はやし浩司(ひろし)

2005・11
はやし浩司
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2005年 11月号
 はやし浩司


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 30日(No.656)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)



【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室から】

●満48歳!

 今日、子どもたち(小3〜5)のクラスで、こう宣言した。「ぼくは、先週、満48歳に
なった!」と。

 するとN君が、「計算すれば、すぐわかる」と言った。「何を?」と聞くと、「先生の、本
当の年齢だよ」と。

私「ぼくは、48歳だよ」
N「そんなハズはないよ。どう見ても、50歳は、超えている」
私「あのなア、年齢というには、3つの要素で決まるんだよ」と。

 そこで私はまず、ロッキーがサンドバッグを叩くまねをして見せた。(これだけでも、年
齢がバレるが……。)そのあと筋肉ムッチョのかっこうをしてみせ、「な、これが一番目の
要素。つまり体力。その体力は、ちゃんと、48歳だ」と。

 すると、子どもたちが、「二番目は?」と聞いた。

私「知力だよ。頭の力、わかる?」
子「どうやってわかるの?」
私「頭の力では、まだまだ君たちには、負けないよ」と。

 そこで簡単な記憶ゲームをしてみせた。いくつかのものの名前を、だれかに言わせる。
それを即座に、私が暗唱してみせる。

私「だろ? まだまだ、頭は、だいじょうぶだ」と。

 そのあと、しばらくの間、子どもたちは、「うちのパパは、35歳」「うちのおやじは、
40歳」とか言って、ワイワイと騒いだ。「お前んとこ、若いなあ」「うちは、ジジイだぜ」
と言った子どもも、いた。私は、だまってそれを聞いていた。

 が、1人の子どもが、こう言った。

子「で、先生、三番目は、何?」

 この質問には、困った。困って、こう言った。

私「それはねえ……。君たちのお父さんか、お母さんに聞いてごらん。多分、知っている
はずだから」
子「何を?」
私「三番目の要素だよ」
子「だから、それは何?」
私「ぼくは言えないから、お父さんか、お母さんに聞いてごらん」と。

 まさか、精力などとは言えない。そういう話は、まずい。だから、とぼけて、私は、「忘
れた」と。

 が、そのうちN君が、「先生の年齢は……、ええと……」と言い出した。どこかで私の情
報をさがし出して、計算したらしい。出席表などには、略歴が書いてある。

私「言うな!」
N「チェッ、先生、本当は、58歳じゃないか」
私「それを言うな!」
N「58歳だよ」と。

 子どもたちを、だますことはできない。とくに、そのクラスでは無理。どの子どもも、
優秀の上に、「超」がつく子どもたちばかり。で、私の負け!

 私が「そうだ、58歳だ」と言うと、みな、鬼のクビでも取ったかのように喜んだ。そ
してこう言った。「先生って、ジジイだったんだね」と。

 この言葉にみなが、笑った。私も、笑った。笑って、こう叫んだ。「そうだ、ぼくは、ジ
ジイだア!」と。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●議論よりも中身

 若い母親たちに、高尚な教育論を説いても、意味がない。……と書くと、若い母親たち
を、バカにしているように聞こえるかもしれないが、事実は、事実。私は、そういう経験
を、いやというほど、している。

 私は、20代の後半から、40代少し前まで、毎週、母親教室を開いた。「幼児教育は、
母親教育」をモットーに、それを実践した。

 で、そんなあるとき、毎週、熱心に、私の母親教室に通ってくれる母親がいた。ほとん
ど、毎週。一日も欠かさず、だ。その母親が、一年もたったころ、私にこう聞いた。

 「で、先生、うちの子なんですが、SS小学校に入学できるでしょうか?」と。

 私は、正直に告白するが、その質問を聞いて、がく然とした。つまり、母親たちにとっ
て、「教育」というのは、そういうことをいう。いくつかの特徴がある。

(1)実利主義(いつも、頭の中で、損得の計算をしている。)
(2)権威主義(権威者の言うことを、優先的に信ずる。)
(3)中央集権意識(何でも「東京からきた」というだけで、ありがたがる。)
(4)学歴信仰(学歴に対して、カルト的な信仰心をもっている。)
(5)学校神話(学校以外に道はないと考え、学校を絶対視する。)

 あの釈迦も、同じような問題に直面したらしい。釈迦が活躍していたころ、ウパニシャ
ド哲学を信奉する学者たちは、アートマン(「我」)と、ブラフマン(「梵」)の議論をさか
んに行っていた。「梵我一如が、どうのこうの」と。まさに議論のための議論。相手側のさ
さいな言葉じりをつかまえて、「ああでもない」「こうでもない」と、そんな議論だけに明
け暮れていた。

 そこで釈迦は、「それでは、いけない。今、苦しんでいる人を救うことはできない。現に
今、苦しんでいる人を救うためには、どうすればいいのか」という発想に、切りかえた。

 もっと言えば、議論のための議論は不要、と考えた。

 実は教育の世界でも、同じことが言える。ここに書いた「高尚な教育論」というのも、
その一つ。母親たちは、自分の子どもを育てながら、いつも何かの不安感を覚えている。
その母親が私の母親教室に毎週、通っていたのは、その不安感を解消するためだった。だ
からそういう母親に高尚な教育論を説いても、意味がない。

 つまり、私のほうが、まちがっていた。

 私は、そのころから、母親教室のあり方を変えた。実際には、いくつかの事件が重なっ
て、回数を減らした。週1回から、月1回へとした。

 で、さらに今は、母親教室なるものを、ほとんど、していない。そのかわり、こうして
文章を書いて、より多くの人たちに読んでもらうようにしている。それはそれとして、私
がすべきことは、子どもたちを教えることによって、同時に、母親たちに、夢と希望をも
ってもらうことである。それは私から母親たちに、直接伝えるものというよりは、子ども
を通して、伝えるものと言ってよい。

 たとえば1、2回、私の教室へ通ってくれるようになると、子どもたちは、毎日のよう
に、私の教室を話題にするようになる。これはウソでも、誇張でもない。例外なく、そう
なる。そして数か月もすると、子どもたちの表情が、見ちがえるほど、明るくなる。これ
もウソでも、誇張でもない。

 こうした子どもの変化は、幼稚園の先生から指摘されることが多い。「このところ、うち
の子が変わってきたと、幼稚園の先生も言っていました」と。

 そういう子どもの変化を見て、母親たちは、自分の子育てに、夢と希望をもつようにな
る。明るい日向(ひなた)に、自分を置くことができる。つまり、それが私のやり方でも
ある。

 もっとも、最近の人たちは、教えをあまりにも無視しすぎているのではないか。仏壇の
前に座って、ただ祈ればよいと考えている人も多い。中に、お経を読んでいる人もいるが、
その意味まで知っている人となると、さらに、少ない。仏教そのものが、完全に儀式化し
てしまっている(?)。

 たとえば私の知人(70歳くらい)は、毎月、それぞれの人の命日に、墓参りをしてい
る。(毎月だぞ!)法事という法事は、何と、33回忌まで、ていねいにしている。しかし、
仏教のブの字も、知らない。だいたい、本など読まない。その知人にしてみれば、死んだ
人は、みな、仏様。それがすべて。しかし、それでおしまい。

 いくら議論のための議論は不要ということであっても、これでは行きすぎではないのか。
ただ拝めばよいというのは、宗教でも何でもない。そういうのを、盲信という。

 教育についても同じことが言えるが、それについては、また別の機会に書いてみたい。
(はやし浩司 ウパニシャッド哲学 釈迦の哲学 子育て論 育児論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●幸福の実感

 金(マネー)、名誉、権力。この3つを同時に手に入れることは、むずかしい。それこそ。
「二兎(と)を追うもの、一兎も得られず」ということになる。三兎となると、さらにむ
ずかしい。

 だから、人は、いつの間にか、その中の1つに焦点を当てるようになる。「金か、名誉か、
それとも権力か」と。しかし意識的にそうするというよりは、結果としてみると、そうな
っていたというケースが、多い。

 が、歳をとり、その先に(限界)を感ずるようになると、ものの考え方が、少しずつ変
わってくる。これら3つの上に、「だから、どうなの?」という部分が、重なってくる。
 
 お金がある……、だからどうなの?
 名誉がある……、だからどうなの?
 権力がある……、だからどうなの?、と。

 この「だから、どうなの?」という部分がないまま、金、名誉、権力を追い求めたとこ
ろで、むなしいだけ。それが少しずつ、わかってくるようになる。

 そこで登場するのが、「幸福の実感」。

 心を一つの箱にたとえるなら、金にしても、名誉にしても、そして権力にしても、そう
いうもので、この箱を、満たすことはできない。一時の「夢」に酔いしれることはあって
も、それはあくまでも一時。人間の欲望には、際限がない。一つの欲望を満足させると、
さらにその先には、別の欲望が待っている。

 つまりいくら、金、名誉、権力を手にしても、箱に入れたとたん、それらは煙のように
なって、どこかへ散ってしまう(?)。私自身は、これら3つのものとは、無縁の世界に生
きてきた。しかし想像はつく。

 では、どうすれば、この箱を、充足感で満たすことができるのか。その一つのヒントと
して、以前、「オズの魔法使い」について、書いた。たわいもない物語だが、しかしあの物
語には、考えさせられる。

 もうこの原稿を書いてから、4年になる。それを再掲載する(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++++++++

【家族の心を守る法】

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを1年、落第させましょう」と言う
と、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子ども
の学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多
い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそ
うはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘
(小2)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、
オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。1方、アメリ
カでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリア
でもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その1方で、家族がないがしろにさ
れてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも
「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、9割
近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が
担当しているケースは、わずか1%でしかなかったという。子どものしつけや親の世話で
も、6割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、3%(たったの3%!)前後にとど
まった。

その1方で7割以上の人が、「男性の家庭、地域3加をもっと求める必要がある」と考え
ていることもわかったという。内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べてい
る。「今の20代の男性は比較的家事に3加しているようだが、40代、50代には、リ
ンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらな
い。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎
日新聞)と(※1)。

 仕事第1主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、
それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐
れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、こ
の日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい
の日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』とい
うのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向
こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロ
シーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する
物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あ
の映画では家族のために戦う1人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオッ
ト」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パト
リオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。)「家族のため
なら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大切に
するということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのい
う愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきている
のではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観
すべきことばかりではない。

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日
本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%
になった。たった1年足らずの間に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、
日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよ
う」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この1言
が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国6か所程度で、都道府県県教育
委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だ
という(2001年11月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」
という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり
日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質な
ものであることに注意してほしい。

++++++++++++++++++++++

 私があげる「家族主義」の原点は、この原稿にある。しかしその後、この家族主義は、
急速に勢力を伸ばし、今では、どんな調査結果をみても、約80%前後の人が、もっとも
大切にすべきものとして、「家族」をあげるようになっている。

 この5、6年の間に、日本人の意識が、大きく変わってきたことを意味する。

 が、さらに最近、私は、「しかし、それだけでも足りない」と考えるようになった。つま
り家族主義も、それが利己的になったとき、かえって弊害を生むのでは、と。つまり家族
主義にも、善玉と悪玉がある。

 善玉というのは、利他的な家族主義をいう。悪玉というのは、利己的な家族主義をいう。

 同じ家族主義でも、いつも家族のほかのメンバーの立場で考えるか、考えないかのちが
いと言ってもよい。「家族を大切にする」と言いながら、結局は、かほかのメンバーを利用
しているだけという人も、少なくない。そのよい例が、家父長意識である。

 家父長意識が強ければ強いほど、家父長、つまり「ご主人様」にとっては、たいへん居
心地のよい家庭かもしれない。が、ほかのメンバーにとっては、そうでない。つまりは、
善玉、悪玉のちがいは、「人」を大切にするか、「家」を大切にするかということになる。
このタイプの人は、当然のことながら、「家」を大切に考える。しかしこれは、家族主義で
も、何でもない。ただの権威主義という。

 つまり家族主義が、日本の本流となった今、その日本は、さらにその先へと進もうとし
ている。それについては、これから先、もっと考えていきたい。そのヒントの一つとして、
善玉家族主義と、悪玉家族主義について書いてみた。
(はやし浩司 家族主義 善玉 悪玉 オズの魔法使い 愛国心)2005/11/16


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●恋愛と不倫

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知人の息子が、不倫をしているらしい。知人
から、どうすれば、やめさせることができる
かと、相談というか、そんな話が伝わってき
た。

まだ息子の妻(嫁)は、気づいていないよう
だが、心配でならない、と。

++++++++++++++++++++

 恋愛をしたからといって、性的関係があるとはかぎらない。不倫、つまり性的関係をも
ったからといって、恋愛感情があるとは、かぎらない。

 その境目は、どこにあるか?、……という議論は、いくらしても、あまり意味がない。
不倫関係が恋愛関係になることも、反対に、恋愛関係が不倫関係になることは、いくらで
ある。つまり男と女の関係は、いつも流動的。

 ところで、江戸時代から、戦前にかけて、日本には、姦通(かんつう)罪という恐ろし
い刑罰があったそうだ。(江戸時代には、「不義密通罪」と呼ばれていた。)

 浮気がバレたばあい、男のほうが町人のばあいには、まちがいなく死罪。(死罪だぞ!)
また女のほうも、ただではすまない。浮気がバレれば、「吉原に身を売られ、数年間、苦界
に身を沈めねばならなかった」そうだ(「日本史おもしろBOOK」PHP)。

 そのため、女の夫のほうも、仮に自分の妻が浮気をしても、簡単には、訴え出ることが
できなかったそうだ。そのため、内々に、相手の男と、示談ですますことが多かったとい
う。

 その相場は、「7両2分」。江戸中期で、1両で1石の米を買えたというから、1両を約
6万円として計算すると、7両2分というと、約43万円ということになる。

 「43万円かあ……」と思ってみたり、「43万円ねえ……」と思ってみたりする。

 で、どうして7両2分になったかについてだが、死罪になったとき、寺への回向(えこ
う)料が、その7両2分だったからだという。つまり死罪になるよりは、相手の男に、同
額のお金を払って、許してもらおうというわけである。それで7両2分になった(同書)。

 が、浮気にせよ、不倫にせよ、それがバレたとき、夫や妻に与えるショックには、相当
なものがある。が、何よりも恐ろしいのは、その時点で、夫婦の信頼関係が、崩壊すると
いうこと。たとえば、こんな話がある。あなたは、この話を聞いて、どうその夫婦を判断
するだろうか。

++++++++++

 ある男性は、妻に内緒で、職場の女性と不倫関係を楽しんでいた。最初の妻を、「妻A」
とする。が、そのうち、女性のほうが、本気になってしまった。やがて男性のほうも、本
気になってしまった。そこで女性のほうが、男性に、こう言って迫った。

 「奥さんと別れて、私と結婚して」と。男性のほうも、「妻と別れるから、結婚しよう」
と言った。

 こうしてその男性は、妻と離婚。そしてその不倫相手と、再婚。その新しい妻を、ここ
では、「妻B」とする。

 一見、その男性と女性については、めでたしめでたし……ということになるが、しかし
本当にそうだろうか?

 その女性は、こうして「妻」の座を自分のものにしたが、実は、今度は、自分がその妻
の座から、引きずりおろされるハメになった。

 浮気性の男は、どこまでも浮気性。今度は同じ職場の、また別の女性と、不倫関係をも
つようになってしまった。

 この時点で、妻Bには、夫を責める資格は、あるのか。それともないのか。まさか「ど
うして職場の女性と、浮気なんかするのよ!」と、夫に怒るわけにもいかない。が、それ
以前から、妻Bは、家にいても、不安であならなかった。夫の浮気性というか、そうした
性癖を、よく知っていたからである。

 で、やがてその男性は、今度は、その女性と、本気になってしまった。そしてここで再
び、同じことを繰りかえす。妻Bと離婚して、その不倫相手と結婚した。その女性を、「妻
C」としておく。

 ……というケースは、多い。一般的に、マザコンタイプの男性ほど、浮気をしやすいと
言われている。マザコンであるがゆえに、理想の女性(=マドンナ)を求めつづける、イ
コール、自分の妻では、満足できないためと考えられている。

 で、その男性がそうであったかどうかは知らないが、その男性は、妻Aから、妻B、妻
Cへと、3人の妻をもったことになる。で、こういうケースのばあい、はたして夫婦の間
に、信頼関係を築くことができるのだろうか……というのが、ここでの問題である。

 浮気が浮気の範囲で、不倫が不倫の範囲で収まっている間は、まだよい。恋愛関係にな
っても、その範囲を超えない間は、まだよい。それが原因で、離婚、さらには、再婚とな
ると、しかし、そうはいかない。

 夫のほうは、それでよいとしても、妻Cにしてみれば、この先ずっと、「今度は、いつ自
分が裏切られるのか」と、ハラハラしなければならない。また裏切られても、文句をいう
ことすらできない。となると、何のために結婚したのかということにも、なってしまう。

 話は、もう一度脱線するが、恋愛感情にも、寿命があるということが、最近の研究でわ
かってきた。それについて書いた原稿を、もう一度、ここに掲載する。

+++++++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くはない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その
物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなって
しまうからである。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?
(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性)

+++++++++++++++++++

 つまり、恋愛にも寿命があるということ。今風に言えば、賞味期限があるということ。
しかもそれを繰りかえせば繰りかえすほど、賞味期間は、短くなる。

 だから……というわけでもないが、不倫は不倫として、あるいは浮気は浮気として、さ
らにそれから恋愛感情が生まれたとしても、決して、急いで結論を出してはいけない。ど
うせ、冷める。時間がくれば、冷める。人間の脳ミソというのは、もともと、そうできて
いる。

 知人のケースでいうなら、こうした不倫は、静かに見守るしかない。へたに反対すれば、
恋心というのは、かえって燃えあがってしまう。しかし時間がくれば、冷める。長くても、
それは4年以内。だから私は、こう言った。「放っておけばいい。そのうち、熱も冷める。
バレたときは、奥さんにぶん殴られればいい。それですむ」と。

 しかし不倫や浮気ができる人は、それなりに幸福な人かもしれない。いや、不幸な人な
のかもしれない。よくわからないが、私の知らない世界を、そういう人たちは、知ってい
る。ただこういうことは言える。

 「真剣にその人を愛してしまい、命がけということになったら、それは、もう、不倫で
も、浮気でもない」と。夫や妻の間で、それこそ死ぬほどの苦しみを味わうことになるか
もしれないが、そのときは、そうした恋愛を、だれも責めることはできない。人間が人間
であるがゆえの、恋愛ということになる。

 どうせ不倫や浮気をするなら、そういう不倫や浮気をすればよい。そうでないなら、夫
婦の信頼関係を守るためにも、不倫や浮気など、しないほうがよい。いわんやセックスだ
けの関係ほど、味気なく、つまらないものはない。(……と思う。)それで得るものより、
失うもののほうが、はるかに多い。(……と思う。)

 いらぬお節介だが……。

 昔、今東光という作家は、私が、東京の築地にある、がんセンターを見舞うと、こう話
してくれた。

 「所詮、性(セックス)なんて、無だよ」と。私も、そう思う。しかしその「無」にど
うして人は、こうまで振り回されるのだろう。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●迷い(2)

 少し前、「迷い」について、書いた。その迷いについて、釈迦は、迷いがある間は、生と
死の間を行ったりきたりする、「輪廻(りんね)」から、抜け出せないと説いた。

 実は、私の電子マガジンがそうである。簡単に言えば、そういうことになる。その電子
マガジンで考えてみると、こうなる。

 私は、迷った。「廃刊にしようか」「いや、つづけよう」「いや、やっぱり、廃刊にしよう」
と。

 周期的に、これを繰りかえす。そこで釈迦は、こう教えた。「我」に執着している間は、
輪廻から解放されることはない。輪廻から解放されるためには、我を捨てろ、と。

 こうして輪廻から抜け出た状態を、「解脱(げだつ)」といい、人は、そのとき、「涅槃(ね
はん)」の境地に至ることができるという。

 私の電子マガジンについて言えば、「我」があるから、私は苦しむ。発刊しているときも、
苦しい。しかし廃刊にすれば、もっと苦しい。で、その「我」は何かといえば、率直に言
えば、損得の計算ということになる。

 「無料で、こんなことをしていて何になるのか」という思い。「ほかに、すべきことがあ
るだろう」という思い。「どうせ、他人に利用されるだけだ」という思い。こうした(思い)
は、「我」があるから、生まれる。

 そこでこのささやかな「輪廻」から解脱するためには、(おおげさな言い方だが……)、「我」
を捨てるしかない。わかりやすく言えば、損得の計算を、やめる。さらに他人がどう評価
しようが、我が道を進む。「無料のマガジンだから、その程度のことしか書いてない」と思
う人がいたら、そう思わせておけばよい。そう自分に言って聞かせることで、「我」を捨て
る。

 ただ、やはり読者の数だけは、気になる。電子マガジンの世界には、「サドン・デス」(突
然死)という言葉がある。私が配信をしてもらっているEマガ社にしても、発行部数、2
〜3万部を誇っていたマガジンが、突然、廃刊になることがある。珍しくない。半年ほど
前には、発行部数が2400〜500部もあった、地元の電子マガジンが、突然、廃刊し
た。

 理由は、いろいろあるらしい。しかし最大の原因は、読者数の減少期に、それが起きる。
「どうして?」と思う人がいるかもしれないが、その気持ちは、私にはわかる。私のばあ
いも、2、3週間、読者の増加が停滞したときに、それが起きる。「それ」というのは、こ
こでいう「迷い」をいう。

 どうしてだろう? これは私のわがままなのだろうか? 増加が停滞したところで、読
んでくれる人は、いる。もっとわかりやすく言えば、収入の増加が止まったからといって、
すぐ、その仕事をやめる人はいない。

 これはおかしな現象だと思う。

 少し前、読者が、100人から、110人にふえたとき、うれしかった。それをはっき
りと覚えている。そのころと比べると、今は、その読者が、2000人近くにまで、ふえ
た。本来なら、それを率直に喜ばねばならないはず。しかしこの世界では、その実感が、
まるで、ない。どうしてか?

 一つには、この世界には、「数字」しかない。読者が100人のときも、そして1000
人のときも、そして今のように、2000人のときも、それは数字でしかない。さらに仮
に読者が、1万人になっても、この状態は、変わらないだろう。

 そういう意味では、私は、未体験の、しかもおかしな世界を経験しつつある。

 だから私は、迷う。いまだに迷う。読者の数から解放されたいのだが、ほかにとりつく
目標が、何もない。電子マガジンを、1000号まで出すというのは、あくまでも、私の
覚悟。(もうすぐ700号になる!)「あと300号か」と考えたり、「まだ300号もある
のか」と考えたりする。

 ……と考えていくと、こうして迷いながら生きていくのが、人間ではないかということ
になる。私のような人間に、そもそも解脱など、できるわけがない。いわんや、涅槃の境
地に達することなど、できるわけがない。生死の苦しみから、のがれることもできるわけ
がない。

 とにかく、やるしかない。今は、できることを、やるしかない。他人からみれば、実に
バカげたことをしているように見えるかもしれないが、やるしかない。1000号まで、
がんばるしかない。

 つまりそうしてがんばることが、「生きること」ではないか。どこかこじつけ的だが、電
子マガジンにたかこつけて、「迷い」について、再度、考えてみた。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●パソコン

 パソコンという機械は、不思議な機械だ。「機械」ではなく、何と呼ぶべきか。「マシン」
と呼ぶのもおかしいし、「電気製品」というのも、さらにおかしい。パソコンは、やはり「パ
ソコン」と呼ぶのがいいのかも。

 で、この数か月、私は、新しいパソコンと、古いパソコンを、同時に使っている。新し
いパソコンは、CPUを2枚重ねた、ダブルコアという製品である。メモリーも、1GB
搭載。グラフィック・ボードも最新版。

 最初は、新しいパソコンを、もっぱらHPの編集用に使っていた。しかし何といっても、
スピード感がちがう。とたん、古いパソコンが、どこかモタモタしているように感じるよ
うになった。

 時間にすれば、瞬間のことで、1秒の何分の1かのちがいにすぎない。が、それでも、
そのちがいが、はっきりとわかるようになってきた。とたん、古いパソコンで仕事をする
ことが減ってきた。

 新しいパソコンで、文章を書いたり、インターネットに接続したり、と。ただモニター
は、古いパソコンのほうがよい。新しいパソコンのほうは、値段をケチった分だけ、どこ
か見にくい。(と、書くと、モニターを交換すればよいと言う人がいるかもしれないが、F
社のモニターは、F社のパソコンにしか、接続できない!)

 そんなわけで、ときどき、古いパソコンにもどって、文章を書いたり、インターネット
に接続したりしている。

 ここで「不思議な」と書いたのは、そこである。速度にしても、見やすさにしても、わ
ずかな(差)なのだろうが、その差が気になる。そしてその差を、好きになったり、嫌い
になったりする。

 実は、同じことが、子どもの世界についても、言える。

 たとえば同じ年中児でも、カタカナを読み書きできる子どももいれば、それができない
子どももいる。カタカナだけを見れば、大きな(差)のように感ずるが、全体としてみれ
ば、何でもない。一生を、一つの時間帯で考えれば、パソコンでいう、「1秒の何分の1か
のちがいにすぎない」。

 が、母親たちにとってみれば、重大事。数字の読み書きが少し遅れただけで、パニック
状態になる母親だっている。そのわずかな差に敏感に反応して、一喜一憂する。

 が、ここでまた、パソコンと同じ現象が起きる。

 実のところ、頭のよい子どもは、本当の頭がよい。CPUにたとえるなら、ダブルコア
をさらにダブルにしたような子どもがいる。しかしそうでない子どもは、そうでない。だ
から、母親が少しあわてたくらいで、シングルコアの子どもが、ダブルコアになることは、
まずない。

 が、外に見える差は、それほど、ちがわない。そこで今度は反対に、その差を、小さく
評価してしまう。つまり、同じ(差)を、誇大視しながら、同時に、その(差)を、過小
評価する。

 私がいう「不思議な」というのは、そういう意味である。たいした差ではないのだが、
その差を大きく感じながら、同時に、その差を小さく思ってしまう。しかしその(差)は、
実のところ、大きい。パソコンについて言うなら、小さな(差)をつくるために、その内
部には、ものすごい大きな(差)があることになる。が、外に表れる(差)は、小さい。

 自分でこう書きながら、頭の中が、混乱してきた。要するに、どうでもよいことかもし
れない。新しいパソコンは、新しいパソコン。古いパソコンは、古いパソコン。それぞれ
にぞれぞれのよさがある。もともと(差)など、気にするほうがおかしいのかも。

 子どもについても、同じ。ダブルコアの子どもであろうが、シングルコアの子どもであ
ろうが、子どもは子ども。その子どもだけを見ながら、その子どもを判断すればよい。(差)
を調べて問題にするのは、そもそも、教育者のすることではない。

 実際、古いパソコンをしばらく使っていると、(遅さ)が、わからなくなる。反対に、新
しいパソコンをしばらく使っていると、(速さ)がわからなくなる。それでよい。どちらに
せよ、こうした(差)は、相対的なものにすぎない。さらに高性能のパソコンを手にすれ
ば、今の新しいパソコンだって、モタモタして見えるようになるはず。子どもも、また同
じ。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●6か国協議の行方(ゆくえ)

 中国のK首席が、K国を訪問して、昨日、中国へ帰った。最後に、中国の援助で建てら
れたガラス工場を、K首席は訪問してから、帰ったという。

K国としては、中国との親密さをアピールすることにより、11月から再々度行われる、
6か国協議を有利に運ぼうとしているのかもしれない。が、中国を、そんなに信用して
よいのか?

 中国のK首席のねらいは、南北朝鮮の統一どころか、K国の中国化である。つまりK国
を、ゆくゆくは、中国が、取り込んでしまう。もっとわかりやすく言えば、中国の国境を、
38度線までさげることにある。

 そうなれば、N政権が描く、南北朝鮮の統一は、空絵事で終わってしまう。今は、多少
なりともアメリカ軍が残っているからよいようなものの、やがてそのアメリカ軍が撤退し
てしまえば、韓国も、その中国に、のみ込まれてしまうかもしれない。

 そのための布石を、中国は、着々と進めている。

 が、それにしても理解できないのが、韓国のN大統領。いまだに中国やK国に、せっこ
らせっこらと、ラブコールを送りつづけている。とくにK国に対しては、まるで腫れ物に
触れるかのように、気をつかっている。

 韓国には韓国の事情もあるのだろうが、こうした韓国のわけのわからない動きが、6か
国協議の行方を、ますます不透明にしている。先の協議でも、協議が終わるやいなや、ア
メリカや日本側に相談することもなく、「一兆円規模の経済援助計画」を発表してみたり、
「軽水炉をみんなで作ってやろう」と騒いでみたり……。

 この原稿がマガジンにのるころには(11月30日号の予定)、6か国協議がどうなって
いるか、わかるはず。今のところK国は、アメリカの要求には応じないと、明言している。
しかし今回の中朝のトップ会談で、何らかの密約がなされたはず。その密約の内容も、そ
のころ、わかるはず。

 その結果をみれば、これからのK国の行方もわかるはず。韓国は、金xx政権が崩壊す
れば、K国は、自然消滅の形で、韓国に吸収されると思っている。しかしそうは、うまく
はいかない。今の状態で、金xx政権が崩壊すれば、K国は、自然消滅の形で、中国に吸
収される。(韓国も、中国も、金xx政権の崩壊を、望んではいないが……。)

 もしそうなれば、南北統一は、さらに遠ざかることになる。私たち日本人の知ったこと
ではないが……。(2005/11/16記)

(補記)

 今回の中朝会談で、中国側は、20億ドル規模の経済支援を約束した。その内容につい
て、韓国の報道機関は、つぎのように分析している。

(1)経済技術協定に含まれる、関連内容の費用。
(2)経済援助により、K国の安定化をはかる。
(3)核問題による緊張を緩和するため。
(4)6か国協議で、中国側が、優位な立場に立つため。
(5)K国から、資源を獲得するため。
(6)日米同盟の強化に対抗して、K国を、その盾に使うため。
(7)脱北者を減らすため(「東亜N報」)、と。

(追記)

 11月の6か国協議は、結局は、アメリカ側が先に席を蹴って立つことで、決裂する可
能性が、高い。核問題を残したまま、中国は、20億ドルもの経済援助をする。韓国も、
アメリカの意向を無視して、さまざまな形で、K国との関係改善をもくろんでいる。

 こんな状況下で、6か国協議をして、何になるのか。何のための6か国協議なのか。(少
なくとも、アメリカ側は、そう考える。)

 この事情は、中国側にとっても、同じ。

 先ごろ、佐世保が、アメリカの原子力空母の母港となることが決まった。これは日本が、
実質上、核武装したというに、ふさわしい。(少なくとも、中国、韓国側は、そう見ている。
原子力空母には、当然、核兵器が搭載されている。)

 中国側にしてみても、こんな状況下で、6か国協議を開いて、何になるのかということ
になる。

 ますます混沌としてくる、極東アジア情勢。一番、日本にとって好ましいシナリオは、
K国が核開発を放棄して、金xx政権が崩壊してくれること。しかしそうはうまくいかな
い。日本にとって好ましいシナリオは、中国や韓国にとっては、好ましくないシナリオと
いうことになる。だから中国や韓国は、がんばる。がんばるから、ますます混沌としてく
る。



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 28日(No.655)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●遺尿、遺糞

++++++++++++++++

「うちの子が、学校で、『ウンチもらし』と
呼ばれています。いつもパンツにウンチを
つけているからです。

いくら注意しても、なおりません。どうした
ら、いいでしょうか」

(小5男児をもつ、母親より)

+++++++++++++++++

 自分の意思とは関係なく、尿や、大便を、そのつどもらしてしまうことを、遺尿、遺糞
という。もともとストレス耐性の弱い子どもに、よく見られる。敏感児、過敏児など。昔
は「神経質な子ども」と言った。このタイプの子どもは、ものごとに敏感に反応する反面、
それから受けるストレスを、じょうずに回避できない。

 遺尿はともかくも、遺糞する子どもは、学校では、「ウンチもらし」と呼ばれることが多
い。糞の悪臭を、いつも漂わせているからである。

 原因は、ここにも書いたように、心理的なストレスが、慢性的に蓄積されて、起こると
考える。遺尿、遺糞のほか、チック、吃音(どもり)、夜尿、夜驚、ねぼけなどの、神経症
による症状が、ほかに見られることが多い。

 こうした症状が見られたら、本人の性質はともかくも、家庭のあり方そのものに原因が
あると考えて、対処する。神経質で、息の抜けない家庭環境、たとえば、ガミガミと威圧
的な家庭環境など。親の過干渉、過関心が、原因となることもある。子どもの視点で見て、
「家庭が、心と体の休まる(安まる)環境であるかどうか」を判断する。

 簡単な見分け方としては、子どもが、学校から帰ってきたときの様子を見ればよい。

 子どもは、家に帰ってくると、家の中の、どこで心や体を休めるかを、観察する。その
とき、親や兄弟のいるところでも、平気で、大きな態度で、体や心を休めているならよい。
もしそうではなく、親の姿をかいま見ただけで、どこかへ移動したり、逃げていくようで
あれば、その子どもにとって、家庭が、家庭として機能していないとみる。

 が、ほとんどの親は、「自分には問題がない」という前提で、その原因を、外の世界に求
めようとする。そして「学校が悪い」「友だちが悪い」「先生が悪い」と言う。しかしたと
えそうであっても、家庭が家庭として機能していれば、子どもは家庭の中で、心と体を休
めることによって、自分が受けたストレスを、回避できるはず。

 で、こうした遺尿、遺糞が見られたら、(1)家庭のあり方を、猛省する。家庭というよ
り、親自身の子育て法を、猛省する。(2)家庭は、心と体を休める場所と心得て、暖かい
無視、ほどよい親に心がける。そして子どもの方から、何らかの愛情を求めるしぐさを見
せたときは、「求めてきたときが、与えどき」と考えて、すかさず、それに応じてやる。

 このタイプの子どもほど、家の中で、ぞんざいな態度、だらしない様子を見せるが、「あ
あ、うちの子は、こうして心と体の疲れを癒(いや)しているのだ」と思い、大目に見る。
ささいなことで、こまごまと叱るのはタブー。

 が、こうした遺尿、遺糞も含めて、神経症による症状は、簡単には消えない。つまり、
なおらない。そればかりか、対処のし方が悪いと、二番底、三番底へと落ちていく。半年
〜1年単位の、忍耐と根気が必要である。決して、あせっては、いけない。
(はやし浩司 遺尿 遺糞 うんちもらし 神経症 子供の心理 家庭環境)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW教室から】

●万引き

 子どもたち(小4〜6)と、万引きの話になった。そこで私が、「江戸時代に、万引きし
たら、盗んだものにもよるけど、死罪(死刑)になることもあったよ」と話すと、みな、
驚いた。

 江戸時代の刑法に、『公事方御定書(くじかたおさだめかき)』というのがある。その下
巻によれば、10両以上の盗みは、死罪とある。10両という金額が、どの程度のもので
あったかというのは、時代にもよるが、現在の貨幣価値に換算して、約50〜100万円
程度と考えてよい。

 ……と書いたところで、「そうかな?」と、私は、思った。

 そこで1両で、米がどれだけ買えたかを、確かめてみた。(インターネットのおかげで、
こうした調べものが、本当に楽になった。ありがたいことだ。)

 江戸初期 1両で2石5斗買えたから……約150000円の価値
 江戸中期 1両で1石  買えたから……約60000円の価値
 江戸末期 1両で3斗  買えたから……約18000円の価値、だそうだ。
(出典は、「東京知ったかぶり」サイト)

 江戸中期でみても、10両というと、60万円程度ということになる。しかしそれで死
刑、とは!

 で、10両以下だと、タタキの刑を受けたあと、入れ墨をされた。が、再犯を重ね、た
とえば入れ墨も3回になると、「江戸払い」の刑。4回目になると、「盗賊」となり、やは
り死刑になったという(「日本史おもしろBOOK」PHP)。

 言うまでもなく、刑には、二つの意味がある。一つは、その犯罪者に対する懲罰として
の意味の刑。もう一つは、社会に対する、見せしめとしての意味の刑。「悪いことをすると、
こういうひどい目にあうぞ」と、民衆に見せることによって、犯罪を未然に防止する。

 「10両で死刑」というのは、「見せしめ刑」としての意味あいが強い。当然、江戸時代
には、現代のような、きめのこまかい捜査方法もなければ、刑事訴訟法もなかった。

 で、そのことを朝食を食べながら、ワイフに話すと、ワイフは、即座に、昨日、会った
男のことを思い出して、こう言った。「あの男の人も、イレズミ(刺青)をいていたわ」と。

 その男は、透けて見えるような薄いシャツを着ていた。私たちの横で、100円寿司を
食べていた。お決まりの若い、きれいな女性を、横にはべらせていた。そのシャツの下に、
腕から背中にかけて、大きなイレズミが見えた。見るからに、「オレは、ヤクザだ」という
風体(ふうてい)をしていた。

私「江戸時代には、入れ墨をわかりにくくするために、その上に、別のイレズミを彫りこ
んだりしたようだ。それで日本人は、イレズミに対して、悪いイメージをもつようになっ
た」
ワ「でもね、あの男の人ね、最後に、ブルーベリーケーキと、ヨーグルトを注文していた
わよ」
私「そうだったけ? 映画の中のヤクザとは、だいぶイメージがちがうね」
ワ「そうよ。だから私、思わず、笑っちゃった」
私「きっと、根は気の小さい、やさしい人だったかもしれないね」と。

 で、万引きの話にもどる。死刑の話をすると、子どもたちは、ワイワイと騒ぎだした。

私「死刑といっても、いろいろあったんだよ」
子「どんな?」
私「軽いほうから、下手人(げしゅにん)、死罪、獄門(ごくもん)、火罪、磔(はりつけ)
の5つがあった」
子「軽いというのは、おかしい。どうせ殺されるんだから……」

私「そうだよな。たしかに、そうだ。軽いというのは、ただ殺されるだけの死刑(下手人)
をいうよ。重いというのは、クビを切られ、刑場の門にかけられる死刑(獄門)のことを
いうよ」
子「磔(はりつけ)が、一番重いのかア?」

私「そうだよ。みんなが見ている前で、磔(はりつけ)にされ、ヤリで刺されて殺された。
それが磔(はりつけ)だよ。その刺し方にもいろいろあってね。たいていは苦しんで死ぬ
ように、刺したそうだ。しかし相手が、子どもを抱いた母親とかのばあいは、苦しまない
ように、子どもと母親を、一気に刺したそうだ」
子「子どもまでエ〜?」
私「そうだよね。江戸時代には、家族の中のだれかが罪を犯すと、家族もろとも、死刑に
なることが多かった」と。

 私が子どものころには、まだ。「磔(はりつけ)ごっこ」という遊びが残っていた。これ
は何かのことで、その子どもをいじめるとき、その子どもを壁に向って立たせ、うしろか
ら、ボールを投げていじめるという遊びである。

 戦後のあの時代のことである。今、そんな遊びをすれば、それ自体が、(いじめ)という
ことで、大問題になるだろう。が、そのことは、子どもたちには、言わなかった。

私「ともかくも、人のものを盗むということは、悪いことだ。一時は得をしたと思うかも
しれないが、実は、もっと大切なものを、同時になくすんだよ。しかし盗んだときには、
それに気がつかない。それに気がつくのは、ずっと、あとになってからだよね」と。

 子どもたちは、「わかった」というような顔をしていたが、本当にわかったか、どうか?
 中に神妙な顔をして、私の話を聞いているものもいたが、万引きの話は、そこまで。私
の頭の中に、つぎからつぎへと、いろいろな考えが浮かんでは消えた。いつもの、モヤモ
ヤである。

(モヤモヤ、その1)どういう子どもが、万引きをし、どういう子どもが、万引きをしな
いかという問題。私は、正直に、本当に正直に言うが、万引きをしている子どもを見つけ
て、それを店の人に伝えたことは、何度かある。が、万引きだけは、したことがない。 

(モヤモヤ、その2)子どもの小ズルさは、親譲りと考えてよい。親の何気ない日常的な
行動を見ながら、子どもは、その小ズルさを身につけてしまう。わかりやすく言えば、小
ズルい親の子どもは、小ズルい。親を反面教師として、生真面目(まじめ)な子どもにな
ることもあるが、それは例外。

(モヤモヤ、その3)万引きは、犯罪としては、わかりやすい。しかし半ば合法的に、人
のものを盗むのは、どうか。たとえば官僚が、天下りを繰りかえしながら、そのつど、ば
く大な退職金を手にするのは、どうか。よく「税金ドロボー(泥棒)」という言葉が使われ
るが、それこそ、まさに税金ドロボーではないのか。

(モヤモヤ、その4)「10両以上は、死罪」というのは、江戸時代の刑法。しかし農民か
ら、「五公五民」とか何とか言って、農民から、5割もの年貢を納めさせることは、ドロボ
ー以上のドロボー。そうした体制の矛盾をさておいて、庶民だけ、微罪で死刑にするとい
うのは、どう考えてもおかしい。

(モヤモヤ、その5)損とか、得とかいうが、何をもって、損というのか。何をもって、
得というのか。これも私のことになるが、私は生涯において、みなから一方的に、お金を
取られることはあったが、しかし、お金を取ったことは、一度もない。いや、一度だけ、
ワイフの父親が死んだとき、遺産として、義兄から10万円をもらったことがある。(もら
ったのは、ワイフだが……。)その10万円以外、もらったことがない。ただの一度も、な
い。通俗的な言い方をすれば、私は、いつも損ばかりしていた!

(モヤモヤ、その6)小ズルいことをすれば、そのときは、得をしたと思う。しかし実は、
もっと大切なものを、なくす。なくすだけではない。もとの自分にもどるだけでも、たい
へんな努力と、長い時間を必要とする。それからさらに、自分を善なる方向にもっていこ
うとすると、さらにたいへんな努力と、長い時間を必要とする。人生は、長いように見え
るが、そういう意味では、短い。小ズルい人は、人生が何であるかもわからないまま、死
んでいく。つまり、結局は、大損をするのは、その人自身ということになる。

 いろいろ考えているうちに、時間がきてしまった。それで子どもたちとは別れた。
(はやし浩司 江戸時代の刑法 万引き)2005/11/12

【補記】

 この中で、一番気になったのは、6番目の(モヤモヤ、その6)。

 私は、この数年、努めて、他人に対してはもちろんのこと、自分に対しても、誠実であ
ろうと心がけている。ウソは、もちろん、厳禁!

 が、ここで「務めて」とわざわざ書かねばならないほど、私の「性(しょう)」は、よく
ない。はっきり言えば、悪い。私は、子どものころ、その小ズルさのかたまりのような子
どもだった。

 が、それに気づいたのは、今のワイフと結婚してから。さらに、私がなぜ、そういう子
どもになったかを知ったのは、45歳も過ぎてからのことではなかったか。自分の生まれ
育った環境を、浜松市という、遠いところからながめることによって、それを知った。

 私が、子どものころ、「おもしろい人だ」「楽しい人だ」と思った人たちは、みな、例外
なく、小ズルい人だった。それが20年とか、30年とかたってみて、はじめて客観的に
わかるようになった。

 そういう人たちは、今、かなりの年齢になっている。が、どの人も、いまだに、ウソを
平気でつく。ウソのかたまりで、何が本当で、何がそうでないかわからない人さえいる。

 私をだまして、お金を奪った人もいる。現在の今ですら、私のお金をごまかして使って
いる人もいる。

 そういう人たちを見ると、怒れてくるよりも先に、過去の、つまり子ども時代の私自身
を見せつけられるようで、ぞっとする。そして私は、こう思う。

 「もし私が、今、あの古里にそのまま住んでいたら、私も、まちがいなく、あのままの
人間だっただろうな」と。

 だから、私にとっては、「務めて」となる。それは私にとっては、とても悲しいことでも
ある。つまり私は、ほかの人たちよりも、何倍も、何倍も、回り道をしなければならなか
った。多くの友人も、それで失ったし、多くの人を、キズつけてしまった。

 その結果だが、今では、友人といっても、数えるほどしかいない。本当に信頼できる人
と言えば、私のワイフしかいない。孤独と言えば、孤独。恐らくこの孤独からは、死ぬま
で逃れることはできないだろう。

 だから人は、子どものときから、そして幼児のときから、誠実に生きるのがよい。しか
しそのカギを握るのは、実は、親である。とくに母親である。

 今、あなたが子育てをしているなら、子どもが見ているとか、見ていないとか、そうい
うこととは関係なく、あなた自身が、誠実に生きる。信号はきちんと守る。駐車場では、
きちんと駐車場へ車を入れる。1円でも、ごまかさない。そうした生きザマが、やがて子
どもの心を作る。そう、それはあなた自身のためでもあるが、子どものためでもある。

 約束は守る。ウソはつかない。そして自分にも、他人にも、誠実である。それが子育て
の基本の一つということになる。

 それはとても気持ちのよい世界だから、あなたも、今日から私の言ったことを信じて、
実践してみてほしい。あなたも、そのすがすがしさに驚くはずである。

 そうそう、一つ重要なことを言い忘れた。

 自分の誠実さを守るためには、そうでない人とは、勇気をもって、一線を画すのがよい。
それが、たとえ幼(おさな)なじみであれ、近隣の人であり、親類のひとであれ、そして
肉親であれ、だれであったもだ。つきあいを避けられないばあいもあるかもしれないが、
その距離だけは、しっかりと保つようにする。それを忘れると、いつの間にか、もとの自
分にもどってしまう。邪悪な人間にもどってしまう。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●「告白」を読む

 C・R・ジェンキンス氏の書いた、「告白」(角川書店)を購入。関心が深い問題だけに、
たいへん興味深く読む。冒頭、10ページにわたって、ジェンキンス氏、ひとみさんや家
族の写真が、紹介されている。

 その中の1枚。娘の美花さんの21歳のときの、誕生日パーティの写真が載せられてい
る。カラー写真である。

 テーブルには、食べきれないほどのごちそう(?)が並んでいる。ごちそうといっても、
スーパーで並んでいるような、くだもの類とか、惣菜(そうざい)類のようなもの。ハン
グル文字で、「母は、いない」と書いてある。

 つまりこの写真は、「日本政府がひとみを拉致した」ということを印象づけるために、K
国政府が撮ったものだという。そして、ゴていねいに、ひとみさんが立つべき位置に、1
人分の空間がもうけられている。

 まあ、見えすいたプロパガンダ用の写真だが、「ここまでやるか!」と、あきれたり、怒
れたり! K国は、どうしてこういう小細工ばかりするのか! 恥を知れ!

 で、最初の部分は、あと回しにして、私は、途中から読み始めた。私が一連の拉致事件
を知るようになってからの部分である。とくジェンキンス氏一家が、K国をあざむきなが
ら、K国を脱出する箇所は、興味深かった。事実であるだけに、迫力もあった。

 この本を読むと、一家がK国を脱出するとき、長女の美花さんは、日本への帰国をため
らったようだ。インドネシアでも、「仲間を裏切ることになる」と、悩んだそうだ。で、ジ
ェンキンスさんは、娘たちに、こう話していたという。

 「だからニューヨークの街を、あらゆる人種の人々が、自由に歩き回り、仲よくなった
りしているというのは、すっかり彼女たちの理解の範囲を超えていたのだ。(エディ・マー
フィの『星の王子・ニューヨークへ行く』)は、王子様やお姫様が出てくる現代のおとぎ話
だが、それでも北朝鮮の私たちの生活よりも、現実に近かった。私はそのことを、娘たち
に伝えようとした。『私たちが暮らしているこの国は、本当の世界とかけ離れている。ここ
は普通の世界ではないのだ』と、私は常々、娘たちに言い聞かせていた。だが彼女たちは、
信じようとしなかった。彼女たちは、K国という世界しか、知らなかったのだから」(同書、
P158)と。

 いろいろ考えさせられた。今度の週末に、全部を読んで、また読後感を書いてみたい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●今日こそは……!

 もうすぐ、私は、K市に向かう。時刻は、X時X分。相手方の指示で、Y時Y分の電車
に乗ることになっている。これから、K市のW幼稚園で、講演会がある。そこで講師をす
ることになっている。

 で、先ほど、ワイフにこう宣言した。「今日こそは……!」と。

 そう、私は、いつも、例外なく、講演を終えるたびに、こう後悔する。「ああ言えば、よ
かった」「こう言えば、よかった」と。後悔の連続。一度とて、自分で納得できる講演をし
たためしがない。

私「今日こそは、最後の最後だと思って、今までの中でも、最高の講演をしてみたい」
ワ「そうね、最後の最後ね」と。

 実は今日は、私の誕生日。満58歳になる。だから今は、まだ57歳、最後の講演会と
いうことになる。法律的には、今日というか、26日と27日の間の午前0時00分に、
私は、満58歳になったことになる。それを定めるのが、「年齢計算ニ関スル法律」である。

それによれば、「年齢は出生の日から起算し、誕生日の前日に満了する」とする。たとえ
ば、10月10日生まれの人は、その前日の10月9日の午前0時00分に、満年齢が
1歳、加算される。子どもに関していうなら、4月1日生まれの人は、学校への入学な
どでは早生まれとなる。これは3月31日の時点で、就学年齢に達するためと考えるか
らである。しかしこれは、一般常識から考えて、おかしい。一般常識では、誕生日を迎
えるごとに、1歳、加算する。

満365日を生きて、はじめて、そのときから、満年齢が1歳、加算されるべきではな
いか。たとえば、私は、今日という日を生きてこそ、明日から、満58歳になる。少な
くとも、私は、そう考えている。が、法律的に考えていると、何となく、1日、損をし
たような気分になる。

 まあ、ゴチャゴチャした話は、ともかくも、私は、今日、58歳になる。昨日、58歳
になったのではない。今日が、私の誕生日! だから、今日だ!

(この間、半日。無事?、講演を終えて、家に帰ってきた。家に帰ってきたのは、午後7
時30分ごろ。)

 家に帰ると、ささやかだが、部屋を横切って、「Happy Birhthday」の飾
りが、ぶらさげてあった。長男が作ってくれたという。中央の紙には、「パパ、いつもあり
がとう」と書いてあった。

 「年をとるのは、いやだ」と思ったが、しかし、うれしかった。

 いつものようにみんなで、乾杯! ケーキを食べて、おしまい。

 で、ワイフに、「プレゼントは?」と聞くと、おもむろに、一風変わった、ボールペンを
くれた。「何だ?」と思ってよく見ると、メガネ屋のマーク。それを横目で見ながら、ワイ
フが、こう言った。

 「今日、メガネを買ったら、景品でくれたのよ」と。ワイフは、それにリボンをかけて、
私へのプレゼントとした。それを聞いて、私は、笑った。長男も笑った。ワイフも笑った。

 加えて、今日は、私とワイフの結婚記念日。

 結婚式はしていないが、(お金がなくて、できなかったが)、10月28日に、籍を入れ
た。郷里の母が、「その日だけは、(縁起が悪いので)、やめてくれ!」と言ったが、私は気
にしなかった。私の誕生日と同じにすれば、わかりやすい。

 大安だとか、仏滅だとか、あんなのは、まったくの迷信! 私たち夫婦が、それを証明
している。

 ……ということで、無事、58歳になった。

 しかし、パーティが終わったとき、私は、こう叫んだ。

 「今日から、ぼくは、48歳だア!」と。

 健康、体力、+精力(性力)、どれをとっても、私は、48歳程度だと思う。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●珍問答

 ワイフと、昨夜、床の中で、こんな珍問答をした。ワイフが、「生まれ変わりって、ある
の? もしそうなら、きっと、あなたは、前世では、サムライだったわよね」と。

 そこで私は、こう言った。

 「日本人が、日本人に生まれ変わるということ自体、おかしい。前世では、インド人だ
ったかもしれない。南米のペルー人だったかもしれない。死んだ魂が、その位置で固定す
るということは、ありえない。おかしな話だ」と。

 国によっては、侵略したり、されたりして、民族がごちゃごちゃになっているところも
ある。もし生まれ変わりがあるとするなら、そういうところでは、どうなっているのか。
日本人だから、その前世でも、日本人だったと考えるのは、おかしい。ものの見方が、実
に、狭い。

ワ「でも、その人の前世がわかるという超能力者が、この前、テレビに出ていたわよ」
私「そんなのは、その人の空想だよ。妄想かもしれない。それがふくらんだだけだよ」
ワ「そうかしら? その人を見ながら、『あなたは、前世では、○○藩の家老の△△だった』
とか、何とか言っていたわ」
私「だから、ウソなの。だいたい、そういうときは、有名人の名前を出すものなの。名も
ない、農民や町民では、話題にもならないからね。しかしそういう名もない人たちのほう
が、はるかに多かったのだよ」

ワ「でも、どうしてそういう超能力者を、テレビ局は、取りあげるのかしら?」
私「それだけレベルが、低いということ。プロデューサとかディレクターの、ね」
ワ「でもね、その超能力者が言った場所へ行ったら、本当に、その名前のお墓があったの
よ。ウソかしら?」
私「ウソに決まっているだろ。その超能力者は、あらかじめ、そこへ行って、そういう墓
があることを、調べておいたのさ」と。

 数年前だが、こんなおもしろい番組もあった。私は、最後には、それを見て、腹をかか
えて笑った。大声で笑った。

 何でも、その霊媒師は、死んだ人の霊をあの世から、呼び出すことができるという。そ
こで、テレビ局側のだれかが、ナポレオンの霊を呼んでほしいと注文をつけた。

 その霊媒師は、おかしな踊りやら、まじないを繰りかえしていたが、やがて、苦しみ始
め、失神状態になった。が、しばらくすると、パッと立ちあがり、こう言った。

霊「ウーム、私は、ナポレオンだ。だれだ、この闇の世界から、私を呼びだしたのはア!」
「ウーム、お前たちか。何の用だア!」

 するとまわりにいた人の1人が、その霊媒師に、(すっかりナポレオンの気分になってい
た)、こう言った。

男「ナポレオンさんですか」
霊「そうじゃ」
男「そこは、どんな世界ですか」
霊「暗い。とても暗い……」

男「ところでナポレオンさん、何か、一つ、フランス語でしゃべってみてください」
霊「ウーム、ウーム、苦しい。苦しい……」
男「何か、一つ、フランス語でしゃべってみてください。あなたはフランス人でしょ」
霊「ウーム、それは、できぬ。苦しいので、これでさらばじゃア」と。

 だいたい、乗り移ったナポレオンの霊が、日本語を話すというのも、おかしなことでは
ないか。

 ハハハ、ワハハハ!

 同じように考えていくと、仮に、私が前世では、インド人であったとするなら、どうし
て今の私には、インド人的なものが何もないのか、ということになる。それよりもおかし
いのは、世界の人口が今、爆発的にふえている。となると、どこでだれが、霊の増産に務
めているのかということになる。

 前世、来世があるなら、世界の人口は、常に一定でなければならない。まあ、あの世で
は、待ち時間というのも、あるかもしれない。昔は、1000年ごとに生まれ変わってい
たものが、最近になって、100年ごとになったとか……?

 ……もうこんなバカげた議論など、やめよう。考えれば考えるほど、辻褄(つじつま)
があわなくなる。

 人間だけが、特別な動物だと思いたい気持ちは、よくわかる。しかしそれこそ、まさに、
自己中心性の表れ。それも、きわめて幼稚な、自己中心性。

 その自己中心性だが、(私)→(民族)→(国家)→(生物)と広げていくと、その段階
ごとに、「私的自己中心性」→「民族的自己中心性」→「国家的自己中心性」→「生物的自
己中心性」へと、発展していく。たとえば……、

 「私だけが世界で一番重要」と思うのが、「私的自己中心性」。
 「大和民族だけが、最高の民族」と思うのが、「民族的自己中心性」
 「日本だけが、唯一、最高の国家」と思うのが、「国家的自己中心性」
 「人間だけが、特別の動物」と思うのが、「生物的自己中心性」ということになる。

 どの段階においても、自己中心性の程度によって、その人の、人格的完成度を知ること
ができる。自己中心性の強い人ほど、人格の完成度は低いとみる(「EQ論」)。

私「人間だけが、生まれ変わるとか、特別の動物だと主張する人は、だいたいにおいて、
人格の完成度も低い人とみてよいのでは……」
ワ「ものの考え方が、人間中心的すぎるわよね」
私「そうだよ。人間の脳ミソは、そうは、器用にできていない。私的な部分で、利他的で、
生物的な部分で、自己中心的ということは、ありえない。そういう意味では、脳ミソには、
一貫性があるからね」と。

 大切なことは、いつでも、どんなばあいでも、相手の立場で、ものを考えるということ。
それが私的なものであっても、民族的なものであっても、さらには、国家的なものであっ
たも、だ。

 もちろん生物的なものについても、そうである。

「その超能力者がだよ、お前の前世は、コオロギだったとでも言うのなら、話はわかる
けど。しかしそのコオロギにしてみれば、人間に生まれ変わる確率は、サマージャンボ
(宝くじ)で、特賞を当てるよりも、低いだろうね。だって、昆虫の数のほうが、人間
の数より、はるかに多いわけだから。言いかえるとね、人間が死んで生まれ変わるとし
てもだよ、再び人間に生まれ変わる確率は、かぎりなく、ゼロに近い。だから、ありえ
ない」と。

 そのうち、コンピュータが進歩してくると、「このコンピュータは、はやし浩司の生まれ
変わり」などと言い出す人が出てくるかもしれない。私は、それを楽しみにしているが…
…。ハハハ。今から、笑っておこう!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日々、雑感】

●信用

 夜遅く、近くのコンビニへ行った。店員たちが、弁当やおにぎりなどを、無造作に、カ
ゴに詰めていた。「どうするのですか?」と聞くと、「捨てるんです」と。

 瞬間、私は、「もったいない」と思った。そう思って、「どうして?」と聞くと、「こうい
うものは、1日かぎりで捨てることになっていますから」と。

 つぎの瞬間、「だったら、安く売ればいい」とか、「ただでくれればいい」と思ったが、
それは言わなかった。売れ残った弁当類は、損金として、計算されるしくみになっている
らしい。

 が、それ以後、私の中に、別の感覚が生まれるようになった。「それ以後」といっても、
すぐではない。何か月もたってからのことだが、ある日気がつくと、私は弁当といえば、
コンビニで買うようになっていた。とくに、ドライブか何かをしていて、田舎のほうへ行
ったときは、そうである。

 「コンビニの弁当は、安心して食べられる」という感覚である。つまり、こうして、店
の信用ができる。コンビニにしてみれば、売れ残ったものを捨てるというのは、勇気のい
ることかもしれない。しかし売れ残ったものを、安く売るようでは、信用はつかない。そ
のときは「損」と思っても、それから生まれる信頼感が、新しい信用を生む。

 おかげで、個人の店は、このところ、どんどんと閉店に追いこまれているが……。


●廃業

 その個人の店の話。

 最近、また、近くの文具店が、廃業に追いこまれた。ときどき文具を買っていた店だけ
に、残念。しかしこうまで100円ショップが、力をもってくると、どうにもならない。
たいていの文具が、その100円ショップでそろってしまう。その店にしても、廃業は、
時間の問題だった。

 しかし、よくがんばったと思う。

 文具というのは、掛け率が高い。100円で仕入れた商品なら、200円以上の値段を
つける。文具のように、値段の安い小物を売るときは、それくらいの掛け率にしないと、
採算があわない。わかりやすく言えば、時計屋は、時計を一個売って、4000円もうけ
る。が、文具店は、消しゴム一個売っても、100円のもうけにしかならない。(この話は、
30年前の話を基準にしているが……。)

 同じように、このところ時計屋も元気がない。個人の時計屋では、それをカバーするた
め、メガネを売ったり、宝飾品を並べたりした。が、それも一巡すると、あとは、斜陽の
一途。

 私の実家も、家業は自転車屋だったが、私が中学生から高校生になるころには、いつ閉
店してもおかしくない状態に追いこまれた。あるとき売れる自転車の数を調べたことがあ
るが、1か月に、3〜4台しか売れなかったのを覚えている。当然、家計は火の車。あと
は、パンク修理や自転車修理で、何とか生計をたてていた。

 だから今、廃業していく人たちの気持ちが、痛いほど、よくわかる。「つらい」などと生
やさしいものではない。何とも表現のしようがない憂うつ感、閉そく感、沈滞感。さらに
その上から、容赦なく、不安や心配がのしかかってくる。通りを歩く客を、ただぼんやり
と待つ商店主の気持ちは、そんなもの。

 しかし暗い顔はできない。少ない客でも入ってくれば、精一杯の笑顔をつくって見せる。
腹の底をしぼりながら、元気な声で、「いらっしゃいませ!」と言う。それは仮面。虚勢。
虚栄。

 「廃業」というが、そうは簡単にはできない。たいていのばあい、その時点で、転業す
るだけの余力すらない。資金もない。それに商店主というのは、その商品のプロではあっ
ても、そのほかのことについては、ほとんど知らない。できない。だから「食べていけれ
ばいい」と、自分をなぐさめながら、その日、その日を、何とか、暮らす。

 ……毎日、その文具店の前を通るたびに、私は、子どものころの、あの気持ちを思い出
していた。が、やはり、廃業。少し前だが、「一日の売りあげは、いくらくらいかな?」と
思ったことがある。

 仮に1万円の利益をあげるためには、2万円以上の売りあげがないと、いけない。しか
し文具で、2万円以上の売りあげをあげるのは、たいへんなこと。ノートならノートを、
1冊とか、2冊とか、そういう単位で、売る。値段は、300円とか、400円。こまか
い仕事であることには、ちがいない。

 その点、100円ショップは、ちがう。客が、10個、20個のものを、カゴにつめて
買う。店員は、商品の数を数えるだけ。包んだり、袋に入れたりなどということは、しな
い。(してくれるところもあるが……。)

 こうして、街角から、また一つの店が消えた。少し前には、酒屋も消えた。靴屋も消え
た。時計屋も電気屋も消えた。「これでいいのかなあ」という思いと、「しかたないのかな
あ」という思いが、私のばあい、胸の中で、複雑に交錯する。

 そうそう、その点、私のワイフなどには、私がしたような経験がない。だから平然と、
こう言う。「これは時代の流れよ」「しかたないわね」と。個人の商店に対する同情心とい
うか、思いやりというものが、まるで、ない。しかし、しょせん、商売というのは、そう
いうもの。

 問屋をできるだけたたいて、安く仕入れる。客をできるだけだまして、高く売る。あと
は、毎日、このかけ引き。その連続。少しきびしいことを書いたが、だから商店が閉店し
ても、それに同情する人は、ほとんど、いない。「ああ、しかたないわね」で終わってしま
う。

 でも、あの文具店で長く働いていた店員さんは、これから先、どうするのだろう?


