はやし浩司(ひろし)

2005・5
はやし浩司
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2005年 5月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 30日(No.574)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)
http://bwhayashi.cool.ne.jp/page051.html


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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●引きこもりの平均年齢が、26・7歳

 「壮年化進み、35歳以上14%」と題して、中日新聞に、こんなショッキングな記事
が載った。

 「自宅に長期間閉じこもり、社会参加しない(引きこもり)状態の人の平均年齢は26.
7歳で、約14%が35歳以上と、"壮年化"が進んでいることが28日、厚生労働省の実
態調査で分かった。4分の3が男性で、全体の5人に1人が家族に暴力を振るっていた。

 行政が援助を始めても中断したり音信不通になったりする人が目立つなど、立ち直りの
困難さを示しており、厚労省は対応に苦慮する相談機関向けに、本人と家族への具体的な
支援の在り方をまとめた指針をつくった。

 調査は3月、全国の精神保健福祉センターと保健所を対象に実施。全センターとほとん
どの保健所から回答があった。

 昨年1年間の電話相談の延べ件数と来所相談件数は合計約1万4000件で、集計方法
は違うものの、2000年11月に直前1年間を対象に実施した1回目の調査時の計約6
100件より大幅に増加した。

 来所相談のうち3293件を分析した結果、本人の性別は男性が76・4%と圧倒的に
多かった。年齢が上がるほど就労・就学が困難になるとされるが、相談時の平均年齢は2
6.7歳で35歳以上が14・2%。前回調査は「36歳以上8・6%」だった」(中日新
聞・03年7月28日)と。

●心の緊張感

 心の緊張状態がうまく処理できないため、人とのかかわりを避ける子どもがふえている。
このタイプの子どもは、人前で、自分を安心して、さらけ出すことができない。そのため
どこかで無理をする。どこかで自分をつくる。だから人前に出たりすると、それだけで、
神経疲労を起こしやすい。

 親は、「なれていないだけです」と言うが、そんな簡単な問題ではない。また無理をすれ
ばするほど、症状はこじれる。それをチャート化したのが、つぎである。

(人に対して、心を開けない。心を許せない)

(人前で自分をさらけ出すことができない。人前に出ると、不安)

(いい子ぶる。仮面をかぶる。無理をする)

(神経疲労を起こしやすい。疲れやすい)

(人とのかかわりを避けようとする。あるいはその分だけ、心が荒れる)

(引きこもる)

 しかし本当の問題は、子どもが引きこもることではなく、この段階で、親のほうが狂乱
し、症状を悪化させてしまうこと。その前に、子どもをそういう状態に追いこんだのは親
を中心とする家庭環境なのだが、親には、そういう自覚すら、ない。そこに本当の問題が
ある。

●青年期の引きこもり

 精神科医のドクターにかかると、ほとんど、「うつ病」と診断される。たいていは、抗う
つ薬が処方される。症状に応じて、キメこまかい薬が処方されるが、しばらく服用してい
ると、副作用が現れることが多い。吐き気や異常な精神的感覚など。

 親は「早くなおそう」と考えるが、この病気は、数年単位の時間的経過を経て、症状が
推移する。(半年や一年で、症状が軽減するなどということは、ありえない。)

 私が経験した何例(数年おきに一例前後)かの、青年期の引きこもりについて、共通し
た症状には、つぎのようなものがある。(サンプルが少ないので、不正確。)

(1)回避性障害……人との接触を、避ける。人と接すると、極度の緊張状態になる。
そのため引きこもるが、きわめて特定の数人とは、交際できる。ふつう、親とは
(2)会話をしない。してもあいさつ程度。
(3)乳幼児期の再現(退行)……引きこもりながら、子どものころ読んだマンガ本を
読んだり、おもちゃで遊んだりする。(これはやや回復期によく見られる。)回復期に向う
と、幼児期に遊んだおもちゃから、少年期に遊んだおもちゃへと、少しずつ変化すること
がある。
(4)夜昼の逆転現象……夜中の間は、ずっと起きていて、明け方になると寝る。そし
て日中はひたすら、寝る。これは初期の段階によく見られる。睡眠サイクルが、毎日、三
〇分〜一時間程度、ずれていくのがわかる。
(5)行為障害……たいていは何らかの行為障害をともなう。異常な蒐集(しゅうしゅ
う)癖とか、ものにこだわる、など。(これは前兆現象として現れること多く、そのまま引
きこもり時期にもつづくことが多い。)万引き、盗みグセなど。非行に似た症状を示すこと
もある。
(6)キーワード……何かのキーワードにとくにするどく反応する。あるいは家族の中
にキーパーソンがいて、その人との会話を嫌う。(これが原因で、はげしい暴力につながる
ことが多い。)子ども自身も自分の将来を悲観していることが多いので、「これからどうす
るの?」式の質問は、しないほうがよい。
(7)生活習慣が乱れ、だらしなくなる……何日もフロに入らなかったりする。ときど
き外出したときなど、あわてて掃除をする親がいるが、そういうことも避ける。徹底して
「あ暖かい無視」を、励行する。
(8)はげしい家庭内暴力をともなうことがある……これは家族が、説教したり、ある
いは説得しようとしたときに起こることが多い。(ふつうの暴力ではない。それまで無気力
でぼんやりしていた子どもが、豹変して、錯乱状態になって暴れたりする。)

こうした症状が、ここにも書いたように、数年単位で推移する。その間に、家族が無理
をしたりすれば、さらに症状は長引く。実のところ、本来なら、数年ですむ引きこもり
が、五年、一〇年とつづくのは、家族、とくに両親の不適切な対処の仕方が原因である
ことが多い。

●対処方法
 
 何よりも、「心の病気」という理解が重要。「気はもちよう」などと、安易に考えてはい
けない。そしてつぎの鉄則を守る。

(1)暖かい無視……とにかく、徹底して、無視する。子どものやりたいように、させ
る。フロに入らなくても、部屋中がゴミだらけになっても、無視する。
(2)一喜一憂しない……回復期に向い始めると、その前に症状が一進一退を繰りかえ
すようになる。しかしそのとき、決して、そういう表面的な症状にまどわされてはいけな
い。「去年はどうだったか?」「二年前はどうだったか?」という視点で、症状をみる。比
較する。
(3)説得、説教はまったくムダ……自己意識でどうにかなる問題ではない。だから子
どもを説教したり、説得してもムダ。かえって子どもを追いこむことになる。
(4)今の状態を守る……今の状態をより悪くしないことだけを考える。この病気には、
二番底、三番底がある。こじらせると、長引くだけではなく、さらにその下の底に落ちて
いく。
(5)この病気は、必ず、なおる。五年とか、ばあいによっては、一〇年とか、かかる
が、必ずなおる。それを信じて、子どもの自己回復力に任せる。ただし親が無理をして、
症状をこじらせたときは、別。この病気は、子どもの病気といいながら、実は、なおすべ
きは、親のほうである。そうした心構えをもって対処する。

以上が、私の経験からのアドバイスということになる。私は精神科ドクターとちがい、
扱った症例こそ少ないが、反対に濃密な、きわめて濃密な指導をしてきた。そういう経
験からつぎのようなことが言える。

 全員、五〜一〇年後には、仕事を始めるようになったが、その子どもたちは、こう言っ
ている。「一番、よかったのは、家族が、自分を無視してくれることだった」と。親があれ
これ気をつかのは、逆効果であるばかりでなく、こうした子どもたちには、心の負担とな
る。だから無視する。無視しながら、子どもの病気と同居するつもりで、それに早く、な
れる。

●前兆症状
 
 しかしそれよりも大切なのは、前兆が現れた段階で、親がそれに気づき、手を引くべき
ところは、引くということ。

 が、ほとんどの親は、その前兆が現れても、それに気づかないばかりか、「わがまま」「子
どもの勝手」「まさか……」と、それを見逃してしまう。

 最近、経験したY君(二一歳)のケースでは、最初に、親の貯金から勝手にお金を引き
出し、意味のないガラクタを買い集めるという行為障害が現れた。Y君が、高校一年生の
ときのことだった。そのとき、親は、Y君をはげしく叱ったり、説教したりした。

 つまり何らかの行為障害、あるいは情緒不安症状が積み重なって、ここでいう引きこも
りを起こすと考えるとわかりやすい。もちろんそのまま症状が消えていくケースもあるが、
たいていはあっちへゴロゴロ、こっちへゴロゴロと、ころがっているうちに、症状は悪化
する。

 さらに小学生や、中学生のころ、神経症による症状、情緒不安症状(心の緊張感がとれ
ない状態)があれば、あきらめるべきことは、さっとあきらめて、手を引く。進学問題で、
子どもを追いこむなどということは、してはならない。はっきり言えば、進学は、あきら
める。

 しかし現実には、これがむずかしい。だいたいにおいて、私のアドバイスなど、親は聞
かない。結局は、行き着くところまで行く。そしてあとはお決まりの悪循環。この病気だ
けは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、さらに症状
が悪化する。

 とても残念なことだが、子どもの引きこもりの原因と責任は、すべて親と家庭環境にあ
る。(そう言いきるのは危険なことだが、それくらい強く言ってもかまわないと思う。)そ
れに気づくか気づかないかは、親の問題意識の深さの問題ということになる。(だからとい
って、親を責めているのではない。親とて、懸命に子育てをしてきた。それはわかる。)だ
から謙虚に反省すべきことは反省する。またそういう姿勢があってはじめて、ここでいう
「暖かい無視」が生まれる。

 さて、今、あなたの子どもは、あなたの前で、いい子ぶってはいないか? あなたの前
で、言いたいことを言い、したいことをしていれば、よし。態度もふてぶてしく、横柄な
らよし。あなたのいる前で、平気で心と体を休めているなら、よし。そうでないなら、家
庭のあり方を、もう一度、よく反省してみるとよい。
(はやし浩司 引きこもり 青年期の引きこもり)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
子育て随筆byはやし浩司(015)

親に遠慮する子ども

 ある女性(四〇歳)が、こう言った。「盆などに、実家へ帰っても、心を許して、親に甘
えることができません。子どもに何かを買ってもらったりすると、つい親に、『悪いから、
いいです』などと言ってしまう。親は、『いいんだよ』と言いますが、どこか他人行儀の私
たちです。これでいいのでしょうか」と。

 このケースで、まずわかることは、子どもが親に遠慮しているということ。義理の父母
なら、そういうこともあるが、実の親である。本来、こういう感覚をもつこと自体、おか
しい。

 そこであなたのチェックテスト。

 あなたは実の両親に対して、つぎのうちのどれに近いだろうか。

(1)実家で料理を出されても、親に対して、「申し訳ない」という気持になり、それなり
の金銭を、親に渡すようにしている。そんなわけで実家で食事をするより、近所の
レストランで食事をしたいと思うことが多いし、そのほうが気が楽。実家へ帰るの
が苦痛に思うことがある。

(2)実家では、私が「いらない」と言っても、親が勝手に料理を用意することが多い。

親に恩返ししたいという気持はあるが、実際には、甘えることが多い。たいていは、

「ありがとう」ですんでしまう。実家に帰ることは、それほど苦痛ではない。

(3)自分の家で食事をしたりするように、実家でも食事をする。出された料理でも、平
気で食べるし、何も用意してないこともあるが、そういうときは、冷蔵庫に残っているも
のを食べる。親に「ありがとう」と言ったこともないし、そういう意識をもったこともな
い。実家へ帰ると、気が休まる。心も体もリフレッシュできる。

 この中で、理想的な親子関係は、(3)である。こうであるからこそ、親子という。また
そうでなくてはいけない。一見、乱暴な親子関係に見えるが、その実、より深い親子の絆
(きずな)で結ばれている。

 日本型の子育てでは、無意識のうちにも、親は子どもに対して、「産んでやった」「育て
てやった」と教える。(そういう意識を植えつける。)一方、子どもは、「産んでいただきま
した」「育てていただきました」と教えられる。(そういう意識をもつ。)実際、自分の娘(三
四歳)に向って、「親に向かって、何という態度だ。お前が言葉を話せるようになったのも、
親のおかげではないか!」と怒鳴った父親(六〇歳)がいた。

 冒頭の女性は、実家へ帰っても、どこか他人行儀だという。恐らく親側から見れば、親
思いのよい娘に見えることだろう。しかしその実、心は離れている。

 今、子どもを愛せなくて、人知れず、悩んでいる母親は多い。しかしそれ以上に、親と
の折りあいが悪く悩んでいる母親も多い。「親だから子どもを愛しているはず」と考えるの
は、まちがっているが、しかしそれと同じくらい、「子だから、親を思っているはず」と考
えるのは、まちがっている。(たいていは、「自分の子どもを愛せない」と悩んでいる母親
は、同時に、「自分の親とは相性が合わない」と悩んでいる。)

 親子関係といえども、基本的には、一対一の人間関係。親子であるという、「関係」に甘
えてはいけない。とくに、親のほうが、甘えてはいけない。

 私たちは、親として、子どもを育てる。しかしそのとき、親は、無条件で子どもを育て
る。また無条件でなければならない。子どもに恩を着せてはいけない。いくら子どもに裏
切られることがあっても、最後の最後まで、無条件をつらぬく。見返りを期待するのも、
要求するのも、まちがっている。

 親子関係も、信頼関係で、成りたつ。全幅のさらけ出し。受け入れという基盤があって、
その上で成りたつ。それを忘れてはいけない。そこで今度は、あなたとあなたの子どもの
関係を振りかえってみよう。

 あなたの子どもは、あなたに対して、全幅に信頼しているだろうか。あなたのそばにい
て、外の世界でキズついた翼を、ゆっくりと休めているだろうか。もしそうなら、それで
よし。どうも「?」と感じたら、今からでも遅くないから、あなたの家のあり方を、もう
一度見なおしてみてほしい。これはあなたの子どものためというよりは、実は、あなた自
身のためなのである。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【夫婦の危機】

 茨城県T町にお住まいの、ASさんから、
夫婦の会話についての相談がありました。
それについて、今回は、考えてみたいと思い
ます。

+++++++++++++++++++++++++++

●4歳1か月の長女、1歳になったばかりの二女がいます。

最近、父親(=私の夫)は、私が再三再四のメールを出しても、まったく返事をくれま
せん。でも、顔を見ると普通に会話をします。

そのままを受け入れようと思ってはみたのですが、なかなか難しくて。。。長女はこの4
月から保育園に通い始め、父親不在の生活に疑問を抱いている様子です。そろそろはっ
きりさせた方が良いのか、(私の母ははっきりさせろと言っていますが)、彼からのアク
ションを待つ方が良いのか、悩んでいます。

私のほうから、父子の関係を絶つようなことをしていいのだろうか、という思いがある
のです。が、今のまま、こちらからの問いかけに一切応えてくれない人を、「父親」とし
て、こだわり続けなければいけないのだろうか、という思いもあります。

できることならば、「幸せな家庭」をしっかりと感じて成長していって欲しいと願ってい
るのですが。。。私は彼と、幸せな家族を築きたいと今でも思います。

でも、彼がそうでないのなら、もう諦めた方がみんなのためなのでしょうか。。。。母には
「捨てられたんだ」と、言われました。彼が、「もう嫌だ」と直接言ってくれれば、諦め
もつくのですが、(彼にもそう言ったのですが)、それでも返事はありません。

どう思われますか?

+++++++++++++++++++++++++

●押してダメなら、引いて、もう一度、引く

 間に、子どもがいる。こういうときは、『負けるが勝ち』です。つまり、引き下がります。
それでだめなら、もう一度、引き下がります。その度量の深さが、結局は、夫婦の愛情の
深さということになります。

 再三、再四、メールを出して返事がないなら、もう一度、メールを出す。それでも返事
がなければ、さらにもう一度、出す。

 コツは、決して、相手を責めないこと。幸いなことに、会っているときは、ふつうの会
話ができるということですので、「破局」と考えるのは、少し、早いのでは?

 (愛してはいない)、しかし(別れるほどではない)という夫婦は、今、いくらでもいま
す。大半がそうではないでしょうか。いっしょに生活をしていて、10に一つ、100に
一つ、チラリと光るものがあれば、それで、もうけもの。あとは、それを信じて、それぞ
れが、自分の幸福を充実させればよいのです。

 で、こういうケースのばあい、決して、つっぱってはいけません。負けて、負けて、そ
れでもだめなら、もう一度、負けます。負けることを知らない人には、つらい体験かもし
れませんが、負ければよいのです。

 「あなたがいいように、しますから、どうすればいいか、教えてください」
 「私は、あなたと仲よくしたいのですが、どうすればいいでしょうか」
 「私のまちがっているところを、どうか、話してください」と。

 あなたのお母さんが言っているように、この問題を、(捨てる)とか、(捨てられた)と
かいう、次元の低い話にしてはいけません(失礼!)。あまりにも低次元な話なので、コメ
ントできないほどです。

 そうではなく、あなた自身を、昇華させるのです。これには、理由があります。

●未練の完全燃焼

 仮にいつか離婚するにしても、あなたの中に残っている(未練)は、完全に燃焼させて
おかねばなりません。さわやかに、すがすがしい気持ちで別れるために、です。

 やるべきことは、すべてした。心残りは、何も、ない。そういう状態にしておかねばな
りません。そのためにも、今、あなたは、自分を高めておきます。方法は、簡単。

 ただひたすら、許して忘れる。あなたの夫に対しては、夫を、慈悲深い愛情で包んであ
げる。「あなたは、がんばっています。感謝しています」「あなたは苦しんでいます。私も
いっしょに苦しみます」「あなたは孤独です。いっしょに、孤独と戦いましょう」と。

 最初は、ウソでもよいのです。どこかぎこちなくて、当然。

 しかしそれを繰りかえします。

 あとは時間が解決してくれます。万が一、夫の不倫相手がいても、気にしない。男とい
うのは、やがて、より心の安らぐ場所を求めて、そこへもどってきます。肉体の魅力など、
一時的なものです。

 こうして、(未練)をその一方で、(完全燃焼)させておきます。これはあなたのためで
あると同時に、2人のお子さんのためでもあります。

 夫婦の離婚が、子どもに影響を与えるとしたら、離婚そのものではなく、離婚にいたる、
ドタバタです。それが子どもに、悪影響を与えます。そのドタバタだけは、見せてはいけ
ません。

 しかしあなたの高潔な姿……それはたいへんむずかしいテーマですが、それを見て、子
どもたちは、また別の、夫婦観、家族観をもちます。離婚イコール、悪と決めてかかる必
要はありません。

●過剰な期待は、しない。あとは、淡々と……

 時期が熟してくると、自然と、その道が見えてきます。それまでは、ジタバタしないこ
と。それが夫婦、家族の問題を考えるときの、大鉄則です。

 離婚にしても、そのときがくれば、ごく自然な形で、離婚の話が進みます。「離婚すべき
かどうか」と悩んでいるときというのは、まだ離婚の時期ではない。離婚は、先というこ
と。少なくとも、こちらから追い求めるような問題では、ないということです。

 ここは、どっしりと構えてみてください。

 「あなたは、あなたで、がんばってください。私は、とりあえずは、2人の子どもの世
話を懸命にします」と。

 あとは、その日、その日を、懸命に生きていきます。クヨクヨ考えてもしかたないし、
悩んだところで、どうにもならない。離婚するかどうかは、「形」の問題。あなたは、あな
たで、すべきことをすればよいのです。

 それで、つまり、そのあなたのすばらしさを理解できず、それで夫が別れると言うなら、
じゅうぶん、責任をとってもらい、そのときはそのときで、あとは、運命に身を任せれば
よい。子どもの問題は、そのあと、自然な形で解決します。

●やさしい言葉

 メールが短いので、事情がよくわかりませんが、ひょっとしたら、あなたの夫は、あな
たのやさしい言葉を待っているのではないでしょうか。

 男の身勝手かもしれませんが、男には、そんな面があります。

 ですからここは、思い切って、引いてみてください。攻撃的に出るのではなく、あなた
が下になればよいのです。日ごろの、何気ないやさしさが、あなたの夫の心を溶かすとい
うことは、よくあります。(それが、ここでいう『負けるが、勝ち』にもつながります。)

 「そんなことできない!」と思っているなら、なおさら。あなたの心を、押しつぶして
でも、してみてください。苦しいかもしれませんが、それでも、です。一度は、愛しあっ
て結婚をした。肌をさらけだしあって、セックスをした。そういう仲です。それを思い出
して、今度は、心をさらけ出す。

 離婚の危機などというのは、そのつど、繰りかえしやってきます。そのつど、本当に離
婚していたら、夫婦などというものは、そもそも、存在しないことになります。

 大切なのは、離婚問題を考えることではなく、そういう問題は夫婦には、つきものとい
う前提で、夫婦の問題を考えるということです。外から見ると、みんなうまくいっている
ように見えますが、そんな夫婦は、ごく少数ですよ。

 みんな。何らの問題をかかえて、がんばっている。ほら、よく、離婚の三原因として、
浮気、借金、暴力をあげますね。私は、逆に、こう考えます。「こうした問題のない家庭と
いうのは、いったい、何%あるのか」と。

 あなたも書いているように、ここはあまり夫婦、家族にこだわらないで、あなたはあな
たで、何か、自分を燃焼させるような、別のことを考えたらよいのではないでしょうか。

 が、それでも、離婚の問題が進行してしまったら……。

 そのときは、離婚すればよいのです。サバサバと、明るく、さわやかに、です。運命と
いうのは、そういうもの。そのときがくれば、道は、自然と見えてきます。

【補足】

 このところ、私はワイフにときどき、こう言います。

 「お前には、お前の人生があっただろうと思う。ぼくは、その人生を、お前から奪って
しまったような気がする。

 申し訳ないと思う。

 で、もし、お前が離婚を望むなら、離婚してあげてもいい。毎日、じっと、何かに耐え
ながら生活をしているお前を見ていると、かわいそうに思う。好きでもない男のために、
いつも何かを犠牲にしているようだ。

 どうする?」と。

 するとワイフは、いつも、「そんなことないわよ。あなたの考えすぎよ」と答えます。

 でもね、私には、わかっています。

 ワイフが、本当は、私のことを愛していないことも、本当は、今の生活に満足していな
いことも。

 だから昨夜、眠る前に、こう言いました。

 「これからは、お前のしたいことがあれば、何でも、してみたらいい。応援する。今ま
で、ひどい夫だったから、これからは、お前を幸福にすることだけを、考えて生活をする
よ」と。

 私自身は、今まで、私のような男に耐えてくれたワイフに、感謝しています。だから今、
ワイフが、「私の人生をやりなおしたい」と言えば、それに応ずる覚悟もできつつあります。
いつまでも、(=死ぬまで)、ワイフを、(=私の妻)としてしばっておくのは、あまりにも、
かわいそうです。

 ひょっとしたら、そんなわけで、私たちも離婚するかもしれません。しかしそういう離
婚の形もあるのかもしれませんね。まあ、今のところは、何となく、平凡に、何ごともな
く、日々は過ぎてはいますが……。

 最後になりますが、あれこれ、反対に励ましてくださって、ありがとうございます。A
Sさんのような読者の方が、いらっしゃると思うだけで、本当に励みになります。これか
らも、がんばれるだけ、がんばってみます。これからも、よろしくお願いします。

 (本当のところ、毎日が苦しいです。たいへんなムダなことをしているような気がして
ならないからです。マガジンについても、6月号から、どうしようかと、ずっと思い悩ん
でいます。とりあえずは、1000号ですが、それまで気力がつづくかどうか……。先が
長すぎます!)
(はやし浩司 離婚 離婚の危機)離婚問題 夫婦の危機 夫婦の問題)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【散歩しながら……】

●現状維持

 今の状態を保つ……それだけで、精一杯。何とも消極的な人生観だが、今の私には、そ
れしかない。

 昨日(5月3日)も、ワイフと二人で、夕食の買い物にでかけたとき、そんな話をした。
犬のハナもいた。「現状が維持できるだけでも、感謝しなければ……」と。

 生活だけではない。健康だって、そうだ。「お前は、見た感じでは、ぼくより病気ぽいけ
ど、本当は、ぼくより健康だね」と言うと、「私は、子どものころから、健康よ」と。

 ワイフは、子どものころ、熱を出して学校を休んだようなことは、一度もなかったそう
だ。だからズル休みをすることさえ、できなかった、と。

 「ぼくはね、よく熱を出したよ。扁桃腺が、すぐ腫れてね」と。

 歩いていると、佐鳴湖から流れている川のほとりに出た。見ると、大きなカメが、ポチ
ャンと、顔を水の中に隠すところだった。

「あら、大きな、カメ!」とワイフ。

 さすが、水質汚染、ワーストワン! ワースト・ツーだったかな。水は、にごっていた。
にごっているというより、トイレの汚水そのものといった感じ。そんな川の中に、カメが
生きている。

 「カメにせよ、それにワニにせよ、何億年も生き抜いてきただろ。何でも血液の中に、
そういうメカニズムがあって、めったに病気にはならないそうだ。その血液を研究して、
新薬も開発されているそうだ」と私。

 「じゃあ、ワニを食べれば、いいってこと? オーストラリアでは、ワニの肉を食べさ
せてくれるそうよ。今度、オーストラリアへ行ったら、ワニの肉を食べてみるわ」とワイ
フ。

 そんな単純なものでもないだろう。しかし考えてみれば、人間は、病気に弱い。すぐ病
気になる。寿命だって、江戸時代には、45歳前後だったという。私の年齢の人間などは、
とっくの昔に、死んでいたことになる。もっとも、当時は、乳幼児の死亡率が高く、それ
が全体として、平均寿命を短くしていたらしい。

 歩きながら、そんな話をした。

●夕食の材料

 私たちは、いつも、店に入ってから、その日の献立を考える。前もって決めて、店に入
ることは、めったにない。

 最初は、パックに入った寿司が目にとまった。つぎに、焼きそばが目にとまった。さら
にそのつぎには、刺身や、焼き魚が目にとまった。

 結局、うなぎを焼いて食べることにした。肉の薄い、やせ細ったうなぎだったが、二匹
で、980円だった。「ぼくが庭で焼いてあげるよ」と言うと、「そうね」と。ワイフは、
すぐ同意してくれた。

 今年、はじめてのうなぎではないか。ここ数年、うなぎの値段が、急に高くなった。そ
れだけ、うなぎがとれなくなったということらしい。ほとんどが中国や台湾からの輸入も
の。昔は、「浜名湖のうなぎ」などと、学校で習ったものだが、浜名湖のうなぎは、もう、
いない。そのほとんどが、姿を消した。

 5月3日ということで、店内は、ガランとしていた。みな、祭にでかけているらしい。
遠くで、群集が、ラッパを吹きながら、練(ね)っている音が聞こえた。このあたりでは、
祭り独特の行進を、「練(ね)り」と呼ぶ。

 独特の掛け声に、独特の歩き方。手にはちょうちん。「ワッセ、ワッセ」とか、「ウッセ、
ウッセ」と掛け声をかけあいながら、歩く。ラッパのメロディは、戦時中、浜松の航空基
地で使われていた、起床ラッパのそれだそうだ。そのラッパの音にあわせて、練る。

 「ぼくたちは、祭には、縁がなかったね」と私。
 「よそものだから、しかたないわよ」とワイフ。

 浜松の祭は、参加型の祭。見ているだけでは、さほど、おもしろくない。自分で参加し
なければ、そのおもしろさがわからない。実際、いっしょに練ってみると、おもしろい。

 こういう私だが、浜松に移り住むようになった当時は、よく友だちと、通りを、練った。
あるときは、10〜20人くらいのグループで、浜松の北部から中心部まで、練ったこと
がある。当時は、ゲリラ隊と呼んでいた。今は、禁止になったそうだ。

 「また孫とでも近くに住むようになったら、祭に出るようになるわよ」とワイフ。「そう
なるといいね」と私。

●南米人

 この浜松には、多くの外国人が住んでいる。数年前、2万人を超えたということだった
が、今では、ブラジル人だけで、3万人を超えたという。テレビのニュースでそう言って
いた。

 そこで今年から、外国人のグループも、祭に参加するようになったという。

 人口60万人の浜松市に、3万人。20人に1人が、ブラジル人ということになる。そ
のせいだろうが、このところ、浜松に住む人たちの意識が、かなり変わってきたように、
思う。外国人との同居を、自然な形で、受け入れるようになってきた。

 通りで出会う外国人たちも、以前よりは、堂々としているように見える。きっと、自分
たちに自信をもち始めたせいではないか。大きな声で、あたりかまわず、ポルトガル語で
話している。

 そう言えば、今度、ブラジルの領事館が、この浜松にも、できるようになったそうだ。
それにブラジルの大統領が、この浜松を訪問することにもなったそうだ。

 今では、ブラジル人の学校もあるし、銀行もある。町の一角が、すべてブラジル一色と
いうところもある。こと国際化ということになれば、大都市は別として、この浜松が、一
番進んでいるのではないか。ただ英語が通じないのだけが、残念。

 ブラジル人は、英語を、ほとんど、話さない。そのほか、ペルーやコロンビアからの人
たちもいるが、彼らもやはり、英語を話さない。国際化といいながら、どこかに限界を感
じるのは、そのためか。日本人で、ポルトガル語を話せる人は、ほとんど、いない。

 「しかし、ね。あと30〜50年もすると、ブラジルも経済力をつけてくるよ。今の中
国のようになると言う人もいる。21世紀の後半は、インド、ブラジルの時代になるだろ
うね」と、私。

 そのためにも、今、ブラジルと仲よくしておくことは、日本の将来のためにも、とても
よいことだ。いつか今の日本の子どもたちが大きくなって、ブラジルへ行く。そしてこん
な会話をする。

 「あら、なつかしい!」
 「ホント! 20年ぶりかしら……」と。

●マガジン

 店を出ると、犬のハナが、体をはねあげて、喜んだ。ほんの少しの時間なのに、いつも
10年ぶりに再開したような喜び方をする。犬というのは、おおげさな動物だ。

 そのハナの紐(ひも)をほどいて、大通りに出る。もう夕方で、あたりは、どこか薄暗
かった。話題は、私が出している電子マガジンになった。

 「読んでくれている人はいるだろうか?」と声をかけると、「私は、読んでいるわ」と。
「でも、みんな、ぼくのマガジンなんか、読んで、どうするのだろう」と言うと、「ために
なるところもあるから……」と。

 このところ、読者からの反応は、ほとんどない。読者数も、頭打ち。何度も廃刊を考え
たが、「1000号まで」という目標がある。そのあとのことは、考えていないが、「いま
さら、やめます」とも、言えない。「とにかく、1000号までつづけてみたら」とワイフ。
「そうだね」と私。

 このところ、出版界は、大不況。数日前も、町の小さな書店が、どんどんと姿を消して
いるという報道番組を見た。しかし書店だけではない。中小の出版社も、どんどんと姿を
消している。さらに今、ものを書いて生活できる著者など、ほとんどいない。

 たとえ本を出しても、印税(=収入)は、売れた分だけの印税しか、手に入らない。し
かも早くて、3か月先の支払いか、ばあいによっては、1年先の支払いになる。

 具体的に話すと、こうだ。

 たとえば1600円の本を、5000部、出したとする。今、印税は、5%前後がよい
ところ。以前は、8〜10%というのが相場だったが、今は5〜8%。イラストや写真が
多く入ると、イラスト家と印税を分けあうということもある。

 で、ざっと計算して、以前だと、出版と同時に、1冊につき、80円の印税が入る。5
000部だから、40万円ということになる。

 これが最近では、売れた分の冊数しか、印税が入らない。売れたかどうかは、最低でも
3か月は待たねばならないので、支払いは、それ以後ということになる。その3か月で、
1000部しか売れなかったとすると、手にするのは、8万円。10万部とか、20万部
も売れれば、話は別だが、この出版界、決して、もうかる世界ではない。

 ……ということで、ここ数年、私は1冊も本を出していない。多いときは、1年で、1
0冊近く出したこともあるのに!

 そのエネルギーを、今、電子マガジンに向けている。が、この世界も、きびしい。「情報
はただ」という世界である。それを知っていて、マガジンを発行しているのだから、文句
は言えない。しかし何よりもつらいのは、「ただだから、それなりの価値しかないだろう」
と思われること。いくら心の中で、「私の書いている文章は、一級のものだぞ」と叫んでみ
ても、そういう声は、読者の心には、届かない。

 このところ、そのむなしさを、しみじみと感ずるようになった。

 「私だけは、ちゃんと読んであげるから、これからも書きなさいよ。きっと、そのうち、
いいこともあるから……」とワイフ。何度も聞いたセリフだが、このところ、ワイフのそ
の声にも、元気がなくなってきた。

●焼く

 庭で、うなぎを焼いた。その間中、犬のハナが、私にじゃれてきた。もう1匹の犬のク
ッキーが死んでから、急に、さみしがり屋になったような気がする。しかたないので、陶
器でできた、犬の置き物を買ってきてやった。それをハナの小屋の近くに、置いてやった。

 そうそう、はじめてその置き物を置いた夜のこと。ハナは、それを本物の犬と思ったら
しい。ウーウー、ワンワンと、その置き物に向かって、何度も、ほえていた。

 で、私は、自称、たき火の達人。おとといの雨で、庭は、どこか湿っぽい。しかし10
分もすると、ほどよい炎が、立ち始めた。私はその上に、網を置き、うなぎを焼き始めた。

 「本当にやせ細ったうなぎだな、これは」と私。「だから安かったのよ」とワイフ。肉厚
がほとんど、ない。そのせいか、あっという間に、焼けてしまった。時間にすれば、10
分も焼いていなかった。

 しかたないので、タレだけは、たっぷりとつけた。「これはうなぎというより、うなぎの
皮焼きだね」「タレントの研N子みたい」と言うと、ワイフは、笑った。薄い肉が、皮にへ
ばりついているといった、感じだった。「うなぎでも、ダイエットすることがあるのかもね」
と。

 まあ、それでも、一応、うな丼はうな丼。3人前完成。たまたま庭で、何かを作ってい
た長男に声をかけると、すぐ台所へやってきた。においだけは、一人前。そのにおいにつ
られて、やってきた。

●感謝

 T先生は、私に、「今の生活に、感謝しなさい」と言う。私も、心のどこかで、そう思う。
思うが、どうも、その実感が、わいてこない。

 感謝しろということは、「あきらめろ」ということか。「よかった」と、自分を納得させ
ることか。私が何かの宗教の信仰者なら、その神や仏に、「ありがとうございます」と言う
かもしれない。

 しかし、感謝とは何か?

 どういう感情を言うのか? ……と、うな丼を食べながら、そんなことを考え始める。

 人は、そのものの価値を、それをなくしたとき、はじめて、気づく。そういう愚かさを、
みな、もっている。数か月前、私は足の骨を折った。そのときのこと。私はスイスイと歩
いている人を見ながら、「ああ、人間って、ああいうふうに歩けるんだ」と思ったことがあ
る。

 その私は今、スイスイと歩いている。だから本来なら、それに感謝しなければならない
はず。「ありがたいことだ。私は、スイスイと歩けるではないか」と。

 となると、感謝するということは、今の状態に満足し、それを実感し、それを大切にす
るということになる。だれかに向かって、「thank you」と言うことではない。今
の状態を自覚して、それを維持することをいう。

 だいたい、「感謝する」ということには、いつも、反動として、不満をともなう。わかり
やすい例としては、こんなことがある。

 たとえば親が、子どもに向かって、「五体満足に、産んでやった。感謝しろ」と言ったと
する。それはそうかもしれないが、もし、そうでなかったら、どうする?

 たとえば体に障害をもって生まれた子どもは、どうする? まさか、そういう子どもに
向かって、「親をうらめ」とも言えないだろう。

 どんな状態であっても、そのときの状態を受け入れながら、生きていく。それが現状維
持ということ。そしてその状態に満足し、それを大切にする。

 「よくね、政治家が落選したりすると、マスコミなんかは、『これからはただの庶民です』
などと言う。庶民であることを、どこかバカにしたような言い方をする。あるいは、反対
に、政治家が、何か、汚職のようなことをすると、その庶民たちが、『あんな政治家は許せ
ない。落選させろ』とか言うよね。

 ぼくは、そういう言葉を聞くと、『では、ぼくは、どうなんだろう?』と思うよ。ぼくだ
って、その一庶民にすぎない。最初から、最後まで、ただの庶民だよ。

 わかるかな? 『感謝しろ』と言われると、まず、だれに感謝すればいいのかという問
題が起きてくる。つぎに、実は、ぼくには、もっといい人生があるのだが、それをあきら
めろというふうにも聞こえてくる。ぼくはぼくの人生を、自分で生きてきた。今も、生き
ている。これからも生きていく。

 精一杯、自分の人生を懸命に生きている。不完全で不満足なものかもしれないが、これ
がぼくの人生だよ。だから今のぼくにできることは、現状を維持すること。それだけだよ。

 いつか病気になって、体が不自由になっても、ぼくは、だれも、うらまない。後悔もし
ない。だからね、今、だれにも、感謝なんか、しないよ。だって、だれかの力で生きてい
るわけではないもの。そうだろ?」と。

 「キリスト教の人だったら、神に感謝しろと言うかもしれないわよ」

 「だったら、神も、私のような人間を助ける力があったら、ほら、あの原爆の少女の『サ
ダコ(偵子)』のような子どもを、助ければいい。そういう子どもは、今の今でも、いくら
でもいる。なぜ、そういう子どもを助けないのかということになる。あのサダコにしても、
ぼくよりも、何千倍も生きることを願い、何千倍も、神に祈ったよ。

 ぼくなんか、助けてほしくない。ぼくはぼくで、もう、じゅうぶん、楽しい人生を送っ
てきた。で、そんな力があるなら、その力でもっと必要としている人を助けたらいい」と
私。

●夕食

 そんな私でも、ふとこう思う。「こういう平和で、のどかな時(とき)は、それほど長く
はつづかないだろうな」と。

 結局は、うな丼だけでは足りず、いっしょに買ったイカの塩辛で、ごはんを食べなおす。
それにキムチもあった。

 市販のキムチに、干しえびや、花かつおをまぜて、2、3日置くと、味がまろやかにな
る。日本人向きになる。私の好物のひとつである。

 ……それはわかっている。つまり、こういう時のもつ、はかなさというか、それは、わ
かっている。つい先日までは、この台所には、息子たちの騒がしい声があふれていた。が、
つぎの瞬間の、今、それは消えた。

 長男は、夕食を終えると、そそくさと、自分の部屋に消えた。残された私とワイフは、
ポツポツと夕食を口に運ぶ。しかしこんな時は、いつまでつづくのだろうか。

 「時よ止まれ」と何度、心の中で叫んでも、その時は、手ですくいあげた砂のように、
指の間から、容赦なく漏れ落ちていく。つまりこうして私の人生は、流れていく。やがて
いつか、私たちのどちらかが先に死に、どちらか一方が、あとに残される。

 健康だって、いつまでつづくかわからない。頭も、そのうちボケ始めるだろう。兄がボ
ケたから、私だってあぶない。姉も自分では気がついていないようだが、どこかボケ始め
ている。つぎは、私の番だ。

 そんな気持ちを、以前、オーストラリアの友人の父親に手紙で伝えたことがある。が、
それに対して、その父親は、こう書いてくれた。

 「ヒロシ、子どもが去っていくことを悲しんではいけないよ。今度はね、みんなが孫を
連れて遊びにきてくれるよ」と。

 実は、ワイフもそう言っている。私が、「これからは、もっとさみしくなるね」と話しか
けると、こう言った。

 「あなたは、どうしてものの考え方が、そうも、ジジ臭いのよ。若いときから、ジジイ
みたいなことばかり言っている。今度、S(二男)が、政司(孫)をつれて、日本へ帰っ
てくるのよ。私、楽しみだわ。いっしょに、ディズニーランドへ行ってあげるわ」と。

 どうせ、ワイフなどに、人生の真理が何であるかについて話しても、わかるはずもない。
昔から平凡を地でいくような、生き方をしてきた。50歳を過ぎているのに、まだ小娘の
ようなつもりでいる。しかし結局は、それが正解ということになるのか?

 どこかに大きな迷いを感じながら、私は自分の書斎にもどった。
(050503)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司」

●5月30日号

 やっと先ほど、5月27日号の配信予約を入れた。遅れること、やく1週間。このとこ
ろ、風邪をひいたりと、どうも調子がよくなかった。

 今日(5月3日)は、予定ゼロ。仕事ゼロ。来客ゼロ。すべてゼロ。あえて、連休中は、
ゼロにした。しかし、朝から頭が重い。偏頭痛の前ぶれ(?)。

 この偏頭痛のいやな点は、休みになって、ホッと息が抜けたとたん、出てくるところ。
チカチカと、目の上を閃光(せんこう)が走る。やはり偏頭痛である。

 が、今は、すばらしい薬がある。本当によくきく。それをのんで、しばらく横になる。
それでなおる。

 ……で、今は、ほとんど、偏頭痛が消えた。が、ワイフとの買い物は、キャンセル。だ
れもいないこの家で、こうしてパソコンのキーボードをたたく。しかし家の中にいてもし
かたないので、これからハナと散歩。

 偏頭痛というのは、頭の血管が 弛緩して(=ゆるんで)、それで血管の周囲の神経を圧
迫して、起きるのだそうだ。若いころは、そのメカニズムもわからず、したがって、もち
ろん薬もなく、かなり苦しんだ。

 そうそう偏頭痛の薬だけでは、偏頭痛は、うまくなおらない。精神安定剤を併用すると
よい。私のばあいは、精神安定剤を、2分の1ほどに割って、口の中で溶かしてのんでい
る。本当は、1日3回、3錠をのむのだそうだが、そんなにのんだら、気がヘンになって
しまう。(そんなにのんだことがないので、よくわからないが……。)1日、2分の1錠で、
じゅうぶん。

 こうした精神薬は、偏頭痛薬も含めてだが、処方されたとおりには、のまないほうがよ
い。最初は、少量で試してみて、それできかなかったら、少しずつ量をふやしていく。自
分の体に合った量が、それでわかる。

 これは、私の勝手な判断なので、私のマネをしないように! みなさんは、医師の指示
にしたがって、くすりをのんでほしい。


●K国の核実験

アメリカの情報当局は、北朝鮮国内における建設重機などの大がかりな動きを捕捉、地
下核実験の準備が行われている可能性があると通告した(3日)。

これに対して、韓国のI国防相は3日の閣議前、記者団に対して、北朝鮮国内に通常と
異なる動きは見られないとコメントした(同日)。

 韓国は、どこまでも、K国をかばう姿勢らしい。

 数日前も、K国は、日本海に向けてミサイルの発射実験をした。どうやら核ミサイル運
搬用の巡航ミサイルの実験だったようだが、それについても、韓国の軍当局は、「北朝鮮地
上軍(陸軍)が通常の訓練を行う過程で短距離誘導ミサイル(射程120キロメートル以下は
誘導ミサイルとして分類) を発射した見ている」(C日報)とのこと。

 つまりふつうの短距離ミサイルだから、問題は、ない、と。

 何か、におうぞ! 何か、臭いぞ!

 ひょっとしたら、ひょっとして、K国の核開発に、韓国がからんでいる可能性すら、あ
る(?)。

 「いくらなんでも、そこまでは……」と思いたいが、何があってもおかしくないのが、
今の朝鮮半島情勢。以前、N大統領の側近が、「K国の核開発は、統一後の韓国にとっても
有利」というような発言をしている。またN大統領の側近の中に、元K国労働党の党員だ
った人もいるとか。

 私が外務省の情報部の調査官なら、このあたりに徹底的にメスを入れる。

 ひょっとしたら、ひょっとして、N大統領は、こんなふうに考えているのかもしれない。

 南北で共和制を敷いたあと、南北合同で、日本に対して戦後補償を迫る。そしてそれで
受け取ったマネーで、両国を立てなおす。

 N大統領は、口先では、K国の核兵器開発に反対し、「大規模援助はむずかしくなった」
と言っているが、開城工業団地の開発は、さらに続行している。04年度の南北の貿易高
は、7〜8億ドル程度(KOTRA=大韓貿易投資振興公社)ということになっているが、
だれも、こんな数字など、信用していない。

 ムラムラとわき起こってくる、韓国への不信感。恐らく日本の小泉首相や、アメリカの
ブッシュ大統領も、同じように感じているのではないか。
(05年5月3日記、発表時には、国際情勢が大きく変わっているかもしれません。)

(補記)

K国の昨年の貿易額は、2003年より19・5%増加して、28億5700万ドルだ
ったそうだ(KOTRA)。これは輸出入総額。これに対して日本の、貿易額は、111
兆5000億円(輸出、約61兆円、輸入、約50兆円、04年度、JFTC調べ)。

 つまりK国の貿易高は、30億円で計算しても、日本の約3万7000分の1。K国で
は、このところのハイパーインフレで、通常レートでも、1ドルが、2800ウォンにな
ってしまったという。(闇レートでは、もっと低いはず。)

 つまり平均的労働者の1か月の給料が、とうとう、1ドル(=105円)を切ってしま
った。たったの1ドルだぞ! 

 崩壊するのは、時間の問題だと思うのだが、あの国は、どうして崩壊しないのだろう? 

 (偏頭痛が消えて、少し、調子が出てきたようだ。よかった!)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司



●どうにも、よく理解できない

 飛行機やヘリコプターが墜落したというニュースを聞くたびに、ドキッとする。三男が、
航空大学にいることもある。

 しかしどうも、それだけではないようだ。つい最近は、どこかの県に所属するヘリコプ
ターが、墜落した。その事故の模様が、昼の定時ニュースで流された。私は、その場面を
見て、唖(あ)然とした!

 少し話は昔にもどるが、5、6年前に、こんな事故があった。

 川の中瀬で取り残された人たちが、やがて濁流にのまれて死亡するという事故だった。
そのとき、かけつけた救助隊がとった手段は、川の上流に、川を横断するようにロープを
かけ、いわばロープウェイ方式で、中瀬に取り残された人たちを救助するという方法だっ
た。

 いろいろ事情はあったのだろう。しかしそのとき、なぜ、まず命綱をその人たちに投げ
ておかなかった……という疑問が、どうしても頭から離れない。

 テレビでその模様を見ていたとき、先頭に立った男性が、手を大きく伸ばし、頭の上で
クルクルと円を描いていた。

 それを見て、だれだったか、解説者が、「ヘリコプターを求めているようです」と言って
いた。しかし私はその光景を見たとき、私には、「とりあえず、ロープを投げてくれ」と言
っているように見えた。

 ロープを投げろと合図するときも、同じようなジャスチャをする。

 さらに1週間ほど前、大阪で、列車の脱線事故があった。この事故では、100人以上
の人が死んだ。

 その事故のとき、何でもその電車の中に、JRの職員が2人もいたという。しかしこれ
ら2人の職員は、何ら救助活動を手伝うこともなく、そのまま自分たちの職場に行ってし
まったという。

 これら三つの話は、どこかで、つながっている。

 私は、ヘリコプターの墜落現場の映像を見たとき、唖然とした。それについては、すで
に書いた。理由がある。

 携帯電話か、それともデジタルカメラかは知らないが、映像をとる前にすべきことがあ
ったのではないか、と。

 同じ映像には、別の人たちが、携帯電話で写真をとっている姿まで、映しだされていた!

 さらにショッキングだったのは、最初は、小さな火だったこと。横転したヘリコプター
のエンジン部から、チョロチョロと火が出ていたにすぎなかった。しかしやがてその火は
大きくなり、つぎの場面では、ヘリコプター全体をおおうようになっていた。

 その間中、まわりの人たちは、いったい、何をしていたというのだろうか? ずっと何
もしないで、写真をとりつづけていたとでもいうのだろうか。

 そばにはマンションがあった。そのヘリコプターは、一度、そのマンションの近くの民
家の屋根をかすめている。アパートには、消火器があるはず。なぜまわりの人たちは、消
火器を持ち出さなかったのだろうか。

 終わりごろの写真には、ヘリコプターがはげしく燃えあがるところまで映しだされてい
た。が、消火剤をかけた様子は、まったく、なかった。

 だからといって、映像をとっていた人を責めているわけではない。ヘリコプターは、爆
発する可能性もあった。そう考えて、その人たちは近づかなかったのかもしれない。しか
し消火器で消化剤を噴霧すれば、かなりの距離まで届くはず。

 報道を見た感じでは、カメラの位置からなら、ヘリコプターまで、消化剤はじゅうぶん、
届いたものと思われる。最初の段階で、まだヘリコプターの中の人たちは、生きていたか
もしれない。その可能性まで考えると、ゾッと、背筋が冷たくなる。

 なぜカメラで映像をとる前に、ヘリコプターの中の人たちを助けることを考えなかった
のか。プロの戦場カメラマンならいざ知らず、写真をとったのは、そのあたりに住んでい
る住民たちであったはず。

 で、今度は、救助隊の話。

 あの事故のときは、ロープ1本でも渡しておけば、何人かの人たちは、助かったはず。
何本も投げておけば、ひょっとしたら全員、助かったかもしれない。しかし肝心の、そう
した初動措置はとらないで、ロープウェイ方式とは?

 で、救助する段階になって、そのロープが切れてしまったという。そこで再度やりなお
している最中に、ダムがより多くの水を放水してしまった。それで、中瀬に取り残された
人たちは、そのまま流されてしまった。

 で、最後に、電車の脱線事故。

 JRの職員たちは、その場を離れて、歩いて、職場へ。理由を聞かれると、「気が動転し
てしまった」とか。けがをしなかった乗客の中には、そのまま救助活動に参加した人もい
る。にもかかわらず、歩いて、現場を離れてしまった!

 こうして三つの話を並べてみると、何かが、おかしいことに気づく。何かが、おかしい。

 私は、それを「野生臭の欠落」と、断言する。

 どんな動物でも、緊急の場になれば、その緊急に応じて、臨機応変の行動をとる。もち
ろん人間も、そうだと思う。しかしこれら三つの話には、そうした野生臭が感じられない。
写真でいえば、どこかピントがボケている(失礼!)。

 「ぼくなら、何も考えず、消火器を取りに走るけどな」とワイフに言うと、ワイフも、「そ
うねえ」と。

 さらに中瀬に取り残された人たちの話をしながら、「ぼくなら、まずロープを投げておく
けどな。救助の段取りを考えるのは、そのあとだ」と。

 さらに脱線事故の現場から離れたJRの職員については、言語道断。あいた口が、ふさ
がらない。まさに、お役人根性そのもの! 「必要なことはします。しかしそれ以外のこ
とは、何もしません」と。「気が動転した」というのは、まったく理由になっていない。責
任感の欠如などという、甘いものではない。

 どれもこれも、日本人の精神構造の問題か。長くつづいた平和と安定のおかげで、(それ
自体はすばらしいことだが)、日本人全体が、どこかがボケてしまった。そんな感じがする。

 これでいいのか、日本! ……と、カツを入れたところで、この話は、おしまい。「お前
ならできるのか」と聞かれると、実のところ、私にも自信がない。
 

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.        =∞=  // (奇数月用)12
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 27日(No.573)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●虐待ママ

 子どもを虐待する親(とくに母親)を見ていて、「?」と思うことがある。どこに問題が
あるとも、見えない。ごくふつうのおだやかな母親であることが、多い。むしろ柔和な笑
みを絶やさず、やさしい母親といった感じがする。話し方もていねい。

 (虐待ママにも、いろいろなタイプがあるが……。)

 また子どもは、子どもで、そういう母親であるからといって、とくに嫌っているといっ
たふうでもない。「ママ、ママ……」と、ベタベタと甘える様子さえ見せる。

 が、よく観察すると、母親は、どこかつかみどころがない。言動が、どこか不自然。演
技ぽい。

 子どもは、甘えてはいるが、本当に母親を慕っているというよりは、依存性からそうし
ているといったふう。その年齢にしては、どこか幼稚ぽく、自立心がない。母親に甘える
といっても、ネチネチした甘え方をする。

 で、一度だけ、たまたまその母親が、子どもを虐待する現場を見てしまったことがある。
それは突発的だった。何かの拍子に、子どもが自分の思いどおりにならなかったのだろう。
突然、表情から血の気が引いたと思うと、その母親は、無表情のまま、子どもを投げるよ
うにして、障子戸に、体ごとぶつけていた。

 その力には、容赦がなかった。言葉もなかった。バシン、バシンと、2度。そのあと、
子どもが倒れると、そばにあったカップを、子どものほうというよりは、廊下のほうをめ
がけて投げた。子どもがワッと泣き出したのは、そのあとのことだった。

 このタイプの虐待ママは、しばらくすると、正気にかえる。正気にかえって、今度は、
必要以上に、子どもの機嫌をとったり、子どもにわびたりする。そして「ママは、あなた
を愛しているのよ」とか、何とか言う。

 ほかの特徴としては、何を考えているか、その心がつかめない。その母親の向こうに、
もう一人の別の母親がいて、その母親がこちらをニンマリと観察しているといった感じに
なる。母親自身も、何らかの心のキズをもっていることが多い。あるいは自分でも、どう
することもできないのかもしれない。

 カッとなると、見境なく、行動に出てしまう。脳の抑制命令がきかなくなってしまう。
精神そのものが、ノーコン(制御不能)状態になる。だからたいていの虐待ママは、こう
言う。

 「つい、カッとなってしまうのです」と。

 だから虐待の問題を、理性の範囲で説いても、あまり意味がない。だから、子どもは、
保護されねばならない。そういった母親から切り離して、施設へ入れなければならない。

重要なことは、そのときどきの母親の様子に、だまされないこと。先にも書いたように、
見た感じは、むしろやさしい母親であることが多い。だから「もう、虐待しません」な
どと言われたりすると、つい、その気になって、心を許してしまう。しかしそれでは、
この問題(子どもの保護)は、解決しない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●トラブル・メーカー

 ある県のある小学校に、「キング・トラブル・メーカー」と呼ばれる母親がいるそうだ。
現在は、長男の時代から、その小学校に、もう8年もいるという。その妹が、今年、5年
生になった。

 その母親は、ささいなことでからんで、学校へ怒鳴りこんでくるという。40歳を過ぎ
たベテラン教師(男性)ですら、その母親から電話がかかってくると、顔が青ざめてしま
うという。

 とにかく、しつこい、ということらしい。

 あるとき、担任の教師が、その妹の頭を、プリントを丸めてたたいた。たたいたという
より、トントンとたたいたというほうが正しい。

 が、その3日後のこと。その母親がいきなり、校長室へ飛び込んできた。そして、「(担
任の)○○を呼んでこい!」と。

 校長が「どうしましたか」と聞くと、「うちの子をたたいたそうだが、許せない。うちの
子になんてことをするのだ!」と。

 あわててやってきた担任には、その意識がない。たたいたという意識がないから、覚え
ていない。そこで「たたいた覚えはありません」と答えると、「相手が子どもだと思って、
いいかげんなことを言うな!」「うちの子(娘)は、私には、ウソをつかない!」と。

 そうして1時間ほど、ねばったという。

 で、こういうことが、1、2か月おき。あるいは3、4か月おきにつづいた。電話を受
け取っただけで、顔が青ざめるようになるのは、当然である。

 その男性教師(40歳)から、「そういうときは、どうしたらいいでしょうか?」と。

 私の経験では、(1)こちら側からは、いっさい、アクションをしない。その場だけのこ
とですまして、あとは、ただひたすら無視するのがよいと思う。そう返事を書いた。

 何かアクションを起こすと、それがとんでもない方向の飛び火することがある。そして
ときとして、収拾がつかなくなってしまう。

 メールの内容からして、相手の母親は、まともではない。このタイプの母親は、全体の
5%はいるとみる。育児ノイローゼ、過関心、過保護、過干渉。その母親自身が、どこか
に心の病気をもっていることもある。あるいは、アルツハイマーの初期の、そのまた初期
症状というのもあるそうだ。

 異常なまでの自己中心性、傲慢、強引などなど。妄想性も強く、対処のし方をまちがえ
ると、烈火のごとく怒りだす。詳しくは書けないが、私も若いころ、そのタイプの母親に、
さんざんいびられた。当時は、そのため、母親恐怖症にさえなってしまった。「お母さん」
と相手を呼んだとたん、ツンとした緊張感が、背中を走ったのを覚えている。

 しかしここに書いた鉄則を守るようになってから、トラブルは、ほとんどなくなった。
要するに、その場だけ相手にして、あとは、忘れる。この世界には、『負けるが勝ち』とい
う、大原則がある。意地を張ったり、反論しても、意味がない。まず、頭をさげて、「すみ
ませんでした」と言えばよい。あちこちで問題にすると、かえってこじれてしまう。

 ささいな言葉尻をつかまえて、「言った」「言わない」の、大騒動になることもある。だ
から、無視。ただひたすら、無視。あとは、時間が解決してくれるのを待つ。

 で、その母親は、校長室で、「隣の席にすわっている女の子を呼んでこい」と息巻いたと
いう。「その子どもが、証人になってくれる」と。

 校長が「そこまでは、できません。相手の子どもにショックを与えることになりますか
ら」「これからは気をつけますから、許してください」と、再三再四、頭をさげたという。

 こういうトラブルは、学校という世界では、まさに日常茶飯事。しかし一番の犠牲者は、
その母親の子どもということになる。

 そのメールをくれた教師は、こう書いている。

「その子が、たたかれたとウソを言ったのは、宿題をやっていなかったからです。それ
で学校へ行きたくないと言った。が、母親には、それを言うことができなかった。それ
で、その子は、母親に、ウソを言ったのだと思います。ああいう母親ですから、子ども
も、ウソをつくしかなかったのですね」と。
 
 あなた周囲にも、1人や2人、必ず、このタイプの母親がいるはず。つきあうにしても、
じゅうぶん注意したほうがよい。とくに、口がうまく、ヘラヘラと、どこか不自然なほど
までに、親しげに近寄ってくる母親には要注意。これは、ある幼稚園の理事長がこっそり
と私に話してくれたことである。 

(付記)

 それでもトラブルが起きてしまったら……。学校での活動は、必要最小限にして、学校
そのものから遠ざかること。

 時間には、不思議な力がある。その時間が解決してくれる。

 またこうしたトラブル・メーカーは、あなたに対してだけではなく、別のところでも、
トラブルを起こすようになる。あとの判断は、周囲の人たちに任せればよい。性急に、自
分の正しさを主張したりすると、かえって問題が、こじれる。

 ほかの世界でのことなら、ともかくも、間に子どもがいることを、決して忘れてはなら
ない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●マザコン女性

 心理学の本をパラパラとめくっていたら、こんな記事があった。

 「女性にもマザコンはいる。しかもそのマザコン性は、男性のそれより、強烈」と。

 どの本だったかは、忘れたが、マザコンになるのは、何も、男性ばかりではないという
ことだ。知らなかった! ……というより、考えたことがなかった。

 私は、「男」だから、いつもその男を基準にして、ものを考える。そういう意味で、どう
しても女性の心理にうとくなる。ここに書いたマザコンにしても、男だけが、そうなるも
のとばかり思っていた。

 しかし考えてみれば、つまりそのメカニズムを考えてみれば、マザコンになる女性がい
ても、何らおかしくはない※。少し前だが、ファザコンの若い女性に出会ったことがある。
その女性は、「父親の悪口はぜったいに許さない」と、がんばっていた。

 しかしそこは、同性。男性がマザコンになるのと、少し内容がちがうようだ。特徴とし
ては、つぎのようなものが考えられる。

(1)母親の絶対化……母親を絶対視する。
(2)母親の偶像化……母親に幻想を抱く。
(3)濃密な自我群……濃密な親子関係。
(4)異常な孝行性……母親に献身的に尽くす、など。

 この(3)の「濃密な自我群」というのは、親子という(ワク)から生まれる束縛感を
いう。親子関係が正常なときは、むしろよいほうに作用するが、ひとたび親子関係にヒビ
が入ると、今度は、その反対に、子どもは、そのワクに縛られ、そのワクの中で、もがき
苦しむことになる。「親子といっても、ただの人間関係」という割り切りができない。親の
できが悪ければ悪いほどそうだが、そのできの悪ささえ認めることができない。

 頭が半分ボケた母親(80歳くらい)に対して、「母だから、わかってくれるはず」「こ
んなはずはない」と、がんばっていた娘(55歳くらい)がいた。

 が、問題は、ここで終わらない。

 マザコン男が、恋愛や結婚に失敗しやすいということは、よく知られている。理想の女
性(マドンナ)を追い求めすぎるためである。つまりマザコン男は、いつも無意識のうち
にも、母親の代用としての女性を求める。

 自分を絶対的な愛で包んでくれる女性、である。

 しかしそんな女性など、いるわけがない。そこでマザコン男は、浮気という、女性遍歴
(へんれき)を始める。実際、マザコン男ほど、浮気しやすい。このことも、この世界で
は、常識。

 一方、マザコン女性は、マザコン的でありながら、今度は反対に、自分を理想の母親と、
偶像化しやすくなる。自分をまさに、聖母(マドンナ)化するわけである。

 しかし、そこには、自ずと無理がある。反動形成によって、別人格をつくることもある
し、自分自身のシャドウ(ユング)に苦しむこともある。そのためどこか不自然な母親に
なりやすい。それこそ夫が浮気でもしようものなら、狂乱状態になる。

 「どうして、私のようなすばらしい妻がいるのに!」と。

 そして自分の子どもに対しては、無意識のまま、男児であれ、女児であれ、マザコン的
であることを求めるようになる。またそういう子どもほど、いい子というレッテルを張り
やすい。あるいは自分の息子や娘が、マザコン的になっても、それに気がつかない。

 こうしてマザコン性が、代々と、受けつがれていく。

 少し前だが、こんな例があった。

 妻が、勝手に実家の母親と、新居を買う話を進めてしまった。妻は、母を引き取って、
いっしょに同居するつもりでいたらしい。

 しかし毎月の返済額を計算してみたところ、その夫の給料では、とてもまかないないこ
とがわかった。そこで夫が、「そんな家は買えない」「母とも同居しない」と言った。とた
ん、その妻と、妻の母親は、その夫を、責め始めたという。

 「恥をかかせた!」と。

 ふつうの責め方ではなかった。まさに狂乱に近い、責め方だったという。毎晩、電話で、
1時間以上、母と妻(=その母の娘)が、ギャンギャンと、夫を責めたてたという。「恥を
かかせた」というのは、近所や親戚の人たちに、今度家を建てると宣言してしまったこと
をいう。

 結局、妻は、実家のあるM県に帰ってしまい、その夫婦は、離婚してしまった。

 つまりその妻にしてみれば、夫など、ただの(飾り)だったということになる。女性の
マザコン性を、決して、軽くみてはいけない。

 そこであなた(女性)のマザコン度テスト

( )何かにつけて、母親に相談している。母親と行動をともにしている。
( )夫よりも、母親優先の生活。どちらを選ぶかと聞かれれば、迷わず「母」と答える。
( )母親の批判、悪口は許さない。たとえ相手が兄や弟でも、許さない。
( )母親に対して、観音様であるかのような幻想をいだいている。
( )年老いていく母親のめんどうをみるのは、娘の絶対的な義務だと思っている。
( )母といっしょに風呂に入ったりすることが多い。背中を洗ってあげたりする。
( )自分は母親とすばらしい人間関係を築いていると確信することが多い。
( )私はすばらしい母親であると同時に、すばらしい妻であると思うことがある。
( )夫は、私のことをすばらしい妻と思っている。子どもはすばらしい母と思っている。
( )いつも自分の母親を理想像として、その理想像に合わせて、行動を決める。

 以上のような症状がみれれたら、あなた(女性)は、マザコン女性と考えてよいのでは
……。どうか、注意してほしい。
(はやし浩司 女性のマザコン マザコン女性 マザコンタイプの女性 マザコン)

【注※】
 ふつう「マザー・コンプレックス」というときは、母親と男子間の、特殊な心理状態を
さす。

 濃密な母子関係が、本来あるべき男子の母親からの独立を阻害し、それでもって、特徴
的な症状を示すことをいう。

 こうした濃密な母子関係を、調整するのが。父親の役目ということになる。が、この父
親自身の「力」が弱いとき、父親自身がマザコンであるときなどには、このマゾコン性は、
代々と、世代連鎖しやすい。

 しかし男児と女児を分けて考えることのほうが、おかしい。女性だって、その環境で育
てば、男のそれとは形こそちがうが、マザコン性をもったところで、おかしくない。また
そういう視点でも、この問題を考えてみる必要がある。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親に命令をする子ども(本末転倒)

 とくに盗み聞きしたというわけではない。バス停でバスをもっていると、小学5、6年
生とおぼしき女の子が、母親と思われる人に携帯電話をかけていた。

 どうやらどこかの塾へ行く途中なのだが、何かの忘れ物をしたらしい。

子「何、言ってのよ! もってこいよ!」
子「いいじゃない、そんな仕事。少し休めばア!」
子「だから、もってこいって、言っているのよ」
子「いつものところよ。階段の下のところだよ」
子「サッサともってこい。外で待っているから」
子「あのさ、玄関の横に、自転車置き場があるだろがさ。そこだよ」
子「……うるせえなあ……。うるせえのは、テメエのほうだろがさ」と。

 電話の内容からすると、その女の子が、母親に、忘れ物を届けろと言っているらしい。
が、母親は、何らかの仕事中。こうして文字で書くと、その場の雰囲気はわからないかも
しれないが、かなり、……というより、ヤクザ風の男が怒鳴り散らしているといった感じ。

 しかも、まわりに私のような人間がいることなど、まったくの、お構いなし。平気。傍
若無人(ぼうじゃくぶじん)。

 親子の立場が転倒する……今では、何も珍しくない。よくある。ざっとみても、15〜
20組に1組はそうではないか。しかも母親と娘の関係が、転倒するケースが多い(?)。
目だつ(?)。

 こういうケースでは、たいてい親のほうが、そういう状況を受け入れてしまっている。
あるいは「親子というのは、そういうもの」といったように考えている(?)。そこにいた
るまでには、長い歴史と積み重ねがある。だからそういう状況を見て、あれこれ説教して
も、意味はない。

 もちろん親のほうから、相談があれば、話は別だが、親自身も、「どこの親子も、そんな
もの」と考えているフシがある。そうでない親から見れば、「何というドラ娘!」というこ
とになるのだが……。

 子どもの歓心を買うことだけを考えていない親。
 結局は、子どもの言いなりになってしまう親。
 子どもがこわくて、何も言えない親、などなど。

 こうした親子関係は、ある時期をすぎると、悪循環状態に入る。そしてあとは、ズルズ
ルとそのまま……。気がついたときには、冒頭のような会話になる。

 電話の向こうの様子はわからないが、多分、その母親は、娘のその子どもの機嫌をそこ
ねないように、ペコペコしているのだろう。オドオドしているのかもしれない。

 携帯電話を、憮然(ぶぜん)とした様子で切りおわったとき、私は、その子どもに、よ
ほど言ってやろうかと思った。「あなたねえ……」と。しかし、それはやめた。先にも書い
たように、それぞれの家には、それぞれの家の事情というものがある。その事情は、外部
のものからは、はかり知れない。たまたまその日だけ、そうだったのかもしれない。

 しかしこうした芽は、実は、子どもが4、5歳のころには、はっきりしてくる。もう少
し詳しく観察すれば、3、4歳でもわかる。

 子育ては、そういう意味では、リズム。一度、このリズムができると、それを変えるこ
とは容易なことではない。だから、大切なことは、今、親子の関係が、どのようなリズム
で流れているかを知ること。

 それがよいリズムであれば、問題はない。しかしここに書いたような本末転倒になって
いるようなら、できるだけ早い時期に、それを改める。でないと、結局は、損をするのは、
その子ども自身ということになる。

+++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

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●「親のために、大学へ行ってやる」

本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。

そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。
それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それ
だけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだ
が、今、こういう若者がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめ
んどうを、あなたはみるか」と。それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた
若者は、たったの19%! 

