
か、である。指導する立場でいうなら、いかにして(わがまま)のもつエネルギーを、じ
ょうずに、自己へ向わせるかということになる。

 そこで登場するのが、忍耐力ということになる。

 が、よく誤解されるが、「うちの子は、サッカーならサッカーを、一日中している。忍耐
力があるはず」と言う親がいる。しかしそういうのは、忍耐力とは言わない。好きなこと
をしているだけである。

 子どもにとって忍耐力というのは、(いやなことをする力)をいう。たとえばあなたの子
どもに、台所の生ゴミを始末するように言ってみてほしい。そのとき、「ハイ」と言って、
生ゴミを始末すれば、あなたの子どもは、ここでいう忍耐力があるということになる。

 こう考えていくと、(わがまま)のもつエネルギーを、コントロールするのが、忍耐力と
いうことになる。

 たとえて言うなら、(わがまま)は、活力の源泉ということになる。じょうずに使えば、
その子どもを伸ばす原動力となる。そうでなければ、そうでない。そのカギを握るのが、
忍耐力ということになる。

 新しい思想、ゲット!

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【私らしく生きるために……】

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろ
うか。実際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自
己概念」という。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く
理想像とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を
確信することができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができ
る。そうでなければ、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではす
まない。心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両
親は、その地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになって
いた。ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。と
たん、つまり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて
不安定になった。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がう
まくかみあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、
そこで不適応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、
ささいなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、
進学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望し
ていたのだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければなら
ななかった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育
てられた。夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえし
た。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存
在だった。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、
進学指導の三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だっ
た。「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、
がんばっているつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数
日後、Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非
行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになってい
た。こうなると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業
中でも、先生に叱られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現
実の自分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、
どうでもよい。ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すば
らしいとは思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分
を否定するCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入って
いてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それは
たとえて言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなもの
ではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、
父親ですら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言
いかえると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければ
ならない自分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの
心をバラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがまま
に育てていくということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保
っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理を
しなくていい」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでな
ければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあ
わせなければならない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生き
がいを見つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢
や希望にそって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういう
ことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(437)

【04年12月8日のニュースから……】

一つは、「児童虐待について内情を調査してみたら、保護者の6割に、
心身に問題があったとわかった」というもの。

もう一つは、BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」が、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望したというもの。

++++++++++++++++++++++++++++

●児童虐待466件 保護者の6割、心身に問題……道調査 /北海道

 北海道内8カ所の道立児童相談所が、03年度に取り扱った児童虐待466件で、子供
を虐待した保護者333人の約6割が、性格の偏りや精神障害など何らかの問題を心身に
抱えていたことが、道保健福祉部の調査で分かった。

 調査は各相談所の児童福祉司らが、担当した個々のケースを分析し、(1)虐待した保護
者の心身の状況、(2)虐待につながったと思われる児童の状況、(3)同じく家庭の状況
について選択肢から複数回答した。

保護者の心身の状況は
▽「性格の偏り」が、128人(38%)で最も多く、
▽「精神病か、その疑い」46人(14%)
▽「人格障害」、26人(8%)
▽「アルコール依存症」17人(5%)
▽「薬物依存症」、7人(2%)。「特に問題なし」が81件(24%)、「不明」が49件(1
5%)だった。

 家庭の状況(333世帯)では
▽「経済的困難」が、170件(51%)と過半数を占めた。ほかに
▽「ひとり親家庭」、136件(41%)
▽「親族・近隣、友人から孤立」、93件(28%)
▽「育児疲れ」、58件(17%)など。

 虐待された子供の側では、
▽「特に問題なし」が、170件(37%)。
▽窃盗、暴力などの「問題行動あり」が、94件(20%)、
▽「精神発達の遅れや障害」が、80件(17%)あった。
▽「望まれずに出生」したことが虐待につながったとみられるケースも、24件(5%)
あった。

 道保健福祉部の担当者は「一つ一つの要素がすぐに虐待につながるわけではないが、要
因にはなり得る。問題は被害者の子供より親や家庭にあることが多い」とみている。(以上、
ヤフー・NEWS・04年12月8日)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●BPOが「血液型を扱う番組」に要望 
 BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」は、放送各社に対
し、「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望した。

 青少年委員会では、血液型を扱う番組が増えていることについて、「科学的根拠が証明
されていないにも関わらず、血液型で人を分類する考え方は、社会的差別に通じる危険が
ある」と指摘している。また、「血液型実験」と称して、子供が駆り出されるケースは「人
道的に問題がある」としている。
 
 その上で、放送各社が「番組基準を守り、血液型で人間の性格が規定されるという見方
を助長しないよう」要望、占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年
への配慮を強めるよう要請した。(04年・12月8日)(以上、TBS・i・news)

+++++++++++++++++++++++++++

 児童虐待については、親自身に、何らかの、経済的困苦や、家庭問題、それに心の病気
があることが多いということは、以前より、指摘されている。たとえば、「貧しい」という
ことは、それ自体が、社会的病理と考えてよい。が、しかし、それだけで、片づけてはい
けない。

 私が知っている例でも、その両親(祖父母)のスネをかじり、借金まるけになりながら
も、T社の大型ランドクルーザーに乗っていた父親がいた。「貧しい」というのは、金銭的
な貧しさではなく、心の貧しさをいう。

 金銭的な貧しさは、得てして、心の貧しさを、引き起こしやすい。その結果として、そ
してその一部として、親は、子どもを虐待するようになる。

 もっとも今、経済的なゆとりをもって生活して人は、何%いるのか? いや、(ゆとり)
というのも、実は、その人の心構えによって決まるのでは……?

 正直に言うが、だれかに接待されたときは別として、私たち夫婦にしても、この10年
以上、寿司屋で寿司を食べたことがない。寿司と言えば、回転寿司。それもたいていは、
一皿105円の回転寿司である。

 しかし、食べたいときには、食べている。思い立ったときに、食べている。それが(ゆ
とり)というものではないか。(いつも2人で、合計8〜9皿までと決めているが……。)

 ただこういうことは言える。いくら金銭的に貧しくても、心までは、貧しくしてはいけ
ないということ。ある女性(80歳くらい)は、息子夫婦に、行楽地へ連れていってもら
うたびに、何かの(盗み)をしてくるという。

 通りにある植木鉢や、置き物など。飲食店に寄っても、その店にそなえつけの、調味料
入れや傘まで、もってくるという。そのため、息子夫婦は、目を離せないという。そうい
う女性を、心の貧しい人という。

 子どもを虐待する親というのは、そういう意味で、心の貧しい人と考えてよいのでは…
…。よくわからない部分もあるので、この先は、また別のところで、考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++

 血液型については、もう何度も書いてきた。その結論も、少し前に書いた。

 問題は、「占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強め
るよう要請した」(BPO)という部分。

 大賛成!、である。

 昨夜もテレビのチャンネルをかえていたら、その種の番組が、目に入った。1人の太っ
た女性が、タレントたちの運勢を、占っていた。

 少し前には、霊媒師とか霊感師というのが、いた。さらに少し前には、どこかの寺の僧
侶が、心霊写真なるものを、さかんに紹介していた。が、最近は、占い!

 もう、やめようよ、みなさん! もう少し、賢く、利口になろうよ! こんなことを繰
りかえしていて、いったい、どうするのか! どうなるのか! 「あんたのうしろには、
ヘビがいる」「あんたは、神を粗末にしている」などと言われて、ビクビクしたり、ギャー
ギャー騒いでいてよいのか!

 コメントする価値もないほど、バカげている。あまりにも、レベルが低すぎる。少なく
とも、大のテレビ局が、最新の映像機器を使って流すような番組ではない。

 ……というような話を、先日、中学2年生のRさんにすると、Rさんは、こう言った。

 「先生、占いは、ちゃんと当たります!」と。

 そこで私は、「具現理論」について、話してやった。

●具現理論

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてし
まうことがある。これを私は、勝手に、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていること
を、自ら、無意識のうちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例があ
る。

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。
「どうして、そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻
いていた。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っ
ていたら、うしろから自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかって
しまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその
暗示が、無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自
分が、Aさん自身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだ
よ」と私が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。
彼女はいろいろな例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、
ものごとは控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、お
なかいっぱい、ピザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしてお
かなかった、私が悪かった」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それで
も、「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うま
くいく。

つまり彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「そ
れを守らなければ、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことに
なる。あとは、「おかしなこと」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったとい
うわけである。

つまり占いが当たったわけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

 あなたは私の具現理論をどう思うだろうか。
(はやし浩司 具現理論 予言実現 予告実現 占い 血液型 BPO 放送倫理)

++++++++++++++++++

おまけに、昨年(03)書いた原稿を
添付しておきます。

++++++++++++++++++

●「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載
せた。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、
まったくのデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言と
いうのもあった。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこか
のあたまのおかしな人が、思いこみでするもの。

たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この
信仰をしたものだけが、救われる」などと教えている。そこで調べてみると、こうした
終末予言は、その宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされていることがわかった。
しかし、だ。一度だって、こうした予言が、当たったためしがない。

 で、問題は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った
人が、一人もいないということ。さらにその責任を追及した人もいない。それに問題は、
そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)
から離れた信者がいないということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避し
ました」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る5月15日(03年)に
何かが起こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの言
葉)とのこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。

「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ
〜」ということになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなか
ったからといって、どうということはない。(仮に起きたとしても、それは予言が当たっ
たというよりは、偶然そうなったと考えるのが正しい。まさか、こんどのSARS騒ぎ
が、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の
7月」というのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、
あのノストラダムスの予言について本を一〇冊以上も書いた、Gという作家は、億単位の
お金を稼いだという。世の中をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利
益を、社会に還元すべきではないか……と考えるのは、はたして私だけだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。
人々が不安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうし
たらよいのか。言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集
合されて、予言になる。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひと
りが、自分を取り巻く運命論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之
介を、私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率
によって、決まる。

百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私た
ち自身にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。
そういう視点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト
教系のカルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、
これからこのボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。
「そうだ。君が、ボールを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】
 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したこ
とがある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に
立って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。

しかし、だ。この大宇宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の
砂粒の数よりも多くの、星々があるという。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一
つにすぎない。地球は、その星にも数えられない、その太陽のまわりを回る、小さなゴ
ミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る
太陽の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されていると
しても、その神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや
一人ひとりの人間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上
の生物の中で、人間だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題
がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そ
のまた人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あ
なたの家の中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。

……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、
1000万人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺
されたユダヤ人の中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。
つまりそういうことを考えていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考
えることの、おかしさが、あなたにもわかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教に
せよ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従っ
てするものではないということ。運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰
とは関係ないものということになる。もしそういうスーパーパワーを売りものにする宗教
団体があったら、まずインチキと疑ってかかってよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるは
ずはない。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自
由なる、意思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●「虚」の世界

 ものを見て、目を閉じる。残像はすぐ消える。が、たった今、どこかのもの売りが、も
のを売っている声が、遠くで聞こえた。その声は、しばらく耳の中に残った。

 目で見た記憶(感覚記憶)は、数百ミリ秒(1秒の数分の1秒程度)で、消失するとい
う。一方、耳で聞いた記憶(感覚記憶)は、数秒前後は、脳のどこかに残るという。

 肌寒い朝だ。昨日から一転、冬の気候になった。目を閉じ、もの売りの声を聞きながら、
ふと、そんなことを考える。同じ感覚記憶でも、すぐ消える記憶もあれば、長く残る記憶
もある。決して、一様ではない。

 ……視覚、それに聴覚。

 私は、静かにまぶたをあげる。コタツの温もりが、ありがたい。とたん、まばゆいばか
りの光。窓の外には、かろうじて枝にしがみついている栗の葉が見える。

 私は何を見ているのか?

 本当に、見ているのか?

 網膜からの視覚の情報は、視神経を通って、一度、間脳に入る。その間脳から、また外
に出て、最終的には、後頭部にある視覚野に送られる。わかりやすく言えば、目は、いわ
ばカメラのレンズ。後頭部の視覚野は、その映像を映すモニターということになる。

 ということは、私は、今、そこにあるものを見ているのではなく、見ていると錯覚して
いるに過ぎない。画像は、脳の後頭部に映しだされている。前ではなく、うしろ、だ。

 しかし、たしかに栗の葉は、目の前に見える。これは実像か、それとも虚像か?

 音だって、そうだ。

 しかし私のばあいは、左側の聴力を完全に失っている。だから、音については、その方
向性すら、わからない。どこからきているのかさ、わからない。遠い音も、近い音も、大
きな音も、小さな音も、同じように、脳に届く。が、その音ですらも、虚像に振りまわさ
れることがある。

 たとえば右側の窓の向こうで、カラスが鳴いた。森の木の中には、カラスの巣がある。
左側は道路になっていて、住宅地へとつながっている。

 私はカラスの鳴き声がどこからやってくるか、その方角がわからないはず。わからない
はずなのに、そのカラスの声が、右から聞こえてくる。これは、しかし、たしかに錯覚だ。
(カラスの声が聞こえる)→(森にはカラスが住んでいる)→(カラスの声は、森のほう
から聞こえている)と。

 しかし窓をあけてみると、カラスは、森の木の上にはいない。いないばかりか、さがし
てみると、反対の右側の住宅地の上の電線にとまっているのを知る。「森のほうから聞こえ
ていた」というのは、私の、ただ単なる思いこみだったということになる。

 こうして考えてみると、脳ミソというのは、ずいぶんと、いいかげんなものだ。簡単に
錯覚を引きおこし、ついで、虚像を、虚像と気がつかないまま、実像を思いこんでしまう。
その一例が、今、見ている栗の葉だ。

 私の脳ミソは、後頭部の視覚野に映しだされた映像を見ているはず。しかし、実際には、
前から見ているような錯覚を引き起こしている。栗の葉が前にあると思うから、前にある
ように見えるだけ。そんなものか。そんなものだ。

 こうして考えていくと、見るもの、聞くもの、そしてすべてが、「虚」の世界にあること
がわかってくる。虚、だ。本当は、そこには、何もない。すべてがあるように、錯覚して
いるだけ?

 このコタツのぬくもりにしても、そうだ。皮膚表層にある受容器が刺激され、それが熱
覚を感じる神経線維(温度感覚)に作用する。だから、そのぬくもりがわかる。もし、そ
の受容器がなければ、ぬくもりそのものがわからない。言うなれば、その受容器は、熱を
感ずるセンサーということになる。ただのセンサー。わかりやすく言えば、スイッチ。実
際に、「熱」を感じているのは、脳ミソの内部である。

 しかし、たしかに、コタツの中に入れている足が、暖かい。ぬくもりがある。気持ちが
よい。が、本当は、足は、何も感じていないはず。足が感じているように、脳ミソが、錯
覚しているだけ。

 ものを見るにしても、ものを聞くにしても、人間にとって、ちょうどつごうのよい範囲
の、波長の色を見ているだけ。ちょうどつごうのよい範囲の、波長の音を聞いているだけ。
紫外線や赤外線については、見ることはできない。超音波やレーダー波については、聞く
ことはできない。人間には、栗の葉は、黄色く、くすんで見えるが、虫たちには、別の色
に見えるはず。鳥やリスには、別の色に見えるはず。

 ということは、「私」を含めて、この世にある、すべてのものが、実は「虚」ということ
になる。「ない」のに、「ある」とか「いる」とか、思っているだけ。本当は、そこには、
何もない。

 「私」にしても、そうだ。本当は、私など、どこにもいないのかもしれない。「私」と思
いこんでいるだけなのかもしれない。モヤモヤとした、この感覚。ザワザワとした、この
感覚。これを私は、「私」と思いこんでいるだけなのかもしれない。

 不思議な感覚だ。本当に、不思議な感覚だ。

 ……と、そのとき、ワイフが、こう言った。「あなた、いっしょに、風呂に入る?」と。

 「風邪はなおったの?」と聞くと、「うん、だいじょうぶみたい」と。

 これが現実なのだ。私にとっての現実なのだ。……ということで、この話はおしまい。
こういう話は、ワイフには、理解できない。いや、少しだけ、風呂の中で、話してみた。

私「そこにものがあると、思っているだけで、本当は、そこには、何もないかもしれない
よ」
ワイフ「でも、ちゃんと、さわれるわ」
私「そこなんだよな。いいか、もし、人間の体が、煙のようにやわらかかったとしよう。
するとね、タバコの煙だって、かたいと感ずるかもしれない。つまりタバコの煙ですら、
ものということになる」

ワイフ「じゃあ、人間の体が、岩のようにかたかったら、どうなるの?」
私「そのときは、そこにある石鹸も、タオルも、みんな、煙のように感ずる。つまりもの
では、なくなるよ」
ワイフ「でも、見えるわ……」
私「それは進化の過程で、自分にとって、ちょうどつごうのよいものだけが見えるように
なったからだよ」

ワイフ「何がなんだか、わけが、わからなくなるわ」
私「そうだね、これは……。ハナ(犬)に、数学の話をするようなものだ」
ワイフ「私は、ハナ?」
私「そうかもね。それに近いよ。いや、人間は、すべて、ハナのようなもの。利口だと思
っているだけ。知らないことは、まだ山のようにあるよ」と。

 あのハナだって、自分は、バカだとは思っていない。自分がバカだとわかるのは、自分
が、より利口になったときだけ。それまでは、わからない。……ということで、この話は、
本当に、おしまい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●不安神経症、私のばあい

 生活の問題、夫婦の問題、親子の問題、家族の問題などなど。政治の問題、経済の問題、
環境の問題もある。私のような人間が考えたところで、どうにかなる問題ではないが……。
健康や老後の問題もある。仕事の問題もある。

 考えてみれば、私のまわりは、問題だらけ。そういう問題に取り囲まれて、不安になら
ないほうが、おかしい。どうして安穏としていられるのか。考えてみれば、私たちの生活
というのは、毎日、薄い氷の上を歩いているようなもの。氷の下では、不幸が、「おいで、
おいで」と手招きをしている……。

 しかし私のばあい、弱点というか、どういうときに不安症状が出てくるか、決まってい
る。一番の弱点は、その相手が見えないとき。どう対処してよいかわからないとき。

 たとえば病気がある。病気でも、その得体(えたい)がわかっている病気は、こわくな
い。だから不安になることもない。そのため病気になったとき、まず考えるのは、「以前に
も、同じような症状があったかどうか」ということ。

 が、ときどき、それまでに経験したことがない病気にであうことがある。そういうとき、
「もしや……?」と思ってしまう。とたん、頭の中は、パニック!

