はやし浩司(ひろし)

2005・10
はやし浩司
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2005年 10月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 31日(No.643)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page028.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【R天・掲示板での相談について……】

+++++++++++++++++++++++

UNKNOWN様から、中学1年生の息子さんに
ついての相談がありました。

「子どもの忘れ物がひどくて困る」という内容の
ものです。それについて、ここで考えてみます。

+++++++++++++++++++++++

中1の息子が忘れ物があまりに多いので悩んでいます。

中堅の私立校で、課題が結構あるのですが、息子は、私があれこれ、言わないと全くしま
せん。時々チェックし、やらせると、次の日学校にもっていくのを忘れたり、持っていっ
ても出すのを忘れたりを何度も繰り返しています。さらには出していないのに「出した」、
とうそをつきます。

今朝、いまだに夏休みの宿題を出していないものを見つけ、さすがにこれは病気かしらと
考えるようになりました。もう10回以上、「出した」「出してない」の不毛なやり取りを
繰り返し、退学まで考え話しあった後で、こうです。

また、隠れてゲームをやりたがります。取り上げても次々中古のを買ってきたり、友だち
にもらったり、拾ったりします。道に落ちている、おもちゃやキーホルダー、カードなど
も何度言っても拾ってきます。拾い物のために帰宅が遅くなり、帰ってからのすべてが遅
くなり、の悪循環が小学校からずっと続いています。なだめたり励ましたり色々やってみ
ても変わりません。

夫は、私以上に感情的になって怒り狂うので、夫に相談しても、何の解決にもなりません。

子どもは一貫校の小学校の持ち上がりですが、6年のとき宿題忘れと遅刻の多さで担任の
先生から何度も注意され、不登校気味になったことがあります。一転、中学校生活は楽し
いようですが、忘れ物のないようにメモをとったりする習慣が全く身につきません。それ
を指摘すると怒って暴れ出すので、どうしたらいいのかわからない状態です。

ご指導、宜しくお願いいたします。

++++++++++++++++++++++

【U様へ】

 まず第一に考えられるのは、親子のリズムがあっていないことです。Uさんのばあい、
親子関係は、断絶からすでに、崩壊状態に入っているかもしれません。これ以上、親子関
係をこじらせると、本当に、崩壊してしまうかもしれません。

 U様自身について、いくつか気になる点がありますので、それをあげてみます。

(1)私があれこれ、言わないと全くしません。
(2)時々チェックし、やらせると……
(3)今朝、いまだに夏休みの宿題を出していないものを見つけ……
(4)退学まで考え話しあった後で……
(5)夫は、私以上に感情的になって怒り狂うので……

 お子さんは、中学1年生ということですから、その年齢の子どもに対して、U様が、少
し過干渉ぎみではないかと思います。中学1年生というと、親から見ると、まだ頼りない
年齢かもしれませんが、心も体も、ほとんど、おとなと考えてよいです。

 「時々チェックしてやらせる」ということですが、何をどうチェックしておられるのか
も、たいへん気になります。お子さんの人権や人格は、どうなっているのかな?、という
心配を覚えてしまいます。

 「いまだに夏休みの宿題を……見つけ」というのも、そうです。どうしてそういうもの
を、U様が、見つけてしまうのでしょうか。「子どものことが気になってしかたない」とい
うのであれば、過関心、さらには、育児ノイローゼなども、疑わねばなりません。

 で、「退学まで考え話しあった後で……」という部分です。

 忘れ物が多くて、退学というのも、おおげさな感じがします。あるいはU様は、退学を
におわせて、(本当はその気はまったくないのですが、おどしのつもりで)、退学という言
葉を口にしておられるのでは、ないでしょうか。

 「生活態度を改めなければ、退学しなさい!」と。

 もしそうなら、これはたいへんなまちがいです。U様は、お子さんのウソを問題になさ
っておられますが、U様自身が、これまたたいへんなウソを言っていることになります。(お
気づきですか?)

 学校のほうから、退学の話があれば、それは親子で考えなければなりませんが、今の段
階では、退学うんぬんの話はないと思います。仮にほかの中学校に転校しても、問題は何
も解決しないでしょう。

 さらに、「私以上に感情的になって……」という部分です。U様自身が、感情的になると
いうふうに解釈できますが……? 私には、かなりはげしい母子のやりとりが、想像でき
ます。

 こうして考えてみると、この問題は、お子さんの問題というよりは、U様ご自身の問題
のように、思います。

(1)なぜ、こうまで、親子のリズムが狂ってしまったか?
(2)なぜ、こうまで、U様は、お子さんを、子ども扱いしてしまうのか?
(3)なぜ、こうまで、U様は、お子さんを責めたててしまうのか?

 忘れ物をする。そのことで、一番、不愉快な思いをしているのは、実は、お子さん自身
なのですね。それを家に帰ってまで、母親であるU様にガミガミと叱られたのでは、たま
りません。たぶん、私でも、耐えられないでしょう。お子さん自身が、すでに心の空回り
を始めているとみます。つまり、何をしても、手につかないのです。

 私はひょっとしたら、そういう状態にお子さんを追いこんでいるのは、実は、U様自身
ではないかと思います。ガミガミと感情的に、あれこれ指示しすぎてしまう。決して、お
子さんのことを心配していないわけではなく、心配しすぎるあまり、そうしてしまう。

 それが裏目、裏目と出て、悪循環におちいっているというわけです。

 一つ心配されるのは、お子さん自身の心の問題です。どこか病的な感じがする忘れ物グ
セについても、気うつが蓄積したことによる、心身症(神経症)的な症状の一つとも考え
られます。「不登校気味になったこともある」ということですから、一度、そういう視点で
も、お子さんを見られてはいかがでしょうか。

 子どもというのは、不思議なもので、親のほうが先にあきらめてしまえば、その時点か
ら、子ども自身が自分の進むべき道を見つけていきます。年齢的には、すでに思春期に入
っていますので、ここは、U様自身が一歩、退いて、「暖かい無視」と、「求めてきたとき
が与えどき」と考えてはどうでしょうか。

 U様自身が、お子さんの忘れ物に、多分、異常なまでに関心をもつのは、親子のリズム
が、すでにその段階まで、乱れているということです。しかし年齢的にみて、この修復作
業は、たいへんむずかしいです。

 今は、今の状態をこれ以上悪くしないことだけを考えて、(なおそうとあせればあせるほ
ど、逆効果になりますから、ご注意ください)、「暖かい無視」を繰りかえします。こうし
た問題には、二番底、三番底があります。

 「まだ、以前のほうがよかった……」という状態を繰りかえしながら、その二番底、三
番底へと落ちていきます。お子さんの立場からしても、今のU様のご家庭には、お子さん
の居場所すらないように、思います。お子さんは、ゲームをしながら、あるいはそこへ自
分を閉じ込めながら、懸命に、自分の心を支えようとしています。

 今、そのゲームを取りあげたら、どうなるか? その先は、見えていますよ。落ちてい
るおもちゃや、カードを拾うというのは、そうせざるをえない、心の問題が、お子さんの
背景にあると考えてみては、どうでしょうか。あるいは、帰宅が遅くなるというのは、も
のを拾って帰るからではなく、帰宅拒否の症状とも考えられます。

 もしそうなら、もう少し年齢が大きくなると、外泊、さらには家出とつながっていくか
もしれません。ご注意ください。

 以上のことから、つぎの点を注意してみてください。

(1)今の状態をこれ以上悪くしないことだけを考えて対処する。
(2)忘れ物については、あきらめる。(なおるはずのものだったら、とっくの昔になおっ
ているはずです。)
(3)暖かい無視、ほどよい親、求めてきたときが与え時を守る。
(4)子どもをチェックしない。プライバシーを守る。子どもの人格、人権を認める。
(5)学校でつらい思いをしているはずですから、家の中で、それを責めない。
(6)「宿題をやれ」ではなく、「いっしょに手伝おうか?」と声をかける。
(7)そのあとのことは、子どもに任す。先取りして、心配しない。
(8)忘れ物について、一度、担任の先生と相談する。このタイプの子どもは、珍しくな
いので、先生も、わかってくれます。(15〜20人に1人くらいの割合でいます。)
(9)感情的になったり、被害妄想をもつようなら、U様自身の心の問題を疑ってみる。
(10)お子さんは、もうおとなですよ。子ども扱いをしてはいけません。
(11)心の休まる家庭づくりに、こころがけてください。親の姿、気配を感ずると、ど
こかへ逃げていくようなら、親子関係は、かなり危険な状態にあるとみます。
(12)子どもの前に立つのではなく、横に立って、「友」として、お子さんを、受けいれ
てあげてください。とくに今のU様には、そういう姿勢が求められています。

 以上、思いつくまま書いてみましたが、何かの参考になれば、うれしいです。なおここ
に書いたことは、あくまでも、参考に! 私自身、お子さんを見ていませんので、いろい
ろと誤解、早とちりがあるかもしれません。

 最後に一言。

 こうしたリズムの乱れは、実は、お子さんを妊娠、出産したときから始まっているはず
です。U様自身に、何かわだかまりがあれば、そのわだかまりを、しっかりと見つめてく
ださい。不本意な結婚であったとか、不本意な妊娠であったとか、など。

 あるいはあなたと、あなたの両親の関係は、どうであったかも見つめなおしてみてくだ
さい。何か、大きなわだかまりがあるはずです。いらぬお節介かもしれませんが……。
 
 では、今回は、これで失礼します。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

************************************
【相談をお寄せくださる方へ……】

●できるだけ掲示板に、相談内容をお書き込みください。

●私信メールで相談してくださる方は、簡単なご住所、お名前を必ず
 お書きください。ご住所、お名前のないメールには、いかなるばあいも
 返事を書くということはありません。

●相談内容は、そのまま原稿の一部として、転載させていただくことがあります。
 そのため、相談内容は、掲示板にお書き込みくださると、転載許可、承諾などの
 手間もはぶけます。よろしくご協力ください。

●また最近、スケベメール(スパムメール)が、たいへん多くなっています。
 件名を読んで「?」と感じたメールは、そのまま削除しています。
 たとえば最近でも、つぎのような件名のメールが届いています。
毎日20〜30通以上も、勝手に入ってきます。

  件名:連絡が入りましたので、転送します。
  件名:先日は、ありがとうございました。
  件名:ご相談したいことがありましたので……
  件名:鈴木です。連絡ありがとうございました、など。
 
これらは、(多分?)、すべてスパムメールです。本文は開かないまま、
 削除させていただいています。

●また「内密に」とか「転載、引用はお断り」という断りのある相談には、
 原則として、返事を書くということはありません。これはあとあとのトラブルを
 避けるための措置です。どうか、ご理解の上、お許しください。詳しくは、
 つづく、原稿の中に書いておきます。

************************************

●転載トラブル

 いただいた相談内容を、そのまま、私の原稿の中に、うっかりと転載してしまった……
というようなことは、当初は、よくありました。

 そのたびに、お叱りのメール。転載までしなくても、似たような話に変えて原稿を書い
ただけで、ときどき、抗議のメールをいただきます。「私の問題を、ネタにしないでほしい」
とです。

 そんなわけで、転載、部分引用については、どうしても、慎重にならざるをえません。
実際には、転載の許可をいただいてから、転載するようにしています。しかしこれが結構、
めんどうなことなのです。

 一度、返事を書いて、許可を求め、こちらで再び書きなおして、また許可を求める……。
中には、ときどき、「引用、転載は、お断りします」「内密にお願いします」と、わざわざ
書いてくる方もいらっしゃいます。

 そういう方には、こわくて、(ホント!)、返事を書くことができません。内容を読むの
も、こわいです。というのも、内容の一部が、脳のどこかに記憶として残ってしまうから
です。で、何か別の原稿を書いているときに、それが、ふと、出てきてしまうことがあり
ます。

 私が書く原稿は、すべて、記録として、パソコンのどこかに残ります。そうした原稿が
いつ、どこで、表に出てくるかわかりません。ですから、ますます慎重にならざるをえま
せん。

 ですから、相談ごとは、みなさんのほうで、みなさんと特定できないように、家族構成
や、職業、年齢などを、適当に変更してくださった上で、掲示板に書き込んでいただくと、
ありがたいです。

 掲示板の記事は、公開記事ということになりますので、私のほうで、自由に転載、引用
ができます。つまりその分だけ、いらぬ神経をつかわなくてすむというわけです。

 なお掲示板でいただいた相談については、できるだけ掲示板のほうに、回答を書くよう
にしています。それ以外は、電子マガジン(無料版)のほうに、書くようにしています。

 以上、よろしくご理解の上、ご協力くださいますよう、お願い申しあげます。

                              はやし浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●人間は哀れな動物 

 「(人間は)、自分は自我を支配し、統制していると、うぬぼれているが、実は、潜在意
識にひきずり回されている、哀れな動物にすぎない」と、説いたのは、あのジーグムント・
フロイト(1856〜1939)である(志村武「釈迦の遺言」)。

 わかりやすく言えば、「私は私」と思っている部分など、「私」の中の、ほんの一部にす
ぎない。言いかえると、その私が、「私」を知るのは、本当にむずかしい。最初にそのヒン
トをつかんだのが、あのソクラテス(紀元前470年ごろ誕生)である。

 ソクラテスは、自分が無知であることを出発点にしてはじめて、真理が追求できると考
えた。しかしソクラテスが会った、いわゆる賢者と呼ばれる人たちは、それを知らなかっ
た。つまり「我こそは、すべてを知っている」(PHP版「哲学」)と。

 そこでソクラテスは、『無知の知』という、有名な言葉を残した。「自分が無知であるこ
とを、まず知る。それが真理の探究の第一歩である」と。

 自分のことでさえわからない。わかるはずもない。いわんや、若い父親や母親において
は、そうである。そんな父親や母親が、子どものことなど、わかるはずもない。

 しかしごう慢な(失礼!)父親や母親は、「うちの子どものことは、私が一番よく知って
いる」と豪語する。しかしこれは、うぬぼれ。とんでもないうぬぼれ。

 たとえば簡単な例で説明しよう。

 私は市内に小さな教室をもっている。最高でも12人しかはいれない、小さな教室であ
る。(私には、分相応だが……。)

 その教室へある日、若い母親が、小さな子どもの手を引いて、見学にやってくる。する
とそのとき、子どもは、さまざまな様子を見せる。子どもによって、その様子はみな、ち
がうが、しかし、大きく分ければ、いくつかのパターンに分類できる。

 すぐ溶けこんでワイワイと騒ぎだす子どももいれば、親の背中に隠れて、なかなか顔を
出さない子どももいる。しかし4〜5歳の子どもの様子としては、後者のほうが、望まし
い。

 はじめての場所である。警戒心をもって、当然。つまり子どもは、そうしてまわりの様
子を観察しながら、自分の頭の中で、今、自分がどういう状況に置かれているかを学習し、
判断する。

 が、短気な母親には、そういった子どもの心理が理解できない。子どもの様子を見て、
子どもを叱ったりする。あるいは私に向って、「この教室は、うちの子には、向いていませ
ん」などと言ったりする。

 私は「そういうものではないのだなあ……」と思うが、初対面の人には、そこまで説明
する必要はない。

 さらに子ども自身が、何らかの心の問題をもっているときがある。私はドクターではな
いから、診断権はない。診断名を口にすることも許されない。親のほうから質問や相談が
あったとき、それとなく、診断名を伝えるようにはしている。

 が、親には、それがわからない。極端な例だが、かん黙症状の出ている子どもに向かっ
て、「どうしてハキハキしないの!」と、怒鳴り散らしていた祖母がいた。あるいは自閉傾
向のある子どもが、自分のすわる席にこだわっていたとき、「あなたは、前に座りなさい!」
と、叱っていた母親もいた。

 さらに親の過干渉や過関心で、精神そのものが萎縮してしまった子どもに向かって、キ
リキリと、こまかい指示を与えている母親となると、いくらでもいる。

 幼児教室とはいうが、実際には、母親教室。母親の指導のほうに、そんなわけで、私は
重点を置いている。それとなく、そして何となく、レッスンを通して、参観している母親
たちに、信号を送っていく。そうして母親たち自身に、自分がもつ問題に、(子どもがもつ
問題ではなく、母親たち自身がもつ問題に)、気づいてもらう。

 実は、子育ても、しかり。ほとんどの親は、自分の意思で、自分で考えて子育てをして
いると思いこんでいる。しかしフロイトの言葉を借りるなら、「実は、潜在意識にひきずり
回されながら子育てをしている、哀れな動物にすぎない」ということになる。

 だからほとんどの母親たちは、こう言う。きっとこの文を読んでいるあなた自身も、そ
うだろう。

 「頭の中ではわかっているのですが、いざ、その場になると、ついカッとして……」と。

 子育てというのは、そういうもの。頭の中で、いちいち考えてするものではない。いや、
子育てにかぎらず、私たちが自分の頭で考えて行動している部分などというのは、ほんの
一部にすぎない。もっと言えば、あなたは、自分が受けた子育てを、無意識のまま、繰り
かえしているにすぎない。それに無数の潜在意識がからんで、あなたという「私」を決め
ている。

 それに早く気づいた親を、賢明な親という。それにいつまでも気づかない親を、愚かな
親(失礼!)という。

 愚かな親は、自分のもつ独断と偏見だけを頼りに、子育てをする。そして仮に子育てで
失敗しても、その失敗に気づかない。ハキがなく、ナヨナヨした子どもをみながら、「うち
の子は、すばらしい子だ」と思いこんでいた母親がいた。さらに子どもの自閉症を、こじ
らせるだけこじらせておきながら、「うちの子は、生まれつきああです」と居なおっていた
母親もいた。

 志村武氏の「釈迦の言葉」の一節には、こうある。

 「自分の見解を、絶対、完全と思いこんでしまっている者は、見解を異にする人々を、"く
だらん、話にならん"と蔑視する。そんな人は自分の見解に、あくまでも固執し、相手が
どう言おうとも、一歩もゆずろうとはしない。偏見におごりたかぶり、その偏見の中に、
ドップリとひたってしまっているからである」(同書P114)と。

 つまり、『偏見にひたるなかれ』と。

子育てをするときは、いつもこの言葉を、頭の中で念じてみるとよい。
(はやし浩司 無知の知 ソクラテス 偏見 潜在意識)

++++++++++++++++++

少し前に書いた原稿を、手なおしして、
お届けします。

++++++++++++++++++

●三つの自己中心性

 自己中心性は、それ自体が、精神の未発達を意味する。(精神の完成度は、他人への同調
性、他人との協調性、他人との調和性で知ることができる。自己中心性は、その反対側に
位置する。)

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の精神の完成度は、低いとみる。

 これについては、もう何度も書いてきたので、ここでは、その先を書く。

 この自己中心性は、(1)個人としての自己中心性、(2)民族としての自己中心性、(3)
人間としての自己中心性の三つに、分かれる。

 たとえば、「私が一番、すぐれている。他人は、みな、劣っている」と思うのは、(1)
の個人としての自己中心性をいう。つぎに「大和民族は、一番、すぐれている。他の民族
は、みな、劣っている」と思うのは、(2)の民族としての自己中心性をいう。そして「人
間が宇宙の中心にいる、唯一の知的生物である」と思うのは、(3)の人間としての、自己
中心性をいう。

 この中でも、一番、わかりやすいのは、(3)の人間としての、自己中心性である。

 しかし人間は、宇宙の中の、ゴミのような星に、かろうじてへばりついて生きている、
つまりは、(カビ)のような生物にすぎない。だれだったか、少し前、(地球に張りつく、
がん細胞のようなもの)と表現した人もいる。

 (だからといって、人間がつまらない生物だと言っているのではない。誤解のないよう
に!)

 たとえば、今、私たちの視点を、宇宙へ置いてみよう。すると、ものの見方が、一変す
る。

 この広大な宇宙には、無数の銀河系がある。そしてそれぞれの銀河系には、これまた無
数の星がある。その数は、浜松市の南にある、中田島砂丘にある、砂粒の数より多いとい
われている。(実際には、その数は、わからない?)

 太陽という星は、その中の砂粒の一つにすぎない。

 で、私たちが住む、この地球は、その太陽という星の、これまたチリのような惑星に過
ぎない。

 これが現実である。疑いようもない、現実である。

 こういう現実を前にして、「人間が宇宙の中心にいる、唯一の知的生物である」と言うの
は、実にバカげている。

 で、こういう視点で、こんどは、民族としての自己中心性を考えてみる。……と、考え
るまでもなく、民族としての自己中心性は、実にバカげているのが、わかる。こんな小さ
な地球上で、大和民族だの、韓民族だの、さらには、白人だの黒人だのと言っているほう
が、おかしい。

 さらに、個人の自己中心性となると、さらにバカげていて、話にならない。

 そこで話をもとにもどす。

 宇宙的視点から見ると、細菌とアメーバの知的レベルが、私たち人間には、同じに見え
るように、人間とサルの間には、知的レベルの差は、まったくない。人間は、「自分たちは
サルとは違う」と思っているかもしれないが、まさにそれこそ、人間が、人間としてもっ
ている自己中心性にすぎない。

 人間としての完成度は、人間が、他の動物たちと、どの程度までの同調性、協調性、調
和性をもっているかで決まる。

たとえば森に一本の道を通すときでも、どの程度まで、そこに住む、ほかの動物たちの
立場でものを考えることができるかで、その完成度が決まる。「ほかの動物たちのことは、
知ったことか!」では、人間としての完成度は、きわめて低いということになる。

 さらに話を一歩進めると、こうなる。

 私たち人間は、バカである。アホである。どうしようもないほど、未熟で、未完成であ
る。「万物の霊長類」などというのは、とんでもない、うぬぼれ。その実体は、まさに畜生。
ケダモノ。

 そういう視点で、私たちが自らを、謙虚な目で、見なおしてみる。たとえば人間として
の、欠陥、欠点、弱点、盲点、そして問題点を、洗いなおしてみる。少なくとも、私たち
人間は、(完成された動物)ではない。そういう視点で、自分を見つめてみる。

 つまりは、それこそが、人間としての自己中心性を打破するための、第一歩ということ
になる。

【追記】

 『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソク
ラテスにまつわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないということを知る
こと」を、無知の知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出
発点だと言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな
未知の分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、
こんなことも知らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなことがあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーとい
います」と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャー
ではなく、カレンダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見てい
るんだろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カ
レンダーも知らないのオ?」と。

 私はま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣
さの中に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだっ
て、無数の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そして
その状態は、庭に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのでは
ないか。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわな
い? 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわ
ないと思っている。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったと
しても、自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、
気づいていないからである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見れば
よいということ。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、
結局は、自分を知ることの第一歩ということになる。
(はやし浩司 ソクラテス 無知の知)



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ものすごい情報量

 一説によると、古代人が一生かかって得た情報量は、アメリカのニューヨークタイムズ
紙の、1ページ分もなかったのではないか、ということだそうだ。

 つまりもし私たちが、10ページ分を読んだとすると、古代人の人生の10世代分の情
報量を手にしたことになる。「本当かな?」という疑問もないわけではないが、しかし、こ
こ10年だけをみても、私たちが得る情報量は、大きく変わった。

 たとえば30年前、一冊の本を出そうと思ったら、まず原稿用紙に、鉛筆かペンで文字
を書かねばならなかった。今から思うと、これが結構、たいへんな作業であった。書いて
は消し、書いては消しの連続。

 四六版の単行本で、400字づめの原稿用紙、100枚から150枚が、ひとつの目安
になる。それを出版社へ送り、一度、活字になおしてもらう。今でも、ゲラ刷りというの
があるが、当時は、そのゲラ刷りでも、3〜4回するのが、ふつうだった。言い忘れたが、
ゲラ刷りというのは、ためし刷りのことをいう。そのゲラ刷りに赤ペンで、「なおし」を入
れる。これを3〜4回、繰りかえす。

 だから1冊の本が、できあがるのに、原稿を出版社へ送ってから、出版されるまでに、
早くて半年前後、かかった。

 が、今は、ちがう。

 現在、私は、1日、約10〜15枚の速さで、原稿を書いている。2日で、約20〜3
0枚。1か月で、約300〜500枚ということになる。単行本にすれば、約3〜4冊分
の分量である。

 もっとも、私の書いている原稿などは、原稿と言えるような代物(しろもの)ではない。
本にするだけの価値もない、ただの駄文。

 しかしそれだけの量の原稿が、私という1人の人間から、世界に向けて発信される。考
えてみれば、これは恐ろしいことではないか。私という個人だけでみても、この30年間
で、発信する情報量は、20〜30倍にふえたとみてよい。社会全体でみると、ぼう大な
量になる!

 ほかにも、たとえばたった10年前ですら、何かわからないことがあると、図書館へ通
った。しかし今は、ちがう。インターネットで検索すれば、たいていのことが、瞬時にわ
かってしまう。そういう意味でも、時間が、どんどんと短縮されている。

 こういう社会の変化にあわせて、当然のことながら、社会のしくみも、それに応じて変
わりつつある。全体として、テンポが速くなった。そんな感じがする。

 もちろん、子どもたちの世界にも、変化が起きはじめている。遊びの内容そのものが変
ってしまった。私たちが子どものころは、コマ回しにしても、タコあげにしても、それな
りに技術をみがかねばできなかった。一時、木製の潜水艦が流行したことがある。それに
しても、作り始めてから、近くの池に浮かべるまでに、少なくとも、1〜2週間はかかっ
た。学校から帰ってくると、毎日、コツコツとそれを作った。

 そうした遊びが、半年とか、1年単位で、つづいた。が、今は、1か月単位とか、もっ
と、短い(?)。よくわからないが、目まぐるしく変化しているのは、事実。だからこうい
うことも言えるのではないか。

 古代人が一生かかって得た情報量は、最近の子どもが1週間で得る量よりも少なかった、
と。

 もっともだからといって、現代人が、その分、より賢くなり、より幸福になったという
ことにはならない。その人のもつ情報量と、その人の賢さとは、必ずしも一致しない。幸
福感についていえば、さらに一致しない。子どもについて言えば、もの知りだからといっ
て、賢い子どもということにはならない。たとえば1人の幼稚園児が、掛け算の九九をペ
ラペラと言ったからといって、その子どもが賢いとは言わない。

 その点だけは、誤解がないようにしたい。


●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦
は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。
とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●拉致(らち)問題と、K国制裁問題

 拉致問題にからんで、K国制裁問題が、あちこちで論じられている。何度も繰りかえす
が、拉致被害者の方の気持ちも、よくわかる。わかるが、今、K国を制裁したところで、
拉致問題の解決には結びつかない。

 今、K国を何らかの形で制裁すれば、かえって、拉致問題を、複雑にしてしまうのみな
らず、6か国協議のゆくえをさらにわかりにくくしてしまう。そればかりか、日本が、こ
の極東アジアで孤立してしまうことも考えられる。最悪のばあいには、戦争ということに
もなりかねない。

その理由を、今村弘子著「北朝鮮・虚構の経済」(集英社新書)の中から、興味ある事実
をいくつか引用しながら、考えてみたい。

(1)日本との経済関係

 03年度の日本からK国への輸出は、9114万ドル。前年度比で、30・8%も減っ
ている。一方、K国から日本への輸出は、水産品や衣料品、委託加工品を中心に、1億7
348万ドル。これも前年度比で、25・9%も減っている。

 K国との貿易には、大きな危険がともなう。仮に債務不履行になっても、その責任を追
及する窓口すらない。貿易保険すら、かけられない。したがって、現在、日朝間の貿易を
日本側で行っているのは、在日朝鮮人を中心とした、いわばこうしたリスクを覚悟した人
たちである。

 さらに04年度に入ってからは、外為法の改正や、特定船舶入港禁止法などが成立して
いる。さらに船舶油濁損害賠償法が改正され、05年3月から、船主責任保険が義務づけ
られるようになった。K国籍船舶の保険加入率は、03年の時点で、たったの2・5%!

 つまり03年度、04年度とつづき、05年度もさらに、日朝間の経済関係は、さらに
冷えこむものと予想される。

 これに対して、現在、中国が、K国の対外貿易の約50%を占めている。内容について
は、原油、穀物、製品など、それぞれに、無償、有償、減額、援助などの措置がとられて
いるので、正確な数字は、わからない。

 たとえばかつては、K国は、中国から原油を、国際相場の、3分の1から、7分の1と
かいう値段で輸入していたこともある。

 その中国について、貿易高が多いのが韓国で、日本は、そのつぎということになる。し
かし今や、日本との貿易高は、K国全体でみると、11%程度にすぎない(03年)。

 (K国の輸出高……7・8億ドル、輸入高……16・1億ドル、03年度、ラジオプレ
ス「RPK国政策動向」)

 日本が仮に経済制裁したところで、K国に大きな打撃を与えることはできない。

(2)想像を絶する、貧しさ

 今村氏は、こんな事実も指摘している。それによって、K国の貧しさの一端を、知るこ
とができる。

 K国では、原油不足にともなう、電力不足が深刻な問題になっている。それについて、
K国では、送電を……、

「細い電線で発電所から工場や企業に送電しており、しかも電線の老朽化が進んでいる
ために、この送電の段階で、すでに70%のロスが生じているという。その後、利用者
の手元にくるまでに、さらにロスがふえていく。

 また電柱やトランスがないことから、地域全体が、いわばタコ足配線のようになってい
る。その上電線の多くが、地中に埋設されているために、老朽化は地上に配線されるより
も、さらに早い」(同書P166)と。

 今度の6か国協議で、K国は、突然、軽水炉問題を取りあげた。が、軽水炉どころの問
題ではないのである。肝心の電線そのものが、こういう状態で、どうやって、その電気を
送電するつもりなのだろうか。

 そのほか、食糧、農漁業、工業、どの一つをとっても、問題だらけ。悪循環がさらなる
悪循環を呼び、K国の経済状態そのものが、現在、マヒ状態にあるとみてよい。一部で話
題になっている、外資導入政策についても、羅先・自由経済貿易地帯、新義州特別行政区
などは、すでに有名無実化している。

 韓国が共同開発した、金剛山観光地区や、開城工業地区にしても、K国の経済を立ちな
おらせるだけの力は、ない。そもそも、韓国に、それだけの経済力はない。

 たとえば開城工業団地については、「07年までに、330万平方メートルの敷地に工業
団地を造成し、繊維、製靴、皮革、服飾関係など、約300社に分譲する計画であるが、
韓国政府が、高度技術を使用する業種の進出を制限していることから、許可を得られる業
種が少ないため、04年6月末の時点で、15社にとどまっている」(同書)という。

 以上のようなことから、今村氏は、同書をつぎのような言葉で、しめくくっている。

 「冷戦の残滓(ざんし)ともいえる北東アジアの情勢は、いまだ不安定な要素をかかえ
ている。K国への対応を誤れば、北東アジアそのものが、ハード・ランディングしてしま
うかもしれない。根拠のない期待論で動いては、韓国、中国、日本、さらにはアジア全体
の経済に悪影響を及ぼすことになる。ソフト・ランディングの道を見失ってはなるまい」
と。

 まさに、同感である。わかりやすく言えば、日本は、K国など、本気で相手にしてはい
けない。またその価値もない。今ここで、日本が単独で経済制裁をしても、効果がないば
かりか、K国に、日本攻撃の口実を与えてしまうことにもなりかねない。

 さらに言えば、制裁かどうかということになると、K国は、すでに制裁以上の制裁状態
にある。そのことは、今村氏の本を読めばわかる。そんな国をこれ以上、制裁して、いっ
たい、何が、どう変わるというのか。それで拉致問題が、本当に解決するというのか。

 ちなみに、日本の貿易高は、03年度は、98兆9000億円(輸出、54兆5000
億円、輸入、44兆4000億円)、04年度は、輸出入あわせて、110兆4000億円。
1ドルを110円で計算すると、03年度は、日本の貿易高(輸出入額)は、8991億
ドルとなる(総務省統計局・日本統計月報より)。K国の2億6000万ドルと比較すると、
約3458倍! 約3500倍と考えてよい。

 3500倍も力のある日本が、3500分の1しか力のないK国に対して、制裁など考
えてはいけない! 
(05年9月30日記、この原稿がマガジンに載るころには、世界の情勢は大きく変わっ
ているかもしれません。)

(補記)K国に制裁を加えるなら、目的を、金xx政権打倒にしぼるべき。そのためには、
国際的な協力が不可欠。とくに、そのカギをにぎるのが、中国ということになる。制裁を
するなら、まずK国の核開発問題を、国連の安保理に付託する。そこでの決議を待ってか
ら、する。

 私の印象では、健康問題もあり、(加えて、精神問題もあるようなので)、金xx政権の
寿命は、それほど、長くはないのではないか。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 28日(No.642)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【思いついたまま、子育てワンポイント】

●できないことを嘆くより、できることを喜ぶ

 AさんとBさんは、まったく同じ生活をしている。家の大きさも、夫の給料も、同じ。
子どもの年齢も、できも同じ。年齢も、学歴も同じ。

しかしAさんは、いつも、「うちの子はあれができない」「これができない」と、不平や
不満ばかりを並べている。一方Bさんは、いつも、「うちの子は、あれもできる」「これ
もできる」と、自分の子どもに満足しながら生きている。

その結果、一つだけ、ちがう点が、出てきた。Aさんの子どもは、いつも暗く沈んでい
る。Bさんの子どもは、いつも、はつらつとして、表情も明るい。


●いつも自分の子どもだけを見る

 Aさんの息子は、その町でも、ナンバーワンと言われる、S中学校に入学した。ウキウ
キとした気分だった。が、そこへBさんが、やってきた。そしてBさんが、Aさんにこう
言った。

「うちの子、今度、T大学に合格しました」と。日本で第一の大学である。それを聞い
て、Aさんは、「上には上がいるものだ」と、がく然としてしまった。喜びも、半減して
しまった。いつも世間の目を気にしている人は、いつもその世間に振りまわされる。喜
びも、悲しみも、相対的なものでしかない。

 だから……というわけでもないが、子育てをするときは、いつも自分の子どもだけをみ
てする。とくに世間の目を気にするようになったら、お・し・ま・い。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●世間体

 世間体というのは、結局は、その人の心の裏を写す、カガミのようなもの。世間体を気
にする人は、よく「世間が笑う」「世間が許さない」「世間体が悪い」とか言う。しかしそ
れとて、本当に世間が、そう思っているから、そう言うのではない。

 自分が、他人に対して、そう思っているから、そう言う。

 だからもう少し正確に言えば、その人が口にする「世間体」というのは、その人の心の
奥に潜む邪悪性を、裏がえしたものと考えてよい。

 たとえば、A氏(60歳)は、たいへん世間体を気にする人である。何かにつけて、「世
間」「世間体」という言葉を使う。で、あるとき、私にこう言った。

 「法事だけは、きちんとしなければ、いかんよなあ。世間の笑いものになるだけだよ」
と。

 そのときは、そういうものかなあと思っていたが、また別の日、A氏は、私にこう言っ
た。

 「あんなケチな法事など、見たことがない。あれじゃあ、死んだオヤジさんも、浮かば
れないだろ」と。

 死んだ父親の息子が、内々で父親の法事をしたらしい。その法事の中身が、質素だった
らしい。それでA氏は、そう批判した。

 なぜ、A氏は、こういうとき、「世間」という言葉を使うのか。理由は、簡単である。A
氏はそう言いながら、間接的に、自分の息子や娘たちに、「オレの法事はきちんとやれよ」
と言っているのである。事実、A氏の息子は、こう言う。

 「うちのオヤジは、ことあるごとに、先祖様、先祖様とうるさくてしかたない」「よく先
祖を大切にしろと、私に言うが、私には、『オレを大事にしろ』と言っているようにしか聞
こえない」と。

 まさか「オレを大事にしろ」とは、言えない。だから「先祖」という言葉をもちだして、
そう言う。

 A氏の気持ちも、理解できないわけではない。しかしだったら、すなおに、「私を大事に
してほしい」と言えばよい。何も、「世間」とか、「先祖」とかいう言葉を、もちだすこと
はない。

 そして本当に大事にしてもらいたかったら、それにふさわしい人物になればよい。その
努力もしないで、親風ばかり吹かしているから、息子や娘に、そっぽを向かれる。そこで
「世間」とか、「先祖」とかいう言葉をもちだして、息子や娘たちをしばろうとする。

 つまりは、世間体を口にする人ほど、それだけ、自分のない人とみてよい。自分がない
から、世間という尺度の中で、自分のあり方を決める。

 その証拠に、世間体を気にする人には、こう聞いてみるとよい。

 「では、あなた自身は、いったい、どう考えているのか。あなた自身の意見を聞きたい」
と。

 答は、何も、かえってこないはずである。

 で、最初の話にもどる。

 たとえば、「そんなことをすれば、世間が笑う」とだれかが言ったとする。しかし世間は
笑っていない。笑っているのは、その人自身ということになる。たとえば「貧乏になれば、
世間に笑われる」と言う。しかし貧しい人を笑っているのは、その人自身ということにな
る。

【補記】

 ユングが説く「シャドウ論」と、日本人がよく使う「世間体論」の中に、私は、一つの
符号性を発見した!

 表面(おもてづら)をよくして、仮面ばかりかぶっている人がいる。こういう人は、そ
の裏で、別の人格(シャドウ)をつくりやすい。牧師や僧侶、それに教職者のような人た
ちである。つまりは、そういうシャドウの中に、自分の中の邪悪な部分を押しこめてしま
う。押しこめることによって、自分は、人前では、さも私は、悪とは関係ありませんとい
うような顔をして、善人ぶることができる。

 同じように、世間体を口にする人は、「世間」という観念的世界に、自分の邪悪な部分を
押しこめることによって、自分では、善人ぶろうとする。「私はいいのですが、世間が何と
言いますかねえ」という言い方に、その典型を見る。あるいは「渡る世間は、鬼ばかり」
という言い方は、そういうところから生まれたのかもしれない。

 わかりやすく言えば、ありもしない「世間」、あるいは「世間の目」の中に、自分の心の
奥底に潜む邪悪性を押しこめて、自分では、善人ぶる。それがユングの説く「シャドウ論」
と似ている。それがここでいう「符号性」ということになる。
(はやし浩司 世間体 シャドウ 仮面 世間体論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを
「ゲーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、
「ゲーム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道してい
る(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、
感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制
をも司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎる
と働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に
証明したのが、日大大学院の森教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。
このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、
省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりする
と、ものすごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせ
が、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。
どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心
から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)
という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到し
た。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両
論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗
議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たち
であったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてく
るのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編
集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多か
った。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポ
ケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない
本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、
そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、森教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりを
もちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、
ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらし
い(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判
されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発し
たりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一
言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言
で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声
をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たち
との間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか
狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の
生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるよ
うになるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死ん
でしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI
(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十
人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまった
く発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼ
す」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い
見識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到し
たという(NEWS WEB JAPANの記事より)。
(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをし
ている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。
下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、
していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった
親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーテ
ィでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、
さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。
しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大
けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあっ
たのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、
言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲーム
を取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、
自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをし
たという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のとこ
ろに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにし
た。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるし
く変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャ
ーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計
算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと
片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたの
は、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能
面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のよ
うになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづ
けるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時
間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに
紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ…
…、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、
話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞
しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立!
 そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も
激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの
頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、
症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。
30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。
小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの
子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えれ
ばこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」
と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%
が、「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科
書を出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱い
ものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業
中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業その
ものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、そ
れが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子ど
もが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にと
まどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観
の差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指
導が難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)
と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「か
なり感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビ
やゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔
のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味
もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、
乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこ
う言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけて
も返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けに
せよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。
ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわ
かりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられな
くなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、
静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚
が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおも
しろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。
分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことが
ない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。
その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪
弊をあげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日
教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告さ
れている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、
北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫
りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がってい
る」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在
籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年2
10人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は3
55人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、9
6年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が417
1人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、
うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護
者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということであ
る。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラ
スを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策を
とっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年につ
いて、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、
2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、
もう1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、
一部の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的
に導入している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で
実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツ
という医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から
出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、
パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当た
り次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられ
るという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命
令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令
だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎ
ると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い
浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とす
るなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、
それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それ
は、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなっ
たとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと
言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし
精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子ども
は、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。
そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理
できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミ
ュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。
一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になって
いるそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。
その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、
修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習
能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけるこ
とができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、
異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門
外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、
先にとらえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子ども
は、すでに40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36
年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたち
と区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、
「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」とい
う言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、
約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクシ
ョナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、
脳の活動そのものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」
というのは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。
(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷
のある子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩
司)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった18名の学者が、緊急宣
言を行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピー
ス・JAPAN)なものであった。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけ
ではなく、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力およ
び社会的適応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性が
ある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。

シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行
動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動
症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。
人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」
というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シ
シリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、
環境ホルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、
胎児の脳に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのもの
の発達を損傷する」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●HP・N社様へ

 現在、HP・N2003を使用しています。
 〒432−xxx浜松市xxxxxx
 Tel&Fax 053−xxx−xxxxです。

 正規の会員登録はしています。

 で、つぎの4点について、どうか、お教えください。

(1)編集が終わり、FTP送信をするとき、「変更されたファイルのみを転送する」をク
リックしても、それを無視して、「すべてのファイルを転送」してしまいます。そのため、
不必要な時間がかかってしまいます。どこかの調整がおかしいと思うのですが、どうすれ
ばよいのか、お教えください。

(2)現在、47MBという大きなHPを編集しています。そのため、ファイルの読みこ
みに20〜30分ほどかかります。で、FTP送信をしたあと、保存をかけると、今度は、
4時間近くもかかってしまいます。

 パソコンのOSは、XP、PEN4の3・0GHz、メモリーは、1024MBで、最
新のものを使っています。

 多分、ハードディスクと、勝手にスワップしているため、無駄な時間がかかるのではな
いかと思っています。これだけの性能のパソコンなのですから、もっとはやく保存する方
法があると思うのですが、その方法は、ありませんか。

(3)先日、編集画面で、あるページに、リンク先を、20〜30個、張りつけていたら、
突然、プログラムごと画面が消えてしまいました。もちろんそれまで、編集していた部分
も、すべてです。

 で、パソコンを再起動し、プログラムをたちあげ、再度、作業をしなおしました。

 念のため、そのあと、HP・Nを、再インストールして使っています。

 こうしたトラブルは、なぜ起きるのでしょうか? パソコンをかえてから初めてのこと
なので、たいへん不安です。(今のパソコンは、2か月前に購入。)

(4)仮想メモリーは、最大でいくらほどに、また最小で、いくらほどに調整しておけば
よいのでしょうか。メモリーが、1024MBもあるのだから、仮想メモリーをゼロにし
てもよいのではないかと、自分では思っていますが、ゼロにして、よろしいでしょうか?

 どうか、お教えください。よろしくお願いします。

はやし浩司です。

+++++++++++++++++++++++

どなたか、HP・NINJAに詳しい方は
いらっしゃいませんか?

+++++++++++++++++++++++

【N社からの返事】

 1時間ほどすると、N社から返事が届いた。

(1)の設定については、具体的な方法が書いてあった。
(2)の「時間がかかる」という質問については、「47MBというのは、大きすぎる。だ
からどうしようもない」とのこと。
(3)の突然、プログラムが消えてしまったのは、メモリー不足になったのが、原因だろ
うということ。
(4)の仮想メモリーをゼロにするのは、「おすすめしません」とのこと(以上、要約)。

 こういう親切なところが、IF社のよいところ。

 IF社様へ、これからもずっと、HP・NINJAを愛用します。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●アフターサービス

 パソコンソフトにせよ、パソコン本体にせよ、あるいは周辺機器にせよ、アフターサー
ビスのよしあしで、その会社の評価が決まる。(少なくとも、私は、それで決めている。)

 たとえばパソコンも、いろいろ使ってみたが、親切なところと、そうでないところがあ
る。ここでは、どこがどうとは書けない。「たまたま私のばあいは……」というような意見
なら書けるが、そんな意見には、意味がない。

 しかし概して言えば、中堅の周辺機器メーカーは、親切。電話でも、あれこれとていね
いに教えてくれる。で、そういう会社に出会うと、ショップに行っても、その会社の製品
しか見なくなる。

 で、私が使っている、HP・NINJAというホームページ用のソフトは、東京にある
IF社という会社の製品だが、この会社は、FAXなどで相談すると、数日のうちに、必
ず、返事をくれる。その親切さが気にいって、もう6年も、NINJAを愛用している。
ほかにも、IF社の製品を、いくつか使っている。

 不親切だったのは、ウィルス対策ソフトを出している、X社。マニュアルには、電話番
号すら、載せてない。つぎに、住所録ソフトを出している、Y社。電話がやっとつながっ
たと思っても、ぞんざいな態度。専門用語をペラペラと言うだけ言って、それでおしまい。

 パソコンという電気製品が、ほかの電気製品とちがうところは、ここにある。しばらく
使っていると、そのつど問題が起きる。しかも問題が起きるたびに、内容が複雑になる。
どうしてもHELPが、必要になる。

 で、今も、こんな問題が起きている。

 5年前から愛用しているパソコンの、CD・DVドライブが、おかしくなってしまった。
ときどきウンとも、スンとも動かなくなる。しかたないので、外づけのDVDドライブを
買ってきて、つけた。

 しかしせっかく取りつけてはみたものの、パソコン本体のほうは、相変わらず、自分の
CD・DVドライブで仕事をしようとする。だから、外づけのドライブでできるのは、デ
ータの保存だけ。

 デバイスマネージャーのどこかをいじれば、問題は解決するだろうということまでは、
私でもわかる。しかしその先が、こわくて、できない。

 つまり私のパソコンの知識は、この程度。しかし、のぞいてみるだけ、のぞいてみるか
……。と、考えながらも、一方で、「あとで、外づけDVDを出しているB社に、電話をか
けてみよう」と思っている。

 B社は、いつも親切。以前も、ルーターをうまく設置できなかったときも、1時間あま
りも、私の相手になってくれた。私の応対だけで、その製品でもうけた利益など、消えて
しまったはず。そのときは、何かしら申しわけない気持ちになった。

 だから、それからは、周辺機器は、B社のものと決めている。B社さん、ありがとう!

(付記)

 今、この文章を読みかえしてみたが、内容は、浅く、タダの駄文。私という人間は、結
構、単純な人間らしい。よろしく!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●阪神タイガースの優勝

 「時間」というのは、おもしろいものだ。一方で、毎日、「時間がない」とこぼしながら、
寸陰を惜しんで、ものごとに熱中している人がいる。が、その一方で、その「時間」をも
てあまし、食い散らしている人もいる。

 「時間」は、どの人にも、平等に与えられる。その与えられた時間は、その人のもの。
だから、その人が、自分の時間を、どう使おうが、それはその人の勝手。他人の私が、と
やかく言うべき問題ではない。それこそ、内政干渉。いらぬ節介というもの。

 しかし……、というようなことを、今夜、考えさせられた。阪神タイガースファンの人
は、どうか、怒らないで、聞いてほしい。(怒るだろうが……。)

 今夜(9・29)、プロ野球、セントラルリーグで、阪神タイガースが、2年ぶり、5度
目の優勝を果たした。甲子園球場で、巨人を、5−1で破り、優勝が決まった。

 で、阪神タイガースファンの熱狂ぶりは、たいへんなもの。前回優勝のときは、道頓堀
の橋の上から川の中に飛びこんで、死者まで出たという。

 私とワイフは、その模様というか、実は、その試合がちょうど始まるころ、町中のレス
トランで、食事をしながら、その模様を見ていた。甲子園球場のまわりでは、興奮したフ
ァンたちが、口々に、阪神タイガースの優勝を叫んでいた。中には、踊り狂っている若者
たちもいた。

 「……?」というのが、私の第一印象。「どうしてああまで、うれしいのか?」と。

 底抜けに明るいファンたち。もう少し辛らつな言い方をすれば、頭の底が抜けてしまっ
たかのようなファンたち。テレビのレポーターまでが、そうでなければいけないというよ
うな口調で、興奮した様子で、ファンたちの様子を伝えていた。

 「本当に、そんな重大事なのか?」とも思った。「スポーツはスポーツ、試合は試合では
ないか」と。しかしつぎの瞬間、こうも思った。「あの人は、幸せな人たちだなあ」「ああ
まで夢中になれるものを、もっている」と。

 残念ながら、私は、ああまで夢中になれるものをもっていない。あるとすれば、サッカ
ーの国際試合だが、それとて、せいぜい家の中で、大声を出して応援する程度。試合が終
わり、テレビのスイッチを切ったとたん、試合のことは、ほとんど、忘れる。

 まあ、野球の試合といっても、いわば大阪では、祭りのようなものだから、どうこう書
いても、あまり意味はない。大阪の人たちは、ああして大騒ぎをしながら、日ごろたまっ
た、大きなうっぷんを晴らしているのかもしれない。ワーワーと騒ぐだけでも、ストレス
の解消にはなる。

 が、しかしまたふと、私の心は、もとにもどってしまう。「たかが、野球の試合ではない
か」と。ファンの様子を見ていると、何かしら、そこに人生のすべてをかけているかのよ
うな雰囲気すら感じる。「どうして、ああまで熱狂するのか?」「できるのか?」と。

 私の知人の中には、趣味といえば、プロ野球の実況中継を見るだけ。たまの休みには、
パチンコか釣り。あとは家の中で、スポーツ新聞を読んでいるだけ、という男がいる。若
いときには、それでもよかったのかもしれないが、50歳をすぎてからも、そうであると
いうのも、どうかと思う?

 私はその知人に会うたびに、いつも、こう思う。「こういう人たちは、自分の時間をムダ
にしたとは、思わないのだろうか」と。実際、その知人には、何もない。頭の中は、カラ
ッポ。いろいろな話題をもちかけるのだが、「ハハハ、ヘヘヘ……」と、笑うだけ。本など、
この20年近く、読んだこともないらしい。

 そうそう、その知人は、熱狂的な中日ドラゴンズのファン。試合のチケットが手に入っ
たりすると、仕事を早めに終えて、名古屋球場にかけつける。家に帰ってくるのは、その
ため、夜中の2時、3時になるという。

 その知人にしてみれば、野球なしの人生は、考えられないのだろう。

 そういうのを心理学では、どう判断するのだろう。依存症の一つと考えてよいのだろう
か。パチンコ依存症、マラソン依存症、薬物依存症、そしてプロ野球依存症。

 もちろんみなが、みな、そうというわけではないだろう。大半のファンは、騒ぐとして
も、その瞬間だけ。興奮するのも、その瞬間だけ。が、中には、私の知人のような人もい
るかもしれないし、プロ野球依存症と呼んでさしつかえのない人たちである。そういう人
が、100人に1人いるとしても、大阪市全体では、2・6万人の人ということになる。
500人に1人としても、5000人いるということになる。(大阪市の人口は、約260
万人。)

 しかし私には、どう考えても、ただのバカ騒ぎにしか見えない。(ああ、これで本当に、
大阪市の人たちを怒らせてしまった……!)どう考えても、だ。そうして騒ぐことに、ど
ういう意味があるのだろうか。また意味など、なくてもいいのだろうか。

 プロ野球といっても、その中身は、興行。金もうけ。ファンの人たちは、自分の意思で、
球団を応援していると思っているかもしれないが、その意思のうちの何割かは、ひょっと
したら、巧みな商魂によって、操られてできたものではないのか。つまり、そういうふう
に、ものを考えることはないのだろうか。

 本当に勝ち負けを決めるだけの試合なら、高校野球のようなやり方だってある。しかし
金もうけだから、試合に試合を重ね、「マジック」だの、「ナンバー」だのと、言って、フ
ァンを球場へ、うまく誘導する。

 で、最初の話にもどる。

 かぎりある「時間」を感じたとき、一方で、毎日、その刻々とすぎていく時間と戦って
いる人がいる。が、その一方で、その「時間」を忘れ、その「時間」を楽しんでいる人も
いる。

 50歳前後では、まだわからないかもしれないが、60歳近くになると、「いよいよ……」
という感じが強くなる。時間に、限界を感ずるようになる。

 私が正しいとか、あなたがまちがっているとか、そんなことを言っているのではない。
多分、相手の人たちから見れば、私のほうこそ、ただのバカに見えるだろう。朝早く起き
て、意味のない文章ばかり書いている。夜遅くまで、これまた意味のない文章ばかり書い
ている。ときどき、自分でも、自分がバカに見えるときさえある。

 ただ、私には、ああいうことをしているヒマはない。つまりは、それだけのことかもし
れない。テレビの報道を見ながら、そう感じた。大阪の人たち、ゴメン!

【付記】

 少し前、あなたが市長になったつもりで、市の行政を運営するというパソコンゲームが、
あった。(今でも、バージョンアップして、販売されていると思うが……。)

 あなたは最初、かぎられた予算で、市の建設を始める。道路をつくり、工場を誘致し、
住宅を建設する。やがて町は少しずつ大きくなる。人口もふえる。

 が、その一方で、住民の不満指数のようなものの表示される。それがある一定以上にな
ると、市長の人気が、下降する。下降すれば、つぎの選挙で落選するかもしれない。

 そこであなたという市長は、市民の不満をさげるために、公園を造成したり、娯楽施設
を拡充したりする。

 ゲームといえば、ゲームだが、ゲームをしているうちに、行政側の立場で、市の行政の
あり方を考えられるようになる。私はそのゲームをしながら、「こういうゲームを、教育の
世界に取り入れたら、それなりにおもしろい教育ができるのではないか」と思った。

 で、その娯楽施設だが、遊園地であったり、競技場であったりする。野球球場も、その
一つ。ただ働かせるだけでは、市民は、ついてこない。働かない。そこで行政側の視点で
考えると、市民を野球の試合に熱狂させるのも、行政の一つということになるのかもしれ
ない。

「娯楽は娯楽なんだから、もっと気軽に楽しめばいい」という意見もある。私のワイフ
も、そう言っている。しかし私は、どうしても考えてしまう。「あれでいいのだろうか?」
と。「ああいうバカ騒ぎをしている間に、もっと大切なものを、見落としてしまうのでは
ないのだろうか」と。でないというのなら、なぜ、そんなにうれしいのか? なぜ、そ
んなに騒がなければならないのか? ファンの人には、ファンの人の理由があるのだろ
うが、私には、どうしても、それが理解できない。大阪の人たち、再び、ゴメン!


