はやし浩司(ひろし)

2005・2
はやし浩司
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2005年 2月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 28日(No.535)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page063.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO542

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ボーイフレンドが、ほしい!

 中学生のRさん(中3女子)が、ふと、こう言った。「先生、私、ボーイフレンドが、ほ
しいよオ」と。

 「あなたなら、男たちが、放っておかないでしょう」と言うと、「好きな子を、パクられ
てしまったア」と。

 「フ〜〜ン」と言っただけで、しばらく、つぎの言葉が出てこなかった。

私「……ボーイフレンドと、何をしたいの?」
子「そりゃあ、いっしょに話をしたり、映画を見に行ったりとかさ、いろいろあるじゃん」
私「そうだな。そういうときが、一番、楽しいね」と。

 そのとき私は、自分の中学時代を思い浮かべていた。私には、そういう思い出が、まっ
たく、ない。

私「ぼくもね、好きな子がいたけど、電話で一度、話しただけだよ」
子「電話で?」
私「そう。相手の子が電話に出たとたん、何も話せなくなってしまったよ」
子「へえ〜エ。好きですとか何とか、言わなかったの?」
私「とても、言えなかったよ」と。

 そんなことを言いながら、ふと、Rさんを、見る。「そう言えば、そのときの彼女に似て
いるな」と思ったが、それは言わなかった。あまりにも見えすいた、何というか、女たら
しが、女性を口説くときに、よく使うセリフである。

子「でね、先生、そういうときは、何て、相手の男に、言えばいいの?」
私「あのね、男というのは、雰囲気で、相手が、真剣かどうか、わかるんだよ。真剣に何
かを言えばいいよ。その真剣さが、相手の心の窓を開くよ」
子「じゃあ、何と言うの?」
私「真剣にね、『今度、映画を見にいこう』とでも、言ってみてごらん。それで相手に、気
持が伝わるよ。『好きです』と、いきなり言うと、相手もビビるからね」と。

 私にとっては、40年以上も前の話。しかし、そんな感じが、まるでしない。タイムマ
シンか何かで、過去に、タイムトリップしたような雰囲気になってきた。今度は、私が質
問する番だ。

私「いきなり、男の子から電話がかかってきて、その相手が何も言わなかったら、どう思
う?」
子「へえ、先生、何とか、言葉をつなぐことができなかったの?」
私「できなかった。何も言えなかった」
子「そういうもんかなあ?」
私「そういうもんだよ。現実は、そうだった」と。

 あのとき、もしもう少しスマートに、愛を告白できていたら、どうなっていたか? う
まくデートできただろうか? あの子と、そのあと、どうなっていただろうか? いろい
ろ考える。

私「いろいろな子とつきあって、その子がどんな子か、知るといいよ。そうするとね、自
分がどんな人間かもわかるからね。フラれたら、どこに原因があるかを自分で調べるんだ
よ。そうして、どんどんと、自分をみがいていく。今は、そういう時期だから、いろいろ
な子とつきあうといいよ」と。

 少し偉そうなことを言ってしまった。あのころの私、つまり中学時代の私など、ボロボ
ロで、Rさんがそれを知ったら、確実にがっかりするにちがいない。ダサくて、田舎臭く
て、クソまじめで……。まったく、面白みのない男だった。

 私は、女性にモテるタイプではなかった。

私「いいか、ぼくの顔を見て、中学生のころのぼくを想像してみてほしい。想像するだけ
でいい」
子「うん、わかった。先生が、中学生だったころね」
私「そうだ。いいか、想像できたか?」
子「ハハハ、できる、できる」
私「じゃあ、そのぼくが、君に、『好きです』と告白したら、君は、どうする?」
子「気持、ワリ〜〜イ、サイテ〜」「気味、ワリ〜〜イ、サイアク〜ウ」
私「だろ……。なっ、わかってた」と。

 ますます自信をなくして、この話は、ここでおしまい。そのあと、私は、語気を強くし
て、こう言った。「さあ、勉強だ! お前ら、時間をムダにするなよ!」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●文部科学省の「学力調査」

 このほど文部科学省が、子どもの学力調査をした。それによると、「勉強が好き」と答え
た高校3年生は、20%だったという。

 ちなみに、01年の調査だが、それによると、

 「勉強が好き」と答えた、小学6年生……34%
             中学3年生……18%、だそうだ。

 学年を追うごとに、「勉強が好き」と答える子どもが減るということ。

 また学校以外での勉強について、

 「まったく勉強しない」と答えた高校生は、41%もいるという。約半数の子どもは、
家では、まったく勉強しないということか。

 同じように、

 「勉強をしない」と答えた、小学6年生……11%
              中学3年生…… 9%、だそうだ。

++++++++++++++

 こうした数字をみるとき注意しなければならないことは、「だから……」という解釈を、
安易に加えてはならないということ。

 だいたいにおいて、「勉強」とは何か。その意味を、はたして子どもたちは、わかってい
るのかという問題もある。わかっていて、そう答えているのか。

 もちろん科目によっても、ちがうだろう。英語が好きでも、数学が嫌いという子どもも
いる。同じ科目でも、ときに好きになったり、ときに嫌いになったりすることもある。

 さらに子どものばあい、先生との相性で、勉強が好きになったり、嫌いになったりする
ことが多い。「先生が好きだから、理科が好き」と。

 また学校でする勉強だけが、勉強というわけでもない。E君(中2)は、2段式のペット
ボトルロケットを作ったが、彼はそのため、夏休み一か月、その研究に没頭した。そうい
う勉強も、ある。

 で、中学生と高校生で、「勉強が好き」と答えた子どもが、18〜20%いたということ
は、私にとっては、驚きである。少ないから驚いたのではなく、多いから、驚いた。20%
もいたというのは、驚きである。私はもっと、少ないかと思っていた。

 というのも、現在の教育体制の中では、子どもたちは、「上」から一方的に、勉強を与え
られるだけ。それは、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。いくら前に走って
も、子どもたちは、そのニンジンに追いつくことができない。

 もともと「勉強を好きになれ」というほうが、おかしい。

 そこで多くの教育者は、「勉強」に、夢と、目的と、希望を添えようとする。またそれが
ないと、子どもを指導することはできない。
 
 (もう一つ、受験でおどすという方法がある。「いい高校へ入れ」「大学へ入れ」「しかし
勉強しないと、いい大学へ入れないぞ」と。しかしこれは、本来、邪道。)

 そこで子どもを勉強嫌いにしないためには、どうするか。一つのコツは、子どもを、受
動的な立場に置かないということ。

 勉強というのは、子どもの立場でみると、一度、受動的になると、勉強そのものが、苦
痛の種となる。あまりよいたとえではないかもしれないが、子どもは、借金に追われる多
重債務者のような立場になる。

 勉強しても、しても、いくらしても、追いつかない……。そんな状態になる。

 親が、子どもをそういう状態に追いこむこともある。子どもが、80点を取ってきたり
すると、「何よ、この点は! もっと、いい点を取りなさい」と言う。そこで子どもが、9
0点を取ってきたとする。すると今度は、「どうして100点が取れないの」「あんたはや
ればできるはずだから」と言う。

 ……と書き出したら、キリがない。この問題は、実は、底がたいへん深い。

 子どもを勉強好きにするというのは、教育がもつ、究極的な目標と考えてよい。好きに
すれば、それがどんな分野であれ、あとは子ども自身が、自分で伸びる。何も、学校で教
える勉強だけが、勉強というわけでもない。

 まあ、高校3年生になったとき、「私は勉強が好きだ」と言える子どもは、本当に幸福な
子どもと考えてよい。(勉強ができる・できない)はさておき、子どもの勉強を考えるとき、
結局は、それが教育の目標と考えてよい。

 よい大学(本当に、こういう言い方は、不愉快だが……)へ入るかどうかは、あくまで
も、その結果でしかない。
(はやし浩司 文部科学省 学力調査)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もう1人の自分

 自分にとって、受けいれがたい、もう1人の自分を感じたとき、その自分を抑圧するた
めに、人は、それとは正反対の自分を演ずることがある。

 これを「反動形成」という。

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。たとえば、
牧師や教師の中には、ことさら、セックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人がいる。

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。信者や生徒
が、「セックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫んでみせた
りする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとし
て起きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)
がいる。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。しかしそん
な感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。しかしこ
れは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、その自覚は
ない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。老
人に多い。自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて
(ニセの自分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜
くことができない。何十年も近くで住んでいる親類ですら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せる
かどうかで判断する。反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。とき
にサービス過剰になったりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくして
みせる、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくあ
る。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。あるいは体の
弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。

 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を
心の中で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもある
そうだ。(私のワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、ま
た別の自分を発見することにつながるのではないかと思う。
(はやし浩司 反動形成)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。そのときのこと。私が子ど
もたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方で、「嫌
いだヨ〜」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」とい
う言葉の意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいこ
とと考える。だから(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえてお
おげさに否定してみせたりする。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。が、中に、
正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめると、小声
で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはいる。しかし
そういう子どもは、例外と考えてよい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ホイヘンス

 欧州宇宙機構(ESA)の、小型探査機ホイヘンスが、土星の衛星のタイタンに無事、
着陸した(1月14日)。

 ホイヘンスは、氷と見られる塊(かたまり)が散らばっている地表や、水路や海岸線の
跡とみられる地表の画像を、地球に送ってきた。

 タイタンは、太陽系の衛星の中では、ただ一つ、大気をもっている衛星として知られて
いる。生命誕生以前の原始の地球に似ているとも言われている。

 公開された写真を見ると、水路や海岸線のような跡が確認できるという。地表は、氷点
下180度で、大気に含まれるメタンなどが、液状となって、地表を削った跡だとされて
いる。

 このホイヘンスが送ってきた画像の中で、何よりも驚いたのは、(驚いたのは、私だけか
もしれないが)、有機物らしきものが堆積したような個所も、見つかったということ。いく
ら大気があるといっても、地球とは、まるで環境がちがう。そういうところでも、有機物、
つまり生命体の存在を思わせるものが、発見されたというのだ!

 ふつう生命というのは、(あくまでも、地球人の立場で、そう言うだけだが)、酸素と水、
適度な気温などがないと、誕生しないと言われている。とくに、人間のような知的生命体
は、そうだ、と。

 しかしどうも、そうではないようだ。

 たとえば、大気といっても、亜硫酸ガスとメタンガス。地表を流れるのは、メタンの川。
気温は、氷点下100度。地球人なら、そんな世界に入ったら、たちまちのうちに、こな
ごなの灰になってしまう。(このあたりの科学的考証はいいかげん。ゴメン!)

 しかしそういう世界でも、まったく別の誕生経路を経て、何らかの生命体が生まれる可
能性がある。今回のホイヘンスの送ってきた画像は、その可能性を示唆している。それに
私は、驚いた。しかし考えてみれば、これほど、楽しい話はない。

 その世界の生物は、硫酸でもビクともしない、特殊金属でできている。もちろん目も耳
も、そして口もある。体全体は、球形かもしれないし、ゴツゴツした岩のようかもしれな
い。

 ただし、その生命体は、足を、数センチ動かすだけでも、地球時間で計測すると、2年
から3年かかる。恐ろしく、動きがにぶい。

 いや、「にぶい」と思うのは、地球人の私たちだけで、その生物どうしは、そんなことは
思っていない。ちょうど、今の私たちのように、ふつうに会話をしている。

 「今朝は、寒いですね」
 「本当に、そうですな」と。

 これだけの会話をするのに、地球時間で計測すると、100年程度かかる。言い忘れた
が、その星では、1年は、地球時間で計測すると、約100万年に相当する。(計算は、約
100万倍してみた。)

 もちろん人間の私たちとは、会話はできない。しかし生命体は、生命体である。地球人
の私たちから見れば、気が遠くなるほど、長い時間をもった生命体である。言いかえると、
何も地球人のような体つきをして、コセコセと動き回る生命体だけが、生命体というわけ
でもないということ。

 宇宙には、そういう生命体だって、ありえる。(もちろん、その反対も、ありえる。地球
時間で、ほんの数秒の間に、何世代も、生死を繰りかえす生命体である。)

 大切なことは、地球人の常識だけで、宇宙をながめてはいけないということか。今回の
ホイヘンスによるタイタン探査のニュースを読みながら、私は、そんなことを考えた。


●R天日記

 原稿の中でも、日記風の原稿は、毎日、「R天日記」のほうにも掲載している。興味のあ
る方は、私のHPのトップページから、ぜひ、訪れてみてほしい。

 で、このR天日記だが、ここ数日、正確には、1月25日(火曜日)から、毎日アクセ
ス数が、400件を超えるようになった。600件を超えると、「話題の日記」として、ベ
スト50に登録される。そんなことから、400件というのは、かなりの数と考えてよい。

 それまでは、多い日で、200件。平均して、100〜150件。

 が、1月25日から、連続して、400件を超えるようになった! これはどうしたこ
とだろう?

 ところで、R天日記は、アクセスしてきた人のメールアドレスが、おおよそ、わかるよ
うになっている。(個人までは特定できないが……。)

 私と同じように、R天日記を書いている人たちからのアクセスを、内部アクセスという。

 R天日記とは関係のない、外部からの人たちからのアクセスを、外部アクセスという。

 内部アクセスとというのは、たとえば日記を配信すると同時に、どっと、平均して30
〜50件、入ってくるアクセスをいう。どこかで「新着日記」とか何とか、紹介されるら
しい。それをめがけて、こうした人たちは、物品の販売をしかけてくる。

 が、その内部アクセスが一巡すると、今度は、外部アクセスにかわる。今のところ、1
時間で、昼間なら、20〜30件のアクセスがある。それが一日で、400件を超える。

 なぜだろう?

 どうして、急に、こんなにふえたのだろう。理由はわからない。原因もわからない。し
かしとたん、おかしな緊張感が生まれた。「いいかげんなことは書けないぞ」という緊張感
である。

 それまでは、日記ということもあって、原稿の推敲などは、ほとんど、しなかった。が、
今は、している。誤字、脱字がないかを調べ、ついで、文調を整える。

 何はともあれ、文というのは、だれかに読んでもらってはじめて、命を授かる。日記を
読んでくださっているみなさん、ありがとう!


●ボケ兄・行状記

 土曜日の朝、肌を刺すような冷気。どんよりとした、曇り空。

 「まだ、起きてこないのよ」とワイフ。時計を見ると、9時。

私「……あいつ、死んでいるじゃ、ないのか?」
ワイフ「おかしいわね……」

 時間だけは正確。時計を片時も離さず、もっている。とくに食事の時刻には、うるさい。
毎朝、きっかり7時には起きてきて、朝食をせがむ。

私「見てくるよ……」
ワイフ「そうね」と。

 このところ、兄は、運動不足。食事のとき以外は、あまり部屋から出てこない。

 「とうとう、運動不足で、くたばったのかな?」と思った。「心筋梗塞か、脳梗塞か?」
と。

 部屋に入ると、兄は、そこでフトンをかぶって眠っていた。

 「死んでいるのかも?」と思った。とたん、「もう少し、やさしくしてあげればよかった」
と思った。「いっしょに、温泉にでも、連れていってやればよかった」とも。上から見ると、
指を三本、口にくわえたまま、動かない。

 何とも、まが抜けた顔をしている。アホヅラ。しかし動きがない! 呼吸をしている気
配もない!

 「本当に、死んでいるのかも……」と思った。

 実は、私は冷酷な人間だ。10数年前も、ヤギを飼っていたときのこと。毎日、エサを
やるのがめんどうになった。で、ある日、ふと、こう思った。「こんなヤツ、早く死んでし
まえばいい」と。

 そしたら、本当にそのヤギは、その翌朝に、イモを食べて死んでしまった。

 以来、私は、自分のもつ特殊な能力(?)がこわくなった。私には動物の生死を決める、
能力がある。「私が死ねばいいと思ったヤツは、すぐ死んでしまう」と。そこでそういうふ
うには、思わないことにした。

 5秒たち、10秒がたった。

数日前、どこからのレストランの帰りに、私は兄にこう言った。「お前のようなヤツは、
早く死んだほうがいいんだよ。生きていても、どうせ、みんなに迷惑をかけるだけだろ?」
と。その言葉が、気になった。

 そのとき兄は、ヘラヘラと笑っていたが、私は、もちろん冗談のつもりだった。しかし
……!! まさか……!!

 そっと、額に指を置いてみた。恐る恐る、置いてみた。肌のぬくもりを感じた。「よかっ
た」と思った。と、そのとたん、兄の顔が動いた。

私「ナ〜ンダ、生きていたのかア。お前、死んだと思っていた」
兄「あれ、もう7時か?」
私「7時じゃ、ないよ。9時だよ。もう起きろよ!」と。

 台所に帰ると、ワイフがそこに立っていた。

私「あいつね、生きてやがった。死んだと思っていたんだけど……」
ワイフ「朝寝坊するなんて、はじめてのことよ」
私「それだけ、居心地がよくなったんだろ」と。

 よく見ると、外では、小雨が降っていた。心なしか、先ほどよりは、暖かくなったよう
に感じた。

 朝食は、私が兄の部屋に運んだ。ついでに好物の養M酒も。こうして今日も、また始ま
った。時は、2005年の1月29日。


●自殺

自殺者が、3万人の大台を超えたという。その中でも、50歳代の自殺者がふえている
という。

 レストランで、ワイフや息子たちと、そんな会話を始めた。

ワイフ「フ〜ン、月曜日の明け方、5時ごろ自殺する人が多いんだって」と。

 新聞記事に、そうあった。

私「月曜日ね。明け方の5時ねエ?」と。

 私もよく落ちこむ。しかし朝には、それを忘れている。だからどんなに落ちこんでいて
も、自分に、「明日の朝になれば……」と言って聞かせて、目を閉じる。

 しかし朝の5時に多いとは、どういうことか? それは私の常識に反する。

私「どうして朝の5時なんだろう?」
ワ「きっと、その前の夜から、よく眠れないのじゃないかしら。朝まで、悶々としていて、
それで朝になって、自殺ということじゃ、ないかしら?」
私「そうだろうな。よく眠っていれば、自殺など、考えないよな」
ワ「そう、うつ病になると、早朝覚醒になるというでしょう。朝、早く目がさめるのよ。
そういう日が、何日もつづいて、それで……」

私「じゃあ、なぜ月曜日なんだ? ぼくだったら、土曜日かな?」
ワ「土曜日は休みだから、休みになれば、気が楽になるはずよ」
私「そうだなあ」

 厚生労働省の自殺死亡統計によれば、つぎのようになっている。

 03年度の自殺者は、過去最多の3万2109人。うち男性、2万3396人。女性、
8713人。ダントツに男性のほうが多い。

 曜日別の1日平均自殺者は、月曜日で、男性が約81人。女性が約27人。どちらも週
末にかけて減り、土曜日が一番少ない。

 時間帯は、男性が午前5時台から6時台(12・1%)。女性が午前10時台から午前0
時台(16・1%)

月別では、男女とも、ほぼ4月前後が多く、年代別では、50歳代が多かったが、女性
には、そうした年齢別の特徴は見られなかった。

 以上を総合すると、50歳台の男性で、4月の月曜日の、午前5時〜6時が、一番自殺
者が多いということになる。

 今年(05年)のカレンダーでみると、4月4日、11日、18日、25日が、あぶな
いということになる。私は、その50歳代。男性。気をつけよう。……というより、その
とき、自分の心がどのように変化するか、注意深く観察してみたい。
(はやし浩司 自殺 自殺統計 厚生労働省 人口動態調査)

(補記)

 私もその自殺予備軍の1人だから、声を大きくして、こう叫びたい。「決して、人の死を
軽く論じてほしくない」と。

 それぞれの人は、それぞれの深い事情と、言うにいわれない複雑な思いの中で、死を選
択する。死んでいく人には、その人しかわからない世界がある。その人の死について、あ
あでもない、こうでもないと勝手な解釈を加えること自体、その人に対して、失礼という
もの。

 たとえば今、だれかがこう言ったとする。「命を粗末にしてはいけない」と。しかしこん
な言葉など、死を前にした人にとっては、カエルのヘほどの意味もない。(言いすぎかな?)

 ただ今、ここで言えることは、そういう「死」を背中に感じながらも、がんばって生き
るとことに、人間の尊さというか、生きる尊さがあるのではないかということ。無数のド
ラマも、そこから生まれる。

 明日、死ぬとわかっていても、今日は今日で、がんばって生きる。……みんなで力を合
わせて、生きよう!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司  

●ボケ兄。行状記(2)

兄の言動を聞いていて、気がついたことがある。その一つ。「暗い」。とにかく、暗い。

 たとえば朝起きてきたときから、不平、不満の連続。

 「今朝は、寒い」
 「湯が出ない」
 「コタツが、暖かくならない」
 「かたいものは、食べれない」など。

 一見、おだやか風な言い方をするが、その実、短気。CDをプレーヤーに入れるまでは、
よいのだが、スイッチを押して、音が鳴り出すまで、待てないらしい。その間に、あちこ
ちを、ガチャガチャ動かして、プレーヤーそのものをこわしてしまう。

 そして私には、「こわれた」「鳴らない」「むずかしい」と。

 ボケるということは、相対的に、周囲が、自分の思いどおりにならなくなることを意味
する。本当は、自分に原因があるのだが、それがわからない。そこで不平、不満がたまる、
ということになるらしい。

 「冬だから、寒いに、決まっているだろ!」
 「一度、ボイラーで暖めるまでに、時間がかかるだろ!」
 「コタツのコンセントが抜けているから、暖かくならないのは、当たり前だろ!」
 「きらいな食べものを、すべて、かたいせいにするな!」と、そのつど反論したくなる。

 しかし反論しても、意味はない。そういった不平、不満そのものが、会話の中でかみあ
わない。

兄「今朝は寒い」
私「冬だからね」
兄「湯が出ない」
私「しばらく待っていないと、湯は出ないよ」
兄「コタツが暖かくならない」
私「コンセントをつないだか?」
兄「かたいものは、食べれない」
私「よく、かめよ」と。

 そして言った先から、自分の言葉を忘れていく。覚えていない。しばらくすると、また
「今朝は寒い」と言い出す。あとは、この繰りかえし。

 頭がボケて、感情が鈍麻する人もいるそうだ。しかし兄のばあい、感情は、ほとんど、
残っている。さらに頭がボケて、凶暴になる人もいるそうだ。しかし兄のばあい、そうい
った凶暴性は、ない。(よかった!)

 ただうつ病的な被害妄想、不安神経症的な不安感は、強い。食事の時刻が、少しでも遅
れがちになると、パニック状態になる。「用意しているから、待ってろ!」と、何度さとし
ても、それを理解することができない。本人は、「永遠に、食事を与えらない」とでも、思
っているのか。それとも、私たちへの信頼関係がないのか。

 ボケた兄は、いわば人間の(原型)のようなもの。だからこそ、虫や魚のような生物の
ように、(食べる)ことに執着するのかもしれない。兄にしてみれば、(生きること)イコ
ール、(食べること)なのだ。

 しかしそれにしても、ものすごい執着力。執念といってもよい。ボケることで、かえっ
て、(生)への執念がますます、増強したといったふうである。「もう、ボケたから、生き
ている意味はない」とか、そういうふうには、考えないようだ。(私なら、そう考えそうだ
が、そう考える、主体性そのものがない?)

 兄の介護といいながら、その兄には、いろいろと教えられる。直接、私のしている幼児
教育に役だつことは少ないが、幼児教育のもつ独特の視点が、逆に、役だつことは多い。

 ワイフは、ときどき、こう言う。

 「子どもよ、子ども。わがままな子どもだと思えばいいのよ」と。

 その言葉には、まったく同感である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日記】

 昨夜は、レストランで夕食。長男は、大きなステーキを食べた。ワイフは、鶏肉ステー
キ。そして私は、ハンガーグステーキ。

 少し生活費を入れてくれるようになってから、長男の態度に大きな変化が見られるよう
になった。家の中も、存在感が大きくなったような気がする。

 家に帰ってきてからは、長男のHPの修理を手伝う。それは1時間ほどで、すんだ。そ
のあと、兄のために、森S一の歌謡曲のCDを、買ってくる。「森S一が聞きたい」と、突
然、言い出したから。

 そのあと、廊下に、感知式のライトをつける。兄は、電気をつけても、消さない。その
ため、兄が通る部屋は、すべて、電気が明々とつけっぱなし。電気代も、ばかにならない。
そこであちこちのライトを、感知式のライトに、取りかえることにした。

 そのあとは、書斎にこもって、自分のパソコンで、遊ぶ。私にとって、一番、大切な時
間である。

 ……実のところ、私のHPも、おかしい。近く、新しいパソコンを買ったら、そのとき、
移植しながら、なおすつもり。それまで、更新は、なし。ごめん!

 夜は、そのまま、12時ごろまで、起きている。

 枕もとの電気を消したとき、胃の中のハンバーグを重く感じた。「明日は、朝食は抜きだ」
と思いながら、静かに目を閉じる。


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【メールをくださる方へ】

●件名のところには、必ず、お名前、簡単な住所をお願いします。

 つぎのような件名のメールは、即、文面を開くことなく、削除させていただいています。
 このところ、あやしげなメールが、ますます巧妙化していることが、その理由です。
 これは私や、みなさんのパソコンの健康を守るためです。
 よろしくご理解の上、ご協力ください。

 件名:お久しぶりです。お元気ですか。
 件名:がんばっていますね。ちょっと立ち寄ってみました。
 件名:お願いです。どうか、助けてください。
 件名:静岡の鈴木です。覚えていますか、ほか。

 心を鬼にして、「?」なメールは、容赦なく、何も考えることなく、
 サクサクと削除させていただいています。お許しください。

*******************************

●近況

 仕事は別として、このところ、人に会うのが、おっくうになってきた。が、かといって、
何かをしたいわけではない。要するに、怠(なま)けぐせ。

 今日も、数時間、ヒマがあったので、コタツに入ってDVDを見る。イギリスのBBC
が制作した、「モナリザ」。しかしすぐ眠ってしまった。あとで知ったが、ワイフも眠って
いた。

 起きてから、隣地の雑草を少し刈る。地主は東京の人だから、空き地は、荒れ放題。い
つの間にか、草刈りは、私の仕事になってしまった。

 夕方、長男に、「(夕食に)何を食べたいか?」と聞くと、「ステーキ」と。

 そこで今夜は、みんなでレストランに行くことにした。ただし私とワイフは、ステーキ
は食べない。だからレストランにした。(わかる?)

 1人分だけ、ステーキを料理すると、かえって割高になる。

 あとは、コタツに……と思っていたら、事故が起きた。玄関先から庭へ歩き出したとこ
ろで、ギクッと捻挫(ねんざ)。痛かった。息ができなかった。靴下を脱いでみると、ひど
い内出血を起こしていた。骨もいくつか、折れているかもしれない。

 湿布薬を張る以外、打つ手がない。しかし足の甲の捻挫でよかった。アキレス腱だった
ら、即、入院! 今も、少し痛いが、じっとしていれば、何とかがまんできる。

 さてさて、もう時刻だから、これからみなで、レストランへ。

 時計を見ると、午後5時15分。外はかなり薄暗くなってきた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●悲しき小国

 Y田さんの遺骨は、科学鑑定の結果、ニセモノだった。信ずるも、信ずるもない。日本
側が、あえて、ウソをつかねばならない、理由はない。かつての日本はどうだったかは知
らないが、現在の日本は、そういう国ではない。

 それに対して、K国は、「日本側の鑑定は、ねつ造だ」と。

 そう言いたい気持はわかるが、ではそのK国の鑑定水準は、いったい、どの程度なのか
ということになる。私の印象では、「?」が、100個くらいつく。そういうK国が、日本
がした科学鑑定を、「ねつ造だ」と。

 怒るよりも、笑うよりも、その前に、あわれみすら、感ずる。あまりにも低レベルで、
話にならない。そしてさらに、昨今、言ってきた言葉が、「強制連行された朝鮮人の遺骨を
返せ」だ。

 言うにことかいて、今度は、いちゃもんをつけてきた。当の本人たちは、本気なのだろ
うが、今では、K国を、本気で相手にする国は、ない。

 そんなK国に対して、また「制裁」という言葉が浮かびあがってきた。自民党の中のタ
カ派と呼ばれる人たちが、中心になって、そう言っている。「送金停止」「M号の入港禁止」
など。

一応のジェスチャを見せているだけなのだろうが、あんなK国は、本気で相手にしては
いけない。

 今、日本が制裁すれば、それこそ、K国の思うツボ。日本は、6か国協議から脱落し、
日本から韓国と中国は、離反する。間に立つアメリカも、立場がなくなる。本命は、「核問
題」。それが霧散してしまう。

 が、それだけではすまない。K国は、戦前の植民地支配を口実に、日本に戦争をしかけ
てくる。K国には、もうそれしか生き残る道は、ない。

 ここは冷静に。どこまでも冷静に。決して、感情的になってはいけない。拉致被害者た
ちの気持もよくわかるが、相手は、私たちが考えているような、(すでに気がついている人
も多いと思うが)、まともな国ではない。まともな論理が通ずる国ではない。

 そんな国を相手にして、まともな論理をぶつけても意味はない。あえて制裁などしなく
ても、すでにK国は、地獄の制裁を受けている。内部崩壊も、近いと言われている。後継
者が、いまだに決まらないのも、その理由の一つ。

 K国の立場で、考えてみよう。

 経済政策は、やることなすこと、失敗ばかり。いくら「オレたちは、すばらしい」と叫
んでみても、だれも相手にしてくれない。今では、アジアの中でも、最貧国。そういうK
国にしてみれば、アメリカや日本、さらに韓国や中国の繁栄が、しゃくにさわってしかた
ないのだろう。つまりは、逆恨み。

 韓国に亡命した、F氏も言っているように、悪いのは、金XX以下、ほんの20〜10
0人の取り巻き。K国の民衆には、責任はないし、かれらもまた、金XXという独裁者の
犠牲者にすぎない。

 だかかこそ、ここは冷静に。私たちがすべきことは、金XX体制が、平和裏に、新しい、
できれば民主的な政権に変わるよう、側面から、働きかけることである。そのための努力
は、忘れてはいけない。

 方法としては、亡命者(脱北者)を、国外でどんどんと保護して、金XX体制を、自然
崩壊にもっていく。私は、それが一番、よい方法だと思うし、アメリカも、どうやらその
方向で、動き出したようである。今、ここで日本が制裁に走り、そうしたアメリカの動き
に、水をさしてはいけない。

(追記)

 K国への制裁についての動きが、このところ具体化してきた(1・29)。政府は28日、
人道支援の凍結・延期や送金制限などと並行して、北朝鮮の貨客船、「万景峰92」の入港
禁止を検討する、「二段構え」の制裁策で、対応する方針を固めた。

 しかし制裁といっても、この程度の制裁は、いわば、象徴的なもの。同じ日、つぎのよ
うな報道が、全国を流れた。こちらの制裁は、まさに経済封鎖に等しい制裁である。

 つまり保険未加入の国際運航船の入港を禁止できる、「改正油濁損害賠償保障法」が、3
月1日から施行されることになった。つまり保険に入っていない船舶は、日本の港へ入港
できなくなる。これにより、K国船舶のほとんどが、日本の港へ、入港できなくなる。

 では、K国の船舶は、保険に入ればよいということになるが、K国の経済水準からする
と、船舶にかける保険料は、まさに天文学的数字となる。

 日本人にとって、仮に、年間200万円の保険料でも、彼らにしてみれば、2億円相当
の負担となる。その前に、保険会社が、保険の加入に応ずるかどうか? K国の船舶は、
どれもボロボロのボロ船。今にも死にそうな病人が、保険の加入を申し出るようなもので
ある。

 K国は、これを実質的な「制裁」ととらえるのは、当然である。

 しかし考えてみれば、こうした法案が国会を通過した原因は、もともとK国自身がつく
った。座礁し、油濁した海岸をそのままにし、さらに船までそのままにして、彼らは、そ
のままK国へ帰ってしまった。そんな事件が、相ついだ。

 そのあと始末は、地元の自治体がしなければならなかった。こういうことを繰りかえし
ておいて、「私たちは関係ない」ではすまされない。

 それはわかるが、問題は、こうした常識すら、彼らには、通用しないだろうということ。
つまりこの3月1日を境に、K国は、日本に対して、何らかの(物理的行動)に出てくる
可能性がある。

 日本とK国の関係は、とうとうくるところまで、きてしまった。私には、そんな感じが
する。
 
(追記2)

 制裁について、国際外交の大鉄則は、「相手がいやがることを、ジワジワと攻める」こと。
事務的に、かつ冷静に。決して感情的になってはいけない。

 方法としては、(1)脱北者の支援、(2)脱北者を組織化する、(3)K国の人権問題を、
国際世論の中で、もりあげるなどがある。アメリカは、そういう方向で、K国の金XX体
制を崩壊させようとしている。日本も、アメリカに歩調をあわせたらよいと思うが、これ
も、もう、手遅れなのか?

 私たち庶民は、その日に合わせて、それなりの覚悟をして、自衛手段を講ずるしかない。

(1)東京都が、ミサイル攻撃を受けたら、その時点で、日本の経済活動はマヒする。株
価、円は大暴落する。反対に、物価は急上昇し、人々は、不安にかられて、買いだ
めに走る。

(2)しばらく間をおいて、日米安保条約が発動され、アメリカ軍は、K国のミサイル貴
地を、攻撃。同時に、朝鮮半島で、戦争勃発(ぼっぱつ)。

(3)もうそうなると、6か国協議どころでは、なくなってしまう。

 私には、そんな地獄絵が見えてならないのだが……。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 25日(No.534)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●かごめ、かごめ……

 ある小学校での入試風景。上級生の女の子が、その小学校へ受験にやってきた幼稚園児
たちと、いっしょに遊んでいる。

 その様子を、少し遠くから、担当の教官が、観察しながら、採点している。上級生の言
うことを聞きながら、その指導に従っているかどうかをみるためではないか。最近、ふえ
てきた入試方法である。

 で、ある小学校では、その上級生が、園児たちと、「♪かごめ、かごめ」の遊びをしたと
いう。昔から日本に伝わる、あの、わらべ歌である。

♪かごめ かごめ
 かごの なかの とりは、
 いつ いつ でやる
 よあけの ばんに 
 つると かめが つうべった
 うしろの しょうめん だあれ

(篭女、篭女
 篭の中の鳥は、
 いついつ出やる
 夜明けの晩に
 鶴と亀がゆうべった(すべった)
 うしろの正面、だあれ)

 「篭女」というのは、男によって篭(かご)の中に入れられた女、つまり特定の男に仕
える専属の遊女をいう。

 この歌は、その遊女を歌ったものだと言われている。「♪遊女よ、遊女、お前はいつにな
ったら、篭から出て、自由になれるのか」と。

 しかしここで悲劇が起きる。「夜明けの晩」というのは、「晴れて夜が明ける、その前の
晩」という意味。そして「鶴と亀」というのは、「結婚式」の代名詞。だからこの歌を、そ
のまま解釈すると、「晴れて夜が明ける、その前の晩に、結婚式が、流れてしまった」とい
うことになる。

 問題は、そのあとの一文である。「♪うしろの正面、だあれ?」と。

 この文については、多くの文人や研究者が、それぞれの立場で解釈を加えている。が、
その中でも、一番、不気味なのは、こういう話だ。

 結婚式が流れてしまったことが原因で、その遊女は、自殺か何かをしてしまった。それ
でそのあと、その遊女は、幽霊となって、その男のうしろをついて歩くようになった、と。
だから「あんたのうしろにいるのは、だれだ〜〜〜ア?」と。

 この話は、若いころ、だれかに聞いた話である。……と、まあ、考えてみれば、不気味
な話である。それがわらべ歌となって、今に歌いつがれている。そして知ってか知らずか、
(もちろん知らないだろうが)、子どもたちが、その歌を歌い、遊ぶ。

 もっとも、「うしろの正面、だあれ」をどう解釈するかにもよる。ある人は、そのとき死
んだのは、遊女ではなく、遊女の腹の中にいた水子であったと説く。あるいは遊女の死は、
自殺ではなく、男に殺されたという説もある。

 どちらにせよ、決して、楽しい話ではない。

 「かごめ、かごめ」の話を聞いて、思い出したので、ここにメモをしておくことにした。
もちろん、だからといって、この歌が、入試問題にふさわしくないとか、そんなヤボなこ
とを言っているのではない。念のため!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものほめ方

 昔、自分の孫(年長児)に、こう言っていた祖母がいた。「あんた、もっと、しっかり勉
強しなさいよ。あんたができないから、先生は、ああしてわざとほめてくれるのよ。わか
ているの!」と。

 とんでもない言い方である。孫を伸ばすどころか、伸ばす芽を、祖母自身がつんでしま
っている!

 グラハムという学者は、帰属理論※という理論の中で、こう説明している。

 「幼児期は、能力がすぐれているから、ほめられると子どもは考える。しかしおとなの
ばあいは、努力がほめられるイコール、能力が劣っているから、ほめられると考える」と。

 冒頭にあげた祖母は、「能力が劣っているから、孫は、わざとほめられた」と思った。な
ぜその祖母がそう感じたかは、グラハムの理論で説明できる。

 実際の例で考えてみよう。

 たとえば2人の中学受験生がいる。Aさんは、能力的には、それほど恵まれていない。
一方、Bさんは、能力的には、たいへん恵まれている。

 Aさんは、努力家。が、Bさんは、自分の能力を過信するあまり、どこか勉強のし方が
いいかげん。

 さて、いよいよ合格発表の日がやってきた。

 ケースとしては、つぎの4つが考えられる。

(1)Aさん、Bさん、ともに合格
(2)Aさんは、合格、Bさんは、不合格
(3)Aさんは、不合格、Bさんは合格
(4)Aさん、Bさん、ともに不合格

 さて、それぞれのばあい、あなたは、Aさんと、Bさんに、何と言って、言葉をかける
だろうか。

 実は、こうした事例は、よく経験する。ケースに応じて、ほめ方も、なぐさめ方も、ち
がう。あえてここでは、答を書かないでおく。(たまたま現在は受験シーズンということも
あり、企業秘密!)しかしあなたなら、それぞれのケースでは、Aさんと、Bさんに、何
と言うだろうか、少しだけ、頭の中で考えてみてほしい。

 あえて(1)のケースについて言えば、Aさんに向っては、「ヤッター! おめでとう!」
と言う。Bさんに向かっては、「受かって当然だから、心配していなかったよ」と言う。(多
分?)

 つまり幼児期というのは、親や先生が子どもをほめると、子どもは、「自分はすばらしい
から、ほめられる」と思う。しかし年齢を経ると、その感じ方も変わってくるということ。
そういう微妙な心理も理解していないと、ほめるといっても、子どもをうまく、伸ばすこ
とはできない。

 (子どものほめ方といっても、奥が深いぞ!)

 しかし一般論として、これだけは覚えておくとよい。

 子ども(幼児)をほめるにしても、努力と、やさしさは、どんどん、ほめる。遠慮なく
ほめる。が、顔やスタイルは、ほめない。頭のよさは、微妙な問題を含んでいるので、時
とばあいを考えて、慎重にする。とくに集団教育の場では、そうである。

 「微妙な問題」というのは、たとえば頭のよい子どもは、それほど努力しなくても、ス
イスイと、よい成績を示したりする。そういう子どもをほめると、努力そのものを、軽視
するようになる。

 そしてその一方で、いくら努力しても、よい成績を出せない子どもには、劣等感をもた
せてしまうことがある。

 ほめ方、叱り方は、まさに教育の要(かなめ)と言ってもよい。

※帰属理論……すべての結果(表象に現われた症状)には、その帰属すべき原因があると
いう考え方。日本的に言えば、因果応報論ということか。
(はやし浩司 S・グラハム 帰属理論 叱り方 しかり方 叱りかた 子供の叱り方)

+++++++++++++++++++++++

子どものほめ方、叱り方について書いた原稿を
添付します。(中日新聞発表済み。)

+++++++++++++++++++++++

子どもを叱る法

親が子どもを叱るとき

●叱るときは恐怖感を与えない

 子どもを叱るとき、最も大切なことは、恐怖感を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省
しているから、そうしているのではない。こわいからそうしているだけ。

親が子どもを日常的に叱れば叱るほど、子どもはいわゆる「叱られじょうず」になる。
頭をさげて、いかにも反省しているといった様子を見せる。しかしこれはフリ。親が叱
るほどには、効果は、ない。叱るときは、次のことを守る。

●叱るときの鉄則

 (1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)。

(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳
から遠い」と覚えておく。話した説教が、脳に届くには、時間がかかる。

(3)相手が幼児のときは、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与え
ないため)。視線をはずさない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかり
と親の両手で固定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。
とくに頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。

(4)子どもが興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、

(5)叱ったことについて、子どもが守られるようになったら、「ほら、できるわね」と、
ほめてしあげる。ちなみに私が調査したところ、相手が幼児のばあい、約50%の母親が
何らかの体罰を加えているのがわかった(浜松市にて調査)。

げんこつ、頭たたき、チビクリ、お尻たたきなど。ほかに「グリグリ(げんこつで頭の
両側をグルグリする)」「ヒネリ(げんこつで頭をひねる)」など。台所のすみで正座、仏
壇の前で正座というものもあった。「どうして仏壇の前で正座なのか?」と聞いたら、そ
の子ども(中一男子)はこう話してくれた。「お父さんが数年前に死んだから」と。何で
もとても恐ろしいことだそうだ。体罰ではないが、「(家からの)追い出し」というのも
依然と多い。

●ほめるときは、おおげさに

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠告は秘かに、賞賛はおおやけ
に』と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そ
のとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほ
める。

 ただ、一つだけ条件がある。子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。
が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心
が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、
化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そう
でないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケー
スは、いくらでもある。

●励まし方

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。いつもプラスの暗示をかけるようにし
て、励ますとよい。「あなたはこの前より、すばらしくなった」「去年よりずっとよくなっ
た」など。またすでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがんばっている子どもに向かって、
「がんばれ!」はタブー。

意味がないだけではなく、かえって子どもを袋小路へ追い込んでしまう。「やればできる」
式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しも、タブー。結果が悪く、子どもが落ち込ん
でいるようなときはなおさら、「あなたはよくがんばった」式の前向きな姿勢で、子ども
を温かく包んであげる。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●親の希望 vs 現実の子ども

 親が、心の中で希望として描く、子ども像。これを(子ども概念)と呼ぶ。一方、そこ
には、現実の子どもがいる。それを(現実子ども)と呼ぶ。心理学でいう、(自己概念)と、
(現実自己)という言葉にならった。

 そこで私は、この(子ども概念)と(現実子ども)のほかに、もう一つ、(世間評価)を
加える。これも、(自己概念)と(現実自己)のほかに、もう一つ、(世間評価)を、加え
たことに、まねる。他人から見た子ども像ということで、「世間評価」という。

 親が、「うちの子は、こうであってほしい」と願いながら、心の中に描く、子ども像を、
(子ども概念)という。

 勉強がよくできて、スポーツマンで、よい性格をもっていて、人にも好かれる。集団の
中でもリーダーで、できれば、ハンサム。自分という親を尊敬してくれていて、親の相談
相手にもなってくれる……、と。

 しかし現実の子どもは、そうでないことが多い。問題だらけ。園でも学校でも、何かと
トラブルをよく起こす。成績もかんばしくない。できも悪い。性格もいじけているし、反
抗ばかりしている。このところ、勉強、そっちのけで、遊んでばかりいる。

 しかし子どもの姿というのは、それだけでは決まらない。親が知らない世界での評価も
ある。家の中では、ゴロゴロしているだけ。生活態度も悪い。親を親とも思わない言動。
しかしスポーツクラブでは、目だった活躍をしている、とか。

 こういうケースは、よくある。

 そこで、(子ども概念)と、(現実子ども)が、それなりに一致していれば、問題はない。
(子ども概念)と(世間評価)も、それなりに一致していれば、問題はない。しかしこの
三者が、よきにつけ、悪しきにつけ、距離を置いて、遊離すると、そこでさまざまな問題
を引き起こす。

【例1】(以下の例は、すべてフィクションです。実際にあった例ではありません。)

 ある日、小学1年生になったS君のバッグの中を見て、私は驚いた。そうでなくても、
これから先、たいへんだろうなと思っていた子どもである。今でいうLD(学習障害児)
であったかもしれない。そのバッグの中には、難解なワークブックが、ぎっしりと入って
いた。

 このケースでは、親は、S君に対して、過大な期待を抱いていたようである。そのため、
「やらせれば、できる」という信念(?)のもと、難解なワークブックを、何冊も買いそ
ろえた。そして毎日、S君が学校から帰ってくると、最低でも、2時間は、勉強を教えた。

 このS君のケースでは、ここでいう親が心の中で描く(子ども概念)と、(現実子ども)
が、大きくかけ離れていたことになる。

【例2】

 B君は、中学1年生。勉強は嫌い。ときどき、学校もサボる。しかし小学生のときから、
少年野球クラブでは、ずっと、レギュラー(ピッチャー)を務めてきた。その地区では、
B君にまさるピッチャーはいなかった。

 年に4回開かれる、地区大会では、B君の所属するチームは、たいてい優勝した。市の
大会で、準優勝したこともある。

 しかし母親との間では、けんかが絶えなかった。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。
あるとき、母親は、「勉強しなければ、野球チームをやめる」とまで言った。が、B君は、
その夜、家を出てしまった。B君が、6年生のときのことである。

 中学生になってから、B君は、部活に野球部を選んだ。しかしその直後、B君は、監督
の教師と衝突してしまい、そのまま野球部をやめてしまった。B君が、グレ始めたのは、
そのときからだった。

 このB君のケースでは、(子ども概念)と(現実子ども)は、それほど遊離していなかっ
たが、親が子どもに対してもっている(子ども概念)と、(世間評価)は、大きくズレてい
た。

【例3】

 私の実家は、以前は、いくつかの借家をもっていた。その中の一つは、表が駐車場で、
裏が一間だけの家になっていた。

 その借家には、父と子だけの二人が住んでいた。母親は、どうなったか知らない。が、
その子というか、高校生が、国立大学の医学部に合格した。父親は、酒に溺れる毎日だっ
たという。

 しばらくしてその父子は、その借家を出たが、私は、その話を、母から聞いて、心底、
驚いた。借家を訪れてみたが、酒のビンがいたるところに散乱していた。

 私が、「どんな子どもでしたか」と近所の人に聞くと、その人は、こう言った。「本当に
すばらしい息子さんでしたよ。毎日、父の酒を買うために、自転車で、酒屋へ通っていま
した」と。

 この父子の関係では、父親に、そもそも(子ども概念)があったかどうかは、疑わしい。
放任と無責任。しかしその子どもの(現実子ども)は、父親のもっていたであろう(子ど
も概念)を、はるかに超えていた。(世間評価)も、である。

【例4】

 新幹線をおりて、バスで、友人の家に向かうときのこと。うしろの席で、あきらかに母
と娘と思われる二人が、こんな会話を始めた。母親は、45歳くらいか。娘は、20歳そ
こそこ。母親というのは、どこかの大病院の院長を夫にもつ、女性らしい。どうやら、娘
の結婚相手をだれにするかという相談のようだった。

母親「Xさんは、いい人だけど、私大卒でしょう。出世は望めないわね」
娘「それにXさんは、もう30歳よ」
母親「Yさんは、K大学で、4年間、講師をしていたそうよ。でもね、ああいう性格だか
ら、お母さんは、薦めないわ」
娘「そうね。同じ意見よ。あの人は、私のタイプじゃないし……」
母親「Zさんは、どう? 患者さんの評判も、いいみたいだし……」
娘「そうね、一度、Zさんと、食事をしてみようかしら。でもZさんには、もう恋人がい
るかもしれないわ」と。

 話の内容はともかくも、二人の会話を聞きながら、私は、いい親子だなあと思ってしま
った。呼吸が、ピタリとあっている。

 最後のこのケースでは、母のもつ(子ども概念)と、(現実子ども)は、一致している。
大病院の後継者を、二人でだれにするか、相談している。このばあいは、(世間評価)は、
ほとんど、問題になっていない。

 ふつう、この三者が、ともに接近していれば、親子関係は、スムーズに流れる。しかし
この三者が、たがいに遊離し始めると、先に書いたように、親子関係は、ギクシャクし始
める。

 何が子どもを苦しめるかといって、親の高望み、つまり過剰期待ほど、子どもを苦しめ
るものは、ない。

 一方。その反対のこともある。すばらしい子どもをもちながら、「できが悪い」と悩んで
いる親である。こういうケースは、少ないが、しかしないわけではない。

 そこであなた自身のこと。

 あなたは今、どのような(子ども概念)をもっているだろうか。そしてその(子ども概
念)は、(現実子ども)と一致しているだろうか。もし、そうならあなたは、今、すばらし
い親子関係を築いているはず。

 が、反対に、そうでなければ、そうでない。やがて長い時間をかけて、あなたの親子関
係は、ギクシャクしたものになる。気がついてみたら、親子断絶ということにもなりかね
ない。一度、(世間評価)も参考にしながら、あなた自身のもっている(子ども概念)を、
修正してみるとよい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●産んでくれて、ありがとう!