●記憶

 長男が、ちょうど1歳半くらいのときのこと。今の家を建てた。私とワイフは、仕事が
終わるたびに、新築中の家を見にきた。

 そんなある日の午後遅く、私は、車の中で眠っている長男をそのままにして、新築中の
家の中を見ていた。たまたま建築会社の社員も、そばにいた。

 が、そのとき、長男の叫び声で、道路に飛び出した。見ると、車が、坂を下へ下へと、
動き始めているではないか。あわてて車にかけよったが、車はそのまま側溝へ。ドスンと
音がして、そこで止まった。深い側溝だった。

 事件は、それで終わった。その日は、建築会社の社員に家まで乗せてもらって、アパー
トまで帰った。翌日、みなで、車を側溝から引き出すつもりだった。

 で、その日のできごとを、ある日、長男が、「覚えている」と言った。しかしそんなはず
はない。そのとき長男は、1歳半くらい。これはあとでわかったことだが、助手席で眠っ
ていた長男は、目をさまし、どこかにつかまって立ったらしい。そしてサイドブレーキを、
足で踏んでしまったらしい。それで車が動き出した。

 それについて、今日、ワイフが、こんな説明をしてくれた。

「S(=長男)はね、あの日のことを覚えていないのよ。でもね、Sが中学生くらいのと
き、夢を見たんだって。その夢の中で、自分の乗った車が、勝手に動き出し、こわい思い
をしたそうよ。そこで私たちが話してあげた話と、夢の内容が一致したというわけ」と。

 つまり長男は、記憶としては、その日のことは覚えていない。しかし眠っているとき、
その日のことを、夢として見た。車の中で立って、サイドブレーキを踏んだ。そのため、
サイドブレーキが、ガチャンという音をたてて、車が動き出した。そういう夢だったとい
う。その夢の内容が、私たちがいつか、長男に話した話の内容と、一致した。それで「覚
えている」ということになった。どうも、そういうことらしい。

 つまり、1歳半のころのことでも、脳みそのどこかに、それは(記銘)される。ただそ
れを記憶として、(想起)できないだけ、ということになる。

 このことで思い出したが、たとえば4歳児に、1年前のことや、2年前のことを聞くと、
みな、「覚えている」という。弟が生まれた日のことや、家族で旅行に行ったときのことな
ど。逆算すると、4歳児でも、2歳のころのことや、3歳のころのことを覚えていること
になる。

 これはこの年齢の子どもについては、驚くべきことでも、何でもない。ごく、ふつうの
ことである。しかしおとなになるにつれて、2歳や3歳のころのことを思い出せなくなる。
こうした現象を、どう説明したらよいのか。おとなになるにつれて、(想起)する力が弱く
なるということか。

 興味ある事実なので、ここに記録として、書きとどめておくことにする。
(はやし浩司 子供の記憶 記憶 記銘 保持 想起)


●悪夢

 私は、毎晩のように、悪夢を見る。いつもたいてい、その悪夢で目が覚める。そのこと
からもわかるように、私の心には、大きなキズ(トラウマ)がある。

 そのキズは、いつついたものなのか。どうしてついたものなのか。そのあたりのことは、
思い出そうとしても、思い出せない。しかしこうした悪夢を見るようになったのは、中学
生から高校生にかけてである。

 原因は、いくつかある。その中でも最大のものは、あの受験競争にあると思う。私は自
己愛者特有の、完ぺき主義者だった。そのため、自分に過酷なまでの受験勉強を強いた。

 もちろんそれ以前からも、日常的に、かなりの不安感に悩まされていた。そういう意味
では、私が生まれ育った家庭環境は、とても幸福なものと言えるようなものではなかった。
その不安感に、拍車をかけたのが、あの受験戦争だったということになる。

 母は、いつも口ぐせのように言っていた。「勉強しなかったら、自転車屋をつげ」「工場
で働け」と。それは私にとっては、「死ね」と言われるくらい、つらい言葉だった。

 で、いつも、こう思う。「どうしたら、この悪夢から解放されるのか」と。

 私の悪夢は、これまたおかしなことに、一晩とて、同じものはない。毎晩、ちがう。し
かしパターンは、同じ。

 たいていバスか電車、あるいは車で、どこか遠いところに来ている。町の中のホテルで
あったり、田舎の温泉であったり。あるいは、山の中の、バス停のときもある。見知らぬ
土地というよりは、そのあたりの地理については、どういうわけか、よく知っている。

 で、時間がやってくる。私は、温泉に入っている。みやげ物屋でみやげを買っている。
しかし時間がやってくる。「早くバスに乗らないといけない」とか、「飛行機に乗り遅れる」
とか、そう思う。

 しかし時間がやってくる。で、カバンを部屋に取りにいくと、私のカバンがない。ある
いは空港へ行くバスは、もう出てしまっている。ホテルには、だれもいない。

 全体としてみると、そういう夢である。

 フロイト流に解釈するなら、慢性的な強迫観念が底流にあって、それから生まれる不安
感に根ざした夢ということになる。

 ときどき居なおって、「ぼくは、勝手にひとりで行くから」とか、「空を飛べばいい」と
か考えることもある。しかしほとんどのばあい、ハラハラ、ドキドキしたところで、目が
さめる。

 で、こうした夢は、私だけが見る夢かと思っていたら、似たような夢を見る人が、ほか
にもたくさんいることを知った。しかも、だ。幼児でも、少なくないことを知った。いつ
だったか、それについて調べたことがある。

 幼児(5、6歳児)だと、何かに追いかけられる夢が多い。ワニとか、ロボットとかな
ど。「幼児だから、楽しい夢を見ているはず」と考えるのは、たいへんなまちがい。

 それはさておき、私は、恐らく死ぬまで、この悪夢から解放されることはないだろう。
だから、一生、じょうずにつきあうしかない。

 で、またまた私のワイフの話になるが、ワイフは、悪夢なるものは、ほとんど、見ない
という。だいたい、夢そのものをあまり見ないらしい。そのワイフは、受験競争を経験し
ていない。高校時代は、いつも友だちと遊んでばかりいたという。母親は、早くして、な
くしているが、しかしワイフは、いつもこう言う。

 「私の家は貧乏だったけど、みんなが助けあって、毎日、楽しかった」と。そこで「不
安感はなかったか?」と聞くと、「まったく、なかった」と。

 そういう子ども時代をもつ人は、幸福だと思う。不幸にして不幸な家庭環境に育った子
どもだけが、私が見るような悪夢に、一生、苦しめられる。
(はやし浩司 悪夢 トラウマ 心の傷 強迫観念)


●「週刊B春」11月3日号

 コンビニで、週刊B春、11月3日号を買う。読む。冒頭の記事が、気になった。こん
な事件である。

 「12歳息子に、撲殺された『教育ママ』が築いたゴミの山」と。

 副題には、こうある。「単身赴任の末に離婚した父。家事放棄する母。大阪・M市のサラ
リーマン家庭に、何が起こったのか……」と。

 事件の概要は、だれでも、簡単に想像できる。教育ママと、できのよい息子。しかしそ
れに満足しない母親。「勉強しなさい」「うるさい」の、けんか。それが毎日、毎晩つづく。
こうした対立が、やがて突発的な事件へと発展する。息子が、母親を、撲殺、と。

 記事を読むと、母親が、かなり神経症的な症状を示しているのがわかる。子どもの成績
に異常なまでにこだわり、その一方で、家事放棄。家の中は、「ゴミの山」だったという。
つまり母親自身が、自分をコントロールする力(=管理能力)を失っている。

 こうなると、家庭教育も、当然、崩壊する。母親は、自分の不安を解消するための道具
として、子どもを利用する。週刊誌の記事によれば、すでにそのとき、子どもの成績は、
優秀であったという。

 が、実際には、このタイプの親は、少なくない。子どものできが悪ければ悪いで、悩ん
だりするが、反対にできがよくても、「もっと……」「さらに……」と悩む。つまり親の欲
望には、際限がない。

 どうして際限がないかというよりも、もともと、このタイプの親は、真の愛情というも
のが、どういうものか、わかっていない。愛ももどきの愛、つまり代償的愛をもって、そ
れが真の愛と誤解する。それはストーカー行為を繰りかえす人が口にする「愛」に似てい
る。どこまでも自分勝手な愛。自己中心的な愛。子どもの気持ちなど、まるで考えていな
い。

 だから肝心の子どもは、そういう親に対して、感謝などしていない。まさにありがた迷
惑。だから、記事の最後は、こう結んである。そのまま紹介する。

++++++++++++++++++

 A(少年のこと)は、取り調べに対して、こう答えている。

 「勉強しろと口やかましく言われたので、腹がたって殴った。殺すつもりはなかった。
小6くらいから、顔を見るたびに、「勉強せえ」と言われて、腹がたっていた」

 そして「拘留後は落ち込んだり、反省したりする様子もなく、食事もぜんぶ食べて、ぐ
っすりと寝ている」(捜査関係者)と。

++++++++++++++++++

 どの親も、自分で失敗してみるまで、それが失敗だと気づかない。「うちの子にかぎって
……」「うちはだいじょうぶ……」と。

 これは子育てにまつわる宿命のようなもの。だから私のようなものが、いくら声高に叫
んでも、親の心には、届かない。だれしも、「うちの子は、今よりよくなる」とだけしか考
えない。そう考えて、子どもを、受験競争に駆りたてる。しかし成功する例より、失敗す
る例のほうが多い。はるかに多い。

 今でも私は、親たちの際限のない希望に耳を傾けているとき、ときどき、こう思うこと
がある。「私の知ったことか!」と。そうでも思わないと、やりきれない。その場から、自
分を解放することができない。しかし被害者は、いつも、子どもたち。それを忘れてはい
けない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

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【HP、マガジンより、心ない、あなた様へ】

 私のマガジンやHPでは、マガジンについては、R天日記のばあい、あなた様のプロバ
イダー名までわかるしくみになっています。

 マガジンについては、購読者のアドレスもわかるしくみになっています。

 HPについては、F社の、読者追跡サービスによって、やはりプロバイダー名や、あな
た様の県名まで、わかるしくみになっています。アクセス回数はもちろん、どうでもよい
ことですが、あなた様が、どんなパソコンやOSを使っていらっしゃるかまでわかるしく
みになっています。どのぺージを閲覧したかまで、わかるしくみになっています。

 私の出しているマガジンにせよ、HPにせよ、これらは、タイトルのとおり、『子育て最
前線の父母』のためのものです。最初は、BW生の父母のために書き始めたものです。

ですから、ときどき、いやがらせや、中傷めいた書き込み、コメントを書く人もいます
が、どうか、そういうことは、ムダなことですから、やめてください。すでに子育てが
終わっている、あなた様には、関係のないものと思われます。

 くれぐれも、よろしくお願いします。

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○      
.        =∞=  // (奇数月用)11
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 25日(No.654)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

http://bwhayashi2.fc2web.com/page013.html

+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Gifted Children(恵まれた子どもたち)

++++++++++++++++++++

豊かな才能と、恵まれた能力の子どもというのは、
たしかに、いる。

そういう子どもたちは、どう教えたらよいのか。

++++++++++++++++++++

 「Gifted Children」という。才能に恵まれた子どもたちをいう。で、
そういう子どもたちが、私の教室には、約半数は、いる。(私の教室で、幼児期から教えれ
ば、約半数は、そうなるということ。しかし実際には、6〜7割の子どもが、そうなる。)

 どの子どもも、幼児教室からの子どもたちである。が、特別なことをしているわけでは
ない。幼児期は、「学ぶことは楽しい」「考えることは楽しい」ということだけを、教える。
これを徹底して、教える。

 少しでも、よくできるようになったら、みなで、ほめる。手をたたいて、ほめる。こう
したやり方で、前向きに、子どもを伸ばしていく。が、これだけでは、足りない。

 重要なことは、子どもの脳ミソを、いろいろな方面から刺激すること。そのため、私の
教室(幼児クラス)では、1年間(44レッスン)をとおして、一度とて、同じレッスン
をしない。たとえば、今週は、「文字、本読み」。来週は、「動物」。先週は、「演技(ドラマ)」
をテーマにした。

 こうして約半数の子どもたちが、小学生になると、ここでいうGifted Chil
drenになっていく。

 その子どもたちを、昨日(10・24)も、教える。学年は、バラバラ。昨日のクラス
は、小3〜小5年生たち。今日、小3のT君が、小6の学習をすべて終えた。だから2人
で、近くの書店まで、ワークブックを買いに行った。

 「このワークブック(小6のまとめ)が終わったら、今度は、中学校の勉強を教えてあ
げるからね」といったら、T君は、うれしそうに笑った。

 が、ここに書いたように、特別なことをしているわけではない。こんなことを言っても、
信じないかもしれないが、どの子も、私が教えようとすると、「うるさい!」「知っている!」
と言って、怒りだす。プライドがキズつけられたと思うのだろう。

 が、あまり我流でもいけない。そこで私のほうが、「でもね、こうするとね……」などと
言って、教えるときもある。しかしそういうとき、子どもによっては、泣きだしてしまう
こともある。できないから泣くのではなく、悔しいから、泣く。

 で、私がすることは、方向性をつけることだけ。仕事しては、恐ろしく、楽。たとえて
言うなら、私は、子どもたちの舵(かじ)を取るだけ。黒板に向って、ガンガンと声を荒
げて教えるのは、私のやり方ではない。また、そんなやり方では、こうしたGifted 
Childrenを教えることはできない。伸ばすことはできない。

 「自分で教科書を読んで、勉強しなさい」「わからないところだけ、もってきなさい」と
いうような教え方をする。

 あとは、子どもどうしの、相乗効果。子どもどうしが、たがいに刺激しあって、伸びる。
で、実は、そのクラスづくりが、むずかしい。わかりやすく言えば、その人選を誤ると、
クラスが、バラバラになってしまう。1か月や2か月では、わからないが、半年、1年と
たつと、それがわかる。

 だからどの子どもを、どのクラスに入れるかには、かなりの神経をつかう。もっとも、
たいていのケースでは、子どもたち自身で、それを判断する。「A君がいるから、そのクラ
スがいい」とか、何とか。親どうしが、情報を交換してくるときもある。仲がよい親どう
しの子どもは、たいてい仲がよい。

 あとは、やりたいように、させる。子どもたちが、だ。それぞれの子どもには、それぞ
れのリズムがある。パッ、パッと、5〜10ページくらいやってしまったあと、あれこれ
と別のことを考えながら時間をつぶす子どもがいる。が、しばらくすると、また、おもむ
ろにやり始めて、また、パッ、パッと、5〜10ページくらいやってしまう。

 もちろん、コツコツと、マイペースで進む子どももいる。四方八方に、触覚をのばしな
がら、ああでもない、こうでもないと言いながら、進む子どももいる。大切なことは、私
のやり方を押しつけないこと。受験生なら、受験でおどしながら、(あるいは成績や順位で
おどしながら)、子どもを指導するという方法もある。しかしそんなのは、邪道! 他方で、
子どもの心を破壊してしまう。(世の親たちよ、いいかげんに、その事実に気がつけ!)

 で、そういうクラスを教えるのは、実に楽しい。どういうわけか、楽しい。子どもたち
の知的エネルギーの心地よさというか、その波動を、楽しむことができる。

 昨日も、小3のKさんが、そのクラスに、見学にやってきた。現在は、小4のクラスで
教えているが、「もっと、勉強したい」と言った。それで見学にやってきた。が、Kさんは、
新しいクラスを見て、水を得た魚のように、生き生きとしていた。知的好奇心が満足させ
られたためではないか。(反対に、このタイプの子どもは、レベルの低い子どもたちの間に
おくと、フラストレーションを起こしてしまう。)

 小4(下)の教科書を見せると、「こんなの、知っているわよ!」とか、「教えてもらわ
なくても、結構!」などと、生意気なことを言いながら、自分でどんどんと進んでくれた。

 あとは、気分をほぐすために、ときどき、パズルを出したり、まったく、別の勉強をさ
せたりする。ときどき「こんなことで、月謝をもらっていいのかなあ」と思うときがある。
Gifted Childrenのクラスというのは、そういうクラスをいう。
(はやし浩司 才能のある子ども 恵まれた子ども 恵まれた子供たち)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●子どもの肥満

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四国にお住まいの、UEさん(母親)より
こんなメールが、届いています。

この分野については、私は、まったくの
門外漢で、知識がありません。

どなたか、UEさんにアドバイスできる方
がいらっしゃれば、私のHPの掲示板の
ほうに、どうか、ご意見を書きこんでく
ださい。

よろしく、お願いします。

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【UEより、はやし浩司へ】

こんにちは。職場のパソコンで、仕事中にこんなことしてます。アドレスは自宅のパソコ
ンのものです。

以前、掲示板の方で、長女のこと主人のことでアドバイスをいただいた事があります。あ
りがとうございました。
今度は次女のことを聞いてください。

次女は肥満です。今4歳で体重が2kgあります。身長はどちらかといえば小さいほうな
んです。

ご飯もおやつも良く食べます。

3歳児検診のときに、小児科の先生から「おやつは抜きにしてもいいね」と言われました
が、ハッキリ言ってそれは不可能です。

長女が食べていれば次女も欲しがりますし、おやつのことを忘れるくらい相手をすること
も、私には出来そうにありません。

「妊娠中に母親の栄養が足りないと、(子どもは)、肥満になる傾向がある」と聞いたこと
があります。

確かに、妊娠中は切迫早産で丸2か月間、病院のベッドで寝たきりの状態で、薬の副作用
のせいか、食欲も無く栄養失調状態でした。

保育所の友達から「デブ」言われることもあり、(しかも主人もデブとかブタとか言います)
このままでは可哀想にも思います。

いろいろ工夫したくても、なかなか手をかけた食事を作れないのも現状です。

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 このUEさんからのメールとは、別に、たまたま掲示板のほうに、こんな書き込みがあ
りましたので、紹介させてもらいます。TKさんという方からのものです。

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(1)
2歳になる男児ですが、最近お友達にとても興味がありスーパーなどで会う子には挨拶し
たり手を振ったりしますが、その反面公園で遊んだりおもちゃ売り場で遊んだりしている
とき、小さい子やお友達を突然叩くのです。しかも必ずといっていい程、顔面なのです。
無抵抗な子に対して特にやっちゃうのです。どうやって対処したらよいのかわからず、何
となくみんなのいるところに行くことが、億劫になりつつあります。

(2)
有難うございます。確かに毎日のように甘いものを食べています。駄目といっても欲しがるとき
は与えていました。早速、試みます。

(3)
家族構成は主人(34)と、私(33)と、子どもです。まだ下にはいませんがそろそろ
と思っています。今の状況ではまだ計画を立てないほうがよろしいのでしょうか? もう
ひとつ質問です。よく食べる子で10時と3時の間食は必要だと思って与えていました。
どちらか一回のほうがよいのでしょうか? 与えるとしたら果物などがいいのでしょう
か?ご指導よろしくお願いいたします。

(4)
先日、先生にご指導頂いた通り海産物や魚などを中心の食生活に切り替えたところ、随分
と息子の行動が穏やかになったような気がします。ひいき目かも・・・と思いましたがお
友達を叩くところか、最近はやけに親切なのです。『どおじょ〜〜〜』の連発です。甘いも
のはすきなのですが家に置かないようにしています。また何か心配なことがあったと時は、
ご指導ください。よろしくお願いいたします。本当にありがとうございました。 

【はやし浩司より、UE様へ】

 4歳で22kgというのは、かなりの肥満ということになります。

子どもの肥満度は、つぎの計算式で、知ることができます。

 おとなの肥満度は、つぎの計算式で、求められる(資料……社会保険健康事業財団)。

●標準体重の求め方 

 標準体重(kg)=身長(m)×身長(m)×22

(肥満度)=〔(実測体重・kg)−(標準体重)〕÷(標準体重)x100

        20以上が肥満

●肥満度の求め方 

 肥満の判定は体格指数 (BMI:Body Mass Index)によって行う。

BMI=体重(kg)÷[身長(m)×身長(m)]

 この計算で    18・5未満……やせ
         18・5〜25……標準体重
           25〜3未満……肥満度1度
         30〜35未満……肥満度2度
         35〜40未満……肥満度3度
            40以上……肥満度4度

●子どもの肥満度

子どもの肥満度を測定する方法として、乳幼児はカプス指数、児童期(小学生)はロー
レル指数などがある。心配なら、以下の計算式で、子どもの肥満度を調べてみるとよい。

【乳幼児期のカプス指数】

 (実測体重・g)÷〔(実測身長・cm)x(実測身長)〕x10

       この計算式で、20以上は、肥満と判定する。

【児童期のローレル指数】

 (実測体重・kg)÷〔(実測身長・cm)x(実測身長)〕x100000

       この計算式で、160以上は、肥満と判定する。

【例、身長120cm、体重25kgの小学生のばあい】

       25÷〔120x120〕x100000=173
          (173だから、肥満とみる。)

●簡単な肥満の見分け方

 子どもの肥満は、手の指を前にぐんと伸ばし、指をできるだけ上にそらした状態で、手
の甲をみて判断する。そのとき、指のつけ根のところに、指から伸びる腱が、現れる。(腱
は、手の甲のつけ根から指先に向って、放射線状にのびる。)このとき、腱が見えればよし。
そうではなく、腱が見えなくなったり、あるいは指のつけ根あたりにえくぼが現れたりす
るようであれば、肥満のはじまりと見て、警戒する。肥満が進めば進むほど、えくぼは深
くなる。ただしこの肥満度検査は、年長児以前の子どもには、応用できない。この方式は、
私(はやし浩司)が、考えた。 
(030723)

++++++++++++++++++

 UEさんのお子さんを、前述、カプス指数で計算してみると、つぎのようになります。

 身長を、100センチとします。

 22000÷(100x100)x10=22、となります。身長がこれより小さけれ
ば、カプス指数は、もっと大きくなります。

 で、原因の第一は、過食と偏食ということになりますが、同時に、心の問題もあるかも
シレマセン。メールだけでは、よくわかりませんが……。

 UEさんは、「(改善は)不可能」という言葉を使っておられますが、本当にそうでしょ
うか。一つの方法として、「冷蔵庫を空にする」というのが、ありますから、一度、実行し
てみてください。

 以前書いた、原稿を添付します。参考にしていただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++


●買い物グセ

 夏場になると、がぜん多くなるのが、体をクネクネ、ダラダラさせる子ども。原因は、
いろいろある。

 クーラーなどによる、冷房のかけすぎ。睡眠不足。それに、甘いものの食べすぎ。

 この時期、どうしても、アイスやかき氷が多くなる。ジュースや、清涼飲料水などなど。
糖分のとりすぎが遠因となって、カルシウム、マグネシウム、カリウムなどの不足を引き
起こす。

 だいたいにおいて、世の母親たちよ、ものごとは、常識で考えてみようではないか。

 体重12キロの子どもに、缶ジュース一本を与えるということは、体重60キロのおと
なが、5本飲む量に等しい。それだけ多量のジュースを一方で、与えておきながら、「どう
してうちの子は、小食なのでしょうか」は、ない!

 ……というような話をすると、ほとんどの親は、自分の愚行(失礼!)に気づく。そし
て、こう言う。「では、今日から、改めます」と。

 しかし、問題は、この先。

 しばらくの間は、母親も注意する。しかし数週間から1か月、2か月もすると、また、
もとにもどってしまう。もとの食生活にもどって、また子どもに、甘い食べ物を与えてし
まう。

 思考回路がそうできているからである。つまり、この思考回路、それにもとづく行動パ
ターンを変えるのは、容易なことではない。

 買いものに行くと、また同じ、ジュースだのアイスを買い始めてしまう……。

 では、どうするか。

 こうした思考回路を変えるためには、ショックを与えなければならない。「ショック」で
ある。

 話は、かなり脱線するが、昔は、チンドン屋というのがいた。新しい店ができると、そ
この経営者がチンドン屋を雇い、そのチンドン屋が、そのあたりをぐるぐると回った。

 私たち子どもは、それがおもしろくて、いつまでも、そのチンドン屋について歩いた。

 つまりそうすることで、もちろんその店の宣伝にもなるが、そのあたりに住む人たちの、
行動パターンを変えることができる。たとえば人というのは、一度、ある店に行き始める
と、その行動パターンを変えるのは、容易なことではない。

 「お酒……」といえば、「A酒屋」と。
 「お米……」といえば、「B米屋」と。

 そこで新しくできた店は、そのあたりの人たちがもつ、そういう意識、つまり行動パタ
ーンを変えなければならない。それがチンドン屋というわけである。

 たしかにあのチンドン屋は、ショックを与えるという意味では、効果がある。派手な服
装に、派手な鳴り物。それに踊り。チンチン、ドンドンと音に合わせて、踊りながら回る。
そのあたりの人たちは、それを見て、自分の行動パターンを変える……。

 では、どうするか?

 あなたには、あなたの買い物グセがある。その買い物グセをなおすには、どうするか。

 もうおわかりかと思うが、その行動パターンを変えるためには、自らにショックを与え
ればよいということになる。ショックを与えて、自分の行動パターンを変える。

【一つの方法】

 今すぐ、冷蔵庫の中にある、甘い食品(アイス、ジュース、プリンなど)を、すべて袋
につめて、捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、心を鬼にして、捨てる。

 この「もったいない」という思いが、ショックとなって、あなたの意識、行動パターン
が変わる。

 こういうとき、「つぎから、買うのをひかえればいい」とか、「もったいないから、食べ
てしまおう」と考えてはいけない。そういうケチな根性をもつと、またすぐ、もとの買い
物グセにもどってしまう。
(はやし浩司 子供の肥満 子どもの肥満 肥満度 標準体重 カプス指数 ローレル指
数)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●もしも……

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もしも、K国が、核武装して、日本を攻撃してきたら、
そのとき、日本は、どうすべきか?

反撃すべきか。それとも、防衛に徹し、領海内や領土
内での戦争に徹すべきか。

通常兵器ではなく、東京が、その核兵器で、攻撃され
たら、どうすべきか?

もしも……。

++++++++++++++++++++++

 今、「平和」の意味が、改めて、問われている。

 2年前に書いたエッセーを、もう一度ここに掲載して、
考えなおしてみる。この原稿は、アメリカ軍がイラク
に進攻する前に書いたものである。

当時、アメリカやイギリスなどの情報によれば、
イラクは、核開発を進め、核兵器を保有する、
その直前まできているとされていた。
(結果的には、そういうことは、なかったが……。)

そういう前提で、つぎの原稿を書いた。

++++++++++++++++++++++

●人間の盾(たて)

 (03年)2月4日のTBSニュースによれば、日本から行った、10人前後の人たち
が、戦争を防ぐため、イラクで、「人間の盾」になっているという。しかもイラクの受け入
れ団体からの要請を受けて、石油精製所や発電所、食糧倉庫などに居場所を移したという。
これらの施設は、アメリカ軍の攻撃目標とされているところだという。

 これに対して、メンバーの一人は、日本にこんなメールを送ってきている。

 「きのうは人間の楯として、バグダッド市内のアル・ダラという発電所に泊まりにいき
ました。湾岸戦争以降もこの発電所は度々、空爆を受けては建てなおしていると耳にしま
した。電気、ガス、ベッド、水、食料など不自由なものは特にないです」(TBS報道)
と。

 私はこのニュースを聞いて、「?」と思ってしまった。どういう思想的背景があるのかは
知らない。またその思想が、どのように昇華されて、このような行動にでたのかは知らな
い。しかし「勇気ある、すばらしい行動」とは、私にはとても思えない。またそういう方
法をとったところで、戦争が阻止できるとも、思わない。仮に、その盾となった人たちが
死傷したとしても、戦争を防いだ英雄になるとも、思わない。

 どんな行動にせよ、「行動」そのもにには、敬意を払う。またそれだけの行動をするには、
それなりの「思い」や「決意」があってのことだろう。私のような門外漢が、安易にあれ
これ批判すること自体、許されない。人間の盾になっている人についての情報がないので、
これ以上、コメントのしようがない。しかし「?」な行動であることは、確か、だ。

 ……もちろん、だからといって、戦争を肯定しているわけではない。アメリカがイラク
を攻撃してよいとも思っていない。ただ今回、K国の問題とからめてみると、アメリカを
除いて、だれが、ああいった独裁政権の暴走を防いでくれるかという問題がある。

 過去はさておき、またその経緯(いきさつ)がどうであれ、今まさに、日朝関係は、一
触即発の状態にある。こういった状況のとき、だれが、あのK国をおさえてくれるのか。
だれが、この日本を守ってくれるのか。

もしイラクがこのまま暴走すれば、その脅威は、K国の比ではない。何といっても、イ
ラクには、石油という「マネー」がある。そのマネーを使って、好き勝手なことができ
る。そんなことをされれば、中近東は、一挙に不安定になる。もしそれがわからなけれ
ば、K国がいくつかの核ミサイルをもったときのことを想像してみればよい。そのとき
日本は、「平和を守ります」などと、のんきなことを言っていることができるだろうか。

 よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから、善人というわけ
でもない。人は、悪と戦ってはじめて、善人になる。

 同じように、平和な生活をしているから、善人というわけではない。戦争をしないから、
善人というわけではない。人は、戦争そのものと戦って、はじめて、善人になる。そこで
改めて、人間の盾になっている人たちのことを考えてみる。

 彼らは一見、その戦争と戦っているように見えるが、どこか、ピントがハズレているよ
うに見える(失礼!)。どこか、やるべきことが違っているように見える(失礼!)。それ
だけのエネルギーと行動力があるなら、もっと別の方法でそれができないものかとさえ、
思う。

仮に彼らが正しいとしても、彼らの家族は、今ごろ、どう思っているだろうか。もしそ
れが私の息子なら、私は、きっと毎晩、眠られぬ夜をすごすに違いない。あるいは、「帰
ってきてほしい」と懇願するかもしれない。もっとはっきり言えば、「イラクの受け入れ
団体からの要請を受けて……」という部分からもわかるように、彼らもまた、フセイン
という独裁者に利用されているだけということになる。もしそうなら、それは「盾」と
いうよりは、「人質」ということになるのでは? その可能性がないとは、だれにも言え
ない。

 そんなわけで、私は、人間の盾となっている日本人に、理解は示すが、彼らを支持はし
ない。彼らには彼らの思想や背景があってのことだろうが、それがわからない。わからな
いから、これ以上のことは、書けない。今は、「?」ということにしておく。
(030305)

●やむをえず戦う戦争は、正しい。希望を断たれるときは、武器もまた、神聖なものにな
らん。(ホメロス「イリアス」)

●戦争を防止するもっとも、たしかな方法は、戦争を恐れないことである。(ランドルフ
「演説」)

●戦争は、人類を悩ます、最大の病気である。(ルター「卓談」)

●平和というのは、人間の世界には、存在しない。しいて平和と呼ばれているものがある
とすれば、戦争の終わった直後、あるいは、まだ戦争の始まらないときをいう。(魯迅「墳」)


【付記】「反戦」とか「平和」とかいう言葉を口にする人は、自ら、戦場に出向くだけの勇
気と覚悟のある人にかぎられる。そうした勇気や覚悟のない人が、平和を口にすることは
許されない。「戦争はいやだから」という理由だけで、平和を口にすることくらいなら、だ
れにだってできる。

 このことは、学生時代、ベトナムから帰ってきた、Cという兵士(オーストラリア人)
と話していて知った。彼はこう言った。「ぼくたちは、君たちアジア人のために戦っている。
そのアジア人の君が、どうして、何もしないのか?」と。私は、Cに返す言葉がなかった。
いわんや、そのCに向かって、「戦争反対!」とは、とても言えなかった。

 今、私にはアメリカ人の孫がいる。もしその孫が、はるばる日本までやってきて、K国
と戦うと言ったら、私はこう言うだろう。「よしなさい。アジアのことは、私のほうで何と
かするから」と。

 つまり「平和」というのは、それほどまでに、重いということ。決して、軽々しく口に
してはいけない。……と思う。

【雑感】

こんどのK国問題では、本当にいろいろ考えさせられた。今も、考えている。そして最
終的には、平和とは何か。そこまで考えている。

 日本は戦後、60年近くも、平和を保つことができた。しかし誤解してはいけないのは、
日本がこれほどまで長く、平和を保つことができたのは、日本人が平和を愛したからでは
ない。平和を守ったからでもない。いきさつはともあれ、日本にアメリカ軍が駐留してい
たからにほかならない。

 もし日本にアメリカ軍がいなければ、戦後直後には、ソ連に。60年代には、中国に。
そして70年代には、韓国、K国、あるいはその連合軍に、日本は、侵略をされていただ
ろうということ。私は60年代の終わりに韓国に渡ったが、彼らがもつ日本への憎悪感は、
ふつうではなかった。

 仮にあのとき、つまり70年代のはじめに、韓国とK国が統一し、その勢いで日本へ彼
らが攻め入ったとしても、だれもそれを止めなかっただろう。中国はもちろん、東南アジ
アの各国だって、それを支持したかもしれない。つまりそうされてもしかたないようなこ
とを、日本は、先の戦争で、してしまった。

 たまたまアメリカだったから、よかったのか。今も、アメリカの植民地のようなものだ
から、偉そうなことは言えないが、もしソ連や、中国だったら、そのあとの日本はどうな
っていたことやら。K国だったら、どうなっていたことやら。想像するだけでも、ゾーッ
とする。

 日本の平和はかくも、薄い氷の上に成りたっていたのか。私は今回の一連のK国問題を
考えながら、私はそれを思い知らされた。平和を口にするのは簡単なこと。しかしその平
和を守るために、私たちはいったい、何をしてきたというのか。

今の今でも、「K国は、アメリカが何とかしてくれますよ」と言う人がいる。しかしアメ
リカ人だって、日本人と同じ人間ではないか。どうして彼らが、好きこのんで、日本人
のために命など、落とすだろうか。

 日本の平和は、日本人自らが、守るしかない。いきさつはともあれ、今の今、頭のおか
しい独裁者が、日本に向けて、せっこらせっこらと、核兵器とミサイルを作っている。先
の米朝協議(02年10月)でも、K国の姜第一外務次官)高官は、アメリカのケリー国
務次官補に、はっきりとこう言明している。「核は日本だけを対象としたものだ」と。つま
り「日本を攻撃するために、核兵器をもっている」と。

 平和主義者には、二種類ある。「いざとなったら戦争も辞さない」という平和主義者。も
う一つは、「殺されても文句は言いません」という平和主義者。このほかに、「戦争はいや
だから」という平和主義者もいるが、これはエセ。どちらにせよ、つまりどの平和主義を
信奉するかは、その人の自由だが、私は「座して死を待つ」(川口外務大臣)ような平和主
義には反対である。私自身はともかくも、私の家族や子どもたちが、目の前で殺されるよ
うなことは許さない。絶対に許さない。

+++++++++++++++++++++

 こうした平和論に対して、大江K三郎氏(ノーベル文学賞受賞者)は、こう書いている。

『もしK国による核兵器が現実化した時、日本は安保条約を廃止し、米の核兵器によるK
国への第一撃のみならず、第二撃の報復も要求しないと声明せよ』(「鎖国してはならない」)
と。

 つまり大江氏は、K国が核兵器をもったら、(1)日本は安保条約を廃止し、(2)アメ
リカに対して、日本が核攻撃をされても、反撃してはならないと声明を出せと言っている。

 事実、現在の韓国のN政権は、この線にそった対K国外交を展開しているかのように見
える。米韓軍事同盟は、今や、風前のともし火。仮に米朝戦争になっても、韓国は、中立
を保つだろうと言われている。

 韓国の立場としては、そうかもしれない。しかしそれは日本の立場ではない。もしも、
日本が、K国に核攻撃されたら、私たち日本人は、徹底的に報復すべきであると、私は思
う。つまりそういう強い意思こそが、相手の核攻撃を思いとどまらせる原動力になる。

 が、現実に、東京のど真ん中に、核兵器が落とされたら、どうであろうか。日本として
は、その後始末だけで、何もできないのではないか。報復どころでは、なくなってしまう。
東京だけではない。日本中が大混乱する。もちろんその日から、日本の経済は、マヒする。
日本の「円」は、紙くず同然になる。

 報復しようにも、報復のしようが、ない。中には、憲法の条文を無視して、K国へ攻撃
に行く、自衛隊の部隊もあるかもしれない。が、しかし組織的な報復は無理である。

 となると、第一撃はともかくも、第二撃を防ぐためには、どうしたらよいのか。第三撃
や、第四撃を防ぐためには、どうしたらよいのか。東京のつぎは、大阪、名古屋、そして
……。そんなとき、日本に残されたゆいいつの選択肢は、アメリカに頼るしかないという
こと。

 大江氏は、しかし、「米の核兵器によるK国への第一撃のみならず、第二撃の報復も要求
しないと声明せよ」と書いている。核兵器による報復には、私も反対するが、しかしK国
の状況(核兵器やミサイル基地を、山岳地方の山奥、その深いところに隠しているという
事実)を考えるなら、通常兵器に、どれほどの効果があるか、疑問である。

 K国は、そういうことも念頭に置いた上で、核兵器やミサイルを、山の奥に隠している。
……ということを考えていくと、大江氏のような人物の意見に、「異」を唱えるのも勇気の
いることだが、大江氏の意見は、どうかと思う。

 大江氏は、日本が核攻撃を受けても、日本はもちろん、アメリカにさえ、何も報復して
はならないと言っているようにも読める。大江氏の反核、反戦思想はよく知られているが、
どこか現実離れしすぎている(?)。

 平和論にもいろいろある。しかし「もしも……」という視点で考えてみると、また別の
考え方ができるのではないか。私自身は、「座して死を待つ」ような平和論には、どうして
も、ついていけない。

 
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●合理的な生き方vs浪曲的な生き方

++++++++++++++++++++

ものごとを、何でも合理的に考えるワイフ。
一方、私は、どこか浪曲的な世界で、生まれ
育った。そのせいだろうと思うが、(YES、
NO)を、はっきり言うのが、あまり好きで
はない。

本来なら、いつ離婚してもおかしくない夫婦
だったかもしれない。が、何とか、無事(?)、
この35年を乗りきった。

私のような夫婦も多いと思うが、大切なこと
は、たがいの欠点を責めあうのではなく、た
がいの欠点を補いあうこと。

ふと今、自分たちの結婚生活を振りかえって、
そう思った。

++++++++++++++++++++

 私のワイフは、純粋な日本人だが、西洋人以上に、西洋的なものの考え方をする。生ま
れ育った家庭環境が、どこか海洋民族的であったことも、理由のひとつではないか。ハハ
ハ。

 浜松の近郊には、たくさんの漁師町がある。女性たちの言葉がどこか荒っぽいのも、そ
のせいだと言われている。

 一方、私は、ひょっとしたら欧米かぶれしているように思う人がいるかもしれないが、
実際には、大和民族。純、和風。いまだに浪曲的な生き方を、心のどこかに残している。(私
はいつも、祖父が好きな浪曲のレコードの音を聞きながら、育った。)

 たとえば、こんなことがある。

 朝、起きたときから、頭痛があったとする。熱もある。しかし仕事には、行かなくては
ならない。私は自動車の運転免許証をもっていない。通勤は、自転車ですませている。(お
かげで、健康だが……。)

 そんなとき、ワイフは、「車で送っていこうか?」と聞く。私に、「YES」か「NO」
の返事を迫る。が、私は、そういうとき、あまりはっきりと、(YES、NO)を言うのが
好きではない。ワイフのほうで気をつかって、「送っていくわ」と言ってくれると、ありが
たいのだが、ワイフは、そういうことは言わない。

 そういう意味では、ワイフには、ウラ・オモテがない。わかりやすい。単純といえば、
単純。

 で、私は、自分をごまかして、仕事にでかける。そんなとき、「だいじょうぶ?」と声を
かけてくれることはある。しかし弱音を吐くのは、私のやり方ではない。思わず「だいじ
ょうぶだよ」と答えてしまう。条件反射のように、そう答えてしまう。

 一日の仕事を、する。で、そういうときでも、ワイフのほうから、心配して、「だいじょ
うぶ?」と電話をかけてくることは、めったに、ない。(最近は、たまにあるが、それは私
の様子が、以前ほど、元気でなくなったせいではないか……。)

 こういうとき、あとで、「心配して、電話くらい、くれればいいじゃないか」となじると、
即座に、3、4つの反論がかえってくる。

 「あなたが、だいじょうぶって、言ったでしょ」
 「授業中だったでしょ」
 「あなたのほうから、私に、電話をしてくれればいいじゃな〜い」と。

 だから、もうそういう言い方をするのをやめた。ワイフは、そういう人だから、それに
合わせるしかない。(この35年間、そうしてきたぞ!)
 
 で、食事もとらず、どこかフラフラの状態で、家に帰る。やっとの思いで、家に帰る。

 そういうときでも、「今日は、つらかった」と弱音をはくことは、できない。そんなこと
を言えば、やはり、3、4つの反論をぶつけてくる。ワイフはワイフとして、心配して、
そう言ってくれるのだが……。

 「だったら、電話すればいいじゃない」
 「どうして風邪薬をのまなかったの」
 「さっさと、薬をのんで、寝たら?」と。

私「いくら、ぼくがだいじょうぶだと言ってもだよ、途中で症状が悪くなることだってあ
るんだよ」
ワ「だったら、そう、電話で言えばいいじゃない? 迎えに行ったわよ」
私「でも、いちいちそんなことで、心配をかけたくないし……」
ワ「だから、あなたは水臭いのよ」
私「ぼくは、お前のほうが、冷たいと思う」と。

 少し前だったか、ワイフは、私にこう宣言した。「私は、あなたが言ったとおりのことし
かしないからね。あなたが『いい(=NO)』と言ったら、そのとおりにするからね」と。

 つまり我が家では、ワイフに対しては、いつも(YES、NO)を、はっきりといわな
ければならない。しかしいつもいつも、そうというのも困る。いくら私が「いい(=NO)」
と言っても、それをあいまいにとってほしいときもある。しかし私のワイフには、そうい
う芸当が、できない。

 そこでまたワイフをなじると、ワイフは、こう言う。「あなたは、本当に疲れる人ね」と。

 たしかにワイフの立場では、そうかもしれない。私は、口では、「いい(=NO)」と言
いながら、内心では、別の行動を、ワイフに期待する。そういうことがよくある。しかし
こと私のワイフに関しては、一度、私が「いい(=NO)」と言ったら最後。ぜったいに、
それをしてくれない。

 何かそれについて不平を言うと、「あなたが、いいって、言ったでしょう」と、やり返さ
れる。

 私のワイフを観察していると、「この人は、どうしてこうまでドライ(合理的)なのだろ
う」と思うときがある。「同じ、日本人なのに……?」と。あるいは、これは、岐阜県のM
市という山間の田舎町で生まれ育った私と、浜松市という街道筋の宿場町で生まれ育った
ワイフとの違いなのかもしれない。

 私の生まれ育った故郷では、だれも、本音を言わない。ついでに、本当のことも言わな
い。しばらくいっしょに住んでいると、何が本当で、何がウソなのか、わからなくなると
きさえある。

 口もうまいが、お世辞もうまい。ウラでは憎しみあっていても、オモテでは、それを隠
す。たがいに愛想よく、あいさつを交わしたりする。さも同情しているフリをして、あれ
これこちらの内情をさぐったあと、その話を、あちこちの人に、おもしろおかしくバラし
たりする。

 同じ日本人でも、生まれ育った環境で、こうまでちがう。いわんや、日本人とアメリカ
人とでは……? 二男も、今ごろは、アメリカでいろいろと苦労をしていることだろう。
あるいはワイフに鍛えられているから、案外とそうではないかもしれない。

 これでよかったのか? 悪かったのか?

 こうして何とか、今までやってきた。決して無事な結婚生活だったとは思わない。が、
私たちのような夫婦も少なくない。夫婦といっても、もとは、他人。こればかりは、どう
しようもない。

 で、あとは、いつものように、笑ってごまかす。ハハハ。

 よくても悪くても、私には、ワイフは1人しかいない。これから先、どちらかが死ぬま
で、とにかく、仲よくやっていくしかない。ハハハ。

【ワイフの生まれ故郷】

 ところでワイフが生まれ育ったところは、今の浜松駅の新幹線の駅のあたりだそうだ。
最近になっていろいろ調べてみたら、ちょうど、新幹線の改札口のあるあたりということ
がわかった。

 浜松へ来て、新幹線でおりたら、「ああ、このあたりが、あの林の妻が、生まれ育ったと
ころか」とでも、思ってほしい。

 ただ、戦後15年くらいしてから、別の場所に移り住んだので、ワイフは中学生になる
ころまでしか、そのあたりにいなかったそうだ。が、もしそのあとも、そこに住んでいた
ら、今ごろは、億万長者の礼嬢様になっていたかもしれない。ゾーッ! 私のような男な
どには、見向きもしなかったことだろう。


+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●リュックサックを買う

+++++++++++++++++++

今までショルダーバッグを使っていた。
が、友人が、リュックサックを使っているのを見て、
私も、それがほしくなった。

そこで、近くの店へ、そのリュックサックを買いに
行った。が、しかし結果的に、3つも買うことに
なろうとは……!

+++++++++++++++++++

 数か月前、オーストラリアの友人たちが、私の家にホームステイをした。そのとき、友
人の奥さんたちが、リュックサックを背負っていた。それを見て、私もリュックサックが、
ほしくなった。といっても、そのときではなく、最近になってからである。

 そこで、近くの大型店へ行ってみた。が、驚いた。2〜3000円はするだろうなと思
っていたのだが、ナ、何と、780円! 私は、迷わず、そのリュックサックを買った。

 で、家に持ち帰り、それまで使っていたショルダーバッグの中にあったものを、そのリ
ュックサックに移しかえてみた。が、リュックサックは、小さく見えても、大きい。仕事
に使うにしても、どこかブカブカ、ガサガサ。「こんなに大きなのでは、どうしようもない
よ」とこぼすと、ワイフが、「そうねエ、大きすぎるわねエ」と。

 しかしすぐに買いかえるということもできない。1週間ほど、使ってみた。しかし78
0円は、780円。どう見ても、780円。安っぽい。見るからに、C国製!

私「もっと、小さいのにしようか」
ワ「そうねエ」と。

 そこで昼食にでかけたおり、今度は別の大型店に行ってみた。そこには、紳士用の衣服
類が並べてある。多分、リュックサックもあるだろう。

 ワイフは、すぐにそれを見つけた。「ねえ、これならいいんじゃ、な〜い?」と。

 見ると、一応、ブランド品。「Sxxx」と書いてある。「これなら、安っぽく見えない
ね」と言うと、ワイフも、「そうね」と。

 それで、それを買うことにした。値段は、3800円。

 私はしばらく、そのリュックサックを背負って、仕事に行ったりした。講演に行くとき
も、使った。

 たしかにリュックサックは、楽だ。両手がフリーになった感じがする。その解放感がた
らない。

 が、である。ふと、私は、気がついた。ある日、街であたりを見回すと、老人たちが、
みな、リュックサックを背負っているではないか! しかも、だ。どの人も、見るからに
値段が安そうなものばかり。それを見るたびに、「あの人のも、780円かな」と思ってみ
たり、「いや、あの人のは、3000円かな」と思ってみたり……。

 どうも落ちつかない。自分が、急にジジ臭くなったように感じた。いつの間にか、自分
も老人の仲間に入ってしまったかのように感じた。

 そこで家に帰って、ワイフに、こう言った。「あのなア、老人は、みな、リュックサック
を背負っているぞ」と。するとワイフは、「そう言えば、そうねエ」と。「最近、リュック
サックを背負っている人が、急にふえたみたい」と。

私「それに、ぼくのも、どうもジジ臭い」
ワ「……どうして?」
私「布製のような感じだし……。ペカペカしている」
ワ「そうねえエ……。老人会の人たちが、歩け歩け運動のときに背負っていくリュックサ
ックみたいねエ……」
私「だろ。だから、このリュックサックは、どうも好きになれない」と。

 するとワイフは、一つの提案を持ちだした。「じゃあ、こうしたら……。今度の誕生日の
プレゼントとして、もっと、いいのを買ったらア?」と。

 その場で、私も賛成した。「だれが見ても、高級な感じがするのがいい。たとえば皮製と
か……」と。

 そこでその翌日、二人で、駅前のデパートに行った。一応、浜松市内では、高級品が並
べてあるというデパートである。が、行ってみて、驚いた。今度は、値段が高いものばか
り。ちょっとしたものでも、3〜4万円。「いいなア」と思うようなリュックサックだと、
5〜6万円!

私「これじゃ、買えないよ。完全に、予算、オーバーだよ」
ワ「そうねえ。やっぱり、ここのものは高いわね」
私「まあ、今日じゃなくてもいいよ。また今度でも……」
ワ「そうしようか」と。

 私たちは、最上階にある食堂へと向かった。そこで昼食をすますつもりだった。が、そ
こで私は、皮の臭いをかいだ。私の嗅覚は、犬並に鋭い。(鼻の穴が大きいのも、そのせい
かもしれない。)エスカレーターをのぼりつめたところで、「おい、皮のにおいがするぞ」
と。

 見ると、食堂の横の催事場で、衣服やバッグのバーゲンセールをしていた!

ワ「ここでさがしてみようか」
私「ここなら、あるよ」と。

 で、そこで買ったのが、今、使っている、リュックサック。値段は、秘密。まあ、そこ
そこの値段。一応、牛革製。つくりもしっかりとしている。女性の店員が、「これはお買い
得ですよ」と勧めてくれた。

 つまり、こうして私は、この2週間のうちに、3つもリュックサックを買うことになっ
た。3つも、だ。

 自分でも、バカなことをしたと思っているが、これで、私も少しは、利口になった。と、
同時に、そこらのジジババ様とは、一線を画すことができた。

 Happy Birthday to Me!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●武士の世界

++++++++++++++++++

武士道は、本当に、日本人の心の
柱なのでしょうか?

また、一方的に、武士道を、礼さん
してよいものなのでしょうか?

++++++++++++++++++

 このところ、「武士道」という言葉が、よく聞かれる。それはそれとして、私は構わない
が、しかしその武士道こそ、教育の柱とすべきという考え方が、ますます声高に叫ばれる
ようになってきている。しかし、武士道なるものを、それほどまでに美化してよいものか。

 武士というのは、今でいう、軍人のことをいう。わかりやすく言えば、「武士道」という
のは、「軍人魂」ということになる。戦(いくさ)あっての、武士。戦がなければ、ただの
ヒマ人。事実、江戸時代には、武士ほど、ヒマな商売はなかったという。

 「日本史・おもしろBOOK」(主婦と生活社)の中に、こんなエピソードが紹介されて
いる。

 女郎と、武士が、こんなやりとりをしている。(私が、口語に変換した。)

女郎「私や、いっそ、侍になりたいわあ」
侍 「そんなお世辞を言わなくてもいいよ」
女郎「おや、バカらしい。本当に侍になりたくてなりません」
侍 「なぜ」
女郎「ほら、侍はね、ありもしない戦(いくさ)を請けあって、給料とやらをもらってい
るのですから」と。

 そしてこんな事実があったことを、紹介している。

 江戸時代の侍には、「三番勤め」という決まりのようなものがあった。よほどの要職にで
も就いていないかぎり、並の武士は、3日に1度勤務につけば、それでよかった。理由は、
武士の組織が、もともと軍役を前提としていたからである(以上、同書より)。

 「戦時は兵力が多いのにこしたことはないが、それをそのまま泰平の世になっても、抱
え込んだため、ぼう大な余剰人員が生じてしまった。だから幕府には、一生涯無役のまま
過ごし、『禄のある浪人』と陰口をたたかれた、『小普請(こぶしん)』という無為徒食の集
団も存在した」とある。

 だったら、職業を変えればよいということになるが、江戸時代には、それができなかっ
た。首切り役人は、代々、首切り役人、年貢の取り立て役人は、代々、取り立て役人。

 別のところには、武士の収入についても書いてある。

●武士の収入

 武士の収入には、(1)家禄と、(2)役職手当の2つがあったが、ふつう武士の収入と
いうときは、家禄をいった。

 その家禄は、代々の世襲制。代が変わっても、家禄は、何かの失敗でもしないかぎり、
変わらなかった。(もちろん、家名をあげれば、家禄もあがった。)

 その家禄は、「石高(こくだか)」で、示された。

 たとえば、「3000石取りの武士」とか、など。

 「日本史、おもしろBOOK」は、つぎのように説明している。

「(何千石取りの武士といっても)、全部が本人の収入になったわけではない。四公六民と
か、五公五民とかいって、4割が侍の取り分、6割が農民の取り分となった」と。

 で、たとえば、現在へのお金に換算してみると、

 たとえば500石取りの武士のばあい、四公六民で計算してみると、武士の取り分は、
500俵(2万升)。現在、1升=570円(同書)だから、2万升というと、1140万
円(年収)ということになる。

 500石取りといっても、結構な高給取りだったということになる。

 ちなみに、

「柳生一族の陰謀」の、柳生但馬(たじま)守宗矩(むねのり)……2億8500万円
「忠臣蔵」の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)……3420万円
「遠山の金さん」の遠山左衛門尉(さえもんのじょう)景元……7100万円
「勝海舟」の勝海舟(軍艦奉行)……2280万円
「必殺仕置人」の中村主水(なかむらもんど)……68万円、だそうだ(以上、同書より)。

 この中で、中村主水は、架空の人物。

 「まあ、こんなものだったのかなあ」というのが、私の印象。 

 大切なことは、私たちの祖先の大半は、農民もしくは、町民であったということ。そう
いう事実を忘れて、今のこの時代に武士道なるものを、一方的に礼さんするのも、どうか
と思う。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●迷い

+++++++++++++++

だれにも、迷いはあるもの。
どんな世界にも、迷いはある。

が、私などは、迷ってばかり。
こうして原稿を書き、マガジン
として配信はしているが、
「こんなことをしていて何に
なるのだろうか?」と、
今も、そう迷っている。

+++++++++++++++

 先週、1週間、電子マガジン(無料版)をどうしようかと、またまた、迷った。こうし
た迷いは毎度のこと。自分でも、どうしてこうまで迷うのか、わからない。

 つづけるべきか、やめるべきか。

 読者が、この2週間、ほとんどふえなかったこともある。おまけに私のところに届くの
は、苦情ばかり。「量が多すぎる」というのが定番だが、こんなのもあった。「ママ診断を
読んだが、あんな量の多い診断なんか、本気で受ける母親など、いない。自己満足だけの
ための診断なんか、やめてほしい」(SA県、YU町の女性)と。

(このメールは、ホントだぞ! 原文は、この10倍ほど、長いもの。いつか、マガジ
ンのほうで、紹介することもあるかもしれない。「転載許可」を求めたら、「ご自由に。
どうせ私のメールをダシに、私の悪口を書くんでしょ」と、イヤミまで書き添えてあっ
た。)

 かなりきびしい、意見である。

 しかし私は、ふと、思う。「どうして無料で提供しているのに、こうまで文句ばかり言わ
れなければならないのか」と。

 それに対してワイフは、こう教えてくれた。「あなたのHPにしても、マガジンにしても、
どこかの公的な機関が出していると誤解されているんじゃな〜い?」と。

 ナルホド! そこで改めて、読者の方に一言。

 HPもマガジンも、はやし浩司という私が、個人で、個人的費用でもって、出している。
一円も、公的な援助は受けていない!

 しかし読者あっての、HPであり、マガジン。それに書くといっても、このところ、書
くことが私の生きがいになっている。読者の数とか、収入ではない。書くことに、私は、
自分の道を見いだしつつある。

 しかし、それでも迷った。

 で、またまた、先週のこと。マガジン(無料版)については、廃刊宣言を出した。「長い
間、お世話になりました」とか、何とか。が、1、2日考えたあと、配信予約を取り消し
た。(マガジンは、いつも1か月先の原稿を書いている。たとえば11月23日号は、先ほ
ど、つまり10月24日に配信予約を入れた。)だからその廃刊宣言は、そのままだれの目
にもとまることはなかった。

 つづけるべきか、やめるべきか。

 先日も、こんな話を聞いた。三男が、たまたま帰省中のときのこと。三男が、地元の教
育学系の大学に通っていた友人に会ったそうだ。その友人が、三男に、こう言ったそうだ。

 「林君のおやじの出しているHPには、世話になった。あちこちをコピーしてつなげた
ら、卒論が、2週間でできちゃった。お前のおやじに、礼を言っておいてくれ」と。

 自分のしていることが、つくづく、バカ臭く思えた。私のHPを、そういうふうに利用
している人(=ヤツ)もいる。

 念のために申し添えるなら、私は、私の原稿の引用、転載を、だれにも、いっさい、許
可していない。相手が学生なら、よけいにそうである。無断で引用、転載するばあいでも、
その文のどこかに、(はやし浩司)のクレジットを入れるべきである。こんなことは、この
世界では、常識ではないか! それをコピーして、つなげて、自分の文章としてしまうと
は!

 つまりそういうことが積み重なって、先の廃刊宣言となった。

 ……と、まあ、あまりそういうことは考えず、ここはマイペースでいくしかない。「本を
出したい」という気持ちは強いが、同時に、「本の時代は終わった」という思いもある。(そ
う言いながらも、このところ、毎日、1冊くらいのペースで、本屋で本を買っているが…
…。)

 そこで読者の方に、お願い。

 どうか、どうか、読者拡大に、ご協力ください。1、2人と読者の方がふえていくだけ
でも、私には、大きな、大きな励みになります。よろしく、よろしく、お願いします。

●迷いのメカニズム

 ……と書くだけなら、だれでも書ける(失礼!)。そこでここではもう一歩、踏みこんで
考えてみる。「迷い」とは何か、と。

 心理学の世界では、(自分のしたいこと=自分はこうあるべきだという自己概念)と、(自
分のしていること=現実の自分はこうだという、現実自己)が、一致しているとき、その
人は、静かに落ちついていると言われている。

この両者が一致しているかどうかをみることを、「自我の同一性」という。

この両者が不一致を起こすと、精神は緊張状態におかれ、ちょっとした刺激で、精神的
に不安定になることが知られている。迷いというのは、そうした不安定になったときの、
一様態と考えられる。

 たとえば私は、マガジンを出しながら、そのマガジンが、よい意味で、読者の方の役に
たてばよいと考えている。ついでに言えば、それが仕事につながり、収入につながればよ
いと考えている。これがここでいう、(自分はこうあるべきだという自己概念)ということ
になる。

 一方、現実の私は、きびしい。「無料マガジンだから、どうせその程度の内容」と思って
いる人は多い。雰囲気で、それがわかる。そういう現実を、毎日のように、たたきつけら
れる。これがここでいう、(現実の自分はこうであるという、現実自己)ということになる。

 こうして、私が描く自己概念と、現実の自分が、遊離し始める。もしこのまま遊離して
しまえば、私は、自我の崩壊へと進む。最終的には、そうなる。しかしそれはあくまでも、
最終的。

 その途中の段階で、そうならないように、さまざまな心理的なメカニズムが働くように
なる。つまり自ら、心は心を防衛するようになる。

 迷うという行為は、まさに、その初期症状の一つということか。「今、お前の自己概念と
現実自己が遊離し始めているぞ」と。心が私に、そう警告を発している。そう考えると、
迷いのメカニズムが、よくわかる。

 こうした迷いが見られたら、解決するための方法は、二つのうちの一つ、ということに
なる。

(1)このまま、何も考えず、つづける。(=迷いのもとになる邪念を捨てる。)
(2)さっさとマガジンを廃刊にして、別の仕事をする。

 こうした迷いが精神的に与える影響も、大きい。この数日、私はワイフに対して、どこ
かピリピリしている。心が不安定になっているから、ちょっとした刺激で、激怒したり、
ふさぎこんだりする。

 これは、まずい!

 では、どうするか?

 マガジンを発行しつづけるということは、悪いことばかりではない。先にも書いたよう
に、私の生きがいになりつつある。頭のボケを防止するためにもよい。さらにものを書く
というのは、頭のジョギングのようなもの。だれのためにしているのではない。私自身の
ためにしている。ギャラリーがいても、いなくても、同じ。

 そう考えていくと、迷いの向こうに、一筋の光明を見ることができる。

 まあ、ここは、目標どおり、1000号まで、つづけるしかない。1000号まで、だ。
そのあとのことは、そのあとに考えれば、よい。

 みなさん、どうか、1000号まで、よろしくお願いします。それまで、こうして迷い
ながらも、がんばってみます。

【補記】

 この原稿は、去る10月24日にかいたものです。
 この前後、つまり、10月10日〜10月23日までの間、
 マガジンの発行回数は、7回を数えましたが、読者は1人
 しかふえませんでした。

 それでこういう原稿を書きました。

 そのあと、つまり10月24日から、また少しずつ、読者が
 ふえ始め、少し元気が出てきました。

 またその間、北海道のKYさんや、東京都のHGさんから、励ましの
 メールをいただきました。

 ありがとうございました。+心配をおかけしました。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●今度は、森林税?

++++++++++++++++++++

消費税率が、現行の5%から14%に!

増税はやむをえない状況かもしれないが、
しかし、同時に、政府としても、やるべ
きことがあるのでは?

……と考えていたら、今度は、森林税?

何だ、これは?

