はやし浩司(ひろし)

2005・3
はやし浩司
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2005年 3月号
 はやし浩司


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 30日(No.548)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教科書改革

 恩師のT先生が寄せてくれた論文の中に、こんな一節があった。

 『一般、欧米の教科書は写真もきれいだし、化学独自の考え方を手をつくしてきちんと
わかりやすく説明されている。各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によ
っては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話しなど、いろいろな興味ある、身近な
話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます
好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。

欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に1度教科書を変えるとすると
しても、その実質的な費用は5分の1になる。欧米で広くやっていることが、どうして
日本ではできないのか』と。

 欧米では、アメリカでも、ヨーロッパでも、子どもたちが学校で使う教科書(テキスト
ブック)は、「学校の備品」ということになっている。

 中学校で使う数学の教科書(テキストブック)は、そこらの百科事典ほどの分量と重さ
がある。カラーで、説明も、親切で、ていねい。そのため、わかりやすい。

 だから、生徒たちは、日本の子どもたちのように、重い教科書(テキストブック)を、
カバンにつめて、学校と家の間を、もち運ぶということをしない。

 ここであえて「教科書」に、(テキストブック)という言葉をつけた理由は、アメリカや
欧米には、日本でいう、「教科書検定制度」がないことをいう。現場の教師、あるいは学校
ごとのPTAの自由裁量によって、その学校で使うテキストブックが、採用されている。

 日本も、そうしたらどうか?

 何も、生徒一人ひとりに、教科書を無料で配布したり、買わせたりする必要はない。学
校に備品として置いておけば、みんなで使える、仲間意識も、そこから生まれる。もちろ
ん費用(税金)も安くすむ。仮に5年に1度改定するとしても、費用は、5分の1。その
分だけ、教科書を、分厚くすることもできる。

 こう書くと、「家での学習は、どうするのか?」という質問が出てきそうである。「教科
書なしで、どうやって、勉強するのか」と。

 しっかりと調査したわけではないが、今どき、家で、教科書を開いて勉強する子どもな
ど、ほとんど、いない。算数の問題や、国語の漢字の書き取りなどで、教科書を開く子ど
もはいるが、それとて、宿題になっているから、そうしているだけ。

 宿題の部分だけは、プリントですますことができる。どうしても家庭で、勉強というこ
とになれば、の話だが……。

 進学塾でも、学習塾でも、学校で使う教科書をテキストに使っているところは、まず、
ない。つまり学校で使う教科書は、それほどまでに、中身が、ない! 使いものにならな
い! ……という事実に、まず、親の私たちが気づくべきである。

 T先生は、こうも書いている。

 『日本のように、これ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制がなぜ必要
なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。

現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。ばあいによっては、ここ
を読んでおけ、でもいいのではないか。生徒のレベルに応じて、先生が好きなように教
えればいいのである』と。

 まったく、同感である。つまり日本の教科書は、まさに官僚意識、まるだし。「やるべき
ことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。それが、「必要最小限のことは、教
える。しかし余計なことは教えない」となった。

それをT先生は、「日本のように、これ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な
規制がなぜ必要なのだろうか」と、疑問を呈している。これについても、まったく同感
である。

 ここでの結論。

(1)教科書検定制度の廃止。全体主義国家的教育観からの脱却。
(2)教科書は、テキストと呼び、学校の備品とする。テキストの多様化。
(3)図書室を拡充し、自学、自習の学習態度を、もっと養う。
(4)教師が現場の教育に専念できるよう、余計な負担を減らす。
(5)現場の教師の自由裁量を、さらに推進する。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●私の老後

 若いころ、50歳のくらいの人たちが、みな、老人に見えた。しかし私自身が、その5
0歳になったとき、私は、自分のことを、老人とは、とても思えなかった。この状態は、
57歳になった今も、同じである。

 が、それだけではない。若いときは、いつもまわりに友だちがいて、ワイワイと騒いで
いた。が、歳をとるにつれて、友だちは減り、かわって、孤独が身を包むようになった。

 こういうときというのは、どうも、心がセンチメンタルになる。以前、書いた原稿を、
読みなおす。

++++++++++++++++++

●マダム・バタフライ(再録)

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。ジャコモ・プッチーニのオペラである。
私はあの曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。遠い昔、長崎からきた女性
に恋をしたことがあるからか。色の白い、美しい人だった。本当に美しい人だった。その
人が笑うと、一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。その人はいつも、春の陽光
をあびて、まばゆいばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治
にかけての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。そこで海軍士官のピンカートンと知
り合い、結婚。そして男児を出産。が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。先の歌は、そ
のピンカートンを待つマダム・バタフライが歌うもの。今さら説明など必要ないかもしれ
ない。

 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」も
すばらしい。少しだが、若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。ロメオとジュ
リエットがはじめてベッドで朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。「喜びの日が、モヤのかか
った山の頂上で、つま先で立っている」と。

本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の頂上にモヤにかかっている。モ
ヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はやはりそのシーンになると、
たまらないほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエッ
ト」はすばらしい。私はあの映画を何度も見た。ビデオももっている。サウンドトラッ
ク版のCDももっている。その映画の中で、若い男が、こう歌う。ロメオとジュリエッ
トがはじめて顔をあわせたパーティで歌う歌だ。

 「♪若さって何?
   衝動的な炎。
乙女とは何? 
氷と欲望。
世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前、「息子が恋をするとき」というエッセ
ーを書いたので、このあとに添付しておく。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。短い曲だが、映画
の最後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。

いつか電撃に打たれるような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。
かなわぬ夢だが、しかしそういうロマンスだけは忘れたくない。いつか……。
(02−10−5)※

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●息子が恋をするとき(中日新聞投稿済み)

息子が恋をするとき

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今まで
の人生の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あ
の子がねえ」と笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際している
と、相手の女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。

「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズが
つくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転
車屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしな
かった。が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつ
まずきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く…
…」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の
中で、若い男がそう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲
が私たちの心を打つかと言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではない
のか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が一億円も二億円
もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせ
る。一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金
を涙ながらに訴える。暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都や
F国政府から、日本を代表する文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受
け、身も心も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つ
かむことができる、「真実」なのかもしれない。

そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちがっているという
のなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえない。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見
る観客は、その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他
人の恋をいとおしむ涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に
広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこ
うつづく。

「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて
寝ていた。六月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こ
なごなになってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感
と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれ
が今、たまらなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎
えてやろうね」と。それに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。
私も、また笑った。

++++++++++++++++++++

 「人生は葉巻のようなもの」と言った人がいた。人生は、葉巻と同じで、吸い始めのと
きだけが、うまい、と。

 しかし本当にそうだろうか?

 もし今、ここで神様か何かが、私に、「もう一度、お前を、青春時代に戻してやる」と言
っても、たぶん、私は、それを断るだろうと思う。それはウナ丼を二度、つづけて食べる
気分に似ている。一度でたくさん。こりごり。

 ただ悔やまれるのは、私は、20代、30代のころ、愚にもつかない仕事を仕事と思い
こみ、時間をムダにしたこと。教材制作が、それである。

 私はある時期、毎週のように、ある出版社に顔を出し、教材制作の手伝いをしていた。
結構、お金にはなったが、結局は、何も残らなかった。利用されただけ。そんな感じさえ
する。

 それはそれとして、では青春時代が、今よりまさっているかと言えば、そうとは言えな
い。老齢期を迎え、そしてその先に「死」を感ずるようになった今のほうが、若いときよ
り、ずっと、時間を大切にしている。生きる、密度そのものが、ちがう。

 ヒントを得るために、梶山健氏編集の「世界名言辞典」(明治書院)に目を通す。

★「若い時代に数千の帆柱を押し立てて船出したその港へ、老いさらばえて、救いのボー
トに助けられ、ひと知れず帰ってくる」(シラー「実現と期待」)

★「老人になって耐えがたいのは、肉体や精神の衰えではなく、記憶の重さに耐えかねる
ことである」(モーム「人間の絆」)

★「しわとともに、品位が備わると、敬愛される。幸せな老年には、言い知れない黎明(れ
いめい)がさす」(ユー・ゴー「レ・ミゼラブル」)

 大切なことは、最後の最後の、そのときまで、前向きに生きるということか。人は、歳
をとってはじめて入ることができる世界に入る。いわば、老齢は、その世界への入場資格
ということになる。

 たとえば若いときというのは、がむしゃらに生きることはできても、その生きることか
生まれる「美しさ」までは、わからない。さらに「生きることのすばらしさ」までは、わ
からない。

 しかし老齢というチケットを手にして、その世界に入ると、あたかも劇場で映画を見る
かのように、自分の過去を見る。そしてその生きることの美しさや、すばらしさを知るこ
とができる。

 先の「人生は葉巻のようなもの」という言葉に、一言、つけ加えるなら、葉巻のうまさ
が、本当に理解できるようになるのは、老齢になってからということになる。

 刻々と過ぎゆく人生。たまたま今は、たそがれどき。冬の冷たい曇天が、窓の外を暗く
おおい始めている。こういう時の流れの中に身を置くからこそ、生きることの尊さや価値
がわかってくる。

 わかりやすく言えば、人生を味わうのは、これからということ。これからが、人生の本
番ということ。それにくらべると、今までの人生というのは、まるでカスカスのフ菓子の
ようなもの。

 まあ、一つだけ願いがかなうとしたら、老齢は老齢として、できるだけ長く、今の状態
がつづいてほしいということ。今のところ、頭も、それほどボケていないようだし、(自分
でそう思っているだけかもしれないが……)、そこそこに健康である。成人病とも無縁。

 もう少しだけ長く、真理の追求をしてみたい。追求させてほしい。

 で、もし、それでもボケてしまったり、大病にかかってしまったとしたら……。昨夜も、
寝るとき、ワイフにこう言った。

 「ぼくは、そのときがきたら、いさぎよく、死ぬよ。ジタバタしない。みんなに迷惑を
かけたくない。だから今、悔いが残らないように、懸命に生きるよ」と。

 本当にそのときがきたら、さみしいと思うが、少しずつだが、その覚悟はできつつある
ように思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●さみしさ

 ある女性に、幼児の心理について、少し意見を書いたら、こう返事が届いた。

 「そういうことが書いてある本を紹介していただけますか?」と。

 何かのことで、子どもの教育にかかわっている女性である。

 私は、そのメールをもらって、何とも言えないさみしさに包まれた。「私の意見では、だ
めなのか?」と。

 で、そのさみしい気持ちをこらえながら、「こうした知識は、私が、自分の35年という
幼児教育の経験の中からつかんだものです」と、返事を書いた。

 もちろんその人に、悪気があったわけではない。文面やHPから察するに、善良な女性
らしい。それに教育熱心というか、知識欲が旺盛というか……。

 本来なら、つまりもう少しアカデミックな生き方をするなら、公的な場所で論文を発表
しながら、自分の主張を通すのがよい。それがこの世界では、正当な道ということになっ
ている。今では、数多くの、幼児教育学会がある。

 しかし私は、そういう世界には、若いときから、ほとんど関心がなかった。「幼児教育は
母親教育」と、自分に言って聞かせて活動したこともある。目が上ばかり向いている人も
いるにはいるが、しかし私の目は、いつも下ばかりを向いていた。

 それで、35年になった。

 で、あるときから、私は心に、こう決めた。「これからは、私を理解してくれる人のため
に原稿を書こう」と。名誉や地位などというものには、ハナから興味はなかったし、いわ
んや権威などというものは、私がもっとも嫌いなもの。

 しかし私ほど、最前線で、しかも下っ端で、幼児と接した教育者もいないだろうという
こと。今でもときどき、自分のしていることに自信をなくすことがある。そういうときで
も、私は自分にこう言って聞かせて、自分を励ます。

 「経験の数では、私の右に出るものはいない」と。

 それが私の意見になった。

 だからその女性には、「いい本があったら、また紹介しますよ」と返事は書いたものの、
実のとこと、そんな本は知らない。読んだこともない。ずいぶんといいかげんな返事だな
と思いつつ、その女性のことは忘れることにした。(ごめんなさい!)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

2年ほど前に書いた原稿を、
もう一度、ここに載せておきます。

+++++++++++++++++

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、30年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように30年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。

「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」
と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、80歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目
です」と。そういう女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835〜1910)も、こう書いて
いる。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。

私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代とい
うのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しなが
ら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
300万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そん
なある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。

「ここでの一日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオー
バーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時
期というのは、今、振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったとい
うことになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くするこ
とになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を
生きることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと1
年の人生と宣告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生き
ることができる。

極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに
死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、
悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含ま
れる。


+++++++++++++++++ 

●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場
になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつ
も七〜八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、
小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性
たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をして
いる姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも
生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」
と思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思
う部分は、「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分
は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだ
けなら、それは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。
そういう人生だったら、10年生きても、20年生きても、へたをすれば、たった1日を
生きたくらいの価値にしかならない。しかし「濃い人生」を送れば、1日を、ほかの人の
何倍も長く生きることができる。仮に密度を10倍にすれば、たった1年を、10年分に
して生きることができる。人生の長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間を
ムダにしていることか、ということになる。

私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまらないことで時間をムダにし
たりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、70歳や80歳の老人たちを
や! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その「山」が
あるのかないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。

いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれ
からもそれが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信は
ないが、できるだけ先へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少
ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で
考えられなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは
思わない。ボケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私
はもう真理に近づくことはできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今
の私がこう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつ
づけたい。だから空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしという
ふうにして過ごす人生だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑感・あれこれ】

●花粉症

 朝、起きると、連続して、はげしいくしゃみ。花粉症がなおったとはいえ、まだ、完全
になおったわけではない。

 そのくしゃみが一巡すると、目がかゆくなり、体がだるくなる。たまたま今朝は、ポッ
トからお茶をそそいでいるときに、くしゃみが始まった。それで、すべてお茶をこぼして
しまった。


●女・痔

 この地方の子どもたちは、「同じ」を、「おんなじ」という。「女・痔」と聞こえる。

 そこで昨日、年中児のクラスで、「男でも、痔(じ)になるよ」とからかってやった。「お
んなじ」「おんなじ」と、子どもたちが、言ったからだ。しかしだれも笑わなかった。(母
親たちは、笑っていたが……。)

 朝食のとき、ワイフとその話になった。

ワイフ「おんなじと言うのは、この地方だけかしら?」
私「G県では、言わないよ」
ワイフ「東京では、どうかしら?」
私「東京でも、言わないだろうね。よく知らないけど……」と。


●日本の映画

 韓国の映画の躍進がめざましい。それもそのはず。今、韓国では、国をあげて、映画制
作の振興をはかっている。多くの大学の多くには、ちゃんとした演劇学部がある。俳優に
なるための基本を、その基礎からたたきこんでいる。

私が知るかぎりでも、35年前でさえ、オーストラリアの小学校には、ドラマ(演劇)
という科目があった。もとろんアメリカにも、あった。

 それに引きかえ、日本は……?

 俳優の演技が、どれも演技、演技している? 喜怒哀楽の表現も、まさに、そのまま。「怒
っているときは、こういう表情をするものです」「悲しいときは、こういう表情をするもの
です」というような演技をする。この演技ぽさが、日本の映画を、つまらないものにして
いる。

 それにおかしな権威主義が、はびこっている。「昔からの俳優」「歌舞伎俳優」というだ
けで、主演になることが多い。

 日本の映画ファンも、多いことと思う。そして私のこうした意見に、腹を立てる人も多
いことと思う。もちろん、中には、すばらしい俳優もいる。「ラスト・サムライ」を主演し
た、WKの演技は、よかった。

 が、やはり全体としてみると、日本の映画は、つまらない。たとえば、日本の映画では、
いかにも知的レベルの低そうな男優が、学者や研究者の役をしたりする。「あんな学者は見
たことないけどなあ」と思ったとたん、興がさめてしまう。あるいは顔中、化粧で塗りた
くったような女優が、生活で疲れた女性を演じてみせたりする。

 どこか、無理がある。この無理が、ますます日本の映画を、おもしろくないものにする。

 で、ときどき、前評判などを聞いて、「今度こそ……」と思って、日本映画のビデオを借
りてくる。しかしそのほとんどに、失望。たいてい途中で、見るのをやめてしまう。

 自然な演技。ごく自然な演技。カメラや観客を意識しない、自然な演技。そういう演技
ができる俳優を名優という。が、これがむずかしい?

 私の好きな映画に、木下恵介監督の、『喜びも悲しみをも幾歳月』がある。あの中で灯台
守の有沢四郎を演じた、佐田啓二、妻のきよ子を演じた、高峰秀子らは、名優中の名優。
俳優自身の誠実さというか、人間性が、そのまま画面に出ていた。

 言いかえると、俳優は、俳優自身が、その心の持ち主でなければならない。にごった心
の俳優が、いくら誠実な人間を演じても、ピンとこない。ピンとこないところから、矛盾
が生まれる。事実、そのあと作られた、リメイク版の『新・喜びも悲しみ幾歳月』は、「こ
れが誠実な人間です」という演技ぽさばかりが目立ち(失礼!)、まったくおもしろくなか
った。

 話は変わるが、昼のワイドショーを見ていたときのこと。一人のキャスターが、あるタ
レントのハレンチ行為をあれこれと非難していた。しかしそれを非難しているキャスター
自身が、見るからにスケベそう。彼自身も、いかにも、そういうことをしそうな雰囲気を
漂わせていた。私はワイドショーを見ながら、こう思った。

 「自分だって、同じことしているんじゃないの?」と。

 つまりは人間性の問題ということになる。その人間性を磨かないで、うわべだけで演技
しても、演技は演技のまま。それを観客が見ぬいたとき、観客は、その映画から、一歩、
退いてしまう。俳優に、自分を注入できなくなってしまう。

 映画は、きわめて重要な文化である。芸術である。一本の映画の中に、その国の文化す
べてが集約されることも珍しくない。が、この日本では、俳優にしても、どこかのプロダ
クションが養成するのが、ひとつの流れになっている。

 ただ名声を求めるだけの俳優を並べて、映画をつくるのが、映画ではない。ある意味で、
映画ほど、恐ろしい芸術はない。文学にせよ、美術にせよ、それらは間に、本や絵を間に
置くことで、自分の表情を隠すことができる。

 しかし映画は、ちがう。その人の人間性が、表情を通して、そのままモロに出てくる。
演技とはいいながら、観客は、演技の向こうに、その人自身を見る。

 そういう意味では、アメリカ映画は、日本映画よりはるかに先を行っている。あるイン
タビュー番組の中で、ハリソン・フォードはこう言っていた。「外科医の役をすることにな
ったときには、病院へ行き、何日もかけて外科医の雰囲気を、研究(study)した」
と。

 こうした姿勢のちがいが、アメリカ映画を、おもしろいものにしている。何でもアメリ
カの映画産業が稼ぐ外貨は、日本が電子産業で稼ぐ外貨と同じだそうだ。映画は、立派な
産業にもなりえる。

それだけではない。100人の外交官が、100年かかってするような仕事を、1本の
映画がすることだって、ありえる。

 教育の分野について言うなら、その人を演ずることによって、別の人生を生きることが
できる。他人の立場でものを考える力を身につけることができる。その効果と意義につい
ては、これからの課題ということになるが、たとえばいじめられて苦しむ子どもの役を演
ずるだけでも、その子どもの、いじめについてのものの見方が変わるかもしれない。

 ところで私が子どものころには、「役者」という職業には、大きな偏見があった。職業に
よる差別意識が、まだ根強く残っていた。どう偏見があったかについては、ここには書け
ないが、私自身も、こうまで役者に対する見方が変わるとは、思ってもいなかった。

 「おとなになったら、タレントになりたい」と言う子どもは、今では、珍しくない。が、
私が子どものころには、まず、いなかった。「俳優になる」ことを考える子どもさえいなか
ったのでは……。そうした偏見が、日本の映画を、ここまで遅らせたとも言える。

 がんばれ、日本の映画人!!!

(補記)私の教室では、年に一度、「演技」というテーマでレッスンしている。表情や、感
情を、子どもたちに、表現させる。「うれしかったら、うれしそうな顔をしなさい!」と。

 心の状態と、表情が、一致している子どもを、幼児教育の世界では、「すなおな子ども」
という。

++++++++++++++++++

喜びも悲しみも幾歳月

俺ら岬の 燈台守は
妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って
灯をかざす 灯をかざす

冬が来たぞと 海鳥なけば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が
呼びかける 呼びかける

離れ小島に 南の風が
吹けば春来る 花の香便り
遠い故里
思い出す 思い出す

朝に夕に 入船出船
妻よがんばれ 涙をぬぐえ
もえてきらめく
夏の海 夏の海

星を数えて 波の音きいて
共に過した 幾歳月の
よろこび悲しみ
目に浮かぶ 目に浮かぶ
(木下忠司・作詞、作曲)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●介護疲れ、施設も深刻

 特別養護老人ホームの職員たちが、悲鳴をあげ始めている。職員の3割が、入所者に、
憎しみさえ覚えているという。

 このほど、連合のした調査結果によると、「3割の職員が、入所者に憎しみを感じ、過去
1年間に1割が、虐待、6割が入所者を縛りつけるなどの身体的拘束を経験していること
がわかった」という(04年、2〜4月、計300か所の特別養護老人ホームなどで調査)。

 入所者に憎しみを感じたことがある……29・5%!

 疲労度が強いほど、憎しみがまし、虐待や身体拘束をするケースが、高まる傾向がみら
れたとも。4段階別でみると、もっとも疲労しているグループは、41・3%にあがった
という。

 入所者を、ひもでベッドや車イスにしばりつける、睡眠薬で眠らせるなどの身体的拘束
については、原則として禁止されているにもかかわらず、全体の58・2%が、「拘束をし
たことがある」と答えている。もっとも疲労度の高いグループでは、67・7%と、答え
ている。(約7割だぞオ〜。)

 「虐待」というと、一方的に、職員に責任があるように思われがちである。(だからとい
って、虐待を肯定しているのではない。誤解のないように!)

 ただ、その一方で、わがままで、自分勝手な老人が多いのも事実。中には「手に負えな
い」老人もいるとか(特養でヘルパーをしている友人談)。職員に向って、怒鳴り散らすだ
けの老人も少なくないそうだ。

 さらにそこへボケが加わると、ものの考え方が、極端にジコチューになる。私と同居し
ている兄にしても、自分のことしか考えていない。食事の時間が少しでも遅くなると、パ
ニック状態になる。

 数日前も、たった15〜20分、(たった15分だぞ)、夕食の時間が遅れただけなのだ
が、時計の針を、すべて回してしまった。「時計が、狂った」「時計のハリが、合っていな
い」と。つまりそういう形で、食事の時間が遅れたことに、抗議する。

 もちろん料理の手伝いなど、何もしない。また食事が終わると、ソファの上に座って、
テレビを見ているだけ。私たちがニュースを見ていても、勝手にチャンネルを回してしま
う。まさに、「手に負えない」。

 そこで頭のボケた老人には、やさしい言い方は、通用しない。単語だけの、命令口調に
なる。またそういう言い方をしないと、動いてくれない。「自分の部屋に行く!」「ふとん
を敷く!」「寝る!」と。

 そして昼間コタツの中で寝ていることもあって、夜中、ゴソゴソと動き回っている。も
ちろん電気は、明々とつけっぱなし。

 そういう私の介護について、「林さんは、人間愛にあふれた人ですね」(掲示板)とほめ
てくれた人がいた。しかし、それはとんでもない誤解。私は、何も、好きこのんで、兄の
めんどうをみているのではない。しかたなしに、つまり見るにみかねて、しているだけ。

 で、こうした介護をするには、コツがある。

 第一のコツは、介護するときは、する。しかしそれ以外の時間のときは、完全に、兄の
ことを忘れる。「完全に」というところが、なかなかむずかしいが、しばらくしていると、
それができるようになる。

 第二のコツは、温情は禁物。心を鬼にして、対処する。

 最初のころは、兄のほしがるものを、食事に与えていた。が、そのうち、エスカレート
してきた。牛乳から始まって、カルxxや、ヤクxxなどの乳酸飲料。で、それを与え始
めたら、とたんに、腸がゆるくなったらしい。

 廊下で、下痢をするようになった。トイレへ行くまで、がまんできなかったのだろう。
つまり自己管理能力、ゼロ。だから献立は、こちらで考えるしかない。そうなる。

 風呂についても同じ。寒い夜は、「頭が痛い」「風邪をひいた」とウソを言う。で、兄の
言うままにしていたら、病臭というか、悪臭がプンプン。やっと風呂に入っても、体を洗
わない。そのため、頭は、フケだらけ。

 だから私がヒマなときに、強引に、風呂へ連れていき、私が、体を洗ってやる。本人の
意思など、いちいち確かめていたら、何もできない。

 特別養護老人ホームの職員の人たちは、それを仕事としている。虐待はいけない。それ
はそのとおりだが、かなりの、つまり人並みはずれた包容力がないと、この仕事は、勤ま
らないのでは? 加えて、介護する相手は、他人である。

 できることと、できないことがある。そのできることにも、限界がある。

 そこで話を一歩進めて、では、やがて老人になり、いつかは特別養護老人ホームの世話
になるかもしれない私たちは、どうしたらよいかということ。職員の方に嫌われて、温風
機器で、焼きころされたら、たまらない!

 つまりは、好かれる老人になるということか。すべては、ここへ行きつく。

 頭がボケるのは、しかたないとしても、老人は老人として、それなりに尊敬されねばな
らない。バカな老人になってはいけない。アホな老人になってはいけない。介護士の人た
ちが、自分たちより若いなら、それなりに、何かを教えることができる老人にならなけれ
ばならない。知恵や経験を話せる老人にならなければならない。

 さらに、介護士の人たちの人生相談にのったり、その世話をするくらいでなければなら
ない。またそういう老人を、自ら、めざす。

 「3割」という数字は、ショッキングな数字だが、しかし中身がよくわからない。入所
している老人の3割に憎しみを感じているともとれるし、10人の介護士のうち、3人が、
「憎しみを感じたことがある」ともとれる。よいほうに解釈すれば、後者なのだろうが、
まあ、人間だから、いろいろなときがある。

 前にも書いたが、老人介護をしていると、寛容と忍耐、同情と憎しみ、あわれみと怒り、
こうした感情が、混然一体となって、介護している人を襲う。廊下に落ちている大便を始
末しているときもそうだ。兄に、「もう、するなよ!」と言っても、兄には、その意味さえ
わからない。

 「ぼくじゃない」「犬かもしれん」「覚えていない」などと言って、逃げてしまう。そう
いうとき、瞬間だが、その大便の包んだ紙を、兄に投げつけたくなる。それを「憎しみ」
と言うなら、まさに、それは「憎しみ」ということになる。

 これから10年、20年をかけて、ますます老人の数は、多くなる。状況は、ますます
悪くなる。この問題は、私たちの年代の者にとっては、決して他人ごとではすまされない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 28日(No.547)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●真・善・美

 教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。その
基盤と方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。

 今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。若い人たち
は、真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思っている。
その価値がわからないどころか、その価値すら、否定する。

 しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。そしてそ
の価値にひれ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。

 そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていれ
ばよし。そうでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。

 「私は何のために生きてきたのか?」と。

 そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。そのときを予想しなが
ら、子どもの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。それが教育の目標。

+++++++++++++++++++++++++++

【補記】

 真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。ものを書
き始めたのが、40歳前後。それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くよ
うになったのは、そのあとである。

 現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づ
かなかったのか。どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。

 今となっては、ただただ悔やまれる。本当に悔やまれる。もっと早くスタートしていれ
ば、頭の働きだって、まだよかったはず。どこかボケかけたような状態で、そしてこれか
ら先、ますますボケていくような状態で、私に何が発見できるというのか。

 これは決して、おおげさに言っているのではない。本心から、そう思っている。

 だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・
善・美の追求を、今から始めてほしい。30代でも、20代でも、早すぎるということは
ない。

 今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。どんな本に目を通しても、出てくるのは、
ため息ばかり。「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。と、同時に、「後
悔」のもつ恐ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。

★読者のみなさんへ、

 つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。時間や健康、
それに脳ミソの働きには、かぎりがあります。余計なお節介かもしれませんが……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●幼児教育

 ロボットが、二足歩行で歩き、踊る時代になった。しかし驚くなかれ、私が、幼児教育
に接した、わずか、35年前には、ほとんどの人は、幼児が何であるかさえ、知らなかっ
た。

 幼児は、幼稚。よくて、おとなの卵。未完成で未熟な人間……そんな考え方が、支配的
だった。

 幼児教育の教材すら、ほとんど、なかった。35年前には、自閉症にしても、診断基準
すらなかったし、ADHD児にしても、騒がれ始めたのは、ここ10年である。(日本で、
厚生省が研究機関に依頼して、診断基準づくりを始めたのは、ほんの4年前。)

 私が「幼児教育をしています」と言ったら、「そんなのだれにでも、できるでしょう」と
返答した男がいた。(基本的には、こうした誤解は、変わっていないが……。)

 今でも、若い母親の大半は、そう考えている。それは会話などしなくても、雰囲気でわ
かる。だから私は、何も言わない。どうせ言っても、理解してもらえない。

 もし戦後の日本人が、モノづくりにかけるエネルギーの1000分の1でもよいから、
幼児、なかんずく、人間の研究に向けていたら、日本は、幼児教育の先進国になっていた
だろう。が、実情は、どうか。いろいろな問題をもった子どもが現れるたびに、その診断
基準すら、外国の文献に頼っている。日本人が自らつくりあげたものは、ほとんど、ない。
(まったく、ないのでは……?)

 もう30年前になるが、ある雑誌で、文部省の技官と対談したとき、その技官は、こう
言った。

 「なぜ、幼稚園で、文字教育を解禁しないのですか」と聞いたときのこと。「ハネがある
でしょう。ハネは、幼児には無理です」と。つまりトメ、ハネ、ハライを、幼児に教える
には、無理だから、と。

 そこで私が「毛筆時代は、もう終わりに近づいています。どうしてハネを無視しないの
ですか」と聞くと、「日本語には、日本語の美しさがありますから」と。

 世界広しといえども、就学前の子どもで、文字教育を受けないのは、日本人くらいなも
のだった。(ついでに、発音教育も!)

 いまでも幼児教育というと、遊戯やお絵かき、年間行事を追いかけることだと思ってい
る人は多い。小学校へ入るための準備教育と考えている人もいる。しかしそれは誤解とい
うより、まちがい。幼児教育の奥深さは、パソコンにたとえるなら、OS(オペレーティ
ング・システム)のプログラミングほどの深さがある。

 それを理解してもらえない歯がゆさは、キーボードもまだ叩けないような人に、C++
言語の話をするときに感ずる、それに似ている。そこで私のすべきことは、親を飛びこし、
子どもの中に、微妙な問題点をみつけ出し、臨機応変に、それに対処していくこと。

 が、だからといって、親を責めているのではない。どんな親も、幼児教育には、まった
く無知なまま、子育てを始める。私もそうだったし、私のワイフも、そうだった。

 親が、自分を知り、さらに、自分の子どもを知るのは、子育ての最中ではない。そのと
きは、ただ忙しくて、毎日が夢中のまま、過ぎていく。親が、自分を知り、さらに、自分
の子どもを知るのは、子どもが親離れし、親が子離れし、ほっと、息をつくころ。

 少し前だが、こんな手紙をくれた母親がいた。

 「息子が高校受験に合格した夜、はじめて、息子の原点は、はやし先生が作ってくれた
のだと気づきました。ありがとうございました」と。

 私はその手紙を読んだとき、涙を流した。幼児教育というのは、そういうものである。
(050303)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。楽しい。そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。しかしそういう人が、本当に
他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行
動する。「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝
されるだろう」と。さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもら
えるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。自分をよく見せるた
めに、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。しかしフリは、フリ。中身がな
い。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。無意識下のエゴイズムを
いう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエ
ゴイズムがある。表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識するこ
とができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。その人の心を、
裏から操る。そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末
那識を、強く戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちであ
る。しかしそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべき
ものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。
どこまでも自分勝手でわがまま。「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。
「大切なのは、私だけ。あとは、野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰り
かえしになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしてい
た。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たま
たま知りあいだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。町の中で、
クラブ制の窯(かま)をもっていた。教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手
として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、
あれよと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家とし
て、全国に、名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏
なままのはず」「私が才能をみつけてやった」と。そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には
1円もくれない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。が、
その親切は、ある意味で、計算されたものだった。本当に親切であったから、Xさんは、
その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それに一言、つけ加えるなら、その男
性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身の才能と努力によるものだっ
た。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。Xさんが、
「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界では、末
那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題
にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、
偽善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。
介護士の資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いてい
た。もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分の
ものにした。そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。またYさんを、非難している
わけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励まされた人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見え
る。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。また
それを生きがいにしていたわけでもない。Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだ
け」を考えながら、介護の指導員として活動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほ
ど、心地よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんのところへ、ある日、夫が、夫の兄を連れてきた。Yさんの義兄ということにな
る。この義兄は、身寄りがなく、それに脳梗塞(こうそく)による軽い障害もあった。ト
イレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態だった。
年齢は、73歳。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうち
に、今度は、義兄を虐待するようになった。風呂の中で、義兄が、大便をもらしたのがき
っかけだった。

 Yさんは、激怒して、義兄に、バスタブを自分で洗わせた。義兄に対する、執拗な虐待
が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。同じものしか与えない。初夏の汗ばむような
日になりかけていたが、窓を、開けさせない。風呂に入らせない。義兄が腹痛や、頭痛を
訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をか
ぶっていたことがわかったという。姉は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかな
いからね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、
しかしそこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉で
ある。昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。子ど
もを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」
としてみる。またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活
をするのは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んで
も墓の中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。私たちは、ともすれば、
「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。しかしこうした
(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。しかしそれに近い、代償的過保護となると、
「あの人も……」「この人も……」というほど、多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。
愛情が基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自
分の支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護とい
う。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。しかし大きくちがう点は、代
償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に
狂奔する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。
人格さえ認めていないことが多い。自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要する
こともある。世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、
子どもの姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。子どもに対する
偽善といってもよい。勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくる
わよ。SS中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いてい
るのよ。わかっているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。偽善だらけといってもよい。教育システムそのものが、
そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育
という原点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。教師は、いったい、何%
いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。教育イコール、
進学。進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となってい
る。今でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。数年前も、関東地
方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その進学率を誇
っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心
的であるから、そうしているのではない。毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷
しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。どの私立中高校も、進学のための
特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不
公平感である。それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、
ともかくも、偽善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考え
てよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。文明という、つまりそれまでの人間が
経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そうさせたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。スズメたちの世界は、実に単
純、わかりやすい。礼節も文化もない。スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きて
いる。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言って
いるのではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方
で、(人間らしさ)を追求してきた。偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせ
よ、人間がそれをもつようになったのは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。「私は私であるか」と
問うてみるのもよい。「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親
について言うなら、「本当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」
と問うてみるのもよい。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、
ついで、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。悪もある。その悪が、ゴ
ミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるのも、文明人の心構え
の一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末
が悪い。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「xxxx」を読んで……

 どういうわけか、ポロッと、古い本が、出てきた。「アレッ」と思って表紙を見ると、2
0年ほど前に買った、単行本(新書版)だった。タイトルは、「xxxx」。

 そのときは、1ページごとに、頭をハンマーでたたかれるような衝撃を受けた。著者は、
ST。今まで気づかなかったが、M大学の元学長だったそうだ。奥付を読みながら、ふと、
「今でも生きているのだろうか?」と思った。

 ほぼ20年ぶりに、その本を読みなおす。「感動よ、再び……」と思って、読みなおす。
が、読めば読むほど、「そうかなあ?」と思ってみたり、「私なら、こう書くのに……」と
思ってみたりする。

 奥付から計算すると、ST氏が、60歳くらいのときに、書いた本ということになる。
当時は、週刊誌にも連載記事を書くなど、よく知られた評論家だった。そのST氏の書い
たことに、「?」をもつようになったのは、それだけ私に、「私」ができたためか。それと
も、私に、「クセ」ができたためか。

 本の内容より、そうした自分自身の変化のほうを知ることが楽しい。その本は、いわば、
私の心のカガミのようなもの。20年ほど前の私の心を、その中に、映(うつ)し出して
くれる。

 このところ、ヒマさえあれば、その本ばかり、読んでいる。

(追記)ST氏のことを、ヤフーで検索してみたが、同姓同名が多くて、消息を知ること
ができなかった。多分、もうなくなってしまったのかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●目的

 目的のない人生は、地図の上で、右往左往するようなもの。へたをすれば、同じ場所を、
ぐるぐると回るだけ、ということになりかねない。
 
 そこで、目的ということになる。この目的が、その人を、前にひっぱっていく。進むべ
き、方向を決める。が、ここで注意しなければ、ならないことがある。つまり「だからそ
れがどうしたの?」という部分がないまま、我欲を追求する。それは、ここでいう「目的」
ではない。

 たとえば、おいしい料理を食べる。
 たとえば、すばらしい高級車に乗る。
 たとえば、きれいな服を着る。

 そのとき、ほんの一言でよいから、自分に問うてみる。「だから、それがどうしたの?」
と。

 ほとんどの人は、その時点で、がく然とするはず。それもそのはず、ほとんどの人は、
ほとんどの時間を、目的など考えないで、過ごしている。「ただそうしたいから、そうして
いるだけ」「ただ、そうできるから、そうしているだけ」と。

 それが悪いというわけではない。「生きる」ということは、そうした日常生活の積み重ね
の上に、成りたっている。が、それでは、満足できない。そこで私たちは、その中から、
自分の目的をさがし始める。もう少し、順を追って、説明してみよう。

 たとえばA氏は、車に、関心があった。そしていつか、ドイツのBxx車を買いたいと
願っていた。

 そこでA氏は、いつもより懸命に働き、そしてお金をためた。ためて、念願のBxx車
を手に入れた。

 つまりA氏は、Bxxを買うことを目的とした。それで働いて、その車を手に入れた。
A氏にすれば、A氏の目的を達成したことになる。その車は、A氏のものになった。

 が、この段階で、もしA氏が、自分に、「だからどうしたの?」と、問うてみたとしたら、
どうなるだろうか。

 毎日、ワックスをかけて、ピカピカにみがくのが楽しい。
 毎日、近くの行楽地を走ってみるのが、楽しい。
 毎日、知人や友人を助手席に座らせて、ドライブするのが、楽しい。

 それはわかる。しかし、それがどうしたの?

 昨日、子ども(生徒、小3)たちと、こんな会話をした。

私「おとなになったら、何になりたい?」
A「野球の選手」
私「野球の選手になって、どうする?」
A「有名になって、お金を稼ぐ」

私「お金を稼いで、どうする?」
A[ほしいものを買う]
私「ほしいものを買って、どうする?」
A「(ほしいものが、手に入れば)、うれしい」と。

 しかしそれで心の満足は得られるのだろうか。……と考えたが、それは言わなかった。

私「がんばって、野球の選手になれよ。応援するよ」と。

 つまり、こうした我欲の追求は、「目的」ではない。たとえば織田信長。今でも、織田信
長を信奉する政治家や、実業家は多い。それはわかる。信長自身は、毛利遠征の途上に逗
留した本能寺(京都市)で、家臣の明智光秀に襲われ、自害した。そのため彼がめざした、
天下統一が、何であったのかは、今では、知ることができない。

 私の印象では、ただがむしゃらに、殺戮(さつりく)、平定を繰りかえしただけの人物で
はなかったかと思う。信長が、商工業者に、楽市、楽座の朱印状を与え、経済を活性化さ
せたとか、関所を廃止して、流通を自由にしたとかいうのは、あくまでも、自分の野望を
完成させるためにした、その結果論でしかない。

 信長が、日本人全体の、安寧(あんねい)と、幸福を考えて、天下統一をめざしたかと
いうと、そういうことは、ありえない。いくら歴史書を読んでも、そういう意図が、浮か
びあがってこない。

 つまり信長も、結局は、明智光秀に自害を迫られるまで、「だからそれがどうなの?」と
いう部分のないまま、生きたことになる。

 そこで再び、目的論ということになる。

 つまり私たちが「目的」としていることは、実は、目的ではなく、手段にすぎないとい
うこと。そこに気づけば、これらの問題は、解決する。

 「Bxxの車を買う」「野球の選手になる」「天下を自分のものにする」というのは、実
は、目的にたどりつくための手段にすぎない。

 では、目的は何かということになる。

 たとえばあのアンネ・フランクは、当時、ただの少女でありながら、こう、看破(かん
ぱ)している。

 We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet 
the same.
 (私たちは、みな、幸福になるという目的をもって、生きるのよ。みんなの生活は、み
な、ちがうけど、目的は、同じよ、と。

 つまり、「幸福になるのが、目的」と。

 今朝は、ここまでしか書けないが、ギリシャの劇作家のソフォクレスは、こう書き残し
ている。

 知恵のみが、幸福の最高の部分である。(Wisdom is the supreme part of happiness. )
と。 

 モノや金ではない。知恵である、と。

 私は、このソフォクレスの言葉を、信じたい。この原稿のしめくくりとして、そしてあ
えて(?)、自分をなぐさめるために。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●Independent Thinker

 恩師のT先生が、「Independent Thinker」という言葉を教えてくれ
た。「子どもの教育の柱の一つである」と。

 訳すと、「独立した思想家」ということか。「思想家」というより、「自分でものを考える
人」という意味に近い(?)。

 それについて書いた原稿(中日新聞掲載済み)が、つぎの原稿。私は、この中で、「考え
ること」の重要性について、書いた。

+++++++++++++++++

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをな
す』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に
出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」
と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二
人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として
外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといっ
て、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならな
い。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識の
うちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には
考えることを他人に任せてしまう人がいる。

あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者
の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C
先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『わ
れ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まち
がっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしてい
るの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の
中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、
その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカ
ルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけ
させることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだ
とは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。
かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもという
のは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭
のよし悪しも関係ない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなこと
をする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教
育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み
教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本
山教育である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め
込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。

もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。戦後、日本の教育は
大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、
そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。

ロンドン大学の故森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。
自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない
自己判断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」(「コウ
とうけん」・98年。T先生、指摘)と警告しているという。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっ
ているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせ
て、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、
本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が
痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのた
め考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考
えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるというこ
ともある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。
また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテ
ーニュ(フランスの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私
は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書く
ということには、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++

 日本人ほど、依存性の強い国民は、少ないと言われている。裏をかえすと、日本人ほど、
independenceでない国民は、ないということになる。

 たとえばここ数日間、S武鉄道のX社長の話題が、巷(ちまた)をにぎわしている。X
氏が、株価の操作疑惑で、今日、東京地検に逮捕された(3・4)。

 それについて、テレビの報道陣が、埼玉県T市にあるS武鉄道の本社前に殺到した。そ
して会社にやってくる社員たちに、つぎつぎとマイクを向けた。しかしだれひとりとて、
自分の意見を言う社員はいなかった。

 みな、「わかりません」「ノーコメント」「答えたくありません」と。

 地位や立場もあるのだろう。それはわかる。しかし大のおとなが、だれひとりとて、何
も意見を言わないというのは、いったい、どういうことなのだろうか。私はその光景を、
見ながら、T先生が指摘する、「independence thinker」の問題は、
こんなところにもあると実感した。

 私たち日本人は、子どものときから、自分で考えて、自分で発言するという習慣そのも
のをもっていない? 静かで、従順で、先生の言うことを、ハイハイとすなおに聞く子ど
もほど、よい子どもとされてきた?

 つまりT先生の指摘する、「independence thinker」には、日本の
教育の根幹にかかわる問題を含んでいるということになる。言いかえると、いかにすれば
日本の子どもたちを、「independence thinker」にするかということ
を考えることが、日本の教育を変えていく大きな原動力になる。

 この「independence thinker」については、T先生の意見を、も
っと詳しく聞いたうえで、これからも深く考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

以下は、「子どもの世界」最終回のために書いた原稿です。

++++++++++++++++++++++

●「生きる」とは「考える」こと

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新
聞を届けてくれる。聞き慣れたバイクの音だ。が、すぐには取りに行かない。いや、時々、
こんな意地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中から引っ
張ったらどうなるか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載109回。この間、2年半余り。「混迷の時代の
子育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸4年になる。しかし新聞にものを書く
というのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。
反応も分からない。だから正直いって、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」
と怒っている人だっているに違いない。

私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野を歩いているような気分になった。果
てのない荒野だ。孤独といえば孤独な世界だが、それは私にとってはスリリングな世界
でもあった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しく
はないですが、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると「し
まった!」と思うことが多い。

女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にとって「生きる」というこ
とは「考える」こと。「考える」ということは「書く」ことなのだ。わたしはその荒野を
どこまでも歩いてみたい。そしてその先に何があるか、知りたい。ひょっとしたら、ゴ
ールには行き着けないかもしれない。しかしそれでも私は歩いてみたい。そのために私
に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないと分からない。大きな記
事があると、私の記事は外される。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくり
と私は起きあがる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出
ている朝は、そのまま読み、出ていない朝は、そのまま、また床にもぐる。たいていそ
のころになると横の女房も目をさます。そしていつも決まってこう言う。

「載ってる?」と。

その会話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありが
とうございました。
 
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●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○      
.        =∞=  // (奇数月用)11
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 25日(No.546)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。

法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自
分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自
分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん 
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そ
う言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかっ
たわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親
は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あ
なたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで
子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」と
いうタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たま
たまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩
いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

+++++++++++++++++++++++

 私たちは、人間として、相手がたとえ神であろうが、仏であろうが、過干渉されてはい
けないのです。過保護にされてもいけないし、溺愛されてもいけない。

 これから先、あなたのところにも、あやしげなカルトが忍び寄ってくるはずです。どう
か、みなさんも、どうか、くれぐれも、ご注意ください。

● われ思う、ゆえに、われあり。(デカルト「方法序説」)

 「思う」は、「考える」こと。英語でも、thinkは、思うというより、考えることを意味
します。オーストラリアなどでは、よく先生が、生徒に向って、「Have a thin
k!(考えなさい)」と言っているのを、耳にします。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●フランスに住んでいるSRさんからの報告

 フランスに住んでいる、SRさんから、フランスの教育事情について、こんなメールが
届いています。

+++++++++++++++++

はやし先生

お久しぶりです。
本当にご無沙汰してしまって、すいません。
毎日、メールをしようと思いつつ時が過ぎていくばかり。
今日のマガジンを読んで、今日こそは!と、メールしました。

足のけが、体調大丈夫ですか?
1月中旬から雷のためモデムが壊れ、修理に出して戻ってきたのが
1ヶ月後。その間どれだけマガジンを読みたかったことか。
マガジンによって心が癒されていたんだと、実感しました。

まずはフランスの事。6歳から日本で言う小学校に入るのですが
週間テスト、(暗記や朗読を含む)、大きな休みの前にある年に3回の
テストによって落第する可能性があるのです。
6歳に落第・・・と考えるとはやりテストの評価に厳しくなると思います。

できない教科は、家庭教師をつける人が多いです。
こちらでは塾は習い事。勉強は個人で家庭教師という感じです。
飛び級は幼稚園からあります。

知り合いには小学校で1学年飛び級をして、中学で1年落第という人もいるそうです。
大学入学資格バカロレアをとるのも大変なようです。
受かってから大学を選んだりします。
国によって本当に制度と考え方がちがいますね。

(中略)

今、仕事で日本語を教えていて、日本の文化よいところを伝えようと思っているだけに
現実の日本語は? 日本人は?
いろいろ考えています。

ここでもこの数ヶ月で日本人が増えました。
日本人が少ないせいか、はやし先生のいう、ジコチューな人もいます。
先生のマガジンを読むたびに、貴重な時間を大切な人と分かち合おうと思いました。
そう、みんな仲良くは難しいですね。
職場が一緒なだけに、彼女の前だと、やはり仮面をかぶった自分がいて
息切れがしそうになります。
でも、大丈夫。小さな問題ですよね。

こちらは例年にない寒さです。雪が降ったりして、冷えるのですが
ここB町はフランスの中でもまだ暖かい方なようです。

日本も寒いと聞きました。
足はもちろんのこと、無理しないようにお体ご自愛ください。

奥様にもよろしくお伝え下さい。
ちなみにK夫はまだ、私たちと川の字になって寝ています。次男は一人で一部屋ダブル 
ベッドで寝ています。

では、お元気で

フランス・SRより

+++++++++++++++++++

【SRさんへ】

 マガジンの原稿として、いただいたメールを利用してすみません。このところ、原稿を
書くスピードが、たいへん落ちてきました。本来なら、もう4月号を書いていなければな
らないのですが、まだ3月25日号も、書いていない状態です。

 せっかく、励ましてくださっているのに、申しわけないのですが、このところ、「どうし
てマガジンを出しているのだろう?」という疑問ばかりが、先に立ちます。疲れたせいか
な? それとも、やる気をなくしたせいかな? 

 近く新型の、超高性能パソコンを買います。それが手に入ったら、心機一転、またモリ
モリと創作意欲がわいてくるのではないかと思います。私は、もともと単純な人間です。
何か刺激がないと、活力がわいてきません。

 フランスの教育事情を知れば知るほど、「フランスも必死なんだなあ」と思ってしまいま
す。何と言っても、国をつくるのは、民。民をつくるのは、教育です。

 数年前ですが、カナダで小学校の校長をしている女性(Mさんという日系人)と話をし
たことがあります。そのとき、カナダでは、教師が、教室内での教育に、全神経が集中で
きるシステムができあがっていることを知りました。

 雑務など、いっさい、しない。教室外のことについては、いっさい、関知しない。

 が、この日本では、勉強という教育はもちろん、生活指導から、しつけ、家庭指導から、
保健指導まで、親たちが、何でもかんでも、学校に押しつけています。これではとても、
質の高い教育など、期待できるはずもないのです。

 SRさんのメールを読んでいて、あわせて、フランスの教育事情のきびしさというか、
教育システムのきびしさのようなものを知りました。教師自身が、必死にならないと、給
料がもらえない。そんなきびしさです。

フランスには、フランスなりの、いろいろな問題もあるのでしょう。が、ことこの日本
に関していえば、教育改革は、30年、遅れました。いや、40年かな?

 私自身、「もう、どうにでもなれ!」と、思っているほどです。ハハハ。

 ところで、「ジコチュー」。

 人は、自分がジコチューでなくなったとき、はじめて、それまでの自分がジコチューで
あったことを知り、ついで、他人のジコチューがわかるものです。

 それまでは、わからない。ジコチューの問題は、そんなところにあります。

 で、そのジコチューの肥大化した状態が、「自己愛」ということになります。わがままで、
自分勝手。完ぺき主義で、自分が絶対と思いこんでしまう。他人の批評や批判を許さない。
もちろん他人との共鳴性は、ゼロ。

 EQ論によっても、このタイプの人は、人格の完成度が、低い人ということになります。
名誉や地位、学歴や肩書きとは、関係がありません。むしろ、そういう立場に安穏として
いる人ほど、自己愛者が多いのも、事実です。

 で、ジコチューになればなるほど、それと引きかえに増大するのが、孤独感です。

 これは当然ですよね。

 それを私に教えてくれたのが、あのマザーテレサの言葉です。何度も取りあげた文です
が、もう一度、ここに取りあげてみます。

+++++++++++++++++++

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for 
bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced 
this loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt 
him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the 
same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being 
in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's 
real hunger. 

キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物と
してのパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味し
た。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛
されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そし
てそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、
キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

++++++++++++++++++

同じように、アリストテレスも、こう書き残しています。
No one would choose a friendless existence on condition of having all the other things 
in the world. 
世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独(friendless condition)は
選ばないだろう。
++++++++++++++++++

 ジコチューな人は、それだけ孤独なのですね。かわいそうで、あわれな人たちです。同
情してあげましょう。

 でね、私のばあいは、ジコチューな人たちとは、もうつきあわないようにしています。
時間のムダというか、私に残された時間は、もう、それほど、多くはありません。最近は、
「どうぞ、みなさん、ご勝手に!」という心境です。

 で、先にも書いたように、ジコチューの人からは、そうでない人が理解できないもので
す。このあたりに、一つの「壁(カベ)」があるように思います。もし、私が、「バカの壁」
という本を書いたら、ジコチューの人たちを取りまく壁を、「バカの壁」とするでしょう。

 利口な人からは、バカな人が見えますが、バカな人からは、利口な人が見えないもので
す。

 そこで重要なことは、自分を取りまく、「バカの壁」を、どうやって自分で知るかという
ことになります。

 私は、その方法の一つとして、「常識」をあげます。ついでに、もう一作、私が書いた原
稿を添付します。これを書いてから、もう8年になります。この詩は、中日新聞ショッパ
ーコンテストで、副賞を取りました。

++++++++++++++++++++

●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 
そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)

+++++++++++++++++++++

 最近の研究でも、脳の中に、辺縁系という組織があり、その中でも扁桃体という部分が、
人間の善悪の判断をしているのではないかということがわかってきました。

 よいことをすると、この扁桃体から、エンケファリンやエンドロフィンなどの、麻薬様
物質(モルヒネ様物質)が放出され、その人の脳内に陶酔感を引き起こすというのです。
つまりそれが「気持ちよさ」の原因である、と。

 話がそれましたが、ジコチューから自分を解放するためには、自分の常識をみがけばよ
いということになります。

 ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をして、ごくふつうに考え、悩み、生きる。
そういう中で、自分の常識をみがいていく。そしてそのためには、自分で考える。考えて、
考えて、考え抜く。

 それが今までに、私が導いた結論ということになります。もちろん、それで正しいとは
思いません。この先は、まだあると思います。それを、これからも追求していきたいと願
っています。

 何だか、グチから始まったメールですが、SRさんのような方からメールをいただき、
私も、何度もSRさんのメールを読みました。励まされました。どうしようもないマガジ
ンですが、SRさんのように、喜んでくださっている人がいるということを知るだけでも、
本当に、うれしいです。

 ありがとうございました。

 いただきましたメールのうち、フランスの教育事情に関する部分について、転載させて
いただきましたが、どうかお許しください。

 まだ未推敲のままの原稿ですが、送ります。

 日本は、暖冬といいながら、寒いです。昨夜も、頬を切るような冷気の中で、1時間ほ
ど、自転車で走りました。体の健康を維持するのも、楽なことではありません。がんばり
ます!