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 26日(No.641)
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page026.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●不適切な対処

+++++++++++++++++

S県に住む、母親から、引きこもりに
ついての、相談があった。その相談を
読んでいるとき、10年前に経験した
A君(高校生)を思い出した。

そのA君について、書く。

+++++++++++++++++

 子どもに、何か、心の問題があったとしよう。よくあることである。しかしそのとき、
親の不適切な対処のし方が、かえって、子どもの心の問題を、こじらせてしまうというこ
とも、これまたよくあることである。

 10年近くも前のこと。高校3年生になったばかりの、ある男子(A君)が、ある日を
境に、自分の部屋の中に引きこもるようになってしまった。人との接触を避け、昼と夜を、
逆転したような生活を始めるようになった。

 家族とも、口をきくことはなかった。

 母親は、息子を説得して、精神科へ連れていった。何種類かの薬を処方してもらった。
が、母親は、薬をのめば、数日で、長くても、1、2週間のうちに、「治る」と考えていた。

 しかしそんな簡単な病気ではない。ないことは、1例でも、引きこもりの子どもの指導
をしたことがある人なら、わかる。とくに青年期の引きこもりは、数年から10年近くつ
づくことが多い。

 が、その母親には、それがわからない。

 子どもの目を盗んでは、子どもの部屋を掃除したり、窓のカーテンを開けたりした。私
が、「何もしないで、放っておくのがいい。勝手に、子どもの部屋に入ってはいけない」と
アドバイスしたが、何を言っても、反論、また反論。

私「掃除をしてはだめですよ」
母「でも、部屋がきたなくなります」
私「ゴミは、そのままにしておけばいい」
母「コンビニで買ってきた、袋が、散乱しています」
私「それでも、放っておくのです」と。

 電話で、こんな問答が、毎日のようにつづいた。

 私には、その子どもが、なぜ引きこもるようになったか、その理由がわかっていた。母
親は、毎日、毎晩、子どもと顔を合わせるたびに、「進学はどうするの?」「どこの大学に
するの?」「成績はどうなっているの?」と、そんな話ばかりしていた。

 家庭の中に、子どもの居場所がなかった。

 で、そんなとき、事件は、起きた。その子どもは、釣りが趣味だった。で、ときどき、
母親のサイフから、お金を盗んで、ルア(疑似餌)を買い集めていた。それを母親に見つ
かってしまった。

 激怒した母親は、子どもが学校へ行っている間に、釣り道具はもちろん、ルアを、すべ
て箱へつめて、小屋の中へしまってしまった。カギもかけた。「大学へ入るまでは、釣りは
させない!」と。

 もともと自閉傾向の見られた子どもである。そのルアについても、6歳、年下の弟がい
たのだが、その弟が、ルアにさわっただけでも、その子どもは、パニック状態になってし
まった。その子どもの様子は、その日を境に変わってしまった。

 で、何とか、風呂には入ったが、母親は、目ざとくそれを見つけ、「髪が洗っていない」
「まだ臭い」「ヒゲを剃りなさい」と。ことこまかく、子どもを注意した。夜中に、少しで
も外出しようとすると、母親は、飛び起きて、子どものあとを、追いかけたりした。

 こう書くと、その母親の神経質ぶりが、うまく理解してもらえないかもしれないが、あ
るとき、こんなことがあった。

 たまたま、母親と、子どもが、私の自宅に相談にやってきたので、その子どもを間には
さんで、母親、子ども、そして私が一列に並んで、話をした。

 そのときのこと。母親の視線が、その子どもの体を貫いて、私のところにまでやってく
るのである。私の心を射抜くような鋭い、視線である。ピリピリというよりは、ヤリで刺
すような視線である。

 で、体を前に出して、母親の顔を見ると、口を閉じたまま、柔和な顔をしている。しか
し目は、死んだ魚のそれのよう。どこか宙を見つめて、動かない。そして子どもが何かを
言おうと、モジモジするたびに、それをさえぎって、口をはさんだ。子どもは、萎縮した
ままだった。

 異常な過関心。過干渉。それに代償的過保護。ふつう過保護というと、その根底に、温
もりのある愛がある。しかし代償的過保護には、それがない。子どもを自分の支配下にお
いて、自分の思いどおりにしたいというのが、代償的過保護。子どもに勉強を強いるのも、
結局は、自分の不安や心配を解消するため。

 私は母親の心の冷たさに、ゾッとした。

 さらに、母親には、心の問題を理解するだけの、知力もなかった。私に向って、「心なん
て、もちようですよねえ、先生。だったら、息子にそう言ってくださいよ」「こんなのは、
わがままですよ。受験も近いし、勉強がいやだから、逃げているだけですよ」と。

 で、私がルアの問題に触れ、「ルアを、片づけてしまったのは、まずかったと思います」
と言うと、「どうせ、釣りには行けないのですよ」「引き出しの中には、まだ5、6個も残
っているのですよ」と。

 つぎつぎと、反論してくる。しかもペラペラと間断なく、である。

 こういうケースでは、最悪のコースをたどる。理由は、簡単。母親の愛情そのものに、
問題があった。あったというより、子どもを愛するという、「愛」そのものが、欠落してい
た。

 その母親は、子どもを、明らかに嫌っていた。が、母親自身は、「子どもが心配です」「私
は、人一倍、子どもを愛しています」と言った。そして子どもに向っては、「あなたのこと
を心配しているのよ」「どうして、あなたには、それが理解できないの!」と。

 こんなことを毎日繰りかえしていたら、症状は、ますますこじれる。仮に数年でなおる
はずだった引きこもりにしても、10年単位でつづく。あるいは、それではすまないかも
しれない。

 子どもの問題では、無知は、罪悪と考えてよい。さらにその母親のばあい、考えるとい
う習慣そのものが、なかった。ここにも書いたように、うるさいほど、よくしゃべる。自
分の正当性を訴え、自分の苦労話を訴える。しかしどれも表面的な話ばかり。その上、話
している内容も、そのつど、クルクル変わる。とらえどころがない。一つのことを説明し
終わらないうちに、別の問題をもちだしてくる。

 私が何かをアドバイスしても、ああでもない、こういでもないと、それをはね返してし
まう。そして、「精神科の先生は、こう言いました」「学校の先生は、こう言いました」「友
だちと話しているときは、ふつうです」と。

 こういうケースでは、私にできることにも、限界がある。一度は、夜中に電話がかかっ
てきたこともある。そのときも、その母親は、30分ほど、一方的に、あれこれ話すだけ。
しかも内容がこまかい。「汚れたシャツを、洗濯機の上に置いておいたら、それをまた着て
しまった」「脱ぐように注意したら、それを破ってしまった」と。

 で、途中で、「今夜は、疲れていますから、またのときに電話をしてください」と言うと、
突然、電話口で泣き崩れてしまい、「話くらい、聞いてください!」と。

 今回、相談のあった人と、この話は、関係ない。ただ、その相談の人のメールを読んで
いるとき、あのときのA君を思い出したので、ここに書きとめた。

 なお、この数年前から、こうした電話相談は、すべて断っている。そのための時間をと
るのが、たいへんむずかしい。体力的にも、限界を感ずるようになった。それで断ってい
る。
(はやし浩司 引きこもり 親の無知 無理解)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●ウソの連鎖性

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タヌキとキツネの化かしあい。
キツネとタヌキの化かしあい。

どちらが先で、どちらがあとでも
かわまわない。

しかし、そういう世界は、現実にある。
そしてそういう世界にいると、何がなんだか、
さっぱり、わけがわからなくなる。

これをウソの呼応性という。

++++++++++++++++++++

 Aさん(女性50歳くらい)は、私にこう言った。「私、今度、クラブの人たちと、九州
へ行くことになった。でも、あのMさんが旅行に行くなら、行きたくない。だから、当日
は、法事があるから行けないと言って、断っちゃった」と。

 つまりAさんは、ウソを言ったことになる。行きたくなければ、「行きたくない」と言え
ばよい。Mさんと行きたくなかったら、「Mさんとは、行きたくない」と言えばよい。しか
しそれを言うと、当然、その理由を聞かれる。わずらわしい。

 理由を聞かれれば、Aさんは、「Mさんが、嫌いだから」と答えなければならない。しか
しそんなことを言えば、人間関係に、ヒビが入る。

 そこでAさんは、「法事があるから」と、ウソの理由を言った。

 こういうウソは、多い。とくに、この日本では、多い。日本人は、本音と建て前を、う
まく使いわける。日本民族がもつ、独特の風習の一つととらえる人もいる。「ウソも方便」
と、ウソそのものを肯定する人も、少なくない。

 で、それはさておき、そういう話を聞いた、私は、どう判断すればよいのかという問題
が起きてくる。つぎの二つのケースが、考えられる。

(1)Aさんは、私に、秘密の暴露をしてくれた。つまり私を信用して、私にそう話して
くれた。だからAさんは、正直な人だ。私にだけは、ウソをつかないだろう。

(2)Aさんは、日常的に、そういったウソを平気でつく人だ。これからAさんと話すと
きは、気をつけよう。

 ところが人間の脳ミソは、それほど、器用にはできていない。一人の人間が、Xさんに
対しては、正直で、Yさんに対しては、ウソを平気でつく……というようなことはできな
い。自分の頭を、そのつど、切りかえることは、できない。そんなことを繰りかえしてい
ると、脳ミソのほうが、疲れてしまう。

 こういうケースでは、(2)のほうが、正解ということになる。Aさんは、あなたに対し
ても、平気でウソをつく。たとえば、Aさんが、本当に旅行に行きたくなかった理由は、
その費用を用意できなかったからだ。だから、「法事がある」とウソを言った。さらに「M
さんが行くから行かない」とウソを言った。それを知ったら、あなたは、どう思うだろう
か。

 つまりこうしたウソには、二重性、三重性がある。これを(1)ウソの多重性という。
一つのウソをつく人は、その上に、二つも、三つも、ウソを重ねて、ウソをつく。

 ……というようなことは、常識だが、さらに問題がつづく。

 こうしたウソを平気でつく人と交際していると、こちらまでウソをつかなければならな
くなる。建て前には、建て前で、答えるしかない。へたに、ひとり、正直を貫けば、こち
らのほうが、その社会から、はじき飛ばされてしまう。

 こうしたウソにウソが連なることを、(2)ウソの連鎖性という。で、このウソの連鎖を
繰りかえしていると、それこそ、まさにキツネとタヌキの化かしあいといった状態が生ま
れる。そして一度、こういう世界に巻きこまれると、何がなんだか、訳が、さっぱり、わ
からなくなってしまう。

 具体的な例で考えてみよう。もちろん、これから書く話は、フィクションである。

 Zさんが、「今度の連休に、ウチに遊びにこない?」と言ったとする。ところが、Zさん
は、私を嫌っているはず。そこでその下心を、あれこれ考える。しかもつい先日は、私に、
こう言った。

 「あのBさんね、この前の日曜日に、うちへ来たのよ。あの大雨の日よ。おかげで、家
の中がベタベタになってしまったわ」と。

 しかしZさんは、Bさんとは仲が悪かったはず。少なくとも、Bさんは、Zさんの悪口
ばかり言っている。「遊びに行ったけど、Zさんは、何も接待してくれなかった」「Zさん
は、口はうまいが、怠け者だ。近所の人にも、嫌われているそうよ」と。

 もうそれだけで、頭の中が、混乱してしまう。何が本当で、何がウソか、わからなくな
ってしまう。だれも、本当のことを言わない。Bさんが言った、「何も接待してくれなかっ
た」「近所の人にも嫌われている」という話にしても、疑わしい。それが本当かどうかさえ
も、わからない。

 だから、今度は、私自身も、自分の本音を隠すようになってしまう。「ああ、そうですか。
それはたいへんでしたね」と。

 こうして一つのウソが、つぎのウソを呼び、そしてやがてそれがウソの洪水となって、
自分に襲いかかってくる。ウソには、ウソで答えるしかない。で、概して言えば、農村へ
行けば行くほど、ウソが多くなる。(もちろん、みながみながそうというのではない。しか
し全体として比較してみると、その傾向は強い。)

 もちろんそういう農村で生まれ育った人には、それでよい。それはある意味で、居心地
のよい社会でもある。そういう社会では、波風をたてるよりも、万事、まるく、穏便にす
ますことのほうが、優先される。

 しかし世の中には、ウソが嫌いな人間もいる。そういう人間にしてみれば、そういう人
間関係は、苦痛でしかない。そういう社会では、あらゆる方面に、神経を張りめぐらさな
ければ、ならない。

 が、これも疲れる。本当に、疲れる。

 そんなわけで、ウソが当たり前の社会には、ウソをつく人たちが集まり、正直が当たり
前の社会には、正直な人たちが集まる。こうして長い時間をかけて、社会というより、そ
の人たちが住む世界は、二極化される。

【補記】

 正直に生きている人には、ウソの世界が、理解できない。ウソをウソと見抜けないこと
も多い。が、その分だけ、他人のウソでキズつきやすい。

 一方、ウソになれている人は、ウソをつくことに、良心の呵責(かしゃく)を覚えない。
ウソをついているという自覚すらないことも多い。あるいはウソでごまかしても、それで
その場をうまくやりすごしたりすると、ウソも方便などと言って、自分を正当化してしま
う。

 そのウソについて、ウソには、ここに書いた、(1)ウソの多重性、(2)ウソの連鎖性
のほか、(3)ウソの中毒性(ウソをつくことに、快感を覚えるようになる)、(4)ウソの
鈍麻性(ウソをついている自覚すらなくなる)、(5)ウソの呼応性(ウソには、ウソで答
える)などがある。
(はやし浩司 嘘の多重性 嘘の特徴 ウソの呼応性 ウソの中毒性 子供の嘘)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ターゲットの移動

 よく、不登校児がみせる症状の一つに、「ターゲットの移動」がある。この「ターゲット
の移動」という名前は、私がつけた。

 たとえばある時期、友だちなら、その友だちの悪口ばかりを並べる。「A君がいじめる」
「A君が無視する」「A君が意地悪をする」と。

 そこで親は学校にでかけ、自分の子どもから、A君を遠ざけてもらおうとする。「うちの
子が、学校へ行きたがらないのは、A君のせい」と。

 そこで、先生は、その子どもからA君を遠ざける。が、しばらくすると、今度は、その
子どもは、「先生が嫌いだ」「先生が、ぼくだけを目のカタキにする」とか言いだす。親は、
A君の問題で、先生が気分を悪くしたと考え、また学校へ行く。

 先生は、親に、頭をさげてあやまる。身に覚えがなくても、どこかで誤解を招くような
ことをしてしまったかもしれない。そういう思いがあるから、頭をさげる。

 しかしまたしばらくすると、その子どもは、今度は、「B君が、いじめるから、学校へ行
くのはいやだ」と言い出す。

 こうしてそのつど、子どもの言うことが、クルクルと変わる。親は親で、子どもが口に
する理由に、振りまわされる。このように、子どもが口にするターゲットが、そのつどク
ルクル変わることを、「ターゲットの移動」という。

 ターゲットの移動は、いろいろな場面で、見られる。本当の理由を隠しながら、あれこ
れ別の理由を並べるときに、それが起きる。先のA君のケースでも、A君は、要するに、
学校へ行きたくないのだ。それをごまかしながら、(あるいは本人自身も、その理由がわか
っていないこともあるが)、あれこれと理由をつくるから、そうなる。

 それが顕著に現れるのが、たとえば、塾。子どもは塾などをやめたくなったようなとき
でも、決して、(「決して」と断言してもよい)、「塾へ行きたくない」とは言わない。成績
がさがれば、なおさらである。

 「先生が、まじめに教えてくれない」「ぼくが質問をしても、先生は、無視した」などと
言う。親をして、「そんな塾なら、やめなさい」と言うように、しむける。(中には、「もっ
とむずかしい勉強をしてみたい。今の塾はレベルが低すぎる」「みなが、騒いでいて、静か
に勉強できない」などと訴えることもある。)

 逆の例も、ある。

 たとえば私が、子どもに向かって、「A中学校は無理だから、C中学校にしたらどう?」
と言ったとする。しかしそういう話は、子どもは、親には、絶対に伝えない。子どもは、「う
ちの子は、やればできるはず」と、親に思わせておくことによって、自分の立場を守ろう
とする。親を失望させるようなことを言えば、子どもは、自分の立場を、失うことになる。

 その子どもができそうにもないような、難解なワークブックをもっているときも、そう
だ。「このワークブックは無理だから、お母さんに言って、とりかえてもらいなさい」と、
私が言っても、正直に、それを母親に伝える子どもは、まず、いない。答を丸写しにして
でも、できたフリをして、ごまかそうとする。

 こうした一連の現象は、子ども独特の心理のなせるわざ、と考えてよい。

 子どもを疑えというわけではないが、そんなわけで、子どもが口にする不平と不満は、
じゅうぶん、疑ってかかってみたほうがよい。「その奥に何があるか?」という見方で、考
える。でないと、子どもが口にする理由で、あれこれ振りまわされることになる。

 さらにこんな例を、最近、耳にした。

 ある妻が、ワイフに会うたびに、その夫の悪口を言うという。「あれが悪い」「ここが悪
い」と。しかも、その理由というのが、理由にならないような理由だそうだ。「顔を拭くタ
オルと、食器を拭くタオルを、使いわけてくれない」「トイレの便器の周囲をよごす」「日
曜日は、家の中で、ゴロゴロしている」などなど。よくその妻が、車で夫の送り迎えをす
ることもあるというが、それについても、「車の後部座席で、横になって寝ているだけ。い
やになっちゃう。まるで私を運転手のようにしか思っていないのよ」と。

 ワイフは、「そんなことで……?」と思いながらも、「いろんなふうに考える人がいるも
のだ」と、自分を納得させたという。

 しかしつまりは、その妻は、夫のことを嫌っているのだ。しかし「嫌い」とは言えない。
自分でも、嫌いだとは、思っていない。しかし心の奥底では、夫を嫌っている。その心の
奥底の思いが、姿を変えて、不平、不満となって口から出てくる。

 もしあなたの子どもが、(あなた自身でもよいが……)、こまかい理由を並べて、あれこ
れと不平、不満を並べるようになったら、なぜそういうことを言うのか、その心の奥をさ
ぐってみるとよい。その心の奥に潜む問題をさぐらないかぎり、こうした問題は、解決し
ない。
(はやし浩司 ターゲットの移動)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●ある離婚

 知人の息子(長男)が、離婚した。今年、32歳。小学生の子どもが、2人いた。2人
の子どもは、妻のほうが、引き取った。家裁での調停の結果、月に2度だけ、知人の息子
は、自分の子どもたちに会えるという。もちろん養育費は、その息子が払うことになった。

 (これには、「養育費をきちんと払わなければ、子どもに会わせないぞ」という、妻側の
戦略的意味がこめられているのかもしれない。)

 知人は、いろいろと息子をかばっていたが、理由の第一は、どうやら、息子の不倫らし
い。その息子は、結婚前から、別の女性とつきあっていた。今回離婚した妻とは、いわゆ
る「できちゃった婚」。だから、一応、それまでつきあっていた女性とは別れた。が、しば
らくして、その関係が、復活。それで不倫、離婚ということになった。

 ……というケースは、多い。そう言えば、イギリスの王室でも、似たようなことがあっ
た。その王室でさえ、王子の恋心を、封じこめることができなかった。いわんや、私たち、
庶民をや!

 で、今、本当に相思相愛で、財産も立場も忘れて結婚するカップルなどというのは、い
ったい、どれくらいいるのだろうか。それに、相思相愛といっても、レベルがある。「まあ
まあ好き」という段階から、「命がけ」というのまで、ある。

 しかしどの段階であるにせよ、そのあとの夫婦という一つの形を作りあげていくのは、
あくまでもその2人である。結婚は、あくまでも、そのスタートにすぎない。大恋愛の末、
結婚したからといって、すばらしい夫婦になるとは、かぎらない。

しかし妻や夫以外に、ほかに好きな異性ができたばあいは、話は別。心というのは、そ
れほど器用にできていない。2人の人を同時に愛するなどということは、できない。家
の中では妻を愛し、家の外では愛人を愛するなどということとなると、さらにむずかし
い。これには、男も、女もない。

 知人の息子のばあいは、相手の女性から、毎日のように携帯電話にメールが、入ってい
たという。それで「息子は、相手の女に、そそのかされてしまった」(知人の言葉)という
ことらしい。

 まあ、離婚するのは、そのカップルの勝手だが、知人が、親として受けた心の痛手は、
相当なものだったらしい。それまで「孫」とかわいがっていた子どもが、半分以上、他人
となるわけだから、当然といえば、当然。実の子どもと別れるのと同じくらい、つらいこ
とだったにちがいない。

 さらにその2人の子どもについても、同じことが言える。それまで「お父さん」と呼ん
でいた人に、自由に会えなくなる。「何とかならなかったものか?」と、私は考えるが、男
と女の問題は、どうこまでいっても、当人たちの問題。他人の私たちがとやかく言っても、
はじまらない。

 で、こういう問題は、さっさと見切りをつけて、先に進むのがよい。どうも、それが正
解のようである。が、それにも、問題がある。

 で、かりに、知人の息子が、結婚前からつきあっていた女性と、再婚したとする。多分、
そういうことになるのだろう。が、それで、その息子は、幸福になれるのかという問題も、
残る。私の知るかぎり、こういう状況で再婚しても、たいてい、うまくいかない。

 別の人の不幸の上に成りたった幸福というのは、まさに砂上の楼閣。崩れるときは、簡
単に崩れる。それだけではない。

 逆境であればあるほど、恋心は、燃えあがる。しかしその逆境が消えたとたん、恋心も、
消える。(心理学の世界でも、それは証明されている。)それで、「めでたし、めでたし」と
いうわけには、いかない。

 しかし今は、結婚するのも、離婚するのも、簡単。昔とは、結婚に対する考え方も、と
らえかたも、ちがう。少なくとも、今の若い人たちは、私たちの世代とは、ちがった意識
をもっている。だから私の個人的な常識をもとに、知人の息子の離婚について、あれこれ
論ずるのは、正しくない。意外と今ごろは、別れた元妻も、2人の子どもたちも、そして
その知人夫婦も、サバサバとした気分でいるかもしれない。

 ただ一つ気になるのは、その息子だが、離婚と同時に、職を去り、今は、実家である知
人の家で、ブラブラしているという。これから先、どやって養育費を払っていくのだろう。
他人のこととはいえ、それだけは、少し気になる。

【補記】

 私たち夫婦のばあいも、何度も離婚の危機を迎えたことがある。いきさつはともかくも、
離婚しなかった理由は、いくつかある。が、その中でも最大の理由は、仕事をいっしょに
していたこと。「私は私で、ワイフはワイフで、どちらか一方がいなくなったら、その日か
ら、どちらも路頭に迷うことになる」と。そんなことを考えたら、離婚できなくなってし
まった。

 それに私にも、ワイフにも、愛人問題がからんでくるような事件は、なかった。ただ、
ワイフには、ずっと好きな男がいた。しかしその男というのは、俳優の中村M男。しょせ
ん、手の届かない相手だった。

が、ことあるごとに、「中村M男、中村M男」と、うるさいほどだった。テレビに、中村
M男の顔が出てくると、ワイフの目つきが変わったのを、よく覚えている。

で、ある日、私は、その中村M男が、実は、ツルツルのヘアレス頭で、いつもカツラを
かぶっていることを知った。どこかのカツラ会社のコマーシャルに出たのが、運のツキ。
私は、それをワイフに話してやった。おもしろおかしく、話してやった。で、ワイフは、
最初は、そのことを信じようとしなかった。が、自分でそのコマーシャルを見た。かな
りのショックを受けた。それからは、ワイフは、中村M男の話はしなくなった。ハハハ。

そのせいかどうかは知らないが、ワイフは、よく私の頭の毛を見ながら、よくこう言う。
「あなたの髪の毛は、どうして今でも黒々としているのかしら。ぜんぜん、ハゲないの
もおかしいわ」と。

 もし私の頭がハゲたら、即、ワイフは、私と離婚すると言い出すかもしれない。その可
能性は、たいへん高い。何といっても、ワイフは、髪の毛に、大きなこだわりをもってい
るから……。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータ
の中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経
て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われて
いる。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされて
いる。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経
などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのでは(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、
「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●非論理の世界

 非論理の世界というものが、どんな世界であるかは、今のK国を見れば、わかる。

 一時休会した6か国協議。再開してみると、K国は、突然、「軽水炉を建設しろ」と言い
出した。「核の平和利用は、すべての国がもつ、固有の権利だ」とか何とか。一見、もっと
もらしい正論(?)を、前にぶらさげた。

 で、すったもんだのあげく、他の5か国は、「核開発が完全に放棄されたあと、考えまし
ょう」ということになった。共同声明の文言も、そういう趣旨に沿ったものである。

 ところが、である。会議が終わったとたん、その翌日には、K国は、こう言い出した。「軽
水炉建設が先だ。核開発の放棄は、そのつぎだ」と。

 これには、韓国以外の国々が、あきれた。怒った。韓国だけは、「じゃあ、みんなで力を
合わせて、作ってあげましょう」と言った。

 しかし、こんなバカげた解釈はない。ないことは、少しでも論理的に考えられる人なら、
わかるはず。

 そこで数日もすると、K国は、「軽水炉建設と、核廃棄は、同時進行」と言い出した。し
かも、今、K国は、ことあるごとに、ワーワーと大声をあげて、そう叫んでいる。その見
苦しさは、ささいなことに因縁をつけ、自分を正当化しようとする暴力団のそれそのもの。

 YMさんの遺骨問題にしても、ニセ遺骨を日本側に渡しながら、つまりそのことについ
ては、一片も恥じることなく、「日本は、だれにも、見せないという約束を破ったではない
か」と、理由にもならない理由をあげて、騒いでいる。

 この異常までの、常軌を逸したおこがましさは、いったい、どこから生まれてくるのか?

 軽水炉にしても、そんなにほしければ、自分たちで作ればよいではないか。しかも平和
目的であるというのなら、電線くらい、自分たちで、ひいたらよいではないか! 戦車や
飛行機を、中国から買うお金があったら、食料くらい、自分たちで、買ったらよいではな
いか! 他国に甘ったれるのも、もう、いいかげんにしろ!

 自分たちは、したい放題のことをし、言いたい放題のことを言っておきながら、他国が、
ほんの少しでも気に入らないことをしたり、言ったりすると、ギャーギャーと騒ぎまくる。
この幼稚性は、まさに、暴力団がもつ幼稚性、そのもの。

 あのK国を、まともに考えていると、こちらの頭まで、おかしくなってくる。頭の中の
論理回路が、バチバチと音をたてて、ショートする。

 つまりは、それくらい貧しい国ということか? 財政的には、もちろん、心の中身も、
だ。

 が、それにしても理解できないのが、韓国。K国が、まだ何も、核開発を放棄するため
の行動をとっていないのに、すでに1兆円規模の包括的援助計画を立てている。実行に移
そうとしている。この韓国のはしゃぎぶりの中に、何かしらの、胡散(うさん)臭さを感
ずるのは、果たして私だけだろうか。

 表はともかくも、裏では、毎夜毎夜、韓国のN大統領と、K国の金xxは、内緒で、電
話で話しあっているのかもしれない。決して、ありえない話ではない。そう疑われてもし
かたないような動きは、いくつか、ある。

 たとえば6か国協議でアメリカ側の首席代表を務めたH代表について、H代表は、次回
の会議の前に、K国を訪問すると、韓国側が、突然、発表した。それを受けて、すぐK国
側は、「歓迎する」と。

 ブッシュ大統領の訪朝問題にしても、そうだ。どこか、おかしなところで、息が、合い
すぎている?

 今のところ、アメリカの国務省は、「そういった計画はない」と、さかんに否定している
が、韓国とK国は、「訪問する」と、ワーワーと騒いでいる。つまりそう騒ぐことによって、
既成事実化しようとしている。

 この先、アメリカが、さらに強くそれを否定すれば、あたかも、アメリカが、話しあい
をぶちこわしたかのような印象を、国際社会に与えることができる。やり方が、小ズルイ
というか、姑息(こそく)。

 しかしそれにしても、先の6か国協議で、そのアメリカを逆説得してしまった日本の外
交姿勢には、あきれるばかり。かえってアメリカを、逆5対1の関係で、追いこんでしま
った。それまでは、アメリカは、軽水炉建設については、がんとして拒否していた。が、
先に日本が、それを認め、ついでアメリカの説得に、とりかかった。

 最後の最後まで、仮にアメリカが賛成しても、反対に回るべきだった日本。体を張って
でも反対すべきだった日本。その日本が、先に折れてしまった。その結果、アメリカの腰
がくだけてしまった。

 その結果が、今である。

 「日本は、軽水炉を核開発放棄が同時だと言った覚えはない」と、今さらそれを言った
ところで、あとの祭り。そういうささいな言葉じりをつかまえて、ワーワーと騒ぎ、そし
てそれをやがて既成事実化していく。それがあのK国なのだ。

 もともと論理の通ずる国ではない。しかしそんなことは、日本の外務省は、百も承知の
はずではなかったのか。お粗末! 本当にお粗末!

 で、この10月に、またまた日朝会談が、P市で行われるという。K国側は、「拉致問題
については、いっさい、話しあわない」と、先にクギを刺してきている。ならば、なぜ、
今、おめおめと、P市にでかけていくのか。相手(様)は、「会ってやってもいいだろう。
しかし会談の目的は、戦争中の補償問題だ」と言っている。

 だったら、日本も、こう言うべきではないのか。

 「核開発放棄をしないかぎり、戦後補償問題の議論にも、応じられない」と。なぜなら、
彼らはかねてから、「核兵器の開発は、日本向け」と、何度も公言しているからである。
(この記事は、05年9月24日に書いたものです。発表時には、国際情勢は、大きく変
化していると思われます。)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●もうすぐ58歳

 もうすぐ、満58歳になる。「もうすぐ」というのは、このマガジンが、読者のみなさん
に届くころに、である。

 その58歳。58歳かあ?、と思ってみたり、58歳ねえ?、と思ってみたりする。5
0代と言えば、まだ若い感じがする。が、あと2年で、60歳かと思うと、ジジ臭い感じ
もする。

 ところで今日、あの愛知万博が、閉会式を迎えた。たまたま外出先で、この原稿を書い
ているので、その様子はわからない。何でも、大成功だったようだ。よかったと思ってい
る。心配していたテロ活動も、なかった。

 で、改めて、58歳について、考えてみる。……というより、走馬灯のように、過去の
思い出が、今、つぎからつぎへと、頭の中を横切っていく。が、おかしなもので、走馬灯
は、走馬灯。それらは、まるで、陽炎(かげろう)のようでさえある。

 つかみどころがなく、実感がない。こうした現象は、記憶というものが、多分に、脳み
その表面を、うわすべりしているために起こるのではないか。加えて、考えてみれば、私
の人生は、平凡だった。平凡過ぎるほど、平凡だった。だから、どれも、これも、陽炎の
ようになってしまう。

 つらいことや、心苦しいことは、現在も進行中。とくに楽しかったことも、なかったよ
うに、思う。「平凡の価値は、なくしてはじめてわかる」と説く人もいる。ハハハ。そう説
くのは、実は、この私だが、ある哲学者は、「平凡こそ美徳である」と書いている。

 平凡であることは、悪いことではない。しかしあまりよいことでもない。

この8年間、つまり満50歳になったとき、あれほど、「がんばるぞ!」と、力んで宣言
はしたものの、結局は、何もできなかった。8年前の私も、今の私も、同じ。かえって
体力や知力は、衰えてしまった。集中力も弱くなった。が、何よりも気になるのは、も
のの考え方が、どこか投げやりになってきたこと。

 深刻な問題が目の前にぶらさがっていても、「まあ、いいや」と思うことが、多くなった。
こういうのを、ニヒリズムというらしい。虚無主義とも訳す。こうした傾向は、これから
先、ますます強くなるかもしれない。

 で、つい今しがたまで、文G春秋・10月号を読んでいた。「日本の選択」が、特集され
ていた。で、読めば読むほど、暗い気分になってしまった。途中で、読むのをやめた。私
がこういうばしょで、いくら声高に叫んでも、また、文G春秋のような雑誌の中で、日本
を代表するような弁士たちが、いくら叫んでも、この日本は、変わらない。

 みなさん、異口同音に、日本の官僚主義を批評している。が、日本の官僚主義は、今に
始まったことではない。奈良時代の昔から、ずっとつづいている。何と言っても、歴史が
長い。根が深い。だいたいにおいて、役人(国家公務員)の数そのものが、いまだによく
わからないという。計算のし方によって、ちがうという。しかしこんなおかしなことが、
あってよいものか。

 たとえば、国家公務員の数にしても、61万5200人(財務省)とか、95万800
0人(総務省と人事省)とか、など。たしか国家公務員法の総定員法によれば、国家公務
員の定員は、33万1984人だったはずだが……。

 あとは、パラパラとあちこちの記事を拾い読み。どこか読み方が浅くなったのは、やは
り集中力が弱くなったせいかもしれない。が、その中でも、館野I氏の手記だけは、私の
心をしっかりととらえた。

 館野氏は、ピアニスト。その館野氏は、65歳のとき、フィンランドで演奏中に、脳溢
血(のういっけつ)で倒れている。そしてそのあと、右半身が麻痺。以後、リハビリにリ
ハビリを重ねて、今回の、「奇跡の音、左手だけのピアニスト」(題名)という、手記を書
いた。よかった。感動した。

 こういう話は、ジンと胸に響く。心のどこかで、「明日は、我が身」と思うためかもしれ
ない。自分では、「ぼくは、まだ健康だ」と言って聞かせるが、このところ、その声にも、
元気がなくなってきた。

 で、問題は、満58歳から、60歳まで、どう生きるか、だ。

 そうそう今朝、こんな愉快なニュースが、飛びこんできた。今度、HPの方で、動画ビ
デオを見てもらえるようにした。すでに見た方も、多いと思う。その中で、浜松のK神社
の、秋の彼岸会の様子を紹介した。それについて、カナダにある、Gというテレビ局から、
DVDに録画したようなものがあれば、すべて送ってほしいという依頼が、届いた。

 もちろん、返事は、NO! 返事の書きようがない。私がとったのは、デジカメ。DV
Dに残すような、高画質の映像ではない。20代、30代のころだったら、喜んで応じた
のだろうが……。あるいは特派員を、買って出たかもしれない。今は、そういうことをす
るのが、めんどうに感ずるようになった。

 しかしこれから先、こういう形で、インターネットは、ますます国際化していくことだ
ろう。……ということは、日本語ではだめで、英語をもっと使わなければならない。そう
だ、そうしよう!

 で、数日前に読んだ新聞記事によると、何でも新しいことには、挑戦したほうがよいそ
うだ。そうすることによって、シータ波という波、(実際には、どんな波か知らないが……)、
それが大量に脳みその中で発生して、脳細胞を活性化させるそうだ。

 が、こんなことは、幼児教育の世界では、常識。何でも「やる!」「やりたい!」と食い
ついてくる子どもは、伸びる。そうでない子どもは、伸びない。それを科学的に証明した
ところが、すごい。

 とりあえず、今、やりたいこと。

(1)今、使っている愛用のパソコンに、外づけのDVD、R/W装置をつける。
(2)ビデオカメラを購入して、本格的にビデオ編集をしてみる。
(3)10月から、新しい生徒がたくさん入ってくるので、仕事面でがんばる。
(4)1000号まで、マガジンをつづける。

 ……と、書いてみたが、何でもないことばかり。こんなことをして、何になるのだろう。
このままでは、満60歳になったときも、ひょっとしたら、同じことを書いているかもし
れない。

 「結局は、何も、できなかった……」と。

 まあ、何とか、それまで今の健康が維持できれば、御の字。もう欲は出さない。無理は
しない。

【補記】

 マガジンを1000号まで出すというのが、こんなにもたいへんなことだとは思っても
みなかった。しかし、今、確実に、それが私の生きがいになりつつある。

 今日も、こんなことがあった。

 理由は、ともかくも、昨夜から、いやなことが重なった。気分的にかなり落ちこんでい
た。が、マガジンの編集画面をのぞいてみると、読者が、4人もふえていた。私はその数
字をじっと見たまま、数分をすごした。うれしかった。目頭がジンと熱くなった。

 こういうときというのは、本当に、励まされる。この数年間、いろいろあったが、「マガ
ジンを出していてよかった」と、心底、そう思った。

 書くだけが、生きがいではない。私の文章を読んでくれる人がいることが、生きがいで
ある。今朝、改めて、それがよくわかった。

 読者のみなさん、ありがとうございます。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 24日(No.640)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●少し気になる話

 H君という、中学2年生の男子がいる。週1回、自宅へ、数学の勉強にきてくれている。
そのH君だが、いつも、目をまっかに腫らしている。聞くと、「結膜炎だ」という。「放課
後、運動場で部活をしていると、結膜炎になる」という。

 日光性アレルギーというのは聞いたことがあるが、日光性結膜炎というのは、聞いたこ
とがない。しかし日光性アレルギーというのがあるのだから、日光性結膜炎というのがあ
ってもおかしくない。紫外線は、いわば、放射線。そんな紫外線を大量に受ければ、目だ
って、どうなるか?

私「どうして、サングラスをかけないんだ?」
H「だれも、かけていないよ」
私「しかし強い日光に当たると、結膜炎になるんだろ?」
H「そう、みたい」
私「だったら、サングラスを、かけろよ。目がやられてしまうよ」と。

 私は、そのH君を見ながら、こんなふうに、考えた。

 もしその子どもが自分の子どもだったら、先生の指導も、ちがったものになるだろうな、
と。他人の子どもだから、どこか、いいかげん。そんな感じがした。

 しかしこれは、どんな教師でも、一度は、越えなければならない壁でもある。(自分の子
ども)と、(他人の子ども)を、隔(へだ)てる、壁。「自分の子どもは、自分の子ども」「他
人の子どもは、他人の子ども」と分けて考えていると、やがて、疲れてしまう。自己矛盾
で、頭の中が、バラバラになってしまう。まじめに教育を考えれば考えるほど、そうなる。

 実は、私も、この問題で、悩んだ。他人の子どもに接するときの(私)と、自分の息子
たちに接する(私)が、別人のようになってしまったことがある。1年や2年ならよいが、
それが5年、10年とつづくと、頭の中が、混乱してくる。ものを書いても、内容は、矛
盾だらけ。

 そこである日を境に、務めて、(他人の子ども)(自分の息子)という考え方を、捨てる
ようにした。

 が、そのときは、それがうまくできなかった。しかし私の息子たちに、つぎからつぎへ
と問題が起き、そうした苦労の中でもみくちゃになっているうちに、やがて、(他人の子ど
も)(私の息子)という考え方が、少しずつ、消えていった。

私「あのなあ、だれもしていなくても、君には、サングラスが、必要だよ。わかっている
の?」
H「サングラスってさあ、どこか悪人ぽくない?」
私「悪人だろうが、何だろうが、目は大切だよ。何なら、ぼくのうから、先生に電話して
みてやろうか」
H「いいよ、パパに話すから……」と。

 このところ、これは私の年代の人間の話だが、原因不明の、目の難病がふえているとい
う。角膜そのものが病変を起こし、失明していく人も、多いと聞く。それらがすべて紫外
線の影響とは言えないが、しかし疑ってみる価値は、じゅうぶん、ある。

 ヒフが日焼けするように、目の粘膜も日焼けする。

 それにしても、無頓着すぎる。先生も、親も、そして社会も!

 紫外線警報が出たら、運動場での運動は、停止する。運動するにしても、日焼け防止は
もちろんのこと、長いツバのある帽子をかぶり、サングラスをかける。今どき、こんなこ
とは、常識ではないのか。

 ちなみに、今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行
為と言ってもよい。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。

オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率が、
4〜6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。

実際、オーストラリアでは、92年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件
数が、毎年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオー
ストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の
帽子とサングラスの着用を義務づけている。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●オーストラリアの教育

 ワイフと長島ダム(静岡県大井川鉄道上流にあるダム)まで行き、帰りにまたトロッコ
列車に乗って、千頭(せんず)駅に戻った。そのトロッコ列車に乗ったとき、オーストラ
リアから来た鉄道マニアの一行と一緒になった。

私が「マニア」という言葉を使うと、苦笑いをして、「エンシュージアシスト(熱心なフ
ァン)だよ」と言って笑った。一行は二〇人ほどだったが、その中に、ブリスベーンの
州立小学校(State School)で校長代理(デピュティ・プリンシパル)を
している人がいた。名前をホプキンズと言った。話は当然、教育の話になった。
 
 私が「日本には教科書の検定制度がある」と話すと、「何かの本で読んだことがある」と
言ったあと、「アンビリーバブル(信じられない)」と言った。

「日本のような国が、教科書の検定制度をすることは考えられない」と。そこで私が「日
本を旅行していて、驚いたことは何」と聞くと、逆にいくつかの質問をしてきた。「どう
して日本の子どもたち(小学生)は、夜九時ごろになっても、制服を着て、町の中を歩
いているのか」と。

私が「それは多分、塾へ行くところを見たのではないか」と言うと、「塾とは何か」「学
校が終わってから行くのか」「何を教えるのか」と、つぎつぎと質問をしてきた。

 私もいろいろ聞いた。「南オーストラリア州では、テキストすら使っていないと聞くが、
クイーンズランド州ではどうか」「学校の教師は親に、住所や電話番号を教えるか」「虐待
を見たらどうするか」と。

 その答はこうだった。「テキストはあるが、ほとんどの教師は、ほとんど使っていない。
自分でくふうして、自分で用意している」「教師の電話番号は電話帳には載せないことにな
っている」「精神的虐待や肉体的虐待を見たら、州政府に通報する義務はあるが、それ以上
の責任は教師にはない」と。

 おもしろいと思ったのは、オーストラリアほど自由な国はないと思っていたが、ホプキ
ンズ氏はこう言った。「私は教育の自由化のための運動をしている」と。

「今、教育は連邦政府と州政府と地方政府の三つの監督下に置かれている。これはおか
しい。教育は学校独自のベース(基礎)で、すべきだ」と。具体的には、教師の任命権、
カリキュラムの設定など、すべて学校独自がすべきだと。

私が「日本では、北海道から沖縄まで、すべて同じ教育をしている」と話すと、再び、「ア
ンビリーバブル」と言った。たまたま横で私たちの話を聞いていたオーストラリア人ま
で、「アンビリーバブル」と言って、たがいに顔を見合わせた。国が違うと、教育に対す
る意識も、天と地ほど違うようだ。

 ただオーストラリアでも、学力の低下が問題になっているとのこと。「お互いに情報を交
換しよう」と約束して別れた。彼らの屈託のない陽気な様子を見ていると、ふと「ああ、
私もオーストラリアに移住すればよかった」という思いが、胸を横切った。「どうして私は、
この日本にいるのか」と。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●大乗仏教

+++++++++++++++++

どうして、日本へ伝わってきた仏教を
大乗仏教(だいじょうぶっきょう)と
言うか、知っていますか。

一方、釈迦の生誕地から、南、つまり
今の東南アジア方面に伝わった仏教を
小乗仏教といいますね。

どうして小乗仏教というか、知ってい
ますか。

+++++++++++++++++

 「大乗」というのは、「みんなが乗る」という意味です。つまりですね、とくに出家しな
くても、信仰すれば、だれでも、大きな船に乗って、悟りの彼岸へ行けるという意味なん
ですよ。

 一方、「小乗」というのは、出家して、特別の修行をした人たちだけが、悟りの彼岸へ行
ける船に乗ることができるという意味です。つまりは、小さな船ということかな。

 ただし小乗仏教では、いくら修行しても、ブッダには、なれません。最高でも、阿羅漢
(あらかん)という位までです。(位なんて、どうでもよいことですが……。)

 大乗仏教の人たちは、自分たちこそ正当であるという意味で、「大乗」と言い、どこかさ
げすんだ意味をこめて、いわゆる南伝仏教を、「小乗」と言います。かたや、小乗仏教の人
たちは、自分たちこそ正当であるという意味をこめて、「上座部」と言い、大乗仏教を、や
はりさげすんだ意味をこめて、「大衆部」と言います。

 これも、どうでもよいことですが……。

 こうした分派は、釈迦滅後、約100年くらいしてから、始まったそうです。この分派
以前の釈迦仏教を、原始仏教と呼ぶ人もいます。「原始」というと、何か、劣っているよう
な印象を受けますが、仏教の研究をしようと考えたら、原始仏教から始めなければなりま
せんね。

 だいぶ前に亡くなりましたが、東大の中村元(はじめ)名誉教授は、「大乗非仏説」を唱
えていましたよ。つまり、ガンダーラから、中国を経て日本へ入ってきた釈迦仏教は、本
来の釈迦の教えとは、似ても似つかぬ、異質のものである、と。中村元氏は、その原始仏
教の分野では、超一級の研究者でした。

 これも、私たち、凡人には、どうでもよいことですが……。

 大切なことは、私たち一人ひとりが、それぞれの方法で、満ち足りた幸福を追求すると
いうことですね。どの宗派が正しいとか、まちがっているとか、正当であるとか、ないと
か、そんなことを論じても、意味がないということ。

 いわんやこの日本という小さな島国の中で、「オレたちは、絶対正しい」「あとは、みん
なまちがっている」と、つまらない言い争いをしても、意味はありませんね。わかりやす
く言うとですね、宗教論争ほど、無意味で、空虚なものは、ないということ。

 私もかつて一度、そういう宗教論争に巻きこまれ、不愉快な思いをしたことがあります。
それこそ、重箱のスミを、爪楊枝(つまようじ)で、ほじくりかえすような論争ばかり。
ささいな字句の解釈のちがいをとらえて、ああでもない、こうでもないと論争するのです
から……。

 でもね、一度は、仏教の勉強も軽くしておくとよいですね。何といっても、日本は、一
応、仏教国。生活のあらゆる場面に、仏教のにおいが、しみこんでいますから。何も考え
ないまま、あるいは疑わないまま、風習だけに振りまわされていると、ときとして、自分
を見失うことにも、なりかねません。

 そのレッスン・ワン。大乗仏教と、小乗仏教について、ここで考えてみました。
(はやし浩司 大乗仏教 小乗仏教 上座部 大衆部 阿羅漢 原始仏教)


●四法印

 私の先祖がまつってある墓地の入り口に、正方形の石碑が建っている。そしてその四面
には、(1)諸行無常(しょぎょうむじょう)、(2)一切行苦(いっさいぎょうく)、(3)
諸法無我(しょほうむが)、(4)涅槃寂静(ねはんじゃくせい)の、文字が刻んである。

 これを仏教の世界では、「四法印」と呼んでいる。つまり、この四法印こそが、仏教の教
義の根幹と思えばよい。

 つまり、この世の中のすべてのものは、流転して定まることはない(=諸行無常)。そし
て生きることには、困苦はつきもの。困苦のない人生など、ありえない(=一切行苦)。ま
たあらゆるものは、いわば幻想のようなもの。もっと言えば、「空」。つまり実体のあるも
のは、何ひとつない(=諸法無我)。で、最後に、すべての欲望から解放されたとき、人は、
はじめて心の静寂を自分のものにすることができる(=涅槃寂静)と。

 釈迦のこうした教えの基盤にあるのは、「救済」と考えてよいのでは……? つまり今、
苦しんでいる人を、どう救うかということ。そのため、釈迦仏教というと、どこか、暗い。
この四法印についても、そうだ。

 かつて、これについて書いた原稿があるので、ここに転載する。今から、3、4年前に
書いた原稿である。

++++++++++++++++++

●30年、一世代

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。ちょうど
30年で、一世代を繰りかえすことから、そういう字を使うようになったという。

 たとえば30年後、あなたの子どもは、あなたの年齢になり、あなたの子どもと同じ年
齢の子どもをもつようになる。反対に30年前には、あなたの両親が、今のあなたの年齢
で、あなたは今のあなたの子どもの年齢だった……。

 しかし私は、この30年という数字を、別の意味で、とらえている。

 私もこの浜松市に住むようになって、今年で、33年になる。ちょうど一世代分、この
町で生きたことになる。先日もそのことについて、ワイフと、こんな話をした。

 「この30年間で、ぼくたちのまわりは、すっかり変ったね」と。

 そう、この30年間で、大きく変わった。小さな店を経営していた商店主が、全国規模
の大会社の社長になったというようなケースがある一方で、浜松市でも一、二を争ってい
た資産家が、落ちぶれて、見る影もなくなってしまったというようなケースもある。

 まさに栄枯盛衰。仏教的無常観を借りるなら、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
※』(平家物語)ということになる。

 で、そういう世間を見ながら、かろうじてふんばっている我が身を知り、「こんな自分も、
いつまでつづくのか?」と、ふと、思う。

 ただ、だからといって、生きていることが、虚(むな)しいとか、そういうことを言っ
ているのではない。成功した人がどうとか、失敗した人がどうとか言っているのではない。
人は、人それぞれだし、私は私だ。

 が、30年も生きてみると、世の移り変わりというものが、実感として、自分の心の中
でわかるようになる。そしてふと立ち止まったようなとき、「あのときの、あの人は何だっ
たのかなあ」と、思う。

 しかしそれは、そのまま私自身の未来の姿でもある。いつかだれかが、ふと、私のこと
を思い出しながら、「はやし浩司って、何だったのかなあ」と思うかもしれない。何もかも
あいまいな世界だが、はっきりしていることもある。

それは、つぎの30年後には、私はこの世から消えていなくなっているということ。ワ
イフの父親も、もう死んでいるし、私の父親も死んでいる。それと同じになる。

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。

 今、つくづくと、「なるほどなア」と思う。


【補記】

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂(つい)には滅びぬ
偏に風の前の塵(ちり)に同じ

+++++++++++++++

【追記】

 仏教的無常観……つまり、何をしてもムダ、何をしても意味がない、という無常観は、
正しくない。当時は、そういう世相であったかもしれないが、それをそのまま受け入れる
と、たいへんなことになる。まさに(生きること)を、否定してしまうことになりかねな
い。

 私はこのことを、中学生のときに、感じたことがある。

 私は、中学生のころ、自分で空を飛んでみたかった。それ以前からそうだったが、毎日、
どうすれば、自分で空を飛べるか、そればかりを考えていた。

 小学4年生くらいのときには、板を切って、翼(はね)を作ったこともある。で、あれ
これいろいろ実験を繰りかえしていた。一度は、それを背中につけて、一階の屋根の上か
ら、飛び降りたこともある。

……というより、そんなわけで、中学生になるころには、飛行機が飛ぶ原理を、ほぼ完
ぺきに近いほど、知りつくしていた。

 そんな中、一人、たいへん冷めた男がいた。いつも私がすることを、遠巻きにして、ニ
ヤニヤと笑って見ているような男だった。今、ここで具体的にどんなことがあったかを、
書くことはできない。よく覚えていない。しかしその冷めた目つきだけは、今でも忘れな
い。

 軽蔑の眼(まなこ)というか、いつもそういう眼で、私を見ていた。

 つまり自分では、何もしないで、他人のすることを、あれこれ、批判、批評ばかりして
いた。「そんなことしても、ムダだ」とか、「意味がない」とか。

 仏教的無常観というのは、それに似ている。仏教的無常観を信ずる人は、その人の勝手
だが、しかしだからといって、この世の中で、懸命に生きている人を否定するための道具
に、それを使ってはいけない。

 先日も、こんなことを言った人(男性、60歳くらい)がいた。

 「林君、どうせ有名になっても、意味はないよね。死んで10年もすれば、たいてい忘
れられる。総理大臣だって、そうだ。今の若い人は、30年前の総理大臣の名前すら、覚
えていないだろ」と。

 たしかにそうだが、しかしだからといって、懸命に生きること、それを否定しては、い
けない。ちなみにその人は、どこからどう見ても、ただの平凡な男だった。

 仏教的無常観をもつ人は、どこか、独特の優越感を覚えることが多い。「冷めた考え方」
というのは、そういう考え方をいう。

 失敗してもようではないか。つまずいてもよいではないか。有名になれなくてもよいで
はないか。大切なことは、その人が、いかに充実した人生を、満足に送ることができるか、
だ。

 仏教にも、いろいろな側面がある。しかし私は、仏教がもつ、(あるいは宗教全般がそう
かもしれないが)、現世逃避的なものの考え方には、どうしても、ついていけない。ここで
いう仏教的無常観も、その一つである。

 私なら、平家物語を、こう書く。

++++++++++++++++++

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
夢と希望の、明るい音色。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
我らが目的は、失敗にめげず、前に進むこと
懸命に生きる、人の美しさ
未来に向かって、ひたすら生きる
その命、人から人へと、永遠につづく
そこに、人が生きる意味がある。価値がある。

+++++++++++++++++++++++

 しかし仏教というと、どうしてこうまで考え方が、うしろ向きなのだろうか。これはあ
くまでも私の印象で、こういう私の意見に猛反発する人もいるかもしれない。しかしさん
さんと明るく輝く、太陽のようなぬくもりはない。

 どこか、線香臭く、どこか、湿っぽい。本当は、そうではないのかもしれない。たとえ
ば、「あの世」についても、原始仏教の中では、つぎのように説いている。

+++++++++++++++++++++++

●あの世論

 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典の
ひとつ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。

わかりやく言えば、「ない」と。「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人
がいるかもしれないが、そうした常識は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上
の年月を経てからつくられた常識と考えてよい。もっとはっきり言えば、ヒンズー教の
教えとブレンドされてしまった。そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護
摩(ごま)をたいているのを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式
であって、それ以外の何ものでもない。

むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」と教えている。(「バラモンよ、木片をたい
て、清浄になれると思ってはならない。なぜならこれは外面的なことであるから」(パー
リ原典教会本「サニュッタ・ニカーヤ」)と。

++++++++++++++++++

●なぜ生きるかについて

 ではなぜ、私たちは生きるか、また生きる目的は何かということになる。釈迦はつぎの
ように述べている。

 「つとめ励むのは、不死の境地である。怠りなまけるのは、死の足跡である。つとめ励
む人は死ぬことがない。怠りなまける人は、つねに死んでいる」(四・一)と述べた上、
「素行が悪く、心が乱れて一〇〇年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生
きるほうがすぐれている。愚かに迷い、心の乱れている人が、一〇〇年生きるよりは、つ
ねに明らかな智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。怠りなまけて、気
力もなく一〇〇年生きるよりは、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれてい
る」(二四・三〜五)(中村元訳)と。

 要するに真理を求めて、懸命に生きろということになる。言いかえると、懸命に生きる
ことは美しい。しかしそうでない人は、そうでない。こうした生き方の差は、一〇年、二
〇年ではわからないが、しかし人生も晩年になると、はっきりとしてくる。

 先日も、ある知人と、三〇年ぶりに会った。が、なつかしいはずなのに、そのなつかし
さが、どこにもない。会話をしてもかみ合わないばかりか、砂をかむような味気なさすら
覚えた。話を聞くと、その知人はこう言った。「土日は、たいていパチンコか釣り。読む
新聞はスポーツ新聞だけ」と。こういう人生からは何も生まれない。


++++++++++++++++++++++

 少しきびしいことを書いてしまったが、仏教も、ほんの少しだけ視点を変えると、明る
さがましてくるのではないか。またそれが本来の仏教ではないか。「どう、心安らかに死ぬ
か」というのではなく、「どう、明るく、前向きに生きるか」。それを教えているのが、私
は仏教だと思っているが……。

 この先は、またゆっくりと考えてみたい。少し、疲れた。
(05年9月24日)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日本の国家経済】
がんばろう、団塊の世代よ!