+++++++++++++++++++++

 自民党の財政改革研究会は、10月24日、財政再建に関する、中間報告をまとめた。
それによれば、将来の消費税の引きあげを前提に、「全額を福祉目的税とすることを、柱に
した」という。

 消費税率は、「現行の社会保障制度を維持したばあい、2015年度で、14%に、給費
の抑制策を講じたとしても、12%への引きあげが必要」(同、報告)という。

 この中で、消費税の福祉目的税化については、「給費に必要な財源を広く公平に負担する
ため」と説明。年金、医療、福祉の財源は、現行の社会保険料と消費税でまかなう方針を
示した。

 つまり、消費税は、現行の5%から、14%に引きあげる。そしてその消費税で得た税
収は、「全額、福祉目的税」とするという。話だけ聞いていると、「なるほど」と思ってし
まう。しかし、そうは思ってはいけない! だまされてはいけない!

 こうして得た、新しい税収を、年金、医療、福祉に使うということは、今まで、それら
のために使っていた税金を、ほかへ回すということ。それだけのこと。全体としてみれば、
ただの増税なのだが、わざわざ、「全額を福祉目的税とすることを、柱にした」と歌うとこ
ろが、恐ろしい。わかりやすく言えば、国民だまし!

 どうして財政改革研究会は、正直に、「今、国と地方と合わせて、774兆円もの借金が
あります(05年度見通し)。ついては、財政は破綻状態です。ですから税金をあげます」
などと、言わないのだろうか。

 もちろんそう言えば言ったで、今度は、責任問題が浮上する。が、それでは困る。そこ
で手っ取り早く、つまり国民が納得しそうな理由をこじつけて、増税をはかる。いつもの、
官僚たちがよく使う手である。

 さらに今朝(10・25)の朝刊によれば、この静岡県では、来年(06年度)から、「荒
廃した森林を整備する原資にするため」として、「森林(もり)づくり県民税」を新設する
という。

 その額は、個人で、年間400円。法人で、1000〜4万円だそうだ。「同様の県民税
は、すでに高知、岡山など中国、四国、九州の8県で施行されているが、中部地方では、
はじめて」とのこと。

 森林保護に反対するわけではない。しかしそういう私たちの意識を逆手にとって、森林
税とは! もしこんな増税方法が安易に許されるようになったら、これから先、どんな名
目でも、増税ができるようになる。

 自然保護税
 環境保護税
 地球温暖化防止税
 教育税
 少子化対策税……などなど。

 そしてそれらから得た税金で、それまでそのために使っていた税金を、ほかへ回すこと
ができる。わかりやすく言えば、公務員の給料に回すことができる。

 そこで同時に、先の自民党財政改革研究会などは、歳出面での改革もすると言っている。
たとえば、「各分野での支出に上限を設けるキャップ制」など。しかしこんなことは、当然
のことではないか。今さら、問題にするほうが、おかしい。問題は、いかに、公務員、準
公務員(みなし公務員)の人件費を削るかということ。

 国家税収が約42兆円。公務員、準公務員の人件費が、38兆円。こんなメチャメチャ
な財政運営をしている国は、日本をおいて、ほかにない。キャップ制を導入するなら、公
務員の数にすればよい。給料でもよい。退職金や年金でもよい。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の1人当たりの人件
費は、おおむね、つぎのようになっている。

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 これから先、増税につづく増税。また増税。日本全体で、現在、約1000兆円の借金
がある。日本人の人口を1億人とすると、1人当たり、1000万円。3人家族で、30
00万円。だったら、すなおに、「これから10年で、日本の財政を再建します。ついては、
1家族あたり、3000万円ずつ負担したください。10年の分割払いで、1年で、30
0万円です」と言ってくれたほうが、まだ、わかりやすい。

 ……これから先、日本という国は、ますます住みにくい国になる。働いても、働いても、
そのお金がどこかへ消えてしまう。貧富の格差も、このところ、加速している。ジニ指数
をみれば、それがわかる。

ジニ指数というのは、わかりやすく言えば、世帯ごとの所得格差を示す指数のこと。厚
生労働省が04年6月に発表した、ジニ指数は、調査を始めた84年から、7年連続で、
拡大をつづけている。

 昨年(04年)は、そのジニ指数が、0・498と、かぎりなく0・5に近づいてしま
った。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占めることを
意味する。つまり残りの4分の3の人たちが、残った4分の1の所得を分けあっていると
いうことになる。

 国民の怒りは、まさに爆発寸前。(私は、すでに爆発しているぞ! 今朝、森林税のニュ
ースを聞いて、とうとうキレてしまった! ホント!)まじめに考えれば考えるほど、バ
ラらしさが、つのる。
(はやし浩司 消費税 ジニ指数 財政再建 森林税)
2005/11/12

 
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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○      
.        =∞=  // (奇数月用)10
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 23日(No.653)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●AT小学校の皆様へ

校長、O様へ

拝復

 このたびは、みなさんの学校で子育て講演をさせていただくことができ、本当にありが
とうございました。また昨日は、みなさまからの、講演の感想文をいただき、これまた本
当にありがとうございました。たいへんうれしく、読ませていただきました。

 いつも時間に追われながら、早口で、一方的にしゃべるだけという講演になってしまい
ます。で、終わるたびに、「もう少しゆっくりとしゃべればよかった」とか、「あの話もす
ればよかった」などと、あれこれ、後悔したりします。

 今回もそうでしたが、みなさんからの感想文を読み、ほっとすると同時に、たいへんう
れしく思いました。心からお礼申しあげます。ありがとうございました。

 本当に、これからの子どもたちを包むであろう環境を考えると、ときにぞっとすること
さえあります。つぎからつぎへと、問題が起こり、それが解決しないうちに、またつぎの
問題が起きるといった感じです。そして年々、その周期が短くなってきているように思い
ます。

 こういうときだからこそ、私は、あえて、「心の抵抗力」という話をさせていただきまし
た。子どもの心を守るのは、子ども自身しかいないと考えたからです。どなたかの感想文
にもありましたように、そんなおもしろくもない話でしたが、最後まで、私語もなく、真
剣に聞いてくださったことを、心から感謝しています。私としても、たいへん気持ちよく、
自分の胸の中を、話させていただきました。ありがとうございました。

 で、ときは、秋。しかも今は、外は夕暮れ時です。どこかものわびしさを覚えるひと時
です。(おまけに、肌寒い風が吹いています……。)

 人の人生を季節にたとえる人も多いですが、いくら「私はそうではない」と思っていて
も、その秋を、私の中に感じざるをえません。このところ、若いころのような元気はなく
なってきたのを、強く感じます。こういうジジ臭い話は、いやですね。ごめんなさい。や
めましょう。

 ともかくも、こうして無事、講演を終えることができたことを、喜んでいます。いつも、
「こうして講演できるのは、あと何年かな?」などと、心のどこかで考えたりします。

 今は、今までの経験と人生のしめくくりとして、暇さえあれば、原稿を書いています。
自分でも、電子マガジンを発行していますが、1000号が目標です。今(現在、やっと
650号あたりです。)予定では、あと2年くらいかかります。

 電子マガジンといっても、無料です。またみなさんの中で、興味をもってくださいそう
な方がいらっしゃれば、どうか、購読をお願いします。毎週、1人、2人……と、読者の
方がふえていくのは、本当に楽しみです。(そうでないときは、原稿を書くのも、つらくな
るときがあります。どこか、いいかげんで、ごめんなさい。)

 自分のことばかり書きましたが、みなさんと、みなさんのお子さんたちのご健康を心よ
り念願しています。またいつでも、機会があれば、お声をかけてください。喜んでおうか
がいします。

 最後にもう一度、お礼を申しあげて、今日は、これで失礼します。

 ありがとうございました。

敬具

+++++++++++++++++++

【補記】

 いただいた感想文の中で、一番、うれしかったのを、原文のまま、いくつか紹介します。

☆はやし先生の講座、大変よかったです。今まで、いろんな講座を学校で受けましたが、
特に心に残る内容でした。U子の姉はもう中学生で、ふりかえれば、失敗だらけの
子育てだったような気がします。
これからは、少しずつ、自分の心を改めて、子どもがやりたいことと、現実が同一に
なるように、努力していきたいです。企画していただいて、本当にありがとうござい
ました。

☆はやし先生の本は、何度か読み、私に一番響く内容だったので、直接、お話しが聞ける
チャンスに恵まれて、うれしかったです。集まったお母さんがたから、ただの一度も
むだ話が聞かれなかったのが、その証明で、引き込まれるように聞き入ってしまいま
した。
ご自身のいろいろな体験話の中には、私にも同じような経験があり、何で、そのころは、
そんな気持ちだったのか、の謎も解けたり、どう子どもに接することで、子供をつぶす
ことなく、対人間としてやっていけるのかのヒントがたくさんで、今の自分の考えに自
信をもてる部分とあわせて、肩の力が少し抜けたように思います。
今、N子は、ほぼ自分のレールを敷き、その上を走り出していること。いつもイライラ
させられる彼女の行動が、実は、彼女自身が、自分を確立させるためにしている正しい
行動であること。また今、彼女がもっている夢を、私はただただ、かなえるために、そ
っと支え、信じていいこと。N子の母として、いられることを楽しみながら、やってい
きたいと思いました。 

AT小学校のみなさん、ありがとうございました!!!
返事は、O校長先生に書いておきました。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●レッド・オーシャンvsブル−オーシャン

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最近、ある書店で、「ブルー・オーシャン戦略」という言葉を
見た。アメリカ人が書いた本を、どこかの出版社が翻訳出版
したらしい。(私が見たのは、ポスターだったが……。)

なかなかよいネーミングなので、気になった。

+++++++++++++++++++++

アメリカ人の経営戦略家の書いた本に、『ブルー・オーシャン戦略』という本がある。私
は、タイトルと、その本の概略を説明したポスターしか見ていないので、詳しい内容は
わからない。が、おおまかに言えば、こういうことだそうだ。

 同じ土俵の中で、同じパイを取りあって、熾烈(しれつ)な競争を繰りかえす世界が、「レ
ッド・オーシャン」の世界。「赤く燃えあがった海」ということか。

 これに対して、独創的な世界で、だれにもじゃまをされず、静かにおだやかに仕事をす
る世界が、「ブル−・オーシャン」の世界。「静かなな青い海」ということか。

 私が知っているのは、ここまで。これから先は、その本の内容を想像しながら、思いつ
いたままを書いてみる。

++++++++++++++++

称して、(はやし浩司的、レッド・オーシャンvsブル−オーシャン論)

 子どものころ、すでに私は、商売には、大きな限界があることを知っていた。弱肉強食
というよりは、「スケールの大きい店には、かならず、負ける」という限界である。

 家業は自転車屋だったが、店舗の床面積が大きければ大きいほど、自転車屋は、もうか
る。しかしいくら大きくても、さらに大きな店ができれば、その自転車屋の命は、そこま
で。だから子どもながらに、こう思った。「商売には、未来がない」と。「いくらがんばっ
ても、その段階で、いつもだれかと、はげしい競争をしなければならない」と。

 つまりここでいう商売の世界は、「レッド・オーシャン」の世界ということになる。

 これに対して、たとえば画家の世界を考えてみよう。文筆家でもよい。彼らの世界は、
まさに独壇場。一度、名をはせ、それなりに売れる画家なり、作家になれば、あとはだれ
にもじゃまされない。それなりにきびしい世界だとは思うが、しかし競争とは、無縁の世
界。そういう世界では、人は、自分のしたいようにして、生きていくことができる。

 つまりここでいう画家や作家の世界は、ここでいう、「ブルー・オーシャン」の世界とい
うことになる。

 が、もう一つ、ブルー・オーシャンの世界が、この日本には、ある(?)。

 言わずと知れた、公務員の世界である。公務員の世界には、いわゆる(首切り)といの
は、ない。よほどの刑事事件でも起こさないかぎり、職を失うことはない。終身雇用に年
功序列。ありとあらゆる労働者の権利が、確保されている。

 G県の県庁に勤める知人は、こう言った。「2、3年くらいなら、精神病院へ入退院を繰
りかえしていても、クビになることはないよ」と。

 そこで公務員の人たちは、権限と管轄にしがみつく。それに「情報」。公務員が公務員で
あるのは、「情報」を握っているから。公務員が、その情報を手放したら、公務員は、公務
員でなくなってしまう。

 大学の教授を例にあげて考えてみれば、わかる。その教授自身が、自分で入手する研究
成果などというものは、現在のように、研究分野が極端に細分化された世界では、全体の、
ごく一部でしかない。が、その一部だけでは、メシを食べていくことができない。

 そこでその情報を融通しあって、つまり情報をたがいに管理することによって、自分た
ちの世界を守ろうとする。たとえば「学会」にしても、研究成果を発表する学者は一部。
あとのほとんどの学者はその研究成果を自分のところにもちかって、自分の情報として、
それを管理する。

 公務員の世界も、おおまかに見れば、これと同じと考えてよい。

 が、だからといって、そういう世界がまちがっていると言っているのではない。ある意
味で、公務員の社会というのは、社会のあり方としては、理想的な形ということになる。
世界中の人たちが、そういう社会で、のんびりと、たいした競争や危険を感ずることもな
く生活ができるとしたら、それはそれですばらしいことだと思う。

 で、そういう世界を、ブルー・オーシャンの世界という(?)。競争や、それにまつわる
きびしさが、ないわけではないのだろうが、しかしレッド・オーシャンの世界と比べると、
夢のような世界と考えてよい。(少なくとも、私は、そう考えている。)

 が、こと、ビジネスの世界となると、そうは言っておられない。それはたとえて言うな
ら、新築の家の、建て前のときに投げられる、餅まきのようなもの。投げられる餅を、み
なが懸命に拾う。

 取るか、取られるかの世界。何個取れば、それで満足できるということでもない。いく
らでも、ほしい。つまりは、現在の自由主義経済の世界というのは、システムそのものが、
レッド・オーシャンの世界と考えてよい。こういう世界で、自分の周囲を、ブルー・オー
シャンにするには、どうしたらよいのか。

 それが、冒頭にあげた本の内容であろうと思う。そこで私なりに、空想力を働かせてみ
る。

 この種の本では、多分(?)、(繰りかえすが、私自身は、その本を読んでいないので)、
いくつかの柱が、教条的に書かれているにちがいない。

(1)独創性
(2)自立性
(3)自律性
(4)非追従性
(5)独自性、など。

 常識的な範囲で書いたので、それほど、まちがっていないと思う。つまりこうした要素
があれば、独創的な世界で、だれにもじゃまをされず、静かにおだやかに仕事をすること
ができるということになる。

 が、私は、こうした要素に、もう一つ、哲学的な要素を加えたい。

 たとえば私の友人の中には、40代の前半までに、稼ぐだけ稼いだあと、自分の会社を
売り払い、悠(ゆうゆう)自適の隠居生活に入った人がいる。オーストラリア人のP氏と
いう。そのP氏は、今、自分でF1のレーシング・チームを結成し、自分自身でもF1を
運転している。

 P氏のように恵まれた人は例外であるとしても、もし人が、それぞれ、ほどほどのとこ
ろで満足し、その範囲で生活をすれば、自分のまわりの海を、レッドからブルーに変える
ことができるかもしれない。

 そうした哲学を、自らさがし、身につけていく。大切なことは、レッドにせよ、ブルー
にせよ、それは心の中の問題だということ。

 よい例なのか、悪い例なのかはわからないが、昔、「おしん」という超人気テレビ・ドラ
マがあった。あのおしんは、5、6年前に倒産した、Y・ジャパンの会社社長の母親のK
さんが、モデルであったという。

 で、そのおしんは、ある時期までは、生きていくために働いた。しかしある時期からは、
今度は、反対に、働くために生きるようになった。わかりやすく言えば、「金の亡者」にな
った。結果、おしんの店は、拡大に拡大を重ね、やがて全国に無数の店を構えるほどの会
社にまで成長した。

 で、そのおしんの住んだ世界は、最初から最後まで、レッド・オーシャンの世界だった
ということになる。

 が、もしその途中で、おしんが、ここでいう自分の哲学をつかんだとしたら、どうだっ
たであろうか。ひょっとしたら、自分のまわりを、ブルー・オーシャンに変えることがで
きたかもしれない。オーストラリア人のP氏のような生活を望めば、いつでもできたはず。
つまり、レッドかブルーかは、つきつめれば、心の問題ということになる。

 レッド・オーシャン、ブルー・オーシャン。そのネーミングのよさから、この言葉は、
私の注意をひいた。それでこんな原稿を書いてみた。

 が、ここからが、実は、ものを書く人間のお楽しみ。今では、インターネットによる検
索という便利な方法がある。それで、その本が、本当はどんな本であるかを、瞬時に調べ
ることができる。わざわざ図書館などへ、行かなくても、すむ。

 で、ヤフーの検索エンジンを使って、調べてみた。その結果が、つぎである。

++++++++++++++++++++++++++++

原題は、「Blue Ocean Strategy」(ブルー・オーシャン戦略)
W.Chan Kim氏と、Renee Mauborgne氏の共同出版ということに
なっている(Yahoo/USA)。

 冒頭に、(これからの世界で成功するためには)、既存の競争社会で競争するのではなく、
競争を無関係にするために、競争のない市場を創造すること、とある。

 そしてレッド・オーシャンとブルー・オーシャンについて、つぎのように概略を説明し
ている。

●レッド・オーシャン

 既存のマーケットで競争すること。
 競争相手を倒すこと。
現存する需要を開拓すること。
価値をつくりあげ、コストをさげること。
 戦略的に、個別化するのか、ローコスト化するのかを選択。

●ブルー・オーシャン

 競争のない市場世界をつくること。
 競争を、(自分とは)無関係にすること。
 新しい需要をつくり、それをつかむこと。
 価値を破壊し、コスト競争をやめること。
 個別化と同時に、ローコストの追求に結びつけること。
 
++++++++++++++++++++++++++++

 こうした経営戦略の本は、アメリカでは、つぎからつぎへと生まれる。これもその中の
1つということになる。

私も、若いころ、アルビン・トフラーという人の書いた、「第三の波」という本を読んだ
ことがある。宣伝にのせられて、その本を読まなければ、これからの世界では生き残る
ことができない感じた。だから、買った。読んだ。が、私には、まったく、役に立たな
かった。

 この種の本は、心の鍵穴とぴったりと合った人には、意味のある本となるだろう。が、
私のように、そもそもブジネスの世界から足を洗ったような人間には、まったく意味がな
い。(当然だが……。)

 しかし、否定ばかりしていてはいけない。興味のある人は、どうぞ!
(はやし浩司 ブルー オーシャン 戦略)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近況、あれこれ】

●誠司が、アンパンマンの歌を歌う

 二男から、電話。最初に受話器をとったのは、ワイフだが、ワイフがこう言った。「誠司
が、歌を歌ってくれるってエ!」と。

 二人で、受話器に耳を傾ける。二男の合図で、誠司が歌を歌う。聞いたことがない歌だ。
「♪……PxxxPxxxKxxxPxxx……」と。終わったところで、拍手。

ワイフ「何の歌?」
二男「アンパンマンの歌だよ」
ワイフアンパンマン〜? 英語の歌かと思った」
二男「英語じゃなくて、日本語だよ」
ワイフ、私、ハハハ。「日本語だったの?」「日本語だったのかあ?」と。

 いつも幼児向けの雑誌を送っているが、その付録の中に、アンパンマンのビデオがあっ
た。それを見て、覚えてしまったらしい。

 その誠司だが、電話で歌を歌ってくれたのは、はじめて。ときどき電話で、話すことも
あるが、会話は、いつも簡単なもの。「Hi」「Bye」でおしまい。ものの10秒足らず
で、終わってしまう。

 しかし楽しい、一瞬だった。

 もうすぐ、弟か妹が生まれる。先日、「8週目だ」と言っていたので、今ごろは、10〜
12週目に入ったはず。

 その二男夫婦の育児法をみていて、感心したことがある。二男もデニーズ(嫁)も、日
本語的に言えば、「辛抱強い」。誠司にも、結構、好き嫌いがあるらしい。その誠司に、そ
の嫌いなものを食べさせるとき、ときには、1〜2時間も、根くらべをすることがあると
いう。絶対に声を荒げて、しかったり、怒ったりしない。誠司が食べだすまで、ただひた
すら、横にすわって、待っているという。で、そのうち、誠司のほうが、根負けして、食
べだすという。

 その話をワイフから聞いて、「ぼくとはちがうなあ」と思った。私なら、2時間も待たな
い。10分が限度かもしれない。

 子育ては、万事、根くらべ。その根くらべができれば、子どもは、根性のある、芯の強
い子どもになる。そうでなければ、そうでない。大切なのは、子どもに対する愛情。その
愛情で子どもを包んで、親のほうが、じっとがまんをする。

 好き嫌いの問題にしても、それはその子どもを超えた、その向こうにある。もともと、
しかったり、怒ったりするような問題ではない。


●三男のBLOGより

 三男が、日記を書いている。

 その一節を読んで、感動する。少し編集長ぽく、文体を整えてみる。
(Eへ、無断転載を、許してほしい!)

++++++++++++++++++++++++++++

●僕たちは、もう一つの空を知っている。

フライトはとても疲れる。
気圧が低いところにいるせいなのか、
神経をすり減らしてくるせいなのか、
とにかく降りたあとは本当に疲れている。

顔色も悪くなり、目はうつろになるので、
飛んで来た人は一目でわかる。

ここのベッドは病院のパイプベッド。
病院からもらったものなのか、
もともと病院だったのかは知らないが、
フライト後の夕飯までのひと時、
寮内はまさに病院と化す。
みんなぐったり。

フライトは楽しい。
楽しいが、やはり訓練なので、準備は大変。
辛いこと苦しいことも多い。
こんなことを言ったら失礼なのかもしれないが、
飛ぶことが嫌になるときもある。
まだ始まって1週間しか経ってないのに、
こんなことを言っていて大丈夫なのだろうか。

それでも僕たちが飛ぶことには、理由がある。
朝起きて、抜けるような青空がハンガーに広がっていて、
そのもとへ勝手口を開けて颯爽と駆けて行き、
前段で一番にshipへ乗り込んで準備をして、
離陸許可を待っている時間が好きだから。
遠くの目標へ一直線に飛ぶのが気持ちいいから。
近くを通過する先輩や同期のshipが、
ラジコンのように、すごい速さで飛んでいくのを見るのが楽しいから。

風を切る音、
エンジンの音、
プロペラの音が、いろんなことを物語っていて、
それを読むのが楽しいから。
道がわかって、自分の力で目標を見つけられると、
すごく嬉しいから。
地上で見あげてる人のことを想像すると、
何となく楽しいから。
ATCをばっちり決めている自分がかっこいいから。

この大変さの向こうに、大きな感動が待っているから。
自分が自分に出した挑戦に勝てるから。
誰かが楽しみにしていてくれているから。

僕たちは、もう一つの空を知っている。

+++++++++++++++++++++++++++++++

 「お前は、この広い空を、思いっきり羽ばたいてみろ」と、いつも私は口ぐせのように
言っていた。そしたら、本当に、三男は、空を飛ぶようになってしまった。私は、そうい
う意味で、言ったのではなかったのだが……。

 横浜のY大を中退。1年、オーストラリアへ留学。そして今は、パイロットになるため、
航空大学に。大学といっても、職業訓練校のようなもの。三男は、自分でもそう言ってい
る。よかったのか、悪かったのか……。恩師のT先生も、「Y大学にとどまって、アカデミ
ックな道を選びなさい」と、三男を説得してくれたが、ムダだった。三男は、パイロット
になると言って、がんばった。今は、その三男を支えるしかない。

 いつか、三男の初フライトのときは、ワイフと二人で、その飛行機に同乗するつもり。
そうそう、先日、三男が、その大学の制帽を送ってきてくれた。パイロットがかぶる、あ
の制帽である。

 黒地に、ド派手な金色の刺繍(ししょう)が、ほどこしてある。横には、「Hirosh
i Hayashi」と、ネーム入り。自衛隊、海上保安庁を問わず、パイロットは、似
たような帽子をかぶるらしい。

 で、その帽子を、一日だけかぶってみた。そして自衛隊の基地のすぐ隣にある、パソコ
ンショップへ行ってみた。パソコンショップへ行ったのは、毎度のことで、とくに帽子を
意識したからではない。

 しかし気がついてみると、店員はもちろん、女子店員まで、私を驚いたような目つきで
見ているではないか! ジロジロと、遠巻きにして、かつ、真剣に!

 私をパイロットと誤解したらしい。帽子の威力に気がついたのは、そのあとだ。

 私は、何となく、自分が本物のパイロットになったかのように感じた。気持ちがよかっ
た。ハハハ。ホント!

 家に帰って、MS社の、フライトシムレーターで、北海道の帯広上空を飛んでみた。久
しぶりに……。それも楽しかった。
(注、三男のBLOGへは、私のHPのトップページ、右下からどうぞ!)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●会話

 最近耳にした、気になる会話を、まず2つ。

 一皿100円という回転寿司屋に、ワイフと2人で入ろうとしたときのこと。すぐその
あと、若い女性が2人、追いかけるようにして入ってきた。私がドアを、半分手で開いて
やっていると、すり抜けるようにして、中へ入った。そのとき、こう言った。

 女性A「私、めったにこんなところに来ないのよ」
 女性B「めったに?」
 女性A「100円の寿司なんて……」と。

 もう1つは、テレビで見た、1シーン。ある難病で、1人の男性が死んだ。年齢は忘れ
たが、75歳くらいではなかったか。労災認定を受けての死だった。それについて、彼の
妻が、テレビ画面に向かって、こう言った。

 「主人は、この1年、本当に苦しみました。でも、よくがんばってくれました。おかげ
で、娘夫婦の家を、(夫の年金と補償金で)、建てることができました」と。

 「そういうものかなあ?」「そういうものだろうなあ?」と思いながら、これらの会話を
聞いた。

 が、こういう会話もある。本人は、無意識なのだろうが、相手の言うことを、逐一(ち
くいち)、否定する。たとえば、こういう会話。

私「すばらしい秋になりましたね」
A「でも、朝夕は寒いですわ」
私「今度の休みは、どこかへでかけられますか」
A「いいえ、うちには老人がいますから」
私「介護ですか?」

A「いえ、介護はまだ必要ではありませんが……」
私「老人がいると、気になりますからね」
A「気にはなりませんが、何かと……」
私「それはたいへんですね……」
A「たいへんというより、私の行動が監視されているようで、自由がないです」

私「そうでしょうね。老人がいる家庭は、どこもそうですよ」
A「いえ、うちだけですよ。近所の奥さんたちはみな、平気で出かけていきますよ」
私「そういう奥さんたちと出かければ……」
A「でも、レベルが低すぎて……。農家のオバチャンといった風の人ばかりですから」と。

 こういう無意味な会話が、いつまでもつづく。それにこうまでこちら側の言うことが、
こうまでつぎつぎと否定されると、気がヘンにすらなる。実際には、会話など、したくな
い。

 こういうときは、たとえば相手がもちだした会話については、「ああ、そうですね」「そ
うですか?」と相づちを打つのが、エチケット。が、何かにつけて否定する人は、自分を
中心にものを考える。相手が言ったことを、自分のテーマとして、取りあげてしまう。

 では、どう答えたらよいか?

私「すばらしい秋になりましたね」
A「そうですね、すばらしいですね」
私「今度の休みは、どこかへでかけられますか」
A「そうですね、どこかへ行きたいですね」
私「どこへ?」
A「○○川などは、いいでしょうね。紅葉も見ごろですし」と。

 こういう会話になると、話題もはずむ。楽しくなる。

 「会話」と簡単に言うが、奥は深い。その人の性格、性質、すべてがそこに凝縮される。
ここに書いた、Aさんの例でいうなら、Aさんの心は、かなり、ゆがんでいる。こういう
のを俗世間では、ヒネクレ症状という。なぜそうなったかということよりも、Aさんにと
っては、そういう反応のし方が、ごく自然、ということになる。乳幼児期から、少年、少
女期にかけて、身についたと考えられる。

 Aさん自身がそれに気づけばよいが、しかしそれでなおるということは、まず、ない。
自分で気をつけている間は、それなりに、相手に合わせた会話ができる。が、その気力が
薄れたとき、また同じような会話を始める。恐らく、Aさんは、死にまでそのままだろう。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●どのDVD−Rにしようか?

+++++++++++++++++

みなさんは、パソコンショップの店頭で
どのDVD−Rにしようか迷ったことは
ありませんか?

私もよく迷います。値段が安い外国製。
しかし「品質はだいじょうぶかな」とい
う迷い。

それに結論をく出してくれたのが、AS
AHIパソコンの記事でした。

++++++++++++++++++

 広告が主流のパソコン雑誌の中にあって、いつも良質の情報を提供してくれるのが、「A
SAHIパソコン」。値段も、390円と、手ごろ。

 その中に、(DVD−Rメディアの選び方)(P90)というのがあった。

 私もよく迷う。パソコンショップへ行くと、割高な日本製と、激安の外国製が並んでい
る。そこでASAHIパソコンは、これらのDVD−Rについて、詳細な実験と、それに
基づく調査結果を報告している。もちろん、実名入りで、である。

 ASAHIパソコンは、日本製として、マクセルとTHAT'Sの2社の製品、外国製
として、BenQ、ZERO、FIT ONの3社、計5社の製品について、(1)メディ
アの反(そ)り、(2)記録前の物理アドレスのエラーチェック、(3)記録後の品質テス
ト、(4)メディアのマウント時間と再生品質、(5)メディアとドライブの組み合わせで
記録速度は、そう変わる、(6)ドライブとメディアの相性と記録品質、(7)太陽光テス
トについて、それぞれ実験テストしている。

 (詳細なテスト結果は、本誌のほうで、どうぞ!)

 で、その結果、やはり値段が高い、日本製には、それなりの理由と品質の高さがあるこ
とがわかった。外国製の、B社、Z社のものは、ともに、「中周で規格値を超えるエラーが
発生」(B社)、「規格値を超える大量のエラーが発生」(Z社)ということだそうだ。

 たとえば(4)のメディアの再生について、ASAHIパソコンは、つぎのような結論
を出している。(ほかの実験結果も、ほぼ同じようであった。)

 マクセル……映像にも問題なく、最後まで再生できた。
 太陽誘電(That's)……映像にも問題なく、最後まで再生できた。
 B社(外国製)……最後の部分で映像の乱れがあった。画像がときどき
          止まるようになり、ブロックノイズも発生。ついには
          「ディスクを読み取れません」というエラーが発生。
 Z社(外国製)……最後のほうにごくわずかなブロックノイズが得られたが、
          最後まで再生できた。
 F社(外国製)……映像にも問題なく、最後まで再生できた。

 要するに、「日本製(マクセル、太陽誘電)は、だいじょうぶだが、外国製は、かなりあ
ぶない」ということ。日本製は、値段的には、外国製の3倍程度。(日本製は、1枚、10
0円前後、外国製は、1枚、30円前後。)

 私は店頭でいつも迷いながら、結局は値段の安い、B社のものばかり買っていた。デー
タの保存用に使っていたので、つまり一方的に保存するだけで、実際に再生したりしたこ
とはないので、私自身は、品質的な問題を経験したことはない。

 しかしASAHIパソコンを読んで、決めた。「これからは日本製にしよう」と。値段が
高いということには、それなりの理由があることが、これではっきりとわかった。とくに
あぶないのが、B社の製品。もう買わないぞ!


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【息子のBLOGより】

++++++++++++++++++++++++

このところ、三男のBLOGを、毎日、読んでいる。
私のマガジンより、ずっと、おもしろい。

私も、子どものころ、パイロットにあこがれた。
その無念さを、今、息子が晴らしてくれている。

そんな(思い)の一つを、知ってから知らずか、
こう書いている。

++++++++++++++++++++++++

●10月21日(金)

 今週は朝週(午前の週番)なので、朝6時に起きて運管室に出向き、最新ウェザーの資
料を更新しなくてはいけない。眠い目をこすり廊下を行くと、途中で滑走路の見渡せる窓
を通りかかる。いつもははっきり見えるR/Wが、今朝はまったく見えない。空港内は濃霧
に包まれていた。

 穏やかで神秘的な霧。

でもこうなると僕らの朝は忙しい。特にウェザー担当は、この霧がなぜ発生したのか、
またいつごろ消えるのかを予想しなくてはいけない。多くの場合、放射霧と言って、夜
のうちに流れ込んだ暖かく湿った空気が、朝の放射冷却によって冷やされ、露点に達し
濃い霧となる。

したがって日照により気温が上昇し、露点との差が開けば霧は消滅するのだが、今朝は
どうやらそう簡単に消えてくれなさそうだ。それどころか、どんどん濃くなっていくで
はないか。上空にどうやら雲が張り詰めているらしく、日がまったくあたっていない。
10時まで待って霧が晴れなければ、今日の訓練はキャンセルにするというIntentionを
教官に伝え、あとはひたすら、待つ。

 9時20分ごろ、エアバンドにライン機のインバウンドが飛び込んできた。この霧で着
陸できるのか? どうやらそのJAS機の機長はそのつもりらしい。運管室は着陸できる
かできないかで大盛り上がり。轟音が鳴り響き、降下してきたようだが、その姿すらこ
ちらから見えない。案の定ゴー・アラウンド。今日は無理だな。オルタネートの釧路に
向かうだろう・・・そんな雰囲気が流れた。

 しかし、2回目のATCが入る。機長はぎりぎりまで待って、もう一度挑戦するとのこ
と。俄然、管制室は盛り上がる。おSさんと賭けをした。降りてくる方に、ジュース1
本!降りて来い!

 最後の挑戦が始まる。これが機長のパワーというものなのか、降下を開始し始めたころ
から視程が一気に回復し始める。再び轟音が鳴り響き、数秒後、接地音が響き渡る。目
の前に突然、A300の巨体が浮かび上がる。お見事、機長。

ナイスランディング! 機内は拍手喝采に違いない。

窓から機に向かってみんなで手を振った。コクピットの窓で白い手袋がヒラリとしたの
が見えた。

着陸後、視程は再び悪化した。

(注、三男のBLOGは、私のHP、トップページより、どうぞ)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
http://yaplog.jp/8723cacdiary/


++++++++++++++++++++++++++++++

(読後感)

 親ばかと言われてもしかたない。しかし三男は、いつの間にか、文章による表現力を身
につけてしまった。もともと詩人的なところがある息子だった。しかし、私の文体と、驚
くほど似ている。とくに教えたわけでは、ないのだが……。

 ただ漢字の使い方に、もう少し、注意したらよいと思う。

 お見事→おみごと
 違いない→ちがいない、など。

 ひらがなで意味のわかるか所は、ひらがなで書けばよい。当て字は、できるだけ避ける。

 もう一つは、専門用語には、(かっこ)つきでよいから、解説を入れてほしい。
 まあ、その専門用語も、楽しいが……。私の趣味(MSのFSで空を飛ぶという趣味)
には、おおいに参考になる。
 

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●小さく生きる人、大きく生きる人

+++++++++++++++

老人になると、小さくなっていく
人と、大きくなっていく人がいま
すね。

+++++++++++++++

 人は、人、ぞれぞれ。生き方も、人、それぞれ。最近、老人観察をつづけている。この
ところ、老人の生き様が、気になって、しかたない。それについては、少し前にも、書い
た。

 で、大別して、老人になればなるほど、より小さく生きる人と、より大きく生きる人が
いることがわかる。その間にあって、(その日、その日を、ただ生きている人)もいるが、
そういう老人は、ここでは考えない。

【より小さく生きる人】

 より小さく生きる人は、生活そのものを、コンパクトにしようとする。しかしそれはそ
れで賢明なことかもしれない。欧米人でも、高齢化すればするほど、そういう生き方をす
るのが、ふつうのようである。

 たとえば、住環境を縮小したり、人間関係を整理したりするなど。収入も減り、健康に
も自信がなくなれば、それは当然のことかもしれない。

 しかしそれにあわせて、自分という人間そのものまで、小さくしてしまう人がいる。わ
かりやすく言えば、より自己中心的になる。

 より利他的な生き方をする人を、人格のより完成した人とみるなら、より自己中心的に
なるということは、それだけ、人格が後退したとみる。より自己中心的になれば、やがて、
自分のことだけしかしなくなる。自分さえよければというような、考え方をするようにな
る。

 たとえば世間的な活動には、まったく参加せず、個人的な趣味だけしかしないという老
人は、少なくない。で、このタイプの老人にかぎって、少しでも、自分の生活圏が侵され
たりすると、猛烈に反発したりする。

【より大きく生きる人】

 これに対して、自分の生活を、より大きくしようとする人がいる。「大きい」といっても、
住環境を拡大したり、新しい人間関係を求めるというのではない。ある男性は、いつも口
ぐせのように、こう言っている。

 「私は今まで、こうして無事に生きてくることができた。それを最後には、社会に還元
するのが、私の最後の務めである」と。すばらしい生き方である。

 つまりこのタイプの人は、より、利他的になることによって、人格の完成度を高めよう
とする。ある女性は、80歳をすぎてからも、乳幼児の医療費、完全無料化のための運動
をつづけていた。「どこからそういうエネルギーがわいてくるのですか?」と私が聞くと、
その女性は笑いながら、こう言った。「私は、ずっと保育士をしてきましたから」と。

 その人の人生は、その人のもの。だから他人がとやかく言ってはいけない。最近の私は、
「とやかく思ってもいけない」と、考え始めている。仮にあなたの隣人が、優雅な年金生
活をしていたとしても、それはその人の人生。批判したり、批評したりすることも、いけ
ない。

 反対の立場で言うなら、他人にどう思われようが、気にすることはない。

 大切なことは、私は私で、納得のできる老後の道をさがすこと。あくまでも、私は、私。
が、これだけは、言える。

 愚かな人からは、賢明な人がわからない。しかし賢明な人からは、愚かな人がよくわか
る。同じように、人格の完成度の低い人からは、完成度の高い人はわからない。しかし完
成度の高い人からは、、完成度の低い人がよくわかる。

 それはちょうど、山登りに似ている。低いところにいる人は、高いところから見る景色
がどんなものか、わからない。しかし高いところにいる人は、低いところにいる人が見る
ことができない景色を見ることができる。

 そしてより広い景色を見た人は、きっと、こう思うだろう。「今まで、こんな景色を知ら
なかった私は、愚かだった。損をした」と。

 ……といっても、それはあくまでも、相対的なもの。こんなことがあった。

 私が、地域の公的団体の主催する講演会で、講師をしたときのこと。少し自慢げに、恩
師のT先生にそのことを話したら、T先生から、すかさず、一枚の写真が送られてきた。
その写真というのは、T先生が、「中国化学会創立50周年記念」で、記念講演をしている
ときの写真だった。しかも添え書きには、「中国語でしました」とあった。

 T先生は、いつも私が見たこともない世界で、仕事をしている。だから私ができること
といえば、先生の言葉の断片から、その見たこともない世界を想像するだけでしかない。
そのT先生から見れば、私の住んでいる世界などというものは、まるでおもちゃの世界の
ようなものかもしれない。

 そうそう、もう一人、別の恩師は、こうメールを書いてきた。その恩師も、世界を舞台
に、あちこちで、講演活動をしている。いわく、「林君、田舎のおばちゃんたちなんか、相
手にしていてはだめだ」と。

 ずいぶんときつい言葉である。そのときは、「そんなことを女性たちが聞いたら、怒るだ
ろうな」と思った。しかし同時に、「そういうものかなあ?」と思った。その恩師にしても、
私の世界をはるかに超えた世界で、仕事をしている。

 まあ、このところ、私の限界も、はっきりしてきた。「私の人生は、こんなもの」と、心
のどこかで、ふんぎりをつけるようになった。だから後悔はしないが、しかしこれで私の
人生が終わったわけではない。

 できれば、これから先、ここに書いた、(より大きく生きる老人)になりたいと願ってい
る。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【二男のHPより……】

 二男のHP(BLOG)を見るのが、何よりも楽しみになっている。ワイフなどは、ヒ
マさえあれば、それを見ている。

 その二男のHPに、こうあった。

+++++++++++++++

ところで、僕がプログラマになってから、はや4年半になろうとしています。が、この頃、
今の会社で働くのが、嫌になってきました。

アーカンソーという場所が嫌なのか、本当は何が嫌なのか分からないのですが、ただなん
となくシックリこない気がして仕方ありません・・。

毎日つまらないから別のことがしたいなって思っても、結局自分自身がつまらない人間だ
から、毎日つまらななって思っているだけだと思うのですが・・。

僕がもっとマシな人間だったらどこへ行っても、何をしていても、いい人生がおくれるの
だろうなと思います。

まあそういうのは僕の日本人的な考え方であって、大半のアメリカ人はそんなこと考えず
にあれこれ別のことをしたり、別の場所へ移ったりしていますが。

家族を養いつつ、僕が本当にしたいことができるオイシイ仕事ってなんだろうなあ、なん
て思いながら毎日を過ごしています。

+++++++++++++++

 「自分さがし」という言葉がある。二男は、ずっと、その自分さがしで、あれこれと模
索しているようである。

 その二男とは別に、心理学の世界では、(自分のしたいこと)と、(自分のしていること)
が、一致しているとき、その子ども(人)は、静かに落ちついていると言われている。こ
の両者が一致しているかどうかをみることを、「自我の同一性」という。この両者が不一致
を起こすと、精神は緊張状態におかれ、ちょっとした刺激で、精神的に不安定になること
が知られている。

 二男は、どうなのだろうかと、ふと、思う。もともと精神的にはタフな子どもではない。
心配まではしていないが、しかしどうか、平和で、穏やかな気持ちでいてほしいと願って
いる。

で、だれしも、この時期、「自分さがし」で悩む。が、男性は、まだよいほうだ。家庭に
押しこめられた女性は、自分そのものを破壊しなければならない。割り切って、主婦
(stay-at-home wife)としての立場を守るか。それとも、悶々とした気分で、日々の生
活を送るか。

 私も、ちょうど二男の年齢のときに、その(自分)に悩んだ。東京のような都会で仕事
をしたいという思いもあったが、あきらめた。そのうち3人の息子たちが生まれ、自分勝
手なことができなくなった。「家族のために、犠牲になっている」と感じたことも、しばし
ばある。

 が、人間というのは、そうは自由、きままには生きられない。「社会」というものに束縛
されながら、生きる。そういう意味で、「人間は、社会的動物」と表現した人もいた。もち
ろん家族にも束縛される。

 今の二男が、そうではないか。

 率直に言えば、今の二男の能力にすれば、今の仕事は、つまらないだろうなと思う。そ
の気持ちは、よくわかる。冒険心もあるだろうし、何かにチャレンジしてみたい気持ちも
あるだろう。しかし今のところに住んでいては、そのチャンスもないだろうし、その可能
性もない。

 そこで一つの解決方法としては、思い切って、日本で日本のソフト開発会社に入社する
か、あるいは、自分で、ソフト開発会社を設立するというのがある。しかしそれにも、問
題がある。

 妻のデニーズさんの気持ちも、確かめなければならない。それに今は、二人目の子ども
の出産をひかえている。さあ、どうしたらよいものだろうか? そこで読者の方に、お願
い。

++++++++++++++++++++++

●読者のみなさんへ

浜松近辺で、コンピュータ・ソフトのプログラム
開発をしている方は、いらっしゃいませんか?

もし、そういう情報をもっていらっしゃる方が
近くにいらっしゃれば、どうか、どうか、ご一報
ください。

この話は、まだ二男には話していません。また
そういう情報があるからといって、二男がどう
判断するか、私にはわかりません。

ただ何か、相談があったとき、すぐ、二男の
力には、なれるようにしておきたいと願って
います。

どうか、力を貸してください。

連絡は、私のHPのメールから、フォームを
使ってくだされば、うれしく思います。

二男は、高校生のときには、ウィルス駆除ソフトを
自分で開発する程度の力をもっていました。

アメリカのH州立大学を、学位を取得して
卒業しています。大学の教授の推薦文には、
「NASAでも通用する能力」とあったそうです。

よろしくお願いします。

+++++++++++++++++++

(二男へ)

 勝手にこんな原稿を書いて、ごめん。どうか、怒らないでほしい。よろしく!

 パパより。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 21日(No.652)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●子育ての3本柱

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子育てで、ふと行きづまりを
感じたら、この3本柱を思い
だしてみてほしい。

+++++++++++++

 子育てには、3本の柱がある。(1)暖かい無視、(2)ほどよい親、(3)求めてきたと
きが、与えどき。

(1)暖かい無視……暖かい無視の反対側にあるのが、過保護、過干渉、でき愛、過関心。
これらも一定の範囲内であれば、それほど大きな影響は、子どもに与えない。(しかし今度
は、受け取り側の問題もあるので、どの程度が、過保護であり、過干渉であるかを判断す
るのは、むずかしい。)子どもの自立心を育てるためには、暖かい愛情で包みながら、無視
すべきところは、無視する。

(2)ほどよい親……要するに「やりすぎない」ということ。子育てをしていて避けなけ
ればならない主義に、3つある。スパルタ主義、放任主義、それに極端主義。「極端主義」
というのは、いわゆる偏(かたよ)った子育てをいう。朝から夜遅くまで、バットの素振
り練習をさせるなど。「将来、野球の選手にしたい」という気持ちはわからないでもないが、
こうした極端主義は、子どもの心のどこかに、ひずみを作る原因となりやすい。

(3)求めてきたときが、与えどき……愛情にせよ、助けにせよ、「求めてきたときが、与
えどき」と覚えておく。とくに愛情については、そのつど、ていねいに応じてやる。ぐい
と抱くのが一般的だが、抱っこ、手つなぎなども、これに含まれる。しばらく抱いてやる
と、子どものほうから離れていく。大切なことは、子どもに、「いつも愛されている」とい
う安心感を与えること。

 子どもに何か問題が起きると、たいていの親は、そのときを、最悪の状態と考えて対処
しようとする。そして「そんなはずはない……」「まだ何とかなる……」「うちの子にかぎ
って……」と無理をする。この無理が、子どもを、2番底から、さらには3番底へと、落
してしまう。不登校にしても、引きこもりにしても、あるいは子どもの非行にしても、そ
うである。

 問題が起きたときこそ、「ここが子育て」と、腹に力を入れる。ジタバタすればするほど、
「まだ以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、さらに症状は悪化
し、そのまま悪循環によって、底なしのドロ沼状態に陥る。

 「どうしたらいいの?」とパニック状態になったら、この3本柱を思い出してみてほし
い。この3本柱は、そういうときこそ、役にたつ。

+++++++++++++++++++


●暖かい無視

 子どもの心が病んだら、
 そっとしておいてやろう。
 なおそうと、思わないこと。
 何とかしようと、思わないこと。
 ひとり、静かにしておいてあげよう。
 ぼんやりとできる時間をふやしてやろう。

 そして、ここが大切だが、
 許して、忘れ、子どもの心を、
 やさしく包んであげよう。
 鉄則は、ただ一つ。
 今の状態を、
 より悪くしないことだけを考えながら、
 あとは、時間を待つ。
 一年でも、二年でも、三年でも……。
 励ましては、いけない。
 脅しても、いけない。
 ただただ、ひたすら待つ。
 暖かい無視をつづけながら……。

 あなたの子どもは、それで
 必ず、立ちなおる。
 今の状況は、
 必ず、笑い話になる。
 それを信じて、前だけを見て、
 あなたは、今、すべきことを、
 しっかりとする。

※「暖かい無視」……野生動物の保護団体の人たちが使い始めた言葉。JWCSワイルドラ
※イフ・カレッジ、〇二年度セミナーの中で、小原という人が、「野生動物と接するとき
※は、暖かい無視こそ、大切」「野生動物に対しては正しい知識と心構えを持った、暖か
※い気持ちでアプローチをしつつも無視して接することが大切」(HP)と説いている。
(はやし浩司 暖かい無視 子どもの心が病んだとき 子供の心が病んだ時)


++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●親に遠慮する子ども

+++++++++++++++++

親に遠慮する子どもがふえている。
親からみれば、できのよい子どもに
見えるかもしれないが、
しかしそれは、子ども本来の姿では
ない。

+++++++++++++++++

 ある女性(四〇歳)が、こう言った。「盆などに、実家へ帰っても、心を許して、親に甘
えることができません。子どもに何かを買ってもらったりすると、つい親に、『悪いから、
いいです』などと言ってしまう。親は、『いいんだよ』と言いますが、どこか他人行儀の私
たちです。これでいいのでしょうか」と。

 このケースで、まずわかることは、子どもが親に遠慮しているということ。義理の父母
なら、そういうこともあるが、実の親である。本来、こういう感覚をもつこと自体、おか
しい。

 そこであなたのチェックテスト。

 あなたは実の両親に対して、つぎのうちのどれに近いだろうか。

(1)実家で料理を出されても、親に対して、「申し訳ない」という気持になり、それなり
の金銭を、親に渡すようにしている。そんなわけで実家で食事をするより、近所の
レストランで食事をしたいと思うことが多いし、そのほうが気が楽。実家へ帰るの
が苦痛に思うことがある。

(2)実家では、私が「いらない」と言っても、親が勝手に料理を用意することが多い。
親に恩返ししたいという気持はあるが、実際には、甘えることが多い。たいていは、「あり
がとう」ですんでしまう。実家に帰ることは、それほど苦痛ではない。

(3)自分の家で食事をしたりするように、実家でも食事をする。出された料理でも、平
気で食べるし、何も用意してないこともあるが、そういうときは、冷蔵庫に残っているも
のを食べる。親に「ありがとう」と言ったこともないし、そういう意識をもったこともな
い。実家へ帰ると、気が休まる。心も体もリフレッシュできる。

 この中で、理想的な親子関係は、(3)である。こうであるからこそ、親子という。また
そうでなくてはいけない。一見、乱暴な親子関係に見えるが、その実、より深い親子の絆
(きずな)で結ばれている。

 日本型の子育てでは、無意識のうちにも、親は子どもに対して、「産んでやった」「育て
てやった」と教える。(そういう意識を植えつける。)一方、子どもは、「産んでいただきま
した」「育てていただきました」と教えられる。(そういう意識をもつ。)実際、自分の娘(三
四歳)に向って、「親に向かって、何という態度だ。お前が言葉を話せるようになったのも、
親のおかげではないか!」と怒鳴った父親(六〇歳)がいた。

 冒頭の女性は、実家へ帰っても、どこか他人行儀だという。恐らく親側から見れば、親
思いのよい娘に見えることだろう。しかしその実、心は離れている。

 今、子どもを愛せなくて、人知れず、悩んでいる母親は多い。しかしそれ以上に、親と
の折りあいが悪く悩んでいる母親も多い。「親だから子どもを愛しているはず」と考えるの
は、まちがっているが、しかしそれと同じくらい、「子だから、親を思っているはず」と考
えるのは、まちがっている。(たいていは、「自分の子どもを愛せない」と悩んでいる母親
は、同時に、「自分の親とは相性が合わない」と悩んでいる。)

 親子関係といえども、基本的には、一対一の人間関係。親子であるという、「関係」に甘
えてはいけない。とくに、親のほうが、甘えてはいけない。

 私たちは、親として、子どもを育てる。しかしそのとき、親は、無条件で子どもを育て
る。また無条件でなければならない。子どもに恩を着せてはいけない。いくら子どもに裏
切られることがあっても、最後の最後まで、無条件をつらぬく。見返りを期待するのも、
要求するのも、まちがっている。

 親子関係も、信頼関係で、成りたつ。全幅のさらけ出し。受け入れという基盤があって、
その上で成りたつ。それを忘れてはいけない。そこで今度は、あなたとあなたの子どもの
関係を振りかえってみよう。

 あなたの子どもは、あなたに対して、全幅に信頼しているだろうか。あなたのそばにい
て、外の世界でキズついた翼を、ゆっくりと休めているだろうか。もしそうなら、それで
よし。どうも「?」と感じたら、今からでも遅くないから、あなたの家のあり方を、もう
一度見なおしてみてほしい。これはあなたの子どものためというよりは、実は、あなた自
身のためなのである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの心の内側に入る

 親が子どもを見るとき、外側から子どもを見るか、それとも内側から子どもを見るか。
このちがいは、大きい。少なくとも、子どもを外側から見るかぎり、子どもの心をとらえ
ることはできない。たとえば……。

 子どもが家で、勉強をしないで、ゴロゴロしている。そのとき、「何、やっているの! さ
っさと勉強しなさい!」と。これは子どもを、外側から見たときに使う言葉。しかしその
とき、「今日は暑いわね。こういうとき、勉強するのも、たいへんね」と話しかける。これ
は子どもを、内側から見たときに使う言葉。

 当然のことながら、相手の心をとらえようと考えたら、その内側に入る。説得力がます
ばかりではなく、相手の心をとらえることができる。

 で、子どもがいつものように勉強を始めたとする。そのときも、「さっさと、終わりなさ
い」と。これはこどもを、外側から見たときに使う言葉。しかしそのとき、「むずかしくて、
わからないのがあったら、もってきてね」と話しかける。これは内側から見たときに使う
言葉。

 子どもを動かすには、コツがある。そしてそのコツというのは、子どもの心の中に入り、
子どもを内側から指導する。ほかにもいろいろと応用できる。

(静かにしなさい)→(口を閉じようね)
(まじめにやりなさい)→(この前より、まじめにできるようになったね)
(ここがまちがっている)→(前より、まちがいが少なくなったね)(おしいね)(こんな
ミスをするなんて、あなたらしくないわね)
(元気を出しなさい)→(よくがんばったね)(もう疲れたよね)(少し休もうか)
(勉強しなさい)→(勉強って、いやなものね。好きな人なんて、いないと思うわ)
(何よ、この成績は!)→(成果が出るのは、これからよ)
(がんばれ)→(気楽にやりなよ)(無理をしなくて、いいのよ)
(こんな成績では、どうするの!)→(やれるだけやってみようよ。それでだめなら、し
かたないもんね)

 これを心理学では、「外世界」「内世界」という言葉を使って、説明する。その人が内世
界へ入ってくると、親近感が、どんとますことが知られている。わかりやすく言えば、気
を許した人から、あれこれ説得されると、説得されやすいが、そうでない人では、そうで
ないということ。その内世界へ入るためには、心の内側に入る。それがここでいう「心を
とらえる方法」ということになる。

 要するに、子どもの立場に立った言い方ということになる。これは子どもを指導すると
きの、イロハ。覚えておいて、損はない。
(はやし浩司 親に遠慮する子供 遠慮する子ども 子供を伸ばす会話術)

【追記】
 不登校を起こした子どもなどに、「学校へ行きなさい」「勉強に遅れてしまう」などと言
っても、効果がないばかりか、かえって子どもを、より苦しい世界に追いこんでしまう。
私はそういうとき、こう言うことにしている。「いろいろ、つらいことがあったんだね? 君
もよくがんばったよ。つらかったけど、君は今まで、がんばって学校へ行っていたんだね。
みんなはそれに気づかなかったんだね。先生も、悪かった」と。

 ただし子どもといっても、心はおとな。心底、子どもの立場になること。口先のごまか
しだけでは、すぐ見破られてしまう。ご注意!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【子どもの引きこもり】

+++++++++++++++++++

青年期に達した子どもの引きこもりに
ついて、相談があった。

それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++

●引きこもりの平均年齢が、26・7歳

 「壮年化進み、35歳以上14%」と題して、中日新聞に、こんなショッキングな記事
が載った。

 「自宅に長期間閉じこもり、社会参加しない(引きこもり)状態の人の平均年齢は26.
7歳で、約14%が35歳以上と、"壮年化"が進んでいることが28日、厚生労働省の実
態調査で分かった。4分の3が男性で、全体の5人に1人が家族に暴力を振るっていた。

 行政が援助を始めても中断したり音信不通になったりする人が目立つなど、立ち直りの
困難さを示しており、厚労省は対応に苦慮する相談機関向けに、本人と家族への具体的な
支援の在り方をまとめた指針をつくった。

 調査は3月、全国の精神保健福祉センターと保健所を対象に実施。全センターとほとん
どの保健所から回答があった。

 昨年1年間の電話相談の延べ件数と来所相談件数は合計約1万4000件で、集計方法
は違うものの、2000年11月に直前1年間を対象に実施した1回目の調査時の計約6
100件より大幅に増加した。

 来所相談のうち3293件を分析した結果、本人の性別は男性が76・4%と圧倒的に
多かった。年齢が上がるほど就労・就学が困難になるとされるが、相談時の平均年齢は2
6.7歳で35歳以上が14・2%。前回調査は「36歳以上8・6%」だった」(中日新
聞・03年7月28日)と。

●心の緊張感

 心の緊張状態がうまく処理できないため、人とのかかわりを避ける子どもがふえている。
このタイプの子どもは、人前で、自分を安心して、さらけ出すことができない。そのため
どこかで無理をする。どこかで自分をつくる。だから人前に出たりすると、それだけで、
神経疲労を起こしやすい。

 親は、「なれていないだけです」と言うが、そんな簡単な問題ではない。また無理をすれ
ばするほど、症状はこじれる。それをチャート化したのが、つぎである。

(人に対して、心を開けない。心を許せない)

(人前で自分をさらけ出すことができない。人前に出ると、不安)

(いい子ぶる。仮面をかぶる。無理をする)

(神経疲労を起こしやすい。疲れやすい)

(人とのかかわりを避けようとする。あるいはその分だけ、心が荒れる)

(引きこもる)

 しかし本当の問題は、子どもが引きこもることではなく、この段階で、親のほうが狂乱
し、症状を悪化させてしまうこと。その前に、子どもをそういう状態に追いこんだのは親
を中心とする家庭環境なのだが、親には、そういう自覚すら、ない。そこに本当の問題が
ある。

●青年期の引きこもり

 精神科医のドクターにかかると、ほとんど、「うつ病」と診断される。たいていは、抗う
つ薬が処方される。症状に応じて、キメこまかい薬が処方されるが、しばらく服用してい
ると、副作用が現れることが多い。吐き気や異常な精神的感覚など。

 親は「早くなおそう」と考えるが、この病気は、数年単位の時間的経過を経て、症状が
推移する。(半年や一年で、症状が軽減するなどということは、ありえない。)

 私が経験した何例(数年おきに一例前後)かの、青年期の引きこもりについて、共通し
た症状には、つぎのようなものがある。(サンプルが少ないので、不正確。)

(1)害……人との接触を、避ける。人と接すると、極度の緊張状態になる。そのため引
きこもるが、きわめて特定の数人とは、交際できる。ふつう、親とは会話をしない。
してもあいさつ程度。

(2)の再現(退行)……引きこもりながら、子どものころ読んだマンガ本を読んだり、
おもちゃで遊んだりする。(これはやや回復期によく見られる。)回復期に向うと、幼児期
に遊んだおもちゃから、少年期に遊んだおもちゃへと、少しずつ変化することがある。


(3)夜昼の逆転現象……夜中の間は、ずっと起きていて、明け方になると寝る。そして
日中はひたすら、寝る。これは初期の段階によく見られる。睡眠サイクルが、毎日、三〇
分〜一時間程度、ずれていくのがわかる。

(4)行為障害……たいていは何らかの行為障害をともなう。異常な蒐集(しゅうしゅう)
癖とか、ものにこだわる、など。(これは前兆現象として現れること多く、そのまま引きこ
もり時期にもつづくことが多い。)万引き、盗みグセなど。非行に似た症状を示すこともあ
る。


(5)キーワード……何かのキーワードにとくにするどく反応する。あるいは家族の中に
キーパーソンがいて、その人との会話を嫌う。(これが原因で、はげしい暴力につながるこ
とが多い。)子ども自身も自分の将来を悲観していることが多いので、「これからどうする
の?」式の質問は、しないほうがよい。

(6)生活習慣が乱れ、だらしなくなる……何日もフロに入らなかったりする。ときどき
外出したときなど、あわてて掃除をする親がいるが、そういうことも避ける。徹底して「あ
暖かい無視」を、励行する。


(7)はげしい家庭内暴力をともなうことがある……これは家族が、説教したり、あるい
は説得しようとしたときに起こることが多い。(ふつうの暴力ではない。それまで無気力で
ぼんやりしていた子どもが、豹変して、錯乱状態になって暴れたりする。)

こうした症状が、ここにも書いたように、数年単位で推移する。その間に、家族が無理
をしたりすれば、さらに症状は長引く。実のところ、本来なら、数年ですむ引きこもり
が、五年、一〇年とつづくのは、家族、とくに両親の不適切な対処の仕方が原因である
ことが多い。

●対処方法
 
 何よりも、「心の病気」という理解が重要。「気はもちよう」などと、安易に考えてはい
けない。そしてつぎの鉄則を守る。

(1)視……とにかく、徹底して、無視する。子どものやりたいように、させる。フロに
入らなくても、部屋中がゴミだらけになっても、無視する。

(2)しない……回復期に向い始めると、その前に症状が一進一退を繰りかえすようにな
る。しかしそのとき、決して、そういう表面的な症状にまどわされてはいけない。「去年は
どうだったか?」「二年前はどうだったか?」という視点で、症状をみる。比較する。


(3)説得、説教はまったくムダ……自己意識でどうにかなる問題ではない。だから子ど
もを説教したり、説得してもムダ。かえって子どもを追いこむことになる。

(4)今の状態を守る……今の状態をより悪くしないことだけを考える。この病気には、
二番底、三番底がある。こじらせると、長引くだけではなく、さらにその下の底に落ちて
いく。

(5)この病気は、必ず、なおる。五年とか、ばあいによっては、一〇年とか、かかるが、
必ずなおる。それを信じて、子どもの自己回復力に任せる。ただし親が無理をして、症状
をこじらせたときは、別。この病気は、子どもの病気といいながら、実は、なおすべきは、
親のほうである。そうした心構えをもって対処する。

以上が、私の経験からのアドバイスということになる。私は精神科ドクターとちがい、
扱った症例こそ少ないが、反対に濃密な、きわめて濃密な指導をしてきた。そういう経
験からつぎのようなことが言える。

 全員、五〜一〇年後には、仕事を始めるようになったが、その子どもたちは、こう言っ
ている。「一番、よかったのは、家族が、自分を無視してくれることだった」と。親があれ
これ気をつかのは、逆効果であるばかりでなく、こうした子どもたちには、心の負担とな
る。だから無視する。無視しながら、子どもの病気と同居するつもりで、それに早く、な
れる。

●前兆症状
 
 しかしそれよりも大切なのは、前兆が現れた段階で、親がそれに気づき、手を引くべき
ところは、引くということ。

 が、ほとんどの親は、その前兆が現れても、それに気づかないばかりか、「わがまま」「子
どもの勝手」「まさか……」と、それを見逃してしまう。

 最近、経験したY君(二一歳)のケースでは、最初に、親の貯金から勝手にお金を引き
出し、意味のないガラクタを買い集めるという行為障害が現れた。Y君が、高校一年生の
ときのことだった。そのとき、親は、Y君をはげしく叱ったり、説教したりした。

 つまり何らかの行為障害、あるいは情緒不安症状が積み重なって、ここでいう引きこも
りを起こすと考えるとわかりやすい。もちろんそのまま症状が消えていくケースもあるが、
たいていはあっちへゴロゴロ、こっちへゴロゴロと、ころがっているうちに、症状は悪化
する。

 さらに小学生や、中学生のころ、神経症による症状、情緒不安症状(心の緊張感がとれ
ない状態)があれば、あきらめるべきことは、さっとあきらめて、手を引く。進学問題で、
子どもを追いこむなどということは、してはならない。はっきり言えば、進学は、あきら
める。

 しかし現実には、これがむずかしい。だいたいにおいて、私のアドバイスなど、親は聞
かない。結局は、行き着くところまで行く。そしてあとはお決まりの悪循環。この病気だ
けは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、さらに症状
が悪化する。

 とても残念なことだが、子どもの引きこもりの原因と責任は、すべて親と家庭環境にあ
る。(そう言いきるのは危険なことだが、それくらい強く言ってもかまわないと思う。)そ
れに気づくか気づかないかは、親の問題意識の深さの問題ということになる。(だからとい
って、親を責めているのではない。親とて、懸命に子育てをしてきた。それはわかる。)だ
から謙虚に反省すべきことは反省する。またそういう姿勢があってはじめて、ここでいう
「暖かい無視」が生まれる。

 さて、今、あなたの子どもは、あなたの前で、いい子ぶってはいないか? あなたの前
で、言いたいことを言い、したいことをしていれば、よし。態度もふてぶてしく、横柄な
らよし。あなたのいる前で、平気で心と体を休めているなら、よし。そうでないなら、家
庭のあり方を、もう一度、よく反省してみるとよい。
(はやし浩司 子供の引きこもり 青年期 引きこもり 引きこもる子供)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●老人観察

++++++++++++++++

老後を迎えて、このところ、老人
観察をすることが多くなった。

街を歩く老人は、そのまま、私の近未来の
姿でもある。

++++++++++++++++

 このところ、老人を見かけるたびに、老人観察を始める。街でも、道路でも、電車の中
でも。

 概して健康そうなのは、やや細身で、スタスタと歩いている老人。概して不健康そうな
のは、重ぼったい体をもてあましながら、ボテボテと歩いている老人。このことは、もう
5、6年前に気がついた。

 つぎに大切なのは、その老人自身がもつ品性というか、知性。これは50歳をすぎると、
大きな(差)となって現れてくる。60歳になると、もっとはっきりしてくる。どこがど
うちがうかというよりも、その分かれ道は、どこにあるのか。

 概して品性や知性が高い老人というのは、生き様が前向き。概してノーブレインなのは、
生き様がどこかうしろ向き。もっと言えば、老人になればなるほど、それまでの(化けの
皮)がはがれて、(地)が表に出てくる。自分をごますにも、気力がいる。その気力が衰え
てくる。そのため(地)が表に出てくる。

 あとは、ずっと先の話になるが、いわゆる死に様。どう死んでいくか。どう死んでいっ
たか。それが気になる。

 願わくは、長い闘病生活の末、苦しんで死ぬような死に方だけはしたくない。ワイフも
同意見で、ポックリとある朝、死ぬ。その前日まで、みなとワイワイと騒いでいて、その
翌朝に、ポックリと死ぬ。そういう死に方をしたい。

 で、さらに最近は、死んだあとのことも考える。

 私のまわりでも、ポツポツと死んでいく老人がいる。が、みな、死んだあとは、ウソの
ように静かになってしまう。半年もすると、話題にもならなくなる。私もそうなるのだろ
うが、ふと、「それでいいのか?」と考えてしまう。

 そういえば、いつも近くの荒地で、畑を耕している女性がいたが、最近、見かけなくな
った。先日、年齢を聞いたら、96歳だと言っていた。あの女性は、どうしたのだろう?
 私は、その女性を尊敬している。近くに公立中学校があるが、その中学校の坂道の下の
通りを、いつもひとりで清掃していた。

 あとで、ワイフにどうなったか、それを聞いてみるつもり。つまり、そういう女性の生
き様の中に、死んだあと、どうあるべきかの、ヒントがあるように思う。私も、できたら、
そういう女性のような人間になりたい。(まだ、死んだと決まったわけではないので、その
女性がこの文を読んだら、怒るだろうな……。)

 何かを残すとか、残さないとかいう問題ではない。仏教でいう、「善根」を、「業」の中
に植えつけるようなことをいう。その女性は、決して笑ってはいけないのだろうが、雑草
を、ハサミで刈っていた。布を切るような、あのハサミで、である。そのハサミで、チョ
キチョキと、何時間も何時間もかけて、雑草を刈っていた。

 エンジン付の草払い機なら、ものの10〜20分程度ですんでしまうだろう。

 今も、こうして私の老人観察はつづいている。で、最近、とくに興味をもつようになっ
たのが、いわゆる、ボケ方。同年齢の人たちはもちろん、少し私より年齢の高い人たちが、
どうボケていくかを観察している。

 これは私にとっては、切実な問題でもある。私のばあい、ボケたら、何もかもおしまい。
考えることはもちろん、ものを書くこともできなくなる。(それでも、私のことだから、ボ
ケた文章を書きつづけるだろうが……。そのときは、どうぞ、笑ってほしい。)

 老人問題を考えるといっても、そういう機会も場所もない。現実の、そして身のまわり
にいる老人たちを観察しながら、自分なりに、老人問題を考えるしかない。自分では、「今
が、そのとき」と、心得ている。

 
++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●論理的思考性

+++++++++++++++

占いの流行は、いまだ、衰えるこ
とを知らず。

もっか、大流行中!