はやし浩司・日本


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●私のイライラ解消法

イライラしたら、どうするか?

 人、それぞれだろうが、私のばあいは、掃除。草刈り。とくにガソリンエンジンのつい
た草刈り機で、バリバリと、草を刈るのがよい。あとは、買い物。

 今朝は、いろいろあった。それで朝から、気分は、ふさぎっぱなし。そこで掃除。昨日
買ってきた、新型の掃除機で、3部屋も、掃除した。

 あとは、トイレを、ピカピカにみがいた。その中で、食事ができるほど、きれいに、み
がいた。床に、ジュータンを敷いて、香水をまいた。よい気分。ホント!

 昼前に掃除は、終わった。そのあとは、料理。今日は、カレーライス。

 温めて食べるだけのレトルト・カレー。それに、たまねねぎと、肉を加えて、1人前を
3人分に、増大。こういうインチキ料理は、私の得意芸。

 おかげで昼ごろには、気分も、もどっていた。爽快(そうかい)とまではいかないが、
まあ、ふつう。コタツに座って、ミルク・ティーを飲む。のどかな昼さがり。白い陽光が、
窓から、背中を照らす。

 人間は、本来は、一系統の脳みそしか、働かないようにできている。同時に、二つの作
業をこなすことはできない。

 簡単な例としては、複式学級がある。小学4年生と5年生を、同時に教えるような授業
が、それ。

 外の世界の人には、何でもないように見えるかもしれないが、複式学級ほど、疲れるも
のはない。どう疲れるかは、ここで説明しても意味はないかもしれないが、脳ミソが、お
かしな緊張感に包まれる。

 そこでイライラしたときの自分を静かに観察してみると、同時に複数の作業を、脳みそ
が処理しようとしているのがわかる。複式学級でいえば、4年生と5年生の授業に、さら
に中学1年生の授業が加わったような感じかも?

 ところでこれからのコンピュータは、同時に複数の作業をこなすことができるようにな
るという。脳みそを、2つとか、3つとか、同時にもっているような感じになるらしい。
すでに64ビットマシンも、売りに出されている。(すごいなあ!)

 が、掃除をすることによって、自分の脳みそを単純化できる。つまり単純化することに
よって、イライラを解消できる。何も考えないで、床がピカピカになっていくのを見るの
は、それだけでも、気持ちよい。

 ……というのが、私のイライラ解消法。


●ネット・ショッピング開店

私のHPに、ネットショップを開いた。いつも他人のネットショップをながめながら、「ぼ
くも、こういうショップを作ってみたい」と思っていた。

 たまたまF社から、誘いがあった。「先着1000人まで、ネットショップ、開設無料」
ということだった。そこで私も、ショップを開いてみることにした。

 しかし、何を売るか?

 いろいろさがしてみたが、よいものがない。で、思いついたのが、私の描いたイラスト
画。今まで、あちこちの本で使ったイラスト画である。枚数にすれば、1000枚近くあ
る。

 さっそく、その中の50枚ほどを、登録してみる。それはうまくいったが、送金方法で、
迷った。で、結局、代金引換郵便、もしくは、郵便振替の2種類にした。銀行振り込みと
か、クレジットカード払いとかいう方法もあったが、今イチ、信頼性に自信と責任がもて
ない。

 つぎに迷ったのが、値段。高くても売れないだろうし、安くても、売れないだろう。売
るといっても、あれこれ手間がかかる。そのことも考えて、1枚、3000円とした。

 (高いかなあ……?)

 「何でも新しいことには、挑戦してみるもの」というのが、私のモットー。売れなくて、
ダメもと。これも(遊び)のうち。

 興味のある人は、

https://cart1.fc2.com/cart/hhayashi/

 を、のぞいてみてほしい。ほかにも、これから先、何か、売れるものがあったら、この
コーナーで売っていきたい。(肝心の本のほうは、目下、大不況中! これもインターネッ
トの影響だと言われている。)


●怠惰

 頭のボケた兄の一日は、実に単純なものだ。朝、起きて、夜、寝るだけ。その間に、3
度の食事と、数日置きの入浴。それに自分の部屋の掃除だけ。

 いろいろ仕事をさせてみようと思ったが、させたとたん、パニック状態になってしまう。
先日は、CDプレーヤーを、発作的に、投げ捨ててしまった。そして、「ぼくは、体が弱い」
「入院したことがある」と、そんなことばかりを言う。部屋のゴミすら、自分では、片づ
けない。

 そういう兄を見ていると、自分との落差に、がく然とする。

 私は、1時間でも、おしい。1分でも、おしい。「おしい」というより、だれかが時間を
くれるというのなら、遠慮なく、もらう。だれに頼まれたわけでも、また仕事(収入)に
なるわけでもないが、私には、やりたいことや、してみたいことが、たくさんある。山ほ
ど、ある。

 そこで「怠惰」について、考えてみる。脳ミソの問題もあるのだろうが、私の兄ほど、
怠惰な人間はいない。ボケ(認知症)には、そういう症状も、含まれるのか。

(1)行動と思考のループ性(毎日が、同じことの繰りかえし)
(2)知的能力の後退(毎日、努力をしても、現状維持が精一杯。その努力をしない。)
(3)後退的な人生観(不平、不満ばかりを、口にする)
(4)回顧性の増大(過去の話ばかりする。未来への展望性がない。)
(5)精神の腐敗(小ずるく、楽をすることばかりを考える。)

 5番目に、「精神の腐敗」をあげたが、怠惰は、常に、精神の腐敗をともなう。明るく、
朗らかな精神状態を、健康な精神とするなら、その精神が病む。腐る。

英語でも、『ころがる石には、苔(MOSS)がつかない』という。中国でも、『流水は、
腐らず』という。これらを裏から読むと、「ころがらない石には、苔がつき、水もとどこ
おると、腐る」ということになる。

そこで考えてみると、忙しいということは、それ自体が、美徳であることがわかる。体
を動かし、頭を働かせる。それが精神の腐敗を、防ぐ。

 それがわからなければ、広場に集まる老人たちの姿を見ればよい。一日中、何をするで
もない、しないでもなし。イスに座って、ただひたすら世間話を繰りかえしている。一見、
のどかに見える光景だが、そんな老人からは、名誉も誇りも、生まれない。

 私はそんな老後生活は、決してあるべき、理想的な老後生活だとは、思わない。

 ただ、よく誤解されるが、名誉にせよ、誇りにせよ、それらは、自分の中の「己」(おの
れ)に対してするものであって、他人に対してするものではない。他人が、それを認める
か認めないかは、つぎのつぎの問題。はっきり言えば、どうでもよい。

 そこで人は、自分の中に、(忙しさ)を、創作していく。朝、目をさましたら、その瞬間
に、その日にやるべきことを、決める。食事が終わったら、その瞬間に、そのつぎにやる
べきことを、決める。夜、床について、目を閉じたときもそうだ。

 今朝も、ワイフと、こんな会話をした。

私「どうせ世話をするなら、兄を、他山の石として、自分をみがかねば、損だ」
ワイフ「他山の石というのは、見習うべき石という意味よ」
私「そうだな。では、反面教師と言うべきか」
ワイフ「そうよね」と。

 他山の石……他の山の石を手本として、自分の石を磨くこと。中国故事。

ときどき、「兄の分まで、がんばってやろう」という気にはなる。しかし兄は、若いときか
ら、生活力は、ゼロ。今のワイフと同棲生活をするようになったときから、私は、収入の
半分を、実家へ送り届けてきた。もちろん結婚式もしていない。結婚式をする費用さえ、
なかった。

 が、なぜ兄がそうなったかについて、私は、兄の体が弱いからだと考えていた。しかし、
実際、間近で兄を観察していると、そうではないような気がする。

 兄は、いつしか自分の病気を理由に、「怠惰な人間」、つまり、本物の怠け者になってし
まったようだ。何もしない。しようともしない。その意欲もない。病気が原因ではない。
体の弱さが原因でもない。

 さらによく観察すると、何をするにも、兄には、強烈なマイナスのストローク(弱化の
原理)が、働いているのがわかる。「何をしても、ぼくは、ダメだ」と、すべてを、そこに
もどしてしまう。

 子どもの世界でも、ときどき見られる現象である。子どもは、何かのショック(たとえ
ば、受験の失敗、失恋、家庭内騒動など)が原因で、強度の自信喪失になることがある。
その自信喪失が、その子どもを、うしろ向きにひっぱることがある。ある時期、兄には、
それが毎日のようにつづいたらしい。

 ただ兄とはいっても、私は、記憶の中で、兄といっしょに遊んだ経験が、まったく、な
い。遊んでもらったという記憶も、まったくない。どこかおかしな家庭環境だったが、そ
れについては、またいつか書くことにして、私にとっての兄は、少し離れたところに住む、
近所のお兄さんという感じ。

 話が脱線しそうなので、もとにもどす。

 私が、30歳になったばかりのこと。恩師のT教授(当時、東大の副総長)は、私にこ
う言った。「林君、今すぐ、ライフワークを始めなさい」と。

 私が驚いて、「まだ、30歳ですよ」と答えると、「今かでも、早すぎるということはな
い」と。

 ライフワークというのは、その人の生涯を象徴する業績をいう。私はライフワークとい
うのは、50代とか60代とかになってから、するものだと思っていた。が、そこでハタ
と困ってしまった。

 T教授のような科学者なら、そういうことも考えるが、私のばあい、まず仕事をして、
生活費を稼がねばならない。一日の80〜90%は、そのために、時間をとられる。残り
の10%で、どうやって、ライフワークを模索するのだ!

 ……ということで、あれからもう30年近くがすぎた。いまだにライフワークの「ワ」
の字も見えてこない。ただ、今、私がすべきことは、こうして「考えること」。それしかな
い。その先に何があるのかさえ、わからない。わからないが、それしかない。

 だから私は、人に、「林さんは、忙しいですか?」と聞かれると、いつもこう答える。「忙
しくはありませんが、時間が足りません」と。

 実のところ、今朝も、朝寝坊をしてしまった。いつもなら、朝6時には起きて、原稿を
書き始める。しかし今朝は、7時半だ。「しまった」と思い、台所へ、おりていくと、あの
兄が、ボソボソと、朝食を食べているところだった。毎朝、1時間程度、時間をかけて、
朝食を食べている。

 それを見て、私は5分で、朝食を食べ終えた。食べ終えて、自分の書斎に、ころがりこ
んだ。兄を反面教師としながら……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
+++++++++++++++++

【参考】世界の賢人たちの人生論

+++++++++++++++++ 
What is life? We are born, we live a little and we die. 
- EB White, "Charlotte's Web "
人生って、何? 生まれて、少しだけ生きて、死ぬのよ。

To live is so startling it leaves little time for anything else. 
- Emily Dickinson
生きるって、驚くことばかり。ほかのことのための時間は、ほとんどないわ。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is 
called 'living'. 
- Terry Pratchett, "The Last Continent"
人間の人生というのはね、死ぬまでの間、目の前で、過ぎるだけ。その過程を、「生きて
いる」と言うのよ。

Life obliges me to do something, so I paint. 
- Rene Magritte, In Art/Painting 
人生というのは、私に何かを課してしるのね。だから私は描くだけ。

Literature is mostly about having sex and not much about having children. Life is 
the other way round. 
- David Lodge, The British Museum is Falling Down, In Literature 
文学というのは、ほとんどが、セックスをすることばかりで、あまり子どもをもつという
ことには、書かないものね。しかし人生は、その逆。

Life is pleasant. Death is peaceful. It's the transition that's troublesome. 
- Isaac Asimov, In Death 
人生は楽しい。死はやすらか。死ぬことは、人生から死へのめんどうな移動のこと。

Life without love is meaningless and goodness without love is impossible. 
- Greg Jurkiewicz, "The Neo-Reconstructionist Manifesto" In Love
愛のない人生は、意味がない。愛のない善は、ありえない。

Life dies inside a person when there are no others willing to be-friend him. He thus 
gets filled with emptiness and a non-existent sense of self-worth. 
- Mark R. J. Lavoie, In Loneliness 
その人に対して好意的な友がいなくなったとき、その人の中で、人生は死ぬ。かくしてそ
の人は、空虚感に満たされ、無価値であるという非存在感に満たされる。

Life is too deep for words, so don't try to describe it, just live it. 
- C.S. Lewis, In Humanity 
人生は、言葉では言い尽くせないほど、深い。だからそれを表現しようと思うな。ただ生
きろ。

I could not, at any age, be content to take my place by the fireside and simply look 
on. Life was meant to be lived. Curiosity must be kept alive. One must never, for 
whatever reason, turn his back on life. 
- Eleanor Roosevelt, In Humanity 
私はどんな年齢のときも、暖炉のそばに居座って、ただそれを見るということに満足でき
なかった。人生というのは、生きることを意味する。好奇心は、いつも生きていなければ
ならない。人は、どんな理由であるにせよ、人生に背を向けてはいけない。

Life is a succession of moments. To live each one is to succeed. 
- Corita Kent, In Struggle/Success 
人生というのは、瞬間の連続。それぞれの瞬間を生きるということは、つづけるというこ
と。

Life is like playing the violin solo inpublic and learning the instument as you go. 
- Edward Geroge Bulwer-Lytton, In Humanity 
人生というのは、隠れてバイオリンのソロを弾くようなもの。そしてそれを弾きながら、
楽器の弾き方を学ぶようなもの。

Life is not so bad if you have plenty of luck, a good physique and not too much 
imagination. 
- Christopher Isherwood, In Imagination 
人生も、幸運が重なり、健康で、あまり想像力がなければ、それほど悪くはない。

Life has taught us that love does not consist in gazing at each other but in looking 
outward together in the same direction. 
- Antoine de Saint-Exupery, In Love 
人生というのは、たがいに見つめあうのが愛ではないと教える。そうではなく、外に向っ
て、同じ方向を、いっしょに見ることが愛だと教える。

Life is very interesting, if you make mistakes. 
- Georges Carpentier, In Humanity 
もしまちがいをおかせば、人生は、たいへんいおもしろい。

Life is raw material. We are artisans. We can sculpt our existence into something 
beautiful, or debase it into ugliness. It's in our hands. 
- Cathy Better, In Art/The Artist 
人生は、原材料。私たちは芸術家。私たちはそれを彫刻して、何か美しいものにする。あ
るいはつぶして、見苦しいものにする。それは私たちの手にかかっている。

Life is a mystery, not a problem to be solved 
- Albert Einstein, In Mystery 
人生は神秘的。解くべき問題ではない。

+++++++++++++++++++++

 人生は、気楽に生きろと説く賢人もいれば、懸命に生きろと説く賢人もいる。

 一番印象に残ったのは、「人生というのは、たがいに見つめあうのが愛ではないと教え
る。そうではなく、外に向って、同じ方向を、いっしょに見ることが愛だと教える」とい
うもの。

これは、フランスの飛行家・作家、アントワーヌ・M・R・ド・サン・テグジュペリの言
葉。あの「星の王子様」の作家である。日本でも、よく知られた言葉である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●奇妙な事件

 G県のN市で、奇妙な心中事件が発生した。

 その家の男(夫)が、愛犬2匹を殺した上、娘夫婦、孫などを道づれにして、一家心中
を図ったという。

 中日新聞は、つぎのように伝えている。

「27日午後1時50分ごろ、G県N市、老人保健施設のHT事務長(57)方で、H事
務長の長女の夫から、『義父に刃物で刺された』と、110番通報があった。

H事務長の家族や近くに住む長女一家の、計6人が、屋内で血を流したり、首を絞めら
れたりして、倒れているのを、駆けつけた同県警N署の捜査員が見つけ、このうち生後
1カ月の乳児を含む、5人が死亡した。

H事務長は首を切って自殺を図り、同県警は原事務長が無理心中を図ったとみて調べて
いる」と。

 幸いにも、男の妻は、朝、仕事に出かけていて、無事だった。しかもその男は、その直
前まで、まったくふだんとは変わらない生活をしていたという。仕事仲間たちは、テレビ
の画面の前で、みな、こう言っている。

 「静かな、ふつうの家庭でした」
 「仕事ぶりも、いつもと変わりませんでした」(テレビ報道)と。

 長男の仕事に問題があったとか、男に、神経痛の持病があったとかなど、いろいろ騒が
れているが、私も報道を見ていて、今回の事件ほど、首をかしげたものはなかった。男は、
首にナイフを刺して自殺を図ったものの、一命はとりとめたようなので、やがて、真相が
明らかになるのだろう。が、それにしても、不可解な事件である。


●韓国のN大統領

韓国のN大統領が、「3・1独立運動」記念式典で、1日、日本に「賠償」の検討を促し
た発言をした。

 韓国のN大統領が、ますます反日感情をあらわにしてきた。ものの考え方が、うしろ向
きというか、回顧主義的というか? この日の演説では、日本に、「もっと戦後補償をしろ」
というようなことまで、演説の中で、におわせた。

 97年、つまり8年ほど前、韓国がデフォルト(国家破綻)したとき、資金援助したの
が、IMFに並んで、世界銀行と日本。日本は、IMFと並んで、それぞれが100億ド
ルずつ援助した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルな
ど。総計で、550億ドル! その世界銀行や、IMFを、裏で支えているのも、実は、
この日本。

日本が音頭を取り、世界から、550億ドルもの緊急援助を集めたわけだが、それによ
って、韓国は自国経済をたてなおすことができた。が、そうした「恩」は、どこへ消え
たのか? N大統領よ、60年前の過去ではなく、8年前の過去を知れ!

 いまだに反米、反日の旗印をかかげ、親北政策を、推し進めている。K国が「核兵器保
有宣言」をしてからも、「まだ、核兵器は完成してないはず」と、K国寄りの意見を主張を
繰りかえしている。K国を支えている。今月(3月)からは、K国の開城(ケソン)工業
団地への送電も始める!

 いったい、韓国は、どうなってしまったのか? どこへ行こうとしているのか?

 本来なら、日本は、韓国とも、たもとを分かち、K国に対して、もっと強硬に出なけれ
ばならない。いくら過去の歴史があるにせよ、日本にも、容認できることとできないこと
がある。K国の核兵器保有宣言は、それほどまでに深刻な問題である。

 「K国の核問題は、ワレワレが解決してみせる」と、大見得を切って、大統領に就任し
た、N大統領。その言葉の責任は、どうとるつもりなのか?

 
●ハゲタカ外資(ファンド)
 
 欧米では、「会社は、株主のもの」という意識が強い。しかし日本では、その意識が薄い。
この意識のちがいが、如実に現れたのが、今回の、ライブドアのH社長とフジテレビのH
会長による、ニッポン放送株争奪戦と考えてよい。

 なぜ、外資は、日本の会社の株を、買いあさりたがるのか?

 わかりやすく解説すると、こうなる。

 ここにA社という会社がある。発行株式数は、1万株。現在、A社の株価は、1000
円。つまりA社の価値は、総額、1000万円ということになる。

 しかしA社には、財産(内部留保)がある。その価値、3000万円。

 つまりもしあなたが1000万円もっていたら、A社の株をすべて買い占めることで、
A社を自分のものにすることができる。わかりやすく言えば、3000万円の価値のある
会社を、1000万円で自分のものにすることができる。

 本来なら、A社は、利益があったら、配当金をふやすなどして、株主に、その利益を還
元しなければならない。しかしA社は、あれこれ財務をやりくりして、配当金を減らし、
財産(内部留保)をふやした。それが3000万円になった。

 おおかたの日本の企業は、こうして財産をふやし、会社そのものを、社長が私物化して
いる。よい例が、あの「シャンシャン株主総会」。たいした議論もしないまま、シャンシャ
ンと手を打って、総会を終えてしまう。つまりこうした体質の中にこそ、ハゲタカ外資と
呼ばれる外資に、日本の企業がねらわれる理由がある。

 「会社は、株主のものである」と考える、欧米型思考。一方、「会社は、それを作り、育
てた社長の財産である」と考える、日本型思考。その意識の戦いが、今、ライブドアのH
社長とフジテレビのH会長との間で、今、繰り広げられている。

 昔から日本の企業は、よく「なれあい所帯だ」と言われてきた。よい例が、銀行。少し
前まで、護船団方式とも呼ばれていた。たがいに、たがいを守りあいながら、生きてきた。
しかしこうした(ぬるま湯)経営では、これからの国際社会では、生き残ることができな
い。つまりハゲタカ外資の標的にされる。

 そこで銀行のばあいは、合併に合併を重ねたりして、株の時価総額をあげて、外資に対
抗しようとしている。いくら外資でも、無尽蔵に、お金をもっているわけではない。

 私は日本人だから、一応、フジテレビのH会長を応援する。しかしこれからの日本のこ
とを考えると、今回の争奪戦は、日本人には、よい教訓になるのでは……? 世界は、も
う少し、きびしい! (どこか無責任な意見で、ごめん!)
(05・3月1日記)


●「生」への執着

 私は、若いころから、こう考えていた。

 「頭がボケれば、それだけ、ものを考えなくなる。だから、『死』への恐怖も、それだけ
やわらぐはず。だから年をとって、頭がボケるのも、それなりに悪いことではない」と。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。

 頭がボケるのは、大脳の働きが悪くなることをいう。しかし「生」への執着心は、もっ
と、奥が深い。人間が、生来的にもつ本能そのものに、起因している。だから大脳の働き
が悪くなったくらいでは、影響を受けない。受けないばかりか、大脳によるコントロール
が、できなくなるため、もっと露骨になる。

 私は、このことを、頭のボケた兄を介護していて気がついた。

 頭はボケたはずなのに、「生」への執着心には、ものすごいものがある。たとえば食事に
しても、三度、三度、きちんと食べないと、死んでしまうと、本気で信じている。

 それに少しでも体の調子がおかしいと、やはり死んでしまうと、本気で信じている。

 ワイフは、「死ぬのがこわいのかしら?」と言うが、私が観察したところ、どうも、そう
いう消極的なものではないようだ。兄は、兄なりに、生きたいのだ。どこまでも、どこま
でも、生きたいのだ。

 もちろん、生きる目的など、もうない。夢も希望も、ない。それでも、生きたいのだ。

 数日前も、「鼻水が出る。肺炎になる。入院する。死んでしまう」と騒いだ。

 そこで私が、「鼻水くらいでは、死なない。肺炎になったら、そのとき入院すればいい。
どうせ、お前なんか、生きていても、何の役にもたたないだろ」と言うと、体をかがめて、
シクシクと泣くマネをしてみせた。

私「やめろよ、そんな演技。どうせ、涙なんか、出ないだろ」
兄「かあちゃんが、薬をくれた」
私「オレは、かあちゃんじゃ、ないの。お前のじいちゃんだ」と。

 兄は、私のことを、祖父だと思い始めている。ときどき、私のことを、だれかほかの人
の名前で呼ぶこともある。そういう兄だが、しかし「生きたい」と、願っている(?)。

 が、ここで大きな矛盾を感ずる。

 今の兄には、現実検証能力が、ほとんどない。だから、「食べれば食べるほど、健康にな
る」と、おかしな考え方をする。たとえば乳酸飲料のカルxxを、冷蔵庫に入れておくと、
それを1日で、飲んでしまう。

 5倍に希釈して飲む飲料だから、1日にして、5本分を飲んでしまうことになる。体に
よいわけがない。とくにそれほどの糖分を、大量に飲めば、脳間伝達物質にも影響を与え
る。情緒も、不安定になる。

 「生きたい」という本能と、「では、どうすれば長生きできるか」という理性の部分が、
かみあわない。これがボケがボケであると言われる所以(ゆえん)である。

 「鼻水が出るから、死ぬ」と騒ぐ兄。その一方で、カルxxを1本飲んでしまう兄。私
は、そこに矛盾を感ずる。

 ところで近くの特別養護老人ホームでヘルパーをしている女性が、こんな話をしてくれ
た。何でも、そのホームでは、ジジ・ババ様たちが、恋愛ごっこで、毎日、大騒動をして
いるという。

 「私の彼氏を取った」だの、「オレの女を取られた」だの、と。

 その女性は、こう言った。「80歳も過ぎた女性たちが、1人の男性を取りあって、泣き
叫びながら、けんかをすることもありますよ」と。

 少し前に、その話を聞いたときには、私には、そういう現実が理解できなかった。しか
し今なら、理解できる。「ナルホドネ」と。あのフロイトは、そういうジジ・ババ様たちの
様子をみて、リピドー(生きる原動力)を、性的エネルギーに結びつけたのかもしれない。

 それにしても、このところ、いろいろ考えさせられる。

 「生きるって、何だろう」と。

 私はもう、そのドアウェイ(玄関)に立ったが、この文章を読んでいる、あなたにも、
確実に老後はやってくる。

 頭も、確実にボケる。早い人で、30歳くらいから、ボケ始めるのではないか。いや、
ボケるなら、ボケるでかまわない。そのボケるとき、ちょうどバケの皮がはがれるように、
その下に潜んでいる人間性が、表に出てくる。それがこわい。ちょうど、理性のカバーが
はずれて、「生」への執着心だけが、モロに表に出てくることになる。

 頭のボケた兄を観察していて、それを発見した。

********************************

4月からの新年中児のみなさんへ、
BW教室の生徒さんを募集しています。
どうかお問い合わせください。

新年長児クラスは、ほぼ定員になりました(2月22日現在)。
ありがとうございました。

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●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

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よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 23日(No.545)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ウソも方便

 子どもたちには、私は、いつも「ウソをついてはいけない」と教えている。しかし日本
には、『ウソも方便』という格言がある。使いようによっては、ウソも悪くない、と。その
出典は、法華経(ほけきょう)という経典である。その経典の方便品(ほうべんぽん)の
中に、こんな説話がある。

 あるとき、ある富豪の屋敷で、火事が起きた。門は、一つしかない。しかし中では、3
0人近い子どもたちが、遊んでいる。このままでは、子どもたちは火事に巻きこまれて、
死んでしまう。

 そこでその家主は、屋敷の中に飛びこんでいった。「火事だ、お前たち、外に出ろ!」と。
しかし子どもたちは、その意味がわからず、相変わらず、遊びつづけていた。そこで家主
は、言葉を変えた。

 「門の外に、おもちゃやお菓子をいっぱい積んだ、きれいな牛車がきている。さあ、行
って見てきなさい」と。

 すると子どもたちは、ワーッと歓声をあげて、門の外に出たという。

 ここでいう「門」とは、「正門」、つまり「正法(しょうほう)につづく門」をいうとい
う。つまり法華経では、無邪気な人間を、正しい道に導くためには、ウソも使い方によっ
ては、許されると教える。「ウソも方便」という言葉は、ここから生まれた。

 なお別説によると、そのときの家主は、子どもたちを火事から救い出したあと、子ども
たちに、おもちゃやお菓子をいっぱい積んだ牛車をプレゼントしたという。ウソのままで
終わらせなかったということか(?)。

 で、この話についての解釈はさておき、現代の私たちは、火事がすぐそばまできている
にもかかわらず、遊びこけている子どもたちのようなものかもしれない。

 環境、地球温暖化、緊迫するアジア情勢、K国の核問題などなど。どれ一つをとっても、
深刻な問題ばかりなのだが、ノー天気というか、そのときは、「そうだな」と思っても、つ
ぎの瞬間には、それを忘れてしまう。

 これは意識の問題というよりも、脳ミソそのものの欠陥と考えてよい。人間の脳ミソと
いうのは、同時に複数の問題を処理することができない。たとえば英語を読みながら、掛
け算の計算をすることができない。

 つまり一つの問題に対処していると、そのほかの問題が、意識の中から、消えてしまう。
が、それだけではない。

 問題の軽重が、判断できなくなってしまう。

 ショッピングセンターに入るまで、地球の環境問題を論じていても、センターに入った
とたん、「今晩のおかずは、何にしよう」と考え始める。と、同時に、環境問題については、
すっかり、忘れてしまう。

 そこで私たちが、その屋敷の中で、遊ぶ子どもたちであるとするなら、私たちは、どう
すればよいのかということになる。火事は、もう、そこまで迫っている。このままでは、
私たちは、みな、焼け死んでしまう!

 私は、私たち一人ひとりが、賢くなること以外に方法はないのではないかと思う。ウソ
で導かれるような時代でもないし、個人的には、私は、ウソは大嫌い。たとえそれが正門
(正法)につづくウソではあったとしても、だ。

 屋敷の中にいる子どもたちにしても、自分で考え、自分で行動する力があれば、火事を
見れば、自分で逃げることができたはず。そういう意味でも、無知、無学は、それ自体が、
「罪悪」と考えてよい。

 たとえばこの民主主義政治体制の中では、自分たちの税金が、どこでどのように使われ
ているかを知らないのは、それ自体が、「罪悪」と考えてよい。「知らない」「関係ない」で
は、すまされない。

 環境問題にしても、K国の核問題にしても、そうである。が、日本人は、欧米の人とく
らべて、無知、無関心であることについて、罪悪感が、きわめて乏しいのでは? たとえ
ばオーストラリアでは、「君は、政治的に無関心すぎる」という言葉は、半ば、相手を非難
する言葉として、よく使われる。

 そこで最初の話にもどる。家主は、ウソを言って、子どもたちを助けた。「そういう方法
しかなかったのかなあ」と思ってみたり、「それでよかったのかなあ」と、思ってみたりす
る。

 まあ、私の結論といえば、やはり、ウソは、よくないのではないかということ。いくら
さしせまった状況ではあったにせよ、子どもたちの尻をたたいてでも、門の外に連れ出せ
ば、よかった。……と思う。

+++++++++++++++++++++

子どものウソについて、以前書いた原稿を
添付しておきます。

+++++++++++++++++++++

子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのよ
うにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示
(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついてい
るという自覚がある。
母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」
母「手を見せなさい」
子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソを
つく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というの
がそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態
を、空想的虚言という。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長
男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられた
と言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対では
なかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どう
してそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言っ
てもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバ
スの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげ
た。

が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの
理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、というこ
とになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 もう、それから、30年以上になるが、ある日、一人の女の子(小四)が、私のところ
へきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で落とした」と。そこでカバンの中をもう一
度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの明細書だけはカバンの中に残ってい
た。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常識では考えられなかった。

そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりこと
こまかに話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバ
ンがほとんど逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えて
いるというのもおかしい。落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を
聞いた。

何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落と
したという金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもお
かしなことがたびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」
と言ったときも、そのつど、どこかつじつまが合わなかった。

そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えること
にした。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分
の生徒を疑うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立ってい
るのがわかった。「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリ
と笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩
も引きさがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王
はいないよ」といくら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな
 
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせ
てはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその
空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想
をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そし
て一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに
「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最
後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れ
ば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。


 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「でき
のいい子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、
教える側から見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えて
いるかわからない子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考
える。原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反
省する。とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子ども
をやってしまうことになるから注意する。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●長寿と健康

 この日本には、100歳以上の老人が、2万4000人以上いるといわれている(04・
厚生労働省調べ)。

 しかし残念なことに、健康で自活している老人は、数%といわれている。ほとんどが、
介護を必要とする老人ばかり。大半が、寝たきり老人ともいわれている。

 まあ、私も100歳とまでは思っていないが、ギリギリまでは生きたい。ただし、家族
には、迷惑をかけないような状態で、である。

 そこで必要なのは、自己管理能力ということになる。健康の何割かは、その人の自己管
理能力によって決まる。で、ざっと周囲を見回してみても、暴飲暴食を繰りかえし、タバ
コを吸い、運動もしないという老人は、みるからに不健康な様子をしている。

 白澤卓二(東京老人総合研究所)という人が、「月刊現代」(雑誌)の中で、百寿者(1
00歳以上生きている老人)の共通点として、つぎの6か条をあげている。それをそのま
ま、ここに紹介させてもらう。

(1)タバコを吸わない。
(2)飲酒は適量
(3)高学歴
(4)子どものころ、比較的裕福な家庭で育った
(5)性格特性については、男性が神経症的傾向、女性は外向性傾向。誠実性が高く、男
女とも、調和性は低い。
(6)身体機能、疾病などについては、白内障や骨粗しょう症、骨折は多数認められる一
方、糖尿病の離間率が非常に少ない。また動脈硬化の進行が、遅い。

 東洋医学では、つぎのように教える。以前、私が書いた原稿を、そのまま転載する。

++++++++++++++++++

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応
させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることな
く、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥
ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真
論篇)と。

++++++++++++++++++

 ついでに、この上古天真論をテーマにして、書いた原稿を、
添付しておきます。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわか
らない。そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、
こうある。これは健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応
させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることな
く、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥
ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真
論篇)と。

難解な文章だが、これを読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパ
ルタ主義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、
パッとやめさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁
止」などと言って、子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくる
ことになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主
義は、子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子ど
もに完ぺきさを求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの
心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は
私」「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子ども
のできがよくても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、
メンツ、世間体。これに振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解
放されれば、子育てにまつわるほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけ
ない。「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくても
いけない。必要なことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。
実際どんな子どもにも、自ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き
出す。

子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の
大原理に順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平
である」(四気調神大論篇)と。

おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまく
いくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目
的として、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は
害せられる。精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せら
れる。栄養過多もいけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なこと
だが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にから
めて、教育論を考えてみた。

++++++++++++++++++

 ところで最近、年の功というか、若い親たちをみると、「ああ、この人は、このままだと、
やがて不健康になるぞ」とか、「この人は、年をとっても、健康のままだろうな」というこ
とが、わかるようになった。

 ポイントは、肌。(肌しか、見えないが……。)漢方でいえば、肌肉(きにく)の様子と
いうことになる。

 健康に注意している人は、その肌肉が、ひきしまり、ツヤがある。生き生きとした精彩
を放っている。

 が、そうでない人は、肌肉が、だらしなくたれさがっていて、どんよりとくすんでいる。
漢方で言えば、同じ白でも、ガイコツのような白さ、同じ黒でも、ススのような黒さとい
うことになる。

 それをもう少しまとめてみると、こうなる(はやし浩司著「目で見る漢方診断」より)。


(同じ、青い顔色でも……)
 草むしろのように、光沢を失った白っぽい、青色……死相
 カワセミのように、光沢のある青色……生きる症

(同じ、赤い顔色でも……)
 腐れ血のような、光沢のないどす黒い赤……死相
 雄鶏のトサカのように、光沢のある赤……生きる症

(同じ、黄色い顔色でも……)
 カラタチの熟した果実のように、光沢のない黄色……死相
 カニの卵を抱いた腹のように、光沢のある黄色……生きる症

(同じ、白い顔色でも……)
 ガイコツのように、光沢のない汚白色……死相
 豚の脂身のように、光沢のある白色……生きる症

(同じ、黒い顔色でも……)
 ススのように光沢のない、灰黒色……死相
 カラスの濡れ羽のように、光沢のある黒色……生きる症
  (以上、素問・五臓生成論編)


 で、やはり健康管理ということになるが、ここでまた、別の問題にぶつかってしまう。

 「長生きをして、それがどうなのか?」という問題である。

 そこで私は、「生きる」を、つぎの二つに分けて考える。(息る)と、(活きる)である。
ともに「いきる」と読む。

(1)息(いき)る……ただ生きているだけという生き方をいう。
(2)活(い)きる……自分で自分を活かしながら、活きる生き方をいう。

 だからといって、寝たきりの老人が、どうこうというのではない。みんな、最後の最後
まで、天寿をまっとうして生きることは、重要なことである。それはどんなことがあって
も、否定してはいけない。

 もしそれを否定してしまうと、「生命の限界」に、歯止めがかからなくなってしまう。端
的に言えば、「生きる価値のないものは、死ねばよい」という、とんでもない発想に結びつ
いてしまう危険性がある。

 だから、人間は、最後の最後まで、生きる。たとえ息をするだけの人間になったとして
も、生きる。またそういう形で、まわりの私たちが、「生命の限界」を守ることは、重要な
ことである。

 が、こと、私自身のことになると、そうは思わない。先日も、私は、ワイフにこう言っ
た。

 「もし、ぼくが寝たきりになったら、そっとそのままにしておいてほしい。風邪などを
ひいて、肺炎にでもなれば、そのまま死ぬことができる。ムダな治療は、してほしくない」
と。

 ワイフは、「わかったわ」とだけ言ったが、半分、うれしく、半分、さみしかった。

 生きる以上は、活きる。息ていいるだけでは、いけない。しかしこれはどこまでも、個
人的なテーマでしかない。私やあなたが、個人的な立場で、自分で考えて決めることであ
る。
(はやし浩司 生きる 活きる 息る 上古天真論 八風の理 健康法)

【補記】

 日本語というのは、もともとは、単純な言語であったようだ。

 「かみ」というときは、「神」「髪」「上」「紙」などを意味する。共通するのは、「高貴な
もの」「高価なもの」という意味。つまり「高貴なもの」は、すべて「かみ」と言った?

 同じように、「くさ」も、「草」から、「臭い」「腐る」と転じたのではないか? 「草は
臭い」「腐ると臭い」など。

 ここで取りあげた、「生きる」もそうだ。もともとは、ひょっとしたら、「息をしている
ことを、生きる」と言ったのではないか。漢字が、中国から輸入されたのは、ずっとあと
になってからのことである。

 つまり「いきる」というのは、「息」に「る」が、ついて、動詞化したとも考えられる。
息をしている状態を、生きている、と。大昔の日本人は、その人の息をみて、生きている
か、死んでいるかを判断したにちがいない。(多分?)

 で、私は、「生きる」を、「息る」と「活きる」に分けた。決して、ダジャレで分けたの
ではない。それをわかってほしかった。

 
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●夫婦の同調性

 夫婦といっても、いろいろな夫婦がいる。

 たがいに、どこか遠慮しあっている夫婦もいれば、ズケズケと言いたいことを言いあっ
ている夫婦もいる。それなりに、みな、うまくいっている。こと、夫婦についていえば、「こ
うあるべき」「こうあるべきではない」というふうに、形を決めることができない。

 しかし、その夫婦でも、微妙なニュアンスのちがいを感ずることがある。夫でいえば、
妻側の親類や兄弟に対する感じ方。妻でいえば、夫側の親類や兄弟に対する感じ方。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 たとえば妻側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたとする。そのとき、夫は、
それなりに心配はするが、しかしそこには、限度がある。妻が、心配するほどまでには、
心配しない。むしろ妻をなぐさめる側に回る。

 反対に夫側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたときも、そうだ。夫としては、
自分が心配するのと同じくらい、妻も、心配していると思う。(あるいは心配をかけてはい
けないと思う。)しかしそこまでは期待できない。夫側の問題は、あくまでも夫側の問題。

 しかしこうした問題は、夫婦の同調性を知る、一つの方法(バロメーター)にはなる。
つまりどこまで感情を共有できるかによって、夫婦の同調性を知ることができる。当然の
ことながら、同調性の高い夫婦ほど、親密度の高い夫婦ということになる。そうでなけれ
ば、そうでない。

 この話を進める前に、夫婦の同調性について、考えてみる。その同調性は、大きく、つ
ぎの4つに分けられる。

(1)同調性(相手と同じように考えたり、悩んだりする。)
(2)共鳴性(心の状態が、そのまま伝わってくる。)
(3)同情性(相手と同じような心の状態になる。)
(4)協調性(ともに、同じ行動をとる。)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●私の体質

 私は、戦後生まれだが、しかしいまだに、男尊女卑の思想を色濃く、心のどこかに残し
ている。「男は、仕事。女は、家事」という考え方も、完全に消えたわけではない。

 若いころは、仕事第一主義で、そのために家庭が犠牲になっても、しかたないと考えて
いた。「男は、仕事さえしていればよい」とか。「家族を養ってやっている」という思いも、
なかったとは言わない。当時は、まだ、そういう時代だった。

 しかしこういう生き方はまちがっている。それはそのあと、さまざまな経験をとおして、
思い知らされた。オーストラリアでの留学時代が、とくに、大きな影響を与えたことは言
うまでもない。

 で、それから30年以上。もうとっくの昔に忘れたはずなのに、この年齢になって、と
きどき、顔を出すようになった。亡霊のようでもある。あるいは、外皮がむけて、中身が
外に出てきたのかもしれない。

 たとえば仕事のことで、何かつまずいたようなとき、「男して、なさけない」とか、そん
なふうに考えてしまう。つまり、この「男して……」という部分に、その亡霊のはしくれ
を感ずる。

 おかしなものだ。こういうときというのは、渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を思い
出す。「男はつらいよ」という、あの言葉である。だれかに頼りたくても、頼れる相手はい
ない。そこにいるのは、自分だけ。絶壁とまではいかないにしても、追いつめられた感じ
はする。で、ふと口から出てくる言葉が、「男はつらいよ」。

 こうした思いは、女性も、もつものなのだろうか。あるいは、昔風の男だけがもつ独得
の、思いなのだろうか。しかし、女性が、「女はつらいよ」と言ったとしたら、それを聞い
た人は、別の意味にとらえてしまうだろう。

 景気は好転しつつある(?)とはいうものの、中高年に対する風当たりは、きつい。あ
る友人は、先日、メールでこう書いてきた。

 「一社懸命(一生懸命)働いてきたつもりなんだけど、結果がこうではね……」と。そ
の彼は、その少し前、30年近く勤めた会社を、リストラされた。その悲哀感というか、
さみしさは、こう書くのは失礼なことかもしれないが、女性たちには、理解できないもの
かもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●株価が1日で、2日間で、6万円も上昇!

 M社のパソコンがほしかった。それで数年ぶりに、ネット取り引きを始めた。で、先月
は、G社株で、xx万円(2桁)儲けた。で、そのあと、そのパソコンのメーカーのM社
株を、xx株買った。しかしすぐ、x万円、損をした。

 株価が下がったところで、改めてM社株を、xx株買った。(この会社は、1株単位で買
う。)

 ところが買ったとたん、株価はジリジリとさがり始めた。「こんなことなら、株ではなく、
パソコンを買えばよかった」と思った。

 ところがである。24日(木曜日)、M社の株が2万円近く、あがった。ほぼ、買ったと
きの株価に、もどった。

 さらに25日(金曜日)、株価は、一気に、上昇に転じた。午前中だけで、2万円も上昇。
その少し前に、私はM社の株を売った。これでxx万円の儲け。

 ヤッター!

 ……と思っていたら、M社の株は、さらに上昇をつづけ、25日の終値で、前々日比、
計6万円も上昇! 

 あと1時間、売るのをがまんしていたら、さらにxx万円、儲けたことになる。おしか
った!

 しかし欲深い人は、損をする。私の目的は、新型パソコンを買うこと。その分のお金を、
儲けること。つまり、すでにじゅうぶん、儲けた。

 で、今朝(26日)から、M社のウェブサイト(HP)を、あちこち、読んでいる。ほ
しい機種は、ほぼ決まっている。

M社 AD63xxタイプ GT−SP1。

PEN 4 プロセッサ 640(3・2GH)
デュアル・チャンネル DDR2 SD−RAM 1024MB
160x2=320GB ハードディスク
nVIDIA GeForce 6600GTなどなど。

17インチ液晶モニターが付属して、17万円弱(送料込み)

 しかし、すごいパソコンだ。数字を見ただけで、ドキドキする。

 それをワイフに話すと、つまり株で、xx万円儲けたことを、ワイフに話すと、「もっと、
株で儲けたら?」と。すぐ欲を出すところが、ワイフの悪いところ。

 「あのね、儲けようと思わないから、儲かるの。儲けようと思う人は、損をするの。あ
くまでも、小遣いの範囲で、楽しんでするから、儲かるの」と。


●否定的会話、肯定的会話

 仲が悪い老夫婦がいる。朝から晩まで、口げんかをしているという。それを見ている女
性(嫁)が、こう言った。

 「おたがいに、相手の言っていることを、何からなにまで、否定するのです。だから、
けんかになって、当然です」と。

 たとえば夫が、「今朝は、パンを食べたい」と言うと、妻がすかさず、「朝から、パン?」
と言う。

夫「パンは、ないのか?」
妻「あるわよ」
夫「だったら、パンでいい」
妻「せっかく、味噌汁を暖めたのに」

夫「今日は、このコートで散歩に行く」
妻「外は、寒いわよ」
夫「この服ではだめか?」
妻「こちらのにしなさい。そのコートは、穴があいているから」

夫「犬も散歩に連れて行く」
妻「やめなさいよ」
夫「海へ行きたい」
妻「風が強いわよ」と。

 妻側の根性は、かなりひねくれている。あるいはたとえば、もともと望まない結婚が根
底にあって、不平不満が、心の奥底に、大きな(わだかまり)として残っているのかもし
れない。生い立ちの、貧しい家庭環境が、原因かもしれない。

その女性の話を聞くと、義母(=妻)は、義父(=夫)のやることなすこと、すべてが、
気に入らないらしい。

 そこで夫が、まずこう叫ぶ。「そうまで、何かなにまで、否定しなくてもいいだろう!」
と。しかし妻には、それが理解できない。否定しているという意識すら、ない。いわんや、
心の奥底に潜む、(わだかまり)に気づいていない。

 実際、こういう女性のような人と会話をしていると、少しも楽しくない。「あら、すてき」
「そうね」「そうしましょう」という、肯定的な返答があれば、会話も楽しくなる。しかし、
そのつど、「それは、ダメよ」「いやよ」「ほかにことをしましょうよ」と言われたら、つぎ
の言葉すら、出てこない。

 そこでけんかになる。

 が、けんかになったとたん、その妻は、ますますがんこになるという。その女性に話し
によれば、いつも同じけんかをするという。

夫「もう、これ以上、さからうな!」
妻「さからってないわよ。どこがさからっているというの!」
夫「今、そう言って、さからっている!」
妻「さからっていないわよ!」と。

 この夫婦は、もっと、早い時期に離婚すべきだったかもしれない。これからも、暗くて、
つまらい、老後の夫婦生活を送ることになる。

(会話術)

 相手を楽しませる会話術というのを考えてみた。コツがある。

(1)「そうね」「それはいいね」と、いつも前向きにほめる。
(2)「じゃあ、こうしたらいい」と、相手の言ったことを、前向きに伸ばす。
(3)相手の言っていることを、まず、しっかりと聞く。
(4)自分の結論を、性急に出さない。
(5)基本的には、相手が取りあげたテーマについては、聞き役に回る。

 一方、してはいけないこととして、こんなことがある。

(1)知ったかぶりをしない。
(2)「そうじゃないわよ」式の否定をしない。
(3)頭から、「ダメよ」式の否定をしない。

 これは幼児を伸ばすときのコツでもある。たとえば幼児を指導するとき、重要なことは、
おとなの優位性を見せつけないこと。優位性を見せつければ見せつけるほど、子どもは、
おとなに対して服従的になったり、依存的になったりする。ひどいばあいには、自信喪失
から、おとなになることに、恐怖感を覚えるようになるかもしれない。

 「パパって、意外と、だらしないな」「ママって、バカなところがあるね」と子どもに思
わせつつ、子どもに自信をもたせる。たとえばプロレスごっこをしても、最後は、おとな
のほうが、負けたフリをしてみせる。決して、子どもを、やりこめたままにしてはいけな
い。


●ボケ兄行状記・その後

 「ボケ」という言葉自体が、その人の人権を無視している。(ふつうの世界では、禁止語。)
それはよくわかっている。しかし頭のボケた兄の介護をするのは、そういう言葉を使って
も罪の意識を感じないほどの、重労働。

 世話がかかるなどという、生易(なまやさ)しいものではない。トイレまでの廊下で、
小便をもらす。便器の周辺に、小便をまきちらす。そのたびに、雑巾で廊下を拭く。しか
しその雑巾を、兄は、いつの間にか、台所へもってきて、それでテーブルの上を拭く。

 が、何よりもつらいのは、(心の交流)がないこと。

 親切にしてやったり、やさしくしてやったりすることが、すべてアダとなって、かえっ
てくる。

 当初、音楽を聞きたいというから、私が使っていたステレオセットを貸してやった。が、
あっという間に、破壊してしまった。

 台所で、自由で遊ばせていたら、ガスコックをひねってしまい、あやうく大惨事になる
ところだった。

 あるいは居間に座らせておいたら、税務署に提出する申告書を、メチャメチャにしてし
まった。一日で、乳酸飲料の「K」を、飲んでしまった。ほかに食事中でも、時をかまわ
ず腸内ガスを出す。便器を大便で汚す……。

 で、本人は、そうしたサービスに、少しは感謝しているかと思うと、そうではない。食
事のたびに、不平不満。

 「養M酒(薬用の酒)を、飲まないと、元気が出ない」
 「寝る前にミルクを飲まないと、朝、起きれない」などなど。

 間接的な言い方で、あれこれ注文をつけてくる。食事だけが楽しみなのは、よくわかる。
しかし、ほとんど毎日、「まずい」とか、「かあちゃんは、もっとおいしいものを出してく
れた」などと言う。

 しかたないので、私たちが家を出るときは、台所や居間には、入れないように、カギを
つけた。玄関からは出て行かれないように、外からのカギもつけた。放火癖もあるから、
ライターやマッチ類は、すべて、始末した。

 そんなわけで、現在、私の心の中には、2人の自分がいる。やさしく心の温かい自分。
もう1人は、冷淡で、きびしい自分。

 こうしたボケた老人を指導するときは、どうしても、言葉がきつくなる。「○○ちゃん、
こうしたら、いいけどな」というような言い方では、通じない。そこでどうしても、結論
だけの、命令口調になる。「〜〜しなさい!」と。

 こういう言い方が、他人には、冷たい言い方に聞こえるらしい。しかしことボケ老人に
は、やさしい、心のこもった言い方は、通用しない。(ボケ老人にもいろいろあるようだが
……。)

 今夜も寝る前に、「体の調子はどうだ?」と声をかけてみた。数日前から、「頭が痛い」
と言っていた。そのつど、熱を測ったが、何ともない。

 すると、「熱がある。37度ある」と言う。「体温計で測ったのか?」と聞くと、脇の下
から、体温計を出すフリをする。

私「体温計など、ないぞ」
兄「あれ、机の上かな?」と。

 空想と現実が、ごちゃごちゃになってしまっているらしい。

私「体温計など、ないぞ。ウソを言ってはいかん」
兄「おかしいな、今まで、あったけどな」と。

 ところで、書店をのぞいてみると、ボケ防止に関する本は、たくさんある。ボケを自分
で自覚して、予防しようとする人たちが読む本である。

 しかしボケてしまった人たちが読む本は、ない。ボケてしまった人は、もう本など読ま
ない。それにボケても、自分では、ボケたという自覚がない。兄もそうだ。

兄「みんなが、ぼくを、バカと、バカにする」
私「しかたないだろ。そうなんだから。お前はバカだよ」
兄「みんなが、バカにする」と。

 まあ、一応、私も教育評論家だが、たいへんひどいことを、口にしているような気がす
る。本来なら、許されない言葉の連続。「ボケ」とか、「バカ」とか。まあ、そのうち、教
育「評論家」の名前など、返上しようかと考えている。こんなバカげた道楽(失礼!)、い
つまでも、やっておられない! (……というところまで考えてしまう。)

 しかしこれが現実。まさに現実。

 この日本には、ボケ老人は、10万人単位でいる。悲惨なのは、ボケた本人よりも、そ
の周辺で、悪戦苦闘している家族たち。その苦労と苦痛は、想像を絶するものである。ワ
イフですら、兄と同居するようになってから、こう言った。

 「黒い雲が、どっかりと、家の中に居座っている感じ」と。

 いくら脳の機能が鈍っても、あるいは身体に障害があっても、(心の交流)があれば、ま
だ救われる。介護する側は、それに励まされる。一言でも、兄の口から、「すまない」「あ
りがとう」という言葉が、自然な形で出てくれば、苦労も、半減する。喜びにかわる。

 しかしボケ老人には、それがない。おかげで、今日の午後も、遠出はなし。兄の入れ歯
装着剤を買いにいったり、トイレ掃除用具を買いに行ったりで、つぶれてしまった。早く
介護申請を取りたいが、住民票が、まだG県のほうにあるので、ままならない。

 昨夜も郷里の姉に電話でこう言った。「お金がほしいわけではないけど、兄の年金分くら
いは、もらわないと、アホらしくて、世話はできないね」と。

 だから私はあえて言う。

 私のことを、頭のボケた兄のめんどうをみている、すばらしい弟だと思っているなら、
それは大まちがい! みたくて、みているのではない。私に、すぐれた人間性があるから、
しているのでもない。見るにみかねて、しかたないから、しているだけ! ハハハ!

 ……と書きながら、我が家の悪戦苦闘は、まだまだつづく。がんばります。がんばりま
しょう。

(付記)

 痴呆老人の介護をしていると、同時に、2つの相反する感情が、心を埋める。

 一つは、(冷淡と無視)。もう一つは、(同情と憐れみ)。

 しかし温情は、禁物。そのスキをついて、温情が、そのままアダになる。だから油断で
きない。もちろん、説得や約束、説教などは、意味がない。叱ったり、怒ったりすれば、
逆効果。

 だから心の奥底では、(同情とあわれみ)を覚えながら、表面的には、かなり冷酷に接す
るしかない。ものの言い方も、先に書いたように、結論だけの、つまりは、命令口調にな
る。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●どうも調子が悪い(?)