●795兆円!

 05年、つまり今年6月末現在、国の借金が、とうとう795兆円になったそうだ。

 すごいですねえ、795兆円ですよ! ハハハ。ピンとこない? そうですよねえ。何
といっても、天文学的な数字ですから……。

 財務省の発表のよるとですね、国の借金は、正確には、795兆8338億円。今年の
3月からだけでも、14兆2821億円もふえたそうです。

 たった3か月で、14兆円ですよ!

 これを国民の数で割るとですね、赤ちゃんから、老人まで、国民1人あたり、623万
円になるそうです。

 4人家族なら、2500万円。5人家族なら、3100万円。

 その内訳を調べてみるとですね、普通国債によるもの、つまり表の世界の借金が、51
0兆円。これに財投機関向けの財投債などの借金が、加わります。いわば、裏の世界の借
金ということでしょうか。それで、640兆円。

 でもね、国がかかえる借金は、こんなものではありません。

 たとえば特殊法人などがかかえる、いわゆる政府保証債務の残高は、57兆8582億
円もありますよ。ほとんどの特殊法人に、返済能力はありませんから、つまり、これも、
結局は、国の借金ということになりますね。

 旧国鉄がかかえる債務だけでも、20兆円以上ありますから!

 ゾーッ!

 何といっても、みなさんの給料にあたる、税収入は、1年で、たったの42〜3兆円し
かないのですから……。

●広がる官民格差

 現在、夫婦2人のばあい、老齢年金は、サラリーマンのばあい、23万3000円。こ
の額では、かなりきびしいですね。

 で、国家公務員は、27万8000円。地方公務員が、29万4000円。

 ナルホド!

 でね、政府の発表によるとですね、2005年度予算の人件費は、国家公務員が5兆4
410億円、地方公務員が22兆7240億円だそうです。

 合計で、約28兆円。

 しかし、ですね。これは、ウソ! まっかな、ウソ! 日本には、このほか、いわゆる
「準公務員」とも言われている、「みなし公務員」と呼ばれる人たちがいます。

 特殊法人や独立行政法人で働く人たちです。電気ガスなどの独占的企業で働く人を含め
ると、もっとになりますが、そういう人たちの人件費まで含めると、約38兆円にもなる
のですよ。

 国の稼ぎのほとんどが、その人件費で消えることになります。が、ですよ。政府は、の
んきなもの。「本当のところは、いくらかわからない」と言っているのです。そこで、一部
の議員さんたちが、今になって、やっと、政府に対して、人件費総額を明らかにすること
を、求め始めています。

 ヘ〜エ? 今ごろねエ?

 でね、このまま官民格差が進むとですね、45年後にはですね、サラリーマンの年金が、
月額、49万1000円。公務員が、58万6000円になるそうです。

 45年も先の話ですから、私には関係ないかもしれません。そのころには、日本は、ど
うなっていることやら。だいたいにおいて、このまま進むとですね、国民の数よりも、公
務員の数のほうが多くなるわけですから……。

 そこで政府は、つまり小泉内閣は、「公務員の削減」を、口にしましたね。郵政三事業の
民営化法案も、その一つです。

 これで一応、27〜8万人の国家公務員を削減できることになります。が、しかし今ま
での既得権は、そのまま。よい例が、旧国鉄の人たちです。

 あの国鉄は、中曽根内閣の時代に、民営化され、今は、「JR」と呼んでいますよね。し
かしそのあと、当時国鉄マンだった人は、国鉄時代の恩恵を、そのまま受けていますよ。

 その一つが、「転給制度」。

 公務員の人は、死んでもですね、それで年金がストップするわけではない。死んでもで
すね、遺族には、遺族年金がはいるしくみになっています。受給対象は、(1)妻(もしく
は夫)、(2)父母、(3)孫、(4)祖父母の順で、です。

 こうして公務員だけは、手厚く、末永く、年金が入るしくみになっています。孫や、祖
父母にまで、入るところが、ニクイですね。ホント!

●ムダなものばかりつくる、箱物行政

 しかしそれでも、こりず、日本は、ムダなものばかり、作っている。そうは思いません
か? 無駄な橋、高速道路、空港などなど。

 あなたの町や、村でも、公共施設だけは、やたらと立派。大理石を敷きつめたような廊
下に、豪華な……。もう、何でもござれ!

 しかもですよ、借金に借金を重ねて、作っている。

 そこで日本政府は、国債の利払いすら、できなくなってしまったというわけ。つまり今
までは、何とか、利息だけを返して、自転車操業をつづけてきたわけですが、その利息す
ら払えなくなったというわけ。

 そこでとうとう、その利息を払うための国債、これを「借款債」というらしいですが、
それを発行することにしました。その額、ナ、何と、100兆円!

 これでは、いくら民間企業が、働いてお金を稼いでも、焼け石に水。稼いだ先から、ジ
ュージューと、水が湯気になって消えていくといった感じです。

 この先、日本の国家経済は、どうなるのでしょうか?

 私のような一庶民が心配したところで、どうにもなりませんが、私は、心配でなりませ
ん。もともと心配性なものですから……。

 ドルも暴落。円も暴落。ガソリンや、金価格(現在、1グラム1800円)の値段があ
がったということは、ドルや円が、同時に暴落したということなんですね。

 今、猛烈な勢いで、円を、外債に換えたり、金を買ったりしている人が、ふえているそ
うです。しかしそれは、お金のある人の話。

 私たちには、そんなお金もない。指をくわえて、見ているだけ。まあ、どうにでも、な
れという心境かな。ホント!

 行政改革は、始まったばかり。市町村の統廃合、郵政三事業の民営化。しかしつぎに待
っているのが、農政の民営化。これはすごい争いになると思いますよ。相手が農家の人た
ちですから……。郵便局員のような、おだやかな人たちではありませんから……。みなさ
ん、今から覚悟しておきましょう。そのうち、政府のほうから、少しずつ、そういう話が
漏れてくることでしょう。小出しに。少しずつ、小出しに……。

 しかしやるしかない。やるしかないのです。

 借金のツケを、つぎの世代の子どもたちに残さないために、ね。残してはいけないので
す。

 で、一言。解決法がないわけではないのです。つまりね、私たち団塊の世代が、75歳
まで、働けば、何とか、ここに書いた問題は、すべて回避できそうなのですよ。

 そこであえて、シュプレヒコール!

 団塊の世代たちよ、60歳で仕事をやめるな! オレたちは、75歳まで働くのだ! 日
本の将来のために。つぎの世代の若者たちのために! それは、オレたちの責任なのだ!

 こんな愚劣な政治を黙認してきた、オレたちの責任なのだ!

 もし今の段階の世代たちが、75歳まで働いたら、少子化の問題は、それだけで解決す
る。年金をアテにして、悠々自適の老後生活を考えているとしたら、それはまちがい。そ
んなことは、考えてはいけない!

 みんな、がんばろう! がんばりましょう! がんばるしかないのだア!
(050923)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●誹謗(ひぼう)、中傷

 少し前、誹謗と中傷について、書いた。こうした誹謗や中傷は、私の世界では、当たり
前。それに耐えられないようなら、ものを書くことはできない。

 かく言う私も、若いころは、そういう誹謗や中傷に、苦しんだ。もともと私は、自己愛
的な傾向の強い男だった。だからこうした誹謗や中傷には、敏感に反応した。ジリジリと
した怒りを感じて、眠れない夜がつづいたこともあった。

 しかしその私が強くなったのは、あるカルト教団を相手に、5冊の本を書いてからのこ
とだった。もちろんあちこちの月刊誌や週刊誌にも、原稿を投稿した。ある時期は、「もう、
これで殺される」と思ったこともある。何度か、ある。

 ペンネームを使っていたが、どこでどう調べたのか、私の家に直接電話をかけてきたり、
多いときは、7〜20人の信者たちが、自宅に押しかけてきたこともある。

 が、それでも書きつづけた。で、その結果だが、こういうことを発見した。

 あの人たちは、もともとは善良な人たちである。気も小さい。ただ上層部の連中に、操
られているだけ。そこでこちら側が、堂々としていれば、何もできない、と。

で、そのうち、彼らの間で、「あの林に近づくだけで、バチがあたる」と言い出した。

 それ以後は、ウソのように静かになった。と、同時に、気がついてみると、私から、こ
わいものが、消えていた。

 今では、どんな誹謗や中傷にも、耐えられるようになった。気にしないというよりは、
気にならない。そういうのを見たり、読んだりしても、「どうぞ、ご勝手に」と、そんなふ
うに考えられるようになった。

 要するに、強くなるということは、経験をつむということか。ただ、気をつけなければ
いけない点は、いくつかある。

 絶対に、その個人とわかるような話で、その個人を、誹謗や中傷を、してはならないと
いうこと。私のように、顔と名前を、公(おおやけ)の場に出してものを書いている人は
別だが、そうでない人については、絶対にしてはならない。

 つぎにたとえメールでも、引用、転載をするときは、必ず、その人の了解を求めてから
にすること。

 そしてここが重要だが、具体例を書くにしても、実際にあった例を、そのまま書いては
いけない。いくつかの話をまぜたり、視点をかえたりして、書く。あるいは直接私と関係
のある人の話は、書かない。

 ウソを書くということではない。しかし私の文章を読んで、その人が不愉快に思ったり、
あるいは怒りを感じたとしたら、それは私の責任ということになる。そういうトラブルは、
極力、避けたい。

 またインターネットの特徴のひとつとして、実名を書くと、検索で、ひかかってしまう。
だからたとえば、(はやし浩司)という実名を使うときでも、(はやしH司)と、書き改め
る。その人がよほどの有名人か、あるいは過去の人であれば、話は別である。

 しかしこれはインターネットで意見を書くものにとっては、エチケットのようなもの。
相手をほめるときでも、そうする。中には、ほめられても、不愉快に思う人だっている。

 それにもうひとつ。

 私の人生も、どう生きても、あと20年(?)。あなたの人生も、どう生きても、あとx
0年(?)。だったら、ありのままをさらけ出して生きるのも、ひとつの生き方ではないか。
「恥ずかしい」とか、そんなふうに考えること自体、おかしい。

 私がしていることは、私というより、私を超えた、人間の1人がしていること。「私」で
はなく、その人間の1人が、書いていると思えばよい。

 そういうふうに考えていくと、誹謗や中傷が気にならなくなる。そう言えば、つい先日
も、こう言ってきた人がいた。

 「林さんは、よくもまあ、自分の顔と名前を、堂々と、インターネットに載せています
ねえ……」と。ほめられたのか、バカにされたのかはわからない。が、ともかくも、そう
言われた。

 まあ、そのうち、いやでも、私はこの世から消える。同時に、インターネットの世界か
らも、消える。私の顔を見て、私の文章を読んで笑った人も、消える。20年というが、
この宇宙からみれば、瞬間。ほんの瞬間。

 だったら、生きたいように生きればよい。誹謗や中傷など、気にするほうが、おかしい。
そんなことで悩んでいるヒマは、ない。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●The Notebook (きみに読む物語)

息子は、もう1年近くも前に、見たという。アメリカから帰ってくる、飛行機の中で、
見たという。そしてこう言った。「パパ、すばらしい映画だったよ」と。

 名前を聞くと、「ノートブックという映画だったよ」と。

 以来、昨日(9・26)まで、「今か、今か」と待っていた。で、昨日、近くのビデオシ
ョップに行くと、そのビデオがあった。『きみに読む物語』というタイトルになっていた。
昨日、レンタルショップにリリースされたという。

 その店には3本しか入っていなかったが、1本が残っていた。迷わず、私は手をのばし
た。借りた。

 まだそのビデオは見ていない。今日、午前中に仕事があるから、それを終えたら、ワイ
フと二人でみるつもり。楽しみだ。

 英語の題名は、「The Notebook」。すでにあちこちで、話題になりかけている。実話とい
う話も聞いている。私たちの評価は、今日、そのビデオを見てからにする。息子が「すば
らしかった」と言うのだから、まちがいないだろう。


●愛用のパソコン

 今、一番、愛用しているパソコンが、F社のDESKPOWER。17インチのワイド
画面。購入してから、5年になる。早いものだ。

 当時は、最新型で、ワイド画面のパソコンとしては、これが第一号ではなかったか。た
またまオーストラリアの友人が、ホームステイしていたときのことで、これを見て、「エン
ビアス(ねたましい)」と言ったのを覚えている。

 しかし5年も使っていると、あちこちにガタがくる。画面の左端のほうが、チラつくよ
うになった。F社に相談すると、「寿命かもしれません」「パソコン本体のほうから信号が
出ているのが原因なら、パソコン本体の寿命かもしれません」と。

 おまけに、半年くらい前から、CDへの書き込みができなくなった。そして今日、いく
らスイッチを押しても、トレイが開かなくなってしまった。マイコンピュータを開いても、
デバイスそのものが消えている!

 どうしたらいいのだ!

 とりあえず、復元機能を使って、数日前の状態に復元してみる。しかし反応、なし。い
よいよ寿命か?

 しかしパソコンという電気製品は、不思議な道具だ。そういう道具だからこそ、愛着が
わいてくる。故障したからといって、捨てるとか、取り替えるとか、そういう発想がわい
てこない。で、今日まで、だましだまし使ってきたが、ふと気がつくと、それは自分自身
の体へのいたわり方に、似ているのを知った。

 私の体も、あちこちにガタがきている。上から、視力、聴力、それに最近、気になるの
は、足腰の痛み。とくに朝起きたとき、足の先や裏が痛かったりする。自分の体だから、「痛
いから、捨てる」というわけにはいかない。

 同じように、パソコンにしても、「故障したから、捨てる」というわけにはいかない。修
理すれば、なおすこともできる。が、保証期間を過ぎると、その修理代が、恐ろしいほど、
高額になる。

 先日もCDトレイの不調を相談すると、電話口の向こうの男性は、こう言った。「修理費
は、2万4000円です。しかし修理に出すくらいなら、外づけのハードディスクを購入
されたほうが、お得ですよ」と。

 それで外づけのハードディスクを購入した。

 そういうこともあって、私は、古いパソコンを、どうしても、捨てることができない。
店に行くと、下取りをしますと言ってくれるところもある。しかし20万円以上だったパ
ソコンも、下取りに出すと、1〜2万円がよいところ。値段を聞くと、かわいそうになっ
てしまう。

 だから、今まで、下取りをしてもらったことは、一度も、ない。ということは、古いパ
ソコンは、たまる一方。……というわけで、私の書斎には、古いパソコンが、ゴロゴロし
ている。

 それを、見るに見かねて、ワイフも、「捨てたら?」と言う。しかし私は、こう言う。「そ
れができないのが、パソコンでね」と。

 それぞれのパソコンには、愛着がある。思い出もある。何といっても、買ったときの感
動が忘れられない。ノートパソコンだったりすると、買ってから数日は、いつも枕もとに
置いて、それをながめたりしていた。デスクトップのパソコンだったりすると、そのつど、
ピカピカにみがいたりしていた。

 そういう(思い)が、しみこんでいる。

 しかしCDトレイが開かないというのは、困る。操作不能。一枚、OfficeのCD
が入ったまま。どうしようか? 無理にこじあけるわけにもいかないし……。そのうち気
分も変わったら、開くだろう。

 どこかがんこなところは、ワイフに似ている。だから、このパソコンには、よけいに親
しみを覚える。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●『きみに話す物語』(The Notebook)★★★★

 先ほど、ワイフと2人で、『きみに話す物語』を見た。よかった。後半部は、涙がポロポ
ロ、またポロポロ。

 私たちの年代の人間には、切実な映画である。

 三男は、この映画を、飛行機の中で、3度も見たそうだ。「すばらしい映画だった」と三
男は言っていた。

 星は、文句なしに、★が4つ。ワイフは、ビデオを見終わったあと、「久しぶりにいい映
画を見たわね」と、ポツリ。

 何というか、生きることにまつわる切なさというか、年をとることの切なさを、しみじ
みと考えさせられた。三男も同じような印象をもったらしいので、若い人たちにも、多分、
理解できる映画ではないかと思う。

 よかった。まだその余韻が、ジンと私の心の中に残っている。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 21日(No.639)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもを伸ばす言葉ゲーム

 子どもが学校から帰ってきた。そのとき、子どもが、こう言った。「今日のスポーツ大会
で、ヘマしちゃった。私のおかげで、クラスのチームが負けちゃったア」と。

 どこか元気がない。かなり落ちこんでいるようだ。そういうとき、あなたは、何と言う
だろうか。

(A)バカねえ。あなたはいつも、そういうだいじなときに、ヘマをするからねエ。
(B)まあ、だれでも、よくあることよ。気にしない、気にしない。もう忘れなさい。
(C)それは、マズかったわね。でも、スポーツの世界では、よくあることよ。
(D)お母さんも、子どものとき、そういうヘマをしたわよ。つらかったわ。

 子どもを励ます方法としては、いろいろある。

(1)叱咤(しった)、激励型……叱って、励ます。
(2)同情型……子どもの立場になって、同情する。
(3)体験型……自分の体験を話して、解決方法をさがす。
(4)黙視型……ひとりにして、そっとしておいてやる。
(5)回避型……関心を別のことにそらしながら、忘れさせる。

 悪い言い方の例としては、「こんなことで、どうするの!」と叱る方法。「今度、こんな
成績だったら、サッカーをやめなさい!」と脅す方法。あるいは、「あなたはやっぱり、ダ
メな子ね」と、人格そのものを否定する方法などがある。

 しかしあなたの一言が、子どもを伸ばすことにもなるし、反対に、子どもの伸びる芽を
つんでしまうことにもなる。

 言葉というのは、そういうもの。そこで英語国では、「言葉ゲーム」という名前で、こう
した分野の研究が進んでいる。親子の会話にかぎらない。夫婦、近隣の人たちとの間の会
話など。どういう言い方をすれば、より良好な人間関係を築くことができるか。相手を、
慰め、前向きに引っ張っていくことができるか。そういったことを、心理学にからめて、
研究している。

 で、反対に、あなたが、どういう言い方をするかによって、あなたとその人の人間関係
を知ることもできる。親子関係とて、例外ではない。上下意識が強ければ強いほど、命令
口調が多くなる。愛情が不足していれば、子どもの人格そのものを否定したような言い方
が、多くなる、など。

 もちろんそのときの、あなたの心理状態によっても、大きく、変わってくる。

 では、どうするか?

 こういうときは、こう言うのがよい……というような、つまり、各論的なことは、いく
ら論じても意味がない。(そういう指導をしている団体も、あるようだが……。)大切なこ
とは、基本的な部分で、自分の子どもを、どうとらえるか、である。

 そこでこう考えてみる。

 あなたが高校生のときのことを思い出してみる。そのとき、あなたの親友が、何かのス
ポーツ大会で、ヘマをした。その親友は、かなり落ちこんでいる。そのとき、あなたは、
その親友に、何と言うだろうか。そのとき、思い浮かんできた言葉が、つまりは、正解と
いうことになる。

 あなたは、たとえば、その親友に、こう言うだろう。

 「残念だったけど、あなたは、精一杯、よくやったわよ。みんなも、それをちゃんと認
めてくれているわよ。もう、そんなこと忘れて、何か、おいしいものを食べに行かない?」
と。

 子どもの横に、友として、立つ。その立場に自分を置いて、あとはあなたの口から出て
くる言葉に、自然に従えばよい。そしてあとの判断は、子ども自身に任す。
(はやし浩司 言葉ゲーム 言語ゲーム ランゲージ・ゲーム 子供を伸ばす会話 会話
術)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●母性本能

+++++++++++++++++

母性本能って、何か?
本当に、それは本能と言ってよい、本能なのか?
また、どんな女性にも、母性本能があると
簡単に、言い切って、よいのか。

男性には、母性本能はないのか。

+++++++++++++++++

 女性には、母性本能があると、よく言われる。しかし、本当にそうか? 本当に、そう
言い切ってよいのか?

 私の調査でも、こんなことがわかっている。たとえば、幼稚園児から小学校の低学年児
について、暖かい素材でできたぬいぐるみを見せたとき、たいていの子どもは、「かわいい」
と言って、それを抱きしめたり、頬ずりをしてみせたりする。しかし、反応をほとんど示
さない女児もいる。約20%弱はいる。その割合は、男児と、同じである。

 そこで、これはあくまでも私の仮説だが、私は、こう考える。

 子犬やペットなど、かわいいものを子どもに見せると、子どもは、「かわいい」という。
こうした愛着意識は、その子ども自身が乳幼児期に、子育てをとおして、親から、心の中
に植えつけられるものと考えてよい。親、とくに母親の豊かな愛情に包まれて育てられた
子どもほど、いわゆる親としての、親像を、自然な形で、身につけていく。

 しかしこの時期に、親の無視、冷淡、虐待、育児放棄などを経験した子どもは、親像を
作れないまま、少年少女期を迎えてしまう。「子育ては、本能ではなく、学習である」とい
う定説は、そういうところから生まれた。子どもは、親によって育てられたという経験が
あってはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てができるようになる。

 で、この親像が基盤となり、その上に、母性本能が形成されていく。が、それが形成さ
れるのは、子どもが生まれてからのこと。早くても、子どもを妊娠してからのこと。しか
し本格的に形成されるのは、やはり、子どもが生まれてから。

母親は、オギャーオギャーと泣く子どもを見て、心の中に、特殊な意識を作っていく。
それまでは、他人の子どもを見て、「かわいい」と表現することはあっても、母性本能と
言えるほどの、強力な愛着意識にまでは、発展しない。

 つまり、私たちが「母性本能」と呼んでいるところの特殊な意識は、新生児が生まれた
直後から、母親の脳の中に、意識として、作られるものと考えてよい。それは母親が新生
児を見た瞬間に始まり、その瞬間に、そのほとんどが完成される。

 だからこんな話がある。

 アメリカには、代理出産制度というのがある。父親の精子を使って、別の女性に、自分
の子どもを代理出産させるという制度である。

 こうして子どものいない夫婦は、別の女性に自分の子どもを産んでもらう。で、そのと
きのことだが、生まれた子どもは、出産と同時に、その出産した女性から、離すそうであ
る。乳を与えさせないことはもちろんのこと、たがいに顔さえ合わせないまま、離す。

 そうでないと、その子どもを産んだ女性に、ある特殊な感情、つまり私たちが言うとこ
ろの、母性本能と言われるものが生まれてしまう。そして一度、その特殊な意識が生まれ
てしまうと、代理で産んだはずなのに、その女性は、その子どもと別れられなくなってし
まう。

 ふつうは、性別も、その子どもの行き先も、教えないという。これはあとあとのトラブ
ルを避けるためだそうだ。(それでも、ときどきトラブルが起こると聞いている。産んだと
たん、その子どもを手放せなくなってしまうことも、あるそうだ。)

 以上のことから、冒頭に書いたように、私は、「女性には、母性本能がある」と言い切る
のは、危険なことだと思う。また、そう決めてかかってはいけない。約7〜10%の母親
は、自分の子どもを愛せないと、人知れず、悩んでいる。その悩みの原因になっているの
が、「母親なら、母性本能があるはず」という、『ハズ論』である。

 で、その反対に、父親を、子どもの出産に立ち会わせることによって、父親にも、母親
と同じ、ある特殊な感情をもたせることもできるそうだ。そんなことも、最近の研究でわ
かってきた。つまりこのばあい、父親が感ずる特殊な感情と、母親が感ずる特殊な感情と
の間には、ちがいはない、ということになる。

 わかりやすく言えば、父親も、その方法によって、私たちが「母性本能」と呼んでいる
ところの、意識(本能ではない!)をもつようになる。

 だから、「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』ほど、あてにならな
いものはない。現に、自分の子どもを虐待する母親となると、この日本だけでも、ゴマン
という。全体の約30〜35%の母親が、虐待もしくは、虐待に近い行為をしているとい
うことも、わかっている。

 つまり私たちが「母性本能」と呼んでいるところの特殊な意識は、本能ではなく、子ど
もが生まれる前後から、母親の脳の中に、つくられる意識ということになる。

 このことは、さらに、つぎのような事実によっても、証明される。

 よく子どもの受験勉強に狂奔する親というのが、いる。すさまじいほどの時間とエネル
ギーを、子どもの受験競争に注ぎこむ。そういう親でも、なぜそうするかと聞くと、「子供
のため」「子どもを愛しているから」と答える。「少しくらい子どもに嫌われても、かまわ
ない。子どものためにさえなれば」と言う人もいる。

 しかし実際には、子どもを愛しているから、そうしているのではない。自分の中に潜む
不安や心配を解消するために、そうしている。子どもを利用している。学歴に対する大き
なわだかまりが、引き金になることもある。ともかくも、真の愛情に根ざしたものではな
い。

 そういうタイプの母親をよく観察してみると、子どものためとは言いながら、その実、
子どもを虐待しているのが、わかる。まさに、虐待である。

 泣き叫んで抵抗する子どもを、ベッドから引きずりだして、ワークブックをさせるなど。
成績が少しでもさがったりすると、小遣いを減らしたり、ゲーム機器を取りあげたりする。
「勉強しろ!」「いやだ!」の大喧嘩をするほうは、まだよいほう。

 中には、神経戦をとおして、子どもを追いつめる親だっている。体罰を加える親だって、
いる。

 つまりもし、こうした親たちに、「本能」と言えるような強力な意識があるなら、親は、
本来的に、そんなことはしないはず。言うまでもなく、もしそれが本能なら、意識の向こ
うにあり、意識ではコントロールできない。逆に、意識そのものをコントロールする。

 たとえばそれが本能なら、子どもが「いやだ」と泣き叫んだだけで、親は、手を引いて
しまうだろう。

 そこでここで、このエッセーの結論。野生児の例を出すまでもなく、私たちがもつ意識
は、そのほとんどが、生後直後から、脳の中に、意識として作られていく。そう考えるこ
とによって、子育てにまつわる矛盾を解くことができる。子育てにまつわる問題を解くこ
とができる。
(はやし浩司 母性 母性本能 父性本能 子供の心理 母親の心理 親像 はやし浩
司)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【観念的親子論】

+++++++++++++++

今、親子であるという関係の中で、
もがき苦しんでいる人は多い。

日本人が本来的にもつ親子意識が、
今ここで、大きく変わろうとしている。

こうして苦しみは、その変革期の
一現象とも考えられる。

旧態的な親子観。新しい世界での
親子観。

この二つの親子観が、世代間の問題として、
水面下で、はげしく対立している。

++++++++++++++++

●親子の縁

 「親子の縁」「夫婦の縁」というように、日本では、濃厚な人間関係を意味する言葉とし
て、「縁」という言葉を使う。しかしそこには、物理的な糸や、ヒモがあるわけではない。
しかし実際には、そこに、切っても切れない、糸や、ヒモのようなものを、感ずる。それ
が「縁」である。

 私たちの織りなす人間関係は、それぞれが、複雑多岐に、からみあっている。英語の表
現を借りるなら、「クモの巣(ウェブ)のように」、ということになる。それぞれの人間関
係において、人は、それぞれの「縁」を感ずる。

 しかし縁には、実態があるわけではない。縁というのは、どこまでも、観念的なものに
すぎない。

 それはそれとして、もちろん、その糸や、ヒモの太さは、一様ではない。太いほうから、
順に並べてみると、つぎのようになる。(もちろん、これはあくまでも、一般論にすぎない
が……。)

(1)母子の間の糸
(2)父子の間の糸
(3)兄弟の間の糸
(4)夫婦の間の糸
(5)親類の間の糸
(6)友人の間の糸など。

 ここで注意しなければならないのは、たとえば母子の間でも、母親側が感ずる、糸やヒ
モの(太さ)と、子どもの側が感ずる、(太さ)には、差があるということ。私はこのこと
を、ある虐待児を見て、知った。

●悲しき子どもの心

 その母親は、中学生になった子ども(男子)に、階段などの掃除をさせるのだが、少し
でもゴミが残っていると、すかさず、やりなおしを命じていた。母親の趣味は、植木栽培。
植木鉢で花を育てることだったが、その水のかけ方が悪いときも、そうだ。

 虐待といっても、言葉の虐待だったようだ。「お前なんか、生まれてこなければよかった」
「だれのおかげで、ここまで大きくなれたか、わかっているのか?」「お前を産んで、育て
てやったのは、この私だからね」と。

 そして子どもが大きなヘマをしたとすると、(実際には、煮物を焦がしたとか、そういう
ことだが……)、母親は、息子に向って、こう叫んでいた。「お前なんか、工場でもどこで
もいいから、自分で働き口を見つけて、働きに行け!」と。ときには、「もう、お前なんか、
生きている価値などない。どこかへ行って、死んでしまえ!」とも。

 しかしそれでも、その子どもは、母親に従順に従った。で、こんなことがあったという。

 その子どもが、小学4年生のときのこと。見るに見かねた、クラスの担任が、校長に相
談した。そのときは、顔に、スリッパ大のアザが残っていた。それで校長は、近くの児童
相談所に通報。それを聞いて、相談員が、家庭訪問をした。

 そのときのこと。子どもは、母親の前で、泣きながら、こう訴えていたという。「ぼく、
ちゃんと、いい子になるから、施設へ入れないで」「お願いだから、ぼくを捨てないで」「お
母さんの言うことを、ちゃんと、聞くから」と。

 子どもにしてみれば、いくら虐待されても、母親は、母親。悲しき子どもの心、である。

で、その母親は、子どもの横で、口をつぐみ、どこか柔和な笑みまで浮かべて、仏様の
ような顔をしていたという。相談員の人は、こう言った。

 「あんなやさしそうな顔をした女性が、家の中では、子どもを虐待しているなんて、と
ても信じられませんでした」「自分の子どものことなのに、まるで他人ごとのような口ぶり
でした」と。

●観念的な人間関係

 このケースでもわかるように、子どもが母親に感ずる糸(縁)と、母親が子どもに感ず
る糸(縁)は、必ずしも、同一のものではない。太さそのものが、ちがうということも、
珍しくない。

 夫婦についても、そうだ。私の年代には、「熟年離婚」「定年離婚」というのがある。こ
うした離婚劇についても、離婚を一方的に申し出るのは、妻のほうである。しかも、その
直前まで、夫のほうは、それに気づかないことが多いという。

 実は、私の知人というか、少し離れた友人に、最近、離婚した人がいる。58歳のとき
のことである。会社を退職し、退職金を手にしたとたん、妻のほうから、離婚の申し出が
あったという。青天の霹靂(へきれき)というのは、まさにそのこと。その瞬間まで、そ
の知人は、妻が離婚を考えていたことなど、まったく思いもつかなかったという。

 このケースでも、妻が夫に感じている糸(縁)と、夫が妻に感じている糸(縁)とは、
かなりちがっていたということになる。

 そういう意味でも、人間関係を結ぶ、糸にせよ、ヒモにせよ、それはあくまでも、観念
的なものにすぎないということになる。わかりやすく言えば、心の中で、そう思うだけ。

●刷りこみよってなされる親への思い

 で、問題は、親子の縁の中でも、子どもの側に作られるヒモ(縁)である。子どもは、
とくに母親に対して、強烈なヒモを心の中に、つくる。それもそのはずで、子どもは、母
親から生まれたあと、乳を受けるという形で、命をはぐくむ。この時点で、母親なくして、
子どもは一日とて、生きていくことはできない。

 (こうした母子の間のヒモを調整するのが、父親の役目の一つということになる。した
がって、父親不在の家庭ほど、つまり父親の存在感に薄い家庭ほど、この母子間のヒモが
太くなりやすいということになる。)

 そこで子どもは、懸命に、母親に好かれるように表情や動作で、母親の愛情を、自分に
向けさせようとする。これを「アタッチメント」と言う。そして自分の中に、母親の姿を、
刻みこんでいく。

 一連のこうした心理は、本能に近い部分にまで、脳ミソの奥深くに、刷りこまれていく。
したがって、一度、こうした刷りこみがなされると、それから子どもが解放されるという
ことは、まず、ない。仮に解放されたとしても、そのあと、その人は、自らの精神的基盤
を失い、情緒的に、きわめて不安定になることが多い。

 そこで重要なことは、母親にせよ、父親にせよ、それをよいことに、子どもを、いつま
でも、こうした呪縛(じゅばく)で、子どもをしばってはいけないということ。その時期
がきたら、(それは子どもが、小学3、4年生のころとみるが)、子どもがじょうずに、親
離れできるように、親のほうが、子どもをしむけなければならない。

 その手順がまずいと、今度は、子どもは、こうした観念的な縁がもつ呪縛、それを心理
学の世界では、「家族自我群」というが、その自我群のもつ重圧感(=幻惑)の中で、子ど
ものほうが苦しむことになる。

●日本人の子育て観

 とくに日本人は、そういう意味での、子どもの自立を認めない。逆に、ベタベタの親子
関係であればあるほど、よい親子と判断する。さらに家族自我群を悪用して(?)、逆に、
子どもをしばりつけることもある。

 「お前はだれのおかげで、ここまで大きくなれたか、それがわかっているのか」とか、「今
まで育ててやった恩を忘れるのは、人間のクズ」とか。そう言って、高校生になった自分
の息子に叫んでいた、父親がいた。さらに父親に反発した子ども(25歳くらい)に向っ
て、「お前が、言葉を話せるようになったのも、親のおかげだ。親の恩を忘れるな」と、説
教していた男性(50歳くらい。その父親の兄)もいた。

 親子といい、夫婦といい、兄弟、親戚といい、それはあくまでも観念的な人間関係に過
ぎない。(だから、つまらないものと言っているのではない。誤解のないように!)

 大切なことは、もともとそこには、何もないということ。何も、ない。まったく、何も
ない。「ある」と感ずるのは、それは観念の世界で、そう感ずるからにすぎない。もっとわ
かりやすく言えば、ただの思いすごし。想像。空想。

●人間としての親子関係

 そこで私たちは、こうした観念的な人間関係から、実存的な人間関係へと、心のどこか
で、人とのかかわり方を、変革していかねばならない。もちろん、親子関係とて、例外で
はない。親子といえども、つきつめて考えれば、一対一の人間関係にすぎない。

が、親子の縁など、くだらないから、切ってしまえと言っているのではない。むしろ、
その反対である。つまり子どもを、1人の人間として認める。そのレベルまで、子ども
の人格を、もちあげる。言いかえると、親になるということは、それほどまでに、きび
しいことであるということ。決して、親子であるという関係に、親のほうが、子どもに
甘えてはいけない。

 そうでない親子には、信じられないような話だが、この世界には、自分の息子をだまし
て、金をまきあげ、自分の実家(母親の生まれ育った実家)に、金を注いでいた母親がい
た。さらに、嫁いで家を出た娘に向って、「私が死んでからも、お前が地獄へ落ちるのを楽
しみに見ていてやる」と言った母親もいた。

 そういう母親であっても、息子や娘は、その呪縛の中で苦しむ。こうした自我群から生
まれる特殊な苦しみを、「幻惑」という。そう、まさに、幻惑である。その苦しみの深さは、
それを経験したものでないとわからない。「悶々として、一日とて、気が晴れることがあり
ません」と訴えた、女性がいた。「思わず、自分の車を、反対車線のほうへ車をつっこんで、
死にたくなったこともあります」と訴えた、女性もいた。

 そういう親をもつと、おかしなことに、本当におかしなことに、一方的に苦しむのは、
子どもの側ということになる。親が悪ければ悪いほど、子どものほうが、それに苦しむ。
子どもの側に、何も責任がなくても、苦しむ。つまりそれほどまでに、この糸や、ヒモは、
太い。簡単には、切れない。

 が、それだけではない。

 さらに一言つけ加えるなら、こうなる。本文の中で少し触れたが、この糸や、ヒモを切
れば切ったで、子どもの方は、その時点で、精神的基盤を失うことになる。はげしい情緒
不安症状を訴える人も少なくない。それはちょうど、熱心な信仰者が、信仰の基盤を失っ
たときの心理状態に似ている。

 その子どもは、精神的に、とことん追いつめられる。自らダメ人間のレッテルを張り、
自己否定の世界におちいることもある。「それでも、親は、親だ。私は、人間として、失格
者だ」と。

●時間という解決方法

 しかし救いの道がないわけではない。

 こうした幻惑による苦しみは、重くてつらいものだが、時間が解決してくれる。ある男
性は、ほぼ10か月にわたって、毎晩、床につくと同時に、はげしい動悸とともに、熱病
に似た症状で苦しんだという。

 その男性の母親は、その男性が所有していた土地などを、その男性が、6か月間、外国
へ行っている間に、他人に売ってしまったという。その男性は、土地の権利書や預金通帳
などを、留守の間、母親に預けておいた。そこでその男性が、母親に抗議すると、その母
親は、こう言ったという。「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い! こ
のバチ当たりめ!」と。

 しかしその10か月をすぎてみると、母親への情が消えているのを知った。その男性は
こう言った。「今ならもう、いつ母親が死んでも、平然と、葬式ができるでしょうね。涙は、
ぜったいに出ませんよ」と。
 
 こうした心の問題には、時間という解決方法がある。そうした問題に気がついたら、あ
とは、その時間に、心をゆだねればよい。その時間が、あなたの心を溶かし、やがて問題
を解決してくれる。
(はやし浩司 観念的親子論 家族自我群 幻惑 自我群からの脱却 開放 呪縛からの
解放 親子の縁 はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ヒトと人間

 もしあなたが、ごくふつうの人で、ごくふつうの生活をし、ごくふつうの人生を送って
いたとする。たいはんの人がそうかもしれない。しかしそのとき、もし、あなたが、何も
考えないで、その日、その日を、流れるまま暮らしていたとするなら……。

 今日は、今日。明日は、明日。明日のことは、明日考える。未来に夢も希望もない。目
的もない。ただ生きているだけ。

 あなたがいなくても、社会は、何もかわらない。あなたのかわりになる人は、いくらで
もいる。それが悪いというのではない。悪いとは、だれにも断言はできない。できないが、
そういうヒトのことを、あのハイデッガーというドイツの学者は、「ヒト」と呼んだ。

 ただのヒト、という意味で、である。(ハイデッカーは、「軽蔑すべきヒト」という意味
で、そう言った。)

 そこであなたは、自分とは何かをさがし始める。「私は何か」「私はどこへ行けばいいの
か」と。「私は私」というときの「私」は、固有性をもった「私」をいう。その固有性をさ
がし始める。

 しかし固有性を感じたとたん、あなたは、不安になる。あなたを支えるのは、あなただ
け。ほかにだれもいない。あなたは薄い氷の上を、恐る恐る、歩いている。あなたは、そ
ういう自分を知る。しかも明日は、決して、楽しいものでも、愉快なものでもない。その
明日の、そのまた明日の、さらにその明日の、ずっと先では、あなたを、死が待っている。

 あなたは「私」が、かぎられた世界の人間であることを知る。

 そこであなたは、そのかぎられた時間の中で、精一杯、自分らしい人生を送ろうとする。
しかしそれはまさに、時間との戦い。私が私であろうとすればするほど、あなたは時間と
いう限界を知る。壁に、追いつめられる。

 こうしてあなたは、ますます不安になる。

 しかしそういう人は、もうヒトではない。つまりそれが人間である。もっと端的に言え
ば、私らしい固有性をもつことによって、ヒトは、人間になることができる。固有性がな
ければ、ヒトは、ヒト。ヒトのまま。

 極端な言い方をすれば、あなたが飼っているペットのようなものかもしれない。死ねば、
それなりにまわりの人たちは悲しむが、しかし代用となるペットは、いくらでもいる。ヒ
トもそれと同じ。

 それでよいのか? それとも、そうであってはいけないのか?

 私たちは、毎日のように、この問いを自分に投げかける。投げかけながら、生きている。
しかしそこには、いつも限界がある。夜、床について、ふと目を閉じたようなとき、こう
思う。

 「ああ、結局は、今日も、何もできなかった」と。
(はやし浩司 人間の固有性 固有性 ハイデッカー)
 

【補記】

 いつだったか、春の行楽シーズンに、車で、富士山をめざしたことがある。その途中で
のこと。大きな寺に行き当たった。どこかの宗派の総本山にもなっている、寺である。

 私は、そこで、おびただしいほどの数の信者に、出あった。驚いた。大通りを横切って
いる信者だけで、数千人はいたのではなかったか。そういう人たちが、ゾロゾロと、山門
に向って、並んで歩いていた。

 が、どの人も、うれしそうに笑っていた。にこやかな顔をしていた。私はそれを見て、「あ
の人たちは、あれで幸福なんだなあ」と、しみじみと、そう思った。ハイデッカーが見た
ら、まさにヒトにすぎない、群集である。固有性のない群集である。しかし、そういう人
たちを批判することは、許されない。その人たちは、その人たち。それにハイデッカーが
正しいとは、かぎらない。

 事実、ハイデッカーは、フライブルク大学総長時代、ナチスドイツをかつぎあげた、熱
心な党員としても、知られている。

 何も考えないで、ただのヒトとして生きるのも、それなりに気楽なのかもしれない。「あ
の世がある」と信じることができれば、死ぬことだって、こわくない。限界状況の中で、
不安に思うこともない。

 私は私と、人間らしく生きるか。あるいは、ヒトとして、のんびりと、安楽な人生を生
きるか。その最終的な判断は、結局は、その人が決める問題ということになる。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●思想の混乱期

 中国の春秋戦国時代には、多くの国家が乱立し、それぞれの国家が、戦争につづく戦争
を、繰りかえしていた。そういう混乱した時代を背景に、いわゆる諸子百家と呼ばれる、
無数の思想家たちが生まれた。

 その春秋戦国時代を、現在にたとえるなら、今は、諸子千家の時代とも言える。さらに
無数の思想家たちが生まれ、これまたさらに無数の思想を、展開している。

 しかし無数の思想家がいるということは、そのまま「混乱」を意味する。今は、まさに
その混乱の時代ということになる。

 そこでその春秋戦国時代の話に戻るが、この時代に、あの孔子(551〜479BC)
が生まれ、活躍している。その孔子は、「仁」を説いた。仁をもって、国や人々の心を、を
立てなおそうとした。

 で、その「仁」とは何か。わかりやすく言えば、人間が到達しうる、最高の精神状態と
いうことになる。

 その仁から、礼節(人が人らしく生きるための規範)、忠恕(相手に対する配慮、思いや
り)、孝悌(年長者に対する畏敬の念)、徳治(人徳のある政治)などが、派生して生まれ
る。こうして孔子は、儒学の祖となった。

 そののち儒学は、古代中国を代表する哲学となり、現在にいたっても、多くの人たちの
大きな影響を与えている。

 しかし孔子も認めているように、「仁」というのは、あくまでも精神の理想形であって、
孔子自信が、それを実践したということではない。仏教で言えば、「悟りの境地」というこ
とか。が、重要なのは、その「仁」そのものではなく、そこに至るまでのプロセスである。

 最高の人間になることではなく、その最高の人間をめざして、どう生きるか、である。
それは、健康論に似ている。究極の健康法というのはない。それと同じように、究極の精
神状態などといったものはない。

 健康にせよ、精神にせよ、立ち止まったその瞬間から、後退が始まる。そのためいつも、
私たちは、前向きに、生きていかねばならない。健康にしても、毎日、体を絶え間なく鍛
錬していかねばならない。だから孔子が説いた「仁」は、いわば、道しるべのようなもの。
空に輝く、太陽のようなもの。そこにあるのだが、だれも、それに到達することはできな
い。

 さて、今、諸子千家の時代。

 私も含めて、それぞれの人が、それぞれ、勝手なことを言い、説いている。そして混乱
に、混乱を重ねている。何が正しくて、何がまちがっているかさえ、よくわからない。そ
こで改めて「仁」ということになるが、そういう理想形を、未来の向こうにかかげること
が正しいのかどうかということになると、実は、それもよくわからない。

 今どきの人たちに、(とくに私のように理屈ぽい男)に、観念的な「仁」を説いても、あ
まり説得力はないのでは? また日本では、「仁」というと、「仁義」、つまり、どこかヤク
ザぽい臭いがからんでくる。

 やはり、私たちは、私たちで、生きていくしかない。そのつど、迷いながら、苦しみな
がら、生きていくしかない。

 が、私は、それが人間ではないかと、最近、強く、思うようになった。決して居なおっ
ているわけではない。そうして生きていく過程の中から、無数のドラマが生まれる。その
ドラマにこそ、人間が生きている価値がある、と。

 みながみな、一方向を向いて、同じようなドラマしかつくらなくなってしまったら、そ
れこそ、この世は、何とつまらないものになってしまうことか。そこに暴走族がいて、(決
して、暴走族を擁護しているのではない。誤解のないように)、そこにそれにマユをひそめ
る人たちがいる。

 私は、そこに生きる人間のすばらしさがあるように思う。

 現代は、まさに、思想の混乱期といってもよい。いつか未来の人がこの時代をふりかえ
って、こう言うにちがいない。「21世紀は、諸子千家の時代だった」と。

 そうそう、その未来に、この時代のだれの思想が、生き残っているだろうか。もしタイ
ムマシンか何かあれば、それを知ってみたい。ひょっとしたら、意外や意外、はやし浩司
の思想が、しぶとく生き残っているかもしれない。ハハハ。

 ……というのは、冗談。そんなことはありえない。今ですら、影響力ゼロの私の思想が、
後世に残るはずはない。自分でも、それがよくわかっている。
(はやし浩司 春秋戦国時代 論語 孔子 仁 忠 徳 礼節)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●トイレの中の交換日記

 うちのトイレは、その中で食事ができるほど、明るく、美しい。毎日、ピカピカにみが
いている。清潔にしている。いつも消毒し、香水の匂いを漂わせている。もちろん、強制
換気装置つき。オール電化で、シャワーはもちろん、温水、暖房便座など、最新装置は、
すべてついている。ハハハ。

 おまけに、ウンチの量と色を自動的に判別して、その日の健康状態まで、液晶画面にグ
ラフ化されて表示されるようになっている……というのは、ウソ。しかし、それに近い。

 田舎にあるような、ボットン便所を想像しないでほしい。……という前提で、つぎの話
を書く。

 最近、私は、そのトイレの中に、家族どうしの交換日誌のようなものを置いた。で、当
初は、みな、書いてくれるかなと思っていたが、意外と意外、それがなかなか、好評。

 用を足しているときというのは、つまり同時に、頭の中のモヤモヤも、同時に吐き出し
たいという意欲が働くものなのか。結構、みなさん、ズバリ、思ったことを書いている。

 ただ、どう書いているかは、プライバシーの問題もあるから、ここには、書けない。(も
ともと臭い話なので……。)ワイフの書いた文章をここに書いたら、それこそ、我が家は、
大騒動。アブナイ!

 しかしこれは、たいへんおもしろい現象だと思う。フロイトが説いた、肛門期の排泄願
望論が、こんなところで、証明されたことになる。

つまり人間というのは、心や体の中にたまった、ゴミやカスを、自分の中にしまってお
くことができない。そこでそうしたゴミやカスを、無意識のうちにも、外に排泄しよう
とする。それが思ったことをズバリと書くという行動となって、表れる。ナルホド!
(はやし浩司 子供の心理 フロイト 肛門期 排泄願望)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●クモ

 クモ、つまり蜘蛛(くも)を嫌う人は、多い。私も、そうだ。とくにカラフルな色をし
たクモは、嫌い。見ただけでぞっとする。

 しかし、だ。私は家の中に住んでいるクモは、嫌いではない。好きとは言わないが、嫌
いではない。いても、どうということはない。あの灰茶色の、クモである。土地によって
は、「家(や)グモ」と呼ぶ。本当の名前は、知らない。

 大きさは、大きくなると、おとなの手を広げたくらいにはなる。かなり大きい。クモの
巣のようなものは、つくらない。壁から壁へと、スイスイと走りまわりながら、いつも何
かをしている。床の上を走りまわることもある。

 そのクモが、どこから入ってくるのか、あるいは家の中で成長するのかは知らないが、
山荘の中に、住んでいる。ときどき顔を出しては、またどこかへ消えていく。とくに悪さ
をするふうでもないので、私は気にしない。

 しかし客人は、そうでない。クモを見ただけで、キャーッと大声をあげて、逃げまわる。
しかたないので、客人がくる前になると、私は、そのクモを家の外に追い出すようにして
いる。が、殺さない。絶対に、殺さない。

 一度、ワイフが「なぜ、殺さないのか?」と私に聞いたことがある。そのときは、理由
がわからなかったが、しばらくしてから、気がついた。なぜ、私が、クモを殺さないか?

 昔、子どものころ読んだ、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のせいではないかと思う。あの本
を読んでからというもの、私は、クモを見るたびに、「いつか、クモに助けてもらわねば」
と思うようになった。それで、クモを殺さなくなった。

 で、数日前も、大きなクモを見つけた。で、私は、ハエたたきをもってきて、そのクモ
をそのハエたたきの上に乗せようとした。乗ったら、そのまま、窓の外に、放りだすつも
りでいた。が、クモというのは、意外と頭がよい。

 ちゃんと逃げる方向と、場所を心得ている。きっと頭の中には、山荘中の地図が入って
いるのだろう。おいかけていると、小さなすき間から、押し入れの中に逃げこんでしまっ
た。

 そこで追いかけっこは、おしまい。私はあきらめて、ふすまの戸をしっかりとしめた。
水なしでは、一週間も生きられないはず、と思った。

 で、話を少しもどすが、虫といっても、虫の中には、頭のよい虫がいる。ハチや、トン
ボがそうだ。クモとなると、ひょっとしたら、虫の中では、一番、頭がよいのでは……?
 クモの巣の作り方を見ていると、そう思うときがあるが、それだけではない。向こうは
向こうで、いろいろ考えて行動している。そんな感じがする。

 で、今夜、再び、山荘に来てみた。前回から、ちょうど1週間目である。私は何かの作
業のついでに、押し入れの戸をあけた。とたん、中から、あのクモが飛び出してきた。と、
同時に、私は、そのクモを押し入れの中に閉じ込めたことを思い出した。

 「生きていたのか」と思った。が、それにしても、ものすごい生命力。まっくらな部屋
の中で、水もない。多分、エサとなるような小さな虫もいなかったはず。
 
 私は今度こそ、と思って、まず逃げ道をふさいだ。そしてあのハエたたきをもってきて、
クモをその上に乗せようとした。何度か逃げられたが、5、6回目には、そのクモを、ハ
エたたきの上に乗せることができた。で、そのまま、窓の外に、ポイ。

 これで私とクモの話は、おしまい。何も意味のない話で、ごめん。クモについて、思い
つくまま、書いてみた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●週刊新C(9・29日号)を読む

 小さな記事だが、興味をひいたのは、「脳神経細胞をふやす、シータ波の謎」(P43)。

 東京大学大学院のH助教授の研究によれば、「老脳でも、ムチを打てば、中高年であろう
とも、記憶力は増進する」という。

 そのカギをにぎるのが、シータ波。このシータ波が多く発生すると、新しいニューロン
が生み出され、海馬の神経回路が活発になり、記憶力がアップするという。

 では、どうすればそのシータ波を、多く発生させることができるか?

 H助教授は、つぎのように説明する。

 「初対面の人と出会ったり、新しい譜面をピアノでひいたり、旅行などをしてはじめて
の景色をみるだけでも、シータ波がでます」と。

 同じことを、毎日繰りかえしているような生活では、ダメだそうだ。またシータ波の刺
激で出てくる、神経伝達物質を多く含んだ食物を食べても、効果はないそうだ。やはり頭
をよくするには、頭を使わねばならないということか。


●揺れる日本K党

 日本K党の内部が、揺れているようだ。元参議院議員のF氏が、内部告発的な「弔辞」(記
事のまま)を書いている。

 どこか信仰集団的な(?)、日本K党。内部では、いろいろあるようだ。今回の衆議院議
員選挙では、9議席を獲得した。日本K党は、「善戦」と自己評価しているそうだが、F氏
は、「どうして善戦なのか」と疑問をなげかける。

 今の時期、日本K党というと、反日運動を繰りひろげる中国や、あのK国とイメージが
ダブってしまう。日本K党の人たちは、「私たちは関係ない」と言うかもしれないが、つま
り、イメージがあまりよくない。

 F氏の記事を読んで、ますます、そんな感をもった。


●K会

 日本最大の宗教団体である、S会と、いわば同根の宗教団体に、K会がある。そのK会
についての記事を、宗教学者のS氏が書いている。

 K会というと、原理主義的な考え方をする宗教団体として、よく知られている。過激な
信者獲得方法が、つい先ごろ、事件を引き起こし、問題になった。(彼らの世界では、それ
を「折伏(しゃくぶく)」という。

 昔は一つの宗派が、寺ごと信者を乗っ取るという方法が、よくなされた。それを折伏と
いった。個人としての信者には、そういう意味では、価値がなかった(?)。ひとつの寺を
乗っ取れば、信者は、自然と、その宗派の信者になった。

 それが今では、信者という個人の獲得を、折伏という。折伏というのは、読んで字のご
とく、「折り伏せる」こと。つまり、もともと、強引な、信者獲得方法を意味する。

 で、宗教学者のS氏は、そのK会について書いている。勇気のある人だと思う。かなり
の覚悟がないと、こういう記事は、書けない。なおタイトルは、『S学会も恐れる、過激な
原理集団、K会研究』。


●ゴタゴタつづきの朝H新聞

 朝H新聞の記者が、ロクな取材もせず、記事をでっちあげたと、またまた問題になって
いる。NHKの番組改編記事をめぐる騒動も、まだ片づいていない。さらに内部資料の流
出などなど。

 どうしてこうまで、ゴタゴタがつづくのだろう。私が学生のころには、朝H新聞といえ
ば、日本を代表する、良識派の新聞社として、天下に君臨していた。

 しかし今は、見る影もない。お決まりの権威主義。とくにあのK国による拉致事件のと
きは、先頭に立って、K国を擁護していた。

 結局は、行き過ぎた、左派新聞になってしまったということか。そういえば、私はこの
数年間、一度も、朝H新聞を読んでいない。行きつけの食堂やレストランなどでも、朝H
新聞を置いてあるところは、一軒もない。

 これでますます、朝H新聞離れは進むことだろう。


●自公圧勝の困った後遺症

 今週号の特集は、「自公圧勝の困った後遺症」。8P組の大特集である。

 が、読んでいるうちに、不快感がムラムラ。今度の選挙から出てきた、何というか、ク
ソのような話ばかり。「早く料亭に行きたいといった、大バカ(議員の)語録」「不倫メー
ル女は、パンティ丸見え」「男にしか見えない、女性校長」などなど。

 覚せい剤逮捕の落選議員は、アメリカ帰りのドラ息子」というのもあった。

 そういう事実もあるかもしれないが、どうも、陰湿なネタばかり。選挙がどうであった
かということよりも、私は、こうした記事を書いたライターの、品性を疑った。どこかゆ
がんでいる(?)。そんな感じがした。

 今まで、アメリカに住む息子のために、毎週のように週刊新Cを買っていたが、今回で、
しばらく、買うのをやめることにした。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●やはり、日本だった!

