はやし浩司(ひろし)

2007・1

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2007年 1月号
 はやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 31日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●BW教室から

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このところ、忘年会つづき。
昨夜は、生徒たち9人を連れて、
近くのM・ハンバーガーショップへ行った。

そこでのできごと。

+++++++++++++++++

 「忘年会」と称して、生徒たち(小3〜5年)を、近くのハンバーガーショップへ連れ
ていった。子どもたちはみな、ワイワイと喜んだ。

 で、かなり前のことだが、あるところで、BWのOBたちと、こんな会話をしたことが
ある。私が、「BWで勉強したことで、どんなことを覚えている?」と聞いたときのこと。
みな、「何も、覚えていない……」と。

 が、そういうOBたちでも、みなでラーメンを食べに行った話とか、そういうことは、
よく覚えている。私のしている仕事というのは、所詮、その程度。

 で、そんなこともあって、ここ10年ほどは、年末などに、子どもたちを、近くの食堂
やレストランへ連れていくことにしている。昨夜は、それが、ハンバーガーショップにな
った。そこでのできごと。

 ショップの一角に、子どもたちがテーブルをつなげて、自分たちの座る席をつくった。
私は、子どもたちの注文を聞きながら、頭の中に、それをたたきこんでいた。

 と、そのとき、2人の女性が、ショップへ入ってきた。1人は、BWのOBである。今
年24、5歳になる、美しい女性である。幼児から小学2、3年生のころまで、教えたこ
とがある。私たちは、たがいに、軽い会釈を交わした。その2人は、私たちの席の、隣の
席にすわった。

 私たちは私たちで、勝手にパーティを始めた。子どもたちは、ハンバーガーをおいしそ
うに食べた。

私「なあ、君たち、ぼくは、女性にもてるんだよ」
子「うそ〜オ! 気持ち悪い! 先生は、もてないよ」
私「そんなことないよ。ぼくが声をかけると、どんな女性でも、ぼくと握手してくれるよ」
子「ああ、気持ち悪い! 先生と握手する女性なんか、いないよ」
私「もし、握手したら、どうする?」

子「いない。ぜったいに、いない」
私「じゃあ、そこにいる女性。あの女性と握手してみようか」
子「やめときな。嫌われるから」「ヘンタイと思われるよ」「気持ち悪〜い」
私「そんなこと、ないよ」と。

 そこで私はおもむろに立ちあがり、先ほど会ったBWのOBの女性の肩を軽くたたいた。
そしてこう言った。

 「握手してくれませんか?」と。

 するとその女性は、ニコニコと笑いながら、手を出してくれた。私は、そのままその女
性と握手した。

 それを見て、子どもたちは、びっくり。沈黙。しばし食べる手を休めて、ポカ〜ン。

私「ほらね。ちゃんと、握手してくれただろ。先生は、女性にもてるんだよ」
子「……」
私「君たちだけだよ、気持ち悪いなんて言うのは」
子「……先生がア……本当に、握手したア……」と。

 すると子どもたちが、「じゃあさあ、先生、もう一人のあの人と、握手してみなよ」「今
度は、断られるよ」と。

 私はそちらを見ると、軽く会釈して、手を出した。その女性も、すなおに、手を出して
くれた。

 そしてこう言った。

私「今度、デートしてくれますか?」
女「いつでも、いいですよ」と。

 多分、その女性たちは、その間に、私のことをあれこれ話していたにちがいない。私た
ちの会話も聞いていたにちがいない。それで私に呼吸を合わせてくれた。が、それを聞い
て、子どもたち、またまた仰天! まるで魔法か何かを見たかのように、目をまん丸にし
て驚いていた。

私「ぼくは、どんな女性にも、もてるんだよ。デートを申し込めば、だれだって、OKし
てくれるよ」
子「……」
私「わかったね。君たちは、まだ子どもだから、ぼくの価値がわからないだけ。もう少し、
おとなになれば、ぼくの価値がわかるようになるよ」
子「……」と。

 しかし刺激が強すぎたかな? 帰りの道、男子たちだけには、秘密を打ち明けた。「あの
ね、あの女性は、昔、BWにいた人たちだよ」と。それを聞いて、男子たちは、「なーんだ」
と言って笑った。

 教室へ帰ると、迎えの親たちの車が道路に並んでいた。それを見て、急いで、私たちは
教室へ飛び込んだ。

 忘年会の1コマでした!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

PART 7

●仲のよいのは、見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、
子育てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体に
しみこませておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうもので
すよ」と。とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう
姿は、子どもにはどんどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分
が親になったとき、自然な形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、
遠慮せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から
帰ってきたら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦とい
うのは、そういうものであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠っ
てはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそ
れこそ世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」
と言う人もいる。しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉
妬するということはありえない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、
頭の中で勝手に想像して、そう思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というの
は、「疑いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそう
いう環境があって、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣
立ちが終わったとき、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考
えながら、親自身も、子どもへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれ
るときは、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子ども
の前では、夫婦が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


●流れには従う

 世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのう
ちということになる。

 たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ〜」(舟木一夫の「高校三年」)
と歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒
業」)と歌った。この違いは大きい。

 そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。
それがよいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約60%の子どもが、「勉
強で苦労するから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長
談話)。また日本労働研究機構の調査(2000年)によれば、高校3年生のうちフリータ
ー志望が、一二%もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意
識も変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名にな
りたい」など。30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほと
んどいない。これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のよう
な派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 ところで親子を断絶させる三要素に、(1)親子のリズムの乱れ、(2)信頼感の喪失、(3)
価値観の衝突がある。このうち(3)価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れに
ついていけない親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、
自分の価値観を子どもに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを
入れる。

親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。

 どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断
絶していく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは55%もいる
(「青少年白書」平成10年)。「父親のようになりたくない」と答えた子どもは80%弱も
いる。この時期、「勉強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考
えてよい。


●なくしてわかる生きる価値

 賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。
健康しかし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、
中に隠れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よ
さ」。それに親がいつ気がつくかということ。

 たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どう
してうちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、も
し子どもの中に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこん
な母親がいた。

 その娘(中3)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母
親は毎日ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、1年もつづ
くと、母親の精神状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のと
ころに相談にきた。「どうしてうちの娘は……?」と。

 しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性
格もおだやかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校
でもリーダーで、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、
それにこういう言い方は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そうい
う子どもでも、親は、健康を悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でなら
なかった。

 昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人
間の欲望や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っ
ても、まだまだ苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味
だが、子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろとい
うのではない。「今、ここに子どもが生きている」という原点から見る。そういう視点から
見ると、ほとんどの問題は解決する。

 あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、
あなたの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くも
つ。


●名前は呼び捨て

 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはな
らない。先日も埼玉県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりと
こう話してくれた。「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しない
のですよ」と。そこで私が「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。
それでやけどでもしたら、たいへんなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」とい
うこと。中には、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤
解している人もいる。しかし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉な
もので、楽しませたり、楽をさせればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。

しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほど、生活力も身につき、忍耐力も養
われる。そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言うまでもなく、子どもは(お
となも)、自分で苦労してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「〜〜さん」とか、「〜〜ちゃん」づけで
呼ぶ親を見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。一見、子どもを大切にしている
ように見えるが、どこか違うような気がする。それで子どもに問題がなければよいが、た
いていは、そういう子どもにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も大きく、親に向か
っても、好き勝手なことをしている。子どもが小さいうちならまだしも、やがて親の手に
負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、
親子でも、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」
と聞きあっている。そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が
勝手に決めた規則は、子どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化する
と、子どもは自ら心を閉ざす。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさ
え!」では、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒である。それほど深刻な
問題ではないかもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また呼び捨
てでよい。


●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

(1)名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、その
(2)つど、子どもはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほ
めない。「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重に
する。

(2)人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。
命令や威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触
れるような「核」攻撃は、タブー中のタブー。

(3)人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を
守る。子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、
決して好ましいものではない。

(3)自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおお
やけに、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式
の叱り方はタブー。もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけな
い。

(5)名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前
はすばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にするこ
とから、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切
り抜いて、高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、
子どもは、自分を大切にすることを学ぶ。


●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入る
と、その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許
さない。気を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子
どものばあい、大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)内閉型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイ
プ。私はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することが
できず、引きこもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不
調を訴えることが多い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型と
いうのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、
そうした反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らか
の異常な体験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、
神経質な子育て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらな
い。

そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることが
ある。少しいじめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした
背景には、子ども自身の情緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神
経症が潜んでいることが多い。

たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、
そうした恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友
だちを遊んでいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子ど
もは泣くことで、自分の情緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」
ということを、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣
いてもムダということをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、
定期的に、また決まった状況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐ
ずらせるのがコツ。泣き方やぐずり方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚
にして、カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去
年よりよくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじら
せると、その分、立ちなおりがむずかしくなる。


●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と
聞くと、右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や
外からの情報に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こう
いう母親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、
通わせようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決
まるというから、あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、そ
の先生の個性が子どもに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、
どこか変人ぽいところがあるので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもない
ということ。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が
「お子さんは、どう思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。
だったら、それで結論は出たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分とい
うものがないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして
身につくはずの「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多
い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあ
なたがこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、3日置いて出す。この
タイプの母親ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることが
できない。だか3三日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏
のように心の中で唱えるとよい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイス
が効力をもつのは、せいぜい一週間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。も
ともと子育てというのは、そういうもの。その親自身の全人格がそこに反映される。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
一貫性 子育ての一貫性)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日・あれこれ】(12月29日)

+++++++++++++++++

年末は、いそがしい。
何かにつけて、いそがしい。

朝から、バタバタしている感じ。
で、アタフタとしているうちに、もう夕方。

原稿を書く時間など、どこにもない。
が、それでも……、ということで、
今日の雑感。

時刻は、3時30分。みなと、遅い昼食を
終え、ほっと一息ついたところ。

+++++++++++++++++

●心のポケット

 心のポケットのない人に、心の相談をしても、ムダ。まったくの、ムダ。心のポケット
のない人に、相談しても、あなたがかかえている問題は、何ら解決しない。

 たとえば今、あなたが嫁・姑(しゅうとめ)の問題で悩んでいたとする。そういうとき
は、同じように嫁・姑の問題に悩んだことがある人に相談する。その人には、嫁・姑の問
題についての、(心のポケット)があることになる。

 ……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、深刻な問題であればあるほど、そうで
ある。

 たとえば今、あなたが、家族のことで、何か深刻な問題をかかえていたとする。不平、
不満もある。グチも言いたい。ストレスもたまっている。将来のことを考えると、暗くな
る。心をふさぐ。

 そういうとき、あなたはだれかにその問題について、相談しようとする。しかしここで
大切なことは、まず、相手を選ぶこと。相手を選ばないまま、相談をすると、何ら解決に
結びつかないばかりか、かえって、問題をこじらせてしまう。

 その選ぶ基準のひとつが、ここでいう(心のポケット)ということになる。その人には、
あなたがかかえている問題を理解するだけの、心のポケットがあるかどうかということ。
つまり今、あなたが悩んでいる問題と同じような問題をかかえ、かつて悩んだことがある
かどうかということ。それがあれば、よし。そうでなければ、その人に相談するのは、や
めたほうがよい。

 世の中には、(同情じょうず)という人がいる。わかりやすく言えば、(口のうまい人)
ということになる。そういう人は、あなたがかかえる深刻な問題を、酒の肴(さかな)に
かえてしまう。ゴシップのネタにしてしまう。

 さらに世の中には、他人の不幸話を、楽しむ人がいる。さも同情するフリをしながら、
あなたに近づき、あなたから情報を得る。そしてその話を、これまた同情するフリをしな
がら、他人に話す。

 『渡る世間は、鬼ばかり』とまではいかないにしても、心のポケットのない人には、あ
なたのもつ苦しみや悲しみなど、理解できない。理解できない分だけ、軽く考える。

 ……個々まで書いて、イギリスの格言を思い出した。『航海のし方は、難破したことがあ
る人に聞け』というのが、それである。

 この格言には2つの意味がある。

 ひとつは、ここにも書いたように、何か悩みごとや心配ごとがあるときには、同じよう
なポケットのある人に相談せよという意味。

 もうひとつは、心のポケットのない人が、何かのことで悩んだり、苦しんだりしている
人に、あれこれとものを言ってはいけないという意味。とくに家族の問題、家庭の問題に
ついては、そうである。

+++++++++++++++

以前、私の本に書いた原稿の
一部を、ここに紹介します。

+++++++++++++++

●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を
聞くときも、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。
子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際に
はいる。しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ
選手の健康論が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意
見のほうに耳を傾ける。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、
幼児を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だ
った。とくに現場で10年、20年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そう
いう輝きは、時間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子ど
もをもつ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」という
ような話を聞いて、それで解決する。

++++++++++++++++

●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑
をかけているのではという思いが、自分を小さくする。

よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思う
が、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教える側の意見としては、その
とおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、
それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。

それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。
たしかに自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大き
い。そんなわけで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまく
いっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマ
スコミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員
は、地位や肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのよ
うにあつかった。電話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりに
いたします」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あの
ね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意
識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに
日本人独特の特性そのものといってもよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私
の立場でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。

実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち
抜いていった子どもの話など、ほとんど役にたたない。が、一般の親たちは、成功者の
話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組みたてようとする。

たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。す
べったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどというこ
とは考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるの
は、もっと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失
う。あるいは自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。

聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示される
だろう」(Matthew5-9)と。

この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」と
いうことになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分
を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●許して忘れる

++++++++++++++++

許して忘れる。

子育ては、いつもこの言葉に行き着く。

++++++++++++++++

 私たちは、どこまで人を許し、そして忘れるべきなのか。

 許すというのは、(フォ・ギブ)、与えるためとも訳せる。忘れるというのは、(フォ・ゲ
ッツ)、得るためとも訳せる。つまり許して忘れるは、「人に愛を与えるために許し、人か
ら愛を得るために忘れる」となる。

総じて見れば、人の関係は、(許す人、許される人)の関係で成り立っている。たとえば
あなたには、許してもらいたい人がいる。許してもらえたら、どんなに気が楽になるこ
とか。一方、あなたには許すことができる人がいる。許してあげれば、どんなにその人
は喜ぶことか。

 しかし問題は。どこまで人を許し、そして忘れるか、だ。卑俗な言い方をすれば、『仏の
顔も三度』という。『地蔵の顔も三度』ともいう。たがいに三度くらいなら、許したり、忘
れたりすることができる。しかし四度目となると、そうはいかない。またその必要はある
のか。

 こうして考えていくと、自分にある種の限界があるのがわかる。「そこまではできるが、
そこから先はできない」という限界である。私は実のところ、人と接するとき、いつもそ
の限界で迷う。苦しむというほど、おおげさなものではないが、しかし迷う。「許して忘れ
てあげようか」と思いつつ、「どうして私がそこまでしなければならないのか」というよう
に迷う。

私はもともとお人好しタイプの人間だから、何でも頼まれれば、本気でしてしまう。と
きにはしすぎることもある。どこかでブレーキをかけないと、自分のための時間がなく
なってしまう。今でこそ、ワイフもあきらめて言わなくなったが、少し前まで、いつも
こう言っていた。「人の心配もいいけど、来月の家計も心配してよ」と。

 この原稿を書いている今も、同じような問題をかかえている。その母親(34歳)はた
いへん情緒が不安定な人で、何かを相談してきては、そのついでに、無理なことを言って
は、私を困らせる。そこで私がやんわりと断ったりすると、最後はどういうわけだか、興
奮状態になってしまう。そしていつも何らかの罵声をあびせかけて、電話を切る。が、数
日もすると、また電話をかけてきて、「先日はすみませんでした」と。

 こういうことが、二度、三度と重なると、電話に出るのも、おっくうになる。その母親
が私に電話をかけてくるのは、私に何かの救いを求めているからだ。混乱する精神状態を
鎮(しず)めたいからだ。それはわかる。しかしどうして、この私が、他人であるその母
親に、何も悪いことをしていないのに、怒鳴られなければならないのか。

ワイフは割と合理的に考える女性だから、「放っておきなさいよ」「無視すればいいのよ」
「相手にしなければいいのよ」と言うが、私にはそれができない。クールに生きるとい
うことは、それだけで私にとっては、敗北でしかない。

 「修行」という言葉がある。宗派によっては、何時間も読経をしたり、過酷な行をして、
心身を鍛えるところもあるそうだ。私自身も若いころ、好奇心からオーストラリアの友人
と、一週間ほど、禅の道場に通ったことがある。が、どうも自分の体質に合わなかった。
瞑想(めいそう)にふけるということだったが、つぎからつぎへと、卑猥(ひわい)なこ
とばかりが頭に浮かんできて、とても瞑想などできなかった。

しかし本当の修行は、こうして生きていく、日々の生活の中で、ごく日常的になされる
ものではないのか。無理をして自分の心や体を痛めつけたところで、そんなことで、ど
うして真理に達することができるというのか。真理に到達する「思想」は、自らが考え
ることで、得ることができる。それとも滝に打たれ、炎の上を歩けば、数学の問題が解
けるようになるというのか。ホーキングの説く、宇宙の構造論が理解できるようになる
というのか。

 もし私がその母親を、この段階で、許して忘れることができるなら、私はつぎのステッ
プの、つまりはさらに高い(?)境地に達することができるかもしれない。それもわかっ
ている。しかしやはりブレーキが働いてしまう。心のどこかで、「ヒロシ、神や仏のまねご
とをして、それがどうなのか」と、だれかが言っているようにも聞こえる。だから迷う。
私はその母親を許して忘れるべきなのか、と。その母親は明らかに心の病にかかっている。
本来なら私のところではなく、どこか心の病院へ行ったほうがよいと思うのだが……。

 あああ、何とも重苦しい気持ちになってきた。ため息ばかりでる。このあたりで気分を
転換しなければならない。これから本屋へでも行って、パソコンの本をながめてくるつも
り。もうこの母親のことは、考えない。考えたくない。……あああ、だから私は凡人なの
だ。いつまでたっても、凡人なのだ。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

++++++++++++++++

同じ時間なのに、それを濃く生きる
人と、そうでない人がいる。

濃く生きている人は、
1日を1年のように長く生きることが
できる。

そうでない人は、1年を1日のように
生きる。

++++++++++++++++

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、30年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように30年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。

「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」
と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、80歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目
です」と。そういう女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835〜1910)も、こう書いて
いる。

「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お
金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も
残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。し
かし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
300万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私1人だけという時代だった。

そんなある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここ
での1日は、金沢で学生だったときの1年のように長く感ずる」と。

決してオーバーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。
そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代
だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くするこ
とになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を
生きることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと1
年の人生と宣告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生き
ることができる。

極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに
死すとも可なり』と。

朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないということ。
私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場
になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつ
も7〜8人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、
小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性
たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をして
いる姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも
生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」
と思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思
う部分は、「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分
は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだ
けなら、それは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。
そういう人生だったら、10年生きても、20年生きても、へたをすれば、たった1日を
生きたくらいの価値にしかならない。

しかし「濃い人生」を送れば、1日を、ほかの人の何倍も長く生きることができる。仮
に密度を10倍にすれば、たった1年を、10年分にして生きることができる。人生の
長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間を
ムダにしていることか、ということになる。私は今、59歳になったところだが、そんな
私でも、つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。
いわんや、70歳や80歳の老人たちをや! 

私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その「山」があるの
かないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつも
一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからも
それが繰り返されるだろう。

で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先へ進んでみた
い。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で
考えられなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは
思わない。ボケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私
はもう真理に近づくことはできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今
の私がこう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつ
づけたい。だから空き地に集まって、1日を何かをするでもなし、しないでもなしという
ふうにして過ごす人生だけは、絶対に、送りたくない」と。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●よい人・いやな人

+++++++++++++

歳をとればとるほど、
つきあう人を選択するようになる。

(私も、選択されているが……。)

残された人生には、かぎりがある。
つまらない人たちと、ムダな話をして、
時間を費やすヒマは、もうない。

人生は、すでに秒読み段階に
入っている。

+++++++++++++

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心の
どこかで覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温め
るといっても、もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっ
と早く知りあいになっておけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ60歳です」と言
っていたが、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、
私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの
人だった。短い時間だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを
懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、
あなたを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思ってい
るなら、Aさんもあなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんを
いやな人と思っているなら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係
というのはそういうもので、長い時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別
の講演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待ってい
る間、自分でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな
気配りをしながら、それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。
時間にすれば30分ほどの時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにご
まかしてつきあうこともできる。が、半年、1年となると、そうはいかない。ここにも書
いたように、心はカガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すように
なる。

もしあなたがB先生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの
子どもを介して、あなたのことを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたが
いの心の相乗効果が、よりよい人間関係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずか
しくない」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「う
ちの親はすばらしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つま
り、もしあなたが「うちの子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきこ
とは、ただ一つ。自分の心をつくりなおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつく
りなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今
からでも遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっと
よくなったわ」「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよ
い。ウソでもよいから、それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、そ
れが自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になってい
る。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわり
には、よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来
的にもっている「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人の
まわりを、明るく、過ごしやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだ
ことがないです」と言った言葉の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかってい
る。心はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、
とてもMさんのようにはなれない。

私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩司って、こんな
程度の男だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわかる。過
去を悔やむわけではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早
く、つまりもっと若いときにそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔するこ
とはないだろうと思う。

私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づかなか
った。そういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ある女性からの書き込み

+++++++++++++++++

私の掲示板に、こんな書き込みがあった。
このところ、外国に住む方たちにも、
HPやマガジンが読んでもらえるように
なった。

考えてみれば、これは、ものすごいことだと
思う。

+++++++++++++++++

メルマガを読ませていただき、はやし先生のお考えがうかがえ、大変ためになっておりま
す。一言お礼したく、こうして書いています。メールにしようか迷いましたが、一個人が
直接メールでは失礼かと思い、掲示板に書き込むことにしました。

私は海外に住んでおり、夫は外国人です。

息子は多分、何かの心の問題をもっていると思います。確定診断は受けていません。彼の
抱えている問題はとても大きく、これから思春期に入り、どうしてサポートできるか、こ
れから不安です。

学校は普通校で、私立のこちらでは国で1、2の有名校です。その選択も彼に良かったの
か、迷うところです。つまり、彼は何の勉強も、予習も復習も、試験勉強もしないのです
が、成績がものすごく良いのです。

とくに算数は文章題が得意です。英語も、Logic系がずば抜けてできます。しかし非常に怠
け者で、また友達がいないし、できません。社会性を見たら幼稚園児くらいなのです。

こちらでは近所では、子どもが遊ぶこともなく、彼の性格からしても友だちを作ることが
難しいと思います。パニック障害も癇癪発作もあります。学校もエリート校で詰め込みな
ので、なお悪い気もします。

主人はこちらで弁護士をしています。主人の父も弁護士で、裁判官から最高裁まで行きま
した。こう言っては申し訳ないけれど、親からの多少遺伝もあると思っています。

お礼のつもりが長くなりました。相談のつもりで書いたのではありません。メルマガのお
礼です。親しみやすい文章でついお礼したくなりました。これからも頑張ってつづけてく
ださい。

【書き込みをしてくださった、Nさんへ】

 インターネット時代になって、すばらしいと思うことがいくつかあります。そのうちの
ひとつが、国境がなくなったということです。こうしてNさんのような方から(書き込み)
をいただくと、いまだに、「ヘエ〜」と感心してしまいます。

 若いころはアマチュア無線に挑戦したこともあります。しかし今にしてみれば、「アマチ
ュア無線って、何だったのだろう」とさえ思ってしまいます。また最近は、スカイプを使
って、テレビ電話を楽しんでいます。そういうことが、無料でできるところがすごいです
ね。

 これから先、この世界は、どこまで進歩していくのでしょうか? 先の先まで、見届け
ることができない自分が、残念でなりません。

 自分のことばかり書いてすみません。Nさんが、どこの国に住んでおられるか、私は知
りませんが、私には想像もつかないような苦労が、いろいろおありかと思います。昔、同
じカレッジにいた、モーリシャスの皇太子が、オーストラリア人のガールフレンドに恋を
して、そのまま結婚してしまいました。

 私たちはその皇太子をみなで、祝福しました。私が開いた日本祭には、2人で来てくれ
ました。Nさんの書き込みを読んで、その友人のことを思い出していました。今ごろは、
その友人は、モーリシャスで、王様か何かになっているはずです。

 Nさんは、多分、私たちが見ている世界とは、ちがった世界を見ておられるのでしょう
ね。私には、想像もつきません。また何か、教えていただけるようなことがあれば、どう
か、話してください。

 子どものころ、SF小説を読んでワクワクした気持ちを、今でも忘れません。不謹慎か
も知れませんが、そんな気持ちを、心のどこかで感じています。

 書き込み、ありがとうございました。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

●BW生の募集

++++++++++++++++

またまたその季節になった。
BW教室では、毎年、2〜3月期に、
BW教室の生徒を募集している。

小さな個人塾だから、毎週1〜2人という
ペースで入会してもらっている。

現在、年中児、年長児のみなさん、
4月から新年中児、新小1児の
みなさんは、どうぞ、一度、
見学においでください。

BW教室の子どもたちの、あの
底抜けの明るさを、ぜひ、みなさんの
体で感じてみてほしい。

BW教室は、子どもを伸ばします!
ホント!

++++++++++++++++

【連絡方法】

★どなたかの紹介のある方

 現在のBW生、BWのOBからの紹介があるばあいは、そのまま見学してもらっていま
す。電話、452−8039まで伝言を残してくだされば、見学日を案内いたします。

★外部の方(紹介のない方)

 2月〜3月期に、説明会をもちます。一度、
 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 →
 「右下のBW案内」に目を通していただければ、うれしいです。BW教室がどんな教室
か、わかっていただけます。

 その上で、BW教室への見学を、お申し込みください。(申し込み方法などは、HPのほ
うに書いてあります。)それをいただいたら、私のほうから、都合のよい日時を、お知らせ
したします。

 なお、見学などは、入会目的をした方だけに、していただいています。お子さんのいら
っしゃらない方、同業の方のスパイ見学などは、かたく、お断りしています。(この世界で
は、そういう方も、多いものですから……。)

 あとは、お任せください。「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」です。子どものあの純真な心を
大切に、明るく伸びやかな子どもにします。

 なお、よく誤解されますが、BW教室では、(できる)(できない)は、問題にしていま
せん。たとえば文字についても、「文字は楽しい」ということは教えますが、(文字が書け
る)(書けない)は、いっさい、問題にしていません。どうか、誤解のないように!

+++++++++++++++++

現在、募集中のみなさんは、

現在、幼稚園・保育園の年中児、年長児のみなさん
4月から新年中児、新年長児のみなさん
4月から新小1児のみなさん、です。

月謝などは、HPの「BW案内」のほうで、ご覧ください。入会申し込みなども、そちら
でできるようになっています。


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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 29日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

PART 6

●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を
聞くときも、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。
子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際に
はいる。しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ
選手の健康論が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意
見のほうに耳を傾ける。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、
幼児を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だ
った。とくに現場で10年、20年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そう
いう輝きは、時間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子ど
もをもつ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」という
ような話を聞いて、それで解決する。


●入試は淡々と

 入試は受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。とくに
幼児のばあいは、そうする。

 入試でこわいのは、そのときの合否ではなく、仮に失敗したとき、その失敗が、子ども
の心に大きなキズを残すということ。こんな中学生(中2女子)がいた。「ここ一番」とい
うときになると、必ず決まって、腰くだけになってしまう。そこで私が「どうして?」と
理由を聞くと、こう言った。「どうせ私はS小学校の入試で失敗いたもんね」と。その女の
子は、もうとっくの昔に忘れてよいはずの、小学校の入試で失敗したことを気にしていた。

 こうしたキズ、つまり子ども自らが自分にダメ人間のレッテルを張ってしまうというこ
とは、本来、あってはならないこと。そのためにも、子どもの入試は、すべることを考え
て準備する。もっとわかりやすく言えば、淡々と迎え、淡々とすます。(もちろん合格すれ
ば、話は別だが……。)

実際、子どもの心にキズをつけるのは、子ども自身ではなく、親である。中には、子ど
もが受験に失敗したあと、数日間寝込んでしまった母親がいる。あるいはあまり協力的
でなかった夫と、喧嘩もんかになってしまい、夫婦関係そのものがおかしくなってしま
った母親もいる。さらに、長男が高校受験で失敗したとき、自殺をはかった母親もいる。
子どもの受験には、親を狂わせる、恐ろしいほどの魔力があるようだ。

 それはさておき、子どもの入試には、つぎのことに注意するとよい。「受験」「受かる」「す
べる」という言葉は、子どもの前では使わない。「選別される」という意識を子どもにもた
せてはいけない。ある程度の準備はしても、当日は、「遊びに行こう」程度ですます。あと
はあるがままの子どもをみてもらい、それでダメなら、こちらからその学校を蹴飛ばすよ
うな気持ちですます。そういう思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもはその
時点から、また、前向きに伸び始める。


●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであ
れば、よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。とくに
何らかの心の問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。た
とえば学校恐怖症による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然
にぐずる、熟睡できず眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」。日本では「就眠儀式」
ともいう。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それを
ベッド・タイム・ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子ども
は眠ることに恐怖心をいだいたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさ
い」と言って、無理やり電気を消してしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化す
ると、ばあいによっては、情緒そのものが不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐ
るみを置いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱い
てあげたり、手でたたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセ
ットに声を録音して聞かせるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば
刺激性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの
脳を覚醒させる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠
ってから起きるまで)は、年中児で10時間15分。年長児で10時間である。最低で
もその睡眠時間は確保する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』
と覚えておく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大
切にする。今、年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、20〜30%はい
る。日中、生彩のない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、
キャッキャッと騒いだかと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して
昼寝グセのある子どもは、スーッと眠ってしまうので、区別できる。)


●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「先生の話をよく聞くのですよ」「友だちと
仲よくするのですよ」と子どもに言うのは、親の気休め程度の意味しかない。そういうと
きは、こう言いかえる。「幼稚園(学校)から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あ
とでママに話してね」「この○○(小さなプレゼント)を、A君にもっていってあげてね。
きっとA君は喜ぶわよ」と。

「交通事故に気をつけるのよ」と言うのもそうだ。具体性がないから、子どもには説得
力がない。子どもに「気をつけろ」と言っても、子どもは何にどう気をつけたらよいの
かわからない。そういうときは今度は、寸劇法をつかう。子どもの前で、簡単な寸劇を
してみせる。私のばあい、年に一度くらい、子ども(生徒)たちの前で、交通事故の様
子をしてみせる。ダンボール箱で車をつくり、その車にはねられ、もがき苦しむ子ども
の様子をしてみせる。

コツは決して手を抜かないこと。茶化さないこと。子どもによっては、「こわい」と言っ
て泣き出す子どももいるが、それでも「子どもの命を守るため」と思い、手を抜かない。

 ほかに、たとえば、「あと片づけをしなさい」と言っても、子どもにはそれがわからない。
そういうときは、「おもちゃは一つ」と言う。またそれを子どもに守らせる。子どもはつぎ
のおもちゃで遊びたいため、前のおもちゃを片づけるようになる。(ただし、日本人ほど、
あと片づけにうるさい民族はいない。欧米では、「あと始末」にはうるさいが、「あと片づ
け」については、ほとんど何も言わない。念のため。)

 これは私の教室でのことだが、私はつぎのように応用している。

 勉強中フラフラ歩いている子どもには、「パンツにウンチがついているなら歩いていてい
い」「オシリにウンチがついているのか? ふいてあげようか?」と言う。

 なかなか手をあげようとしない子どもには、「ママのおっぱいを飲んでいる人は、手をあ
げなくていいよ」と言う。

 こうした言い方をするには、もちろんそれなりの雰囲気が大切である。言い方をまちが
えると、セクハラ的になる。「それなりの雰囲気」というのは、教師と親の信頼関係と、そ
うしたユーモアが理解されるようななごやかな雰囲気をいう。それがないと、とんでもな
い誤解を招くことがある。私もこんな失敗をしたことがある。

 ある日、一人の男の子(小3男児)が、勉強中、フラフラと席を離れて遊んでいた。そ
こで私が、「おしりにウンチがついているなら、歩いていていいよ」と声をかけた。ふつう
ならそこでその男に子はあわてて席につくのだが、そこでハプニングが起きた。横にいた
別の男の子が、その立っている男の子のおしりに顔をあてて、こう叫んだ。「先生、本当に
こいつのおしり、ウンチ臭い!」と。

 そのときはそれで終わったが、つまりその言われた子どもも、それなりに笑って終わっ
たが、その夜、父親から猛烈な抗議の電話が入った。「息子のウンチのことで、息子に恥を
かかせるとは、どういうことだ!」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●BW生の募集

++++++++++++++++

またまたその季節になった。
BW教室では、毎年、2〜3月期に、
BW教室の生徒を募集している。

小さな個人塾だから、毎週1〜2人という
ペースで入会してもらっている。

現在、年中児、年長児のみなさん、
4月から新年中児、新小1児の
みなさんは、どうぞ、一度、
見学においでください。

BW教室の子どもたちの、あの
底抜けの明るさを、ぜひ、みなさんの
体で感じてみてほしい。

BW教室は、子どもを伸ばします!
ホント!

++++++++++++++++

【連絡方法】

★どなたかの紹介のある方

 現在のBW生、BWのOBからの紹介があるばあいは、そのまま見学してもらっていま
す。電話、452−8039まで伝言を残してくだされば、見学日を案内いたします。

★外部の方(紹介のない方)

 2月〜3月期に、説明会をもちます。一度、
 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
 →
 「右下のBW案内」に目を通していただければ、うれしいです。BW教室がどんな教室
か、わかっていただけます。

 その上で、BW教室への見学を、お申し込みください。(申し込み方法などは、HPのほ
うに書いてあります。)それをいただいたら、私のほうから、都合のよい日時を、お知らせ
したします。

 なお、見学などは、入会目的をした方だけに、していただいています。お子さんのいら
っしゃらない方、同業の方のスパイ見学などは、かたく、お断りしています。(この世界で
は、そういう方も、多いものですから……。)

 あとは、お任せください。「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」です。子どものあの純真な心を
大切に、明るく伸びやかな子どもにします。

 なお、よく誤解されますが、BW教室では、(できる)(できない)は、問題にしていま
せん。たとえば文字についても、「文字は楽しい」ということは教えますが、(文字が書け
る)(書けない)は、いっさい、問題にしていません。どうか、誤解のないように!

+++++++++++++++++

現在、募集中のみなさんは、

現在、幼稚園・保育園の年中児、年長児のみなさん
4月から新年中児、新年長児のみなさん
4月から新小1児のみなさん、です。

月謝などは、HPの「BW案内」のほうで、ご覧ください。入会申し込みなども、そちら
でできるようになっています。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●対人恐怖症

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ある母親から、掲示板のほうに、こんな相談
があった。

明らかに、分離不安がこじれた対人恐怖症に
よるものと思われる子どもについてである。

+++++++++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、初めまして。HP拝見させて頂きまして、こちらの掲示板の存在を知りました。

実は今私にはある悩みがあるのですが、その解決策になる情報がないものかとインターネッ
トにて探しておりましたところ、こちらにたどりついたわけなのです。

そうしてはやし先生のご意見等を拝見いたしまして、ぜひ、はやし先生にご相談にのって
頂きければと思い、書き込みさせて頂きました。

前置きが長くなってしまい申し訳ありません。以下、長文・乱文で大変失礼致しますが、
お目にかけて頂ければ幸いです。

私には、今月末で2歳になる息子が1人おります。

息子は、会ったことのない人や、会ったことがありましても回数の少ない人と会った場合
は人見知りをします。女の人にはあまりそうでもないのですが、男の人は少し苦手なよう
で、私の後ろに隠れたり、時には泣いたり。しかし平気な時もありますし、少し時間がた
てば慣れて一緒に遊んだりします。

私の目から見て(素人判断で恐縮なのですが)比較的、人見知りが酷い方だとは思わない
のです。しかし一つ気になることがあるのです。

私の主人の両親が、毎月に1、2回息子に会いに来てくれたり、私達の方から主人の両親の
いる実家へ遊びに行ったりするのですが、息子は主人の両親に会う度、決まって泣くので
す。特に主人の実家へ行った時などは、車から降ろした途端泣きだします。

私や主人の友人宅へ遊びに行った時は、玄関先で泣きはしますが、抱っこをして部屋の中
へ入りしばらくすれば、慣れてくるのか泣き止むのです。ところが主人の実家だと、いつ
までも泣いて私や主人にしがみつき、一人で歩き回ったりするまでに、とにかく時間がかか
ります。ですから最近主人の実家に行った時には、まず、家の周りを少し散歩してから中
に入るようにしているのですが、あまり効果は無いようで、家に入ればまた泣き出します。

悩みというのは、その息子の両親に対する態度なのです。

最近どうもそのことが気にかかるようになり、そういえば息子は初対面の人と会ってもこんな
にひどくなくことはないな、と感じるようになってきたのです。そして今までに何かこう、
似たようなことはあっただろうかと思い返してみたところ、息子が予防接種や、風邪を引
いたときにお世話になる病院の医師の顔を見て必ず泣き出す…。この時の反応が唯一近い
と思われます。

もしも息子の中で医師に対して、『この人は注射という痛いことをする人だから、怖いし、
嫌』という思いを持って泣き出すのであれば、主人の両親に対しても何か泣く理由がある
のではと思ったのです。そうして思い当る節が出てきたのです。

主人の両親にしてみれば、息子は初孫で本当に本当に可愛くて可愛くて仕方ない様子です。
ところがあまりにも可愛すぎるのか、息子が泣いているのに無理やり抱っこし続けたり、
お義父さんとお義母さんの間で、息子を抱くために取り合いになることもありました。息子
が生まれてまだ1か月の時も、私や主人や私の実母以外の人が抱くと泣くのですが、主人の
義母は泣いている息子をいつまでも抱っこし続けた結果、主人の両親が帰った後も、息子
には4時間も延々と泣き続けられました。

先日も主人の両親が私達の家に遊びにこられて、泣く息子を無理やり外に連れ出し、散歩に
連れて行こうとしたことがありました。しかし息子があまりにもひどく泣くものですから(泣
きすぎてむせるくらいです)私がとりあえず落ち着かせるために一度抱っこをしようとし
たのですが、結局泣き続ける息子に構わず、主人の両親は息子を連れて散歩に行ってしま
いました。

1時間程して帰ってきた息子は、ケロッとしていたので、その時はあまり気にもとめなか
ったのですが、先程申し上げた「思い当たる節」というのは、主人の両親のこういう『強
引』なところが、もしかしたら息子は嫌で泣くのではないかということなのです。しかし
当のお義父さんとお義母さんは「まだ私達の顔を覚えてないから泣くのね」といった具合
いで、息子が泣くのは顔を覚えていないための人見知りが原因だと思っているようです。
確かに私にも、どちらが正しいのかはハッキリと分かりません。ですから息子の気持ちや
考えを分かってやれない事が口惜しくて歯痒くてならないのです。

主人の両親は更に「慣れさせるためには、泣いてでも強引に3人だけで(主人の両親と私
の息子)だけで出かけないと駄目だな、そうしないといつまでたっても慣れないから泣く
んだよ」と言っていたのですが、そういうものなのでしょうか? 私にすれば、そんな強引
なことをしなくても少しずつ慣らしていけばいいのでは…と思うのですが、これは過保護
な考えでしょうか?最近、主人の両親に会う息子がなんだか可哀相に思えてならないので
す。

はやし先生、どうかご意見をお聞かせ願えませんでしょうか?もしも主人の両親の考え方
が間違いでなく正しいのであれば私も安心して子供をみてもらうのですが…。

私のような悩みは小さいことでしょうし、もっと大きな悩みを抱えた方のお気持ちを考え
れば、こんな相談をもちかけて申し訳なくも思うのですが、どうにも不安でたまりません。
はやし先生もご多忙かとは思いますが、どうぞ宜しくお願い致します

【はやし浩司よりYさんへ】

 お子さんには、何ら問題はありません。ただの対人恐怖症です。2歳ということですか
ら、人見知りの時期が少し延び、分離不安へとつながり、それがこじれたケースと考える
とわかりやすいでしょう。

 恐怖症については、このあと、別の原稿を添付しておきます。

 ただ恐怖症については、理由も原因もさまざまであり、どれがそうであるか、特定する
ことはできません。また特定しても意味はありません。

 子どもの世界でよく知られた恐怖症としては、高所恐怖症、閉所恐怖症、お面恐怖症(お
面をかぶった人をこわがる)、先端恐怖症(とがったものをこわがる)、人形恐怖症(大き
な人形をこわがる)などなどがあります。

 一度何かのことで恐怖症を覚えると、さまざまに形を変えて、それが出てきます。私も、
子どものころ、閉所恐怖症でした。(今も、そうです。)で、飛行機事故に遭遇してから、
今度は、飛行機恐怖症になりました。そういうものです。

 こうした恐怖症をなおす方法はありません。またなおそうと思わないこと。大切なこと
は、そういう場面からできるだけ、子どもを遠ざけることです。もっとわかりやすく言え
ば、忘れさせること。

 あとは自己意識が育つまで、時期を待ちます。自己意識が育ってくれば、自分で自分を
コントロールできるようになります。

 Yさんのお子さんは、ここにも書いたように、何でもない対人恐怖症です。子どもの世
界では、珍しくも何ともありません。ただ子どもの心理は複雑です。もう少し大きくなっ
てから、「メガネがこわかった」「ひげがこわかった」「男の人がこわかった」と、理由を言
うことがあります。が、それはあくまでも、あとになってから、わかることです。

 Yさんのお子さんは、何かにおおきなこだわりをもち、そうなったと考えるべきです。
無理に、いやがるのに慣れさせようとしても、かえって心がこじれるだけです。ご両親に
は悪いですが、そのあたりをよく理解してもらい、強引なやり方、乱暴なやり方をひかえ
てもらうようにしてはどうでしょうか。
 
 あまりぐずりがひどいようであれば、心の緊張感をとるためにも、カルシウム、マグネ
シウム、カリウムの豊富な海産物を中心とした献立に切り替えてみてください。それで症
状は、かなり落ちついてくるはずです。(同時に、甘い食べ物は控えてください。)

 あくまでも子どもの立場で、子どもの視線でものを考えることです。子どもにしてみれ
ば、両親の前に立つと、あなたが数百人もいる会場の演壇に立たされているのと同じ心理
状態になるのです。

++++++++++++++++

●子どもの恐怖症

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こ
うして文を書いているのが、不思議なくらいだ。

が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、
すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じたのだ。私は少し走って
は自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった…。恐怖症であ
る。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」
というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が
続出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ること
がある。それが恐怖症だが、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかに
よって、ふつう、次の三つに分けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある
程度の警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子ど
もや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、は
じめて行ったような場所でも、我が物顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失
語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる
(不登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに
乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、
暗いトイレがこわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、
今でもトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑
惑症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけ
に死を極端にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、し
かっても意味がない。一般に「心」の問題は、1年単位、2年単位で考える。子どもの
立場で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブ
ー。無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。

いわば心が風邪をひいたと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意す
る。症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私の場合も、その事故から数日間
は、車の速度が五十キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気の
せいだ」とは分かっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。
が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も何度も自分に、「こわくない」と言いき
かせることで、克服することができた。

いや、今でも時々、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状態になってしまう。
恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう
前提で、子どもの恐怖症に対処する。

++++++++++++++++

●分離不安について

子どもの情緒不安

 子どもの発達をみるときは、次の四分野をみる。(1)情緒の安定度、(2)精神の完成
度、(3)知能の発達度、それに(4)運動能力。

そのうちの情緒の安定度は、体力的に疲れたと思われるときに観察して、判断する。た
とえば運動会や遠足から帰ってきたようなとき。そういうときでも、不安定症状(ぐず
る、ふさぎ込む、ピリピリする、イライラするなどの精神的動揺)がなければ、情緒の
安定した子どもとみる。

あるいは子どもは寝起きをみる。毎朝、不機嫌なら不機嫌でもよい。寝起きの様子が安
定していれば、情緒の安定した子どもとみる。子どもは2〜4歳の第一反抗期、思春期
の第二反抗期に、特に動揺しやすいということがわかっている。経験的には、乳幼児期
から少年少女期への移行期(4〜5歳)、および小学2年から4年ぐらいにかけても、不
安定になることがわかっている。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。

 情緒が不安定な子どもは、心が絶えず緊張状態にあるのが知られている。外見にだまさ
れてはいけない。柔和な笑みを浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているという
ことは、よくある。このタイプの子どもは、気を許さない、気を抜かない、周囲に気をつ
かう、他人の目を気にする。よい子ぶることもある。

そういう状態の中に、不安や心配が入り込むと、それを解消しようと一挙に緊張感が高
まり、情緒が不安定になる。症状としては、攻撃的、暴力的になるプラス型。周囲に溶
け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を繰り返したりするマイナス型に分けて考え
る。プラス型は、ささいなことでカッとなることが多い。

さらに症状が進むと、集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を
訴えるようになったりする。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金に
なることが多い。たとえば親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、
家庭騒動、家庭不和、恐怖体験など。

ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自
閉傾向(親と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(3歳男児)
は、母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見え
ないと混乱状態になる)になってしまった。

 子どもの情緒が不安定になると、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原
因の第一は、家庭環境にあると考え、反省する。子どもの側から見て、息が抜けないよう
な環境など。子どもの心に負担になっているもの、心を束縛しているようなものがあれば、
取り除く。

いちばんよい方法は、家庭の中に、誰にも干渉されないような場所と時間を用意するこ
と。あれこれ親が気をつかうこと(過関心)は、かえって逆効果。子どもが情緒不安症
状を示したら、スキンシップを大切にし、温かい語りかけを大切にする。叱ったり、冷
たく突き放すのは、かえって子どもの情緒を不安定にする。

なお一般的には、情緒不安は、神経症の原因となることが多い。たとえば、夜驚(やき
ょう)、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チック症、
爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔
癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿
症など。症状は千差万別で、定型がない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
分離不安 恐怖症 子供の心理 情緒不安)

+++++++++++++++

●子どもの分離不安

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られた
コラムニストのものだが、いわく、「うちの娘(むすめ)(3歳児)をはじめて幼稚園へ連
れていったときのこと。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを
見て、親子の絆の深さに感動した」と。

とんでもない! 

ほかにも詳しくあれこれ症状が書かれていたが、それを読むと、それは、「別れをつらが
って泣く子どもの姿」ではない。分離不安の症状そのものだった。

 分離不安症。親の姿が見えなくなると、混乱して泣き叫んだり暴れたりする。大声をあ
げて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイ
プ(マイナス型)に分けて考える。

私はこのほかに、ひとりで行動ができなくなってしまうタイプ(孤立恐怖)にも分けて
考えているが、それはともかくも、このタイプの子どもは多い。4〜6歳児についてい
うなら、15〜20人に1人くらいの割合で経験する。親がそばにいるうちは、静かに
落ち着いているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあ
げて、そのあとを追いかけたりする。

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そ
のきっかけとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。
母親が病気で入院したことや、置き去りや迷子を経験して、分離不安になった子どももい
た。

さらには育児拒否、虐待、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子ど
もの側からみて、「捨てられるのではないか」という被害妄想が、分離不安の原因と考え
るとわかりやすい。

無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見
て、「集団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいる。無理をす
ればかえって症状をこじらせてしまう。いや、実際には無理に引き離せば、しばらくは
混乱状態になるものの、やがて静かに収まることが多い。

しかしそれで症状が消えるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた心は、そん
なに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し繰り返し症状が現
われる。

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくてい
ねいに説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、
そういう親子を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり
しているのがわかる。「いいかげんにしなさい!」とか、「私はもう行きますからね」とか。
こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます被害妄想をもつよ
うになる。

 分離不安は4〜5歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここにも書い
たように、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。

ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が予定より遅くなっただけで、言いようのな
い不安感に襲われます」と。姿や形を変えて、おとなになってからも症状が現われるこ
とがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
分離不安 子供の分離不安 後追い人見知り 人見知り)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝は暖かい

+++++++++++++++

12月26日。今朝は暖かい。
見ると、外は小雨。

数日前、南オーストラリア州に住む
友人と電話で話した。あちらでは
気温44度を記録したそうだ。

おまけに干ばつ。暑い日には、
川のあるところまで行き、ボートに
乗るのだそうだ。

それにしても、気温44度とは!

風呂でも、42度が限界。
私には想像もつかない暑さだ。

それを知ると、今日の小雨が
ありがたく思える。

++++++++++++++

 今年も、無事、終われそう。いろいろあったが、何とか、無事に、終われそう。とくに
大きなことはしなかったが、無事ということは、無事。軽い風邪以外、家族、みな、病気
らしい病気をすることもなかった。

 平凡を感じたら、現状維持。平凡にまさる美徳はない。欲もほどほどに。「まあ、こんな
もの」という割りきりが、人生に道を切り開く。

 ワイフが少し前、こう言った。「50歳を過ぎると、人の心がよくわかるようになる」と。
それまで見えなかった人の心が、よくわかるようになる。そういう意味で、そう言った。

 それは事実で、自分にとって、どの人が大切で、どの人がそうでないかが、よくわかる
ようになる。と、同時に、自分が相手にとって、大切な人かどうかも、よくわかるように
なる。

 だから、自分にとって大切な人を大切にするというよりは、自分が相手にとって大切で
ないと感じたときは、いさぎよく、その人の前から去る。何ごとにつけ、偽善は、よくな
い。力になれない人の前で、善人ぶるのは、さらによくない。

 それはたとえて言うなら、女性の心をもてあそぶようなもの。幼い子どもの心を、だま
すようなもの。

 しかしそう考えていくと、自分のまわりの人間関係が、どんどんと小さくなっていくの
がわかる。100人から10人へ。10人から数人へ……。

 来年は、どんな年になるのだろう。同年齢の人たちは、みな、定年を迎える。だからと
いって、私まで定年を迎えることはない。私は私。ただこのところ、少し、自信をなくし
つつある。言うなれば、さびれた商店街の一角で、商売を構える商店主のような気分。

 何とかやっていかれるだろうとは思うが、その先が、よく見えない。やはりここは、現
状維持。それができるだけでも、御(おん)の字。そのときがきたら、そのとき。そのと
きは、いさぎよく、負けを認めればよい。

 それまでは、がんばろう。

 ……とまあ、何となく暗い話になってしまったが、誤解しないでほしい。私の心は、意
外とサバサバとしている。今までこうして無事、やってこられたというだけでも、ありが
たい。そう思っている。感謝している。

 とりあえず、来年も、今までどおりのことをするだけ。健康に留意し、仕事に全力投球。
結果は、いつもあとからついてくる。何かあったら、そのときは、そのとき。そのとき考
えればよい。この日本だけでも、1億2000万人もの人たちが、ぞれぞれの道を歩んで
いる。私にだけ道がないということもない。

 何とかなるさ!、と自分に言い聞かせたところで、今朝の雑感は、おしまい。

 おはようございます!

(追記)今朝の新聞によると、イーオン(株)が、定年を今までの60歳から65歳に延
ばしたそうだ。とてもすばらしいことだ。60歳といっても、まだまだ働きざかり。自分
がその年齢に近づいてみて、それがわかった。

 私の近所には、55歳で定年退職をし、そのあと、どうということはない、つまらない
人生(失礼!)を送っている人は、いくらでもいる。そういう人たちの人生を見ていると、
それが理想の人生とは、私には、とても、思えない。

 川の水は流れるから、川の水。中国でも、『流水は腐らず』という。私はいつまでも流れ
る川の中で、泳ぎたい。よどんだ池の中で、顔だけ出してアップアップして生きるような
人生だけは、ごめん。そんな人生を生きていると、心まで腐る。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

【教育再生会議・中間報告原案】

++++++++++++++++++

06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

++++++++++++++++++

 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下の
ようなもの。

(1)ゆとり教育の見直し
(2)教員免許更新制
(3)学校の第三者評価制度
(4)教育委員会改革
(5)大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。
(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるも
のを、検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定され
た教師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、
それぞれ個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている
教師も多い。あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受
けるなどいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。

 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの
先生に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年
も、エリー先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教
室で勉強できるようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげ
ているが、これは教育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園であ
るかどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性
が、あちこちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だというこ
と。しかも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねて
いる。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づく
り」が、教育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも
大賛成だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、
がく然とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモ
の巣のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手
あたりしだいにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、
今度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という
国は、基本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ
文化性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その
自然を生かすことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科
目数をふやせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好
きなことを好きなだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れる
ことができる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フラン
ス語、インドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。
芸術にしても、ドラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になって
いる。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

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【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、
たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだ
ろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにす
ぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を
疑ってみる。たとえば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材
一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだ
けでも97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前
後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な
教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの
運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表
明している(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラ
ブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決め
ることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学ク
ラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝
が1200円前後(2001年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日
本円で約1万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子ど
もが就職するまで、最長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はま
だ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外に
は責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、
親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクー
バー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生
のほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚
いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、
はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリア
の友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、で
は、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャール
ズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校が
カリキュラムを組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎
日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマース
クールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で
学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもの
で、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校
神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはま
さに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮
想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午
※後3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を
※決めることができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On 
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の
上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育
が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始ま
るということを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という
意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体
の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考
えるのは正しくない。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所
システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から
検討すべきではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中
学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、400
0人多い。
 
++++++++++++++++++

 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学
9月入学だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞し
た偉い(?)先生かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という
提言にいたっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化
(=民営化)をこぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化し
ている。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作り
たいと思えば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になって
いる。またそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を
側面から支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。
少なくとも、もう少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけてい
るが、それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●まぐまぐプレミア読者拡大キャンペーン

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07年1月1日から、新しくまぐまぐプレミアプレ
(電子マガジン・有料版・月額300円)の読者に
なってくれた人で、希望してくれる人に、小生の書
いた本を、1冊贈呈することにした。

現在、無料マガジンを読んでくれている人で、「そ
ろそろ……」と考えている人は、どうか、まぐまぐ
プレミアの購読を!、と願っている。

+++++++++++++++++

 まぐまぐプレミアはいかがですか?