 R社の掲示板に、こんな書きこみがあった。以前から、私のマガジンやHPを、励まし
てくれている読者の方からのものだった。その方は、ご自身と、ご自身の親との関係で、
長く苦しんでいる。

「こんにちは。公私共に、お忙しそうですね。

実は、また私自身の親子関係で、悶々としているのですが、
親との関係に悩んでいると友人に相談したところ、その友人も幼い頃、
親に「お前などいらない子だった」というような言葉の虐待を受けて
いたそうです。

その友人は、親に対して本当の自分を出せずに生きてきたけれど、
結婚するときにそれまでの自分の中のわだかまりを話したら、
親も謝ってくれたそうです。

友人自身も「一番言いたかった」「私を産んでくれてありがとう」
という一言を言えた、という話をしてくれたのですが……

私は、今、二人の子ども達に恵まれ、「生まれてきてくれてありがとう」
とは思っていますが、親に対しては「産んでくれてありがとう」
なんて思えないのです。

私の意見を、どう思われますか?」

+++++++++++++++++++++

 ふつう、「産んでやった」「産んでいただきました」という言葉は、ペアの関係にある。

 親は「産んでやった」と言い、子どもはそれを受けて、「産んでいただきました」と言う。
しかしその関係は、どこか、あのK国の人たちの関係に似ていると思いませんか。

 将軍様とやらは、何かにつけて、民衆に恩を売る。それを受けて、民衆たちは、何かに
つけて、「将軍様のおかげです」と答える。一見、すばらしい関係に見えるが、どこか(?)。

 少し前だが、何かの宗教団体の大会で、こんなことを言う子どもがいた。

 「私は、五体満足で、生まれました。これも、お父さん、お母さんのおかげです。あり
がとうございました」と。

 私はその言葉を聞いたとき、やはり(?)と思ってしまった。「もし、五体のどこかに問
題があったら、この子どもは、何と言うのだろうか?」と。

 だからといって、親に対して、感謝の念をもつことがおかしいと言っているのではない。
私が言いたいのは、親が、親側から、それを子どもに求めてはいけない。いわんや、期待
したり、強要してはいけないということ。

 親は、無条件で子どもを産み、育てる。無償の愛ともいう。「親だから……」「子だから
……」と気負うことはない。そうでなくても、親子の関係は、特殊なもの。ロレンツが発
見した、(刷り込み)のような刷り込みが、人間にもなされるということが、最近になって、
わかってきた。

 卵からかえって、すぐ歩き始めるような鳥類は、最初に見たものや、聞いたものを、「親」
と思いこんでしまうという。そしてそのときできた、(親像)は、生涯にわたってつづくと
いう。

 これは鳥の話だが、その刷り込みに、親は、甘えてはいけないということ。ある時期が
きたら、親はしっかりと子離れをしなければならない。また子ども自身が、親離れするよ
うに、しっかりとしむけなければならない。

 いつまでもベタベタの関係が、好ましいというわけではない。

 むしろ、親子であるという(しがらみ)、これを「家族自我群」というが、そのしがらみ
の中で、悶々と悩んだり、苦しんだりしている人は、多い。切るに切れない、親子関係と
いうわけである。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。つまり、親は、親である前に、1人の人間。
子どもも、子どもである前に、1人の人間。決して「親である」「子どもである」という関
係に、甘えてはいけない。

 きびしいことを書いたが、親であるということは、それくらい責任が重いということ。
たとえば子どもにすばらしい人間になってほしかったら、まず、その見本を、親が子ども
に見せる。それくらいの気構えがあっても、なかなかむずかしい。それが親子の関係であ
る。

 さて、このメールをくれた女性は、いわゆる「幻惑」に苦しんでいる。家族自我群から
発生する悩みを総称して、幻惑という。その幻惑から、逃れるのは、容易なことではない。
つまりは、それくらい、この親子の(しがらみ)、つまり、家族自我群というのは、強烈で
あるということ。

 脳ミソの奥深くに、あたかも本能のように、しみついている。

 だから私としては、こう思う。「あまりこだわらないで、前だけを向いて進みなさい」と。

 人は、人。私は、私。その人がそれでハッピーなら、それでよいのです。「ああ、そうで
すか」と笑ってすませたら、よいのです。家庭の事情というのは、まさに千差万別。だか
らあなたは、あなたで自分のことを考えればよいのです。

 またこれから先も、いっしょに考えていきましょう。
 書きこみ、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●今日こそは、儲(もう)けるぞ!

 午前9時。東京証券取引所が、開始になる。
 インターネットを接続して、そのときを待つ。
 昨日の終値で、私の手持ちの株は、買ったときの株価を回復した。
 今日は、その勢いを借りて、株価は、上昇するはず。

 で、今日の誓い。ほどよいところで、儲けたら、すぐ売る。
 欲はかかない。パソコンが一台分、買えるだけでよい。
 がんばるぞ!

 緊張の一瞬。

 9:03……昨日の終値で始まった。取引高は、多くない。これからだ。
 
 今のところ、売り気配のほうが、強い。このままでは、株価は、さがる?
 「更新」をクリックするが、株価は動かない。みなが、様子を見ているらしい。

 9;06……まだ、動かない。なぜだろう? ふだんなら、開始直後から、○千株程度
は、動くのだが……。いや、動いた。あがった。少しだが、あがった。0・24%の上昇。
これで、6000円の儲け!

 9:10……しかし、まだ売り圧力が強いようだ。売り気配が、180xxx株。買い
気配が、72xxx株。2対1。買い注文がもっと入らないと……。また動きが、止まっ
た!

 9:13……やはり、さがった。もとの株価にもどった。6000円の儲けが、消えた。
売りと買いの気配が、まだ2対1。売り圧力がつづく。

 9:16……やや買い注文が、入り始めた。株価は動かないが、いいぞ、いいぞ。

 9;17……少しあがった、これで、また6000円の儲け。

 (しばらく、あちこちのサイトをながめる。届いた、メールも読む。原稿も、書く。)

 9:21……動きが少ない。動きが少ないときは、株価の変動もあまりない。こういう
ときは、しばらく様子を見るのがよい。

 9:25……このまま株価がさがったら、もうxxxx株、買い注文を出すつもり。こ
れで手持ち株は、xxxxx株になる。さあて、あがるか、さがるか? 何となく、嵐の
前の静けさ。そんな感じ……。いつもと、動きがちがう。

 9:30……こうしてぼんやりと、画面をながめていると、眠くなる。しかし株価は動
かない。日足(ここ数か月の動き)、週足(ここ数年の動き)を見ても、今は、上昇傾向に
あるはずなのだが……。

 9:35……株価、動かず。(時間のムダのように感じてきたので、このつづきは、また
あとで……。)

【中略】

10:15……さらにxxxx株の買いを入れる。株価は、さがったまま。反転上昇す
るのを期待するが、とにもかくにも、今朝は、動きが鈍い。風で言えば、無風状態。今
しばらく様子をみる。今が、底値だと思うが……。

10:28……少し値段の低いところで、大量の買い注文が入った。下値を支えるため
らしい。「もうこれ以上さがっては困る」という人(会社)が、大量の注文を入れたらし
い。

 こういう動きが出てくると、その値段のところから、株価ははげしく上下するはず。こ
こは目が離せない。さあ、どうなるか?

10:40……予想通り、底値を打ったところで、株価は急反転。急反落を繰りかえし
始めた。あとはどちらを向くか、だ。上昇するか、暴落するか。

 全体としてみれば、売り圧力のほうが強いので、株価の急激な上昇は望めない。しかし
取り引き高が、少ない。私のような素人の個人投資家が動いているだけかも? 

 10:45……午前の取り引きは、あと15分で終了。このままでは、差し引き、数万
円の損。またまたパソコンが遠ざかった感じ。この話は、ワイフには、言わないでおこう。
叱られそう。

 やはり私は、バクチには、向かない人間のようだ。(再確認!)


●不気味なニュース

ニューヨーク・タイムズは「南極半島周辺の棚氷が崩壊している」と、1月25日報道
した。棚氷が崩壊すると、今度は、その棚氷が止めている氷河そのものの流出速度が、
速くなるという。その結果、現在、「02〜03年南極半島にある、3つの氷河の流出速
度が、8倍速くなっている」という。

(氷棚は、氷河の流れを食い止める、栓(せん)のようなもの。この栓が抜けると、氷
河がどんどんと海へ流れ出す。)

 「アムンゼン海の氷河が、溶けただけでも、海水面を1・3m引き上げるのに十分な氷
を持っている」とも。

 今すぐ、どうというわけではないのだろうが、北極にある凍土も溶けだしているという
情報もあるから、考えてみれば、これは恐ろしい話である。仮に海の水面が、1・3メー
トルもあがれば、東京都の都市部や、この浜松市の都市部は、すべて海面下に水没するこ
とになる。

 堤防を高くすればよいというものでもないらしい。またそれで海面上昇が止まるわけで
もない。気温が上昇すれば、今度は、海水が膨張する。すると最終的には、海面は、15
0メートル前後まで上昇するという。(150メートルだぞ!)

 また永久凍土が溶けはじめると、同時に、無尽蔵のメタンガスを発生させる。これがさ
らに地球温暖化に拍車をかける。

 まさにいいことなし。そういう状態になる。

 まあ、私としては、なすすべもない。せいぜいできることと言えば、今日も、自転車通
勤。大気を汚染しないことに、ほんの少しだけ、貢献することだけ。考えても、出てくる
のは、ため息? それともあくび? わけのわからない、ア〜ア〜という声だけ。

 環境問題も、子育てに似ている。結局は、行き着くところまで行かないと、人間は、自
分の愚かさに気づかない。同じように、親も、行き着くところまで行かないと、自分の愚
かさに気づかない。

 「まだ、何とかなる」「うちの子にかぎって……」と思っているうちに、どんどんと深み
にはまる。状態は悪くなる。

 かなり話が脱線しそうなので、この話は、ここまで。


●環境判断能力

 このところ、「できる」と思ってやってみるのだが、「やっぱり、できなかった」という
結果で終わることが多くなったような気がする。見通しが甘くなったというか、ネバリが
弱くなったというか……。

 つまりは、環境を判断する能力が、劣ってきたということになる。つまり、加齢ととも
に、この環境判断能力、つまり「アフォーダンス知覚能力」は弱くなると言われている。

 が、問題は、このことではない。

 こうした失敗を重ねていると、自信喪失から、自己嫌悪におちいることがあるというこ
と。ますます、自分自身を老人と決めこみ、気分が、老けこんでしまう。

 先日も、庭の前にある木の枝を切ろうとした。少し離れたところから見ると、それほど、
高い木ではない。30〜40年前の私なら、スイスイと登ったであろう、そんな木である。

 しかし実際、その木に登ろうとしたとき、足がすくんでしまった。ハシゴも用意したが、
そのハシゴにも、登れなかった。

 体がかたくなってしまった。それに万が一のとき、手と腕だけで、体を支える自信もな
かった。そう感じたとたん、「だめだ」と思ってしまった。

 こうして私は、また一つ、自信をなくした。と、同時に、自分の中の(老い)を感じた。

 で、子どものばあい、反対に、環境判断能力がないため、ときとして、無茶をすること
がある。高いところから飛びおりてみたり、深い川を泳いで横切ろうとしてみたりする。
私も子どものとき、大きな羽を両肩につけ、一階の屋根の上から、飛び降りようとしたこ
とがある。

 寸前で、思いとどまったからよいようなものの、あのとき、飛び降りていたら、足の骨
くらいは、折っていたかもしれない。

 一般論として、環境判断能力に欠ける子どもは、ときとして無茶をして、よく事故を引
き起こす。スキーを覚えて、たった2日目に、上級者用のゲレンデをすべりおりてみたり、
わずか数千円のお金だけで、北海道を周遊しようとしてみたりするなど。

 要するに、「軽率」ということになる。

 この環境判断能力を養うためには、子どもに対する過干渉、過関心を最小限におさえ、
自分で考えて、自分で行動する子どもにする。その時期は、乳幼児期から始まる。

 「あなたは、どう思うの?」「どうしたらいいの?」という、語りかけを大切にする。

 実は、今、その環境判断能力の弱い子どもがふえている。身のまわりに危険が迫ってい
るにもかかわらず、その危険すら、認知できない。10年ほど前だが、どこかの家の庭の
中に勝手にしのびこみ、そこにいた犬にかまれた子ども(年長児)がいた。

 年長児なら、(こういう言い方は失礼かもしれないが……)、その危険性を、じゅうぶん
認識していておかしくない年齢のはずである。

 さて、私も、今度は、それとは反対の立場で、同じような失敗を繰りかえし始めている。
さらに、以前にはできたのに、最近になって、できなくなったということも多い。そんな
わけで、今は、年齢相応に、そして体力や知力相応に、自分がもっている環境判断能力を、
調整しつつある。

(具体例)

 たとえばビデオを見るときも、1日、1本と決めている。しかも寝る前には見ない。寝
る前に見ると、そのまま眠れなくなってしまう。2本も見ると、頭が痛くなってしまう。
が、ときとして油断して、「今日はいいだろう」と、2本、見てしまうこともある。そして
そのあとは、いつもの頭痛。

 大切なことは、できることと、できないことを、的確に判断して、それに従うというこ
とか。無理をしない。無茶をしない。冒険をしない、など。
(はやし浩司 環境判断能力 アフォーダンス知覚能力)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ボケ兄・行状記

 ボケが原因なのか。それとも生い立ちに問題があったのか。それはわからない。しかし
ボケた兄のわがままには、ときどき、がまんならないときがある。

 食事だけが楽しみなのは、よくわかる。しかし時間どおりに、食事を用意しないと、と
たんに、機嫌が悪くなる。

 たとえば朝食は、午前7時20分きっかり。
 昼食は、午後12時きっかり。
 夕食は、午後5時20分きっかり。

 それまでの私たちには、こうした規則はなかった。日によって、食事の時刻はまちまち。
朝食と昼食を一つにすることもあった。が、兄には、それが通らない。

 何度、「今夜は、夕食は、7時だよ」と念を押しても、「わかった」と返事をするのは、
そのときだけ。やがて5時になると、食堂の前に、じっと、立って待っている。数分おき
に、「まだか」「まだか」と騒ぐ。

 「用意ができたら、あとで部屋まで呼びにいくから、そこで待っていろ」と言っても、
効果は、そのときだけ。また数分もすると、そこに立っている。そして、ボケ老人特有の
いやみを、タラタラと言う。

 「かあちゃんは、5時に作ってくれた」
 「腹が減ると、風邪をひく」
 「早く食べないと、ご飯、冷えてしまう」とか、など。

 そういうとき、ワイフは、兄の言葉に合わせて、何度も、「24ね」「24ね」と言う。

 ムシ(無視=6x4)24の、「24」である。いちいち気にしていたら、こちらの気が
ヘンになる。そこでニッコリ笑って、ワイフは、兄に、「24ね」と言う。やさしく言う。
私とワイフが決めた、暗号である。もちろん「無視しろ」という意味である。

私「晃子、24だよ、24!」
ワイフ「わかっているわ、24ね」と。

 そういう使い方をする。

 ……とまあ、毎日が、この繰りかえし。

 で、昼食は、私が用意してやっている。ワイフも、このところ、バテ気味。

 「歯が痛い」「入れ歯が合わない」「かたいものは食べられない」「かたいものを食べると、
胃が悪くなる」と、兄は、そんなことばかり言う。

 そこで冷蔵庫をのぞくと、それらしきものがない。パンの耳ですら、「かたい」と言って、
テーブルの上に、投げ捨ててしまう。

 私はサンドイッチを作った。もちろんパンの耳を切り落とした。つぎに、卵豆腐を取り
だし、その上に、小豆(あずき)をのせた。それと野菜ジュース。もう一品は、カニかま
ぼこの炒めたもの。野菜を少しまぜた。

私「これで、かたいと言ったら、何も食べさせないぞ!」
ワイフ「好きなものは、かたくても食べるわよ。きらいなものは、かたいと言って、食べ
ないのよ」と。
私「卵豆腐の上に、小豆を載せたら、プリンみたいだね」
ワイフ「わかるんじゃないの?」
私「わからない、わからない」と。

 ボケの特徴の一つは、自己中心性。自分勝手でわがまま。自分のことしか考えない。そ
もそも人格が崩壊しているのだから、自己中心的になるのは、わかる。人格の「核」その
ものが、ない。が、ここまで自己中心性が進むと、世話をするのが、ときにバカバカしく
なる。

 兄自身は、いっさい、何も手伝わない。料理の「リ」もしない。ただ食べるだけ。いや、
ただ食べるだけならまだしも、その料理に、文句をつける。

私「あのなあ、お前。お前は、お客さんじゃ、ないんだぞ。文句を言うな」
兄「オッケー」
私「オッケーはいいけど、少しは手伝えよ」
兄「オッケー」と。

 しかし、何もしない。手伝わない。食べたあとは、そのまま散らかして、テレビを見始
める。そして、そのつど、「メガネがない」「入れ歯がない」と大騒ぎする。「自分でさがせ」
と言うと、その場でしゃがみこんで、シクシクと泣くマネをする。

私「あのなア、ウソ泣きはやめろ」
兄「ウソ泣きじゃ、ない」
私「だって、涙が出てないぞ」
兄「そうやな、涙が出ないな」と。

 自分の部屋においやると、あとは、音楽を聞くだけ。電気はすべてつけっぱなし。コタ
ツも、電気毛布も。……などなど。経済観念もないし、現実検証能力もない。自分のおか
れた立場すら、わかっていない。何か不満なことがあると、「○○(姉の住む村)へ帰る」
とか言って、子どものように、ダダをこねる。

 あわれみと同情。それにザワザワと心の中で騒ぐ、怒りと不安。しかし兄の姿は、私の
近未来の姿でもある。「私もああなるのかナ?」と思ってみたり、「ああは、なりたくない
ナ」
と思ってみたりする。

 ところで、人間は、考えるから人間である。生きるということは、考えること。しかし
その前に、考える力そのものを失ってしまったら……。はたして、人間は人間なのか。人
間は、人間でいられるのか。唯一の救いは、兄が、まるでビデオテープのように、私の子
ども時代の風景をよく覚えていてくれること。もうとっくの昔に忘れてしまったはずの、
近所に住んでいた人の名前や、店の名前が、兄の口から、会話となって出てくる。それを
聞いていると、走馬灯のように、当時の情景が、あれこれと頭の中に浮かんでくる。

 それは淡くも、心懐かしく、心を温めてくれる。

 だからそういう話を聞くのは、嫌いではない。もっとも兄にしてみれば、それは遠い昔
の過去の話ではなく、今という現実の話なのだが……。

 で、今日も、兄は、台所の入り口に立って、私にこうせがんだ。「そちらの部屋に入れて
くれ」と。しかし私は、心を鬼にして、こう言った。

 「入れてあげたいけど、お前は、約束を守らないだろ。ガス栓にさわられると、困るん
だよ」と。

 それに答えて、兄はさみしそうな顔をして、「さわらないから」と言った。

 しかし今の兄には、約束を守る能力は、もうない。それに放火癖もある。ライターを手
にすると、手当たり次第に、ものを燃やしたがる。「温情は禁物」と、何度も自分に言って
きかせて、兄を部屋に押しもどす。

 多分、明日も、今日の繰りかえしだろう。覚悟して、世話をするしかない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 23日(No.533)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●現実の子どもVS理想的な子ども像

 心理学の世界には、(現実自己)という言葉と、それに対して、(自己概念)という言葉
がある。

 「現実の自分」を、(現実自己)という。一方、「私はこうでありたい」「こうあるべきだ」
という概念を、(自己概念)という。このギャップは、小さければ小さいほどよい。人間性
は、そこで安定する。が、このギャップが大きいとき、そこから劣等感が生まれる(フロ
イト)。

 同じように、親は、子どもに対して、(現実の子ども)と、(理想的な子ども像)のはざ
まで、もがき、苦しむ。

 「うちの子は、こうであってほしい」「こうであるべきだ」というのを、理想的な子ども
像という。しかし現実には、そうでない……。

 そのギャップが大きければ大きいほど、親は、親として、葛藤する。「私は親だ」という
親意識の強い人ほど、そうだ。

 そしてこう悩む。

 「こんなハズはない」「うちの子は、やればできるはず」「できないのは、やらないから」
と。

 さらに豪快な(?)親となると、こう言う。「幼児教育が大切です。幼児期からしっかり
と教育すれば、東大だって入れます。ノーベル賞だって取れます」と。

 実際、そう言った母親がいた。

 しかし、そういうものではない。そういうものでないことは、何百例も子育てを見てく
ると、わかる。そこで私は、その母親にこう言った。

 「じゃあ、お母さん、お母さんも勉強して、東大へ入ってみたらいかがでしょうか?」
と。

 私は皮肉をこめてそう言った。が、その母親は、照れ笑いをしながら、こう言った。「私
は、もう終わりましたから……」と。

 学問に終わりはない。真理の探究となると、さらに、終わりはない。つまり死ぬまで、
私たちは前向きに生きていく。探求しつづける。立ち止まったとたん、脳ミソは、腐る。

 そこで教訓。

 親は、子どもに、あるべき理想像を描きやすい。それはわかる。そういう夢や希望があ
るから、子育ても、また楽しい。しかしそれには条件がある。

 夢や希望をもっても、それを子どもに強要してはならないということ。

 そこで大切なことは、あなたの子どもが、現実には、どうであるかを、しっかりと見き
わめること。それについて、少し前にこんな原稿を書いた。

++++++++++++++++++++

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、
心の問題をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。

中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに
無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理を
すればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。

しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて
気がつく。その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところ
がわかっていない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言っては
ねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを
繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出
てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその
状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗み
や、夜遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はま
ずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的
な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、
決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく
子どもいる。

しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自
身を振り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになった
だろうか。あるいはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そ
うでないなら、あまり子どもには期待しないこと。

昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれ
ないが、子育てというのは、もともとそういうもの。

++++++++++++++++++++++

(後記)

 はからずも最後のところで、私は、こう書いた。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。

 それに早く気づく親を賢明な親という。そうでなく、いつまでも、ムダな抵抗を繰りか
えし、悶々と悩む親を、そうでないという。

 ほとんどの親は、子育ても一段落すると、こう言って、自分をなぐさめる。

 「やっぱり、あんたは、ふつうの子だったのね。考えてみれば、何のことはない。私だ
って、ふつうの人間なのだから」と。

 子育てというのは、そういうもの。ホント!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●満たされなかった過去

 引きこもりを起こした子どもが、ある特有の症状を示すことは、よく知られている。乳
児期や幼児期に使ったおもちゃを、取り出して遊ぶ、など。何か特定のものに、異常なま
でにこだわることもある。

 A君(23歳)は、部屋の中に引きこもりながら、フィギュア(人形)や、ロボットの
プラモデルばかりを作っていた。もっとも、そのときは、A君は、回復期にあった。

 ふつうの生活をしている成人でも、ときとして、過去のある時期の自分にもどって、そ
のときの自分を、無意識のうちに再現しようとすることがある。

 たとえば3歳期に問題のあった人は、3歳のときの自分に、もどる。5歳期に問題のあ
った人は、5歳のときの自分にもどる。さらに口唇期に問題のあった人は、飲酒や喫煙に
たよるようになる。肛門期に問題のあった人は、異常なまでに、きれい好きになる、など。

 こうした一連の行動は、「退行」という言葉を使って説明される。

 極度の不安状態、心配や精神的苦痛に襲われたとき、この退行という現象は、現われや
すい。学生時代、こんな話をオーストラリアの友人から聞いたことがある。

 オーストラリア兵の話だが、ベトナムの戦場からサイゴンに帰ってきた兵隊たちは、い
っせいに、「女」を買いに街に出るという。

 が、女を買うといっても、セックスが目的ではない。みな、女を買って、一晩中、その
女の乳房を吸うためだそうだ。つまりそうして、極度な緊張感から、自分を解放しようと
した(?)。

 ……こうした「退行」を、自分の中に知ることにより、私たちは、自分を、より深く知
ることができる。

 というのも、ときとして、たとえば、ここに書いたように、極度の不安状態などに自分
が置かれたとき、人は、ときとして、子どもっぽいことをしてみせたり、ふつうではない、
特有の症状をしてみせたりする。そういう自分を逆に観察して、自分の過去の、どこに、
どのような問題があったかを知ることができる。

 最近、聞いた話だが、69歳になるその人の義父が、こんな症状を示すという。何でも
義母の姿が、ほんの5分でも見えなくなったりすると、子どものように泣き叫びながら、
義母の姿をさがすのだという。

 この話を教えてくれた女性(40歳くらい)は、「まるで子どもの分離不安みたいです」
と言っていた。

 義父といっても、現役時代は、ごくふつうの会社員として活躍した人である。中規模の
会社だったが、それなりの地位にいた人である。そんな人でも、そうなる。その女性の話
では、「頭が少しボケてきたこともあるようですが、長年の慢性病で、気が弱くなっている
せいではないでしょうか」とのこと。

 恐らくその義父は、幼児期に、一度、分離不安を経験しているのだろう。親の野姿が見
えなくなって、泣きながら、あとをおいかけた、とか。また、そう考えるほうが、自然で
ある。その分離不安を、60数年という年を超えて、再び、その義父は、再現している(?)。

 こうした「退行」は、多かれ少なかれ、みな、経験している。私や、あなたも、だ。例
外はない。ためしに、あなたの夫(もしくは妻)を観察してみるとよい。「どこか子どもぽ
いことをするな?」と感じたら、それがどう子どもぽいかを知る。そしてそれを手がかり
に、あなたの夫(もしくは妻)の、過去を知る。

 その人にとっては、その時期に、何か、心の問題があったとみる。つまり人は、自分の
過去のどこかにできた、心のスキマを埋めるために、無意識のうちにも、満たされなかっ
た自分の過去を再現する。
(はやし浩司 退行 満たされなかった過去)


●逃避

 いやなことがあると、人は、それから逃げようとする。その逃げ方には、いろいろある。
子どものばあいで、考えてみる。

(1)現実逃避
(2)現実回避
(3)代償的逃避
(4)自己逃避
(5)引きこもり、など。

 最近では、占い、まじない、超能力がある。こうしたものを信じたり、頼ったりするこ
とによって、子どもは、現実の不安や心配から逃避しようとする。

 その傾向が強くなるのは、受験期を迎えた小学校の高学年から、中高校にかけて。これ
を「現実逃避」という。「超能力をさずかって、テストで、100点を取りたい」と言った
中学生がいた。

 つぎに、たとえば定期テストが押し迫っているというのに、友だちと、街をブラついて
みたり、コンサートに出かけてみたりすることがある。現実を忘れるために、そうする。
これを「現実回避」という。

 また逃避は、逃避だが、勉強をしなければいけないときに、スポーツの練習に励むとい
うのも、ある。私も、高校生のとき、日本史(日本史が苦手だった)の勉強をしなければ
ならないとき、得意の数学や英語の勉強ばかりをしていたときがある。つまり私は、数学
や英語の勉強を代償的にすることで、日本史の勉強から逃避していた。

 さらに自分自身を、その社会から逃避させてしまうこともある。ある日、ブラッと旅に
出るなど。子どもでいえば、学校をサボって、街に出るというのが、それにあたる。

 で、その状態が、内にこもったのを、「引きこもり」という。(子どもの引きこもりは、
これだけでは、説明はできないが、症状としては、これで説明できる。)

 「逃避」という行動は、自分自身の精神的苦痛をやわらげるためのものと考えてよい。
反対に「逃避」を押さえこんでしまうと、そのひずみは、心のひずみとなって、さまざま
な方面に現れる。逃避することを、「悪」と決めてかかっては、いけない。

 大切なことは、逃避と、うまくつきあうこと。ときに、夢想して、超能力の世界にひた
るのも、よいかもしれない。ときに、学校をサボって、街をブラつくのも、よいかもしれ
ない。一見、ムダな行動のようにも見えるが、子どもは(そして人は)、そういう形で、自
分の心を調整する。

 さらに大切なことは、そういう行動が見えたら、何が、子どもをそうさせているかを、
早めに判断すること。何か、原因があるはずである。昔から、『親の意見と、ナズビの花は、
千に一つもムダがない』というが、これをもじると、『子どもの行動には、千に一つも、ム
ダがない』となる。

(補記)

 今、気がついたが、私が、日本の封建時代に、大きな反発を覚えるのは、それは私が、
高校生のとき、日本史に苦しめられたからではないか。反発を覚えたから、日本史が嫌い
になったのか、嫌いだったから、反発したのかは、わからない。

 しかしまったく関係ないとは、思えない。

 とくにあのころの日本史は、(今でも、そうだが)、まるで暗記科目のような科目だった。
いくら頭の中で、ストーリーが理解できていても、その言葉(単語)が出てこなければ、
点は取れなかった。英語も、似たような科目だったが、しかし英語には、まだ夢があった。
「いつか、外国へ行く」という夢だ。

 こうして考えてみると、今、私たちが、無意識のうちにも、「好き」とか「嫌い」とか言
っているものでも、そのルーツをたどってみると、そこに何かがあることがわかる。

 そういう意味では、人間の心というのは、自分でつくっていく部分もないわけではない
が、その大半は、その環境の中で、(つまりは運命という無数の糸のからみあいの中で)、
つくられていくものかもしれない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●宗教心

 頭がボケ始めた兄は、実家にいるころは、欠かさず、その命日には、墓参りをしていた。
そのこともあって、私といっしょに住むようになって、しばらくたった、ある日のこと。
突然、「墓参りをしたい」と言い出した。

 これには、ハタと困った。

 我が家には、仏壇はあるが、中身は、カラッポ。墓など、どこにもない。

 しかたないので、去年、何かの賞でもらったトロフィーを、兄に渡した。

 「なっ、この上に、観音様がのっているだろ。羽のはえた観音様だよ。おっぱいが、大
きいだろ。それだけ、ご利益もあるというわけ。

 この観音様に、毎日、祈るといいよ」と。

 そのトロフィーは、3段になっていて、一番下が地球儀、その上が、提灯様にふくらん
だ、球。そしてその上にもう一つ、ローソク立てのようになっていた。女神は、その上で、
羽を広げて立っていた。

 さっそく、兄は、そのトロフィーに向って、何やら、祈り始めた。

兄「何て、祈るんだ?」
私「さあ、何でもいいよ。頭がよくなりますように、でもね」
兄「頭は、悪くない」
私「だから、お前は、重症なんだよ」と。

 そして私は兄を、仏壇の前に連れていった。電動で、扉が開閉したり、電気が点灯した
りする。兄が祈るのに合わせて、こっそりと、電気をつけてあげたり、扉を開閉させたり
してみせた。それを見て、兄は、「不思議やなあ」と言って、ますます、真剣に祈り始めた。

 「そういうものかあ?」と思ってみたり、「こんなことしていいのかなあ?」と思ってみ
たりする。

 まあ、私も、一応、真剣なフリをして、兄の横に座って、祈ってみせる。

私「何か、悲しいことや、困ったことがあったら、ここで祈るといい」
兄「わかった」
私「この神様は、ご利益があるぞ。何でも、お前の願いをかなえてくれるからな」
兄「わかった」と。

 居間へもどると、そこでワイフが、洗いものをしていた。「まあ、あんなもんだよ」と私
が言うと、ワイフは、笑ってはだめだというふうに、笑い虫を懸命に押しつぶしながら、
こう言った。「いいの? あんなウソ言ってエ?」と。

 まだ、私の兄ということで、何かの遠慮をしているようだ。

 少し曇った、どんよりとした空。そのとき、ワイフがこう言った。「お米がなくなったか
ら、あとで、買い物に行こう」と。私は、すかさず、「いいよ」と答えた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老人介護

あちこちの読者の方から、老人介護についての意見が寄せられている。どれも深刻なも
のばかり。

 中には、義父と義母、つづけて25年間も介護をしつづけた女性からのものもあった。
いわく、「昨年、義父につづいて、義母が死んでくれたときには、正直言って、ほっとしま
した」と。

 さらに、週3回の病院通いをしながら、家では、わがままし放題、勝手し放題。実の息
子が何かを口答えしようものなら、「お前など、この家から出て行け。ここはオレのウチだ」
と。そんな老人(男性)もいる。ときどき半ば強制的に入院させるのだが、「病院はいやだ」
「飯がまずい」と言って、たいてい数日で帰ってきてしまうという。

 緑内障もあって、家の中でもよくころぶという。そのたびに、「骨が折れた」「痛い」と、
泣き叫ぶので、救急車を呼ぶことも、しばしば。しかしレントゲン検査では、何ともあり
ません、と。

 もう一人の男性は、軽い脳梗塞を起こした。そのためか、たった5分でも、妻の姿が見
えないと、子どものように大騒ぎして、妻をさがすという。妻がトイレに入ったようなと
きにも、トイレのドアのところに立って、妻が出てくるのを待っているという。

 私の兄のばあいも、風呂に入っても、体を洗わない。洗うようにと指導するのだが、や
わらかいタオルで、体をなでるだけ。それも、手の届く範囲だけ。それでは洗ったことに
ならない。

 そこで私が洗ってやるのだが、洗っている間中、「痛い」「痛い」と。頭を洗えば、「目に
せっけんが入った」「耳に入った」「目が見えなくなる」「耳が聞こえなくなる」と、大騒ぎ。

 『上げ膳、据え膳』という言葉があるが、老人介護、その中でも、とくにボケ老人の介
護は、それ以上。すべてのものを、用意してやらねばならない。

 風呂から出るときは、下着から着る服まで、並べておく。もちろんバスタオルも。あと
始末など、ぜったいにしない。つまり自分のことだけしかしない。が、その自分のことを
させるだけでも、一苦労。その上、文句ばかり言う。

 「風呂から出たら、牛乳を飲む」「寝る前には、養M酒を飲む」「枕がきたない」と。

 いったい、母は、兄に、どんな教育をしてきたというのだ! ……ということになるが、
それはそのまま、私の問題であることにもなる。兄と私は、同じ家庭環境で育っている!

 そうした老人を見ていると、老人とは、いったい、何か、ということになる。

 こんな深刻な(?)、というより、どう理解してよいのかわからない話もある。

 ある女性(76歳くらい)は、懸命に、夫(80歳)の介護をしていた。その女性は、「絶
対に死んでもらっては困る」を、口ぐせにしていた。

 最初その話を聞いたときは、私は、その女性は、すばらしい女性だと思った。愛情豊か
な女性だと思った。しかし内情は、少しちがっていた。私は、そのことを、その夫が死ん
だあとに知った。

 その女性は、ふと、こうもらした。「あの人ががんばって生きてくれたおかげで、孫のマ
ンションを買ってあげることができました」と。

 つまりその女性は、夫の年金ほしさのために、「死んでもらっては困る」と言っていたの
だ。

 人はだれしも、老いる。例外は、ない。しかしその老い方は、人、さまざま。みな、ち
がう。憎まれながらでも、そして嫌われながらでも、家族に包まれて老いる人は、まだ幸
福なのかもしれない。

 大半は、家族にも見放され、孤独の中で、悶死していく。私もその予備軍の一人だから、
偉そうなことは言えないが、そうでありたくはないという気持ちは、強い。

 このところ、老人介護について、いろいろ考えさせられる。


●老いを受け入れる

老いをどう受け入れていくか。

 一つの考え方として、「老い」という形を、あえてつくらないほうがよいのではないかと
いうこと。日本人という民族は、どうしても、一つの形を用意して、その形の中で、もの
を考えるクセがある。そしてあえて、自分を、その形の中に押しこめようとする。

 私も、その入り口に立ってみて気がついたが、「私は老いつつある」と考えるほうが、お
かしいのではないのか? 若い人たちにすれば、私たちの年代は、どうしようもなく遠い
未来の、いわば、ありえない先の年代のように見えるかもしれない。

 しかし実際には、老いというのは、それほど遠い未来のことではないし、実際、その老
いのドアウェイ(玄関)に立ってみると、「どうして自分が、老人なのか」とさえ思ってし
まう。

 話を少しもどすが、「老いの形」があるということに気づいたのは、学生時代に、オース
トラリアへいったときのこと。老人の姿、生き方はもちろんのこと、生きザマまで、日本
人のそれとまったく異なっていた。

 たとえば服装にしても、若い人たちより、日本流に言えば、ド派手な色彩の服を着てい
た。髪の毛を紫色に染めている老人すら、いた。当時の日本の常識では、考えられない服
装である。(最近は、日本人も変わってきたが……。)

 私たちは、心のどこかで無意識のうちにも、「老人は、こうあるべきだ」というようなも
のの考え方をする。そして老人を見るときも、そういう目でみるし、自分をも、そういう
目で見る。

 しかし、これはおかしい。決して、自己正当化するためではないが、どう考えてもおか
しい。

 このことは反対に、幼児を見てみてみると、わかる。

 幼児だから、幼稚。つまり未熟で未完成な人間とみる。またそのワクの中で考える。

 しかし幼児だって、人間。一人の人間。決して親のペットではないし、おもちゃでもな
い。親のなしえなかった夢や希望をかなえるための、代用品ではない。もちろん老後のめ
んどうをみてくれる道具でもない。

 幼児でも、喜怒哀楽の情はある。嫉妬もするし、名誉心もある。経験や知識こそ、とぼ
しいが、それをのぞけば、おとなと変わらない。

 同じように、老人も、一人の人間である。こんな話を聞いたことがある。

 若い介護士の男性が、ある女性(90歳くらい)の入浴を手伝っていたときのこと。そ
の女性が、介護士にこう言って、スーッと涙を流したという。「恥ずかしい……」と。

 人間に「形」はない。年齢による「形」はない。

 老いを考えるとき、まずその形を自分の中につくらないこと。心理学的に言えば、役割
形成をつくらないこと。

 たとえば成長とともに、男の子は男の子らしくなる。女の子は女の子らしくなる。自ら
そうなるというよりは、環境の中で、無意識なまま、自然とつくられていく。それを役割
形成というが、同じように、自分の中に、「老人」という「形」をつくってはならない。

 かく言う私も、このところ、こんなふうに考えるようになった。

 「今までは若かったから、生徒を教えるとき、月謝も、X万円でよかった。しかし、年
をとったから、仕事をさせてもらえるだけでも、御の字。だから月謝を安くしよう」と。

 しかしすぐ、この考え方は、まちがっていることに気づいた。

 体力や知力は、たしかに落ちた。だからその分だけ、若いときのように、毎日、5〜7
時間もつづけて教えることはできなくなった。今は、せいぜい4〜5時間が限度である。
しかし教えている中身は、同じである。むしろ、若いときより、充実してきている。

 だったら、なぜ、月謝を安くしなければならないのか、と。

 私は元気だ。まだ体力もある。経験をつんだ分だけ、指導のし方も、うまくなった。心
も広くなったように思う。

 わかりやすく言えば、年齢は、もう関係ない。子どもたちに、「ジジイ先生」と呼ばれて
も、それはそれでかまわない。

 ただ体力と知力は、鍛錬(たんれん)していかねばならない。日本学士院賞を取ったよ
うな学者でも、ボケるときには、ボケる。恩師のT先生がそう言っていた。

 体力と知力を、鍛錬することは、これからの時代を生きる私たちの義務のようにも、思
う。

 私の兄は、ヒマさえあれば、「寒い」「寒い」と言って、コタツの中で、ふとんをかぶっ
て眠っている。が、これでは、体力も、知力も、鍛錬されるはずがない。ボケる一方であ
る。

 で、その私は、どうするか?

 これから楽天の日記を書いたあと、山荘へ行ってくる。そして、落ち葉を集めて、袋に
つめてくる。ついでに浜北市方面の写真をとってくる。マガジンに載せるためである。つ
まりそうして、私は、自分の心と体をふるいたたせる。

 私にとって、「今の時代」は、そういう時代をいう。「老いを受け入れる」なんて、クソ
食らえ!、だ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●1日、250グラム

 隣のK国は、今年に入り住民1人当りの1日の食糧配給量を300グラムから250グ
ラムに減らしたという(「朝鮮日報」)。世界食糧計画(WFP)が1月24日、報告書で明
らかにした。 

 1日250グラムという量は、WFPが勧奨する1日最小摂取量の、半分の量にすぎない。

 K国は、昨年度は、豊作だったという。しかし配給量は減らされた。理由の一つは、生
産した穀物を、民間市場へ流しているためだという。その分、配給量は減った。

 が、では、その民間市場で、米などの穀物を購入できるかというと、そうでもないらし
い。同じく朝鮮日報によれば、「昨年12月の農民市場でのコメ1キロ当りの価格は600
ウォンだった。これは03年の平均価格120ウォンより 5倍値上がりした金額で、平均
的な北朝鮮勤労者の給与の30%に上る」(WFP)という。

 わかりやすく言えば、平均的な勤労者でも、3キロ強の米を買ったら、それで給料は消
えてしまうということになる。

 で、その250グラムという量は、どの程度の量をいうのだろうか。ちょっと調べてみ
たら、袋入りのインスタントラーメンが、約100グラムということがわかった。つまり
インスタントラーメン、約2個半分の量ということになる。

 ただここで誤解してはいけないのは、配給といっても、ただでもらえるわけではない。
配給券が渡されて、その配給券で買える量ということらしい。配給券があれば、公定の安
い価格で、買える。(お金がなければ、もちろん買うことはできない。)

 そういうK国を見ると、K国の愚かさが、よくわかる。しかし考えてみれば、この日本
だって、それほどちがった政治をしているわけではない。昨日も、日本の社会H庁の公費
ムダづかいを報道している番組があった。

 まあ、コメントするのもなさけないほどの、ムダづかいである。

 ああいうのを見ていると、「どこの国も、同じだなあ」と思ってしまう。結局は、苦しむ
のは、弱者と言われる、私たち(もの言わぬ従順な国民)ということになる。

 いや、不平、不満は、すでに爆発の限界を超えている。しかし今、私たちは、その怒り
をどこへぶつけたらよいのか。そのぶつけ先が、ない。その気持は、K国の民衆も、同じ
ではないだろうか。

 「何か、おかしいぞ?」と思いながらも、何もできない。そのもどかしさだけを感じな
がら、今日もまた、自分をごまかしながら生きる……。K国の報道を読みながら、そして
250グラムという数字を見ながら、そんなことを感じた。

【4】(特集2・反抗期)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●掲示板への相談から……

 Fさんという方から、こんな書き込みがありました。まず、それをそのまま転載させて
いただきます。

+++++++++++++++++

朝、子どもを起こして、学校に出すまでが苦労・・・。
放っておけば、いつまでも寝ています。
別に学校なんてつまらないし、部活があるから行くけど
と言う、中2の息子。
疲れたと言って休む事も、月に1回位あります。
夜は11時頃就寝しています。

高校受験もあるし、世の中を舐めきったような態度が許せません。
わがままに育てた私が悪いのでしょうが、このまま本人が自覚するまで待つしかないので
しょうか?
ちなみに土日の部活には、きちんと起きます。

+++++++++++++++++++

 みんなそんなものではないでしょうか。Fさんの息子さんだけが、特別ということでも
ないでしょうし、またそうであるからといって、特別な子どもというわけでもないでしょ
う。

 少し前、子どもの反抗期について書きました。もう一度、それをここで書き改めてみま
す。(前作の改訂版というところです。)

+++++++++++++++++++

●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身
の経験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて
不安定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その
緊張感が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大
きな不満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年
にかけての時期が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、
吹かすな!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、
自ら、心のよりどころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定
になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家
族の束縛を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子
どもは、「自分さがし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索する
ようになる。中学校の2、3年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。
親子の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生
から、おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)か
らの独立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられ
る。何らかの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなに
なるケースである。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなにな
ることがある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、
生活力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、
穏かで、おとなしいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そ
うなる、マザコンタイプの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不
完全なまま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、
つまりは、何を考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、い
よいよ巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子ども
の反抗を、決して悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしては
いけない。その度量の広さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。
(はやし浩司 子どもの反抗 反抗期)

++++++++++++++++++++++

【子どもの反抗期】(2)

子どもの反抗期で悩んでいる、みなさんへ、
子どもの反抗期について考えてみました。

つぎの2つの原稿を読んでくださると、きっと心も軽く
なるはずです。どうか、お読みください。

+++++++++++++++++++++++

以下2作は、先日送った原稿と、ダブります。お許しください。

+++++++++++++++++++++++

●「生きていてくれるだけでいい」
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。ある
いは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なから
ずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切る
ことができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。

人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつ
きないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見
ろ」というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを
見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことを
し、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、
その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から
見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。もう何度も書いたように、
フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)
は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を
得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉
を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意
味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を
歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦
労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分
が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこん
な相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入
れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよい
か」と。

こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親
子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけ
なければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくな
り、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言っ
たまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉
で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに
苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、
じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐
えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子ど
ものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれな
い。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜
びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。(*浜松市AB幼稚園元園長)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考え
させられた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私た
ち自身の問題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、
大切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してき
ました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向か
い、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつく
って、食卓も部屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力
もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の
子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費
ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反
して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらい
いの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したら
いいの?」(月刊M誌・K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こん
な相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしています
が、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進
もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのもの
だが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室
へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいで
しょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、
今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮に
これらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚や
らせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもが
C中学に合格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに
親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく
振り回される……。

+++++++++++++++++++++

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も
一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエ
ゴではなかったのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっている
ような経験は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、K
さんを笑っているのでも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったこと
は、すべての親が共通してかかえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目
立つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、
小鳥、魚を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子ど
もたちは地理が苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違い
はしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパ
ターンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」
というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子ども
は喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめ
るということをしない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、その
サインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾
けないから、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思い
ます」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから
……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と
言う。息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保
護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気に
なるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大
きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよ
い「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んで
いたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエ
ゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしが
みついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表してい
る。

+++++++++++++++++++++++

 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離
れを始めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩み
も、その一つ。

【Fさんへ】

 Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責める
のは、正しくありません。

 あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。
子どもは、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想と
する子ども像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)

 理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、
いろいろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うこ
とも……。

一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできない
からです。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。

 ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場
で、もっというなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけ
てみることです。

 親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまう
でしょう。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」
とか、「お母さんも、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。

 幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですか
ら、それを一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子
どもは、自分の道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子
どもを、側面から支えることになります。

 残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが
子どもになすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、
そういうふうに、考えないことです。

 子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行っ
てはほしくない方向に自ら進んでいくこともあります。

 では、どうするか?