先の6か国協議で、突然、K国は、軽水炉建設を条件にもち出してきた。これについて、
アメリカは、猛反発。韓国の、ソン首席代表は、「いいじゃないですか。認めてあげまし
ょう」と、アメリカのヒル代表を、説得した。

 しかしヒル代表は、これに激怒。一時、米韓関係は、険悪なムードに包まれたという(朝
鮮N報)。

 が、採択か決裂かという、その最終段階で、日本が、アメリカをこう言って説得した。
以下、朝鮮N報の原文から、引用する。

 「(日本は)、各種の規制装置と条件がついた状況で、その程度の平和的権利の可能性を
付与することを、論理的に排除することは難しい(と、アメリカを説得した)」と。

 わかりやすく言えば、「いいじゃないですか。それくらい認めてあげましょう」と。

 アメリカは、「アメリカだけが孤立する、逆5対1になるのを恐れて」、同意したという
(以上、朝鮮N報、05年9月21日)。

 アメリカの腰がくだけたのは、日本のその軟弱外交が、原因だった! 日本は、自分も
いい子になろうとして、結局は、アメリカを追いつめてしまった。

 何というお粗末! そのせいで、その翌日(9月20日)には、K国は、「軽水炉建設が
先。核放棄はそのあと」と言い出した。それを受けて、日本の各紙は、「一転、暗雲」と報
じ、韓国に亡命中の、ファン・ジャンヨブ氏は、「これで6か国協議で採択された共同声明
は、白紙の可能性」(朝鮮N報)と。

 あのね、みなさん、K国の核開発は、日本向けのものなのですよ。アメリカよりも、一
番、強硬でなければならないはずの日本が、先に、アメリカを逆説得。こんなバカげた外
交って、あるでしょうか。

 改めて、昨日、私が書いた原稿の一部を、ここに掲載しておきます。

+++++++++++++

 会議の流れを見ると、ロシア、中国が、まずK国の軽水炉に理解を示した。ついで、韓
国が、示した。ところが、である。この時点で、最後まで踏ん張らなくてはいけなかった
日本が、これらの国に同調して、アメリカよりも先に、理解を示してしまった(9・18
夜)。

 つまりアメリカだけが、取り残されてしまった。

 日本は、いい子でいたかったのだろう。が、それが裏目に出てしまった。あるいは、日
本は、「アメリカは、最後は会議を決裂させても、絶対にYESとは言わない」と思いこん
でいたのかもしれない。

 しかしそのアメリカが、「YES」と言ってしまった。

++++++++++++++++

 韓国は、今、ひとりで、「みんなで、軽水炉を作ってやろう」と、はしゃいでいる。しか
しここは、無視。ただひたすら、無視。これから先、K国の核問題は、韓国抜きで考えた
ほうがよい。

 で、私の印象では、米韓関係の崩壊、つまり米韓軍事同盟の崩壊は、時間の問題だと思
う。早ければ、今年中に結論が出るだろう。アメリカの政府高官も、こう言い出した。「韓
国がもつ、戦略上の意味は、もうなくなった」と。
(05年9月21日記)



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 19日(No.638)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】【2】(子育てのこと・特集合併)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【集団に溶けこめない子ども】

++++++++++++++++++

集団に溶けこめない……。そのため、
集団の中にいると、気疲れを起こしや
すくなる。

さらにそれが慢性化すると、不登校の
原因になったりすることもある。

++++++++++++++++++

●集団の中では……

 小学校の低学年児で、集団に溶け込めない子どもというのは、10人のうち、1〜2人
は、いる。主な症状としては、つぎのような点が、あげられる。

(1)集団の中では、おとなしく、おだやか。遠慮深い。やさしい。静かで目立たない。
(2)自己主張が弱く、いつも、ほかの子どものうしろをついていくといった感じ。
(3)何か話しかけると、柔和な笑みで、答えたりするが、感情表現はいつも、控え目。
(4)学習態度は比較的よく、そのため、成績も、それほど、悪くない。
(5)外の世界(学校や塾)では、大声で笑ったり、声を出したりするということはない。

 これらの症状は、家の中での様子とは、正反対のことが多い。家の中では、別人のよう
に活発に行動する。かつ、親に対しては、言いたいことを言ったり、したりする。そのた
め、こうした外での様子を指摘されたりすると、たいていの親は、それを否定する。「うち
では、ふつうです」と。

 しかしこのタイプの子どもは、その分だけ、ストレスを内へ内へとためやすい。様子だ
けを見ると、仮面をかぶった子どもに似ている。俗にいう「ぶりっ子」をいう。仮面をか
ぶった子どもは、いつもどこかで他人の目を気にしている。どうすれば、自分が、いい子
に見られるか、それだけを考えている。

 これに対して、集団に溶けこめない子どもは、集団そのものを恐れ、他人の目から、逃
れようとする。そのため、ひとり静かに行動し、できるだけ目立たないようにしているこ
とが多い。

 このタイプの子どもは、教える側としては、教えやすい。従順で、すなお。みなに迷惑
をかけるということはない。しかしそれは子ども本来の姿ではない。このタイプの子ども
は、心を自由に、開けない。みなが大声で笑うようなときども、そのリズムにのれない。
そのため、いじけやすく、くじけやすい。心をゆがめやすい。

 そして長い時間をかけて、ストレスを蓄積し、そのストレスが、さまざまな問題を、引
き起こす。

 たとえばこのタイプの子どもは、集団の中では、神経疲労を起こしやすい。そしてその
結果として、神経症や、心身症による、さまざまな症状を起こす。そしてその症状は、多
岐にわたる。「何か、うちの子は、おかしい?」と感じたら、神経症、もしくは、心身症を
疑ってみる。

●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子ど
もの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫
(2)症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理
(3)由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言
(4)ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすること
(5)もある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿
症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、
便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般
的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での
神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって
行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気
力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようにな
る。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 その中の一つが、学校恐怖症(後述、参照)ということになる。その学校恐怖症につい
ては、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

●対処のし方

 では、どうするか?

 このタイプの子どもは、心の開放を第一に考えて指導する。たとえば大声を出させる、
大声で笑わせる、など。しかしそれは簡単なことではない。友だちどうしの間では、結構、
心を開くことができても、集団の中へ入ったとたん、かん黙してしまう子どももいる。教
師を前にしただけで、緊張して、体をこわばらせてしまう子どももいる。

 こうした症状を不適応症状というが、その症状して、よく見られるものを列挙してみる
と、つぎのようなものがある。

(1)対人恐怖症、集団恐怖症、回避性障害(他人との接触ができない)など。
(2)緊張性の頭痛、腹痛、下痢、嘔吐など。

 本来なら、一対一、もしくは、きわめて小人数(3〜4人程度)のようなていねいな指
導が望ましいが、しかしそれにも程度の問題があって、小人数にしたからといって、心を
開くということはない。とくに小学校へ入学したあとでは、指導による改善は、ほとんど
望めない。おとなになってからも、そのままつづくというケースは、少なくない。

 もしどうしても……ということなら、まったく別の環境の中で、その子どもが心を開け
るような、ばしょをさがすしか、ない。スポーツやサークル活動など。一度、その世界で、
何らかのこだわりを作ってしまうと、そのこだわりを、消すのは、むずかしい。

 J君(小5)の子どもがいた。彼は、集団の中では、ほとんど心を開くことはなかった
が、サッカーをしているときだけは、黙々と、それに励むことができた。

 一方、Cさん(小2)の子どもがいた。小1のはじめから、私の教室へ来たが、小2の
途中でやめるまで、一度とて、大声で歌を歌ったり、笑ったりすることはなかった。いり
いろな方法で、手を変え、品を変え、私なりに努力はしてみたが、結局は、Cさんの心を
開くことはできなかった。

 このことからも、わかるように、集団に溶けこめない子どもの、「根」は、深い。時期を
言えば、0歳から、1、2歳前後までに、そういった方向性ができあがると考えてよい。
そのため、たいていのばあい、まず母子関係の不全を疑ってみる。

 このタイプの子どもは、母子の間の基本的信頼関係ができあがっていないことが多い。
何らかの理由で、絶対的な安心感を、母親に対していだくことができなかった。「絶対的」
というのは、「疑いすらもたない」という意味である。つまり、それから生まれる、不信感
が、子どもの心を閉じさせ、ついで、子どもの心を緊張させるようになると考える。

 しかもなお悪いことに、母親に、その自覚がないことが多い。そういう自分の子どもを
見て、むしろ、「できのいい子」と思ってしまうケースが目立つ。そしてそのままの母子関
係をつづけてしまう。

 で、問題が起きてはじめて、自分の子育てのどこにどういう問題があったかを知る。(が、
それでも気づかないケースも、少なくない。ここにあげたCさんのケースでは、Cさん自
身は、私のところへは、彼女なりに楽しんできていた。しかし伸びやかさには、欠けた。
母親はそういう姿を見て、「うちの子は、この教室には合っていない」と判断したようだ。

 で、さらに、ここに書いた不適応症状がこじれて、学校恐怖症から、不登校へと進むこ
ともある。この段階でも、親は、自分を反省するということは、ない。子どもの言い分だ
けを聞いて、「教師の指導が悪い」「いじめが原因だ」と。

●まとめ

 本来なら、集団に溶けこめない子どもについては、それを「悪」と決めてかかるのでは
なく、その子どもにあった、環境を用意してやるのがよい。苦手なものは、苦手。だれに
も、そういう面の一つは二つは、ある。

 何でもかんでも、学校という集団教育の場で解決しようという発想そのものが、おかし
い。そういう前提で考える。

 コツは、無理をしないこと。そしてこのタイプの子どもほど、家の中では、態度が横柄
になったり、乱暴になったりする。そういうときは、「ああ、うちの子は、外の世界でがん
ばっているから、こうなのだ」というふうに考えて、理解してやる。

 家の中でも、静かで、おとなしく……ということになると、子どもは、やがて行き場を
なくし、外の世界で、さまざまな問題を引き起こすようになる。しかもたいてい、深刻な
問題へと発展することが多い。
(はやし浩司 子供の心理 集団 集団に入れない子供 集団に溶け込めない子供 集団
が苦手な子供 外で静かな子供 はやし浩司)

++++++++++++++++++

以前、書いた、「内弁慶、外幽霊」の
原稿を添付します。

++++++++++++++++++

●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコ
の子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。

といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。
緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があ
って、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、そ
れについてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはご
く自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制
御できなくなることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、
この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため
社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっく
みあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこま
れる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自
分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるま
うことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのス
トレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス
型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心
をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大
目に見て許す。

とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高く
なるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなく
し、さらに対処がむずかしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけ
させる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境と
はいえない。
(はやし浩司 子供の心理 内弁慶 外幽霊 集団になじめない子供)

+++++++++++++++++++++

合わせて、学校恐怖症の原稿を
添付します。

原文(英文)は、私のHPのほうに
収録しておきました。

+++++++++++++++++++++

子どもが学校恐怖症になるとき

●四つの段階論

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひど
い花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校
を「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三
つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、そ
れに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦
怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快
し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の
日内変動という。学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったり
する。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由と
なる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。

(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、
狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」など
と言うと、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中
では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「こ
れが同じ子どもか」と思うことが多い。

(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの
攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、
どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、
暴れたりすることはある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、
不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの
生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の
子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、
数か月から数年続く。

(3)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、
外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返
したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜
二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

(注、この(4)の回復期は、ジョンソンの論文にはないものである。私が勝手に加筆し
た。)

●前兆をいかにとらえるか

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たい
ていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無
理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもある
わよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の
問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほ
ど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えら
れている。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活
動など不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生
活環境の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えら
れている(「日本教育新聞社」まとめ)。

しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを外の世界から
見た区分のし方でしかない。

(参考)

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満4〜5歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫
ぶ、睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状
が加わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人
恐怖症もこの時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、1
932年に最初に使い、1941年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」
と命名したことに始まる。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登
校時のパニック時期(3)自閉期の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。
(はやし浩司 子どもの心理 学校恐怖症 対人障害 不登校 不登校児)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況・あれこれ】

●中年と老年のはざまで……

「まだ、若い」と、自分に言って聞かせる。しかし、その元気も、このところ、日まし
に薄れてきた。

最近では、社会という現実が、どんどんと遠ざかっていくのを感ずる。自分だけが、社
会から取り残されていくというか、はじき飛ばされていくというか……。もっと端的に
言えば、相手にされなくなったというか……。

年齢的には、初老の年代に入りつつある。しかしその実感が、どうしても、わいてこな
い。しかしその一方で、体力や気力の衰えは、どうしようもない。「負けるものか!」と
力んでみせたり、「やっぱり、だめか……」と思いなおしてみたりする。

 強気と弱気が、そのつど、交互に交差する。

で、昨夜は、教室から自宅までの7キロを、1時間40分ほどをかけて、歩いてみた。
自転車で走れば、20〜30分の距離である。

急がなかった。足が動くのに任せて、ゆっくりと歩いた。トボトボという感じだったか
もしれない。その道を歩きながら、いろいろ考えた。

時おり、暴走族風の若い男が、バリバリとものすごい騒音をたてて、私の横を走りぬけ
た。若い男女の一群が、キャッキャッと歓声をあげながら、通りすぎた。そんな彼らの
うしろ姿をみやりながら、「私の時代は終わった」と思った。

が、何よりもショックだったのは、S学院という、全国チェーンにまで成長した、進学
塾の前を通ったときのこと。どこか喫茶店風の進学塾の塾舎を、あちこちに建てている。

 そのS学院の塾長とは、一面識もない。ないが、ちょうど今から、35年ほど前、まっ
たく今と同じように、そのS学院の前を通り過ぎたことがある。

 そのとき私は、佐鳴湖のほとりにあるT幼稚園で教室を借りて、英語教室を開いていた。
そのとき、S学院は、そのT幼稚園の裏手の、住宅団地の一角にあった。プレハブづくり
の小さな教室だった。

 そのとき、今のS学院は、佐鳴湖の「S」をとって、「S学習塾」という名前だった。私
がT幼稚園から帰るたびに、その塾の中をのぞいた。塾長は、道路に面して、いつもこち
ら側を向いて、机にすわっていた。

 どこか薄暗い教室だった。塾長は、いつも、下を向いて座っていた。

 その姿が印象的だった。私は、「がんばってくださいよ」と、心の中で、その前を通り過
ぎるたびに、声をかけた。

 が、それから35年。S学院は、今のS学院になった。(最近、「S予備校」という名前
に変更したが……。)一方、その35年を経て、私は、その塾舎の前を、トボトボと歩いて
いる。

「私は、何をしてきたのだろう」と思った。「私は、やはり、負け組みか」とも、思った。
何かをしてきたようで、結局は、何もできなかった。世の中の流れを、いつも指をくわ
えてみていただけ。

 が、その一方で、「老後」という感覚が、まったく、わいてこない。私の家の周囲には、
元公務員という人たちが、たくさん住んでいる。それぞれに優雅な、一見優雅な、年金生
活を楽しんでいる。しかしそういう生活に、私は、魅力を感じない。それがあるべき老後
の姿だとも思わない。

 では、私は、いいたい、どうすればよいのか?

 華やかな壮年期は、もう終わった。で、そこにあるのは、老年期。あと数年もすれば、
老人ホームへも、入れるようになるという。しかしだれが、そんなところへ、自ら望んで
入るだろうか?

 あきらめてしまえば、気も楽になるのだろう。しかしこの生への執着心は、どうすれば、
断ち切ることができるのか。それを断ち切らないまま、老後に突入したら、……今が、そ
の状態かもしれない。が、それこそ、わけのわからない老人になってしまう。

 そう言えば、少し前、60歳をすぎたのに、真っ白けな顔をして、小娘が着るような服
装で、一世を風靡(ふうび)した女性がいた。何でもダイエットをしすぎて、それが原因
で、死んでしまったという。

 彼女自身が、自分を、人より若く見せる目的でそうしたのか、あるいは、自分が開発し
た美顔用具を販売する目的でそうしたのか、それは、私には、わからない。しかしもとも
と黄色人種の私たちが、顔を白くしたり、60歳を過ぎた老人が、小娘のマネをしたとこ
ろで、それにどういう意味があるというのか。

 そういう女性を頭の中で否定しながら、しかしその一方で、その女性と同じことをしよ
うとしている自分を知る。名誉や地位、名声や富という魔力にがんじがらめになっている、
自分を知る。

 何か、そこにあるはずなのに、どうしても、それがつかめない。何をすべきかというこ
とが、薄々は、わかっているはずなのに、どうしても、ふんぎりがつかない。

 とにかく今日は、今日で、やるべきこと、できることをやるしかない。これ以上、あせ
ってみたところで、あるいはがんばってみたところで、状況は、何も変わらない。そのう
ち、頭もボケて、結局は、この問題は、どうでもよくなってしまうかもしれない。そうな
れば、一応、この問題は、解決することになる。

 つまり私も、最終的には、そうなるのだろう。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●パソコン

 「パソコンの画面の向こうには、もうひとつの別の宇宙がある」と、そのとき、私は、
感じた。今から35年ほど前のこと。アメリカのコモドール社のPETという、パソコン
を買ったときのことである。

 当時の金額で、値段は、32〜3万円だった。メモリーといっても、たったの2KB。つ
まり2000バイト。最近のパソコンでは、512MB(メガバイト)が標準だから、お
金にたとえると、2000円と、5億1200万円のちがいということになる。(1バイト
を、1円に換算。)

 私はこのパソコンを使って、二次曲線を描いたり、簡単なゲームを作ったりして、遊ん
でいた。

 そのパソコンで遊んでいたときのこと。私はふと、「パソコンの画面の向こうには、もう
ひとつの別の宇宙がある」と感じた。つまりその奥に、無限の広さを感じた。

 同じころ、高校生だったあのビル・ゲーツは、同じパソコンを使って、別のことを考え
ていたのかもしれない。そして今に見る、あのマイクロソフト社を立ちあげた。

 で、今、同じパソコンを使って、こうして自分の思ったことや考えたことを、たたきつ
けている。そして同時に、また、同じようなことを感じている。「パソコンの画面の向こう
には、もうひとつの別の宇宙がある」と。

 こうした思いを、実にうまく表現してくれたのが、あの映画『マトリックス』である。
私はあの映画を見ながら、いつかああいう世界が、現実になるかもしれないと思った。と、
同時に、私たちの身のまわりには、すでにそういう世界ができつつあることを知った。

 ゲームの世界の話ではない。

 私はこうして小さな家の、せまい部屋の中で、キーボードをたたいている。しかしその
たたいたことが、そのまま、日本中のみならず、世界中へと、伝わっていく。そしてそれ
ぞれの人たちと関係をもちながら、ひとつのネットワークを作りあげていく。

 つまり今、私がこうして見ている画面は、画面を通して、ちょうど、カガミの表と裏の
ように、それを読んでくれる人とつながる。わかりやすく言えば、この画面の裏が、もう
ひとつの世界ということになる。

 そういえば、昔、二男も同じようなことを言った。「パパ、パソコンの世界では、何でも
できるよ。不可能というものは、ないよ」と。

 私は、そのとき、すなおに二男の言ったことに納得した。

 たとえば私は、最近、こんな経験をしている。

 今から17年前に、私は、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という本を書いた。その本
は、やがて絶版になってしまった。しかし、である。それをよいことに、つまり絶版にな
ったことをよいことに、いろいろな人が、私の書いた本からの図を、無断で流用したり、
盗用したりしている。

 とくに健康雑誌が、ひどい! 孫コピーの、そのまた孫コピーを、平気で載せている。

 私は、ごく最近まで、あきらめていたというか、無視してきた。しかし今度、その本を、
丸々、自分のHPに載せることができるようになった。重要なのは、その本の出版年月日
を、明確にすること。

 つまりそれ以後書かれた本の中にある、類似した絵や文章は、私の本からの盗作という
ことになる。(世の、もの書きのみなさん、気をつけてくださいよ!)

 そんなことまでできるようになった。

 音声や動画を載せられるようになったことについては、少し前に書いた。つまり、この
世界では、つい先日まで、不可能というより、あきらめていたことが、つぎつぎと可能に
なっていく。

 これから先、どんなことができるようになるだろうか?

 電子マガジンにしても、今は、文字情報だけだが、やがて、音声や動画で送れるように
なるかもしれない。そうなれば、またまた電子マガジンの世界が、ぐんと広がる。想像す
るだけでも、実に楽しい。

 ただひとつ残念なことは、35年前には、自分でプログラムを組んで、それを自分で使
っていた。今は、ちがう。市販のソフトを買ってきて、それを利用している。今、使って
いるワードにしても、そうだ。

 当時は、マシン語からBASIC言語への移行期で、私は、そのBASIC言語を使っ
て、プログラムを組んでいた。画面に(・)を一つ表示するだけでも、座標の位置を決め
ながら、それをした。今は、便利になったが、しかしあの当時覚えた感動は、もう、ない。
何となく、だれかに、操られているような感じすらする。

 そのパソコンだが、そのあとは、新製品が出るたびに、まさにとっかえ、ひっかえ……
というような時代がつづいた。今でも、私の周囲は、パソコンだらけ。だから、どこかの
家へ行って、そこにパソコンが一台もないことを知ると、かえって違和感を覚えてしまう。
「いったい、この家は、どうなっているのだろう?」と。

 実に身勝手な印象だが、そう感じてしまう。

 ……さらに無限に広がっていく、パソコンの世界。そうそう言い忘れたが、どうか「目
で見る漢方診断」の原稿を、一度、見てほしい。最近の漢方(東洋医学)の本などを見る
と、あちこちに、私が書いた(=描いた)図柄と同じようなものが、そこにあることを、
あなたは知る。つまり、それらの図柄は、私が書いた本が、オリジナルになっているとい
うこと。

 あとは、みなさん、勝手に、無断で、借用、流用、盗用しているだけ。ハハハ。そうい
うことまで、パソコンで証明できるようになった。

 なお、「目で見る漢方診断」は、私のHPのトップページから。これからは、私の無断流
用、盗用は、許しません!
(はやし浩司 漢方 東洋医学 図説 目で見る漢方診断 黄帝内経 素問 はやし浩
司)


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●審議会

+++++++++++++++++

今や、どこの自治体でも、審議会
ばやり。行政改革の一環としてな
されているところが多い。

しかし審議会とは、いったい、何か?

+++++++++++++++++

 官僚や役人が、世論を誘導する手段として、もっとも悪用(?)するのが、「審議会」と
いう制度。

 たいてい、座長には、それなりの知名度のある人物を置く。あとは、どういう人選で選
んだかもわからないような、イエスマンばかり。

 審議会といっても、審議をするわけではない。ほとんどのばあい、官僚や役人があらか
じめ用意した筋書きにそって、各委員が、自分の意見を添えるだけ。20人の委員がいれ
ば、1人ずつが5分間、発言をしても、100分。1人、1、2回の意見発表が、限度。

 一般的には、複雑な問題ほど、委員の数を多くする。そのほうが、委員の発言量を少な
くすることができる。うるさい人間は、もとから、お呼びではない。

 で、こうした審議会を、数回。重要な審議会でも、10回前後、開く。一応、公開だか
ら、傍聴席も用意される。マスコミや利害関係者、それに反対運動などがあれば、その関
係者が、そこに座る。

 が、審議会では、委員の意見は、意見としてまとめられるだけ。拘束力も、強制力もな
い。ただの意見。

 で、それを一回ごとに、文書にまとめるのが、これまた官僚や役人。一応、「報告書」と
いう形で、一回ごとに、文書化され、関係者に配布される。

 そして最後は、答申という形で、行政団体の長、つまり知事や市長に、文書の形で渡さ
れる。しかしその文書とて、たいていのケースでは、官僚や役人があらかじめ用意したも
の。座長は、それを手直しする程度。

 その答申は、あいまいなものであればあるほど、よい。そのほうが、あとあと、いかよ
うにも、料理できる。また、それが官僚や、役人のねらいでもある。

 で、こうして一応(?)、お墨付きをもらった、官僚や役人は、あとは、やりたい放題。
だれかが異義を唱えても、「控えおろう!」と、答申をちらつかせながら、一喝すればよい。

 みなさんの住んでいる地域でも、こうした審議会は、そのつど、なされている。が、し
かし、この審議会という制度は、悪用されると、どこまでも悪用される。官僚や役人の、
伝家の宝刀のようにもなっている。

一度、そういう視点で、あなたの地域でなされる審議会を、ながめてみてはどうだろう
か。


●6か国協議

++++++++++++++++++

無事終わったかのように見える、6か国
協議。

しかし、最後のババを引いたのは、どの
国か……?

++++++++++++++++++

 6か国協議が、共同声明を採択した。結論から先に言えば、アメリカの腰が、突然、く
だけた。そしてアメリカと日本は、中国と韓国のしくんだワナに、まんまとハマってしま
った。

 満額の解答を得て、ほくそ笑んでいるのは、K国だけ。日本は、「これで拉致問題解決の
糸口をつかんだ」と喜んでいるが、この先、400億ドル以上とも言われる、補償金問題
は、いったい、どうするのか?

 問題は、では、なぜ、アメリカの腰がくだけたか、である。

 今朝(9・20)の各新聞を読むと、ブッシュ大統領の支持率がさがっていることを理
由にあげる意見が多い。「ここで会議を決裂させたら、ますます支持率がさがる。ブッシュ
は、それを恐れた」と。

 しかし、本当に、そうか?

 会議の流れを見ると、ロシア、中国が、まずK国の軽水炉に理解を示した。ついで、韓
国が、示した。ところが、である。この時点で、最後まで踏ん張らなくてはいけなかった
日本が、これらの国に同調して、アメリカよりも先に、理解を示してしまった(9・18
夜)。

 つまりアメリカだけが、取り残されてしまった。

 日本は、いい子でいたかったのだろう。が、それが裏目に出てしまった。あるいは、日
本は、「アメリカは、最後は会議を決裂させても、絶対にYESとは言わない」と思いこん
でいたのかもしれない。

 しかしそのアメリカが、「YES」と言ってしまった。なぜか?

 わかりやすく言えば、ブッシュは、韓国はもちろん、日本をも見放した。アメリカのワ
シントンから、この問題を考えてみれば、わかる。

 どうしてアメリカが、アジアの、その極東の、平和問題について、責任を取らねばなら
ないのか。アメリカの大地に立ってみると、そこからは、日本の「ニ」の字も見えてこな
い。しかも韓国にせよ、日本にせよ、アメリカに甘えるだけで、自分たちでは、何もしよ
うとしない。

 アメリカにしてみれば、K国から核兵器がなくなり、アメリカの安全さえ保障されれば、
あとは、どうでもよい。韓国がK国とどういう関係になろうが、はたまた、日本が、ばく
大な補償金をK国から請求されようが、そんなことは、知ったことではない。

 こうした多国間会議の裏では、それぞれの国の間で、同時に、密約が交わされるのが、
常識。多分というより、ほぼまちがいなく、中国は、こう言って、K国を説得したはず。

 「なあ、ちゃんと、日本からは、補償金をぶん取ってやるから。だから、ここは、オレ
の言うことを、聞けよ」と。

 事実、すでに、過去において、中国は、(中国がだぞ!)、日本に対して、K国への補償
金の額を打診してきている。それが先に書いた、400億ドルという、とほうもない額で
ある。

 こうして中国は、先にツバをつけておくことによって、その補償金で、自国の武器や製
品を、K国から買ってもらうことができる。ロシアも、しかり。軽水炉の知恵をつけたの
は、ロシアとみてよい。会議が始まるとすぐ、「軽水炉は、ロシアが提供する」と発言した。

 みんな、日本の補償金をアテにしている!

 しかし、あんな独裁者に、ばく大な補償金を渡したら、どうなる? 日本は、すぐとな
りに、強大な反日軍事国家をもつことになる。いくらアメリカの庇護下にあるといっても、
南北朝鮮が力を合わせて日本を攻撃してきたら、日本など、ひとたまりもない。核兵器ど
ころの問題では、なくなってしまう。

 私は、もうこの問題からは、おりる。どうでもなれ……というより、もう、なるように
しか、ならない。

 しかしここで400億ドルも取られたら、日本の経済は、沈没してしまう。そのことも、
どうか、お忘れなく!

【補記】

 この原稿を書き終わって、居間へおりていってみると、もう、こんなニュースが伝わっ
てきた。

 何でもK国が、「軽水炉を先に作ってくれなければ、核兵器の放棄はしない」と言い出し
たというのだ。

 もし、それが本当なら、K国は、6か国協議を、一晩で、ひっくりかえしてしまったこ
とになる。しかも、それを、友好の証(あかし)として、アメリカに作れ、と。

 で、それを支持するかのように、韓国が動き出した。「各国が、お金を出しあって、作っ
てやろうではないか」と。

 K国も、韓国も、どうかしているのでは?
(05年9月19日記、この原稿がマガジンに載るころには、国際情勢は大きく変化して
いると思います。)


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●難聴

ワイフが、「ほら、うちの庭でも、コオロギが泣いている」と言った。
しかし私には、何も聞こえない。左耳の聴力を完全になくして、もう20年になる。
それに、耳鳴り。一年中、途切れることなく、耳の中で、セミが鳴いている。

「ぼくには、聞こえない……」と答えると、どこかあきれ顔。
「聞こえないの?」「ほら、チリチリと聞こえるでしょう?」と。

ひとり、庭に出てみる。しかし何も聞こえない。同じ音でも、耳鳴りの音と重なると、そ
の音は、耳鳴りの音の中に、消えてしまう。それに低い音も、聞こえない。

「外へ出たら、虫が鳴きやんでしまったよ」と言うと、「そんなことないわよ。ちゃんと、
聞こえるわよ」と。

こういうとき、どういうわけか、ワイフは、どこまでもがんばる。

しかたないので、聞こえるフリをして、その場をやりすごす。
が、また夜遅く、床につくときになって、こう言った。「鳴いているわ」と。

しかし私には聞こえない。耳に手をあて、網戸に耳をこすりつける。
それを見て、ワイフが、また、「チリチリと聞こえるでしょう。聞こえないの? ほら!」
と。

とたん、胸の中に、悲しさが充満する。

私「いくら、お前が、そう言っても、聞こえないものは、聞こえない……」
ワ「そんなはずはないわ。こちらの窓のほうよ」

私は体を起こして、そちらの窓のほうに立つ。同じように網戸に耳をこすりつける。
しかし、聞こえない。何かしら音はしている感じはするが、虫の声なのか、それとも、耳
鳴りなのか?

が、ワイフは、許してくれない。

「リーン、リーンという音が、聞こえるでしょう。ほら、ね」と。

窓の外を見ながら、涙がこぼれる。しかしワイフには、それが見えない。
悲しい気持ちに、さらに追い討ちをかける。

「聞こえないはずは、ないでしょ。ほら!」と。

ワイフは、懸命に、虫の声を私に聞かせようとする。

私「聞こえないものは、聞こえない。耳鳴りの音と混ざってしまう」
ワ「あら、かわいそうな人ね。でも、あんな音が聞こえないの?」
私「……聞こえない……」
ワ「泣くこと、ないじゃない」
私「だったら、もう許してよ。ぼくが、聞こえないと言ったら、それですませてよ」
ワ「でも、あんな音が聞こえないなんて……」と。

私は、再び、起きあがって、部屋を出る。

ワ「わかった、わかった、わかったわ。聞こえないのね。だったら、もう寝ましょう」
私「……庭に出て、聞いてみる」「聞いてくる」と。

ワイフも、このところ、何かにつけて、がんこになってきた。年齢のせいもあるのかもし
れない。あるいは、ひょっとしたら、ボケが、少しずつ、始まっているのかもしれない。
とくに、金銭感覚が、薄れてきたように思う。私が「お前、少しボケてきたんじゃ、ない?」
と聞くと、「私は、だいじょうぶ」などと言う。そういう人ほど、あぶない(?)。

その庭に出てみると、悲しさが、ました。自分の健康への不安。これから先の老後への不
安。そういうものが、ザワザワと、胸の中で騒ぐ。

そこへワイフが出てきた。うしろから、懸命につくり笑いをしながら、近づいてきた。

ワ「ほら、こっちの木のそばよ。鳴いているでしょ?」
私「もう、いいよ。虫の声なんて、ぼくには、どうでもいい」
ワ「あなたが、そんなに耳が悪かったなんて……」
私「だから、もういいから、ひとりにしておいてよ」と。

こうして人は、一つずつ年をとって、一つずつ、体の一部を失っていく。ワイフはそれを
感じて、私を励ましてくれたのかもしれない。あるいは、ワイフも、同じように、さみし
く思っていたのかもしれない。

今夜は、いつもより、耳鳴りがひどい。きっと、風邪をひいたせいだろう。

私は戸棚から葛根湯を取り出すと、それを湯に溶かして、飲んだ。
床へもどると、ワイフが、心配そうに聞いた。「だいじょうぶ?」と。

「だいじょうぶだよ」と答えて、私は、そのまま、電気を消した。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 17日(No.637)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ヒステリー

++++++++++++++++

「うちの子は、突然、キレます。
 一度、キレた状態になると、
 手がつけられません。
 どうしたらいいでしょうか」
(N県、高校2年生男子をもつ
 母親からの相談。)

+++++++++++++++++

 突然、……というより、徐々に、盛りあがるように興奮状態になり、やがて手がつけら
れないほど、病的な興奮状態になることを、「ヒステリー」と、一般世界では、呼んでいる。

 (臨床心理学で言う、「ヒステリー」というのとは、少し、ちがった意味になる。)

 このヒステリーには、2種類ある。

(1)身体表現性障害と、(2)解離性障害の2つに分けて考える。

 身体表現性障害というのは、さまざまな身体的な病状をさす。感覚麻痺のほか、頭痛、
動悸、息切れ、呼吸過多、けいれん、発汗など。

 解離性障害というのは、いわゆる(自分が自分でなくなってしまう)病状をいう。よく
知られた病状に、多重人格障害や、離人性障害がある。

 このタイプの子どもは、(おとなも、そうだが……)、興奮して激怒状態になると、まる
で別人のようになってしまうことが、よく知られている。行動そのものが、破滅的、破壊
的、自暴的になる。「すべてを、めちゃめちゃにしてやる!」といった、そんな感じになる。

 原因の多くは、心の奥底に潜む、深いキズと考えてよい。乳幼児期の虐待、家庭内騒動、
親の育児拒否、冷淡、無視などなど。このタイプの子どもをもつ親と話をすると、たいて
い、「うちの子は、生まれつき、ああです」などと言う。

 責任逃れの言い方とも考えられるが、親に、その自覚そのものがない。「私は私なりに、
懸命に、子育てをしてきました」などと弁解することもある。

 で、このタイプの子ども(おとなも、そうだが……)の激怒のし方には、つぎのような
特徴が見られる。

(1)傍(はた)から見ていると、突発的にキレたように見えるが、よくよく観察してみ
ると、最初は、穏かな口調で始まることが多い。何かの不満を並べているうちに、それが
妄想的にふくらんでいく。そしてやがて興奮状態になり、言葉がきつくなる時間的には、
数分前後が多い。

(2)執拗に同じことを繰りかえしながら、相手を責めたり、自分を責めたりする。本来
なら、何でもないようなささいなことに、異常なこだわりを見せ、それにいつまでも、固
執したりする。話の内容がくどくなる。

(3)そして一度興奮状態になると、ここにも書いたように、破滅的、破壊的、自暴的に
なる。ときに、取りかえしのつかないようなことまで、興奮に任せて、してしまうことも
ある。ただし、そこには、いつも、ギリギリの一線がある。その一線を超えることは、ま
ず、ない。

(4)興奮状態のときは、別人格になっているため、価値観、倫理観、道徳観など、すべ
てが、元の人格のそれとは、ちがうと考えたほうがよい。顔つき、目つきはもちろんのこ
と、心理状態そのものまで、変わってしまうこともある。ふだんは、さみしがり屋の子ど
もが、興奮状態になると、ひとりで何でもやると言い出したりする。

 ある子ども(中学男子)は、こうした興奮状態になると、目がギョロギョロし始めた。

(5)興奮状態から、冷却期間を経て、しばらくすると、またもとの人格にもどる。しか
し急に冷めるというよりは、徐々に、時間をかけて冷める。その期間には、個人差がある。
が、1、2日で、もとにもどることが多い。

(6)一般的に、「ヒステリー」というときは、以上のような症状をいうが、本人自身に、
その自覚と記憶が残るのが、ふつう。そのため、ふだんの自分にもどったとき、はげしい
自己嫌悪におちいることが多い。

 こうした一連の症状が、定期的に、かつ繰りかえし起きるようであれば、できるだけ、
初期の段階で、それを習慣化させないようにする。頭ごなしに叱ったり、おさえつけたり
してはいけない。子どもであれば、抱きこんで、暖かい口調で、何度も説得するのがよい。
子どもの不安感や緊張感を、ほぐすようにする。

 このタイプの子どもは、(おとなも、そうだが……)、いつも、別の(ふだんの子ども)
が、心のどこかにいると考えて、その(ふだんの子ども)にだけ向って話しかけるように
する。「今のあなたは、本当のあなたではないのよ」と。

 楽しかった思い出や、その子どものよい面を指摘しながら、話すのも効果的。

 こうして少しずつ、本人に、セルフコントロールの技法を身につけさせていく。……と
いっても、それには、10年単位の時間がかかる。心のキズというのは、そういうもの。
またそういう視点で考えること。しかし本人自身が、それに気づき、自分の病状を自覚す
れば、自分で自分をコントロールできるようになる。そういう(力)を育てる。

 ここに書いた以上のことは、専門医の分野ということになる。それでも解決しないよう
なら、一度、心療内科などの専門医に相談してみるのがよい。
(はやし浩司 ヒステリー 身体表現性障害 解離性障害 突発的な興奮性)

【K君(高2)の例】

 K君(高2)は、ふだんは、ユーモアのセンスも豊かで、人を笑わせることもうまいと
いう。神経質だが、頭もよく、とくに美術的な感覚にすぐれている。

 しかし両親は、K君が5歳のときに離婚。父親のほうがK君を連れて、家を出た。その
父親は、K君が中学生になるころ、再婚。しかしK君は、新しい母親(継母)とは、ほと
んど口をきくことはなかった。ときどき新しい母親は、K君に暴力を振るったこともある
という。

 そのK君は、ふとしたことで、いじけやすく、一度、いじけると、そのままいつまでも、
つっぱってしまう。中学生のときも、突然、学校を飛び出して、4、5キロもある家まで
の道のりを、歩いて帰ったりしたこともある。

 こんな事件もあった。教室の中でハーモニカを吹いていた友人がいた。が、K君は、「う
るさい!」と言って、突然、キレ、そのハーモニカを、窓にたたきつけて、こわしてしま
った。窓ガラスも割れた。みなが、K君をおさえにかかったが、4、5人でもおさえきれ
ないほどの腕力だったという。K君が、高校1年生のときのことだった。

 こうした事件を起こすたびに、K君は、3、4日は学校を休んだ。が、そのあとは、ま
るで何ごともなかったかのように、また学校へ出てきて、授業を受けていた。で、教師が、
K君の起こした事件について聞くと、K君は、まるで他人ごとのように答え、話していた
という。

 その教師は、K君の母親(継母)に、こう言ったという。「K君は、自分のことを話して
いるはずなのに、だれか別人が起こした事件のような話し方をしました。主語がおかしい
と思ったことも何度かあります。たとえば、『ぼくが……』と言うべきところを、ふと『あ
いつは……』と言ったりするなど。そして悪いことをしたという自覚が、まるでないのに
は、驚きました」と。

 K君は、心を開けない子どもだった。そのため、愛想はよく、人に取り入るのはうまか
ったが、本当の友人は、いなかった。K君は、「ぼくは孤独だ」と、口ぐせのように、よく
言っているという。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●無知の無知

 自分の無知を、無知であることぐらい、恐ろしいことはない。そのことは、何か、新し
いことを知ったときに、思い知らされる。

 ときどき私は、「こんなことも知らなかったのか」と、自分で思うときがある。あるいは、
「どうしてこのことを、もっと早く知らなかったのか」と思うときもある。「私は、いった
い、何をしていたのか」と。

 一方、たいへん失礼なことだが、だれかと話していて、「どうして、この人は、こんなこ
とも知らないのか」と、思うときもある。が、そう思ったとたん、「では、自分はどうなの
か」と。

 まず、自分の無知を知る。そして、そのためには、他人だけではなく、まわりのあらゆ
るものに対して、謙虚になる。まずいのは、傲慢(ごうまん)になること。人は、傲慢に
なったとたん、自分を見失う。

 釈迦は、こうした「心の浄化」を、「精進(しょうじん)」と、呼んだ。「死ぬまで。精進
せよ」と。仏教の実践者は、よく「悟りを開く」などという言葉を使うが、そんなことは、
そこらの人間には、ありえない。あるとするなら、その人が、そう思いこんでいるだけ。
そのまわりの人が、そう思いこんでいるだけ。

 ついでに申し添えるなら、釈迦仏教、なかんずく大乗仏教が、なぜに、こうまで混乱し
たかといえば、「我こそが仏である」と、勝手なことを言う人が、あまりにも多かったから
である。今でも、少なくない。「悟りを開いたものは、すべて仏である」という考えに、も
とづく。

 さらにこの日本では、死んだ人すべてを、「仏様」という。こういう安易な、「仏教観」
が、さらに釈迦仏教を、混乱させている。

 しかし道は、険(けわ)しい。少しぐらい精進したくらいで、先に進むことはできない。
少し進めば、さらにその先には、道がある。行っても、行っても先がある。つまりそれを
謙虚に認めることが、無知を知るということになる。

 このことは、子どもを教えていると、わかる。

 私は、幼稚園講師になったころ、最初に、アンケート調査したのは、「子どもの住環境と、
騒々しさの関係」である。

 私は「静かな団地に住む子どもは、もの静かで、町中の繁華街の中に住む子どもは、騒々
しい」という先入観をもって、調査を始めた。結果は、みごとに、ハズレ!

 静かな団地に住んでいる子どもでも、騒々しい子どもは、いくらでもいる。反対に、町
中の繁華街に住む子どもでも、静かな子どもは、いくらでもいる。そうした住環境は、子
どもの性格とは、まったく関係ないことがわかった。

 これが私の幼児教育の第一歩だった。が、もしあのとき、そうした視点をもたなかった
ら、今でも、「町の繁華街に住む子どもは騒々しい」という先入観だけで、持論を組みたて
ていたかもしれない。

 私は、無知だった。

 だからそれから一〇年間、当時の園長に頼んで、毎週のように、アンケート調査を繰り
かえした。その回答用紙だけでも、ダンボール箱につめて、六畳間くらいの倉庫がいっぱ
いになったほどである。

 今でも、私は、毎日のように新しい発見をする。そしてそのたびに、冒頭に書いたよう
に、「なぜ、今まで、こんなことに気づかなかったのか」と思う。そしてますます謙虚にな
る。

 と、同時に、無知な人を見ると、それがよくわかる。とくに幼児教育の世界では、そう
だ。よくその人(学者)の意見を聞いていると、「この人は、私が30歳のときのレベルだ
な」とか、「この人は、私が40歳くらいのときに気づいたことを話している」と思うこと
がある。

 しかしそう思うのは、正直言って、楽しい。何とも言えない、優越感を覚える。が、も
ちろん、その反対のこともある。「この人は、ものすごい人だ」と思うときである。そうい
うときは、本当に、頭をハンマーで叩かれたような気分になる。

 自分の無知を知る。それは、一見、簡単なようなことで、本当にむずかしい。たいてい
の人は、無知であることに気がつかないまま、自分のカラにこもってしまう。そしてその
場で、釈迦が説くところの、精進を止めてしまう。

 繰りかえすが、かく言う私だって、偉そうなことは言えない。ふと油断すると、無知で
あることを忘れてしまう。そしてそれこそ偉そうなことを、口にしてしまう。しかし、こ
れは、本当に、恐ろしいことだ。

 最近になって、その「恐ろしさ」が、ますますわかるようになった。つまり以前の私は、
この点についても、無知だった。

【忙しい人へ】

 ときどき、政治家の人たちは、どこで勉強するのだろうかと思う。毎日、分きざみの生
活をしていて、どうして自分で考える時間をもつことができるのだろうか、と。

 「考える」ためには、「それだけの時間」が、必要である。静かに考える時間である。そ
れはまさに、「習慣」と言えるようなもので、習慣として、静かに考える。そういう時間で
ある。

 あるいは、そんな習慣がなくても、政治家になれるのか? 私には、よくわからないが
……。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩



●外に向かって、前だけを見て、育てる

 親は、ときとして、子どもの友になり、子どもの横を歩く。そのとき、親と子は、決し
て、向きあってはいけない。外に向かって、前だけを見ながら、歩く。

スポーツでも、趣味でもよい。共通の目的や目標があればよいが、「前だけを見る」とい
うのは、それには限らない。つまりは、生きザマの問題ということ。

 この原稿のヒントになったのは、つぎの言葉である。

 かつて、はA・エクスペリーは、「シェークスピア文学論」の中で、こう言った。

★Love does not consist in gazing at each other, but in looking outward together in the 
same direction.

愛というのは、たがいに見つめあうことではない。愛というのは、外に向って、同じ方向
を見ることである。

 親子の愛も、これに似ている。たがいに見つめあえば、溺愛になる。それを避けるため
には、たがいに、外を見る。しかし別々の方向を見ていたのでは、心はバラバラ。また子
どもを溺愛するのは、親の勝手だが、その影響は、子どもに現れる。が、それだけではな
い。

 親が子どものほうを見ればみるほど、子育てのし方が、どうしても、うしろ向きになる。
子どもに、自分の果たせなかった夢を、子どもに託したり、あるいは、子育てそのものを、
生きがいにするようになる。

 それでうまくいけばよいが、うまくいく子育ては、一〇に一つもない。「勉強しなさい!」
「うるさい!」の大乱闘。その結果、親は、無数の悲哀を味わうことになる。子どもは、
親の過剰期待の中で、もがき苦しむことになる。

 そこで親は親で、前向きに生きる。「私は私で、私のすべきことをしますから、あなたは
あなたで、自分のすべきことをしないさい!」と。そういう姿勢を見ながら、子どももま
た、前向きに、生きるようになる。

 ある母親は、二人の娘が、小学校へ入学すると同時に、手芸の店を開いた。それが長い
間の夢だった。また別の母親は、娘がやはり高校に入学すると同時に、医療事務の資格を
とり、さらに勉強して、その講師になった。

 そういう親の前向きな姿勢を見て、子どもも、また自分の将来を、前向きにとらえるこ
とができるようになる。
(031218)

※前向きに生きる……新しいことにチャレンジしていく、積極的な生きザマをいう。子ど
※もでも、何か新しいことを提案したとき、「やりたい!」「やる!」と食いついてくる子
※どもと、そうでない子どもがいる。こうした積極性は、子どもは、親の生きザマを見な
※がら、身につけていく。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●刻印づけ

++++++++++++++++

自分は、どこでどのようにして
作られていくのだろう?

そしてそういう自分は、変える
ことができるのだろうか?

++++++++++++++++

 子どもは、その成長過程において、最初に、脳の中に刻印されたものを、生涯にわたっ
て、保つようになる。つまりは、第一印象で、そのほとんどが、決まるということ。

 これを「刻印づけ」というが、「刷りこみ」とも、「インプリンティング」ともいう。あ
のコンラッド・ローレンツが、灰色ガンという鳥を飼育していたとき、発見した現象であ
る。

 そして最近の研究によれば、人間にも、同じような現象が見られることがわかってきた。
生後直後から、数週間にかけての時期だという。この時期を「敏感期」という。が、それ
だけではない。

 人間のばあい、親子関係のみならず、あらゆる事象において、そのつど、自分の脳に刻
印をしていく。飲食物、環境、しつけ。さらに恐怖心や、不安感、信頼関係などなど。

 その時期は、当然のことながら、幼少であればあるほど、刻印づけは、強力なものとな
る。そしてここが重要だが、一度、何らかの刻印づけがなされると、それを修正したり、
補修したりすることは、たいへんむずかしいということ。

 たとえば性格というものを考えてみよう。

 どんな子どもにも、生まれながらにしてもっている「質」というものがある。それを「性
質」という。その性質を基盤に、子どもは、成長する過程の中で、さまざまな、心理的な
特徴を身につけていく。これを「性格」という。

 この性格は、こうした刻印づけが、集合されてできあがると考えてよい。たとえば、あ
なた。もしあなたが、いじけやすい、くじけやすい、ねたみやすい、ひがみやすい、わが
ままで、自分勝手……ということであれば、それは生まれながらにしてそうであったとい
うよりは、生後の成長する過程の中で、作りあげられたものと考えてよい。

 だれにでも、そういう性格は、ある。幸福な家庭に育った子どもでも、また不幸にして
不幸な家庭に育った子どもであっても、だ。

 問題は、そういう性格があることではなく、そういう性格があることも知らず、その性
格に振り回されること。性質についても、そうだ。

 そこで重要なことは、まず、性格なり、性質なり、そういったものに、自分で気がつく
こと。が、しかしこれは簡単なことではない。哲学の一つのテーマにも、なっている。自
分を知るということは、それくらい、むずかしいことでもある。

 が、あきらめてはいけない。

 方法がないわけではない。自分の生い立ちを知り、自分の周囲の人たちが、自分に対し
て、どのように言い、どのように反応したかを知る。そういった記憶を頼りに、自分を知
る。一枚ずつ、ベールをはがすようにして、自分をさぐる。

 すると、やがて、その先に、自分の姿が見えてくる。

 で、それがよい性質や性格であれば、問題はない。しかしそうでなければ、しっかりと
それを見つめる。見つめるだけでよい。あとは、時間が、解決してくれる。すぐにはどう
にもならないが、10年、20年とたつうちに、自分を変えることができる。

 実は、たった今、こんなテレビドラマを見てきた。ちょうど朝食時で、何となく、見た。
その中に、こんなシーンがあった。

 父と娘の葛藤を描いたものだが、その娘は、父から受けた心のキズが原因(?)で、新
婚生活に、どうしても、自信がもてなかった。娘は、こう言う。「私は子どものときから、
父から、何をしても、だめな人間と思われてきた。だから結婚しても、不安でならない」
と。

 セリフどおりではないが、要約すると、そういうことになる。

 で、母親が、その娘を説得する。「お父さんは、不器用なだけよ。本当は、あなたを愛し
ているのよ」と。

 その言葉を聞いて、娘は安心し、再び、新婚生活へともどっていく。

 私はそのシーンを見ていて、思わず、こうつぶやいてしまった。「そんな単純なものでも
ないように思うけど……」と。ワイフも、横で見ていて、「そうね……」と。

 10年、20年もかけてできた心のキズ……。「わだかまり」といってもよい。そういう
ものが、たった一晩の母親の説得で、癒(いや)されるはずはない。テレビドラマとして
は、そういう結末にしたかったのだろう。しかし現実には、ありえない。

 私は、ここで「時間が解決してくれる」と書いた。しかし実際には、それなりの努力も、
必要である。勉強もしなければならない。自分と戦うことも、ときには、必要かもしれな
い。ともかくも、放っておいて、それで、癒されるということはない。

 私などは、まさに心の中は、キズまるけ。いまだに、そのキズと戦っている。で、先日
も、私は、ワイフにこう言って、あやまった。

 「お前は、ぼくのような男と結婚したばかりに、苦労ばかりしている。もっと、ほかに
いい男がいただろうに、ごめんね」と。

 さらに、「今のお前にとって、一番、幸福になる道は、ぼくと離婚することだと思う。ぼ
くと離婚すれば、ぼくから解放される。お前は、ぼくの束縛から解放されて、自由になる
ことができる。しかし、ぼくには、その勇気もない。もし、本当にそういうことになった
ら、ぼくは、生きていく勇気すら、なくすかもしれない」とも。

 ときどき、本当の私はどこにいるのかとさえ、思う。だから、やはり、あのテレビドラ
マは、おかしいと思う。心のキズが、たった一晩の母親の説得で、癒されるなどというこ
とはありえない。もしそうなら、それはキズではなく、ただ単なる誤解か、いやな思い出
の一つだったということになる。

 で、また私の話にもどるが、こういうキズをもっていて、一番、つらいのは、他人には、
理解してもらえないということ。とくに私は、見た目には、ごくふつうの男に見える(多
分?)。快活で、ユーモアのセンスもある。行動的で、判断力も悪くない。

 しかしその底では、私は、いつも、必死で、別の自分と戦っている。そういう自分がい
ることを、恐らく、私のワイフ以外は、知らない。母も知らないだろうし、姉も知らない
だろう。また、そういう自分のことを、他人に話したところで、理解もしてもらえるとは
思わない。話しても、意味はない。

 先日も少しだけそのことを姉に話したら、姉は、こう言った。「そんなの、気持ちのもち
ようよ」と。

 結局、私は死ぬまで、仮に100歳まで生きたとしても、それを引きずっていくしかな
い。『三つ子の魂、100まで』というのは、そういう意味では、まさに的を得た格言とい
うことになる。
(はやし浩司 子供の心 子供の心理 心の問題 心の傷 刻印づけ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●中傷・誹謗

++++++++++++++++++

カルトを批判する私。
その私は、たびたびカルト教団から、
攻撃される。

++++++++++++++++++

 ほぼ4年にわたって、私を攻撃しつづけている団体がある。どこかの仏教系宗教団体で
ある。急進的であるかないかは、そのHPを見れば、わかる。

 トップページの背景画は、裸の女の子が、十字架につりさげられているもの。この事実、
一つ見ても、その団体が、どういう団体であるかが、わかる。

 で、その4年前には、その団体が、たいへん、気になった。私の実名をあげて、つまり
名指しで、攻撃を繰りかえしてきた。が、私は、無視した。いや、本当は、反論したかっ
たが、頭のおかしな連中を相手にしても、意味はない。

 そんな連中とやりあう時間とエネルギーがあれば、もっと、別のことに使いたい。

 が、それから4年。で、インターネットを使って調べてみると、相変わらず、私を攻撃
していることがわかった。ごくろうさんというか、しつこいというか……?