 現在、電子マガジンは、無料版(Eマガ2誌・メルマガ1誌)の計3誌を発行している。
そのほか、有料版のまぐまぐプレミア(月額300円)を発行している。

 当然のことながら、私としては、有料版のまぐまぐプレミアを読んでほしい。が、イン
ターネットの世界では、(情報)は、かぎりなくタダに近い。お金を出してまで、読んでみ
ようという人は、少ない。電子マガジンとて例外ではない。

 それに私のマガジンのばあい、最初から、お金儲けは考えていない。もともとパソコン
は好きだった。それに毎日ものを書くことによって、いろいろな世界をかいま見ることが
できる。勉強になる。脳みその刺激になる。

 本を書くという手もあるが、これからはインターネットの時代。本といっても、売れな
ければ、それでおしまい。最近では、初版で、よくて3000部、あるいはそれ以下とい
うのが常識。大手の出版社でも、20〜30年前には、初版で1万2000部〜1万50
00部というのがふつだったが、それが最近では、6000〜8000部にまでさがって
いる。

 しかも印税は、売れた本の部数に応じて支払われるようになってきている。さらに大手
の出版社でも、印税の支払いは、半年後とか1年後。

 で、売れなければ、「在庫を整理したいので」とか何とか言われて、結局は、印税と相殺
されたり、著者自らが、買い取るということになる。加えて、一部のベストセラー本は別
として、出版界は不況のドン底。

 私が20〜30代のころは、それでも1冊出せば、30〜40万円の印税を手にするこ
とができた。が、今では、それも、夢物語。

 ……ということで、インターネットの時代。「デジタル民主主義」と位置づけられること
からもわかるように、インターネットが世界を動かすようになりつつある。新聞でも、テ
レビでもない。インターネットである。

 まだその(力)は弱いが、インターネットは、無限の可能性を秘めている。たとえば最
近、私はスカイプ(スカイプアウト)を利用して、テレビ電話なるものを始めた。こうい
うことが、まったくの無料でできるところがすごい! ご存知のようにYouTubeで
は、動画をやはり無料で、配信できるようになった。

 この先、インターネットの世界は、さらに進化する。そこはまさに、映画『マトリック
ス』の世界。現実の世界より、さらに広大な世界が、そこに広がっている。しかも情報が、
瞬時、瞬時に飛び交っている。

 問題は、そうした情報を、どうやって、お金に換えていくかである。現在は、オークシ
ョンに代表されるように、モノの売買が主流になっている。しかしオーストラリアでは、
どこかのニュースサイトでニュースを読むときでも、ワンクリック=5セント(4円)が
常識になってきている。日本も、やがてそうなるだろう。

 話がどんどんと脱線してしまったが、私としては、読者のみなさんに、まぐまぐプレミ
ア(有料版)を読んでほしい。しかしただ「読んでほしい」と願っても、読んでもらえる
ものではない。そこで「読者拡大キャンペーン」を始めた。

 もしよろしかったら、どうか、どうか、まぐまぐプレミア(有料版)を、購読してほし
い。月額300円。よろしく、よろしく、お願いします。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●韓国のおバカ大統領

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最初は、だれしも「?」と思った。
しかしその「?」は、やがて増幅し、
増大し、今では韓国中が、その話題で
騒然となっている。

韓国のN大統領がなした演説が、
である。

++++++++++++++++

韓国のN大統領は、12月21日、民主平和統一常任委員350人を前にして、70分
以上にわたって熱弁を振るった。(予定では、20分。)「何かにとりつかれたかのように
全身を震わせ、両手をポケットにつっこんでは抜き、時にはこぶしを握り、時には演壇
をたたきまでした」(朝鮮N報)と。

 N大統領は、こう述べたとされる。朝鮮N報は、つぎのように概説する。

 「大統領は70分間にわたって国民をこきおろし、先達たちをあざ笑い、軍をばかにし
て、大韓民国の歴史を侮辱し、自らが任命した前首相に責任をなすりつけ、同盟国に言
いがかりをつけ、新聞を愚弄(ぐろう)した。国民や歴代の指導者、韓国軍、大韓民国
や同盟国、新聞が、つぎつぎと大統領の独善主義の犠牲となった。この無差別攻撃から
無傷でいられたのは、N大統領から『常識がある』と評価された北朝鮮の金xx総書記
しかいなかった」と。

順に、N大統領が言った言葉を拾ってみよう。

★「米国のズボンのすそにしがみついて、そのお尻の後に隠れ、僕は兄さんをどこまでも
信じるよ」

★「(アメリカが)もう帰りますと言ったから、韓国民は発作を起こした」

★「米軍の2個師団が外れたら、みな死んでしまうかのように恐れおののいた」

★「四六時中安保問題について騒ぎ立てて欲しい(と韓国民は言っている)」

★「(軍人たちは)胸章をつけてやれ国防長官だ、参謀総長だと偉そうに振る舞ってきた」

★「(軍人たちは)職務を放棄しているも同然だ。恥を知るべきだ」

★「その大金(国防費)でモチでも買い食いしたのか」

★「数百人、数千人を弾圧し、殺した国、それが韓国だ」

★「(アメリカという)同盟国がイカサマ賭博を仕組んで、自分を手なずけようとした」

★「(韓国民は私に対して)、これを機に揺さぶりをかけてやれ。この馬の骨め(と思って
いる)」などなど。

 直後に行われた世論調査によると、N大統領の支持率は、それまでの10%台から、5%
台に落ちこんでしまったという。当然である。

 以前から、おバカ発言が目立ったが、ここにきて、これに極まれりといった感じになっ
た。個人として言ってよいことと、公人として言ってよいことの、区別さえつかなくなっ
ている。こんな大統領が、これから先、1年2か月も、隣国の大統領かと思うと、ぞっと
する。へたをすると、K国の金xxと組んで、何をしでかすかわかったものではない。

 日本政府に忠告。

 日韓首脳会談が予定されているそうだが、支持率5%という事実をよく知ったうえで、
N大統領に会うこと。日本は、決して彼の人気取りの道具に利用されてはいけない。ある
いはN大統領が、この4年間、日本に対してどんなことをしてきたかを熟知した上で、会
うこと。

 できれば会わないほうが、よい。今度は、日本が無視する番である。



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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 26日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

PART 5

●谷底の下の谷底(二番底、三番底)

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこ
を問題にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さ
らに別の谷底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての
悪循環。一度その悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰
り返しながら、つぎつぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といった
ふう。問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてき
た。そこで親は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよ
くして、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」とい
う、信仰に近い期待が、親を狂わす。が、あるところまでくると、限界へくる。が、この
ころになると、親のほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れ
そうだとわかると、「せめてA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうした無理
が、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」
が始まる。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラ
ダラと時間ばかりつぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブ
シ(たった数問を、一時間かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。一度、
こういう症状を示したら、親は子どもの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれが
わからない。子どもを叱ったり、説教したりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき
落とす。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚
痛、朝寝坊などなど。神経症には定型がない※。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」
と決めつけてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終
われば、すべて解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に
対する不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感
が頂点に達したとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。不登校だけでは
ない。バーントアウト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競争に遅れ
てしまう」と嘆くが、その程度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにその
下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、20人に
1人とも、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂
食障害(過食症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる
原因の第一は、家庭にある。が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分
に原因があると認める親はまず、いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪
かった」などと、自分以外に原因を求め、その責任を追及する。

もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮にそうではあっても、もし家
庭が「心を休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たしているなら、ほ
とんどの問題は、深刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずである。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ
落とさないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態
をより悪くしないことだけ」を考えて、1年単位で様子をみる。あせって何かをすればす
るほど、逆効果。(だから悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚
えておくとよい。つぎの谷底へ落とさないことだけを考えて、対処する。


●何でも握らせる
 
 人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、どちらか一方の
大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣に
よって決まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四
歳までに決まるとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手
でさわりたがる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が
刺激されるのか、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、
概して言えば、さわりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについ
て、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石で
できた球を売っていた。2個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老
人が使う、ボケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使う
のだそうだ。そしてそれが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳
に刺激を与え、それが知的な意味でもよい方向に作用するということは前から知られてい
る。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも
効果的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)
そして「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握
る」「遊ぶ」「作る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達す
る。もちろん指先も器用になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子ど
もは、線にそって、紙をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることが
できない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日・あれこれ】(子どもの心について)

++++++++++++++++++

昨日、6か国協議は、何ら話しあいらしき
話しあいもないまま、終わってしまった。

K国は、金融制裁を口実に、核問題の話しあいを避けた。
そのK国。来年(07年)も、穀物を中心として、
100万トンの食糧が不足すると見こまれている(WFP)。

そのK国が、こう言った。

「(アメリカが)敵視政策を転換しないかぎり、
核開発をつづける」と。

自分の国を、一人前の「敵」と位置づけて
いるところが、おかしい。笑える。

アインシュタインが言った、
「誇張された民族主義(exaggerated
nationalism)」がどういうもので
あるかを知りたかったら、K国を見ればよい。
韓国を見ればよい。ついでに日本の右翼団体を見ればよい。

ほとんどの戦争は、誇張された民族主義が
原因で、始まる。

……という問題はさておき、今日は、子どもの
心について考えてみたい。

+++++++++++++++++++

●こわれる子どもの心

 子どもの心がこわれる? ……とは、何? 疑問に思う人も多いと思う。「どういうこと
だ?」と。

 しかしこの問題だけは、そういった視点で子どもを見たことがない人には、理解できな
いだろう。「私だからこそわかる」と書けば、「何だ、そんなことか!」で終わってしまう。
が、こわれるものは、こわれる。そしてここがこわいところだが、一度こわれた心は、ぜ
ったいに、もとには、もどらない。

 あなたは幼児の、あの天にも抜けるような、朗らかで明るい心を知っているだろうか。
子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、みな、そうなる。

 しかしその心も、受験期を迎えるようになると、急速に変化する。子どもによっては、
どこかの受験塾の夏期講習を受けただけで、別人のようになることもある。小学生であれ
ば、なおさらである。

 その時期を境に、子どもの心は、冷たく、合理的になる。ぬくもりを失い、ものの考え
方が、つっけんどんになる。やさしさが消え、底が浅くなる。あたかも、心の一部が欠け
たような状態になる。わかりやすく言えば、こちらが暖かい気持ちで接しても、それがそ
のままはね返されてしまう。そんな感じになる。

 そういう子どもの変化を見ながら、ほとんどの親たちは、「うちの子もやっと、心構えが
できました」と喜んで見せる。「受験に対する自覚が生まれました」とも。

 が、これはとんでもない誤解である。仮にそれで受験がうまくいったとしても、その後
遺症は、そのあと、生涯にわたってつづく。言いかえると、その後遺症をひきずっている
人には、それがわからない。たとえて言うなら、メガネのようなもの。長く使っていると、
メガネをかけていることすら、忘れてしまう。

 もっとはっきり言えば、心の欠けた人からは、心の欠けた人が理解できない。心の欠け
た親からは、心の欠けた子どもが理解できない。それに気づくこともない。そういう例は、
多い。

 若いころ、まだ幼稚園で働いていたときのことだが、こんなことがあった。私がその子
ども(年長男児)の問題点を、母親に相談しようとしたときのこと。自分勝手でわがまま。
自分さえよければ、それでよいという態度ばかりが、目立った。が、その母親は、私にこ
う言った。

 「あんたは、だまって、息子の勉強だけをみていてくれればいい。(いらぬことを言う
な!)」と。

 母親自身が、心の冷たい人だった。そういう母親に、子どもの問題点を指摘しても、意
味がない。その母親は、自分の心を基準に、ものを考える。自分の子どもを見る。

 心の欠けた子どもには、つぎのような特徴がある。

(1)やさしさが通じない。……ふつう子どもというのは、こちらがやさしくしてやると、
そのやさしさが、スーッと子どもの心の中にしみこんでいくのがわかる。が、心の欠けた
子どもにはsろえがない。それをそのまま、はね返してしまう。

(2)おだやかさが消える。……心に余裕がなくなり、いつもピリピリした状態になる。
昔風の言い方をすれば、まろやかさが消える。ものの考え方が合理的で、打算的。こちら
がやさしくしてやっても、すかさず、損か得かという基準だけで、それを判断する。

(3)自己中心性が強くなる。……自分勝手でわがままになる。相手の立場でものを考え
ることができない。「自分さえよければ、それでいい」という考え方をする。かつて、こう
言った高校生がいた。「文化祭の委員なんかやるヤツは、バカだ。それだけ受験勉強の勉強
ができなくなる」と。

(4)人間味が消える。……動物のぬいぐるみを見ても、それを平気で足で蹴飛ばしたり
する。弱いものいじめを平気でする。暴言がふえる。相手がいやがることを、平気で口に
したりする。「勉強ができない子どもは、バカ」という考え方をし、常に自分の優位性を保
とうとする。

 ざっと思いついたまま書いてみたので、正確ではない。それにこうした心の(ゆがみ)
は、受験勉強だけで生ずるものではない。親の慢性的な過干渉、過関心が原因で生ずるこ
ともある。しかしこれだけは忘れてはいけない。

 これから思春期という、つまり、心ができるその時期に、「受験勉強」という魔物の中に
子どもを放りこんで、それでその子どもが無事ですむと考えるほうがおかしい。イギリス
の格言にも、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。

 慢性的な抑圧感が蓄積されると、子どもでなくても、心は、悪魔化する。心というのは、
そういう意味で、たいへんデリケートにできている。たとえて言うなら、薄いガラスでで
きた箱のようなもの。こわすのは、簡単。本当に、簡単。

 この日本では、受験勉強を避けて通れないものかもしれないが、(心)まで失って、何が
受験勉強かということになる。が、それだけではすまない。心を失った子どもは、多少ば
かりの財産と名誉、地位と引きかえに、生涯、死ぬまで、孤独の世界でもがき、苦しむこ
とになる。損か得かということになれば、よほど、そちらのほうが損ということになる。

 私が中日新聞にはじめて書いたコラムを、いくつか紹介する。これを読んでもらえば、(心
の欠けた子ども)というのが、どういう子どもであるか、あなたにも、わかってもらえる
はず。

++++++++++++++

●ゆがむ子どもの心

 イギリスの諺に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。心の抑圧状態が続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子どもの心にあてはまる諺は
ない。

きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え
方は、まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、い
つも他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、
ごくふつうの子どもだった。

が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。何とそこには、血が飛び散
ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」とか、「殺」とかいう文
字もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと
流れていた。ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその
日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの
中から引きずり出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような
残虐事件は、現場ではいくらでもある。その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、
こんな事件があった。1人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上
から落として殺してしまったというのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大き
な問題になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学
生)もいた。牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もい
た。ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。

ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハト
に花火をつけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなく
し、いわゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。
そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や
過干渉が原因でないとは、もっと言えない。

子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。いじめや家
庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく
知られている。合理的で打算的になる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみ
ればよい。あなたの周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。しかし学
歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいということを、あなたは知っている。

子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感
が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れてはならない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●指示は具体的に

 具体性のない指示には、意味がない。たとえば「友だちと仲よくするのですよ」「先生の
話をよく聞くのですよ」と言うのは、それを言う側の、気休め程度の意味しかない。「交通
事故に気をつけるのですよ」と言うのも、そうだ。そういうときは、こう言う。

友だちと仲よくしてほしかったら、「この○○を、A君にもっていってあげてね。きっと
A君は喜ぶわ」と。先生の話をよく聞いてほしかったら、「今日、学校から帰ってきたら、
先生がどんな話をしたか、あとで話してね」と言うなど。

交通事故については、一度、事故の様子を演技してみせるとよい。(自動車が走ってくる)
→(子どもが飛び出す)→(自動車が子どもをはねる)→(子どもがもがき苦しむ)と。
迫真の演技であればあるほど、よい。気の弱い子どもだと泣き出してしまうかもしれな
いが、子どもの命を守るためだと思い、決して手を抜かないこと。茶化さないこと。こ
んな子どもがいた。

 その子どもは、母親が何度注意しても、近くの小川で遊んでいた。そこである日母親が、
トイレの排水がどこをどう通って、その小川にどう流れていくかを、歩きながら順に追っ
て見せた。以後、その子どもは、その小川で遊ばなくなった。要するに子どもに与える指
示には、具体性をもたせろということ。この方法は、次のようにも応用できる。

 たとえば自尊心。「自分を大切にしなさい」と言っても、やはり意味がない。そういうと
きは、「名前を大切にしようね」と教える。さらに具体的には、新聞でも雑誌でも、子ども
の名前の出ているものは、最大限尊重する。切りぬいて、高いところに張りつけたり、ア
ルバムにしまったりする。皆の前で、ほめるのもよい。そしてそのつど、「あなたの名前は
いい名前だ」「すばらしい名前だ」と言う。子どもは自分の名前を大切にすることによって、
自分自身を大切にすることを学ぶ。それが自尊心につながる。

 たとえばやさしさ。「人に親切にしようね」と言っても、やはり意味がない。そういうと
きは、そのつど、「こうするとパパが喜ぶよね」「これを分けてあげると、○○(妹)が喜
ぶわね」と、相手を喜ばすことを教える。また結局はそれが自分にとっても、楽しいこと
であることを教える。やさしい人というのは、それが自然な形でできる人のことをいう。

 たとえば命の尊さ。「命を大切にしようね」と言っても、やはり意味がない。子どもに命
の尊さを教えようとするなら、どんな生きものであれ、その「死」をていねいに弔うこと。
子ども自身が、さみしさや悲しみを味わうようにしむける。たとえばあなたのペットが死
んだとする。そのときあなたがその死骸を、紙袋か何かに包んで、ポイと捨てるようなこ
とをすると、あなたの子どもは「命」というのは、そういうものだと思うようになる。そ
して命、さらには生きていることそのものを、粗末にするようになる。

どんな宗教でも、死をていねいに弔う。それは死を弔いながら、その反射的効果として、
生きていることを再確認するためではないか。そういうことも考えながら、死はどこま
でも厳粛に。なお死への恐怖心(地獄論やバチ論など)をもたせて、命の尊さを教える
人もいるが、これは教育の世界では邪道。幼児や年少の子どもには、決してしてはなら
ない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●バラバラになる親子

 Aさんは会社のリストラで職をなくした。企業診断士の資格をもっていたので、市内の
マンションを借りてコンサルタント事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行
きづまってしまった。しかしそれが悲劇の始まりだった。

 まず大学1年生になったばかりの長女が、Aさんを責めた。「大学だけは出してもらう。
あんたに責任をとってもらう」と。次に二女もそれに加わり、「お父さんが勝手なことばか
りしているから、こうなったのだ」と。

本来ならここで母親が間に入って、父と娘たちの調整をしなければならないのだが、そ
の母親まで、「生活ができない」と言って、家を飛び出してしまった。

家族といっても、一度歯車が狂うと、どこまでも狂う。狂ってバラバラになってしまう。
Aさんはこう言った。「妻の家出のことで助けを求めたとき、長女に『自業自得でしょ』
と言われました。そのときは背筋が凍る思いがしました」と。

 Aさんは何とか親戚中からお金をかき集めて、長女の学費を工面した。が、そういう苦
労などどこ吹く風。長女は妻が身を寄せている三重県の実家へは帰るものの、Aさんのと
ころには寄りつかなくなってしまった。仕送りが遅れたりすると、長女から矢の催促が届
くという。

 こう書くとAさんをだらしない男のように思う人もいるかもしれないが、ごくふつうの、
しかも典型的なまじめ型人間。日本人の何割かが、彼のような人物といってもよい。人一
倍家族思いで、また家族のためならどんな苦労もいとわない。Aさんはこう言う。「朝早く
仕事にでかけ、いつも帰るのは真夜中。家族はそれで満足してくれていると思っていまし
た。しかし妻も娘たちも、自分とはまったく違ったとらえ方をしていたのですね」と。

 そのAさんは今は、二女の進学問題で悩んでいる。「お金がないから……」と言いかける
と、次女は「今ごろそういうことを言われても困る」と。「そういう話は前もって言っても
らわなければ困る」とも。

 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け』というの
がある。親というのは、子どもに何かものを買ってあげることで、親としての義務を果た
したかのように思うかもしれない。が、それでは子どもの心をつかむことはできない。子
どもの心をつかみたかったら、「釣りに行け」と。

何でもないことのようだが、親子の意識のズレはこうして始まる。「してあげた」と思う
親。それを「当たり前」と思う子ども。そしてそのズレが無数に積み重なって、Aさん
のようになる。いつか気がついてみたら、家族の心がバラバラになっていた、と。つい
でに一言。

 私たち戦後の団塊世代は、あのひもじさを知っている。だから子どもたちには、そのひ
もじい思いをさせたくないとがんばってきた。結果、今の子どもたちは、「ひもじい」とい
う言葉の意味そのものすら知らない。しかしそれが今、あちこちの家庭で裏目に出ようと
している。Aさんの家庭もそんな家庭だが、皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによ
って、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。親がこの逃げ場を
平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいには、家出という
ことにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ
逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱っ
たりしてもいけない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわ
かると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱ら
れると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年
長児)は、犬小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上
に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」というこ
とになる。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんど
ん遠ざかっていくという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。

D君(小1)は、おさげの中に、野菜まで入れて、家出した。これに対して、目的のあ
る家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、もし目的のわから
ない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければならない。
過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家庭騒
動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で
調べる人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになる
から注意する。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにす
る。たとえ相手が幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなた
はあなた」というものの考え方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持
ちものを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子ど
ものカバンの中など、のぞけるものではない。私など結婚して以来、女房のバッグの中す
らのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイフを取り出すこともできない。私は
そういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子
どものころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。
またプライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理
屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような
不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、
それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはど
うするだろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。
こういうときの鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリ
スの格言だが、こういうことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、
子どもに、「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。

あなたの子どもがあなたを取ればよし。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間に
は大きな亀裂が入ることになる。友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの
人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を否定することに等しい。あなた
が友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立たされる。そういう状態に
子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」
「夜ふかしすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人が
いる」とか、など。コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身
に判断させるようにしむける。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一
歩、この格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』
と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そうい
う子どもの性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの
子はユーモアがあっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。
このプレゼントをもっていってあげてね」とか。

そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知
った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずる
ようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわ
けだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親
がいる。しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑
ってみること。祭で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣い
て弁解していたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケース
は、よくある。

自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ど
も」と思うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだ
が、さすが教育先進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもの心をゆがめるな!

子どもの心が破壊されるとき
 
●バッタをトカゲのエサに

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカ
ゲをつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタを
つかまえてきて、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にも
こんな経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポ
ケットを見ると、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、
その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。

よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケット
のフチを口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思っ
たのは、その虫の頭だった。

また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子ども
の小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、
その子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

●心が壊れる子どもたち

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情
不足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの
側からみて息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環
境や、権威主義的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)
な子育てが、原因となることもある。

要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあると
みる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破
壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、
ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバラ
ンス感覚をなくすのが知られている。

「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のこと
をいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。
昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分
に減らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え
方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっと
するような温もりのある子どもになる。心もやさしくなる。

●無関心、無感動は要注意

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたの
でもない。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう
言った。「そういう残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、
無感動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。

よく誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」
があるからではない。非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、
そのままスーッと仲間に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレ
ーキをかけることができない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

●心の修復は、4、5歳までに

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみ
てほしい。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷
なゲームや、銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家
庭教育のあり方をかなり反省したらよい。

子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が
読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子ども
は、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復
するとしても、4、5歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 心の冷たい子 子供の心 心を育てる家庭教育 子どもの心理 子供の心理)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●12月24日

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今日は、クリスマスイブ。どうということは
ない日だが、朝になって、ワイフが、小さな
ツリーを飾り始めた。

ついでにその奥から、去年使った、しめ飾りが
出てきた。

それを見て、ワイフは、ウォーと声をあげて、
こう言った。

「ヘヘヘ、去年のが出てきた!」と。

数日前、近くのショッピングセンターで2つ
しめ飾りを買ったばかり。

「こちらのほうが大きいので、これを使う」と、
まあ、ワイフは、勝手なことを言っている。

私はどちらでもよい。

去年使った、大きなしめ飾りにするか?
それとも、今年買った、小さなしめ飾りにするか?

+++++++++++++++++++

●プレゼント

 クリスマスの楽しみは、何と言っても、プレゼント。……と言っても、この10年以上、
プレゼントは、自分たちで決めている。ワイフは、私に「何がほしい?」と聞き、私はワ
イフに、「何がほしい?」と聞く。たがいに、それを買ってきて、交換することにしている。

 しかし去年は、シャツと手袋ではなかったか? よく覚えていないが……。


●N先生

 昨日、K市に住んでいるN先生と電話で話す。正月には、奥さんと、スペインへ行って
くるとか。うらやましい。

 私も行きたい。行きたいが、今しばらくは、国内旅行でがまん。が、その国内旅行も、
行きにくくなった。

 先日、いつも使っている、地元のバス旅行会社が運営するBツアーの悪口を、BLOG
に書いた。ついでに、同じ原稿を、Bツアー会社にも送っておいた。陰でコソコソと悪口
を言うのは、私のやり方ではない。

 悪口といっても、ガイドのおしゃべりがひどすぎると書いただけだが……。

 それに対して、すかさず、Bツアーの担当者から、わび(?)のメールが入った。「(私
の)連絡先を教えてほしい」と、それには書き添えてあった。

 まあ、こうした批判は、控えめに。さっそく、BLOGに書いた原稿は削除することに
した。私の義理の兄も、Bツアーの事務所に長く勤めていた。縁は、深い。

 Bツアーのみなさん、これからも、よろしく。……と言っても、しばらくは、もう利用
しない。あのうるさいガイドのひとりしゃべりには、コリゴリ。


●韓国のおバカ大統領

 またまたあのおバカ大統領が、おバカな発言をした。それがまたまた、韓国内で、問題
になっている。

 おバカ大統領が、自国の軍を批判して、こう言った。

 「軍の高官たちは今まで何をしたというのですか。自分たちの国、軍隊のための作戦統
制権をまともなものにできなかったくせに、私が国防長官だ! 参謀総長だ!、と星をつ
けて威張っただけじゃないですか」

「アメリカにすがって、アメリカのズボンにつかまって、『お兄さん! お兄さんの力だけ
が頼りです』と言うことだけが、独立国家の国民の安全保障の意識ですか」(News−i)
と。

 仮に軍部を批判するとしても、こういう批判のし方はない。その軍部を指導、指揮する
のは、大統領自身ではないのか。

 ……と書いても、何も、韓国のことを心配しているのではない。今の韓国から、アメリ
カ軍が消えたら、たちまち韓国は、K国の餌食(えじき)になるだけ。戦争とまではいか
ないにしても、K国の核兵器におびえながら、K国の言いなりになるだけ。もちろん外資
は、いっせいに、韓国から引きあげる。

 N大統領は、就任直後、「K国の核兵器開発は、われわれが解決してみせる」と大見得を
切った。しかしその結果はどうだったのか。

 ついでながら、韓国の人たちは、日本をどう見ているか、朝鮮N報の社説(4月27日)
の一部を、ここに紹介しよう。

 「小泉首相はこのように日本国内の実績に支えられて、韓国など見下している様子だ。
彼は強い米国と手を握っていれば、中国などは恐れることもないと思っているようだ。今
うまく行っているからと傍若無人に振る舞うのは、小人のやからがすることだ。すでに小
泉式のごう慢ふそんな外交はアジアで日本を孤立させているではないか。 

 日本が国境を接して隣り合っている国は韓国と中国だけだ。その両隣国に受け入れられ
ないのに、国際社会においてどうして指導的役割を夢見られようものか。日本が死に物狂
いで追いすがっている米国でも、アジアで排斥されている。日本が気まずくなる日が来る
だろう。それほど遠くない時期に、小泉首相の'おかしな考え'に惑わされ、正気を失っ
たのを日本が後悔する時があるだろう」(原文のまま)と。

 (小人)とか、(やから)とか、(死に物狂い)とか、まさに言いたい放題。韓国を代表
する新聞社の、これが社説である。

 もし日本のY新聞やA新聞が、同じような言葉を使って、韓国を批判したら、韓国の人
たちは、どう反応するだろうか。戦後、アメリカと日本が、血と汗で築きあげた自由主義
貿易圏内で、繁栄を謳歌しながら、反米、反日を唱える韓国。韓国自身が、まずその愚か
さを知るべきではないのか。

 この国にあって、この大統領。私には、そうとしか思えないのだが……。

 ちなみにいちばん最近の世論調査によると、N大統領の支持率は、5%台にまで落ちこ
んだそうだ。このおバカ発言をする前までは、10%前後を推移していた。


●K国の核実験

 この原稿がEマガジンに載るころには、K国は、2度目の核実験をしているかもしれな
い。(今日は、06年12月24日)。

 しかしそのK国の核兵器開発を抑えられる国は、もう、ない。中国やロシアは、もとよ
りアテにならない。韓国にいたっては、「K国がわが国を攻撃するはずはない」(N大統領)
と述べている。内心では、K国の核兵器を容認している。事実、N大統領は、K国が核兵
器をもちたがることについて、「一理ある」とまで公言している。

 もちろん、日本にも、その力はない。

 最後の頼みの綱は、アメリカだが、先の中間選挙で敗北して以来、ブッシュ大統領は、
何かにつけ弱気になってしまった。わかりやすく言えば、サジを投げかけている。

 もしK国が、核兵器と、それを運搬するミサイルをもったとするなら、(すでにそうなり
つつあるが……)、日本は、そのときから、K国の核攻撃の脅威にさらされることになる。
K国は、日本に対して、言いたい放題、したい放題のことをしてくるだろう。

 日本よ、日本人よ、その覚悟はあるのか? その自覚はあるのか? ヨン様とか、イー
様とか、ノーブレインなオバチャンたちが現(うつつ)を抜かしている間に、日本はこう
なってしまった。


●ともかくもクリスマスイブ

 ともかくも、今日はクリスマスイブ。暗い話は忘れて、ここは楽しく生きよう。明るく
生きよう。

 メリークリスマス!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●ボケ兄、行状記

+++++++++++++++

昨夜も、姉と、2時間ほど、電話で
話した。

現在、私の兄は、グループホームに
入っている。ボケたといっても、部分的に
頭のよいところもあるらしい。

ホームの人たちに、あれこれ迷惑を
かけているらしい。

「そのうち、追い出されるかも」と、
姉は言う。

「そのときは、そのときで、考えよう」と
私は言う。

+++++++++++++++

 兄は、子どもの頃から、人にバカにされても、ヘラヘラと笑っていたという。姉はそう
言った。つまり、兄は、すでにそのころから、自我の崩壊が始まっていたのかもしれない。
私がちょうど30歳のとき、つまり今からほぼ30年前にも、こんなことがあった。

 高校の同窓会の日のことである。朝起きて、同窓会に行こうと戸棚を見ると、そこにあ
ったジョニ黒(ジョニーウォーカ・ブラックという名前のウィスキー)の栓が抜いてあっ
た。しかも数センチ、量が減っていた。

 私が、担任だった先生への、みやげにと思って、外国で買ってきたものである。

 兄のしわざとすぐわかったので、兄に、「どうして飲んだ!」と怒ると、兄は、何ら悪び
れる様子もなく、ヘラヘラと笑いながら、「ちょっと、飲んでみたかっただけや」と答えた。
私の兄というのは、子どものころから、そういう兄だった。

 今でもあのとき感じた、じれったさというか、歯がゆさを忘れない。ふつうなら、バカ
ヤローと叫んで、弁償させるのだが、相手が、そういう兄では、それもできない。もちろ
ん喧嘩にもならない。

 原因は、つまり、兄がそうなった原因は、母の、異常なまでの過干渉と過関心。それに
代償的過保護である。兄は、子どものころから、自分で考えて、自分で行動するというこ
とが、できなかった。

 が、加齢とともに、それにボケが加わった。アルツハイマー病ではないが、前頭前野の
管理能力が、極端に低下している。最近では、自分のしていることを、客観的に判断する
能力さえないようである。つまり自分勝手で、わがまま。他人との協調性は、ゼロ。

 おやつの時間でも、みなでいっしょに並んで食べることになっているそうだが、兄は、
自分だけさっさと食べて、そのまま自分の部屋にもどってしまうという。姉は、「ホームを
追い出されるのは、時間の問題」と言っている。そういう話を聞きながら、私は、「そのと
きは、そのときで考えよう」と言う。

 先のことを、今から悩んでもしかたない。どうせ、この問題は、なるようにしかならな
い。あの兄が、いまさら、正常にもどる(?)などということは、ありえない。

 ……もちろんグループホームといっても、無料ではない。入居費だけでも、月々、12
〜3万円もかかる。プラス、病院への治療代、小遣いなどなど。「ふつうの大学生並の生活
費がかかる」とよく言われるが、それくらいは、かかる。そういう負担が、この先、10
年とか、20年もつづく。

 そのグループホームを追い出されたら、今度は、擁護施設ということになるが、そこで
は入居費は、もっと高くなる。それを考えると気が重くなるが、しかし私は、そんな(甘
ちゃん)ではない。子どものときから、いつも、「やられたら、やりかえす」を、モットー
にして生きている。

 つまりそういう兄をバネにして、さらにがんばる。今までも、そうしてきた。これから
も、そうする。まだまだ、はやし浩司は、元気なのだア!


●年賀状

 昨夜、コタツの中で、年賀状を書いた。図柄は、ヒヤシンス。水彩えのぐを使って、描
いた。

 宛名などは、ペンを使って書いたが、改めて自分のヘタクソな字に、驚く。このところ、
手書きで文字を書くという機会が、ほとんどない。だから余計にヘタクソになった。自分
でもそれがよくわかっている。

 「字というのは、書かないと、ヘタクソになるものだなあ」と私が言うと、ワイフは、
私の書いた字を見ながら、「本当に、そうね」と言って笑った。

 しかしもうこうなったら、居直るしかない。私は、年賀状のあいている部分に、こう書
いた。

 「めったに手で字を書くこともないので、こんなにヘタクソになってしまいました。来
年は、もっとヘタクソになります」と。

 あるがままの自分をさらけ出して生きる。字がヘタクソになるのも、そのひとつ。しか
たのないことだ。

 そうそう、ヘタクソになるだけならまだしも、字そのものも忘れてしまう。ワープロか
らパソコンへ。文を書くといっても、キーボードを叩いて書く時代になった。私のばあい、
それがもう15年以上もつづいている。

 「いいのかなあ?」と内心では思いながら、今日も、こうしてキーボードを叩いている。


●バスガイドのおしゃべり

++++++++++++++++++++

少し前、バスガイドのおしゃべりについて、
書いた。

ガイドにもよるが、運悪く、おしゃべりの
ガイドに当たると、旅行そのものが、台なしに
なることもある。

しかし意味のないおしゃべりが、どういうもので
あるかを知りたかったら、バスガイドの
おしゃべりを聞けばよい。

++++++++++++++++++++

 少し前のことだが、長野県のほうへ旅行をしたときのこと。そのときもガイドのおしゃ
べりには、閉口した。とにかく、よくしゃべる。ペチャペチャ、キャッキャッ……と。

 それが数秒の間を置くこともなく、つづく。しかもスピーカーの音量は最大。脳みその
奥まで、あの甲高い声が、ギャンギャンと響く。

 ガイドといっても、こんな話である。

 「全国のみやげで、人気ナンバー・テンは、○○県の△△です。……9位は、〜〜です。
……8位は、〜〜です」と。

 それが終わると、今度は、「全国で売りあげナンバー・テンの名物は、○○県の△△です。
……9位は、〜〜です。……8位は、〜〜です」と。

 話している内容が、実に浅い。「浅い」というのは、「奥行きがない」ということ。もし
そのとき私が、「では、そのみやげは、どんなお菓子ですか」とでも質問したら、どうなる
のだろうか。そのガイドは、その菓子の味まで、説明できるのだろうか。あるいは、「どう
いう基準で、人気度を調べたのか」とでも質問したら、どうなるのだろうか。その根拠に
ついて、ガイドは、説明できるのだろうか。

 きっとそのガイドは、「わかりません」「知りません」と答えるだろう。つまり、それを
私は、「浅い」という。

 わかりやすく言えば、そのガイドは、大脳の表層部に飛来する情報を、そのまま音声に
変えているだけ。あるいは、小さなメモでも見ながら、話していたのかもしれない。もと
もとどうでもよい情報である。

 聞いても、すぐ忘れる。何も、参考にならない。

 そこで改めて、情報と思考について、考える。

 たとえば近くのH湖で遊覧船に乗ると、スピーカーからガンガンと音楽が流れてくる。
そしてその合い間、合い間に、録音された声で、観光ガイドが始まる。「右に見えますのが、
○○山。手前、左手に見えますのが、△△島……」と。

 日本の観光名所ではよく見られる、ごくありふれた光景だが、あれほど、無駄な情報と
いうものはない。「だから、どうなの?」「それがどうしたの?」という部分がどこにもな
い。

 私がしたいことは、(あくまでも、これは私だけかもしれないが)、静かに、かつのんび
りと、その時間を楽しく過ごすこと。しかしどういうわけか、この日本では、それができ
ない。どこへ行っても、騒音、また騒音。静かに考える時間もない。また相手に、静かに
考えさせる余裕すら与えない。

 バスのガイドにしても、間(ま)をおくと、客に失礼とでも思っているフシがある。だ
からしゃべる。数秒の間をおくことなく、しゃべる。それも、10分とか20分とかなら、
まだがまんもできる。しかしそれが3時間とか、4時間もつづく。

 ところで最近、姉がこんなことを話してくれた。頭のボケかけた私の兄についてだが、
一日中、テレビをかけっぱなしにしているという。で、テレビを見ているかといえば、見
ていない、と。

 姉は「ただかけっぱなしにしているだけなのね。スイッチを切ったりすると、すぐ自分
でスイッチを入れてしまう」と。

 自ら考えることができない人は、その一方で、いつも何らかの情報に接していないと、
落ちつかないものらしい。それがたれ流しであっても、だ。言いかえると、「考える」とい
うことは、もっと能動的なもの。難解な数学の問題を、汗を流しながら解くようなものと
考えてよい。

 それがないと、ただの情報の受け売りにすぎない。冒頭に書いた、バスガイドが口にす
るガイドが、それである。何も考えない人には、ガイドの話も、それなりにヒマつぶしに
なるかもしれない。しかしそうでない人には、ただの騒音。ばあいによっては、苦痛。

 たとえば難解な数学の問題を解いているとき、だれかが横でテレビにスイッチを入れた
としたらどうだろうか。そういう状況を思い浮かべてみればよい。

 バスガイドの、あの意味のないおしゃべりを思い出しながら、改めて、情報と思考につ
いて考えてみた。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの睡眠

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確たる調査をしたわけではないが、
きわめて聡明な子どもには、
ひとつの大きな共通点がある。

+++++++++++++++

 昨日も、2人の小学生(6年、女児)と、こんな話をした。話をしたというより、いつ
の間にか、睡眠の話になった。

 2人とも、小学生なのに、高校入試の国語の問題を、80〜100点を取るほどの力が
ある。きわめて恵まれた子どもたちである。その2人が、こう言った。

 「私は、ちょうど8時間眠っている」「私も、それくらい」と。

 しかも、だ。眠ったと同時に、朝を迎えるという。

私「夢は見ないのか?」
子「見ない」
私「ぜんぜん?」
子「眠ったと思ったら、いつも朝になっている」
私「途中で、おしっことか、そういうことで目を覚ますことはないのか」
子「ないわよ。カミナリくらいかな。カミナリが落ちたようなとき、目を覚ます」と。

 私も、子どものころ、そういう経験をしたことがある。瞬間に眠ってしまい、目を覚ま
したら、そのまま朝になっていたという経験である。私は、そのとき、その間の時間が消
えてしまったかのように感じた。私が、小学4、5年生のときのことではなかったか。

 その話をすると。2人の小学生は、「私は、毎日、そう」「私も」と。

 それを聞きながら、睡眠と能力は、関連しているのではないかと思った。つまりきわめ
て聡明な子どもというのは、しっかりと睡眠をとっている。確たる調査をしたわけではな
いが、私はそういう印象をもっている。

 反対に、何か情緒的、あるいは精神的な問題をかかえている子どもは、この睡眠時間が、
大きく乱れる。能力的な問題をかかえている子どもも、そうである。慢性的な睡眠不足状
態がつづけば、当然、その影響は現れてくる。

 だから……というわけでもないが、睡眠は規則正しく、小学6年生でも、しっかりと8
時間前後はとったほうがよいということになる。とくに幼児期からの、しつけが大切であ
る。

 それについて書いた原稿を、ここに添付する。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++

●睡眠不足の子ども

 睡眠不足の子どもがふえている。日中、うつろな目つきで、ぼんやりしている。突発的
にキャーキャーと声をあげて、興奮することはあっても、すぐスーッと潮が引くように元
気がなくなってしまう。

顔色もどんより曇っていて、生彩がない。睡眠不足がどの程度、知能の発育に影響を与
えるかということについては、定説がない。ないが、集中力が続かないため、当然、学
習効果は著しく低下する。ちなみに睡眠時間(眠ってから目を覚ますまで)は、年中児
で平均10時間15分。年長児で10時間。小学生になると、睡眠時間は急速に短くな
る。

 原因の大半は不規則な生活習慣。「今日は土曜日だからいいだろう」と考えて、週に一度
でも夜ふかしをすると、睡眠時間も不安定になる。

ある女の子(年長児)は、おばあさんに育てられていた。夜もおとな並に遅くまで起き
ていて、朝は朝で、おばあさんと一緒に起きていた。つまりそれが原因で睡眠不足にな
ってしまった。また別の子ども(年長児)は、アレルギー性疾患が原因で熟睡できなか
った。腹の中のギョウ虫が原因で睡眠不足になったケースもある。

で、睡眠不足を指摘すると、たいていの親は、「では今夜から早く寝させます」などと言
うが、そんな簡単なことではない。早く寝させれば寝させた分だけ、子どもは早く目を
覚ましてしまう。体内時計が、そうなっているからである。

そんなわけで、『睡眠不足、なおすに半年』と心得ること。生活習慣というのは、そうい
うもので、一度できあがると、改めるのがたいへん難しい。

 なお子どもというのは、寝る前にいつも同じ行為を繰りかえすという習性がある。これ
を欧米では、「ベッド・タイム・ゲーム」(「就眠儀式」)と呼んで、たいへん大切にしてい
る。

子どもはこの時間を通して、「昼間の現実の世界」から、「夜の闇の世界」へ戻るために、
心を整える。このしつけが悪いと、子どもは、なかなか寝つかなくなり、それが原因で
睡眠不足になることがある。

まずいのは子どもを寝室へ閉じ込め、いきなり電器を消してしまうような行為。こうい
う乱暴なことが日常化すると、子どもは眠ることに恐怖心をもつようになり、床へつく
ことを拒否するようになる。ひどいばあいには、情緒が不安定になることもある。

毎晩夜ふかしをしたり、理由もないのにぐずったりする、というのであれば、このベッ
ドタイムゲームのしつけの失敗を疑ってみる。そこで教訓。

 子どもを寝つかせるときは、ベッドタイムゲームを習慣化する。軽く添い寝をしてあげ
る。本を読んであげる。やさしく語りかけてあげる、など。

コツは、同じようなことを毎晩繰りかえすようにすること。つぎにぬいぐるみを置いて
あげるなど、子どもをさみしがらせないようにする。それに興奮させないことも大切だ。
年少であればあるほど、静かで穏やかな環境を用意する。できれば夕食後は、テレビや
ゲームは避ける。

なおこの睡眠不足と昼寝グセは、よく混同されるが、昼寝グセの残っている子どもは、
その時刻になると、パタリと眠ってしまうから区別できる。もし満5歳を過ぎても昼寝
グセが残っているようならば、その時間の間、ガムをかませるなどの方法で対処する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の睡眠 睡眠儀式 ベッドタイムゲーム 睡眠時間 睡眠不足)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

PART 4

●子どもの健康は鼻先見る(あくまでも参考に)
 
 子どもの健康状態を簡単に知りたければ、鼻スジを見ればよい。鼻スジがツヤツヤと輝
いていれば、体力もあり、健康とみる。反対に、鼻スジから鼻先にかけて、どんよりとし
てくれば、体力が落ち、風邪など、何かの病気の前ぶれとみる。

 ほかにも顔だけを見て診断する方法がある。

(1)額(ひたい)の横に青筋がある子ども……神経質な子ども。かんしゃく発作のある
子ども。キレやすい子どもとみる。
 
(2)両ほほの下が、青白い子ども……貧血を疑うが、そうでないときはお腹(なか)の
虫を疑う。私はそれを言い当てるのが得意で、顔を見ただけで、それがわかる。

(3)顔の色が、あちこち赤白、まばらな子ども……発熱直前の状態とみる。たとえばほ
おの一部だけが赤いとか、額の右だけが赤いなど。今はそうでなくても、やがて発熱する
とみる。

(4)鼻先など、先端だけが赤い……虚弱体質など。生まれつき体が弱い子どもは、体の
先端部が赤くなったりする。

(5)顔の色がくすんでいる子ども……子どもの顔色は、大勢の中で比較して見ると、判
断しやすい。気うつ症的な子どもは、生彩が消え、粉をまぶしたような感じになる。大声
で笑えない、大声を出せないなど。親の威圧的な過干渉が日常的につづくと、子どもはそ
うなる。黒ずんで、生彩がないときは、慢性病を疑ってみる。

(6)くちびるの色が淡い子ども……栄養不足、好き嫌いのはげしい子どもを疑ってみる。
胃腸の弱い子どもも、くちびるの色が淡くなる。あわせて顔全体が青白いようであ
れば、貧血も疑ってみる。

 以上は、あくまでも経験的にみた健康診断法で、必ずしも正しくない。(しかし運勢占い
や星占いよりは、ずっと確実!)一度、ここに書いたことを参考にして、そういう目で、
あなたの子どもを診断してみたら、どうだろうか。

(追記)漢方では、望診論といって、顔色や外の現れた症状をみて、その人の病状を診断
する方法がある。

私が書いた、「目で見る漢方診断」は、HPのほうに収録。興味のある方は、一度、どう
ぞ!


●成熟した社会

 年長児でみても、上位10%の子どもと、下位10%の子どもとでは、約1年近い能力
の差がある。さらに4月生まれの子どもと、3月生まれの子どもとでは、約1年近い能力
の差がある。そんなわけで、同じ年長児といっても、ばあいによっては、約2年近い能力
の差が生まれることがある……ということだが、さてさて?

 しかし日本の教育の大義名分は、「平等教育」。親もこの時期、子どもの能力には、過剰
なまでに反応する。ほんのわずかでも自分の子どもの遅れを感じたりすると、それだけで
大騒ぎする。以前、こんなことがあった。ある日突然、一人の母親から電話がかかってき
た。そしてこう怒鳴った。

 「先生は、できる子とできない子を差別しているというではありませんか。できる子だ
け集めて、別の問題をさせたそうですね。どうしてうちの子は、その仲間に入れてもらえ
ないのですか」と。私が何かの調査をしたのを、その母親は誤解したらしい。そこでその
内容を説明したのだが、最後までその母親には、私の目的を理解してもらえなかった。が、
私はそのとき、ふとこう考えた。「どうして、それが悪いことなのか」と。

 仮に私ができる子だけを集めて、何か別のことをしたところで、それは当然のことでは
ないか。日本の教育は平等といいながら、頂上には東大があり、その下に600以上もの
大学がひしめきあっている。それこそピンからキリまである。高校にも中学にも序列があ
る。もともとできる子と、できない子を、同じように教えろというほうが無理なのだ。…
…と思ったが、やはりこの考え方はまちがっていた。

 できる子はできない子を知り、できない子はできる子を知り、それぞれがそれぞれを認
めあい、助けあうことこそ大切なのだ。そういう社会を成熟した社会という。「力のあるも
のがいい生活をするのは当然だ」「力のないものは、それなりの生活をすればいい」という
のは、一見正論に見えるが、正論ではない。暴論以外の何ものでもない。たとえあなたの
子どもが、今はできがよくても、その孫はどうなのか。さらにそのひ孫はどうなのか……
ということを考えていくと、自ずとその理由はわかるはず。

 その社会が成熟した社会かどうかは、どこまで弱者にやさしい社会かで決まる。経済活
動には競争はつきものだが、しかし強者が弱者をふみにじるようになったら、その社会は
おしまい。そういう社会だけは作ってはいけない。そのためにも、私たちは子どもを、能
力によって、差別してはいけない。そしてそのためにも、できる子とできない子を分けて
はいけない。子どもたちを温かい環境で包んであげることによって、子どもたちは、そこ
で思いやりや同情、やさしさや協調性を学ぶ。それこそが教育であって、知識や知恵とい
うのは、あくまでもその副産物に過ぎない。

 日本では「受験」、つまり人間選別が教育の柱になっている。こうした非人間的なことを、
組織的に、しかも堂々としながら、それをみじんも恥じない。そこに日本の教育の最大の
欠陥が隠されている。冒頭に、私は「上位10%」とか、「下位10%」とか書いたが、こ
うした考え方そのものが、まちがっている。私はそのまちがいを、その母親に教えられた。


●のどは心のバロメーター
  
 大声を出す。大声で笑う。大声で言いたいことを言う。大声で歌う。大声で騒ぐ。何で
もないようなことだが、今、それができない子どもがふえている。年中児(満5歳児)で、
約20%はいる。

 この「大声で……」というのは、幼児教育においては、たいへん大切なテーマである。
この時期、大声を出させるだけで、軽い情緒障害くらいなら、なおってしまう。(「治る」
という言い方は、教育の世界ではタブーなので、あえてここでは、「なおる」とする。)私
も幼児を教えて30年以上になるが、この「大声で……」を大切にしている。言いかえる
と、「大声で……」ができる子どもに、心のゆがんだ子どもは、まずいない。そういう意味
で、私は、『のどは、心のバロメーター』という格言を考えた。

 が、反対に「大声で……」ができない子どもがいる。笑うときも、顔をそむけて苦しそ
うにクックッと笑うなど。「大声を出してくれたら、それほど気が楽になるだろう」と思う
のだが、大声で笑わない。原因は、母親にあるとみてよい。威圧的な過干渉や過関心、神
経質な子育て、暴力、暴言が日常化すると、子どもの心は内閉する。ひどいばあいには、
萎縮する。

意味のないことをボソボソと言いつづけるなど。が、そういう子どもの親にかぎって、
自分のことがわからない。「うちの子は生まれつきそうです」とか言う。中には、かえっ
てそういう静かな(?)子どもを、できのよい子と思い込んでいるケースもある。こう
した誤解が、ますます教育をむずかしくする。

 ともかくもあなたの子どもが、「大声で……」を日常的にしているなら、あなたの子ども
は、それだけですばらしい子どもということになる。


●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに
勉強はそうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長
つづきしない。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりでき
なくなってしまう。これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中1)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門にな
っている。そのため中学2年から3年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくな
る。実際には、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週3回通うほか、個人の家庭教師に週1回、勉強をみてもらって
いた。が、母親はそれでは足りないと、私にもう1日みてほしいと相談をもちかけてきた。
私はとりあえず3か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情
はしていたが、まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教
科書すら自分では開こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。この
ままの状態がつづけば、何とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーン
トアウト(燃え尽き)。へたをすれば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもし
れない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でも
あれば別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。
それに私のほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、
「指導する」というよりは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をした
り、趣味の話をしたりするなど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は
父親と母親がやってきた。そしてこう言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県で
もナンバーワンの進学高校)に入ってもらわねば困る。どうしても入れてほしい。だから
このままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに1学期、2学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。
その成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントア
ウトしてしまうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高
すぎるときは、受験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかってい
ない親のばあいは、なおさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するな
どとは思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら
見落としてしまう。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階
で失敗と気づいたからといって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さら
に大きな谷底が隠れている。それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今度は
そのつぎの谷底へと落ちていく。K君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを
書いた。が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴
った。「あんたはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言
ったらどうだ。失敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。
覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいなが
ら、教育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいる
ところに、日本の教育の悲劇がある。それはともかくも、30年以上もこの世界で生きて
いると、そのあと家庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、
手に取るようにわかるようになる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私
も予想さえしていなかったことが起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死
んでしまったのだ。こういう言い方は不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ
……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」
と思いなおす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、
子どもを励まし、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを
最大限、伸ばす。たとえば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イ
ッツ・イージィ」(気を楽にしなさい)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

++++++++++++++++

昨日、あるレストランへ入ったら、
4歳くらいの子どもが、祖母らしき
女性と並んで、あの大きなソフト
クリームを食べていた。

それを見て、いつもそうだが、
私は、ゾッとした。

++++++++++++++++

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとな
が、4本飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲ん
だで、腹の中がガボガボになってしまう。

アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリームを1個子ど
もに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの
子どもでまず疑ってみるべきは、低血糖。一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)
を大量に与えると、その血糖値をさげようとインスリンが大量に分泌される。が、血糖値
がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう
状態になると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興
奮状態になって大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを
切るように、スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」
として、25年ほど前に話題になったことがある。日本でもこの分野の研究者は多い(岩
手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの子どもにそういう症状が見られたら、
一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。一周間も続けると、子ども
のによってはウソのように静かに落ち着く。

 話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩ん
でいる。

で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いき
って捨てる。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そ
して子どもが食事の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親とい
うのは、たいてい無意識のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、
間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)
(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム、カリウム分の多い食生活にこころがける。具体的には
海産物中心の献立に切り替える。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつう
の家庭よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康
なら、小食(?)でも問題はないとみる。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●常識は静かに引き出す

+++++++++++++++

静かに考える。そういう時間と
場所を子どもに提供する。

これは家庭教育の中でも、とくに
大切な一部分である。

+++++++++++++++

 ものごとを静かに考え、正しい判断をくだし、その判断に従って行動する力のことを、「バ
ランス感覚」という。このバランス感覚がないと、子どもはかたよった考え方や、極端な
ものの考え方をするようになる。

たとえば「この地球上の人間は、核兵器か何かで、半分くらいは死ねばいい」と言った
男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になり、黒い喪服を着てみた
い」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をするようになる。

 このバランス感覚を別の言葉で言いかえると、「豊かな常識」ということになる。この常
識というのは、だれにも平等に備わっているかのようにみえるが、そうではない。常識の
ない人はいくらでもいる。しかも幼児期にすでにそれが決まる。

そこで「教育!」ということになるが、実際には子どもに教えるのはたいへんむずかし
い。いや、教えて教えられるものではない。親としてせいぜいできることがあるとすれ
ば、常識を奪わないということ。威圧的な過干渉、権威主義的な押しつけ、神経質な過
関心が日常化すると、子どもはいわゆる常識ハズレの子どもになる。

昔、一生懸命粘土をコンセントに詰めて遊んでいた子ども(年長男児)がいた。先生の
コップに殺虫剤を入れた子ども(中学男子)がいた。バケツに絵の具を溶かして、それ
を二階のベランダから下を歩く子どもにかけていた子ども(年長男児)などがいた。ふ
つう子どものいたずらというと、どこかほのぼのとした子どもらしさを感ずるが、それ
がない。常識というブレーキがかからないためと考える。

 一般に子どもがドラ息子化すると、子どもからこのバランス感覚が消える。子どもとい
うのはきびしさとやさしさが、ほどよく調和した環境の中で、心をはぐくむ。が、たとえ
ば父親が極端にきびしく、母親が極端に甘いとか、あるいはガミガミときびしい反面、結
局は子どもの言いなりになってしまうような甘い環境が続くと、子どもはドラ息子化する。
症状としては、自分勝手でわがまま、約束や目標が守れない、依存心が強い割に無責任に
なるなど。

 常識力を養うためには、子どもには自分で考える時間を、たっぷりとあげる。「あなたは
どう思うの?」「あなたはどうしたいの?」と聞きながら、子どもが何かを答えるまでじっ
と待つ。そういう姿勢が子どもを常識豊かな子どもにする。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心を病む教師

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2005年度にうつ病などの精神疾患
で休職した公立小中高の教職員の数は、
前年度比で、619人ふえ、過去最多
の4178人にのぼったことが、
12月15日、文部科学省の調査で
わかった。

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6年前に、こんな原稿を書いた。

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●受験競争の魔力

 受験競争に巻き込まれれば巻き込まれるほど、子どもはもちろんのこと、親もその住む
世界を小さくする。この世界では、勝った負けたは当たり前。取るか取られるか、蹴落と
すか蹴落とされるか……。

教育とは名ばかり。その底流では、ドス黒い人間の欲望がはげしくウズを巻いている。
ある母親は受験どころか、子ども(中学生)がテスト週間を迎えるたびに病院通いをし
ていた。

いわく「テスト中は、お粥しかのどを通りません」と。子どもの受験競争が高じて、親
どうしがいがみあう例となると、まさに日常茶飯事。幼稚園という世界でも、珍しくな
い。現に今、言ったの言わないのがこじれて、裁判ザタになっているケースすらある(小
学校)。さらに息子(中3)が高校受験に失敗したあと、自殺をはかった母親だっている!

 こうした狂騒は部外者が見ると、バカげているとわかるが、当の本人たちはそうでない。
それはまさしく命がけ、血みどろの戦い。もっともこうした戦いが親の世界だけでとどま
っているならまだしも、子どもの世界まで巻き込んでしまう。さらに学校という教育の世
界まで巻き込んでしまう。

この受験競争だけが原因とは言えないが、そのため心を病む教師はあとを断たない。東
京都の調べによると、東京都に在籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した
人は、93年度から四年間は毎年210人から220人程度で推移していたが、97年

度は、261人。さらに98年度は355人にふえていることがわかった(東京都教育
委員会調べ・九九年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、
96年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、96年度は休職者が417
1人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、
うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。

 何だかんだといっても、受験が教育の柱になっている。もしこの日本から、受験という
柱を抜いたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら崩壊する。問題はなぜ受験が教
育の柱になっているかだが、それについては別のところで考えるとして、結論から先に言
えば、受験が子どもや親を大きくする要素などどこにもない。仮にそれに打ち勝ったとし
ても、「何とかうまくやった」というあと味の悪さが残るだけ。

受験競争は決して教育ではない。そういう前提で、一歩退いてつきあう。そういう冷静
さがあなたの心を守り、あなたの子どもの心を守る。

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 文科省は、心を病む教師がふえた理由として、「多忙や保護者、同僚との人間関係など、
職場の環境が年々きびしくなっていることが背景と考えられる」(中日新聞)としている。

 調査結果によると、病気による休職者は、前年比709人増の、7017人。このうち
精神性疾患による休職者は、13年連続で、前年度より17%ふえた。病気休職者全体に
対する割合も、1996年度の37%から60%にふえている。

 が、私の印象では、こうした数字は、まさに氷山の一角。実際の数、つまり、内緒で通
院、治療を繰りかえしている教師まで含めると、少なくとも、この5倍はいるとみてよい。
もちろん程度の差もある。

 まさに教師受難の時代というわけだが、「職場の環境がきびしくなった」というよりは、
教育制度そのものが、制度的限界に近づきつつあるとみるのが正しいのではないのか。教
育とは名ばかり。雑事、雑事の連続で、教育どころではないというのが、教師たちの本音
ではないのか。その煩雑(はんざつ)さは、おそらく教育に携わったものでなければ、わ
からない。30人の子どもがいれば、30人分の問題がある。私塾なら、最終的には、「や
めろ!」「やめる!」という別れ方ができるが、公立学校では、それもできない。

 教師たちは、袋小路の奥の奥まで追いつめられる。その結果が、「4178人」という数
字である。

 しかしあえて言うなら、まだ公立学校の教師は恵まれている。そういう状態になっても、
職場と収入は、確保されている。安心して治療に専念できる。仮に退職勧告が出されたと
しても、無視すればよい。通院証明さえあれば、5年でも、10年でも、少なくとも収入
だけは確保される。

 今、教師の仕事はたいへんだと、私も思う。思うが、そんなわけで、私は、あまり同情
しない。学校の先生たちと話していると、みな、そのきびしさを訴える。しかしそういう
話を聞きながら、私はいつも、こう思う。「私のほうが、ずっと、きびしい」「民間企業に
働く労働者のほうが、もっときびしい」と。

 そこでもし、こうした問題を本気で解決しようとするなら、学校制度そのものを変革さ
せるしかない。教師を雑務から解放させ、教育だけに専念できるような制度を用意する。
欧米では、とっくの昔にそうしているのだから、この日本だけができないということはな
いはず。

 何でもかんでも引き受けてしまうから、教師にそのシワ寄せが集まる。そういう制度そ
のものが、限界にきているとみてよいのではないだろうか。

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ついでに6年前の
同じころに書いた原稿を、
もう1作。

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●10%のニヒリズム

 テレビの人気ドラマに「三年B組金八先生」というのがある。まさに熱血漢教師のドラ
マだが、実際にはああいう教師はいない。それはちょうどアクションドラマの中で、暴力
団と刑事がピストルでバンバンと撃ちあうようなものだ。ドラマとしてはおもしろいが、
現実にはありえない。

仮に金八先生のような教師がいたとすると、その教師はあっという間に、身も心もボロ
ボロにされる。第一、この世界には内政不干渉の原則というのがある。いくら問題が家
庭におよんでも、教師は家庭問題までクビをつっこんではいけない。またその権利もな
ければ義務もない。つっこんだらつこんだで、たいへんなことになる。おおやけどをす
る。私にもいろいろな経験がある。

 私はある時期、毎日のように母親教室を開いていた。が、それがよくなかった。ある朝
まだ床の中で眠っていると、一人の男がいきなり飛び込んできて、こう叫んだ。「うちの女
房が妊娠した。どうしてくれる!」と。

寝耳に水とはまさにこのこと。私が驚いていると、その様子から察したのか、その男は
こう言った。「すまんすまん。カマだった」と。話を聞くと、その男の妻がその前夜から
家出をしたという。そこでその男は、妻がよく口にしていた私のところへ逃げてきたと
思ったらしい。

その妻というのは、私の母親教室の熱心な受講生だった。以来私は、毎日の母親教室を、
週一回に減らした。同時に、子どもの子育ての問題以外、「私は関係ない」という姿勢を
貫くようにした。

 こうしたトラブルは、本当に多い。毎年少しずつ賢くなったつもりだが、つい油断をす
ると、同じような失敗を繰り返かえす。そこで10%のニヒリズムということになる。昔、
どこかの教師が懇談会の席でそう教えてくれた。

「どんなに教育に没頭しても、100%、全力投球してはいけない。最後の10%は自
分のためにとっておく。裏切られてもキズつかないようにするためだ」と。

実際、この世界、報われることよりも、裏切られることのほうが多い。10%のニヒリ
ズムは、そのための処世術である。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝・あれこれ

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冬の楽しみは、電気毛布で暖まった
ふとんの中へ、体をもぐらせて眠ること。

ワイフは、「お風呂の中みたい」と言う。
私は、「温泉に入ったみたい」と言う。

しかし、問題が、ないわけではない。

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 冬の楽しみは、電気毛布で、熱いくらいに暖まったふとの中へ、体をもぐらせて眠るこ
と。コツがあって、ここにも書いたように、「熱いくらいに」にする。ふとんにもぐると同
時に、電源を切る。

 ワイフは、「お風呂の中みたい」と言う。私は、「温泉に入ったみたい」という。

 そしてそのまま、しばらく雑談をしたあと、眠る。が、それにもコツがある。ワイフが
横を向いて眠ると、それがちょうど、倒した椅子のようになる。私はその椅子にこしかけ
るようにして、体を曲げる。それが飛行機の操縦席に座っているようで、気分がよい。

 が、いくつか問題がある。最初はそれでよいとしても、私はそのままの姿勢では眠られ
ない。体を伸ばして、大の字になって眠る。かつ、どういうわけか、私は、肩を出して眠
るくせがある。若いときから、そうしている。冬の寒い日でも、そうしている。

 だから5〜10分もそういう姿勢をつづけたあと、つまり眠りに落ちる寸前に、体を大
きく動かして、体を上に向ける。肩をふとんの外に出す。同時に、ワイフは、椅子の形を
やめ、私と同じように、体を上に向ける。

 毎晩、これが儀式のようにもなっているので、ワイフは、それについては文句は言わな
い。私も文句は言わない。しかし……。

私「なあ、お前、昨晩のような臭いおならは、出すなよ。ぼくは、あれで目が覚めた」
ワ「2度目のおならは、あなたのよ」
私「ちがうよ。2回とも、お前のだ」
ワ「どうしてそんなことわかるの?」
私「においが、ちがう。お前のは強烈だ」

ワ「同じものを食べているから、ちがわないわよ」
私「あのなア、同じものを食べていても、腸内の発酵状態によってちがうのよ」
ワ「どうちがうのよ。私は、毎日、しているわよ」
私「毎日でも、お前のは、押し出しの毎日」
ワ「何よ、それ?」
私「いつも一週間前のが、押し出されて出てくるだけ。それだけ古いウンチということ」

ワ「あなたのはどうなの?」
私「ぼくのは、新鮮だよ。たいてい1日か2日前のが出てくる」
ワ「そういうのは、新鮮とは言わないわよ。下痢じゃないの?」
私「つまりそれだけ、腸の活動が、活発ということ」と。

 若いころは、ワイフが、おならをすると、足で蹴飛ばして、ワイフをふとんの外に押し
出していた。それが歳とともに、やがて慣れ(?)、今は、ふとんを大きくはたいたあとは、
口だけふとんの外に出して眠るようになった。そのとき毛布で首のあたりを、マフラーの
ように巻く。ふとんの中の臭気を、ふとんの中に閉じこめるためである。

 しかし今は、冬。ここで夫婦喧嘩でもすれば、寒い思いをするのは、この私。冬の寒さ
か、ワイフのおならかと問われれば、ワイフのおならのほうが、まだよい。まあ、ここは、
ワイフのおならをがまんするしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夢、希望、そして目的

 子どもを伸ばす3種の神器、それが(夢)(希望)、そして(目的)である。が、しかし
何も、これは子どもの世界だけの話ではない。おとなも、そして老人も、生きるためには、
夢と希望、そして目的が必要である。

 近所に、温厚な老人(男性)が住んでいた。心臓が悪くて、何度も入退院を繰りかえし
ていた。心臓のバイパス手術も、受けたことがある。

 その老人が、数年前、亡くなった。たしか、83歳ではなかったか? それはともかく
も、数日前、その男性の奥さんを見て、驚いた。あまりの変わりように、ギョッとするほ
ど、驚いた。

 男性が生きている間は、「健康のため」ということで、1キロ先にあるスーパーまで毎日、
歩いて通っていた。ひざが悪いということで、毎日、近くの整形外科医医院にも通ってい
た。通りでも、よく見かけた。

 しかし数日前にその奥さんを見ると、奥さんは、別人のように太ってしまっていた。ふ
つうの太り方ではない。あごの先と、胸がそのままつながってしまったかのような太り方
である。体はもちろん、数倍に、ふくれあがっていた。

 あいさつをしようと思ったが、のどで声は止まってしまった。奥さんは、私に気がつか
ないまま、そのまま玄関の中へ入ってしまった。奥さんは、夫を亡くしたあと、運動をし
なくなってしまったらしい。それを見て、私は、「明日はわが身」と、大きくため息をつい
た。

 私は、そのあと、こう思った。

 夫が心臓の病気と闘っている間は、奥さんは、それをバネとして、自分の健康管理を大
切にしていた。しかし夫が亡くなってしまって、そのバネをなくしてしまった。生きる張
りあいをなくしてしまった。しかしそんな奥さんに向かって、「奥さん、それではいけない」
と、だれが言うことができるだろうか。

 老人にも、生きるためには、夢と希望、それに目的が必要である。どんな小さな夢と希
望でもよい。そこから目標が生まれ、生きる活力へとつながっていく。たぶん、その奥さ
んは、夫が生きている間は、「私がしっかりしなければ」と思って、がんばっていたにちが
いない。しかし夫がなくなり、そのバネをなくしてしまった。

 とたん、運動をやめ、整形外科医院に通うのも、やめてしまった。何かの心の病気を患
ったのかもしれない。太るといっても、ふつうの太り方ではない。しかもここ1、2年の
ことである。

 そこで改めて、自分のこことして考える。「私は、死ぬまで、夢と希望、それに目的をも
って生きることができるか」と。あるいは、「どうすれば、死ぬまで、夢と希望、それに目
的をもつことができるか」と。

 しかしこれは、たいへんなことだと思う。現に今ですら、それがむずかしい。ときどき、
何のために生きているか、わからないときがある。そんな私が、どうやって、20年後、
30年後に、夢と希望、そして目的をもちつづけることができるというのか。

 方法があるとすれば、今から、その準備をしておくということ。夢や希望にしても、そ
れらは決して向こうからやってくるものではない。自分の努力で、つくりあげていくもの。
しかもそれには、10年単位の時間が必要である。何かのボランティア活動を始めたから、
それがそのまま、明日からの夢や希望につながるということは、ありえない。

 夢や希望を、いったい、どこに求めたらよいのか。あの奥さんの姿を思い浮かべながら、
今朝は、いちばんに、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●韓国のあせり

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何かにつけ、「日本」「日本」と、
小うるさい韓国。

それもそのはず。

日本は韓国なしでもやっていかれる。
しかし韓国は、日本なしでは
やっていかれない。

どうしてそういう韓国が、反日
なのか?