 軽い風邪をひいたせいか、それとも、花粉症の初期症状のせいか、どうも、体の調子が
よくありません。

 集中力も、長つづきしません。あれこれ考えてはいるのですが、それらが、シャボン玉
の玉のように、パチン、パチンと、そのままはじけてどこかへ消えてしまいます。

 雑誌を、ぼんやりとながめているだけ。本来なら、今日あたりは、3月28日号のマガ
ジンの発行予約を入れなければならないのですが、原稿が足りません。足りないどころか、
3月25日号すら、まだ発行していません。(一応、一回分で、1500字x20枚と決め
ています。)

 さあ、どうしよう?

 そうそう、昨夜、自分で、画廊を開きました。今まで描いてきたイラストを、販売して
みようと思っています。興味のある方は、(はやし浩司のHP)のトップページの、「はやし
浩司の画廊」から、どうぞ。訪れてみてください。

 私が描いたイラストなんか、売れるだろうとは思っていません。まあ、何というか、「こ
んなこともできる」という、遊びのようなものです。ここで販売しているイラストは、今
まで、自分の書いた本の中で、さし絵として使ったものばかりです。

 ところで、気分が、晴れないのは、天気のせいかも? 曇りというわけではないですが、
寒々とした風が、ヒューヒューと吹いている。

 まあ、いろいろあります。この仕事も、楽しいことばかりではありません。ときどき、
どこかへ逃げたくなります。何もかも、忘れて……。何もかも、捨てて……。

 が、たまの日曜日。さきほど、山荘から帰ってきました。昼飯を食べて、昼寝して、そ
れから庭の雑草を、ワイフと2人で、抜いてきました。

 友人のTさんが、今度、隠居用の離れの部屋を増築したとか。祝いの席に招かれていた
のですが、そんなわけで、今日は、失礼してしまいました。(Tさん、ごめんなさい!)

 私には、軽い回避性障害があるのかも?

 こういうときは、だれにも会いたくありません。めんどうというより、わずらわしい…
…。かといって、頭の中は、カラッポ。だから今は、こんな文章しか、書けません。読ん
でくださっている方には、たいへん申し訳ないと思います。どうか、お許しください。

 では、これからこのままコタツの中で、横になります。(ゴロリ)

********************************

4月からの新年中児のみなさんへ、
BW教室の生徒さんを募集しています。
どうかお問い合わせください。

新年長児クラスは、ほぼ定員になりました(2月22日現在)。
ありがとうございました。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 21日(No.544)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもが、突然、「学校へ行きたくない!」と言ったとき……

++++++++++++++++++++++

もし、あなたの子どもが、ある朝、突然、
「学校へ行きたくない!」と叫んだとしたら……。

そんなときのために、こんな原稿を書いて
みました。

H県にお住まいの、KMさんという方から、
子どもの不登校についての相談がありました。

「今日も、学校へ行きませんでした。不安です。
本当にこれでよいのでしょうか?」と。

+++++++++++++++++++++++

 子どもがある朝、突然、「学校へ行きたくない」と言ったら……。たいていの親は、その
段階で、混乱状態になる。狂乱状態になる人も多い。「うちの子は、このままダメになって
しまう!」と。(本当は、ダメにはならないのだが……。)

 「まさか、うちの子にかぎって!」という思い。「どうして、うちの子が!」という思い。
「不登校ではなく、一時の迷いでは?」「ズル休みでは?」などと、いろいろ考える。

 ある母親は、こう言った。「話には聞いていました。しかしまさかうちの子が、そうなる
とは、夢にも思っていませんでした」と。

 そこで親は、理由を聞く。「何か、理由があるはずだ」と。しかし子どもは、「行きたく
ない」と、わめくだけ。が、親は、納得しない。「友だちがいじめるの?」「先生と何かあ
ったの?」と。

 本当のところ、子どもにも、その理由がよくわかっていない。親がしつこく、「どうした
の?」「理由を言いなさい!」と迫るから、しかたなしに、あれこれと理由らしきことを口
にする。

 「X君が、意地悪をした」「先生が、こわい」と。その時点で、親の憎悪は、X君や、先
生に向けられる。

 が、子どもは、泣き叫ぶ。「行きたくない!」と。あるいは子どもは自分の部屋に逃げた
り、トイレの中に入ったまま出てこなかったりする。まさに狂乱状態となる。

 ……こう書くからといって、決して親を責めているのではない。怠学とちがって、いわ
ゆる「学校恐怖症」は、心の奥底からわき起こってくる「恐怖感」が原因で、そうなる。
子ども自身にも、その理由がよくわかっていない。

 一方、親は、言いようのない不安と、恐怖感に襲われる。それは怒涛(どとう)のよう
に、親を、襲う。

 とくに進学、進級をひかえているときは、そうだ。理由は、いくつかある。

+++++++++++++++

(1)日本人独得のコース意識
 
 何かにつけて、日本人は、「型(パターン)」を作りやすい。茶道や華道、書道などに、
その例をみる。そしてその延長として、「人は、こうあるべきだ」という「型」まで作って
しまう。

 それを「コース意識」という。日本人の多くは、このコースからはずれることに、不安
感や恐怖感を覚える。『みなと渡れば怖くない』といい、同時に、『出るクギは打たれる』
という。つまり自分がコースからはずれることを恐れる一方で、同時に、コースからはず
れていく人を、許さない。あるいは、さげすむ。

(2)学歴信仰
 
 わかりやすく言えば、江戸時代の士農工商の身分制度が、明治時代に入って、学歴制度
に置きかわった。いわゆる「学校出」は、極端に優遇された。また一般庶民は、尋常小学
校を出るだけで精一杯。上級学校へ進学することは、至難のわざだった。こうした状態が、
終戦直前までつづいた。

 明治時代の終わりですら、東京大学の学生のうち、約8割弱が、士族、あるいは華族で
占められた。一部の特権階級だけが、大学へ進学できた。そして全国の県令(現在の県知
事)のほとんどは、自治省出身者で占められた。

 (現在でも、全国の県知事の大半が、元中央官僚である。その名残は、今も生きている。)

 学歴に対する日本人独得の執着心は、そんなところから生まれた。

(3)不公平社会

 この日本では、人生の入り口で、一度(合格)すると、あとはトコロテン方式で、一生、
安楽な世界が保証される。そうでなければ、そうでない。そういった不公平感を、親たち
は、日常の生活の中で、敏感に感じ取っている。

 親たちをして、子どもの受験勉強にかりたてる、本当の理由は、ここにある。

たとえば今、公立学校における学力の低下を心配している親は多い。しかし親たちが心
配しているのは、(学力の低下)ではない。自分の子どもが、受験競争で不利になるのを、
心配している。

(4)権威主義社会

 権威が崩れたとはいえ、この日本には、まだまだ権威主義が残っている。わかりやすく
言えば、差別意識ということになる。そのよい例が、「水戸黄門」である。葵の紋章をかか
げ、「ひかえおろう!」と一喝すると、周囲のものたちは、みな、地面に頭をつけて、ひれ
ふす。

 日本人には、痛快な場面だが、そのおかしさというか、こっけいさには、気づいていな
い。はっきり言えば、バカげている。

 オーストラリアの友人は、ある日、私にこう聞いた。「ヒロシ、水戸黄門が、悪いことを
したらどうなるのか?」と。そこで私が、「水戸黄門は、悪いことはしない」と言ったら、
「それはおかしい」と。

 欧米では、民主主義の歴史は、そのままこうした権威主義との戦いを意味した。

 が、この日本には、いまだに、「偉い人」という言葉が残っている。英語では、それにか
わる言葉として、「respected man」(尊敬される人)という言葉を使う。

 「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、大きな距離がある。日本では、ふつう、「偉
い人」というときは、地位や肩書きのある人をいう。英語国では、ふつう、「尊敬される人」
というときは、地位や肩書きは関係ない。

 今でも、大臣になったとたん、ふんぞりかえって歩く人は少なくない。(いますね、いま
でも……。あごをひいて、腹を突き出し、握りこぶしをつくって、さも私は「大臣だ」と
いうような顔をして歩く人です。)

 さて、あなたはだいじょうぶか? 男が上で、女が下。夫が上で、妻が下。そして親が
上で、子が下と、あなたは考えていないだろうか。あの「水戸黄門」(テレビ番組)は、い
までも、20%前後の視聴率を稼いでいるという。「おもしろい番組だ」と、何も考えない
で見ている人ほど、権威主義へのあこがれの強い人と見てよい。ご注意!

(5)代替コースがない

 この日本には、学校を離れて道はなく、学校以外に、道はない。つまりは、1本の道し
か、許されていない。

 しかしアメリカには、ホームスクールや、フリースクール、バウチャースクールなど、
さまざまな形のコースが用意されている。日本でも、高校へ行かなくても、大学検定試験
(大検)に合格すれば、大学の入学試験を受けられるしくみができてきている。

 しかし親の意識は、そこまで成熟していない。私が、「いいじゃないですか、子どもが行
きたくないと言っているなら、学校など、行かなくても」などと言おうものなら、ほとん
どの親は、目を白黒させて驚く。

 本来なら、学校以外に、コースをいくつか用意しておくべきであった。しかし日本は、
世界に名だたる、管理国家。コースがふえればふえるほど、管理が、複雑になる。つまり
官僚にしてみれば、教育支配が、それだけしにくくなる。

 で、学校以外に道はなく……、学校を離れて道はない……、となった。それが親の意識
をがんじがらめにしている。

(6)学校神話

 「学校神話」とはよく言ったもの。日本人は、「学校」に対して、神話的な絶対性を感じ
ている。「学校万能主義」も、そこから生まれた。今でも、子どもの世界で、何か問題が起
きると、「学校で……」と考える人は多い。

 家庭ですべきことまで、「教育は学校で……」と考える人は、もっと多い。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、私は、学校教育を否定しているのでは
ない。だれの目にも、公平で、良識ある教育は必要である。また明治以後、その学校教育
が、日本の発展の基盤になったことも事実である。

 しかし行きすぎた絶対性は、かえって弊害を生む。もっと言えば、カルト化する。私が
子どものころには、子どもはもちろん、親ですら、学校の先生に逆らうことは、夢のまた
夢。「学校の先生が、こう言った」「教科書には、こう書いてある」と言えば、みな、それ
に従った。

 実際、子どもが不登校児になったときに見せる反応は、それまで信仰をつづけてきた人
が、その信仰を捨てるときの狂乱状態に似ている。

(7)日本人独特の依存性

 長くつづいた封建時代。それにつづく全体主義国家。そういう体制の中で、日本人は、
日本人独特の依存性を身につけてしまった。

 支配と服従。この両者が、相互にかみあって、独特の日本人の社会を形成した。

 たとえば学校教育にしても、つねに「お上」である、文部科学省(文部省)の言いなり。
教科内容から指導内容まで、すべて。PTAという組織はあるにはあるが、アメリカなど
でみるPTAの組織とは、まるで異質なもの。

 アメリカでは、公立の小学校ですら、PTAが相談して、勝手にカリキュラムを組んで
いる。入学時の年齢まで、自由に決められる。もちろん教師の人事権ももっている。が、
日本のPTAは……? みなさん、ご存知の通りである。

 こうした国への依存性が、学校教育を、窮屈(きゅうくつ)なものにしている。もっと
言えば、「子どもというのは、親が教育するもの」という意識がとぼしい。心のどこかで、
「子どもは、国に、教育してもらうもの」と考えている。

 「子どもが学校へ行きたくない」と叫んだとたん、親は、ハシゴをはずされたかのよう
な不安感を覚える。

+++++++++++++++

 かなり過激な意見を書いたが、ここまで書かないと、なぜ親が狂乱状態になるか、その
理由がわかってもらえない。だから書いた。先にも書いたように、だからといって、私は、
学校教育を否定しているのではない。

 大切なことは、こうした私たちの意識の奥深くに潜んで、私たちを操っている別の意識
に気づくことである。それに気づけば、なぜ狂乱状態になるか、その理由がわかるはず。
そしてそれがわかれば、狂乱状態にならないですむ。

 「学校恐怖症」については、たびたび書いてきたので、私のHPを見てほしい。子ども
への対処方法も、そこに書いた。

 私の印象としては、「不登校を、もっと、気楽に考えたらよいのではないか」ということ。
私の息子の一人も、毎年、春先になると、不登校を繰りかえした。しかしそのときでも、
私は、「無理して行くことはないよ」と、息子の不登校を、かまえて考えることができた。

 それにはいろいろ理由があったが、しかし、もともと、学校というのは、そういうもの。
そしてそう考えることによって、息子の不登校をそれ以上、こじらせることもなかった。

 多くの親たちは、最初の段階で、狂乱状態になる。この「狂乱状態」自体が、子どもの
不登校をこじらせることに、親たちは、気づいていない。

 先のトイレに逃げこんだ子ども(小2男児)のばあい、親は、ドライバーをもってきて、
トイレのドアをはずしたという。それに対して、子どもは、まるで狂人のようにあばれて
抵抗したという。

 相当なショックを子どもに与えたことになる。が、それではすまなかった。

 母親は、子どもを無理やり子どもを車に乗せると、そのまま学校へ。しかし子どもは車
の支柱に腕をまわし、車から離れようとしなかった。叫び声を聞きつけて、先生もかけつ
けてやってきた。

 そのときの様子を、母親は、こう言う。「どこにあんな力があるのかと思われるような力
で、車にしがみついていました。先生と2人で体を離そうと思いましたが、ムダでした。

 で、その日はあきらめて、家に帰ることにしましたが、帰りの車の中では、息子は、も
う鼻歌を歌っていました」と。

 こういうことを繰りかえしながら、症状はこじれ、子どもは、ますますがんこになる。
本来なら数週間ですんだかもしれない不登校が、半年とか、1年にのびてしまう。

 では、どうして最初の段階で、親は、子どもに向かって、こう言えないのか。

 「そうよね。だれだって、ときには、学校へ行きたくないときもあるのよ。お母さんも、
そうだった。今日は、学校をサボって、2人で遊びに行こうね」と。

 その理由として、この原稿を書いた。

 くどいようだが、だからといって、私は、不登校を肯定しているのではない。「学校へな
ど、行かなくてもいい」と言っているのではない。どうか、誤解のないように!

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●「ああは、なりたくない」

 ワイフが、友人から聞いた話。

 その家には、「大おばあちゃん」と呼ばれる、曾(ひい)祖母と、「おばちゃん」と呼ば
れる、祖母がいた。そこへその女性が、嫁いでいった。

 すでに曾祖母は、ボケていた。それを介護しながら、祖母はいつも、こう言っていたと
いう。「私は、ああはなりたくない」「私は、ああはならない」と。

 祖母は、たいへんしっかりとした人だったという。

 で、それから何年もたって、曾祖母はなくなった。そしてそれからまた何年かたって、
今度は、その祖母も、ボケ始めた。

 自分でしまい忘れたくせに、「嫁(=ワイフの友人)が、サイフを盗んだ」「通帳を盗ん
だ」と騒いでいるという。

 それを見ながら、ワイフの友人は、「私は、ああはなりたくない」「私は、ああはならな
い」と言っているという。

 ところでヨボヨボと歩いている老人を見ると、(とくに若い人は)、「自分はああはならな
い」と思うもの。自分とは無縁の世界の人と、老人を、自分の住んでいる世界の外に置い
てしまう。

 私も、実は、そうだった。しかし今、その老人世界の入り口に立ってみると、あっとい
う間に、こうなってしまったような感じがする。その間には、長い時間があったはずなの
に、その時間が、どこかへ飛んでいってしまった(?)。

 ワイフの友人は、こう言ったという。

 「今度は、おばあちゃん(祖母)が言っていたことと、私が、同じ言葉を繰りかえして
いるのを知って、ぞっとしたわ」と。

 加齢とともに、どんな人でも、体力は衰えてくる。同じように知力も、衰えてくる。例
外はない。頭がよいから、ボケないということもない。ボケることには、ボケ特有のメカ
ニズムが働く。

 そこでボケを防ぐには、どうしたらよいか。

 その前に誤解があるといけないので、いくつかの点を指摘しておきたい。

 加齢とともに、脳の中の動脈が硬化して、働きがにぶくなることはある。物忘れがひど
くなったり、相手の名前を思い出せなかったりする。しかしこれはボケではない。(もちろ
んボケの症状にも、それはあるが。)

 これはただ単なる機能障害。

 が、その脳細胞が、何らかの理由で、死滅することがある。機質的に、脳の働きが悪く
なる。これがボケである。

 さあ、どうするか?

 インターネットであちこちを調べてみたが、いろいろな薬が販売されているらしい。し
かしそういうものに手を出してよいものか、どうか?

 ただ私の意見としていうなら、頭の良し悪しには、関係なく、頭も体と同じように、使
ったほうがよいのではないかということ。しかも、いつも多方面に向けて、頭を使ったほ
うがよいのではないかということ。

 いわゆる専門バカになってはいけない。中国にも、『知るものは、博(ひろ)からず』と
いう、ことわざがある。あることがらに精通している人というのは、それ以外の分野のこ
とについては、よく知らないものという意味である。そうであってはいけない。

 このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 中に、ある特定のことについて、ふつうでない(こだわり)を見せる子どもがいる。た
とえばカード(カード遊びのカード)についても、実にこまかいことまで、よく知ってい
る。一見、頭がよさそうに見えるが、そのほかのことについては、そうでない。全体とし
て、バランスに欠けることが多い。

 そこで重要なのは、「考える」ことではなく、「考える習慣」である。

 学者であるとか、ないとか、そういうことは関係ない。その道の専門家であるとか、な
いとか、そういうことも関係ない。(そう言えば、最近、私に、「君は、心理学の専門家で
もないのに、心理学について意見を書くのはおかしい」と言ってきた人がいた。かわいそ
うな人だ。その道の専門家だけが、専門分野について書くのが許されると、誤解している。
そういう人は、悪しき権威主義時代の亡霊と考えてよい。)

 考える習慣さえ身につけておけば、どこにいても、またどんなときでも、ものを考える
ことができるようになる。そしてそれが脳ミソを、活性化させる。

 知力を体力と同じように考えることはできないが、しかし鍛(きた)え方という点では、
よく似ている。

 健康を維持するためには、毎日、しっかりと運動をする。同じように、脳ミソの健康を
守るためには、毎日、しっかりと頭を使う。

 私の方法が役にたつかどうかは、わからないが、私は、今年も、あの「イミダス200
5」(集英社)という、総合情報解説書を買ってきた。ほかにも、「日本の論点2005」(講
談社)などなど。

 自分の知らない世界のできごとを知るのは、たいへん、おもしろい。頭の中で、バチバ
チと脳細胞どうしが、火花を散らすこともある。そういう本をパラパラとめくりながら読
んでいると、けっこう、楽しい。つまり、それが脳の活性化につながるのではないか? …
…勝手にそう思っているだけだが……。

 そうそう、もう一つ重要なことは、だれの意見を聞いても、一度、自分なりに反論して
みること。相手の言うことをそのまま鵜(う)のみにしてしまったのでは、考えたことに
はならない。

 ……実は私も、ボケた兄を見ながら、「私は、ああはなりたくない」「私は、ああはなら
ない」と思っている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●利口とバカ(はやし流、バカのカベ)

 「私は利口だ」と思っている人ほど、バカ。「私はバカだ」と思っている人ほど、利口。
つまり利口とバカのちがいは、その(謙虚さ)にある。

 人間全体を、一つの(生物)としてみると、それがわかる。

 たとえば、サルの世界にも、多分、利口なサルとバカなサルがいる。しかしその差は、
それほど、大きくない。サルは、サル。どこまでいっても、サルは、サル。

 同じように人間も、どこまでいっても、人間は人間。

 もっと言えば、利口とバカのちがいは、相対的なものでしかない。では、利口とバカを
区別するものは、何か?

 利口な人は、自分の無知を知りながら、前に向って、進む。しかし進めば進むほど、そ
の先に、さらに遠い道があるのを知る。

 が、バカな人は、自分が利口だと思う分だけ、自分の無知に気づかない。そして自分だ
けの世界に住み、その中で、自分の思想をサビつかせてしまう。

 たとえばここに80歳を過ぎた老人がいる。その老人は、子どものころに受けた、「戦時
訓※」を、いまだに信奉している。彼にとって、理想の男性はいえば、乃木将軍であり、
明治天皇である。

 その人は、子どものときから、80歳になるまで、何を学んできたというのか? が、
それだけではない。「無知」には、もう一つの意味が含まれている。

 知力というのは、加齢とともに衰えていく。それについては、前にも書いた。が、それ
だけではない。せっかく何らかの形で知力をみがいても、数か月、あるいは数年後には、
すっかりと忘れてしまうということは、よくある。

 私もときどき、数年前、10数年前に、自分が書いた原稿を読みなおすことがある。そ
ういうとき、よく、こう思う。「これはたしかに私の文章だが、本当にこんなことを書いた
のか?」と。

 そういう意味では、脳ミソのキャパシティ(容量)、つまりパソコンでいえば、メモリー
の量というのは、年々、減っていくものなのか? 若いころは、1024MBだったのが、
50歳をすぎると、256MBになるとか。さらに60歳をすぎると、128MBになる
……。

 だから現状を維持するだけでも、たいへん。いわんや、脳ミソを毎日、鍛えなかったら、
どうなるか? 今さら、ここに書くまでもない。

 そんなわけで、「私は無知だ」「バカだ」「アホだ」と思えば思うほど、その先に道が見え
てくる。しかし「私は利口だ」と思ったとたん、その人はがんこになり、小さなカプセル
の中に閉じこもってしまう。

 つまり、これが利口な人と、バカな人のちがいということになる。
(はやし浩司 バカ論 利口とバカの壁 馬鹿論 馬鹿)

(注※……日中戦争における軍紀の乱れに対して、時の天皇が、1941年に出した訓令。
戦意低下を回復するために出された。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●多重人格性

その人の中に、もう1人の別の人がいるように感ずることがある。本来の人を、「主人格」
といい、もう1人の人を、「交代人格」という。

 この主人格と交代人格が、交互に入れかわることを、解離性同一性障害、つまり多重人
格障害という。

 「障害」とまではいかなくても、その傾向のある人となると、いくらでもいる。子ども
の世界でも、よく観察される。

 平素は、穏やかで柔和。どこかさみしがり屋で、友だちの輪の中でも、静かにしている。
が、何かのことで、キレたりすると、まるで別人のようになってしまう。目つきそのもの
まで、変わってしまう。眼球だけが、ギョロギョロと動くような感じになる。

 N君(小5男児)が、そうだった。

 で、一度、キレた状態になると、雰囲気そのものまで変わってしまう。さみしがり屋だ
ったはずなのに、突然、強くなって、相手に向って、暴言を吐いたりする。「お前は、この
前、ぼくをバカにしたア!」と。

 N君は、心に大きなキズをもっていた。母親に聞くと、「家庭の中では思い当たることは
ない」ということだったが、「多分、小学1年生のときに、ひどいいじめを受けていたから
ではないか」ということだった。

 虐待、家庭内騒動が原因で、こうした多重人格性をもつことは、よく知られている。い
じめで多重人格性をもつこともある。

 診断基準としては、つぎのようなものがあるという(松原由枝「臨床心理学」)。

(1)2つ以上の異なった人格の存在が認められること。
(2)2つ以上の人格が、入れかわりながら、その人をコントロールしようとしているこ
と。
(3)その人の実際の行動に基づく記憶が、部分的、時間的に失われていること。

こうした多重人格性が見られたら、穏かで静かな生活を基本として、「主人格」を安定さ
せることに心がける。できれば「交代人格」の出やすい状況を、避ける。つまり刺激し
ない。

 さらにそうした子どもをよく観察してみると、興味深いことに気づく。

 そのN君のケースだが、一度、交代人格になると、過去に、その交代人格になったとき
だけが、連続して、記憶の中でつながってしまうということ。たとえば、平均して、1か
月に2回ずつ、交代人格になったとする。

 するとその交代人格になったときだけが、連続してつながってしまい、その間の、主人
格の部分が消えてしまう。

 N君が、X君にとびかかっていったときもそうだ。足蹴りをして、そのはずみに、X君
に、けがわさせてしまった。先週までは、仲がよかったはず。部屋を出るときも、いっし
ょに並んで帰ったはず。しかし一度、交代人格になると、X君とけんかしたことだけが、
連続的につながってしまう。

 「お前は、この前、こう言ったじゃないか!」
 「お前にあげた、○○カードを、返せ!」と。

 ときに、1年前、2年前の話にもどることもある。

 が、ひととおり混乱状態がつづき、一段落すると、一転、今度は、また柔和でやさしい
表情のN君にもどる。

 しかしそのとき、N君は、X君にあやまるということをしない。私が「あやまりなよ」
と促すのだが、N君には、その自覚がない。まるで他人が、X君にけがをさせたかのよう
に、平然としている。「ぼくがしたんじゃない」というようなことまで言う。

 が、この段階で、気をつけなければいけないのは、あまりしつこくN君に、「あやまりな
さい」と責めると、またそこでN君が、キレてしまうということ。突発的にそうなる。だ
からほどほどのところで、指導する側のほうが、話題を切りかえなければならない。

 そのN君は、今ごろ、どうしているだろうか? あれからもうxx年になる。ふと、今、
そんなことを考えた。
(はやし浩司 解離性同一性障害 多重人格 主人格 交代人格)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●パーソナル・スペース
 
 白人系の人たちは、会話をするとき、相手の人と、かなり広いスペース(距離)をとろ
うとする。

 一方、アラブ系の人たちは、比較的、せまいスペース(距離)をとろうとする。

 だから白人とアラブ人が、部屋の中央で会話をしていると、白人のほうは、どんどんと
あとずさりをし始める。距離を置こうとする。

一方、アラブ人は、どんどんと、相手を追いこんでいく。距離を縮めようとする。で、
気がつくと、白人は、壁に押しつけられてしまっている……ということになる。(この話
は、高校の英語の教科書に載っていた話。)

 人と話すとき、どの程度の距離を置くか。その距離は、実は、その2人の親密度によっ
てもちがうという。

恋人どうし……〜45センチ
友人どうし……45センチ〜1・2メートル
家族どうし……(50センチ前後)
仕事仲間どうし……(1メートル前後)
仕事の相手どうし……1・2メートル〜3・6メートル
公的な会話……3・6メートル〜
(数字は、「心理学のすべて」日本実業出版社より、(かっこ)内の数字は、私が、推測で
つけ足した。)

 つまり相手が、どの程度、自分との間に距離を置こうとしているかを知ることで、相手
の自分に対する好意(affection)を知ることができる。

 これはそのまま家族どうしの愛情を知る、バロメーターとしても、応用できる。

 あなたが近づいたとき、子どもの様子が自然であれば、それでよし。しかしあなたから
一定の距離を置こうと、離れたら、かなり要注意。……ということになるのでは?

 いや、実際には、親子の間では、そういう現象は、あまり起きないかもしれない。しか
し教師と生徒の間では、そういう現象は、よく起きる。

 何かのことでほめるため、頭をさすろうとすると、すなおに頭をそのままにしている子
どももいれば、どこかに嫌悪感を漂わせる子どももいる。たまに、「いや!」と言って、私
の手を避けようとする子どもも、いる。

 要するに、スキンシップの問題ということか。この方法は、親子というより、夫婦の間
の愛情を知るのによいのかも(?)。これからワイフにそれをためしてみる。(たまたまこ
れから朝食なので……。)

私がそっと近づいたとき、ワイフは、どんな反応をしてみせるか? 何センチになった
ところで、ワイフは、体を離し始めるか? 楽しみだ。
(はやし浩司 パーソナルスペース パーソナル・スペース 親密 親密度)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●風邪が抜けない!

 食欲も旺盛。運動も欠かさず、している。しかしどうも風邪っぽい。花粉症はなおった
とはいえ、季節のはじめの1週間程度は、軽い症状が出る。その症状かとも思うが、どう
もはっきりしない。

 病院では、風邪薬をもらってくる。

 軽い頭痛と、どこかゾクゾクする悪寒。鼻水も少し、出る。やはり花粉症の初期症状の
ようだ。今年は、花粉の飛散量が、例年より、はるかに多いという。


●「?」なコメント

 HPや、BLOGを公開しているため、ときどき、意味のよくわからないコメントが、
寄せられる。

 悪意はないのだろうと思うが、先日は、「自分で、バーベルをもちあげてみろ」というの
もあった。(ただ、それだけの一文。)

 いろいろな解釈ができる。「お前の文章は、苦労に根ざしていない。自分で苦労してみた
ら、もっと他人の苦労がよく理解できるはず」という意味か。

 しかし、もしそうなら、もう少し、かみくだいて、書いてほしい。「要点だけ言うから、
あとは自分で考えろ」というのは、どうも、不親切(失礼!)。

 で、さらに考えてみる。

 文章というのは、つまり私がこうして今、書いている文章というのは、自分の意思や心
を、相手に伝えるため。つまり相手があっての、文章である。わかりやすく言えば、私の
文章を読んでくれるのは、私にとっては、「お客様」ということになる。

 読んでくれる人にしても、それだけ、貴重な、人生の何十万分の1の時間を使うことに
なる。(今、計算してみたが、1時間は、80歳まで生きるとして、約70万分の1に相当
する。)

 つまり書くほうは、その分だけの時間を、もらうことになる。だからいいかげんなこと
は書きたくないし、書けない。

 まあ、このところ、毎日のように、いろいろなコメントが届く。イヤミを言ってくる人
もいれば、励ましの言葉を書いてくれる人もいる。批判や、批評には、もうなれた。(いち
いち気にしていたら、HPの公開など、できない。)

 しかしこの「自分で、バーベルをもちあげてみろ」というコメントには、よい意味でも、
悪い意味でも、いろいろ考えさせられた。ホント!

 ところで最近、スパムメールが、ますます巧妙になってきた。

 今朝は、こんなのもあった。

 Re:○○女子高校のみなさんへ、保健室からの緊急連絡です。

 どこかのスケベサイトからのものだが、よくもまあ、あれこれと考えるものだ。アメリ
カでは、FBIの名前を語った、ウィルス入りのメールも、横行しているという。

 こうした「?」なメールは、即、削除。絶対に開いてはいけない。それはよくわかって
いるが、瞬間、削除するのをためらうこともある。「もしかしたら……」と思ってしまう。

 みなさんもくれぐれも、ご用心のほどを!


●自分を客観的に見る

 自己中心的であるということは、それだけ視野が狭いということ。視野が狭いから、自
分の姿を客観的に知ることができない。

 ひとりよがりな人。思いあがっている人。自分勝手でわがままな人など。

 その人にとっては、居心地のよい世界かもしれないが、他人の意見に耳を傾けない。実
際には、「あの人は、どうせ私たちの言うことなど、聞かないから」という理由で、相手に
されない。

 そうなれば、損をするのは、結局は、その人自身ということになる。が、ここが悲劇的
なところだが、損をしながらも、その「損をしていること」にすら、気づかない。

 マズロー(アメリカ・心理学者)は、「自己実現」の最終段階として、「人生を、客観的
な見地から、見ること」をあげている。それができれば、「人間らしい、心を豊かな生活を
送ることができる」と。

 「ナーンダ、そんなことか!」と思う人も多いかと思うが、実際のところ、自分を客観
的に見ることは、むずかしい。が、方法がないわけではない。自分の姿を、他人の目を通
して見ればよい。

 たとえば妻と対峙してすわる。そのとき、妻の目を通して、自分がどのように見えるか
を、頭の中で想像してみればよい。それでよい。

 この方法は、私が考えた方法だが、少し訓練をつむと、相手の心の中の状態までわかる
ようになる。何を考え、何を願っているかまで、わかるようになる。

 さらに生徒と対峙しているときも、そうである。

 私は、小さな教室を経営しているが、しかし、みながまいな、勉強がしたくて、私の教
室へ来るわけではない。中には、いやいやきている子どももいる。そういうとき、その子
どもの目を通して、自分を見る。

 すると、教え方、話し方、指導のし方が、まるで変わってくる。「勉強させよう」「教え
てやろう」という気持ちは消え、「いっしょに楽しもう」という気持ちになる。そう感じた
とたん、子どもの表情が、パッと明るくなる。

 その自己中心性だが、頭がボケ始めると、まず最初に、それが現れる。

 これについては、二つの見方がある。

 一つは、頭がボケたから、自分の姿を客観的に見ることができなくなり、結果として、
自己中心的になるという考え方。一般的には、そう考えられている。

 もう一つは、もともと人間は、自己中心的な生き物だが、それをカバーしていた(おお
い)が、ボケとともに、はずれたため、その結果として、自己中心性が、表に出てくると
言う考え方。

 この後者の考え方は、幼児の精神的な発達段階を観察していると、わかる。たとえば満
3、4歳ごろまでの子どもは、きわめて自己中心的なものの考え方をする。が、そのころ
から、自己愛(利己)から対象愛(利他)へと、自分を転換させていく。

 が、いくら利他的になったからといって、自己中心性が、消えるわけではない。家族や
友だちと仲よくするためには、自己中心的であってはいけない。それを子ども自身が学び、
その結果として、自己愛だけでは、足りないことを知る。

 話が複雑になってきたので、もう少しわかりやすく説明しよう。

 私たちの中心核には、(自己中心性)がある。その(自己中心性)を、ジャムパンのジャ
ムとするなら、外側のそれを包むパンが、学習によって作られた、利他性ということにな
る。

 この外側を包むパンの部分は、その人の精神作用の一部として、その人の気力によって
コントロールされている。

 しかし加齢とともに、その気力が弱くなり、(つまりパンが薄くなり)、中に入っていた
ジャムが、外に出てきてしまうというわけである。

 もっとわかりやすく言えば、「地が表に出てくる」ということ。いろいろな苦労はして、
それなりにがんばったとしても、しかしジャムはジャム。そのジャムが、途中で、クリー
ムに変わるということは、ない。

 ……実は、このことは、私がもっとも恐れている部分でもある。

 私は、もともと善人ではない。今は、かろうじて善人ぶっているが、それはいわば、仮
面(パン)。気力だけで、自分を支えているが、やがてその気力が弱くなれば、地が表に出
てくる。

 私はもともともは、自分勝手でわがままな人間だし、私ほど、自己中心的な子どもはい
なかった。そしてその自己中心性が、青年期や壮年期に、私の中から、消えたわけではな
い。ずっとあったし、今もある。

 ふと、油断すると、すぐそれが出てきてしまう。

 だからボケるから、自己中心的になるのではなく、ボケることによって、それをおおっ
ているパンが、薄くなるから、自己中心性が表に出てくる。

 このことは、頭のボケた兄を観察していると、わかる。

 「ステレオがこわれた」と言っては、私のところにやってくる。しかしどこもこわれて
いない。タイマーにスイッチを勝手に押したため、タイマーがかかってしまう。

 そこで「タイマーを押してはダメ」と言って、タイマーのところに、ガムテープを張っ
てやる、が、すぐそれをはずしてしまう。そしてまた、「こわれた!」と。

 毎日が、その繰りかえし。

 が、ときどき、自分からやってきて、「ステレオがなおった」「なおった」と報告にくる。
私には、どうでもよいことなのだが、兄には、それがわからない。私も同じように、ステ
レオの心配をしていると思いこんでいる。そしてステレオがなおれば、私も、同じように
喜ぶと、思いこんでいる。

 これが兄の自己中心性だが、こうした自己中心性は、満4歳児や5歳児についても、観
察されることがある。

 ……ということで、結論として、「もともと人間は、自己中心的な生き物だが、それをカ
バーしていた(おおい)が、ボケとともに、はずれたため、その結果として、自己中心性
が、表に出てくると言う考え方」のほうが正しいのではないかと思う。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●夫婦の同調性

 夫婦といっても、いろいろな夫婦がいる。

 たがいに遠慮しあっている夫婦もいれば、ズケズケと言いたいことを言いあっている夫
婦もいる。それなりに、みな、うまくいっている。「こうあるべき」「こうあるべきではな
い」というふうに、形を決めることができない。

 しかし、その夫婦でも、微妙なニュアンスのちがいを感ずることがある。夫でいえば、
妻側の親類や兄弟に対する感じ方。妻でいえば、夫側の親類や兄弟に対する感じ方。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 たとえば妻側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたとする。そのとき、夫は、
それなりに心配はするが、しかしそこには、限度がある。妻が、心配するほどは、心配し
ない。むしろ妻をなぐさめる側に回る。

 反対に夫側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたときも、そうだ。夫としては、
自分が心配するのと同じくらい、妻にも、心配してほしいと願う。しかしそれにも限度が
ある。そこまでは期待できない。夫側の問題は、あくまでも夫側の問題。

 しかしこうした問題は、夫婦の同調性を知る、一つの方法にはなる。つまりどこまで感
情を共有できるかによって、夫婦の同調性を知ることができる。当然のことながら、同調
性の高い夫婦ほど、親密度の高い夫婦ということになる。そうでなければ、そうでない。

 この話を進める前に、夫婦の同調性について、考えてみる。

 10年、20年といっしょに暮らしていると、夫婦の間に、ここでいう同調性が生まれ
る。わかりやすく言えば、一体感。しかしこれには、一つ、重要な条件がある。

 農業や商業、自営業のような仕事を、ともにしている夫婦である。サラリーマン家庭の
ように、夫は朝7時に出社、夜11時に帰宅というような家庭では、こうした同調性は、
生まれにくいのでは……?

 そう言えば、アメリカでサラリーマン生活をしている息子から聞いた話だが、あのあた
りでは、夫たちは、昼食時も、自宅に帰って、食事をするそうだ。またオーストラリアで
は、仕事の帰りに、職場の仲間たちと、いっしょに食事をすることは、ありえないという。
欧米では、同じサラリーマンをしながらも、夫たちは、日本人より、夫婦のつながりを、
はるかに大切にしているように感ずる。これは余談。

 しかしこの同調性があるから、夫婦という。この同調性が崩れたとき、同時に、夫婦の
関係も、終わる。残るのは、味気ない、夫婦という、形だけの関係……というのは、言い
過ぎかもしれないが、そういう関係に苦しんでいる夫婦は、多い。

 「セックスレスなんて、あたりまえ。朝も、家族の顔を見る前に、追い出されるように
出社します」と言った、男性がいた。が、それでいても、夫婦は夫婦。それなりに、みな、
何となく、うまくやっている。

 前にも引用したが、結婚の幸福度は、つぎの4つをみて、判定するそうだ(アメリカ・
心理学者・ターマン)。

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。

 ターマンによれば、仕事の内容や、同居時間は、あまり関係ないということになる。こ
れは一つの希望であると同時に、一方で、「そうかな?」という疑問も残るところである。

 私もいろいろな夫婦の形態を見てきたが、理想的な形というのは、やはり農村でみる夫
婦の形が、そうではないかと思う。朝、いっしょに起きて、たがいに仕事の段取りをして、
共同して働く。つまり苦楽をともにする、ということ。

 そういう中から、夫婦として、あるべき関係をつくりあげていく。家族のあり方は、そ
の結果として、生まれる。

 国によっても、考え方はちがうが、たとえばこれからの未来では、こんな夫婦の形が、
生まれてくるかもしれない。

 仕事は、家庭で。会社と家庭は、ネットワークでつながれている。夫と妻は、あくまで
も共同経営者。午後は、夫婦で食事をして、午後からは、それぞれが、それぞれの職場へ。
しかし夕方5時には家に帰ってきて、いっしょに、夕食。友だちを招待することも多い。

 ここでの結論を言えば、今まで、私たちは、あまりにも夫婦の形を犠牲にしすぎた。熟
年離婚とまではいかなくても、ほとんどの夫婦が、その一歩手前で、かろうじてふんばっ
ている。私たちの年代の夫婦をながめてみると、そんな感じがする。

 私たち夫婦も含めてでの話だが、たがいに愛しあい、助けあい、励ましあい……などと
いう夫婦は、10組に1組もないのでは……? 

 話がそれたが、夫婦のきずなは、その同調性で決まる。夫の悲しみや苦しみは、妻の悲
しみであり、苦しみ。妻の希望や喜びは、夫の希望であり、喜びである。

 そうした同調性が高い夫婦が、幸福な結婚生活ということになるのでは……?

 本当のところ、いまだに、よくわからないが……。このつづきは、また別の機会に。こ
の原稿は、あくまでも、参考までに。
(はやし浩司 幸福な結婚 結婚観 ターマン 夫婦の同調性 理想的な夫婦像)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●私の体質

 私は、戦後生まれだが、しかしいまだに、男尊女卑の思想を色濃く、心のどこかに残し
ている。「男は、仕事。女は、家事」という考え方も、完全に消えたわけではない。

 若いころは、仕事第一主義で、そのために家庭が犠牲になっても、しかたないと考えて
いた。「男は、仕事さえしていればよい」とか、「家族を養ってやっている」という思いも、
なかったとは言わない。当時は、まだ、そういう時代だった。

 しかしこういう生き方はまちがっている。それはそのあと、さまざまな経験をとおして、
思い知らされた。オーストラリアでの留学時代が、とくに、大きな影響を与えたことは言
うまでもない。

 で、それから30年以上。もうとっくの昔に忘れたはずなのに、この年齢になって、と
きどき、顔を出すようになった。亡霊のようでもある。あるいは、外皮がむけて、中身が
外に出てきたのかもしれない。

 たとえば仕事のことで、何かつまずいたようなとき、「男して、なさけない」とか、「こ
んなことは、妻には離せない」とか、そんなふうに考えてしまう。つまり、この「男して
……」という部分に、その亡霊のはしくれを感ずる。

 おかしなものだ。こういうときというのは、渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を思い
だす。「男はつらいよ」という、あの言葉である。だれかに頼りたくても、頼れる相手はい
ない。そこにいるのは、自分だけ。絶壁とまではいかないにしても、追いつめられた感じ
はする。で、ふと口から出てくる言葉が、「男はつらいよ」。

 こうした思いは、女性も、もつものなのだろうか。あるいは、昔風の男だけがもつ独得
の、思いなのだろうか。しかし、女性が、「女はつらいよ」と言ったとしたら、それを聞い
た人は、別の意味にとらえてしまうかもしれない。

 景気は好転しつつある(?)とはいうものの、中高年に対する風当たりは、きつい。あ
る友人は、先日、メールでこう書いてきた。

 「一社懸命(一生懸命)働いてきたつもりなんだけど、結果がこうではね」と。その彼
は、その少し前、30年近く勤めた会社を、リストラされた。その悲哀感というか、さみ
しさは、こう書くのは失礼なことかもしれないが、女性たちには、理解できないかもしれ
ない。

 今日も、どこか重い心をひきずりながら、仕事に向う。このところ、いいことなし。「健
康であるだけでも、感謝しなければ」と、自分を励ます。が、同時に、「健康でなくなった
ら、どうしよう」とも、考えてしまう。

 このところ、花粉症のこともあって、気が滅入る。きっと、軽いうつ状態になっている
せいかもしれない。今夜は早く、寝よう。(おやすみなさい)
(050224)


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4月からの新年中児のみなさんへ、
BW教室の生徒さんを募集しています。
どうかお問い合わせください。

新年長児クラスは、ほぼ定員になりました(2月22日現在)。
ありがとうございました。

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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○       
.        =∞=  // (奇数月用)8
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 18日(No.543)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page046.html


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室より】

●デジタルカメラ

 私は今、どこへ行くにも、デジタルカメラをもって歩く。C社のEXxxというカメら。
小さくて性能がよい。シャツの上ポケットに、スッポリと入る。

それにスイッチオンから、1秒前後で、スタンバイ状態になる。専門用語を使って言え
ば、「シャッターチャンスをのがさない」。

 このカメラが、威力を発揮し始めた(?)。

 レッスンの間、態度が悪い子どもがいたとする。そういうときすかさずカメラをポケッ
トから取り出して、スイッチオンにする。

 私のカメラは、スイッチを入れると、ズイーンという音が出るようにセットしてある。
しかも最大ボリューム。

 そのカメラを、その子どものほうに、向ける。

子「何で、ぼくをとるの?」
私「君がふざけている写真をとって、あとに君のママに見せてあげる。証拠写真だ」と。

 すると子どもは、パッと机の下に隠れたりする。

私「出てこい。出てきて、今と同じことをしなさい」
子「いやだ」
私「じゃあ、もう、ふざけるんじゃ、ない」
子「わかった」と。

 こういうことを数度繰りかえすと、私が、自分の手をポケットに近づけただけで、子ど
もたちは、サッと姿勢をなおす。こういうのを、条件反射という。

 その条件反射で思い出すのが、I・P・パブロフの「条件反射説」。

 犬にエサを見せると(=無条件刺激)、犬の口から唾液が出る(=無条件反応)。そこで
パブロフは、エサを与える前に、ベルを鳴らした(=条件刺激)。しばらくそれをつづける
と、犬は、ベルの音を聞いただけで、唾液を出すようになったという(=条件反射)。

 こうしてパブロフは、よく知られた「パブロフの条件反射説」を発表した。

 子どもたちは、私がポケットに手をかけただけで、姿勢をなおす……。あまりよい方法
ではないかもしれないが、深い意味は、あまり考えないでしている。

 ところで、補足。

 デジタルカメラをいつももって歩くようになってから、まわりの景色を見る私の目が変
わった。

 景色の中から、美しいものを、さがそうとするのである。それまでは、ただぼんやりと
ながめていただけなのだが、その中から、「写真にとりたいもの」をさがす。道端に咲く花
とか、山の上にかかる雲とか。

 そして「これは!」と思うものを、バシャリ、バシャリととる。(シャッターの音も、最
大にセットしてある。その音が、これまたそう快!)

 しかしメチャメチャとるわけではない。デジタルカメラだから、フィルムを使うわけで
はない。が、それでも、おかしなことに、「ムダなものは、とりたくない」という心理が働
く。

 これは「どうせムダなものをとっても、あとで編集作業がたいへんになるだけ」という
思いがあるからではないか。だからいつも、1コマ、必殺。

 だからますます「美」に敏感になる。それまでの私になかった感覚なので、それを今、
私は、たいへん新鮮に感じている。みなさんも、デシタルカメラをもって、歩いてみては
どうだろうか? 楽しいですよ。


●笑えば、子どもは伸びる

++++++++++++++++++++++++

笑うことには、不思議な力がありますね。私は子どもを
教えるとき、「教えよう」「わからせよう」という気持ち
は最小限に。「楽しませよう」「楽しんでもらおう」とい
う気持ちを大切にしています。具体的には、ゲラゲラと
笑わせます。

その「笑い」について……・

++++++++++++++++++++++++

私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。ときには、50分のレ
ッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで
言われるようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、
ストレス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害すること
がわかってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)という。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、
NK細胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。
「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのまま
なおってしまう。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。ただそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びてい
くということ。
(はやし浩司 笑い 笑えば伸びる 心のジョギング NK細胞 免疫機能 笑いの効
能)

(補足)

 子どもたちは、私がヘマをしてみせると、よく笑う。たとえば粘土と棒で、三角や四角
を作ってみせる。そのとき、粘土がゆるんでいて、ポロリと粘土の玉が落ちたりすると、
腹をかかえて笑う。

 こうしたレッスンで重要なことは、決して、おとなの優位性を子どもに見せつけてはい
けないということ。優位性を押しつれば押しつけるほど、子どもの自我の発達が、押しつ
ぶされることになる。

 ときには、子どもの前で、バカなおとなのフリをしてみせる。つまりそうして、子ども
の自立をうながす。「おとななんて、アテにならない」と子どもが思うようになれば、シメ
たもの。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。

+++++++++++++++++++++++++++

●虐待ママの仮面

 ある小学校で校長をしている、A氏が、こんな話をしてくれた。

 ある子ども(小2男児)が、母親に虐待を受けていた。学校の通報で、近くの児童相談
所に保護された。背中に、大きなキズが、ムチで打たれたようについていた。話を聞くと、
「バスタブを洗うブラシで、体を洗われた」と。

 が、その翌朝一番に、校長のところに、母親から電話がかかってきた。校長は、緊張し
た。腹にぐいと力を入れて、受話器を取った。しかし母親の声は、意外なほど、穏やかだ
った。

 校長は、私にこう言った。「声だけ聞いていると、まるで観音様か女神様のようでした。
やさしい声の調子、子どもを思いやる言葉など。そして何度も、『子どもを返してほしい』
と言いました」と。

私「演技で、そう言ったのですか?」
校長「とても演技には、聞こえませんでした」
私「しかし虐待をしていたのでしょ」
校長「そうなんです。ふつうの虐待ではありません。が、その母親の声を聞いていたとき、
この母親が、本当に同一人物かと、自分の耳を疑いました」と。

 「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉もある。他人の目の前では、信じられない
ほどよい親を演じながら、そのウラで子どもを虐待する。それを代理ミュンヒハウゼン症
候群というが、そういうケースは、決して少なくない。

が、その校長ですら、見抜けなかったのだから、その母親は、かなりの演技者とみてよ
い。ただ、よく観察すると、どこか不自然。そんな印象を与える。行為がおおげさで、
口がうまい。こちらがあれこれ話しかけても、こちらの言葉が、相手の心の中にしみて
いかない。どこかへはぐらかされてしまう。

 しかし一般の人には、まず、見抜けない。以前、義母を介護していた女性(当時40歳
くらい)がいた。その女性は、義母を虐待していた。義母に食事を与えない、便をもらし
ても、放置するなど。が、近所の人たちのもならず、親戚の人たちの目も、あざむいてい
たというから、ふつうではない。みなは、そのみごとなまでの献身的な介護(=演技)ぶ
りを見ながら、「あの女性は、仏様」と言いあっていたという。

 それも代理ミュンヒハウゼン症候群と考えてよい。

 しかしここが、悲しいところ。そういう虐待を受けながらも、子どもは子どもで、毎晩、
「ママのところにもどりたい」「いい子になるから、家に帰して」と泣くという。

 その校長は、こう言った。「こういうとき、絶対に親子だけで話をさせてはいけないので
すね。子どもが、逆説得されてしまいます。あるいは母親の姿を見ただけで、『家に帰る』
と泣き出したりします」と。

 まさに(悲しき子どもの心)ということになる。
(050222)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●悪性自己愛症候群

++++++++++++++++++++++

自己愛の三大特徴は、(1)極端な自己中心性、(2)
完ぺき主義、(3)他者の批判を許さない、ですね。

「自分は最高」と思う、その返す刀で、自分以外の
人の価値を認めません。歴代の独裁者たちに、その
例を見るまでもありません。

その自己愛が、さらに変質すると、ここでいう悪性
自己愛症候群と呼ばれる症状を見せるようになります。

こわいですよ〜、

++++++++++++++++++++++++

 小学生の少女を殺害するというような犯罪者に関して、「悪性自己愛症候群」という言葉
が聞かれる。

 自己愛者は、少なくない。一般論として、自己中心性が、極端なまでに肥大化し、「世界
の中心にいるのは私だけ」「私さえよければ、あとはかまわない」などと考えるようになる
のを、自己愛という。極端な完ぺき主義、他者の価値(人格)の否定なども、その中に含
まれる。

 そうした自己愛が、さらに社会との隔絶などによって、独特の世界をつくることがある。
多くは、引きこもり(withdrawal)や、退却(retreat)をともなうことが多い。他者と良好
な人間関係を結べないためである。

 こうした状況が長くつづくと、性嗜好性障害のほか、倒錯的趣味や妄想性、空想的虚言
性などが加速される。他者への暴力的攻撃性が出てくることもある。そうした症状を、総
称して、「悪性自己愛症候群」という。

 こうした悪性自己愛を防ぐためには、どうするか。

 言うまでもなく、他者との共鳴性を、大切にする。(他人の立場になって、他人の苦しみ
や悲しみを共有することを、「共鳴性」という。)

ここ10年ほど、学校教育の現場でも、ボランティア活動の利点が見なおされてきてい
るが、そうした活動、つまり損得を考えない他者への犠牲的行為、貢献をとおして、子
どもに利他の心を学ばせる。

 自分勝手で、わがままであるなど、子どもに利己的な様子が見られたら、「それは悪いこ
と」と、はっきりと、さとしていく。言うまでもなく、利己と利他は、相反する、相克(そ
うこく)関係にある。利己を修正するためには、利他的行動を子どもに求めるのが、もっ
とも有効である。

 さらに言えば、こうした利他性は、子どものばあい、(使いこむ)ことによって養われる。
「子どもは使えば使うほど、よい子」という格言は、こうした背景から生まれた。ただし
その時期は、満4・5歳まで。この時期をすぎると、子どもは、親の指示に従わなくなる。

 この時期の家庭教育が、きわめて重要であることは、言うまでもない。
(はやし浩司 自己愛 自己愛者 悪性自己愛症候群 利己 利他 共鳴性)

(付記)

 「子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)」などと、もしあなたが考えているな
ら、それは、とんでもない誤解である。

 子どもは使う。家事でも、何でも、だ。「あなたがこれをしなければ、家族の皆が困るの
だ」という雰囲気を、家庭の中につくっていく。子どもを決して、王子様や王女様にして
はいけない。

 子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせることではない。子どもにいい思
いをさせることでもない。子どもに好き勝手なことをさせることでもない。

 子どもをかわいがるということは、子どもを、いつか、よき家庭人として、自立させる
ことである。そのために、親としてはつらいところだが、子どもは使って使って、使いま
くる。そういう育児姿勢の中から、子どもは社会性を身につけ、忍耐力を養う。そしてこ
こでいう「利他の心」を学ぶ。余計なことかもしれないが……。

【補記】

 人はその成長とともに、「愛」を自分に対するもの(=自己愛)から、他人への愛(=対
象愛)へと転換していく。

 しかし乳幼児期に何らかの原因(多くは、愛情飢餓、欲求不満など)によって、その転
換が、遅れることがある。あるいは、内にこもったまま、外部に発展できなくなってしま
う。

 自己愛者は、(自己)をすべての中心におき、自分を絶対化する。そのため完ぺき主義に
おちいりやすく、自分の失敗はもちろん、他人からの批判、批評を許さない。批評、批判
されただけで、混乱状態になる。

 日常的な行動としては、猪突猛進型。人の意見を聞かない。わがままで、自分勝手。し
かし当の本人は、そうは思っていない。「私が正しい」「私の正しさがわからないのは、そ
れだけ、世間の人たちが、愚かだから」と。

 自己愛者は、それでいて、他人の目を気にする。愛他的自己愛という言葉もある。他人
の目を意識したとたん、自分をよい人間に見せようと、見せかけの愛情を、ふりまいたり
する。

 自己愛の中心にあるのが、幼児期の自己中心性。そのためフロイトは、自己愛者は、「リ
ピドーが、自我の範囲にとどまって、他人に届かない状態」と考えた。つまりは、精神の
未発達な状態である、と。(これに対する、異説、反論は多いが……。)

 自己愛のことを、「ナルシズム」ともいう。ギリシア神話に出てくる、ナルキッソスに由
来する。自分の顔の美しさに自己陶酔してしまった男の話である。

 ほかに、自分の経歴や過去、さらに家柄に固執し、「私は絶対だ」と思うのも、変形自己
愛者と考えてよいのでは……? 日本には、まだ、このタイプの人が多い。
(はやし浩司 自己愛 対象愛 ナルシズム 自己陶酔 ナルキッソス)

++++++++++++++++++++++

●自己愛について

自分を大切にすることを、「自己愛」と誤解している人がいる。

 しかし自分を大切にすることと、「自分だけが大切な人間だ」と思うことは、別。自己愛
は、もともと極端な自己中心性が肥大化して、そうなる。

 たとえば私の兄は、頭が半分ボケている。痴呆症というより、人格そのものが、崩壊し
始めている。

 だから、こんな奇妙な現象が起きている。

 兄は、いつも時計ばかりを見ている。そして夕方、5時ごろになると、台所へやってき
て、わざと時計をのぞきこむしぐさをしてみせる。

 もちろん、家事など、いっさい手伝わない。時計をのぞきこむしぐさを見せるのは、「夕
食はまだか?」「早くつくれ!」というサインである。

 そこであわてて、ワイフは兄のために夕食を用意する。私たちは、いつも7時ごろ、食
べる。

 で、用意し終わって、「さあ、どうぞ」とワイフが声をかけると、兄は、こう言う。「ご
くろうさん」と。

 「ありがとう」ではなく、「ごくろうさん」である。

 つまり夕食を用意するのは、私たちの義務ということになっている。これが自己中心性
である。兄は、自分のことしか考えていない。

 兄のばあいは、極端なケースだが、こうした自己中心性は、いろいろな場面で経験する。
程度の差こそあれ、だれにでもある。しかしあのフロイトは、こうした自己中心性は、人
格の未発達によるものと、位置づけている。

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度は、低いということになる。

 そこで最初の話にもどる。

 自分を大切にするといのは、高度な精神作用によるもの。自己の尊厳や自尊心をそれに
よって、守る。その人の自己中心性とは、まったく異質のものである。自分を大切にする
人イコール、自己愛者ということにはならない。

【付記】

 自己中心的な人が、自分の自己中心性に気づくことは、まず、ない。自己中心的である
ことが、(ふつう)になっているからである。

 このタイプの人は、たとえば、いわゆる(ただ働き)をしない。利益につながらない労
働は、損と考える。たまに(ただ働き)をしてみせることはあるが、それは他人の目の中
で、自己評価をあげるためである。「こういう仕事をしてみせれば、みなは、私のことをす
ばらしい人間と思うだろう」(愛他的自己愛、偽善)と。

 で、よく観察してみると、こうした自己中心性は、親から子へと、代々、連鎖している
のがわかる。自己中心的な子どもがいたとする。そういうばあい、母親自身も、たいへん
自己中心的である。

 そんなわけで、子どもが自己中心的であっても、今度は、それに気づく母親は、まず、
いない。母親自身が、子どもが(ただ働き)をしていたりすると、「そんなバカなことはや
めなさい!」とたしなめたりする。こんな例があった。

 ある高校生が、私にこう言った。「文化祭の実行委員をしているヤツらは、あほだ」と。
理由を聞くと、「そんなことをしていれば、受験勉強ができなくなる」と。そこで私が、「そ
んな話を聞いたら、君のお母さんは、がっかりするだろうな」と言うと、「ママも、そう言
っている」と。

 自己愛も、またしかり。

 そこで改めて、自己愛診断テスト。

【あなたは、自己愛者?】

(  )いつも自分が、(他人から見て)、いい人に思われていないと気がすまない。
(  )「ころんでも、ただでは起きない」が、一つの人生観になっている。
(  )完ぺき主義で、他人に重要な仕事を任すことができない。うるさ型。
(  )他人が自分より幸福だったり、裕福だったりすると、嫉妬しやすい。
(  )他人の悪口や、不幸な話、ゴシップ話を話したり、聞いたりするのが好き。
(  )他人に批評、批判されることを好まない。批判されると、激怒する。
(  )人の好き嫌いがはっきりしている。嫌いな人を、徹底的に排斥する。
(  )自分の利益につなげるため、その場だけをうまく、すりぬけることが多い。
(  )自分の思いどおりにならないと、気がすまない。自分勝手でわがまま。
(  )信じられるのは自分だけ。他人を信ずることができない。そのため孤独。

 10項目あげてみたが、半分以上あてはまれば、自己愛者の可能性が高い。言うまでも
なく、自己愛者は、自己を愛するのと引き換えに、かぎりない孤独の世界に身を置くこと
になる。

 「クリスマス・キャロル」の中に出てくる、スクルージーが、自己愛者の典型と考えて
よい。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●3月

3月は、私たちにとっては、別れの月。多くの人が私から去っていき、そしてまた、新
しい人がやってくる。そんなわけで、昔は、「師走(しわす)」と言ったが、今は、ちが
う。12月だから、忙しいということは、とくにない。本当に忙しいのは、3月。

 その3月になると、無数の人が、頭の中に浮かんでは、消える。おとなも、子どもも…
…。

 不思議なことに、「そういう人たちはどうなったのか?」ということは、あまり考えない。
私の記憶にあるのは、当時のままの人たちであり、子どもたちである。毎年、同じことを
繰りかえしていると、同じ時代だけが繰りかえし、繰りかえし、やってくる。それをつづ
けていると、時の流れの中がわからなくなる。時の流れの中に、埋没してしまう。

 もちろん別れは、いつもさみしい。そこで私は、いつの間にか、新しい生徒を迎えると、
去っていった生徒のイメージをそのまま、その子どもに焼きつけるようにしている。名前
や顔が似ているときは、さらにそうだ。

 そして「今」というそのときに、我を忘れる。没頭する。

 が、3月になると、ふと、「あの人は、どうなったのだろう」「あの子どもは、どうなっ
たのだろう」と考えることがある。今が、そのとき……?