この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジ
アの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、
その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。このことからもわかる
ように、若者たちのドラ息子化は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになっ
た。金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、
平均27万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。そ
れこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生は、大学生とは名ば
かり。大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている! 先日も京都に住む自分の息子
の生活を、見て驚いた母親がいた。春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけ
っぱなし。毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。
何をいまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもす
らいる。今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではない
か。大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるい
はブランドだけで、大学を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業
できたという学生もいる(新聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。

「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。
私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、
さらにこう言った。

「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だ
けでも、月に四万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うこと
ができるだろうか。

(補記)(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約27
万円。毎月の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生を
かかえる親の平均年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平
均借金額は、182万円。99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「皆さん、気をつけてくださいよ」

悪徳化する学習産業

 ある教材会社の主催する説明会。予定では九時三〇分から始まるはずだったが、黒板に
は、「一〇時から」と書いてある。

しばらく待っていると、席についた母親(?)の間からヒソヒソと会話が聞こえてくる。
「お宅のお子さんは、どこを受験なさいますの」「ご主人の出身大学はどこですか」と。
サクラである。主催者がもぐりこませたサクラである。こういう女性が、さかんに受験
の話を始める。母親は受験や学歴の話になると、とたんにヒステリックになる。しかし
それこそが、その教材会社のねらいなのだ。

 また別の進学塾の説明会。豪華なホテルの集会ルーム。深々としたジュータン。漂うコ
ーヒーの香り。そこでは説明会に先だって、三〇分間以上もビデオを見せる。内容は、(勉
強している子ども)→(受験シーン)→(合否発表の日)→(合格して喜ぶ子どもと、不
合格で泣き崩れる母子の姿)。しかも(不合格で泣き崩れる母子の姿)が、延々と一〇分間
近くも続く! ビデオを見ている母親の雰囲気が、異様なものになる。しかしそれこそが、
その進学塾のねらいなのだ。

 話は変わるがカルト教団と呼ばれる宗教団体がある。どこのどの団体だとは書けないが、
あやしげな「教え」や「力」を売りものにして、結局は信者から金品を巻きあげる。この
カルト教団が、同じような手法を使う。

まず「地球が滅ぶ」「人類が滅亡する」「悪魔がおりてくる」などと言って信者を不安に
する。「あなたはやがて大病になる」と脅すこともある。そしてそのあと、「ここで信仰
をすれば救われます」などと教えたりする。人間は不安になると、正常な判断力をなく
す。そしてあとは教団の言いなりになってしまう。

 その教材会社では、中学生で、年間一二〇万円の教材を親に売りつけていたし、その進
学塾では、「入試直前特訓コース」と称して、二〇日間の講習会料として五〇万円をとって
いた。特にこの進学塾には、不愉快な思い出がある。

知人から「教育研修会に来ないか」という誘いを受けたので行ってみたら、研修会では
なく、父母を対象にした説明会だった。しかも私たちのために来賓席まで用意してあっ
た。私は会の途中で、「用事があるから」と言って席を立ったが、あのとき感じた胸クソ
の悪さは、いまだに消えない。

 教育には表の顔と、裏の顔がある。それはそれとして、裏の顔の元凶は何かと言えば、
それは「不安」ではないか。「子どもの将来が心配だ」「子どもはこの社会でちゃんとやっ
ていけるかしら」「人並みの生活ができるかしら」「何だかんだといって日本では、人は学
歴によって判断される」など。

こうした不安がある以上、裏の顔はハバをきかすし、一方親は、年間一二〇万円の教材
費を払ったり、五〇円の講習料を払ったりする。しかしこういう親にしても日本の教育
そのものがもつ矛盾の、その犠牲者にすぎない。一体、だれがそういう親を笑うことが
できるだろうか。

 ただ私がここで言えることは、「皆さん、気をつけてくださいよ」という程度のことでし
かない。こうした教材会社や進学塾は、決して例外ではないし、あなたの周囲にもいくら
でもある。それだけのことだ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●スパムメール

 毎日、毎日、よくもまあ、こういうスケベメールが、くるものだ!

 件名:「ちょっと話を聞いてください」
 件名:「少し、お時間、いただけません?」
 件名:「近くに住む、○○です」と。

 1日に、30〜50件は、届く。

 事務所にある古いノートパソコンで、一度、そのメールを開いてみたことがある。その
パソコンなら、ウィルスが入っても、どうということはない。

 で、中身は、ホームページの紹介。アドレスが、いくつか、並んでいた。しかしそうい
うものは、絶対に、クリックしてはいけない。無視して、削除。それにまさる対処方法は、
ない。

 こうしたスパムメールが届くということは、こちらのアドレスが、どこかで漏れている
ということ。調べ方は、簡単。

 ヤフーかグーグルの検索窓に、自分のアドレスを打ち込んで、検索してみればよい。そ
れでわかる。

 検索結果がゼロであれば、心配ない。しかしアドレスが漏れているときは、そこにズラ
リと、検索結果が並ぶ。

 ちなみに私のアドレスを検索してみたら、……ナ、何と、ズラリと、22項目も出てき
た! 自分では気がつかなかったが、いつの間にか、知らず知らずのうちに、アドレスを、
あちこちに、書き込んでしまっていた。

 これから先、ゆっくりと、一つずつ削除していくしかない。

 それにしても、ホント! 毎日、毎日、よくもまあ、こういうスケベメールが、くるも
のだ!

【補足】

 私のばあい、スケベは嫌いではない。スケベであることは、生きる原動力にもなってい
る(フロイト)。だからスケベを否定してはいけない。スケベであることは、それ自体、す
ばらしいことなのだ。

 しかしスケベというのは、与えられて、そうなるものではない。あくまでも、自分の心
の中の、炎(ほのお)のようなもの。その炎が燃えて、生きる原動力となる。

 ただその方向は、何も、セックスだけに向いているわけではない。「真」「善」「美」を追
求しながら、そこにかぎりないエクスタシー(恍惚感)を覚えることだって、ありえる。

 そんなわけで、年齢がかさむと、「スケベ」の意味が、かなり変わってくる。その証拠に、
セックスだけの人間関係に、むなしさすら覚えるようになる。このむなしさが、行動に対
して、大きなブレーキとなって働くようになる。

 本能に翻弄(ほんろう)される、バカらしさというか、そういう自分が、いやになるこ
ともある。だから、50歳をすぎても、若い女性を追い求めて、がんばっている男たちを
見ると、「ごくろうさま」と思うよりも先に、あわれみすら覚える。

 が、私だって「男」。それなりの性欲を感ずることはいくらでもある。たとえば教室へ参
観にくる母親たちは、例外なく、みな、若くて、美しい。

 しかしそういった母親たちは、レストランの陳列台に並んだ、料理の見本のようなもの。
間には、分厚いガラスがあって、手をのばすこともできない。しかしそのとき感ずる、「切
なさ」こそが、これまた、オツなもの。どこか自虐的な快感だが、決して、悪いものでは
ない。

 その切なさを、チビチビと感じながら、毎日を、それなりに楽しく生きていく……。と
まあ、私にとってのスケベというのは、そういうもの。それをいきなり、「若い子を紹介し
ます」とは!

 興味を通りこして、嫌悪感すら覚える。何かしら、人間の愚かさを見せつけられたかの
ような嫌悪感である。「やめろ」と言ったところで、どうせやめるような連中ではないだろ
うから、やめろとは言わない。

 どうぞ、語勝手に! おおいに自分の時間をムダにして、人生をムダにすればよい。い
つか、悔恨のウズの中で、もがき苦しむことになる。私の知ったことではない!

 まあ、やはり無視して、こまめに、フィルターをかけていくしかないようだ。今のとこ
ろは……。

【読者の方へ】

 そんなわけで、読者の方からも、多くのメールをいただきますが、

(1)相談ごとは、掲示板のほうへお願いします。返事を書くにしても、私にとっては、
転載の許可を求めなくてすみ、楽です。

(2)メールをくださるについても、件名のところに、必ず、ご住所、お名前をお書きく
ださい。「先日、返事をいただきました鈴木です」などというメールは、即、削除させてい
ただいています。

(3)これは私のパソコンのみならず、みなさんのパソコンの健康を守るためです。よろ
しくご協力ください。


●ミッシング・リンク

 人間の祖先は、どこでどのようにして生まれたのか。いろいろな説がある。ネアンデル
タール人、クロマニオン人、さらには、北京原人、ジャワ原人などなど。

 最近の研究では、人間の祖先の祖先は、どうやらアフリカ大陸で生まれたらしいという
ことまでわかってきた。それはそれとして、そのあたりを原点として、人間は、進化に進
化を重ねて、現在の人間になった。

 が、それでいわゆる、(ミッシング・リンク)の問題が解決されたわけではない。人間は、
ある時期から、突然、現在の人間になった。ふつう、進化というときは、少しずつの変化
が、そのつど、歴史の中に残っている。

 しかし人間には、それがない。つまり、それを(ミッシング・リンク)(切れた連鎖)と
いう。

 それには、これまたいろいろな説がある。一番、ロマンチックなのは、どこかの宇宙人
が、地球へやってきて、自分の姿形に似せて、そこらにいた猿人を、人間に改造したとい
う説。今でいう、遺伝子操作をすれば、それほど、むずかしいことではないらしい。

 で、それを頭の中で思い浮かべながら、しかしその説はおかしいのではないかと思う。
反対の立場で考えてみよう。

 そこにチンパンジーがいたとする。あなたは遺伝子操作の技術者だ。そのときあなたは、
そのチンパンジーを、自分の姿形に似せて、改造しようなどと思うだろうか。

 こうした「思い」には、強いブレーキが働く。道徳的、倫理的なブレーキである。仮に
人間の知能に関する遺伝子を、移植するについても、そこらの犬やサルに移植したら、ど
うなるか。

 そんなことは少し、想像力を働かせてみれば、だれにもわかること。結果は、……たい
へんなことになる!

 だからこの話は、あくまでも、ロマン。空想。SF(科学空想小説)。

 このところ、手塚治虫のコミックをよく読む。そのせいか、突飛もないことばかり、考
えるになった。気をつけよう。

+++++++++++++++++++++++

(補記)

 ミッシング・リンクについて……

 人類の歴史は、「霊長目(もく)」と呼ばれる、一群の哺乳類から始まる。

 この猿、つまり類人猿およびヒトの共通の祖先が、アフリカに姿を現したのは、今から
4500〜4000万年ほど前のことだと言われている(「謎の惑星(ニビル)と火星超文
明」より)。

 しかし現在の人間は、徐々に、なだらかに進化して今の人間になったのではない。とこ
ろどころ、100万年単位、ばあいによっては、1000万年程度の空白期間をおいて、
進化している。

 これをミッシング・リンクという。

 が、最近の研究では、細胞の中のミトコンドリアDNAの追跡から、すべての人間は、
30万年前の、1人の母親を起源としていることがわかってきた。

 「ミシガン大学のウェスリー・ブラウンは、このミトコンドリアの自然変異の度合から、
(最初の母親)の存命時期を算定することを試みた。また彼は、ミトコンドリアDNAの
提供者として、それぞれ人種と出身地の異なる21人の女性を選び出し、(最初の母親)の
居住地を特定しようとした。

 その結果、今から30万年〜18万年前に、アフリカに住んでいたいう(ミトコンドリ
アのイブ)の姿が、おぼろげながらに、浮かびあがってきたのだ」(同書)と。

 カルフォニア大学バークレー校のレベッカ・カーンも、同じような追跡調査をしている。
彼も、(ミトコンドリアのイブ)の存命時期は、30〜15万年前と算出している。こうし
た数字のハバは、DNAの変化率を、100万年あたり、2〜4%と、ハバをもたせてい
るためである。


●道徳的未熟児(?)

 アメリカのブッシュ大統領が、K国の金XXを、「暴君」「危険な人物」と評した。それ
に対して、K国が、反対に、ブッシュ大統領を、「人間のクズ」「道徳的未熟児」と、酷評
した。

 「暴君」という英単語は、それほど悪い意味ではない。またブッシュ大統領が、「危険な
人物」と評したことについても、事実、そうであるから、しかたない。

 しかし「人間のクズ」「道徳的未熟児」とは!

 とくに「未熟児」というのは、失礼ではないか。いや、ブッシュ大統領に対してではな
い。世界中の、未熟状態で生まれた子どもたちに対して、である。今では、医学も進歩し
ているから、「未熟」の定義もあいまいになってきている。私の孫のSGも、予定より2週
間早く、生まれている。未熟児といえば未熟児ということになるが、今では、何ら、問題
はない。

 むしろ問題は、そういう言葉を平気で、国際外交の場で使う、K国の感覚のほうにある。
少し前、国連という公式の場で、日本を、「ジャップ」と呼んだのに、似ている。

 もっともあの国では、ふつうの常識は通じない。だからこうした議論も、あまり意味は
ない。しかしこうした口汚い言葉を使えば使うほど、品を落とすことになる。その愚かさ
に、K国は、まだ気がついていない。

+++++++++++++++++++++++

●道徳的未熟児(2)

 「道徳的未熟児」……私は、どうも、この言葉に、ひかかりを覚える。「道徳的未熟児」
とは、いったい、何? そんな子ども(人)が、いるの?

 精神の発達は、自己管理能力、他人との共鳴性、非自己中心性、他者との良好な人間関
係をみて、判断する(参考、EQ論)。

 これら4つの完成度の高い人を、人格の完成度の高い人という。学歴や経歴、肩書きに
だまされてはいけない。むしろ、過酷なまでの競争社会を生き抜いてきた人ほど、完成度
が低い。……ということは、よくある。他人の犠牲など、平気、と。だから、社会的には、
成功者となりやすい。

 そこであのK国について、考えてみる。

 前にも書いたが、アメリカのR国務大臣が、K国の金xxを、評して、「暴君」と言った。
英語では、多分、「タイアラント(tyrant)」という単語を使ったのだっただろうと思う。「専
制君主」という意味である。中学生が使うような辞書にも載っているような、ごくふつう
の単語である。

 それほど、目くじらを立てて怒らなければならないような言葉ではない。専制君主であ
るかないかということになれば、金xxは、100%、その専制君主である。

 それに対して、K国側は、いつもの、超過剰反応! そこででてきた言葉が、「ブッシュ
は、道徳的未熟児」である。

 少し前も、アメリカの国務長官のRも、同じ言葉を使った。それについては、「謝罪しな
ければ、6か国協議には出ない」と、金xxは、がんばった。もともと協議などに出るつ
もりはなかった。だからそれを口実にした。

 それに対して、R長官は、「私たちは、言葉の遊びをするつもりはない」と。「言葉の遊
び」というのは、日本的に言えば、「言いがかり」ということになる。

 そこで再び、「道徳的未熟児」だが、この言葉ほど、失敬な言葉はない。「未熟児」と呼
ばれる段階で生まれて、そのあと、懸命にがんばって生きている子どもは、何万人といる。
そういう子どもたちに対して、失敬だ。

 それとも、K国には、未熟児は、いないとでもいうのだろうか? もしそうなら、K国
は、すばらしい国だ。本当にすばらしい国だ。


●無視は、最悪の刺激

 人間関係をうまく結べない子どもというのは、たしかにいる。集団の中に溶けこめず、
いつも一定の距離を置いて、そのワクの外にいる。

 原因は、心を開けない。「開けない」ということは、(1)自分をさらけ出せない。(2)
相手を受け入れられない。この2つを意味する。

 このタイプの子どもは、自分では集団に溶けこめない反面、「無視」については、異常な
までに敏感に反応する。

 このことは、頭のボケた兄を介護していて気がついた。

 どこかヌボーッとしているから、それだけ性格も鈍感かというと、そうではない。ある
特殊な部分についてだけは、きわめて敏感。とくに、人に無視されると、パニック状態に
なる。

 こんなことがあった。

 入れ歯展着剤が切れたときのこと。1、2度、兄は、それを私たちに訴えてきた。が、
そのとき、私たちはテレビか何を見ていて、無視したわけではないが、無視した。

 とたん兄はキレて、わざとその場で、ズデンとおおげさにころんで見せた。

 子どもたちの世界には、「シカト」という言葉がある。無視することを意味する。このシ
カトが、なぜ、これほどまでに問題になるかといえば、そこに何らかの特殊な心理作用が
働くためと考えてよい。

 たとえば人間関係をうまく結べない子どもは、その分だけ、人間関係について、強烈な
コンプレックスを感じている。いつも、他人の視線を鋭く、気にしている。視線ばかりで
はない。その奥にある、「感情」まで、気にしている。

 そこで自分が無視されたと感ずると、その瞬間、過剰に反応する。あるいは、いじめの
世界では、ことさら、自分がのけ者にされたと誤解する。

 だから私たちも、そういう兄の性質が少しずつわかってきたので、それ以後は、何か話
しかけてきたようなときは、ていねいに答えるようにしてやるようにした。無視したとた
ん、パニック状態になり、何をしでかすかわからない。そういう恐怖心もあった。

 「無視」には、こんな問題も隠されている。決して、軽く考えてはいけない。
(はやし浩司 シカト 無視 人間関係を結べない子ども 人間関係)


●ヘラヘラしてくる人間には、要注意!

 少し前、「とくに、口がうまく、ヘラヘラと、どこか不自然なほどまでに、親しげに近寄
ってくる母親には要注意」(ある幼稚園の理事長)と書いた。

 それについて、「そのとおり」という意見をもらった(楽天。K様)。

 少し補足しておくと、こういうことになる。

 このタイプの人は、たいてい、不幸にして不幸な乳幼児期を過ごしたとみてよい。母子
間の間の、基本的な信頼関係を結ぶことができないまま、おとなになった。

 基本的な信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)をいう。「絶対的」
というのは、「疑わない」という意味。

 その基本的な信頼関係が構築できないと、その子ども(人)は、攻撃的になったり、同
情的になったり、依存的、あるいは服従的になったりする。

 ヘラヘラとしたへつらうような姿勢は、そういうところから生まれる。

 このタイプの子ども(人)は、相手の歓心を買うことがうまく、口もうまい。しかしそ
の実、心を開くことができないから、忠誠心が弱く、約束や目標が守れない。当然のこと
ばがら、自己中心性も強くなる。犬にたとえるなら、だれにでもシッポを振るタイプとい
うことになる。

 それなりに良好な人間関係であれば、問題は起きないが、ひとたび問題が起きると、(た
いていは、向こう側から起こしてくるが……)、問題は、必要以上にこじれる。過去の問題
をもちだして、ネチネチと迫ってくることもある。

 幼稚園の理事長が、「要注意」と言ったのは、このタイプの人は、平気で人を裏切るとい
うこと。自分の利益を何よりも優先させる。ヘラヘラと愛想よく近寄ってくるのは、その
前哨戦ということになる。

(注)そういえば、街角で、あやしげな物品を売りつけてくる人たちも、不気味なほど、
ヘラヘラしていますね。ああいうタイプを思い浮かべればよいと思います。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 25日(No.572)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●拡大する貧富の差とこれからの受験勉強

 この日本の社会では、静かに、密かに、しかし確実に、ジワジワと、貧富の差が拡大し
つつある。

 このことは、工場労働者の構成を見ればわかる。

 近くのX自動車の下請けメーカーの中堅社員が、こんなことを話してくれた。

「社員といっても、何種類もいる。正社員のほか、パート社員、期間社員、アルバイト、
人材派遣会社からの派遣社員などなど。

 さらに最近では、一応社員なのだが、独立した仕事だけをして帰る社員もいる」と。

 「どういう仕事ですか?」と聞くと、「たとえば会社で出す、人材募集のチラシを作った
り、社内報を作ったりする社員です。しかしこの社員は、社員というよりは、独立したア
ルバイトといった感じです。社会保険にも入れず、もちろんいっさいの保証はありません」
と。

 手厚く保護される正社員。しかしその一方で、冷遇されるそれ以外の社員(?)たち。
年俸にしても、数百万円以上もの差がある。が、「安い」だけではない。労働条件は、かえ
ってきびしい。少しでもヘマをすると、即、クビという状態だそうだ。

 この日本では、今、確実に、貧富の差が、広がりつつある。やがてそのうち、社会問題
化するのも時間の問題といってよい。数字を見てみよう。

 厚生労働省が04年6月に発表した、ジニ指数(世帯ごとの所得格差を示す)は、調査
を始めた84年から、7年連続で、拡大をつづけている。

 昨年(04年)は、そのジニ指数が、0・498と、かぎりなく0・5に近づきつつあ
る。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占めることを
意味する。残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことになる。

 しかしこの数字を、深刻に考えている政治家は、少ない。……いない。経済界にいたっ
ては、なおさらで、むしろ、こうした格差を歓迎しているふうですら、ある。理由がある。

 「こうした差こそが、やる気のある人にやる気を出させ、経済を活性化させる」と。

 つまり力があり、やる気のある人がいい生活をして、そうでない人が、そうでない生活
をするのは、当然ではないか、と。そういう冷徹な論理である。が、どうもそれだけでは
ないようだ。

 「この世の中では、支配階級と、だまってそれに従う階級がなければ、そもそもマネー
社会(=マネー資本主義)は成りたたない」という論理がある。みなが平等になり、中産
階級になってしまえば、社会の活力そのものが、停止してしまうという。例がないわけで
はない。

 かつて私が留学していたころのオーストラリアが、そうだった(1960〜70年代)。

 当時のオーストラリアでは、年俸が、確か2万ドル(この数字は正確ではない)を超え
ると、とたんに、所得税が極端にあがるしくみになっていた。だから、みな、2万ドル分
までは働くが、それ以上に働いても意味がないというように考えるようになった。

 こうして「レイジー・オージー(怠け者のオーストラリア人)」が生まれたわけだが、こ
の制度は、オーストラリアの活力そのものまで奪ってしまった。(もともと、土地を掘れば、
鉱物資源が無尽蔵に出てくるという、ラッキーな国であったことも事実である。)

 だから経済界あたりでは、むしろ、貧富の差を助長することこそ、重要であるというよ
うな考え方をする。はっきり言えば、マスター(ご主人様)がいて、それに従順に従う、
スレイブ(奴隷)がいたほうが、経済の活性化のためには、つごうがよいということにな
る。

 だから、官僚たちは、恥ずかしげもなく、こう言う。「林さん、労働者には、金(マネー)
をもたせてはいけないのですよ。金をもったとたん、働かなくなりますから。万博でも何
でもいい。そういうのを開いて、労働者に金を使わせる。貯金させてはいけないのですよ」
と。

 これはある官僚から、私が直接聞いた言葉である。だから万博に反対というわけではな
い。経済界の論理というのは、そういうもの。

 それを知ってか、知らずか、地方の貧しい人たちが、バスに乗って、万博を見にくる。
マンモスの像を見て、「マンモスだ」「マンモスだ」と、喜んでみせる。そこにある種の悲
しさを覚えるのは、はたして私だけであろうか。

 話がそれたが、この貧富の差が大きくなればなるほど、またまた受験競争が燃えあがる。
だれしも勝ち組に入りたいと願っている。「せめて、自分の子どもだけは……」と願ってい
る。それが子どもの受験競争に拍車をかける。

 1995年〜2000年にかけて下火になってきた、いわゆる受験産業が、このところ
また息を吹きかえしつつ。そんな事情の背景には、こんな事実が隠されている。

 悲しいかな、今、この日本で、「受験」に背を向けて生きられる人(子ども)は、ほとん
ど、いない。そしてその傾向は、これから10年、さらにはげしくなる。貧富の差がはげ
しくなればなるほど、なおさらである。
(はやし浩司 ジニ指数 貧富の差 受験競争)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●シュメール人

 古代メソポタミアに、不思議な民族が住んでいた。高度に知的で、周囲文化とは、かけ
離れた文明を築いていた。

 それがシュメール人である。

 彼らが書き残した、「アッシリア物語」は、そののち、旧約聖書の母体となったことは、
よく知られている。

 そのシュメール人に興味をもつようになったのは、東洋医学を勉強していたときのこと
だった。シュメール人が使っていた楔型(くさびがた)文字と、黄河文明を築いたヤンシ
ャオ人(?)の使っていた甲骨文字は、恐ろしくよく似ている。

 ただしメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人だが、黄河文明を築いたのが、ヤ
ンシャオ人であったかどうかについては、確かではない。私が、勝手にそう思っているだ
けである。

 しかしシュメール人がいう「神」と、甲骨文字で書く「神」は、文字の形、発音、意味
が、同じであるということ。形は(米)に似ている。発音は、「ディンガー」と「ディン」、
意味は「星から来た神」。「米」は、「星」を表す。

 ……という話は、若いころ、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という、私の本の中で書
いた。なぜ、東洋医学の中で……と思われる人も多いかと思うが、その東洋医学のバイブ
ルとも言われている本が、『黄帝内経(こうていだいけい)・素問・霊枢』という本である。
この中の素問は、本当に不思議な本である。

 私は、その本を読みながら、「この本は、本当に新石器時代の人によって書かれたものだ
ろうか」という疑問をもった。(もちろん現存する黄帝内経は、ずっとあとの後漢の時代以
後に写本されたものである。そして最古の黄帝内経の写本らしきものは、何と、京都の仁
和寺にあるという。)

 それがきっかけである。

 で、このところ、再び、そのシュメール人が、宇宙人との関係でクローズアップされて
いる。なぜか?

 やはりシュメールの古文書に、この太陽系が生まれる過程が書いてあったからである。
年代的には、5500年前ごろということになる。仮に百歩譲って、2000年前でもよ
い。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていた
のか。そういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹
介しよう。

 出典は、「謎の惑星『ニビル』と火星超文明(上)(下)・ゼガリア・シッチン・ムーブッ
クス」(学研)。

 この本によれば、

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、と。

 シュメール人の説によれば、地球と月は、太陽系ができてから、ずっとあとになってか
ら、ティアトマという惑星が、太陽系の外からやってきた、ニビルという惑星の衛星と衝
突してできたということになる。にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動
説よりは、ずっと、どこか科学的である。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができ
ない天王星や海王星、さらには冥王星の話まで書いてあるところが恐ろしい。ホント。

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。

 ここから先のことを書くと、かなり宗教的な色彩が濃くなる。実際、こうした話をベー
スに、宗教団体化している団体も、少なくない。だからこの話は、ここまで。

 しかしロマンに満ちた話であることには、ちがいない。何でも、そのニビルには、これ
またとんでもないほど進化した生物が住んでいたという。わかりやすく言えば、宇宙人! 
それがシュメール人や、ヤンシャオ人の神になった?

 こうした話は、人間を、宇宙規模で考えるには、よい。その地域の経済を、日本規模で
考えたり、日本経済を、世界規模で考えるのに似ている。視野が広くなるというか、もの
の見方が、変わってくる。

 そう言えば、宇宙へ飛び出したことのある、ある宇宙飛行士は、だれだったか忘れたが、
こう言った。「人間の姿は、宇宙からはまったく見えない。人間は、地上をおおう、カビみ
たいなものだ」と。

 宇宙から見れば、私たち人間は、カビのようなものらしい。頭の中で想像できなくはな
い。ただし、カビはカビでも、地球をむしばむ、カビ? が、そう考えていくと、日本人
だの、中国人だのと言っていることが、おかしく見えてくる。

 それにしても、周期が、3600年。旧約聖書の時代を、紀元前3500年ごろとする
なら、一度、そのころ、ニビルは、地球に接近した。

 つぎにやってきたのが、キリストが誕生したころということになる。

 で、今は、西暦2005年だから、この説に従えば、つぎにニビルがやってくるのは、
西暦3600年ごろ、つまり1600年後。

 本当にニビルには、高度な知能をもった生物がいるのだろうか。考えれば考えるほど、
ロマンがふくらむ。若いころ、生徒たちを連れて、『スターウォーズ』を見に行ったとき感
じたようなロマンだ。「遠い、遠い、昔、銀河系の果てで……」というオープニングで始ま
る、あの映画である。

 ワイフも、この話には、たいへん興味をもったようだ。昨日もいっしょに書店の中を歩
いていると、「シュメール人について書いた本はないかしら」と言っていた。今日、仕事の
帰りにでも、またさがしてみよう!

 待っててよ、カアーチャン!(4・29)

【付記】

 しかし空想するだけで、ワクワクしてくるではないか。

 遠い昔、別の天体から、ニビルという惑星がやってきて、その惑星の衛星が、太陽系の
別の惑星と衝突。

 地球と月が生まれた。

 そのニビルという惑星には、知的生物、つまり私たちから見れば、宇宙人が住んでいた。
ひょっとしたら、今も、住んでいるかもしれない。

 そのニビルは、3600年周期で、地球に近づいてきて、地球人の私たちに、何かをし
ている? 地球人を改造したのも、ひょっとしたら、彼らかもしれない? つぎにやって
くるのは、多分、1600年後。今は、太陽系のはるかかなたを航行中!

 しかしそう考えると、いろいろな、つまりSF的(科学空想小説的)な、謎が解消でき
るのも事実。たとえば月の年代が、なぜ、この地球よりも古いのかという謎や、月の組成
構造が、地球とはなぜ異なっているかという謎など。

 また月が、巨大な宇宙船であるという説も、否定しがたい。「月の中は空洞で、そこには
宇宙人たちの宇宙基地がある」と説く、ロシアの科学者もいる。

 考えれば、考えるほど、楽しくなってくる。しかしこの話は、ここまで。あとは夜、月
を見ながら、考えよう。ワイフは、こういう話が大好き。ほかの話になると眠そうな表情
をしてみせるが、こういう話になると、どんどんと乗ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎のシュメール

 『謎の惑星(ニビル)と火星超文明』(セガリア・シッチン著)(北周一郎訳・学研)の
中で、「ウム〜」と、考えさせられたところを、いくつかあげてみる。

 メソポタミアの遺跡から、こんな粘土板が見つかっているという。粘土板の多くには、
数字が並び、その計算式が書いてある。

+++++++++++++

1296万の3分の2は、864万
1296万の2分の1は、648万
1296万の3分の1は、432万
1296万の4分の1は、324万
……
1296万の21万6000分の1は、60

++++++++++++

 問題は、この「1296万」という数字である。この数字は、何か?

 その本は、つぎのように説明する(下・78P)

++++++++++++

 ペンシルバニア大学のH・V・ヒルプレヒトは、ニップルとシッパルの寺院図書館や、
ニネヴェのアッシュールバニバル王の図書館から発掘された、数千枚の粘土板を詳細に調
査した結果、この1296万という天文学的数字は、地球の歳差(さいさ)運動の周期に
関するものであると結論づけた。

 天文学的数字は、文字どおり、天文学に関する数字であったのである。

 歳差とは、地球の地軸が太陽の公転面に対してゆらいでいるために発生する、春分点(お
よび秋分点)の移動のことである。

 春分点は、黄道上を年々、一定の周期で、西へと逆行していく。このため、春分の日に
太陽のうしろにくる宮(ハウス)は、一定の周期で、移り変わることになる。

 ひとつの宮に入ってから出るまでにかかる時間は、2160年。したがって、春分点が
1周してもとの位置に帰ってくるには、2160年x12宮=2万5920年かかるので
ある。

 そして1296万とは、2万5920x500、つまり春分点が、黄道上を500回転
するのに要する時間のことなのだ。

 紀元前4000年前後に、歳差の存在が知られていたということ自体、すでに驚異的で
あるが、(従来は、紀元前2世紀にギリシアのヒッパルコスが発見したとされていた)、そ
の移動周期まで求められていたいうのだから、まさに驚嘆(きょうたん)に値する。

 しかも、2万5920年という値は、現代科学によっても証明されているのだ。

 さらに、春分点が、黄道上を500回転するのに要する時間、1296万年にいたって
は、現在、これほど長いビジョンでものごとを考えるのできる天文学者は、何人いること
だろう。

+++++++++++++++

 シュメールの粘土板の言い方を少しまねて書いてみると、こうなる。

3153万6000の12分の1は、262万8000
3153万6000の720分の1は、4万3800
3153万6000の4万3200分の1は、730
3153万6000の8万6400分の1は、365……

 これは私が、1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日として、
計算したもの。これらの数字を掛け合わせると、3153万6000となる。つまりまっ
たく意味のない数字。

 しかしシュメールの粘土板に書かれた数字は、そうではない。1年が365日余りと私
たちが知っているように、地球そのものの春分点の移動周期が、2160年x12宮=2
万5920年と、計算しているのである。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

地球という惑星に住んで、春分の日の、たとえば午前0時JUSTに、夜空を見あげて
みよう。そこには、満天の夜空。そして星々が織りなす星座が散らばっている。

 しかしその星座も、毎年、同じ春分の日の、午前0時JUSTに観測すると、ほんの少
しずつ、西へ移動していくのがわかる。もちろんその移動範囲は、ここにも書いてあるよ
うに、1年に、2万5920分の1。

 しかしこんな移動など、10年単位の観測を繰りかえしても、わかるものではない。第
一、その時刻を知るための、そんな正確な時計が、どこにある。さらにその程度の微妙な
移動など、どうすれば観測結果に、とどめることができるのか。

 たとえていうなら、ハバ、2万5920ミリ=約30メートルの体育館の、中央に置い
てある跳び箱が、1年に1ミリ移動するようなもの。100年で、やっと1メートルだ。

 それが歳差(さいさ)運動である。が、しかしシュメール人たちは、それを、ナント、
500回転周期(1296万年単位)で考えていたというのだ。

 さらにもう一つ。こんなことも書いてある。

 シュメール人たちは、楔形文字を使っていた。それは中学生が使う教科書にも、書いて
ある。

 その楔形文字が、ただの文字ではないという。

●謎の楔形文字

 たとえば、今、あなたは、白い紙に、点を描いてみてほしい。点が1個では、線は描け
ない。しかし2個なら、描ける。それを線でつないでみてほしい。

 点と点を結んで、1本の線が描ける。漢字の「一」に似た文字になる。

 つぎに今度は、3個の点にしてみる。いろいろなふうに、線でつないでみてほしい。図
形としては、(△)(<)(−・−)ができる。

 今度は、4個で……、今度は、5個で……、そして最後は、8個で……。

 それが楔形文字の原型になっているという。同書から、それについて書いてある部分を
拾ってみる(92P)。

++++++++++++++

従来、楔形文字は、絵文字から発達した不規則な記号と考えられているが、実は、楔形
文字の構成には、一定の理論が存在する。

 「ラムジーのグラフ理論」というものを、ご存知だろうか?

 1928年、イギリスの数学者、フランク・ラムジーは、複数の点を線で結ぶ方法の個
数と、点を線で結んだ結果生ずる図形を求める方法に関する論文を発表した。

 たとえば6個の点を線で結ぶことを考えてみよう。点が線で結ばれる、あるいは結ばれ
ない可能性は、93ページの図(35)に例示したような図形で表現することができる。

 これらの図形の基礎をなしている要素を、ラムジー数と呼ぶが、ラムジー数は一定数の
点を線で結んだ単純な図形で表される。

 私は、このラムジー数を何気なくながめていて、ふと気がついた。これは楔形文字では
ないか!

+++++++++++++

 その93ページの図をそのまま紹介するわけにはいかないので、興味のある人は、本書
を買って読んでみたらよい。

(たとえば白い紙に、4つの点を、いろいろなふうに描いてみてほしい。どんな位置でも
よい。その点を、いろいろなふうに、結んでみてほしい。そうしてできた図形が、楔形文
字と一致するという。

 たとえば楔形文字で「神」を表す文字は、漢字の「米」に似ている。4本の線が中心で
交わっている。この「米」に似た文字は、8個の点をつないでできた文字ということにな
る。)

 つまり、楔形文字というのは、もともと、いくつかの点を基準にして、それらの点を結
んでできた文字だというのだ。そういう意味では、きわめて幾何学的。きわめて数学的。

 しかしそう考えると、数学などが生まれたあとに、文字が生まれたことになる。これは
順序が逆ではないのか。

 まず(言葉)が生まれ、つぎにその言葉に応じて、(文字)が生まれる。その(文字)が
集合されて、文化や科学になる。

 しかしシュメールでは……?

 考えれば考えるほど、謎に満ちている。興味深い。となると、やはりシュメール人たち
は、文字を、ニビル(星)に住んでいた知的生命体たち(エロヒム)に教わったというこ
とになるのだろうか。

 いやいや、その知的生命体たちも、同じ文字を使っているのかもしれない。点と、それ
を結ぶ線だけで文字が書けるとしたら、コンピュータにしても、人間が使うような複雑な
キーボードは必要ない。

 仮に彼らの指の数が6本なら、両手で12本の指をキーボードに置いたまま、指を動か
すことなく、ただ押したり力を抜いたりすることで、すべての文字を書くことができる。
想像するだけでも、楽しい! 本当に、楽しい!

 ……ということで、今、再び、私は、シュメールに興味をもち始めた。30年前に覚え
た感動がもどってきた。しかしこの30年間のブランクは大きい。(チクショー!)

 これから朝食だから、食事をしながら、ワイフに、ここに書いた二つのことを説明して
やるつもり。果たしてワイフに、それが理解できるかな?

 うちのワイフは、負けず嫌いだから、わからなくても、わかったようなフリをして、「そ
うねえ」と感心するぞ! ハハハ。
(はやし浩司 楔形文字 ラムジー グラフ理論 ニビル エロヒム 地球の歳差運動
 運動周期)

【付記】

 食事のとき、ワイフに、ここに書いたことを説明した。が、途中で、ワイフは、あくび
を始めた。(ヤッパリ!)

私「ちゃんと、聞けよ。すごい謎だろ?」
ワ「でもね、あまり、そういうこと、書かないほうがいいわよ」
私「どうして?」
ワ「頭のおかしい人に思われるわよ、きっと……」
私「どうしてだよ。おかしいものは、おかしい。謎は、謎だよ」
ワ「どこかの頭のおかしい、カルト教団の信者みたいよ」
私「ちがうよ、これは数学だよ。科学だよ」
ワ「でも、適当にしておいたほうがいいわよ」と。

 以上が、ワイフの意見。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●新しい文字

 今日は、ソファに座りながら、新しい文字を考えた。シュメールの楔形文字に習って、
点と線だけの文字である。

 そこで私が考えた文字は、4つの点と線だけで構成する文字。

 ・ ・
 ・ ・

 これが基本形。この4つの点のつなぎ方だけで、

(うち2点だけを結んでできるパターン)…… 6個
(うち3点だけを結んでできるパターン)……16個
(うち4点だけを結んでできるパターン)……50個以上(?)

 これだけで、ひらがなすべてを、カバーできる。「?」と思う人は、点を4つ描いてみて、
いろいろなふうに線でつないでみてほしい。きっとそのバリエーションの多さに、驚くと
思う。

 たとえば、(「」(」)(L)などは、3個とする。(N)も、4つの点をつないでできる文
字だが、回転させると、4個になる。(コ)も、回転させることで、4個にすることができ
る。

 文字を簡単にすれば、表示も簡単になる。あるいはタイプライターのようなものでも、
今のような複雑なキーボードは、いらなくなる。(……と思う。)少なくとも、わずらわし
い指の移動は、いらなくなるかも(?)。

 ……で、今思い出したが、私が若いころには、エスペラント語というのが、あった。世
界の共通言語になるとか何とかおだてられて、少し、かじったことがある。あのエスペラ
ント語は、そののち、どうなったのだろう?

 つまり私がここで考えたようなことは、だれしも一度は考えるものか。しかし結局は、
定着しない。

 文字や言葉というのは、大衆が決めるものだから、だ。一部のハネあがった人が、「こう
しましょう」と決めても、意味はない。大衆が、NOと言えば、それまで。

 まあ、これは遊びのようなもの。

 ところで、これはおもしろい教材になりそうだ。4つの点だけを、50組くらいかいて
おき、「点をつないで、いろいろな模様を作ってごらん」「ただし同じ模様は、描かないこ
と」と、一度、子どもたちにやらせてみよう。

 新しい教材、ゲット!(新案だぞ!)

+++++++++++++++++++

あなたなら、いくつ描けますか?

+++++++++++++++++++

・ ・     ・ ・     ・ ・     ・ ・    ・ ・
・ ・     ・ ・     ・ ・     ・ ・    ・ ・


・ ・     ・ ・     ・ ・     ・ ・    ・ ・
・ ・     ・ ・     ・ ・     ・ ・    ・ ・


・ ・     ・ ・     ・ ・     ・ ・    ・ ・
・ ・     ・ ・     ・ ・     ・ ・    ・ ・


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎の惑星「フォボス」 

 火星には、「フォボス」と「ダイモス」という2つの衛星がある。火星に近い軌道を飛ん
でいるのが、フォボス。

 直径22・2km、火星から、9378kmの上空を飛んでいる。自転周期は、約7時
間36分。1877年に、発見された衛星である(ホール)。

 このフォボスの最大の特徴は、先端部にある、直径が、フォボス自体の直径の3分の1
にもなる、ほぼ真円形のクレーターである。写真などは、NASAなどが公表しているか
ら、興味のある人は、見たらよい。

 こうした真円形のクレーターは、月の表面でもいくつか見つかっている。しかし写真で
みると、クレーターといっても、きれいなすり鉢状のようにもなっている。

 となると、このクレーターは、何かということになる。

 一つの可能性としては、何らかの推進装置とも考えられる。このすり鉢の中心部で、何
らかの爆発を起こせば、そのエネルギーは、そのままフォボスを動かす推進力にもなる。
一見、原始的な推進装置に見えるが、もっとも効率のよい推進装置とも言える。ムダなも
のが、何もない。

 このフォボスが、実は、宇宙人たちの中継基地ではないかという説がある。根拠は、い
ろいろあるようだ。

(1)中が空洞になっているらしいということ。
(2)旧ソ連の探査機が、交信を断つ前に送ってきた画像に、巨大なUFOが写っていた
(3)こと(探査機「フォボス2号」)。
(4)表面の縞模様が、自然にできたものとは考えにくいこと。さらにその縞模様が、観
(5)測ごとに、ふえていることなど。

 映画『スタートレック』などを見ると、宇宙船というと、金属製の、複雑な飛行機のよ
うなものばかりだが、実際には、宇宙を航行するときは、フォボス型の宇宙船のほうが、
ずっと、効率がよいことがわかっている。

 大きな隕石をもってきて、中をくりぬく。そしてその中に住空間をつくり、そこに人が
住む。危険な放射線や、こまかい隕石との衝突もシャットアウトできる。適当な重力も、
手に入れることができる。工法も簡単。

 たとえばフォボスは、時速24〜5キロ前後で走れば、その重力圏から脱出できるとい
う。人間で言えば、全力疾走程度で、宇宙空間へ飛び出すことができる。

 ……と考えていくと、ロマンは尽きない。

 ジャガイモ型のフォボス。その後方(前方かもしれない)に、巨大な真円形のクレータ
ー。そんなものが、今も、この宇宙空間をただよっている。

 そこでクエスチョン!

 フォボス自体は、巨大な隕石だから、重力をもっている。そのフォボスをくりぬいて、
その中に人が住んだとしたら、その重力は、その人に、どのように作用するだろうか。つ
まり人は、その穴の中で、どのような生活をしているだろうか?

 月を例にとって考えてみてもよい。あの月も、中が空洞であるという説がある。仮に空
洞であるとするなら、その中では、人は、どのように生活をしているだろうか。
(はやし浩司 フォボス 火星)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【被害妄想】

●被害妄想

 妄想性の強い女性がいた。年齢は、40歳くらいか。その女性と話していたときのこと。
私は、なぜその女性がそうなのかを、自分なりにさぐってみた。

 妄想……ありもしないことを勝手に頭の中で想像して、それをふくらませてしまう。「あ
の人は、こうしたハズだ」「このときは、こうだったハズだ」と。そしてそれを基準にして、
ものを考え始める。

 こうした妄想性を、段階的に区分してみると、こうなる。

【1期】固執期(こだわり期)

 ひとつの事がらに、固執し始める。明けても暮れても、考えることは、そのことばかり。
頭から離れなくなる。悶々と悩んだり、苦にしたりする。

【2期】拡散期(不安、肥大期)

 そのひとつの事がらを核に、それを補強するため、周囲のこと、今まであったことを、
それにつけ加え始める。「あのときも、そうだった」「このときも、そうだった」と。そし
てその不安や心配を、将来へと結びつけていく。「また、そうなるのではないか」「また、
ああなるのではないか」と。

【3期】否定期

 一度こうなると、すべてを悪いほうへ、悪いほうへと考えていく。ものの考え方が、自
己中心的で、相手の善意や誠意なども、理解できなくなる。自分のまわりのすべての人が、
悪人に見えてくる。

【4期】混乱・パニック期

 妄想が、一定の思考パターンに入ると、(たいていは、そのパターンができているものだ
が……)、そのパターンに沿って、妄想が妄想を呼び、頭の中は、パニック状態になる。突
発的な行動に出ることが多い。相手の家に押しかけていって、怒鳴り散らしてみる、など。
暴力ザタになることもある。

【5期】煩悶(はんもん)期

 妄想が終わったからといって、すぐ、頭の中がスッキリするわけではない。個人差もあ
るのだろうが、妄想が頭のどこかに張りついたような状態に、なる。また問題が解決しな
いかぎり、悶々とした状態がつづく。あるいは、せっかく、落ちつきかけても、同じ問題
が起きたりすると、逆戻りしたりする。

【6期】冷静・反省期

 しばらく考えたり、冷却期間を置くことによって、妄想に振りまわされていたときの自
分を、客観的に見ることができるようになる。しかし妄想を繰りかえす人には、この冷静、
反省期がないことが多い。つまりそれがないから、何度も何度も、同じ、失敗を繰りかえ
す。

●ある学校の先生(小2担当)のメモから

 埼玉県に住んでいる、Sさん(女性教師・30歳前後)から、こんなメモが届いた。「ぜ
ったいに私とわからないように……」ということなので、かなり話を、デフォルメする。

 「私の生徒の親に、日本人の父親と、フィリッピン人(中国系)の母親をもつ子どもが
います。その子どもを、X君(男)としておきます。

 X君には、1人、とても仲のよい友だちがいました。いつもいっしょに、遊んでいまし
た。その友だちの名前を、Y君としておきます。

 小学1年生の間は、毎日のように、いっしょに遊んでいました。ところが、何かの拍子
に、Y君がX君に、「お前は中国人だ」と言ったというのです。言い忘れましたが、母親が、
中国系なので、外見からは、日本人と区別できません。

 これを聞いたX君の母親が、激怒。学校へおしかけてきて、Y君を叱ってくれるように
言いました。そのあと、言葉のやり取りの中で、校長と、大騒動になってしまったのです」
と。

が、これはもともと問題になるような問題ではない。というのも、その教師の住む地域
には、日本でも有数のバイクメーカーの主要工場がある。外国人労働者も多い。もちろ
ん外国人の子ども多い。以前のように外国人の子どもが少ないときならまだしも、現在
のように多くなってくると、むしろ、日本人の子どものほうが、小さくなっていること
も少なくない。白人系の子どもたちは、体格も大きい。

が、X君の母親のばあいは、日ごろの劣等感や、不満が、それに追いうちをかけた。X
君の母親自身も、自分が日本語をうまく話せないこともあって、差別されていると感じ
ていたのだろう。

 で、ここで登場するのが、被害妄想である。

 この段階で、賢明な母親なら、それぞれの問題を区別して、ちょうど棚にものを整理し
てしまうように、考え方を整理することができる。

 が、X君の母親は、それができなかった。すべての問題を、「中国人だから……」という
ところに結びつけてしまった。

 「うちの子が勉強ができないのは、日本人の教師が中国人を嫌っているからだ」
 「○○クラブに入れてもらえなかったのは、私が中国人だからだ」
 「親たちの会話の中に入れてもらえないのは、私が中国人だからだ」と。

 しかし実際には、そうではないようだ。そのSさん(女性教師)は、こう言う。

 「電話で話しても、意味が通じないのです。しかたないので、家庭訪問をして、その場
で、いろいろ説明することにしています。何か行事があるたびに、きちんと口頭で説明し
ないと、理解してくれません。

 それだけならまだしも、自分で勝手に誤解し、(もちろん連絡用のプリント類は読みませ
ん)、あとでいつも怒って電話をかけてきます。

 その少し前も、『横浜の中国人学校では、小1で掛け算を教えている。どうしてこの小学
校では、掛け算を教えてくれないのか』と怒ってきたこともあります。

 が、そのX君が2年生になりました。私もいそがしくなり、家庭訪問までは、できなく
なりました。とたん、また抗議。『どうしてうちだけ、来てくれないのか』と、です。Y君
とのトラブルは、そんなときに起きました。

 それほど深刻な雰囲気で、Y君は、そう言ったのではないと思います。が、X君の母親
は、どうしてか激怒。校長にまで、ああでもない、こうでもないと食ってかかっていまし
た。最後は、『ほかの日本人の親たちは、あなたにお金(=ワイロ)を渡しているようだが、
私は渡さない』『あなたは、いくらもらっているのか』『うちの息子だけ、体罰を受けてい
る』などなど。

 そのうち校長も本気で怒り出してしまい、収拾がつかなくなってしまいました」と。

 よくある話である。

 学校と親と、一定の信頼関係で結ばれていれば、こうした問題は起きない。冗談は冗談
ですむ。しかしその信頼関係が切れると、そうはいかない。

 まさにX君の母親の被害妄想が生んだ、妄想劇ということになるが、実際には「劇」と
言うほど、生やさしいものではない。当事者たちは、トコトン、神経をすり減らす。その
Sさん(教師)も、数日間、食事も、ノドを通らなかったという。

 しかし、だ。悲劇は、それで終わったわけではない。

 X君とY君は、仲がよかった。しかしこの話を聞いたY君の母親が、今度は、激怒した。
「何か問題があるなら、どうして直接、私に言ってくれなかったのか」と。こうしてX君
は、Y君とも、遊べなくなってしまった。と、同時に、X君は、かえって、クラスの中で
も、孤立するようになってしまった。

 何か、こまかいことを、クヨクヨと気にするようになったら、要注意。だれしも、とき
とばあいによっては、そういう状態になるものだが、そういうときの鉄則は、一つ。

 じっと、穴にこもって、がまんする。それにまさる対処方法は、ない。
(はやし浩司 被害妄想 妄想)

(注)「ある人、またはある組織から、迫害を受けていると信じこんだり、だれかが悪意を
もって、自分をキズつけようとしていると思いこむことを、被害妄想という」(心理学用語
辞典)とある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●悪性自己中心

 自己中心性は、その人の人格の完成度を知るためのバロメーターになる。自己中心的で
あれば、あるほど、その人の人格の完成度は、低いということになる。

 これについては、何度も書いてきた。

 そしてこの自己中心性には、2つの方向性と、2つの二層性がある。

 ひとつは、自分のことしか考えないという自己中心性。もう一つは、他人の心まで、自
分勝手に判断し、決めてしまうという自己中心性。

 「自分さえよければ」というのが、一般的な自己中心性だが、もう一つは、「私はこうだ
から、あなたも、そうでなければならない」という自己中心性もある。

 それについては、こんな経験がある。

 ある女の子(中2)が、最近つきあうようになった、ボーイフレンドのプリクラ写真を、
別の女の子(中2)に見せた。するとその女の子は、その写真を見ながら、こう言った。「ど
こが、こんな男、いいのよサア? 性格悪そう……。やめときな、こんな男!」と。

 写真を見せたほうの女の子は、おとなしいタイプの子どもだったので、だまっていた。
が、その会話を横で聞いたとき、「この女の子は、かなり自己中心的な子どもだな」と思っ
た。自分の好みまで、相手に押しつけようとしていた。

 もう一つの自己中心性は、他人の心まで、自分勝手に決めてしまうという自己中心性。
これについても、こんなことがあった。

 A子さん(小6)は、何かにつけて、カッとなりやすいタイプの子どもだった。その場
の感情に振りまわされて、相手に怒鳴りちらしたりしていた。

 そのA子さんが、ある日、しおらしい顔をして、私にこう言った。

 「先生、B子が私を許してくれない。私、ちゃんと、謝ったのに……」と。

 そこで私が、「謝ったからといって、相手が許してくれるとはかぎらないよ。相手には、
相手の気持ちがあるのだから……」と言うと、A子は、「私が大切にしていた、○○を、B
子にあげたのよ。それでも許してくれないのよ」と。

 そのA子は、B子の心の状態まで、自分で決めてしまおうとしていた。

 で、こうした自己中心性には、それぞれ、二層性がある。意識的に自己中心的になる部
分と、無意識のまま自己中心的になる部分である。

 もっとも、自己中心的でありながら、自分で、それに気づく人は、まず、いない。自己
中心的であるとさえ思っていない。

 他人の自己中心性に触れたとき、そして自分の中の自己中心性に気がついたとき、人は、
自己中心的であるということが、どういうことものであるかということに気がつく。つま
り自分の自己中心性に気がつくためには、ある程度の指導と、ある程度の訓練が必要であ
る。

 というのも、人間は、その幼児期において、だれしも、自己中心的なものの考え方をす
る。自己中心性が、幼児期の特徴の一つでもある。

 この幼児期を抜けて、少年少女期へ移行するとき、人は、精神の発達を、その成長にか
らめる。これを「内面化」という。

 この内面化が遅れると、幼児期の自己中心性が、そのまま残ることがある。そしてそれ
が原型となって、さまざまな性格をつくりあげる。そんなわけで、ほとんどの人は、無意
識のまま、自己中心的な言動を繰りかえす。

 が、その中でも、さらに無意識の自己中心性がある。

 わかりやすく言えば、一見すると、自己中心的ではないのだが、結局は自己中心的とい
うのが、それ。私はこれを、「悪性自己中心」と呼んでいる。無意識のエゴというか、意識
下のエゴというか……。仏教でも「末那識(まなしき)」という言葉を使って、それを説明
する。一見、善人のフリをしながら、その実、自分のことしか考えていない人をいう。

 わかりやすい例では、信者獲得のことしか考えていない、宗教指導者がいる。先ごろハ
レンチ罪で逮捕された大阪の牧師などは、10年間で、10万人信者の獲得を、教会の目
標にかかげていたという。

 信者がふえるかふえないかは、それは信仰の中身によるものであって、しかも結果でし
かない。さらにどんな宗教にも、100年単位の熟成・自然淘汰期間※が必要である。信
者獲得のために血眼(ちまなこ)をあげているような、そこらの新興宗教は、その原点か
らして、インチキと断定してよい。

 「他人を救うような顔をしながら、結局は、無意識のまま、自分のことしか考えていな
い」……それが悪性自己中心である。

 同じことは、個人についても、言える。さらに親子についても、言える。

 ずいぶん前だが、こんな母親がいた。

 子ども(中3女子)は、いつも口グセのように、「看護婦になりたい」と言っていた。そ
んなある日、道路で、その子どもの母親に出会った。

 私が、「○○さんは、心のやさしい子ですね。看護婦になりたいと言っています。きっと
いい看護婦さんになりますよ」と声をかけると、その母親は、私の話を聞き終わらないう
ちに、はき捨てるようにして、こう言った。

 「うちの子は、看護婦なんかにはしません。医者になってもらいます!」と。

 その母親は、一見、子どものことを考えているようで、実は、子どもの心など、何も考
えていなかった。

 さらにわかりやすい例としては、進学塾のパンフレットがある。「君の夢をかなえよう」
と、そこには、ある。しかしその下には、「SS高校、124人、合格。AA高校、88人
合格……」とつづく。

 子どものことを考えているようで、その実、子どものことなど、何も考えていない。

 自分の中の自己中心性と戦うためには、心の奥の奥まで、踏みこまねばならない。その
一つが、ここでいう悪性自己中心ということになる。
(はやし浩司 自己中心 自己中心性 悪性自己中心性)

※……宗教の熟成期間と自然淘汰期間

 宗教が宗教として熟成するためには、100年単位の熟成期間が必要である。その間に、
宗教は自然淘汰され、本物だけが、生き残る。

 それがない宗教は、まず、インチキと断定してよい。たとえばこの日本には、宗教法人
だけでも、20万団体以上もある。宗教団体となるともっと、多い。

 20万団体といえば、毎日、2つずつ検証しても、274年もかかる。

 そこで信仰宗教団体は、キリストや釈迦の権威を借りたり、既存宗教団体の権威を借り
たりして、活動を始める。「私こそが、ぜったいに、正しい」と。

 こうした宗教団体は、組織としての、ここでいう悪性自己中心性に気がついていない。
つまりは、目的は、権力とマネー。信者は、そのための道具でしかない。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●もし、K国が、核実験をしたら……

 6月にK国が核実験をするかもしれないという情報が、アメリカの国防省筋から流れて
いる(4月30日、共同通信※ほか)。

 それはそれとして、つまりK国の核実験は別として、もし、それが強行されたら、韓国
のN大統領よ、あなたが責任を取れ!

 ことあるごとに、超ノー天気な楽観論を繰りかえし、国際世論に背を向けて、金XXの
擁護(ようご)ばかり! 「K国が核兵器を開発することについては、一理ある」などと
いう、とんでもない発言までしている。

 国内では、反日運動を展開するばかりか、親日派の知識人まで弾圧し、おまけに日本の
国連安保理入りには、猛然と反対運動。日本のA新聞社が、竹島上空に、軽飛行機を飛ば
しただけで、ジェット戦闘機を2度にわたって発進させた。

 さらに、YMさんの遺骨鑑定問題についても、「日本側の鑑定には疑問がある」とまで発
言したという。さらに「戦後補償は、足りない」「もっと金、よこせ」と。

 N大統領、あなたが日本が大嫌いなのはわかるが、K国が、核実験をしたら、それはあ
なたの責任だぞ。今までさんざん、「そんなものは、ただのブラフ(脅し)で、K国にはな
い」と言ってきたのは、どこのどなたか?

 選挙運動中には、アメリカの国旗を破ってみせ、「K国の核問題は、ワレワレが解決して
みせる」と、大見得を切った。が、結果は、どうだ。

 言っておくが、K国が核兵器をもてば、東京もあぶないが、それ以上にあぶないのが、
ソウルだぞ! わかっているのか? 地下トンネルでこっそりと運ばれて、ソウルの地下
から、ドカン! 1発で、ソウルはこなごな。50〜100万人以上の死傷者が出る。

 そのあと一気に、100万人のK国軍が、なだれのように南下する。金XXは、「1週間
以内に、プサンまで進攻できる」と言っている。

 韓国の国防省は、「そのとき、在日米軍など、65万のアメリカ軍が、韓国を防衛する」
と白書の中で書いているが、肝心のアメリカは、「そんな約束をした覚えはない」と。

 大統領になったとたん、アメリカに特使を送り、「アメリカ軍の撤退」を申し出た。が、
予想に反して、アメリカ側高官が、「はい、わかりました。そうします」と言ったとたん、
大あわて。

 「撤退を延期してほしい」の大懇願。しかも撤退し始めたアメリカ軍が、ヘリや戦車な
どの重火器を持ち出そうとすると、今度は、「撤退は、兵隊(人)だけではなかったのか」
と、抗議までするしまつ。さらに先日、アメリカのR国務大臣が韓国を訪れると、「イラク
に、日本の自衛隊を派遣させるな」「竹島問題では、韓国に協力してほしい」と。つまり、
日本を取るか、韓国を取るかの選択まで迫った。

 日本人は、怒っているぞ! ついでにアメリカ人も怒っているぞ! あなたにとっては、
国際公約など、ただのチラシのようなものかもしれない。しかしもう少し、国際政治は、
現実的に、かつ前向きに考えたら、どうか?