しかし占いほど、非論理なものは、
ない……と私は思うのだが……?

+++++++++++++++

 中学2年で、三角形の合同を学ぶ。「三辺がそれぞれ等しいので……」という、あれであ
る。

 三角形の合同は、子どもの論理性を養うためと考えてよいが、同時に、子どもの論理性
をみるのには、たいへんよい。

 しかし誤解していけないのは、こうした問題が解けるようになったからといって、論理
性が育ったということはならない。ある程度の訓練で、だれでも、できるようになる。が、
中には、できないというより、苦手な子どもがいる。論理的に、ものを考えること

 A=B、B=CだからA=C……というように、いくつかの事実を組みあわせながら、
結論へと導いていく。その間に、すき間があっては、いけない。が、このタイプの子ども
は、すき間だらけ。

「どうして、この辺ABと、辺DEが、等しいの?」と聞いても、「見た感じ、そうだか
ら」と平然と言ってのける。

私「でも、ちゃんと、理由がなくてはいけないよ」
子「……」
私「何か、理由があるの?」
子「だって、∠Bと∠Cが等しいから……」
私「あのね、それを証明するのが、この問題だよ。その証明することを、先に使ってしま
ったら、証明にならないじゃん」と。

 しかしこうした経験は、おとなの世界でも、よく経験する。

 たとえば、占い。その占いが、大流行している。が、占いほど、論理性に欠けるものは、
ない。「あなたの背中にはヘビが、とりついている。毎日風呂で、20回、こすって洗いな
さい。でないと、またあなたは離婚することになるわよ」と。

 どこかのオバチャンが、ヌケヌケと、そう言う。言われたほうは、本気になって驚いた
り、感激したりしている。テレビで垣間見た、1シーンだが、どうしてああいうものを、
テレビで堂々とやるのか、私には、その理由さえわからない。

 中に、「まさか?」というような表情をしている人がいたりすると、あのオバチャンは、
突然、怒りだす。「あんた、何よ、その態度。あんたみたいな人は、40歳前にタレント生
命が切れて、ボロ布のようになって、この業界から追い出されることになるわさ。それで
もいいの?」と。そして「私は、不愉快だから、帰る!」とか、叫んだりする。

 そのオバチャンに三角形の合同の証明問題を出したら、きっと、こう言って解くにちが
いない。

 「辺ABと、辺DE、この二つには、ミミズの精が宿っているわさ。だから宇宙のパワ
ーで、その底辺、つまり土の中にある、辺BCと、辺EFは、同じってこと。だから、∠
Bと∠Cは、同じ」と。

 しかし10年周期、(あるいは5年周期)で、こうした「?」な女性が、マスコミの世界
に君臨するというのも、おもしろい現象だと思う。少し前は、Gという霊能者がいた。そ
の前も、何とかという女性がいた。

 そこで重要なことは、こうした女性がいるから、それを信ずる人がいるというのではな
いということ。そういう女性を求める視聴者がいるから、そういう女性が、マスコミの世
界に現れるということ。

 その点、こうした現象は、カルトに似ている。だからそういう女性を批判したり、たた
いたりしても、意味がない。その女性が消えれば、今度はまた別のだれかが出てきて、同
じように、マスコミの世界に君臨するようになる。

 つまり、そういう女性が、マスコミの世界に君臨するということは、それだけ日本人が、
論理性を失っているということを意味する。もっとはっきり言えば、ノーブレインの状態。
しかし言うほうは、楽だろう。適当に思いついたことだけをしゃべっていればよい。

私「赤ちゃんがえり? そんなのは、水子のタタリよ。わかっているの?」
母「水子のタタリですか?」
私「あんた、流産したことある?」
母「……若いころ、中絶したことが……」
私「それよ。だから、あんたの子どもの赤ちゃんがえりをなおしたかったら、背中にお灸
をしなさい。今でも、漢方薬屋へ行けば、売っているからさ。朝9時と、夜9時の2回、
するのよ。わかった」と。

 もしこんな非論理の世界が、日本の主流になったら、私など、必要ない。さっさと引退
して、どこかの穴にこもる。バカくさくて、つきあっておられない。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●知人の事故

+++++++++++++++++++

もう20年来の友人が、3年ぶりに電話
をくれた。

その友人が、九死に一生の事故を起こし
ていた!

+++++++++++++++++++

 大阪に住む、Y氏(52歳)が、電話をくれた。3年ぶりの電話である。なつかしそう
に話しかけると、こう言った。「ああ、林さ〜ん? Yですわ。お元気ですか?」と。

 そしてそれにつづく話を聞いて、驚いた。

 Y氏は、2年ほど前、事務所のある3階のベランダから、足をすべらせて、そのまま地
面に落ちてしまったという。下はコンクリートだったという。

 それで病院に3か月入院。そのあと別の病院に移されて、結局7か月も、入院生活をし
たという。

 たいへんな事故だったらしい。ただ声の調子は、以前と同じだったので、脳のほうは、
ダメージを受けなかったようだ。安心した。

 そんな話の中で、Y氏もこう言った。

 「記憶がないのですわ。落ちていくときから、もう記憶がないのですわ。気がついたと
きは、病院の中で……。痛みもまったく、感じませんでした」と。

 同じような話は、交通事故にあった人からも聞く。「どうやって交通事故を起こしたか、
覚えていません。気がついたときには、病院のベッドの上にいました」と。

 これは記憶が記憶として、脳のどこかに情報が格納(記銘)される前に、脳みそそのも
のが、ショックで、機能を停止してしまうためと考えられる。だからY氏のばあいも、ど
うして落ちたのかさえ、覚えていない。(正確には、海馬を経て、脳のどこかに記憶が格納
される前に、脳の機能が停止した。そのため、記憶がないという状態になると考えられる。)

 それにしても7か月の入院!

 私が、「じゃあ、自殺するとき、飛び降り自殺というのは、一番、楽な死に方かもしれま
せんね」と言うと、Y氏は、「そうかもしれませんね。途中で気を失いますから」と。

 しかしみなさん、飛び降り自殺だけは、やめなさいよ。あとの人たちが、迷惑します。
本当に迷惑します。それにあれほど、無様(ぶざま)な死に方はない。

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ますます巧妙化するスパムメール

+++++++++++++++

スパムメールの対策法が、
国会でも問題になっている。

しかしそのスパムメール。
減るどころか、ますます
ふえている。

+++++++++++++++

 スパムメールが、問題になっている。しかし、その数は衰えるどころか、ますます、巧
妙になってきている。

 まずこうしたスパムメールは、インターネット・エクスプローラ(IE)のばあい、つ
ぎの二つの方法で、シャットアウトする。

(1)(ツール)→(メッセージルール)→(メール)と進んで、そこで、送信者や件名に
ある文字を登録する。ここで登録すると、そのあと、それらの文字のあるメールは、自動
的に、削除される。

(2)フィルタリングといって、送信者そのものを禁止する。方法はいたって簡単で、届
いたメールをワンクリックしたあと、(メッセージ)→(送信者を禁止する)をクリックす
るだけでよい。

 が、ワルは、どこまでもワル。

 ここ数日だけでも、こんなメールが届いている。

件名:マガジン購読登録、ありがとうございました。(申し込んだ覚えはないぞ!)
件名:駕兎晋卦(メッセージルールをすり抜けるため?)
件名:(なし)(同じく、すり抜けるため?)
件名:緊急、重要な連絡事項です。(思わせぶりなメール?)

 とくに不愉快だったのは、最初の「マガジン購読登録、ありがとうございました」とい
うもの。私もマガジンを発行しているので、よけいに気になった。こうしたワルが、マガ
ジンの評判を落としてしまう。

 そこでこうしたメールには、いっさい、応じないこと。無視、また無視。理由は簡単。
こういうワル知恵が働く連中である。もともとまともな連中ではない。だから返事を書い
たら最後、どこまでも、食いついてくる。

 つまり人間の脳みそは、そこまで器用にできていない。一方で善人、他方で悪人という
ことはできない。ワルはワル。どこまでもワル。だから、最初から無視するのがよい。そ
れにしても、ますます巧妙化するスパムメール。みなさんも、どうか、お気をつけくださ
い。

【補記】

 私やあなたのように、ある程度、パソコンの知識のある人間ならよいが、それがまだな
い、子どもや、パソコンを始めたばかりの人は、どうなるのだろう? ふと今、そんなこ
とを考える。

 子どもや、そういう人たちは、こうしたスパムメールにひかかってしまう可能性が高い。
あるいは子どもなら、何も考えずに、開いてしまうかもしれない。中には、スパイウエア
をしこんだメールだってある。気がつかないうちに、重要なパスワードが盗まれてしまう
こともありえる。

 文明の利器も、こうしたワルがいるかぎり、そこで進歩が停滞してしまう。頭だけは利
口な連中だけに、やっかい。どうしてそういう知恵を、もっと別のことに使わないのか。
自分で自分の人生をムダにしていることに気づいていない、かわいそうな連中である。



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 18日(No.651)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●掲示板への相談から

++++++++++++++++++++++++

掲示板のほうへ、こんな相談がありました。
みなさんにも共通する問題ではないかと思いますので、
ここで考えてみたいと思います。

相談の方は、最初、入園に際して、園のほうから、
「1クラスを2人の教員で指導する」という説明を
受けていたようです。

しかし実際、園へ入園してみると、2クラスを
3人で教えていたというのです。

それで「幼稚園に不信感をもってしまいました」
「どうしたらよいか」と。

(東京都、MHより)

+++++++++++++++++++++++++

【MHさんへ】

 長男、長女のときは、だれしも、子育てに不安になるものです。それはよく理解できま
す。

 で、こうした問題が起きたときの鉄則は、ただ一つ。『問題が起きたら、直接ぶつかる』
です。この相談の方のばあいは、直接、園に出向き、「話がちがうようだが……」と相談し
てみることです。

 私のほうに相談をもらいましたが、私のような者に相談しても、問題は、何も解決しま
せん。ただし、最初からけんか腰ではいけません。園には園の方針や、経営状況もありま
す。「幼稚園」というと、公的な機関と思われがちですが、実際には、個人経営による個人
企業と考えたほうがよいです。

 しかも最近は少子化で、どこも園は、きびしい経営状況に置かれています。実際には、
園児が200人を切ると、幼稚園経営は、たいへんむずかしくなります。

 この相談の方のお子さんが通っている幼稚園については、事情はよくわかりませんが、
ひょっとしたら、そうした内部事情があるかもしれません。さらに最近では、若い先生の
ばあい、職業意識がないというか、何かあると、すぐやめてしまう先生が多いのも事実で
す。どこの幼稚園でも、こうした先生の指導で、四苦八苦しています。

 で、話をもどしますが、教育は、教師と親の、相互の信頼関係で成りたちます。それが
ないと、教育そのものが、崩壊します。決して、大げさなことを言っているのではありま
せん。

 ですから、ここは、勇気を出して、幼稚園へ出向き、ご自身で、直接、園長と話をして、
解決したらよいでしょう。率直に、「1クラス2人制で教えてもらえるという話でしたが、
そうではないようです。何か、事情があるのでしょうか?」と。

 多少の衝突はあるかもしれませんが、こうした衝突を繰りかえしながら、互いの信頼関
係が築かれています。決して、恐れてはいけません。

 まずいのは、母親のほうが、内にこもってしまい、あれこれ気をもむことです。それが
結局は、不信感になり、さらには、子どもの教育に影響をもたらすようになります。一度、
不信感が芽生えると、園のすることに、ことごとく疑問をもつようになってしまうからで
す。

 親自身も幼稚園児、つまり子育てについては、「はじめの一歩」と心得て、すなおに、園
に相談してみればよいのです。以前、「心を開きなさい」と書いたのは、そういう意味です。

 で、まず、園や先生を信頼する。率直に言えば、この問題は、「裏切る」とか、「裏切ら
れる」とかいうような、大げさな問題ではありません。最初の子どもだと、どうしても親
のほうが、神経質になり、大げさに考える傾向が強くなります。

 しかしもしそれでも気になるようでしたら、同じ幼稚園に通っている、1,2歳、年上
の子どもをもつ親に相談してみることです。たいていその場で、問題は解決するはずです。

 これから先、この種の問題は、つぎからつぎへと起きてきます。ですから自分で、自分
の鉄則を決めておきます。

 その鉄則の一つが、『問題が起きたら、直接ぶつかる』ですよ。このばあいは、今日でも
よいですから、園に電話をかけ、園長に直接会って、「こういう疑問をもっていますが……」
と相談してみることです。きっと納得がいく回答をしてもらえると思います。

がんばってください。

(追伸)

私の印象では、今、あなたが感じている不安は、
恐らく、もっと根が深いと思われます。妊娠したとき、
あるいは結婚前後からつづいているのではありませんか?

さらにあるいは、あなた自身が、幼児期に何らかの
トラウマを負った可能性もあります。

子育てにまつわる問題は、そのあたりまで自分を
知らないと、解決できません。

一度、自分をしっかりと見つめなおしてみてはどうでしょうか。

HPから、「子育て相談フォーム」を経てメールをくだされば
直接返事を書きましょう。

不安なのは、あなただけではない。みんな、そうですよ。
だから元気を出して、まあ幼稚園に任せるところは任せて
あなたが主導権をもって、育児をすればよいのです。

あまり幼稚園を絶対視しないこと。

はやし浩司 

【MHより、はやし浩司へ】

そうなのです。結婚前、妊娠前、不安で不安でしょうが無かったです。
先生は人の心がよく分かるのですね。
先生を知ったのは、「こそだてのきくくけこ」の本を園長にすすめられて読んだのがき
っかけです。 お子さんが海でおぼれそうになった話は、10年くらい前に読みました

時々、思い出しては生きてきました。
先生、お忙しいのに大変申し訳ありません。

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【MHより、はやし浩司へ】

林先生、掲示板で、ていねいに回答くださり、ありがとうございました。

私はどうしてこんなに、結婚、出産、子供の幼稚園など、怖いのかよく分かりません。な
ぜそうなのか、自分で知りたいです。

先生、私は親には大切に育てられませんでした。現在は親と離れて暮らしています。だい
ぶ親には、嫌なことは嫌!、と言えるようになり、あまり私の心の中では、ウエイトを占
めなくなりました。兄は精神病ですが、埼玉県のU市のほうで働いています。私は、兄に
もかなり暴力をうけました。

私の学力が低いです。理解力もありません。今でも簡単な足し算、お金の計算ができませ
ん。また、道を説明してもらっても理解できません。集団でじゃんけんすると、順番が分
からなくなることもあります。自分でも、軽度の遅れがあることがわかっています。

小学校一年の時、担任も、「養護学校へ行ったほうがいい・・」と話していたそうです。そ
れなのに、近所のスパルタ塾に入れられ、先生に叩かれたりして、怖かったです。母親の
怪奇な行動に怯えて、我慢の連続の人生だったと思います。

成績が悪く、いつも「馬鹿だ! ぐず!」とののしられ、育ちました。私の親は、いじめ
を受けているのを知っていても、無関心な親でした。結婚してからも、「長男はだめだ! 次
男と結婚して近くに住むように」と、若い時から言われてきました。

なかなか子供が授からなくて、母親が夫婦関係に口をはさんだのがきっかけで、距離をと
るようにしました。妊娠、出産、育児は夫婦二人だけで乗り越えてきました。手伝いは全
くなしで、ここまでやってきました。 

引越しして最近やっと実父母と話せるようになりました。そんな感じです。仲のよい友達
は、高校の時の友人達です。一番心から話せます。大切な人たちです。

先生、 もしよかったらアドバイスして下さいよろしくお願いします。生意気にしゃりしゃ
りと生い立ちを書いてすいません。H市から引越しして、もう3年になります。現在は高
級住宅街が並ぶ町で、アパート暮らしです。若い人が多く、おしゃれで金持ちが多く、適
応できなくて、びびっています。

こちらでは、なかのいいお母さん友達はいません
私はもっと田舎で、のんびり暮らしたかったです。

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【MHさんへ】

 発達心理学の世界では、あなたが感じているような不安感を、「基底不安」といいます。
精神医学のほうでは、「不安神経症」というかもしれません。乳幼児期に受けた、不適切な
育児が、あなたの心の中に、一つの大きな巣、つまり不安という巣をつくってしまったわ
けです。

 そのため、あなたは、いつも得体の知れない不安感を、覚えている。何をしても、どこ
にいても、です。おそらく、夜、見る夢も、悪夢の連続かもしれません。列車に乗り遅れ
る夢、迷子になる夢、危険なめにあう夢などなど。

 休みになっても、翌週からの仕事が心配になったり、夫といっしょにいても、「いつか捨
てられるのではないか」と不安に思うこともあるかもしれません。とてもかわいそうな人
だと思います。

 つまりあなたは、だれも信じられず、仮にあなたを信ずる人がいても、それを疑ってみ
てしまう。孤独で、さみしがりやさんかもしれませんね。が、そのくせ、他人とのかかわ
りが苦手で、つきあっても、すぐ疲れを覚えてしまう……。

 しかし、あなたは、すでにそれに気がついている。実は、ここが重要です。あなたの過
去に問題があるのではなく、そういう過去があることに気がつかず、その過去に引きずり
まわされるのが問題です。自分に気がつかない人は、その過去に引きずりまわされてしま
います。が、あなたは、それに気がついている!

 はっきり言いましょう。あなたは、「馬鹿」でも、「ぐず」でもありません。むしろ自分
をしっかりと見つめることができる賢明な女性です。馬鹿というのは、馬鹿なことをする
人をいいます。あなたのように、ここまで冷静に自分を見つめることができる人は、決し
て「馬鹿」ではありません。

 ですから、この際、こうした言葉(トラウマ)とは、はっきり決別しなさい。

 ただとても残念なことですが、こうした不安感は、薄められることはあっても、生涯に
わたって、つづくかもしれないということです。私がアドバイスしたくらいでは、なおら
ないということです。また精神安定剤などを服用したからといって、それでなおるという
ものでもないようです。

 そこで大切なことは、自分の中の、そういう自分と、じょうずにつきあうことです。逃
げてもいけないし、嫌ってもいけない。「私は、こういう人間なのだ」と居なおることです。
というのも、あなたがもっているような心のキズ(トラウマ)は、多かれ少なかれ、みな、
もっているからです。

 いろいろ言われていますが、こと(子育て)に関しては、日本は、まだ発展途上国です。
あなたが経験した、「近所のスパルタ塾」も、その一例です。あらゆる段階で、メチャメチ
ャな子育てをしながら、それにすら、気がついていない。あなたも、その犠牲者の一人と
いうことになるでしょうか。

 幸いなことに、あなたには、いくつかの救いの道があります。(1)すばらしい友人がい
ること。(2)家族がいること。夫や子どもが、いること。とくに友人の方には、心を開く
ことができるということなので、場所と機会をもうけて、心の内を、ありったけ、語りあ
ってみることです。

 つぎに夫や子どもということになります。「心を開く」ということは、ありのままの自分
を、すなおにさらけ出すということです。言いたいことを言い、したいことをする。そう
いう生き様をいいます。とくに重要なのは、あなたの両親への反発です。あなたは、「いや
なことは、いやと言えるようになった」と書いておられますが、それでいいと思います。
親がもつ、家族としての重圧感による苦しみ(これを「幻惑」といいますが)、これから、
一日も早く、解放されることを望んでいます。

 無理をして、無理な親子関係をつづける必要はないということです。「クソッタレの、バ
カヤロー」と、叫んでやることです。いい子ぶることはないですよ!

 で、私の30年来の友人も、あなたに似たような症状をもっています。その友人は男性
ですが、一応、人前では、陽気です。しかしそれは、仮面のようなもの。自分の心を隠す
ために、そういうふうに振舞っているのですね。

 で、その彼のばあい、心療内科で処方される精神安定剤は欠かせないと言って、笑って
います。知りあって30年もたった今でも、そうです。つまり彼は、そういう自分と、彼
なりにうまくつきあっているということです。

 心のキズとはいいますが、それは顔についたキズのようなもの。簡単には消えません。(そ
うでない人は、「心など、もちよう」と、安易に考える傾向がありますが……。そんな簡単
な問題ではありません。それについては、もうおわかりかと思います。)

 では、どうするか?

 この問題は、真正面からぶつかっていきます。あなたの過去の暗い部分を、「悪魔」にみ
たてて、それと戦っていきます。

 しかし悪魔というのは、たいへん気が小さい。あなたがその姿を見ただけで、悪魔のほ
うから、あなたから退散していきます。だから何が悪魔なのかを、知ります。その正体を
知ります……といっても、あなたは、すでにそのほとんどに気がつき始めている。

 実は、この点が、あなたのすばらしいところです。あなたの若さで、ここまで自分を冷
静に見ている人は、少ないですよ。先にも書いたように、ほとんどの人は、それが何であ
るかわからないまま、それに引きずりまわされているだけ。欲望の虜(とりこ)になって
いる人も、少なくありません。

 言いかえると、あなたのような人ほど、他人には見えない真実が、そこに見えるという
ことです。何が大切で、何が大切でないか、その真実が見えるということです。でね、そ
の真実を見てしまうと、反対に、あなたのまわりの人が、「馬鹿」に見えてきますから、こ
れは楽しみにしておいてください。ついでに、まわりの人たちの生活も、気にならなくな
りますよ。

 もう少しすると、たとえばお子さんが小学1、2年生くらいになると、あなたにも大き
な自由がやってきます。そのとき、もしできるなら、あなたが今までしたかったことを、
思う存分、してみたらどうでしょうか。あなたをとりまいているクサリを、とりはずして、
思いっきり、はばたいてみるのです。

 みんな、一つや二つは、十字架を背負って生きている。十字架を背負っていない人など、
いない。あなたが背負っている十字架は、少し重いかもしれませんが、しかし、決して背
負えない十字架でもないですよ。すでに、あなたは堂々と、そうして生きているわけです
から……。夫がいて、子どもがいて、家庭がある。それに健康! すばらしいことです。
ないものを嘆くより、あるものに喜びを感じましょう。そうそう、もうすぐクリスマスで
すから、「クリスマス・キャロル」というビデオを見てみたら、どうでしょうか。

 子ども向けのビデオですが、私も、あれを見て、かなり考えさせられました。(もともと
脳ミソの構造が、単純なものですから……。おとなよりも、幼児とのほうが、波長が合う
という、おかしな人間です。)あなたも、きっと、何か得るものがあると思いますよ。

 これから秋です。すばらしい季節です。郊外へ出ると、美しい紅葉を目にします。でね、
私もそうですが、そういうのを見ると、心底、「生きていてよかった」と思います。

 あなたもそういう美しさに感動して、生きる喜びを、じゅうぶん、味わってみてくださ
い。どうせ一度しかない人生でしょう。不安で、クヨクヨしているヒマがあったら、楽し
まなければ損でしょう。だから楽しむのです。前向きに、ね。

 あとは、できれば、どうかマガジンを読んでみてください。折につけ、あなたの問題に
ついても書いていきたいと思っています。

 それから、あなたのメールの転載を許可してくださったことに感謝しています。たくさ
んの方から相談をいただきますが、同時に、マガジン用の原稿も書かねばなりません。で
すからあなたのメールを、そのままマガジン用の原稿として、利用させていただくことに
なります。

 どうか、ご了解の上、お許しください。あなたが言われるように、あなたと絶対わから
ないように、部分的に改変しておきました。何か、不都合な点があれば、お知らせくださ
い。改めます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【好き論、嫌い論】

++++++++++++++++++

好き嫌いは、どうして決まるのでしょうか。
その好き嫌いについて、考えてみます。

が、それだけではありません。

しかしこの問題には、もう一つ、別の問題
が隠されています。それについても!

++++++++++++++++++

●自分の心を代弁してくれる本が好き

だれかの本を読んだとする。そのとき、自分のフィーリングに合った内容であれば、そ
の本が好きになる。ついで、その作家を好きになる。そうでなければ、そうでない。

 では、そのフィーリングとは何かといえば、自分の中に潜む、もう一人の自分、つまり
影(シャドウ)をいう。つまり意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、(無意識のば
あいのほうが、多いが)、自分が、思っていることを代弁してくれる内容の本であれば、好
きになる。そうでなければ、そうでない。

 それを決めるのが、影(シャドウ)ということになる。

●まず相手を、気持ちよくさせろ

 若いころ、G社の編集長をしていた、ST氏という人が、こんなことを私に教えてくれ
たことがある。

 「ものを書くときは、まず、相手を気持ちよくする内容を書く。それが8割。自分の意
見は、残りの2割の半分、つまり1割。1割だけでも自分の意見が書ければ、喜べ」と。

 そこで私が、「残った1割には、何を書くのですか」と聞くと、こう教えてくれた。「こ
ういう反対意見もあると、逃げ道をつくっておけ」と。

 本を書くときも、そうだ。「お前は、バカだ、アホだ」というような内容の本は、売れな
い。読者の立場でそれを考えてみればわかる。が、「あなたはすばらしい人だ。しかしこう
すれば、もっとすばらしい人になれる」という本なら、売れる。自分の意見を書くとして
も、ほんの一部。10%から20%。「まあ、私は、こう思いますが……」と。それでも、
感謝しなければならない。何といっても、読んでくれる人がいるからこそ、「文章」は「文
章」として生きる。

●自分の中のイヤな部分を嫌う

話がそれたが、これは文章の世界だけの話ではない。

 たとえば、あなたがだれかに会ったとする。そのとき、その人が好きになるかどうかは、
あなた自身の意識によるものというよりは、あなた自身がもっている、影(シャドウ)に
よって、決まる。

 たとえばあなたがAさんなら、Aさんに会ったとする。そのとき、あなたがAさんに、
不快な印象をもったとする。それはAさんに対して不快というより、あなた自身の中に潜
む、不快な部分とそのAさんが共鳴するからにほかならない。

 もっとわかりやすく言えば、自分の中にある、(いやな面)を、そのAさんを通して、見
せつけらる。だからAさんに対して、不快な印象をもつ。そしてそれが、往々にして、「嫌
い」という感情に発展する。

●表面からは想像もつかない絵を描いていたB君

 ほかにたとえば、こんな例もある。

 B君という子どもがいた。そのとき、小学3年生くらいではなかったか。B君は、おと
なしく、従順な子どもだった。しかし子どもらしいハツラツさがなかった。いつもその表
情は、暗く、沈んでいた。

 が、ある日、私は、そのB君のノートを見て、びっくりした。B君のノートには、血を
タラタラと流してもがき苦しむ人間の姿が、超リアルに描いてあったからである。ほかに
首のない死体は、がい骨など。

 こうした絵は、表面的なB君からは、想像もつかない絵だった。が、B君のシャドウが、
そうした絵を描かせていると解釈すると、納得できる。抑圧された行き場のない、欲求不
満が、そのシャドウに蓄積されていた。B君にとっては、そういう絵が、楽しいのだ。だ
からB君は、好んでそういう絵ばかりを描いていた。

●ここからが、こわい

 こうして人間がもつ、「好き」「嫌い」のメカニズムは説明できるが、しかしここで話が
終わるわけではない。

 自分の好きな人とつきあっていると、たがいに、(よい面)が相乗効果的に、伸びていく。
たがいに(よい面)を評価しあったり、励ましあったりするからである。

 しかし反対に、自分の嫌いな人とつきあっていると、その人を批判しながらも、やがて
その人の(邪悪な部分)と、自分の中の(邪悪な部分)が、これまた同じように相乗効果
的に増幅されてしまうことがある。これが、こわい。

 で、人は、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、(無意識のばあいのほうが、多
いが)、その嫌いな人を、避けようとする。が、それが避けられないときがある。自分の肉
親とか、兄弟、親戚など。あるいは職場の人であることも多い。

 その相手に同調してしまえば、話は簡単なのだが、それができないとき、その人は、は
げしく葛藤することになる。が、この種の葛藤は、その人を、とことん、疲れさせる。そ
こでその人は、やがてつぎの二つの道のうちのどれかを選択することになる。

 決別するか、受け入れるか。

●義母そっくりになった、嫁のある女性

 こんな例がある。

 ある女性(50歳くらい、当時)は、やや認知症になりかけた義母の世話をしていた。
その義母は、なくなった夫から、かなりの財産を相続していた。が、ここでいう邪悪な人
だった。ウソを平気でつく。その上、ケチで、自分勝手。その女性は、こう言っていた。

 「あの義母と暮らしていると、何がなんだか、さっぱりわけがわからなくなります。私
の友人が遊びにくると、『今日は忙しそうだから、私は、店屋物(てんやもの)を自分で注
文して食べますから、気にしないでね』と言う。そこでそのとおりにしていると、友人が
帰って、夕食時になったころ、私にこう言って、イヤミを言うのです。『あ〜あ、今日は、
まずい昼飯を食わされたわ』とです。義母とつきあっていると、もう、何を信じていいの
か、わからなくなります」と。

 で、その女性は、そういう義母の世話をしながら、一方で他人にグチばかりこぼしてい
た。そしてそういう生活を、義母がなくなるまで、10年近くもつづけた。

 で、今、その女性は、70歳を超え、介護までは必要ないが、立場が、その義母と同じ
になった。しかし、である。近所の人たちは、その女性について、みな、こう言っている。

 「あの人は、ウソつきで、その上、ケチ。自分勝手な人だ」と。

 こういう例は多い。邪悪な人とつきあっているうちに、その邪悪な人の邪悪な部分を、
そっくりそのまま受けついでしまう。まるで乗り移ったかのように、である。こうした現
象を、あのユングは、シャドウ論を使って説明したが、そのシャドウが、こわい。

 実は、このシャドウが、親から子へと、世代伝播(でんぱ)することがある。「私は、あ
んな親とはちがう」と思っている人ほど、あぶない。その親と同じ立場になったとき、同
じようなことをするようになる。同じような親になる。

●では、どうするか?

 そこで一番よいのは、その人を邪悪と感じたら、その人と距離をおくこと。そしてその
人をできるだけ客観的に見るようにする。中へ入りこんでしまうと、まずい。親子につい
て言えば、できるだけ別居する。

 さらにその人を批判するだけでは、足りない。つまり批判しながらも、その批判を、自
分の中で、消化していかねばならない。

 たとえばその人が、ウソつきだと思ったら、自分は、ウソをつかないように心がける。

 たとえばその人が、ケチだと思ったら、自分は、他人に対して、寛大であるようにする。

 たとえばその人が、自分勝手だと思ったら、自分はいつも相手の立場でものを考えるよ
うにする。

 こうして相手の邪悪な部分を、自分の中で消化していく。それをしないで、ただ批判す
るだけで終わってしまうと、やがてその人の邪悪な部分を、引きついでしまうことになる。
(はやし浩司 好き嫌いのメカニズム シャドウ シャドウ論 シャドウの伝播)


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(923)

●小泉首相の靖国神社参拝

++++++++++++++++++++++

小雨振る中、日本の総理大臣、小泉首相は、
靖国神社を参拝した。

歓声と怒号の入り混じる中での、あわただ
しい参拝だったという。

10月17日、午前10時ごろのことだっ
た。

++++++++++++++++++++++

●外地で、敵と戦った、亡き英霊たち

この無力感。そして虚脱感。「どうしてこうまで、小泉首相は、靖国神社にこだわるのだ
ろう」……というのが、私の実感。

 疑問の第一。「亡き英霊たち」は、本当に自分の意思で、外地へ戦争に、出かけていった
のだろうか。それとも、断るに断れず、反対することもできず、泣く泣く、外地へ戦争に、
出かけていったのだろうか。

 疑問の第二。「敵」とはだれのことを言うのだろうか。たとえば外国人が、日本へ軍隊で
押し入ってきたら、その外国人は、私たちの敵である。しかし日本軍が、外国へ軍隊で押
し入っていったら、相手の国の人が、その日本軍と戦うのは、当たり前のこと。どうして
そういう人たちが、日本の「敵」なのか。

 疑問の第三。あの戦争には、正義があったのか。もしあったのなら、どうして、ゲリラ
戦でも何でもよい、進駐してきたアメリカ軍と、そのあとも戦わなかったのか。8月15
日に日本は終戦日を迎える。しかしその8月の終わりには、アメリカ軍の調査団が、原爆
が投下された広島に入っている。その調査団たちは、行く先々で、日本側の大接待を受け
ている。どうしてか。

 疑問の第四。約300万人の日本人が、先の戦争で死んでいる。しかしその日本人が、
同じくほぼ同数の、300万人の外国人を殺している。日本人は、加害者なのか、それと
も被害者なのか。被害者であるとするなら、どうして日本人が、被害者なのか。日本軍が
殺した300万人の外国人に対して、なぜ、日本は、反省や謝罪をしないのか。

疑問の第五。あれだけの戦争をしておきながら、日本人で、自ら責任をとった官僚や役人
がいないのは、なぜか。もともと無理な戦争だった。それがわかっていたのに、玉砕(ぎ
ょくさい)だの何といって、最後の最後まで、がんばった。その結果、日本中が焦土と化
した。

 いろいろ言いたいことはあるが、もしあの戦争が、正しかったというのなら、いつか日
本が、外国に同じことをされても、日本は、それに対して文句を言えないということにな
る。日本よ、日本人よ、それがわかっているのか?

 今はよい。国力もある。バックにアメリカ軍もいる。しかし10年とか20年とか先で
はないかもしれないが、50年とか100年先になったとき、それだけの力が、日本やア
メリカにあればよい。もし、その「力」がなくなったら、日本は、どうなるのか。

 「亡き英霊論」や、「一億総懺悔(ざんげ)論」で、あの戦争を美化し、ごまかすのは、
もうやめよう。今の今でさえ、官僚と政治家、それに土建業界がグルになって、日本の国
家経済を、メチャメチャにしている。いつかすぐ、日本の国家経済は破綻する。そのとき
も、やはり、その責任は、私たち庶民に押しつけられるのか。

 「私たちは、まちがっていました」「悪いことをしました」と頭をさげることは、恥ずか
しいことでも、何でもない。むしろ勇気がいることだ。そういう勇気をもったとき、日本
は、はじめて世界で、一人前の国として、認められる。が、もしそれでも、「ワレワレは正
しかった」と言うなら、日本中を焦土と化したアメリカ軍と、今でも戦うべきではないの
か。それこそ、「亡き英霊」のために!

 中国や韓国が、どう反応しようが、この際、もう問題ではない。ただどうして、この時
期に、彼らの神経を逆なでするようなことを、日本の首相がしなければならないのか。今
回の首相の靖国参拝で、いちばん喜んでいるのは、あのK国の金xxである。どうしてこ
んな簡単なことが、首相ともあろう人物に、わからないのか。

 私の姉の義父は、戦後、A級戦犯で、処刑された。そして一応、靖国神社に祭られてい
るという。しかし肝心の姉夫婦は、一度も靖国神社を参拝していない。理由を聞くと、姉
は、笑ってこう言った。「だって、浩ちゃん、お墓は、ちゃんと、こっちにあるもの」と。

 小泉首相が、どう弁解しようとも、あの靖国神社は、日本の軍国主義のシンボルになっ
ている。少なくとも、中国や韓国の人たちは、そう見ている。

 さあ、どうなることやら。私は、もう知らない。考えたくもない。ただただ無力感。そ
して虚脱感。このつづきは、またいつか!

++++++++++++++++++

この原稿について、R天の日記に
書いたところ、何人かの人たちから
意見をもらった。

それを紹介する。

++++++++++++++++++

海外留学、生活がある人とは思えないコメントで少し驚いています。
誰も喜んで戦争にいかんだろう。
日本が負けて良かったと私は思っている。アメリカと戦争した事も、他の国として負けた事を思
えば。
戦争をするにも大義はいる。無ければ誰もついてこん。
勝てば官軍負ければ賊軍、その通り。
勝った負けたでここまで人類歴史が来た。その結果が今、感情だけでここまで来たわけではな
い。
中韓のヒステリーは続かん。
世界は中韓だけではない。

+++++++++++++++++++

これを本当の実力と言うのだろう。
これは、誰にも分かるでしょう。

+++++++++++++++++++

↑拙作です↑

++++++++++++++++++++++

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●パソコンの魅力

++++++++++++++++++

ますます高性能になる、パソコン。
いったい、どこまで、進むのか?

その魅力にとりつかれた私は、
どうすればよいのか?

++++++++++++++++++

 最近では、CPUに、デュアル・プロセッサというのを使うようになってきた。これは
通常のプロセッサを、2枚重ねて使うことをいう。わかりやすく言えば、脳みそを2つく
っつけるようなもの。

 だから同じ、3MHzの処理能力をもつCPUでも、2枚プロセッサを重ねることによ
り、その倍近い、処理能力を発揮することができるという。

 私も、そのデュアル・プロセッサの1台を使っているが、たしかに速い。ワードで文章
を書いているとき、必要なページを、コピーしようとするが、速過ぎて、目的のところで
ページを止めることができないほど速い。あっという間に、10ページ単位で、前後に進
んでしまう。

 しかしそれが気持ちよい。画面の表示も、速い。少なくとも、モタモタと動くパソコン
よりは、はるかに気持ちよい。

 さらにこのパソコンには、メモリーが、1024MBも搭載してある。利点は多い。た
とえば私は、今まで書いてきた原稿を、1つのファイルにして保存している。全体で1万
5000ページほどになった。

 この1万5000ページに、新たに、500ページの原稿をつけ足そうとする。今まで
のパソコンだと、20〜30分程度の時間がかかる。しかし1024MBのメモリーのお
かげで、それが瞬時にすんでしまう。

 こうなると、もう止まらない。もっと性能のよいパソコンがほしくなる。が、それ以上
のパソコンとなると、大きなメーカーには、ない。あるにはあるが、S社のもので、30
万円以上もする。

 しかし中堅のM社では、それを15、6万円程度で売っている。大きなメーカーが出し
ているパソコンのような派手さはない。付属ソフトもほとんどない。しかし性能は、十分。

 PENTIUM・D、3・2GHz、メモリーは2048MB! カタログを見ている
だけで、ゾクゾクしてくる。「どんなパソコンだろう?」と。

 ……ところで最近、改造エアガンが、世間では問題になっている。マニアたちは、より
高性能のエアガンを求めて、改造に改造を重ねているという。その結果、あのエアガンが、
殺傷能力まで、もってしまったという。

 考えてみれば、こうしてより高性能のパソコンを求める私と、より強力なパワーを求め
るエアガンのマニアは、どこもちがわない。たまたま方向性がちがったにすぎない。つま
りこうした(上級志向性)は、だれにでもある。

 カメラの世界にもあるだろうし、車の世界にもあるだろう。飛行機や、さらには、軍備
の世界においては、なおさらである。今度、アメリカでは、新型の核兵器を製造すること
になったという。どう新型なのかはわからないが、通常の爆弾を作るように、核実験なし
でも、製造できるという。これもここでいう上級志向性の一つかもしれない。

 もっとも、今のパソコンでも、こと私の仕事に関しては、じゅうぶんすぎるほどの性能
をもっている。反対に、(PENTIUM・D、3・2GHz、2048MB)のようなパ
ソコンは、いったいどんな人たちが使うのだろうと、聞きたいくらい。

 しかし、である。おかしなものだ。現在、私は、(PENTIUM・D、3・0GHz、
1024MB)のパソコンで、この原稿を書いているが、たしかに反応が速い。気持ちが
よいほど、速い。

 時間にすれば、ほんの瞬間的なちがいなのだろうが、それが気持ちよい。スカスカ、パ
ッパッと動く。一度、この気持ちよさを味わってしまうと、もうあとには、戻れない。パ
ソコンというのは、そういうマシーンである。

 今度、株でもうけたら、その(PENTIUM・D、3・2GHz、2048MB)に、
乗りかえようと思う。がんばるぞ!


●認知症老人

+++++++++++++++++

老人問題は、そのまま私たちの問題。
あなたも私も、やがてその老人になる。
例外は、ない。

+++++++++++++++++

 1年ほど前から、認知症(ボケ)についての原稿を書くようになった。そのせいか、一
時は、私が発行しているマガジンが、子育てマガジンではなく、認知症専門のマガジンに
なってしまった。読者の方からの反響も大きかった。

 で、ここ半年くらいは、それをひかえた。私のマガジンは、あくまでも子育てマガジン。
認知症マガジンではない。しかし(子育て)と、(介護)は、どこか似ている。近くの老人
ホームでは、幼児用に作られた教材を使って、老人のボケ防止のためのレッスンをしてい
る。が、やはり、よくよく考えてみると、その両者は、基本的な部分で、大きくちがう。

 子育ては、いつも明るい未来に向かっている。一方、介護は、その先は、いつも暗い。
同じ世話でも、子どもの世話と、認知症の老人の世話とでは、それをする側の気持ちには、
大きなちがいがある。つまりは、愛情のあるなしの、ちがいということか。実の両親なら
ともかくも、義理の両親ともなると、介護をしながら、その愛情を維持するだけも、たい
へん。

 おまけに親が認知症になると、親子関係そのものまで、おかしくなることが多い。認知
症の中には、人格障害まで現れるケースもある。いくら認知症によるものだとわかってい
ても、毎日、ガミガミ、キリキリとしかられてばかりいると、世話をするほうも、疲れる。
それが1年、2年とつづくと、なおさら、である。

 そこで周囲の人たちが、見るに見かねて、その老人を何とか、施設に入れようとする。
しかし、肝心の老人は、みんなにめんどうをかけているという認識がない。「私はだいじょ
うぶだから、ほうっておいてほしい」「ひとりで何でもできる」とか言って、がんばる。

 が、こうした老人が、がんばればがんばるほど、周囲の人たちは、困る。疲れる。育児
ノイローゼならぬ、介護ノイローゼになる人も多い。しかもその症状は、深刻。うつ病に
なって、拒食症になったり、不眠症になったりする人も多い。その深刻さは、それを経験
したものでないと、わからない。

 ……と書きながら、いつもこの話は、ここへ戻ってしまう。実は、この問題は、私たち
自身の問題でもある。介護する側から、やがて介護される側に回る。例外は、ない。

 そこで私たちは、今は、介護する側にいても、やがて介護される側になったときのこと
を考えなければならない。どうすれば、周囲の人たちに迷惑をかけないですむか、と。「息
子や娘なのだから、私という親のめんどうをみるのは当たり前」と、もし今、あなたがそ
う考えているなら、それは、とんでもないまちがい!

 介護という重労働は、そうした(めんどう)の範囲をはるかに超えている。あなたは、
迷惑をかけないと思っているかもしれないが、認知症になると、その認識すらできなくな
る。

 では、どういう死に方が理想的かというと、2つある。

(1)死ぬ間際まで、元気に仕事をしていて、ある朝、ポックリと死ぬ。
(2)老人ホームで、だれにも知られず、静かに死ぬ。

 私としては、(1)の道を選択したい。しかしそのためには、いくつかのことをしなけれ
ばならない。言うまでもなく、体と脳みその健康管理である。ともに、日々の鍛錬こそが、
重要。立ち止まって休んだとたんから、体にせよ、脳みそにせよ、退化し始める。

 あとは(2)の方法も、選択肢に入れておく。こちらが望まなくても、認知症は、向こ
うからやってくる。こればかりは、自分でも、いかんともしがたい。どうしようか? 考
えれば考えるほど、気が重くなる。

 まあ、そのときになったら、考えよう。


●もてる老人

+++++++++++++++++

英会話ができて、パソコンに詳しい
人は、老人でも、若い女性にもてる
そうだ。

ホントかな?

+++++++++++++++++

 「もてる老人」という話を聞いた。ワイフが、どこかで拾ってきた、ネタだ。いわく、「老
人でも、英語が話せて、パソコンができる人は、若い女性にもてるそうよ」と。

 その話を聞きながら、私は、フ〜ン、と。

 今でこそ多少鈍ったが、英会話はそこそこに、できる。パソコンにも、詳しい。しかし
私は、肝心の「若い女性」とは、縁のない世界に住んでいる。それにもてたところで、ど
うしようもない。切ない思いをさせられるだけ。

 ……考えてみれば、幼児教育というのは、その切ない思いとの戦いの連続。幼児を教室
に連れてくる母親たちは、みな、若くて、美しい。例外なく、美しい。そういう母親たち
を横にして、幼児にものを教える。

 それは言うなれば、(かなり不謹慎な話かもしれないが)、おいしいごちそうだけ見せつ
けられるようなもの。手でさわることも、口にすることもできない。ただ見ているだけ。
あらぬことを想像することもあるが、しかしそれをすれば、かえって自分がみじめになる
だけ。

 だから私は、母親たちとは、淡々とつきあっている。母親を、女性と意識しないように
している。しかし……。

 どこかで、つまり教室とは離れた世界で、その若い女性たちと、接する機会はないもの
か? ワイフの説によると、私は、もてるはず。しかし若い女性を前にして、どうやって、
自分の能力を示すのか。まさか、「私は、英会話とパソコンができます」などと、売りこむ
わけには、いかない。考えてみると、いろいろ問題はある。

 昔、ある証券会社の窓口で、その会社の若い女性に、手を握られたことがある。(ホント
だぞ!)「ねえ、林さ〜ん、今度、この外債買ってみてくださらな〜い?」と。

 あのときは驚いたが、うれしかった。で、そのことをワイフに話すと、「それが証券会社
の手よ。あなたにはわからないの!」と、しかられてしまった。

 もう一度は、美容院で、髪を切ってもらっているとき、やたらとあの胸を頭にこすりつ
けてきた女性がいた。豊満な胸をした女性だった。そのときも、うれしかった。この話は、
ワイフにはしなかったが、あれも「手」だったのかなあ、と今にして思えば、そう思う。

 しかし男が逆のことをすれば、痴漢行為になるのでは……? 男と女は平等と言いなが
ら、平等ではないぞ。これは大発見!

 ますます縁遠くなる女性たち。ワイフの話は、そんな私に、一抹の希望をいだかせてく
れた。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 16日(No.650)
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●頭のよい子ども

 現在、BW教室に、NG君という子どもがいる。まだ小学1年生である。

 私は今までに、数多くの、いわゆる「頭のよい子ども」を見てきた。小学4、5年生時
に、中学3年生の勉強を終えてしまった子どもなど。しかしNG君は、その中でも、とく
に秀でている。

 現在は、小学3年生のクラスで教えているが、実際には、小学4、5年生のクラスに入
れてもよいと考えている。ただ、まだ小学1年生である。高学年のクラスは、夜になるの
で、体力に無理。……ということで、小学3年生のクラスで教えている。

 たとえばあなたなら、つぎの問題を、何分くらいで解けるだろうか。ちょっと、あなた
自身の(算数力)を試してみてほしい。

+++++++++++++++++++++++

【問題】

 ABCAB x 9 = DDDDDD

 A、B、C、Dはすべて異なる数字である。A、B、C、Dは、それぞれ、いくつか?

+++++++++++++++++++++++

 問題の出典は、「頭がよくなる数学パズル」(逢沢明著、PHP文庫)。(類題、KY学院
中等部)とある。つまりKY学院中等部の入試問題として、出された問題である。

 この程度の問題なら、NG君は、10分程度(あるいはそれ以下)で解いてしまう。彼
が解いた、その解答用紙を、コピーして、ここに添付しておく。

 念のため申し添えるなら、私は、いっさいのヒントを与えていない。「やってみたら?」
と声をかけたら、「やってみる」と言って、解き始めた。「まさか?」と思っていたが、「で
きたよ」と言ってもってきたので、見た。驚いた。

 現実にこういう子どもがいる。しかし今の日本の教育制度では、こういう子どもをさら
に伸ばすシステムそのものがない。それを、「日本の損失」と言わずして、何という。

 YG君の解いた解答用紙は、
 http://bwhayashi.fc2web.com/page043.html#頭のよい子ども
 に収録しておいた。
(05年10月14日記)
(はやし浩司 頭のよい子ども 頭のよい子供 天才 天才児 英才 英才教育)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑誌「S」(10月26日号)を読んで……】


●自衛隊を派遣せよ(?)

+++++++++++++++++++

日本の排他的経済水域ギリギリのところで
中国は、ガス田の開発をし、すでにガスの
採掘を始めているという。

これに対して日本では、集団的自衛権を盾に
「自衛隊を派遣せよ」という声が、日増しに
強くなってきている。

しかし、自衛隊など派遣してはいけない!

++++++++++++++++++++

 中国が、日本の排他的経済水域(EEZ)ギリギリのところで、ガス田の採掘を始めた。
このままでは、中国は、日本側の資源を、どんどんと吸いあげてしまうという。

 そこでにわかに、この水域での日中双方の動きが、あわただしくなってきた。騒々しく
なってきたと、言うべきか。

 これに対して、日本側の一部に、「自衛隊を海域に派遣せよ」という意見まで現れた。基
本的には、「これ以上、中国になめられて、たまるか」ということだろう。

 あの女流評論家の櫻井Y氏まで、憲法改正を発議すると題して、つぎのように書いてい
る。「日本はまぎれもなくアジアの大国である」と述べた上で、「大国に相応の役割が求め
られるのは、時代、地域を問わず、普遍的な原理原則である。そうした意味で、アジア諸
国が、日本に送り続ける熱い視線に日本人は気がついているだろうか」と。

 そして「憲法9条は、憲法前文が求める名誉ある地位への障害になっている」と断言し
ている(雑誌「S」05年10月26日号)。

 櫻井氏は、排他的経済水域での中国の漁船団に驚いている。そして、ドイツやイタリア
の憲法と、日本の憲法が異なるのは、おかしいという趣旨で、持論を展開している。

 しかし、待ってほしい。もしここで自衛隊を派遣すれば、たいへんなことになる。ただ
単なる、示威行動ではすまなくなる。相手の立場、つまり中国側の立場で考えてみれば、
それがわかる。中国が、自衛隊の派遣を見て、おとなしく引きさがるようなことは、あり
えない。中国は、「待ってました」とばかり、それ以上の大軍を、この地域に派遣してくる
はず。

 中には、「今回の事件は、日米安保条約の試金石になる」と説明する評論家もいる。もし
それでアメリカが日本のために何もしてくれないようなら、日米安保条約は、死文化した
も同然だ、と。

 しかしアメリカにしても、極東の島国の平和と安全など、もうどうでもよいはず。中国
のパワーは、朝鮮半島や日本、台湾をとび越えて、アメリカにまで及び始めている。アメ
リカと中国が、直接対決する時代は、すでにすぐそこまできている。

 そんなアメリカが、体を張ってまで、どうして日本や台湾を守らねばならないのか。へ
たをすれば、米中戦争になってしまう。

 ものごとは、常識で考えようではないか。アメリカ、アメリカというが、アメリカの大
地の真ん中に立ってみると、そこには、日本の「ニ」の字もない。あるとすれば、中国。
アメリカ人にとって、アジアといえば、昔も、今も、中国をいう。

 そこで櫻井氏の意見に、少しばかり反論しておきたい。

 日本の港に入ってくる漁船の多くというより、ほとんどは、外国船である。今では、日
本はそういった外国の漁船から、魚を買って、そしてそれを市場におろしている。日本の
漁船そのものが、魚をとっていない。だから日本近海に、外国の漁船(もちろん中国も含
む)が、うようよしていたところで、日本は、文句を言えない。

 つぎにドイツにせよ、イタリアにせよ、戦後、バラバラに解体されている。あとかたも、
なく、だ。そしてドイツは、ばく大な戦争賠償金を各国に、支払っている。しかし日本は、
解体されることもなく、天皇制はもちろんのこと、国家機能は、そのまま戦後へと引きつ
がれた。

 戦前から戦後にかけて、クビになった官僚は、ほとんど、いない。少なくとも文部官僚
にいたっては、1人もいない。

 また「日本には戦争責任はない」という前提で、日本は、一貫して、「賠償金」なるもの
を、一円も支払っていない。ほかの名目で、たとえば、「経済援助」あるいは「ODA」と
いう形で、その場その場をごまかしながら、現在にいたっている。戦争責任ということに
なれば、天皇までいってしまう。憲法に象徴天皇をいだく日本としては、これはまことに、
まずい。

 こうした事実を無視して、「ドイツやイタリアがそうだから……」という論理を、安易に、
日本の憲法にぶつけるのは、どうか?

 では、どうしたらよいのか。

 日本人が本当に平和を愛する国民なら、ただひたすら事務的に、かつ冷静に、この問題
に、対処するのがよい。ガスがほしいなら、もっていかせればよい。そして燃やすだけ燃
やさせればよい。どうせ地球は、ますます温暖化して、やがて、にっちもさっちもいかな
くなる。そういう状況になれば、一番困るのは、実は、中国である。

 で、日本は、そうした中国の実像を、世界に向けて知らせていけばよい。「中国というの
は、こういう国だ」と。つまりそうすることで、日本は、中国を取り囲む国々と、連携を
つくることができる。

 自衛隊の派遣は、最後の最後。日本の領海や領土が侵犯されたとき、はじめて派遣すれ
ばよい。そのときは、戦争を覚悟して、派遣する。しかし今は、その時期ではない。また
こんなことで、中国の挑発に乗ってはいけない。

 今、日本は、K国問題をかかえ、たいへん微妙な時期にさしかかっている。ここで中国
の挑発に乗れば、それを一番喜ぶのは、あの金xxであることを忘れてはいけない。そし
てさらに、日中戦争ともなれば、もう日本には、勝ち目はない。何といっても中国は、核
ミサイルを、すでに何十発(?)ももっている。つい先日は、原子力潜水艦からの水中発
射実験にも、成功している。

 勇ましい好戦論も結構だが、たかがガスの取りあいで、戦争などしてはいけない。仮に、
いったん戦争が始まってしまえば、それこそ、取りかえしのつかないことになってしまう。
忘れてはいけないのは、日本に嫌われて困るのは、中国であるということ。反対に、中国
に嫌われて困ることは、日本には、何もない。

 すでに日本企業の多くが、中国からの撤退を始めている。そしてその拠点を、インドや
ブラジルなどに移し始めている。日本には日本のやり方がある。しかし戦争だけは、絶対
にしてはいけない。日本のことを、「臆病」だとか、「弱虫」だとか、言う人がいたら、勝
手に言わせておけばよい。

 そのうち、だれも中国の言うことなど、信用しなくなる。相手にしなくなる。忘れてい
けないのは、中国は、日本以上に、アジアの中で孤立している。(この点は、櫻井氏の意見
に同感である。)唯一の同盟国(?)は、あのK国だけと考えてよい。中国は、まさに墓穴
を自分で掘っている。私たち日本人がすべきことがあるとするなら、その墓穴を掘りやす
いように、中国以外の国々と、連携プレーをすることである。

 で、最後に一言。櫻井さん、くだらない大国意識など、捨てなさい! 「大国」って、
いったい、何?

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●金xxが、「核放棄」をする(?)