 で、今、気がついたが、子どものことは、あまり考えない。頭に浮かんでくるのは、親
たちのことばかり。どうしてだろう。これも、幼児教育にかかわるものの、宿命のような
ものかもしれない。子どもとの間には、人間関係は、生まれない。いくらがんばっても、
相手は、幼児だ。だからどうしても、思い出は、希薄なまま。

 数年もすれば、私のことなど、すっかり忘れてしまう。たまに高校生くらいになって、
たずねてきてくれる子どもはいるには、いる。しかしこの30年間でも、そういう子ども
は、数えるほどしかいない。

 むしろ、親たちとのほうに、人間関係ができる。街で会っても、声をかけてくれる。そ
しておかしなことだが、(そう思うのは、私だけだが……)、そういう人たちは、みな、ど
んどんと、勝手に老けていく(失礼!)。

 30年もすると、当時、30歳だった若い母親も、60歳になる。それはわかっている
が、そのときはじめて、(時の流れ)を、思い知らされる。そう言えば、「先生も、年をと
りましたね」と言われることが、このところ多くなった。ハハハ。

 そう言えば、私のことを、最近の子どもたちは、「おじいちゃん」とか、「ジジー」とか
言う。少し前までは、「おじさん」だったような気がするが……。

 もちろん印象に残っている人も多い。どういうわけか、その一方で、すっかり忘れてし
まった人も多い。突然、電話がかかってきたりして、「昔、お世話になりました……」と言
われたりすると、かえってとまどってしまう。

平凡は美徳であり、何ごともなく過ぎていくことはそれ自体、本当にありがたいこと。
しかし「記憶」ということになると、平凡な人生には、ほとんど何も残らない。

 しかしそれも私の人生、そのもの。まあ、今まで無事、こうして生きてこられたことに
感謝しよう。これからのことはわからないが、今の状態が、できるだけ長くつづけばよい
と願っている。

 さて、3月。ほんとうにあわただしい3月。ほっと息をつけるのは、4月の中旬になっ
てから……。がんばります。みなさんも、どうか、がんばってください。これからもよろ
しくお願いします。

 来年度、新年中児になるみなさん、どうか、どうか、BWへおいでください。明るく、
楽しく、伸びやかな子どもにしますよ! 約束します!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【老齢社会】(再)

●高齢者、2500万人時代!

 もうすぐ高齢者が、2500万人に達するという(厚生労働省04・09)。

 2500万人と言われても実感がないが、要するに、こころにもそこにも、私のような
老人が、ごろごろするようになるということ。

 で、その老人にもいろいろある。大きく分けて、利己型と利他型。

 利己型というのは、結局は、自分のことしかしない、セルフィシュな老人群をいう。大
半が、そうであると言ってもよい。

 利他型というのは、地域の仕事や活動を、積極的にしている老人群をいう。ボランティ
ア活動や自治会の仕事で、走り回っている。

 どちらがよいか悪いかという議論は、ほとんど意味がない。私自身は、利己型の老人群
には、まったくといってよいほど、価値を認めない。が、本当にかわいそうなのは、本人
たち自身ではないのか。

 毎日、庭いじりをしているだけ。息子や娘もいるが、ほとんど、家には寄りつかない。
夫婦の会話も、これまたほとんど、ない。いくら長生きをしたからといって、そういう人
生に、どういう意味があるのか。

 一方、私の近所に、すでに腰がまがってしまった老人(女性)がいる。年齢は、90歳
くらいである。昨日も見ると、ハサミで(ハサミだぞ!)、一本、一本、雑草を切っていた。

 この女性は、もう20年近く、近くの中学校周辺の草刈りをひとりでしている。そうい
う老人を見ると、頭がさがる。本当にさがる。しかし私は、そういう老人の中に、人間が
生きる美しさを感ずる。すばらしさを感ずる。

 そこであなたの周辺の老人をながめてみてほしい。あなた自身の両親でもよい。

 そういう老人をながめてみたとき、あなたは、そういう老人をどう評価するだろうか。
つまり人生の大先輩としての老人を、である。

 私は、一つの基準として、この利己型と利他型があると思う。「思う」というのは、まだ
そう言い切る自信はないということ。私自身も、その老後を前にして、利己型の世界で、
あがき、もがいている。偉そうなことは、言えない。

 しかしこれだけは言える。

 これからは、私たちは、老人として、社会の中でごろごろする存在になる。そのとき、
若い人たちに、尊敬される老人をめざさないと、結局は、自分で自分の立場を否定するこ
とになってしまうということ。一昔前には、「粗大ゴミ」という言葉がはやった。その粗大
ゴミになってしまうということ。

 そうなれば、どうなるか……? 社会のやっかい者として、嫌われるようになってしま
うかもしれない。2500万人という数字には、そういう意味も、含まれる。

 が、本当の恐怖は、そのことではない。利己的に生きれば生きるほど、その人自身が、
無間の孤独地獄を背負うことになる。クリスマス・キャロルのスクルージー※に、その例
を見るまでもない。それこそ、まさに本当の恐怖ということになる。

 そうならないためには、私たちは、今から、何をすべきか。どうしたらよいのか。それ
を考えるのも、老後の問題ということになる。

※(クリスマス・キャロル)……チャールズ・ディケンズの代表作。舞台はロンドン。と
きは、クリスマス・イブ。ケチで、利己的なスクルージーのところに、7年前に死んだ協
同経営者のマーレーが、亡霊となって現れる。そして……。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●善の集合

 1人の人間の中には、「善」もあれば、「悪」もありますよね。善ばかりの人間はいない
し、悪ばかりの人間はいません。

 そのときどきにおいても、微妙に変わります。

 でも、やはり、善か、悪かと聞かれれば、善がよいに決まっています。しかしひとりで、
その善を守るのも、たいへんなことですよね。だれかに認めてもらいたいし、だれかに支
えてもらいたい。「お前は善人だよ」と言ってもらえれば、さらにうれしい。励みにもなり
ます。

 だからそういう「基準」が、人間には必要になってくるわけです。

 私は、それが、神であり、仏ではないかと思うわけです。善を慕う心がですね、どんど
んと集合して、神や仏になったのではないか、とです。

 つまりは、人間は、長い時間をかけて、善の「理想形」をつくったというわけです。「こ
うあってほしい」「こうあればいい」という思いが、集まって、です。

 たとえば今日、ワイフとドライブしながら、オーストラリアの少女合唱団が歌う、賛美
歌のCDを聴きました。オーストラリアにも、そういう団体がいくつかあるんだそうです。

 美しい声でした。それに美しい曲でした。それを聴いていたとき、何というか、心が洗
われるような感じになるのですね。
 
 もちろんイエス・キリストが生きていた時代には、そんな曲はありませんでした。しか
しそのあと、いろいろな人が、そのイエス・キリストに「理想の姿」「理想の心」を求めた
わけです。

 それが今、たとえば、そうした賛美歌に結集したというわけです。

 では、本当のイエス・キリストは、どうであったかとか、釈迦はどうであったかという
と、ひょっとしたら、私やあなたと、それほどちがわなかったかもしれませんよ。少なく
とも、見た感じは、です。

 だって、この地上で生きるために、それなりに、人間としての生活もしなければならな
かったと思うのです。夜は寝て、朝は起きて、食事をする。仕事もしただろうし、入浴も
しただろうし、それに、大便だって、出したでしょう。

 で、いろいろな思想を残して、この地上からは去っていった……。そのあとですね、無
数の人たちが、心のよりどころとして、つまり「善」のよりどころとして、神や仏として、
イエス・キリストや釈迦を、祭りあげていった。

 いえ、それがまちがっているというのではありません。私は、それはすばらしいことだ
と思うのです。つまりそういう形で、自分の中にある、「善」を守り、その一方で、「悪」
と戦ってきたと、私は思うのです。

 ひとりで、善の追求など、できないのです。やはり見本というか、手本というか、そう
いうものが必要なのですね。そうでないと、そのときどきにおいて、道に迷ってばかり。
ときには、自分のしていることが何であるかも、わからなくなってしまう。

 しかしその賛美歌を聴いていたとき、「ああ、これでいいんだ」という、何というか、自
信のようなものが、心の中に生まれてきましたよ。「みんな、がんばっているんだな」とい
う、思いも生まれてきます。そういうのが、私を支えてくれるんですね。

 私には、宗教心も、信仰心もないから、よくわかりませんが、しかし「善の集合体」と
しての、神や仏であるなら、私でも、納得できます。みんなで人間の住むこの世界を、美
しく、清らかなものにしていこうという、そんな願いが、そこに凝縮しているというわけ
です。

 だから私は、かつて、一度たりとも、神や仏を否定したことはありません。カルト教団
体を攻撃したことは、何度かありますが、しかしそれは、カルト教団を、です。それを信
じている、信者の方を否定したり、攻撃したことは、一度もありません。

 仮にある宗教団体が、まちがった教えを信者に教えているとしても、悪いのは、それを
教えている幹部の人たちです。信者ではありません。さらに宗教が否定されたとしても、
しかしその宗教とともに生きてきた、何十億もの、(あるいはそれ以上の)、人たちが織り
なしたドラマまで、否定されるものではありません。

 現にそのとき、CDから流れてきた音楽は、うっとりとするほど、すばらしいものでし
た。そのすばらしさこそが、ここでいう「ドラマ」の一つだと、私は思うのです。

 みんなが、それぞれの立場で、それがどんな形であれ、力を合わせて、善を追求したら、
この私たちの住む地球は、すばらしい場所になるのではないでしょうか。それは、まちが
っていないと思うのですが……。


●「?」の論理

 日本の中にも、K国の国益を代弁する団体がありますよね、。C総連とか。その団体が、
機関紙を発行しているのですが、それによれば、C総連は、K国の核開発を、支持してい
るというのです。

「(K国)外務省が私たちの心を代弁してくれた」と言い、「朝鮮人民は朝鮮半島がまっ
二つになったあとから、すべての不幸は米国の孤立圧殺策動が原因であることを、生活
体験から悟っている」(C新報・2・19)と。

 いろいろな意見があるものですね。

 K国が核開発をしているのは、日本を攻撃するためではないのですか? 今までも、K
国の高官たちは、公式の場所ですら、そう発言している。表向きは、「アメリカから自国を
守るため」などと言っていますが、武力でも核兵器の数でも、比較にならない。つまりC
総連の人たちだって、K国のミサイルが日本へ飛んでくれば、犠牲になることだってあり
えるわけです。

 それを「支持する」とは……?

 朝鮮が、今の韓国と、K国の二つに分断されたのは、アメリカの責任だというわけです。
しかも今、K国が貧しいのも、アメリカの圧殺策動が原因だ、と。

 「そういう考え方もあるんだな」と思ってみたり、「そうかな?」と思ってみたり。ある
いは、「もう少し、わかりあって、仲よくなれないものか」「日本にいても、そう言わざる
をえないのかな?」とも思ってみたり。とくに、在日朝鮮人の人たちは、ずっと、日本の
様子や、アメリカの様子を、間近で見ているわけだから、K国に住む、人たちとは、ちが
った考え方をもってもよいはず?

 その在日朝鮮人の人たちが、日本に住みながら、アメリカや日本へ、かぎりない復讐心
というか、敵対心を燃やしているというのが、私には、どうしても理解できないのです。

 日本人にもいろいろな人がいますが、悪い人ばかりではないような気がします。同じよ
うに、私たちだって、K国を批判しますが、K国の人たちを批判しているわけではありま
せん。むしろK国の人たちのためも、心のどこかで考えながら、その独裁者である金XX
を、批判しているわけです。

 今回の一連の拉致問題にしても、在日朝鮮人の人の中には、たぶん、心を痛めている人
も多いはず。私は、そういう人たちの良心を信じたいのですが、それとも、反対に、在日
朝鮮人の人たちは、そういった拉致事件まで、支持しているとでもいうのでしょうか。

 どこか、みなさん、沈黙を守ったまま。そういう良心的な人たちの声が聞こえてこない
のが、私には、残念でならないのですが……。

+++++++++++++++++++++++++++++++

【静岡市R幼稚園の方から、講演の感想が届いています】(05年2月)

 先日は、お忙しいなか、 また、 足のけがで大変なところを
R幼稚園までお講義にきていただき、ありがとうございました。
 多くの父母の心に響き、たいへんな反響でした。
 父母からの手紙をお送りいたします。
 ありがとうございました。
                     R幼稚園 父母の会


●先日は、ケガを押しての御来園、本当にありがとうございました。
痛い足をひきづり、しかも電車でおいでくださった先生の姿に頭が下がりました。
先生のおっしゃっていた、さびついていない心で「約束を守る」というピュアな
気持ちで来てくださったのだと思いました。おかげさまで、約60名の
お母さま方に為になる時間を過ごしてもらうことができ、
はやし先生との出会いをプレゼントすることができました。

今回の先生の御講演で得たものはたくさんありましたが、
「やろう!!」と思ったのは、「方向性をつける」ことでした。
子供が4人もいますから、それぞれの子にどこまでやってあげられるか、
わかりませんが、まずは、なりたいもの目標を書いて、
家のどこかに張ってみたいと思います。

いつもの勉強が、ちょっと違うものに変身するかもしれません。
休日の過ごし方もかわると思います。ありがとうございまいした。
                    父母の会 会長 US


●先日は林先生の講演会に出席させてもらい大変勉強になりました。
息子は、3,4年生の時に反抗期がありました。
先生のおっしゃるとおり、反抗期をぬけて、一皮むけて
大きくなったと感じています。これからくる中学に入ってからの反抗期
どう反抗してくるか、そして、どのように大きくなっていくのか先生の話
を聞いて楽しみになりました。そして安心しました。ありがとうございました。


●とても為になるお話で、子育てについて考えるよい機会になりました。
不安に思っていることに対して的確なアドバイスをいただいて、まだ今なら
間に合うということに気持ちが軽くなりました。

「子育て」というより親も育っていかなければーと自分自身反省することも
多かったです。

子供にばかり期待したり、押しつけたりせず、子供の良い所をみつけ、
伸ばす環境作りを心がけたいと思います。


●先日は梨花幼稚園のセミナーに貴重なお時間をさいていただき、
ありがとうございました。自己管理能力や子離れについてなど、はやし先生
のお話にはとても勉強になることがたくさんあり、もっと子供と一緒にいる時間
を大切にしなくてはと実感しました。


●とてもおもしろくて、ドキドキするお話でした。
私は、お話を聞きながらメモをとるのが上手ではないので、一語も聞き逃したくない
と思うあまり、ペンを持ちながら手は止まっていました。(自分のメモ能力に落胆!) 

今まで、私自身に迷いながらもつい自分の考えを押しつけていた部分もあり、
反省しました。現在、小学一年生の長男に後数年で訪れる親離れの時期に上手く
対処できるか少し不安になった。でも私は自分と子供を信じて育てていきたいと思います。
お家の都合でどうしてもお話を聞くことができなかった友達がいます。


●今、子育てや自分自信に自信を失いかけている彼女に是非聞かせてあげたいと
思いました。

去年に引き続き、先生の講義を拝聴させていただきました。
前回同様、先生の講義の間中、うなずき家に帰り、ノートを見ながら、もう一度
先生のお話を思い出し、自分の子供への接し方についておち込んでおります。
1つクリアするとその次の段階を求め早くしなさいと声をかけ、
お友達がおけいこ事をしているとうちの子も何かした方がいいのかしら?と思ってしま
う...

すべてを正していただいた様な気がします。1呼吸おきながら、私自身をみつめなおし、 

「明日は、今日よりいい日になる」をモットーとし、子育てを楽しみたいと思います。 


●4年前、幼稚園のホールで行われたテレビ寺子屋の話を聞いてから、今日の講演
を楽しみにしていました。母親として間違った事をしていないか、子供の可能性を
つぶしていないか、再確認できるチャンスをはやし先生の話でいただきました。
自分自身を反省し、子供を見つめていこうと思います。


●貴重なお話ありがとうございました。

わかっていながら気付かないようにしていた部分をするどく指摘された気がします。
「子供を直すのではなく、自分を直す」という言葉を肝に命じ、これからも子育てを
がんばっていきたいと思います。

         静岡県静岡市
                     R幼稚園 父母の会


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ありがとうございました。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 16日(No.542)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どものウソ

【群馬県O市の、Hさんからの相談より】

+++++++++++++++++++++++

●子供の嘘とのつきあい方について、教えてください。

長女5才は、幼稚園での良いことは話しますが、自分のした悪いことはとくに話しませ
ん。ですから、長女の悪事(!?)については、友達の親御さんから聞くことが多いで
す。

たいがいは、お互い様のようですが、時々一方的に加害者の時があります。

(遊びの中でひとりの友達の背中をみんなではたいた、指図したのは長女……など)、相
手のあることなので親としては詳しく知りたく、話を聞こうとしますが、なかなか言い
ません。

 はじめは……何か幼稚園であったかな。
 次に……○○ちゃん(相手)と、どうかな。
 それでも言わないので、「○○ちゃんから、聴いたんだけど……」と。

 すると、少しずつ話し始めますが、全部言おうとしない。それでも問いつめると、今度
は、△△ちゃんがやれって言った。などと、人にかづける始末。さすがにこれは許せなく
てここまでくると、強く叱ってしまいます。      

近所に住む祖母がそばにいると、長女が「何もやってない」と言っただけで、そうよね、
と話はそこで終わり。

長女が話さないのは、私たち親の受容が足りないからだと思いつつ、悪いことは隠せな
い、悪いことは叱られて当然……と長女に分からせたくて、つい、つきつめて話そうと
してしまいます。

人のせいにするなんて、それがまかり通るなんて、ほっといたら良くないと思ってしま
うのです。

今まで厳しく追及してきましたが、長女が口を割らないのは相変わらずです。(さすがに
人のせいにすることはなくなりました。)私たちのやりかたは、逆効果? 祖母のように
接するべき?

子供の言葉を信じること(受容)、でもさとすこと、なかなかうまくいきません。

幼児の自分を取り繕う嘘は、きびしく追求しないで聴いてあげるべきでしょうか。ケー
スバイケースだとは思いますが、何か良いアドバイスがありましたらお願いします。

++++++++++++++++++++++

●子どもの世界

 子育てをしていると、つぎつぎと、問題が起きてくる。それは岸辺に打ち寄せる波のよ
うでもある。小さな波がつづいたかと思うと、大きな波がやってくる。ときには、体をの
みこむほど大きな波がやってくることもある。

 で、そういうとき、つまり問題にぶつかるたびに、(当然のことだが)、親は、ときとし
て右往左往し、混乱する。

 そこで重要なことは、そうした問題の一つ一つには、それなりに対処していかねばなら
ないが、もう少し大きな目で、問題解決のための思考プロセスを、頭の中に用意しておく
ということである。

 相談者の方は、子どものウソについて、悩んでいる。この時期、子どものウソは、珍し
くない。しかしこうした意図的なウソは、それほど大きな問題ではない。私たちおとなだ
って、日常的に、ウソをついている。

 心配なウソとしては、妄想や、空想的虚言がある。それについては、すでに何度も書い
てきたので、それはそれとして、こうした問題は、つぎからつぎへとやってくる。私は、
それを岸辺に打ち寄せる波のようだという。

 そこで思考プロセスを、用意する。箇条書きにすると、こうなる。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。
それは岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問
題のない子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろ
いろな問題に、そのつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てとい
うのは、もともとそういうものであるという前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子
育てで何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つく
っておく。兄弟や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに
属するのもよい。自分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、
自分の子どもより、2、3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでし
たよ」というアドバイスをもらって、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない

株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがい
は、プロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、
大損をする」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それ
だけ動揺しやすい。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺
し、あわてふためく。この親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は
親意識だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみ
る。そして自分の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題
が起きたら、「私ならどうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえ
ば子どもに向かって「ウソをついてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

言葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子ども
なら、なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。
また言ったからといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべき
ことは、淡々と言いながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを
叱ったりするが、子どもはこわいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せ
る子どもがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。
こわいからそうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中
には、親に叱られながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた
繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる
(叱られじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そ
ういう形で、自分に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱るこ
ともあるだろうが、しかしどんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。
「あなたはダメな子」式の、人格の「核」攻撃は、してはいけない。


●「核」攻撃は、禁物

子どもを叱っても、子どもの心の「核」にふれるようなことは、言ってはいけない。「やっ
ぱり、あなたはダメな子ね」「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」などとい
うのが、それ。叱るときは、行為のどこがどのように悪かったかだけを、言う。具体的に、
こまかく言う。が、子どもの人格にかかわるようなことは言わない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわか
った。母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大
鉄則がある。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師
の悪口を言い出す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常
生活の中で見せておく。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しか
し赤信号でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子ども
も、あなたに劣らず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきな
がら、子どもに向かって、「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。
ルールには従う。そういう親の姿勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意

「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛
が何であるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、
深いもの。中には、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えて
いる親もいる。これを代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情が
ない。つまりは、愛もどきの愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小
限に。そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけ
ていく。親としてはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そ
のあとでよい。もちろん子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相
談にのってやる。ほどよい親であることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」
「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はや
ってこない。そこで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることが
できる。子どもの心にも風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親
は、袋小路に入る。子どもも苦しむ。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして
老人だって、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きてい
る。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生
きていかれないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目
的になることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希
望や目的になることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、
消えたように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどっ
てくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉
(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)
という名言を残している。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウ
が、そう書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが
あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪として
もつ、三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪とい
うことになる。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。
そういう旅には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬ
ところで、見知らぬ人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とと
もに、パンをかじりながら、何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうこ
とがある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソ
ー州の州都)という町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語とい
っても、南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳
優)の英語を思い浮かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」
と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用す
る資格など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。
市民権をとるといっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分
のコラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短
いほうかもしれない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするよう
な孤独感である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらに
その孤独感は大きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわか
った。で、それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされ
ないのか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みな
がいっしょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、
終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)
という名言を残している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

+++++++++++++++++++++

●私に夢、希望、目的

 そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。

 毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。

 私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れるこ
と。今は(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに
方法は、よくわからないが、このわからないときが、楽しい。)

 希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号まで
つづけること。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後
のことは、考えていない。

 毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこと
もあるのか!」と。

 しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐
る。体力と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノ
を毎日、書いていると、それがよくわかる。

 数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボン
ヤリとしてくる。

 ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断
してしまうのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐
っても、自分ではそれがわからない。

 「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。

 だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●依存性の強い子ども

 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、相談があった。「何かにつけて、リズムが、
ワンテンポ遅く、心配である」と。転載の許可がもらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親のEAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相
談者の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の母)の7人。

+++++++++++++++++++++++

学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までして
いる。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければな
らないということがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)人
より遅くても、気にしない。(4)いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣の
ことおしゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作品
は完成していた。といった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

++++++++++++++++++++++++ 

 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母
との同居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性
について考えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念
のため。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとん
どのばあい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうもので
あるかさえ、わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子とし
てしまう。だから「あなたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意
する。洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを
脱がせ、服を着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさし
だしたりする。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようと
する。子どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子ど
もも、考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、
無意識のうちに、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親と
いうのは、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子ども
の依存性にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがお
ばあちゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖して
いる。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本
の子育ては、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなってい
る。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を
迎えることすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変
わってきたが……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子ども
の自立ということになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になること
はあっても、益になることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、こ
れもむずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、
その関係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらな
い。兄弟、夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当
然と考えるようになる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そし
てたがいがが、その前提で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて
書いた原稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道
具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせ
に、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意
味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、た
だひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き
出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子
どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は
泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣
かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話
をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッと
ふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、
意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えて
いる。あるいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、
親の生きがいになっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生
に「指導のポイント」を書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、
こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうし
てですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではな
いかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴
だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。
そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。
こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をし
たときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン
感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あ
わてて逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワン
パク少年だった。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりも
いやだった。今でも、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わな
い。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導
しないほうが、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで
考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」
形成そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができ
る。教える側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、
その「核」の形成が遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかし
このタイプの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の
悪循環の中で、ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」という
が、まさに温室の中だけで育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ
風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動がで
きない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価な
ものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、
誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べて
しまう)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。
そしてその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケー
ス、運動面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所
のA君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、
公園へ行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしてお
となの世界だけで、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれなが
ら、成長し、たくましくなる。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害
される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護に
しているかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振
り回されることになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじ
ょうずにだが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は
自分でさせるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあ
げるにしても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同
じく靴下でたとえて言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに
満四・五歳から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。
この時期、子どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲
も急速に広がり、社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大
きくなる。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これが
いけない。それはちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、
返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何
かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものた
めにならない。これは子どもを育てるときの常識である。

++++++++++++++++

 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれること
がある。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特
定の人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるという
ことではない。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞
う子どももいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。ある
いは年齢とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親の
ありがたみを、ことさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えて
よい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受
けて育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。
しかしこれは子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。
それだけに、扱い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、
別居というところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きると
しても、マイナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、
親は親として、好き勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その
内容は、つぎのように分けて考える。

(1)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(2)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(3)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(4)無責任(責任ある行動ができない。)
(5)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(6)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(7)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(8)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(9)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自
己管理能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、
スムーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ム
ラ(邑)」社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の
技法も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それ
でもいい」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いた
ように、相互に依存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心
地のよい世界である。今でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることが
ある。「これこそ、まさに日本人が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉し
あうというのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できない
ほど、濃密な人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもな
いわけではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっき
りしない。日本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な
合理主義にも、抵抗を感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がか
かえる、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」ある
いは、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観
を根底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のよ
うな若い女性には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、
よいのではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもに
なっています」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、
解決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されて
いく。そういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を
考えていく。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そ
のあとということになる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、
子どもどうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞い
てみるのも、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別
の子どもであることが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしま
いました。あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、う
れしいです。(あるいは、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構で
す。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、
(満腹症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じ
の子どもをいいます。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼
児期から、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもあ
りません。ひょっとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもし
れません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えて
みられては、いかがでしょうか。

(1)いつも満足げで、おっとりとしている。
(2)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(3)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(4)ほかの子どもに、追従的。
(5)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなこ
とはしない。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほう
がよいかもしれません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなり
できあがってしまっていると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が
出てくることが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。
柔和だが、ハキがない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この
時期の鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育って
きます。そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の
状態を維持しながら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父
母は、旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。
「うちの子は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、
しかしメリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押し
つけないことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、
何かと思うようにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や
期待を一枚ずつ、はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこ
れしようと考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなり
かねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、
三番底があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできる
ようになったわね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだ
かまりや、不信感があれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、
いつまでたっても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛
的に、自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分が
あるのかもしれません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)
というようであれば、この気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接している
ようであれば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもって
いる人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちで
す。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみ
しさに耐えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、
自立できない、ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置
いて、これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 14日(No.541)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●兵庫県にお住まいの、Fさんからのメール

こんにちは、AK市のFと申します。
久しぶりに、はやし先生のHPを拝見しています。

現在、3人の子どもたちがいます。
長男6才、二男・三男3才(双子)です。
少しだけ、話を聞いていただけますか?

最近、自分の感情のままに子どもを叱り、押さえつけたり、脅したり・・最低な母親で
あることに気づいています。

自分より幼い子どもなのに、大切な大切な子どもなのに、少しでも気に入らないこと
や、失敗があると、怒鳴って異常に苛立っています。
時には手も出してしまいます・・。

我慢できないのか、我慢もしていないのか、自分でも分かりません。

先日、とてもショックな出来事がありました。

長男の幼稚園でお別れ会があり、親子で参加し、ゲームをしました。
そのときのことです。

子どもたちが、自分の母親の絵を描くゲームをしました。
正月にする、福笑いのようなゲームです。

しかし長男が並べた私の顔は、とても恐い顔でした。

そしてそのゲームをしながら、

1、料理をたくさん食べろと怒るママ
2、お風呂に入る前にトイレに行くママ
3、弟とばっかり遊んで、僕とは遊んでくれないママ

と言うのです。

正直、恥ずかしかったです。いつも、何か言われても「ちょっとまって!」で後回
し。構ってあげなかったことを反省しました。

でも、会から帰って私の怒りを息子にぶつけてしまいました・・・。

「何で、あんなに恐い顔をかくの?!」
「トイレに行くって、そんなこと言わなくてもいいでしょう!」
「ご飯も多すぎるんなら、もう食べなくってもいい!!」

私は、ものすごい剣幕でした。
その後、子どもも私も泣きました。双子も私が泣いているのを見て泣きました。

すみません、長々と・・。
子どもたちに辛く当たっていること、感情のコントロールができない事、私の全て、直し
たいって本当に思っています。

どうか、アドバイスしてください。
(兵庫県AK市、FSより)

+++++++++++++++++

【Fさんへ】

 いつもの書き方を少し変えて、アドバイスを、箇条書きにしてみます。うまくできるか
どうかわかりませんが、お役に立てば、うれしいです。

●子育ては、考えてするものではない

 だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言います。
子育てというのは、もともと、そういうものです。そこでいつも同じようなパターンで、
同じような失敗をするときは、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か
(わだかまり)や(こだわり)があれば、まず、それに気づくことです。あとは時間が解
決してくれます。


●子育ては、世代連鎖する

 子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖しま
す。またそういう部分が、ほとんどだということです。そういう意味で、「子育ては本能で
はなく、学習によるもの」と考えます。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受け
た子育てを、無意識のうちに繰りかえしているだけだということです。そこで重要なこと
は、悪い子育ては、つぎの世代に、残さないということ。


●子育ての見本を見せる

 子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見
せるということです。見せるだけでは、足りません。包みます。幸福な家庭というのは、
こういうものだ。夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、
とです。そういう(学習)があって、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育
てが自然な形でできるようになります。


●子どもには負ける

 子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手
にしてもしかたないし、本気で相手にしてはいけません。ときに親は、わざと負けてみせ
たり、バカなフリをして、子どもに自信をもたせます。適当なところで、親のほうが、手
を引きます。「こんなバカな親など、アテにならないぞ」と子どもが思えば、しめたもので
す。


●子育ては重労働

 子育ては、もともと重労働です。そういう前提で、します。自分だけが苦しんでいると
か、おかしいとか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけません。しかしここが重要
ですが、そういう(苦しみ)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長するので
すよ。そのことは、子育てが終わってみると、よくわかります。子育ての苦労が、それま
で見えなかった、新しい世界を親に見せてくれます。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

 子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立します。「あなたはあなたで、
勝手に生きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすれ
ばギクシャクとしがちな、親子関係に、風を通します。子どもだけを見て、子どもだけが
視野にしか入らないというのは、それだけあなたの生きザマが、小さいということです。
あなたはあなたで、したいことを、すればいいのです。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【月刊G・3月号を読む】

 もうすぐ4月号が発売になるというのに、昨日、3月号を購入していきた。「月刊G」で
ある。この雑誌の中の記事について、いろいろ考えてみたい。

●K国「内部崩壊」へ

 K国は、宗教的政治国家、あるいは政治的宗教国家。金XXの個人崇拝によって成りた
っている国だから、簡単には、崩壊しない。……と、少し前まで、考えていた。カルト教
団体に例を見るまでもなく、宗教的政治国家は、外部からの攻撃が強くなればなるほど、
内部は、結束する。最終的には、命までかける。

 戦前の神国日本が、それに近かった。

 さらに金XXの最後の命づなが、核兵器。6か国協議とか何とか、いろいろ言われてい
るが、金XXは、そうは、簡単には、手放さない。

 本誌は「多角的研究」と題して、(1)「裸の金正Y」(だれも知らない後継者の素顔、(2)
「黄CCのソウル現地妻と6歳の息子」とつづいて、(3)「金XXは、もう政権を維持で
きない」とある。

 ほかに(4)「日本人元工作員の告白」、(5)「北朝鮮サッカーの栄光と挫折」という記
事も。

 K国が崩壊する根拠として、著者の金徳H(元K国労働党幹部)は、つぎのような事実
をあげる。

(1)面従腹背の部下たち
(2)飢餓の時代の再来
(3)ハイパーインフレ
(4)中国も、金XXを排除したがっている、と。

 金徳Hも、本誌の中で、韓国のノ大統領を、こう批判している。

 「(あと一押しすれば、金XX独裁体制は崩壊するところまできているのに)、韓国のノ
政権は、金剛山観光事業の促進や、開城工業団地の開発、年間40万トンにもおよぶ食糧
支援など、金XXの延命を図ろうと必死だ。

 ノ大統領は、昨秋にアメリカを訪問したとき、『金XX政権は、改革開放を推進できる政
権だ』と豪語して、アメリカの失笑を買ったが、朝鮮労働党の中枢に長年いた私からすれ
ば、無知蒙昧(もうまい)もいいところだ」(231P)と。

 ホント! 同感! 少しでも心理学を勉強したことがある人なら、わかることだが、今
さら金XXの心理状態が、好転するなどということは、太陽が西から昇るのと同じくらい、
ありえない。人格の完成度にいたっては、なおさらで、ああいう独裁者に、人間味のある
政治を期待するほうが、おかしい。改革開放は、つぎのつぎ。

 反金XX闘争は、中朝国境付近から始まっているという。情報が、中国側から、流れ込
んでいるためらしい。


●無防備な夫が陥る熟年離婚のワナ

 熟年離婚がふえているという。1975年には、年間6810組しかなかった、「同居2
0年以上の離婚」が、昨年(04)は、ナ、何と、4万5051組にもなったという。約
10万人が、離婚したことになる。

 そしてほとんどのケースでは、妻側が、ある日突然、「離婚してくれ」と言いだし、夫側
が、寝耳に水と、狼狽(ろうばい)するという。

 しかし女性の決意はかたく、弁護士などの説得で、気持ちを変えた女性は、その著者の
S弁護士によれば、ゼロだったという。

 「法廷でも尋問席に立った男性は、見ていても気の毒なほど、緊張してしまう人が大半
ですが、……女性は、法廷でも、たいていは堂々とした態度をとります」とのこと。

 ところで、その熟年離婚だが、離婚する女性にとっては、夫が退職をして、退職金を手
にしてから離婚を申し立てたほうが、得だそうだ。(知らなかった!)

 「退職金をいったん受け取ってしまえば、それは夫婦の財産になりますが、受け取る前
は、架空の財産でしかないので、(分与の)判断がむずかしい」と。

 だから夫の立場でいうなら、退職金を手にする前に、さっさと離婚したほうが、得とい
うことになる。妻の立場でいうなら、夫が退職金をしっかりと手にするのを待ってから、
離婚を申し立てたほうが得ということになる。(いらぬお節介で、ごめん!)

 さらに、男も、女も、50歳を過ぎてからの恋は、猛烈になりやすいとか。「人生最後の
花」というわけである。著者は、「とくに女性の浮気には、用心しろ」と書いている。

 たとえば妻が、(1)何かの会合に、急に熱心になった。(2)食事の支度をする頻度が
少なくなった。(3)寝室を別にした、というようなときは、要注意だそうだ。

 さらに全体として、女性は、男性よりも、ウソがうまいとのこと。女性というのは、浮
気がバラても、とことんウソをつくとか。

 わかる、わかる……。

 私たち夫婦も、あぶないね。ホント。毎朝、顔をあわせるたびに、今日はだいじょうぶ
かなと、恐る恐るワイフの顔色をうかがう。私のワイフなどは、何かにつけて、白黒、は
っきりしているから、私のことを一度、嫌いになったら、「生理的に合わない」とか何とか
言って、そのまま家を出て行ってしまうだろう。

 最後にこんなことも……。

 「統計に取れば、男性の浮気のほうが多いでしょう。しかし法律相談所を受けていると、
(バレていない妻の浮気)の多さには、驚かされます」と。

 当然ではないか! 10人の男が浮気するということは、10人のその相手の妻がいる
ということ。「男性の浮気のほうが多い」という考え方そのものが、おかしい(?)。もっ
とも、浮気といっても、いろいろある。

 「マジソン郡の橋」という小説の中に書いてあるような浮気もある。ああいう浮気なら、
……このつづきは、書けない。私のワイフも、このマガジンを読んでいるので。ごめん!


●小児性愛

 NY氏(K大講師)が書いている、「小児性愛とは何か」という記事も、たいへんおもし
ろかった(「月刊G・3月号」p104)。

 女性のことは知らない。しかし男性には、それぞれ、固有の(?)性的嗜好性がある。
それに気づいたのは、ある日、私にこんなことを言った男性がいたからだ。私がまだ24、
5歳のころのことだった。

 従業員が、15人ほどの、電気工事店を経営していた男性だった。いわく、「オレは、尻
の大きな女性が好きだ。そういう女性に、顔を押しつぶしてもらうと、ゾクゾクと感ずる」
と。

 ある程度の範囲でのことなら、私にも理解できる。たとえば女性のスカートの下をのぞ
いてみたいとか、風呂屋の番台ごしに、女湯のほうをのぞいてみたいとか、など。私にも、
そういう嗜好性がないわけではない。しかし「大きな女性の尻で、顔を押しつぶしてもら
いたい」とは! そのときは、「本当?」と思うと同時に、「人、それぞれだな」と思った。

 で、やがて年をとるにつれて、私は、10人の男がいれば、それぞれの人に、10種類
の性的嗜好性があるということを知った。女性の汚れた下着に興奮する男もいれば、ムチ
で女性に打たれると興奮する男もいる。

 この世界には、正常も異常も、ない。スタンダード(標準)もなければ、基準もない。
同性愛にしても、いまでは、それを問題にする人はいない。しょせん男と女の世界。たが
いに合意の上でなら、何をしてもよい。が、一つだけ、「困る」というのがある。

 小児性愛である。性嗜好障害の一つと考えられている。

 先日も、N県で、小学生の女の子が誘拐され、殺されるという事件が起きた。犯人は、
前科のある30代半ばの男だった。(その男が、小児性愛者だったと言っているのではない。
誤解のないように!)どんな性的嗜好性をもとうが、それはその人の勝手だが、相手が、
子どもという点で、問題がある。許せない。

 その小児性愛者については、WHO(世界保健機関)の「国際疾病分類」(ICD−10)
の定義によれば、つぎのようであるという(参考、同・月刊G)。

(1)前思春期(通常13歳以下)に対して強烈な性的衝動を、
(2)少なくとも6か月以上もっていて、
(3)実際に性的行為におよび、
(4)この性衝動のために本人が苦悩している。

 この中で、とくに注意をひくのは、小児性愛者は、子どもに対しては、性的衝動を感ず
ることはあっても、成人の女性とのセックスなどでは、満足できないという点である(同、
NY氏)。つまり完成された女性の肉体には、興味を示さないということか。

 ここで私は、「興味」という言葉を使ったが、本当は正しくないかもしれない。たとえば
私は、この年齢になっても、いまだに同性愛者の気持ちが、理解できない。少しでも私の
中に、その傾向があるなら、理解できるかもしれない。

 たとえば、よく知られた例に、「のぞき」がある。窃視症ともいう。入浴中の女性に、性
的興奮を覚えるというものだが、私にも、それがあることに、あるとき、気がついた。廊
下を歩いていて、ふと、ワイフの入浴中の姿が見えたときのこと。私はそれまで感じたこ
とがない、性的興奮を覚えた。

 だから「のぞき」については、理解できる。「旅館で、女湯をのぞいたよ」と言う男がい
たりしても、それほど違和感を覚えない。(だからといって、それを許しているわけではな
い。誤解のないように!)が、同性愛については、頭をさかさまにしても、理解できない。

 つまりこの性的嗜好性の問題は、白黒の境界が、きわめてはっきりしているということ。
興味があるとかないとか、関心があるとかないとか、そういう問題ではない。ある人には
あり、ない人には、まったくない。そういう意味でも、性嗜好性障害の問題は、ほかの精
神障害とは区別される、特異な問題と考えてよい。

 そこでつぎの問題は、こうした性嗜好性障害は、その人の自身の努力で、変えられるも
のかということ。たとえば私について言うなら、同性には性的関心をもたない。そういう
私でも、何らかの訓練や指導によって、関心をもつことができるようになるのだろうか。

 私の印象では、それは不可能ではないか思う。あえて正直に告白すれば、大きな女性の
尻は、私には、グロテスク以外の、何ものでもない。そんな尻に顔を押しつぶされたら、
性的に興奮する前に、嫌悪感に耐えきれず、逃げ出してしまうだろう。相手が男なら、な
おさらだ。想像するだけで、ゾッとする。

 では、小児性愛はどうか。たしかに子どもには、汚れのない美しさがある。しかしそれ
は「心」のことであって、「肉体」のことではない。だから子どもに、性的魅力を感ずると
いうことは、私のばあいは、ない。

 が、小児愛者たちは、一般的な男たちが、成人した女性の胸や陰部を見たときに感ずる
ような性的快感を、子どもに感ずるという。このときも、「なぜ」「どうして」という質問
は、意味はない。感ずるものは、感ずるのであって、どうしようもない。同性愛者が、同
性に性的な関心をもつことについて、「なぜ」「どうして」と質問するのと、同じである。

 反対に、ではなぜ、私を含めて、一般的な男たちが、女性の胸や陰部に、関心をもつの
か。それについて、「なぜ」「どうして」と聞かれても、困る。性的嗜好性というのは、そ
ういうものである。

 で、NY氏は、先のN県で起きた女児誘拐殺害事件について、記事の中で、犯人の再犯
性について、詳しく書いている。が、結論から先に言えば、いくら刑罰を科しても、こう
した性的嗜好性は、変えられないということらしい。根が深いというか、原始的な本能に
根ざしているためではないか。

 そのため、再犯性がきわめて高く、一度犯罪を犯したものは、刑期を終えたあとも、追
跡観察が必要ということになる。

 その小児性愛者の特徴としては、つぎの二つがあるという(同誌)。

(1)小児性愛者は、子ども自身が、それを望んでいると錯覚している。
(2)性的興奮を得る段階で、視覚的刺激による部分が大きい。

 ふつう、男というのは、視覚的刺激だけではなく、女性の声や雰囲気、様子などで性的
な興奮を覚える。しかし小児性愛者は、視覚的な刺激が優勢で、聴覚的な刺激などには、
ほとんど反応しないということらしい。NY氏は、こうした事実をふまえて、「(小児性愛
者には)何らかの動物的な本能が欠落しているためだと考えられる」と結論づけている。

 ただしNY氏も書いているように、小児性愛者イコール、小児わいせつではないという
こと。

 大半の人は、そうした性的嗜好性をもちながらも、ごくふつうの人として、ふつうの生
活を営んでいる。結婚して、子どもをもうけているケースも、少なくない。嗜好性の強弱
の問題というよりは、その人の自己管理能力の問題ということになる。

 私も、この幼児教育の世界に入るとき、時の幼稚園の園長から、「絶対に守るように」と、
きびしい掟(おきて)を、授けられた。それはどんなことがあっても、女児には、指1本、
触れてはならないという掟だった。

 頭(ほめるときに頭をさわる)と、手(握手など)をのぞいて、以来、35年になるが、
私は今でも、その掟を守っている。その当時から、(当時は、小児性愛という言葉はなかっ
たが……)、そうした問題が、子どもの世界で起きていたからではないか。園長は、それを
知っていた。

 で、何かの事情があって、幼児(女児)を抱きあげるときは、100%、例外なく、近
くにいる母親の了解を求めてからにしている。さらに、女児にかぎらず、女子中学生や、
高校生と面を向って話すときは、かならずポケットに手を入れて話すようにしている。こ
れは掟とはちがうが、気がついてみたら、いつの間にか、そうなっていた。

 言うまでもなく、不要な誤解をされないためである。

 ただ、NY氏によれば、小児愛者の中には、同性愛者も少なくないという。かならずし
も、相手が異性とはかぎらない。成人の男が、男児に、性的な衝動を感ずるようなケース
をいう。こういうケースは、同じ性嗜好性障害の中でも、重症だそうだ。

 私のばあいは、相手が男児なら、平気で、抱きあげたり、ときには、プロレスごっこを
したりする。(女児とは、もちろん、したことがない。)しかしこれからは、男児との接触
も、してはいけないということになるのか? 

 最後に、一例だけだが、私には、こんな失敗がある。

 その子ども(小3女児)は、何かにつけて、私に、ベタベタと体をすりよせてきた。イ
スに座って、雑誌を読んでいるようなときでも、私にとびついてきた。私は、すかさず、
その子どもを手で押して、私の体から、離した。

 で、ある日、かなりきつくその子どもを叱った。

 その子どものためというよりは、参観している親たちに、不要な誤解を与えないためで
ある。こうした誤解は、私のような仕事をしている者にとっては、決定的に、まずい。

 が、その子どもは、その日を境に、私の教室へこなくなった。そればかりか、ほかの子
どもたちに、「あの林は、私にエッチなことをした」と言いふらし始めた。

 私は、そのとき、40歳代の半ばごろだったが、これには激怒した。まず、その子ども
の親に電話をした。つづいて、その子どもを、電話口に出した。そして年甲斐(がい)も
なく、怒鳴りつけてやった。いくらうわさでも、この世界にも、許せることと、許せない
ことがある。

 で、今でも、ときどき、私に体をベタベタとすり寄せてくる子どもがいる。しかし最初
の段階で、きっぱりと、「それは悪いことだ」と子どもに、話すようにしている。この話は、
小児性愛とは関係ないが……。

 ほかにも、窃視症(のぞき)のほか、露出狂、サド、マゾなどの性嗜好性障害がある。
原因の多くは、乳幼児期における、ゆがんだ性意識の形成にあるとされる。「障害」とまで
は言えないにしても、威圧的な母親をもったために、女性に対して恐怖心をもつようにな
る男児も、少なくない。

 大切なことは、親は、子どもに対しては、ほどよい親であるということ。そして子ども
は、子どもの世界を通して、自然な形で、性意識をはぐくむのが、よい。私の結論は、そ
ういうことになる。
(はやし浩司 小児性愛 性嗜好障害 性的嗜好性 性嗜好性 小児愛)

(付記)

日本のK首相は2月15日の閣僚懇談会で、再犯率の高い犯罪で懲役刑を受け、出所した
人物の居住地などの情報を、法務省から警察庁に提供するための体制づくりを急ぐよう、
関係閣僚に指示した。対象犯罪は、性犯罪に加え、放火、麻薬、暴力犯などを想定してい
る。これを受け、政府は16日、再犯防止に関する関係省庁の局長・審議官級の会議を開
催する。(ヤフー・ニュースより)


●あやしげな電話・撃退法

 我が家にも、よくあやしげな電話がかかってくる。

 そこで今は、ナンバー通知に切りかえた。ナンバー非通知の電話は、電話そのものが、
つながらないようにした。相手の電話番号が、そのまま表示されるようにした。以後、そ
の種のあやしげな電話は、ほとんどかかってこなくなった。

 で、「月刊G」によれば、いまだに、振込めサギの被害者が、ふえているという!
 