 一番近いところでは、中国で反日デモが起きたとき、「これで日本の安保理入りは流れた
(赤信号)」と、一番、喜んだのが、ほかならぬ、あなただったとか。いろいろ、週刊誌情
報だが、伝わってきている。

 この原稿は、4月30日のもの。これから先、どうなるか、予断を許さないが、しかし
まあ、韓国の人たちも、かわいそうだと思う。あなたのような大統領に、まだ、2年近く
も、ついていかねばならない。

 仮にこのまま平和のままだったとしても、米韓関係、日韓関係は、消滅。へたをすれば、
2年後には、韓国はK国にのみこまれてしまっているかもしれない。頼みのツナは、中国
だが、しかしあんな中国を、信用していてよいのか? その前に、韓国も、今は、自由主
義経済の中で、生きているはず。それを、忘れてはならない。

※……今年2月に核保有を公式宣言した北朝鮮が、3月から地下核実験の準備に着手して
おり、早ければ6月にも実験を強行する可能性があるとの情報を、米国が、国際原子力機
関(IAEA)や日本など関係国政府に非公式に伝達していたことが30日、わかった。
ウィーンの複数の外交筋が明らかにした。



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 23日(No.571)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの思考力について

TK先生へ、

子どもの合理尾的判断力についての資料を送ります。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page117.html

↑をクリックしてみてください。

++++++++++++++++++++++

重要なポイントは、

(乳幼児期)の独特の、しかし共通した論理思考性が
(少年少女期)にかける段階で、どのような環境下で、
修正され、脳のシナプスが、構成されていくかという
ところではないかと思います。

これが私の35年間の幼児教育の体験から得た結論
ということになります。

年齢的には、満4・5歳から5・5歳にかけての時期です。
この時期を逸すると、非論理的な子どもがそのあと、
論理的なものの考えたかたをするということは、まず
ありません。

私がいう(基盤)というのは、それをいいます。

つまり満4・5歳以前は、アメリカ人の子どもも、チベットの
子どもも、同じような発達経過をたどります。

北海道のスズメも、九州のスズメも同じような行動を
するのに似ています。

しかしこの時期を境に、環境、教育で、指導を受けた
子どもは、急速に大きなちがいを見せるようになり
ます。

しかし誤解してはいけないことは、だからこの時期の
教育が重要ということではありません。

たとえば言葉の発達でも、満2歳になると、急速に
子どもは言葉を話すようになります。だからといって、
2歳から言葉の教育をすればよいかというと、
それはまちがっています。

それまでの積み重ねが、ちょうど、つぼみが開花するように
変化として現れるわけです。

ですからそれまでに親(とくに母親)が、どのような接し方
をしてきたか、どのような習慣づけをしてきたかが重要
です。

よく医者の子どもは頭がいいと言われるのは、遺伝的な
要素もありますが、それだけ子どもの環境が、生まれな
がらにして、知的であったからです。

その部分をしっかりと見なければいけません。

私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、
花が散って、とうが立ったような子どもに見えます。

中学生や高校生となると、もうどうしようもない
枯れ草です。ホント!

このあたりの、つまりは幼児教育の重要性が
まだ重要視されていないのが、私には残念でなりません。

何かの参考になれば、うれしいです。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親が育てる、子どもの思考力

 卵からかえって、すぐ2足歩行を始める鳥類には、刷り込み(インプリンティング)と
いう、特殊な習性があることは、以前から知られていた。このタイプの鳥類は、卵からか
えったとき、最初に見たもの、あるいは最初に聞いた音を、「親」と思いこむという。

 で、それと同じような現象が、実は、人間の子どもにもあることが、最近の研究でわか
ってきた。鳥類のように、短期間ではないらしが、生後直後から、数か月にかけて、子ど
もの脳の中に、その刷り込みがなされるという。その期間のことを、「敏感期」という。

 私たちが、「親子の縁」と呼んでいるようなものは、その時期に形成されるということに
なる。本能に近い部分にまで刷り込みがなされるから、ふつうの人間関係ではない。親子
というのは、そういうもの。

 「親子の縁」は、親子が良好な人間関係にあるときは、それなりにうまく作用する。し
かしひとたびその良好な関係が崩れると、今度は、反対に、親子、とくに子どもを苦しめ
る、元凶となる。

 心理学でいう「家族自我群」という考え方は、ここから生まれる。いわゆる親子という
関係から生まれる、束縛感をいう。ふつうの束縛感ではない。家族であるがゆえに、その
幻惑に、悶々と苦しむ。これを「幻惑」と呼ぶ。

 そこで重要なことは、仮に良好な親子関係であっても、こうした幻惑から、そのつど、
子どもを解放していかねばならないということ。親といえども、その幻惑に甘えて、好き
勝手なことをしてはいけない。

 が、中には、親であるということを利用して、つまり子どもの脳に刻まれたインプリン
ティングまで利用して、子どもを自分の思うままに操(あやつ)る親がいる。さらに「産
んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、子どもに恩を着せ、それでも
って、子どもを束縛する親もいる。

 こうした子育て観がいかにおかしいものであるかは、子どもの立場で考えてみればわか
る。あるいは、あなたが子どものときは、どうであったか。もっとも、親から子へと、代々、
そういうものの考え方が、連鎖しているときは、このばあいも、それなりにうまくいく。
子どもは、子どもで、こう言い出す。

 「私は産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」
「その上、大学まで出していただきました」と。

 ただここで注意しなければいけないことは、そうであるなら、そうであると、それなり
に尊重してやるということ。決して、「あなたの考え方は、まちがっている」と言ってはい
けない。

 この問題だけは、本能的であると同時に、その人の人生観と深くからんでいる。今でも、
「忠孝」を説く、団体や教育者は多い。その人たちがそれでよいと言うのなら、それはそ
れとして、そっとしておいてやる。

 ただこうしたものの考え方は、決して、世界の標準でもなければ、基準でもない。そう
いう前提で、考えると、その先に、自ずと、一つの結論が見えてくると思う。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●夫婦げんかでキズつく子どもの心

++++++++++++++++

岩手県にお住まいの母親(UK君の母親)から、
夫婦げんかと、子どもの心の問題について相談
がありました。

今回は、それについて、考えてみましょう。

++++++++++++++++

【 お子さんの年齢(現在の満年齢) 】:8歳
【 お子さんの性別(男・女) 】:男(UK男)
【 家族構成・具体的に…… 】:
   息子1人
   父43歳
   母38歳(私本人です)
近所によく行き来をする、私の祖母が在住

【 お問い合せ内容(1000字以内で……) 】:

はじめてご連絡をさしあげます。

子どもの神経症についてインターネットで調べていて、はやし先生のHPにたどりつきま
した。また、それ以前にも「ポケモン・カルト」という本を拝読したことがあり、先生の
お話や子どもに対するまなざしに、とても感銘を受けておりました。

今回、このようなぶしつけなメールを送らせていただいたのは、現在小学校3年になる、
一人息子について、ご相談にのっていただける方を探していてのことです。

お忙しいところを誠に恐縮ですが、よろしければお読みいただけますでしょうか。どうぞ
よろしくお願いいたします。

現在8歳になる息子は、いつも不安やおびえを訴えています。
6歳くらいまでは、しょっちゅう怖い夢をみていました。
今では夢はときどきですが、「なんとなく不安な嫌な感じになる」と、しばしば訴えていま
す。

最近は、なにか新たなことに取り組むときに不安が高じるあまりか、「お腹がいたい」と訴
えるようになり、新学期やクラス替えのときなどは嘔吐もしました。かといって、学校生
活に問題があるかというとそういうこともなく、学習態度や成績や休み時間の活動量など
も、むしろ良好なほどだと思っています。

けれど、本人は自分にまったく自信がなく、すぐに卑下するような言葉を言うかと思うと、
少しでもうまくいかないことがあると、「だからUK(自分のこと)はダメなんだ」と怒っ
て、自分を激しく叩き続けたり、髪の毛をむしったりしてしまいます。「そんなことはしち
ゃだめよ」とそのたびに叱ったり、話をしたりして、そのときは本人も「こういうことは
いけない」と納得をするのですが、またすぐに同じ行動をとってしまいます。

こうした息子の不安感や自責感についてずっと気になっていたのですが、先日、とても気
がかりなことが起こりました。

きっかけは私と夫がささいな口論をしたことでした。

おはずかしい話ですが、私と夫は口げんかが絶えません。夫は気に入らないこと---たとえ
ばその時は「ママの"おいしい"って言うときの顔は、すっごくまずそうにみえるよ」と、
冗談なかんじではなく、ひどく傷つくように言ったのがきっかけでした……を皮肉のよう
にぶつけてくることがわりとあり、私もそれを我慢できなくなって、言い返してしまうこ
とが多いのです。

そんな時、息子はいつもだまってうつむいてしまったり、「ケンカはやめてよ」と泣きなが
ら抵抗したりするのですが、これまではそれがちょっと過剰だな、と思うこともしばしば
ありました。

たとえば、ケンカではなくちょっとした意見の食い違いとか、大きな声で話しているだけ
だったりとか、冗談を言いあっているだけで、ちょっとジェスチャーが大きい時とか、そ
んな時でもいやがることがあって、「ちがうよ、勘違いしないで」と言うこともあったので
す。

けれど先日ケンカになったとき、息子が「パパとママはケンカをしすぎだ。UKが生まれ
てから数え切れないくらいしている」と言いました。そして、「ケンカをしているところに
いると、こわくなってお腹がいたくなっちゃうんだ」と言ったのです。

私も夫もただ平謝りに謝るしかできず、なにも言い返すことができませんでした。そのと
き、「これまで一番こわかったのはどれか覚えている?」と聞いたところ、言い渋っていた
のですが、「パパとママがキッチンでプロレスみたいになったときのこと」と、ようやく言
いました。

これは、息子が2歳半〜3歳くらいの時のことで、なにかのきっかけで言い争いになった
時、夫が私に「てめえ」と言い、頭をはり倒したことがあったのです。

不意のことでバランスを崩した私は、よろめいて、そこで倒れてしまいました。背後から
それをみていた息子は火がついたように泣き出してしまいました。

私は「とにかくこの場を取り繕わなくては」と思うあまりに、その場で息子を抱いて謝り、
夫にも「UKに謝って」と言うのが精一杯でした。

そしてこのことはなんとか収束させた気になっていたのですが、先日の息子の告白を聞き、
「もしかしたらあの時のことが息子のトラウマのようになっているのではないか」と思う
ようになりました。それで、ちょっとした言い合いや大きな声も、もしかしたら私たちが
思う以上に息子にとっては「とても恐ろしい」と思うことなのかもしれない、という気が
したのです。

そう考えると、私たちがしてしまった浅はかな行いに、悔やんでも悔やみきれない気持ち
で、いてもたってもいられないのです。

幼い息子に、トラウマになるほどの心の傷を負わせてしまったとは、なんとひどいことを
したのだろうと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

はやし先生に教えていただきたいのですが、息子の心は、やはりトラウマを抱えているの
でしょうか。

またそうだとしたならば、どのようにすればその体験を乗り越えさせてやることができる
のでしょうか。

ご指導いただけましたなら、本当に幸いです。

誰にも相談できずに悩むあまり、独りよがりな話の押しつけのようなメールで、本当に失
礼いたしました。

どうか、よろしくお願いいたします。

+++++++++++++++++++++++++++++++

【UK君のお母さんへ……】

●心のキズ(トラウマ)は消えない

 心のキズは、顔についたキズのようなもの。一度、ついたキズは、消えない。

 また夫婦げんかを安易に考えてはいけない。夫婦げんかは、子どもに、深刻な不安感を
与えるのみならず、けんかのし方によっては、生涯にわたって、深いキズを残す。子ども
にとっては、親というのは、そういう存在。

 まず、そのことを、しっかりと認識する。逃げてもいけない。ごまかしてもいけない。
いわんや、子どもに謝ったくらいで、どうにかなる問題ではない。謝って、それですむと
考えたら、とんでもないまちがい。それこそ親の身勝手というもの。

●忘れることこそ、最善

 トラウマは、それから遠ざかることこそ、最善。子ども自身に、想起させないこと。こ
ういうケースのばあい、夫婦げんかが一度だったら、それほど、深刻な後遺症を残さなか
ったかもしれない。

 しかしキズがついたあと、そのキズがいやされる前に、つぎのキズを再び、つけてしま
う。これを繰りかえしているうちに、そのキズがどんどんと深くなっていく。たとえ二度
目、三度目が、軽い夫婦げんかであっても、だ。

 UK君の両親は、とても残念なことに、そのキズを、くりかえしUK君に与えた上、あ
えてさらに、そのキズ口をえぐるようなことをしている。一方、子どものほうは、子ども
のほうで、たとえそれほどはげしくない夫婦げんかでも、必要以上に、おびえるようにな
る。UK君の心は、いま、そういう状態にある。

●基本的信頼関係

 子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむ。絶対的というのは、「疑
いすらいだかない」という意味。親子の信頼関係も、そこから生まれる。

 その信頼関係を、つくれなかった子どもは、不幸である。家庭に、やすらぎを覚えない
ばかりか、今度は、おとなになってから、暖かい家庭づくりに失敗しやすい。ひょっとし
たら、(その可能性はきわめて高いが)、同じような夫婦げんかを繰りかえし、妻を殴った
り、蹴ったりするようになるかもしれない。

 これを世代連鎖という。子どもは暴力を嫌いながら、その暴力から、自分を解放するこ
とができなくなる。つまりは自分自身の邪悪なシャドウに苦しむ。

●やがて親からも離反

 夫婦げんかは、父母と子どもの間に、「三角関係」をつくる。心理学用語にもなっている。

 一度、この三角関係ができると、やがて子どもは、親の指導から、離れるようになる。
わかりやすく言えば、親の言うことを聞かなくなる。今は、まだ8歳だから、親の庇護下
にあるが、小学3、4年生を境に、急速に親離れをし、同時に、親を否定するようになる。
その可能性は高い。

 こうした深刻さを、UK君の母親は、どこまで理解しているかということ。

 あえて言うなら、UK君は、どちらか一方の親を、選ぶ。(UK君からみて、弱者のほう
の母親に味方する可能性が高く、父親を完全否定する可能性が高い。)が、母親としては、
それを喜んではならない。

 UK君は、マザコン化し、同時に、自分自身の中に、父親像をつくるのに失敗する可能
性も高い。

●夫婦げんかは、見せない

 以前、「夫婦げんかは見せろ。子どもに意見の対立を教えるよい機会になる」という本を
書いた、バカな教授がいた。(バカだ!)日本でも、1、2を争う、有名な幼児教育家であ
る。

 私はその本を手にしたとき、体が震えるほどの怒りを感じた。しかし同時に、それが私
をして、幼児教育の本を書かせる動機になった。

 当時は、(と言っても、今からほんの20年ほど前のことだが……)、おかしな権威主義
がはびこっていた。幼児を直接教えたことがない教授でも、そういった本を書くことがで
きた。(今でも、基本的には、この構図は変わっていないが……。)

 夫婦で、哲学論争でもするなら話は別。しかしそんな夫婦が、どこにいる? 見せるべ
きことは、仲がよいところ。助け合うところ。いたわり合うところ。抱き合うところ。

 そういった姿を子どもは見ながら、夫婦はどうあるべきか、家族はどうあるべきかを学
んでいく。ついでに、子育てのし方を、学んでいく。身につけていく。

●夫婦げんかの(わだかまり)をさぐる

 夫婦げんかが繰りかえされるなら、その原因、つまり心の奥底に潜む、わだかまりをさ
ぐる。望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、「できちゃった婚」であ
ったとかなど。

 出産時や育児期の不安や心配が、わだかまりに変身することもある。

 そのわだかまりに気がつかないと、この種の夫婦げんかは、繰りかえされる。が、気が
つけば、すぐというわけではないが、あとは時間が解決してくれる。

 わだかまりは、心に固着し、人間をそのウラから操る。

 UK君の母親のばあい、父親に原因のすべてがあるように思うかもしれないが、母親自
身にも、何か、わだかまりがあるのかもしれない。さらに父親自身も、不幸にして、不幸
な家庭に育っている可能性も高い。つまり父親自身も、何らかのトラウマをもっている(?)。

 こうした親から子へと、代々とつながる、(因果)は、それに気がついた段階で切ってお
かないと、つぎの世代へとつながってしまう。

●神経症

 当然のことながら、トラウマが残るような状態になると、その副作用として、無数の神
経症(心身症)による症状をともなうことが多い。UK君が見せる不安感は、「基底不安」
と呼ばれる、まさに典型的な不安症状である。

 夫婦げんかのはげしさにもよるが、たった一度、母親にはげしく叱られたのが原因で、
一人二役のひとり言を言うようになった例(2歳女児)や、やはりはげしく祖父に叱られ
たため、自閉傾向を示すようになった子ども(4歳男児)の例を、私は知っている。

 夫婦げんかであれば、それが直接子どもにおよぶものではないにしても、それと同等、
あるいはそれ以上のトラウマを子どもに残す。

 ここに書いた「不安感」にしても、一般には、「心配性」「不安性」「不安神経症」などと
言われる。私のようなタイプの人間は、いつどこで、何をしていても、ふと不安になった
り、心配になったりする。ものごとを、悪いほうに、悪いほうに解釈するためである。

 たとえば旅行に行って、楽しんでよいはずなのに、そこでもふと、不安になる。もちろ
んそんなふうに思う必要はないのだが……。

 さらに深刻なことと言えば、その原因というか、さらにその奥では、「人を信じられない」
という問題もある。だれにでも、愛想よく、シッポを振るくせに、その実、その人に心を
許せない。開けない。そういった状態になる。

 基底不安というのは、そういうもの。だから子どもには、……というより、育児には、
絶対的に安心できる家庭が、重要である。とくに子どもが、0歳〜5、6歳の時期にはそ
うである。それ以後は、子ども自身にも抵抗力がつくし、子どもの心が、それで大きくゆ
がむというこおてゃない。

 しかし、こんなことは、当然のことである。それがいやなら、つまり、子どもの心にキ
ズをつけたくなかったら、夫婦げんかなど、してはいけない。少なくとも、子どもの前で
は、してはいけない。

●対処法

 夫婦げんかをしない。すべては、ここに行きつく。とくにこれからの1〜2年が、勝負。
……といっても、UK君には、すでにキズがついてしまっている。

 これからは、その罪に恥じるなら、夫婦で、結婚当初の愛情を、たがいに確認しあうこ
と。言葉で謝るくらいのことで、キズが消せるくらいなら、心理学など、必要ない。

 重要なことは、前にも書いたように、そのキズを忘れさせるような、つまり遠ざかるよ
うな方法で、UK君に接すること。

 が、仮に数か月に1度でも、また夫婦げんかをしてしまえば、元の木阿弥。この問題に
は、そういった問題がつきまとう。

 あとは子ども自身の生命力と、判断力に期待するしかない。UK君が、いつか自分の中
のトラウマに気づき、それと戦う方法を身につけることを、期待する。

 ただたいへん、幸いなことに、この母親が、私に相談してきたこと。UK君の母親は、
問題の所在に気がついている。この賢明さが、UK君を救う力になる。

 たいていのケースでは、親が、自分たちのしたいることの愚かさに気がつかないまま、
夫婦げんかを繰りかえす。子どもの心のどんな影響を与えているかさえ、気がつかない。
しかしUK君の母親は、それに気がついている。

 あとは、UK君の父親が、どこまでそれに気がつき、反省するか、である。私の印象で
は、UK君の父親自身も、先に書いたように、何らかのトラウマをもっている可能性があ
るのでは? 父親が自分の背負っている「業(ごう)」に気がつけばよいのだが……。

●私の経験から

 私自身も、親たちのはげしい夫婦げんかを見て育っている。その私は、今も、つまり5
7歳になった今も、そのトラウマに苦しんでいる。

 UK君の不安症状に似た、不安感は今でも、感ずる。悪夢については、悪夢でない夢を
見ることのほうが、少ない。

 そのあと、つまり成人してからは、毎日が、(本当に毎日が)、そのトラウマとの闘いで
あったと言っても過言ではない。が、やはり今でも、それは残っている。しっかりと、残
っている。心のキズというのは、そういうもの。忘れることはわっても、消えることは、
ない。ぜったいにない。

 ただ幸いなことに、私は、早い時期に、それに気づいたということ。これは私のしてい
た職業のおかげでもある。心に問題をかかえた子どもを扱っているうちに、「私と同じだ」
と思うことで、私自身の心のキズに気がつくことができた。

 だから結論は、ただ一つ。

 子どもをなおそうなどと、考えないこと。なおすべきは、夫婦の関係である。自分たち
がなおせないで、どうして、子どもだけをなおすことができるのか。子どもの立場で、も
っとものを考えるべきではないのか。

 UK君のお母さんには、たいへん申し訳ないが、これが私の結論ということになる。

 世のお父さん、お母さん、子どもに恐怖感を覚えさせるような夫婦げんかなど、子ども
の前では、ぜったいに、ぜったいに、してはいけない!!!

 これは子育てのイロハ。大原則。
(はやし浩司 夫婦げんか 夫婦喧嘩 トラウマ 心のキズ 心身症 神経症 子どもへ
の影響 子供の心 影響 基底不安 不安神経症 はやし浩司)

【UK君のお母さんへ……】

 たいへんきびしいことを書いてしまいましたが、私自身も、UK君と同じようなトラウ
マを背負っています。

 そういう意味で、きびしく書きました。

 夫婦げんかは、子どもに対する、いわば間接虐待です。どうかそういう視点でも、考え
てください。決して、安易に考えてはいけません。あなたが安易に謝れば謝るほど、かえ
って子どもの古キズをえぐることになります。

 だったら、あなたが先に気がついて、夫婦げんかをしないこと。夫にさせないように、
努力することです。

 この世界には、『負けるが勝ち』という大鉄則があります。負ければよいのです。あなた
が意地を張ったところで、問題は、何も解決しません。夫に負けて、あなたが下に出れば、
それでよいのです。

 しかし、夫婦げんかをそれほどまでにしながらも、今でも、夫婦であるということは、
たがいに、相手を必要としているからなのでしょう。「愛し合う」という状態ではないにせ
よ、「別れられない」という状態です。

 しかし大半の夫婦が、そんなものです。(私たち夫婦も、そんなものです。)夫には、あ
まり期待しないこと。あなたはあなたで、あなた自身の生きがいを求めていく。そういう
流れの中で、夫婦関係が正常化するということはよくあります。つまりは、「こだわりは捨
てる」ということ。

 私には、UK君の悲しみや苦しみが、よく理解できます。学校でがんばっているのは、
そうでもしなければ、自分を支えることができないからです。さぞかし、つらいだろうと
思います。UK君が、です。

 だから言葉で謝る前に、それを態度や、姿勢の中で、見せることです。何度も書きます
が、この問題だけは、謝ってすむ問題ではありません。(私は、言葉で謝ること自体、卑怯
だと思いますよ。)

 そしてこれから先、何年も、何年もかかって、UK君の心を、溶かしていきます。10
年単位。20年単位の大仕事です。

 ここにも書きましたが、あなたの夫も、同じようなトラウマを背負っていると思います。
一度、冷静なときに、夫の過去や、幼児期を聞いてみるとよいですよ。この問題は、そう
いう問題です。

 が、みんな同じような問題をかかえていますよ。問題のない家庭で、問題なく育った人
の方が少ないのです。ですから希望は捨てないように!

 みんな、十字架を背負って生きているのです。みんな、です。私もあなたも、あなたの
夫も、UK君も、です。一つや、二つ、何でもないことです。つまり、そういう十字架と
戦って生きるのが、人生であり、人間なんですね。奥深い、ドラマも、そこから生まれま
す。

 人間、ばんざい! そんな気持ちで、どうか、この問題を乗り切ってください。あなた
はUK君を愛しています。その愛が通じたとき、UK君は、この問題からかならず、解放
されます。『愛は、まさしくオールマイティ』ですよ。不思議な力がありますよ。

(追記)

 なおそのあと、相談内容にありました件について。

 心のキズを、語らせることによって、心のキズから解放されることはないかとのことで
すね。

 こういうのをカタルシス効果といいます。これも、私のHPのどこかに書いてあります
ので、参考にしてください。

 実のところ、私も、20代、30代のころは、原因不明の不安発作に苦しんでいました。
しかし30歳をすぎたころ、その原因が、子どものころ体験した、はげしい夫婦げんかで
あったことを知りました。

 で、それをワイフに話すことで、以後、発作は、収まりました。そういうことはありま
す。しかしそれを今の段階で、どうこうというのは、少し性急すぎるのではないかと思い
ます。いかがでしょうか。

 しばらく時間をおいて、たとえば5年とか、10年とか……。楽しい思い出をしっかり
と充電しておいてから、そういった方法も試みられるとよいかと思います。

 なお、私はこうしてみなさんから見れば平気で(?)、自分のことを書いているように見
えるかもしれませんが、これは自己開示法による、対処法です。

 自分のことを、オープンにして話すことで、心のキズをいやすという方法ですね。これ
をするようになってから、ずいぶんと気が楽になりました。「バカだ」と思いたい人には、
思わせておけばよいのです。どうせ人生は一回しかありません。恥だの外聞だのと考えて、
小さく生きる必要はありません。……ね。


 がんばりましょう!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●真・善・美(2)

 ドライブをしながら、ワイフと、「真・善・美」について、話す。

 しかしそのとき、「真・美……」と言葉をつなげてしまったため、「善」という言葉が、
思い浮かんでこない。思い出せない。重要な言葉なのに……。

私「真・美……何だったかな?」
ワイフ「人生?」
私「ちがうよ。人間はね、最終的には、生きる目的を、そこに求めるようになるよ。真と、
美と……。もう一つ、どうしても思い出せない」
ワイフ「ド忘れね」と。

 真理……科学者や研究者が探求する。
 美……芸術家が探究する。

 もう一つ……?

私「ああ、思い出した! 善だ! 善だよ!」と。

 善……宗教家が探求する。

私「お前は、何を探求するのかな?」
ワイフ「三つよ」
私「バカめ。そんな無茶苦茶な。一つだけでも、たいへんだよ。三つだなんて……! 欲
張るとね、三兎(と)を追うものは、一兎も得られずになるよ。二兎でも、むずかしい…
…」と。

ワイフ「お金や財産ではないということよね」
私「そう、名誉でもない。真・善・美だ」
ワイフ「あなたは、何よ?」
私「ぼくは、お金もほしいし、名誉も地位もほしいし……。まあ、とっくの昔に、あきら
めたけれどね。真と善の中間くらいかな?」
ワイフ「あら、中間って、あるの?」
私「つまりね、中途半端ってこと。中途半端でも、しかたないということ。みんな、そう
だもの……」と。

 生活や精神状態にゆとりが生まれるようになると、人間は、この真・善・美の追求を始
める。……とまあ、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれないが、古今東西、多く
の哲学者や芸術家、それに宗教家がそう言っている。だから、私、ひとりくらいが反発し
ても、意味がない。

 で、ある程度までは、努力すれば、何とかなる。真・善・美のハシクレ程度までは、つ
かむことができる。……と思う。先日も、ある公的な会館へ行ったら、その地域の老人た
ちが彫刻した像が並んでいた。

 どれも、見るに耐えない、ヘタクソなものばかりだった。バランスの崩れた鳥、やたら
と体の一部だけが大きい仏像、笑っているか、泣いているかわからない能面など。

 しかし時間だけは、たっぷりとかけてあるのだろう。ていねいの上に、バカ(失礼!)
がつくほど、ていねいに、仕上げてあった。しかしそういう彫像を、だれが笑うことがで
きるのか?

 私が書いていることだって、それほど、ちがわない。あるいは、それ以下。しかしその
老人たちは、たしかに「美」を追求していた。「中には、1点くらいは、いいのがあるかも
……?」と思ってみたが、なかった。

 私は、なぜだろうと考えた。

 指導者が悪い? NO!
 老人だから? NO!

 実は、きびしさがない。どれも年金生活者が、戯(たわむ)れで、作ったようなものば
かり。やがて私は、それに気がついた。

 追い込まれて、追い込まれて、さらに追い込まれて、絶壁に立たされて作ったようなき
びしさがない。たとえて言うなら、ぬるま湯につかって、鼻歌でも歌いながら、像を作っ
ている感じ。しかし、それでは、もともと、真・善・美の追求など、土台、無理。

 それをワイフに話すと、ワイフは、「趣味ではだめなのね」と。

私「趣味程度では、ダメだろうね。たとえば善の追求にしても、釈迦は、『精進』(しょう
じん)という言葉を使っているよ。絶え間ない研鑽(けんさん)こそが、重要だ」と。

 健康と同じで、立ち止まった瞬間から、その人は、後退する。病気に向う。

ワイフ「真・善・美を手に入れたからといって、何か、いいことがあるの?」
私「さあてね、どうかな? キリストは、そのとき、真の自由を手に入れることができる
と説いているよ」
ワイフ「それは、すばらしいものかしら?」
私「多分ね。ぼくには、わからないけど……」と。

 私の人生も、どうやら、その中途半端で終わりそうな雰囲気になってきた。知力も、体
力も、そして気力も鈍り始めてきている。人間性も、精神状態も、ボロボロ。性格はゆが
んでいる。まさに、よいところ、なし。

私「あと一歩で指先が届きそうな気もするが、どうしてもその指先が届かない。そんな歯
がゆさは、あるけれどね……」と。しかしこれは私の負け惜しみ。
(はやし浩司 真 善 美)

【補記】

 今回、体調を崩してみて気がついたが、健康と気力は、たしかに関係がある。知力とも
関係がある。

 体がどこか熱っぽいと、考えることすら、おっくうになる。実際には、原稿を書けなく
なる。めんどうというか、ものの考え方が、投げやり的になる。

 健康、つまり肉体的健康は、精神的健康の源泉ということにもなる。あのバーナード・
ショーも、こう書いている。

 『健全な肉体は、健全な精神の生産物である』(革命主義者たちのための格言)と。


●K国など、相手にするな!

 K国の非道、非人権的な悪行については、抗議の声をあげなければいけない。それは当
然である。しかしそれでもって、制裁するかどうかということは、別問題である。

 国家経済は、破綻状態。この4月からは、食糧、燃料は、さらに窮しているという(東
亜日報)。

 そんな国を相手にして、どうする? 拉致家族の人たちの気持ちはわかるが、(K国の金
XXではなく)、K国の民衆にしてみれば、私たち日本人が、毎日、腹いっぱい、食事をし
ていることそのものが、矛盾に見えるのだ。

 親父は、暴力団員。借金だらけの上、殺傷事件まで起こして、服役。母親は、毎日もの
ごい。その日に食べるものもなく、弟や妹は、やせ細っている。

 それについて、相手の人たちが、さらに「どうしてくれる!」「金返せ!」「制裁だ!」
と叫んだら、どうする。あなたなら、どうする。親父の罪をわびて、小さくなっているだ
ろうか?

 今、K国は、たいへん、危険な状態にある。残された道は、もう核実験しかない。私た
ちの常識からみれば、狂っているが、しかしその姿は、戦前の日本そっくり。今のK国は、
戦前の日本以上に日本的。外から見ていると、そんな感じがする。

 ここは刺激しないで、静かに、国際世論のうしろについていくのがよい。

●弱者の立場で考えよう

 悲しいかな、日本人は、弱者の立場でものを考えるということができない。数年前だが、
私が、「私の叔父は、満州で、中国兵と戦った」と書いたことについて、C新聞社の記者か
ら、抗議を受けた。(これは事実だぞ!)

 いわく、「当時、満州には、人は住んでいなかった。また中国の領土でもなかった。だか
ら中国兵はいなかった。満州兵というのも、いなかった。だから日本は、満州を侵略した
のではない。あなたの意見はまちがっている」と。

 彼はそのあと、中国兵が組織された経緯を年表にして見せてくれた。つまり日本が満州
へ出兵した当時には、中国兵はいなかった、と。ナルホド! それにこうも言った。

 「日本のおかげで、満州は、開拓されたのだ」と。

 しかし伯父が満州兵と戦ったのは事実だし、当時、満州に、人が住んでいたのも事実で
ある。満州の人たちは、劣悪な武器を片手に、日本軍と戦った。軍ともいえないような軍
を率いて、だ。

 もしその記者のいうような論理が成りたつなら、日本が、逆に、外国に同じことをされ
ても、文句は言えないことになる。とんでもない意見だと私は思うが、しかし現実には、
そういう考え方をしている人も多い。

●Y神社問題

 さらに私の実姉の義父は、戦後、A級戦犯で処刑されている。Y神社に、遺骨(?)が
祭られているというが、姉も義兄も、戦後、ただの一度も、Y神社には参っていない! 「ど
うして?」と私が聞くと、「だって、お墓は、こちらにあるから」と。

 さらに「君が代」の問題。

 国歌を歌ったから、愛国心があるとか、歌わないから、愛国心がないとか、そういうこ
とで、愛国心を判断されても、困る。「歌え」と迫る、文科省。「歌わない」とがんばる、
教師たち。

 たかが「歌」ではないか。なぜ、たがいに、そうまでこだわるのか? そういう決まり
になっているなら、歌えばよいし、問題があるなら、公的な職場の外で、もっと、オープ
ンに、議論すればよい。私は、「君が代」には、かなり問題があるとは思っているが、そう
いう場所では、ちゃんと、「君が代」を歌っている。そうすること、つまりみんなで一度決
めたことは、みんなで守る。それが民主主義だと思う。

 もっとわかりやすく愛国心を試したいというのなら、K国のように、バッジ制にしたら
どうか。(これについては、前にも書いた。)

 年、12回、Y神社を参拝して、90度直角儀礼を、計120回以上した人は、金縁バ
ッジ。年、1回程度なら、銀縁バッジ。銅バッジすらつけないような日本人は、非国民。
即、投獄!

 しかしそれが愛国心なのだろうか? 愛国心といってよいのだろうか?

 少しまだ風邪の後遺症が残っていて、頭の中が、ぼんやりしている。こういう状態で、
ものを書くのは、たいへん危険なことでもある。

 だから、この話は、ここまで。ただ誤解しないでほしいのは、私は、戦うぞ! もしK
国の兵隊が、この日本へやってきて、私の家族を襲うようなことがあれば、容赦しないぞ。
絶対に戦うぞ!

(……と少し力んでみた。が、本当のところは、自信がない。今夜は風邪のせいか、気力
が弱くなっているせいだと思う。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●5月23日号

 朝起きると、まずメールを読んで、インターネットでニュースを読んで、それから二男
の曲を、バンバンと聞いて、それからワードを開く。

 ワイフは、毎日、ヒマさえあれば、二男や三男のHPをのぞいている。

 昨夜は、早く床についたので、今朝(4・28)は、ナント、午前5時、起き。8時ご
ろまで原稿を書いて、長男といっしょに食事。それからいろいろな話をして、またふとん
の中に。

 起きたのが、9時30分ごろ。これで睡眠時間は、合計で7時間30分になった。

 このところ、原稿をあまり書いてない。

 だからこの原稿は、5月23日号のマガジン用ということになる。遅れること、1週間。
本来なら、27日号か、30日号を発行していなければならない。

 頭の中の編集長の林が、こう叫ぶ。

「おい、浩司君、原稿が遅れているぞ!」と。

 それに答えて、編集部員の浩司君は、こう答える。「すみません。これから電話をかけて、
原稿を催促してきます!」と。

 ところが肝心の、作家の(はやし浩司)君は、このところ、何かとやる気をなくしてい
る。どうやら、風邪だけではないようだ。

 スランプ?

 過剰な負担が慢性的につのってくると、それがストレスとなって、その人を襲う。しか
し同じ作業なのに、このところ、その負担感が強い。今までは、なんともなかったのに…
…。

 こうした変化は、「コーピング」という理論によって説明される。同じ環境でも、人が、
それを有害かつ危険であると判断すると、その環境をストレッサーにして、ストレスが倍
化する。

 しかし、それでもない?

 ともかくも、(はやし浩司)君は、ヒマがあると、コミックを読んだり、雑誌を読んだり、
奥さんとバカ話ばかりしている。

はやし浩司の奥さん「最近、Mさんね、あのMさん。ダンナさんに相手にしてもらえない
いんだってエ」
はやし浩司「……うむ……。そりゃ、努力が足りないよ。努力が……。ミニスカートをは
いて、ピンクのネグリジェにしなって、言ってやりなよ」
奥さん「Mさんが、ミニスカート? 無理よ」
はやし浩司「Mさんて、何歳だったけ?」

奥さん「今年、63歳よ」
はやし浩司「なんだ、あのMさんかア……。無理だよ、無理。ダンナだって、いい歳だろ?」
奥さん「そうね、Mさんより、2つか3つ、年上よ」
はやし浩司「ぼくも、朝起きると、髪の毛は、みんな立っているけど、あっちは、もうだ
めだな」

 そこへ編集部の浩司から電話。

浩司「原稿は、どうなっていますか?」
はやし浩司「どうしようか?」
浩司「どうしようって、どうしますか?」
はやし浩司「そのうち、また気が向いたら、書きますよ」と。

 頭の中で、分裂した自分が、たがいに会話をとりかわす。

 とりあえず、このまま、5月23日号を発行することに。いつも私のマガジンを、読ん
でくださり、感謝しています。とくに、この最後まで、読んでくださった方には、感謝し
ています。

 ありがとうございます。

 とりあえず報告ですが、4月中、賛助会の方の募集をさせていただきましたが、今年は
、ゼロ人でした。ハイ。これもきびしい現実です。また次回、よろしくお願いします。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 20日(No.570)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

TK先生へ

拝復

今回は、ひどいめにあいました。インフルエンザか、さもなくば肺炎という状態でした。
2日つづけて、38〜40度という熱にうなされました。感冒薬(熱さまし)をのんだら、
寒気(悪寒)で、体が、けいれんしたように震え、そのあと、シャツ数枚、パジャマ数枚
を着た上、布団を2、3枚かぶりましたが、いっこうに体は温まりませんでした。

で、1時間30分程度、その状態だと思っていたら、今度は急激に発熱。荒い呼吸を3時
間ほど。「死ぬ」とは思いませんでしたが、しかし苦しかったです。ホント!

 で、思考力について、子どもの思考力は、世代連鎖(世代伝播ともいう)します。何も
虐待だけが、世代連鎖するわけではないのです。親、とくに母親が、日常的に思考能力(思
考習慣)があれば、それがそのまま子どもに伝わります。ですから、とくに0歳〜2歳児
までの、親の育児姿勢が、子どもに大きな影響を与えます。

最近の研究では、人間にも、鳥類(卵からかえってすぐ2足歩行する鳥類)のようなイン
プリティングがあることがわかってきました。0歳から数か月という期間をかけて、刷り
込まれるのだそうです。

この期間を、「密着期」と呼んでいる発達心理学者もいます。

こうした現象は、たとえば、つぎのような事実からも証明されます。

たとえば4、5歳児に、「山を描いてごらん」「こんどは川を書いてごらん」「つぎに遠くに
家が見えます。家を描いてごらん」と順に指示して、絵を描かせます。(ほかに、「道があ
ります。道を描いてね」「木が2本立っています。木を2本描いてね」……と、指示してい
きます。つぎに何を描くかを教えないで、描かせます。子どもによっては、「どこに描こう
か」「どうしたらいいか」などと迷ったりしますが、助けてはいけません。)

論理的思考能力の高い子どもは、無意識のうちにも、山の下に川を描き、家は小さく描き
ます。

で、べつの場所で、まったく同じ問題を母親にやってもらいます。すると、母子間の密着
性の強い母子ほど、その両者は、ほとんど、同じ絵を描きます。つまりこうした無意識の
論理性は、母親から子どもへと伝えられるわけです。

私の経験でも、20〜30組に1組の母子は、不思議なことに、まったく同じ絵を描くこ
とがわかっています。(とくに山の形などは、そうです。)

つまり子どもの論理性は、母親からの影響が、きわめて強いということです。子どもから
の働きかけに対して、そのような育児姿勢を見せるかが、その子どもの論理性の発育に大
きな影響を与えるということです。

たとえば子どもが何かを質問したとき、あるいは質問だけにかぎらないことですが、何か
の問題にぶつかったとき、母親が、(もちろん父親も)、その瞬間に見せる、思考習慣が、
子どもの論理性の発育に大きな影響を与えるということです。

で、私が想像するところ、先生の論理性は、実は、小学校のころの教育によるものではな
く(先生は、そう書いておられますが)、先生の父親、母親からの影響というか、それから
受け継いだ基盤があったからだと考えられます。

もし先生が言われるようなら、その小学校の生徒は、すべて、TK先生になっていたはず
です。

さらにアメリカでは、子どもに問いかけながら、会話をしますが、それと論理性は、直接
的には結びつかないのではないかと思います。この問題には、日本人独得の子ども観、育
児観の問題がからんでいます。

日本では、旧来より、親に甘える子ども(依存性の強い子ども)イコール、かわいい子イ
コール、よい子と考える傾向があります。

さらに昔から、「女、子ども」という言い方に代表されるように、女性や子どもは、人間で
はない……という考え方もあります。さらにまた言えば、キリスト教国では、子どもは神
の授かりモノという考え方をしますが、日本では、家のモノ、親のモノというように、私
物化する傾向が強いです。

そのためその家に障害をもった子どもが生まれたりすると、欧米では、みんなが助け合っ
て育てるという傾向が強いですが、日本では、「家の恥」として隠す傾向が、今でも残って
います。(彼らの教会を中心とする、互助精神には、いつも驚かされるものがあります。)

この問題は、そういう問題にからんでくるということです。つまり子どもの人権を尊重す
るということと、子どもの論理性とは、直接的には結びつかないということです。

で、問題は、母親の育児姿勢です。

一般的には、父親と母親は、同等に考えられていますが、これはまちがいです。(最近は、
出産時に父親を立ち会わせるラマーズ法などが一般化してきていて、母性愛、父性愛とい
うわけ方をしないようですが)、実際には母親が子どもに与える影響は絶対的なものです。

父親は、母子の関係を是正する役目しかありません。母子関係を調整し、社会性を教える
のが、父親の役目というのが、一般的な通説です。(わかりやすく言えば、母子関係にクサ
ビを入れ、狩のし方を教えるのが、父親の役目ということになります。それを是正しない
ままにしておくと、子どもは、総じて、マザコン化します。)

その一例として、母子分離不安はありますが、父子分離不安というのは、ほとんど聞いた
ことがありません。(たまにはありますが、例外的です。)それは生後直後から、子どもは、
母親から、乳を受ける、つまり母親が命の源泉だからにほかなりません。

父親がいなくても、子どもは育ちますが、母親がいなければ、子どもは育ちません。この
ちがいを乗り越えてまで、父親は母親の代用をするわけにはいかないのです。

さて、では、こう書くと、教育とは何かということになってしまいます。

こうした論理性というか、思考習慣は、かなり早い時期に、子どもの身につくものです。
これが基盤になって、子どもは、その上で、ものを考える子どもになっていきます。たと
えば、先生のお嬢様を考えてみましょう。

お嬢様は、先生を見ながら、幼児期を過ごしています。この時点で、すでに世代連鎖は始
まっているのです。(だからお嬢様も、先生と、同じような道を歩んでおられます。)

「おや?」と思われるかもしれませんが、この時期を逸した子どもの例としては、192
0年前後に見つかった、インドのオオカミ姉妹、フランスのビクトール(少年)などの例
があります。

いわゆる野生児の問題です。

インドで見つかったオオカミ少女にしても、下の妹は、たしか推定年齢、1歳半でしたが、
そのあと感情表現をとりもどすことはなかったそうです。フランスのビクトールにしても、
推定年齢11歳でしたが、その後、手厚い教育によっても、言葉を覚えることはなかった
そうです。(自分でつくった単語を、50個前後、使ったというような記録はありますが、
フランス語は、最後まで話さなかったそうです。)

こうして考えていくと、0歳〜3歳児というのは、教育的な意味においても、きわめて特
異、かつ重要な時期だということがわかっていただけると思います。

事実、私は4歳児からの指導にあたっていますが、この時期までに、その子どものもつ、
方向性というのは、ほとんど決まっています。とくに重要なのは、満4・5歳から5・5
歳の、いわゆる幼児期から、少年少女期への移行期です。

この時期は、「なぜ?」「どうして?」の質問がとくに多くなります。それはそれまでに形
成される乳幼児の心理形成の修正期にもあたるからです。

ご存知かどうか知りませんが、乳幼児は、たとえば物活論(すべてのものは生きている)、
人工論(すべてのものは、親がつくったもの)などという考え方をします。(ほかにもう一
つ、乳幼児特有の自己中心性をあげる学者もいます。)

よく赤ん坊が、風に揺れるカーテンを見て、生きていると思ったり(物活論)、「お月様を
取って」と泣く(人工論)のはそのためです。死んだモルモットを手にして、「乾電池を入
れ替えて」と言った子どもの例などが、報告されています。

結論を言えば、子どもの教育もさることながら、もっと重要なのは、母親自身ということ
になります。たとえば母親が迷信を信じ、占いやまじなばかりをしていたのでは、子ども
に論理性は育たないということになりますね。

子どもというのは、何か疑問をぶつけたとき、あるいはそうでないときでも、親の考える
姿勢を、そのまま身につけていくものです。姿勢だけではない。人間的な誠実さなど、無
意識の意識までです。ユングが説いた、シャドウ論も、その延長線上にあるのではないで
しょうか。その母親をさておいて、子どもにだけ、「考える人になれ」と言っても、無理な
話です。

子「どうしてお月様はあるの」
母「神様が作ったからよ」
子「どうしてお日様は暖かいの」
母「神様がそうしたからよ」では、そもそも子どもに論理性など育つわけがないのです。

その子どもの思考力は、その子どもがどれだけ思考する習慣があるかで決まります。手段
や方法ではありません。習慣です。

その習慣のないまま、メダカを育てても、球根を育てても、それでその子どもに思考力が
育つとは、とても考えられません。それはあくまでも各論だからです。

で、日本人論ということになりますが、日本人というのは、代々、自ら考える力に乏しい
民族ということになります。長くつづいた封建制度なども、その理由の一つかもしれませ
ん。あのマーク・トウェインがかつて言ったように、「皆と同じことをしていると感じたと
きは、自分が、変わるとき」という考え方が苦手なのですね。

反対に「長いものには巻かれろ」「出るクギは叩かれる」「みんなで渡ればこわくない」と。

こうした意識を代々、まさに世代連鎖として、大半の母親たちは、受けついでいますから、
これを変えていくのは、容易なことではありません。さらに「情報の量」「知識の量」をも
って、「思考」と誤解する、日本人独得の考え方もあります。いわゆる(もの知り)を(頭
のいい子)と誤解しているわけです。

(これについては、先生があちこちで、すでに指摘されていますので、省略します。)

つまりこの問題は、これから先、2代目、3代目を考えた、先の長い話になるということ
です。

そこでとりあえず、こうした問題を解決するためには、一つの方法としては、いわゆるエ
リート教育があります。全国一律の教育改革ではなく、(また日本人全体が、そうなるのを
待つのではなく)、一部でもよいから、こうした「考える教育」を始めるということです。
が、この教育にも、問題があります。現場では、いわゆる「飛び級」と言っているもので
すが、そこに受験戦争がからんでくると、わけがわからなくなってしまいます。(反対に、
いくら考える教育でも、受験に不利とわかれば、親にソッポを向かれてしまいます。)

私も、数年に1、2人と、飛びぬけて、頭のよい子どもに出会います。「おっ、こいつはT
K先生級だな」と思うわけですが、悲しいかな、そういう子どもを育てる環境が、まだな
いですね。またさらに悲劇的なことに、そういう子どもを理解できる教師も少ないという
ことです。

2年前、O君という少年を、8年間、教えました。小6のときには、中3生といっしょに
教えていましたが、東京の麻布中などは、不合格でした。社会が苦手だったことと、国語
が得意ではなかったからです。(現在は、HKラサール中学に在籍しています。)

しかし小4のときには、方程式を使わないで、方程式の問題をスラスラと解いていました。
が、学校では、問題児(?)。先生(女性)には、「生意気だ」とばかり、言われつづけた
そうです。(たしかに生意気そうな様子を見せる子どもでしたが……。)

こういう現実が、あるのですね。

先生がおっしゃった、GIFTED CHILDの問題もあります。それについては、私
も、何度か、エッセーにしてきました。

またメールを書きます。やはりまだ風邪の後遺症が残っているようです。

先生も、どうか、お体を大切に! 病気のときというのは、健康のありがたさが、しみじ
みと、わかりますね。今回がそうでした。
(05年4月26日記)



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●痴呆と、幼稚性

 頭がボケた兄を介護していたときのこと。私は、こんなことに気がついた。

 兄は、CDプレーヤーの使い方がのみこめず、四苦八苦していたときのこと。そのとき
の兄の様子が、ワイフが、パソコンの使い方がわからず、四苦八苦している姿に似ていた。

 そこで私は、「ボケというのは、相対的なもの」という考え方をもつようになった。より
利口な人から見れば、その人は、よりボケた人に見える。(反対に、ボケた人からは、利口
な人はわからないが……。)

 さらにその利口な人でも、より利口な人から見れば、ボケた人に見える。つまり利口か
そうでないかは、相対的なちがいでしかない、と。

 が、ここで大きな問題にぶつかる。

 その話をする前に、私はあるとき、今度は、幼児を教えているときに感じたことだが、
こんなことにも気がついた。ボケた兄と、幼児のしていることは同じようだが、同じでは
ない、と。

 たとえば幼児に、何かの電子機器を与えてみる。その幼児は、興味深そうにそれをなが
めたあと、あれこれそれをいじり始める。様子としては、CDプレーヤーをもって四苦八
苦している兄と、それほど、ちがわない。しかし、ちがう。どこかが、ちがう。

 同じ四苦八苦をしながらも、ボケた兄のほうは、どこか投げやり的。考える前に、めち
ゃめちゃ、操作しているだけといったふう。しかし幼児のばあいは、一つずつの動作の中
に、自分の考えを織りこんでいる。「こうすれば、こうなるのか」「ああすれば、ああなる
のか」と。

 ここが痴呆と、幼稚性のちがいということになる。もう少しくわしく考えてみよう。

 思考力は、(1)集中的思考と、(2)拡散的思考の二つに分類される。

 集中的思考というのは、すでに頭の中にある情報や知識を組み立てながら、一つの理論
から、別の理論へと、思考力を発展させていくことをいう。論理の世界が、それにあたる。

 一方、拡散的思考というのは、いわゆる「ひらめき」をいう。それまでになかった考え
方や、作り方を、発展的に発見していくことをいう。芸術家の世界が、それにあたる。

 その拡散的思考は、(1)思考の柔軟性、(2)独創性、(3)創造性、(4)応用性、(5)
敏感性、(6)感受性、(7)斬新性などによって判断される。

 痴呆性の老人を見ていると、これらの要素がないことがわかる。あっても少ないか、そ
の積み重ねに、時間がかかる。かかるというよりは、残らない。

 たとえば私は兄に、クレヨンと髪を渡して、絵を描かせてみた。しかし単純な絵で、し
かも同じ絵ばかりを描く。

 つぎにハナ(犬)との接触を試みた。何度か、いっしょに散歩させてみようと思ったが、
その意欲そのものがない。自分ができること、したことがあることについては、それなり
の行動ができる。が、新しいことについては、まったくといってよいほど、興味を示さな
い。

 こういうことから、痴呆については、とくに拡散的思考能力が、欠けているということ
がわかる。脳細胞レベルで考えるなら、その脳細胞から伸びていくはずのシナプスが、た
がいにからんでいかないといった様子になる。

 この違いが、痴呆と、幼稚性の違いということか?

 で、こと教育ということになると、幼児のばあいは、集中的思考にせよ、拡散的思考に
せよ、そこに「伸びていく」というおもしろさがある。しかし痴呆のばあいは、現状維持
が精一杯(?)。かりに伸びる要素があったとしても、それは一時的に、痴呆を食い止める
だけの効果しかないのでは……?

 が、ここでまたまた大きな問題にぶつかる。

 では、痴呆のばあい、教育はムダかどうかという問題である。それはたとえて言うなら、
すでに植物的な状態になった人に対して、延命処置は、ムダかどうかという問題に似てい
る。

 そこで登場するのが、人間性の問題ということになる。

 痴呆か、痴呆でないかは、あくまでも、相対的なものにすぎない。しかも、人間は、だ
れしも老いる。老いれば、脳の活動は、鈍くなる。もし「痴呆になったから、生きる価値
もない」と、だれかが判断したら、それこそ、たいへんなことになる。最初に書いたよう
に、痴呆的であるかないかということは、あくまでも、相対的な違いでしかない。

 それにこんなことにも気づいた。

 今朝、朝食のとき、ワイフが、こう言った。

 EXPO'05(愛・地球博)を見にいったときのこと、イタリア館の中に、2000
年ほど前に彫刻された男性像が陳列してあった。最近、海の中から発見されたものだとい
う。

 その話をしながら、ワイフが、「昔の人でも、結構、頭がよかったのね」と。

 私はそれを聞きながら、頭の中で、こう考えた。

 2000年前には、そういう像を彫刻できる人ような頭のよい人は、たとえば全体の2%
にすぎなかった。それが1000年前には、10%になり、現代は、30%になった、と。

 つまり頭のよさという点では、2000年前も、5000年前も、それほど、大きな違
いはない。ただ、頭のよい人が、どんどんとふえてきた。

私「それが進化ではないかと思う」
ワイフ「どういうことよ?」
私「いいか、人間は、全体が少しずつ、利口になってきたというわけではない。昔も、今
の現代人のように、頭のいい人はいた。が、数が少なかった。それが昔と、現代のちがい
ではないか」と。

 この考え方によると、いわゆるミッシング・リンク(人間とサルをつなぐ、進化の過程)
の謎も説明できる。つまり、ある日、ごく小数の人間だけが、(あるいは1人だけだったか
もしれない)、何らかの突然変異で、利口になった。

 その人間が、タネとなり、つまり優性遺伝する形で、時代を追うごとに、どんどんと利
口な人間がふえていった。

 話が脱線したが、もし先の考え方をおし進めると、人間にかぎらず、人間以外の動物た
ちも、みな、生きる価値はないということにもなってしまう。しかし、現実に、人間は、
下等動物であった時代から、生きてきたし、今も生きている。

 おそらく2000年後とか3000年後には、利口な人は、今よりはるかにずっと多く
なるにちがいない。だから今、愚かだからといって、またそういうことを理由にして、人
間の生きる価値まで、判断してはいけない。

 やはり、人間は、痴呆であろうが、幼稚であろうが、今を生きる権利がある。生きなけ
ればならない。

 しかしあえて言うなら、私は、痴呆性のある老人の教育は、したくない。同じだけの時
間とエネルギーを使うなら、幼児のために使った方が、ずっと楽しい。生きがいもある。
頭のボケたじいさんや、ばあさんを前にして、「粘土と棒で、三角形を作ってみよう」など
という指導は、したくない。私には、できない。(ごめん!)
(はやし浩司 進化 痴呆 幼稚性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●シャドウにおびえる

 『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。しかし泥棒は、ほかの泥棒を恐れるのではない。
自分の醜いシャドウ(影)におびえる。そのシャドウにおびえるから、戸締まりを厳重に
する。

 あまりよい例ではないかもしれないが、たとえば殺人者がいたとする。これはあくまで
も、私の想像によるものだが、その殺人者は、自分の罪の犯した罪を恐れるのではない。
殺した相手の亡霊を心のどこかに感じて、それを恐れる。

 ほかにたとえば、子どもの成績に狂奔する親がいる。そういう親は、いくらでもいる。
そういう親は、もちろん子どものために狂奔しているのではない。自分の不安や心配を解
消するための道具として、子どもを利用しているだけ。

 で、なぜ不安や心配になるかといえば、その原因は、シャドウである。自分のシャドウ
におびえて、そうする。今まで、学歴でしか人を判断してこなかったという、自分自身の
シャドウである。

 たとえば書店へ行く。子どものワークブックを選ぶ。そういうとき、どこかの有名大学
の有名教授の監修したワークブックなら、安心する。そうでないと、不安になる。

 子どもの目で、ワークブックを選ぶという「眼(め)」そのものが、ない。さらに他人を、
学歴で判断する。「あいつは、BB私立大学だから、よくて課長どまりだな」とか、など。
そういうゆがんだものの見方が、そのウラで、シャドウを、増幅させる。

 そういう部分が、自分の心のウラに、シャドウをつくる。そのシャドウが、今度は、そ
の親自身を操(あやつ)るようになる。そして子どもに向っては、こう叫ぶ。「勉強しなさ
い!」と。

 こうしたシャドウは、私にも、あなたにも、ある。みんな、ある。

 あるときまでは、そのシャドウを、心の箱の中にしまって、閉じこめることができる。
しかしそのシャドウが大きくなると、そうはいかない。そのシャドウが箱から出て、好き
勝手なことをし始める。

 それがこわい。

 だから、シャドウがあるにしても、今以上に、そのシャドウをを肥大化させてはいけな
い。

 方法は簡単。いつもサラサラと、飾りなく、常識を信じて生きる。ごくふつうの人間と
して、ふつうの生活を送る。あるがままの自分を、すなおにさらけ出して、生きる。それ
でよい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●山荘に泊まる

 昨夜(4・23)は、山荘に泊まった、ほぼ、4、5か月ぶりである。兄の介護なども
あった。

 朝、起きてみると、近くの山々が、刺繍(ししゅう)で描いたような、若葉でおおわれ
ていた。それが朝日をあびて、キラキラと輝いていた。

 美しかった。

 さっそく、CDをかける。もちろんベートーベンの「田園交響曲」。こういう景色には、
その曲が一番、似あう。

 ただし、昨夜、ふとん1枚で寝たため、どうやら風邪をひいたよう。夜中に、急速に気
温がさがったらしい。

 そうそう、ここ2日間で、2本のビデオをみた。

 「ビレッジ」と、「隣のヒットマン2」。「ビレッジ」は、最初からほとんど最後まで、(思
わせぶり)なシーンばかり。

 まあ、何というか、お粗末な内容。★は1つ。また「隣のヒットマン2」は、初作ほど、
おもしろくなかった。いわゆるコメディだが、(殺し)と(コメディ)の接続に、無理を感
じた。ヒマつぶしには、よいビデオだが、作品としては、★は2つ。

 そんなわけで、ここ2日は、時間を、かなりムダにした。パソコンの修理もあった。

 そのため、原稿は、ほとんど、書いていない。

(補記)

 今朝は、そんなわけで、悪夢で目がさめた。よく覚えていないが、いやな夢だった。気
分も悪かった。

 それで起きて、居間に行くと、ワイフがそこにいて、こう言った。

 「あなた、見て、夢みたいな景色よ」と。

 私は、こう言った。「あのな、ぼくにとっては、エクソシストに出てくるような恐ろしい
景色を、夢のような景色って、言うの。残念だけれど、夢の中では、こんなすばらしい景
色は見ないよ」と。

 そこで改めて、その美しい景色を見ながら、こう言った。

 「現実みたいな、きれいな景色だね」と。


●市町村合併

 今日(05・4月24日)、あちこちで、市町村合併にともなう、新首長の選挙が行われ
ている。地域住民の投票率は、あまりよくないようだ。

 で、行政改革はだれの目にも必要だし、それにともなう行政のスリム化は、これまた当
然と言える。今の行政には、ムダが多すぎる。それに公務員の数も、多すぎる。

 仮に10の市町村を、1つにすれば、市長は1人ですむ。議会に議員数も減らせるし、
職員の数も減らせる。……ということで、いわゆる「平成の大合併」が始まった。

 当初は、3200以上もあった市町村を、1000近くにまでスルム化する予定だった
が、いざ始めてみると、あれこれ問題だらけ。各自治体が、名称にこだわったり、それま
での既得権にこだわったりする、など。中には、水道料金や国民保険の納入額が、かえっ
てふえてしまったところもあるという。

 で、結局、05年3月末までの段階で、3200あった市町村が、約2000市町村に、
という程度で終わった。(これからも合併するところもあるが……。)

 が、その合併にともなう移行的措置として、地域によっては、巨大議会まで登場。合併
特例法により、旧市町村議員は、新設合併のばあいは、最長2年間。編入合併のばあいは、
編入先の市町村議員の任期満了まで、新しい自治体の議員として、在籍することができる。
そのために巨大化した。

 もちろんそのあとは、スリム化される。

 で、これまた問題もふえてくる。行政サービスの低下を恐れる声が、一番大きい。医療
サービスや、交通網など。バスの路線が減らされるのではという心配の声も聞かれる(テ
レビ報道)。

 しかし全体としてみると、つまり日本の外から日本をみると、日本の住民たちは、いわ
ゆる過保護状態にある。長くつづいた官僚制度の中で、日本人独特の依存性まで、身につ
いてしまった。「何でも、かんでも、お上に……」という発想である。

 もちろんそういう姿勢は、教育の世界にも、反映されている「何でもかんでも、子ども
のことは、学校で……」という、学校万能主義というのが、それである。教育はもちろん
のこと、家庭でのしつけまで。そのため、現場の先生たちは、今、悲鳴をあげている。

 実は同じようなことが、行政の世界でも起きている。

 ……で、これ以上のことを書くと、また反発してくる人も多いと思うので、ここまでに
しておくが、どうであるにせよ、少子化の波の中で、日本人の人口はどんどんと減ってい
る。それに合わせて、行政のスリム化は、避けられない。現に今、国家公務員と地方公務
員の人件費だけで、38兆円前後。日本の国家収入(42兆円前後)のほとんどを、その
人件費に費やしていることになる。

 こんなバカなことをつづけていたら、この先、日本は、どうなるか? ……ということ
で、合併から生まれる多少の不便は、がまんするしかない、ということになる。

 今日も、山荘からの帰り道、ほとんど人が通らない山道をドライブしてみた。道路はど
こも、ピカピカに整備されている。が、整備されているほうが、おかしい。またその必要
はない。そのための行政であるなら、これからもどんどんとスリム化すればよい。

 それにしても、投票率でみるかぎり、国民のこの問題についての関心は、きわめて低い
ようだ。夜になれば、もう少しきちんとした数字が出てくることと思う。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●メチャメチャな株価

 日本の会社だが、Fxxxxという会社がある。

 少し前、新型パソコンを買うとき、Mouse社のパソコンにしようか、それともFx
xxx社のパソコンにしようかと、迷った。(結局、Mouse社のパソコンにしたが……。)

 そういういきさつもあって、私は、Fxxxx社の株を、X株ずつ、3回に分けて買っ
た。

 が、まちがいだった。

 Fxxxx社というのは、音楽の配信を専門にする会社だった。つまり私は、パソコン・
メーカーのFxxxx社だと思って、その株を買ったが、私が株を買ったFxxxx社は、
別の会社だった。

 で、そのあと、ジリジリと株価は、低下。1株26〜27万円前後で買ったが、一時は、
24万円ギリギリまでさがってしまった。

 それだけでxx万円の損! こういう話は、ワイフにはできない。「まあ、そのうち、あ
がるだろう……」と思って、黙っていた。まさか、「会社をまちがえて株を買った」とも、
言えないし……。

 しかし、である。

 その株が、突如として、値上がりし始めた。驚いた。この数日間だけで、ナ、何と、約
5万円以上の値上がり! (5万円ですぞ!)