+++++++++++++++++++++++

関西大学教授の、李E氏は、K国は、核放棄を
すると断言している。

題して、「金xxが、核放棄の次に直面する先軍
政治との決別」(「雑誌「S」、10月26日号」)と。

+++++++++++++++++++++++

 李教授といえば、この問題では、第一人者。「李」という名前からもわかるように、K国
には、精通している。

 その李氏いわく、

 「大胆に予測すれば、よほどのこと(K国内部での軍事強硬派の巻き返し)がないかぎ
り、次回協議(6か国協議)で波乱は起きないだろう。争点の『新軽水炉』も大した問題
にはならない。値段さえつりあえば、他の形式の経済援助であっさりと、要求をひっこめ
る可能性が高い。こんな猿芝居を、『丁々発止の息詰まる交渉劇』に仕立て、マスメディア
を騒がせるのだから、米、中、朝、3か国の『演技力』は見事である」と。

 つまり「6か国協議は、猿芝居でしかない」と。

 追いつめられても、追いつめられても、しぶとく虚勢を張りつづける、K国。国家財政
など、あってないようなもの。陸軍はともかくも、海軍や空軍にいたっては、もはや戦闘
能力は、ゼロに等しい。
 
 そのK国が、ゆいいつ頼れる兵器が、核兵器であり、生物、化学兵器である。私は、金
xxが、そう簡単に、核を放棄するとは思っていない。韓国に亡命した、F氏(元K国最
高幹部)も、かねてからそう言っている。

 一見、クモの巣がからんだかのように見える6か国協議だが、「マネー(お金)」という
観点から考えると、すっきりする。つまりK国は、日本からの戦後賠償金を、第一の目標
に置いている。

 中国やロシアは、そのマネーが、やがて自分のところに回ってくるのを、待っている。
しかしアメリカや韓国は、(日本もそうだが)、そのマネーで、K国が、武器を近代化する
のを、何よりも恐れている。金xxは、いまだ、韓国の赤化統一を、あきらめたわけでは
ない。

(1)もしK国が、核放棄に応ずれば、アメリカ軍は、米韓軍事同盟を破棄したあと、韓
国から撤退する。アメリカにしてみれば、もう韓国に、用はない。

(2)日本は、400億ドル、(あるいはそれ以上の)、経済援助名目の賠償金を、K国に
支払うことになる。日朝交渉は、そのための舞台となる。

(3)K国が、経済力をませばますほど、韓国は孤立化する。外資は逃避し、再び韓国経
済が行き詰る可能性が大きくなる。へたをすれば、二度目のデフォルト(国家破綻)を、
経験することになる。

(4)核問題さえ解決すれば、アメリカにしても、日本には、もう用はない。日朝問題は、
あくまでも日本とK国の問題。そういう立場でアメリカは、傍観を決める。

 しかしこの時点で、K国は、大ジレンマに陥ることになる。「核兵器あっての、K国」で
ある。核兵器があるからこそ、それで威嚇しながら、日本から、ばく大な戦後賠償金を手
にすることができる。

 しかしその核兵器を放棄してしまったあとでは、日本を脅すこともできない。いわばK
国は、ハリを抜いたスズメバチのような状態になる。もしそうなれば、日本も、スンナリ
とは、400億ドルも支払わないであろう。

 つまり6か国協議は、決して、李氏が言うような、「茶番劇」ではない。その底流では、
各国の思惑と利権が、ここにも書いたように、クモの巣のように、複雑にからみあってい
る。複雑怪奇といってもよい。

 もし茶番劇という部分があるなら、それはつぎのような点にあると考えてよい。

 アメリカや日本が、6か国協議をつづける理由は、ただ一つ。

 K国に中国のメンツをつぶさせ、中国とK国を離反させること。そして6か国協議をK
国の責任で、失敗させ、この問題を、国連の安保理に付託する。

 韓国は、それを知っているから、「そうはさせない」と、猛烈に水面下で動き回っている。
K国にしても、今、中国から見離されたら、もう行くところは、ない。今度の6か国協議
は、「6か国」という言葉こそ使っているが、実質的には、米朝協議である。しかも「先に
席を蹴って立ったほうが負け」という、世界の外交史の中でも、特筆すべき国際協議であ
る。

 この原稿が、マガジンに載るころ(予定では、11月16日号)には、その結果がある
程度はっきりしてくるだろう。果たして李氏が言うような茶番劇で終わるのか。それとも
終わらないのか。

 朝鮮半島問題に、精通しているはずの李氏にしては、たいへん意外な意見だったので、
ここに私の意見を書いておくことにした。

 なお李氏は、原稿の終わりで、「金xxは、先軍政治に見切りをつけるはず」とした上で、
「その動向を占う鍵が、10月10日の党創建60周年記念日である」と位置づけている。
(注、雑誌「S」の発売日までには、原稿がまにあわなかったらしい。だから李氏は、そ
う書いた。)

 しかし李氏の予想は、完全にハズレ! その記念日で、金xxは、先軍政治による、さ
らなる国家統制を宣言している。常識で考えても、あの金xxが、先軍政治に、見切りを
つけるはずなど、ないではないか。先軍政治あっての、金xxである。金xx独裁体制で
ある。
2005/11/12

++++++++++++++++++++++

 もう5、6年前になるだろうか、私の事務所に、こう言って、怒鳴りこんできた女性(3
5歳くらい、当時)がいた。

 「アメリカは、日本を第51番目の州にしようとしているのですよ。どうして、あなた
には、それがわからないのですか!」と。

 そこで私は、おもむろにこう言ってやった。

 「あのね、アメリカは、日本など、相手にしていませんよ。そんなことは、アメリカへ
行ってみればわかること」と。

 こういうのを被害妄想という。誇大妄想といってもよい。

 今回、雑誌「S」の中でも、あの小林Y氏までが、そう書いている。いわく、

「日本人民は、己の首を締める道を選んだのだ。
 面白ければ何でもいいと、
 明らかに憲法違反の、
 でたらめ解散を支持し、
 参議院を無意味させ、
 間接民主主義を否定してまで、
 アメリカに日本の精神を捧げた」と。

 その少し前には、こうある。

「中国や韓国やK国は、
 領土や教科書や靖国など、
 目に見えるものを
 わかりやすい形で侵略してくるが、
 アメリカは経済的利益を
 獲得するために、
 日本の精神を侵略してくる」と。

 そして「構造改革による、日本人の精神の破綻に気づけ!」と。

 小林Y氏のコミックのほうでは、どこか狂信的風の若者が、顔をひきつらせて、そう叫
んでいる。

 この話を読むと、20年前、30年前の、香港や台湾を思いだす。当時の韓国もそうだ
ったし、世界も、そうだった。その世界のほうは、「イエロー・ペリル(Yellow Peril)」と
いう言葉を使っていた。「黄色い危険」という意味か。「日本人異質論」という言葉も、さ
かんに使われていた。

 「日本は、われわれの国を文化的に侵略し、われわれの文化の破壊をもくろんでいる」
と。

 その話を私は現地で聞いたとき、「そんな日本人はいたっけ?」と思った。「どの日本人
のことを言っているのか?」とも。

 最近では、あのK国が、さかんにこう言っている。「アメリカと日本は、われわれの国を
再侵略しようとしている」と。さらに韓国までもが、「K国が貧しいのは、アメリカのせい
だ」とまで言いだした。

 あのね、小林さん、構造改革によって、日本人の精神など、破綻しませんよ! 小泉さ
んの衆議院解散についても、だれも、「でたらめ」とは思っていませんよ! その証拠に、
選挙の結果、自民党は圧勝したではありませんか。

 K国のみなさんにも、一言。日本人で今、あなたの国を再侵略しようなどと考えている
日本人は、1人もいませんよ。頼まれても、断るでしょう。現に今、お隣の同胞の韓国で
すら、断るでしょう。あなたの国は、重荷にこそなれ、侵略したところで、何もよいこと
はないからです。もし、そんな日本人がいれば、どこにいるか、私が聞きたいほどです。

 小林Y氏の意見を聞いたら、アメリカ人も、きっと同じように思うでしょうね。「そんな
アメリカ人、いたっけ?」と。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【山荘にて】

●山荘にて……

 今日は、近くのT山に登るつもりだった。しかし昨夜の天気予報では、午後から、雨。
しかたないので、今日1日は、山荘で過ごすことにした。

 が、このところのダイエットのせいか、私は、ガス欠状態。朝夕の冷えこみが、いやに
体にしみる。1昨夜も、夜中に、寒くて、目がさめてしまった。風邪をひくような気温で
はなかったと思うが、その風邪をひいてしまった。だから昨日は、一日中、鼻水を、ハン
カチで、ふいていた。

 で、今朝も、寒かった。朝、起きてからみると、窓が、少しあいていた。「道理で……」
と思ったが、そのとたん、頭痛。はげしくはないが、体も、どこか熱っぽい。

 偏頭痛かもしれないと思った。しかし偏頭痛の痛みとは、少しちがう。私はそのまま目
を閉じて、頭痛の様子をうかがった。

 とたん、ドドンと、花火があがった。近くの村祭りの合図だ。このあたりでは、村祭り
の日には、こうして花火をあげる。時刻は午前6時、ちょうど。「どこの祭りだろう?」と
思ったが、意識がまだはっきりとしなかった。

 山荘の朝は、静かだ。花火は別として、ふだんは、静かだ。そのとき、ワイフが、横の
ふとんの中で、寝がえりをうった。「どこの祭りだろう?」と声をかけると、「H村じゃ、
な〜い?」と。

私「頭が痛いよ」
ワ「……薬、のむ?」
私「それがね、何の頭痛かわからない」
ワ「偏頭痛?」
私「風邪かもしれない。ゆうべは、寒かった……」と。

 軽い頭痛なら、起きてしまえば、なおる。なおらないが、そのまま忘れてしまう。その
見きわめが、むずかしい。薬の世話には、できるだけ、なりたくない。

 しかしほてった体をどうすることもできない。私がふとんをはぐと、横から、ワイフが、
ふとんをかけてくれた。

私「今朝は、寒いか? どうも気温がわからない……」
ワ「そうねえ、今朝は、暖かいわよ」と。

 昨夜の天気予報では、秋雨(あきさめ)前線が日本列島に平行して走っているのがわか
った。その前線に向かって、南から暖かく、湿った風が吹きこんでいる。それで「昼から
は雨だ」と。

 私は、起きた。つづいてワイフも起きた。

 障子戸をあけると、薄い雲の向こうに、水色の空が見えた。「ああ、いい天気だよ」と、
私。時計を見ると、7時少し前を示していた。あれからしばらく眠ったようだ。が、相変
わらず、頭が痛い。

●頭痛

 私と頭痛のつきあいは、長い。偏頭痛には、ずいぶんと苦しめられた。ほかに二日酔い
の頭痛、風邪による頭痛などなど。

 偏頭痛については、最近はよい薬ができた。それをのめば、偏頭痛による頭痛は、収ま
る。その安心感が、相乗効果となって、この5、6年、あの体を四転八転させて苦しむよ
うな偏頭痛は、消えた。

 しかしふとしたときに、偏頭痛ぽいものは、起きる。そこでさらに最近になって、精神
安定剤をのむようになった。最初は、薬局で買ってきた、ハーブ系のもの。つづいて、姉
から教えてもらった安定剤。「女性専用薬」とドクターは、言ったが、私にもよくきく。そ
れを4分の1から2分の1に割って、のむ。

 偏頭痛は、偏頭痛薬だけでおさえようとしても、うまくいかない。安定剤を併用すると、
ぐんと、ききがよくなる。もともと偏頭痛は、神経からくる。

 私がコタツへはいると、ワイフが、朝の食べ物をいくつか、もってきた。昨夜、この山
荘に来る前に、道路沿いのコンビニで買ってきた。巻き寿司のパックに、それに菓子パン。

 私はその寿司を食べならが、偏頭痛薬を、1錠だけのんだ。(ふつうは、2錠。)そして
少し大きめのグラスで、薄めたウーロン茶を、2杯、たてつづけに飲んだ。薬をのんだあ
とは、いつも、こうして多めの水分をとることにしている。

 「せっかくの休みなのに、ごめんな」と私が言うと、ワイフは、「いいのよ。また寝る?」
と。私は「寝ない」と答えながら、パソコンに電源を入れた。

 3、4年前に買ったN社の、ノートパソコンである。少し前まで、HPの更新用に使っ
ていたが、今は、かばんに入ったままになっている。OSは、XP。ワードも、XPが、
組みこんである。文書づくりには、困らない。

 私は、そのパソコン相手に、将棋を始めた。

私「こいつは、いつも、ぼくより、2、3手、先を読んでいる。なかなか勝てないよ」
ワ「だったら、弱くすればいいのに」
私「そうだな」と。

 もうそのときには、私は守勢に回っていた。どんどん駒は取られる。下へ下へと、退却
がつづく。そこで、(x)をクリック。負け戦になったら、さっさとやめる。

 しばらくすると、頭の後頭部がかゆくなってきた。偏頭痛の薬をのむと、きき始めには、
いつもそうなる。私は、そのまま、パソコンの掃除を始める。

 不要ファイルを削除し、デバッグ(最適化)する。

 外を見ると、灰色の雲が、すぐそこまでさがってきているのがわかった。「早めに焚き火
でもしようか」と声をかけようとして、ワイフのほうを見ると、ワイフは、コタツの中で、
背中を丸くして、眠っていた。

●焚き火

 このあたりでは、焚き火は、厳禁である。しかしそれは最初に、そう言われただけ。今
は、村の人たちも、(多分?)、私を信用してくれるようになった。だから今は、焚き火を
しても、とやかく言ってくる人はいない。

 言い忘れたが、このあたりでは、雨が降る前に、みな、焚き火をする。秋の枯れ草を燃
やす。それが不文律のようになっていて、こういう日には、青い煙が、あちこちの山々の
間から、まっすぐ上にたなびく。

 私は、はんてんを着たまま、外に出た。

 気がつかなかったが、いつの間にか、小雨がパラついていた。地面は、しっとりと濡れ
ていた。絶好の焚き火日よりである。私は、熊手で枯れ葉を集めると、ライターで火をつ
けた。

 こうした焚き火は、燃えすぎるのも、よくない。山では、よくない。こわい。一度、あ
やうく近くのヤブに火をつけてしまったことがある。大惨事になるところだった。(この話
は、村の人たちには、内緒だが……。)

 人は、失敗を繰りかえしながら、利口になっていく。

 ということで、焚き火を始めた。白い煙が、モクモクとあがった。香ばしい枯れ木のに
おいが、あたりにただよう。枯れ葉の中に隠れていたコオロギが、四方八方へと、逃げる。

 「子どものころなら、夢中でつかまえたのに……」と思いながら、焚き火をつづける。

 で、こうした山の生活には、いくつかのコツがある。

 一つは、「思い立ったときが、切りどき」。周囲に生える木々は、「思い立ったら、切りど
き」と考えて、容赦なく、バサバサと切る。遠慮してはいけない。「また別の機会に……」
と考えてもいけない。

 山の木は、すぐ大きくなる。5、6年もほうっておくと、手がつけられなくなる。だか
ら切る。早めに切る。

 もう一つは、クモの巣だ。山荘のまわりには、いくつかのクモの巣があった。以前は、
ほうきで、クモを追い払ったあと、巣を取っていた。が、クモというのは、頭がよいのか、
しつこいのか、つぎの週に来てみると、まったく同じ巣を作って、待っている。

 だからかわいそうだが、殺虫剤で殺すのがよい。

 ……ということで、焚き火が終わるころには、11時を過ぎていた。梨の木の枝を2本、
それと、いくつかのクモの巣を処理した。あとは、垣根の植木を、刈りそろえた。

 そのあたりが、私の限界。偏頭痛薬をのむと、しばらくすると、胃の中が荒れてくる。
気持ちが悪くなる。そのときもそうだった。だから家の中に入った。

 のどかな土曜日の朝。雨はやんで、青い空が、白い雲の向こうに、明るく輝いていた。

 そうそう大切なことを言い忘れた。

 焚き火をしたあとは、かならず、水をかけて消すこと。そのとき、火はもちろんのこと、
白い湯気が消えるまで、完全に消すこと。さらに、念のため、水をかけること。「もうだい
じょうぶ」と思ったら、もう一度、水をかけること。さらにもう一度、水をかけること。

 ぜったいに、焚き火の火を、軽く見てはいけない。焚き火は、こわいぞ〜!
(05年10月記)


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●同窓会と友の死

++++++++++++++++++++

近く、大学の同窓会がある。夫婦同伴でもよい
ということなので、私はワイフを連れていく。

ワイフも、うれしそう。(多分?)

が、送られてきた名簿を見て、驚いた。
学友110人のうち、すでに4人以上が、
亡くなっていた。(行方不明の者もいる
ということなので……。)

ショックだった。しかしこのショックは、いったい、
何か? 今までに、いろいろなことがあったが、
このショックは、今まで受けたショックとは、
明らかに異質のものだ。

+++++++++++++++++++++

 この浜松に住むようになって、もう36年近くになる。その間に、多くの知りあいの人
たちが死んでいった。

 それはそれなりに、そのつど、ショックだったが、しかし今回、同窓会名簿を見たとき
に受けたショックとは、明らかに異質のものだった。

 今まで受けたショックは、それなりに自分なりに納得できるショックだった。知人の死
にせよ、親類の死にせよ、心のどこかで割り切ることができる死だった。しかし同窓会名
簿を見たとき受けたショックは、それとはちがう。明らかにちがう。

 最初に思ったことは、学友の死は、自分の死そのものであるということ。亡くなった学
友の名前を見ながら、こう思った。「こいつのかわりに、ぼくが死んでいても、何もおかし
くない」と。

 つまり紙一重というか、「死」というものが、たまたまそいつの命を奪っていったように
感じた。それはくじ引きのようなもの。まず「死」が、こう宣言する。「今年は、お前たち
の中から、2人、殺す。さあ、くじを引け」と。

 亡くなった学友たちは、その「死」のくじをひいてしまった。たまたま私が、今、生き
ているのは、そのくじを引かなかったからだけ。しかし来年は、わからない。再来年はわ
からない。今度は、私が、そのくじを引くことになるかもしれない。

 学友の死というのは、そういうもの。そんなわけで、どうにもこうにも、納得できない。
納得して、心の中でふん切ることができない。

 夜、床についてから、同窓会のアルバムを持ちだしてきた。亡くなった学友の顔を見る。
「こいつも死んだのかあ」とか、「あいつも死んだのかあ」とか、考える。とたん、今、生
きている自分がどんどんと小さくなっていく。正確には、自分の未来が、どんどんとしぼ
んでいく。

 若いころは、前向きに生きるといっても、ただ前向きに生きればよかった。しかしこれ
からはちがう。前向きに生きるためには、その先をふさぐ、黒いモヤを同時にかき分けな
がら、前に進まねばならない。

 そんなこと、私にできるだろうか。どうも、このところ、自分に自信がもてない。

 さあ、XX日は、ワイフと、登山をするぞ! 体をきたえるぞ! ……と今、叫んでみ
たが、その声も、どこか元気がない。
2005年11月12日(土)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●負け戦(いくさ)

 あなたは、負け戦を知っているか? やってもやっても、どんどんと、暗い穴の中に落
ちていく。何をやっても、うまくいかない。すべてが裏目、裏目と出る。いいことは何も
ない。そういうのを、負け戦という。

 私は、子どものころ、その負け戦を、いやというほど、体験している。私の実家は、昔
からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。祖父は、病気をする
たびに、体を弱くし、家の中をフラフラと歩いていた。父は、そんなこともあって、ただ
毎日、酒に溺れるだけだった。

 家計など、あってないようなもの。気丈な母だけは、世間体をとりつくろって、それな
りに明るく振る舞ってはいたが、当然、家の中は火の車。祖父が脳梗塞で倒れたときも、
父が心筋梗塞で倒れたときも、私の家には、入院させるだけのお金がなかった。実際には、
母があれこれ理由を並べて、2人とも、病院から出してしまった。

 私は子どもながらに、「明日はどうなるのだろう?」と不安でならなかった。学校から帰
ってきたとき、家の中に客がいると、ほっとした。しかしそんな日は、めったになかった。
父は来るはずもない客を待ちながら、ときには、机に向かって、何かを黙々と書いていた。
あるいは、冬場になると、丸い陶器でできた火鉢に体をかがめて、暖をとっていた。

 やがて私は大学生になったが、学費といっても、下宿代の1万円だけ。残りのお金は、
アルバイトで稼がねばならなかった。ときには、20日間、下宿の朝食と夕食だけで生き
のびたこともある。

 風呂はどうしたかって? ハハハ。

 大学のプールで体を洗ったこともあるし、パチンコで稼いだお金で、風呂屋へ行ったこ
ともある。当時のパチンコ屋は、通路を歩いてまわると、たいてい10〜20個くらいの
玉が落ちていた。それを元手に、パチンコをした。それで儲けた。

 ……とまあ、暗い話がつづくが、当時の仲間たちは、みな、私と同じような生活をして
いた。金持ちの仲間など、10人に1人もいなかったのでは……?

 その負け戦。ときどき、レストランの前を通るとき、それを思い出す。ガランとして、
客のいない食堂。その客を待って、何もしないでもなし、かといって、何かをしているふ
うでもなし。料理人が、下を向いて、コツコツと包丁を動かしている。

 ツンとした、さみしさが、こみあげてくる。痛いほど、その料理人の気持ちが、よくわ
かる。下に顔を向けていても、心は通りを見ている。そして客の気配を、静かに待ってい
る。

 が、客が来たところで、心は晴れない。表面的には、「いらっしゃい!」と明るい声をは
りあげるが、しかしそのとたん、心の中を、かわいた風がつきぬける。黒字とか赤字とか、
そんなことを口にすることができるような店なら、まだよいほう。「仕事があるだけでも、
ありがたい」「食べていけるだけでも、ありがたい」と。

 しかし明日は、今日より悪くなる。来年は、今年より、悪くなる。よくなる見込みは、
何もない。ただ、今日できることを、今、するだけ。明日は明日。来年は来年。そんなこ
とを考えているうちに、1年、また1年と過ぎていく。

 負け戦。心を支えるだけでも、精一杯。暗くて、ゆううつな毎日。それがジワジワと、
真綿で首をしめるように、いつ終わるともなくつづく。

 そういう人を、人は負け犬と呼ぶ。しかし「負け」を見せたら、おしまい。それこそ、
本当に負けてしまう。だから虚勢を張る。見栄を張る。しかしそれをつづけるのも疲れる。

 他人は簡単に言う。「それなら店をたたんで、商売がえをしたらいい」と。

 しかしそんなことができるなら、とっくの、昔にしている。その資金や能力があるなら、
とっくの昔にしている。それができないから、ただ毎日、同じことを繰りかえすしかない。

 で、人は、そういう私のことを、貧乏性だという。ワイフですら、そう言う。1日でも、
1時間でも、ヒマなときがあると、じっとしておられない。その時間を、何かに結びつけ
ていく。しかもおかしなことに、1000円のものを買いにいくのに、1000円だけも
っていくのが、不安でならない。2000円とか、3000円とか、もっていく。

 生活すべてが、そういうリズムで動く。しかしそのリズムは、決して、今に始まったも
のではない。私が子どものころに、すでに始まっていた。そしてそれが今も、つづき、こ
れから先、死ぬまでつづく。

 あなたは、その負け戦を経験したことがあるか。もし、「ない」と答えるなら、それだけ
でも、あなたはラッキーな人だと思ってよい。

 実は、私のワイフなどは、その負け戦を経験していない。私と結婚してからは、なおさ
らそうで、私は、夫として、そして父親として、ぜったいにそういう不様(ぶざま)だけ
は、家族に見せたくなかった。

 だからワイフは、客のいない、静まりかえったレストランの前を通ったようなとき、こ
んなことを言うときがある。「こんなレストランでは、お客さんは、入らないわよ」と。

 しかし私には、そういう発想がない。そのレストランの主人の気持ちがよくわかるだけ
に、こう言う。「そんなことを言ってはダメだよ」と。言いようのない怒りを覚えることも
ある。そういう言葉を聞くと、私がそう言われているように感ずる。子どものころの私が、
だ。

 あのやりようのないさみしさや、不安、そして悲しさ。それは負け戦を経験したもので
ないと、わからないだろう。いや、本当のところ、その負け戦を、このところ、再び、感
じ始めている。

 年齢のせいもある。今の私にしてみれば、来年が今年よりよくなるということは、もう
考えられない。ただただ現状維持が精一杯。それができるだけでも、御(おん)の字。し
かし本音を言えば、負け戦は、もうこりごり。たくさん。あの負け戦だけは、もういやだ。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●ウソ

 ウソを日常的に、つく人がいる。何かにつけて、ウソをつく。しかしおかしなことだが、
そういう人には、ウソをついているという自覚がない。ウソをつくということが、その人
の習慣になってしまっている。

 例として、いくつか、架空の話で考えてみる。

 立ち話をしていると、Aさん(女性)がこう言った。

A「今度、義父を、養護老人ホームへ入れたの。でも見舞いに行くたびに、『帰りたい』と
言うのね。で、私、こう言ってやったのよ。『おじいちゃんが、ちゃんと自分でトイレへ行
けるようになったら、先生に頼んで出してもらってやるから』と」と。

 もちろんAさんには、その気はない。ないばかりか、以前から、義父のことで、不平不
満ばかりを並べていた。義父が老人ホームへ入ったときも、「これで楽になった」と喜んで
いた。

 今度は、Bさん(女性)。Bさんが、こう言った。

B「私は、息子(中3)には、SS高校へ入ってほしいと願っていますが、息子は、AA
高校へ行きたいと言っています。私から息子を説得することはできませんので、先生(=
私)のほうから、うまく言っていただけないでしょうか。先生が、反対していることを知
れば、息子も納得すると思います」と。

 さらにCさん(女性)も、こう言った。

C「うちの親戚の中にね、突然、やってきて、『今晩、泊めてくれ』と言ってくる人がいる
のですよ。私、いやになっちゃう。先日も、雨がザーザー降る日にやってきて、おかげで
家の中は、ビショビショ。でも、この話は、内緒よ。ここだけの話にしておいてね」と。

 日本人は、本当に、ウソが好き。うまい。本音と建て前を、うまく使いわける。「ウソも
方便」と、堂々と教えている宗教団体すら、ある。その代表的な手法を、いくつか紹介し
よう。

(1)とぼける
(2)根回しをする
(3)ごまかす
(4)口裏をあわせる
(5)口止めをする

 先日、1人のオーストラリア人ドクターと、こんな議論をした。私が「オーストラリア
人はウソを嫌うが、ときとばあいによっては、ウソをつかなければならないときもあるだ
ろう」と。

 するとそのドクターは、こう言った。「ウソはいけない。ウソにも、白いウソと黒いウソ
がある。その人のためになるウソのことを、白いウソという。しかしそんなウソでも、ウ
ソはいけない」と。

 あるいは、こんなことも言った。「オーストラリア人は、聞かれるまで、本当のことを言
わない。自分につごうの悪いことについては、だまっている」と。

 そこでたまたま、その人がドクターだったので、私は、こう聞いた。「では、診察の結果、
その人がガンだったら、どうする? 正直に言うのか?」と。

 するとその人は、こう言った。「ヒロシ、そういうときは、すべてを正直に話さなければ
ならない。少しでもウソを言うと、あとで責任を追及される。がんだったら、がんだと、
はっきり言う。それがハウス・ドクターの義務でもある」と。彼は、そのハウス・ドクタ
ーをしていた。

 ウソをつくのは、その人の勝手だが、そういう人とわかると、信用をなくす。だから相
手にウソを言うのも悪いことだが、それと同じくらい、ウソをついていることを、他人に
話すのも、よくない。そういう話を他人の立場で聞くと、何がなんだか、さっぱりわけが
わからなくなってしまう。つまり、その人を、どう判断したらよいのか、わからなくなっ
てしまう。

 「私にも、ウソを言っているかもしれない」と思ってしまう。

 だから、やはり、正直に生きるのがよい。ウソをつくくらいなら、だまっていればよい。
Aさんについても、義父が、「帰りたい」と言ったら、だまってやり過ごせばよい。Bさん
についても、息子に何も言えないなら、だまっていればよい。Cさんについては、「突然だ
と困るから、これからは前もって連絡をしてください」と、正直に言えばよい。

 それでこわれる人間関係なら、もとからその程度の人間関係。気にすることはない。

 実も、私も、子どものころは、そのウソつきだった。ウソをウソと自覚しないまま、平
気でウソをついていた。しかしその悪癖は、オーストラリアへ留学中に、ことごとく粉砕
(ふんさい)された。あの国では、どんなささいなウソでも、それを口にしたら、おしま
い。そういう苦い体験を、いやというほどした。

 こんなことがあった。

 あるとき大学の構内を歩いていると、いつもの友人が、私に声をかけた。「食事をしない
か?」と。

 私はごく日本的に、ふと、「今、食べてきた」と言ってしまった。生まれ故郷のG県の田
舎では、そういう会話をよくする。誘う相手も、本気で誘っているわけではない。だから
誘われたほうも、軽く、「食べてきましたから」と受け流す。

 が、その少しあと、私がほかの仲間たちとカフェで食事をしているところを、その友人
に見つかってしまった。その友人が、激怒したことは、言うまでもない。

 で、今でも、その悪癖から完全に脱したわけではない。が、ウソはつかないように、注
意している。務めて、注意している。だから反対に、ウソをつく人がよくわかる。そうい
う人が、好きではない。好きではないというより、嫌い。

ウソをつく人を見ると、自分の邪悪な部分を見せつけられているように感じて、ぞっと
する。だからウソや、ウソをつく人を、ことさら嫌うこともある。こういうのを、心理
学でも「反動形成」という。それはわかっているが、しかし嫌いなものは、嫌い。大嫌
い。
(はやし浩司 ウソ 嘘 嘘も方便 嘘論 反動形成)

【付記】

 日本人のもつどくとくの(あいまいさ)を、最初に(?)指摘したのは、アメリカの文
化人類学者の、ルース・ベネディクトと言われている。彼女の著書の『菊と刀』は、アメ
リカ人にとっては、日本を知るためのテキストになったほどである。

 つまり欧米人は、「善」と「悪」、「白」と「黒」という、相反する2つの対立概念をもと
に、ものを考える傾向が強い。これに対して、日本人は、そうした対立概念を求めるより、
その中間あたりで、ものごとをあいまいにしたまま過ごそうとする。

 よい例が、「和を以(も)って貴(とうと)しと為(な)す」と説いた、聖徳太子である
(17条憲法)。「ものごとは争わず、人と和するのが、何よりも大切」という意味である。

 わかりやすく言えば、ものごとは、ナーナーですますほうがよいということ。つまりそ
れがそのまま、日本人の生きザマの根幹になっている。だから正々堂々とものを言うより
は、適当なところで、妥協しながら生きる。それが美徳とされる。

 しかしこんな生きザマを繰りかえしていたのでは、正義など、生まれない。よく「日本
では正義が育たない」と言われるが、その理由は、こんなところにもある。

++++++++++++++++++++++

ついでに3年ほど前に書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++++

●とぼける、ほとぼりを冷ます

 日本人独特の「ごまかし法」に、(1)とぼける、(2)ほとぼりを冷ます、がある。

とぼけたり、ほとぼりを冷ますほうは、その人の勝手だが、とぼけられるほうや、ほと
ぼりを冷まされるほうは、たまらない。ふつう、それで人間関係は終わる。ただ、自分
自身も、日常的にとぼけたり、ほとぼりを冷ましたりすることが多い人は、自分が他人
にそうされても、それほど気にならないらしい。そういうことはある。

 私の友人に、B氏という人がいる。昔からの仕事仲間である。これは、そのB氏から、
私が直接聞いた話である。

●クズのような山を、甥に売りつけた、叔父

 A氏(55歳)は、甥(おい)のB氏(30歳)に、100万円にもならない山林を、
600万円で売りつけた。それから25年たった今でも、山林価格の低下もあるが、その
価値は、180万円程度だという。B氏はこう言う。「25年前には、600万円で、家が
建ちました。今、180万円では、駐車場くらいしかできません」と。

 そこでB氏は、A氏に手紙を書いた。が、それについては、ナシのつぶて。手紙を無視
する形で、A氏はほとぼりを冷まそうとした。「時間がたてば、問題も解決するだろう」と。
しかしA氏はともかくも、B氏のほうは、半年、1年とたつうちに、心を整理した。と、
同時に、縁を切った。が、こういう状態になったとき、つぎにA氏がとった方法は、とぼ
けるだった。A氏はこう言っているという。「山林なんてものは、値段があってないような
もの。あと100年もすれば、価値が出てくる」と。(100年!)

 他人ならともかくも、親子や兄弟では、とぼける、ほとぼりを冷ますは、タブー。こん
な例もある。

●子どもが犠牲になって当然

 Cさん(60歳・女性)は、息子(27歳)から、そのつど、「かわりに貯金しておいて
やる」と言っては、お金を取りあげていた。2万円とか3万円とかいうような、少額では
ない。盆や暮れには、20万円単位。ふだんでも、毎月のように、10万円単位で取りあ
げていた。

で、ある日、息子が、Cさんに、「貯金はいくらになった?」と聞くと、Cさんは、「そ
んなものはない」と。さらに「貯金通帳はあるのか?」と聞くと、「それもない」と。そ
こでさらに、「お金を渡したはずだ」と息子が詰め寄ると、「私も年をとったからね」「そ
んなもの、もらった覚えはないなあ」と。Cさんは、今、78歳。ボケたふりをながら、
息子の追及をうまくかわしている。

 とぼける、ほとぼりを冷ますは、日本人独特の、つまりはものごとを、何でもあいまい
にしてすますという、日本人独特の、問題解決の技法のひとつと言ってもよい。もちろん
外国では通用しない。「あいまい」というと、まだ聞こえはよい。しかしその中身は、「ご
まかし」「だまし」「あざむき」。

とぼける、ほとぼりを冷ますを、日本人の美徳と考える人もいる。つまり、「これこそ、
和をもって貴(とうと)しとなすの真髄」と説く人もいる。が、これは美徳でも何でも
ない。

それでも……と、反論する人もいるかもしれないが、しかしここにも書いたように、親
子の間では、タブー。ごまかさないから親子という。だまさないから親子という。あざ
むかないから親子という。だから、親子の間では、とぼけたり、ほとぼりを冷ますよう
なことはしてはならない。

 親子は、たがいに、どこまでも正直に! それはよい親子関係を築くための、大鉄則と
考えてよい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 14日(No.649)
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★★★HTML版★★★(少しだけ、マガジンを読みやすくしました)

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+++++++++++++++++++++++++++++++++UPTO525

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【造話でわかる、子どもの心】

【注、このテストは、去る10月14日号、17日号のマガジンで、紹介
したものです。再掲載を、どうかお許しください。今回は、全文をそのま
ま紹介します。】

++++++++++++++++++++++++++++
●影絵

 子どもに、一枚の影絵を見せる。
 絵は、家の中に2人の人、家の外に、子どもらしき1人の人。一軒家。風が吹いている
かのように、左上から、右下に、何本かの線が、走っている。
(原画は、HPのほうに収録。マガジンでは、HTML版のほうに、収録)

●方法

 絵を見せながら、子どもたちに話をさせる。(教室形式では、話を文字で書かせる。わか
らない文字については、書き方を教える。が、それ以上の指示は、いっさいしない。)

●判断

 外に立っている子どもらしき人を、どう見るかが、このテストのポイントになっている。
(1)家の方を見ている。(2)家の外の方をみている。その判断のし方で、そのあとの話
の展開が、決まるようである。

●作品例(☆明るいイメージの話)、★暗いイメージの話。なお、適当に、文章を訂正。一
部、読みやすくするために、ひらがなを漢字に置きかえた。テスト日、10月12日(水)、
および13日(木)の各クラス。鈴木君は、SZ君とした。)

++++++++++++++++++++++++++++++

【年長女児、OTさん】☆

 いっしょに、顔を見ているところ。

【年長女児、OIさん】☆

 かくれんぼをしていると、思います。

【年長女児、SBさん】☆

 レストランで並んでいます。今、2人入って、1人、待っています。

【年長女児、TNさん】☆

 3人で、レストランに行きました。

【年長女児、MTさん】☆

 みんな、お話ししている。

【年長男児、ON君】★

 お友だちといっしょに遊んでいるところ。でも、1人が遊べなくなった。

【年中男児、NG君】(飛び級児)☆

 外を見て、遊んでいる。

【年長男児、MO君】☆

 外を見ていたら、風が吹いてきた。

【小1男児、HG君】★

 大きな門をあけようとしている。あけようとしていない人は、かぎをさがしている。

【小1男児、AH君】★

 子どもが あそんでいます。へやの中であそんでいました。1人、家出しました。それ
から2人になってしまいました。

【小1女児、MMさん】☆

 みんなで話している。そとにいる人と、中にいる人で話をしています。左にいる人は、
女の人。右にいる人は、男の人です。外にいる人は、ながめています。

【小1女児、ITさん】☆

 男の子が、おはなしを言いました。男の子が、外にいる子が気になっているので、とち
ゅうでおはなしを、やめてしまいました。

【小1男児、MD君】☆

 あそんでいる。家の中にいる。2人は家の中で、おいかけっこしている。外にいる子は、
ひとりで、ぼーっとしています。

【小1女児、YMさん】★

 山で、いえがありました。男の子と女の子が、いえに入りました。1人、残りました。

【小2女児、KMさん】☆

 あるところにカナという女の子がいました。カナは、外遊びが好きで、風の強い今日も、
外で遊んでいました。家を一周走ったので、休けいしようとしたら、家からドタバタと足
音がしました。お父さんとお母さんは、鬼ごっこをしています。カナは、前転や後転をし
て遊びました。でも、本当は、鬼ごっこをしているわけを知りたかったのです。

【小2女児、YDさん】☆

 おうちに女の子と男の子がいます。外に、女の子が楽しそうだなあと見ていました。

【小2女児、SKさん】☆

 ある日、家族がいました。女の子と、お母さんとお父さんの3人の家族です。今日は風
が強くて、雨が降っています。女の子は外にいます。女の子が早く入ると、いいですね。

【小2女児、SKさん】☆

 ある日、おうちに2人の女の子と男の子がいました。その男の子と女の子は、おうちの
中でじゃんけんをしていました。そして外から女のこが、仲間に入れて〜と言いました。
2人はいいよ〜と言いました。それで仲よく、3人で遊びました。

【小2女児、TMさん】☆

 ある日、1けんのおうちに、2人の子どもがきました。ある日、お友だちが、ドアの前
に立っていました。今日は、遊ぶ日です。

【小2男児、FB君】★

 2人、おうちの中で遊んでいました。1人だけ、外で遊んでいました。

【小1女児、SKさん】(飛び級児)

 子どもが2人いました。1人きました。ぜんぶで、何人でしょう。

【小2女児、GTさん】

 子どもが2人、家の中にいます。外にいる子どもは、1人です。あわせて何人でしょう。

【小2女児、NKさん】★

 女の子と男の子が遊んでいます。外に女の子が、うらやましそうに、見ています。3人
兄弟で、けんかをしたのかもしれません。

【小2女児、STさん】★

 おうちの中で、2人の子どもが遊んでいます。でも、1人だけ、外にいます。

【小2女児、NGさん】

 家に3人の子どもがいました。1人だけ、外にいました。家には、何人いるでしょう。

【小3女児、OKさん】(飛び級児)☆

 ある日、3人兄弟がいました。名は、ワタル、アカリ、タクミがいました。ある日、タ
クミが言いました。「もうすぐ台風がきそうだ」と言って、部屋の中に入っていきました。
それを聞いた、ワタルとアカリは、急いで戸をしめました。その日の夜、台風14号が、
着陸しました。戸がバンバンとなって、みんなが起きてしまいました。でも、ワタルは、「ウ
ルセ〜ナ」と言って、また寝てしまいました。

【小3男児、WK君】(飛び級児)★

 あるところに3人の家族がいました。風がとても強くて、家がこわれてしまいました。
2人はけがをして、入院しました。

【小4男児、TN君】☆

 ある寒い寒い、冬の日の朝、Aくんと、Bくんと、Cくんは、公園に遊びに行きました。
公園には、なにもありませんでした。でも、葉っぱや木が、たくさんありました。なので
3人は、口笛をすることにしました。ピービービー。3人のふいた口笛は、へんな音がし
ました。でも、3人は、とても楽しそうでした。3人は、口笛の話をしながら、寒い寒い
道を歩きながら、帰りました。

【小4女児、INさん】☆

 これはある家で、3人で遊んでいたときのことです。みんなで、外で遊んでいました。
おにごっこをしていました。とちゅうで、風が強くなってきました。2人は寒かったので、
家の中に入りました。もう1人は、外にいました。2人は外にいる1人を呼びました。そ
したら家の中に入ってきました。それでみんなでおやつを食べました。そしてみんなで、
考えました。

【小4女児、KMさん】☆

 ある夜、風の強い日に、私は庭にいた。お母さんは、窓をあけて、「風が強いわねえ」と
言った。お父さんは、「わあ、あれ見て!」とさけんだ。お父さんとお母さんの、視線の先
を見た。「わあ、あれはなんだ!」と、私はさけんだ。その視線の先には、たくさんの星が
あった。ただの星ではなかった。赤、白、黄色、赤の星が流れていた。私たちは、ぽっか
りと口をあけて、立っていた。

【小4男児、KD君】★

 ある朝のことです。雪がふっていたので、お父さんとお母さんと子どもが、外に出て、
雪がっせんを始めました。2時間くらいやっていたら、近くで、すごい音が聞こえたので、
見にいってみると、そこには、ユーフォーがいて、宇宙人が人々を怪物に変えていました。
お母さんと子どもとお父さんは、急いで家に隠れたら、ユーフォーは、どこかへ行ってし
まいました。

【小4女児、GTさん】★

 今日は、風の強い日です。男の子は、家出をしてきたので、家がないかと、さがしてい
ます。もう森の近くまで来ています。1けん家がありました。家の中で話し声が聞こえま
す。「子どもがほしいわ」「本当だね」。これを聞いた男の子は、戸をたたき、「ぼく、家出
をしてきた。ぼくがほしいなら、この家の子にしてください」と言いました。

【小4男児、HG君】★

 あるところに、3人の家族がいました。お母さんと、お父さんと、子どもです。ある日、
お父さんとお母さんが、けんかをしました。うるさいから、子どもは、家を出て行きまし
た。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司の印象記】

 私自身は、この絵を見ていると、家の中でけんかをしている両親。それを悲しそうに見
ている子どもを連想します。幼いころの思い出が、そこにダブるせいだと思います。子ど
もたちの作品の中では、最後の小4のHG君の書いたストーリーに近いということになり
ます。

 子どもたちが、「家庭」に対して、どのようなイメージをもっているか、このテストで、
よくわかります。たいへん興味深く、子どもたちの作品を読ませてもらいました(10月
13日)。
(はやし浩司 子どもの心理 子供の心理 心理テスト 造絵でわかる子供の心理)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【H幼稚園のみなさんからの、質問に答えて】

++++++++++++++++++++++++

H幼稚園での講演に先立ち、父母のみなさんから、
質問をいただきました。

それについて、考えてみます。

++++++++++++++++++++++++

【1】講演会の中で説明があると思いますが、なぜ法学科を卒業し、その道に進まず
 幼児教育評論家になったのか。肩書きが非常に多いのですが、それぞれへの道を
 たどっていったきっかけをお聞きしたいです。

【2】男の子3人兄弟の三男ですが、気に入らないことがあるとたたいてきます。
 たたくことは良くない事だよと言い聞かせても、私(母)が大げさに「痛いよ〜。」 
と泣きまねをしても、たたくことをやめません。どのように対応したらよいですか? 

【3】兄弟の子育てについて。

【4】習い事(ピアノや水泳など)は本人の意思で始めた方が良いでしょうか?

【5】主人が育児に協力してくれません。食事も共にすることがほとんどありません。
 父親が子育てに関心を持つのは、どんな時ですか?

【6】子育てで、一番大事だと思われることをずばり一言で教えて下さい。

+++++++++++++++++++++++

【1】講演会の中で説明があると思いますが、なぜ法学科を卒業し、その道に進まず
 幼児教育評論家になったのか。肩書きが非常に多いのですが、それぞれへの道を
 たどっていったきっかけをお聞きしたいです。

++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 これについては、今回の講演の中で、じっくりと話させていただきます。

【2】男の子3人兄弟の三男ですが、気に入らないことがあるとたたいてきます。
 たたくことは良くない事だよと言い聞かせても、私(母)が大げさに「痛いよ〜。」 
と泣きまねをしても、たたくことをやめません。どのように対応したらよいですか? 

++++++++++++++++++

●子どもの欲求不満

 欲求不満に対する、子どもの反応は、一般的には次の三つに分けて考える。

 (1)攻撃、暴力タイプ……欲求不満やストレスが日常的にたまると、子どもは攻撃的
になる。突発的にカッとなることが多く、弟を逆さづりにして、頭から落とした子ども(年
長男児)がいた。そしてその攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する。乱暴になる)と、裏
に隠れるタイプ(いじめ、動物への虐待)に分けて考える。

 (2)退行、依存タイプ……理由もなく、ぐずったり、赤ちゃんぽくなる(退行)。ある
いはネチネチと甘える(依存性)。優柔不断になることもある。このタイプの子どもは、い
わゆる「ぐずな子ども」という印象を与える。

 (3)固着、執着タイプ……いつまでも同じことにこだわったり、あるいは特定のもの
(毛布の切れ端、ボタン、古い雑誌、おもちゃ)に執着する。情緒的な不安定さを解消す
るための、代償的行為(心を償うためにする代わりの行為)と理解するとわかりやすい。
オナニー、髪いじり、指しゃぶり、爪かみも同じように考える。

 子どもがこうした症状を見せたら、まず愛情問題を疑ってみる。親や家族への絶対的な
安心感がゆらいでいないか。親の愛に疑問を抱いていないか。あるいは下の子どもが生ま
れたことなどで、その子どもへの愛が減っていないか、など。ここで「絶対的」というの
は、「疑いを抱かない」という意味。はげしい家庭内騒動、夫婦不仲、日常的な不安感、無
理な学習、きびしいしつけなどが原因となることもある。

よく誤解されるが、子どもにとって愛情というのは、落差の問題。たとえば下の子ども
が生まれると、上の子どもが赤ちゃんがえりを起こすことがある。そういうとき親は、「上
の子も下の子も、平等にかわいがっています」と言うが、上の子にしてみれば、今まで
一〇〇の愛情を受けていたのが、五〇に減ったことが、不満なのだ。特に嫉妬に関する
問題は、慎重に扱うこと。これは幼児指導の大原則。

 こうした欲求不満が原因で、情緒が不安定になったら、スキンシップをふやし、子ども
の心を安心させることに心がける。叱ったり説教しても意味がない。脳の機能そのものが、
変調しているとみる。また似たような症状に、「かんしゃく発作」がある。乳幼児の抵抗的
な行動(突発的なはげしい怒り)をいう。

たいていはささいな刺激が引き金となって、爆発的に起きる。デパートなどで、ギャー
ギャーと泣き叫ぶのが一例。原因の第一は、家庭教育の失敗とみる。ただし年齢によっ
て、症状が違う。一歳前後は、ダダをこねる、ぐずる、手足をバタバタさせるなど。一
歳半を過ぎると、大声で泣き叫び、その時間が長くなる。満二歳前後では、言葉による
抵抗、拒絶が目立つようになる。自分の体をわざと傷つけることもある。こうしたかん
しゃく発作が見られたら、家庭教育のあり方そのものを反省する。権威主義的(押しつ
け)な子育てや、強圧的(ガミガミ)な子育てになっていないかなど。「わがまま」と決
めつけて、叱っても意味がない。あるいは叱れば叱るほど、逆効果。あとは欲求不満に
準じて、対処する。
 
【はやし浩司より】

 根底に欲求不満があるのでは? そのあたりから疑って考えてみてはどうでしょうか。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【3】兄弟の子育てについて。

++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 テーマが、ばくぜんとしすぎていて、お答えできません。ごめんなさい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【4】習い事(ピアノや水泳など)は本人の意思で始めた方が良いでしょうか?

++++++++++++++++++

●子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、
T君は、スケートで、それぞれ、自分を光らせていた。中に「勉強、一本!」という子ど
ももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるよ
うに、成績がさがる。そういうときのため、……というだけではないが、子どもには一芸
をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支える。あるいはその一芸が、その子どもの
身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなっ
てしまった。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、
一〇年後。ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほう
が先生より、お金を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失
敗する。Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。
そこで母親が、「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさ
んは水泳ですぐれた才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長し
た。S君(年長児)もそうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これ
は何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげ
ることを勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学
三年生のころには、ベーシック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターする
までになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをや
めさせる」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成
績は、もっとさがる。一芸というのは、そういうもの。

ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集めているというのは、一芸で
はない。ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なも
のをいう。「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという
意味である。そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をた
っぷりとかける。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、
この分野に関しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、
「これだけは絶対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、
五歳ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするか
を静かに観察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらし
い才能が隠されていることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つで
ある。  


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より】

 これからはプロが生き残る時代です。そういうことを考えて、オールマイティな人間で
はなく、一芸に秀でた子どもをめざすとよいですよ。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【5】主人が育児に協力してくれません。食事も共にすることがほとんどありません。
 父親が子育てに関心を持つのは、どんな時ですか?

++++++++++++++++++

【父親論】

 父親の役割は、二つ、ある。(1)母子関係の是正と、(2)行動の限界設定である。こ
れは私の意見というより、子育ての常識。

●母子関係の是正

 母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それについては、何度も書いてきた。

 しかし父親と子どもの関係は、「精液一しずくの関係」にすぎない。もともと母子関係と、
父子関係は平等ではない。

 その子ども(人間)のもつ、「基本的信頼関係」は、母子の間で、はぐくまれる。父子の
間ではない。そういう意味で、子育ての初期の段階では、子どもにとっては、母親の存在
は絶対的なものである。この時期、母親が何らかの理由で不在状態になると、子どもには、
決定的とも言えるほど、重大な影響を与える。情緒、精神面のみならず、子どもの生命に
も影響を与えることさえある。

 内乱や戦争などで、乳児院に預けられた赤ちゃんの死亡率が、きわめて高いということ
は、以前から指摘されている。

 では、父親の役割は、何か。

 父親の役割は、実は、こうした母子関係を調整することにある。母子関係は、ここにも
書いたように、絶対的なものである。しかしその「絶対性」に溺れてしまうと、今度は、
逆に、子どもにさまざまな弊害が生まれてくる。マザーコンプレックスが、その一つであ
る。

 一般論から言うと、父親不在の家庭で育った子どもほど、母親を絶対視するあまり、マ
ザーコンプレックス、俗にいう、マザコンになりやすい。40歳を過ぎても、50歳をす
ぎても、「ママ」「ママ」と言う。

 ある男性は、会社などで昇進や昇給があると、妻に話す前に、母親に電話をして、それ
を報告していたという。また別の男性(50歳)は、せとものの卸し業を営んでいたが、
収入は一度、妻ではなく、すべて母親(80歳)に手渡していたという。

 また、ある男性(53歳)は、「母の手一つで育てられました」と、いつも人に話してい
る。一度講演会で、涙声で、母に対する恩を語っているのを聞いたことがある。

 その男性は、その母と、自分の妻が家庭内で対立したとき、離婚という形で、妻を追い
だしたと聞いている。しかし自分の中の、マザコン性には、気づいていないようだ。

 常識で考えれば、おかしな関係だが、マザコンタイプの人には、それがわからない。そ
うすることが、子どもの務めと考えている。

 そしてマザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、母親
をことさら、美化すること。「私の母は偉大でした」と。そしてあげくの果てには、「産ん
でいただきました」「育てていただきました」「女手一つで、育てていただきました」と言
いだす。

 マザコンタイプの男性は、(圧倒的に男性が多いが、女性でも、少なくない)、親の悪口
や、批判を許さない。少し批判しただけで、猛烈に反発する。依存性が強い分だけ、どこ
かのカルト教団の信者のような反応を示す。(もともとカルト教団の信者の心理状態は、マ
ザコンタイプの子どもの心理と、共通している。徹底した隷属性と、徹底した偶像化。妄
信的に、その価値を信じこむ。)

 そこで父親の登場!

 こうした母子関係を、父親は、調整する。もっとわかりやすく言えば、母子関係の絶対
性に、クサビを入れていく。

 ここに母子関係と、父子関係の基本的なちがいが、ある。つまり母子関係は、子どもの
成長とともに、解消されねばならない。一方、父子関係は、子どもの成長とともに、つく
りあげていかねばならない。つまり、それが父親の役割ということになる。

 ……という話は、子育ての世界では、常識なのだが、しかし問題は、父親自身が、マザ
コンタイプであるとき。

 こういうケースでは、父親自身が、父親の役割を、見失ってしまう。いつまでも母親に
ベタベタと甘える自分の子どもをみながら、それをよしとしてしまう。そしてなお悪いこ
とに、それを代々と繰りかえしてしまう。

 問題は、そうした異常性に、母親や父親が、いつ、どのような形で、気づくかというこ
と。

 しかしこの問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題であるだけに、特別な事情がな
いかぎり、それに気づく母親や父親は、まずいない。(この原稿を読んだ方は、気づくと思
うが……。)

 そこで一つの方法として、私がここに書いたことを念頭に入れて、あなたの周囲の人た
ちを、見回してみてほしい。よく知っている親類の人とか、友人がよい。このタイプの人
が、何人かは、必ずいるはずである。(あるいは、ひょっとしたら、あなたや、あなたの夫
がそうであるかもしれない。)

 そういう人たちを比較しながら、自分の姿をさぐってみる。たとえば父親不在の家庭で
育った子どもほど、マザコン性をもちやすい。そういうことを手がかりに、自分の姿をさ
ぐってみる。
 
●行動の限界設定

 もう一つ、父親の大きな役割は、子どもの行動に、限界を設定すること。わかりやすく
言えば、行動規範を示し、いかに生きるべきか、その道徳的、倫理的規範を示すこと。さ
らにわかりやすく言えば、「しつけ」をすること。

 しかし、これはむずかしいことではない。

 こうした基本的なしつけは、ごく日常的な、ごく基本的なことから始まる。そして、こ
こが重要だが、すべてはそれで始まり、それで終わる。

 ウソをつかない。
 人と誠実に接する。
 約束やルールは守る。
 自分に正直に生きる。

 さらに一歩進んで……

 家族は大切にする。
 家族は守りあう。
 家族は教えあう。
 家族はいたわり、励ましあう。

 さらに一歩進んで……

 自分の生きザマをつらぬく。
 
 こうした生きザマを、ごくふつうの家庭人として、ごくふつうの生活の中で、見せてい
く。見せるだけでは足りない。しみこませておく。そしてそれに子どもが反したような行
動をしたとき、父親は、それに制限を加えていく。

 こうした日々の生きザマが、週となり、月となり、そして年となったとき、その子ども
の人格となる。

 その基礎をつくっていくのが、父親の役目ということになる。

 一見簡単そうに見えるが、簡単でないことは、父親ならだれしも知っている。こうした
父親像というのは、代々、受けつがれるもの。その父親が作るものではないからである。

 そういう意味で父親から受ける影響は、無視できない。たとえばこんなことがある。

 私には、三人の息子がいる。年齢は、それぞれ、ちょうど三年ずつ、離れている。

 そういう三人の息子を比較すると、それぞれが、私のある時期の「私」を、忠実に受け
ついでいるのがわかる。(もちろん息子たち自身は、そうは思っていないが……。)

 一番特徴的なのは、それぞれの息子たちが、年長児から小学二、三年生にかけて私が熱
中した趣味を、受け継いでいるということ。

 長男がそのころには、私は、模型飛行機やエアーガン、その種のものばかりで遊んでい
た。だから、長男は、こまかいものを、コツコツと作るのが趣味になってしまった。

 二男のときは、パソコン。三男のときは、山荘作り。今、それぞれが、その流れをくむ
趣味をもっている。父親が子どもに与える影響というのは、そういうものと考えてよい。
みながみな、そうということでもないだろうが、大きな影響を与えるのは、事実のようだ。

 まあ、もしあなたがあなたの子どもを、よい人間に育てたいと思っているなら、(当然だ
が……)、まず、自分の身のまわりの、ごく簡単なことから、身を律したらよい。「あとで
……」とか、「明日から……」というのではない。今、この瞬間から、すぐに、である。

 この瞬間からすぐに、

 ウソをつかない。
 人と誠実に接する。
 約束やルールは守る。
 自分に正直に生きる。

 たったこれだけのことだが、何年かたって、あるいは何十年かたって、今のこの時を振
りかえってみると、この時が、子育ての大きな転機になっていたことを知るはず。

 ただし……。私は生まれが生まれだから、こういうことは、あえて努力しないと、でき
ない。ふと油断すると、ウソをついたり、自分を偽ったりする。へつらったり、相手の機
嫌をとったりする。そういう自分から早く決別したいと思うが、それが、なかなかむずか
しい。

 がんばろう! がんばりましょう! 父親の役割というのは、そういうもの。

【はやし浩司より】

 ここにあげた文章を読んでいただければ、(お父さんに、です)、少しは考え方を改めて
もらえるのではないかと思います。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【6】子育てで、一番大事だと思われることをずばり一言で教えて下さい。

++++++++++++++++++

子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言って
くれ。私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの
本を、何冊も読む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うこと
です。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身に
つける。自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●一〇〇%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、
スポイルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。

そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼
は、こう教えてくれた。「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器
を洗わない。片づけない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、
ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休
みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こう
では、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手
伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自
分を喜ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりす
る。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものも
許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。


(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、
目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放
棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだ
らしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費
的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、
自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従
って行動することができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しか
し一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方その
ものに原因があるからである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあ
り方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉
しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、
家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親
の愛だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこ
からくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞
くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんが
いるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だ
ちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小六女児)がいた。話を聞くと、「ト
イレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもに
しないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝
負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉
強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは
言わない。好きなことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことを
する力」のことをいう。たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板
を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことがで
きる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。
そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どもの
お母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオル
で、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをする
にしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛
を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)
→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの一〇分もあればすんでしまう。買物といっても、食
材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチン
の周囲でうろうろされると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレ
ビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビ
キビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。
 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなた
の子どもが見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、そ
れでよし。しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあ
り方をかなり反省したほうがよい。

やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わったら、
食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。
さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話
に出る。庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そう
いう雰囲気で包むことをいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそう
いう子どもにすること。それが、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)
生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労
がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族
のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生
活を改める。(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを
守らせる。(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが
重要だが、(6)バランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した
生活をいう。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまう
ような甘い生活。あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの
接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言え
ない。チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかた
よったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。

+++++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 以前、同じような質問をもらったときに書いた原稿です。参考にしていただければ、う
れしいです。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【国際情報誌・雑誌「S」】

 毎月2回発売の、情報誌「S」(10月26日号)を買う。どこか右翼的、かつ過激なと
ころが、おもしろい。ときどき、買う。値段は、420円。

 今月号は、題して、「アメリカの凋落(ちょうらく)」。表紙に、デカデカと、そう書いて
ある。副題は、「化けの皮がはがれた」と。

 順にみてみよう。

(1)「世界初! 男性器移植手術に成功」

 中国の人気番組の報道に、雑誌「S」は、「?」をつける。「怪しい」と。中国で、世界
初の、男性器移植手術が成功したという。それについて、「日本のヤラセ番組はひどいが、
中国のは、もっとひどい」と。

(2)アメリカの凋落

 「治安も防災も経済も! 小泉ニッポンが頼る唯一の超大国のもう一つの真実を暴く」
と、そこにはある。ハーバード大学のJ・フランケルの論文が、冒頭を飾る。

 要は、「ブッシュの失政が、ドルの大暴落につながる可能性がある」という内容のもの。
これはまあまあ、読める、まともなコラム。

 が、つづく、日本人ジャーナリスト、YB氏のエッセーには、驚いた。そこには、こう
ある。

(3)アホでマヌケなアメリカ白人

 「巨根、巨乳に憧れる、アホでマヌケな、これが平均的アメリカ白人の実像だ」と。

 わざわざ、「アメリカ白人」と断っているところが、憎い。アメリカ在住の、日本人やア
ジア人は、そうでないと言いたいらしい。しかしそれにしても、「アホでマヌケな……」と
は!

 あとは、これでもか、これでもか……と、アメリカの悪口がつづく。これを書いた、Y
B氏は、自分のことを、こう書いている。「初めての渡米以来、私は30年以上アメリカと
つき合ってきたが……」(冒頭)と。

 YB氏は、アメリカとどうつき合ってきたのだろうか。「アメリカ人とつき合ってきた」
というのなら、話はわかる。それにもし、つき合ってきたアメリカ人たちが、このYB氏
のエッセーを読んだら、どう思うだろうか。(きっと、怒るぞ!)

 ところで、アメリカでは、肥満について、公の場所で、意見を述べるのは、タブー視さ
れている。(アメリカと30年以上もつきあってきたのなら、こんなことを、知らないはず
はないのだが……。)「肥満」を口にしただけで、彼らは、それを「差別」ととらえる。そ
れを、YB氏は、堂々と、太ったアメリカ人を酷評したのち、「ここまでくると、悲劇であ
ると同時に喜劇であり、思考も行動も破綻していると言わざるをえない」と書いている。

 もしこんなことをアメリカで、英文で書けば、その人は、ピストルで射殺されるかもし
れない。書いたのが、日本人とわかれば、日本人排斥運動につながるかもしれない。

 ……ということを感じたのが、雑誌「S」は、つぎにアメリカ人自身が書いた本を、紹
介している。

(4)『デブの帝国』

 書いたのは、G・C氏。アメリカ人。タイトルは、『デブの帝国』。

 そこで私は、「デブ」の英語は何になっているか、原題を本誌の中でさがしてみたが、欄
外に、さがさなければ見えないほど小さな文字で、それはあった。原題は、「Fat La
nd」である。

「デブ」という言葉は、少なくとも教育の世界では、使用禁止用語になっている。つま
り「デブ」というのは、それを日本語に訳した、日本人がつけた言葉である。

 そこで原書を検索して、調べてみた。

 案の定、訳者は、かなり偏見をもって、「デブの帝国」と訳していることがわかった。原
題は、『Fat Land』(ISBN: 0618380604)。しかも1冊3ドル16セントの、ペーパ
ーバック本。この本は、「米国糖尿病協会から、絶賛された」と紹介してあるが、ホントか
な?