 昨年(04)11月までの被害額だけでも、約252億円! 全国で、1万8000件
もあったという!

 が、振り込めサギだけではない。架空請求、融資保証サギなどなど。ここに書いた25
2億円という被害額は、まさに「氷山の一角にすぎない」(同、252p)そうだ。

 そこで撃退法ということになるが、一番確実な方法は、おかしな電話を受けたら、「折り
かえし電話いたしますから、電話番号を教えてください」と、相手に言うことだそうだ。

 サギのばあいは、自分の電話番号を教えない。まともな電話なら、すぐ電話番号を教え
てくれるはず。実は、私も、この方法で、あやしげな電話は、撃退している。が、敵もさ
るもの。さらに新手(あらて)を考えてやってくる。この世界、油断もスキもあったもの
ではない。

 先日も、息子の現住所を知りたいといってきた電話があった。「○○高校の事務局です。
同窓会の名簿づくりをしています」と言った。そこで私が、「現在の校長先生の名前はだれ
でしたっけ?」と、とぼけてみせると、シャーシャーと、架空の名前を口にした。

 若い女性の声だったが、「ここまでするか!」と驚いた。そこで「じゃあ、こちらから電
話をかけなおしますから、電話番号を教えてください」と言うと、「どうしてですか?」と。

私「最近、この種のあやしげな電話が多いものですから」
女「そうですね。でも、私は○○高校のものです」
私「別に疑っているわけではありませんが、念のためです」
女「疑っているでしょ?」

私「ハハハ、そうですね。疑ってますよね。だってあなたの電話番号、05xxでしょ。
浜松の電話番号じゃ、ないもの……」
女「……(ガチャン)」と。


●「アレキサンダーの悲劇」

 評論家TT氏の「アレキサンダーの悲劇」も、おもしろかった(?)。副題は、「アメリ
カの悲劇」。

 TT氏の評論の特徴は、最初に、徹底した資料集めから始めるところにある。こうして
TT氏は、「オレほど、精密な資料をもっている者はいない」と誇示して、おおかたの評論
家を、まず、カヤの外に置く。「黙れ!」と。「控えおろう!」でもよい。

 しかし、史実に沿ったこまかい内容(時代、舞台、人名など)は、TT氏にしても、そ
の原稿を書いているときだけは、記憶にあるのだろうが、実際には、書き終わったあと、
すぐ忘れてしまっているにちがいない。

 読者の私たちなら、なおさらである。つぎからつぎへと、聞きなれないカタカナ名が出
てくるが、読んだつぎの瞬間には、もう忘れてしまった。

途中、「オりジナルのスクリプト(台本)では……」とか、「(ギリシア神話の)予備知識
を得ていたほうがいい」などという、いつものTT氏らしい、どこか高慢な(失礼!)
な、評論姿勢も、目立つ。

 ……とまあ、かなり過激なことを書いたが、副題の「アメリカの悲劇」に関する部分は、
全編で14P中、2Pのみ。

 私は、TT氏の評論を読みながら、「アメリカの悲劇」というよりは、独裁者への反発心
のほうを、強く感じた。映画の評論という性格上、そこまでは気が回らなかったのかもし
れないが、TT氏が見ている視点は、まさに王者のそれ。

 同性愛についても、「純粋に精神的な関係は、男と女の間には成立せず、むしろ男と男の
間に成立する」という論法で、書きこんでいる。たしかにそういう面もあるかもしれない
が、しかし同性愛者たちがみな、そこまで深く考えて、同性愛をしているとは、私には考
えにくい。

 この映画は、アメリカでは、評判が悪かったという。その理由が、その同性愛を肯定し
た部分が目立ったからだという。しかしTT氏は、「こういうバカげた反応が出てくるとこ
ろが、いかにも今のアメリカらしい」と、逆に、酷評している。

 現実の同性愛は、エイズ問題に象徴されるように、それほど美しいものではない。それ
とも、アレキサンダーのような歴史上の大物になると、おなじ同性愛でも、すばらしい哲
学をもつようになるとでもいうのだろうか。

 私には、残念ながら、同性愛者の気持ちが、まったく理解できない。だから何とも評論
のしようがない。が、さすがTT氏、同性愛者に対する理解も、たいへん深い(?)。

 (若いころ、ときどき、同性愛者にアプローチされ、たいへん不愉快な思いをした経験
が、何度かある。それは、今でいうセクハラ。それから受ける不快感は、実際、そういう
ことをされたものでないとわからないだろう。

 だから今でも、同性愛者どうしが、体をからませているシーンを見たりすると、それを
美しいと思う前に、先に、はげしい嫌悪感を覚えてしまう。※)

 しかしTT氏は、「(この映画のアメリカでの評判が悪いのは、そうした同性愛など)、ア
レキサンダーの性的側面の描き方に対する不満である。はっきりいうと、映画の中で、ア
レキサンダーは、同性愛傾向を持った人物として描かれているが、それが不満なのだ」と
決めつけている。

 そうかな?

 本当に、TT氏は、アメリカ人に、それを確かめたのかな?

 同性愛を擁護したいという気持ちが先にあって、TT氏が、勝手にそう思いこんでいる
だけではないのかな? 今のアメリカは、TT氏が思いこんでいるほど、同性愛に対して、
それほどセンシティブではないような気がする。

 全体として、TT氏は、映画「アレキサンダーの悲劇」は、史実にきわめて忠実に作ら
れた、すばらしい映画だと、絶賛している。3回も、見たそうだ。そして「(そのすばらし
さは)、3回見て、はじめて発見できることである」と。

 ここを読んで、私は、この映画は、映画館では、見ないことに決めた。ビデオでじゅう
ぶん。「そこまでアレキサンダーについて、詳しく知りたい」とは、思わない。(それに3
回も見たくない!)何というか、テーブルの上に、どっさりとごちそうを出されたような
気分。TT氏の評論を読んだだけで、満腹になってしまった。

 (あるいは、先に出版社のほうから、映画評論を頼まれたから、3回も見たのではない
かな? ……これは私の勝手な憶測。)

(補足※)

 一度は、同性愛者とは知らず、その家に泊めてもらったことがある。夜中にハッと気が
つくと、その男は、私の横に寝ていて、私の背中を、さすっていた。ゾーッ!

 もう一度は、それまでに、10年ほどつきあった男だが、ある日、喫茶店で、いきなり
手を握られた。そして「林君は、同性愛をどう思いますか?」と、質問された。そのとき
も、心底、ゾーッとした。

 あるいはこんな例も。

 結婚式を終えて、花嫁が夫の部屋に入ってみると、その夫が、男の友人と抱きあって、
キスしていたという。その光景を見て、花嫁は狂乱状態になり、花嫁の友人の家に逃げこ
んできた。

 たまたま私がその場に居あわせた。花嫁は、友人にあれこれとなだめられていたが、花
嫁の狂乱状態は、そのままだった。

 同性愛者が同性愛を肯定するのは、同性愛者の勝手だが、しかし世の中には、それをす
なおに受けいれられない人たちがいることも、忘れてはいけない。

 が、だからといって、私は何も、同性愛を否定しているのではない。また映画の中に、
そういうシーンがあったからといって、映画全体の評価を変えることはない。ただ「バカ
げた反応」と決めつけるTT氏の評論には、抵抗を感じた。

++++++++++++以上「月刊G・3月号を読んで+++++++++++

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愛には懼(おそ)れなし

 「愛には懼(おそ)れなし」(新約聖書(ヨハネ・第1書・4・18)とある。つづけて、
「全主愛は、懼れを除く。懼れには苦難あればなり。懼るるものは、愛、いまだ全からず」
と。

 愛はすべてであり、その愛があれば、すべての懼れがなくなるという。つまり何かに懼
れている人は、いまだ、その愛が完成されていないことを示す、と。

 ……こんな解釈を加えると、キリスト教徒の人たちは、不愉快に思うかもしれない。し
かし私は、私の解釈によってでも、イエス・キリストのこの言葉は、すばらしい言葉だと
思う。どうしてかわからないが、何度も読みかえしていると、心の中が暖まってくる。

 思えば、私の心は、すき間だらけ。ボロボロで、つかみどころがない。何かを求めてず
っと生きてきたはずなのに、その何かの片鱗(へんりん)すら、つかめないでいる。あが
いている。

 だからさみしい。だから悲しい。心暖かい家族にめぐまれ、やさしい妻に恵まれ、それ
なりに幸福な生活をしながらも、心の中は、すき間だらけ。何を考えても心配だし、不安
は、打ち寄せる波のように、つぎからつぎへと、容赦なく襲ってくる。

 なぜだろう。何が、足りないのだろう。何が、まちがっているのだろう。

 生きることにまつわる、不安や心配、それらを総称して、「苦難」という。イエス・キリ
ストは、それらにおびえることを、「懼れ」と呼ぶ。ならば私は、その「懼れ」の最中(さ
なか)にいることになる。

 そう、私は、ときどき、生きている意味すら、わからなくなる。「なぜ、私はこんなとこ
ろにいるのだろう」と思うことさえある。自分をつかもうと、懸命にもがくのだが、どう
してもつかみきれない。

 そういう「懼れ」から逃れる方法は、ただ一つ。イエス・キリストは、「愛」だと説く。
「人を愛する心」だと説く。「なるほど」と思ってはみるが、しかし実際のところ、私には、
その「愛」というのが、何であるのか、よくわからない。

 相手に対する共鳴感のことなのか。相手の立場で、その相手の悲しみや苦しみを、共有
することなのか。あるいはまた、いつも私が書いているように、「許して、忘れる」ことな
のか。

 ただこれだけは言える。だれでもよい。だれでもよいが、その人に親切にしてやったり、
やさしくしてやったりすると、自分の心に張りついた孤独感が、ふと、やわらぐのを感ず
ることがある。

 そういうのを「愛」と言うのだろうか。もしそうなら、そういった親切や、やさしさを、
広げていけばよいということになる。が、それは口で言うほど、簡単なことではない。

 が、私は、おかしな人間だ。その一方で、私は、何かに懸命にしがみつこうとしている。
抵抗しようとしているのかもしれない。すなおな気持ちで、人を愛し、愛されることを受
け入れればよいのに、別の心は、それに反対している。

 なぜ、私は、こうまで「現実世界」に執着するのか。名声や地位、名誉とは、ほとんど
決別した。しかしそれでもまだ、自分の心にすなおになれないでいる。善人になれないで
いる。

 楽な生活をしたい。もっと人生を楽しみたい。お金も、嫌いではない。苦労はいやだし、
人に利用されるのも、いやだ。相手が悪人なら、なおさらだ。

 そういう自分を、どうしても、捨てきれない。もっとわかりやすく言えば、「善人になる
のは、それでよいとしても、その善人になったとき、それで生きていかれるのか」という
疑問を、どうしても、払いのけることができない。

 仕事もしなければならない。つまり生活費も稼がねばならない。きれいごとだけでは、
私の世界では生きていかれない。私が支えなければならない扶養家族だけも、現在、5人
もいる。

 現実のほうが、まちがっているのかもしれない。それはわかっているが、聖書を読んで
いると、どんどんと自分が現実離れしていくように感ずる。へたをすれば、私の人格が二
分されてしまう。

 今は、この程度しか、書けない。この先は、もう少し頭を冷やしてから書くことにしよ
う。まあ、今日も、やさしい気持ちと、穏かな気持ちだけは、大切にしながら……。

 みなさん、おはようございます。今週も始まりました。2月14日、月曜日。

 そうだ、今日は、バレンタイン・ディーだ! 忘れていた! (私には関係ないが……。)


●時間と空間の共有感

 若いころの自分に、視点を置いてみる。私が、10歳とか、12歳のころだ。そのころ
も、私のまわりには、たくさんの人がいた。

 最初に思い浮かんだのは、近所の菓子屋のおやじだった。頭のはげたおやじで、愛想は
あまりよくなかったが、何かを買うと、いつも、おまけをくれた。菓子屋なのに、おもち
ゃのおまけをくれたこともある。

 つぎに学校の先生だ。Kという先生だ。ニックネームは、「かば」だった。名前が、「カ
バxx」だったからではないか。
 
 ほかに、体育の先生や、道端で、おもちゃを売っていた男などなど。今から思うと、「か
ば」というニックネームの先生をのぞいて、みんな、40代とか50代の人ばかり。

 そういう人を、順に頭の中で思い出していくと、やがて、言いようのない切なさを覚え
る。「かば」というニックネームの先生は、若い女性の先生だったが、まもなく、何かの病
気で、死んでしまった。

 で、計算すると、そのころのおやじにせよ、先生にせよ、今、生きていれば、90歳代
とか100歳代になっているはず。しかし生きている人は、ほとんどいないはず。みんな、
それぞれの時代に、ぞれぞれの人生を懸命に生きたのだろう。が、結果としてみると、ま
るであとかたもなく消えてしまっている。

 おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は、そこに、人を愛する原点を感ずる。つま
りそういう(切なさ)の中に、人を愛する原点を感ずる。私たちは、そういう自分の過去
を振りかえりながら、実は、その時代に生きた人たちは、やがてくる将来の私たちである
ことを知る。

 私も、(そしてあなたも)、例外なく、やがて、だれかの思い出の中にその片鱗を残すこ
とはあっても、そのまま、また消えていく。そこに生きることにまつわる、切なさを感じ、
生きる人たちに対しては、限りないいとおしさを、感ずる。

 それが、そのまま、「愛」につながっていく? 人類愛につながっていく? 結論を先に
言えば、時間と空間の共有性。それが愛の原点ではないのか。

 たとえば今、1人の幼児に接したとする。年齢は、5歳だ。私との年齢の差は、50歳
以上もある。そんなとき、私は、ふと、こう考える。

 「この子が、30歳や40歳になるころには、私は、もうこの世には、いないだろうな」
と。つまり、今度は、反対の立場で、今、懸命に生きている自分に、切なさを覚える。そ
してその子どもに対しては、限りない、いとおしさを覚える。

 今、うらんでいる人も、嫌っている人も、例外ではない。憎んでいる人も、さげすんで
いる人も、例外ではない。つぎの瞬間には、私は、そういう人たちもろとも、この世から
消える。

 つまり私たちは、「今」というこの時間と、この身近な空間を、たがいに共有しているに
すぎない。そしてそれから生まれる共有感には、はっきりとした限界がある。いくらがん
ばっても、命という限界を超えて、私たちは、その先へ進むことはできない。もちろん私
が生まれた以前の過去へもどることもできない。その限界を感ずからこそ、今、時間と空
間を共有するものに対して、限りない、いとおしさ、つまり、「愛」を感ずる。

 支離滅裂なことを書いてしまったが、もう少し、がまんして、私の話を聞いてほしい。
わかりやすく説明しよう。

 たとえばコンビニの中で、見知らぬ男性をみかけたとしよう。相手も私を知らない。何
の関係もない。

 しかし今、はっきりしているのは、私も、その男性も、「今」というこの時間を共有して
いるということ。距離も近い。この無限に広い宇宙という尺度でみるなら、別々の人間と
言うよりは、同じ人間。しかも一体化している。

 しかしそんな男性でも、そして私でも、あと半世紀もすれば、この世から、あとかたも
なく、きれいに消え去る。ともに、そういう運命を背負っている。

 そのことを思うと、その男性が、他人とは、とても思えなくなってくる。仮にその人が、
悩んでいたり、苦しんでいたりすれば、なおさらだ。私がそこにいるのが奇跡なら、その
男性がそこにいるのも、奇跡なのだ。そして「今」というこの瞬間において、時間と空間
を共有しているというのは、さらに奇跡なのだ。

 それがわからなければ、今、静かに目を閉じて、あなたという存在が、消滅してしまっ
た状態を想像してみればよい。

 あなたの肉体は、もうない。光を見る目も、音を聞く耳もない。心を動かす脳ミソもな
い。まったくの虚無の世界だ。「私」が消えた状態では、この世界を認識することもできな
い。

 そういう世界から見ると、あなたがここにいるのも奇跡なら、その男性がそこにいるの
も奇跡。それがわかるはず。「だから、その男性を愛せよ」と、私は言っているのではない。
ただ、その男性との間に、時間と空間の共有性を感じたとたん、私は、その男性が、私と
はまったく無関係の他人とは、どうしても思えなくなってしまう。

 繰りかえしになるが、私は、それが「愛」、しいて言えば、「人類愛」の原点ではないか
と思う。


●揺れ動く心

 心というのは、揺れ動くものなのか。それを「迷い」という。つまり人は、そのつど、
あれこれと迷いながら、生きている。

 このところ、兄が、入浴をしぶるようになった。ワイフに聞くと、「もう3日も、入って
いないのよ」と。

 そこで昨日、昼間に、入浴させた。「夜は、寒いから、いやなのだろう」と、私のほうで、
勝手に解釈した。

 が、おもしろい兄で、私の指示には、何でもすなおに聞く。どうやら私を、祖父と錯誤
しているようだ。離れて暮らして、40年近くになる。今の兄には、私が、その祖父に見
えるらしい。年齢的にも、私は、兄が子どものころの祖父の年齢になった。顔も祖父の顔
に似ている。

私「あのな、お前の頭、すぐ臭くなるだろ。だから頭は、きちんと洗えよ」
兄「OK、OK」
私「あとで、散髪してやるからな」
兄「OK、OK」と。

 頭を洗い、ついで立たせたまま、背中と腹を洗ってやる。つぎに足だが、私のほうが捻
挫をしていることもあって、足の先までは、洗ってやれない。

 最後に、半ば目を閉じて、尻の穴を、数度、ゴジゴシと洗ってやる。

私「金XXと、足のウラくらいは、自分で洗えよ」
兄「OK、OK」と。

 ときどき、「痛い」とか、赤ちゃん言葉で、「くすぐったい」とか、言う。そして「おじ
いちゃんに、よく銭湯で洗ってもらった」と言う。

 それを聞いていると、子ども時代の私の姿が、ありありと浮かんでくる。私も、銭湯へ
通っていた。しかし子どものころは、いつも女湯のほうに、入っていた。

 なつかしさと、あわれみ。同情と、いたわり。が、その一方で、「体くらい、自分で洗え」
という、怒りというか、それに似た感情も、顔を出す。だからときどき、タオルで、力い
っぱい、背中をこすったりする。

 「痛い、痛い」
 「少しは、がまんしろ。黙って、静かにしていろ!」と。

 先日、はじめてワイフが、「家の中に、黒いモヤがかかった感じ」と、不平を漏らした。
ボケた兄がいることを、そう感じたらしい。だから、できるだけワイフには、世話をかけ
ないようにしている。

 が、おかしなものだ。

 このところ、心のどこかで兄との同居を楽しむようになってきた。そのへんは、実に純
朴な兄で、何かやさしくしてあげると、ニコニコと笑って、それに答えてくれる。「今度は、
パチンコに連れていってやろうか」「今度は……」と考えているだけで、楽しくなる。

 ワイフは、「兄さんは、まるで幼児ね」と言うが、幼児だと思えば、私の得意分野。あつ
かい方は、なれている。それに私は子どものころから、老人と同居の家庭に生まれ育って
いる。頭のボケた老人と同居することに、それほど、違和感を覚えない。

 「まあ、したいようにさせておけ」という対処法が、自然な形でできる。

 が、同時に、私は、その兄から、何かを学んでいるような気がする。老人問題にも詳し
くなったし、痴呆症(認識症)にも、詳しくなった。自分たちの老後を、より深く考える
ようにもなった。

 そして、ここに書いた、「揺れ動く心」も。

 兄の介護をしていると、そのつど、私の心は、複雑に揺れ動く。こうした迷いは、それ
まであまり経験しなかったものだ。

 強く叱ったあと、「まずかったかな」と思って、兄の好物を部屋に届けたりする。テーブ
ルを汚したのを見て、「ちゃんと拭け」と言って、雑巾(ぞうきん)を投げつけたあと、私
が拭いてやる。

 その瞬間、瞬間に、心が揺れ動く。

 それについてワイフは、「長い歴史があるからよ」と言うが、そのとおり。2人の間には、
長い歴史がある。思い出が、地層の層のようになって、積み重なっている。年齢が離れて
いたから、いっしょに遊んだという思い出は、ほとんど、ない。ないが、それでも、思い
出が、あちこちで重なっている。

 が、それだけではない。それと同時に、「これがぼくの、10年後、20年後の姿か」と
思ったり、あるいは、反対に、「もし立場が逆だったら」と思ったりする。

 それがモヤモヤとした、迷いになるようだ。

 そう言えば、昨日は、こんなことがあった。

 兄のために用意した、室内歩行訓練器を、兄が、こわしてしまった。しかたないので、
私がドライバーでなおしてやっていると、横から、ペチャクチャと、話しかけてくる。そ
れがうるさかった。

 だから、私は、思わず、「うるさい!」「黙っていろ!」と。大声で、怒鳴った。

 兄は、さみしそうな顔をしてみせたあと、そのままコタツにうつむいてしまった。「言い
過ぎたかも……」と思ったが、そのままにしておいた。

 台所に帰ると、ワイフがそこに立っていた。「怒鳴ってしまったよ」とポツリと言うと、
ワイフは私を胸に抱いてくれた。

 今日こそは、動揺しないでおこう……と、今、心に決めた。兄との悪戦苦闘は、まだま
だつづきそうである。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「?」だらけのノ政権(韓国)

 K国が、K国外務省を通して、正式に、(正式に、だ)、核兵器の保有宣言をした。「ワレ
ワレは、核兵器をもっている。今後も増産する」と(05・2月)。

 これに対して、しばらく沈黙を保ったあと、ノ政権(韓国)は、「いつもの脅しにすぎな
い」「核兵器をもっているという証拠はない」と。「だから、今後も、K国に対する、経済
援助は続行する」と。おまけにブッシュ大統領には、「金XX批判をひかえてほしい」とま
で、注文を出している(05・2)。

 国内では、反北報道を、弾圧に近い形で抑制し、反米、反日運動を展開している。戦時
中に、日本軍に協力した人やその家族を洗い出している。あろうことか、あの大韓航空機
爆発事件まで、「実は当時の韓国政府のやらせである」とまで言い出している。

 こうした一連のニュースを読みながら、私のワイフまで、「ノ大統領は、金XXの子分み
たいね」と。

 K国の核兵器保有宣言に対して、「核兵器をもっているという証拠はない」と言うくらい
なら、ノ大統領は、「K国は、核兵器をもっていない」という証拠を、出すべきではないの
か。ノ大統領としては、いまさら、「私がまちがっていました」「私もだまされていました」
とは、とても言えないのだろう。

 自分たちだって、だまって、核兵器の製造に着手していた! それがバレると、「日本だ
って、プルトニュウムをもっているではないか!」「騒いでいるのは、日本だけだ!」と。

 金大中政権もわかりにくかったが、ノ大統領になってから、さらに私は韓国が理解でき
なくなってしまった。今回のK国による核兵器保有宣言にしても、もっとも敏感に反応し
なければならないはずの韓国が、かえってK国の擁護に回っている(?)。

 もしソウルの地下で、K国が、核兵器を爆発させたら、ソウルは、どうなるのだろう? 
(K国の地下トンネルは、ソウルまでのびているという話だぞ!)

 で、この2月に入って、K国内でも、反体制運動が、公然化してきた。「朝鮮解放人民委
員会」という組織までできた。

 その反体制運動が発する声明文の中にも、こうある。

「韓国政府は現実をまっすぐに見て、正しい対北政策を取ってほしい。K国人民は金X
X政権の延命のため、意味のない時間と金を費やしている韓国に、失望し、憤怒してい
る」(ヤフー・ニュース)と。

 私もこの意見には、同感だが、しかしそれが国際的な常識でもないだろうか。ノ大統領
よ、もう少し、「現実」を直視してほしい!
(05年02月15日記)



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 11日(No.540)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●パズル

 こんな問題があった。

 「風は北から南へ、秒速15メートルで吹いていた。そのとき、ちょうど北から南へ、
時速70キロで走っている電気機関車があった。さて、このとき、電気機関車の煙は、
どちらの方向へたなびくか」(ある数学パズルの本)。

 このとき少し数学に自信のある人なら、即座に、秒速15メートルに、60x60を
かけて、時速を計算する。そして時速54キロという数字を出す。

 つまり風の速さより、電気機関車の速度のほうが速いから、煙は、南から北へたなび
くことになる。……と答える。

 しかし正解は、「電気機関車には、煙は、ない」である。

 ナルホド!

 で、こういう問題にパッと目を通すと、「これは数学パズルの本だ」という先入観から、
数字のほうばかりに、気を取られてしまう。そして一度、その先入観にとらわれると、
その先入観からのがれるのは、容易ではない。

 頭の中で、秒速を、時速に計算しなおし始める。

 ……と、実は、こういう経験は、日常生活の中でも、よくする。おかしな先入観をも
ったために、ものの事実を、見誤ってしまうという経験である。しかし、これは、要す
るに、冷静さの問題といってもよい。

 ちなみに、同じ問題を、ワイフに出してみたら、ワイフは、すかさず、こう言った。「あ
ら、電気機関車には、煙はないわよ」と。ただしワイフのばあいは、冷静だったからそ
う答えたかどうかはわからない。

 私のように、複雑な脳ミソをもっている人間ほど、こういう問題に、ひかかりやすい
のかもしれない(?)。そういう面も、あるのでは……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもと接することの重要性

 幼児と接することのすばらしさは、この世界の外にいる人には、ひょっとしたら、理解
しがたいものかもしれない。

 幼児と接していると、つぎのような経験をする。

(1)心が洗われる(心が、いつもシャワーで洗われるように感ずる。)
(2)生きる活力をもらう(生きるパワーをもらえる。)
(3)未来が開ける(前向きに伸びていく力を感ずる。)
(4)自分がわかる(自分の原点がわかる。)
(5)心が開く(開放された心と心の交流ができる。)

 この中でもとくに重要なのが、(1)と(2)である。当然のことながら、幼児の世界で
は、ゆがんだ心は、通用しない。インチキやゴマカシも、通用しない。少しでもまちがっ
たことをすると、即座に、その場で、攻撃される。私は、ときに、それを風呂の中で浴び
るシャワーのように感ずる。

 もちろん、子どもたちの生きる力をそのまま自分のものとすることができる。旺盛な好
奇心と行動力。子どもたちの前では、ぼんやりと時間をつぶすなどということは、できな
い。子どもたちが、ワーッと声をあげながらやってきたとたん、それまでの「疲れ」が、
吹き飛んでしまう。我を忘れて、私も、その輪の中に入ってしまう。

 つぎに(3)の「未来が開ける」だが、これは、たとえば同じ知的訓練でも、痴呆老人
の知的訓練を少しだけ、想像してみればわかる。

 幼児に教えたことは、それがすべて基礎となって、幼児の知的骨格となっていく。しか
し痴呆老人のような人のばあいは、現状維持が精一杯。私には、老人指導の経験がないの
で、何とも言えないが、「やれ」と言われても、多分、断るだろう。断ると言うよりも、で
きない。

 また子どもを見ていると、自分の原点を知ることがある。それについては、何度も書い
てきたので、ここでは省略する。

 5つ目に、私は、「心が開く」をあげる。幼児の心は、たとえて言うなら、白紙の紙。純
粋で、汚れがない。(汚れている子どももいるにはいるが、しかし少数。)親切にしてあげ
たり、やさしくしてあげると、そうしたこちらの思いが、スーッと、子どもの心の中にし
みこんでいくのがわかる。

 教える側としては、それがとても、気持ちよい。心が暖かくなり、なごむ。孤独やさみ
しさも、同時に、そのとき、いやされる。

 そこで、最近、こんな記事を読んだ。ボケ防止のためには、1日、1度は、子どもに接
するとよい、と。何かの雑誌に書いてあった。どういう根拠(裏づけ)があって、そのド
クターは、そう書いたのかは知らないが、私の経験では、その意見は、正しいと思う。

 とくに幼児と接していると、接していること自体が、すばらしい刺激になる。たとえば、
話は少しそれるが、こうして教育論を書くにしても、子どもを目の前にすると、つぎつぎ
と新しい考えが浮かんでくる。

 で、最近になって私は、こう思うことが多くなった。一応、月謝をもらって、幼児を毎
日指導しているが、本当は、(余裕があれば)、むしろこちらのほうが月謝を出して、教え
させてもらう立場ではないのか、と。

 もっとも、これには、大きな条件がある。つまり幼児と純粋な立場で、接するための条
件と言ってもよい。

 その第1は、親との信頼関係をしっかりとつくる。第2は、子どもと接しているときは、
損得計算をしない。第3は、教えるときは、子どもになったつもりで、いつも童心にかえ
る。第4は、子どもを楽しませる。具体的には、笑わせる。

 ……さあ、もうそろそろ子どもたちが、階段をのぼってやってくるころ。私は、その準
備をしなければならない。時は、2月X日、午後2時30分。

 幼児を教えるのは、本当に楽しい。ウソじゃない!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ボケる(認知症の問題)

 ボケることの恐ろしさを、今、私は、現在進行形で体験しつつある。その中でも、ボケ
にともなう、人格の崩壊ほど、恐ろしいものはない。

 人は、ボケればボケるほど、(1)ものの考え方が自己中心的になり、(2)自己管理能
力が、弱くなり、(3)良好な人間関係が、結べなくなる。ちょうど、EQ論(人格の完成
論)を、逆に否定する形で、ボケの症状が進む。

 そこでボケを防ぐためには、どうすればよいかということになる。

 しかしここでまた、大きな問題にぶつかる。つまり「ボケは防げるかどうか」という問
題よりも、「そもそも防ぐ必要があるのか」という問題である。仮にボケを防ぐとしても、
やり方をまちがえると、ただの時間稼ぎになってしまう。もっとはっきり言えば、時間の
ムダ。先のばしに過ぎなくなってしまう。

 仮に、何かの訓練なり、指導なり、あるいは治療をしたところで、現状維持がよいとこ
ろ。症状が軽くなるということは、ない。(……と思う。)

 もちろんボケといっても、その症状は、一様ではない。「まだらボケ」という言葉さえあ
る。原因によって、ボケかたも、さまざま。しかしここでいうボケというのは、日々に、
大小便をたれ流し、夜も昼もなく、徘徊を繰りかえすようなボケをいう。アルツハイマー
型痴呆症もその一つ。

 そこで私たちは、人格と、人権を、区別する。ボケるのは、あくまでも、人格であって、
人権は、関係ない、と。もっと言えば、「命」という観点から、人間を考える。またそうい
う観点をもたないと、極端な言い方をすれば、「ボケた人間には、生きる価値はない」とい
う暴論が、生まれてきてしまう。

 私は、このことを、一匹の犬を飼っていて、学んだ。

 去年、16歳で死んだ犬は、最後のころは、ボケてしまった。大小便は、あたりかまわ
ずしたし、耳も、目も、不自由になっていた。行動も動作も、かなり、おかしかった。

 そういう犬を見たとき、オーストラリアの友人たちは、さかんに「安楽死(MERCY 
KILLING)をさせてやれ」と言った。アメリカ人の友人も、同じようなことを言った。彼ら
は、彼らが飼っている家畜やペットがそういう状態になると、薬や銃で、殺すのだそうだ。
彼らは、日本人とちがって、牧畜民族である。ものの考え方が、少し、ちがう。

 しかしもちろん、日本人には、そういう習慣はない。とくに動物に対しては、そうだ。
そのときのこと。私はそのとき、その犬との間に、生命の共有感を覚えた。この広い宇宙
の一点で、しかもその瞬間において、生命をともにしたという共有感である。

 その共有感こそが、人間について言うなら、私たちが守るべき「人権」ということにな
る。

 それに「ボケ」といっても、あくまでも相対的なものでしかない。私から見て、ボケて
いるというだけで、一つ、視点をかえれば、私だって、そのボケの仲間かもしれない。た
とえばボケた老人が、カセットテープレコーダー相手に、四苦八苦している姿は、パソコ
ン相手に四苦八苦している私の姿と、どこもちがわない。

 そこでボケるという現象を、再び、「人格の崩壊」という視点で考えなおしてみる。そう
いう視点で見ると、今度は反対に、若くても、それに頭の活動はしっかりしていても、人
格の崩壊した人は、いくらでもいることがわかる。年齢は、関係ない。

 自分勝手でわがまま。自己管理能力もなく、他人と良好な人間関係を結べない。そうい
う人である。人格の崩壊した人には生きる価値がないということになると、今度は、そう
いう人を、どう考えたらよいのかということになってしまう。

 つまりボケたから、生きる価値がないとか、ボケていないから、生きている価値がある
という論理は、まちがっているということになる。

 ただ実際のところ、先の犬については、私たちは、まったくと言ってよいほど、何もし
なかった。自然に任すという方法で、対処した。治療法はあったのだろうか。なかったの
だろうか。それすら確かめなかった。

 最後の1、2日、どこか痛そうなうめき声をあげた。それで人間がのむ、鎮痛薬をのま
せてみようと考えていた矢先、その朝、静かに死んでいた。

 で、頭のボケた兄を見ながら、今、こう思う。

 ボケるのは、しかたないとしても、最後の最後まで、夢と希望と目的。この3つは、も
たなくてはならない。これは本人のためでもあるし、それを介護する、周囲の人たちのた
めでもある。

 この三つのない人を介護するのは、たいへん。もっと言えば、心のつかみどころのない
人を介護するのは、たいへん。

 しかしこの三つがあれば、その夢と希望と目的を共有することによって、その人のボケ
と戦うことができる。

一番むずかしいのは、夢や希望や、目的もなく、ただウロウロとボケていく老人では
ないか。対処のし方そのものが、わからない。私もいつかはボケるが、そういう老人
にだけはなりたくない。つまりボケるにしても、じょうずにボケようと考えている。(自
信はないが……。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤独

昨日も、日本のどこかで、男女3人が、集団自殺したらしい。
その集団自殺の新聞記事を読みながら、ふと、こんなことを考えた。

++++++++++++++++++

この世で、一番、恐ろしいもの。それが、孤独。
だれにも相手にされず、話しかける相手もいない。
病気になっても、心配してくれる人もいない。
仮に、死んでも、その死を悲しむ人もいない。

そんな世界は、想像するだけでも、ぞっとする。

しかし……そんな想像など、あえて、しなくてもいい。
だれしも、すぐそこに、孤独を感じながら、生きている。
その孤独が怖(こわ)いから、毎日をごまかして
生きているだけ。孤独になるのを避けて生きているだけ。

では、その孤独を避ける方法はあるのか。
あるいは、孤独を感じたら、どうしたらいいのか。

いや、人間には、孤独を避ける力はない。孤独に
打ち克つ力もない。孤独は、それほどまでに恐ろしいもの。
仏教の世界でも、孤独を、無間地獄のひとつと位置づけている。

もし人がその孤独に包まれたら、ゾンビのように
ただ街中をフラフラとさまよい歩くか、
さもなくば、自ら、死を選ぶしかない。

数日前も、数人の男女が、車の中で、集団自殺をした。
集団で死ぬことで、孤独を少しでも、いやそうとしたのか。
理由は、わからない。原因もわからない。

絶望? 妄想? 自己否定? それとも心の病気?

ただ私たちが今、できることは、そこに孤独な人がいたら、
やさしい言葉をかけてやること。理解してやること。

その共鳴感が、私たちの心を広くし、心に、温もりを与える。
自らに、孤独をいやす力や、やすらぎを与える。

「あなたは、決してひとりではない」と伝えることで、
はじめて、「私は決してひとりではない」という確信を、
もつことができる。

その「輪」をつくること。その「輪」を広くすること。
この孤独だけは、絶対にひとりでは、立ち向かえない。
みなが、その「輪」をつくって、戦うしか、方法はない。
みなが、力を合わせて、守りあい、支えあうしかない。

今朝、それを発見した。あとは、それを具体的に、どう
考え、どう実行していくか、だ。今日もがんばろう!

(死に急ぐ人たちへ)

 死ぬことは、何でもない。
 だから、死に急ぐことは、ない。
 どうせ、ほうっておいても、
 いつか人は、死ぬんだから。

 死ぬことに、意味はない。
 まったく、意味はない。
 大切なことは、生きること。
 生きて、生きて、生き抜くこと、だよね。

 が、もし生きることに、さみしさを感じたら、
 今、さみしがっている人に声をかけてみよう。
 「私もさみしいんだよ」と。

 気取ることは、ない。飾ることもない。
 みんな、さみしい。
 さみしくない人は、いない。

 みんな元気そうに生きているけど、
 そう見えるだけ。そういうフリをしているだけ。

 ああ、いやだね、この肌寒さ。
 いやだね、このうっとおしい曇り空。

 何かと気が滅入る季節だけれど、
 ここはがんばって生きるしかないよね。
 そのうち、また、何か、いいこともあるだろうし……ね。

 ぼくも自信はないけれど、……つまり、本当のところ
 ぼくも、毎日、さみしくてしかたない。

 だからときどき、だれか、ウソでもいいから、
 やさしい言葉をかけてくれないかなと思うことがある。

 まあ、これはぼくの甘えのようなものかな。
 ともかくも、みんなで力を合わせて、生きていきましょう。

 決して、死に急いではいけませんよ。
 死ぬことには、何も意味はないのだから……。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●死

 頭がボケれば、その分だけ、死の恐怖から、遠ざかることができるのか?

 私は、「遠ざかることができる」と考えていた。つまりボケることで、死の恐怖からのが
れることができるのだ、と。

 しかしそれはまちがっていた。

 ボケた兄を観察していて、いくつか興味深いことに気がついた。兄は、たとえば時間や、
食事に、異常なまでに、固執する。それはわかる。しかし同時に、自分の体の変化にも、
たいへん敏感に反応する。

 鼻水が出ただけで、「風邪をひいた」「入院しなくてはいけない」とか。少し色の黒い便
が出ただけで、「死んでしまう」「胃潰瘍がひどくなった」とか。そのつど、世話をする私
やワイフは、体温計で体温をはかってやったり、その種の薬をのませたりする。

 何でもないことは最初からわかっていても、そうしてやることで、兄に、安心感を与え
ることができる。が、それをしないでおくと、1時間おきに、「病気だ」「内出血を起こし
ている」「肺炎になる」と騒ぐ。

 あのジョン・シュタインベック(John Steinbeck)は、つぎのように書いている。学生時代
に、大好きだった、アメリカの作家の一人である。

 You see, sir; death is an intellectual matter, but dying is pure pain.

 「あのね、だんな、死(の問題)は、知的な問題ですがね、しかし死ぬことは、苦痛なん
ですよ」と。

 つまり「死」は何かと問われれば、それは、あくまでも知的なレベルの範囲での問題で
しかない。幸福論を説いたからといって、幸福になれるということはない。恋愛論を説い
たからといって、すばらしい恋愛ができるというわけではない。同じように、「死」につい
て論じたからといって、その人が、「死」、もしくは「死の恐怖」から解放されるというわ
けではない。

もちろん頭がボケれば、「死」について論ずることはない。が、その「死」の問題と、「死
ぬこと」とは、まったく別のこと。頭がボケても、痛いものは痛い。こわいものは、こ
わい。つまり死に対する恐怖心は、頭がボケたからといって、消えるものではない。

 若いころ、ある恩師に、こう聞いたことがある。その恩師は、そのとき、85歳をすぎ
ていた。その恩師に、「先生、年をとると、死ぬのがこわくなくなるものですか?」と。

 するとその恩師は、笑いながら、私にこう言った。「林さん、人間っていうのはね、いく
つになっても、死ぬのがこわいもんですよ」と。

 自分が生きているか、死んでいるかもわからないほど、頭がボケてしまえば、話は別な
のだろう。が、しかしそれでも、死の恐怖だけは、残るかもしれない。つまり人間は、そ
してあらゆる動物は、生きているかぎり、死の恐怖から、のがれることはできない。言い
かえると、人間は、なぜ生きるかといえば、死の恐怖をそこに感じているからということ
にもなる。

 夕方5時ごろになると、台所のドアをガタガタとゆすって、夕食をせがむ兄。その姿を
見ていると、おなかがすき、夕食を食べたいからそうしているというよりは、何か、兄自
身の中に潜む、恐怖心が、兄を、せきたてているようにも見える。

 「食べたいから食べさせろ」というのではなく、「食べないと、死んでしまう」と。

 ワイフは、「夕食を作ってあげないわけではないのだから、もう少し、私を信頼して、待
っていてくれればいい」と言うが、実は、この問題は、もっと、奥が深いように思う。



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●メリル・ストリープの「愛と精霊の家」(ビデオ)を見る

 少し古いビデオだが、メリル・ストリープの「愛と精霊の家」を見る。よかった。星は、
★★★★プラス★の、5つ星。

 舞台は、1970代までのアルゼンチン。ちょうど、その直後、私は、ブエノスアイレ
スにいた。当時は、ブエノスアイレスだけで、殺人事件が、一日に、30件以上も起きて
いるというような時代だった。

市の中心には、通称「ピンクハウス」と呼ばれる、大統領官邸があった。

 そのピンクハウスは、私が行ったときも、銃弾でボコボコだった(1975年ごろ)。そ
の時代にいたるまでの、そのころの物語。

 ワイフがメリル・ストリープの大ファンで、見終わったあと、「やっぱり、よかったわね」
と言った。ホント。ビデオを見ながら、いろいろ考えさせられた。一人の、超能力をもっ
た女性のドラマチックな人生を描きながらも、流れが自然で、画面の中に、どんどんと吸
いこまれていった。見終わったあと、私自身も、同じ人生を経験したような錯覚にとらわ
れた。

 もちろん涙も出た。「生きるということは、こういうことかな」というヒントも得た。

 あとで聞いたら、ワイフも涙を流していたという。「本当に、流したのか?」と聞くと、
「あなたの前で見ていたから、あなたには、見えなかっただけよ」と。ワイフがビデオを
見ながら、涙を流すのは、めったにないこと。

 「フ〜ン」と、私は、むしろそちらのほうに驚いた。

 そのあと、しばらくして、ワイフとこんな会話をする。話題は、「家庭」と「家族」。

私「老人が、夢や希望や目的をもつということは、可能なのだろうか?」
ワイフ「可能よ」
私「……? じゃあ、お前には、どんな夢がある?」
ワイフ「みんなが、孫を連れて遊びに来てくれるでしょう。楽しみだわ」

私「そんなこと?」
ワイフ「これからは、そういう生き方になるのよ」
私「そうだな。これからは、息子や孫たちの幸福を考えながら生きるということかな」
ワイフ「みんなに心配をかけないように、ね」

私「あとは、息子たちに、ひとつの見本を見せられるような生き方をしたいな」
ワイフ「そうよ、見本を見せるのよ。夫婦としての、生きザマを、ね」
私「むずかしいね」
ワイフ「がんばるしかないわよ」と。

 そして私は、こんな話をした。このつづきは、別の原稿としてつぎに書く。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●幸福な家庭

オーストラリアに留学していたとき、一人の友人の家に、食事に招かれた。M君という、
経済学部に籍を置く学生だった。

 当時のオーストラリア人は、日本人とは比較にならないほど、高い水準の生活を楽しん
でいた。1ドルが400円の時代だった。平均的な農家でも、日本円に換算すると、年収
が、1200〜1400万円ほどあった(1970年当時)。当時、日本の大卒の初任給が、
5〜6万円程度であったから、その「差」は大きかった。

 で、その友人の家に招かれて、私は驚いた。大きな冷蔵庫に、大きなエアコン。エレク
トーンもあったし、広い台所のテーブルの上には、オレンジが山のように積まれていた。

 当時の日本では、とても考えられない生活だった。

 そのM君には、二人の妹と、一人の弟がいた。上から、中学3年生、1年生、それに小
学5年生。みな、底抜けに明るい表情をしていた。

 父親は建築会社で、設計図を描いていた。母親は、パートで、中学校の教師をしていた。
理知的な父親。やさしく、笑顔を絶やさない母親。まるで夢の中で見るような幸福な家族
だった。少なくとも、私には、そう見えた。

 が、それから、15、6年後。日本の経済成長も、めざましかった。そんなとき、その
M君が、仕事で日本へやってきた。そして私の家を訪ねてくれた。

 私は、M君の家族の消息を聞くのを、何よりも楽しみにしていた。が、M君から聞いた
話は、意外なものだった。

 M君の母親は、私が日本へ帰ってからしばらくして、がんでなくなってしまった。その
ことはそれまでの手紙で、知っていた。

 で、そとき、M君から聞いた話では、上の妹は、そのときすでに、子どもを一人もうけ
たあと、離婚していた。下の妹は、過食症になり、病院へ入院していた。一番下の弟も、
大学へは入ったものの、アルコール依存症になり、毎日、ビールばかりを飲んでいるとい
うことだった。

 また、父親は、母親がなくなったあと、しばらく独身生活をつづけたが、私がM君に会
ったときは、インドネシア人の女性と、同棲しているということだった。M君は、「おやじ
は、ショウブニスト(亭主関白)だから、インドネシア人の女性が気に入っているのさ」
と笑っていた。

 私はその話を一つずつ聞きながら、「どうして?」と思ってしまった。離婚したり、がん
で死んだり、何かの依存症になることが、「不幸」というわけではない。しかしあれほどま
でに、幸福に見えた家族でも、……それはたとえて言うなら、映画「サウンド・オブ・ミ
ュージック」の中に出てくる、トラップ家のような家族だったが、そんな家族でも、時の
流れの中で、バラバラになってしまうこともあるものだな、と。

 今でも、あの当時の幸福そうな家族を思い出すと、たまらないほどの、いとおしさを感
ずる。切なさといってもよい。それとも、わびしさ? あの家族は、私がもっていなかっ
たものを、すべて、もっていた。が、それらは、どこへ消えてしまったのか、と。

 ここにも書いたように、だからといって、そのM君が、今、不幸であると言っているの
ではない。今でも、M君は、ときどきメールをくれるが、陽気な人間性は、学生時代も、
今も変わらない。

 が、しかしとくに、気になったのは、上の妹である。よくM君の家に遊びに行ったが、
その妹に会うのが、私には、何よりも楽しみだった。また彼女も、私によくしてくれた。
そんな濃密な思い出があるからこそ、彼女だけは、いわゆる、ふつうの(こういう言い方
は失礼だということは、よく知っているが……)、ふつうの幸福な家庭を築いてほしかった。

 子どもを連れて、離婚したという話を聞いたときは、本当につらかった。さみしかった。

 そのM君のことを、私は、ていねいに思い出しながら、ワイフに話した。そしてその結
論として、私は、こう言った。

 「親のぼくたちにできることと言えば、子どもたちが、いつでも安心して帰ってこられ
る家庭を用意しておいてあげること。それだけかもしれないね」と。「疲れたとき、心と体
を休めることができるように……」とも。

 それに答えてワイフも、こう言った。「子どもたちに、心配をかけないことが、何よりも
大切なのよ」と。

 幸福な家庭は、みな、よく似ている。しかし壊れ方は、さまざま。その結果、不幸な家
庭は、千差万別。どれ一つとて、同じものは、ない。それはしかたないとしても、ただ言
えることは、幸福な家庭というのは、薄いガラスでできたガラス箱のようなもの。見た目
には美しいが、もろくこわれやすい。本当にこわれやすい。

 要は、「幸福」を感じたら、そっと、本当にそっと、それを守り育てていくことか。決し
て、その幸福に甘えて、乱暴にあつかってはいけない。
 
 M君のあの家族を思い出すたびに、そう思う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●SK(俳優)の恐喝事件

 SKというよく知られた俳優が、恐喝未遂事件で逮捕された。ここ数日、朝昼のワイド
ショーでは、その話題ばかり。

 何でもSKが、出演予定だった映画が、監督の一存でキャンセルされたらしい。それに
怒ったSKが、その監督に、「金を出せ」と脅したという。(このあたりの情報は、聞き覚
えによるものなので、不正確。)

 そのときSKが、電話口で、暴力団の名前を口に出して、金を払えと迫ったらしい。そ
れが逮捕の原因になった。

 で、そのSKが、逮捕直前、テレビのインタビューに答えていた。SKは、かなり興奮
していた。早口に、ペラペラと、自分の無実をまくしたてていた。

 で、その中で、こんなようなことを言った。(以下、聞き覚えなので、不正確。)

 「(相手の監督は、無名に近い)フェザー級。オレは、(有名人だから)スーパーミドル
級なんだ」と。つまりもともと相手になるような立場ではない、と。

 この言葉を聞いて思い出したのが、5、6年前に、世間をにぎわした、野球チームHの
監督の妻。たしかあの妻も、こう言っていた。「私は、(超有名人だから)、メジャーリーグ。
相手の女は、(たたの芝居役者だから)、マイナーリーグ。比較にならないでしょ」と。

 私はよく知らないが、こうしたタレントの世界には、タレント世界独特の、格づけのよ
うなものがあるようだ。もちろん有名であればあるほど、格が高い?

 「ナルホド」と思ったり、同時に、「そういうものかなア?」と思ったり……。タレント
というのは、一番自由きままに生きる、自由業者ではないのか。その自由業者が、「格づけ」
にこだわるとは? 日本人というのは、どうして上から下まで、こうまで権威主義者なの
か。

 もともと何かの哲学が基盤にあって、タレントになったような人たちではなさそうなの
で、そういう人たちの言葉を、真に受けるほうがおかしいのかも。しかしそれにしても、
低劣。ホント!