 最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子
どもの間の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題
があったかと聞かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗
したという点です。)

 あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性と
いうことで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の
子育てをしてきた可能性があります。

 どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよ
くて、2つとか3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してく
ださい。(みんな、外から見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みん
な、問題だらけですよ。外からは、それが見えないだけ。)

 あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの
不安や心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏
感に感じ取って、「ウルセー!」となるわけです。

 こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番
底があります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届
かない遠くに行ってしまうこともありえるということです。

 だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっし
ょに、歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえ
し、(3)ほどよい親であることです。

 やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。

 あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、そ
れまでということです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、
水を飲ませることはできない』というのが、あります。

 あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、
自分を光らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、
一芸が、子どもを伸ばす時代です。

 そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分
のしたいことをすればよいのです。1人の人間として、です。

 そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれに
まさる、不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、
前向きに生きている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。

 「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かな
り親意識の強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう
意識をつくりあげられてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられ
るもの。子どもは、親を踏み台にして、さらに先へ行くものです。

 子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。

 くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!

 子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいので
す。それが親の、つまりは人間としての度量ということになります。

 あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。

 この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっ
と言えば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということ
です。あなたの子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。

 「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、
そういうときは、休みなさい」と。

 ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そうい
うときは、「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやが
るでしょうが……。)あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むので
す。

 Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、
ママ」と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)
にやって、よい成績をとって、人に好かれる子どもです。

 しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。

 ……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんの
かかえている問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクして
いますが、あなたの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているので
す。そういう目で、見てあげてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 21日(No.532)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●チュー(キス)

私はときどき、子どもたち(生徒)を、こう言って、おどす。

静かにしていないと、チューするぞ、と。

 「チューイ(注意)のイをとって、チュー」と。

 昨日もそう言った。年中児のクラスだった。するとみな、「イヤー」「気持ちワルイ」と
言った。

 そこで私が、「君たちは、ママやパパにチューしてもらっているんだろ」と言うと、「し
てくれない」とか、「してもらったこと、ない」とか言い出した。

 ふつうは、ここで話が終わるはずだった。が、突然、Aさんが、「今朝、パパとママがチ
ューしていた」と言い出した。「毎日、会うたびに、チューしている」と。

 ハプニングだった。

 すかさず、「この話はやめ」「静かに!」と、たしなめた。が、ときは、すでに遅し。子
どもたちは、ハチの巣をつついたように、キスの話を始めた。「パパとママね……」とか、
「ママがパパに抱っこしてもらってた」とか、など。

 5、6人の母親たちが、レッスンを参観していた。何人かは、顔を下へ向けていた。

私、「静かに!」「もう、その話はやめなさい!」と。

 このころ、つまり満5歳を超えるあたりから、子どもたちは、急速に「性」への関心を
もち始める。性器はもちろん、性的行為についても、それらが何か特別な意味をもってい
ることを知る。

 男児が女児を意識し、女児が男児を意識するようにもなる。「男」と「女」を、区別する
ことができるようにもなる。もちろん父親が男であり、母親が女であることも知る。

 そのため、この時期、重要なことは、その「性」に対して、うしろめたさを持たせない
ようにすること。性について、ゆがんだ意識や、暗いイメージをもたせないようにするこ
と。男と女の差別意識(ジェンダー)については、もちろん、論外である。

 幼児教育では、「男はすぐれている」「女は賢い」といった教え方は、タブーである。「男
は強い」「女は弱い」も、タブーになりつつある。(実際には、この時期は、いじめられて
なくのは男児、いじめて泣かすのは女児ということになっている。)

子ども「先生は、どうしてチューするの?」
私「チューイ(注意)するのが、いやだからね」
子ども「注意のほうがいいよ」
私「注意しても、どうせ、君たちは、ぼくの言うことなど、聞かないだろ」
子ども「聞く、聞く、ちゃんと、聞く」
私「そう? だったら、チューはしないよ」と。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●投影

 不登校児になった子どもが、よく、「○○君が、ぼくをいじめるから」「△△さんは、私
を嫌って、意地悪したから」と訴えることがある。

 たしかにそういうケースも、ないわけではない。しかしこうした表面的な言動にまどわ
されていると、不登校の原因(本質)そのものを、見逃してしまうことになりかねない。

 そこで、たとえば、教師と親が相談して、○○君や△△さんを、その子どもの周辺から、
遠ざけたとする。が、実際には、それで問題が、解決するわけではない。やがて今度は、「X
X君が、ぼくをいじめる」「YYさんが、私を嫌って、意地悪する」と、訴え始めたりする。

 その原因となる対象のことを、「ターゲット」という。こういうケースでは、そのターゲ
ットは移動しやすい。もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 たとえば子どもは、塾へ行きたくなくなっても、「行きたくない」とは言わない。反対に、
「あの先生は、教え方がへただ」「えこひいきする」「説明をとばす」「怒ってばかりいる」
などと、先生の悪口を言い出す。

 つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と言うように、しむける。先生をターゲッ
トにしながら、塾へ行きたくないという自分の心を、合理化しようとする。(これを心理学
の世界でも、「合理化」という。)

 で、心理学の世界には、「投影」という言葉がある。これらのケースとは、少しニュアン
スがちがうかもしれないが、こういうことをいう。

 たとえばある人が、AさんならAさんを、ひどく嫌っていたとする。本当は、何も、意
地悪などしていないのだが、その人は、Aさんが、いつも自分に意地悪ばかりしていると
思いこんでしまう。

 Aさんが、ふとんを、ベランダで、はたいたとする。それはAさんにしてみれば、日常
的な行為なのだが、その人は、そのとき、Aさんが、ゴミをわざと、こちらにはたいたと
思いこんでしまう。「Aさんが、私を嫌っているから、わざとそうした」と。

つまりそういう形で、自分の中にある不快な感情を、Aさんに転嫁する。そしてAさん
のささいな言動(行動や言葉じり)をとらえては、おおげさに問題にしたりする。

 「Aさんは、私を嫌っているから、意地悪するのだ」と。それを「投影」という。

 もともと被害妄想の強い人に、この投影という現象は現れやすい。被害妄想が強いから、
投影するのか、投影するから、被害妄想が強くなるのかは、わからない。わからないが、
ふつう、この二つは、ペアになって現れる。

 不登校児の中にも、似たような投影が見られることが、よくある。

 その子どもは、「BB君がぼくを嫌っている」と言う。「だから、BB君は、ぼくをいじ
める」と言う。しかし実際には、BB君は、その子どものことは何とも思っていない……
というケースは、多い。(いじめたという痕跡すらないこともある。)

 つまり自分が、BB君を嫌いだから、BB君も、自分を嫌っていると思いこんでしまう
わけである。そして頭の中で勝手な妄想を、ふくらませてしまう。BB君が、何をしても、
それを悪いほうに、悪いほうに、解釈してしまう。単なる悪ふざけまで、いじめととらえ
てしまう。

 が、親には、それがわからない。わからないから、「うちの子が不登校児になったのは、
あのBB君のせいだ」と騒ぐ。あるいは「学校の先生の指導が悪いから、不登校児になっ
たのだ」と言うケースも、少なくない。

 (もちろん、そういうケースもないとは言わない。繰りかえし、念のため。)

もしあなたの子どもが、日ごろから、被害妄想をもちやすいタイプなら、この投影に注
意してみるとよい。
(はやし浩司 投影 合理化 被害妄想)



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●本物のバカ

 今朝(1月21日)、こんな夢を見た。

 私が図書館で本を読んでいたときのこと。どこかの書店だったかもしれない。そこへ1
人の青年が入ってきた。年齢は、25歳くらいか。

 その青年が、私の座っていた席を、「私の席だから、どけ」と言った。そのとき、私は、
たまたまその席から立つところだった。そこで私は、そのままその青年に席をゆずった。
が、どうも、腹のムシが、収まらない。

 そこで私は、その青年に、「そんな言い方はないだろう」「ここはぼくの席だ」と、怒鳴
りつけてやった。

 こういうのを本物のバカという。

 その青年が、バカというのではない。私自身のことである。

 その夢は、私が見た夢。その青年も、ストーリーも、私が夢の中で、私が勝手に、つく
りあげたもの。私は、自分でつくった世界の中で、自分に怒っていた!

 だから私は、本物のバカ!

 怒れば、気分は悪い。つまり私は、自分で勝手な想像をして、自分で自分の気分を悪く
した。

 ……というのは、夢の世界の話だが、こういう例は、日常でも、よく経験する。

 たとえば親子関係。こんな話がある。

 母親の異常なまでの過干渉で、自分で考える力をなくしてしまった子ども(小4男児)
がいた。子どもが何をしても、「ダメでしょう」「どうしてあなたは、そんなことがわから
ないの!」と、その母親は、その子どもを、いつも顔をしかめて、叱っていた。

 このタイプの子どもは、自分で考えて行動することができない。そのため、ときとして、
常識ハズレな行為を繰りかえす。その子どもも、そうだった。

 ある日、母親が、歳暮用に買っておいたワインの箱をあけてしまったこともある。それ
を見て、いつものように母親は、激怒した。「これは○○さんに、あげるものよ。どうして
箱をあけてしまうの!」と。

 それに答えて、その子どもは、「ちょっと箱の中を見たかっただけ……」と答えたという。

 ……実は、この話は、私が見た夢の内容とよく似ている。

 その母親も、自分の作った世界で、自分のつくった子どもに、腹を立てている。夢の世
界と現実の世界は、ちがうとは言うが、「精神の世界」という観点で考えると、どこもちが
わない。

 実は、私たちは、こうした愚かなこと(=バカなこと)を、無意識のまま、日常的に繰
りかえしている。地域でも、社会でも、そして国という世界でも……。

 夢からさめたとき、私は、自分でこう思った。「私も、本物のバカだな」と。

 そうそう、一言。

 韓国映画に、「冬のxxx」といのが、ある。あの主人公は、マレに見る美男子とかで、
今、日本中の女性(中年を中心とする女性)の多くが、その男優に夢中になっている。記
者会見の席などで、顔をあわせただけで、涙まで流して喜んでいる女性もいるという。

あれなども、そうだ。「映画」という作られた世界でつくられた虚像とも気がつかないま
ま、悲しんだり、喜んだりしている。そういう女性は、夢の中で怒鳴りつけた私とどこ
がどうちがうというのか。「本物のバカ」とまでは言わないが、それに近いのでは?

 もっとも、人間の脳ミソの中には、自分であって自分である部分も、たしかにあるが、
しかし自分であって自分でない部分もある。むしろ、そちらのほうが、部分としては、は
るかに大きい。

 私が見た夢も、その一つ。

 自分であって自分でない部分が、勝手にそういうわがままな青年を、夢の中で、作った。
そして自分であった自分である部分の私が、それに対して怒った。そういうふうに考えれ
ば、「私は本物のバカ」とは、言い切れないのかもしれないのだが……。


●バカになる

 頭の少しボケた兄を見ていて、こんなことに気づいた。

 私のもっていたステレオセットを、兄に、あげた。何枚かのCDを、連続して聞くこと
ができる装置がついている。MDも聞けるし、当然、カセットテープも聞ける。

 しかし何度、その操作のし方を教えても、すぐ忘れてしまう。ときどき、タイマーのス
イッチを不用意に押してしまうので、ステレオが、まったく作動しなくなってしまうこと
もある。

 そこで押してはいけないというスイッチに、ガムテープを張ってやるのだが、それも、
すぐはがしてしまう。ボケているわりには、短気。気が短い。

 ……脳ミソの中のある部分が、まったく機能していないようだ。

 と、考えていたら、同じ経験を、私自身が、昨夜した。

 中学3年生を教えているとき、このところの介護疲れもあって、ふいにウトウトと眠っ
てしまった。こんなことは、この20年でも、はじめてのことだった。

 そのとき、小学5年生のK君が、「先生、これ?」と私に質問してきた。見ると、簡単な
(?)二次方程式の問題だった。K君は、飛び級で、そのクラスにいた。

 「うん」と言って、教え始めた。しかし、である。どうも頭の調子がおかしい。考えて
いるはずなのに、思考がまとまらない。まとまらないばかりか、同じことを、何度も繰り
かえし考えてしまう。

 明らかに思考がループ状態に入ったようである。

 「簡単な問題だ」と思えば思うほど、頭の中が混乱してしまう。

 つまり、私は、そのとき、ボケを、疑似体験したことになる。そしてこう思った。「なる
ほど、ボケた状態というのは、こういう状態をいうのだ」と。

 実は、そんなわけで、ボケは、何もボケた老人だけが経験するものではない。私たちも、
程度の差こそあれ、日常的に経験する。あくまでも、程度の差だ。

 そしてアルツハイマー型痴呆症は別として、こうしたボケは、老人になってから突然、
始まるものではなく、もっと若いときから、少しずつ、徐々に始まるものである。20代
とか、30代とか、そういうときからである。

 大切なことは、そのボケに、できるだけ早く気づくこと。それはちょうど、体力の衰え
と似ている。加齢とともに、肉体は、衰える。健康も、衰える。成人病という病気もある。

 毎日、ほんの少しずつの変化だから、それに気がつかない。気がつかないまま、症状だ
けは、1年単位で、どんどんと進行していく。

 その兄だが、昨日、戸棚から、簡単なパズルを取り出して、やらせてみた。木でできた、
組あわせパズルである。そのパズルをしばらくしたあと、兄は、こう言った。「頭が痛くな
った」と。

 本当に痛くなったかどうかは知らないが、たしかに考えるということには、ある種の苦
痛がともなう。中学生や高校生に、数学の問題を解かせると、同じようなことを言う生徒
がいる。

 さて昨夜の私だが、私は、頭は痛くはならなかったが、不快感だけは、ムラムラと起き
てきた。「どうしてこんな簡単な問題が解けないのか?」と。自分の頭を手でかかえながら、
自分がなさけなかった。

 いつかやがて、私の頭は、日常的に、そういう状態になるのだろう。K君とは、時間が
きたので別れたが、何とも言えないさみしさだけが、胸に残った。

+++++++++++++++++++++

●共存依存症

 少し前、「共存依存症」について書いた。相手の男性(もしくは女性)と、共存すること
について、病的な依存関係をもつことを、共存依存症という。(少しわかりにくいかな?)

 わかりやすい例で説明しよう。話の内容はフィクションで、少し誇張してある。

 内縁の夫は、45歳。内縁の妻は、44歳。夫には定職はなく、夫はパチンコと競馬に
明け暮れる毎日。生計を支えているのは、妻。昼間は、スーパーで店員をし、夜は、近く
のスナックで、働いていた。

しかし夫は、妻に対しては、暴力を平気で振るった。酒ぐせも悪かった。「態度が悪い」
「稼ぎが少ない」と言っては、毎晩、妻を殴る、蹴るの繰りかえし。そのくせ夫自身は、
浮気をし放題。借金もあちこちにあった。

 見るに見かねて、近所の人まで、「あんな男とは、すぐ別れなさい」と、アドバイスをし
た。しかしその女性は、いつも柔和な笑みを浮かべながら、こう答えていた。

 「あの人には、私が必要なのです」「私が支えてあげなければ、あの人は、生きていかれ
ないのです」と。

 周囲の人たちは、その女性に同情しながらも、あまりにも献身的なその女性の態度に驚
いた。

 ……というような話は、昔は、よく聞いた。夫がヤクザ崩れか何かで、妻が、その夫に
献身的に尽くすという話である。(昔は、美談風の語られることが多かったように思うが…
…。)

 さらに、本当かウソかは知らないが、売春をしながら、夫の遊興費を稼いでいた女性も
いたという。

 こうした女性は、(男性の中にも、たまにいるが)、一見、すばらしい女性に見える。夫
に対して、かぎりなく深い(?)愛情をもっているかのように見える。

 しかし実際には、こうした異常なまでに献身的な行為は、愛情に基づいているのではな
い。自分の心のスキマを埋めるために、(妻という立場)を守っているにすぎない。つまり
夫に依存することによって、自分の心のスキマを埋めている。

 こういうのを、共存依存症という。「依存症」という言葉からもわかるように、買い物依
存症、パチンコ依存症と同じように考えてよい。つまり何かに依存することで、心のスキ
マを埋めようとするのが、依存症。その対象が、(人)になったのを、共存依存症という。

 が、こういうのは、もともとあるべき、夫婦の姿ではない。少なくとも、正常な人間関
係ではない。

 ……という話が、今日、ワイフとの会話の中で、話題になった。

私「ぼくは、お前に依存しすぎているよね」
ワイフ「そう言えば、そうね。私もそうだけど、あなたも、ひょっとしたら、共存依存症
かもね」
私「いや、お前のほうが、共存依存症だよ。ぼくのようなおかしな夫のそばにいて、離れ
られないから……」
ワイフ「そうかもね。あなたは、かわいそうな人だから、私がいなければ、生きていけそ
うもないからね」
私「そう、そこなんだよ。お前は、ぼくに依存しすぎているよ」と。

 夫婦も、長く夫婦でいると、ここでいう共存依存症の関係になるのかもしれない。少し
前だが、こんなメールをくれた女性(40歳)がいた。

 その女性の両親は、今でも、毎日のように夫婦喧嘩ばかりしているという。年齢は、と
もに70歳近い。(父親は、若いころは、浮気ばかりしていたという。)

 そこでその女性は、若いころから、母親に、「離婚したら」と勧めている。が、最近にな
って、その女性の母親は、その女性に、こう言ったという。

 「あんなお父さん(夫)でも、いないよりはいたほうがいい。ひとりで、孤独な生活を
送るより、いい」と。

 そういう考え方もある。共存依存症といえば、共存依存症ということになる。しかし反
対に、たった一人で、たくましく生きている人など、本当にいるのだろうかということに
もなる。

 心のスキマにしても、多かれ少なかれ、みな、もっている。そしてそのスキマをたがい
に埋めあいながら、生きている。共存依存症も、度を超せば、それは問題だが、しかし、
悪と決めてかかることもできない。

 ここに書いた、買い物依存症にしても、パチンコ依存症にしても、だれだって、同じよ
うな環境の中で、同じような状況に置かれれば、そうなるかもしれない。だれでも、油断
をすれば風邪をひくように、だ。

 ただ、その依存症が、極端になってきたら、心のどこかでブレーキをかけなければなら
ない。そのためにも、まず自分の心の弱さを、自分で知る。それを知らないまま、それに
溺れてしまえば、結局は、自分の人生をムダにすることになる。

 いくら相手に尽くすといっても、その価値もない人のために、自分の価値を犠牲にして
はいけない。わかりやすく言えば、銀行強盗に、専門的な知恵を貸すようなものである。(あ
まりよいたとえではないかもしれないが……。)

 たがいに依存するにしても、たがいに高めあうように依存する。励ましあい、慰めあい、
教えあい、守りあうように、だ。共存依存といっても、「共存」そのものが、悪というわけ
でない。念のために……。

(補記)

 夫や妻への献身性というのは、本当に美徳なのだろうか、という問題もある。子どもへ
の献身性もある。さらに親に対する献身性の問題も、ある。

 今日も、頭のボケた兄を連れて、近くの回転寿司屋へ行ってきた。その帰り道、兄が、
私にこう言った。「かたい寿司を食べると、胃に悪い」と。

 そこで私は、兄にこう言った。

「あのな、お前。お前のような、頭のボケたヤツが長生きすると、みんなが迷惑するん
だよな。お前のようなヤツは、何も役にたたないだろ。だからあまり長生きしないで、
さっさと死んだほうが、いいんだよ。わかるか?」と。

 するとあの兄が、ハハハと笑った。冗談が通じたらしい。横で会話を聞いていたワイフ
も笑った。

 「お前が、オレの兄に、そう言うことは許されないが、ぼくらは、兄弟だからね」と。
一応、どこか弁解がましいことを、ワイフに言うと、さらにワイフが笑った。

 話はそれたが、献身的であることは、決して美徳ではない。このことは、反対の立場で
考えてみれば、わかる。だれかが、(あなたの親でも、夫もでも、子どもでもよいが)、あ
なたのために自分を犠牲にしてまで、尽くしてくれたとしたら、あなたは、それを喜ぶだ
ろうか。

 私なら、こう言う。「私の人生のことはかまわなくていい。お前たちは、お前たちで、自
分の人生を大切に生きろ」と。献身的に尽くされるほうだって、心苦しい。

 が、例外がある。それが夫婦ではないか。私もいつかそのときがきたら、ワイフにだけ
は、献身的に尽くすだろうと思う。今はまだ笑い話の段階だが、そのうち、ワイフの尿瓶
(しびん)の始末をしたり、尿取りパッドを交換してやるようになるかもしれない。ある
いはウンチのついたおむつを取りかえてやることになるかもしれない……。

 少しずつだが、そういう覚悟を、心のどこかでし始めている。

 「献身的である」ということには、そういう問題も、含まれる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●夜景をとる

 先日、浜松市の中心部にある、Aタワーに登った。45階建ての、超豪華ビルである。
そのとき、ワイフが、「夜景を見たい」と言った。

 そこで昨夕(1・20)、1時間ほど、休み時間があったので、ワイフと町で合流して、
再び、Aタワーに登ってみた。(エレベーターで登ったので、「昇った」と書くべきか?)

 時刻は、午後の6時ごろ。

 エレベーターの中から、外の景色を見ながら、デジカメをセット。夜景モードにした上、
タイマーにする。カメラがブレないよう、三脚もとりつけた。

 どこかワクワクする。

 で、45階。入場券を買うのももどかしく感じながら、通路に出た。

 ……ウ〜ン、やはり美しかった。「100万ドルの夜景」とか、「10万ドルの夜景」と
か言うが、「まあ、20万ドルの夜景」! 文句なし。天気もよかった。

 ブラジルのリオには、コッペパンの山というのがある。あの山から見下ろす夜景も、す
ばらしかった。まさに真下に夜景が広がっている。そんな感じだった。よく知られた夜景
に、香港の夜景がある。私は、あまり好きではないが……。

 私は、時間をおしんで、バシャリバシャリと、デジカメで写真をとる。その時間の間に、
夕食もとらなければならない。

 「ゆっくり来ればよかったわ」と、ワイフが、何度も言う。ワイフは、こういうロマン
チックな景色に弱い。私も嫌いではないが、多分、ワイフとは感じ方がちがう。私はいつ
も、そういう景気を見ると、鳥になったような気分になる。あるいは飛行機のパイロット
になったような気分か?

 そのときも、そうだ。どこかの空港に着陸する飛行機を、勝手に想像していた。

 「みなさま、まもなく、当機は、浜松インターナショナル空港に到着いたします……」
というあれである。そのアナウンスが、聞こえてくるように感じた。

 写真は、楽天のほうで紹介。あとできたら電子マガジンのHTML版のほうで、紹介。
乞うご期待! きれいでしたよ!

++++++++++++++++++

●出世城

 浜松市の中心部、今の市役所のちょうど裏あたりに、浜松城がある。別名、「出世城」と
もいう。徳川家康の居城となったことのほか、徳川譜代、歴代の大名たちが城主となった
からである。この城から、幕府老中が、6人も、生まれている。

 それで「出世城」という。

 が、徳川家康にとっては、よい思い出ばかりではない。浜松城は、徳川家康が、武田信
玄に、三方ヶ原(みかたがはら)の合戦で大敗し、命、かながら逃げ帰った城としても知
られている。そのとき徳川家康は、恐怖のあまりか、馬の上で、クソをもらしたという説
も残っている。

 徳川家康と武田信玄、そして織田信長。結果的には、織田信長が天下を取り、つづいて
徳川家康が天下を取っている。その過程で、いつも一つの謎として残るのが、実は、この
三方ヶ原の合戦である。

 徳川家康は、武田信玄が陣を取る見方ヶ原へ、わざわざ駒を進め、そして手痛い敗北を
帰す。そのときまでに武田信玄は、あたかも外堀を埋めるかのように、周辺の天方城(あ
まがたじょう)、飯田城(いいだじょう)、それにすぐ近くの二俣城(ふたまたじょう)を
落としている。

 武田信玄にしてみれば、用意周到の準備を重ねた上での、浜松城の攻略である。が、武
田信玄は、一気に浜松城を攻めることなく、どこか遠回りにして、つまり浜松城を迂回(う
かい)する形で、浜松市の北西部の三方ヶ原に陣を構えた。

 そこへ徳川家康の軍勢が、つっこんだ!

 これでは武田信玄のワナに自らはまったようなもの。事実、徳川家康の軍勢、約800
0名のうち、1割の約800人が、その合戦で、命を落としている。当時の合戦としては、
大敗北と考えてよい。

 この徳川家康の行為に対して、いろいろな説がある。血気盛んな徳川家康が、若気のい
たりでつっこんだという説。もう一つは、織田信長への気兼ねをしたという説。もし武田
信玄の軍を、織田信長の住む尾張へみすみす通してしまったら、メンツ丸つぶれ。徳川家
康は、それを恐れたというのが、それ。

 まあ、結果として、ずっと先の話になるが、どうであるにせよ、徳川家康は、やがて天
下を自分の手中に収める。つまり、メデタシ、メデタシということになる。

+++++++++++++++++++++

 その浜松城へ、先日、写真をとりに行ってきた。私のホームページを飾るためである。
興味のある人は、(はやし浩司のホームページ)→(浜松案内)へ進んでみてほしい。この
記事は、その中に載せるために書いたもの。
 

●スケベ

 学校の教師による、ハレンチ事件が、跡を断たない。決して学校の教師を非難している
のではない。こうした事件が起きるのは、教師の人格の問題というよりは、制度の問題だ
からである。もうひとつつけ足せば、本能の問題だからである。

 つまり、男も、女も、基本的には、スケベ。スケベであることが悪いと決めてかかって
はいけない。

 私もスケベだし、この文章を読んでいる、あなただってスケベ。スケベは、生きる力の
原動力にもなっている。

 今日、書店である月刊誌を立ち読みしたら、こんな記事があった。「60歳からのスケベ」
というような記事だった。「男も、女も、60歳をすぎたら、おおいにセックスを楽しもう」
と。

 スケベであることはよいとしても、人格と性欲は、どこでどのように区別すべきかとい
う問題がある。

 私は女性の生理については、よくわからないが、男性というのは、人格と性欲を、区別
して考える。極端な言い方をすれば、男性にとっては、排尿も、射精も、それほど、ちが
わない。もっと言えば、頭と下半身は、別々の生き物。だから排尿することに、罪悪感を
覚えないのと同じように、射精についても、それほどの罪悪感を覚えない。

 チャンスがあれば、そしてある程度、妥協で着れば、それほど考えなくても、だれとで
もセックスをすることができる。若いときは、とくにそうだ。

 しかし実際にはできないのは、道徳心でスケベ心をコントロールしているからではない。
相手の女性に忠誠を誓っているからでもない。そういうことをするのが、めんどうだから
である。それに本当に好きな相手がいると、ほかの女性が目に入らなくなる。

浮気をするから人格者でないとか、浮気をしないから、人格者であるということにはな
らない。もちろん自分でも、人格者だなどとは、思っていない。教壇に立つ、ほとんど
の男性教師も、だ。

 そこで私なりに、ここで結論を出しておかねばならない。

 人格と性欲は、どこでどのように区別すべきか、についてである。

 人格というのは、その人の脳ミソの中でも、表層部分で決まる。しかし性欲というのは、
根が深い。人間が、アメーバのような原始生物のような時代のときからもっていた本能で
ある。もともと、同じレベルで論じられるような問題ではない。

 そこで私なりの結論は、人格では、性欲をコントロールすることはできない、である。
どだい、ムリな話と言ってよい。だから大切なことは、つまりは、性欲とは、じょうずに
つきあうということ。言うなれば、自分の心の中で、野生の馬(うさぎでもよい)を飼っ
ているようなもの。もともと知性や理性の通ずる相手ではない。

 ところで、女性の性欲は、排卵期にピークに達するという。これは排卵期に、血中のエ
ストロゲンがピークに達するためと考えられている。(男性は、アンドロゲンと呼ばれるホ
ルモンによって、性衝動が大きく影響を受けるという。)

 このことからもわかるように、その人の人格は、(その人であって、その人である部分)
ということになるし、性欲は、(その人であって、その人でない部分)ということになる。

 そこで最初の話にもどるが、教師によるハレンチ事件が起きるたびに、教師の「質」が
問題になるが、そういう視点では、この問題は、解決しない。冒頭にも書いたように、こ
れは制度の問題である。

 つまり教師と生徒の間に生まれる、スキ。そのスキをつくる制度に、問題がある。つま
りは、制度的な欠陥があるということ。

 たとえばカナダのように、教室外での教師と生徒の接触を、いっさい禁止しているとこ
ろがある。教師は教師で、教室内でのことについては、全責任を負うが、一歩生徒が教室
から出たら、何があっても、その責任を問われることはない。

 父母にも生徒にも、教師は、電話番号はもちろん、住所すらも教えてはならないことに
なっている。この方式は、病院における、医師と患者の関係に似ている。

 だからたとえば父母が、教師と連絡をとりたいときは、まず、父母は、学校に電話を入
れる。するとしばらくすると、その教師のほうから、父母のところに電話がかかってくる。

 もちろんこれは性犯罪を防ぐための制度ではない。ないが、いろいろなスキを未然に防
ぐための制度と考えてよい。同時に、「教師は、まず教育に専念する」ということができる。
見習うべきことが多いのでは……。

 人格と性欲。この問題は、教師にとっては、というより、人間にとっては、永遠につづ
く大問題かもしれない。

+++++++++++++++++++++

●気力の減退

 このところ、書くということに対する気力が、どんどんと薄れていくのを感ずる。何か
を考えようとするのだが、すぐ「どうでもいいや」という、投げやりな気持ちになってし
まう。だから文を書き始めても、長つづきしない。きっと疲れているせいだと思う。

 パソコンの不調が重なったこともある。……とうとうというか、メインのHPが、オー
バーヒートしてしまった。ファイルの読み出しに、20〜30分。HTML送信までに、
30〜40分。そしてそのファイルを保存するのに、4〜5時間近くもかかってしまう。

 つまり今のパソコンでは、限界ということ。それはわかっていたが、今まで、だまし、
だまし使っていた。が、数日前、とうとう、そのファイルの読み出しができなくなってし
まった。

 ファイルを復元するためには、プロバイダーに残してある自分のHPのファイルを、パ
ソコンにダウンロードすればよい。時間と手間はかかるが、それしかない。

 しかし、だ。それがうまくいかない。何度、トライしても、ダウンロードが、途中で止
まってしまう。こちらでも、パソコンの限界を超えている。

 「新しいパソコンを買うしかないか……」と思っているが、その決心がつかない。実の
ところ、言い忘れたが、先週、株を買ったが、その株が暴落してしまった。ちょうどパソ
コン1台分くらいのマネーを、損した。それで、どうも気分が重い。

 こういうときは、しばらくパソコンのことを忘れるのが、一番。ついでに原稿書きも、
休むのが一番。


●テレビの取材

 おととい、S第一テレビのO氏という人から、取材の申し入れがあった。「学習机につい
て聞きたい」と。私は、簡単な取材を考えていた。

 が、その時刻に待ち合わせ場所の教室で待っていると、カメラマン以下、総勢、7〜8
人の大人数! プロデューサーの名刺を見ると、夕方の定時番組の名前が書いてあった。
人気番組の一つである。(内心、ギョッ!)

 ……私は、テレビが苦手。どうも、自分の顔に自信がもてない。出るたびに、あとで後
悔する。

 しかし「今さら、あとには引けないし……」ということで、プロデューサーの言うまま
に、レポーターのA氏と対談をする。時間は、30分ほどか? こういう録画では、カッ
トにカットをされて、実際には、5〜10分ほどに縮められる。

 で、一つの失敗。

 朝、風呂に入ったのがまずかった。番組の収録が始まるころ、鼻水が出るようになった。
が、あろうことか、その日にかぎって、ハンカチを忘れた。指先で、ムズかゆくなった鼻
先を少しずつこすりながら、(何とも、不潔なシーンだと思うが)、相手の質問に答えた。

 ……ところで私の年代の人間には、テレビには、特別な思いがある。しかし今の若い人
たちには、そうでない。私が感じているほど、テレビに、「重さ」を感じていない。だから、
そんなに気を張ることもない。……と、自分に言い聞かせながら、対談を終えた。

 しかし、正直言って、神経をつかった。疲れた。しかし、おもしろかった。ハハハ。


●マガジン読者

 こんなことを書くと、まじめに私の電子マガジンを読んでくれる人を怒らせるかもしれ
ない。しかしこの1月に入ってから、読者がほとんど、ふえなかった。

 一応、毎週、月曜日、水曜日、金曜日に発行しているが、この一か月で、どんどんと、
意欲が減退していくのが、自分でもよくわかった。

 で、おととい、またまた、ワイフに、こう言ってしまった。「電子マガジンは、もうやめ
ようと思う」と。パソコンに向っても、指が動かない。もともと私は意思が弱い。

 それに答えて、ワイフは、ああいう人間だから、いつもあっさりと、こう言う。「やめた
ければ、いつでもやめたら。だれかが、書いてくれと頼んでいるわけじゃ、ないんだから
……」と。

 ナルホド! いつも、私が勝手に書いているだけである。

 2か月ほど前も、1人の仲間が、電子マガジンを、廃刊にした。4、5年かけて、読者
数を2400人くらいにした。それでも廃刊にした。「道楽でつづけるのにも、限界があり
ますから」と。最後のメールには、そうあった。

 このあたりが電子マガジンの限界かもしれない。

 物品の販売を目的にしたマガジンとか、エロ・スケベマガシンなどは、しぶとく生き残
っている。読者数をふやしている。しかし私が出しているような硬派のマガジンは、そう
でない。たしかに限界がある。

 とくに、お金がほしいとは思わないが、まったく見返りのない世界。それが電子マガジ
ンの世界と言ってもよい。

 ……ということで、実は、数日前から、もう原稿を書くのをやめた。あとは、どう廃刊
にもっていくかだ……と、考えていたら、今朝(1月21日)、パソコンを開いてみると、
Eマガの読者数が、ナ、何と、5人もふえていた!

 驚いた! うれしかった! と、同時に、またムラムラと意欲がわいてきた。どういう
ことだろう?

 そこで早速、今朝見た夢の話から、書き始めた。とりあえずは、その5人の方に、今朝
書いた原稿を読んでもらいたかった。

 1月21日の朝、読者になってくださった、5人の方へ、ありがとうございました。そ
れに数日前に励ましのメールをくださった。東京H市のWさん、ありがとうございました。

 Wさんからのメールを、そのまま、転載させていただきます。

++++++++++++++++++++++

【 ご意見をお寄せください。 】:

いつも、楽しみに読ませていただいております。
メルマガの日が来るのが、とても楽しみで仕方ないです。我が家は、社宅なので、周りに
子供が多く、我が家の子供たちは異年齢の子供たちと多く接することができるありがたい
環境で育っています。

子供同士のことで頭を抱えることもしばしばですが
悩んだり、落ち込んだりしたときに、はやしさんの文章を読んではいいヒントをいただい
ております。

これからも、ずっと楽しみに読ませていただきます。

【 マガジンを読んでくださっていますか? 】:

毎回、欠かさず読んでいる。
【 ホームページをご覧くださっていますか? 】:

よく見る。

【 マガジンは、おもしろいですか? 】:

たいへんおもしろい。
たいへん、役立っている。
林の思想は、標準的。納得できる。

++++++++++++++++++++++

【Wさんへ……】

 何度も、いただいたメールを読みかえしました。
 ありがとうございました。

 はやし浩司



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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 18日(No.531)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page059.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

前回につづいて、子どもの反抗期について、補足しておきます。

++++++++++++++++++++++

【子どもの反抗期】(2)

子どもの反抗期で悩んでいる、東京都のUさんへ、
子どもの反抗期について考えてみました。

つぎの2つの原稿を読んでくださると、きっと心も軽く
なるはずです。どうか、お読みください。

+++++++++++++++++++++++

●「生きていてくれるだけでいい」
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。ある
いは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なから
ずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切る
ことができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。

人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつ
きないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見
ろ」というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを
見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことを
し、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、
その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から
見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。もう何度も書いたように、
フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)
は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を
得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉
を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意
味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を
歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦
労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分
が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこん
な相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入
れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよい
か」と。

こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親
子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけ
なければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくな
り、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言っ
たまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉
で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに
苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、
じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐
えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子ど
ものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれな
い。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜
びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。(*浜松市AB幼稚園元園長)



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●世間的自己

 少し前、(自己概念)と(現実自己)について、書いた。「自分は、こうあるべきだとい
う私」を(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。

 これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことがで
きる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれる
と、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイ
ト)。

 たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)
を知り、その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。

 そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感が
あれば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもか
け離れていて、手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。

 ……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の
心理を、じゅうぶんに説明できない。

 そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)に
ほかに、3つ目に、(世間的自己)を付け加える。

 「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断する
ことを、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。

+++++++++++++++++

 A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かし
て、音楽学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。

 しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅
い後輩より、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるの
は、父親のせいだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。

 ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということ
になる。しかし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。

 しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘で
あることを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価を
うまく利用して、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。

 これは私がここでいう(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++

 少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。

 世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、
異常なまでに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。
自分の生きザマがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。

 「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」
と。

 そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払う
ようになる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自
身は、その仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)

 これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現
実自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。

++++++++++++++++++++

 そこで(私)というものを考えてみる。

 (私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私は
こうだということを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」
もいる。

 これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、
この三者のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気に
してばかりしている人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。

 しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へた
をすれば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気が
ついてみたら、自分がどこにもないということにもなりかねない。

 中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。

 もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、
こう聞いた。

 「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでし
ょうかね。(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高
校生は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強
など、ほとんどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。

 学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにす
るかで悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++++++

 これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にあ
る。

 (自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世
間的評価)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレ
ビドラマに出ただけで、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、
それにあたる。

 反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも
恵まれず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。

 さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいの
に、(世間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。

 理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三
角形が肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書い
たように、精神は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になっ
たりする。

++++++++++++++++++++++

 そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の
中で、どのようなバランスを保っているかを知ることである。

 たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊
離させてしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えもので
ある。

 子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむ
かもしれない。

 さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎
日、近くの駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の
人に制服を見られるのがいやだから」というのが、その理由だった。

 今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。
世間体を気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能
力や方向性など、まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。

 しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子
関係も、そこで破壊される。

 ……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。

 そこであなた自身は、どうか。どうだったか。それを考えてみるとよい。

 あなたにはあなたの(自己概念)があるはず。一方で、(現実自己)もあるはず。その両
者は、今、うまく調和しているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしもしそうで
ないなら、あなたは、今、ひょっとしたら、悶々とした毎日を過ごしているかもしれない。

 と、同時に、あなたの(世間的自己)をさぐってみるとよい。「私は世間のことなど、気
にしない」というのであれば、それでよし。しかしよくても悪くても、世間的自己ばかり
を気にしていると、結局は、疲れるのは、あなた自身ということになる。

 (私)を取りもどすためにも、世間のことなど、気にしないこと。このことは、そのま
まあなたの子育てについても、言える。あなたは自分の子どものことだけを考えて、子育
てをすればよい。すべては、子どもから始まり、子どもで終わる。

 コツは、あなたが子どもに抱く(子どもの自己概念)と、子ども自身が抱く(現実自己)
を、遊離させないこと。

その力もない子どもに向かって、「もっと勉強しなさい!」「こんなことで、どうするの!」
「AA中学校へ、入るのよ!」では、結局は、苦しむのは、子ども自身ということにな
る。
(はやし浩司 現実自己 自己概念 世間的自己 世間体)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

【サンデー毎日(1・30日号)を読む】

●ノロウィルス

 老人ホームや家庭で、ノロウィルスというウィルスが、流行しているという。しかしノ
ロウィルスとは、何か? 別名「嘔吐下痢ウィルス」(同誌)ともいうらしい。もともとは、
ありふれたウィルスで、食中毒の原因にもなるウィルスだという。

 そのウィルスが改めて問題になっているのは、ある老人ホームで、ノロウィルスが原因
と思われる食中毒が、集団発生したからである。

F市の「F山F寿園」では、入所者のうちの40人以上が、嘔吐、下痢、発熱などの症
状を示した。うち、7人が、死亡した。しかしこれはほんの始まりにすぎなかった。ノ
ロウィルスの感染者が、老人ホームを中心に、全国に広がっていることがわかった。

 なぜか?

 サンデー毎日は、こう伝える。「特養ホームへの入所基準が、3年前に改正され、要介護
度の高い人ほど、優先されることになったのと、施設側にとっても、介護報酬が高いとの
メリットから、重度の入居者が、急増しています。……要介護度4〜5の人が、2000
年には、49%だったのですが、02年には、56%、今では7割近いはずです」と。

 重度の要介護者が、ふえた。その結果として、体の抵抗力の弱い老人が、集中的に感染
してしまったというわけである。

 私は、この記事を読んだとき、別のことを考えていた。

 F寿園でなくなった老人たちは、81〜91歳の人たちだったという。逆算すると、私
が20歳のころに、44〜54歳の人たちだったということになる。ちょうど、今の私の
年齢ということになる。

 そこで私は、その記事を読みながら、つまり私が20歳のころの、44〜54歳の人た
ちを、懸命に思い出そうとしていた。金沢で学生だったころ、下宿先のおじさんや、おば
さんが、その年齢だった。近所の店屋の、おやじさんも、その年齢だった。

 そういう人たちが今、81〜91歳になって、特別養護老人ホームに入っている。……
と考えていくと、奇妙な気分になった。

 みんな、それぞれの時代を懸命に生きてきた。が、その結果として、最後は、特別養護
老人ホームの世話になって、中には、こうした感染症で命を落していく。

 つまりそれは、私自身の近未来の姿でもある。私もいつか、そういう老人になり、特別
養護老人ホームへ入ることになる。となると、今の私の人生は、何かということになって
しまう。さらに、私は、何のために生きているのかということにもなってしまう。

 まあ、しかし、そんなことを考えていると、クラ〜イ気分になってしまう。この記事を
読んで、そのクラ〜イ気分になったのは、そのためではないか。ともかくも、今は今で、
懸命に生きるしかない。同時に、ノロウィルスに注意するしかない。同誌によれば、つぎ
のような点に気をつければよいということだそうだ。

(1)手洗いを繰りかえす
(2)食べものは、85度で1分以上の加熱処理する
(3)生ガキを大量に食べない
(4)高齢者の多い施設を、安易に訪問しないことだ、そうだ。

 
●NHKと朝日新聞社の大戦争!

 NHKの現職プロデューサーのNG氏が、内部告発をした。いわく「EB会長は、知っ
ていた」と。

 NHKの番組制作に、政治家が圧力を加えたとか、加えなかったとか、そういう論争で
ある。それに対して、現職のプロデューサーが、「命がけの告白をした」(同誌)と。

 当の政治家のNG氏やAB氏は、事実無根と、朝日新聞社を告発する動きにまで出てき
た(1・18)。NHKも、これに呼応する形で、調査結果なるものを発表し、朝日新聞社
に対して、抗議文まで送った。

 NG氏は、こう告発している。「EB体制になってから、現場への政治の介入が日常茶飯
事になった」と。同誌には、具体的な例がいくつか書かれている。

 どちらが本当のことを言っているのか。どちらがウソを言っているのか。

 ……という議論は、さておき、NHKがつまらなくなってから、10年になる。いや、
20年になる? 正義感そのものが、消えた? 国民の側に立って、体制側の不正、不公
平を追及した報道となると、記憶に残っているものが、何もない。いつもどこかでお高く
とまっていて、「控えおろう」式の番組ばかり。報道ばかり。中立公正どころか、アメリカ
などへ行ってNHKのテレビ報道を見ていると、K国のP放送、そっくり。「NHKは、や
っぱり、国営放送局だったのだ」と。

 よい例が、相撲(すもう)。NHKと日本相撲協会の癒着(ゆちゃく)ぶりは有名だが、
BS放送のほうでは、毎度、午後1時から6時すぎまで実況中継している。まだ観客席が
ガラガラのときから、である。終わりのほうはともかくも、1時ごろから、相撲の中継を
見ている人は、いったい、何%いるというのか?

 ……というような、例は多い。というわけで、私は、最近、NHKのテレビ番組を、ほ
とんど、見ていない。大河ドラマの、「新撰組」にしても、「義経」にしても、その時代の、
悪党たち。NHKでは、そういう連中が、ヒーローになってしまう。

 忘れてはいけないのは、あの新撰組にしても、あの新撰組が現れたことで、京都の庶民
たちは、恐怖のどん底に、叩き落とされてしまったということ。義経も、似たようなもの
だ。そういう、つまり「下」からものを見る視点が、NHKから、消えてしまった?