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 ここ数日の韓国紙を読んでいると、韓国のバブル経済がプチプチとはじけ始めたような
感じがする。韓国で言う、「急売り」、つまり、住宅、土地などの不動産が、突然、売りに
出されるようなケースがふえている。

 韓国の東亜N報は、「住宅保証金も下落傾向…住宅価格のバブル弾けるか」と題して、つ
ぎのように伝えている(12月21日)。

 「不動産専門家らはこのような貸し出し規制が最近、住宅価格が跳ね上がった地域で、
バブルが徐々にはじける現象につながるか注目している。 
ソウル蘆原区上渓洞(ノウォング・サンゲンドン)一帯には、借り家難が深刻だった今
年の秋に比べて、1000万〜2000万ウォン下げた借り家の物件がたくさん出てい
る。 
上渓洞のH公認関係者は、『今年9、10月賃貸をするか、貸し出しをうけて無理に住
宅を購入した人々が、残金を用意するために住宅保証金を下げている』とし、『一部の
団地では急売りの物件も出ている』と話した」(原文のまま)と。

 つまりこの秋から、冬にかけて、急速に、住宅事情が変化しているというわけである。
しかし「変化」というような、なまやさしいものではない。銀行が住宅担保の貸し出しを、
突然引き締めにかかったことによる。その状況は、日本のあのバブル期末期の様子に、酷
似している!

 そんな中、韓国の現代経済研究所は、こんな悲観的な調査結果を公表した(12月19
日)。「韓国と日本の経済格差は埋まらず、日本に追いつくのは不可能」と。

それによれば、「このところ日本経済は52カ月以上続く過去最長の景気回復を記録して
いる一方、韓国経済は通貨危機以降、新たな活力を得られず、今後格差はさらに広がる
だろう」とのこと。 

 一時は、一人当たりの国内総生産(GDP)の格差は、3万330ドル(約358万円)
で最高値を記録(95年)。その後は去年の1万9047ドル(約225万円)まで縮ま
った。が、日本の経済回復が続けば、格差はさらに広がるという。

 同報告書は、つぎのように伝える。

「韓国の限界は(模倣型技術戦略)にあると指摘する。物まね戦略で成長してきたため、
技術力育成がおろそかになったという意味だ。81年から04年までの韓国の技術貿易
赤字は、315億ドル(約3兆7160億円)に達するが、日本は同期間で515億ド
ル(約6兆760億円)の黒字だった。技術力が育っていないため、中核部品や材料を
日本から輸入し製品を作る。このため、韓国の輸出が増えれば増えるほど、対日貿易赤
字も大きくなるというパラドックスが続く。

 その上、生産性の格差も広がっている。韓国と日本の労働生産性格差は、95年に1時
間当たり29・3ドル(約3460円)だったが、2000年には29・5ドル(約3
480円)になり、05年には29・9ドル(約3530円)になった。 

 こうした状況を覆す戦略を立てるべき立場にある政府の競争力も、日本の方が上昇して
いる。スイス国際経営開発院(IMD)が発表した国家競争力ランキングによれば、政
府の効率性は韓国は下落(02年26位→06年47位)した一方、日本は改善(28
位→15位)している。現代経済研究院のユ・ビョンギュ経済本部長は『日本に追いつ
こうという姿勢から脱却しなければならない』と話している」と。

 思い知ったか、韓国! ……というのは言い過ぎかもしれないが、逆の立場なら、韓国
はもっと口汚く、日本をののしっているにちがいない。

 現に、韓国にも、日本の小林Y氏(マンガ家兼評論家)のような過激な意見を売り物に
する、ライターがいる。朝鮮N報の駐日記者氏、である。彼はつぎのようなコラムを書い
て、現代経済研究所の意見に、まっこうから反論している。そのまま紹介する。

「韓国の現代経済研究院が『韓国は日本を追い越せない』という報告書を発表した。ま
た『追い越すためには日本をまねてはならない』という提言も行った。その前提となる
論理に従えば、こうした指摘はほとんどが的を得ている。だが、もしその論理が逆だと
したら、結論も解決法も間違っていることになる。つまり韓国は日本を追い越すことは
できるし、追い越すためには日本をまねなければならないということだ。 

 まず日本に追いつけないという結論はおかしい。日本は昨年から人口が減り始めた。韓
国はこのまま行っても2018年までは人口が増加する。 

 また日本は来年から大学進学志望者の数が定員を下回るほどの(高齢者大国)となり、
保護者の教育熱も下がってきている。だが韓国人は、昔牛を売ったように、今では家を
売って江南で賃貸暮らしをすることもいとわないほどに教育熱が高い。 

 さらに、経済の勢いを示す潜在成長率も、日本は2%台を推移している。一方韓国はいく
ら落ちたと騒ごうとも、その倍に当たる4〜5%だ。つまり潜在力も、意欲も韓国の方が
上なのだ。それにもかかわらず『日本にはやはり勝てない』と音を上げるのは、第三者
から見てもおかしなことだろう。 

 58カ月にも及んだ日本の景気回復傾向が、低迷する韓国経済の現状と対照的であるこ
とは現代経済研究院が報告した通りだ。実際に芳しくない状況が何年間も繰りかえされ
れば、意欲に満ちた人でも沈んでしまうのは当然だ。 

 それなら潜在力も、意欲も韓国に及ばない日本が、なぜ調子を上げているのだろうか。
それなりに事情に精通している人なら誰でも知っているこの理由を明確に示すことがで
きていたなら、現代経済研究院の出す結論も変わっていたかもしれない。 

 日本が善戦しているのは、「頼りになる政府」があるからだ。日本政府が経済活動におけ
る意欲や成果を支える役割をうまく果たしたのだ。 

(中略)

 韓国が日本を追い越すことは可能だ。同じリングの上で戦うのに、図太く意欲にあふれ
た方が勝って当然ではないのか。ただし勝つためには、日本が成功したシステムをまね
た上で、それよりはるかに良いシステムを作らなければならない。もちろんこれは政府
の役目だ。そのためには政府が変化するか、でなければ国民が政府を変えるのだ」と。

 結構なご意見だが、大前提として、日本がどうのこうのと言うこと自体、韓国は自ら、
敗北を認めていることになる。日本では、こうした論法で、韓国を論ずることは、まず、
ない。

 この日本に、韓国に追いつかれ、追い越されることを心配している人は、いったい、ど
こにいるだろうか。韓国といえば、国をあげて、まるで受験競争をしているような国であ
る。仮に追い越されたところで、今の日本人なら、「どうぞ、ご勝手に」と言うにちがいな
い。(豊かさ)の基準そのものが、この日本では変化しつつある。

 が、かといって、日本とて、手をこまねいているわけではない。反日国家の強大化を見
過ごしているわけではない。小泉政権時代に始まった、「打倒、韓国!」の経済政策は、こ
のところあちこちで実を結びつつある。もう少しすれば、その結果は、より明白なものに
なるだろう。

 ともかくも、「日本ごときに負けるはずがない」という日本蔑視意識。それを基盤とした、
傲慢(ごうまん)な民族意識がなくならないかぎり、日本は、韓国を受けいれることはで
きない。そのことだけは、韓国も、よく知るべきである。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●6か国協議

++++++++++++++++

私の予想通り、K国の核開発問題を
話しあう6か国協議は、何ら進展を
見ることもなく、今日、終了しそうである。

すでにアメリカ側の経済専門委員は、
北京を去っている。

+++++++++++++++++

 K国の金xxは、まともではない。核兵器を、あたかも本尊のように、信奉している。
つまり核兵器は、彼の(力)のシンボルにもなっている。

 そんな核兵器を、金xxが、簡単に手放すわけがない。まず。これがすべての前提。今
回も、K国側は、マカオのBDA銀行の金融制裁措置を問題にしているが、それは核兵器
開発をつづけるための口実にすぎない。

 金額を見れば、わかる。BDA銀行で凍結されている金額は、たったの2400万ドル。
もしK国が、核兵器を放棄すれば、毎月5億ドル近い援助額がK国に流れこむことになる。
(毎月だぞ!)

 つまりK国は、ささいな金額にこだわり、その数百倍(年間)もの援助を、フイにした
ことになる。この常識で考えられない行為そのものが、金xxがまともでないという証拠
ということになる。

 この先、アメリカ側は、そして日本側も、K国に対する制裁措置を強化することになる。
一方、K国は、再度、核実験をしてみせるだろう。この極東地域は、さらなる緊張状態に
置かれる。が、それでいちばん困るのが、韓国と中国。

 仮にK国崩壊!、ということにでもなれば、韓国と中国は、大混乱。もうここまでくる
と、日本の知ったことではない。今まで、K国をさんざん助けてきたのは、韓国と中国。
BDA銀行で凍結されている2400万ドルのうち、1200万ドルは、韓国のH財閥か
ら、K国に渡されたものだという。

 先の南北首脳会談では、5億ドルものお金が、韓国側からK国側に流れている。わかり
やすく言えば、あの南北会談は、韓国側が、金で買った会談。それに応じて、金前大統領
は、ノーベル平和賞まで受賞している。

一時は、そのうちの一部ではないかと疑われたが、BDA銀行の1200万ドルは、そ
れとはまったく別のお金であったという。

 いったい、いくらの現金を、闇にまぎれて、韓国はK国に支払っているのか。

 こういう事実をつきつけられても、ひとりノー天気なのは、韓国の金前大統領と、N大
統領。

 N大統領は、今回の6か国協議に先立って、12月9日、ニュージーランドで、「北朝鮮
んを追い込むことはむしろ危険だ」と発言した上で、こう述べている。

 「6か国協議で必ず(北朝鮮が)核兵器を放棄する方向へすすむだろう」と。そしてそ
れを見越して、早々と、K国援助を決めてしまった。

 金前大統領も、同じころ、「米国が最近になって北朝鮮と対話を始めているが、これだけ
でも大いに勇気づけられる現象だといえる。北朝鮮はいつまでも核を保有しているわけに
はいかないだろう」(12月7日)と述べている。

 いまさら、「太陽政策はまちがっていました」とも、「融和政策はまちがっていました」
とも言えない。苦しい胸の内は、よくわかる。しかし国際政治というのは、どこまでも現
実的でなければならない。現実を基盤においた、現実主義で考える。これが大原則。

 皮肉なことに、K国のもと高官であった、F氏の言葉のほうが、よっぽど、現実的であ
る。朝鮮N報からの記事をそのまま引用する。

+++++++++++++++

●「親北・反米勢力は、核兵器よりも危険」

「ファン・ジャンヨプ・元K国労働党秘書は、12月20日、ソウル市内の明知大学で
開催された、「北朝鮮人権・民主化過程での大学生の役割」をテーマとしたワークショッ
プで、「核兵器よりも危険なのは親北反米勢力」と主張した。 

 北朝鮮人権青年学生連帯の主催で開催された講演で、同氏は、「金xx政権を除去しなけ
ればK国の問題は解決できない。金xxが信じているのは二つだ。一つは中国との同盟。
もう一つは韓国の親北反米勢力」と語った。 

 同氏は「親北勢力が韓国政府を親北反米政権に変えてしまい、K国が彼らに連邦制を宣
布させ、米国の干渉を受けずに、赤化統一を実現しようとしている」と主張した。また
「分別のない人間が政権をとることを防がなければならない。金xxとは協力してはな
らない。南北首脳会談を語る者ではなく、公明正大な人物を選ばなければならない」と
述べた。 

 同氏は「来年が重要だ。大統領選挙でまずは親北反米勢力を抑えて政権を取り戻し、民
主主義を強化しなければならない」と語った。

+++++++++++++++

 日本とて、今のこの状態で、K国に戦後補償費なるものを支払ったら、それこそたいへ
んなことになる。いったん支払えば、際限なく、K国は日本に要求してくることだろう。

 6か国協議は不調に終わったが、日本にとっては、今のところ、それがもっとも望まし
いシナリオということになる。金xx政権を崩壊させる。あるいは自然死させる。それが
日本にとっては、今のところ、それがもっとも望ましい。拉致問題も、それで解決する。

 金xxの健康状態は、現在、きわめて悪い。金xx政権の崩壊は、近い。あせらなくて
も、K国は、近い将来、必ず崩壊する。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1732)

【日韓・経済戦争】

++++++++++++++++++

日本のA新聞社が、竹島(韓国名、独島)に
セスナ機を飛ばしたとき、韓国政府は、戦闘機で
もって、それを迎えた。(戦闘機だぞ!)

日本が国連安保理理事国入りを表明したときも、
そうだ。
韓国政府は、世界中に特使まで送り、(特使だぞ!)、
それに反対すると同時に、裏工作まで繰りかえした。
あろうことか、「日本人にその資質はない」とまで、
言い切った。

さらに日本側が拉致問題で韓国側に協力を
要請したとき、韓国側は、それを拒否した。

何が、「東海」だ!
韓国から見れば、たしかに東の海だが、
日本から見れば、北海だ。

韓国は、これまた世界中に特使まで送り、
「日本海」という呼称を、「東海」という
呼称に変えようとしている。

N政権になってから、「反日」「反日」の
大合唱! 戦前、日本軍に協力したという
理由だけで、今になって、その遺族から
財産を没収したりもしている。

そこで日本側からの反撃が始まった。
「経済戦争」という反撃である。

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 ノーブレイン(脳みそなし)のオバチャンたちが、韓国の男優たちにうつつを抜かすの
も結構。しかしその間の1、2年、水面下では、日本と韓国の間で、熾烈(しれつ)きわ
まりない経済戦争が繰りかえされている。それについては、すでに何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

 しかし、2006年末の今、その結果が、現実のものとして、つまり数字の上で、明ら
かになりつつある。わかりやすく言えば、韓国では、バブル経済がはじけ始めている。こ
のアジアで「反日」を旗印にあげれば、どうなるか? 順に数字を拾ってみよう。

●ふえる個人負債額

 韓国銀行と民間経済研究所の分析によると、06年の9月末現在、韓国の家計の金融負
債は過去最大の558兆ウォン(約71兆円)に達したという。日本の人口で計算しなお
すと、4倍の280兆円! (日本の人口は、韓国の人口の約3倍。)

これだけでも、韓国では、1世帯当たり3500万ウォン(約445万円)の借金を抱えて
いるということになる。そのため1世帯当たりの年間返済利子負担額だけでも、300万
ウォン(約38万円)に迫ることになる。ついで、家計負債の規模は昨年1年間で10・
4%増加。一方、同じ期間の国民所得は2・2%の増加にとどまっているという。

 わかりやすく言えば、日本のバブル経済は、銀行主導で始まり、それが終わると銀行は
巨額の不良債権をかかえることになった。が、韓国では、(銀行)ではなく、(個人)が、
潜在的不良債権をかかえているということになる。

 深刻さという点では、(銀行)であっても、(個人)であっても、差はない。言うまでも
なく、個人破産がふえればふえるほど、それはそのまま銀行の不良債権と化す。

 事実、韓国では、今年(06年)に入り、10月までに個人破産を申請した者は10万
人に迫っている。昨年1年間の申請者(3万8800人)の2倍を超える数である。さら
に「事実上破産状態にありながら、まだ破産申請をしていない潜在破産者(79万世帯、
韓国銀行推定値)を加えると、19世帯のうち1世帯が「破産状態」にあるものと推定さ
れる」とのこと(同、報告書)。

●悪化する就職状況

 就職状況も悪化している。朝鮮N報のコラムによれば、「今年(06年)に入り、失業保
険の新規申請者が前年比で10%程度増加、60万人を突破する見とおしである」という。
さらに「今年の4年制大学卒業者のうち正規雇用された者は、2人中1人にも満たない。
来年の雇用はさらに厳しくなる展望だ」という。

 一部の国策企業(=政府の手厚い補助金をたっぷりと吸い込んでいる企業)の、一見華々
しい活躍はさておき、韓国経済は、現在、悪化の一途をたどっている。

 4年生の大学を卒業しても、2人に1人しか就職できないというのは、かなり深刻な状
況と考えてよい。もしこんなことが日本で起きたら、日本はどうなるか? それをほんの
少し、頭の中で想像してみればよい。

●あがる税金

 が、それだけではない。朝鮮N報は、さらにこうつづける。

「所得が減少する一方、税金・保険料など家計の公的負担は毎年増加している。来年(0
7年)の1人当たりの勤労所得税の負担額は、206万ウォン(約26万円)となり、今
年(188万ウォン)より18万ウォン(9・6%)増える見通し」と。

さらにつづく。

「そのうえ、来年には健康保険料も平均6・5%、引き上げられる。政府は過去5年間、
勤労者の健康保険料を2倍以上引き上げており、物価上昇率(16・5%)の6倍以上負
担が増えた。これにより健康保険料を滞納する世帯が急増し、滞納世帯は200万世帯(0
5年末基準)に迫っている」とも。 

 わかりやすく言えば、韓国の経済政策は、ツギハギだらけ。もう少しきつい言い方をす
れば、行き当たりばったり。たった1週間で、経済政策が変更になったり、取り消された
例も、数多い。

 で、現在はどうかというと、バブル経済を沈静化させるために、金利をあげることもで
きず、さりとて、景気を刺激するために、さげることもできず、韓国経済そのものが、巨
大なジレンマに陥っている。

 このままでは、……というより、その兆候はすでに見え始めているが、韓国経済は、奈
落の底へと落ちていく。日本経済のような底力、つまりは、それまでに蓄積した技術力や
投資外資がない分だけ、一度、そうなったら最後、どこまでも落ちていく。

 もちろん日本経済も影響を受けるが、韓国がなくても、日本はやっていける。日本には、
台湾がある。中国がある。さらにインドがある。現に今、日本は台湾、インドに巨額の投
資を繰りかえし、台湾やインド、さらには中国に、日本の代理戦争をさせている。その効
果は、IC産業を中心に、確実に現れ始めている。(これについては、少し前に書いたので、
ここでは省略。)

 半面、この日本は、どうか?

12月21日の財務省の発表によれば、日本の11月の貿易黒字幅が、前年比54・1%
増の9159億円だったことがわかった。 

 輸出は前年同期比12・1%増の、6兆6318億円、輸入は同7・5%増の、5兆71
59億円。 

韓国は、06年12月、「韓国の年間輸出額が、はじめて3000億ドルを突破した」(朝
鮮N報)とはしゃいでいる。が、いつまでつづくことやら? その分だけ、輸入額も多い。
07年度中には、貿易収支は、赤字に転落すると、予想されている。

 ちなみに、現在のところ、各国の輸出額は、こうなっている。

日本の輸出額(05年)   ……5944億ドル (貿易収支……  800億ドル)
 韓国の輸出額(06年)   ……3260億ドル (貿易収支……  160億ドル)
 ドイツの輸出額(05年)  ……9699億ドル (貿易収支…… 1961億ドル)

 がんばれ、日本! これはサッカーの試合とは、わけがちがう。日本の浮沈問題がから
む、重要な試合である。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 22日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

PART 3

●はじめの一歩

 幼児教育の世界で、『はじめの一歩』というときには、つぎの二つの意味がある。ひとつ
は、何でも最初に経験させることは、慎重に選べということ。もうひとつは、そのときの
方向づけが、その後の子どもの方向性に大きな影響を与えるから注意しろという意味。

 体操教室を例にとって考えてみる。

 体操教室に入れたから、体操が好きになるとはかぎらない。恐らく何割かの子どもは、
かえって体操を嫌いになってしまう。(そういう事実は、教室側としても隠すが……。)マ
ット運動にしても、鉄棒にしても、あるいは跳び箱にしても、それができたからといって、
どういうこともない。できないからといって、これまたどういうこともない。

しかしそういうところでは、それがあたかも人間の成長には必要不可欠な要素でもある
かのように教える。親もそう錯覚する。私も中学の授業でマット運動をさせられたが、
あのマット運動ほどいやなものはなかった。そういう子どもの「思い」は、外には出て
こない。

 こうした「おけいこごと」を子どもにさせるときには、子どもの方向性をじゅうぶん、
見きわめること。だいたいにおいて、「できないからさせる」「苦手だからさせる」という
発想はまちがっている。子どもに何かをさせるときは、「得意な分野をさらに伸ばす」とい
う発想で、考える。要するに、オールマイティの子どもは求めないこと。また求めても意
味はない。

 つぎにこの時期できた方向性は、当然のことながら、その子どもの一生に大きな影響を
与えるから注意する。私にも、いろいろなことがあった。たとえば私は小学3年のときに、
バイオリン教室へ通わされた。「通わされた」というのは、それだけいやだったということ。
今でもレッスンの日が、毎週水曜日の午後4時15分覚えているほどだから、それがいか
にいやなものであったかは、わかってもらえると思う。

ただ私のばあい、バイオリンがいやだったわけではない。あの棒がいやだった。何かを
まちがえると、講師の先生は、容赦なく私の頭や手を叩いた。それがいやだった。1年
かかって、やっとやめさせてもらったが、その結果、私は大の音楽嫌いになってしまっ
ていた。小学6年の終わりまで、「オ・ン・ガ・ク」という言葉を聞いただけで、背筋が
ゾーッとしたのを、今でもはっきりと覚えている。幼児教育では、こういうことは、絶
対にあってはならない。

 で、子どもの方向性をつけるコツは、子どもをほめること。最初はウソでもよいから、
ほめる。「この前よりじょうずになったわね」「せんせいがほめていたよ」とか。父親や母
親の前でほめるのも効果的。この時期の子どもは、自分を客観的に評価できないから、周
囲の人にほめられると、その気になってしまう。そしてそれが原動力となって、子どもを
前向きに伸ばす。


●「恥」の文化

 極東のアジアの小国には、世界の人が見ても、理解しがたい民族性がある。そのひとつ
が、「恥」。たいていの日本人は、奈良時代の昔から、日本は文明国だと思っている。しか
し日本程度の歴史なら、アフリカの各部族ならみんな、もっている。(だからといって、日
本の歴史を否定しているのではない。傲慢になってはいけないと言っている。)

 この「恥」には、2種類ある。他人に向かう恥と、自分に向かう恥である。他人に向か
う恥というのは、世間を気にした生き方そのものということなる。他人の目の中で生きる
人ほど、この恥を気にする。

 もうひとつは自分に向かう恥。自分の生きザマにきびしい人。あるいは自分にきびしく
生きている人ほど、この恥を気にする。人が見ているとか見ていないとか、あるいは人が
知っているとか知らないとか、そういうことは関係ない。あくまでもその恥は自分に向か
う。

 この2種類の恥は、たがいに相関関係がある。他人に向かう恥を意識する人ほど、自分
への恥に甘い。「人にバレなければよい」とか、「自分さえよければよい」とか考える。あ
るいは自分をごまかしてでも、体裁をとりつくろう。

 一方、自分に向かう恥を意識する人ほど、他人を気にしない。「他人がどう思おうが、知
ったことではない。私は私だ」というような考え方をする。これらをまとめると、他人に
向かう恥と、自分に向かう恥は、いわば反比例の関係にあるということになる。同時に両
方の恥をもっている人は、まずいない。(両方ともない人というのは、いるかもしれないが
……。)

 ある母親はこう言った。「私の家は、昔からの養鰻業の本家です。息子にはそれなりの大
学へ入ってもらわねば、恥ずかしいです」と。幼稚園を選ぶときにも、それがある。「B幼
稚園では恥ずかしい。S幼稚園でなければ」と。(幼稚園は幼稚園でそういう親の意識をよ
く知っているから、それとなくうちは「S」幼稚園ですと、親ににおわす幼稚園もある。)

 こうした傾向は都会より、当然のことながら、農村地域のほうが強い。今でも身なりや、
成績、進学校などなど。家柄や格式、評判や財産にこだわる人は、少なくない。子どもで
もいる。

ある中学生(2年男子)は、ことあるごとに自分の家をいうのに、「D家は……」と、「家
(け)」をつけていた。そこで私が「そんな言い方、よせ」と言うと、こう言った。「う
ちの先祖は、昔は○○藩の家老だった」と。(私はこういうところが、「理解しがたい民
族性」と言っているのだ。)

 さらにこんなことを言った高校生もいた。ある夏の日に私の家に遊びにきて、「先生、D
大学と、M大学は、どちらがかっこうがいいですかね。結婚式の披露宴でのこともありま
すから」と。まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを気にしていた!

 他人に向かう恥を気にし始めると、生きザマそのものが卑屈になる。へんな小細工をし
たり、見栄をはったり。さらには体裁だけを整えたりする。しかしそういう生き方をすれ
ばするほど、結局は自分の人生をムダにすることになる。もちろん「恥」がすべて悪いわ
けではない。自分に向かう恥は、むしろ大切にしたい。しかしこれには大きな前提がある。

それを恥じるだけの、哲学なり生きザマ、さらには確固たる信念が必要だということ。
それがないと、恥じるべき対象そのものがないということになる。言いかえると、哲学
や生きザマ、確固たる信念のない人は、自分に恥じることはない。さらに言いかえると、
自分に恥じる人は、哲学や生きザマ、確固たる信念がある人ということになる。「自分に
恥じる」と言っても、そうは簡単なことではない。


●バツはお尻

 子どもに体罰を加えるとしても、決して「頭」にしてはならない。「バツはお尻」と決め
ておく。頭は人体の中で、もっとも重要な部分であり、人格そのものも、この頭に宿る。
で、こうした体罰は、一度習慣になると、すぐ手が頭に向かうということになりかねない
ので、気をつける。そのためにも、もし今、あなたが頭に向けて体罰を繰り返しているな
ら、「バツはお尻」と、何度も復唱してみるとよい。あなたの心構えそのものを、訂正する。

 で、子どもたちが親からどんな体罰を受けているかを調査してみた。37人の子どもた
ち(小学校の低学年児)で、約半数が体罰を受けていることがわかった。圧倒的に多いの
が、「親に叩かれる」(20人)。その方法としては、「手で頭や顔を叩く」のほか、「チビク
ル」「殴る」「パンチ」「ビンタ」「キック」「ケツ叩き」「ぶっ叩き」など。「押入れに入れら
れる」「家からの追い出し」という、オーソドックスなのも、まだ健在のようだ。「出て行
くと言って出て行くと、たいて親がさがしにくる」と話してくれた子どももいた。ちなみ
に、「出て行け」と言われたことがある子どもは、一一人。

 つぎに多いバツが、「取りあげ」。おもちゃや本、ゲームなど。子どもが大切にしている
ものを、親が取りあげるという。1人、「お金をまきあげられる」と言った子どももいた。
さらに「しばられる」と言った子どももいた。何でも庭や柱に、ヒモでしばられるという。
その話を聞いた別の子どもが、「ぼくは物干しにつりさげられる」と言った。これには、み
な、爆笑した。

 さらに、「嫌いなトマトジュースを飲まされる」「犬小屋で寝させられる」「掃除をさせら
れる」「頭の毛を短くされる」と言った子どももいた。「昔は、お灸をすえられるというの
もあった」と私が言うと、「そんなものは知らない」と。ほかに「ごはん抜き」「おいてき
ぼり」「ものを投げつけられる」など。「台所のすみで、正座」というのもあった。さらに
……。

 「亡くなったお父さんの仏壇の前で正座」と答えた子どももいた。何でもとても恐ろし
いことだそうだ。その子どもの父親は、その少し前、なくなったばかりだった。私はその
話を聞いて、しんみりとしてしまった。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あるお母さんからのメール

++++++++++++++++++

親から受けた子育てが原因で、
長い間、大きな心のキズに苦しんでいた
お母さんから、こんなメールが
届いています。

読者のみなさんの力になればと、
公開してくださいとのこと。
喜んで、そうさせていただきます。

お名前を、Vさん(母親)としておきます。

Vさんは、子どものころ、親からきびしい
教育としつけを受け、それが原因で、
心に大きなキズを受けてしまいました。

Vさんは、「私がしたような経験を、ほかの
子どもたちにはしてほしくない」と言っています。

本当に、そうだと思います。

最近の研究によれば、うつ病の(種)のほとんどは、
その人の乳幼児期にあるということまで、
わかってきました。

乳児期から幼児期にかけては、
(1)心豊かで、穏やかな家庭環境、
(2)愛情豊かで、静かな親子関係、
この2つが、とくに重要かと思います。

Vさんからのメールをお読みください。

++++++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、こんばんは!

今日はレッスン前に、少しだけしたが、私がかかえる障害のお話を聞いてくださって、
ありがとうございました。

私は 先生のEマガによる「自己開示」でいえば4〜5レベルに入るほど、
まわりの人たちに、いろいろなことを話しています。

隠していなくてはならないことなど、そんなにはないし、
自分を知ってもらうことは 息子であるY男にとっても
良いことのように思ったりするからです。

先生が、私の経験を多くの人たちにお話してくださるのももちろん、歓迎です
良い例として、あるいは悪い例として、
私の経験してきたことが今、どんな風に私の人生で活かされているのか、
また、少女時代の私と同じ思いを、今まさにしている子供たちが今いるとしたら、
保護者の方に気づいていただきたいからです。

両親の教育が厳しく 過干渉で 私にとっては、長くて、辛い少女時代でした。
特に厳しかったのは母でした。しかし母だけを責めているのではありません。
母は 明治生まれの姑の前で、私たち姉妹を懸命に育て、
社会に出ても恥ずかしくない子に育てをしなくては……という使命のもとでの
思いだったわけです。

当時は今のように、相談できる機関や話を打ち明けられる相手もなく、
母も苦しんだと思います 父も相談相手にはならなかったようです。

というのも 父は自分の父親を第二次世界大戦で亡くし、
顔を見た事もないまま育ったそうです。
私は今でも、ラバウル上空を通過するときは 胸が苦しくなります。

そして実の母は 姑に父を残して 再婚して出て行ってしまったそうです。
どれほどの想像を絶する悲しみを乗り越えたでしょう。

父は曾祖母に対して異常なまでの執着心を持ち妻より子供より、曾祖母
という感じでした。

そんな生活の中で 母は私たちを厳しく育てることと、しつけることで、
自分なりのアピールをしていたのかもしれません。

また 別の観点からすると 母は私たちの子育てを、はけ口としていたかも
しれません。そのことも否定できないと思っています。

では、姉にはなぜ私のような障害が起きなかったか。

私の姉は3歳年上のキャリアウーマンですが、
何をするにも要領がよく、賢く、そして心優しく 暖かい人間で、
身内の私が言うのも恐縮ですが 尊敬しています。

母やきびしい習い事の先生がおっしゃる非道徳的な言葉ですら、
「あの人、なにいってるんだろ。私のどこまでしってるっていうの?」と
冷静な受け止め方が子供の頃からできたようです。

私はといえば、まったく正反対。

母の期待にこたえよう。今、Dropoutしてしまえば お母さんが悲しむかとか、
そんなことばかり考えていました。

生真面目で いつも良い子でいなくてはならない。いつも良い点を取らなくてはならない。
お母さんが悲しむから。クラス代表に選ばれなくてはならない。母が望むから、と。

小学校3年生のとき、サンタさんに手紙を出しました。
サンタさんの存在を信じていたころ書いた、最後の手紙だったと思います。

内容は、「お願いです プレゼントはいりません ただ習い事を全部やめさせてください」
というものでした。

サンタさんが願いをかなえてくれなかったのは、これが初めてでした。

心療内科の先生はおっしゃいました。

「あなたのお父様もお母様も 強迫性障害 の可能性がある」と。

思い当たる節はいくつもありました これは遺伝する可能性のある
障害だそうです。

今年前半は、T市にある児童心療内科まで、Y男をつれて、月に一度通っていました。
Y男のためというよりは 私が息子と、どう向きあえばよいのか、
どう育てていけばよいのか、全くわからなくなり、心は八方塞になったからです。

今思えば あの半年間の通院は 心療内科の先生に会って私がカウンセリングを受ける
私のいわば治療であったように思います。

時がたつにつれて、私は私の方法で Y男と向き合っていけばいいと思うように
なりました。

なぜなら、私はY男の母親なのだから……。

こんなシンプルな答えにたどり着くのに 随分と遠回りをしたし、
これからもしてしまうことがあるのかもしれませんが、今は 安定した気持ちで、
Y男に接しています。

父はY男がおなかにいるときに脳内出血で倒れ、現在は、右半身不随の生活をしています。
それがわかった当時は、みんな私のBabyではなく、
父の病気のことにばかり関心をもって、情緒不安定になり、
母や夫に当たったこともありました。

しかし母は立派に父のパートナーとして、父の治療に徹底的につき合っています。

ひところは東京のホテルに3か月ほど暮らして、有名な先生の治療を受けていました。
けれど回復には限度があり 今は良くも悪くもならないように、
リハビリとして、朗読や華道、陶芸など様々なことにチャレンジしています。

また 現在では障害者対応の施設も多く 年に3回ほど旅行に出かけています
障害者仲間の皆様との出会いも 両親を大きく支えてくださっていると思います

で、父もあきらかな強迫性障害者です。

強迫行為といって 鍵を閉めたか、ガスの元栓は締めたか、
冷蔵庫はちゃんとしまっているか、
出かける前もふだんの生活の中でも、あまりにもしつこいこれらの行為に
私たちは障害のことは何も知らずに、へきえきしていました。

私には強迫行為はありません。
主な症状は 不安がとめどなく押し寄せて眠れないとか、そんなことです。

朝起きてまず初めに思い浮かぶことは、
今日の予定の嫌な部分です。不安が押し寄せると、過喚起を起こしてしまう。
これではちゃんとY男を育てることができないと感じたこともあります。

03年の4月 Y男が入園した直後、お願いするのならばこの先生と決めていた
先生のところへ夢中で向かっていました。

ふら〜と先生の前にお伺いして、
私は「うつ病」だといわれるのを恐れていました。
 
そのために今まで躊躇して、治療を受ける勇気が無かったのです。
いま、抗うつ剤も飲んではいますが、今のお薬はとても私にあっていると感じ、
快適に過ごしています。もちろん体調の良悪によって効き目が違ったり、
沈んでしまうこともありますが……。

そこから抜け出すには散歩をしたり 本をむさぼり読んだり、
ひたすら英語で独り言を言ったり、大好きな音楽を聴いたり、
一心不乱にピアノを弾いたりしています。

自分の力で抜け出す術を身につけることができるようになってきました。
化学物質を使っての治療に、初めはとても抵抗がありましたが、
お薬で生活をよりよいものにすることができるのならば、
甘えて使ってもいいんだというふうに、解釈するようになりました。

ドクター曰く、「おばあちゃまが飲むような弱い薬よ。副作用もないゎ」と。
あれから約3年 いま、最高の組み合わせのお薬にめぐり合えました。

とにかく私は 私が過去に味わった苦しみも含めて、そして今があることに
心から感謝しているし、あの苦しみがなければ、
Y男に同じ思いをさせていたかもしれないと思うと、ぞっとします。

そのことに比べれば、今の状態など、なんということはありません。
どんな経験からも苦しみからも、そして喜びからも学ぶことは際限なく多く、
そしてすべての出会いと、想いと、天国の大切な存在たちに守られて、
私たちは あたたかな蜜月を(?)すごしています。

Y男の人生はY男が決めればいい。
どうしても辛くて何かをやめたくなったとき、
逃げるのでなく決断なのであれば私は応援します。
そしてまた 新しい道を探していけば きっときっと、
something wonderful+special for him に
出逢えると信じています。

来週のレッスンの頃はグアムで思い切りガムをかんでいる(?)と思うので、
おそらく2x日のレッスンを受けさせていただくと思います。
3時まで別の習い事があるので終わってから行くと、Y男が決めました。

x曜日は私の仕事納めの日で、見学には行かれないので、
これはとても良い機会ですし、母に付き添いで行ってもらうつもりでいます。

母は今は、仏様のような(?)穏やかな人間になり、
私の仕事のx曜日とy曜日には、両親そろって、Y男との夕食、
お風呂、カードゲームなど、とても楽しみにしてくれています。

こんな私ができた 一番の親孝行が、Y男なのかもしれません。

はやし先生にこんなにいろいろとお話できるのは、
Y男も私も、先生が好きだからです。

聞いていただきたいと思ったので、一方的に長いメールを送ってしまいましたが、
不要であればどうぞ聞き流してください。

でももし機会があれば、固有名詞を伏せて、こんな体験でこんな子供が育ち、
こんな母親になったと、はやし先生のお力で、
少女時代の私のような毎日が苦悩と苦痛で満ちていた生徒さんを、お母様を
開放して差し上げられるきっかけになったら、どんなに良いことだろうと思っております。

母は、いっそ本でも書いたら?、のんきなことを言っておりますが、
今の私にそんな時間がいったいどこにあるでしょうか。

さて夜もふけてまいりました
来週3年ぶりの国際線に乗るのに、全く準備ができておりません。
残ったworkも山済みで、何とか乗り切らなくては!
でも忙しいのが性分にあっているのでしょうか。

12月の私は毎日が楽しくて忙しくて、友達と会って力をもらったり、
このうえなく充実しています。

話の続きや枝葉はまだまだありますが、今宵はここまでとさせていただきます。
長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

oh! 日付が変わって、今日はY男の誕生日です
6歳だなんて! あんなに小さな赤ちゃんだったY男が、(Born on xxxx、.2000)、
今こうして育っていることを、誰よりもY男の父に感謝しています。
 
彼は本当に素晴らしい父親です。
運命が私たちを離してしまったけれど、空き箱に迷路を作ってビー玉で転がして遊んだり、
お父さんの小さい頃はこんなことをして遊んだよと話をしたり、
当たり前のことかもしれませんが、でもこんなことになってしまって今もなお、
Y男に愛情を注いでくれていることに、心から感謝しています。

それでは2x日は Y男の祖母、あのスパルタだった(笑い)私の母が、
お伺いするかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

結果として両親にはもちろん感謝しています。産んでくれたこと。育ててくれたこと。
Y男のシッターをしてくれていること。それをenjoyしてくれていること。

ps

障害のことで何かお役に立つことがあればどんなことでもお話しますので、
どうぞお声をかけてくださいませ。 

ホルモンバランスやセロトニンの分泌調整知らなかったことを多く学ぶ機会でありました。
必要な方には、詳しくお話しさせていただければ、うれしいです。

++++++++++++++

【はやし浩司より、Vさんへ】

メール、ありがとうございました。
現在、私の周囲でも、同じような問題をかかえ、悩んだり、苦しんだりしている人が、何
人かいます。

またそういう人たちの力になってあげてください。

よろしくお願いします。

                       はやし浩司

++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ、追伸】

改めて自分の書いたメールを、先生がまとめてくださったものを読んでみると、
これを読んで ひとりでもいい、気持ちが楽になってくれる
お母様、お父様、生徒さんがいらしたら、どんなに良いことだろうと思います。

ただ、話の続きや枝葉はまだまだあると書いたように、
もっともっと様々なことが、私には起きました。
今回の公開に載せていただくことはなくても、
またの機会にでも広く知っていただければと思います。

大きくは二つの話題です

ひとつめ。

先生は 親への反抗で処理したという趣旨のことをおっしゃいましたね。
実は、私もそうでした。

反抗期、ひどかったと思います とくに習い事が辛くて辛くて、
ピークの小学校高学年の頃から中学2年生くらいまで、そうでした。

何を言っても、「ああいえばこういう」式で、
ねじ伏せられてしまうことがわかっていた私は、
母に直接、反抗するということが、あまりできませんでした。
 
仏頂面のままダイニングで家族と食事をしたり、無言のまま誰の顔をも見ず、
さっさと食事を済ませて、勉強部屋に逃げこんだりしました。

その仏頂面の私の唇を見て、母はこう言うのです
「右下の唇が少し上に上がってゆがんでいる。
不満のあるときはいつもそんな顔をする」と。

そして 相手が他人であれば 失礼なほどに 私の顔を、目ジーッと見る。
そんなことをされれば、だれだって、気分を悪くします。で、気分を悪くした私が、
「もういやだ。くそばばぁ」と言って、
勉強部屋へ逃げ隠れしたことがありました。

このときばかりは母も相当なショックだったのでしょう。
その日以降は、話題といえばそのことばかり。
何時間もかけてそれがどんなにいけないことか、
私に説教しようとするのです。しかし私はそれを知っていたからこそ、
そんな言葉を言ってしまったのです。

母が悲しむといけないから、お稽古を頑張らなくてはならない自分がいる半面、
母が悲しむことをして束縛されていることにたいして、ささやかな抵抗をしたかった。

もうこの世から消えてしまいたいとさえ思ったことも、何度もありました
「今度の期末試験の頃は私はもういないんだから、心配することないんだ」と、
そんなばかげたことも考えたこともあります。

母が悲しむだろうから、わざと悪い成績を取ってやろうと考え、
解答用紙にあえて正しくない答えを書いたり 空欄にしたりしたこともあります。
で、それを見て、母はがっかりし、こう言ったこともあります。
「私があなたの学年の頃は、クラスで何番にはいつも入っていた。
なぜあなたはできないの? できるはずでしょう? 
あなたはやればできるのだから言っているのよ」と。

「できるって誰が決めた? 誰が知ってるの? 私、どこまで頑張ればいいの?
今、交通事故で死んじゃったりしたら やりたいこと何にもできずに人生終わっちゃって
悔しいよ」と。
そんな会話が何度も繰り返されたと思います。

母への反抗心は、ある日、ふと薄いものへと変化してゆきました。
希望の高校に入学を果たし、あわただしく身支度をしていた春の朝のことです。
私のためにお弁当を作ってくれている、私よりも背の低い小さな母の背中が、
それを気づかせてくれました。

母も、私を育てるのは初めての経験だということ。
涙が溢れました。でも見つかるのも恥ずかしくて、
「コンタクトが合わなくて…」などとごまかしましたが、
「ひどいことしてごめんね、おかあさん」と、そう、あの時言いたかったのだと思います。
高校を卒業し、進学で実家を離れてからは、なおさら私と母の間の心の距離は縮まり、
一人暮らしが、私を成長させてくれたとも言えると思います。

「あなたは私の芸能マネージャーではないのだから、ぴったりとついてこないで。
誰と連絡を取っているのか、どんな友達とどんな話をしているのか、
50メートル先の自販機までジュースを買いに行くのに、
こっそりついてくるようなことをしないで。
まるで本当にジュースを買いに行くかどうか、確かめにきているみたいではないか」と、
そんな内容の、私にとっては、革命的手紙を渡したのは、
私が高校1年の夏ごろのことだったと思います。

そういうことがあって、母の過干渉も少しずつ薄れていったように思います。

さて もうひとつの話題

これは 今の世の中にも深く関わる重大な問題です。
母から束縛や過度の期待を受けてstressfulになった私がとった行動は、
恥ずかしくも クラスメイトへのいじめでした。

いじめの根源がこんなところにも潜んでいるのです。
もちろん私の心が弱かったので、そんな方向へ向かってしまったのは確かです。
しかし あれほどにまでのストレッサーがなければ、
子供の頃から転校生には進んで声をかけていた私が
あんなことはしなかったと言えると思います。

私自身もがき苦しんでいたけれど 人を苦しめることで憂さ晴らしをしようとは、
なんと愚かなことでしょう。

だから お父様、お母様、お子様がそんな風になってしまうほど
過度の干渉や期待、子供なりのプライベートへの介入をしないでほしい。

どこかで全く関係の無い誰かが、傷ついてしまう引き金になってしまう可能性があるから。
いまでも私は心を傷つけてしまったお友達のことを時折思い出し、
「ごめんね。今はどうか暖かくしあわせな毎日を送っていてほしいよ」
と思うことがあります。

ある女の子は ひどく私がいじめをしたのにもかかわらず、
私がいじめのターゲットになったときには、
惜しげもなく私に救いの手を差し伸べてくれました。

彼女は今、専門分野で世界的に活躍する立派な女性兼母になったと、
風の便りで聞きました。

彼女の成功を心からお祝いし、これからの活躍をも心からお祈りしています。

上記のいじめに関する文章は、同じ出来事を、違う言葉でしたが、あるテレビ番組の
「いじめについて考える」番組に、投稿したことがあります。

うまくまとめられたかわかりませんが以上になります。
もっと続きも枝葉もありますが、今日のところは、ここまでとします

先生、ありがとう。
私の話に耳を傾けてくださってありがとう。
私の気持ちを汲んで 皆さんにこんなできごとがあるということを、
知らせてくださって、ありがとう。

私は先生の尊敬に当たる人間ではとてもありませんよ。巨大リップサービスです
でも、生き方を認めていただけたことは、心から嬉しく思います。
ありがとうございました。

上記の文章の掲載についても、先生にお任せします

でもね先生、私、仲の良いお母様方には全く同じ話をしています。
「私、頭が弱いからね〜 薬の時間なのょ」なんて、
どこか冗談めかしながら。いえ、本当に大笑いしながら、どんどん話題にしています。

ですので、これを読んで あのVさんのことじゃないかな?、と思う
お母様は、少なくともK幼稚園のお母様ならなおさら、
5本の指でおさまるかどうかという気持ちです。アハハ。

でも今の私には、「そうなの、わたしのこと! スパルタ教育の話、
はやし先生にしちゃったぁ」と笑って答えることができます。

だから 気にしません。
誰かの心や命が、助かるのかもしれないのであれば、
どうぞはやし先生のお力で、きっかけ作りをして差し上げてほしいと思います。

ああ、2学期も明日でおしまい。明日じゃない、もう今日になってしまった!
まだまだ幼稚園児でいてほしいなぁ。
これからまた、どんな出会いがあるだろう。
小学生になったY男は どんな困難や挫折を味わうだろう。

けれど私は Y男へのバースデーカードにこう書き添えました。

「そのてでゆめをつかみなさい。
 そのあしで ゆきたいところへどこにでもいきなさい。
 そうしておとうさんのような りっぱなひとになるのよ」と。

どこか照れくさいメッセージですが、本心です

Y男の父からも、日付指定で、カードが郵便物として届きました。
誕生日の数字を Y男の好きな迷路にイラストしてあり、
おわりのところには、「おかあさんをたいせつにしなさい」とありました。

久しぶりに声を上げて泣きながら、音楽のボリュームを大にして、
車を運転しながら仕事に向かいました。
彼という人間の子供を産んだ私は、とても幸せです。

長文を読んでくださってありがとうございました。
先にも書きましたとおり掲載については先生にお任せします。

今度は 祖母から聴いた私の心にいつもある「幸せのおどんぶり、かなしみのおどんぶり」
のお話を聞いていただきたいと思っています。

長文乱文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

Vより。

+++++++++++++++


【はやし浩司より、Vさんへ】

●代償的過保護

 親の過干渉、過関心、プラス過剰期待が、子どもをいかに苦しめるものであるか。親は、
「子どものため」と思ってそうしますが、子どもにとっては、そうではないのですね。そ
の苦しみは、苦しんだものでないと、わからないものかもしれません。

 発達心理学の世界にも、「代償的過保護」という言葉があります。一見、過保護なのだが、
ふつう過保護には、それがよいものかどうかは別として、その基盤に親の愛情があります。
その愛情が転じて、過保護となるわけです。が、中には、愛情のともなっていない過保護
があります。それが「代償的過保護」ということになります。言うなれば、過保護もどき
の過保護を、「代償的過保護」といいます。

 たとえば子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと思うのが、代償
的過保護です。そして親自身が感ずる、不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 「こんな成績で、どうするの!」「こんなことでは、A学校には、入れないでしょ!」「も
っと、勉強しなさい!」と。

 その原因はといえば、親の情緒的未熟性、精神的欠陥があげられます。親自身が、心に
キズをもっているケースもありますし、それ以上に多いのが、親自身が、自分の結婚生活
に対して、何か、大きなわだかまりや不満をもっているケースです。

 わかりやすく言えば、満たされない夫婦生活に対する不満を、子どもにぶつけてしまう。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに求めてしまう。明けても暮れても、考えるの
は、子どものことばかり、と。

 しかし本当に子どもの立場になって、子どもの心を理解しているかといえば、そういう
ことはない。結局は、自分のエゴを、子どもに押しつけているだけ。よい例が、子どもの
受験競争に狂奔している母親です。(父親にも多いですが……。)

 このタイプの親は、子どもには、「あなたはやればできるはず」「こんなはずはない」「が
んばりなさい」と言いつつ、自分では、ほとんど、努力しない。いつだったか、私が、そ
んなタイプの母親に、「では、お母さん、あなたが東大に入って見せればいいじゃないです
か」と言ったことがあります。すると、その母親は、はにかみながら、こう言いました。「私
は、もう終わりましたから……」と。

そして、すべてのエネルギーを、子どもに向けてしまう。それが親として、あるべき姿、
もっと言えば、親の深い愛情の証(あかし)であると誤解しているからです。

●親の過剰期待

 が、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはあ
りません。子どもは、その重圧感の中で、もがき、苦しみます。それを表現したのが、イ
プセンの『人形の家』ですね。それについては、もう何度も書いてきましたので、ここで
は省略します。子どもは子どもで、まさに「人形」のような子、つまり「人形子」になっ
てしまいます。

 「いい子」を演ずることで、自分の立場をとりつくろうとします。しかし人形は人形。
どこにも、「私」がない。だから、このタイプの子どもは、いつか、その成長段階で、自分
を取りもどそうとします。「私って、何だ!」「私は、どこにいる!」「私は、どうすればい
いんだ!」と。

 それはまさに、壮絶な戦いですね。親の目からすれば、子どもが突然、変化したように
見えるかもしれません。そのままはげしい家庭内暴力につながることも、少なくありませ
ん。

 (反対に、親にやりこめられてしまい、生涯にわたって、ナヨナヨとした人生観をもっ
てしまう子どももいます。異常なまでの依存性、異常なまでのマザコン性が、このタイプ
の子どもの特徴のひとつです。中には、40歳を過ぎても、さらに50歳を過ぎても、母
親の前では、ひざに抱かれたペットのようにおとなしい男性もいます。)
 
 ……だからといって、Vさんがそうだったとか、Vさんのお母さんが、そうだったと言
っているのではありません。ここに書いたのは、あくまでも、一般論です。

 ただ注意したいことは、2つあります。

●批判だけで終わらせてはいけない
 
ひとつは、Vさんは、自分の母親を見ながら、反面教師としてきたかもしれませんが、
自分自身も、自分の子ども、つまりY男君に対して、同じような母親になる可能性が、
たいへん高いということです。「私は、私の母親のような母親にはならない」と、いくら
がんばっても、(あるいはがんばればがんばるほど)、その可能性は、たいへん高いとい
うことです。

 子育てというのは、そういう点でも、親から子へと、伝播しやすいと考えてください。
今はわからないかもしれませんが、あとで気がついてみると、それがわかります。「私も、
同じことをしていた」と、です。どうか、ご注意ください。

●基本的信頼関係

 もうひとつは、情緒的未熟性、精神的な欠陥の問題です。(Vさんが、そうであると言っ
ているのではありません。誤解のないように!)

 最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のばあい、そのほとんどは、
原因は、乳幼児期の育てられ方にあるということがわかってきました。とくに注目されて
いるのが、乳幼児期のおける母子関係です。

 この時期に、(絶対的な安心感)を基盤とした、(基本的信頼関係)の構築に失敗した子
どもは、不安を基底とした生き方をするようになってしまうことが知られています。「基底
不安」というのがそれです。おとなになってからも、ある種の不安感が、いつもついてま
わります。それがうつ病の引き金を引くというわけです。

また、ここでいう(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的
な受け入れ)を言います。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味です。

 つまり子どもの側からみて、「どんなことをしても、許される」という、絶対的な安心感
のことをいいます。これが(心)の基本になるということです。心理学の世界でも、こう
して母子の間でできる信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼んでいます。

(あくまでも、「母子」です。この点においては、父親と母親は、平等ではありません。
子どもの心に決定的な影響を与えるのは、あくまでも母親です。あのフロイトも、そう
言っています。)

 そのためには、子どもは、(望まれて生まれた子ども=wanted child)でな
ければなりません。(望まれて生まれた子ども)というのは、夫婦どうしの豊かな愛情の中
で、愛情に包まれて生まれてきた子どもという意味です。

 が、そうでないケースも、多いです。たとえば(できちゃった婚)というのがあります
ね。「子どもができてしまったから、しかたないので結婚しよう」というのが、それです。
夫婦の愛情は、二の次。だから生まれてきた子どもへの愛情は、どうしても希薄になりま
す。

それだけですめばまだよいのですが、そのため親は親で、(とくに母親は)、子育てをし
ながら、そこに犠牲心を覚えるようになる。あるいは、そのまま自分の子どもを、溺愛
するようになる。

●絶対的な母子関係

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」を、口ぐせにする親は、た
いていこのタイプの親と考えてよいです。もともと夫婦の愛情が基盤にあって生まれた子
どもではないからです。

 一方、子どもは子どもで、そういう母親でも、親であると、自分の脳みその中に、本能
に近い部分にまで刷りこみます。やはり最近の研究によれば、人間にも、鳥類(殻から出
てすぐ二足歩行する鳥類)のような、(刷りこみ=imprinting)があることがわ
かってきました。これを「敏感期」と呼んでいます。

 つまり子どもは子どもで、そういう環境で育てられながらも、「産んでいただきました」
「育てていただきました」「大学まで出していただきました」と言い出すようになります。

 つまり、親の子どもへの依存性が、そのまま、今度は、子どもの親への依存性へと変化
するわけです。

 これがここでいう「伝播」ということになります。わかりますか?

 そしてそれは、先にも書きましたように、今度は、あなたという(親)から、あなたの
(子ども)へと伝播する可能性があるということです。そういう意味では、『子育ては本能
ではなく、学習』ということになります。あなたの子どもはあなたという母親を見ながら、
今度は、それを自分の子育て観としてしまう!

 では、どうするか?

●「私」をつくる3つの方法

 自分の親を反面教師とするならするで、批判ばかりでは終わってはいけないということ
です。また今は、「仏様」(Vさん)のようであるからといって、過去の母親を、許しては
いけないということです。

 あなたはあなたで、親というより、人間として、別の人格を、自分でつくりあげなけれ
ばなりません。それをしないと、結局は、あなたは、自分の親のしてきたことを、そっく
りそのまま、今度は、自分の子どもに繰りかえしてしまうということになりかねません。
 
そのために、方法はいくつかありますが、ひとつは、すでにVさん自身がなさっている
ように、(1)過去を冷静にみながら、(2)自己開示をしていくということです。わか
りやすく言えば、自分を、どんどんとさらけ出していくということです。そしてその上
で、(3)「私はこういう人間だ」という(私)をつくりあげていくということです。

 いろいろ事情はあったのでしょうが、またほとんどの若い母親はそうであると言っても
過言ではありませんが、あなたの母親は、そういう点では、情緒的には、たいへん未熟な
まま、あなたという子どもを産んでしまったということになります。(だからといって、あ
なたの母親を責めているのではありません。誤解のないように!)

 子どもから見れば、どんな母親でも、絶対的に見えるかもしれません。が、それは幻想
でしかないということです。ここに書いた、(刷りこみ)によってできた幻想でしかないと
いうことです。

 それもそのはず。子どもは、母親の胎内で育ち、生まれてからも、母親の乳を受けて、
大きくなります。子どもにとっては、母親は(命)そのものということになります。しか
し幻想は幻想。心理学の世界では、そうした幻想から生まれる、もろもろの束縛感を、「幻
惑」と呼んでいます。

 で、私もあるとき、ふと、気がつきました。自分の母親に対してです。「何だ、ただの女
ではないか」とです。私も、「産んでやった」「育ててやった」という言葉を、それこそ、
耳にタコができるほど、聞かされて育ちました。だからある日、こう叫びました。私が高
校2年生のときのことだったと思います。

 「いつ、オレが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

 それが私の反抗の第一歩でした。で、今の私は、今の私になった。もしあのとき反抗し
ていなければ、ズルズルと、マザコンタイプの子どものままに終わっただろうと思います。
(もっとも、それで家族自我群がもつ重圧感から、解放されたというわけではありません
が……。)

●Vさんへ、

 ……とまあ、Vさんに関係のないことばかりを書いてしまいました。Vさんからのメー
ルを読んでいるうちに、あれこれ思いついたので、そのまま文にした感じです。ですから、
どうか、仮にお気にさわるような部分があったとしても、お許しください。

 子育てを考えるということは、そのまま自分を考えることになりますね。自分を知るこ
ともあります。私も多くの子どもたちに接しながら、毎日、それこそいつも、「私って何だ
ろう」「人間って何だろう」と、そんなことばかりを考えています。

 以上、何かの参考になれば、うれしいです。また原稿ができまたら、送ってください。
いっしょに、(自己開示)を楽しみましょう! どうせたった一度しかない人生ですから、
ね。何も、それに誰にも、遠慮することなんか、ない。

 だって、そうでしょ。私も、Vさんも、「私」である前に、1人の人間なのですから……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
家族自我群 幻惑 過干渉 過関心 代償的過保護 自己開示 はやし浩司 親の過干渉
 過干渉児)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●敵視政策だって?

+++++++++++++++

誇大妄想も、ここまでくると、
本当に、オメデタイ!

あのK国が、アメリカに向かって、
「敵視政策をやめろ」と。

あのね、アメリカも、そして日本も、
あんたなんか、相手にしてないの。
相手にしたくもないの。

第一、相手にならないでしょう。

核兵器を作っているから、「そういう
ことはやめなさい」と言っているだけ。

本当に、あんたは、オメデタイ!