 しかしこの4年間に、私の心境は、大きく変化した。

 その第一。ますますその団体が、「?」に思われてきたこと。当初は、急進的と思ったが、
今は、狂信的。そういう連中に、中傷、誹謗されるということは、こちらの私が、「正常」
ということになる。

 この団体もそうだが、しかしこのところ、またまた、おかしな宗教団体が、ふえてきた
ように感ずる。しかしここで誤解してはいけないことは、そういう宗教団体があるから、
信者がいるのではないということ。そういう宗教団体を求める信者がいるから、そういう
宗教団体が、はびこる。

 つまりそれだけ世相が、不安定になってきたということ。暗く、ジメジメしてきたとい
うこと。が、これは、実は、私たち自身の問題でもある。あなたや私、それに私たちの子
どもが、いつなんどき、彼らの餌食(えじき)になるか、わからない。

 だから、今のうちから戦う必要がある。武器は、知性と、理性。道理と、合理。彼らを
打ち負かすだけの哲学と、倫理。そういうものを使って、戦う。そしてその武器は、放っ
ておいたら、すぐサビつく。だから毎日、みがく。

 戦い方は、簡単。自分の常識に照らしてみて、おかしいものは、「おかしい!」と声をあ
げればよい。それでよい。それで彼らは、退散する。もともと、気の小さい連中である。
他人の心をもてあそびながら、みじんも恥に思わない連中である。ひとりでは何もできな
い。だから徒党集めに奔走する。

 そういう4年前の私と比較しながら、私も変わった、と思う。4年前は、ジリジリとし
た怒りで、眠れない夜もあった。しかし今は、ちがう。「バカめ」と笑ってすますことがで
きる。

 そう言えば、悪魔は、善人を恐れるという。本当のところは、どちらが悪魔かは、私は
知らない。しかし今のところ、私の世界には、さんさんと明るい太陽の光が、注ぎこんで
いる。少なくとも、裸の女の子を十字架にはりつけるような、陰湿な世界とは、無縁であ
る。

 だから、笑ってすますことができる。「どうぞ、ご勝手に!」と。ついでに言えば、私を
本気で怒らせたら、ただではすまない。怒る価値もないと思うから、無視する。先にも書
いたように、その分の時間とエネルギーは、もっとほかのことに使いたい。今は、ともか
くも、マガジン1000号が、目標である!!
(はやし浩司 反カルト 狂信的宗教団体 常識論)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●6か国協議

+++++++++++++++++

正念場の中の正念場。
今日、6か国協議は、
その最大の正念場を
迎える。

+++++++++++++++++

 9月17日、土曜日。北京で行われている、第4回6か国協議は、大詰めのどたん場を
迎えた。今日(9・17)の午後4時が、タイムリミット。中国は、「中国が示した、共同
文書第5次修正案について、各国は、その時刻までに、返事を出せ」と。

 今回の会議の主役は、アメリカとK国。恐らく……というより、まちがいなく、その内
部では、想像を絶する、たがいの、諜報活動がなされているはず。今回の会議では、先に
席を蹴って立ったほうが、負け。

 もしアメリカが先に席を蹴って立てば、アメリカが、6か国協議を決裂させたことにな
る。ついで、中国と韓国のメンツをつぶしたことになる。今後、国連の安保理に、この問
題を付託したとしても、中国は、拒否権を使って、K国制裁に反対するだろう。

 もしK国が先に席を蹴って立てば、K国が、6か国協議を決裂させたことになる。以下、
同じプロセスを経て、K国は、窮地に立たされることになる。

 だから、先に席を蹴って立ったほうが、負け。

 ところが、である。

 K国は、もとから、核兵器開発を放棄する意図など、みじんもない。そこで、ああでも
ない、こうでもないと、難グセをつけては、会議を引きのばす。一方、アメリカはアメリ
カで、それを百も承知の上で、いわば中国に、ひとり芝居をさせる。「やれるものなら、や
ってみなさい」と。

 時、同じくして、訪米中の韓国のN大統領は、あろうことか、国連の演説の場で、名指
しこそ避けたが、アメリカと日本を、帝国主義国と批判した! 今どき、こんな単語を使
って、アメリカを批判するのは、アフリカでも、ごく一部の、急進的な反米国家にかぎら
れている。

 いったい、N大統領は、何を考えているのか? だいたいにおいて、「帝国主義」という
言葉は、レーニン(ロシア革命の指導者)が、その著書『帝国主義論』の中で、資本主義
社会を批判して使ったもの。韓国も、その資本主義国家ではなかったのか(?)

 しかも、韓国には、少し前、「K国が核兵器を保有すれば、統一後の南北朝鮮にとっては、
有利」などという発言した大臣もいた。はっきり言えば、韓国にしてみれば、K国の核開
発問題など、どうでもよい。

 加えて、K国は、WFP(国連世界食糧計画)に対して、とうとう、P市事務所の閉鎖
と、職員の撤収を要求してきたという(朝鮮N報・05年9月10日)。「韓国が直接、食
糧を援助してくれるから、もうお前らには、用はない!」と。

 ここでも韓国の独断、単独行動が、国際社会の協調を、破壊していることになる。と、
同時に、K国を、ますます、わけのわからない国にしている。

 で、その共同文書第5次草案の内容が、午後になって、配信されてきた。それによると、
北朝鮮が求めていた軽水炉については、「将来論議する」との表現にとどめ、提供を確約し
ていないことがわかった。

さらに、共同文書第5次草案は、草案には、北朝鮮の核全面放棄も明記されているため、
北朝鮮は、「核放棄だけを要求する内容」と反発しているという。共同文書が採択される
ことは、ほぼ絶望的になりつつある。

 さて、はじめの話題にもどる。

 こうした表での駆け引きとは別に、水面下では、し烈な諜報戦争が、くり広げられてい
る。

 考えられる可能性は、4つある。

(1)アメリカが先に、草案を蹴る。ついでK国も蹴る。
(2)アメリカが先に、草案を蹴る。K国は、採択に賛成する。
(3)K国が先に、草案を蹴る。ついで、アメリカも蹴る。
(4)K国が先に、草案を蹴る。アメリカは、採択に賛成する。

 (1)と(3)は、現実には、ありえない。相手が先に蹴った以上、改めて、こちら側
が蹴りなおす必要はない。

 日本にとっても、アメリカにとっても、最良のシナリオは、(4)である。K国を、国際
社会の中で、ますます孤立化させることができる。しかしそんなことは、K国自身も、百
も承知。そこで、相手の出方をさぐらねばならない。

 アメリカは、どう出るか? K国は、どう出るか?

 そのための諜報戦争が、今、水面下で、くり広げられている。恐らく、アメリカは、総
力をあげて、北京のK国大使館とK国本国とのやりとりを、すべて、盗聴しているだろう。
今では、宇宙から、ビルの中の会話はもちろん、車の中の会話まで盗聴できるという。

 そこでつぎに使う手は、周辺国への、意図的な情報の漏洩(ろうえい)である。相手を
自分のつごうのよいように誘導するため、わざと、ニセ情報を流したり、本音を混ぜたり
する。

 ときどき、それぞれの国が、記者会見を行ったりするが、ただぼんやりと見ていただけ
では、それがわからない。しかし注意深く見ていると、それがわかるときがある。

今朝(9・17)も、アメリカのH代表は、K国との2か国協議を前にして、「この24
時間に、速いペースで進展があった」「ご承知のように、彼ら(北朝鮮)が、問題を提起
し続けているので様子をみたい。昨日も忙しい1日だったが今日も多忙な1日となるだ
ろう」(NEWS−i)と言った。

 ちょっと聞くと、協議がまとまりつつあるかのような印象を受けるが、実は、その反対。
私は、逆に感じた。H代表は、こう言いたかったのだ。「とうとうK国を追いつめたぞ」と。
そして案の定、午後になって、アメリカと日本は、さらに、修正案を、中国に提出した。
ますますハードルをあげにかかっている。

 これから数時間。今回の協議は、最大にして、最後の山場を迎える。

 で、私の予想では、こうだ。

 K国の代表たちは、会議を黙殺する形で、北京のK国大使館に、引きこもる。それを見
て、中国が、再び、休会を宣言。即刻、アメリカと日本の代表は、帰国。韓国に対しては、
「アメリカと日本を取るか、K国を取るか」と、選択を迫りつつ、この問題を、国連の安
保理に付託する道筋をつける。

 韓国が「NO!」と言えば、米韓関係と日韓関係は、そのまま終焉(しゅうえん)する。
この段階で一方的に困るのは、韓国側であって、日本ではない。日本は、韓国なしでも、
じゅうぶん、やっていかれるが、韓国は、日本なしでは、1日も、もたない。

 ここ1、2年、極東アジア情勢は緊迫するが、しかたのないこと。5年後、10年後に、
K国の核ミサイルが、東京に投下されることを考えるなら、毒矢はできるだけはやいうち
に、抜いておいたほうがよい。

日本も、そろそろ覚悟すべきときにきている。

(補記)

 K国など、まともに相手にしてはいけない。拉致被害者のY氏夫妻の苦しみや悲しみも、
よく理解できる。しかし、ここは冷静に。日本は、あんなK国と心中する必要はないし、
また、してはならない。あえて制裁などしなくても、K国は、自滅する。また日本だけが、
単独で制裁しても、意味はない。

 現在のK国の国力は、日本の山陰地方にある、S県もしくはT県、1県程度の国力しか
ない。(だからといって、S県やT県を、バカにしているのではない。誤解のないように!)

 日本は、どこまでも冷静に。どこまでも事務的に。決して、感情的になってはいけない。
国際世論を味方につけつつ、正攻法で、K国の核兵器開発を、しめあげる。それにまさる
解決方法は、ない。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●HPに、音と映像が!

 HPにせよ、インターネットにせよ、また電子マガジンにせよ、私は、ひとつの限界を
感じていた。

 文字情報が中心で、あとは、スチル写真。しかしこれでは、新聞やテレビを超えること
はできない。

 そこで私は、数年前から、いろいろな方法を試してきた。HPに音声を載せてみたこと
もある。しかし一言、二言、あいさつを載せただけで、何MB(メガバイト)も、メモリ
ーを消費してしまった。当時、私のプロバイダーでは、10MBまでは無料だが、それを
超えると、10MBごとに、年間約1万円の費用がかかった。

 それで断念。

 もう一つの方法は、どこかのインターネット・ストーレッジに、動画や音声を保存して
おき、そのつど、ハイパーリンクで呼び出す方法。インターネット・ストーレッジという
のは、いわばネット上のハードディスクをいう。

 が、しばらくすると、運営会社から、「ハイパーリンクは、遠慮してくれ。ストリーミン
グ行為(直接動画や音声を呼び出す行為)は、許可していない」という連絡が入った。だ
から、これも断念。

 しかし時代は、進む。技術は、進む。

 アメリカのTUBE社が、無料で、動画と音声の登録をしてくれることになった。しか
も、だ。1回の登録で、100MBまで、OKだという。しかも何回、登録しても、OK。
喜んだというより、驚いた。

 いまだに、私の入っているプロバイダーは、HPにしても、30MBまでは、無料。そ
れを超えると、30MBごとに、年間約1万円の費用がかかる。

 ……で、考えた。

 これからもTUBE社のようなサービスは、この日本でも、どんどんと広がっていくだ
ろう。インターネット上で、動画や音声が、自由に使えるようになる。そうなると、少な
くとも、新聞は、存在価値そのものを、なくす。わかりやすく言えば、新聞を読む人は、
インターネットをしない人だけということになる。

 つぎにテレビだが、どんな調査結果を見ても、一人当たりのテレビ視聴時間は、年々、
短くなっているのがわかる。私も、以前は、1日に数時間は、テレビを見ていた。が、今
では、合計しても、1時間も見ないのでは……?

 私のワイフにしても、このところ、テレビを見る時間よりも、パソコン画面をのぞいて
いる時間のほうが、長くなってきているように思う。「まだまだテレビの時代……」という
ことになるが、しかしこの先、さらにインターネットが進化すれば、それはわからない。

 それにもう一つ、私の中には、大きな変化が生まれつつある。

 今までは、R天の日記にせよ、BLOGにせよ、国内の会社が運営するサービスを使っ
ていた。しかし最近は、YAHOOにせよ、その関連会社が運営する、Frickrにせ
よ、アメリカのサービス会社である。

 そういうサービス会社を使っていると、当然のことながら、言語は英語になるし、情報
は、世界中に流れることになる。その可能性は、当初から感じていたが、しかしこうまで
早く、その時代がくるとは、思ってもみなかった。

 今では、「はやし浩司」と打ちこむのと同じくらい、「Hiroshi Hayashi」
と打ちこむことが多くなった。

 これからも、時代は、どんどんと変わっていく。

 そこで私のHPのことだが、

(1)「目で見る漢方診断」を、そっくりそのまま、コピーして、みなさんにお届けできる
ようになった。これには、アメリカのFrickr社の無料配信サービスを利用した。Y
ahoo社の関連会社なので、安全性は、じゅうぶんだと思う。

(2)動画と音声を、ビデオ映画風(?)に編集して、みなさんにお届けできるようにな
った。これには、やはりアメリカのTUBE社の無料配信サービスを利用した。

 興味のある方は、どうか、私のHPを、訪問してみてほしい。また、どの会社も、簡単
なサイン・インで、利用できるようになっている。みなさんも、利用してみたら、どうだ
ろうか? インターネットの世界が、ぐんと大きく広がることと思う。


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○    
.        =∞=  // (偶数月用)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 14日(No.636)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page021.html

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【BW教室から】

 突然、小6のG君(男児)が、私にこう聞いた。

 「先生、先生は、郵政民営化法案に、賛成? ……それとも反対?」と。

 私はすかさず、こう答えた。「ぼくね、教室では、そういう政治の話は、いっさい、しな
いことにしているの。で、君は、どう思う?」

G「ぼくのパパは、反対だってエ」
私「どうして?」
G「だって、もし民営化されたら、切手代やハガキ代が、値あがりすることになるってエ」
私「なるほどね。フ〜ン」
G「民営化されると、お金もうけが大切になるから、郵便局も、損になるようなことはし
なくなるってエ〜」と。

 私は、マガジンやR天の日記では、政治の話をよく書く。しかし子どもたちの前では、
政治の話をしたことはない。ただの一度も、ない。

 「そういうふうに考える人もいるんだな」と思って、この話はおしまい。……と思って
いたら、今度は、Mさん(小5・女児)も、「私も反対!」と。

私「どうして?」
M「……ううん、よくわかんないけど、反対。先生は……?」
私「ぼくは、政治の話は、したくない。君のお父さんに聞いてみたら……」と。

 こうした仕事では、政治と宗教の話は、タブー中のタブー。それに、霊の話もタブー。
子どもたちの心を、意図的に誘導するような話も、タブー。親たちは、私を信頼して、子
どもを任せてくれる。その期待に反するような行為は、許されない。

ただ、子どもたちが、カルトぽい話をしたときは、即、それを打ち消すようにしている。
とくに、まじないとか、占いなど。「死」や、「あの世」の話も、そうだ。

 子どもたちが、幽霊の話をし始めたら、たとえば、こう言うようにしている。「ぼくは、
見たことはないよ」「いれば、見たいね」「もし、死んだあと、幽霊になれるんだったら、
早く、なってみたい。空も飛べるし、仕事はしなくてもいいし……」と。

 私がすべきことは、当然のことだが、子どもたちが、前向きに生きていくように、指導
すること。ものの考え方を、明るい日向(ひなた)のほうに、向けてやること。

 そうこうしていたら、話題は、いつの間にか、今度は、宇宙人の話になった。

M「先生は、宇宙人を信じている?」
私「ぼくにはわからないけど、いても、おかしくないよね」
M「そうよね。ほかの惑星に住んでいる人たちから見れば、私たちが宇宙人ということに
なるよね」
私「そうだね。それはおもしろい考え方だ。ぼくたちが、宇宙人だ。ハハハ」と。

 率直に書く。

 私の教室の子どもたちは、みな、明るい。表情も明るいが、ものの考え方も、明るい。
好奇心も旺盛だし、何か、テーマを与えたりすると、「やる!」「やりたい!」と言って、
食いついてくる。私は、私の指導の中では、そういう積極性を、何よりも、大切にしてい
る。

 が、そのMさんが、こう言った。

M「先生、小説を書いたから、今度、プリントアウトして、先生に、見せてあげる」
私「いいよ、そんなこと、わざわざしなくても、メールか何かで、送ってくれれば……」
M「だって、私のママが、ダメってエ」
私「エッ、どうして?」
M「だって、インターネットには、自殺サイトとか、そういうものがあるでしょ。ママは、
そういうものは、読んではダメって……」
私「そうだね。そういうヘンなのもあるからね。君のお母さんの言うとおりだよ」と。

 インターネットは、便利な通信手段だが、しかし、その一方で、危険な面も、少なくな
い。実際、教育サイトにしても、どこかのカルト教団が、仮面をかぶって運営しているの
が、多い。公的なサイトは別にして、大半がそうではないか。Mさんの母親は、それを心
配している。

 しかし念のため、あえて申し添えるなら、(当然のことだが……)、私は、かつて一度だ
って、子どもたちの前で、宗教や政治の話をしたことはない。……と、同じことを2度も
書いてしまったので、この話は、ここまで。

 BYE!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ワイフとチュー

 小2の子どもたちが、先日、こう言った。

 「先生は、奥さんと、チューするの?」と。

 そこで私が、「するよ」と答えると、みな、いっせいに、「ギャー!」「気持ち悪い!」「奥
さんがかわいそう!」と叫んだ。

 「私なら、死んじゃう!」「ゲボを吐く!」と言った子どももいた。

 が、たまたま、昨日(9・15)、その小2のクラスを終えて道路に出ると、迎えに来て
いた母親や子どもたちが、そこで、まだ立ち話をしていた。ワイフも、いた。毎週、この
日は、街の中で、いっしょに夕食をとることにしている。

 私は、その中の、Nさんや、Sさん(ともに小2女児)の名前を呼んだあと、つまり注
意をこちらにひきつけたあと、ワイフの頬にチューをして見せてやった。

 2人とも、目を大きく開いて、びっくりしていた。ついでにワイフの手にも、チューを
してやった。またまた、驚いた顔をした。実際には、ポカーンとして、何も言わなかった。

 母親たちは、ニコニコと笑っていた。私は、子どもたちに向かって、「ザマーミロ」とい
うようなジェスチャをしてみせてやった。

 ハハハ。楽しい一瞬だった。しばらくは、私のチューで、話題がもりあがるだろう。き
っと、そのあと、こう言っていたにちがいない。

 「本当に、あの林が、チューをした!」「気持ち悪い!」「いや〜だア!」と。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●アメリカの子育て事情

 二男のHPから、無断転載する。アメリカの教育事情が、わかって、おもしろい。

「今月から誠司がアーカンソー中央大学付属の(プリスクール(保育園?))へ通い始めま
した。

火曜日と木曜日の午前中だけなんですが、他の10人ほどの子供と一緒に、先生とクラフ
トをしたり歌を歌ったり、ネズミと遊んだりしています。初めのころは僕らから離れるの
が嫌で、泣いたりもしていましたが、今ではすっかり気に入ったみたいで、いつも「ガッ
コウ?」なんて言いながら毎日のように学校へ行きたがっています。

今日の晩は、「オープンスクール」といって、このプリスクールへ通う子供の親たちが集ま
って、先生と学校の内外を歩き回ったりする日でした。僕の歯医者の子供が、ここのプリ
スクールへ来ていて、なんか歯医者に歯科医院以外で会うのは、なんか変な感じでしたが、
なんだか超大きなパーティーみたいでなかなか楽しかったです。

ところで今日の晩御飯は餃子だったんですが、食べ過ぎていまお腹がいたいです・・。

アーカンソーの学校の区分け・・

 3歳 プリスクール
 4歳 プリスクール
 5歳 幼稚園

 6歳 
 |  小学校
11歳
(はやし浩司 アメリカの幼児教育事情)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

ついでに、デニーズからも、こんなメールが
届いています。こちらも、無断ですが、その
まま転載させてもらいます。

++++++++++++++++

Hello, Mr. Hayashi! It's been a while since I have emailed you. I hope 
you had a nice summer. Did you enjoy the EXPO?

We are all doing well. Sage loves the warm weather and playing in his 
little pool outside. He also loves playing with his rocket toys (He 
thinks he is an astronaut!) and the fish machine that you gave him. 

We have decided to place Sage in a preschool program. He has changed so 
much since the spring. His class meets for four hours on Tuesdays and 
Thursdays. He cried for three minutes the first day, but since then he 
has loved it. He asks me every day if he can go to school and see Miss 
Ruth, his teacher.

How are your classes going? I am amazed at how much three and four year 
old children can learn! It must be fulfilling to know that you're 
teaching them.

How is your wife? We hope you are all doing well!

Denise

+++++++++++++++

こんにちは、林様
長い間、メールを送りませんでした。すばらしい夏を過ごしましたか。
EXPOを楽しみましたか。

私たちは、うまくやっています。誠司は、暖かい転校を好み、庭の小さなプールで
遊んでいます。
誠司は、小さなロケットのおもちゃで遊んでいます。彼は、自分では、宇宙飛行士
と思っています。それと、あなたが送ってくれた、「金魚すくい」のおもちゃで
遊んでいます。

私たちは、誠司を、プレスクールへ入れることを決めました。誠司は、春から、
大きく変わりました。誠司のクラスは、火曜日と木曜日の、4時間です。

最初の日は、3分間ほど、泣きました。が、そのあとは、気に入っています。
そして毎日、プレスクールへ、今日は行くことができるかどうか、ルース先生
に会うことができるかどうかを、聞きます。

あなたのクラスは、どうですか?

3歳や4歳の子どもたちが、そんなにも多くのことを学んでいくことに、私は
驚いています。あなたが教えていることの大切さが、理解できます。

あなたのワイフは、いかがですか。みなさん、お元気のことと希望します。

デニーズ


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【浩司からデニーズへ】

……最後の部分の、「It must be fulfilling to know that you're teaching them.」
の意味がよくわかりません。わかりやすく説明してください。

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【デニーズから、浩司へ】

Hello. Yes, of course you may publish my email--there's no secret CIA 
information in it! 

I'm sorry that I didn't word that one sentence very well. I meant to 
say that I suspect you feel your job makes you happy because you know 
you are positively affecting the lives of children, who are indeed the 
future.

Autumn is our favorite season, too! Well, it is for Soichi and me. I 
don't know what Sage likes best. So I am jealous of you and your wife, 
that you are able to feel the cool air. It is still hot here, but I 
think it will be cooler by October. Are you enjoying eating nashi?  
Your town had the best nashi I've ever had. 

We will find a pumpkin in a few weeks to decorate our house for Halloween.

We got your package today. Thank you for the outfit for Sage and the 
camera! Soichi loved the magazines, too.

Denise

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こんにちは!

転載は自由にしてください。CIA情報のような秘密は、まったく、ありません。

意味のよくわからない文を書いて、ごめんなさい。私はあなたの仕事が、あなたを
ハッピーにしていると思いました。なぜなら、あなたは前向きに、まさに未来の
子どもたちの生活に、影響を与えていると知っているからです。

秋は、私たちも好きな季節です。それは宗市と私についてですが。誠司はどの季節
が好きなのかわかりません。私はあなたやあなたの妻を、うらやましく思います。
涼しい風を感ずることができるからです。

こちらは、まだ暑いです。しかし10月までには、涼しくなるだろうと思います。
あなたは梨を食べていますか。あなたの町には、最高の梨があると、聞いています。

2、3週間にうちに、ハロウィーン用のカボチャを買い求めるつもりです。

今日、小包が届きました。誠司の服とカメラを、ありがとう。宗市は、その雑誌が、
とても好きです。

デニーズ


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●日本の親よ、もっと怒ろう!

今度、経済協力機構(OECD)が、こんな指標を公表した。それによると、加盟国3
0か国中、国内総生産(GDP)に対する、教育機関への公的支出の割合では、日本は、
最低だったという(05年09月13日)。

OECD全体の平均値は、5・1%。日本は、大きく下回って、3・5%。

 これに対して、大学や短大などでの私費負担の割合は、OECDの平均値は、21・9%。
日本は、反対に大きく上回って、58・5%。韓国についで、2番目の高さだったという。

 国は教育費をしぶる。その穴埋めを、親たちがしている。それがこの日本の教育の実情
ということになる。

 ついでに公的支出の割合が高いのは、

 スェーデンやデンマーク……6%
 アメリカ、イギリス、フランス……5%台

 実は、これについては、私は、すでに5年前につぎのような原稿を書いている(中日新
聞発表ずみ)。それを紹介する。

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●大学生の親、貧乏ざかり

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を1人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均1
1万7000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。

が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜
50万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インター
ネットも常識。……となると、携帯電話のほかに電話も必要。

入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふん
だくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学
生、親、貧乏盛り」と言う。大学生を2人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、
さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も
税法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。
しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに
少ない。

欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。(U
NESCO調べ)

日本はこの10年間、毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわ
らず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。
それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨
学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育と
いうのはそういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」へ
の隷属意識は、世界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(た
た)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている! 日
本人のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育
を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と
考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こう
いう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中す
る。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年
はおくれている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。

「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろ
あって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わって
いない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなとこ
ろで、孫を育てたくない」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであ
ろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかな
い。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 遠い、明治の昔。ときの政府は、身分のある子どもや、金持ちの子どもしか、高等教育
を受けられないような、そんなしくみを作ってしまった。新しい身分制度というか、江戸
時代までの、身分制度を、そういう形で、温存しようと考えた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト
信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっている
と、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制
度をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それ
がわかる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別し
た。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、
県令(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、1世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学
歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校
が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だった
し、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。
日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何か
につけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日
常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係
なく、職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっ
ちもいかないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後
閉鎖論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいると
いうことになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、
この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子ど
もたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多
くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あな
たの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 こうした封建制度の亡霊が、いまだに、この日本では、大手を振って、のさばっている。
その結果が、日本の教育制度である。

 実際、その能力があっても、家庭の経済事情により、進学をあきらめている子どもは、
多い。全体の何割かの子どもがそうであると言っても過言ではないほど、多いのではない
か。

 日本より私的負担の大きい韓国では、すでに金持ちの子どもしか、ソウル大学へ入れな
いという現状が生まれつつある。これについては、少し前、『韓国の教育事情』というテー
マで、原稿を書いた。その一部を、抜粋(ばっすい)する。

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【韓国の教育事情(1)】

 5月16日(05年)付けの、韓国・東亜日報は、現在の韓国の教育事情を、つぎのよ
うに報告している。ポイントだけを、大きくまとめると、つぎのようになる(アメリカ・
シンクタンクのランド研究所報告)。

(1)過熱する海外留学ブーム

 韓国では今、小中学生による、早期留学が、一つのブームになっている。1995年に、
2259人だった、これら早期留学生たちは、04年には、1万人を超えた。その費用は、
約2兆5000億ウォン(=2500億円)。

(2)ソウル江南(カンナム)に集中する教育インフラ

 私教育が、ソウルの江南に集中している。そのため、高級人材は、この地を離れたがら
ず、離れて仕事をするばあいも、家族を江南に残し、家族と離れて生活するケースが目立
つという。

たとえば三星(サムスン)電子の忠南天安(チュンナム・チョナン)LCD団地には、
ソウルから通勤する役職員が少なくないという。

(3)失敗する教育政策

 ソウル大学の調査によると、高所得者1万人中、ソウル大学へ入学する学生は、85年
には、8・2人にすぎなく、一般家庭の1・3倍だったが、最近(05)では、それが1
6・8倍にまで上昇した。

(4)少子化

 日本と同じように、韓国でも、少子化が問題になっている。その理由の第一は、「子ども
の教育費の負担」(韓国女性開発院)で、28%の既婚女性が、それをあげている。

(5)大学教育の停滞

スイス国際経営開発院(IMD)が最近発表した国家競争力評価のうち、「大学教育の社
会要求に対する一致度」では、韓国は60ヵ国のうち52位にとどまったという。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 こうした韓国の教育事情は、そのまま日本の近未来の教育事情と考えてよい。すでにこ
の日本でも、少子化の理由のひとつに、「子どもの教育費の負担」をあげる人が多い。子ど
もといっても、幼児や小中学生をいうのではない。高校生でもない。大学生である。

 そこでこの日本では、大学生のアルバイトが、半ば、当たり前のようになっている。ま
たルバイトをしなければ、生活できない。

 35年前のことだが、私のばあいも、家からの仕送りは、下宿代の1万円だけ。(下宿代
は、当初、8000円。途中から1万円。卒業間近のときは、たしか1万2000円だっ
た。)

 残りの生活費や、学費は、アルバイトで稼がねばならなかった。(学費は、半年で、60
00円と格安だったのが、幸いだった。)

 しかし今でも、大学や短大への私費負担が、60%弱もあるという。これは「大学教育
には、本来、1人当たり、年間、500万円かかる。本来なら、ほぼ全額を、国を負担し
なければならないが、うち60%の300万円を、親に負担してもらっている」というこ
とを意味する。

 アメリカなどでは、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならな
いほど、少ない。そのかわり、彼らは、奨学金を得て、大学へ通っている。が、その奨学
金を得られない学生は、銀行から、借金をしながら大学へ通っている。

 が、もし日本でこの制度を応用したら、どうなるか?

 借金の額そのものが大きくなりすぎてしまう。年間300万円を借りるとしたら、4年
間で、1200万円! 

 最後の頼みの綱(つな)は、奨学金ということになる。

 アメリカや欧米では、無数の企業が、奨学金を提供している。奨学金を出した分だけ、
税控除ができるしくみになっている。だから、どんどん奨学金を提供している。

 この方式は、企業側にとっても、メリットがある。優秀な学生に、最初から、ツバをつ
けておくことができる。……などなど。

 これから先、この日本はどうなるか? 少なくとも私が知るかぎり、日本の教育制度は、
この35年間だけでも、明らかに後退している。年々、つりあげられる学費。高騰する生
活費。遊びほける大学生たち。

 かろうじて今は、日本には経済力がある。しかしこの経済力に陰(かげ)りが出てきた
とき、この日本は、どうなるか? OECDは、「大学教育の停滞」という言葉を使ってい
るが、とても「停滞」という程度では、すまないのではないか。

 これについては、韓国の現状を見ればわかる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【韓国の教育事情(2)】

 現在、韓国では、富裕層を中心に、小中学生の海外留学が、さかんであるということ。
またその教育インフラが、ソウル江南に集中しているため、子どもの教育を考えて、その
地を離れたがらない親が多いということ。

 さらに韓国でも少子化が始まっているということ。理由の第一は、子どもの教育費。ソ
ウル大学入学者についても、富裕層ほど年々、有利になりつつあるということ。

 また大学教育も、日本以上に権威主義的であり、そのため硬直した教育体制の中で、想
像的な教育ができなくなっているということ……らしい。

 また、この調査とは別だが、現在、多くの若者たちが、韓国を離れ、海外へ移住を始め
ているという事実もある。(出稼ぎではなく、定住を目的とした移住である点に注意。)

韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移
住している。海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越えた。その
ため、外貨の流出も、大きな問題になっている。

(仮に韓国で大学を卒業して学位を取得しても、アメリカでは通用しない。そのため、
アメリカへ移住しても、単純肉体労働につくケースがほとんどだろいう。)

 ご存知のように、今、韓国では、一部の大企業のみが、巨額の経常黒字をあげている。
その代表的なものとして、S電子工業や、H自動車工業がある。

 しかしこれらの企業は、いわゆる「国策企業」であり、国の保護を徹底的に受けている
企業である。(国営とまではいかないが、しかし民営とは言えないという点で、「国策企業」
と呼ばれている。)

 が、何よりも深刻なのは、「海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を
越えた」という事実。日本の人口に換算すると、約120万人ということになる。

 もし日本の若者たちが、120万人も、海外定住を目ざして日本を離れるようになった
ら、そのとき日本は、どうなるか? それだけでも、たいへんな社会問題になるだろう。
しかも、そういう若者たちは、当然のことながら、多額の外貨をもちだす。そのため韓国
政府は、一時期、その持ち出し額(送金額)を制限したほどである。

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【提言】

 日本人よ、もっと、中身をつくろう。その中身をつくるために、もっと、お金をかけよ
う。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●軽水炉型原子力発電

 「重水」に対して、ふつうの水を、「軽水」という。つまりふつうの水を利用した、原子
力による発電方式を、「軽水炉型原子力発電」という。

 この軽水炉には、沸騰水型と、加圧水型がある。沸騰水型というのは、原子炉の水をそ
のまま使い、タービンを回して発電する。

 加圧水型というのは、水を一度高温、高圧にして、蒸気発生器にそれを送り、二次的に
別の水を、蒸気にして、その蒸気でタービンを回す。

 日本の原子力発電所の約80%が、この軽水炉型発電方式といわれている。

 今回の6か国協議では、K国は、この軽水炉型原子力発電所に、固執している(9・1
6現在)。前回の協議には、なかった項目で、そのため、協議そのものが、暗礁(あんしょ
う)に乗りあげてしまった。

 K国の主張は、おおむね、こんなものらしい。

(1)原子力の平和利用を認めろ。
(2)その象徴として、軽水炉を作れ。
(3)で、なければ、核兵器の増産をつづける。

 まともな人にすれば、とんでもない意見だが、もともとあの国は、まともではない。ま
ともな論理は通じないし、まともな議論をしても、意味はない。

 それに私が危惧(きぐ)していたとおり、議論が進み始めると、つぎからつぎへと要求
の内容を変えてくる。しかも要求の内容をつりあげてくる。そして少しでも、こちら側に
落ち度があったりすると、それをギャンギャンと攻め立ててくる。

 あとは、そのままいじけたり、黙りこんだり……。過去につくりあげた約束ごとなど、
何だかんだと、理由にもならない理由をこじつけて、平気で破ってしまう。

 そういうK国を相手に、いったい、どうやって交渉をつづければよいのか?

 さあ、ここは、韓国のN大統領の出番! N氏は、「K国の核開発問題は、ワレワレが解
決してみせる」と、大見得を切って大統領になった。

 さあ、さあ、さあ、やってもらおうではないか。今こそ、世界公約を、守ってもらおう
ではないか。今になって、「やはり、私たちでは、無理でした」では、スジが通らない。

 で、こうなると、先に席を蹴って立つのは、どちらかという問題になる。アメリカか、
K国か。どちらにせよ、今回の協議が決裂すれば、もうつぎは、ない。極東アジア情勢は、
一気に緊迫化する。ここ1、2日が、その山場ということになる。


●ならし運転

 少しずつ、子どもを、集団教育に慣れさせる。

 誠司のばあいも、プレスクールへ通い始めたが、最初は、週2回、4時間だけ。

 こうした方式は、30年前から、世界では、常識だった。(それ以前のことは、私は知ら
ない。)が、当時の日本では、いきなり、週6日。しかも一日、4時間。往復の通園時間も
入れると、6時間! それまでは、1年保育が主流だったが、2年保育が主流になりつつ
あるころでもあった。

 集団に対して、恐怖心をいだく子どもが続出した。が、今でも、基本的には、それほど、
変わっていない。

 幼児教育は、もっと、フレキシブルでもよいのではないか。

 オーストラリアには、週3日制の幼稚園だって、ある。月、水、金というように、1日
おきに幼稚園へ通ったりしている。週2日だって、よい。つまりこうして子どもたちを、
少しずつ、集団教育になじませていく。

 この時期、決して、無理をしない。これは幼児教育の大原則と考えてよい。無理をすれ
ば、そのひずみは、かならず、どこかへ蓄積される。そしてそれが、5年とか、10年後
に、心の問題として、現れてくる。

 ……今、やっと、日本人も、それに気づき始めてきたようだが……。


●マガジン読者

 先日、ある読者の方から、マガジンへの感想が届いた。いわく、

 「ほとんど、読んでいない。たまに、ヒマなときに読む。量が多すぎて、読めない。が
んばって、読む。……(追伸)やっぱり、全部読む、時間がない。そんなヒマはない」(要
約)。

 こうしたメールには、たいてい返事を書いているが、私は、ハタと返事を書くべきかど
うか、わからなくなってしまった。書くとしても、何と、書けばよいのか?

 まさか、「ありがとうございます」とも書けないし、反対に、「そんなことを言わずに、
もっと読んでください」とも書けない。

 しかし現実には、大半の読者の方が、そうではないのか。たしかに私のマガジンは、量
が多すぎる。自分でも、それがよくわかっている。つまりこれが読者の方の、偽りのない
本音ということになる。

 それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはよくわからないが、このところ、こう
して本音でものを言う人が、ふえてきた。最初は、そういう本音を知ると、ショックを受
けるが、しかしそれは一時的なもの。

 私も、そのメールを読んだ直後は、「だったら、購読をやめればいいのに」とか、「無料
なのに……」とか、思ったりした。しかしそれも一巡すると、(そういうメールも多いので
……)、「そうだろうな」という気持ちにかわった。

 言いかえると、今まで、日本人は、本音でものを言うのを、あまりにも、遠慮しすぎて
いたのではないのか。

 多少の衝突は覚悟で、まず、言いたいことを、ズバズバという。対立もするだろう。し
かしそんなことにへこたれていたら、前には進めない。つまりこうして日本人も、精神的
にタフになっていく。

 今回の選挙でも、僅差で落選したが、あのHもん候補者は、選挙運動中、こう言ったと
か。「天皇制などという、めんどくさいものは、もうなくせばいい」と。

 内容はともかくも、そういうことを堂々と口にする若者が、ふえてきた。すばらしいこ
とだと思う。

 私も、本音で言われることにより、相手の心がよくわかる。そしてそういうことの積み
重ねが、心の中を、スッキリさせる。その読者の方からのメールを思い出しながら、改め
て本音で生きることの大切さを、知った。

 その方には、直接、返事は書かなかったが……。

【補記】

 マガジンは、1000号まで出すという目標をかかげています。しかし5ページでも、
1号。10ページでも、1号ということになります。そこで私は、最低でも20ページを
もって、1号とすることにしました。

 でないと、1000号という、「号」に意味がなくなってしまいます。それで毎回、A4
サイズ用紙(1500字程度)で、20枚を、一つの目安にしています。

 量が多いのは、そのためです。

 私としては、できるだけ全部を読んでほしいとは思っていますが、しかしもとから、そ
んなことは期待していません。うち、5ページだけでも、あるいは1ページだけでも、読
んでいただければ、うれしいです。

 これは、本音ではありませんが、今は、そう思うようにしています。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 12日(No.635)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page020.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【原因錯誤】

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ときとして、私たちは、問題の本質を
忘れ、方向性を見失うことがある。

そして本来、問題でない問題に、右往左往
し、時間をムダにする。

++++++++++++++++++

 まず、こんな問題。

【問】

 ある山の中に、オオカミが住んでいました。が、その女の子は、どうしても、隣村の、
おばあちゃんのところへ、お菓子を届けなければなりません。

 そこで一番仲のよい、A君に、いっしょに、行ってくれるように頼みました。でも、A
君は、「いそがしいから、いやだ」と言いました。

 しかたないので、女の子は、ひとりで、隣村まで行くことにしました。

歩いていくと、途中で、鉄砲をもったおじさんに、出会いました。女の子は、おじさん
に、「オオカミはいる?」と聞きました。すると、おじさんは、「たった今、撃ち殺して
きたから、もういないよ」と、ウソを言いました。

 女の子は、それを聞いて安心して、山の中を歩いていきました。しかしそこへオオカミ
がやってきて、その女の子を食べてしまいました。

 この話の中で、一番、悪いのは、だれですか?

+++++++++++++++

 こうした問題を出すと、「隣のA君だ」「いや、ウソを言ったおじさんだ」とか、おとな
たちは、考える。中には、「女の子の親は、何をしていたのだ」「いや、女の子が悪い。危
険だとわかっていて、わざわざ、隣村に行くほうが、おかしい」と。

 しかし子どもたちは、単純にこう答える。

 「一番悪いのは、オオカミだよ」と。

 つまり私たちは、大本(おおもと)の原因を忘れ、枝葉末節のところで、不要な議論を
繰りかえす。こういう例は、日常生活の中でも、よく経験する。

 こんな例が、新聞の投書欄に載っていた。

 ともに認知症の、年老いた両親が、一個の弁当を取りあって、けんかばかりしていると
いう。「オレのを、お前は食べてしまった」「冷蔵庫に残しておいたのを、あんたが食べた」
と。

 その弁当というのは、地域のボランティア活動をしている女性が、格安で、毎日届けて
くれるものである。2個では、あまるということで、1個にした。

 認知症ということもあるのだろう。その老夫婦には、弁当を届けてもらえるというあり
がたさが、もう理解できない。それはわかるが、ともに老い先、長くない。けんかをして
いるヒマなど、ないはず。たかが弁当のことで!

 で、こういう話を聞くと、「私は、だいじょうぶ」と思う人も多いかと思う。しかしこれ
と同じようなことが、国際社会でも、起きている。

 たとえばあさって(9・13)から、K国の核問題を処理するために、6か国協議が始
まる。K国は、かねてから、「核兵器開発は、日本を対象にしたもの」と、内外で、公言し
ている。

 日本にとっては、危険きわまりない国である。しかし状況は、韓国にとっても、同じ。
本来なら、韓国は、もっと危機感をもってよいはずだが、このところトンチンカンな国際
政治ばかり、展開している。在韓米軍の削減を自ら申し出たかと思えば、イラクからの韓
国軍の撤退まで開始した、など。

 そしてあろうことか、反日、反米運動を、その水面下で展開している。金xxは、何百
万人もの(同朋)を餓死させ、何十万人もの(同朋)を、政治犯として処刑している。そ
の金xxの、肩をもつようなことばかりしている。「悪いのは、日本だ」「アメリカだ」と。

 本当のオオカミは、だれなのか。それすら、わかっていない。

 さて、先の老夫婦のケースだが、本当に悪いのは、「加齢」である。「老いること」であ
る。もちろんその老夫婦には、そんなことは理解できない。だれかが説明したところで、
納得もしないだろう。

 が、では、私たちは、そういう問題とは無縁であるかといえば、それは疑わしい。いつ
も原因を正しく見極めながら行動しているかといえば、さらに疑わしい。問題の本質を忘
れ、どうでもいいようなことで、振り回される。そういうことは、多い。

 これを、「原因錯誤」という。原因そのものを、錯誤してしまうことをいう。

 理由は、いくつかある。無知、無理解、情報不足、経験不足など。独断や偏見、誤解や
思い過ごしも、原因錯誤を引き起こす。

 子育ての場でも、よく経験する。

 以前にも書いたが、かん黙症の子どもについて、「幼稚園の教師の指導が悪い。うちの娘
がこうなったのは、あの教師が原因だ」と、幼稚園へ怒鳴りこんできた父親がいた。「うち
の中では、ふつうに話している。しかし幼稚園では、何も話さない。どうしてだ!」と。

 あるいは母親がそばにいるだけで、萎縮してしまう子どもも、少なくない。しかし母親
自身は、それに気づいていない。「どうしてうちの子は、グズなのでしょう」「もっと、ハ
キハキさせる方法はないでしょうか」などと言って、相談してくる。

 ほかに、ADHDの初期症状を示した子どもを、はげしく叱りつづけた親や、学校恐怖
症になった子どもを、「わがまま」と決めつけて、無理やり学校へつれていった親などもい
る。

 さらに夏場になると、子どもの顔よりも大きなソフトクリームを、子どもに食べさせる
親がいる。そういうものを一方で食べさせておきながら、「うちの子は、小食で困ります」
は、ない。缶ジュースにしても、そうだ。体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲
むということは、体重60キロのおとなが、4本、飲む量に匹敵する。おとなでも、4本
は飲めない。

 さらに大きな問題では、受験競争がある。なぜ、この日本に受験競争があるかといえば、
歴然とした、不公平社会があるからにほかならない。この不公平社会を放置したまま、受
験競争の弊害をいくら説いても、意味はない。

 少し、話はそれるが、こんな例もある。

 あるとき、ある神社に一人の母親がやってきて、こう言った。「うちの子の病気が治った
のは、ここの神様のおかげです」と。そしてその場で、100万円の入った袋を差し出し
た。

 そこで神主が、理由を聞くと、こう言った。「先日、息子の病気が治るようにと、ここで
願(がん)をかけました。その願がかなったので、お礼に来ました」と。

 しかしこのばあいでも、本当に病気を治したのは、神様ではない(失礼!)。病院の医師
である。しかしこうしたものの考え方になれている人は、そういう論理では、ものを考え
ない。病気になっても、また事故にあっても、原因は、もっと別のところにあると考える。

 そう言えば、10年ほど前、ある受験塾の経営者がこんな話をしてくれた。「目的の高校
や、大学へ入学したとしても、私たちのところへ礼を言ってくる親や子どもは、まず、い
ません」と。

 だからといって、受験塾の経営者の肩をもつわけではない。しかし受験塾といっても、
親身になって子どもの勉強を教えている先生は、多い。

 しかしそういう親や子どもでも、神社などには、お礼に行く。受験を指導してくれた先
生のところへは、行かない。考えてみれば、これも、原因錯誤のひとつということになる。

 が、こうした原因錯誤は、すべてが、無知と無理解によって、起こる。それで害がない
ばあいもあるが、深刻な害をおよぼすばあいもある。

 21世紀になった今でも、子どもの病気を、手かざしや、祈念で治そうとする親もいる。
原因を冷静に見つめる思考力さえ、ない。そこで、だれだったか忘れたが、こう言った哲
学者がいた。

 『無知は、罪悪なり』と。

 つまり無知であることは、それ自体が、罪悪であると。決して、無知であることに、甘
んじていてはいけない。
(はやし浩司 原因錯誤 無知と罪悪 無知は罪悪 無知 誤解 情報不足)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●老人を、どう相手にするか

++++++++++++++++++

佐賀県にお住まいの、UTさん(女性)
より、こんなメールが、届いています。

「がんこで、聞き分けのない義父を、もて
あましている。どうしたらいいか?」と。

佐賀県といえば、男尊女卑傾向が強い県
として、全国にもよく知られている(?)。

しかしこれは佐賀県だけの問題ではない。
どこの県に行っても、地域によっては、
似たような問題が起きている。

++++++++++++++++++

 脳梗塞や損傷、機能低下などにより、脳にダメージを受けると、部位によっては、人格
そのものが変わってしまうということもある。

 たとえば、

大脳皮質全般……失見当識、
上側頭回、下前頭回……失語症、失読症、
海馬を含む、側頭葉内側面……記銘力低下、健忘症
前頭葉、前頭頂……注意障害、半側空間無視
前頭葉……実行機能障害ほか。

(以上、「臨床心理学」日本文芸社より)

 老齢になればなるほど、何らかの脳機能障害があるとみる。こうした変化は、多かれ少
なかれ、どんな老人にも共通して見られる。老人と同居したことのある人なら、だれでも
知っている。

 要するに、がんこになり、かたくなになり、融通がきかなくなる。それに加えて、精神
面での変調が、より顕著になってくる。日常的な喪失感、抑うつ感、閉塞感、無気力感、
空虚感などなど。病気の心配も、絶えない。

 私も、生まれながらにして、祖父母との同居生活を経験している。そういう生活を思い
起こしてみて、一つ、気がついたことがある。それは、私自身の母についてもそうだが、「老
人は、相手にしない」という鉄則。

 陰でいくら、批判や批評はしても、本人の前では、何も言わない。一応、従ったフリを
して、やりすごす。どうせ相手にしても、わかってもらえるような人たちではない。わか
ってもらったところで、どうしようも、ない。老人は、老人として、そっとしておいてや
るのも、思いやりというものか。ルールというよりは、エチケットのようなものかもしれ
ない。

 たとえば少し前、私は、私の母は迷信深かったと書いた。しかしそういう迷信に反発し
たのは、私が高校生になるころまでで、それ以後は、無視するようにした。私の価値観が、
どこまでも私個人の価値観であるように、母の価値観は、どこまでも母の価値観である。

 一方が、一方的に、相手の価値観を否定することは、許されない。いわんや、老人には、
それまでに積み重ねてきた、人生がある。それが正しいとか、まちがっているとか、そう
いうことを判断すること自体、まちがっている。してはならない。

 それがわからなければ、反対の立場で考えてみるとよい。

 ある父親は、苦労に苦労を重ねて、息子の学費を用意し、大学を卒業させた。どこかに
犠牲心があったのかもしれない。その父親は、こう言った。

 「先生は、子どもに恩を着せてはいけないと言うが、どうしてそれがいけないのか、私
には、理解できない。それなりの苦労をしたという事実を、息子にもわかってほしい。見
返りがほしいというのではない。ほんの少しでもいいから、心から『ありがとう』と言っ
てほしい」と。

 私も、人一倍、苦労をした(……と思う。)今のこの日本では、息子3人を、それぞれ一
応の大学を卒業させるということは、たいへんなことだ。

 しかしそれを(苦労)と思うか、(生きがい)と思うかで、気持ちも、ずいぶんと変わっ
てくる。で、ときどき、私はこう思う。

 もし、息子たちがいなければ、私は、こうまで仕事の面で、がんばらなかっただろうな、
と。現に今も、そうである。

 三男が大学を卒業するまで、まだ1年半もある。その1年半について、私は、どうして
も、元気でいなければならない。そういう思いがあるからこそ、私は、運動を欠かさない。
脳梗塞や心筋梗塞にも、気をつかっている。体重も、適性体重にまで、減らした。

 苦労は苦労だが、ふと気がつくと、息子たちが、私を生かしてくれているのを、知る。
この気持ちは、ワイフも、同じである。

 今年の正月のころだったか、体の調子が悪かったことがある。そのとき、通勤途中の坂
道を自転車で登るのが、苦しかった。私は、ペダルを一回こぐごとに、(少し、大げさに聞
こえるかもしれないが)、息子たちやワイフの名前を、一人ずつ、心の中で叫んだ。歯をく
しばって、がんばった。

 しかしそれを(苦労)としてしまうと、どこかに犠牲心が残ってしまう。「オレは、お前
たちのために、やってやった」と。この(やってやった)という思いが、子育てをゆがめ
る。親子の間に、大きなキレツを入れることもある。

 子育ては、無私。どこまでも、無私。損得の計算を入れること自体、まちがっている。

 ……と書いても、現実には、その損得を考えながら、子育てをしている人は多い。古い
世代に近い人ほど、そうではないか。

 が、そういう人に向っても、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。その人に
は、その人の、今度は、歴史的背景というものがある。

 封建時代の日本においては、子どもは、まさに「家」の財産だった。人間ではなく、財
産。もっと言えば、モノだった。あの七五三の祝いも、そういう観点から生まれた風習で
ある。「家」あっての、「子ども」だった。

 そういう封建時代の亡霊を引きずっているからといって、それはそれとして、しかたの
ないことかもしれない。だからといって、私たちの生きザマが正しいと証明されたわけで
もない。その証明がなされていない以上、相手に向って、「まちがっている」とも言えない。

 大切なことは、人、それぞれということ。

 実は、こうした見方は、老人を相手にするとき、とくに重要である。いくら心の中で、「あ
なたはおかしい」と思っても、それを口にしてはいけない。相談をしてきたUTさんにし
ても、そうかもしれない。聞き分けがないならないで、そういう老人に、みなが、合わせ
ていくしかない。

 「わからせてやろう」とか、「わかってもらおう」と考えると、こちら側にストレスがた
まる。たまるばかりではなく、家庭の中そのものが、おかしくなってくる。嫁・姑戦争に
代表されるように、そうした騒動を繰りかえしている家庭となると、ゴマンとある。

 こう言うのもおかしな話かもしれないが、私は、老人の扱い方が、たいへん、うまい。
子どものときから、そういう面では鍛えられている。コツは、ただ一つ。老人に合わせて、
ヘラヘラしていればよい。適当にあしらって、もちあげておけばよい。私のばあいは、そ
れで小遣いがもらえた。

 子どももそうだが、老人も、本気で相手にしてはいけない。相手にするということは、
自分も、その老人と、同レベルであることを意味する。

 そう、ここが重要なポイントだと思う。

 同類は、同類を呼ぶというか、高潔な人のまわりには、高潔な人が集まる。しかし愚劣
な人のまわりには、愚劣な人が集まる。若いときは、いろいろな集団の中に身を置き、そ
れなりにいろいろな経験をすることも重要かもしれない。

 しかしある程度の年齢になったら、(私の実感では、50歳を過ぎたら)、人を選ぶ。親
類だとか、近親者だとか、そういうワクを離れて、人間として、人を選ぶ。でないと、と
んでもない回り道をすることにも、なりかねない。

 私の印象では、UTさんが、義父の言動を気にするということは、すでに、無意識のう
ちにも、その義父のレベルにまで、自分をさげているのではないかということ。このこと
は、たとえば、その義父が死んだあとに、わかる。いや、自分ではわからないかもしれな
い。他人の目で見ていると、それがわかる。

 自分が老人になったとき、それまでさんざん批判してきた両親や、義理の両親以下(失
礼!)になってしまう人は、多い。それには理由がある。

 そういう老人を批判はしても、その中から、何もつくりあげなければならない。決して、
批判だけで終わってしまってはいけない。そうでないと、いつの間にか、同類か、さもな
ければ、それ以下になってしまう。