 どうして「Fat Land」が、日本では、「デブの帝国」なのか? しかもちゃんと
した本ではなく、1冊、400円弱のペーパーバック。「Fat Land」は、「太った
国」程度の意味しか、ない。そんな本をネタに、インタビュー・構成とかで、雑誌「S」
は、3ページもさいている。どこかに、編集長の悪意を感ずる……。

(5)学校崩壊

 さらにアメリカたたきの記事はつづく。19ページからは、「生徒にお金を払って学校に
来てもらう、ハイスクール・メルトダウンの、とてもヤバイ話」と。

 ●年間31件の校内殺人事件が発生、●高校男子32%女子25%が麻薬入手の経験あ
り、●貧富の差が生み出す教育格差、●落ちこぼれ救済法でも進まない教育改革……と。

 アメリカの教育を批判する人が、必ずとりあげるテーマが、これらの問題である。しか
しアメリカへ行ってみるとわかるが、アメリカには、アメリカ人というアメリカ人は、い
ない。

 もともと移民国家。白人もいれば、黒人もいる。ヒスパニックもいれば、アジア人もい
る。そういう意味では、アメリカは、世界の縮図。どこか単一民族国家の日本とは、基本
的な部分で、大きくちがう。その(ちがい)を忘れて、アメリカの教育を論ずることはで
きない。

 大都会の、公立高校だけを見て、それがアメリカの高校と考えるのは、それは少し危険
すぎるのではないのか。アメリカといっても、アジア全土を含めるほどの広さがある。私
は幸か不幸か、田舎の州の、田舎の学校しか知らない。が、私が見たところ、みな、よい
教育を実践している。

(6)中東民主化ドミノ構想の幻想

 「アラブの現実を知れば、ブッシュ政権の民主化構想の粗末さがわかる」と、そこには
ある。

 この記事については、いろいろ書きたいことがあるので、また別の機会に考えることに
して、ここまで「アメリカたたき」がつづくと、読んでいるほうも、ウンザリする。まる
でK国の雑誌社が発行している雑誌のようでもある。(K国には、こうした雑誌を発行する
だけの言論の自由さえないが……。)

 結局は、この雑誌「S」は、何が言いたいのだろう……とまで、私は考えてしまった。
もとから反米色の濃い雑誌であることは知っていた。つづく(7)には、「ついにニューヨ
ーク・タイムズまで書き出した、ドル暴落Xデー。これだけの真実味」とある。

 「アメリカは、あれこれも、悪い。内部はメチャメチャだ」と、まるで、そうなること
をおもしろおかしく、楽しみにしているような雰囲気さえある。もしドルが大暴落したら、
そのまま日本の円も大暴落する。アメリカは風邪程度ですむかもしれないが、日本は、そ
のまま肺炎になってしまう。

 そこで(8)(9)と、「そうしたアメリカに追従する日本の愚かさ」を指摘している。「海
外から、下流をまねする(日本の)若者たち」というのも、その一つ。

 ホントにそうだろうか? たしかにそういう誤解を招きやすい若者がいるかもしれない
が、それは見た目だけの話。私も、いくつかのBLOGを使って、そういう若者と意見を
かわしているが、みな、それぞれ、真剣に自分のことを考えている。

(9)では、あのK・S氏までが、「9・11と、ハリケーン直撃で、アメリカが直面す
る自我崩壊の危機」というコラムを書いている。「いよいよアメリカは正義の国であると
いう自己欺瞞によって維持されてきた自我が崩壊する危険性がある」と。

 アメリカがどういう国であれ、戦後の日本の平和と安定を守ったのは、アメリカ軍であ
る。日本は、カイロ宣言、ヤルタ協定、そしてポツダム宣言を経て、敗戦へと導かれた。
が、その間、日本周辺の国々は、静かにその日を待っていたわけではない。

 中国は、「沖縄(琉球)は、カイロ宣言をもとに、中国に返還されるべきである」と説き、
そのあと、毛沢東(中国)、金日成(K国)、ホーチミン(ベトナム)の、いわゆる三大共
産主義指導者たちは、一室に集まり、日本攻略の策を、着々と練りつつあった。ソ連のス
ターリンにしても、そうである。

 もし戦後、アメリカ軍が日本に進駐していなかったら、日本は、これらの国々の攻撃を、
繰りかえし受けていたであろう。つまり日本は、戦前から敗戦にかけて、そういうことを
されてもしかたないようなことを、日本の外でしてしまった。

 これに対して、日本をボロボロにしてしまったのは、アメリカ自身ではないかと主張す
る人たちがいる。

 「日本がアメリカによって、ボロボロにされなければ、中国、K国、ベトナムなど、も
のの数ではない」と。

 しかしアメリカはあれだけの物量作戦を展開しながらも、ベトナムには負けた。K国で
も、3万6000人近い、アメリカ兵を失った。日本が中国と戦争をあのまましつづけて
いたら、それこそ、今ごろ、日本は、どうなっていたことやら。考えるだけで、ぞっとす
る。

 「負けてよかった」と言っているのではない。あの戦争は、もともと無理な戦争であっ
た。無理というより、メチャな戦争であった。ほんの一部の、軍事独裁者たちのおかげで、
300万人もの、日本人が犠牲になってしまった。同時に、300万人もの、外国人も犠
牲にしてしまった。

 いまだに、反日感情が、日本の周辺で燃えさかっているのは、そのせいではないのか。

 そういう日本を相手にして、今まさに、K国は、着々と、核兵器を生産している。何度
も繰りかえすが、K国は、「核兵器は、日本向けのもの」と、公言してはばからない。

 そういう脅威を目の前にして、今ここで、同盟国アメリカをこきおろして、それにどう
いう意味があるというのか。もっとも雑誌「S」の論調は、もっとすさまじい。

 「アメリカは、経済的利益を獲得するために、日本人の精神を侵略してくる」(K・Y氏・
同誌)と。

 あのね、アメリカは、日本など、相手にしていませんよ。

私はこういう意見を読むたびに、こういうことを言う人たちは、アメリカのどこを見て
そう言うのか、それを知りたい。それはちょうど、K国のあの独裁者が、「日本は、K国
侵略を、虎視眈々(こしたんたん)とねらっている」と言うのを思い出す。

 日本は、K国など、相手にしていない。相手にしたくもない。

 被害妄想もよいところ。そんなことは、ほんの少しだけ、アメリカに視点を置いてみれ
ばわかるはず。少し前、……といっても、20年ほど前だが、台湾や香港のジャーナリス
トたちは、さかんに、「日本文化の侵略論」を説いていた。しかし当時、そして今でも、そ
んなことを考えながら行動していた日本人は、どこにいたのか?

 あえて言うなら、現在の、「韓流ブーム」「台流ブーム」こそ、逆侵略ではないのか……
ということになる。

 さらに「アメリカは、日本を、第51番目の州にしようとしている」と説く人も多い。
私がアメリカ人なら、日本に求められても、断るだろう。いわんや、「アホでマヌケなアメ
リカ人」(「S誌」)に、そんな高尚な政治的戦略など、あるはずもないのでは(?)。

 以上、雑誌「S」の「アメリカの凋落」を読んで、思いついたまま、書いてみた。

 最後に一言。

 今、日本のそこにある脅威は、K国の核兵器である。まともな国ではないだけに、ああ
いう国が、核兵器をちらつかせるようになったら、どうなるか? 勇ましい民族主義的国
家論も結構だが、拉致問題ひとつ解決できない日本が、どうしてK国の核兵器問題を解決
できるというのか。

 真正面から戦争でもするつもりなら、話はわかるが、日本は、あんな国など相手にして
はいけない。その価値もない。

 悲しいかな、経済的には大国でも、日本は、政治的には、小国。発展途上国である。そ
の事実を忘れて、いくら偉そうなことを言っても、はじまらない。が、それでもわからな
ければ、あなた自身の子どもが、戦争に行く姿を、今、ここで思い浮かべてみることだ。

 そこを原点にものを考えてみれば、今の日本がどうあるべきか、それがわかるはず。

+++++++++++++++++++++

アメリカをこきおろすばかりではいけない。
学ぶべき点も多いはず。
それについて書いたのが、つぎの原稿です。

ハリウッド映画だけを見て、アメリカを判断
しないでほしいと言ったのは、私の友人の
B君です。

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ついでに、アメリカの大学についても、レポートしてみた。世界の教育がどういう方向
に向かっているかがわかれば、少しは考え方も変わるかもしれない。

 なおこの記事そのものは、数年前に書いたものです。ここに書いた「ところ天方式人事」
は、外部から教授を招くという方式で、改善されつつある。が、「じゅうぶんではない」(田
丸先生)とのこと。

+++++++++++++++++++++++++++++

●アメリカの大学生

 たいていの日本人は、日本の大学生も、アメリカの大学生も、それほど違わないと思っ
ている。また教育のレベルも、それほど違わないと思っている。しかしそれはウソ。恩師
の田丸先生(東大元教授)も、つぎのように書いている。

「アメリカで教授の部屋の前に質問、討論する為に並んで待っている学生達を見ると、質
問がほとんどないわが国の大学生と比較して、これは単に風土の違いで済む話ではないと、
愕然(がくぜん)とする」と。

 こうした違いをふまえて、さらに「ノーベル化学賞を受けられた野依良治教授が言われ
ている。『日米の学位取得者のレベルの違いは相撲で言えば、三役と十両の違いである』と」
とも(〇二年八月)。もちろん日本の学生が十両、アメリカの学生が三役ということになる。

 私の二男も〇一年の五月に、アメリカの州立大学で学位を取って卒業したが、その二男
がその少し前、日本に帰国してこう言った。

「日本の大学生はアルバイトばかりしているが、アメリカでは考えられない」と。アメ
リカの州立大学では、どこでも、毎週週末に、その週に学んだことの試験がある。そし
てそれが集合されてそのままその学生の成績となる。そういうしくみが確立されている。
そのため教える側の教官も必死なら、学ぶ側の学生も必死。学科どころか、学部のスク
ラップアンドビュルド(廃止と創設)は、日常茶飯事。教官にしても、へたな教え方を
していれば、即、クビということになる。

 ここまで日本の大学教育がだらしなくなった原因については、田丸先生は、「教授の怠慢」
を第一にあげる。それについては私は門外漢なので、コメントできないが、結果としてみ
ると、驚きを超えて、あきれてしまう。

私の三男にしても、国立大学の工学部に進学したが、こう言っている。「勉強しているの
は、理科系の学部の学生だけ。文科系の学部の連中は、勉強のベの字もしていない。と
くにひどいのが、教育学部と経済学部」と。理由を聞くと、こう言った。「理科系の学部
は、多くても三〇〜四〇人が一クラスになっているが、文科系の学部では、三〇〇〜四
〇〇人が一クラスがふつう。ていねいな教育など、もとから期待するほうがおかしい」
と。

 日本の教育は、文部省(現在の文部科学省)による中央管制のもと、権利の王国の中で、
安閑としすぎた。競争原理はともかくも、まったく危機感のない状態で、言葉は悪いが、
のんべんだらりと生きのびてきた。とくに大学教育では、教官たちは、「そこに人がいるか
ら人事」(田丸先生)の中で、まさにトコロ天方式で、人事を順送りにしてきた。何年かす
れば、助手は講師になり、講師は助教授になり、そして教授へ、と。それはちょうど、水
槽の中にかわれた熱帯魚のような世界と言ってもよい。温度は調整され、酸素もエサも自
動的に与えられてきた。田丸先生は、さらにこう書いている。

 「私の友人のノーベル賞候補者は、活発な研究の傍(かたわ)ら、講義前には三回はく
り返し練習をするそうである」と。

 日本に、そういう教授はいるだろうか。

 グチばかり言っていてはいけないが、いまだに文部科学省が、自分の権限と管轄にしが
みつき、その範囲で教育改革をしようといている。もうそろそろ日本人も、そのおかしさ
に気づくべきときにきているのではないのか。明治の昔から、日本人は、そういうのが教
育と思い込んでいる。あるいは思い込まされている。その結果、日本は、日本の教育はど
うなった? いまだに大本営発表しか聞かされていないから、欧米の現状をほとんど知ら
ないでいる。中には、いまだに日本の教育は、世界でも最高水準にあると思い込んでいる
人も多い。

 日本の教育は、今からでも遅くないから、自由化すべきである。具体的に、アメリカの
常識をここに書いておく。

アメリカの大学には、入学金だの、施設費だの、寄付金はいっさいない。
アメリカの大学生は、入学後、学科、学部の変更は自由である。
アメリカの大学生は、より高度な教育を求めて、大学間の移動を自由にしている。つまり
大学の転籍は自由である。
奨学金制度、借金制度が確立していて、アメリカの大学生は、自分で稼いで、自分で勉強
するという意識が徹底している。
毎週週末に試験があり、それが集合されて、その学生の成績となる。
魅力のない学科、学部はどんどん廃止され、そのためクビになる教官も多い。教える教官
も必死である。教官の身分や地位は、保証されていない。
成績が悪ければ、学生はどんどん落第させられる。

 日本もそういう大学を、三〇年前にはめざすべきだった。私もオーストラリアの大学で
それを知ったとき、(まだ当時は日本は高度成長期のまっただ中にいたから、だれも関心を
払わなかったが)、たいへんなショックを受けた。ここに「今からでも遅くない」と一応、
書いたが、正直に言えば、「遅すぎた」。今から改革しても、その成果が出るのは、二〇年
後? あるいは三〇年後? そのころ日本はアジアの中でも、マイナーな国の一つとして、
完全に埋もれてしまっていることだろう。

田丸先生は、ロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫氏のつぎのような言葉を引用している。

「人生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを入試の
ための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けて
いるのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自
分で考え自分で判断するという訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでな
い自己判断のできる人間を育てる教育をしなければ、二〇五〇年の日本は本当にだめに
なる」と。 

問題は、そのあと日本は再生するかどうかだが、私はそれも無理だと思う。悲観的なこ
とばかり書いたが、日本人は、そういう現状認識すらしていない。とても残念なことだ
が……。

田丸先生……東大元総長特別補佐、日本学士院賞受賞者、国際触媒学会前会長ほか。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「ほかの女と結婚する」

 年中児たちを教えていたときのこと。何かのついでに、私は、ふと、「君たちは、どんな
人と結婚するの?」と聞いた。

 すると、みなが、てんでバラバラなことを言いだした。そこで私が、「好きな人はいるの?」
と聞いたら、一人、「いるけど、結婚できない」と。

私「どうして?」
A男「もう、結婚している」
私「だれ?」
A男「ママ」

私「ママと結婚したいの?」
A男「うん。でも、もうパパと結婚している。だからぼくは、ほかの女(お・ん・な)と
結婚する」
私「お・ん・な? ……それは少しきつい言葉だな」

A男「うん」
私「じゃあさあ、ママに頼んで、離婚してもらいなよ。パパと別れて、ぼくと結婚してと
か、何とか言ってさ」
A男「……うん」と。

 この「お・ん・な」という言葉に、参観していた母親たちが反応して、みな大きく笑っ
た。私も笑った。私にしても、30年ぶりに聞いた言葉である。

 その30年前のこと。幼稚園の教師や父母を集めて、公開授業をしていたときのこと。
私が、「君たちの、一番好きなものは、何ですか?」と聞いたことがある。そのときも、一
人の年中児(男児)が、勢いよく手をあげて、こう言った。

 「お・ん・な!」と。

 私は一瞬、聞きまちがえたと思って、もう一度、聞きなおした。「何だって?」と。

 するとその子どもは、再び、「お・ん・な!」と。

 この言葉に、みな笑った。私も、笑った。そのときの思い出が、今日、どっと、よみが
えってきた。

 で、私は、最後にもう一度、その子どもに向かって、こう言った。

 「きつい言葉だねえ……」と。


●中教審の答申素案

 中教審の答申素案が発表された(10・13)。

 それによれば、これから先、文科省は、ある程度は、お金で、地方の教育をしばりなが
らも、地方における自由裁量権を、できるだけゆるやかに、認めていく、というもの。

 お金というのは、「義務教育費国庫負担金制度」をいう。「国がお金を出す以上、あまり
勝手なことはさせない」というのが、その趣旨である。

 理由がいくつか並べられている。

 「義務教育については、機会均等、水準確保、無償制という根幹は、国がその責務とし
て保障する必要がある」と。

 北海道で受ける教育と、九州で受ける教育が、ちがっていては、だめというわけである。
しかし、どうしてだめなのだろうか? ……という疑問は、さておき、日本人は、何かに
つけて、画一性を好む。よい例が、新幹線の駅である。あの駅のおかげで、地方は、個性
をなくしてしまった。

 まあ、これはしかたないか。

 中には、つまり地方の中には、好き勝手な指導している教育委員会もあるということら
しい。答申素案は、「そういうのは困るから、ある程度の国のコントロールを確保するため
には、お金でしばるしかない」と。

 ただ、教育の地方分権については、「市区町村、学校が義務教育の実施主体として、より
大きな権限と責任を担うシステムに改革する必要がある」と、答申をまとめたのは、すば
らしい。

 具体的な方法として、(1)学校現場の自由裁量権を、さらに拡大する。(2)現在は都
道府県にある教職員人事権を、市区町村への移譲する、など。これによって、たとえば、「現
在は教育委員会が所管する文化、スポーツの事務などを、首長が担当できるようになる」
という。

 賛成!

 教育の自由化は、世界の流れ。私たち民衆も、もう、昔のようにバカではない。今回の
答申素案は、一方で、教育の自由化を唱えながら、そのウラで、教育の自己責任を、私た
ちに求めている。(このばあいの「私たち」というのは、子どもをもつ親ではなく、あくま
でも、地方自治体という意味だが……。)

 しかし私の実感としては、今回の答申素案は、現状を追認しただけという感じがしない
でもない。すでに教育の自由化は、子どもをもつ親たちが先行する形で、かなり進んでい
る。親たちの意識も、変わってきている。

 たとえばこの浜松市では、どの小学校でも、何らかの形で、習熟度別授業を取り入れて
いる。ほんの20年前には、考えられなかった授業である。習熟度別のアイデアはあった
が、もし今から20年前に、そんな授業をするとだれかが言いだしたら、親たちは、パニ
ックになってしまっただろう。

 が、今では、親たちが、「それでもいい」と考え始めている。つまり、親たちの意識が、
明らかに変わりつつある。それについて、以前書いた原稿を、添付する(中日新聞、発表
済み)。

++++++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言う
と、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子ども
の学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多
い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそ
うはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。

先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘
(小二)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、
オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリ
カでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリア
でもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにさ
れてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも
「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割
近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が
担当しているケースは、わずか一%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%
(たったの三%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域
参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は比較的
家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない
人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないため
にも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、
それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐
れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、こ
の日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい
の日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』とい
うのがある。

カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにある
という「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、
幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だ
が、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの
映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。

(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」とい
うのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単
語に由来する。)「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念
にもなっている。

家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわっ
て、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきている
のではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観
すべきことばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべき
もの」として、四〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした
調査では、それが四五%になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことに
なる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよ
う」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言
が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育
委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だ
という(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」
という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり
日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質な
ものであることに注意してほしい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●多様化の時代(マンダラ文化)

+++++++++++++++++

価値観が多様化して、この世界は、
本当にバラバラになってしまったのか?

いや、私は、そうは思わない。

+++++++++++++++++

 一つの価値観、一つの宗教観、一つの哲学観は、すでに終わったとみる人たちがふえて
いる。まさに多様化の時代、ということになる。

 それを最初に提唱したのが、フランスの哲学者のジャン・フランソワ・リオタール(1
924〜1998)。彼が生み出した『ポスト・モダン』という言葉は、またたく間に、世
界中に広がった。

 この多様化の時代には、いくつかの特徴がある。

(1)価値観の混乱
(2)宗教観の混乱
(3)哲学観の混乱

 その逆の世界がどういう世界であるかを知れば、現代という世界が、どういう世界であ
るかがわかる。

 その逆の世界として代表的な世界が、今に見る、あのK国の現状である。たまたま今月
(10月)の9日に行われた、K国、労働党創建60周年を記念した、慶祝報告大会であ
る。

 不気味なほどの統一性と、全体主義。「今どきああいう世界があるのか?」というのが、
おおかたの人たちの共通した印象ではないか。

 しかしこうした不気味さは、部分的ではあるが、この日本の中でも、ときどき見られる。
たとえばK国のあのマスゲームにしても、もとはといえば、日本のある宗教団体から生ま
れたものだそうだ。

 だからといって、その統一性や統合性をなくしたら、どうなるか。それが今の日本の現状とい
うことになる。

 それぞれがそれぞれの価値観や、宗教観や、哲学観を主張する。つまりは、バラバラ。
が、しかし本当にバラバラかというと、そうでもない。どこかで、不思議な統一性を保っ
ている。

こうした日本の現状を見て、少し前、東京で会ったインドの友人は、こう言った。「まる
で、マンダラ(曼荼羅)の世界みたいだ」と。彼は、東京の街並みを見て、そう言った。
「すべてのものが、統一性もなく、ゴチャゴチャに建っている。しかしそれらが、全体
としてみれば、不思議な統一性をもっている」と。

 そこで私は彼の言葉を借りて、こうした世界を『マンダラ文化』と呼ぶことにした。よ
いネーミングだと思う。(あるいは、もう少し美的感覚を添えて、『万華鏡文化』と呼んで
もよい。)つまり、私たちの世界は、決してバラバラではない。つまり統一性のない世界で
はなく、ゴチャゴチャでありながらも、そこに一つの統一性をもっている。

 リオタールは、「大きな物語」は終焉(しゅうえん)し、「世界が統一的な像をもつのは、
不可能」と断言したが、それがどっこい。この日本では、新しい文化が生まれつつある。
それが、ここでいう『マンダラ文化』である。

 その特徴としては、これまたつぎのようなことが言える。

(1)部分的なネットワークの構築
(2)ナーナー主義的な妥協性
(3)対立と調和の混在

 (1)〜(3)のどれも同じようなことだが、つまり一人の人間が、無数の多様性をも
って、それぞれの部分が、それぞれ他人の一部と、かかわりをもっているということ。

 たとえば宗教観にしても、一人の人間の中に、仏教的な要素もあれば、キリスト教的な
要素もある。そしてそれぞれが、そのつど、TPO(時と場所と機会)に応じて、変化し
ながら対応しているということ。たとえば今では、キリスト教の「キ」の字も知らない若
い人でも、結婚式では、(ニセモノではあるにせよ)、式場に付設されたチャペルで、結婚
の誓いを立てたりする。

 言うなれば、まさに、何でもござれ。そしてそれぞれの部分が、社会のそれぞれの部分
と、こまかな対立と調和を繰りかえしながらも、一つのワクの中に入っている。それが大
きな衝突や対立になることはない。

 一方、リオタールが生きていた時代には、個人が、それぞれ原理主義的な生き方をして
いた。「私は、ヒューマニトだ」「私は、反戦主義者だ」「私は、実存主義者だ」とか、など。

 しかし今は、それが多様化した。社会が多様化したのではない。個人が、その内部で、
多様化した。ときには、合理主義者になり、ときには、非合理主義者になったりするなど。
ときに応じて、「戦争は、反対!」と唱えてみたり、またべつのときには、「戦争も、必要!」
と唱えてみることもある。

 一見、無責任な生きザマに見えるかもしれないが、その分、許容範囲も広くなる。たと
えばこの私にしても、封建主義的な復古主義的なものの考え方は嫌いである。「武士道」と
聞いただけで、反発を覚える。

 しかし武士道を信奉する人が、そこにいたとしても、その人を嫌うわけではない。それ
以外の部分で接点があれば、それなりに楽しく談話できる。ただ、たがいに、その話題に
は、触れないようにはするが……。

 このことを、もう少しわかりやすく説明すると、こうなる。

 昔は、その人のカラー(色)は決まっていた。(赤)(青)(緑)……と。しかし今は、一
人の人が、その中に、(赤)もあれば(青)もある。はたまた(緑)もあるという時代にな
ったということ。さらにたとえて言うなら、カラフルで、いろいろな模様のあるシャツを
着ているようなもの。

 反戦を唱えながら、戦闘機のプラモデルを作って、どうしていけないのか。
 自然保護運動をしながら、たまの休みに、家族と山の中をドライブして、どうしていけ
ないのか。
 仏教徒であって、どうしてクリスマスの飾りつけをしてはいけないのか。

 個人ばかりではない。社会そのもの、そうなってきている。一方で、ダムや道路を作り
ながら、別のところでは、自然保護のための施策をほどこす。

 そうした社会が、あたかもマンダラの絵のように見えるから、『マンダラ文化』というこ
とになる。

 こういう社会では、かえって単一色のシャツを着て、原理主義的な価値観にとらわれる
ことは、かえって危険なことでもある。社会に同化できなくなるばかりか、その社会から
さえも、はじき飛ばされてしまう。

 いくら「私は菜食主義者だ」と言っても、それはあくまでも、一つの目安にすぎない。
どこかの家庭に招待されて、夕食に肉料理を出されたら、それなりにおいしそうに食べて
みせる。それがマンダラ文化ということになる。「私は、野菜しか食べない」とがんばれば、
かえって、その人との調和を崩してしまうことになりかねない。

 要は、守るべきところは守りながら、あとは適当に生きるということ。それがここでい
る「許容範囲」ということになるし、それを広げるのが、融通性、妥協性ということにも
なる。
 
 そこで、では私たちは、どうあるべきかという問題に、ぶつかる。

(1)原理主義の排除……頭がカチカチでは、このマンダラ世界では、生きていかれない。
(2)許容の美徳、妥協の美徳を認める……大前提として、だれも正しくない、だれも真
理を知らないという前提で、ものを考える。もちろん私自身も、(あなた自身も)、正しく
ないし、真理を知らない。
(3)絶対的なものを求めない……神にせよ、仏にせよ、絶対的なものを認めない。キリ
ストにせよ、釈迦にせよ、野原で立小便をした。(絶対にしたと思うよ。)宗教観をもつに
しても、そういう視点を見失わない。

 私やあなたという個人で考えるなら、自分の中に、積極的にマンダラ文化を取りいれて
いく。融通性があって、臨機応変に人や社会と、妥協すべき点は妥協しながら、同化して
いく。「これでなければ、絶対ダメ」とか、「これは、絶対正しい」という言い方そのもの
が、おかしい。そのおかしさに、まず気づく。

 政治的に言えば、浮動票、おおいに結構。ノンポリ、おおいに結構。そういう許容性が、
この世界をますます楽しく、おもしろいものにする。大切なことは、そのときどきに自分
で、よく考えて、そして行動すること。
 (そういう意味でも、あのK国は、参考になる。本当に参考になる。)
(はやし浩司 多様化の時代 ジャン・フランソワ・リオタール(1924〜1998)、
ポスト・モダン ポストモダン マンダラ(曼荼羅)文化 曼荼羅の世界 はやし浩司)


【マンダラ文化2】

●多種類の主義

 多様化する社会の中で、個人の生き方も多様化している。そして一人の「人」という個
人というレベルでみても、主義、主張は、多様化している。

 たとえば実存主義という大きな哲学思想をかかえながらも、一方で、自然愛好家であっ
たり、菜食主義者であったりする。実存主義者だからといって、反戦主義者でなければな
らないということもない。ばあいによっては、復古主義者であることも、また人道主義者
であることも可能である。

 この反対の位置にあるのが、カルト教団。極端な原理主義を唱え、信者を、あらゆる面
で、画一化しようとする。外部の人たちとの接触を禁止したり、中には、同窓会にすら出
席をさせない教団もある。一度、電話でその教団に問いあわせてみたところ、電話に出た
幹部信者らしい男は、こう言った。

「私たちは、禁止などしていません。ただ熱心な信者なら、自分の意思で、出ないでし
ょう」と。うまいことを言う! さんざんマインドコントロールしておきながら、「自分
の意思」とは! で、信者は信者で、「純粋(?)でなければ、信仰はできない」「真理
に到達できない」と、思いこんでいる。

 そのため、極端な排他主義や、孤立主義に走ることが多い。昔、修学旅行で、伊勢神宮
へ行ったときのこと。あの巨大な鳥居の前で、ゲーゲーとものを吐いた子どもがいたとい
う。その子どもの父親は、仏教系のあるカルト教団の熱心な信者だった。

 「自分たち以外の信仰の場に足を踏みいれると、バチが当たる」と、その子どもは、常
日ごろから、父親からそう教えられていた。子どもは、それを信じていた。(この話は、信
仰上の美談として、その教団内部の機関紙で紹介されていた。)

 ほかにも、親がおかしな宗教を信じたため、治るはずの病気の子どもを、死なせてしま
うという例もある。ふつうなら、(「ふつうなら」という常識の通らないのが、カルトの世
界だが……)、その時点で親は、自分たちの信仰に疑問をもってもよさそうなものだが、実
際には、そうではない。そうなればなったで、親は、ますますその信仰にのめりこむ。

信仰を疑うということは、同時に、自分たちが、子どもを殺したことに、気づかされる
ことになる。「私はバカだった」という程度では、とうていすまされない。だから死ぬま
で、その宗教にしがみついて生きていく。それしかない。

 で、原理主義的な思考性の恐ろしさは、今さら、改めて書くまでもない。危険ですらあ
る。「自分たちは絶対正しい」と思う、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と言い
きる。そのさえたるものが、イラクで毎日のように起きている、あの自爆テロと考えてよ
い。自分の命を犠牲にしてまで、相手を許さないという思想は、すでに思想の範囲を超え
ている。狂信である。

 思想というのは、自分で考えるから、思想なのである。注入された他人の思想は、注入
された段階で、それは思想としての使命を終える。そういうのを、私たちの世界では、「マ
インドコントロール」という。

 私たちは、心豊かな常識人として、生きる。そのつど、すばらしいものに感動し、その
つど、不愉快なものに、マユをしかめる。主義をもつことはあっても、それはフレキシブ
ルなものであっても、決して、硬直したものであってはならない。

 一人の人間の中に、無数の主義があって、そういった主義が、他人の主義と複雑にから
みあいながら、それでいて、円満な人間関係を築いていく。主義を一つにしぼらねばなら
ない理由など、どこにもない。

 そういう私たちが、無数に集まって、調和のとれた文化をつくる。それを私は、『マンダ
ラ文化』という。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【マンダラ文化……わかりやすく】

それぞれの人が、それぞれの考え方をもっている。
まず、それを認めてやろう。
私が正しいとか、あなたがまちがっているとか、
そんな失敬なことは、言ってはいけない。

同じように、私やあなたの中にも、いろいろな部分がある。
いくら菜食主義者だと言っていても、どこかへ夕食に招待され、
そこで肉料理が出されれば、少しくらいなら、食べることもあるだろう。

いくら平和主義者だといっても、戦闘機のプラモデルを作って
遊ぶこともあるだろう。いくら自然保護団体で活動していても、
ときには家族といっしょに、山の中をドライブすることもあるだろう。
いくら仏教徒だといっても、クリスマスには、ツリーを飾って、
プレゼントの交換をすることもあるだろう。

ガチガチにものを考えて、ガチガチな人間になることはない。
もっと肩の力を抜いて、気楽に生きればよい。
美しいものを見たら、すなおに美しいと喜べばいい。
おかしなものを見たら、すなおにおかしいと思えばいい。

「日本の文化は崩壊した」と説く人は、多い。
しかし日本の文化は、崩壊など、していない。
今、日本は、世界に先がけて、新しい文化を作りつつある。

たしかに何もかもゴチャゴチャだが、そのゴチャゴチャが、
まとまりをもって、一つの統一性をつくり始めている。

私は、これを『マンダラ文化』と呼んでいる。
マンダラに描かれた絵は、ゴチャゴチャだが、それでいて、
不思議な統一性を保っている。そのマンダラの世界に似ているから
私は、『マンダラ文化』という。

あなたにも、いろいろな主義があるだろう。私にもある。
しかし、いくら主義がちがうからといって、あえて対立する必要はない。
相手の人が古風な、男尊女卑思想をもっていたとしても、
「あなたはまちがっている」などと、言う必要はない。
また言ってはいけない。

私は私。その人はその人。ほかの部分で一致するところがあれば、
その一致するところで、話をすればいい。仲よくすればいい。

「今度、いっしょに、マスを釣りにいきませんか。これからがシーズンですよ」と。

さらに少しわかりやすく言えば、こういうことになる。

生きザマには、制服など、ないということ。私は、○○主義だから、
赤い服しか着ないとか、○○教を信じているから、青い服しか着ないとか、
そんなことにこだわる必要はない。またこだわってはいけない。

私たちが着る服には、複雑な模様がいっぱい描いてある。カラフルで、
美しい。それに服など、毎日、色違いのものを着たところで、
どうということはない。

だからといって、いいかげんな生き方がいいと言っているのではない。
その日、その日を、ただ享楽的に生きればいいと言っているのではない。

大切なことは、自分で考え、自分で生きること。懸命に考えながら生きること。
すべては、考えることから始まり、すべては、考えることで終わる。

その考えることだけは、怠ってはいけない。マンダラ文化のマンダラにしても、
最初から、その模様が決まっているわけではない。目標があるわけでもない。
マンダラの模様が、どのような模様になるかは、あくまでも、懸命に
生きる私たちが、決める。その結果として決まる。

懸命に考えて生きる人間が、無数に集まって、それぞれの糸を織りなす。
その結果として、マンダラの模様が決まる。

それが私のいう、『マンダラ文化』ということになる。

【注】

 リオタールは、かつて、「大きな物語は、終焉した。世界が統一的な像をもつのは、不可
能」と断言した。

 それまでのヨーロッパは、常に、大きな物語に沿って、歴史を動かしてきた。その柱の
一つが、キリスト教ということになる。

 が、戦後のヨーロッパは大きく変わった。そういう現状を見て、リオタールは、「統一的
な像をもつのは、不可能」と。

 しかし逆に、統一的な像をもつことの危険性を考えるなら、私はそれを退化と考えるの
ではなく、進化ととらえる。ヨーロッパも、ナチスドイツという、あの全体主義がもつ恐
ろしさを経験している。

 ただその後の、社会観というか、世界観が、混沌(こんとん)としてきたのは、事実。
ゴチャゴチャになってしまった感じさえする。そのため、何がなんだか、わけがわからな
くなってしまった。

 こうした世相を反映してか、現在社会を憂う人もふえてきた。そして一方で、別の「統
一的な像」を模索する人もふえてきた。

 しかし不可能なものは、不可能。今は、そういう時代ではないし、私たち一人ひとりも、
それを許さないだろう。つまり社会が多様化したのではなく、私たち個人が多様化した。
と、同時に、私たち個人も、その内部で、さまざまに色のちがう部分をもつようになって
しまった。

 クリスマスを祝って、その余韻がまださめやらぬころ、今度は、正月に、近くの神社や
寺を初詣(はつもうで)する。田舎のほうでは、神社と寺を、同じ日に、初詣する人も多
い。

 そして2月になれば、バレンタインデー。が、それだけではない。たった30年前には、
名前すら知らなかった、ハロウィーンの祭をする人も、このところ、急速にふえてきた。

 考えてみれば、メチャメチャな世界だが、そのメチャメチャな世界が、全体として一つ
の調和を保っている。それが今の日本ということになる。

 このつづきは、一度頭を冷やしたあと、また別の機会に考えてみたい。ここで『マンダ
ラ』という言葉を使ったが、適切でないような気もする。ワイフは、「やはり、マンダラ文
化ではなく、万華鏡文化のほうが、いいんじゃない?」と言っている。

 そういう問題も、ある。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【近ごろ・あれこれ】

●老人問題

 ワイフの姉、つまり私の義姉は、心の暖かい人だ。ワイフの母親は、ワイフたちが子ど
ものころなくなっている。それでその義姉が、いわば母親がわりになって、弟や妹のめん
どうをみた。

 だからワイフにとっては、義姉は、母親のような存在でもある。

 しかしその義姉にとっても、老人介護は、たいへん。現在、義母の介護をしているが、
その義母は、認知症の上、軽い脳梗塞を併発しているという。少し前までは、「まだらボケ
で……」と言って笑っていたが、今は、さらに症状が進行しているらしい。

 良好な親子関係にあれば、話は別だが、そうでなければ、親といっても、介護は、それ
を始めたとたんから、重荷になる。認知症によって、良好な親子関係そのものが、破壊さ
れることもある。

 ある老人は、ことあるごとに、「うちの嫁は、ドロボー」と、人に話していた。「うちの
嫁は、サイフからお金を盗んだ」「うちの嫁は、通帳から、勝手にお金を引き出した」など。
そういうことが、1年、2年とつづくと、介護するほうも、疲れる。バカらしくなる。

 が、一度、こういう状態になると、介護は、先の見えない袋小路に入る。いろいろな介
護施設はあるが、そういう施設へ通ったところで、認知症が治るわけではない。介護する
側の苦労が、1年、2年と、先にのびるだけ。

 ……と書きながら、実は、これは私たち自身の問題でもある。やがてすぐ、私たち自身
が、その介護される側に回る。そのとき、私たちは、どうあるべきなのか。……と考えて
いくと、またまた気が重くなる。

 日本は豊かな国とはいうが、立派になったのは、道路とか公共施設だけ。中身は、ます
ますおそまつになってきている。とくに、人間の「命」に対する考え方が、色あせてきた
ように思う。「軽くなった」というのではない。「生きる」ということが、どういうことか
わからないまま、ただ生きている。そんな生き方人が、ふえてきたように思う。

 別の老人は、自分の世話をしてくれる娘と、顔をあわせるたびに、けんかばかりしてい
るという。が、そのくせ、数日も、娘がたずねてこなかったりすると、電話をかけてきて、
こうイヤミを言うという。

 「心配しなくていいからね。ちゃんと、私は、ひとりでやっているからね。あんたは、
ダンナとうまくやればいいのよ」と。

 あるいは、「あの嫁には一円も、遺産を渡したくない」と、実の娘と、ヒソヒソと、遺産
相続の相談ばかりしている老人もいる。その嫁に、そのつど、世話になりながら、陰では、
そんな相談ばかりしている。少し前には、ボランティアの人が届けてくれる弁当を、「取っ
た」「取られた」と、けんかばかりしている老夫婦の話も聞いた。

 ……とまあ、私のところに伝わってくる老人の話は、どれも、低劣なものばかり。つま
り、そういう老人が、あまりにも、多すぎる!

 なぜそうなるかということよりも、どうすれば、自分たちはそうならないですむかとい
うことを考えたほうがよい。老後は、年齢も、50歳をすぎると、急ぎ足でやってくる。
じっくりと考えながら……というヒマは、もうない。あるいは50歳を過ぎてから考えた
のでは、遅い。そのころには、すでに、その人が、どういう老人になるか、決まっている。

 義姉は、こう言った。「老人になればなるほど、その人の『地』が、表に出てくるものな
のよ。それまでの自分をさらけ出すことになるのよ」と。

 同感!


●本物のワル

 ある男性が、コンビニに入った。そのとき、「ほんの少しの時間だからいいだろう」と思
って、別のカバンを、自転車のかごに入れたままにしておいた。

 が、そのカバンが盗まれた。小さなモバイルパソコンが、そのカバンの中に入っていた。

 「ほんの瞬間でした。ちょうど店からは、死角になっていて、ちょっと目を離したスキ
にやられました」と。

 私はその話を聞いて、こう言った。「盗んだヤツは、本物のワルですね。その瞬間に、ワ
ルを働くのですから……」と。

 ワルにも、いろいろある。しかし一番、タチの悪いワルは、その直前までは、平然とし
ていて、つまりふつうの顔をしていて、スキさえあれば……と考えて行動するワルである。
たとえばそのカバンを盗んだワルは、恐らく、自分もコンビニで何かを買おうとしていた
にちがいない。

 が、コンビニの入る前に、そこに自転車を見つけた。カバンを見つけた。とたん、カバ
ンを盗んで、Uターン。どこかへ急いで消えた。あるいは、どこかへカバンを隠した。犯
罪の種類としては、どこか通り魔的。発作的。

 お金に困ったから、窃盗を働くとか、生活費がないから、ドロボーに入るとか、そうい
うことなら、まだ理解もできる。(だから正当化しているわけではない。誤解がないよう
に!)

 しかしその男性のカバンを盗んだワルには、それがない。ないばかりか、ふつうの生活
をしながら、(多分?)、心の別の部分は、いつもドロボー・モード。邪悪な心が、同時進
行の形で、いつも、自分の中に同居している。

私「かなりのワルでないと、その瞬間、瞬間に、そういったワルは、できないでしょうね」
男性「そう、ワルをするにも、そこには、タイム・ラグ(遅れ)が必要ですからね。その
迷いがないまま、ワルをする。やはりそういうのを、本物のワルというのでしょうね」と。

 簡単に「ワル」と言うが、すでに、その心は、破壊されているとみてよい。それが20
代、30代の人間であっても、(あるいは10代でも)、修復は、不可能。そのままみじめ
で、小ズルイ人生を歩むにちがいない。わずかな(得)とひきかえに、自分の人生を、台
なしにする!

 つまり本物のワルは、同時に、本物のバカということ。

 それにしても、このところ、この日本。何かにつけて、油断できなくなってきた。その
男性の話を聞きながら、私は別の心で、そう思った。

 みなさんも、くれぐれも、お気をつけください。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●我が家のトホホ物語

 現在、卓上では、2台のパソコンを使っている。

 1台は、4年前に買った、F社のパソコン。当時は、最新鋭のパソコンだった。17イ
ンチのワイド画面つき。

 もう1台は、ごく最近買った、M社のパソコン。ものすごい性能のパソコンである。

 で、それぞれのパソコンに、外づけのハードディスクをつけた。同時に、数年前から、
IT社のインターディスクにも加入している。年間6000円で、1GBまで、データを
保管してくれる。

 で。F社のパソコンでは、もっぱら文書づくりをしている。M社のパソコンでは、もっ
ぱらHP作成、更新などをしている。

 ところが、である。F社のパソコンでは、文書管理が、ままならなくなってきた。たと
えば新しい文書を、500ページ書いたとする。それを既存の文書に、つなげて保存しよ
うとする。既存の文書といっても、すでに1万4000ページ近くもある。

 その1万4000ページの文書に、新たに500ページの文書をつけ足そうとする。が、
ここで能力オーバー。時間さえかければ、できなくなはないが、それでも1時間あまりも
かかってしまう。メモリー不足により、そのつどハードディス間で、スワップするためで
ある。

 しかたないので、一度、文書を、インターディスクにアップロードし、それを横にある
M社のパソコンにダウンロードする。M社のパソコンに仕事をさせると、あっという間に
やってしまう。

 そこで、つまりM社のパソコン上で、1万4000ページの既存の文書に、500ペー
ジを追加する。

 ところが、問題は、そのあと起きる。

 その1万4500ページになった文書を、どこへ保存しておくかという問題である。

 最初は、インターディスクに最重要の文書を保管しておくことにしたが、1万4500
ページともなると、更新のアップロードをするにも、ダウンロードをするにも、時間が3
0〜40分もかかってしまう。

 しかたないので、そのつど、F社製のパソコンと、M社製のパソコンのそれぞれにつけ
てある、外づけハードディスクに文書を保管しておくことにした。

 最初は、何とか、うまくいった。しかしそれを繰りかえしていたら、やがてどこに最新
の原稿が保管されているか、わからなくなってしまった。文書は、(F社製のパソコン)→
(インターディスク)→(M社製のパソコン)の間を、行ったりきたりしている。おまけ
にファイル名は、みな、同じ。

 今では、どこに最新の原稿が保管されているか、わからなくなってしまった。それだけ
ではない。ときどき、その最新の原稿に、古い原稿を上書きしてしまうこともある。気が
つくと、追加したはずの原稿が、ない! もとの1万4000ページにもどってしまって
いる。

 あわてて、別のところに保管してあった500ページの文書を読み出して、また追加す
る。こんな混乱を、このところ、毎月のように繰りかえしている。

 ……こう書くと、「どうして1台のパソコンで仕事をしないか」「ものすごい性能のM社
製のぱそこんで仕事をすればいい」ということになる。そういう疑問をもつ人も多いかと
思う。

 それには、ちゃんと理由がある。

 私のHPは、50〜60MBものサイズがある。このサイズになると、ファイルの読み
出しだけで、30分以上。ファイルの保存にも、4時間近くもかかる。その間、パソコン
は、使えなくなる。M社のパソコンでしても、それくらいの時間はかかる。

 HPのファイルの保存をしながら、同時にほかの仕事もできなくないが、ネットサーフ
ィンを5〜10回もすると、メモリー不足で、プログラムごと保存中のHPが、飛んでし
まうこともある。(1024MBも、メモリーを積んでいても、だ!)

 だからやはり、文書作成用のパソコンと、HP更新用のパソコンは、分けるほうがよい
……ということになる。

 ……ということで、「どうしたらいいか」、今、真剣に悩んでいる。感覚的には、ジグソ
ーのパズルを解いているような気分。「あっちに保管しようか」「いや、こっちに保管しよ
うか」と。

 文書管理が、こんなにもめんどうになるとは、思ってもみなかった。

 そこでベストな解決方法は、もう一台、最新鋭のパソコンを購入すること。それで文書
づくりをすれば、文書管理は、ずっと、楽になる。

 さあ、またまた株で、もうけるか。(ハハハ、実は先月から、それも考えて、株の売買を
再開したところ。パソコンや周辺機器は、株でもうけたお金で買うことにしている。それ
以外のお金は、使わないことにしている。)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 9日(No.647)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(子どもたちへ……)

●たった一度の人生だから

たった一度しかない人生だから、思う存分、生きてみようよ。
海は広いんだ、空は広いんだ、宇宙は、もっと広いんだ。
だれにも遠慮することは、ない。何も恐れることはない。
心を解き放(はな)とうよ。
海に向かって、空に向かって、宇宙に向かって。
体はあとからついてくる。

でもね、自由に生きるということは、そんなに楽なことではないよ。
「自由」というのはね、もともと「自らに由(よ)る」という意味だよ。
自分で考えて、自分で行動して、そして自分で責任をとるということ。
だから自由でいるということは、とってもきびしいことだよ。

ちっぽけな肩書きや地位に満足してはいけないよ。
名誉や名声を先に求めてはいけないよ。
そんなことをすれば、君の人生は、見苦しくなるだけ。
つまらなくなるだけ。
今やるべきことを、懸命にやろう。
それでいいのさ。
人がどう思うと、そんなこと気にしてはいけない。
君の人生は、どこまでいっても、君のもの。
だれのものでもない。だから思う存分、生きてみようよ。

君を判断するのは、君自身だよ。ほかのだれでもない。君自身だよ。
そういう意味でもね、自由に生きるということは、孤独なことだよ。
勇気がいることだよ。
でもね、結局はそのほうが、自分の人生を生きることになるんだよ。


●成績

成績が悪かった、て?
そう……。いやなもんだね、成績って。
でもね、成績は、あくまでも勉強について、だよ。
君の価値とはまったく関係ないよ。
だから大切なことは、
成績が悪いからといって、
自分の価値まで否定してはいけないということ。
君は君だしね。
まあ、また、やってみようよ。
まだまだ次があるからね。
めげないでさ。
いちいち気にしていたら、
人生、つまらないよね。
……そう、ぼくなんか、
今、成績つけられたら、
ひどい成績だと思うよ。
老人度……82点
ボケ度……90点
嫌われ度……98点
……なんてね。笑った?
笑って、先へ進もうよ。



●悩み

悩みにも、二種類あるよ。
どうしようもない悩みと、
何とかなる悩みだよ。
どうしようもない悩みは、
あきらめようよ。しかたないもん、ね。
でもね、何とかなる悩みは、
……むずかしいね。
ぼくにも、わからない。
だってね、ぼくはね、
そういう悩みを、山のように
もっているからね。
ありすぎて、
どうしたらいいか、
わからないでいる。



●810年後

君がいつか、おとなになり、結婚したとするだろ。
そして二人の子どもをもったとするだろ。
そしてその二人の子どもが、
またおとなになって、結婚したとするだろ。
そしてまた二人ずつの子どもをもったとするだろ。
そうすると、ね、27代目には、君の子孫は、
1億3000万人を超えるんだよ。
今の日本の人口とほぼ、同じになるというわけ。
わかるかな。そしてね、一世代を30年で
計算するとね、つまり30かける27で、
810年後には、そうなるんだよ。
たった810年後には、日本中が君の子孫になるというわけ。
すごいことだね。
……こう考えると、「自分だけは」とか、
「自分の子どもだけでも」と考えることが、
いかにつまらないことか、わかるよね。
ときどきは、そういうふうに考えてみてごらん。
世界が、ぐんと広くなるよ。



●正直に言ってみようよ

言いたくないことも、あるさ。
かくしたいことも、あるさ。
だまっていたいことも、あるさ。
ウソをつきたいことも、 あるさ。
知られたくないことも、あるさ。
でもね……。
正直に、言ってみようよ。
勇気がいることだけれど、
思い切って、言ってみようよ。
つらいし、苦しいし、いやかもしれないけれど、
正直に、言ってみようよ。
するすると、ね。
……
ずっと、ずっと、心が軽くなるよ。



●いやだったら……

いやだったら、「いやだ」って、
言えばいんだよ。
無理することないよ。
でもね、一つだけ、
こんなことに注意してよ。
君の「いや」は、わがままではないか、と。
もし、そうなら、君の「いや」には、
意味がないよ。
その「いや」は、よくないよ。



●なくすもの

おとなになるにつれてね、
なくすものも、あるんだよ。
何だと思う?
それはね、
、感動と、純粋な心だよ。
たとえば虹を見たときね、
君は、ワーッて、歓声をあげるよね。
でもね、おとなになると、
そういうふうに感動しなくなるよ。
とってもさみしいことだけれどね。
それにね、
純粋な心もなくなるよ。
とってもさみしいことだけれどね。
でもね、
君たちは、大切にしようね。
いいか、よく「子どもっぽい」と
笑う人がいるだろ。
しかしね、
子どもっぽいということは、
とてもすてきなことなんだよ。
すばらしいことなんだよ。
だから恥ずかしく思うことはなんだよ。
いつまでも、いつまでも、
感動と、純粋な心を大切にしようね。
おとなにんるとき、
なくしちゃあ、だめだよ。
ワーズワースという人は、
こんな詩を書いているよ。


●子どもは人の父

空に虹を見るとき、
心ははずむ。
私が子どものころもそうだった。
おとなとなった、今もそうだ。

願わくば私は、
歳をとって、死ぬときも、
そうでありたい。
子どもは人の父。
自然の恵みを受けて
それぞれの日々が、
そうであることを、
私は願う。



●君の価値

君の価値は君が一番よく知っている。
だから、ね。だれも認めてくれなくても、
気にしてはだめだよ。
大切なことは、だれも認めてくれなくても、
自分をそまつにしないこと。
ぼくたちは、いつでも、どこでも、
気高(けだか)く生きようよ。
ぼくは世界中で、ただ一人。
君は世界中で、ただ一人。
ぼくは世界中で、最高の人間。
君は世界中で、最高の人間。
これは事実だよ。



●希望

人は、悪いこともするけれど、
努力によって、
神様のような人にもなれる。
それが「希望」だってさ。
みんな天使のような人に
なってしまったら、
この世界、つまらないよね。
いろんな人が
いろんなドラマを展開するから、
この世界、おもしろいんだよ。
聖書の中の説話だけど、
ぼくの好きな説話だよ。



●バカな人

バカな人は、賢い人にかみつくよ。
しかしね、賢い人は、バカな人を
相手にしないよ。無視するよ
それがバカな人と、賢い人の違いだよ。



●荷物をもってあげようよ

お母さんが、買い物から帰ってきたよ、ね。
お母さんは、重い荷物をもって いるよね。
そういうとき、君はどうしてる?
だまって見ている?
知らないフリをする?
いけないよね。
そういうときはね、お母さんの荷物を
もってあげようよ。
きっとね、君はね、あとで、胸の中が
スーッとするのを感ずるよ。
ウソじゃないよ。本当だよ。
一度、ためしてみてごらん。
本当に、胸の中が、スーッとするよ。


●将来

10年後の君は、どうなっているかな?
20年後の君は、どうなっているかな?
そんなことを考えると、いろいろ不安になるかもしれないね。
でも、心配、いらないよ。
きのうがあって、今日があるように、
必ず明日があるよ。
そして明日があるように、
10年後の君はいるよ。
20年後の君はいるよ。
だからそんな先のことは心配しないこと。
今できること。今しなければならないこと。
それを一生けんめいに、しようよ。
それでいいんだよ。
明日になれば、明日のことはわかるから、ね。
今日一生けんめいしておけばね、
明日のことが楽しみになるよ。



●自分の力で生きようよ

神様や仏様に祈って、
それで自分の願いをかなえようという人がいるよね。
それぞれの人が、それぞれの思いをもって、
真剣にそう願っているのだから、
ぼくには、何とも言えないけど、
君たちは、自分の力で生きようね。
だれかに助けてもらうとね、
何かを成しとげたとき、
喜びが半分になってしまうよ。
「神様のおかげで、1等賞をとりました」と言うのは、
どこか、さみしいね。
失敗しても、1等賞がとれなくても、
君は君。いいじゃない。
それで……。



●願い事

ぼくもね、実のところ、子どものころ、
よく神様に願いごとをしたよ。
でもね、「原爆の少女、偵子(さだこ)」を
読んでから、考え方が変わったよ。
「ぼくより、ずっと真剣に祈った人がいる」
「ぼくよりずっと、神様の力を必要としている人がいる」って、
そんなふうに考えたら、
もう神様や仏様に向かって、
「〜〜してください」などとは、
祈れなくなってしまった。
そのかわり、
「ぼくよりずっとあなたの力を必要としている人がいる。
もしあなたに力があるなら、ぼくはいいから、
そういう人のために、あなたの力を使ってください」と
思うようになった。つまりね、
それからは、神様や仏様には、
願いごとをしなくなったというわけ。
これはぼくの個人的な意見だよ。
君は君で、考えればいいよ。



●地球

知っているかな。
太陽を直径15センチのボールにたとえるとね、
地球はそこから10メートル離れたところにある、
直径0・5ミリ(1ミリの半分)の大きさの玉なんだよ。
宇宙船で太陽系を飛んでいてもね、
地球に気がつく人はいないかもしれない。
地球はそれほど小さい……?
目の前には、砂丘の砂の数ほどの太陽があるからね。
ぼくは「人間」を考えるとき、
いつもこのことを頭におくよ。
でもね、だからといって、
「人間はつまらない」と言っているのではないよ。
誤解しないでね。
ときどき、そういうふうに、
ものごとは宇宙からみた視点でかんがえるといいということ。
そうするとね、人間のことがよくわかるよ。



●時の流れ

時の流れは風のようなものだよ。
どこからともなく吹いてきて、
またどこかへ去っていく。
つかもうとしても、つかめないよ。
そしてね、
風は時に強く、
また時に弱く、止まるときもあるよ。
そういうときはね、
また風が吹き始めるのを待つんだよ。
あせってもしかたないもん、ね。
時の流れは、そういうものだよ。



●友だち

無理して、みんなと仲よくしようなどと、
思わなくてもいいんだよ。
英語のことわざにもね、
「二人の人に、同時によい顔はできない」
というのがあるよ。
気楽にいこうよ。
気楽に考えようよ。
無理して、いい子ぶることはないよ。
そんなことをしていると、
疲れるもんね。
でもね、一つだけ、お願いがあるんだ。
それはね、君のまわりに、
友だちがいなくて、
さみしそうにしている人はいないかな?
もし、いたらね、その人とは
仲よくしてあげてね。
「こんにちは」とか、「遊ぼうよ」と
声をかけてみてあげてね。
それはとっても、大切なことだよ。
それは、とっても楽しいことだよ。
このお願いだけ聞いてくれるなら、
あとは、無理しなくてもいいよ。



●男と女

「男だから」とか、「女だから」とかいう言葉は、
まちがっているよ。
「男のくせに」とか、「女のくせに」とかいう言葉も、
まちがっているよ。
そんなふうに考えている人がいたら、
「それはおかしい」と、言ってあげよう。
これからは、もう、そういう時代ではないよ。



●チャレンジ精神

何にでも、チャレンジしていこうよ。
それでいい。結果はあとからついてくる。
ついてこないかもしれない。
気にすることはないよ。
まず、チャレンジ。
それでいい。



●相手のこと

イギリスのことわざに、ね、
「相手は、自分が相手を思うように、自分を思う」というのが、あるよ。
つまりね、
君が、AさんならAさんを、「いい人だ」と思っていると、
Aさんも、君のことを、「いい人だ」と思っているということ。
君が、AさんならAさんを、「いやな人だ」と思っていると、
Aさんも、君のことを、「いやな人だ」と思っているということ。
そういう意味でね、人間の心は、カガミのようなものだね。

だからね、みんなと仲よくしたかったら、みんなのことを「いい人だ」と
思うようにするといいよ。そうするとね、みんなも、君のことを
「いい人だ」と思うようになるよ。やってみたら?