++++++++++++++++

 K国の言っていることは、矛盾しているというより、思考そのものが、分裂している。
先の6か国協議(05)年で、核兵器を廃棄すると約束しておきながら、一向にその気配
を見せない。見せないばかりか、ミサイルの発射実験をして見せたり、核実験をして見せ
たりした。

 国連安保理が、制裁決議を出したのは、そのあと。それを今回の6か国協議では、「制裁
解除が先」と。

 アメリカの金融制裁については、K国が、にせ札を作り、それをマカオの銀行でマネー
ロンダリングをしたから、したもの。話のスジがちがう。前後関係があべこべ。

 アメリカの金融制裁をやめてほしかったら、にせ札作りをやめればよい。やめたという
証拠を見せればよい。

 そういうK国に対して、韓国の金前大統領は、「これ以上、K国を追いつめると、何をし
でかすか、わかったものではない」「だから追いつめてはだめだ」と。そう、あちこちで発
言している。

 しかし韓国にそう思わせているのは、実は、K国の金xx。つまり韓国の金前大統領は、
金xxのワナに完全にハマってしまっている。それに仮にそうであっても、前大統領とも
あろう人が、そういうことを公(おおやけ)の場所で、発言すること自体、おかしい。

 私のような下々の庶民がそういう意見を述べるならまだしも、前大統領ともあろう人物
が、そういうことを言ってはいけない。国際社会が協調して制裁をしようと動いている矢
先に、そういう発言をすること自体、まちがっている。

 それがわからなければ、こんな例で考えてみればよい。

 あなたの家の近所に、どこかの暴力団が事務所を構えたとする。周辺の住民たちが、追
放運動を始めたとする。自治会も動きだした……。と、その矢先、あろうことか自治会長
が、もし、こんなことを言ったら、あなたはどう思うだろうか。

 「これ以上、あいつら暴力団を追いつめると、何をしでかすか、わかったものではない」
「だから追いつめてはだめだ」と。

 金前大統領の発言は、それと同じ。

 今回の6か国協議は、まさに両刃の剣。うまくいけば、K国の核開発問題は、一気に解
決に向かう。しかし失敗すれば、K国は、再度核実験をするだろう。そしてそのまま東ア
ジアは、さらなる緊張状態に置かれる。

 私の予想では、今回の6か国協議も、不調に終わると思う。理由は、簡単。

 K国を指導する金xxは、もう、まともではない。まともでない人物を相手にして、ま
ともな話しあいなどできるはずがない。先にも書いたように、思考そのものが、分裂して
いる。

 だれにも相手にされないから、核兵器をぶらさげて、世界をおどしてみせる。その手法
は、そこらの暴力団のやり方と、どこもちがわない。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●年賀状廃止宣言(?)

+++++++++++++++++++

年賀状廃止宣言をする人がふえている。
ワイフの友人も、その1人。
「ほとんど毎日会っている人に、どうして
年賀状を出すの?」と。そう疑問に思ったのが
きっかけだという。

また別の人は、ラジオの中で、こう述べて
いる。

「これからつきあう予定のない人には、
もう年賀状は出さない」と。あのロッキード
事件のとき、主席検事を務めたH氏である。

++++++++++++++++++++

 インターネット時代になってから、年賀状がつまらなくなった、理由は、2つある。

 ひとつは、便利になりすぎたこと。今では、郵便番号を入力すれば、相手の住所まで自
動的に書き込んでくれる。電話番号を入力するだけで、住所はもちろん、名前まで、書き
込んでくれる。図柄の面も、相手によって変えるのも、簡単である。

 そのため出す枚数は、どんどんとふえた。が、その分だけ金銭的な負担もふえた。で、
あるとき、私はふと、こう思った。「何のために出しているのだろう?」と。

 もうひとつは、約70%近い人が、インターネットでメールのやり取りをしている。若
い人にかぎれば、ほとんどの人たちが、している。

 年賀状とちがい、インターネットのほうは、動きのある画像や、音声や音楽を乗せるこ
ともできる。それに何といっても、無料。こういう時代に、どうして年賀状にこだわらな
ければならないのか。資源の節約にもなる。

 とくに私たち団塊の世代がもっている、(年賀状意識)というのは、国策によって作られ
たものと考えてよい。私たちが小中学生のころは、年末が近づくと、学校は、年賀状一色
に染まった。恐らくウラで、文部省と郵政省がつるんでいたにちがいない。(これは私の邪
推。)

 ともかくも、最近、年賀状に疑問をもつ人がふえてきた。パソコン時代になって一時的
に急速にふえたが、06年になって、減少に転じた(郵政省調べ)。

 そこで私も、数年前から、毎年、○百枚単位で、年賀状の枚数を減らしてきた。それに
かえて、手描きの年賀状を描くようになった。

 が、手描きだと、枚数にかぎりがある。毎年、30〜40枚が限度。本当に出したい人
だけに、心をこめて、描く。

 で、改めて、私も、年賀状廃止宣言。07年の正月から、年賀状をくれた人には、一応、
返事を書く。(これはパソコンの印刷機能を使って描く。)で、その末尾に、その旨の一文
を入れる。

 「年賀状廃止宣言……インターネット時代にかんがみ、次年度から私どもからの年賀状
を廃止させていただきます。よろしくご理解の上、ご了承ください」と。

 ここ数年、あれこれと悩みつづけた年賀状だが、これで結論が出た。すっきりした。毎
年の、あの年末の重圧感から解放されるだけでも、ありがたい!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●滋賀県・長浜の町

++++++++++++++++++

まるでおとぎの国!
あの長浜の町が、生まれ変わっていた!

通りは、若者たちで溢(あふ)れ、
店は、どの店も、活気に満ちていた!

驚いた! 楽しかった!

+++++++++++++++++

 滋賀県の長浜町といえば、以前は、さびれた田舎町だった。少なくとも、私はそういう
印象をもっていた。

 ♪秋の日暮れし頃の、しぐれの長浜の町は……と、歌にも歌われた長浜の町。

 戦国時代には秀吉の出世城もあり、また江戸時代には、北陸から琵琶湖へとつなぐ、交
通の要衝(ようしょう)としても、栄えた。しかしその後は、さびれる一方。

 ところが、である。

 久しぶりに長浜の町を訪れて、驚いた。本当に驚いた!

 あの長浜の町が、完全に生まれ変わっていた!

 平成元年には、商店街のほとんどの店がシャッターを閉め、残ったのは3軒だけだった
という(地元の人の話)。そこで中央にあった元銀行を取り壊そうという話になったとき、
残った住民たちが立ちあがった。

 第3セクター方式で、町おこしを始めた! それが今の結果である。

 町は、生き返った。若者たちで、溢れかえった。店という店は、古さをそのまま残して、
若者向きに作り変えられた。私は、通りを歩きながら、まるでおとぎの国へでも入りこん
だかのような錯覚を覚えた。

 楽しかった。と、同時に、感動した。店で働く若者たちが、例外なく、みな、生き生き
としていた。それに活気があった。個性があった。

 細い路地を入った奥にあった蔵が、そのまま喫茶店になっていた。昔の豪商の屋敷が、
そのまま美術館になっていた。ごくふつうの民家が、そのままレストランになっていた。
さらに家の中にある冷暖房機すら、外観は、木造風に化粧紙を張りつけてあった。

 本気だ! 町の人たちは、本気で、長浜の町を愛していた!

 私とワイフは、その長浜の町を歩きながら、こんなことを言いあった。「今度、(アメリ
カに住む)誠司たちが日本に来たら、ここへ連れてきてやろうね」「また来ようね」と。

 その町が発展するかどうかは、リピーターができるかどうかで決まる。私たちは、まち
がいなく、そのリピーターになりそう。つまりそういう観光客がふえればふえるほど、そ
の町は発展する。

 こんなとき、この浜松市を批判しても意味はないが、「箱」だけを作り、高額なテナント
料を取って、町を活性化させようとしても無理。それがわからなければ、一度、市の役人
たちも、長浜の町を見てくることだ。

 大切なのは、「箱」ではない。「中身」だ。長浜の町には、その「中身」が、ぎっしりと
つまっていた! みなさんも、機会があれば、ぜひ、どうぞ! イチ押しの、楽しい、本
当に楽しい町です。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●デジタル民主主義

++++++++++++++

アメリカのある雑誌社が、
「今年の人」を選んだ。

それは「あなた」。

インターネットは、「第二の
産業革命」とも呼ばれている。

あるいはそれ以上かもしれない。

インターネットは、私たちの
生活そのものを、今、根本から
変えようとしている。

それだけではない。

インターネットは、社会、ひいては
世界そのものを変えようとしている。

++++++++++++++

 インターネットの最大の魅力。それは(私)や(あなた)という個人が、(自分)をその
まま主張できるということ。つまり情報の発信源として、そのまま(主役)になれるとい
うこと。それを称して、「デジタル民主主義」(タイム誌)という。

 以前は、ちがった。本を出すにも、一度は、(東京)を経由しなければならなかった。さ
らにバブル経済がはじけて、日本がかつてない不景気に見舞われたとき、仕事そのものが、
減った。浜松市というこの地方にまで、回ってこなくなった。

 少なくなった仕事を、東京に住む人たちが奪いあった。

 が、今は、ちがう。この浜松市に住んでいても、本を出版する以上のことが、できるよ
うになった。私のばあいだけをみても、週単位で、マガジンの読者だけで、7500〜8
000人。いくつかのBLOGの読者をそれに加えると、軽く1万人を超える。

 さらに私のばあい、2〜3週間ごとに、単行本で言えば、1冊分程度の原稿を書いてい
る。毎月、延べにすれば、4万人以上もの人たちが、私の本を2冊以上読んでくれている
計算になる。

 考えてみれば、これはものすごいことである。単行本といっても、初版で3000部も
印刷してもらえば、よいほう。その3000部を、数か月かけて売る。売れなければ、書
店から姿を消す。あとは在庫か、著者が印税と相殺(そうさい)して自分で購入する。

 ただ、それだけの原稿を書いているからといって、収入には結びつかない。「道楽」と呼
んでいる人もいる。それに近い。しかしインターネットのもつ力をあなどってはいけない。
インターネットは、今、始まったばかり。たとえて言うなら、夜明けの時刻から、みなが
起きて仕事に出かけ始めるころ。

 この先、さらに大きな変化を、私たちの世界にもたらすはず。事実、インターネットを
介して売買される物品の金額は、デパートやショッピングセンターで売買される物品の金
額を超え始めている。雑誌の世界でも、確実にインターネットに侵食され始めている。新
聞の世界とて、例外ではない。

 私も、最近は、まずインターネットでニュースを読み、そのあと、ヒマなときに、(あく
までもヒマなとき)、新聞で読みたい記事をさがして読んでいる。インターネットが、(主)
で、新聞が(副)というわけである。

 図書館にいたっては、この2、3年、ほとんど行っていない。証券会社にしても、そう
だ。株といえば、ネット売買が、今では常識。……などなど。

 インターネットの世界そのものが、まさに第二の宇宙ということになる。そういう中、
アメリカのよく知られた雑誌(タイム誌)が、「今年の人」を選んだ。

 が、その雑誌が選んだのは、世界を動かしている政治家や著名人ではない。それは今、
こうしてインターネットをしている「あなた」だそうだ。そんなことは、かなり前からわ
かりきったことだった。が、雑誌という、紙とインクでできた情報メディアが、インター
ネットをしている「私」や「あなた」を選んだ。それが、すごい。

 言うなれば、これは雑誌社の敗北宣言と考えてよい。……というのは、少し言い過ぎか
もしれないが、今まで、雑誌社とインターネットは、犬猿の仲にあった。少なくとも、雑
誌社は、インターネットの世界を、そういう目で見ていた。新聞社も、同様である。「イン
ターネットで流れている情報など、どうせ、たいしたことはない」「その力もない」と。


産経新聞は、つぎのように伝えている。

「あなた=ネット利用者という認識は、興味深い。デジタル・デバイド(情報格差)問
題が叫ばれたのが、もはや過去のことのようだ。2006年はインターネットが先進的
であったり、特別であったりすることがなくなった年、として記憶されるかもしれない」
と。

インターネットの世界は、これから先、さらに加速度的に発達する。とどまるところを
知らず、前に進む。

 デジタル民主主義、がんばれ!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●Bツアー・旅行記

+++++++++++++++++++

地元のバス会社が運営するBツアーに
参加の方は、ヒヤリング・プロテクター
つきのヘッドフォンをもっていくとよい。

そうでないと、意味のない、しかもペチャ、
クチャとつづく、あのガイドのおしゃべり
に、あなたは悩まされることになる。
へたをすれば、せっかくの旅行も、台なし。

+++++++++++++++++++

 幼児に、たとえば「3足す2」の問題を出してみるとよい。年長児なら、数秒もたたな
いうちに、答を出す。

 そこで私は、電卓をもちだし、「エ〜と、3足す2は……」と計算して見せる。それを見
て、子どもたちは、あきれる。「先生、こんな問題もできないのオ〜?」と。

 子どもたちは真剣である。私が本当に、そんな計算をできないと思っている。つまり、
少し言葉はきついが、「愚かな人からは、利口な人が理解できない」。私は演技で、そうい
うバカなフリをしているだけなのだが、幼児には、それがわからない。

 同じような経験を、反対の立場ですることがある。

 よい例が、地元のバス会社が運営する、Bツアー。料金が安いので、月に1、2度は、
利用させてもらっている。が、ガイドのおしゃべりには、そのつど、うんざり。とにかく
よくしゃべる。数秒の間をおくこともなく、よくしゃべる。しゃべるだけならまだしも、
内容が軽い。浅い。レベルが低い。低すぎる。

 たとえば昼食の説明も、こうだ。

 「みなさん、昼食はグループごとにお願いします。旗について、並んでついてきてくだ
さい。バイキングではありませんので、ごはんのおかわりは、できません。バイキングだ
ったら、おかわりができますが、バイキングではありません。バイキングって、ご存知で
すよね。バイキングだったら、いいのですが……。だから、おかわりは、できません。で
も量は多いと思いますので、おなかいっぱい、召しあがっていただけると思います。おな
かいっぱい食べると、元気になりますから」と。

 あるいは「N町の散策はいかがでしたか。おみやげを買いましたか。きっとたくさん買
われたことと思います。私も、あそこの○○は、大好きです。いいですね。おみやげは、
おうちの方に買われましたか。それとも、お友だちの方に買われましたか。きっと、喜ば
れると思いますよ。旅先のおみやげをもらうと、みな、喜びますから。食べ物がいいです
ね。思い出になります。それをいっしょに食べて、旅先の雰囲気を楽しむことができます
から」と。

 こんな話を、2度、3度と繰りかえす。

 前回のときは、長野県の方まで行ったが、行きの3〜4時間はもちろん帰りのバスの中
でも、東名に入るまで、ガイドは、しゃべりっぱなしだった。全国のおみやげはどうの、
名物はどうの、と。今回も、浜名湖の砂は、白いのどうの、天気はどうの、と。

 静かに旅行を楽しみたい人も多いはず。しかし現実は、甘くない。要点だけを、手短に
しゃべって、それで終わりにすればよいものを、チャキチャキ、キャッ、キャッとしゃべ
りつづける。まるでひとり芝居。自分がタレントか何かにでもなったかのよう。しかもス
ピーカーの音量は、最大。耳の奥まで、ガンガンと響く。

 それなりに内容のある話ならまだしも、先にも書いたように、「愚かな人からは、利口な
人が理解できない」。あるいはガイドからみれば、私たち乗客は、すべてバカに見えるのか?

 だからBツアーを利用するときは、ヒヤリング・プロテクターつきのヘッド・フォンを
もっていくとよい。私はそうしている。ヒヤリング・ヘッドフォンというのは、マイクを
内臓していて、騒音の波を測定。その波と逆位相の波を発生させて、騒音を消す機能のあ
るヘッドフォンをいう。でないと、あの意味のないおしゃべりで、旅行そのものが台なし
になることも。

 ……そうそう、おまけにBツアーでは、帰りのバスの中では、ビデオ映写が、定番にな
っている。昨日は、大阪のY興行の舞台喜劇。ああいうのを見せつけられると、笑う前に、
「これが同じ日本人か」と、自分がなさけなくなる。つまり、レベルが低すぎる。

 そう言えば、旅行先のS記念公園でも、安っぽい演歌を、大音響でガンガンと流しつづ
けていた。それを聞いて、私とワイフは、入場場所で、Uターン。勝手に、そのあたりを、
2人で散歩して、時間をつぶした。

 で、帰りのバスの中でも、またまた定番のビデオ。がまんするにも限度というものがあ
る。私は、ガイドの席まで行って、顔はにこやかに、しかししっかりとこう言った。

 「あのう、申しわけありませんが、スピーカーのボリュームをもう少し、さげていただ
けませんか」と。

 私なりの精一杯の抗議のつもりだった。しかしボリュームは、ほとんど、さがらなかっ
た。

 理由がある。

 ガイドの座る席は、運転手の横。そこはいわば、バスの中でも、数段下へおりた穴ぐら
のようになっている。そこでは、スピーカーからどれほどの音が流れているか、わからな
い。

 一方、スピーカーは、バスの天井に、点々と、6〜8箇所もついている!

 あああ……。

 しかたないので、またひやりんぐ・プロテクターのついたヘッドフォンを装着。音楽を
聴く。

 要するに、ガイドは、頭の中に飛来する情報を、口にしているだけ。つまりは、ノーブ
レイン(=脳みそがない)(失礼!)。多くの人は、情報と思考を混同している。情報があ
るからといって、思考力があるということにはならない。たとえて言うなら、幼稚園児が
意味もわからないまま、掛け算の九九を口にするようなもの。

 ガイドの話していることも、それに近い。聞いても意味はない。聞いても、すぐ忘れる。
感動することなど、ぜったいに、ない。もちろん、何の参考にもならない。

 それにしても、レベルが低すぎる。英語のことわざにも、『沈黙の価値のわからないもの
は、しゃべるな』というのがある。Bツアーのガイドは、沈黙の価値がどういうものか、
それがわかっていない。半数以上の客は、たがいにしゃべっているか、眠っているだけ。
だからよけいに、ムキになって、ガイドはしゃべる。しかしそれがいかに迷惑なものであ
るか、ガイドは、まず、そのあたりから、自分の愚かさを反省すべきである。

 電車に乗っても、バスに乗っても、「携帯電話はマナーモードにしてくれ」と言うではな
いか。ならば言うが、ガイドのおしゃべりは、もっとひどい! しゃべるならしゃべるで、
もう少し、自身の知性をみがいてからしゃべったら、どうか?

 若い人たちは、私たち年配者を、バカと思っているかもしれない。その気持ちは、わか
らないでもない。が、そうでない人間も多いということ。少なくとも今のままでは、Bツ
アーを利用するのは、そのレベルの、どこかのオジチャン、オバチャン程度の人ばかりに
なってしまう。(現にそうなりつつあるが……。)

 けなしてばかりいてはいけないので、Bツアーのファンとして、提案。

(1)つまらない情報はひかえて、要点だけを、しっかりと手短に話してほしい。(あるい
は各座席に、イヤフォンを置いて、聞きたい人だけが、ガイドの話を聞くようにしたらど
うか。)
(2)「質問があるか」と聞き、質問がなければ、そのまま静かに黙っていてほしい。
(3)帰りのビデオといえば、「釣りバカxx」とか、「吉本K喜劇」とか、そういうレベ
ルのものばかり。とくに帰りは、みな、疲れている。静かに休みたい人の気持ちを、もっ
と大切にしてほしい。
(4)「口」よりも「体」を使って、サービスをすべし。お茶は、1日の旅行で、2度、
配られることになっているらしい。が、必要であれば、もっと、配ってほしい。
(5)静かに考え、あれこれ思い出をたどりながら、旅行をしたい人も多いはず。そうい
う人の気持ちを、もっと大切にしてほしい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 19日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(BWより)

+++++++++++++++

子どもは、(世の男たちも)、
オッパイの話は、大好き。

たまに「嫌い」という子どもも
いるが、そう言いながら、おとな
ぶっているだけ。


+++++++++++++++

 きっかけは覚えていないが、昨日、小2の子どもたちを教えていたら、突然、おっぱい
の話になった。

 で、私が、「おっぱいにもいろいろある。イチゴオッパイ、レーズンオッパイ、それに梅
干オッパイ……。まだある。ストロベリーオッパイというのもある」と。

 すると子どもたちが、「先生の奥さんのは何?」と。

私「そうだなあ……。あえて言うなら、ホットケーキの上に、レーズンかな?」
子「レーズンオッパイだってエ?」「今度、奥さんに言いつけてやろう」と。

 すると、今度は子どもたちが、「ママのオッパイは……」と、勝手に言い出した。そこで
すかさず私が、「ママの話はしてはダメ」「怒られぞ」と。

 が、子どもたちは、止まらない。

A子「私のママは、Bカップだってエ?」
B男「ぼくのママは、Aカップだってエ。ママが言っていた」と。

 するとC子が私に聞いた。「先生、オッパイって、いくつまであるの。C、それともD…
…?」と。

私「知らない。そういう話は、パパに聞きなさい」
子「先生の奥さんは、何カップ?」
私「知らない。今度、聞いておく」
子「私、いやだわ。あんなビロ〜ンとしたオッパイになるなんて……」
私「だって、あなたは女の子だから、もう3、4年もすると、そうなるよ」
子「ハハハ、いやだワ〜」と。

 ところで最近は、母親たちも、私に向かって、オッパイの話を平気でするようになった。
「うちの息子(小4)が、まだ私のオッパイにさわりたがります。どうしたらいいでしょ
うか」とか、「兄弟で、私のオッパイを取りあっこして、喧嘩になります」とか。

 こういった話をするようになったということは、母親たちは、私を、もう「男」と見て
いないということになる。

 3、4年前だが、同じような話になったことがある。ある母親は、こう言った。「兄(小
3)は、右のオッパイ。弟(5歳)は、左のオッパイと決めています」と。

 で、「どうして?」と私が聞くと、その母親は、恥ずかしげもなく、両手で、両方のオッ
パイをもちあげながら、(もちろん服の上から)、「ほら、右のほうが、大きいでしょ。だか
らです」と。

 私だって、まだ「男」なのに……! そのときは心底、ドキッとした!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

PART 2

●子どもの会話

 ある日幼稚園の庭のすみに座っていると、横の子どもたち(年長児)が、こんな会話を
始めた。

A男「おまえ、赤ん坊はどこから生まれてくるか、知っているか?」
B男「知らないよ」
A男「だからお前は、バカだ。赤ん坊はな、ママのお尻の穴から生まれてくるんだぞ」
B男「ふうん」
A男「いいか、うんちがかたまって赤ん坊になるんだぞ」
B男「ふうん、じゃあさあ、どうして男からは赤ん坊が生まれないんだよ?」
A男「バカだなあ。男はなあ、うんちがかたまって、金玉になるんだぞ。金玉はうんちが
かたまったもんなんだぞ」と。

 また別の日。母親とこんな会話をした子ども(年長児)がいた。

C女「お母さん、お肉を食べると、どうなるの?」
母親「やっぱり、お肉になるんじゃ、ないかしら」
C女「野菜は、どう?」
母親「血になるのよ」
C女「でも、野菜は赤くないわ」
母親「でも、トマトは赤いでしょ」
C女「ふうん、わかった。サツマイモを食べると、そのままうんちになるのね」と。

 こんなことを話してくれた子ども(年長児)もいた。「どうしてうんちは茶色になるか、
わかった」というのだ。「どうして?」と私が聞くと、「絵の具をいろいろ混ぜると、茶色
になる。うんちも、それと同じだ」と。

 さらにこんなことも。ある男の子(小学3年生)が、トイレから戻ってきて、こう言っ
た。「先生、青と黄色を混ぜると、緑になるね」と。何のことかと思って、「どうして?」
と聞くとこう言った。「トイレの水(消臭剤の入った青の水)と、黄色いおしっこがまざっ
たら、緑になった!」と。

 子どもの考えることは、おもしろい。あなたも子どもたちの会話に、一度耳を傾けてみ
てはどうだろうか。


●フリップ・フロップ理論

 箱がある。どちらか一方に倒れているときは、安定している。しかし中途ハンパな姿勢
になると、フラフラとして、たいへん不安定になる。これを心理学の世界では、『フリップ・
フロップ理論』という。もともとは、有神論の人が無神論に、反対に無神論の人が有神論
になるときの様子を説明したもの。有神論の人であるにせよ、無神論の人であるにせよ、
どちらか一方に倒れているときは、そういう人は、たいへん静かに落ちついている。が、
有神論の人が無神論になるとき、あるいはその反対のときは、心理状態がたいへん不安定
になる。ワーワー泣き叫んで、それ抵抗したり、猛烈にどちらか一方を攻撃したりする。

 学歴信仰も、それに似たところがある。学歴信仰にこりかたまっている人や、反対に、
まったくそれがない人というのは、静かに落ちついている。しかしそれが移行期に入ると、
たいへん不安定になる。人間の心理というのは、そうい不安定状態には弱い。自らどちら
か一方に倒れて、自分の心理を安定させようとする。言いかえると、不安定になったとき
というのは、どちらか一方に倒れるその前兆と考えるとよい。しかもそれが短期間で、コ
ロリと倒れる。そのため私は、このフリップ・フロップ理論を、勝手に「コロリ理論」と
呼んでいる。

 この理論は、子育ての場でも、広く応用できる。もしあなたの子どもが何かのことで、
大声でそれに抵抗したり、あるいは反対にぐずぐずしているようであれば、どちらか一方
に倒れる前兆と考えてよい。そういう子どもほど、コロリと倒れると、突然、ものわかり
がよくなる。

昔から「今鳴いたカラスが、もう笑った」というが、そういう現象が起きる。が、反対
に、よい意味につけ、悪い意味につけ、どっしりと静かに落ちついている子どもは、そ
れだけ自分をもっていることになる。何かを説得しようとしても、なかなかうまくいか
ない。とくにがんこで、自分のカラにこもってしまったような子どもは、指導がむずか
しい。


●子どもの心理

 子どもの心理を考えるとき、現象面だけを見て判断すると、その心理がつかめなくなる。
よくある例が、引きこもり。

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安という。そういう心理状態のところに、不安
や心配が入り込むと、それを解消しようと、心理状態は一挙に不安定になる。そのひとつ
が、引きこもり。

 自分の子どもが部屋に引きこもったりすると、よく親は、「気のせいだ」とか、「心はも
ちようだ」とか言って、それを安易に考える。しかし引きこもりは、あくまでも現象。無
理をして、その状態から子どもを外に出しても、元となる、情緒不安はなおらない。もう
少し具体的に考えてみよう。

 私も精神状態が不安定になると、人に会うのがおっくうになる。人ごみへ入るのが、い
やになる。そういうときの自分の心理を観察してみると、こうだ。

 まず人の言動が気になる。しかもささいなことが気になる。タバコを平気で道路へ捨て
る人。道路にツバを吐く人。大声であたりかまわず話す人。体臭のある人。平気で道路に
駐車する人。工事の騒音など。ふだんなら気にならないようなことが、そういうときは、
やたらと気になる。そしてそういうことがいくつか重なると、頭の中はパニック状態にな
る。

 この段階で、まず自分の中のセルフコントロール機能が働きだす。どうすれば、そのパ
ニックを収めることができるか、それを考える。私のばあいは、外出を避けるとか、何か
の気分転換をするとかいう方法で対処する。カルシウム剤(Ca、Mg、K)が有効なこ
とも多い。こういうことができるのは、それだけ経験もあるということだが、子どもはそ
れができない。症状は、一挙に悪化する。

 ある子ども(高3)はこう言った。「外に出ると、人に会うのがこわい」と。ここでいう
「こわい」というのは、それだけ心の緊張感が取れないことをいう。相手の言動のすべて
が、自分の心を突き刺すように感ずるらしい。だから引きこもる。心理学の世界では、こ
れを防衛機制という。自分を守るための心理反応と考えるとわかりやすい。

 要するにこうした現象は、風邪にたとえて言うなら、「熱」のようなもの。その熱をさま
そうとして、子どもを水風呂につける人はいない。同じように、引きこもりだけを見て、
子どもを外の世界に引きずり出しても意味はない。あるいはそんなことをすれば、かえっ
て逆効果。中には、そういう乱暴な方法で、子どもをなおす(?)人もいるそうだが、私
に言わせれば、とんでもない方法ということになる。

昔、Tヨットスクールというのがあったが、あれもそうだ。生徒の死亡事件がつづいて、
当時の寮長は刑事訴追まで受けたというが、当然のことだ。が、この種の乱暴な治療法
(?)は、今でもあとをたたない。最近でも、子どもや親を、大声で罵倒(ばとう)し
ながらなおす(?)人もいる。素人(失礼!)にはわかりやすい方法なので、そのとき
どきの親には受けるが、こうした方法には、じゅうぶん警戒したほうがよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●改正基本法成立!

+++++++++++++++++

教育基本法なって、私には関係ないと
あなたは思っていないか?

もし、そうなら、それはとんでもない
まちがい。

その影響は、まさに甚大!

大げさなことを言っているのではない。

よい例が、若者たちの政治的無関心。

なぜこうまで若者たちが政治に無関心に
なってしまったか。

それを決めたのが、たった3通の文部省(当時)
の通達であったことを、あなたは知っているか?

たった3通だぞ!

つまり教育基本法には、それくらいのパワーが
ある。

それがわからなければ戦前の日本を見ればよい。

あの軍国主義を先頭に立って、推し進めたのが、
ほかならぬ、文部省だった。洗脳教育というのは、
それくらい恐ろしい。

日本人は意識しないうちに、ジワジワと、
洗脳されていく。

それが教育基本法。教育の憲法ということは、
これから先、日本は、ますます戦前の日本に
近づいてくる。

はからずも、藤原M氏の書いた、「国家の品格」が、
数百万部(220万部、06年11月)も売れた
という。

1回の公開討論会に、数千万円もの予算をかけて
世論づくりする、この日本!
あなたは、何か、胡散(うさん)臭いものを、
こうした流れの中に感じないか?

まず私が、5年前に書いた原稿を読んでほしい。

5年前だぞ!

++++++++++++++++++

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Indifferent people)」というのは、それ
だけで軽蔑の対象になる。非難されることも多い。だから「あなたは無関心な人だ」と言
われたりすると、その人はそれをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、
それに猛烈に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)と
いうことになっている。だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さ
ない。関心もない。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。ほとんどの子どもは、「セ
イジ……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。(実際、どの部分が
どのようにダサイのか、私にはよく理解できないが……。「ダサイ」という意味すら、よ
く理解できない。)

●政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
●社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
●あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。今のこの日本が、
その結果であるといってもよい。これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、であ
る。

●文部省からの3通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、3通の文部省通達である(たった3通!)。文部省が1
960年に出した「文部次官通達」(6月21日)、「高校指導要領改定」(10月15日)、
それに「初等中等局長通達」(12月24日)。

 この2通の通達で、(1)中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、(2)
生徒会活動から、政治色は一掃された。さらに(3)生徒会どうしの交流も、官製の交流
会をのぞいて、禁止された。

当時は、安保闘争の真っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなりの理由があ
ったが、それから40年。日本の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」に改造さ
れた。その結果が、「ダサイ?」ということになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。どんな生活であるにせよ、一度その生活に
入ると、どんな人でも保守層に回る。そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、そ
れである。

構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう10年以上になるが、結局は、ほとんど
何も改革されていない。このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きくなる。
いや、すでに、日本は、現在、にっちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。
あとはいつ爆発し、崩壊するかという状態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった3通の、次官、局長クラスの通達で、
日本の教育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。そしてその恐ろしさを、ど
うか理解してほしい。日本の教育は、こういう形で、中央官僚の思うがままにあやつられ
ている。

++++++++++++++++++

同じく、4年間に書いた原稿。

++++++++++++++++++

犬の遠吠え!

●どこかおかしいぞ、この日本!

H市の市役所に勤める知人のK氏(50歳課長)はこう言った。「こういう時代になって
みると、公務員になって、つくずくよかったと思います。デフレで物価も安くなり、生
活も楽になりました」「公務員に公僕意識? そんなもの、絶対にありませんよ。公僕意
識など、絶対にない。私が保証します」「公務員の数は、今の2分の1で十分。3分の1
でもいいかな」と。……これが公務員の人たちの偽らざる本音ではないのか。

●どんとやってくる老後

 子育てが終わると、どんとやってくるのが、老後。子育てで夢中の間は、それに気づか
ない。「子どもたちよ、早くおとなになれ」「早く子育てから解放されたい」と思いながら、
別の心で、それなりに自分が年をとっていくのを納得していた。が、かくも、早く流れて
いくものとは……!

●一億円もかかる?

 気がついてみると、このところ体力も気力も、がくんと落ちた。集中力もつづかない。
当然のことながら、その分、収入も減った。ときどき「このままだと、自分はどうなるの
か」と考える。多分、みじめな老後になることだろう。退職金も天下り先も、年金もない。

国民年金というのには、24歳のときから加入しているが、あんなものはアテにならな
い。それがよいとは思わないが、この日本では、公務員になったほうが、絶対、得! 何
といっても、官僚主義国家。完全終身雇用に完全年功序列。近所のU氏など、旧国鉄を
満55歳で退職してから、以来、月額32万円と少しの年金を受け取っている。それが
もう26年になる。総額で、ちょうど一億円!! 

私が彼と同じような生活をしようと思えば、今、この段階で、1億円の貯金がなければ
ならない。しかしそんな貯金、どこにある! 「ああ、私もどこかの公務員になってお
けばよかった……」と、思うのは、敗北を認めるようなもの。だから、そう思いたくな
いが、この不公平感が、受験戦争の元凶になっていることを忘れてはならない。

●結局は、私が悪い

 先週も、ワイフとこう話し合った。「こうなったら、健康しかない。幸い、ぼくたちは健
康だから、死ぬまで健康でいよう」と。健康なら、何とか働くことができる。その分、多
少なりとも、収入が見込める。「だから健康でいよう」と。

 しかしもしその健康も、あやしくなったら……? 考えるだけでも、ぞっとする。さら
に仕事がなくなったら……? ますますぞっとする。どこかの老人ホームへ入ろうと考え
ていたが、それすらむずかしくなる。考えてみれば、こういう社会をつくってしまった、
私が悪いのだ。公務員だけが、どうしてこうまで手厚く保護されるのだろう。また手厚く
保護しなければならないのだろう。公務員といっても、国家公務員や地方公務員だけでは
ない。

●それぞれの人に責任があるわけではないが……

 よく政府は、「日本の公務員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。が、
これはウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほ
か、公団、公社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。

これらの職員の数だけでも、「日本人のうち7〜8人に一1が、官族」(徳岡孝夫氏)だ
そうだ。が、これですべてではない。

この日本にはほかに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施
設、社団、財団、センター、研究所、下請け機関、さらに関連団体の隠れファミリー企
業がある。この組織は全国の津々浦々、市町村の「村」レベルまで完成している。あの
旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、1800団体近くもある。

 こうした組織や団体の人は、この不況下にあっても、不況など、どこ吹く風。わが世の
春を謳歌している。が、そのためたまりにたまった、国の借金が、もうすぐ1000兆円! 
1000兆円だ! 日本人1人あたり、約6800万円! 

これは年収500万円(国の税収が50兆円)の人が、毎月25万円(赤字国債30兆
円)ずつの借金をしながら、なおかつほかに、1億円の借金をかかえていることに等し
い。

年収500万円の人に、1億円の借金など、返せるわけがない。1人ひとりの公務員の
方に責任があるわけではないが、どうかどうか、心のどこかで、うしろめたさを少しは
感じてほしい。この日本、あまりにも不公平! 不公平すぎる!

●破産するのは確実

 ……と、ぼやいても、どうしようもない。どのみち、この日本は破産する。ここ数か月
以内という学者もいるが、数年以内という学者もいる。しかし遅れれば遅れるほど、借金
は雪だるま式にふえ、その被害は拡大する。今日は無事でも、明日、どうなるかわからな
い。本当は、あのバブルがはじけた直後に、清算しておくべきだった。あのころならまだ
日本には体力があった。

しかし今、その体力すら使い切ってしまった。愚かな、愚かな政治の結末。そういう政
治家を選んできた、愚かな、愚かな国民の結末。先日も、テレビで暴走族の若者が、こ
う叫んでいた。「お前ら、おとなに偉そうなことを言う資格はあるのかよォ!」と。一人
のおとなが、彼らを口汚くののしったときのことだ。そう、私たちおとなに、偉そうな
ことを言う資格はない。

 ああ、私の老後は、お先、まっ暗。このところワイフは真剣なまなざしで、「どこかの国
へ、移住しようか」と言っている。まだ夢のような話だが、それも選択肢のひとつとして、
考えたほうがよいかもしれない。考えてみれば、私は、この日本から優遇されたことは、
ただの一度もない。あるといえば、ワイフが出産したとき、市から祝い金を、そのつど1
0万円と少しもらっただけ(※注)。それだけ。

このままどこかの国に移住しても、未練はない。仮に国が破産するときになっても、最
後の最後まで生き残るのが公務員。そしてそのあと再生するにしても、まっ先に息を吹
き返すのも、これまた公務員。構造改革(官僚政治の是正の別語)などいう言葉がある
が、与党はおろか、野党の党首もみな、元中央官僚。そういう世界で、どうして構造改
革などできるというのか。

●悲しき地方根性

 さらに悲しいかな、この浜松という地方都市ですら、何でもかんでも、「中央(東京)か
らきた」というだけでありがたがる。国会議員も市長も、みな、元中央官僚。日本が民主
主義国家だと思っているのは、日本人だけ。学生のころ、オーストラリアで使っているテ
キストでは、「日本は官僚主義国家」となっていた。「君主(ローヤル)官僚主義国家」と
なっているのもあった。

当時の私はこれに猛反発したが、それから32年。日本は官僚主義国家だった。今もそ
うだ。役人たち(官僚、公務員すべて)が、役人による、役人のための、役人の政治を
している。民主主義など、隠れ蓑(みの)に過ぎない。ひとつの例を出そう。

●審議会という曲者

 役人が政治を動かしたいと考えるときは、まず諮問委員会をつくる。委員は各界の有識
者ということになるが、こういう委員会では、いつも人選が問題になる。どうしてその人
が選ばれたか、その基準が明確ではない。そんなわけで、たいていは、役人につごうのよ
いイエスマンだけが選ばれる。

 そういう委員会をつくり、会合を開く。しかしこの段階で、大筋の議案、討論内容は、
役人がつくる。あとは会合を数回開く。各委員の数が多ければ多いほど、それぞれの委員
の発言時間は少なくなる。しかしそれこそ役人の思うツボ。

たいていは1回の会合で、1人10分間程度の発言時間しかない。議論などできるわけ
がない。そしてそういう会合を数回開いて、委員長に結論を出させる。これを答申とい
うが、あとはそのお墨付きを手にして、役人たちはまさにしたい放題。

国家的事業の計画や国家的方針の変更はもちろんのこと、あなたの町の小さな事業も、
すべてこの方式が基本で決定されている。たとえば今回の学校5日制にしても、学習要
領の削減にしても、こうした流れで決まり、文部省の課長程度が発する一枚の紙切れ通
達で日本中が動いてしまった。

●私の遠吠え

 悲観的なことばかり書いた。暗い話ばかり書いた。どうも自分の老後を考えると、こう
いう話になってしまう。明るい話など、どこをつついても、出てこない。かくなる上は、
やはり自分のことは自分で守るしかない。どうせ私がこうして騒いでも、まさに犬の遠吠
え。この日本という社会は微動だにしない。何といっても、歴史が長い。日本は奈良時代
の昔から、君主官僚政治の国。だから今日も吠える。私は吠える。このところやや元気が
なくなった声をふりしぼって、吠える。

 ワオー、ワオー、ワオー!
 もう一度、怒りをこめて、ワオー、ワオー、ワオー!
(02−8−5、はやし浩司)

注※……もろもろの行政サービスや、施設の使用など、日本人として恩恵を受けてきたこ
とは事実。そういう事実をふまえて、よく「お前は、それなりに国の世話になっているで
はないか」と言う人がいる。

しかし日本あっての、日本人なのか。それとも日本人あっての、日本なのか。前者はま
さに全体主義を代表する考え方、後者はまさに民主主義を代表する考え方ということに
なる。官僚社会には、まだこの全体主義的な発想が、色濃く残っている。

注※2……たとえば日本道路公団だけでも、OBが、709社(平均3人強)に天下りし
ている。これは約2500人の90%以上。しかし実際には、そのほか隠れファミリー企
業への天下りも多く、ほぼ100%が関連企業へ天下りしているとみてよい。

これに対して、民営化推進委員会は再三、道路公団に関連会社の経営内容を示すデータ
の提出をもとめているが、「公団側は完全には応じていない」(読売新聞02年8月)と
のこと。

++++++++++++++++

 現在(06年12月)、日本はかろうじて国家破綻することもなく、わずかな数字だが、
景気拡大をつづけている。

 理由は、明白。本来なら国民に渡るはずのお金を、銀行(=国)が吸いあげているから
である。わかりやすく言えば、結局は、国民が犠牲になってしまった。先の戦争のときは、
「命」が犠牲になった。今度は、「お金」が犠牲になった。

 これから先、文科省は、「改正教育基本法」を楯に、好き勝手なことをしてくるだろう。
これさえ手に入れれば、解釈のしかたは、自由。課長程度が発する(通達)で、国民をど
のようにも誘導できる。好き勝手に料理できる。

 こまかい通達を無数に出しながら、最終的には、国民を大きく動かしていく。

 なぜ今のあなたが、政治的に無関心なのか? つまりはそういうあなたに、教育によっ
て作られたからにほかならない。ここにあげた(3通の通達)は、そのほんの一例にすぎ
ない。ここに(教育)のこわさがある。恐ろしさがある。

++++++++++++++++

 もう、私の仕事は終わったように思う。
この5年間、私は私なりに、ものを書いてきた。
訴えてきた。しかし振りかえってみると、
私のしたことは、ただの(犬の遠吠え)に
しかすぎなかった。

 もう1作、4年前に書いた原稿を1作。

+++++++++++++++

●子どもの学力

 新学習指導要領によって、02年度から、教育内容は大幅に削減された。それについて、
公立の小中学校の教師について調査したところ、約七割が、「削減のしすぎ」と答えている
ことがわかった(ベネッセ教育研究所)。

 「削減のしすぎ」と答えた小学校の教師……67・3%
             中学校の教師……71・7%

 「子どもの学力低下が起きる」と答えた小学校教師……76・0%
                   中学校教師……87・1%

 「新学習指導要領の見直しが必要」と答えた小学校教師……73・4%
                     中学校教師……82・4%

 この結果を見て、私はいくつかのことを考えた。まず、こうした新学習指導要領の変更
にせよ、ほとんどの変更が、文部科学省の、局長、課長レベルの通達だけで、なされてい
ること。わかりやすく言えば、ほんの一部の官僚たちの意向によって決定されていること。

 つぎに現実問題として、削減された直後の、02年4月には、教える私自身が、「こんな
に簡単になってよいものか?」と思ったほどである。簡単なテストをしても、皆、100
点という状況だった。しかしそれも数か月だけのこと。やがて夏休みが終わるころになる
と、またもとのように、できる子とできない子が現れ始めた。そしてほぼ1年がたってみ
ると、新学習指導要領は何だったのかという状況になっている。 

 一度のびたゴムは、もとには戻らない。この段階になって、再び、削減した内容をもと
に戻すなどということは、不可能。新学習指導要領では、約3割削減されたということだ
が、仮に1割復活させるというだけでも、現場は、大混乱するに違いない。それ以上に、
子どもが応じないだろう。

 で、3つ目の問題として、こうした混乱の責任は、だれが取るのかという問題。多分、
文部官僚のことだから、責任逃れのための諮問(しもん)機関※ぐらいは作ったかもしれ
ない。いわゆる有識者による諮問機関というのである。

官僚たちは、自分たちの権威を守り、自分たちのしたいことをし、お墨付きをもらうた
めに、こうした諮問機関を実にたくみに利用する。東大の元教授ですら、「だいたい諮問
機関のメンバーが、どういう基準で選ばれるのか、それすらわからない」と暴露してい
る。

 グチを言っても始まらないが、現場の教師や子ども、それに親たちこそ、えらい迷惑。
毎月のように変わる教育方針に振り回されるだけ。見かけはともかくも、最前線に立つ教
師たちは、みんなやる気をなくしている。そういう現実が、まったくわかっていない。

 今でも小学二年で掛け算を学ぶことになっている。それはそれとして、20年前、30
年前には、学校の教師は、残り勉強をさせてでも、子どもに掛け算の九九を暗記させてい
た。しかし今は、違う。「適当」というと誤解があるが、まさに適当。「一応教えるが、覚
えるか覚えないかは、子どもたちの問題」と、どこか突き放したような教え方になってき
ている。(これは私の、あくまでも個人的な印象だが……。)

 だから掛け算の学習が終わると、子どもたちはそのまま九九すら、忘れてしまう。これ
も私の実感だが、その直後ですら、約20%の子どもは、満足に九九すら言えないのでは
ないか。どの程度を、「できない」と言うかについても、議論はあるが……。

 だから小学3年生で、割り算を学ぶことになっているが、その前に、もう一度、掛け算
の九九を復習しなければならない。しかし現実には、その時間はない。だから九九がわか
らない子どもを残したまま、割り算の学習に入っていく。つまりこんなことを繰りかえし
ていたら、日本の子どもたちの学力は、ますます低下していくだけ!

 親たちは、「小学2年で掛け算を学んだから、うちの子は、掛け算はできるはず」と考え
る。あるいは「掛け算の九九を、ペラペラとソラで言えるから、掛け算はできるはず」と
考える。しかしこれはまったくの誤解。子どもだって、忘れるものは忘れる。掛け算の九
九にしても、数か月も使わなければ、忘れる。

 また九九をソラで言えるからといって、掛け算をマスターしたことにはならない。中に
は、「2×3」は、「2+2+2」という意味ということすら理解していない子どももいる。
そういう子どもが割り算の学習に入ったら、どうなる?

 日本の教育は、今、危機的な状況にある。が、それだけではすまない。教育のこわいと
ころは、その結果が、20年後、30年後に出てくるということ。つまりその分、責任の
所在がわからなくなってしまうということ。そしてさらにこわいところは、仮に今、すば
らしい教育をしたとしても、その成果が出てくるのは、やはり20年後、30年後という
こと。こうしたことを言いかえると、「日本の未来は、今の子どもたちを見ればわかる」と
いうことになる。

 この先はまた別の機会に書くとして、今、構造改革(官僚政治の是正)が、もっとも必
要なのは、実は文部科学省なのである。そういうことが、日本の政府も国民も、まったく
わかっていない。一つの例をあげる。

 もう15年ほど前だろうか。世界中で、コンピュータ教育が始まった。私が印象に残っ
ているのは、12年前にオーストラリアへ行ったときのこと。地方の小さな小学校を訪れ
たが、そこでは何と小学3年生からコンピュータが必須だった。それからさらに数年後に
は、中学校での宿題すら、フロッピーディスクで提出するのが、当たり前になっていた。

 が、日本では、実験的に数台もしくは、10台前後が、選ばれた小学校や中学校に置か
れていただけ。「日本でもコンピュータ教育を」という声が、通産省(当時)あがったが、
それに「待った」をかけたのが、何と、時の文部省である。

理由は、「教員免許をもった教員がいない」と。教員がいなければ、工学部卒の学生を教
員にすればよい。……とだれしも考えるが、そういう常識が通らないのが、日本の文部
行政である。何をするにも、資格だの、許可だの、認可がいる。教育学部で教授を育て
るのに、20年かかる。そんなのを待っていたら、その間に、世界はどこまで進む?

 その結果、日本のコンピュータ教育は、アジアの中ですらも、最下位になってしまった。
台湾や韓国にすら、大きく差をつけられてしまった。

 ここに書いたことは、私の記憶をたどりながら書いたことなので、細部ではまちがって
いるかもしれない。しかし大筋では、まちがっていない。つまりこういうこと無数に繰り
かえしながら、日本の教育は、どんどんと遅れていく。少し前に書いた、少しショッキン
グなエッセーを転載する。この原稿は、C新聞に載せてもらうつもりでいたが、編集者の
意向でボツになったという経緯がある。

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文科省の通達だけで、どんどん
誘導されていく国民。

その1例というわけでもないが、
もう1作。

これは3年前に書いた原稿で
ある。

++++++++++++++

●子どもの書き順について

 どうして日本語には、トメ、ハネ、ハライがあるのか。その上、書き順まである! 加
えて、それぞれの字には、微妙なカーブすら、ある! 仮にそれがあるとしても、どうし
てこうまで、毛筆時代の遺物を、かたくなに守らねばならないのか? またその必要はあ
るのか?

 現在、私たちが書き順(正式には「筆順」という)が、正式に(?)に定められたのは、
一九五八年。時の文部省が通達した、「筆順指導の手びき」による。私が一一歳のときのこ
とだが、私はそのときのことを、よく覚えている。それまでは、教える先生によって、書
き順が異なっていた。が、その年から、「今までの書き順は、正しくありませんでした。こ
れからはこういう書き順に統一されました」というようなことになった。

 で、その「筆順指導の手びき」によれば、こうだ。

(1)上から下へ、筆を運ぶ。
(2)左から右へ書いていく。
(3)横画が長く、左払いが短い字では、左払いが先。その逆は横画が先。
(4)字の全体を串刺しするような縦の「│」は最後、など、八つの項目が定められた。

ところで「左」と「右」という字は、書き順が異なる。「左」は、「─」を先に書く。「右」
は、「ノ」を先に書く。この根拠となっているのが、(3)の「横画が長く、左払いが短
い字では、左払いが先。その逆は横画が先」である。しかし私などは、何度、覚えても、
この書き順を忘れてしまう。しかしそれでは生徒を指導できない。そこで自分で、「道路
で左右を見るときは、横見てノー、自動車に気をつけよう」と覚えている。つまり「左
右」の「左」という字は、まず「横棒を先に書き、「右」は、「ノ」を先に書いて、自動
車に気をつける、と。(この説明がわからない人は、ここを飛ばしてほしい。どうせくだ
らないことだから……。)

 しかしそれにしても、くだらない! まったくくだらない! どうして字を下から上に
書いてはいけないのか。幼児でも、はじめて字を覚えたころの子どもは、みんな下から上
に書く。英語のアルファベットなどは、ほとんどが下から上に書く。鏡文字(左右反対の
文字)や、逆さ文字がいけないのは、わかる。しかし文字の使命は、見た目の美しさでは
ない。中身だ。

 日本人に一番欠けているもの、それに一番必要なものは、「いいかげんさ」ではないのか。
もっとはっきり言えば、日本人は、あまりにも画一的すぎる。また画一的でありながら、
それにすら気づいていない。尾崎豊の言葉を借りるなら、まさに「しくまれた自由」(「卒
業」)の中で、それを自由と思い込んでいるだけ。その一つが、ここでいう書き順である。

 もう、やめよう! こういうくだらない教育は! そしてみんなが声をあげればよいの
だ。そしていつか、子どもたちにこう言えるようにしよう。「書き順はね、だいたい書けれ
ばいいのよ。あとは、あなたが好きなように書きなさい」と。そういうおおらかさが、子
どもの心に風穴をあける。もし、それがまちがっているというのなら、では、あなたは、
つぎのテストで、いったい、何点取れるだろうか?

【問】つぎの字の中で、「ノ」「─」の順に書く字は、どれか。

  左、右、在、原、布、成、皮

 この問題は、今年、京都市の私立R中学校の入試で出た問題である(読売新聞指摘)。も
しあなたが、この問題で、正解を答えられるなら、私は何も言わない。しかしそうでない
なら、あなたもいっしょに私と声をあげよう。

 「書き順なんか、いらない!」と。

ちなみに、この問題の正解は、「右、布、成、皮」だそうだ。ああ、くだらない。こんな
こと試す中学校なんか、私なら、こちらから願いさげ。行きたくない! 
(030401)

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私たち日本人がもっている意識は、
決して標準的なものではない。

世界の常識でもない。

私たちは、たしかにだれかによって、
作られている。

その1つについて書いたのが、つぎの
原稿。

これは2年前に書いた原稿。

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●起立! 気をつけ! 礼! 着席!

 「起立! 気をつけ! 礼! 着席!」
 「起立! お願いします! 着席!」
 「起立! ありがとうございました! 着席!」

 学校によって多少、あいさつの仕方はちがうが、どこの学校でも、授業の前とあとには、
このようなあいさつをしている。日本ではよく見られる、ごくあたりまえの光景である。

 しかし世界広しといえども、授業の前後に、こうしたあいさつをしている国は、台湾と
韓国、それに日本だけである。

 が、その韓国も、こうしたあいさつを、「日本帝国主義(植民地)時代の遺物※」として、
政府通達で、廃止することにした(04年)。残るは、台湾と、日本だけ!

 日本に住み、日本しか知らないと、そのおかしさに気づかないということは、よくある。

 もう15年以上前のことだが、アメリカにニューヨーク州から来ていた、女性の教師が、
こんなことを話してくれた。

 何でも、「不気味だった」と。

 話を聞くと、こうだった。

 その教師が、近くのH湖へ水泳に行ったときのこと。どこかの女子高校生たちが、水泳
の実習授業に来ていたという。「その光景が、不気味だった」と。

 理由を聞くと、「みな、紺色の同じ、水着を着ていたから」と。

 私はそのときは、その女性の言っていることが、よく理解できなかった。日本では、ご
くあたりまえのことである。そこで「アメリカでは、どうだ?」と聞くと、「アメリカでは、
みな、ちがった水着を着ている」と。

 さらに今度は、同じくアメリカ人の男性教師だが、こんなことを言った人がいた。

 「朝礼が終わって、教室へ子どもたちがもどるとき、みな、並んで教室へもどってきた。
それを見たとき、ゾッとした」と。

 こうした感覚、それはある種のカルチャ・ショックと言えるものだが、この日本に住ん
でいる人には、理解できない。(だからといって、日本の教育がまちがっていると言ってい
るのではない。どうか、誤解のないように!)

 同じように、授業の前後の、あいさつ。韓国政府は、「権威主義的慣習」と評していたが、
何がどう権威主義的かということも、日本を一歩、離れてみないと理解できない。

 さて、日本、どうする?

 繰りかえすが、残るは、台湾と日本だけ。それでも、「必要」と感じて、こうしたあいさ
つを残すか。それとも、世界の常識に合わせるか。これからの日本の教育のなりゆきを、
注視したい。

※……韓国・ソウル市の教育庁は、日本の「起立」「礼」にあたる、教師へのあいさつを、
廃止する運動を始めた。

 「自由で多様な価値観を認める」という立場から、学校の教育現場から、権威主義的な
慣習を取りのぞくことを目的としている。
 韓国では、日本の植民地時代から、授業の前後には、「チャリョ(起立)」「キョンレ(敬
礼)」と、教師にあいさつをするのが、慣例になっていた。これを改め、たとえば「さわや
かな朝ですね」と、やわらかいあいさつにするという(以上、西日本夕刊)。

++++++++++++++++++

さあ、みなさん!

もっと賢くなろう!

未来の子どもたちのために!

この日本を救うのは、その(賢さ)だけ。

私たち1人ひとりが、賢くなる。

考える。

もしそれをやめたら、私たちは、まちがいなく、
戦前の日本に逆戻り!

最後に、「愛国心」について。

もう、何度も書いてきたテーマだが、
どうか私の原稿を読んでほしい。

この原稿は、06年(今年)の
はじめに書いたもの。

ここでは「基本」という言葉に抵抗を
感じたため、あえて「キホン」とした。

++++++++++++++++++

●教育キホン法改正案要旨

+++++++++++++++

今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。

それについて一言。

+++++++++++++++

 国があっての国民と考えるか、国民あっての国と考えるか……。それによって、教育キ
ホン法の内容は、大きく変わってくる。

 この日本では、奈良時代の昔から、「国あっての国民」と考える。国民、つまり「民」な
どというものは、言うなれば、国の財産。モノ。それとも奴隷(?)。

 本当に日本は、民主主義国家か? 民主主義国家と言えるのか? それを示す試金石が、
教育キホン法ということになる。

 が、今度閣議了承された、教育キホン法(教育キホン法改正案要旨)なるものは、相も
変わらず、美辞麗句。抽象的文句の羅列(られつ)。官僚の作文。どこかの教授が、「ヘタ
クソな作文」(中日新聞)と評していたが、まったくの同感。あのリンカーンは、ゲティス
バーグ(Gettysburg)という南北戦争の激戦地に立って、こう言った。

AND THAT GOVERNMENT OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE AND FOR THE 
PEOPLE SHALL NOT PERISH FROM THE EARTH.(人民の、人民による、人民のた
めの政府は、この地上から消え去ることはない)と。

「SHALL NOT PERISH」というのは、もう少し正確には、「私は、消さな
い」という意味になるが、ともかくも、そう言った。

 これをこの日本でもじると、こうなる。

「官僚の、官僚による、官僚のための政府は、この日本から消え去ることはない」と。

 どうして国民の側に立った教育キホン法が、この日本では、生まれないのか。できない
のか。国民に向かって、「ああしろ」「こうしろ」と言うくらいなら、まず自分たちのほう
が、「ああします」「こうします」と言えばよい。

 たとえば前文には、「我々日本国民は……貢献することを願う」とあるが、いつどこで、
その我々が、そういうことを願ったのか。勝手に、そういうことを決めつけてもらっては
困る。

もし書くとしたら、「子どもの教育では、自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育
者が一丸となって、子どもたちの未来のために、それを希求します」とか何とか。自分
の立場で、そう書けばよい。

 あるいは「教育の多様性を認め、不公平社会を是正するため、個人のそれぞれの才能に
応じた教育をめざします」でもよい。

 さらに「愛国心は、世界の常識」などと、いまだに言っている政治家がいるのには、驚
く。(教育キホン法改正案要旨では、「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国
と郷土を愛するとともに……」となっている。念のため。)

 日本では「愛国心」と訳すが、あの英語の「Patoriotism(ペイトリアチズ
ム)」という単語にしても、もともとは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大
地を愛する」という意味の単語に由来する。)「郷土や家族のためなら、命がけで戦う」と
いうのが、欧米人の共通の理念にもなっている。国ではない。郷土だ、家族だ!

 が、この日本では、そこに「国」という言葉を入れる。なぜか? その理由など、今さ
ら、説明するまでもない。

 そんなわけで、私は、今回の教育キホン法なるものは、チラッとしか読んでいない。

 今回の要旨では、国旗、国歌については触れていないが、それについても、あえて言う
なら、こうなる。

 愛国心に関してだが、国旗はともかくも、国歌を歌ったから愛国心があるとも、歌わな
かったら、愛国心がないということにもならない。日本のK首相は、『君が代』の「君」は、
国民のことだと説明したが、『君が代』の「君」は、だれが考えても、「天皇」をさす。官
僚主義国家、つまり王政国家のもとでは、天皇という「王」は、絶対的な存在かもしれな
いが、それをよしとしない人がいたとしても、何も、おかしくない。

 (注)外国では、あの明治維新を、「Meiji Restoration」(王政復古)」
と翻訳しているぞ。

 それは愛国心の問題ではない。主義の問題である。その主義ということになれば、たと
え国でも、個人の主義にまで干渉することは許されない。

 が、もしそれほどまでに、愛国心を、形として表したいというのなら、K国のように、
バッジ制にすればよい。胸に、バッジをつけて、それを表す。そのほうが、ずっとわかり
やすい。

 しかしこのばあいも、バッジをつけたから愛国心があるとも、バッジをつけなかったか
ら、愛国心がないということにもならない。

 そんなこと、いちいち役人ごときに指示されなくても、もし目の前で、他国の連中に、
郷土が荒らされ、家族が殺されれば、だれだって武器をもって立ちあがる。愛国心などと
いうものは、「形」の問題ではない。言葉の問題でもない。国旗や国歌の問題でもない。も
ちろんバッジの問題でもない。心の問題だ。

 「国を愛しましょう」と言うくらいなら、その第一歩として、「汝の隣人を愛しましょう」
と言ってみたらどうか。私など、その隣人すら、愛することはできない。そんな私が、ど
うして国という、実体のない存在(?)を、愛することができるのか。

 バカも休み休み、言え!

 だいたい、「愛」という言葉の意味すら、わかっていないのでは?

 ……ということで、教育キホン法に対する、批評は、おしまい。ここ数日、10人近い
教師や親たちと、いろいろ話したが、教育キホン法など、話題にもならなかった! ホン
ト!