 ギョッ!

 株価が上がり始めると、下がるときより、狼狽(ろうばい)するものか。うろたえる。

 あわてて、数株ずつ、同じく3回に分けて売る。おかげで、この数日間だけで、xx万
円のもうけ!

 ……それはそれでうれしいのだが、こんな株価の上昇のし方は、異常。おかしい。狂っ
ている。つまり、今、日本の経済は、バブル化している。マネーゲーム化している。もっ
とはっきり言えば、バクチ化している!

 で、ネットで株の売買をしているが、そのネットで取り引きをしていると、昔の私がバ
カに見えてくる。昔の私は、朝、新聞の株価欄を見たあと、証券会社にそのつど電話を入
れ、株の売買を楽しんでいた。

 が、それでは、10分きざみ、あるいは数分きざみで変化する株価の変動には、対処で
きない。だから買いどきや、売りどきを、のがしてしまう。が、これでは、利益など、出
るはずがない。

 しかしネット取り引きのばあいは、瞬時、瞬時に、取り引きができる。これはすごい。
すごいのはわかるが、これでよいのかという疑問も、残る。

 今の今も、日本政府は、猛烈な勢いで、市中にお金をバラまいている。そういうお金が、
証券市場に集中している。今、外の世界では、あまり目だたないが、株の売買に血眼(ち
まなこ)をあげている人も、少なくないはず。

 しかし、株の売買は、ほどほどに。あまりいい気になると、ヤケドをする。私は、いつ
も投資額を、最高xx万円と決めて、株の売買をしている。そしてもうけたお金で、パソ
コンの周辺機器を買うことにしている。私にとって、株の売買は、あくまでも小づかい稼
ぎの遊び。

 それ以上の欲は、出さない。さてさて、今度は、何を買おうか? 新しいデジタルカメ
ラか、もう少しふんばって、携帯端末期くらいは、買えそうな雰囲気になってきた。


●おけさ踊り

 佐渡には、おけさ踊りという、よく知られた踊りがある。そのおけさ踊りについて、あ
の手塚治虫が、こんな物語を書き残している。もちろん、フィクション(だと思う。)

 手塚治虫短編集(1)、講談社漫画文庫より。「とんと昔、佐渡の相川の庄ちゅうところ
に……」という出だしで、その物語は、始まる。

 昔、ひょう六という、一匹のネコと暮らす、踊り好きな若い小作人がいたそうだ。

 ひょう六が踊った踊りは、どこか風刺的な踊りだった。それが佐渡を統治する大名の耳
に届いた。そしてひょう六は、大名の前で、その踊りをしてみせることになった。
 
が、どこか風刺的なその踊りは、大名の怒りをかうことになった。大名をどこか、小バ
カにしたような踊りだった。そこでその大名は、ひょう六に大量の酒を飲ませて、ひょ
う六を殺そうとした。が、そのときネコが、大杯(さかずき)を払って、ひょう六の命
を救う。

 もちろん、踊りは禁止。……ということになったが、ひょう六は、相変わらず、踊りつ
づけた。

 毎日、毎晩、踊りを踊ってばかりいたという。その踊り方が、うまかった。それを聞い
た近くの村に住む、「おけさ」という女性が、弟子入りをした。おけさはやがて、その若者
と結婚し、いっしょに住むことになった。

そんなある日、ひょう六は、襲ってきた侍たちに、片目を切られてしまう。

 しかしひょう六は、踊ることをやめなかった。

 怒った大名は、家来に命じて、ひょう六のもう一方の目も切ってしまう。ひょう六は、
盲目となってしまう。

 そこで今度は、おけさが、ひょう六のかわりに踊りを踊るようになったが、そのおけさ
も、大名の怒りをかった。犯された上、その大名の手によって、都へ遊女として売り飛ば
されてしまう。

 ひょう六が、おけさを求めてさがし回っていると、そこへ、おけさが大名の屋敷からも
どってきた。そしていつものように、ひょう六の世話をはじめたという。

 それからというもの、田んぼや畑で、ひょう六のネコが、踊っている姿がよく見られた
という。そしてそれは、「おけさネコ踊り」として、佐渡の島中に知れ渡るようになった。
が、やがてひょう六は、病に倒れ、そのまま死んでしまう。

 それからしばらくのこと。村人が、ひょう六の家に行ってみると、年老いたネコが、縁
の下で、笠をかぶったまま、死んでいるのが、見つかったという。

 手塚治虫のコミックを、かいつまんでまとめたので、ストーリーとして読みづらいとこ
ろがあるかもしれないが、許してほしい。

 で、この話には、フィクションとはいえ(多分?)、どこか、胸にジーンとくる。私がハ
リウッドの映画会社なら、すぐ映画化するだろう。ひょう六のところへもどって、おけさ
に代わって、ひょう六の世話したのは、そのネコということになる。

 しかしこの話は、冒頭にも書いたように、手塚治虫のフィクション、……だと思う。佐
渡に伝わる「佐渡おけさ」は、九州の「ハイヤ節」が北上し、佐渡に渡ったのが由来だと
言われている。また「おけさ」という語源については、女性名という説も多いが、定かで
はない。

 今度、佐渡へ行く機会があったら、調べてみたいと思っている。しかしどこか胸にジー
ンとくる話! ホント!

 (ワイフは、一度は行きたいと、がんばっている。)
(はやし浩司 佐渡 おけさ 佐渡おけさ 手塚治虫)

+++++++++++++++++++

●Uィルス・Bスターズめ!

 あえて名指しで! 今朝は、もう、何というか、神経をすり減らしたぞ! ホント!

 私は、主に土日、HPの更新をしている。とくに、メインHPは、土曜日にすることに
している。更新そのものには、それほど時間はかからないが、何しろ、ぼう大なHPであ
る。

 ファイルの読み出しだけで、20〜30分。それを更新して、FTP送信するまでに、
20分前後。そのあと保存をかけると、PEN4の3・2GHzマシンでしても、2時間
と40分もかかる。

 簡単には、ファイルを開けない。

 そんなとき、つまりファイルを開きつつあるとき、突然、Uィルス・Bスターズが、自
動更新を始めた。いつものことなので、ふと手を休めたが、そのあと、パソコンがフリー
ズしてしまった!

 これにはあわてた。本当にあわてた。

 数回、再起動をかけるが、状態は同じ。パソコンがフリーズするのは、しかたない。し
かしHPのファイルを破損したら、どうする!

 外づけのハードディスクで、そのつどコピーはとってはいるが、しかし毎週ではない。
月に1回くらい……。

 で、そのあと、あちこちが狂い始めた。ゾーッ、ゾーッの繰りかえし。OSはXP2だ
が、そのXP2でも、復元ができなくなってしまった。おまけにインターネットもつなが
らない!

1、2時間、悪戦苦闘。パソコン会社に電話をすると、「リカバリー(リセット)しかあ
りません」とのこと。「OS(Windows)が、破壊されていますね」と。

 またまた、ゾーッ。本当にキモを冷やした。が、今度は、パソコン会社にすら、電話が
つながらなくなってしまった。

 リカバリーはしたものの、OSが、二つ入ってしまい、たがいにバッチング! 一方に
入れたソフトが、他方では、消えてしまう。

 その上、パソコンに電源を入れると、英語で「原因不明のエラー※」と表示される!

 ああああ!

 午後になって、しかも1時間くらい電話をかけつづけたあと、やっと、コンピュータ会
社と電話でつながった。

 理由を聞くと、「原因は、Uィルス・Bスターズのようです。昼のNHKニュースで、そ
れを言っていました」と。

 まさかのまさか! ウィルスソフトで、パソコンが破壊された!

 そのあと、一度、パソコンを、すべて白紙にする方法から、教えてもらい、リカバリー。
そのあと、必要最小限のソフトを組み込み、ファイルをもどして、作業が終了したのが、
少し前。現在、午後7時少し前だから、約10時間以上、時間をムダにしたことになる。

 10時間だぞ!

 笑うに笑えない。泣くに泣けない。途中、ムシャクシャしたから、ワイフと散歩。

 夕方、夕刊を見たら、「Uィルス・Bスターズが原因らしい」とのこと。あちこちで、か
なりの被害がでたらしい。

 もう二度と、Uィルス・Bスターズは買わないぞ!
 
 損害を弁償してくれ! 10時間という貴重な時間を、どうしてくれる!

 そんなわけで、今夜は、外食。パソコンを見るのも、いやになった。

※……通称、「死のエラー」と呼ばれる「STOP c000021a」というブルー画面。
あちこちで調べたが、私のような素人では、どうにもならないエラーらしい。ハードディ
スクそのものの物理的故障によることもあるとか。

 ここで「作業が終了した」と書いたが、実は、今も、その作業中。翌日の今日(24日)、
もう一度、リカバリー(リセット)をしているところ。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 18日(No.569)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親の気負いの陰にあるもの

 不幸にして不幸な家庭に生まれ育った親ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」
という気負いばかりが先行し、結果的に、よい家庭づくり、よい親子づくりに失敗しやす
い。

 それを心理学の世界では、「シャドウ」という言葉を使って説明している。(知らなかっ
た!)

 つまり子どもたちは、親のそのうしろにあるシャドウ(影)を見ながら、自分たちの心
理を形成してしまうというわけである。

 ひとつの例として、こんな例を考えてみよう。(例として、正しいかどうかは、まだよく
わからないが……。)

 ある母親は、自分が、大学を出ていなかったことを、いつも、心のわだかまりとしてい
た。そこでその母親なりに、努力した。大学の公開セミナーなどがあると、積極的に参加
していた。資格もいくつか、取った。

 しかし心のわだかまりは消えなかった。学校の父母会の席などで、学歴が話題になった
りすると、その母親は、いつも小さくなっていた。

 そこでその母親は、子どもの勉強にのめりこむようになった。俗にいう、「教育ママ」に
なった。テストの点数が少しでも悪いと、子どもを叱った。そして睡眠時間を削ってでも、
そのテストのやりなおしを、させた。

 こういうケースのばあい、母親は、子どものためを思って、そうしているのではない。
自分自身の中にある、不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだ
けである。

 だから、子どもは、やがてすぐ、そういう親の下心を見抜いてしまう。見抜くだけなら
まだしも、そのシャドウの部分だけを、引きついでしまう。

 で、たとえばその努力(?)のかいもなく、その子どもが、親の希望どころか、自分の
希望ともほど遠い、CC中学に入ったとしよう。ふつうなら、「どこの中学でも同じ」「ま
たがんばればいい」というような、合理的な割りきりをしながら、親や子どもは、それを
乗りきっていく。が、シャドウを引きついだ子どもは、そうではない。

 自分はダメな人間だというレッテルを、自らに張ってしまう。

 「どうせ、私はダメ人間だ」「失敗者だ」「失格者だ」と。さらにそういう思いが肥大化
して、自己否定にまで進んでしまうかもしれない。さらに自ら、自暴自棄になってしまい、
二番底、三番底へと落ちていくかもしれない。

 要するに、親が子どもにきびしい学習を強いたとしても、子どもがそれを、「自分のため
に、親は、がんばってくれている」と感ずれば、子どもは仮に失敗しても、そこを原点と
して、また前向きに歩きだす。

 しかしそのシャドウを子どもが感じたとき、(たいていのケースでは、親自身も、そのシ
ャドウに気づいていないことも多いが)、そのシャドウのもつ、邪悪な部分を、子どもは引
きついでしまう。

 先のケースでいうなら、学歴や肩書きだけで人を判断したり、反対に、それがない自分
を、異常なまでに、卑下したりするようになる。

 たしかに親の気負いが強ければ強いほど、その親は、よい家庭づくり、よい親子づくり
に失敗しやすい。それは、教育の世界でも常識である。しかしなぜ失敗しやすいのか。そ
の一つのヒントが、このシャドウにある。

 まだよくわからない点もあるので、ここに書いたことは、まちがっているかもしれない。
専門家の先生が読んだら、「おいおい、シャドウの意味がちがうよ」と言われるかもしれな
い。

 しかし一つのヒントの一口はつかんだように思う。これから先、このシャドウの問題を、
もう少し、掘りさげて考えてみたい。

 とっかかりとして、私やあなたには、どんなシャドウがあるか? それを考えてみると、
おもしろいのでは……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●超自我の世界

 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう
一つの自我、つまり(超自我)があるという。

 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。

 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかし
あいにくと、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。

 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人
の自分が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れ
られるぞ」と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。

 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるよ
うだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向く
まま、思いつくまま、行動するようになる。

 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。

 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであ
れば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、そ
れがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。

 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわ
けではないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてし
まう。そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離
れていく。「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。

 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子ども
が、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放
化したりすることなどがある。非行に走るケースも珍しくない。

 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、
しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。

 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。

 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のも
のにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであ
れば問題はない。

 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていの
ばあい、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だ
けを、子どもが引きついでしまう。

 それがシャドウということか。

 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。

つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操って
いる、もう1人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。

 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用
しない。つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。

 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子ども
ではなく、親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て
育つ』というが、それをもじると、こうなる。

 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけな
いで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。

 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えて
みたい。

(私の書いていることは、まちがっているかもしれないが、まちがっていれば、そのつ
ど訂正することにして、今は、このまま原稿にしておく。)

+++++++++++++++++++++++++++

●親の心を見ぬく、子どもたち

 『子は親の背中を見て育つ』とは言うが、同時に、子は、親の背中の奥まで、見ぬいて
しまう。これがこわい。

 たとえばあなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言っ
たとする。そのとき、あなたは、子ども自身のためを思って、そう言っているだろうか。
それとも、自分のメンツや、見栄、世間体のためにそう言っているだろうか。それを子ど
もは、あっという間に、見ぬいてしまう。

 フロイトは、「超自我」という言葉を使って、それを説明した。子どもは、親をその背後
から操っている超自我を見ぬいてしまうと。日本語で言えば、「下心」ということになるが、
そんな簡単なものではない。奥は、もっと深い。親の人間性そのものまで、見ぬいてしま
う。

 見ぬくというよりは、感性として、それを判断するといったほうが正しいかもしれない。
親は無意識のまま、仮面(ペルソナ)をかぶる。その仮面を、子どもは、無意識のまま、
身ぬく。親は、「子どももには、そんなことはできない」と思っているかもしれないが、子
どもは、親が考えているより、はるかに敏感である。私の例で考えてみよう。

 私が高校生のときのこと。進路指導の個別面接があった。その教師は、あれこれと私の
成績をながめながら、「君なら、できる」「がんばれる」「やればできる」と励ましてくれた
が、どこかおかしい(?)。へん(?)。その教師は、本当に私のことを思って、そう言っ
ていたのではない。進学率を高めるためにそう言っていた。それに私はそのとき、気づい
た。と、同時に、その教師への信頼感は、こなごなに消えた。

 その教師にしてみれば、有名大学へ何人、生徒を送りこむかが重要であった。学校の「実
績」をあげるためである。そのため私のばあい、高校2年から3年にかけて、無理やり、
理科系から文科系へ、転向させられてしまった! 「君なら、K大の工学部は無理だが、
K大の文学部になら、入れる」と。今から思うと、悲劇としか言いようがない。

 これは教師と私との話だが、親子の間では、関係が一度こじれると、ことは深刻。親子
であるがゆえに、問題は、底なしにこじれる。が、それだけではすまない。子ども自身が、
親のシャドウ(影)に苦しむことになる。

 具体的に、あれこれということではない。しかしもっと抽象的、観念的な生きザマまで、
親から子どもへと、すべてが伝わってしまう。「学習」というなまやさしいものではない。
子どもの心に、親の超自我が、そっくりそのまま、しみこんでしまう。

 たとえば善悪の感覚、判断能力、倫理観や道徳観など。親がたとえば、小ずるい人間で
あったとすると、子どもも、小ずるくなる。親を反面教師として、別の人格をつくりあげ
る例もないわけではない。しかしそのばあいでも、その子どもは、ほかの子どもたちより
も、何倍も苦労をしなければならない。たとえばほかの子どもなら、自然な形で身につけ
る善悪感についても、不要な葛藤を繰りかえすことになる。

 たとえば親が、駐車場でもないところに平気で車を止めたり、あるいは赤信号でも無視
して、車を走らせていたとする。そういった善悪感は、そっくりそのまま子どもに伝わっ
てしまう。

 そういう親をもった子どもは、不幸である。生活のあらゆる場面で、その小ずるさが顔
を出す。そのため、一事が万事。長い時間をかけて、その子どもは、善良な世界から、遠
ざかってしまう。気がついたときには、まわりは、悪人だらけということにも、なりかね
ない。

 そこでフロイトは、人間がもつ良識や良心は、その「超自我」の中で、つくられると考
えた。その中で作られた良識や良心が、その人の生きザマを基本的な部分で、決定づける、
と。

 このことは、自分の経験に照らしあわせてみると、よくわかる。

 たとえば道路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、「私」、つまり、「私とし
ての自我」は、そのお金をほしいと思う。「拾ってもっていこう」と思う。

 しかしそれにブレーキをかける「私」もいる。「お金がほしい」というのが、自然な「私」
であるとするなら、「もらってはだめ」とブレーキをかけるのは、「私」を超えた「私」と
いうことになる。

 その「私を超えた私」は、自分自身でつくっていくものというよりは、生まれ育った環
境の中で、つくられていくものということになる。もちろんそれをつくっていくのは、親
だけではない。しかし実際には、乳幼児期までには、その方向性が決まってしまう。その
ことを考えるなら、親の責任は、きわめて重大ということになる。

 よく誤解されるが、こうした倫理観や道徳観は、学校での勉強などによって、身につく
ものではない。道徳のテストで、すばらしい点数を取ったからといって、その子どもが、
善人というわけではない。

 こんなテスト問題があった。小学1年生の問題である。

Q……お母さんが、台所で料理をしていました。それを見たあなたは、どうしますか。

(1)手伝う。
(2)そのまま遊んでいる。
(3)どこかへ遊びに行く。

 正解は(1)ということになるが、実際に、料理を手伝うかどうかは、別問題である。
つまりこういうテストで、よい点をとったからといって、その子どもの人格がすぐれてい
るということにはならない。要領のよい子どもなら、よい点を取るため、(1)に丸をつけ
るだろう。

 こんな例もある。

 私の知人に、K氏という人がいる。当時、32歳。

 ある日、K氏のところに、K氏の母親から電話がかかってきた。「Z氏がもっている、山
林を買ってやってほしい」と。

 Z氏というのは、母親の実兄、つまりK氏の伯父である。値段を聞くと、800万円だ
という。さらに話を聞くと、「本当は、2000万円くらいの価値がある」と。

 K氏は、お金を集めて、その山林を、800万円で買った。しかし、その山林は、それ
から30年近くたった現在ですら、200万円にもならない山林だった。

 母親は、伯父と結託して、息子のK氏をだました。だまして、当時、80万円でもよい
値段の山林(地元の森林協同組合の職員)を、K氏に800万円で売りつけた。

 世の中には、親をだます子どもは、いくらでもういる。しかし子どもをだます親も、珍
しくない。しかもそのあとも、伯父なる人物は、毎年、K氏に、8〜10万円の管理費を
請求してきたという。

 K氏は、こう言う。「おそらく、母は、伯父から、いくらかのペイバック(謝礼)を受け
取っているはずです。母も、伯父も、昔から、そういう人間です」と。

 が、問題は、そのことではない。

 そういう母親をもったK氏自身も、母親から、そういう人間性を引きついでいた。K氏
はこう言う。

 「私の体質の中に、実は、母や伯父の体質がしみこんでいるのですね。私は、母と伯父
に800万円、だまし取られましたが、私も、ひょっとしたら、そういうことが平気でで
きる人間なのです。ときどき、そういう自分が、こわくなります」と。

 K氏は、今も、自分自身のシャドウ(影)に苦しんでいる。

 以上、私は、超自我について書いてきた。シャドウについても書いてきた。その前に
は、(私であって私でない部分)について書いてきた。さらに仏教で教える、末那識(自
分の奥底に潜んで、自分を操るエゴ)についても、書いてきた。もちろん心理学でいう、
潜在意識という考え方もある。

これらは結局は、すべて、(私)を知る手がかりということになる。

 「私のことは、私が一番よく知っている」と言う人は多い。しかし本当のところ、(私)
を知るのは、簡単なことではない。そのことだけでも、わかってもらえれば、うれしい。
(はやし浩司 超自我 末那識 シャドウ 仮面 ペルソナ)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●仮面(ペルソナ)とシャドウ

 仮面(ペルソナ)をかぶると、その反作用として、心の奥にもう1人の、別の人格が生
まれる。それをシャドウという(ユング)。たいていは、無意識のまま生まれる。そしてそ
のシャドウ(影)に気づく人は、少ない。

 たとえば牧師、僧侶、そして教職者。それほど善人でもない人間が、無理をして善人ぶ
ると、その反作用として、その人の心の向こうに、シャドウができる。そのシャドウに、
自分の中のイヤな部分を押しこめることによって、表面的には、善人を装うことができる。

 そのためたいていのばあい、そのシャドウは、邪悪で、薄汚い。その奥では、ドロドロ
とした人間の欲望が、ウズを巻いている。

 反対に、善人でも仮面をかぶれば、理屈の上では、シャドウができることになる。しか
し善人が、仮面をかぶるということは、あまりない。そのため善人の心の奥に、シャドウ
ができるということは、少ない。ふつう仮面(ペルソナ)というのは、悪人が、自分の心
を隠すために、かぶる。

 そこでそのシャドウを、いくつかに分類してみる。

(1)仮面とは正反対の、本性としてのシャドウ。
(2)劣等感を補償するためのシャドウ。
(3)優越感を保護するためのシャドウ。

 たとえば、牧師。もちろん大半の牧師は、善良な人である。しかし中には、いつも自分
の心をごまかしている人もいる。邪悪な心を押し隠しながら、人前では、あたかも神の僕
(しもべ)のようなフリをして、説法をする。

 このタイプの人は、正反対のシャドウを、自分の中につくりやすい。(本当は、そちらの
ほうが本性ということになるのだが……。)

つい先ごろ(05年4月)、大阪に住む、あるキリスト教会の牧師が、少女たちにワイセ
ツ行為を繰りかえしていたという事件が発覚した。被害者は、30数名以上とも言われ
る。体を清めるとか何とか言って、少女たちを裸にして、そのあと好き勝手なことをし
ていた。とんでもない牧師がいたものだが、牧師であるがゆえに、かえって邪悪なジャ
ドウが、増幅されてしまったとも考えられなくはない。

 その牧師のばあい、牧師という顔そのものが、仮面(ペルソナ)ということになる。ふ
つう、シャドウはシャドウとして、その人の陰に隠れて姿を現さないものだが、その牧師
のばあいは、反対に、シャドウのほうに、自分が操られてしまったことになる。

 ほかに、手鏡で若い女性のスカートの中をのぞいていた大学教授もいた。マスコミの世
界でも著名な教授であった。こうした人たちは、世間的にもちあげられればあげられるほ
ど、善人という仮面をかぶりながら、その裏で、仮面とは正反対のシャドウをつくりやす
い。

 また「劣等感を補償するためのシャドウ」というのもある。

 たとえば学歴コンプレックスをもっている人が、表の世界では、「学歴不要論」を唱えた
り、容姿に恵まれなかった女性が、ウーマンリブ闘争の旗手になったりするのが、それ。

たとえば「私は息子たちには、『勉強しろ』と言ったことはありません。子どもは、自由
で、伸びやかなのが一番です」などと言う親ほど、実は、教育ママであったりする。

 あるいは、ある会社の社員は、ことあるごとに、同僚のX氏を、いじめていた。「あいつ
は、4年生の大学を出ているくせに、オレより、仕事ができない」と。

 こうしたいじめをする原動力になっているのが、ここでいう劣等感を補償するシャドウ
ということになる。

 さらに優越感を保護するためのシャドウもある。たとえば超の上に、超がつくような金
持ちが、ことさら自分を卑下してみせたり、貧乏人を装うなどが、それ。

 少し前だが、有名なニュースキャスターが、やや顔をしかめながら、こう言った。「この
不況で、ますます生活がきびしくなりますね」と。

 そのキャスターは、年俸が、2億〜3億円もあったという。1回の講演料が、300〜
400万円。そんなキャスターが、「生活がきびしくなる」などということは、ありえない。
いくら演技でも、限度がある。私はそのしかめた顔を見ながら、思わずつぶやいてしまっ
た。「何、言ってるんだ!」と。

 彼のばあいは、一応、庶民の味方であるかのようなフリをしながら、コメントを述べて
いた。が、内心では、庶民を、軽蔑していた。あるいは庶民に対して、ある種の優越感を
感じていたのかもしれない。

 よく似た例としては、他人の不幸話を、喜んで聞く人がいる。さも同情したようなフリ
をして、「それは、かわいそうに」などと言うが、実際には、何も、同情などしていない。
このタイプの人は、他人が不幸であればあるほど、自分が幸福になったように感ずる。

 こうした仮面は、教師には、つきもの。世間一般では、教職者は、それなりに人徳者と
考えられている。しかし実際には、私も含めてだが、むしろそうでないケースが多い。

 その人の人徳というのは、いくたの苦難の中でもまれて、はじめて身につく。むしろそ
ういう意味では、教職というのは、意外と楽な仕事といえる。少なくとも、大学を卒業す
る時点において、とくにすぐれた人格者が、教師になるというわけではない。

 だから……というわけでもないが、牧師にせよ、僧侶にせよ、はたまた教師にせよ、大
切なことは、シャドウをつくるような仮面をかぶらないこと。ありのままの自分を、まず
さらけ出し、その中から、自分をつかんでいく。それが私は、重要だと思う。

【追記】

 このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「要するに、自分に正直に生きれば
いいということね」と。

 いつも核心部分を、ズバリというところが、ワイフの恐ろしいところ。私が何日もかけ
て知ったことを、いつも一言で、まとめてしまう。

 しかしあえて言うなら、ワイフは、少し、まちがっている。(ごめん!)

 「自分に正直に生きる」とはいうが、それは口で言うほど、簡単なことではない。

 たとえば隣人を殺したいと思うほど、憎んでいたとする。しかしそのとき、自分に正直
に生きたら、どうなるか? 

 あなたは台所から包丁をもちだし、その人を殺しに行くかもしれない。しかしそれは、
困る。

 「自分に正直に生きる」ためには、その前に、大前提として、(善良な自分)がなければ
ならない。その(善良な自分)がないまま、正直に生きたら、それこそ、たいへんなこと
になる。

私「だからさ、学校の先生もさ、無理をしないで、自分に、正直に生きればいいのさ。へ
たに聖職者意識をもつから、疲れる。それだけではない。シャドウをつくってしまい、今
度は、そのシャドウに苦しむことになる」
ワ「ありのままの自分で生きるということね」
私「そうだよ。オレは、給料がほしいから、教えているだけ。本当は、お前たちのような
バカは相手にしたくねえが、がまんしてつきあっているだけとか何とか、そう思っている
なら、そう言えばいい。すべては、そこから始まる」と。

 ここまで書いて、新しいことに、私は気づいた。「嫉妬(しっと)」である。その嫉妬も、
シャドウ理論で説明がつくことがある。つぎに、それを考えてみたい。


●嫉妬(しっと)

 もう20年近くも前のことだが、こんな話を聞いた。

 ある出版社に、部下の面倒みはよいが、たいへん厳格な上司がいた。しかしたいへんダ
サイ男で、女性社員に、ほとんどといってよいほど、相手にされなかった。

 その中でも、つまり女性社員の中でも、その上司は、とくにA子さんに好意を抱いてい
たらしい。ところが、そのA子さんが、同じ部にいる若いB男と不倫関係になった。とた
んその上司は、A子さんに、無理な仕事ばかり押しつけて、A子さんに対して、意地悪を
するようになったという。

 ふつうの意地悪ではない。執拗(しつよう)かつ陰湿。最終的には、A子さんをして、
その会社をやめる寸前まで、追いつめたという。

 簡単に言えば、その上司は、A子さんに嫉妬したということになる。しかし嫉妬するな
ら、その相手の男、つまりB男に対して、である。どうしてその上司は、B男に対してで
はなく、A子さんに、意地悪をしたのか?

 こうしたケースでも、シャドウ理論を使えば、説明ができる。

 その上司は、職場の先輩として、つまり人格者としての仮面(ペルソナ)をかぶってい
た。職場での不倫関係を強く戒(いまし)めていた。部下の面倒をよくみる、できた上司
としての仮面である。しかしその本性は、まったく、別のところにあった。女性社員に相
手にされなくて、悶々としていた。

 その悶々としていた部分が、その上司のシャドウを肥大化させた。邪悪で陰険なシャド
ウである。そのシャドウが、その上司を裏から操(あやつ)って、A子さんを、いじめつ
づけた(?)。

つまりこのケースでは、その上司は、嫉妬が原因で、A子さんに意地悪をしたのではな
い。自分のシャドウに操られて、そうした。そう考えると、話の内容が、すっきりする。

+++++++++++++++++++++

(補足)

 仮面(ペルソナ)をかぶることが悪いというのではない。だれしも、ある程度の仮面を
かぶる。かぶらなければ、仕事ができないことだって、ありえる。たとえばショッピング
センターの店員や、レストランの店員など。ブスッとした顔をしていたのでは、売りあげ
ものびない。

 しかしそこで重要なことは、仮面をかぶっているときは、いつも、その仮面をかぶって
いることを、心のどこかで、自覚すること。その仮面をかぶっていることを忘れてしまっ
たり、あるいは仮面をとりはずし忘れると、たいへんなことになる。

 たとえば教師が、聖職者としての仮面をかぶったとする。子どもを指導するためには、
そういう仮面をかぶることは、ある程度は必要かもしれない。しかしそれが本当の自分と
は、思ってはいけない。さらに一歩進んで、「私は、人格的にすぐれた人間だ」と思いこん
ではいけない。

 こうした状態が、さらに進むと、それこそ、自分がだれだか、わからなくなってしまう
ことがある。仮面人間といってもよい。仮面をずっとかぶりつづけていたため、仮面をは
ずせなくなってしまう。

DSM―IV(第4版)の診断基準の中には、「演技性人格障害」というのもある。つま
りは、「自分がだれであるかもわからなくなってしまい、他人と良好な人間関係を結べな
くなってしまった人」と、考えると、わかりやすい。

ここでいうシャドウとは、少し話がそれるが、参考までに、それをあげておく。 

++++++++++++++++

【演技性人格障害】 

過度の情緒性と人の注意を引こうとする広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の
状況で明らかになる。以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)自分が注目の的になっていない状況では楽しくない。
(2)他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的な、または挑発的な行動に
よって特徴づけられる。
(3)浅薄で、すばやく変化する感情表出を示す。
(4)自分への関心を示すために絶えず身体的外見を用いる。
(5)過度に印象派的な、内容の詳細がない話し方をする。
(6)自己演劇化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現を示す。
(7)被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。
(8)対人関係を実際以上に親密なものとみなす。

++++++++++++++++

 仮にここでいうような、人格障害というレベルまで進んでしまうと、それこそ、「私」が
何なのか、その人自身も、わからなくなってしまう。中には、自分の悪性を隠しながら、「私
は絶対的な善人だ」と信じきっている人もいる。先にあげた、ハレンチ牧師なども、その1
人かもしれない。

 仮面をかぶるとしても、その仮面は、必ずどこかで、はずすこと。くれぐれも、ご用心!
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ ユング 演技性人格障害)


●私は善人か?

 仮面をかぶるということは、それ自体、とても疲れる。とくに私のように、もともと性
があまりよくない人間にとっては、そうだ。

 そういう人間が、人の前で、さも人格者ですというような顔をして、話をする。これは
とんでもないまちがいである!

 事実、私は、20代から30代のはじめのころまで、職場から帰ってくると、いつも言
いようのない疲労感に襲われた。瀬一杯、虚勢を張って生きていたこともある。子どもを
教えながら、その向こうに、いつも、親たちの鋭い視線を感じていた。

 が、あるときから、自分をさらけ出すことにした。子どもたちの前ではもちろんのこと、
親たちの前でも、言いたいことを言い、したいことをするようにした。

 とたん、気分が晴れ晴れとしたのを覚えている。

 で、昔から、『泥棒の家は、戸締まりが厳重』という。

 これは自分が泥棒だから、他人も自分と同じように考えていると思うことによる。心理
学でも、そういうのを、「投影」という。自分の心を、相手の心に投影してものを考えるか
ら、そういう。しかしもう少し踏みこんで考えてみると、泥棒は、自分自身のシャドウ(影)
におびえているということにもなる。

 「自分の家は、いつも泥棒にねらわれている」とおびえるのは、泥棒に入られることを
恐れているのでもなければ、また他人が、泥棒に見えることでもない。実は、自分自身の
中のシャドウにおびえているため、と。

 同じように、仮面をかぶるとなぜ疲れるかと言えば、演技をするからではなく、そのシ
ャドウを見透かされないように、あれこれ気を使うためではないかということにもなる。

 今から、あの当時の自分を思い出すと、そう考えられなくもない。ある時期などは、さ
も「お金(月謝)には、興味はありません」などという顔をして、教えたこともある。し
かし私のシャドウは、熱心に、そのお金(月謝)を、追い求めていた!

 お金(月謝)がほしかったら、「ほしい」と言えばよい。無理をしてはいけない。つまり
は、自分に正直に生きるということになるが、これがまた、たいへん。

 正直に生きるためには、その前に、自分の中の邪悪な部分を、踏みつぶしておかねばな
らない。冒頭にも書いたように、私はもともと、性があまりよくない。「よくない」という
のは、小ずるい人間であることをいう。

 気は小さいので、たいしたワルはできない。しかし陰に隠れて、コソコソと悪いことば
かりしていた。そういう人間である。

 そういう自分に正直に生きたら、それこそ、たいへんなことになる。

 そこで私は、まず、身のまわりのルールから守ることにした。はっきりとそれを自覚し
たのは、自分が、ドン底に落ちたと感じたときだった。それについて書いたエッセーが、
つぎのエッセーである。

+++++++++++++++++++++

そのときのことを書いた、エッセーをそのまま添付
します。文章が、うまくありませんが、そのまま、で。

+++++++++++++++++++++

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。

そういう意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。

私のばあいも、幼稚園で講師になったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道
を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。

私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせ
ねばならなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、
クソまじめな生き方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正
直に立ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命では
ない。自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しか
しその運命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身
で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう
言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今も
その運命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていた
ことだろう。自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事
に悪事を重ねているに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命
を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、
本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分
で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かさ
れるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考え
てみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断
すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。
つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きなが
ら、自分と戦う。……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。
みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。

今、善人ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、
あなたもその悪人になっているかもしれない。そういうのを運命というのなら、たしか
に運命というのはある。

何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほし
い。このつづきは、別のところで考えてみることにする。

++++++++++++++++++++++

この原稿につづいて書いたのが、つぎの原稿です。
55歳のときに書いたので、もうそれから2年以上
になります。

内容が少しダブりますが、お許しください。

++++++++++++++++++++++

【自分のこと】

●ある読者からのメール

 一人のマガジン読者から、こんなメールが届いた。「乳がんです。進行しています。診断
されたあと、地獄のような数日を過ごしました」と。

 ショックだった。会ったことも、声を聞いたこともない人だったが、ショックだった。
その日はたまたま休みだったが、そのため、遊びに行こうという気持ちが消えた。消えて、
私は一日書斎に座って、猛烈に原稿を書いた。

●五五歳という節目

 私はもうすぐ五五歳になる。昔で言えば、定年退職の年齢である。実際、近隣に住む人
たちのほとんどは、その五五歳で退職している。

私はそういう人たちを若いときから見ているので、五五歳という年齢を、ひとつの節目
のように考えてきた。だから……というわけではないが、何となく、私の人生がもうす
ぐ終わるような気がしてならない。

この一年間、「あと一年」「あと半年」「あと数か月……」と思いながら、生きてきた。が、
本当に来月、一〇月に、いよいよ私は、その五五歳になる。もちろん私には定年退職は
ない。引退もない。死ぬまで働くしかない。しかしその誕生日が、私にとっては大きな
節目になるような気がする。

●私は愚かな人間だった

 私は愚かだった。愚かな人間だった。若いころ、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。
時間というのが、かくも貴重なものだとは思ってもみなかった。その日、その日を、ただ
楽しく過ごせればよいと考えたこともある。

今でこそ、偉そうに、多くの人の前に立ち、講演したりしているが、もともと私はそん
な器(うつわ)ではない。もしみなさんが、若いころの私を知ったら、おそらくあきれ
て、私から去っていくだろう。そんな私が、大きく変わったのは、こんな事件があった
からだ。

●母の一言で、どん底に!

 私はそのとき、幼稚園の講師をしていた。要するにモグリの講師だった。給料は二万円。
大卒の初任給が六〜七万円の時代だった。

そこで私は園長に相談して、午後は自由にしてもらった。自由にしてもらって、好き勝
手なことをした。家庭教師、塾の講師、翻訳、通訳、貿易の代行などなど。全体で、一
五〜二〇万円くらいは稼いでいただろうか。しかしそうして稼ぐ一方、郷里から母がと
きどきやってきて、私から毎回、二〇万円単位で、お金をもって帰った。私は子どもと
して、それは当然のことと考えていた。が、そんなある夜。私はその母に電話をした。

 私は母にはずっと、幼稚園の講師をしている話は隠していた。今と違って、当時は、幼
稚園の教師でも、その社会的地位は、恐ろしく低かった。

おかしな序列があって、大学の教授を頂点に、その下に高校の教師、中学校の教師、そ
して小学校の教師と並んでいた。幼稚園の教師など、番外だった。私はそのまた番外の
講師だった。幼稚園の職員会議にも出させてもらえないような身分だった。

 「すばらしい」と思って入った幼児教育の世界だったが、しばらく働いてみると、そう
でないことがわかった。苦しかった。つらかった。そこで私は母だけは私をなぐさめてく
れるだろうと思って、母に電話をした。

が、母の答は意外なものだった。私が「幼稚園で働いている」と告げると、母は、おお
げさな泣き声をあげて、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア、誤ったア!」と、何度も繰
り返し言った。とたん、私は、どん底にたたきつけられた。最後の最後のところで私を
支えていた、そのつっかい棒が、ガラガラと粉々になって飛び散っていくのを感じた。

●目が涙でうるんで……

 その夜、どうやって自分の部屋に帰ったか覚えていない。寒い冬の夜だったと思うが、
カンカンとカベにぶつかってこだまする自分の足音を聞きながら、「浩司、死んではだめだ。
死んではだめだ」と、自分に言ってきかせて歩いた。

 部屋へ帰ると、つくりかけのプラモデルが、床に散乱していた。私はそのプラモデルを
つくって、気を紛らわそうとしたが、目が涙でうるんで、それができなかった。私は床に
正座したまま、何時間もそのまま時が流れるのを待った。いや、そのあとのことはよく覚
えていない。一晩中起きていたような気もするし、そのまま眠ってしまったような気もす
る。ただどういうわけか、あのプラモデルだけは、はっきりと脳裏に焼きついている。

●その夜を契機(けいき)に……

 振り返ってみると、その夜から、私は大きく変わったと思う。その夜をさかいに、タバ
コをやめた。酒もやめた。そして女遊びもやめた。もともとタバコや酒は好きではなかっ
たから、「やめた」というほどのことではないかもしれない。

しかしガールフレンドは、何人かいた。学生時代に、大きな失恋を経験していたから、
女性に対しては、どこかヤケッパチなところはあった。とっかえ、ひっかえというほど
ではなかったかもしれないが、しかしそれに近い状態だった。一、二度だけセックスを
して別れた女性は、何人かいる。それにその夜以前の私は、小ずるい男だった。もとも
と気が小さい人間なので、大きな悪(わる)はできなかったが、多少のごまかしをする
ことは、何でもなかった。平気だった。

 が、その夜を境に、私は自分でもおかしいと思うほど、クソまじめになった。どうして
自分がそうなったかということはよくわからないが、事実、そうなった。私は、それ以後
の自分について、いくつか断言できることがある。

たとえば、人からお金やモノを借りたことはない。一度だけ一〇円を借りたことがある
が、それは緊急の電話代がなかったからだ。もちろん借金など、したことがない。どん
な支払いでも、一週間以上、のばしたことはない。たとえ相手が月末でもよいと言って
も、私は、その支払いを一週間以内にすました。

ゴミをそうでないところに、捨てたことはない。ツバを道路にはいたこともない。ある
いはどこかで結果として、ひょっとしたらどこかで人をだましているかもしれないが、
少なくとも、意識にあるかぎり、人をだましたことはない。聞かれても黙っていること
はあるが、ウソをついたことはない。ただひたすら、まじめに、どこまでもまじめに生
きるようになった。

●もっと早く自分を知るべきだった

 が、にもかかわらず、この後悔の念は、どこから生まれるのか。私はその夜を境に、自
分が大きく変わった。それはわかる。しかしその夜に、自分の中の自分がすべて清算され
たわけではない。邪悪な醜い自分は、そのまま残った。今も残っている。

かろうじてそういう自分が顔を出さないのは、別の私が懸命にそれを抑えているからに
ほかならない。しかしふと油断すると、それがすぐ顔を出す。そこで自分の過去を振り
返ってみると、自分の中のいやな自分というのは、子どものころから、その夜までにで
きたということがわかる。

私はそれほど恵まれた環境で育っていない。戦後の混乱期ということもあった。その時
代というのは、まじめな人間が、どこかバカに見えるような時代だった。だから後悔す
る。私はもっと、はやい時期に、自分の邪悪な醜い自分に気づくべきだった。

●猛烈に原稿を書いた

 私は頭の中で、懸命にその乳がんの女性のことを考えた。何という無力感。何という虚
脱感。それまでにもらったメールによると、上の子どもはまだ小学一年生だという。下の
子どもは、幼稚園児だという。

子育てには心労はつきものだが、乳がんというのは、その心労の範囲を超えている。「地
獄のような……」という彼女の言い方に、すべてが集約されている。五五歳になった私
が、その人生の結末として、地獄を味わったとしても、それはそれとして納得できる。
仮に地獄だとしても、その地獄をつくったのは、私自身にほかならない。しかしそんな
若い母親が……!

 もっとも今は、医療も発達しているから、乳がんといっても、少しがんこな「できもの」
程度のものかもしれない。深刻は深刻な病気だが、しかしそれほど深刻にならなくてもよ
いのかもしれない。私はそう思ったが、しかしその読者には、そういう安易なはげましを
することができなかった。

今、私がなすべきことは、少しでもその深刻さを共有し、自分の苦しみとして分けもつ
ことだ。だから私は遊びに行くのをやめた。やめて、一日中、書斎にこもって、猛烈に
原稿を書いた。そうすることが、私にとって、その読者の気持ちを共有する、唯一の方
法と思ったからだ。

++++++++++++++++++++++

 私は善人かと聞かれれば、「?」と思ってしまう。自分の中に、確固たる「柱」がない。
それは自分でも、よく感ずる。

 私は、だれにでもヘラヘラとシッポを振るような人間だったし、今も、基本的には、そ
うである。たまたま今は、善の世界に生きているから、悪人でないだけである。もし近く
に悪人がいて、「おい、林、お前も仲間に入らないか」と声をかけられたら、そのままスー
ッと入ってしまうかもしれない。

 事実、M物産という会社に勤め始めたころ、ヤクザ映画を見て、妙にそのヤクザの世界
に魅力を感じたこともある。魅力というより、あこがれた(?)。

 しかしあの夜を境に、私は、自分でもバカだと思うほど、クソまじめ人間になった。B
W教室という、小さな教室をもっているが、その教室ですら、過去35年近く、ズル休み
をしたことは、ただの一度もない。(本当に、ない! 休んだのは、起きあがれないほどの
病気になったときだけ。) 

 電話代の10円を借りたことはあるが、それ以外に、借金をしたことも、ただの一度も
ない。もちろんお金のことで、他人に迷惑をかけたことは一度もない。

 しかしそれらは、自分が善人だからではなく、自分自身のシャドウにおびえていたから
そうしただけとも言えなくもない。自分が、(泥棒)だから、自分の家の(戸締まりを、厳
重)にしているだけということか。

 その証拠に、お金にルーズな人を見ると、必要以上に腹をたてたりする。しかしそれは
その相手に対して腹をたてるというよりは、自分自身のシャドウを、忌み嫌ってのことで
はないのか。そういうふうにも、解釈できる。

 シャドウ(ユング)の考え方を、自分に当てはめてみると、そんな感じがする。

 以上、浅学を恥じず、自分勝手な解釈で、「仮面(ペルソナ)とシャドウ(影)」につい
て、あれこれ考えてみた。

 もちろん私は、この道のプロではない。学者でもない。だからそういう意味では、どこ
か無責任。書きたいことを書き、こうして書くことを楽しんでいる。ときどき、その道の
専門家の先生から、「ここがまちがっている」「ここがおかしい」という意見をもらうが、
どうか、そのあたりのことは、勘弁してほしい。

 大切なことは、いろいろな意見を踏み台にして、その上で、自分なりの考えを、前向き
に発展させることではないだろうか。(……どこか、弁解がましいが……。)

 しかし今回、「シャドウ」という考え方には、今までになかった、新鮮さを感じた。さす
が、ユング先生! あなたはすばらしい!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●フィルタリング

 OE(アウトルック・エクスプレス)には、フィルタリング機能という、便利な機能が
ついている。

 これによって、不愉快なスパムメールの大半は、シャットアウトできる。が、である。
それでも、つぎからつぎへと、同じようなメールが、飛びこんでくる。

 私のアドレスが、どこかで売買されているらしい。こうしてアドレスを公開している以
上、しかたのないことかもしれない。あるいは、最初のころ、こうしたスパムメールに、
ていねいに(?)、断りの返事を書いていたのが、まずかったのかも?

 そこでさらにフィルタリングを重ねているわけだが、敵もさるもの。たとえば「VIA
GRA」という文字でフィルターをかけていても、どんどんと飛びこんでくる。

 「?」と思って、よく見ると、文字を少しずつ、変えてある。

 VIAGRRA
 VIAGARA
 VIAGGRAなど。

 しかし私には、バイアグラは、必要ない。足腰は、ちゃんと、鍛えてある。ハハハ。し
かし笑ってばかりは、おられない。

 こうなったら、アドレスを変えるしかない。……しかし私のアドレスは、HPのあちこ
ちと、有機的につながっている。変えるとなっても、簡単ではない。さあ、どうしようか?

 要するに、あやしげなメールには、返事を書かないこと。以前、といっても、数年前だ
が、「M・IE電機産業」という大手の電機会社の名前を語ったところから、メールが届い
た。

 読むと、「Mパソコン・友の会うんぬん」とあった。それでそれに申し込むと、IDとパ
スワードを決めてくれ、と。私は一台だが、そのM社製のパソコンを使っている。

 言われるまま、適当にIDと、パスワードを決めて、送信した。

 ところが、である。そのあと、雨アラレのように、準スケベ通信が、毎日のように届い
た。

 そこで送信を停止させたいと思って、指示どおりに、M・IE電機産業のHPをたどっ
てみたが、どこにも、そんな項目はない。で、さがしにさがしまわったあげく、やっとそ
れを見つけた。

 が、そこでも、「IDとパスワードを打ち込まないと、解約はできません」とのこと。し
かし、だ。そんなのは、もう、とっくの昔に忘れてしまった。

 ということで、最終的には、その会社に直接電話をかけ、送信を止めてもらったが、ひ
ょっとしたら、そのとき、私のアドレスが、悪徳業者の手に渡ったのかもしれない。

 みなさんも、くれぐれも、ご用心のほどを!

 そういうワルが平気でできる人間というのは、不幸にして不幸な乳幼児期を過ごした人
間とみてよい。超自我の中に、良心というものが、育っていない(フロイト学説)。かわい
そうで、あわれな連中である。

 いつか、そういう自分に、そういう人たちが、気がつくときがくるのだろうか。いらぬ
心配かもしれないが、そういうワルを平気でしていると、今度は、自分の息子や娘も、そ
ういうワルを平気でするようになる。今から、覚悟しておいたほうがよい。


●Mxx

 去年、Mxxという人物から、かなりしつこい、いやがらせのメールが届いた。低劣な
文と、おかしなこだわり。一言、返事を書くと、二言も、三言も、からんできた。が、そ
のうち私がメールを開かないとわかると、件名だけをつなげて、文章を書いてきた。

件名:ちゃんと私のメールを読んでるの?
件名:返事くらい書きなよ。
件名:偉そうに、何を、お高くとまっているのよ。
件名:私がだれだか、知らないの。テレビくらい、見ろよ!、と。

(そういうメールの出し方も、あるのですね。そのとき、はじめて、それを知りました。)

当初は、それがだれかわからず、不愉快な思いをしたが、「私がだれだか、知らないの」
と書いてあったことから、それがだれだか、わかった。

 ワイフに「Mxxって、知っている?」と聞くと、「タレントのMじゃない?」と。

 テレビのバラエティ番組に、よく出てくる女性である。一度、どんな女性かと思って見
てみたが、本当に、それらしい顔をしていた。ペラペラとよくしゃべるが、話す内容はゼ
ロ。

 で、それから、ちょうど、1年。詳しくは書けないが、そのMxxが、何かしらハレン
チ事件を起こして、今、問題というより、話題になっている。インターネットのニュース
でそれを知って、ワイフに、「あのときのMxxね、バカなことをしでかして、謹慎処分を
受けているよ」と話すと、ワイフも、笑っていた。

 テレビ局のみなさんへ、

 もう少し人選をしっかりしてから、出演者を選んではいかがでしょうか? ただおもし
ろいから、ただよくしゃべるから、ただ少し風変わりだから、というような理由だけで、
人を選んではいけないと思います。

 恩師のTK先生に言わせると、「そういう人は、虫のような脳ミソしかもっていない」と
のこと。同感! 無視(虫)するのが、一番、よい……、ということか。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本人のアイデンティティ
 
 日本人は、日本がどうあるべきだと思っているのか。どうあったらよいと考えているの
か。

 日本人が、日本人としてしたいことと、日本が今、進んでいるべき道が、一致していれ
ばよい。問題は、ない。心理学の世界にも、アイデンティティ(自己同一性)という言葉
がある。

 (自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致していれば、その子どもは、落
ちついている。安定している。これを、アイデンティティという。が、ときとして、その
両者がかみあわなくなるときがある。

 A君(小学3年生)は、「おとなになったら、サッカー選手になりたい」と思っていた。
地元のサッカークラブでも、そこそこに、よい成績を出していた。が、そこへ進学問題が
からんできた。まわりの子どもたちが、進学塾に通うようになった。

 A君は、それでもサッカー選手になりたいと思っていた。が、現実は、そうは甘くなか
った。4年生になったとき、さらに優秀な子どもたちが、そのサッカークラブに入ってき
た。A君は、相対的に、目だたなくなってしまった。

 ここでA君は、(自分の進みたい道)と、現実とのギャップを、思い知らされることにな
る。が、こうした不一致は、ただの不一致では、すまない。

 A君は、心理的に、たいへん不安定な状態に置かれることになる。いわゆる「同一性の
危機」というのが、それである。が、さらに進学の問題が、A君に深くからんできた。母
親が、A君にこう言った。

 「成績がさがったら、サッカーはやめて、勉強しなさい」「サッカーなんかやっていても、
プロのサッカー選手になるのは、東大へ入ることより、むずかしいのよ」と。

 子どもというのは、自我に目覚めるころから、自分のまわりに、(自分らしさ)をつくっ
ていく。これを役割形成という。が、その(自分らしさ)がこわされ始めると、そこで役
割混乱が起きる。

 それは、心理的にも、たいへんな不安定な状態である。

 たとえて言うなら、好きでもない男と、妥協して結婚した、女性の心理に近いのではな
いか。そんな男に、毎夜、毎夜、体を求められたら、その女性は、どうなる?

 こうしてアイデンティティの崩壊が始まる。

 一度、こういう状態になると、程度の差もあるが、子どもは、自分を見失ってしまう。
いわゆる(だれでもない自分)になってしまう。自分の看板、顔、立場をなくしてしまう。
が、そこで悲劇が止まったわけではない。

 A君は、進学塾に通うことになった。母親が、「いい中学へ入りなさい」と、A君を攻め
たてた。A君は、ますます、自分を見失っていった。

 こういう状態になると、子どもは、つぎの二つのうちの、一つを選択することに迫られ
る。

 (だれでもない自分)イコール、無気力になった自分のままで、そのときを、やりすご
すか、代償的な方法で、自分のつぎの道をさがし求めるか。

 代償的な方法としては、攻撃的方法(非行など暴力的行為に走る)、服従的方法(集団を
組み、だれかに盲目的に服従する)、依存的方法(幼児ぽくなり、だれかにベタベタと依存
する)、同情的方法(弱々しい自分を演じて、いつもだれかに同情を求める)などがある。

 ふつうこの時期、多くの子どもたちは、攻撃的方法、つまり非行に走るようになる。(だ
れでもない、つまり顔のない人間)になるよりは、(害はあっても、顔のある人間になる)
ことを望むようになる。

 この時期の子どもの非行化は、こうして説明される。

 で、自分の存在感をアピールするために、学校でわざと暴れたりするなど。このタイプ
の子どもに、「そんなことをすれば、みんなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても意味
はない。みなに恐れられること自体が、その子どもとっては、ステータスなのだ。

 これは子どもの世界の話である。

 で、日本人も、今、私の印象では、その「同一性の危機」の状態にあるとみてよい。(日
本人として、したい道)と、(進んでいる道)が、一致していない。そのため日本人全体が、
今、たいへん不安定な心理状態にある。

 民主主義国家として、平和と自由を愛する国民になるのか、それとも、復古主義的な流
れの中で、武士道に代表される過去の日本にもどるのか。Y神社を参拝して、戦前の軍神
たちに頭をさげるのか。つまりはわけのわからない状態の中で、混沌(こんとん)として
いる。

 だから中国や韓国で、反日運動が起きても、「どうしたらいい……」と、ただ右往左往す
るだけ。自分の主張すら、ない。ないから、声をあげることもできない。

 では、どうするか。

 私は、もう過去の日本とは決別をして、自由と、平和と、平等の三つを旗印にかかげ、
国際化のうねりの中で、まっしぐらに前に進むしかないと思う。その向こうにあるのは、
かつて200年前にカントが提唱した、世界国家である。コスモポリタンである。

 はからずも今朝(4・21)、オーストラリアのハワード首相が、日本との間で、FTA
(自由貿易)協定を結ぼうと提唱したというニュースが、飛びこんできた。オーストラリ
アは、イラクの自衛隊を保護するために、オーストラリア軍を派遣してくれた。

 そういう国もある。(Advance Australia!)

 そういう国の存在を信じて、前に進む。それこそが、まさに日本のアイデンティティの
確立につながる。

 ついでに一言。よく「アイデンティティ」という言葉を使って、「武士道こそが、日本人
が誇るべき、アイデンティティだ」と説く人がいる。

 しかしそもそも言葉の使い方が、まちがっている。そういう人は、アイデンティティと
いうのは、個性のことだと思っている。さらに言えば、武士道など、日本人が誇らなけれ
ばならない精神でも、なんでもない。

 わずか数%の、為政者たちが、刀を振り回して、大半の民衆を虐(しいた)げてきた。
その中で生まれた、自分勝手な論理と精神訓、それが武士道である。あえて言うなら、官
僚道、役人道ということになる。

 自分たちの先祖は、その大半が、武士とは無縁の、町民や農民であった。そういう立場
を忘れて、150年たった今、自分が武士にでもなったつもりで、武士道をたたえるのは、
どうかと思う。少なくとも、私はついていけない。

 もちろん文化は文化だし、歴史は歴史。だからそれなりに尊重はしなければならない。
が、それを今、もちだす必要は、どこにもない。改めて日本の「柱」にしなければならな
い理由など、どこにもない。

 私たちが進むべき道は、前にある。うしろではない。

 日本人の心を、発達心理学にからめて、考えてみた。
(はやし浩司 日本人 アイデンティティ 自己同一性)

(追記)

 農業問題もあるが、オーストラリア、シンガポールと、自由貿易協定を結べば、それ自
体が、韓国、中国にとっては、たいへんな脅威になる。

 日本には、ほかに、ブラジルがある。インドがある。アメリカも、カナダもある。EU
もある。

 日本は、決して孤立していない。

 去年、オーストラリアの友人(国防省勤務)が、メールで私にこう書いてきた。(このこ
とは、当時のマガジンに原稿として書いた。)

 「ヒロシ、日本が、K国に攻撃されたら、オーストラリアは、自動的にK国を攻撃する
ことになっている。安心しろ」と。日本とK国の間の緊張感が、極度に高まっていたとき
でもある。

 私はそのメールをもらったとき、どういうわけか、涙が出るほど、うれしかった。そう
いう心が、今回の、オーストラリア軍のイラク派遣へと、具体的につながっている。日本
の自衛隊を守るために、だ。

 韓国のN大統領よ、日本は、決して世界から、孤立なんかしていないぞ! バカめ! 孤
立させたいのは、N大統領、実は、あなた自身ではないのか! 中国で反日運動が起きた
とき、イの一番に、「これで日本の安保理入りは、流れた」と喜んだのは、どこのどなたで
したか? 私たち、日本人は、それを忘れないぞ!