●家族

家族を大切に、ね。
家族は、一緒に住むんだよ。
家族は、みんな、助け合うよ。
家族は、守りあうんだよ。
あのね、幸せは、ね。
そんなに遠くにあるんじゃ、ないよ。
君のそばにあって、
君に、見つけてもらうのを、息をひそめて、
そっと待っているんだよ。
君の、すぐそば、でね。
ほら、知っているかな?
ボームという人が書いた、
「オズの魔法使い」さ。
あの中でね、ドロシーという女の子と、
トトという犬が、虹の向こうにあるという
幸せを求めて、旅をするだろ。
そしてエメラルド・タウンをめざすんだ。
しかし、ね。
本当の幸せは、カンザスのいなかの、
自分の家の中にあることを
知るんだよ。
幸せっていうのは、
そういうもの。
わかった?
わかったら、家族を
大切にしようね。



●偉い人

偉い人なんて、いないよ。
人間は、皆、平等だよ。
でもね、尊敬できる人はいるよ。
地位や、肩書きには関係なく、ね。
君のすぐそばにいるよ。
そういう人をさがしてみてごらん。
君だけが知っている、
君が尊敬できる人だよ。
必ず、君のすぐそばにいるよ。



●仕事

人間に上下はないよ。
仕事にも上下はないよ。
君がしたい仕事。
君がしなければならない仕事。
君ができる仕事。
それをさがせばいい。
そして、ね。
一度それを見つけたら、
それを一生かかってするんだよ。
人が何と言おうが、
気にすることはない。
気にしてはだめだ。
君は君の道を信じて、
まっすぐ前に
進めばいい。



●勉強部屋

勉強はね、一番したいところですればいい。
勉強部屋の机に向かってするなんて、
だれが決めたのかな?
そんなルールはないよ。
オーストラリアのぼくの友人は、
いつもベッドにねそべって、勉強していたよ。
そのほうが、よく考えられるからだって、さ。
つまりね、勉強には「形」はないの。
わかる?
だからしたいところで、したいようにすればいいんだよ。

(つづきは、HPのほうで……、「子どもたちの世界」より)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page061.html

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●死への先駆的決意

 だれしも、いつかは、死ぬ。死んで、この世から、消える。いくら、「私は自由だ」と叫
んだところで、その自由には限界がある。最終的には、だれしも、その「死」から、逃れ
ることはできない。死は、その人から、あらゆる自由を奪う。

 ここまでは、みなわかる。みな同意する。しかしそのあと、2つの考え方に分かれる。

 だから生きている間、人は、懸命に生きなければならないという考え方。もう一つは、
どうせ死ぬのだから、楽しく生きなければならないという考え方。ほかにもう一つ、あの
世があると信じて、あの世での生活(?)に望みを託す生き方もある。が、ここでは、考
えない。

 どちらにせよ、こうした、せっぱつまった意識のことを、「死への先駆的決意」という。

 もちろんあの世があれば、もうけもの。しかしそれは死んでからのお楽しみ。あるかな
いか、わからないものに、自分を託して生きることはできない。一応、あの世はないと考
える。が、そのとたん、人は、絶壁に立たされる。

 ……と書いたところで、私は、頭の中で、砂漠を思い浮かべた。灼熱の太陽が、さんさ
んと輝く、かわいた砂漠である。

 私はそこを歩いている。しかし手にもつのは、小さな水筒だけ。その水筒には、かぎら
れた量の水しかない。その水を飲みほしてしまえば、そのあとしばらくして、私は死ぬ。

 あまりよいたとえだとは思わないが、命というのは、その水のようなものではないか。
たいへん貴重な水である。一滴とて、ムダにはできない。飲むときも、心して飲む。

 同じように、「時」も、一瞬たりとも、ムダにはできない。刻一刻と、私の人生は短くな
る。やがて、虚無の世界へと、私は、消えていく。

 しかしこうした、せっぱつまった感じがあるからこそ、私は、今の人生を懸命に生きよ
うと思う。さらに言えば、死への恐怖があるからこそ、生きることを大切にしたいと思う。
が、それだけではない。

 死への恐怖があるからこそ、そこから生きている喜びが、わいてくる。

 そこでまたふと、考える。もしあの世があると、本気で信ずることができれば、死への
恐怖は、なくなる。なくなるとは思わないが、半減する。気が楽になる。しかし死への恐
怖がなくなれば、ひょっとしたら、懸命に生きようという気力も、半減してしまうかもし
れない。

 どちらがよいのか。

 「どうせ死ぬのだから、楽しく生きよう」という生き方については、私は考えたことが
ない。ないので、これ以上のことは、ここでは、書けない。

 そこでもう一つ、たとえをあげて考えてみよう。

 あなたが、今、もし、医師に、死の宣告をされたら、あなたは、どうするだろうか。余
命は、あと1年としたら……。

 その1年間、あなたは嘆き悲しみながら、過ごすだろうか。それとも、その1年を、懸
命に生きようとするだろうか。私の知人にこんな人がいる。

 2年前に、がんの手術を受けた。それで治ったとその人は思っていたが、やがてがんが、
体のあちこちに転移していることがわかった。言い忘れたが、その知人は、今年、ちょう
ど80歳になる。

 で、今は、在宅ホスピスというサービスを受けている。ときどき、(今は、週に1度程度
だが)、訪問介護の看護婦がやってくる。あとは、ふつうの人と、どこもちがわない生活を
している。ちがわないばかりか、町内の会合に顔を出したり、意見を述べたりしている。

 ときどき酒を飲んで、フラフラと通りを歩いていることもある。「酔っぱらってますね」
と声をかけると、「会合で、酒を出されまして……。断れませんでした」と笑う。そういう
人もいる。

 そこで私たち。健康な人もいるが、そうでない人もいる。余命が、10年でも、20年
でもよい。30年でも、よい。大切なことは、余命がいくらあるかということではなく、
どうその余命を生きるかということ。

 そこで改めて、「死への先駆的決意」。

 もしあなたが、今日の夕方、交通事故か何かで、死ぬかもしれないとわかったら、あな
たはどうするだろうか。あなたは断崖絶壁の崖っぷちに立たされたような緊張感を覚える
に、ちがいない。

 刻一刻と、時計が時をきざむ音を聞きながら、何かをしなければいけないと、あなたは
思う。あるいはひょっとしたら、何も手につかなくなってしまうかもしれない。ともかく
も言いようのない緊張感を覚える。

 その緊張感を生み出すのが、「死への先駆的決意」ということになる。その「死」を、健
康なときから意識し、自ら、緊張感をふるい立たせて生きる。それが結果的に、「懸命に生
きる」、その力の原動力になる。

 もちろん、そうでない人もいる。退職してからは、趣味と道楽、それだけで人生を過ご
している人もいる。しかしそういう生きザマが、理想的な生きザマかというと、私は、そ
うは思わない。またそうであっては、いけないと思う。

 が、自分がもつ自意識だけの力で、その生きザマを変えることは、たいへんむずかしい。
そこで私たちは、ここでいう「死への先駆的決意」をもつことによって、それまでの生き
ザマを変えることができる。

 そこで今日という一日を考えてみる。そのとき、もしあなたが、(私なら私でもよいが…
…)、ただぼんやりと起きて、ただぼんやりと、気が向くまま、一日を過ごすとしたら、そ
れこそ、時間の無駄ということになる。

 が、そのとき、心のどこかで、「今日というこの日は、一日しかない」と思えば、一日の
過ごし方も変わってくる。

 ……と、話が繰りかえしになってきたので、この話は、ここまで。

 最後に一言。この「死への先駆的決意」という言葉は、実存主義の世界では、常識的な
言葉になっている。実存主義の世界では、いつも、「死」が、大きなテーマになる。「生」
は、その「死」の裏がえしの世界にあると、とらえる。この「死への先駆的決意」という
概念も、その一つだが、私たちが学生時代のころには、「死への恐怖」とか、「不条理」と
かいう言葉で、それを学んだように記憶している。哲学のT教授が、「死は不条理なり!」
と、私たち学生に向って叫んだのが、私の印象に残っている。

 むずかしい話はさておき、要は、毎日を、日々の健康を大切にしながら、懸命に生きる
ことこそ、大切ということ。

 みなさん、今日も、がんばりましょう!
(はやし浩司 死への先駆的決意 先駆的決意)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●意識と無意識

 私は、今、パソコンの画面を見ている。キーボードも見ている。そしてたった今、道路
を走りすぎた、車の音を聞いた。

 これは、意識の世界での、できごとである。

 しかしその意識の下には、無意識の世界がある。無意識といっても、意識がないわけで
はない。意識はあるのだろうが、それを意識の世界から、知ることができないというだけ
である。だから正確には、「無意識」ではなく、「無自覚意識」ということになる

 たとえば、朝起きたとき、体が重かったとする。いつもなら、パッと身を起こすことが
できる。が、今朝はできない。

 そのとき、意識の世界で、私は、あれこれ、考える。そしてこう思う。「きっと、昨日は
雨で、運動ができなかったせいだ」と。

 しかしそのとき、無意識の世界でも、同時に、あれこれ、考える。「今日は、運動をしよ
う」「昨日、できなかったから、今日は、2倍の運動を、しよう」「ビタミン不足かもしれ
ない」「睡眠不足かもしれない。昨夜、遅くまで、ビデオを見ていた。あれが悪かった」「ひ
ょっとしたら、風邪をひいたのかもしれない」と。

 しかし無意識の世界で、私がそう考えていることなど、私は、知る由もない。

 が、無意識の世界の私は、その時点から、私のその日の行動のあり方を決めようとする。
「ビタミン剤を朝食のあとに、のもう」「昼になったら、近くの本屋まで、自転車で走って
みよう」などなど。

 つまり、すでにそのとき、私の意思は、決まっていたことになる。しかし私は、まだそ
れに気がついていない。いつものように、起きて、書斎に入る。パソコンに電源を入れて、
その日のニュースに目を通す。メールを読む。頭がぼんやりしているときは、将棋がよい。
パソコンを相手に、将棋を始める。しかし形勢が悪くなると、その場で、やめる。

 そしてまたメールをのぞく。

 原稿を書くのは、そのあと。パチパチと、原稿を書き始めるころになると、やがてワイ
フがおきてきて、朝食の用意を始める。その音が、階下の台所のほうから聞こえてくる。

 こうして1時間ほどが過ぎたところで、階下から、ワイフが、こう言う。「あなた、用意
できたわよ。食べる?」と。いつものルーティーン(日常茶飯事)である。

 で、私は、居間へおりていって、朝食をとり始める。

私「今朝は、どうも体が重い」
ワ「風邪でもひいたの?」
私「ううん、風邪じゃ、ないと思う。食事が終わったら、ビタミン剤をのんでみるよ」
ワ「そうね」と。

 そして私は、また書斎にもどる。今度の講演のレジュメを作る。プリントアウトする。
そしてまた1、2時間がすぎる。

 私は、ふとこう思う。「そうだ、本屋へ行ってこよう。今日、発売の雑誌がある。自転車
で行けば、いい運動になる」と。

 私は、私の無意識の世界の私に操られていることも知らず、自転車にまたがり、本屋へ
と向う。

 つまりこうして意識の世界のウラで、無意識の世界が、勝手にいつも活動している。そ
してその無意識の世界は、いつも、意識の世界を、そのウラから操る。私たちが、「意思」
と呼んでいるものは、実は、その前に、無意識の世界でつくられた意識ということになる。

 ……こう書くと、「では、自分の意思はないのか」「自分の意思で決めたり、行動するこ
とはないのか」ということになる。

 実は、私のワイフが、そう聞いた。

 で、私は、そばにあった扇風機を指さしながら、こう言った。「これから、その扇風機を、
足で蹴とばして、こわせば、それはひょっとしたら、自分の意思かもしれない。いくら何
でも、無意識の世界でも、そこまでは考えていなかっただろうから」と。

 もちろん、すべてが、無意識の世界に操られているというわけではない。自分の意思も、
ある。その時点で、自分で考えて、自分で判断するということはある。

 しかし無意識の世界は、私たちが意識している世界より、はるかに広い。脳みそのキャ
パシティ(容量)で考えても、意識している部分などは、脳ミソの中でも、ほんの一部。
一説によると、数10万分の1程度ともいう。実際のところは、わからない。

 だから意識している部分が、いくらがんばっても、無意識の世界のことをすべて意識す
るのは、不可能に近い。そう断言してもよい。

 私が、「ううん、食事が終わったら、ビタミン剤をのんでみるよ」「そうだ、本屋へ行っ
てこよう。今日、発売の雑誌がある。自転車で行けば、いい運動になる」と言ったとして
も、それはそのときの自分の意思で、そう言ったのではない。

 そのように言うことは、その前に、すでに、無意識の世界で、決められていたことであ
る。

(……と、断言するのも危険なことかもしれないが、その可能性はきわめて、高い。とい
うのも、そのように決められていたということを知ることさえ、私は、できないからであ
る。)

 さて、今、私はこの原稿を書きながら、ふと、今、こう思った。無意識の世界では、今
ごろ、私は、何を考えているのだろう、と。
(はやし浩司 意識 無意識 意識の世界 無意識の世界)

【追記】

 一方、こんなこともある。

 たとえば先日も、こんなことがあった。夜、仕事が終わって、教室を片づけ、外に出た
ときのこと。しばらく自転車に乗ったあと、ふと、「クーラーの電源を切ったかな?」と。

 どう思い出してみても、クーラーの電源を切ったという実感が、ない。そこで不安にな
って、教室へもどってみる。

 クーラーの電源は、切ってあった。

 つまり私は、そのとき、いつものことなので、無意識のうちに、つまり何も意識しない
まま、クーラーの電源を切ったことになる。「忘れた」とか、「覚えていない」という次元
の話ではない。無意識の世界の命令に従って、私は、クーラーの電源を切った。

 これなどは、無意識の世界の私が、勝手に、私を操って動かした、その一例ということ
になる。もっと言えば、無意識の世界の私が、意識の世界の私を飛び越えて、私を操った
ということになる。

 無意識の世界が、そういうふうに、私を動かすこともある。

 おもしろい現象なので、ここに書きとめておくことにする。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●詮索(せんさく)

 世の中には、損にも得にもならないのに、よく、他人の生活を詮索したがる人がいる。

 「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と言った、バカさえいた。

 で、私自身がその不幸な状態になったときのこと。そのとき、あれこれ電話をかけてき
たり、メールをくれた人がいた。一応、心配して、それらしい言い方や、書き方をしてく
る。しかし本当のところは、私の不幸話が、おもしろくて、しかたないのだ。

 で、そういう人の決まり文句がある。

 「今朝、林君の夢を見たから、少し、気になってね……」と。下心、見え見え。

 こちらは、相手が思っているほど、バカではない。それにそんな人に、心配してもらう
ような立場でもないし、何かをしてもらおうなどと思ったこともない。だいたいにおいて、
そういうときばかりをねらって、電話をかけてきたり、メールをくれたりする。

 ところが、私の姉などは、気がやさしいというか、楽天的というか、そういう相手の意
図が見抜けない。見抜けないばかりか、相手に、ペラペラと、内輪の話を漏らしてしまう。
そこで私が、「相手を選びなよ」「そういうことを話すと、一週間のうちに、近所の話題に
なってしまうよ」と注意する。

 私の住んでいる世界と、姉の住んでいる世界とでは、きびしさが、かなりちがう。……
らしい。
 
 私は、このことに、かなり若いころ、気づいた。いつだったかは忘れたが、そういう相
手を見抜くことができるようになった。そこでつぎに考えたのは、「どうして、そういう人
たちは、そうまで他人の不幸話に、クビをつっこみたがるのか」ということ。

 結局は、「私」がない人ほど、他人の不幸を詮索したがるということか。他人の生活が、
自分の生活を知る尺度になる。そういう尺度でしか、ものを考えることができない。

 以来、つまりそのことに気づいてから、私は、こう心に決めた。「他人の生活を詮索しな
い」と。とくに、相手が不幸な状態にあると思われるようなときは、そうである。相手が、
相談してきたのなら、話は別。しかしそうでないのなら、こちら側から、電話をかけたり、
メールを出したりするものではない。

 そういう行為は相手に対して、ものすごく失敬なことであると同時に、相手の心の中の
キズ口を、手でえぐるようなことにもなりかねない。そっと静かにしておいてやることこ
そ、エチケットというもの。

 詮索……本当に、不愉快な言葉である。

【付記】

 世の中には、無神経な人は多い。子どもの受験に関しても、顔をあわせたとたん、「お宅
の子は、どこを受験しますか」「受験の結果はどうでしたか」などと、話しかけてくる人が
いる。

 こうした質問は、なんでもない人には、なんでもない。しかしそうでない人には、そう
でない。だから、こう覚えておくとよい。『受験生をかかえた、受験家族は、病人家族』と。

 「あなたの病名は、何?」「余命は、あと何年?」と、相手に聞くのと同じくらい失敬な
こと。それを忘れてはいけない。

 そっと、しておいてあげることこそ、大切。もちろん相手のほうから話題にしてきたと
きは、別。そのときは、親身になって、相談にのってあげればよい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ウィルスで遊ぶ

 一台、古いノートパソコンがある。もう10年ほど前に買ったパソコンである。(しかし
当時の値段で、24万円ほどしたぞ!)

 しかし今は、キーの一つがこわれ、画面にも、白い線が現れるようになった。寿命が尽
きるのも近い。

 しかしパソコンというのは、不思議な機械だ。だからといって、捨てる気にはならない。
……なれない。買ったときの感動が、忘れられない。それに使い古したパソコンほど、愛
着が残る。すり減ったキーボードには、それなりの味がある。

 が、寿命は、寿命。今は、ワードで文書作り程度の仕事しか、させていない。またAD
SLには対応していないので、(やろうと思えばできるが、メモリーが、64MBしかない)、
インターネットはできない。が、ときどき、電話回線で、ネットにつなぐことはある。あ
のピーゴロゴロ、ブォーッ……という音が、なつかしい。

 で、そんなある日。その電話回線につないでみた。ピーゴロゴロ……、と。

 すぐ、おかしなメールが届いた。

 いつものスパムメールである。こうしたスパムメールは、件名を読むこともなく、その
まま削除している。が、そのときは、ちがった。古いパソコンである。好奇心も、あった。
軽い気持ちだった。件名には、「緊急のお知らせです。承諾しました」とある。そのメール
を開いてみた。

 そして文面を開くと、そこには、こうあった。

(こんにちは、ごくろうさま・・・・・・・・・・・・・・・エヘヘ)と。

 「しまった!」と思ったが、時すでに、遅し。何かのウィルスが侵入してしまった。…
…とそのときは、そう思った。

 で、それから数日は、何ごともなく過ぎた。が、パソコンの変調は、少しずつ、始まっ
た。

 ワードで文字を打っても、別の文字が出る。行を勝手に飛ばす。その行に文字を打ちこ
んでも、数行上にとか、下に、その打ちこんだ文字が現れる。「KA」と「か」にするつも
りで打ちこんでも、「あk」と反対に表示されてしまう、などなど。

 今のところワードしか、使っていないので、ワードでの変調しかわからない。しかしウ
ィルスのいたずらを、具体的に見たのは、私にとっても、はじめてのことだった。「なるほ
ど、こんなことをするのか」と、変に感心しながら、あれこれ試してみた。おもしろかっ
た。そこでこうしてウィルスと遊びながら、その変調を、記しておくことにした。

 ……とまあ、のんきなことを書いたが、みなさんも、どうかお気をつけください。大切
なことは、こうしたスパムメールは、どんなことがあっても、ぜったいに、開かないこと。
心を鬼にして、開かないこと。いわんや、その中のファイルを開いたり、文面の中のHP
に、アクセスしたりしないこと。ちょっとした油断、スキ、好奇心が、そのまま命取りに
なります。

 ワルの世界は、ますます巧妙になってきている。そう言えば、数日前、ウィルス駆除ソ
フトメーカーの、M社から、「パスワード確認」のメールが届いた。

 文面を開くと、すべて英文。よく読むと、「パスワードの再確認をしたいから、M社のH
Pにアクセスして、再登録してほしい」という内容。

 しかし今まで、そんなことは一度もなかった。それに英文というところが、おかしい。
私はM社のソフトは使っているが、日本語版。私は、今はやりの、フィッシング詐欺と判
断した。で、即、削除。

 この世界、本当に、油断もスキもあったものではない。ホント!

++++++++++++++

たった今も、こんな件名の、スパムメールが、3通も届いた。

(件名)SOS……SOS……
(件名)おめでとうございます。3000円分の商品券が当たりました。
(件名)緊急、どうか連絡してください

 だいたい、「3000円分」と、「分」をつけるところがおかしい。多分、本文には、「紹
介料は1万円だが、3000円分の商品券が当たったので、7000円になります」とか、
なんとか、書いてあるのだろう。こういうスパムメールを出している連中は、電子的な知
識は豊富だが、論理的な思考力に欠ける。文を読めば、それがわかる。

 バカめ!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●年賀状の季節

 パソコンショップへ行ったら、年賀状作成ソフトが、並んでいた。CDによる素材つき
の本も、並び始めた。またまた年賀状の季節になった。ワイフがそれを見て、「年々、早く
なっているみたい」と言った。

 私は、来年度(06年度)から、年賀状を出すのも、もらうのも、やめようと思う。一
度にすべてをやめるわけにはいかないが、しかしこうした虚礼に、(まさに虚礼!)、どれ
ほどの意味があるというのか。

 P社(筆記用具製造会社)が実施したアンケート調査によれば、02年度に「年賀状を
出す」と答えた人は、前回(前年?)調査より8.0ポイントも減り、88・9%になっ
たという。若者、とくに学生の中には、年賀状とは無縁という人も多い。今では、新年の
あいさつは、携帯電話ですますという。

 この傾向は、ますます加速することはあっても、逆行することはない。

 住所も文面も、今では、パソコンで作成する。干支(えと)というのがあるが、「え・え
と、来年は、何歳(なにどし)だったかな?」というのは、シャレにもならない。ヒツジ
だろうが、ウサギだろうが、そうした動物を、その年に当てはめたところで、それがどう
いう意味をもつというのだろう。

 こういう私の意見に対して、「伝統は守るべき」「元旦に、知りあいの消息を知ることは
楽しみ」などと反論する人も多い。

 しかし伝統は伝統でも、作られた伝統。私が小学生のころは、国をあげて、年賀状交換
促進運動がなされた。学校でも、年末になると、まさに年賀状づくり一色。私たちは何か
に踊らされるまま、受け取った年賀状の枚数を、競った。

 で、一時は、1000枚を超えた年賀状だが、私は、毎年、数百枚単位で減らしている。
今年は、もっと減らすつもり。あるいは、「年賀状、廃止宣言」をするかもしれない。つま
り年賀状などというものは、それを出したい人が、出したい人に出せばよい。虚礼を感じ
たら、さっさとやめればよい。

 資源のムダ。お金のムダ。

 そのかわり、今年からは、パソコンを使った年賀状は、やめよう。(自信はないが……。)
文面も絵柄も、手で書く。この方法だと、20〜50枚の年賀状を書くのが限度かもしれ
ない。が、それでよい。そのほうが、よい。

 便利になった世界だが、もう一度、原点にかえって、年賀状を考えなおしてみたい。

【補記】

 年賀状をくれた人には、返事を書く。そういう習慣が積もり積もって、一時は、100
0枚を超えた。しかし年賀状をくれた人に、返事を書かないというのも、どうか? 

 私は一つの目安として、正月3日までに年賀状をくれた人には、返事を書くことにして
いる。4日以後に届いた年賀状については、返事を書くのを遠慮させてもらっている。こ
こ数年は、そうしている。

【毎年、私に年賀状をくれるみなさんへ、】

 こうした私の勝手を、どうかお許しください。そのかわり、HPのほうで、楽しい年賀
状を、用意しておきます。どうか、ご覧になってください。


【追記】

 先日、恩師のT先生に会ったら、T先生は、こう言った。「私は、死ぬときも、だれにも
連絡しないで、死のうと思っていますよ」と。

 そこで私が、「先生のことを、放っておく人はいませんよ」と言うと、先生は、どこか、
はにかんだ様子を見せながら笑った。日本の科学を、戦後、ずっと背負ってきた先生であ
る。先生は、「いやだ」と言っても、先生の弟子たちは、全国の大学で活躍している。東大
だけでも、教授になった人は、2桁もいるという。

 しかし先生の気持ちも、わからないわけではない。もともと表立った騒動が嫌いな先生
である。で、そのT先生の影響を受けたというわけでもないが、私も、死ぬときは、静か
に死にたい。だれにも知られず、ごく身内の人たちだけと、別れをしたい。

 昨夜も、そのことをワイフに話した。

 「ぼくが死んだら、遺灰は、きれいな壷(つぼ)か何かに入れて、どこかにしまってお
いてほしい。あとのことは、お前に任せるよ。それと葬式は、しなくてもいい。墓はいら
ない。お前が死んだら、お前が望むならの話だが、お前の遺灰とまぜてほしい。あとのこ
とは、息子たちに任せる。どこかへ捨てたければ、捨てればいい。気にしない」と。

 T先生のように、これから先、何百年も日本の歴史に残る人もいる。しかしこの私とな
ると、どうせ、社会のゴミの、そのまたゴミ。死んだと同時に、世界から消え、人々の記
憶からも消える。そんな私が、一時の葬式をして、何になる?

 考えてみれば、毎日が、私にとっては、その葬式のようなもの。一日生きて、その日の
夜には、死ぬ。それを毎日、繰りかえしている。

 大切なのは、遺灰ではなく、その人が、どう生きたかということ。私について言えば、
いつか、だれかが、はやし浩司に気がついて、私の書いた文章を読んでくれれば、それで
よい。それ以上、何を望むのか。望むことができるのか。

 どうせ派手な葬式など、望むべくもない。……ただ、だからといって、誤解しないでほ
しい。私は、派手な葬式をしてほしいなどと思ったことは、一度もない。したい人や、そ
れができる人はそれをすればよい。しかし私は、そういうことには、まったく、関心がな
い。それだけのこと。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゆがめられる意識

++++++++++++++++++

あのM号の内部が、報道機関によって、
紹介された。それを見て、私の頭の中の
神経細胞は、ショートした。

バチバチと……。

++++++++++++++++++

 新潟県の新潟港と、K国のG港を結ぶ、貨客船がある。M号という、あの船である。そ
のM号の内部が、テレビで先日、公開された。

 新潟港からG港へ向う、船の中。場面は、夕食の後の団欒(だんらん)の時間になった。
まず、K国の女性接客員たちが、歌と踊りを披露する。チョゴリ、チマをきて、例によっ
て例のごとく、どこか不自然な笑みを浮かべながら……。

 が、そこまでは私にも理解できる。しかしそのつぎの場面になったとき、私の頭の中の
神経細胞が、ショートした。

 返礼に、というわけでもないのだろうが、在日朝鮮人大学校の女子学生たちが、歌を歌
い始めた。にこやかに笑いながら……。が、その歌詞に、私は驚いた。

 「♪敵が……崩壊する。敵が……崩壊する」と。

 彼女たちの言う「敵」というのは、言うまでもなく、この日本やアメリカをさす。

 もっとも彼女たちは、戦時中に朝鮮半島から強制連行されてきた、韓国人やK国人の、
3世とか4世である。「君たちは、日本人だ」と言えば、「そうではない」と答える。しか
し「君たちは日本人ではない」と言うと、血相を変えて怒りだす。

 どこかよく理解できない人たちである。

 だから、そういう女学生たちが、「♪敵が……崩壊する」と歌ったところで、何も、おか
しくない。それに、彼女たちが、何をどう歌おうが、それは彼女たちの自由。(しかしそう
いう場で、そういう歌を歌うのもどうか?)

 しかし私が理解できないのは、このことではない。

 彼女たちは、日本に住んで、日本で教育を受けている。日常的に、K国の日常も、伝え
知っているはず。一方、今どき、韓国やK国に敵意をもっている日本人は、いない。「嫌い」
という人は多いかもしれないが、「敵」ではない。

 それに今の日本に、そしてアメリカに、K国を侵略する意図など、毛頭ない。頼まれて
も、断るだろう。そういう日本の姿勢や、日本人の心情を、彼女たちが、知らぬはずがな
い。

 さらにここにも書いたように、K国の実情も、そのつど、日本に伝えられている。K国
にはないかもしれないが、この日本には、報道の自由もあれば、言論の自由もある。ほん
の少しだけ常識を働かせれば、(それは日本の常識かもしれないが)、日本が今、どういう
国であるか、わかるはず。K国が今、どういう国か、わかるはず。

 にもかかわらず、「♪敵が……崩壊する」と。

 もし本気で、彼女たちが、日本やアメリカの崩壊を望んでいるのなら、どうしてこの日
本に住むことができるのか。「住んではいけない」と言っているのではない。私なら自己矛
盾を起こして、とても、日本には、住めないだろうということ。

 こうしたK国の人たちの独特の心情について、(韓国の人たちの心情にも共通しているが
……)、「それは教育によるものだ」と説明する人がいる(「文藝春秋」・11月号、某外務
審議官)。

 しかし教育だけで、そういう心情になるものなのだろうか。私は、彼女たちをして、そ
うさせる、もう一つ別のファクターがあると思う。

 そのファクターというのは、(貧しさ)というファクターである。

 彼女たちは、日常的に、K国、つまり自分たちの母国の貧しさを、見ている。報道番組
でも、よく紹介されている。そういう(貧しさ)を見ながら、その落差を、彼女たちは、
日本やアメリカのような豊かな国に対して、「矛盾」と感じているのではないか。

 それはちょうど、借金に追われ、その日の生活をするだけで精一杯という人が、金持ち
に札束を見せつけられるようなものである。「うらやましい」と思う前に、そして自分たち
の貧しさを嘆く前に、その金持ちに対して、反感を覚える。

 つまり彼女たちは、日常的に、日本やアメリカの豊かさを見せつけられながら、それを
(反感)に、転化しているのではないか。

 そのあたりまで、踏みこまないと、彼女たちの心情を理解することができない。

 テレビのレポーターは、あえて何もコメントをつけなかった。つけたくても、できなか
ったのだろう。監視の目も、ある。日本の報道機関が、M号に乗船できるということだけ
でも、たいへんなことなのだ。

 しかし言いたいことはわかった。その場面を見ていた、私たちに、それが伝わった。だ
から、私の頭の神経細胞は、ショートした。バチバチと。恐らく、それを見ていた、多く
の日本人も、そうではなかったか。

 ……それにしても、私は改めて、意識とは何か、考えさせられた。私たちがもっている
意識というのは、絶対的なものではないということ。同時に、彼女たちがもっている意識
が、まちがっているということでもないということ。

 意識というのは、そのつど、つくられる。変化する。そしてこうした意識が、そのとき
どきに応じて、その人をウラから操る。

 その女学生たちが、あまりにも明るい笑顔で、かつ楽しそうにその歌を歌っていたので、
よけいに、強く、私は、そう思った。
(はやし浩司 作られる意識 ゆがめられる意識)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●台湾問題は、日本の問題

++++++++++++++++++++++

どうして、中国は、日本が主張する経済水域の中で、
ガス油田の開発および採掘を始めたのか。

どうして日本の抗議に対して、中国は耳を貸そうと
しないのか。

実は、この問題に裏には、台湾、さらには沖縄(琉球)
の領有権問題がからんでいる。

雑誌「諸君」(11月号)の中の記事を参考に、この
問題を考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

 中国と台湾。その中国は、台湾は、中国の領土と主張し、もし台湾が独立宣言をするよ
うなことがあれば、中国は武力介入も辞さないと、ことあるごとに宣言している。

 つまり台湾の独立は、許さない、というわけである。

 しかし、この問題は、そのまま日本の問題と考えてよい。中国に視点を置いてみれば、
それがわかる。中国の東には、台湾がある。しかしその台湾の向こうには、沖縄(琉球)
がある。もし台湾が独立してしまえば、沖縄(琉球)は、ますます、中国から遠ざかって
しまう。

 仮に台湾が、中国の領土の一部になれば、つぎに中国が領有権を主張してくるのは、実
は、沖縄(琉球)なのである。これは私の被害妄想でも、憶測でも、何でもない。

 連合国は、ポツダム宣言(1945)によって、日本の敗戦を明確に位置づけた。しか
しそのポツダム宣言の前に、ヤルタ協定(同、1945)、さらにその前に、エジプトのカ
イロでなされたカイロ宣言(1943)がある。

 そのカイロ宣言の中には、「日本は、中国から奪取したすべての領土を、中国に返還すべ
き」という一文があるが、中国は、その中には、台湾はもちろんのこと、沖縄(琉球)も
含まれると主張した。毛沢東が、その人である。毛沢東は、その著書、『中国革命と中国共
産党』の中で、「沖縄(琉球)は、日本が中国から奪った領土である」と書いている(中西
輝政氏、指摘・「諸君」11月号)。

 ……こう書くと、「沖縄が、中国の領土だって?」と思う人がいるかもしれない。しかし
ここは、明確に述べておかねばならない。

琉球王朝、つまり沖縄は、江戸時代においては、薩摩の「附庸国」であると同時に、明
と清との朝貢関係をもっていた。つまり沖縄(琉球)は、幕藩体制の中では、一応、日
本の「領分」としながらも、日本では異国として扱われていたのである。

 が、1871年、宮古・八重山島民が台湾に漂着し、54人が、台湾島民に殺害される
という事件が起きた。これに対して時の明治政府は、「日本国民を殺害した」として清国に
抗議、台湾へ出兵。そしてそのあと、日本は、北京条約で、清に沖縄(琉球)の日本への
帰属を認めさせる(参考、中島成久氏ゼミ資料)。

 こういう流れからみると、つまりどこか力ずくで、沖縄(琉球)を日本の領土としてき
たという流れからみると、「沖縄(琉球)は、中国の領土である」と、中国が主張しても、
どこもおかしくない。少なくとも、「沖縄は、日本の領土である」という主張には、歴史的
根拠があまりない。つまりここが、日本の最大のアキレス腱ということになる。

 しかしその中国が、沖縄をあきらめたわけではない。かろうじて、本当にかろうじて、
今、中国がそれを主張しないのは、台湾問題があるからにほかならない。台湾が、中国の
コブなら、沖縄(琉球)は、そのコブの上のコブにすぎない。「沖縄(琉球)が、中国の領
土である」ということを主張するためには、まず台湾を、自分の領土に組みこまねばなら
ない。

 わかりやすく言えば、台湾が、大きな壁となって、中国と日本の間に、またがっている。
中国にしてみれば、まず、台湾問題なのである。

 つまりもうおわかりかと思うが、台湾問題が片づけば、つぎにやってくるのが、沖縄(琉
球)問題である。「台湾問題は、日本に関係ない」などと思っていたら、たいへんなまちが
いである。現に今、「沖縄は中国の領土である」と主張する知識人が、中国国内で、ふえ始
めている。

 一方、ここ1、2年、米中関係は、急速に悪化の一途をたどっている。新たな冷戦時代
の始まりと説明する人も多い。最近になってアメリカのライス国務次官も、中国を、「明ら
かな脅威」と位置づけ始めている(05年8月)。台湾や日本にとって、脅威という意味で
はない。アメリカ本土にとって、脅威という意味である。

 事実、それに呼応するかのように、中国の軍の近代化と拡充には、ものすごいものがあ
る。軍事費にしても、公表されている数字の3倍近くはあると言われている。あるいは、
それ以上かもしれない。

 そこで、その中国がなぜ、こうまで、軍事力の拡充に熱を入れるかといえば、すでに中
国は、台湾や日本を飛び越して、アメリカとの戦争を、念頭に置いているからに、ほかな
らない。その中国は、これまたことあるごとに、「もし中台戦争にアメリカが介入してくる
ようなことがあれば、アメリカとの対決も辞さない」と主張している。

 中西輝政氏は、つぎのような事実も指摘している。

 「この(05年)7月、中国国防大学のエリート、朱成虎少将が多くの欧米記者を前に、
『アメリカが中台の武力紛争に介入したときには、中国は、アメリカ本土に、戦略核ミサ
イルによる先制攻撃を加える』という警告を発した」(同、「諸君」11月号)と。

 そうなれば、沖縄はもちろん、日本の本土すらも、中国の核攻撃の対象となる。

 ……とまあ、こうした物騒な話はさておき、中国は、日本の主張する経済水域を、そも
そも認めていない。だから平気で、その中で、ガス油田の開発、採掘をすることができる。
だからいくら日本が抗議の、のろしをあげても、どこ吹く風。中国は、これから先も、ま
すます堂々と、日本の経済水域内に入ってきて、ガス油田の開発、採掘をするだろう。

ワイフ「そう言えば、沖縄って、日本とは、ちがうという感じがしていたわ」
私「あまり、そういうことは言わないほうがいい。もしそんなことを、日本人のお前が言
っていることを知ったら、中国人は、『そら、みろ!』と喜んで、飛びついてくるかもよ」
ワ「でも、事実は事実だから……」
私「日本としては、何としても、米中関係の悪化を、阻止しなければならない。これ以上、
悪化すれば、日本の平和どころの問題では、なくなってしまう」
ワ「K国の核開発問題も、どこかへ吹っ飛んでしまうわね」
私「そういうこと」と。

 こうした中国の野望を封じこめるための方法は、2つある。一つは、中国の民主化運動
を、側面から支援して、中国を民主化すること。ブッシュ大統領も、「世界を民主化するこ
とが、世界に平和をもたらす方法」というようなことを言っている。

 もう一つは、日本、東南アジアからインドにかけて、中国包囲網を構築すること。とく
に重要なカギを握るのが、すでに核保有国となったインドである。すでに、アメリカも日
本も、その方向で進んでいる。中国が、軍拡をつづけているかぎり、日本は、中国とはど
こかで一線を画す。でないと、それこそ敵に、塩を送るようなことになりかねない。

 ……とまあ、いっぱしの外交評論家のようなことを書いてしまったが、しかしこれらの
問題はそのまま、私たち自身の問題である。日本の平和と安全に、直接かかわってくる問
題である。これからも、これらの問題を追求していきたい。
(参考、「国家の覚悟が問われる秋」by中西輝政、「諸君」11月号)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 7日(No.646)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今、学校では……】

●習熟度別クラス

 習熟度というほど、おおげさではないが、子どもの能力と、やる気に合わせて、クラス
を分けて授業を進めるという方法が、この浜松市でも、あちこちの小学校で採用されてい
る。

 現在は、まだ、試行錯誤の段階で、そうした授業を、親たちに参観させながら、そのあ
とアンケート調査をするところも多い。

 で、一応、親たちは、それを、「習熟度別授業」と、理解している。

 従来(2〜3年前から)は、小学3〜4年生クラスにおいて、実験的に、特定の教科に
ついて、こうしたクラス分けがなされていた。たとえば理科の実験などでは、人数を減ら
して、マンツーマンで教えるなど。

 ほかに小学1年生については、国語の学習で、とくに遅れが目立つ子どもについてなど
は、個人レッスンの形で、やはりクラス分けがなされていた。これを「個別指導」という
が、時間的は、それほど、長いものではない。平均して、20〜30分程度である。

 しかしこれは習熟度別というのではなく、ここにも書いたように、個人レッスン的な色
彩が濃いものであった。こうした授業形態を、「小(こ)人数クラス」と呼び、「少人数ク
ラス」とは、区別していた。

 こうした授業に対して、浜松市内の大規模校を中心に、(1)テストの結果などを参考に、
(2)日ごろの観察、(3)子どもの自主性、(4)親の希望を取り入れて、習熟度別授業
をもつところが、ふえてきた。

 「まだ、(本格的に)、しているところと、していないところがある」(某小学校教頭談)
とのこと。

 こうした習熟度別授業は、(1)固定化しているわけではなく、そのつど、流動的に生徒
が、それぞれのクラスを移動する。(2)クラス分けは、均等分けするときもあるし、そう
でないときもある。たとえば2クラスを、3クラスに分けて授業をするときは、均等分け
にしたりする。

 実験的な措置として、特定の学校のみに、1人、余分な教師が派遣されることもある。(大
規模校には、2人)。そういう教師を利用して、2クラスを3クラスに分けるときもある。

科目によっては、とくに算数などの差のつきやすい科目については、Aクラス(レベル
高)を、10〜20%前後、Cクラス(レベル低)を、10〜20%前後にし、中位の
Bクラス(レベル中)のそのほかの生徒を置くということがなされている。

クラス名は、「上下意識」を感じさせないように、「木の実クラス」「さくらクラス」「か
もめクラス」というようなネーミングをつけるところが多い。が、こうした授業が、教
師に与える負担も、相当なものである。

 これについて、以前、つぎのような原稿を書いたので、再掲載する。

++++++++++++++++++++

●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たい
てい、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価した
り、教材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間にな
ってしまったという(某、小学校校長談)。(学校によっては、1週間に、平均して3時間
程度というところもある。文科省の指導に従えば、週1時間程度になるが、学校ごとに、
やりくりをして、3時間程度を確保している。なお、中学校では、平均して7〜8時間程
度の、空き時間がある。浜松市内)

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見るこ
とは、めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、
習熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラス
を、2人の先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったた
めです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だ
けを追い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が
続出している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりま
え。さらにこのところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革な
どで、自宅へ帰るのは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここ
まで追いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たっ
た1〜2人の自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生
に押しつけて、「何とかしろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ
2000年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進
学競争が、激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。
さて、みなさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学
熱 進学指導 詰め込み教育)

++++++++++++++++++++

 今後は、こうした習熟度別教室は、一部の抵抗もあるだろうが、学校内で定着していく
ものと思われる。実際には、当初は、どこか遠慮がちに始まった習熟度別授業だったが、
市内の小学校を中心に、新たな単元が始まるたびに、簡単なテストをして、そのあと、ク
ラス分けをするところがふえてきた。

 もちろん、問題点がないわけではない。

 教師の負担もさることながら、こうした習熟度別授業は、親たちに、少なからず、ショ
ックを与えている。たとえば習熟度別授業を参観してきた、ある母親は、こう言っている。
学校の帰り道、親たちはみな、進学塾はどうしようと、そんな話ばかりしていました、と。

こうした習熟度別授業は、平等主義を貫いてきた学校教育に、大きな変化をもたらすこ
とはもちろんのこと、子どもたちの間で、差別化を生む可能性もある。それをどう克服
していくか、これからの大きな課題になるものと思われる。


●過酷な職場

+++++++++++++++++

学校の先生たちが、悲鳴をあげている。
あなたには、その悲鳴が聞こえるだろうか?

+++++++++++++++++

 教育は、重労働である。とくに、小学校教育は、そうである。

 たとえば水泳指導したあと、生徒たちといっしょに着替え、つぎの時間には、クラスで
算数を教えなければならない。

 そのためかなりの体力と気力を、必要とする。

 で、現実問題として、この浜松市でも、55歳をすぎて教師をしている、女性教師は、
ほとんどいない。女性教師のばあい、たいていの教師は、50歳前後に退職していく。「水
泳指導ができなくなったら、教師はやめる」というのが、一つの目安になっているという。

 学校の教師のばあい、50歳少し前に、管理職に向うかどうかが、決まる。管理職にな
れば、学級担任からはずされるが、それは校長と教頭、教務主任のほか、あと1名程度。
そこでもっと、女性教師を管理職に回せばよいということになるが、これもむずかしい。

 浜松北部の、旧HK市のばあい、小学校は18校あるが、去年まで、女性校長は3人い
た。しかし2人、退職したので、現在(05年度)は、1人のみ。

 そうでない教師は、学級担任をつづける。が、50歳過ぎてからの、学級担任は、きつ
い。男性教師にとっても、事情は、同じ。

 ますます拡大する教師の仕事。今では、家庭問題にまで教師が駆り出される時代である。
「子どもが警察につかまった。いっしょに行ってくれ」「子どもが家出をした。いっしょに
さがしてくれ」と。

 本来なら、教師は教育に専念すべきである。またそれをもって「教師」という。しかし
雑務、雑務の連続。これでは、本来の教育がおろそかになって当然。「これでいいのか」と
疑問をもつのは、私だけではないと思う。


●家庭問題が、そのまま学校に!

++++++++++++++++++++

 以前、荒れた学校が、問題になった。
しかし今は、問題になっていない?

実は問題になっていないのではなく、
荒れた学校が、当たり前になってしまった。

++++++++++++++++++++

 今どき、荒れた学校を問題にする人はいない。教師も、父母も、そして評論家も。それ
が当たり前の現象になってしまったからである。

 しかし「荒れ」は「荒れ」でも、以前とは、少し質が変わってきた。H市で小学校の校
長をしているN氏は、こう話してくれた。

 「以前は、荒れというと、暴力事件を言いました。しかし今は、少し質が変わってきた
ように感じます。つまり今は、家庭問題が、そのまま学校へ持ちこまれるようになりまし
た。

 家庭騒動、親の離婚、貧困などなど。親の心の問題が、そのまま持ちこまれることもあ
ります。引きこもり傾向を示す生徒がいたので、家庭訪問をしたら、親が出てこない。つ
まり親自身も、引きこもってしまっているのですね。

 そういう子どもが、学校の内部で、いろいろな問題を引き起こします。最近の荒れは、
そうして起こるものが多いです」と。

 ついでに言うと、その校長も、あの「金P先生」を、鋭く、批判していた。「ああいうあ
りもしない教師像を、マスコミが勝手につくり出すから、かえって、現場は混乱してしま
うのです。

たとえばあの番組の中で、非行グループが、自転車のチェーンを振り回したとしますね。
するとつぎの日には、本当にそのチェーンをもって、学校へ来る生徒が出てきたりしま
す」と。

 金P先生については、私も、たびたび批判してきた。ああいう教師を見て、「教師とは、
こうあるべきだ」と考えるとしたら、それはまちがい。よくテレビドラマの中で、警官と
悪党が、ピストルでバンバンと撃ちあうシーンがある。

 それと同じくらい、金P先生の世界は、ありえない。たとえば金P先生は、非行少年の
家の中にあがりこみ、その少年の父親といっしょに、酒を飲んで、人生論を語りあったり
する。

 しかしそれが教師のあるべき姿なのか。そこまでしてよいのか。あるいは、それこそま
さに、教師の(おごり)ではないのか。いや、その前に、体力そのものが、つづかない。
20〜30人もの子どもを相手にすることだけでも、重労働である。その上での、教育で
ある。

 その金P先生について書いた原稿が、つぎのものである(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++++++

教師が10%のニヒリズムをもつとき 

●10%のニヒリズム

 教師の世界には10%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭して
も、最後の10%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズ
タズタにされてしまう。

たとえばテレビドラマに『三年B組、金P先生』というのがある。武田T也氏が演ずる
金P先生は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。それはちょう
ど刑事ドラマの中で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうようなもの。ドラ
マとしてはおもしろいが、現実にはありえない。

●その底流ではドロドロの欲望

 教育といいながら、その底ではまさに、人間と人間が激しくぶつかりあっている。こん
なことがあった。私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、
私にあいさつをしたのに気づかなかった。30歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完
全になくしている。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うち
の娘の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。

私がその子どものあいさつを無視したというのだ。そこでどうすればよいのかと聞くと、
「明日、娘をお前の前に連れていくから、娘の前で頭をさげてあやまれ」と。こんなこ
ともあった。

●「お前を詐欺で訴えてやる!」

 たまたま5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)の授業が、一時間ぬけたこと
がある。それについて「補講せよ」と。私が「できません」と言うと、「では、お前を詐欺
で訴えてやる。ワシは、こう見えても、顔が広い。お前の仕事なんかつぶすのは、朝飯前
だ!」と。

浜松市内で歯科医をしている父親からの電話だった。信じられないような話だが、さら
にこんなこともあった。

 私はある時期、童話の本を読んでそれをカセットテープに録音し、幼稚園児たちに渡し
ていたことがある。結構、骨の折れる作業だった。カラオケセットをうまく使って、擬音
や効果音を自分の声の中に混ぜた。音楽も入れた。もちろん無料である。そのときのこと。
たまたまその子ども(年長男児)が病気で休んでいたので、私はそのテープを封筒に入れ
郵送した。

で、その数日後、その子どもの父親から電話がかかってきた。私はてっきり礼の電話だ
ろうと思って受話器を取ると、その父親はいきなりこう言った。「あなたに渡したテープ
には、ケースがついていたはずだ。それもちゃんと返してほしい」と。

ケースをはずしたのは、少しでも郵送料を安くするためだったが、中にはそういう親も
いる。だからこの一〇%のニヒリズムは、捨てることができない。

 これらはいわば自分を守るための、自分に向かうニヒリズムだが、このニヒリズムには、
もう一つの意味がある。他人に向かうニヒリズム、だ。

●痛々しい子ども

 一人の男の子(年中児)が、両親に連れられて、ある日私のところにやってきた。会う
と、か弱い声で、「ぼくの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで
喜んでいるようだったが、私には痛々しく見えた。4歳の子どもが、そんなあいさつをす
るものではない。また親は子どもに、そんなあいさつをさせてはならない。

しばらく子どもの様子を観察してみると、明らかに親の過干渉と過関心が、子どもの精
神を萎縮させているのがわかった。オドオドした感じで、子どもらしいハキがない。動
作も不自然で、ぎこちない。それに緩慢だった。

 こういうケースでは、私が指導できることはほとんど、ない。むしろ何も指導しないこ
とのほうが、その子どものためかもしれない。が、父親はこう言った。「この子は、やれば
できるはずです。ビシビシしぼってほしい」と。母親は母親で、「ひらがなはほとんど読め
ます。数も100まで自由に書けます」と。

このタイプの親は、幼児教育が何であるか、それすらわかっていない。小学校でする勉
強を、先取りして教えるのが幼児教育だと思い込んでいる。「私のところでは、とてもご
期待にそえるような指導はできそうにありません」とていねいに断わると、両親は子ど
もの手を引っ張って、そのまま部屋から出ていった。

●黙って見送るしかなかった……

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、
それは私のすべきことではない。いや、こういう仕事を30年もしていると、予言者のよ
うに子どもの将来が、よくわかるときがある。そのときもそうだった。やがてその親子は
断絶。子どもは情緒不安から神経症を発症し、さらには何らかの精神障害をかかえるよう
になる……。

 このタイプの親は独善と過信の中で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と思
い込んでいる。その上、過干渉と過関心。親は「子どもを愛している」とは言うが、その
実、愛というものが何であるかさえもわかっていない。自分の欲望を満たすため、つまり
自分が望む自分の未来像をつくるため、子どもを利用しているだけ。……つまりそこまで
わかっていても、私は黙って見送るしかない。

それもまさしくニヒリズムということになる。

++++++++++++++++++++++

 熱血教師が悪いというのではない。しかし一つまちがえば、熱血教師は、子どもの問題
にせよ、家庭の問題にせよ、さらにその問題をこじらせてしまう。その教師の独断と偏見、
思いこみと早とちりが、かえって騒動を大きくしてしまうこともある。

 反対の立場で考えてみればわかる。

 ある日、突然、子どもの問題にかこつけて、あなたの子どもが通う学校の教師が、ズカ
ズカとあなたの家にあがりこんできたら、あなたは、どのような反応を示すだろうか。い
くらあなたの家庭に問題があったとしても、あなたはこう言うだろう。「失敬だ」と。

 話が脱線したが、こうした「荒れ」もあって、学校の教師は、ますます疲れる。ある女
性教師(小学校)は、はからずも、私にこう話してくれた。

 「授業中だけが、心と体を休める場所です」と。

 こうした現実を、どれだけの親たちが、知っているだろうか?

(付記)

 参観日に参観授業を見てきた親の中には、よく、こう言う親がいる。「すばらしい授業で
した。先生も、あそこまで教材を用意して、授業をしてくれるとは、思ってもみませんで
した」と。

 しかしそれは、参観日だから、である。「参観日のあと、数日は、何もやる気が起きませ
ん」と、その(疲れ)を訴える教師が多いことも、忘れてはいけない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親の身勝手

 先日、三男と食事をとりながら、こんな話をした。

 息子たちの2人が、ある水難事故にあった。息子たちが助かったのは、まさに奇跡に近
いものだった。で、そのあと、私は、3人の息子たちを、その翌週には、水泳教室に入れ
た。話題がそのことになった。

 三男がこう言った。

 「いやだった。毎週、水泳教室の日になるたびに、ゆううつだった」と。

 そのとき、三男は、まだ3歳になったばかりではなかったか。しかし「いやだった」と。

 それを聞いて、私は、申し訳ない気持ちにかられた。「悪いことをした」とも思った。三
男がまさか、心の中で、そんなふうに感じていたとは、夢にも思っていなかった。

 三男は、こう言った。「兄貴たちも、いやがっていたみたい」と。

 私は、ますます気が重くなった。私は、よかれと思って、息子たちを、水泳教室に入れ
た。しかしそれから20年。それを思い出して、三男は、「いやだった」と。私は、息子た
ちの気持ちを、何も確かめていなかった。何も気づいていなかった。

 水泳教室へ入れることは、必要なことだった。あの水難事故のあと、それを強く感じた。
だから息子たちを水泳教室へ入れた。そのことについては、後悔していない。しかし息子
たちの心に耳を傾けなかった。私という親だけの判断で、息子たちを水泳教室へ、入れた。
押しこんでしまった。それが後悔の念として、今、私の心を重くする。

 「フ〜ン、そうだったのか」と、三男の顔を見たまま、つぎの言葉が出てこなかった。
しかし当時のことをいくら思い起こしても、いやがっていた息子たちの顔は、浮かんでこ
ない。ときどき、参観ルームから、窓越しに、息子たちが泳いでいるのは覚えている。指
導員の指示に従って、足をバタバタさせたりしていた。楽しそうな様子でもなかったが、
とくにいやがっていたという様子でもなかった。が、息子たちは、その心の中では、別の
ことを考えていた……!

 「もう少し子どもの意思を確かめるべきだった」「息子たちを説得してから、行かせるべ
きだった」とは思ったが、それは三男には、言わなかった。

 おかしなもので、子育ても終わりに近づくと、そういう言葉ほど、胸を刺す言葉はない。
ズシンと胸に響く。で、その食事が終わって、三男がいなくなったあと、ワイフにそのこ
とを話すと、ワイフは、こう言った。

 「いやだったことは、何でも、よく覚えているものよ。だから、あまり気にしなくてい
いのよ。息子たちは、みな、結構楽しそうに、泳いでいたわよ。それに三男にしても、今、
泳ぐのが健康法の一つになっているのよ」と。

 三男は、大学から帰省するたびに、毎晩、近くのプールで、5000メートル前後泳い
でいる。その基礎は、あのころできた。

 が、それでも、何かしら、悪いことをしたなと、私は思った。その思いだけは、この文
章を書いている今も、消えていない。

【補記】

 子育ての、真っ最中という人も多いと思う。その子育てについて、そのときはわからな
い。しかしあとあと、それを思い出したとき、美しく光る思い出もあれば、反対に、暗く、
沈んでいく思い出もある。

 しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。私も3人の息子を育てたが、たとえば子ど
もを、受験勉強などで追いまくった思い出などというのは、今では、ぞっとするほど、い
やな思い出でしかない。世間体を気にしたり、子どもを競走馬のようにした思い出などと
いうのは、胸からかきむしりたいほど、いやな思い出でしかない。

 反対に、こんなこともある。

 その三男だが、私は、あの三男ほど、小学校を卒業するまで、遊びに遊びまくった子ど
もを、ほかに知らない。本当に、よく遊んだ。日曜日でも、朝早くから、夜遅くまで、遊
んだ。

 三男は実におもしろい子どもで、つぎからつぎへと、新しい遊びを作って遊んでいた。
友だちの数も多かった。「遊びの天才」と思ったこともある。

 その三男が小学校を卒業するとき、私はこう感じた。「私は、親として、三男に、すばら
しい子ども時代を過ごさせることができた」と。そのとき、私は、何とも言えない満足感
に包まれたのを、よく覚えている。

 その食事のときも、「お前は、よく遊んだなあ」と三男に言うと、三男は得意そうな顔を
してみせた。そして、こう言った。「ホント、よく遊んだね」と。

 だから……というわけでもないが、子育てをするときは、ときどき、10年後、あるい
は20年後のどこかに、視点を置いてみるとよい。子育てのし方が、少し変わるかもしれ
ない。いらぬお節介かもしれないが……。

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その三男について、こんなエッセーを
書いたことがあります。
(中日新聞掲載済み)

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子育てのトゲが心に刺さるとき

●三男からのハガキ 

 富士山頂からハガキが届いた。見ると三男からのものだった。登頂した日付と時刻に続
いて、こう書いてあった。「13年ぶりに雪辱を果たしました。今、どうしてあのとき泣き
続けたか、その理由がわかりました」と。

 13年前、私たち家族は富士登山を試みた。私と女房、13歳の長男、10歳の二男、
それに7歳の三男だった。が、9合目を過ぎ、9・5合目まで来たところで、そこから見
あげると、山頂が絶壁の向こうに見えた。

そこで私は、多分そのとき三男にこう言ったと思う。「お前には無理だから、ここに残っ
ていろ」と。女房と三男を山小屋に残して、私たちは頂上をめざした。つまりその間中、
三男はよほど悔しかったのだろう、山小屋で泣き続けていたという。

●三男はずっと泣いていた!

 三男はそのあと、高校時代には山岳部に入り、部長を務め、全国大会にまで出場してい
る。今の彼にしてみれば富士山など、そこらの山を登るくらい簡単なことらしい。

その日も、大学の教授たちとグループを作って登山しているということだった。女房が
朝、新聞を見ながら、「きっとE君はご来光をおがめたわ」と喜んでいた。が、私はその
三男のハガキを見て、胸がしめつけられた。あのとき私は、三男の気持ちを確かめなか
った。私たちが登山していく姿を見ながら、三男はどんな思いでいたのか。そう、振り
返ったとき、三男が女房のズボンに顔をうずめて泣いていたのは覚えている。しかしそ
のまま泣き続けていたとは!

●後悔は心のトゲ

 「後悔」という言葉がある。それは心に刺さったトゲのようなものだ。しかしそのトゲ
にも、刺さっていることに気づかないトゲもある。私はこの13年間、三男がそんな気持
ちでいたことを知る由もなかった。何という不覚! 私はどうして三男にもっと耳を傾け
てやらなかったのか。何でもないようなトゲだが、子育ても終わってみると、そんなトゲ
が心を突き刺す。

私はやはりあのとき、時間はかかっても、そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべ
きだった。重苦しい気持ちで女房にそれを伝えると、女房はこう言って笑った。

「だって、あれは、E君が足が痛いと言ったからでしょ」と。
「Eが、痛いと言ったのか?」
「そう、E君が痛いから歩けないと泣いたのよ。それで私も残ったのよ」
「じゃあ、ぼくが登頂をやめろと言ったわけではないのか?」
「そうよ」と。

とたん、心の中をスーッと風が通り抜けるのを感じた。軽い風だった。さっそくそのあ
と、三男にメールを出した。「登頂、おめでとう。よかったね」と。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●作られる意識

 最近の大脳生理学の進歩には、著しいものがある。たとえばポジトロンCT(陽電子放
射断層撮影)とか、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)などという装置を使
って、脳ミソの動きを、リアルタイムで、把握することができる。

 で、それとは直接関係ないが、たとえば私たちが、「自分の意思」と思っていることでも、
実は、それは自分の意思というよりは、すでにその前に、脳の別の部分で作られた意思で
あるということまで、最近の研究では、常識になりつつある。

 たとえば昼食時になったとき、ある人が、「何を食べようか」と考えたとする。そのとき、
その人は、あれこれ、頭の中にメニューを思い浮かべながら、「そうだ、カレーライスにし
よう」と決めたとする。

 その人は、自分の意思で、「カレーライスにする」と決めたことになる。少なくとも、表
面的には、そう見える。

 しかし実際には、そういった意思すらも、その人がまだ「意識」として意識しない段階
で、脳の別の部分で、すでに作られているというのだ。その人が、「カレーライスにする」
と決める、10分前かもしれないし、あるいは1時間前かもしれない。

あとはそのあらかじめ作られた意識によって、その人は、「カレーライスにする」と決め
る。あのフロイトは、私たち人間は、「実は、潜在意識にひきずり回されながら生きてい
る、哀れな動物にすぎない」と言ったが、まさに、そのとおり、……ということになる。
最近の研究は、それを科学的に、最新技術を使って証明しつつある。

 ……となると、ますます、「私とは何か」が、わからなくなる。

 そこで思い出すのが、ウソ発見器である。

 最近のウソ発見器は、その脳ミソの奥底までのぞくことができる。だから意識の世界で、
いくらうまくウソをついたとしても、脳みその奥底までは、だませない。脳ミソの奥底は、
別の反応を示す。それをとらえて、ウソ発見器は、ウソか本当かを、言い当ててしまう。

 そこで再び、「私とは、何か」という問題。

 昨日(10・5)も、電車であるところへ行ってきたが、その電車の中にも、化粧をし
ている女性がいた。今では、珍しくも何ともない、風景である。

 私はその女性を見ながら、「あの女性は、自分の意思で、化粧をしているのだろうか。そ
れとも、潜在意識に引きずり回されながら化粧しているのだろうか」と考えた。

 だいたいにおいて、化粧するという行為は、男性を意識した行為である。もっと言えば、
その根底には、性的エネルギー(リピドー)がある。そのエネルギーが、あれこれ姿を変
えて、表面に出てくる。人間を操る(フロイト)。その女性とて、例外ではない。

 化粧をしている女性は、「自分の意思で化粧をしている」と思っているにちがいない。し
かし、実際には、無意識の世界にある、潜在意識に操られているだけ?

 さてさて、この私は、これから30分ほど、自転車であちこちを走ってみようと思って
いる。そう思うのは、私の意思ということになるが、ひょっとしたら、この意思は、朝起
きるときに、すでに、脳ミソの別のところで作られていたのかもしれない。

 昨日は、運動をしなかった。そのためか、今朝起きたとき、体がどこか重かった。私は
そのとき、「重い」と感じたが、感じたのは、それだけ。しかし脳みその別の部分は、「運
動をする」と、すでに決めていたかもしれない。

 わかりやすく言えば、脳ミソの中には、見える部分(=意識)と、見えない部分(=潜
在意識)があるということ。そして見える部分の意識というのは、実は、脳ミソの活動の
中でも、ほんの一部にすぎない。一説によると、数10万分の1程度ということらしい。
ほとんどの活動は、その意識のおよび知らないところで、なされている。

 「私」とは何か、それを知りたければ、その無意識の世界にまで、足を踏みこまねばな
らない。自分の意思を決める前の、無意識の世界における意識。そこまで知らなければな
らない。

 しかしそんなことは、はたして可能なのか。

 ……頭が混乱してきたので、この話は、ここまで。しかし「私」って、本当におもしろ
い。考えれば、考えるほど、おもしろい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【「私」を知ると……】

+++++++++++++++++++++

「私」を知って、よいことはあるのか?
知らなければ、知らないで、すむのではないか?
そんな疑問を、ワイフは、口にした。

+++++++++++++++++++++

●散歩の途中で

 いっしょに散歩をしているとき、ふと、ワイフが、こう聞いた。「私を知るって、あなた
は言うけど、その私を知って、何かいいことがあるの?」と。

 いつも、私は、「私を知ることはむずかしい」とワイフに話している。私たちが思ってい
る「私」というのは、実は、「私」ではない。大部分の「私」は、別の「私」に操られてい
る。それを「私」と思いこんでいるだけ。散歩に出かける少し前も、私は、ワイフに、そ
んな話をしていた。

 それについて、ワイフが、「何かいいことがあるの?」と。

 で、とっさの思いつきで、私は、こんなことを話した。

●パソコン・パニック

 ときどき、今でも、パソコンの動きが、おかしくなるときがある。少し前も、ホームペ
ージの更新をしていたら、突然、プログラムごと、画面から飛んでしまった。今でこそ、
そういうことが起きても、冷静に対処できるが、5年前とか、6年前には、そうではなか
った。

 ふつう電気製品というと、テレビにせよ、洗濯機にせよ、外部から、その働きが、おお
むね想像できる。故障しても、故障は故障として、処理できる。自分でなおすことはでき
ないが、パニックになることはない。「保証期間はどうだったかな?」「もう寿命かな?」
と、考えて、おしまい。

 しかしパソコンは、そうではない。中身が見えない分だけ、その瞬間から、頭の中がま
っ白になる。とくに、数時間もかけて書いた文章が消えたときなどは、そうだ。外から見
えるのは、画面とキーボードだけ。その下の中身というか、構造となると、まったくわか
らない。

 パソコンメーカーはもちろん、あちこちに電話をかけ、冷や汗をタラタラと流す……。

 ……というようなことは、実は、私たちの日常生活でもよく経験する。といっても、自
分のことで、それを知るのはむずかしい。

●他人を見て、自分を知る

 たとえば、ある女性が、両親との問題で、パニックになっていたとする。ワーワーと泣
き叫びながら、親類という親類に電話をかけまくっていたとする。そういう女性について
も、もしその女性が、もう少し自分のことを知っていれば、そんなことはしないはずと思
うことがある。たとえば、こんなことがあった。もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 ある母親は、自分の息子が、横浜の女性と結婚したことについて、「悔しい」「悔しい」
と言って、あちこちに電話をした。「息子を、横浜の嫁に取られてしまいました」とも言っ
た。

 しばらくすると、つまりそれから5年とか、10年もすると、今度は、会う人ごとに、
こう言い出した。

 「子どもなんて、育てるもんじゃ、ないですね」
 「親なんて、さみしいもんですわ」
 「どうせ、いつか、親は、子どもに捨てられるのですよ」
 「林さんも、それだけは、覚悟しておいたほうがいいですよ」と。

 その母親は、たしかにその息子を、(かわいがった)。しかしそれは多分に、自己愛的な
愛。もっと言えば、自分勝手な、でき愛に近いものだった。自分の子どもを育てながら、
子どもを1人の人間としてというよりは、(財産)、あるいは(モノ)として考えていた。

 だからその女性は、それ以前は、いつも、その息子にこう言っていたという。

 「産んでやった」
 「育ててやった」
 「お前を大学へ出すのに、うちの財産のほとんどを使ってしまった」と。

 もし、その女性が、自分の中に潜む、ゆがんだ子育て観に気づいていたら、それほどパ
ニックになることはなかったのではないか。もう少し、冷静に、自分を見つめることがで
きたかもしれない。

 しかしその女性には、自分を冷静に見つめる能力すらなかった。もちろん自分、つまり
「私」が何であるかさえ、わかっていなかった。そのためその女性は、感情に振りまわさ
れるまま、パニック状態になってしまった。息子が結婚したとき、あちこちへ電話をかけ、
「悔しい」「悔しい」と言ったのが、それである。

 こうした例は、多い。

 ほかにも、こんな例がある。

●子どもを虐待する母親

 その女性は、自分の息子(小学生)を、どうしても、好きになれなかった。ときに虐待
に近い暴力をふるっていた。理由を聞いても、「どうしても、自分の子どもを好きになれな
い」と答えるのみ。

 そして息子がすることに、いちいち腹をたて、強く叱っていた。「掃除のし方が悪い」「食
器の洗い方がへた」と。とくに子どもが勉強で、つまずいたり、悪い点数を取ってきたと
きは、そうだった。「こんな計算問題も、できないの。あなたは、バカよ!」と。あたり構
わず、どなり散らしていた。

 が、やがて理由がわかった。

 その女性には、1人、知恵遅れの兄がいた。4歳年上の兄だった。その女性は、その兄
のことを、子どものときから嫌っていた。「そういう兄をもって、恥ずかしかった」とも言
った。「結婚式には、あれこれ理由をつけて、兄を出席させませんでした」と、その女性は
言ったが、その事実一つが、その女性の兄への思いの、すべてを語っている。つまり、そ
の女性が、兄にもっていたわだかまりには、相当なものがあった。

 で、自分の息子が生まれて、数か月目のこと。伯父がその女性のところにやってきて、
こう言ったという。

 「この子の横顔は、○男(その女性の知恵遅れの兄)にそっくりだねえ」と。その叔父
は、深く考えてそう言ったのではない。ふと思いついたことを、口にした。が、その女性
に与えたショックには、ものすごいものがあった。

 とたん、その女性は、自分の息子への愛情を失ってしまった。

 で、それが尾を引き、虐待に近い暴力(実際には、虐待だったかもしれない)へと、つ
ながっていった。

●しかし「私」を知れば……

 ……というような例は、多い。自分のことがわからないため、何かあると、パニック状
態になってしまう。私であって、「私」でない私に、操られてしまう。

 しかしそのとき、もし、これらの母親にせよ、女性にせよ、自分のことをもっと、よく
知っていたらどうであっただろうか。あとに書いた、「子どもを好きになれない」と訴えて
きた女性は、実は、私のマガジンの読者でもあった。そのため、自分の過去を冷静に見つ
め、そして自分の子どもに虐待する原因が、実は、自分の兄にあることを知った。

私「私を知ったところで、問題が解決するということはないと思うよ」
ワ「そうよね。心の問題が、そんなに簡単に解決するとは、思わないわ」
私「しかし、自分を知れば知るほど、心の中身というか、構造がわかってくる。そうする
とね、自分を冷静にコントロールできるようになる」と。

 パソコンにしても、そうだ。外からは、何も見えない。内部を見たところで、その構造
がわかるわけでもない。だからちょっとしたトラブルが起きるたびに、頭の中は、まっ白
になる。

 しかし雑誌を読んだり、本を読んだりしているうちに、やがて、その構造や働きがわか
ってくる。そうなると、何かトラブルが起きても、冷静に対処できるようになる。あるい
は、あらかじめ、そういうことが起きることもあるという前提で、防衛的な措置をほどこ
すことができる。データをいつも、バックアップしておくというのも、重要な方法の一つ
ということになる。

 だれしも、心に、何らかのキズをもっている。キズのない人はいない。問題は、キズが
あるということではなく、そのキズがあることを知らないまま、そのキズに振りまわされ
ること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 そのためにも、「私」を知る。

私「私を知ることは、勇気のいることだよ。だれしも、自分のいやな過去には、触れたく
ないからね」
ワ「でも、その私を知らなければ、本当の私はわからないというわけ……」
私「そうだよ。……でもね、本当の私を知っている人など、そうはいないよ。『私を知る』
というのは、哲学の一つの大きな柱にもなっているくらいだからね」と。

【補記】

 こんな例もある。

 ある女性は、ことあるごとに、その女性の母親の批判ばかりしていた。その女性の母親
は、そのとき、60歳くらいだった。

 しかしその女性が、その60歳になった。その女性の母親は、ちょうど1年前に、他界。

 で、その女性だが、自分が批判していた母親そっくりの女性になっていた。小ズルく、
狡猾(こうかつ)で、気が小さい。話し方まで、そっくり!