 こういうのを心気症という。「こわい病気ではないか」と、妄想が妄想を呼ぶ状態になる
ことをいう。「心気症」という言葉があることからもわかるように、そういう状態になる人
も多いということ。決して私だけではない。

 (得体が知れないというのは、恐怖でしかない。その恐怖が、不安を呼ぶ。)

 で、私のばあいは、そうした得体の知れないものに出会ったりすると、かえって肝(き
も)がすわってしまうということ。おかしなクセがある。こわいくせに、それに向かって
突進してしまう。

 数年前だが、こんなことがあった。

 がんの健康診断で、「要精密検査」の通知を受けた。が、再検査の指定日は、2週間も、
先になっていた。が、2週間も、待てるはずがない。私は、その翌日には、いつも行く医
院で、精密検査を受けた。

 もちろん費用は、そのため何万円もかかった。しかし2週間も悩んだら、精神のほうが
おかしくなってしまっていただろう。

 もっと身近なところでは、パソコンのウィルスがある。「入ったかも?」と思ったとたん、
やはりパニック状態になる。得体がわかっていれば、まだ対処のし方もある。しかしその
得体がわからないというのは、本当に、こわい。

 あとは、離婚の恐怖。しかし、それについては、ここには詳しくは、書けない。友人の
離婚の話を聞いていると、「明日は、我が身か」と不安になる。

 だから、つまり私は、自分でそういう弱点を知っているから、できるだけ先手を取りな
がら、自分をそういう状態に追いこまないようにしている。そういう意味では、私は、お
く病な人間ということになる。
 
【追記】

 不安や心配が原因で起こる恐怖反応というのは、もっと根の深いものではないか。それ
は生存本能そのものに起因する。わかりやすく言えば、脳みそ、そのものが、その人の意
思とは関係なく、勝手に反応してしまう。

 生理学的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍数があがる。脳に酸素が多
量に送りこまれ、興奮状態になる。実際には、ひどい不安状態になると、眠っていても、
夢の中でうなされたりする。ひどい動悸と、寝汗で、眠れないこともある。

 しかし人間というのは、そういう不安定な心理状態には、それほど長く耐えられない。「は
やく結論を出そう」という心理状態になる。たとえば私が、がん検診で、要精密検査の通
知を受け取ったときもそうだった。翌朝一番に、かかりつけの医院で、独自の精密検査を
受けたのは、そのためである。

 そのとき私は、こう考えた。「がんなら、がんで構わない。食事はおいしいし、ほかに悪
いところもない。もしがんだとしても、きわめて初期のものだ。治療すれば、なおる。し
かしがんでないなら、早く、それを知り、この苦痛から解放されたい」と。

 結果は、シロだった。うれしかった。と、同時に、生きている喜び(少し、大げさに聞
こえるかもしれないが……)を、しみじみと味わった。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ピーチクパーチク

 電車に乗る。通勤電車。ちょうど朝のラッシュアワー。通路のところに立っていると、
横に陣取った女子高校生たちが、ピーチクパーチクと、おしゃべりをし始めた。どんな話
をしているのかと聞き耳を立てるが、私には意味がわからない。

 隠語。若者言葉。「あれ」とか「これ」とかいう、指示代名詞が多い。

 が、そのうち、その女子高校生たちの会話が、スズメのさえずりに思われてきた。庭で
かしましく騒ぐ、あのスズメである。

 ピーチクパーチク、ピーチクパーチク……。

 そのときふと、私は、「人間も、スズメも同じだなあ」と思った。脳の表層部分の飛来し
た情報を、そのつど、音声にかえているだけ。意味のない会話。底の浅い会話。ただの情
報のやりとり。

 人間は、ほんとうに、賢い動物なのだろうか。そもそも、賢いというのは、どういうこ
とをいうのだろうか。私も含めてだが、ほとんどの人は、欲望のおもむくまま生きている
だけ。欲望が満たされないからといっては、嘆き、欲望が満たされたからといっては、喜
ぶ。

 しかも、その欲望には、際限がない。

 窓際の1席では、若い女性が、化粧をしている。もう1人の別の女性は、髪の毛をせわ
しそうに、櫛でとかしいる。しかしその姿とて、木の枝で、羽をつくろうスズメと、どこ
も違わない。

 だからといって、人間が愚かだと言っているのではない。ただ人間だけが、すぐれた動
物であると思うのは、どうかということ。ひょっとしたら、私たちだけが、そう思いこん
でいるだけなのかもしれない。

 むしろ人間は、不完全な動物であるという前提で、ものを考えたほうがよいのかもしれ
ない。その不完全な動物が、完全だと思いこんでいるから、話がおかしくなる。

 ……そうそう、話は、まったく変わるが、先週、こんなことがあった。

 ある女子高校生のグループと話をしていたときのこと。私が、「息子たちは、今、シアト
ルを旅行している」と、ふともらしたときのこと。1人の女子高校生が、「それ、どこ?」
と。

 「アメリカのカルフォルニア州の上のほうだよ」と私が答えると、「カリフォルニア州っ
て、どこにある国?」と。

私「カルフォルニア州は、国ではないよ。アメリカの一部だよ」
高「私、カルフォルニアっていう国があるのかと思っていた」
私「州というのは、日本でいう、県のようなものだよ」
高「何だ、州って、県のことかア」と。

 私が耳にした、電車の中の女子高校生たちの会話も、そのレベルのものだったかもしれ
ない。「あの子が、どうの」「この子が、どうの」と、そんなような会話だった。

 ピーチクパーチク、ピーチクパーチク……、と。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●急げ!、構造改革!

 04年度の、実質GDP(季節調整値)は、年率換算は、0・2%増となり、速報段階
の0・3%増となった(04年12月)。実質マイナス成長に転じるとの懸念も出ていたが、
実質プラス成長を確保したという。

 あぶなかった、日本経済!

 といっても、現状維持をするだけでも、年率で3〜4%は必要と言われている。0・2%
という数字は、それ自体が、マイナス成長を表す数字とみてよい。

 が、どうにもこうにも、構造改革は、まったく、進まない! 進んでいない! 常識で
考えても、郵政三事業の民営化などは、当たり前のことではないか。それを、いまだにモ
タモタしている。

 現在、日本は、あの中国特需のおかげで、かろうじて、現状を維持している。0・2%
という数字は、そういう数字である。

 こういう時期をとらえて、先手、先手で改革を進めねばならない。だからといって、公
務員1人ひとりの人に責任があるわけではない。しかし、現に、国が1年間で稼ぐ額が、
約42兆円。一方、国家公務員、地方公務員の人件費だけで、(人件費だけでだぞ!)、4
0兆円という事実がある。つまり日本が稼いでいるお金を、すべて、公務員たちが、自分
たちの給料にしてしまっていることになる!

 しかも地方公務員の給料は、一般民間勤労者の給料よりも、平均で、約14%も高いと
いう(04年末)。

 こんなバカげた国がどこにある。が、これだけではない。

 日本には、このほか、公団、公社、特殊法人、電気ガスなどの独占的公益事業団体、政
府系金融機関がある。

これだけでも、日本人のうち、7〜8人に1人が、公務員もしくは、準公務員というこ
とになる(徳岡孝夫氏)。が、実際には、さらに、まだある。

これらの公務員の天下り先として機能する、事業所、協会、センター、各種研究機関、
社団、財団などがある。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近
くもある。

こうした団体が日本の社会そのものを、がんじがらめにしている。国の借金だけでも7
00兆円弱(00年)。もうすぐ1000兆円を突破するという(05年)。(国の税収は
42兆円前後)。そのほか、特殊法人の負債額が255兆円(00年)。そこで構造改革
……ということになるが、これがまた、容易ではない。

明治の昔から、全国の津々浦々まで、官僚が日本を支配するという構図そのものが、す
でにできあがってしまっている。たとえば全国47都道府県のうち、27〜9の府県の
知事は、元中央官僚。7〜9の県では副知事も元中央官僚(〇〇年)。

さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中央官僚。「日本は新しいタイプの社会主義
国家」と言う学者もいる。こういう日本の現状の中で、行政改革だの構造改革だのを口
にするほうが、おかしい。実際、こうした団体の職員数は、今の今も肥大化し続けてい
る。

 そこで税金が足りなくなるたびに、あれこれ理由をつけて、増税、また増税。最近では、
所得税と個人住民税の定率減税の縮小・廃止論すら、浮上してきた(04年12月)。まさ
に取れるところからは、最後の一滴まで、しぼり取れの発想である。

 あああ、また公務員批判をしてしまった! (読者の方たちから、「公務員批判はしない
でほしい」と、言われている。ごめん!)

 しかし今のうちに、つまりそれができる今のうちに、日本は、構造改革をしておかない
と、本当に沈没してしまう! たいへんなことになる※。

 繰りかえすが、1人ひとりの公務員の人に、その責任があるわけではない。またその責
任を追及しているのでもない。私が言いたいのは、たとえば郵政三事業の民営化問題につ
いても、現職員の人たちには、何かと不利になることはあると思う。職場環境もきびしく
なることはあると思う。

 そうした(不利)や(きびしさ)について、ある程度はそれぞれの立場の人が、覚悟し
て、容認すべきではないかということ。たった5%の給料を減らすという案が出ただけで、
大騒動になった自治体(N県)の例もある。なかなか一筋縄ではいかないと思うが、しか
し、ここまみなが、耐えるべきことは耐えて、構造改革をしていかないと、本当に、本当
に、日本は、たいへんなことになる!

 言い忘れたが、構造改革というのは、行政改革のこと。行政改革というのは、わかりや
すく言えば、奈良時代の昔からつづいた、「お役人天国の是正」という意味である。

【注※】

 ここで「たいへんなことになる」というのは、日本という国が、全体として、破産する
ということ。

 お金の価値が、今の、10分の1から、20分の1以下になると言われている。(この数
字とて、甘いと言われている。デフォルトになれば、100分の1か、それ以下になると
言われている。)そのとき、すべての先端工業技術は、海外に投げ売りされ、同時に、日本
の国際競争力は、消滅する。

 その時期は、早ければ2010年。遅くとも2015年までというのが、おおかたの経
済学者の一致した意見である。

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●ワイフからの抗議

 昨夜、床につくとき、ワイフがこう言った。

 「あなた、私のことを書くのはかまわないけど、私はあなたを、『あんた』と呼んだこと
は、一度もないわよ。いつも『あなた』よ。だから、『あんた』という言い方は、書かない
で……」と。

 そう言えば、そうだ。ワイフは、私を、「あなた」とは言うが、「あんた」とは、言わな
い。ワイフに言わせると、「あんた」という言い方は、どこか、下品なおばちゃん風だとい
う。

 ごめん。これからは、ちゃんと、「あなた」と書くことにする。

 晃子、ごめん!

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○      
.        =∞=  // (奇数月用)3
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 7日(No.513)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもを伸ばす、会話術】

=====================================
しつけ

●「〜〜してはいけない」という禁止命令は、少なくする。できれば、しない。そういう
シチュエーションで、いかにジョークを混ぜるかは、親の、親としての技量の見せどころ。
(日本人の子育ては、まだ世界的にみても、発展途上国。蓄積された「子育て観」が、ま
だ少ない……。)

たとえば指しゃぶりをしている子どもに、「指をしゃぶってはダメ」と言うのではなく、
「あなたの指、おいしそうね。ママにもしゃぶらせてね」とはぐらかしながら言う、など。)

=====================================
心を伸ばす

●「がんばれ」ではなく、「調子はどう?」「気を楽にね」と言う。とくに受験勉強などで、
すでに心がきずついている子どもには、「がんばれ」は禁句。

=====================================
学習面で伸ばす

●子どもの点数は問題にしない。「何点だった?」「平均点は何点?」ではなく、「どこをま
ちがえたの?」「あとで一緒に考えてみようね」と言う。

=====================================
生活面で伸ばす

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「遊ぶときは、一つだけですよ」と言う。子ども
は次の遊びをしたがため、前の遊びを片づけるようになる。

=====================================
学校生活で伸ばす

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質
問して、わかるまで聞くのですよ」と言う。

=====================================

そのほか……

●「家族を大切にしようね」と、いつも口癖にする。子どもの心から「人」を奪ってはい
けない。「家族」を奪ってはいけない。「いい高校へ入れ」「いい大学へ入れ」と言うことは、
子どもの心から「人」を奪うことになるから注意。今、おとなでも、営業成績しか心の中
にいない人はいくらでもいる。心さみしいおとなたちである。

【子どもを伸ばす会話術】

 あなたの日ごろの口ぐせ。それがあなたの子どもの心をつくる。ちょっとした一言が、
子どもを伸ばし、そして、つぶす。そこで会話術。

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える。)

●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質
問するのですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる。)

●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と
言う。

●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんば
れ」は禁句。)

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけと
あと始末は、基本的に違う。)

●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。

●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はでき
るだけ避ける。)

●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげ
てね。きっと喜ぶわ」と言う。

●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生が
どんな話をしたか、あとでママに教えてね」と言う。

●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言
う。

●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしく
ないね」と言う。

●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。
(前向きの、プラスの暗示をかける。)

●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と
言う。(欠点を積極的にほめる。)

(禁止命令を避ける)

 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接
話法ではなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」
と言うのは、直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」という
のは、間接話法など。

あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている
子どもには、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶ
りのし方を教えてあげようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避
けるようにすること。何か子どもに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考
えてみるとよい。

+++++++++++++++++++++

 この会話術を書いて、もう数年以上になる(0412月)。
 原文は、「はやし浩司のHP」に載せてある。

+++++++++++++++++++++

●教えるより、好きにさせる

 子どもを伸ばすコツは、子どもを楽しませること。好きにさせること。「おもしろかった」
「楽しかった」という思いが、子どもを前向きに伸ばす。

 昨日も、BW教室(年長児)で、こんなトリックをしてみせた。

 「かたかな」と書いた紙を見せながら、子どもたちに、「これは何?」と聞く。すると子
どもたちは、「かたかな、だよ〜」と答える。

 そこで私は、こう言う。「これはひらがなだよ。君たち、わかるかな?」と。

 すると教室は、蜂の巣をつついたような騒乱状態になる。しかしそれこそ、私のねらい。

 つぎに、今度は、「ヒラガナ」と書いた紙を見せて、「これは何?」と聞く。子どもたち
は、「ひらがなだア!」などと言う。

 私は、「何だ、これは、カタカナだ。君たちは、ひらがなとカタカナの区別もできないの
か?」と、言う。子どもたちは、ますます興奮状態になる。子どもたちは、「カタカナくら
い、知っているよ!」「読めるよ!」と叫ぶ。

私「じゃあ、カタカナを呼んでみよう」
子どもたち「いいよ!」
私、(ハイ)と書いた紙を見せながら、「これは、何と書いていあるの?」
A君「ハイ!」
私「じゃあ、A君、読んでごらん」
A君「ハイ!」
私「だからA君、どうぞ」
A君「……ハイ」と。

 教室は爆笑のウズになる。ほかにも、カードが、10枚近く、ある。それには、「ヨメナ
イ」「イヤ」「ミエナイ」などと書いてある。それをつぎつぎと、子どもたちに読ませる。

 最後に、「カタカナが好きな人?」と聞くと、全員、「ハ〜イ」と手をあげた。しかしそ
れこそが私のねらい。教えるのではなく、好きにさせる。あとは、子ども自身が、子ども
自身の力を使って伸びてくれる。それを指導するのが、幼児教育ということになる。

●バカになって、子どもを伸ばす

 「こんな先生に習うくらいなら、自分でやったほうがまし」と思わせつつ、子どもに自
立をうながす。しかしその一方で、しめるところはしめる。それがあるべき教師の姿と言
ってもよい。

 強圧的で、威厳たっぷりがよいというのではない。ときに人間的な弱さやもろさを、さ
らけ出す。こんなことがあった。

 ある夜、中学生に数学を教えているときのこと、私は、ふと、こうもらした。

 「勉強って、つまらないね。ぼくは、子どものころ、勉強が嫌いだった……」と。

 するとそれまで下を向いて黙々と勉強をしていたN君(中2・男子)が、顔をあげて、
こう言った。「先生、そんなこと言っていいの?」「でも、先生が、そう言ってくれて、安
心した」と。

 教師が命令的だと、生徒は、服従的になる。しかしその一方で、依存心をもつようにな
る。一見、良好な教師関係に見えるが、子どもの自立ということを考えるなら、決して、
好ましいことではない。

 子育ての最終目標は、子どもを自立さえること。そのためには、教師が反面教師になる
ことも、ありえる。また反面教師になることを、恐れてはいけない。

 このことは、家庭教育にも、そのまま当てはまる。

 親も、ある時期がきたら、そのバカな親になる。バカになって、子どもの自立をうなが
す。「親なんて、アテにしていないぞ」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。(親
としては、さみしいが……。)が、しめるところは、しめる。

 私が好きな俳優に、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)がいる。本名も、チ
ャールズ・スペンサー・チャップリン。言わずと知れた、20世紀を代表する喜劇役者で
ある。

 あのチャップリンは、あれほどのドタバタ喜劇を演じながら、その一方で、テレビイン
タビューなどでは、きちんとした映画論を論じていた。学歴はないが、きわめて地的な人
物だった。私はそういう人物の中に、あるべき親の姿のようなものを感ずる。

 重要なことは、おとなの優位性を、子どもに見せつけないこと。押しつけないこと。親
は、一歩退きながら、子どもの成長を見守る。どうせ相手は、子ども。本気で相手にして
はいけない。もしそんなエネルギーがあるなら、もっとほかのことで、使ったらよい。子
どもにバカにされて、「親に向かって、何よ!」と言っているようでは、あなたも、まだ若
い(失礼!)。

(補記)

 昨日も、年長児を指導しているとき、突然、「カンチョー(浣腸)!」と言って、私の尻
に、両手をつこんできた子どもがいた。今、その幼稚園では、そういうイタズラがはやっ
ているらしい。

 そこですかさず、私は、こう言った。「バカだなあ。手のにおいをかいでごらん!」と。

子ども「どうして?」
私「ウンチのにおいがするだろ?」
子ども「どうして?」
私「だってさあ、ぼくのお尻には、ウンチがいっぱいついているんだよ」
子ども「……」
私「君だって、ちゃんとお尻をふけないだろ?」
子ども「ふけるよオ!」と。

 参観していた若い母親たちは、みな、ニコニコ笑っていた。つまりこういう指導が恥ず
かしげもなくできるようになった。私も、その年齢になったようだ。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●テレビを消そう!

 「テレビを見せておけば、静かにしていてくれる」と。

 それはわかるが、しかし、乳幼児に見せるテレビやビデオは、ほどほどに!