 一流の俳優気取り。一流のマダム気取り。SKはともかくも、その監督に妻に関して言
えば、私のワイフのほうが、よほど、品もあり、知性もある。それにしても、インタビュ
ーで見せたSKは、見苦しかった。

 口汚く、相手をののしっていたが、「恐喝した覚えはない」の一点張り。が、何よりも驚
いたのは、その番組に出てきた、コメンテイターたち。みな、SKの味方をしながら、こ
う言っていた。

 「これからは、電話で冗談も言えませんね」と。

 暴力団の名前をちらつかせ、金を出せと脅すのは、冗談ではすまない。有名人であるな
ら、なおさらではないのか。SKのファンの方には、申し訳ないが……。


●捻挫(ねんざ)

いわゆる「下駄捻挫」をして、もう2週間になる。足を横にひねって、捻挫してしまっ
た。

そこで先日、医院へ行ってレントゲンを取ってもらったら、足の側部の小さな骨が、折
れているのがわかった。道理で痛いはず。ギブスをはめているので、今は、思うように
歩けない。が、しかし自転車には乗れる。

 相変わらず、自転車通勤をしている。これをやめたら、私の健康は、おしまい。

 しかしときどき、不用意に足をひねったりすると、ギリギリとした痛みが走る。そして
そのあと、半時間ほど、シクシクと痛む。きっとくっつきかけていた骨が、そのたびに、
また離れるのだろう。

 ドクターは、大病院で、手術して、クギを打ってもらえと言った。しかし私は、断った。
クギの写真を見ただけで、おじけついてしまった。それに折れた骨も、小さなもの。「この
ままだと、なおっても、少しは痛みが残る」と、ドクターは言ったが、少しくらいの痛み
など、どうということはない。そのうち、なれる。

 体のあちこちが、少しガタガタしてきたが、まあ、私の年齢にすれば、健康なほうだ。

 
●風邪

インフルエンザではないが、昨夜から体がゾクゾクした。今朝になって、それが風邪だ
とわかった。いわゆる、自称「花粉風邪」。花粉症のなり始めに、かかる風邪。それを、
私は、勝手にそう呼んでいる。

 おかしな寒気と、軽い熱。それに体のだるさ。

 今朝は、そんなわけで、午前中は、市販の感冒薬を飲んで、数時間眠る。本当は生ニン
イクを食べたいが、においが残るので、今日は断念。


●3月13日、愛知万博

愛知万博の招待状が届いた。みなさんより2週間早く、つまり開会式より2週間早く、
愛知万博(EXPO'05)を楽しむことができることになった。

 リニアモーターカーにも、特別に、試乗させてもらえるそうだ。楽しみだ。

 行ったら、写真をバチバチととってくる。HPに紹介する。どうか、お楽しみに!!
(そう言えば、この原稿がマガジンでみなさんのところに届くのは、3月11日。ちょう
ど、2日前ということになる。この原稿を書いているのは、2月9日。)


●HPのデザイン変更

 数日前、HPのトップページのデザイン変更をした。

 それについて、ワイフが、「白っぽくて、見にくい」と言った。「白内障になったんじゃ
ないの?」とからかってやった。

 読者の方からも、「(灰色は)イメージが悪い」という連絡が入った。しかたないので、
またまた近く、デザインを変更するつもり。

 いろいろ色に迷い、私としては、無難な、灰色にしたつもりなのだが……。やはり明る
い色のほうが、私のHPには、あっているようだ。


●インドのM君

 インドのM君から、10年ぶりに手紙が届いた。

 在インド、某国大使館の要職にあった人物である。今度、退職したそうだ。20年ほど
前、東京のホテルで会ったときには、腕の下に、ピストルをつりさげていた。ああいう立
場の人は、日本国内でも、自由にピストルを持ち歩けるらしい。

 手紙には、メールアドレスが二つ書いてあったが、インド人が使う英語のアルファベッ
トは、読みにくい。あちこちの文字と照らしあわせながら、アドレスを打ちこむが、どう
もうまく送信できない。しかたないので、手紙で返事を書くことにした。

 M君と最初に会ったのは、1970年。もう34年来の友人ということになる。

 娘さんが結婚したとき、腕時計を送ったのだが、途中で、その郵便物は、消えてしまっ
た。当時は、そういう時代だった。今は、もうそういうことはないだろうが……。

 近く、一度、会うつもり。


●講演

 明日は、静岡市のR幼稚園で講演。しかし足の捻挫が、心配。松葉杖をついて、行くの
もなんだし……。

 まあ、がんばって行ってくる。これも仕事のうち。

 ところでこのところ、電子マガジンが低調。ほとんど読者がふえない。と書く私自身も、
このところ、BLOGのほうに力を入れ始めている。こちらのほうは、読者が、がんがん
とふえている。

 時代は、どんどん変わっていく。とくにインターネットの世界では、そうだ。


●ワールドカップ

 今夜(2・9)、ワールドカップ最終予選、日本対K国戦。時間的に見ることができない
が、私のばあい、そのほうが、いい。

 見たいが、とても、見ていられない。たぶん、その気持ちは、Xさん(X選手の妻)、Y
さん(Y選手の妻)も、同じではないか。Xさんや、Yさんに、いつかこう聞いてみたい。

 「みなさんは、みなさんの夫が出場する試合を見ていますか?」と。

 Xさんの娘さんに、先週、「お父さんは、今、どこにいるの?」と聞いたら。娘さんは、
こう言っていた。「ホテルよ」と。

 どこかのホテルにとまって、合宿しているらしい。

 いよいよ今夜、7時30分、キックオフ。私の予想では、3−0で日本の勝ち。(この予
想はそのままにしておこう。もしも当たっていたとしても、林があとで、書き改めたと思
ってほしくない。)

【結果・付記】

 結果は、かろうじてだが、2対1で、日本の勝ち。よかった。本当によかった。胸の中
が、スーッとした。スポーツマンシップというより、敵意(=作られた怨念)むき出しの
相手と戦うのも、疲れること。日本の選手たち、よく、がんばった。ごくろうさん。+あ
りがとう!!!!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●K国の「核兵器保有宣言」

 だれにも相手にされないものだから、またまたあの国のあの独裁者は、世間を騒がせて
いる。ご苦労様と言いたいが、しかし笑ってすますわけにもいかない。何しろ、問題は、「核
兵器」。

 そこでいつもの私の、少し過激な、国際政治論。

++++++++++++++++++++

 K国のねらいは、まず、アメリカとの二か国間交渉で、アメリカを、抑えるこむこと。「相
互不可侵条約」が、それである。

 こうしてまずアメリカを抑えこんだ上で、日朝交渉に臨む。しかし「交渉」などという
甘いものではすまない。「戦後補償をしろ。さもなくば、東京をミサイル攻撃する」という、
脅しである。

 その額、4兆円とも、10兆円とも言われている。へたをすれば、底なし。

 そのお金を、うしろでねらっているのが、中国とロシア。(本音を言えばね……。だから
中国は、さかんに、戦後補償交渉の仲介を申し出ている。いやな国だね。)ロシアもここ数
日、「K国と二か国協議をしてやったらどうか」と、アメリカに、さかんに、けしかけてい
る。

 が、それにしても、理解できないのが、韓国。

 アメリカ軍の駐留を請いながら、その一方で、反米を唱え、親北政策をつづけている。
今度の「核兵器保有宣言」に対しても、ノ大統領自身は、沈黙を守ったまま。(ノ大統領自
身が、言葉を失ってしまった感じ?)取り巻きは、「いつもの脅し」「来月(3月)には、
6か国協議は開催されるはず」などと、トンチンカンなことばかり言っている。

 韓国は、アメリカの意向を無視して、K国内に、K工業団地を作ってやったり、40万
トンもの米を、無償で援助してやったり。あげくのはてには、「ワールドカップでは、南北、
いっしょにドイツへ行こう」などと騒いでいる。

 核兵器1発で、ソウルは、「火の海」になるというのに! 今朝(2.12)のニュース
でも、送還された脱北者が、K国内で、70人も公開処刑されたという。韓国の人たちは、
「同胞に向って、核兵器を使うことはないはず」と、タカをくっているようだが、K国の
独裁者は、そんな常識のとおる相手ではない。

 そこでアメリカということになる。

 韓国も日本も、いざとなったら、アメリカが助けてくれると考えている。しかしその前
に、「どうしてアメリカが、韓国や日本を守らねばならないのか」という疑問に、韓国や日
本は、何も答えていない。

 K国の核兵器開発に、まったく反応を見せない、ロシア、中国、韓国。私がブッシュな
ら、「もう、オレの知ったことか!」と言うだろう。事実、それに似た発言が、ホワイトハ
ウス周辺からも、漏れてきている。核拡散防止条約(NPT)をホゴにするとまで言い出
した(04・12・31)。

 へたをすれば、その6か国協議から、一番先に抜けるのは、アメリカということにもな
りかねない。さらに在韓米軍の完全撤退ということにも、なりかねない。もしそうなった
ら、韓国や日本は、どうするのか。どうなるのか。

 K国の独裁者の狂った野望を、だれが抑えることができるのか?

 アメリカは、イラク、アフガニスタン問題で、疲れきっている。その上、今度は、イラ
ン問題。K国どころではないというのが、アメリカの本音ではないだろうか。おまけに、
韓国は、アメリカの言うことなど、何も聞かない。自分勝手なことばかりしている。今の
ノ大統領にしても、就任時には、「K国の核問題は、ワレワレが解決してみせる」と大見得
を切っていた。

日本でも、基地移転の問題が起きるたびに、「反対」「出て行け」の大合唱。

 もうこうなると解決策は、ただ一つ。K国の金XX政権を、自然死に追いこむこと。そ
のために、K国の核問題を、国連の安保理に付託すること。そして中国、ロシアの賛成を
得て、K国を、経済封鎖すること。

 K国の「核兵器保有宣言」に対して、アメリカが、強硬な発言をひかえているのは、そ
のための布石と考えてよい。「やるだけのことはしました」と。と、同時に、中国や、ロシ
ア、韓国にこう言っている。

「もう、これでK国の本性が、おわかりになったでしょう、中国や、ロシアのみなさん」
「もう、私の知ったことではありませんよ、韓国のみなさん」と。

 そして日本に対しては、「これはあなたがたの問題でしょう。しっかりしなさいよ」と。

 かなり過激な、国際政治論でした。ごめん!
(2・12日記)


●こだわり

 自閉傾向(自閉症を含む)のある子どもが、ある特定のものに、ふつうでない(こだわ
り)を示すことは、よく知られている。

 車の一部を見ただけで、車種と製造会社を言い当てたり、音楽の最初の1小節を耳にし
ただけで、曲名を言い当てたりするなど。全国の列車の時刻表を、ほとんど暗記してしま
った子どももいた。

 ある子ども(年長児)は、毎日、青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった。また別
の子ども(年長児)は、女の先生とは、絶対にあいさつをしなかった。

 こうしたこだわりは、程度の差こそあれ、だれにでも、ある。またときとして、人はふ
としたことから、こうしたこだわりをもつことがある。

 ただ問題なのは、その問題にこだわると、大局的なものの考え方ができなくなるという
こと。実は、私がそうだ。

 大きな問題と小さな問題が同時に起きたとする。重大さでは、比較にならない。そうい
うとき、小さな問題にこだわっていると、大きな問題が、どこかへ飛んでいってしまう。
本来なら、大きな問題を優先的に考え、解決しなければならない。が、それができなくな
ってしまう。

 こうした(こだわり)は、国際問題でもよく経験する。

 決してK国による拉致問題が、小さな問題だというのではない。しかしその背後にひか
える、(核問題)とくらべたら、また、ことの深刻さという点では、比較のしようがない。
今、日本は、そして世界は、重大な危機的局面を迎えようとしている。

 (核問題)は、決して、K国だけの問題では終わらない。もう一つ、イランがある。イ
ランも、K国と同じような状況にあり、同じような問題をかかえている。

 そのイランに核があることについて、だまっていない国が一つ、ある。それがイスラエ
ルである。イランは、すでにイスラエルを攻撃できるだけのミサイルをもっている。その
技術は、K国から提供されたものだという。

 そのミサイルに、核兵器が搭載されたら、どうなるか? イスラエルの首都、テルアビ
ブは、たった一発の核兵器で、壊滅する。

 そこでにわかに浮上してきたのが、イスラエルの、イランへの先制攻撃である。つまり
自国が破壊される前に、イランの核関関連施設を、攻撃しようというものである。

 そこで少しだけ、冷静に考えてみようではないか。

 もしここでイスラエルが、イランに対して先制攻撃をしたら、どうなるか、と。もうそ
のときは、アメリカやロシアを巻きこんだ、アラブ対イスラエルの、第三次世界大戦にな
る。イラク戦争どころでは、なくなってしまう。

 問題は、そのとき、日本は、どうなるかだが、日本は、その中東に、90%近い原油を
依存している。(90%だぞ!)

 もし中東で、第三次世界大戦が始まれば、原油はストップする。が、それだけではすま
ない。あくまでも可能性の問題だが、イランは、イスラエルを核攻撃する。と、同時に、
遠く離れた、この極東情勢も、きわめて不安定になる。

 イランとK国の関係が、はっきりすれば、なおさらだ。K国は、ミサイルの技術のみな
らず、核兵器の原料も、イランに売り渡している可能性がある。そうなれば、イスラエル
の盟友、アメリカがだまっていない。あるいはこうした混乱に乗じて、K国は、韓国もし
くは、日本に攻撃をしかけてくるかもしれない。

 今、世界情勢は、そこまで緊迫している。ここでだれかが、導火線に火をつければ、そ
れこそ、取りかえしのつかないことになる。わかりやすく言えば、拉致問題どころでは、
すまないということ。

 が、日本人は、今、拉致問題に、こだわっている。(繰りかえすが、だからといって、拉
致問題を軽くみろと言っているのではない。念のため。)しかしその問題だけにこだわって
いると、もっと大きな問題を、見失ってしまう。

 今、ここで重要なことは、核問題を、どう解決するか、である。K国の核問題だけでは
なく、イランの核問題も、含めてで、ある。

 世界の国々が、今、こぞって核兵器をもとうとしている。ブラジルにしても、アルゼン
チンにしても、そうだ。つまり核の脅威は、静かに、しかし確実に、世界中に拡散しつつ
ある。が、こういう状況になっても、核大国である、中国やロシアは、アメリカに一向に
協力する気配を見せない。フランスにいたっては、なおさらだ。

 韓国ですら、「K国の核問題は、我々が解決してみせる」と、大見得を切ったものの、今
日の今日まで、何もできないでいる。できないばかりか、K国のご機嫌取りばかりをして
いる。内部では、「同胞のK国が核兵器をもてば、韓国にも有利」などと主張している政治
家もいる。

 で、アメリカが、核拡散防止条約を、反古(ほご)にするとまで言い出した。「みなさん、
もうどうぞ、ご勝手に」というところか。もっとはっきり言えば、「もう、オレの知ったこ
とか!」と。

 こういう大問題をすぐそこにかかえながら、制裁だのなんのと言っているほうが、おか
しい。3月1日からは、K国の船舶は、事実上、日本の港への入港ができなくなる。これ
は制裁ではないとは言っても、制裁である。

 K国は、今、最後の活路を、「戦争」に求めている。もしこんなとき、日本が、K国の制
裁に走ったら、この極東アジアは、どうなる? さらに、イスラエルが、イランを先制攻
撃したら、どうなる?

 ここは、冷静になろう。みんなで冷静になろう。拉致問題にこだわる日本人の心情も、
よく理解できる。できるが、しかし問題の大小をくらべたら、拉致問題程度のことで、戦
争の引き金を引いては、ならない。

 だれしも、ひとつのことにこだわると、その問題ばかりにこだわるようになる。そして
そこにある、もっと大きな問題がわからなくなってしまう。

 拉致問題については、ただひたすら事務的に。どこまでも事務的に。重要なのは、核問
題である。もし核が、そこらのゲリラの手にも渡るような時代がやってきたら、そのとき、
世界は、終焉(しゅうえん)を迎えることになる。「核問題など、私には関係ない」と、も
しあなたが思っていたら、それこそ、とんでもないまちがいであるということ。

 ……ということで、(こだわり)にからめて、国際問題を考えてみた。

【補記】

 日本は、たしかに世界から孤立している。しかし味方がいないわけではない。たとえば
シンガポール。ここはどうだろう? そのシンガポールと、自由貿易協定を結んでみては? 
つぎにインドがある。21世紀の後半は、南アジアの主人公はインドである。

 そのインドとも、やがて自由貿易協定を結ぶ。ちょうど、今のヨーロッパが、EUとい
う一つの国になったように、である。

 日本とシンガポールが、自由貿易協定を結べば、東南アジアのいくつかの国々が、それ
に追従してくるはず。マレーシアやタイなど。オーストラリアやインドも。中国や韓国も
重要だが、こうまで反日感情が根強いと、それにかまけている間に、日本は、好機をのが
してしまうことになる。

 今なら、まだまにあう。日本にその余力がある間に、シンガポールと手を組む。10年
後では、遅い。やるなら、今だ! さあ、どうだ! どうする?

(この記事は、去る2月8日に書いたものです。そののち、国際情勢が
大きく変化しているかもしれません。)

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 9日(No.539)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします!

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

********静岡市R幼稚園の方からのご質問より********

【質問1】

 5歳の子どもです。1、2学期は元気で、幼稚園へ通っていましたが、3学期になって
から、教室へひとりで入っていくことができなくなりました。

 友だちが声をかけてくれても、ダメで、入り口で待っているような状態です。心配です
が、どうしたらいいでしょうか。


【質問2】

 子ども(小5男児)を励ますつもりで、何かを言うと、「お母さんだって……」と言い返
します。母親を、ちょっとバカにしているようなところがあります。どうしたらいいでし
ょうか。


【質問3】

 2人兄妹の下の子のことです。「泣けば抱っこ」というふうに、何でも許してきました。
こまごまと言わないと、何もしません。春から小学校に入学します。だいじょうぶでしょ
うか。幼稚園では、しっかりとやってくれています。


【質問4】

 小学校へ行きだして、まわりを見ると、みな、親たちが子どもに、「勉強しなさい」「塾
へ行きなさい」と言っているのを聞きます。それを聞くと、あせってしまいます。どこま
で親がすればよいのか、悩んでいます。


【質問5】

 私の子どもは、心の内を表現するのが苦手です。そんな子どものストレスを解消するに
は、どうしたらよいでしょうか。サインのようなものは、ありますか。


【質問6】

 一人っ子です。家庭では、いつも子ども中心で、勝負ごとも、私のほうで負けてあげた
りしています。競争する面も少なく、どうしたらよいでしょうか。


【質問7】

 1日中、「早くしなさい」と言っています。のんびり屋で、マイペースです。話すことに
夢中になってしまい、それで遅くなるようです。「早くしなさい」と言わずにすむ方法があ
れば、教えてください。


【質問8】

 私はずっときびしい母親でした。そのため子どもは、すっかり自信をなくしてしまい。
自分を出せない子どもになってしまいました。私なりに反省し、あきらめてきました。が、
このところ、少しずつですが、自信をもち始めたようで、母親の私としては、何かと期待
がわいてきました。これから先、どういうふうに指導したらよいでしょうか。

++++++++++++++

【はやし浩司より、R幼稚園のみなさんへ】


【質問1】

 5歳の子どもです。1、2学期は元気で、幼稚園へ通っていましたが、3学期になって
から、教室へひとりで入っていくことができなくなりました。

 友だちが声をかけてくれても、ダメで、入り口で待っているような状態です。心配です
が、どうしたらいいでしょうか。

【参考意見】

 何らかのこだわり(固着)をもっていることが考えられます。このこだわりが強くなる
と、恐怖症などに発展します。考えられるのは、対人恐怖症、集団恐怖症などですが、こ
うした恐怖症による恐怖感は、安易に考えてはいけません。

 「何でもないのよ」「がんばりなさい」という押しつけには、じゅうぶん、注意してくだ
さい。要するに無理をしないこと。少しずつ、からんだ糸をほぐすように、子どもの立場
で、子どもの心を考えます。

 中に入れないようだったら、それを悪いことと決めてかからず、少しずつ、(実際の指導
では、暖かい無視を繰りかえしながら)、子どもを中へ引き入れていくようにします。

 こじらせると、心身症、神経症へと発展します。さらに、一度、恐怖症のプロセス(思
考プロセス)ができてしまうと、いろいろな恐怖症になりやすくなりますから、注意して
ください。学校恐怖症(不登校)も、その一つです。

 家庭では、それを責めたりしないこと。スキンシップを多くし、ほかの原因、たとえば
欲求不満になっていないかなどを、反省します。威圧的な家庭環境、虚圧的な雰囲気、拒
否的な態度をしていないかを、反省してみてください。

 なお集団になじめない子について、補足として、少し考えてみます。

(補足)

●集団になじめない子ども

 集団になじめない子どもがいる。全体の10%程度はいるのではないか。集団の中で、
つぎのような様子を示す。

(1)静かでおとなしい。柔和で、おっとりしている。
(2)従順で、自分の意思をはっきりと表示できない。
(3)いわゆる「いい子」だが、どこかつかみどころがない。
(4)まじめで、先生の指示などには、従順。できも悪くない。
(5)子どもらしい、ハツラツとした表情に欠ける。
(6)自分の感情を押し殺してしまうようなところがある。
(7)みなが大声で笑うようなときでも、それに乗ることができない。

 原因は、話せば長くなるが、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全と考え
てよい。子どもが、親の威圧的育児姿勢、拒否的態度、あるいは心配先行型の神経質な子
育てなどにより、ありのままの自分をさらけ出すことができなくなってしまったと考える。

 現実に、表情のとぼしい子ども、表情のない子どもがふえている。全体の10〜15%
くらいはいるのではないか。さらに自分の感情をすなおに表現できない子どもも、多い。

 問題は、こうした子どもは、外から受けるストレスを、その場でうまくかわすことがで
きないということ。いやなことがあっても、それに反発することができない。言いたいこ
とを言うことができない。内へ内へと、それをためこんでしまう。心はいつも、ある種の
緊張状態に置かれる。そしてその結果として、集団に恐怖心をいだいたりするようになる。
こじれて、不登校児になることもある。

 そこで大切なことは、こういうタイプの子どもは、どこかで、(「どこかで」といっても、
家庭の中ということになるが)、緊張状態をほぐすために、ガス抜きをしなければならない。
仮に家庭の中でも、抑えこんでしまうようなことがあると、子どもはさらに行き場をなく
してしまう。

 たいていこのタイプの子どもは、家の中では、まるで別人のように、騒いだり、大声を
出したり、わがままを言ったり、ときに暴力的であったりする。またそうすることによっ
て、自分の心を調整しようとする。

 家庭で、親の役割があるとすれば、そうしたガス抜きを、じょうずに手伝ってあげるこ
と。家の中で、だらしない態度や、ぞんざいな様子を見せても、「ああ、この子は、外の世
界でがんばっているから……」と、大目にみる。

 そして何か、神経症的な症状を見せたら、その状態をそれ以上悪くしないことだけを考
えて、無理をしない。それに徹する。

 見た目の、つまり表面的な従順さや、まじめさに甘えて、過酷な負担を強いたり、過剰
な期待をしてはいけない。引くところは引きながら、「あなたは、無理をしなくていいのよ」
というような姿勢をつらぬく。

 なお小学校入学までに、一度、こうした様子を見せたら、それ以後、そうした様子が、(な
おる)ということは、まず、ない。おとなになってからも、つづくと考えてよい。だから
大切なことは、集団になじめないからといって、それを悪いことだと決めてかからないこ
と。

 子どもには、それぞれ、特有の特性のようなものがある。あとは、その特性にあわせて、
つまり無理をせず、子どもを伸ばしていくことを考える。


【質問2】

 子ども(小5男児)を励ますつもりで、何かを言うと、「お母さんだって……」と言い返
します。母親を、ちょっとバカにしているようなところがあります。どうしたらいいでし
ょうか。

【参考意見】

 反抗期ですね。それについて、まとめた原稿を、先に紹介します。

++++++++++++++++

 ●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身
の経験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて
不安定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その
緊張感が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大き
な不満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にか
けての時期が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、
吹かすな!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、
自ら、心のよりどころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定
になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族
の束縛を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子ども
は、「自分さがし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するように
なる。中学校の2、3年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。
親子の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生
から、おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)か
らの独立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。
何らかの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケ
ースである。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなにな
ることがある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、
生活力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、
穏かで、おとなしいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そ
うなる、マザコンタイプの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不
完全なまま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、
つまりは、何を考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、い
よいよ巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子ども
の反抗を、決して悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしては
いけない。その度量の広さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。

++++++++++++++++++

 子どもは、反抗しながら、おとなになっていきます。反抗することを、「悪」と決めてか
かってはいけません。それともあなた自身は、いかがでしたか。そんな視点で、一度、自
分を見つめてみると、よいのではないでしょうか。


【質問3】

 2人兄妹の下の子のことです。「泣けば抱っこ」というふうに、何でも許してきました。
こまごまと言わないと、何もしません。春から小学校に入学します。だいじょうぶでしょ
うか。幼稚園では、しっかりとやってくれています。

【参考意見】

 要するに依存性の問題ですね。しかし子どもの依存性は、実は、親自身の問題なのです。
親自身が、依存性が強いから、子どもの依存性に甘くなってしまうというわけです。その
結果として、子どもに、依存心がついてしまうということになります。

 それだけに、この問題は、やっかいです。あなた自身の「心」をつくりかえなければな
らないからです。もっと言えば、子育ては、リズムの問題です。そのリズムを変えるのは、
容易なことではありません。あるいは突然変えたりすると、今度は、子どものほうが、そ
れに適応できなくなることもあります。

 昨日まで、「抱っこ」とせがめば抱っこしてくれた母親が、今日から「だめ」と言ったら、
子どもは、どんなふうに感ずるでしょうか。

 原因は、あなた自身が、乳幼児期に、どこか不安定な家庭で、依存性の強い子どもに育
てられたことが考えられます。この問題は、「根」が深いということです。

 ただ幼稚園では、「しっかりとやっている」ということですので、お母さんが心配してい
るほど、(心配な子)でないことは、考えられます。あるいは外の世界(幼稚園)でがんば
っているから、家の中で、かえって甘える(依存性)という態度をとるのかもしれません。

 幼稚園でがんばっているようなら、反対に、ほめてみたらどうでしょうか。「あなたは、
よくやっているわよ」「すばらしい子よ」と。

 そして母親は母親で、自分の道をさがします。子育てから離れて、自分のしたいことを
します。その結果として、子離れをし、子どもに自立を促すようにします。


【質問4】

 小学校へ行きだして、まわりを見ると、みな、親たちが子どもに、「勉強しなさい」「塾
へ行きなさい」と言っているのを聞きます。それを聞くと、あせってしまいます。どこま
で親がすればよいのか、悩んでいます。

【参考意見】

 YESかNOか、決めかねているときというのは、心も緊張し、そのため、たいへん不
安定になります。あなたが感じている不安感や、焦燥感も、そのあたりから生まれていま
す。

 そういうときは、どちらか一方にすなおに、ころぶしかありません。ほかの親たちと同
じように、子どもには、「勉強しなさい」と言い、何も考えず、子どもを塾へ通わせる。あ
とは子どもがもちかえる成績に一喜一憂しながら、子どもの未来を心配したり、あるいは
その未来に希望をもったり……。

 それがいやだというなら、あなた自身が、確固たる、子育て観と人生観を確立するしか
ありません。「私は私」「私の子どもは、私の子ども」とです。

 そのために、私は、いろいろな情報と知識を提供しています。毎週、子育て通信を無料
で配信しています。(1000号で廃刊になりますので、早い者勝ちですよ!)

 「どこまで親がすればよいか」についてですが、親として必要なことはしまう。しかし
必要以上のことはしない。その限度をわきまえている親が、真の家族の喜びを与えられま
す(バートランド・ラッセル)。

+++++++++++++++++++

自由な教育について書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++++

常識は偏見のかたまり
●おけいこ塾は悪?
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と。

●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれ
ば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだ
けでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前
後の割合でふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われている。それを指導し
ているのが、「LIF」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」
という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの
運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表
明している。

●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブ
へ通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツで
は、週単位で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習
クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こう
した親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本
円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。

この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。こうしたクラブ制
度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせ
てクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学外教育に対する
世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつ
が、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師
の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っていることでも、
世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。


【質問5】

 私の子どもは、心の内を表現するのが苦手です。そんな子どものストレスを解消するに
は、どうしたらよいでしょうか。サインのようなものは、ありますか。

【参考意見】

 心の内をじょうずに表現できない子どもは、(1)攻撃型、(2)同情型、(3)依存型、
(4)服従型になると考えられています。(混合型もあります。)

 あなたという親の前で、心の内をうまく表現できないというのであれば、あなたとあな
たの子どもの関係は、かなり危険な状態にあると思われます。親として、威圧的になって
いないか、あなた自身の情緒が不安定になっていないかどうかなどを、猛省してみてくだ
さい。

 園や学校などで、内にこもるということであれば、自信をもたせるという方法で対処し
ますが、簡単なことではありません。

 家へ帰ってきたら、子どもが気を抜き、心と体をのんびりと休めるような家庭環境を大
切にしてあげてください。

 サインとして考えられるのは、心身症(神経症)です。症状は、千差万別です。「うちの
子、ちょっとおかしい症状をみせるな」と思ったら、この心身症(神経症)を疑ってみて
ください。

 診断シートを、あとでお渡しします。


【質問6】

 一人っ子です。家庭では、いつも子ども中心で、勝負ごとも、私のほうで負けてあげた
りしています。競争する面も少なく、どうしたらよいでしょうか。

【参考意見】

 一人っ子の問題は、いろいろ論じられていますが、何といっても、大きな問題は、(1)
社会性の不足です。たいていは親子だけのマンツーマンの家庭環境で育っているため、い
わゆる温室育ちになりやすいということです。

 それを補う方法は、いろいろありますので、今の状態を「結果」とは思わないで、これ
からの子育てを考えてみてください。いろいろな団体の中で活動させるとか、など。やが
て子ども自身が、自分で、問題を克服していくようになります。


【質問7】

 1日中、「早くしなさい」と言っています。のんびり屋で、マイペースです。話すことに
夢中になってしまい、それで遅くなるようです。「早くしなさい」と言わずにすむ方法があ
れば、教えてください。

【参考意見】

 親子のリズムが、かみ合っていないとみます。親のほうが、何でも、ワンテンポ速い。
それで子どもが、いつも、ワンテンポ遅くみえます。

 さらにその根底には、子どもへの不信感、子育てへの不安感などが考えられます。そう
した不信感、不安感が姿をかえて、母親を、せっかちにさせます。

 で、実際に、その子どもがのんびりしているかといえば、そうでないケースが、ほとん
ど、です。(神経症による緩慢動作、緩慢行動は別です。)外の世界では、意外と、活発に
行動しているものです。

 そこでもし機会があれば、外の世界(園や学校、スポーツをしているときなど)を、そ
っとのぞいてみてください。そういうところでも、のんびりしているようなら、また別の
問題として考えますが、まず、そういうことはないと思います。

 親の姿を見たとたん、別人のように、萎縮したり、動作が緩慢になる子どもは、珍しく
ありません。

++++++++++++++++++++++

子育てリズム論について書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++++

子育てリズム論
●子どもの心を大切に
 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、
子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、
それは騒音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)
あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)
子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注
意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタ
イプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪
語する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それ
を叱る。そしておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手
に決める。子どもは子どもで、親の前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「う
ちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をし
てほしいのか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。この段階で、互いにあいま
いなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほう
は、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを
確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続く
ということ。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(三二歳)は、こう
言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(四〇歳)も、父親
と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければな
らないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。

しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。もしあなたが子どもの手
を引きながら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子どもの歩調に合わ
せて、うしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えるこ
とができる。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。


【質問8】

 私はずっときびしい母親でした。そのため子どもは、すっかり自信をなくしてしまい。
自分を出せない子どもになってしまいました。私なりに反省し、あきらめてきました。が、
このところ、少しずつですが、自信をもち始めたようで、母親の私としては、何かと期待
がわいてきました。これから先、どういうふうに指導したらよいでしょうか。

【参考意見】

 子育ては、試行錯誤のかたまり。失敗することを恐れてはいけません。大切なことは、
失敗に気づくことです。問題は、そうした失敗に気づかないまま、また同じ失敗を繰りか
えすことです。

 幸いなことに、この相談の方は、自分を見る目を、しっかりともっています。反省もし
ていますし、子どもへの影響も、自覚しています。つまり、すでにこの母親は、すばらし
い母親だということです。

 ですから重要なことは、今の、育児姿勢を守ることです。「私なりに反省する」「あきら
める」「何とか期待がわいてきた」など。すばらしい育児姿勢です。

 あとは、前向きに進みます。過去は過去。過去には、こだわらない、です。

 で、そのためにも、親としての学習だけは、つづけてください。手前味噌になりますが、
どうか私のHPを読んだり、マガジンを読んだりしてみてください。みんなでこれからも、
ずっといっしょに、子育てを考えていきましょう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●浦島太郎症候群

 平凡な生活。のどかな生活。しかし太郎は、ある日、一匹のカメを助けた。そしてそれ
が縁で、竜宮城へ。

 そこからは太郎は、毎日、遊びザンマイの生活。タイやヒラメの舞いや踊りを見て暮らした。

 で、その生活にもあきた。そこで太郎は、「♪おいとまごいもそこそこに……」というこ
とで、生まれ育った、故郷の村に戻った。

 実は、私が書きたいのは、ここから先である。

 生まれ故郷の村に戻った太郎は、何をしたか? 太郎が竜宮城にいる間に、村の様子は、
すっかり変わってしまっていた。竜宮城と太郎のいた村とでは、時間の進み方が違ったと
いう説もある。

 それはともかくも、太郎が竜宮城にしばらくいた間に、故郷の村では、すでに何十年(?)
も過ぎていた。

 それはわかる。で、浦島太郎は、孤独の中で、嘆き悲しむ。それもわかる。

 そこで太郎は、乙姫からみやげにもらった、玉手箱を開ける。

 ……問題は、ここから。

 老人になった太郎は、そのあとどうしただろうか? このつづきについては、いろいろ
ある。鶴になって、空に飛んでいったという説もある。

 しかし私が書きたいのは、このことではない。言うなれば、それまでの太郎の生活は、
ドラマに満ちた、楽しい生活だった。が、ある日気がついてみたら、太郎は、突然、老人
になっていた。
 
 そこで考えてみた。私なら、そういう生活に耐えられるだろうか、と。あるいは、私な
ら、どういう生き方を選択するだろうか、と。

 というのも、「老後」というのは、徐々にやってくるものではなく、ある日突然、やって
くる。それまでは、自分が、まさかその老人になっているとは思わない。ときどき、ふと、
「そうかな?」と思うことはあっても、「まさか」「私だけは」と、それを打ち消してしま
う。

 太郎は、玉手箱から出た煙で、老人になったが、老人になり方という点では、私たちと、
そうはちがわない。たとえて言うなら、玉手箱は、子育て。その玉手箱から煙となって出
ていったのは、子どもたち。

 その子どもたちが煙となって玉手箱から出ていったとたん、突然、親は、そこに老後が
あることを知る。……知らされる。それまでは、何もかも夢中で、自分が年をとりつつあ
ることすら、忘れる。

 浦島太郎は、そのあとどうしたか。まさか心豊かな老後を送ったというわけでもないだ
ろう。ただここで言えるのは、浦島太郎の物語は、決して、おとぎ話の話ではないという
こと。だれしも、いつか自分の人生を振りかえったとき、自分の物語であったと気づかさ
れる。そんな物語である。

 ……少し悲観的なものの見方をしてしまったが、今の私なら、そのときの浦島太郎の心
境が、よく理解できる。カラの玉手箱をぼんやりと見ながら、放心状態になっている太郎
の心境を、である。

(補記)

 親もある時期がきたら、じょうずに子離れをし、同時に、子どもには、じょうずに親離
れできるように、指導していかねばならない。その時期は、子どもが小学校の3、4年生
ごろとみてよい。ちょうどこのころ、子どもは、親の一方的な支配下からのがれて、自己
を確立する時期にさしかかる。

 いつまでも、「親だから……」と子どもに、親風を吹かすのは、正しくない。一方、子ど
もは子どもで、「子どもだから……」と、親に甘えるのも、正しくない。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


【お母さんのための、経済学】

●日本は、なぜ倒産しない?

これだけぼう大な借金をしているのに、どうして日本は、倒産しないのか? その額、
もうすぐ1000兆円!

 国民一人当たり、1000万円弱ということになる。4人家族なら、4000万円!

 が、日本は、倒産しない。なぜか?

 理由は、簡単。わが日の丸家では、おやじは、ロクに働きもせず、庭いじりばかりして
いる。庭の中に、大理石を敷きつめた遊歩道を作ったり、離れの茶室を作ったり……。道
楽ざんまい。遊びこけている。

その金の出処(でどころ)といえば、自分の息子や娘。息子や娘に借用書(国債)を書
いては、金を借りまくっている。「いいじゃないか、どうせ、親子なんだから」と。

 そこである日、息子がこう言った。この息子は、本当に勤勉な息子で、朝は7時に会社
に出かけ、夜は、11時に家に帰ってくる。俗にいう「セブン・イレブン」人間。

 「おやじ、少し、お金を返してくれよ」と。

 しかしおやじには、金がない。そこでおやじは、娘のところにやってきて、こう言った。
「な、ちゃんと借用書(国債)を書くから、また金を工面(くめん)してくれや」と。

 こうしてまたおやじは、借りたお金を使って、またまたムダづかい。必要もないのに、
高速道路を建設したり、新幹線の線路をのばしたり。あげくのはてには、海の上に空港を
作ったり……。

 しかし、みんな、赤字。作れば作るほど、赤字。喜ぶのは、役人だけ。天下り先が、どんどん
とふえる。

 が、ある日、息子が気がついた。娘も気がついた。手元にあるのは、ぼう大な額の借用
書(国債)ばかり。借用書の合計は、1000万円になっていた。二人で、合計、200
0万円!

 で、二人は、おやじに、こう迫った。「なあ、おやじ、おやじに貸した、2000万円、
そろそろ返してくれないか?」と。

 それを聞いておやじは、真っ青。返す金どころか、ほかにも、借金だらけ。そこでしか
たないから、おやじは、今度は、金を外国から、借りてくることにした。財務省の役人た
ちが、今年(05)に入ってから、ロンドンを中心として、日本の国債の販売促進活動を
始めたのは、そのため。

 しかし今の日本に、お金を貸してくれる国が、どこにあるだろうか。

 
●アメリカは、なぜ、倒産しない?

 巨額の財政赤字と貿易赤字をかかえながら、どうしてアメリカは、倒産しないのか?

 しかし本当のところ、頭にくる。もしあなたもヒマがあったら、アメリカの中南部の中・
高級住宅地を歩いてみるとよい。

 映画「嵐が丘」に出てくるような、高級住宅が、ズラリと並んでいる。同じ人間なのに、
それも、それほど、働いている中身や時間は、ちがわないのに、どうして、アメリカ人た
ちは、こんなにいい生活ができるのだろう。それを見せつけられると、本当のところ、頭
にくる。

 なぜか?

 理由は、簡単。アメリカドルが、世界の基軸マネーになっているから。お金が不足して
くれば、アメリカは、ドルを、どんどんと印刷すればよい。印刷機で印刷すればよい。簡
単なこと。あとは、日本のような、貿易黒字国が、どんどんと、ドルを買いこんでくれる。

 強いということは、うらやましい。

 たとえて言うなら、有名画家の絵と、素人画家の絵のちがい。

 有名画家の絵は、乱暴な線画でも、一枚、数十万で飛ぶように売れる。一方、素人画家
の絵は、それが数年もかけて描いた絵であっても、価値は、「?」。二束三文。

国際社会では、アメリカドルは、その有名画家の絵のようなもの。みんなが「ほしい」「ほ
しい」と言うから、価値がさがらない。

 買い手、つまりドルの引き受け先があるから、アメリカは、一向に困らない。だから倒
産しない。

 が、問題が、ある。もしアメリカが弱みを見せれば、世界は、いっせいにドルを売り始
めるだろう。アメリカの力を疑うようになっただけでも、あぶない。

 そうなったのでは、やばい。そこでアメリカは、自国の威光と威信を守らねばならない。
アフガニスタンやイラクでの戦争も、その延長線上にある。「オレたちは、世界のリーダー
だ」ということを世界に見せつけながら、アメリカの力を誇示する。それがアメリカドル
の価値を守っている。

 ……とまあ、そういうふうに考えみると、なぜ、アメリカが倒産しないか、その理由が
わかるはず。(しかし油断していると、あぶないぞ!)

 以上、はやし浩司の経済論。もともと専門外の分野なので、適当に読んで、適当に参考
にしていただきたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【2月7日】

 長男は、朝早く、仕事に。三男は、オーストラリアで知りあった友人に会うために、長
野(県)へ。一方、私は、捻挫(ねんざ)した足が痛いので。これから医院へ。あとは、
ワイフと、もう1人、頭のボケた兄。

数日前も、夜9時ごろ、自分の部屋からノソノソ起きてきて、「夕飯を食べたかな?」と。
「お前、ちゃんと、食べたじゃないか。ギョーザを食べただろ?」と言いかえしてやる
と、「お茶を飲んだだけだ……」と。

 義理の兄に電話でそのことを話すと、ハハハと笑って、「そりゃあ、ボケも本格的だなあ」
と。義理の兄の母も、晩年は、10年近く、ボケてしまった。最後は、廊下で、ウンチを
ポタポタ落としていたという。やがて兄も、そうなるのか?

 それにしても、今朝は、冷える。起きてすぐコタツに入ったが、身がもたない。服を着
がえて、またコタツに。これから少し株式の動きを見たあと、整形外科医院へ行くつもり。
捻挫は捻挫でも、どうも重症のようだ。

 で、いろいろあって、やっと昨夜、HPの修復が終わった。外付けのハードディスクに
データを、セーブして、一安心。

 ところで最近気がついたが、私にとってインターネットというのは、もうなくてはなら
ない存在になりつつある。

 インターネットが、耳であり、声であり、頭脳ということになる。ニュースも、最近は、
ほとんど、インターネットをとおして読んでいる。友人との交信もそうだし、情報も、そ
こで手に入れている。

 新聞も読まなくなった。テレビを見る時間も、少なくなった。図書がよいは、ほとんど、
なくなった。

 が、それだけではない。インターネットが、「私」自身になりつつある。とくにホームペ
ージがそうである。そこに、私の過去や現在が、凝縮されている。そこで今、ふと、思い
ついた。

 死んだら、人は、火葬され、遺骨を残す。しかし本当のところ、あんな遺骨に、どんな
意味があるというのか(失礼)。人は、新陳代謝を繰りかえしながら、そのつど、肉体を自
らつくりかえている。遺骨を、故人の象徴のように考えるようになったのは、それだけあ
とあとの管理がしやすいからにほかならない。

 が、もし本当に「私」を残したいと考えるなら、その人の書いたもの、残したものを、
小さなマイクロチップに入れて、それを「遺品」にすればよい。そのほうが、よっぽど、
実用的である。

 遺族たちは、いつかその人を偲(しの)びたいときは、そのマイクロチップをコンピュ
ータに接続して、その人が書いたものを読んだり、写真を見たりすればよい。あるいは、
もうそういう時代はすぐそこまできているような気がする。

 とりあえずは、すでに故人となった人たちのHPを集めて、インターネット墓地という
のを考えてみたらどうだろうか。

 永代供養……初回金のみ、10万円、とか、なんとか。考えるだけも、楽しい。

 たとえば広告は、こうすればよい。

 「あなたのHPを、永久に管理します」とか、何とか。宗派ごとに、HPを飾る体裁を
変えてもよい。話が脱線したが、新しいビジネスになるかもしれない。


●ボケるということ

 ボケることによって、その人の人格は、崩壊する。具体的には、(1)ものの考え方が自
己中心的になり、(2)自己管理能力が喪失する。そして(3)まわりの人たちと、良好な
人間関係が、結べなくなる。

 頭のボケかかった兄を見ていると、それがよくわかる。

 食事のときも、自分で寒いと感ずると、電気ストーブを自分のほうにだけ向けてしまう
(自己中心性)。少しでも、嫌いな食べ物があると、「お医者さんが、こういうかたいもの
を食べるなと言った」とか言って、テーブルの上に、投げ出してしまう(自己中心性)。数
日前は、うどんを捨てた。きっと、熱くて食べれなかったのだろうと思う。

 もちろん良好な人間関係は、結べない。遠まわしな、イヤミばかり言う。ワイフの手料
理を一方で食べながら、「(実家では)、食後にバナナを食べていた」「(実家では)、温かい
ミルクを飲んでいた」と。
 
 そしてお決まりのボケ症状。夕食を食べたにもかかわらず、数時間もすると、「今日は、
お茶しか飲んでない」「夕食を食べないと、死んでしまう」とか。

 そのつど、私たちは、その瞬間には、怒りを感じながらも、それを笑い飛ばす。「本当に、
お前は、ボケてきたなア」と。

 少し前までは、食後の薬を自分の薬を選んで飲んでいた。が、最近、兄の上着のポケッ
トの中を見て、驚いた。飲んだはずの薬が、どっさりと出てきたからだ。つまり兄は、薬
をのんでいなかった(自己管理能力の欠落)。

 人格の完成度は、反対に、その人格を喪失していく人を見ると、よくわかる。あるいは、
人格の完成度の低い人を見ると、よくわかる。自分が相対的に高い立場になってはじめて、
相手の低さがわかる。

 子どもの世界も、また同じ。そして母親の世界も、また同じ。

 そこで再び、兄の話にもどるが、兄のように、きわめて自己中心性の強い人のばあい、(何
かをしてあげる)という行為が、すべてムダになってしまう。

 たとえばレストランへ連れていってあげる。近くの行楽地に連れていってあげる。好き
な歌手のCDを買ってきてあげる。

 こうした一連のサービスが、つまり兄を喜ばせてやろうというサービスが、兄の心の中
にしみていく前に、どこかへ消えてしまう。本人は、そうしたサービスを、当然のように
思っているのかもしれない。あるいは、何も感じていないのかもしれない。

 ワイフは、毎日、兄の世話に明け暮れているが、そういう意味では、ワイフに対しても、
感謝の「か」の字もない。ないばかりか、ときどき、ワイフに、あれこれ命令することも
ある。いちいち考えていると、腹もたつ。笑って、自分をごまかすしかない。

 だからこうしたサービスは、結局は、意味のないサービスになってしまう。はからずも、
私は今朝、ワイフにこう言った。

 「ボケ老人の世話は、バカらしさとの戦いだね」と。

 そのバカらしさを乗り越えれば、心の負担は、軽くなる。しかし乗り越えられず、押し
つぶされてしまうと、とたんに、重荷になる。

 が、重荷に感じていては、日々の生活は暗くなるだけ。だから結局は、笑い飛ばすしか
ない。

 ハハハ、ハハハ、ハハハ、と。


●早漏

 ワイフが、おかしなことを言った。「男も、年をとると、候(そうろう)言葉で話すよう
になるんだってエ。○○さんの奥さんも、そう言っていたわ」と。「申し訳ないソウロウ」
「ごめんソウロウってね」と。

 候文(そうろうぶん)といえば、江戸時代の言い方。「私は、〜〜で、候」とか、など。

 「?」と思って、つづきを聞くと、その「候」ではなく、「早漏」の「そうろう」のこと
だということがわかった。

 ナルホドと思ったが、この話は、たいへん微妙な話なので、ここまで。


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.        =∞=  // (奇数月用)3
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 7日(No.538)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●タイタニック

先日、幼稚園児たちに、映画「タイタニック」のサントラ盤の音楽を聞かせてやった。
すると、すかさず、彼らはみな、こう言った。

「チャルメラの音だ」「ラーメン屋さんみたい」と。

「君たちは、生まれるのが10年、遅かったよ」と言ってやった。しかしあの曲を聞いて、
「チャルメラの音」とは!

 で、私の得意芸は、そのサントラ盤をバックに、ローズが、笛で助けを求めるシーン。
机におおいかぶさって、今にも死にそうな声で、こう言う。

「Come back...」と。

 しかし英語で言っても、子どもたちにはわからない。そこで「戻ってきてエ……」と。

 が、参観している母親たちは、みな、ゲラゲラ笑うが、子どもたちは、笑わない。そこ
でさらにメガホンを使って、「生きているものはいないかア?」と、船員のまねをしてみせ
る。それに答えて、子どもたちはいっせいに、「生きているよオ!」と。

 またまた爆笑。

 せっかくのすばらしい映画も、子どもたちには、ただのギャグ。残念。

 そうそうローズが助けを求めるところでは、私はピロピロと笛を吹いてみせる。念のた
め……。



++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●意識の変化
内閣府は2月5日、「男女共同参画社会に関する世論調査」結果を発表した。
 それによると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考え方に反対する人が、
92年の調査開始後、はじめて賛成を上まわり、伝統的な家庭観が受け入れられなくなっ
ていることが明らかになったという。
 「夫は外、妻は家庭」という考えについては、
「賛成」「どちらかといえば賛成」……計45・2%
「反対」「どちらかと言えば反対」……計48・9%
 「反対」の割合は、20代で56・3%、30代で54・0%だったのに対し、60代
では45・1%、70歳以上では31・2%と、若い世代に反発が強かった。
 女性の仕事についての考えについては、
「子どもができてもずっと続ける方がよい」……40・4%
「子どもができたらやめ、大きくなったら再び持つ方がよい」……34・9%
「子供ができるまでは持つ方がいい」……10・2%
 また、既婚者と同居者のいる人だけに、家庭内の実権を誰が握っているかについては、
「夫」……48・5%で、2002年の前回調査から7・1ポイント減った。
一方、「妻」は5・8ポイント増の22・7%となり、夫婦の"力関係"も変化しつつ
あることをうかがわせたという。
(はやし浩司 内閣府調査 男女意識 男女共同参画社会 意識調査)

++++++++++++++++++

 わかりやすく言えば、こと「仕事」に関しては、男女の差別意識が少なくなったという
こと。実際、職場を追い出され、育児に追いこまれることによって、女性が受ける、スト
レスには、相当なものがある。

 それについて書いた原稿が、つぎのものである。
 (中日新聞・投稿ずみ)

++++++++++++++++++

【母親がアイドリングするとき】 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに
幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではない
が、その充実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。
どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋を
したが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際
を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。

「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声
がある」(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れて
いた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受
性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もま
た、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の
中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のよう
な状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。

Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、
「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受け
るストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、
こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わ
ってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買い
に行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということ
だった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だ
った。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そうい
うものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がい
たが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手
伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさ
んは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、
あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のよ
うなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、そ
れが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、
アクセルを踏む。

妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。
人生は動き始める。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●スズメのエサ

 庭に来る野鳥の餌づけをするようになってから、もう何年になるだろうか。10年かな、
15年かな……?

 毎年、正月が終わるころから、3月の中ごろまで、庭の木に、エサ箱をつりさげる。野
鳥たちの食べ物が、ちょうどなくなるころである。

 が、今年は、いろいろあって、それを忘れてしまった。うかつだった。

 おととい庭を見ると、スズメたちが、そこにいた。みんな、ただぼんやりと、そこにい
た。それを見て、私は、「しまった!」と思った。

私「今年は、忘れてしまったぞ」
ワイフ「エサを買ってきましょうよ」と。

 いろいろなエサがあるが、農協で買ってくる、ニワトリのエサ(混合飼料)がいちばん
よい。値段も安いし、栄養価も高い。10キロ入りで、1100円プラス消費税。一袋あ
れば、3月末まで、もつ。

 街へ出たついでに、郊外の農協を回る。農協といっても、郊外の農協でないと、置いて
ない。私たちは、農協のK支店までいった。車で20分ほどのところである。

 ……しかし1年もたって、覚えているとは! 今日まで、庭にはエサらしいエサはなか
ったはず。が、スズメたちは、それを覚えていた。きっと内心では、「どうして今年はない
のだろう?」と思っていたにちがいない。

 家に帰ってから、さっそくエサ台をつくる。キーウィの棚に、洗面器をつりさげて、そ
の中に、エサを入れる。庭に直接まくと、犬のハナがそれを食べてしまう。

 で、私はそのまま仕事に……。

 数時間してから、家に電話する。「スズメたちは来ているか?」と。ワイフは、「もう来
ているわよ」と。それを聞いて安心した。

 こうした餌づけをしてはいけないという人もいる。野鳥たちが、それに依存するように
なる。そうなると、かえって、野鳥たちのためにならない、と。

 しかしこのあたりから、野鳥が少なくなって、久しい。以前は、餌づけなどしなくても、
スズメはもちろん、冬になると、モズやヒヨドリ、ドバトなどが、ひっきりなしにやって
きた。春の終わりには、メジロも集団でやってきた。ほかに何種類かの野鳥も。垣根の木
には、無数の巣が並んだ。

 しかし今は、少なくなった。そう言えば、ここ半年くらい、ヒヨドリの姿を見ていない。
どうしたのだろう?

 私が死んだあとのことはわからないが、まあ、私が生きているかぎり、エサを与えてや
るつもり。これもつきあい。今さら、やめますとも言えない。

 そう、あの、何か、ものほしそうな顔をして、木々の上で、こちらを見てチッチッと泣
きあっているスズメたちの姿を見たときのこと。私としては、どういうわけか、いてもた
ても、おられなくなった。私はもともと、甘い人間。やさしい人間だとは思わないが、情
にもろい。

 受話器を置いたとき、ポッと胸の中が暖かくなったのを感じた。


●HPの更新

 私のメインサイトになっているHPが、故障してしまった。で、その修復が、やっとお
とといの夜、すんだ。よかった。ほっとした。

 理由はよくわからないが、HTMLファイルを読み出せなくなってしまった。ソフト会
社に電話すると、ファイルが破壊されたかも、とのこと。

 しかたないので、こういうときのために保存しておいたデータを、CDから読み出す。
修復する。そのために、丸一日、かかった。

 まあ、その程度の被害ですんでよかった。……と自分では思っている。

 これからは、CDやDVDに焼いて保存するのではなく、ハードディスクに保存しよう。
そのため、外づけのハードディスクを、今度の週末に買ってくるつもり。

 HPとはいうが、いろいろ気をつかう。何かと、たいへん。

 ……ということで、修復すると同じに、今回、トップページを、新しく作りなおした。
灰色を基調にした、少し、シックな落ちついたデザインにした。近くアップロードするつ
もりなので、興味のある人は、どうか見てほしい。どうか、どうか、見てほしい。


●都会の貧乏人、田舎の貧乏人

 都会にも貧乏人がいる。田舎にも貧乏人がいる。

 あなたや私のことではない。「貧乏人」という言葉を読んで、どうか、怒らないでほしい。
その理由は、もう少し、あとでわかってもらえる。

 都会の貧乏人と田舎の貧乏人とくらべたとき、いちばん、大きくちがうのは、都会の貧
乏人は、目立たないが、都会では生きていくことができないこと。

 一方、田舎の貧乏人は、目立つが、田舎では、それなりに生きていくことができること。
そのちがいの理由は、実は、生活の中身、その中でも、とくに、「食べ物」にある。

 都会で一度、貧乏になると、生活そのものができなくなる。水道が止まる。電気が止ま
る。ガスが止まる。

 しかし田舎では、そうした心配はない。ないことはないが、それほど、深刻ではない。
水は、山からのもらい水。電気は最小限ですむ。ガスがなければ、枯れ木でまにあう。畑
や田んぼがあるから、何とか食べていくことだけは、できる。

 ……実は、この話は、日本と、旧ソ連の話である。

 日本のデフォルト(国家破綻)は、もう時間の問題。そこでそのデフォルトをすでに経
験した、旧ソ連、さらにはアルゼンチンやメキシコ、タイなどと、日本を比較してみる。

 これらの国々と日本のちがいはといえば、ここにあげた(都会の貧乏人)と、(田舎の貧
乏人)の話に似ている。

 たとえば旧ソ連が崩壊したとき、(忘れてはならないのは、あれほどの大国でも、崩壊す
るときは、崩壊するということ!)、おびただしい失業者が街にあふれた。商工業は、1年
以上にわたって、マヒしてしまった。

 しかし当時の旧ソ連の人たちは、見た感じは、みな、丸々と太っていた。餓死した人も
いたのだろうが、そういうニュースは、ほとんど日本には、伝わってこなかった。

 最大の理由は、食物だけは豊富にあったということ。値段が、べらぼうに安かったとい
うこと。何しろ、土地が広い。モスクワの市民の約3分の1は、郊外に、別荘というか、
別宅をもっていて、週末になると、そこで家庭菜園などをしていた。つまり、都会の貧乏
人でありながら、同時に田舎の貧乏人もしていた。

 この状態は、アルゼンチンもメキシコも、よく似ていた。

 しかし日本は、ちがう。貧乏人を支える基盤、そのものが、弱い。もし日本がデフォル
トということになれば、日本人は、そのまま都会の貧乏人になってしまう。しかもこれだ
けの管理社会。日本人は、何からなにまで、すべて国によって、管理されている。

 モビリィティ(機動性)そのものが、ない。

 私のことを書いて恐縮だが、私は浜松へ移り住んできたとき、すべてをなくした。まさ
にゼロからの出発だった。

 そこでお金になることは、何でもした。翻訳や通訳は言うにおよばず、家庭教師に塾の
講師など。ゴーストライターもしたし、会社の社内報も編集した。やがて雑誌の企画や教
材づくり、さらにテレビの企画もするようになった。

 一日のうちに、数種類の仕事をこなすこともあった。もちろんメインは、幼稚園での講
師。しかしそれだけでは、収入は足りなかった。

 当時の若者たちには、私がもっていたようなモビリィティは、珍しくなかった。そうい
う意味では、私たちは、たくましかった。

 が、今、この日本という国が、破綻したら、日本人は、どうするだろうか。どうなるだ
ろうか。

 子どものときから、管理、管理、また管理。そんな世界で、育てられている。5、6年
前だが、新聞にこんな投書を投稿していた女子大生がいた。いわく、

 「私たちの就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは、言われるまま、しっかりと勉
強してきたのですから、就職先を用意するのは、社会の義務だ」と。

 私はそれを読んだとき、怒るよりも先に、笑ってしまった。そしてこう叫んだ。「甘った
れるな!」と。

 私たちは、そうなってはほしくないが、しかし、デフォルトに対する、心構えだけは、
怠ってはいけない。方法はいろいろある。

 一つは、頭の中で、シミュレーションしておくこと。社会の機能がマヒし、仕事がなく
なり、お金が、紙くず同然になった状態を、頭の中で想像してみる。そのとき、私たちは、
どうすればよいか、その方法と可能性を考えておく。

 もちろん前兆症状がないわけではない。

 預金封鎖、国債の塩漬け、企業倒産の連続。こうした動きが、連続して見られたら、デ
フォルトは、秒読み段階に入ったとみてよい。

 決して、私は、みなさんに不安を与えるために書いているのではない。だれが考えても、
つまり私のようなド素人が考えても、今の日本の経済状況は、おかしい。狂っている。正
常ではない。

 私は、その事実を言っているに、すぎない。

 ただ一つ、これがまた日本の特質なのだろが、日本以外の国は、対外債務を支払うこと
ができなくて、国家破綻した。しかし日本のばあいは、対外債務は、ほとんどない。ない
ばかりか、巨額の対外債権をもっている。

 日本がかかえる膨大な借金は、実は、日本人に対してのものである。つまり日本という
国は、日本人に借金をしている。もっとわかりやすく言えば、借金だらけのおやじが、息
子や娘からお金を借りまくっている状態に似ている。

 だから、財務省は、大きな顔をしているのかもしれない。が、もし、その息子や娘が、
少しは借金を返せと、おやじに迫ったら、どうなるか。それが日本型デフォルトの引き金にな
る。

 気をつけましょう。実は、あなたの預金は、すでに、そのほとんどが、紙くずなのです。
(ちょっとショッキングな話で、ごめんなさい!)