 ……というような例は、多い。本当に、多い。

 なぜそうなったかについては、別のところで考えるとして、その女性自身は、そうは思
っていない。「私は母とはちがう」と思っている。「母より、すぐれた人間」と思っている。

 しかし他人の私から見ると、そっくり。どこもちがわない。つまりその女性は、その女
性の中の「私」に気づいていない。

 そこで重要なことは、(1)批判をしたら、(2)その批判を、自分の中で、昇華させな
ければならない。その(2)の作業を怠ると、その批判した相手、そっくりの人間になっ
てしまう。まさにミイラ取りがミイラになる状態といってもよい。

 では、その「昇華」をするためには、どうしたらよいのか? もっと言えば、賢い人間
になるには、どうしたらよいのか。

 答は、一つ。

 考える。自分で考える。考える人間になる。それをしないと、相手を批判しながらも、
やがてその相手そっくりの自分になってしまう。その相手を手本としてしまうからである。
その女性が、そのよい例である。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 4日(No.645)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【勉強しない子ども】

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兵庫県にお住まいの、Fさん(母親)から、
「うちの子が勉強から逃げる」「どうしたら
いいか」という相談をもらいました。

それについて考えてみます。

++++++++++++++++++++++

【Fより、はやし浩司へ】

小学1年生の娘のことです。勉強に拒否反応を持ってしまいました。わからないことがあ
ると、考えようともせず、「わからない」と、その前に言います。パニックを起こすことも、
しばしばあります。

宿題をするときでも、まるで好きな数字を書いて、やってしまうような時があります。あ
れこれ教えてみるのですが、自分では、考えるようともしません。

娘は年齢よりも幼く見え、感情にむらがあり、失敗をすることを恐れているようにみえま
す。

娘のこともさることながら、それよりも私自身のことを悩んでいます。娘が、教えてとは
言うけど、<わからない>とバリアを自分で張ってしまいます。最後には怒りながら教え
ています。自己嫌悪におちいることもあります。そのことが、娘を、余計に勉強嫌いにさ
せているのかもしれません。

私には過去にうつ病の経験があり、不整脈で、脈がまだ乱れる事があります。原因は別と
して、私のせいで娘がこうなっている・・? 私自身が、プラス思考が出てきません。ど
うか助言をよろしくお願いします。

+++++++++++++++++++

まず、以前(03年)に書いた、原稿を
ここに添付します。

参考にしてください。

+++++++++++++++++++

●マイナスのストローク

 記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を
描かせようとしたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。
積み木遊びをしたが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせよ
うとしたが、『歌いたくない』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、
一見おだやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。とき
にビリビリとそれを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」という
のは、A君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私
はそれを母親に説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸
口すらわからないということ。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大
きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は…
…?」と相談しつつ、私の説明をロクに聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱る。「もっ
と、しっかりしなさい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしい
わ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。
そしてその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識と
いうのは、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識
と言ったのは、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。そ
れについて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個
人的無意識である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世
界に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印さ
れた記憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される
意思によるものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやす
く言えば、この個人的無意識が、その個人を、裏から操る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子ども
は、東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、
いつも「子どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。
ある程度の設計図をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれ
を子どもに、押しつけてはいけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子ど
もに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害す
る。自我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期
に、自我の発達が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何を
しても自信がもてず、逃げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。
ここでいうA君が、まさに、そういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言
葉を使って、つぎのような説明している。

 「条件づけには、(1)強化(きょうか)の原理と、(2)弱化(じゃくか)の原理があ
る」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働
きかけ)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという
原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」
と言ってほめたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはま
すます歌を歌いたがるようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスの
ストロークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになると
いう原理をいう。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言
って、けなしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌
を歌わなくなってしまう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとな
って作用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の
世界に蓄積され、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりに
たっぷりと受けているから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけ
て、逃げ腰になってしまったのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らか
に母親が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わね
ばならないのかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力を
することは当然としても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前
に、母親の理解がなければ、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさ
いとか言っていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「はあ、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たい
ていは、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言
葉を払いのけてしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う
母親さえいる。「あんたは、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいです」と。つ
まり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子
どもの母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれ
にブレーキをかけてしまう。この仕事というのは、報われることより、裏切られることの
ほうが、はるかに多い。いやな思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした
記憶が、私を裏から操っている? 「質問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きく
することもない」「言われたことだけをしていればいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子ど
もは、常にプラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、
伸ばす。とくに乳幼児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(はやし浩司 ユング 集合的無意識 個人的無意識 弱化の原理 強化の原理 スキナ
ー オペラント 自発的行動 マイナスのストローク プラスのストローク はやし浩
司)

+++++++++++++++++++++

もちろんFさんが、ここに書いた母親のようで
あるというわけではありません。

しかしやる気というのも、言葉で、説教したり、
叱ったりするから、でてくるというようなもの
でもないようです。

最近の大脳生理学では、つぎのように説明して
います。内容が一部、ダブりますが、お許しく
ださい。

+++++++++++++++++++++

●プラスの強化

 「勉強したら、ほめられる」……これをプラスの強化という。一方、「勉強しなければ、
叱られる」……これをマイナスの強化という。どちらも、子どもに勉強させるという意味
では、効果的。しかし長い目で見ると、マイナスの強化を受けた子どもは、確実に、勉強
を嫌いになる。つまり学力は、さがる。

 子どもは、本来的に、自発的に行動する力をもっている。これをスキナーという学者は、
「オペラント」と名づけた。しかしその自発的行動の原動力になるものには、二種類ある。
それがここでいうプラスの強化と、マイナスの強化である。どちらがよいかは、もう改め
て説明するまでもない。

 プラスの強化をするための、一つの方法として、達成感を利用するというのがある。最
近の大脳生理学では、脳の中枢部の辺縁系にある、帯状回(たいじょうかい)という組織
が、どうやら、その「やる気」をコントロールするということまでわかってきた(伊藤正
男氏の「思考システム」)。

 達成感が満足されると、脳の中に、エンケファリン系やエンドロフィン系の麻薬様物質
が放出され、それがここちよい感覚を生みだすという。心理学では、こうした現象を、「好
子」という名前を使って説明している。

 そこで子どもの学力を伸ばすためには、いかにして、その達成感を覚えさせるかを、い
つも考えながらする。

 たとえばワークブックでも、子どもが懸命にやる様子を見せたら、多少、まちがってい
ても、それには目を閉じて、大きな丸をつけてやる。こうした大らかさが、子どもを伸ば
す。しかし中には、そうでない親もいる。

 「答が違っているのに、どうして丸をつけるのですか?」
 「ハネやハライが、メチャメチャです。しっかりみてください」
 「しっかりと、ワークブックを採点してください」と。

 毎年のように、そういう苦情を言ってくる親がいる。しかし私は、答に丸をつけるので
はなく、一生懸命したことに対して、丸をつける。だいたい、あのワークブックほど、い
いかげんなものはない。(無数の学習教材を作ってきた私がそう言うのだから、まちがいな
い。)「半分は、お絵かきになってもよい」と思うこと。こまごまとしたことを言って、子
どもを勉強嫌いにしたら、それこそ、元も子もない。

 もちろん正解であればほめる。しかしそれ以上に大切なのは、子どもにプラスの強化が
働いているかどうかということ。もしマイナスの強化を使わなければ、子どもが勉強しな
いというのであれば、あなたの家庭教育は、すでに失敗している。じたばたすればするほ
ど、逆効果。へたをすれば、底なしの悪循環の世界に入ってしまうかもしれない。じゅう
ぶん、注意されたし。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 帯状回 達成感 自発的行動 子供の心
理 はやし浩司)

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子どもの(やる気)について、だいたい、
おおまかなことは、これでわかっていただ
けたと思います。

もう1作、原稿を添付します。2年ほど前に
書いた原稿です。

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●親の意欲、子の意欲

 親の過剰期待は、子どもの意欲をつぶす。わかりやすく言えば、親の期待が大きければ
大きいほど、子どもは、やる気をなくす。

 一方、親自身が、意欲がないケースがある。生活自体がマンネリ化していて、毎日が、
惰性で流れていく。そういう家庭環境では、やる気のある子どもは、生まれない。

 言いかえると、この二つをうまくコントロールすれば、子どもはやる気のある子どもに
なるし、そうでなければ、そうでないということになる。いろいろな失敗例をあげてみる。

【「やればできはず」と、A君(中一)を責めた、母親】

 そのときA君は、50番中、30〜40番の成績をとっていた。しかしそれがA君には、
精一杯の成績だった。が、たまに、A君は、よい点を取った。たぶん、何かズルイ手をつ
かったのだろう。しかし母親には、それがわからなかった。だから、その点を基準に、「あ
なたは、ちゃんとやればできる。だから勉強しなさい」と、A君を叱った。

【サッカーを、やめさせた母親】

 B君(小五)の楽しみは、何といっても、サッカーだった。体は小柄だったが、その分、
小回りがきき、すばしっこい動きができた。が、小学五年になるころから、成績がさがり
始めた。母親は、B君を、近くの進学塾へ入れることにした。が、ここで問題が起きた。
塾の時間と、サッカークラブの練習日が重なってしまった。母親は、サッカーをやめさせ
ることにした。

【難解なワークブックを与えられたC子(小六)さん】

 母親はC子さんを、夏休み前に、X進学塾へ体験入塾させた。そしていきなり、テスト
と順位。成績は30人中、25番。この結果に、母親は驚いた。そしてC子さんを叱り、
その足で、近くの書店に。母親は、難解なワークブックを、どっさりと買った。最初のこ
ろは、C子さんも、一日2ページと決め、それなりにがんばったが、すぐオーバーヒート。

【こまかいミスを注意した母親】

 その母親は、こまかいことを気にした。漢字にしても、トメ、ハネ、ハライを、神経質
なまでに、子どもに守らせた。学校のテストでも、まちがったところは、すべてノートに
書き写させ、それを子どもにやらせた。計算問題でも、まちがえると、「どうして、こんな
簡単なのができないのか!」と、子どもを責めた。
 
 子どもとて、人間。こんな簡単なことさえわからない親は、多い。ではどうするか。

 ドイツのマクレランドという学者は、おもしろい実験をしている(「発達心理学」ナツメ
社)。

 母親の意欲の強さを、(1)最高意欲、(2)高意欲、(3)意欲普通、(4)低意欲の四
つに分け、その子どもたちの意欲の強さを調べたところ、(3)の普通意欲の母親の子ども
の意欲が、一番強かったというのだ。順に並べてみると、

(3)普通意欲→(4)低意欲→(2)高意欲→(1)最高意欲

 つまり親の意欲が強すぎると、子どもはやる気をかえってなくすということ。子どもに
向かって、「勉強しなさい」と、あれこれこまかい指示を出せば出すほど、逆効果だという
こと。むしろここでいう低意欲(子どものことは子どもに任すタイプ)の親のほうが、子
どものやる気を引き出すということもわかっている。

 しかし一方で、子どもにかまわず、外の世界に向かって伸びつづける親の子どもは、伸
びるということもわかっている。家庭の中に、緊張感が生まれ、その緊張感が、子どもの
意欲によい方に作用するからである。

 そんなわけで私は、昔、こんな格言を考えた。『親は外に向かって伸びる』と。子どもに、
自分の夢や希望を託すことは悪いことではない。しかし自分のできなかったこと、できな
いことを、子どもに求めてはいけない。親は親。子どもは子どもである。ある母親は、こ
う言った。「どうして、うちの子は、本を読まないのでしょうか?」と。

 そこで私が、「一番、よい方法は、あなたが毎週、図書館へ行って、本を読むことです。
子どもがついてくるというなら、連れていけばいい」と。それに答えて、その母親は、こ
う言った。「私は、もう終わりましたから」と。

 こういう身勝手さは、どんな親にもある。しかしその身勝手さが、子どものやる気をつ
ぶす。

 子どもに勉強させようと考えたら、命令や、おどしを使うのは、最後の最後。子どもの
やる気を、じょうずに育てることこそ、何よりも大切。わかりきったことなのだが……。
(はやし浩司 マクレランド 意欲 意欲論 子どものやる気 子供のやる気)

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そこで、どうするか?
方法は、いくつかあります。
コツは、オールマイティな
人間を求めないこと。

得意なことをさせて、少し
できたら、それをほめる。
達成感を大切にするのも、
その一つです。

以前、同じような相談をもらった
ことがあります。
参考になると思いますので、
ここに添付します。

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【E氏よりの相談】

甥っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこ
のところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。

とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がな
いくせに、やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。

やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身
が持っている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 

【はやし浩司より】

●消去法で

 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。

 バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる
気が起きない、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)
など。さらに回避性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集
団非行、非行)など。自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害
の前兆や、学校恐怖症の初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。

 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を
見せることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。
この時期だと、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハー
ハーあえぐ、など)。

 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうな
のか。あるいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一
日の中でも、変動はあるのかないのか。

こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつ
う心配なケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うは
ずです。たとえばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛も
あります。行動面では、たとえば収集癖や万引きなど。

さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすく
なります。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。

こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、
これではないか?」とです。

●教育と医療

 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したが
って、アドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが
診断名をくだすのは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書い
たことを参考に、自分で判断するしかありません。

 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方
が違うということです。

 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、
幼児期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、た
いへん不安定になります。

 「おとなに扱わねば怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というよ
うにです。

 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、
検査だけをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっ
ていても、知らないフリをして指導します。

 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。

 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。

 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある
部分(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生
まれます。

 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩
慢動作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象
や回避性障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進
行していきます。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことというこ
とで、私も、少し気楽に書いています。)

 ですから安易に考えないこと。

●二番底、三番底へ……

 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに
最悪の状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはして
いるようですが、そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならな
いと思いがちですが……。決して、そうではないということです。)

 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。
それが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。ど
こかに心の病気があるとみてよいでしょう。

 では、なおすために、どうしたらよいか?

 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。

●家庭にあり方を疑う……

 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として
機能しているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうど
うと、ふてぶてしく、体を休めているかどうかということです。

 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるよ
うであれば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否がありま
す。反省すべきは、親のほうです。

 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」と
いうのは、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三
番底へと、子どもを追いやってしまうから注意してください。

 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)
の悪循環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環
を繰りかえし、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。

 
「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような
行為と言ってもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、
この年齢でも、半年単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどとい
うことは、ありえません。

 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその
子どもを見ていませんので、何とも判断しかねます。

 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということ
です。子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離
れます。

 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思
いなおし、大目にみます。

 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MG
の多い食生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり
情緒が不安定になっていることも、考えられます。)

 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えま
せん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、
意味がないばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に
多いです。

 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。
あまり深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。

                             はやし浩司
(はやし浩司 子供の達成感 達成感 子供の心理)

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【はやし浩司からFさんへ】

 メールをよむかぎり、娘さん(J子さんとします)には、かなり強力な弱化の原理が働
いているように思います。どこかで、自信をつぶされてしまったわけです。それにややオ
ーバーヒート気味かもしれません。

 で、(やらない)→(できない)→(叱られる)→(ますますやらない)の悪循環に陥っ
ているものと、考えられます。

 小学1年という年齢を考えると、この部分についての、修復は、かなりむずかしいもの
と思われます。勉強を好きにさせるための、特効薬のようなものは、ないということです。
それこそ、1年単位の根気と、努力が必要ということになります。

 もし浜松市に住んでおられるなら、「私のBW教室へおいでなさい」と言うこともできる
のですが……。まず、勉強は楽しいもの、ということをわからせてあげます。

 この時期は、あまり「勉強」と構えないで、子どもといっしょに楽しむという姿勢を大
切にします。「半分できればよし」「30分、いっしょにすわって、5分、勉強らしきこと
ができれば、それでよし」とします。そういうおおらかさが、子どもの心に風穴をあけま
す。

 Fさん自身が、やや神経質ではないのかな? 完ぺき主義ではないのかな? ……という
ところまで、少し、考えてみてください。

 それともう一つ気になるのは、Fさん自身が、かなり古風な(勉強観)をもっておられる
のではないかということ。今は、時代も変わりました。恐らく、今、Fさんがもっている勉
強観というのは、あなたの両親から受け継いだものです。

 学歴信仰、学校神話、勉強は絶対……などなど。そういった古風な意識が、あなたをが
んじがらめにしています。これから先、そういったものと、一つずつ戦っていくしかあり
ませんね。

 で、どうすればよいか?

 学校の勉強も、3、4年前とくらべると、かなり楽になっています。10月に入って、
やっとくりあがりのある足し算を学習することになっています(小1・算数)。だからあま
り気負わないで、ここは少し肩の力を抜いて考えてみられては、どうでしょうか。

 J子さんに、何か、得意分野は、ありませんか。こういうケースでは、「不得意分野には
目をつぶり、得意分野を伸ばせ」が原則です。私が唱える、『一芸論』も、そういうところ
から生まれました。

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一芸論についての原稿を
添付します。

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●「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、
T君は、スケートで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつま
ずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……と
いうだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支え
る。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなっ
てしまった。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、
一〇年後。ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほう
が先生より、お金を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失
敗する。Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。
そこで母親が、「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさ
んは水泳ですぐれた才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長し
た。S君(年長児)もそうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これ
は何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげ
ることを勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学
三年生のころには、ベーシック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターする
までになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをや
めさせる」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成
績は、もっとさがる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいと
か、カードをたくさん集めているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。
「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味であ
る。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかけ
る。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関
しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは
絶対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、
五歳ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするか
を静かに観察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらし
い才能が隠されていることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つで
ある。  
(はやし浩司 兄弟の確執 ライバル意識 一芸論)

【付録】

●長子は神経質?

 なお神経質な子どもに関して、こんな興味深いデータがある。東海大学医学部の逢坂文
夫氏らの調査によると、「一番上の子は、下の子よりも神経質」というのだ。

 東京都内の保育園に通う1000人の園児の母親について調べたところ、次のようなこ
とがわかったという。

 母親がわが子を神経質と認めた割合は、弟や妹をもつ長子についてがもっとも多く、4
2・7%。

これに比べて、一人っ子は、35・1%、第二子は23・7%、第三子以降は、15・
8%(母親の平均年齢は、32・6歳。園児の平均年齢は3・8歳)。「兄弟姉妹の下の
ほうになるほど、のんびり屋さんになるようだ」(中日新聞コメント)と。

 また「緊張しやすい」とされた長子の割合も、第二子の約1・5倍だったという。長子
ほど、心理的に不安定な傾向がうかがえる。これらの調査結果からわかることは、子ども
が神経質になるかどうかということは、生まれつきの性質による部分も無視できないが、
生まれてからの環境にもよる部分も大きいということである。
 

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ついでに、「自己嫌悪」について。
Fさんが、自己嫌悪という言葉を
使っておられましたので……。

どうか、参考にしてください。

なおあなたの住んでおられる、
O町は、よく知っています。
メールをいただいて、
なつかしく思いました。
こういう形で、O町の方に
返事を書けることを、たいへん
うれしく思っています。

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●自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだと
か、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住
む、Dさんからのものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、
絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につなが
る。青春期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反
復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配し
なくてもよい。が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せると
きは、かなり警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、な
いとは言えない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺というこ
とにもなりかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に
応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心
理的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかも
しれないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心
理学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服し
ようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的にな
ったら、あるいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようにな
る。そして結果として、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあ
るのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。
たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌わ
れる」などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身
を守るための、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自
己嫌悪(否定)から受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私
は自分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になる
ケースもある。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、
五、六時間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわか
り、別居、離婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これ
も裏目に出てしまった。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまっ
た。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明け
の模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔
和な表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめ
ているだけ。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、
「こんなことでは○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母
親には、その常識がなかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそ
れがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私
は、ダメだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなって
しまった。「高校へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをし
ればいい」と、私が言っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親
は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。
言いかえると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、
絶望感、不安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症によ
る症状そのものということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意
する。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそ
うと考えないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な
問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推
移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題につい
ては、(1)今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。(2)今の状態
が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いた
ように、(3)一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え
方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。
満たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、
みなはスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときであ
る。本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界
が加わり、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌
子(けんし)」(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に
陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一
様ではない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子
どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二
年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見
えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている
子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言って
も、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得ら
れる家庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。
その度量の深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一
芸をもたせる)、環境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最
悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰り
かえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに
身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児の
ころ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく
接したことなど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜
ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神
奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。え
てしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもを
なおそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がい
くらプラスのストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、
繰りかえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子ども
に、広く見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身
も、どこかで経験しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、
子どもには、こう言ってみるとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」
と。こうしたやさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。

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【再び、Fさんへ……】

 もっと子育てを楽しみなさい。今、あなたは、すべてのものをもっている。そのことに
まず、気がつきなさい。

 あなたの子どもを、友として、迎え入れなさい。あなたがもっている、古典的な親意識
など、捨ててしまえばよいのです。

 そして子どもといっしょに、人生を楽しむつもりで、子どもと接する。私も今、多くの
生徒を教えながら、いっしょに、楽しむようにしています。自分の人生を、です。

 カリカリと叱りながら教えていても、つまらないでしょう。だから楽しむのです。最後
の私の好きな原稿を、いくつか添付しておきます。今でも、これらの原稿を読むと、目頭
がジンと熱くなります。

 あなたも気が楽になるはずです。

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●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男
が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教
えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体
力がないため、落とされそうだから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子ど
もというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子
たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去
っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたとき
のこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわから
なかった。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。

うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落
ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とか
けめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があ
ろうとは! 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違う
と、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってく
ださいよ」と声をかけたくなる。レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近
は、気にならなくなった。「うちの息子たちも、ああだったなあ」と。
 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれ
が皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、
その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労し
ているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あ
るいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なか
らずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、
上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだとい
う意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではな
い。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにす
る。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことを
し、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、
その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から
見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたよ
うに、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘
れる)は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を
得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉
を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意
味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を
歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるご
とに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。
ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけ
ない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受ける
たびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親
子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけ
なければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂
だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親
は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、
脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。
そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる
親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人
生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、い
つもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は
手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はも
うこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り
道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真のび
を与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。(*浜松A幼稚園理事長)


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   05年 11月 2日(No.644)
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●母親の役割

 子どもにとって、最後の心の砦(とりで)。それが母親である。子どもは、母親だけは、
最後の最後まで信じたいと思うし、また母親だけには、裏切られないと思いたい。

 それが子どもにとっての、母親である。

 が、その母親が、信じられないとしたら……。

 N県に住んでいる、K氏(男性)のケースは、かなり深刻なものである。K氏は、小さ
な工場を経営していたが、母親の借金の連帯保証人になっていたため、1億円近い負債を
かかえてしまった。

 「母は、毎月のように、何だかんだと言っては、お金を、私にせびりました。で、その
つど、10万円とか20万円とか渡していました。お金には苦労していなかったはずです
が、それでも、借金をつくり、こういうことになってしまいました。

 話を聞くと、母の実家の実兄に、お金を渡していたようです。それが数百万円になり、
1千万円を超えました。あとは、雪だるま式に借金がふえて、あっという間に、1億円に
なりました。

 そこで私の家内が、泣きながら私の母に抗議すると、母は、私の家内にこう言いました。
『あんたは、ただの嫁でしょ! あんたが口をはさむような問題では、ないのよ!』『嫁の
くせに、生意気言うな!』と。

 昔から、封建的な考え方の強い土地柄です。叔父に相談しましたが、『親の借金を、子ど
もが背負うのは、当たり前』とか、『どんなことをしても、親を悪く言ってはいけない』と
か言って、取りあってくれませんでした。

 今は、会社も閉鎖、自宅も、競売にかけられてしまいました。母が住んでいた実家も、
抵当に取られてしまいました。当初、母は、母の実家、つまり伯父の家に住むつもりでし
たが、伯父は、こう言いました。『母のめんどうをみるのは、息子である、お前の義務だ』
と。

 それで今は、母は、私たちといっしょに、小さなアパートに住んでいます。しかし家内
との折りあいも悪く、家内のほうが、ノイローゼ気味です。母は、まだ50代で、働けな
くはないのですが、『恥ずかしいから、仕事はしたくない』と言って、一日中、アパートの
中でブラブラしています。

 しかし本当の悲劇は、このことではありません。

 私は、今まで、どんなことがあっても、母だけは……と思って、母を信じてきました。
その信じられる人を失った、悲しみというか、つらさは、そういう経験のない人には、多
分、理解できないものでしょう。

 残るは妻だけということになりますが、その妻も、このところ、よく「離婚」という言
葉を口にします。

 現在の私は、だれも信じられず、まただれにも愛されないといった状態です。絶壁に立
たされたような孤独感を覚えています」と。

 (いただいたメールについて、「そのままの転載は困る」ということだったので、私のほ
うで、全文、書き改めさせてもらった。)

 で、この話をワイフにすると、ワイフは、こう言った。

 「母親の第一の役目は、どんなことがあっても、子どもの心を守る、最後の砦となるこ
とね」と。

 期待に応(こた)えるとか、応えないとか、そういうレベルの話ではない。母親たるも
の、自分の子どもに対しては、絶対的に誠実でなければならない。「絶対的」というのは、
「疑いすら、もたせない」という意味である。子どもの立場でいうなら、「疑いすら、もた
ない」ということになる。

 金銭について言うなら、たとえ1円でも、ごまかしてはいけない。どんな小さな約束で
も、子どもに対しては、守る。もちろんウソなど、言語道断。こうした誠実さがあって、
はじめて、親子は、親子の関係をつづけることができる。

 もちろん損得の計算は、しない。考えてもいけない。親、とくに母親は、『無私の愛』を
貫く。そういう姿勢が、子どもの心を守る。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●明治の偉勲たち

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【封建時代の亡霊たち】

●江戸時代

 今の日本が、今の日本になったのは、明治以後のことである。明治のはじめ、日本は、
当時のインドネシア程度の、GNPしかなかったものと推察される。あるいはインドネシ
アのほうが、ずっと豊かだったかもしれない。

 ともかくも、江戸時代という時代は、残っている城などを見ると、それなりに国力のあ
る時代に思う人が多いかと思うが、それはまちがい。その生活スケールは、今とは比較に
ならないほど、小さかった。

 この浜松近辺にも、たとえば新居の関所がある。当時のまま、今に現存する、唯一の関
所である。その関所を見ても、当時の日本が、いかに小さな国であったかがわかる。ほか
に浜松市の中心部に、浜松城がある。徳川家康の居城となった城だが、驚くほど、小さい。
今では町のビルに隠れて、どこにあるかさえも、わからない。

 富や権力が、こうした為政者に集中する一方、一般の庶民たちは、生きていくだけが精
一杯。最低限の生活しか保障されなかった。先に書いた新居の関所の周辺には、当時の旅
籠(はたご)が、そのまま残っている。武士たちが泊まった本陣(宿)でさえ、驚くほど
小さく、狭い。

 さらに旅籠に泊まった客たちが食べた料理も再現されているが、その内容は、実に質素。
白いご飯に、煮干、味噌汁、それに漬け物が並んだ程度。今の旅館の料理とは、くらべよ
うもない。

 私はときどき、「日本の江戸時代は、世界の歴史の中でも、類を見ないほど、暗黒活恐怖
政治の時代であった」と書く。それは事実で、とくに江戸時代の前期においては、「切り捨
て御免」が、日常的になされていたという。侍なら、庶民を切り捨てても、罪は問われな
いというのが、切り捨て御免である。

 明治に入ってからでさえも、遠くで、カチャカチャと、鞘(さや)が当たる音が聞こえ
たりすると、農民たちは、道端(みちばた)に寄り、地面に顔をこすりつけて、その元武
士(士族)が通りすぎるのを待ったという。

 これは数年前、90歳近くでなくなった、山荘の隣に住む、女性から私が、直接聞いた
話である。

 「明治になっても、士族は、刀をさして歩いていましたよ。その刀が、歩くたびに、カ
チャカチャと音をたてるのです。その音で、みな、道端に寄って、正座をして、顔を地面
にこすりつけました」「顔を見ることも、許されませんでした」と。

 時代が変わっても、それまでの風習は、しばらくはつづいたという。

 新居の席所の話については、以前、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++++++++++

●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所とい
うことだが、それほど大きさを感じさせない関所である。

江戸時代という時代のスケールがそのまま反映されていると考えてよいが、驚くのは、
その「きびしさ」。関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわか
る。つかまれば死罪だが、その関所破りを助けたものも同程度の罪が科せられた。

新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、
そこでさらにはりつけに処せられたという記録も残っている。移動の自由がいかにきび
しく制限されていたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いた
ことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その
中の随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでい
た」というような記述があったことである。当然といえば当然だが、こうした関所に対す
る批判的な記事はいっさいなかった。私と女房は、読んでいて、あまりのチグハグさに思
わず笑いだしてしまった。「江戸時代が自由な時代だったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それを
きゅうくつとは思わなかっただろうということは、私にもわかる。

あのK国の人たちだって、「私たちは自由だ」(報道)と言っている。あの人たちはあの
人たちで、「自分たちの国は民主主義国家だ」と主張している。(K国の正式国名は、朝
鮮人民民主主義国家。)現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代
であった」(パネルのコメント)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同じ
くらい、おかしなことである。私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖
政治の時代であったかということ。新居の関所はその象徴ということになる。

たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡崎藩の家老級の人だった」とか、「新
居町だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであったのが気になる。関所がそ
れくらい身分の高い人によって守られ、新居町が特権にあずかっていたということだが、
批判の対象にこそなれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そう
いう意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関
所をとおして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じ
てみるとよい。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して
美化してはいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。

そういえば関所の中には、これまた美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌
舞伎役者のように美しかった。私がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよ
い。

+++++++++++++++++++++

 だからといって、私は日本の過去が、つまらないものだったと書いているのではない。
ただ、今、あの江戸時代を、必要以上に美化する人が、あまりにも、多いということ。そ
の一例が、NHKの大河ドラマである。

 ああいうのを見ていると、現代人よりはるかに理知的な人たちが、当時の政治をとりお
こなっていたかのような錯覚を覚えてしまう。しかし現代ですら、そういう政治家は少な
い。いわんや当時をや、ということになる。

 権力闘争一つとっても、今より、はるかに毒々しいものであったにちがいない。私はと
きどき、生徒たちにこう教えることがある。

 「江戸時代という時代を本当に知りたかったら、アフリカの貧しい国々を見てきたらい
い」と。

 残念ながら、私は、アフリカへは行ったことがない。ないが、想像はできる。(江戸時代
にしても、どういう時代であったかについては、想像するしかない。)

 つぎの原稿は、由比正雪について書いたもの(中日新聞投稿済み)。少し話がそれるが、
江戸時代を知る、ひとつの手がかりにはなると思う。

++++++++++++++++++++++

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言
う。よく似たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間が
ある。

日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あま
り偉い人とは言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしな
い。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。

中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打ちこわし、……関所を廃
止して、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝国書院版)と。
これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚すら覚える。
しかし……?    

実際のところ、それから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒
かつ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極
貧の生活を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。

由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その
刑は関係者はもちろんのこと、親類縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)
安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と書いてい
る。

家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の悪い事実
は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結
果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。そこで提言。

「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人をめざす出世
主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだしも、政治
にそれが利用されると、とんでもないことになる。

少し前、幼稚園児を前にして、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらいた。そうい
う意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。

+++++++++++++++++++++

 悲しいかな、私たちは、あの江戸時代という封建時代を清算しないまま、現代に至って
いる。そのため、江戸時代の亡霊は、いまだに、いたるところに残っている。

 いろいろな賛否両論があることは私も知っている。しかし今になって、どうして武士道
なのか、私には、どうしても、理解できない。もし武士道というのが、どういうものであ
るかを知りたかったら、ヤクザの世界をのぞいてみることだ。

 皮肉なことに、ヤクザの世界には、その武士道とやらが、少し形はちがうが、今でも、
色濃く残っている。徹底した上意下達社会。身分制度。命令と服従。任侠の世界。もっと
正確に言えば、相撲の世界や、歌舞伎、各宗派の総本山、そういった世界が集合されたそ
の先に、武士の世界がある。そういう世界が、本当に日本にとって、理想の世界かと言え
ば、私は、そうは思わない。

 明六社に集まった福沢諭吉たちは、そういう世界を、まだまのあたりに見ていた。そし
てその否定こそが、近代日本の基礎になると考えた。「否定」である。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●武士道とは

 武士道を信奉する人たちのバイブルとなっているのが、新渡戸稲造が書いた、『武士道』
(明治32年)である。新渡戸稲造といえば、5000円札の肖像画にもなっているから、
知らない人はいない。明治時代の終わりごろ活躍した人物で、ほかにも『随想録』(明治4
0年)に書いたりしている。

 もともとは、幕末の南部藩(岩手県)の武士の子弟として生まれ、札幌農学校を卒業し
たあと、アメリカにも留学している。

 その武士道でもっとも重んじるのが、「名誉」ということになる。新渡戸稲造も、『武士
道』の中で、こう書いている。

 「武士は、命よりも高価であると考えられることが起きれば、極度の平静と迅速をもっ
て、命をすてる」と。

 要するに、名誉のためには、死をも覚悟せよ、と。

 新渡戸稲造が、いつの時代の武士を念頭に置いたのかはしらないが、幕末の武士たちは、
堕落し放題。権威と権力の座に安住し、その中身と言えば、完全にサラリーマン化してい
た。サラリーマン化が悪いと言っているのではない。「名誉のために、死をも覚悟した」と
いうのは、あまりにも大げさ。

 もっともこの心は、やがて日本の軍国主義の精神的根幹にもなっていった。「死して虜囚
(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」とういう、あれである。しかしその言葉の
裏で、いかに多くの日本人が、犠牲になったことか。あるいはいかに多くの外国人が、犠
牲になったことか。

 もっとも愛国主義が最初にあり、それから生まれた名誉のために死ぬというのであれば、
まだ納得できる。正義、あるいは、自由や平等のために死ぬというのであれば、まだ納得
できる。しかし武士道でいう『名誉』とは、まさに主君もしくは、「家」に対する、忠誠心
をいった。

 ほかにも、武士道には、「義」「勇」「仁」という三つの柱があり、さらに「礼節」「誠実」
「名誉」「忠義」「孝行」「克己」の、人が守るべき、徳目として、並べられている。「名誉」
それに、それから生まれる「恥」の概念も、こうした徳目から、生まれた。

 もちろんある側面においては、武士道は魅力的であり、それなりに納得できる部分もあ
る。しかし武士道が、封建時代というあの時代の「負の遺産」を支えたもの事実。「影の部
分」と言ってもよい。もっとわかりやすく言えば、武士道がもつ「負の側面」に目を閉じ
たまま、武士道を、一方的に礼さんするのは、たいへん危険なことでもある。

 たとえばここでいう「仁・義」にしても、つきつめれば、「仁義の世界」。つまり、現代
風に言えば、ヤクザの世界ということになる。

 また、名誉についても、『武士は食わねど、高楊枝(ようじ)』(武士というのは、食べる
ものがなくて空腹でも、満腹のフリをして、名誉を守った)という、諺(ことわざ)も、
ある。

 果たしてそういうメンツや見栄にこだわることも、武士道なのだろうか。武士道を礼さ
んする人は、武士道を知らなければ、「人の正義」はないようなことを言う。しかしこの私
などは、武士道とはまったく無縁。しかしそんな私でも、礼節もあれば、名誉もある。誠
実、忠義、孝行、克己についても、自分なりに考えている。

 たしかに、今の世相は、混乱している。それはわかる。しかしそれは当然のことではな
いか。

 日本は、江戸時代という封建主義時代。明治、大正、昭和という軍国主義時代。そして
戦後の官僚主義時代。こういった時代を、それぞれ経験しながら、そのつど、過去の清算
をしてこなかった。反省もしなかった。

 だから、今の若い人たちを中心に、「わけのわからない世界」になってきた。

 それはわかるが、で、こうした世相に対する考え方は、二つある。

 一つは、過去にもどるという考え方。よくても悪くても、そこには、一つの「主義」が
ある。最近もてはやされている武士道も、その一つかもしれない。

 もう一つは、新しい主義を、創造していくという考え方。当然のことながら、私は、こ
の後者の考え方を、支持する。またそのために、こうしてモノを書いている。それについ
ては、これからも追々書いていくが、ともかくも、今の段階では、そういうことになる。

 最後に、忘れてならないのは、私の先祖も、あなたの先祖も、その武士階級にしいたげ
られた、町民や農民であったこと。もし仮に今でもあの封建時代がつづいていたとしたら、
私やあなたも、今でも、ほぼまちがいなく、町民や農民であるということ。

 そういう私やあなたが、武士のまねごとをして、どうなるというのか? 武士でもない
私やあなたが、武士道を説いて、どうなるのか。そのあたりを、じっくりと考えなおして
みてほしい。

今でこそ、偉人としてたたえるが、新渡戸稲造にしても、武士という特権階級に生まれ
育った人物である。アメリカから帰ってきたあとも、京都帝国大学教授、第一高等学校
校長、東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任している。まさにエリー
ト中のエリート。時の権力や権威をほしいままに手に入れた人物である。その事実を、
忘れてはならない。
(はやし浩司 武士道 新渡戸 義 勇 仁 仁義の世界 仁義)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●明治維新の謎

 明治維新のことを、「明治維新」という。そんなことはだれでも知っている。

詳しくは、慶応3年10月、徳川慶喜(将軍)の大政奉還から、同年12月明治天皇の
王政復古宣言、慶応4年、江戸幕府の倒壊を経て、明治新政府成立の一連の統一国家形
成への政治改革を総称して、「明治維新」という。

 「維新」とは、「すべてが改まって、新しくなること」(広辞苑)をいう。

 しかしこの「明治維新」には、大きな謎がある。実は、日本の明治維新は、英語では、「Mieiji 
Restoration」と訳されている。

 ここでいう「メイジ・レストレーション」の「レストレーション」とは、政治学の世界
では、ズバリ、「王政復古」を意味する。よく知られた例に、チャールII(Charles II)
が、1660年に復位して行った、王政復古がある。英語では、(the Resoration)という。

 しかし「維新」というと、「革命」もしくは、「刷新」という印象をもつ。事実、私は学
生時代、「維新」というのは、「革命」ほどではないが、革命に近い革命のことだと、理解
していた。

 しかし明治維新の流れを見るまでもなく、明治維新は、日本にとっては、まさに「王政
復古」を意味するものであった。

 (King=王)と(Emperor=天皇)のちがいは、呼び方のちがいだけであって、中身は
まったく同じである。ともかくも、英語の方では、正直に、「明治王政復古」と訳している。
しかし日本語のほうでは、「明治維新」と、何かをごまかしている。

 なぜ、日本では、「王政復古」と言わなかったのか。また学校でも、なぜ、そのように教
えないのか。「王政復古」と教えることに、何か、まずい点でもあるのか。

 私がここで「謎」という言葉を使った理由は、そこにある。つまり日本は、明治維新に
よって、民主主義国家になったのではない。学校の教科書などでは、あたかも民主主義国
家になったかのように教えられているが、それはウソ。

 江戸時代という時代が、あまりにも窮屈で、自由のない時代だったから、その反動とし
て、明治時代が、明るく華やいで見えたことは、事実だろう。しかし日本は、明治維新に
よって、民主主義国家になったのではない。欧米でいう、並みの王政国家になったのであ
る。

 だから35年前のことだが、オーストラリアで使われている大学のテキストには、こう
あった。「日本は、官僚主義国家」と。「君主(ロイヤル=天皇)官僚主義国家」となって
いるのもあった。

 私は、この記述に、1人の日本人として、猛反発した覚えがある。しかし日本は、官僚
主義国家だった。少なくとも、当時、日本がいう民主主義と、私がオーストラリアで感じ
た民主主義は、似ても似つかない、まったく異質のものであった。

 なぜ、時の政府は、「維新」という言葉を使ったのか。

 理由は簡単。大政奉還によって、それまでの幕藩体制を、王政に変えただけ。わかりや
すく言えば、徳川家と天皇家を入れかえただけ。そういう事実を、国民の目から覆い隠す
ために、「維新」という言葉を使った。

 本来なら、英語のように、「明治王政復古」と言えばよかった。しかしそれでは、国民の
反発を買うかもしれない。そこで「明治維新」とした。ときの官僚たちが、知恵をしぼり
にしぼって考えた、その結果とも言える。(官僚たちは、こういう言葉のダマシのテクニッ
クに、たけている! 「軍隊」を「自衛隊」と言ってみたり、「官僚主義体制の是正」を、
「行政改革」と言ってみたり、などなど。)

 つまり、これがここで私がいう、「謎」ということになる。(その答も、すでに書いてし
まったが……。)

 で、明治維新は、一般大衆や庶民には、まったく無縁の世界で起きた、政変劇というこ
とになる。だから江戸時代の社会システムは、ほぼそのまま明治時代へと引きつがれた。
藩主は県令(今の県知事)となり、武士は警官となり役人となった。それから140年近
くたった今でも、こうした官僚主義は、厳然と生きている。「官僚による、官僚のための、
官僚の国家」ということか。

 日本は、たしかに、自由な国である。選挙もある。しかし自由といっても、アホなこと
を、ギャーギャーと騒ぐことを自由というのではない。またそういう自由があるから、自
由な国というのではない。

また選挙にしても、県知事にしても、市長にしても、はたまた国会議員にしても、選ば
れるのは、元官僚。天下り官僚。こういう現実を前にして、それでも日本は、民主主義
国家と言い切ることができるのだろうか。

 「明治維新」について、私が知っていることを、ここに書きとめた。
(はやし浩司 明治維新 Meiji Restoration 王政復古)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●上下定分の理

+++++++++++++++

どうして、日本の身分制度は、
生まれたのか?

どうして男が上で、女が下と
考えるようになったのか?

どうして夫が上で、妻が下と
考えるようになったのか?

+++++++++++++++

 「自然界にある上下関係は、人間関係にもおよび、それがあらゆるものの秩序を保つ原
理になっている」というのが、「上下定分の理」である。

 男が上で、女が下、
 親が上で、子が下、
 夫が上で、妻が下、と。
 
 そしてこれが江戸時代の身分制度の基本原理となったことは、言うまでもない。で、そ
れを理論づけたのが、林羅山(はやし・らざん・1583〜1657)。江戸時代初期、徳
川家康のブレーンとして働いた儒学者として知られている。

 この思想は、当時の封建領主たちにとっては、まことにつごうのよいものであった。と
くに一部の仏教徒や、その仏教徒に指導された農民たちの反乱(一揆)に手を焼いていた、
為政者には、そうであった。為政者たちは、林羅山の上下定分の理に、とびついた。つま
りこうして、士農工商の身分制度は確立され、江戸時代が終わるまで、それはつづいた。

 この林羅山、つまり私と同姓であるが、もちろん私の祖先とは、関係ない。で、一説に
よると、58歳のときですら、1年間に700冊も本を読んだという(PHP「哲学」)。

 58歳といえば、今月、私も、その58歳になる。で、1年間に700冊というと、1
日、2冊。当時の本というのは、今でいう本とは、かなり趣(おもむ)きが、ちがう。文
字も大きく、ページ数も少ない。全体としても、新聞1ページ分もなかったのではないか。
「700冊」と聞くと、すごいと思うが……。

 10年ほど前のことだが、私はあるカルト教団の信者と、こんな会話をしたことがある。
その信者は、彼らが属する教団の、X指導者について、こう言った。

 「X先生は、絶対、正しい」と。そこで「どうして、そんなことが言えるのですか?」
と私が聞くと、「X先生は、すでに万巻の書を読んでいる」と。

 「たくさんの本を読んでいるから、その人は正しい」という論法は、日本独特のものと
考えてよい。隷属性の強い人が、自分の薄学をごまかす言葉として、よく使われる。それ
に、日本人は、どういうわけか、「本」に対して、一種独特の幻想を、強く、もっている。
たとえばこの日本では、「教科書に書いてある」と言えば、泣く子も、だまる。

 ……という、どこかひがんだ話は別として、この林羅山のおかげで、日本の民主化は、
その根底から、芽を摘まれたことになる。(残念!)以後、世界に類をみない、身分制度が、
この日本を支配することになる。

 が、これは、江戸時代だけの話ではない。江戸時代が終わって、140年もたつという
のに、いまだに、「男が上で、女が下。親が上で、子が下。夫が上で、妻が下」などと考え
ている人は、多いのには、驚かされる。この静岡県においてですら、そうである。

 これから書く話は、100%、事実である。

 浜松市の郊外に、A町という、昔からミカン栽培で栄えた町がある。町というか、村に
近い。その町の教育委員会の依頼で講演したときのこと。そのあと若い課員(35歳くら
い、当時)が、控え室で、私にこう言った。

 「先生の講演は、この地域では、まずいです。そうでなくても、嫁姑(よめ・しゅうと
め)の戦争が絶えないところです。こういうところで、女性の地位うんぬん(=ジェンダ
ー)の話をされると、委員会としても、困ります。

 こういう講演会では、みなが、ハハハと笑えるような話のほうがいいです。ほら、大阪
の漫才師がするような話です。このあたりの女性たちは、こういうところへ、息抜きにく
るのです。こういう講演会があることを理由に、家から外へ出られるのです。

 先生の話は、嫁姑の戦争に火をつけるようなものです。覚えていますか? 一番、最後
列にすわっていた女性。先生から見て、左側の、一番窓際に座っていた女性です。先生の
話を聞きながら、深刻な顔をしていたでしょう。このあたりには、ああいう女性が多いの
です」と。

 私は、その課員の言葉を聞いて、あ然とした。「だったら、漫才師を呼べばいい」と思っ
た。「ただし私に払うような講演料では、ぜったいにこんなところには、来ないだろう」と
も。

 何とも不愉快な男だった。インギンブレイというのは、ああいう男の態度をいう。で、
私は、背筋を伸ばして、こう言ってやった。

 「ああ、その女性ですか。窓際の、ね。……あれは、私のワイフです」と。そのとき、
ワイフは、私の運転手として、その会場へ来ていた。

 ハッと驚いた様子はわかったが、私は、その課員と目を合わせることは、もうなかった。

 21世紀に入った、現代ですら、こうである。いわんや、明治時代はどうであったか。
江戸時代はどうであったか。いつの世も、体制に迎合して、その体制につごうのよい研究
をする学者がいる。林羅山という人も、そんな人ではなかったか。

 で、その林羅山は、多くの弟子、門下生を生み出している。そしてその流れは、やがて、
貝原益軒(かいばらえきけん)や新井白石らへと受けつがれていく(参考、PHP「哲学」)。
(はやし浩司 身分制度 林羅山 上下定分 上下定分の理)

++++++++++++++++++++++

その貝原益軒で思い出したのが、つぎの
原稿です。

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●子育ては主義の問題

 ある母親から、こんなメールが届いた。私の講演を聞いたあと、今度は、S氏という評
論家の講演を聞いたというのだ。その結果、「頭の中が混乱してしまいました」と。

 S氏というのは、このあたりでも、貝原益軒(かいばらえきけん)の『和俗童子訓』風
の子育て論を説くことで、よく知られた人である。貝原益軒というのは、江戸時代の儒学
者である。S氏も、「親の威厳こそが、家族をまとめるカギである」というようなことを、
あちこちで話している。

 私の考え方とは、一八〇度違う。だからといって、私はS氏の思想を否定しているので
はない。人それぞれ。私は私。人は人。

 そこで大切なことは、いろいろな人の意見には、耳を傾けつつも、「私は私」という部分
を、自分の中につくること。でないと、この母親のように、混乱してしまう。

 子育てというのは、一見、ただの子育てに見えるかもしれないが、実は、そこに、その
人の「主義」がからんでくる。その人の生きザマや人生観が、子育てに、集約される。学
歴信仰とはよく言ったもので、まさに「信仰」に近い部分もある。

 だから子育てをするとき、大切なことは、どんな小さなものでもよいから、そこに「主
義」をもつこと。これを心理学の世界では、「一貫性」という。一貫性が大切とか大切でな
いとかいうことではなく、その一貫性がない子育てほど、こわいものはない。

 たとえば貝原益軒なら貝原益軒でもよい。親が、一本、スジの通った主義をもてば、子
どもはそれに適応する。適応しながら、ときには、親を反面教師としながら、自分の生き
ザマを勝ち取っていく。まずいのは、「混乱」である。

 そこで私のばあいは、「教師は、子ども※」と決め、めったに、ほかの人の教育論は読ま
ないようにしている。話も聞かないようにしている。議論はよくするが、それは対等の立
場の議論。もし本を読む機会があれば、できるだけ教育とは無縁の本を読むようにしてい
る。

 それは私自身が、自分の主義を確立するためでもある。またそういう主義を、自分の育
児論の中に、織りこむためでもある。とくに私は、どこか迎合しやすい性質をもっている。
すぐ相手に合わせて、自分の意見をねじまげてしまう。

 私の講演を聞いて、つづいてあのS氏の講演を聞けば、だれだって、わけがわからなく
なる。私は、「親子といえども、一対一の人間関係」と説く。一方S氏は、「親の尊厳論を
説き、よい子どもを育てるためには、先祖の墓参りが重要」と説く。

 どちらをとるかは、それはみなさん、一人ずつの問題。私の意見がよいと思う人は、私
の意見を参考に、自分の主義をもったらよい。そうでない人は、そうでない主義をもった
らよい。それは私の問題ではない。冷たいことを言うようだが、仮に、あなたが私の意見
に同調してくれたとしても、私が得るものは、何もない。得をすることも、何もない。

 ただ私自身は、この宇宙に生まれた一つの証(あかし)として、ほんの数センチでも、
あるいはほんの数ミリでも、人間の社会を、一歩、前進させたい。そういう願いをもって、
ものを書き、自分の意見を述べている。

 だからその母親の意見には、こう答えるしかなかった。

 「あっちのカベ、こっちのカベにぶつかっていると、やがて子育ての輪郭が見えてきま
すよ。それがあなたの子育てです。混乱するということは、一歩、その手前にいるという
こと。恐れないで、もう一歩、前に、足を踏み出し、進んでみてください」と。

……これは私の重要な主義。子育て論を組み立てていて、わからないときがあると、本を
調べるよりも先に、子どもを観察し、子ども自身に問うことにしている。この世界へ入っ
てからというもの、私はただひたすら、くる日も、くる日も、アンケート調査を繰りかえ
した。「教師は子ども」というのは、そういう意味。

++++++++++++++++++++

ところで貝原益軒という人物は、どんなことを書いているのか。
彼が書き残した『和俗童子訓』をあげて、彼についての
おさらいを、ここでしておきたい。

++++++++++++++++++++

【貝原益軒】

 貝原益軒が、よく批判の的となるのは、彼が残した『和俗童子訓・巻之五』による。い
くら江戸時代とはいえ、よくもまあ、ここまで男尊女卑思想を、徹底させたものだと思う。
ホント!

 冒頭の「女子に教ゆる法」から、順に、内容をかいつまんで、拾ってみる。読みやすく
するため、できるだけ、口語になおした。

(1)(男子は、外の世界に出て仕事をする一方)、女子は、いつも内(家の中)にいて、
先生や友から、道を学び、世の中の礼儀を見習うこと。ただひたすら親の教えにより、身
を立てるものだから、父母の教えをしっかりと、守ること。

(2)女子は、はじめは男子とは、異なるところはない、しかし、女子は他家に嫁いで、
他人に仕える立場のものだから、不徳な女子では、舅(しゅうと)、夫の心にかなうことは
むずかしい。

 その年がきたら、女子には、「女徳」を教えなければならない。女徳というのは、女とし
ての心の正しくて、善なることをいう。女というのは、容姿より、心がすぐれているほう
が、よい。

 (夫にかしずいた、中国の斉の宣王の夫人の無塩を、すばらしい女性とほめたたえる。
一方、唐の玄宗の楊貴妃は、容姿はすばらしかったが、女徳がなかったので、何をしても、
天下のわざわいになってしまった。以下、つづく……。)

 だから婦人というのは、容姿は見にくくても、(舅や夫に)かしずき、ただひたすら、つ
つしみ深くあること。

(2)女の徳は、(「女」と呼び捨てにするのには、抵抗があるが、原文ではそうなってい
るので……)、和と順の2つを守ることである。和というのは、心を大切にして、身のこな
しや言葉が、うららかであることをいう。

 順(したがう)とは、人に従って、そむかないことをいう。和順がなければ、他人を怒
りののしったり、表情もきつく、他人を流し目に見て、けんかばかりする。人をうらんだ
り、自分の身を誇ったり、他人をののしったりする。他人よりすぐれているといった表情
は、おぞましく、憎たらしい。

 だから女は、和順で、かつ貞信で、なさけ深く、静かな心であるのがよい。

(3)そしてこのあとに、いよいよ貝原益軒の、あの有名な言葉がつづく。この部分は、
原文のまま、紹介する。

 『女は、人につかふるものなれば、父の家、富貴なりとても、夫の家にゆきては、其親
の家にありし時より(も)、身をひき(低)くして、舅姑にへりくだり、慎みつかへて、朝夕の
つとめおこたるべからず。舅姑のために衣をぬひ、食をととのへ、わが家にては、夫につ
かへてたかぶらず。みづからきぬ(衣)をたたみ、席をはは(掃)き、食をととのへ、うみ・つ
むぎ、ぬい物し、子をそだてて、けがれをあらひ、婢多くとも、万の事に、みづから辛労
をこらへてつとむる、是婦人の職分なれば、わが位と身におうぜぬほど、引さがりつとむ
べし。かくの如くすれば、舅、夫の心にかなひ、家人の心を得て、よく家をたもつ。又わ
が身にたかぶりて、人をさしつかひ、つとむべき事におこたりて、身を安楽におくは、舅
ににくまれ、下人にそしられて、人の心をうしひ、其家をよくおさむる事なし。かかる人
は、婦人の職分を失ひ、後のさいわひなし。慎むべし』と。

 つまり「女性というのは、夫の家に嫁いだら、親の家にいたときよりも、身を低くして、
舅姑にへりくだり、朝夕の仕事を怠ってはいけない」などなど。

(4)以下、女子の心得として、「女の四行」「婦人の三従の道」「婦人の七法」とつづく。

 そして結論として、『凡そ女子は、家にありては、父母につかへ、夫に嫁しては、舅・夫
に、したしくなれちかづきて、つかふるものなれば、其身をきよくして、けがらはしくす
べからず。是又、女子のつとむべきわざたり』と。

 わかりやすく言えば、およそ女子というのは、「家にあっては、父母に仕え、舅・夫に対
しては、親しく、なれ近づいて、仕えるべきものである。その身を清らかにして、けがら
わしくしてはいけない」と。

 そして何よりも、貞節が大切だと説く。

(5)そのあと、女性の心得をことこまかく、説明。たとえば、「昔の人は、兄弟といって
も、男女は、幼いときから、席(むしろ)を同じにしない。夫が衣服をかけるところには、
女は衣服をかけない。沐浴するところも、別々。男女の区別、内外の区別をすることは、
これは古道である」と。

 さらに指導は、こまかくなる。

 「自分の娘が嫁ぐときは、母たるもの、中門まで見送り、娘には、『夫にそむいてはいけ
ない』と教えること」などなど。それをまとめて、貝原益軒は、13条として、まとめて
いる。

 このあたりが『和俗童子訓・巻之五』の折り返し点で、さらに倍程度の文章がつづく。
あまり意味のない文の羅列なので(失礼!)、ここでは省略する。

 私は、この貝原益軒の文章を読んでいて、貝原益軒が、ただ単なる男尊女卑の思想の持
ち主というよりは、女性に対して、かぎりないあこがれと、幻想をもっているのに気がつ
いた。

 それはちょうど、マザコンタイプの男性が、女性に対して、常に「聖母的な偶像」を求
めるのに似ている。貝原益軒がこの『和俗童子訓』を著したとき、彼の母親はすでに他界
していた。貝原益軒がこの文を書いた日付は、宝永7年、つまり1710年である。貝原
益軒は、寛永7年(1630年)生まれというから、80歳のときの書ということになる。
貝原益軒は、その4年後の1714年に、九州福岡の荒津というところで他界している。

 その年齢なら、なおさら貝原益軒は、よけいに女性に対して、「聖母的な偶像」と求めて
いたとも言える。そこはまさに、森進一が歌う、『♪おふくろさん』の世界と言ってもよい。

 今でも貝原益軒の教育論をたたえる人は、多い。それはそれでかまわないが、ただ必要
以上に、貝原益軒を美化するのも、どうかと思う。

 私のワイフに、「妻たるもの、貞淑をまもり、夫にかしずき従うもの」と言うと、ワイフ
は私にこう言った。

 「何、言ってるの、あなた。頭がおかしくなったんじゃな〜い?」と。

 どうやら、その一言が、このエッセーの結論ということになる。みなさんは、どう考え
るだろうか?


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●中年から老年へ

 座っていて、ふと立ちあがろうとする。そのとき気持ちだけは、立ちあがったつもりで
いる。しかし体のほうが、それについてこない。「ヨイショ」といった感じになる。

 そういう自分の姿が、どこか老人臭くなってきたのを、自分でもわかる。決して老人の
まねをしているわけではない。しかし、体の方が、自然とそうなってしまう。

 「いやだね」と思う。だから、思い切って、立ちあがる。しかしそうすると、今度は、
足元がふらつく。こうして人は、老齢期を向かえ、少しずつ、老人臭くなっていく。

 ……と考えていたら、今日(10・2)、奥山高原で、元気な老人に出会った。年齢は教
えてくれなかったが、70歳くらいか。スタスタと、山を、まるで走るような速さで登っ
てきた。

 見ると、両手、両足に、鉄製のアレイをはめている! 「こうしてわざと重くして、体
をきたえているんですよ」と、笑った。その老人が、こんなことを話してくれた。

(1)老人になっても、老人と思うな。年齢を数えるな。
(2)健康が、第一。その健康は、自分で守るもの。つくるもの。鍛えるもの。
(3)老齢期に入ったら、趣味をもて。健康につながる趣味をもて。
(4)汗をかけ。汗をかけば、頭の働きも、よくなる。ボケない。

 話すたびに、ダジャレの連発。「頭が軽いから、身も軽いね」「汗をたらしても、よだれ
をたらしてはいかん」などなど。そのつど、ワイフは、大笑い。私も、笑った。

 中年期から、老年期への、移行がむずかしい。この時期、人は、肉体的にはもちろん、
精神的にも大きな転換期を迎える。この時期の過ごし方で、それ以後の過ごし方も、決ま
る。

 よい人に出会った。私はその人を見て、「ようし、ぼくも、がんばるぞ!」と思った。最
後に、私が、「現役時代の職業は何ですか?」と聞いたら、「民間企業のサラリーマンだよ」
と教えてくれた。

 そうそうその人は、こうも言った。

 「ワシは、若いころ、パチンコで何百万円も、すった。バカだったね。あんなものに、
時間と金を使って……。それでね、あんたより、2、3歳若いころ、スキー用具を一式買
って、スキーに挑戦したよ。で、ちゃんとすべれるようになったよ。

 スキー用具なんて、パチンコとくらべると、安いものさ。いいかね、あんなものを趣味
にしてはいかんよ。人間は、健康が第一。健康こそがすべて」と。

 私が写真をとると、「写真は、嫌いでね」と笑った。その人の写真は、R天の日記のほう
に、載せておくことにする。無断で、写真を載せて、すみません。



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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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はやし浩司(ひろし)