 今年(04年)、日本小児科学会、「こどもの生活環境改善委員会」は、テレビ視聴が、
乳幼児に与える影響について、調査した。

 その結果、「長時間の視聴は、1歳半における意味のある言葉の出現の遅れと関係がある。
とくに、日常やテレビ視聴時に、親子の会話が少ない家庭で遅れる」という調査結果を発
表した。

 そこで同委員会は、つぎのような提言をまとめた。

(1)2歳以下の子どもに、テレビ、ビデオを長時間、見せない。
(2)つけっぱなしにせず、見たら、消す。
(3)乳幼児には、ひとりで見せない。見るときは、親もいっしょに歌ったり、子どもの
(4)問いかけに応える。
(5)授乳中や食事中は、つけない。
(6)乳幼児に、適切な使い方を、身につけさせる。
(7)子ども部屋に、テレビ、ビデオを置かない。

 大脳生理学の分野でも、テレビやビデオが子どもに与える悪影響が指摘されている。さ
らに99年に起きた、「ポケモン事件」を覚えている人は多いことと思う。光のはげしい点
滅を見ていた多くの子どもたちが、それが原因で倒れた。

 安易なテレビづけ、ビデオづけは、子どもの脳の発達においても、好ましくない。「新し
い荒れ」の原因にもなっていると説く、評論家も、いる(私のことだが……)。くれぐれも、
慎重に!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●不安障害

 何を考えても、心配。不安。イライラする。落ちつかない。とくに子どもが受験期にさ
しかかると、多くの親は、そうなる。そして思わず子どもに向って、「勉強しなさい!」と
叫んでしまう。

 ところで「不安障害」という言葉が、最近、よく耳にするようになった。不安症状(不
安でならない)と、回避行動(人との接触などを避ける)の二つを特徴とした症状を、総
称して、そういう。

 この不安障害には、不安神経症、強迫神経症、恐怖症などが含まれる。ほかに心気症(重
病ではないかと思い悩む)実は、これら4つは、私も広く、浅く、経験している。

 さらにDSM−IV(Diagnostic and Statistical Ma
nual of Mental Disorders、訳して「アメリカ精神医学会・精
神疾患の診断・統計マニュアル」第4改訂版、94年)によれば、不安障害には、つぎの
ようなものがあるという(かんき出版「心理学用語辞典」)。

(1)脅迫性障害
(2)恐慌性障害
(3)空間恐怖症
(4)社会恐怖症
(5)心的外傷後ストレス障害(PTSD)
(6)急性ストレス障害
(7)全般性不安障害
(8)薬剤性不安障害
(9)その他、特定不能の不安障害

 要するに不安の原因はさまざま、そしてその症状も、さまざまということ。考えてみれ
ば、この世界、不安だらけ。「右を見ても、左を見ても……」となる。

 そこでそういう原因に囲まれた私たちは、どう生きたらよいかということになる。子育
てという場では、どう考えたらよいかということになる。

(不安と、どう向きあうか)

 私のばあい。

 不安の原因、つまり敵の正体を知る。逃げてもいけない。ごまかしても、いけない。そ
れが何であるかを知る。

 そのあとの対処のし方は、マニュアル的には、いろいろ書くことはできる。しかし実際
に、強度の不安感に襲われたときには、マニュアルなど、何の役にもたたない。孤立感や
絶望感をともなうことが多い。

 そういうときというのは、他人のアドバイスや励ましも、ほとんど、役にたたない。敵
はそこにいる。そこにいる以上、その敵から逃れることはできない。不安感を解消するこ
とはできない。

 だから私のばあいは、いつなんどき、そういう状態になってもよいように、そのつど、
自分を燃焼させるという方法を選択している。たとえば重篤(じゅうとく)な病気を考え
てみよう。

 それらには、がん(悪性腫瘍)がある。脳梗塞や心筋梗塞、それに脳内出血もある。ど
れも今の私には、いつ起きてもおかしくない病気である。

 こうした病気の疑いが出たら、私は、まちがいなく極度の不安状態になる。心気症とい
うのは、そういう病気をいう。

 そこで今、私は、健康なうちに、できるだけ自分を燃焼させておこうと考えている。そ
ういう状態になったときでも、あわてなくてもよいようにである。(それでも、あわてるだ
ろうが……。)

 私はこれを、「積極的回避法」と呼んでいる。不安感に襲われる前に、その不安状態にな
ってもよいように、心の準備しておく。

 (これに対して、その場になって、あわてて不安感を回避しようと考えるのを、「消極的
回避法」と呼んでいる。)

 幸運にも、そうした病気を、過去において何度か疑われたことはあるが、かろうじて(?)
今、こうして無事に生きている。だから見た目には、一応、そうした心気症を乗りこえて
きたかのように見える。しかしそれで心気症が治ったわけではない。

 またつぎの重篤な病気が疑われた段階で、同じような心気症になるかもしれない。今の
ところ、まったく自信がない。

 ただそういう不安感が解消するたびに、私は、生きている喜びを実感する。そしてそれ
が、さらに充実した人生を求める、その原動力になる。今が、その状態ではないか。

 結論から先に言えば、みな、不安。今、不安でない人も、みな、何らかの時限爆弾をか
かえている。いつなんどき、それが爆発するかわからない。そういう状態である。

 そこで私は、こう考えるようにしている。

 ものごとは、「今、生きている」という原点から見ようではないか、と。この原点から見
れば、あらゆる問題は、解決する。すべての不安は、解消する。(わかっていても、その原
点からものごとを見ることはできないが……。)

 あとは「なるようになれ」と、そのものごとを、受け入れ、あきらめる。するともの
ごとは、「なるように、なっていく」。そのあとのことは、考えない。悩まない。ジタバ
タしない……。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー
(あるがままに……)」と。

+++++++++++++++++++++++

そのレット・イット・ビーで思い出したのが
つぎの原稿です(中日新聞投稿済み)。
「不安」というテーマで書いた原稿ではありませんが、
何かの参考には、なると思います。

+++++++++++++++++++++++

【袋小路から抜け出る法】

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その
夫と妻が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少
ない。

どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子は
かすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろ
うとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではな
いのか。

もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、一〇年も二〇年も、新婚当時の気持ちのまま
でいることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞く
と、「考えたことないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫
婦もいる。先日もある女性(四〇歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バ
ンザーイ、やったわ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。

ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の
女性(三三歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に一度ある
かないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじ
ゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、
人それぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてと
やかく言う必要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう
思おうが、そんなことは気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがく
こともある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それ
に縛られれば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とか
いう気負いをもつ。この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。

不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係
を築こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ
自体が「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、
もうけもの。一部でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だか
ら……」と考えると、あなたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じな
いから結婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そ
んなようにおおげさに考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところ
で、あきらめる。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫
婦や家族、親子関係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。

「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。それはまさに、「智恵(ちえ)の
言葉」だ。
 

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●家族の重圧

 昨夜(12・5)、名古屋市に住む友人と、1時間ほど、電話で話した。中学時代からの
友人である。その友人が、こんな話をしてくれた。

 その友人(57歳・男性)も、名古屋市に住むようになって、もう35年になるという。
が、いまだに、実家に、仕送りをつづけているという。こんな話をしてくれた。

 「G県の人たちは、ぼくのように、実家を離れた人間を、『出ていった人』と言うんだね。
それで実家を守り、育てていくのは、その出ていった人の役目と考えているんだね」と。

 こういうことだ。

 友人を、M氏としておく。

 M氏の実家では、毎月のように、いろいろな人の命日供養をするという。たとえば毎月、
12日は祖父の命日供養。18日は祖母の命日供養、28日は父親の命日供養、と。(毎月
だぞ!)

そしてそれぞれの人の命日に合わせて、年に1度、寺の僧侶を呼んで、供養をするとい
う。それが10回忌、20回忌ともなると、さらにハデになる。近くの料亭を借りて、
会食までするという。ふつう、33回忌までするという。

私「それは、たいへんですね」
M「まだ母も元気ですから、しかたないですよ」
私「どうして?」
M「つまりね、供養というのは、母にとっては、小遣い稼ぎの場になっているんですよ」
と。

 M氏の母親は、そういう形で、子どもたちからはもちろん、親類縁者から、お金を集め
る。つまりそれが、M氏の母親の集金ビジネスというわけである。

 だらかM氏は、こう言う。

 「実家思想の強い人は、実家のめんどうをみるのは、出て行った人間の、当然の義務と
考えているのですね。だから、ぼくらの都合や、経済状況など、お構いなしです。先月も、
祖父の33回忌がありましたが、その費用が、43万円。すべて私が負担しました」と。

 もちろん供養として集まった現金は、そのまま、M氏の母親の収入(?)となる。

私「少し、負担を減らしてもらうわけには、いかないのですか?」
M「いえね、子どものときから、『先祖を粗末にすると、地獄へ落ちる』と、母に、さんざ
ん脅されて育っていますから、こわいですよ」
私「ハハ、それはカルトですね」
M「そう、最近になって、少しずつですが、やっとそれがわかってきました」と。

 21世紀になった。その名古屋市では愛知万博も開かれる。T社館では、ロボットたち
が、歌って踊ってみせるという。リニアモーター車が、名古屋市と、万博会場を結ぶとい
う。

 一方でそういう時代になったのに、もう一方で、M氏のように、家族自我群の重圧に苦
しんでいる人もいる。少なくない。今、日本は、あの封建時代のトンネルから抜け出よう
としている。が、しかし、まだ完全に抜け出たわけではない。

 M氏の話を聞きながら、そんなことを考えた。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●回顧性 

 若い人は、未来を見て、人生を考える。これを展望性という。しかし加齢とともに、過
去を振りかえることが多くなる。これを回顧性という。

 その展望性と回顧性が、交差するのが、満50歳から60歳にかけてと言われている。

 しかし人間も、過去の栄華をしのび、それにぶらさがって生きるようになったら、お・
し・ま・い。

 問題は、回顧性が生まれるのはしかたないとしても、いつ、どこでどのようにして、そ
の過去を切り離すか、だ。「あのころはよかった……」「あの時代はすばらしかった……」
と毎日、悶々として生きるようになったら、その人は、死んだも、同然。

 その切り離しがうまくいかないと、結局は、「老後」と呼ばれる時代を、ムダにすること
になる。

 世間では、広く誤解されているが、「老後」というのは、終着駅ではない。晩年でもない。
「老後」と呼ばれる時代は、それ自体が、貴重な、人生の一期間である。人生そのもので
ある。「死」を考えるとしたら、その死が、目前に迫ってきてからでよい。それまでは、私
たちは、生きる。生きて生きて、生きまくる!

 私たちは、「老後」という言葉そのものに、おかしな先入観を添えてしまった! 「老後
は、ブラブラと、孫のめんどうでもみながら、悠々自適に過ごすのがよい」と。

 だから、世の老人たちよ、もっと、外に出ようではないか!
 外に出て、外の空気を吸おうではないか!

 もしあなたの孫が、親のスネをかじって、毎日、道楽三昧。仕事もせず、趣味ばかりに
没頭していたら、あなたは、何と言うだろうか? それと同じ言葉を、自分自身に言って
みようではないか。それが生きるということ。

 回顧性など、クソ食らえ! 

 もしあなたの息子が、学生時代の活躍ばかりを口にして、そのころのアルバムばかりを
見ていたら、あなたは、何と言うだろうか? それと同じ言葉を、自分自身に言ってみよ
うではないか。それが生きるということ。

 回顧性など、クソ食らえ!

 この回顧性という悪魔は、あなたがその年齢になると、必ず、あなたのところにやって
くる。それに打ち勝つか、それとも敗れるかは、これからの心構えで、決まる。

 老後こそ、人生の始まりまのだ!
(041206)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ただ歩くだけ

 昨夜遅く、ワイフと、近くにできた、超大型ショッピングセンターに行ってみた。「大き
い」などと言うものではない。超・デカイ! 今年の夏、畑の中に、こつ然と、姿を現し
た。

 何しろ、駅前にあるデパートを、数個分、集めたようなショッピングセンター。日曜日
の夜ということもあって、結構、混雑していた。

 が、私は、何かおかしいと、感じた。何か、おかしい?

 そうだ、みな、ブラブラと、通路を右から左へ、上から下へと、移動しているだけ。当
然もっているはずの、買い物袋をもっていない! 買い物に来たのだから、それなりの買
い物をしているはず。……したはず。しかしその形跡が、ない!

 私たちも、実は、ヒマつぶしに行っただけ。いや、夕食を食べに行っただけ。本当は、
近くのレストランで夕食をすます予定だったが、「行ってみようか?」「行ってみよう」と
いうことで、そのショッピングセンターに行った。

 しかし後悔した。

 何しろ、うどん定食が、900円。私の食べた煮込みうどんも、900円。それが一番、
安い料理。小皿のデザートと合わせて、2500円弱!

 とにかく、高い! バカ高い! ふつうの料理で、1200〜1400円。それらが、
2000円級の料理の間で、隠れたように並んでいる。

 おまけに並んでいる商品を見ても、どれも、ドキッとするほど、高い。冬物のコートが、
4万円とか5万円! 子供服が、2万円とか3万円!

 ついでにパソコンショップものぞいてみた。

 3か月前の9月に買った、C社のデジタルカメラが、2万9000円! 先週、Y電気
で見たら、同じものを、1万9000円で、売っていた! (私が3か月前に買ったとき
は、3万4000円だったが……。その後すぐ、そのカメラから、現在使っているカメラ
に買いかえた。)

 本当なら、近くに大型ショッピングセンターができたことを喜び、応援してやらねばな
らない。が、どうしても、そういう気にはなれない。私は、こうした消費文明には、つい
ていけない。

 おとといも、愛知県のあの豊田市を電車で通り抜けた。車窓からは、巨大なビルがいく
つか見えた。建設中のビルも見えた。あのトヨタ自動車の豊田市である。

 私とワイフは、その巨大なトヨタ・シティを見ながら、「すごいなア」「すごいわネ」と
言いあった。そういう喜びが、そのショッピングセンターの中を歩いても、わいてこない。
まったくわいてこない。

 「バカなもの作ったナ」「そうよネ。ムダよ」と。
(041206)


【4】(おまけ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【教育の原点(短編SF小説)】

***************************

ヒマつぶしのために書いた、駄文です。
読んだあと、どうか、がっかりしないでください。

***************************

 タイムマシンを手に入れた。
 さっそく、あなたは、1万年前に、タイムトラベル!
 場所は、地球、そして日本。
 あなたの遠い祖先が生まれ育った、HH地区、つまり、旧静岡県。

 が、ここで問題が起きた。
 重大、かつ深刻な問題だ。
 ナ、何と、マシンが、故障してしまった!
 つまり、過去への一方通行。
 現代へ戻ることができなくなってしまった!

 おかげで数日のつもりのトラベルが、2年になってしまった!

 あああああ!

***************************

●原理

 タイムマシン……、いくつかの会社から販売されるようになって、もう10年近くにな
る。その間に、タイムマシンで、過去への旅をした人は、すでに、100万人を超えたと
いう。今では、その旅行記など、珍しくも何ともない。

 時は、2250年、1月5日。水曜日。

 タイムマシンの原理は、簡単。それぞれの時代の、宇宙ボールの中に、入っていく。そ
れだけ。ただし、行くことができるのは、過去だけ。未来は、無理。宇宙ボールそのもの
が、まだできていないからである。

 わかりやすく言えば、この宇宙には、無限大の数の宇宙ボールがつまっている。ひとつ
ひとつの宇宙ボールが、今、あなたの前に広がる、この宇宙と同じ大きさである。ただ、
通常の人間の目では見ることができない。

 宇宙ボールという概念は、遠い昔、ホーキングという博士が、予言した概念である。そ
れが50年ほど前に、実際に発見された。とたん、タイムトラベルが、可能になった。

 つまり「時」のエネルギーは、そのつど、無数の新しい宇宙ボールを生み出している。
この瞬間にも。つぎの瞬間にも……。こうして宇宙は、つまりそれぞれの宇宙ボールは、
それぞれ、瞬時、瞬時に、拡大をしつづけている。

 だから自分の行きたい宇宙ボールをさがし、そこへ行けば、その過去にもどることがで
きる。で、あなたは、そこで、つまりその宇宙ボールの中で、好き勝手なことができる。
その宇宙ボールの中の歴史を変えることさえ可能なのである。

 何しろ、宇宙ボールは、無限大の、そのまた無限大の数だけ、ある。そしてそれぞれの
宇宙ボールが、その瞬間ごとに、これまた無限大の、そのまた無限大の数だけの宇宙ボー
ルを生み出している。

 わかるかな? 

 わからない?

 わからなくてもよろしい。

 しかし、要するに、あなたはその過去のどこかの宇宙ボールにもどって、好き勝手なこ
とができるということ。そしてもどりたくなったら、いつでも、今の、この、あなたが住
む宇宙ボールにもどってくることができる。それがタイムトラベルである。

●3500年前に……

 3500年という数字は、あやふやなもの。ただおよそ3500年ということで、ダイ
アルを設定すればよい。あなたは、3500年前の過去に、ダイアルをセットした。あと
は、ゴー!

 あなたの体と精神は、瞬時に、ニュートロン・レベルにまで分解され、あなたの希望す
る、宇宙ボールへと運ばれる。

 気がつくと、そこは、3500年前の、地球。日本。HH地区、つまり、旧静岡県。つ
まり3500年前の過去。映画だとか、三次元映像で見るような、仮想現実の世界ではな
い。現実の世界である。違和感はない。あなたは、まったく今のままのあなたとして、そ
の宇宙の中に入る。そしてそこで見る宇宙は、今あなたが住んでいる宇宙と、まったく、
同じ。

 そこであなたは、こんなことを心配するかもしれない。

 過去を勝手にいじれば、未来が変わってしまうのではないか、と。しかし心配は、無用。
その変化は、その宇宙ボールの中だけ。今、あなたが住んでいるこの宇宙ボールは、別の
宇宙ボールの影響を、受けない。

 で、あなたは、その3500年前の、日本へやってきた。昔は、「静岡県」と呼ばれてい
た。その前は「遠州」と呼ばれていた。タイムトラベルでは、ほとんどの人が、地球を選
ぶ。特別な装備が不要だから、だ。

 そこであなたは、3500年前の、地球の、その中の日本を選んだ。多分、言葉も、あ
る程度、通ずるだろう。が、その考え方は、甘かった……。

 が、そこは広漠たる原野。何もない。どこまでもつづく、密林。道はない。突然、あな
たは、無数の虫にとりつかれる。草や木々の葉におおわれる。「しまった!」とあなたは、
思う。「とんでもない世界に来てしまったぞ!」と。

 が、ここで異変に気づく。腕につけたコントローラーが、動かない。軽くひねれば、そ
のままもとの宇宙ボールにもどれるはず。しかしひねることができない。故障かも? 突
然、襲う恐怖。ぞっとするような恐怖。

●人類をさがして……

 こうしてあなたは数週間を、密林の中で過ごした。「過ごした」というより、さまよい歩
いた。今までの知識を最大限掘り起こしながら、道なき道を進んだ。

 前もって、読んでおいたガイドが、役にたった。しかし同時に、それでは不十分である
ことも知った。あなたは太平洋側の海をめざした。3500年前の人類、つまり日本人の
祖先は、海沿いの部落で、生活をしていたという。

 あなたは、昼は太陽の方角、夜は月の方角を見ながら、海をめざした。が、やがて、あ
なたは海に出た。広い砂浜だ。地形からして、どうやらそこは、未来において、静岡県と
なる地域の砂浜であることを知った。

 ここまでくれば、人類をさがすのは、むずかしいことではない。静岡県には、無数の、
縄文人の住居あとが見つかっている。貝塚も残っている。当時の縄文人たちは、そのあた
りで貝を拾って、それを食べていた。

 夜になった。小高い丘に登った。衣服はボロボロに破れていた。私物をつめたスーツケ
ースは、もう手元にはなかった。数日前の嵐で、みな、水に流されてしまった。

 あなたは、光をさがした。縄文人たちは、こうした風のない夜は、火を燃やして、暖を
とっているはず……。

 が、火は見えなかった。しかしそのかわり、朝になって、遠くに、青い、一筋の煙が立
ち昇っているのが見えた。あなたは、歓喜のあまり、ウォーと声をあげた。喜んだ。そし
てその方向に向って、走り始めた。

●人類との再会

 あなたは部落に入る前に、縄文人につかまってしまった。こわいはずなのに、なぜか、
うれしかった。その縄文人は、明らかに狩猟民族であった。手には、原始的な武器をもっ
ていた。が、何よりも、驚いたことは、その臭気だった。生臭い臭気。いや、体臭だった。