 そこで今回のドロ試合を客観的に判断してみる。が、残念ながら、朝日新聞社にもすな
おに味方できないが、それ以上に、NHKにも、味方できない。東京大学のTK教授は、
同誌の中で、こうコメントを書いている。

 「ウミを出さねば、NHKは、崩壊する」と。

 この意見には、大賛成である。

+++++++++++++++++++++++++++++

大切なことは、NHKの中にも、良識派の人もいるということ。
権威主義と戦っている人もいるということ。私たちはそういう
人を、視聴者としてではなく、自由と平等と平和を守る先駆者
として、支援し、応援していかねばならないということ。

少し前だが、NHKを批判した、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++++++++++++++++

●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利
他」を比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができる
かで決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和
を達成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするな
ら、いかにすれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにする
ことが、真の平和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反
省に終わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてき
た。満州の植民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人
のこの無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組
を見た。日露戦争を特集していた。

その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシア艦隊を撃滅
したか」という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話は、い
っさい、出てこなかった。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような
災難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか?」
と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万
人。K国は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送
局の司会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言っ
たとしたら、どうなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽
しむことができるだろうか」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、
何十万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、
いまだに「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いっ
たい、どこからくるのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだっ
たと思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そ
もそも、そういう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、
「日本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人
さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、
文句を言わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、
文句を言わないことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点
ということになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論で
もなんでもない。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。
そして何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、
何をすべきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合し
た世界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態
を平和というか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、
それはまちがっている。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、
それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかな
い。私たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれ
かによって、つぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。そ
れが平和教育である。
(はやし浩司 平和教育 平和 平和論)

●コレステロール

 サンダー毎日といっしょに、週刊朝日、1月28日号も、購入した。

 表紙には、「コレステロールの下げ過ぎは危険」とある。さっそく、そのページ(22)
を読む。

 「コレステロール値が150台にさがった」……検診結果で喜んでいる人は少なくない。
だが低い数値を歓迎してはいられない。200を切ると、発がんリスクが、増加する、高
齢者では活力が低下する、うつが多発するなど、低コレステロールによる健康被害を、専
門家は、警告している」と。

 要するに、コレステロール値が低すぎるのもよくないということ。週刊朝日には、健康
10か条が表にしてあった。

(高齢者の健康10か条)

(1)コレステロール値は、やや高めのほうがよい。
(2)牛肉、豚肉、魚をしっかりと食べる。
(3)緑黄色野菜をふんだんに。
(4)マーガリンよりも、バター。
(5)お酒は少量。タバコは吸わない。
(6)医者、専門家の言いなりにならない。
(7)脱水症に注意。夏場には塩分の補給も。
(8)糖分、甘いものは、脳のために必要。
(9)薬による血圧や血糖の下げすぎに注意。
(10)手足と頭を、使いつづける。

(中年の健康10か条)

(1)コレステロール値は、高すぎず、低すぎず。
(2)牛肉、豚肉、卵は、ほどよく。魚はしっかりと食べる。
(3)緑黄色野菜をよくとる。
(4)マーガリンよりも、バター。
(5)お酒は少量なら薬だが、下戸には禁物。サバコは吸わない。
(6)医者、専門家の指導を守る。
(7)過度の精神的、身体的ストレスを避ける。
(8)達成感のある適度なストレスは、有用。
(9)運動をつづける。(早朝、過度は避ける。)
(10)女性のダイエットは、骨粗しょう症のもと
(以上、「週刊朝日」・新東京病院・益澤秀明氏による)

 健康のありがたさは、それを失ったときにわかる。しかし健康というのは、つくるもの
ではなく、維持するもの。しかし維持しようと心がけたところで、維持できるものではな
い。

 健康を維持できるかどうかは、健康的な生活習慣を、いかに生活の中で定着させるかに
よって決まる。どんな運動がよいかではなく、いかにすれば、毎日、運動する習慣を身に
つけることができるかどうか、だ。食事にしても、同じ。

 ……と自分でもわかっているが、それがむずかしい。昨夜も、自転車にまたがると、い
きなり、身を切るような冷気にさらされた。「今夜は、運動をやめようか」と思った。しか
し思い切って、ペダルをこいだ。

 大切なことは、そういう自分の(弱さ)と、どう戦うかだ。健康問題は、結局は、そこ
へ行き着く。


●タレントのI田と、H川の離縁

 「モデルのH川Rさんとの、9年近い交際に、突然の終止符を打ったI田Jさん。その
別れの理由に迫ってみた」(週刊朝日・28)と。

 もともと、どうということのないタレントどうしの、内輪話。何でも「家を建てたこと
が、離縁話のきっかけになったとか、ならなかった」とか。最初の10〜20行だけ目を
通して、終わり。

 こういう話には、学ぶべきものが、何もない。一片の哲学も感じない。どうしてこんな
記事が、週刊朝日に載るのだろう?、……と思いつつ、つぎへ。


●中国、恐るべし?

 東芝会長のN氏と、キャノン社長のM氏の対談記事。これはすべて読んだ。タイトルは、
「もう、そっくりさんは、カンペキ」「最先端技術は、見せられない」と。

「模倣品については、(中国は)もう、カンペキなものをつくる技術力をもっている。そ
のため、日本が得意とする最先端技術は、中国には渡せない」というのが、その対談の
主旨。

 記事の冒頭には、こうある。

 「05年も、日本や世界が最も注目するのは、中国経済の動向だ。電子機器や自動車、
衣料、食品まで、世界の工場となった中国は、日本の景気回復を牽引(けんいん)する。
モノづくりにとって、さらに協調が進むのか、あるいは脅威になるのか。日本を代表する
製造業のリーダー2人が、語り合った」(同30ページ)と。

 内容は、(1)「いくら先端技術を守るといっても、中国政府が、会社を、丸ごと買収し
てきたら、それを防ぐ手立てはない」、(2)「経済面はともかくも、底辺からわき起こりつ
つある反日感情が心配」、(3)「日本の人手不足は、無人化(ロボット化)で対応できる」
というもの。

 読んでいて、不安になったり、希望をもったり、あるいは心配になったり……。

 大中国の経済圏に、自らを組みこんでいくか、それとも、大中国の経済圏に自ら背を向
け、独自の道を歩みつづけるか。やがて日本も、その選択に迫られることになる。

共存、共栄という考え方もあるが、中国側は、そんなことは考えていない。中国が念頭
に置いているのは、「日本をたたきつぶして、のみこむ」、である。

 中国を、決して、甘く見てはいけない。国のスケールもちがうが、底力もちがう。やが
て日本と中国は、経済面、商業面のあらゆる分野で、激突を繰りかえすようになる。現在、
日本と韓国は、いろいろな場面で小競(ぜ)りあいを繰りかえしているが、中国との激突
は、そんな程度ではすまない。

 へたをすれば、アメリカを巻きこんだ、戦争、ということにもなりかねない。

 で、読後感だが、週刊朝日の記事の結論は、どこか、すっきりしない。あいまいなまま。
中国にすでに巨大な資本を投下している、東芝や、キャノンのトップとしては、言えない
ことも多いのだろう。記事を読み終えたとき、そんな感じがした。

【付記】

 中国人が共通してもつ、反日感情は、私の息子たちでさえも経験し始めている。空港で
話しかけても、無視されたとか、傲慢な態度だったとか、など。オーストラリアのレスト
ランで意地悪されたという話も伝わってきている。全体としてみると、国際社会で活躍し
ている中国人ほど、日本人に対して、敵意をいだいているようである。

 こうした反日感情の原因が、すべて、あの戦争にあると、私は思っていない。

 今から30年ほど前のことだが、何かの調査で、こんなことを知ったことがある。

 日本へやってくる中国の留学生たちが、1、2年の留学期間を終え、帰国するときには、
みな、日本嫌いになって、帰っていくというのだ。中には、「二度と日本へは来たくない」
とはき捨てて出て行く留学生もいたとか。

劣悪な生活環境、アジア人蔑視の偏見など。当時の日本人は、「外国」と言えば、アメリ
カやヨーロッパを意味した。韓国や中国は、その外国にも入っていなかった。

 そのときの留学生たちが、今の中国をリードしている? どこかでゆがんだ日本観をも
たせてしまったが、その原因はといえば、私たちがもっていた、ゆがんだ中国人観という
より、アジア人観ではなかったのか。とても残念なことだが……。

+++++++++++++++++++++++++++

世にも不思議な留学記の一部を、ここに転載しておきます。

+++++++++++++++++++++++++++

【処刑になったタン君】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレーシアン中国人で、経済学
部に籍をおいていた。最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。

ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えて
くれた。

そのT君。ある日私にこう言った。「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発
すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書く
と、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。

そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなか
った。「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さ
ないばかりか、マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人
にまちがえられると、もっと怒る。

T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街を歩いているときも
そうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、地面を足で蹴飛ばしながら、
「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガールフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しよう
としなかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠して
しまった。

が、やがて卒業式が近づいてきた。T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナ
ー・ディグリー)を取得していた。そのT君が、ある日、中華街のレストランで、こう
話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニーは……」と。喉の奥から絞り出すような声だっ
た。

「ジェニーは四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。
そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていたT教授の部屋で、よく徹夜した。教授の部
屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。T教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、
休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。

教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレーシアで
処刑されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、そ
れはそれですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T
君は、マレーシアで、一九八〇年ごろ処刑されている。T君は大学を卒業すると同時に、
ジェニーとクアラルンプールへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。し
ばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をして
みたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。

で、これから先は、偶然、見つけた新聞記事によるものだ。その後、T君は、マレーシ
アでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして処刑されてしまった。
遺骨は今、兄の手でシンガポールの墓地に埋葬されているという。

T教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」
と、さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私は
日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私
の心の中で生きている。

(つづきは、HPのほうで。どうか、お読みください。)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ますます巧妙化する、スパムメール(?)

 油断大敵とはいうが、しかし……。

 昨日、こんなメールが、届いた。

 送信者は、「mail-magazine users」
 件名は、「メルマガ通信、緊急連絡 【No.345】」

 「?」と思ったが、見たとたん、開いてしまった! ……と言っても、受けたのは、事
務所にある、電話回線でつないだ、古いノートパソコン。(そういう油断もあった。)AD
SLの常時接続方式でなかったのが、幸いした。

 メールを開いたとたん、HTML画面。とたん、自動接続が始まった。その直後、私は、
回線をパソコンから抜いた。あぶなかった! ADSLのほうに接続していたら、確実に、
コンピュータ・ウィルスか、あるいは、スパイウェアが侵入していたにちがいない。しか
も最近は、日本語で!

 それにしても……! まあ……! スパムメールにしても、ますます巧妙になってきた。
あの手、この手というより、ありとあらゆる手を使ってくる。

 そこでもう一度、自分に言って聞かせる。「(?)なメールは、即、削除。何も考えず、
即、削除」と。

 みなさんも、どうか、用心してください。

++++++++++++++++++++++

(補記)

 この電子マガジンについては、二重、三重の保護をかけ、さらに
信用のおけるマガジン社から配信しています。どうか、心配なさらな
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 16日(No.530)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●早期教育の誤解

 何でも、早ければよいというものではない。こんな実験がある(「心理学用語」かんき出
版)。

 A君とB君という、一卵性双生児がいた。その一卵双生児についての、階段登りの実験
である(ゲゼルとトンムソン)。

 A君は、生後46週目から、6週間、階段登りの練習をさせた。
 B君は、生後53週目から、2週間だけ、階段登りの練習をさせた。

 ところが、である。

 A君は、訓練後、2週間後になってはじめて階段を登ることができたのに対して、B君
は、初日から、階段登りができたという。

 また早くから練習していたA君は、訓練の最終日になっても、登るのに25秒もかかっ
たが、B君は、10秒で登れてしまったという。

 つまり早くから階段登りの訓練をしたA君のほうが、上達がおくれたばかりが、かえっ
て、その効果が、減速されてしまったというのだ。

 この実験からもわかるように、幼児には、それぞれの段階において、それぞれの発達特
性がある。その特性を無視して、無理に早期教育をほどこしても、効果がないばかりか、
かえって、子どもの発達を阻害(そがい)してしまうことがあるということ。

 たとえば私の教室でも、年中児で入ってきた子どもの中には、最初の数か月の間、ほと
んど、反応を示さない子どもがいる。

 そういうとき親は、あせって、「どうしてでしょう?」「どうしたらいいですか?」と聞
いてくる。

 で、私は、こう答える。

 「今は、情報を収集している段階です。その情報が、ある一定段階を超えると、子ども
は、自分で行動するようになりますから、静かに、待っていてください」と。

 この段階で、私が、「ああしなさい」「こうしなさい」と指示を与えると、かえって子ど
もは混乱してしまう。ばあいによっては、自信をなくしたり、学習することに対して、恐
怖心をもったりする。

 だから、子どもの中で起きる変化を、じっと待つしかない。

 するとやがて、子どもの中で変化が起きる。学習に対する準備(レディネス)ができて
くる。その機会をとらえて、それを引き出してやると、とたんに、その子どもは別人のよ
うに、意見を述べたり、自分で考えたりするようになる。

 わかりやすく言えば、子どもを伸ばすコツは、その好機をうまくとらえること。遅すぎ
るのもよくないが、しかし早すぎるのも、よくない。その見きわめの、じょうずへたが、
子どもを伸ばすことにもなるし、反対に、伸びる芽をつんでしまうことにもなる。

(補足)

 幼児を教えていると、その幼児が、1週間単位で、ぐんぐんと変化していくときがある。
そういうとき私は、親に、「今が、チャンスですよ」と声をかけるようにしている。そうい
うとき、子どもをほめたり、励ましたりして、子どもに自信をもたせる。その時期をうま
くとらえて、自信をもたせてあげると、それまで消極的だった子どもが、別人のように積
極的になったりする。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身
の経験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて
不安定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その
緊張感が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大
きな不満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年
にかけての時期が、これにあたる。

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ」「親風、吹
かすな」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、
心のよりどころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家
族の束縛を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子
どもは、「自分さがし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索する
ようになる。中学校の2、3年から高校生にかけての時期をいう。

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。
親子の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生
から、おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)か
らの独立を果たす。

こうした一連の流れを、正常な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。
何らかの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになる
ケースである。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなにな
ることがある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、
生活力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、
穏かで、おとなしいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そ
うなる、マザコンタイプの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不
完全なまま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、
つまりは、何を考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、い
よいよ巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子ども
の反抗を、決して悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしては
いけない。その度量の広さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。
(はやし浩司 子どもの反抗 反抗期)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●結婚幸福度の測定

 結婚の幸福度は、つぎの4つをみて、判定するそうだ(アメリカ・心理学者・ターマン)。

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。

 ある調査によると、日本人の妻のばあい、結婚当初は、「結婚の幸福度」は、夫より高い
そうだ。が、3年を過ぎると、その夫よりも低くなるという。そしてそのあと、12〜1
4年で、たがいに幸福度は最高になり、その時点をピークに、妻の幸福度は、さがりつづ
けるという(「心理学用語」・かんき出版)。

 つまり日本人のばあい、結婚の幸福度は、年齢とともに、変化するということ。

 一方、アメリカ人の夫婦のばあいは、結婚当初から最後まで、この幸福度は、ほとんど
変化しないそうだ(同)。

 さらにこんな調査結果もある(同・詫摩氏調査)。

 つぎのようなばあいには、結婚後の夫婦の幸福度は、日本では、高いという。

(1)婚約が整うまで、スムーズに話が進んだ。
(2)結婚前の交際中に、話し合いがよくできた。
(3)結婚前の交際中に、将来の生活についての不安を感じたことがなかった。
(4)結婚に母親が賛成であった。
(5)両親の結婚生活がうまくいっていた。
(6)現在の生活が、経済的に楽である。(同書、172P)

 なるほどと言えば、なるほど。当然といえば、当然。ここに書いてあることは、経験的
にも、納得できる。言いかえると、ここにあげた、(1)〜(6)までのどれかで、つまず
いたりすると、それが(しこり)になって、夫婦関係がおかしくなることは、よくある。

 たとえば結婚に当初から、母親が反対していたとすると、ちょっとした夫婦げんかでも、
そのまま離婚話になってしまうかもしれない。経済的な問題にしても、「お金では幸福は買
えないが、なければ、不幸は向こうからやってくる」(はやし浩司)。

 円満な夫婦生活には、ある程度の経済的な余裕と安定性が大切であることは、言うまで
もない。

 ……ということで、私の、夫婦の幸福度を、自己採点してみる。(1問10点で採点)

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。……まあまあ、している。(7点)
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。……たがいに無頓着。(5点)
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。……あまりしていない。(3点)
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。……ワイフは、「いやだ」
(5)と言っている。(0点)

 40点満点で計算してみると、15点ということになる。(少しシビアに採点してみたが
……。)

 まあ、どんな夫婦であれ、今の私たちには、今の夫婦関係しかない。よくても悪くても、
今の夫婦関係しかないのだから、満足も、不満足もない。あきらめて、受けいれるしかな
い。ただ改善すべき点があるなら、改善していこうと考えている。

 たとえばこれからは、たがいに共通の趣味を大切にしたいし、たがいによい点をみつけ
て、尊敬しあいたい。来世でも、いっしょになるということは、あまり考えないでおこう。
ワイフも、いやがるだろうし……。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)

私自身の記憶をたどってみる。20代、30代の記憶は、それなりに残っている。しか
し40代なることからの記憶が、ほとんど、残っていない?

 これはどうしたことか?

 そこでワイフに相談してみると、ワイフも、「そう言えば、ないわね」と。そしてこう言
った。「そのころは、子育てで夢中で、自分の思い出をつくるヒマなど、なかったからよ」
と。

 そのとおり。

 私たち夫婦の思い出は、ほとんどない。が、息子たちとの思い出は、ある。つまり私た
ちというより、親は、子育てをしながら、子どもとの思い出を、自分自身の思い出として
記憶する。わかりやすく言えば、子どもの思い出イコール、親の思い出ということになる。

 息子が幼稚園へ入ったとき。息子が小学校に入ったとき。卒業したとき。息子といっし
ょに、プールへ行ったとき。旅行したとき。いつもそこには、息子たちがいる。つまりそ
れが、そのまま、そのころの記憶となる。

 しかし肝心の、私や、ワイフとの記憶が、ない! 私は何をしてきたのだろうとさえ思
うことがある。

 そこで今、子育てがほとんど終わってしまった今、何をしてきたのかと聞かれても、ハ
タと困ってしまう。これといった思い出が、何もないからだ。何かをしてきたはずなのに、
思い出というと、一気に、自分たちの青春時代にまでもどってしまう。

そこでしかたないから、息子たちとの思い出にしがみつこうとするが、その息子たちは、
もう巣立ってしまった。三男にしても、身分はまだ大学生だが、休みになっても、ほと
んど、家にはいない。アルバイトにしても、東京や横浜でしている。

 ポッカリと、心の中に穴があいたような気分である。

 本来なら、私たちは私たちで、自分たちの思い出をしっかりと作っておくべきだった。
それはたとえて言うなら、明けても暮れても、仕事ばかりしていたようなもの。仕事をし
たという記憶はあるが、それ以外は、ほとんど、ない。あまりよいたとえではないかもし
れないが、それに近い。

 そのころというのは、いつもそこに息子たちがいて、その息子たちのために、毎日生き
ていたような気がする。少年野球の応援に行った。少年野球の付き添いで、キャンプにも
行った。登山もした。旅行にも行った。

しかし私たちが、そうしたいからそうしたというよりは、いつも心のどこかで、ある種
の義務感を覚えたから、そうした。犠牲になったとは思わないが、もう少し、今から思
うと、別の生き方も、あったのではないかと思う。

 たとえば私たち夫婦だけなら、ひょっとしたら、30歳の半ばには、オーストラリアへ
移住していたかもしれない。移住は無理だとしても、数年間は、オーストラリアで、好き
勝手なことをしたかもしれない。

 しかし息子たちのことを考えたとき、それができなくなってしまった。「学校は?」「進
学は?」「勉強は?」と。そんなことを考えているうちに、そうした夢や希望は、しぼんで
しまった。

 そこで今、私たち夫婦が第一に考えることは、老後を、晩年ととらえるのではなく、子
育てから解放された、第二の人生ととらえること。自分たちらしい、心豊かな老後である。
そうした生き方を、英語では、「サクセスフル・エイジング」というらしい。「楽しい老後」
という意味か。

 しかし、たとえば毎日、庭いじりをしながら、孫の世話をして、のんびりと暮らすとい
うのが、本当に、あるべき老後かというと、どうもそうではないような気がする。「サクセ
スフル(成功)」と言葉からは、そういう生活を思い浮かべるが……。

そこで最近では、さらに一歩進んで、「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」と
いう言葉が使われるようになった。年齢を考えることなく、老後であっても、さらに前
向きに生きるということをいう。

 もちろん体力的な衰えや、知力的な衰えについては、どうしようもない。しかしだから
といって、ゼロになるわけではない。私は私だし、あなたは、あなた。60代になっても、
70代になっても、そして80代になっても、だ。

 だいたいにおいて、老いるという言葉がおかしい。日本人は、「老人」のイメージを自ら
つくりあげてしまい、それに合わせて、自分を作ろうとする。つまり日本人は、老いるの
ではなく、自ら老いを、自分の中に作っていく。

 中には、ひとりで部屋にいるときは、スイスイと歩いているクセに、人の目を気にした
とたん、弱々しい歩き方をする人もいる。「私も、年をとりました」を、口ぐせにしている
老人も、多い。

 そこで大切なことは、こうしたまちがったというか、ゆがんだ、老人観を、今、ここで
たたきつぶしておくということ。そして死ぬまで、その死を意識することなく、ただひた
すらに、前向きに生きていく。

 それがここでいう「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」ということになる。

 そうでなくても、やがて、日本人の人口の約25%が、65歳以上という時代になる。
4人に1人が、高齢者という時代である。そういう時代が確実にやってくるのに、私たち
は、若い人たちに甘えているわけには、いかない。

 だからこそ、ますます「プロダクティブ」な生き方が、重要ということになってくる。
社会に対して、前向きにかかわりあっていく。

 そこで私なりの結論。昔の人の言い方を借りるなら、こうなる。

「今どきの、若いものに負けていられるものか!」と。
(はやし浩司 エイジング プロダクティブ エイジング 生産的な老後)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●浜松N高校・中等部の「総合適性検査問題」より(1)

 このところ、中学、高校の入試問題が、大きく様変わりしてきた。その一つ。この浜松
市でも、数年前、公立の、中高一貫校が生まれた。今年(05年)に出題された、入試問
題より。

+++++++++++++++++

(もんだい2)

 『インターネットのメールで対話をすると、仲のよい友だちでも、伝えたいことが誤解
されて伝わってしまうことがあるのは、なぜでしょうか。文字だけで対話をするというメ
ールの特徴から、その理由を答えなさい』

(もんだい5)

 サッカーボールは、5角形と6角形の組み合わせでできている。5角形は、全部で12
個あるというヒントを、会話形式で与えたあと、

 『サッカーボールの6角形は、全部でいくつあるでしょうか。その求め方も考えなさい』

(もんだい7)

 『よくかんで食べると、健康によいことがあります。2つ考え、答えなさい』

+++++++++++++++++

 C新聞社(地元)の正答例は、つぎのようになっている。

(もんだい2)

 メールでは、相手の表情や声、態度などから相手の気持ちや感情を理解することができ
ないため。

(もんだい5)

 20個
 (求め方、略)

(もんだい7)

 食べ物の消化がよくなる。
 あごの骨や筋肉が発達する。

++++++++++++++++++

(補足)

●サッカーボールの5角形は12個あるということは、辺の数は、5x12=60
それぞれの6角形は、3辺ずつ5角形に接しているから、60÷3=20
だから6角形の数は、20ということになる。(はやし浩司の解答)

●メールでの会話で誤解が起きるのは、「相手にうまく意思が伝わらない」のではなく、相
手が、相手の心情で、そのメールを読んでしまうからではないのか。この正答例には、ち
ょっと(クエスチョンマーク)。失礼!

+++++++++++++++++++

 今までは、知識(=暗記力)と解き方(=学力)だけが試されてきた。しかしここにみ
る入試問題は、いわゆる「常識」と、「思考力」をミックスしたような問題と考えてよい。
こうした入試傾向は、これから先、加速されることはあっても、後退することはない。今
までの入試内容は、あまりにも、おかしかった!

 そのため、どこかおかしな子どもほど(失礼!)、受験には有利なところがあった。いわ
ゆる勉強しかできない、勉強しかしないような、いわゆる勉強xx(失礼!)な子どもほ
ど、有名高校から有名大学へと、進学していった。(もちろん、そうでない子どもも、多い
が……。)

 大切なことは、子どものときから、自分で考え、自分で判断して、自分で行動して、そ
して自分で責任をとる、そういう習慣を養うことである。それができる子どもにすること
である。

今回の、N高校・中等部の入試問題は、これからの教育の方向性を示す、まさに良問と
いえるのではないだろうか。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●知的レベル

 兄のボケを見ていると、ときとして、自分自身のボケを思い知らされることがある。つ
まりボケているか、いないかということは、あくまでも相対的なこと。順に考えてみよう。

 兄に、ミュージックCDを、10枚ほど、購入してやった。若いころから、歌謡曲や演
歌が大好きだった。

 で、そのCDを聞くのはよいのだが、それをうまくケースの中にしまうことができない。
できなくはないが、ときに、反対のほうからケースをあけようとする。無理な力を入れる。
とたん、バリンと、ケースが割れてしまう。

 ケースが割れると、兄は、CDは、もう使えなくなったと誤解するらしい。「CDが割れ
たア!」と言って、私のところへやってくる。

 それと同じことだが、私については、こんなことがあった。

 パソコンを、最適化したいと思った。数年前のことである。が、始めるとすぐ、再起動
がかかってしまう。で、また最初から、やりなおし。……と、何度やっても、同じ。そこ
で息子に聞くと、あれこれと教えてくれた。

 私が、「ウィルスが入ったかもしれない」と言うと、息子は、「そんなはずはない。一度、
セーフモードにしてからすればいい」と教えてくれた。そして専門用語をいくつかまぜ、
あれこれと説明してくれた。

 が、何回、説明を聞いても、頭に残らない。息子は、おかしな横文字ばかり並べる。要
するに、アンチ・ウィルス用のソフトが、どこかで勝手に作動してしまうということ。そ
のため、最適化の途中で、再起動が始まってしまうということ、らしい。(今でも、よくわ
からないが……。)

 私は兄のCDのケースをなおしながら、自分のことを思い出していた。

 つまり、ボケかボケでないかは、相対的なもの。より高次元な思考力をもっている人か
らみれば、それ以下の人は、どんな人でも、ボケているように見える。

 そんなわけで、「私はボケていない」と思っている人でも、ボケている人は、いくらでも
いる。反対に「ボケている」と思っていても、ある分野では、他人より秀でている部分が
ないわけではない。

 頭のボケには、そういう問題が含まれる。どうでもよいことだが……。

(補足)

 いわゆる「老人性痴呆」には、大きく分けて、2つのタイプがあるといわれている(山
下冨美代)。
 
ひとつは(1)アルツハイマー型痴呆と呼ばれる、痴呆。加齢とともに、神経細胞に、
シミ状の老人斑点が生まれるなどして、神経細胞そのものが、死滅していく。

 主に側頭葉、頭頂葉、前頭葉などがダメージを受けるため、アルツハイマー型痴呆では、
人格など、高度な精神作用が影響を受けるという。

 もう一つは、(2)脳血管性痴呆と呼ばれるもの。脳の血管が何らかの理由によってつま
り、その部分の脳ミソが壊死(えし)することによって、痴呆が始まる。

 壊死する場所、程度に応じて、痴呆の症状もさまざま。たいていはその部分を中心に、
壊死が進行し、病態は、重くなっていくという。

 私の兄のばあいは、どうやら、(2)の脳血管性痴呆のようである。今のところ、症状は
落ちついてはいるが……。

 こういうケースで、まだありがたいと思うのは、兄には、凶暴性や、乱暴性がないとい
うこと。ぼんやりとボケているとか、そういう感じである。そのため兄が、何か失敗して
も、怒るという感情が起きるよりも前に、笑ってしまう。

 たとえば数日前も気がつかないでいたら、何と、ズボン下だけでも、3枚もはいていた。
「1枚でいいのに」と言ったら、兄は、「寒いから」と言って、はにかんで見せた。私とワ
イフは、それを見て、笑った。

 兄のボケは、まだその段階である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ボケた兄(2)

 兄のボケについて書いたら、O県に住んでいる女性(63歳)から、こんなメールが届
いた。「林さんところは、まだ、いいほうですよ」と。

 その女性も、実の兄を引きとって、めんどうをみているという。その兄(70歳)には、
凶暴性があるという。少しでも気に入らないことがあると、突発的に暴れたり、大声を出
したりするという。

 その上、病院には行きたがらない。薬はのみたがらない。おまけに、頭のほうだけは、
まだしっかりしているので、要介護の申請も、できないでいる、と。「要介護が認定されれ
ば、週4回のデイサービスを受けられるのですが、今の状態では、それも無理です」「仮に
要介護の申請が通っても、兄はそういう施設へは、行かないでしょう」と。

 さらに深刻な例も、メールで届いている。

 Aさん夫婦は、80歳を過ぎた母親を介護している。が、その母親が、わがままで、困
っている、と。

 「ぜいたくばかり言って、私たちを困らせます。朝の味噌汁なんかでも、少しでも冷め
ていると、『飲めない』といって、怒りだします。『親に、こんなものを食わせるのか!』
とか、『私は赤味噌しか、食べない!』とか言います。

そこであわてて味噌汁を作りなおすのですが、今度は、『まずい』とか、『口に会わない』
とか言います。そのくせ、近所の人や、親類の人が来ると、遠まわしな言い方で、私た
ちにひどい扱いを受けていると、ウソを言うのです。それだけではありません。

 私たちの前では、どこか鬼ババ風なのですが、他人の前では、仏様のような様子をして
みせます。おもしろいと思うのは、私たちの前では、シャキシャキと歩くくせに、他人の
前では、急にヨボヨボと歩き出すのです。(ふつうは、逆だと思うのですが……。)そうい
うふうにして、他人の同情を買おうとするのですね」と。

 老人虐待が、よく話題になる。介護に疲れた家族が、老人を殺すという事件も、ときど
きある。実際のところ、老人介護は、重労働。ボケ老人の介護は、さらに重労働。子育て
も重労働だが、ケースによっては、子育ての比ではない。

 そういう老人介護に直面すると、人の心には、二つの感情が生まれる。

 同情と、憎しみ、である。

 この二つの感情の間を行ったり来たりする。「何とかしてあげよう」と思ってみたり、反
対に、「もう、どうにでもなれ」と思ったりする。人間関係にもよる。実の親子や兄弟なら、
同情する心が、より大きいかもしれない。

 しかし義理の父母とか、義理の兄弟となると、そうはいかない。基本となる、愛情その
ものが、弱い。だから同じ介護をしながらも、それを、より負担に感ずるようになる。私
のワイフも、私と兄の板ばさみになって苦しんでいる。そんな感じがする。

 が、人間というのは、不安定な心理状態には、それほど長くは耐えられない。(不安)→
(怒り)→(不平)→(心配)を繰りかえすうちに、どちらか一方に、ころがろうとする。
ころがって、落ちつこうとする。介護について言えば、(1)介護を放棄するか、(2)介
護を受け入れるか、最終的には、その選択を迫られる。

 ワイフは、こう言う。「あまり考えたくない。毎日、すべきことをするだけよ」と。

 ワイフは、そういうふうに考えて、現状を受け入れたようだ。悩んだところで、どうに
かなる問題ではない。どうせ、だれも、助けてくれない。かといって、兄を、外に追い出
すこともできない。

私「ぼくにとっては、身内だけど、お前には他人だから、つらいだろうね」
ワ「しかたないわね。これも、運命の一つよ」と。

 しかしその一方で、こういうときほど、人の温かさが身にしみるもの。近くに住む自治
会長のK氏に、事情を話すと、K氏は、こう言ってくれた。「何かあったら、力になります
よ。遠慮なく言ってください」と。

そしてK氏は、あれこれと、具体的な方法を教えてくれた。同じような問題をかかえて
いる家族を、何人か、紹介してくれた。「この人と連絡をとってみなさい。何か、知恵を
くれますよ」と。

 そういうK氏のような人を、真の友というのではないか。Kさん、ありがとう!

++++++++++++++++++++++++++++


浜松(1)

 1972年の夏には、東京と浜松の間を行き来するようになっていたから、浜松との縁
は、今年(05年)で、もう33年目になる。

 住み始めたのは、その年の秋から。当時は、浜名湖の弁天島にある、友人の別荘の一室
を借りて住んでいた。おかしなことだが、カギはもっていなかった。そのため部屋へ入る
ときは、まず塀を乗り越え、台所の横の窓から、中へ入らねばならなかった。外へ出ると
きは、その反対のことをして、出なければならなかった。今から思うと、私は、まるで泥
棒のようだった。

 冬の間は、その別荘は、空き家になっていた。

 家の前は、楽器メーカーY社の社宅。庭を横切ると、そのまま浜名湖につながっていた。
私は、この別荘に、翌年の春まで住んでいた。だから、当然のことだが、今でも、弁天島
へ行くと、あの家を最初にさがし、あのころの日々を思い出す……。

そしてそれがそのまま、私の浜松の、第一印象になってしまった。

 海があって、緑が豊か。それに青い空。開放的な人たち。それが浜松と!
(05・01・15記)


(浜松2)

 私はもともと田舎人間。都会も嫌いではないが、しかし田舎のほうが、心が落ちつく。
心が休まる。田舎は退屈だという人もいるが、それは田舎での遊び方を知らないからでは
ないか。

 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで、近くの山の中で遊んでいた。

 だから今でも、山の中を歩いていて、小さなほら穴などを見つけたりすると、「ぼくなら、
陣地をつくるのに……」と思ってしまう。そう、子どものころは、陣地づくりばかりをし
ていた。

 穴の中につくこともあったが、木の上につくることもあった。寺の床下につくったこと
もある。

 そこは私だけの特別の空間。だれにもじゃまされない、特別の空間。それが陣地だった。

 ……そうした強い思いが残っていたのだろう。浜松に住むようになってからすぐに、私
は、「いつか、ぼくは、山の中に山小屋を建てる」と、心に誓った。そして読む雑誌といえ
ば、その種の雑誌ばかり。

 で、その山小屋を建てて、今年で、13年目になる。早いものだ。土地づくりに、それ
までに、6年もかかったから、通算で、19年!

 建てた当初は、毎週のように泊まったり、客を呼んだりしたが、このところは、行って
も、数時間、昼寝をしてくるだけ。「もったいない」と、思うことは、よくある。

 しかしその数時間が、貴重。私は、月曜日から金曜日までを、その数時間のために生き
ているような気がする。
(05・01・15記)


(浜松3)

 私は岐阜県のM市で生まれた。周囲を、それほど高くはないが、山に囲まれた、小さな
町である。

 そのせいか、今でも、海を見ると、ウォーッと声をあげたくなるほど、感動する。実際
に、そういうような声を出して、砂浜を、思わず駆け出すこともある。

 今は、ハナ(犬)の散歩に、よく中田島砂丘まで行く。時間的には、夕暮れ時の海が好
きだ。西日が、海の向こうに姿を消すころが、美しい。海にしても、一度とて、同じ姿の
ときはない。

 荒い海、やさしい海、青い海、灰色の海……。

 散歩に疲れると、私はいつも、流木の上に腰をおろす。おろして、ハナが、堪能するま
で、ハナを自由に走らせる。

 ハナは、ポインター種の猟犬。走るために生まれてきたような犬である。そのハナの走
り方を見ていると、まるで、馬が走っているように見えるときがある。

 私はハナの走っている姿を見るのも、楽しい。うれしそうに、かつ、軽やかに走る。ハ
ナは、ときどき私がそこにいることを確かめるためにもどってきては、また数キロ先まで、
走っていく。それを繰りかえす。

 そういうとき、私は、時間が止まってしまったかのように、感ずる。ときに真っ暗にな
るまで、ぼんやりと、遠くの海を見ていることがある。
(05・01・15記)


(浜松4)

 私が住んでいるのは、浜松市の西、IR町というところ。IR町は、昔は、ひとつの独
立した村であったと聞いている。

 そのIR町を支配していたのが、TK家。江戸時代初期からの大庄屋と聞いている。事
実、このあたりで、TK家を知らない人はいないし、TKの名字をもつ人は多い。

 私はそのTK家直系の、TK氏から、今の土地を買い受けて住むようになった。すぐ近
くには、TK家の墓地がある。墓地といっても、小さな公園程度はある。

 ここに住むようになって、今年(05年)で、28年目になるが、私は、ここがたいへ
ん気に入っている。静かだし、少し高台で、環境もよい。四季折々の変化もそれなりにあ
る。

 そうそう、ここに住み始めたころには、西は弁天島から、東は浜松駅まで、新幹線が途
切れることなく走っていくのが見えた。

 今は、もちろん見えない。あたりは、家だらけ。もっとも当時は、吹きさらしの、丘の
上。洗濯物が風に飛ばされたことは、何度もある。それに少し風が吹くと、家の中は、砂
だらけになった。それを思うと、今のほうがよいと思うことがある。
(05・01・15記)


(浜松5)

 浜名湖の思い出は、多い。

 若いころは、夏になると、タキヤ漁によく出かけた。船の上から、強いライトをあて、
海の底にいる、かにやエビ、魚などを、大きなモリでつくという遊びである。

 当時は、よくとれた。一晩で、カニを、バケツに、5〜6杯は取った。それに40〜5
0センチもある、コチやウナギなども。

 そのうちこのタキヤ漁も観光化され、とたん、漁獲量が減った。当時とくらべると、今
のタキヤ漁は、子どもの遊びのようなもの。「漁」という名前が恥ずかしいほど。

 しかし一度、その浜名湖で事故を起こしかけたことがあってからは、その浜名湖からは、
遠ざかった。以後、10年近く、浜名湖の近くへすら、行ったことがない。最近になって、
ときどき、ワイフと弁当をもって、その弁当を食べにいくようになった。しかしそれでも、
あのときの事故を、忘れたわけではない。

 が、美しい。いつ行っても美しい。それは事実。それが浜名湖。

 浜松が好きな理由の一つに、この浜名湖がある。

 名古屋の方向から浜松へ近づき、三ケ日インターチェンジを過ぎたとたん、青い、どこ
までも青い浜名湖が、目の前にパッと広がる。輝く。とたん、言いようのない解放感を覚
える。そしてこう心の中で、叫ぶ。

 「浜松だ!」と。
(05・01・15記)


(浜松6)

 佐鳴湖(さなるこ)という湖がある。水質は悪いらしいが、見た目には、美しい湖であ
る。周囲の環境も、よく整備されている。散歩したり、弁当を食べたりすることができる。

 この佐鳴湖の東岸、西岸は、今では、浜松市内でも、最高級住宅地ということになって
いる。しゃれた家並み、環境……。どれも、住宅雑誌から飛び出したような家ばかり。

散歩をしていると、どこかの国の、住宅地を歩いているかのような錯覚を覚える。

 もっとも、私の家は、その住宅地のはずれにある。1ランクも、2ランクも、下の住宅
地(近所のみなさん、失礼!)。「いつかは……」と思ってがんばった時期もあったが、今
は、もうあきらめた。というより、ここのほうが、気楽。人には、それぞれ、身分相応と
いうものがある?

 この土地のこの家で、死ぬことができたら、御の字。むしろ、感謝している。

 ときどきワイフとこう言いあうことがある。

 「とくにいい生活をしたというわけではないけど、まあ、それほど苦労もなく、今まで
生きてこられたのは、ラッキーだったね」と。
(05・01・15記)

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話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
                     
.   *※※
.※※  ***※
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. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

【お願い】

 最近、いろいろな方から、メールをいただきます。
 その一方で、スパムメールも、ますます巧妙化してきています。

 そこでもし読者の方で、私宛にメールをくださるときは、
 必ず、お名前(フルネーム)と住所を、件名のところにお書きくださるよう、
 お願い申しあげます。

 件名:鈴木です
 件名:お元気ですか、佐藤です。
 件名:先日は、ありがとうございました。埼玉の山田です。

 ……というような、メールは、即、OEのフィルタリング機能を使って、削除させて
いただいています。よろしくご了解の上、お許しください。

 めったなことはないと思っていますが、しかし万が一にも、
ウィルス入りメールだったりすると、結局は、読者の方たちに迷惑をかけてしまいます。

 くれぐれも、よろしく、ご協力くださいますよう、お願い申しあげます。

                    はやし浩司






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. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
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. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
.  /〜〜〜\  ⌒ ⌒        いつも購読、ありがとうございます!
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 14日(No.529)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page057.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゆとり教育

 10年前までは、中国や韓国では、「日本に追いつけ」「日本を追い越せ」が、重要な合
言葉になっていた。が、今はちがう。「日本を叩きつぶせ」「日本は、もう相手ではない」
という雰囲気に変わってきた。

 そういう日本を取り巻く環境に、あえて背を向ける形で、数年前、日本の文部省は、「ゆ
とり教育」なるものを始めた。教科内容も、約3割、削減した。

 たとえばそれまでは、小学6年になると、子どもたちは、算数の時間には、分数の割り
算、掛け算を学んだ。しかし今は、分数の足し算、引き算である。

 さらにずっと昔だが、私が中学3年生のときには、すでに、サイン、コサイン、タンジ
ェントを学んでいた。これらの教科内容は、現在は、高校で教えられている。

 「ゆとり教育」は、まさに時代逆行の、大愚策であった。そうでなくても子どもたちの
学力は低下し始めていた。ゆとり教育は、それに拍車をかけてしまった。

 今では、中学生でも、掛け算の九九を、使えこなせない子どもは、いくらでもいる。調
査のし方にもよるが、私は、15〜20%の中学生がそうでないかとみている。

 これからの日本が日本であるためには、教育しかない。頭脳の質で、世界をリードする
しかない。

 もっとも、むずかしいことを教えるから、レベルが高いということにはならない。たと
えば今、幼稚園でも、掛け算の九九を教えているところがある。九九を丸暗記させている
だけだが、だからといって、その幼稚園の教育レベルが高いということにはならない。

 それはわかる。

 しかし実際には、教育の質そのものが、低下している。教育というよりも、教育力が、
低下してきている。たとえば20年前だと、小学2年の段階で、掛け算の九九ができなか
ったりすると、先生たちは、残り勉強をさせてでも、子どもたちにそれを教えた。掛け算
の九九があやしいと、そのあとのあらゆる学習に影響を与えるからである。

 だから教える先生も必死だったが、それを学ぶ子どもたちも必死だった。

 しかし今は、そういう光景は、ほとんど、見られなくなった。「教えるべきことは、教え
ます。そのあと、覚えるか覚えないかは、子どもの問題です」(たしかに、そうだが……)
と。先生自身が逃げてしまう。

 子どもたちも、掛け算の学習が終わるとそのまま、数週間後には、九九すら忘れてしま
う。

 いや、そうでなくても、学校の先生は、いそがしい。教育はもちろん、しつけから、家
庭教育指導まで、ありとあらゆるものを、押しつけられている。ある女性教師は、こう言
った。「授業中だけが、心を休めることができるときです」と。

 これでは質の高い教育など、望むべきもない。「ゆとり教育」というのは、結局は、先生
の負担軽減のことだったのか? ……ということになる。

 話をもどすが、この日本の教育に一番欠けるものはといえば、緊張感ではないか。教え
る側にも、教えられる側にも、その緊張感がない。その緊張感をかろうじて支えているの
が、受験勉強ということになる。いろいろ言われているが、もしこの日本から、受験競争
をなくしたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら、崩壊する。

 教育に夢がない。
 教育に目的がない。
 教育に希望がない。

 そういう教育の中で、子どもたち自身も、自分の進むべき道を見失ってしまっている。
では、どうするか?

 私は何度も書いているが、教育を自由化すればよいと考えている。今のように、北海道
から沖縄まで、金太郎アメのような、画一教育をつづけているほうが、おかしい。さらに、
何からなにまで、学校に押しつけて、「しっかりと子どものめんどうをみろ」というのも、
おかしい。

 子どもの多様化にあわせて、教育そのものを、自由化する。たとえばドイツやイタリア
のように、学校での授業はできるだけ午前中ですませ、午後からは、子どもたちが、それ
ぞれの目的をもって、クラブに通えるようにすればよい。政府は、そのために費用を、援
助する。

 (ドイツでは、クラブの月謝は、1000円程度。子どもをもつ親には、毎月1万50
00円ほどの、チャイルド・マネーが支給されている。単純に計算すれば、1人の子ども
は、そのお金で、放課後、15のクラブに通うことができることになる。)

 大学にしても、単位を共通化すればよい。もちろん、どこの大学で、学位、修士号、博
士号が認められるかは重要だが、それはつぎのステップである。……という方向で、日本
の大学教育も進みつつあるが、その速度を、もっと加速させる。少なくとも、入学後の学
部変更、大学から大学への転籍くらいは、今すぐ、自由化すべきではないだろうか。

 これからの日本で求められるのは、その道に秀(ひい)でた、プロである。そういうプ
ロを育てるための教育体制をつくる。

 それを追求していけば、自ずと日本の教育の輪郭(りんかく)が見てくる。そしてその
輪郭が見えてくれば、子どもたちの間から、夢や目的や希望が生まれてくる。そしてそれ
が、学校教育の活性化につながっていく。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子育て一口メモ】

+++++++++++++++++++++++

携帯電話HP用に書き改めた、一口メモ集です。
少し前に送った原稿とダブりますが、お許しください。
ここでは、私たちがもっている常識を、少し疑って、
つまり別の角度から、考えなおしてみます。

+++++++++++++++++++++++

●「子はかすがい」論

たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずな
も、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係
がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさ
に「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。


●「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿
を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうし
ろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたく
なくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せよ
うとする。


●「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、
居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ
上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、
百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。


●「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはい
ないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、
谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もち
ろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育
てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。


●「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子
どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子ども
の問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たが
いにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲
になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくま
でも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。


●「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただき
ました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせて
しまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがまし
い子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型
子育てというのが、それ。


●「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、
身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷ
りとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからな
いほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏
せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いこ
とをしようとしたら、どんなことでもできる。ご注意!


●「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男
は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそ
まさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)
をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということ
は、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆ
がんだ男性観が、その基本にあるとみる。


●「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、
そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらし
すぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注
意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン
性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきに
なっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間
で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」
と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を
書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、
買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になっ
たら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。


●「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言
葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。し
かし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二三%の女性
が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●悪魔性

 人の不幸な話ほど、楽しいものはない。……という悪魔性は、だれにでもあるものか。
私の知っている人に、いつも他人の悪口ばかりを言っている人がいた。そのとき、60歳
くらいではなかったか。女性だった。

 「あのAさんの父親は、窃盗罪で逮捕されたことがある」
 「Bさんの家の長男は、離婚歴がある」
 「Cさんは、かなりあくどいことをして、金をもうけたそうだ」と。

 一般論として、世間体を気にする人は、相対的な尺度で、自分の位置を決める。隣の人
より、収入が多ければ、金持ちであり、隣の人より、収入が少なければ、貧乏である、と。
もちろん隣の人が幸福だと、自分は不幸と感じ、反対に、隣の人が不幸だと、自分は幸福
と感ずる。

 その結果として、いつも自分より、「下」の人ばかりを見るようになる。そのほうが、居
心地がよいからである。そしてさらにその結果として、ここでいう悪魔性をもつようにな
る。「他人の不幸ほど、楽しいものはない」と。

 そこで私や、あなた自身は、どうかということになる。

 たとえばここにたいへん不幸な人がいる。経済的にも家庭的にも、恵まれず、苦労の連
続。おまけにその人自身も、大きな精神的な問題をかかえている。

 そういう話を聞いたときの心理的反応は、つぎの6つのタイプに分類できる。

(1)自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と納得する。)
(2)同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
(3)嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
(4)無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
(5)学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
(6)妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)

 言いかえると、他人の不幸な話を聞いたときの、自分の心の中の反応を知ることで、自
分自身の人格の完成度を知ることができる。言うまでもなく、「人の不幸な話ほど、楽しい
ものはない」と思っている人は、きわめて人格の完成度の低い人ということになる。

 つぎの話を読んで、あなたはどう感ずるだろうか。

【テスト】

 X氏(47歳)は会社をリストラされた。そのとき得た退職金を使って、市内に小さな
事務所を開いた。しかし折からの不況で、半年後には、多額の借金をかかえて閉鎖。その
ころ、妻は、二人の娘(小6と小2)を連れて、家を出た。X氏は、酒に溺れるようにな
り、スナックで暴力事件を引き起こし、傷害罪で逮捕。そのショックで、X氏は、緑内障
になり、右目の視力を、ほとんどなくしてしまった。

 この話を読んだとき、あなたの心の中では、どのように感じただろうか。どのような反
応が起きただろうか。上の(1)〜(6)を、人格の完成度の応じて並べなおしてみると、
こうなる。上の位置の人ほど、人格の完成度が、低いということになる。

★嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
★無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
★自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と安心する。)
☆学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
☆妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)
☆同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
☆(神性タイプ)(神々しい包容力で、他人の不幸を共有できる。)

 ここで重要なことは、人格の完成度の低い人からは、高い人がわからない。しかし人格
の高い人からは、低い人がよくわかる。それはちょうど、山登りに似ている。低い位置に
いる人には、山の上からの景色がわからない。自分がどこにいるかさえわからない。

しかし高い位置にいる人は、低い位置の人がどこにいるか、手に取るようにわる。当然、
視野も広くなる。(だからといって、私がその視野の高い人というわけではない。自分で
も、そうなりたいと願っている。念のため!)