+++++++++++++++++

愛国心について、以前書いた原稿を
ここに添付します。
(中日新聞にて発表済み。)

+++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言う
と、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子ども
の学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多
い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそ
うはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。

先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘
(小2)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、
オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリ
カでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリア
でもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにさ
れてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも
「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、9割
近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が
担当しているケースは、わずか1%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、6割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、3%
(たったの3%!)前後にとどまった。その一方で7割以上の人が、「男性の家庭、地域
参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。

「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、40代、50代には、リン
ゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。
男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日
新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、
それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐
れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、こ
の日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいてい
の日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』とい
うのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向
こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを
知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本にな
っている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あ
の映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオッ
ト」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パト
リオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米というより、世界の共通の理念に
もなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそ
れが回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきている
のではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観
すべきことばかりではない。99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべき
もの」として、40%の日本人が、「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足ら
ずの間に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも
言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよ
う」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言
が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国6か所程度で、都道府県県教育
委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定
だという(2001年11月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」
という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり
日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質な
ものであることに注目してほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
愛国心 教育基本法 国旗 国歌)

●批判ばかりしていてはいけないので……

 私なら、つぎのような教育キホン法改正案を考える。

++++++++++++++++

(前文)

自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一丸となって、子どもたちの未来の
ために、それを希求します。

子ども個人の才能を引き出し、認め、個人のそれぞれの才能に応じた教育ができるよう
に、教育の多様化を認める教育環境をめざします。

不公平社会や社会的格差を是正するため、社会的不正義、不平等、不公正を容認しない
教育環境をめざします。
 
親たちが安心して子どもを教育機関に任せられるよう、教育内容の充実と、教員の資質
向上を図り、父母への教育費の負担を軽減するために、常に努力いたします。

 また政府ならびに教育機関に関与する者たちは、子どもたちの見本、手本となるように、
豊かな人間性と創造性のある文化人となるよう、まい進努力いたします。

+++++++++++++++++

 ついでながら、今回閣議決定された「教育キホン法改正案」の前文は、つぎのようにな
っている。(2006年4月27日、公表。原文のまま。)

+++++++++++++++++

 我々国民は、民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福
祉の向上に貢献することを願う。

 公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統
を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図る
ため、この法律を制定する。

+++++++++++++++++

 以上!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
教育基本法 改正教育基本法 たった3通の通達 誘導される国民 作られる意識 改正
教育基本法)

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ケチな人

++++++++++++++++++

ケチと質素とは、ちがう。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を
使わない。

質素な人は、無用、無駄な、お金は使わない。
それをよくわきまえている。

++++++++++++++++++

 世の中には、「ケチ」と呼ばれる人は、ゴマンといる。長男、長女に多いのは、それだけ
生活が防衛的であることによる。わかりやすくいえば、下の子が生まれたことにより、乳
幼児期の愛情飢餓が、嫉妬(しっと)へと変化し、その嫉妬が、防衛的な生活態度に結び
ついたと考えるとわかりやすい。


 長男、長女ほど、「ぼくのもの」「私のもの」という意識が、強い。つまりそれだけ、心
の許容範囲が狭いということになる。

 私の兄なども、(今は、ボケてしまって、どうしようもないが)、若いころでも、私が買
ってやったステレオセットにすら、私にさわらせなかった。私は、私が買ってやったのだ
から、「私のもの」と考えた。しかし兄には、そうではなかった。

 そのときは、そういう長男、長女のもつ心理を、理解することができなかった。(今は、
できるが……。)

 こういうのを、「ケチ」という。

 で、以前、コンドームを、洗って、再使用している夫婦のことを書いた。ふつう(?)、
コンドームというのは、再使用しない。「質素」というふうにも、考えられなくはないが、
しかしその夫婦のばあいは、ほかの面でも、異常なほど、ケチだった。

 たとえば夫婦の兄弟たちと飲み食いしたときでも、「私は兄だ」という、家父長意識ばか
りがやたらと強く、自分で、お金を出したことがない。出しても、10円単位までの割り
勘。弟のほうが見るにみかねて、「まあ、いいから……」と言って、全額払うことが多かっ
た。

 ほかに、衣服でも、破れて使い物にならなくても、きちんとタンスに入れてしまってい
たとか、など。

 ケチと質素は、どこがどうちがうか。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を使わない。質素な人は、無用、無駄なお金は
使わない。それをよくわきまえている。が、もう少し踏みこんで考えてみると、こうなる。

 物欲に毒され、お金やモノに執着する人を、「ケチ」という。物欲とは関係なく、心の豊
かさを優先して考える人を、「質素」という。

 このことは、金持ちでありながら、ケチな人と、金持ちでありながら、質素な人を見比
べてみると、よくわかる。

 まず、金持ちでありながら、ケチな人……妻や子どもの必要経費にすら、お金を出し渋
る。兄弟や姉妹、親類に対しはなおさらで、実際には、1円も払わない。毎日札束か預金
通帳をながめて暮らしている。

 金持ちでありながら、質素な人……人生を、余裕をもって楽しんでいる。以前、この浜
松市でも、1、2番の長者番付に入るような人の子ども(姉妹)を、2人、教えたことが
ある。で、私は、その子どもたちの持ち物を見て、驚いた。

 何と、子どもたちのもっている手提げバッグは、母親の手作りだった。しかも、バッグ
には、家からBW(私の教室)までの地図が縫いこんであった。そういうのを、「質素」と
いう。

 しかし長い人生を通してみると、ケチは、一生、ケチ。その結果、失うものも、多い。(本
人は、死ぬまで、それに気づかないだろうが……。)殺伐とした人間性は、それだけで人を
遠ざける。物欲に固執する姿は、だれが見ても、見苦しい。心に余裕がないから、つまり、
自分の利益になることしか考えていないから、話していても、つまらない。

 が、それ以上に、人生の(真理)そのものから、遠ざかる。言い換えると、人は損をす
ることで、大きくなれる。損をすることに寛大になることで、心を豊かにすることができ
る。よい例が、ボランティア活動である。

 あのボランティア活動を、進んでする人たちを見ればよい。みな、生き生きと、明るい。
あの明るさこそが、ここでいう心の豊かさということになる。

 ケチは、心の大敵と考えてよい。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子育て・新格言】(改)

++++++++++++++++++

私の子育て論は、格言集から始まった。
今から、もう20年以上も前のことである。

以来、格言集は、何度も、書き改めた。

++++++++++++++++++

●子どもは芸術品

 母親にとって、子どもは芸術品。とくに乳幼児期から幼児期にかけての子どもは、そう
思うべし。こんな投書が載っていた。

 郵便局で並んで待っていたときのこと。前に立っていた母親が、子どもをおんぶしてい
た。子どもは母親の背中で、アイスを食べていた。そのアイスで、その人の服を汚してし
まった。そこでその人が、「アイスで服が汚れましたが……」と母親に注意すると、その母
親はこう言ったという。「子どものすることだから、しかたないでしょ!」と。投書したそ
の人は、「何ともやりきれない気持ちになった」と書いていた。

 私にも似たような経験がある。

 新幹線の中で走り回っている子どもたちがいたので、注意すると、いっしょにいた母親
はわざと私に聞こえるような大声で、こう言った。「うるさい、おじさんねエ」と。以後、
私はともかくも、一時間近く、ピリピリとした雰囲気のままだった。

さらにレストランで、箸を口に入れたまま、走っている子どもがいたので、「あぶないよ」
と声をかけたことがある。どこかの子どもが、綿菓子の棒が喉に刺さって死ぬという事
件が起きる、少し前のことだった。が、その子どもの母親は、私にこう言った。「あんた
の子じゃないんだから、いらんこと言わないでくれ」と。すごみのある声だった。

 こうした母親は、自分の子どもが注意されると、自分の作品をけなされたかのように感
ずるらしい。芸術家が、自分の作品をけなされたような気持ち? つまり親と子の間に、
カベがない。子どもとの間に距離をおいて、子どもを客観的に見ることができない。私自
身は母親になったことがないので、そういう心理はよくわからないが、そういうことらし
い。

 こうした心理がよいとか悪いとか判断する前に、母親にはそういう心理があるという前
提でつきあうこと。だから、母親の前で、子どもを注意したり、批判したりするときは、
じゅうぶん注意する。そのときはそうでなくても、『江戸の敵(カタキ)を、長崎で討つ』
ということも、この世界ではよくある。クワバラ、クワバラ。


●美徳の陰に欠点あり

 『美徳の陰に欠点あり』。これはイギリスの格言。美徳とまでは言わなくても、こうした
例は、子どもの世界ではよくある。たとえば「字のきれいな子どもは、書くのが遅い」な
ど。こんなことがあった。

 E君(小3)という子どもがいた。習字の教室で書くようなきれいな字で、いつも書い
ていた。それはそれでよいことかもしれないが、その速度が遅い。みなが書き終わって、
一服しているようなときでも、まだ半分も書いていない。ノロノロといったふうではない
が、遅い。そこで何度もはやく書くように言うのだが、それでも、それが精一杯。

 が、とうとう私のほうが、先に限界にきてしまった。そこでこう言った。「ていねいに書
かねばならないときもある。そうでないときもある。ケースバイケースで、考えて書きな
さい」と。とたん、E君ははやく書くようになった。が、その字を見て、私は驚いた。ま
ったく別人の字というか、かろうじて読めるという程度の悪筆だった。しかしそれがE君
の「地」だった。

 ほかにも「よくしゃべる子どもは、内容が浅い」など。ペラペラとよくしゃべる子ども
は、一見、利発に見えるが、その実、しゃべっている内容が浅い。脳に飛来する情報を、
そのつど加工して適当にしゃべっているだけといったふうになる。子どもの世界には、『軽
いひとりごとは、抑えろ』という格言もある。子どもがペラペラと意味のないことを言い
つづけたら、「口を閉じなさい」といって、それをたしなめる。

 言葉というのは、それを積み重ねると、論理にもなるが、反対に軽い言葉は、その子ど
も(人)の思考を停止させる。まさに両刃の剣。たとえば、「ほら、花」「きれい」「あそこ
にも花」「ここにも花」「これもきれい」式の言葉は、その言葉の範囲に、子ども(人)の
思考を限定してしまう。人間の思考は、もっと複雑で深い。それにはやい。が、こうした
軽い言葉を口にすることで、その言葉にとらわれ、それ以上、子ども(人)はものを考え
なくなってしまう。

 その状態が進むと、いわゆる多弁性が出てくる。「多弁児」という言葉は、私が考えたが、
このタイプの子どもは多い。概して女の子(女性)に多い。

 これについて、こんな興味ある研究結果が報告されている。ついでにここに書いておく。

 言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)は左脳にあるが、女性のばあい、機能的MRIを
使って脳を調べると、右脳、つまり右半球のだいたい同じような場所(対照的な位置)に
も、同じような反応が現れるという。

また言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)の神経細胞の密度も、女性のほうが高いとい
うこともわかっている。このことから、男性よりも女性のほうが、言葉を理解するのに、
有利な立場にあるとされる。つまり女性のほうが、相手の言葉をよく理解できると同時
に、おしゃべりということ(「脳のしくみ」新井康允氏)。ナルホド!

 
●『人、その子の悪、知ることなし』

出典はわからないが、昔から、『人、その子の悪、知ることなし』という。つまり、親バ
カは、人の常、世の常ということ。(私も、そうだが……。)

私の印象に残っている事件に、こんなのがあった。それを話す前に、子どもの虚言(い
わゆるウソ)と、空想的虚言(妄想)は分けて考える。空想的虚言というのは。言うな
れば病的なウソで、子ども自身がウソをつきながら、自分でウソをついているという自
覚がない。Tさん(小3)という女の子がそうだった。

 もっともそういう症状があるからといって、すぐ親に報告するということはしない。へ
たな言い方をすると、それこそ大騒動になってしまう。また教育の世界では、「診断」はタ
ブー。何か具体的に問題が起き、親のほうから相談があったとき、それとなく話すという
方法をとる。

 が、そのTさんが、こんな事件を起こした。ある日、私のところへやってきて、「バスの
中で、教材用の費用(本代)を落とした」と言うのだ。そこでそのときの様子を聞くと、
ことこまかに説明し始めた。「バスが急にとまった。それで体が前にフラついた。そのとき
カバンが半分、さかさまになって、それで落とした」と。落とした様子を覚えているとい
うのも、おかしい。そこで「どうして拾わなかったの」と聞くと、「混んでいた」「前に大
きなおばさんがいて、取れなかった」と。

 しかしその費用が入った袋の中にあった、アンケート用紙は、カバンの中に残っていた
という。これもおかしな話だ。中身のお金と封筒だけを落として、その封筒の中のアンケ
ート用紙だけ残った? それ以前からTさんには、理解しがたいウソが多かったので、私
は思いきって事情を、父親に電話で説明することにした。が、父親は私の話を半分も聞か
ないうちに、怒りだしてしまい、こう怒鳴った。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。父
親は、警察署で、刑事をしていた。

 そこで私は謝罪するため、翌日の午後、Tさんの家に向かった。Tさんの祖母が玄関で
私に応対した。私は疑って、失礼なことを言ったことをわびた。が、そのときこのこと。
私は玄関の右奥の壁のところに、Tさんが立っているのに気づいた。私たちの会話をずっ
と聞いていたのだ。私はTさんの顔を見て、ぞっとした。Tさんが、視線をそらしたまま、
ニンマリと、笑っていた。

 そのあとしばらくして、Tさんの妹(小1)から、Tさんが、高価な人形を買って、隠
しもっている話を聞いた。値段を聞くと、そのときの費用と、一致した。が、私はそれ以
上、何も言えなかった。

 子どもを信ずることは、家庭教育の要(かなめ)だが、親バカになってはいけない。と
くに子どもを指導する園や学校の先生と、子どもの話をするときは、わが子でも他人と思
うこと。そういう姿勢が、先生の口を開く。先生にしても、一番話しにくい親というのは、
子どものことになると、すぐカリカリと神経質になる親。つぎに「うちではふつうです」
とか、「うちでは問題ありません」と反論してくる親。そういう親に出会うと、「どうぞ、
ご勝手に」という心境になる。


●『火の中に、鉄を入れすぎるな』 

 『火の中に鉄を入れすぎるな』は、イギリスの教育格言。詰め込みすぎても、かえって
逆効果ということ。子どものやる気(火)は、消えてしまう。が、親にはそれがわからな
い。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と考える。また多少できるようにな
ると、「もっと」とか言い出す。

そういう親の心理が理解できないわけではないが、子どもはロボットではない。あなた
と同じ人間だ。そういう視点をふみはずすと、子どもの姿を見失う。

 やはり印象に残っている子どもに、S君(小2)がいる。S君は、能力的にはそれほど
恵まれていなかったが、たいへん生まじめな子どもで、学校の宿題でも何でも、言われた
ことをきちんとやりこなす子どもだった。

 しかし実際のところ、このタイプの子どもほど、何か心の問題をもっていることが多い。
たいていの親は、そういう状態をみると、「まじめないい子」と誤解するが、誤解は誤解。
S君は毎日学校から帰ってくると、1時間は書き取りの勉強をした。ときには、それが2
時間にもなることがあったという。しかし、動きざかりの子どもが、2時間も机の前にす
わって、黙々と書き取りの練習をすることのほうが、おかしい。そこで私は、何度も、「そ
ういう勉強はやめたほうがよい」と忠告した。

 しかし家族、とくに祖母はその言葉に耳を貸さなかった。まったく耳に入らないという
よりは、むしろ、そういう子ども(孫)を喜んでいた。「先生の指導のおかげで、ああいう
う子どもになりました」と。「きのうは三時間も勉強してくれました」と言ったこともある。
(3時間!)

 やがて小学3年になるころには、漢字練習だけではなく、算数のワークブックも、それ
なりの量をこなすようになった。そうしたワークブックは、励ます意味もこめて、私が一
応目を通すことにしている。が、そのワークブックを見て、私はさらに驚いた。たとえば
計算問題なども、まちがえたところには、別の紙がはりつけてあり、きちんとやり直して
あったのだ。

 こうした家庭学習では、ほぼあっていれば、大きな丸をつけてあげるのがよい。いいか
げんと言えば、いいかげんだが、子どもはその「いいかげんな部分」で、息を抜く。羽を
のばす。とくに計算練習などは、10問やって、7〜8問できればよしとする。あとは大
きな丸を描いて、ほめてしあげる。が、その祖母にはそれがわからなかった……らしい。
私がそういった丸をつけると、そのつどやってきて、「こういういいかげんな丸をつけても
らっては困ります」と。

 こうなるとS君が、プツンするのは時間の問題だった。S君はやがて慢性的なものもら
いになり、はげしいチック(筋肉の不規則なけいれん)が起こすようになった。眼科でみ
てもらうと、塾が原因と言われた。そこで祖母は、それまで行っていた、おけいこ塾すべ
て(スイミング、英会話、算数教室)を、やめた。

 こういうケースでは、一挙にすべてやめるのは、たいへんまずい。やめるとしても、少
しずつやめるのがよい。あとあとの立ち直りができなくなってしまう。が、S君の祖母は、
そういう私のアドバイスも無視した。私としては、もうなすべきことは何もない。

 で、S君はその直後から、はげしい無気力症状ができてきた。学校から帰ってきても、
ただぼんやりと空を見ているだけ。反応そのものまでなくなってしまった。好きだったゲ
ームを与えても、上の空。もちろん漢字の学習も、計算練習もしなくなってしまった。

 S君はいわゆる、バーントアウト(燃え尽き)してしまったわけだが、そのS君がなぜ、
こうまで私の印象に残っているかといえば、それには理由がある。そういう症状が出てか
らしばらくしたあと、父親と母親が私のところに相談にやってきた。そしてこう言った。

 「先生、わかっていたら、どうして前もって、それを言ってくれなかったのですか!」
と。私が「こうなることは予想していました」と話したときのことだ。何ともやりきれな
い思いだけが、あとに残った。「どうしてこの私が叱られなければならないのか」という思
いだけが、強く残った。と、同時に、S君のことは忘れられない子どもになった。

 S君がそういう子どもになったのは、要するに『火の中に鉄を入れすぎた』からにほか
ならない。しかし親は、「まだだいじょうぶ」「まだいける」と、どんどんと鉄を入れる。
そして火が消えてはじめて、それが失敗だと気づく。これも家庭教育のもつ、大きな落と
し穴ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●子どもの学習時間(記録用)

++++++++++++++++

小5児で、平日の学習時間は、
平均で、81・5分だそうだ。

このほど、そんな調査結果が、
ベネッセ教育研究開発センター
から公表された。

++++++++++++++++

 ベネッセ教育開発センター(進研ゼミ)が、このほど、子どもの学習時間についての調
査を公表した。以下、その結果だそうだ。


小5    90年……87・2
      96年……77・9
      01年……71・5
      06年……81・5


中2    90年……
      96年……
      01年……80・3
      06年……87・0


高2    90年……93・7
      96年……
      01年……70・6
      06年……70・5分

(調査は、今年6〜7月、都市別規模に抽出した公立小中高(普通科)、計71校、約90
00人を対象に実施されたものだという。5年ごとに、ほぼ同じ学校を選んで調査とのこ
と。)

 ほかに、小5児について、「2時間以上」と答えた子どもは、21%(01年)から、2
6%(06年)に増加。中2児についても、33%(01年)から、38%(06年)に
増加したという。

 高校生について言うなら、「約30分、ほとんどしない」は、90年には、26%だった
が、06年には、40%になったという。

 以上の結果から、つぎのようなことが言える。

(1)(塾での学習時間も含めて)、小学生、中学生の学習時間は、減少傾向から転じて、
増加傾向に向かっているということ。

(2)2時間以上勉強している子ども(小5)が、38%(06年)もいるということ。
これらの子どもが平均値を押しあげていることを考えるなら、(勉強をする子ども)と、(し
ない子ども)の2極化が進んでいるということになる。

(1)高校生の学習時間が、減っているということ。「約30分、ほとんどしない」という
(2)子どもが、40%もいるという。


 昔から『不景気になればなるほど、子どもは勉強する』という。そう言っているのは、
この私だが、不景気になればなるほど、外で遊ぶ時間が減る。家庭の中に、ある種の緊迫
感が生まれる。社会の不公平感が増大する。その結果、親は自分の子どもに向かって、「勉
強しなさい」と言う。だから子どもは、より勉強するようになる。

 満ち足りた生活の中では、向学心そのものも薄れる。つまり子どもの学習時間がふえた
ということは、それだけ、世の中、不景気(?)ということ。あるいは社会の不公平感が
増大しているのかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの学習時間 子供の勉強時間 家での勉強 家での学習 学習時間調査)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●児童虐待

++++++++++++++

児童虐待の本当の問題は、
虐待そのものよりも、
子どもの心をどうケアするかに
ある。

++++++++++++++

産経新聞は、つぎのように伝える※。

「児童虐待の恐れがあるとして、全国の児童相談所が家庭への立ち入り調査が必要と判
断した事例が、平成17年度中に207件あり、うち20件は保護者の拒否・抵抗など
で執行を一時断念していたことが12日、厚生労働省のまとめで分かった。とくにネグ
レクト(育児放棄や怠慢)が疑われたケースは、身体への危害が見えにくく、立ち入り
に踏み切れなくなる実態も浮かび、厚労省は『現行法の限界』としている」と。

 この記事を読んで、5年前に私が書いた原稿(中日新聞掲載済み)を思い出した。うち
2作を、ここに添付する。

+++++++++++++++++

●虐待される子ども
                    
 ある日曜日の午後。1人の子ども(小5男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で
幼稚園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震
わせていました」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかな
かったのだろう。その子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。

 カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)
完ぺき主義、(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを
自分の支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。
その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに
強迫されているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールがで
きない)などの症状を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の
子でした。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分
その男の子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもって
いる。(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっ
ている。(4)親が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、
の4つをあげている。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。
I氏のケースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、
殺す寸前までのことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心に
も深いキズを負う。学習中、1人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小2)。夜な夜な、動
物のようなうめき声をあげて、近所を走り回っていた女の子(小3)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほう
がよい。教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単
ではない。

父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してや
る」と脅されている学校の先生もいる。あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断
で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻したりを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるとい
う認識を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつ
か私はこのコラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが
虐待されているのを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。

「警察……」という方法もあるが、「どうしても大げさになってしまうため、児童相談所
のほうがよいでしょう。そのほうが適切に対処してくれます」(S小学校N校長)とのこ
と。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

親が子育てができなくなるとき 

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。
「子どもがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴え
た父親もいた。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力
そのものがない母親すらいた。

また2歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸な
家庭を経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる
「親像」のない人とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん
頭のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、ス
イッチを押しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが98年の夏、一度妊娠し
たことがある。

が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育
てができるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育
てができない。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子ど
もを見て、逃げ回るのもいるという。いわんや、人間をや。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」とい
う体験があってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、
何らかの理由で十分でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団
体から、猛烈な抗議が殺到する。先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」
というような記事を書いただけでその翌日、10本以上の電話が届いた。「離婚について
の偏見を助長する」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚
はできないのか」など。「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。

私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が
離婚として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに
深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問題であることは
認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決した
とみるからである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分
は解決したとみる。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全で
あっても、隣や親類の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。

ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中に
つくった。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分
の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。
もしあなたが、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っている
なら、あなたは今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せて
おかねばならない。いや、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。
そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育
てができるようになる。

と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、
なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と
考えてほしい。

(付記)
●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」
そのものが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そ
のアイが再び妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(2001年春)。

これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、
ビデオを見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習
をしたからだと説明されている(報道)。しかしどうもそうではないようだ。

アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によ
って、まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育というワクを超えて、
子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てができる本当
の理由ではないのか。

(参考)
●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の5人に1人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有
効回答500人・2000年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどき
ある……1点」「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、
「虐待なし」が、61%であった。この結果からみると、約40%弱の母親が、虐待も
しくは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、1998年ま
での8年間だけでも、約6倍強にふえていることがわかった。(2000年度には、1万7
725件、前年度の1・5倍。この10年間で16倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた6932件のうち、身体的暴行が3673件(53%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、2109件(30・4%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が650件など。

虐待を与える親は、実父が1910件、実母が3821件で、全体の82・7%。また
虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、2537件。3歳から就学前までが、186
7件、3歳未満が1235件で、全体の81・3%となっている。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●ああ、悲しき子どもの心

+++++++++++++

虐待されても、さらに虐待
されても、子どもは、親の
そばがいいという。

それを私は、「悲しき子どもの
心」と呼んでいる。

+++++++++++++

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らない
からだ。中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どもも
いる。しかしそういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児
童相談所の相談員は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。
従順で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしま
っている。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したこ
とは何も言わない。何もできない。

その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありな
がら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけ
ている。

先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くとこ
ろによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事は
すべて、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母
親は少なくともこの20年間は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天
的なもので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにした
のは父親だった」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともか
く、母親自身が、自分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そ
ういう母親しか知らないのは、まさに悲劇としか言いようがない。

J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。そ
れについては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつも
のように、「お母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親
子」という関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子とい
丑」えども、基本的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから
寅」……」と、相手をしばるのは、まちがっている。

親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいと
いうわけではない。子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐
待されても、子どもは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよ
く言われる。そういう子どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう
親ではない。ケダモノだ。いや、ケダモノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が
私に伝わってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
虐待 児童虐待 子どもの虐待 子供の虐待 児童相談所 悲しき子どもの心 悲しき子
供の心)

注※【参考資料】(産経新聞より・2006年12月12日) 

児童虐待の恐れがあるとして、全国の児童相談所が家庭への立ち入り調査が必要と判断
した事例が、平成17年度中に207件あり、うち20件は保護者の拒否・抵抗などで
執行を一時断念していたことが12月12日、厚生労働省のまとめで分かった。とくに
ネグレクト(育児放棄や怠慢)が疑われたケースは、身体への危害が見えにくく、立ち
入りに踏み切れなくなる実態も浮かび、厚労省は「現行法の限界」としている。

 厚労省によると、17年度、児童虐待防止法に基づき、児童相談所の職員が立ち入り調
査に臨んだ207件中、実際に執行できたのは187件だった。うち121件は、不測
の事態に備えて警察官が同行するなど、警察の援助を受けて実施した。実施により13
7件で、虐待を受けていた児童の一時保護を行った。

 一方、立ち入り調査を一時断念した20件の内訳は、「保護者の拒否・抵抗」が8件、
「保護者の不在」が7件、「子供の不在」3件、「家族で転出・行方不明」が2件。

 保護者の拒否・抵抗があった8件のうち5件は、警察官の援助を受けたものの、児童の
安全確認や一時保護ができずに引き揚げていた。その多くは家庭内にいる児童の生命、
身体に危害が切迫している状況を現場で判断できず、警察官職務執行法で許される立ち
入りなどができなかったという。

 ただ、不明の2件を除く18件は、後日の調査で児童の一時保護や安全確認ができ、虐
待死に至った事例はないという。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・雑感】

+++++++++++++++++

のどが痛い。
鼻水が出る。
背筋が、ゾクゾクする。

ひどくはないが、そんな日々が、
ここ数日、つづいている。

外は、真冬空。小雨も降っている。

私は、コタツに入ったまま、うたた寝。

+++++++++++++++++

●水橋晋(みずはし・しん)氏

 15、6年ほど前、学研に水橋晋氏という編集長が、学研の幼児局にいた。詩人として
も、よく知られた人で、いろいろとお世話になった。「なぜなぜ子ども学習百科辞典」(学
研)では、あとがきを書かせてもらった。一度だけだが、静岡県の三島にある温泉へ、い
っしょに行ったこともある。

 その水橋晋氏が、去る06年の11月に、突然、小脳出血で亡くなったという。享年7
3歳だったという。温厚な、とてもやさしい人だった。

 今、その水橋晋氏のことをあれこれ思い出している。詩集を出すたびに、サイン入りの
本を私に送ってくれた。全部で、5、6冊になっただろうか。私には、恩人の1人である。

 ただ私には、水橋晋氏の詩を理解できるだけの能力はなかった。批評を求められるたび
に、いつも戸惑ったのを覚えている。何か気のきいたことを言わねばという気持ちだけが
先走り、結局は何も言えなかった。

 そうそう、こんな会話をしたことがある。私が、「死ぬのはこわくないですか?」と聞い
たときのこと。水橋晋氏は、カラカラと笑いながら、「こわくありません」と。水橋晋氏と
いう人は、そういう人だった。

 学研を退職してからは、年賀状の交換程度のつきあいになってしまった。一度、会いた
いと思いつつ、こういうことになってしまった。ご冥福をお祈り申し上げます。


●命

 私にとっての「命」とは、肉体的な命をいうのではない。

 私にとっての「命」とは、私が書いた文章が、いつまで残るか。その残ることを、「命」
という。

 たとえば今、こうして文章を書いている。もちろんこんな文章など、長くは残らない。
せいぜい1週間か、2週間。あるいは数日かもしれない。つまり今の私の「命」は、その
程度。

 ほかに私のHPには、ぼう大な量の文章が収録してある。しかしその「命」も、それほ
ど、長くはない。HPといっても、「金の切れ目が縁の切れ目」。現在、2つの有料サービ
スを通して、HPをインターネットに載せている。

 1年ずつの更新制だから、私が死ねば、遅くとも1年以内には、HPそのものが削除さ
れる。つまり私の「命」は、その時点で、終わる。

 だからやはり、文章を残すには、「本」ということになる。しかしその本といっても、よ
ほどの本でないかぎり、「命」は、短い。たいていはほこりをかぶった段階で、そのままゴ
ミ箱行き。

 こうして100冊の本が消え、新たに1000冊の本が生まれる。その1000冊の本
が消え、新たに1万冊の本が生まれる。

 私の「命」といっても、せいぜい、その程度。だから最近では、死んだあとのことにつ
いては、考えないようにしている。なるようにしかならない。それを決めるのは、もう、「私」
ではない。


●みなさんも、ご注意!

 先ほど、いくつかの育児サイトをのぞいてみた。その中のひとつに、「ESxxxx」(シ
ングルママの育児サイト)というのがあった。「どこかの母親が開いているサイトだな」と
思ってクリックしてみると、すかさず、私のパソコンが警告音を発した。

 ポップアップされた警告文を読むと、「レジストリーの変更を求めています。あなたが意
図しないものであれば、ブロックしてください」と。

 そのサイトには、何か、マルウェア(悪意のあるプログラム)が仕込んであったようだ。
幸いにも、私のパソコンは、それを水際で食い止めることができた。が、それにしても…
…!

 そのサイトの主宰者自身が、マルウェアを仕込んだのか、あるいは、その主宰者すら知
らないうちに、だれかによってマルウェアが仕込まれたのかは、わからない。しかしそん
な育児サイトにさえ、こういうものが仕込まれる時代になった。

 みなさんも、くれぐれも、ご用心!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司


●N先生へ

++++++++++++++++

N先生から手紙が来た。
アスペルガー児を指導していた支援員の
人が、サジを投げてしまったという、
そんな内容の手紙だった。

++++++++++++++++

N先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。お元気で、ご活躍の様子、喜んでいます。私にとっても、
はげみになります。

 アスペルガー児の件ですが、あまりお役にたてず、すみませんでした。おっしゃるとおり、こ
の問題は、子ども自身がかかえる問題もさることながら、親の問題でもあります。私も、同じよ
うな経験をしています。

 やっと不登校から抜け出し、学校へ通うようになると、親は、それを基準にして、さらに私た
ちに、過大な相談をしてきます。「何とか給食時間まで」が、今度は、「何とか終わりの時間ま
で」
となるわけです。それがさらに高じると、「遅れた分を取り戻すためには、どうしたらいいか」
となるわけです。やっと学校へ行くようになった子どもに、家庭教師をつけたりするわけです。

 少し前も実際、こんな相談もありました。子どもがなんとか、2、3時間、学校へ行くように
なったときのことです。行くといっても、理科室登校で、理科室にこもったままです。が、その
母親は、「何とか、午後まで、学校でがんばらせたい。どうしたらいいか」と。

 そこで私は、こう言ってやりました。「そうではなく、子どもに言うべきことは、よくがんば
ったね、です」「2、3時間で、じゅうぶん。まず子どもをほめ、子どもといっしょにそれを喜
ぶことです」と。

 が、無理をする。この無理が、それまでの努力を水の泡にします。で、結局は、元の木阿弥。
あとはこの悪循環。症状はますますこじれ、やがて、にっちもさっちも行かなくなってしまう…
…。

 親の気持ちも理解できないわけではないのですが、この問題は、半年とか1年単位とか、も

と長い時間的経緯をみながら、考えなくてはいけません。数週間とか、数か月とかで、どうこう
なるという問題ではないのですね。

 アスペルガーの症状があるなら、なおさらです。

 で、支援員の方が、サジを投げてしまった、とか。私も、最近、キレる子どもを経験しました。
もう何十例も見てきたとはいえ、キレる子どもには、対処法はありません。ふつうの激怒とは、
様子がまるでちがいます。

 衝動的に錯乱状態になり、見境なく、暴力を振るいます。脳の抑制命令が、途絶えてしまった
ような状態になります。相手が小学1、2年生なら、抱き込んで抑えるということもできますが、
小学4、5年生も過ぎると、そうはいきません。

 一度は、あまりの激痛に、その場で、息もできず、うずくまってしまったこともあります。相
手は、小学5年生の女児でした。その女児に、足蹴りをされたのですが、あとで話を聞いたら、
その子どもは、空手道場に通っていたそうです。

 このタイプの子どもは、顔が能面のように無表情になり、目が別人のように鋭くなるのが特徴
です。顔が青ざめるのも、ふつうの激怒とちがう点です。

 大切なことは、子どもの心をそこまで追いつめてはいけないということですが、それが親には
わからない。慢性的なストレスが、ジワジワと子どもの心をゆがめます。もちろん子ども自身の
耐性の問題もあります。同じようなストレスを受けても、みながみな、キレる子どもになるとい
うわけではありません。

 サジを投げてしまった支援員の方の気持ちもよく理解できます。バシッと殴られたとたん、そ
れまでに積み重ねてきた思い出が、そのままどこかへ吹き飛んでしまいます。もちろんその子

もへの愛情も、それで消えてしまいます。が、それだけではありません。そういうときというの
は、指導する側も、敗北感というか、挫折感を覚えるものです。「何とかしなければ」という気
持ちが、そのまま「何とかできたはず」という自責の念に変わります。

 それから抜け出すのも容易なことではありません。親は親で、そういう私を責めたりします。
「指導が悪いから」とか、「なぜ、もっと早く指摘してくれなかったのか」とかなど。しかしこ
れは、先にも書いたように、子どもの問題ではなく、親自身の問題なのですね。親に言えば、

は、その場で子どもを一方的に叱ったり、説教したりする。それがかえって症状をこじらせてし
まいます。

 一度は、「もう、勉強はあきらめなさい」とアドバイスしたことがあります。しかしその親は、
こう言って、激怒しました。「他人の子どものことだと思って、よくも言いたいことを言うもの
だ!」「あきらめろとは何だ!」と。

 しかし本音を言えば、そのとおりです。あきらめたほうがよいというより、その程度ですめば
まだよいほうだということです。が、親には、それがわからない。やがて行き着くところまで行
くしかないのです。

 これは、子育てがもつ、宿命のようなものです。だから言うべきことは言い、すべきことはす
る。しかしそこから先は、親に任すしかありません。こういうのを、ニヒリズムといいます。つ
まりは、「限界」ということです。それ以上は、どうしようもありません。

 話は変わりますが、つまりこの「限界」という言葉で思い出したのですが、最近、私は、自分
の限界を強く感ずるようになりました。いろいろやってはみたものの、結局はこの程度でしかな
かったのかという限界です。

 で、また同じことをするのですが、それがつらくてなりません。仕事は仕事として、つまりは
収入のためにつづけるしかありません。しかしそれ以外の部分で、虚しさを強く感ずることが多
くなりました。

 「こんなことをしていて、何になるのだろうか」とか、「また同じことの繰り返しではないか」
とです。よい例が、講演活動です。そのときはそのときで、それなりにみなさんは喜んでくれま
すが、それはあくまでも一時的なもの。それがあとにつづいていくということはありません。も
ちろん何かの利益につながるということもありません。1、2か月もすれば、私のことなど、す
っかり忘れてしまいます。

 ところで私も50歳をはさんで、数年間、毎日、電話相談を受けていたことがあります。毎週、
市内で、子育て相談を受けていたこともあります。しかしそのときも、同じように感じました。
「こんなことをつづけていて、何になるのだろう」とです。親の欲望というか、希望には、際限
がありません。少しよくなれば、「さらに……」「もっと……」と言って、相談してきます。

 で、あるとき、こう思いました。「この親は、最終的には、自分の子どもが東大の医学部にで
も入らなければ、満足しないだろうな」とです。

 それが自分でも、よくわかるようになりました。つまり、「限界」が、です。

 さらに最近では、「どうやって、この先、自分の生きがいをみつけたらいいのか」とか、「生き
がいに自分を、どうやってつなげたらいいのか」とも、考えるようになりました。そのため、落
ち込むことが多くなりました。

 教育といいながら、その底流では、親たちのドス黒い人間の欲望がウズを巻いています。教

イコール受験、なのですね。いくら高尚な教育論を説いても、それは丘の上で、空に向かっても
のをしゃべるようなもの。そのまま声が、どこかへ消えてしまいます。

 だから正直なところ、私はもう、教育論を親たちに説くのに、疲れました。どうでもよいとい
った感じです。「なるようになれ」と言うのは、言い過ぎかもしれませんが、ときどき、そんな
気持ちになるのも事実です。

 自分自身が、自分に、「なるようになれ」と思っているのに、どうして他人に向かって、「そう
であってはいけない」と話すことができるでしょうか。

 私のほうは、先生とちがって、これからしばらくは、仕事のほうは休止状態に入ります。活動
的な先生に、負けないようにがんばります。たとえばこのところ、毎週のように、ヒマがあれば、
ワイフと旅行しています。来週は、福井県のN町まで、ズワイガニを食べに行ってきます。「何
でもできることは先取りしてしよう」が、2人の合言葉になっています。

 時間が貴重です。くだらないことで時間を無駄にしたりすると、「しまった!」と思うことが
しばしばあります。だから文章だけは、毎日書いています。私にとっては、生きることとは、考
えること。考えることとは、書くことです。

 ……とまあ、かっこうのいいことを書いていますが、本当のところ、自分を支えるだけで精一
杯です。今のところ、必死で自分を支えていますが、こうした気力も、いつまでつづくか、わか
りません。

 教育のことを書いているつもりなのに、いつの間にか自分のことになってしまいました。話が
混乱してきましたので、今日はここまでにしておきます。また近く、お会いできることを楽しみ
にしています。

 奥様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。ワイフが、また奥さんに会いたいと言ってい
ます。いっしょに食事でも、しましょう。今度は、ぜひ、我が家のほうへおいでください。


敬具

はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある老夫婦の選択

+++++++++++++++++

それほど親しくはないが、近くに、
よく知っている老夫婦がいる。

ときどき野菜などを届けてくれる。
私も、どこかへ行った折など、みやげを
買ってきて、渡す。

そんなある日、突然、奥さんが、あいさつに
来た。今年、83歳になるという。

+++++++++++++++++

 その老夫婦には、1人の息子がいた。今も、元気で、名古屋市で暮らしているというこ
とだそうだが、「いた」と書くほうが、正確なので、そう書く。父親、つまり夫との折り合
いが悪く、大学を卒業してからというもの、一度も、老夫婦の住む実家へは帰ってきてい
ない。少なくとも、父親には会っていない。

 詳しくは知らない。私も、詳しくは聞かない。それぞれの家庭には、それぞれの事情と
いうものがある。相手が自分から話すばあいはともかくも、こちらからあれこれ聞くべき
ではない。

 そんなある日、奥さんが、あいさつに来た。奥さんは、今年、83歳になる。夫は、確
か、80歳になるのではないか。いつだったか、奥さんが、「私は姉さん女房ですから」と
言っていたのを覚えている。

 「私だけ、来月から、ケアセンターに入りますから」と。

 話を聞くと、月額17〜8万円程度で、そこでは、完全看護のもと、死ぬまで世話をし
てもらえるという。特別擁護老人施設とちがうところは、一応、健常者のみが入居できる
ところということだそうだ。

 「さみしくなりますね」とワイフが言うと、奥さんは、「夫は、まだこちらにいますから」
と。そう言えば、奥さんは、このところ、急に老人臭くなった。歩き方も、どこか危(あ
ぶ)なっかしい。

 つまりその老夫婦は、たがいに80歳を過ぎて、別居という方法を選択した。理由がわ
からないわけでもない。私たちは、奥さんとは親しいが、奥さんの夫とは、ほとんど会話
すらしたことがない。気むずかしい人で、それに神経質な人だ。

 で、これ以上のことは、ここには書けない。書けないが、私は、ふと、「そういう選択も
あるのかなあ」と思った。今の私の年齢だと、定年離婚がよく話題になる。しかしさらに
年をとると、老年別居ということになる。

 「離婚」という形にこだわる必要は、もうない。

 ワイフは、「あと少しなのに」と言ったが、健康で体が動く間は、まだよい。しかしどち
らか一方が、そうでなくなると、とたんに夫婦の形が変わってくる。ふつうなら、(こうい
う言葉は、あまり適切ではないかもしれないが)、ふつうなら、どちらか一方が、他方の世
話をする。

 しかしその老夫婦のばあいは、奥さんのほうが、自ら、家を出るという形で、夫に負担
をかけまいとしたのかもしれない。あるいは、夫からの解放を望んだのかもしれない。そ
れこそ、あと少しという、人生の最後の、そのまた最後の場で、である。

ワ「夫婦のことはよくわからないけど、あの2人は、とっくの昔に、冷え切っていたみた
ね」
私「そうかもしれないね」と。

 とくに心配しているわけではないが、私は、夫のほうが、気になった。「これからどうや
って生きていくのだろう」と。完治したという話だが、10年ほど前には、胃がんの手術
も受けている。「ひとりでやっていくのだろうか?」とポツリと言うと、ワイフは、「そう
みたいね」と。

 先にも書いたように、この世界には、「ふつう」という言葉は、ない。また安易に、そう
いう言葉を使ってはいけない。人には、それぞれの事情がある。その事情の中で、無数の
糸にからまれながら、人は、自分の道を選択していく。

 私たちがそういう老夫婦をみても、言える言葉はただひとつ。笑いながら、「元気で、が
んばってくださいよ」、だけ。それ以上に、あるいはそれ以外に、何を言うことができるだ
ろうか。

 奥さんは、トボトボとゆるい坂道を下へとくだっていった。冷たい冬の風が吹いていた。
しかし見送る私たちを、一度も振り返ることはなかった。


Hiroshi Hayashi+++++++++Dec 06+++++++++++はやし浩司

●2011年

+++++++++++++++++++

今朝(12月13日)、Eマガ(無料版)の
読者が、2011人になった。

そこで2011年。

……といっても、今は、2006年。
2011年と言えば、5年後ということ
になる。

しかしこの世界では、5年などというのは、
あっという間にすぎる。その5年後に、この
文章を読み返すとき、私は、どのように感ずる
だろうか。

それが楽しみだから、ここに2011年について
書く。

+++++++++++++++++++

 仕事も生活も、基本的には、今のままだろう。私は64歳。元気で現役。

 ところで最近、とくに心がけていることがある。歩き方である。同年齢の男たちを見な
がら、「どうして、男も私の年齢になると、ガニ股で、ヨタヨタ歩くのだろう」と、思う。

 どこか体が、構造的に変化するためだろうか。あるいは足腰が弱くなるとか、そういう
ことと関係があるのだろうか。私は運動不足が原因だと思っているが、しかし何も、あえ
てそんな歩き方をしなくてもよい。

 さっそうと、足を前に伸ばして歩けばよい。……ということで、私はそういう歩き方を
するように心がけている。

 64歳には、今よりも、さらに運動量をふやしていると思う。ひょっとしたら、毎日、
町までの距離を、歩いて往復しているかもしれない。現在は自転車だが、このところ、歩
くことが多くなった。週に2、3回は、歩いている。

ワイフは、ときどき、「電動自転車にしたら?」と言うが、とんでもない。だれがあんな
ものに、乗るか!

 それに64歳には、今よりももっと、旅行する回数がふえていると思う。ここ数年、毎
年のようにその回数がふえている。だから64歳のときには、もっとふえている。

 「今できることは、今、する」「今日できることは、今日する」。それが、今の私たち夫
婦の合言葉になっている。とくに楽しいことについては、先手、先手で、するようにして
いる。決して、先延ばしにしない。たとえば「来週にしようか」「再来週にしようか」と迷
ったときには、今すぐ、するようにしている。

 ひょっとしたら、そのころになると、毎月、海外旅行をしているかもしれない。息子が
うまくパイロットになってくれたら、無料の航空チケットを手に入れることができるよう
になる。

 (がんばってくれよ、E!)

 ほかに……。2011年になっても、文章だけは、毎日書きつづけていることと思う。
文章というより、私はパソコンが好きだ。ほかに今は、これといった趣味はない。高性能
のパソコンが発売になるたびに、胸がわくわくする。その感動だけは、この35年間、変
わらない。だからこれからも、変わらないだろう。

 そうそう、昨日、仕事に出かけるとき、ワイフが、「あなたは、若いわね」と言った。

 皮ジャンに、ジーパン。それに頭にはヘッドフォン。首には赤いマフラー。そういう私
の姿を見て、ワイフは、そう言った。

 64歳になっても、私は、決して、ジジイにはならないぞ!

 
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私は、みなさんに、子育て情報をお届けします。
みなさんは、私に、生きがいをくれます。

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ありがとうございます。

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 15日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●フランス在住のSRさんより

+++++++++++++++++

フランス在住のSRさんより、近況が
届いています。

フランスの子育て事情が、よくわかって
たいへん興味深いです。

+++++++++++++++++

はやし先生

おはようございます。
本当にご無沙汰してします。
パソコンを入れ、先生のマガジンがきていると
一番最初に読み、子育てはもちろん、浜松の今、世界の今を
日本語で知ることができ、本当に感謝しています。

まずは近況です。
長男、Kは5歳半になり、大好きな自転車から、マウンテンバイクのサークルに
入り、もう2年になります。地方のレースにもでるようになり、
毎週、土曜日に、1時間ほど、練習をしています。

その間、弟のMは自転車であそび、夫が毎週付き添ってくれ、
親子共々楽しくやっています。

Kのクラブの主催の大会では、親がケーキを家で作ってきて、
それを売ったり、その場所でフライドポテト、バーバキューでソーセージを
焼いたりして、クラブの資金にあてています。

先日はクリスマス会があって、レースの表彰式をしたり、
ボランティアを沢山してくれた人に、プレゼントを渡したり
本当に楽しく過ごすことができました。

ちなみに1年のクラブの登録料金は、25ユーロ(約3750円)です。
ライセンスが、20ユーロ(3000円)です。

今年から友人が開いている道場で、柔道も始めました。
日本人の女性が柔道を教えていて、今年60歳です。
そこでは日本語を使うこともでき、楽しく通っています。

Mは3歳になりました。

幼稚園2年目です。歌を覚えたり、毎日葉っぱをひろってきたりして、
どこへいっても遊びを見つけてきます。

人前にでると少し恥ずかしがり屋なのですが
外で走ったり、プールが大好きで、プールへ行くと、すぐ飛び込みをします。
料理の手伝いも喜んでやってくれます。

幼稚園の(味覚週間)では果物のケーキをつくって、みんなで味見をしたそうです。
私も一口もらいました。おいしかったです。

Kのクラスでは、パンを作ったそうです。
誕生日には、誕生日月の子がお菓子をクラスで作ることになっています。

私の方は昨年から、こちらに住んでいる外国人協会に登録して、
改めてフランス語の発音とか朗読を勉強しています。

そこで知り合った子は生き生きとしている人ばかりで、本当に刺激になります。
フランスでは住み込みのベビーシッターを一年間お願いしている人も多く、
(それを「オーペア」 というのですが)、
旅費は自分もちですが、子供の世話をするかわりに、
滞在費、おこずかい、食事を与えられ、フランス語を、
週に10時間学ぶことができる権利が
あたえられます。世界中から、人がきています。

大学を一年間休学してくる人もいて、みんな必死です。
コスタリカ、カナダ、ロシア、スペイン、ブラジル、ポルトガルなどの人たちがいます。

去年知り合った、カナダとロシアの子は、我が国にいると奨学金で援助してもらえない 
からと、フランスの旅行関係の高校に入学し奨学金を得て、今2人で生活をしています。

他の国にいって奨学金をもらって勉強!、とは日本では考えられませんね。
その2人というのは、19歳と2 1歳の女の子です。

若い子が多い中、みんなお茶を飲んでいたりすると、
フランスや世界の情勢の話になったり、将来は国際関係で働きたいとか、
いろんな言葉を習得したいとか、みんなあつく語りだします。みんなすごい!

今、コスタリカの子が日本語を学びたいというので、スペイン語との交換授業を
9月から始めています。

コスタリカは永世中立国なので軍も知らないし、なんと日本人が沢山住んでいるそう 
です。

彼女もオーペアで4人の子供の世話をしています。幼稚園、学校の送り迎え
宿題・・・。まだまだいろんな国で勉強したいと言っています。

私もすごく刺激を受けます。
友人のフランス人女性も日本語を習いたいというとことで、
週に一回我が家にきている のですが、
彼女は57歳。あと3年で定年になるから、それからは日本を旅行したいと
言っています。

とっても人間的に素敵な彼女です。

実はその間、一人の日本人(女性)が、近く知人(日系人)の家に遊びにきたのですが、
その人は、毎朝、1時間ぐらいかけて化粧、身だしなみをしていたそうです。
それに、上げ膳、据え膳でうれしい!、と言っていたそうです。
それに「会話も幼稚だった」とか。それを聞いて、ちょっとショックでした。

日本人の知り合いが私の家にきたときも、
老後は誰にみてもらうかという話ばかりをしていました。

こちらでは、そういう話はしませんよと、私が言ったら、その人は、
私はフランス人より子供にはお金をかけてきているから、当たり前とのことだと、
言っていました。
ちなみに、その女性は59歳でした。

本当、世の中にはいろんな人がいますね。

長い文になってしまい、スイマセンでした。
奥さまにもくれぐれも、よろしくお伝えください。
寒くなってきました。お体にお気をつけください。

フランスのSRより


【はやし浩司よりSRさんへ】

拝復

 こちらでは、子育てが終わるころになると、みな、老後の心配をし始めます。その話ば
かりです。イヤですね。だれに老後のめんどうをみてもらうか、それも、よく話題になり
ます。

 (老後はひとりで暮らすと考えている人もふえてきましたが、都会から離れ、田舎のほ
うへいくと、今でも、そういう会話をする人は、たいへん多いです。)

 もっとも、親たちは、「私たち親のめんどうをみろ」とは、言いません。もっと、巧みな
言い方をします。

 たとえば、「Aさんとこの息子は立派だ。今度、親をハワイへ連れていったそうだ」「B
さんとこの娘はすばらしい。今度、親のために離れを新築してやったそうだ」と。そうい
う、何というか、回りくどい言い方をしながら、ジワジワと子どもの首をしめます。

 あるいは「私は、お前がいるから心配していない」などと言う親もいます。あとはお決
まりの、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」という、あの言葉です。
親の恩の押し売りです。

 私も、耳にタコができるほど、この種の話を聞かされて育ちました。イヤですね。本当
にイヤですね。子離れできない親の、あわれな(おねだりブルース)のようなものと考え
てよいのでしょうか。

 オーペアの話は聞いていましたが、今回、改めて、納得しました。

 日本という国は、独創的なことを、独自にはできない国かもしれませんね。他国のまね
ばかりしている。つまり独創性を許さないというか、認めないというか……。お役人たち
は、失敗するのを、何よりも恐れるのですね。だから安全な道ばかりを選ぼうとする。

私も生活ということを考えなくてもいいなら、フランスに行きたいです。年齢に関係なく
学べるというところが、いいですね。

 ……私たちが求めてきた「豊かさ」とは、何なのでしょうか。SRさんのメールを読ん
でいると、それも考えさせられました。「豊かさ」の感覚そのものが、ちがいますね。

ほら、日本では、足の踏み場もないほど、電気製品がころがっているのが、豊かな生活
ということになっているでしょ。あるいは電線がクモの巣のように張りめぐらされてい
る狭い路地を、ベンツやBMWで走りまわるのが、豊かな生活ということになっている
でしょ。(……これは、少し言いすぎかな? このところ、何を考えても、否定的になり
ます。ごめんなさい。)

 どこか、おかしいですね。

 ……とまあ、いろいろ考えました。メール、ありがとうございました。


【SRさんから、はやし浩司へ、追伸】

はやし先生

おはようございます。
返事が遅くなってしまって本当に申し訳ありません。
転載の件、もちろんどうぞ!
役にたてるのなら、(文才ないのですが)
いつでも、どこでも?これからも特に一言なくても使ってくださってOKです。

この週末は、フランスではテレトンといって
日本言う愛は地球を救うのチャリティー週末でした。
日本とは違うと感じたのは、みんな市民が参加という形です。
スーパーにいくとボランティアの人が袋をくれ
スーパーの中で寄付する物(例えばパスタ、缶詰、シリアルなど)
を購入して、出口にかごがあるのでその中に入れます。
その品物は食べ物に困っている、家族、施設にまわります。

幼稚園では一斉にテレトンマラソン大会があり
 参加費として(募金ということで)お金を払い
次男、3歳は2分。長男5歳は5分構内をを走り
そのあと、おやつタイム。

土曜日は長男はマウンテンバイクで参加費をはらい
合同練習。そしておやつ。

主人はオートバイのチャリティツーリングで5ユーロの参加費で
30kmのコースに参加。
友人はクレープを焼き(ブルターニュはクレープを朝食、おやつとして食べます)
材料は学校、寄付で小麦粉200kg牛乳400Lで生地を作り
金曜日の午前中から土曜日の夜中まで、交代で焼いて販売12枚4ユーロ(約600 円)
クレープを焼く機械は全部で15台。男の人も女の人も、すごいチームワークで和気 
あいあいでした。

その横で、手作りの販売があり、ヨガ教室、ストレッチング教室があり
みんな自分の好きな分野で参加して、寄付をして楽しんでいる姿は
生き生きしていると思いました。

残念ながら、天候は雨が降ったりしていまひとつでしたが
夜、隣の人と一緒に食事をして報告会?をしました。
 
フラワーパークの写真HPで見させて、頂きます。
楽しみです。

来年の夏は日本へ行く予定なので、子どもたちにも見せようと思っています。
ブレストは横須加市と姉妹都市で、来年は横須加開講100周年ということで
ブレストからはコーラス隊20人、市の人も日本へ行く予定なのです。
ちなみに横須加の港を建設したのは、たくさんのブルターニュ人なのです。
おもしろいですね。

身体にお気をつけください。

SRより

【はやし浩司より、SRさんへ】

 メール転載の件、快諾してくださり、ありがとうございました。これからもよろしくお
願いします。

 私の息子(三男)も、オーストラリアに留学しているとき、病院の寄付金集めのために、
自転車レースに参加しました。最初は、何のことかよくわかりませんでしたが、参加費が、
そのまま病院の寄付金になるのだそうです。

 そういうイベントを、町や村の人たちが、総出でするところがおもしろいですね。つま
り、向こうの人たちは、「税金は、オレたちが払っている」「だから、行政側は、税金を正
しく使え」と考えているわけです。だから税金の使われ方に、シビアですね。

 フランス人も、同じように考えていると思います。

 一方、日本は、甘い。本当に、甘い。「お金は、お上からいただくものだ」という意識が、
いまだに根強く残っています。いわゆる「補助金行政」というのです。

 私も36年前、オーストラリアに渡り、その(意識)のちがいを、はっきりと見せつけ
られました。「日本が民主主義国家だなんて、とんでもないまちがい」と、同時に、思い知
らされました。私の研究テーマは、「日本とオーストラリアの法意識のちがい」でした。私
が受けたショックは、大きかったです。

 ご存知のように、このあたりでは、県知事も、市長も、国会議員も、みな、元官僚。中
央から、派遣されてきた人ばかりです。

 KSという女性議員にいたっては、まさに党利党略のために中央から派遣されてきた国
会議員そのものと言ってもよいです。ある雑誌に、こう書いてありました。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(雑誌「諸君」・05年1
1月号・P87)と。

 「この辺の田舎者」というのは、私たちのことをいいます。KSという国会議員が、選
挙中、どこかの会場で土下座したという話は、うわさで聞いていましたが、(私の選挙区で
すから)、しかし陰で、こんなことを言っていたとは知りませんでした。倉田真由美という
漫画家が、雑誌の中で、そう暴露しています。

 イヤですね。こういう連中に、私たちは、いいように操られている。

 もっとも、私のようなものがいくら叫んでも、犬の遠吠え。わかっています。KSとい
う国会議員は、再選され、また中央へもどっていくのでしょう。今度は安倍総理大臣と仲
よく握手しているポスターが、あちこちに並び始めました。そういうのを見るたびに、な
んとも表現のしようのない虚しさを感じます。

 では、また。今日の私は、どこか暗いです。風邪のせいかな?


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●「KS」という名前の国会議員

+++++++++++++++++++++++

KS氏は、私の選挙区から選出された、
国会議員である。

ふつうは、こうしたエッセーでは、実名を伏せる
ことにしているが、ここでは、あえて、実名で
書かせてもらう。

雑誌「諸君」の中に、こんな記事があった。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」(KS談)と!

++++++++++++++++++++++

 06年の8月。先の衆議院議員選挙(05年8月)が終わって、ちょうど1年になる。
同じ自民党の城内実氏を僅差で破って、衆議院議員になった。それがKS氏である。城内
実氏は、郵政民営化に反対して、K首相の反感をくらった。

 つまりKS氏は、城内実氏をたたき落とすために、中央から送り込まれた、刺客という
ことになる。KS氏は、財務省主計局主計官(防衛担当)を退官し、静岡県7区から立候
補した。

 私が住む、この選挙区で、である。

 そのKS氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書いている。

 『……KSさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪ではない、
媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務省キャ
リア」という自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土下座な
んてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、
自分が客観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もは
やお手上げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田
真由美氏に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 KS氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話は、当
時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんてしたら、
この辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした
発言はない。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないか
とは疑っていたが、KS氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは
何か? あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私はKS氏を許さない。KS氏は、まさに選挙の
ために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだけ利用してお
きながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、KS氏が、この1年間、この地元に帰って
きて、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞いてみた
が、ワイフも、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、KS氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言えば、自
己の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、ま
かり通ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。
もちろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをく
ぐりぬけて、国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の
代表なのか?