 縄文人たちは、あなたの背の高さに驚いているといったふうだった。平均身長は、15
0センチ前後か。女は、もっと低い。あなたの身長とくらべても、20〜30センチ以上
は、低い。

 あなたは懸命に話しかけるが、縄文人たちは、「アー」「ウー」「イー」という3つの母音
を中心とした単語を話す。しかし言葉にはなっていない。日本語の原型だとは思うが、意
味がよくわからない。「ウー」というのは、何かの動作を表す言葉のようだ。

 「歩く」も、「食べる」も、みな、「ウー」と言う。

 「痛い」も、「悲しい」も、みな、「イー」と言う。あとは、それに、別の音をのせなが
ら、表情をそえる。足が痛いときは、「ィイー」と言いながら、足を押さえる。悲しいとき
は、「ヵイー」と言いながら、どこかつらそうな顔をしてみせる。

 しかし縄文人たちは、思ったより、平和的な人だった。しばらくすると、すぐ、あなた
に警戒する様子も、見せなくなった。中には、ニヤニヤ笑いながら、近づいてくる縄文人
もいた。

●2年がすぎた……

 あなたはいつしか縄文人の部落で、その1人として、共同生活をするようになった。何
度も病気になったり、ケガをしたが、そのつど、どうにかこうにか、乗りこえた。学生時
代に薬草研究会に入っていたのが、役にたった。

 で、その部落の概要。

 人口は、348人。これは実際に、数えた。男が160人。女が188人。縄文時代は、
どうやら母系社会だったようだ。

 子どもの数は、約100人。現代風に言えば、5歳から10歳前後までの縄文人という
ことになる。平均寿命は、30歳前後か。女たちは、14、5歳くらいで子どもを産み始
め、中には50歳くらいまで生きる人もいる。が、女たちは、たいていは、数度の出産を
繰りかえしたあと、死ぬ。男たちは、病気か事故で、死ぬことが多い。

 狩にでかけ、そのまま帰ってこないのも、いた。

 あなたはいつしか、子どもの世話をするようになった。最初は男たちの留守を預かって
いた。が、そのうち、あなたは、教育こそが、自分の生きる道と理解した。あなた自身を、
子どもたちの中に残そうと考えた。

 あなたは縄文人の子どもを集めて、学校(?)を作った。学校といっても、竹やぶにか
こまれた、狭い空間。しかしあなたは自分が学んだ学校にまねて、木の切り株を並べて、
机やイスにした。

●教育の原点

 あなたは、無間の孤独を感じている。限られた言葉、限られた思想。あなたを理解でき
る縄文人はいない。マナーも、道徳も、倫理もない。それに理解しがたい宗教観ももって
いた。たいまつの周囲で、一晩中踊りあかしたかと思うと、翌日は、体中にドロを塗って、
小屋の中で一日中、過ごしたりした。

 「どうい意味があるのか?」と聞いても、ただニヤニヤと笑っているだけ。平和で、の
どかな人たちだが、それを説明するだけの言葉そのものがない。会話もない。

 狂おしいまでに退屈な、日々。単調な生活に、単調な食事。日の出とともに、男たちと
狩とでかけ、夕方には帰ってきて、そのまままた、朝まで眠る。雨の日は、一日中、小屋
の中で、狩猟道具の整備。

 あなたはいろいろな狩猟用の道具を作ってみせた。吹き矢や、ワナなど、女たちには、
衣服の編み方を教えた。

 一度、ひとりの女の腹痛を、薬草でなおしたことがきっかけで、あなたは、急速に尊敬
されるようになった。

 が、何よりもまず、あなたは、まず、言葉を教えたいと思う。おとなたちには無理だと
しても、子どもたちに教えたいと思う。が、ここで最初の問題にぶつかる。子どもはその
世界では、歩き始めると同時に、重要な労働力となる。一つの場所に集めて、教育をする
ということが許されない。

 限られた時間。限られた人生。10歳まで無事に生き残る子どもは、半数もいない。さ
らに15歳まで生き残る子どもは、そのまた半数もいない。そして15歳を過ぎると、子
どもから、子どもらしさが消え、急速に、おとなっぽくなり、20歳を過ぎると、やがて
顔に老醜が現れるようになる。こうした世界では、老けるのもはやいようだ。

 縄文人たちも結婚し、子どもをもうける。しかし実際のところ、どの人とどの人が夫婦
で、子どもにしても、どの人が父親かということはわからない。夜は、大きな部屋で、み
な、雑魚寝(ざこね)。兄弟、姉妹が、そのつど夫婦になり、子どもをもうけることもある。

●教育

 あなたは子どもたちに、ものの名前を教える。同時に、子どもたちは、あなたに、もの
の名前を教える。縄文人たちは、ものの名前を、短い一音で表そうとする。縄文人の言葉
の一部を、紹介しよう。

 草……クッ
 臭い……クッ・イ
 苦しい……ク・イ

 音を二つ重ねると、「とても」という意味になる。たとえば「とても苦しい」は、「クイ、
クイ」と。

 語いの数も少ない。「上にあるもの」は、すべて「カァ」。

 神……カァ
 上……カァ
 髪の毛……カァ。

 そこで「草」を、「ク・サ」と教える。しかし、基本的な発音ができない。「S」「K」「T」
などの子音の発音そのものが、弱い。口を動かさない。表情も少ない。息だけで、言葉を
話そうとする。叫ぶような言い方である。

 そこでつぎにあなたは、子どもたちに、数の数え方を教える。とりあえずは、「1から1
0」まで。しかしここでも、問題。縄文人にとっては、数は感覚的なもの。「多い、少ない」
の判断はしているようだが、その程度。

 それにいくら教えても、頭の中に残らない。反応もない。つぎの日になると、すべてを
忘れている。数といっても、彼らには、呪(まじな)いのようなものかもしれない。意味
のない、呪い。そこでいつしか、あなたは、発想を変えた。

 あなたは、絵や歌を教えることにした。と、いっても、最初は教えていたわけではない。
さみしいとき、ふとそれを口ずさんでいると、横にいた、子どもたちが、まねをして歌う
ようになった。

 そこであなたはその歌に、踊りをそえてみた。が、これは、部族の長老の怒りをかった。
たまたま踊った翌朝、大きな嵐が部落を襲ったからだ。そこへ大雨が、降った。村の一部
が、流された。長老は、おかしな踊りでそうなったと思ったらしい。この世界では、踊り
には、いつも、特別な意味がある。

 踊りはやめた。が、とたん、恐ろしいほどの閉塞感。絶望感。

 まさにいいことなし。あなたは落ちこんだ。落ちこんだまま、数日を、小屋の中で寝て
過ごした。

●変化

 が、変化は、子どもたちのほうから、やってきた。目をさますと、そこに子どもたちが
立っていた。

 「ムウ」と呼んでいる男の子。それにもう一人、「スウ」と呼んでいる男の子。年齢は、
5歳と10歳。その部落では、毎年、鷹がヒナをかえす時期に、子どもの腕に、一本ずつ、
刺青(いれずみ)を入れる。その線の数で、年齢がわかる。

 ムウが、あなたの手を引いた。つづいて、スウがあなたの髪の毛を引いた。あなたは、
それにつられて起きた。

 外は、澄んだ朝の陽光で輝いていた。木々の葉は、やさしく風の中で、そよいでいた。
あなたは思いっきり、空気を、吸った。腹の底まで。そして体中にしみわたるまで。

 あなたは子どもと手をつないだ。そこへまた数人のこどもが集まってきた。見ると、一
人の子どもが、草履(ぞうり)をはいていた。あれほど、はくのをいやがっていたのに! 
その草履をあなたは、指でさしながら、「ゾーリ」と言った。その子どもは、うれしそうに、
「ゾー」と答えた。

 部落の広場へ出たとき、あなたは、もっと驚いた。数人の縄文人たちが、着物を体に巻
いていたからだ。あなたが、いつか、彼らのために作った着物である。長い葉を格子状に
織った着物だった。あなたはそれを見て、大声をあげた。

 「キーモーノー!」と。
 
 部落の男たちは、それを見て笑った。女たちも、笑った。「キー」「キー」と。

 そう、そのとき、あなたは、いつかあなたの父が歌っていた歌をまた、歌いだした。何
か、うれしいことがあると、決まって、父は、その歌を歌っていた。その部落へ来てから
も、さみしくなると、いつも歌っていた。

 「♪夕空、晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫、鳴く……」と。

 と、そのときだった。あなたは腕に巻いた、タイムトラベルのスイッチのライトが、点
滅しているのを知った。「まさか……」と思って、その腕輪を回してみると。それは静かに
回転した。そしてつぎの瞬間、気がつくと、あなたは、もとの世界、つまりこの宇宙ボー
ルの中に、もどっていた。

 時は2252年、1月5日。あれからちょうど、2年の歳月が流れていた。聞くところ
によると、つまりそのあと、1000年を経て、あなたが行った宇宙ボールの地球では、
飛躍的に文明を発展させたという。そしてそのあとさらに1000年を待たずして、宇宙
をとびかう宇宙船を作るまでになったという。

 あなたの住んでいる地球とくらべても、約1000年近く早く、文明が進んだことにな
る。

 そうそう、もう一言。その宇宙ボールの中では、今でも、こんな伝説が言い伝えられて
いるという。

「遠い昔、背の高い神が、どこからともなくやってきて、言葉を作った。そして歌や踊
りを教えた。

その神は、数学を教え、医学を教え、科学を教えた……」と。

そしてあの歌が、今でも歌われているという。

 「♪夕空、晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫、鳴く……」と。

何でもこの歌は、その宇宙ボールの中の地球では、神の歌ということになっているそう
だ。

(参考文献、浜松市遺跡資料)

(参考)浜松市の佐鳴湖には、蜆塚遺跡(しじみづか・いせき)という遺跡が残っている。
今から3000〜4000年前の縄文時代の人たちが残した遺跡である。当時の人たちが
食べた蜆(貝)の殻が、層をなして発見されている。集落遺跡を復元した家屋も、並んで
いる。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもを楽しませる

 子どもを伸ばすコツは、楽しませる、こと。笑わせる、こと。心を開放させる、こと。
すべては、そこから始まり、そこで終わる。

 理由など、改めて、ここに書くまでもない。

 昨日(12・2)は、年中児から中学2年生まで、教えた。どのクラスも、みな、子ど
もたちは、1時間、笑いっぱなし。ウソではない。参観の親たちが、いつもいるので、ウ
ソは書けない。私は、親たちにいつも、こう言っている。

 「ストレス解消になるから、参観においでなさい」と。

 子どもと一緒に笑っているだけで、ストレス解消になる。

 昨日も年中児(10人)を教えていたら、1人の子どもが、こう言った。「ぼく、男の先
生より、女の先生のほうが、いい……」と。

 そこで私は、こう言った。「ぼくの頭には、便利なスイッチがついているよ。これを押す
と、女の先生になるよ」と。

子どもたち「押して、押して!」
私「いいのか? 後悔するよ」
子どもたち「いいから、押して、押して!」
私「わかった、押すよ。でもね、スイッチは2つある。若い女の先生と、年をとった、女
の先生だ」
「年をとった、先生がいい!」と。

 私は、頭のスイッチを押したフリをしたあと、突然、けわしい表情にし、しわがれ声で、
こう叫ぶ。

 「あんたたち! 女だと思って、バカにすんじゃ、ないのよ! わかってんの! 私が
ね、結婚できないのは、世の中の男が、みーんな、バカだからよ。わかってんの! そこ
の○○君、あんた、男!? クヤシ〜〜イ」と。

 子どもというのは、一度、笑いのリズムにのせてしまうと、あとは、どんなことをして
も笑う。それこそ、風が吹いても、ペンが落ちても、笑う。笑って、笑って、笑いまくる。

 それが私の教え方である。「直す」とか、「治す」とかいう言葉は使えないが、しかし多
少の心の問題なら、笑わせることで、「なおす」ことができる。

 すると、今度は、子どもたちは、「やっぱり、若い先生のほうがいい……」と。

私「若い、女の先生?」
子どもたち「そうだよ」
私「いいよ、若い先生で、いいんだね?」
子どもたち「そう」「そう」と。

 同じように頭のスイッチを押すマネをする。反対側にそのスイッチを回す。

 私は、手鏡と、赤ペンをサッと取り出し、(こういう小道具は、無数にもっている)、口
紅をつけるマネをしながら、こうつぶやく。子どもたちのほうは、無視。

 「私的にはサ〜。幼児教育なんて、サ〜。どうでも、いいって、カンジ〜イ。あんたら
さア、近くに、いい男、いない〜? いい男いたらさ、教えてくんない? そこの△△さ
ん、あんたんとこ、兄貴いるでしょう? 一度、紹介してくんなア〜イ?」と。

 実は、こうして子どもを笑わすには、もう一つ、重要な目的がある。

 私の教室は、すべて公開している。つまり公開しているということは、すべてをさらけ
出すということになる。

 幼児教育の特質というか、この時期、母親たちは、たいへん神経質になる。指導のし方
がまずいと、親たちの競争の場になってしまう。(それでも、ときどき、ピリピリとした親
が出てくるが……。)

 こうした神経質な雰囲気は、まことにまずい。子どもたちが萎縮してしまう。私も、教
えにくい。つまり、そういう雰囲気を、やわらげる役目がある。子どもを通して、親たち
も笑わせる。楽しませる。

 子どもを教えることは、楽しい。そういう実感を、親たちにもわかってもらう。つまり、
親は子どもを育てるのではない。子どもといっしょに、もう一度、人生を楽しむ。少し生
意気な意見かもしれないが、親たちに、それをわかってもらう。

 それが私の教え方。やり方。そしてBW教室! ウソじゃ、ないぞ!!!


●子どもの忍耐力

 子どもの忍耐力は、どうやって養うか? よく話題になる。

 が、この日本では、忍耐力というと、(いやなことをさせながら養うもの)という考え方
が根強く残っている。過酷な仕事をさせたり、無理なことをさせたりするなど。

 学校での部活動なども、その一つ。毎晩真っ暗になるまで、猛練習を重ねる、など。し
かしこの方法は、子ども自身がそれを望めばよいが、そうでなければ、収容所の強制労働
的になってしまう。子どもの中に、抑圧された欲求不満状態をつくってしまう。ばあいに
よっては、過負担が原因で、子どもの心にさまざまな問題を引き起こすこともある。

 盲目的な依存性や、隷属性など。さらに過酷な状況がつづくと、無気力になったり、燃
え尽きてしまったりする。

 では、どうするか。

 一つの方法として、欧米のクリスマス・プレゼントの与え方が参考になる。

 欧米では、クリスマスが近づくと、子どものところにいろいろなプレゼントが届くよう
になる。そのとき、親は、そうしたプレゼントを、すぐ開かせない。たいていは、クリス
マスツリーの下に並べる。置く。

 「クリスマスに開けましょうね」と。

 つまり子どもにその日が来るのを楽しみにさせながら、がまんさせる。子どもは毎日、
クリスマスツリーの下に並べられたプレゼントの箱を見ながら、「何だろう?」「何かな?」
と箱の中身を想像する。楽しみにする。

 つまり親は、こうして子どもに、忍耐力を養う。

 もうおわかりかと思うが、子どもの忍耐力を養う方法は、二つある。

(1)苦難、苦渋をがまんさせる。これを負の忍耐力鍛錬法という。
(2)欲望の達成をがまんさせる。これを正の忍耐力鍛錬法という。

 どちらが重要で、どちらがそうでないかということではない。大切なのは、バランス。

 ただ誤解してはいけないのは、子どもにとって、負の忍耐力というのは、(いやなことを
する力)のことをいう。たとえば好きなサッカーを一日中しているからといって、その子
どもに、忍耐力があるということにはならない。その子どもは、好きなことをしているだ
けである。

 そこでためしに、台所の生ゴミを、子どもに始末させてみてほしい。そのとき子どもが、
「ハ〜イ」と言って手で始末すれば、その子どもは、忍耐力のある子どもということにな
る。

 一方、その負の忍耐力と同じくらい重要なのが、正の忍耐力。欲望のおもむくまま生き
るということをがまんする。……がまんさせる。それが正の忍耐力である。

 たとえば子どもが、「テレビゲームがほしい」と願ったとする。そのとき重要なことは、
ゲームを買ってあげるにしても、それなりのお膳立てをすること。仮に買ってあげても、「ク
リスマスの日に、箱をかけるのよ」と、子どもに言う。がまんさせる。

 こわいのは、欲望を、そのつど、安易に満足させること。こうした習慣になれた子ども
は、自分の欲望にブレーキをかけられなくなる。(ほしい)と思ったら最後、すぐ、その欲
望を満足させようとする。そのため、いわゆる生き方そのものが、享楽的になる。その場
だけ楽しめれば、それでいい、というような考え方をするようになる。

 そういう子どもが、大きくなれば、どうなるか。ここに改めて、書くまでもない。
(はやし浩司 正の忍耐力 負の忍耐力 子どもの忍耐力 子供の忍耐力 忍耐力 鍛錬
方、鍛錬)


●揺さぶられっ子症候群

 母子健康手帳の中に、「未発達な脳に出血を生じさせ、脳に障害を起こす場合があるので、
新生児や6ヶ月以下の赤ちゃんを、強く揺さぶるのを避けましょう」という記述がある。

 02年度の改正版から書き加えられた。

 いわゆる、「揺さぶられっ子症候群」の予防のためである。このところ、親に強く揺さぶ
られることが原因で、脳内出血を起こす子どもがふえている。当然、部位にもよるが、そ
のあと障害が残ることもある。

 新生児のばあい、脳の大きさが、頭蓋骨より小さいため、いわば水の中に、脳が浮いて
いる状態になっている。そのため強く揺さぶると、脳と外をつなぐ静脈が、切れやすいと
いうわけである。
 
「揺さぶられっこ症候群は、1974年に米国で最初に報告されました。米国の統計
によると、揺さぶられたことが原因で脳内出血した赤ちゃんの死亡率は、25〜5
0%、後遺症が残る確率も30〜50%にのぼります」(日本私立病院ネット)との
こと。

 症例としては、強く揺さぶられたため、けいれんを起こした子ども(長野県)や、硬
膜下血腫で死亡した子ども(愛知県)などが報告されている(同ネット)。

 生後、6か月まで(母子健康手帳)、(日本私立病院ネットでは、1歳半くらまで)、
子どもは、静かに安静状態で、育てるのがよい。

 新生児を車に乗せて、ドライブをしてはいけない。
 新生児を突然、抱きあげては、いけない。
 新生児には、はげしい上下運動や回転運動を与えてはいけない。
(はやし浩司 母子健康手帳 揺さぶられっ子症候群 揺さぶられっこ症候群 母子
手帳)