 ……とまあ、たがいに、敵意を育てていてもしかたないですよね。しかしね、N大統領、
日本人も変わりましたよ。どうか戦前の日本人のイメージのままで、今の日本人を見ない
でください。くれぐれも、よろしくお願いします。

 やがていつかすぐ、日本と韓国が、FTA協定を結ぶことになると思います。そういう
時代は、すぐそこまできています。そういう共通の目標に向って、いっしょに、前に進も
うではありませんか。
(050421)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 16日(No.568)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ものを破壊する子ども

 俗に言う、「八つ当たり」ともちがう。そのモノ自体に、深い憎しみを覚え、それを破壊
する子どもがいる。

 年齢は、4、5歳くらいから始まり、おとなになってからも、似たような行為を繰りか
えす人がいる。よく見かけるのは、映らなくなったテレビを、足で蹴とばすなど。

 乳幼児期には、「物活論」というよく知られた、乳幼児特有の現象がある。乳幼児は、身
のまわりのありとあらゆるものが、「生きている」と信じている。風にゆれるカーテン、時
計、電池で動くおもちゃなど。

 これを物活論というが、その乳幼児期の物活論が、そのまま残像として、子ども(おと
な)の心の中に残る。

 たとえばいろいろな子どもがいた。

 A君(10歳)はやや強度の遠視だった。そのためいつもメガネをかけていた。が、と
きどき、そのメガネをどこかへ置き忘れてしまう。で、A君はそのメガネをさがすのだが、
やっと見つかったところで、それを喜ぶのではなく、そのメガネを引きちぎって、割って
しまうのである。

 それを数か月おきに繰りかえす。そこで母親が、A君をそのつどはげしく説教したり、
しかったりするのだが、効果がない。で、しばらくは、メガネを買ってきても、A君に渡
さないようにしていた。「不自由をすれば、少しは、モノを大切にするだろう」と考えた。

 A君にしてみれば、どこかへ行ってしまった(?)メガネが憎かった。つまりA君には、
メガネと生き物が区別できなかった。

 またB君(10歳)もそうだった。

 本を本でいて、読めない漢字にであったりすると、その本を破ってしまうのである。こ
れと似た現象だが、C氏(40歳くらい)も、ステレオセットが思うように操作できなか
ったりすると、(本当は、操作のし方がまちがっているのだが)、そのセットをカベにたた
きつけて壊してしまっていた。

 ほかにCDを割ってしまったり、汚れたカーテンを、ハサミで切り刻んでしまっていた
子どももいた。

 昔から『モノに当たる』という言葉がある。何かムシャクシャすると、モノを破壊した
りする。そういう行為そのものが、幼稚性の残像とみるが、先にも書いたように、ここで
いうA君のようなケースは、内容がややちがう。

 それはたとえて言うなら、幼児虐待、動物虐待と同列に置いて考えられる。またそうい
うふうに考えたほうが、理解しやすい。あえて言うなら、『モノ虐待』。

 本来なら、子どもや動物に向かった、破壊的、破滅的行為が、モノに向ったと考える。
またそう考えると、説明がしやすい。

 ある母親から、「うちの子は、すぐメガネを壊してしまいます。どうしてでしょう?」と
いう相談をもらったので、ここで考えてみた。
(はやし浩司 虐待 物破壊 物虐待 動物虐待 物に当たる子ども 物を破壊する子ど
も モノを破壊する 物破壊 物活論 物 破壊 子供 子ども)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。いくら客に怒鳴られても、
にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。街道筋の宿場町であったが
ために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』であ
る。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごと
な演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗わせながら、その手をもって、自分の乳房を握
らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と
不倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
た原動力になったとも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからそうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる
本」)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【鎌倉旅行】

写真は、
http://bwhayashi.fc2web.com/page065.html

田丸先生のこと
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page037.html

●八幡宮

 前から予定していたように、4月16日(土)、私とワイフは、鎌倉へ向った。田丸謙二
先生に会うためである。

 車は、教室の駐車場にとめた。そしてそのあと駅まで。でかけるとき、服装のことで、
ワイフともめた。ワイフは、「セーターを着ていけ」とがんばった。私は「薄着で行く」と
がんばった。

 私「ほら、みろ、この暖かさだ!」
 ワ「帰りは、寒いわよ」と。

 どこまでもがんばるのが、ワイフの悪いクセ。

 私はどこへ行くにも、2リットル入りのペットボトルをもっていく。水分を多量に補給
しないと、体の調子がすぐ悪くなる。血圧が低いせいだと、自分では、そう思っている。

 浜松からは、新幹線。小田原まで行って、そこで在来線に。40分ほどで、藤沢に着い
た。昔、仕事で世話になった、G社のTさんが長く住んでいた町である。そのTさんが住
んでいたマンションの方角を指でさしながら、「Tさんは、あちらに住んでいたよ」と。

 藤沢からは、江ノ電という電車に乗って、鎌倉へ。35分ほどで、着いた。とたん、も
のすごい人ごみ。春の行楽季節を重なった。構内のアナウンスが、さかんに、「スリに注意
してください」を繰りかえしていた。

 私とワイフは、カバンをもちなおした。

ワ「約束の時間まで、ちょうど2時間、あるわね」
私「鶴岡八幡宮まで行こう」
ワ「そうね」と。

 途中、以前泊まったことがあるホテルがある。そのホテルを見たとたん、どっと、なつ
かさしさがこみあげてきた。

 二男はそのとき、3歳。その二男が、そのあたりで、迷子になった。さがしまわったあ
げく、警察へ行くと、二男は、警察のイスに座っていた。そして私たちを見ると、とたん
に大声をあげて、泣いた。

 おかしなもので、そういう思い出のほうが、強烈に印象に残る。私たちはそのホテルを
見ながら、八幡宮へ。

●扇が谷

 地元の人たちは、「泉(いずみ)やつ」とか何とかと呼んでいる。八幡宮からは、何度も
行ったことがある道なので、田丸先生の家までは、迷わず、行くことができた。が、まだ、
時間は、1時間ほど、あった。

 私とワイフは、近くを散策した。

 そのあたりは、昔から、著名な文豪がたくさん住んでいたところである。先生の家の前
には、中村光夫が住んでいた。1度だけ、通りを歩いているとき、すれちがったことがあ
る。もう1人は、里見とん(さとみとん)。有島武郎の実の弟にあたる。

 その里見とんは、明治43年に、「白樺」の創刊に加わり、武者小路実篤、志賀直哉ととも
に、そののちの文学界で活躍した人物である。

 最後は、その扇が谷で過ごしている。1983年に、94歳でなくなったということだ
から、私が田丸先生の家に遊びに行き始めたころには、まだ生きていたことになる。

 が、今は、白い工事用の幕に囲まれて、中が見えなかった。

私「今とちがって、昔の文豪たちは、豪勢な生活ができたみたいだね。この家も、もとは、
愛人との密会の場所として使っていた家だったそうだ」
ワ「どうして?」
私「昔は、ほかに、娯楽がなかっただろ。映画もないし、テレビもない。だからすべての
娯楽が、小説に集中したというわけさ。ちょっと本が売れただけでも、大金持ちになった
そうだ」と。

 田丸先生の家は、その里見とんの家から、歩いて1分足らずのところにある。

●田丸先生

 私は「先生」と、畏敬の念をこめてそう呼んでいるが、先生は、私のことを、弟子とも、
学生とも思っていない。またそういう関係でもない。

 私がオーストラリアのメルボルンで学生だったとき、3か月間、寝食をともにした。先
生は、東大紛争の余波を受け、メルボルン大学へ、半ば避難するような形でやってきた。
先生のいた研究室は、あの安田講堂のすぐ裏手にあった。

 私は私で、先生と、「師」としてではなく、「長年の友」として、尊敬している。もとも
と実力でも、立場でも、田丸先生には、かなわない。肩書きを並べただけでも、何十にも
なる。

 二度目に先生の家の前の門の前に立つと、ワイフがこう言った。「先生、帰ってきている
わよ」と。「洗濯物が、片づけてあるから……」と。

 鋳物でできた門を開け始めていると、家の玄関があいて、そこに田丸先生が立っていた。
時刻は約束きっかり、2時15分。先生は、近くのテニスクラブの会長をしているという
ことだった。天皇陛下も、ときどき、テニスを楽しむためにそのクラブへやってくるとい
う。そのクラブの会合が、2時に終わるということで、2時15分にした。

 門を入って、すぐ、左手の畑が、目に入った。おかしなもので、それまでにも、何度か
来たことがあるが、畑には気がつかなかった。先生も、私の視線を見て、畑へ案内してく
れた。

 毎日1万歩を歩いているとかで、先生の体が、少しスリムになっているのを感じた。

●戦前からの家

 先生の家は、トトロに出てくる、サツキとメイの家と、色は、ちがうが、そっくりの家
である。サツキとメイの家は、屋根は赤、壁はシロだが、田丸先生の家は、壁は、タール
色。「色を白にしたら、そのまま、サツキとメイの家だ」と内心で、そう思った。

 その田丸先生の家の前にある、中村光夫が住んでいた家は、さらによく似ている。私は、
何枚かの写真を、デジタルカメラに収めた。

 裏庭から、表庭へ。以前来たときは、雑草におおわれていたが、意外と、きれいだった。
「よくここでパーティをします」とのこと。野外用のバーベキューコンロも、つくってあ
った。

 のどかかな陽(ひ)だまり。新緑が美しかった。足元には、よく見ると、小さな野草が
無数の花を咲かせていた。私とワイフは、それを踏みつけないように、慎重に歩いた。

 「ここが、ハーバー博士と写真をとったところですね」と私が言うと、先生は、うれし
そうに笑った。アンモニアの合成化学で、ノーベル賞をとった博士である。

 「当時は窓でしたが、今は、下まで吐き出しになっています」と。

 先生のHPには、そのときの写真が載っている。先生は、まだ1歳前後。母親の腕に抱
かれていた。
  
 先生の家系は、まさに科学者の家系。先生の父親も、著名な化学者。2人のお嬢さんたち
も、その道を進んでいる。先生は、孫の話になると、とたんに目を輝かせる。その話もし
てくれた。

●部屋で……

 学生のころは、毎晩のように徹夜で、話をした。静かな語り口だが、先生は、一度話し
だすと、とまらない。

 話を聞いているうちに、そのまま35年前に、タイムスリップ。ふと途中で、「35年前
みたいですね」ともらす。

 政治の話、教育の話、日本人論や民族論まで。「日本人も、自分で考える民族にならない
と、これからの未来は、ないでしょう」とのこと。「何かにつけて、横並び意識が強すぎま
す」とも。

 アインシュタイン博士からの手紙も、見せてもらった。その中に「誇張された民族主義
こそが、世界の平和にとって危険である」と書いてあった。

 「自分の国がすばらしいと思うのは、その人の勝手でも、その返す刀で、相手に向って、
君は、劣っていると考えるのは、危険」と。私はアインシュタイン博士の手紙を、そう解
釈したと話すと、先生も、「そうです」と言って笑ってくれた。

 あとは、介護の問題。

 「親子の問題は、それぞれの家庭でみなちがいます」とのこと。私も、まったく同感で
あった。「見た目には同じに見える親子でも、その関係は、それぞれによって、みな、ちが
う。だから介護という一つのワクの中で、ものを考えることはできない」と。これは先生
の意見。

 予定では、30分〜1時間ほどで、帰る予定だった。何しろ、いまだに(?)多忙な先
生である。もともと私のような人間が、会うことすら許されない先生である。若いころは、
怖いもの知らずで、生意気なことばかり言っていたが、今は、そうではない。

 その「怖いもの」がどういうものであるか、それがじゅうぶん、理解できる年齢になっ
た。

 時計を見ると、5時を回っていた。そこで別れるつもりだったが、先生は、私とワイフ
まで、駅まで見送ってくれるという。何度も固辞したが、「今日は、1万歩も歩いていない
から」と。

 鎌倉駅までは、歩いて、15分くらいか。せっかくの申し出だったが、夕食も、遠慮し
た。先生が入ろうとした割烹(かっぽう)は、一食、9000〜1万3000円もするよう
な割烹だった。戸口の品書きを見て、びっくり。そんな割烹へ入るわけには、いかない。

 先生には言わなかったが、値段を見て、おじけついてしまった。そんな料理など、ここ
10年、食べたことがない!

 駅で、Hサブレーをみやげに買ってもらった。とたん、大粒の涙が、ホロリと落ちてし
まった。

 「先生、35年前と同じですね」と。また同じセリフをもらしてしまった。

 時の流れは、風のようなもの。どこからともなくやってきて、またどこかへと去ってい
く。

 家に帰ってインターネットを開くと、さっそく先生から、メール。掲載の許可は、もら
っていないが、そのまま、ここに転載。

++++++++++++++++

林様:

メールを打ってお礼を書いていましたら。丁度ご帰宅のお電話を頂き
いろいろとお喋りしましたので、書き直しになります。 何か大変な頂き物
をしてしまい、こちらは折角用意していたもの(大したものではなかったの
ですが)お持ちしていただくことをすっかり忘れてしまい、本当に申し訳な
く、恐縮しております。

後で考えれば、もっといろいろと教えて頂ければよかったと、悔いが
残ります。 

これからもメール通してでもよろしくお願いします。

でもとても楽しい一時でした。 遠いところを有難うございました。
取り敢えず厚く御礼申し上げます。

くれぐれもお元気で。
田丸謙二

++++++++++++++++++++

 そうそう、その電話では、私の白髪のことを言っていた。「林君も白髪がふえましたね」
と。そのとき、私も「先生だって、真っ白けのくせに」と思ったが、それは言わなかった。
学生時代の私なら、そう言っていただろうが……。

 帰りの電車の中で、ワイフは、さっそくHサブレーを食べていた。それを食べながら、
ワイフは、こう言った。「あなたは、いい友だちをもっていて、幸せね」と。
(050416記)

+++++++++++++++++++++

以上の、鎌倉旅行記を田丸先生に見せたら、
こんな返事が返ってきました。

+++++++++++++++++++++

林様:

  昨日の日記拝見しました。 夕食をご馳走しようというのに、
半ば暴力的に拒絶されましたが、もしかして初めから「夕飯なしで帰
る」と言っておられたので、何処かで素晴らしいものを予定しておら
れるのではないか、と勘ぐりました。 そうしたら何とメニュウの値
段を見て頑張ったとは、思わず噴き出してしまいました。 何と言う
他人行儀なことだったのでしょうか。 あのレストランでもピンから
キリまでありますし、もしも口に合いそうになかったら、「もっと一
般的なところに行きましょうよ」で何がおかしいことがあったのでし
ょうか。可愛そうに奥さん途中お腹がすいたのでしょうが、本当に申
し訳ない気がしてなりません。折角来ていただいた珍客を遠くまで帰
るのを空腹のままで帰すなど何とお詫びしたらよいのか、本当にすみ
ませんでした。 あの素晴らしい奥さんにクレグレモ謝って下さい。


  田丸謙二
+++++++++++++++++

先生、ありがとう!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●モノ、モノ、モノ

 あふれかえるモノ。家の中は、モノだらけ。押入れも、戸棚も、モノだらけ。

 「いつかまた使うだろう……」という淡い期待だけで、モノをためこむ。「もったいない」
「まだ使える」と。

 かくして、我が家は、モノだらけ。

 そこで重要なことは、捨てる。思い切って、捨てる。そして、モノを買わない。

 ここ10年ほどは、こうして、我が家も、かなりすっきりしてきた。が、人間というの
は、おかしなものだ。三男が、私と同じことを繰りかえしている。何かあると、すぐモノ
を買う。モノを買って、それでその場をしのごうとする。

そしてしばらく使ったあと、それをしまう。しまうだけならまだしも、また同じものや、
同じようなモノを買う。

 だから三男の周囲は、モノだらけ。足の踏み場もない。

 モノがあれば、便利だ。しかしそれにも限界がある。そのモノを置く、スペースの問題。
それにもう一つ、記憶の問題。

 買ったこと自体を忘れてしまう。どこにしまったかも忘れてしまう。しばらくすると、
また同じモノを買ってしまう。で、気がついてみると、押入れも、戸棚も、モノ、モノ、
モノ。

 要は、「また使うこともあるだろう」という、ケチな考えを、もたないこと。そしてあと
は、ひたすら、捨てる。捨てる。捨てる。そして買わない。

 先日も、こんな女性(母親)がいた。

 今度、家族で、どこかの野外で、バーベキュー・パーティをすることにしたという。場
所は、H市内から1時間ほど行った、山の中。が、つぎの言葉を聞いて、驚いた。

 「バーベキューセットも、買いました。それに折りたたみ式のテーブルやイス。携帯コ
ンロに、日よけの傘も……」と。

1、2度しか使うこともあるまいと思ったとたん、思わず、言ってしまった。「それはや
2、めなさい」と。

女性「どうしてですか?」
私「そのあと、そういったものは、どうするのですか?」
女性「……しまっておきます」
私「どこに?」
女性「多分、押入れかどこかに……」と。

 野外でバーベキュー・パーティをするにしても、今、家の中で使っているものを利用し
てする。またそういうものを利用するところに、おもしろさがある。決して、ショッピン
グセンターのカタログに、乗せられてはいけない。

私「家の中ですることと、同じようなことをしようと思うと、お金もかかります。どんな
場所か知りませんが、石を積んで、コンロをつくる。まわりから焚き木を集めてきて、料
理をする。あとは、木陰で、石の上に座って食事をする。だから、楽しいのです」と。

 実は、私たちも、日常的に、この女性と同じことをしている。「あれば便利」という理由
だけで、どんどんとモノを買う。そして1、2度使ったと、あとは、せっこらせっこらと、
それをしまいこむ。

 一方、それとは対照的に、私は、モノのない部屋のすばらしさを体験している。

 現在、使っている寝室には、モノが、いっさい、ない。ガランとした部屋。畳のマット
に、ふとんだけ。あとは、ライトと、空気清浄機。それに数冊の本と雑誌。本と雑誌は、
眠る前に読むもの。壁には、時計と、一枚の写真だけ。

 あとは、何もない。

 それには理由がある。

 先日、テレビを見ていたら、地震がきたときこわいのは、戸棚だそうだ。その戸棚の下
敷きになって死ぬ人が多いということだそうだ。それを聞いて、戸棚を固定しようかとも
考えたが、「ならば、戸棚などないほうがよい」ということで、寝室から、すべてのものを、
取りのぞいた。

 おかげで掃除も楽。清潔そのもの。私は改めて、モノのない世界のすばらしさを、満喫
している。


●若い人の死

 実家の近所の若い男の人が、祭の最中に、心筋梗塞(こうそく)で亡くなったそうだ。
姉から、そう聞いた。「まだ56歳なのに……」と。

 その話を聞いて、「へえ……」と驚いていると、姉は、「実はね、浩ちゃん、うちの村の
中だけでも、今年に入って、もう3人も若い人が死んでいるのよ。みんな、50代よ」と。

 私が「サラリーマンの人?」と聞くと、「ううん、みんな、自営業の人よ」と。

 そう言えば、私の家の近くの人だが、先週、23歳の若さで亡くなった人がいる。その
人は、くも膜下出血ということだったそうだ。それにしても、若い。若すぎる。

 アイザック・アシモフいわく、「人生は楽しい。死は、安らか。ただ生から死への移行は、
ちょっとめんどうなだけ(Life is pleasant. Death is peaceful. It's the transition that's 
troublesome. )」と書いている。

 ……ということで、統計的にはそうではないのかもしれないが、このところ、若い人の
死ばかりが、気になる。目だつ。「若いからだいじょうぶ」という慢心が、かえって死を早
めるのかもしれない。

 とくに私たち、戦後生まれの団塊の世代は、これからは早死にすると言われている。乳
幼児期の栄養不足、高度成長期の無理、そして重なる心苦労、過労など。私たちの世代に
は、働き蜂のような人が多い。「働いていないと不安」とばかり、仕事ばかりしている。

 私もその1人だが、そんなわけで、そういう話を聞くと、「つぎは、私」と思ってしまう。
そしてそのまま落ちこんでしまう。

 いやな話だ。本当に、いやな話だ。まだやりたいことは、山のようにあるのに……。も
っとも死んでしまえば、そう思うこともなくなる。

 エピクロスは、こう書いている。「死なんて、何でもないさ。だって今、生きているとい
うことは、まだ死んでいないということ。死んだときには、もう私たちは、この世にいな
いということ。(Death is nothing to us, since we are, we are death has not come , and 
when death has come, we are not.  

 こう書いている私だって、明日あたり、ポックリと死ぬかもしれない。みんなそう思い
ながら、「自分だけは……」と思いつつ、死んでしまったのだろう。

 人間には二面ある。しぶとく、どこまでも、しぶとく生きる人間。もう一つは、あっけ
なく死んでいく人間。私は、どちらなのだろう?


●歩いて、1万歩!

運動不足を解消するため。
 なまった体を、しゃきっとするため。
 ほんやりとした頭を、すっきりさせるため。
 今日は、1万歩を歩いた。

 自宅から、市内の教室まで、ちょうど1万歩。
 正確には、大またで歩いて、ちょうど9911歩。

 時間は、あちこち、寄り道をして、約1時間半。
 距離は、直線距離ではかって、6・5〜7キロ弱。
 
 家を出るとき、ワイフが手を振った。
 私も手を振った。
 春のどかな、やさしい日差し。道を出るとすぐ、
 第二公園のサクラの花が目に飛びこんできた。
 
 公園には、数組の母親と赤ちゃん。
 さっそく写真をとる。バジャリ、バジャリ。

 この音がよい。C社のデジタルカメラは、好きなシャッター音を選べる。
 私は、30年くらい前のカメラの音が好き。何というか、腹に響く。

 それからN病院のそばを通り抜けて、佐鳴湖へ。
 このあたりは、住宅雑誌から飛び出したような家ばかり。
 いつも「どんな人が住んでいるのだろう」と思う。
 そう思いながら、通りすぎる。

 と、やがて佐鳴湖。
 サクラの花は、満開をすぎて、散り始めていた。
 若葉の緑がまぶしい。美しい。

 その佐鳴湖の南側に沿って歩く。
 空は水色。それを受けて、湖面も水色。
 遠くに、しゃれた家々。そして青い山々。

 そこからゆるやかな坂をのぼって、静かな住宅地。
 私はこのあたりの住宅地が気にいっている。
 本当はこのあたりに住みたかったが、当時はお金が足りなくて、
 今の家にした。当時から、このあたりは、高級住宅地。

 そこからは細い路地をいくつか通りぬける。

 途中、旧・雄踏街道へ入る。「ゆうとうかいどう」と読む。

 車が1台、やっと通れる程度のハバしかない。
 昔は、ここを乗合バスが走ったという。
 道も狭いが、バスも小さかったのだろう。
 そんなことを考えながら、大通りへ出る。

 そこには、行きつけのY書店がある。
 そこで一休止。今日は、うしろの出入り口から中へ。

 ここまでで、ちょうど、5000歩。
 心地よい汗、ほどよい足の疲れ。ここからは町まで、
 あと、5000歩。

 しばらく何冊か本を、立ち読み。
 日本では、図書館が充実しないのは、こうした書店があるからだそうだ。
 外国には、ない。
 若いころ、オーストラリアで、その書店をさがすのに苦労をした。

 一方、日本では、立ち読みは、し放題。
 書店にしても、汚れた本は、出版社へ返本すればよい。
 最近では、その立ち読みを奨励する書店まで出てきた。
 テーブルと、イスまで、置いてある。

 しかし本を書く側の気持ちとしては、うれしくない。
 ただで読まれるというのは、どうも気分が悪い。

 そう言えば、私のマガジンは、無料。ただ。
 気前のいい話だと、自分でも、そう思っている。

 まあ、読んでもらえるだけでも、感謝しなければならない。
 これだけ情報が氾濫(はんらん)してくると、
 本といっても、そこらに散らかっている広告のようなもの。

 で、その書店を出て、雄踏街道に沿って、町まで歩く。

 途中で、N高校の坂をのぼり、つづいてN中学校の坂をぼのる。
 こうしてそのまま旧市街地に入る。

 いつもは自転車で走りぬけるが、ダラダラ坂になっていてい、
 けっこう、きつい。体の調子のよくないときは、歩いてのぼる。
 
 そして坂を登りきると、こんどは、ゆるいくだり坂。
 途中に、鴨江の旅館街、そして鴨江観音。

 実は、今日はここまでがたいへんだった。途中で小便をしたくなった。
 が、コンビニはなし、店はなし……。
 その鴨江観音を出たところに、公共のトイレがある。
 何も考えず、そのトイレへかけこむ。

 そこから教室までは、もうすぐ。数百メートル歩いて、左折。
 教育文化会館があり、その前が公園。
 ここまでくると、私の教室が見えてくる。

 汗がじんわりと体を濡らす。疲れがどっと出る。
 
 写真は、HPのほうで、紹介。30〜40枚は、とった。

++++++++++++++++++++++++

●親子問題

 最初、男と女は、セックスをして、子どもをもうける。結婚して夫婦になるかどうかは
別として、そこで、親子関係が生まれる。

 しかしその親子関係は、年とともに変質し、変節する。そしてその結果として、100
組の親子がいれえば、100種類の親子関係が生まれ、1000組の親子がいれば、10
00種類の親子関係が生まれる。
 
 1つとて、同じものは、ない。言いかえると、親子関係ほど、複雑で、それゆえに、ど
んな推理力をもったとしても、他人の親子関係を、正確に理解できる人はいない。……絶
対に、いない!

 だからこと親子の問題については、他人であるあなたは、絶対に介入してはいけない。
表面的な部分だけを見て、安易な考えを添えたり、解釈を加えてはいけない。もちろん相
手がそれを求めてくれば、話は別。しかしそれまでは、何も言ってはいけない。何も聞い
てはいけない。何も話してはいけない。

 たとえ親戚の問題でも、だ。たとえあなたの実の兄弟の問題でも、だ。

 これは人生を生きるものの大鉄則。つまり親子の問題は、それくらい奥が深い。関係も
太い。しがらみやわだかまりが、無数に、あたかもクモの巣のようにからんでいる。

 いわんや『親だから……』『子だから……』という、『ダカラ論』だけで、相手を決めつ
けてはいけない。あるいはあなたが、たまたま良好な親子関係を築いているからといって、
それを基準にして、ものを考えてはいけない。

 が、世の中には、不用意な人間がいるもの。まるで土足で家の中に入ってくるようにし
て、その相手に何かと干渉してくる。ズケズケとものを言う。そういう行為そのものが、
失敬というもの。が、それがわからない。

 人によっては、毎日、毎晩、身を切られるほど、つらい思いをしている。そのつらさは、
そのつらさを経験したものでないとわからない。そっと暖かく見守ってあげることこそ、
重要である。

 ある女性(58歳)はこう言った。

「私は、人に、あなたは親孝行の、いい娘さんですねと言われることくらい、不愉快な
言葉はない。私は、見るに見かねて、親の世話をしているだけ。いつになったら、この
重圧から解放されるかと、そればかりを願っている。親孝行の娘だなんて、ほめられる
と、かえって請求されているみたいで、不愉快」と。

 こうした複雑な心理というのは、そうでない人には理解できないだろう。

 その女性の母親は、その女性の夫から、貯金通帳と印鑑を預かったとき、その通帳から
勝手にお金を引き出し、使ってしまったこともあるという。何度、縁を切ろうと思ったか
しれないという。

 そういう背景が、その女性には、ある。

 ……と書いて、介護についての問題の、本当のむずかしさは、ここにある。「介護」と一
口で言うことはできても、それぞれの家庭によって、事情はまったくちがう。家族がもつ、
それぞれの思いも、これまたちがう。

 最後にこんな話も聞いた。ワイフが、どこからか仕入れてきた話である。

 最近、その女性の母親が死んだという。一応、葬式はしたという。しかしその女性は、
うれしくてたまらなかったという。うれしくて、うれしくて、たまらなかったという。毎
日、「早く死んでほしい」と、心の中で、そればかりを願っていたという。

 だから、葬式のとき、一応、悲しそうな顔をしてみせるのに、苦労をしたという。そし
て他人が、「いいお母さんでしたね」「さぞかし、気を落とされていることでしょう」と、
なぐさめられる(?)たびに、「このアホタレ!」と、心の中で叫んでいたという。

 そういうケースもある。

 葬式の席でも、安易なことは言わないほうがよい。これも、大鉄則の一つか?


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●反日運動の裏にあるもの

 中国での反日運動は、週を追うごとに、はげしくなっている。しかしこの反日運動には、
目的がない。「だからどうしてほしいのか?」という部分が、ない。

 そういう意味で、60年安保、70年安保のときの、日本の学生運動に似ている。

 日本が嫌いなのは、わかる。しかし大使館や領事館を襲って、どうする? どうなる?

 実は、今回の一連の反日運動は、反日に名を借りた、中国の民主化運動とみてよい。「反
日」を大義名分にすれば、中国政府も、おいそれとは手を出せない。自分たちこそが、そ
の反日運動を助長してきた、超本人だからである。

 今、中国の民衆たちの不満には、ものすごいものがある。それもそうだろ。貧富の差が、
あまりにもはげしい。

 その貧富の「富」の側にいるのが、実は、日本人ということ。それを忘れてはいけない。
こう書くと、誤解があるといけないので、最初に書いておくが、自動車会社の社員だから、
そういう生活をしてはいけないと言っているのではない。

 で、今、地元のS自動車会社の社員たちが、多数、中国の上海に駐在している。私の友
人の息子夫婦(35歳)もその1人である。

 その息子氏。日本では、課長程度の役職だが、上海では、超高級住宅地に住み、メイド
を1人、車の運転手を1人つけた生活をしている。日本では、とうてい考えられない生活
である。

 そういう日本人を、彼らは、日常的に見ている。そこに彼らがもつ反日感情の原点があ
る。

 しかしそれは、S自動車会社の社員の責任ではない。元と円の交換レートに原因がある。
現在、中国政府は、元を、不当に安い価値に抑えている。「不当」であることは、中国から
なだれ込んでくる、中国製品を見ればわかる。

 中国製品は、メチャメチャ、安い。なぜ安いかと言えば、元の価値を、不当に安く抑え
ているからである。

 では、その元の価値をあげればよいということになる。今の2倍とか、3倍でよい。

 しかしそうなると今度は、中国は、失業者を吸収できなくなってしまう。都市部だけで、
3000万人の失業者がいる。農村部では、2〜3億人もの失業者がいる。

 そういう失業者に仕事を回すためには、元の価値を不当に低く抑えてでも、雇用の機会
をつくらねばならない。つまりここに中国経済、最大のジレンマがある。

 もし仮に、ここで成長率を現在の8〜9%から、数%さげただけで、中国各地では、失
業者による大暴動が起きる。失業者を吸収できなくなるからだ。もしそうなったら、それ
こそ中国政府は、崩壊の危機に立たされる。

 表では反日を叫ぶ、中国の若者たち。しかしその矛先は、必ず、中国の民主化運動に向
う。

 わかっているのか! 胡さん! こんな私でもわかる論理が、あなたには、わからない
のか!

 リッチになった。生活にもゆとりができてきた。こんな時代に、共産主義などという、
時代錯誤的な政治体制が、いつまでも、つづくはずがない。旧ソ連を見ろ! 旧東ドイツ
を見ろ! 今、ロクな選挙もしないで、一党独裁という政治体制の中で、人権を抑圧しつ
づけている国が、ほかにどこにある? あるとすれば、K国だが、あの国は、論外。

 日本としては、とんだ災難。とばっちり!

 まあ、日本の代議士の石頭にも、問題はある。「Y神社の参拝しないような政治家は、政
治家としての資格はない」とか、「天皇を元首にする」とか。どこからそういう発想が、わ
いてくるのか? 彼らが問題にしている、教科書にしても、しかり。欧米先進国の中で、
いまだに教科書の検定制度なるものをしているのは、この日本だけ! どうしてそのおか
しさが、わからないのか?

 で、私も以前、自分で調べてみた。

 アメリカには、検定制度など、まったくない。テキストは、学校ごとに、PTAが選定
している。(テキストだぞ! 教科書とは、異質のものだぞ!)

 ただオーストラリアには、ある。しかし検定制度といっても、民間団体による自主的な
もの。しかも検定する内容は、暴力とセックスについてのみ。とくに「歴史については、
検定してはならない」と、制約がついている(南オーストラリア州)。

 ヨーロッパにいたっては、なおさらだ。

 で、一言。

 中国の学生たちは、とうとうパンドラの箱※をあけてしまった。「自由」という箱である。
たまたまそれが今は、反日運動に名を借りてはいるものの、この運動が、はげしくなれば
なるほど、中国共産党は、崩壊の危機に立たされる。むしろ台湾のほうが、中国本土を吸
収するような事態になるかもしれない。

 そこで日本としては、ただひたすら静観するのがよい。冷静に、事務的に……。ここで
あれこれちょっかいを出すと、日本は、大ヤケドをすることになる。(今日、すでにM外相
が、中国へ飛んだが、自らヤケドをするために、出かけたようなもの。あああ!)

 今、世界は、日本や中国の動きを、リアルタイムで見ている。つまりは、世界が、サッ
カーの試合で言えば、ジャッジとして機能している。私たち日本人がすべきことは、そう
いうジャッジの判断を信頼して、フェアプレイをすること。

 あとの判断は、世界に任せればよい。
(この原稿は、05年4月17日に書いたものです。発表時には、国際情勢は大きく変化
しているかもしれません。)

※パンドラの箱……ゼウスがパンドラに渡した箱。この世のあらゆる禍(わざわい)をそ
の箱に封じ込めたが、パンドラがそれをあけてしまう。あわてて箱をしめたときには、「希
望」だけが、その箱の中に閉じこめられてしまったという。ギリシャ神話。

++++++++++++++++++++++

●別に私が正しいわけではないが……

 このところの国際情勢を見ていると、うんざり。

 別に私が正しいというわけではないだろうが、私が心配したとおり、そして予想したと
おり、日本を取り巻く国際情勢は、日本の思惑とは、別の方向にどんどんと進んでいる。

 中国の人たちがもつ感情などというものは、すでに30年前から、今の感情になること
は、わかっていた。当時、日本へやってきた中国の留学生たちは、みな、「二度と、日本な
んかへ来るものか」「日本、大嫌い」と言って、日本を去っていった。

 そのときの学生たちが、今の中国を指導している。リーダーになっている。

 そういう事実を、日本人は知らない。知らないまま、今の情勢に右往左往している。

 一方、私は、もう10年以上も前から、ものに書いて、首相たちのY神社参拝を警告し
てきた。「首相が自国の神社を参拝するのは、私たちの自由」と言うのは、その首相の勝手
だが、中国や韓国の人たちにとっては、そうではない。

 ドイツのシュレーダー首相がヒットラーの墓参りをするようなことを平気でしながら、
「反戦の誓い」はない。少なくとも、彼らはそう見ている。つまり彼らの神経を逆なです
るようなことを、一方で、平気でしながら、「日本は平和を守ります」は、ない。

 昨日、私は、ここは冷静に、事務的にと、書いた。そして今、騒げば、かえって大ヤケ
ドをすると書いた。

 が、M外相は、その大ヤケドをするために、わざわざ中国へ! この国際性のなさとい
うか、外交の稚拙(ちせつ)さというか、私は、あきれて、ものも言えない。もう、ご勝
手にどうぞ!、という心境である。

 もりあがる反日感情。それに呼応する、短絡的な、反中国感情。週間P誌などは、「なめ
られた日本」などという記事を書いている(新聞の見出ししか読んでいないが……)。

 こうなれば、日本よ、日本人よ、戦争を覚悟しよう。あなたの夫や、子どもが、戦場に
行くのを覚悟しよう。だれかが何とか、してくれるだろうと考えるのは、あまりにも、甘
い。

 今は、日本が静観すべきときである。今の、中国の反日運動は、中国における、自由民
主化運動の、おおきなうねりの中にある。そういううねりを感じたら、日本は、それをう
まく利用して、日本への矛先をかわさなければならない。

 にもかかわらず、あえて、日本の外務省は、火中のクリを拾うような、アホなことをし
ている。中国政府は、それを利用して、自分たちへの不満を、日本に向けさせ、身の保全
を図ろうとしてしている。

 どうしてこんな簡単な論理がわからないのか?

 もう、知らない! 私の知ったことではない!

(追記)

 日本が今すべきことは、国際世論を味方につけること。中国の行動は、リアルタイムで
世界に報道されている。あとの判断は、世界に任せればよい。「中国って、やっぱり、おか
しな国だ」と、世界の人に知らせることこそ、重要である。

 日本は、絶対に、戦争をしてはいけない。そのためにも、ここは、冷静に、事務的に。
決して報復を考えてはいけない。それをしたとたん、それこそ、中国政府の思うツボ。韓
国政府やK国の金XXの思うツボ。

 この冷静さが、彼らに伝わったとき、ふりあげた自分たちのコブシを見ながら、バツの
悪い思いをするのは、彼ら自身である。そういう状態にもっていくのが、今の日本の外務
省の仕事ではないのか。
(050418記)

 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 13日(No.567)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思考停止

 多くの科学者や教育者たちが、今、口をそろえて、こんなことを言っている。「最近の日
本の若者たちは、思考が停止の状態にある」と。

 ……こう書くと、若者たちは、反発するかもしれない。「何をバカなことを!」と。しか
しそう怒る前に、まず私の意見を聞いてほしい。

 「情報」と、「思考」は、まったく別のもの。情報というのは、モノを知っていることを
いう。思考というのは、自分で考えることをいう。多くの若者たちは、モノを知っている
ことを、「知識」、その知識の多い人を、「頭のいい人」と、誤解している。

 しかしモノをよく知っているから、頭のいい人とは、言わない。いわんや、「賢い人」と
は言わない。

 さらに最近は、多分にバラエティ番組の影響だろうと思うが、とんちパズル的な問題を、
スラスラと解ける人を、頭のいい人と考える傾向が強くなってきている。

 「S−M−T−W−T−Fのつぎは何?」と。
 「O−T−T−F−F−Sのつぎは何?」でもよい。

 答は、「S」と「S」である。「Saturday」の「S」と、「Seven」の「S」
である。(1問目は、曜日の頭文字。1問目は、one,two,threeの頭文字。

 これも一見、思考と関係があるように見える。しかし実際には、頭の中にある情報を、
あちこちさがしまわりながら、その問題にあう答をさがしているにすぎない。あえて言う
なら、これは思考の柔軟さの問題ということになるが、それ以上の意味はない。

 「思考」には、ある種の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い日に、ジョギ
ングに出かけるようなもの。たいていの人は、無意識のうちにも、思考することを避けよ
うとする。できるなら、モノを考えないで、すませようとする。

 よい例が、カルト教団の信者たちである。彼らは、教団に対して、徹底した隷属を誓う
ことで、思想を脳に注入してもらう。その結果、自分で思考することを放棄する。それは
実に甘美な世界である。思考することから解放されるというのは、それ自体、ある種の心
地よさをともなう。気も楽になる。

 そのためだろうと思うが、カルト教団では、信者どうしが、実に仲がよい。ときには、
他人どうしが、兄弟以上の兄弟、親子以上の親子になることもある。その居心地のよさが、
カルトの魅力ということになるが、しかし、頭の中は、カラッポ。

 わかりやすい例として、こんなのがある。ある子ども(年長児)が、「どうしてお月様は
落ちてこないの?」と聞いたとき、母親は、こう答えた。

母「神様が、そうしたからよ」
子「どうして、お星様は、光るの?」
母「神様が、そうしたからよ」
子「どうして、朝になると、お日様が出てくるの?」
母「神様が、そうしたからよ」と。

 母親の言っていることは、一見、答になっているようで、その実、まったく答になって
いない。もちろん、現実のカルト教団では、こんな単純な教え方はしない。しかしよくよ
く彼らの聞いていると、それほどちがわないことがわかる。そしてふつうなら、つまりふ
つうの常識を働かせば、「そんなバカな!」と思うようなことまで、信じてしまう。そんな
ケースを、私は、たくさん、知っている。

 では「思考」とは何か。それについては、反対に、「思考をしない人」を見ればわかる。

 それが最近の若者たちである。

 携帯電話を片時も話さず、ただひたすらメールを打ちこんでいる。「今、どこ?」「渋谷」
「混んでる?」「まあまあね」「来る?」「3時すぎならね」「じゃあ、3時30分」「どこで?」
「○○の前、どう?」「いいわ」と。

 こういうやりとりを、一日中、している。しかしこれは、脳に飛来する情報を、そのつ
ど交換しているだけ。思考ではない。論理的な積み重ねが、まったく、ない。ないから、
思考ではない。

 英語では、こういうとき、「ロジカル」という言葉を使う。日本語に訳すと、ズバリ「論
理的」となるが、彼らがロジカルというときは、そこに「合理的」というニュアンスをこ
める。「ものの道理にかなった」という意味である。いくら論理的でも、ものの道理からは
ずれていたら、ロジカルとは言わない。

 つまり思考するということは、どんなことでもよいから、思想と言えるものを、体系的
にまとめあげていくことをいう。そしてその思想に基づいて、一貫とした、自分の意見や
考えを、もつことをいう。
 
 テーマは無数にある。

 政治論、美術論、文学論、人生論など。しかしここで一つ注意しなければならないのは、
たとえば料理論というものを考えたとき、(料理のし方)と、(料理論)は、もともと異質
のものであるということ。

 料理のし方を知っているからといって、料理論をもっているということにはならない。
同じように、草花を育てるということと、自分なりの自然論をもつことは、別の次元の話
ということになる。

 つまり最近の若者は、こうした「論」にあえて背を向け、そのため、結果として、思考
停止の状態にある、と。

 ……といっても、その状態にある若者が、自分のそういう状態に気づくということは、
まず、ない。これは脳のCPU(中央演算装置)の問題だからである。その若者が、より
深く、自分で考えるようになって、それまでの自分が、(考えなかった人間)であることに
気づく。そしてそれを繰りかえすうちに、その若者の思想はさらに深くなり、それまでの
自分が、思考停止の状態であったことを知る。

 で、こうした思考力というのは、年齢には関係ない。50歳になったから、思考が深く
なるとか、中学生だから、思考力が浅いということにはならない。50歳をすぎても、思
考停止の状態にある人はいくらでもいる。反対に、小学生でも、ていねいに観察すると、
自分で考える力を身につけている子どももいる。

 そこで重要なことは、かなり早い時期に、子どもに、その方向性をもたせること。その
方向性さえもたせておけば、子どもは、習慣として、ものを考えるクセを身につける。そ
うでなければ、そうでない。

 方法としては、子どもを「自由」にする。「自らに由(よ)らせる」。そのためには、ひ
とりで考える時間を、たっぷりと与える。1時間や2時間では、ダメ。毎日の習慣の中で、
毎日、数時間は、ひとりで考える時間をもたせる。読書がよいのは、言うまでもない。し
かしそれ以上に大切なのは、(書く)という習慣である。

 どんなテーマでもよい。いつも、書く。書くことによって、思考力を深める。が、最近
の若者たちは、文章を、ほとんど書かない。書くという習慣そのものがない。その前に文
章を書くという訓練そのものを受けていない。

 ……と、グチばかり言っていたのでは、話が前に進まない。そのグチは、この程度にし
て、私の教室(BW教室)で実践している、いくつかの方法を、紹介する。

(立て札づくり・幼児用)

 A君は、道を歩いているとき、道の中に大きな穴があることを知りました。あとからき
た人が、その穴に入ってケガをすると、たいへんです。あなたはその横に立て札を立てる
ことにしました。その立て札には、何と書きますか。

 Bさんは、自分でつくったクッキーを、おじいちゃんの家に届けることにしました。が、
あいにくと、おじいちゃんは家にいませんでした。そこでBさんは、クッキーを郵便受け
に入れ、手紙を書いておくことにしました。その手紙には、何と書けばよいですか。

 C君は、宇宙人に誘拐さて、高い塔になる部屋の中に閉じこめられてしまいました。そ
こでC君は、手紙を書いて、だれかに助けにきてもらうことにしました。窓からその手紙
を外に投げれば、だれかが読んでくれるはずです。その手紙には、何と書けばよいですか。

(表現あそび・小学生低学年用)

 1人の子どもに、複雑な形の絵を見せる。その絵を見せながら、その形がどんな形である
かを、文章で表現させる。つぎにその絵を隠し、べつの子どもに、その文章を読ませ、ど
んな形であったかを、絵に描かせてみる。こうして最初の絵と、べつの子どもの書いた絵
をくらべさせて、似ているか、ちがっているかを、判断させる。ちがっているときは、ど
うしてちがっているかを、話しあう。

 絵だけを見せて、話を作らせる。私がよく用いるのは、影絵。いろいろな影絵を見せな
がら、その影絵は、だれが、どうして、何をしているところかを、文章にして書かせる。

 6〜7人で、グループになってする。最初の出だしだけは、私が、6〜7種類、用意す
る。(1)湖のほとりに小さな家がありました。(2)白い雲が、山の上に2つありました。
(3)川の中に、二匹の魚が住んでいました、など。そのあとのつづきを、子どもたちに、
書かせていく。少し書いたら、その紙を、時計回りなら時計回りにしながら、つぎの子ど
もに回していく。子どもは、前の子どもの書いた作文に、自分の作文をつなげ、ストーリ
ーを考えていく。
(以上、はやし浩司のオリジナル指導法)

 みなさんの家庭でも応用できると思うので、ぜひ、応用してみてほしい。
(はやし浩司 思考 思考力 作文 作文指導 考える力 表現力)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

健康と運動

●健康は、運動するという習慣から

 老後? ずっと先の話? とんでもない! 

 子育てが終わると、どっとやってくるのが、老後。それまでは、そこに老後があること
すら、わからない。子育てに夢中になっているあいだは、わからない。が、それだけでは
ない。そのとき同時に、それまでごまかしてきた、持病が、どっと表に出てくる。これが、
こわい。

 そこで「健康」ということになるが、懸命な人は、その価値をなくす前に気づき、そう
でない人は、なくしてからその価値に気づく。私も先日、私の不注意で、足を骨折してし
まった。2週間ほど、松葉杖をついて歩いた。そのときのこと、スタスタと歩いている人
を見て、「ああ、人間って、こんなふうに歩けるのだ」と、へんに感心したことがある。
 が、その健康は、つくるものではない。維持するもの。そのためには、運動!、という
ことになる。しかしよく誤解されるが、運動をするから、健康になるのではない。運動を
するという習慣が、その人を健康にする。たとえば、どんなことでもよい。職場まで、毎
日歩くとか、エレベーターを使わないとか。さらに地域のスポーツクラブに入って、仲間
との交流をするというのもよい。

 1年単位や2年単位では、意味がない。10年単位、20年単位での習慣が、その人を
健康にする。で、問題は、どうやって、この習慣を、自分の中につくっていくかというこ
とになる。

●子どもの体に、しみこませる

 ……と書くと、子育ての話とは関係ないと思う人がいるかもしれない。とんでもない!

 子どもというのは、そういう親の姿を見ながら、自分の健康法を学んでいく。今は、ま
だ子どもだから、すぐにというわけではない。しかし子どもが、30代になれば、30代
のころの親を思い出し、40代になれば、40代のころの親を思い出し、自分の健康法の
中に取り入れていく。

 世代連鎖という言葉があるが、それは何も虐待についてだけの言葉ではない。そこで大
切なことは、親自身が、その健康法を実践し、その習慣を、子どもに見せておくというこ
と。見せるだけでは、足りない。子どもの中に、しみこませておく。そういう(しみこみ)
があってはじめて、子どもは、そのときがきたら、自ら健康を守るようになる。親が寝こ
ろんでテレビを見ながら、「お前は運動をしろ」は、ない。こんな例もある。

 ある中学生(男子)は、生まれつき、体が弱かった。それで父親は、毎朝、近くの湖(一
周6キロ)を、その息子と、一周することにした。苦しい運動だった。そしてそれを何と、
高校へ入るまで、3年間つづけた。その父親は、こう言った。「私のためだけなら、とっく
の昔にやめていたでしょう。しかし息子のためと思い、がんばりました」と。

●私のばあい

 私のばあいは、自転車通勤が、その「習慣」ということになる。毎日、往復14キロ。
約1時間半の運動である。それをつづけて、もう30年以上になる。おかげでいまだに成
人病とは無縁。病院のベッドで眠ったことは、一度もない。

 で、そういう習慣は、どうして身についたかって? ハハハ。実は家業が自転車屋だっ
た。子どものころから、祖父に特製の自転車を組んでもらい、それに乗って遊んでいた。
当時は、まだ子ども用の自転車など、なかった。私は、得意になって、友だちたちの前を
自転車に乗って走ってみせた。そのころの私が、そのまま、今の私になっている。

 あなたは、親だ。もちろん、あなたは、自分の子どもに健康になってほしいと願ってい
る。もしそうなら、今すぐからでも、子どもの前で、その習慣づくりを始めたらよい。そ
れは子どものためでもあるが、同時に、あなた自身のためでもある。もっと言えば、あな
た自身が、その見本となる。

 あなた自身が自分の健康を考えないで、どうして子どもの健康を問題にすることができ
るのか? 「今日から、○○店(ショッピングセンター)までは、歩いて行きましょうね」
という、たったその一言が、子どもを健康にする。あなたを健康にする。

 さあ、あとは、実行、あるのみ! がんばれ、 お父さん! お母さん! 「健康は第
一の富である」(エマーソン)ですよ!
(はやし浩司 子どもの健康 子供の健康 健康論 運動と健康)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●塾カルト

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H市内のKさんという人から、塾について
の相談がありました。それについて、返事を
書きました。

かなりはげしい意見ですが、率直に……。
事実は事実ですから。

++++++++++++++++++

 数日前、どこかのキリスト教会の牧師が、逮捕された。少女たちに性的暴行を加えてい
たという容疑で、である。

 被害者は、中学生や小学生まで含めて、30人を超えそうだという。まあ、とんでもな
い牧師がいたものだが、親たちの中には、見て見ぬフリをしていた人もいたそうである。
つまり、そこに「信仰(カルト)」の恐ろしさがある。

 が、こうしたカルト性は、何も、宗教の世界だけの話ではない。実は、教育の世界にも
ある。塾の世界にもある。

 塾の世界には、「定着率」という言葉がある。100人の生徒がいたとする。そのうちた
とえば1年間で、10人がやめたとする。すると定着率は、90%ということになる。5
0人がやめたとする。すると定着率は、50%ということになる。

 マンモス塾などでは、この定着率が、その教師を評価する一つの尺度になっている。

 そこで塾連盟などでは、塾長たちが会合を開くと、決まって、この定着率が話題になる。
「どうすれば定着率を、あげることができるか」と。

 つまり、ここからカルト性が生まれてくる。そしてその手法は、どこかのカルト教団が
とる手法と、たいへんよく似ている。

(1)まず、不安をあおる

 人間は、不安を感ずると、心にすき間ができる。そのすき間に心が入ると、合理的に、
ものを考えられなくなる。それこそ、キツネを神様だと思ったり、ヘビを神様だと思った
りするようになる。

(2)希望を与える

 不安と希望は、カルト教団では、いつもペアになっている。「これを信仰すれば、あなた
は幸福になれる」「天国へ入れる」と教える。そしてその一方で、「この信仰を捨てると、
バチがあたる」「地獄へ落ちる」と教える。

 塾、とくに受験塾では、この不安と希望を、たくみに使い分ける。受験そのもので、生
徒や親は、かなり不安になっている。だからあえて、不安にする必要なないのかもしれな
いが、それを増長させる。

 私は一度、全国チェーンで経営している、N塾の説明会を見せてもらったことがあるが、
そこでは、最初、30分程度のビデオを、親たちに見せる。

 (受験勉強をする子ども)→(受験会場へ向う子ども)→(合格発表)→(合格して喜
ぶ親子の姿)→(不合格で、嘆き悲しむ親子の姿)、と。

 最後の(不合格で、嘆き悲しむ親子の姿)だけが、10〜15分ほど、つづく。全体で
30分ほどのビデオだから、約50%は、その場面ということになる。

 そのビデオを見終わった親たちは、パニック状態になる。そして30〜50万円もする、
夏期特訓セミナーに、我も我もと、入会してしまう。それは、まさに異様な雰囲気であっ
た。

 (このビデオは、一般の進学塾にも販売されているので、この原稿を読んでいる人の中
でも、見たことがある人は多いと思う。あのN塾である!)

(3)依存性 

 受験塾の多くでは、いや、ほとんどでは、自前の教材を使う。教材費は、重要な収入源
の一つになっている。H市内のS塾では、何と、3年分(中学生)の教材費として、12
0万円も、払わせている! 月2回の個人レッスンと、ペアになっている。親が解約に行
っても、簡単には応じない。

 また県下に数100教室以上もある、大規模進学塾は別として、中規模塾では、表紙だ
けを、とりかえて教材にすることが多い。そういう便利な教材会社がちゃんとあって、そ
の塾のために、表紙だけを印刷して、製本してくれる。

 こうして独自の教材(?)を使うことで、(子ども)と(教科書=学校の勉強)を切り離
すことができる。重要なのは、「学校の勉強だけでは足りない」「学校の勉強は受験には役
に多々ない」と思わせること。つまりこうすることによって、親と子どもに、依存性をも
たせることができる。「この塾だけの、特別のレッスンですよ」と。

 受験塾がもっとも恐れるのは、子どもに自学自習の心が生まれること。「こんな塾で勉強
するくらいなら、自分で、教科書を見ながら勉強したほうがまし」と思うようになったら、
塾の存在そのものが、あやうくなる。

 だから、何としても、依存性をもたせねばならない。教材は、そのために、重要な手段
となる。「この教材をマスターすれば、合格する」「ほかのではダメだ」と。

 親も子どもも、一回の経験だけで、その期間を通り抜けるから、比較ができない。つま
りはそういった塾の言い分を、信じてしまう。

(4)競争社会

 受験勉強は、どこまでも利己的なもの。それはそれとして、はげしい受験競争を経験し
た子どもほど、心がゆがむ。どうゆがむかについては、たびたび書いてきたので、ここで
は省略する。

 が、こうした競争の原理を、受験塾は、たくみに利用する。塾長や教師自身が、無意識
のばあいも少なくない。「SS高校以外の生徒は、みんな、クズだ」と、教師自身が、信じ
こんでいることもある。

 成績順に生徒を並べてみたり、ハチマキをさせてみたり。犬の訓練校でもしないような、
下劣な訓練をしながら、それが教育だと思いこんでいる。そうでない良心的な進学塾もな
いわけではないが、こと「受験」がからんでくると、様相が一変する。

 もちろん月謝は、高い。

 受験塾へ子どもを入れた人なら、みな知っていると思うが、月謝だけではすまない。教
材費のほか、講習会費、模擬テスト代金などなど。毎月、銀行預金から、自動的に落とさ
れていくシステムになっている。名目は、「ガクヒ」。学校の学費なのか、塾の学費なのか、
わからないようになっている。(ほとんどの進学塾が、そうしている!)

 しかもたいていは、3か月の先払い。中には6か月払いというのもある。途中で退会し
ても、返金はない。退会届は、1か月以上前に出すのが、システムになっているところが
多い。直前になって退会届を出しても、翌月から3か月分以上、自動的に引き落される。

 さらにあくどい塾となると、補講レッスンや個人レッスンをすすめる。ハンパな額では
ない。4〜5人の少人数を歌い文句に、月2回程度で、5〜10万円の費用をとる。(H市
内)には、2人で1クラスだが、週2回のレッスンで、12万円もとっているところがあ
る。

 地方都市のH市ですら、このありさまだから、大都会では、もっとはげしい(?)。

【BW教室】

 こういう世界にあって、1人の教師の誠意など、どれほどの意味があるというのか。値
段が安いから、かえってバカにされることもある。この世界では、月謝が高ければ高いほ
ど、よい教育という、おかしな偏見と誤解がある。

 あとは飾り。「東京の進学塾で使っている教材と同じです」と言うだけで、親たちは、み
な、ありがたがる。

 で、こんなことがあった。「幼児教室で、うちは、月謝が、1万円です」と言ったときの
こと。その経営者は、「そんな安いのですか」と言って驚いた。「そうです」と私が言うと、
「東京では、2万円が相場です」と。

 驚いて、今度は私が、「へえ、そんな安いのですか」と聞くと、「1レッスンが、2万円」
とのこと。「月謝になおすと、8万円です」と。月4回で、2万円x4で、8万円になる!

 私は月謝が2万円と思っていた!

 これは昨年(04年)、東京のY幼児教室の経営者と、実際に私がした会話である。

 以上、塾の世界の、ハラワタを書いてしまったが、すべて事実である。この世界、もと
もとその底流では、ドス黒い欲望が、ウズを巻いている。ふつうの神経では、できない仕
事である。

 もちろん、そうでない塾も多い。……多かった。しかし、今、そのほとんどが、大手の
進学塾に駆逐(くちく)されてしまった。宣伝力ではかなわない。しかも生徒集めに、大
手の進学塾は、カラフルで、豪華な案内書を用意する。ある塾教師は、こう言った。

 「今どき、1色や2色のパンフレットで入ってくる子どもはいませんよ。3色、あるい
は4色刷りにしないといけません」「そのため、パンフレット1枚作るのに、何十万円もか
かってしまいます。大手の進学塾には、かないっこありません」と。

 親や子どもたちは、その豪華さを見て、進学塾を決める。

++++++++++++++++++++

Kさんへ、

 私のBW教室は、良心的ですよ。月謝は、1万円だけですよ(ホント!)。ただね、月末
の最後の週になって、退会届を出す人については、翌月の月謝をもらうことにしています。
これは私のためというより、世の常識を守るためです。

 わかっていただけるでしょうか。

 もうこの世界に入って、35年になりますが、いまだにそういうときは、体が震えます。
それは怒りというより、自分の仕事に対する、情けなさからです。だから退会届だけは、
3週目までに出してもらうようにしています。お願いしますね。

 それ以外は、私の教室では、絶対に、絶対に、子どもに依存心をもたせたりしません。
今までに、勉強嫌いにした子どもは、いません。(嫌いなまま、やめていった子どもはいま
すが……。)私がすべきことは、「勉強はおもしろい」「楽しい」ということだけを、子ども
の心の中に植えつけていくことです。

 あとのことは子どもたちに任せましょう。それでよいのです。やる気のない子どもでも、
半年もすれば、自分でするようになります。それでもやる気のない子どもでも、1年もし
れば、自分でするようになります。

 それが私の指導法です。

 もう今の仕事も、あと5年もできれば御の字でしょう。最後の人生を、醜い思い出で汚
したくないし……。

 どうか、安心して、私にお任せください。とてもうれしいことに、2人とも、とてもす
ばらしいお子さんたちです。私のほうが、楽しませてもらいます。ごめん!

(Kさんへ追伸)

 (手取り、足取り教育)は、一見、親切に見えますが、子どもに服従性を強いたり、あ
るいは教師に対して依存性をもたせるという意味で、危険な指導法と考えてよいです。

 もちろん子ども自身が、その前提として、「教えてほしい」と言ってくれば、話は、別で
す。

 しかしさらにその前提として、子どもに、「教えてほしい」という意欲をもたせること自
体が、むずかしい。つまりそこまでもってくるのが、たいへん。それを心理学の世界でも、
「動機づけ」と呼んでいます。

 この動機づけをしっかりとしないまま、「さあ、勉強」「さあ、英語」と、子どもを追い
立てても、効果がないばかりか、かえって子どもを勉強嫌いに追いこんでしまうことにも
なりかねません。

 小学校の高学年になったら、「わからないところがあったら、もっておいで」というよう
な指導法が、もっとも理想的ということになります。そのためには、子どもを、雰囲気で、
しばります。

 そのため、私の教室では、同学年の子どもを一度、バラバラにして、中学生や上級生の
間にすわらせて、自習させるようにします。

 最初は、とまどっていた子どもも、上級生の勉強ぶりを見ながら、やがて自分の勉強の
し方をつかんでいきます。しかし一度、こうなればしめたもの。子どもは、自分の力で、
どんどんと伸びていきます。

 で、そのあとのことは、子どもに任せる、です。親として、できるのは、ここまで。

 しかし、実際には、エビでタイを釣る前に、エビを食べてしまうというか、その前の段
階で、子どもを勉強嫌いにしてしまうケースが多いのも事実です。この時期、一度、子ど
もを勉強嫌いにしてしまうと、あとがたいへん。そういう子どもを、再び勉強好きにする
のは、容易なことではありません。

 つぎからつぎへと、学校の勉強が追いかけてくるからです。

 ですから小学校の低学年(1〜3年)の間は、子どもを楽しませることだけを考えて、
指導します。私のところでは、そうしています。「勉強は楽しい」という思いが、やがてそ
の子どもを伸ばす原動力となって、働きます。

 親が、自分の子どもの勉強(=学校での学習)で、あせりを感じ始めたら、すでに家庭
学習は、空回りしているとみます。親としては、それはしかたのないことかもしれません。
自分の子どもが、より下位層(?)に入っていくのをみるのは、つらいことです。

 しかしそうした親の不安や心配を、子どもにぶつけてはいけません。それこそ、それは
親のエゴというものです。

 子どもというのは、不思議な存在です。私は、若いころ、こんなことを考えました。

 「もし、私とそっくりな人間を、コピーしてつくることができたら、楽しいだろうな」
と。

 今では、遺伝子を操作して、コピー人間(クローン人間)をつくることも可能になりま
した。そこでもう一歩、話を進めて、そのコピーしてできたコピー人間の脳ミソに、自分
の脳ミソを、コピーしたとしたら、どうなるでしょうか。

 ちょうどパソコンのハードディスクを、別のハードディスクにコピーするように、です。

 すると、姿形ばかりではなく、(もちろん年齢はちがいますが)、考え方も、あなたと同
じ人間ができあがることになります。

 そこで、クエスチョン。

 そのコピー人間は、あなたか、あなたではないかということです。

 さらにもっと、このコピー人間の考え方を、進化させたのが、『スタートレック』(映画)
の中に出てくる転送装置です。

 丸い台の上に人が乗ると、上から光のシャワーが降りてきて、そのまま、別の場所に、
転送されるという、あの転送装置です。

 あの装置について、昔、二男が私にこう教えてくれました。「パパ、あれはね、人間が一
度、死んで、また別の人間に作り変えられているのだよ」と。

 光のシャワーをあびたところで、その人は、一度、分子レベルまで(多分?)、分解され
ることになります。つまりその人は、一度、そこで死ぬわけです。そしてその分子は、電
気信号のようになって(多分?)、別の場所に転送される。そしてそこで、再び、同じ人間
に、組み立てられる……。

 つまり転送前の人間は、その瞬時に死に、転送後の人間は、その瞬時に、別の人間にな
るというわけです。が、まわりの人から見れば、まったく同じ人間……。

 実は、親子の関係も、これによく似ているのですね。時間的な差は生まれますが、親は、
一生をかけて、自分のコピー(クローン)を作っているというわけです。が、そのコピー
人間は、私であって、私でない人間ということになります。

 今、私は、子育てもほとんど終わり、こう思うことが多くなりました。

 「若いころは、自分の子どもと、他人の子どもが、まったく別の人間に見えた。しかし
自分の子どもと、他人の子どもを、区別するほうがおかしい」と。

 おかしなことですが、自分の息子たちを見ながら、「別に私が親でなくてもよかったので
は」と思い、反対に、他人の子どもたちを見ながら、「私が親でも、どこもおかしくない」
と思うようになりました。

 私たち人間も、大きな、たとえば大海原の(うねり)の中にいます。(生命のうねり)の
中です。「私」という個人は、そのうねりの上ではじけるアワのようなものです。そしてそ
ういう視点で見ると、自分のアワも他人のアワも、すべて同じように見えてきます。区別
するほうが、おかしい……。

 このあたりに、親子の限界があるように、思います。親は親であって、親でないという
限界。子どもは、子どもであって、子どもでないという限界。親子は親子であって、親子
でないという限界。さらに私は私であって、私でないという限界、です。

 くどい言い方になりましたが、その限界をわきまえている親が、賢い親ということにな
ります。その限界に気がつかず、いつまでも、親風を吹かし、「子どもは私のモノ」と考え
る親が、愚かな親ということになります。

 親として、すべきことはする。しかしその限界をわきまえる。そのあとのことは、子ど
も自身に任す。そういう親のみが、真の家族の喜びを与えられる(バートランド・ラッセ
ル)ということですね。それがわかっていただきたくて、長々と書きました。

 余計な内政干渉になれば、どうか、お許しください。
(はやし浩司 浜松 浜松市 幼児教室 幼児教育 BW BW教室 BW幼児教室)
 

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●気になる話

 TK氏のHPに、こんな記事が載っていた。たいへん気になる記事なので、そのまま抜
粋、引用させてもらう。

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 東大気候システム研究センターと国立環境研究所などの合同チームが予測すると、世界
が年3%の高成長を2100年まで続け、二酸化炭素の濃度が現在のほぼ2倍になれば、世界
の平均気温は4度上昇する。そのときに日本でも真夏日が約120日になり、夏の気温は亜
熱帯に近づくという。

 大気の温度が上昇すると海面などからの蒸発速度はそれだけ増加し、その蒸発した水蒸
気が違うところで凝縮する結果として、熱の不均衡が顕著になり、台風や
竜巻などの自然災害が増す可能性があることは前からも言われていた。

 世界はいま1秒間に石油や石炭の化石燃料を255トン燃やして、762トンの二酸化炭素を
吐き出している。今では世界の20%の豊かな人たちが80%の自然資源を消費している。未
だ豊かさを手にしていない途上国は、成長する権利を主張するのは自然の勢いである。

最近でも隣の中国が巨大市場になって来つつある。従って「途上国の成長と先進国の生
活水準の向上を両立するには、文字通り大変なことである。今のままでは地球の資源は
いずれ足りなくなることは明らかである。(TK氏のHP「さらば消費社会?」より)

+++++++++++++++++++++++++

 要するに、このままでは、地球温暖化は、ますます進むということ。そしてこの日本で
も、やがてすぐ(2100年)には、真夏日が、120日もつづくことになるという。

 120日といえば、4か月!

 気象庁では、気温が25℃以上の日を、「夏日」、30℃以上の日を「真夏日」としてい
る。さらに、35℃以上の日を、「超真夏日」という人もいる。

 ちなみに、1961〜70年までの、超真夏日の日…… 41日、
      1995〜04年までの、超真夏日の日……143日となっている。

 が、最大の問題は、2100年で、気温の上昇が、止まるわけではないということ。仮
にその時点で、世界中の人が、いっせいに、化石燃料(石油、石炭、天然ガス)などの使
用をやめたとしても、気温は、そのまま上昇しつづける。

 さあ、どうするか? 地球は、やはり、火星のようになってしまうのか?

 が、実は、その地球温暖化よりこわいのは、こうした絶望的な未来を前にして、自暴自
棄になる人が、出てくること。そういう人たちを中心に、人間の精神そのものが荒廃する
ということ。そのときどんな地獄絵図が展開されることやら? それを思うと、心底、ぞ
っとする。

 人類は、静かに滅亡するや否や?
 人類は、そのあと、何らかの救済策をさがしだすや否や?

 TK氏は、光触媒の未来に、大きな望みと期待を寄せている。水を触媒により分解して、
酸素と水素を取り出すことができたら、地球温暖化の問題は、一挙に解決する、と。事実、
この分野の研究は、現在、めざましい発展をとげている。

 さらに地球温暖化に、世界の科学者たちが、手をこまねいているわけではない。これは
昔、ある本で読んだことだが、地球そのものを冷やす方法も考えられている。地球の周辺
に亜硫酸ガスを散布して、地球全体に、傘(かさ)をかけるという方法もあるそうだ。

 だから希望をなくしてはいけない。……というより、地球温暖化は、もう既定の事実な
のだから、それなりの対策は、私たち1人ひとりが、始めたほうがよい。今年の夏も暑く
なりそうだが、「暑くなったら、クーラーをかければよい」という発想では、人類は、生き
のびることはできない。

 私個人について言えば、できるだけ歩く、できるだけ自転車に乗るという方法のほか、
暑さに強い体力づくりに心がけている。昨年(04年)の暑さには、本当に参った。毎朝、
起きあがるだけで、精一杯。今年は去年のような、あんなみじめな思いはしたくない。準
備をするなら、今のうちから……と思っている。

 今年の冬は、薄着で通した。身を切るような冷気の中でも、運動をした。地球温暖化は、
決して、どこか遠くの世界の問題ではない。私たち一人ひとりの問題ということになる。
(はやし浩司 地球温暖化 真夏日)

【TK氏より】

+++++++++++++++++++

亜硫酸ガスを、大気圏外の宇宙にまくという意見に
対して、TK氏から、つぎのようなご教示を、
もらった。それを紹介します。

+++++++++++++++++++

林様

  この文はチョット待ってください。 亜硫酸ガスなど充満させたら人類は滅 
亡です。 三宅島でも分かるでしょ。 気体は容易く拡散しますから。 核融合が無 
公害の将来のエネルギー源と言って努力している人もいます。 植物が人類が消費し 
ているエネルギーの、確か2倍の炭酸ガスを、太陽エネルギーを使って固定しています。  
太陽エネルギーや核融合を使えば、エネルギーの方はどうにかなりますが、物質の方 
がどこから獲るかが問題の一つです。 植物のように空気中の微量の炭酸ガスを効率 
よく有用物質に変える

化学反応(もちろんエネルギーを使って)が、これからの深刻な要求になるでしょう。
やはり人類の生き残りには科学が必要です。 知恵を働かせればどうにかなりますよ。

※TK氏……国際触媒学会前会長

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●介護保険制度の矛盾

+++++++++++++++++++++

兄のこともあり、少し、介護制度について、
自分で勉強してみました。

でも、調べていくと、おかしなことばかり……ホント!