 さらに人格の完成度の低い人は、たいていのばあい、自分の(低さ)にすら、気づくこ
とがない。ないばかりか、自分を基準にしてものを考え、「他人もそうだ」と決めてかかる
傾向が強い。
 
 冒頭にあげた女性も、いつも、こう言っていた。

 「他人の心なんて、信用できない」
 「人はみな、タヌキだ」
 「渡る世間は、鬼ばかり」と。

 どこかさみしい人生観になる。

 しかし人格の「格」をあげるということは、むずかしいことではない。ないが、しかし
勇気のいることである。たとえば奉仕活動(ボランティア活動)をしたことがない人は、
奉仕活動をすること自体を、「損」と考える。

 子どもの世界でも、こんなことを言った高校生がいた。「生徒会活動をするヤツは、バカ
だ。受験勉強ができなくなる」と。幼児でも、「スリッパを並べてくれない?」と声をかけ
ただけで、「どうして、ぼくがしなければいけないのか!」と言いかえしてくる子どもがい
る。

 そうしたレベルの低い人生観を変えることは、簡単なことだ。自ら進んで、奉仕活動を
してみればよい。しかしそこには、大きなカベがある。そのカベを越える力が、勇気とい
うことになる。

最初、これは私の経験だが、そういう自分が、バカに見えてくる。バカらしさを感ずる。
それはたとえて言うなら、他人のあとをついて歩きながら、その他人が捨てるゴミを拾
って歩くようなバカらしさである。

 そのバカらしさを越えるためには、勇気が必要である。

 こうして私たちは、自分の中の悪魔性と戦っていく。よく誤解されるが、よいことをす
るから善人というわけではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。人は、
自ら、その悪と戦って、善人になる。

 実のところ、私の中にも、悪魔性がある。ないとは思わない。ときに、他人の悪口ほど、
楽しいものはないと思うこともある。「あいつはアホだ」「こいつはバカだ」と、ワイフと
笑いながら話しこむこともある。私は、決して、善人ではない。それにもともと、生まれ
が生まれだから、それほどの善人になれるとも思っていない。期待していない。

 しかしこれだけは言える。

 明るく、朗らかに、楽しく人生を生きるためには、自分の中に潜む悪魔性は、敵である。
戦うべき、敵である。その悪魔性に毒されると、人生そのものをムダにする。事実、冒頭
にあげた女性は、見るからに醜悪な顔をしていた。今、その女性を思い出しながら、「私は、
ああはなりたくない」と思っている。
(はやし浩司 悪魔性 人格の完成度 人格 善人論)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●心を洗う

 幼児と接していると、ときどき「すばらしい!」と実感するときがある。幼児と接する
ことができるものだけが覚える、感動と言ってもよい。その「すばらしさ」には、3つあ
る。

(1)心を洗ってもらえる。
(2)生きるエネルギーを与えられる。
(3)命の原点を教えられる。

 ほかにもいろいろあるが、私は、(1)の「心を洗ってもらえる」を、その第一にあげる。

 幼児の世界では、不正、不平等、不公平、不公正、インチキは、いっさい、通用しない。
少しでも、そういう様子を見せると、子どもたちは、すぐ反応する。「先生は、ズルイ!」
と。

 そう言われたとたん、私は、ハッと、自分を見なおす。修正する。それが「心を洗う」
ということになる。昨日(1・12)も、こんなことがあった。

 A君(年中児)が、やっと数字が書けるようになった。そこで私がA君の書いた数字に、
大きな花丸を描いてやった。するとそれを横で見ていたB君が、「どうしてA君のは、花丸
で、ぼくのは、丸だけなの?」と。

 そこで私はあわてて、「ごめん」「ごめん」と言いながら、B君の書いた数字に花丸を描
いてやった。

 毎日というより、すべての瞬間が、そういう(美しさ)に包まれている。幼児の世界は、
そういう意味では、純粋。汚(けが)れを知らない。

 で、私はレッスンの途中で、ふと、こんなことを言ってしまった。

私「おとなになるほど、心が汚くなるんだよ」
子「……?」
私「君たちも、今の心を大切にしなよ」
子「……?」
私「今のまま、おとなになったら、すてきなのにね」と。

 それに引きかえ、おとなの世界は、見苦しさに、満ちあふれている。悲しいほど、満ち
あふれている。たとえば教室へ入るとき、クツを並べて脱ぐことを教えると、その瞬間か
ら、幼児たちは、それができるようになる。ほかのだれかが、雑な脱ぎ方をしたりすると、
「いけないよ」と、注意しあったりする。

 それが小学生、中学生、さらに高校生となっていくにつれて、この習慣が乱れていく。
いいかげんになる。どこかで小ズルさを、身につけてしまう。ほとんどの人は、「幼児は幼
稚」と考えている。しかし、これはとんでもない誤解。偏見。

 知識や経験こそ、とぼしいが、それ以外は、幼児といえども、1人の人間。喜怒哀楽の
情もあれば、嫉妬もする。自尊心もある。名誉も、誇りも感ずる。だから私はときどき、
こう思う。

 もし、人間が、すべての人間が、幼児のころの心を忘れずに、それを大切にしておとな
になったら、この世の中は、ずっと住みやすくなるのに、と。それを「教育だの」「しつけ
だの」と言って、子どもの心を、こなごなになるまで破壊してしまう。しかしこれを悲劇
と言わずして、何と言う?

 大切なことは、子どもを教えようとは思わないこと。子どもに、教えを乞うこと。幼児
教育とは何かと聞かれれば、最終的には、そこへ行きつく。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ボケの自覚

 原理的には、ボケの自覚は、ありえないことになる。脳のCPU(中央演算装置)その
ものが、ボケるのだから、これは当然である。自分のボケを判断すること自体が、できな
い。(「私はボケてきたな」と感ずるようなら、まだボケていないそうだ。)

 それはたとえて言うなら、青いサングラスをずっとかけるようなもの。しばらくかけて
いると、サングラスをかけていることすら忘れてしまう。青いサングラスを通してでも、
赤はそれなりに赤く見える。黄色は、それなりに黄色に見える。

 ボケのこわいところは、ここにある。

 そこで何か、方法はないものか。自分のボケを自分で客観的に知る方法はないものか。

 一つの方法としては、こんなのがある。これはあくまでも私の方法だが、数年前、ある
いは5〜10年前に書いた文章を読みなおしてみるというのが、それである。文のじょう
ず、へたということではなく、その向こうにある(鋭さ)を見ながら、自分のボケを知る。

 そういう視点で見ると、ここ半年あまりで書いた文章は、かったるくなってきているよ
うな感じがする。つっこみも甘い。キレもない。……ということで、思考力が、かなり鈍
ってきている?

 だからボケ始めたということにはならないのかもしれない。しかしたしかに頭の活動は
衰えてきているようである。とくに気になるのが、集中力。その集中力がつづかなくなっ
てきた。

 ところで数日前、私は、ある女性(57歳)と話した。10年ぶりくらいではないか。

 その女性は、頭のよい女性だった。料理の専門家で、若いころは、地元のテレビ局でも、
結構、活躍していた。

 断続的にだが、2〜3時間は、話した。しかし、である。よくしゃべる割には、つぎの
ような特徴があることに気づいた。

(1)人の話を聞かない。
(2)自分の意見ばかりを言う。
(3)同じことを、ときどき繰りかえす。
(4)話していると、軽い興奮状態になる。
(5)押しつけがましい、説教をたくさんまぜる。

 が、何よりも気になったのは、私が何かを言うと、即座に、ペラペラとそれを否定する
点である。考えるというよりは、思いついたことだけを、音声にかえているといったふう。

私「今年の冬は、暖かいそうですね」
女「そんなことないですよ。雪が降りましたよ」
私「どこか暖かいところへ、行きたいですね」
女「どこも、お金ばかり、かかって、たいへんですよ」と。

 よく観察すると、脳ミソの表層部分だけが活動していて、右から左へと、飛来した情報
を、流しているだけ。つまり思考力、ゼロ。そんな感じがした。

 たいへんよく誤解されるが、(情報の量)は、(思考力)とは、まったく異質のものであ
る。ものをよく知っているから、頭がよいということにはならない。たとえばペラペラと
よくしゃべるから、頭がよいということにはならない。

 まさにその女性が、そうだった。私は、その女性を見ながら、「この女性は、かなり、頭
がボケ始めているな」と思った。そこで軽くテストしてみた。ボクシングで言えば、軽い
ジャブを出してみた。

私「あなたは、よく早とちりすることはありませんか?」
女「私は、ないですねエ……。私は、慎重派ですから」
私「少しがんこになったとか……、そういうことはありませんか?」
女「ありません。私は、だれとでも、うまくやっています。私は、O型ですよ」と。

 かなり重症のようである。

 アルツハイマー型痴呆症のような、機質的なボケは別として、いわゆる加齢とともにや
ってくる、機能的なボケ、つまり脳ミソのサビによるボケには、いろいろな症状がともな
うようだ。

(1)思考力が低下する。
(2)記銘力、記憶の保持力、想起力が低下する。
(3)情報の整理力が低下する。混乱しやすくなる。
(4)感情が鈍麻し、繊細な感覚を喪失する。
(5)ものごとに固執する、がんこになる。
(6)融通性がきかなくなる、規則性が加速する。
(7)興味の喪失、反復作業が多くなる。
(8)回顧性が強くなり、過去に固執する。

 全体としてみると、人間的なやわらかさがなくなるということになる。おかしなところ
で、おかしなこだわりを見せたりする。妄想ももちやすい。思い過ごしも多くなる。

 が、本人自身は、「私はふつうだ」と思いこんでいる。ここにボケの最大の問題がある。
つまり話はもとにもどるが、ボケながら、ボケた人は、自分がボケていることに、気がつ
かない。これには、例外はない。私も、あなたも、だ。

 そしてその返す刀で、周囲の人たちに向って、自分の(まちがい)を、まちがいと気が
つかないまま、それを押し通そうとする。実際のところ、これが困る。よくある例が、自
分でサイフをどこかへしまい忘れたくせに、「お前が盗んだ」と、相手に食ってかかること。
私の義姉も、今、それで悩んでいる。

 「近所で、うちの嫁は、私のお金を盗んで使っていると、言いふらしているのですよ。
本当にもう、いやになってしまう」と。

 では、そのボケを防ぐには、どうしたらよいか。

 私は、やはり、常日ごろから、考える習慣を、養うしかないのではないかと思っている。
ちょうどスポーツをして、体を鍛えるように、頭も、使うことで、鍛える。で、私のばあ
いは、「書く」というのが、その頭の運動ということになる。

 今のところ、ほかに方法がないので、それをつづけるしかないのでは……。それとあと
は、毎日、数時間でもよいから、幼児と、直接触れあう。そういう形で、脳みそに刺激を
与える。

 終わりに一言。ボケは、何も、50代、60代で始まるものではない。40代でも、ひ
ょっとしたら、30代でも始まる。「私は若いから……」などと油断していると、頭という
のは、すぐサビつく。みなさんも、くれぐれも、ご用心!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●IQサプリ

「脳内エxx・IQサプリ」(Fテレビ出版)という本を買ってきた。値段は952円+
税。結構、おもしろい。今は、ドライブのとき、ワイフと解きあって、楽しんでいる。

 そのまま紹介するわけにはいかないので、(つまり著作権の問題があるので)、何問かを、
改変して、ここに出題してみる。

【問1】

 ある国で、ある国際会議が開かれた。その会議の合い間に、各国の代表たちが食事をし
た。が、そこへ一匹のゴキブリ。それを見た代表たちの中で、一番最初に、「あっ、ゴキブ
リだ!」と叫んだのは、どこの国の人だったか。

【問2】

 鉛筆と5円玉がある。その鉛筆を、5円玉の穴に通してみてほしい。どうすればよいか。
鉛筆は、子どもたちが使う、ごくふつうの太さの鉛筆である。

【問3】

 ふつう人間には、目が2つある。しかし中には、その目を、4つとか、6つももってい
る人がいる。その人は、どんな人か。

【問4】

 右折禁止の四つ角がある。その角のところに、おまわりさんが立っていた。が、そこへ
ダンプカーの運転手がやってきて、堂々と、右折していった。しかしおまわりさんは、何
も言わなかった。なぜか?

+++++++++++++++++

 何問か解いていると、ある一定のパターンが、見えてくる。(意地悪問題)(ひっかけ問
題)(こじつけ問題)など。本のほうでは(ひらめき力)(洞察力)(言語力)(計算力)な
どと、どこかもっともらしく、グラフ化しているが、つまりは、(頭の遊び)。

 英語にも、(リドゥル)という遊びがある。たとえばこんなのが、ある。

「ジョンは、今、12歳です。今までに、バースディ(誕生日)は、何度あったでしょ
うか」とか、「1年のうちには、30日まである月もあれば、31日まである月がありま
す。では、28日、ある月は、1年のうち、何回、あるでしょうか」というのが、それ。

 答は、「誕生日は、1回」。どんな人も、誕生日(生まれた日)は、1回しかない。

 また1年のうち、28日がある月は、12回。だから答は、「12回」。

 こうした問題は、まず、相手に思考の錯覚を起こすところから始める。人間の脳みそは、
一度、錯覚を起こすと、それから抜け出るのは、容易なことではない。考えようとする前
に、錯覚でつくられた(思いこみ)にまどわされてしまう。まずその(思いこみ)を、否
定しなければならない。それが思考の混乱につながる。ここにあげた【問1】〜【問4】も、
そうした問題である。

 ちなみに、答は……

【問1】日本語で、「ゴキブリ」と言ったのだから、日本人。
【問2】5円玉の穴に目をつけ、その穴を通して、鉛筆を見ればよい。
【問3】おなかに赤ちゃんがいる、妊婦。
【問4】運転手が歩いて、右折した。

 親子の会話に応用してみると、おもしろいのでは……。

++++++++++++++++++++++++++++++++

●「末承諾広告」

 スパムメールが、頻繁(ひんぱん)に届く。そのため、OE(アウトルック・エキスプ
レス)のフィルタリング機能を使って、たとえば件名に、「未承諾」の文字のあるメールな
どは、入信と同時に、即、削除している。

 しかし、である。

 そのフィルタリング機能をすり抜けてくるメールがある。今日も、来た。

 「????」と思ってよく見ると、「未承諾」ではなく、「末承諾」となっていた。「未」
と「末」のちがいである。

 よくまあ、こういう小細工をするものだ。考えるものだ。ホント!

 こういう小細工をする人間だから、あとは、推してはかるべし。そういう人間は、相手
にしてはいけない。つきあってはいけない。まさに一事が万事。インチキをインチキで塗
りかためたような人間と思って、まず、まちがいない。

 で、このところ、スパムメールも、巧妙になってきた。件名のところに、こうある。

(1)思わせメール……「先日は、ありがとうございました」「お礼申しあげます」
(2)ひっかけメール……「当選、おめでとう。ポイント数が10倍に」
(3)おどしメール……「ウィルス、入っていませんでしたか?」
(4)とぼけメール……「あなた様から、件名のないメールが届いていますが……」
(5)ニセメール……「返事が遅れてすみません。忙しかったものですから」
(6)スケベメール……「会ってくださるだけで、2万円、さしあげます」
(7)苦情メール……「あなたの意見に、異義あり」「異論、反論、オブジェクション」
(8)懇願メール……「どうか、助けてください」「お知恵を貸してください」

 パソコン雑誌などによると、こうしたあやしげなスパムメールは、絶対に、プレビュー
画面で開いてはいけないそうだ。開いただけで、ウィルスに感染することもあるという。
しかしそれにしても、「未」と「末」を置きかえるとは! 

 どうか、みなさんも、お気をつけください。


●株の買い方、私流

 インターネットで株を売買できる。瞬時にできる。便利になったものだ。

 その株の売買を、私のような素人(しろうと)がするときの鉄則は、ただ一つ。つまり、
「得意分野の株をねらえ」。

 昔、何かの本で読んだことがある。そして今も、私は、その鉄則を、しっかりと守って
いる。

 といっても、一民間人の悲しさ。その得意分野があまりない。出版社とか、新聞社とか、
そういう文芸関係については、それなりに動きを知っているが、それ以外の世界のことは、
よく知らない。

 そこで今は、こう考えている。

 「自分が一番興味ある分野の会社の株に、しぼれ」と。

 これは私が考えた鉄則だから、あまり本気にしてもらっては困る。しかし自分が一番関
心のある会社というのは、そのほかの多くの人たちも、関心があると考えてよい。

 たとえば……。

 私は今、新型パソコンがほしい。(まだ買ってないぞ!) そのパソコンをどれにするか
で、悩んでいるが、今は、ほとんど、M社のパソコンに決めかけている。この数か月、考
えに考え抜いた結果、そうなった。そこでM社の株を買うことにした。

 今朝、M社の株を、xxx万円分、購入した。瞬時に、である。

 私が「いい」と思った。何か月もかけて、「いい」と思った。だからその会社の製品は「い
い」ということになる。つまり株は、あがる、というわけである。

 実に簡単。わかりやすい。つまりこうして得意分野を、少しずつ、ふやしていく。それ
が私の、若いころからの株の買い方。(いつも、結果的には、損をしているが……。ハハハ!)

 そうそうもう一つ。株は、少し儲けたら、さっと売る。へたな欲を出すと、かえって損
をする。これも私が考えた鉄則の一つ。


●1ドルが、2000ウオン!

 K国の通貨が、1ドル、2000ウオンまで下落したという(「朝鮮日報」1月)。ヤミ
市場といっても、実勢の通貨レート。(公式レートもあるにはあるが、それは、K国が勝手
に定めた、インチキレート。)

 つまり2000ウオンは、1ドルの価値しかないということ。

 K国の一般労働者の月額の平均賃金は、2500ウオンだから、アメリカドルに換算す
ると、1ドル25セント。日本円になおすと、130円(1ドル=104円で計算)。たっ
たの130円だぞ! 平均賃金が、130円。半年前の約半額にさがってしまった!

 K国のヤミ市場では、米10キログラムが、7500ウオン。一般労働者の3か月分の
給料で、やっと10キログラムが買えることになる。冬の必需品の練炭(れんたん)にし
ても、一個、300ウオン。練炭を8個買ったら、その月の給料は、パー。K国の貧しさ
は、想像以上のものらしい。

 「コメ価格が1キロあたり500ウオンを超えると、下層民は飢え死にするほかない」
と、ある脱北者は答えているという(同)。

 かたやこの日本では、経済制裁の大合唱。もちろんK国に対して、である。しかしあん
なK国を相手にしてはいけない。また本気で相手にすべき国ではない。経済制裁というこ
とになれば、K国は、制裁以上の制裁、つまり地獄の制裁を受けている。

 ここは冷静に。務めて冷静に。事務的に、どこまでも事務的に、追いつめればよい。感
情的になる必要はない。あとは国際協調を大切にしながら、ジワジワとしめあげていく。
金XX体制が崩壊しないかぎり、拉致問題は解決しない。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国際情勢

 日本を取り巻く国際情勢が、今、めまぐるしく変化している(1・14)。

 K国の核問題については、中国とK国のトップ(胡錦濤国家主席とK国の金xx総書記)
交渉で、決着がつきそうな雰囲気になってきた(時事通信1・14)。もちろんこれには、
ウラがある。

胡「核開発を放棄しろ」
金「見返りは、何がある?」
胡「日本から、賠償金を取る。それに中国は、議長として、協力する」と。

 すでに金xxは、中国首脳を通して、賠償額を提示してきている。その額、驚くなかれ、
400億ドル! あるいは、それ以上。

 一方、アメリカでは、「韓国と、円満離婚すべき」という意見が台頭してきた(ケイトー
(CATO)研究所のテッド・カーペンター副所長とドグ・ベンド主任研究員)。つまり米
韓関係を集結し、アメリカ軍は、韓国から撤退すべき、と。

 これはアメリカとしては、当然の意見である。反米国家の韓国を、命をかけてまで守ら
なければならない理由は、アメリカには、ない。しかもノ大統領は、南北を平和統一(共
和制統一)をしたあと、中国の経済圏に参入することをもくろんでいる。

 で、日本は、どうすべきか。どう考えるべきか。

 まず、これから起こりうるシナリオから考えてみよう。

(中国)

 K国に核開発を放棄させたあと、K国は日本から賠償金を取る。それに中国は、側面か
ら協力する。日朝賠償金交渉は、北京で行われることになるだろう。

K国は、そのお金で、中国から、モノを買う。その上、中国は、最大ライバルの日本を、
極東アジアから、叩き落すことができる。中国にしてみれば、これほど、おいしい話は
ない。

(韓国)

 K国が核兵器と核兵器開発を放棄すれば、韓国は堂々と、K国と共和国樹立交渉をする
ことができるようになる。南北統一は、困る。しかし教勢君ならよい。たがいに自由に行
き来しながら、K国内に工場をたちあげ、安い労働力をつかって、国際競争力のある製品
を生産することできる。韓国にとっても、メリットは大きい。

(K国)

 日本からの賠償金で、経済は、息を吹きかえす。アメリカや中国からの援助も、(恐らく
形だけの援助かもしれないが)、得ることができる。金xx体制は、ますます強固なものと
なる。

(アメリカ)

 アメリカの貿易赤字というより、ドルの暴落をかろうじて支えているのは、この日本で
ある。日本の外貨準備高は、04年度だけで、8000億ドル近くもふえた。つまり日本
は、貿易で稼いだお金で、アメリカのドルを、せっこらせっこらと、買い支えている。ア
メリカにとっても、日本は、日本サマサマである。

もしそのうちの5%の、400億ドルでも、円に換金しただけで、アメリカのドルは、
そのまま大暴落。莫大なドル資産をもっている日本としては、それもまずい。そんなわ
けで、せっかく稼いだお金だが、使うこともできず、日本は、タンス預金しているほか
はない。

(本来なら稼いだドルを円にかえ、その円を国内投資に回さねばならない。しかしそん
なことをすれば、ドルの暴落を招いてしまう。つまりは、使うに使えない、タンス預金
ということになる。)

 しかしその400億ドルが、K国を経て、中国にシフトしたということなら、アメリカ
には、害はない。アメリカも、そのウラで、中朝のトップ交渉を、支援するかもしれない。

(ロシア)

 ロシアの立場は、基本的には、中国と同じ。ただイラン問題をかかえているので、中国
よりは、よりアメリカに協力的。

(日本)

 以上のようなシナリオで、ことが進み始めると、日本にとっては、実に、やっかいなこ
とになる。

 仮に南北朝鮮が共和制ということになれば、日本は、巨大な反日国家を、隣国にもつこ
とになる。金xxは、「日本を壊滅させる」と、かねてより、繰りかえし、そう言っている。
戦争のきっかけなど、いくらでもねつ造できる。たとえば竹島(独島)を口実に、日本に
攻撃をしかけることも、可能である。

 南北の軍隊をあわせると、陸軍だけで200万人! しかもあの国の人たちは、全員、
徴兵制で鍛えられている。

 が、日本は反撃(防衛)はすることはできても、攻撃はできない。日本は、たとえて言
うなら、盾(たて)だけしかもっていない国。戦争するにしても、日本ほど、組みしやす
い国はない。

 中国も、韓国も、K国が、自己崩壊することを望んでいない。K国が混乱することは、
そのまま中国や韓国に、大被害をもたらす。しかしアメリカや日本にとっては、K国が自
己崩壊するシナリオが、一番、望ましい。

 ゆいいつの頼みのツナは、やはり、アメリカということになってしまう。しかし今のブ
ッシュ政権は、イラク戦争で、すっかり自信をなくしてしまっている。米韓関係は、崩壊
寸前。表向きはともかくも、K国と一戦を交える元気は、もうアメリカにはない。

 日本は、今、完全にカヤの外に置かれている。中朝交渉のゆくえ、米中交渉のゆくえ、
さらには韓国とK国の交渉を静かに見守るしかない。日本は、将棋でいったら、持ち駒を
すべて使い果たし、相手の攻撃から身をかわす程度が、精一杯。そんな状況である。

 まあ、しかたないから、何とか、400億ドル(4兆円)を、用意して、そのときに、
備えるしかない。私は、それですむとは思っていないが……。
(05年1月14日記)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの問題

 いろいろな問題をかかえたとき、うっかりと、あまり信用できない人にしゃべってしま
い、あとで、「しまった!」と、後悔することがある。私のばあい、最近でこそ少なくなっ
たが、今でも、ないわけではない。ときどきある。

 賢くなることは、それほどまでにむずかしいことなのか?

 相談するときは、まず相手に、それだけの(心のポケット)があるかどうかを、判断す
る。見きわめる。相手も、かつて同じような状況で、同じような立場で、同じように苦し
んだ人なら、その(心のポケット)があることになる。

 その(心のポケット)のない人に、いくら相談しても、意味はない。相談したところで、
得るものは、何もない。へたをすれば、よもやま話のネタにされるだけ。……そう決めて
かかるのは、失礼なことかもしれないが、まず、そう思って、まちがいない。

 中には、こちらの不幸を知ってか知らずか、(たいていは知りつつ)、さぐりを入れてく
る人がいる。いかにも同情するようなフリをして、あれこれ聞き出す。さらにいらぬお節
介を焼いてくる人さえいる。こうした傾向は、地方の田舎ほど、強いのでは?

 私がこの浜松市が好きな理由の一つに、そうした干渉が、ほとんどないということがあ
る。もともと街道沿いの宿場町として発達した町である。人の出入りが、ほかの地方とく
らべても、はげしい。つまりその分だけ、私のような、よそ者に対して、寛大なのかもし
れない。

 話はそれたが、子どもの問題についても、同じことが言える。前にも書いたが、たとえ
ば有名大学や有名高校へ入った子どもの体験談などというのは、ほとんど、役にたたない。
聞いても、「ああ、そうですか」という程度で、終わってしまう。

 しかしいろいろな問題をかかえ、それを乗り越えてきた人の話は、参考になる。成功談
より、失敗談のほうが、役にたつ。だからイギリスでは、昔から、『航海のしかたは、難破
した者の意見を聞け』という。

 一方、私たちは私たちで、(心のポケット)を用意しなければならない。それが多い人の
ことを、やさしい人という。心の広い人という。が、ここで大きなジレンマにぶつかる。
だれしも苦労は、できるだけ避けたいと願っている。それにたいていの人は、自分の人生
を生きるだけで精一杯。他人の不幸にかかわりあっているヒマなどない、……というのが
本音かもしれない。(心のポケット)を作るためには、そういうジレンマとも戦わねばなら
ない。

 しかし不幸などというのは、そこらの病気と同じで、いつ何時、襲いかかってくるかわ
からない。病気なら病院で治すということができるが、不幸となると、そうはいかない。
不幸には定型がない。不幸の数だけ、種類がちがう。中身も、深さもちがう。

 そこで子育てをしていて、何かの問題が起きたら、1、2歳、年上の子どもをもつ親に
相談してみるとよい。たいていのばあい、「うちでもこんなことがありましたよ」というよ
うなアドバイスで、問題は解決する。

 しかしそれでは解決しない問題もある。そのときの鉄則には、いくつかある。

(1)徹底した現実主義を貫く。
(2)問題の分析し、公的機関へ問い合わせる。
(3)それ以上、状況を悪化させないことだけを考えて、毎日をやり過ごす。

 徹底した現実主義というのは、(現実)だけを直視して、過去を悔やまない。未来を嘆か
ない。私がここにいるのも、あなたがそこにいるのも、(現実)。問題があるのも、(現実)。
その(現実)を受け入れ、あきらめるべきことはあきらめ、納得すべきことは、納得する。

 いくら問題が深刻といっても、しょせん、人間。特殊と思っているのは、あなただけ。
同じような例はいくらでもある。そしてその分だけ、それをカバーする機関が必ず、ある。
とくに子どもの世界ではそうで、まず役所の相談窓口に声をかけてみること。大切なこと
は、決して、ひとりでは悩まないこと。

 クヨクヨ悩んだところで、問題は解決しない。あとは、今以上に状況を悪化させないこ
とだけを考えて、とにかくその日、その日をやりすごす。それをつづけていると、やがて
そこに一定のリズムが生まれてくる。そのリズムをつかんだら、問題は、問題でなくなる。

 が、それ以上に、重要なことは、(心のポケット)を用意しておくこと。つまりは心理学
でいう、「共鳴性」の問題ということになる。常日ごろから、相手の立場でものを考えると
いうクセを作っておく。それはいわば、心の貯金のようなものかもしれない。準備? あ
るいはシミュレーション? 何でもよいが、いつも相手の立場で、その苦しみや悲しみを
共有するクセをつけておく。

 まずいのは、相手の不幸や悲しみを、笑うこと。笑えば笑ったで、自分がその立場に立
たされたとき、その何十倍も、自分で苦しむことになる。

+++++++++++++++++++++++

●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を
聞くときも、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。
子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際に
はいる。しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ
選手の健康論が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意
見のほうに耳を傾ける。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、
幼児を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だ
った。とくに現場で一〇年、二〇年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そう
いう輝きは、時間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子ど
もをもつ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」という
ような話を聞いて、それで解決する。

+++++++++++++++++++++++
同じようなテーマで書いたのが、つぎの原稿です。
+++++++++++++++++++++++

●航海のし方は、難破したことがある人に聞け

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子
どもの子育ても、同じ。スイスイとT大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役
にたたない。

本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもその
はず。子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイとT大へ入った子どもの話のほうに耳を傾
ける。またこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。

「こうして私は東大へ入った」とか、など。もちろんムダではないが、しかしそういう
成功法を、自分の子どもに当てはめようとしても、うまくいかない。いくはずもない。
あるいは反対に、失敗する。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれない
が、大半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功
した人から学ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学
ぶ。もしあなたが「うちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高を
くくっているなら、なおさらそうする。

私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、
子育てで謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、
あなたの子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを
超えた、もっと大きな多様性を秘めている。だから「あなたの子どもであって、あなたの
子どもでもない」部分は、あなたがいくらがんばっても、あなたは知ることはできない。

が、その「知ることができない」部分を、いかに多く知っているかで、親の親としての
度量が決まる。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という親ほど、実は、そ
う思い込んでいるだけで、子どものことを知らない。だから、子どもの姿を見失う。失
敗する。一方、「うちの子のことがわからない」と、謙虚な態度で子どもの姿を見ようと
する親ほど、子どものことを知っている。だから、子どもの姿を正確にとらえる。失敗
が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう
話をしてくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【日本の常識、世界の非常識】

●「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということ
はよくある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でな
くてはならない。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったよ
うなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」とい
う格言もある。

●「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日
本では「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せ
つける親がいる。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せ
るものではない。(見せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもでき
るだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほ
ど、このうしろ姿を見せようとする。

●「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」
の立場にいるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そ
うではない。その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。
威厳などというものは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家
族」という。「親の権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

●「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。
まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾
多の山を越え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマ
などない。もちろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、そ
れは本来、子育てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。

●「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献
身的な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、
あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関
係で決まる。たがいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子
どものために犠牲になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。
あくまでも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていた
だきました」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任と
いうより、そういうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本
人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそ
う思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちが
っているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分
制度(=巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その
「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を
見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。
仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞
妓を、「仕事のこやし」と称して、手玉にして遊ぶこともできる。(某歌舞伎役者、日本で
は人間国宝)

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になってい
る。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関
係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事
の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、
夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕
事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「MSのおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣
く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかに
すばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、
こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に
美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。

●「かあさんの歌」論……K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだ
だよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春
だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はな
い。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あん
たに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもとき
どき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用い
られた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう
論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いという
こと。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではない
ようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

 M進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。
しかし……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育て
る。これは日本人独特の子育て法と言ってもよい。

あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子どもに依存心をもたせるの
に、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では昔から、親にベ
タベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な
子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。

親が子どもに対して保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存する
ようになる。こんな子ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着は
もちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげ
たまま、教室に戻ってきたりする。

あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。で
きないというより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助け
てくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになって
しまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしま
ったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系
の家庭では、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ど
も」という考え方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいた
のだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話
に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないで
ね」と。

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立
させること」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。

そこであなたの子どもはどうだろうか。

依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、それ
である。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすい
たア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。

ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強く
なると、こういう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」
子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さてM進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさ
んよ……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その
背後には、日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【自然について、考えよう!】

 このところ、毎日のように、地球温暖化のニュースが、報道されています。NHKテレ
ビでも、特集を組んでいました(05年1月)。

 状況は、かなり深刻なようですね。「このままでは、地球はどうなるのだろう?」と心配
しておられる方も多いと思います。私もその1人ですが、みなさんは、いかがですか。私
のことよりというより、つぎの世代、つぎのつぎの世代の人たちのことを考えると、クラ
〜イ気持ちになってしまいます。

 少し、自然について、考えてみます。

++++++++++++++++++++++++

●ブッシュ・ファイア(山火事)

 1月12日。南オーストラリア州での、ブッシュ・ファイア(山火事)のニュースが入
った。さっそく、南オーストラリア州の友人に、事情を問い合わせる。その返事が、届い
た。

All is well in Bxxxx. A very nasty day yesterday
though. Over 40 degrees with a strong dry wind from the
northwest. Two major fires in SA. One in the hills close to
Adelaide which caused the main road to the Southeast to be
closed. No loss of life there fortunately.

The other fire was really bad. 10 people killed and another
10 not yet accounted for. This fire was on the Eyre
Peninsular a little north of Port Lincoln. About 1000km from
here. Hopefully the Country Fire Service can get the fire
under control today while the weather is a little cooler.
Tomorrow is expected to be hot again.

Bxxx町は、だいじょうぶだ。
昨日(11日)は、ひどい日だった。北西(砂漠)からの
乾いた風とともに、気温が40度を超えた。
南オーストラリア州での二つの火事だが、一つは。アデレードの
近くで起きた。アデレードから、南東への道路が封鎖された。
幸いにも、人命の損傷はなかった。

もう一つは、たいへんひどいものだ。10人が殺され、さらに10人が
不明。ポートリンカーンの少し北の、アイア半島での火事だ。ここからは
1000キロ離れている。
幸いにも、山火事救助隊が、今日は、火事をコントロールしているようだし、
気温も、少し低くなった。明日は、再び、暑くなるといわれている。

++++++++++++++++++

 オーストラリアのブッシュ・ファイアは、日本の山火事とは、スケールが違う。一度で、
東京都の面積分くらいが、燃えてしまう。夏になると、そのブッシュ・ファイアが、よく
起こる。

 それにしても、気温、40度とは! 友人は、ドイツ系の白人だから、暑さには、弱いは
ず。

 外国へ出て、「自然を大切にしましょう」などと言うと、「お前は、アホか」と、言われ
ることがある。彼らにしてみれば、自然は、戦うべき相手であって、守るべき相手ではな
い。(「野生動物を守ろう」とか、「野生植物を守ろう」とかいう言い方なら、理解してもら
える。)つまり彼らは、それだけ自然のきびしさを知っている。

 で、このところの地球温暖化で、「自然災害」という言葉が、よく使われるようになって
きた。自然も災害をもたらすというわけである。……となると、「自然を守る」ということ
は、どういうことなのか、よくわからなくなる。

 何をもって、自然といい、その自然というのは、どう守ったらよいのか?

 要するに開拓、開発は、最小限にして、現状維持をするということか? 山の中を車で
走りながら、「自然はいいわね」では、自然保護を子どもに教えたことにはならない。

++++++++++++++++++++++++

少し前に書いた原稿を載せます。
過激な意見です。

++++++++++++++++++++++++

●自然教育について(1)

 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」という意見を聞くたびに、私は「日本
人は、どうしてこうまでオメデタイのだろう」「どうしてこうまで井の中の蛙(かわず)で、
世間(=世界)知らないのだろう」と思ってしまう。

ほとんどの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそう
だ。彼らはあのジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。彼らにすれば、自
然は、「脅威」であり、「敵」なのだ。

このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっきりする。そういう国で、「自然を大
切にしましょう」「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、アホか?」と笑
われる。

 日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意
味で、たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押し
つけてはいけない。そこで発想を変える。

 オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点
から、地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目
もある。私がある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパ
ルサリー)科目ですか」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。

このキャンピングという科目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜
く術(すべ)を学ぶ。

ここでも、「自然は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。

 もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではな
い。しかしこういうことは言える。だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都
会の人だということ。自分たちでさんざん自然を破壊しておいて、他人に向かっては、「大
切にしましょう」と。破壊しないまでも、破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさん
ざん楽しんでいる。

こういう身勝手さは、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、
家庭菜園をしたり、植樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言っ
てほしくない。そういう言い方は、本当に、田舎の人を怒らせる。

そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水があったくらいで、川の護岸工
事などしないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受け入れること。そ
れをしないで、「何が、自然を守る」だ!

 自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。
このことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るというこ
とは、もっと別の視点から考えるべきことなのである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自然教育について(2)

 世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛してい
るからではない。日本人がそれを守ったからでもない。

浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層ビルがある。ためしにあのビルに、のぼって
みるとよい。45階の展望台から見ると、眼下に浜松市が一望できる。が、皮肉なこと
に、そこから見る浜松市は、まるでゴミの山。あそこから浜松市を見て、浜松市が美し
い町だと思う人は、まずいない。

 このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つと
いう国であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるな
ら、日本人がもつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。

今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装し、ブロックで、カベを塗り固めてい
る。そういう現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教育だ」ということになる。

 私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、
さらには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。構造的な問題というのは、市の
土木予算が、20〜30%(浜松市の土木建設費)もあるということ。

日本人の思考回路というのは、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んで
いる誤解をいう。

たとえばアメリカのミズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押
し流している。2000年※の夏にも大洪水を起こした。しかし当の住人たちは、護岸
工事に反対している。

理由の第一は、「自然の景観を破壊する」である。そして行政当局も、護岸工事にお金を
かけるよりも、そのつど被害を受けた家に補償したほうが安いと計算して、工事をしな
いでいる。今、日本人に求められているのは、そういう発想である。

 もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ること
だ。クーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って
歩くことだ。

少なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなた
ちの身勝手というもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

自然教育について(3)

 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの
季節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。

 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう12年になる。週日は市
内で仕事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で40分足らずのところだが、この
二つの生活はまるで違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は
不便であることが、当たり前。

大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナリが落
ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路
舗装も浄化槽の清掃も、自分でする。

こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれない。しかし実際には、
T村での生活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」という実感がと
もなう。庭に出したベンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギ
スを見ていると、生きている喜びさえ覚える。

 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。い
や、都会生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、
頭が痛くなる。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろ
いろあるが、ともかくも肌に合わない。

田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。女房は「あなたも歳よ…」というが、
どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にもどりつつあるように思う。
私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚をとった。そうい
う自分に、だ。

 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間に
ある合宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を
嫌う子どもすら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を
養わねばならない。数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんび
りと暮らす。好き勝手なことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んで
はじめて、原点となる。

 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るの
も惜しくなる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゆがんだ自然観

 もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシ
ンのよう」と。

当時、この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いてい
る。小さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている
子どもも多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界ま
でそれが入ってこない。
 
「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世
界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に
過ぎなかった。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服
されるもの」(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地
政策、さらには1740年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎です
ら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考
え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本
の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や
農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分
けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部で
しかないという事実の再認識である。

さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解
を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少
なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にし
ましょうね」は、ない。

そういう人間の身勝手さは、もう許されない。

++++++++++++++++++++++++++

友人からのメールをもらって、改めて、自然について、考えてみた。

とても恐ろしいことだが、地球規模の環境異変は、ますます加速されているようだ。

ちょうど1年前の今日、書いた原稿をそのまま載せます。状況は何も
変わっていません。多分、来年も、何も変わらないでしょう。

++++++++++++++++++++++++++

●異常気象?

今年の冬も暖かい?

地球温暖化は、進んでいるのか?

30年程前には、オーストラリアのメルボルンは、世界でももっとも住みやすい場所と
いうことになっていた。春夏秋冬を通して、一年中、気候が温暖で、かつ、寒暖の差が、
あまりなかった。

 しかしここ10年、その気候は、大きく変わった。とくにこの4、5年、夏になると、
気温が40度を超えることも珍しくない。そして今年、つまり今のことだが、メルボルン
に住むD君のメールによると、「100年来の、記録的な猛暑だ」という。

 日本は、ラッキーな国だ。四方を海に囲まれ、中央には、3000メートル級の山々が
連なっている。この地形的な特徴のため、気候が、ほかの地域にくらべて、穏やかに保た
れている。が、オーストラリアには、大きな砂漠がある。この砂漠で熱せられた熱波が、
メルボルンのような海岸線にある都市を、襲う。

 去年の夏、ヨーロッパ大陸を襲った熱波は、まだ記憶に新しい。フランスなどは、記録
的な猛暑で、何百人という人が、熱射病で死んでいる。日本はその分、冷夏だったが、し
かし冷夏と言い切ってよいのか。50年前の日本の夏は、毎年、そうだった。

 私が子どものころには、夏の盆が過ぎると、突然、冷たい風が吹き始め、川へ入ること
すらできなかった。今とくらべても、夏は、ずっと短かったように思う。が、今では、9
月に入っても、気温が30度を超えることも、珍しくない。数年前には、10月に入って
も、30度を超えていた!

 気象庁は、よく、「平年」という言葉を使うが、あれは、過去30年間の平均気温をいう。
30年ごとに、気温が、一度ずつあがっても、「平年並み」ということになってしまう。

 地球の温暖化が進んでいることは、もうだれの目にも疑いようがない。しかもその進行
速度は、学者たちが予想しているよりも、はるかに速い。このまま進めば、西暦2100
年を待たずして、地球の気温は、300度とか、400度になるかもしれない。そんな説
も、実際に、ないわけではない。

 こうした地球温暖化を防ぐために、いろいろな会議が開かれている。そしていろいろな
方策が考えられている。人間の英知が、この問題を解決することを、私は願うが、しかし
科学者だけに任せておくことはできない。私たちは私たちで、しておくべきことがある。

 つまり、心の準備である。

 やがてこの地球上では、人類がかつて経験したことがないような、地獄絵図が繰りひろ
げられることになるかもしれない。気温が300度とか、400度とかになることはない
にしても、平均気温が数度あがっただけで、この日本でさえ、夏には、灼熱(しゃくねつ)
地獄になる。仮に日中の気温が、45〜50度になれば、クーラーさえ、きかなくなる。

 そのとき、私たちは、どういう行動をするだろうか。

 灼熱の暑さで苦しんでいる人を助け、励ますだろうか。それとも、我こそはと、より涼
しい場所を求めて、その場所を奪いあうだろうか。どちらであるにせよ、これだけは言え
る。

 そういう「最期のとき」が来たとき、(あくまでも仮定の話だが……)、私たちはその最
期を、静かに、迎え入れることができるよう、心の準備をしておかねばならないというこ
と。そのとき、あわててジタバタしても、始まらない。なぜなら、今、私たちは、あまり
にも好き勝手なことをしすぎている。

 そういう好き勝手なことを、し放題しておきながら、温暖化は困るというのは、あまり
にもムシがよすぎる。

 一つの方法は、今から、私たちは、できることをする。一つは、地球温暖化に結びつく
ようなことはしない。もう一つは、あとで悔いが残らないように、懸命に生きる。懸命に
生きて、生き抜く。そうすれば、仮に最期のときがきても、その最期を、安らかな気持で
迎え入れることができる。

 何とも暗いエッセーになってしまった。しかし、安心してほしい。

 すでにいくつかの方法が、考えられている。宇宙空間に、亜硫酸ガスをまいて、太陽光
線を遮断するという方法など。どこかSF的だが、そのときがくれば、人間も、必死で、
その打開策を考える。地球の温暖化を、最後の最後のところでくい止める方法は、ないわ
けではない。

 が、それでも失敗したら……。

 何%かの人類を、宇宙空間へ避難させるという方法もあるし、同じく、地下都市に住む
という方法もある。地球温暖化を前提としたような実験も、世界中で始まっている。

 が、それでも失敗したら……。

 かつて恐竜が絶滅したように、人類も絶滅するかもしれない。しかしそのときでも、わ
ずかな生命の痕跡(こんせき)は残り、それが次世代の生命として、進化していくかもし
れない。たとえばゴキブリ。

 あのゴキブリは、生き残り、一億年後か、二億年後かに、進化して、今の人間のように
なるかもしれない。なって、社会をつくり、文化を発展させるかもしれない。もちろん学
校もつくる。そして、ある日、ゴキブリの先生が、子どもたちに向かってこう言う。

 「みなさん、これからヒトの骨の発掘調査に行きましょう。もなさんも、ご存知のよう
に、今から二億年前、この地上には、ヒトと呼ばれる大きな生き物が住んでいました。

 愚かな生物で、殺しあったり、奪いあったりしているうちに、環境を、自ら破壊してし
まい、結局は絶滅してしまいました。

 そのとき私たちの祖先は、ヒトに嫌われ、見つけられると、すぐ殺されました。私たち
の祖先は、ヒトには、嫌われていたのですね。

 さあ、みなさん、ここにあるのが、そのヒトの骨です。大きいでしょう。足の大きさだ
けでも、皆さんの数百倍はあります。二億年前には、こんな大きな生物が、この地上を、
ノシノシと歩いていたのですね」と。

 それを聞いた、ゴキブリの子どもたちは、こう言って、歓声をあげる。

 「ワー、これがそのヒトの骨〜エ? 大きいなア」と。

 すると先生が、またこう言う。

 「そう、それは、ヒトの中でも、バカナヒトザウルスの骨です。発掘調査により、この
骨のヒトは、名前もわかっています。で、その名前は、ええとですね、ハヤシ・ヒロシと
いう名前だったそうです」と。

 最後の部分は、冗談だが、しかしこの宇宙では、二億年なんて、一瞬。星がキラリとま
ばたきする間にすぎる。かつて恐竜の時代には、私たちの先祖がネズミのような生き物だ
ったことも考えれば、何も、「命」を、人間だけにこだわることもない。

 つまりそういう視点も、忘れてはならない。これが私がいう、「心の準備」ということに
なる。

 しかし……。私たちは、よい。一応、それなりに人生を楽しむことができた。しかしこ
れからの子どもたちのことを考えると、正直言って、気が重くなる。私たちが好き勝手な
ことをしたおかげで、子どもたちが、あるいは私たちの孫たちが、その地獄絵図を見るこ
とになるかもしれない。

 何とも申しわけない気持になるのは、私だけか……?
(はやし浩司 自然教育 自然 環境破壊 地球温暖化 バカナヒトザウルス)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●撮影

 このところ、1時間でもあいた時間があると、デジタルカメラをもって、写真を撮りに
いく。私のホームページを飾るためである。

 で、今日は、弁天島温泉まで行ってきた。浜名湖の出口のところにある温泉である。も
っとも、「温泉」というのは、名ばかり。本当は、地下水を沸かして使っていたとか? よ
くわからないが、04年に、世間の話題をさらった。

 そのせいかどうか知らないが、温泉街は、どこか元気がなかった。その街に入る前に、
浜名湖の写真を撮ろうと、車を止める場所をさがした。しかし、ない! あるにはあった
が、有料。1回、400円。それを見て、ワイフが、「これじゃあ、客足が遠のいても、し
かたないわね」と。ホント!