●児童虐待防止法

 2000年5月に、児童虐待防止法が、成立した(議員立法による)。

 それによると、

(1)教師や医師、弁護士などは、虐待の早期発見に努めなければならない。児童相談所
などに通告しても、罪に問われない。

(2)児童相談所による、自宅などへの立ち入り調査権を強化し、警察官の援助を要請で
きる。

(3)児童相談所長は、子どもを一時保護し、親の面会や通信を制限できる。

(4)一時保護された子どもの親などは、カウンセリングを受けなければならない、とあ

る。

 しかし実際には、問題もある。

 日本人は、昔から、「子どもは親のモノ」という、独特の(所有物意識)をもっている。
「オレの子だから、オレが何をしようと、勝手」と。一方、欧米(キリスト教国)では、「神
の子」という、意識が強い。だから半世紀前ごろまでは、日本では、たとえば子どもが障
害をもって生まれたとすると、「家の恥」とか、「恥ずかしい」とか言って、その子どもを
隠そうとした。(欧米では、比較的、そう考える人が少ない。)

 今でも、そういう意識をもっている親は、少なくない。だから、学校の校長の通報で、
子どもが児童相談所に隔離されたりすると、猛烈にそれに反発する親がいる。中には、「お
前を一生、うらんでやる」「殺してやる」と、校長や教師を脅迫する親もいる。

 一方、子どもは子どもで、虐待されながらも、「おうちへ帰りたい」「ママのそばがいい」
と言う。「おうちでいい子になるから、おうちへ帰して」と泣いた子ども(小2男児)すら、
いた。悲しき、子どもの心である。

 つまり、この問題は、日本人自身が、伝統的にもつ、子ども観とも、深く結びついてい
る。

 子どもは、子どもでも、つまり、あなたから生まれたとしても、親のモノでもなければ、
財産でもない。(神の子)という言い方には、少し抵抗があるが、私たちは、もっと大きな、
(生命の流れ)の中で生きている。そういう意識で、子どもを見ることも、重要なことで
はないか。

 「私の子」「あなたの子」という意識は、だれにでもある。それはしかたないこと。しか
し、同時に、「私の子は、あなたの子」「あなたの子は、私の子」という意識ももつ。そう
いう意識が育ったとき、児童虐待防止法は、真価を発揮する。

 そう言えば私は、いつだったか、自分の息子の小さな手を見たとき、こう思ったことが
ある。「私の子とは言うが、この手を作ったのは、私ではない」と。

 そして今度は、私自身の手を見ながら、「この手は私の手とはいうが、私が自分で作った
おぼえはない」と。私たちは、親子という関係を超えて、もっと大きな流れの中で、生ま
れ、生きている。ここでいう(生命の流れ)というのは、そういう流れをいう。

 今朝も、新聞の片すみに、児童虐待の記事が載っていた。それを見ながら、そんなこと
を考えた。
(はやし浩司 林浩司 林 浩司 虐待 児童虐待防止法 悲しき子どもの心)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮面

(教師のもつ多面性)

 教師には、聖職意識というものがある。程度の差はあるが、みなある。使命感とも言う
べきか。教師としての、使命感である。

しかし意識だけでは、聖人には、なれない。そこで、教師は、「先生」「先生」と言われ
るうちに、自ら、仮面をかぶるようになる。まじめな教師ほど、そうだ。親や子どもの
期待に答えようとする。だから仮面をかぶる。意識的にかぶることもあるが、たいてい
は、無意識のうちに、かぶるようになる。

 こうして教師の人格は、分離し始める。(本当の自分)と(仮面の自分)である。

 こうした分離は、しかし、教師の世界だけに、起きるものではない。たとえばデパート
の店員を見てみよう。

 あなたが客としてデパートに入ると、店員は、深々と頭をさげる。にこやかな笑顔をつ
くって、「いらっしゃいませ」とあいさつをする。

 しかしその店員が見せる笑顔は、いわば営業用の笑顔。決して、あなたをすばらしいと
思って、そうしているのではない。あなたに好意をいだいているというわけでもない。だ
から、そういう笑顔を見たからといって、あなたは、その店員を、朗らかで、明るい人だ
とは、思わない。(そういうふうに誤解する人も、多いが……。)

 同じように、俗世間では、教師という立場の人間を、何かにつけて、特別な目で見やす
い。相手が子どもであるにせよ、人間を指導するのだから、それなりの人格者と思いやす
い。

 しかし教師とて、サラリーマン。サラリーマンであるというのが悪いというのではない。
しかし現実に、たとえば大学の卒業という時点においては、ほかの学生と、ちがう点は、
どこにもない。とくにすぐれた人格者が、教師になるというわけではない。

 が、教壇に立ったとたん、「先生」と呼ばれる。教師自身も、「自分は先生」と、気負う。
この気負いの中から、いわゆる反動形成が始まる。(そうであってはいけない自分)を、こ
とさら、演出するようになる。「反動形成」というのは、本来の自分を偽りながら、それと
は別の人格を形成することをいう。

 教会の牧師が、ことさらセックスの話を嫌ってみせたりするのが、その一例である。あ
るいは長男、長女が、親の前では、下の弟や妹に対して、ものわかりのよい兄や姉を演ず
るのがそれである。

 こうして教師は、自分の中に、二重構造性をもつようになる。三重構造性でも、四重構
造性でもよい。要するに、自分をごまかして生きるようになる。

 たとえば教師の世界には、教師言葉というのがある。奥歯にものがはさまったような、
遠まわしな言い方の言葉をいう。学習面に問題がある子どもでも、「君は、学習面で問題が
ある」とは言わない。言えば、たいへんなことになる。

 そこで教師は、独特の言い方をする。「君は、運動面では、すばらしい。勉強も、同じよ
うにがんばってみなさい」と。親から、「どうしてうちの子は、勉強ができないのでしょう?」
と、聞かれたときもそうだ。

 決して、「お宅の子は、頭が悪いから」とは言わない。言えば、たいへんなことになる。

 そこで教師は、あれこれ指導方法を話したあと、こう言う。「本気を出してくれれば、も
っと伸びるのですが、まだ本気ではないようですね」とか。あるいは「私の指導能力の足
りなさが原因です。ごめんなさい」とか言うかもしれない。

 こういうことを繰りかえしているうちに、教師は、どこからどこまでが(本当の自分)
で、どこから先が、(営業用の顔)か、わからなくなってしまう。

 しかしこれは、教師にとって、きわめて危険なことでもある。へたをすれば、人格が分
離してしまう。実は、このことは、私が経験したことである。

(私のばあい)

 私が自分の中の多面性に気づいたのは、30歳くらいのときのことではなかったか。私
は、そのころ、子どもに教えることについて、毎回、ものすごい疲労感を覚えるようにな
っていた。

 原因は、すぐわかった。私は、参観する親の前で、いつも別の「私」を、演じていた。「よ
い教師でいよう」「よい教師に見せよう」という、気負いばかりが先行していた。いわば教
室という場で、私はいつも演技をしていた。

 だから親たちの評判は、それなりによかった。しかしそのうち、自分の子どもに対する
態度と、他人の子どもに対する態度が、ちがうことに気づいた。本来の私は、ぞんざいで、
乱暴。いいかげんで、ずぼら。怠け者で、めんどうくさがり屋。

 その私が、教室では、品行方正の聖人を装っていたのだから、たまらない。こんなこと
があった。

 私が「道路を歩いていたら、お金が落ちていました。あなたは、そのお金を拾いました。
拾ったお金は、どうしますか?」と、子どもたち(幼稚園児)に聞いたところ、みなは、「交
番へ届ける」などと答えた。

 が、一人だけだが、「もらっちゃうよオ」と言った子どもがいた。私は、その子どもを見
つめながら、どうしても、その子どもを叱ることができなかった。学生時代、私は、拾っ
たお金を、使ってしまったことがある。

 そのとき、私は気がついた。「もらっちゃうよオ」と答えた子どものほうが、ずっと私に
近いことを、である。が、表面的には、いかにもそういうことはしませんというような顔
をして、「拾ったお金は、交番へ届けましょう」などと、言う。しかし本当の私は、そんな
ことを、するだろうか。

 いや、その少し前、本当に、サイフを拾ったことがある。が、そのときは、たまたま私
の息子がそばにいたので、その持ち主に電話をして、サイフを取りに来てもらった。もし
息子が見ていなかったら、サイフを自分のものにしてしまっていたかもしれない。自信が
なかった。

 こうした矛盾が、無数に重なり始めた。私が、はげしい疲労感を覚えるようになったの
は、そのためだったと思う。

(居直なおり)

 私は、あるときから、自分に居なおり始めた。「ええい、ままよ」とか、「どうにでもな
れ」という心境になった。ありのままをさらけ出すことに、努めた。が、しかしそれには
大前提がある。

 さらけ出してもよいような土台を作っておかねばならない。その土台もないまま、さら
け出してしまったら、それこそ、たいへんなことになる。もともと、私の「性(しょう)」
は、それほどよくない。育ちも育ちだし、戦後直後に生まれた団塊の世代でもある。

 言うなれば、戦後のドサクサの中で、私は、生まれ育った。

 小ズルくて、道徳心や倫理観に欠けていた。忠誠心も弱かった。生活力はそれなりにあ
ったが、どこか無鉄砲。計算高く、功利主義。その上、利己的で、自分勝手。わがまま。
なお一層悪いことに、短気で、けんか早い。暴力的で、すぐキレる。

 まさに言いことなし。加えて、スケベ。(これはおまけ。)

 だから一時期は、それなりに努力した。座禅をするために禅道場へ通ってみたこともあ
る。仏教やキリスト教も、それなりにかじった。しかしどれも中途半端なまま、終わって
しまった。
 
 そういう私が、親の前では、聖人づらをしていた。そしてその仮面を、あえて脱ごうと
していた。今から思うと、実に、それはおかしなことだった。いや、本当の理由は、その
ころ、私は偏頭痛に悩まされていた。神経を使う分だけ、脳みそが影響を受けた。

 そういったこともあって、私は、できるだけ、ありのままの自分をさらけ出そうとした。
飾らない、偽らない、ウソをつかない、など。こうして自分のことを、ウソ隔しなく、書
くようになったのも、そのひとつということになる。

++++++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書きました。
私の学生時代の経験です。

++++++++++++++++++++

●善人ぶる

 私はいつから、こうまで善人ぶるようになったのか。とくにそれを強く感ずるのは、講
演に招かれたときだ。講師として、演壇の横にすわり、紹介されるのを待つ。主催者のあ
いさつのあと、講師紹介が始まり、そしてそれが終わると、演壇に登る。そのとき、私は、
ふと、「どうして私がここにいるのか」と思う。

 善人ぶることなら、だれにだってできる。簡単なことだ。それほど大きな努力はいらな
い。さも知っているという顔をして、柔和な笑みを浮かべ、静かにしていればよい。何か
を聞かれても、きれいごとだけを並べていればよい。

しかし本当にむずかしいのは、自分の中の悪と戦うことだ。堕落(だらく)から、身を
守ることだ。あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう書いている。「善をなすには、
努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」と。

前にも書いたが、よいことをするから、善人というわけではない。悪いことをしないか
ら、善人というわけでもない。人は、悪と戦って、はじめて善人になる。

 たとえば道路に、大金の入っているサイフが落ちていたとする。一〇〇万円とか二〇〇
万円でよい。まわりにはだれもいない。あなたがそれをもって帰っても、見つかることは、
まず、ない。しかもあなたは今、お金に窮している。その日に食べる食事代もない。そう
いうとき、あなたは自分の中の邪悪さと戦うことができるか。それが、ここでいう「悪と
戦う」ということである。

 こうした悪と戦う場面は、実は、日常生活の中では、頻繁(ひんぱん)に起こる。そう
いう意味では、人間はまさに社会的な動物である。人と会っただけで、いつもそういう立
場に立たされる。

そこで大切なことは、まずささいな悪と戦ってみる。ウソをつかない。ゴミを捨てない。
ルールを守る。インチキをしない。そういうささいな戦いを通して、戦い方を身につけ
る。自分を鍛える。私のばあい、いちいち考えて行動するのがめんどうだから、自分で
教条的に、それを決めて従うようにしている。

たとえばウソにしても、一度ウソをつくと、あとがたいへん。つじつまを合わせるため
に、つぎつぎとウソをつかねばならない。気をめぐらさなければならない。考える力が
あったら、もっとほかのことに使いたいという思いもある。だからウソはつかない。が、
それでももし、大金の入ったサイフが落ちていたら……。

 そんな「私」を知るひとつの手がかりとして、こんな事件があった。

 私が大学三年生のときのこと。夜、バス停でバスを待っていると、足もとに1000円
札が落ちているのに気がついた。私はとっさに、なぜそうしたかはわからないが、それを
足で踏みつけて隠した。

うしろはたまたま交番だった。私はそのままの姿勢で、じっと立った。今でもそのとき
の気持ちをよく覚えているが、私はそれを、何かのワナではないかと思った。手でつか
んだとたん、うしろから警官がやってきて、「逮捕する」とか何とか。私はつぎつぎとや
ってくるバスを見送りながら、時間にして、30〜40分はそのまま立っていた。

 1000円といっても、今でいう、5000円ほどの価値がある。その上、当時の私は
貧乏学生。一度でよいから、あのトンチャン(焼肉)を、腹いっぱい食べてみたいと思っ
ていた。

が、どうしても手をのばしてそれを拾うことができなかった。私は法科の学生だった。
そういう自負心もあった。だからそのまま立っていた。が、多分、不自然な位置だった
と思う。あとから並んだ人が、けげんそうな顔つきで私をながめながら、横を通り過ぎ、
バスに乗り込んでいったのを覚えている。

 私は善人か。それとも善人ではないか。そこでこういう話を、中学生にぶつけてみた。「君
たち、交番の前で、5000円を拾ったら、どうする?」と。6人の中学生がいた。する
と、全員が、「交番に届ける!」と。そこですかさず、「君たちは、本気か? きれいごと
を言っているだけではないのか?」と聞くと、また「交番へ届ける!」と。ひとり、「どう
せそういうお金は、自分のものになるよ」と。

 そこでまた私は考えてしまった。中学生でもわかる論理が、当時の私にはわからなかっ
たのか、と。いや、頭の中でシミュレーションするのと、実際、そういう立場に立たされ
るのとでは、受けとめ方はまるでちがう。中学生の言葉をそのまま信ずることもできない。

そこで話を変えて、「1000円だったら、どうする?」「500円だったら、どうする?」
と聞いてみた。すると、「1000円なら、もらってしまうかな」「100円だったら、
ぼくのものする」と。どうやら、こうした善悪は、金額によって決まるようだ。……と
いうことは、彼らがもっている論理は、倫理ではない。

 それが倫理であるかどうかは、つまりその人の行動規範であるかどうかは、人が見てい
るとか、見ていないとかいうこととは関係ない。このケースで言えば、金額の大小ではな
い。あくまでも自分の問題なのだ。

たとえばゴミにしても、「大きなゴミは、道路に捨てないが、小さなゴミなら捨てる」と
いうのは、倫理ではない。たとえガムの食べかすでも、道路へ捨てない。そういうふう
に、自分を律する力が、倫理なのだ。

 私はしかし、中学生たちが、「1000円なら、拾ってもらってしまうかな」と言ったと
き、正直言って、ほっとした。理由は簡単だ。

 私はそのあと、うしろの交番に目をやりながら、その1000円札を拾って、すかさず
自分のポケットにつっこんだ。そしてあとは一目散に、その場を走って逃げた。うれしか
った。本当にうれしかった。そして私は今でも、はっきりと思えているが、その1000
円で、喫茶店でお茶を飲んだあと、あのトンチャン屋へ足を運んだ。ライスが100円。
トンチャンが一皿、150円。それを腹いっぱい食べた。

 そんな私が、今、善人ぶって、みなの前に立つ……? いつか私を講演会で見る人がい
たら、ぜひ、このエッセーを思い出してみてほしい。そしてこう思ってほしい。「あの、林
め、偉そうな顔して、善人ぶっているが、どうしてあんな男が、ここにいるのか?」と。

そう思ってもらったほうが、私にとっては、ずっと気が楽になる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●教師の二重人格性

 教育の世界では、本音を言ったら、おしまい。本音を言うことは、許されない。
 
 しかし教職の世界から去った人、退職した人は、別である。私の友人のF氏は、最近、
20年以上勤めた、進学塾の講師の仕事をやめた。私に、こう言った。

 「二度としたくない。あんな仕事、こりごりだ」と。

 公立学校の教師のばあいは、まだ、恵まれている。一般公務員の20%ましの給料と、
退職金、それに高額な年金が保証されている。60歳で定年退職してからも、たいていの
教師は、天下り先へと再就職していく。つまりそれなりに、まだ、魅力がある。

 しかしそれでも、(あるいは、だからと言うべきか)、本音を言うことは許されない。一
応、それらしい様子を見せなければならない。つまり、ここで、(本当の自分)と、(仮面
としての自分)が、遊離し始める。

 最初のころは、「それも教育技術のひとつ」と、納得する。割りきる。私にも、こんな経
験がある。

 20代のはじめ。園長の声がかりで、公開授業をすることになった。その日だけは、う
しろに、園の教師以下、ずらりと父母が並んだ。

 そんなとき、数人の子どもたちが、席につかず、勝手に騒ぎだした。今でいう、ADH
D児である。そして数人が、たがいにかけあいながら、私の授業を破壊し始めた。当時は
まだADHD児に対する知識と理解が、ほとんどなかった。

 おかげで私の公開授業は、メチャメチャ。数日かけて用意した教材も、すべてムダにな
ってしまった。(実際には、思ったような授業ができず、消化しきれなかった。)

 そんな苦い経験がある。

 で、最近(04年)、ある小学校で、教師を対象にした研究会の講師として招かれた。そ
の席で、私に、こう質問した教師がいた。あの日の公開授業の話をしたあとのことだった。

 「そのとき、ADHD児について、先生(私)は、どう思いましたか?」と。

 私は一瞬ためらったあと、しかし、率直に、こう言った。「うらみました」と。

 すると会場は、シーンとなったが、そのあと、ドッと爆笑が起きた。つまり、それが学
校の教師たちの、本音ということになる。

 実際、あの公開授業のときは、その子どもたちを、私はうらんだ。本当に、うらんだ。
その子どもの立場でものを考えるということができなかった。その心の余裕も、なかった。

 で、基本的には、その本音は、今も、生きている。ないとは、言わない。

 教師には、「指導する」という義務がある。それはわかる。しかし同時に、「自分の教育
をしたい」という願いもある。ADHD児を指導するという問題と、自分のしたい授業を
するというのは、まったくの別次元の話である。(だからといって、ADHD児を嫌ってい
るということではない。誤解のないように!)

 つまり「指導」と「教育」のはざまで、教師はいつも、悩み、苦しむ。本音を隠し、建
て前で生きる。それを繰りかえす。繰りかえすうちに、ここでいう二重人格性ができる。

 実際、子どもを指導していると、いつも心のどこかで、それに耐えている自分を知る。
がまんしている自分を知る。言いたいことも言えず、したいこともできず……。上からの
命令に、ただひたすら、静かに従う……。

 このがまんが限界へきたとき、教師は、思わず、こう叫びたくなる。「バカヤロー!」と。
しかしもちろん、それを言ったら、おしまい。だからにこやかに笑いながら、「そうですね
エ」と、相づちを打つ。それですます。

 こうした二重人格性は、教職にある者の、宿命のようなものかもしれない。器用な教師
は、それらをうまく使い分ける。そうでない教師は、……。この先は、別のところで、考
えてみたい。 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ワイフの呼び方

 今日、I氏(ある小学校の教頭)が、「林さんは、奥さんを何と、呼んでいますか?」と
聞いた。私は、「ワイフです」と言ったが、どうもしっくりこない。

 私のオーストラリアの友人の父親は、いつも奥さんを、「フレッド」と呼んでいた。フレ
ンド(友)の「フレッド」である。

 すばらしい言い方だと思う。奥さんを、「フレッド」と呼ぶ!