●二男からのメール

 少し前、「真理と自由」について、書いた。それについて、アメリカに住む二男が、コメ
ントを寄せてくれた。

+++++++++++++++++++++

Hi!

I am sorry that my email was messed up last time. I really don't know 
why it's so hard to send Japanese email. Like I told Mama, I just wanted 
to say thank you for sending me the package and Sage really liked the 
elephant toy. He is calling it "zosan".

やあ!
前回、Eメールが、ごちゃごちゃになって、ごめんなさい。どうして
日本語のEメールを送るのが、こんなにもたいへんなのか、よくわかりません。

ママに話したんだけど、送ってくれた小包に、ただ「ありがとう」と言いたかった
だけです。

誠司は、ゾウのぬいぐるみが大好きで、「ゾーサン」と呼んでいます。

By the way, I read your diary at Rakuten. You are very "fudemame". I 
admire you.. :) I read the article about "Shinri". I am really glad that 
you are reading Bible. It's very hard to understand sometimes, but as 
you keep reading you will get more "context" and what those each words 
such as "Truth" or "Freedom" means.

ところで、パパの楽天の日記を読みました。パパは、たいへん筆まめですね。
(尊敬します。) 「真理」についての原稿を読みました。パパが聖書を
読んでいると知って、本当に喜んでいます。

ときどき理解するのが、たいへんむずかしいです。しかし読みつづけると、
より「中身」がわかってきます。そして「真理」とか、「自由」の意味が、
よくわかるようになるでしょう。

When Bible talks about "Shinri", it almost exclusively means "The word 
of God" and what it really boils down to is in John 3:16. Also, the 
"free" in the Bible usually refers to freedom from the bondage of sin, 
and especially in the text you quoted. Read right after the verse there 
on John 8:34. So this is really saying "If you believe in the word of 
God such as that I said in John 3:16, you will be freed from being a 
slave to sin".

聖書で「真理」というときは、それはほとんど排他的に、「神の言葉」を
意味します。そしてそれは、John3:16に集約されています。

聖書で「自由」というときは、「罪」の重さからの解放を意味します。
とくに、パパが引用した部分がそれです。その直後の、John 8:34
を読んでみてください。

そこには、こうあります。「もし3:16で、私が言ったように、
本当に神の言葉を信ずるなら、あなたは罪の奴隷から、解放されるでしょう」
と。

Just a thought to your heart.. 

ちょっと、パパの心に一言。

Cheers,
Soichi

++++++++++++++++++++++

 私も、とうとう息子に教えられる年齢になってしまった。しかも息子の英語は、私より、
はるかにうまい。いつの間にか、息子は、私の英語力を、はるかに超えた。が、うれしい
はずなのに、何か、さみしい。

 どうしてだろう?

 今まで、私は何をしてきたのだろうというさみしさかもしれない。自分だけが取り残さ
れていく、さみしさかもしれない。何かを教えるべき立場にいる私が、反対に教えられて
いる。

 そう言えば、二男がアメリカに旅立つ日、私は、二男にこう言った。

 「お前は、これから先、ぼくが見ることも、知ることもできなかった世界にふれるだろ
う。それは何か、今はわからない。でも、いつか、お前がそれを見たり、知ったりしたら、
どうか、ぼくにそれを話してほしい。ぼくは、それを楽しみにしている」と。

 二男は、嫁のデニーズの手引きで、「神」を知った。そのメールの向こうに、私は二男夫
婦の幸福な生活を、かいま見た。

 私は、二男にこう返事を書いた。

 「ありがとう。お前の助けで、また一つ、新しいことを発見することができたよ。すば
らしい奥さんだね。誠司も、かわいいよ。すばらしい子どもだ。笑顔が、デニーズにそっ
くりだよ。

 誠司のように、表情が豊かで、すばらしい子どもを育てるのは、たいへんなことだよ。
お前たちは、すばらしい両親だよ。よくがんばったね」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●John 8:34

 息子に言われて、聖書(RYRIE版)を、ひもとく。

 John(8:34)には、こうある。

Jesus replies:
I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin.
Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever.
So if the Son sets you free, you will be free indeed.

イエスは、こう答えた。 
あなたに真実を話そう。罪ある人は、罪の奴隷である。
(罪の)奴隷には、家族の中に安住の場所はなく、息子が、永遠にそこにとりつく。
もし、その息子が、あなたを自由にするなら、あなたは本当に、自由になるだろう。

++++++++++++++++

 キリスト教でいう(sin=罪)という言葉には、独特のものがある。昔、オーストラ
リアの友人に、一度、その意味を聞いたことがあるが、彼は、こう言った。「キリスト教徒
でないと、理解できないだろうね」と。

 しかしニュアンスとしては、私にも、理解できるような気がする。

 邪悪な思想をもっている人は、いつもその邪悪な思想に振りまわされてしまう。そして
自分が邪悪なことをしていることにすら、気がつかなくなってしまう。つまり、邪悪な思
想の奴隷になる。

 こんな勝手な解釈をすると、息子は怒るかもしれないが、私なりの解釈によれば、そう
なる。

 つまり邪悪な思想に一度、とりつかれると、その時点で、自分の人生をムダにすること
になる。一時の快楽を得ることはできるかもしれないが、一度キズついた人間性を取りも
どすことは、容易なことではない。

 人生を、(真理への旅)にたとえるなら、その旅で、遠回りすることになる。あるいは道
からはずれてしまう。だから、永遠に、その(真理)に、たどりつけなくなる。

 息子は、「真理を知れば、罪の奴隷から解放される」と言う。つまり罪の奴隷から、自ら
を解放することが、自由である、と。

 しかし私の心の中には、邪悪なゴミがいっぱいある。ゴミだらけ。

 私は、平気で、人をうらむし、ねたむし、バカにするし、嫌うし、さげすむ。お金もほ
しいし、若くて美しい女性を見れば、性的魅力を感じてしまう。まさに私は、(罪の奴隷、
a slave of sin)ということになる。

 私は、決して、善人でもないし、聖人でもない。

 だから私のような人間は、その臨終のとき、無間の孤独地獄の中で、もがき、苦しむ。
失意と悔恨。恐怖と不安。絶望と苦痛。そのどん底で、もがき、苦しむ。

 ……それがわかっているから、正直に告白するが、死ぬのが、こわい。こわくてならな
い。

 他人から見れば、私は、懸命にがんばっている人間に見えるかもしれない。一応、まじ
めだし、社会のルールは守っている。ウソはつかないし、健康にも注意している。いつも
家族には、誠実に接している。

 しかしそれとて、(自分がよい人間)だから、そうしているのではなく、臨終のときの自
分が、こわいから、そうしているだけ。それはたとえて言うなら、借金取りに追いたてら
れるのがいやだから、仕事をしているようなもの。

 ほかに、私は、過去40年以上にわたって、人からお金を借りたことがない。それは私
に何かの哲学があって、それで借金をするのがいやだからではなく、頭をさげて、借りる
のがいやだからにほかならない。根拠となる思想があって、そうしているのではない。

 同じように、本当に、同じように、私がいくら「私は自由だ」と叫んでも、そう叫んで
いるだけで、本当に自由かどうかということになると、自分でも、まったく自信がない。

 やはり息子が言うように、本当に自由になるためには、自分の中にある、邪悪さから解
放されなければならない。お金がほしいくせいに、さもお金など興味はありませんという
ような顔をしてみせる。それでは、真の自由を手にいれることはできない。

 しかしそれこそ、まさに偽善。その偽善のかたまりでは、真理には、到達できないとい
うこと。

 が、残された時間は、あまりにも、短い。今は、57歳。そのうち、兄のように頭もボ
ケるだろう。そうなったら、おしまい。私は、何としても急がなければならない。

 宗市、ありがとう! お前を尊敬するよ!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●外付けハードディスクをつける

HPのデータを、CDに保存することができなくなった。たった52MBのHPなのだ
が、どうもうまくできない。容量オーバーの表示とともに、フリーズしてしまう。

 そこで今日、外付けのハードディスクを買ってきた。I社の120GB。USB2接続。
取りつけてみたら、ウソのように簡単にできた。さっそく、いくつかのデータを保存して
みた。またまた驚いた。

 簡単、速い。CDだと、15分以上もかかっていた、コピーが、30秒足らずですんで
しまう。(実際には、もっと短いかも? 500MB程度のファイルなら、3分程度ですむ
と、何かの雑誌に書いてあった。ただし、ここに書いた数字は、正確ではない。)

 が、取りつける直前、バタンと倒してしまった。(縦置きにしておいたため)。ハッと思
ったが、今のところ、順調に作動している。目下、別のパソコンで、「エラーをチェック」
をしているところ。これが結構、時間がかかる。

 その間、私は、この原稿を書いている。

 重要なデータは、そのつど、こまめに保存する。これはパソコンとつきあうときの、イ
ロハ。これからは、何でも、重要なデータは、外付けディスクに保存することにした。と
にかく便利。コピーして、それをハードディスクに張りつけるだけ。

 ちなみに、値段は、3年保証もつけて、1万6000円弱。

 しかし何でも、快適に作動するというのは、気持ちのよいものだ。ハハハ。


●国家破綻・これからの子育ては?

浜松市には、南米出身者を中心として、約2万4000人の外国人労働者たちが働いて
いる(01年度)。あちこちに、小さな街ができるほどである。ある一角へ行くと、「こ
こは日本?」と思うようなところさえある。

 そういう外国人労働者を見ると、私たち日本人は、心のどこかで、「彼らは外国人」と思
ってしまう。しかし、本当に、そう言いきってよいのか。つまり彼らは、本当に、外国人
労働者なのか。

++++++++++++++

ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろ
うとしていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ド
ルを援助した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。
総計で、550億ドル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、
失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の
日本円になおせば、わずか5〜6兆円で、救済できたこと。(日本のばあい、あのN銀行九
歳のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1兆円!)

 なおかつ、韓国は、その国家破綻をうまく利用して、韓国の経済を牛耳っていた、財閥
を、解体してしまった。つまり、韓国は、ゼロからやりなおすことで、生きかえり、若が
えった。

 そしてその後の韓国の発展は、これまたご存知のように、めざましい!

 で、そういう韓国だが、教育という面でとらえると、どうなのか。

 たとえば今、韓国では、事実上の定年が、38歳ということになっている。58歳や、
48歳ではない。38歳である。

 それまでは韓国も、日本にならって、終身雇用、年功序列型の社会システムを営んでき
た。しかし国家破綻をきっかけに、38歳とした。

 これはほんの一例だが、こうして韓国は、そのあと、世界でもまれに見る、競争型社会
へと激変した。復活した。日本のように、受験勉強だけして、合格すれば、あとは死ぬま
で安泰といいう社会を、自ら破棄したわけである。

 こうした競争主義は、冷徹な論理にもとづくものだが、しかし、この国際社会で生き残
るためには、必然である。能力と、実力と、やる気のあるものが、社会をひっぱる原動力
となって動く。

 もちろんその結果、多くの社会的ひずみが生まれたことも、否定できない。が、今、韓
国は、そうした問題をも、着々と解決しつつある。

 しかし、一方、この日本は、どうなのか?

 以前にも書いたが、あるテレビのレポーターが、当時の大蔵省の役人幹部に、こう聞い
たことがある。「あなたがたが、天下りをどう思いますか?」と。

 それに答えて、その役人幹部は、平然とこう言ってのけた。「私ら、今の仕事につくのに、
それ相当の苦労をしたのだから、当然です」と。

 彼らがいう「苦労」というには、受験競争をいう。今もそうだが、その受験競争という
のは、ペーパーテストをいう。

 で、この傾向は改まったかといえば、そうでもない。

 おととし(03)も、こんなシーンを、テレビで見た。「天下りをどう思うか?」という
質問に対して、ある財務省の役人幹部は、こう答えていた。「私ら、仕事が忙しいから、退
職後の就職先さがしができないのです。(だからしかたない)」と。

 私はウソを書いているのではない。ちゃんと、この耳で聞いた。

 こうした役人独特のエリート意識というのは、総じて、役人と言われる人たちは、みな、
もっている。「役人が上で、庶民が下」と。だからその給料にしても、総じてみれば、役人
の給料は、民間の労働者の約2倍。

 平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのよ
うになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 ここでいう「公務員」には、官公庁のトップ役人から、清掃に従事する自治体の職員ま
で含まれる。平均が1018万円ということは、1500万円の給料の人もいれば、50
0万円の人もいるということ。

 こうした人たちが、たがいに仕事を回しあい、外部からの参入を、ぜったいに認めない。
ためしに、あなたの近くにある公営の図書館や公民館の人たちが、どういう人事異動で、
今の職場にいるか、聞いてみるとよい。

 能力ではない。実力ではない。経験でも知識でもない。この日本では、一度、受験競争
という関門を通ってしまえば、あとは、すべてトコロテン方式で、死ぬまで安泰。

 それはそういう世界にどっぷりとつかっている人には、きわめて居心地のよい世界かも
しれないが、同時に、それは、日本の社会構造そのものを、硬直化させる元凶となってい
る。

 が、もし韓国のように、定年を38歳にして、実力主義にしたらどうだろうか。当然の
ことながら、役人たちの世界から、猛反対が起きるにちがいない。何といっても、日本は、
奈良時代の昔から、世界に名だたる、官僚主義国家。そうは簡単には、動かない。

 それはわかるが、国家破綻してからでは、遅い。言うなれば、日本中が、廃墟となって
からでは遅い。

 あの先の戦争にしても、最後の最後まで、官僚たちががんばるから、その最後の最後で、
原爆まで落とされた。今の日本は、当時の状況にたいへんよく似ている。あるいはそうに
でもならないと、日本人は気がつかないのか。

 結局は、この重いツケは、子どもたちの時代にのしかかる。というより、これからの子
育ては、そういう時代を見越して、していかなければならない。

 国家破綻ということになれば、今の韓国のように、若者たちが、こぞって、外国に移住
するようになる。出稼ぎというのではなく、移住である。韓国では、ここ数年、毎年、1
万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移住している。留学生も、02年末
までに、34万人を越えた。もちろん日本の学歴など、外国では通用しない。学歴ではな
い、中身だ。

 「あなたは何ができるか」という視点で、今度は、外国の人が日本人を見るようになる。
そういう中、臨機応変に環境に対応し、モビリィティ(機動性)のある子どもだけが、生
き残ることができる。

そういう時代がやってくることを見越して、自分の子どもを育てる。

 最後に、一言。「じゃあ、せめてうちの子だけでも、公務員に……」と、もし、あなたが
考えているなら、それは甘い。仮にIMFが、日本に介入してくるようなことになれば、
イの一番に、その公務員たちがリストラされる。仮に公務員として残ることができても、
もちろん給料は、最低限におさえられる。

 そういうことも考えて、子どもの教育を組みたてる時代に入った。

++++++++++++++

 今日も、近くの公営アパートの前を通ると、南米からやってきた労働者たちが、家族ら
しき人たちと集まって、何やら大声で騒いでいた。陽気な人たちだ。これから春になると、
さらににぎやかになる。

 その明るさだけが、ふと、私の重い心を軽くする。


●花粉症

花粉症とわかったとき、花粉症であることよりも、自然と同居できなくなった自分に、
恐ろしさを感じた。

 私が始まりなのか。もし人類が自然と同居できないということになれば、それは人類の
絶滅を意味する。

 そんなことまで考えた。と、同時に、「どうして私が……」と、考えた。当時は、原因も
わかららなかった。主要道路線沿いに患者が多いということで、最初に排気ガスが疑われ
た。もちろん直接の原因は、花粉だが……。

 そんなわけで、毎年、春が近づくと、ゆううつになった。最初は、軽い頭痛。それが終
わると、鼻水。くしゃみ。それが日に日に、ひどくなり、やがて粘膜という粘膜が、腫れ
あがる。

 呼吸が苦しく、夜も眠られない。しかしがまんできるのは、最初の数日。病院でくれる
薬は強烈だが、副作用も強い。効果は一時的で、そのあと、猛烈な睡魔。もちろん呼吸す
ることすら、おぼつかなくなる。体を支えているだけで、精一杯。だるい。

 こうして1週間がすぎ、2週間がすぎる。年によって、ぜん息がひどくなるときもある。
体を横にすると発作が起きる。座布団を幾重にも重ねて、椅子様にする。体を起こして寝
る。

 さらに3週間がすぎ、4週間がすぎる。もうそのころになると、体はヘトヘト。昼も夜
もなく、頭はぼんやりとする。目がかゆい。しかし一度、かいたら最後。目を引きちぎり
たいほど、かゆくなる。

 で、1か月、2か月。花粉症がやっと軽くなるのは、5月になってから。南風を、海の
ほうに感じたとたん、鼻から息がとおる。とたん、空に向かって、「バンザーイ」と叫ぶ。
私にとって、いつも、そのときが春だった。

 花粉症……それは、花粉症になったものでないと、その苦しみはわからない。今では、
さらによい薬が開発されてはいるが、もともと、花粉症をなおすというよりは、体の抵抗
力をわざと落として、反応をおさえようというもの。まともな薬ではない。

 で、今、その花粉症が、私から消えた。「加齢とともに、消える」と言う人もいる。私も
その一人だったかもしれない。ただよく覚えているのは、山を歩くとき、よく杉の木に話
しかけながら、歩いたということ。

 「ぼくはお前の敵ではない。どうして春になると、ぼくをいじめるのか」と。

 そしていつも、胸いっぱい、深呼吸を繰りかえした。今から思うと、それがよかったの
かもしれない。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 4日(No.537)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●マリリン・モンローの宝石

 マリリン・モンローにまつわる、こんな有名な話がある。小学生がもっていた、数学パ
ズルの本に書いてあった話である(参考、沖田浩著「数学パズル」より改作)。

++++++++++++

 ある日、マリリン・モンローが、ニューヨークにある宝石店へやってきた。そして1万
ドルの指輪を買った。現金で、支払ったという。

 が、その翌日、マリリン・モンローは、その指輪をもって、またその宝石店へやってき
た。そして、こう言った。

 「この指輪は、返すから、そこにある2万ドルの指輪をちょうだい」と。

 そこで店の主人が、差額の1万ドルを請求したところ、マリリン・モンローは、こう答
えたという。

 「昨日、1万ドル、払ったでしょう。それで1万ドル。そして今日、1万ドルの指輪を
渡したでしょう。それで、1万ドル。だから合計で、2万ドルよ。その2万ドルの指輪を、
さっさと、私に渡しなさい!」と。

 実にマリリン・モンローらしい逸話(いつわ)である。どうしてマリリン・モンローら
しいか、その理由は、ここには書けない。しかしあなたが宝石店の主人なら、このマリリ
ン・モンローに、どう説明するだろうか。

 そのパズルの本では、ここがその問題になっている。「あなたなら、マリリン・モンロー
に、どう、説明するか?」と。

+++++++++++++++++++

(念のため)

 最近の中学、高校の入試問題では、こうした(説明問題)が、多く取り入れられるよう
になってきている。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++


●子どものオナニー(自慰)

 受験をひかえた受験生が、毎晩(毎日)、オナニーにふけることは、珍しくない。

 財団法人、「日本性教育協会」の調査(1999年)によれば、

 マスターベーションの経験者  中学生……41・6%
                高校生……86・1%
                大学生……94・2%(以上、男子)

                中学生…… 7・7%
                高校生……19・5%
                大学生……40・1%(以上、女子)

 ということだそうだ。この割合は、近年増加傾向にあるが、とくに若年化が進んでいる
ことが知られている。

 たとえば男子中学生のばあい、マスターベーション経験者は、87年には、30・3%
だったのが、99年には、41・6%に増加している。性交経験者も、男子高校生だけを
みても、11・5%(87年)から、26・5%(99年)へと、増加している。

 そのオナニー(自慰、マスターベーション、手淫などとも呼ばれている)について、あ
る母親から、相談があった。「中学3年生になる息子が、受験をひかえ、オナニーばかりし
ているようだが……」と。

 オナニーをすると、脳内で、麻薬様物質が放出されることがわかっている。現在、数1
0種類ほど、発見されているが、大きく分けて、エンドロフィン系と、エンケファリン系
に大別される。

 わかりやすく言えば、性的刺激を加えると、脳内で、勝手にモルヒネ様の物質がつくら
れ、それが陶酔感を引き起こすということ。この陶酔感が、ときには、痛みをやわらげた
り、精神の緊張感をほぐしたりする。

 問題は、それが麻薬様の物質であること。習慣性があるか、ないかということになる。

 モルヒネには、習慣性があることが知られている。しかしエンドロフィンにしても、エ
ンケファリンにしても、それらは体内でつくられる物質である。そのため習慣性はないと
考えられていた。が、動物実験などでは、その習慣性が認められている。つまり、オナニ
ーも繰りかえすと、「中毒」になることもあるということ。

 その相談のあった中学生も、受験というプレッシャーから、緊張感を解放するため、オ
ナニーにふけっているものと思われる。そして相談のメールによれば、中毒化(?)して
いるということになる。

 オナニーの害については、「ない」というのが、一般的な意見だが、過度にそれにふける
ことにより、ここでいう中毒性が生まれることは、当然、考えられる。

 男子のばあいは、手淫(しゅいん)ということからもわかるように、好みの女性の裸体
を思い浮かべたり、写真やビデオをみながら、手でペニスを刺激して、快感を覚える。

 女子のばあいは、好みの男性に抱きつかれる様子を想像しながら、乳首や、クリトリス、
膣を刺激しながら、快感を覚える。

 男子のばあい、中に、肛門のほうから前立腺を刺激して、快感を得る子どももいる。

 さらに病的になると、依存症に似た症状を示すこともある。中学生や、高校生について
は、知らないが、セックス依存症のおとな(とくに女性に多い)は、珍しくない。「セック
スしているときだけ、自分でいられる」と言った女性がいた。

 しかしこうした、エンドロフィンにしても、エンケファリンにしても、オナニーだけに
よってつくられるものではない。

 スポーツをしたり、音楽を聞いたりすることでも、脳内でつくられることが知られてい
る。善行を行うと、脳の辺縁系にある扁桃体でも、つくられるこも知られている。スポー
ツをした人や、ボランティア活動をした人が、そのあと、よく「ああ、気持ちよかった」
と言うのは、そのためである。つまり、同じ快感を得る方法は、ほかにもあるということ。

 私のばあいも、夜中に、自転車で、30分〜1時間走ってきたあとなど、心地よい汗と
ともに、気分がそう快になる。さらに翌朝、目をさましてみると、体中のこまかい細胞が、
それぞれザワザワと、活動しているのを感ずることもある。

 こうした方向に、子どもを指導しながら誘導するという方法もないわけではない。しか
し中学生ともなると、親の指導にも、限界がある。私の意見としては、子どもに任すしか
ないのではないかということ。

 こと、「性」にまつわる問題だけは、この時期になると、もう、どうしようもない。子ど
も自身がもつ自己管理能力を信ずるしかない。現在の私やあなたがそうであるように、子
どももまた、この問題だけは、だれかに干渉されることを好まないだろう。
(はやし浩司 マスターベーション 自慰 オナニー 子どもの自慰 子供の自慰)

++++++++++++++++++++++++

●分離不安

はやし先生、分離不安について相談します。    

長男が保育園の年長なのですが、1年前から登園拒否になりました。私は長男を保育園に
送って行った後、友達と駐車場(保育園の)で話をしていました。

その時に長男は園庭から私を呼んでいたのですが私は気がつきませんでした。しばらくす
ると長男のお友達数人が、私に長男が泣いていることを教えてくれました。

長男は私を呼んでも気がつかなかったので悲しくなったようです。それから保育園の行く
のを嫌がるようになったのです。

突然の事で驚きましたが無理に行かせることはしないで、自分から行けるようになるまで
待つことにしました。原因は私が気がつかなかった事だけなのか、もしかしたらお友達と
何かあったのかなと考えたりもしましたが、やはり私が原因だなと思いました。

それは私が普段から叱ってばかりできっと愛情不足だといつも思っていたからです。そう
わかっていながらもいつも私はイライラしていて叱ってばかり。自分も幼い頃からずっと
両親に叱られてばかりで、暴力、無視もありました。

結婚して実家を出るまで自分のしたい事もできず否定ばかりされ、自由がありませんでし
た。人と接するのが苦手で友達もあまりいません。長男を見ていると自分の幼い頃にそっ
くりなので、このまま私と同じように苦しんでいくのかと思うとつらくてたまりません。
何とか連鎖を絶ちきりたいという思いです。

去年の2月からほとんどお休みして、時々顔を出したり、一時退園をしたりしてきました。

9月になり保育園に行くとみんな運動会の練習をしていました。長男は運動が好きなので
自分から練習をするようになったのですが、私が何処にいるか見ながら練習していました。

私が少しでも動けば泣き出しそうです。それからは保育園に私がつきっきりならば半日で
すが行けるようになりました。保育園の先生方は理解して下さり、私は教室にお昼までお
じゃましています。

長男は自分の席には座れず私のいる場所にいつもいました。手を洗いに行くのも私がつい
て行く状態でした。最近は私が教室にいれば、自分で手を洗いに行ったり、席に座り作品
を作ったり、お友達とお話したりしているのですが、私が保育園内ですが移動すると大泣
きしたり、あせって私の所にきます。

しかし最近になって今まで甘えてくることがあまりなかったのですが、急に「抱っこ」と
言い出して驚きました。うれしくなってぎゅっと抱きしめました。また弟が産まれてから
さみしかったと言いました。

少しずつ変化はみられるのですが、もうすぐ小学生のなるということもあり私から離れら
れないことにあせりが出てしまう。ちゃんと離れられるだろうかって。

今は意識してスキンシップをとるようにしています。今まで散々「お母さん遊ぼう」と言
われても苦しくなって遊んであげられなかったのですが少しずつ受け入れられるようにな
ってきました。

これからどのようにしていったらよいのか、
先生アドバイスを宜しくお願い致します。(兵庫県A市・TSより)

+++++++++++++++++++++++

【TS様へ】

拝復

いきなり返事だけで、すみません。

分離不安というより、集団恐怖、もしくは対人恐怖
なども考えられます。恐怖症なども考えてください。

発端は、下の子どもが生まれたことによる、
嫉妬と欲求不満、それに「兄だから……」という
突き放しなどが考えられます。

この時点で赤ちゃんがえりが起きていたはずです。
下の子に攻撃的になったり、あるいはネチネチと赤ちゃんぽいしぐさになったりなど。
多くの母親は、そうした変化を見落としてしまいます。

が、今は、時期的には、もうそろそろピークを超えるころですから
あまり深刻に考えないで、つぎのことに注意してください。

(1)求めてきたときは、すかさず、いとわず、今なさって
おられるように、子どもが満足するまで、ぐいと抱いてあげます。
数分から10分前後で満足するはずです。(10秒足らずでよいこともあります。)

子どものほうから放す様子がみられたら、そっと、放してあげます。

(2)兄優先の家庭環境に切りかえます。
子どもが求めるなら、この際、しばらく添い寝、いっしょの
入浴なども、なさるとよいです。手つなぎ、抱っこも有効です。

スキンシップはとくに大切にしてください。

(3)あとは海産物(Ca、Mg、K)を主体とした食生活に切り替え、
甘いもの(白砂糖)、レトルト食品をひかえてください。

(4)園は、「行くべきところ」という考え方ではなく、
今の状態をこじらせないようにして、「途中で帰ってきても
いいのよ」式のねぎらいの言葉をかけてあげてください。

ほかの子どもたちより、何倍も、がんばっているのですから。

よくあることですから、終わってみると、一過性の問題だった
と気づくはずです。

今は今で、子育てを楽しんでください。

あなたは今、あなたとあなたの生まれ育った家庭環境の
問題に気づき始めています。

否定的な家庭環境で育ったということですが、その分、
親像が満足に入っていません。今の子育てがどこか
ぎこちないのは、そのためです。

しかし安心してください。

今、あなたはそれにも気づき始めています。
ですからあとは時間が解決してくれます。

あなたと、あなたの母親の関係を冷静に思い出して
みてください。

あなたは、自分の子どもに対しては、それを繰りかえしては
いけませんよ。
そこだけ気をつければ、問題は解決します。

若い方なのに、ここまで気がついておられるということは、
すばらしい方だと思います。

自信をもって、前に進んでください。

応援します。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●真の自由?

 今朝、朝食を終えたあと、ふと私はワイフにこう言った。

 「真理がわかれば、人間は、自由になれるんだってエ※」と。

 それに答えて、ワイフが、「自由って?」と。

 私は、聖書の言葉を、そのまま思い出した。「真理だよ。真理を手に入れれば、真の自由
を手に入れることができるんだよ」と。

 しかし、本当のところ、私には何もわかっていない。わかっていて、そう言ったのでも
ない。ただの思いつき。口からの出まかせ。

 が、これだけは言える。もうムダにする時間は、ない、と。この世のありとあらゆるも
のをしっかりと見て、聞いて、知って、自分のものにする。私に残された時間は、あまり
にも少ない。宇宙の星々が、まばたきするほんのつぎの瞬間には、私は、永遠の闇の中に
消える。

 こうしてワイフと朝食をともにできるのも、あと何年か?

 何かを残したいと考えたこともあるが、本当のところ、もうあきらめた。それに何かを
残したところで、それがいつまでつづくというのか。立派な墓石を建てたところで、それ
にどんな意味があるというのか。

 名声や地位や、名誉にいたっては、さらにそうだ。

 が、だからといって、生きることが虚しいと言っているのではない。

 もし生きることのすばらしさがあるとするなら、私のばあい、どうしても、あの「留学
時代」に戻ってしまう。あの時代が、私の原点であり、すべてであり、今も、あの時代が、
私の心の中で、さん然と輝いている。

 私は、幸福だった。本当に幸福だった。ああいう時代を、生きることができたというこ
とは、本当に幸福だった。そのことをワイフに話すと、「いいわね。あなたには、そういう
時代があったから……」と。

 もし明日、死ぬということになったら、私は、あの時代の日々を心に描きながら、目を
閉じる。ほかに何も望まない。求めない。

 しかし「今」という時代も、あの「留学時代」に劣らないほど、幸福なときなのかもし
れない。考えてみれば、あのころはあのころで、さみしかった。

私「もし、ぼくが先に死んだら、一晩だけ、ぼくの横で寝てほしい」
ワイフ「……それでいいの?」
私「それでいい。できれば、手をつないでほしい」
ワイフ「わかったわ」

私「お前が、先に死んだら、その晩は、お前の横で寝てあげる。一晩中、ぼくの体で、お
前を暖めてあげる」
ワイフ「いいわよ、そんなことしてくれなくても……」
私「そうしたら、お前が生きかえるかもしれないし……」
ワイフ「あなたに任せるわ」

私「それに、もう、そろそろ、骨壷をつくっておこうか?」
ワイフ「そうね、早めにつくっておいたほうがいいかもね」
私「小さいのでいい。焼き物か、何かで……」
ワイフ「葬式は、どうするの?」
私「ぼくは、やらないよ。お前だけがそばにいれば、それでいい」
ワイフ「わかったわ」

私「あとは、お前が死ぬまで、その骨を預かってくれればいい。どうせ、ぼくのほうが、
先に死ぬことになるから」
ワイフ「二人とも死んだら、あとのことは、息子たちに任せればいいわよね」
私「そうだね」と。

 私のばあいは、友といっても、ワイフしかいない。しかしそのワイフを大切にしてきた
かというと、そうでもない。ひどいことばかりしてきた。若いときは、けんかばかりして
いた。殴ってけがをさせたこともある。

 そんな私だから、真理などというのは、夢のまた夢。あと数百年、生きたところで、今
と同じだろう。だから、真の自由などいうのも、さらに夢のまた夢。

 いつまで生きても、この生きることにまつわる(さみしさ)から、解放されることは、
ないだろう。現に今、骨壷の話をしたとき、そこに私の限界を感じてしまった。生きるこ
との終着駅のようなものだが、それをそこに感じてしまった。

私「結局は、ぼくは、自由にはなれそうもないね」
ワイフ「いいじゃない、みんなそうなのだから……」
私「中途ハンパで死ぬということかな」
ワイフ「そういうことね」と。

(この原稿は、ボツにしようと思いましたが、私の一部であることにはちがいないという
ことで、収録しておくことにしました。)

※……『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得さすべし』(新約聖書・
ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由になれる」と。

++++++++++++++++++++++++++

●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝ら
に、自由を得さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのとき
こそ、あなたは自由になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たと
えば「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだ
わるほど、体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかとい
えば、それは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由
をうばう。この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になる
ことはできない。はっきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば
無一文の人は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。が、へたに
財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸締
りしただろうかと、そればかりが気になる。

そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。泥
棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはできないだろうか。つまり、
もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」
と「自由」を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言って
いる。

言いかえると、真の自由を求めるのが、真理ということになる。もっと言えば、真理が
何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言えば、究極の
自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●運命

 無数の糸。それが複雑にからんで、その人の(あり方)を決める。
 (進むべき方向)を決める。それを「運命」と、人は、呼ぶ。

 運命といっても、決して、不可思議なものではない。
もし運命が、あなたの手の届かないところで、
あなたを操っているように感ずるなら、それはあなたが無知だからにすぎない。
臆病(おくびょう)だからにすぎない。

 だから運命を感じたら、決して、恐れてはいけない。
 「戦う」というほど、おおげさなものではないにししても、
 そこに運命があるなら、決して、それから逃げてはいけない。

 過去をのろっても、しかたない。未来を嘆いても、しかたない。
 どうして今、そうなのかということだけを考えながら、
 今、できることを、すればよい。懸命にすればよい。

 運命は、それを恐れたとたん、あなたにとって、重荷になる。悪魔になる。
 しかし運命は、それを笑い飛ばしたとたん、軽くなる。悪魔は、向こうから退散する。

 どうせ短い、人生ではないか。いくら力んでみても、私たちの存在は、限りなく小さい。
 宇宙の、ゴミのまた、ゴミ。いくら偉そうなことを言っても、
その事実を変えることはできない。

 だったら、みんな、居なおって生きていこう。悩んだり、クヨクヨしても、始まらない。
 「今」はそこにあるし、私たちは、その「今」の中で生きている。
 
 ただ一つだけつけ加えるとしたら、いくら運命を感じても、その運命に
 身をゆだねてはいけない。相手の言うままになってはいけない。
 最後の最後のところでは、ふんばる。ふんばって、ふんばりつづける。

 そこに人間が人間として生きる意味がある。価値がある。
 無数のドラマも、そこから生まれ、私たちの命を、うるおい豊かなものにする。

 無知な人は、そこに不可思議な力を感じてしまう。そして愚につかないような、
 運勢論だの、占いだの、そんなバカげたものに、身をゆだねてしまう。

 そういう自分の愚かさと戦うためのゆいいつの方法は、自ら、賢くなること。
 もっとはっきり言えば、考えること。自分の頭で、考えて行動すること。

 人間は考えるから、人間である。また考えることによって、自らの運命を、
 自ら決めることができる。

 言い忘れたが、悪魔は、あなたの外にいるのではない。あなたの心の中にいる。
 あなたの心の中にいて、あなたがその手中に落ちてくるのを待っている。
 薄汚い笑みを浮かべながら、あなたを待っている。

 大切なことは、その悪魔を、決して、恐れてはいけないということ。
 恐れたとたん、その悪魔は、がん細胞のように、あなたの人間性まで、
 破壊する。最後の最後まで、じわじわと破壊する。

 さあ、あなたも、勇気を出して、あなたの運命を笑いとばそう。
 笑えばよい。「さあ、来い! くるなら、来い!」と。

 
(補足)

 自分の中の悪魔性は、相手にしないこと。仮に何か問題があったとしても、考えるのは、
そのときだけ。いつもいつも、悶々と考えるようなことはしてはいけない。

 このことは、私のワイフから、学んだ。ワイフはいつも、こう言っている。

 「私はそのときは、そのときのことを考えるけれど、そうでないときは、そのことは考
えない」と。

 楽天的に生きるための、重要なコツだと思う。

 そのときがきたら、そのとき、考えればよい。そういうことになる。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ちょっと気になるニュース

(携帯電話は危険?)

携帯電話が小児ガンを誘発すると、ロシア政府の公共保健関係責任者が発表した。 
ロシアの国家保健の総責任医である、ケンナディ・オニシェンコ博士は、2月1日、政
府の機関紙であるロシスカヤ・カジェタを通じ、携帯電話が、とりわけ子供の健康を脅
かすという研究結果を発表した。 
オニシェンコ博士は、「ロシアの生薬研究所の研究によると、子どもはたった2分間の
携帯電話による通話でも、2時間にわたり生体の電気活動リズムが乱れることがわかっ
た」と述べた。 
博士は幼いときから携帯電話を使えば、20〜29歳に脳腫瘍になる確率が高いという
ハンガリーの学者たちの研究結果も紹介した。 
オニシェンコ博士は、「携帯電話は不眠症、記憶力の減退、血圧の上昇を誘発する」と
し、健康に害がないというメーカーの主張を否定している。 
また、人は携帯電話を首にさげたり、ポケットに入れたり、手にして歩くなど、身近に
携帯しているため、有害性をさらに高めていると説明した(以上、韓国、東亜日報)。
++++++++++++++++

 考えてみれば、強力な電波である。ばあいによっては、数キロ先まで、届く。携帯電話
の大きさにだまされてはいけない。小さいから、電波も弱いだろうと考えるのは、とんで
もない誤解。

 その携帯電話を、直接体に触れて、電波を発信する。考えてみれば、これほど、危険な
ことはない。ロシア政府の公共保健関係責任者が、発表した意見は、実は、かなり以前か
ら指摘されていたことである。

 携帯電話が原因で脳腫瘍。

実は、私は、この脳腫瘍の恐ろしさを、知っている。もう5、6年前だろうか。生徒の1
人が、その脳腫瘍で、なくなっている。もちろんその生徒が脳腫瘍になったのは、携帯
電話が原因だったと言っているのではない。しかし子どもの世界では、『疑わしきは、
罰する』が大原則。

 「証拠がない」「確認されたわけではない」などという、安易な論理は、子どもの世界
では、通用しない。害が具体的に証明されてからでは、遅すぎる。

 子どもにもたせる携帯電話には、くれごれも、ご用心!

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KZ君という1人の少年の死について
書いた原稿を、転載します。

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●脳腫瘍で死んだKZ君

 KZ君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生活のあ
とに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。

「先生は、魔法が使えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「そ
の魔法で、ぼくをここから出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの
近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を
折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあ
った。

皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年た
ち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつよ
うになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際
には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしま
ったかのように感じた。

 葬式のとき、KZ君の父は、こう言った。「私がKZ君に、今度生まれ変わるときは、何
になりたいかと聞くと、KZは、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッ
カーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができ
なくなる』と言いました」と。そんな不幸な病気になりながらも、KZ君は、「楽しかった」
と言うのだ。その話を聞いて、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、
人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。

私はKZ君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥
で念じた。

この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが
多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっ
と言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がため
に(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を
読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そしてKZ君のことを知り、
KZ君の両親と心がつながる。

もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、
ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、
私はあなたの心の中で生きることができるし、KZ君も、皆さんの心の中で生きること
ができる。それが重要なのだ。

 KZ君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そ
して仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言い
ながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういうKZ君の心を思いやりながら、今ここ
で、私たちは生きていることを確かめたい。それがKZ君への何よりの供養になる。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あとから理由

 自分の失敗や失態をごまかすために、あとから理由を並べる子どもがいる。

私「花瓶を落として、割ったのはだれ?」
子「先生が、そんなところに置いたからよ」と。

 まだこの程度なら、よい。こんな(あとから理由)もある。

私「階段を飛び降りると、あぶないよ」
子「ママが、迎えにきたから……」

 子どもが階段を飛び降りたときには、母親の姿はまだ見えなかったはず。私が注意した
あと、子どもの目に、母親が飛びこんできた。それでその子どもは、そう言った。

 こうした(あとから理由)を並べる子どもは、総じてみれば、勝気、負けず嫌い。どこ
かつっぱった症状も見られる。ものの考え方が、すなおでない。つまり、ひねくれている。

 原因の多くは、乳幼児期の何らかの欲求不満と考えてよい。それが子どもの心をゆがめ
た。

 子どものころ、一度、こういうクセが身につくと、それが(なおる)ということは、ま
ず、ない。一生、つづく。「心」というものは、そういうものだが、しかし一つだけ、なお
す方法がある。

 それはまず、自分がそうであることに気づくこと。ついでに自分の乳幼児期のどこに問
題があったかを、さぐってみればよい。


●何でも、まず、否定

 こんな子どももいる。

 何かを話しかけると、まず、何でも否定する子どもである。

私「明日は、遠足だね」
子「どうせ、雨が降るよ」

私「いい服、着ているね」
子「ママが、バーゲンで買ったものよ」

私「今日の発言は、すばらしかったよ」
子「自分のできとしては、30点ね」と。

 すなおに、「そうです」「うれしい」とは言わない。ものごとを、一つずつ、ひねくれて
考える。が、当の本人には、それがわからない。それがその子どもにとっては、ごくふつ
うの会話のし方ということになる。

 このばあいも、本人自身が、それに気づかないかぎり、それをなおすことはできない。
私が、「君の言い方はおかしいよ」と話しても、「おかしくない」とがんばる。

 印象に残っている女の子に、こんな子(年長児)がいた。

 ある日、幼稚園の庭に出て、その子に、こう話しかけた。

私「今日は、いい天気だね」
子「あそこに雲があるから、いい天気ではない」
私「雲があっても、いい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気ではない」と。

 その子どもは、どこまでも、がんばった。

 原因は、やはり貧弱な乳幼児期にあるとみてよい。何かの欲求不満やわだかまりが、そ
の子どもの心をゆがめた。

 ……と書いて、実は、これは私やあなたの問題でもある。

 私たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、その「私」の中には、(私であって、
私でない部分)も多いということ。その(私であって私でない部分)が、「私」をゆがめる
ことも多い。

 ここに書いた子どもにしても、いつか、そういう自分に気がつくことがあるだろうかと
いえば、それはまず、ない。(こういう私の文章を読んで、自分を省(かえり)みることが
あれば、話は別。)「私は私」と思いこんだまま、おとなになり、そして老齢期を迎える。

 あるいはそういうゆがんだ部分が、肥大化することもあるかもしれない。生活苦や、不
平不満が、ますます心をゆがめる。

 そういう意味でも、自分を知るということは、たいへん重要なことである。このつづき
は、また別のところで考えてみたい。


●自分

 学生時代のこと。そのとき私は自転車に乗っていた。そして小さな路地に入った。その
ときのこと。

 少し前を、やや短いスカートをはいた女性が歩いていた。白くて細い足と、太ももが、
見えた。

 とたん、私のペニスは、勝手に勃起してしまった。

 私にしても、はじめての経験だった。そのあとのことは、よく覚えていないが、おかし
なことに、あの路地だけは、そのあとも、私の夢の中によく出てくる。まるで映画のセッ
トのようにである。

 ……という話は、ここではじめて、書いた。私は、それは恥ずかしいことだと、ずっと
思っていた。

 しかし時代は、変わった。先日、ある若い人が書いているHPをのぞいてみたとき、私
が経験したことと同じことを、書いているのを知った。その若い人も、やはり、女性の足
を見ただけで、勃起してしまったというのだ。

 私はそれを読んで、「ナーンダ」と思った。「みんな、同じような経験をしているのだ」
と。

 しかし私が書きたいのは、このことではない。

 その勃起した私は、私であったかという問題である。

 答など、改めて書くまでもない。その勃起した私は、(私であって私でない私)というこ
とになる。

 が、考えてみると、では(私)とは何かと聞かれると、自分の中に、その(私)がほと
んどいないことを知る。自信をもって、「これは私」と言える部分が、ほとんど、ない。そ
の「私」をどんどんとつきつめていくと、残ったのは、ウリの種のような、小さくて白い、
かたまりのようになってしまう。

 いったい、これはどうしたことなのか?

 女性の白い足を見たから、私は、勃起した。その性的エネルギーが、やがて恋となり、
結婚へとつながった。子どもが生まれ、育児も始まった。生活も始まった。人とのかかわ
りも、できた。

 そういう生活の中で、(私)があるとすれば、それはどこにあるのか。つまりは、どこか
らどこまでが(私であって、私である)部分であり、どこから先が、(私であって、私でな
い部分)なのかということになる。

 ここにも書いたように、本当の私、つまり(私であって私である部分)というのは、ウ
リの種のようなものかもしれない。あとは、すべて(私であって私でない部分)ばかり。

 このことは、自分の体を見ればわかる。

 髪の毛から、足の爪先まで、「これは私のもの」という感じが、どうしても、もてない。
どれ一つとっても、そうである。指は5本だし、その先には、ふぞろいの爪がある。色も、
ツヤも、(私のもの)というよりは、勝手に、そうなっている。「私の肉体」とは言うが、
それは「私の心によって支配しうる範囲の肉体」という意味にすぎない。

 「私」という「心」も、また同じ。

 先日も、ひょんなことから、ある女性の胸と乳首を、丸々見てしまったことがある。詳
しくは書けない。しかし見てしまった。

 そのときのこと、しばらくしてから、年甲斐もなく、またまたペニスが勃起してしまっ
た。

 そういう自分をさらに振りかえりながら、私は、(私であって私でない部分)が、まだ元
気なのを知った。それがまちがっているというのではない。しかしそういうものにまどわ
されていると、いつまでたっても、私は(私)を知ることができない。

 (私であって私である部分)は、どこにあるのか。そしてそれは何なのか。これからも、
ずっと考えていくことになるだろう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●価格破壊

 近くに、大型のDIYショップができた。日用雑貨なら、何でもそろっている。その店
の出口の横に、ナ、何と、「10分、1000円の美容室」(仮名)という名前の美容室が
できた。かねてから、うわさには聞いていたが、そんな近くにできるとは!

 美容院というより、美容室。入り口で1000円のチケットを買った。すると、1人の女
性が奥から現れて、あれこれ指示してくれた。

 言われるまま、席につくと、いきなり、カット(散髪)開始!

 10分ではなかったが、結構、ていねいにカットしてくれた。15分ほどか? あとは、
掃除機のようなもので、髪の毛を吸いとってくれた。それで、おしまい。使ったクシは、
使い捨てということで、そのまま、みやげにくれた。

 私は、「これでいい」と思った。

 率直に言う。理髪店にせよ、美容院にせよ、日本での料金は、高すぎる。時間もかかる。
ていねいというか、バカていねい。子どものときでさえ、「何も、そこまでしてくれなくて
もいい」と思ったことも、何度かある。そしてその思いは、外国へ行ってみて、さらに強
くなった。

 学生時代、オーストラリアでも、バーバー(散髪屋)といえば、たいていは、菓子屋の
奥にあって、その店の主人が、その合間にしてくれた。散髪といっても、簡単なもので、
その分、料金も安かった。アメリカでも、ほぼ事情は、同じだった。

 10分で1000円ということなら、単純に計算すれば、6時間働いて、3万6000
円のあがり(売り上げ)ということになる。20日間で、72万円。いろいろ経費もかか
るだろうが、まあ、悪い仕事ではない。

 そこで改めて、考える。いったい、日本の理容店や美容院は、何か、と。何も、理容店
や美容院が悪いといっているのではない。また個人の理容店や美容院を責めているのでも
ない。

 これは官僚主義国家の弊害といってもよい。この日本では、全国津々浦々、国家主権の
およぶところすべて、官僚の支配下にある。管理と規制。「自由の国」と言いながら、自由
にできる職種など、ほとんど、ない。資格だの、許可だの、認可だの、そんなもので、日
本中、すべてが、がんじがらめになっている。

 地方の観光案内をするだけでも、今では、資格が必要だという。一見便利な世界に見え
るが、そのためにかかる、社会的経費を考えたら、バカにならない。(国家公務員と地方公
務員の人件費だけでも、40兆円! 日本の国家税収が42兆円前後! この事実を忘れ
れてはいけない!)

 が、それだけではすまない。日本人自身が、ますます「自己責任」という言葉を忘れて
しまう。(国)に依存するようになってしまう。自分で考えて、自分の力で行動するという
ことができなくなってしまう。

 たとえばよく言われるが、外国などでは、危険な道路でも、ガードレールがないところ
が多い。「死にたくなければ、自分で気をつけろ」という論理である。が、この日本では、
洪水が起きても、「行政の怠慢だ」「責任だ」と、住民は騒ぐ(失礼!)。

 その気持ちはわからないでもないが、しかし、その分だけ、お金がかかる。まだある。

 官僚主義国家では、官僚にしても、権限と管轄にしがみつき、国民の利益というよりは、
自分たちの利益を、まず優先する。「やるべきことはやります。しかしそれ以外のことは、
知りません」「やりません」と。その結果が、今に見る、日本の不公平社会である。

 保護される人は、とことん保護される。されない人は、まったくの、カヤの外。

 で、美容院に話を戻すが、目的は、髪の毛をカットすること。だったら、もっと安くで
きないものか。……と、私はかねてから疑問に思っていた。

 そこで看板を見たとき、何も迷わず、その「10分、1000円の美容室」に飛びこん
だ。

 結果は、大満足! ワイフも、「(美容師の)腕はいいみたね」と言った。もちろん女性
でも、同じ、1000円。

 これなら朝、自宅で、シャンプーをしたあと、その店に行けばよい。ふつうなら、4〜
5000円かかるシャンプー・カットが、消費税込みの1000円でできる。時間もムダ
にならない。

 これから先、こういう店がどんどんとふえればよいと願っている。応援するぞ!
(理容師、美容師のみなさん、ごめんなさい!)