 「うちの義父は、だめだ」「うちの義父は、わがままだ」と言うのは、しかたないとして
も、では、自分はどうあるべきか。それを同時に考えていく。そしてそれが自然な形でで
きるようになったとき、UTさんは、義父を乗り越えることができる。

 ヘラヘラと笑って、相手にしない。そうなる。

【補足】

 老人にもいろいろある。学ぶべきものを感ずる老人と、そうでない老人である。

 私の知っている人の中にも、若いころは、女遊びばかりしてきた老人がいる。愛人も、
何人かいた。その愛人との間に、子どもまでつくった。見た感じは、悪くない男性だが、
小ずるい男だった。誠意のひとかけらもない男だった。

 で、今、その老人が、家族との間で、さまざまな問題を引き起こしている。そういうの
を見ていると、そうした問題は、必然的な結果であるとしか思いようがない。

 そこで重要なことは、そういう老人とは、つきあわないこと。接しないこと。でないと、
いつの間にか、その老人のもつ、シャドウ(ユング)を、引きついでしまう。「私はちがう」
「私は、ああいう老人にはならない」と、いくら強く念じても、いつの間にか、そのシャ
ドウを引きついでしまう。

 で、話を聞くと、その老人のまわりには、これまたそれらしい人たちが集まっているの
を知る。他人の不幸を、酒のサカナにして、笑いあっている。そんな人たちである。

 一方、学ぶべきものを感ずる老人もいる。会って話をしているだけで、こちらまで崇高
な気分になってくる。そういう老人である。

 だから人も、50歳を過ぎたら、つきあう相手を選ぶ。これは自分の人生をムダにしな
いためには、とても重要なことだと思う。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●農村地域の裏と表

 日本には、本音と建て前という言葉がある。裏と表と言いかえても、よい。本音を裏と
するなら、建て前は、表ということになる。口で言っていることと、実際にしていること
の間に、大きな隔たりがあったとしても、日本人は、そのため、あまり気にしない。

 こうした日本民族がもつ特殊性というのは、外国へ出てみると、よくわかる。とくに白
人社会では、通用しない。建て前は、そのまま「ウソ」と、とらえられる。

 で、こうした特殊性は、農村地域へ行くと、今でも、色濃く残っている。裏ではその人
の悪口ばかりを言いながら、表では、仲がよいフリをする。それなりに、じょうずに交際
をつづける。

 が、それは、まさに、キツネとタヌキの化かしあい! 最近でも、こんなことがあった。
事実を、書く。

 私の知人にXさん(女性)がいる。そのXさんは、昔から、私には、親切な女性であっ
た。が、そのXさんが、別の所で、私の悪口を言いふらしているという。私が書いた本の
あちこちを別の人に見せ、「あの林さん(=私)が、こんなことを書いている。これはあな
たのことだ」と。

 勝手な推察と、憶測で、そう判断して、そう告げる。読み方によっては、そう読めなく
もない部分である。Xさんからその話を聞いた人は、当然、憤慨する。何人かは、私に直
接抗議をしてきた。私は、その話を聞いて、Xさんとの交際を中止した。

 ところが、である。そのXさんから、ハガキが届いた。そしてそれには、こうあった。「今
度、そちら(私の住む浜松)に行く用事ができました。できたら、そちらで、2、3泊さ
せてもらえませんか」と。

 私はそのハガキを読んで、そのタヌキぶりというか、図々しさに、あきれた。もちろん、
そのハガキは、無視。同時に、そういうことが平気でできる、その人の神経を疑った。

 しかしそのXさんは、まさしく日本人。本音は本音。建て前は建て前。日常的にそうい
う生活をしている。恐らく、私の悪口を言っているという意識そのものが、ない。が、私
は、そういう世界とは、ずいぶんと若いころ、決別した。

 私らしく生きるということは、本音で生きること。その結果、敵をつくることになった
としても、私は、かまわない。

 たとえば、私はこうして文章を書く。書くとき、その人を意識しながら、書くことがあ
る。が、それがその人を批判するものであったりするときは、心の中で、こう誓う。「この
文章を発表する以上、その人とは、今後、二度と、つきあわない」と。

 裏で悪口を書きながら、表で、にこやかに会話するなどということは、私には、できな
い。

 が、私はもともとは、G県の田舎生まれ。田舎との地縁は、今も、色濃くつづいている。
が、その田舎から入ってくる情報が、これまたメチャメチャ。浜松市という、少し離れた
ところに住んでいるから、余計に、それを強く感ずる。

 わかりやすく言えば、こうだ。

 Aさんは、Bさんの悪口ばかり伝えてくる。Bさんは、Cさんの悪口ばかり伝えてくる。
Cさんは、Dさんの悪口ばかり、伝えてくる。Dさんは、Aさんの悪口ばかり、伝えてく
る。が、AさんとCさんは、仲よし。BさんとDさんは、仲よし。少なくとも表面的には、
仲よくつきあっている。

 ときどき、何がなんだか、さっぱりわからなくなるときがある。「私なら、悪口を言うく
らいなら、つきあわないのに」と思うが、一方で悪口を言いながら、一方で、仲よくつき
あっている(?)。

 これに対して、「農村地域では、人間関係において、あまりはっきりと、白黒させると、
生きていかれなくなる」という意見もある。すべてが灰色というか、あいまいというか…
…。そういうふうに生きることこそ、賢明だ、と。

 で、私は、そういうことを知れば知るほど、「田舎に住まなくてよかった」と思う。こう
した人間関係をつづけていたら、それこそ、気がヘンになってしまう。とくに私のワイフ
には、できない芸当である。私のワイフは、いつも心のどこかで、白黒をはっきりさせな
がら、生きている。

 たとえば私の息子の1人から、昔、かなりの金額を借りて、そのまま踏み倒した男がい
た。それまでは、ワイフとも親しい関係にあった。しかしその事件以来、ワイフは、その
男のみならず、その家族とも関係を切った。

 が、こういうケースでも、田舎では、交際をつづける(?)。息子の事件は、息子の事件。
私は、私と。そしてそういう関係が、ドロドロと渦を巻く。それが私が冒頭に書いた、「日
本民族がもつ特殊性」ということになる。

 で、私も現在、浜松市内と山の中にある山荘との間で、二重生活をしている。その山荘
は、山村の中にある。そこはまさに、農村地域。この農村地域で、その地域の人たちと、
平和にのどかに暮らすためには、重要なコツがある。

(1)決して、個人的な家庭問題には、首をつっこまないこと。
(2)決して、個人的な悪口や陰口を言わないこと。
(3)決して、その人の行為や行動を批判しないこと。
(4)悪口や陰口を聞いても、「ああ、そうですか」だけで、終わること。

 では、相手をほめたり、たたえたりするのはよいかというと、どうも、そうとも言えな
いようだ。ここにも書いたように、人間関係がドロドロに入り組んでいるから、どこでど
うそれが曲解され、反発を買うか、わからない。だから結局は、言わぬが仏、知らぬが仏
ということになる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●生きがい

 朝、起きる。起きて、用をすませ、それから一杯の水を飲む。そして書斎に入る。

 書斎では、まず、電灯、プリンター、パソコンの順に、電源を入れる。そして座椅子に、
深々とすわり、しばらく時の流れるのを、待つ。

 私にとって、それが一日の始まり。風を感じ、空の光を感ずる。そのころには、いつも
の画面がモニターに現れる。目薬をさし、パソコン用のメガネにかえる。

 まず、インターネット・エクスプローラーで、メールをチェック。が、最初だけ、少し、
時間がかかる。メインで使っているパソコンは、あと数か月で、丸5年になる。多分、内
部は、ゴミだらけ。そのゴミの処理で、立ちあがりが遅れるらしい。

 で、それが終わると、あちこちのニュースサイトで、ニュースを読む。言い忘れたが、
私は朝が苦手。血圧が低いせいと、自分では、そう思っている。だからこのところ、毎日
のように、ワードを開く前に、将棋をする。

 勝率は、5分5分というところか。本当のところは、負けそうになると、そのまま画面
を閉じる。そのころになると、頭の中に、血が巡りだす。それが実感としてわかるから、
おもしろい。スーッと自分の頭の中を血が流れていくのが、わかる。

 あとは、いつもの毎日。目をさます時刻は、その日によってちがう。今朝は、午前6時。
そして今は、7時、少し前。おもむろに、しかしすばやくキーを、たたき始める。頭の中
にたまったモヤモヤを、まず、はき出す。はき出しながら、書きたいテーマをしぼる。

 ところで、こんなことを書いている人がいた。

 「原稿というのは、本になってはじめて、価値がある」と。つまりHPやインターネッ
ト上の原稿には、価値がない、と。

 つまり原稿というのは、出版社という関門を通ってはじめて、価値が出る。そうでない
原稿には、価値がない、と。一理ある。

 本を出すときは、出版社による出版という関門をくぐらねばならない。そのとき、その
価値のない原稿は、ゴミとして、闇に捨てられる。本を出版するということには、それな
りに、資本を投下しなければならない。その資本を投下するとき、その原稿の価値が判断
される。

これはたとえて言うなら、スポーツでいう、公式試合のようなもの。いくら「私は強い」
と叫んでも、試合に勝たなければ、意味がない。試合に勝ってはじめて、その力が認め
られる。

 だから、こうしてインターネットで、いくら原稿を書いても、意味がない、と。

 実は、私も、そう思っている。この先のことはわからないが、今は、まだ、そういう時
代である。だから本来なら、本を先に書いて、その余禄を借りて、HP用の原稿を書く。
それがこの世界での、正道ということになる。

 しかし私は、この数年、本を出版するための原稿を、まったく書いていない。書きたい
気持は強いが、今は、電子マガジン。これにすべてをかけている。だれに頼まれたわけで
もないが、1000号までつづける。そういう目標もかかげた。

 しかし毎日のように、迷っているのも事実。「こんなことをしていて、何になるのだろう」
と。もちろん、収入は、ない。

 ときどきワイフに、こう言う。「ごめん」と。つまり今の私にとっては、原稿を書くとい
うのは、まったくの道楽。その道楽を、不平ひとつこぼさず、私にさせてくれる。そうい
うワイフに申し訳ない。そんな気持が、どうしても、心をふさぐ。

 まあ、1000号までがんばったら、そのあとは、有料版に力を入れたい。……とは、
考えているが、だいたいにおいて、1000号までつづけられるかどうか、わからない。
何かあるたびに、「もうやめようか」と思う。

 が、書いているうちに、だんだんと、その気持は薄らいでくる。書くということは、私
にとっては、頭のジョギングのようなもの。ボケ防止になるだけでも、御(おん)の字。
ジョギングするのは、だれのためでもない。自分のためである。

 悪いことばかりではない。

 書くことで、新しい世界がどんどんと広がっていく。それはたとえるなら、荒野で、宝
石を見つけるようなもの。トボトボと歩いていると、ふと、足元で、宝石が輝いているの
を知る。

 すかさず私がすることは、その宝石を手に取り、その宝石について、書くこと。すると、
その宝石の向こうに、また別の世界が見えてくる。

 それに、もうひとつ。世の中の、それまで見えなかったものが、見えてくるときがある。
が、それは楽しいことばかりではない。ときに、「こんなことも、私は知らなかったのか」
と、がく然とすることもある。

 で、今は、時間との勝負。あと何年、こうしてものを書くことができるか。書きつづけ
ることができるか。書くことはできるとしても、頭のサエは、年々、たしかに鈍くなって
きている。そのうち、この頭も、使いものにならなくなる。

 日本でもよく知られた作家に、IHという人がいる。私が学生時代、同じ金沢に住んでい
た。そういうこともあって、私は彼のファン。彼の新刊書が出るたびに、書店で立ち読み
をする。(最近は、ほとんど買わない。ゴメン!)

 私と書くジャンルがちがうので、本そのものは、めったに買ったことがない。賞という
賞を総なめにした人だけに、さすが、文章はうまい。情景にしても、IHが書くと、流れ
るように、頭の中に浮かんでくる。

 しかしこのところ、いくら読んでも、ピンとこない。焦点がボケてきた。言いたいこと
は、よくわかる。しかし「だから……」という部分が、弱い。私たちの世界では、これを
「つっこみが甘い」という。IHも、やはり、年齢には、勝てないようだ。

 が、それは、10年後、20年後の、私の姿でもある。

 だから急がねばならない。今のうちに、できるだけ、前に進んでおかねばならない。私
に残された時間は、あまりにも、短い。今までの10年が、あっという間に過ぎてしまっ
たように、これからの10年も、さらにあっという間に、過ぎてしまうだろう。

 私は、おもむろに、座右の雑誌や本に手をのばす。週刊誌もあるし、パソコンソフトの
ガイドブックもある。そういうものをパラパラとめくっていると、その下から、モヤモヤ
したものが、わいてくる。怒りか? 不満か? 

 決してそれらは心地よいものではない。しかしそのモヤモヤを感ずると、それをはき出
したくなる。漢字で書けば、「吐き出す」だが、掃除するという意味で、「掃き出す」のほ
うが、よい。とたん、パソコンのキーボードが、パチパチとリズミカルな音をたて始める。

 こうして私の一日は、始まる。

 そうそう、たいへん重要なことを言い忘れた。

 こうしてものを書くのが、私にとっては、今は、生きがいになりつつある。生きる力の
原動力になっている。書くだけではない。マガジンに載せる写真にしても、それをとりに
いくのも、それなりに楽しい。その瞬間、カメラマンになったような気分になる。

 今は、いっぱしの作家気取り。評論家気取り。小説家気取り。……気分だけで、中身は
ない。ないが、たしかに生きがいにはなっている。少し前だが、こう感じたこともある。

 「朝、起きたとき、その瞬間から、やりたいことがあるというのは、それだけでも、感
謝しなければ……」と。反対に、今の私から、書くことを奪ったら、いったい、何が、残
るのか?

 さてさて、くだらない話は、ここまで。今日のテーマは、……ということで、一言。

 みなさん、おはようございます!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【Tさんからのご意見】

 少し前、電車内での痴漢行為について書いた。それに対して、つぎのような反論を寄せ
てくれた。少し誤解を招いた部分もあるので、Tさんのご意見を紹介しながら、自分の意
見を、補足しておきたい。(R天の公開コメントより、引用。)

++++++++++++++
  
はやしさんのおっしゃりたい事は 判るのですが、そういう男性にとって本能的な「痴漢」
行為に、女性がどれくらい傷つくかということを なんとか男性が解ろうと努力する・・
という方向から見れば、出演者の態度はあれでよかったのではないか・・と思います。も
しできたらその辺について言及していただけませんか? 

男性って 同性愛者の男の人に厳しいように思いますが、それって自分が襲われる可能性
のあるところに置かれる不愉快さからくるのではないかしら・・と、勝手に思っています。
女性が痴漢にあう不愉快さって、その比ではないと思うのです。それと「正常な人間なら、
だれでも、ムラムラと欲情を覚える。覚えて当然」の中の「人間」は、「男性」に変えてい
ただけないでしょうか(9・11・R天日記コメント)

++++++++++++++ 

【はやし浩司よりTさんへ】

仰せの通りです。
言葉足らずでした。

私は、あの番組を見ていて、
自分たちは、そういう世界とはまったく
関係ありません……というような
あの偽善的な態度が、先に、気になりました。

方法論で解決しないと、(満員電車をなくす、
男女別の車体をふやすなど)、この問題は
解決しないということを言いたかったのです。

もちろん被害者の女性が悪いというのではあり
ません。そのへんが、少し誤解かな?、と
思っています。

地方に住んでいて、ときどき、東京へ行きますが
あのラッシュ時のあの電車は、人間が乗る乗り物
ではありません。そういう視点をもっと、
もったほうが、いいと思うのですが……。

日本以外の国では、エレベーターでも、体が
触れあうような状態になると、みな、満員です
といって、それ以上の人を入れませんね。
オーストラリアの電車も、そうです。

要するに、痴漢が痴漢行為しやすい環境を
一方でつくっておいて、何が痴漢かという
問題になると思います。

基本的な部分で、(しくみ)を変えないと
この問題は、解決しないと思います。

現に、もうこの話題が出るようになって、
40年近くなります。40年ですよ!

私のワイフも、東京時代、何度もやられた
と言っています。

が、解決しない。いまだに、繰りかえしている。
そこに問題があるわけです。

ちがうでしょうか?

(Tさん、コメント、ありがとうございました。)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自民党の大勝利!

 9月11日、衆議院議員選挙が、実施された。結果は、自民党の大勝利。296議席獲
得。単独で、3分の2の議席を占めた。かたや民主党は、当初の予想を大きくはずれ、議
席を大幅に減らした。

 その選挙について、浮動票の王様(自称、私のこと)から一言。

 郵政三事業民営化について、民主党が、反対したのは、まずかった。しかも、どこかし
ら、郵便局員の既得権保護のために、反対した(?)。実際にはそうではなかったのかもし
れないが、郵便局員たちの反対運動の先頭に立ったのが、まずかった。(少なくとも、私は、
そういう印象をもった。)

 加えて、イラクへの自衛隊派遣反対など。中国や韓国の反日運動も、自民党には、追い
風となった。何となく、そこにある危機感。その危機感から生まれる不安感。国民は、そ
の不安感を払拭するためには、民主党では、無理と判断した。

 本来なら、議席数を減らしてもおかしくなかった自民党。しかしどたん場で、あのどこ
か、胡散(うさん)臭さそうな雰囲気を漂わせる、古株議員を、自民党から追放したのが、
よかった。それを見て、「小泉さんも、なかなかやるな」という印象を、私たちは、もった。

 しかし……。以上の理由だけではないだろう。それぞれの有権者は、それぞれの思いを
もって、自民党に一票を、入れた。が、自民党が、ここまで大勝するとは、私も、思って
いなかった。

 郵政三事業の民営化のあとは、いよいよ農政の民営化が待っている。こちらのほうは、
規模も人数も、1桁、ちがう。さあ、どうなることやら? しかし、行政改革は、やるし
かない! がんばれ、小泉首相!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●デート

 週に2度。私は、ワイフとデートする。A曜日の午後と、B曜日の午後。その日には、レ
ッスンの間に、ちょうど1時間半ほどの休み時間がある。そのときに、2人で、本屋へ行
ったり、パソコンショップへ行ったりする。ちょうど夕食時で、たいていいつも、夕食を
食べる。

 行きつけのレストランは、決まっている。ラーメン店の、「M」。フライを食べさせてくれ
る、「K」。お好み焼き店の、「H」。日本そば店の、「N」。それにカレーライスの「S」。「S」
は、駅前のデパートの地下にある。

 たいていこの4つの店のどれかに行く。ときどき、浮気をして、ほかの店に行くことも
ある。が、2、3回も行くと、あきてしまう。それで結局は、先の4つの店のどれかに、
なってしまう。

 あとは、時間があれば、おもちゃ屋に寄ったり、衣服屋に寄ったりする。100円ショ
ップにもよく行く。あとは、バカ話。いつもバカ話ばかりしている。意味のないダジャレ
とか、ジョークとか、それに悪口。

 悪口を言うのは、結構、楽しい。通り過ぎる店や、行きかう人の悪口などなど。私たち
は、他人からはどう見えるかは知らないが、口が悪い。それを小声で言いあって、イヒヒ、
ウフフと笑いあっている。

 若いころのようには、もう、けんかはしない。若いころは、けんかばかりしていた。そ
ういう時代をワイフは、よく覚えている。だから、ときどき、私に、こう言う。「私たちは、
けんかだけは、やり尽くしたわよね」と。
 
 私も、そう思う。毎日のように、ああでもいない、こうでもないと、言い争いばかりし
ていた。私は神経質だったし、ワイフもがんこだった。意見の衝突は、しょっちゅうだっ
た。

 もちろん平和であるほうが、よい。けんかは、つまらない。疲れる。神経をすり減らす。
しかし夫婦も、ある程度、けんかをしなければ、よい夫婦になれないのではないか。たが
いに言いたいことを言い、したいことをする。衝突しながら、たがいのことを、さらけ出
す。(だからといって、私たち夫婦が、よい夫婦と言っているのではない。誤解のないよう。)

 が、先週、私はワイフにこう言った。

 「こうしてデートできるのも、あと何年かねえ……?」と。

 それに答えて、ワイフは、いつもの決り文句を言った。

 「だから、あなたはジジ臭いのよ。どうしてそういうジジ臭いことしか言えないの?」「今
は、今で、楽しめばいいのよ」と。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●目で見る漢方診断

 1988年と言うから、もうそれから、17年になる。その17年前に、私は、飛鳥新
社という出版社から、「目で見る漢方診断」という本を書いた。

 当初、売れ行きはよかったが、よかったのは、当初だけ。そのあと、その本は、すべて
を売り切ったところで、そのまま絶版になってしまった。

 ところが、である。最近、あちこちの健康雑誌などで、私の描いた絵などが、そのまま
無断で使われているのを知った。コピーのそのまたコピー(?)と思わせるようなものも
多い。

 そこで私は、その「目で見る漢方診断」を、自分のHPに収録することにした。全体で
310ページ以上の本である。すべてを収録することはできなかったが、これで著作権は、
確保できた。

 興味のある方は、私のHPのトップページから、見ていただけるので、そちらを見てほ
しい。漢方に興味のある方なら、「あれ、この図は、どこかで見たことがあるぞ」と感じら
れるのも、いくつかあると思う。(もちろん、私の図がオリジナルである。1988年出版
というのが、何よりの証拠である。)

 東洋医学・基礎編(学研)については、前書きと、本文中1ページをのぞいて、すべて
私が書いたものである。(その1ページには、その著者の名前を記入しておいた。)その本
は、1979年に出版している。)

 ただ「私」が書いた本では、意味がない。こうした専門書では、出典を常に明らかにす
ること。そこで私は、「目で見る漢方診断」については、すべて、出典を明らかにした(本
文、右下)。

 漢方と言えば、黄帝内経(こうていだいけい)。その素問、霊枢をもとにして、その本を
攻勢した。この本は、漢方医学の世界では、バイブルと称される本である。漢方は、この
本に始まって、この本に終わると言っても、過言ではない。

 とくにマガジン読者のみなさんの、何らかの参考になればうれしい。HTML版マガジ
ンのほうでは、本文の中で、少しずつ、紹介していくつもり。まだマガジンを購読してい
ない人は、ぜひ、ぜひ、購読してほしい。


●デジタルカメラが故障

 愛用のデジタルカメラが故障した。修理に出すと、「3週間ほどかかります」とのこと。
が、3週間も、待てない。携帯電話のカメラを代用することにしたが、画質が、ぐんと、
落ちる。

 しかたないので、新しいのを買うことにした。で、店に行ってみると、同じC社のカメ
ラが、2万5000円! 2世代前のカメラだというが、私の愛用のカメラよりは、最新。
で、それを買うことにした。

 一回バッテリーを充電すると、500枚も、写真がとれるという。スゴイ!

 ただ、厚さが、今までのものより、1センチ弱厚いのでは? ポケットに入れるには、
少し抵抗感があるが、使い勝手は、そのまま。古いのが修理からかえってきたら、2台の
カメラをうまく使い分けることにする。

 しかしこうした電子製品というのは、一度買ったら、使って使って、使いまくる。保証
期間は、1年。だから、そのうちに故障させるものはさせて、なおしてもらったほうがよ
い。中には、ほとんど使わないで、毎日ピカピカにみがいている人がいる。(実は、以前の
私がそうだった……。ハハハ。そういう行為は、ムダ! どうせ1年もすると、つぎの新
しいのが、発売になる。)


++++++++++++++++++++++はやし浩司

●明日から、6か国協議

 明日(05・9・13)から、中国の北京で、またまた6か国協議が始まる。が、少し
雰囲気が変わってきた。アメリカが強硬になってきた。理由がある。

 今までは、韓国に遠慮して、言いたいことも言えなかった。K国と戦争ということにな
れば、一番大きな被害を受ける国となれば、韓国。同盟国の韓国を、危険にさらすことは
できない。同時に、在韓米軍を危険にさらすことはできない。

 しかし事情が、大きく変わってきた。

 アメリカ軍は、韓国から撤退し始めている。3万5000〜6000人いた在韓米軍も、
今は、その半分以下。さらにここ1、2年をかけて、半減する。同時に、N政権は、イラ
クから韓国軍を、1000人、引きあげると言い出した。米韓関係は、すでに崩壊してい
る。

 そこでアメリカは、今までは、韓国のメンツを重んじ、韓国に対して、どこか下手に出
ていた。が、その時期は、先の6か国協議まで。多分、アメリカは、韓国にこう言ってい
たにちがいない。「仲がよいフリをするのは、今度の協議まで。それ以後は、知らない」と。

 もう少し、わかりやすく言うと、こうなる。

N大統領(韓国)「朝鮮半島で、戦争を起こしてもらっては困る」
ブッシュ大統領「それはわかっている。だが、K国を助けるようなことはやめろ」
N大統領「ワレワレは、太陽政策を維持する。K国は、ワレワレの同胞だ」
ブッシュ大統領「言うことを聞かねば、アメリカ軍は、韓国から撤退する」
N大統領「わかった。もう少しだけ待ってほしい。ワレワレが、金xxを説得してみせる」
ブッシュ大統領「やれるものなら、やってみなさい。あんたがたの手に負えるような相手
ではない。待つとしても、今度の6か国協議まで。そのあとは、アメリカのやり方で、や
る」と。

 そして今日9月13日。6か国協議が再開された。前回までは、日本がカヤの外に置か
れた。しかし今回は、韓国が、カヤの外に置かれた。日本にしても、韓国が、今後どうな
ろうが、知ったことではない。日本は日本で、日本の安全と平和を、最優先に考えればよ
い。必要なら、アメリカと歩調を合わせて、K国の核問題を、国連の安保理に付託する。

 制裁が必要なら、国際社会と協調してする。その結果、K国が攻撃的に出てくれば、そ
のときは、そのときで、正面から対峙するしかない。そのときもし、韓国がK国をウラで
支えるようなことがあれば、韓国に対しては、貿易自粛という形で、経済制裁する。

 つまりそれくらい、K国の核問題は、日本にとっては、深刻な問題である。問題解決を
先に延ばせばのばすほど、日本は、核の危険にさらされることになる。K国は、かねてか
ら、何度も、「核兵器開発は、日本向けのもの」と、公言している。

 絶対に、そんなことをさせてはならない。それを防ぐために、多少の火の粉をかぶると
いうになら、日本も、それ相当の覚悟をすべきである。その時期は、もう、すぐそこまで
きている。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 10日(No.634)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ありのままの自分

 (現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、そ
の人は、心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。

 よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがっ
たりすると、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させら
れ、毎晩その男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精
神状態になる。

 遊離する理由は、いくつかある。

(1)理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(2)そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(3)自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(4)いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(5)自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)

 こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康の
ためには、たいへん危険なことでもある。

 そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ
近いほど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶ
るようになったら、お・し・ま・い。

 だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分
をさらけ出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、
生活のリズムそのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。

 しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気が
つくのがむずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分
でなかったことを知る。それまでは、わからない。

 私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが
巻きついている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサ
リの一本、一本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分
が見えてくるのは、そのあとである。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●役割混乱

 役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなっ
てくる。これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。

 私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それ
がわかっていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)

 自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。

 自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰に
なり、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって
何も話せなくなってしまったこともある。

 私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行く
だけ。勉強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思
うのは、当時、心のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが
起きて、日本中が、こなごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり
否定的になっていたようである。

 しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校
生は、同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。

 本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に
入るころから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子
ども自身がもてるように、指導する。

 私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そ
のため大学にしても、工学部建築学科を考えていた。

 その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、
「拡散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。

 そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこ
かの大学の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を
生きることがでいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊
びが大好きだった。そういう仕事でもよかった。

 今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失
敗だけは、してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子ども
が、「〜〜になりたい」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、
いい。すばらしい仕事だ。その仕事は、君にピッタリだ」と。

 そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、
自分の進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立するこ
とができる。
(はやし浩司 役割混乱)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自意識過剰
 
 自意識が過剰の人は、少なくない。

 だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みな
が、自分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。

 このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、す
なおにさらけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。

 この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。
しかし自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、
好ましいということになる。

 自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」
を意識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入っ
てしまう。

 そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係して
いるのが、わかる。

 「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だか
ら私は絶対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさら
に肥大化し、その返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。

 自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、
自意識過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。

 むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきた
すようになる。こんなことがあった。

 A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君
が混乱状態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B
君の顔は、どこかひきつっていた。

 そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたり
がり屋で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。

 そこで自己診断。

 つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。

(  )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
(  )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
(  )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
    何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
(  )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
    の期待に答える義務がある。
(  )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
    まちがっている。
(  )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
(  )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
    のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
    がある。

 ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人
とみてよい。

 反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることが
できる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけ
たとする。

 その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そ
うね」と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的
に、自意識の過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立
することになる。あとは、この悪循環。

 自意識も、ほどほどに……ということになる。
(はやし浩司 自意識 自意識過剰)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑学・あれこれ】

++++++++++++++++++++++

最近知った、雑学を、いくつかまとめてみた。

++++++++++++++++++++++

●寿司のおいしさは、何と言っても、米

 寿司のおいしさは、何といっても、米で決まるという。しかしブランド米だけでは、ま
ずい。そこでおいしい寿司屋では、ブランド米であるのは、もちろんのことだが、粘り気
のある米とそうでない米を混ぜて使うそうだ。

 つぎにポイントは、ネタ。どこか水っぽさを感じたら、解凍したネタと考えてよいとの
こと。解凍も、じょうずにやれば、水っぽさは消えるという。しかしあわてて解凍したり
すると、水っぽくなる。

 ほかに、醤油、ワサビの味をみて、決める。


●ファースト・フード店では、ランチ1本

 最近では、ファースト・フード店でも、価格破壊が起きている。ハンバーグランチなど
では、スープ付で、360〜380円という店もある。おまけに帰りには、ドリンクの無
料券までつけてくれるところまである。

 しかしこれでは、店は、もうかるはずがない。そこで料理の量をやや少なめにして、ほ
かのものを、客に注文させるようにする。その一つが、デザート。店員は、注文をとると
き、「デザートは、どうなさいますか?」と聞く。ランチのほうで割安感があるため、「で
は……」といって、デザートを注文する人が、多い。

 が、このデザートが曲者(くせもの)。値段的には、280円とか、290円とか、どこ
か中途半端な値段。ランチよりは、安いが、合計すれば、700〜800円。ふつうの値
段になってしまう。

 こうして店は、何とか、利益を出そうとする。だからある母親は、こう言った。「ファー
スト・フード店では、余計なものは注文しないこと」と。


●格安チケットの盲点

 このところ、飛行機事故がふえてきた。安いから、いいだろうと思って、格安チケット
を買うと、あとで、泣きをみることになる。

 たとえば事故にあったとき、航空会社によって、支払われる補償金は、みな、ちがうと
いう。日本の航空会社のばあいは、補償金の限度額を撤廃している。国際線のみならず、
国内線も、である。

 だからその人の(価値)に応じて、ばあいによっては、1億円とか2億円とかいう補償
金が支払われる。

 が、アジア各国の航空会社の中には、1500万円以下というところもあるそうだ。さ
らに中には、300万円以下というところもあるそうだ。「安いからいい……」などと言っ
て、格安チケットを買うのも、考えものである。

 で、絶対に乗ってはいけない航空会社が、あのK国のK航空。今度、フランス上空を飛
ぶことさえ、禁止された。K航空に乗って死んでも、補償金は、一円も出ない……らしい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●雑学の重要さ

 こうした雑学には、重要な意味がある。雑学に興味をもつことで、それまで刺激を受け
たことがない脳みその、別の部分が、刺激を受ける。内容はともかくも、刺激を受けるこ
とが重要なのだ!

 ここに書いた、米のねばり、ファースト・フードのデザート、さらには、命の値段につ
いても、それぞれ調べてみたら、おもしろいテーマである。実益はないが、脳みその中に、
ある種の広がりを、作ってくれる。

 反対に、この(広がり)のない人を見ると、その(広がり)の大切さが、わかる。いつ
も取りあげるテーマは同じ。話す内容も、考える内容も、これまた同じ。そういう人は、
少なくない。

 そういう人と話していると、実に薄っぺらい感じがする。しかも情報といっても、脳の
表面に飛来する情報を、思いついたまま、そのまま口にしているだけ。

 では、こういうカベを破るには、どうしたらよいのか? 自分がそうならないためには、
どうしたらよいのか? 年をとればとるほど、生活範囲が狭くなる。しかしこれはとても、
危険なことである。そこで……。

 一つの方法は、自分で、調べるということ。

 で、さっそく、私も、調べてみることにした。

(1)米のねばり

 清酒を製造している、N盛のHPには、こうある。

「お米は、粘り、柔らかさ、見た目、香りと甘さが、大切な基準。特に粘りと甘さが、
美味しさのポイントで、料理に合ったごはんが実現されます。炊きあがりの食味に関
しても、コシヒカリ、あきたこまち等、銘柄ごとの食味特性を活かした組みあわせに
よる新食感が、高価格米の食感を上回ることもあります」と。

 重要なのは、ねばりと甘さだそうだ。しかも風説のように、ブランド米を、ブレンドす
ると、おいしい米になるという。

 そこでそうしたねばりや、甘さは、どうすればわかるのか。

 さらに調べてみると、ねばりを決めるのは、でんぷんの質ということがわかった。その
でんぷんには、ねばりの少ない、アミロースというものが、あるそうだ(農業研究センタ
ー)。つまりアミロースが少なければ、少ないほど、その米は、ねばりをもった米というこ
とになる。

 そこで最近では、遺伝子工学なども使って、低アミロースの米も作られるようになった
という。「ミルキークイーン」という品種も、その一つ。

 簡単な見分け方があるそうだ(同、センター)。

 低アミロースの米は、玄米の段階で、白く、濁っているそうだ。同センターのHPには、
その比較写真が載せられている。

http://nics.naro.affrc.go.jp/ine/ineiku/MQ&MP/milky.htm

 素人の感覚では、透明でガラスのように透きとおった米のほうが、高級で、おいしそう
に見えるものだが、実は、そうではないらしい。今度、ショッピングセンターへ行ったら、
このあたりをポイントにして、米を選んでみたい。

 みなさん、米は、低アミロースのものを、選ぶんですよ!


(2)ファースト・フード

 ほとんどのファースト・フード店は、チェーン化している。同じ名前の店なら、全国ど
こへ行っても、ほぼ、同じものを食べることができる。

 しかし最近では、……といっても、もう20年近く前から常識だが、個人のレストラン
でも、食材は、専門の食材会社から手に入れている。そのほうが、手間もはぶける。値段
も安い。安定した「味」を、客に提供することができる。

 たとえば、そのころ私が、いつも行っていたレストランのカレーライスは、いつも同じ
味だった。つまりそのレストランでは、どこかで仕入れてきたカレーライスを、温め、客
の私たちに出していた。

 結構、おいしかったが、ある日、突然、味が変わった。色も変わった。ほかのメニュー
も、すべて、だ。あとでわかったが、そのときそのレストランは、それまでの取り引き先
を、A社からB社に変えた。

 ファースト・フード店では、こうした方式で、全国のチェーンのレストランを統括して
いる。味も研究しつくしている。値段も、1円単位で、計算している。だから、360〜
380円という、ランチも可能、ということになる。

 しかしそのねらいは、何なのか。まさかボランティアで、そうしているわけではないだ
ろう。何かしらの(利益)があるから、そうしているにちがいない。

 仮に1食売って、100円の純利益があがったところで、100人で、たったの1万円。
忙しさを考えたら、とてもできる仕事ではない。

 これについては、今度、近くのレストランへ行ったら、徹底的に研究してみたい。

(3)交通安全協会費

 ここまで書いて、昨日、ワイフが、話題にしたことを思い出した。格安チケットの話は、
また別の機会に考えることにして、ここでは、あの交通安全協会費について考えてみる。

 私たちが、免許証の更新に行くと、窓口の女性が、こう言う。「交通安全協会費は、どう
しますか?」と。

 しかしあの交通安全協会費ほど、あやしげな費用もない。それが、つい先日、NHKテ
レビの報道番組の中で、話題として、取りあげられたという。で、私が思ったとおり、県
によっては、窓口の女性のノルマ制になっているところもあるという。ナルホド!

 その上、あの交通安全協会は、警察官たちの、もっとも重要な天下り先機関にもなって
いるという。いろいろそのウラには、私たちが知らないカラクリがあるらしい。

 つぎの原稿は、2年ほど前に書いた原稿である。

++++++++++++++++

●免許証の更新

 今日(10・13)、警察署へ行って、免許証の更新をしてきた。そこでおもしろいこと
に気がついた。

 受けつけで手続きをすませると、最初に、更新料金を徴収される。そのとき、同時に、
交通安全協会費というのを、やんわりと請求される。「やんわりと」だ。

 この交通安全協会費(年額400円、5年分で2000円)は、強制ではない。払いた
くなければ、払わなくてもよい。

 その様子を見ていたときのこと。窓口の女性の表情が、払う人に対してと、払わない人
に対してとでは、かなり露骨に変化するのだ。

 その女性が、交通安全協会費を請求する。そのとき、気前よく支払いに応じた人には、
その女性は、そのまま笑顔を絶やさない。しかしそれを断ったりすると、ムッとした表情
になる。態度そのものが、ぞんざいになる。

 私は、その様子を見て、「この女性は、すばらしい女性だ」と思った。そのことを横にい
たワイフに話すと、「どうして?」と。

私「いいか、その女性は、公務員だ。免許証を更新にきた人が、協力費を払っても、払わ
なくても、自分の給料には、関係ないはず。だったら、協力費を払っても、払わなくても、
同じこと。

 しかしあの女性は、払う人には、笑顔を、払わない人には、一瞬、ムッとして見せる。
ぼくは、自分の職業にああまで、心をこめて仕事をしている公務員を、見たことがない」

ワイフ「だからね、あなた、あの窓口には、いちばん笑顔の美しい女性を置いているのよ。
美人に、『いかがいたしますか?』と言われば、みんな断れないでしょう?」
私「そうだな。ぼくは、断ってみようか。どんな表情をするか、楽しみだな」
ワイフ「そうね、私、あの女性が、どんな顔をするか、よく見てみるわ」と。

 やがて私の整理番号が呼ばれた。そして前の人たちと同じように、「更新料は、xx00
円です。で、協力費はいかがしましょうか。年額400円です」と告げられた。

私「で、いくらですか?」
女性「400円です」
私「400円ですか?」
女性「5年分で、2000円です」
私「断ります」と。

 そのときその女性は、私にも、ムッとした表情をして見せた。露骨な変化だった。書類
の置き方も、どこか投げやり的な感じがした。

 席にもどると、すかさずワイフが、「やっぱり、態度が変わったわねエ」と。

私「だろ……。そうなんだよな。あの女性は、明らかに、警察署の収入を考えている。あ
あいう職業意識をもっている人は、こういう世界では、珍しいよ」
ワイフ「私は、そうは思わないは……」
私「どういうこと?」
ワイフ「きっとノルマになっているのよ。野球の打率みたいにね。Aさんのときは、承諾
率、56%。Bさんのときは、74%。だからBさんの勝ち。Bさんのボーナスは、10%
アップとか……。きっと、そうなっているのよ」
私「そうかもしれないな」と。

 もちろん内部のことは、私にはわからない。そうであるかもしれないし、そうでないか
もしれない。しかし、さすが、ワイフ。女性の心理を読むのが、ス・ル・ド・イ。

 どちらにせよ、私は、今年はじめて、あの交通安全協会費というのを、断った。このS
県でも、警察署ぐるみの、裏金づくり事件が発生している。それに、どうも、あのお金の
使われ方が、よくわからない。あくまでも聞いた話だが、道路わきに立てる安全標識にし
ても、一本、百数十万円もの費用がかかっているそうだ(週刊誌などの記事)。

 一本、百数十万円だぞ!

 そういう標識が、私の家の周辺だけでも、数本。道路ごとに、やはり数本ずつ立ってい
る。ほとんど、車など、通らないのに道路なのに! それもほとんど意味のない標識ばか
り。「シルバーゾーン」「歩行者優先」「いたわりゾーン」とか。まわりは雑草のはえる荒地
ばかりなのに、「駐車禁止」の標識や、「一旦停車」の標識も立っている。(明日にでも、写
真をとってこよう※。)

 ……という反発心が心のどこかにあったから、すんなりと支払いを断ることができた。
心のどこかに、「払っておけばよかったな」という思いもあったが……。

 帰りに、警察署の近くのレストランにより、そこで食事をした。予算は、2000円。
結構、おいしい料理を食べることができた。

注※……今、調べてきたら、うちの角だけでも、バックミラーも含めて、9本も立ってい
た。9本だぞ! 証拠の写真は、HTML版のほうで紹介。それにしても、多すぎる! こ
ういう標識1本が、120〜30万円とか。ざっと計算しても、この写真にある分だけで、
1000万円以上! ゾーッ!)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●痴漢行為

+++++++++++++++

約3分の2の若い女性たちが、
電車の中で、痴漢行為を経験
しているという。

それについて……。

+++++++++++++++

 NHKのテレビ番組を見る。テーマは、「痴漢をどうやって、防ぐか」。

 ざっと見ただけだが、(したがって、記憶もあいまいだが……)、朝夕の通勤電車の中で、
痴漢行為の被害にあったことのある女性が、約3分の2もいるそうだ(東京都内)。

 番組は、NHKの司会者と、お笑いタレント、それに何人かのコメンテイターで、どこ
かおもしろおかしく、しかしどこか深刻さを漂わせながら、進行していった。が、私は、
その番組を見ながら、「?」を、あちこちで、感じた。

 その第一。司会者やタレントたちは、さも、「私たちは、絶対にそういうことをしません」
「したこともありません」という立場で、ものをしゃべっていた。立場上、それは当然だ
としても、しかし本当に、そうだろうか?

 私も男だから、男どうしの、というか、男のスケベ心を、本能的に、かぎ分けることが
できる。そういう目で見たとき、司会者はともかくも、番組の中に出てきた男たちについ
て、ふと、私は、こう思った。「自分でも、やってるんじゃ、ないの?」と。

 理由がある。

 3分の2という数字は、何も、被害者の女性だけの数だけではない。単純に、ごく単純
に、この数字を見れば、反対に、約3分の2の男性が、痴漢行為をしているということに
もなる。(実際には、1人の痴漢が、毎日、何人もの女性を相手に痴漢行為を働いていると
考えたほうがよい。)

 しかし痴漢行為をする人と、痴漢行為をしない人の間に、はっきりとしたカベがあるわ
けではない。「私は痴漢行為をしない」と言う人でも、「してみたい」「機会さえあればして
みたい」「頭の中では、想像したことがある」という人となると、いくらでもいる。(……
と思う。)

 (思い)と(実際の行動)との間には、距離がある。その距離を作るのが、倫理であり、
道徳ということになる。しかしその距離は、個人によって、みな、ちがう。この世界には、
絶対的な悪人はいない。同時に、絶対的な善人もいない。いわゆる灰色ゾーンで、うごめ
いている人となると、いくらもいる。ほとんどの男が、そうではないか。

 性欲というのは、そういうもの。

 私も仕事で、よく東京に行く。朝のラッシュアワーは避けるが、それでも、混雑した電
車に乗りあわせることがある。

 夏場ともなると、目のやり場のない服装の女性が、多くなる。あらわにむきだした、腕
や胸。薄いシャツに、スカート。正常な人間なら、だれでも、ムラムラと欲情を覚える。
覚えて当然。

 そういうとき、ここに書いた、(思い)と(実際の行動)のはざまで、男の心理は、微妙
に、動揺する。胸を上から、のぞいてみたい。スカートの下から、のぞいてみたい……。

 しかしそう(思う)ことが、どうして悪いことなのか。そういう(思い)は、私を超え
た、本能の(思い)である。その(思い)があるからこそ、人間は、この何十万年もの間、
生き延びてくることができた。

 そこで(実際の行動)ということになる。それをするかしないかは、その人の倫理観や
道徳観による。しかしそうした倫理観や道徳観といったものは、その人自身の内部から、
わき出てくるもの。そういうことをしそうな人は、いかにも、そういうことをしそうな雰
囲気を漂わせている。そうでない人は、そうでない。

 そういう目で見ると、番組に出てきた男性の中には、いかにも、そういうことをしてい
そうな人も、何人か、いた。いかにも、低劣。低俗。「善人ぶってはいるが、ただ化けてい
るだけ」と。中には、「被害者の女性の立場で考えると、卑劣な行為としか言いようがない」
というようなことを言っていた人もいた。

 たしかに卑劣な行為だが、問題の根本は、痴漢行為にあるのではない。問題の根本は、
体をギシギシにすり合わせなければ乗れない、電車そのものにある。満員電車そのものに、
ある。そういう状況を一方で、放置しておいて、何が、痴漢だ!

 話は変わるが、たとえば道路に万札がぎっしりと入ったサイフが落ちていたとする。あ
たりには、だれもいない。夜の道だ。

 そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。テレビの司会者なら、(みんながテレビ
を見ているという手前上)、「交番へ届けます」と、シャーシャーと言うだろう。しかし実
際には、どうだろうか? 本当に、交番へ届けるだろうか。

 私は、人間の心というものを、あまり信用していない。よい例が、あのドイツだ。ゲー
テや、シラー、ベートーベンを生み出したあのドイツですら、そのあと、ユダヤ人の大虐
殺をしている。「日本人は、平和を愛する民族だから、ドイツ人がしたようなことはしない」
と言うのは、どうか? 本当に、そうか? そう、言い切れるか? 戦時中、日本軍は、
満州で、そのナチスドイツの残虐行為に、まさるとも劣らないほどの残虐行為を繰りかえ
していた。

 話をもどす。

 こうした番組を見ていて不愉快なのは、登場してくる人たちはみな、「私だけは善人です」
「そういう痴漢行為には興味はありません」と、さも言いたげな顔をしているということ。
もう一歩、ほりさげて、「私もしてみたいと思ったことがある」「しかし私にはできない」
というような議論があれば、それなりに私も納得しただろう。

 が、そういう話は、いっさい、出てこなかった。

 そこで、重要なことは、「どうすれば、痴漢行為を防げるか」ではなく、「どうすれば、
自分の行為にブレーキをかけることができるか」だ。その方法を論じたほうが、はるかに
生産的である。

 で、防ぐ方法など、簡単。

(1)体が触れあうような満員電車は、なくせばよい。
(2)電車の内部に、監視カメラを、無数に設置すればよい。
(3)男女別の車体を、厳格に分け、もっとふやせばよい。

 最後に、私は言いたい。痴漢行為を非難するのは、簡単。私にだってできる。しかし、
だれが、そういう痴漢を、石持て、打てるのか? もし、そういう痴漢行為には興味があ
りませんという男がいたら、本当に男かどうか、まず疑ってみたほうが、よい。

【追記】

 (思い)と(実際の行為)を、へだてるのは、その人がもつ、倫理であり、道徳である。
その距離感のある人を、善人といい、ない人を、悪人という。その倫理や道徳は、日々の
絶えまない研鑽(けんさん)のみによって、つくられる。

 それは健康論に似ている。究極の健康法などといったものはない。その健康法を実践し
たから、生涯にわたって健康ということは、ありえない。健康は、日々の絶えまない、運
動によってのみ、つくられる。立ち止まったそのときから、その人は、病気に向って、ま
っしぐらに進んでいく。

 同じように、倫理や道徳にしても、立ち止まったとたん、そのときを境に、後退してい
く。よく「私は悟りを開いた」などと言う人がいる。本来、そんなことは、ありえない。
究極の健康法などないのと同じように、究極の悟りの境地など、ない。

 だからあの釈迦は、「精進」という言葉を使った。「人間は死ぬまで、前に進むのだ」と。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●杉原千畝副領事のビザ発給事件

 1940年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチス
の迫害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人6000人に対して、ビザ(査証)
を発給した。

これに対して1985年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えら
れる勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された(郵政省発行
20世紀デザイン切手第9集より)。

 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、1100万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、ア
ウシュビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、400万人
ものユダヤ人が虐殺されたとされる。

杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起きたものだが、日本人は
この事件を、戦時中を飾る美談としてとらえる。郵政省発行の記念切手にもなっている
ことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとって
は偽善そのものと言ってよい。

 当時日本とドイツは、日独防共協定(1936年)、日独伊防共協定(37年)を結んだ
あと、日独伊三国同盟(40年)を結んでいる。こうした流れからもわかるように、杉原
副領事のした行為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同
盟の協定違反の疑いすらある。

いや、だからといって、私は杉原副領事のした行為がまちがっているというのではない。
問題は、その先と言ったらといのか、その中味である。日本人は今になって、善人のふ
りをしているが、当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になっ
ても、その体質はほとんど変わっていない。

 もし仮にこの日本に、100万人単位の外国人不法入国者がやってくるようになったと
しよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日本の経済を動かすまでに
なったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼びこみ、日本の人口の何割かを占め
るようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし始めた
としよう。

もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼らは日
本には同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと
払わない……。そのとき、あなたはどうする? あなた自身のこととして考えてみてほ
しい。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。

ヒットラーが政権を取ったころのドイツは、まさにそういう状況だった。つまり私が言
いたいことは、あのゲーテやシラー、さらにはベートーベンまで生んだドイツですら、
狂った。この日本が狂わないという保証はどこにもない。現に2000年の夏、東京都
のI都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。そして具体的に自衛隊を使った、
総合(治安)防災訓練までしている(2000年9月)。石原都知事のような文化人です
ら、そうなのだから、いわんや我々をや。

 ついでながらI都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。
「日本人に『我々』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。日本が杉原
副知事をたたえるのは、あくまでも結果論。どうもすっきりしない。石原都知事の発言は、
「自分たち日本人も、外国で迫害されても文句は言いませんよ」と言っているの等しい。

 杉原千畝副領事のした行為は、歴史に残る美談になった。しかしだからといって、日本
人が犯した罪が、それで清算されるわけではない。しかし日本人は、自分たちのしたこと
はさておいて、こうした美談にしがみつくことにより、自分たちの罪を、どこかへ葬り去
ろうとする。

 杉原千畝副領事の生まれ故郷には、杉原千畝副領事の銅像まで建てられたという。しか
し、そうしたたたえ方そのものが、私には、どうも偽善にしか思えない。もし杉原千畝副
領事が生きていたら、彼は、それについて、何と言うだろうか。多分、杉原千畝副領事な
ら、こう言うだろう。

 「やめてくれ! 私は、ただ、見るにみかねて、そうしただけだ」と。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●涼しくなった!

 涼しくなった! 快適だ! ハハハ!

 先ほど、ちょいと昼寝をしたため、少し頭が痛かったが、簡単な頭痛薬でなおった。原
稿がスイスイと書ける。この喜び。楽しさ。

 で、いろいろ考える。

 まず、群馬県に住んでいる、Mさんのこと。義理の父親が、かなり権威主義的な人で、
Mさんは、かなり困り果てているらしい。しかし年齢を聞くと、その父親は、もうすぐ8
0歳とか。そういう人は、相手にしないほうがよい。

 脳細胞の何割かが、死滅しているとみてよい。脳梗塞をしたこともあるというのなら、
なおさら。私も、いろいろな人と議論はするが、基本的には、60歳を過ぎた人とは、議
論など、しない。しても意味がない。

 つぎに考えるのは、これから山荘に行くこと。草刈り機が故障してしまった。それをな
おさねばならない。新しく買うと、2万円前後もかかる。今月は、もうこれ以上予算が、
ない。……しかし、秋になったというのに、草だけは、まだのびる。

 そうそうMさんへ……。

 もっと、本音で生きなさい。いやだったら、いやだと言えばいい。私は、そうしている。
たとえばこうして毎日、原稿を書いているが、心のどこかでその人を思い浮かべながら、
その人を批判したような文章を書いたときは、もう、その人とは、交際しない。儀礼的な
交際をするとしても、最小限。

 それを、Mさんは、毎日、ごまかしながら、生きている。地域性もあるのでしょうが、
私なら、もうごめん。自分の人生に、かぎりが見えてきた。みんなにいい顔はできない。
いい顔をしても、意味がない。

 「ぼくのことを悪く思いたければ、思えばいい」と。知ったことではない。

 それにしても、人を接待するのも、たいへん。

 私もときどき、山荘へ人を招待するが、本当に親しい人だけにしている。とくに50歳
以上の男たちは、何も、手伝ってくれない。たまの土日で、接待をすることで、かえって、
疲労感が倍化してしまう。

 料理に、風呂の用意。ふとんに、寝具。その間にも、茶を出したり、お菓子を出したり。
客が帰ってからも、掃除に洗濯。あと片づけ。

 Mさんは、よくやりますね。ホント!

 私も、自分でそれがわかるようになってからは、どこへ行っても、そこでの家事は、す
べて手伝うことにしている。決して、客になってはいけない。そう思う。

 Mさんのように、仕事をもっている主婦のところへ、休みにやってきて、寝泊りする人
の神経って、いったい、どんな神経なのでしょうか。かまわないから、追い出しなさい。

 「今日は、お帰りください」と。

 本音で生きるということは、そういうこと。それができないから、Mさんは、今日もま
た、悩む。苦しむ。

 それにしても、Mさんの義理の父親もたいへんですね。私の親類にも、そっくりの人が
います。まあ、無視して、生きるしかないですね。私は、そうしています。

 ……つぎに考えることは、やはり、ビデオ編集のこと。さきほど、ワイフと外出したお
り、佐鳴湖の写真をとってきた。

 まぶしいほど、青と緑が、美しかった。それを写真にとった。ビデオにも、収めた。そ
して先ほど、編集を終え、TUBE社のフリー・ストリ−ミングに、アップロードした。
読者のみなさんには、私のHPから、見ていただけるようにした。

 「佐鳴湖って、すばらしい」と思ってもらえれば、うれしい。

 そうそう、まったく関係のないことだが、今年は、クリが大豊作。あと、1、2週間も
すると、収穫できる。楽しみ!