 そこで私も、そろそろ、ワイフを「ワイフ」と書くのをやめようかと思う。直接には、「晃
子」と、「ママ」とか、そういうふうに呼んでいる。が、私が書く文章の中では、「ワイフ」
丑」と書くのをやめようかと思う。

 では、何と書くか?

 私は、「フレッド」がよいと思う。

 しかしフレッドと書いたとき、新しい読者には、それがわからない。だからフレッド(ワ
イフ)と書かねばならない。どうしたものか? ワイフは、ワイフか?

 そのことを今日、電車の中で、ワイフに話すと、ワイフも、少し困ったような顔をして
いた。「フレッドねえ……?」と。

私「でも、お前は、ぼくの親友だよ」
ワイフ「それはわかるけどオ……」
私「妻とか、ワイフとか、そういう存在ではなく、親友だよ」
ワイフ「でも、私は、ワイフのままでいいわ」と。

 「ワイフ」と言うと、何かしら、そこに上下関係を感じてしまう。役割のちがいを感じ
てしまう。が、「フレッド」には、それがない。そこで今夜から、こう決めた。

 これからは、ワイフを、「フレッド」と呼ぶ。決めた!

 私のような、どこかおかしな男のために、がんばってくれたフレッド、ありがとう!
 私のような、たいへん気難しい男のために、がまんを重ねてくれたフレッド、ありがと
う!

 ……しかし、フレッドというと、どこか、犬の名前みたい……???

 やはり、ワイフのままでいこうか。明日の朝、またゆっくりと、考えてみる。感謝の気
持ちだけは、そのままで……。


●12月4日、朝のTBS・iNewsより

 毎朝、起きると、まずパソコンに電源を入れ、インターネットであちこちのニュースサ
イトで、ニュースを読む。

 今朝のTBS・i・Newsの「社会面」は、こうなっていた。(★印が、見出し、以下、
私のコメント。)

+++++++++++++++

★1億円献金、元会計責任者に有罪
 
 肝心のH元首相は、「記憶にないが、事実なんだろう」(11・30)と逃げてしまった。
1億円も受け取りながら、「記憶にない」は、ない。それとも、1億円など、H元首相には、
記憶にも残らないよいうような、ハシタ金(?)なのか?

★U銀行、隠ぺいに役員用エレベータ使用

 U銀行による、監査資料隠ぺい工作は、組織ぐるみだった。しかもトップダウンの命令
によるものだった。が、それほどまでにして、U銀行のトップたちは、何を守ろうとして
いたのか。名誉か、地位か、それとも、権益か?

★GY建設社長、本社で飛び降り自殺か

 飛び降りた社長は、私と同年齢だった。おかしなもので、「同年齢」と聞いただけで、
何かと、同情してしまう。遺書らしいメモも社長室に残っていたという。社長業というの
は、想像を絶するほど、わずらわしい仕事らしい。「静かに自分を考える時間など、ぜっ
たいにない」とは、K氏(H市内で、同じく社長業をしている)の言葉。

★六本木でベトナム系米人社長殺される

 酒と金のにおいが、プンプンする事件。私は、酒は一滴も飲めないし、酒のにおいが、
大嫌い。六本木も、15年前に行ったことがあるだけ。ゴーゴーと車が走る大通り。それ
につながる無数の、路地。「ああいうところで事件は起きたんだろうな」と思うが、それ
以上にコメントが浮かんでこない。「ベトナム系米人」というだけで、何となく、麻薬が
らみににおいもする。しかしこれは私のゆがんだ憶測か?

★六本木社長殺害、現場に不審な白い車

 上に同じ。

★強盗被害の信金に謝罪文と現金届く

 ときに人は、自分の過去に苦しむ。人生の汚点が、加齢とともに、心をふさぐようにな
る。銀行強盗のような大罪は別として、だれしも、そうした無数の思い出を引きずりなが
ら、毎日を懸命に生きている。その男も、そうだったのか。毎日、「いつ、つかまるのか」
とビクビクして暮らしていたのかもしれない。それがこわくて先手を取った……とも、考
えられる。本当に反省したから、お金を返したとは、私には思いにくい。

★オレオレ詐欺対策、改正本人確認法成立

 被害者の大半は、老人だという。先日、ワイフと、「うちも、そろそろオレオレ詐欺の
電話がかかってくるかもしれないから、気をつけよう」と、相談したばかり。とりあえず、
ナンバー非通知の電話は、受信しないように設定した。ほかにも……(防犯上の対策なの
で、省略)。

★オレオレ詐欺電話マニュアルを入手

 自分で考えてするならまだしも、マニュアルまであったとは! 「フーン」と思っただ
けで、おしまい。そう言えば、私の家にも、ときどき、あやしげな架空請求書が届く。ど
れも文面がよく似ている。つまり、ほかの架空請求書を、マネをしているだけ。しょせん、
そのレベルの人たちがする、詐欺である。底(能力)が知れている。

★女児殺害、殺害から放置までに時間

 このところ、この事件だけは、気になる。いろいろな証拠も残っているし、目撃情報も
多いという。犯人逮捕は、時間の問題。殺人事件というよりは、猟奇事件。ある身内の女
性は、テレビで、インタビューに答えて、こう言っていた。「八つ裂きにしてやりたい」
と。その気持ちは、私も同じ。毎日、新聞を開くと、まず、この事件の関連記事をさがす。
犯人の血液型なども、わかってきたようだ。あと、一歩。捜査員のみなさん、どうか、が
んばってほしい。

★横浜の小学校で「連れ去り防止訓練

 上に、同じ。

★品川区は小学生に警報発信機を配布

 上に、同じ。

★東京都、M物産の入札参加資格を停止

 国際的な大企業だから、清廉潔白というのは、まっかなウソ。元M物産の社員だった私
が、そう言うのだから、まちがいない。どこかの商社マンも、こう言っていた。「まとも
な商売で稼ぐ額など、知れている」と。

★医療事故で虚偽報告、院長を書類送検

 昔は、「白い巨塔」とも呼ばれ、医療の世界に、操作のメスが入ることは、まずなかっ
た。メスが入っても、被害者側の証人に立つ医師がいなかった。みながみな、それぞれを
かばいあった。学生時代、模擬裁判劇で、この問題を取りあげたことがある。テーマは、
北海道のS医大で行われた、心臓移植事件。医療か、それとも殺人か、と。が、最近は、
少しだが、こうしたメスが、白い巨塔にも、入るようになったらしい。

★高速券偽造団、ハイウェイカードも偽造

 額がちがうというか、偽造したカードの枚数がちがう。何でも数百万枚だったという。
それにしても、スゴイ! 

★福井で犯歴漏らした警官を書類送検

 ありそうで、今まで、なかった(?)事件。

★誤って設置の標識に基づき反則金徴収

 街中には、「?」と思うような標識は、多い。たとえば私の教室の前の四つ角は、右折
禁止になっている。しかしどう考えても、その理由がわからない。ごくふつうの四つ角で
ある。そのため、そんな標識を守る人はいない。で、ときどき、婦警がやってきて、それ
を取り締まる。一度、私の教室へ来ている子どもの母親が、つかまったことがある。走り
よっていって、「どうしてここが右折禁止なのですか?」と私が聞くと、「標識がありま
すから」とのこと。まったく理由になっていなかった。

★千葉の郵便局に車突っ込む、2人ケガ

 郵便局に突っ込んだから、ニュースになった(?)。

★文科省係長が大臣印偽造し賞状発行

 正直に……。私も、何だかんだと、いろいろな賞状をもらったことがあるが、それらは、
すべて、そのままゴミ箱へ。今は……こうして思い出してみても、一枚も残っていない…
…。ただし息子たちの賞状は、別。ワイフが、こまめに保存している。が、肝心の息子た
ちは、私と同じ。見向きもしない。賞状というのは、そういうものか……。そう言えば、
どこかの会社の事務室などには、無数の賞状が、これ見よがしに、飾ってある。「私なら、
最重要のもの一枚だけにするのに……」と、そういうとき、思う。しかしこれはいらぬ節
介。

★君が代斉唱反対した元教諭を在宅起訴

 反対するのは、個人の自由。しかしそれを、公的な立場で、しかも公的な行事の最中に、
実力行使までして表現するのは、別問題。が、もともとあの「君が代」には、問題も多い。
K首相は、「君が代」の「君」は、国民のことだと苦しい言い訳をしたことがあるが、「君
が代」の「君」は、天皇のことである。歌詞を読めば、だれにでもわかる。だから反対す
る人も多い。

しかしどうしてこうまでみな、国歌にこだわるのか。支持する人も、反対する人も……。
歌ったから、愛国者ということでもないだろう。歌わなかったから、愛国者でないとい
うことでもないだろう。

いっそのこと、愛国者かどうかをわかりやすくするために、日本人も、ぜんいん、君が
代バッジを胸につけるようにしてみたらどうだろうか。あのK国の人たちのように……。
位の高い人は、金縁バッジ。その下が銀縁バッジ。私のような平民は、銅縁バッジ。バ
ッジをつけてない日本人は、即刻逮捕。投獄。おまけに処刑!

 バッジがまずいなら、スカーフでもよい。あるいは毎朝、皇居のほうに向って、三拝九
拝するのもよい。

 要するに、「愛国」のシンボルなど、何でもよいということ。宗教団体では、本尊が、
信仰のシンボルになる。そう言えば、どこかの会社では、毎日、社歌を、仕事のはじめに
みなで、歌っている。

 どうして国歌なのかという問題をつきつめていくと、わけがわからなくなる。


★警視庁警部補を収賄の疑いで逮捕

 よくある事件。

★ひったくり容疑で男逮捕、余罪を追及

 よくある事件。

★全国で飲酒運転の一斉取り締まり

 また始まった、年末恒例の、一斉取り締まり。今年も、あと1か月。早いものだ。

★横浜に災害用地下給水タンク完成

 防火用? 飲料用? 見出しだけ読んで、おしまい。そう言えば、私の家の近くの公園
にも、それらしき防火用の地下タンクが、いくつか埋め込んである。今、思い出した……。
しかしあんなの本当に、役に立つのだろうか? たとえばH市の中心部に、Aタワーなる、
40数階建てのビルがある。その屋上に、防災用のヘリポートがある。その建設費用だけ
で数億円。(私は30億円と聞いているが……。)

市民の批判に答えて、市の職員は、こう答えていた(地元テレビ)。「地震などの災害
時には、あのヘリポートを使って、ケガ人を運んだり、救援物質をおろしたりします」
と。しかしものごとは、もう少し、常識で考えてみようではないか。

災害時には、エレベーターは使えない。地震だったら、いつまた余震が起こるかもしれ
ない。そんなとき、40数階もの階段をのぼりおりして、ケガ人や救援物質を運んだり
する人がいるのだろうか。何となく、横浜の災害用地下給水タンクも、そんな発想で生
まれたような気がするが……。記事の中身は、読んでないので、ごめん。


●次期パソコン

次期パソコンの選定期に入った。ワイフも、それらしく言い出した。「それらしく」とい
うのは、何となく、「しかたないわね」といった雰囲気になってきたということ。どうや
ら、新しいパソコンを、買ってもらえそうだ。

 言い忘れたが、我が家では、お金の管理は、すべてワイフ様がしている。私は、一日、
1000〜2000円の小遣いをもらうだけ。パソコンのような高額なものは、ワイフ様
の承諾と、承認がないと、買ってもらえない。

 まず、今のパソコンの不便な点を、いくつか並べる。(どうせ、ワイフには、パソコンの
ことはわからない。シメシメ……。)

 「処理能力が遅い」
 「メモリーが少ない」
 「最新のゲームができない」とか。

 するとワイフが、「それじゃあ、しかたないわね」とか言い出す。そうなれば、あとは簡
単。いろいろなパソコンのカタログを見せながら、「これはすごいよ」「これなら、あのゲ
ームができるよ」とか言う。

 こうしてムードをもりあげていきながら、「そろそろ買いかえの時期だよね」と話す。す
るとワイフ様は、「そうね」と言いだす。つまり、今が、その時期。

ワイフ「どんなのがいいの?」
私「PEN4の3ギガ・ヘルツね。WINDOWのSP2は、常識。メモリーは、1ギガ
バイト。あと、グラフィックボードは、……」
ワイフ「フ〜ン」
私「すごいんだよ」と。

 以下、まじめな話。

 今、検討しているのが、S社のパソコン。自作も考えたが、あとのメインテナンスにど
うしても、自信がもてない。何度かその筋の店に足を運んで、相談してみた。が、相談す
るたびに、どんどんと自信がなくなっていく。

 そこでセミ・自作というか、純正のメーカー品ではないが、自作的に、オーダーメイド
できるパソコンにした。それを扱っているのが、S社である。値段も安い。液晶モニター
とワープロソフトは別売だが、それなら11万円前後で手に入る。どうやら、今度は、そ
れになりそう。

 毎晩、カタログをながめながら、床につく。しかしこの時期が、一番、楽しい。買って
しまうと、楽しみがなくなる。

(補記)

 そんなわけで、つまり毎年のように新しいパソコンを買っているため、私の書斎の中に
は、古いパソコンが、ゴロゴロしている。

 ワイフは、「古いのは、処分したら?」と言う。しかし私には、それができない。先日も、
理由を聞かれたので、こう答えた。

 「買ったときの喜びを、指先が覚えていてね、どうしても手放せないんだよ」と。

 今でこそ、パソコンも値段が安くなった。しかし少し前までは、20〜25万円が相場。
買うにしても、かなりの覚悟が必要だった。そういう思いが、心のどこかに残っている。
そして買ったときの喜びというか、感動が、それぞれのパソコンに残っている! しみこ
んでいる!

 ワイフなどは、パソコンを、「ただの電気製品」と思っているらしいが、パソコンは、決
して、ただの電気製品ではない。……と、思っている。


●被害妄想

 ありもしない恐怖や脅威を、ことさら心の中で肥大化させ、被害者意識をもつ。それを
被害妄想という。

 その被害妄想にも、いろいろある。

 よく知られた例に、追跡妄想や被毒妄想がある。追跡妄想というのは、いつもだれかに
追跡されているのではないかという、妄想観念をいう。被毒妄想というのは、だれかに毒
をもられているのではないかという、妄想観念をいう。

 しかし、こういう被害妄想もある。

 X氏(65歳)は、ある日、隣のY氏(50歳)と、けんかした。「お前は、いつもオレ
のうちをのぞいている!」「のぞいていない!」と。

 X氏は、それをさかのぼること、数年前から、隣のY氏が気になり始めた。最初のきっ
かけは、ささいなことだったというが、それについては、私は知らない。

 そこでX氏は、自分の家のまわりに木を植えた。しかし冬になると、葉が落ちる。そこ
でブロックの塀の内側に、さらに、木の塀をとりつけた。

 が、それでは足りない(?)。今度は、X氏は、Y氏の家に面している窓ガラスを、すべ
てすりガラス(型ガラス)にかえた。部屋のすべてに、厚手のカーテンをつけ、さらに、
家の中で電気をつけるときは、雨戸をすべて閉めるようになった。

 被害妄想である。

 Y氏は、私が知るところ、隣の家をのぞくような人ではない。だいたいにおいて、X氏
の家など、のぞいてもしかたない。X氏は、妻と2人暮らし。

 ……と、このように、「家の中をのぞかれている」「いつも監視されている」というよう
な、妄想観念をもつことを、注察妄想という。この注察妄想をもつ人は、多い。

 Aさん(45歳、女性)も、そうだ。「道をはさんだ、向かいのBさん(女性)が、私の
家をいつも監視している」と、悩んでいる。

 が、それだけではない。ある日、私にこう言った。

 「私が、新しいバックででかけるとき、Bさんが、『いつも、新しいバックを買って、バ
カみたい』と言って笑っています」と。

 しかしこの話は、おかしい。Aさんは、どうしてBさんが、そう言っているのを知った
のか? そこで私が、「本当にBさんが、そんなこと言っているのですか?」と聞くと、「私
には、Aさんの言っている声が、聞こえます。目つきや、顔の表情を見れば、それがわか
ります」と。

 こうした被害妄想は、つぎつぎと、新しい妄想観念を生む。そしてあとは、底なしの妄
想地獄。

「では、どうしたらいいか?」ということになるが、脳の機能の問題とからんでいるだ
けに、ことは簡単ではない。先のX氏にしても、Aさんにしても、どこか、うつ病的。
X氏は、異常に几帳面(きとうめん)なところがあるし、Aさんは、反対に、生活習慣
が、きわめて怠惰(たいだ)。だらしない。日常の生活そのものが、ふつうではない。

 言いかえると、被害妄想をもちやすい人は、あらゆる面で、そうした妄想観念をもちや
すい。大切なのは、まず、自分がそうであることを知ること。日ごろから、思い過ごしや、
取り越し苦労をしやすい人は、それだけ被害妄想をもちやすいということになる。

 もちろんうつ病タイプの人は。要注意! あれこれと悶々と悩み始めたら、できるだけ
早く、気分転換をしたほうがよい。そしてそのことを忘れる……。

 (しかし実際には、忘れようとすればするほど、かえって、深みにはまってしまう。私
のばあいは、周囲の状況や、自分の心の中を、徹底的に分析することで、こうした妄想観
念と戦うようにしている。わかりやすく言えば、相手を乗り越えるということ。相手が、
自分よりバカに見えたとき、はじめて、その妄想観念から抜け出ることができる。)

 どんな人でも、ふとしたことから、妄想観念をもちやすい。そしてそれが被害妄想にな
り、ここでいう注察妄想になったりする。くれぐれも、ご注意!

 ちなみに、広辞苑には、こうある。

 被害妄想……自分が他から迫害されていると信ずる妄想。多くは精神分裂病に見られる、
と。ゾーッ!
(はやし浩司 妄想 被害妄想 被毒妄想 追跡妄想 注察妄想 妄想観念)



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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○      
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 1月 3日(No.511)
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あけまして、おめでとうございます!

今年も、1000号をめざして、がんばります。よろしくお願いします。
今回は、511号です!!!