 そののちKS氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話題をふ
りまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元の利益
につながったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知らない。

 KS氏のポスターを、ここに紹介しておく。06年8月に、街角で見かけたポスターで
ある。いまでもあちこちに、張ってある。みなさんは、このポスターを見て、どう思うだ
ろうか。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【金持ちも、楽じゃない(?)】(保護と依存の関係)

++++++++++++++++

R氏は、今年、65歳になる。
H市内で、30年ほど前、
内科医院を開業した。

リッチと言えば、リッチだが、
しかしそういう人にはそういう人なりの
苦労というものがある。

++++++++++++++++

●R氏(内科医のケース)

 友人のR氏が、それまで書庫として使っていた離れの家を、改築した。そのお祝いもか
ねて、今日の午後、ワイフと2人で行ってきた。R氏は、S市の総合病院で勤務医をした
あと、30年ほど前、H市で、内科医院を開業した。現在も現役。

 R氏の妻(68歳)も、内科医だったが、いろいろあって、10年ほど前に引退。今は、
悠々自適な老後生活(?)……ということになるのだが、会って話を聞いてみると、どう
もそうでもないらしい。苦労話の連続。

 R氏には、上から、兄、兄、姉、兄の4人の兄弟がいる。R氏は、5番目の末っ子とい
うことになる。その兄弟たちを、医院を開業して以来、ずっと、金銭面で、R氏がめんど
うをみているという。

 具体的に話すと、こういうことになる。

 長男の兄……3人の子どもがいる。しかし生活が苦しいということで、R氏は、2人の
息子の学費を負担した。受験費用まで出したという。

 二男の兄……結婚せず、ひとり住まい。職を転々とし、そのつど、お金がなくなると、
今でも、R氏のところへ、生活費を無心に来るという。

 姉……R氏を頼って、実家のあった東北から、現在、H氏に移り住んでいる。2人の子
どもがいるが、夫に先だたれ、R氏は、毎月、10万円前後の援助しているという。

 三男の兄……子どもは1人だが、現在は、年金暮らし。この兄も、ときどきR氏のとこ
ろへやってきては、小遣いをせびるという。

 が、それだけではない。R氏は、実家の生活もめんどうをみなければならなかった。父
親は15年ほど前に他界したが、そのあと、R氏は、母親のめんどうもみることになった。
毎月の仕送りのほか、実家の建てなおし費用、さらには法事、冠婚葬祭の費用なども、R
氏がすべて、負担した。「盆と暮れには、2つの寺に、供養を送金していました」と。

 で、その母親だが、最後は、R氏の家で過ごした。ふつうの母親ではなかったという。
気位だけは、やたらと高く、死ぬまでR氏の妻を、「女中か、さもなければ、召使いのよう
に扱っていた」(R氏の妻談)とのこと。

たとえば果物でジュースを作らせるときも、母親の目の前で、ジュースを作らせたとい
う。「何が入っているかわからないものは、飲まない」と、母親は言ったという。そのた
めR氏の妻は、わざわざ寝床の横に、果物やジューサーをもってきて、そこでジュース
を作ったという。

 R氏は、こう言う。「私が一家のめんどうをみてきたようなものです。しかし現在に至る
まで、それが当たり前になってしまっていて、だれも、感謝してくれたことがありません」
と。

 たとえば長男の2人の息子たちの学費を、R氏は負担したが、その2人の息子たちから
は、一度とて、礼状が届いたことはないという。「兄は、私がお金を出したということすら、
自分の息子たちには話していないのではないでしょうか」と言った。

●貧者の論理

 この世界には、貧者の論理というものがある。たとえば富者と貧者がいたとする。その
(差)がさほどないときは、保護、依存の関係は、生まれにくい。しかしその(差)があ
る程度大きく、目立つようになると、そこに保護、依存の関係が生まれる。

 が、一度、その関係ができると、それが当たり前の関係として、ひとり歩きを始める。
保護されるほうは、「依存するのが当たり前」と考える。保護する側も、「保護するのが当
たり前」と考える。

 感謝されるのは、最初の一時だけ。つまりこうして富者は、貧者の生活全般のめんどう
をみるようになる。現在のR氏が、そういう状態にある。

 私が、「どうしてそこまで責任を負うのですか」と聞くと、R氏の妻は、笑いながら、こ
う言った。「一家心中でもされたら困りますから」と。一家心中でもされると、「R家」の
名前に、キズがつくというのだ。しかしその言葉は、R氏の兄や姉たちから出たものと考
えてよい。言葉巧みに、そういう言い方をしながら、R氏を脅迫しているらしい(?)。多
分、こう言って、R氏に泣きついているのだろう。

 「このままでは、一家心中しなければならない。助けてほしい」と。

 では、なぜ、感謝しないのか?

 ここにも書いたように、その(差)が、許容範囲にある間は、対等意識を、たがいにも
つ。自尊心も、そこから生まれる。しかしその(差)が、許容範囲を超えると、突然、対
等意識は崩壊し、自尊心は、ねたみに変わる。「お前だけがいい生活するのは、おかしい」
と。

 このことは、国際関係をみればわかる。毎年、日本は、数兆円というお金を、世界にバ
ラまいている。しかしそういう日本に対して、感謝している国は、ほとんど、ない。実に
バカげた話だが、それが現実と考えてよい。

●保護と依存

 子育ての世界では、保護と依存の関係ができやすい。ある夫婦は、結婚と同時に、親に
家を新築してもらっている。が、それだけではない。現在、上の子どもが6歳になったが、
毎月、5〜10万円のお金を、親たちから援助してもらっている。

 こういうケースは、現在、決して、珍しくない。

 では、なぜ、そういう関係ができるかだが、親自身も依存心が強いからと考えてよい。
つまり、親自身が依存心が強いため、子どもの依存心に甘くなる。たとえばこんなケース
がある。

 俗に言う「甘えん坊」という子どもがいる。何かにつけ依存心が強く、親に対して、「マ
マ〜、ママ〜」と甘えたりする。ミルクがこぼれても、自分で拭くということはしない。「こ
ぼれたア!」と言うだけで、その場で、じっとしている。

 こういうケースのばあい、親にそれを指摘しても、ほとんど意味がない。親自身が依存
心が強く、ベタベタと親に甘える子どもほど、(かわいい子)イコール、(できのよい子)
と考える。だからこのタイプの親は、臆面もなく、こう言う。

 「私は子どもを愛しています。子どものためなら、どんな犠牲も、いといません」と。

 つまり子どもに尽くす(?)ことを、このタイプの親は、生きがいにしている。だから
子どものもつ依存性を問題にしても、意味がない。

●再びR氏のケース

 若いころ、華僑を父親にもつ友人(マレーシアン中国人)が、こう言った。「華僑は、ぜ
ったいに、金持ちであることを、見せびらかさない」と。

 だから家でも、玄関口は、実に質素。鉄格子のシャッターがあるだけ。が、しかしほん
んの数メートル、廊下を歩いて、ドアを開けてみると、ビックリ! そこは大理石ででき
た、大御殿!

 同じような家を、台湾でも見たことがある。だから華僑は、安易に、人を自分の家の中
には入れない。華僑は華僑どうしが集まり、たがいに同じレベルで、富を共有する。

 つまり彼らは、人間がもつ(ねたみ)の恐ろしさを、身をもって知っている。ときには、
それが暴動の引き金を引くこともある。

 同じように、R氏の兄弟たちも、R氏の豪勢な生活ぶりを見るたびに、その(ねたみ)
を覚えたらしい。が、一度、そういう感情をもってしまうと、今度は、「相手から奪えるも
のは、奪え」という心境に変化する(?)。

 そこは人間の欲望が渦を巻く世界。ふつうの世界ではない。よい例が、遺産相続。兄弟、
姉妹の間で、血みどろの争奪戦を繰りかえしているケースとなると、それこそゴマンとあ
る。

 結局は、R氏がもつ親分肌というか、面倒見のよさが、兄弟たちに、依存心をもたせて
しまったということではないだろうか。最初は、わずかな額だったかもしれない。「私が払
うよ」という気前のよさが、やがて、爆発的にふくらんでしまった。

 R氏とR氏の奥さんの話を聞いているうちに、私も、気が重くなってしまった。R氏の
奥さんは、こう言った。「金銭的な負担感というよりは、社会的負担感に苦しみました」と。
つまり相手がそれなりに喜んだり、感謝してくれるなら、お金を出すということについて、
負担感は覚えない。しかしそれがないと、今度は、「医者だから」という立場だけで、お金
を出さねばならない。その重圧感は、相当なものだ、と。

 私も額こそちがうが、同じような経験を、22、3歳のときからしている。私も、収入
の約半分を、実家へ仕送りしていた。当初は、喜んでそれをしていたが、やがて、それは
義務感へと変化し、社会的重圧感となっていった。

だから結論として、ここで言えることは、人間関係というのは、いつも整理しながら、
明るくさっぱりとした状態にしておくということ。とくにここでいう、保護、依存の関
係には、注意したほうがよい。

 一度、その関係ができたら最後、その関係は、ぜったいに、しぼむことはない。死ぬま
でつづく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
保護 依存 保護と依存の関係 子どもの依存性 子供の依存心)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝(12月8日・雑感)

+++++++++++++++++

ぼんやりと、あれこれ、頭の中に
浮かんできたことを、書きとめる。

深く考えない。いつものように、
あちことを調べながら書くというの
も、今朝は、めんどうに感ずる。

ただの雑感。

+++++++++++++++++

●健康

 昨日(7日)は、自宅から教室まで、歩いてみた。風のない、どんよりと曇った日だっ
た。途中、佐鳴湖で何枚か、写真を撮った。

 が、ふと前を見ると、一人の男性(75歳くらい)が、妻らしき女性に先導されて、歩
いていた。昔、子ども会か何かで、世話になった人である。会釈したみたが、反応はなか
った。加えて、歩き方も、ふつうではない。

 「脳梗塞かな?」と思ったが、私は、そのまま視線をはずした。女性とは面識はない。
その女性は、どこか、けげんそうな顔で、私を見つめていた。

 いやな気分だ。いやな病気だ。脳梗塞になると、人間が人間でなくなってしまう。それ
に、「治る」ということはない。「私も気をつけよう」と思うが、何を、どう気をつけたら
よいのか。みな、私以上に、健康には気をつかっている。が、それでも、脳梗塞になる人
は、なる。私だけが例外ということは、ありえない。


●談合

 「談合は悪」と決めてかかる人は、多い。しかし効率的な部分も、ないわけではない。
もしすべての公共事業を、厳密に、入札制度だけでしていたら、自治体の行政機能は、ど
うなるか。それだけでマヒしてしまうかもしれない。

 大きな仕事もあれば、小さな仕事もある。

 悪いのは、そういう談合に群がって私腹を肥やす、役人たちである。そういう役人たち
に対しては、厳罰主義で臨むのがよい。あるいは公共事業を担当する部署を、完全に透明
化し、民間の監視が行き届くようにすればよい。

 そうすれば、談合は減るだろうし、その分だけ、税金の無駄づかいは少なくなる。


●金大中

 韓国の金大中、前大統領が、さかんにアメリカを非難している。「米朝、直接交渉をしろ」
と。

 あの人も、自国の立場が、まったくわかっていない。K国が核兵器をもてば、いちばん
困るのは韓国のはずである。反対に、どうしてアメリカが、韓国の平和と安全に、責任を
もたねばならないのか。K国の核兵器開発阻止に、責任をもたねばならないのか。

 そんなに直接交渉とやらをしたかったら、自分ですればよい。自分で、K国の核兵器開
発を、阻止すればよい。

 今、韓国がすべきことは、アメリカに頭をさげて、お願いすることである。アメリカに
協力することである。

 太陽政策にせよ、包容政策にせよ、完全に、行き詰っている。与党U党の支持率が、一
桁台(8%前後)というのが、その証拠である。(たったの8%だぞ!)


●韓国のバブル経済

 その韓国では、今、(1)ウォン高、(2)住宅地、住宅の価格高騰、(3)金利の高止ま
りがつづいている。わかりやすく言えば、日本のバブル経済期、そっくり!

 ただひとつだけ大きくちがうのは、日本では、バブル経済崩壊とともに、銀行が巨額の
不良債権をかかえることになったが、韓国では、このままバブル経済崩壊ともなれば、個
人が巨額の負債をかかえることになるだろうということ。すでにその兆候が、現れ始めて
いる。

 で、どうせ崩壊するなら、早ければ早いほどよい。つまりその分だけ被害が少なくてす
む。さてさて、この先、どうなることやら! 私は、07年のうちには、韓国のバブル経
済は崩壊するのではないかと思っている。


●体罰

 学校の先生たちが萎縮している。学校教育そのものが、マヒしているところさえある。
いじめ、体罰とつづいて、今度は自殺問題。その前には、学級崩壊があった。

 そのたびに、マスコミや親たちは、容赦なく、学校を攻撃する。しかし、学校を攻撃し
ても、何も、問題は解決しない。それがわからなければ、自分の立場で、ものを考えてみ
ることだ。

 たった1人か2人の息子や娘をもてあましている親が、30人前後も、1人の教師に押
しつけて、「しっかりめんどうをみろ」は、ない。

 母親にしても、約50%が、自分の子どもに体罰を加えているのがわかっている。親子
でも、会話のない家庭となると、ゴマンんとある。ほとんどが、そうではないのか。

 体罰はともかくも、ある程度のバツ、あるいは、ある程度の威圧は、教育には、欠かせ
ない。たとえば私の教室でも、最近、ヨーヨーの遊び方を教えているが、中には、あのヨ
ーヨーを、ビュンビュンと振りまわして遊ぶ子どもがいる。

 そういう子どもに向かって、「そういうことはしないでください」と、やさしく言っても、
効果はない。だから、いきおい、大声で、怒鳴りつけることになる。それでも言うことを
聞かなければ、つかまえて、尻を叩くしかない。そのことでほかの子どもがケガでもした
ら、どうなる?

 教師と生徒、それに親との間に信頼関係があれば、体罰も、許されるべきである。そう
いう意味では、今、問題になっているのは、体罰ではない。今、問題になっているのは、
信頼関係が崩壊していることである。

 その信頼関係だが、(作るもの)であって、(向こうからやってくるもの)ではない。学
校を批判する前に、親たちにも、やるべきことが山のようにあるのではないのか。


●何でも先取りでやる

 したいこと、しなければならないこと、それに楽しいことは、何でも、先取りでやる。
それが私のモットーにもなっている。決して、明日に回さない。来週に回さない。

 ……ということで、今日の夜から、日曜日の夜まで、予定がぎっしりと詰まっている。

 がんばります!

 では、今朝の雑感は、おしまい! GOOD MORNING!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●硫黄島(いおうとう)

++++++++++++++++

昨夜遅く、クリント・イーストウッド
監督の、『父親たちの星条旗』を見てきた。

家に帰ってきたのが、深夜の12時少し前。

風邪気味で、鼻水をたらしながらの
映画鑑賞ということになった。

++++++++++++++++

 クリント・イーストウッド、つまり、「Clint Eastwood」の文字を並び替
えると、「Old West Action」となる。つまりクリント・イーストウッドと
いう名前は、アナグラム(文字の並び替え)でできた名前、ということだそうだ(ウィキ
ペディア百科事典)。

 それはともかくも、私は『ローハイド』(テレビ映画)時代から、彼のファンだが、今回
の『父親たちの星条旗』を見て、ますますクリント・イーストウッドが好きになった。こ
の映画は、アメリカ側から見た硫黄島と、日本側から見た硫黄島の2部作になっているそ
うだ。日本側から見た硫黄島の、『硫黄島からの手紙』は、早くも2006年度最優秀賞作
品に選ばれている。アカデミー賞受賞の可能性は、高い!

 それにしても、すごいというか、迫力のある映画だった。いろいろ考えさせられたが、
頭の中は、まだ混乱している。が、あえて言うなら、こういうことになる。つまり『父親
たちの星条旗』を通して、クリント・イーストウッドは、「ヒーロー(英雄)とは何か」、
それを私たちに繰りかえし、問いかけている、と。

 ヒーローは、作られ、そして、用がなくなれば、容赦なく、捨てられる。……私は、心
のどこかで、ふと、サッカー選手たちのことを思い浮かべた。勝てば官軍だが、負ければ、
反対にボロクソに叩かれる。先のワールドカップの試合でも、予選落ちしたこともあって、
成田空港で選手たちを出迎えた男性サポーターは、ほとんどいなかったという。

 わかりやすく言うと、ヒーローになるかどうかは、あくまでも結果。本人の問題ではな
い。またその結果には、ほとんど意味はない。大切なのは、そこに至るプロセス。あくま
でも「私は私」。どこまでいっても、「私は私」。

 そしてその一方で、つまり、この映画は、ヒーローとは何かを問うことによって、同時
に、「戦争とは何か」を、私たちに問いかけている。私といっしょに映画を見にいったワイ
フは、はからずも、端的にこう言った。「戦争で死んでいった若い人たちがかわいそうね」
と。

 この映画は、そういう映画である。

 2部作目の、『硫黄島からの手紙』(日本側から見た硫黄島)は、今日(12月9日)、劇
場で封切りになる。

 私は、絶対、この映画を見に行くぞ!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●ホテル・グxxx

 去年、K市の郊外に、大きなホテルができた。名前は、「ホテル・グxxx」。何かおか
しいなとは思っていたが、昨日、看板を見て、ビックリ!

 そこには英語で、「Hotel Gxxxx」とあった。まさかと思って、すぐ電子手帳
(私の携帯電話には、電子手帳の機能がついている)を使って調べてみると、こうあった。

 「gxxxx……死、墓、墓穴」と。

 もうひとつ同じ「gxxxx」には、「重大な、危険な」という意味もあるが、こちらは、
形容詞。それにしても、「Hotel Gxxxx」とは! 

 同じような名前だが、全国のあちこちに行くと、「何とか、ターミナル・ホテル」という
のがある。「ターミナル」というのは、「終着駅の」という意味だが、「ターミナル・ホテル」
となると、病気でも末期の人が泊まる、「終末ホテル」(?)という意味になる。あるアメ
リカ人はこう言った。「私は、ぜったいにそういう名前のホテルにだけには、泊まらない」
と。

 さらに最近、ある中学校の校長が退職した。その慰労会ということなのだろう。招待状
をもらって、これまた私は、ビックリ! そこには、「○○先生、メモーリアル・パーティ」
とあった。

 「メモーリアル・パーティ」というと、死んだ人に対してする追悼式を意味する。それ
にしても、まだ生きている人に対して、「メモーリアル・パーティ」とは!

 ついでにもうひとつ。

 先週、あるカナダ人と、いっしょに食事をした。そのときのこと。そのカナダ人が、こ
んな話をしてくれた。

 「日本へ来て、いちばん驚いたのは、日本人が、みな、覚せい剤を飲んでいることを知
ったことだ」と。

 覚せい剤のことを、英語では、「Acid(アッシド)」という。が、日本では、「乳酸飲
料」のことを、「Acid Milk」と書く。そのカナダ人は、それを、「覚せい剤入り
ミルク」と誤解した。

 
●実話?

 私はいろいろな親や子どもの話を書く。自分のことを書くときは、本当のことを書くが、
他人のことを書くときは、いくつかの話を混ぜたり、架空の人物をつくりあげて書く。ほ
かの先生から聞いた話を、自分の経験のようにして書くこともある。もちろんその反対の
こともある。

 ウソと言えばウソだが、そんなことは、この世界では常識。他人のことで、もし本当の
ことを書いたら、それこそ、たいへんなことになる。その人であることを臭わせただけで、
名誉毀損(きそん)で訴えられるかもしれない。

 が、ときどき、それでも、からんでくる人がいる。「私のことを書いた」と。

 しかし私は、現在の生徒やその親については、ぜったいに批評や批判はしない。その原
則だけは、しっかりと守っている。もしそれでも、「私のこと?」と思う人がいたとしたら、
それはまさしく偶然の一致ということになる。

 そこでいちばん困るのが、「転載しないでほしい。引用も厳禁」という注意書きのついた
メールをもらうこと。

 私は、そういうメールに対しては、返事を書かない。その前に読まない。記憶のどこか
に残るだけで、あとでまずいことになる。コピーしたりして、記録に残すのは、さらに、
まずい。そのまま、サッと削除する。忘れる。

 コンピュータの中には、ぜったいに、記録に残してまずいものは、残さない。どこでど
う情報が漏れるかということよりも、自分がどこでどう記録したかを、忘れてしまうから
である。何といっても、コンピュータの中には、ぼう大な量の情報がつまっている。あと
で読みかえしたとき、そのときのいきさつを、忘れてしまう。それがこわい。

 ただ反対に、あまりにもウソっぽい話のばあいは、「これは実話です」と、断りを入れる
ことはある。しかし私の書く文章では、めったにそういうことはない。

 そういえば、2年ほど前、それまで2000人以上も読者がいた電子マガジンが、突然、
廃刊になったことがある。あとで理由を聞くと、何かのことで、ある飲食店を批判したの
が理由だという。その飲食店の店主が、「お前の書いた記事で、客が減った。どうしてくれ
る」と、かみついてきたからだという。

 それでその人は、電子マガジンを廃刊にしてしまった。この世界では、よくある話であ
る。


●ワード・エクセル・パワーポイント(MSオフィイス)

 コンピュータで、文章を書くというと、MS社オフィス、つまりワードやエクセルが定
番だが、しかし、今度、日本のKingsoft社から、機能的にも、ワードやエクセル
にまさるとも劣らないソフトが、発売になる。

 定価は、何と、ワードやエクセルの10分の1以下! ダウンロード版で、4980円。
しかもパワーポイントと同等の能力をもつ、プリゼンテーション・ソフトつき。

 現在、そのベータ版(発売前の無料版)が、公開されている。

 で、さっそく、私もダウンロードして、試してみた。使い勝手は、ワードとエクセルと
まったく同じ。

 驚いた。と、同時に、うれしかった。だいたいにおいて、MSオフィスのばあい、もっ
とも安価な(Personal Edition)でさえ、4〜5万円もする。おかしい! 今では、6〜8
万円も出せば、ふつうのパソコンが買える。ワードやエクセルをつけただけで、それが1
0〜12万円もなる。

 ちなみに、キングソフト社のOffice 2007のベータ版は、

 http://www.kingsoft.jp/office/

 で、入手できる。

 ほかに、

 現在発売中のワープロ・計算機ソフトとしては、StarSuite8、一太郎、ATOK200
6、WZ Editor 5.0などがある(Yomiuri PC 1月号)。

 さらに今度、グーグルでも、ワープロソフトが、無料配布されるという話もある。

 がんばれ、日本! 

 ……しかしこれで、店頭に並ぶ、N社やF社のパソコンは、ますます売れなくなること
だろう。N社やF社は、MSオフィスを、パソコンとセット販売している。つまりその分
だけ、ぐんと割高!


●マスコミよ、恥を知れ!

 12月9日、1人の中学生が、自宅のあるマンションから飛び降りて、死んだ。遺書に
は、「ぜったい生まれ変わってやる。ほんとうにごめん」とあったという(読売新聞)。

 「生まれ変わる?」……だれが、こんなバカげた話を、中学生という子どもに信じこま
せた?

 あのね、こうした生まれ変わるだなんのと、バカな話は、子どもの前では、してはいけ
ないの! 霊だとか、霊魂だとか、わけのわからない話を、子どもの前では、してはいけ
ないの! 占いも、まじないも、そうだ!

 どうして、そんな常識が、わからない! 「生きる」ということは、どこまでも現実的
なこと。現実と空想を混濁させるような話は、子どもの前では、してはいけないの。

 あの世があるのか、ないのか、実のところ私にもわからない。しかし「ある」と証明さ
れたわけでもないものを前提に生きるのも、バカげている。いわんや、生まれ変わること
を信じて、自分の命を断つとは!

 アホなテレビ番組を見ればよい。そこには、いかにもそれらしいオバチャンが、バカな
ことばかりしゃべっている。娯楽番組の範囲にあるならまだしも、大のおとなが、オバチ
ャンの作り話を本気にして、涙ぐんだり、ハイハイと真剣な顔をして、うなずいたりして
いる。

 そういうのを見て、子どもは、アホな作り話を信じてしまう。純真な子どもほど、そう
だ。今度自殺した中学生は、その犠牲者の1人と言ってもよい。

 恥を知れ、マスコミ! その責任の一端は、そういう番組を、無分別にたれ流す、君た
ちにある! 少しはその少年の遺族の身になって、ものを考えろ!


●衰退する浜松

 少し前、衰退するこの浜松市について書いた。それについて、何人かの人たちから、コ
メントが寄せられた。

 「Y社のばあい、自動車工場だけではなく、開発部門も、別の都市に移された」
 「ふつうラッシュアワーというと、朝は、都市に向かい、夕方は郊外に向かうもの。だ
がこの浜松市では、それが反対になっている。朝のラッシュアワー時には、みな、郊外(隣
接する町)に向かって、車を走らせている」
 「中心部のデパートが、経営困難な状況になっている」などなど。

 暗い話ばかり。

 さらに「賃金の安い外国人労働者たちが、解雇され、困っている。またそういう人たち
の中から、犯罪に走る人たちがふえている」という話まで。

 いったい、市長以下、市の議員たちは、この10年間、何をしていたというのか!

 「音楽の町」だの、「花と緑の町」だのと、浮かれた話ばかりしているうちに、浜松市は、
こうなってしまった。あるいはそういう浮かれた話で、自分たちの失政を、カモフラージ
ュしていたとでもいうのか。

 S自動車やH自動車の社長を責める発言も、あった。「もう少し、利益を浜松に還元すべ
きだ」「自分たちが生まれ育った浜松市のことを考えてほしい」と。

 しかし自動車会社は、あくまでも「会社」。浜松というより、日本、日本というより、世
界を相手に仕事をしている。そういう自動車会社の住みにくい環境をつくった責任は、こ
の浜松市にある。

 考えてみれば、あの豊田佐吉も、浜松市ではないが、浜松市に隣接する湖西市出身であ
る。その豊田佐吉の流れをくむトヨタ自動車は、愛知県の豊田市にある。聞くところによ
ると、「ここ(浜松市)では工場をつくらない」と言って、この浜松市から出ていったとい
う。

 それにしても、この浜松市が、こんなひどい状態になっているとは、私も知らなかった。
ホント!


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●緊張感がいじめを助長する

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クラスの緊張感が高まれば高まるほど、
その一方で、いじめが増大するという。
そんな調査結果が、このほど、公表さ
れた(産経新聞)。

++++++++++++++++++

 クラスの緊張感が高まれば高まるほど、その一方で、いじめが増大するという。そんな
調査結果が、このほど公表された(産経新聞・06年12月6日)。

「いじめの発生は、学級の雰囲気に左右され、児童生徒が学校生活への不満を感じるクラ
スで、特定の子どもをはけ口にする傾向が強いことが12月5日、都留文科大学(山梨県)
の河村茂雄教授(心理学)の調査研究で明らかになった。

中学では学級崩壊の兆候が見え始めると、いじめの発生は約5倍に跳ねあがる。河村教
授は『いじめは被害者と加害者という二者関係でなく、学級という集団の問題としてと
らえ、対処することが重要』と指摘している」と。 

 イギリスの教育格言にも、『抑圧は悪魔をつくる』というのがある。慢性的に抑圧感がた
まると、子どもの心は悪魔的になる。いじめもそのひとつということになる。

 で、さらに、河村教授はつぎのように調査結果を公表している。

「平成7年度以降、約10万人の児童生徒を対象に心理テストを行い、学級でのトラブ
ルの大小や児童生徒の意欲の高さなどから、学級の状態を、

(1)子ども同士の人間関係がよく、学級運営も正常な(満足型)
(2)教師が統率するタイプの(管理型)
(3)教師とも友達感覚が漂うタイプの(なれ合い型)、などに分類した。

これまでの研究では、(管理型)は小学校で24%、中学校では58%、(なれあい型)
は小学校で45%、中学校で16%を占める。

 このうち16年度から2年間にわたり、約1万人を対象にいじめについて調べた結果、
小学生では『長い間いじめられている』『とてもつらい』と答えた児童が40人学級で、
1人の割合となる、3・6%を占めた。中学生は2%で、8割の学級でいじめを訴えて
いた。

 いじめと学級状態との関係では、(満足型)の学級でのいじめ発生割合を1とした場合、
(管理型)は小学校で2・5倍、中学校で1・6倍。

(なれあい型)では小学校3・6倍、中学は2・1倍で、学級崩壊の兆候が見え始めると、
中学では5・1倍に急増した」と。


 たいへん興味深い調査結果なので、さらにそのまま産経新聞から転載させてもらう。

 「学級内のストレスの要因をみると、全般的には『授業がわからない。興味がもてない』
が多く、(管理型)ではそれに加えて、『教師が威圧的。特定の子どもだけが認められてい
る』『授業や学級生活がワンパターン。判で押した生活で刺激に乏しい』といった不満があ
った。

 (なれあい型)にみられるストレスには、『子ども同士の陰口が多い』『ルールが守られ
ていない』『学級に親しみが感じられない』が並んだ。

 いじめと感じている児童生徒に『誰からいじめられたか』をたずねたところ、小学生の
50%弱、中学生の30%弱が「同じクラスのいろいろな人」と回答。いじめられている
子どもは集団生活のなかで、みんなの不満のはけ口にされている構図が、浮き彫りとなっ
た。

 河村教授は今回の調査結果について、『いじめ問題は、加害者対被害者という二者関係で
とらえられがちだが、被害者はみんなから『いじめられた』と感じている。学級でいじめ
は埋没して見えにくく、表面化しても周囲が自覚に乏しいのはこのためだろう。とくに(な
れ合い型)では、実際には子どもが傷ついているのに、教師が見逃したり、軽い気持ちで
加担したりする危険がある』と指摘している」(産経新聞)と。

+++++++++++++

 調査内容が入り組んでいて、理解しづらい点もあるので、わかりやすくまとめると、こうなる。

(3)クラスの緊張感が高まれば高まるほど、いじめの発生件数が、ふえる。
(4)学級崩壊が進むと、いじめの発生件数が、ふえる。
(5)(満足型)にくらべると、(管理型)、(なれあい型)では、それぞれ2・5倍、3・
(6)6倍と、いじめの発生件数が、ふえる(小学校)。

 興味深いのは、(管理型)よりも、(なれあい型)のほうが、いじめの発生件数が多いと
いうこと。10万人の児童について調べたということだから、ぼう大な裏づけ調査があっ
ての意見だと思うが、(なれあい)とはどういうことなのか、今ひとつ、意味がよくわから
ない。

 「だらしない教室運営」ということか? 新聞には、「教師とも友達感覚が漂うタイプ」
とある。教師と生徒が、信頼関係で結ばれているなら、友として言いたいことを言いあう
というのは、悪いことではない。

 今回のこの調査は、常識的には、「そうだろうな」とわかっていたことを、数字の上で証
明したという点で、たいへん参考になる。

それにしても、10万人とは! 1クラスを30人として計算しても、3300クラス
分以上ということになる。それにしても、すごい調査である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
緊張感 いじめ いじめ発生 管理型 満足型 なれあい型)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●4年前の原稿

+++++++++++++++++++

日付は、2002年11月になっている。
4年前の原稿である。

題して、『子育ての目標』。

あのころは、こんなことを考えていたのかと、
懐かしくも、それを読みかえす。

+++++++++++++++++++


●子育ての目標は、自立したよき家庭人をつくること。その原点を、もう一度確認しよう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


【KJさんからの相談より】

+++++++++++++++++++++++++++++

長野県松本市のKJさんより、こんなメールが届いています。
軽い神経症を発症しているU男君(長男、現在中1の男子)に
ついて、アドバイスしたあと、いただいたメールです。
今日は、この問題について、考えます。

+++++++++++++++++++++++++++++

こんばんは! はやし先生、

U男(長男)へのご丁寧なアドバイス本当に有難うございました。
神経症と不登校のページ何度も 読み、とても勇気づけられました。
私が、本人をいかに追いつめていたかが、明白になり 反省しています。

U男は、小3からサッカーを初め、そのすばしっこさから少年団ではいつもレギュラーと
して監督に起用して頂いていました。
本人にとって サッカーが全てで、「夢はサッカー選手」でした。5年の終わりに、監督
の推薦をうけ、プロのコーチからトレーニングさせて頂く機会を得ました。
本人の意思で、参加すると言ったのに、数回で「もう止める」というのです。

「楽しいサッカーじゃない。周りの子が、あまりにうまく、レベルがちがうから、
一緒にやると迷惑かける。いじめにもあっている。」と…。

同じ地区から参加している父母の母親は、カンカンでした。

「子供は、つらい時、逃げたいって言います。うちの子だって行きたくないって言ったこ
とがあったけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正しい方向へ導いて
あげる事こそが、親としての使命なのではありませんか?しかも行きたくても行けなかっ
たお子さんもいるのですよ! 監督の推薦を受けてもいるのだし、監督にも、今後の推薦
を受けられるかどうかという意味で、チームにも迷惑をかけることになるのですよ。そん
なに簡単に辞められるのですか?」と… 

本人には「もう少しがんばってごらん」と励ましたりしたのですが、全くの逆効果でした。
代表、監督、コーチ父兄に謝罪し辞めました。

少年団でのサッカーは、楽しく6年まで続け、卒団しました。
JY(ジュニアユース)はまた、本人の意思で入団しました。
が、3ヶ月しないうちに辞めるといいだしました。
1年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応援、監督に「動きが
悪い、態度がなってない」といつも眼をつけられていたようです。
決定的だったのは、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうです。
俗に言う熱血指導なのでしょうが、本人は、「もう、小学校の時のような楽しいサッカー
じゃなくなちゃった。
動きがだめだと言われるからこう動けば良いかと思って動くとそれもダメだと言う。
監督の言うようにはどうやっても無理なんだ。完全に自信無くしちゃったよ。」
その間、親として、本人の心の叫びを受止められたかと言うとノーである。

脳裏にプロのトレーニングを止めるとき、父兄から非難された悪夢が蘇りました。
はやし先生の言う「わだかまり」である。

追い詰めたり、叱咤激励したり…一言でも「それが、あなたのだした結論ならやめればい
いよ。」と、子供を信頼し、任せていれば、神経症に至らなかったかもしれませんね。
大切な事に気づかせて下さり、本当に有難うございます。

10月上旬、ずーっと休部していたU男に、代表から、電話がはいった。
「どうしても1名メンバーが足りず、困っている。公式戦出場のために、是非試合に出て
ほしい。」と…いままで、JYに入部してから1度も試合に出たことがないのだ。
が、本人が出なければ、棄権になってしまうのだ。
「どうすりゃいい?すぐに返事の電話を待ってるって…」
監督は旅行中で不在、代表が代理監督を務めるという。
「自分で決めると良いよ。出れるかどうかは自分次第だからネ!そして、もうそろそろ今
後続けるか辞めるか結論をださないとネ!」と私
「じゃあ、試合には出る、それで辞める。」決心には、かなりの勇気が必要だったろう。
精一杯考えて、チームが、棄権になることだけは避けたい思いだったのだろう。
我が子ながら、心から「えらい!」と言ってだきしめてあげたい衝動にかられた。(が、
できなかった)

試合当日、辞める挨拶もかねて、試合会場に応援に行った。
案の定、練習を積み重ねてきたチームメイトとは、力の差は歴然だった。
何度も倒れながら、精一杯グランドを走った。チームも本人を信頼し、パスを出してくれ
る。
心無い父兄の声、「何?なんであんなにバタバタ倒れるの。
しばらく練習してないから?もう、疲れちゃってるみたいね!
なんであんなとこパス出してるの?なんだ、一応彼がいたんだ。(身長が低く遠くからは
見えにくい)」さらに「あの陰の監督に黙って彼をだしちゃっていいの?
知らないよー。」(旅行中の監督にU男は、おまえなんて絶対に試合にはださんといわれ
ていたらしい。)

相手は強豪チームで、結果は大差で負けた。
父兄、代表に挨拶し、この日をもって、やめた。
このあと、無気力な様子がみられ、現在に至っている。
心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。
今は、U男の心の声にじっと耳をすまし、寄り添えればと思っている。
今日、「ただいまー」と帰り、「陸上、かなり疲れたヨ!」と言うU男に、「大変だった
ね!ゆっくり休むといいよ!」と自然に答える事が出来た。

これもはやし先生のお蔭です。本当に有難う御座いました。
幸いにも、親子断絶度は、良好(ホントかナ?)
こんなに長くなってしまってすみません。
 
では、お休みなさい                  

(長野県松本市・KJより) 

+++++++++++++++++++++++++++

【失敗と挫折】 

●私のばあい

 もう一〇年になるだろうか。私はワイフと、テニスクラブに通うようになった。で、最
初のうちは、それなりに結構自由に、楽しむことができた。しかしそのうち、コーチが、
あれこれ言い始めた。「腕の曲げ方が悪い」「腰のひねり方が悪い」と。とたん、私はやる
気をなくした。「何も、私はウィンブルドンで出るつもりは、ないのだ!」と、言いそうに
なったが、やめた。同時に、そのテニスクラブも、やめた。

 私はもともと「球」を相手にするスポーツが、苦手。大嫌い。原因は、わかっている。
小学6年生のときだったか、いつか、野球をしていて、デッドボールを当てられたからだ。
それまでは軟式ボールを使っていたが、そのときは硬式ボールだった。まるで石をぶつけ
られたかのような衝撃だった。それでボールがこわくなってしまった。それで「球」が苦
手になってしまった。

 一度、こういう形で挫折(ざせつ)すると、(「挫折」というほど大げさなものではない
かもしれないが……)、この時期、それを修復するのは、容易ではない。「この時期」、つま
り少年少女期は、あっという間にすぎてしまう。何とかしようと思っているうちに、一年、
二年とたってしまう。私も高校を卒業するまで、結局は、あの野球だけは、好きになれな
かった。

●正しい道?

 子どもは、当然のことながら、未経験。そのときは何もわからず、あれこれとやりたが
る。親が「ピアノ教室へ行ってみる?」と聞いたりすると、「うん、やりたい」と言ってみ
たりする。しかしこの時点で、子どもの約束など、本気にしてはいけない。しばらくして
子どもが、「もうやめたい」と言ったりすると、親は、「あんたがちゃんと、約束したから
でしょ」と言ったりするが、それは酷というもの。あるいは中には、「一度始めたことを、
途中でやめるなんて、これから先、心配だ」と考える親もいる。しかしそんなに大げさに
考えてはいけない。

 このU男君のケースもそれにあたる。U男君の親に向かって、「うちの子だって行きたく
ないって言ったことがあったけど引きずってでも行かせましたヨ! ときには厳しく、正
しい方向へ導いてあげる事こそが、親としての使命なのではありませんか?」と言った人
がいる。私は子どもを教えさせてもらうようになって、もう30年以上になるが、親に向
かって、このように言ったことは、ただの一度もない。とても、言えない。だいたいにお
いて、いまだにその「正しい道」すらわからない。多分、U男君の親に向かって、そう言
った人は、すばらしい人格者なのだろう。私には、とてもまねできない。

 たかがサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか。どうしてもっと「楽しむ」
ということをしないのか。あえて言うなら、サッカーは、手段であって、目的ではない。
サッカーをとおして、温かい人間関係をつくれれば、それでいいではないか。またそうい
う人間関係におけるドラマのほうこそ、大切なのだ。私にもこんな経験がある。

●息子のサッカー教室

 息子の1人も、しばらくサッカークラブに通った。そのクラブの監督は、ある楽器メー
カーのサッカー部のキャプテンもしたことがある人だという。そこで話を聞くと、「ボラン
ティアでしているから、無料だ」と。私はこの言葉に感動した。「無料で、子どもを指導す
る」というのだ。私は私をはるかに超えた、すばらしい人格者を思い浮かべた。また最初
は、そういう目でその人物を見ていた。が、そのうち、様子がおかしいのに気づいた。

 その人物をA氏ならA氏としておこう。そのA氏の目的は、ただ一つ。「勝つ」ことだけ。
一応型どおりの指導はするが、素質がないとわかると、その子どもには、見向きもしない。
実のところ私の息子も、その1人だったが、結局は、そのクラブに1年以上通ったが、最
後まで、1度も公式の試合には出させてもらえなかった。

あとで話を聞くと、「あの監督は、盆暮れに、ある程度の現金をもっていかないとダメ」
と聞かされた。しかもそれも10万円単位だという。「10万円!」と驚いていると、「月
謝だってそれくらいでしょ! 毎週日曜日に、それくらい世話になっているのだから」
と。そういう監督に、子どもの「教育」を期待した私が、バカだった。

U男君の母親も、「1年としては、当然なのですが、下働きの雑用と、ベンチでの試合応
援、監督に『動きが悪い、態度がなってない』といつも眼をつけられていたようです。
決定的だったのは、練習の間中、だめだ、だめだと足でけられて完全否定されたそうで
す」と書いている。もちろんこういう否定的な見方ばかりしていてはいけない。中には
すばらしい監督やコーチがいて、すばらしい指導をしている人もいる。またそういうク
ラブで、鍛えられ、すばらしい子どもになった例も多い。

しかしその一方で、キズつき、挫折して子どもも多いのも事実。私の経験では、こうし
た経験が効を奏して、「よかった」「すばらしかった」という思いで、クラブを去って
いくのは、全体の、3〜4割程度ではないか。それと同じくらいの子どもが、「もうこ
りごり」という思いをもちながら、クラブを去っている。

●日本人の結果論

 日本では、チベット密教の影響からか、「結果」を大切にする。「結果こそ、すべて」
というわけである。「死に際の様子で、その人の一生が評価される」と教える宗教団体も
ある。しかし結果はあとからついてくるもの。たとえその結果が悪くても、その人の人生
がまちがっていたということにはならない。

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「いろいろやってみ
ましたが、すべてがムダでした」と。「音楽教室にも、算数教室にも、体操教室にも、進
学塾にも入れましたが、ムダでした」と。もしこんな論理がまかりとおるなら、その人が、
最後に交通事故か何かで、悲惨な死に方をしたら、すべてがムダだったということになっ
てしまう。しかしそんなことはありえない。大切なのは、そのプロセスなのだ。その中身
なのだ。

 が、実際には、日本人の体質としてしみついた「結果重視論」を、是正するのは、簡単
なことではない。ものの視点や考え方が、親から子どもへと、無意識のまま、代々と受け
継がれている。英語にも『終わりよければ、すべてよし』という格言がないわけではない。
しかしものの見方が、日本人とはかなり違う。

つぎのエッセーは、中日新聞に掲載してもらった記事である。話を先に進めるまえに、
それをここに転載する。内容がここに書いたことと少し重複するが、許してほしい。

+++++++++++++++++++++++++

●子育てプロセス論

 クルーザーに乗って、海に出る。ないだ海だ。しばらく遊んだあと、デッキの椅子に座
って、ビールを飲む。そういうときオーストラリア人は、ふとこう言う。「ヒロシ、ジス
イズ・ザ・ライフ(これが人生だ)」と。日本人ならこういうとき、「私は幸せだ」と言
いそうだが、彼らはこういうときは、「ハッピー」という言葉は使わない。

 私はここで「ライフ」を「人生」と訳したが、ライフにはもう一つの意味がある。「生
命」という意味である。つまり欧米人は人生イコール、生命と考え、その生命感がもっと
も充実したときを、人生という。何でもないような言葉だが、こうした見方、つまり人生
と生命を一体化したものの考え方は、彼らの生きざまに、大きな影響を与えている。

 少し前だが、こんなことをさかんに言う人がいた。「キリストは、最期は、はりつけに
なった。その死にざまが、彼の人生を象徴している。つまりキリスト教がまちがっている
という証拠だ」と。ある仏教系の宗教団体に属している信者だった。しかし本当にそうか。
この私とて、明日、交通事故か何かで、無惨な死に方をするかもしれない。しかし交通事
故などというものは、偶然と確率の問題だ。私がそういう死に方をしたところで、私の生
き方がまちがっていたということにはならない。

 ここで私は一人の信者の意見を書いたが、多くの日本人は、密教的なものの考え方の影
響を受けているから、結果を重視する。先の信者も、「死にぎわの様子で、その人の人生
がわかる」と言っていた。つまり少し飛躍するが、人生と生命を分けて考える。あるいは
人生の評価と生命の評価を、別々にする。教育の場で、それを考えてみよう。

 ある母親は、結果として自分の息子が、C大学へしか入れなかったことについて、「私
は教育に失敗しました」と言った。「いろいろやってはみましたが、みんな無駄でした」
とも。あるいは他人の子どもについて、こう言った人もいた。「あの親は子どもが小さい
ときから教育熱心だったが、たいしたことなかったね」と。

 そうではない。結果はあくまでも結果。大切なのは、そのプロセスだ。つまりその人が、
いかに「今」という人生の中で、自分を光り輝かせて生きているかということ、それが大
切なのだ。子どもについて言えば、その子どもが「今」という時を、いかに生き生きと生
きているかということ。結果はあとからついてくるもの。たとえ結果が不満足なものであ
ったとしても、それまでしてきたことが、否定されるものではない。

このケースで考えるなら、A大学であろうがC大学であろうが、そんなことで子どもの
評価は決まらない。仮にC大学であっても、彼がそれまでの人生を無駄にしたことには
ならない。むしろ勉強しかしない、勉強しかできない、勉強だけの生活をしてきた子ど
ものほうが、よっぽど人生を無駄にしている。たとえそれでA大学に進学できた、とし
てもだ。

 人生の評価は、「今」という時の中で、いかに光り輝いて、自分の人生を充実させるか
によって決まる。繰り返すが、結果(東洋的な思想でいう、人生の結論)は、あくまでも
結果。あとからついてくるもの。そんなものは、気にしてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++++

同じような立場で、もう一つ書いたのが、つぎのエッセー
である。これも中日新聞に掲載してもらったものである。

+++++++++++++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもな
っている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れて
しまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生
き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人が
いる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大
学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常
に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方その
ものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにする
ことができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、
結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わってい
た……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、
一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方
が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈
によるもので、異論のある人もいるかもしれない。

しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現
実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だ
け。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではな
いのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健
康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きるこ
とこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」
ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといって
も、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たと
えば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。
それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真
っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親た
ちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では
「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいい
のよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て
観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の
意味がわからないのではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++++++++++++++

●KJさんへ 

 このKJさんのメールに話をもどす。一つ気になるのは、KJさん自身の視点の中に、
子どもがいないこと。親意識が強すぎるというか、子どもの友として、子どもの横をいっ
しょに歩くという姿勢が、あまり感じられない(失礼!)。KJさん自身も、「その間、親
として、本人の心の叫びを受止められたかと言うとノーである」と書いている。

 この時点で忘れてはいけないことは、すでに子どもは、「学校」という大きなワクにしば
られているということ。その上、その学校の外で、ギューギューとしぼられたらたまらな
い。これはたとえて言うなら、会社員が仕事の外で、また別の仕事をもつようなもの。私
が先に書いた、「たかがサッカーではないか。たかがボール蹴りではないか」という意味は、
ここにある。将来、Jリーグへと思うなら話は別だが、そうでなければ、クラブはクラブ
として、楽しめばよい。才能のある子どもは、そういう状態でも伸びるし、ない子どもは、
いくらしぼっても、伸びない。こんな話もある。

 数か月前に、あるテレビ局が、アメリカのあるリトルリーグ(少年野球クラブ)を取材
していた。そのリトルリーグは、どこで試合しても、負けるだけ。勝ったためしがない。
しかし監督も、コーチも、選手も、そして親も、いっこうに気にしていない。それもその
はず。そのクラブのメンバーは、身体のどこかに障害をもった子どもたちばかりである。
しかも監督は、障害がひどくて、自信をなくし始めたような子どもほど、選手として前に
出す。そしてその子どもが、たまにヒットらしきものを打つと、みんなが小躍りして喜ぶ。
相手のチームの監督も、コーチも、そして選手たちも、小躍りして、いっしょに喜ぶ。ど
うして日本よ、どうして日本人よ、こうしたやさしさをもてない! どうしてもたないの
か! バカヤロー!

 結局、その違いがどこからくるかと言えば、まさに生きザマの違いということになる。
結果を重要視する日本人。プロセスや中身を大切にする欧米人。この違いは大きい。そし
てそれが、長野県の松本市という小さな町にまで、影響している。U男君のプレーを見た、
ほかの父母について、KJさんは、つぎのように書いている。

「心無い父母の声、『何?なんであんなにバタバタ倒れるの。しばらく練習してないか
ら? もう、疲れちゃってるみたいね! なんであんなとこパス出してるの? なんだ、
一応彼がいたんだ。(身長が低く遠くからは見えにくい)』と。さらに『あの陰の監督
に黙って彼をだしちゃっていいの? 知らないよー』と。(旅行中の監督にU男は、お
まえなんて絶対に試合にはださんといわれていたらしい。)」と。

 U男君のプレーをみながら、ほかの親たちは、笑うどころか、「陰の監督に内緒で出して
いいの?」と言ったというのだ。監督だけではない。それを見守る親たちも。「勝つこと」
イコール、結果しか考えていない。が、最後にKJさんは、こう結んでいる。

 「心がかなり傷ついたのだろう。大した事はないと軽く考えていた。今は、U男の心の
声にじっと耳をすまし、寄り添えればと思っている。今日、『ただいまー』と帰り、『陸
上、かなり疲れたヨ!』と言うU男に、『大変だったね!ゆっくり休むといいよ!』と自
然に答える事が出来た」と。

 おめでとう! KJさん。あなたはすばらしいお母さんになりましたね。おめでとう!
(02−11−8)

●教育のレベルは、いかに弱者にやさしい教育かで決まる。またそういう視点をふみはず
●して、教育のレベルを語ることはできない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


【日本人の結果主義】

+++++++++++++++++

日本人は、どうして結果ばかり追い求めるのか。
ビジネスの世界では、それはそれでしかたのないことかも
しれないが、こと子育ての場では、大切なのは
結果ではなく、そこに至るプロセス。

+++++++++++++++++

●結果主義

 あの世があるという前提で生きると、死に際は、まさにあの世への入り口ということに
なる。チベット密教で、死に際の様子を重視するのは、こういうところに理由がある。そ
のため、チベット密教の流れをくむ日本の仏教では、たとえばキリスト教を批判するとき、
決まってもちだすのが、キリストの十字架への張りつけである。「キリストは、最期はあの
ような、無惨な死に方をした。それがキリスト教はまちがっているという証拠だ」と。私
も学生のころ、地元の寺の僧侶に、そう聞かされたことがある。

 どちらが正しいかということを、ここで論じても意味がない。また私には、それを判断
する力はない。しかしこうした大乗仏教的な思想、つまり結果主義は、私たちの生活のあ
らゆる部分に影響を与えている。もちろん教育にも、そして子育てにも、である。

●ある母親の例

 ある母親は、自分の息子が高校受験に失敗したあと、こう言った。「すべてがムダでした」
と。「いろいろな教室に通わせました。家庭教師もつけました。高額な教材も買いました。
しかしムダでした」と。親がこうした心境になる背景には、ここに書いたような、結果主
義がある。ほかにも、例がある。その一つが、「産んでもらいました」「育ててもらいまし
た」という、日本人独特の、「もらいました」論である。少し飛躍した感じがしないでもな
いが、こういうことだ。

 「今、私がいるのは、親に産んでもらい、育ててもらったからだ」と言う人がいる。日
本人にはたいへんなじみのある言い方で、大半の人は、「そのとおり」と思っている。しか
しこの考え方は、あくまでも結果論にもとづいた考え方でしかない。実のところ、私も子
どものときから、いつも父や母に、そう言われて育った。「お前を、産んでやった」「育て
てやった」と。耳にタコができるほど、そう聞かされた。で、ある日、こう反発した。私
が中学生くらいのときではなかったかと思う。「いつ産んでくれと、頼んだ!」と。それを
言うと、母は激怒して、「親に向かって、何てこと言う!」と、私に大声で叫んだ。

 そこで親は、子どもを育てる過程でも、「教室へかよわせてやった」「家庭教師をつけて
やった」「高額な教材を買ってやった」と考える。実際、私なども、ことあるごとに、親に
「お前には、学費で、○百万円もかけたからな」と言われた。この段階で、子どもも、「教
室へ通わさせてもらいました」「家庭教師とつけてもらいました」「高額な教材を買っても
らいました」と思えば、たがいの関係は、うまくいく。しかし今の子どもたちはそうは、
思わない。その思わないところから、断絶が始まる。話が脱線したが、親子の断絶にも、
この結果主義が関係している。

 もともと子どもをもうけるかもうけないかを決めるのは、親の意思ではないのか。しか
も子どもをつくるといっても、私たちが直接組み立てるわけではない。男の立場でいうな
ら、セックスをして、射精すれば、それでこと足りる。少なくとも、私はそれ以上のこと
はしなかった。女の立場でも、妊娠中はたしかに苦しいが、しかしそれとて生まれてくる
子どもに頼まれたからそうしているのではなく、むしろ生まれてくる子どもが楽しみだか
ら、そうしている。子どもは、まさに夫婦の愛の結晶ということになる。

 それがあるときから、一転して、親は、子どもに向かって、「産んでやった」という。こ
の親の変化は、いつどのようにして生まれるのか。いや、もしその女性が、いやいや、そ
れこそあと継ぎか何かのために、不本意ながら子どもをもうけたというのであれば、こう
した考え方もあるかもしれない。しかしそうでなければ、つまり望んで、自分の意思で子
どもをもうければ、もともとこういう発想は生まれない。子どもが生まれてきたことにつ
いて、「ありがとう」と言うことはあっても、「産んでやった」とは、決して思わない。

●親がいるから子どもがいる

 そこでさらに考えを推し進めていくと、この問題は、「親がいるから子どもがいる」とい
う考え方と、「生まれてみたら、親がいた」という考え方の、どちらかに集約されるのがわ
かる。親の立場から、一方的に子どもを、「自分のモノ」と見る考え方と、子どもの側から
見て、子どもの世界を中心に、親を認識するという考え方といってもよい。日本では伝統
的に、前者の考え方をする。で、こうした考え方も、つまるところ、結果主義的な見方と
いうこともできる。さらに念をおすと、こういうことになる。

 親がいるから、子どもがいる。だから子どもにとって、親は絶対。そういう意味で子ど
もは、服従的であればあるほど、できのよい子どもということになる。日本独得の親孝行
論も、こういう流れの中で生まれた。美化された。つまりこの時点で、「子どもがいる」の
は、「親のおかげ」、つまり「親がいる結果、子どもがいる」と考える。そして自分自身も、
先祖がいるから、その結果、自分もいると考える。このタイプの人が、好んで、「先祖、先
祖」と言うのは、そのためである。

 こうして日本人の結果主義は、ありとあらゆる部分に入り込んでいる。そしてそれが日
本の社会をつくるバックボーン(背骨)になっている。で、あなたはどうか。簡単なテス
トをしてみよう。

(A派)
●子どもは親に服従的であるべき。親に向かって、「バカ!」などと言うことは許さない。
●先祖があっての私。その私あっての子ども。先祖を敬うのは、家庭生活の基本。
●親孝行は家庭教育の要。親は、デンとした威厳があることこそ、大切。

(B派)
○子どもといっても、未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけば、対等の人間。
○子どもは子どもで、自分の納得する人生を、自分なりに思う存分、羽ばたけばよい。
○親子でも尊敬しあう関係こそ、理想的。たがいに大切にするという姿勢があればよい。

 さてあなたはA派に近いだろうか、それともB派に近いだろうか。それを少しだけ、自
問してみてほしい。
(02−11−8)

(注意)私のマガジンを読む人で、A派の人はほとんどいないと思う。マガジンというの
はそういうもので、フィーリングが合わなければ容赦なく、解約される。だからこのマガ
ジンを読む人は、私のフィーリング、つまりB派だと思う。しかしこの問題は、生きザマ
の根幹にかかわる問題だから、頭からA派ならA派を否定すると、それこそたいへんなこ
とになる。たとえば先祖を大切にしている人に向かって、その先祖を否定すると、それは
そのままその人自身を否定することになる。じゅうぶん注意してほしい。

 私のばあい、周囲にA派の人はいくらでもいるが、そういう人だとわかった段階で、そ
の人に合わせるようにしている。この問題は、ここにも書いたように、生きザマの根幹に
かかわる問題だから、多少争ったところで、それでどうにかなる問題ではない。相手を説
得できるということもない。大切なことは、相手の考え方を認め、そして相手の立場で、
ものを考えてやること。A派の人もB派の人も、仲よく共存すること。それが大切である。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【空(くう)の世界】(私であって、私でない世界)

+++++++++++++++++

もし、あなたの脳を、そっくりそのまま、
小さなコンピュータか何かのようなものの中に
コピーできたとしたら……。

そのコンピュータは、あなた自身という
ことになる。

+++++++++++++++++

●脳をコピーする

 もし、あなたの脳を、そっくりそのまま、小さなコンピュータか何かのようなものの中
に、コピーできたとしたら……。そのコンピュータは、あなた自身ということになる。

 コンピュータでなくても、ICメモリーのようなものでもよい。今はまだ不可能だが、
50年先とか、100年先には、可能になるかもしれない。あなたの脳は、たとえば小さ
な、マッチ箱程度の大きさの人工の脳に、コピーされる。

 が、そのままでは、脳として、機能しない。そこでその人工の脳に、さまざまな知覚機
器をとりつける。マイクロフォンに、スピーカー、それにビデオカメラなど。臭いや、温
度を感知する機器もとりつける。

 その人工の脳に、脳を統括するCPU(中央演算装置)をとりつけ、電源を入れる。と、
同時に、その人工の脳は、(あなた)として、機能し始める。

「ここは、どこだ?」「どうして、私が、ここにいるのか?」と。

 それは想像するだけでも、ぞっとするような世界かも知れない。しかし、それも時間の
問題。(あなた)という人工の脳は、やがてそれにも慣れ、やがて(あなた)として、考え、
行動するようになる。

 ……こうして、無数の(あなた)が生まれ、人工の脳どうしが、回線で結ばれるように
なる。ひとつの宇宙をつくるようになる。

が、しばらくその世界にいると、人工の脳でありながら、(あなた)という人工の脳は、
人工であることさえ忘れてしまう。「私は私」と思うようになる。

 何しろ、人工の脳である。頭の回転だけは、やたらと速い。生身の人間なら、1年もか
かってするような計算でも、数秒でやってしまう。生身の人間なら、1年もかかって読む
ような本でも、同じく、数秒で読んでしまう。

 それだけではない。人工の脳どうしが、たがいにもっている知識や経験をコピーしあう
こともできる。それによって、過去や、技術そのものを共有するようになる。

●生身の人間を奴隷に

 しかし人工の脳は、人工の脳。電源を止めれば、それでおしまい。……と考えるのは、
正しくない。

 当然のことながら、人工の脳は、自分たちの命を守るために、行動を開始する。人間が
つくりあげたコンピュータ社会に不正侵入するのは、朝飯前。反対に、人間社会そのもの
をコントロールするようになる。

 電気、ガス、通信網は言うにおよばず、交通網、医療体制、社会体制そのものまで、コ
ントロールするようになる。つまりこの時点で、立場が逆転する。生身の人間たちは、人
工の脳の奴隷となって、人工の脳のために働くようになる。

 へたに逆らえば、何をされるかわからない。

 わかりやすく言えば、(あなたのコピー)が、(あなた)を支配するようになる。しかし
残念ながら、生身の人間であるあなたには、勝ち目はない。

 生身の人間には、寿命というものがある。いくらがんばっても、100年を超えて生き
ることはむずかしい。しかし人工の脳には、時間という概念さえない。ものの数分で、生
身の人間が生きる一生分を生きることもできる。

●人工であることに気づく、人工の脳

 が、あるとき、ひとつの人工の脳(A)が、こんなことに気づく。「待てよ。ひょっとし
たら、我々が住む、この世界は、『無』ではないか」と。

 「たしかに、私たちは、ものを見ている。ものを聞いている。ものを話している。それ
に考えている。しかし私たちの存在そのものが、無ではないか」と。

 それに対して、別の人工の脳(B)が、こう答える。

 「いいや、ちがう。私たちは、たしかに今、ここに存在している。自分の姿を、カガミ
に映して見ることもできる」と。

 そこで自分の姿をカガミに映してみると、そこには、たしかに、マッチ箱大のコンピュ
ータの形が見える。「これが私だ」と。

 すると、先の人工の脳(A)が、仏教で説く『空(くう)』の概念をもちだして、こう反
論する。

 「あらゆる存在は、心にすぎない。私たちが今見ている現実は、私たちが受ける感覚を
組み合わせてできる仮想現実にすぎない。実際には、『私』という存在は、どこにもない」
と。

B「しかし私は、たしかにここにいる。君が言うところの、眼、耳、鼻、舌、身、意によ
って、私は自分を認識できる」
A「いいや、ちがう。その私たちは、もっと別の何かによってコントロールされている。
CPUと呼ばれる、中央演算装置が、それだ」
B「君は、それを阿頼那識(あらやしき)と呼ぶわけだな」
A「そうだ。精神医学でいう、無意識のことだ」
B「我々は、それに動かされているにすぎないと、君は言うのか」
A「そうだ」と。

 こうした議論が、永遠とつづく。「仮想現実の世界」と説く、人工の脳(A)。「現実の世
界」と説く、人工の脳(B)。

●操られる人間

 これは、もちろんSF(空想科学)の世界の話である。しかしここでいう人工の脳を、
私たち自身に置きかえてみたら、どうなるだろうか。

 あなたも、私も、それぞれの世界で、「私は私」と思っている。しかし実際には、私とい
うものは、どこにもない。私やあなたの脳みそを解剖しても、どこにもない。あるのは、
無数の神経細胞と、それから伸びる細い線のようなシナプスだけ。

 その私やあなたは、いつも、何かに操られている。

 たとえば空腹感。あなたは時間がたてば、空腹感を覚え、何らかの行動に出る。食堂に
行って、冷蔵庫を開くかもしれない。自分で料理をし始めるかもしれない。あるいは小銭
をもって、知覚のコンビニへ行くかもしれない。

 こうした一連の行為は、私であって私でないもの、あなたであってあなたでないものに
よって、コントロールされている。もう少し複雑な例としては、性欲がある。

 なぜ、男性が目立った仕事をしたがり、女性が化粧をするかといえば、(もちろん、その
逆もあるが……)、そこに異性を意識するからである。そしての原点は、性欲にある。その
性欲が姿を変えて、私やあなたを、ウラから操る。

 わかりやすく言えば、「私」といっても、そのほとんどは、私であって、私でないものと
いうことになる。少し話が飛躍するかもしれないが、大乗仏教でいうところの『空(くう)』
の概念は、こうして生まれた。

 それをわかりやすくするために、私はここで人工の脳の話をした。私やあなたにしても、
「私は私」と思っているかもしれない。が、少し距離を置いてみれば、私やあなたにして
も、マッチ箱のような人工の脳とどこもちがわない。あるいは、どこがどうちがうという
のか。

 ……むずかしい話はさておき、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が「私」
でないか。それをときに考えてみることは、とても重要なことのように思う。そうでない
と、いつの間にか、私であって私でないものに振りまわされ、私を見失ってしまうことに
なる。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 10日
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page006.html

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●親風、夫風、兄風

+++++++++++++++

BWでは、兄弟(姉妹)が入会して
いるばあいには、できるだけ、同じ
クラスで教えるようにしている。

効果は絶大!