介護制度というのは、医療保険制度の救済のためだったのでは?

既存の医療保険制度の中で、医療保険額をあげるわけにはいかなかった。
それで介護保険制度を別につくって、結果的に、医療保険額をあげた……?

さらにおかしなことは、重度の要介護者(たとえば寝たきり老人)などは、
かえって介護費が、大幅にふえてしまったということ。

そのかわり、さほど介護を必要としない人まで、介護申請を受けて、
介護施設を利用するようになりました。おかげで、介護保険制度は、
すでにパンク状態。

まだまだあります。

施設介護の費用が、在宅介護のそれよりも、4倍以上もかかっています。
どうしてこんなバカなことが起きているのでしょうか?

不勉強な点もあり、まちがっているところもあるかもしれませんが、
今回は、この問題について、考えてみます。

何といっても、私の年代の人間にとっては、深刻な問題ですから……。

++++++++++++++++++++++++++

 老人介護といっても、(1)在宅介護と、(2)施設介護の二つに、大きく分けられる。
本来は、在宅介護が原則であり、在宅介護がどうしても無理な人が、施設介護ということ
になる。

 が、介護保険制度ができてから、老人介護は、施設で……というのが、当たり前のよう
になってしまった。その安易な考え方が、かえって、介護制度そのものに、暗い影を落と
している。

 で、厚生労働省の集計によれば、00年4月以降、介護保険制度の利用者は急増してい
るという。たとえば03年度11月時には、要介護に認定された人は、全国で374万人
にのぼるが、そのうち約半数が、要支援者、要介護度1の比較的軽い要介護者だという。

 本来なら、「老人だからそんなものだ」と思われるような老人まで、介護保険制度を利用
するようになってしまったというわけである。

 そのため04年度の予算案でも、給付総額は、5兆5000億円にもなった。(00年度
は、3兆9000億円、02年度は、5兆2000億円。)

 これに対して、現在、40歳以上の人は、約3300円(全国平均)程度の介護保険料
を支払っている。が、これでは、とても足りないと政府は判断したのだろう。すでに介護
保険制度の見直しに着手している(05年)。

 それによると、現在「40歳以上」となっている介護保険制度を、何と、「20歳以上」
とする、本人負担を増額する、などが、検討されているという。

 どうしてこんなに介護費用が、増大したのだろう? それほどまでに急速に、要介護者
がふえたのだろうか?

 実は、ここにひとつのカラクリがある。

 冒頭にあげたように、介護には、在宅介護と施設介護がある。在宅介護のばあいは、1
人当たりのサービス利用額は、平均で、8万5000円程度。しかし施設介護のばあいは、
ほぼ同じ程度の介護で、35万2000円程度もかかっている(日経新聞)。

 「道理で……」と思う人も、少なくないはず。このところ、どこの介護施設も、立派な
鉄筋ビルにどんどんと建てかえられている。「ここまで豪華にする必要があるのか」と思わ
れるほど立派な施設も、少なくない。

 つまり在宅介護を主体にすれば、全体として、もっと安くすむはず。介護、介護と言い
ながら、だれかが、どこかで、ムダなお金を使っている。そしてだれかが、どこかで、甘
い汁を吸っている。つまり介護に対する、基本的な考え方そのものが、ゆがめられている。

 が、さらに矛盾は、つづく。

 その一方で、本当に介護の必要な、つまり重度の要介護者(要介護5)のばあいは、介
護限度額が、上限が、35万8300円に設定されている。しかし実際には、月額60万
円程度は必要だという。だから今回の介護保険制度ができて、かえって、負担が増大した
という家庭も、少なくない。

 雑誌「現代」は、「それまで月額5万円程度ですんでいた介護料金が、今回の新制度にな
って、サービス内容はほぼ同じなのに、65万7000円になった」と、ある女性の例を
紹介している。

 こうなると、何のための介護保険制度だったのだろうかということになる。私にはよく
わからないが、基本的には、医療保険制度の軽減ではなかったのかと思う。つまり医療保
険制度への負担を少なくするため、別に介護保険制度をつくり、医療と介護を二つに分け
た。

 「ふえつづける老人まで、めんどうはみられない。このままでは医療制度は、パンクし
てしまう。介護保険を別につくって、そちらでめんどうをみろ」と。

 実際、病気入院をしたから、介護保険が使えないとか、介護保険を使っているから、入
院ができないとか、わけのわからないことが、現場では起きている。

私の兄のばあいも、認知症だけをみれば、病気ということになるのだが、しかしそのた
め介護が必要ということになれば、介護保険制度の世話にもならなければならない。が、
担当の医師は、「入院すれば、介護申請はできません」と言っているという。(このあた
りは、姉から聞いた話なので、不正確。念のため。)

 しかしこと老人介護ということになれば、どうやって、病気入院と要介護を区別するの
か? とくに、認知症といえば、当然介護が必要になる。要するに、「病院としては、頭の
ボケた老人は、入院させません」ということらしい。しかし考えれば考えるほど、これは
おかしなことである。

 だれの目にも、介護保険制度というより、介護制度は、必要である。06年には65歳
以上の人が、人口の20%を突破するという。2033年には、30%を突破するという
(厚生労働省)。3人に1人が老人という、とんでもない世界が、もうそこまできている。

(あなたの年齢に、28歳を加えてみればよい。それが2033年になったときの、あ
なたの年齢ということになる。)

 そのとき、私やあなたは、どうやって、心配や不安のない、心豊かな老後を送ったら、
よいのか。これは切実な、というより、深刻な問題である。これからも、この問題を、追
及していきたい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●中国の反日運動の、その背景にあるものは?

 中国各地で、現在、反日運動が燃えさかっている。北京以外の地方都市にまで、飛び火
しているという。しかし重要なことは、その表面的な「運動」に、まどわされてはいけな
いということ。まどわされて、私たち日本人は、感情的になってはいけないということ。

 冷静に、事実を見てみよう。

 急速に発展をつづける中国。しかしその「発展」は、かなり、いびつなものである。数
字を並べてみよう。

 まず、失業者の増大がある。

 中国の公式発表によれば、中国での都市部での失業者は、681万人。都市就業者は、
2億4000万人だから、失業率は、2・8%ということになる(01年)。

 しかしこれは真っ赤なウソ!

 ここで「都市」という文字を使うところが、恐ろしい。中国には、この都市労働者のほ
か、農村地帯に住む、農業労働者がいる。この農業労働者(農業戸籍者という)たちが、
富と繁栄を求めて、太平洋沿岸地域の都市部に集中し始めている。

 その数、驚くなかれ、すでに3000万人以上と言われている(東洋経済新報)。

 つまりこの人たちを含めると、失業率は、一挙に、12.5%となる。が、これだけで
はない。

 農村部自体も、失業者をかかえる。その数は、推計だが、1億6000万人〜1億70
00万人とも言われている(中国科学院)。

 こうした農村部にいる人たちが、どんどんと都市部に押し寄せている。そして驚くほど
安い賃金の仕事にむらがり、その一方で、働けど、働けど……という生活を強いられてい
る。

 貧富の差が、異常なまでに拡大している原因は、そこにある。こうした事実の一端は、
日本にあふれる、安い中国製品を見ればわかる。

 私も、先週、掃除機を買ってきたが、値段は、何と、2980円! 少し前までは、「安
かろう、悪かろう」と思って買っていたが、品質は立派である。一昔前には、1〜2万円
はしたであろう。

 では、なぜ、中国は、元を引きあげないのかということになる。元を引きあげれば、中
国人たちの生活も、少しは楽になるはず。

 実は、ここに中国最大のジレンマがある。つまり、現在、中国は、毎年7〜8%前後の
経済成長率をつづけている。驚くべき、成長率である。しかもその成長率を、20年にわ
たって、つづけようとしている。

 しかしそれ以上に、中国は巨大である。もしその成長率が、7%を切って、6%とか、
5%とかになったら、とたんに中国は、都市部に流入しつづける農村出身の失業者を吸収
できなくなってしまう。

 だから元を切りあげることもできない。せっこらせっこらと、安い製品を作って、海外
へ売るしかない。そうして今の経済成長率を、維持するしかない。中国には中国の、深刻
な国内事情がある。

 が、その一方で、その中国でも、ごくふつうの庶民まで、携帯電話をもち。パソコンを
もち、たがいに自由に交信するようになった。まさに自由化の嵐が吹き荒れているとみて
よい。

 そういう中、一党独裁の共産党国家そのものが、ギシギシと音をたてて、揺るぎ始めて
いる。もちろん、西洋社会におけるようなデモな禁止(だった)。国全体が、かつての東ド
イツのような状態になっている。

 貧富の差。働けど、働けど……という国内事情。あふれる失業者。一党独裁国家への不
満。自由への渇望。そう、あの天安門事件で見た中国人の、国への不満が、あの事件で消
えたわけではない。

 つまり今回の反日運動の背景にあるのは、「反日」を利用した、中国人の民主化運動その
ものではないかということ。もちろん、日本人に対する反日感情には、ものすごいものが
ある。彼らは小学生のときから、それを叩きこまれている。

 それはそれだが、こうした特定の国に対する、デモ行動(示威行動)というのは、世界
を見れば、珍しくない。どこの国でもある。しかもターゲットとして選ばれるのは、その
国に影響力を与えている、近隣の先進国である。

 今回の一連の反日デモに対して、実は、神経をもっとも、いらだたせているのは、当の
中国政府ではないのか。たいした選挙もせず、内々で指導者を決めていく。そしてその指
導者たちがが、権力の座につき、国を思うがまま操っている。

 もちろん権力者には、莫大な富と、強大な権力が与えられる。日本でいえば、財務省の
長官が、国を牛耳るようなものである。

 こうした超・官僚国家に対する、国民の不満には、ものすごいものがある。その(もの
すごいもの)が、爆発したのが、今回の反日運動ということになる。

 だから、日本は、ここは冷静に、事態の推移を見なければならない。こうした運動が、
一定の組織的活動をするようになれば、それこそ、一大事! 中国政府が根底から転覆(て
んぷく)することだって考えられる。もっとわかりやすく言えば、こうした反日運動を放
置すれば、中国政府は、自ら墓穴を掘ることにさえなりかねない。

 で、こうした反日運動に、手を叩いて喜んでいるのが、韓国である。「これで日本の国連
安保理理事国入りは、赤信号」(C日報)と、報じている。

 バカめ! 韓国も、いつまでも日本のことを気にするのではなく、おとなになったらど
うか? ロシアの教科書が、「クナシリ、エトロフはロシアの領土」と書いていても、日本
人は、相手にしない。気にしない。どうしてそうまで、いちいち日本や日本人のすること
が、気になるのか。

 ……ということで、ここは冷静に! 現在の中国の反日運動は、60年、70年のとき
の日本の安保闘争に似ている。反米を旗印にあげながら、その実、当の学生たちは、安保
の「ア」の字も知らなかった。つもりにつもった、自分たちの心の中の鬱憤(うっぷん)
を晴らしたかっただけ。あの石川達三(当時の評論家)も、そう書いていた。

 日本は、感情的になって、決して、過剰に反応してはいけない。こうした運動を、中国
の民主化運動の第一歩ととらえるなら、(あまり楽しい話ではないことは事実だが)、今の
動きを静かに見守ることこそ、重要である。
(050411記)

(補記)

 私は金沢で学生だったとき、駅前にあったMホテルで、ときどき雇われて、通訳・ガイ
ドのアルバイトをしていた。

 そのときのこと。私はアメリカ人のリッチさには、心底、驚いた。日本人の1か月分の
給料でも買えないような、九谷焼の置き物を、彼らは、3つ、4つと平気で買っていくの
である。

 そういう姿を見ていたとき、私の心の中では、二つの感情が、ウズを巻いた。

 一つは、アメリカへのあこがれ。もう一つは、アメリカへの反発。しかも当時のアメリ
カ人は、日本人を、かなり、軽蔑していたよう。下に見ていた(?)。

 道路に地図をはりつけ、「今、どこにいるか、示せ」と怒鳴られたこともある。

 私は当時の私の気持ちを思い出しながら、今の中国の人たちも、日本人に対して、同じ
ように感じているのではないだろうかと思う。

 こんな例もある。

 今、コンビニへ行くと、小さなおもちゃを買うことができる。私が買うのは、小さなプ
ラモデルの飛行機だが、これが実に、精巧にできている。値段も安い。

 315円の飛行機でも、細部にいたるまで、ていねいに塗装してある。私はその模型を
見ながら、いったい、どのような人が、どのような工賃で作っているのかと、不思議に思
うことがある。

 原価は恐らく150円以下。一個作って、手間賃は、さらにその半分〜3分の1以下。「日
本人なら、こんな仕事を、するだろうか?」と。

 そこで視点を変えて考えてみよう。

 一個の飛行機を、1時間ほどかけて、つくる。ていねいにみがいて、色を塗って、箱に
つめる。一日に、10個、しあげる。その賃金が、日本円で、やっと700円。

 そのお金を手にして家に帰る。そして新聞を読むと、「日本では、ジュース1本が、30
0円」とある。自分たちの作った飛行機が、子どものおもちゃにもならないことを知る。

 私たちが子どものころそうだったから、現在の中国人たちが、日本人に対して、どのよ
うな感情をもっているか、それが私には、よく理解できる。「働けど、働けどなお、我が暮
らし楽にならざり。じっと手を見る」(石川啄木)の心境が、転じて、反日運動になったと
しても、私は、少しも、おかしいとは思わない。

 つまりは中国政府の失政のとばっちりが、日本に向けられたということ。でないと、「な
ぜ、今なのか?」ということが、まったく説明できない。

 あるいは、今、世界の自由化の波にのまれて、中国政府の崩壊が始まったのかもしれな
い。今どき、一党独裁の共産主義国家が残っていること自体、おかしい。

 中国人よ、反日はほどほどにして、もっともっと、デモをしたらよい。君たちも、自由
になったらよい。自由になって、私たち自由主義陣営の仲間に入ったら、いい。

 (しかし、日本も、この官僚主義体制を何とかしなければなりませんね。官僚の世界だ
けを見ると、中国の共産主義社会と、どこもちがわないのです。ハイ!)


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●業(ごう)

 仏教の世界には、「業(ごう)」という言葉がある。「悪業」「善業」というような使い方
をする。

 この「業」について、私のような凡人が、軽々しく論ずることは、許されない。この一
語についてだけでも、仏教学者たちは本を書くほどである。

 業……「広辞苑」には、こうある。「行為。行動。心や言語の働きを含める。善悪の業は、
因果の道理によって、のちに必ずその結果を産むというのが、仏教および、多くのインド
の宗教の説」と。

 ついでに、「日本語大辞典」のほうでは、こうなっている。「仏教で、身・口・意(しん・
く・い)(身体・言葉・心)によって成す善悪の行為。カルマ。のちの世にある結果をもた
らす前世の行為」と。

 それを「業」と言ってよいのかどうかは知らないが、最近になって、私は、その「業」
らしきものを、よく感ずる。

 まず生命そのものが、大きな流れの中で、つながっている。それは大海原(うなばら)
のうねりのようなもの。もしその中に「私」がいるとするなら、そのうねりの中でざわめ
く、小波(さざなみ)程度のもの。

 いくら「私は私だ」と叫んでも、髪の毛1本、私が設計したわけではない。その大海原
は、数十万年という、気が遠くなるほどの昔からつづいているし、私が死んだあとも、何
ごともなかったかのように、さらに永遠につづいていく。

 が、その中で、私は懸命に生きている。その懸命に生きるという行為そのものが、私の
前の時代に生きた人から、そしてつぎの時代に生きる人に対して、何かの橋渡しをするこ
とにすぎない。私は、それが「業」ではないかと思う。

 仏教学者の人が、この解釈を読んだら、吹きだして笑うかもしれない。

 しかし私は残念ながら、「生命」の永遠性は認めても、「個」の永遠性は認めない。私個
人について言えば、私に、前世などあるはずもないし、来世などあるはずもない。「私」が
死ねば、私もろとも、この大宇宙すら、消えてなくなる。

 しかしここで私が、何かの「善」をなしておけば、その善は、つぎの世代に伝えること
ができる。もちろん「悪」をなせば、その悪も、何らかの形で、つぎの世代に残ることに
なる。

 親子関係というせまい範囲の話ではない。人間全体という、もっと広い世界の話である。

 つまり「私」自身が、前の世代の人たちのなした、「悪業」や「善業」を、そのままひき
ついでいることになる。私の中には、私であって私である部分と、私であって私でない部
分が、広く混在している。

 その(私であって私でない部分)こそが、まさに、「業」のなさせるわざということにな
る。たとえて言うなら、今、韓国や中国では、反日運動が燃えさかっている。彼らが反日
的であるというのは、よくわかる。

 しかし戦後の生まれの私が、どうしてそういう反日運動を見ながら、不愉快な思いをし
なければならないのか。本来なら「私は関係ない」と逃げることだって、できるはず。が、
彼らは、戦前の植民地時代をむしかえしながら、日本を非難する。攻撃する。

 それも考えてみれば、先に述べた、「大海原のうねり」のようなものかもしれない。私を
超えたところで、人間社会全体が、その「うねり」の中にある。

 そこで仏教ではさらに、「因果を断つ」という言葉を使う。

 そのうねりの中に、つぎの世代に伝えてはならないものを感じたら、その段階で、その
流れを、断っておく。反日感情についていうなら、もう私たちの時代でたくさん。うんざ
り。だから、今、それを解決しておく。

 先のアジアカップ杯のときもそうだ(04年)。決勝戦は、中国の北京で行われた。中国
人側サポーターたちは、「(日本人を)殺せ!」「殺せ!」と叫んでいた。

 しかしそのサッカーをしている選手たちは、私よりさらに戦争とは無縁の、私たちのつ
ぎの世代の人たちである。私は、その光景を見ながら、何とも、申し訳ない気持ちにすら
なった。

 そう言えば、話は少しそれるが、私の恩師にTK氏という人がいる。もうすぐ90歳に
なる人だが、ごく最近まで、内科医をしていた。そのTK氏に、私が、こんな話をしたこ
とがある。

 「香港や台湾へ行っても、日本人だとわかると、高額な値段を吹っかけてきます。それ
で私は英語だけをしゃべり、ハワイ人だと言います。すると、値段が、すべて半額程度に
なります」と。

 その話を聞いて、TK氏は、こう言った。「みんな、私たちが悪いのです。そういう話を
聞くと、戦争を遂行した私たちとしては、申し訳ない気持ちになります」と。

 そういう人もいる。が、その一方で、「Y神社を参拝しないような政治家は、政治家とし
ての資格はない」などと、どこまでも時代錯誤的な、はっきり言えば、ノーブレインな政
治家もいることも、これまた事実。仏教的な「業」の知識が少しでもあれば、絶対に出て
こない言葉である。

 で、話をもどす。

 この「業」だが、大切なことは、善業を重ねるということ。しかも「私」という世界を
超えて、それをするということ。

 人が見ているとか、見ていないとか、そういうことは、関係ない。人に認められるとか、
認められないとか、そういうこととも関係ない。善業を重ねたところで、社会的に成功者
になるとはかぎらない。「業」というのは、そういう意味で、「私」をはるかに超えている。
もっと言えば、人間全体の問題ということになる。

 何ともむずかしい話になってしまった。が、簡単に言えば、私たちは懸命に生きながら
も、その生きるという行為を、私だけのもので終わらせてはいけないということ。心のど
こかで、人間全体のことも考えながら、生きなければならないということ。

 それが「業」ということになる。
(はやし浩司 業 善業 悪業 カルマ 因果応報)

【付記】

 善人が必ずしも、成功するわけではない。同じように、成功している人の中には、結構、
悪人も多い。むしろ現実の世界では、反対のケースが、多い。

 まじめに、コツコツと生きている人が損をし、貧しい生活をしている。その一方で、悪
いことをし放題している人が、豪勢で、よい生活をしている。「いつか、いいこともあるだ
ろう……」と信じて生きる人ほど、その結果が現れてこない。「いつか、バチが当たるぞ…
…」と思う人ほど、スイスイと、楽な生活をしている。

 こういう現象だけをとらえて、「業」を考えてはいけない。

 「業」というのは、個人を超えた、はるかに大きな生命の(うねり)のようなものをい
う。個人というのは、そのうねりの上ではじける、波のアワのようなもの。小さなアワだ
けを見て、うねりの価値を決めてはいけない。

 中には、「私」という個人を超えて、大きなうねりのために生きている人だって、いる。
貧しい生活をし、有名でもなく、損ばかりしていても、人類全体、生命全体のことを考え
て、生きている人もいる。

 それを善業と呼び。そういう人こそ、善人と呼ぶにふさわしい。

 善業、悪業を考えるときは、そんなことも、頭のすみに置いておくとよいのでは……。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【私さがしの旅】

●町の中で育つ

 人は、幸福なときよりも、不幸なときのほうを、脳によく刻むものか。私の幼児期を思
い浮かべると、楽しかった思い出よりも先に、悲しかった思い出のほうが、先に、脳裏を
かすめる。

 しかしそういう思い出は、一部のはず。私は私なりに、結構楽しかったはず。

 今でいう、放任状態ではなかったか。上に2人の兄と、1人の姉がいた。末っ子の私は、
それをよいことに、よく遊んだ。したい放題のことをした。わんぱくで、活動的で、自由
気ままだった。

 記憶の中のどこをさがしても、家の中で静かに遊んでいる自分が、いない。そこにいる
自分は、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいる自分。が、それでも家に戻
ったわけではない。真っ暗になると、今度は、街の明かりを頼りに、道路で遊んだ。親た
ちが、呼びにくるまで、そこで遊んだ。

 今とちがって、子どもの多い時代だった。私の近所だけでも、10〜15人はいたので
はなかったか。もっと多かったかもしれない。

 私の家は、町の中でも、中心の、その角地にあった。隣がパチンコ屋で、その向こうに、
雑貨屋や菓子屋が並んでいた。道の反対側には、薬屋と時計屋があった。もうひとつの反
対側には、髪結(かみゆい)いといって、和風の髪を結う店があった。梅田さんという人
が、そこに住んでいた。

 今から思うと、貧しい時代だったが、それでも、比較的、裕福なほうだったかもしれな
い。私のように、毎日、現金の小遣いをもらえる子どもは、そうはいなかった。

 もっとも小遣いといっても、10円とか20円。10円で、お好み焼きが一枚、買える
時代だった。私が、5、6歳のときのことだった。よく覚えているのは、50銭玉という
のが、まだ通用する時代だったということ。画用紙が一枚、その50銭だった。

 私は50銭玉をもらうと、近くのサクラ堂という文房具屋で画用紙を一枚買った。その
画用紙に絵を描いて遊んだ。

 私が得意だったのは、戦艦や飛行機など、戦争の絵だった。で、その遊びがひと通り終
わると、今度は、その画用紙を切って、つないで、いろいろなものを作った。

 私は、私なりに、結構、楽しい少年時代を、送ったはず。しかし、記憶の中では、そう
いったものが、どうしても光らない。光って、私の少年時代を明るくしない。私は、いつ
も、ひとりぼっちだった。

●夫婦げんか

 記憶の中に最初に、それが出てくるのは、私が5歳のときのことではなかったか。私の
父は、酒グセが悪く、数日おきには、酒を飲んで暴れた。ふだんは、学者肌の静かな父だ
ったが、酒を飲むと、人が変わった。

 その夜も、父は酒を飲んで暴れた。もともと小さな家だったし、二面を通りに向けてい
た。父と母が怒鳴りあう声は、近所中に、聞こえた。

 私は、仲間数人を連れて、道路の外から、父と母がけんかをしているのを聞いていた。
が、恐ろしかったという思いは、あまり残っていない。今から思うと、すでにそのころか
ら、父と母のけんかは、日常的になっていたからではなかったか。

 が、そのけんかが、けんかを超えて、私に恐怖心をもたせるようなできごとが、あった。
それについては、別の機会に書くとして、私の記憶は、そのあたりから始まる。

●円通寺

 近所には、円通寺という、尼さんが住んでいる寺があった。その円通寺が、私たちの遊
び場だった。

 門をくぐると、そのまま境内になっていて、その境内を通りぬけると、なだらかな丘に
つながっていた。そこには、無数の墓石が並んでいた。また寺の裏手には、池があった。
私たちは、その寺を、自分の家の庭のようにして遊んだ。

 「安寿さん」と呼んでいた、その尼さんは、とてもやさしい人だった。境内を入って右
手にある庫裏(くり)以外は、どこでどう遊んでも、文句一つ、言わなかった。年齢は5
0歳くらいだったか。記憶の中では、それくらいの年齢に見える。

 いつだったか、子どもながらに、髪の毛のない女性は、年齢がわからないと思ったこと
がある。

 ただ、その庫裏には、私たちを、一歩も、入れなかった。そこは安寿さんにとっては、
ゆいいつの聖域だったかもしれない。1、2度、入ったことがあるが、そのたびに、はげ
しく追いかえされたのを覚えている。

 あの独特の墓石のにおい。燃えた線香が腐ったにおい。枯れた花や草のにおいなどなど。
墓地へ入ると、ときには、生臭いにおいが鼻をついた。とくに臭かったのは、本堂の南隣
にある、御堂の縁の下の中だった。

 私たちにとっては、そこはかっこうの隠れ家でもあり、遊び場だったが、いつも陰湿な
霊気のようなものが漂っていた。ああいうのを、死んだ人の魂のにおいというのか。しば
らくいると、吐き気をもよおすようなにおいだった。

 私は、いつも、最後の最後まで、その境内で遊んだ。仲間が、1人、2人と家に帰って
いく姿が、今でも、脳裏に焼きついている。私は自分の家に帰るのがいやだったし、家に
帰っても、自分の居場所がなかった。

●私の家 

 私の家は、大きく、二棟を無理にくっつけたような形をしていた。店のあるほうは、あ
とから建て増しをしたほう。裏のほうは、もともとは、倉だったという。天井は低く、窓
はなかった。

 店から奥の台所までは、1本の通路でつながれていて、その途中に、みなが、食事をす
る居間があった。居間といっても、4〜5畳もないような板間で、ゴロリと横になること
もできないほど、狭かった。そこに大きなタンスが一つ、置いてあった。

 部屋は、ほかにもいくつかあったが、どれも、子ども向きではなかった。窓という窓が
なく、通気も悪かった。町中の商家はみなそうだったが、部屋が、つぎの部屋への通り道
にもなっていた。プライバシーという考え方そのものが、まだなかった。

 そんなわけで、あっという間に過ぎた私の幼児期のはずだが、どういうわけか、思い出
だけは、ぎっしりと詰まっている。ときどき「あの時代は、濃縮ジュースみたいだった」
と思うことがある。その思いはさほど、まちがっていない。

●自尊心の強かった母

 そういう私の家であったこともあって、私はどうしても、自分の家になじめなかった。
父も父なら、母も母だった。

 異常なほどまでに自尊心の強い女性で、自転車屋のおかみさんでありながら、その自転
車屋のおかみさんという雰囲気は、まるでなかった。その上、自転車屋という職業を、心
底、嫌っていた。郷里の言葉で表現するなら、「どきたねえ仕事」ということになっていた。

 母は、自分の手のみならず、自分の居場所が、油で汚れることを、何よりも嫌った。し
かし自転車と油は、さしみと醤油のようなもの。切って、切れるような関係ではない。私
の手が少しでも、油で汚れたりすると、母は、何度も何度も、私の手を、石鹸をつけて洗
った。

 が、ゆいいつ、私には、救いがあった。私はいつしか、母の在所のある、板取村(いた
どりむら)へ行くのが、何よりも楽しみになった。春休み、夏休み、そして冬休みと、長
い休みになるたびに、その板取村へ行った。

 そこは私にとっては、まさに天国だった。私は、そこで、すべてから解放された。

●板取村

 母の在所のある板取村へ行くときには、バスに乗った。駅前のバス停からバスに乗る。
そこから一度、町の中を走り、やがて町の北に出る。そこからは長良川沿いに、山の奥へ
と向う。

 途中すぐ、長良川は、長良川の本流と、板取川に分かれる。板取村は、その板取川にそ
って、さらに山奥にある。

 途中、洞戸(ほらど)というところで、一度バスを乗り換える。今でこそ、30〜40
分で行ける距離だが、当時は、板取村までは、1時間40〜50分はかかった。バスの乗
り継ぎが悪いときには、2時間ほど、かかった。道は悪かったし、バスも、私が幼児のこ
ろは、バスのうしろで木炭を燃やして走る木炭バスであった。

 母の実家は、かやぶきの家だった。入り口の玄関を入ると、その右側に、馬やがあり、
そこには、いつも馬が、1、2頭いた。私自身は、馬は、あまり好きではなかった。大き
くて、そのため、こわかった。

 が、夏の思い出となると、まるで強烈なスポットライトが当てられたかのように、そこ
で光り出す。川で泳ぐ、魚をとる。山を歩く。たき火をする。スイカやとうもろこしを食
べる。みんなで床につく。幽霊やおばけの話を聞く。

 すべてが夢の中のできごとのように、よみがえってくる。

 何しろ母方のいとこだけで、60数人もいた。父方のいとこも加えると、80数人を超
えた。大家族主義というか、家族どうしのつながりが、とくに強い地方でもある。何かに
つけて親戚中が集まった。

 その母の実家にも、夏になると、多いときは、20人前後のいとこたちが集まった。そ
のいとこたちが、年齢ごとに仲間をつくり、いっしょに遊んだ。私は昭和22年生まれ。
同年齢のいとこだけでも、4人もいた。その前後のいとこを加えると、10人前後もいた。

 とくに仲がよかったのは、佳則君だった。彼については、いつか機会があったら、ゆっ
くりと書いてみたい。

 その板取でも、私は、毎日、思う存分、遊んだ。遊んで、遊んで、遊びまくった。ただ、
その板取の母の実家では、私は、ほとんどけんかをしなかった。町の中では、毎日、だれ
かとけんかばかりしていた。けんかをしない日は、山をはさんで、となりの町内の子ども
たちと、戦争ごっこばかりしていた。

●家族関係

 私には、先に書いたように、2人の兄と、1人の姉がいた。しかし一番上の兄は、私が、
3、4歳のときに、死んでいる。死因は、いまだに、よくわからない。脳性マヒだったと
母は言うが、日本脳炎だったかもしれない。

 父が炎天下の夏の日、自転車に乗せて、その板取村まで行ったのが原因だったと言う人
もいる。兄は、もともと小児麻痺をわずらい、半身が不随だった。

 それにもう1人の兄。その兄とは、9歳、歳が離れている。そして姉。その姉とも、5
歳、歳が離れている。

 で、父は、数日おきに酒を飲んで暴れたが、母は、どういうわけか、離婚というものを
考えなかった。当時は、そういう時代だったかもしれない。最近になって姉に、「どうして
離婚しなかったのかね?」と聞いたことがある。それに答えて、姉は、「離婚なんて考える
時代ではなかった」と答えた。

 父と母の結婚は、親どうしが決めた結婚だったという。一度見合いをして、二度目には、
もう結婚式をあげていたという。当時は、そういう結婚形式は、珍しくなかったという。

 で、私は、父の酒グセの悪さが嫌いだった。その父を殺したいと憎んだこともある。し
かしかろうじて、家が、「家」としてあったのは、祖父母が同居していたからである。私は
子どものころ、よく祖父母の間で、川の字になって寝た。とくに、祖父は、私を、自分の
子どものように、かわいがってくれた。

 もし、これは幼児教育の常識だが、祖父母が同居していなかったら、私は、絶対に今の
私ではなかったと思う。恐ろしい犯罪者になっていたか、さもなければ、精神を病んでい
ただろうと思う。事実、私の兄は、ボケも始まっているが、一方で、その精神を病んでい
る。

●祖父母のこと

 父と母のことを悪く書くのは、構わないと思う。しかし祖父母となると、そうはいかな
い。その祖父母を、神様のように思っている親類も少なくない。

 だからここでは詳しく書けないが、もともとは、今で言う、(できちゃった婚)で、祖父
母は、いっしょになったらしい。

 祖父には、別に、恋人がいたという。この話は、直接、祖父から、聞いている。が、ど
こかで遊んでいるうちに、祖母が、私の父を妊娠してしまった。それで祖父は、その責任
をとる形で、祖母と結婚式をあげた。

 そんな結婚だから、最初からうまくいくはずがない。ずっとあとになって叔父が、笑い
ながら、こう話してくれたのを覚えている。叔父というのは、父の実弟である。

 「よく、オレは兄貴と、Y旅館の家へ石を投げに行ったことがあるよ」と。

 祖父は、結婚して父と叔父ができてからも、その元恋人の家に、入りびたりになってい
たという。そこでそれを怒った祖母が、父と叔父に、その家に石を投げてくるように言い
つけたという。

 何ともお粗末で、それでいて、どこか、牧歌的なぬくもりがする話でもある。明治から
大正にかけての時代は、そういう時代だったらしい。社会のしくみそのものが、まだ完成
していなかった。

 ともかくも、それで父は父なりに、暖かい家庭とは無縁の世界で過ごしたらしい。その
せいか、父は、子育てには、まったくといってよいほど、関与しなかった。おかしな話だ
が、私は、その父に抱かれたという思い出がどこにもない。

 結核をわずらったこともある。当時はたいへんな重病で、結核というだけで、みなが、
震えあがった。戦後、GHQが、ペニシリンという強力な薬をもちこんでくれたので、父
の命は助かった。

 「私」という人間は、こういう世界で、生まれ育った。

++++++++++++++++++++++++++

●「私」さがし

 「当時は、そういう時代だった」という言い方で、私は私なりに、自分を納得させてい
る。戦後のまさに、混乱期。日本中が、焼け野原になった時代である。

 負けるはずのない、「神国日本」が負けた。天皇は、現人神(あらひとがみ)と祭られて
いた。その日本が負けた。

 私の父は、熱烈な天皇の信奉者だった。当時の日本人は、みなそうだった。めったに私
には怒らなかった父だが、そんな父でも、私が「天皇」と呼び捨てにしただけで、激怒し
たことがある。「陛下と言え!」と。

 そして一度は、小学校へ、怒鳴りこんでいったこともある。「貴様ら、息子に、何を教え
ているかア!」と。

 天皇は、父にとっては、まさに神だった。その神が負けた。それから受けたショックは、
父にとっては、相当なものだったらしい。傷痍(しょうい)軍人として帰国してからしば
らくのち、酒に溺れるようになったのも、そのためだったかもしれない。父は、精神のよ
りどころを、見失っていた。

 一方、私は、おかしな少年期を過ごしている。

 戦争に負けたはずなのに、遊びはいつも、戦争ごっこ。敵はアメリカ。そのアメリカを
相手に、戦争ごっこばかりをしていた。

 そして私は子どものころ、ゼロ戦のパイロットになりたかった。くる日も、くる日も、
考えるのは空を飛ぶことばかり。一度は、大きな羽(はね)をつくり、1階の屋根の上か
ら、飛び降りようとしたこともある。

 子どもながらに、パイロットになって、敵艦に体当たりして死ぬことは、名誉なことだ
と考えていた。だれに教えられたわけではなかったが、その当時のまわりの雰囲気の中で、
私は、そういう意識をもつようになった。そう、あの軍艦マーチを聞いただけで、胸がワ
クワクするほど、興奮したのを、今でもよく覚えている。

●心のキズ

 だれしも、一つや二つ、心にキズをもっている。キズのない人はいない。……とまあ、
そう考えて自分をなぐさめることがあるが、私も、そのキズをもっている。

 最大のキズは、やはり父の酒グセの悪さが原因だったと思う。あの恐怖体験が、私の心
に大きなキズを作った。今でも、あの夜のことは忘れない。その夜、私と姉は、物干し台
のスミに隠れて、抱きあって泣いた。

 「姉ちゃん、怖いよう」「姉ちゃん、怖いよう」と。

 それについては、今までにもときどき書いてきたので、ここでは省略する。しかし私の
中にある、多重人格性は、そのとき生まれたのではないかと思う。

 たしかに私の中には、2人の人間がいる。ひとりは、さみしがり屋で、ひょうきんな私。
もう1人は、強くて、孤独にも平気な私。どちらの私になっても、もう一方の私がそこに
いることがわかるので、厳密な意味での、人格障害というわけではない。それに、強くて、
孤独に平気な私になったりすると、もう1人の私が、よくその私にブレーキをかけるため
に、そこに現れる。

 「浩司、よせよせ。今のお前は、本当のお前ではないぞ」と。

 ワイフとけんかするたびに、「離婚してやる!」と叫ぶのは、その孤独に強いほうの私。
しかし長つづきはしない。しばらくすると、もう1人の私にかえって、「さっきは、ごめん」
となる。

 若いときは、この繰りかえしだったように思う。そのため、ワイフには、余計な迷惑を
よくかけた。

 が、それだけではない。

 今でも、夜がこわい。夜なると、どこからともなく、恐怖感がわいてくる。それに酒臭
い人間が、嫌い。酒のにおいをかいだだけで、言いようのない不安感に襲われる。……な
どなど。

 こうした一連の私の心理作用の原因は、つきつめれば、あの父の酒グゼの悪さにいきつ
く。私は、とくに父親との関係において、暖かい家庭を知らないまま、おとなになった。

●戦い

 こうした心のキズは消えるものなのか? 結論を先に言えば、「消えない」。いろいろ試
してみたが、私のばあいは、結局は、消えなかった。

 そのかわり、そのうち、仲よくつきあうことを覚えた。「私はこういう人間だ」と思うこ
とで、自分自身を納得させた。これは体の障害のようなもの。

 恐らく健康な心をもっている人には、想像もつかないだろう。しかし自分で、自分の心
のキズに気がつくことによって、健康な心のありがたさがわかる。それだけではない。私
などは、まさに精神病のデパートのようなもの。ほとんどありとあらゆる精神病を、まん
べんなく、広く、浅くもっている。

 そのため、どんな心の病気の話になっても、私には、理解できる。健康な心をもってい
る人は、よく、こう言う。「気なんて、もちよう」「気のせいだ」と。ワイフも、その1人。
今でも、私が何かの悩みを訴えたりすると、そう言う。「あなた、気のせいよ」と。

 しかし私は、そういう言葉を、口にしたことがない。たとえば私は、ふとしたきっかけ
で、よく恐怖症になる。高所恐怖症、閉所恐怖症など。最近では、スピード恐怖症になっ
たことがある。

 表面的には、平静さを装ってはいるが、あとで気がつくと、手のひらが汗でびっしょり
になっていたということは、よくある。そういう自分をよく知っているから、反対に、恐
怖症の子どもに出会ったりすると、その子どもの心理がよく理解できる。

 数年前も、トンネル恐怖症の子どもに出会ったことがある。学校へ行く途中にトンネル
がある。そのトンネルがこわくて、学校へ行くのをいやがるという。小学1年生の子ども
だった。

 私が、「じゃあ、別の道を行きなさいよ」と母親に言うと、母親は、「そんなのは気のせ
いでしょ」と反発した。しかしそんな簡単なものではない。その子どもは、本当に、トン
ネルをこわがっているのだ。

 そこで私は私の体験談を話してやった。つまりそういうふうにして、私の体験が、役に
立っている。悪いばかりではない。

 話がそれたが、「私」を知ることは、本当にむずかしい。しかし方法がないわけではない。
ここに書いたことが、読者のみなさんの参考になれば、こんなうれしいことはない。あな
たにも、心のキズの一つや二つは、あるはず。

 そのキズについて、もしあなたがそれに気がついたら、あなたも、今、ここで私がして
いるように、勇気を出して、他人に話してみるとよい。いわゆる自己開示という手法であ
る。それによって、すぐというわけではないが、あなたも、その心のキズから、解放され
る。

 では、このつづきは、またの機会に……。長文のエッセーになってしまいましたが、最
後まで読んでくださり、ありがとうございました!


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ゲーム

 新しいパソコンは、たしかに、スゴイ! M社のデスクトップ。PEN4の640。メ
モリーは、1024MB、ハードディスクは、160GBx2=320GB、などなど。
高性能のグラフィックボードも搭載。

 そこで以前は、あきらめていた、ゲームのいくつかを、そのハソコンで走らせてみる。
フライトシムュレーターや、電車運転ゲームなど。ついでに、囲碁ゲームや将棋ゲームな
ども。

 そういったゲームが、ワクワクするほど、スイスイとできる!

 しかし値段は、17インチ、液晶モニターがついて、16万5000円ほど。……とな
ると、パソコンショップで売っているパソコンは、いったい、何かということになってし
まう。

 ムダな機能と、ムダなソフトをつけて、やたらと外装だけ、豪華にしているだけ(?)。
昨日もチラシを見ながら、「これでは、ダメだ」と思ってしまった。

 あえて言うなら、贈答用の海苔(のり)のよう。小さな海苔を、乾燥剤とともに、5〜
6枚ずつ、包装紙に入れる。つぎにそれを、20〜30束にして、化粧缶に入れる。

 さらに今度は、その化粧缶を二つ、大きな箱に入れて、これまた美しい包装紙で、包装
する。日本のメーカーがつくるパソコンは、それに近い。少なくとも、性能と値段を見比
べると、そんな感じがする。

 「これではダメだ」と思ったのは、「これでは、この先、外国のメーカーに負けてしまう」
ということ。ことパソコンについて言えば、OSやCPUはもちろんのこと、グラフィッ
クボード一つにしても、日本で開発されたものは、一つもない。

 日本のパソコンメーカーは、そういった部品を外国から買い集めて、ちょうど、海苔を
中国や韓国から買うようにして買い、あとはそれを飾りに飾って、店に並べているだけ。

 これでは、先が見えている。

 事実、パソコン販売を主体としているメーカー(大企業)は、どこも、株価を軒並みさ
げている。

 ところで私が買ったパソコンは、純粋に、日本製。(部品は、ほとんど外国製だが……。)
HPには、こうある。そのままコピーして、紹介させてもらう。

+++++++++++++++++

★国内生産にこだわり、信頼性の高い製品作りを実現

多くのパソコンメーカーが生産拠点を海外に移す中、Mコンピュータでは信頼性の高い
製品作りのため敢えて国内生産にこだわります。

大手家電メーカーの工場に生産を依頼し、厳しい品質基準とプロセス管理により安定性と
信頼性の高い製品を工場直送の新鮮な価格で、お届けいたします。

++++++++++++++++++

 ついでにM社の「企業情報」(会社四季報)を見ると、こうある。「従業員数57人。平
均年齢 29・9歳。平均年俸450万円」と。

 たったの57人だぞ! こういう会社が、居並ぶ大会社を相手に、善戦している。

 ついでに一言。私はこの会社の株を買って、XX万円儲けた。その儲けた株で、そのパ
ソコンを買った。(がんばれ、M社! M社のみなさん!)


●運動不足

 それなりに心がけてはいるが、春休みに入ったとたん、運動不足。体重も、1キロ〜1・
5キロもふえてしまった。

 毎日、運動をしていれば、健康を維持することはできる。それはそのとおりだが、そう
いう体だからこそ、今度は、運動量を少なくしたとたん、その影響が、モロに出てくる。

 友人や知人に、片っ端から電話を入れて、それとなく聞く。すると、結構、それぞれ、
みな、気をつかっているようだ。

 万歩計をつけているという男もいた。毎週ゴルフコースを回っているという、リッチな
男もいた。公営のスポーツジムに通っているという男もいた。

 私も、できるだけ歩くようにしているが、やはり、メインは、自転車だ。その自転車に、
この3、4日、乗っていない! そのせいかどうか知らないが、頭の働きが鈍くなってき
たように感ずる。

 書斎のパソコンの前にすわっても、すぐ眠くなってしまう。そして本当に眠ってしまう。
あれこれテーマを考えるが、どれも、以前、考えたようなテーマばかり。同じことを、二
度考えるのは、私のやり方ではない。

 そのつど、どんな小さな結論でもよいから、それを出しながら、先に進む。それが私の
やり方。「あのとき、ああ書いたのは、まちがっていました」などと書くのは、自分に対す
る敗北のようなもの。

 が、頭の働きが鈍くなると、思考がループ状態に入る。同じことばかり考えるようにな
る。あああ。どうしたらよいのだ。

 これからワイフと、山歩きにでかける。ワイフは、万歩計をつけていくと言っているの
で、私もいっしょに、歩くつもり。本当は、自転車のほうが、よいのだが……。


●イギリスのHollyさんへ

 ときどき交信していたが、Hollyさん(楽天)という方から、「突然ですが、サイト
を閉鎖します」という連絡が、入った。その旨、私の掲示板に書き込みがあった。すぐ、
Hollyさんのサイトを訪れてみたが、すでに「閉鎖されました」とのこと。

 どうしたのだろう? 何があったのだろう?

 ときどき日記を読ませてもらっていたので、残念! こうしてまた、電子の向こうの世
界へ、人が1人消えていく……。何とも不思議な感覚だ。今までのHOLLYさんは、何
だったのだろうとさえ、思う。

 同じような経験は、旅先でもする。ときどき電車や旅館などでいっしょになった人と、
話をする。しかしそれは、その場だけ。その人と別れるとき、「ああ、もうこの人とは、2
度と会うことはないだろうな」と思う。

 しかしそれでも、その人と会ったという実感は残る。ひょっとしたら、また会えるかも
しれないという、淡い期待も残る。が、インターネットには、それがない。顔どころか、
本当の名前すら知らない。そのまま、煙どころか、煙も残さないまま、どこかへ消えてし
まう。

 で、私も、ふと、「サイトを閉鎖しようか」と考える。ときどき、(いや、しょっちゅう)、
「どうしてこんなサイトを開いているのだろう」と、自分でも、疑問に思うことがある。
趣味というより、道楽に近い。

 かりに閉鎖しても、何も残らない。本なら、まだ「本」として、形が残る。インターネ
ットは、何も残らない。

 何の利益があるのか。ないのか。あるとすれば、BW教室の宣伝? それならもっと、
別の方法を考えたほうがよい。労多くして、益少なし……かな?

 とにかく、マガジンは、1000号までつづける。それしかない。そのあとのことは、
考えていない。今は、何かと苦しいときだが、がんばるしかない。

 Hollyさんへ、またどこかでサイトを開いたら、私のサイトへどうか、どうか、お
いでください。「書く」ということは、すばらしいことです。すでにあなたもお気づきかと
思いますが……。もし、このマガジンを読んでくださっているなら、どうか、どうか、ま
たおいでください。

 さようなら! お元気で!


●電子の向こうの世界

 インターネットの世界は、本当に不思議な世界だ。そこに、人がいるようで、実はいな
い。しかし私がこうしてものを書いている相手は、たしかに、人だ。そこに人がいる。

 どこのだれかということは、わからない。わかっている人もいるが、少ない。こうして
パソコンの画面上に文字を打つ。そしてそれをマガジンにして、配信する。

 私は配信したつもりだが、画面からは文字は消える。電源を落せば、画面は真っ暗にな
る。私の書いた文字は、そのあとどうなるのだろう。

 一度、電気の信号に変えられ、どこかのだれかのところに、それが届く。その相手は、
その信号を、再び、文字信号に変え、自分のパソコン上に、それを映す。そして読む。

 こうして私と、その相手の人とが、つながる。しかし……。本当につながっているのだ
ろうか。

 ときどき、パソコンのモニターを見ながら、こう思う。「このモニターの向こうには、何
百人という人がいる」と。しかしその実感は、まったく、ない。不思議な世界だ。本当に、
不思議な世界だ。


●万歩計

 ワイフの万歩計がこわれた。しかたないので、買ったばかりの私の万歩計を、あげた。
あげながら、「お前は、マンx計なら、もっているだろ?」と言うと、「どうしてあなたは、
そういう下品なことばかり言うの?」と。

 そう、たしかにこのところ、下品になった。自分でも、それがわかっている。

私「お前のマンx計は、いくつになっている? 5000回? 10000回?」
ワ「5000回もしていないわよ。1年にxx回として、10年で、xxx回でしょう…
…」
私「このところ(省略)だしね」
ワ「どうして、あなたは、そうまで下品なの?」と。

 ところで最近、ブラジャーの上に、乳首の模型をつけるのが、若い女性の間ではやって
いることを知った。もちろんニセモノの乳首である。それを話題にしながら、「じゃあさあ、
男も、ニセモノのチンxxか何かを、ズボンの下に入れたら、どうかね? 大きくて、太
ったのがいい」と私。

ワ「そんなの必要なの?」
私「きっと、女性がそれを見て、ドキッとすると思うよ」
ワ「するけど、気味が悪いわ。女性は、そういうものを見て感ずるわけじゃないしね」
私「いや、今に、きっと、流行するよ」と。

 ますます話題が、下品になっていく。

 で、私のワイフだが。本当に、カタブツ。まじめ。頭が、カタイ。こういう冗談を、本
気で、いやがる。ときどき、男と女のちがいかと思うこともある。で、いつも、口ぐせは、
同じ。

 「あなたは、ムードのない人ね。だからあなたは、女性にモテないのよ」と。

 いつだったか、ワイフは、私のことを、「MR・ビーンそっくり」と言った。しかしそう
言われると、そう思われたくないと思う。そこでそう思われたくないとがんばるわけだが、
がんばればがんばるほど、自分が、MR・ビーンのようになっていってしまう。それが自
分でも、わかる。で、たまに、ムードを出してものを言うと、「あなたらしくないから、や
めてよ」と。

 だから下品な話をして、ワイフをからかうのが、楽しくてならない。私は、どうせ男に
思われていないのだ。ハハハ。


●人間臭さ

 少し前、インターネットの人間関係について、書いた。「不思議な世界だ」と書いた。そ
れについて、一言。

 文字だけの交信というのは、いわば、脳ミソから脳ミソへの、直接交信ということにな
る。

 たとえば相手が、異性であったとする。ふつうなら、つまり会って話をするなら、そこ
に「異性」を感ずるはず。相手が女性なら、「女」を感ずるはず。

 もちろんそこは想像力が、カバーしてくれる。文章やその書き方を見ながら、そこに「異
性」を感ずることもある。HPだと、その人の雰囲気を、そこに感ずることもある。しか
し、そこまで。

 つまりインターネットには、「人間臭さ」が、ない。

 息をはいたり吸ったりする音。目のまばたき。体や髪の毛のにおい。声の感じ。話しか
けたときの反応など。そういうものが、当然のことながら、まったく、ない。

 そういう「人間臭さ」を、まったく感じない人と交信をして、脳ミソと脳ミソのつなが
りを、つくる。が、それが、ある日突然、途絶える。昔の人は、『煙のように消える』と言
ったが、その煙さえ、残さない。

 私は、ここに、インターネットの不思議さを感ずる。

 ……と書いただけでは、何も、問題の解決にはならない。「では、どうすればよいのか」
ということになる。

 「だからインターネットは、つまらない」と書くことなら、だれにだって、できる。し
かしそれでは、ものの考え方が前向きではない。

 やはり、いつかだれかが書いていたように、インターネットをしながらも、どこかで会
合のようなものをもたなければならない。生の会話をしなければいけない。つまり、たが
いに、たがいの「人間臭さ」を感じなければならない。

 脳ミソと脳ミソの直接交信は、そのあとでよい。5月に入って、仕事が落ちついてきた
ら、そんな会合を一度、考えてみたい。

 
●チャット

 チャットにしても、そうだ。最初のころは、チャットをしながら、その相手の人との会
話を楽しむことができた。しかしそのうち、だれがだれだか、わからなくなってしまった。

 文字だけの会話には、限界がある。

 しばらく、(うさぎさん)という人とチャットをしている。数日後には、今度は、(ヒマ
ワリさん)という人とチャットをする。3、4人なら、頭の中で区別ができるが、それが
10人となると、もう、大混乱。20人となると、ぜったいに、わからない。

 さらに(タンポポさん)(子猫さん)(ビーバーさん)とつづく。

 チャットについても、やはり、その前提として、別の形で、知りあいでなければならな
い。少なくとも、顔くらいは、どこかで見ておかなければならない。知りないなら、その
人の顔を思い浮かべながら、チャットができる。

 私は、このあたりに、インターネットの限界があるように感ずる。が、では、たがいに
顔や声を見たり、聞いたりしながら交信できれば、それでよいかというと、そうでもない
ような気がする。

 「だからどうなの?」という部分がないからだ。

 その点、出会い系サイトで、知りあった男女は、わかりやすい。目的は、ズバリ、交際。
セックス。

 しかし私が開いているようなサイトでは、そういう(目的)もない。チャットをしても、
たいていは、世間話だけで、終わってしまう。

 だから結局は、私のばあい、(今は)、チャットという機能は、家族どうし、親しい友人
どうしの連絡用としてしか、使っていない。もっと、ほかに、有効な利用方法が、あるよ
うに思うのだが……。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 9日(No.565)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもを信じる

 子どもを信じるというのは、口で言うほど、簡単なことではない。「信」とは、「一念の
疑問ももたないこと」を意味する。

 それを法然(浄土宗の開祖)は、「疑いがあるから、『信』という。疑いを取りのぞくこ
とを、信とは言わない」と説いている。

 で、よく若い恋人どうしが、こんな会話をする。「私を信じてね」「私はあなたを信じて
いるから」と。

 そういう言葉が出てくるということ自体、その相手を信じていないことを意味する。本
当に信じていたら、そういう言葉そのものが、出てこない。

 同じように、子どもに対してもそうだ。子どもを信じていたら、子どもに向かって、「信
じている」という言葉など、使わないこと。こんな例がある。

 ある母親は、就職して、遠地に住むようになった息子にこう言った。

「あなたを産んで、ここまで育てたのは、私よ、その恩を忘れないでね。お母さんは、
あなたを信じているから」と。

 この母親は、「信じている」という言葉を使いながら、自分の息子をまったく信じていな
い。

 しかしそう思うのは、その母親の勝手だとしても、そういう母親をもった息子は、不幸
である。乳幼児期のときから、そうした不信関係の中で、育てられたということになる。
そのため子ども自身も、心を開くことのできない人間になっている可能性が、きわめて高
い。

 夫婦についても、同じ。

 いくら熱烈な恋愛の結果、結婚しても、結婚生活は、その恋愛感情だけで、乗り切れる
ものではない。幾多の山を越え、谷を越える。その間に、ときには、その恋愛で燃えさか
った炎も、消えそうになる。

 そのとき夫婦の関係をかろうじて支えるのは、たがいの信頼関係である。「疑いすらもた
ないという信頼関係」である。それがあれば、夫婦は夫婦でいられる。しかしそれが崩壊
したら、もう夫婦は、夫婦でいられなくなる。

 その信頼関係は、たがいの努力でつくるもの。しかしそれは、日常の、ほんのささいな
ことから始まる。ほんのささいなこと、だ。

 たとえば道路を車で走っているとき、もしあなたの夫が、信号を無視するような行動を
とろうとしたら、あなたは、すかさず、夫にこう言う。「信号を守りましょう」と。

 あるいは夫が、駐車場でないところに、車を駐車させようとしたら、こう言う。「どこか
があくまで、ちゃんと待っていましょう」と。

 こういう何気ない一言が、あなたと夫(妻)との間の信頼関係を太くする。まさに一事
が万事。

 そのときあなたが、ニヤニヤ笑いながら、「まだ(信号が)赤になったばかりよ。突っ切
ったら」とか、「ほら、そこがあいているから、車を止めたら」と言っていたとしたら、や
がてあなたの夫(妻)は、あなたを信頼しなくなるだろう。

 信ずるということは、むずかしい。しかしその「信ずる」という行為は、ごく日常的な
ところから始まる。そしてそれが積み重なって、たがいの信頼関係をつくる。

 その信頼関係が、やがて、親子関係にせよ、夫婦関係にせよ、その関係をつくる基盤に
なる。
(はやし浩司 親子の信頼関係 夫婦の信頼関係 信頼関係 信ずるということ)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●家出をした高校生

 「親子関係は、完全に破壊されました」(相談者)というメールをもらった。そのため、
高校1年生の息子は、家出。

 たまたま家に置き忘れていった携帯電話を頼りに、息子の友人たちに電話をかけて、息
子をさがしまわる。みな、「知らない」と言っていたが、一人だけ、「連絡してみる」と。

 やがて息子から電話。「もうすぐ帰る」と。一安心したものの、その日のその時刻になっ
ても、息子は帰らず。心配は、つのるばかり。「どうしたらいいか?」と。

++++++++++++++++++

 子どもの巣立ちは、必ずしも、美しいものばかりとはかぎらない。たがいにののしりあ
いながら、別れていく親子も、珍しくない。

 しかしこういうケースでは、親が、何とかしようとあせればあせるほど、逆効果。子ど
もは、そういう(親の干渉)から、逃れたいのだ。

 それにもう一つ。家出を、三番底、四番底とするなら、さらに五番底がある。六番底も
ある。

 実際、S市であった話をしよう。

 両親は、その市でも、職業を言ったらその人とわかるほどの名士。その両親の1人娘が、
小学6年生のころから、外泊をするようになった。その前に、門限に遅れてきた娘を、両
親が、はげしく叱っている。

 で、あとはお決まりの非行コース。携帯電話で出会い系サイトに片っ端から電話を入れ、
男遊びをするようになった。もちろん、学校へは行かなくなった。

 両親は、娘をそのつどさがして、家に連れ帰り、はげしく説教。しかし効果はなかった。
やっと学校へ行かせても、その帰りには、もう行方不明。担任の教師と、徹夜でさがしま
わる日がつづいた。

 何とか(?)小学校を卒業したものの、中学へ入ってからも、ほとんど、学校には行か
なかった。父親も、母親も、自分の仕事を優先した。つまりそれほどまでに、重い責任の
ある仕事をしていた。

 娘は、両親が家にいないことをよいことに、さらに外泊を重ねた。

 が、中学2年になった春、娘が、体の不調を訴えた。最初は、軽い風邪と思っていたが、
症状が、長くつづいた。近くの医院から、大病院へ移され、そこで精密検査。その結果、
HIVに感染していることがわかった。

 娘は、夏休みの間、ちょうど、1か月間、入院した。症状は収まったが、しかしその病
気は、治る病気ではない。

 が、そのあと、さらに大きな問題が起きた。その娘が、ことの重大さを認識できないま
ま、親友(?)に、「私、エイズよ」としゃべってしまった。

 あとは、大騒動。その話は、数日のうちに、全校生徒の親が知るところになってしまっ
た。「あなただいじょうぶ?」「うちの子だいじょうぶ?」と。

 その娘は、かなり多くの、不特定多数の男性、男子と遊んでいた。それでそうなった。
男子ばかりではない。女子生徒の親も、騒いだ。「トイレでうつったかもしれない」と。二
次感染、三次感染の可能性もある。

 私の聞き取り調査によっても、このH市内ですら、3〜4%の女子中学生が、性体験を
していることがわかっている。しかしHIVに感染したという例は、少ない。

 その女の子は、今度は、学校へ行きたくても行けなくなってしまった。

 今、時代は、ここまできている。多くの親は、「うちの子にかぎって……」「まさか……」
と考えている。しかしそう考えるのは、甘い。

++++++++++++++++++++

 ショッキングな話を書いたが、子どもの非行は、ある日、突然、始まる。そして一度始
まると、あとは、あっという間に、底なしの悪循環。二番底から三番底へと進んでいく。

 親は、そのときのその状態を最悪と思うかもしれないが、しかしその下には、まだつぎ
の底があるということ。

 だから子どもの非行を、どこかで感じたら、親は、手を引く。そして「今の状態を、そ
れ以上悪くしないこと」だけを考えて、様子を見る。具体的には、暖かく無視し、ほどよ
い親であることに努める。

 説教しても意味はない。叱り方にもいろいろあるが、叱れば叱るほど、逆効果。(門限破
り)→(外泊)→(家出)と進んでいく。

 相談者のメールによれば、こうある。

 「息子が出て行くとき、学校に退学届けを出し、就職先も見つけてからにしなさい。そ
れなら出て行ってもいいと言いました」と。

 しかしこれほど、子どもに酷な話はない。高校に自分で退学届けを出せはないし、就職
先についても、そうだ。これは、子どもにしてみれば、「二度と帰ってくるな」と言うに等
しい。

 つまり親は、親意識で、子どもをしばっているだけ。自分の不安や心配を、子どもにぶ
つけているだけ。無理難題をふっかけて、子どもの家出を阻止しようとしたのだろう。そ
の気持ちはわかる。

 では、どうするか?

 相談者は、今も、息子をさがしまわっているという。そしてメールには、こうあった。「い
ったい、親って、何ですか」と。

++++++++++++++++++

 私は、「親意識」について、何度も書いてきた。その親意識には、善玉と悪玉がある。「親
らしく、堂々と責任をとろう」という意識を、善玉親意識という。一方、「親に向かって、
何よ」と、親風を吹かす意識を、悪玉親意識という。

 とても残念なことだが、その相談者は、後者の悪玉親意識が強いように感ずる。恐らく、
……というより、まちがいなく、その母親自身も、かなり県移住義的な家庭環境の中で、
生まれ育っているにちがいない。

 その悪玉親意識が強ければ強いほど、子どもにとっては、家庭は息苦しい家庭環境とな
る。果たして、それを、その母親は、理解していたか。わかっていたか。もっと言えば、
子どもの立場で、子どもの苦しみや悲しみを、理解していたか。

 「携帯電話の請求書だけでも、5万円もありました」とあり、「自己管理能力がまったく
ありません」と結んであった。

 しかし、本当に、そうだろうか。

 子ども自身が、自暴自棄的になるように、子どもを追いつめていたのではないだろうか。
生活習慣が乱れてくると、約束や目標を守れないという初期症状につづいて、生活態度そ
のものが、だらしなくなる。

 しかしそれは子ども自身の自己管理能力というよりは、いわば心の病気によるものと考
える。過食症や拒食症と同じように、携帯電話依存症になったことも考えられる。そうい
う症状があったからといって、「自己管理能力がない」と決めつけてはいけない。

 かなりきびしいことを書いているが、母親自身が、かなり自己中心的な子育て観をもっ
ているのがわかる。その自己中心性がなくならないかぎり、子どもは家には帰ってこない
し、また帰ってきても、すぐ家を出て行く。私だって、そんな(うるさい家庭)には、一
日だって、いないだろう。

+++++++++++++++++

 では、どうするか?