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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525


【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ファザコン

 マザコンばかりが、話題になる。しかし世の中には、ファザコンというのもある。父親
の強い影響下におかれ、自立できない子どもをいう。ふつうは、父と娘の関係で、娘がフ
ァザコンになることが多い。

 「子どものころから、結婚するなら、父親のようなタイプの人」と言っていた女性が、
昔、いた。

 で、C県に住んでいる、J氏という男性から、こんなメールが届いた。

 「妻は、いつも、私に、すばらしい男性を求めます。妻の父親が、すばらしい人だった
からです。それはわかりますが、私は、妻の期待にこたえるだけで、精一杯。疲れます」(要
約)と。

 J氏の妻は、ことあるごとに、理想的な父親像を、J氏に求めるという。ふだんは、そ
れなりにうまくいくものの、J氏が、何かのことでつまずいたりすると、「あんたは、だら
しない」「父親らしくない」と言う、と。

 夫のマザコンについては、よく知られている。しかし妻の、ファザコンについては、よ
く知られていない。しかしことは、同じくらい、深刻。重大。

 ファザコンタイプの妻は、J氏の妻のように、ことあるごとに、理想的な男性像を、夫
に求めようとする。夫を、父親の代用品にしようとする。そのため、夫は、妻の前で、泣
くことはおろか、弱音を吐くことすら、許されない。病気になることも、許されない。何
かあると、妻は、即、離婚と、身構える。

 こうした関係が、家庭の中に、ある種独特の、緊張感を生む。しかしこうした緊張感に
は、長くは、耐えられない。夫も、妻も、である。つまり、その先は、離婚ということに
なる。

 つまり一般論として、マザコン男性ほど、浮気率が高くなると言われている。離婚率も、
高くなると言われている。いつも、理想のマドンナ(母親のような聖母)を、女性に求め
ようとするからである。が、そんなマドンナは、そうはいない。だからこのタイプの男性
は、女性から女性へと、渡り歩くことになる。

 反対に、ファザコン女性ほど、浮気率については知らないが、同じような理由で、当然、
離婚率は高くなると思われる。(あくまでも、推察だが……。)

 そのファザコン女性は、独特の考え方をする。「男のクセに……」「男らしく……」「男な
ら……」と。さらに「夫のクセに……」「夫らしく……」「夫なら……」と。

 そう言えば、「私の夫は、(子どもたちに対して)。ぜんぜん、父親らしくなくて、困りま
す」と、こぼしていた母親もいた。その母親も、心のどこかで、別の父親像を描いていた
のかもしれない。

 しかしこういう妻をもった、夫は、不幸。日常的に、ほかの男性(妻の父親)と比較さ
れつづけるのだから、たまらない。

 ファザコン……この問題については、これからもさらに、考えてみたい。おもしろいテ
ーマだと思う。ちなみに、ヤフーの検索エンジンで、「ファザコン」と検索してみたら、何
と、1万6000件以上も、ページにヒットした。すごい!

+++++++++++++++++++++++

●ファザコン(2)

 ファザコンの女性は、いつも自分の頭の中に、自分の父親を想像しながら、「男」を見る。
自分の父親を基準にして、夫を見る。見るだけならまだしも、夫の中に、自分の父親を求
める。そのため、一般論として、ファザコンの女性は、年上の男性に、心を強くひかれる
という。同年齢の男性には、興味を示さない。「同年齢の男は、つまらない」「おもしろく
ない」とか言う。

 心理テストの中にも、こんなのがある。

 どこかの山小屋がある。その山小屋にふさわしい、山を背景に描くという心理テストで
ある。昔、何かの本で読んだことがある。

 背景に、おおらかで、丸みをおびた山を描く女性は、ファザコンだという。とげとげし
い、とがった山を描く女性は、父親に対して、はげしい敵意を感じている人だという。山
小屋は、(自分)、背景の山は、(父親像)というわけである。

 しかし、そんなテストなどしなくても、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、
ファザコンか、そうでないか、わかる。

【ファザコン度・診断テスト】

( )「私の父は、いつも男らしく、父親らしかった」と、自慢することが多い。
( )子どものころから、父親の指示には、従順だった。逆らわなかった。
( )子どものころから、父親は、絶対的な存在だった。よき父娘の関係だった。
( )若いときから、同年齢の男性が、頼りなく、つまらなく見えた。
( )結婚相手を考えたとき、迷わず年上の男性を考えた。年下には興味がなかった。
( )若いとき、20〜30歳、年上の男性に、あこがれたことがある。
( )自分は、女性だが、男の子と遊ぶことが多かった。男に生まれればよかったと思う。
( )女性より、男性の気持ちのほうがよく理解できる。みなに、男っぽいと言われる。
( )自分の夫と、父親を比較することが多く、夫にもの足りなさを感ずることが多い。
( )「男らしい……」「男らしく……」という言葉を、よく使う。
( )父親の批判をしたり、批評をしたりする人に対して、猛烈に反発する。

 以上、11個のうち、半数以上当てはまれば、あなたはファザコンタイプの女性とみて
よい。

 もちろん男性にも、ファザコンの人はいる。父親が生きている間は、父親を絶対的な存
在として考え、死んでからは、父親を、徹底的に、美化する。「私の父は、ギリシャ神話の
ゼウスのように偉大だった」と、エッセーに書いていた人がいた。だから、だれかが父親
のことを批判したり、批評したりすると、猛烈に、それに反発したりする。「オレの父の悪
口を言うヤツは、ぜったいに、許さない!」と。

 もっとも、男性のばあいは、マザコンになるケースが、多い。どちらにせよ、つまりフ
ァザコンにせよ、マザコンにせよ、それだけ精神的に自立できない人とみてよい。(一見、
自立しているように見えることもあるが、親の呪縛から、自らを解き放つことができない。)

 では、どうするか?

 まず、自分自身が、そうであることを知る。とくに自己愛的傾向の強い人は、要注意。
自分の本当の姿を見失ったり(自己認識の誤解)、夫や子どもを誤解したりしやすい(他者
認識の誤解)。

 ある夫は、妻に、ある日、こう叫んだという。

 「オレは、お前の父親じゃ、ない! いいかげんにしてくれ!」と。

 女性が、あまりにも偉大な父親をもつのも、考えものである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【不登校の相談】

+++++++++++++++++++++++++++++

 広島県H市に住んでいる、MEさん(母親)から、二男の不登校に
ついて、相談がありました。MEさんから、掲載許可をいただきまし
たので、紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++++

【MEさんから、はやし浩司へ】

 今年の7月10日から二男(小6)のGDが不登校になりました。夏休み明けから、資
料室登校を何日か続けていましたが、狭い資料室で一日を過ごすという異常な学校生活だ
ったためか、なかなか教室に戻ることが出来ずにまた不登校になり、現在に至っておりま
す。

 このホームページを拝見するようになったのは5日ほど前です。書かれてあるとおり、
私は半狂乱になり、どうにか登校してくれるように刺激した結果、底だと思っていた底に
もっと底があり、次々と子どもといっしょに別の底へも落ちていきました。

 私は腹をくくり、……とは言っても、毎日くくった紐はほどけ絞めなおし、それを繰り
返している毎日です。

 二男はテレビゲームとパソコン三昧の怠惰な生活を続けています。幼稚園のころからK
K式、4年生になって中学受験を目標にN研へ変わり、そこそこの成績で地元のトップば
かりを集めた中央の本校へと変わり、広島でも難関の、RA中学、HU附属中を目指して
おりました。

 本人が負担に思っていたのにもかかわらず、バカな親でした。こうした生活からそうな
っていったのではないかと思います。夏休みから、塾は一切やめて、隣町の小学校へ転校
しようとしていたのですがうまくいかず、今では転校しても登校しそうにありません。

 このまま何もせず、ゲーム三昧の日々をだまって見ているのがいいのでしょうか。本人
は毎日「悲しい、僕は僕で悩んでいろいろ考えている、学校へ行くことを考えると緊張す
る」と言います。

 土日は主人とキャッチボールやバッティングセンターに、楽しんでいっていました。先
週主人と小学校で見た、地元のソフトボールチーム(小学生の)に入りたいと言い出して、
今頃から入部してもどうだろうかと思ったのですが、お願いして練習に体験入部させても
らいました。

 やはり、思ったとおりには行かず、4時間の練習時間でしたがすることもわからず、困
惑した状態で終わってしまいました。自信をなくしたようで、翌日は少し荒れていました。
家の中でゴロゴロしているのが、私にはたまらなく耐えられないのですが、それでいいの
でしょうか。
(広島県H市 MEより)

+++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司から、MEさんへ】

 メールの様子からして、つまり二男の方の症状からして、このタイプの不登校は、かな
り長くつづくと思います。半年とか、1年ではなく、数年以上になるということです。

 いただいたメールの中で、もっとも気になるのは、MEさんが、二男の様子について、「怠
けている」という表現を使っておられる点です。

 二男のGD君は、怠けているのではありません。そう見えるだけです。心は、いつも張
りつめた緊張感でおおわれています。その緊張感をほぐすために、やむをえず、自ら心を
いやしているのです。その方法として、テレビゲームをしたり、パソコンをしたりしてい
る……。

 風邪をひいて、家でゴロゴロしている子どもを、あなたは、「怠けている」と言うでしょ
うか。言わないですよね。それと同じです。

 風邪のように、熱が出るとかいう症状がないため、外からはわかりにくいのが、この不
登校の特徴です。(私のHPの不登校の記事を参考にしてください。グーグルか何かで、「は
やし浩司 学校恐怖症」を検索してしてくださると、いくつか、ヒットするはずです。)

 そしてつぎに大切なことは、「なおそう」と思わないこと。「今の状態を、今以上に悪く
しないことだけを考えて、様子をみる」です。

 ときどきこまかい周期(数週間から1か月単位)で、症状が改善したかのように見えた
り、悪くなったかのように見えることがありますが、そういった変化に、一喜一憂しない
こと。半年単位で、様子をみます。

 ……と書くと、「学校はどうする?」「受験はどうする?」となりますね。

 答えは、簡単。あきらめなさい。あきらめるのです。

 MEさんが、「まだ何とかなる」「うちの子にかぎって」と思っている間は、この問題は、
解決しません。MEさんのもっている緊張感が、そのままGD君に伝わってしまうからで
す。この緊張感が、症状を長引かせます。

 この問題は、一見、子どもの問題に見えますが、実は、親の問題です。親自身が、学歴
信仰、学校神話という呪縛から、いかに自分を解き放つかということです。もし今、ME
さんが、(恐らく、そうだろうと思いますが……)、「学校とは行かねばならないところ」「学
校へ行かなければ、うちの子はダメになる」と思っているなら、そういう考えは、捨てる
ことです。

 といっても、簡単なことでないことはよくわかります。カルト教を信じている、信者の
ようなものです。しかもあなたが子どものときから、あなたの親によって、徹底的に叩き
こまれている。そのカルトを体から、抜くことは、たいへんなことです。よくわかってい
ます。しかし、抜くのです。

 この問題は、あなたがそのカルトから抜け出たとき、解決します。今は、カガミの向こ
うの世界のようで、信じられないかもしれませんが、カガミの向こうは、実に広く、ゆっ
たりとした、おおらかな世界です。

 今は、学校だけがすべてという時代ではありません。無数の選択肢も用意されています。
また不登校児になったからすべておしまいというより、むしろ、不登校を起こす子どもほ
うが、(まとも)なのです。

 たしかに原因の一つとして、過負担、親の過剰期待などがあったと思います。いわゆる
子どもが、オーバーヒ−トしてしまったというわけです。燃え尽きたのかもしれません。
あるいは何らかの原因で、集団に対して恐怖心をもったためかもしれません。このあたり
の子どもの心理は、複雑で、簡単には説明できないことが、多いです。

 で、これから先、どうしたらよいかということですが、いくつかのポイントがあります。

(1)おどし、励ましは、タブー。

 「こんなことでは、将来、ダメになる」式のおどし。「がんばれ」式の励ましは、禁物で
す。あくまでも、子どもの立場で、考えます。

 「あなたもつらい思いをしたのね」「よくがんばったのよ」式の、ねぎらいの言葉を多く
かけてあげてください。

(2)ほどよい親、暖かい無視 

 やりすぎず、しかし、やるべきことはする。そして子どもを暖かく、無視する。子ども
が愛情のより所を求めてきたら、すかさず、いとわず、愛情表現をしてあげてください。
添い寝、抱っこなど。

 年齢的にむずかしいかもしれませんが、入浴なども、子どもがいやがらなければ、いっ
しょにしてあげてください。

 症状が改善に向かい始めると、一度、幼児がえりを起こすかもしれません。赤ちゃんぽ
くなって、お母さんのおっぱいを求めるなど。いとわず、応じてあげてください。

(3)キーワード、ターゲットに注意

 子どもがとくにいやがるキーワードなどがあれば、努めて、その話題から遠ざかります。
「受験」、「入試」、「不合格」など。子どもによって、とくに気にしている言葉があります
ので、それについては、触れないようにします。

 またこの時期、子どもは、あれこれ理由らしきことを言いますが、そうした言葉にまど
わされてはいけません。「A君がいじめる」「先生が怒った」など。これをターゲット(標
的)といいます。この時期、子どもが口にする、ターゲットは、いろいろ変化します。

 しかしもともと、理由などないのです。ですから理由を聞いたり、原因をさがしても、
意味はありません。

(4)退屈作戦

 とにかく、退屈にさせます。退屈で、退屈でしかたないといった状況にします。しばら
くすると、子どものほうから、何かアクションが始まります。そのアクションを、じょう
ずに、引き出していきます。

 このタイプの子どもがよく見せる症状は、幼児期からの「成長の再現」です。一度、赤
ちゃんぽくなって、幼児期に使っていた本や玩具を取り出して遊んだりすることがありま
す。そういう意味では、勉強にあけくれた少年期で、幼児期から今の時代に、間が抜け落
ちてしまったのかもしれませんね。

 もし幼児がえり的な現象が見られたら、「ここからやりなおし」と思って、暖かく見守っ
てあげてください。

(5)CA、MGの多い食生活

 わかりやすく言えば、海産物主体の食生活にします。心を安定させるためです。不安や
心配ごとが入り込んでも、動揺しないようにします。リン酸食品などは、避けます。私の
HPのどこかに、詳しく書いておきましたので、また参考にしてください。

 最後になりましたが、MEさん自身の学歴信仰などと戦うためには、私のマガジンを、
また読んでください。ところどころで、それについて書いています。

 お気づきのように、今が、まだ「底」ではありません。ですから、今の状態を悪くしな
いことだけを考えて対処してください。無理は禁物。半日、資料室登校をしたら、「よくが
んばったわね。3時間も行かなくてもいいのよ。2時間で帰ってきなさいよ」と言ってあ
げてください。

 この親の心の余裕が、子どもの心を溶かします。

 あとあと、よい思い出になりますよ。この時期は、遅々として進まないように見えるか
もしれませんが、終わってみれば、あっという間のこと。今こそ、あなたとお子さんの、
暖かいドラマを、しっかりと思い出の中に、刻むときです。

 暗くて長いトンネルに見えるかもしれませんが、終わってみると、あっという間のでき
ごと。この時代を光り輝かせることができるかどうかは、あなたがGD君を信じきったか
どうか、決まります。

 あなたの子どもを信じてあげてください。不登校など、いろいろな問題がありますが、
何でもない問題です。いつか必ず、笑い話になります。「ようし、私も、十字架の一つや二
つ、背負ってやる」「嵐がこなければ、航海もおもしろくない。来るなら、来い!」と、あ
なたも、前向きに、そう怒鳴ってみてください。

 心が、ずっと軽くなりますよ。

 では……。
(はやし浩司 不登校 対処 し方 仕方 対処の仕方 親の心構え 学校恐怖症)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【特集】【2005年は、どんな年になるのか?】

●若者言葉

北九州教職員組合のHPで、「若者言葉」を、紹介している。「ア」行の中から、「これは!」
と思うものを、拾ってみた。半分程度、省略してみたが、「ア」行だけも、これだけある。
日本語というより、私にとっては、もはや外国語。

 興味のある人は、
     http://www.tnk.gr.jp/index.asp
を、訪問してみるとよい。

++++++++++++++++++++++

・あぁ!っせぇ:ムカツク人に言う言葉 
・あ゛ぁ゛〜92年:英語の先生に反発するときに使われる言葉 
・あーね:「ああ、そうね」の意味です 
・アールヴ:箱庭界に最も恐怖を与えるむかつく怪獣、出現した島以外にも影響  
・アウトオブ眼中:異性として眼中にないこと 
・アウトオブ眼中2:1つのことに熱中しすぎること 
・アカマル:赤のマルボロの事 

(60個ほど、割愛)

・アッシー・メッシー・ミツグ君:男の子の使い分け。車の送迎・ごはん作り・お金を貢
ぐなど。 
・あっちゅうま:あっという間の意。おそろしいほど早く物事が片付いたときなど、自慢
をする時に使用する。「こんなのあっちゅうまですよ。」 
・あっちょんぶりけ:驚いたぁ!びっくりぢゃ!ってトキに使うょ 
・あッツル:「あっせる」が変化したもの 
・アッバオアクー:ジオン軍の宇宙要塞のこと 
・アッパッパ:死語に近い?女性の夏用の簡単な日用着のこと。ゆとりのあるワンピース。 
・アッラー:挨拶! 
(以下、「ア」行のうち、後半、約半分を省略)
(北九州教職員組合HP・「若者用語の小事典」より、抜粋、転載)

+++++++++++++++++++++

 こうした若者言葉を、どう考えるか。手っ取り早く、否定するか? それとも受けいれ
るか? 

 もっとも、私たちがどう反応したところで、若者たちは、私たちの言うことなどに、耳
を貸さないだろう。彼らにしてみれば、私たちの意見など、どうでもよいのだ。

 となると、私たちが、それを受けいれるしかない。受けいれて、私たちもまた、彼らの
言葉を、使わなければいけない。しかし、それは可能なのか?