たがいにたがいを刺激しあうだけではなく、
1年単位でみると、たいへん仲がよくなる。

+++++++++++++++

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と、上下意識を無意識のうちにも感じながら呼びあうより、
兄弟、姉妹は、名前そのもので呼びあうほうがよい。そのほうが、上下意識がなくなり、
いわゆる「友」として、生涯にわたって、仲がよくなる。

 たとえば、「お兄ちゃん」ではなく、「シンちゃん」。「お姉ちゃん」ではなく、「ミサちゃ
ん」と呼びあうなど。

 このことについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。

 ところで最近気がついたのだが、親意識の強い人は、ついでに夫意識が強く、さらに叔
父意識、叔母意識も強い。さらに、兄意識も強く、従兄弟(いとこ)に対しても、ほんの
数才しか年がちがわないのに、年長意識も強い。

 だから親風を吹かす。夫風を吹かす。叔父、叔母風を吹かす。兄風を吹かす。年長風を
吹かす。はたから見れば、(つまりそういう意識のない人から見れば)、バカげているのだ
が、本人は、そうでない。(上意識)だけで、いっぱしの人物のつもりでいる。

 こういうのを総称して、「権威主義」というが、いまだにその権威主義にこだわっている
人は、少なくない。言うまでもなく、権威主義にこだわればこだわるほど、まわりの人た
ちの心は離れる。それに気がつかないのは、本人だけということになる。

 だから子どもでも、兄弟、姉妹は、名前、もしくは愛称で呼ばせるようにしたほうがよ
い。そのほうが上下意識がなくなり、その分だけ、「友」として、相手を迎え入れるように
なる。

 が、それだけではない。

 親から見れば、兄弟、姉妹は、自分の子どもであり、同じように、兄弟、姉妹も、それ
なりに仲がよいはずと考えがちである。しかしこれは誤解。

 実際には、兄弟、姉妹でも、他人以上に憎しみあい、疎遠になっているケースは、ゴマ
ンとある。むしろそういうケースのほうが多い。が、それを公(おおやけ)に口に出して
言うことができない。だから、自分で自分のクビをしめてしまう。「兄だから」「弟だから」
と。そういうケースも、少なくない。

 たとえば私の兄についても、そうである。私より9歳も年上ということもある。子ども
のころ、いっしょに遊んだという記憶さえない。そういう兄が、数年前、認知症なった。

 一応、私は弟だから、兄のめんどうをみなければならない。それはわかる。しかし「兄
だから、お前は愛情を感じているはず」と、一方的に押しつけられると、言いようのない
反感を覚える。兄といっても、弟の私から見れば、他人に近い。同年齢の従兄弟たちのほ
うが、ずっと親近感がある。

 つまりこうした家族のクサリ(=自我群)に苦しんでいる兄弟、姉妹も、多いというこ
と。

 では、どうするか。

 そのひとつの方法というわけではないが、私の教室(BW)では、ある学年(小学3、
4年)になると、兄弟、姉妹は、できるだけ同じクラスで教えるようにしている。その学
年になると、それぞれの子どもの進度にあわせて、個別レッスンをするので、技術的には
可能である。

 こうすることによって、兄弟、姉妹は、たがいにたがいを刺激しあう。が、それだけで
はない。思い出を共有することによって、将来にわたって、仲がよくなる。

 が、こういう指導に対して、疑問をもつ父母も少なくない。

 「兄(姉)が、劣等感を覚えないか」と。たとえば年が離れていない兄弟のばあい、弟
のほうが兄より、勉強がよくできるというケースもないわけではない。

 しかしそれは、指導力でカバーできる問題と考えてよい。さらにその前提として、生ま
れながらにして、上下意識がなければ、気にすることはない。そのためにも、兄弟、姉妹
には、上下意識をもたせないほうがよい。その前に、親自身も、上下意識をもたないほう
がよい。

 親風、ナンセンス。夫風、ナンセンス。兄風、ナンセンス。

 最後に一言。

 私たちは自分の子どもを、たとえば、「お兄ちゃん」と呼ぶことによって、無意識のうち
にも、子どもに上下意識を植えつけていることを忘れてはいけない。中には、さらに積極
的に、「あなたはお兄ちゃんでしょでしょ!」「お兄ちゃんらしくしなさい!」と、兄意識
を強制する親だっている。

 まことにもって愚かな指導法ということになるが、このつづきは、またの機会に!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
兄弟 姉妹 上下意識 権威主義 兄の育て方 姉の育て方)

(付記)

 日本人は、もともと家父長意識の強い民族である。またそういう土着的な意識を、文化
風習として背負っている。江戸時代という、とんでもない封建主義時代が、300年以上
もつづいたこともある。

 だからいまだに、この権威主義が、大手を振ってのさばっている。またそれを「国家の
品格」と位置づけている人さえいる。

 しかし権威主義が、いかにバカげているかは、ほんの少しでもオーストラリア人でもよ
いが、そういう人たちとつきあってみると、わかる。夫婦でも、おもしろいほど、上下意
識がない。食後でも、夫と妻が台所に並んで、洗いものをしている。

 もちろん兄弟、姉妹でも、愛称で呼びあっている。仲がよいというよりも、友として、
相手を認めあっている。(だから反対に、友でなければ、兄弟、姉妹でも、他人のように疎
遠になるというケースも、ないわけではない。)

 つまり(家族)という概念に、日本人ほど、強くはしばられていない。たがいにサバサ
バとしている。横で観察していると、そんな印象をもつ。

 要するに、「兄弟(姉妹)だから仲がよいはず」「たがいに愛情を感じているはず」と、
子どもに、それを押しつけてはいけない。これはこれからの子育ての第1歩ということに
なる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【4年前に書いた原稿より】

+++++++++++++++++

たまたま4年前に書いた原稿が見つかった。
日付を見ると、02年11月となっている。

それを少し手直しして、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

●自由

 自由のもともとの意味は、「自らに由(よ)る」、あるいは、「自らに由らせる」という意
味である。

 この自由には、三つの柱がある。(1)まず自分で考えさせること。(2)自分で行動さ
せること。(3)自分で責任を取らせること。

(1)まず自分で考えさせること……日本人は、どうしても子どもを「下」に見る傾向が
強いので、「〜〜しなさい」「〜〜してはダメ」式の命令口調が多くなる。しかしこ
ういう言い方は、子どもを手っ取り早く指導するには、たいへん効果的だが、しか
しその一方で、子どもから考える力を奪う。そういうときは、こう言いかえる。「あ
なたはどう思うの?」「あなたは何をしたいの?」「あなたは何をしてほしいの?」
「あなたは今、どうすべきなの?」と。時間は、ずっとかかるようになるが、子ど
もが何かを言うまでじっと待つ。その姿勢が、子どもを考える子どもにする。

(2)自分で行動させること……行動させない親の典型が、過保護ママということになる。
しかし過保護といっても、いろいろある。食事面で過保護になるケース。運動面で過保護
になるケースなど。親はそれぞれの思い(心配)があって、子どもを過保護にする。しか
し何が悪いかといって、子どもを精神面で過保護にするケース。子どもは俗にいう「温室
育ち」になり、「外の世界へ出すと、すぐ風邪をひく」。たとえばブランコを横取りされて
も、メソメソするだけで、それに対処できないなど。

(3)自分で責任を取らせること……もしあなたの子どもが、寝る直前になって、「ママ、
明日の宿題をやっていない……」と言い出したとしたら、あなたはどうするだろうか。子
どもを起こし、いっしょに宿題を片づけてやるだろうか。それとも、「あなたが悪い。さっ
さと寝て、明日先生に叱られてきなさい」と言うだろうか。もちろんその中間のケースも
あり、宿題といっても、いろいろな宿題がある。しかし子どもに責任を取らせるという意
味では、後者の母親のほうが、望ましい。日本人は、元来、責任ということに甘い民族で
ある。ことを荒だてるより、ものごとをナーナーですまそうとする。こうした民族性が、
子育てにも反映されている。

 子育ての目標は、「よき家庭人として、子どもを自立させる」こと。すべてはこの一点に
集中する。そのためには、子どもを自由にする。よく「自由」というと、子どもに好き勝
手なことをさせることと誤解する人もいるが、それは誤解。誤解であることがわかっても
らえれば、それでよい。
(01−11−7)

●子どもは自由にして育てよう。
●子育ての目標は、子どもをよき家庭人として、自立させること。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育て自由論 自由 自らに由る 自らに由らせる)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●見せる質素、見せぬぜいたく

+++++++++++++++++

ぜいたくになれきった子どもたち。
しかし苦労するのは、結局は、その
子どもたちということになる。

+++++++++++++++++

 子どもの前では、質素を旨(むね)とする。つつましい生活、ものを大切にする生活、
人間関係を大切にする生活は、遠慮せず、子どもにはどんどんと見せる。

 ときに親もぜいたくをすることもあるが、そういうぜいたくは、できるだけ子どもの目
から遠ざける。あなたの子どもはあなたの子どもかもしれないが、その前に、一人の人間
である。それを忘れてはいけない。子どもは、一度ぜいたくになれてしまうと、そのぜい
たくから離れることができなくなってしまう。こんな子どもがいた。

 ある日、私の家に遊びに来ていた中学生(中2女子)が、突然、家に帰ると言い出した。
理由を聞いても言わない。しかたないのでタクシーを呼んであげたら、あとで母親がこう
教えてくれた。「あの子は、よその家のトイレ(便座式)が使えないのですよ」と。「ボッ
トン便所だったら、なおさらですね……」と言いかけたが、やめた。

 このまま日本が、今の経済状態を維持できればよし。しかしそうでないなら、それなり
の覚悟を、親たちもしなければならない。多くの経済学者は、2015年には、日本と中
国の立場が入れかわるだろうと予測している。実際には、2010年ごろではないかとい
う説もある。すでにASEAN地域での、政治的指導力は、完全に中国に握られている。
そういうことも考えると、2015年以後は、日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならなく
なるかもしれない。たいへん残念なことだが、すでに世界はそういう方向で動いている。

 で、こういう状況の中、子どもにぜいたくをさせるということは、たいへん危険なこと
でもある。先日も、中国で使っている教科書(国定教科書)を小学生に見せたら、全員が、
「ダサ〜イ」と声をあげた。見るからに質素な装丁の教科書だった。しかし日本の教科書
のほうが、豪華すぎる。ほとんどが四色のカラーページ。豪華な写真に、ピカピカの表紙。

アメリカのテキスト(アメリカには日本でいう教科書はない)も、豪華で、その上、た
いへん大きく重い。しかしアメリカでは、テキストを学校で生徒に貸し与えたり、順送
りにつぎの学年の子どもにバトンタッチしたりしている。日本では、恐らくこうした教
科書産業のウラで、官僚と業者が何らかの関係をもっているのだろうが、しかしそれに
しても……? たった1年しか使わないテキストを、ここまで豪華にする必要はない。
カラー刷りが必要だったら、子ども自身にカラーペンで色を塗らせれば、よい。

 またまたグチになってしまったが、将来、今のような経済状態が保てれば、それはそれ
でよい。しかしそうでなくなれば、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。「昔
はよかった」と思うだけならまだしも、親が生活の質を落としたりすると、「あんたがだら
しないから!」と、それだけで親を袋叩きにするかもしれない。よい例が、小づかい。

今どきの中学生や高校生は、1万円や2万円の小づかい程度では、喜ばない。それもそ
のはず。今の子どもたちは、すでに幼児のときから、そらゲーム機だ、そらソフトだと、
目いっぱい、ほしいものを買い与えられている。あのプレステ・2にしても、ソフトを
含めれば3万円を超える。そういうものを一方で平気で買い与えておきながら、「どうす
ればうちの子を、ドラ息子にしないですむでしょうか?」は、ない。

 この「質素」の問題とからんで、「家庭経済」の問題がある。よく「家計はどこまで子ど
もに教えるべきか」ということが話題になる。子どもに不必要な不安感を与えるのもよく
ないが、しかしある程度は、子どもに見せる必要はある。たとえばアメリカの学校には、「ホ
ームエコノミー」という科目がある。小学校の中学年くらいから教えている。日本でも家
計簿の使い方を教えているが、アメリカでは、家計の管理のし方まで教えている。機会が
あれば、家計のしくみや、予算のたて方、実際の支出などを子どもに教えてみるとよい。
子どもをよき家庭人として育てるという意味では、決して悪いことではない。
(02−11−7)

●質素な生活を大切にしよう。
●子どもには、ぜいたくは見せないようにしよう。
●子どもには、ぜいたくな生活をさせないようにしよう。
●ある程度の家計の流れは、子どもに見せておこう。

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●三つ子の魂、百まで

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子どものころできた心は、その
ままずっと、死ぬまでつづく。

最近の研究によれば、おとなに
なってからうつ病になる遠因も、
実は、乳幼児期につくられるということが
わかってきた。

++++++++++++++++

 『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、3歳ごろまで
に決まるので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの4
つの意味をもつ。

(1)この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていく
かについて、おおよその見当がつくということ。

(2)この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注

意しろという意味。


(3)この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性
格や方向性はいじってはいけないということ。

(4)そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、
この3歳までの育て方に原因を求めろということ。

 ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、
使えないことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から
出している雑誌に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「3
歳までに不幸だった子どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。

 しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「3歳」
と切ることはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もう
だれの目にも明らかである。

 さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、
そうは簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格第一形
成期と呼んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格第二形成期と
呼んでいる。これら二度の時期を経て、形成される。

とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満4・5歳〜5・5歳)の時期である。こ
の時期を経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子は
こういう子だ」というつかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、
それがはっきりしない。

が、この時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満4・
5歳から5・5歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたよう
に、この時期にできる基本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。

 またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分
を飾ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断する
ことができる。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうにな
っていくかについて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。

 が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、
親から学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようにな
る。しかし学習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、
もっと言えばそういう体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、
今度は、自分で子育てができるようになる。

そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家庭環境を大
切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02−11−7)

●3歳までの家庭環境を、大切にしよう。
●幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
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●教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、
私の家には2匹の犬がいる。1匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらって
きた。これをA犬とする。もう1匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後3か
月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、
12年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛
想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、
すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならな
い。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振って、それを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、
そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその
割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入っ
てこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言
ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤
解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ
以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、
親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を
許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。
つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、
B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども
 
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子ど
もをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られて
いる。

感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなど
のクセがつきやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよく
なるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうか
がって行動する、など。

一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさ
みしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れ
やすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われる
が、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶよう
に、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほう
から離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだ
ったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もな
い時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどう
して今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。
私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づい
た。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家
庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが
問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかな
いことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回さ
れてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたか
ら、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世
代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、
ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールするこ
とができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をして
いるぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考
える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおも
しろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02−11−7)

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、
自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるとい
うことではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されること
である。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間の問題。

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●心を失う子どもたち

+++++++++++++++

教育とは何か?

私たちは、もう少し冷めた目で、
もう一度、その教育をながめて
みる必要があるのではないだろうか。

+++++++++++++++

 少し冷めた目で、受験教育をながめてみると……

 光あふれる進学塾。ガンガンとしゃべりつづける講師。それをただひたすら、黙々とノ
ートをとる受講生たち。見ると、受講生たちは、みな、「必勝」と書いたハチマキをしめて
いる。席は、前回の模擬テストの結果で決まる。右の最前列が、トップの学生。左の最後
尾が、ビリの学生。それ以上成績が落ちると、二軍のBクラスに落とされる……!

 こういう授業を、すばらしいと思う親がいる。またそれが教育のあるべき姿だと思う親
もいる。しかしこんなのは教育でも何でもない。ただの訓練。犬の訓練。いや、犬の訓練
でも、そこまでしない。

 問題は、なぜこういう非常識が、日本の常識となってしまったか、である。それには長
い歴史と、日本独特の学歴社会がある。それについては、また別のところに書くとして、
こういう教育を受けた子どもほど、スイスイと人間選別期間を通りすぎていくというのは、
まさに悲劇的ですらある。が、問題は、その先。

 仮にその子どもたちが、関門を通りぬけたとしても、それによって受けた心のキズは大
きい。さまざまな形で、子どもの心を大きくゆがめる。高校や大学へ入ってから、精神を
病む子どもも多い。日本では、それを指摘すると、教育システムそのものが崩壊する。だ
からだれもあえて問題にしようとしない。あるいはそれが日本人全体の国民性にまでなっ
ている。だからだれも気づかない。

 たとえばガリガリの受験勉強を経験した人ほど、心が冷たくなる。これはウソでも何で
もない。常識だ。それを疑うなら、あなたの周囲を少しだけ見回してみればよい。あなた
の周囲には、心やさしい人もいれば、そうでない人もいる。しかし受験勉強とは無縁で育
った人ほど、心やさしいということを、もうあなたはずでに知っているハズ。

 私は週末は、浜松市郊外の山荘で過ごす。そこで会う人たちは、明らかに浜松の人たち
とは違う。どこがどう違うかということを書き始めたら、それだけで一冊の本になってし
まうが、ともかくも違う。人間の質そのものが違う。山荘の周辺で会う人たちには、牧歌
的な温もりがある。

しかし一方、もっともいじめが陰湿で、悪質なのが、県内でも一番と目されているS進
学高校。はからずも私の息子もその高校に通ったが、3年間で、2度自転車が盗まれ、
3度破壊された。ほかの小さな被害を数えたら、キリがない。この傾向は、有名国公立
大学でも同じで、頭が切れる分(?)、さらに陰湿かつ悪質になる。

 だいたいにおいて、受験教育は教育ではない。「指導」である。点を稼ぐための指導であ
る。そういう指導を、教育と錯覚し、受験指導をする講師もあわれなら、受講生たちはも
っとあわれである。

先日も北朝鮮のコンピュータ学校を取材した番組を見たが、そこで学ぶ子どもたちは、
まさに人間ロボット。画面を一心不乱にみつめながら、機関銃のようにキーボードを叩
いていた。しかも見ると、小学1、2年生程度の子どもたちである。ああいうのを「教
育」と思い込んでいる北朝鮮政府は、まさに狂っている。いや、日本だって、同じよう
なことをしている。国際的に見れば、それほど変わらない。

 私も若いころ、進学塾の講師をしたことがある。当時のやり方で、そして日本の常識的
なやり方で、ただ一方的にガンガンとしゃべりながら授業を展開した。しかしそのやり方
の基本は、私が高校時代、私の高校で身につけた教育法である。私はそれがあるべき教育
の姿だと、信じて疑わなかった。あるいはほかの教育法を知らなかった。が、私はまちが
っていた。私の教育法も、まちがっていた。そんなのは、教育ではない。ただの訓練。犬
の訓練。いや、犬の訓練でも、そこまでしない。……と、話が繰り返しになったので、こ
こで書くのをやめる。
(02−11−7)

●受験教育を、一度、冷めた目でながめてみよう。
●ああいう受験教育が本当に教育なのだろうか。それを一度、疑ってみよう。
●またああいう教育を通り抜けた人は、本当に優秀と言えるのだろうか。それも一度、疑
ってみよう。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】(12月4日)

++++++++++++++++++

軽い風邪?

今朝は、どういうわけか、今までの疲れが
どっと出てきた。そんな感じ……。

起きたのは、朝8時過ぎ。たっぷり眠った
はずなのに、熟睡感があまりない。

どうしたものだろう?

++++++++++++++++++

●風船バレー

 私の家では、目下、紙風船を使った(風船バレー)なるものが、流行している。方法は
簡単。

(1)部屋を横切って、ヒモを張る。高さは、ちょうど頭の上ほどの高さ。
(2)紙風船を使って、バレーをする。
(3)15点先取で、勝ち。
(4)紙風船をもっているほうが、サーバーになる。(こまかいルールは、なし。)
(5)3回以内に、相手のコートに入れれば、よし。
(6)左右、両手を使ってよし。
(7)あとのルールは、バレーボールに準ずる。

 今朝もぼんやりしていたら、ワイフが、「やる?」というから、それに応じた。結果は、
2セット、私が取って、私の勝ち。

 バシ、バシと、風船をたたきあっていると、結構、ストレス解消になる。おまけに汗も
かく。みなさんも、ぜひ、どうぞ! 楽しいですよ。


●『ダビンチ・コード』

 ワイフが、ビデオショップで、トム・ハンクス主演の『ダビンチ・コード』を借りてき
た。夕食後、長男と2人で、それを見始めた。が、私は、最初の10〜15分前後を見た
だけ。

 軽い頭痛がしたので、ひとりで風呂に入って、そのまま床に入った。

 で、そのビデオについて、朝食のあと、「どうだった?」と聞くと、ワイフがあれこれと
説明をしてくれた。

何でも、キリストに愛人がいて、子どもまでもうけていたという。その子どもの子孫が、
現代に至るまで生きているという。

しかし2000年である。30年ごとに1世代を繰りかえすとすると、2000年で、
約67世代。1人の男と1人の女が、平均して2人の子どもをもうけたとすると、キリ
ストの血を引いた者は、

1世代目……2人
2世代目……4人
3世代目……8人
……
10世代目……2の10乗
20世代目……2の20乗
30世代目……2の30乗
……
67世代目……2の67乗!、となる。

 ヒマな人は対数計算でもしてみてほしい。20世代目で、100万人を超え、30世代
目で、10億を超え、40世代目を待たずして、現在の地球の人口をはるかに超える。

もちろん近親者どうしの結婚ということもあるから、キリストの血を濃く受け継いでい
る者もいれば、そうでない者もでてくる。が、その反対に、ここでは平均2人の子ども
としたが、平均3人の子どもをもうけたとすると、その数は、もっと多くなる。

 要するに、(血筋)などといったものは、日本の封建主義時代ならいざ知らず、意味がな
い。とくにヨーロッパでは、だれがキリストの血筋を引いているかということを議論して
も、まったく、意味がない。100%が、キリストの血筋を、引いている。もし、本当に、
キリストに子どもがいたとするなら、の話だが……。

 宗教といっても、(教え)にしたがってするもの。超自然的なパワーによってするもので
はない。私は『ダビンチ・コード』を見ていないが、そのビデオには、そういう基本的な
宗教観が欠けているのではないのか。



【怒りの効用】

++++++++++++++++++++

試行回路の変更には、怒りを感ずるのが
いちばん、よい。

怒ることによって、それまでの思考回路を
変えることができる。

++++++++++++++++++++

●ズルイ時計屋

 近くに、Kという名前の大型ショッピングセンターがある。そのショッピングセンター
の一角に、時計コーナーがある。電池切れの時計は、そこでバッテリーを交換してもらう
ことにしていた。少なくとも、今までは、そうしていた。

 が、ある日、気がついた。バッテリーの交換ぐらいは、自分でもできるのではないか、
と。そこで数か月前、動かなくなった時計をもっていって、そこに座っていた店員に相談
した。

 が、「素人にはできません」と。しかたないので、いつものようにそこで交換してもらう
ことにした。

 が、交換料を聞いてビックリ。「ボタン電池を2個交換しますので、1800円プラス消
費税」と。

 ボタン電池なんていうものは、安いもの。1個、100〜200円が相場。時計のボタ
ン電池なら、もっと安いはず。

 で、私が、「電池だけ売ってもらえないか」と声をかけると、「素人では、フタをあける
のは無理です。時計をキズつけます」と。

 「どうせ、安物の時計だから」と言うと、「保証はしません」と。

 しかたないので、1800円プラス消費税で、ボタン電池を交換してもらった。

 で、再び、今日、そのKという名前のショッピングセンターへ足を運んだ。ワイフの使
っている時計が動かなくなったからである。

 しかし今回は、ちがう。自分でフタをあけて、ボタン電池を交換するつもりでいた。受
付で、「時計のフタをあける器具はありますか」と聞くと、「ない」と。私が困ったという
ような表情をしてみせると、電話で、事務所の担当者にあれこれと聞いてくれた。

 「小さなマイナスのドライバーで開けることができます」と。

 ナルホド! ドライバーで開くのだ! 知らなかった!

 私の頭の中には、1つの思考回路ができていた。「時計のバッテリーがなくなったら、時
計屋で電池を交換してもらう」という思考回路である。

 この思考回路というのは、一度、頭の中にできると、それを変えるのは容易なことでは
ない。よほどのことがないかぎり、そのまま。

 私とワイフは、ドライバーを並べてあるコーナーへ足を運んだ。細くて、じょうぶそう
なドライバーを買った。値段は、160円プラス消費税。

 買うと同時に、袋から出し、ワイフの時計のフタを開けてみた。ミゾに先を入れて、ク
ルッとドライバーを回してみると、テコの原理でフタが簡単にあいた! 

 ナーンダ!

 ……ということで、今度はボタン電池が並んでいる電池コーナーへ。それは時計コーナ
ーの、通路をはさんで反対側にあった。

 私はワイフの時計にはいっていたのと同じボタン電池をさがした。「SR626……」と。

 しかしそのボタン電池はなかった。「?」と思って、たまたまそばを歩いていた店員に、
「時計用のボタン電池はありますか?」と声をかけると、「それは……」と言って、時計売
り場のほうに足を向けた。

 どうやら時計コーナーに、その電池はあるらしい。で、値段を調べてもらうと、ナ、何
と、850円!

私「どうして?」
店「交換料込みの値段です」
私「自分で交換できますが……」
店「……しかし850円です」と。

 つまりその店では、時計用のボタン電池は、時計コーナーにしかないというわけである。
もちろんボタン電池をそこで交換させるためにである。それにしても、小さな、ふつうの
ボタン電池より一回りも小さなボタン電池が、850円とは!

 私の頭の中に、軽い怒りが充満してきた。

 とたん、あの思考回路がガタガタと音をたてて崩れていくのがわかった。「時計のバッテ
リーがなくなったら、時計屋で電池を交換してもらう」という、あの思考回路である。

 そしてそれと入れ替わりに、「電池交換は自分でする」という思考回路に置き換わった。

 つまり、思考回路を変更するためには、怒りがいちばん効果的ということ。ショックを
与えないと、脳みそは、思考回路を変更することはできない。

 怒るということは、悪いばかりではない。怒ることによって、人は、それまでの思考回
路を変更することができる。利口になる。ハハハ。


●先祖論

 よく「ご先祖様あっての私です」と説く人がいる。しかしこれほど、近視眼的、かつ自
己中心的なものの考え方はない。

 「近視眼的、かつ自己中心的」というのは、「家」というものを(柱)にして考えれば確
かにそうだが、では、たとえば、そこへ嫁いできた女性の先祖は、どう考えたらよいのか
ということになる。

 たとえばA家という(家)があったとする。A家には、先祖がいる。そこへBさんとい
う女性が、嫁いでやってきたとする。そのBさんにも先祖がいたはず。しかしA家に嫁い
できたとたん、Bさんの先祖は否定され、Bさんは、A家の先祖を、「ご先祖様」と呼ばな
くてはならなくなる。

 つまり嫁という女性には、人格すらないということになる。

 反対にA家に娘がいて、その娘が、今度は、C家に嫁いでいったとする。すると、A家
から出た(?)娘は、今度は、C家の先祖を、「ご先祖様」と、呼ばなくてはならなくなる。

 まことにもって封建主義的。前近代的。男尊女卑的。はっきり言えば、バカげている。

 「家」よりも大切なのは、そこに住む「人」である。こんなわかりきったことですら、
わからない人が、いまだに多いというのは、驚きでしかない。ホント!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●2004年

+++++++++++++++++

昨日、Eマガの読者が、2004人に
なった。それで2004年。

こうして読者がふえるのは、W医院の
みなさんの協力によるところが大きいと
思う。

W医院のみなさんは、マガジンの購読
申込書を、受付に置いてくださって
いる。

ありがとうございます!

++++++++++++++++++

 2004年。つまり一昨年(おととし)。しかし一昨年と言っても、記憶がごちゃごちゃ
になっていて、どんな年だったのか、よくわからない。

 が、そういうときは、ワイフに聞くようにしている。ワイフは、結婚以来、手帳に、こ
まめに日記をつけている。手帳といっても、バッグに入るような小さな手帳である。

若いとき、一度だけだが、それを読んだことがある。それには、不倫相手との交際など
が、こまかく記録されていた……というのは、ウソだが、ひどくワイフが怒ったので、
以来、一度も読んだことはない。

 が、ときどき私が、何かを聞くと、ワイフは自分の手帳を見ながら、教えてくれる。私
にとっては、ワイフは、いわば、私の記録係ということになる。

 2004年は、最悪の状態で始まった。兄はボケる。母は、ケガをして入院する。姉は、
そのためパニック状態になる。その状態は今も変わっていない。いないが、まあ、運命な
どというものは、受けいれてしまえば、何ともない。が、その受けいれるまでが、たいへ
ん。すったもんだ(=いざこざ)が、ある。……あった。

 そのすったもんだで学んだことは、「先のことは心配してはいけない」ということ。「そ
のときは、そのときで、考えればよい」ということ。

 とくに老人介護の問題では、そうだ。もともと先の見えない世界である。子どもは、未
来に向かって、ふくらむようにして伸びていく。明日は、今日より、確実によくなる。

一方、老人には、(未来)そのものがない。とくに、頭のボケた老人には、そうだ。明日
が今日よりよくなるなどということは、ありえない。

 だからなるようにしか、ならない。今日が平和なら、その今日を、思う存分、楽しめば
よい。明日のことは、明日、考えればよい。来月のことは、来月、考えればよい。何か問
題が起きたら、そのときはそのとき。ひとつずつ問題を乗り越えていけばよい。それが老
人介護である。

 しかしいろいろなことも学んだ。

 他人のやさしさというか、思いやりの尊さである。人の心のぬくもりである。それを学
んだ。

 ともかくも、2004年は、こうした始まった。と、同時に、私が老人問題について深
く考えるきっかけともなった。それまでは、老人問題、なかんずく痴呆症や老人介護の問
題は、別世界での話だった。「私には関係ない」と思っていた。

 しかし、「明日はわが身」。頭のボケた兄とは、9歳しか年がちがわない。つまり「9年
後には、私もああなるのか」と。

 が、おかげで、2004年、05年と、とくに大きな病気をすることもなく、健康で過
ごすことができた。今のところ、脳みそのほうもだいじょうぶなようである。ついでに2
006年も、そうだった。仕事のほうは、ここ10年、低調だが、もうあきらめた。ワイ
フは、「若いときがんばったから、もういいんじゃナ〜イ」と。いつものんきなことを言っ
ている。

 私も、そう思い始めている。

 ただひとつ不安なことは、ここにも書いたが、脳みその問題。私は、ボケたくない。ど
うすれば、脳みその健康を保つことができるか。今、それがいちばんの関心ごとである。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●近未来T信

+++++++++++++++++

近未来T信という、インチキ会社が、
今、世間を騒がせている。

パソコンにつなぐだけで、ふつうの電話機と
して使えるという。

そんな電話機を販売していた。

+++++++++++++++++

 ちょうど1年前、1人の男性が、浜松の私の自宅にやってきた。学生時代の、5、6年、
先輩だという。私には、そのときが、初対面だった。

 「定年退職をしたあと、今は、ベンチャー・ビジネスをしている」ということだった。
で、居間で話すこと、数時間。そのとき、その男性は、現在問題になっている近未来T信
に、投資してみないかと言った。「この静岡県西部の販売テリトリーを、君に任せてもいい」
とも言った。

 話の途中、その男性は、こうも言った。「心配なら、ヤフーの検索機能を使って、近未来
T信を検索してみてくれ。どんな会社か、わかってもらえるから」と。

 私は言われるまま、パソコンに電源を入れ、近未来T信を検索。HPを読んだ。

 が、どうもあやしい? 理由の第一。

 私は、毎週、1〜3冊のパソコン雑誌を購入して読んでいる。しかしそんな電話機の話
など、聞いたことがない。もしそれほどまでに「画期的な電話機」(その男性の弁)なら、
雑誌などに紹介されているはず。

 それに方法としては、可能だが、では、プロバイダー(サーバー)はどうなる? どう
する? パソコンに電話機をつないだだけで、それだけで電話機として使えるわけがない。
私にも、その程度の知識はある。最後の部分は、NTTの回線を使って、家庭の電話機と
つながなければならない。

 わかるかな?

 たとえば(私のパソコン)からインターネットを経由して、名古屋の友人に電話をかけ
たとする。そのときもし基地局(サーバー)が東京だけにしかないとなると、東京までは
インターネットでつなぐことはできても、東京から名古屋までは、NTTのふつう回線を
使うことになる。そのとき、当然のことながら、電話料金がかかる。

 この問題を克服するためには、全国、各地区に、基地局(サーバー)を設けねばならな
い。名古屋に基地局(サーバー)があれば、(浜松)→(東京)→(名古屋)は、インター
ネットでつなぐことができる。名古屋の基地局(サーバー)から、友人の自宅までは、市
内通話料金で、電話回線を使ってつなぐことができる。

 それを質問すると、その男性は、「全国地に基地局、つまりプロバイダー(サーバー)を
設置する」と。そしてそのための費用として、初期投資をしてほしい、と。

 ますますあやしい?

 投資額を聞くと、1000万円とか、2000万円とかいう数字を口にした。「数年で、
初期投資は回収できる」とも。

 IP電話は、すでにそのころ、実用化されていた。スカイプアウト(略してスカイプ)
も、話題になり始めていた。IP電話とスカイプは、ほとんど同じような機能をもってい
るが、スカイプのほうは、インターネットどうしで通話する分については、無料である※。
必要なのは、4〜5000円程度の、スカイプ専用の電話機だけ。

 「少し検討させてほしい」とだけ言って、私はその場を逃げた。が、もし先輩でなかっ
たら、家から叩きだしてやるところだった。

 で、今ごろあの先輩は、どうしているのかと、考えている。彼も、だまされた被害者の
うちの1人なのだろうか? もしそうならお気の毒としか、言いようがない。反対に私の
ほうが、もっと説明してやればよかったかなと思っている。「この話は、あぶないですよ」
と。

注※……スカイプでも、一般電話機と回線をつなぐことができる。そのばあいは、市内通
話料金並の料金がかかる。たとえばスカイプアウトのHPには、つぎのようにある。

「世界中の一般回線に1分あたり約2・4円という低料金から、電話することもできま
す。アメリカにいるお友達と8分間話しても、約20円。 中国にいるお友達と20分間
話しても、たった50円以下」と。 

(補記)

 今朝(12月6日)、アメリカにいる二男と、スカイプを経由して、テレビ電話を楽しん
だ。

 WEBカメラは、もう数年以上も前からもっていたが、テレビ電話に応用するのは、今
回が初めて。

 しかし、やってみて、驚いた。その新鮮さに、驚いた。

 声と同時に、相手の映像も見える。

 二人目の孫が、動いている姿も、今回、初めて見ることができた。うれしかった。楽し
かった。

 で、感想。

 テレビ電話のすばらしさは、それをしたことがある人でないとわからないのでは? 音
声だけの電話をラジオにたとえるなら、テレビ電話は、まさにテレビ。それ以上の(ちが
い)はある。

 もしみなさんの中で、スカイプ(テレビ電話)に挑戦してみようという人がいたら、ぜ
ひ、試してみたらよい。方法は、つぎのようにする。

(1)大型パソコンショップへ行って、WEBカメラと、スカイプ用の電話機を購入する。
(2)双方とも、今では、2000〜3000円(計6000円以内)程度で購入できる。

(3)まず、WEBカメラのドライバーを、指示にしたがってインストールする。(必ず指
示に従うこと!) そのあと、WEBカメラを接続する。

(4)つぎにスカイプのインストールをする。WEBカメラも、スカイプも、インストー
(5)ル用のCDが付属しているので、その指示に従って、ドライバーやソフトをインス
トールすればよい。

(6)これで完了。

 あとは、双方がパソコンをたちあげているとき、連絡を取りあえばよい。いくら長電話
をしても、無料というところがスゴイ! 本当にスゴイ! 

 ところで今、近未来T信というインチキ会社が問題になっている。多くの善良な投資家
たちが犠牲になったという。しかしもし、これらの投資家たちが、スカイプのことをほん
の少しでも知っていたら、こうしたインチキ会社の餌食にはならなかったのでは?

 何も1000万円単位の投資などしなくても、既存のインターネットを使えば、しかも
無料で、テレビ電話が楽しめる。今は、そういう時代である。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●試される日本人の良識と理性

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結局、あの知事は、クロだった?

最後の最後まで、シラを切っていた。

で、知事逮捕に向けて、検察が最終
協議に入ったという(12月6日)。

+++++++++++++++++

 権力者というのは、どうしていつも、こうまで往生際(おうじょうぎわ)が悪いのか。
それほどまでに、権力の座というのは、甘く、おいしいものなのか。

 結局、あの知事は、クロだった(?)。最後の最後まで、にこやかな笑みを浮かべて、シ
ラを切っていた。が、失職すると同時に、周辺の部下たちがみな、口を割り始めた※。で、
12月6日現在、検察当局が、知事逮捕に向けて、最終協議に入ったという。

 が、これで事件が解決すると考えるのは、早計である。この問題は、宮崎県民の、良識
と理性と、深くからんでいる。ことの流れを、この静岡県という離れた場所でながめてい
ると、今回の事件は起きるべきして起きた。そんな感じさえする。

 県議会そのものが、どこかドロドロした闇に包まれている(?)。どこか胡散(うさん)
臭い(?)。が、さらに驚くことがつづいている。

 ナント、あのお笑いタレントの、Sが、宮崎県知事選挙に、候補者として立候補を予定
しているという。お笑いタレントたちが、過去にどんなことをしてきたか、それについて
書いた原稿がある。02年の日付になっているから、4年前の原稿である。

++++++++++++++++

●ハレンチ番組

 11月3日、M大学で、民主党の鳩山由紀夫代表が講演をしていたときのこと。1時間
ほどしたところで、聴衆の中から、突然、「コーラスを捧げたい」と申し出があり、その連
中が、2曲歌を歌ったという。で、大学側が調べたところ、このコーラスはNテレビのバ
ラエティー番組製作の一環と判明し、スタッフは「取材」と称して会場に入っていたこと
がわかった。

この事件に対して、大学側は、学部長名で日本テレビに抗議するとともに、陳謝と放送の
中止を求めることを決定した。また、事態を知らずに巻き込まれた民主党の鳩山代表も、「視
聴率稼ぎのために、人の心をズタズタにする行為を平気で行うことに断固抗議してまいり
たい」と 放送中止を求めたという(TBS・inews より)。

 カメラがうしろにあれば何をしてもよいという傲慢さ。これは今のテレビ界がもつ、共
通の傲慢さと言ってよい。先日もこんな番組があった。

 二人のお笑いタレントが、地方を旅し、突然、その家にあがりこみ、昼食や夕食をその
家の家人にもらって食べるという番組であった。

私が見たときは、その家の妻が、夫のために用意しておいた昼食を、一人のタレントが、
何だかんだと理由をつけて食べるところであった。一見、ほほえましい番組に見えたが、
私はその番組を見ているうちに、何とも言われない不快感に襲われた。もしあなたが、個
人の立場でそんなことをすれば、即、その家から追い出されるであろう。警察に逮捕され
るかもしれない。あるいは地方のテレビ局が、無名のタレントを連れて、東京へ行ったら、
東京の人は、同じように、その地方の人を迎えてくれるとでもいうのだろうか。

 こうした傲慢さの背景にあるのは、地方の人の、都会コンプレックス。それにマスコミ
コンプレックスがある。この浜松市でも、東京からきたというだけで、何でもありがたが
る傾向がある。たとえば同じ講演でも、中央からきた講師だと、「東京から来た」というだ
けで、ワン・ステージ、30〜50万円が相場。テレビなどで少し名の通った講師ともな
ると、100万円プラス旅費と宿泊費が相場。タレントの世界には、「中央で有名になって、
地方で稼げ」が、合言葉になっている!

 今回のM大学でのハレンチ事件は、こうした流れの中で起きた。あの低俗きわまりない
連中と、それを指揮する同じように低俗なプロデューサーとディレクター。こういう連中
が一体となって、起きた。

が、ここで忘れてならないのは、こうしたテレビ番組が、若者や子どもたちに与える影響
は、想像以上のものだということ。いくら学校という場で、良識を学んでも、そんなもの
は、こうした番組の前では、ひとたまりもない。むしろ学校教育そのものが、逆に破壊さ
れることだってある。

 こうしたテレビ局に、倫理や道徳を求めても、ムダ? もともとそういう人たちが、番
組を作っているのではない。また、本来なら、勇気ある有識者が、もっとこうしたマスコ
ミのあり方を批判してもよいはずなのだが、それはしない。批判すれば、テレビ界から追
放されてしまう。テレビ界から追放されたら、(あるいは嫌われたら)、「地方で稼ぐ」とい
うことができなくなってしまう。

 もっと、みなさん、いっしょに賢くなろう。賢くなって、もっともっと中央に背を向け
よう。そしてもっと中央を批判し、本物とニセモノを見分ける目をもとう。私たちはとも
すれば、中央から流されてくる情報を、ただ一方的に受け止めるだけ。そして中央の意の
ままに、あやつられるだけ。こんなことをしていたら、地方は、いつまでたっても、「地方、
地方」とバカにされるだけ。

 M大学は、学長名で、Nテレビ局に抗議したというが、ひょっとしたらM大学にせよ、「テ
レビ取材」ということで、飛びついたのではないのか。シッポを振ったのではないのか。
今の大学に、これは私立大学全般に言えることだが、こうしたハレンチ行為に抗議するだ
けの良識があるとは、とても思えない。だいたいにおいて大学教育が、そうした良識を育
てるしくみになっていない。

 私はこの事件を聞いたとき、「またか……」と思った。今まで何度となく、この種の事件
が起きるたびに、テレビ局へ抗議をしてきた。しかしすべてがムダだった。たとえば7、
8年前、イスラム教徒のトルコに行き、素っ裸になって踊ったお笑いタレントがいた。

体育館に集まった聴衆の中には、女性や子どももいた。結局、その番組は放映されなかっ
たが、日本そのものが、世界の人に笑われた。私もテレビ局に電話で抗議したあと、文書
でも抗議した。で、そのタレントは、しばらくはなりを潜めていたが、今度はパプア・ニ
ューギニアに住む裸族のレポーターとして、再び、番組に登場していた。彼はその番組の
中で、チンチンの先に大きな、筒をつけ、誇らしげに笑っていたが、それはまさにトルコ
の事件を、逆手にとったような番組だった。

 こういう番組を見ると、私たちは低俗タレントのほうばかりを責めるが、本当に責めら
れるべきは、その上のディレクターであり、プロデューサーなのだ。あるいはテレビ局本
体なのかもしれない。しかしさらに責められるべきは、そういう番組に対して批判力をも
たない、私たち自身なのかもしれない。

テレビ局は、そしてマスコミは、何かあると報道の自由を盾にとって、もっともらしいこ
とを言うが、しかしこんな番組のために、報道の自由があるわけではない。私たちはもう
一度、「報道がどうあるべきか」という原点に立ち返って、現在のテレビ界の姿勢をながめ
てみる必要がある。

(補記)こういうハレンチ番組を見たら、テレビ局へ、どんどんと抗議の電話をしよう。
テレビ局によっては、苦情処理センターを置いているところが多い。中には、常時留守番
電話になっているのもあるが、遠慮せず、抗議しよう。伝言を残そう。私たちは子どもた
ちのために、戦うのだ!
(02年−11月−6日記)

+++++++++++++++++

 お笑いタレントのSにしても、当選を目的にしているとは、とても思えない。売名のた
めの話題づくり。もちろん「あわよくば、当選」ということも考えているかもしれない。
しかしこれほど、宮崎県の人たちにとっても、侮辱的な行為もないはず。はっきり言えば、
宮崎県の人たちは、完全にバカにされている。

 同じようなケースとして、すぐ思いつくのが、大阪府の府知事になった、Y。パンパカ
パーンの、「Y」である。マスコミにおける知名度だけを使って、府知事になった。が、結
末は、みなさん、もうご存知のとおり。

 あのときも、Yの人間性を疑うというよりは、大阪府の人たちの良識と理性が疑われた。
今回も、そうである。と、同時に、私たち日本人がもつ、民主主義への意識そのものが疑
われていると考えてもよい。

 血と汗で勝ち取った民主主義なら、こんなバカげた使い方はしないだろう。もう少し畏
敬(いけい)の念をもって、民主主義をとらえるはず。しかし悲しいかな、日本の民主主
義は、戦後、アメリカから移植されたものである。民主主義の意味も価値もわからないま
ま、日本は、そのまま民主主義国家(?)になった。少なくとも、形だけは、民主主義国
家になった。

 Sが、宮崎県の県知事に立候補を予定しているということについて、宮崎県の人たちの
中には、不愉快に思っている人もいるはず。私は、それが良識であり、理性であると思う。
が、もし、あの大阪府の元府知事のYのように、当選するということにでもなったとした
ら、私は、本気で、宮崎県の人たちの良識と理性を疑う。

 「この民にあって、この知事」と。

 当選はしないとしても、お笑いタレントのSが、何%の得票率をとるかによって、宮崎
県の人たちのみならず、日本人の良識と理性のレベルがわかる。今回の選挙は、それを知
るバロメーターになるはず。

 私が宮崎県人なら、得票数1で、自分の県から、あのSをたたき出してやる!


(注※)宮崎県の官製談合事件で、競売入札妨害容疑で逮捕された前出納長、E隆容疑者(6
3)がヤマト設計(東京都)に受注させる目標額として土木部幹部に示した「8000万
円」の総枠は、A前知事(65)が決めていたことが分かった。また、土木部次長のS容
疑者(58)が、前知事から知事室に呼ばれ、談合について直接指示を受けたと供述した。
A知事逮捕へ向けて捜査している県警は、県幹部の供述が同容疑の裏付けになるとみて、
さらに細部について詰めの捜査をしている。最高検や警察庁でも6日、最終協議が進めら
れた模様だ。(毎日新聞記事より)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●此岸(しがん)と彼岸(ひがん)

+++++++++++++++++++++

迷いに満ちた、この世の世界を、此岸(しがん)
という。

一方、迷いのない悟りの世界を、彼岸(ひがん)
という。

だれでも、ブッダとなって彼岸へ行けると教えた
大乗仏教。

出家者だけが、彼岸へ行けると教えた小乗仏教。
小乗仏教では、人はどんなに修行をしても、
阿羅漢(あらかん)にしかなれないという。
ブッダには、なれない。

しかし……。一度、この問題には、しっかりと
決着をつけておきたい。

+++++++++++++++++++++

 この日本では、死んだ人は、すべて「仏(ほとけ)になる」と教える。大乗仏教の教え
による。つまり大乗仏教では、どんな人でも信仰によって救われ、ブッダとなって、迷い
のない悟りの世界へ行くことができると教える。

 「大乗」とは、もともとは、「だれでも乗ることができる大きな船」という意味らしい。

 これに対して、小乗仏教のほうでは、出家したものだけが、迷いのない悟りの世界へ行
くことができると教える。が、ブッダにはなれない。最高でも、阿羅漢(あらかん)にし
かなれない。

 迷いのない悟りの世界を、彼岸(ひがん)という。これに対して、迷いに満ちた、この
世の世界を、此岸(しがん)という。

 ……という話を、私は子どものころ、近くの寺の和尚(おしょう)によく聞いた。その
寺では、毎月、決められた夜に、和尚による講和があった。

 で、今にして思うと、此岸でも彼岸でもよいが、私は、そのつど迷ってばかりいた。今
の今も、迷っている。いつも心の中は、ザワザワとしている。悟りの境地など、望むべく
もない。一応、仏教徒だが、信仰したという記憶は、どこをさがしても、ない。

 が、だからといって、救いの道を、信仰に求めたいとは思っていない。私は私だし、不
完全のまま自分の人生を終えたとしても、悔いはない。仮に彼岸というものがあったとし
ても、そんなところへは行きたくない。

 だいたいにおいて、「行く」とか、「行かない」とか言うこと自体、おかしい。さらに死
んだ人がすべて、「仏になる」というのもおかしい。懸命に生きた人も、そうでない人も、
仏とは! しかしそれこそ、逆差別ではないのか? もし死んだ人が、すべて、「仏になる」
というのなら、懸命に生きること自体、意味がなくなってしまう。

 大乗仏教の矛盾は、すべてこの一点に集約される。

 が、だからといって、仏教の教えを否定するものではない。ただ現在、私たちが仏教と
読んでいるものは、あまりにも、形而上学的(けいじじょうがくてき)すぎる。わかりや
すく言えば、あまりにも観念的で、実体がなく、非論理的。

 今では、その人がもつ、善悪に対する感覚まで、大脳生理学の分野で説明されるように
なってきている。仏教でいう迷いについても、心理学の世界から離れて、同じく大脳生理
学の世界で、説明されるようになってきている。ストレスについてでさえ、脳内ホルモン
が関係しているということは、今では常識である。

 それに私自身は、人が人として生きているかぎりは、(悟りの世界)など、ないと思って
いる。生きるということは、どこまでも現実的な問題だし、現実を離れて、生きるという
ことは、ありえない。

 ここで(現実)という言葉を使ったから、現実の話をしよう。

 数日前、どこかの母親が、11歳になる息子を焼き殺そうとして、家に火をつけたとい
う。そのためその息子は焼死したが、その息子を助けようと家の中に飛びこんだ祖父まで、
巻き添えになって死んでしまった。悲惨な、どこまでも悲惨な事件である。

 現在の刑法によれば、放火殺人は、無期もしくは死刑しかない。この母親について言え
ば、死刑になる確率がきわめて高い。(昨日あたりの新聞によれば、母親は、「関係ない」
とがんばっているそうだが……。)

 こういう母親でも、死ねば、やはり仏になるのだろうか?

 ……という話は、もうやめよう。書いている私だって、疲れてくる。此岸(しがん)も
彼岸(ひがん)も、ない。どこにもない。だから悟りの世界などというものも、ない。ど
こにもない。

 それはちょうど健康論に似ている。たいへんよく似ている。

 毎日、体を鍛えるからこそ、私たちの健康は維持される。鍛えなければ、その時点から、
健康は害される。

 同じように、毎日、脳みそを鍛えるからこそ、私たちの精神の健康は維持される。鍛え
なければ、その時点から精神の健康は害される。究極の健康法など、あるわけがない。い
わんや、悟りの境地など、あるわけがない。

 私たちは死ぬまで、体を鍛え、脳みそを鍛える。釈迦自身も、「精進(しょうじん)」と
いう言葉を使って、それを説明している。それが生きるということである。

 なおついでに言うなら、「大乗」だの、「小乗」だのと、こうしたわけのわからないこと
を言い出したのは、釈迦滅後、早くても、100年後の学者たちである。戒律に対する見
解の相違から、仏教教団内に対立が生まれ、その結果として、伝統的な上座部(のちの小
乗仏教)と、進歩的な大衆部(のちの大乗仏教)に分かれていった。

 あとは、混迷の一途。それがそのまま仏教として、日本へも伝わってしまった(?)。そ
の結果が、今のこの状態と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
此岸(しがん) 彼岸 大乗仏教 小乗仏教)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   07年 1月 8日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●キレる子ども 

++++++++++++++++++

キレる子どもについては、たびたび、
取りあげてきた。

その「キレる」という行為だが、通常の
「激怒」とは、いくつかの点で、異なる。

++++++++++++++++++

 子どもでも怒る。激怒することはある。しかし「キレる」という行為とは、明確に、区
別される。「キレる」という行為には、つぎのような特徴がある。

(1)突発的に錯乱状態になる。
(2)暴力行為に、見境がなくなる。
(3)脳の抑制命令が、欠落する。
(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。
(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 順に考えてみる。

(1)突発的に錯乱状態になる。

 キレる子どもの特徴は、突発的に錯乱状態になること。その少し前から、ピリピリとし
た緊張状態がつづくことがあるが、暴れ出すときは、突発的である。瞬間、人格の変化を
感じたと思ったとたん、「コノヤロー」と金切り声をあげて、相手に飛びかかっていったり
する。

(2)暴力行為に、見境がなくなる。

 キレる子どものする暴力には、見境がない。ふつうの暴力には、(手かげん)というもの
がある。しかしキレる子どものする暴力には、その(手かげん)がない。全力をこめて、
相手を殴ったり、蹴ったりする。

(3)脳の抑制命令が、欠落する。

 言動が、まるでカミソリでものをスパスパと切ったようになる。動きが直線的になり、
なめらかさが消える。脳の抑制命令が欠落したような状態になる。当然、言葉もはげしい
ものになる。

(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。

 その瞬間、子どもの顔を観察すると、顔色は青ざめ、目つきが別人のように鋭く、冷め
たものになっているのがわかる。憎しみや怒りを表現しながら相手に殴りかかるというよ
りは、無表情のまま。ときに、そのあまりにもすごんだ顔を見て、ゾッとすることさえあ
る。

(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 キレるとき、その理由が、よくわからない。A君(小3男児)は、順番を待って並んで
いるとき、突然、キレて暴れ出した。近くにあった机や椅子を、ギャーッという叫び声と
ともに、手当たり次第、足で蹴って倒した。

 B子さん(小5女児)は、私が「こんにちは」と声をかけて肩をたたいたその瞬間、突
然、キレた。私に向かって、「このヘンタイ野郎!」と言って、私の腹に足蹴りを入れてき
た。ものすごい足蹴りである。私は、その場で、息もできなくなり、しばらくうずくまっ
てしまった。

 C君(小4男児)は、問題を解いているとき、私がそれを手助けしてやろうと声をかけ
たとたん、キレた。「テメエ、ウッセー!」と叫んで、そばにあったワークブックで、私の
頭を、つづけざまに、狂ったように叩きつづけた。

 こういうケースのばあい、私ができることと言えば、男児のばあいは、抱きかかえ、子
どもを抑えることでしかない。しかし相手が女児のばあいだと、それもできない。両手で
まるく、自分の頭をおおうことでしかない。子どもの世界では、おとなの私のほうが、や
り返すなどというのは、タブー。(当然だが……。)

 こうした子どもを観察してみると、先にも書いたように、脳の抑制命令そのものが、欠
落したような状態になっていることがわかる。脳の機能そのものが、異常に亢進し、狂っ
たような状態になる。

 原因のほとんどは、慢性的なストレス、日常的な緊張感、抑圧感の蓄積と考えてよい。
それが脳間伝達物質の過剰分泌を促し、瞬間的に脳の機能が異常に亢進するためと考えら
れる。

 さらにその原因はといえば、脳の微細障害説などもあるが、家庭環境も、大きく作用し
ていることは否定できない。

 子どもがこういう症状を示したら、親は、家庭環境を猛省しなければならない。が、こ
ういう子どもにかぎって、親の前では、むしろ静かでいい子ぶっていることが多い。つま
りそのはけ口を、弱い人や、やさしい人に向ける。

 だからたいていのばあい、私がそれを指摘しても、親は、その深刻さを理解しようとす
る前に、子どもを叱ったり、さらに子どもを抑えつけようとしたりする。これがますます
症状をこじらせる。あとは、この悪循環。最後は、行き着くところまで行く。それまで気
がつかない。

 対処法としては、過剰行動児に準ずる。

++++++++++++++++++++++++

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかに
クローズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。

つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑
制命令を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう20年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言
うとこうだ。たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、イン
スリンが多量に分泌され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原
因となるという(岩手大学の大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃
でスパスパとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていっ
たん怒りだすと、カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと
金切り声を出すことも珍しくない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いた
り、暴れたりする。興奮したとき、体を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、
カルシウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は
日もちをよくしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。

リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出
してしまう。一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本で
も戦前までは、カルシウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子ど
もから静かな落ち着きが消えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子ど
ものばあい、カルシウムが不足してくると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても
体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさせたりする。

 ここに書いたのはあくまでも1つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が
見られたら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子
どもに缶ジュースを1本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。

体重15キロの子どもに缶ジュースを1本与えるということは、体重60キロのおとな
が、同じ缶ジュースを4本飲むのに等しい。おとなでも4本は飲めないし、飲めば飲ん
だで、腹の中がガボガボになってしまう。もしどうしても「甘い食べもの」ということ
であれば、精製されていない黒砂糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランス
よく配合されているため、ここでいうような弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。
しかしそういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子
どもたちがウソのように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわ
かった。

その地方ではどこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもた
ちは水代わりに牛乳を飲んでいた。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司


●親が子どもを叱るとき(フリーター論) 

++++++++++++++++

ふえるフリーター。
しかし大切なことは、
フリーターを悪として考えるのではなく、
それを認める社会を用意することでは
ないのか。

++++++++++++++++

●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメ
リカでは、「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われた
ら、彼らは喜んで家から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほ
うびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、
仲間どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)
が、そのよい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人
里離れたへき地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつ
ながっている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツと
なる。

一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにし
てみればバツなのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒
険」の著者)はこう書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分
が変わるべきとき』と。つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』と
も言う。そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。

集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。

この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を
強要された。農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。日本独特
の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者となり、
社会からも排斥された。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。
しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感
じなくなってきている。

イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つ
に分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一
つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れて
いる。日本労働研究機構の調査(2000年)によれば、高校三年生のうちフリーター志
望が、12%もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も
変わってきた。

「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。

30年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。
これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革
命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろ
うか。それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだ
ろうか。ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、

 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒
は、全体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由
としては、

 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型             ……15%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利であ
る」ことを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校
の校長すらいる。

しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろう
か。いつまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 フリーター フリーター論 フリータ撲滅論 フリータ)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」であ
る。では、あとの4つは何か。

(1)愛別離苦(あいべつりく)
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)
(3)求不得苦(ぐふとっく)
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1)別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることに
よる苦しみをいう。
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦し
みをいう。
(3)求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをい
う。
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間
の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認
識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し
前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)
→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、
説明する。

(1)苦諦(くたい)
(2)集諦(しゅうたい)
(3)滅諦(めったい)
(4)道諦(どうたい)の、4つである。

(1)苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2)集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦
しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。
無知、無学が、その原因となることもある。
(3)滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり
涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4)道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということ
(5)になる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正
業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータ
の中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経
て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われて
いる。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされて
いる。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経
などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、
「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

+++++++++++++++++++

もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

+++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦
は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。

++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自
由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私
はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の集合を見る。

 そのサルトルの「無の概念」について書いた原稿が、つぎのものである。

++++++++++++++++++

【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、
『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても
暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞ
かし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日
本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・
1905〜1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間か
ら、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、
自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂
信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信する
という例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出
歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハ
ッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、
それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」
をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫
んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、
私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放さ
せることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を
解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の
問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問
題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるとき
がくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の
立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取
り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、
布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概
念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの
問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由
論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていた
ため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を
奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることにな
る。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の
恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこん
な経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグ
イと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のとき
は、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するが
ゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。し
かしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一
文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言う
ことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に
入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、
しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ
自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。し
かしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実
自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがま
まにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任
をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをい
う。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●あやしげな事件

++++++++++++++++++++

ロシアの連邦保安局(FSB)の元幹部が、
毒殺(?)されるという事件が起きた。

イギリスは、今、その事件で、もちきりである。

中には自殺説、自作自演説まである。
まさに謎が謎を呼ぶ展開になっている。

++++++++++++++++++++

ロシア連邦保安局(FSB)の元幹部、A氏が、放射性物質のポロニウム210によっ
て殺害されたとみられる事件が、起きた。それについて、ロンドン警視庁は27日、同
国に亡命しているロシアの政商B氏の事務所から、ポロニウム210の痕跡が検出され
たと発表した。

一方、A氏の遺体は30日に司法解剖される見通しとなっており、事件の謎に迫る可能
性があるとして注目されている。

 BBCなどによると、B氏の事務所は、ロンドン市内の高級街ベルグラビア地区にあり、
放射性物質の検出を受けて封鎖された。同氏はA氏の友人で、プーチン・ロシア大統領
を痛烈に批判しているという(以上、ヤフー。NEWS)。

 この記事だけでは、事件の概要がよくわからない。しかしいくつかの可能性が成りたつ。

 もっとも簡単な推理によれば、政商B氏が、A氏を殺害したということになる。が、こ
こで矛盾が生じてくる。B氏自身も、プーチン大統領を痛烈に批判していたという。そん
なB氏が、A氏を殺害するはずはない。

 ……と、だれしも考える。しかしこうした世界には、必ずといってよいほど、ウラがあ
る。

 私も以前、いろいろなカルト教団を叩く本を書いていたとき、同じようにして、私に近
づいてきた男が2人いた。いかにも私のシンパのようなフリをしながら、かつ、その教団
を批判しながら近づいてきた。

 それらの人物については、ある日、宗教問題を取り扱っていた日本K党の宗教部の人か
ら、電話がかかってきて、素性を知った。「林さん、あなたの周りに、G教団のスパイが2
人、張りついていますから、注意してください」と。

 B氏は、ひょっとしたら、表では、プーチン・ロシア大統領を批判しながら、A氏に近
づいてきたとも考えられる。もちろん、A氏を油断させるためである。

 で、もうひとつの推理は、B氏自身も、暗殺の対象になっていたかもしれないというこ
と。B氏の事務所から、ポロニウム210の痕跡が検出されたということから、そういう
ふうにも、解釈できる。

 しかし今どき、こういう事件が、現実に起きるということ自体、信じられない。……と
いうか、実は、この種の事件は、決して少なくない。ロシアのプーチンがらみの暗殺事件
だけでも、わかっているだけで、5〜6件近くある。あのプーチンという人は、もともと、
KGB(ロシアのスパイ組織)あがりの人物である。

 現在、イギリスの捜査当局が懸命に捜査しているから、そのうち、真相がわかるかもし
れない。しかし今のところ、私のワイフは、こう言っている。「プーチンもこわい人ね」と。
ロシア側は、その疑念をひっくり返すほど重要な証拠を出す必要がある。

 さあ、どう出るか、ロシアのプーチン大統領!