 今の状況では、母親にさがしまわされること自体、苦痛であるにちがいない。私には、「も
う、放っておいてよ」と叫んでいる、子どもの声が聞こえるような気がする。

 そこで大切なことは、まず、あきらめること。現状を受けいれること。「今」の状態が現
実と考え、ジタバタしないこと。メールでは、「捜索願いを警察に出そうかと考えている」
ということだが、事件性が感じられないなら、これもかえって逆効果。

 高校1年生といえば、親が考えているより、子どもは、はるかにおとなである。その(お
となである)部分を、親がもっと、信じなければいけない。たぶん、この母親は、その子
どもが乳幼児のときから、心配先行、過干渉気味の子育てをしてきたにちがいない。もっ
と言えば、自分の子どもを、まるで信じていない。あるいは自分自身も、あまり恵まれな
い家庭環境に育った可能性もある。とくにその母親と母親の父親(子どもの祖父)との関
係が悪かったことが疑われる。

 それにもう一つ気になるのは、メールの中に、父親の存在感があまり感じられないこと。
それはともかくとして、「親として、ここで折れると、また同じことの繰りかえしになると
……」と、がんばっている点が、たいへん気になる。

 どうして折れてはだめなのか? そう、がんばらないで、折れればよい。すなおに折れ
る。折れれば、気も楽になる。

 電話がかかってきたら、すなおに自分の心を表現すればよい。「お願いだから、帰ってき
てください。もう何も言いませんから」「あなたがいなくて、お母さんは、さみしいです」
と。泣きたければ、泣けばよい。どうしてそんなふうに、無理にがんばるのか。

 母親自身が、自己開示(心の解放)をしていない。ならば、どうして、子どもにそれが
できるのか? 親としての気負いが強すぎる。私は、そう感ずる。

 ときにはバカな親になる。バカな親のフリをして、子どもの自立をうながす。それも、
子育てでは、重要な技術の一つと考える。「親だから……」「子どもだから……」という、『ダ
カラ論』にしばられてはいけない。

 親には3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どもの
うしろを歩く。そしてもう一つは、友として、子どもの横を歩く、だ。

 その母親も、勇気を出して、子どもの横を歩いてみるとよい。勇気を出して、だ。悪玉
親意識など、今、すぐ、捨てたらよい。

 そして子どもが家に帰ってきたら、暖かい無視にこころがける。相手が求めてくるまで、
無視。しかし何かを求めてきたら、それにはていねいに応じてやる。あとは、ほどよい親
に努める。

 高校はそのまま中退することになるかもしれない。しかし心配は、無用。家出をするほ
どバイタリティのある子どもは、そういう逆境を、かえってバネとして、たくましくなっ
ていく。

 非行をすすめるわけではないが、そうしたサブカルチャ(下位文化)を経験した子ども
ほど、あとあと常識豊かなおとなになることが知られている。

 そういうふうに前向きに考えたらよい。

 子どもは、小学3、4年生を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかな
い。「私はいい親子関係にいる」という幻想にしがみついたまま、それに気づかない。

 この日本では、親が子離れを始めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてから。
その相談者も、決して、好ましい方法ではないかもしれないが、今、子離れをし始めてい
る。

 大切なことは、子どもも高校生なのだから、子離れをしっかりとして、母親は母親とし
て、つまり1人の人間として、自分の人生を生きることを考えること。こんな問題で、心
をわずらわせてはいけない。

 はっきり言おう。

 相談者の子どものほうが、私には、相談者より、おとなに見える。だから相談者の方は、
何かと心配かもしれないが、今は、高校1年生の息子を信ずるしかない。

 おういう話は、必ず、笑い話になる。この種の家出は、まさに日常茶飯事。「うちの子だ
けが……」と思いこんではいけない。さらにそれから被害妄想をふくらませてはいけない。
今、あなたの子どもは、あなたから巣立ちをしようとしている。

 私の好きなエッセーを最後に、ここに添付します。

++++++++++++++++++++++++

●親離れ、子離れ

 子どもは小学三、四年を境に、急速に親離れを始める。しかし親はそれに気づかない。
気づかないまま、親意識だけをもち続ける。またそれをもって、親の深い愛情だと誤解す
る。

つまり子離れできない。親子の悲劇はここから始まる。あの芥川龍之介も、「人生の悲劇
の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」(侏儒の言葉)と書いている。

 息子が中学一年生になっても、「うちの子は、早生まれ(三月生まれ)ですから」と言っ
ていた母親がいた。娘(高校生)に、「うす汚い」「不潔」と嫌われながらも、娘の進学を
心配していた父親もいた。自らはほしいものも買わず、質素な生活をしながら、「あんなヤ
ツ、大学なんか、やるんじゃなかった」とこぼしていた父親もいた。

あるいは息子(中二)に、「クソババア! オレをこんなオレにしたのは、テメエだ」と
怒鳴られながら、「ごめんなさい。お母さんが悪かった」と、泣いてあやまっていた母親
もいた。しかし親子の間に、細くとも一本の糸があれば、まだ救われる。親はその一本
の糸に、親子の希望を託す。

しかしその糸が切れると、親には、また別の悲劇が始まる。親は「親らしくしたい」と
いう気持ちと、「親らしくできない」という気持ちのはざ間で、葛藤する。これは親にと
っては、身をひきちぎられるようなものだ。ある父親はこう言った。

「息子(一九歳)が暴走族の一人になったとき、『あいつのことは、もう構いたくない』
という思いと、『何とかしなければ』という思いの中で、心がバラバラになっていくのを
感じた」と。

もう少しズルイ親だと、「縁を切る」という言い方をして、子育てから逃げてしまう。が、
きまじめな親ほど、それができない。追いつめられ、袋小路で悩む。苦しむ。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎ取りながら、成長する。中には、最後の一
枚まではぎとってしまう子どももいる。年ごとに立派になっていく子どもを見る親は、幸
せな人だ。しかしそういう幸運に恵まれる親は、一体、何割いるというのだろうか。

大半の親は、年ごとにますます落ちていく(?)子どもを見せつけられながら、重い心
を引きずって歩く。「そんな子どもにしたのは、私なんだ」と、自分を責めることもある。
しかしそれとてもとをただせば、子離れできない親に、問題がある。

あの藤子F不二雄の『ドラえもん』にこんなシーンがある(一八巻)。

タンポポの種が、タンポポの母親に、「(空を飛ぶのは)やだあ。やだあ」とごねる。そ
れを母親は懸命に説得する。しかし一度子どもが飛び立てば、それは永遠の別れを意味
する。タンポポの種が、どこでどのような花を咲かせるか、それはもう母親の知るとこ
ろではない。しかし母親はこう言って、子どもを送り出す。「勇気をださなきゃ、だめ!
 みんなにできることがどうしてできないの」と。

子どもの人生は子どもの人生。あなたの人生があなたの人生であるように、それはもう
あなた自身の力が及ばない世界のこと。言いかえると、親は、それにじっと耐えるしか
ない。たとえあなたの息子が、あなたの夢や希望、名誉や財産、それを食いつぶしたと
しても、それに耐えるしかない。外から見ると、どこの親子もうまくいっているように
見えるかもしれないが、それこそまさに仮面。子育てに失敗しているのは、あなただけ
ではない。
(はやし浩司 子どもの家出 子供の家出 家出)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。
あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少な
からずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り
切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、
上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだとい
う意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではな
い。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにす
る。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことを
し、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、
その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から
見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたよ
うに、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘
れる)は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を
得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉
を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意
味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を
歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦
労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分
が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこん
な相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入
れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよい
か」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

++++++++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親
子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけ
なければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂
だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親
は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこと
を喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのと
き私は、この釈迦の言葉で救われた。

そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる
親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人
生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、い
つもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は
手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はも
うこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り
道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜
びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ぼけ兄行上記・追伸

 頭のかなりボケた兄が、姉の家に行って、ちょうど一週間になる。電話で話すと、姉は、
こう言った。「最初の3日間は、ノイローゼになりそうだった」と。

 姉の家では、大便用と男子小便用と、トイレが二つに分かれている。最初の2日間、兄
は、男子小便用のほうで、大便をしていたという。

 私の家でも、それに似たようなことがあったので、私は驚かなかった。むしろ、兄らし
いと、笑ってしまった。つられて姉も笑った。

 で、私とワイフは、今、毎日のように、出歩いている。兄が私の家にいるときは、何時
間も、家をあけることができなかった。その反動だと思う。モヤモヤした鎖から解き放た
れたような解放感を覚える。

 ボケ老人の介護は、たいへん。それはよ〜くわかった。で、そのたいへんさがわかれば
わかるほど、今度は、つぎの世代の人たちには、迷惑をかけたくないと思うようになった。
今日も、ワイフとドライブをしながら、こんな会話をした。

 「ぼくね、お前が死んだら、すぐ死ぬよ。そのほうがいいよ」と。

 するとワイフは、ケラケラと笑っていたが、実は、具体的な計画が、すでに、私にはあ
る。

 O国には、仲のよい医者の友だちがいる。もしワイフが死んだら、私は、その友だちに
頼んで、安楽死用の薬をもらうつもり。O国では、安楽死は、広く認められている。

 「生きるといっても、時間ばかり長く生きても意味はないし……」と。「仮にぼくが、ボ
ケ老人になったら、風邪か何かの病気になっても、そのままにしておいてほしい。病院へ
は連れていかなくてもいい」とも。

 いつもそうだが、私のワイフは、私のこういう話を、真剣には聞かない。冗談と思うら
しい。しかし私は、真剣だ。本気だ。(かなり……。)

 そうそう、それにもう一つ、おもしろいことに気づいた。

 この世の中には、ボケる人と、それを介護する人の二種類の人間がいるということ。ボ
ケる人は、かなり早い時期からバケ始める。で、そういう人を介護する人もいるわけだが、
介護する人は、どういうわけか、なかなかボケない。少なくとも、自分は、ボケとは無縁
と、信じている。

 私も姉も、頭のボケた兄の話をしながら、自分たちは、兄のようにはボケないだろうと
思っている。(本当のところは、兄と同じようにボケる確率は、高いのだが……。)

 これは恐らく、ボケた人を見ながら、いつも心のどこかで、「では自分たちは、どうすれ
ばボケを防ぐことができるか」を、考えているためではないか。あるいは、介護している
ことから生ずる緊張感が、脳ミソの働きをよくしているのかもしれない。

 だから若いうちから、できたら、生活のどこかで頭のボケた人を、よく見ておくとよい。
できれば介護も経験しておくとよい。「ああは、なりたくない」という思いが、そのままボ
ケ防止のための、一つの方法になる。

 ついでにもう一つ。

 表情と、ボケは、大きく関係しているということ。

 老人になると、どうしても、表情がかたくなる。こわばるというか、能面のようになる。
冗談やジョークが通じなくなる。思考の柔軟さが消える。しかしそうなったら、ボケは、
かなり進んでいるとみてよいのでは……(?)。 

 これは私の勝手な推察だが、私は、そう思っている。つまり言いかえると、豊かな表情、
とくに笑顔は、重要。歳をとればとるほど、重要ということになる。そのためにも、老人
は、よく笑わねばならない。また自分を、そういう環境に置かねばならない。

 (兄のばあいは、いつも笑顔を絶やさなかったが、ニコニコといった感じではなく、ニ
ヤニヤといったふう。ときには、ニタニタという感じ。心の中が明るいから、笑うという
よりは、意味不明の笑いが多い。)

 そこで私は、決めた。これからは、おおいに笑うぞ。楽しい話をするぞ。ハレンチと言
われようが、スケベと言われようが、これは私たちの脳ミソのためには、必要なことなの
だ。

 さてさて、どんな話をしようか……。で、今、思い出した。

 これは本当の話。ワイフから今日、車の中で聞いた話。ある雑誌に出ていた話だそうだ。

 49歳の女性が、19歳の恋人とつきあっているそうだ。とたん、「ドライフラワーが、
生きかえった」と。

私「ドライフラワーというのは、生きかえらないよ。死んだ花だよ」
ワ「それがね、その人のドライフラワーが、生きかえったんだって」
私「へえ、なるほどね。じゃあ、49歳の男性が、19歳の恋人とつきあったら、どうな
るの?」
ワ「あなたのほうが、よく知っているでしょう」と。

 ナルホド!

 そうだ。ボケ防止のために、これからは、どんどん、スケベな話をすればよい! 教育
評論家なんて、クソ食らえ、だ! ハハハ。今夜も、こうして新しい思想を、ゲット!

 私は、若いころ、官能小説家になりたいと思ったこともある。一度、梶山何とかという
スケベ作家の講演を聞いてから、そう思うようになった。

 まあ、すごい、スケベな話ばかりだった。講演を聞いているうちに、射精してしまった
男もいたそうだ。そうだ、今度は、スケベ小説に、挑戦してみよう。私の書く、スケベ小
説は、すごいぞ。

(しかし、アカデミックな私のマガジンに、そんな話を載せるわけにはいかない。

 私の書く、スケベ小説を読みたいと思う人は、どうか、手をあげてください。

 シーン。

 やっぱり、いらっしゃらないようなので、この話は、また別の機会に……。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●スケベな話(おまけ)

 私が聞いた話の中で、一番、スケベな話は、こんな話だ。

 当時は、夜這いというのが、ごくふつうの習慣として、なされていた。若い男が、年頃
の娘をもつ家へ、夜中に忍びこみ、その娘とセックスをするというものだ。

 何でもそれは若い女性にとっても、(また若い妻にとっても)、名誉なことだったらしい。
女性たちは、わざと戸をあけ、男たちが夜這いに来るのを待っていた。

 (本当は、男性よりも、女性のほうが、スケベだという説もある。そういう説が回りに
まわって、神聖さを保たなければならないような場所には、女性を入れないようにしたと
いう説もある。必ずしも、男尊女卑思想だけが、理由ではないそうだ。これは余談。)

 その家にも、その年17歳になったばかりの娘がいた。名前を、「かめ子」と言った。昔
風な名前だが、この話そのものが、今から、60〜80年ほど、昔の話。

 かめ子のところにも、ときどき若い男が忍びこんできた。それを知った母親が、かめ子
を叱り、その夜から、かめ子と一緒の部屋で、寝ることした。かめ子はそれをいやがった。
しかし母親も、1歩も退かなかった。

 「今夜から、あんたの部屋で寝るからね」「いやよ、お母さん」「何、言ってるの!」と、
まあ、そんなような、口げんかくらいはあったのかもしれない。

 ともかくも、その夜から、母親も、かめ子の部屋で一緒に寝ることになった。

 が、母親には、ひどい虫歯があった。歯も半分、抜けていた。口臭もひどかった。かめ
子は、母親がいびきをかいて眠り始めると、枕を反対側に移した。そうして戸をわざと少
し開け、男が入ってくるのを待った。

 やがて、男の気配。かめ子は、眠ったフリをして、男を待った。胸を少しはだけ、白い
乳房を、月明かりにさらけ出した。

 男は部屋に入ると、そっと、かめ子の体を抱いた。かめ子は、体から力を抜き、男がす
るままに、その男に身を任せた。

 男は、反対向きに母親が眠っているのを知らなかった。知らないまま、自分のそそり立
つモノを、そっとふとんの中にもぐらせた。しかしそこには、母親のパクリとあいた口が
あった。

 男は母親の、その口の中に、自分のモノを挿入した。そしてゆっくりと、上下運動を始
めた。男は、いつもの感覚とちがうのに気づいた。

男「いい……」「いい……」
かめ子「うん……」「うん……」と。

 男はかめ子の乳房を両手でつかみ、あえぎながら、かめ子にこう言った。

「かめや、かめや……」「かめや、かめや……」と。

 それを聞いたふとんの中の母親は、こう言った。何しろ、虫歯が痛い。

 「かめん……」「かめん……」と。

 こうして、いつもの平和で、のどかな一夜の一時が、過ぎていったという。

男「かめや、かめや……」
母親「かめん、かめん……」
かめ子「早く、早く……」
男「かめや、かめや……」
母親「かめん、かめん……」
かめ子「早く、早く、もう、入れてエ!」と。

++++++++++++++++++

 私はこの話を、学生時代に聞いた。当時の私は、こういう話を聞いただけで、立ちあが
ることも、歩くこともできなくなってしまった。ハハハ。

 ところで江戸時代から明治にかけては、岐阜県の飛騨地方の家々では、旅人が通りかか
ると、わざとその旅人を、自分の家に泊め、自分の娘を、その旅人に抱かせるという習慣
まであったそうだ。

 これは、よりよい種(精子)を、自分の娘に宿させるためだったという。この話は、飛
騨地方を旅をしたとき、そこに住む郷土研究家から、直接聞いたもの。ウソじゃないぞ!

 また、集団で農作業をしているときも、たがいにしたくなったら、その場で、さっさと
して、すませていたそうだ。

男「おい、一発、やるかア?」
女「あいよ!」と。

 これは山荘の近くに住む、K氏から聞いた話で、この静岡県ですら、50年前には、そ
ういうことが平気でなされていたという。K氏は、こう言った。

 「簡単なものさね。女の着物のすそを、パッと上へまくって、女の尻を出して、そのま
ま、うしろからやればいいんだから」と。

 ほんの一昔前までは、ことセックスに関しては、日本も、実におおらかな国だったよう
だ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●韓国と地球温暖化

 宮崎市で、昨日(4・6)、気温が、26度を超えたという。私の住む浜松市の近くの佐
久間町でも、28・4を記録したという。さらに山梨県の大月市では、何と、30・2度
を記録したという。

 地球全体が温暖化現象で、今まさに、この地球は、危機的な状況にある。そういうとき
に、「竹島は日本の領土だ」「独島は韓国の領土だ」と、言い争っている。そのおかしさ。
そのバカらしさ。「伊豆の大島は、東京都の領土だ」、いや、「静岡県の領土だ」と言い争っ
ているようなもの。

 かねてから日本政府は韓国政府に、「国際裁判所で話しあいましょう」と、呼びかけてい
る。が、韓国政府は、「そんな必要はない」と、がんとして、拒否。どうしてかな? 何か、
つごうの悪いことでも、あるのかな?

 まあ、いいでしょう。ご勝手に。日本は、冷静に、かつ事務的に、自分たちの言い分を
主張すればよい。何度も、何度も、国際裁判所での話しあいを提起すればよい。ただひた
すら冷静に、かつ事務的に、そして執拗に!

 で、やはり気になるのが、地球の温暖化。

 私の印象では、地球の温暖化は、予想以上の速さで、進んでいる。そんな気がする。5
年単位とか、10年単位ではない。数年単位で、その変化を感ずる。ばあいによっては、
1年単位ということもある。「去年より、暖かくなったぞ」と。

 このまま温暖化が進めば、どうなるか? いや、温暖化よりも恐ろしいのは、温暖化に
向けて、人間の精神が破壊されること。社会秩序は崩壊し、世界は無法化する。当然、人々
のもつ道徳観や倫理観も、崩壊する。地球末期に向けて、この地上では、まさに地獄絵図
が繰り広げられることになる。

 「竹島(独島)問題どころではないだろ」と言いたいが、まあ、そういう気持ちは、彼
には、通じないだろう。しかしどうして、そうまで韓国の人たちは、熱くなるのか?

 ロシアの学校で使う教科書に、「クナシリ、エトロフ島は、ロシアの領土」と書いてあっ
ても、(多分、そう書いてあるだろうが……)、日本人は、そんなにカリカリしないぞ。韓
国の教科書にも、そう書いてあるのではないのかな? 「独島は、韓国の領土」と。

 どうして、韓国にせよ、K国にせよ、日本のすることが、こうまで気になるのかな? 日
本の教科書が、こうまで気になるのかな? 劣等感の裏返し……というふうには思いたく
ないのだが……。

 K国などは、被害妄想もいいところ。「日本は、K国を再び侵略しようとしている」と。

 ウ〜ム! いまどき、そんなことを考えている日本人はいないと思うよ。頼まれても、
断る。日本人なら、みんな、そう考えている。

 で、地球温暖化は、何とかしなければならない。これは深刻な問題。いや、温暖化によ
って、環境が破壊されるのは、もうしかたないとしても、人間の心を何とかしなければな
らない。そういう変化に耐えられるような、精神的な強さを養うとか、何か別の道徳観や
倫理観を育てなければならない。

 「私たち人類は、やがて滅亡します。ついては、みなさん、最期の最期まで、みんな仲
よく生きていきましょう。で、そのためには、どうしたらいいでしょうか」と。

 ひょっとしたら、今回の竹島問題は、その試金石になるかもしれない。韓国の人たちに
もいろいろ言い分はあるだろう。しかしもう少し、冷静になってほしい。私は戦後生まれ
で、戦争を知らない世代だが、そんな私でも、今年、58歳になる。

 今、韓国の人たちが頭の中で描いているような日本人は、もういない。世界も変わった
が、日本人は、もっと、変わった。そうそう、この地球は、もっともっと変わりつつある。

 決して責任逃れをするわけではないが、おたがい、もっと前向きにものごとを考えたほ
うがよいのではないのかな? ……いらぬお節介かもしれないが……。


●独裁者には、弱みを見せない

 昔から、「独裁者には、弱みを見せてはいけない」という。国際政治の、大鉄則にもなっ
ている。

 よく知られた教訓に、ドイツがある。

 ナチス・ドイツ、つまりヒットラーは、1938年、チェコスロバキアに対して、ドイ
ツ系住民の多い、ズデーデン地方の割譲を申し出た。

 これに対して、時のイギリスの首相、チェンバレンは、「これ以上、領土拡大を求めない」
という条件付で、チェコスロバキアに対して、領土を割譲するよう説得した。チェンバレ
ンは、戦争回避を第一に考えた。

 しかし結果は、裏目に出た。弱みを見せたイギリスに対して、そののち、ドイツは、電
撃的な領土拡大戦争へとつき進む。

 一度味をしめた独裁者は、相手の弱みを、自分の利益と結びつける。

 そうした教訓が生かされたのが、あのキューバ危機である。

 時のソ連は、キューバにミサイル基地を建設しようとした。これに対して、アメリカの
大統領、ケネディは、海上封鎖という強攻策に出る。1962年のことである。

結果は、……というより、もしあのとき、アメリカがキューバにミサイル基地を建設さ
せていたら、そのあと、アメリカは、どうなっていたかわからない。

 今回の6か国協議では、アメリカは、どこまでも強硬に見える。「対米軍縮会議にしろ」
と主張するK国。それを一蹴するアメリカ。そうしたアメリカの強攻策の背景には、過去
の苦い経験が、山積みにされている。

 なぜ、アメリカが、そうなのか。それを理解するためには、その歴史を知らなければな
らない。


●国際連合

 国際連合主義(グローバル・ガバナンス)を、口では主張しながら、実際には、アメリ
カの庇護下で、アメリカに追従する日本。

 現実問題として、国際連合の力には、限界がある。そしてその一方で、全世界の軍事費
の50%を、消費するアメリカ。軍事面では、アメリカに対抗できる国はない。

 そこでアメリカは、かねてから、「アメリカの平和と安全を守るためには、許可書を求め
たりはしない」(ブッシュ大統領)と言い切っている。つまりアメリカの軍事行動に対して、
アメリカは、いちいち外国の許可書など求めない、と。

 国際連合主義と、アメリカ・ドクトリン(主義)のはざまで、揺れ動く日本。しかしこ
れだけ周囲の国々の反日感情が高まってくると、日本としては、アメリカにすがるしかな
い。

 危険な道ではあるが、国際政治は、どこまでも現実主義で考えなければならない。甘い
妥協論、融和論、お人好しは、通用しない。

 しかしここで重要なことは、なぜ、今になって、韓国、中国で、反日運動が高まってい
るか、である。それを考えることである。

 私の分析では、今の中国の若い人たちの動きは、60年、70年の安保闘争の日本人の
それに似ていると思う。反日運動を、自由、解放運動の代用品として利用しているような
ところがある。つまり今まで抑圧されつづけてきた民衆が、そのエネルギーを、反日運動
に転嫁させている(?)。

 韓国については、N大統領の精神構造そのものに、私は疑念をいだいている。これ以上
のことは、ここには書けないが、私には、N大統領の考えていることが、最初から、今に
いたるまで、まったく理解できない。

 日本としては、表向きは、国際連合主義を貫き、裏では、アメリカと手を組むしかない。
そしてその一方で、中国や韓国の反日感情が沈静化するのを、しんぼう強く、かつ冷静に、
見守るしかない。

 こういう状況では、先にコブシを振りあげたほうが、負け。仮に、相手がコブシを振り
あげても、日本は、ニッコリと笑って、「日中友好」「日韓友好」の旗をあげればよい。決
して感情的になってはいけない。

 ただ、日本は、アメリカに追従しながらも、そのアメリカと中国を、決してこれ以上、
離反させてはならない。韓国やK国ではない。中国だ。ここで今、中国がアメリカから離
反し始めると、かつての冷戦状態が、今度は、アメリカと中国の間で、再現されることに
なる。

 もしそうなれば、そのときこそ、日本は、歴史上、もっとも、危機的な状況を迎えるこ
とになる。何としても、それだけは避けねばならない。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 6日(No.564)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●(教えやすい子ども)vs(教えにくい子ども)

 数年前だが、ある私立幼稚園の理事長が、ふと、こうもらした。「うちでは、願書を受け
つけるとき、簡単ですが、子どもの面接試験をしています」と。

 理由を聞くと、「多動性のある子どもには、(入園を)遠慮してもらうためです」と。実
際には、ここには書けないような言い方で、そう言った。

 当時は、ADHD児が大きな話題になり、世間が騒がしかったこともある。ADHD児
についての、誤解と偏見も、そこから生まれた。その結果、たとえば好奇心が旺盛で、行
動が活発な子どもまで、ADHD児と誤解されるようなことが、しばしば起きた。

 ADHD児はさておき、こうした流れの中で、最近では、(教えやすい子ども)と、(教
えにくい子ども)の、色分けがさらに進んでいる。とくに私立幼稚園では、この問題は、
経営上、死活問題といってもよい。動きのはげしい子どもが、授業そのものを破壊してし
まうことも少なくない。そのため、そういう子どもがいると、幼稚園の指導力そのものが、
疑われることにもなる。

 先の理事長は、こう言った。「一度、あの幼稚園はだめだという評判がたつと、翌年、入
園希望者がガクンと減ります」と。

 で、(教えやすい子ども)というのは、それなりの落ち着きがあり、教師の指示に従順に
従う子どもをいう。もちろん知的能力も、それなりに高いことが要求される。

 一方(教えにくい子ども)というのは、ADHD児は別として、行動力が旺盛で、自己
主張が強く、教師の指導になじみにくい子どもをいう。知的能力の低い子どもも、それに
含まれる。

 そこで最近では、公立、私立を問わず、小学校の入学試験では、(教えやすい子ども)が
合格しやすく、(教えにくい子ども)が、不合格になりやすいという傾向が生まれている。
これはあくまでも私の個人的な実感で、根拠があるわけではない。

 つまり最近では、どこかキバを抜かれたような子どもほど、入学試験に有利で、昔風の
たくましい子どもほど、不利ということになる。たとえばブランコを横取りされても、文
句も言えず、静かに明け渡してしまうような子どもほど、有利で、先生の不正行為対して、
ワーワーと抗議の声をあげるような子どもほど、不利ということになる。しかしこうした
選抜基準は、(もし、それがあるならの話だが)、基本的な部分で、まちがっている!

 私は、幼児を見つづけて、35年目になる。この35年間で、子どもたちの様子は大き
く変わってきた。とくにこの15〜20年で変わったと言えば、小学校の低学年(1、2
年生)の段階で、(いじめられて泣くのは、たいてい男児)、(いじめて泣かすのは、たいて
い女児)という図式が、すっかり定着してしまったということがあげられる。

 こうした現象は、少なくとも、私が子どものときには、考えられなかったことである。
男が女に泣かされるというようなことは、だいたいにおいて、ありえなかった。が、今は、
ちがう。男女が平等というのではなく、男児の女児化が始まり、ついで、男児が、女児よ
り、弱くなってしまった。

 原因の第一は、父親不在、母親中心型の育児環境にあると考えられた。母親だけが、女
性の視点だけで、男児を育ててしまうと、父親による修正がなされない分だけ、男児は、
女性化する。

 たとえば35年前には、幼稚園の参観日に、父親がやってくるということは、まずなか
った。私は、幼児を教えながら、「幼稚園というのは、そういうところ」と思っていた。

 しかしそのうち、父親不在の家庭教育の弊害が指摘されるようになり、父親の子育てへ
の参加が、強く求められるようになった。県単位で、育児参加の促進事業も展開されるよ
うになった。

 その結果、ここ5、6年、小学校の参観授業などでも、父親の姿が大きく目だつように
なり、学校によっては、5割を超えるところも出てきた。

 しかしそうした変化にもかかわらず、(教えやすい子ども)という意識が、教師というよ
り、園や学校の経営者から消えたわけではない。つまり無意識のうちにも、経営者側に、(こ
となかれ主義)がはびこるようになり、それがより定着してきたと言える。

 もちろん学校側にも、言い分がある。

 すでに10年ほど前から、どこの小学校へ行っても、校長たちは、こんなことを言った。
「先生たちが萎縮しています」と。ほんの少し子どもの体をたたいただけで、親たちは、「体
罰だ」と騒いだ。「今では、親のほうが、強いですから」と。子どもが不登校児になったり
すると、「先生が悪いからだ」と騒ぐ親もいた。

 言葉づかいにしても、そうだ。今では、その結果というわけでもないが、生徒に向って、
「〜〜しなさい」と命令する教師はいない。「〜〜してはどうですか」「〜〜してくれませ
んか」という言い方が、定着している。そういう言い方になった背景には、それなりの理
由があるが、しかしここまで、教える側と学ぶ側が、逆転してもよいかという問題もない
わけではない。

 そのため、子どもたちが、本当に、おとなしくなった。よく言えば、「できがよくなった」
ということになる。しかし悪く言えば、「おとなのペットのようになり、ハキがなくなった」
ということになる。

 そしてそれが一つの基準となって、今では、入試基準そのものを、決めるようになった。

 私の邪推と偏見で、(教えやすい子ども)イコール、(入試に有利な子ども)を、列挙す
ると、こうなる。

(1)おとなしい。
(2)従順。
(3)協調性、共鳴性がある。
(4)落ち着きがある。
(5)柔和で静か。
(6)それなりの知的能力がある。

 一方、(教えにくい子ども)イコール、(入試に不利な子ども)を、列挙すると、こうな
る。

(1)自己主張が強い。
(2)反発心が強い。
(3)わがまま、自分勝手。
(4)どこか騒々しい。
(5)従順でない
(6)知的能力が劣っている。

 それぞれに一長一短がある。よい面もあれば、悪い面もある。しかし教える側にとって、
つごうのよい面ばかりが、誇張され、かつ偏重されるうちに、子どもの姿そのものが、ゆ
がめられてしまったと言える。つまり本来、あるべき子ども像が否定され、おとなたちが
頭の中で描く(優等生)のイメージに合わせて、子ども像がつくられるようになってしま
った。

 しかし、この問題は、実は、教育だけの問題にとどまらない。日本の将来にもかかわる、
深刻な問題といってもよい。けんかを奨励するわけではないが、しかし国際社会で生き抜
いていくためには、かなりはげしい性格も、求められる。ブランコを横取りされたら、「ど
うして、そんなことをするのだ!」と文句をいうことも、ときと、ばあいによっては、必
要なのである。

 もし学校や教師が、(教えやすい子ども)ばかり選んで、教育をしていたら、日本は、ど
うなるか? そういう視点でも、一度、教育を考えてみる必要があるのではないだろうか。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In 
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves 
no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more 
than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a 
very exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later 
life. It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established 
in that position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that 
there are few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account 
of so aristocratic a good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far 
commoner in the young than in grown mean and women. Among children it is very 
common, and grows naturally out of the period of make-believe and fancy. It is rare in 
later life because everything is done to kill it during education... The wish to preserve 
the past rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who 
control the teaching of the young. Education should not aim at passive awareness of 
dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create
教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対して
は、楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほ
とんど要しない。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。そ
れ以上に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒に
とっては、教師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生におい
て、大きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。
そしてそれがだれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを
理解する子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育
のよさが、子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い
人たちの間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれた
ことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period 
of make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、す
べてが教育によって、これがつぶされてkillしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保
全したいとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせ
ることpassive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向
って、能動的に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to 
create。

バートランド・ラッセル(1872〜1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベ
ル文学賞受賞者

++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そ
のときの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい
自分を発見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。
それが自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去
の事実を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって
能動的に向わせることを目的としなければならない」(Education should not aim at 
passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our 
efforts are to create)と書いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論
の中で、「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」
ということになる。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということに
なる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せ
ば、「ひとりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思う
のは待ってほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、
そのつど、いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、
頭をさすりながら、その頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。
しかしその実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。そ
れぞれが、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていな
い。が、その実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、
電車に乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食
べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれな
いということ。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、
そのワクを踏み超えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメ
というワクを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先
に巣をつくらないで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)
の条件ということにもなる。

 恩師のT先生は、科学研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重要
性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バー
トランド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、
ありふれた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽な
こと。しかしそのワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味があ
る。私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰
りかえしているだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たち
も、若いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言っ
た。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事
実は、私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。
やがて君も母親になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。
つまり繰りかえしているだけだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなけれ
ばならない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。
私の家の近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、
自分の人生を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前
と同じ生活を繰りかえしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとした
ら、そのままつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むこ
とである。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いて
いる。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろ
んその女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、
そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の
心をキズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさ
らけ出す勇気を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでい
くというのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そし
てそのつど、さらにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知
る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そして
そのあと、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、
Independent Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこ
に何か、目には見えない糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。
(05年4月4日)
(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人))

++++++++++++++++++++

京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。

「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++
 
はやし先生

先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。

大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。

詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、

(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
 として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。

(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、

(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。

大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。

そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。

「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。

かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。

基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。

いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。

素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。

++++++++++++++++++++++

【SE様へ】

 実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私も
そうだったのかなあ?」と、当時を思い出しています。

 とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、
そもそも独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そん
な話ばかりでしたから……。

 ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。

 しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と
言われてしました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をして
いました。

 たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法
学への興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。

 もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ
入っただけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったと
いうわけです。

 そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまっ
たく、タイプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、
「私はとても、M教授のようには、なれない」と実感しました。

 で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話
をT先生にすると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていま
した。学部はちがっても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。

 話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした
傾向というのは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。

 たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の8
0〜90%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学してい
きます。夢や目標は、とうの昔に捨てているわけです。

 もちろん希望も、ない。

 だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりた
いという学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純
粋法学をめざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。

 このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。

 つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私
のばあいは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、
外国へ出るというだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いま
すが……。)

 そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番
目。行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよか
ったから、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインド
の国費留学生試験にも合格しました。

 (結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)

 まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活
躍をした時代だったと思います。

 が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になり
たかった。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですか
ら、役割混乱もいいところです。もうメチャメチャでした。

 ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、
(1)のタイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、ま
ったくなかったと思います。

 私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、
結論(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知
のように、勝手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)

テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい
世界だったんだなあ」と感心しているほどです。)

 ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふ
つうだったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく
覚えているのは、こんな質問があったことです。

 「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振って
もよいそうだが、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。

 そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。
ハハハと笑っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。

 また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学
の話などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公
害」とか、そんな話ばかりしていたような気がします。

 日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、
自分で勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たち
から講義を受けていました。

 自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。

 以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生
は、つぎのように書いています。

「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要
なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教え
ることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに
応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせ
てもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。

 つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、
複々線化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できない
のでしょうか。

このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の
教育には、明日はないということではないでしょうか。

 返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、
お許しください。

 今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。その
あと、昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけで
も、たいへんです。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●今年の花粉は、すごい!

 今年の花粉は、すごい! 10数年ぶりに、症状が復活! 朝、起きると、毎日のよう
にはげしいくしゃみが出る。目もかゆい。体も、だるい。以前ほどはひどくないが、若い
ころの花粉症を思いださせるには、じゅうぶん。

 「昔はこうだったな」と思ってみたり、「またこのまま花粉症にもどったら、いやだな」
と思ったりする。しかし症状は、今のところ、朝だけで、やがて収まっていく。

 ……予想どおり、今年の花粉は、すごい! 場所によっては、去年の20倍とか、それ
以上だという。猛暑がつづいたその翌年には、花粉の飛散量が、多くなるという。

 しかしゆううつな季節だ。大きなマスクを顔いっぱいにかけている人を見ると、思わず、
同情してしまう。

 
●運動

 春休みに入って、毎日、運動にでかける。昨日は、ハナと、10キロ近く、自転車で走
った。今日は、市内との往復、計14キロ。私には、ほどよい距離だ。

 が、おかしなことに、運動から帰ってくると、猛烈な睡魔に襲われるようになった。そ
れほど睡眠不足だとも思われないが、しかし眠くなる。そこで書斎のコタツに入って、そ
のままうたた寝。

 しかしこのうたた寝が、楽しい。いわば私の私設映画館。いろいろな夢を見る。

 みなさんは、どうか知らないが、私のばあいは、同じ夢を見ない。いつも、奇想天外と
言うか、まったく予想もつかない夢ばかり。あとで思い出しながら、「どうしてあんな夢を
見たのだろう?」と思うこともある。

 たとえばよく旅行の夢を見る。その旅行についても、頭の中に、夢用の地図ができてい
る。日本のどこかだが、日本では、ない。そんな地図である。

 長野県のむこうに栃木県があり、その下に琵琶湖がある。琵琶湖をぐるりと回ると、そ
の向こうがフランス。そこには飛行場があって、オーストラリアへの直行便が、毎日、離
陸している。

 長野県から栃木県へ行く途中に、山があり、その山からは海が見える。海岸線には温泉
があって、無数の露天風呂が並んでいる。

 まあ、地図がいわば、私の夢の中のセットのようになっている。昨日の夢では、その山
の中の温泉へ行ったら、一番、奥の部屋に案内された。何とも薄暗い部屋で、どこに温泉
があるかわからないような部屋だった……。

 だからうたた寝は、楽しい。目を覚ましたあとも、目を閉じたまま、夢を思い出しなが
ら、さらにその余韻を楽しむこともある。

 さて、今は、ほどよい疲れが、体を包んでいる。頭は少し重いが、これは花粉症による
ものか。このまましばらく、コタツの中でうたた寝をするつもり。どんな夢を見ることが
できるか? 楽しみ。

 では、みなさん、しばらく、ごめん!


●中高年族よ、たくましく生きよう!

 こんなショッキングな調査結果が、発表された。(ショックを受けたのは、私たちの世代
だけかもしれないが……。)

++++++++++++++

●中高年フリーター、2021年には200万人突破

 大手調査研究機関のUFJ総合研究所は、4月4日、35歳以上でフリーターをしてい
る「中高年フリーター」が、2001年の46万人から、2011年には132万人に増
え、2021年には200万人を超える見通しだとする推計を発表した。

 フリーターの多くはいずれ定職を持ちたいと考えているものの、年齢が高くなるほど正
社員になるのが難しく、この状況は変わらないとの前提で推計した。

 推計では、フリーターは所得が比較的少ないため、2021年に200万人を超える人
が正社員にならずに、「中高年フリーター」となることで、国の税収が1兆1400億円、
社会保険料が1兆900億円減少するほか、2021年のGDP(国内総生産)成長率を
1・2%押し下げる要因にもなる。

また、所得が少ないフリーターは、結婚する割合が低いため、子供の出生率を年間1・
0〜2・1%押し下げ、少子化を加速させるなどとも指摘している。

 内閣府の国民生活白書によると、2001年に35歳以上でフリーターに相当する人は
46万人いた。フリーターは、パートやアルバイトなどのうち、主婦や学生を除いた人
を指す。

++++++++++++++++

 「だったら、正社員とアルバイトを差別しないことだ」と、私は最初に、そう思った。
職業にランクをつけたから、こういう結果になった。こうした職業に対する、差別意識は、
悪しき封建時代の遺物と考えてよい。

 (少し前まで、正社員になることを、「まともな仕事」といい、そうでない仕事を、「ロ
クでもない仕事」といった。)

 仕事に上下はない。正社員もフリーターもない。働く人イコール、労働者。みな、平等。
平等に保護すればよい。(アメリカでは、そうしているぞ!)

 ……とまあ、グチを言っていてもいけない。

 あえて言うなら、私もそのフリーターだが、中高年のみなさん、もっとたくましく生き
よう!

 その一言に尽きる。お金になることは、何だってする。恥も外聞も、捨てる。あとは働
いて、働いて、働きまくる。

 だいたいにおいて、日本は、公務員を優遇しすぎる。仕事も、楽。その結果として、そ
うでない人たちが、損をする。そういうしくみが、できてしまっている。

 そういうしくみを一方で、放置しておいて、「何が、GDPを下げる」だ! 本当に日本
のGDPを下げているのは、だれか、ヨ〜ク考えてみることだ。

 ……こうまでバカにされたのでは、たまらない。

 そういう事実があるなら、私たちは私たちで、たくましく生きるしかない。しかしねえ、
この日本では、何をするにも、許可だの、資格だの、認可だの……。ありとあらゆるもの
が、がんじがらめに規制されている。今では、地方の田舎町で、観光ガイドをするにも、
資格がいる。

 お金がないから、明日から、リヤカーでも引いて……というわけには、いかない。本当
に息苦しい世界になってしまった。

 おかげで、国家、地方公務員の人件費だけで、38兆円以上! 日本の国家税収が、4
2兆
円弱だから、つまりは税収のほとんどが、公務員の人件費に消えていることになる。

 こういう事実を、一方で放置しておいて、何が、「所得が少ないフリーターは、結婚する
割合が低いため……」だ。

 これでは、あたかも、フリーターが、社会のゴミのようではないか。少し前だが、どこ
かの高校の校長は、「ブリーター撲滅運動」をしていた。「撲滅」というのは、「たたき
つぶす」という意味だ。

 私がむしろ心配するのは、フリーターもさることながら、日本人から、生きる野生臭が
消えてきたことだ。いつも何かに依存しようとしている。また依存することが、生きるこ
とだと考えている。そんな感じがする。

 日本を一歩出れば、そこには、海千山千の海賊たちがゴロゴロしている。そういう世界
に囲まれて、オホホ、オホホと笑いあっていて、どうしてこれからの国際社会を生き抜く
ことができるというのか。

 フリーターには、フリーターの生きザマというものがある。そのたくましさを、みんな
に見せつけてやろうではないか。中高年よ、パワーを出そう。アメリカのカウボーイのよ
うに、野宿をしてでも、生き延びてやろうではないか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●闇(やみ)の世界

 インターネットの世界を、「闇の世界」と位置づけている人がいる。またそういうふうに
考えている人が多いのには、本当に、驚かされる。中には、「トイレの落書きのようなもの」
と言う人さえいる。(ホント!)

 つまりインターネットで流される情報には、それなりの価値しかない、と。

 まあ、そういうふうに思いたい人には、思わせておけばよい。たしかに気楽に情報を発
信できる分だけ、本や雑誌に原稿を書くような緊張感は、インターネットには、ない。私
のばあいも、文の推敲や校正などは、ほとんど、しない。

 いきなり書いて、そのまま全国に発信する。

 それは認める。

 またインターネットというのは、パソコンを介してするため、そのパソコンを扱えない
人には、どうしても、別の世界イコール、闇の世界となってしまう。とくに、50代、6
0代以上の人にとっては、そうではないのか?

 実際のところ、インターネット(電子マガジン)上で、原稿を書いても、その価値は、
ほとんど認められない。もちろん論文として認められることは、まずない。それに加えて、
何かの収入につながるということも、まず、ない。

 読者にしても、「どうせ、ただ(=無料)の情報」(イコール、いいかげんな情報)とい
う認識しかない。「トイレの落書き」という発想は、そういうところから生まれるらしい。

 ただ現実には、インターネットの影響で、書籍の販売が、どんどんと落ちている。中小
の出版社は、どんどんとつぶれている。明らかに印刷物の時代から、電子の時代へと、情
報の世界が、移動しつつある。この流れは、今後、加速することはあっても、もう、だれ
にも、止められない。

 そこでインターネットの世界を、「闇の世界」から、「表の世界」にするには、どうした
らよいかということになる。(でないと、私のような人間が、浮かばれない。)

 実は、ここに、今回、なぜL社のH社長が、N放送、ならびにFテレビ局の株買収に乗
り出したか、その理由の一つが隠されている。

 インターネットの最大のカベ(ネック)は、パソコンという世界を超えて、その情報が、
一般社会には伝わっていかないこと。

 これに対して、テレビやラジオをからの情報は、向こうから、茶の間に飛びこんでくる。
このちがいは、大きい。

 たとえば、(はやし浩司)という私が、いくらネット上で、子育て論を書いても、それを
読んでいる読者を越えて、その先の人には、伝わっていかない。

 しかしテレビやラジオだと、子育て論よりも先に、その人の名前が目や耳に飛びこんで
くる。わかりやすく言えば、インターネットでは、人は、有名になれない。しかしテレビ
やラジオでは、有名になれる。

 そこでインターネットのカベ(ネック)を越えるためには、インターネットを、テレビ
やラジオなどのマスメディアと、結びつけていく必要性が生まれてくる。

 インターネットの内容を、テレビやラジオで紹介する。一方、インターネットのほうで、
ぼう大な情報を、瞬時に提供する。この双方向性が生まれたとき、インターネットは、は
じめて、そのカベ(ネック)を越えることができる。

 今では、パソコンの画面上で、あるいはその一部で、テレビを見ながら、インターネッ
トを楽しむ時代になった。が、まだ、どこか別々の世界のような感じがするが、これが一
つになったら、情報の世界はどうなるか……。考えるだけでも、少し、そら恐ろしい感じ
がしないでもない。が、そういう時代は、もう、すぐそこまできている。

 そう、ひょっとしたら、とんでもない世界がやってくるかもしれない。L社のH社長は、
それを知っていて、今回の買収劇を演じているのではないだろうか。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
●米韓関係の終焉(しゅうえん)

 日本では、ほとんど報じられていないが、米韓関係が、今まさに、崩壊の危機に立たさ
れている。

 韓国のN大統領は、「仮に米中戦争となっても、米側にはつかない」※と、言い出してい
る。そしてそんな中、こんな事件が起きた(4・5)。

 在韓米軍の防衛負担金をめぐり、韓国側が、約60億円(600億ウォン)の減額を提
示した。つまり「負担金を減らしてくれ」と。

 これに対してアメリカ側は、「正式な回答をしないまま」(産経新聞)、いきなり、「韓国
人職員の1000人、削減」を発表してしまった。

 わかりますか? この不協和音?

 ふつうなら、つまり同盟国なら、「負担金を減らしてほしい」と韓国側が申し出てくれば、
「そうですね、一度検討してみましょう」となる。話しあいになる。が、アメリカは、そ
れをせず、いきなり、1000人の職員の削減を、発表してしまった。

 60億円を1000で割ると、1人分、ちょうど、600万円となる。アメリカ側は、
申し出に答える前に、それに見合った額の人件費を減らしたことになる。が、先にこうい
うことをされると、韓国側としては、つぎの手が出せなくなる。

 韓国は、職員を削減したことを、「YES」と解釈して、60億円の防衛負担金を減らす
か。それとも、今までどおりの防衛負担金を支払いつづけるか。勝手に韓国側が60億円
を減額すれば、アメリカ側は、さらに韓国からの軍を撤退させるだろう。

 米韓関係の崩壊は、すでに秒読みの段階に入ったとみるべきではないか。

 と、同時に、N大統領は、日米関係にクサビを入れようと、やっきになっている。その
動きについては、また別のところで報告することにして、N大統領は、自分で自分のクビ
をしめていることに気がついていない?

 ここまで反日色を濃くすれば、日本の投資が、韓国から逃げ出す。すでにそういう動き
も、出始めている。このままいけば、韓国経済そのものが、崩壊する。N大統領は、そう
いうことが、まるでわかっていない。

※……「大統領がどんな修辞を用いようとも、米中が対立したとき、韓国は日米の側には
つかないという宣言としか読めない」(産経新聞)と。

【憶測】

 韓国のN大統領のデスクと、K国の金XXのデスクは、ホットラインでつながっている。
これは事実。で、ここから先は、私の憶測だが、(あくまでも憶測)、N大統領と、金XX
は、毎日のように、その電話を使って、何かを話しあっているのではないか? このとこ
ろの両国の動きをみていると、どうも、そんな感じがしてならない。

 韓国は、すでに原子力潜水艦の建造にとりかかっているし、N大統領の側近が、かつて、
こんなことを不用意にもらしたことがある。「北が核兵器をもったまま、南北が平和裏に統
一されれば、南北朝鮮にとっては、有利になる」と。

 どの国に対して、どのように有利になるといっているのだろうか。

 もしそうなら、6か国協議は、何かということになる。

(補記)

 では、日本は、どうするか? どうしたらよいのか?

 ただひたすら静観するしかない。私は、N大統領が、まったく理解できない。この思い
は、友人のMK君も同じで、彼もそう言っていた。「戦後、アメリカと日本が築きあげた、
自由主義貿易体制の中で、繁栄を謳歌しながら、なぜ、今、反米、反日なのか」と。

MK君というのは、私と同期に、UNESCOの交換学生として、韓国へ渡った友人で
ある。

 私が知るかぎりでも、N大統領は、平均的な韓国の人のものの考え方と、かなりズレて
いるように思う。かなり左翼的というか、復古主義的というか……。

 日本は、決して感情的に対応してはいけない。今ごろ、反日運動を展開するほうが、お
かしい。1970年から始まった、日韓友好関係を、N大統領は、ゼロにしようとしてい
る。それとも、何が、ねらいなのか? N大統領は、日本に、今、何をしてほしいのか? 
それがさっぱり、わからない。

 日本は、冷静に。すべきことは、する。事務的に、ただひたすら事務的に。しかし絶対
に感情的になってはいけない。ここで感情的になれば、それこそ、K国、ひいては中国の
思うツボ。

 日本もかつて、60年安保、70年安保と、はげしい反米闘争を繰りかえしたことがあ
る。そのときアメリカは、ただひたすら冷静さを保った。決して感情的にならなかった。
そのアメリカを、今、日本はここで、見習おうではないか。

 冷静さのみが、日本の平和と安全を守る。みなさん、N大統領の言動に動ずることなく、
私たちは私たちで、マイペースで、前に向って進んでいこう!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●夢と現実

 タイトルは忘れたが、昔、手塚治虫の描いたコミックに、こんなのがあった。

若い青年が、何かの事故に巻きこまれて、意識不明になる。意識不明になったとき、そ
の青年は、夢を見て、夢の中の世界に入っていく。そしてその夢の中の世界で、その青
年は、今度は、その世界を現実の世界として、生き始める。

 現実の青年は、貧しい家庭の男。しかし夢の中の青年は、金持ちの家の息子。しばらく
夢の中の世界で、生活をしているうちに、しかし今度は、その世界で、その青年は事故を
起こして、意識不明になる。意識不明になって、また夢を見る。そして夢の世界に入り、
現実の世界にもどる。

 つまり夢の世界が現実となり、その夢の中の世界で夢を見て、夢の中でまた夢の世界、
つまり現実にもどってくる。少しわかりにくい話で恐縮だが、そういうような内容のコミ
ックだった。

こうして夢と現実の世界を行ったりきたりしているうちに、やがて、その青年は、どち
らが(現実の世界)で、どちらが(夢の世界)なのか、わからなくなる。そしてどちら
の世界にいる自分が本物の自分なのかも、わからなくなる。

 金持ちの家の息子になったときは、貧しい家庭の男が、夢の中の自分であり、貧しい家
庭の男になったときには、金持ちの家の息子が、夢の中の自分ということになる。

 が、たがいに引きあうように、その二人の青年が、どこかの街角で、出会うことになる。
いくつかの偶然が、運命のように重なりあう。そしてとうとうその日は、やってくる。た
がいにたがいを見つめあいながら、「やっぱり、お前は、いたのだな」「お前こそ、いたの
だな」と。

 そこで2人の青年は、どちらの自分が本物なのか、それを確かめるために、そこで決着
をつけることにする……。

 が、ここで、どんでん返しが起きる。実は、その2人の青年には、ともに、1人の共通
のガールフレンドがいる。コミックの中では、このガールフレンドとの恋愛が、一つのテ
ーマになっている。貧しい青年のほうは、貧しい青年のほうで、金持ちの青年のほうは、
金持ちの青年のほうで、それぞれが、同じガールフレンドと、恋をする。

 で、最後のところで、2人の青年がナイフをもって、決闘する。そしてたがいに刺しあ
うその瞬間、そのガールフレンドが2人の間に、割って入る。「やめてエ!」と。しかし、
まにあわなかった。そのガールフレンドは、2人の青年に、同時に刺されて死ぬ。

 ……と同時に、2人の青年は、煙のように消える。あとの残ったのは、窓から飛びおり
て自殺した、そのガールフレンドだけ。つまり2人の青年そのものが、そのガールフレン
ドがつくりあげた、幻覚だったというわけである。

 思い出しながら書いたので、内容は、不正確。しかしこのコミックは、どういうわけか、
ずっと、私の記憶の中に残っている。

 ストーリーがおもしろい。ハリウッド映画にしたら、そのまま大ヒットしそうな内容で
ある。が、それだけではない。そのコミックを思い出すたびに、夢と現実は、どこがちが
うのかと、よく考えさせられる。

 夢と現実。

 過去というのは、どこにも、存在しない。しかし私たちがしてきたことは、記憶として、
脳ミソの中に残る。あくまでも、記憶として、だ。脳ミソのどこかに、電気的信号として、
残る。

 一方、その脳ミソは、勝手に動いて、私たちに夢を見せる。しかしそれとて、脳ミソの
遊びのようなもの。電気的信号が、脳ミソのあちこちを、勝手に飛びまわっているだけ。
原理的には、記憶も、夢も、同じ。それがわからなければ、昨日の思い出と、少し前に見
た夢を比較してみるとよい。

 脳ミソの中では、区別がつかないはずである。どちらも、ぼんやりとしている。頭の中
におぼろげな映像が浮かぶ。が、そこまで。実体はない。

 少し話は変わるが、私は若いころ、こう思った。そのころの私は、メチャメチャに、忙
しかった。そんなある日のことだった。

 「私は、50歳まで働いて、それからは、遊んで暮らす」と。こうも考えた。「50歳ま
で生きられれば、じゅうぶん。50歳をすぎたら、人生も残り火のようなもの。それから
の人生には意味はない」と。

 しかしそれはまちがっていた。青い空も、緑の野原も、若いころのまま。時は今は、春
だが、その春の陽気も、若いときのまま。私は相変わらずここにいて、同じように生きて
いる。

 恐らく……というより、まちがいなく、この状態は、私が80歳になっても、また90
歳になっても、同じだろう。

 志村武氏の書いた「釈迦の遺言」(三笠書房)の中に、こんな話が載っている。

++++++++++++++

 104歳の国文学者、物集高量(もずめ・たかかず)が、102歳の正則学院校長だっ
た今岡信一氏に、「あなた、長生きしたと思う……?」と聞くと、今岡氏は、「思わないで
すねえ」と答え、物集氏のほうも、「私も思わない」と語っている。

 この2人によって実証されているごとく、人間は「たとえ100歳をこえてまで生きえ
たとしても」、当人の実感としては、「人の世間に生まれ、白駒(はっく)の隙(げき)を
過ぐるが如きのみ」(人生というものは、馬が走りすぎていくのを、もののすき間から、チ
ラッと見るくらいに、短くはかないものである)(「漢書」)。

+++++++++++++++

 この文章を読んでいると、現実もまた、夢の如きということになる。事実、過去に追い
やられた記憶というのは、夢そのもの。もし人に過去というものがあるとするなら、その
過去は、夢の中で過ぎた、一瞬にすぎないということになる。

 が、現実が「主」で、夢が「副」というわけではない。ときに、「夢」が、「現実」を支
配することもある。

 いつだったか、ある盲目の人が、私にこう話してくれたのを覚えている。「私にとっては、
眠ってから見る夢の世界のほうが、現実です」と。「夢の中では、ふつうの人のように、も
のを見ることができるからです」と。

 反対に、夢の中で、過去に死に別れたボーイフレンドと会っているという話もあった。
映画『タイタニック』(J・キャメロン監督)のテーマ音楽に合わせて、セリーヌ・ディオ
ンは、切なくも、こう歌う。

 「♪毎晩、夢の中で、私はあなたに会う。あなたを感ずる。そうしてあなたを思いつづ
けるのよ……」(Every night in my dream I see you, I feel you,That is how I know you go 
on.)

 夢と現実。今は、その間には、明確な境界がある。しかしいつか、私も、その夢の中で
生きるようになるかもしれない。そして自分の過去を振りかえりながら、「夢のようだった」
と言うようになるかもしれない。

 いや、かく言う私も、実は、その半分を、夢の中で生きているようなもの。現実の私は、
みすぼらしい、ただの初老男。しかし夢の中では、気高い文筆家。現実の私は、だれにも
相手にされない、平凡なブ男。しかし夢の中では、日本の外交をとりしきり、世界の平和
をコントロールする、偉大な政治家。

 手塚治虫の描いたコミックの主人公のように、本当のところ、どちらが(現実の自分)
で、どちらが(夢の自分)なのか、わからなくなる。本当の自分は、ひょっとしたら、す
べてのわずらわしさから解放され、どこか、南の島に逃げたいのかもしれない。が、その
一方で、夢の中の自分が、いつか現実の自分になることを願っている。

 私に神のような力があるなら、いますぐ、世界中の、あらゆる武器という武器を、灰に
してみせる、とか。

 ……と書いたところで、ワイフが、今、台所から、こう呼んだ。「あなた、ご飯、食べる
ウ?」と。

 こうして私の一日が、始まる。「現実」という一日である。やはり、こちらのほうが、現
実なのだ。私はただの夢想家。気高い文筆家でも、また偉大な政治家でもない。ただの落
ちぶれた初老のブ男。

 では、このつづきは、またあとで……。みなさん、おはようございます。
(050406)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
●7つの大罪

 キリスト教では、つぎの7つの大罪を定めている。

(1)高慢(pride)
(2)強欲(convetousness)
(3)淫乱(lust)
(4)怒り(anger)
(5)貪欲(gluttony)
(6)ねたみ(envy)
(7)怠惰(sloth)

 中世のカトリック教会が定めたことで、イエス・キリスト自身が言ったことではない。
こうした教条的なものの書き方は、後世の学者が好んでしたもの。

 「教条」というのは、信者にものを教えるとき、その内容を、このように箇条書きにし
たものをいう。これが、さらにのちになって、たとえばマルクス主義などでは、定められ
た教条を絶対的なものとして、機械的に信奉するようになった。ついでながら、こうした
排他的なものの考え方を、教条主義という。

 そこで、7つの大罪を考えてみる。一読してわかるように、私もあなたも(失礼!)、ま
さに大罪のかたまり。実行不可能というか、これを守れるような人は、聖職者だけという
ことになる。

 ところが、である。今朝、とんでもないニュースが飛びこんできた。何でも東京、山形、
大阪、岡山など12都府県に支部までもつ、キリスト教系宗教法人の創設者でもある牧師
が、複数の信者少女に性的乱暴をしたとかで、告訴されたというのだ(4月6日)。

 S神C教会のNG(61歳)というのが、その男。ヤフー・ニュースですら、「宗教団体
のトップが、未成年の信者への性的暴力で逮捕されるのは極めて異例」とコメントを書い
ている。

 こういう事件に遭遇すると、信者の考え方は、まっ二つに分かれる。(1)そのまま信仰
から遠ざかる人。(2)「ありえない」「まちがい」と、事実を否定し、それでも牧師につい
ていく人。

 実際には、後者の例が多い。「私たちが信じているのは、牧師ではなく、神だから」と。

 もしこの段階で、牧師を否定してしまうと、それまでの自分の人生は何だったのかとい
うことになってしまう。つまり自己否定に追いこまれる。

 だからそれこそ、死んでも、殺されても、その信仰に追従するしかない。加えて、こう
いうケースでは、信者の脳ミソはからっぽとみてよい。一応、思想らしきものはあるは、
大部分は、「上」から注入されたもの。自分で考え、自分でつかんだ思想ではない。

 それに信仰から離れたら、信者の心は、それこそ糸が切れた凧(たこ)のようになって
しまう。実際には、極度の精神不安状態となる。私は、そういう信者や元信者を、何十人
とみてきた。

 このニュースを受けて、恐らくその全国の支部では、緊急集会が開かれているにちがい
ない。

 「何かのまちがいです」
 「ありえないことです」
 「警察の陰謀です」
 「女の子たちの虚言です」
 「私たちが信じているのは、神です!」と。

 多分、そんな説法が、ガヤガヤとなされているにちがいない。

 だからといって、その教団がまちがっているとか、信者がおかしいと言っているのでは
ない。こういうケースは、日本では珍しいが、外国では、頻繁(ひんぱん)に起きている。

 たとえば心理学の世界には、「反動形成」という言葉がある。「そうであってはいけない」
という自分を無理に自分の中で、つくりあげてしまい、本来の自分とはまったく別の自分
をつくりあげてしまうことをいう。そしてたとえばセックスの話などになったりすると、
ことさら、マユをしかめて見せたり、「私はそういうことには興味がありません」などとい
ったことを、言う。

 が、その裏で、少年や少女に、性的な暴力やいたずらを繰りかえす……。

 まあ、この牧師は、神を、金もうけの道具に使っただけ、ということになる。反動形成
というのは、わかりやすく言えば、「仮面」。まだ有罪が決まったわけではないので、今の
段階ではここまでしか書けないが、しかし……その牧師は、仮面をかぶっていた……。

 実におそまつな事件である。この牧師は、信者の心をもてあそんだということになる。
が、それほど、恐ろしい大罪はない。

 私なら、7つの大罪に、もう一つ、大罪を加える。そしてそれを筆頭に置く。

(1)宗教を利用して、他人の心をもてあそぶこと。

 あとの大罪は、まあ、大罪は大罪だが、この大罪にくらべたら、かわいいものだ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●映画『アビエイター』

 映画『アビエイター』を見る。主演は、レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ブランシ
ェット。「航空士(Aviator)」の映画である。若き日のハワード・ヒューズを描い
た、伝記映画だという。

 飛行機好きの私には、たまらない。前から楽しみにしていた。

 市内の映画館へ行くと、「水曜日は、レディズ・デイ」とかで、ワイフは、1000円。
……と、思っていたら、私も1000円。「どちらかに50歳以上の年配の方がいらっしゃ
れば、夫婦2人で、2000円です」と。

 思わず、「ぼく、49歳です」「それにこれは、ぼくの愛人です」と言ってしまった。す
るとすかさずワイフが、「あなたはどう見ても、49歳には見えないわよ」と。受けつけの
女の子も、「愛人の方でも結構です」と。

 そうだった! ハハハ!