**********以上、最前線の子育て論byはやし浩司850*********
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よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
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よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 7日(No.633)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page018.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BWきょうしつから】

 3人のドラエもんを描いた紙と、4人のドラエもんを描いた紙を、子どもたち(年長児)
に、同時に、見せる。見せながら、こう質問する。

私「あわせて、ドラエもんは、何人ですか?」と。

 すると、いつもはあまり手をあげない、A子さんが、「ハイ!」と言って、手をあげた。

私「A子さん!」
A「6人!」
私「すばらしい! よくできました!」と。

 すると、ほかの子どもたちが不満そうな顔をしながら、「先生〜。7人だよ……」と。

 そこで私は、こう言う。

 「いいの、6人で。だいたい合っていあれば、BW(私の教室)では、いいの。6人でも、
7人でも、そんなにちがわないだろ?」

 そのやり取りを、心配そうに見ていたA子さんが、小さな声で、こう言った。

A「やっぱり、7人……」
私「そう、7人だった……? じゃあさア、みんなで、いっしょに数えてみようよ」と。

 そこで私が、1、2、3、4、5、6と、わざと、1人とばして、数える。

私「ネッ、やっぱり、6人だよ」と。

 すると、教室は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。「先生、ずるい!」「7人だ!」
「1人、とばした!」と。

 そこで私はとぼけて、「そうだった……? じゃあ、もう一度、数えてみようね。わかっ
たア?」と。

 1、2、3、4、5、6、7……。「ハハハ、やっぱり、7人じゃないかア。だれだア、
6人と言ったのはア?」と。

子どもたち「先生だア」「まちがえたのは、先生だア!」
私「ぼくじゃないよ。ぼくは、最初から、7人と言ったよ」
子どもたち「ウソだ。先生は、6人と言ったよ」
私「あのね、先生が、こんな問題、まちがえるわけがないだろ。ぼくは、最初から7人っ
て、言ったよ。ぼくは、先生だよ」
子どもたち「ウソだ」「ウソだ」と。

私「わかった。じゃあ、ちょっと待ってね。計算機で計算してみるから……」
子「計算機なんか使わなくても、わかるよ」
私「年をとるとね、みんな、計算機を使うの。わかる?」と。

 そこで計算機を取りだして、パチパチと、計算をするフリをする。

私「あれっ、これ、ハリー・ペッターの計算機だよ。グリフィンドール、ホグワァーツっ
て、書いてあるよ」
子「ハリー・ペッターじゃなくて、パリー・ポッターだよ」
私「魔法の計算機だよ。みんなの未来が、わかるよ」

子「ぼくの、未来を調べてよ!」
私「いいよ……。で、君の名前は、エエ〜と。ヤマダ・タロウ……ね。山田太郎君の30
年後は……」

 パチパチと計算機をいじる。

私「すごい、すごい。君は、日本一の科学者になっているよ。30年後の今日は、アメリ
カのワシントンの学会で、研究を発表しているよ」と。

 すると、みなが、「私も、調べて」「私も……」と言い出す。

 みなの未来を、それぞれ計算してみせる。

私「で、エート、最後に、ぼくの20年後を計算してみるね……」
子どもたち「フフフ……」
私「はやし・ひろし(パチパチ)の……20年後は……ええと……。ワーッ!!!」
子どもたち「どうしたの、先生?」
私「ワーッ!!! こんなのひどい!」
子どもたち「どうしたの?」
私「言えない」

子どもたち「言ってよ!」「言え!」

私(泣きまねをしながら)、「クスン、……20年後の林 浩司はね、クソじじいになって、
死んでいるって」と。

 子どもたち、みな、うれしそうに、笑う。ゲラゲラと大声で、笑う。

 ……こうして、BWの時は、流れる。いつものように……。それが私の教え方。

 しかし少し前、同じようなレッスンをしたときのこと。そのあと、こう言った女の子が
いた。

 「あんた、それでも、先生?」と。そういうこともある。

【コツ】

●おとなの優位性を、子どもたちに押しつけてはいけない。
●子どもに、いつも自信をもたせる。
●まちがえても、まちがえたというマイナスの意識をもたせない。
●子どもたちには、いつも、言いたいことを言わせる。
●頭の中を、いつも、興奮状態にさせる。
●未来に、いつも明るい希望をもたせるようにする。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家族自我群による幻惑(板ばさみ)】

+++++++++++++++++++

なぜ、親子関係は、特殊なのか。
独特の親意識は、なぜ、生まれるのか。
独特の子意識は、なぜ、生まれるのか。
そしてその意識の中で、なぜ、親は苦しみ、
子は、苦しむのか?

+++++++++++++++++++

●敏感期をとおしてなされる、刷り込み(インプリンティング)

 家族であるということにより、人は、生まれながらにして、特殊な意識を、いわば本能
に近い形で、脳の中に、刷り込まれる。人間にも、鳥類に似た、刷り込み(インプリンテ
ィング)があることが、最近の研究でも、わかってきた。この刷り込みのなされる時期を、
「敏感期」と呼んでいる。

 こうして親子の間には、本能に近い関係ができあがる。「切っても、切れない関係」が、
できあがる。

 しかしここで誤解していけない点は、2つある。

(1)刷り込みによってできる人間関係は、あくまでも子どもの側から、親に対してのも
のであるということ。(これに対して、同時期を通して、親側にも、同じような刷り込みが
なされるという説もある。)

 少なくとも、コンラット・ローレンツが発見した、刷り込みというのは、そういうもの
である。最初に聞いた、音を、自分の親の声と思い込んだり、最初に見たモノ(生き物で
なくてもよい)を、自分の親と思い込んだりする。

 この刷り込みをとおして、子どもは、自分の親を、絶対的な存在としてとらえるように
なる。が、親側にも、それと同じだけの刷り込みがなされるとはかぎらない。わかりやす
く言えば、子どもが親を絶対的と思うほど、親は、子どもを絶対的と思うということはな
いということ。

 親なしでは、子どもは生きていかれないが、「親だから、子どもを愛しているはず」とい
う常識(?)は、あくまでも、一般論にすぎない。

 この意識のズレが、さまざまな問題の原因となることがある。あとに書く、ある息子の
話が、その一つである。

(2)こうした刷り込みがなされるためには、ごく平均的な、育児環境が必要不可欠であ
るということ。刷り込みがなされる段階で、親側に、育児拒否、冷淡、無視、愛情不足、
家庭騒動などがあると、刷り込みそのものが、じゅうぶん、なされないことがある。

 「子どもだから、親のことを慕っているはず」という常識も、あくまでも、一般論にす
ぎない。

●強烈な幻惑

 こうしてなされる刷り込みには、強烈なものがある。ここに書いた、「本能に近い関係」
というのは、それをいう。

 一度、その刷り込みがなされると、その人は、「子」として、生涯にわたって、がんじが
らめに拘束される。こうした「自我意識」を総合して、「家族自我群」という。

もちろん親子関係が、それなりに良好であれば、問題はない。ベタベタの親子関係であ
ろうが、あるいはまた淡白な親子関係であろうが、それはそれとして、家族自我群は、
家族をまとめ、団結させる原動力となる。

 しかしひとたび、親子関係が変調してくると、こんどは、その家族自我群が、その親子
(とくに子ども)を、苦しめる元凶となる。子どもは、悶々とした苦しみの中で、まさに
悶絶する。これを「幻惑」という。わかりやすく言えば、「板ばさみによる苦悩」というこ
とになる。

 こうした例は、多い。

 ある父親(65歳前後)には、収入がなかった。それで、ときおり息子(40歳前後)
の会社までやってきて、金をせびった。息子は、そのつど、いくらかの金を渡して、父親
を帰した。

 そこへ叔父(父親の弟)が、割って入ってきた。「子なら、ちゃんと親のめんどうをみろ」
と。

 しかしその息子には、それができなかった。その理由も、言えなかった。

 父親が一度、息子の家に泊まったときのこと。結婚して間もないころのことだった。父
親は、息子がいないときに、息子の妻(嫁)を、うしろから抱きあげ、レイプしてしまっ
た。息子が、妻(嫁)から、その話を聞いたのは、事件があってから、1年くらいたって
からのことだった。

 息子の妻(嫁)は妻で、自分にスキがあったことに、苦しんでいた。話せば話したで、
夫は不快な思いをするだろう。だから1年近くもだまっていた。が、その父親が、そのあ
とも、たびたび、息子の家に寝泊りするようになった。金もせびるようになった。それで、
ある夜、妻(嫁)は、意を決して、すべてを息子(夫)に話した。

 「あなたのお父さんだったから、抵抗できなかった……」と。

息子は息子で、その話を妻(嫁)から聞いたあと、毎晩、寝る前になると、熱にうなさ
れるような症状が出るようになった。苦しんだ。そういう状態が、10か月近く、つづ
いた。

 「他人なら、この野郎!、と殴って、しまいにすることができますが、親となると、そ
うはいきません。日中は、それを忘れていることができるのですが、夜になると、それを
思い出し、苦しみました」と。

 そうした事情も知らず、叔父は、息子に「親のめんどうをみろ」と。

●意外な展開

 その息子は、「母にだけは……」と思い、機会があれば、母にそのことを話すつもりでい
た。が、その日は、すぐやってきた。

 息子の実家が、台風で被害を受けた。かなりの補習費が必要になった。その大半を、負
担するように、母親が、息子に言ってきた。息子が30歳くらいのときのことだった。

 が、息子の実家への思いは、すでに消えていた。「被害を受けた部分を取り壊せばいい」
「家を半分の大きさにすればいい」と、息子は、主張した。が、これに対しても、叔父が
口をはさんできた。

 「先祖を守るのは、子孫の義務だ。実家の補習ひだ。借金をしてでも、金を出せ」と。

 しかしその息子は、その叔父との縁も、切りつつあった。叔父は、あちこちに多額の借
金をかかえていた。そのときすでに、隠し子(愛人との間にできた子)がいることも、周
知の事実になりつつあった。軽蔑すべき人間ではあっても、とても尊敬できる人間ではな
かった。

 そこで息子は、母親に、話した。

 「実は、妻の○○子が……、おやじに……」と。

 息子は、その話を聞いて母親が激怒するかと思った。父親に対して、だ。しかし母親の
反応は意外なものだった。

 母親は、息子にこう言った。「うちの父ちゃん(父親)が、そんなことするはずがない。
○○子さん(妻の名前)の、作り話に決まっている。○○子さんは、結婚したときから、
私や父ちゃん(夫)を嫌っていたから、そういうウソを平気で言う。そんな女なんかとは、
サッサと、離婚してしまいなさい!」と。

 その息子は、自分の中で、母親との関係も、音を出して崩れていくのを感じた。そこで
「そんなことを言うなら、ぼくは、母さんとの縁を切る」と迫った。が、母親は、こう言
って、高笑いしたという。

 「親子の縁などというものは、切れるもんじゃないのよ。切れるものなら、切ってごら
ん。ハハハ」と。

 その一言で、息子は、母親との縁を切った。

●母の死別

 それからさらに数年後。母親の死は、突然、やってきた。

 父親(息子の父親)が、二階の寝室へ行ってみると、母親は鏡台を前に、伏せたまま、
死んでいたという。くも膜下出血だったという。

 「その朝は、町内の会合があるとかで、化粧をするため、二階へあがっていきました。
なかなか下へおりてきないので、見に行ったら、もう死んでいました」と。

 あっけない死だった。

 が、その死が、これまた息子を苦しめた。家の改築費をしぶったことに合わせて、その
前の数年間、一度も、実家には帰っていなかった。それまでは、盆暮れには、必ず、実家
へ帰り、墓参りをしていた。

 息子は、自分が、母親を殺してしまったかのように、感じた。葬儀のときも、重く、暗
い気分が、悶々と息子の心をふさいだ。妻がレイプされた話を聞いて以来、精神安定剤は、
欠かせない薬になっていた。ときどき、うつ病の薬ものんでいた。

 そんな葬儀の席で、またあの叔父が、親戚の人たちを前にして、こう宣言した。息子の
了解など、まったく、なしに、だ。

 「これからは、この△△男(息子)が、父親と、この家のめんどうをみる!」と。そし
て繰りかえし、息子を、なじった。

 「お前は、盆にも正月にも、帰らなかったというではないか。この親不孝者め!」と。

 父親も、母親も、息子から、毎月、5〜8万円の仕送りを受けていることを、だれにも
話していなかった。もちろん、叔父にも。そのかわり、ことあるごとに、母親は、弱々し
い声で、叔父たちに泣き言を話していた。

 「私の両親というのは、そういう人です。お金もないのに、財産家ぶって、虚栄の世界
だけで生きてきたような人たちです」と。

●幻惑(板ばさみ)

 それでその息子の、幻惑が収まったわけではない。父親が生きている間は、その幻惑は、
悶々とつづく。

 それは恐ろしいほどの重圧感と言ってよい。息子は、こう言う。「この重苦しさは、それ
を経験したものでないと、わからないでしょうね。一日とて、気が晴れることはありませ
ん。その父親も、このところ、急速に足腰が弱くなってきました。それに、頭も少しボケ
てきました。

 施設に入れるといっても、まだ介護申請がとれないので、月に17〜8万円もかかりま
す。かといって、私の家に連れてくることもできません。妻は、おやじの顔を見ただけで、
体に震えを覚えると言っています。

 しかしあの実家に置いておくわけにもいきません。このところ、何かと、近所の人たち
に迷惑をかける事件もふえてきています。それで、お金がなくなると、今でも、会社の前
までやってきて、私に金をせびります」と。

 こうした幻惑、つまり、「親である……」「子である……」という、板ばさみ状況の中で、
もがき苦しんでいる人は、多い。本当に、多い。世の中の、何割かの家庭で、同じような
現象が起きていると言っても、過言ではない。

 しかしこれは「子」である、あなたの問題ではない。やがて「親」になる、あなたの問
題と考えたほうがよい。

 親は親であり、子は子である。しかしその親子関係で、重要なことは、親は親として、
いつか、子どもを、あなたがもつ家族自我群から解放してあげねばならないということ。
これは親の義務といってもよい。

 わかりやすく言えば、刷り込みに甘えてはいけない。いつまでも、ベタベタの親子関係
に甘えてはいけない。

 子どもがある年齢に達したら、子どもが、じょうずに親離れできるように、親のほうが、
それを促し、励ましてやらねばならない。そしてそれ以上に重要なことは、親は親として、
しかし親であることを忘れ、自立していかねばならない。

 でないと、結局は、家族自我群にせよ、幻惑にせよ、こうした「本能に近い関係」は、
子どもを苦しませることになる。
(はやし浩司 家族自我群 幻惑 刷り込み 敏感期)

【補足】

●刷り込み(インプリンティング)

 中学生が使う英語の教科書に、「インプリンティング(刷り込み)」の話が出ていた。オ
ーストリア人の動物学者のコンラット・ローレンツ(1973年にノーベル医学・生理学
賞受賞者)という学者の体験談である。

もう15年近く前のことだが、私は、それまでインプリンティングのことは、知らなか
った。最初に、「ほほう、そんなおもしろいことがあるのか」と感心しながら、辞書を調
べたのを覚えている。

 が、当時は、英語の辞書にも、その説明はなかったように思う。だから子どもたちには、
「そんなこともあるんだね」というような言い方で、教えていたと思う。

 刷り込み……アヒルやカモなど、孵化後、すぐ歩き始める鳥類は、最初に見たり、聞い
たりしたものを、親や、親の声だと思うようになるという。しかしその時期は、孵化後す
ぐから、24時間以内だという。その短時間の間に、脳の中に、刷り込まれるという。

 そしてここが重要だが、一度、その刷り込みが行われると、それ自体が、やりなおしが
きかなくなるという。だから「刷り込み」のことを、(やりなおしのきかない学習)と呼ぶ
学者もいる。その鳥は、生涯にわたって、その刷り込みに支配されるようになる。

 実は、人間にも、そういう刷り込みに似た現象が起きていることが、わかっている。生
後直後から、数週間の間だと、いわれている。「敏感期」と呼ばれる時期がそれである。新
生児は、生後直後から、この敏感期に入り、やがてすぐ、どの人が自分の親であるかを、
脳の中に刷り込むと言われている。

 が、それだけではない。その刷り込みと同じに考えてよいのかどうかはわからないが、
新生児特有の現象に、「アタッチメント(愛着)」がある。

 子どもは生まれるとすぐから、母親との間で、濃密な情愛行動を繰りかえしながら、愛
情の絆(きずな)を築く。アタッチメントという言葉は、イギリスの精神科医のボウルビ
ーが使い出した言葉である。

 しかし何らかの理由で、この愛着の形成に失敗すると、子どもには、さまざまな精神的、
肉体的な問題が起こるといわれている。ホスピタリズムも、その一つ。日本では、「施設児
症候群」と呼ばれている。

ホスピタリズムというのは、生後まもなくから、乳児院や養護施設など、親の手元を離
れて育てられた子どもに広く見られる、特有の症状をいう。

 このホスピタリズムには、つぎの10項目があるとされる(渋谷昌三「心理学辞典」・か
んき出版)。

(1)身体発育の不良
(2)知能の発達の遅れ
(3)情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4)社会的発達の遅滞
(5)神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、遺尿、夜泣き、かんしゃく)
(6)睡眠不良
(7)協調性の欠如
(8)自発性の欠如と依存性
(9)攻撃的傾向
(10)逃避的傾向

 親の育児拒否、冷淡、無視などが原因で、濃密な愛着を築くことに失敗した子どもも、
似たような症状を示す。そして一度、この時期に、子どもの心にキズをつけてしまうと、
そのキズは、一生の間、子どもの性癖となって残ってしまう。

 先に書いた刷り込みと、どこか似ている。つまり一度、そのころ心が形成されると、(や
りなおしのきかない学習)となって、その人を一生に渡って、支配する。

 ……と書くと、実は、この問題は、子どもの問題ではなく、私たちおとなの問題である
ことに気づく。その「やりなおしのきかないキズ」を負ったまま、おとなになった人は、
多い。言いかえると、私たちおとなの何割かは、新生児の時代につけられたキズを、その
まま、引きずっていることになる。

 たとえば今、あなたが、体が弱く、情緒が不安定で、人間関係に苦しみ、睡眠調整に苦
しんでいるなら、ひょっとしたら、その原因は、あなた自身というより、あなた自身の乳
幼児期にあるかもしれないということになる。

 さらに反対に、おとなになってからも、あなたの母親との濃密すぎるほどの絆(きずな)
に苦しんでいるなら、その絆は、あなたの乳幼児期につくられたということも考えられる。

 実は、私が話したいのは、この部分である。

 そうした(あなた)は、はたして(本当のあなた)かどうかということになる。

 少し前、(私)には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)がある
と書いた。もしあなたという人が、その新生児のころ作られたとするなら、その(作られ
た部分)は、(あなたであって、あなたでない部分)ということになる。

 仮に、あなたが、今、どこか冷淡で、どこか合理的で、どこか自分勝手だとしても、そ
れは(あなた)ではない。反対に、あなたが、今、心がやさしく、人情味に厚く、いつも
他人のことを考えているとしても、それも(あなた)ではないということになる。

 あなたは生まれてから、今に至るまで、まわりの人や環境の中で、今のあなたに作られ
てきた。……と、まあ、そういうふうに考えることもできる。

 このことには、二つの重要な意味が含まれる。

 一つは、だから、育児は重要だという考え方。もう一つは、では「私」とは何かという
問題である。

 かなり話が、三段跳びに飛躍してしまった感じがしないでもない。しかし子どもを知れ
ば知るほど、その奥深さに驚くことがある。ここにあげたのが、その一例ということにな
る。

 そこであなたの中の「私」を知るための、一つのヒントとして、あなた自身はどうだっ
たかを、ここで思いなおしてみるとよい。あなたの乳幼児期を知ることは、そのままあな
た自身を知る、一つの手がかりになる。

 まとまりのない原稿になってしまったので、ボツにしようかと考えたが、いつか再度、
この原稿は、書きなおしてみたいと思っている。それまで、今日は、この原稿で、ごめん!
(はやし浩司 アタッチメント ホスピタリズム 敏感期 刷り込み インプリンティン
グ 刷りこみ)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●Mさんへ

 コメント、ありがとうございました。

 ご心配なさるといけないので、コメントは、すべて削除しておきました。ご安心くださ
い。

 親意識(家父長意識)の強い人は、いつでもどこで、親風を吹かせます。ものの考え方
が、万事にわたって、権威主義的。200年前の江戸時代ならともかくも、今でも、その
亡霊は、あちこちに残っています。Mさんの、家も、そうです。

 で、実は、この浜松市にも、残っています。Mさんの住んでおられるG県よりは、ずっ
と開放的な町ですが、それでも、残っています。意識というのはそういうものですね。代々
と、親から子へと伝わってしまう……。

 いつか、だれかが、どこかでそれを切らないかぎり、つづいてしまいます。親意識の強
い人ほど、「親は絶対」というものの考え方をします。さらに言えば、「子は、親のためな
ら、犠牲になって当然」という考え方をします。そういう意識が、つづいてしまいます。

 こういう人たちは、「当然」というより、何も疑わないで、子どもに犠牲を強いてきます
よね。

 私のばあいも、母が、派手な冠婚葬祭や、法事をするたびに、貯金通帳が、カラになっ
てしまったのを覚えています。で、だれかに訴えたくても、その訴える相手が、いない。
叔父、叔母はもちろん、義兄、姉まで、同じように考えていますから。かえって、私のほ
うが、はじき飛ばされてしまいました。

 でもね、今でも、ときどき、こう思うことがあります。

 もし、ぼくも、あのまま、あの田舎に住んで、暮らしていたら、今ごろは、あの地域の
人たちと同じような価値観をもっていただろうな、とです。今ごろは、バリバリの親絶対
教の信者になっていたかもしれません。

 が、幸か不幸か、ぼくは、外の世界を見てしまった。そしてそのつど、意識のちがいと
いうか、その落差のちがいに、驚かされたというわけです。

 ただ、今、Mさんに言えることは、こういうことです。

 親であるにせよ、義理の親であるにせよ、親に対する幻想のようなものは、もう捨てな
さいということ。親といっても、ただの人間。自分が、その年齢になってみて、はじめて、
それがよくわかりました。

 「親だから、こうあってほしい」「親なら、こんなことはしないはず」「親だから、わか
ってくれるはず」と。

 こういう幻想をもちつづけるかぎり、結局は、親子の確執は、消えないだろうと思いま
す。

 私も、その幻想を消すのに、結構、苦労をしました。しかしあるとき、気がつきました。
「親だって、ただの人間ではないか」とです。ただの人間であることが悪いといっている
のではありませんよ。ただの人間でいいのです。それを美化したり、絶対化するから、話
がおかしくなる……。

 この日本では、年長者(年配者)イコール、人格的にも完成された人間と考える傾向が、
強いですね。しかしこれはまったくの、ウソ。どこか、アフリカの土着民族的、あるいは、
アメリカのインディアン的。日本も、今でこそ、見た目には、文明国の一員ですが、もと
を正せば、極東のアジアの島国。小さな小さな島の、土着民族。

 そんな小さな世界で、どこかまともでない、民族意識を、熟成させてしまった部分もな
いとは言えません。その一つが、冒頭に書いた、親意識(家父長意識)です。

 しかしまあ、こんな意識は、ぼくたちのつぎの世代では、姿を消すことになるでしょう。
日本人の意識も、ここ10年、ものすごい勢いで変わりつつあります。ものすごい勢いで
す。1、2年おきに、いろいろな調査結果が発表されますが、そのつど、私のほうが、驚
くくらいです。

 私は、こうした変化を、「意識革命」と呼んでいます。

 また、私の家も、同じような問題をかかえています。ほんの少しだけ、みなが、意識を
変えれば、もっと、何かにつけて楽になるはずなのに、古い価値観に固執するため、ムダ
なことで、みなが、苦しむ。そんな状態です。

 親意識の強い人は、どうしても、「家」にこだわりますから……。人間より、家のほうが、
大切なのですね。きっと……。今どき、先祖崇拝意識など……と、ぼくは思うのですが、
しかしご注意!

 この種の意識は、そのまま、その人の個人的な信仰とからんでいますから、それを否定
すると、たいへんなことになります。わかりやすく言うと、その人を否定することになり
かねません。

 だから、彼らは抵抗するでしょうね。もしそれを認めてしまうと、自分自身が、自己否
定の世界に入ってしまいますから。つまり、自分の一生を、棒に振ったことを知ることに
なってしまう。だから、死ぬまで、認めるわけにはいかないのです。

 だから、そっとしておいてやるしかないようです。相手の意識を変えようとしても、無
理。不可能。

 「そうです、そうです、そのとおりです」と言いながら、ぼくたちはぼくたちで、意識
を変えていく。そういう人たちを、反面教師にすればいいのです。しかしMさんも、たい
へんですね。同情します。

 またゆっくりと返事を書きます。昨晩から、風邪ぎみで、どうも調子が悪いです。今日
は、これでごめんなさい。

 ときどき、メールをくださるのですが、アドレスが一定しません。どこに返事を書いた
らよいのか、わかりません。「会社のパソコンにつながったら、たいへん」とか、「ご家族
の方に読まれたらたいへん」とか、考えているうちに、返事が遅れてしまいます。一度、
ご連絡ください。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●子どものウンチ

++++++++++++++++++

群馬県にお住まいの、Aさん(母親)から、
子ども(小3男児)のウンチについての
相談がありました。

それについて、考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++

【Aさんより、はやし浩司へ】

小学3年の息子について、相談します。下に、2歳ちがいの妹がいます。

息子のパンツにですが、1年程前から下着に、便がつくようになったのです。
それを見て、私も主人もつい強く叱ってしまい、
本人には、よほどショックだったと思います。

それ以来、トイレへ行きたくなってもガマンするようになって、
その結果また下着を汚す、といった感じです。

学校でも、授業中に行きたくなっても、ガマンし、下着にもらしてしまうようです。
何も言わずそのまま授業をしているようです。きっと臭いがしていたと思います。

家に帰ってきた時は、すごい臭いでしたので……。
それでも気持ち悪くないのか、着替えようともせず、
2階に行こうとしたので、引き止めたんです。

「なんでガマンするの!」「何度言ったらわかるの!」と、つい言ってしまいました。
今、考えたら、私に叱られるのがいやで、2階で着替えようとしていたんだと思います。

これまで息子には、「ガマンはよくない」「朝は出なくても必ずトイレに座りなさい」
「行きたくなったときは先生やママにちゃんといいなさい」などと、
話してきましたが、なおったと思ったチックも、また、少しでてきました。

お腹は弱いほうですが、下痢はあまりしません。
今日も下着を見たらやはり汚れていました。

息子は「いつでたのかわからない。気がついたら汚れてた」と言いました。

言い訳なのか、本当なのか・・・?

息子にどのように言ってあげればいいのでしょうか。
このままでは友達にも嫌がられないかと心配です。
どうかアドバイスをお願いします。

【はやし浩司より、Aさんへ】

 お子さんを、N君とします。

 私には、そのN君の、声なき悲鳴というか、悲しみが、よく理解できます。Aさん、あ
なたには、その悲鳴が聞こえますか?

 言いたいことも言えない。したいことも、できない。排便という、人間が一番、自由に
していいことさえ、できないでいるのです。

 トイレへ行きたかったら、「トイレへ行ってきます」ですむ話です。が、それさえも、N
君は、自分の中で押し殺してしまっています。

 ご相談の件は、あくまでも表面的な症状にすぎません。病気にたとえるなら、発熱のよ
うなものです。ですから「熱」だけをみて、それを何とかしようとしても、意味がありま
せん。病気など、なおるはずもないのです。

 つまりこの問題は、「根」が深いということです。最初に考えられるのは、下の子(妹)
が生まれたあとから始まった、愛情飢餓。それに端を発する、欲求不満。赤ちゃんがえり
もあったかもしれません。

 N君は、人知れず、あなたたち両親の気がつかないところで、たいへんさみしい思いを
していたはずです。

 はっきり言いましょう! ウンチなど、何でもないではないですか! パンツにウンチ
がついていても、どうして、それが悪いことなのですか? 臭くてもいいじゃ、ないです
か。

 授業中、便意をもよおしても、「トイレへ行きたい」と言うこともできず、がまんしてい
る子どもの苦しみが、あなたには、わかりますか? その子ども、つまり学校で、じゅう
ぶんすぎるほど苦しんだ子どもを、また家に帰ってきてから、親が叱る。

「ウンチをもらすことは悪いこと」……? どうしてそういう視点でしか、N君を見る
ことができないのか、私には理解できません。

 「あなたは、がまんしたのね。さぞかし、つらかったでしょうね」と、私なら、そう言
ってやりますよ。

 さらに、年齢的には、肛門期のしつけが、じゅうぶんでなかったことも考えられます。
ちょうどそのころ、下の子ども(妹)が生まれています。どこかで排便に対して、おおき
なわだかまり(固着)をもってしまったのかもしれません。

 実は、私も、子どものころ、自分の家で便をするのが、こわくてたまりませんでした。
家の中の一番奥の、暗いところにそれがありました。トイレの壁のシミが、私には、動い
ているように見えました。

 それを何度も、親に訴えたことがあるのですが、だれも、耳を貸してくれませんでした。
ですから私は、子どものころ、多分、4、5歳のときは、新聞紙を下に敷き、その上で、
便をしていました。トイレに対して、大きなわだかまりができたのは、そのころです。

 以来、トイレに関しては、神経質になりました。

 N君は、恐らく、人前では、仮面をかぶり、いい子ぶっていると思います。つまり無理
をしていると思います。基本的に、自分をすなおにさらけ出すことができないでいると思
います。大便の問題は、あくまでも、その一部でしかありません。

 そこでこうしてみてください。

(1)大便の問題は、一度、学校の担任の先生に、よく相談してみる。そのつど、声をか
けてもらうようにする。先生の協力を、とりつける。

(2)子どもの欲求不満に準じて考え、スキンシップを濃厚にして、暖かい愛情で、もう
一度、N君を包んであげる。

(3)で、ここが重要ですが、「叱らない」こと。子ども自身の判断力を超えた問題につい
ては、子どもを叱らないのが、大鉄則です。叱ってもなおりませんし、叱れば、かえって
逆効果です。

 先にも書いたように、「がまんして、つらかったでしょう」と、子どもの立場で、なぐさ
めてあげます。そしてあとは、「暖かい無視」に、こころがけます。「臭い」とか、「嫌われ
る」とかいう言葉は、禁句です。そうした言葉は、古傷に、塩を塗りこむようなものです。

 (学校で悪い点数を取ってきた子どもを、叱るようなものです。さんざん、いやな思い
をしてきたのに、また家に帰って、親に叱られる……。それがわからなければ、こういう
状況を考えてみてください。

 あなたの夫が、会社でヘマをした。上司に、叱られた。いやな思いをして家に帰ったら、
また妻にガミガミ言われた……。私なら、そんな家なら、逃げ出してしまうでしょうね。)

 なお、もう一つ、疑ってみるべきは、なぜ、あなたがこうまでN君に対して、神経質に
なっているかということ。結婚当初、出産当初に、何か、わだかまりをつくるようなこと
はありませんでしたか? 子育てをゆがめるほど、大きな、わだかまりです。一度、あな
たの心の中をのぞいてみてください。それが不安先行型、心配先行型の子育てになったと
も考えられます。現在の過関心、神経質な子育ては、そのあたりから生まれています。

 で、それに気がつけばよいです。気がつけば、あとは時間が解決してくれます。

 ただ年齢的には、N君は、これから先も、今のままでいくと思います。なおそうといっ
ても、簡単には、なおらないということ。これから先、N君は、自分の仮面に、悩み、苦
しむだろうと思います。だからこそ、よけいに、叱ってはいけません。

 N君が、ウンチをつけて帰ってきたら、だまって、始末してあげればいいでしょう。し
かしウンチをつけてこなかったら、ほめる。「あら、今日は、ちゃんと、トイレへ行けたの
ね。よかったね。ママ、うれしいわ」と。これはオネショを、なおすときの方法です。

 ところで、伸びやかな子どもは、先生の前でも、平気で、おならをします。わざと近寄
ってきて、先生の顔に向けて、ブリッとです。私なども、毎週のように、だれかにやられ
ています。小学3年生なら、その程度のいたずらをしても、よい年齢です。

 ついでながら、幼稚園児で、排便障害のある子どもが、ふえています。原因は、紙おも
つと推定されています。以前書いた原稿を、添付しておきます。少し話が脱線しますが、
お許しください。

+++++++++++++++++

【子どもが環境に影響されるとき】 

●オムツがはずせない子ども

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。4歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼
稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。

6歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をが
まんしてしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。

原因は、紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感
がない。子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につ
ける。たとえば昔の布オムツは、一度排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。こ
の「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌・9
8年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実は同じ雑誌に広告を載せ
ているスポンサーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保
育園では常識で、それを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというの
が、その証拠である。

●流産率は39%!

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言え
ないというようなことである。

その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい……? 
実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

たとえば妊婦の流産率は、6階以上では、24%、10階以上では、39%(1〜5階
は5〜7%)。流・死産率でも6階以上では、21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂
文夫氏)。

マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一
戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだ
けの影響を受ける。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

●紫外線対策を早急に

 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言って
もよい。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、
無頓着。無頓着すぎる。

オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率が、
4〜6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。

実際、オーストラリアでは、92年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件
数が、毎年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオー
ストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の
帽子とサングラスの着用を義務づけている。

が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策を講じてい
ない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに10〜40%
(日本上空で10%)も減少している(NHK「地球法廷」)(※)。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、
罰する」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。害が具体
的に出るようになってからでは、遅い。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けは
させない。紫外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。
(はやし浩司 子供の排便異常 排便障害 紙おむつ 紙オムツ)

++++++++++++++++++++

ついでに、子どもの欲求不満について

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●子どもの欲求不満

 欲求不満に対する、子どもの反応は、一般的には次の三つに分けて考える。

 (1)攻撃、暴力タイプ……欲求不満やストレスが日常的にたまると、子どもは攻撃的
になる。突発的にカッとなることが多く、弟を逆さづりにして、頭から落とした子ども(年
長男児)がいた。そしてその攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する。乱暴になる)と、裏
に隠れるタイプ(いじめ、動物への虐待)に分けて考える。

 (2)退行、依存タイプ……理由もなく、ぐずったり、赤ちゃんぽくなる(退行)。ある
いはネチネチと甘える(依存性)。優柔不断になることもある。このタイプの子どもは、い
わゆる「ぐずな子ども」という印象を与える。

 (3)固着、執着タイプ……いつまでも同じことにこだわったり、あるいは特定のもの
(毛布の切れ端、ボタン、古い雑誌、おもちゃ)に執着する。情緒的な不安定さを解消す
るための、代償的行為(心を償うためにする代わりの行為)と理解するとわかりやすい。
オナニー、髪いじり、指しゃぶり、爪かみも同じように考える。

 子どもがこうした症状を見せたら、まず愛情問題を疑ってみる。親や家族への絶対的な
安心感がゆらいでいないか。親の愛に疑問を抱いていないか。あるいは下の子どもが生ま
れたことなどで、その子どもへの愛が減っていないか、など。

ここで「絶対的」というのは、「疑いを抱かない」という意味。はげしい家庭内騒動、夫
婦不仲、日常的な不安感、無理な学習、きびしいしつけなどが原因となることもある。
よく誤解されるが、子どもにとって愛情というのは、落差の問題。

たとえば下の子どもが生まれると、上の子どもが赤ちゃんがえりを起こすことがある。
そういうとき親は、「上の子も下の子も、平等にかわいがっています」と言うが、上の子
にしてみれば、今まで100の愛情を受けていたのが、50に減ったことが、不満なの
だ。特に嫉妬に関する問題は、慎重に扱うこと。これは幼児指導の大原則。

 こうした欲求不満が原因で、情緒が不安定になったら、スキンシップをふやし、子ども
の心を安心させることに心がける。叱ったり説教しても意味がない。脳の機能そのものが、
変調しているとみる。

また似たような症状に、「かんしゃく発作」がある。乳幼児の抵抗的な行動(突発的なは
げしい怒り)をいう。たいていはささいな刺激が引き金となって、爆発的に起きる。デ
パートなどで、ギャーギャーと泣き叫ぶのが一例。

原因の第一は、家庭教育の失敗とみる。ただし年齢によって、症状が違う。1歳前後は、
ダダをこねる、ぐずる、手足をバタバタさせるなど。1歳半を過ぎると、大声で泣き叫
び、その時間が長くなる。満2歳前後では、言葉による抵抗、拒絶が目立つようになる。
自分の体をわざと傷つけることもある。

こうしたかんしゃく発作が見られたら、家庭教育のあり方そのものを反省する。権威主
義的(押しつけ)な子育てや、強圧的(ガミガミ)な子育てになっていないかなど。「わ
がまま」と決めつけて、叱っても意味がない。あるいは叱れば叱るほど、逆効果。あと
は欲求不満に準じて、対処する。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【再び、Aさんへ】

 この時期、子どもに何か問題が起きると、親は、その原因を子どもの中に求めようとし
ます。そして、子どもを、なおそう(?)として、叱ったり、説教したりします。しかし
こうした育児姿勢は、正しくありません。

 原因のほとんどは、まず、家庭環境、とくに、Aさん自身にあると考え、まず、自分を
見つめなおしてみてください。あなたは、N君のウンチを臭いと言いますが、本当に、そ
うでしょうか?

 私も結婚当初は、ワイフの腸内ガスの臭いがいやでした。しかし35年もいっしょにい
ると、そうでなくなりました。今では、自分のそれと同じように、認め、納得できるよう
になりました。「臭いな〜」とか言って、フトンをはたいて、終わりです。

 ですから、Aさんも、あまり深刻に考えないで、もう少しおおらかに考えてはいかがで
しょうか。この時期の子どもは、みんな臭いですよ。ウンチ臭、口臭、体臭、汗臭などな
ど。生理が始まったばかりの女児などは、本当に、臭いです。ウンチの臭いなど、何でも
ありません。子どもたちは、よく話題にはしますが、本気で、気にしているふうでもない
ようです。

 数週間前ですが、市内の中学校の廊下に、ウンチが落ちていたことが、子どもたちの間
で話題になったことがありました。多分、トイレに間にあわなかった、女子が、その途中
でもらしたのではないかと思います。

 よくあることです。

 が、それでも気になるようでしたら、それはN君の問題ではなく、Aさん、あなた自身
の心の問題ということになります。あなたは、自信をもって、「私は、N男を愛している」
と言うことができますか。

 そうであるなら、それでよし。もしそうでないなら、今からでも間にあいますから、も
う一度、あなた自身の愛を、確認してみてください。方法は、簡単。

 「許して、忘れる」です。あとは、ほどよい親に心がけ、暖かい無視を繰りかえします。

 かなりきついことを書きましたが、どうか、許してください。あなたとN君のためと思
い、書きました。
(はやし浩司 子供の大便 大便のしつけ うんち ウンチ 大便を漏らす)

【Aさんより、はやし浩司へ、返信】

お返事ありがとうございました。
私には、実の兄(37歳)と弟(30歳)がいます。

兄は知的障害者で、父と母は、兄のことでケンカばかりしていました。
私自身も小学校5年生の時、兄のことで、いじめられたり、
中学に入ってからも、兄と同じ学校に通うのが苦痛でした。

高校卒業と同時に一人暮らしをはじめ、今の主人と知り合い3年後に結婚し、すぐに息
子を授かったのです。

とても嬉しくて可愛くてしかたありません。
ですが、大きくなるにつれて、実の弟から顔が兄に似ていると言われたのがきっかけ
で・・・
どうしても必要以上に干渉していた自分がいました。

先生のアドバイスを最後まで読ませていただいて、
私は息子を押さえつけていたんだと。
兄は兄、息子は息子なのに。。。

ほんとうに窮屈な思いをさせてしまって。
先生、私はいつも息子を監視していたかも知れません、
だから息子も私の目をきにして何も言えなかったのだと・・・
自分の素直な気持ちを声に出して言えるように
静かに見守っていきたいです。

ありのままの息子を受け入れ、スキンシップもしっかりしていきたいです。
「まだ遅くはない」という先生の言葉に、とても救われました。

ほんとうにありがとうございました。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 5日(No.632)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●リズムをつくる

 生活の中に、リズムをつくるのは、たいへんなことである。とくに一つの新しいリズム
をつくるのは、たいへんなことである。

 私も少し前、陶芸に興味をもち、陶芸教室に通おうとしたことがある。しかし結局、時
間帯があわず、断念した。問題は、ここである。

「時間帯があわない」。しかし本当のところは、時間帯の問題ではなかった。陶芸教室へ
通うとなると、それまでの生活のリズムを変えなければならない。たかが趣味(失礼!)
のために、生活のリズムを変えるというのもどうか?

 人は、だれしも一定の生活のリズムをもっている。朝起きて、仕事に行き、夜、帰って
くる。それが、そのリズム。このリズムは、一日単位、週単位、月単位、年単位で動いて
いる。

 しかしこのリズムが大きく乱れることがある。不意の来客、事件、家族内の不幸、仕事
上でのつまづき、病気など。そのときリズムが乱れるが、同時に、それまでの調子が、一
変することがある。

 たとえば私は、毎日、朝早く起きて、こうして原稿を書く。それが一段落すると、朝食
をとり、またしばらく眠る。今は、一日おきに電子マガジンを発行するのを、人生の目標
にしている。1000号まで出すのが、目標である。

 が、このリズムが乱れるときがある。不意の原稿依頼や、講演など。本当のところ、今
は、ほかのことで、原稿は書きたくない。マガジンに載せる原稿を、最優先している。そ
のため、こうした一日のリズムを乱されるのは、たいへんつらい。

 ……と、書いて、子どもの学習。

 子どもに勉強させようと考えたら、リズムを大切にする。このリズムのしっかりしてい
る子どもは、学習面で伸びる。そうでない子どもは、そうでない。

しかしそのリズムを子どもの生活の中につくるのは、簡単なことではない。数か月から
半年単位の根気が必要である。こまめな、そしてていねいな指導が必要である。励まし
たり、いっしょに喜んだりしてやる。何か新しいことをやらせようとするなら、そのリ
ズムの上に、つぎのリズムを重ねていく。決して、それまでのリズムを、ぶち壊すよう
なことは、してはいけない。

 が、世の中には、子どものリズムを平気でぶち壊す親がいる。子どもの勉強にあれこれ
介入したりするのが、それ。そういう親のほうが、多いかもしれない。少し学習面で子ど
もが伸び始めたりすると、「さらに……」「もっと……」と無理をする。子どもの意向や希
望など、まったく無視。

 「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と、思いこんでいる親ほど、失敗
しやすい。おけいこ塾でも、あれこれ親のほうで、勝手に決め、またやめるときも、親の
ほうで、勝手に決める。

 しかしリズムというのは、一度壊れると、それを修復するのは、ほぼ不可能。それだけ
ではない。新しいリズムをつくろうとしても、まちがいなく、失敗する。子ども自身が、
リズムをつくれなくなる。で、この段階で、子どものばあい、二つのタイプに分かれる。

 そのまま勉強から遠ざかっていくタイプ。もう一つは、服従的に親に従いつづけるタイ
プ。従うといっても、ただ従っているだけ。フリ勉、ダラ勉、時間ツブシがうまくなるだ
け。どちらにせよ、子どもにとって、よいことは、何もない。

 つまり、子どものもつ、リズムは大切にする。そのことがわからなければ、自分のこと
で考えてみればよい。それが、冒頭に書いた私の陶芸教室の話である。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●幼児の肛門期

 「排出」することの快感は、多くの場で経験する。もっともわかりやすいのは、大便や
小便。大便や小便を排出するときは、気持ちよい。(汚い話で、すみません。)

女性には、便秘症の人は多いという。「さぞ、タイヘンだろう」と思いがちだが、本人は、
どうもそうではないようだ。「ドンブリ、二杯分くらいの大便をしたあとは、すごく気持
いい」(ある週刊誌での告白コーナー)と言った人がいた!

 子どもは、ある時期、排出する快感を覚える。それが、フロイトがいう「肛門期」であ
る(「性欲と肛門愛」(一九〇五)。

 この肛門期を通して、子どもは、「排出」の快感と「保持」の苦痛を経験するという。排
出と保持は、いわばペアの関係とみてよい。

 たとえば自分が何かの重大な秘密を知ったとする。たとえばUFOを目撃したとか。こ
うした秘密をもつと、だれかに話したいという衝動にかられる。あるいは反対に、自分だ
けのとっておきの秘密にしておきたいと思うかもしれない。(話したい)というのが、排出。
(秘密にしておきたい)というのが、保持ということになる。

 (ずいぶんと勝手な解釈で、フロイト研究者の方に、叱られそうだが、この際、そんな
ことはどうでもよい。フロイトがまずいなら、「はやし浩司学説」でもかまわない?)

 つまり排出する快感は、何も大便や小便にかぎらないということ。大便や小便は、あく
までも、その象徴にすぎない。

 一方、排出の反対側に、保持がある。たとえば子どものばあい、赤ちゃんがえりから、
心因的な便秘を繰りかえすことがある。本来なら、弟(妹)にはげしく嫉妬(しっと)し、
弟(妹)を、攻撃したいのかもしれない。しかしそういう自分をさらけ出すと、自分の立
場そのものがなくなる。そこで(自分を出すこと)を、がまんする。これが保持である。
便秘というのは、あくまでも、その象徴にすぎない。

 実際のところ、保持するというのは、不愉快なこと。徒然草の中にも、「もの言わぬは腹
ふくるる業(わざ)なり」(吉田兼好)というくだりがある。「言いたいことも言えないと
いうのは、不愉快なことだ」と。

 A君(三歳男児)は、慢性的な便秘症であった。下の子ども(弟)が生まれてから、そ
うなった。母親の話では、一週間くらい大便を出さないこともあるという。

 そのA君は、親の前では、よい兄を演じていた。親も、そう思っていた。ときおり弟と
けんかすることもあったが、そのけんかも、「ある一定の範囲のけんか」だったという。A
君は、日常的に、自分を押し殺していた(?)。それが便秘という形で現れた(?)。

 自分をさらけ出すということは、それ自体が、快感である。解放感がともなう。私もオ
ーストラリアでの学生時代、ストリーキングを経験している。紙袋だけを頭にかぶり、素
っ裸で、カフェのテーブルの間を走り回るという、あれである。あのとき感じた解放感は、
今でも忘れることができない。

 したいことをする。
 言いたいことを言う。
 
 それがここでいう排出ということになる。そしてその原点は、乳幼児期の「肛門期」に
あるというわけである。

 が、その排出がうまくできない人がいる。どこかでがまんしてしまう。がまんするだけ
ならまだしも、自分をごまかしてしまう。そしてそういう「歪(ひずみ)」が、その人自身
の精神状態を不安定にし、人間性をゆがめることがある。

 先にあげたA君も、人前では、弟思いの、心のやさしい兄で、とおっていた。しかしそ
れは本来のA君の姿ではない。どこがどのようにゆがんでいるかは、今の段階ではわから
ないが、そのうちわかってくる。

 さて、問題は、子どもというより、あなた自身である。あなたは、自分を排出している
だろうか。あるがままの自分をさらけ出し、伸び伸びと生きているだろうか。そうなら、
それでよし。もしそうでないなら、一度、自分自身の過去をのぞいてみるとよい。そのと
き、あなたの子どもが、ヒントになる。あなたの子どもを参考にしてみる。そう、あなた
の子どもは、今、自分をさらけ出して生きているかどうか、それを客観的に判断してみる
とよい。それを手がかりに、自分を知るとよい。

●幼児教育の世界では、自分の姿を、あるがままにさらけ出すことができる子どもを、「す
なおな子ども」という。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【二重苦、三重苦】

●K塾へ入った、M君

 あのね、学校でさんざんいやな思いをしている子どもを、また塾へ入れて、いやな思い
をさせたら、どうなりますか? ものごとは、子どもの立場で考えましょう。

 よくあるのは、学校での成績がおもわしくないという理由で、塾へ入れるケース。子ど
もがその(必要性)を感じていれば話は別だが、そうでないときは、かえって子どもを苦
しめることになる。もう少し、具体的に例をあげて考えてみよう。

 M君(小五)は、学校では、「悲しい道化師※」だった。勉強が苦手ということを、ごま
かすために、皆の前で、いつもふざけてばかりいた。一見、明るい子どもに見えたが、そ
れはまさに彼、独特の、演技だった。

 たとえば先生にさされて、黒板の前に立つときも、わざとちょろけたり、ほかの子ども
にちょっかいを出したりした。冗談を言ったり、ギャグを口にすることもあった。M君は、
みなにバカにされるよりは、おもしろい男、楽しい男と思われることで、その場を逃れよ
うとした。それは意識的な行動というよりは、無意識に近い、行動だった。

 そんなM君を、親は、指導がきびしいことで有名な、K塾に入れた。K塾では、毎月テ
ストをして、その成績順に生徒をイスに座らせた。M君は、その塾でも、悲しい道化師を
演じようとした。しかし、K塾では勝手が、ちがった。

 M君は、いつもそのクラスの、左側の一番うしろに座った。そのクラスでも、成績がビ
リの子どもが座る席である。ふざけたくても、ふざけられるような雰囲気すら、なかった。
M君は、ただ小さくなっているだけだった。

 M君が、どんな気持ちでいたか。それがわからなければ、あなた自身のことで考えてみ
ればよい。

 学校でさんざん、いやな思いをしている。そういうあなたが、また塾で、いやな思いを
させられたら、あなたはどうなる? こういうのを二重苦という。が、それだけではすま
なかった。M君は、今度は、家に帰ると、母親に叱られた。「こんな成績で、どうするの!」
「いい学校に入れないわよ!」と。二重苦ではなく、三重苦が彼を襲った。

●できない子どもほど、暖かく

 簡単なことだが、勉強が苦手な子どもほど、家庭や、塾では、暖かく迎える。「学校」を
大切に考えるなら、そうする。

 だいたいにおいて、生徒に点数をつけ、順位を出して、さらにその成績順に席を決める
というのは、人間のすることではない。この日本では、そういうのを教育と思っている人
は多い。そのため疑問に思う人は少ない。しかしこんなアホなことを「教育」と思いこん
でいるのは、日本人だけ。家畜の訓練でさえ、そんなアホなことはしない。

 が、ここで大きな問題にぶつかる。親自身が、こうした暖かさを否定してしまうことが
ある。中には、きびしければきびしいほどよいと考える親がいる。このタイプの親にとっ
て、「きびしい」というのは、「子どもをより苦しめる」ことを意味する。「苦しめば、それ
をバネとして、より勉強するはず」と。

 しかしこうした(きびしさ)は、成功する例よりも、失敗する例のほうが、多い。最初
に書いたように、子ども自身が、それだけの(必要性)を感じていれば、話は別だが、そ
ういうケースは、少ない。

 M君は、やがて塾へ行くのをしぶり始めた。当然だ。あるいはあなたがM君なら、そう
いう塾へ行くだろうか。が、親は、塾からもらってくる成績を見ながら、ますますK君を
責めたてた。こうなると、行きつく先は、明白。気がついたときには、M君から、あの明
るい笑顔は消えていた。

 今、M君は、小学六年生になったが、学校でも、先生にさされても、うつろな目で、ボ
ーッとしているだけ。ふざけて、みなを、笑わす気力もない。

 もちろん中には、精神的にタフというより、どこか鈍感に見える子どももいる。しかし
そういう子どもでも、深くキズついている。心のキズというのは、そういうもので、外か
らは見えない。見えないだけに、安易に考えやすい。だから教訓は、ただひとつ。

 できない子どもほど、暖かく。
 できない子どもほど、二重苦、三重苦に追いこんではいけない。

 最後に、「ではどうすればいいのか?」という親に一言。そういうときは、「あきらめる」。
あなたがごくふつうの人であるように、あなたの子どもも、ふつうの人間として、それを
認める、受け入れる。その割り切りのよさが、子どもの心に風穴をあける。

 こういうM君のようなケースでは、親が、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」「うち
の子は、やればできるはず」と思えば思うほど、かえって子どもの成績はさがる。親子の
関係もおかしくなる。さらに子どもの心もゆがむ。まさに百害あって一利なし、という状
態になる。

●「悲しき道化師」というのは、私が考えた言葉。

勉強ができない子どもは、さまざまな形で、それをみなに知られるのを、防ごうとする。
その一つが、「道化師」を演ずること。まわりを茶化すことで、自分ができないことをみ
なに、知られないようにする。ひょうきんな顔をして見せたり、ふざけたりする。バタ
バタと暴れてみせたり、先生をからかったりする。このタイプの子どもは、「勉強ができ
ない仲間」と思われるより、「おもしろい仲間」と思われることを望む。「顔のない自分」
より、「顔のある自分」を選ぶ。つまりそうすることによって、自分の自尊心(プライド)
がキズつくのを防ぐ。一見、楽しそうに見え
るが、心の中は、悲しい。だから「悲しき道化師」と、私は呼んでいる。
(はやし浩司 悲しき道化師)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【思春期の男子】

+++++++++++++++++++

男子は、どのようにして、性にめざめるよ
うになるのか。

私の経験をまじえながら、それについて書
いてみたい。

+++++++++++++++++++

●私の個人的な体験

 私の個人的な体験が、そのまま、すべての男子に当てはまるとは、かぎらない。しかし
私が、ごく平均的な男子だったとするなら、私の個人的な体験を話すことは、男子をもつ
親、とくに母親たちにとって、何かの役に立つかもしれない。

 そんな視点で、「男子が性にめざめるころ」について、書いてみたい。しかし内容が内容
だけに、そのまま書くわけにはいかない。それに当時と今とでは、時代もちがう。環境も
ちがう。くわえて、私が生まれ育った環境は、それほど、恵まれたものではなかった。戦
後のあのドサクサが、まだ色濃く残っていた時代でもある。

 私は、小学3、4年生ごろまで、平気で女湯に入っていた。銭湯での、話である。一応、
男湯の脱衣所から銭湯にはいるものの、隣の女湯のほうに、母や姉がいたりすると、番台
の前をすりぬけて、女湯の方へ走っていったりした。

 が、当然のことながら、そこでは、卑猥(ひわい)な感じは、まったく覚えなかった。
今、頭の中をさがしても、思い出として残っているシーンは、何もない。

 むしろ、あるとき、湯船の中央に、ポッカリと、だれかがした大便が浮かんでいたのは、
よく覚えている。私が、小学2、3年生のころではなかったか。

 それともう一つ、これは鮮明に覚えているが、だれかが、立ったまま、体を前にかがめ
て髪の毛をゆすいでいるところ。その女性の尻が、ちょうど、私の目の高さのところにあ
った。私は、その女性の性器を、まじまじと見てしまったわけだが、美しいものを見たと
いう覚えはない。くしゃくしゃのシワだらけ……といった印象をもった。

 あとは、ない。

●お医者サンごっこ

 が、そんな私だが、別のところでは、女子の体に興味をもつようになった。当時は、(今
もそうだが)、そうした遊びは、「お医者サンごっこ」と呼ばれていた。患者にみたてた女
子を裸にして、その女子の体のあちこちを調べた。

 最初に私が、それをしたのは、小学3,4年生くらいのときではなかったか。相手の女
の子は、小学1、2年生だったと思う。まわりに、3、4人の男子だったか、女子だった
か、よく覚えていないが、いたように思う。記憶の中では、黒い影のようになっている。

 私は、その女の子の股(また)に指を入れたが、しかし、その指が、耐えられないほど、
臭くなったのを覚えている。そんなわけで、女性器に対する第一印象は、あまりよくなか
った。

●初恋

 初恋をしたのも、そのころ。同じクラスの、Aさんという女の子が、好きになった。と、
言っても、「好き」という感覚が、まだよく理解できなかった。その女の子を独占したかっ
た。その女の子に関心をもってほしかった。その女の子が、ほかの男と親しげに話してい
たりすると、言いようのない、胸騒ぎを覚えた。

 そんなわけで、私のAさんに対する行為は、かなりいびつなものだった。私に関心を示
さないAさんに対して、私は、意地悪をした。無視したり、わざとAさんが、いやがるこ
とをしたりした。

 あるときは、Aさんのいないときに、Aさんのノートに落書きをしたこともある。恐ら
くAさんは、なぜ私がそういう行為をするのか、理解できなかっただろうと思う。私の脳
裏に焼きついているAさんは、私にいじめられて、シクシクと泣いているAさんである。

 もちろん性的好奇心というのは、男子のばあい、女性器そのものに集中する。私も、そ
うだった。しかし初恋した相手の女性器に興味をもったわけではない。女性器に興味をも
つことと、女の子に恋をするという行為は、別々のものである。心の中で融合するという
ことは、なかった。恋は恋であり、女性器は女性器であった。

●貧弱な時代

 しかし当時は、情報源が、決定的に不足していた。町の本屋にしても、その種の本を置
いてある店はなかった。あったとしても、上半身ヌードの写真の載っている雑誌程度。し
かしその雑誌を盗み見することで、かなりの興奮状態になることができた。

 当時の私は、女性器よりも、女性の豊かな胸のほうに、興味をもった。

 そんな時代だったが、いくつかの事件(?)が、あった。

 どこかの病院へ行ったときのこと。待合室で並んでいると、隣の席にすわった女性が、
赤ん坊に乳を与え始めた。私はそのとき、心臓が止まるのではないかと思うほど、ショッ
クを受けたのを覚えている。小学6年生くらいのころではなかったか。

 つぎに、こんなこともあった。

 私が、ひとりで風呂に入っていると、突然、近所の女性が、「いっしょに、はいるよ」と
か何とかいって、湯船に飛びこんできた。私が中学1年生のときのことで、その女性は、
まったくといってよいほど、そういうことに無頓着な人だった。

 そのとき、その女性は、20歳前後。今でも、名前も知っている。ときどき会うことも
ある。大きな胸が、強烈すぎるほどの衝撃を私に与えた。私は、勃起したペニスを隠すの
に、たいへんな苦労をした。

 で、そのあとも、1年周期くらいの間隔で、好きな女の子ができた。が、デートをして
みたいと思ったことはあるが、しかしセックスまでは考えなかった。そういうのを、あと
になって、「プラトニックラブ」と呼ぶということを知った。

●恋とセックス

 恋が、セックスと一致するようになるのは、男子のばあい、もう少しあとではないか。
私の経験では、高校生から、大学生にかけてのこと。そのころになると、恋イコール、セ
ックスと考えるようになる。

 で、女子に初潮があるように、男子にも、射精がある。時期的には、男子の射精は、女
子の初潮よりも、1、2年ほど遅れるということらしい。私のばあいも、はじめての射精
は、中学1年のころではなかったか。

 近所に、たいへんスケベな女の子がいた。年齢は、10歳くらいだった。私より、3、
4歳、年下だった。その女の子が、ある日、いっしょにテレビを見ていると、私のパンツ
の中に手を入れてきた。

 その女の子にしてみれば、ただの遊びだったかもしれない。子どものころ、その女の子
とは、ときどき、お医者サンごっこをしたこともある。私はその女の子の、するままにし
ていた。が、そのとき、突然、意識が、スーッと穴の中に落ちて行くように感じた。

 とたん、下半身がドクドクと、波打っているのがわかった。それまでに感じたことのな
い快感だった。が、射精したとまでは、思っていなかった。ただそのとき、その女の子が、
こう言ったのは、覚えている。「おしっこを漏らしたア?」と。

 以来、どれだけ射精を繰り返したかは、覚えていない。高校生になるころは、毎晩では
なかったか。簡単な空想だけで、ペニスは勃起し、しばらく刺激を与えると、そのまま射
精した。

 それがとても、気持ちよかった。甘ったるい、体が溶けるような陶酔感というのは、そ
のとき覚える感覚をいう。が、それは決して許されるべき陶酔感ではない。男子が射精す
るときは、いつもそこに「女」を想定する。モノとしての、女である。そのため、いつも、
射精するときは、ある種の罪悪感を覚える。「してはいけないこと」という罪悪感である。

 たとえばのぞき見という行為がある。銭湯で、入り口に立つと、ときとして、女湯のほ
うの脱衣所で、衣服を脱いだ女性を見ることがある。しかしのぞきは、悪いこと。頭の中
では、それがわかっている。しかし、見たい……。それが、姿を変えて、罪悪感に変化す
る。

 ……こうして、私は、思春期を迎え、性にめざめた。が、これはあくまでも、男子のば
あい。女子については、よく知らない。わからない。

●まとめ

 で、そういう自分を、客観的にまとめてみると、こうなる。

(1)女性器に強い関心をもつ。
(2)女性の体、とくに乳房に、強い関心をもつ。
(3)関心をもっただけで、勃起が始まる。
(4)こうした関心は、恋心とは、まったく無関係。
(5)男子のばあい、射精には、いつも罪悪感がともなう。
(6)最初の射精は、夢精で始まることが多い。
(7)一度、射精の陶酔感を覚えると、毎日でも、オナニーをするようになる。
(8)そうした思いが、積もりに積もって、いよいよ実行(初体験)ということになる。

 そこであなたの子どもが、思春期を迎えたら、こんなことに注意したらよい。

(1)罪悪感をもたせないようにする。……子どもの性的な好奇心を、笑ったり、茶化し
たりしない。
(2)ごく自然な行為として無視する。……見て見ぬフリというか、暖かく、包みこむよ
うに、無視する。もちろん、親のほうから助長する必要はない。

 あとのことは、子ども自身が自分で考え、決めて、行動する。人間の遺伝子の中には、
あなたの指導を超えた、プログラムがすでに組みこまれている。それに静かに従う。

++++++++++++++++

子どもに嫉妬する、母親について
書いた原稿を、添付します。

++++++++++++++++

●愛

===============
昨夜、ワイフと、ふとんの中で、
こんな会話をした。

「愛にも、いろいろあるね」と。

たとえば溺愛ママと呼ばれる人の中には、、
自分の息子が初恋でもしたりすると、
半狂乱になる人がいる。

溺愛は、愛ではない。自分勝手で、
わがままな愛……。それはわかるが、
では、溺愛ママは、なぜ子どもを溺愛するのか?