 内心で、「二度と来るものか」と思ったが、それが客の心理というものかもしれない。

 ……と悪口ばかりを書いてはいけない。空の青さをそのまま映して、水面は、それ以上
に青く輝いていた。水も、透明度が高く、数メートルの深さのところでも、その下の貝殻
が、よく見えた。「きれいな水ね」と、ワイフが何度も言った。

 帰りに、国道1号線沿いにある、ファーストフードのレストランに入った。祭日(1月
10日)だったが、ランチがあった。ハンバーグと白身魚がついて、399円。399円
だぞ! 驚いた。ランチは、ふつう、どこでも安いが、399円とは! 私は、599円
の焼き肉定食を食べた。ハハハ。

 撮った写真は、さっそく、ホームページに載せた。興味のある方は、(はやし浩司のHP)
→(浜松案内)へどうぞ。

 ところで、数字には、不思議なマジックがある。399円というと、「安い」と感ずる。
しかし「409円」というと、ぐんと高くなったように感ずる。本当は、たった、10円
しかちがわないのだが……。

 大型店などでは、こうしたマジックを巧みに使って、商品の値段を決めるそうだ。客が、
安い商品につられて、その隣の高額商品を買うようにしむける。

 実は、私たちが、その客だった。ランチと、焼き肉定食につられて、デザートに、みつ
豆を頼んでしまった。小さな器(うつわ)に、ほんの少ししかなかったが、それが299
円。結局、合計で、1600円程度になってしまった。ナルホド! そういうことだった
のか!


●仮面(ペルソナ)

 だれしも、いくつかの仮面(ペルソナ)をもっている。その仮面を使い分けながら、生
きている。仮面が悪いと決めてかかってはいけない。その仮面をかぶるから、仕事ができ
る。社会生活を営むことができる。しかしそれには、一つ、重要な条件がある。

 その仮面を、いつも、意識すること。

 仮面をかぶりながら、仮面をかぶっていると知らなければならない。仮面をかぶりなが
ら、その仮面がわからなくなったら、深刻! ホント! へたをすれば、多重人格者とい
うことになる。

 たとえば私にも、いろいろな仮面がある。第一の仮面は、親たちの前で、幼児教育者と
して立つときの仮面。外を出歩くときの仮面。家の中で、客や友人と対面するときの仮面。
しかし仮面をまったく、はずすときがある。

 それはワイフと接しているとき。ワイフと接しているときだけは、仮面をかぶらない。
ありのままの自分をさらけ出す。私のばあい、それが私の原型。

 その原型の上に、いろいろな仮面をかぶり分ける。が、その仮面が、あまり遊離しすぎ
るのも、よくない。遊離すればするほど、当然のことながら、疲れる。自分を飾ったり、
偽ったりするというのは、それ自体、骨の折れること。

 (そう言えば、毎日、1〜2時間もかけて、化粧する女性がいるという。毎日、たいへ
んだろうと同情するが、しかし私には、その目的がよくわからない。結婚した女性なら、
なおさらだ。だれのために化粧をしているのかということにもなる。化粧は、私がここで
いう仮面とは、異質のものだが……。)

 しかしおかしなもので、若いときはともかくも、年齢をとるにつれて、仮面をかぶるこ
とに疲れたというより、虚しさを覚えるようになった。その反面、ありのままの自分で生
きたいと思うようになった。仮面をかぶること自体、貴重な時間をムダにしているように
感ずるようになった。

 が、その仮面を取り去るのは、容易ではない。習慣になってしまっている。ときどき、
仮面をかぶっていることにすら気がつかないまま、仮面をかぶってしまうこともある。よ
い人ぶったり、人格者ぶったりするのが、それである。

 そういうときは、あとになって、ハッと気づく。そして同時に、「しまった!」と思う。
よい人ぶることくらい、あと味の悪いものは、ない。

私「お前は、本当のぼくを毎日、見ているわけだけど、お前は、ぼくのことをどう思う? 
つまらない人間だと思う?」
ワイフ「まあ、その通りの人だわね」
私「だからさあ、つまらない人間だと思う?」
ワイフ「そういうふうには、思わないわよ」
私「じゃあ、どう思う?」
ワイフ「まあね……。繊細で、小心で、それでいて、アインシュタインみたいな人ね」と。
 
 これからのテーマ。それは仮面を一枚ずつ、はいでいくこと。仮面の皮を薄くしていく
こと。ありのままの私で、生きていくこと。

 フーム、これは、むずかしいテーマだ。……と、思ったところで、この話は、おしまい。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ)


●ボケ

 ボケ始めた兄を預かるようになって、我が家の様子は、さまざまに変化した。

 最初は、「風呂くらいは……」「食事くらいは……」「着がえくらいは……」と考えていた
が、それらは、つぎつぎと裏切られていく。

 風呂にしても、「少し熱い」と言っては、水を足す。すると今度は、「ぬるくなった」と
言っては、お湯を入れる。これを繰りかえしているうちに、湯船から、湯がどんどんとあ
ふれるようになる。

 そこで体を洗ってあげて、体を流す。ついでに、「風呂から出るんだよ」と言って、フロ
の栓を抜く。しかし兄は、「まだ寒い」と言って、またフロに入ろうとする。なかなかフロ
から出てこないので、見に行ったら、フロの栓を抜いたまま、湯だけを入れていた!

 食事にしても、その時刻になると、台所で、座って待っている。「5時に食べる」と言っ
てがんばる。ワイフが、「もう少し待っていてね」と、何度もさとすが、効果がない。その
つど「わかった」と言うのだが、その数分後には、「おなかがすいて、動けない」「苦しい」
などと言う。

 着がえも、しない。先日、フロに入るとき、着ている服を見たら、運動着の下に、セー
ターを4枚、その下に下着を3枚も着ていた。それにズボンなどなど。どうりで風船のよ
うにふくらんでいたはずだ、と、そのときは、笑った。

 が、このところ、行動半径が、少しずつ、広がり始めた。たまたまワイフが、ガス栓の
元コックをしめておいたからよかったものの、おとといは、あやうく我が家で、ガス爆発
が起きるところだった。

 しかたないので、部屋中に、カギをつけた。とくに注意したのは、薬箱の置いてある部
屋。兄は、薬をつぎからつぎへとのむクセがある。菓子のように、薬をのんでしまう。

 そういう兄を見ていると、同情心と嫌悪感が、同時に心の中に起きてくるのがわかる。「か
わいそうだ」という思いと、「いいかげんにしてくれ」という思いである。交互にその二つ
の感情が顔を出す。そのつど、自分をなぐさめなければならない。

 今朝は、自分の手荷物を箱につめて、「N町(郷里)へ帰りたい」と涙声で言った。しか
し近所でも、いろいろトラブルを起こした。今さら、帰すわけにもいかない。地元の自治
会長にも、そう言われている。

 兄のボケの特徴は、自己管理能力がゼロに等しいこと。数学や、国語的な能力は、小学
3〜4年生程度にはある。しかし善悪の判断ができない。そのため、約束が、まったく守
れない。「約束」という言葉の意味すらわからないのでは?

 その兄がときどき、家出をするようになった。今朝もした。しかたないので、クツや履
物をすべて、片づけた。それでも出て行くようなら、もう一つ、カギをつけるしかない。
さらに警報機も。

 こうなったら、本当に知恵くらべ。どこまでできるかわからないが、その知恵くらべを
するしかない。

 だれしも、老いとともに、ボケる。あなたも、私も、だ。例外は、ない。それは不可避
的な運命かもしれない。しかしそういう運命を見ていると、「人は何のために生きているの
か」ということまで考えてしまう。

 まあ、ここは、ほがらかに、ボケぶりを楽しむしかない。ついでに、いろいろと、私自
身の勉強のために、観察させてもらうしかない。がんばります!


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.   *※※
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 9日(No.527)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page055.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今週のBWより

【問答テスト法】

★皆さんは、おうちで、どんなお手伝いをしていますか? お母さんが、いそがしいとき
は、どんなお手伝いをしますか。あなたのできるお手伝いを、3つ言えますか。言える人
は、手をあげて、教えてください。(生活力)


★これからお話をします。その話を聞いて、どこがおかしいか、教えてください。

「おばあさんが、杖(つえ)をついて歩いていました。右手には、カバンをもっていまし
た。そして左手には、コンビニで買ってきた、テレビをもっていました」
さあ、どこがおかしいか、お話のできる人はいませんか?
(いろいろな意見を聞く。)(常識力)


★少し、むずかしい問題だよ。

「ぼくは、ミカンを、3個もっていました。そしたら、お母さんが、2個くれました。で、
そのミカンを箱に入れておいたら、お兄ちゃんが来て、1個食べてしまいました。ぼくは、
今、何個、ミカンをもっているでしょうか。」

最初に3個だね。つぎにお母さんが2個くれて……。そのあとお兄ちゃんは、何個食べた
かな? (数の力)


★ときどき、パパは、「ダメだよ」と、みなさんに、言うことがありますね。どんなことを
すると、みなさんのパパは、「ダメだよ」と、あなたを叱りますか。また、反対に、どんな
ときに、みなさんを、ほめますか。(善悪)


★これからママとお料理をします。今夜は、みんなで焼きそばをつくります。さて、やき
そばをつくるためには、どんな材料を買ってくればいいでしょうか。どんなものがあれば、
焼きそばができますか。それを教えてください。どんなものを入れればいいのかな? (生
活感覚)


★3つのコップがあります。それぞれのコップに、色水が入っています。どのコップの水
が、いちばん、たくさん水がありますか。どれかな? またどのコップの水が、一番、少
ないですか。どれかな? (推理)


★ここに積み木が積んであります。いくつ積み木がありますか。うしろに隠れている積み
木も数えてくださいね。さてさて、積み木は、いくつですか。(立体図形)


★4つの動物がいます。(ハト)と、(ネズミ)と、(イヌ)と、(サル)です。この4つの
動物の中で、一つだけ、ほかのと違うのは、どれでしょうか。わかる人はいますか? ま
たどうして、その動物は、ほかの動物とは、ちがうのでしょうか。(常識)


★みっつの筒(つつ)に、ヒモが巻いてあります。どのヒモが、一番、長いでしょうか。
またどのヒモが一番、短いでしょうか。わかる人はいますか? (推理)


★みなさんのおうちで、してはいけないことがありますね。それをすると、みんなが困り
ます。みなさんのおうちでしてはいけないことに、どんなことがありますか。それを話し
てくれる人はいませんか? (善悪判断)


★横断歩道があります。その横断歩道を、渡るとき、みなさんは、どんなことに気をつけ
ていますか。またどうやって、横断歩道を、渡ればよいでしょうか。それを話してくれる
人はいませんか。
(右を見て、左を見て、もう一度、右を見て、車をしっかりと見て、渡る。)(しつけ)


★もうすぐみなさんは、小学校に入学します。小学校に入学したら、どんなことをしたい
ですか。また小学校では、どんなことをするのでしょうか。知っている人がいたら、話し
てくれませんか。(常識・展望性)


★あなたの仲のよい友だちを、2人、名前を話してください。だれとだれですか。また、
いつも、その友だちと、どんな遊びをしていますか。話してくれる人はいませんか。


★夏の暑い日でした。近所の友だちが、いっしょに、川へ魚をとりに行こうと言いました。
友だちは、魚をとる網をもっています。そういうとき、あなたは、どうしますか。また、
どうしたらいいでしょうか。おうちの人に、黙って行きますか。それとも、おうちの人は、
そういうとき、あなたに何と言うでしょうか。(常識)


★秋には、たくさんの果物が、店に並びます。どんな果物が、秋には食べることができま
すか。秋に食べることができる果物を、3つ言ってください。(リンゴ、ナシ、ミカン、ク
リなど。)(常識)


★二つの箱に、5個ずつ、ボールが入っています。5個ずつです。ボールは、全部で、い
くつあるでしょうか。わかる人は、手をあげてください。(計数)


★友だちの誕生日に招かれました。今日は、AAさんの誕生日です。あなたはAAさんに、
会ったら、何と言いますか。また何と言ったら、AAさんは、喜びますか。(常識)


★幼稚園で、ブランコにのっていたら、乱暴者のB君が、ブランコを横取りしようとしま
した。この前、B君は、スベリ台を、反対のぼりをしていました。B君は、みんなのいや
がることを平気でします。さて、ブランコを横取りしようとしたら、あなたは、どうしま
すか。それを話してくれる人は、いませんか。(生活力)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●子どもの指導法

 子どもにいろいろなことを頼むとき、親は、これまたいろいろな言い方をする。ふつう、
親が子どもに、何かをしてほしいときは、つぎのような言い方をする。(参考、渋谷昌三、
「心理学用語辞典」)

(1)命令型
(2)目的語型
(3)不履行非難型
(4)直接依頼型
(5)意向打診型
(6)願望型
(7)提案型
(8)話し手行動型
(9)話し手事情型
(10)受け手事情型(以上、同辞典)

 ほかにも、(11)脅迫型、(12)同情型、(13)依存型、(14)自覚奮起型、(15)
恩着せ型などが考えられる。順に、具体的に考えてみよう。

 たとえばあなたの子どもが、テストが近いというのに、家の中で、ゴロゴロしていたと
する。そのとき、あなたは、どのような言い方をするだろうか。

「勉強しなさい!」……命令型
「勉強、勉強」「いい成績を取るのよ」……目的語型
「どうしてあなたは、勉強しないの!」……不履行非難型
「勉強してくれない?」……直接依頼型
「どう、少しは勉強してみたら?」……意向打診型
「あなたがいい成績を取ったら、うれしいわ」……願望型
「どうだろう、いっしょに問題集を開いてみない?」……提案型
「今日、勉強したらよいところに、印を入れておくよ」……話し手行動型
「私立大学だと、学費も高いでしょう。勉強して、国立に入ってね」……話し手事情型
「あなた、だいじょうぶなの? ゴロゴロしていて?」……受け手事情型
「勉強しろ。でなければ、小遣いを減らすぞ」……脅迫型
「いろいろたいへんね。勉強するのも、いやなことね」……同情型
「しっかり勉強してくれないと、お母さんも、困るのよ」……依存型
「そろそろ勉強したほうが、いいと思うよ」……自覚奮起型
「私はあなたのために、パートの仕事をしているのよ。わかる?」……恩着せ型、など。

 そのときの親意識の程度、親子関係によっても、言い方は、さまざまに変化する。同じ
テストといっても、週末のテストと、入試テストとでは、緊張感もちがう。そうしたちが
いに応じて、親の言い方も変化する。

最近の傾向としては、公教育の場では、命令型、脅迫型などは、タブー視されている。
かわって、意向打診型、提案型の言い方が、主流になってきている。

 たとえば掃除の時間でも、「みさなん、掃除の時間ですよ」(自覚奮起型)、「力を合わせ
て、教室をきれいにしたらどう」(提案型)など。

 一般論として、「その仕事(勉強)に対するコスト(重要度)が大きいときは、(4)の
直接依頼型より、(5)の意向打診型のほうが多くなる」ということだそうだ(同辞典)。

 親の言い方一つで、子どもは、伸びる。反対に、子どものやる気を奪ってしまうことも
ある。さて、あなたは、子どもに対して、日ごろ、どんな言い方をしているだろうか。
(はやし浩司 子どもの指導法 子供の指導法 言い方 指導のし方 指導の仕方)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ボランティア活動

 数日前、自転車で夜道を走っていたら、歩道に倒れている男いた。寒い夜だった。見た
感じでは、酔っぱらって、そのまま倒れてしまったようだ。酒臭かった。

 5〜7メートルほど行き過ぎてから、私は自転車を止めた。振りかえった。声をかける
べきかどうかで、一瞬、迷った。気がつかなかったが、その男の横近くに、もう1人の男
の人が立っていた。「仲間だろうか?」と思った。

 その瞬間、私の心から、その倒れている男への責任感が薄らいだのを感じた。「その人に
任せればいいや」と。これを心理学でも、「責任の分散」という。

 責任を取るべき人が多くなればなるほど、責任感が薄らぐことを意味する。もしそのと
き、私ひとりだけなら、たとえば声をかけたり、ばあいによっては、救急車を呼んだかも
しれない。しかしその男の仲間らしき男の人を見たとき、その気持ちは消えた。

 で、私は、その立っている男の人に声をかけた。「知りあいですか?」と。するとその男
の人は、平気な声で、「ナーニ、酔っぱらっているだけでよ」と言って、笑った。そしてそ
の倒れている男をまたぐようにして、向こうのほうへ歩いていってしまった。

 そのときのこと。私の中に、それまで経験しなかった思いが、わいてきた。

 「このまま、無視して去ったとき、私はどんな責任を負わされるのだろうか」と。

 法律的には、私には、その人を救助する義務はない。無視して去ったところで、責任を
問われることはない。しかし、私は、一応、教育評論家である。(自称、そう思っているだ
けだが……。)

 いくら法的には責任がないとはいえ、無視して去るわけにはいかない。そこで声をかけ
た。

 「だいじょうぶですか?」「ああ……」と。そして私の声につられて、その男は、ヨロヨ
ロと立ちあがった。

 つまり私が声をかけたのは、その男を心配したからではなく、自分の立場を心配したか
らである。これを心理学では、「愛他的自己愛」という。つまり自分がかわいいため、一応、
他人を愛するフリをしているだけ。本物のボランティア精神とはちがう。

 本物のボランティア精神というのは、滅私の状態で、相手につくす。これを「向社会的
行動」という。私が経験したのは、それとは異質のものである。

 ……ということで、同じボランティア活動でも、「愛他的自己愛」によるものもあれば、
「向社会的行動」によるものもある。よくどこかのテレビタレントが、その売名行為(?)
のために、何かのボランティア活動をしてみせることがある。そういうのは、たいてい「愛
他的自己愛」によるものと考えてよい。わかりやすく言えば、偽善。

「向社会的行動」によるボランティア活動は、ジミで、だいたいにおいて、マスコミの
世界には、漏れてこない。(マスコミが、調べて報道するということはあるが……。)

 ボランティア活動について、考えてみた。
(はやし浩司 ボランティア ボランティア活動 向社会的行動 愛他的自己愛 偽善)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●ショッピングセンター

 巨大なショッピングセンターが、近くにできた。「KM」という名前の、全国規模のショ
ッピングセンターである。

 そのショッピングセンターの中を歩きながら、ふと、こんなことを考えた。「ここは、巨
大なレストランのようだ」と。

 「?」と思われる人もいるかもしれない。

 実は、たいへん汚い話で申しわけないが、私は、並ぶ商品を見ながら、レストランの料
理を連想した。ついで、「便」を連想した。人間が排泄する、あの「便」である。

つまりこういうところで、人々はつぎからつぎへと、モノを買い、そしてそれを使用す
る。で、そのあとだが、当然のことながら、それらのモノは、ゴミとなって、捨てられ
る。それが「便みたい」と。

 ショッピングセンターに並ぶ、無数の商品群を見ていたとき、その商品群が、頭のどこ
かで、その(便)と、重なってしまった。「これだけのモノが、ゴミ(=便)になったら、
どうなるのだろう?」と。

 わかりやすく言えば、人々は、つぎつぎとモノを買い、ゴミを作り出している。ちょう
ど人々が食事をして、便を作り出しているように……。

 (汚い話で、ゴメン!)

 レストランで食べるときは、(美しいモノ)だが、体から出るときは、そうでない。同じ
ように、ショッピングセンターに並んでいるときは、(美しいモノ)だが、ゴミとなるとき
は、そうでない。

 それにもう一つ、驚いたことがある。何と、その店では、自転車が、8000円近くの
値段で売られていたことだ。45年前ですら、1万円という値段でも、安かった。それが、
45年たった今、8000円とは! どうなっているのだろう。

 で、8000円の自転車をさがしてみたが、すぐには見つからなかった。私が見たのは、
1万2000円前後の自転車だった。まあ、ふつうに乗れる自転車だった。とくによい自
転車というわけでもなかったが、少し前のような、粗悪品というふうでもなかった。

 その店内を歩きながら、いろいろなことを考えた。

 ……メチャメチャに安い商品。その一方で、メチャメチャに高額な商品。今の日本には、
その二つが、共存している。たとえばバッグにしても、1000〜2000円前後のバッ
グが並んでいる一方、5万円とか6万円のバッグもある。見た感じは、それほどちがわな
い。値段だけが、大きく、ちがう。ブランド品になると、もっと高額。

 どのあたりで、どのように満足して、どのように生きるか。それがこの日本では、たい
へんむずかしくなってきた。貧乏な人でも、見かけだけは、それなりの生活を保つことが
できる。一方、金持ちの人は、だれにもそうだとわかるほど、リッチな生活をし始めてい
る。そういう意味で、今、貧富の差が拡大しつつある。勝ち組と負け組みのちがいが、は
っきりとしつつある。

 こういう日本で生きていくのも、たいへんなことだ。……と、思いつつ、フーッと、出
るのは、ため息ばかり。これからの子どもたちは、こういう日本で生きていかねばならな
い。またそういう(たくましさ)をもたねばならない。

 で、今日の買い物……座椅子、トイレクリーナー一式、子どものおもちゃ数種、日用雑
貨など。しめてx000円前後。どれも不要不急品ばかりだが、何となく、雰囲気にのま
れて、買ってしまった。ハハハ!

 (こういうものの考え方は、どこかニヒル? 少し落ちこんでいるせいかもしれない。)


●ターミナル・ケア

 最期の最期のケアを、ターミナルケアという。ふつうは、ガンなどのよる、末期症状期
のケアをいう。

 昨夜は、家族で、レストランへでかけた。そこで息子に、こんな話をする。

 「ボケの簡単な診断法があるよ。小便をしたあと、ズボンのチャックをあげ忘れても、
ボケでは、ない。しかし小便する前に、チャックをさげ忘れたらボケだ」と。

 そのあと、みなで、ボケの自己診断テストをする。

私、ワイフに向って、「いいか、これから4つのモノを言うから、覚えろ。行政法、民事訴
訟法、憲法、特許法」
ワイフ「そんなの覚えられるわけないでしょ」
私「ハハハ、お前の頭も、かなりボケてきたな」と。

 そのうち、少し話が深刻になってきた。私が「ボケは、脳ミソでもCPUがボケるから、
自分では、ボケたことがわからないそうだ」と。

 すると息子が、こんな話をした。先月(04年12月)、アメリカへ行ったとき飛行機の
中で見た映画だという。

 何でも、その患者は、一日に10分間だけ、記憶を取りもどすのだという。そしてその
10分間、生涯で一番楽しかったとき、つまり、自分の恋愛時代を思い出すのだという。

 で、いよいよ末期。最期の最期のところで、その女性は、記憶を取りもどす。そして夫
と2人で、自分たちの恋愛時代を思い出しながら、その女性は安らかに死を迎える……。

 息子は、「同じ映画を、4回も見た」と言っていた。「すばらしい映画だった」と言って
いた。私も、その話を聞いて、胸がジーンとした。

 「でもね、ぼくがボケたら、もう世話をしなくていい。肺炎か何かになっても、病院へ
連れていかなくてもいい。そのまま死なせてくれ」と。

 息子は、だまってそれを聞いていた。ワイフも、だまってそれを聞いていた。

 ことの善悪もわからないほどボケてしまったら、自分がボケていることさえ、わからな
くなる。そうなったら、つまり自分がそうなったら、生きていることに、どれほどの意味
があるのか。

 せっかくの食事だったが、ボケの話になってしまった。

 数日前も、近くにある養護老人ホームを訪れてみた。見学のつもりだった。中をかいま
見ると、講堂のようなところで、老人たちが、カラオケを歌っていた。楽しそうだったが、
しかしどこかわびしい? 「私もああなるのか?」と思いつつ、「ああは、なりたくない」
と思った。

 人生の晩年で、底の浅い歌謡曲を歌ったり、わけのわからない踊りを踊ったりする。そ
れがはたして私たちの、つまりは生きる目標なのか、と。であるとするなら、私たちは、
何のために、生きているのか。

 真理の探究とは言うが、その探求には、限界がある。能力の限界というよりは、生命の
限界といってもよい。その限界を、このところ、ヒシヒシと感ずるようになった。

 帰るとき、ワイフが、「自治会の副会長の仕事は、やはり、できないわね」と言った。私
は、「そうだね」と答えた。

 時刻は、夜の9時を過ぎていたが、そのまま班長と、自治会長の自宅を回る。みな、よ
い人たちだ。事情を話すと、すぐわかってくれた。反対に、「私たちも、林さんに協力しま
すよ」「このあたりにも、介護老人をかかえた家庭は多いですから……」と言ってくれた。

 一つだけ、肩の荷がおりたような気がした。これからの人生は、どう生きるかというこ
ともさることながら、どう死ぬかというのも、考えなければならない。ワイフがいつも言
うように、「朝になっていたら、死んでいた」というような死に方が、理想的なのだが……。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●運動と刺激

 正月休みの間、ほぼ、1週間だったが、その間、私は汗をかくような運動をしなかった。
ときどき遊びのような運動はしたが、その程度。

 しかし昨日から、仕事は、本格稼動。久しぶりに、往復14キロを走った。自転車で、
である。

 最初、数100メートルほど走ったところで、足の異変を感じた。太ももの内側に、覚
えのない、だるさを感じた。久しぶりの運動で、筋肉がなまっていたためらしい。が、1、
2キロも走ると、それは消えた。

 が、N高校のそばの、ダラダラ坂にさしかかったとき、いつものなら、グイグイと登れ
る坂が、つらい。足がもたつく。これも、やはり、運動不足か。

 ……たった、1週間で、このザマ!

 正月休みのような休みが、1、2か月もつづいたら、私はどうなるのか。半年とか、1
年もつづいたら、どうなるのか。それを思ったら、ソーッとした。

 昼過ぎに仕事を終えて、家に帰ってきた。3時間近く、幼児を相手にワイワイと騒いで
きた。そのせいか、気分は、そう快。頭の中もスッキリ。

 で、気がついた。運動というのは、頭をスッキリさせるためにも、必要である、と。

 だから、というわけでもないが、体と頭は、毎日、使ったほうがよい。使わないと、す
ぐサビつく。だれしも、楽をしたいと思う。つらい仕事は、避けたいと思う。しかしそれ
を乗りこえるから、体にせよ、頭にせよ、健康を保つことができる。

 わかりきったことだが、昨日、それを再認識した。

 
●常識の中の、非常識

 S出版社から出された、「お店のカラクリ」という本を、パラパラと読む。いくつか、お
もしろい記事を書き出してみる。

★デパートなどで、買い物をしていると、よく「宮内庁御用達」というラベルの張った商
品を目にする。しかし実際には、宮内庁の中にある食堂へ、商品を納入しているだけなの
に、「宮内庁御用達」と書くこともあるそうだ。必ずしも、天皇家ご愛用というわけではな
いそうだ。

★結婚式場を選ぶとき、一番大切なのは、パーティ料理の「質」。それを知るためには、そ
の式場内部にあるレストランで、カレーライスを食べてみるとよいそうだ。そのカレーラ
イスのできがよければ、その式場での料理はよいし、そうでなければ、そうでない、と。

★イタリアンレストランで、ウェイターやウェイトレスが、ワインを勧めるのは、ワイン
で利益をあげるためだそうだ。ふつうイタリアンレストランでは、料理からの利益率は、
10%程度だそうだ。(本当かな? このあたりのイタリアンレストランは、どこも、べら
ぼうに、値段が高いぞ!)しかしワインは、3倍商法が原則だという。それで、イタリア
ンレストランでは、ワインを客に勧めて、利益をあげるそうだ。だからワインを断る客は、
嫌われるとか?

★鉄道の乗車率は、どうやって決めるか? それについても書いてある。ふつう「乗車率
100%」というと、座席が、すべてうまった状態を想像する。しかし実際には、通路も
計算に入っているそうだ。その通路を、0・35平方メートルで1人で計算して、すべて
を合計して、100%とするそうだ。たとえば新幹線でも、通路に人が立つ状態も、それ
が0・35平方メートルに1人なら、100%ということになるそうだ。座席が満席だか
ら、100%ということではないらしい。

★ピアノの教本に、「バイエル」がある。あのバイエルは、実は、外国では、ほとんど知ら
れていないそうだ。(バイエルというのは、ドイツの作曲家のフェルナンド・バイエルのこ
と。日本では、バイエルの作曲した教則本が、ピアノの練習曲になっている。日本の女子
短大などでは、バイエル程度を弾きこなせることが、幼稚園教諭二種免許取得のための、
必要条件になっている。)しかし外国の音楽教室の教師などには、そのバイエルさえ知らな
い人も多いという。ヘ〜エ、と私は、驚いた。

★「表にサンプルのないラーメン屋のラーメンはうまい」というのもある。味にこだわる
ラーメン屋は、横並び意識を嫌い、そういうサンプルを、店先には並べないそうだ。また
「レンゲがラーメンにつかっていないラーメン屋を選べ」とも書いてある。レンゲをラー
メンの汁につけると、ラーメンが冷えてしまう。だから味にこだわるラーメン屋は、レン
ゲを、汁にはつけないとか。

(これを読んだとき、「幼児教室も、そうだ」と思った。理由を書くことはできないが、し
かし、ナルホド!、と。本物志向の幼児教室は、いつも中身だけで勝負する。私の教室が
そうだぞ! ハハハ。)

★スーパーなどの特売コーナーの近くの商品は、買ってはいけないそうだ。つまり店は、
特売品で、客をつり、その横に、割高の商品を並べて、元をとろうとする、と。特売品に
つられてやってきた客は、その横に並べてある商品にも、つい、手を出しやすい。店側は、
そういう計算をしながら、店は商品を並べるとか。

★銀行員は胃と肝臓の治療をしない……そうだ。胃や肝臓の治療をする銀行員は、それだ
け、「健康状態に問題あり」と判断され、出世競争から落とされるとか。今の保険制度の中
では、調べる気にさえなれば、経営者側は、その社員がどんな病気で、どんな治療を受け
たかまでわかるしくみになっているという。だから銀行員の中には、胃や肝臓の病気にな
っても、保険を使わず、高額な実費を払って治療を受けている人もいるとか。

(以上、青春出版社、「お店のカラクリ」より。興味のある方は、どうぞ!)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●家病

 私の父方は、みな、胃腸が弱い。死因はいろいろ。母方は、たいてい脳内出血で死んで
いる。幸いなことに、双方とも、がんには、強い家系らしい。がんで死んだ人は、1人も
いない。ただ60数人いる従兄(いとこ)たちの中には、最近、がんで死ぬ人がチラホラ
と出てきた。油断はできない。

 一方、ワイフの家系には、父方も母方も、がんで死んでいる人が多い。

 で、私のばあい、一番心配されるのが、脳内出血。ある日、脳の欠陥がパーッと破れて
死ぬ、という、あれである。あるいは心筋梗塞(こうそく)。もう少し正確には、虚血性心
臓病。父方の祖父は脳梗塞、母方の祖父は脳内出血で、それぞれ死んでいる。

 父は、心筋梗塞(しんきんこうそく)で死んでいる。かなりのヘビースモーカーで、「S」
という、ニコチンタールの多いタバコを、いつも吸っていた。

 その虚血性心臓病だが、それになりやすいタイプというのは、決まっているそうだ。ア
メリカのフリードマンの説によれば、(1)精力的な人、(2)時間にうるさい人、(3)攻
撃性の強い人、(4)競争心のはげしい人、(5)精力的な話し方をする人だそうだ。

 フリードマンは、このタイプの人を、「タイプA」とした。(血液型ではないぞ!)

 「A」の「A」は、「Amnition(野心)」「Aggressiveness(攻撃
性)」の頭文字だそうだ。

 で、私はこの中の、(1)から(6)まで、すべて当てはまるから、恐ろしい。最近は、
少し元気がなくなってきたので、まあ、それはよいとしても、フリードマンの説によれば、
私は、虚血性心臓病で死ぬ確率が、きわめて高い?

 気をつけよう。

 ところでその(攻撃性)だが、子どもの攻撃性について、この日本では、ほとんど問題
にされない。攻撃的イコール、生活力が旺盛ということではない。極端な例だが、こんな
ことがあった。

 ある日、幼稚園の年長児に、こんな問題を出したことがある。

 「ブランコに乗っていたら、ブランコを、あなたは横取りされそうになりました。そう
いうとき、あなたはどうしますか?」と。

 すると1人の男の子が、サッと手をあげて、こう言った。

 「ぶん殴ってやる。そういうヤツは、どうせ口で言ってもわからない」と。

 私はこの答に驚いたが、それがここでいう(攻撃性)である。幼児のばあい、嫉妬心と、
攻撃心は、あまりいじらないほうがよい。カッと頭に血がのぼると、何をしでかすかわか
らないというのは、幼児としては、あるまじき姿と考えてよい。

 ……と、話がそれたが、それぞれの家系には、それぞれの家系特有の病気がある。それ
を私は、勝手に、「家病」と呼んでいる。多分、この文を読んでいるあなたの家系にも、そ
れがあるはず。ちがうだろうか?
(はやし浩司 フリードマン タイプA 虚血性心臓病 家病)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●血液型

 血液型による性格判断について、記事を書いた。「血液型による性格判断ほど、ナンセン
スなものはない」というのが、私の書いた記事の趣旨である。

 それについて、「そうとは言い切れないのでは……?」という意見が届いた。M県に住ん
でいるX氏である。血液の種類が、人間の性格に影響をおよぼすことは、ありえないこと
ではない、と。

 そこで私なりに調べてみた。で、わかったことは、たとえば血小板の中に含まれる、血
小板MAO(モノアミン酸化酵素)が、脳の中の神経物質に影響を与えるという説もある
ということがわかった(深堀元文「心理学のすべて」)。

 しかし「血液型性格論は、赤血球の血液型を判断基準としていて、血小板は関係ありま
せんし、血小板MAOの働きに関しても、反論が多く提出されています」(同書)とのこと。
血液型と血小板は、まったく関係がないということ。やはり血液型と、その人の性格は、
関係ないということになる。

 で、結論。もうこういうくだらない俗説を振りまわすのは、やめよう。血液型と性格と
は、関係ない。私も無数の子どもたちを見てきたが、子どもの血液型など、話題にしたこ
ともない。関連性があるなら、私だって、とっくの昔に気がついているはずである。
(はやし浩司 血小板MAO 血液型 血液型性格判断 性格判断)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●アロマセラピー

 五感というときは、(1)視覚(見る)、(2)聴覚(聞く)、(3)味覚(味わう)、(4)
触覚(触れた感覚)のほか、もう一つ、(5)嗅覚(かぐ)がある。

 この嗅覚について、昔は、それほど重要視されなかった。大脳の中でも、古い大脳皮質
に属するものと考えられていた。

 が、最近の研究によれば、嗅覚は前頭葉とも関連していることがわかってきた。つまり
人間の人格とも深く関連している、と。前頭葉(前頭連合野)が損傷を受けると、「移り気
になり、野心もなくなり、節度に欠け、人格が以前とまったく変わってしまうこともある」
(新井康允)そうだ。

 人間の正しい行動プログラムは、この前頭葉が支配している。その前頭葉に、嗅覚が関
連しているというわけである。

 この「力」を利用したのが、アロマセラピーということになる。「におい」を利用して、
精神活動を調整しようというのが、それである。

実際、鼻の奥の嗅細胞は、5000万個あり、平均的な人で、2000種類のにおいを
かぎわけることができるといわれている。調香師のようなプロになると、1万種類のに
おいをかぎわけることができるという(深堀元文)。

 私のばあい、どういうわけか、嗅覚だけは、人並み以上に発達している。つまり、鼻が
よい。ワイフとくらべても、数倍から数10倍はよいと思う。(数字で比較することができ
ないが……。)風向きによっては、数10メートル離れたところでも、タバコのにおいなど
を、かぎわけることができる。

 ワイフは、よく「あなたはイヌみたい」と言うが、それに近い。

 で、そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「視覚や聴覚については、わか
るけど、嗅覚がよくて、何か得することがあるの?」と。

 実のところ、実益は、あまり、ない。しかしにおいに、敏感なのは事実。そしてそのに
おいに、心が左右されることは、よくある。よいにおいをかぐと、心が休まる。そうでな
ければ、そうでない。そんなわけで、一時は、アロマセラピーに、たいへんこった。庭に、
薬草を、何10種類もそろえたことがある。(すべてイヌのハナに、荒らされてしまったが
……。)

 こんなことをこういうエッセーで書くのは、不謹慎かもしれないが、私は、若いころは、
女性を、においで選んでいたようなところがある。顔や容姿がいくらよくても、においが
合わないときは、どうしても、その女性を、好きになれなかった。今でも、そうだ。

街ですれちがったとき、ふと、よいにおいがしたりすると、振りかえって、その女性を
見たりする。そうでないときは、さっと、体を避けたりする。

 香水のにおいとか、そういうにおいではない。体臭である。その体臭が、香水を超えて、
私の鼻を刺激する。

 ……とまあ、一方的に自分勝手なことばかりを書いたが、では、私自身のにおいはどう
かというと、本当のところ、自信がない。老臭に歯槽膿漏(しそう・のうろう)のにおい。
それに不潔なフケのにおいなどなど。若い女性なら、顔をそむけたくなるようなにおいを、
プンプンさせていると思う(多分?)。

 自分ではわからないが……。

 で、この嗅覚は、味覚とも関連があるということもわかってきた。さらに嗅覚は、それ
自体が独立して、記憶されるということもわかってきた。あるにおいをかいだとき、以前
に同じようなにおいをかいだときの記憶が、そのままもどってくるということは、よくあ
る。嗅覚には、そういう力もある。

 嗅覚を、決して、あなどってはいけない。……ということで、このエッセーは、おしま
い。
(はやし浩司 アロマセラピー 嗅覚 五感)

【付記】

 五感はそれぞれが独立した感覚のように考えられているが、脳ミソの中では、一体化し
ていると考えられている。たとえばひどい騒音を耳にすると、嗅覚や味覚が影響を受け、
感覚をなくしたりする。

 反対に、美しい音楽を聞きながら食事をすると、味覚が影響を受け、その料理を、より
おいしく感じたりする。キズか何かがあって、痛みがひどいと、美しい音楽も、騒音に聞
こえる、など。

 私は、聴覚はよくないが、たとえばモノ売りの声が聞こえてきたりすると、そのとたん、
思考が停止してしまう。「うるさい!」と思ったとたん、キーボードをたたく指が止まって
しまう。

 五感は、脳ミソに、いろいろな形で作用するようである。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●神性と悪魔性

 どんな人にも、神性と悪魔性がある。これら二つが、同居している。その人が善人か悪
人かということは、あくまでも、割合の問題と考えてよい。

 神性が強ければ、善人となり、悪魔性が強ければ、悪人となる。根っからの善人という
のはいない。同じように根っからの悪人というのもいない。

 大切なことは、それぞれの人が、自分の中の神性を伸ばし、悪魔性と戦うことである。
私の家で、現在進行中の話を書こう。

 たとえば今、私の家には介護を必要とする兄がいる。その兄を見ていると、自分の心の
中で、二つの相対立した感情が、混在しているのを知る。

 一つは、同情する心。もう一つは、さげすむ心。

 さげすむ心というのは、兄の(わがまま性)による。ただのボケというよりは、わがま
ま。つぎからつぎへと、あれこれと要求してくる。

 夕食の時刻になると、30〜40分前から、台所のテーブルの前に座り始める。何度、
ワイフが、「あとで呼んであげるから、自分の部屋に行って、待っていてね」と言っても、
言うことを聞かない。

 「腹が減ると、力がでない」
 「いつも、5時に食べている」
 「ここのほうが、暖かい」
 「ぼくは、子どものころから、体が弱かった」と、つぎつぎと、不平、不満を並べる。

 そしてできあがった夕食を食べるときになっても、指先で、ご飯(ライス)をさわって
みて、「冷たいご飯は、食べられない」「歯が痛い」「おかずが、かたい」「かたいご飯を食
べると、胃が悪くなる」と。

 おかしな性癖もある。少し油断すると、ワイフに抱きつこうとするし、タンスからワイ
フの下着を出して、ながめていたりする。善悪の判断能力が、ほとんど、ない。約束も守
らない。規則も守らない。言うだけ、ムダ。「わかった」と返事をしたそのすぐあとには、
もう約束や規則を破ったりする。

 あれこれ気をつかう。本当に気をつかう。それはしかたないとしても、そこで私が、何
かを少しでもきつく叱ったりすると、短気を起こして、皿を割ったり、新聞紙を破り捨て
たりする。ウソもつく。

 「肩が痛い」「足が痛い」と言っては、私たちの部屋の中まで入ってくる。そこで湿布薬
を渡すと、「自分では張れない」「自分で張ると、よじれてしまう」などと言う。一事が万
事。強烈な依存性。まれにみる依存性。

 そういう兄を見ていると、ムラムラと、「勝手にしろ!」「知ったことか!」という気持
ちがわいてくる。これが悪魔性である。

 だから私は、自分では、善人だとは思っていない。昔から善人だとは思っていなかった
が、それが兄と同居するようになって、さらにそれが、よくわかった。

 そこで私は、そうした自分の中の悪魔性とどう戦うかを、学びつつある。

 一つは、無視。これをワイフとの暗号で、「24」と呼んでいる。イライラしそうなとき
には、たがいに、「24」と声をかけあっている。「ムシ(6x4)24」の「24」であ
る。(わかる?)

 つぎに、こうしたボケ症状に対しては、笑い飛ばすようにしている。「十字架を重く感ず
れば、悪魔がやってくる。十字架を笑えば、神が宿る」と。

 ただつらいのは、私たちの時間がないこと。外出ができないこと。そこで今は、要介護
の申請を、市役所に出しているところ。それが通れば、デイサービスを受けられるように
なる。そうなれば、少しは、自分たちの時間をもてるようになる。

 そして今、私は、こう思う。

 こうした十字架は、必ず、私を成長させる、と。その先に何があるかわからないが、し
かしこのことは、今まで十字架を背負ったことがない人を見ればわかる。十字架を背負っ
たことがある人からは、背負ったことがない人が、よくわかる。そしてその間には、超え
がたいほど、遠い距離があるのがわかる。

 私もいろいろな十字架を背負ってきたが、いよいよ、人生も晩年にさしかかってきた。
晩年には晩年にふさわしい、十字架というものが、あるのかもしれない。あと10年とか、
20年もすれば、永遠の闇の中に消える。ぼんやりと、のどかな人生を過ごすのも、一つ
の人生かもしれないが、別の新しい人生を経験をするのも、また別の生き方かもしれない。

 はからずもワイフは、昨夜、私にこう言った。

 「ひとりでさみしく暮らす生活よりも、問題があっても、みなで、にぎやかですごすほ
うがいいわね」と。

 ワイフは、私より、はるかに善人のようである。感謝! 感激! 感動!