 やはり映画館で見ると、映画が、迫力がちがう。飛行機のエンジン音が、バリバリと腹
にひびく。私は、もうそれだけで、うっとり。

 まあ、映画そのものが、けた外れの金持ちの、これまたけた外れの道楽映画。しかし、
よかった。星は、★★★★プラス半分の、4・5個。

 見終わったあと、「アメリカ人のすることは、スケールが大きいわね」と、ワイフが一言。
模型飛行機を作って遊んでいる自分が、みじめになった。

 で、気になったのは、(どうでもよいことだが)、Aviatorは、「エイビエイター」
を発音するのではなかったのか。「Alien」も、「エイリアン」と発音する。

 家に帰って辞書で調べると、「エイビエイター」が正しくて、「アビエイター」と読むこ
ともあることがわかった。映画の中では、「エイビエイター」と発音していたが……。ほか
にも、「Patriot(ペイトリオット)」という映画は、「パトリオット」になっていた。
歌手に「エンヤ」という人がいるが、英語人たちはみな、「イーニャ」と発音する。

 反対に、英語人たちは、「加藤(KATO)」を、「ケイトウ」と発音する。「日立(HI
TACHI)」を、「ハイタッチ」と発音する。(これもまた、どうでもよいことだが……。)

 ただ映画館で映画を見ると、その大画面のせいか、そのあとぐったりと疲れる。終わり
ごろ、トイレへ行くのをがまんして映画を見ていたら、脳圧があがって、頭痛が始まって
しまった。

 頭痛そのものは、そのあと、2度、トイレへ行って、かなり楽になったが……。

 帰りに、「夫婦で2000円というけど、夫婦と愛人を、どうやって見分けるのかな?」
と私が話すと、「いいんじゃない? 愛人どうしでも……」とワイフ。

私「女の子の前で、キスをすれば、2000円。しなければ、ふつう料金というのはどう?」
ワ「愛人どうしのほうが、キスをするわよ。夫婦は、しないわよ」
私「(省略)」
ワ「(省略)、でも、あなた、そんなこと、マガジンに書いてはだめよ」
私「わかっている」と。

 春休みも、もうおしまい。兄の介護のこともあって、今年もオーストラリア旅行はとり
やめ。介護認定のため、今は、姉のところにいる。その後どうなったか、あとで電話で聞
いてみるつもり。

(補記)

 ハワード・ヒューズと言えば、すべての名声と富を、手に入れた人物である。彼が住ん
だ世界は、私たちにとっては、夢また夢。うらやましくさえ思わないほど、はるか遠くの
世界。

 そんな人物の孤独と苦悩が、この映画の一つのテーマになっていたように思う。「そうい
うものかなあ?」と思いつつ、私は、その映画を見た。アカデミー賞5部門で入賞したと
いうだけあって、見ごたえのある映画だった。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 4日(No.563)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子育て一口メモ】

●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起
きたとする。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれる
とか。そういう何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを
「強化の原理」という。子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗し
たり、叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるよ
うになる。これを弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の
原理が働くようになると、学習効果が、著しく落ちるようになる。


●内面化

子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、
心の発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、
(2)自己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫
理観の発達、社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした
発達を総称して、「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲
的な母親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、
母親が意欲的過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われ
る。とくに子どもに対しては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに
任せ、一歩退きながら、暖かい無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失か
ら、やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート
現象(燃え尽き症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なこ
とは、達成感。ある程度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。
子どもには、ほどよい目標をもたせるようにする。


●子どもの恐怖症

恐怖症といっても、内容は、さまざま。対人恐怖症、赤面恐怖症、視線恐怖症、体臭恐怖
症、醜形恐怖症、吃音恐怖症、動物恐怖症、広場恐怖症、不潔恐怖症、高所恐怖症、暗所
恐怖症、閉所恐怖症、仮面恐怖症、先端恐怖症、水恐怖症、火恐怖症、被毒恐怖症、食事
恐怖症などがある。子どもの立場になって、子どもの視線で考えること。「気のせいだ」式
の強引な押しつけは、かえって症状を悪くするので注意。


●子どもの肥満度

児童期の肥満度は、(実測体重Kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗で計算する。
この計算式で、値が160以上を、肥満児という(ローレル指数計算法)。もっと簡単に見
る方法としては、手の甲を上にして、指先を、ぐいと上にそらせてみる。そのとき、指の
つけねに腱が現れるが、この腱の部分にくぼみが現れるようになったら、肥満の初期症状
とみる。この方法は、満5歳児〜の肥満度をみるには、たいへん便利。


●チック

欲求不満など、慢性的にストレスが蓄積すると、子どもは、さまざまな神経症的症状を示
す。たとえば爪かみ、指しゃぶり、夜尿、潔癖症、手洗いグセなど。チックもその一つ。
こうした症状を総称して、神経性習癖という。このチックは、首から上に出ることが多く、
「おかしな行動をする」と感じたら、このチックをうたがってみる。原因の多くは、神経
質で、気が抜けない家庭環境にあるとみて、猛省する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子育て・あれこれ】

●子どもの自己中心性

 子どもは、そもそも自己中心的である。ものごとを、(自分)を中心にして考える。「自
分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。

 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思い
こむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。これを「アニミズム」(ピ
アジェ)という。(心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って説明す
る。)、

 しかし年齢とともに、この自己中心性は薄れ、他人の視点から見た自分をとらえること
ができるようになる。いわゆる(自己概念)が、確立してくる。

 その年齢は、ピアジェによれば、9〜10歳以後ということだそうだが、私の経験では、
もっと、早い時期ではないかと思う。個人差もあるが、すでに6歳後半には、この自己概
念は、かなりはっきりしてくる。

 ところで、その自己中心性について、こんな話を聞いた。

 自分のひとり息子に、恋人ができたときのこと。その恋人について、母親が、息子に、「ど
うしてあんな女がいいの?」「もっといい女は、いくらでもいるでしょう」と迫ったという。
これなども、自己中心性の表れとみてよい。

 その母親は、自分の視点だけで、息子の好みを誘導しようとしている。

 言いかえると、その人が話す、(好き・嫌い談議)で、その人の人格の完成度を知ること
ができる。

 どんなことでも自分の好みを、相手に押しつけようとする人は、それだけ人格の完成度
の低い人と見てよい(EQ論)。自分からみて、いい人は、いい人であり、そうでない人は、
そうでない、と。

A「あの人、かっこいいわね」
B「どこが? ぜんぜん、つまらないわよ」
A「でも、すてきよ」
B「あなた、どんな目をもっているの? あなた、おかしいわよ」と。

 この会話の中のBは、かなり自己中心性の強い人ということになる。
(はやし浩司 自己中心性 ピアジェ 自己概念 アニミズム)


●がんこ、わがまま、強引

 その自己中心性は、年齢とともに薄れるものではあるが、人によっては、姿を変えて、
その人の中に、居座ることがある。

 たとえば、がんこ(他人の話を聞かない)、わがまま(自分勝手)、強引(自分の思いど
おりにする)など。

 こうした性格の人は、それだけ人格の完成度の低い人とみてよい。反対に、人格の完成
度の高い人は、いつも、相手の中に自分の視点をおいて、ものを考えようとする。そうい
うものの考え方が、極限にまで昇華された状態を、「愛」といい、「慈悲」という。

 が、この自己中心性は、そうである人には、わからない。自分が自己中心的であること
にすら、気づかない。むしろ、そういう生きザマを、「個性的」と誤解する。

 この自己中心性は、自分が、その自己中心性から脱却したとき。あるいは、より自己中
心的な人に出会ったとき、その反射的効果として、それを知ることができる。

 そこで重要なことは、まず自分自身の中の、自己中心性に気づくこと。

 できれば、あなたの子どもの精神的な発達度を、観察してみるとよい。子どもというの
は、乳幼児期には、ものの考え方が、自己中心的である。その自己中心性を基本に、「私は
どうか?」と自問してみるのがよい。「私は、どうだったか?」でもよい。

 こうして自分の自己中心性に気づく。

 もう一つの方法は、より自己中心的な人を、観察してみるというのがある。あなたのま
わりにも、いるはずである。そういう人を観察しながら、「では、私はどうか?」と考えて
みる。いろいろな例がある。

 ある女性(60歳くらい)は、80歳を過ぎた母親の介護をしている。要介護度2の母
親だが、「デイサービスを受けるのはいやだ」と、がんばっている。

 そこでその女性が、母親にこう言ったという。「お母さん、本当に私のことを思っている
なら、どうかデイサービスを受けてください。私も毎日、こうして、お母さんの介護をす
るのに疲れました」と。

 しかしそれでもその母親は、デイサービスに行かなかったという。行かないばかりか、
その女性に対して、「私は、お前のような親孝行のいい娘をもって幸福だ」「お前は神様み
たいだ」と言っているという。

 その女性はこう言った。「私の母は、自分のことしか考えていないのですね」と。

 もう一つは、こんな例だ。

 ウソのような話だが、実際にあった話である。

 あるときその夫(45歳くらい)が、自分の愛人を自宅へつれてきて、自分の妻にこう
叫んだという。

 「今日から、この女も、この家に住むことになった。めんどうをみてやってくれ」と。

 それに妻が猛反発すると、その夫は、さらにこう言ったという。「ここは、オレの家だ。
お前が文句を言う筋あいの話ではない。文句があるなら、この家から出て行け」と。

 まだある。

 息子が30歳そこそこで、家を購入した。その家を見て、その息子の母親は、息子にこ
う言ったという。「親の家を建てなおすのが、先だろ」と。

 こうした自己中心性の強い人はいくらでもいる。そういう人を見ながら、「自分はどうか」
と自問を繰りかえす。そういう形で、自分の中の自己中心性を知る。

 さらに、こんな例がある。ごく最近、私にメールをくれた人である。

 その娘(28歳)が、親の反対を押し切って、駆け落ち同然にして、家を出ることにな
ったときのこと。その母親は、その娘に、こう言ったという。

 「親を捨てて、この家を出て行くなら、裸で出て行け。お前の服も、下着も、みんな、
私が買ってやったものだ。出してやった大学の学費も、全部、返せ!」と。

 自己中心的な人、つまり人格の完成度の低い人は、そういうものの考え方をする。そこ
であなたも、自問してみるとよい。

 あなたは、がんこではないか?
 あなたは、わがままではないか?
 あなたは、強引ではないか、と。

 自己中心性は、あなたがおとなになるために、まずあなたが克服しなければならない問
題と考えてよい。
(はやし浩司 自己中心 自己中心性 ガンコ わがまま 強引)

【付記】

●乳幼児の自己中心性

乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的特徴が
ある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きてい
ると考える。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考
える心理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを
念ずることで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別が
できない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつ
くられたと考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月
を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工
論によって、説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されて
いく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには
青年期を迎えることがある。
(はやし浩司 物活論 実念論 人工論 乳幼児の自己中心性)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人間はサル?

 われわれ人間の祖先が、サルから分かれて、この地上に現れたのは、今から約60万年
前ごろと言われている。

 最初は、ヒトともサルとも、区別のつかなかった生物だったらしい。だから類人猿(オ
ーストラロピテクス)と呼ばれていた。(人類のことを、ヒト科ヒト族という。ホモサピエ
ンスともいう。ここでは、人類を、ヒトとする。)

 が、それから進化に進化を重ねて、類人猿、原始人となり、今の、人間になった。

 問題は、その60万年という年月。その間、ヒトは、何をしてきたかということ。60
万年を、60万センチメートルにたとえると、6キロメートルの長さということになる。

 が、人間の歴史は、新石器時代から始まって、長くてみても、6000年前後。長さに
たとえると、60メートル。ということは、6キロから60メートルを引いた、残りの5
キロ940メートルの間、ヒトは、どこを、どのように歩いていたのだろうかということ
になる。

 私の想像では、ヒトは、サルに近い生活を、細々と繰りかえしていたのではないかと思
う。人口も少なかった。寿命も短かった。

 が、ある日、突然、進化の速度を速めた。今から5500年ほど、前のことである。そ
してほぼ同時期に、二つの文明が、この地上に現れた。黄河文明とメソポタミア文明であ
る。それはまさに突然変異というにふさわしい変化だった。

 人間は言葉を話し、ものを作り、歴史を残し始めた。しかしそのとき、人間は、本当に、
5キロ940メートルと、決別したのだろうか。あるいは、そのまま過去を、引きずって
いるのだろうか。

 そこで私は、最近、よくこう思う。実は、人間には、二面性がある、と。60万年もの
間生きてきた、サルとしての部分と、突然変異してできた人間としての部分である。今が
そのときで、人間は、自分の中で、たえず、その二つの衝突を繰りかえしている。

 が、それはとても人間自身の手に負えるものではない。そこで登場したのが、宗教では
ないか、とも。わかりやすく言えば、宗教が、サルと人間を、調整する役目を果たすよう
になった(?)。

 放っておけばサルになるし、そうかといって、サルのままの自分を許すこともできない。
つまり宗教は、ヒトを、サルから人間へ、その橋渡しをする役目を果たした。今も果たし
ている。……と、私は考える。

 しかしここが肝心な点だが、宗教は、決して儀式であってはいけない。宗教は思想に始
まり、思想で終わる。もし儀式があるとするなら、その儀式は、思想を支えるものでなけ
ればならない。

 そしてさらにここが重要だが、宗教は、つねに常識という純粋な水で洗われたものでな
ければならない。常識から離れた宗教はないし、もしどこかでその常識からはずれている
と感じたら、それは宗教ではない。迷信である。

 理由は簡単。

 先に書いたように、5キロ940メートルの間、人間は、常識だけを頼りに生きてきた。
またその常識があったからこそ、ヒトは、その長い時間を生き延びることができた。宗教
といえども、その常識の上にある。

 人間は、ヒトから人間になった。

 だからまず問うべきは、常識であり、宗教は、そのつぎと考える。仏教にせよ、キリス
ト教にせよ、だ。というのも、今、仏教やキリスト教の名前を語った、おかしな宗教が、
あまりにも多すぎる。私たちはそういう宗教を、「常識」という目で、一度フィルターにか
けねばならない。
 
 信ずるのは、そのあとでよい。
 
 ……といっても、私は、宗教を否定しない。むしろ、さがしている。ヒトをサルから人
間に橋渡しをする宗教を、である。人間には、生きる力はあるかもしれないが、孤独に耐
える力はない。人間は、ヒトから人間になるとき、知恵と引きかえに、孤独を手に入れて
しまった。

 そういう意味では、生きるということは、孤独との戦いということになる。それについ
て聖書は、真理と自由を対比させている。真理を手に入れれば、人間は孤独から解放され、
真の自由を手に入れることができると教える※。
 
 それを教えるのが宗教であるとするなら、私は、宗教を信ずる。もし、そういう宗教が
あるなら、という話である。

 しかしそれが見つからないとするなら、自分で歩くしかない。ただ一言、願わくは、私
は、サルのまま死にたくない。つまりは、その一語に尽きる。

※注 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、
汝らに、自由を得さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、その
ときこそ、あなたは自由になれる」と。

【補記】

●宗教と儀式

 ほとんどの宗教には、儀式がともなう。儀式化することで、宗教を、ときには絶対化し、
ときには、習慣化する。権威化や装飾のために、用いられることもある。が、そのほとん
どは、神聖化のためと考えてよい。

 それがまちがっているとか、おかしいと言っているのではない。信仰するということは、
心の拠りどころを求めることであり、それにはそれなりの、お膳立てが必要である。

 そこらにころがっている石ころを、仏と思う人は少ない。しかしその石ころが彫刻され、
仏の像となったとき、そこには、別の価値が生まれる。信仰も、そこから始まる。

 同じように、宗教というのは、ばくぜんとした概念だけでは、宗教になりえない。教義、
絶対性、そしてここでいう儀式、これら三者がかねそなわって、宗教は宗教としての価値
をもつ。

 私が最初に、その儀式に疑問をもち始めたのは、若いころ、こんな光景を目にしたから
だ。

 ある仏教系の宗教団体だったが、たまたま信者たちが、祭壇の清掃をしているところだ
った。しかしそれは傍(はた)から見ていても、こっけいなほど、ぎょうぎょうしいもの
だった。

 信者たちはみな、白い手袋と、マスクをかけていた。ほこりが手についたり、ほこりを
口の中に入れないためにそうしていると思ったのだが、そうではなかった。彼らにしてみ
れば、神聖なる場所を、人間の手や息でけがさないためだった。

 「なるほど」と思ってみたり、「?」と思ってみたり……。

 こうした儀式がさらにエスカレートしたのが、いわゆるカルト教団である。教祖と呼ば
れる指導者の入った風呂の湯を、信者たちが、分けあって飲んだり、教祖の髪の毛を煎じ
て飲むというのもある。

 つまり儀式も、どこかでブレーキをかけないと、信者は、とんでもないことをしながら、
そのとんでもないこと自体に、気がつかなくなる。その盲目性が、その宗教を危険なもの
にすることもある。

 ふつうの議論なら、議論で終わるが、そこに宗教性がからむと、信者たちは、命をかけ
るところまでする。たとえば同じ戦争でも、宗教戦争となると、凄惨(せいさん)きわま
りないものになるのは、そのためである。たがいに、相手を容赦しない。

 儀式は、その宗教を絶対化するための道具、あるいは手段として、使われることが多い。
これもまた極端な例かもしれないが、それこそ、生きた人間を、生け贄(いけにえ)とし
て、神(?)に捧げるというのもあった。

 信仰をするにしても、いつも、心のどこかで「常識」をたよりに、ブレーキをかける。
おかしいものは、「おかしい」と思う。そういうブレーキである。これは信仰をするものの、
イロハだと私は思うのだが、私はまちがっているだろうか。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●掃除

 今朝、朝風呂に入った。入りながら、風呂をピカピカにみがいた。風呂おけも、イスも、
窓も、ピカピカにみがいた。金属製(ステンレス製)のたわしでみがくと、ウソのように、
きれいになる。それが楽しかった。

 夕方、もう一台、掃除機を買ってきた。2980円だった。掃除機について言えば、ど
んどん、値段がさがっていく。このところ、ヒマさえあれば、掃除ばかりしている。

 おかしなことだが、掃除をしていると、ストレス解消になる。無我夢中で、バスタブを
みがいているときも、そうだった。これはどういう現象によるものなのか。


●ドライブ

 マガジン用の写真がほしくて、ワイフと、フラワーパークへ行く。このあたりでも最大
規模の植物園である。が、行ってみてびっくり! いつもは閑散としているのに、今日は、
超満員! 駐車場がぎっしりと車で埋まっていた。

 それを見て、急きょ、計画を変更。そのまま、舘山寺温泉街へ。そこで海の写真をとっ
て、おしまい。


●運動

 この2、3日、たいした運動をしていない。そこでワイフに、「町まで歩いてみようか」
と声をかけると、「私は、病みあがりだから……」と。ワイフは、この数日間、咳がひどい。
ワイフは、風邪だというが、ほかに症状はない。

 しかたないので、私は、ハナと散歩。

 明日は、町まで歩いてみようと思う。


●夕食

 日曜日ということで、今夜は外食をすることに。近くの和風レストランへ行ってみた。
が、ここも満員。20分ほど待って、ようやく席に。

 外では、浜松祭りの練りをしている人たちがいた。ラッパと、笛を、けたたましく鳴ら
しながら、練っていた。「練(ね)り」というのは、いわば祭りの行進のようなもの。浜松
祭りでは、みなが、独特の、どこか足を、がに股にして歩く。

 もうすぐ凧(たこ)祭り。しかしまだ1か月も先。浜松の人たちは、浜松祭りが大好き。
その凧祭は、5月3、4、5日。中田島砂丘の一角で、開かれる。例年だと、50万人も
の人が出るそうだ。


●T先生の鎌倉へ

 T先生から、「遊びにおいで」というメールが届いた。この4月x日に、ワイフと行くこ
とにした。「夕食をごちそうしてくれる」という。

 T先生は、少し前、カキフライを食べて、食中毒を起こしたという。返事に、「今度は、
生意気なガキが遊びに行きますから、よろしく」と書いた。

 
●ウィルス

 パソコンに入るウィルスには、いろいろな種類があるそうだ。ふつうの(?)のウィル
スのほか、ネットワーム型ウィルス(パソコンがインターネットに接続するだけで、感染
してしまう)、ネットスカイワーム(メール添付のファイルを介して感染する)、スクリプ
ト型ウィルス(Javaスクリプトなどのスクリプト言語で記述されたウィルス)など。

 ほかに、MSブラスト(Windowのセキュリィティホールを悪用して感染するウィ
ルス)、スパイウエアなどもある。さらに最近では、他人のパソコンを遠隔操作しながら、
ウィルスをばらまくというのもある。称して、「ゾンビウィルス」。

 これだけすばらしい通信手段を手にしたのに、一方に、ワルがいて、それを悪用どころ
か、妨害している。

 現在のWindowの後継機は、2006年に発表されるという。来年だ。セキュリィ
ティに力を入れた、「ロングホーン」(MS社)というのが、それ。

 しかしいくらセキュリィティに力を入れても、ワルはなくならない。そこでパソコンを
介さずに、パソコン並みの機能をもつ、PCレス機器の時代がやってくると予想する人も
いる。

 すでにデジタルカメラと、印刷機を直接つないで、プリントアウトできる装置も開発さ
れている。これからは、そういう機器が、もっとふえるはず。

 たとえばインターネットも、電話のように、素性のわかっている人だけとインターネッ
トができるようになるとか。機能は制限されるかもしれないが、これは、しかたのないこ
とかもしれない。

++++++++++++++++++++++++

●高校の同窓会

 久しぶりに、高校の同窓会の案内。残念ながら、日程が合わず、キャンセル。ふるさと
は、ますます遠ざかっていく。

 ところでアメリカやオーストラリアには、同窓会なるものは、ない。日本の学校のよう
な、担任システム(クラスが担任ごとに分かれている)がないため。学校全体のパーティ
のようなものはあるらしい。

 「学校時代の友人には会わないのか?」と聞くと、オーストラリア人の友人は、こう言
った。「会いたいときに会っている」と。そういうものか?

 みんな元気なら、何より。

 大学時代の同窓会(法学科単位)は、ほぼ毎年、ある。しかしこちらは、男ばかりで、
つまらない。飲んで、騒いで、歌を歌って、それでおしまい。

 しかしなぜ、同窓会など、するのだろうか? 会いたい友だちとは、そのつど、会えば
よい。そうでないと、同窓会が、ただ単なる、詮索(せんさく)の場で終わってしまう。「あ
の人は、何をしているの?」「この人は、何をしているの?」と。もっとも、そのルーツは、
日本の学歴制度にある。さらに昔にさかのぼれば、身分制度にある。

 昔は、出身校で、身分を差別した。「学閥」という弊害も、そこから生まれた。もっとも、
悪いことばかりではない。同窓会に出るたびに、その時代に、そのままタイムスリップす
る。自分を再発見するには、よい機会だ。

 まあ、同窓会を楽しみにしている人もいるから、これ以上、批評するのは、やめよう。
いつか、もう少し、時間的に余裕ができたら、出てみたい。

(まさか、高校時代の知人で、私のマガジンを読んでいる人はいないと思う。年齢的に
も、そんな歳ではないし……。このマガジンは、子育ての最前線でがんばっている人の
ためのマガジン。孫育てをしている人が、読んでも意味がない(?)。が、万が一、読ん
でいる人がいたら、ごめん!)

 しかし私がいたころのM高校は、G県でも、有数とまではいかないにしても、結構な名
門校だった。しかしもう20年前には、G県の中でも、ボトム校になってしまったという。
たまたま同窓会にやってきた、当時の教師が、「残念ながら今は……」と、会の冒頭で、ど
こか苦笑いをしながら、そうあいさつをしていたのを覚えている。

 まあ、いいじゃないですか。ボトム校でも、何でも。人間の価値まで、それで決まるわ
けではないし……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●劣等意識

 学校に対する劣等意識が、そのままその子どもの劣等意識に、転化することがある。自
らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 ところで人間の行動を律するものには、大きく分けて、二つある。(1)内的規範と、(2)
外的規範である。

 内的規範というのは、その人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観をいう。

 外的規範というのは、その人の社会的地位や名誉、経歴などをいう。

 こうしたものが、いつも総合的にからみあいながら、その人の行動を律する。

 たとえばこんな例を考えてみよう。

 通りを歩いていたら、車が一台、窓をあけたまま、そこにあった。周囲には人影がまっ
たくない。遠くに家があるが、そこにも、人の気配はない。

 車の窓の中を見ると、手さげバッグが無造作においてあり、そのバッグからは、札束の
一部が見えている。窓の中に手をのばせば、容易に、手が届く距離である。

 もしあなたがそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか。「もらっちゃえ」
と思って、バッグごと、持ち去る人もいるかもしれない。しかしほとんどの人は、この段
階で、自分の行動にブレーキをかける。そのブレーキをかける力が、ここでいう内部規範
と、外部規範ということになる。

 「自分に恥じることはしたくない」というのが、内部規範。「私には、私の立場がある。
もしバレたら、私は名誉のすべて失うから、しない」というのが、外部規範。しかし実際
には、外部規範の力は、それほど、強いものではない。たいていは、「バレたらたいへん…
…」という程度の力でしかない。

 ともかくも、ほとんどの人は、そういったお金には、手をつけない。しかし、だ。その
内部規範を、その人の内部から破壊するものがある。

 それが劣等意識である。この劣等意識は、いわば心の中のがん細胞のようなもので、そ
の人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観を、少しずつ、むしばんでいく。最終的には、心そ
のものを破壊することもある。自暴自棄になり、善悪の判断すら、しなくなる。

 ところがこの劣等意識というのは、そのほとんどは、自分以外の人によって、植えつけ
られていくものである。友人とか、教師とか、あるいは親によるばあいもある。「君は、何
をやっても、ダメな人間だ」と言われることによって、劣等意識をもつようになる。 

 もう少し詳しく説明すると、こうなる。

 劣等意識は、長い時間をかけて、その人の中で、欲求不満として蓄積される。しかしさ
らにそれが慢性的につづくと、その劣等意識は、記憶のすみにおいやられ、人は無意識の
うちにも、自我の崩壊を防ごうとする。

 そこで多くのばあい、人は、その劣等意識を克服するため、つまり自我の崩壊を防ぐた
め、さまざまな行動に出ることが知られている。これを心理学の世界では、「防衛機制」と
いう。

 たとえば、勉強面で劣等意識をもった子どもが、スポーツ面でがんばる(=補償)、「勉
強なんて、どうせくだらない」と言って、勉強ができないことを、合理化する(=合理化)、
有名人のマネをして、自分がその有名人になったような気分になる(=同一視)、空想や非
現実的な世界にいりびたりになり、現実を忘れる(=逃避)、まったく別人となるよう、別
人格を自分の中につくる(=反動形成)などがある。

 しかしこれらも一定の範囲に収まっている間は、問題ない。むしろよい方向に作用する
ことが多い。

 が、その範囲を超えて、度を越すと、問題行動を起こすようになる。社会的に不適応症
状となって現れることもある。異常行動となって、犯罪に走るケースも、少なくない。

 つまり、人間がもつ、劣等意識を、決して軽く考えてはいけない。

 そこで最初の話にもどるが、こうした劣等意識は、子どもであればあるほど、鮮明にも
ちやすい。そしていくつかの過程を、一足飛びに飛び越えて、問題行動へとつながってい
く。

 「ボトム校」の問題と、劣等意識の問題は、こうして密接につながっていく。飛躍した
意見に聞こえるかもしれないが、現在の日本の教育には、こうした問題が隠されている。

 もう少し、かみくだいて説明してみよう。

 たとえば受験競争。勝ち組はともかくも、勝ち組が生まれる一方、当然、そこには負け
組みが生まれる。この負け組みは、毎日の学校生活を通して、「どうせ私は、ダメな人間な
のだ」という意識を、無意識のうちにも植えつけられていく。「少しくらいがんばっても、
どうにもならない」というあきらめも、そこから生まれる。

 つまり日本の教育制度の中では、一部のエリートを生み出す一方、同時に、無気力で、
従順で、もの言わぬ民(たみ)を生み出す。そういうしくみになっている。この後者の子
どもたちが、回りにまわって、勝ち組がリードする社会に対して、ブレーキとして、働く
ようになる。

 つまり勝ち組のつくりあげる社会を、負け組みがそれを打ち消すことで、相殺してしま
う。

 たとえば一方に、東大を出て、上級甲種の国家公務員試験に合格して、警察庁のエリー
トになる子どもがいる。が、もう一方に、受験競争から早い段階で脱落し、働いても働い
ても、夢も希望ももてず、その日暮らしの労務者がいる。犯罪を取り締まるのが前者で、
犯罪を犯すのが後者ということになれば、では、そもそも受験競争とは何かということに
なってしまう。

 少し極端な書き方をしてしまったが、おおまかな図式としては、それほど、まちがって
はいないと思う。つまりは、教育の世界では、「子どもを伸ばす」ことだけが最優先される
が、しかしそれよりも大切なことは、「子どもに劣等意識をもたせないこと」も、重要であ
るということ。

 そのためには、教育は、多様化されなければならない。自由化されなければならない。
学校以外に道はなく、学校を離れて道はないという世界のほうが、異常なのである。

 たとえば同じ学校にしても、アメリカやオーストラリアでは、学校単位で、自由にカリ
キュラムを組むことができる。入学年度すら、自由に設定できる(アメリカの公立小学校)。
あるいは生徒一人ひとりに合わせて、カリキュラムを組むこともできる(オーストラリア・
グラマースクール)。

 世界の学校は、すでに、そこまでしている!

 私の過ごした高校が、「ボトム校」と言われるようになって、もう20年になる。M高校
と、アルファベットで書かねばならないほどである。そうするのは、私が自分の母校を卑
下しているからではなく、現在、その高校に通っている子どもたちの心にキズをつけない
ためである。

 しかしバカげている。本当にバカげている。こうした序列ができていること自体、バカ
げている。

 そこでこれは私からの希望ではあるが、世の中には、反対にエリート校というのもある。
そういう学校は学校で、どうか、おかしなエリート意識を助長するような活動は、さしひ
かえてほしい。

 H市でもナンバーワンの進学校とも言われているSS高校ともなると、部活の総会とい
うだけでも、壇上には、OBたちがズラリと顔を並べる。気持ちはよく理解できるが、そ
ういうおかしなエリート意識が、回りまわって、どこかで、これまたおかしな劣等意識を
つくる。そしてそれが、日本人のみならず、社会のあり方そのものをゆがめてしまう。

 あえて言うなら、外的規範に頼らず、みながみな、内的規範によって、自分を律するこ
とができるような、そういう子どもを育てるのが、これからの課題と考えてよい。そのた
めには、学校教育はどうあるべきか。それを考えていかないと、日本は、ますます国際社
会から、取り残されてしまうことになる。

 「ボトム校」という言葉から感じたことを、書いてみた。
(はやし浩司 劣等感 劣等意識 防衛機制 補償 合理化)


●HPの移動

 4年前に買ったパソコンから、今度買ったパソコンへ、HPのファイルを移動した。

 N社のHPソフトを使っているが、親切なのか、不親切なのか、(多分、親切心からだろ
うが)、HPを開く前に、かならず、バックアップをとってくれる。(バックアップしない
方法もあるが……。)

 そのため、そのつど、ファイルが、ゴミの山のように、パソコンの中に残る。で、この
ゴミの処理が、結構、たいへん。おっかな、びっくりで、ともかくも、引っ越し、完了!

 よかった。うれしかった。疲れが、どっと、出た。+楽しかった。

 この緊張感と、そのあとやってくる満足感が、何とも言えない。ハハハ。


●国際情勢分析(今日は、わかりやすく……)

 ますますわかりにくくなってきましたね、ホント! この先、日本は、どうなるのでし
ょうね? きっとみなさんも、ご心配のことと思います。(私も心配していますが、すべて
が、日本にとっては、悪いほうへ、悪いほうへと進んでいるような気がしませんか?)

 まず、わからないのが、韓国のN大統領。反日が転じて、ますますK国寄り。アメリカ
と中国の関係も、ギクシャクしてきましたね。おまけに、アメリカとロシアの関係も……!

 そこでK国の金XXは、今度、ロシアを訪問することになりました。そしてその前に、
中国のK国家主席が、K国を訪問することにもなりました。

 アメリカは、「もう知ったことか!」と、サジをなげそうな雰囲気。「K国が、核兵器を
もっているかどうか、もう、知らないヨ〜」とまで言い出しましたよね。

 こういうときは、まず、どうなれば、日本にとってよいのか、それを考えます。すると、
当然、中国や韓国も、同じように考え、それを読んでいますから、日本にとっては、不利
になるように行動してくるはずです。

 国際外交では、相手が日本に対して、不利になるような行動をする可能性があるときに
は、その前に、それができないように、手を打っていきます。将棋と同じです。どこかに
待ち駒を置きながら、相手の動きを誘います。

 日本にとって一番よいシナリオは、K国の金XX体制が自然崩壊すること。あるいは韓
国と、K国が、さらに反目しあうこと。そしてK国が、中国からも見離され、ロシアから
も見放され、K国の核兵器問題が、国連の安保理に付託されること。

 そこで、韓国や中国は、その反対の行動を始めます。日本のこうした(思い)を、ちゃ
んと、読んでいますからね。まず金XX体制を崩壊させないこと。韓国は、K国と仲よく
する。K国は、中国やロシアと親交を深める。今のところ、こうした流れの中で、国際情
勢が進んでいるようです。

 つまり日本はますます孤立化する! ああ、日本、危うし!

 では、どうするか、ですよね。

 ここまできたら、韓国とは、袂(たもと)を分かつしかないでしょうね。「まあ、そこま
でおっしゃるなら、経済関係も、ここまでですね」と。けんかまですることはないにして
も、無理に仲よくしようと思わないこと。

 ゆいいつの友だちは、アメリカ。幸いにも、韓国のN大統領が、先日、R国務長官に、「韓
国を選ぶか、日本を選ぶか、はっきりさせろ」「日本を捨てろ」と迫ったとき、R国務長官
は、それを無視してくれましたよね。ありがたいことです。N大統領は、自分の立場が、
まったく、わかっていない。かわりに、韓国のほうが、アメリカから捨てられそうな雰囲
気になってきました。

 つまり米韓同盟は、もう崩壊寸前。あるいは、すでに崩壊状態。イラク情勢がもう少し
落ちつけば、アメリカは、韓国に絶縁状を手渡すはずです。

 そうなれば、いっせいに、外資が、韓国から逃げ出しますよ。つまりまたまた韓国は、
破綻(デフォルト)。そのスキをついて、南北関係は、緊張状態に! そのときN大統領は、
どうするのでしょうか?

 そういう状態にさせてはならじと、今度は、中国が登場してくるはずです。

 まず中国は、日本とK国の間に立って、日本に、戦後補償を迫ってくるはずです。(すで
にその打診を何度も、日本側にしてきています。)そのお金で、K国は、中国から大量の武
器を購入する。そういう約束は、たがいの間で、もうできているはずですよ。

 韓国は、自分でも、「将来的には、中国の経済圏に入る」と、言っています。まあ、日本
としては、「どうぞ、ご勝手に」と言うしかありませんが……。

 ただ心配なのは、日本とK国の間の、戦後補償問題になったときには、もうアメリカは、
日本を助けてはくれないということ。だって、この問題は、アメリカには、関係ない問題
でしょ。「日本は、日本で、勝手にやりなさい」となるわけです。

 だから日本は、K国のおどしにビクビクしながら、その交渉に応ずるしかない。その額、
4兆円とも、10兆円とも言われています。もう、メチャメチャな金額です。「払うのがい
やなら、戦争!」と、K国は、そのとき言うでしょうね。

 そこで日本としては、先手を打つためにも、できるかぎりはやく、K国に金XX体制を
崩壊させなければなりません。早ければ、早いほどよいのです。が、韓国は、そういう日
本の内心をよく知っていますから、ますますK国を助ける。

 そこで日本は、アメリカを動かして、韓国のそうした動きをけん制しようとします。現
にしています。だからN大統領は、ますます反日に……。それを中国やロシアは、またま
た知っているから、アメリカの動きをけん制する。

 今は、何というか、国際情勢が、もう、ごちゃごちゃの状態なんですね。6か国協議ど
ころでは、ないというのが、各国の本音ではないでしょうか。

 まあ、アメリカとしては、米韓同盟を解約したあと、K国を経済封鎖するつもりなんで
しょうが、中国やロシアが、うんと言わなければ、これまたどうしようもない。あとはK
国の出方一つということになりますが、ことこの日本に関して言えば、戦争は近いという
こと。このままでは、確実に戦争になりますよ。ウソじゃ、ないですよ。

 K国、韓国、中国は、たとえば島の領有権問題にかこつけて、日本にあれこれちょっか
いを出してくるはずです。それに日本が反応すると、即、過剰反応。この繰りかえしをし
ながら、やがて戦争になります。

 しかしね、みなさん、そういうワナにはまってはいけませんよ。日本が感情的になった
りすると、それこそ、K国の思うツボ。ただひたすら冷静に、事務的に。それがこれから
の日本の外交の基本です。

 韓国と中国は、戦争の突破口を、K国に開かせようとしていますよ。これは被害妄想で
も何でもありません。仮に日朝戦争ともなれば、韓国は、K国を支援。中国も、K国を支
援。中国が介入してくると、アメリカも、簡単には手を出せなくなります。

 そこで、日本としては、相手にしない。どこまでも、相手にしないこと。あとは国際世
論に、日本の正当性を訴えていく。ここが重要なのです。相手が日本の頬をたたいてきた
ら、たたかせてやる。その姿を、映像にして、世界中に発信すればよいのです。

 決してたたき返してはいけませんよ。韓国とK国が連合を組んで、日本を攻撃してきた
ら、日本は、ひとたまりもありません。確実に負けますよ。いくら装備は近代的でも、戦
意がちがいます。

 彼らは、心底、日本人の私たちをうらんでいます。またそういう教育を徹底して受けて
います。しかも、彼らはみな、2〜3年の徴兵制で鍛えられています。日本の若者たちと
は、ちょっと(でき)がちがいます。

 永田町の、頭の古い政治家たちは、勇ましいことを口にしていますが、もう少し現実を
見てほしいですね。「Y神社を参拝しないような政治家は、政治家の資格はない」とか、な
ど。そういう時代錯誤的なことを口にする政治家のほうこそ、政治家の資格はないと、私
は思うのですが……。

 本当に、日本の政治家のレベルの低さには、あきれます。なさけないですね。

 バカ呼ばわりされても、卑怯者と言われても、日本は、ここで戦争の引き金を引いては
いけません。わかりますか、みなさん?

 それこそ、韓国、中国、K国の、思うツボだからです。その思うツボに入らないこと。
それがこれからの日本の進むべき道なのです。

(以上、4月3日記。マガジンに載る5月4日には、国際情勢はさらに大きく変化してい
るかもしれません。)



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 5月 2日(No.562)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自意識(2)

 少し前、自意識について書いた。

 ふつう「自意識」というときは、「私は私」という意識をいう。この自意識には、強弱が
ある。

 自意識が強すぎるのも困るが、反対に、自意識が欠落しているのも困る。そこで私は、
その自意識を、(強・普通・弱)という視点で考えてみることにした。

 今日、ハナと散歩をしながら、そんなことを考えた。

(1)自意識が強い……いつも自分は他人から注目されていると思いこむ。また注目され
ていないと、落ちつかない。そのため、集団の中では、わざと目立つように、振る舞うこ
とが多い。

(2)自意識が普通……自意識が、他人との関係で、バランスがとれている。人間関係も、
バランスがとれている。自分の限界をわきまえ、節度を保った行動ができる。が、さりと
て、特異な行動もしない。

(3)自意識が弱い……「私」という概念が希薄で、外から見ると、何を考えているかわ
からない。何ごとにつけても、優柔不断で、他人の目を気にしない。生活態度や習慣も、
だらしない。

 要するに、自意識は、ふつうの人間として、ふつうの生活を営むためには、ほどほどで
あるのがよいということになる。

 一般論として言えば、自意識の強い人ほど、他人の目を気にする。そのため見栄やメン
ツにこだわりやすい。「世間体」という言葉もよく使う。

 が、この自意識が、よい方向に作用することもある。

 たとえば幼児期に何かと問題のあった子どもでも、自意識が育ってくると、自分で自分
をコントロールするようになる。「こんなことをすれば、人に嫌われる」「こうすれば、も
っと友だちが喜んでくれる」と。

 こうして自分で、自分の問題点を、改善していくことがある。たとえばADHD児にし
ても、その自意識が急速に発達し始める小学3、4年生を境に、症状が、外からはわかり
にくくなる。

 一方、自意識が弱すぎるのも、困る。ボサボサの頭で、フケだらけ。汚れた衣服を着て
いても、平気。他人がそれを批判しても、まったく気にする様子でもなし。競争心や向上
心がないのは、まだしかたないとしても、他人の問題については、「我、関せず」と無官関
係を決めこんでしまう。

 そんなわけで、繰りかえしになるが、「要は、バランスの問題」ということになる。

++++++++++++++++++はやし浩司

この自意識について、以前、書いた原稿を
2作、再度、掲載しておきます。
どうか参考にしてください。
自分をより知るための手がかりになると
思います。

++++++++++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レることがある。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


++++++++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気がつ
いていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついて
いないときは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になることが多い。
(はやし浩司 自分を知る ジョン・ハリ理論 ジョン・ハリー・ウィンドウ理論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●田丸先生からの論文

 T先生こと、田丸謙二先生の、「Independent Thinker」についての原稿について、
 田丸先生に、私のHPに掲載してよいかという許可を求めましたら、了解がい
 ただけましたので、ここに紹介します。(05年3月31日)

+++++++++++++++++++++

林様;

  私の原稿は貴方のような筆の達人※の中に入れると見劣り
します。 それでもよかったらお使いなさい。

  これは貴方にとって余計な話ですが、今日を含めてこの5日
学会がありました。 一般の傾向として「大学法人化」といって
夫々の大学は出来るだけ自立しろということになります。 「産学
協同」というきれいごとの言葉がはやりだしました。 大学は実際
に役に立つことをする傾向が強くなりました。 ひどいのは会社か
らテーマと金を貰って、大学院生を人手に使って「研究らしいこと」
をします。 大学院生はそれが「研究」であると思って一生損をしま
す。被害者です。私は大学が学問をしなくなったら、駄目であると思
います。これも気のせいか、independent thinker の訓練がなくなっ
て安易に生きて行こうとする傾向に思えます。 本当は「研究」とい
うものは必死に頭で考え、考えてするものです。 それがなくて創造
性は生まれません。 個性的な研究も駄目です。 皆が似たことを実
験する研究は研究でも「試験研究」或いは「試験実験」でしかありま
せん。 愚痴になりそうですが。 研究は矢張り誰も考えなかったこ
とを考える苦しいけれども、楽しいものなのですが。

  田丸謙二

(※「筆の達人」というのは、先生のいつもの独特のジョークです。)

田丸先生は、この中で、いくつかの教育上の重要なことを、私たちに
教えている。少し難解な論文なので、最初に、それについて、解説し
てみたい。

++++++++++++++++++

●「エデュケーション」と、「教育」のちがい

 先生は若いときから、「エデュケーション」と、「教育」はちがうと言っていた。

 エデュケーションの語源は、「educe」、つまり「引き出す」。子どもから能力を引き
出すのが、教育である、と。

 一方、日本の教育は、各宗派の総本山教育に例を見るまでもなく。「教え、育てる」が、
教育の基本になっている。日本独特の「わかったか?」「ではつぎ」式の詰めこみ教育は、
こんなところから生まれた。

●情報と考える力

 先生は、かねてから、「情報(=物知り)」と、「思考」は別と話している。とくに最近で
は、インターネットに、その例を見るまでもなく、情報は、簡単に手に入るようになって
きている。

 これからは、この状況は、さらに加速される。こうした状況をふまえながら、田丸先生
は、重要なのは、「ものを知っている」ことではなく、「どう考えるか」であると説いてい
る。

●アメリカの例

 日本で「アメリカ」というと、ハリウッド映画に代表されるアメリカをいう。

 そういうアメリカを見て、「アメリカの教育レベルは低い」と考える人は、多い。しかし
実際には、アメリカの教育レベルは、高い。そのことは、私の二男(アメリカの州立大学
を卒業)も、指摘している。

 二男が言うには、「アメリカでは、大学生がアルバイトをするなどということは、考えら
れない」、つまり、「そんなヒマはない」と。

 二男は、当時日本へ帰ってくるたびに、大学生の友人を訪問している。そうした友人た
ちの(遊びほけている姿)を見ながら、さかんに「信じられない」と言っていた。

 三男も、1年間、オーストラリアの大学に通った。その三男も、まったく同じことを言
っていた。

 こういう現状を、日本の親たちは、気がついているのだろうか。いつだったか、田丸先
生が、「アメリカの大学では、休み時間になると、教授室の前にズラリと学生が並ぶ。しか
し日本では、そんな光景を見たことがない」と書いていたのを、覚えている。

●教科書改革

 この論文の中で、田丸先生は、教科書問題についても、切り込んでいる。日本の学生が
使う教科書は、アメリカの高校生が使う教科書の、3分の1程度であると書いている。

 私が調べた、プレンティス版の中学校用の数学のテキストにしても、日本の百科事典程
度の大きさと分量がある。

 アメリカでは、教科書は、学校の備品ということになっている。日本のように使い捨て
ではない。また当然のことながら、アメリカおよび欧米各国には、教科書検定制度は、な
い。

 日本の文科省は、「教科書の検定制度は、世界の常識」などという、大ウソをついている
が、現在、検定制度を実施している国は、近くでは、韓国、K国、中国などの、全体主義
国家の色彩が強い国だけである。

 これについても、文科省は、「日本のそれは、外郭団体の検定であって、韓国や中国でい
う国定ではない」と、大ウソを言っている。検定も国定も、どこもちがわない。田丸先生
の論文を読むとき、そういう知識をもって読むとよい。

●考える力

 子どもに「考えろ」といっても、無理。子どもは、教師やおとなたちが、自ら考える様
子を見ながら、「考える力」を身につける。

 が、日本では、ペラペラと、調子よくしゃべることばかりが、優先される。またそうい
うふうにしゃべる人を、頭のよい人という。バラエティ番組の司会者に、その例を見るま
でもない。

 そこで先生は、「考える姿勢を子どもに見せることこそ、重要である」と説いている。教
えるのではなく、子どもに考える姿勢を見せ、その姿勢の中に、子どもを引きこんでいく。
少し勝手な解釈で、田丸先生から異議が飛んできそうだが、私は、そう解釈した。

 以上、田丸先生の論文は、一度は、目を通しておいてほしい。日本でも、超一級の科学
者であるし、また日本の教育も、田丸先生のような人の論文をもとに、その進むべき方向
を定めていく。

 あわせて、超一級の教育論文がどういうものであるか、この論文を通して、わかっても
らえれば、うれしい。

【田丸健二先生】

  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page037.html

+++++++++++++++++++

●日本は本当にダメになるのか?

もっと考えるエデュケイションを

田丸謙二
現在の中高校の理科教育について何か書けという、思いがけないご依頼があった。以下に
普段思っていることを書いてみる。

はじめに: Education という言葉は辞書には、「教育」と訳してある。しかし本当は日本
式の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことで
ある。ドイツ語でも教育は Erziehung 、「引き出す」のである。

これまでの日本式の「知識を詰め込む」教育とは、ベクトルが180度違っている。正に逆
なのである。わが国の教育関係者でこの辺りを本当に理解している人は、決して多くはな
い。むしろ極めて少ないと言えるのではないだろうか。

新しい時代の始まり; 一昔前には電車の中で見回すと、何処かで誰かが漫画の本を見て
いたものである。近頃ではどうだろう? 何処かに携帯電話をいじくっている人がいる。
これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出
したパソコンを開いてみているのではなかろうか。

そのような来たるべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが、今の子供たちで
ある。この時代には国際化、情報化がさらに格段に進み、ますます変化の早い時代になる。
この激動の時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来
るダイナミックな知恵を持った人材である。「知識偏重」の「詰め込み教育」は到底役立た
ない。「知恵」は自分で引き出し、育てるものである。我々は今の子供たちのために何をす
ればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへの真の education なのである。

これまでの教育; 日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネ
ブ」、真似をする、から来ている言葉である。学問を自分で築いた経験が乏しいので、学問
はおのずから出来上がったものを取り入れるものとなり、「学力」は知識量をあらわし、そ
の知識を偏重する風土になっている。

高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な
教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、
「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育
てたり、自分の頭できびしく考えて教科書にない新しい問題を考えたり、基本を発展させ
る頭の働きを磨く訓練はない。自分の言葉で話し、debateすることも殆どない。個性を伸
ばすどころか、education とは正反対のベクトルである。

こうして育った生徒は大学に来ても質問は少ない。受け取るだけで、考えながら学ぶ習慣
が乏しいからである。さらに大学院に進み、ここは独創的なことをするんだ、自分で考え
ろ、と言われても、出来るわけがない。教授の方も問題だが、練習問題的な論文が少なく
ない。野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役
と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。 

アメリカで教育改革: アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改
革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさ
せていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたの
である。

そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科でも基本的な考
え方として拡げていった。この大きな教育改革は1989年頃から科学アカデミーの 
National Research Council が中心となって始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り、
1992年から150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見
を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めて
National Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育
を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。知識量を減らしても
考え方に重点を移したのである。

わが国ではそれを、真似て、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3
割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」ということで、「ゆとり教育」が始まっ
た。文部科学省の密室で原案が作られ、上意下達で始まったのである。

しかし、文部科学相が変ると、「学力(この内容が本当の問題)の低下」が起こっているか
ら再検討をすると言って、今年の末頃までに結論を出すと言う。現場は混乱するだけであ
る。

アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような
子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, 
independent thinker」と言ったという(2)。

つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会になじみ、そして independent 
thinker つまり自分なりに個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show 
and tell、自分の言葉でしゃべる練習をして、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU 
think ? と自分で考える訓練をさせられる。その基本的考えは、すべての子供はそれぞれ生
まれつき異なるということから始まる。

生徒各自が自分で考え、自分なりによい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education 
なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent 
thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、 

考えさせる教育;わが国では independent thinker を育てるなど言う教育があっ
ただろうか。学校では知識を教え、後は勝手に考えるのである。日本では、人は皆同じ、
差別はいけない、お互いに「思いやる社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれな
りに素晴らしいが、その全体の中にあって兎角「個」と言うものが埋没してしまう。

これからは、激動する時代に適応するように「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」
と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、どうしたらよいのか分から
ない。欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないし、大人にも、第一、先生
の方にも乏しいのである。

先生は余り考えたこともないし、自分の持っている「知識」を生徒に授ける方が楽である。
子供たちは先生の背を見て育つ。「自分で考えない先生」からは「考える子」は育たない。
知識を得ることと「考えること」とは基本的に別物である。これからの時代は「学びて思
わざる教育」はダメである。「考えることの大切さ」を言うと「でも、物を知らなければ」
と言う答えが返ってくる。

しかし化学の考え方を学びながら物を知ることになる。「考える」というのは、その科目の
選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えることである。アメリカで言う「Less is 
more」、つまり数少ない大事な基本を本当に身につけて考えると、浅く広い知識をただ覚え
るよりも格段にダイナミックな実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、
さらに十分に考えて必要な知識を自分で獲得し、百まで考える可能性をもつものである。

これからのエデュケイション: それではこれから我々はどうしたらいいのだろうか。コ
ンピュータの時代には、それに備えた教育が求められる。基本は矢張り本当のエデュケイ
ションの基本を根付かせ、個性を伸ばすことである。

例えば、宿題もありうるが、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、
教室できびしく考えさせることである。生徒たちが何を知らなくて、如何に考えさせたら
いいのか、が分かる。近頃では、たとえ数人を組にしてでも、コンピュータを通して一緒
に討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取り
の記録がそのまま成績にも繋がる。

まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。その会話を通して生徒は考え方を
学ぶのである。「ただ読んだだけでは理解度10%、聞いただけでは20%、ただけでは3
0%、見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%、実際に体験して80%、
誰かに教えてみて95%」(William Glaser、"Schools Without Failure")と言われる。

同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度
に頭に残っているのと、深く理解したのとでは自分で新しいことを考え出す上では大変な
違いになる。本当に深く身について初めて本物の「知恵」になるのである。またそのよう
に本当の知恵を生むように「引き出さなければ」いけないのである。
    
教育成果の評価: 新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。
まず入試も知識量を重視する「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設
大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある(3)。

この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。教科書をどれだけ本当に理解し
ているか、これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、どれだけの知恵を
身につけているかを問うのである。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考
える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。

ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題
者の方の「考える力」が試されることになる。しかし近頃では中学校の入試にも前よりも
「考えさせる問題」が出されるようにもなったというし、これからは変って行くのではな
いだろうか。

同じ「考える」のでも、ナゾナゾのようなものでなく、基本に基づいた知恵を調べるので
ある。Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢
張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今
の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。

今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を問う問題が出ていた。センター
試験に出ると言うことはそれを覚えさせろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられ
ても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生お目にかかるこ
とのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。こんなことをして、若い
人の芽を摘んでいる出題者の罪は重いが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。

教科書の問題: 今ある高校の化学の教科書を見てみる。まず文部科学省検定の日本の教
科書が欧米の教科書に比べて圧倒的に貧弱である。内容も三分の一以下という。必要最低
限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。

先生はその教科書さえ教えればいいということで、その情報を生徒に丸暗記させるのであ
る。そのような教科書の中から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずが
ない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。これで理科が好きになれ
とか、探究的に考えろと言う方が無理である(4)。

一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りや
すく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、
化学の立場からの地球のできる火成岩の話しなど、いろいろな興味ある身近な話も入って
いたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになる
し、個性を伸ばせるようになっている。

欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとそ
の実質的な費用は五分の一になる。欧米で広くやっていることを日本で出来ないことがあ
るのだろうか。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が
なぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部
を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベ
ルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生か
せてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。

「折角いい頭を・・」; 私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのです
から、もっとよく考えなさい」と言っている。

何年か前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生
にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使
うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお
互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい
発想を生んだ体験はその学生の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考
えることによって育つものである。

おわりに; 先ごろ亡くなられたロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生のお言葉を紹介
する。

『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で
一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入
試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠け
ているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自
分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断
の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる』(5)

1. National Science Education Standards、 National Resarch Council(1996)、 National 
Academy Press.  Every Child a Scientist、 National Research Council、(1998)、 
National Academy Press:  .

2.「アメリカの孫と日本の孫」、田丸謙二、大山秀子、化学と工業、52 (1999) 1149

3 「新しい大学入試方式の模索」、田丸謙二、化学と教育、44 (1995) 456:「理科のセン
スを問・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実、同誌、45 (1997) 146

4  「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二、化学と教育、38 (1990)、712
「高校化学での「触媒」の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 
「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)
  「高校化学の教科書を読んでの一つの意見」、田丸謙二、化学と教育、52、764 )2004)
5 森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) p.17
参考文献;http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/    (2005年3月)



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

追伸

林様;

  「わびしく、さみしく、うつ的です」とは何ですか。 今こそ
働き盛りで、素晴らしい奥さんと一緒で、感謝、感謝の日々ではあり
ませんか。 孤独に耐え、身体のあちこちが老化でガタガタしてきて
いる先短い私は何と言えばいいのでしょうかネ。 私は、毎日、毎日、
とにかく元気に生きて居れるのが有り難く、食事を作りながらも、そ
れこそ感謝、感謝です。 万歩計を使いながら、毎日一万歩を超える
よう努めています。 誰にも迷惑をかけずに一日でも多く元気でいよ
うと。 話しましたっけ? 先週街で「カキフライ」を買って食べて、
大当たり、大変な苦しみでした。 4日間入院して、点滴、点滴で、3
リットルもしましたかしら、やっと元気になって、学会に連日上京で
す。 今日で無事終わりました。

  お元気で。
  T・K

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ソクラテスの最後

 あのソクラテスは、最後は、処刑されている。そのソクラテスを脱走させようと、クリ
トンという友人が、こっそりとソクラテスに会いにくる。

 それに答えてソクラテスは、こう教える。

 「重要なことは、生き延びることではない。重要なことは、よく生きること。美しく生
きること」と。

 つまり生きることは、時間の問題ではなく、中身の問題、と。そしてソクラテスは、「私
の命は、運命にゆだねる」と言い残して、そのまま処刑される。

 よく知られた有名な話である。

 「運命にゆだねる」。

 私たちの命には、無数の「糸」がからんでいる。四方八方から、からんでいる、家族、
友人、知人、地域、国家、地球……ありとあらゆるものが、からんでいる。私が、たまた
ま男であるということも、たまたまここにいるということも、それらの糸がからんだ、そ
の結果でしかない。

 その糸の中で、私たちは生きている。生きる方向を知り、その方向に沿って生きている。
ときに、それらの糸は、私たちの前に、「限界」として、立ちはだかる。人は、それを「運
命」という。

 人間が生きる美しさは、その運命と、最後の最後のところで戦うところから、生まれる。
生きる尊さも、そこから生まれる。

 しかしその運命が、運命として、その人の運命を定めるときがある。あのソクラテスも、
最後の最後で、それを知った。「運命にゆだねる」と。

 私やあなたにも、いつかすぐ、恐らく、つぎの瞬間には、その日がやってくる。それが
わからなければ、あなたが子どもだったころ、今のあなたの年齢の人たちが、そのあとど
うなったかを知ればよい。

 高校時代の担任、中学時代の担任、近所の知りあいに、親類の叔父や叔母たち。あなた
とともに、この宇宙の果てで、星がほんの一瞬、まばたきするその間に、私は生まれ、そ
して死ぬ。

 だれしも、自分の命を、最後には、その運命にゆだねるときがやってくる。それこそ、
まさに一瞬かもしれないが、その一瞬を、いかにすれば、よく生きることができるか。美
しく生きることができるか。それこそが、私たちが今、こうして生きている理由、そのも
のかもしれない。

+++++++++++++++++++++++

 恩師のT先生が、私が、「(最近、何かにつけて)、わびしく、さみしく、うつ的です」と
書いたことについて、こう返事をくれました(3月31日)。生きることのヒントになると
思いますので、あえて、そのまま転載させていただきます。

 今、無数の運命という糸にからまれて、がんばっている人には、先生のこのメールは、
大きな励みになると思います。

 Life is beautiful!(人生は、美しい。)

 みんなで、力を合わせて、よく生きましょう。美しく生きましょう!


++++++++++++++++++++++

●田丸先生のこと

 万歩計をつけて、毎日、1万歩を歩いている?
 だれにも迷惑をかけずに、1日でも多く、元気でいようと務めている?
 4日間も入院して、そのあと、また学会に出ている?
 そして毎日、「感謝、感謝」?

 いつか、100年とか200年とか、そういうあとの時代になって、T先生のこの話は、
T先生にまつわる逸話として、語りつがれることだろう。

 生きることのすばらしさを、教えてくれて、先生、ありがとう。
 生きる力と勇気を与えてくれて、先生、ありがとう。
 私は先生をとおして、生きることのすばらしさ、尊さを学んでいます。

 ぼくも、がんばれるだけ、がんばってみます。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●T先生のこと

 精神力とその行動性は、当然のことながら、シンクロナイズしている。

 たとえば独立心の旺盛な人は、独立した行動を繰りかえす。依存性の強い人は、行動も
また、万事につけ、依存的になる。

 恩師のT先生が、現在、何歳なのか、本当のところ、知らない。はじめて出会ったのは、
私が23歳のときだが、そのとき先生は、42歳だと言っていた。

 正直な先生だが、年齢だけは、本当のことを言わなかった。で、この原稿を書くにあた
って、先生の名前を検索してみたら、先生のHPが、最初に出てきた。そのHPに、先生
の生年月日がないことは、よく知っている。

 最初、先生が、自分のHPをたちあげたとき、住所から電話番号まで、(もちろん生年月
日まで)、記載してあった。それを削除させたのは、私だからである。「この世界には、ど
んなワルがいるか、わかったものではありません。削除したほうがよいです」と。

 つぎに、どこかの学会雑誌をヒットした。そこでT先生を調べてみると、1946年、
T大理学部卒とある。

 私が生まれたのは、1947年。逆算すれば、T先生が23歳のときに、私が生まれた。
ということは、先生の年齢は、私の年齢プラス23歳ということになる。つまり今年、8
0〜81歳ということか(05年)。

 そのT先生は、今、万歩計をつけて、毎日1万歩、歩くようにこころがけているという。
若いころ、奥さんをなくしているので、以来、ずっと、ひとり暮らしである。T先生の人
間性もさることながら、私は、いつも、T先生の、その旺盛な独立心に、驚かされる。

 本当はそうでないのかもしれないが、つまりT先生はT先生なりに、どこかで孤独と戦
っているのかもしれないが、私には、そうは見えない。少なくとも私には、強靭(きょう
じん)な精神力の持ち主に見える。並外れた、スーパーマンのような精神力である。

 もう少し若いころには、国際学会だとかなんだとかで、ひとりで、世界中を、飛び回っ
ていた。ひとりで生活をすることさえ、たいへんなのに、その上での、こうした活動であ
る。数年前に、日本学士院賞を受賞しているが、その一方で、最近は、料理にこっている
という。

 「料理は、化学反応のようで、おもしろい」などと、書いてきたこともある。

 私はよく、こう思う。「もし私が、T先生の立場なら、つまりひとり暮らしの立場なら、
それだけで、めげてしまって、何もできなくなるだろうに」と。そんなわけで、T先生か
らメールをもらうたびに、T先生と私は、どこが、どうちがうだろうかと考える。

 昨夜のメールによれば、「カキフライを食べて、大当たり!」とあった。そのため、4日
間入院して、点滴を3リットルも受けたという。T先生は、病院で、どんな気持ちで、寝
ていたのだろう。私は、その先生に、自分の心をのせてみたとき、ゾッとした。

 (もっとも、T先生のことだから、看護婦さんたちと、ジョークを飛ばしあって、結構、
それなりに楽しんでいただろうと思うが……。)

 私とT先生は、親しいと言えば親しいが、しかし立場が、まるでちがう。いつでも会い
に行きたい気持ちはあるが、しかし、簡単に、「会ってください」と言える関係でもない。
若いときは、怖いもの知らずというか、息子たちを連れて、平気で遊びに行くことができ
たが……。

 私はやはり、私とT先生とは、精神の構造そのものが、ちがうようだ。ときどきT先生
は、T先生の若いときの写真を送ってくれるが、そういう写真から推察すると、T先生の
乳幼児期は、たいへん恵まれたものであったようだ。

 T先生の父親も、やはりたいへん著名な化学者であったという。心理学でいう、「基本的
信頼関係」という点で、私の生まれ育った環境とは、大きくちがう。

 そこで今、考えることは、一方に、T先生のような見本を置きながら、果たして私のよ
うな人間が、自分の精神力だけで、自分の精神の欠陥を乗りこえることができるかどうか、
ということ。

 なおそうとは、思わない。もうなおらないことは、わかっている。あきらめている。し
かしこれからの老後のことを考えると、今の私の精神構造では、その老後を乗り切ること
は、不可能なことのようにさえ思う。

 つまり、これはあくまでも相対的なものかもしれないが、私は、依存性が強い。人から
見ると、ひとりでたくましく生きている人間に見えるかもしれないが、その実、精神状態
はボロボロ。

 ワイフが、そばにいない人生は考えられないし、かりに4日間も、ひとりで入院するよ
うなことになれば、それだけで、自殺することを考えてしまうかもしれない。が、T先生
は、そのあとすぐ、学会に顔を出している!

 どう理解したらよいのか。どう、T先生から学んだらよいのか。T先生のような人間が
いること自体、私には信じられない。

 今朝、ワイフに、「春休みの間に、鎌倉へ行ってみるか?」と声をかけると、「私が行っ
てもいいの?」と返事をした。

 ワイフにしても、畏(おそ)れおおい先生であることは、事実のようだ。あとでT先生
に、つごうを聞いてみよう。

(追記)

 つごうを聞いたら、「X日以後ならいい」とあった。私は「それまで生きていてください」
と返事を書いた。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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はやし浩司(ひろし)