そこでもう一度、愛について、
考えなおしてみる。
================

 以前、自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親がいた。ある
いは嫁いで出た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親がいた。その母親は、娘に、
「お前をのろい殺してやる」と言っていた。

 そしてこんなこともあった。

 ある夏の日のことだった。一人の母親が、私のところに来て、こう言った。「息子が恋を
しました。何としてもやめさせてほしい。今は、高校受験をひかえた大切なときですから」
と。

 相手の女性は、五、六歳年上の女性だという。本屋で店員をしていた。

 で、私が「恋の問題だけは、私でも、どうにもなりません」と言うと、その母親は、バ
ッグの中からその女性の写真を何枚か出し、こう泣き叫んだ。「こんな女ですよ!」「こん
な女のどこがいいのですか!」と。

 それはまさに嫉妬に狂う、女の姿だった!

+++++++++++++++++++

 「愛」にも三種類、ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。

 さらに、心理学者のリーは、人間がもちうる恋愛感情を、つぎの六つに分けた。

(1)エロス……肉感的な愛。女性の乳房や、男性の男根に強い性欲を覚える。
(2)ストーゲイ……異性との友情的な愛。
(3)アガペ……絶対的な献身を誓う愛。命すらも捧げる愛。
(4)ルダス……遊びとしての愛。ゲーム感覚で、恋愛を楽しむ。
(5)マニア……愛がすべてになってしまう。はげしい嫉妬や恋慕をいだくことが多い。
(6)プラグマ……実利的な目的をもって、損得の計算をしながら、異性とつきあう愛。

 これは異性間の恋愛感情だが、親子の間の愛も、同じように分類することができる。

(1)エロス……息子や娘を、異性として意識する。肉欲的な感情を、自分の子どもに覚
える。
(2)ストーゲイ……自分の子どもと、友情関係をもつ。子どもというより、対等の人間
として、子どもをみる。
(3)アガペ……子どものためなら、すべてを捧げる愛。命すらも惜しくないと感ずるこ
とが多い。
(4)ルダス……子育てをしながら、毎日、子どもと人生を楽しむといったふう。いっし
ょに料理をしたり、ドライブに行ったりする。
(5)マニア……子どもを自分の支配下におき、自分から離れていくのを許さない。
(6)プラグマ……家計を助ける。あるいは老後のめんどうをみてくれる存在として、子
どもを位置づける。

 これは私が思いつくまま考えた愛なので、正しくないかもしれない。しかしこうして親
が子どもに感ずる愛を分類することによって、自分が子どもに対して、どんな愛をいだい
ているかを、知ることができる。

 ふとんの中で、ワイフが、こう言った。

ワ「私は、息子たちに恋人ができたときでも、嫉妬しなかったわ」
私「あたりまえだ。しかしぼくたちに娘がいて、その娘に恋人ができたら、ぼくは、どう
だっただろうね」
ワ「あなたのことだから、嫉妬したと思うわ」
私「そうだな……」

ワ「愛があるから、嫉妬するの?」
私「いろいろな愛があるからね。親の世界にも、代償的愛というのがある。いわば愛もど
きの愛ということになる。自分の子どもを、自分の支配下において、自分の思いどおりに
したいという愛をいう。子どもの受験勉強に狂奔している親というのは、たいていこの種
類の親と考えていい。代償的愛というのは、もともと身勝手なものだよ」

ワ「じゃあ、どういうのが、真の愛なのかしら?」
私「親子の愛というのは、実感しにくいものだよ。しかし子どもが、大きな病気になった
り、事故にあったときなどに、それがわかる」
ワ「ふつうのときは?」
私「要するに、どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるか。その度量の深さこそ
が、愛の深さということになるよ」

ワ「じゃあ、私が、あなたに、『私にほかに好きな人ができました。離婚してください』と
言ったら、どうなるのかしら?」
私「『お前の幸福のためなら、ぼくは、引きさがるよ』というのが、真の愛ということにな
るのかな。ぼくには、できないけど……」
ワ「そりゃあ、そうでしょう。そうすると、夫婦の愛と、親子の愛は、ちがうのかしら?」

私「ぼくの印象では、人間の脳は、それほど器用にできていないと思う。だから愛を使い
分けることはできないはず。同じと考えていいと思う」
ワ「じゃあ、夫婦の間でも、溺愛夫婦というのが、いるのかしら?」
私「いると思うよ。たがいにベタベタの夫婦がね」
ワ「でも、そういう夫婦は、真に愛しあっていることにはならないわね」

私「その可能性は、高い。たがいにたがいの心のすき間を埋めるために、愛しあっている
だけかもしれない」
ワ「そういう夫婦のときは、どちらか一方が、不倫でもしたら、たいへんなことになるわ
ね」
私「そうかもね……」と。

 実のところ、私は、本当にワイフを愛しているかどうかということになると、あまり自
信がない。だからときどき、ワイフにこう聞くときがある。

 「お前は、ぼくのために犠牲になっているだけではないのか?」「無理をするなよ」と。
するとワイフは、いつもこう答える。「私は、家族のみんなが、それぞれ幸せなら、それで
いいの」と。

 いつかそういうワイフを見て、二男が、こう言った。「ママの生き方はすばらしい」と。
しかし私には、そういう犠牲心というのは、あまりない。リーの分類法によれば、私がも
っている愛は、マニア(嫉妬しやすい愛)と、プラグマ(実利的な愛)を合わせたような
ものかもしれない。

 日本的に言えば、独占欲の強い、自分勝手な愛ということになる。

 そこで育児論。

 本能的な愛については、さておき、ほとんどの親は、代償的愛をもって、真の愛と誤解
している。つまりは、薄っぺらい愛なのだが、問題は、いつ、その「薄っぺらさ」に、気
がつくかということ。

 自分の息子が結婚した夜、「悔しい」「悔しい」と泣き明かした母親。あるいは嫁いで出
た娘に、ストーカー行為を繰りかえしていた母親。

 こうした母親は、そういう意味では、実に薄っぺらい。しかしこうした母親にかぎって、
「私は息子を愛している」「娘を愛している」と公言して、はばからない。

 あのマザーテレサは、こう書いている。

●We can do no great things; only small things with great love.
(偉大なことなど、できませんよ。ただ偉大な愛をもって、小さなことができるだけ。)
 
●I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more 
hurt, only more love. 
(それがあなたをキズつけるまで、人を愛するとね、もう痛みはなくなるものよ。ただよ
り深い愛が残るだけ。皮肉なパラドックスね。)

 恋人であるにせよ、夫婦であるにせよ、そして親子であるにせよ、真の愛というのは、
そういうものかもしれない。

 子どもの受験勉強で、カリカリしているお父さん、お母さん。少しだけ立ち止まって、
今、本当にあなたは、自分の息子や娘を、愛しているのか、それを考えてみてほしい。

 ひょっとしたら、あなたはただ、自分が感じている不安や心配を、息子や娘にぶつけて
いるだけかもしれない。しかしそれは、もちろん、ここでいう真の愛ではない。

 ……ということで、「愛」についての話は、ここまで。問題は、あとは、それをどう実行
していくかということ。それがむずかしい。ホント!

+++++++++++++++++

●子どもを愛するために……

あなたの疲れた心をいやすために、
もう、あきらめなさい。あきらめて、
あるがままを、受け入れなさい。

がんばっても、ムダ。無理をしても、ムダ。
あなたがあなたであるように、
あなたの子どもは、あなたの子ども。

あとは、ただひたすら、許して、忘れる。
あなたの子どもに、どんなに問題があっても、
どんなにできが悪くても、ただ許して、忘れる。

問題のない子どもは、絶対にいない。
その子は、どの子も、問題がないように見える。
しかしそう見えるだけ。みんな問題をかかえている。

あとは、あなたの覚悟だけ。
あなたも、一つや二つ、三つや四つ、
十字架を背負えばよい。

「ようし、さあ、こい!」と。そう宣言したとたん、
あなたの心は軽くなる。子どもの心も軽くなる。
そのとき、みんなの顔に微笑みがもどる。

あなたはすばらしいい親だ。
それを信じて、あとは、あきらめる。
それともほかに、あなたには、
まだ何かすることがあるとでもいうのか?
(はやし浩司 愛 真の愛 リー エロス アガペ)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたと
きが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わが
まま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。
(はやし浩司 子どもへの愛 子供への愛 エロス ストーゲイ アガペ ルダス マニ
ア プラグマ 子供を愛せない親 愛せない母親 はやし浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もう、やめてくれ!

++++++++++++++++

 毎日、毎日、スケベメール。
よくもまあ、こういうスケベメールが、
届くものだ!

++++++++++++++++

★認証されました
★お待たせしました
★今夜、貢(みつ)ぐ、心の準備ができました
★連絡、遅れてすみません
★私たちのメンバーから、お好きな人を選んでください
★あなたは選ばれた男性です
★緊急の連絡、などなど。

 1日に、20〜40通は、届く。そのたびに、フィルターにかけて処理している。が、
それでも、減らない。手を変え、品を変え、届く。アドレスも、つぎからつぎへと変えて
くる。

 もとから、私は、モテる男ではない。だから女性から、このようなメールが届くはずが
ない。それがわかっているから、相手にしない。

 そこで問題なのが、こうしたメールに混ざって、知人や友人、マガジンやHPの読者か
らのメールも、入ってくるということ。

 そこで私は、そういう方には、(1)HPのほうから、「フォーム」を使って、メールを
くださるか、(2)件名のところに、簡単な住所と、名前を書いてくださるように、お願い
している。

 が、それでも、困ることがある。先日も、「件名:連絡が送れてすみません。鈴木です」
というのが、あった。

私はそのメールを見ながら、開くべきか、どうか、かなり迷った。「鈴木さんねエ……?
何の連絡だろう……? どこの鈴木さんだろう……?」と。が、結局は、心を鬼にして
(?)、そのメールは、削除した。

しかしこうまで毎日たくさんのスケベメールが届くと、感覚が、マヒしてくる。「本当に、
女性からのものだろうか?」とか、「本当に、こうした女性は、男を求めて、いるのだろ
うか?」と。

ウソか本当か、ウソに決まっているが、ときどき、こんなものもある。「ご迷惑は、おか
けしません。一晩、相手をしてくださったら、15万円、さしあげます。費用は、すべ
て私もちです」と。

 バカめ! 私なんかに、15万円も払って、セックスするもの好きな女性が、どこにい
る!

 改めて、みなさんにお願い!

 私へのメールには、件名のところに、簡単な住所とお名前を書いてください。それがな
いメールは、そのまま削除。仮に開いたとしても、本文の中に、住所、お名前のないメー
ルには、返事を書くということは、ありえません。どうか、よろしくご協力ください。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ビデオ編集(2)

 インターネットで、ビデオを配信するようになって、もう1週間が過ぎた。その間、ビ
デオ編集用のソフトを購入したりした。

 で、やっと、今、たいていの編集なら、できるようになった。が、いくつか、問題があ
る。

 写真やビデオは、自分で撮影したものを、載せればよい。本の朗読にしても、私の書い
た原稿なら、問題は、ない。しかし問題は、BGM。

 以前は、……といっても、もう15年以上も前のことだが、そのころは、自分で音楽を
作曲して遊んでいた。が、そのころの曲は、ほとんど、残っていない。

 そこでパソコンショップで、使用フリーのCDつきの本を購入。値段も結構高いが、実
際、ビデオに載せてみようとしても、なかなか、載らない。ビデオ編集用ソフトととの相
性が、あまりよくない。で、やはり、作曲は、自分でしてみることにした。

 最近は、鼻歌で歌ったメロディーを、そのまま採譜、演奏してくれるソフトもある。そ
れですれば、問題は、ない。さっそく、今日にでも、仕事の帰りにパソコンショップに寄
って、そのソフトを購入してみるつもり。

 ……おかげで、このところ、肝心の原稿は、ほとんど、書いていない。本来なら、今ご
ろは、10月7日号の配信予約を入れなければならない。しかし10月号には、まったく、
手をつけていない。どうしようか?

 今朝(9月7日)、Eマガの読者の数を調べたら、何と、5人もふえていた! マガジン
は、これからも大切にしていこう。モリモリとやる気が出てきた。今日、会員になってく
ださったみなさん、そして今まで、ずっと会員でいてくださったみなさん、どうもありが
とうございます。

 ビデオ編集が一段落したら、また原稿を書きます。プラス、どうか、一度、「声で朗読コ
ーナー」も、のぞいてみてください。最新作ほど、いろいろ凝った手法を用いて、編集し
てあります。

 これからも、どんどん力作(?)を載せていきます。どうか、ご期待ください。


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よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 10月 3日(No.631)
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今週の幼児教室から】

 「♪めだかの学校」の歌詞を、「♪お正月」のメロデーで歌う。すると子どもたちが、「お
かしい」「ちがう」と言う。

 そこで今度は、「♪こいのぼり」のメロデーで歌う。すると子どもたちが、「違う、違う、
そうじゃない、こうだ」と言って、「♪めだかの学校」を歌いだす。すかさず私が、「君、
歌がうまいねエ〜。前でひとりで歌ってよ」と声をかける。その子どもは、「ウン」と言い
ながら、得意そうに、前へ出てきて、歌を歌う。

 こうした技法は、幼児教室では、たいへん重要である。バカなフリをしながら、子ども
の自尊心を引き出す。おとなの優位性を、決して押しつけてはいけない。今週は、ほかに
も、こんな技法を使った。

 大きな声で「ア」「イ」と発声させる。息をたくさん出し、口を動かせる。で、そのつぎ
に、「ア……イ……のつぎは、何だったかな?」と迷ったフリをすると、「ウだ!」「ウだ!」
と。そこで「ちがうよ、アイ(愛)のつぎは、チューだろ。君たちは幼児のくせに、そん
なことも知らないのか」とやる。

 こうなると、子どもたちは興奮状態になる。勝手に、「ウーだ、ウーだ」と、騒ぐ。つま
りこうして、「ウ」の音を出させる。

 言い忘れたが、今週のテーマは、声を出させること。歌をみなの前で歌わせること。歌
にあわせてリズムをとらせること。そして全体として、ものおじしない、発表力を身につ
けさせる。

 コツは、教える私が楽しむこと。私が勝手に楽しんでいると、子どもたちがその輪の中
に入ってくる。

 最後に、「今日のレッスンは、おしまい」と声をかけると、子どもたちは、「いやだ」「も
っとしたい」と言った。(これは本当。読者の中には、私の教室の親も多いから、ウソは書
けない。……書かない。)

 で、再度、「おしまい」と、きっぱりと言うと、何人かの子どもが、「早い、早い!」と
騒いだ。すかさず私が、「ぼくの名前は、ハヤイではない。ハヤシだ。まちがえるな」と言
うと、みながゲラゲラと笑った。

 私の教室では、レッスンのおしまいは、笑いでしめくくるようにしている。「笑えば、子
どもは伸びる」が、私の持論でもある。

 時間は、その日は、たっぷり六〇分。数年前、私の教室へ見学にきた幼児教室の経営者
が、こう言って驚いていた。「幼児教室は、30分が限度だとばかり思っていました」と。
ハハーン。私のところは、正味50分! 実力がちがう! (これはコマーシャル?)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●女の子の体にさわる(?)

 今日、レッスンのとき、Mさん(小5の女の子)が、こう言った。「先生(=私のこと)
は、女の子の体にさわる。いやらしい」と。

 そこで私は、こう言った。「いつ、どこで、だれにさわった?」「そういうことは、軽々
しく、言ってほしくない」「ぼくの仕事では、そういううわさは、うわさだけでも、たいへ
んな問題になる」と。

 Mさんは、頭もよく、このところ、急速に、女の子らしくなってきた。こういう言い方
は不謹慎に聞こえるかもしれないが、美人で、容姿も端麗。

M「さわったわよ?」
私「どこに……」
M「どこにって……。女の子の体によ」と。

 それを横で聞いていた、別の女の子も、「さわった」「さわった」と騒いだ。

私「そりゃあ、ほめるときに頭や、握手するときに手にさわることはある。しかしほかに
さわったことはない。この35年間、一度も、ない」
M「フ〜ン、背中にさわった……」
私「背中?」
M「そうよ、背中にさわったことがある」
私「姿勢が悪いときに、そういえば、背中をたたくことがある。しかしそれは、さわった
ということにはならない」と。

 で、どういうわけか、Mさんは、この2、3か月、同じ話題をもちだしては、私を困ら
せる。で、とうとう、昨日、キレた!

 私は、Mさんの顔を真剣に見つめて、こう言った。

 「いつ、どこで、どのようにして、ぼくが、女の子の体にさわったか、それを言ってみ
ろ。もしそんなことが事実なら、今月で、ぼくの教室を閉める。君にとっては、冗談でも、
この世界には、冗談で通らないことがある。それがわかったら、二度と、そういうことを
口にするのではない!」と。

 で、そのあと、Mさんの母親に、教室にきてもらった。Mさんは、顔をまっかにはらし
て、シクシクと泣いていた。Mさんの母親は、「うちでは、そういう話をしませんが……」
と。

 この年齢になると、女の子も、急速に、性的な好奇心にめざめるようになる。「さわる」
という意味もよくわからないまま、その言葉を使う。体の中でうずく、性的欲求が、そう
させるのかもしれない。あるいは、何らかの欲求不満が、心の底で、うずを巻いているの
かもしれない。Mさんも、むずかしい年齢に入りつつある。

 無視すれば、怒る。相手にすれば、「ヘンタイ!」「エッチ!」と騒ぐ。ささいなことで、
嫉妬したり、それを別の意味にとらえたりする。だから私としては、淡々と接するしかな
い。が、それでも、子どもたちの方から、からんでくることもある。今回のケースも、そ
うだった。

 たまたまそこへワイフが、私を迎えにきた。外は、雨模様。台風が近づいていた。

 Mさんと、Mさんの母親が帰ったあと、ワイフが、部屋の掃除をしながら、こう言った。

 「女の子っていうのは、むずかしいのよ。デリケートなのよ……」と。

 私にも、心の油断があったのかもしれない。しかし私は、ワイフにこう言った。「幼児の
ときから教えているとね、その子どもに、『女性』を感ずることは、ないよ。まず、ないね。
自分の子どもと同じだよ。しかしね、父親のように、その子どもを、抱くことができない。
抱いたら、誤解されるからね。でも、生徒のほうは、ぼくに対して、父親のように感ずる
のかもしれない。スキンシップを求めているのかもしれない。それが欲求不満につながる
のかもしれないね」と。

 Mさんの気持ちもよく理解できたが、しかしこのあたりが、私の限界。Mさんも、つら
いだろうが、こうしたつらさをのり越えながら、Mさんも、やがておとなの女性になる。

 別れ際、私は、Mさんの母親にこう言った。「あと、1、2年もすると、初恋をして、ボ
ーイフレンドもできますよ。そうすれば、落ちついてきますよ」と。

【補記】

 同じ欲求不満でも、幼児のそれと、思春期の子どもが経験する、いわゆる性的な欲求不
満は、異質のものと考えてよい。

 ところで、人間は、2度の(急激な発達)を経験すると言われている。1度目は、生後
2年目までくらいのころ。そして2度目が、13歳以後の思春期。この2度目の(急激な
発達)を、「思春期スパート」と呼ぶ学者もいる。

 つまり、このころの発達には、めざましいものがある。とくに扁桃腺やリンパなど、「リ
ンパ型」と呼ばれる部分の発達が、めざましい。スキャモンの発達曲線を見ても、満11
歳から12歳にかけて、ピークを迎える。

 さらに13歳前後から、生殖型は急速に発達を開始し、精巣(男子)、卵巣(女子)は、
ほぼ完成し、おとなのそれになる。が、心のほうは、それと並行して、発達するわけでは
ない。そのチグハグさが、(揺れ動く、子どもの心)をつくる。

 ときに、甘えてみたり、あるいは反対に突っ張ってみたり……。子ども扱いをすると、
不機嫌になる。しかしおとなに見ることもできない。

 Mさんも、ときおり、ふと、もの思いに沈んだ様子を見せたりする。目がうつろになり、
夢を見ているかのようになったりする。思春期前の子どもが、よく見せる症状である。

こういうときは、そっとしておいてやるのが、一番よい。
(はやし浩司 思春期 思春期の子どもの問題 思春期スパート スキャモンの発達曲線
 スキャモン リンパ 生殖型 リンパ型)


【補足】

●スキャモンの成長曲線

 スキャモンは、子どもの成長を、(1)神経型(脳や神経など)、(2)一般型(骨格、筋
肉、内臓器官)、(3)生殖型(精巣、卵巣)、(4)リンパ型(リンパ、扁桃腺)の4つに
分け、それぞれの発達の度合は、グラフ化した。

 それによれば、神経型は、満10歳までに、ほぼ100%完成し、一般型は、満20歳
までに、ほぼ完成する。しかしリンパ型は、満11歳前後までに、一度、190%近くま
で完成し、その後、低下して、満20歳ごろ、おとなの標準値になる。

 生殖型は、満13歳ころから急速に発達し始め、満20歳前後で完成するという。

 こうした発達曲線は、人間特有のものと考えてよい。ほかの動物とちがって、人間は、
大きく、0〜2歳のころと、13歳〜以後の、2度、急速に発達する時期を迎える。
(はやし浩司 スキャモンの発達曲線 子供の発達曲線 子どもの発達 生殖型 リンパ
型 子供の成長曲線 子どもの成長曲線 はやし浩司)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もうすぐ、58歳!

 10月は、私の誕生月。もうすぐ、私は、58歳になる。もう、じゅうぶんすぎるほど、
クソジジイの年齢である。

 心理学者のペックという人は、中年期の危機として、つぎの4つをあげている(「心理学
用語がわかる本」)。

つまり中年期から老年期にかけて、人は、質的に変化しなければならない。その変化を
うまく、自分の中で消化できれば、それでよし。そうでなければ、つまり変化に対応で
きなければ、それはそのまま(中年期の危機)となる。

(1)身体的活力の危機
(2)性的能力の危機
(3)対人関係構造の危機
(4)思考の柔軟性

 で、この4つについて、自分なりに考えてみたい。

(1)身体的活力の危機

 腕力や体力では、もう若い人たちには、かなわない。(ただし、私のばあい、今でもとき
どき、自転車では、ムキになって、若い人たちと競争することがある。)「かなわない」と
思いが、自信喪失につながったり、落ちこむ原因となったりする。そこでそれを防ぐため
には、その腕力や体力にかわるものを、自分の中で、用意する。

 つまり、身体的活力を、何か別のものに置きかえることで、腕力や体力の衰えを補完す
る。

 それが経験であり、知識であり、知恵ということになる。が、そうした変化にうまく対
応できないと、衰えゆく自分の姿や体力を見ながら、毎日、毎晩、悶々と苦しむことにな
る。

 こうした傾向は、女性ほど、強いのえは……? たとえば(肉体的な美しさ)にしても、
若い人にかなわない。そこで女性は、年をとればとるほど、そうした肉体的な美しさを、
何か別のものに置きかえなければならない。外見的な美しさの追求から、内面的な美しさ
への追求へと、方向転換するのも、その一つ。

しかし、そのトランジット(乗り換え)が、うまくできないと、40代になっても、5
0代になっても、若い女性と張りあって、ムダな抵抗を繰りかえすことになる。50歳
を過ぎて、赤いミニスカートをはいていた女性がいた。が、それがあるべき老後の姿か
というと、それは、疑わしい。

(2)性的能力の危機

 性的能力は、50歳を過ぎるころから、たしかに弱くなる。弱くなるというより、そう
いうことを考えるのが、おっくうになる。(私のばあい、反対に、「若いころは、どうして
ああまで、女性に狂ったのか」と、思うことがある。)

 数日前も、ある若い男性のBLOGを読んでいたら、そこには、こう書いてあった。「か
わいい女の子の、おxxxを、一晩中、なめていたい」と。

 私も、そう思ったことがある。しかし今の私は、「どうして、そんなふうに思ったのか」
と、反対に、自分に問いかけることが多い。

 そこで性的能力の質的な変化について、考えてみる。これはあくまでも、私の個人的な
変化である。

(1)女性と男性の区別が、あいまいになった。
(2)性的に興奮する時間が、短くなった。
(3)性的エネルギーが、行動力につながらなくなった。
(4)肉体だけのセックスに、意味を感じなくなった。

 女性と男性の区別が、あいまいになったというのは、「男も、女も、同じだなあ」と思う
ことが多くなったということ。男もスケベだが、女もスケベ。いつも考えていることは、
ともに、同じ。

 (2)と(3)については、解説はいらないだろう。若いころのように、「女性を求めて、
がむしゃらに……」ということは、少なくなった。

(4)の肉体だけのセックスに、意味を感じなくなったというのは、若い女性のヌード
写真などを見たときに、強く思う。「セックスをしてみたい」とは思うが、そういった女
性は、精子を排泄するためだけの肉体でしかない。わかりやすく言えば、公衆トイレの
便器のようなもの(失礼!)。恐らく、射精したとたん、その女性の、体を放したくなる
だろう。

 しかしその一方で、セックスに(心)を入れたら、たいへんなことになる。浮気が浮気
でなくなってしまう。それこそ、夫婦関係を崩壊させ、家庭を崩壊させることにもなりか
ねない。

 そこで性的能力に、何かの意味を置こうとする。あるいは意味を考えようとする。若い
ときのように、無我夢中で、頭の中をカラッポにしてセックスをするということは、もう
ない。できない。人間的なつながりを、どうしても、そこに求めようとする。

 少し前、産婦人科医をしている友人(当時、50歳くらい)が、こう言った。「ぼくらは、
浮気といっても、女性の体を求めて浮気するのではない。心を求めて、浮気する」と。そ
れに近い心境になる(?)。

(3)対人関係構造の危機

 現役時代に役職や肩書きをもっていた人ほど、この危機に陥(おちい)りやすい。家柄
や学歴にこだわっている人も、同じ。

 現役時代には、みなが自分に頭をさげた。みなが、自分の意見に耳を傾けた。しかし退
職したと同時に、ただのオジサン、オバサン。だれも、自分の意見に耳を傾けない。しか
しこれは当の本人にしてみれば、許しがたいほど、屈辱的なことでもある。

 そのため、現役時代の役職や肩書きにこだわる人は多い。しかしこだわればこだわるほ
ど、対人関係は、ギクシャクしてくる。人が、近寄らなくなる。

 そこで老齢期を迎えたら、一度、裸になる。裸になって、自分を見なおす。現役時代の
自分を引きずれば引きずるほど、周囲の人たちと同化できなくなってしまう。「弧高」と言
えば聞こえはよいが、その実態は、「孤独」。

 要するに、現役時代の役職や肩書きなど、クソ食らえということ。まず、それに気がつ
くこと。

(4)思考の柔軟性

 価値観は、世代とともに、大きく変化する。そういう変化に気づいたら、臨機応変に、
それに順応していく。その柔軟性のある人は、より豊かな老齢期を送ることができる。そ
うでない人は、そうでない。

 中には、反対に、自分の価値観に固執し、その価値観を、若い人に押しつける人がいる。
そういう人たちがよく口にする決まり文句が、「今の若いものは……」という言葉。「今の
若いものは……」と、若い人たちを批判することで、自分の優位性を保とうとする。

 しかし古今東西、古い世代の価値観が、若い世代の価値観に、勝ったためしはない。理
由は簡単。古い世代ほど、先に、死ぬからである。

 だから結局は、つまり豊かな老齢期を過ごそうとするなら、若い世代の価値観に、自分
を合わせていくしかない。そしてそのためにも、思考は、いつも柔軟でなければならない。

 新しいことにいつも興味をもち、挑戦していく。異質の思想や文化を理解し、それを自
分の中に取り入れていく。情報や知識については、どんどんと自分の中に、注いでいく。
忘れる分より、多く、取り入れていく。

 こうして柔軟性を、保つ。

 さてさて、もうすぐ、58歳。この10年間だけでも、私は、かなり退化している。何
よりも強く感ずるのは、集中力が弱くなってきたということ。根気がつづかない。……と
いうより、これも体力的な衰えが原因かもしれない。

 たとえば気温が高かったりすると、体がその暑さに耐えられなくなる。その結果として、
集中力がつづくかなくなる。脳ミソの集中力そのものは、それほど、衰えていないのかも
しれない。その証拠に、涼しくなったりすると、以前と同じようにものを書くことができ
る。

 こうして、いろいろと考える。「中年の危機」は、だれしも、迎えるもの。それをうまく
乗り切るかどうかで、そのあとの老後の生活のあり方が決まってくるということ。私にと
っては、今が、そのトランジットの時期ということになる。
(はやし浩司 中年の危機 老後の危機 ペック 老後のあり方 老後への転換)

【補記】

 それぞれの人は、それぞれの方法で、中年の危機を乗り切っているようである。たとえ
ば体力的、知的能力の低下は、だれしも、避けがたいもの。が、それだけではない。社会
的地位や評価も、さがる。当然、収入も、減る。対人関係にしても、行動半径にしても、
範囲が狭くなる。

 ときどき私も、「もう、ぼくの時代は終わった」と思うことがある。

 が、まだまだあきらめるわけには、いかない。そこでそういう状態から、つぎのステッ
プへと、自分を昇華させなければならない。またそうしないと、ここでいう中年の危機を
乗り越えることはできない。そこで私なりに、いくつかのコツを考えてみた。

(1)ありのままの自分で生きる……頭がハゲても、白髪になっても、そのままの姿で生
きる。いくら5歳若く見せても、5年後には、5年後の私になる。年齢の変化を、すなお
に、受け入れる。

(2)精神生活(内面世界)の充実をはかる……若い人たちと張りあってもしかたない部
分については、さっさとあきらめる。あきらめて、若い人たちにはできないことをさがす。
そしてそれを追求する。

(3)新しいことに挑戦する……どんどんと新しいことに挑戦していく。そういう意味で
は、パソコンは、おもしろい道具である。日々に進歩し、変化する。最初は「できるかな?」
と戸まどうことも多いが、あきらめてはいけない。出費もかさむが、ボケ予防のためと考
えれば、安いもの。

(4)運動をする習慣を大切に……運動は、5年後、10年後を考えてする。習慣の中に、
運動を取り入れる。そうすれば、否応なしに、運動することになる。

 以上、私の努力目標ということになる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ここが米国? 信じられない

 韓国の東亜N報が、「ここが米国? 信じられない」というタイトルの記事を、トップで
報道した。いわく、「米国の羞恥心、ハリケーン被災地に文明はなかった」(アメリカの恥、
ハリケーン被災地には文明はなかった)と。

 今度のハリケーンで、1000人以上もの人たちが、死んだ。水面下には、まだ数千人
の人が死んでいるかもしれないという。アメリカは、今、懸命の救助活動をつづけている。
そんな最中、その一部の写真を掲載して、東亜N報は、「ここが米国? 信じられない」と。

 韓国は、いったい、どこへ行ってしまったのか? 「米国の羞恥心、ハリケーン被災地
に文明はなかった」というのは、いくら何でも、少し、言い過ぎではないのか。これでは
けがをして苦しんでいる人のキズ口に、塩を塗りこむようなもの。

 アメリカといっても、実は、アメリカという国は、ない。少なくとも私たちがもってい
る「国」の概念とはちがう。アメリカは、移民国家。世界中から多種多様な民族が集まっ
ている。そういう民族を、アメリカという「国」は、受け入れている。もちろん日系人も
多いが、それ以上に、韓国系アメリカ人も多い。

 今回も、その地域に住む韓国系アメリカ人、約3000人が、被害をこうむっている。「1
人当たりの最高被害額が600万ドルを超えるものと推算される」(東亜N報)とし、「被
害を復旧するのに数年かかり、在米韓国人たちの事業基盤が大きく揺らぐだろう」(同)と
のこと。

しかも現在、韓国の平和と安全を守っているのは、アメリカ軍ではないのか。何ら、救
援活動を手助けしていないにもかかわらず、さらに「ここが米国? 信じられない」とは! 

 韓国が台風で被害を受け、懸命の救助活動をしている最中、どこかの国のマスコミが、
同じような言い方で、韓国をヤユしたら、韓国は、いったい、どのように反応するだろう
か。もしそれが日本のマスコミだったら、それこそ、狂ったように日本を攻撃するだろう。

 私は最初、この記事を読んだとき、K国の新聞記事かと思った。まだ、それなら理解で
きる。アメリカとK国は、敵対関係にある。しかし同盟国であるはずの、韓国が!

 繰りかえす。韓国は、いったい、どこへ行ってしまったのか?
(050905記)

【補記】

 韓国に反日、反米、プラス親北政策、ここに極まったという感じがする。少なくとも現
在のN大統領率いる韓国は、日本にとって、たいへん危険な国である。ただ、ゆいいつの
救いは、N大統領の支持率が20%前後、N大統領率いる、与党の支持率が10%前後し
かないということ。こうした意見は、決して、韓国の大多数の人たちを代表したものでは
ないということ。

 私は、そういう大多数の韓国の人たちの良識を信じたい。と、同時に、日本政府は、N
大統領は、そういう大統領であるという前提で、本腰を入れて、対峙しなければならない。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ミイラ取りがミイラに……

 姉からこんな話を、聞いた。

 介護の世界では、よく、ミイラ取りがミイラになるというようなことがあるそうだ。よ
くある例が、認知症の老人を介護しているうちに、その人自身が、認知症になってしまう
ケース。

 ほかにも、いろいろある。

 ある女性は、ときどき両親の世話をしていた。嫁ぎ先から、車で、10分ほどのところ
に、両親が住んでいた。その女性は、何かの買い物をしたついでに、実家へ寄り、簡単な
料理を作ったりしていた。

 その女性は、いつも、こうこぼしていた。「父と母は、仲が悪くて困ります。顔さえ合わ
せれば、けんかばかりしています」と。

 父親は母親の悪口を言い、母親は父親の悪口を言っていたらしい。そこでその女性が、
どちらかの味方をすると、もう一方が、たいへん機嫌をそこねたという。

 が、数年前、その父親が死んだ。で、今は、その女性は、母親のほうの介護をしている。
が、その女性と母親の間が、年を追うごとに、おかしくなってきた。顔を合わせるたびに、
けんかばかりしているという。それを見たその女性の兄は、「まるで、父の亡霊が、乗り移
ったみたい」と。

 ほかにも、こんな例がある。

 育児ノイローゼならぬ、介護ノイローゼになる人も多いという。そのノイローゼが高じ
て、うつ病。さらには、自殺未遂を起こす人もいるという。子育てとちがって、介護には、
(未来)がない。そのため、一度、どこかで歯車が狂うと、とことん、狂う。が、狂うだ
けではない。

 そのとたん、介護すること自体が、巨大な重(おも)しとなって、その人を苦しめる。
実の親であるにせよ、義理の親であるにせよ、親子であるがゆえに、心理学でいうところ
の「幻惑」にしばられる。それは恐ろしいほどの苦しみといってよい。わかりやすく言え
ば、「幻惑」というのは、「板ばさみ」のこと。「親である……」「子である……」という、
その板ばさみの中で、もがき苦しむ。

 が、世の中には、そういう苦しみを、理解できない人も多い。安易な『ダカラ論』だけ
で、ものごとを、片づけようとする。「あなたは子どもだから……」「相手は親だから……」
と。

 しかしこの問題だけは、つまり介護の問題だけは、その『ダカラ論』だけで、考えるこ
とはできない。100の家庭があれば、100の、1000の家庭があれば、1000の
事情がある。そしてそれぞれの家庭が、他人には絶対に理解できない、複雑な事情をかか
えている。

 ものの考え方もちがう。宗教観も、哲学も、ちがう。「自分がそうだから」という理由だ
けで、「相手もそうあるべきだ」と考えるのは、たいへん危険なものの考え方といってよい。

 さて、またまた平均寿命がのびた。それはそれとして、ありがたいことだが、しかしそ
の分だけ、介護する側の人たちの年齢も、高くなっている。70歳の老人が、90歳の両
親の介護をするということも、理屈の上では、ありえないことではない。しかし現実問題
として、70歳の老人が、両親の介護をするなどということは、可能なのだろうか。70
歳の息子のほうが、90歳の母親より、先にボケてしまうというケースだって、少なくな
い。

 もちろん収入のない人だって、多い。いろいろな心の問題をかかえている人も多い。家
族や家庭の問題をかかえている人も、これまた多い。親子といっても、他人以上に、憎し
みあっている親子だっている。だからミイラ取りがミイラになってしまう。

 しかしどうして、この日本では、老後の問題、介護の問題を考えると、こうまで暗くな
ってしまうのだろうか。「私はだいじょうぶ」と思っている人も、今のままの状態を、20
年後、30年後に、置きかえてみるとよい。あなたははたして、そのときでも、「私はだい
じょうぶ」と言い切ることができるだろうか。

 年をとればとるほど、夢や希望を、明日につなげていくのが、むずかしくなる。進むべ
き道すら、わからなくなる。今はかろうじて健康でも、その健康も、いつまでつづくかわ
からない。そういったものが、混然一体となって、老後の不安や心配となって、私たちに
のしかかってくる。

 姉の話を聞いていたとき、別の心で、私は、そんなことを考えていた。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ちょっと、おかしいぞ?

 まずは、つぎのコラムを読んでほしい。あなたは、このコラムを読んで、どう感ずるだ
ろうか。
 
……60年前の昨日、日本は、東京湾の艦上で、降伏文書に調印して、世界は大戦の恐怖
から解放された。「過去の流血と蛮行から、自由、寛容、正義の実現のための世界が、うち
立てられることこそ、人類の望み」。連合国軍最高司令官マッカーサーの声明は、日本側に
も大きな感銘を与えた。だが、流血と蛮行はその後も絶えず、今はイラクで顕著だ……。

 地元のC新聞朝刊に書かれた、第1面下段のコラムである。

 私はこの文章を読んだとき、頭の中で、脳ミソ(シナプス)がショートしたのを感じた。
バチバチと火花が出た。

 とくに、「日本は、東京湾の艦上で、降伏文書に調印して、世界は大戦の恐怖から解放さ
れた」という部分。この文章を、日本以外の、どこかの国の新聞記者が書いたというのな
ら、まだ話は、わかる。しかし大戦の恐怖を与えた当の日本人が、「大戦の恐怖から解放さ
れた」とは、いったい、どういうことなのか!?

 私も、いろいろな記事を書く。あの戦争は、まちがっていたと書くことはある。しかし
「日本が負けてよかった」と書いたことは、一度も、ない。しかしこの文章を読むと、あ
たかも、言外で、「日本が戦争に負けてよかった」と言っているようにも聞こえる。

 視点そのものが、おかしい。

 「過去の流血と蛮行」をしていた国というのは、どこの国のことなのか。マッカーサー
の言葉を聞いた日本側に、大きな感銘を与えたというのは、どういうことなのか。(この部
分も、仮にそうであったとしても、本来なら、「マッカーサーの言葉に、日本側は、大きな
感銘を受けた」と書くべきである。)

 私は、右翼でも、左翼でもない。自称、中立派である。(勝手にそう思いこんでいるだけ
かもしれないが……。)しかしこの文章は、右翼や左翼の人にはもちろんのこと、中立派の
人たちにさえ、受け入れらないだろう。

 もう少し、わかりやすく説明してみよう。

 日本は、降伏文書に調印した。つまり戦争に負けた。しかしいくら戦争に反対しても、「負
ければいい」と思っていた日本人は、いなかったはず。負けたのは、あくまでも結果。そ
してさらにその結果をとらえて、このコラムの筆者は、「世界は大戦の恐怖から解放された」
と。

 この文章をそのまま読むと、まるで日本が、世界の人を、大戦の恐怖から解放したかの
ようにも聞こえる。しかも降伏文書に調印することで……?

 しかしこの意識のズレこそが、今、世界で問題になっている。「世界の人たちに大戦の恐
怖を与えたこと」について、一片の反省も謝罪の念すら、ない。ないばかりか、まるで他
人ごとのようにとらえている。

 本来なら、もし、あの戦争に、正義や大義名分があったのなら、降伏文書に調印してか
らでも、アメリカ軍と戦うべきだった。ゲリラ戦でも、何でもよい。しかし負けたとたん、
「大きな感銘」を「与えた(=受けた)」と。

 そしてこのコラムは、「流血と蛮行はその後も絶えず、今はイラクで顕著だ……」とつづ
く。

 戦争に負けたとたん、日本は、今度は、「平和の使者」となった。過去の流血と蛮行は、
清算された。日本人としては、そう思いたいのかもしれないが、世界は、そうは見ていな
い。そんなことは、ほんの少しだけ、視点を中国に置いてみればわかる。被害者の立場で
考えてみれば、わかる。

 C新聞という、中部地方を代表する新聞だけに、このコラムは、残念でならない。

 ついでにあのイラク戦争について言うなら、あの戦争には、もともと無理があった。そ
の無理をゴリ押しして、アメリカは、戦争を始めてしまった。今、イラクで起きている、
流血と蛮行は、あくまでもその無理の変形でしかない。

 しかしアメリカという同盟国が戦争を始めてしまった以上、日本としては、アメリカを
支持するしかない。むずかしい戦争だとは思うが、「アメリカが負ければいい」とは、思っ
ていない。何とか、丸く、おだやかにすむ方法はないものかと思っている。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ビデオ編集

 本格的なビデオ編集ソフトを購入。さっそく、いろいろ試してみる。が、これが結構、
……というより、たいへん、おもしろい。

 が、こういうことをしていると、時間のたつのが早い。あっという間に、2、3時間は、
過ぎてしまう。どういうことだろう。

 ほかにも、たとえばこんなことがある。

 朝、6時ごろ、起きる。パソコンに電源を入れて、Eメールを読んだり、ニュースを読ん
だりする。たったそれだけのことしかしていないはずなのだが、それだけで、1時間ほど、
過ぎてしまう。自分の原稿を書き始めるのは、そのあと。

 インターネットの時代になって、ものごとが瞬時、瞬時に、処理できるようになった。
昔なら手紙を一往復させるだけで、1週間はかかった。外国なら、2週間はかかった。そ
れが今では、瞬時。

 時間は短縮されたはずなのに、それから生まれる心の余裕は、かえって狭くなってしま
った。そんな感じがする。

 で、その3時間もかけて、やっと、10分足らずのビデオを1本、編集してみた。音楽
を入れたり、タイトルを書きこんだり……。何ごとも、はじめの一歩のときは、時間がか
かる。

 ところでビデオ編集するについては、当然、ビデオカメラ……ということになるが、パ
ソコンショップの店員さんに相談すると、意外なことを教えてくれた。

 「ビデオカメラは、売れませんから、取りあつかっていません」と。

 私は「エッ?」と驚いた。理由を聞くと、こういうことだそうだ。

 パソコンを使って動画を編集するような人には、ビデオカメラよりも、動画撮影機能(今
では、ほとんどのカメラにそれがついている)のある、デジタルカメラのほうが、使い勝
手がよいとのこと。

 なるほど、そういうことだったのか!

 とくに動画を、インターネットを使って配信するようなときには、そうかもしれない。
1秒あたり、10〜15コマ程度でじゅうぶん。画像サイズが大きすぎると、アップロー
ドするにも、ダウンロードするにも、時間がかかってしまう。

 そこで急きょ、今まで集めたビデオカメラのパンフレットは、ゴミ箱行きに! そして
どこかキズまるけになり始めた、愛用のデジタルカメラを、ハンカチでみがきなおす。

 ビデオ編集だから、ビデオカメラが必要……という発想は、まちがっていた!

 ……ということで、こうして毎日パソコンをいじるのは、ボケ防止のためのようなもの。
ワイフには、いつも、そう説明している。

 で、2日目の今日。かなりのところまで、ソフトを使いこなせるようになった。これか
ら、近くの公園に行って、素材となるような写真+MOVIEを撮ってくる。

 では、みなさん、乞う、ご期待!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●がんばるための原動力

 家族や家庭の問題で、苦労を重ねている人は、多い。子育てにしても、しかり。しかし
そういう緊張感があるからこそ、人は、がんばることができる。「チクショー!」と。その
がんばるための原動力になっているのが、緊張感である。

 私たち夫婦は、国民年金など、はなからアテにしていない。していないが、それを手に
するまでは、どうしても、がんばらなくてはいけない。あと、8年。その8年は、がんば
らなくてはいけない。

 それだけではない。息子の一人が、大学を卒業するまでに、まだ1年半もある。が、お
かげで、夢ができた。

 いつか息子がパイロットとなって、機長となったら、私は、ワイフと2人で、その初飛
行に同乗する。「初飛行のときは、家族は、招待されるよ」とのこと。どうしても、それま
では健康でいたい。生きていたい。

 こうした緊張感があるからこそ、私は、がんばることができる。

 そう言えば、私は若いときから、実家に欠かさず、生活費を入れてきた。冠婚葬祭だけ
は、ハデにやる土地柄で、そのたびに、私の貯金通帳は、カラになった。しかしカラにな
るたびに、私は、それ以前にもまして、働いた。

 もしそうした緊張感がなければ、そうまでは働かなかったと思う。

 今も、そうだ。母の介護だ、兄の介護だと、○十万円ずつの出費がつづく。しかしその
たびに、内心では、「チクショー」と思う。そう思うことが、何というか私の体の中に、新
しいパワーを満たす。

 たとえば、「健康だけは、奪われてたまるか!」という思いが、私をして、運動にかりた
てる。昨日は土曜日だったが、自転車で、10キロも走った。今日も、10キロ近く、歩
いた。その原動力となっているのが、ここでいう緊張感である。

 私は、まだ、倒れるわけにはいかない。病気になるわけにはいかない。そこで、今日、
ワイフとこんな会話をした。

「苦しいことや、つらいことがあるからこそ、がんばろうという気持ちがわいてくる。
もし、平和で満ち足りた生活に、安穏としてしまったら、その時点で、ぼくの人生は終
わる」と。

 よく誤解されるが、親が、子どもを育てるのではない。子どもが、親を育てる。子ども
が、親に、生きる活力を与えてくれる。子どもたちがまだ、幼いころ、私が家に帰ると、
みな、「パパ、お帰り!」と、私の胸の中に飛びこんできてくれた。

 そのとたん、一日の疲れが、消えた! が、それだけではない。背水の陣を敷いている
からこそ、家族が力を合わせることができる。これはワイフの意見だが、ワイフは、こう
言った。

 「不幸が、家族をまとめるのよ」と。

 幸福であることは、それ自体、すばらしいことだが、その幸福になれてしまうと、その
時点から、人は、まっさかさまに、不幸のドン底へと落ちていく(?)。家族は、バラバラ
になってしまう。生きることには、そんな皮肉な面が、いつも、ついてまわる。

 そして今……。老後の緊張感が、私に、生きる力を与えてくれる。いろいろ問題はある
が、そういう問題があるからこそ、がんばろうという気持ちがわいてくる。つまり、これ
が人生。私の人生。最後の最後で、足をふんばって、がんばる。「チクショー、負けてたま
るかア!」と。

 みなさん、いっしょに、がんばりましょう! 


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はやし浩司(ひろし)