●寒い

 大寒波が、目下、日本襲来中! 寒い。とにかく寒い。厚いコートを着て外に出る。身
を切るような冷気。日本海側の人たちは、さぞかしたいへんだろうなと、ふと思う。冷気
もさることながら、このところ連日の大雪だという。

 そんな夜、小学6年生のDさんと、近くの書店へ行く。参考書を買うために、である。
しかし行ってみたが、ちょうど入れ替え時か。書庫には、これといった本がなかった。し
かたないので、みなに、あんまんと肉まんを買って帰る。

私「参考書は、慎重に選ぶんだよ」
D「どうして?」
私「自分に合わない参考書を買うと、それが理由で、勉強が嫌いになってしまうからね」
と。

 教室へ帰ると、生徒たちがきていた。「おみやげだ!」と言うと、みな、「ヤッター!」
と。が、その中の2人は、「いらない」と。

私「どうして?」
子「夕飯を食べてきた」
私「……」と。

 子どもの学習指導で、気をつけている点が、いくつかある。その一つが、「参考書を自分
で選ぶ力を養う」。

 参考書にせよ、ワークブックにせよ、自分の力や、やり方に合ったものを、買う。それ
はちょうど料理人が、自分の腕と、料理の内容に応じて、調理器具をそろえるようなもの
である。

 それを教えるためには、実際に、子どもを、書店へ連れていくしかない。そして「この
本は買ってはダメだよ」「この会社のは、良心的だからいいよ」などと言って、指導をする。
 
 問題の量が多ければよいというものではない。難しければよいというものでもない。私
としては、値段は少し割高になるが、月刊配布雑誌を勧めている。毎月、教材会社から送
り届けられる学習雑誌である。何種類か出ているので、子どもの力に合ったものを選ぶと
よい。

 コツは、無理をしないこと。無理な強制をしないこと。多少乱暴なやり方でも、その達
成感を大切にする、などなど。

 しかし何よりも大切なのは、子ども自身が、教科書を自分で開き、その教科書を読みな
がら、勉強するという姿勢である。「自ら学び、自ら導く」。そういうふうに、子どもを、
し向ける。そういう意味では、子どもに依存心や依頼心をもたせることは、決定的にまず
い。

 私の教室(BW)の宣伝になって恐縮だが、私のところでは、小学5、6年になると、
子どもたちを複式学級の中で教える。上級生が下級生を監督し、一方、下級生は上級生か
ら、勉強グセをもらう。

 イギリスのカレッジ制度における教育法を、まねたものである。

 そしていつも、子どもたちには、こう言っている。「いつまでも、ぼくに頼っていてはだ
めだ。勉強は自分でするものだ。わからないところがあったら、そこだけを聞きにきなさ
い」と。

 一見、乱暴な指導方法に見えるかもしれないが、これにまさる指導法を、私は知らない。

 やがて夜、9時。

1人、2人と、子どもたちが帰っていった。教室をかたづけ、掃除する。何度も「外は寒
いだろうな」と思いながら、別の自分が、私にこう言って聞かせる。「健康のためだ。が
んばろう!」と。

 こういう夜こそ、自転車に乗るから、意味がある。体も鍛えられる。がんばろう!

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
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なにごともなく過ぎていく日々……
しかしその陰で、日本の経済は、
今、確実に、危機的な状況を迎えつつある。

少しショッキングなレポートになると思いますが、
こういう意見もあるのかという前提で、
お読みいただければ、うれしいです。

+++++++++++++++++++++++

●不気味な静けさ

 今、日本の経済は、不気味な静けさを、保っている。しかし、それはまさに、嵐の前の
静けさ。ふつうの嵐ではない。すでに、日本の国家経済は、暗黒かつ底なし地獄の、崖っ
ぷちに立たされている。

 これは脅しでも、予想でもない。数字という、客観的事実が示す、まぎれもない、事実
である。

 あのアルゼンチンが、デフォルト(国家破綻)したのは、ちょうど今から、4年前の2
001年の12月23日。

 当時のリオドリゲス・サー大統領は、突然、対外債務の支払い停止を宣言した。その少
し前に、アルゼンチンは、預金封鎖(12月1日)を実施。預金額にかかわらず、預金者
は、1週間に250アメリカ・ドルしか引き出せなくなっていた。

 そのアルゼンチンだが、さぞかし借金がたまっていたのだろうと、だれしも思うだろう。
が、とんでもない。アルゼンチンがかかえていた公的債務は、約1400億ドル。日本円
になおすと、たったの15〜16兆円にすぎない。

 しかし今、日本は、国と地方自治体のかかえる公的債務を加えると、1000兆円近い
金額になる。

 こう書くと、アルゼンチンと日本では、経済規模がちがうと主張する人がいるかもしれ
ない。

 しかし、それも、どっこい。

 当時、アルゼンチンのGNPは、3000億ドル近くあった。つまりアルゼンチンは、
GNPの約半額で、国家が破産したことになる。

 が、日本がかかえる公的債務は、日本のGNPの約2倍。(日本のGDPは、約500兆
円)。単純計算をしても、今、日本がかかる危機は、アルゼンチンがかかえていた危機の、
4倍ということになる。

 すでに、日本が、この先、国家破綻におちいるのは、既定の事実。すでに日本や世界の
経済学者は、(そのあとの日本)を考え始めている。

 まあ、常識で考えても、日本の国家財政というか、財政運用は、メチャメチャ。現在、
郵便貯金から運用されている資金にしても、3分の1以上が、すでに不良債権化している
と言われている。つまり、紙くず。

「私には貯金があるからだいじょうぶ」と言っている人でも、例外ではない。

 暗い話ばかりしたが、もう少し、わかりやすく説明しよう。

 日の丸一家では、現在、夫の年収が、420万円。しかしぜいたくな生活をやめること
ができない。立派な家や庭。必要もないのに、庭先には、ゲストハウスをつくったりして
いる。庭には、大理石の歩道を二本もつくった。

それでは今の収入では、とても足りない。そこで年収分とほぼ同じ額の借金を毎年繰り
かえしながら、800万円程度の生活をしている。

 そこしてたまりにたまった借金が、年収の約25倍の1億円。(1億円だぞ!)その利息
の支払いだけでも、毎年、300万円。もちろん、これもさらに、借金をしながら支払っ
ている。

 もちろん日の丸家には、貯金がある。妻や子どもたちの貯金である。家や土地などの資
産もある。だからいざとなれば、貯金をおろし、家や土地を売ればよい。夫は、こううそ
ぶいている。「いざとなれば、家と土地を売ればいいさ」と。

 家や土地を売ることはよいが、しかし、売ったあと、日の丸一家は、どこに住もうとし
ているのか。しかも、それで借金が、消えるわけではない。アパートを借りる頭金すら残
らない。(だいたいにおいて、そんな家や土地を買う人すら、いない。)

 もしあなたの家計が、こういう状態なら、あなたは、いったい、その家計を、どうする
だろうか。ふつうなら、家計を切りつめ、ムダな出費をおさえる。しかし借金の額が、恐
ろしい。1億円である。切りつめて、やりすごせるような額ではない。これまたふつうの
常識で考えれば、とっくの昔に、自己破産の宣告をしていても、何ら、おかしくない。

 ……という、まあ、今、この日本は、実にバカげた、財政状況にある。

 いくら官僚主義国家とはいえ、国家公務員と地方公務員の人件費だけで、36〜8兆円。
国家税収が、42兆円前後だから、国家税収のほとんどが、公務員の人件費に消えている
ことになる。(わかる? 日本のみなさん、この事実!)

 しかも数が多い。現在。国家公務員と地方公務員の数だけでも、350〜60万人。そ
こでその人件費を、公務員の数で割ると、公務員1人あたりの年収は、1000万円とい
う数字が出てくる。

 1人ひとりの公務員の人に責任があるとは、思っていない。しかしここは冷静に考えて
みてほしい。今、公務員の人も、そうでない人も。

 こんなバカげた国が、ほかに、どこにある! アメリカなどでは、公務員の給料といえ
ば、そこらのファーストフードの店員より安いというのが、常識。しかしこの日本では、
公務員の給料は、平均的民間労働者の給料の約2倍。一流企業のトップクラスの社員の給
料よりよいか、それとほぼ同じ。

 ホント!

 そこで日本を立てなおすために、日本政府はアメリカの研究機関に依頼して、5つの解
決策(柱)が打ちたてられた(アッシャー・レポート・99年)。

(1)債務の削減
(2)デフレの防止
(3)不良債権の解消
(4)高齢化社会への対策
(5)行政改革と規制緩和

 しかし以来5年。どれ一つ、うまくいっているものがない。とくに重要だったのが、(5)
の行政改革と規制緩和。わかりやすく言えば、官僚制度の是正である。

 しかしこの5年間で、むしろ、(1)から(5)まで、すべて悪化してしまった。わかり
やすく言えば、官僚たちの手で、うまくねじまげられてしまった。

不良債権問題は、山を越えたとはよく言われているが、だれも、そんなふうには、思っ
ていない。銀行は、超の上に、超が2つも3つもつくような超低金利というカンフル剤
を打たれて、かろうじてもちこたえているにすぎない。(おかげで私たちの預金金利は、
スズメの涙どころか、ゴキブリの涙ほど。)

 また、たまたま今は、中国特需という、経済的恩恵を受けている。中国経済の急成長が、
日本の輸出産業を支えている。経済を支えている。しかしもしその中国経済がはじけたら、
それこそ日本は、どうなることやら!

 問題は、なぜ、こういう日本になってしまったかということ。また、こういう日本を救
うためには、どうしたらよいかということ。

 私はやはり、教育の問題をあげる。つまり日本人は、硬直化した教育体制の中で、モー
ビリィテイ(機動力)をもった人材を育てることに、失敗してしまった。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない。そんな体制の中で、自由にものを考え、
自由に行動する人材を育てることに失敗してしまった。

 本来なら、30年前に、日本の教育は、自由化されるべきだった。それが今ごろになっ
て、やっと、本当にやっと、校区規制が緩和されたり、大学間の単位交換ができるように
なった。その程度である。

 暗い話ばかりになったが、その暗さが、すぐそこにあっても、なかなか姿を現さない。
みんなそれを知っていて、「何とかなるさ」「私には関係ない」と、考えることすら、あき
らめてしまっている。私はそれを、「不気味な静けさ」と言っている。

 そこでデフォルト(国家破綻)になったら、どうしたらよいのか。そのとき、私たちは、
どうしたらよいのかということも、少し考えてみたい。

 日本の「円」は、アルゼンチンのペソのように、紙くずになることはないだろう。しか
し猛烈なハイパーインフレで、その価値は、(そのときのIMFの介入度にもよるが)、1
0分の1とか、100分の1とかになる(推定)。

 優良企業は生き残ることができるが、都会から一歩離れた、地方の大、中、小企業のほ
とんどは、外国企業に、投げ売りされる。もちろん社会保障制度も、崩壊する。

 そうなれば、若者たちは、仕事と食い物を求めて、海外へ出稼ぎに行くようになる。1
0年前、20年前の中国の若者たちが、日本へやってきたように、である。

 官僚や公務員たちとて、例外ではない。IMFが、日本に介入してくれば、そのときは
容赦なく、リストラが実施される。その時点で、官僚や公務員の、半数以上が、職を失う。
あるいはもっと減る。もちろん給料はカット。退職金も年金も、カット。

 さらに悲惨なのは、私たちの年齢層である。50代〜以上の人たちである。貯金は、目
減りし、老後の社会保障制度は、なし。仕事はなし。日本人の3人に1人が、65歳以上
になるという現実の中で、どうして若い人たちに向って、「私たちのめんどうをみてほしい」
と言うことができるのか。その若い人たちですら、仕事がない!

 ますます話が暗くなってしまったが、私は、こういう日本を、心底、心配している。で、
あえて提言を言わせてもらうなら、こういうことになる。

(1)みんなで選挙に行こう。そしてできるだけ若い候補者に票を入れよう。
(2)官僚政治を阻止するためにも、元官僚出身候補者には、票を入れないようにしよう。
(3)とくに利権にぶらさがっている、族議員には、票を入れないでおこう。

 子どもの教育について言うなら、

(1)教育を自由化して、子どもたちがおとなになる過程の、そのコースを多様化しよう。
(2)おとなになってからも、自由に、職業を選択できるようにしよう。
(3)中途変更者が不利にならないようにしよう。役人の特権、利権を廃止ししょう。
(4)一芸をもった子どもが、もっと、教育の場で、評価されるようにしよう。

 ほかにもいろいろ言いたいことがあるが、今夜は、ここまで。頭が、かなり熱くなって
しまった。時計は、午前0時をいつの間にか、回ってしまった。このつづききは、また…
…。

++++++++++++++++++

 この日本では、官僚政治を批判する人が、本当に少ない。少ない上に、ますます少なく
なってきた。

 ほとんどの業種が、その官僚の支配下にあるからだ。農家の経営者ですら、数人集まれ
ば、補助金の話しばかりしている。「どうすれば、補助金がもらえるか」と。

 近くのコンピュータ・ソフトウエア開発会社の社長も、こう言っている。「うちのような
会社が生き残るかどうかは、公的な仕事をどれだけ受注できるかどうかで決まる」と。土
木、建設業界については、言うに及ばず。

 みんな、「お上」にぶらさがっている!

 この私でも、ここに書いたようなことを、戦前に発表していたら、即、逮捕、投獄され
ていただろう。もうすでに「あの林は、危険人物」と批評している人もいるかもしれない。

 しかし私は共産主義者でも、社会主義者でもない。自由主義者である。神や仏を否定す
るものではないが、しかし今、何かの宗教を信仰しているわけではない。ただ純粋に日本
のことを心配し、子どもたちの未来を心配している。

 日本は、先の戦争で、すべてを失った。今の日本は、その戦争の前の日本に、たいへん
よく似ている。みなが無関心で無責任。「今日、何とかすごせればそれでいい」と。つまり
この日本は、再び、行き着くところまで自分で行かないと、気がつかない。同じ愚を再び
繰りかえし始めている。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【緊急提言】

●今、K国への経済制裁をしてはいけない!

 K国への経済制裁は、国内向けには「やる」「やる」と言いながら、国際向けには、「慎
重に」という言葉を使いながら、「やらない」と公言している。

 一部の政治家が、「やる」「やる」と騒いでいるのは、いわばガス抜きのようなもの。事
実、今、K国に対して、経済制裁をすれば、どうなるか? そんなことは、ほんの少しだ
け、頭を働かせれば、わかること。

 今、経済制裁どころか、K国の国内事情はメチャメチャ。国連で北朝鮮への食糧支援窓
口役を担当している、世界食糧計画(WFP)がまとめた最近の報告書によると、この1
月に入ってから、P市市場で取引される米価は最高40%、トウモロコシの価格は20%
も、跳ねあがっているという。

 そのため、WFPはすでに、今年、K国住民650万人が、飢餓線上に置かれていると
している。(650万人だぞ! 人口の約半分だぞ!)配給制もあるにはあるが、K国は
P市市民と権力階層および一部主要産業労働者のみに、それを実施しているという。

 すでにK国国民は、制裁以上の制裁を受けている。

 もしここで日本がK国に制裁をほどこせば、K国に、戦争開始の口実を与えるだけ。K
国が、もう少しまともな国ならまだしも、そうでないから、困る。さらに古今東西、どこ
の国の独裁者も、政策が行きづまってくると、最後は、「戦争」という形で、その延命をは
かろうとする。K国にとっては、今が、そのとき。

 日本よ、日本人よ、その策略にはまってはいけない。ここで経済制裁すれば、それこそ
K国の思うツボ。拉致問題はもちろん、日本は6か国協議から自ら、脱落することになる。
が、それだけではすまない。

 化学兵器にせよ、細菌兵器にせよ、あるいは核兵器にせよ、ミサイル一発で、瞬時に、
20万人前後の日本人が死ぬことになる。もちろんK国も、ただではすまない。すまない
が、日本は、あんな国と、心中する必要はない。心中しては、ならない。

 拉致被害者の人たちの気持もよくわかる。わかるが、ここは、冷静に。決して、感情的
になってはいけない。

 問題は、「改正油濁損害賠償保障法」。

 この3月1日から、「改正油濁損害賠償保障法」が施行される。これによって、保険未加
入の国際運航船の、日本への入港を禁止できるようになる。K国船舶のほとんど(約97%)
が、その対象になり、K国の船舶は、事実上、日本の港への入港ができなくなる。

 当然、K国は、これをK国への制裁ととらえる。黒でも、「白」と言い張る国である。灰
色であるなら、なおさら。「K国にとっては、事実上の経済制裁に映る」(中日新聞)と報
道しているが、K国にしてみれば、当然である。

 こうした流れの中で、日本とK国の間の貿易高は、ここ数年、激減している。が、その
一方で、K国と韓国、K国と中国の貿易高は、激増している。

 日本が単独で経済制裁をしても意味がないばかりか、かえってK国と韓国、中国との結
びつきを太くしてしまう。そうなれば、仮に日K戦争ということになれば、中国はもちろ
ん、韓国ですら、K国を、ウラで支援することになる。

 へたをすれば、米中戦争へと進む可能性もないわけではない。

 K国はもちろん、韓国ですら、このところ、連日のように、反日キャンペーンを行って
いる。日本ではほとんど報道されないような小さな事件ですらとりあげている。

たとえば東亜日報は、「日本のNK(62)文部科学相が、『(日本の歴史教科書には)、
自虐的な教科書がいっぱいある』と発言した」(1・30)と報道している。ほかにも、
「強制連行に対する賠償請求が、(日本の)最高裁で棄却された」というような報道も、
流されている。

 (その一方で、韓国は、たとえばK国が、リビアに核関連物質を売却していたという疑
惑報道などは、いっさい、国内で、報道していない。)

 中国人の反日感情は、昨年夏のアジアカップ(サッカー)のときの様子を見れば、わか
るはず。

 まさに四面楚歌(そか)の日本。こういう状況で、極東のこのアジアで、日本が導火線
に火をつければ、どうなるか?

 法治国家日本。それはわかる。しかしこの3月1日に、K国が、その法治国家日本に、
どのように反応するか、率直に言って、私は、心配でならない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 3月 2日(No.536)
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今日から、3月号になります。
今月も、よろしくお願いします。
がんばって、マガジンを配信していきます。

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮面

 昔から、1人、とても気になる女性がいる。よく知られた女性だが、もちろん、ここで名
前を書くことはできない。その女性がだれかとわかるようなことも、書くことはできない。
そのヒントも、まずい。それを書けば、その女性の名誉を、ひどくキズつけることになる。

 その女性の名前をXX女史としておく。もともとは別の仕事をしていたが、ある日、何
かのきっかけで、今の仕事をするようになった。年齢は、私より、上。それしか、書けな
い。

 その女性は、ときどきテレビなどにも出てきて、レポーターのインタビューを受けるこ
とがある。見た感じは、たいへんおだやかで、やさしい。始終、笑みを絶やさない。話し
方も、甘ったるい言い方だが、相手を気づかう思いやりに、満ちあふれている。

 しかし、だ。

 どこか、へん。ぎこちない。不自然。大げさ。わざとらしい。何よりも気になるのは、「い
かにも私は聖人です」というような話し方をすること。視線を相手に合わせない。一方的
に、しゃべる。慈悲深い言葉を、相手に語りつづける。

 私が最初、その女性が気になったのは、ここにも書いたように、ジェスチヤが大げさだ
ったから。ときに、その場にいた人に、抱きついたり、頬ずりしたりしていた。どこか演
技ぽい。「初対面の人なのに、そこでするのかな?」と、そのときは、そう思った。

 反動形成の特徴は、ここにもあげたように、その言動が、どこか不自然で、ぎこちない
こと。大げさで、わざとらしい。話し方まで、まるでマリア様か、観音様のようになる。
もう一つの特徴を、つけ加えるなら、心がどこにあるかわからないような話し方をする。
つかみどろこがない。何を考えているか、よくわからない。

 私は、世間での評判とはちがって、そのXX女史の人間性(?)を、疑ってみるように
なった。その人の人間性は、その人自身の内側から出ているものではなく、反動形成によ
ってつくられたものではないか、と。

 つまり、はっきり言えば、仮面。

 その仮面が、仮面をかぶり、さらにつぎの仮面をかぶる。やがてその仮面をかぶってい
ることすら、自分でもわからなくなってしまう。そうした振るまいや、態度、姿勢、言い
方すべてが、その人のものとして、定着してしまう。

 恐らく、自分でも、どこからどこまでが、本当の自分で、どこから先が、仮面なのか、
わかっていないのではないかと思う。

 言うまでもなく、本当の(自分)は、醜い。その醜さを隠すために、反動形成としての
仮面をかぶる。私はそのXX女史がテレビに顔を出すたびに、そのXX女史の顔を食い入
るように見つめた。あれほどまでに、化けの皮を、分厚くかぶっている女性を、私は、ほ
かに知らない。

 ……という例は、少なくない。XX女史のような著名人は別として、あなたのまわりに
も、似たような人が、1人や2人は、いるはず。

 見分け方は、簡単。

 ざっと頭の中でその人を思い浮かべてみる。そのとき、(1)どうも心が、つかめない。
(2)何を考えているか、わからない。(3)しかしいつも態度が大げさで、わざとらしく、
ぎこちない。(4)無理に自分をよい人間に見せようと、無理をしているようなところがあ
る。そしてよく観察してみると、(5)表の姿と裏の姿のちがいが、きわだって、はげしい、
など。

 もちろん程度の差もある。ばあいもある。軽い人もいれば、そうでない人もいる。今で
も、人は、そういう人を、「タヌキ」と呼ぶ。表ヅラと、裏ヅラが、大きく違うからである。

 私の知人の中にも、そういう女性がいた。もう亡くなってから10年ほどになるが、近
所では、「マリア様」と呼ばれていた女性がいた。細くて、色白の顔をしていた。体つきも、
きゃしゃだった。

 その人と街で、出会ったりすると、さも私は人間のできがちがいますというような表情
を見せたあと、「お子様は、元気ですか?」「お母様は、いかがですか?」と、私に話しか
けてきた。たしかに上品な顔だちをしていた。

 最初のころは、「ああ、私の家族のことを気にかけていてくれるのだな」と思っていたが、
会うたびに、そう言う。またどの人にも、そう言う。それがわかってからは、その女性を、
疑ってみるようになった。

 「この女性は、自分をいい人間に見せるために、わざと、そう言っているのではないか」
と。が、それを確信させるようなことを、その女性がなくなってから、数年後に聞いた。

 何と、その女性が、その昔、寝たきりになっていた義祖母を、虐待していたというのだ。

 表では、つまり他人の目の届くところでは、義祖母思いの、やさしい嫁を演じながら、
その裏で、義祖母を虐待していたという。わざとおむつを取りかえてやらなかったり、わ
ざと消化の悪いものを食べさせたりするなど。

 その女性は、その義祖母の実の娘を、だれよりも警戒していたという。実際には、絶対
に、二人だけにはしなかった。そして義祖母の耳のそばで、いつもこう言っていたという。

 「いいこと、私の悪口を言ったら、もうあんたなんかのめんどうは、みないからね」と。

 実の娘は、その嫁の虐待を薄々感じてはいたが、しかしそれ以上は、介入できなかった。
寝たきりの老人の介護をするのは、たいへんな重労働である。実の娘だったが、その重労
働を引きうける自信がなかった。

 一方、その義祖母にしても、嫁のその女性を怒らせたら、それこそ、何もしてもらえな
くなる。他人の目の届くときだけでも、親切にしてもらえれば、それでいい。……という
ふうに考えていたのだろう。義祖母は義祖母なりに、「いい嫁です」と、人には言っていた。

 私はこの話を、聞いたとき、「あの人が……!」と絶句してしまった。その女性は、まさ
にマリア様のような感じの女性だったからである。

 で、今から思うと、その女性の目的は、義祖母の残した財産ではなかったかと思う。義
祖母がなくなったあと、1億円近い遺産を、自分のものにしている。

 さて、冒頭に書いたXX女史だが、たしかに不気味な女性である。その派手な行いとは
別に、いつもテレビカメラのほうばかり気にしているといった感じ。「聖人というのは、私
のような人間をいうのです」というような態度を、これ見よがしに、演じて(?)見せる
こともある。

 その立場と地位、世間的な評価を気にしているうちに、別の(自分)をつくりあげてし
まったのかもしれない。「すばらしい人というのは、こういう人という」と、である。

 しかし仮面は仮面。ほかの人は欺(あざ)けても、私は、できない。この文章を読んだ、
あなたも、できない。反動形成というものが、どういうものか、そして、その仮面の見破
り方を知ってしまったからである。

++++++++++++++++

(追記)

 子どもの世界にも、この反動形成は、よく見られる。やはり、どこか不自然で、ぎこち
ない。大げさで、わざとらしい。たいていは、その奥で、嫉妬や、ゆがんだ欲望とからん
でいるとみる。

 その子どものモノを隠しながら、表面的には、親友を演ずる、など。そして最後の最後
まで、その子どものモノをいっしょに、さがすフリをしてみせたりする。

 私も、そういうケースを何例か経験しているが、「ふつうなら、そこまで協力しないのに
……」と思うようなことまで、してみせる。真っ暗になるまで、いっしょになくなったモ
ノをさがしたりするなど。ここでいう「不自然さ」というのは、そういう不自然さをいう。

++++++++++++++++

反動形成の問題ではありませんが、以前
こんな原稿を書きました。思い出しましたので
ここに掲載します。
(中日新聞、投稿ずみ)

++++++++++++++++

●いじめの陰に嫉妬

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というの
は、恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。
それだけに扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。

その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。その立場をよいことに、いつもそ
の幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘(年中児)を見つけると、その
子どもに執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ご
めんなさいね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしなが
ら、その勢いで、またその子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるように
なったという。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、
その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤め
る医師だったということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすこ
とができなかった。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男
児)を、やはり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にする
と、母は、こう言って笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったか
らね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでい
た。体操着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそ
れが一年以上も続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさ
んの親友と思われていたUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残
って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。

Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐり
した体格の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。Uは、親友のふりをしな
がら、いつもTさんのスキをねらっていた。そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいい
でしょうか」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわ
たって続くときは、身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、
毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。

「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何
でも知っていますからね』とだけ言いなさい」と。

その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、
もの隠しはウソのように消えた。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●フランスの教育事情

フランスの「ラクロワ」という新聞が、こんな興味深い世論調査結果を報告している。

 フランス人の母親の43%が、毎日、子どもに向かって、「きょうのテストは何点だっ
た?」と聞いているという。

 同じ質問をする父親は、23%。「過半数の親が、テストの点に応じて、子どもに、ほう
びを与えたり、バツを与えたりする」そうだ。

 それについて、「親の75%が、テストの点数を気にしすぎていると意識しつつも、68%
が、学業成績を評価する貴重な指標」と、とらえているという。

 これは親の意識のちがいというよりも、教育システムのちがいによるものと考えてよい。
欧米では、生徒の成績はそのまま、教師の力と判断される。それだけに、教師側も、より
シビアな立場に立たされる。フランスのことはよくわからないが、アメリカでは、教職に
ついても、スポーツ選手と同じように、1年ごとの契約更新制になっている学校も、少な
くない。教え方がへたな教師は、1年で、クビになるということ。

 オーストラリアの語学校でも、毎週金曜日の最後の授業で、テストがなされる。そして
冷酷なまでに、客観的に、その週の成績が評価される。

 欧米では、教師のほうが、点数をより気にしているということになる。(日本では、反対
に、教師自身が、学校間差別につながるとして、点数を公表することに、消極的になって
いる。)

 意外な記事だったので、ここに紹介した。


●頭は使う

体の筋肉と、脳みそ(脳の神経細胞)は、よく似ている。使わなければ、その時点から、
その能力は、後退し始める。

 で、頭のよしあしは、遺伝的な部分も否定はできないが、どうもそれだけでは決まらな
いようだ。

 たとえば体の筋肉にしても、使うから、鍛錬(たんれん)される。同じように、脳みそ
も、使うから、鍛錬される。

 そこで重要なことは、鍛錬するかどうかということではなく、日常生活の中で、それを
使う習慣があるかないかということになる。あのアインシュタイン博士もこう書いている。
「私は頭がいいのではない。ただ人より、より長く考えるだけだ」と。

 つまり体の筋肉にせよ、脳みそにせよ、それを使うという習慣があれば、それでよし。
健康は、その結果として、向こうからやってくる。

 このちがいは、実は、すでに子どものときから始まっている。体を動かすことが好きな
子どももいれば、そうでない子どももいる。頭を使うことが好きな子どももいれば、そう
でない子どももいる。

 こうしたちがいが、何年も何年もかけて、目立った、ちがいとなって、外に現れる。だ
から大切なことは、運動する習慣、考える習慣を、子どものときから身につけるというこ
とになる。

 ところで、これはあくまでも、私の印象なのだが、最近、自分で考える子どもが、少な
くなってきているような感じがする。脳の表層部分に飛来する情報を、そのまま口に出し
ているだけという子どもである。

ペラペラとよくしゃべるのだが、中身がまったくない。話を聞いていても、どこかでも
のを考えているという形跡がない。たまに、気のきいたことを言うが、それは情報と情
報をつなぎあわせているか、さもなければ、だれかの受け売り。

 子どものとき、一度、こういう方向性ができてしまうと、それを改めるのは、容易では
ない。ないことは、運動をするという習慣をみればわかる。たまに、40代、50代にな
ってから、運動を始める人がいるが、それは、そうせざるをえなくなった事情ができたか
ら、というケースが多い。

 たいていは、若いころのまま。若いころから運動をしない人は、年をとってからもしな
い。だから、40代、50代になるころから、持病が、どっと悪化する。前面に出てくる
ようになる。

 しかし20代、30代のころから、健康であるにもかかわらず、毎日ジョギングしてい
る人がいる。そういう人は、自ら、生涯にわたって有効な、健康キップを手にしたような
ものである。

 脳みそも、また同じ。

 パズルでも何でもよい。あなたが子どもに、「この問題を解いてみる?」と声をかけたと
き、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どもは、すばらしい。そういう子どもは、
自ら、生涯にわたって有効な、賢人キップを手にしたようなものである。

 もう何度も書いてきたが、究極の健康法など、ありえない。体の鍛錬をやめたとたん、
健康力は退化する。同じように脳みその鍛錬もやめたとたん、知的能力は退化する。

 健康はともかくも、子どもは、その自ら考える子どもにしよう。考えることを楽しむ子
どもにしよう。勉強ができるできないは、つぎのつぎ。あくまでも、その結果としてやっ
てくる。

(補足)

 知的能力を維持するためには、現状維持という考え方だけでは、足りない。補充してい
くという方法でも、足りない。知的レベルを維持するためには、常に前向きに補充してい
くという姿勢が大切である。

 理由がある。

 知的レベルというときは、「忘却」「退化」「鈍化」「減退」という要素が、そこに加わる
からである。たとえていうなら、底に穴があいたバスタブを想像してみればよい。

 放っておけば、やがて水はなくなる。そこで上から水を補給する。しかし加齢とともに、
底の穴は大きくなる。だからますます多くの水を補給しなければならない。10年前、2
0年前より、多くの水を補給しなければならない。

 わかりやすい例としては、英語の単語がある。

 10代、20代のころは、それなりに簡単に英語の単語を覚えられた。が、40代、5
0代となると、なかなか覚えられない。覚えられないばかりか、覚えてもすぐ忘れてしま
う。もちろん10代、20代のころ覚えた単語も、である。

 同じように、倫理も道徳も、そしてマナーも、加齢とともに、より心して補給していか
ねばならない。若いころには、それなりにごまかしがきくが、年をとると、その気力が弱
くなってしまう。そしてその内に潜んでいた邪悪な自分が、ボロを出すようになる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●男女共同参画事業

日本労働機構の調査によれば、専業主婦、就業主婦(被雇用主婦)にかかわらず、約8
0〜85%の女性が、「育児にストレスや不安を感じている」という。その中でも、「ひ
んぱんにある」と答えた人が、30%前後もいる。

 子育ては重労働である。一瞬たりとも気が抜けない。動きのはげしい子どもをもつ親に
とっては、なおさらである。ちょっとした油断が、大事故につながるということも、少な
くない。

 この問題を解決するための最善の方法は、男女共同参画事業の拡充である。男女のカベ
を破り、ジェンダー(性差別)を解消する。はっきり言えば、夫に、もっと育児を負担さ
せる。その意識をもってもらう。

 そこで政府は、「2020年には、指導的立場になる女性が、30%前後になることを目
標とする」(細田官房長官の私的懇談会)という方針を打ちだした。夫にその分だけ、家事、
育児を負担してもらおうというわけである。

(女性の社会進出によって、女性の負担を減らそうというのではなく、その分、男性に
も、家事や育児に、もっと目を向けてもらおうという考え方による。)しかしこの方針に
は、もう一つ、重要な意味が隠されている。

 女性の負担を減らすことによって、現在進行中の少子化に歯止めをかけようというわけ
である。言うまでもなく、少子化の最大の原因は、(母親の不安と心配)。その不安と心配
が解消されないかぎり、少子化に、歯止めをかけることができない。

 みんなで進めよう、男女共同参画事業! 日本のために!
(はやし浩司 男女共同参画事業 少子化)
 

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【タイムスリップ】

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少し前に書いた原稿をもとに、
短編の小説を書いてみました。
お楽しみください。

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【タイムスリップ】

●ボーイフレンドが、ほしい!(改作)

 中学生のR子さん(中3女子)が、ふと、こう言った。「先生、私、ボーイフレンドが、
ほしいよオ」と。時刻は、午後9時をすぎていた。あと15分ほどで、教室が終わるとい
うときだった。

 R子さんは、屈託のない子だった。それを聞いて、まわりの中学生たちが、笑った。

 「あなたなら、男たちが、放っておかないでしょう」と、私が言うと、隣の席にいたB
子さんが、「好きな子がいたんたけど、パクられてしまったんだってエ」と。

 「フ〜〜ン」と言っただけで、しばらく、つぎの言葉が出てこなかった。男が女を求め
る。それはわかる。しかし女も、男を求める? この年齢になっても、それがよくわから
ない。私の頭の中には、ゆがんだ異性観というか、古典的な異性観が、しっかりとしみつ
いている。

 遊ぶのは男、遊ばれるのは女。男はいつも攻撃的で、女はいつも受動的、と。そうでな
いということは、結婚してからわかったが、いまだに、そういう男女意識を消すことがで
きない。

私「……ボーイフレンドと、何をしたいの?」と、私。どこか不謹慎な想像をしながら、
そう聞いた。

R「そりゃあ、いっしょに話をしたり、映画を見に行ったりとかさ、いろいろあるじゃん」
と。

私には、期待はずれな答だった。少し、がっかりした。(ナーンダ、そんなことか)と思
った。気をとりなおして、「そうだな。そういうときが、一番、楽しいね」と、心にもな
いことを言った。

 しばらく沈黙がつづいた。子どもたちは、それぞれの教科書やワークブックとにらめっ
こしている。学校の宿題をしている子もいる。受験日は、近い。

●私の中学時代

 私はぼんやりと子どもたちを見ながら、自分の中学時代を思い浮かべていた。「ぼくにも、
こういう時代があったのかなあ」と。が、私には、そういう思い出、つまり女の子とつき
あった思い出が、まったく、ない。子どものころは、女の子といっしょにいただけで、「女
たらし」とバカにされた。中学生になってからも、この状態は、それほど、変わらなかっ
た。

私「ぼくもね、好きな子がいたけど、電話で一度、話しただけだよ」
R「電話で?」
私「そう。相手の子が電話に出たとたん、何も話せなくなってしまったよ」
R「ヘエ〜エ。好きですとか何とか、言わなかったの?」
私「とても、言えなかったよ」と。

 そんなことを言いながら、ふと、Rさんを、見る。「そう言えば、そのときの彼女に似て
いる」と思ったが、それは言わなかった。色白で、いつもほほえんでいるようなやさしい
顔。が、あまりにも見えすいた、何というか、それこそ、女たらしと呼ばれる男たちが、
女性を口説くときに、よく使うセリフである。

R「でね、先生、そういうときは、何て、相手の男に、言えばいいの?」
私「そうだなあ……。あのね、男というのは、雰囲気で、相手が、真剣かどうか、わかる
んだよ。真剣に何かを言えばいいよ。その真剣さが、相手の心の窓を開くよ」
R「じゃあ、何て、言うの?」
私「真剣にね、『今度、映画を見にいこう』とでも、言ってみてごらん。それで相手に、気
持が伝わるよ。『好きです』と、いきなり言うと、相手もビビるからね」と。

 私にとっては、40年以上も前の話。しかし、そんな感じが、まるでしない。タイムマ
シンか何かで、過去に、タイムトリップしたような雰囲気になってきた。

今度は、私が質問した。

●私からの質問

私「じゃあ、聞くけどさ、いきなり、男の子から電話がかかってきて、その相手が何も言
わなかったら、どう思う?」
R「どう思うって、どういうこと?」
私「へんだと思わないか?」
R「私は、思わないけど……。やっぱり何か言うべきだったわ」
私「そうかなあ……?」

R「で、先生、何とか、言葉をつなぐことができなかったの?」
私「できなかった。何も言えなかった」
R「好きですとか、映画に行こうとか、言わなかったの?」
私「思いつかなかった」
R「そういうもんかなあ?」
私「そういうもんだよ、現実は。そういうもんだよ」と。

 あのとき、もしもう少しスマートに、恋心を告白していたら、どうなっていただろうか? 
うまくデートできただろうか? あの子と、そのあと、どうなっていただろうか? いろ
いろ考える。

 そして心は、あの日へ、タイムスリップ。

自宅にも電話機はあったが、私は、10円玉をにぎると、駅前の公衆電話に走った。電
話の内容は、だれにも、聞かれたくなかった。いや、数日前から、その日の電話を覚悟
していたと思う。そしてその日がやってきた。4月になったばかりの、春のときめきを
感ずる、そんなある日の午後だった。

 ……で、私が電話をすると、最初に、その女の子の母親が出た。当時としては、大きな
雑貨屋を営んでいた。母親は、その雑貨屋の店番をしていた。

私「Y子さんは、いますか? 林というものです」
母「Y子ですか。ちょっと待ってね」と。

 「Y子オ!」「林という人から、電話!」と。とたん、私の心臓は、はりさけんばかりに、
はげしく打ち始めた。

 「受話器をもどそうか」と何度も考えた。しかし私は、待った。息がつまった。時間だ
けが、ジリジリと流れた。1秒、2秒、3秒……。

 遠くで、「ハーイ!」という声につづいて、足音が近づいてきた。その女の子は、ガチャ
リと受話器を取って、こう言った。「何?」「何か、用?」と。私は、「ぼくです」とだけ、
言った。それが精一杯だった。

 そのとき私は、ハッと我にかえった。私は電話をすることは考えていたが、何を話すか
までは、考えていなかった。とたん、腕だけが勝手に動いて、受話器を下に置いてしまっ
た。

●再び、現実に……

R「それで、先生、その人と、どうなったの?」
私「ううん、それがね、それでおしまい」
R「デートはしなかったの?」
私「デートのし方も、知らなかったしね」と。

 そう、デートのし方も知らなかった。今なら、手をつないで歩くとか、抱きあうとか、
そういうことを考えるかもしれない。

 ただおかしなことに、本当に、おかしなことに、その電話をした日を境に、その女の子
への思いが、急に、冷めていった。

私「そのときまでは、毎日、その女の子のことばかり考えていたけどね。でも、電話をし
たとたん、急に、心が軽くなったよ。嫌いになったとか、そういうことではなく、スッキ
リとしたという感じかな」
子「わかる、わかる、その気持。そういうものよね」「そういうもの」
私「そういうもの?」
子「そうよ、そういうものよ。告白すると、胸の中がスッキリするのよね」と。

私「じゃあ、さあ、聞くけど、君たちは、ただ話をしたり、映画を見るだけで、それでい
いの?」
子「どういうこと?」
私「言いにくいけど、それだけ?」
子「セックスをするということ?」と。

 最近の子どもたちは、変わった。そういう単語が、日常会話のように口から出てくる。

私「うん、まあ、そういうことだけど、サ」
子「している子も、何人かいるけどね。でも、私は、話すだけでいい」
私「でもさ、相手の男が、それで満足しなかったら、どうするの?」
子「そのときは、そのときね」と。

 その間に、何人かの子どもたちが会話に割りこんできた。「セックスしている人って、雰
囲気でわかるよね」「そうよね」「そうよね」と。私は、無視した。そしてこう言った。

「セックスもいいけど、いろいろな子とつきあって、その子がどんな子か、知るといい
よ。そうするとね、自分がどんな人間かもわかるからね。フラれたら、どこに原因があ
るかを自分で調べるんだよ。そうして、どんどんと、自分をみがいていく。今は、そう
いう時期だから、いろいろな子とつきあうといいよ」と。

 少し偉そうなことを言ってしまった。あのころの私、つまり中学時代の私など、ボロボ
ロで、R子さんがそれを知ったら、確実にがっかりするにちがいない。ダサくて、田舎臭
くて、クソまじめで……。まったく、面白みのない男だった。

 私は、女性にモテるタイプではなかった。そこであえて、会話の流れをねじまげた。

●再び、告白

私「いいか、ぼくの顔を見て、中学生のころのぼくを想像してみてほしい。想像するだけ
でいい」

 私は、あごを少しひいて、子どもたちの顔をにらんだ。真顔にして見せた。そして視線
を一巡させたあと、R子さんのほうにその視線を固定した。

R「うん、わかった。先生が、中学生だったころね」
私「そうだ。いいか、想像できたか?」
R「ハハハ、待ってよ。……できる、できる」

「今は、こんなジジ臭い顔をしているけど、40年前のぼくだよ」と、私は、どこか中
学生ぽいしぐさをしてみせた。

 少し離れたところにいる、K君(男子)がいた。その彼も、ニヤニヤしながら、こちら
を見ていた。

私「じゃあ、いいか、そのぼくが、今、君に電話をした。最初に電話を受け取ったのは、
君の母親だ。君の母親が、君を呼んだ。君は、受話器を取った。そして『何か、用?』と
言った。その君に、ぼくが、『好きです』と告白したら、さあ、君は、どうする?」

 R子さんは、一瞬、エッというような顔をしてみせたあと、すかさずこう言った。

「気持、ワリ〜〜イヨ〜、先生。サイテ〜(最低)」「気味、ワリ〜〜イ、サイアク〜ウ
(最悪)」と。

 わかっていた。こんな質問、するまでもなかった。聞いた私が、バカだった。

 ……私は、ますます自信をなくして、この話は、ここでおしまい。ほんわかとした、ロ
マンスが、ちょうどしゃぼん玉がはじけるように、パチンと消えた。40年の年月を越え
て、「サイテ〜」「サイアク〜」という声が、聞こえてきたような気がした。

私「そこまで、はっきりと言うことは、ないだろう!」
R「だってエ、先生、ごめん、ごめん、。気にした?」
私「そりゃあ、気にするさ。ショックだよ」
R「いいから、いいから。先生が奥さんに捨てられたら、私がデートしてあげるからネ」
と。

そのあとしばらくして、語気を強くして、私は、こう言った。「さあ、勉強だ! お前ら、
時間をムダにするなよ! 受験は近いぞ!」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●花粉症

花粉症の季節になった。「花粉症の季節」というのもおかしな言い方だが、そういう言い
方が、この日本ではすっかり、定着してしまった。

 厚生労働省の調べによれば、

 アレルギーのような症状があった……症状あり……35・9%
                  診断あり……14・7%
                  症状なし……59・1%、だそうだ(03年)。

 これには、アトピー性皮膚炎なども含まれ、みながみな、花粉症というわけではないだ
ろうが、それにしても、36%とは! 

 症状としては、「皮膚のかゆみや鼻水」。子どもや大都市の住民ほど、患者が多いという。

 実は、私も、24、5歳くらいのときから、45、6歳くらいまで、この花粉症に苦し
んだ。最初は、花粉症とは知らず、風邪薬ばかりのんでいた。

 が、何よりもつらかったのは、二男が、その花粉症になったこと。その季節になると、
二男は、本当に苦しんだ。毎朝、ゾンビのような風体で、顔を張らして起きてきた。それ
を見るたびに、私とワイフは、沖縄へ移住することまで考えた。

 沖縄には、杉の木はないと聞いていた。

 が、私とて、戦わなかったわけではない。二男のベッドの周辺をすっぽりとビニールシ
ートでおおい、パイプをとりつけて、その中へ、一度、空気清浄機でろ過した空気を送っ
たこともある。

 私が自作したものだが、病院の無菌室をマネたものだった。(ああ、今思い出したが、映
画「ET」に、そういうものが出てくるシーンがあった。あれである。)

 送風機は、熱帯魚用のポンプを使った。あれで、ボコボコと空気をシートの中に送った。

 しかし効果は、ほとんど、なかった。つまり二男の花粉症は、それくらい深刻なものだ
った。そのため、二男は、毎年、2〜5月は、ほとんど学校へは行かなかった。

 が、私のほうは、ちょうど12年ほど前から、症状が消えてしまった。春先に、毎年少
しだけ、軽い症状が出るが、1週間もすると、それが消えてしまう。そしてそのまま、夏
を迎える。

 なぜ、症状が消えたか?

 その日、たまたま杉の木の植えかえ作業をしていた。頭から、小麦粉をかぶるようにし
て、作業をしていた。10〜20分ごとに、メガネは花粉で、真っ白になってしまった。

 もちろん粘膜という粘膜は、パンパンに張れてしまった。息もできなかった。が、それ
でも作業をつづけた。

 で、その夜のこと。私は家に帰ると、すぐ風呂に入った。そのときのこと。風呂の中で、
ウソのように症状が消えていくのを、私はありありと感じた。私は、風呂の湯気のせいだ
と思った。が、その風呂から出たときを境に、花粉症による症状が、私から、消えていた!

 これはいわばショック療法ということになるが、素人の方は、決して、マネをしてはい
けないそうだ。それで命を落とす人もいるとか。

 そのほか、その数年前から、私はワイフと山歩きをするたびに、杉の木に向かって、こ
う話しかけていた。

 「ぼくは、君たちの仲間だ。だからどうか、君たちの花粉で、ぼくをいじめないでほし
い」と。

 それ以外の季節のときは、あの杉の木の香りを、胸いっぱいに吸い込みながら、山の中
を歩いた。今から思うと、それがよかったのではないかと、私は思う。

 が、肝心の二男の花粉症は、なおらなかった。やがてアメリカへ行くようになったので、
やれやれと思っていたら、今度は、そのアメリカで、花粉症になってしまったという。ア
メリカにも、別の、つまり杉の木に似た木があるらしい。

 ……と考えていくと、これはまさに、自然による、人類へのしっぺがえしということに
なる。ここからは私の推察だが、花粉症のメカニズムは、こうだ。

 花粉症を含む、アレルギー症状の原因は、自動車などが排出する、排気ガスだと言われ
ている。しかしその化石燃料(ガソリン)のもとは、太古の昔に栄えた、杉の木の祖先た
ちである。それが地中で石油に変わった。

 その石油を掘り出して、燃料にした。その結果として、花粉症の症状を引き起こした。
決して、因果関係がないわけではないのである。……と、勝手にそう思いこんでいる。

 今年は例年になく、大量の花粉が飛散すると予測されている。私もまったく症状が消え
たわけではないので、早めに、予防策を講ずることにしている。

 参考になるかどうかわからないが、私のばあいは、つぎのようにしている。

(1)病院で、花粉注射を打ってもらう。(最初の1週間、2回)
(2)シソの葉エキスを大量に飲む。

 たいていそれで、1週間前後で、症状は消える。

 花粉症による苦しみは、恐らく、健康な人には理解できないだろう。が、その分、今は、
春になると、花粉症のない世界を、私は、心底、楽しむことができるようになった。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孫のS司

孫のS司は、どう見ても、日本人の私たちの顔とはちがう。私もワイフも、そう思って
いる。BWの子どもたちですら、「英語人(外人)みたい」という。

 しかし顔というのは、不思議なものだ。

 同じS司だが、嫁のデニーズの両親たちは、そうは思っていない。「S司は、アジア人の
顔だ」という。デニーズが両親に聞いたとき、両親は、そう言ったという。「半分、宗市に
そっくりだ」(日記)と。

 つまり日本人の私たちから見れば、外人の顔。しかしアメリカ人の両親から見れば、ア
ジア人の顔ということになる。

 そういう意味では、顔というのは、不思議なものだ。どこまでも相対的なもの。それも
そのはず。私たちは、見慣れた自分たちの顔を基準にして、相手の顔を判断する。

 で、このところ、何かに疲れたようなとき、私は、どういうわけか、ひとりで宗市のH
Pを開き、S司の顔をぼんやりと、見ている。だれにでもそうなのだろうが、孫の顔には、
不思議な力がある。人の心をいやす力といってもよい。

 そうして、しばらく見入っていると、心がなごんでくる。「つぎの新しい時代が始まった
のだな」という思い。そしてその思いが、死への恐怖をやわらげ、不安や孤独から自分を
解放してくれる。

 少しおおげさな言い方になるかもしれないが、地球という乗り物に定員があるなら、い
つか私たちは、その席を、つぎの世代にゆずらねばならない。S司を見ていると、すなお
な気持ちで、その席を、つぎの世代にゆずれるような気分になってくる。

 もっとも、私のマガジンを読んでくれている人は、大半が、若い父親や母親。(私の年齢
で、ここまでインターネットに没頭している人は少ないし……。)だから孫の話など、ずっ
と先の話に聞こえるかもしれない。

 しかしそんなあなたにも、両親がいて、ひょっとしたら、今の私のように、あなたの子
どもを見ているかもしれない。

 アメリカに住んでいるということもある。言葉も、通じない。いつかこの文章をS司が
読めるようになるということも、ありえない。もうあきらめた。それに当然のことながら、
私とS司の人間関係は、希薄。たがいの思い出はほとんどない。私にとってはともかくも、
S司には、ない。キズナをつくるための、貴重な数年は、もう過ぎてしまった。

 仮に私やワイフが死んでも、S司には、何ともないだろう。遠く離れた、見知らぬ土地
の異邦人。少なくともS司には、私たちはそういう存在である。

 が、だからといって、それについて不満に思っているわけではない。ゆいいつ重要なこ
とは、息子夫婦やS司が、それぞれの道で幸福になること。彼らが自分でつかむ幸福には、
私たち夫婦は、関係ない。どのような形であれ、彼らが幸福になれば、それでよい。

 そこで今、私は、新しいことに気づいた。

 よく無償の愛とか、無条件の愛とかいう。しかしそういう言い方そのものが、おかしい。
それに気づいた。そんなことは当然のことであって、無償であるとか、無条件であるとか、
そんな言葉を使うことすら、おかしい。

 こうした言葉、つまり「無償」とか、「無条件」という言葉を使う人は、そうでないこと
に抵抗感を覚える人が、あえて自分の気持ちを打ち消すために使うのではないか。いちい
ちそんなことを考えていたら、かえって気が滅入ってしまう。めんどうだし、わずらわし
い。

 孫の顔を見て、心がやすらぐなら、すなおにやすらげばよい。何も考えず。何も求めず。
あえて言うなら、無私の愛ということか。私にとって、孫というのは、そういう存在。

 つい先ほども、孫のS司の顔をみながら、心を休めた。今日も、いろいろあった。疲れ
た。では、みなさん、おやすみなさい。


●HPの回復

 昨日は、12時間かけて、HPを修復した。たいへんな作業だった。……といっても、
12時間、つきっきりでなおしたというわけではない。パソコンの処理能力が遅いので、
それだけ時間がかかった。

 で、今朝、最終チェック。朝、起きてみたら、HPは、完全に修復されていた。感動し
た。うれしかった。と、同時に、Eマガの読者が、4人、ふえているのを知った。+喜び、
倍増!

 2か月前だが、念のためということで、HPのデータを、CDに保存しておいたのが、
よかった。それをもとに、今回、HPを修復したわけだが、もしそれがなかったら、修復
には、もっと時間がかかったかもしれない。

 これからは、もっと、こまめに、HPの保存にこころがけることにする。パソコン本体
の中で、Dディスクに保存する。インターディスクに保存する。次期パソコンからは、D
VDに焼いて保存する、など。

 改めて保存の重要性を知ると同時に、パソコンを信頼しすぎることの恐ろしさを確認し
た。


●マガジンは、今日から3月号

 今日は、1月31日。しかしこの原稿がマガジンに載るのは、3月2日、水曜日。この
ところやや遅れがちだったが、やっと、追いついた。私はいつも、1か月先の原稿を書く
ことにしている。

 どこかの雑誌社の編集長になったような気分だ。

 昔は(今も、基本的には、そうなのだろうが……)、雑誌を編集するときは、おおむね、
2か月先を考えながら、作業を進める。今(1・31)なら、4月号。桜の入学式を念頭
に置いて、編集を考える。

 しかしインターネットの時代になって、この世界も、すっかり様変わりした。原稿を書
く、私も、変わった。

 以前は、原稿を書くと、それらを雑誌社や出版社へ送った。知りあいをツテに、頭をさ
げながらの作業である。

 ときどき、反対に、雑誌社や出版社から仕事が回ってくることもあった。「ときどき」だ。
地方都市に住む人間の悲しさというか、人間関係をつくるだけでも、都会のライターより、
何倍も時間がかかる。

 が、私は、この数年、一作も、自分の原稿を雑誌社や出版社へは送っていない。本来な
ら、そうすべきなのだろうが、今は、マガジンのほうが楽しい。自分自身が編集長になっ
たような気分を味わうことができる。

 で、多分、ほとんどの読者は、「どうせ、無料のマガジンだから……」「内容もその程度
だろう……」と思っているかもしれない。

 事実、そのとおりだから反論のしようがない。が、しかしそう決めこんでしまうのは、
待ってほしい。私も、この世界を、30年以上、渡り歩いてきた。いろいろな雑誌社で、
直接原稿を発表してきた。

 しかしそういう原稿と比較しても、今、こうしてみなさんにお届けしている原稿は、何
ら、遜色はない。私はいつも、すべてを出し切って、原稿を書いている。たしかにサエは、
鈍ってきた。が、内容的には、自信がある。

 さて、今朝も、編集長の私が、ライターの私にこう叫ぶ。

 「おい、林君、いい原稿を20枚、至急出してくれ! 締め切りは、今日の正午だ!」
と。

 それに答えて、ライターの私は、こう答える。

 「はい、編集長、わかりました。正午までには完成し、12時には、3月2日号の配信
予約を入れます!」と。

 こうして私の朝は、始まる。+(プラス)みなさん、おはようございます。これからも
マガジンの購読を、よろしくお願いします。

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(補記)3月1日から、K国の船は、日本の港には、入港できなくなる。事実上の経済制
裁ということになる。K国は、どう出てくるのだろう。おとなしく保険に加入してくるの
だろうか。それとも、彼らがいうところの「物理的報復」をしてくるのだろうか。

 この原稿を書きながら、そんなことを心配している。東京のみなさん、どうかお気をつ
けください。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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