 我が家のドラマは、今もなお、あれこれ進行中! ハハハ! (←これは、カラ元気か?)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 7日(No.526)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自閉症の子どもと話す

 昨日(05年1月x日)、自閉症の子どもと話す。1時間ほど、教室の一角で対峙して話
す。

 子ども……中学1年生、男子。しかし学校には、ほとんど行っていない。

 軽い知恵遅れと、親の過保護、でき愛、それに過干渉による、性格のゆがみを感ずる。
全体に、オドオドとし、萎縮している感じがした。

私「この本の名前を知っているかな?」
子「ぼくだけが、ゲームをもっていない」
私「ううん、そうじゃなくて、この本の名前を知っているかな?」
子「ぼくだけ、ゲームをもっていないから、みんなからバカにされる」と。

 会話全体が、どうもうまく、かみ合わない。

 横に母親がいた。母親の話では、虫には特別の興味と関心があるという。そこで虫の話
をする。

私「カブトムシにも、いろいろいるよね」
子「カブトムシにも、いろいろあるよね」
私「アトラスオオカブトって、知っている?」
子「アトラスオオカブト、コーカサスオオカブト、ディディエールシカ……」と。

 その子どものばあい、特徴的なのは、会話がかみあわないことに合わせて、つぎのこと
が観察された。つまり自閉症といっても、症状は一様ではない。

(1)自分につごうの悪い話になると、会話をそらせてしまう。
(2)私の指示には、一応返事はするものの、返事だけで、指示を無視する。
(3)自分の関心のあることについては、おかまいなしに、一方的に話しかけてくる。
(4)約束が守れない。判断力、現実検証能力、自己管理能力が劣っている。

 私が母親と話している間も、ソワソワと、どこか落ちつきがない。母親が、「さっき、そ
ちらへ行ってはだめと言ったでしょ!」と強くたしなめると、また、「ゲームをもっていな
いのは、ぼくだけ」と、どこかトンチンカンな返事をする。

 そこで母親が、「そちらへ行ってはだめ」と強く言うと、「わかった」と答えるものの、
その直後には、またそちらへ行ってしまう。

 そして私と母親が話していると、そこへやってきて、「小学校に2年生のとき、友だちに
たたかれた」「ぼくは、走って逃げた」「友だちにたたかれた」「走って逃げた」と、同じ話
を何度も繰りかえす。

 母親が、「少し静かにしていてね」と何度もたしなめるが、ほとんど、効果がない。そこ
で母親は、バッグから、小さな虫図鑑の本を渡す。ボロボロになっていた。「これをもたせ
ると、静かになります」と、母親は言った。

 30分ほど、母親と話すが、中学生については、私には、指導経験がほとんど、ない。
母親は必死だったが、私としては、どうしようもない。その無力感を覚える。

 別れるとき、母親はこう言った。

 「最初は、自閉症とわからず、無理をしました。子どものころ、叱ってばかりいました。
自閉症とわかっていれば、無理をしなかったでしょう。うちの子には、かわいそうなこと
をしてしまいました」と。

 その子どもが、オドオドとしているのは、そのためだと、母親は弁解した。
(はやし浩司 自閉症の症状 自閉症 症状)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●現実検証能力

 (自分のおかれた立場)を、客観的に判断する能力のことを、現実検証能力という。し
かし実際には、現実検証能力というのは、してよいことと悪いことの判断、それができる
かできないかを見きわめる能力のことをいう。

 してよいことと悪いことの判断は、その結果として、つまり自分の立場が客観的にわか
るようになれば、自然にできるようになる。とくに子どもの世界においては、そうである。

 だから一般的には、現実検証能力のない子どもというのは、ものの考え方が自己中心的
で、その分だけ、人格の完成度が低い。わがままで、自分勝手。自己管理能力も低いので、
たとえば病院の待合室など、騒いではいけないような場所でも、平気で騒いだりする。

 ……しかし、これは何も、子どもの世界だけの問題ではない。そのままおとなの世界の
問題でもある。

 まず、(私はどういう立場にいるのか)、つづいて(他人から見ると、どういう立場にあ
るのか)ということを、客観的に判断していく。つまりそれがあってはじめて、そこから
(自己管理)が、できるようになる。

 そういう意味では、現実検証能力と自己管理能力は、ペアの関係にあるといってもよい。
どちらか一方が欠けているとわかったら、もう一方を補充する。いろいろな例がある。子
どもを例に、考えてみる。

 こんな子どもがいた。小学3年生の男児だった。

 その子どもの祖父がなくなった。その通夜の席でのこと。その子どもは、たくさんの弔
問客が来たことに興奮して、ワイワイと騒いでいた。それまでかわいがってくれた祖父で
ある。さぞかし悲しんでいることだろうとみな、思っていた。しかしその子どもは、どこ
か、楽しそうだった。

 またこんな例も。

 参観授業のとき。その子ども(年長・女児)は、突然、こう叫んだ。「私のママのオッパ
イは、右のほうが大きい。左は、小さい!」と。

 こういう例で共通してみられることは、自己管理能力の不足である。してよいこと、悪
いこと。言ってよいこと、悪いことの判断ができない。しかも、場所が場所である。

 原因の多くは、親の過干渉、過関心。子ども自身に、静かに考えるという習慣がない。
親が、いつも子どもをガミガミと叱りつづけているといったふう。親子のリズムが、まる
で合っていない。

 そこで重要なことは、少し話が飛躍するが、現実検証能力にせよ、自己管理能力にせよ、
重要なことは、自分で考えることということになる。その習慣を、自分で身につける。わ
かりやすく言えば、人格の完成度は、自ら考える力によってのみ、求められるということ
になる。

 人に言われて、完成するものではない。
 人に教えられて、完成するものではない。
 いわんや、おかしな修行をしたり、意味のわからない念仏や題目を唱えて、完成するも
のでもない。神様や仏様に祈ったからといって、完成するものでもない。

 自分の力で、自分の頭で、ごくふつうの生活をしながら、その中で考える。その習慣が、
その人を完成させる。仮に信仰するとしても、それは教えによってするものであり、霊力
に頼ってするものではない。

 ただ、私も含めて、人間の力には、限界がある。未熟で、未完成。まさに、「か弱いアシ」
(パスカル「パンセ」)でしかない。しかしだからといって、ここであきらめてはいけない。
病気にしても、すべてを治せるわけではない。政治にしても、この世の中から、すべての
悲しみや苦しみを、なくせるわけではない。

 しかし人間は、やっと自分の足で立ち始めた。歩き始めた。つまりそこに人間が人間で
ある意味がある。尊さがある。

 かく言う私も、本当のところ、自信がない。あの中村光夫(戦後を代表する哲学者)に
しても、晩年の最後は、奥さんの手引きで、キリスト教に入信したという。そういう例は
少なくないし、私だけが例外ということは、ありえない。むしろ私は、平均的な人とくら
べても、精神的に弱い。情緒も不安定。

 しかし私は、できるところまでがんばってみる。ふんばってみる。

 話が大きく脱線してしまったが、子どもにしても、懸命に考えながら行動している子ど
もは、美しい。輝いている。しかし言われるまま、また考えることもないまま、いい子に
している子どもは、どこか不気味ですらある。

一見、いい子だが、自己管理能力もないし、現実検証能力もない。ときどきとんでもな
い問題を起こす子どもというのは、たいていこのタイプの子どもと考えてよい。

 つまりは、子どもを育てるということは、その自ら考える子どもにすることである。考
える習慣のある子どもにすることである。それがひいては、心豊かで、常識のある人間に
育てる。
(はやし浩司 現実検証能力 自己管理 自己管理能力)
 
++++++++++++++++++++++++

以前書いた原稿を、少し手なおしして、添付しておきます。
どうか、参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++

●「夢」論

 「夢」という言葉は、もともとあいまいな言葉である。「空想」「希望」という意味もあ
る。英語では、「ドリーム」というが、日本語と同じように使うときもある。

あのキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、黒人の公民権運動の指導
者)も、「I have a dream……(私は夢をもっている……)」という有名
な演説を残している(六三年八月、リンカーン記念堂前で)。

 しかし子どものばあい、「夢」と「現実」は区別する。イギリスの教育格言にも、『子ど
もが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはいけない』というのが
ある。つまり空想するのはよいが、それに子どもがハマるようであれば、注意せよ、と。

 そこで調べてみると、いろいろな思想家も、夢について論じているのがわかる。その中
でも近代思想の基礎をつくった、ジューベル(一七五四〜一八二四、フランスの哲学者)
は、『パンセ』の中で、つぎのように書いている。

 『学識なくして空想(夢)をもつものは、翼をもっているが、足をもっていない』
 『空想(夢)は魂の眠りである』と。

 これを子どもの世界に当てはめて考えてみると、つぎのようになる。

 子どもというのは、満四・五歳前後から急速に、理屈ぽくなる。「なぜ、どうして?」と
いう会話がふえるのもこのころである。

つまりこの時期をとおして、子どもは、「論理」を学ぶ。A=B、B=C、だからA=C
と。言いかえると、この時期の接し方が、その子どものものの考え方に、大きな影響を
与える。この時期に、ものの考え方が論理的になった子どもは、以後、ずっと論理的な
ものの考え方をするようになるし、そうでない子どもは、そうでない。

 ジューベルがいう「足」というのは、「論理」と考えてよい。日本語でも、現実離れして
いることを、「地に足がついていない」と言う。「現実」と「論理」というのは、車の両輪
のようなもの。現実的なものは、論理的だし、論理的なものは、現実的である。つまりジ
ューベルも、空想するのはその人の勝手だが、学識のない人がする空想は、論理的ではな
いと言っている。

 子どもでもそうで、超能力だの、魔術だのと言っている子どもほど、非現実的なものの
考え方をする傾向が強い。少し前だが、教室の窓から、遠くのビルをながめながら、一心
にわけのわからない呪文を唱えている中学生(男子)がいた。そこで私が、「何をしている
のか?」と声をかけると、「先生、ぼくは超能力で、あのビルを爆破してみたい」と。

 しかしこうした「足のない空想」は、子どもにとっては、危険ですらある。論理がない
というだけならまだしも、架空の論理をつくりあげてしまうことがある。

よい例が、今にみるカルト教団である。死んだ人間を生きていると主張し、その死体が
ミイラ化しても、まだ生きていると言い張った教団があった。あるいは教祖の髪の毛を
煎じて飲んでいる教団もあった。はたから見れば、実に非論理的な世界だが、それにハ
マった人には、それがわからない。いわんや、子どもをや!

 そこでジューベルは、『空想は魂の眠りである』と言い切った。足のない空想にふければ
ふけるほど、魂は眠ってしまうということ。それをもう少し常識的に考えると、こうなる。

人間が人間であるのは、考えるからである。パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲
学者)もそう言っている。『思考が人間の偉大さをなす』(「パンセ」)と。

わかりやすく言えば、思考するから人間である。「生きる」意味もそこから生まれる。も
し人間が思考することをやめてしまったら、その人、つまりその人、つまり魂は死んだ
ことになる。空想は、その魂を殺すところまではしないが、眠らせてしまう、と。

 たとえばもし、私が、今ここで、今日のことが不安だからといって、星占いに頼ったら、
どうなるか。何かの事故にあわないようにと、何かのまじないをしたらどうなるか。多分、
その時点で、私は考えることをやめてしまうだろう。が、それは同時に、自分自身への敗
北でもある。さらにほとんどのことを、占いやまじないに頼るようになれば、自分自身を
否定することにもなりかねない。そのためにも、魂は眠らせてはいけない。そのためにも、
足のない空想はしてはいけない。

 さて、子どもの「夢」に話をもどす。子どもが空想の世界に自分をおき、あれこれまっ
たく違った角度から、自分の世界を見ることは、まちがってはいない。しかしその前提と
して、「論理」がなければならない。「学識」でもよい。それがないと、どこからどこまで
が現実で、どこから先が空想なのか、それがわからなくなってしまう。それは子どもの世
界としては、たいへんまずい。

ものごとを論理的に考えられなくなるだけではなく、先にも書いたように、自らを空想
の世界へ、追いこんでしまうこともある。そして結果として、わけのわからないことを
言いだす。こんな子ども(小五女児)がいた。

 私がある日、ふと、「頭が痛い」と言うと、「じゃあ、先生、なおしてあげる」と。肩で
もたたいてくれるのかと思っていたら、そうではなく、じっと目を閉じて、手のひらを私
にかざし始めた。「それは何?」と聞くと、「だまっていて。だまっていないと、パワーが
集中できない」と。

あとで聞くと、そうして手をかざすと、どんな病気でもなおるというのだが、私はそう
は思わなかった。だから、「そんなのだったら、いい」と言うと、「先生は、バチが当た
って、もっと頭が痛くなる」と、今度は私をおどした。

子どもが空想(夢)の世界にハマるようであれば、逆に、「なぜ、どうして」を繰り返し
ながら、子どもを現実の世界に引きもどすようにする。その時期は、早ければ早いほど、
よい。年齢的には、小学一、二年生ごろまでではないか。それ以後は、自意識が強くな
り、なおすのがむずかしくなる。
(02−11−26)

●空想するのは子どもの自由だが、子どもがその世界にハマるようなら注意せよ。

(追記)
 あなたも思いきって、迷信を捨ててみよう。占いや、まじないを、捨ててみよう。勇気
を出して、捨ててみよう。そんなものに支配されてはいけない。そんなものをあてにして
はいけない。あなたは、どこまでいっても、あなたなのだ。あなたは自分の人生を、自分
で生きるのだ。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【迷信】

●非現実的な世界

 占いや、まじないは、タバコのようなものではないか。なければないですむが、しかし
それを信じている人には、そうでない。それがないと、一日の生活が成りたたないという
人も多い。
 
当然だが、その占いや、まじないには、論理がない。論理がないから、反論のしようが
ない。ないが、あえて、反論してみる。

【カルト的自己中心性】

 占いやまじないを信ずる人に共通するのは、カルト的自己中心性。自分が世界の中心に
いると錯覚する。排他的にそれを信ずるから、「カルト的」という。そのため、ほかの人は
ともかくも、自分だけは、もろもろの未知のパワーに支配されている、特別な存在と錯覚
する。何かの宗教を信じているにせよ、しないにせよ、神や仏は、自分にだけは特別に関
心をもっていると思い込む。その思い込みが強い分だけ、要するに自分だけは、ほかの人
とは違うと錯覚する。

【思考の空洞化】
 
占いやまじないに身を寄せることで、自ら考えることを放棄する。そして一度、自分の
頭の中を、カラッポ(思考の空洞化)にしてしまう。考えることをやめることで、自ら、
この状態をつくる。そして自分の頭の中に、他人の思想を注入する。このタイプの人は、
一見、もっともらしいことを口にするが、すべて、他人、もしくは指導者の受け売り。
英語の言い方を借りるなら、「ノーブレイン(脳ミソなし)」の状態になる。

【狂信性】

 占いやまじないを狂信していても、たいていの人は、自分では、狂信している自覚がほ
とんど、ない。狂信性があらわれるのは、それが否定されたとき。あるいは占いやまじな
いが、自分にとってはマイナスに向いたとき。人によっては、狂乱状態になることがある。
狂信性が強ければ強いほど、そうなる。

占いやまじないを信ずる人は、それによって利益を受けることよりも、自分にとって不
利益なことが起きることを恐れる。占いで「凶」と出ただけで、その日一日を、ビクビ
クして過ごす人は、いくらでもいる。

【排他性】

「自分が絶対、正しい」と思い、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたはまちがっ
ている」と言う。そして自分が住むカプセルのカラをますます厚くし、その分だけ、人
の話に耳を傾けなくなる。そして、独自の理論を、勝手にどんどんと組み立ててしまう。

たとえば血液型による性格診断がある。「あなたはA型人間ね。私はO型人間よ」と。い
まだにこんな迷信が、この日本では、大手を振ってまかりとおっている。(もともとは戦
後、どこかの医者が、だじゃれで書いた本が、もとになっている。たいした迷信ではな
いが、ほとんどの日本人が信じているから、無視もできない。)で、話を聞くと、実にこ
まかいところまで、ああでもない、こうでもないと説明する。

●ある会社の社長のケース 

ある男性(四三歳・会社社長)は、何か重大なことがあると、近くの神社へでかけてい
き、そこで神主にどうすべきかを決めてもらっていた。家族の冠婚葬祭はもちろん、家
の改築、車の購入日など。小さな会社を経営していたが、従業員も、「方向」で選んでい
た。「今年は、巽(たつみ)の方角から、社員を募集する」と。

おもしろかったのは(失礼!)、新車を購入するときも、納入してもらう日のみならず、
時刻、さらには、車を置く位置まで、自動車のセールスマンに指示していたこと。「一度、
南の方まで回り、そこから、会社の駐車場の北側の端にもってきてほしい」と。

 それは実に窮屈(きゅうくつ)な世界だった。社員たちは、社長の意向に神経をつかっ
た。実際には、神経をすりへらした。みなで社員旅行をするときもそうだった。日程を決
めるのが、たいへんだった。いくつかのプランを用意して、その中から、社長(実際には
神主)に選んでもらわねばならなかった。「そんなこと、くだらない!」などと言おうもの
なら、それだけでクビになってしまうような雰囲気だった。が、本当にその「クビ切り事
件」が起きた。

 一人の女子従業員が、会社へくるとき、道路で子犬を見つけた。捨て犬だった。そこで
その従業員は、その子犬を会社へもってきた。仕事が終わったら、自分の家に連れて帰る
つもりだった。

が、このことが社長の逆鱗(げきりん)にふれた。即刻、その女性は、その場で、クビ
になってしまった。まったくもって、理不尽なクビ切りだった。社長はこう言った。「昔、
ニワトリが会社へ迷い込んできたことがある。その翌朝、会社は火事になった。だから
会社へ動物を連れてくるのを禁止している。しかしその規則(?)を破ったからクビだ!」
と。

 この事件は、裁判ざたになりかけたが、社長が神主に相談すると、神主が「慰謝料を払
って、内々の示談ですましなさい」と忠告したという。実際には、その神主は、内緒で、
知りあいの司法書士に相談していた。私にこの話をしてくれたのが、その司法書士だった。
「裁判すれば、大きな社会問題になっていたはずです」と。

 世の中が不安定になり、緊張が高まってくると、こういう迷信があちこちで力をもち始
める。一方、人間の心というのは、不安が大きくなればなるほど、あちこちに穴があく。
その穴をねらって、その迷信が心の中に入ってくる。あなたもこうした迷信には、じゅう
ぶん、注意してほしい。

●日々の運勢占いを信じている人は多いが、それを信ずる前に、どういう人が、どういう
根拠で、その「原文」を書いているか、それをさぐってみるとよい。たいていは、(まち
がいなくすべて)、どこかのインチキな人間が、思いついたまま、でまかせに書いているだ
け。根拠など、どこにもない。あるはずもない。相手にしてはいけない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【迷信論】2

●血液型による性格判断

 いまだに血液型におる性格判断が、堂々と行われている。NHKの番組の中でも、一人
の女性アナウンサーが、こう言った。「私は、O型だから、もともとおっとり型人間です」
(04年5月・朝のワイドショー)と。おかしなことだ。

 私が25歳くらいのときのこと。今から、30年以上も前のことになる。私は、東京に
住む、あるドクターから、本の代筆の依頼を受けた。本の題名は、ズバリ、「血液型、性格
判断」。

 そこでそのあと、私は毎日、図書館通いを始めた。資料集めである。

 そのときのこと。私はこんなことを知った。ここから先は、当時の記憶によるもので、
不正確かもしれない。

(1)血液型性格判断は、戦後、日本のどこかの医師が、最初それを、冗談で口にした。
それに尾ひれがついて、あっという間に、日本中に広がってしまった。

 根拠など、どこにもない。統計学的な調査がされたわけでもない。冗談というより、迷
信。迷信というより、口からのでまかせ。

私は当時、こう考えた。血液は、脳に酸素を送るためのもの。しかしその人の性質や性
格は、脳細胞が決めるもの。血液の型など、関係ない、と。

 血液型といっても、100種類以上ある。ABO式血液型というのは、その中の一つに
すぎない。つまりいくら書けと言われても、理性をねじることはできない。書ける原稿と、
書けない原稿がある。私はそのドクターにこう言った。「血液型による性格判断はウソとい
うような本なら書ける。しかし血液型による、性格判断についての本は書けない」と。

 実際には、その代筆の話は、そのままうやむやになってしまった。

 で、それから30年。この日本では、血液型による性格判断は、むしろ常識のようにな
ってしまった。上はおじいちゃん、おばあちゃんから、下は、幼児まで……。

 しかし、こんなことは常識で考えればよい。

 乾電池をかえたくらいで、ラジオの音質が変わるようなことはあるだろうか。電源をか
えたくらいで、パソコンの性能が変わるようなことはあるだろうか。が、そんなことはあ
りえない。

 それと同じように、血液型で、人間の性質や性格が変わるようなことはありえない。だ
から、もうこんなバカな方法による性格判断はやめよう。私は毎日、子どもを見ている。
しかし血液型で子どもを見たことはない。また子どもの性質にせよ、性格にせよ、血液型
でちがうはずもないし、また血液型など、何の手がかりにもならない。

●反論 

 おもしろいのは、「O型の人は、顔が丸く……、A型の人は、あごがとがっていて……」
という意見もあるということ。「O」とか「A」とか、英語のアルファベットの形に似せて、
顔の形まで、決めつけている。(ウソだと思うなら、インターネットで、「血液型 性格 判
断」を検索してみればよい。)

 で、最近では、あまりにも、この血液型性格判断が、広く流布してしまったため、「そう
でなない」ということを立証するための研究(?)も、さかんになされている。(これもイ
ンターネットで検索してみれば、わかる。)

 しかし頭ごなしに否定ばかりしていてはいけないので、もう少し具体的に考えてみよう。

●当たる確率は、50%!

 血液型によって性格判断ができるためには、つぎの二方向性がなければならない。

(1)血液型による性格分類
(2)性格による血液型判定

 つまり。まず血液型によって、どのような性格をもつかが、分類されなければならない。
たとえば、A型の人は、きちょうめん。B型の人は、ずぼら。O型の人は、おおらか。A
B型の人は、神経質とか。

 つぎに、今度は反対に、その人の性格を見ながら、その人の血液型が特定できねばなら
ない。「あなたは、きちょうめんだから、A型」「あなたはずぼらだから、B型」と。

 この二方向性が一致したとき、はじめて、「血液型による性格判断は正しい」と実証され
たことになる。

 そこでまず、(1)血液型による性格分類だが、そもそも「性格」とは何か、その定義が
むずかしい。

 つぎに、血液型による性格の分類、つまりこれを心理学の世界では、ステレオタイプ化
というが、それがむずかしい。「オーストラリア人は、陽気」「パキスタン人は、押しが強
い」というのが、それにあたる。

さらに「きちょうめんとは何か」「ずぼらとは何か」と、それぞれの性格についての、定
義もされなければならない。

 こうした性格というのは、同じ故人でも、日々の生活の中でも、めまぐるしく変化する。
そのときの疲労度や、対象物によっても変化する。もちろん接する相手によっても、変化
する。環境によっても、変化する。会社での仕事では、たいへんきちょうめんな人が、家
に帰ってからは、ずぼらになるというケースは、少なくない。

 かりにこの性格分類ができたとしても、(2)今度はその人の性格を見ながら、反対に、
その人の血液型が判定できねばならない。

 「あなたは、おおらかな性格だから、O型」「当たり!」と。

 しかしここで確率の問題がからんでくる。

 つなみに日本人の血液型は、つぎのようになっている。

 A型 ……38・1%
 B型 ……21・8%
 O型 ……30・7%
 AB型……9・4%

 つまり、「あなたはA型か、O型ね」と言えば、確率からして、約7割(68・9%)は、
当たることになる。しかし、それだけではない。人間の心には、大きな落とし穴がある。

●自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)

 だれかがあなたに向って、「あなたはO型だから、おおらかね」と言ったとする。すると
あなたは、血液型による性格判断を信ずるあまり、何かにつけて、おおらかであろうとす
る。

 つまり、だれかに言われたような性格を、自らつくりあげてしまう。そして自ら、「やは
り血液型による性格判断は正しい」と、思いこんでしまう。これを心理学の世界では、「自
己成就的予言(self-fulfilling prophecy)」という。

 わかりやすく言えば、予言の内容にそって、その内容を自ら、つくりだしてしまうこと。

 たとえばある人が、占い師に、「20XX年の7月に、あなたは交通事故にあう」と言わ
れたとする。

 そのとき、理性のある人は、「そんなバカなことがあるか」と自分に言って聞かせ、それ
を無視する。しかし中には、それができない人がいる。そして「7月に交通事故にあう」
と信ずるあまり、その7月に、自ら交通事故を起こしてしまう。こういうケースは、カル
トの世界では、よく観察される。

 よく知られた事例としては、あのO真理教による、アルマゲドン(世界終末)事件があ
る。あの教団は、「世界が終末を迎える」と信ずるあまり、自分たちで、あちこちにサリン
という猛毒をまき、その終末を演出しようとした。

 わかりやすく言えば、中には、迷信にあわせて、その迷信にそった事実を、自らつくっ
てしまう人もいるということ。そしてその自らつくった事実をもとに、さらにその迷信を
肯定してしまう。血液型による性格判断も、その一つと考えてよい。

●結論

 概して言えば、血液型による性格判断を信ずる人というのは、迷信を信じやすい人と考
えてよい。

 手相、姓名判断、占い、まじないなど。その中の一つとして、血液型による性格判断が
ある。

 しかしこうした方向性というのは、自己意識が確立し始める、小学3、4年生あたりか
らはっきりしてくる。この時期に、迷信を信じやすい子どもと、そうでない子どもに分か
れる。それまでの子どもでも、よく観察すれば、その方向性を知ることができる。

 そこで大切なことは、この時期までに、いかにして子どもの中に、論理性を育てていく
かということ。「なぜ?」「どうして?」の会話を繰りかえしながら、おかしいものは、お
かしいと思う心を育てていく。

 ここから先は、それぞれの親の判断ということになるが、少なくとも、論理的なものの
考え方を育てるためには、この時期までの子どもには、いわゆる迷信は、話さないほうが
よい。子どもがそれらしきことを口にしたときは、「そんなバカなことはない」と、きっぱ
りと言い切る。そういう姿勢が、子どもの中の方向性を、修正する。

 ただし、「夢」と、「迷信」は区別して考える。「サンタクロースがクリスマスに、プレゼ
ントをもってくる」というのは、夢。「西の空に、カラスを見たら、人が死ぬ」というのは、
迷信ということになる。

 子どもの夢は夢として、大切に考える。

【追記】

 私の父親は、M会という、どこかカルト的な教団の信者だった。一方、私の母は、今で
もそうだが、迷信のかたまりのような人だ。

 そんなわけで、私は子どものころ、ある時期までは、迷信を信じていた。しかし今から
思うと、そういう意味では、そういう両親をもったがゆえに、かえって迷信に反発したの
かもしれない。私の父親や母親は、私にとっては、いわゆる反面教師になった?

 小学3、4年を境に、私はむしろ、そうした迷信を、ことごとく否定するようになった。
その結果が、今の私ということになる。

 よく覚えているのは、父親がメンバーになっていたM会での会合のときのこと。だれか
が、「親の因果は子にたたり……」というような話をしていた。それについて、その男が、
突然私に向って、「そこのぼうや、君は、どう思うかね?」と聞いた。

 私は、そのとき、父親につれられて、その会の末席で、座ってその話を聞いていた。私
が小学3年生か、4年生のときのことだった。

 私はとっさの判断で、「そんなバカな!」と、思わず口走ってしまった。

 そのあとのことはよく覚えていないが、その男が、どこか怒ったような口調で、何やら
話しつづけたことだけは、記憶のどこかに残っている。

 たしかにこの世界には、理屈だけでは、説明できないことや、理解できないことは多い。
しかしそれらは、人間の能力の限界によるものであって、決して、超自然的な力によるも
のではない。言いかえると、迷信を口にする人は、自らの能力の限界を認め、理性の敗北
を認める人といってよい。

 だから……。結論へと飛躍するが、血液型による性格判断は、もうやめよう。本来なら、
こんなことは、論ずることだけでも、時間のムダ。しかし一度は、結論を出しておきたか
った。だからここに書いた。
(040513)

【追記2】

 こんなおもしろい話を聞いた。何かのビデオ映画の中での会話だが、一人の男が、こう
言った。

 天国はあるかというテーマについて……。

 「ある宇宙飛行士が、宇宙に行ってみたが、天国はどこにもなかったと言った。それに
答えて、ある脳外科医がこう言った。『私は、ある哲学者の脳ミソを開いてみたことがある
が、思想らしきものは、どこにもなかった』と」

 つまりその宇宙飛行士は、宇宙へ出てみたが、天国はなかった。だから天国はないと言
った。

 それに答えて、「見えないから、ない」ということにはならないという意味で、脳外科医
はこう言った。

 「ある哲学者の脳ミソを開いてみたが、思想らしきものはなかった」と。つまり、「だか
らといって、その哲学者には、思想がないとは言えない。それと同じように、天国はない
とは言えない」と。

 一見、おもしろい論理だが、この話は、どこかおかしい。私も、瞬間、「なかなかうまい
こと言うな」と感心した。

 が、宇宙飛行士が、宇宙へ出てみたが、天国はなかったというのは、事実。一方、脳ミ
ソの中に、思想らしきものがなかったというのは、事実ではない。つまり事実を、事実で
ないものと対比させて、その事実をねじまげている。

 脳ミソの中には、思想がつまっている。無数の神経細胞から、それぞれこれまた無数の
シナプスがのび、それらが複雑に交叉しながら、その人の思想を形成している。もしそう
したシナプスを解読する方法が見つかれば、脳ミソを開いた段階で、その人の思想を読み
取ることができるようになるかもしれない。

 脳ミソの中には、事実として、思想がある。宇宙に天国があるかいなかという話とは、
まったく別の話なのである。

 こうした一見論理的な非論理は、日常会話の中でも、よく経験する。

 ある人が、私にこう言った。

 「林君は、霊の存在を否定するが、しかし電波はどうなのかね。テレビ電波なら、テレ
ビ電波でもいい。林君は、その電波を見ることができるかね。見ることができないだろ。
が、だからといって、電波を否定しないよね。同じように、今、見えないからといって、
霊の存在を否定してはいけないよ」と。

 この論理も、事実を、事実でないものと対比させて、その事実をねじまげている。ある
いはその反対でもよい。事実でないものを、事実と対比させて、事実でないものを、あた
かも事実であるかのように話している。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、こんなことも言える。

 「テレビ電波は、人間の目では見ることはできない。しかし存在する。同じように、人
間の運、不運も、人間の目では見ることはできないからといって、否定してはいけない」
と。

 いろいろに応用(?)できるようだ。
(040513)

●迷信は、下劣な魂の持ち主たちに可能な、ゆいいつの宗教である。(ジューベル「パンセ」)
(はやし浩司 迷信 迷信論 血液型 血液型性格判断 自己成就的予言 自己成就)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●株で儲けたぞ!

 2年ぶりに、ネット取り引き再開。2週間前、G社の株を、X000株購入。それがこ
の2週間で、24円の値上がり。

 しめて、XX万X000円の儲けなり! ヤッター! 手数料は、往復で、XXXX円。
差し引き、XX万円弱の儲け。これで新型パソコンが買える! ……と思っていたら、ま
あ、いろいろあって、ワイフが、「お願いだから、少し、家計に回して」と。

 しかたないので、今夜、また近くの書店で、経済誌を片っ端から、立ち読み。しかし立
ち読みだけで帰っては悪いので、店を出るとき、雑誌を一冊、購入。D社発行の「株・デ
ータブック」。980円。またまた一から、勉強のしなおし。

 この980円を、100倍にするのが、私の役目。


●明日は、息子に助けてもらう

 明日(1月8日)のレッスンでは、息子のEに、手伝ってもらうことにした。「アルバイ
トでしてくれないか?」ともちかけたら、スンナリと、「いいよ」と。小遣いとして渡すよ
り、やはり何か、仕事をしてもらうほうがよい。


●ナ、何と、自治会の副会長に!

 時間的に無理だから……と、何度も断ったが、結局は、自治会の副会長に。この私が…
…! 公民館の建設問題も、山場を迎え、何かとたいへんなとき。この地に住んで、もう
28年。この団地では、古株の1人。

 ワイフが、「できるの?」と心配したが、会長のK氏は、いい人だ。尊敬している。ここ
は助けないわけにはいかない。


●介護申請

 兄のために、介護申請をすることにした。デイサービスとかいろいろある。今日、近く
のセンターを、二つ、訪問してみた。みな、結構、楽しそうだった。雰囲気も明るく、ま
るで保育園のよう。

 デイサービスなら、一日、昼食つきで、600円弱くらいで世話をしてくれるという。

 私たち夫婦も、やがて入所することに。そのための準備か?


●愛知万博

 愛知万博の名古屋パビリオンが、完成に近づいたという。工事の進行状況を見せてくれ
るというので、今度行くことにした。名古屋市役所から、連絡があった。招待を、いつも
断ってばかりいたのでは、悪い。藤井フミヤさんも、がんばっていることだし……。


●デニーズの誕生日

 二男の嫁のデニーズの誕生日。先ほどワイフが電話をしたが、留守。2人で、留守番電
話に、「♪ハッピー・バースデー・ツー・ユー」を合唱。多分、今日あたりは、休暇をとっ
て、どこかへデートにでかけているのだろう。

 そうそう本屋で、誠司(Sage)のために、何冊か、本を買う。


●仕事

 やはり私は仕事をしていたほうが、気が楽。楽しい。明日から、その仕事。今度の正月
は、頭のボケた兄をかかえ、結局は、どこへも行けなかった。まさに24時間介護。

 で、休みになると、かえって頭の働きがにぶくなる。原稿も書けなくなる。それだけの
刺激がないからだ。

 やはり子育て論というのは、子どもの声を聞いていないと、書けない。

 それだけではない。子どもに接することで、心を洗ってもらえる。実際、子どもたちと
いっしょに騒いでいると、シャーッと、心の中が洗われていくように感ずることがある。

 子どもたちは、純粋なパワーにあふれている。そのパワーにふれることは、とても大切
なことのように思う。
(05年1月7日記)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 4日(No.525)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教えるより好きにさせる

 子どもに何かを教えるときは、「教えよう」という気持ちはおさえて、「好きにさせる」
ことを考えてする。

あるいは「覚えたか」ではなく、「楽しんだか」を考えてする。

これを動機づけというが、その動機づけがうまくいくと、あとは子ども自身の力で伸び
る。要はそういう力をどのように引き出すかということ。

たとえば文字学習についても、文字そのものを教える前に、文字は楽しい、おもしろい
ということを子どもにわからせる。まずいのは、たとえばトメ、ハネ、ハライ、さらに
は書き順や書体にこだわり、子どもから学習意欲を奪ってしまうこと。

私も少し前、テニススクールに通ったが、そこのコーチは、スタイルばかりにこだわっ
ていた。(私はストレス解消のため、思いっきりボールを叩きたかっただけだが……。)
おかげで私はすぐやる気をなくしてしまった。

 つぎに大切なことは、動機づけをしたら、あとは時の流れを待つ。イギリスの格言に
も、「馬を水場へ連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というのが
ある。

最終的に「する、しない」は、子ども自身が決めるということ。……と書くと、「それで
は遅れてしまう。まにあわない」という人がいる。しかしそれが、子どもの能力。よく
親は「うちの子はやればできるはず」と言うが、「やる、やらない」も能力のうち。「や
ればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思い、あきらめる。

このあきらめが親子の間に風をとおす。親があせればあせるほど、その分だけ、子ども
の伸びは鈍化する。いわんや子どもを前にしてイライラしたら、子どもの勉強からは手
を引く。

 好きにさせるということは、子どもに楽しませること。また幼児期や小学校の低学年時
には、あまり勉強を意識せず、「30分すわって、それらしきことを5分もすればじょうで
き」と思うこと。またワークにしてもドリルにしても、半分はお絵かきになってもよい。

勉強といっても、何も作法があるわけではない。床に寝そべってするのもよし、ソファ
に座ってするのもよし。そのうち子ども自身がもっとも能率のよい方法をさがしだす。
そういうおおらかさが子どもを伸ばす。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●笑えば伸びる

 子どもの心を開放させるもっとも効果的な方法は、笑わせること。何かおもしろいこと
があったとき、大声でゲラゲラ笑うことができる子どもに、心のゆがんだ子どもはまずい
ない。

しかし今、大声で笑えない子どもがふえている。年中児で10人のうち、1〜2人はい
る。皆が笑っているようなときでも、顔をそむけてクックッと苦しそうに笑うなど。親
の威圧的な過干渉、息の抜けない過関心が日常化すると、子どもの心は萎縮する。

 「ゆがむ」ということは、その子どもであって、その子どもでない部分があることをい
う。たとえば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えるうちは、静かで穏やかな様子を見
せるが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあげて、親のあ
とを追いかけたりする。

そういう子どもを観察してみると、その子ども自身の「意思」というよりは、もっと別
の「力」によってそう動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであ
って、その子どもでない部分」ということになる。

そういう子どもの心を表す言葉としては、日本語にはつぎのようなものがある。ねたむ、
ひねくれる、つっぱる、いじける、こだわる、すねるなど。そういった症状が見られた
ら、子どもの心はどこかゆがんでいるとみてよい。

 私は幼児を教えるようになってもう35年になる。そういう経験の中で、私はいつも子
どもを笑わせることに心がけている。だいたい一回の学習で、50分ほど教えるが、その
50分間、ずっと笑わせつづけるということもある。

とくに心のどこかに何らかのキズをもっている子どもにはこの方法は、たいへん有効で
ある。軽い情緒障害なら、数か月でその症状が消えることも多い。が、それだけではな
い。

子どもは笑うことにより、ものごとを前向きにとらえようとする。学習の動機づけには、
たいへんよい。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」というのがある。「楽
しかった」という思いが、子どもを伸ばす原動力になる。(はやし浩司のサイト:
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●逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。

子どもがその逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもは
その逃げ場に逃げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。

たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安
定になる。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。あるいはその前の段階として、
子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともあ
る。

逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた
子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向
に家出するというと特徴がある。

買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子
どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出
るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子
どもが逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの
心を守る。

が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの
中まで平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうこ
とをしてはならない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは
反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。
そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなた
はそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密を
つくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不
可侵の場所として大切にする。(はやし浩司http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●依存性

 その人の依存性は、無意識のうちにも、言葉となって表れる。たとえばよく知られた例
に、(だから、何とかしてくれ)言葉がある。

 おなかがすいたときでも、具体的に、「〜〜が食べたい」「食事の用意をしてほしい」と
は言わない。「腹、減ったア。(だから何とかしてくれ)」と、言う。あるいは、「寒い。(だ
から何とかしてくれ)」「眠い。(だから何とかしてくれ)」「退屈だ。(だから何とかしてく
れ)」と。

 もう少し高度になると、こういう言い方をするようになる。

 もう亡くなったが、一人の伯父は、いつも、口ぐせのようにこう言っていた。「ワシも、
年をとったからね」と。彼もまた、言外で、「だから、オレを大切にせよ」と言っていた。

 さらにこんなことを言う女性がいた。そのとき50歳くらいだっただろうか。いっしょ
に食事をしているときも、「私は、中学生のとき、胃が悪くて、ずっと入院をしていました」
と。

 最初は、その意味がよくわからなかったが、そのうち、わかった。その女性は、「だから、
私には、へんなものを食べさせるな」と言いたかったのだ。

 こうした依存性は、しかし日本人に広く共通して見られる現象である。いつも心のどこ
かで、「だれかが、何とかしてくれるだろう」というような考え方をする。近隣の問題につ
いてもそうだし、国際問題についても、そうである。

 その原因をたどれば、長くつづいた、あの封建時代がある。今のK国の人たちのように、
日本人は、自ら考え、自ら立ちあがる力を、骨のズイまで抜かれてしまった! たとえば
「自由」「平等」という意味でさえ、本当のところは、何もわかっていないのではないだろ
うか。いや、その「自由」は「平等(?)」にしても、本当のところは、自分たちで得たも
のというよりは、アメリカによって、与えられたものにすぎなかった。

 ところでたまたま昨日、こんな会話を耳にした。60〜65歳前後の女性たちの会話で
ある。

女A「おなかがすきましたね……」
女B「もう12時になりますね……」
女C「どうしましょう?」
女D「どうしましょうか……?」と。

 それぞれが、だれかが「食事をしましょう」「レストランへ行きましょう」と言い出すの
を待っているといった感じである。しかしそれを口にした人が、食事代を負担しなければ
ならない(?)。だから自分では言い出せず、だれかにそれを言わせようとしていた(?)。

 少し考えすぎかもしれないが、私は、会話の雰囲気から、そんな印象をもった。

 こうした依存性は、日本人独特のもので、日本に住んでいると、それがわからない。外
国の家庭などでは、そういう言い方をしても通用しない。へたに、「I am hungry.」(おなか
がすいた)などと言おうものなら、「Then what?」(だから、どうなの?)とやり返される。

 内容が少しダブるが、以前書いた原稿を、2作、添付する。
(050106)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」と
は言わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に
要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話
をするたびに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外
に、(だから何とかしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。
そういう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つ
い先日も、ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言っ
た。「そのときになったら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間ど
うしが、助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっ
ているだけ。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、そ
の依存性が結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわく
ない」「ほかの人と違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」な
ど。こうした世界では、好んで使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。
あるいは相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あ
るいは同情を買ったりする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあ
げたから、感謝しているハズ」と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何か
をしてくれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。そ
れ以外の世界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。もの
ごとを、ナーナーですまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、
どうしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子
イコール、できのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲
的であればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに
気づくことは、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発した
りする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しか
し今、日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人とし
て確立していない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の
全体主義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界
からみて、日本や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたって
も、日本人が国際人の仲間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラル
である日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」
の一節)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++ 
  
●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人が
それに気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・
リーブズが主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら
気づかない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おな
かがすいたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、
もう40歳のときから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかし
てくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会
も国民も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海
外へ移住した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで
生まれた子ども(二世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼ん
でいる。依存性が強い分だけ、その社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわ
いい子とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って
嫌う。そしてそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててや
った」と依存し、子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のと
ころで話すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日
本人は、大きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。
年配の人が多い。もう一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者
が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期に
あるとみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさ
わしいほどの転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎ
にやってくるのかは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時
代であることも事実のようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかして
くれ言葉)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ハンガリーのSZさんより

 ハンガリーにお住まいの、SZさんから、メールが届いています。BWクラブのOBで
す。

 まず、それを紹介します。

【SZより、はやし浩司へ】

はやし 浩司先生へ

明けましておめでとうございます。
こちらの冬はとても寒いです。薄暗い日が多いですが、しばしば、快晴の日があり、
そういうときは、気分も晴れます。

冬休みは、ドイツのパッサウ、レーゲンスグルグ、バンベルグとドナウ川沿いの街
を旅行してきました。情景豊かな美しい街ばかりで、この点は日本と違って、うら
やましいです。隣家や古い建物を意識して新しい建物を造ったり、窓際を飾ったり、 
 
日本では、こういうことは、なかなかできませんね。

さて、4月から、ブタペスト日本人学校が開校します。ハンガリーの小学校の建物を
借りて、運営されます。校庭は、ハンガリー人の子どもたちと一緒に使います。日本
人学校としては、初めてのケースらしいです。

YK子はアメリカンスクールが大好きです。やめることをとても残念がっています。 

しかし、幼児期を海外で暮らす子どもにとって、日本語の習得は大きな問題です。
日本語が、他言語と文法が異なり、(ハンガリー語とは似てる)、難解なためでしょうか。

妹のST子は、英語の幼稚園に通っています。英語の習得のためというより、国際
感覚・意識を自然に身につけることができればと考えています。

しかし、家に帰ってきたら、たくさんの絵本を読んでやるようにしています。
幼児(0〜4歳くらい)にとって、日本語を母国語として、
外国語の同時習得は、簡単なものではないように思います。親の努力が必要かと思います。

外国語の幼稚園ですごした子どものおしゃべりは、
(また、現地のベビーシッターとすごした幼児のおしゃべりは)、
日本語と外国語の混ざったものになりがちです。

幼児の頃から、インターナショナルスクールのみに通っている10歳の子どもと話しま 
した。

が、日本語が、単語を並べるだけといった感じで、おかしいのです。

帰国子女が増えてきて、みなも、この問題がわかってきたようです。
海外で暮らしてきた親族からは、子どもの日本語教育に力を注ぐようにとのアドバイス 
を受けました。

この問題は、私自身、手さぐりの状態で、とにかくわかりません。

ウクライナは隣国ですが、遠い国に感じます。緊張状態が続いています。

また、メールします。
本年も、先生が元気で過ごされますように。

SZより

【SZさんへ、はやし浩司より】

拝復

ワーッという感じで読みました。
ありがとうございました。

うらやましいです!!!!

国際的なにおいがプンプンとして……!!!!

私は若いころ、そういう生活にあこがれていました。
実際には、何かとたいへんでしょうが……。
私のような野次馬では知ることができないご苦労が
あることと思います。

しかしやはりうらやましいです。

日本は、ここ数日、寒い日がつづいています。
冬らしいというか……。

このところ大きなニュースと言えば、
やはりスマトラ沖の大地震による津波です。

それとS空港が、国際空港としては認可されなく
なりそうで、知事たちが、大あわてのようです。

最初に、そういう手続きを踏んでから開港をめざすのが
常識だと思うのですが……。

まず建設ありき、といった行政に、大きな疑問を
感じます。

「作ってしまえば、何とかなるだろう」式の、アマ〜イ
考え方なんですね。

あとは、ええと、こちらは、平和です。

あのウクライナが隣とは、知りませんでした。
日本人で、正確にウクライナがどこにあるか言える
人は少ないと思います。

中学生でも、アメリカがどこにあるかさえ知らない子どもが、
30〜40%はいるのでは? (あるいは、もっと多いかも?
一度、調査してみます。)

「カルフォニアという国がある」と信じている子どもも
多いですよ。ホント!

日本の中だけに住んでいると、そういうことが起きるのですね。

いろいろあります。

メール、ありがとうございました。

こちらでもバイリンガルによる、言葉の混乱が問題になっています。
「だから英語の早期教育には、反対だ!」と、です。
しかしそれは、SZさんのような方の問題で、日本の国内で英語を
学ぶ子どもの問題ではないのです。

レベルも、内容も、まったくちがいますよね。

なお、いただきましたメールですが、
2月4日号のマガジンで使わせてください。

どうかよろしくお願いします。

で、ワーッという気持ちだけは、今も、そのままです。

今年も、よろしくお願いします。

ご家族の、みなさんによろしく!!!!

最後になりましたが、明けまして、おめでとうございます!

はやし浩司
(1月6日記)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●十字架

人は、だれしも、十字架を背負う。
背負って、歩く。人が人である以上、
その十字架から逃れることはできない。

しかしその十字架を重いと感じたとき、
その十字架の上に、悪魔が、のしかかる。
十字架を笑い飛ばしたとき、
その十字架の上に、神が、宿る。

過去をのろうな、未来を嘆くな。
あるのは、「現実」という事実だけ。
その現実を受け入れ、あとは忘れる。


●45階

今日、ワイフと、駅前のAタワーに登った。45階建てのビルである。ホームページに
載せる写真を撮りたかった。

 正月の5日ということもあって、この前来たときよりは、人通りもあった。が、それで
も閑散としていた。人影は、パラパラといった感じだった。

 私たちはその45階まで、登った。「昇った」と書くべきか。「上った」でもよい。最上
階は展望台になっている。そこでおとな1人、500円の料金を払う。たしか以前は、1
200円くらいではなかったか? よく覚えていないが……。

 空はよく晴れ、澄んでいた。南は太平洋の水平線。東は、何と、富士山まで見ることが
できた。浜松から富士山が望める日は、一年を通しても、そうは、ない。私は、夢中でデ
ジタルカメラのシャッターを切った。

 しかし何と、殺風景な形式。ゴミが散乱した広大な野原に立たされたような気分。恐ろ
しく緑が少ない。統一性もなければ、整然性もない。まさにゴチャゴチャという雰囲気。
その景色をしばし見ながら、こんなことを考える。

 「この下で、私やあなたが生きている。懸命に生きている」と。

 行きかう自動車が、ビルの間から、見える。目をこらせば、人が歩いているのも見える。
「私はあの人だ」と思ってみたり、「あの人が私だ」と思ってみたりする。

 ワイフは、通路の並べられたイスに座ったまま、動こうともしない。「ここはお前の故郷
(ふるさと)だから、いろいろな思い出もあるだろうね」と声をかけると、軽くうなずい
た。

 言い忘れたが、ワイフは、子どものころ、駅前(南側)の一角に住んでいた。今の新幹
線の改札口のあるあたりに、家があったという。だからそのあたりのことには、詳しい。「ず
っと住んでいたら、今ごろは、大金持ちだったね」と話すと、「強制的に、立ち退(の)か
されたから……」と。

 帰るとき、もう一度、あちこちを、パシャリパシャリと、写真にとった。そして帰路に。
エレベーターでおりるとき、何人かのホテル客といっしょになった。気取った服を着てい
た。外へ出たとき、「服でも買おうか?」と私が言うと、「寒いから、帰ろう」と。ワイフ
はポツリと言った。

 冬の冷気が、やけに身にしみた。

 そのとき撮った写真は、(はやし浩司のHP)→(浜松案内)に収録した。

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●K国問題

 年(05年)があけて、K国問題が、急にあわただしさを、ましてきた。K国は、自国
のウエブサイトを通して、つぎのように書いている。

 「今年が韓半島に最も危険な局面が、醸成される恐れがある」(1月5日・ウリ民族キリ)。 
 
 「韓半島情勢が米国の新たな戦争挑発策動により緊迫しており、世界の世論が、05年
を朝鮮半島で最も危険な局面が醸成される恐れがある年と評しているのは、決して偶然で
はない」とも。わかりやすく言えば、「05年に、戦争が起きるぞ!」と。

 その一方で、同日、国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長は、「K国の核
開発疑惑によって触発された、核危機がますます悪化している」とし、「これを早いうちに
解決しなければならない」と述べた。 
 
 こうした動きに呼応する形で、K国は、日本に対して、日朝協議の打ち切りを示唆した
上、「戦後補償をしろ」と、言い出した。さらに、「食糧支援の中断は、K国への挑戦」「経
済制裁をすれば、物理的報復をする」とまで、言い出している。

 こうした一連の流れをウラから読むと、こうなる。

(1)K国の核兵器は、実戦段階に入った。(つまり核兵器の開発に成功した。)
(2)K国の経済は、破綻状態。政情不安も高まっている。(つまり、内部崩壊寸前。)

 日本の外交が、まさに正念場を迎えたといってもよい。こういう中、日本のK首相が、
Y神社参拝を取りやめ、伊勢神宮参拝に切りかえたのは、賢明である。(この記事は、1月
6日に書いているので、このあと、どうなるか、わからない。)

 今、ここで韓国や中国を刺激するのは、きわめて危険なことである。そうでなくても、
韓国や中国での反日感情には、ものすごいものがある。ここでどこかに火をつければ、そ
れが発端となって、6か国協議は、霧散してしまうかもしれない。今は、そういう状況に
ある。

 ここでK国が、ゆいいつ生き残れる方法があるとすれば、日本を恫喝(どうかつ、脅す)
しながら、莫大な戦後補償金を手に入れることである。その額、驚くなかれ、何と、40
0億ドル。日本円で4兆円! (日本の国家税収が、42兆円前後。)中国を通して、日本
にそう打診してきている(04年)。

 アメリカ議会の推定額では、50〜100億ドルだったから、その約4倍ということに
なる。

 人口が日本の約10分の1だから、その額のものすごさが、わかる。つまりK国は、「金
を出せ。さもなくば、東京に核兵器をぶちこむぞ」と。

 一見、ありえない話に聞こえるかもしれないが、K国の金XXにしてみれば、「どうせ崩
壊するなら、日本もろとも」ということになる。仮に失敗しても、朝鮮半島の歴史におい
ては、英雄になれる。一か八かのカケに出てくる可能性は、きわめて高い。

 では、日本は、どうするか?