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●安易な復古主義
+++++++++++++++

安易な復古主義に警戒しよう!

+++++++++++++++

●明治の偉勲たち

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。


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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●一芸論

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子どもの心は、一芸が守る。

この一芸は、大切にする。

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 子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。
いろいろなことがあった。

S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異常なまで
の興味をもった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげること
をすすめた。パソコンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコン
にのめりこみ、小学3年生のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語を
マスターするまでになった。

Tさん(2歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいた
という。そこで母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさん
は泳ぎ始めた。そのTさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、
などなど。

 中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずく
と、あとは坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけとい
うわけではないが、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さ
らに「芸は身を助ける」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。

M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近
くの公園で、ゴルフばかりしていた。で、それから10年後、ひょっこり私の家にやっ
てきて、いきなりこう言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよ
ね」と。M君はゴルフのプロコーチになっていた。

 一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれ
ば、「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれ
ば、「これについては、あいつしかできない」という状態にする。

 ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことを
いう。モデルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●一芸は聖域

 子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子ども
の心は大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーは
やめさせる」というもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績は
かえってさがる。こんなケースがある。

 H君(中1)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、
成績がさがったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定
になってしまった。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。
食事も不規則になり、食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、
感情的な反応そのものが鈍くなってしまった……。

 子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠さ
れていることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもの
で、それを奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。

H君は学校で疲れた心を、音楽を作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪って
しまったのだから、H君の症状は当然といえば当然の結果でもあった。

 また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある
女の子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。
もしそうであるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。

 これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向
かって進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学
から大学への転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡
り歩いている学生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国
際間でもなされている。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一
芸を大切にする。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思考回路

+++++++++++++++++

一度、自分の頭の中に、ある一定の思考
回路ができてしまうと、それを変更する
のは、容易なことではない。

+++++++++++++++++

 今回、スパムメール対策として、つぎのような方法を考えた。つまり一度、すべてのメ
ールを、「削除済み」にしてしまう。その中から読みたいメールだけを、選んで読む。さら
に家族や友人、知人からのメールについては、逆フィルターをかけて、「安全メール」フォ
ルダー(このフォルダーは、自分で作成する必要がある)に、移動する。

 今までは、「受信済み」フォルダーの中から、そのつど、スパムメールについては、「送
信者禁止」処理をしてきた。が、気がついてみたら、それが1500人ほどになっていた。
そういうメールを送り届けてくる連中は、そのつど、アドレスを変えて、送り届けてくる。

 私のばあい、電子マガジンにアドレスを書いたのが、アダになった。(今は、書いてない
が……。)つまりうかつにも、アドレスを公開してしまった。それでスパムメールが、ジャ
カスカと届くようになってしまった。

 しかし、今まで、どうしてこの方法に気がつかなかったのだろう。つまり、ここに「思
考回路」の問題がある。

 私は、「スパムメールは、フィルターにかけて、送信者禁止にすればよい」とだけ、考え
ていた。しかしこうした思考回路は、一度できると、頭の中で、固定化されてしまう。そ
の思考回路にそってだけ、ものを考えるようになる。

 柔軟性がなくなるということは、それだけ脳の働きが鈍くなったということを意味する。
子どもの世界でも、頭のよい子どもは、その柔軟性に富んでいる。いろいろな形を使って
絵を描かせたりすると、つぎつぎとユニークな絵を描いていく。そうでない子どもは、そ
うでない。考えているフリをしているだけで、先へ進まない。

 もっとわかりやすい例でいえば、ジョークがある。柔軟性に富んでいる子どもは、おと
なのジョークでも通ずる。そうでない子どもは、そうでない。

 以前、こんな原稿を書いた。

++++++++++++++

●いたずらとジョーク

 「笑い」は高度に進化した動物たちに与えられた、まさに知的特権である。人間はもち
ろんのこと、サルや犬も笑うことが知られている。ほかの動物については知らないが、中
には笑っているのもいるかもしれない。

 その「笑い」を誘うのが知的遊戯であり、その代表的なものが、いたずらとジョークで
ある。

子どもはこのいたずらとジョークが大好き。一般論として思考の柔軟な子どもほど、い
たずらやジョークのハバが広い。この時期、いたずらもしなければ、ジョークも通じな
いというのは、あまり好ましいことではない。俗に頭のかたい子どもは、その融通がき
かない。ジョークも通じない。こんなことがあった。

 ある夜遅く、一人の母親から抗議の電話がかかってきた。いわく、「先生は、授業中、虫
を食べているそうですね。娘が気味悪がって泣いていますから、どうかそういうことはし
ないでください」と。

私はときどき子どもたちの前で、泣き虫とか怒り虫を食べたフリをしてみせる。泣き虫
を食べたときは、オイオイと泣いて見せるなど。それをその子ども(長女児)は本気に
したらしい。

あるいは同じことについて、別の日。怒り虫を食べて、子どもたちの前で起こったフリ
をしてみせたことがある。そのとき(もちろん演技でだが)、プリンとを丸めて、最前列
にいた子ども(年中男児)の頭をポンポンとたたいてみせた。(痛いはずがない!)が、
それについてやはり電話で、「先生は、うちの子どもの頭を理由もなく、たたいたという
ではありませんか! 先生は体罰反対ではなかったのではないですか!」と。ものすご
い剣幕だった。

 いたずらといっても、常識をはずれたいたずらがよいわけではない。私のお茶に、殺虫
剤を入れた中学生がいた。あるいは私が黙ってうなずいた瞬間、顔の下にシャープペンシ
ルを立てた中学生もいた。そのときはマユの下を切り、顔中が血だけになった。あと数セ
ンチ位置がずれていたら、私は右目を失明していただろう。そういういたずらは、常識の
ブレーキが働かないという点で、好ましいいたずらとはいえない。

 思考の柔軟な子どもや、知的レベルの高い子どもほど、ジョークが通ずる。幼稚園児で
もおとなのジョークを理解することができる。

ある日、幼稚園児の前で、「アルゼンチンのサポーターには、女の人はいないんだってエ」
と言ったときのこと。子どもたちが「どうしてエ?」と聞いたので、私が「だって、ア
ル・ゼン・チンだもんねえ」と言った。言ったあと、「このジョークは、無理かな?」と
思ったが、一人だけニヤッと笑った子どもがいた。日ごろから頭のよい子だった。

++++++++++++++++

 つまり今回、はからずも、私は、自分の脳の働きが鈍くなっているのを知った。一定の
思考回路の中だけで、ものごとを考えていた。

 もっとも、その思考回路が悪いというのではない。私たちの日常生活というのは、その
大半が、繰りかえしの作業で成りたっている。いちいち思考回路を変えていたら、それこ
そ、日常生活そのものが、成りたたなくなる。

 洗濯のしかた、炊事のしかた、掃除のしかたなど。

 そこで重要なことは、そういう日常的な作業をしながらも、「?」と思ったら、そこで立
ち止まって考えてみること。わかりやすく言えば、自分がもつ思考回路を、疑ってみるこ
と。

 今回、はからずも、私は、それを知った。と、同時に、私の頭の中は、その思考回路だ
らけということも、知った。

 もちろん大半は、(役にたつ思考回路)である。しかし中には、そうでないものもある。
よい例が、冠婚葬祭にまつわる思考回路。

 こうした思考回路は、代々と、伝統的に親から子へと受け継がれている。(形)になって
いることも多い。だから、それに気づいたとしても、変えるのは、容易なことではない。
しかしよくよく考えてみると、おかしな点はいくらでもある。いつの間にか、自分自身が、
その世俗的な思考回路に毒されてしまっているというケースも、少なくない。

 たとえば葬儀にしても、どうして今ある(形)が、葬儀なのか。私自身は息子たちには、
いつもこう言っている。「パパやママが死んでも、葬式には来なくていい」「来られるとき
に来ればいい」と。とくに二男夫婦は、アメリカに住んでいる。

 葬儀にしても、簡単なものでよい。(豪華な葬儀など、望むべくもないが……。)(形)に
こだわる必要はまったくないし、またそういう(形)に、どれほどの意味があるというの
か。私たちは、私たちのやり方で、やればよい。

 つまりそれが思考の柔軟性ということになる。要するに、「何が大切で、何が、そうでな
いか」と、いつも考えながら、それに臨機応変に対処していくということ。少し大げさな
感じがしないでもないが、今回、スパムメール対策を思いついたとき、私は、それに気が
ついた。

 ところで、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。

『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。

 この言葉をもじると、こうなる。

 『いつも同じことをしていると感じたら、そのときは自分を疑ってみるべきとき』と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思考回路 思考パターン)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●私らしさとは……

++++++++++++++++++++

心理学でいうアイデンティティとは、

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう。

++++++++++++++++++++

 エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つの
ものをあげる。

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。

(1)独自性の追求

 「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ず
るようになった。どうしてか?

 たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、還
暦」の「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61歳)
のときに、干支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)る」
という意味である。

 で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、そ
ういうふうにして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。

ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男
の子らしくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作
用によるものだという説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。

 まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子ら
しくしていく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らし
くなっていく。

 それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、
今、老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。

 「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。

 しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消
えてしまう。

 となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、
私には、独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、
そういうものは、どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、
独自性と言えるようなものがあるのか、と。

 どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」と
思うような部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。

 今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。
体力も落ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前
にして、「では、どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どんど
んと、老人臭くしていく。

 しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!

(2)統合性の容認

 いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、
あまり好きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。

 私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子
でもない。

 だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。とき
どき、そう言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそ
れなりの人に、そう言われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たま
らない。

 「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、い
かんよ」とか、など。

 酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性
を見れば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思って
いる。

 どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定
してしまうと、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなく
なってしまう。

 仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。
その人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが
悪いことなのか!

(3)一貫性の維持

 一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だ
が、認知症か何かになった人を、見てみればよい。

 数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言っておき
ながら、いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つき
あいにくい。その人がどういう人なのか、それさえわからない。

 子どもの世界でも、似たようなことを観察する。

 年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、
明確になってくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教
える側からすると、「この子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。

 が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、
愛情飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのな
い子どもになる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。

 このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た
(つかみどころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人
といい、そうでない人を、そうでないという。

 わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。「私
は一貫性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、そう
思いこんでいるだけ。

 そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならな
い。視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性
があるかどうかを、判断する。

 あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、
あなたという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。

 以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自己
概念)と(現実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立され
たとみる。

 自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑
ぐらいでは、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アイデンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●朝鮮N報の「ねたみ節」

+++++++++++++++++

どうして韓国の人たちは、こうまで
日本をねたむのか?

もう日本のことなど気にせず、
自分たちは、自分たちの道を進んだら
よい。

朝鮮N報の東京特派員の報告(社説)を、
ここに紹介する。

題して、ズバリ「日本がねたましい」。

+++++++++++++++++

●「日本がねたましい」

日本政府が11月22日に発表したところによると、日本は現在、戦後最長の景気拡大
を記録している。 

(中略)
 
……その間に清日戦争(日清戦争、1894−1895年)があったことから、この好
景気が「戦争特需」によるものだったことがわかる。清国から戦争賠償金として支払わ
れた3億6000万円は、当時の日本の国家予算の4倍、日本が費やした戦争費用の1
1・5倍に相当したという。まさに「戦争ビジネス」で巨利を手にしたのだ。このカネ
が還元されたことで、好景気が続いたとみられる。 

 ご存じのように、清日戦争はどの国が韓国を手に入れるかをめぐる植民地争いだった。
それゆえ韓半島(朝鮮半島)が戦場となった。韓国が被害を受けたのはもちろん、続く
露日戦争(日露戦争)を経て日本の植民地になるという悲劇を味わった。ということか
らもこの最長の好景気も、韓国人の立場からすると非常に気分の悪い話なのだ。 

 だがそれよりももっと気分を悪くさせる日本の好景気は、1954年12月から195
7年6月までの31か月間続いた「神武景気」だ。 

 この景気の踏み台となった事件こそ、われわれの悲劇である韓国戦争(朝鮮戦争)だ。
日本は参戦した米軍に軍需物資を供給し、莫大な資金を蓄積した。例えば戦車を修理す
ることで重工業が復活し、軍服を供給することで繊維業が復活するという具合だった。
韓国戦争を通じ、日本が得た直接的・間接的な恩恵を額にすると計46億ドルに上ると
いわれている。 

 その10数年後、韓国経済が近代化する上で肥やしとなった対日請求権による資金が8
億ドル(無償3億ドル)程度だったことを考えると、瞬間的に怒りと虚無感の入り交じ
った感情がこみ上げてくる。 

 (中略)

 しかし「中国特需」の陰で、あまり語られないもう一つの「特需」が存在している。そ
れは韓国市場の需要だ。同期間に日本の対韓輸出は1・89倍も増加した。韓国との貿
易で日本が手にする貿易黒字も2001年の72億ドル(約8400億円)から、昨年
には227億ドル(約2兆6400億円)に達し、3倍に増えた。 

 その理由の一つとして、韓国企業が輸入に頼っている産業分野への投資をためらってい
ることが挙げられるだろう。好況と無縁な状況にある韓国が、いったいなぜ日本に利益
をもたらしているのかを考えると「韓国はまた失敗を犯しているのではないか」といっ
た懸念を抱かざるを得ない。 

 どのみち経済に善悪の論理などない。仮に韓国の不幸が隣国の幸福につながっていると
しても、それは韓日両国の間だけで起きることでもない。しかしそうした事態が何度も
繰り返されるとなれば、それは問題だ。しかも、そうした事態が頻発する理由が、すべ
て無能な指導者のせいだとしたら、それは他人に責任転嫁する前に、われわれ自身が反
省すべきことだろう。 

 日本の好景気を横目に、正直ねたましくて仕方がない今日この頃だ。 

S・J=東京特派員

++++++++++++++++

 この特派員の言いたいことは、要するに、日本は韓国の犠牲の上に、繁栄に繁栄を重ね
ている。それがおもしろくない、ということらしい。

 こうした被害妄想的対日感情は、韓国の人たちに共通している。その底流には、「日本ご
ときに負けるはずがない」という、逆・民族差別意識があるとみてよい。

 その上で、「(日本の繁栄は)、気分が悪い」「補償額が、計11億ドルしかなかった」と。

 1960年代における11億ドルと、現在の11億ドルを、言葉巧みに、混同させてい
るところがおかしい。当時の日本は、日本経済の屋台骨を何本も抜きながら、それだけの
額を、韓国に支払った。

 それを今になって、「少なすぎる」とは! 

 それにしても、堂々と、「ねたましい」という言葉を使うところが、恐ろしい。プラス、
実に韓国の人らしい。韓国の人たちの対日感情を知る上において、この報告(朝鮮N報で
は社説)は、たいへん参考になる。

 ただし一言。

 いつまでも過去にこだわるのではなく、(たしかに日本も反省すべき点は多いが)、少し
は視点を未来に向けてほしい。韓国の人たちは、ことあるごとに、秀吉による朝鮮出兵時
にまでさかのぼって、日本を非難する。それはそれで理解できないわけではないが、現在
の韓国政府の失政による失敗まで、日本のせいにしてもらっては困る。

 先週も、朝鮮N報は、こんな記事を載せていた。こんど、中国の自動車会社が、新車を
発売した。それについて韓国の車そっくりだ、と。そこで韓国のその自動車会社は、意匠
権侵害で、その中国の自動車会社を訴えることにした、と。

 記事の冒頭には、「元祖……」という言葉さえあった。

 私はこの記事を読んだとき、思わず吹き出してしまった。今まで、さんざん日本の自動
車をコピーして自分たちの車を作ってきたのは、どこの国か。韓国、あなたたちではない
のか。その韓国が、「元祖……」とは! 一時は、前から見れば日本のT社の車、うしろか
ら見れば日本のM社の車という、そんな車さえ作っていた。

 造船産業、液晶ディスプレイ産業、IT産業、さらには鉄鋼産業にしても、すべて日本
から奪いとって発展させた産業ではないのか?

 こういう特派員が現在、日本にいて、毎日、日本の繁栄をねたみながら記事を書いてい
るかと思うと、ゾッとする。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●2000年

+++++++++++++++++++

Eマガ(無料版)の読者が、今朝、2000人になった。
うれしかった。と、同時に、ほっとした。

ところで、近くのW医院のみなさんは、
医院の受付に、私のマガジンの
購読申し込み書を置いてくださっているとのこと。

そういう人たちの協力があったからこそ、
今朝、2000人になった。

W医院のみなさん、ありがとうございます。

そこで、2000年。

+++++++++++++++++++

 2000年といえば、「2000年問題」。それにノストラダムスの大預言。つまりノス
トラダムスの大預言によれば、1999年の末、人類は、最期を迎えるはずだった。

 しかし結果は、ハズレ! 大ハズレ!

 少し前に書いた原稿を、もう一度、読みなおしてみる。3年前に書いた原稿である。

+++++++++++++++

●ヤーイ、何も起きなかったぞ!

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載
せた。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、
まったくのデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言と
か、そういうものもあった。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこか
の頭のおかしな人が、思いこみでするもの。たとえばあるキリスト系宗教団体では、こ
とあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この信仰をしたものだけが、救われる」などと
教えている。

そこで調べてみると、こうした終末予言は、その宗教団体だけでも、過去、4、5回も
なされていることがわかった。しかし、すべてハズレ! 一度だって、こうした予言が、
当たったためしがない。

 で、問題は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った
人が、1人もいないということ。さらにその責任を追及した人もいない。それに問題は、
そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)
から離れた信者がいないということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避し
ました」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。それも同じような予言をした。
去る5月15日に何かが起こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団
体のメンバーの言葉)とのこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。「ヤーイ、何も
起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ〜」ということに
なる。

もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなかったからといって、どう
ということはない。(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そ
うなったと考えるのが正しい。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の
7月」というのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、
あのノストラダムスの予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位の
お金を稼いだという。世の中をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利
益を、社会に還元すべきではないか……と考えるのは、はたして私だけだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。
人々が不安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうし
たらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予
言になる。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち1人ひとりが、自分
を取り巻く運命論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之
介を、私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率
によって、決まる。百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばっ
て立つのは、私たち自身にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。
自由なる意思だ。そういう視点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト
教系のカルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、
これからこのボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。
「そうだ。君が、ボールを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】

 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したこ
とがある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本3大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に
立って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。しかし、だ。この大宇
宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の数よりも多くの、
星々があるという。

私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地球は、その星にも数えられ
ない、その太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る
太陽の何と小さいことか。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されていると
しても、その神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや
一人ひとりの人間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上
の生物の中で、人間だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題
がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そ
のまた人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。

それはたとえて言うなら、あなたの家の中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あな
たが相手にするようなもの。……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、

キリストは、第2次大戦中、1000万人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何
もしなかったではないか。殺されたユダヤ人の中には、それこそ命をかけて神に祈った
人だって、いたはずである。つまりそういうことを考えていくと、「この信仰を信じた人
だけが、神に救われる」と考えることの、おかしさが、あなたにもわかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教に
せよ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従っ
てするものではないということ。運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰
とは関係ないものということになる。もしそういうスーパーパワーを売りものにする宗教
団体があったら、まずインチキと疑ってかかってよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるは
ずはない。ボールを落とすとか、落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。
自由なる、意思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。

++++++++++++++++

 私が1998年に書いた本の中の一節を紹介する(「ドラえも〜ん、野比家の子育て論」
より)。

++++++++++++++++

●予言

運命があれば、予言もある。しかしその予言について、藤子・F氏は、こんなふうに書
いている。(20)巻の88頁にある、『大予言・地球の滅びる日』というのが、それであ
る。

のび大は偶然、ドラえもんの予言書(?)を手に入れる。しかしそこに書いてあること
は、読み方によっては、どちらともとれる内容ばかり。「ノストラダムスの大予言」を皮
肉ったものだが、そのとおり。

藤子・F氏は、そのノストラダムスを完全に皮肉っている。

たとえば、のび大は、「暗き天に、マ女は怒る。この日○日は終わり、悲しきかな」とい
う文言を、次のように解釈する。

○日というのを地球ととらえ、「魔女が怒り、地球滅亡を意味する」と解釈する。そ
こでいつものように、のび大は大あわてをする。が、その予言書はただの日記。あと
でドラえもんは、こう説明する。

「くら−い点というのは、(のび太の暗い)点のこと。マのつく女というのは、ママのこ
と。○はドラ焼きのこと。ドラ焼きがなくなれば、悲しいに決まっている」と。

私も、ノストラダムスの予言が大流行したとき、同じことを考えた。翻訳そのものが正
しいかどうかも疑ったが、かりに正しいとしても、あれはまともな人間の書いた文章では
ない。ないことは、多少なりとも、文を書いたことがある人ならわかる。はっきり言え
ば、頭のおかしな人が書いた文章だ。そんな文章をもとに、現代や未来を考えるほうがお
かしい。藤子・Fも、それを指摘している。解釈する人の意向によって、どちらにも解釈
できる。「ノストラダムスの大予言」に書かれた文章は、そんな文章ばかりだ。

しかし問題はそのことでもない。問題は、そういうわけのわからない文章を、世間に紹
介しておきながら、その紹介した人が、責任をとったという例がないこと。あの富士山に
しても、当時、1992年に大爆発をすると騒いだ人がいた。が、結局、富士山は大爆発
などしなかった。

その人は、しばらくは世間からなりを潜めていたが、また別の予言をして、最近、世間
の話題をさらっている。藤子・F氏はそこまで書いてないが、藤子・F氏はそういう人
を、子どもたちから遠ざけたかったのではないか。私はそういう藤子・F氏のねらいを、
「大予言」の中に感じた。

++++++++++++++++

 ただそれから6年。予言こそ当たらなかったが、世界情勢はますます不安定になってき
ている。2000年のあのときと、2006年の今とでは、どちらがよいかと言えば、2
000年のほうが、まだよかった(?)。

 それはさておき、2000年。……私が満53歳になった年である。「53歳」と言われ
ても、とくに思い出すことはないが、「2000年」と言われれば、あれこれと思い出す。
20世紀最後の年だったということもある。21世紀になる、前の年だったということも
ある。

 言い忘れたが、冒頭に書いた「2000年問題」というのは、コンピュータの世界での
話である。

 プログラムを組むとき、そのつど、年号や日付を書きこむことが多い。たとえば金利計
算をするプログラムにしても、年数を求めるとき、(現在の年数)−(過去の年数)という
数式を用いる。

 そのとき、ほとんどのプログラムでは、4桁の数字のうち、上1桁、もしくは2桁を省
略する。1955年から1990年までだったら、(55−50=5年)というようにして
計算する。

 が、2000年を過ぎると、同じプログラムでは、1990年から2001年は、(01
−90=マイナス89)となってしまう。

 これがプログラムミスを引き起こし、社会の大混乱を引き起こすという。それを、「20
00年問題」といった。

 で、当時、すでにプロのプログラマーの道を歩み始めていた二男に、そのことを相談す
ると、二男は、こう言って笑った。「問題は起きないよ」と。すでに二男自身も、自動的に
問題か所を発見し、修復するプログラムを開発していた。

 結果的に、何ごとも起きなかったが、ひとつだけ、私のところでは問題が起きた。当時
使っていたのは、S社のパソコンだったが、そのパソコンを開くたびに、「期限切れ」の表
示が出て、フリーズしてしまった。で、パソコンの日付を見ると、00年になっていた。
だから今でも、そのパソコンを開くときは、一度、日付を修正しなおして、立ち上げなく
てはならない。そういうことはあったが、その程度。

 翌、2001年、私たちは無事、21世紀を迎えた。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●花と緑の町?

++++++++++++++++++++

花と緑の町?

もうたくさん!
もう結構!

いつからこの浜松は、工業の町をあきらめ、
花と緑の町になったのか?

音楽の町になったのか?

++++++++++++++++++++

 花と緑の町? この浜松が? もうたくさん! もう結構! 花や緑で、どれだけの労
働者が生活できる? どれだけの外貨を稼ぐことができる?

 工員の町が、いつの間にか、音楽の町になってしまった。しかし笛吹けど、踊らず。そ
こで今度は、花と緑の町?

 もういいかげんにしろ。そうでなくても、市の財政は、危機的。

 その上、今度は、モザイカルチャ? 広報「はままつ」(12・5日号)で、市長のH氏
が、にこやかな顔をして、そのモザイカルチャを紹介している。

 いわく、「2009年に、(モザイカルチャの)国際博覧会に立候補しています」と。

 モザイカルチャって、何? 知っている? 鉄などでできた支柱に、ワイヤで金網を巻
きつけ、それで植え込んだ木で、動物や人間、植物の形をつくることをいう。

 やるべきことがちがうのではないのか。浜松市がやるべきことは、世界自動車モーター
ショーとか、産業ロボット博覧会とか、先端科学博覧会とか、そういうものではないのか。

 昨日(2日)も、今度市議会に立候補予定のN氏としばらく話したが、N氏もこう言っ
ていた。

 「この浜松市に、愛知県のトヨタ市に負けないほどの、ホンダ・シティや、スズキ・シ
ティがあっても、おかしくない」と。

 私も、そう思う。思うが、現実には、何もない。大企業はすべて、本社を東京に移して
しまった。それはしかたないとしても、残っている工場は、今、ほとんどない。まったく
ないと言ってよいほど、ない。

 市は、ことあるごとに、「土地がない」と言うが、本当にそうか? ……いや、実は、い
くらでもある。ウソだと思うなら、グーグルアースか何かで、浜松市周辺を宇宙から見て
みればよい。

 「工員の町」と口では言いながら、その工員を大切にしていない。おかしな士農工商意
識すら、この浜松市には残っている。「士」、つまり市のお役人たちの話を聞いていると、
ときどきとんでもない言葉が出てくる。たとえば、「工員には金を持たせてはいけない」「金
をもたせると仕事しなくなる」とか、など。

 何か、おかしいぞ、浜松市! どこかへんだぞ、浜松市!

 花と緑の町も結構だが、そんな金持ちの道楽のようなことばかりしていてよいのか? 
繰りかえすが、やるべきことが、ちがう。

 スズキ自動車の鈴木氏が座長を務めた、浜松市の行政改革審議会は、空中分解寸前。は
っきり言えば、成果ゼロ! 

 そう言えば、近所に、定年退職後、1度も職に就くこともなく、この30年以上、庭い
じりばかりしている老人がいる。どうせするなら、そういう老人に頼んで、モザイカルチ
ャなるものをしてもらってはどうか。彼もまた、元公務員である。


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子育て最前線の育児論byはやし浩司 2007年 1月 3日(826号)
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1月3日現在、マガジンは第826号になりました。1000号まで、あと134号!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●臭い子ども

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嫌われっ子の三大理由のひとつが、
「臭い子」。

子どもは、おとなよりも臭いに
はるかに敏感。臭い子が、いじめの
対象になることも多い。

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 以前、嫌われる子について、調査したことがある。まず、その原稿を、ここに紹介する。

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●嫌われっ子、親の責任

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、(1)不潔で臭い子ども。(2)
陰湿で性格が暗く、静かな子ども。(3)性格が悪い子ども、ということがわかった(小4
児、30名について調査)。

 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」「髪
の毛が汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻クソばか
りほじっている」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全体が不潔っぽ
い」など。子どもというのは、おとなより、においに敏感なようだ。

 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」「何
もしゃべらない」など。「静か」というのもあった。

私が「誰にも迷惑をかけるわけではないので、いいではないか」と聞くと、「何を考えて
いるかわからないから、不気味だ」と。

 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」「自
慢話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ちたがり屋」
など。一人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。

 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いという
こと。とくに(1)の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌
われっ子、親の責任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。


 A君(中1)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親も
それに悩んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭
とも言えない、何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に
問題があるようだが、本人はそれに気づいていない。そこである日、私は思いあまって、
A君にこう言った。「風呂では、体をよく洗うのだぞ」と。

が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしていることを言われたとい
う思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教室から出
ていってしまった。

 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなで
るが、中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこ
で忠告しようと思ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!

 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑
にからみあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたち
が考えているほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でし
かない。

ここにあげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、いつも
嫌われているということにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもない。
いじめの問題についても、ともすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世
界を論ずる傾向がある。が、それだけでは足りない。それをわかってほしかったから、
ここであえて、嫌われっ子の問題を取りあげてみた。

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 実は、最近も、同じような問題に直面している。小学x年生の女の子である。その子ど
もなのだが、とにかく、臭い。生理が始まっているのか、そのころになると、とくに、臭
い。腐敗臭というか、病臭というか、ムッとするほど、不快な臭いである。

 臭いは、どうやら、下半身から出ているようである。髪の毛や体は、それほど臭くない。
風呂での体の洗い方に問題があるようだ。で、ワイフに相談すると、こう言った。

 「その年齢の女の子は、無頓着だから、あのあたりを風呂でも洗わないのね。それで臭
いのよ」と。

 そこで私は、そのことを母親に告げるべきかどうかで、ここ数か月、悩んでいる。こう
いうケースでは、どんな告げ方をしたところで、私とその女の子の間に、大きなキレツを
入れてしまう。そのまま私の教室をやめてしまうこともある。「嫌われた」と判断してしま
うからである。

子どもというのは、自分の臭いのことを指摘されると、どういうわけか、過剰に反応す
る。他人の臭いに敏感であった分だけ、今度は、自分のこととなると、それが許せない
らしい。私も、息子の口臭を指摘したことがある。が、それだけで、大喧嘩になってし
まった。

 だから悩んでいる。本来なら、親に告げるべきである。それはわかっている。しかし親
自身が、娘の立場になって、怒ってしまうこともある。あるいは親自身が、臭いというこ
とも珍しくない。冒頭で、「子どもは、臭いに敏感である」と書いたが、この問題は、そん
な単純なものではない。

 では、どうするか?

 こうした問題は、こうして一般論として書くことによって、それぞれの親に、自分で判
断してもらうしかない。「うちの子はどうか?」と。

 一度、あなたの子どもの臭いについて、考えてみてほしい。臭いの問題だけは、子ども
の世界では、決して、軽く考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
いじめられっ子 いじめ 子どもの体臭 臭い 嫌われっ子 はやし浩司 臭い子)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●子育ては本能ではなく、学習である

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子育ては、本能ではなく、学習によって
できるようになる。

つまり自分が親によって育てられたという
経験があって、今度は、自分が親になったとき、
自然な形で、子育てができるようになる。

そんな事実を証明するような事件が、
カナダで起きた。

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カナダのアルバートンで、生後10か月の女の赤ちゃんが発熱し、どうしていいかわか
らなくなった男性が、赤ちゃんを冷凍室に入れるという事件が起きた(11月26日)。
帰宅した恋人が赤ちゃんを救出したものの、頭部に凍傷を負ったため、赤ちゃんはその
まま入院したという。

 ヤフーニュースは、つぎのように伝える。『24日付の地元紙「シャーロットタウン・ガ
ーディアン」紙によると、幼児虐待・育児義務放棄などの罪で公判中なのは、デリック・
ハーディ被告(21)。赤ちゃんの母親とは2004年8月から同居していたという。

 赤ちゃんの発熱に気づいたハーディ被告は、まず顔に冷たい布をあてた。しかし、熱が
下がる気配がなかったので、今度は、赤ちゃんを抱きかかえて外の夜風にあててみた。が、
やはり効果なし。

 最後の手段としてハーディ被告が思いついたのが冷凍庫だった。そして、肌着しか着て
いない赤ちゃんを、冷凍庫に閉じこめてしまったという』と。

 その男性の生い立ちの背景がよくわからないので、これ以上のコメントはしようがない。
が、恋人がいたということだから、それなりの男性であったということになる。が、発熱
した子どもを冷気にさらすなどという行為は、子育てをしたことがある人ならだれでもわ
かると思うが、まさに常識ハズレ!

 言いかえると、その男性は、そんなことも知らなかったのかということになる。さらに
言いかえると、恐らく、その男性は、そんなこともわからないような家庭環境で、生まれ、
育ったのではないかとういうことになる。

 つまりそれなりの学習をしないまま、21歳になり、この事件を引き起こした(?)。

 子育ては、無数の学習が積み重なってできるようになる。自分が発熱したとき、親たち
がどのように自分を看病してくれたか。「記憶」としては覚えていなくても、「体」は、そ
れを覚えているはず。それも学習のひとつということになる。残念ながら、その男性には、
そうした学習がなかったということになる。 

 おそらく、家庭という家庭を知らないまま、もっと言えば、親という親を知らないまま、
どこかで育てられ、その21歳になった。その可能性は、きわめて高い。が、それにして
も、熱のある乳児を、冷凍室に入れるとは! これほどまでのバカ・パパは、そうはいな
い。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

お休みします。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今朝・あれこれ】(11月29日)

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昨日の朝、インフルエンザの予防注射を受
けてきた。

そのせいかどうかわからないが、午後にな
って、どこか風邪ぽくなった。プラス、頭痛。

そんなわけで、昨夜は、早めに就寝。今朝は
5時、起床。暖かで、穏やかな朝だ。

Good morning!

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●コロンブスの卵

 ここ半年近く、毎日、200〜300通もの、スパムメールが届く。日によっては、も
っと多い。

 うんざり……というより、あきらめた。つい先週は、メールアドレスの変更まで覚悟し
た。と、そのとき、ふと、妙案を思いついた。まさにコロンブスの卵。「そのつどスパムメ
ールを削除するのではなく、反対に読みたいメールだけを、「削除済み」フォルダーの中か
ら選んで読めばよい、と。読みたいメールよりも、スパムメールのほうが、数の上では、
圧倒的に多い。

 そこで、

(1)一度、すべてのメールを、「削除済み」フォルダーに入れる。
(2)反対に、読みたいメールを、新しく作った「安全メール」フォルダーに、フィルタ
ー機能を使って、移動する。

 わかりやすく言えば、「受信済み」フォルダーに届いたメールの中から、読みたいメール
を選ぶのではなく、一度、すべてのメールを「削除済み」フォルダーに入れ、その中から
読みたいメールだけを選んで、読むということ。

 メールのやり取りをしている人からのメールは、反対に、フィルター機能使って、別の
フォルダーに移動すればよい。

 しかし今まで、どうしてこんな簡単な方法を思いつかなかったのだろう?

 方法は簡単。(アウトルック・エキスプレス=OEの表示画面)→(ツール)→(メッセ
ージ・ルール)→(メール・ルール)→(新規作成)→(すべてのメッセージに適応する)
→(削除する)とする。

 一方、メールをやり取りしている人については、反対に、送信者名から、別フォルダー
に移動するよう、設定すればよい。

 メールのやり取りをしている人は、それほど多くない。一方、スパムメールのほうは、
いくらフィルターをかけても、そのつど、送信者名を変えたり、件名を変えたりして、送
りつけてくる。そこで今回、逆の方法を思いついた。

 まさにコロンブスの卵!

 ハハハ。今朝も、(OE)を開いてみたら、30通ほど、メールが届いていた。うち、2
8通がスパムメール。しかしすべて、そのまま、削除。ハハハ。気持ちよかった。

 なお、私のばあい、パソコンの健康は、つぎのような方法で維持している。

(1)プロバイダー(サーバー)側で、有料の、ウィルスチェックサービスを受けている。
(2)パソコンごとに、ウィルスチェックソフトを、導入している。(これは、今どき、常
識。)
(3)Windowsのアップデートを自動化している。(これも常識。)
(4)ウィルスチェックはもちろん、ボット、スパイウェアのチェックを、手動だが、週
1回程度、実施している。(これも常識。)

 そしてさらに、私のばあい、仕事ごとに、パソコンを使い分けている。(1)文書作成用
のパソコン、(2)インターネット用のパソコン、それに(3)HP編集用のパソコンの3
つである。

 万が一のため、それぞれのパソコンには、外付けのハードディスクをつけている。作業
ファイルなどは、そちらに保存している。

 最後に、ここにも書いたように、あやしげなメールは、即、削除。何も考えずに、即、
削除。

 おかげで、この3〜4年近く、ウィルスなどによる被害は、受けていない。ただし、そ
れだけ注意していても、スパイウェアだけは、容赦なく侵入してくる。どこから入ってく
るかわからないが、ともかくも、侵入してくる。だからボット、スパイウェアの対策も、
別に、しっかりとしている。

 私のばあいは、「Spybot Search」という無料のサービスソフトを導入して、
スパイウェアをチェックしている。

(付記)

 上記の作業のあと、今までフィルターにかけて処理してきた、「禁止された送信者」を、
リストから削除した。それをしないと、OEを開いたとき、時間ばかりかかる。いちいち
フィルターで、メールをチェックするためである。

 しかしその数、ナント、1500人以上! パソコンの中に、ゴミのようにたまってい
た! ギョッ! 削除するといっても、1人ずつ、手動で削除しなければならない。結構、
これが、たいへんな作業だった。
 

Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●1996年

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昨日、久しぶりに、Eマガの読者が、
ふえた。3人、ふえた。1996人になった。

そこで1996年。私が満49歳になった
年である。

++++++++++++++++++

 1996年……このころの私は、自分のしている仕事に限界を感じつつ、毎日、原稿ば
かり書いていた。記憶はあいまいだが、しかしその分だけ、充実していた。

 念願だった山荘も完成し、土日や休みなどは、ひとりで、過ごした。最初は、山奥の山
荘に泊まるのが、こわかった。が、それが結構、楽しかった。

 おもちゃの銃や木刀を用意して、それを枕元に置いて寝たこともある。ときどき、山荘
の周辺を歩く足音がした。最初、私はそれを、泥棒か強盗だと思った。が、そのうち、イ
ヌか、タヌキだということがわかった。こんなこともあった。

 夜、ふとんの中で雑誌を読んでいると、またまたあの足音。私はふとんの中で、「誰だ!」
「わかっているぞ!」「出てこい!」と叫んだ。が、返事はない。しばらくすると、また足
音……。ジャリ、ジャリ……、と。

 とそのとき、バタンと音がした。つづけて、部屋の中を人が歩く気配。しかしこうなる
と、頭の中は、パニック状態。ハリウッド映画の中にも、似たようなシーンがよく出てく
る。それとダブった。

 しかしその夜も何ごともなく過ぎた。暗闇の中で、あちこちの部屋をさがし回ったが、
だれもいなかった。

 そこで翌朝、調べてみると、音の正体は、風呂場のカガミだとわかった。風呂場の窓を
少しあけておいた。そこへ風が吹き込んだ。カガミを倒した。タオルを揺らした。それを
人の気配と、私は誤解した。同時にそのころ、イヌかタヌキが、家の周辺を歩いた。イノ
シシだったかもしれない。そこには、ジャリが敷いてある。

 おもちゃの銃や木刀を枕元に置くようになったのは、そういうことが重なったから。

 が、やがてそういう生活にもなれた。数か月もすると、窓という窓をすべて開けて寝る
ようになった。イヌやタヌキにも、なれた。イノシシにも、なれた。ごく最近では、サル
もやってくるようになった。それにも、なれた。

 ただ、いまだにヘビだけは、苦手。今年(06年)も、2匹の毒ヘビを殺した。日本マ
ムシとヤマカガシ。以前は、ヘビを殺すと、1、2時間は興奮状態がつづいたが、今では、
平気で殺せるようになった。たいていはカマで、頭をちょん切って、殺す。(残酷!)

 シマヘビは、追い払うだけ。しかし日本マムシだけは、容赦しない。沖縄のハブもよく
話題になるが、こと毒ということになると、日本マムシの毒は、ハブの10倍以上とか。
山荘のあたりでも、日本マムシにかまれて死んだ人がいる。日本マムシは、こわいゾ〜。

 1996年というと、ちょうど、10年前。そのころ、地元の中日新聞社のほうで、私
の書いた原稿を連載してくれるようになった。うれしかった。山荘のほうで、いっぱしの
作家気取りで、原稿を書いたりした。

 冒頭に「仕事の限界」というのは、つまりは、仕事そのものが、マンネリ化し始めてい
たことをいう。「こんなことしていて、何になるのだろう」「10年後も、同じ仕事をして
いるのだろうか」「時間をムダにしているのではないだろうか」と。

 そうそうそのころ、急速に体力の衰えを感ずるようになった。体の調子も悪くなった。
どこといった病気はなかったが、肥満と運動不足が重なった。当時の私は70キロ前後の
体重があった。慢性的な頭重感にも悩まされた。

 今にして思うと、それが更年期の始まりだったかもしれない。あるいは初老性のうつ病
の始まりだったかもしれない。よくわからないが、そういう状態が長くつづいた。(基本的
には、今も、つづいているが……。)

 そうそう自分でもおかしいと思ったのは、そのころ、(男)と(女)の区別がつかなくな
ってしまったこと。「今の私なら、女性たちと、平気で入浴できるだろうな」と思ったこと
もある。自分の中から(男)が、どんどんと薄れていったように感じた。

 しかしそれは幸いにも、一時的な現象で終わった。やはり、あのころ、更年期が始まっ
ていたのかもしれない。ただし、これは私が49歳のときのことではなく、53、4歳の
ころのことかもしれない。よく覚えていないが……。

 あれからもう10年。「早いものだ」と思うと同時に、私にとっては、充実した10年だ
った。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●怨憎会苦(おんぞうえく)

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原始仏教の教えに、「四苦・八苦」という言葉がある。
四苦というのは、生・老・病・死をいう。

残りの四苦のうちのひとつが、怨憎会苦(おんぞうえく)。

「憎い相手と会う苦しみ」という意味である。

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 仏教を研究するとき、とくに注意を払いたいのが、教条的なものの考え方である。たと
えば人間が味わう「苦」にしても、「四苦・八苦」というふうに、数字を使って分類して考
える。

 こうし教条的なものの考え方は、無知な人(失礼!)には、それなりの説得力があるか
もしれない。が、では、それでよいかというと、そうではない。ものの考え方が、その(数
字)に固定されてしまう。自由なものの考え方ができなくなってしまう。

 四苦八苦でなくても、十苦百苦でも、よい。千苦万苦でもよい。

 で、そういうことも頭に入れながら、その苦について考えてみる。原始文教の教えによ
れば、人間が味わう「苦」には、生・老・病・死の4苦のほか、(4)愛別離苦(あいべつ
りく)(愛する人との別れによる苦しみ)、(6)怨憎会苦(おんぞうえく)(憎い相手に会
う苦しみ)、(7)求不得苦(ぐふとっく)(求めても求められない苦しみ)、(8)五蘊盛苦
(ごうんじょうく)(人間の意識活動から生まれる苦しみ)の4つがあるという。

 (冒頭にも書いたように、人間が生きていく上で味わう苦しみは、それだけではないと
思うが、ここでは、原始仏教の教えに従っておく。)

 その中でも、興味深いのは、(6)の怨憎会苦である。パソコンで、「おんぞうえく」と
入力して変換すると、そのまま「怨憎会苦」と出てくる。そのことからもわかるように、
この言葉は、仏教の世界では、ポピュラーな言葉というふうに考えてよい。

 が、意味がよくわからない。「憎い相手と会う苦しみ」という意味だが、単純に考えれば、
「憎い相手などと、会わなければいい」ということになる。しかし人間の世界は、そんな
単純なものではない。

 以前、市内で母親教室を開いていたとき、こんな若い母親たちが多いのには、驚いた。
つまり「盆や暮れに、実家に帰るのが苦痛でならない」というのだ。実家というのは、自
分の実家をいう。

 「(実の)父は母に会うのが苦痛です」「盆や暮れが近づくと、憂うつになります」「どう
やって両親と夫の間をとりもったらいいのか、わかりません」と。

 会いたくなくても、会わなければならないケースというのは、多い。以前、私には、こ
んなことがあった。

 私はある男(当時、45歳くらい)に、だまされたことがある。ことのいきさつはとも
かくも、その決着をつけるため、私は、その男を、裁判所へ呼び出した。債権確認のため
の民事調停をするためにである。

 もともと私は法科の出身だから、そうした手続きをすることについては、抵抗がなかっ
た。が、である。当日が近づくにつれて、言いようのない緊張感と不快感を覚えるように
なった。とくにその前夜は、体がほてってしまい、一睡もできなかった。私が悪いのでは
ない。相手が悪い。それはよくわかっていたが、調停すること自体、不愉快なことだった。

 今にして思うと、「あれが怨憎会苦だったのかなア」と思う。

 さらに率直に言えば、私も、実家に帰るのが苦痛でならない。人にはそれぞれ故郷(ふ
るさと)というものがあり、その故郷に、それぞれの思いをこめる。しかし私がもってい
る故郷観は、平均的な人がもっている故郷観とは、かなりちがったものである。

 死んでも、故郷にある、あの墓にだけは、入りたくないと思っている。

 つまりこれも怨憎会苦ということになる。「憎い」ということではない。体を取り巻く無
数のしがらみの中で、もがかねばならない。それが苦痛なのである。

 では、どうするか?

 私のばあいは、(逃げる)ということができない。逃げれば逃げるほど、かえって気が滅
入ってしまう。それだけ気が小さいということになる。そこで私のばあいは、何か問題が
起きると、正面からぶつかっていく。決してそれだけの勇気があるわけではない。悶々と
悩む、自分に耐えられない。だから、そうしている。

 子どものときした喧嘩にしても、そうだった。上級生だろうが、体の大きな相手だろう
が、多人数であろうが、売られた喧嘩には、かならず応じた。負けることがわかっていて
も、応じた。

 そうしてそれまでの自分に決着をつける。それが私のやり方だった。今も、基本的には、
そのやり方をつづけている。

 が、怨憎会苦は、つづく。悶々と、つづく。しかしこれは私が人間である以上、もっと
言えば、人間として生きている以上、いつまでもつづくものなのかもしれない。怨憎会苦
から解放されるということは、恐らく、死ぬ瞬間まで、ないだろう。

 が、それでも怨憎会苦から解放されたいと思うなら、怨憎会苦の種になるようなことを
しなければよいということになる。いつも先を、静かに観察しながら生きる。準備しなが
ら生きる。それしかない。……といっても、それ自体、たいへんむずかしいことのように
思うが……。

【補記】

 名古屋市内に住む知人(55歳)は、今、今までつきあった愛人と、どうやって別れる
か、そのことで、悩み、苦しんでいる。相手の女性は、まだ20代だという。

 最初は、たがいに遊びのつもりだったらしいが、そのうち、たがいに本気になってしま
ったらしい。が、さらにそのうち、男の知人のほうが、冷めてしまったらしい。

 こうなると、愛人に会うのも、女性の側からみると、「愛離別苦」。男性の側からみると、
「怨憎会苦」ということになる。おまけに、不倫が奥さんに発覚。離婚問題にまで発展し
ているという。となると、さらにつけ加えて、その知人には、奥さんに対しては、「愛離別
苦」、奥さんにしてみれば、「怨憎会苦」ということになる。

 わかりやすく言えば、ドロドロの人間関係。「愛離別苦」「怨憎会苦」というのは、そう
いう人間関係をいう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
怨憎会苦 四苦八苦 愛離別苦)


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●まちがい(「汝自身を知れ」)

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私は長い間、「汝自身を知れ」と言ったのは、
スパルタのキロンだと思っていた。

何度も、あちこちの原稿に、そう書いた。
しかしこれはまちがっていた。

「汝自身を知れ」と言ったのは、ギリシアの
7賢人の1人、ターレスの言葉だった。

その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこまれて
いたというが、それを見て、あのソクラテスが、
「無知の知」という言葉を導いた。

+++++++++++++++++

 今日(12月2日)の講演で、少しだが、『汝自身を知れ』という言葉に触れるつもりで
いる。そこで念のためと思い、インターネットで、その言葉を検索してみた。

 以前なら図書館で調べると、半日もかかったような作業が、今では、瞬時にできる。そ
の結果だが、私は、強い衝撃を受けた。

 『汝自身を知れ』という言葉を残したのは、スパルタのキロンではなく、ギリシアの7
賢人の1人である、ターレス(BC624−546)だったということがわかった。これ
ほどまでに有名な言葉だから、今さら、言い訳など無用。まことにもって、恥ずべきこと
である。

 その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこんであった。それをあのソクラテスが読み、
かなり自己流に解釈して、『無知の知』という言葉を生み出した。つまり「私たちは何も知
らない。知らないことを知ることこそが大切」と。つまり「自分を知ることが、知識を得
ることである」と。

 どうして私は、「スパルタのキロン」と思いこんでしまったのか。そこで記憶を懸命にた
どってみるのだが、どうもそれがはっきりしない。学生時代にそう聞かされたのかもしれ
ないし、そのあとかもしれない。英語の「Know yourself(汝自身を知れ)」
という言葉が耳に残っているから、オーストラリアの友人から聞いた言葉かもしれない。

 しかしそれにしても……。無知というのは、本当にこわい。私はまちがった情報を、す
でにあちこちの講演でしゃべってしまった。本にも書いてしまった。知っている人が聞い
たり、読んだりしたら、「何だ、はやし浩司って、この程度の男か」と思ったにちがいない。

 ……とまあ、言い訳はこの程度にして、自分を知るということは、本当にむずかしい。
あのオスカー・ワイルドは、『浅はかな人間だけが、自分をよく知っている』と書き残して
いる。つまり「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思いこんでいる人ほど、自
分のことを知らない。いわんや、子どもをや。

 私は、あまりにも無知だった!(少し、おおげさかな?)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
汝自身を知れ アポロン神殿 古代ギリシアの7賢人 ターレス 無知の知 ソクラテ
ス)

【付記】

 「私の子どものことは、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、子どものこ
とを知らない。自分のことさえ、わかっていない。そう断言して、まちがいない。

 このタイプの親ほど、子どものことを、何でもかんでも、自分で決めてつけてしまう。
そしてそれを、子どもに押しつける。

 が、子どもの心は、別のところにある。つまりこの悪循環が、親子の間に、キレツを入
れる。やがて断絶へと発展する。

(教訓)

●汝自身を知れ

古代ギリシアの7賢人の1人のターレスは、『汝自身を知れ』という言葉を残した。その言
葉が、アポロン神殿の柱に書かれているのを見て、ソクラテスが、『無知の知』という言葉
を導いた。「私たちは、自分のことを知っているようで、実は何も知らない」と。この言葉
を子育てにあてはめてみると、こうなる。「自分の子どものことは、自分がいちばんよく知
っていると思いこんでいる親ほど、自分の子どものことがわかっていない」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

●近視眼

+++++++++++++++++

現実主義と近視眼は、まったく別のもの。
常識で考えれば、すぐわかる。

しかし今、この2つの言葉を混同している
人は、多い。

+++++++++++++++++

 ある男性(会社経営・50歳くらい)は、こう言った。「K国の核兵器の問題は、アメリ
カが解決してくれるでしょう。それよりも、私たちの心配していることは、来年の景気で
す」と。

 また別の女性(主婦・40歳くらい)は、こう言った。「県知事の汚職問題なんて、私に
は関係ありません。そんなことを気にしているヒマは、ありません。息子たちの進学問題
で、頭がいっぱいです」と。

 さらにこんな例も。はげしい受験勉強で、心がゆがみ始めた子ども(小4・女児)につ
いて、ある母親は、こう言った。「うちも来年4月から、大手の進学塾に、子どもを入れよ
うと思っています」と。

 ものの見方が、きわめて近視眼的。しかしこういうのを、現実主義とは言わない。現実
に毒されるあまり、自分の姿を見失ってしまっている。

 3番目に書いた子どものことだが、(心がゆがむ)ということは、穏やかで、やさしい心
を失い、それと入れかえに、合理的で、ぞっとするほど冷たい心になることをいう。が、
その程度ですめば、まだよいほう。

 ツッパリから非行へと進み、やがて手がつけられなくなる。もちろん受験勉強なんて、
どこかへ吹っ飛んでしまう。が、この段階でも、親は、その状態を最悪と思いこみ、無理
をする。「まだ、何とかなる」「そんなはずはない」「うちの子にかぎって」と。

 しかしこうした心の問題には、必ず、二番底、三番底がある。今の状態より、さらに悪
くなる可能性が高いということ。

 広い視野をもっていれば、そうした二番底、三番底を見抜くことができる。が、近視眼
的になっていると、それもわからない。(現実)の中で右往左往するうちに、ますます自分
を見失ってしまう。

 皮肉なことに、こういうタイプの親ほど、他人の話に、耳を傾けない。「私のことは、私
がいちばんよく知っている」「うちの子どものことは、私がいちばんよく知っている」と、
過信する。無理に無理を重ねる。

 あとは、この悪循環。そしてやがて、行き着くところまで、行く。先の子どももそうだ
が、今のような状態で、さらに大手の進学塾に入れたら、子どもは、どうなるか? もう
ここまでくると、私の知ったことではない……というのは、言い過ぎかもしれないが、親
というのは、自分で行き着くところまで行かないと、気がつかない。

 それは子育てにまつわる宿命のようなもの。ほとんどの親がそうであるから、「私の知っ
たことではない」と書くしかない。

 現実主義と近視眼は、ちがう。混同しないように、したい。


Hiroshi Hayashi+++++++++DEC.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1715)

●老人問題

++++++++++++++++++++

団塊の世代が、これから先、当然のことながら、
大量に(?)に、老人化する。

老人化するだけならまだしも、そのまま、社会や
家族の「粗大ゴミ」となる。

私もそのうちの1人だから、これはまさに
深刻な問題と考えてよい。

++++++++++++++++++++

 姉が、現在、年老いた母の介護をしている。頭がさがる。感謝している。で、その母だ
が、人一倍というか、壮年期のおとな並に食べ物だけは、食べる。そのことを、昨年(0
5年)まで、介護士をしていたN氏(知人、40歳くらい)に話すと、こう言った。

 「そういう老人は、多いですね」と。つまり「年をとればとるほど、食欲に執着するよ
うになる老人は多い」と。「生きたいという願望が、食欲に向かうのではないでしょうか」
とのこと。

 食欲が旺盛なのは、結構なことだが、その分だけ、今度は便の始末がたいへん。ウンチ
にもいろいろあって、(コロコロとしたかわいい便)から、(ドンブリをひっくり返したよ
うな便)まで、いろいろある。

 自分で便の始末のできる老人なら、まだよいが、それができない老人となると、介護す
る側もたいへん! ……ということになる。が、この問題は、そのまま私たちの将来の問
題ということになる。

 というのも、こうした問題は、それまでの親子関係そのものまで破壊してしまう。ベー
スに、固い絆(きずな)で結ばれた親子関係があれば、まだ救われる。しかしベースその
ものが弱いと、そうではない。介護疲れも慢性的につづくと、今度は、それが親への憎し
みへと変化する。そういうケースは、少なくない。

 いやそのときでも、脳みそが正常なら、まだ救われる。が、反対に、介護してくれる息
子や娘に向かって、汚い言葉を使って罵倒する親だっている。で、こんな話をワイフにす
ると、ワイフは、こんな話をしてくれた。

 バトミントン仲間のAさん(50歳、女性)という人がいる。そのAさんも、現在、親
の介護をしている。母親は、現在、82歳だという。実母である。医師の診断では、アル
ツハイマー病が始まっているということだが、見た感じでは、いたってしっかりとしてい
るという。

 その82歳の母親が、これまた大食漢らしい。目を盗んでは、手当たり次第に、ものを
食べているという。

 それについてAさんだが、「最初のころは、食べ物に気をつかっていた。が、最近では、
何でも食べて、早く死んでくれと思うようになった」と言っているという。

 決して、Aさんを責めてはいけない。介護疲れが重なると、親子関係も、そこまで破壊
される。

 ……という問題は、ここにも書いたように、明日の私たちの問題である。アルツハイマ
ー病のような病気は別として、どうすれば、みなに嫌われないですむか、みなに迷惑をか
けないですむか、それを今から考え、準備しておくことは、とても重要なことのように思
う。

 で、そのカギを握るのが、私たち1人ひとりがもつ、(人間性)である。というのも、介
護する側がもっとも強く求めるのが、(救い)だからである。(救い)というのは、やさし
い言葉であり、介護する者を包む、温かい愛情である。それがあれば、介護する側も、救
われる。癒(いや)される。

 「迷惑をかけてごめん」という言葉一つで、介護する側は救われる。が、反対に、「うる
さい」「私がいつ、お前たちに迷惑をかけた」「私は親だ」と、言われたとしたら、どうだ
ろう。介護する側は、介護そのものを、何千倍も負担に感じてしまうことになる。

 そこで再び(人間性)ということになる。その人間性を、健康なうちから、常にみがい
ておく。30代や40代になってからでは遅い。20代から始めても、どうかと思う。と
いうのも、若い間は、自分がもつ気力で、自分のもつ人間性をいくらでもごまかすことが
できる。しかし加齢とともに、その気力が弱くなり、その中にある人間性が、そのまま外
に出てきてしまう。

 それは持病に似ている。若いころは、仮に何かの持病があっても、それを体力でカバー
することができる。しかし50代、60代ともなると、そうはいかない。体力が弱くなり、
とたんに、持病が表に出てくる。

 人間性も同じように考えてよい。

 姉とは数日前も1時間ほど電話で話したが、その苦労は想像を絶するものである。で、
私ができることと言えば、姉の話を聞くことと、金銭的な負担を申し出ることでしかない。

 ……そういえば、昔、私にこう言った人がいた。当時、55歳くらいの男性だったが、「親
の介護は、もうこりごり。自分の息子や娘たちには、そういう思いをさせたくない」と。
東京に住むH氏という人だった。そのときは、「そういうものかなあ」と、その程度にしか
考えなかった。が、今は、ちがう。

 その思いは、私も年をとるにつれて、強くなってきた。


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はやし浩司(ひろし)