 若者言葉は、これからも、どんどんとふえる。飛躍的に、ふえる。その結果、尾崎豊や、
長淵剛らによって始まった、世代間闘争は、いよいよ最終局面を迎える。つまり、私たち
古い世代は、この日本から、はじき飛ばされるということ。

 2005年、世代間の価値観のズレは、ますます進む。ああああ。


●中国経済

 現在、中国では、年収70万円の人でも、1000万円まで個人の、住宅融資が受けら
れるという。日本でたとえるなら、年収700万円の人が、1億円の融資を受けることに
等しい。

 その結果というか、04年の1〜3月期だけで、固定資産投資(不動産投資)が、前年
同月期と比較しても、43%もふえている。98年から02年までの4年間だけで、中国
商業銀行の貸し出し額は、4・8倍になっている(丸紅経済研究所)。

 まさに、バブル経済。いくら中国経済が好調といっても、こんなバブル経済が、いつま
でもつづくはずがない。で、世界の経済学者たちは、中国経済がバブルかどうかという議
論よりも、「いつ、そのバブルがはじめるか」ということに、関心をもち始めている。

 しかし、今、中国経済がはじけたら、日本にとっても、たいへんなことになる。今、日
本経済は、中国特需で、かろうじて、生きながらえている。04年の前半期(1〜6月期)
だけで、輸出額は、448億ドル。輸入額は、437億ドル(JETRO)。おかげで、日
本の国内企業は、息をふきかえした。

 目が離せない、中国経済。中国の専門家たちは、強気だが、日本の経済専門家たちは、
弱気。「2008年の北京五輪までは、とてももたないだろう」というのが、一致した見方
である。

 私は、経済のことはよくわからないが、05年の、つまり今年1年間は、まだこのバブ
ル経済は、つづくだろうとみている。中国製品も、かなり良質になってきているし、何と
いっても、国内マーケットが大きい。バブル現象が起きているのは、中国でも、都市部の
一部にかぎられている。

 2005年、日本経済は、中国に依存しながら、立ちなおる。


●日米関係

 日本の友人は、アメリカだけという状況は、05年度も、変わらない。K国しだいでは、
日本は、ますますアメリカに依存するようになる。言うまでもなく、軍事面において、で
ある。

 一方、アメリカにとっても、日本は、なくてはならない存在。わかりやすく言えば、日
本は、一生懸命稼いだお金で、アメリカのドルを買い支えてやっている。言うなれば、紙
くずのようになったドルを、一生懸命、日本が、買い支えている。

 もし日本が、アメリカのドルを売りに出すようなことがあれば、そのとき、アメリカの
ドルは暴落し、つづいて、アメリカの経済は、崩壊する。もちろん、日本の東京が、K国
の大量破壊兵器による攻撃を受けたときも、同じ。

 (日本にしても、ドルの価値がさがることは、たいへん困る。ぼう大なドル資産が、目
減りすることになる。)

 そんなことは、世界の常識。ブッシュ大統領だって、そんなことは、百も承知。だから
アメリカは、日本を守らざるをえない。

 つまり、もちつ、もたれつの関係。軍事面で、アメリカは日本を守り、経済面で、日本
は、アメリカを守る。アメリカ国内で、在日米軍不要論が高まっても、また日本国内で、
アメリカ追従政策反対の声が大きくなっても、日米は、たがいに依存せざるをえない。そ
の状態は、2005年もつづく。

 2005年、日米関係は、たがいの依存度をましながら、ますます緊密に行動するよう
になる。


●日韓関係

 このところ、韓国は、日本批判を、急速に高めつつある。意図的というより、国民的な
ものと考えてよい。

 たとえば東亜日報(韓国の新聞)は、ここ数日だけでも、つぎのような記事をトップに
あげている(04・11末)。

☆日本文部科学相「歴史教科書、慰安婦表現が減って良かった」 と発言
☆日本の最高裁「韓国人戦後補償」を棄却、と。

 つまり日本では、マイナーな記事が、韓国では、トップニュースになる。

 その一方で、日本では、韓国の核開発ニュースが、トップになる。が、肝心の韓国は、「日
本だって、何トンものプルトニウムをもっているではないか」と、やりかえす。「騒いでい
るのは、日本だけだ」と。

 もちろんこうした韓国の報道は、日本では、紹介されない。

 つまりたがいに、自分につごうのよい記事だけを報道し、つごうの悪い記事を報道しな
い。意図的というより、たがいの不信感は、想像以上に、根強い。

 ますます反米、親北化する韓国。反日化する韓国。その一方で、対中依存を深め、中国
経済圏への参入をもくろむ韓国。ノ大統領。K国問題も含め、日韓関係は、さらにむずか
しくなる。

 2005年、日韓関係は、表面的な友好関係とは別に、ギクシャクする。何かのきっか
け、たとえばK首相のY国神社参拝などがあれば、急速に悪化する。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●プラモデル

 今度(04・11月下旬)、T社から、「戦艦大和」「戦艦武蔵」のプラモデルが、発売に
なった。模型店はもちろん、コンビニでも売られている。値段は、315円(消費税込み、
市内Jおもちゃ屋)。

 全体で、30センチ近くになるが、それが7分割されている。艦首部に始まり、一番主
砲部、二番主砲部……と。つまり全体をそろえると、300x7、2100円プラス消費
税ということになる。

 さっそく、7部分を、購入。それぞれが、別のパッケージに入っている。

 が、驚いた。本当に、驚いた。私は、(5)の機関部から作り始めたが、細部にわたって
塗装してあるだけではなく、船の内部まで作ってあった。もちろん塗装済み。

 が、それだけではない。煙突もいくつかのパーツに分かれているが、その中の煙管まで
作ってあった。もちろんこれも塗装済み。可動部は、指先で、回すこともできる。

 私はそのプラモデルを組み立てながら、いったい、どういう人たちが、この模型を作っ
ているのかと考えた。箱の側面には、「MADE IN CHINA」とある。中国の人た
ちの安い労働力を使って、作っているのだろう。しかしそれにしても、驚いた。

 こうしたプラモデルの運命は、短い。しばらく机の上などを飾ったあと、子どものおも
ちゃになったりして、やがてこわれる。そしてゴミ。

 私は、ピンセットで砲塔などを取りつけながら、「何というムダなこと……」と、思わず
つぶやいてしまった。

 仮にそのプラモデルを作った人が、若い女工さんだったとする。こんなこまかい作業が
できる人だから、恐らく、10代後半前後の女工さんなのだろう。船の中には、「第二兵員
浴槽室」というのもあって、バスタブには、白く塗装までしてある。

 もしこうした労力と時間を、もっと別のことに使えば、もう少しクリエイティブな仕事
ができるかもしれない。何も、日本の、私のような道楽者のために、ここまで苦労するこ
とはない。しかも値段は、たったの315円!

 いったい、どうなっているのだ! もしこれと同じものを日本で作ったら、楽に100
0円は超えるはず。それに流通コストや利益、それに消費税をのせたら、2000円にな
るかもしれない。

 しかも、そうして苦労して作ったところで、あまり意味はない。あとに何も残らない。
それが芸術につながるということも、ない。

 恐るべし、中国、と言うべきか。と、考えつつ、明治から大正時代にかけての、日本の
女工さんの物語を思い出した。かなりきびしい重労働だったらしい。当時の日本も必死だ
ったが、今の中国も、必死なのだろう。手にしたプラモデルからは、その重みが、ずっし
りと伝わってくる。

 ただ残念なこともある。

 そこまで精密に作られたキットなのだが、ときどき、部品そのものが欠落している。多
分、箱につめるような、何かのときに、入れ忘れたのだろう。(5)の機関部にしても、後
部の高角砲が抜け落ちていた。

 「せっかくここまで作ったのに……」「やっぱり中国らしいね……」と思いつつ、「また
買ってくればいいや」と、自分をなぐさめる。

 HTML版のほうでは、写真を掲載しておく。


●横断歩道で

 横断歩道で、立ち止まって、信号が変わるのを待つ。しかしそんな信号など、守る人は、
今、ほとんどいない。みんな左右を見て、車がこないとわかると、さっさと渡っていく。

 年配の男性も女性も。そして若い人も高校生も!

 そういうのを見ていると、私は、つくづく自分のしていることが、バカらしく思えてく
る。いや、実際、私は、バカだ。

 本当の私は、「バカヤロー」と叫びたい。世界中に向って、そう叫びたい。しかしそうす
ることもできず、毎日、悶々とした気分で、過ごしている。仮面をかぶって、善人ぶって
いるだけ。「私」が、どこにもいない。

 ああ、私も、みなと同じように、赤信号を無視して、横断歩道を渡りたい。めんどうな
ことは考えず、自分の思ったように生きたい。体を、がんじがらめにしているこのクサリ
を、はずしてみたい!

 ときどき、気の小さい自分が、いやになる。勇気もない。度胸もない。毎日が、欲求不
満のかたまり。先日もあれこれムシャクシャしたから、パソコンでも買ってやろうと、街
に出た。

 しかしいざ買うときになると、家計を心配したり、子どもの学費を心配したりして、そ
れができなくなってしまった。そういう自分を知るたびに、いやになる。情けなくなる。

 が、希望がないわけではない。昨日のことだが、こんなことがあった(11−30)。

 仕事で、街に向うときのこと。やはり赤信号で、自転車を止めた。小さな路地だった。

 見ると、反対側に、小さな子どもを連れた母親。母親は、子どもの手をしっかりと握っ
ている。その親子が、横断歩道の向こう側で、同じように、立って、信号が変わるのを待
っていた。母親は、左右を、何度か見ていた。

 私は、いつその親子が、信号を無視して渡り始めるだろうかと、そんなことを考えてい
た。車はない。道路は閑散としていた。のどかな陽だまりが、道路を白く照らしていた。

 5秒、10秒……。ジリジリと時間が過ぎていくのがわかった。私は、おかしな緊張感
に包まれた。「今に歩き出すぞ……」と思った。しかしその親子は、じっと、そこに立った
ままだった。

 横の信号が、青から黄色になった。赤になった。が、まだその親子は、動かなかった。
そしてつぎの瞬間、私たちの信号が青になった。とたん、緊張感が体から抜け、私は、自
転車のペダルに力を入れた。同時に、その親子も、歩き始めた。

 親子と、横断歩道の上で、すれちがった。私はふりかえって、その親子を見た。「よかっ
た」と思った。ついで、「いい母親だな」と思った。

 少ないが、そういう人もいる。まだいる。だからまだ希望を捨ててはいけない。……と、
そのときは、そう思った。

 ……と書いたが、どうしても、このエッセーのしめくくりが書けない。「バカヤロー」と
叫びたい気持ちはそのまま。体のクサリを解き放ちたい気持ちも、そのまま。私は、相変
わらず、バカだと思う。その気持ちも、そのまま。

 ただその親子が、ゴミが散乱する砂浜に咲いている、一輪の花のような感じがした。そ
れが今の私にとっては、希望なのかもしれない。今は、そう思って、自分をなぐさめてい
る。


●K首相のY神社参拝

 あえて、告白しよう。

 私の実姉の義父は、A級戦犯で、処刑されている。I国の捕虜収容所で、捕虜を、虐殺
したという罪で、である。

 しかしこれは濡れ衣(ぎぬ)である。完全な、濡れ衣である。義父の上官だった人が、
罪を義父になすりつけて、自分は、逃げてしまった。義父の友人(同僚戦友)が、義父の
死後、一冊の本を書き、それを証明した。

 それについては、いつか詳しく、検証してみたい。

 で、その義父は、今、あのY国神社に、祭られているという。そのことについて、姉に、
「Y国神社に参ったことはあるの?」と聞くと、「一度も、ない」とのこと。

 「お墓は、ちゃんと、こちらにあるから」と。

 04年11月。

 日本のK首相は、ビエンチャン市内で中国の温家宝首相と会談した。

温首相は小泉首相の靖国神社参拝問題について「歴史認識の問題があり、靖国神社の問
題がある。靖国問題を適切に処理していただきたい」と参拝中止を要求した。これに対
し小泉首相は「(参拝は)心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ちからであり、不戦
の誓いを新たにするものだ」と重ねて説明した。

人格の完成度は、その人の自己中心性をみて、判断する。自己中心的であればあるほど、
その人の人格の完成度は低いとみる。EQ論では、他者への共鳴性で判断する。

 国家としての人格の完成度も、同じと考える。いかに相手の立場で、ものを考えること
ができるか。その視点の深さで、国家としての完成度も、決まる。

 その日本。戦前、いかに周辺の国の人たちに、多大な恐怖を与えたかということは、今
さら、改めてここに書くまでもない。その一例として、南京虐殺事件がある。

(南京虐殺事件)

 日華事変の最中、1937年(昭和12年)の12月12〜15日。当時のK内閣は、
南京攻略に対して、三光作戦を展開していた。

 三光作戦というのは、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という作戦をいう。

 その結果、日本軍は、中国全土で、強姦、虐殺、略奪をほしいままにした(エドガー・
スノー「アジアの戦争」)。その「アジアの戦争」によれば、南京だけで、4万2000人
以上、また南京への進撃途中で、30万人以上が、日本軍に殺されたという。

 うち、そのほとんどが、「無抵抗の婦人、子どもであった」(同書)という。

 どうやら、このあたりが、最大公倍数的な事実のようである。これについて、10年ほ
どまで、こんなことを言ってきた女性(当時、35歳くらい)がいた。

 「先生、どうして中国人は、ああまで日本を悪く言うのですか! 私は許せません。日
本軍が南京で殺したのは、30万人ではありません。せいぜい、3万人です!」と。

 そこで私が、「3万人でも、問題でしょう。3000人でも、300人でも問題でしょう。
どうしてそのとき、日本軍が中国にいて、三光作戦を展開したのですか」と。

 あれこれ議論をしたあと、最後に、その女性は、こう叫んだ。「あんたは、それでも、日
本人か!」「即刻、教育者をやめろ!」と。

 もちろん南京虐殺事件だけではない。中国全土はもちろん、東南アジア(マレーシア、
シンガポール)でも、日本軍は同じようなことをしている。しかし日本は、一度だって、
アジアの人たちに向って、その戦争責任を認めたことはない。ナーナーですませてしまっ
た。

 戦争責任ということになれば、その責任は、天皇まで行ってしまう。天皇を最高権威と
して、つまり日本国憲法の象徴としていだく日本としては、これはまことに、まずい。

 が、しかし、ものごとは、逆の立場で考えてみようではないか。

 あるとき、平和に暮らしていた日本に、となりの軍事大国K国が、侵略してきた。強大
な軍事力をもつ、K国である。

 そしてそのK国が、K国の言葉を強要し、金XX神社参拝を強要し、それに従わない日
本人を、容赦なく処罰した。三光作戦とやらで、大阪の人たちが、30万人近く、殺され
た。そのほとんどが、婦人や子どもたちである。

 ……という私のような意見を、現在の文部科学省大臣は、「自虐的史観」と言うらしい。
「日本人が、どうして日本を悪く言うのか」と。

 しかしどう冷静に考えても、私はK首相の言っていることのほうが、おかしいと思う。
わかりやすく言えば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなこ
とを繰りかえしながら、「不戦の誓いを新たにするものだ」とは! そんな詭弁(きべん)
が、はたして、通るのだろうか。(少なくとも、韓国、中国の人たちは、そう見ている。)

 だいたいにおいて、私の姉夫婦ですら、父親がY神社の祭られている(?)にもかかわ
らず、一度も、Y神社を参詣していない。むしろ、無実の罪で、処刑させられたことを、
うらんでいる! それを「不戦の誓い」とは……!? むしろ、K首相の行為は、中国人
や韓国人の逆鱗に触れ、戦争の火種にすら、なりかねない。

 日本軍による大陸侵略戦争を、肯定する人は、いまだに多い。「日本が、道路や鉄道を敷
いてやった。学校や公共施設を作ってやった」「日本のおかげで、中国や韓国は発展したで
はないか」と。

 しかしもし、こんな論理がまかり通るなら、日本よ、日本人よ、逆に、その反対のこと
をされても、文句を言わないことだ。あの中国にしても、5500年の歴史がある。韓国
にしても、2000年以上の歴史がある。

 私たちが使っている言葉は、韓国を経由して日本へ入ってきた。漢字は、まさに中国語。
その漢字から、ひらがなが生まれ、カタカナが生まれた。文化の優位性ということを言う
なら、日本は、中国や韓国に、もとから、かないっこないのである。

 ……私は、今、かなり過激な意見を書いている。自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。

 もしこれだけの警告にもかかわらず、K首相が、Y神社を参拝するようなことがあれば、
日中関係や日韓関係はおろか、アジアの国々からも、日本は、総スカンを食らうだろうと
いうこと。いや、総スカンどころでは、すまないかもしれない。先にも書いたように、「戦
争の火種」にすら、なりかねない。K国に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれ
ない。

韓国のN大統領ですら、公式の場で、K首相のY神社参拝に触れ、「日本人よ、いい気に
なるな」(04年春)と、K首相を口汚くののしっている。

つまり、この問題は、それくらいデリケートな問題だ、ということ。

 日本の首相がすることだから、あなたや私も、その責任を負うことになる。「私には関係
ない」ではすまされない。

 最後に一言。K首相は、「心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ち」と述べている。
だったら、なぜ、「心ならずも日本人に殺された人への慰霊の気持ち」と言わないのか。た
しかに300万人もの日本人が、あの戦争で死んでいる。

 それは事実だが、しかしその日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。し
かも、日本の外で!

 先週も、韓国の新聞は、慰安婦問題についての最高裁判決、日本の文部科学大臣の、「(教
科書から日本批判の記事が減って)、よかった」発言などを、トップで紹介している。が、
日本では、それを知る人すら、少ない。

 それでもK首相が、Y神社参拝をつづけるというのなら、どうぞ、ご勝手に。私は、も
う知らない! 知ったことではない! 

 ついでに、もう一言。H元首相の1億円政治献金問題がある。日本S医師連盟から、旧
H派への1億円の小切手が渡された。だれがどう見てもワイロなのだが、H元首相は、「記
憶にないが、事実なんだろう」(041130)と逃げてしまった。

 そういう政治家を見るたびに、私は愛国心とは何だろうと、考えてしまう。いざ、戦争
ともなれば、若者たちを戦場に立たせ、自分たちは、イの一番に、その戦場から逃げてし
まう。H元首相の、ニンマリと笑った顔を見ていると、そんな感じがする。

そういう政治家の大の仲間が、「正義」だとか、「不戦の誓い」だとか言うから、おかし
い。本当に、おかしい。
(04年12月1日記)

(補記)

 この記事を、マガジンに載せるのは、年があけて、1月3日ということになる。そのこ
ろ、日本のK首相は、Y神社を参拝しているのだろうか。それとも、していないのだろう
か。

 しかし……。この無力感は、いったい、どこから来るのか? 「もう、考えるのも、い
やになった」という思いすら、ある。

 何も「不戦の誓い」くらいなら、Y神社へ行かなくても、できるはず。だいたいにおい
て、「不戦の誓い」とは、何か? 私には、K首相が、まったく、理解できない。


++++++++++++++++++++++++++

●ある電子マガジンの廃刊

 98年に創刊された、ある電子マガジン(タウン情報誌)が、11月30日号をもって、
廃刊になった。先ほど、その最終号が届いた。廃刊の理由は書いてない。簡単に「本号を
もって、廃刊します」とあった。

 週刊浜松XXXというマガジンだった。編集長のA氏には、一度、会ったことがある。
45歳(当時)くらいの人だった。親切な人だった。そしてあれこれ、そのノウハウを教
えてくれた。

 2年前だが、そのとき、読者数は、1200人だと聞いていた。今年になってからは、
2400人だと聞いていた。「順調だな……」と思っていた矢先の廃刊だった。マガジンに
よると、ホームページも閉鎖するという。

 それを見ながら、「明日は、我が身」と思った。

 もう、電子マガジンの時代は終わったのか? 今は、BLOGの時代だという人もいる。
実際、読者数のことをいうなら、今は、毎号、ほとんど、ふえない。だからこのところ、
もう、読者数のことは、考えないようにしている。それを考えたら、むなしくて、マガジ
ンの発行など、できなくなる。

 しかしこうまで時代に流れが、速いとは!

 たしかにBLOGは、おもしろい。読者の反応が、そのまま伝わってくる。さらに近く、
音声入りのBLOGもできるかもしれない。もしそうなれば、読者と対話しながら、意見
を交換できるようになるかもしれない。

 現在、私のHPを訪れてくれる人は、一日、50〜90人前後。しかしR社のBLOG
は、150人前後(04・12・01)。この数字を見ただけでも、BLOGに軍パイがあ
がる。

 私の迷いは、つづく。どうしたらよいのか? どうしようか? 今年(05年)も、こ
の迷いとの戦いということになるかもしれない。

 やっと、マガジンの発行回数が、500号を超えた。1000号までの折り返し点。し
かし、先は、長いなア〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。ホント!

【読者のみなさんへ】

 読者の方がふえるというのは、本当に励みになります。お近くの方で、興味をもってく
ださりそうな方がいらっしゃれば、私の電子マガジンのことを話していただけませんか。
よろしくお願いします。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
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.本年も、よろしくお願いします!
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