 何度も書いているが、あんなK国など、相手にしてはいけない。どこまでも冷静に、か
つ事務的に、追いつめる。決して感情的になってはいけない。(だからといって、拉致問題
を軽く考えているわけではない。誤解のないように!)

 私が言いたいのは、拉致問題は拉致問題として、K国に対しては、冷静に対処しなけれ
ばならないということ。もともと、K国は、(まともな国)ではない。そんな国を相手に、
本気で対峙する必要はない。またしてはならない。

 やがてK国に対して、国際社会が、協調して、経済制裁することになるだろう。アメリ
カは、今年(05年)の夏をすぎても、6か国協議に進展がみられなければ、K国の核問
題を、国連の安保理に付託すると言っている。そのとき、K国は、最大のピンチを迎える
ことになる。

経済制裁をするにも、日本は、国際世論をとりつけ、とくにアメリカと協調して行う。
今、この時点での単独行動は、きわめて危険である。そのために、そのワクを自ら破壊
するようなことはしてはならない。すでにK国は、何度も、「日本を6か国協議からはず
せ」と主張している。その口実を与えてはならない。

 今、日本では、K国に対する経済制裁の大合唱が始まっている。国会のみならず、地方
議会まで、経済制裁の勧告議決をしている。

 しかし戦争というのは、一度始めてしまうと、それを収めるのには、その何百倍ものエ
ネルギーが必要となる。今のイラクを見れば、それがわかる。が、それだけではない。も
ちろん多くの日本人が死ぬことになる。K国のミサイル一発で、化学兵器や生物兵器なら、
20万人。核兵器なら、200万人が死ぬと推定されている。

 もちろんその時点で、日本の経済は、崩壊。戦後、築きあげてきた経済的繁栄は、終焉
(しゅうえん)を迎える。そのとき、戦争終結の勧告議決をしても、遅い。

 だから、ああいうおかしな国は、相手にしないこと。どこまでも冷静に、ただひたすら
事務的に対処するのがよい。そういう姿勢が、結局は、日本の繁栄と平和を守ることにな
る。

(中国の本音)

 中国にしてみれば、東アジアにおいては、日本は、目の上のタンコブ。表面的には、K
国の核兵器開発には反対しつつも、それが(日本向けであるなら)という条件付で、黙認
しているフシがある。仮に日朝戦争ということになれば、それを利用して、中国は、最大
のライバルである日本を、東アジアから消すことができる。この事情は、韓国も同じ。

 穏健派のT新聞(韓国)ですら、日本の国連常任理事国入り問題を、「日本、大国の復活
の夢見る」と、辛らつに批判している。

 日本は、そういう隠されたワナに、自らハマってはいけない。そのためにも、ここは慎
重に! 冷静に! 拉致連の人たちは、全国を回りながら、さかんに「制裁を!」と訴え
ている。その気持ちはよくわかる。しかしそれを受けとめる私たちは、今こそ、冷静でな
ければならない。
(はやし浩司 戦後補償 制裁問題 制裁)

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●カルト(狂信的宗教団体)に気をつけよう!

 人間の脳ミソには、エアーポケットのような部分がある。うっかりとそのポケットに入
ってしまうと、知性や理性が、吹き飛んでしまう。常識まで、吹き飛んでしまう。

 しかし心も、ふつうの状態なら、判断力も、正常に働く。「おかしいものは、おかしい」
と判断する。しかし不安状態や、大きな心配ごとをかかえたりすると、このエアーポケッ
トの中に、落ちてしまう。

 私は、今まで、そういう人を何人か見てきた。

 カルトを信仰する人だから、そういう人というのは、それなりに、「?」な人と思いがち
である。しかし実際には、ごくふつうの人。そのごくふつうの人が、ふつうの生活をして
いて、何かのきっかけで、そういうポケットにハマってしまう。そしてわけのわからない
ことや、とんでもないことをしながら、それを疑問にすら、思わなくなってしまう。

 どこのどの団体が、そのカルトであるとは、ここには、書けない。しかしもし今、あな
たに常識があるなら、どこのどの団体が、そのカルトであるか、わかるはず。

 鉄則は、そういうカルトには、近づかないこと。大切なことは、ごくふつうの人間とし
て、ふつうの生活をしながら、その中で、自分の常識をみがいていくこと。音楽を聞いた
り、ドライブに行ったり、映画を見たりしながら、常識をみがいていくこと。

 おかしな修行をしなければ、真理にたどりつけないとか、そういうことを主張する団体
は、たいていカルトと思って、まちがいない。

 仮に修行というものがあるとするなら、それは日常の生活の中で、ごく日常的にするも
の。懸命に(現実社会)で生きながら、するもの。そしてここが重要だが、自分の頭で、
自分で考えながら、するもの。そういう習慣が、その人の常識力を高める。

 で、あの世はあるのか。それとも、ないのか。私にはそれがわからない。しかし今は、「な
い」という前提で、私は生きている。死んでみて、あればもうけもの。そういう前提で生
きている。あるかないか、わからないものをアテにして、今の世の中を生きることは、私
には、できない。

 言い忘れたが、カルトは、こうしたあるかないか、わからないものを前提にして、その
上で、今の生き方を決めようとする。しかし、だ。

 もし死んでみて、あの世がなかったとしたら……。それこそ、自分の命をムダにするこ
とになるのではないか。

 さあ、あなたも、勇気を出して、常識を信じよう。あなた自身の中の常識を信じよう。
そしてその常識をいつもみがき、あとはその常識に従って生きていこう。

 おかしいものは、おかしいと思えばよい。
 すばらしいものは、すばらしいと思えばよい。
 それが常識である。

+++++++++++++++++++++++

子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「はやし浩司・子どもたちへ」より)

+++++++++++++++++++++++++++

●カルト(2)

 私がカルトに興味をもったのは、生徒の母親の1人が、それに入信したからである。詳
しくは書けないが、ある時期を境に、その母親は、おかしなことを言い出した。そしてそ
の時期から、さかんに私に、入信を勧めるようになった。

 その母親は、ごくふつうの、どこにでもいるような、つまりは見た目には、常識豊かな
女性に見えた。しかしそんな母親でも、一度、カルトに染まると、ふつうでなくなってし
まう(?)。

 私なりにその母親を説得してみたが、その当時の私の力では、どうにもならなかった。
やがてその母親は、夫とは別居状態になった。が、離婚はしなかった。その教団では、離
婚を、きびしく戒(いまし)めている。しかし結末は、もっと悲惨だった。その母親の夫、
つまりその生徒の父親は、それからまもなく、くも膜下出血で死んでしまった。夫が、4
3歳のときのことだった。

 私はその若さから、その背後に、壮絶な家庭内宗教戦争があったことを感じた。
 
 つぎに私がカルトに興味をもったのは、学生時代の友人が、同じ教団に入信したからで
ある。その友人は、同窓会には顔を出さず、ある日突然、同窓会の席へ、聖書を送り届け
てきた。分厚い聖書である。

その教団では、信者どうしのつきあい以外を、きびしく制限している。そのこともあっ
て、(多分?)、聖書を送り届けてきたのだろう。その友人は、学生時代は、それこそ、
ごくふつうの人だったから、私が受けた衝撃は、大きかった。

 以来、私は、あちこちの場で、こうしたカルトと戦ってきた。そのたびに、そうした教
団の人たちからは、「今に、お前は、地獄で体を焼かれる」とか、「バチが当たる」とか言
って脅された。近所で、「あの林一家は、みな、頭が狂っている」と言いふらされたことも
ある。多いときには、20人前後の大抗議団が、私の家に押し寄せてきたこともある。

 一時は、命の危険を感じたこともあるが、それから約17年。今でも、私とワイフは、
平穏無事な生活を楽しんでいる。彼らが口汚く脅したようなバチは、起きていない。

 そのかわりというか、私は、こうした一連の戦いを通して、「勇気」をもらった。何を書
いても、こわいものがなくなった。

 こうした原稿についても、私は実名で書いている。「はやし浩司」という実名である。そ
れについて、「何か、いやがらせをされませんか?」と心配してくれる人もいる。実際、グ
ーグルなどの検索で調べてみると、私のことを悪く書いているサイトもないわけではない。
しかしいちいちそんなことを気にしていたら、こうした評論活動はできない。

 私にいやがらせをしたら、その何十倍も、お返ししてやる! ……実際には、そういう
目的のために、原稿を書いたことはないが、その余力は、じゅうぶん、ある。私は、そう
いう連中は、相手にしていないだけ。

 で、こうしたカルトと戦い、その餌食(えじき)にならないためには、自分の中の、常
識力をみがくこと。ごくふつうの人間としての、常識力である。

 それが自分なりの戦い(雑誌社への無数の原稿の寄稿と、5冊の本)で得た、私なりの
結論ということになる。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 2月 2日(No.524)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

前回につづいて、「子育てポイント」を送ります。

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●相手を喜ばす

 子どもにとって(おとなもどうだが)、やさしい人というのは、思いやりのある人のこと
をいう。その思いやりのある子どもに育てるコツがこれ、「相手を喜ばす」。

 たとえばスーパーなどでものを買い与えるときでも、直接子どもに買い与えるのではな
く、「これがあるとパパが喜ぶわね」とか、「あとでお姉さんに半分分けてあげてね。お姉
さんは喜ぶわよ」とか言うなど。

昔、幼稚園にこんな子ども(年長男児)がいた。見るといつも三輪車にだれかを乗せ、
それをうしろから押していた。そこで私が、「たまにはだれかに押してもらったら?」と
声をかけると、その子どもはこう言った。「先生、ぼくはこのほうが楽しい」と。そうい
う子どもをやさしい子どもという。

 よく誤解されるが、柔和でおとなしい子どもをやさしい子どもとは言わない。たとえば
ブランコを横取りされても、ニコニコ笑ってそのまま明け渡してしまうなど。むしろこの
タイプの子どもほど、表情とは裏腹のところでストレスをためやすく、その分、心をゆが
めやすい。教える側から見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子」といった感
じになる。

 子どものやさしさは、心豊かな環境で、はぐくまれる。そのためにも、乳幼児期にはつ
ぎの三つを避ける。闘争心、嫉妬心、不満と不安。

攻撃的な闘争心は、子どもの動物的な本能を刺激する。ばあいによっては、善悪の判断
ができなくなり、性格そのものが、凶暴化することもある。嫉妬心はえてして情緒不安
の原因となる。赤ちゃんがえりに見られるように、本能的な部分で子どもの心をゆがめ
ることもある。

またこの時期、不満や不安は、子どもの性格をゆがめる。攻撃的になったり、反対にも
のに固着したり執着したりする。さらに神経症や情緒不安、さらには精神不安の原因に
なることもある。要するにこの時期は、心静かで穏やかな環境を大切にする。
 やさしさというのは、作って作れるものではない。家庭環境の中から、自然に生まれて
くるものである。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ベッドタイムゲーム
 
 子どもは床についてから眠るまで、毎晩、同じことを繰り返す習性がある。これを英語
では「ベッドタイムゲーム」(日本語では、「就眠儀式」)という。

このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもはなかなか寝つかなくなるばかりで
なく、ばあいによっては情緒そのものが不安定になることもある。もしあなたの子ども
が寝る前になると決まって、ぐずったり(マイナス型)、暴れたりするようであれば(プ
ラス型)、このしつけの失敗を疑ってみる。

方法としては、(1)毎晩同じことを繰り返すようにする。(2)心安らかな状態を大切
にし、就寝前少なくとも一時間はテレビやゲームなど、はげしい刺激は避ける。(3)ベ
ッドのまわりにぬいぐるみなどを置いてあげ、心が暖まる雰囲気をつくるなどがある。
毎晩本を読んであげるとか、静かな音楽を聞かせるというのもよい。

まずいのは子どもを子ども部屋に閉じ込め、強引に電気を消してしまうような行為。こ
うした乱暴な行為が繰り返されると、子どもは眠ることそのものに恐怖心を抱くように
なる。

ところで今、年長児(満六歳児)でも、五人のうち三人が、「ほとんど毎朝、こわい夢を
みる」ことがわかっている(二〇〇一年・筆者調査)。「どんな夢?」と聞くと、「ワニに
追いかけられる夢」「暗い穴にいる夢」「怪獣の夢」という答が返ってきた。子どもの世
界がどこか不安定になっていると考えてよい。

ちなみに年中児で睡眠時間(眠ってから起きるまでのネット時間)は一〇時間一五分、
年長児で一〇時間(筆者調査)。子どもが小学生になると、睡眠時間はぐんと短くなるが、
それでも最低九時間半を確保する。

睡眠不足が知能の発育に影響を与えるというデータはないが、しかし睡眠不足が続くと
集中力が弱くなる。あるいは突発的に興奮することはあっても、すぐ潮が引くようにぼ
んやりとしてしまう。園や学校などでの学習面で影響が出てくる。なお年中児になって
も「昼寝グセ」が残っているようなら、その時間ガムをかかせるという方法でなおす。(は
やし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●過関心は百害のもと

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。い
わく、「学校の席がえをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言った
が、(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子ども
に対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行ってく
れないか」と。

その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境
が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、
むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがつ
いているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。ある夜、猛
烈な抗議の電話がかかってきた。

いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。
その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二
年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを
知らなかった。

 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないか
ということ。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらに
こうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそ
んなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。

子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ七割、いいかげんさ三割』である。
子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何
かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子
どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズ
まるけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけない。子ども自身がそれを
自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、か
えって子どもの成長をさまたげる。(はやし浩司のサイ
ト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、
心の問題をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。

中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに
無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。

しかし子どもの心は、無理をすればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなお
りが遅れる。しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行っ
て、はじめて気がつく。その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた
本当のところがわかっていない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」
と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを
繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出
てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその
状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある
例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊
びであったりする。

しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強
く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪
化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、
決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく
子どもいる。

しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自
身を振り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになった
だろうか。あるいはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そ
うでないなら、あまり子どもには期待しないこと。

昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれな
いが、子育てというのは、もともとそういうもの。(はやし浩司のサイ
ト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●抑圧

 自分の心の奥深くに閉じ込められた(思い)、それを(抑圧)というが、その(抑圧)を
知ることは、たいへんむずかしい。自分自身が無意識のうちに、それを心の奥に閉じこめ
てしまっているからである。

 もしその(抑圧)が、表面に出てきたら、その緊張感から、精神状態は、きわめて不安
定になる。それをやはり無意識のうちにも知っているからこそ、人は、同じく、無意識の
うちにも、それを心の中に閉じこめようとする。(抑圧)は、いわば心の防衛機能(防衛機
制)の一つということになる。

 この(抑圧)が、こわいところは、その無意識の世界で、その人の心をゆがめることが
あるということ。

 たとえば母親の異常なまでの過干渉とでき愛、それに代償的過保護(愛情に根ざさない
過保護)のもとで育った男性(30歳くらい)がいる。

 見た目には、穏かでやさしい。親切で柔和。しかし覇気(はき)がない。どこかナヨナ
ヨしている。だれにも反抗しない分だけ、しかし、奇行が目立つ。放火癖、盗癖、落書き
癖など。ウソも平気でつくし、約束も守れない。すべてが、(抑圧)と関係しているとは言
えないが、心のゆがみは、その男性のように、さまざまな形で現れる。

 その表情とは裏腹に、いわゆる何を考えているかわからないといった表情をしてみせる。

 ……というようなことは極端な例としても、多かれ少なかれ、私たちの心の中には、何
らかの(抑圧)が潜んでいる。それを知ることは、自分を知ることにもなる。

 それは何か?

 一つの方法としては、まず自分自身の(ゆがみ)を知るというのがある。ひがみやすい、
いじけやすい、つっぱりやすい、ねたみやすい、くじけやすいなど。そういう自分の(ゆ
がみ)を知ったら、それを手がかりに、原因は、どこにあるかをさぐる。

 それが(抑圧)を知る一つの方法ということになる。

 たとえば私は、若いころ、嫉妬しやすいタイプの男だった。好意を寄せている女の子が、
ほかの男と仲よく話しあっている姿を見ただけで、頭の中がパニック状態になったのを覚
えている。

 私は、いつも、愛情飢餓の状態にあったと考えられる。つもりつもった欲求不満が、そ
ういう私をつくったとも考えられる。つまり(嫉妬深い)というのは、その背景に、愛情
に対する飢餓感があったためということになる。

 恐らく、……というよりまちがいなく、すなおな心をもっている人には、私が感じたよ
うな飢餓感は、理解できないだろうと思う。恵まれた環境で、育てられた人である。しか
しそういう人は、この世の中に、一体、何%いるというのか。

 では、どうするか?

 こうした(抑圧)にせよ、ほかのさまざまな心の問題にせよ、それに気づくだけで、問
題のほとんどは、解決したとみる。あとは時間が解決してくれる。心のキズ(トラウマ)
が大きければ大きいほど、時間はかかるが、しかしそれでも時間が解決してくれる。

 あとは、静かに時の流れに身を任せればよい。あせってもしかたないし、私は私。あな
たはあなた。そういう(自分)を切りはなすことは、できない。あきらめて、受け入れ、
あとは、静かにそのときがやってくるのを、待つ。
(はやし浩司 抑圧 心の歪み 心のゆがみ 抑圧感 防衛機制)

(注)

 心理学で「抑圧」というときは、無意識下の抑圧をいう。たとえば目の前に、すてきな
女性がいて、あなたを誘惑したとする。そのとき、「私は誘惑にはのらないぞ」と、自分を
抑制することは、「抑圧」とは言わない。そこに意識の力が働くからである。

 ここでいう「抑圧」というのは、あくまでも無意識下の意識をいう。だから本人がそれ
を意識的に自覚することは、ない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●岡山県のUTさんからのメール

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岡山県にお住まいの、UTさんから、こんなメールが届いています。
みなさんの正月は、どんなものでしたか。(1月4日記)

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【UTより、はやし浩司へ】

 あけまして おめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。

 年末から、タイ・プーケットの大津波のニュースばかりですね。
 地震や津波、世界中で自然災害が勃発して、穏やかとはかけ離れた新しい年の幕
明けですが・・・

 我が家でも、激しい口論で、お正月が始まりました。
 自分でも情けないです。

口火を切ったのは、だいたいのトラブルメーカーの実家の父でした。

 年末から実家に帰って、実家の掃除の手伝いをしたりして、お正月はのんびりと実
家で過そうと思っていました。

 父は、元旦の夜、一人で酔っ払って、(お酒は父しか飲みません)、お鍋を食べようと家
族が集まって、お箸を握った時に、いきなり現れて、酔った勢いで、支離滅裂なことを話
し始めました。

長女のKちゃんが父に言われたことで、傷ついて泣いていました。
 
 激怒した私が、父と口論になり1時間以上、カニなべはお預け状態で、喧嘩が終わっ
た頃はお鍋の野菜はドロドロでした。

 母は、横から「取りあうな」と何度も無言で合図していました。

前半、ヒステリー状態になった私は、涙ながらに、日頃から溜め込んだ
恨みつらみを、洗いざらい言って、後はボーッと、父の話を聞いていました。

全部まじめに聞いていたのでは、とても体がもちません。

 でも、だんだん父の話しが白熱してくるに従って、頭も平静に戻ってきて、話の内容
があまりにおかしくて、おかしくて、最後には大声で笑ってしまいました。

 それまで、お箸を握ったまま、ただならぬ雰囲気を見守っていた二女のWちゃん(3歳)
も、声を合わせて笑いました。あはははは!!!

 父はお酒におぼれる人ですが、お酒を飲んで暴力を振るうことは今までありません
でした。それだけはいいところです?

おきまりの捨て台詞を吐いて、「わしの目の黒いうちは勝手なことはさせん。俺はUT
家の当主だ。わかったか! お前は女の分際で!」と、のたまって自分の部屋に退室して
しまいました。

 あーあ、今年も反省からのスタートです。いつになったらもっとまともな自分にな
れるのでしょう! ちなみに、うちの父の名前はひろしデス(漢字は全然違うけど)。

 実家からの帰り道の車で、家族の今年の抱負を語りました。私は「人の悪口を言わ
ない」で、小2の長女のKちゃんは、「忘れ物を減らせる」です。

 学年末の懇談会で、担任の先生に「困ったことは、忘れ物が多いことで、忘れたこと
を誇らしげに? 自己申告してきます」と、言われました。

 担任の先生をとても慕っており、本当に忘れることもありますが、甘えもあるよ
うです。

 そうそう、今時の小学校の通知表は「人の言っていることを自分なりに理解でき
る」とか、心の発達とかの記述が具体的で、
昔の自分達の子供の頃の成績表とは全然違うんですね。 

やっぱり、「KK式みたいに機械的に勉強ができることより、読解力のような
もっと内面が評価されるのかー」、っと変に納得しました。(Kちゃんは機械的な計
算はまあまあ得意ですが、読解力とかは、親がみてもあまりないので、当然 "ふつ
う"の評価が多かったです。)

(うーん、やっぱ先生は、よく見てる!)

 あまり目に見える進歩のない私ですが、はやし先生に出会えたおかげで、ちょっと
だけは、改善されつつある?、と思っております。

年頭から、グチグチとすみません。でも、はやし先生に聞いてもらえると悪いことも昇
華できるような気がするんですよ。

 平穏とはいいますが、なーんにもない人生もつまらないものですよね。

 母にまた、「なんで、離婚せんの?」と聞いてしまいましたが、笑いながら「も
し、あんな人でも『生きていて』こそだから腹が立っても、一人ぼっちになるよりは、
まし」と、言っていました。

母は大変自立した人で、子供の世話になるよりは、いつまでも世話をする側にいたいと
いう人です。そんな、母でも独居は嫌なのです。

(特別な父に対する愛情ではありません)

 迷惑をかけられつづけても、ひとりぼっちというのは寂しいものなんですね。
 今の私の年齢では、まだ理解できないことも多いです。

また、新しいことを一杯吸収して。Powerfulなマガジンを発信してくださ
い。1000号まではなにが何でもいい読者でいたいと思います。

お年賀の写真を何か送ろうと思ったのですが適当なものがありませんでした。
機会があれば、送ります。

そんなこんなのいざこざもあり、年始のチャットにも参加できなくって残念でした……。

はやし先生のご一家にとって、いい1年になりますように!

世界中のあらゆる紛争が終わり、本当の平和が訪れますように!!

では、また。(岡山県K市、UTより)

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【UTさんへ】

 いつもメールをありがとうございます。

 大切なことは、それぞれが背負った十字架について、それを重いと思えば、悪魔がとり
つき、笑い飛ばせば、神が味方してくれるということ、ですね。

 神というのは、大脳の辺縁系にある扁桃体のことかもしれません。十字架を前向きにと
らえれば、扁桃体の中で、エンドロフィンやエンケファリン(ともにモルヒネ様の麻薬物
質)が分泌され、その人を、ここちよくします。

 そうでなければ、そうでない。十字架はストレスとなって、免疫細胞から、サイトカイ
ンという悪玉物質を放出する。そしてそれが精神作用まで狂わせてしまう。

 ……とまあ、素人が勝手に、そう判断しています。

 どうせこの世界には「現実」しかない。過去をうらんでも、未来を悲嘆しても、しかた
ない。現実の中で、現実をどうするか、それだけを考えて行動すればよいのです。

 それぞれの人には、無数の糸がからんでいますよね。無数の糸です。いくらもがいても、
切れる糸もあれば、切れない糸もある。その糸にからまれているうちに、自分の人生も決
まっていく。それを「運命」というのでしょうか。

 大切なことは、仮に運命があるとしても、そうした運命と、最後の最後のところでは、
戦うということです。そこに人間が生きる尊さがあるのですね。私はそう思っています。

 UTさんの家にも、いろいろ問題があるようですが、しかしあえて言えば、そんな程度
の問題など、問題ではないように思います。(ごめん!)ですからあまり深刻に考える必要
もないですよね。

 おっしゃるとおり、本当の平和がやってくるといいですね。がんばりましょう。

 去年、一年間を振りかえってみて、UTさんのような、よき友を得たというのは、私に
とっても、ラッキーなことでした。ありがとうございました。これからも、よろしくお願
いします。

はやし浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●私の心(?)

 今日(1・4)、いろいろあって、2度も、中田島砂丘へ行った。で、そのつど思うこと
は、どうしてあの砂丘は、いつ行っても、閑散としているのかということ。

 日曜日の昼下がりでも、ほどんど、人はいない。たまにサーフィンをしている若者とか、
魚釣りをしている人を見かける。が、それでも、数人とか、10人前後である。やがて1
00万都市になる浜松市に近接する砂丘としては、さみしいかぎりと言うほかはない。

 ……と、書いても、私自身は、喜んでいる。人は少ないほうがよい。そのほうが、解放
感がある。のんびりできる。

 で、2度目のときは、犬のハナを連れていった。午後の3時ごろだったが、やはり、人
は、だれもいなかった。私は砂丘へ着くと同時に、ハナから綱をほどいてやった。ハナは、
うれしそうに、あちこちを走り回り始めた。

 しかし、いつもと感じがちがう。どこかちがう。いつもなら、私もいっしょに波打ち際
まで走るのだが、今日はしなかった。視線は、遠くばかりを見ている。「津波が来たら、ど
うしよう?」と。

 スマトラ沖大地震で起きた津波では、15万人以上が犠牲になったという。連日、そん
なニュースばかり。そのことが、頭から、離れなかった。

 私は、「今、ここで津波が襲ってきたらどうしようか?」と、そんなことを考えていた。

(1)ハナのことは構わず、一目散に逃げる。
(2)ハナを連れて、いっしょに逃げる。

 私は、松林の前の塀に腰をかけて、ハナが走り回るのを見ながら、「どちらだろうか?」
と考えた。アメリカ映画などでは、よく、命がけで愛犬を助けるシーンがある。そういう
シーンを思い浮かべならが、「私なら、どうするだろうか?」と。

 もちろん相手が、犬ではなく、ワイフや息子たちなら、迷わず、連れて、いっしょに逃
げる。しかしハナなら、どうするだろうか、と。

 で、私の出した結論は、ハナは捨てて逃げる、である。津波は、ジェット機並のスピー
ドで襲ってくるという。時速700キロとか、800キロとか? 沖の向こうに高波が見
えたら最後、1分もたたないうちに、襲ってくる。逃げるヒマさえないかもしれない。

 高波を見たら、一応、「ハナ!」と大声で呼び寄せるだろう。幸いなことに、ハナは、大
声で名前を呼ぶと、私の方に走りよってくる。そのとき、私が走れば、ハナもいっしょに
走るはず。走る速さは、私より、はるかに速い。だからそれほど、心配しなくてもよい。

 しかし考えてみれば、薄情な飼い主ではないか。ハナの飼い主、つまり私は、いざとな
ったら、ハナを捨てて逃げる。しかしそういう私の気持ちを知ってか知らずか、ハナは、
ときどき私がそこにいることをたしかめたあと、また別の方向に走っていく。

 私は、それをかいま見ながら、しかし遠くの水平線ばかりを気にしていた。「高波が来た
ら、逃げよう」と。

そういう私の心とは、裏腹ない、のどかな、しかし、北風の強い昼下がりだった。
 
海から帰るとき、私は自転車の上から、ハナにこう語りかけた。

私「あのな、お前のご主人様はナ、薄情なご主人様だぞ。地震で、高波が押し寄せてきた
ら、お前のことなどかまわず、逃げるといっているゾ。わかるか? そういうご主人様を
もって、お前も、不幸な犬だな。

 それで死んでも、オレをうらむなよ。しかたないと思って、つまりお前のご主人様のた
めに、死んでくれ。わかったな?」と。

 それに答えて、ハナは、何も言わなかった。私はそれを、(無言の了解)ととった。ハハ
ハ。

【付記】

 あとでこの話をワイフにすると、ワイフも、こう言った。「そういうときは、ハナのこと
はいいから、あなたは逃げてね」と。

 反対の立場なら、それと同じことを、私はワイフに言うだろう。「そういうときは、ハナ
のことはいいから、お前は、逃げろ」と。こう書くと、愛犬家の人には叱られそうだが、
犬のために、自分の命を落すことはない。

【付記】

 犬の飼い方にも、いろいろあるようだ。いっしょに同じふとんの中で寝る人もいるとい
う。あるいは、いつもいっしょに、風呂に入っている人もいるという。

 しかし私のばあいは、ハナを、庭で放し飼いにしている。私自身は、家の中で飼っても
よいと思っているが、ワイフが、いやだという。「猟犬なんだから、できるだけ自然に近い
環境のほうがいいのよ」と。ワイフは、いつもそう言っている。

 そういうわけで、一応、私は、人間と犬の間には、一線を引いている。人間は人間だし、
犬は、犬。いくらハナが好きといっても、ハナと息子たちとは、ちがう。家族の一員であ
ることにはちがいないが、ハナは、人間のような家族ではない。ペットというふうには考
えたことはないが、しかし「友」でもない。

 そんなわけで、やはり、高波が襲ってくれば、私は、ハナのことはかまわず、一目散に
逃げるだろうと思う。ハナには、悪いが……。


●運動と知力

 正月休みになって、運動量がぐんと、減った。どこか、体がだるい。知力も衰えた。新
聞を読んでも、ただ活字を流し読みしているといった感じ。ぼんやりと見ているだけ。

 ふだんなら、「ああでもない」「こうでもない」と、自分なりの意見が、頭の中にわいて
くるものだが、それがない。平和と言えば平和。悪く言えば、頭がボケてしまって、使い
ものにならない。

 あとで、ハナを連れて、中田島(砂丘)まで、散歩に行ってくるつもり。一汗、かく。(1
月4日記)


●人生の位置

 人生というのは、それを生きてみて、はじめて自分の位置がわかる。「位置」というのは、
いわば地図の上で、自分がどこにいるかという、その位置をいう。

 「あのときは、そういう位置にいた」とか、「あのときは、そういう方向に向っていた」
と。

 たとえば子育てについても、子育てをしている最中というのは、自分の位置がわからな
い。が、それが終わってみると、「ああすれば、よかった」「こうすれば、よかった」と思
うことが多い。つまり自分がどこで、何をしていたかが、よくわかる。

 それが「位置」である。英語で言えば、ポジションということになる。

 で、今、私は、自分の位置が、よくわからない。「これからどうなるのだろう」「どうす
ればいいのだろう」「どこへ向っているのだろう」と。

 そういうとき私は、私より、長く生きた人の意見を聞くようにしている。少なくとも、
今までは、そうしてきた。

 しかしここで、ハタと困ってしまった。というのも、今までは、それなりに自分の位置
を教えてくれた人がいたが、このところ、そういう人を見つけるのが、むずかしくなって
きた。50歳や60歳を過ぎると、みな一様に、頭ガボケるよう(失礼!)。進歩するとい
うよりは、この年齢を境に、退化し始める。

 未知の世界に足を踏み入れたときは、とくにそうである。

 たとえば今、私は、「電子マガジンを1000号まで出す」という目標をかかげている。
しかし心のどこかで、「1000号まで出して、それがどうなのか」という迷いがある。そ
こでそういう経験をした人をさがそうとするが、しかしそういう人がいない。そのため、
自分の位置がわからない。

 反対に、長くマガジンを出してきた人が、そのマガジンを廃刊したというような話を聞
くと、心底、ゾッとする。何かしら、自分が、たいへんなムダなことをしているように思
えてくる。「私も、ひょっとしたら、時間をムダにしているのではないか」と。ただの道楽
で終わってしまうかもしれない。

 ただ、そうであるかといって、自分の位置が、まったくわからないかといえば、そうで
もない。想像はできる。

 今まで、すでにマガジンを520号まで出してきた。折り返し点を過ぎた。1000号
までの半分である。そういう自分を振りかえってみて、今、思うことは、「やはり、ムダで
はなかった」ということ。

 一歩、一歩というよりは、一ミリ、一ミリという感じだが、何かに近づいている。そん
な実感は、たしかに、ある。

 ……というのは、一例だが、ともかくも、私は今、自分の位置がよくわからない。多分、
この時代を過ぎてみると、その位置がわかるようになるのだろう。が、今は、わからない。
たとえて言うなら、背丈の高い雑草に囲まれた平原に入りこんだような気分だ。空は雲っ
ていて、太陽の位置もわからない。

 私は、どこへ向っているのか? どこへ行こうとしているのか?

 車に取りつけられたナビゲーターのように、今、私はどこにいるのか、それを知る方法
があれば、ありがたいのだが……。しかしその方法は、あるのか……?


●ボケ兄・奮闘記(1・4)

 今日の午前中は、ボケ兄の病院めぐりで終わってしまった。が、食事の時間だけは、よ
く覚えていて、12時近くになると、「昼ごはんを食べたい」「食べないと、力が出ない」
などと言い出した。

 病院めぐりを途中で切りあげて、自宅へ。そして急いで食事の用意。

 その昼食を見て、「量が少ない」とか、「入院したときは、リンゴジュースがもらえた」「バ
ナナが食べたい」と、まさに言いたい放題。

 あげくのはてには、ご飯(ライス)を指先でさわってみて、「冷たい」「かたいご飯は、
胃によくない」などなど。

 そのたびに、ワイフが、「待っててね」「もう少しがまんしてね」と。数えたわけではな
いが、食事の前から、終わるまで、ワイフは、100回以上は、そう言ったのではないか?

 ワイフいわく、「ゆっくり食べるから、その間に、ご飯(ライス)が冷えてしまうのね。
それをかたいと言うのよ」と。

 昼からは、しばらく自分の部屋で静かにしていたが、やがて居間にもどってきて、「電蓄
(ステレオセット)の音が出ない……」と。

 見に行くと、私の貸してあげた高級ステレオが、こわれている! どうやらカセットテ
ープをさかさまに入れて、無理にフタをしてしまったらしい? あれこれ操作してみたが、
ウンともスンとも動かない。

 ドライバーをもってきてなおすが、二つあるカセットテープのポケットの一つが、こわ
れてしまった。

 「もう、ここには、さわってはダメだよ。CDをかけるだけだよ」と言うと、しおらし
く「うん、わかった」と。が、部屋を出るとき振りかえると、もうカセットテープをかけ
ようとしている。私の言ったことなど、耳の中を、右から左へ抜けていくよう。

 恐らく、耳から入った情報が、ウエルニッケの左脳・聴覚野に格納される前に、どこか
へ拡散されてしまうようである。しかもその情報が、大脳で処理加工されない。そんな印
象をもった。

 ボケ兄の二大症状。軽いボケと、わがまま。前者はしかたないとしても、後者には、正
直言って、腹が立つ。

 午後5時20分(自分で、夕食時刻と決めている)を過ぎると、とたんに不機嫌になる。
台所のテーブルに座ったまま、動こうともしない。そのくせ、何か仕事を頼むと、「足が痛
い(だからできない)」「腹がへった(だから動けない)」などと、矢継ぎばやにぶつぶつ、
言う。

 そして昼食のときも、そうだったが、まず、ご飯(ライス)だけを先に食べてしまう。
そのとき、おかずだけが残る。つまりご飯だけで一度、満腹状態にしたあと、さらにおか
ずをそえて、ご飯を食べる。

 量的には、ボケ兄は、私よりずっと体が小さいのだが、軽く、私の2倍は、食べる。腸
の中で、栄養分が、うまく吸収されないのかも。

 そういうボケ兄をもったとき、人の心は、神と悪魔の間を、行ったり来たりする。「かわ
いそうに」と同情してみたり、「バカヤロー!」と怒鳴りつけたくなってみたりする。

 しかし大切なことは、悪魔になってはいけないということ。ボケ兄が、自分の部屋のこ
もったあと、私とワイフは、ボケ兄の行状をあれこれ思い出しては、笑った。

ワイフ「毎回、30分近くかかって、ご飯を食べるでしょう。それでご飯が冷えてしまう
のね。それで文句を言うのよ」
私「ハハハ」
ワイフ「コンセントをつなぐとき、コンセントを、そのコンセントにつなぐのよ。それで
ステレオがならないと文句を言うのよ」
私「ハハハ」と。

 わかるかな?

 コンセントは、壁のコンセントにつながなければ、電気は流れない。そのコンセントを、
そのコンセントにつなぐ。だから電気など、流れるはずがない。だからそのコンセントに
ステレオのコンセントをつないでも、なるはずがない。

 ハハハ、ハハハ。

 「ボケ兄」と書いたことについて、「自分の兄のことなのに!」と怒る人もいるかもしれ
ない。しかし実際のところ、私とワイフの2人がかりで、まさに24時間体制で介護をし
ている。

 まともな神経では、務まらない。「ボケ兄」と呼んだところで、神様も、仏様も、それほ
ど、怒らないだろうと思う。つまりそれくらい、ボケた人には、手間や世話がかかるとい
うこと。おかげで今年の正月は、外出は、なし。初詣もなし。だれが、初詣なんかに、行
くものか!

 ……ということで、ここは笑って過ごすしかない。笑って、悪魔を退散させるしかない。

で、たった今、そのボケ兄が、「風呂へ入る」と言い出した。今夜も、体を洗ってやらね
ばならない。しかしどうせするなら、楽しく、明るくしたい。しかたないね。

(付記)

 風呂といっても、スンナリとはいかない。「(湯が)熱い」「冷たい」「寒いから、風邪を
ひく」と。洗ってやっても、「乱暴だ」「痛い」と。さらに湯を抜いている最中から、また
つぎの湯を入れ始める。

 まあ、たいへん。しかしここはやはり、笑ってすます。ハハハ。しかし……。いつかす
ぐ、私もああなるのか? それを考えると、ゾッとする。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●飲食店、冬の時代

 バブル経済がはじけ、日本中が不況の大嵐に見舞われたときでも、この浜松市だけは、
元気だった。ホンダ、スズキ、ヤマハなどの大会社が、がんばった。

 しかしその陰(かげ)りが見られるようになったのは、5、6年前の正月から。年末の
にぎわいが終わったとたん、飲食店街では、閑古鳥が鳴くようになった。それは見ていて、
つらいほどのさびれようであった。

 ふつう飲食店の平均原価率は、大衆店で40〜42%、中級店で38〜40%だそうだ
(「お店のカラクリ」青春出版社)。

 平均して40%。たとえば1000円の料理なら、400円ほどが、原価(材料費、調
理費)ということになる。「安ウマ系の店といえども、原価は、半額もかけていない」(同)
そうだ。

 が、それでも大不況。原因はいろいろ考えられるが、不況に加えて、店がふえたこと、
その分、客が減ったことなどがあげられる。では、どうすれば生き残ることができるか。
私は、ごく平均的な庶民だが、その庶民の視点で考えると、こうなる。

(1)いかにリピーターをとらえるか

 新しい店が開店すると、もの珍しさで、まず入ってみる。しかし開店当初は、さける。
混雑している。そこで開店してから、1〜2週間くらいたってから、行く。「行ってみよう
か」「行ってみよう」ということで、行く。

 この1回目で、印象が悪いと、それまで。そのとき、「二度と来ないぞ」と心に誓ってし
まうこともある。そう誓ったら最後、私たち夫婦のばあいは、二度と行かない。誘われて
も、行かない。

 この世界には、「6か月なだれの法則」(同書)というのもあるそうだ。つまり開店から
6か月目が勝負、と。6か月目を境に客が、なだれるようにふえれば、よし。そうでなけ
れば、閉店も近い、と。

(2)気をつかう店は、さける

 食事は気楽に、が、私たち夫婦の最大の関心ごとである。そのため、知人が開いている
店には、行かない。(知人の店ほど好んで行く人もいるそうだが……。)気をつかうからで
ある。

 食事は、だれにも干渉されず、気楽に食べたい。まわりに知りあいがすわったとたん、
窮屈に感ずることがある。そういう可能性のある店には、行かない。毎日無数の親や子ど
もたちに接しているので、食事くらいは、静かに食べたい。そういう思いが強く働く。(性
格が暗いせいかな?)

(3)もうけ主義の店には行かない

 私たち夫婦のばあいは、仕事のこともあって、月曜から金曜日までの5日間の食事のう
ち、昼食はほとんど外食。夕食の半分も外食。単純に計算して、15食(3食x5日)の
うち、7〜8食は、外食ですませている。

 そういうこともあって、飲食店を見分ける目は、鋭い。私たちが、「いい店だ」と判断し
た店は、そのあと必ず繁盛する。しかし「?」と思った店は、そのあと1〜2年のうちに、
必ずつぶれる。

 ポイントは、いくつかある。

 プロ意識……安ウマ店は別として、私たちは、プロ意識を尊重する。ごまかして作った
ような料理は、すぐわかる。そういう店には、二度と行かない。

 雰囲気……明るくて清潔であることは、第一条件。値段と(でき)を、即座に判断する。
値段が高くても、それなりのものなら納得する。そうでなければ、怒って、おしまい。気
取った店、主人のレベルの低さを感じさせる店には、行かない。

(一度、外から中をのぞいたら、大きく鼻クソをほじっていたコックがいた。ゾッとし
て、そのまま玄関先でUターンをしてしまったことがある。)

 要するに、もうけ主義の店には、行かない。私たちには、それを瞬時に、かぎ分ける。
動物的なカンがある。

 しかし一番困るのが、知人から、その知人が開いた店に招待されること。その店が気に
入ればよいが、そうでないときに困る。そのままその知人とは、気まずい関係になってし
まう。

先日も、ワイフの知人が、マンションの一階で、喫茶店を開いた。で、やむにやまれず、
ワイフと2人ででかけた。

 つくりは、最悪。喫茶店というより、安物のスナック風。場所も悪く、値段も高かった。
一度でこりて帰ってきたが、そのあとも何度か、ワイフには、その知人に来るようにと、
催促の電話がかかってくるという。つまりそのたびに、断るのに四苦八苦している。

 そういうこともある。

 そう言えば、寿司屋も、今、たいへんなようだ。これだけ一皿100円の開店寿司店が
多くなると、「では、今まで、寿司屋で食べていた寿司は、何か」ということになってしま
う。私たち夫婦も、招待されたとき以外は、そういう寿司屋で寿司を食べたことがない。

 で、その寿司屋の寿司は、昔は、玉子焼きで力をみたが、今は、コハダ、あなごで、味
をみるのだそうだ(同書)。最近は、玉子焼きは、中央市場などで仕入れることが多いそう
で、味の区別はできない。が、コハダやあなごは、それだけ仕込みに手間がかかるため、
味を知るには、その店の力を知るためには、よい方法なのだそうだ。

 ついでに回転寿司店では、マグロと、ワサビを見れば、その店のよしあしがわかるとか。
ナルホド!


●ハイテク監視

 ボケた兄のために、部屋に、ハイテク装置を取りつけた。パソコンに連動して、兄の行
動を監視するようにした。部屋の中で何か、動きを感知すると、自動的でカメラが作動し
て、パソコンがそれを記憶する。

 まあ、たったそれだけの装置だが、結構、設定に手間取った。

 何となく、人権無視の感じがしないでもないが、しかし私たちにしても、24時間、兄
を監視しているわけにはいかない。買い物にも行かねばならない。私の仕事も、近く、始
まる。一応、兄の行動パターンを知っておく必要がある。

 その装置をつけたあと、私とワイフは、あえて外出した。兄には、先端恐怖症があって、
気分が悪いと(?)、その先に火をつけるクセがある。わかりやすく言えば、放火癖。その
ため、家中から、マッチやライターは、すべて始末した。

 で、4時間後、家にもどった。遠くから我が家を見ながら、「火事になっていなくて、よ
かった」と。

 で、カメラは、正常に作動していた。

 パソコン上で、再現してみると、結構、兄は、部屋のあちこちを動き回っていることが
わかった。詳しくは、それこそ兄の人権にもかかわることなので、ここには書けない。し
かしそれを見たあと、ワイフとこんな会話をした。

私「結構、いたずらしているよな」
ワイフ「ホント! 私たちがいないところでは、平気で歩けるみたい……」
私「まあ、いたずらといっても、害のないいたずらだから、このへんはおおらかに考えて
やろうか」
ワイフ「そうね」と。

 今のところ、家の中をウロウロしているだけ。そのうち徘徊(はいかい)でも始まった
ら、新しいハイテク装置を導入するつもり。自動位置表示装置とか、そういうもの。こう
なれば、兄のボケと、私の英知の、まさに知恵くらべ。ハハハ。私は負けないぞ!

 数日前から、その兄に、足踏み器で足の運動をさせている。10回踏んだら、丸を1個
つけさせる。こちらのほうは、まじめに(?)こなしているようだ。このあたりの指導は、
私は、プロ。幼児を教える方法が、そのまま役にたっている。

(付記)

 幼児教育と、老人教育(指導)のちがいは、未来がある、なし、ということか。幼児教
育は、つまりは未来に向かってするもの。一方老人教育は、過去を維持するためのもの。
幼児教育はそのため、明るい。しかし老人教育は、暗い。(多分? 私には経験がないので、
よくわからない。)

 しかし老人教育などに、どんな意味があるのか? かりにボケの進行を、1年遅らせる
ことができたとしても、その老人にとって、その1年には、どんな意味があるのか? (だ
からといって、命を粗末にしてよいと言っているのではない。誤解のないように!)

 私は、この分野については、考えたことがないので、よくわからない。しかしこれだけ
は言える。

 老人も、その命を、社会のために還元していくという姿勢がないと、そのうちみなに、
嫌われるようになるということ。粗大ゴミとして扱われるようになる。わかりやすく言え
ば、まわりの人に役立つ老人にならねばならない。自分勝手でわがまま、「私さえよければ」
という老人は、嫌われる。

 やがて老後を迎える私にしても、これは切実な問題である。

これからの人生は、自分のためではなく、みなのため。少しずつでもよいから、そうい
う姿勢を養っていこう。

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